魏志倭人を読む  ???その2

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1阿蘇山は移動した
なんだか、1つで終わらす予定が盛り上がってしまった。
その1
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1176782486/l50
2阿蘇山は移動した:2007/10/03(水) 00:36:11
21か国がどこにあったかは、重要です。邪馬台国論争を終わらせる可能性がある。
陳寿は、21か国が邪馬台国の南にあると思って、『魏志』を書いた。しかし、21か国は、実際は、邪馬台国でUターンして、邪馬台国の北にあった。
21か国を邪馬台国の北にして読むと、筋がとおるのでは?
3阿蘇山は移動した:2007/10/03(水) 15:36:16
自とか、可とかの解釈では、21か国は、邪馬台国の南になるはず。陳寿は21か国を邪馬台国の南と誤解して書いたから。
4プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/03(水) 15:57:59
>>3

それ、誘ってる?
「自」と「從」(〜より)
で、その違いは?
5日本@名無史さん:2007/10/03(水) 18:32:25
女王国より以北はわかるけど、その余の旁国はわからないといっているのであるから、
南か北かも分からないということですよ。
誤解もなにも陳寿は資料を丸写ししただけですよ。
ですから、矛盾があるのです。
6ローガン:2007/10/03(水) 20:28:48
>>1さがみハラハラさんのまとめが、お気に召さなかったようですね。 やっぱり!
7阿蘇山は移動した:2007/10/03(水) 20:52:53
21か国を北にすれば、奴国に戻ってきた。重出。旁国は、ワキの国。
南、南だから、そのワキは、邪馬台国の北、北。また、狗邪韓国までの
7000里と倭の5000里を足すと12000里。
つまり、邪馬台国は倭の端にある。21か国が入る場所がない。
さらに、一大率が北だけみてるが、邪馬台国が最南端なら、記述は合う。

8日本@名無史さん:2007/10/03(水) 21:11:43

 どんこい、新スレ、立てたよ
 ───v───────
   ∧,,,,,,∧
  ミ,,´∀`彡 
   ミ   ミつ
  ミ,,,○,,,,,,,,,ミ


♪邪馬台国 ドンと来い♪ 23
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1191412497/l50
9プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/03(水) 22:51:28
>>7

>5000里を足すと

『周旋可五千余里』
「周旋」がグルリ一周の意味なら「円周率は円周旋率」になっちゃう。
一周なら「周○○里」で事足りるし

多分、「旋」の文字だけですぐに(旋回)の熟語をイメージしてしまう悲しい性状態なんでしょう
(旋回)の中には回の文字があるから(まわる)んであって
「旋」の文字には(まわる)という意味はありません。

周旋の意味が(一周)のいみだったら「周」の立場はありません。


そこのところよ〜く考えて、考察してみてね
10日本@名無史さん:2007/10/04(木) 12:05:55
魏倭人伝の資料であるが、今までは魏略を基に記述されたとされているが、
最近みた本では、行程記述の内容は、箕子朝鮮に由来する資料と魏志の報告によるものとに分けられるようだという、。
不味国までの行程は朝鮮以来のもので、不弥国以降の水行二十日や水行十日陸行一月の記述は魏志の報告書に元ずくものだという。
魏略を見て倭人伝が書かれたというが、その魏略記述の資料は?という考察がいままでおこなわれていなかったように思われる。
陳寿が魏略を見て書いたのかどうかはともかくとして、倭人伝の内容をもう一度、元資料の由来という面から見直す必要があるのではないだろうか?
11プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/04(木) 12:41:30
>>10

そんなことより
「魏志倭人傳」とはなんなのか?
それを考えた方がいいと思う。
12ローガン:2007/10/04(木) 13:21:19
>>10それで?貴方はどう考えるの?
13日本@名無史さん:2007/10/04(木) 14:09:56
出発からの里による表示から最後の方の日による表示への変換は、資料が異なるからとみるのも
一理あると思います。
14ローガン:2007/10/04(木) 15:10:52
>>13そう考えるのなら、それで良いのではないですか?
論拠も仰らないのではこれ以上コメはありません。
15プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/04(木) 15:14:38
ま、最初から主観論と妄想パラみたいだし。
何時もの事だよ
16ローガン:2007/10/04(木) 18:22:19
スレ主さんにききましょう。
水行10日陸行1月の起点はどこでしょう?
17阿蘇山は移動した:2007/10/04(木) 22:20:23
>>9
周旋は、めぐりめぐって、その総延長が5000里。1周だと、
直径は長くても2500里になる。7000里たしても、12000
里にたりないから、1周は、あやまり。

>>16
水行10日の起点は、投馬国でしょ。

陳寿は、倭国へきたとは思えない。何か史料みたのでしょう。
三国志全部体験の日記ではない。
21か国を陳寿は、邪馬台国の南と解釈してる。それは30国に
するには、奴国を2つにしないと合わない。
18ローガン:2007/10/05(金) 01:01:30
>周旋はめぐりめぐって。
果たしてそうかな?
ずっと以前にボツにした考え方をひとつ…
「或絶或連周旋可五千余里」
「周」は漢籍に「曲がる」の用例があります。「旋」はご承知の通り、「還る」の意味を持つ。
つまり「或は絶え或は曲がって連なり、還るのに五千余里だろう」
と読んで読めん事はない。「女王国東渡海千余里+しゅ儒国…四千余里」
ここに書かれた「倭地」と女王国との距離と考えたのだけど…。

自分で納得出来ずに捨てましたがスレを盛り上げようと、書いてみました。
スルーせずにご批判をどうぞ。
酔っ払いの戯言でした…。
19プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/05(金) 07:37:56
>>18ローガンさん
全くの戯言じゃあありません。各翻訳本著作者に爪の垢でも飲ませてあげたいくらいです。

『周旋可五千餘里』

五千里という距離が提示されているので、ここには起点と着点が存在します。
「周〇〇里」なら、起点→起点までの一周の距離ですが、ここは「周旋」ですから「周」とは扱いが当然違います。
「旋」には、先程ローガンさんが言われた様に(還る)の意味があります。

「周」「旋」を満たし、尚且つ「五千」の数値二点を設定する
これが「周旋五千里」

詰まり『折り返し点』です。
20プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/05(金) 07:53:16
>>19の続きを書かせてもらいます。


「周」は
起点→→→→→着点(起点)
ここに「旋」を満たす点を設ける場合

起点→→→→(折り返し点)……………起点

と、なるわけです。
起点から折り返しまでが五千里 だということです。
ここまで記載すれば、自ずと「周」は(万里)であることがわかるはずです。


これで推測ぬきに合理的に解釈出来た筈です。


まだ「可」が残っているので完璧ではありませんけど
21日本@名無史さん:2007/10/05(金) 12:25:44

稲作が中国から日本へ直接伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら最初に九州や西日本に伝わった稲作が弥生中期頃に
伝わってきた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から日本へ直接伝来した事の証拠にはならないのである。

それにRM1-b遺伝子の稲はかつては朝鮮半島にもあったが、
単に定着しなかっただけという事も十分に考えられる。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
22ローガン:2007/10/05(金) 15:27:51
>>20プラムさんのレスは難しくて、よく理解出来ないのですが…
「参問倭地絶在…」の倭地とはなんでしょう?
@「倭地」=「倭国」
A「倭地」=「使訳通じる30国」
B「倭地」=「直前に書かれた倭の別種等」
以前はBの可能性を考えたのだけど、今は@で良いと思っています。
それは倭人伝そのものが「万ニ千余里ありき」で書かれていると考えているからで
12000−7000=5000
の計算で「五千余里」が出てきただけだと思うのです。
ではその「万ニ千余里」はどこから出てきた数字なのか?長くなるので追々書く事にします。
23プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/05(金) 17:41:24
>>22ローガンさん
>「参問倭地絶在…」の倭地とはなんでしょう? @「倭地」=「倭国」 A「倭地」=「使訳通じる30国」 B「倭地」=「直前に書かれた倭の別種等」
どれでもありません。 『倭地』=日本列島のことです。 ここは外交史ではなく地理史ですから地理的表現でOKです。

>12000−7000=5000 の計算で「五千余里」が出てきただけだと思うのです。
史記編纂は文字数を制限し、尚且つ情報を満たすことを心がけていますので 式から答えまで全て書き込む様な事はしません。 式を書けば自ずと答えは出ますし 総距離万二千里と途中までの七千里を記載すれば、」残りの全てを記載せずとも、自ずと五千里は導きだされます。
たまたま五千里という距離が重なったにすぎず、別の内容です。

もう一度各時代に書かれた倭伝を読み砕いて、(倭、倭人、倭國)の使い分けを考えてみてください。
>プラムさんのレスは難しくて、よく理解出来ないのですが…
ムズイですか? もう少し解りやすい様に書き込みすることを心がけてみます。
24プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/05(金) 17:49:03
でもなんでPCに規制掛かってんだよ?

書き込み出来やしない。

携帯からだと文字数制限されるから投稿しずらい
25日本@名無史さん:2007/10/05(金) 18:40:32
周って国の事じゃないの?
26阿蘇山は移動した:2007/10/05(金) 19:46:11
>>18
旋の「還る」の意味でなく、めぐりめぐっての意味があるはず。
もう、図書館閉まったので明日、調べますが。
還るのに5000余里の訳はへん。行く表示なくて帰るだけって。
岩波文庫も間違ってるからかな?邪馬一国より、もっと基本
なんだけどな。これを議論するってかなりレベル落ちると思う。

まあ、12000里は、大月氏がらみで、虚数ですが。でも、
それのつじつまを合わせるあたり、陳寿はすごい。例えば、
狗邪韓国のところが、倭の北岸。北端なら解るけど。海岸から
倭が始まるってことで、7000+5000にしてる。
27日本@名無史さん:2007/10/05(金) 19:55:37
あれ!
28大和:2007/10/05(金) 20:07:07
プラムさん。ご無沙汰です。
どなたかがおっしゃっていましたが本宅を留守にして別宅に入り浸り、阿蘇山は動く・初代
阿蘇比当スを見初めましたか?いずれにしても完全復帰のご様子、久々にプラム節お元
気でなによりです。

ところで、
>周旋(しゅうせん)

漢書に「三統の首(はじめ)を登り降りして、五行の道に周旋(かえりめぐった)」とあり

ます。
周は「かえり」、旋は「順行から留を経て逆行となること」漢書和訳注(小竹武雄訳)から推し
量り、『周旋』は24節気の夏至〜冬至に於ける太陽の動きで説明がつくと考えているので
すが「順行から留を経て逆行となる」。また『周旋可五千餘里』の「五千餘里」は太陽の北回
帰線(狗邪韓国)と南回帰線(邪馬壹国)を結んだ距離『5000餘里』。これはあくまで“仮想
距離”ですがこのように例えられるのではないかと考えております。

このように考えますとスレ主の阿蘇山さん記述「狗邪韓国までの7000里と倭の5000里を足
すと12000里」は十分理解を得られる論。勿論「7000里と5000里を足すと12000里」は岩波文
庫に載す山田孝雄説の焼き写しですが。但し、プラムさん改めての投稿『可』の意味により、
「南北回帰線上や赤道上に中途折り返し点を設定、『万里』とする」にやぶさかではありませ
んがこの場合、基点(北回帰線)の狗邪韓国、着点(南回帰線)の邪馬壹国『5000餘里』が
どのように絡むのか非常に楽しみです。因みに北回帰線(北緯23度47分)〜南回帰線(南
緯23度47分)の地表上距離およそ5220km。里とkmの違いはあるがなんとなく意味深な数
値。

邪馬台国=邪馬壹国(岩波文庫に従う)
29プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/05(金) 20:08:46
>>26
主観論ですか?
30プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/05(金) 20:17:15
>>28大和さんお久しぶりです。


いきなりで申し訳ありませんが、その論理をどの文献で証明しますか?


>本宅の留守

2ちゃんに来ている事自体が既に出張ですから
31大和:2007/10/05(金) 20:21:44
おっとー、なるほど。
折り返して12000-1000=2000、末盧から邪馬壹国の距離か。上手く考えますね勉強になり
ます。
32プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/05(金) 20:39:12
>>31大和さん

言ってる意味が解りません
『周旋可五千餘里』と、邪馬台国の共通点はありませんよ
33ローガン:2007/10/05(金) 20:39:20
どうして皆さん、そんなに複雑に考えるのかなあ?
34大和:2007/10/05(金) 20:47:32
>>30
どうもです。なるほど、港みなとに○○○ありですね。うらやましい。

>その論理をどの文献で証明しますか?

『周旋』ですか?これは漢書律暦志に載す用例ですから宜しいのでは。
ちなみに“あまねくめぐる”は『周流』とありました。

『5000余里』これは太陽の運行に仮託しただけです。お捨て置きを。
35大和:2007/10/05(金) 21:19:55
>>31 訂正
12000-10000=2000 です。10000を1000としておりました。

この10000は
>自ずと「周」は(万里)であることがわかるはずです。

を受けたものです。

>>32 プラムさん。

邪馬台国ではなく女王国ですね。どちらも同じと考えておりますものでごめんなさい。
36大和:2007/10/05(金) 21:34:31
ローガンさん。一つ教えてください。

過去Resで、張政等が西暦266年壹與による西晋への朝貢まで列島に滞在していた。との
書き込みをされていたように記憶いたします。間違っていたらごめんなさい。

これはなにか、それらしきことに言及された書物があるのでしょうか。あればご教示いただき
たいのですが、私も張政等を追っかけておりますが未だ成果あがらずです。
37プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/05(金) 22:48:24
>>35大和さん

邪馬台国でも女王国でもありません。
文章が示す通り、倭地の一番端にある地域です。
38ローガン:2007/10/05(金) 23:06:17
大和さん。確かに書いた覚えありますよ。倭人伝の最後にあるでしよ。おもいっきり論破してください。古田史学を。
39大和:2007/10/06(土) 08:00:03
>>37 プラムさん。
確かに一番端にある地域。云いえて妙、納得です。

>>38 ローガンさん。
早速ありがとうございます。正始8年条以外に何かあるのかなと。

>西晋への朝貢まで列島に滞在していた。

これは古田氏論の引用なのですか?粘着すみませんこれだけお願いします。
40プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/06(土) 09:41:05
>>39

『周旋可五千餘里』と邪馬台国(女王国関連)を関連させる行為は
・子供達がよくやる、相手に“ピザ”と十回言わせその後相手に「じゃあ?足にあるのは?」と質問し、相手が“ピザ”と言ってしまう行為と同じような原理です。


だいたい
風俗記事を記載した後、また同地域の地理記事を掲載しますか?
ここは推測じゃなく、常識範疇ですよ
記事の流れから考えても、一番最後の地理記事は、基点の郡から一番僻地にある場所ですよ
41日本@名無史さん:2007/10/06(土) 09:53:37
>周旋(しゅうせん)
謂輾轉相從也。
春秋左傳「以與君周旋」 注:「周旋、相追逐也」

輾轉猶婉轉,倶是廻動,大同小異。
42プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/06(土) 11:00:35
『めぐ(り)めぐ(る)』
(り)と(る)の問題かな?(る)を満たし、尚且つ(り)になる。


それが『周旋』かな?
43阿蘇山は移動した:2007/10/06(土) 11:15:32
図書館で大漢和みてきました。小さいタイプの本でした。
周:2巻930ページ。ゆきとどく。いたる。7番目にめぐる。
旋:5巻696ページ。めぐらす。めぐる。あとのほうに、
かへって、の意味あり。
周還って言葉がのっていた。この意味なら、この漢字使えば
いいと思いますが。
周旋:には、最初に、周還の意とある。936ページ。
とりまはし、たちゐふるまひ。4番目に、めぐる。とあり。
魏志や蜀志の例文でてる。
大漢和は、日本の辞書だから、倭人伝の解釈変わると
大漢和もかわる可能性ありますが。一応、めぐりめぐって
でいいとおもいますが。
44プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/06(土) 12:33:58
>>43

辞書に掲載されているのはほんの一部の意味
『周旋』の文字を取り巻く環境一つで、意味なんていくらでも変化しますよ

そんな中昔の人は

『周/シュウ』を(まわ‐り・めぐ‐る)
『旋/セン』を(めぐ‐る)
と、訓じた。
45プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/06(土) 12:45:44
で〜も
面白いのは意味なんかじゃないよ

『周』の音は(シュウ)
『旋』の音は(セン)
と、(サ行)音
で、訓はと言えば(マ行)音 で共通しています。
46日本@名無史さん:2007/10/06(土) 13:50:32
參問倭地,絶在海中洲島之上,或絶或連,周旋可五千餘里.

倭地を參問するに、絶へて海中洲島の上に在り、
或ひは絶へ、或ひは連なり、周旋可五千餘里。

何も難しくないじゃん
47ローガン:2007/10/06(土) 14:34:48
>>39大和さん。
別に粘着とは思いませんのでお気遣いなく。
「晋書武帝紀、四夷伝」書紀引用の「晋書起居注」から考えて充分推測できる事であり、「古田氏論の引用」ではありません。
ただ古田盲信者の某が、「長期に亘る軍官の滞在であるから、方角の見誤りは考えられない。」と九州説の論拠の一つにしていた覚えがあります。
私は畿内説支持ですが、上記の件の張政等の滞在期間については同意見だった為、前スレに少し書いたまでです。
48阿蘇山は移動した:2007/10/06(土) 19:35:46
不彌国から水行20日と日数になってるので、倭人から聞いたと
考えてる。魏の使者でなく倭人からだと間違えたって無理ある
のでは?まあ、当時、東を倭人は、南と言ってたら問題ないの
ですが。
それと、前のほうが偶然って解釈がありましたが、これが
通るとデタラメになる。何でもありに。ちと困るな。

陳寿の間違いは、後漢書もひきずってる。奴国が倭の極南界
なので、狗奴国の居場所がなくなり、東の倭種にしてる。
狗奴国は、東でなく南。魏志の記述でいいと思う。
話がとびとびになるのは、全体を見ながらゆすって落ち着く
場所をさがしてるから。その1つが21か国を邪馬台国の
北にするといいってこと。
49大和:2007/10/06(土) 21:25:21
>>40 プラムさん
「基点の郡から一番僻地にある場所ですよ」は>>39で申し上げたとおり納得しておりますよ。

>>31 の折り返して12000-1000(10000に訂正)=2000、末盧から邪馬壹国の距離か。上手く考えますね勉強になります。

この「勉強」のご説明が必要なようですね。
帯方郡より女王国までが12000餘里(岩波文庫・倭人伝より)、>>20 周旋5000餘里で折り返しを伸ばして「周」は万餘里(プラム氏論)、残りは2000餘里。

万二千餘里から、この万餘里を引けば列島内距離二千餘里、即ち末盧発〜女王国着の距離を指し示すのではないかと。それを『周』の一文字でご説明されたから「勉強になる」
と申し上げた次第。

ご指摘の「>>40『周旋可五千餘里』と邪馬台国(女王国関連)を関連させる行為」を連想さすような書き込みはしていないつもりですが。>>32 を受けた >>35 辺りが問題のRes?
だとすると誤解を招き失礼しました。>>35 は取り消しいたしましょう。
50大和:2007/10/06(土) 21:33:42
>>47 ローガンさん
お言葉に甘えてよろしくお願いいたします。

>「晋書武帝紀、四夷伝」書紀引用の「晋書起居注」から考えて、

日本書記注によると晋書には、『倭人』としか書かれていないような記述。また同じく、四夷倭人には『泰始ノ初メ、使イヲ遣シ譯ヲ重ネテ入貢ス』
とあるらしい。(日本書紀・小学館本)これを見る限りでは『倭国王壹與(台与)』の存在はないように思う。
そういう中で、張政等の帰国を泰始2年(266年)まで下げるのは辛い。なによりも『倭人來リテ方物ヲ獻ズ』とする中に、中華側からみれば凱旋
武人である張政等を、この倭人の一人に含ませるのはもっと辛い。何よりも三国志魏志東夷伝倭人の条に正始八年『政等を送リ還ラシム』と
明記されてあります。この文言を反故にすることになり、倭人伝そのものの信頼性が揺らぐ。

大阪市立大学・相見英咲氏はその著書で正始八年条の『卑弥呼の死とその塚をつくる』を目撃しているから、少なくとも正始八年以後数年は
列島に滞在したであろう。但し、目撃者は政等の『等』に含まれる人で客死扱い。とする。こちらはこちらでほんとかなと半分疑いの眼。

これは正始八年条の記録すべてが当年(正始八年)に起きた出来事とするからこのような解釈をせざるを得ないと思うのです。八年条の記述
を帯方太守王?による洛陽への報告と捉えれば過去数年分の出来事として処理できる。この説いかがですか?
51ローガン:2007/10/07(日) 00:12:36
>>50すみません、意味がよく分かりません。
>日本書紀によると晋書には『倭人』としか書かれていないような記述

 ??「ような」とは?日本書紀を読まれたのでしょう?まだでしたら、又読まれてからの事にしましょう。
「日本書紀」って云うだけでスレ主に怒られるのです。
52ローガン:2007/10/07(日) 00:55:37
>>50正始八年『政等ヲ送リ還ラシム』と明記されてあります。

どこに?

『倭人来リテ方物ヲ献ズ』とする中に中華側からみれば凱旋武人である張政等をこの倭人の一人に含ませるのはもっと辛い。

方物を献上したのは倭人。張政等の役職はご承知?

ごめんなさい。後半は何を言おうとされているのか?さっぱりです。
53大和:2007/10/07(日) 08:02:17
ローガンさん。せっかくのご好意に意味不明文を返し失礼いたしました。
やはり山麓をうろつくことにいたします。ご教示ありがとうございました。
54阿蘇山は移動した:2007/10/07(日) 11:27:06
『日本書紀』やく1300年基本とされてきた。1月で、変える
ことは、無理でしょうね。昔は、ともかく、今は、史料として
使えるかの検討をすべきです。ツガルなんとかは、チャント
検証してるのに。安本さん日本書紀もついでにして。

話かわって、後漢書と魏志みくらべて、内容が変化するっ
て実感。
陳寿も倭国へきたわけでなく、元史料みながら、魏志
つくったのでしょうね。そして、21か国が邪馬台国
の南にあると思った。21か国を邪馬台国の北にして
魏志を読むと、邪馬台国論争終わるとおもいます。
1度お試しあれ。
55ローガン:2007/10/07(日) 16:23:29
>>54真面目に書きなさい。
>>50大和さん。
六十六年是年晋武帝泰初ニ年晋起居注云武帝泰初ニ年十月倭女王遣重譯貢献(日本書紀神功紀)
56日本@名無史さん:2007/10/07(日) 17:08:23
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも稲と
同時に検出されており、小麦が中国よりも数千年も前から、ハトムギが
江戸期伝来の通説よりも5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
57阿蘇山は移動した:2007/10/07(日) 19:18:42
怒られた。細かくかくのめんどうだからな。概念把握が得意。図書館
行ってかくのめんどうだしな。
邪馬一国なんて調べて書いてもムダと思ってるので。もう、結論
でてるからな。でも、これかくと600くらい反論くるだろうな。
暦だと900くらい倍暦論だろうし。
私が思うに邪馬台国近畿説なんて、どう解釈しても説明できないと
思うけど。考古学では99%確定とか。国学院の鈴木靖民さんは、
100%確実だって。魏志倭人伝読んだことないのでしょうね。
もっとも、日本で食べて行くには、近畿説でしょうけど。
100%ね。
21か国を邪馬台国の北にすることで、解決するとの結論は、
間違いない。これこそ100%確実。
58ローガン:2007/10/07(日) 21:23:46
「かくのめんどう」
「調べてもムダ」
あまり古代史に興味がないようですね
59大和:2007/10/08(月) 15:22:53
>>50 ローガンさん。
日本書紀神功紀六十六年条、わざわざUPすみませんでした。

私も見てないわけではないのですが、張政等に絡み下記注が気になっておりましたのでお
尋ねさせていただき、多少自説へのご意見をいただければと考えた次第。再度のご教示、
お手数をおかけいたしました。以後放置を。

書記本文割注は『武帝泰初ニ年十月・・・』。書記注解には『晋書』武帝期(泰初ニ年)十一
月己卯、「倭人來タリテ・・・」のくだり。

日本書記は十月、晋書が十一月、注解記述に『倭人・・・』と。両書に齟齬がありそうなの

で“倭人としか書かれていない『ような』記述”とさせていただきました。スレ主さんのお考
えが正解かなとも。やはり書記を使ったのはまずかったかもしれませんね、いろいろ有り
難うございました。
60大和:2007/10/08(月) 15:40:57
>>59

書記の記が間違っておりました。紀に訂正させていただきます。
61阿蘇山は移動した:2007/10/08(月) 18:02:54
何度もかかないといけないから、過去読む人いないみたい。21か国は、
邪馬台国の北説。2,3度かいてるよ。
これは、私の説に都合いいというのでなく、魏志の矛盾を減らす。
21か国を北にすれば、奴国は、邪馬台国でUターンして戻ったので、
同じ国。南では、同じ名の国が何故あるか、説明に苦しむ。また、
対馬、一大は、海の中の基点。末ロは、水行から、陸行の基点。
伊都は、郡使のとどまるとこ。奴はとばして、不彌は、陸から水行の
基点。投馬は、ものさしの基点。邪馬台国は、女王のいる国。で、奴国
は、狗奴国の場所を示すため書いたとすれば記載された意味がわかる。
と同時に、狗奴国が2番目の奴国の南なら1番目の奴国は記載されない。
つまり、同じ国である。
62阿蘇山は移動した:2007/10/08(月) 18:08:19
旁国は、北以外にあると魏志の解釈から言える。で、南にしてるが、
南なら、その他の諸国でいい。旁は、かたわらである。南、南ときた、
かたわらは、邪馬台国からみれば、北、北である。また、不彌国から
南20日も空白地帯があるのは不自然。北を全部記述したというより、
ここへ21か国を置くべきである。旁の意味を考えるなら。
この矛盾、多分、旁は原型をとどめたためであると思う。
63日本@名無史さん:2007/10/08(月) 20:16:01
>>61「旁国遠絶」って書いてるよ。邪馬台国より北だったら遠くないジャン
64プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/08(月) 20:47:54
>>63

>「旁国遠絶」って書いてるよ。邪馬台国より北だったら遠くないジャン

何処にも『遠く』なんて書いてないからそれでいいジャン
65日本@名無史さん:2007/10/08(月) 20:53:41
この場合は全てのと見ずに、ほとんどのと見るほうがよいでしょう。
66日本@名無史さん:2007/10/09(火) 00:02:39
遠いので詳しい事はわからないって云ういみでは?
67プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/09(火) 00:16:01
>>66

「旁国」と書いてあるのに「遠く」と捩曲げちゃうの?

それじゃあまるで「水行」と書いてあるのに、「陸行」と捩曲げちゃうのといっしょだね
68日本@名無史さん:2007/10/09(火) 09:09:03
>>67遠絶って書いてあるでしよ?ねじ曲げたらだめジャン
69プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/09(火) 09:36:48
>>68
「旁國」「遠絶」の意味解ってる?
70日本@名無史さん:2007/10/09(火) 10:18:26
説明して。
71プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/09(火) 11:01:06
>>70
「…旁國遠絶…」

→かたわらの国、遠く絶え

こう書けば後は国語の読解力の世界。
「かたわらの国」なんだからねっ
72プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/09(火) 11:16:13
>>70

これから先、妄想、推測、主観先行で可笑しく、楽しくワイワイガヤガヤ議論を望むなら
私のレス何て覗かないでスルーすべきだよ
私のレスはごく当たり前でチットモ楽しくない退屈なレスだから。
73日本@名無史さん:2007/10/09(火) 12:15:07
そうだね。質問してもまともに答えないもんね。
根拠のない想像ばかりだからね。
74プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/09(火) 12:43:38
>>73

タダより高いものはない
何でもタダで情報が手に入ると思うなかれ
あれだけ解説すれば十分だし、後は自分で判断すればいい。
一〜十まで説明したところで納得するはずも無し、興味があればどんな些細なレスでも食らいついてくる。
でも
貴方はそうではなかった。タダそれだけ


(^-^)/


追伸

妄想と非難する事が出来ても、何等妄想とする内容について触れられないのも
「なさけない」
75プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/09(火) 17:27:20
「遠く絶え」るものは距離では無く『時間』
既に「かたわら」と距離を表しているので、自ずと「遠絶」は距離ではなくなります。


●金取って本まで出して、適当な翻訳書いてそれを読まされ騙された読者はたまんないですよ
金取るならもっとマトモナ内容で仕上げろよ。
76阿蘇山は移動した:2007/10/09(火) 18:09:51
陳寿は、21か国を邪馬台国の南と思ってたということですよ。
なぜなら、邪馬台国の北は、略載してるから、国名だけは、
北以外と通常は、解釈する。だから、旁国でなく、その他の諸国
とすればいいのに、旁国としたのは、元史料にあったから、流用
した。つまり、実際は、21か国は、邪馬台国の北にあった。
それを陳寿は誤解して21か国を南だと思って、以北略載の文を
書いた。これが、今日まで続く論争の元ですよ。21か国を
邪馬台国の北にすれば、論争は終わる。
77プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/09(火) 18:21:44
>>76
個人の解釈で勝手に原文を弄ってはいけない。
原文に違和感があるなら、それ即ち、己の解釈に誤りがある。



(-。-)y-゚゚゚
78日本@名無史さん:2007/10/09(火) 18:44:33

稲作が中国から日本へ直接伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら最初に九州や西日本に伝わった稲作が弥生中期頃に
伝わってきた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から日本へ直接伝来した事の証拠にはならないのである。

それにRM1-b遺伝子の稲はかつては朝鮮半島にも存在したが、
単に定着しなかっただけという事も十分に考えられる。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
79阿蘇山は移動した:2007/10/10(水) 20:52:20
ここの場所は、どういう意味かが問題ではなく、何故、こんな文に
なったが問題なのですよ。
80プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/10(水) 22:35:58
>>79

>ここの場所は、どういう意味かが問題ではなく、何故、こんな文に
なったが問題なのですよ。


別に不思議な箇所はないと考えますが
81日本@名無史さん:2007/10/10(水) 22:37:02
プラムなんかスルーしたら?荒らしだよ
82プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/10(水) 23:25:15
>>81

>プラムなんかスルーしたら?荒らしだよ

つまり
プラムがいるとせっかくの妄想が台無しになり面白おかしくスレが進行しない
そうゆうことですか?

ここが「全日本妄想選手権」会場だと知らずに入り込んでしまった
邪魔をして申し訳ない
さあ 気の済むまで妄想を謳歌してくれ
邪魔した
83九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/11(木) 00:35:44
方向には東西南北4方向があるから、素直に読めば良いのでは?

北 :自女王國以北其戸數道里可得略載・・・狗邪韓國〜邪馬壹國の9ヶ国(屬女王国)

東西:其餘旁國遠絶不可得詳〜此女王境界所盡・・・斯馬國〜奴國の21ヶ国(屬女王国)

南 :其南有狗奴國・・・不屬女王国
84九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/11(木) 01:07:34
追加説明

其餘旁國遠絶不可得詳〜此女王境界所盡
女王國の東西の国々は餘旁國であり遠絶でもあるので不可得詳である。
そしてこれら21ヶ国は女王境界所盡。
85日本@名無史さん:2007/10/11(木) 03:33:50
倭人伝は東と南を書き間違えてるってのが学会での定説
>南 :其南有狗奴國・・・不屬女王国
これは東海勢力ということになる。
86日本@名無史さん:2007/10/11(木) 05:41:35
>>85
横レスすまんが
マキムクの発掘では東海吉備出雲が連合して邪馬台国になったと土器は語っている。
鉄の交易を独り占めしている九州勢力と邪馬台国連合が争ったのが倭国大乱、また高地性集落の分布具合は邪馬台国の九州征伐(倭国大乱)を物語っている。
其南有狗奴國は関東東北の蝦夷、東海勢力は邪馬台国建設側。
87日本@名無史さん:2007/10/11(木) 10:40:47
>>85
>倭人伝は東と南を書き間違えてるってのが学会での定説

書き間違えていると証明できる説明と根拠は何?
無いだろう。
証明できなければ、その定説はオカルト。
88日本@名無史さん:2007/10/11(木) 12:25:47
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも稲と
同時に検出されており、小麦が中国よりも数千年も前から、ハトムギが
江戸期伝来の通説よりも5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
89プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/11(木) 12:39:03
>>87

学会での常識は、世間での非常識
というのも『定説』


素人と専門家の差が計れない世界ですから
90ローガン:2007/10/11(木) 20:59:35
>>87学会での定説。
何故、定説なのか?何故、多くの支持を得ているのかを考える事が大事ですよ。
9187:2007/10/11(木) 21:18:22
>>90
邪馬台国を大和に持って行きたいが為だけの人々による多くの支持。
92サガミハラハラ:2007/10/11(木) 22:05:51
>>88のプラントオパールについては、否定的な見解をどこかにかきこんでおきました。
どこだったっけ。
93ローガン:2007/10/11(木) 23:06:25
>>91坊や!なんにも知らないんだったら、お勉強してからまたおいで。
94日本@名無史さん:2007/10/11(木) 23:46:03
>>90世の中のしがらみというやつですよ。
これは、濡れ落ち葉より性質がわるくて、自己の意志まで曲げてしまうものです。
人は一人ではいきていけないのです。(まともな人は)
95ローガン:2007/10/12(金) 00:00:54
お〜!批判的やね。
気にいらないなら、こんな場末でぐずぐずぬかさんと、もっと自分の主張をはっきり…え〜も〜ええ。何もしらんやつ、本当にめんどくさい。
96日本@名無史さん:2007/10/13(土) 19:30:52

稲作が中国から日本へ直接伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら最初に九州・西日本に伝わった稲作が早くも弥生前期末には
伝わっていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から日本へ直接伝来した事の証拠にはならないのである。

それにRM1-b遺伝子の稲はかつては朝鮮半島にも存在したが、
単に定着しなかっただけという事も十分に考えられる。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
97阿蘇山は移動した:2007/10/14(日) 17:35:17
落ちてなかった。マシントラブルで数日さぼった。
岩波文庫では、「その余の旁国」になってる。そのは、邪馬台国の北の
対馬国から投馬国までの7か国。で余は、その7か国の隙間。旁国は、
邪馬台国の北の7か国のわきの国になる。これって、全日本孟宗大会に
でれるかな?
98プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/14(日) 18:05:33
>>97

其餘の『其』とはそれまでに列記された(對馬〜烏奴)地域 じゃない
99ローガン:2007/10/14(日) 21:51:13
でれるけど。もっと自信持って朗々とお説を展開しないと優勝できないって思いますです。
100阿蘇山は移動した:2007/10/15(月) 16:17:57
>>98
そうですね。対馬から投馬国ですから。で?
101プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/15(月) 16:37:52
>>100
ごめん
訂正するよ


其餘の『其』は
(斯馬國〜烏奴國)
102九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/15(月) 20:35:31

>>97-101
其餘の『其』とはそれまでに列記された狗耶韓國〜投馬國の8ヶ国。

狗耶韓國を加える理由
@倭人伝に書かれているから狗耶韓國は韓地にある倭人の国である。
A韓伝の弁辰の条に、弁辰瀆盧國は倭人の国と接している『瀆廬國與倭接界』と書かれている。
103プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/15(月) 21:26:39
>>102

弁辰狗邪と狗邪韓国は別物なの?
104九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/15(月) 22:55:08
>>103
弁辰狗邪國と狗邪韓國は別の国です。

『國出鐵韓濊倭皆從取之』、『弁辰與辰韓雜居』及び『今辰韓人皆褊頭男女近倭亦文身』とあります。
弁辰狗邪國は倭人の国だと思われます。
105プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/15(月) 23:47:04
>>104王朝さん

>『國出鐵韓濊倭皆從取之』、『弁辰與辰韓雜居』及び『今辰韓人皆褊頭男女近倭亦文身』とあります。
弁辰狗邪國は倭人の国だと思われます。


思っていることは胸の中にしまいこんで下さい。
そうじゃないと先に進みませんから
106阿蘇山は移動した:2007/10/16(火) 23:27:20
>>101
えー、後の文書指すの?すごい、天才ですね。負けました。

>>102
狗邪韓国は、倭の北岸とある。北端とは、意味が違います。狗邪韓国は、
倭ではありません。原文あたってください。
107九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/17(水) 00:54:21
>>106
『其北岸狗邪韓國』
「其」≠「倭」
「其」は「海岸水行」の「海」です。
即ち、倭地と韓地の間にある海峡(中国式に川・河・江・湖と見立てている)の北岸です。
狗邪韓国は韓地にある倭人の国になります。

韓地にある国々は、馬韓人の国(55ヶ国)、弁韓人の国(12ヶ国)と辰韓人の国(12ヶ国)、
それに倭人の国(数は不明)。
なぜなら『其(弁辰)瀆廬國與倭接界』と韓伝にあるように、弁辰瀆廬國は倭と境界で接しているので。

「其」は、形式上の「其」で、特に何も指さないと言う人もいます。

もし狗邪韓國が倭の北岸にあれば、狗邪韓國の北に海があることになりませんか?
それに『其(弁辰)瀆廬國與倭接界』と韓伝にあるように、弁辰瀆廬國は倭と境界で接していることをどのように説明しますか?
108阿蘇山は移動した:2007/10/17(水) 18:36:34
>>107
海って魏志にありますか?記述が?書いてない単語を指すのでしょうか?
天才にかぎりなく近い秀才さんかな?
109茨城県民(プ):2007/10/17(水) 19:07:16
>>106

>えー、後の文書指すの?すごい、天才ですね。負けました。

もう少しジックリ文章噛み砕いてからヤリいれてくださいな
あそこの文は
既に『自女王國以北』と説明されてるでしょ、別に後の文を指しているわけではありませんよ


>『其北岸狗邪韓國』
「其」≠「倭」
「其」は「海岸水行」の「海」です。
即ち、倭地と韓地の間にある海峡(中国式に川・河・江・湖と見立てている)の北岸です。
狗邪韓国は韓地にある倭人の国になります。


これは概ね王朝さんに同意です。
だから陳寿は『東南大海之中』と
海中に視点を置くから(北岸、南岸)の概念がせいりつするのです。
倭に視点を置けば『対岸』です


110茨城県民(プ):2007/10/17(水) 19:17:44
>>109の『狗邪韓国は韓地にある倭人の国になります。』
これには同意できません。

失礼しました(訂正します。)

倭人伝に書かれた韓域狗邪だから狗邪韓国、韓伝しかも弁辰記事に書かれた狗邪だから
弁辰狗邪


一組の担任は二組のA君を『二組のA君』と言うが、二組の担任はA君を『二組のA君』とはいわないでしょう
111茨城県民(プ):2007/10/17(水) 19:23:50
>>107
>それに『其(弁辰)瀆廬國與倭接界』と韓伝にあるように、弁辰瀆廬國は倭と境界で接していることをどのように説明しますか?


境界で接してるて書いてありますか?

112九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/17(水) 19:29:38
>>108 阿蘇山は移動したさん
お褒めいただいてありがとうございます。
ぼくは、天才ではありませんが、
日本でもトップクラスの秀才の経歴が一応あります。

ところで、
『從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國』
「海岸水行」とあります。「其」は「水行していた場所(海)」です。

又狗邪韓國に到着する直前には、「乍東」と東に向かっています。
少なくとも南東方向に向かっています。
よって狗邪韓國の南(南西)側は海になります。
「狗邪韓國は、水行していた海の北岸にある」と表現しても良いと思います。
113九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/17(水) 19:36:47
>>111 茨城県民(プ)さん
では「接界」は、ここではどう言う意味になりますか?
114茨城県民(プ):2007/10/17(水) 20:26:34
>>113 王朝さん

秀才ですか(マジ羨ましい) 私なんか“馬鹿”で有名です。


『接界』(界をつぐ)であって、決して「界を(が)つく」ではありません。
つまり『接』は「つぐ」であって「つく」ではないという事です。(この微妙なニュアンス解るでしょうか?)

「つく」は AとBの関係が(AB)ですが
「つぐ」は AとBの関係が(A→)(B)です
115茨城県民(プ):2007/10/17(水) 20:54:29
>>113王朝さん

どうして『接界』であって『接境』じゃないんでしょうか?(考えたことありますか?)

(界)も(境)もどちらも「さかい」
それなのに「境界」という熟語も存在しますし、韓伝では「界」をしようしています。

つまり
ここではきちんと「さかい」の意味でも区別されて使われているということです。
端的に結論を言えば

「境」は線引きの後区別した(さかい)
「界」は線引きすることなく(さかい)が存在するもの

一般的に韓伝の部分を解釈されているのは、残念ながら「境」の意味解釈を多くの方がしているのです。
116九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/17(水) 21:25:33
>>114
よくわかりません。
「弁辰瀆廬國は倭と境界で接している」は間違いで、
「弁辰瀆廬國と倭は(境)界で接している」と直訳すればいいのですか?
意味は同じだと思います。
「弁辰瀆廬國は倭と境界を接している」とは書いていません。文として変。


『A與B接界』
「與」があるので、AとBは対等でAB間に方向性はありませんが。
117茨城県民(プ):2007/10/17(水) 21:40:31
>>116王朝さん

>『A與B接界』
「與」があるので、AとBは対等でAB間に方向性はありませんが。

これは後にいたしましょう。
「與」は外交記事にも登場しますので、混乱を避けたいとかんがえます。

ところで

>「弁辰瀆廬國と倭は(境)界で接している」と直訳すればいいのですか?

「接」は(AとBの相互関係)
☆弁辰瀆廬國と倭の関係は「界」(>>115参照)であり、接ぐ状態になっている。

と、解釈したいです。



118茨城県民(プ):2007/10/17(水) 21:48:58
>>116王朝さん

「與」について少しだけ触れておきましょう

>「與」があるので、AとBは対等で

対等ですか?
「與」の文字に古人は和語(あた-える)(くみ-する)(あ-げる)を組み込みました
これの何処が対等ですか?
119九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/18(木) 01:46:01
>>117-118 茨城県民(プ)さん
明日のストックデイトレードの予習に時間を取られ、レスが今になりました。
今から6時間ほど寝ます。

「接界」についてはあなたの方が深く解釈されています。
境界が現代の国境の様にはっきりしていませんから。
弁辰では弁韓人と辰韓人が雑居し、そこに濊人と倭人がいる状態です。
隣りの倭人居住地域にも弁辰に準じた倭弁辰雑居地域があるのが当然で、
弁辰瀆廬國と倭人の国の境界もはっきりしたものでないと推定できます。
このことを裏付けるものとして「境」ではなく「界」を使ったと理解できます。

「A與B」だけの場合、「Aは(に)Bをプラスされる(する)」意味ですから、ABは対等並列的ではありません。
しかし、述語「接界」からはABは対等並列的になります。

寝ます。


120茨城県民(プ):2007/10/18(木) 07:48:06
>>119王朝さん

『小国十餘國楚魏(與)秦接界』
これは史記の中の一文ですが

これも対等?

これらの国々は皆、戦国期覇を争い同じステージに乗っている立場では(時間的対等並列関係)ですが
本当に対等ですか?
121九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/18(木) 19:42:27
>>120

@『小国十餘國楚魏與秦接界』
「A與B接界」
A=小国十餘國+楚+魏
B=秦
同じでしょ。

A『小国十餘國楚魏秦接界』
なら意味が変わる。
小国十餘國、楚、魏と秦、互いに接界。
こんなことはありえないから、
「與」の省略で、Aは@と同じ。
122日本@名無史さん:2007/10/18(木) 19:50:22
倭人って欧州ではドワーフ族って呼んでた種族の事だぞ?

ハワイでは600年ぐらい前まで、東南アジアでは400年ぐらい前までいた事が確認されてるよ
(フローレンス島で実際に住居からドワーフ族の骨も発見済み)

大和やアイヌが渡来する前は、日本を始め東南アジア諸国はドワーフ族(日本でいう縄文人)が住む倭人の国だよ
123茨城県民(プ):2007/10/18(木) 20:13:46
>>121王朝さん

>A『小国十餘國楚魏秦接界』
なら意味が変わる。
小国十餘國、楚、魏と秦、互いに接界。
こんなことはありえないから、


で、ありえないと判断したのは誰ですか?
124日本@名無史さん:2007/10/18(木) 20:24:19
泰なんて国は始皇帝一代で終わった国だよ

どこに都があったのかすらわからない国
泰に限った事じゃないけどね

中国大陸は多民族、多語源、多文化、多国家の国だよ
今のヨーロッパ大陸と同じような感じだよ

「中国」なんて国は当時無いから
125阿蘇山は移動した:2007/10/18(木) 20:41:52
>>109
岩波より「女王国より以北、その戸数・道里は得て略載すべきも」
つまり、以北は、戸数の書かれてる国です。21か国は、書かれてません。
戸数は。ここは、いくら解釈しても無理です。陳寿が誤解して書いた文
ですから。
126茨城県民(プ):2007/10/18(木) 21:02:16
>>125

岩波は陳壽を超えたか?
岩波にしがみついてれば、そうなるわな
127九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/18(木) 23:25:22
>>128 茨城県民(プ)さん
>ありえないと判断したのは誰ですか?

数学
即ち常識

2次平面上で互いに接する5つ以上の部分面なるように線分で区切れ。・・・解なし
2次平面上で区切れるのは最大4つの部分面。
128茨城県民(プ):2007/10/19(金) 00:13:23
>>127

>2次平面上で互いに接する5つ以上の部分面なるように線分で区切れ。・・・解なし


ここを『接する』とするから解らなくなっちゃうんですよ
『接する』じゃなく(つぐ)
辞書にもちゃ〜んとでてるでしょう


それに、だれが

>線分で区切れ。

な〜んていいましたか?『界』ですよ 『境』じゃありません
129阿蘇山は移動した:2007/10/19(金) 12:16:46
>>126
陳寿を超えてるのですか。がんばってください。

狗邪韓国:北岸はなく南岸。ゆえに、狗邪韓国は、倭の国という仮説は、
間違いというのが、証明結果でしょ。
130茨城県民(プ):2007/10/19(金) 12:41:48
>>129


初めから狗邪『韓国』ですので
議論になる事自体摩訶不思議
131阿蘇山は移動した:2007/10/20(土) 12:15:20
あれ?意外とあっさり切りましたね。
倭の北岸は、北岸。北端ではありません。原文あたってもらいたい。
132日本@名無史さん:2007/10/20(土) 12:23:18
ありえん、ありえんぐらいの低レベル・・・
だが、それゆえに史板か・・・
133茨城県民(プ):2007/10/20(土) 12:48:56
>>131

>倭の北岸


そんなのどっから拾ってきたの?
134茨城県民(プ):2007/10/20(土) 14:17:15
『…循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里』


(………七千里にて到る、その北に狗邪韓国の岸。)
135阿蘇山は移動した:2007/10/20(土) 18:53:23
乍南乍東,到其北岸狗邪韓國,七千餘里
北と岸離すかな?まあ、いいか。敷居は高いがレベルは低いこのスレ
では。
さて、少し寝るかな。カキコ落ち着いてきた。レベルの高い人は、
どんとこいいったからな。
136茨城県民(プ):2007/10/20(土) 20:31:02
>>135

>北と岸離すかな〜


離さない理由は?
漢語なら『北岸』だけど、あくまで和語だからね
直訳すれば(北の岸)、全体を考えれば(北に狗邪韓国の岸)で、なんにも違和感ないと思いますよ。
137阿蘇山は移動した:2007/10/21(日) 16:00:41
その は、書き出しの倭を指すなら、倭の岸のはず。狗邪韓国の岸は、
おかしい。
138茨城県民(プ):2007/10/21(日) 17:20:00
>>137

「その」は(倭)じゃない

・東南大海之中
・循海岸水行歴韓国乍南乍東到

つまり『水域』船の上
139日本@名無史さん:2007/10/21(日) 20:18:06

稲作が中国から日本へ直接伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら最初に九州・西日本に伝わった稲作が既に弥生前期末には
伝わっていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から日本へ直接伝来した事の証拠にはならないのである。

それにRM1-b遺伝子の稲はかつては朝鮮半島にも存在したが、
単に定着しなかっただけという事も十分に考えられる。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
140阿蘇山は移動した:2007/10/22(月) 19:02:51
倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、
今使譯所通三十國。從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、
到其北岸狗邪韓國、七千餘里、始度一海、千餘里至對馬國。

漢籍の書棚から引用してきたけど、そのが、船をさすって、どの単語?
教えて?
141茨城県民(プ):2007/10/22(月) 20:53:31
>>140

別に「立ち泳ぎ停止状態」でもいいんだけど
一応「水行」と書いてあるから(船)と判断するのはまずいことかい?


>倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、
今使譯所通三十國。從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、
到其北岸狗邪韓國、七千餘里、始度一海、千餘里至對馬國。


この中から選ぶとすれば
「大海之中」「循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、
到」でしょうね
142大阪名無しさん ◆c68ywQ2shI :2007/10/22(月) 20:58:10
>>141
一瞬、魏の使節一行が全員立ち泳ぎで日本を目指しているシーンを想像して吹いた
143茨城県民(プ):2007/10/22(月) 23:33:18
それに、
狗邪韓國に立ち寄ったことなんて、何処の倭伝にも記載されていない。
普通に考えてみても、半島に立ち寄ってから対馬に渡るよりも
対馬海流に乗れる位置まで南下して海流に委ねるように船を進ませたほうがスムーズに対馬に行ける。
ワザワザ難易度の高い半島からの対馬行きなんて、常識から判断しても有得ない無謀な行為
144阿蘇山は移動した:2007/10/23(火) 18:42:18
難しくなってきた。わからないな。低レベルのこの板では、って、他の
人はレベル高いのでしょうけど。わしレベル低いからな。
また、岩波読んでみよう。お答えありがとうございました。
145茨城県民(プ):2007/10/24(水) 00:20:29
>>144

>岩波読んでみよう


もっとレベル落ちますよ
146阿蘇山は移動した:2007/10/24(水) 19:33:58
岩波は、読むけど、句読点は、中華書局かな?つかってます。これを
あわせると確かに、岩波の間違いがわかります。でも、大筋は、結構
いいかな?って思ってます。それに、皆さんの意見頭に入れて読むと、
また、新鮮ですよ。繰り返し岩波よむのもいい。岩波が正しいってわけでは
ないけど。
147茨城県民(プ):2007/10/24(水) 20:22:18
>>147

それだったら
一文字一文字訓読みを繋いでいった方が理解しやすい変な先入観無しで読めますから
148阿蘇山は移動した:2007/10/25(木) 15:38:24
既往の研究って大事ですよ。150の能力あるから0から始めても150
までしかいかない。今までの研究を読めば1000くらいからスタート
できます。50の能力の人も1050のレベルに達する。150対1050.
0から始めてはいけないのです。既往の研究は大事です。
149茨城県民(プ):2007/10/25(木) 18:13:34
>>148

>既往の研究って大事ですよ。150の能力あるから0から始めても150
までしかいかない。今までの研究を読めば1000くらいからスタート
できます。

その 0〜1000までの間にへんな知識が蓄積され、1000に到達したときには
もうどうしようもない手遅れ状態を作り出すんです。
始めるなら 0からですよ

既往の研究なんてそれを受け入れられる基礎が出来てからでも十分間に合いますから

150日本@名無史さん:2007/10/26(金) 01:11:10
>>148
マイナスからスタートすることになる可能性も考慮すべきですよ
151阿蘇山は移動した:2007/10/26(金) 23:29:53
マイナスは、存在しません。
152阿蘇山は移動した:2007/10/27(土) 17:16:18
多くの方は、学問の仕方がわからないのでしょうね。学問は、積み重ね。
推理小説とは、異なります。先人のここが、こういう理由で間違ってる
として進めていくものです。0から始めた古○さんや、安○さんは、
やがて消えていきます。
マイナスという発想は、近畿か北部九州かの駆け引きで、自説に+−と
かんがえたのでしょうね。でも、これも、邪馬台国研究はすすんだの
です。たしかに、どちらかは明らかに間違ってますが。
アマチユアの方は、まず、研究方法から学んでほしい。
学問に王道はありません。
153日本@名無史さん:2007/10/27(土) 17:33:57
アマチュアの最大の王道はインスピレーションです。
そしてそのちょっとした閃きを無限に拡大していく妄想力が最大の武器です。
個人の閃き申そうですから、他の人は全くついていかずいけず、まさに王道を行くのです。
154阿蘇山は移動した:2007/10/28(日) 10:59:46
インスピレーションは、いいのですが、それは、仮定なのに、それを
結論として魏志や、日本書紀を引用して、正しいというのが素人
なのですよ。仮定は、何でもいいのですが、証明中で矛盾でたら、
その仮定は誤りなのですが。結論として証明してるので、南は東に
書き換えがおきるのです。まあ、推理小説なら自由ですが。
学問とは程遠い世界です。
155日本@名無史さん:2007/10/28(日) 12:26:47
三國志魏書東夷伝倭人条
156阿蘇山は移動した:2007/10/29(月) 11:06:14
やっとおちついた。まったりと行くか。いいですな。この開放感。
天気もこちらはいいし。
157日本@名無史さん:2007/10/30(火) 06:18:14
>>120 :茨城県民(プ)さん
引用するときは編名まで記してもらうと有難いです。
史記、蘇秦列伝「楚王曰,寡人之國,西與秦接境」
http://ef.cdpa.nsysu.edu.tw/ccw/02/shr09.htm
158茨城県民(プ):2007/10/30(火) 10:43:26
>>157さん

申し訳ない。以後気をつけます。
159阿蘇山は移動した:2007/10/30(火) 10:52:00
しかし、詳しい人おおいな。最近、けんか腰やめて、コビル私。
160日本@名無史さん:2007/10/31(水) 00:50:18
太国呼ぼうか?もしまだ生きていたら…
161阿蘇山は移動した:2007/10/31(水) 10:09:04
太国さんですか。呼ばなくていいですよ。どんとこいでがんばってくださいと
おつたえください。女性なのかな?理論より感情でレスされるからな。
まあ、わたしの日記としてかきためていこう。
明日は、3種の神器にするかな?とんでも説だよ。おもしろいよ。
162九州王:2007/10/31(水) 11:16:28
郡から伊都國までを計算すると下記のように11900里になる。
七千里+千里+(四百里×2)+千里+(三百里×2)+千里+五百里=11900里
※方可とあるので、対馬南島と壱岐をそれぞれ半周したと考え、(四百里×2)(三百里×2)
「自郡至女王國萬二千餘里」とあり、帯方郡から女王國まで12000里。
伊都国から奴国まで百里、つまり帯方郡から奴国までが帯方郡から女王國までの12000里と同じ距離となり、奴国は女王国の一部であったと考えられる。
距離を時間で再説明
南へ水行20日で投馬国に至る(7000里)。南に水行10日陸行1月(3400里+600里、陸行1月は1日の誤り)で女王の都のある邪馬台国に至る。

(邪馬壹国)70000余戸=對馬國1000余戸+一大國3000余戸+末盧國4000余戸+伊都國1000余戸+奴國20000余戸+不彌國1000余戸+20國×2000戸

163九州王:2007/10/31(水) 11:17:08
海〜〜┃∵楽浪郡∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┣━━━━━━━∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┌←←←▲帯方郡庁∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜└┐┃∵帯方郡∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┣━━━━━━┳━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵∵┃∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵∵┃∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵(馬韓)∵∵┃(辰韓)∵┃〜〜〜韓〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵10万余戸∵┃(弁辰)∵┃〜方可四千里〜〜〜〜海
海〜┌┘┃∵∵∵∵∵∵┃4-5万戸 ┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┏┛∵∵∵∵∵∵┃∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┣━━━━━━━┻━━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┃(投馬國)5万余戸 ∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┃∵∵∵狗邪韓國◎━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┗━━━━━┛┌┤〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
164九州王:2007/10/31(水) 11:18:37
海〜↓┗━━━━━┛┌┤〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜└→→→→→→→┘↓〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜七千餘里〜〜〜〜〜↓〜┃┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜水行20日〜〜對馬國├◎┓┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓┗┛対馬下島〜方可四百餘里〜〜海
海〜〜〜〜〜〜水〜〜〜└→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜行〜〜〜〜〜↓〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜10〜〜〜〜〜↓┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜日〜〜一大國├◎┛壱岐〜方可三百里〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜└→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜千餘里↓〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━◎〜〜┏━━┓〜〜┃∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┓〜┃末↓━陸行1日(月) ━┛∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┗━┛盧└→→◎┐∵∵奴∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵國∵五∵伊└→◎國∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜┏┓┗┓∵∵∵∵∵百∵都∵百∵∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜┃┗┓┗┓∵∵∵∵里∵國∵里∵∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜┃∵┃〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜┃∵┃〜┃∵∵∵∵∵∵∵(邪馬壹国)7万余戸
165日本@名無史さん:2007/10/31(水) 22:28:50
これは新しい

画も水行も
166日本@名無史さん:2007/10/31(水) 22:42:57
>>165
全然新しくない。古田じゃん。
167日本@名無史さん:2007/10/31(水) 23:12:10
けど、このAAはいいな。
168阿蘇山は移動した:2007/11/01(木) 10:31:40
画はいいのは、認めるけど。水行などは、帯方郡からでなく、不彌国から
ですので間違いですね。0から始めるから、こんなになるのです。
169九州王:2007/11/01(木) 22:44:16
>>168

間違と言い切る根拠はなんでしょうか?単なる願望でしょうか。
道程を説明するのに順番に距離で説明してきて、途中から急に時間で説明する事はない。
距離から時間に変わった時点で、初めからの道程を再説明してるのだ。
投馬國や邪馬壹国も既に小さな都市国家名の狗邪韓國や奴国を説明しているから、大きな領域国家名に言い換えて説明しているのだ。
170大倭弟王:2007/11/02(金) 02:00:28
海〜〜┃∵楽浪郡∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┣━━━━━━━∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┌┃◎帯方郡∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜└┐┃∵帯方郡∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┣━━━━━━┳━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵∵┃∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵∵┃∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵(馬韓)∵∵┃(辰韓)∵┃〜〜〜韓〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵10万余戸∵┃(弁辰)∵┃〜方可四千里〜〜〜〜海
海〜┌┘┃∵∵∵∵∵∵┃4-5万戸 ┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┏┛∵∵∵∵∵∵┃∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┣━━━━━━━┻━━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┃∵∵韓地倭人國∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┃∵∵∵狗邪韓國◎━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┗━━━━━┛┌┤〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜└→→→→→→→┘↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜七千餘里〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜對馬國┃◎┃対馬〜方可四百餘里〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
171大倭弟王:2007/11/02(金) 02:01:11
海〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜一大國┃◎┃壱岐〜方可三百里〜〜〜┏━━━┓
海〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┃
海〜〜〜〜〜〜〜千餘里↓〜┏━━┓〜〜┏━┛∵∵∵∵∵┃
海〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓┏┛∵∵┗━━┛∵∵∵∵∵∵∵┃
海〜〜〜〜┏━━┛∵┗━┛∵∵∵∵◇博多∵∵∵∵∵∵∵┗
海〜〜〜〜┃∵∵末盧國◎→→┐∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵五百里↓∵百里∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵伊都國◎┬→→●不彌國∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵百里│┏┓├┐∵∵∵∵∵∵∵∵ ●印:女王國構成国
海〜〜〜〜〜〜〜┗━┓∵∵奴國●┃┃●●邪馬壹国 7万余戸
海〜〜〜〜〜〜〜┏┓┃∵∵┏━━┛┃投∵∵∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜┏┛┃┃∵∵┃〜〜〜┃馬 五万余戸∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜┃∵┃┗┓∵┗┓〜〜┃國∵┏━━━━━━━
海〜〜〜〜〜〜┗┓┃〜┃∵∵┃〜〜┃┏━┛∵∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜┃┗┓┃┏━┛〜〜┣┛∵◎狗奴國∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜┏┛∵┗┛┗━┓〜〜┗┓∵10〜15万戸?∵∵
海〜〜〜〜〜〜┗━━━━┓∵┗┓〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┃〜〜┃∵∵◇熊本∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┏┛〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━┛〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜┃∵┗━━━┓┏━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵
172九州王:2007/11/02(金) 12:38:24
倭の投馬國、邪馬壹國、狗奴國は韓の馬韓、辰韓、弁辰と同じレベルの領域を持った国。
狗邪韓國、對馬國、一大國、伊都國、奴国は都市を中心に附属の農地を持った都市国家。
倭でも韓でも都市国家群が集まって投馬國、邪馬壹國、狗奴國、馬韓、辰韓、弁辰などの領域家国を形成していた。
>>170,>>171は都市国家と領域家国がゴチャ混ぜになっている。
173阿蘇山は移動した:2007/11/02(金) 16:21:50
>>171
少しよくなりましたね。放射式ですね。でも、これも間違いですね。

>>169
過去の研究史を勉強してください。なんどもいいますが、学問に垣根は
ありませんが、研究するには、研究方法があります。0からひらめき
で、それを書いて解決とするのは、ほかのスレが適してます。ここは、
レベルの低い人のあつまりですので。
174日本@名無史さん:2007/11/02(金) 16:53:23
古田って対馬から水行十日なの?
175日本@名無史さん:2007/11/02(金) 17:20:23
>>174
帯方郡から馬韓西北部までと狗邪韓國から末盧國までが水行。
馬韓西北部から狗邪韓國までは陸行。
176九州王:2007/11/02(金) 18:15:51
古田氏は「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」の一月にこだわり過ぎて(原文を尊重するあまり)帯方郡から狗邪韓國に陸行一月を当てた。
これだと唐突に投馬國が出現し投馬國の所在地も何処だか判らない。
順路も水行して陸行なのに、陸行後水行となる。

月と日は毛筆で書くと見誤りやすい。
また陸行一月以外は日を使っており、1ヵ所だけ月を使うのはおかしいので日の誤り。

海〜〜┃∵楽浪郡∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┣━━━━━━━∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海


177九州王:2007/11/02(金) 18:16:33
海〜┌←←←▲帯方郡庁∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜└┐┃∵帯方郡∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┣━━━━━━┳━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵∵┃∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵∵┃∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵(馬韓)∵∵┃(辰韓)∵┃〜〜〜韓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵10万余戸∵┃(弁辰)∵┃〜方可四千里〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┌┘┃∵∵∵∵∵∵┃4-5万戸 ┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┏┛∵∵∵∵∵∵┃∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┣━━━━━━━┻━━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┃(投馬國)5万余戸 ∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┃∵∵∵狗邪韓國◎━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┗━━━━━┛┌┤〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
178九州王:2007/11/02(金) 18:17:26
海〜└→→→→→→→┘↓〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜七千餘里〜〜〜〜〜↓〜┃┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜水行20日〜〜對馬國├○┓┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓┗┛対馬下島〜方可四百餘里〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜水〜〜└→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜行〜〜〜〜↓〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜10〜〜〜〜↓┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜日〜一大國├○┛壱岐〜方可三百里〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜└→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━┓
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜千餘里↓〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┛∵∵∵┃
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━○〜〜┏━━┓〜〜┃∵不彌國∵∵┃
海〜〜〜〜〜〜〜┏━━┓〜┃末↓━陸行1日(月) ━┛∵∵∵∵∵∵┗
海〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵┗━┛盧└→→○→→→◎→斯→己→伊→都∵
海〜〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵國∵五∵伊∵百∵奴∵馬∵百∵邪∵支∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵百∵都∵里∵國∵國∵支∵國∵國∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵里∵國∵∵∵↑∵∵∵國∵∵∵↓∵
179九州王:2007/11/02(金) 18:18:44
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵┏┓∵∵∵∵烏奴國∵∵∵∵∵∵彌奴國
海〜〜〜〜〜〜〜┏┓┃∵∵┏┛┗┓∵∵∵↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵↓∵
海〜〜〜〜〜〜┏┛┃┃∵∵┃〜〜┃∵支惟國∵∵∵∵∵∵∵好古都國
海〜〜〜〜〜〜┃∵┃┗┓∵┗┓〜┃∵∵↑∵∵(邪馬壹国)∵∵∵↓∵
海〜〜〜〜〜〜┗┓┃〜┃∵∵┃〜┃巴利國∵∵∵7万余戸∵∵不呼國
海〜〜〜〜〜〜〜┃┗┓┃┏━┛〜┃∵↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵↓∵
海〜〜〜〜〜〜┏┛∵┗┛┗━┓〜┃躬臣國∵∵∵∵∵∵∵∵∵姐奴國
海〜〜〜〜〜〜┗━━━━┓∵┃〜┃↑∵∵∵∵∵∵∵華∵∵∵∵∵↓
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵┃〜┃邪←鬼←爲←鬼←奴←呼←蘇←對
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┃〜┃馬∵奴∵吾∵國∵蘇∵邑∵奴∵蘇
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━┛〜┃國∵國∵國∵∵∵奴∵國∵國∵國
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵國∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜┏━┓〜〜〜┗━━━┳━━━━━━━━━━━━━━
海〜〜〜〜〜〜┃∵┃〜┏━┓〜〜┏┛∵∵∵(狗奴國)∵∵∵∵∵∵
180九州王:2007/11/02(金) 18:22:50
韓の馬韓(領域国家)は邑落(都市国家)の集合体だった。おおよそ五十余国の都市国家構成されていた(有爰襄國〜楚離國)。大国は万余家、小国は数千家、馬韓の総計十万余戸。
韓の辰韓、弁辰(領域国家)も邑落(都市国家)で構成されていた。弁辰はは十二国(已柢国〜優由国)辰韓は十二国(已柢國〜優由國)の都市国家構成されていた。大国は四〜五千家、小国は六〜七百家。辰韓、弁辰の総計は四、五万戸。

倭も韓に馬韓、辰韓、弁辰があったように投馬國、邪馬壹國、狗奴国があった。
投馬國は五万余戸ほど、邑落(都市国家)は狗邪韓国のみ紹介。
邪馬壹國は七万余戸ほど、邑落(都市国家)は對馬國〜不彌國、斯馬國〜奴國。奴國は二万余戸(計算すると他は平均二千戸)。

「南至投馬國水行二十日」や「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」など遠方にもかかわらず南と大雑把な方向しか記されていないのは投馬國や邪馬壹國が大きいからである。


181阿蘇山は移動した:2007/11/03(土) 10:48:24
図は、段々ver upしてますね。解りやすくていいのは認めます。ただ、水行
とか、陸行の20日とか1月の距離を示さず、韓半島にあてたりするのは、
どうかな?隋書なども参考に距離の考察がほしいのですが。
あと、古田さん以外の説も考察する必要があると思います。
182大倭弟王:2007/11/03(土) 12:40:05
>>180
>都市国家と領域家国がゴチャ混ぜになっている。
都市国家と領域家国はゴチャ混ぜになっていない。倭の国家群は韓のそれらより人口が多く巨大なだけ。

海〜〜┃∵楽浪郡∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┣━━━━━━━∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┌┃◎帯方郡∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜└┐┃∵帯方郡∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┣━━━━━┳━━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵┃∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵┃(辰韓12国)┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃(馬韓55国)┃(弁辰12国)┃〜〜〜〜韓〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵10万余戸┃∵4-5万戸 ┃〜〜〜方可四千里〜〜海
海〜┌┘┃∵∵∵∵∵┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┏┛∵∵∵∵∵┃◎瀆盧國∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┣━━━━━━┻━━━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 ┯
海〜↓┃∵∵∵狗邪韓國◎∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜↓┃倭人國地域┏━━━┛〜〜〜〜〜〜倭韓地〜〜〜〜海 │
海〜↓┗━━━━━┛┌┤〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜└→→→→→→→┘↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜七千餘里〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 使譯所通三十國
海〜〜〜〜〜對馬國┃◎┃対馬〜方可四百餘里〜〜〜〜〜〜海 │
海〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
183大倭弟王:2007/11/03(土) 12:41:02
海〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜〜〜〜〜一大國┃◎┃壱岐〜方可三百里〜〜〜┏━━━┓ │
海〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┃ │
海〜〜〜〜〜〜〜千餘里↓〜┏━━┓〜〜┏━┛∵∵∵∵∵┃ │
海〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓┏┛∵∵┗━━┛∵∵∵∵∵∵∵┃ │
海〜〜〜〜┏━┳┛∵┗━┛∵∵∵∵◇博多∵∵∵∵∵∵∵┗ 使譯所通三十國
海〜〜〜〜┃∵┃末盧國◎→→┐∵∵∵∵∵∵∵倭∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜┗┓┗┓∵∵五百里↓∵百里∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜┗┓┗┓∵伊都國◎┬→→●不彌國∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜┗┓┗━━┓百里│┏┓├┐∵∵∵∵∵∵∵∵ │ ●印:女王國構成国
海〜〜〜〜〜〜〜┗━┓∵┃奴國●┃┃●●邪馬壹国 7万餘戸 │
海〜〜〜〜〜〜〜┏┓┃∵┃┏━━┛┃投∵∵ (女王之所都)∵ │
海〜〜〜〜〜〜┏┛┃┃∵┃┃〜〜〜┃馬 五万餘戸 ∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜┃倭┃┗┓┗┻┓〜〜┃國∵┏━━━━━━━ ┿
海〜〜〜〜〜〜┗┓┃〜┃∵∵┃〜〜┃┏━┛∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜┃┗┓┃┏━┛〜〜┣┛∵◎狗奴國∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜┏┛∵┗┛┗━┓〜〜┗┓∵10〜15万戸?∵∵ 狗奴國連合地域
海〜〜〜〜〜〜┗━━━━┓∵┗┓〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┃〜〜┃∵∵◇熊本∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┏┛〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━┛〜〜〜┃∵∵∵∵倭∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜┃∵┗━━━┓┏━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │

水行十日陸行一月(倭人からの伝聞) 
邪馬壹国→陸行(倭地)→末盧國→水行→狗邪韓國→陸行(韓地)→帯方郡 
水行二十日(倭人からの伝聞) 
投馬國→水行(有明海→島原湾→天草灘→東シナ海肥前海岸→対馬海峡→半島南岸→東シナ海半島西岸)→帯方郡

倭五王の時代は、投馬國が狗奴國側につくことによって始まった。
184九州王:2007/11/03(土) 19:35:37
海┏┛∵∵∵∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
┗━┓∵∵∵帯方郡∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┗━┓∵▲帯方郡庁∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜┣━━━━┳━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜┃∵∵∵∵┃∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┏━┛∵∵∵∵┃∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┃∵∵∵馬韓∵┃辰韓∵┃〜〜〜韓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┗┓∵10万余戸┃弁辰∵┃〜方可四千里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┃∵∵∵∵∵┃4-5万戸┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┣━━━━━┻━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┏┛投馬國5万余戸┏━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┓
海〜┃∵∵∵┏━━━━┛〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┗━
海〜┗━━━┛〜〜〜〜〜〜┃┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵
185九州王:2007/11/03(土) 19:36:25
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏倭種∵∵∵┏┓∵┏━
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓〜〜〜〜〜┃∵∵侏儒國┃┗━┛海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜┗━━━━━┛〜〜┏┓
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┓〜〜〜〜〜〜〜┏┛┗
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┛∵∵┗━┓〜〜〜〜┏┛裸國
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵邪馬壹國∵┃〜〜〜┏┛K齒國
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┏┓∵7万余戸┗┓〜〜┗┓∵∵┏
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┃┗┓∵∵∵∵∵┃〜〜〜┗┓┏┛
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛┏┻━━━━┳┛〜〜〜〜┗┛海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛狗奴國∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┏┓∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛┃┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
186日本@名無史さん:2007/11/03(土) 19:49:29
九州北部に全部詰めすぎ。これは絶対に ない。 わかる。
187日本@名無史さん:2007/11/03(土) 19:52:47
大体、熊本は日本でも最古最多の鉄器の産地だぞ。
あと、九州中部の天領地日田。
あそこは弥生時代に遡る西側に向けて防壁があり
熊本側と対立していたような形跡も見受けられる。

だからやはり、九州王の北半分邪馬台国で南半分熊襲には
確信的に疑問を感じる。
悪いが君は絶対間違っていると思うよ。
188九州王:2007/11/03(土) 20:38:24
訂正
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┏┓∵┏━
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓〜〜〜〜〜┃∵∵倭種∵┃┗━┛海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜┗━━━━━┛〜〜┏┓
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┓〜〜〜〜〜〜〜┏┛┗
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┛∵∵┗━┓〜〜〜〜┏┛∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵邪馬壹國∵┃〜〜〜┏┛侏儒國
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┏┓∵7万余戸┗┓〜〜┗┓∵∵┏
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┃┗┓∵∵∵∵∵┃〜〜〜┗┓┏┛
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛┏┻━━━━┳┛〜〜〜〜┗┛海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛狗奴國∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┏┓∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛┃┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
189九州王:2007/11/03(土) 20:51:32
倭人在帶方東南大海之中依山島為國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國

從郡
南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸

從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里・・・

と書けば分かりよい。

邪馬壹國と狗奴國の境界線は不明
190阿蘇山は移動した:2007/11/04(日) 06:06:47
何度も書くけど、過去の研究史を読みなさい。
不彌国から、南に水行20日で投馬国。さらにそこから、南に水行なら
10日、陸行なら1月です。東は、倭種です。狗奴国は、奴国(博多)
の南ですから、熊本です。邪馬台国の南に狗奴国があったとは、魏志には
書いてない。よく読んでください。わからないなら、ここの前を読んで
から書いてください。
191茨城県民(プ):2007/11/04(日) 09:07:51
>>190

不彌國から南に投馬國じゃなく、奴國を基点に東側に不彌國、南に投馬國であり、不彌國と投馬國の間に直接的な位置関係はない。
それが原文

投馬國の南にも邪馬壹の域がある
192日本@名無史さん:2007/11/05(月) 03:18:24
九州に住んでいる人間の直感なんだが
A <= 環有明海圏+福岡+糸島以西
B <= 薩摩+大隈+宮崎+大分
の文化圏は方言や習慣からして別のような気がするんだ。
筑豊、北九州で若干交じり合っているかもしれない。

ここから妄想

A が大宰府あたりを中心とする九州王朝系
B が後に神武東征をはたした大和王朝系

なにか示唆しているような文献はありませんか?


193阿蘇山は移動した:2007/11/05(月) 12:41:15
>>191
不彌国の南に投馬国。さらに南に邪馬台国が原文です。

伊都国や、奴国などからの放射式解釈が間違いであることは、邪馬台国
の研究史読めば容易にわかる。

>>192
九州を南北に別けるのがわからない。宮崎は、どこから文明手に入れて
たのか?
入手先は、朝鮮半島からか、大陸から直接が考えられる。熊本なら、
北の朝鮮半島が無理でも大陸から、鉄を手に入れられる。でも、宮崎は?
鹿児島から迂回して?
不彌国を行橋付近にすると南、南で宮崎や鹿児島へ行くかも。
194茨城県民(プ):2007/11/05(月) 14:31:57
>>193

この文は順次式ですよ

いつ
私が放射式を?


もう少し『東行』を把握してください。
195阿蘇山は移動した:2007/11/06(火) 18:08:19
北部九州を旅行した人から聞いた話。
呼子は、油壺(地名)みたいに静かな湾。唐津湾は、波があれてて港に
適さないって。末ロ国の港は呼子だとか。
唐津の東は山があるので(私は未確認)伊都国へいくには、南東へ山を
迂回してから行ったとのこと。

文献ばかりみてないで、たまには、現地行くのも参考になるかもしれ
ない。
196サガミハラハラ:2007/11/06(火) 22:05:36
>>唐津湾は波があれて、ーー東唐津をみたのでしょう。西唐津は波が静かです。
今でも唐津港は西唐津です。
197大倭弟王:2007/11/07(水) 14:39:43
西唐津だよね。
現地を見て、古代地形を重ね合わせればわかるよ。
魏使が上陸したのは松浦川河口の潟しかない。
198阿蘇山は移動した:2007/11/07(水) 18:15:57
やはり、またぎぎは、最悪みたいだな。今度、九州1周してこようかな?
でも高そう。20万超えるかな?西と東の唐津か。レンタカー必要だ。
199九州王:2007/11/07(水) 18:53:47
>>190
「・・・東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離有千餘家」
ここまでは、帯方郡から各邑落(都市国家)までの道程と距離を記してある。
「南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸」
ここは、倭内に存在する国の紹介と帯方郡からのだいたいの方角、かかる日数を記してある。
「自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳次有斯馬國・・・」
ここからは、再び各邑落(都市国家)の紹介。
200大倭弟王:2007/11/08(木) 01:44:09
>>199
ごもっとも。間違いなし、賛同いたします。

しかし、
「自郡至女王國萬二千餘里」とある。
これは、郡より奴國と不彌國に至る距離に該当する。
すなわち、奴國と不彌國は女王國内の国々である。
女王國内の国々は隣接した地域にあると考えられるから、
奴國、不彌國、投馬國と邪馬壹國は隣接し、
まとまった地域内にある女王國の構成国である。

「自女王國以北其(a)戸數道里可得略載其(b)餘旁國遠絶不可得詳次有斯馬國・・・次有奴國此女王境界所盡」
其(a)は女王國以北(狗邪韓國〜女王國)を指し、
其(b)も同じく女王國以北(狗邪韓國〜女王國)を指しているので、
餘旁國(不呼國〜有奴國の21国)は、狗邪韓國〜女王國の東西に分布している。

「其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」
其は女王國であるから、女王國の南は狗奴國である。
201九州王:2007/11/08(木) 08:42:24
>>200
奴國と不彌國は隣接し、
まとまった地域内にある(邪馬壹國)女王國の構成国ですが、
「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」とあり、邪馬壹國は水行十日陸行一月、投馬國から南に離れて存在していた。
(b)「其餘旁國遠絶、不可得詳」は
「その他の国々は遠くて詳しく分からない」の意味です。
旁國は国々の意味で(國を複数形にする)、かたわらの国の意味ではないでしょう。
したがって女王國以北でなく、その先の魏使が立ち入っていない地域の国々のこと。
「女王國の南は狗奴國である」はその通りです。
202日本@名無史さん:2007/11/08(木) 11:33:10
ゴンちゃん
見〜つけ。
203大倭弟王:2007/11/08(木) 12:50:17
>>201
>まとまった地域内にある(邪馬壹國)女王國の構成国ですが
邪馬壹國=女王國とは書いていないよ。
「南至邪馬壹國女王之所都」
卑弥呼がいるのが邪馬壹國と書いてあるだけ。

>旁國は国々の意味で(國を複数形にする)、かたわらの国の意味ではないでしょう。
そのとおり。

>したがって女王國以北でなく、その先の魏使が立ち入っていない地域の国々のこと。
しかし、
「自女王國以北其(a)戸數道里可得略載其(b)餘旁國遠絶不可得詳次有斯馬國・・・次有奴國此女王境界所盡」
「其(a)」と「其(b)」は何を指すのでしょうか?
「其(a)」と「其(b)」を指す前述の語句は何ですか?
「その先の魏使が立ち入っていない地域の国々」に対応する語句はありますか?
「其(a)」と「其(b)」は「女王國」を指すとの決め付けの勘違いをしていませんか?

>「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」とあり、邪馬壹國は水行十日陸行一月、投馬國から南に離れて存在していた。
上記については、
「(從郡)南至投馬國水行二十日・・・・・(從郡)南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」
とあり、九州王さんは(從郡)が省略されているとの見解と見受けますので、
郡〜投馬國間の距離が水行二十日であり、郡〜邪馬壹國間が水行十日陸行一月と理解しているのではないでしょうか?
其々ルートが異なるだけです。
郡〜投馬國間:投馬國→有明海→九州西海岸→対馬海峡→半島西海岸→帯方郡(水行)
郡〜邪馬壹國間:邪馬壹國→末盧國(陸行)+末盧國→対馬海峡→狗邪韓國(水行)+岸狗邪韓國→帯方郡(陸行)
又は
郡〜邪馬壹國間:邪馬壹國→有明海→九州西海岸→対馬海峡→狗邪韓國(水行)+岸狗邪韓國→帯方郡(陸行)
204日本@名無史さん:2007/11/08(木) 15:56:39
九州=新羅
新羅の南征の後、筑紫島も九州と呼ばれる。んで

北九州→半島
南九州→筑紫島


ちなみに半島は三韓時代の時から倭人の国で日本が統治してた国だよ
秦人と漢人は後から入って来ただけ
205九州王:2007/11/08(木) 18:32:13
大倭弟王さんの考えだと邪馬壹國7万餘戸と投馬國間5万餘戸が筑後あたりの狭い範囲に存在したことになりますね。
馬韓55国10万余戸、弁辰12国弁辰12国4-5万戸から比して矛盾しませんか?
206阿蘇山は移動した:2007/11/08(木) 19:24:38
また、1から始まった。

郡から、邪馬台国までが12000里。邪馬台国は、倭国の南の端に
あります。旁国は、邪馬台国の南に入るスペースはありません。
207日本@名無史さん:2007/11/08(木) 19:37:35
「(百済辺りにある)邪馬台国から南へ航海し、そこから陸路を辿ると1ヶ月かかる」
って意味じゃないの

そこに伊都(ヰ都)があるって意味じゃないの?

巍は三韓国(辰韓とか)も三国(百済とか)も「倭人が統治する国」って書いてるよ

巍って国自体が半島か大連とかの近くにあったんじゃないかと思うけどな
208日本@名無史さん:2007/11/08(木) 19:44:08
三国志の時代と、半島の三国時代は同時代の事だよ

巍、呉、燭

これが大陸のどこの都市にあった国なのか調べた方がいいかもだよ
南京とか上海の方は、随→唐で、大陸北部にいた漢人とは言葉も血統も関係ない氏族と思うよ
209大倭弟王:2007/11/09(金) 01:31:21
>>205
>邪馬壹國7万餘戸と投馬國間5万餘戸が筑後あたりの狭い範囲に存在したことになりますね。
>馬韓55国10万余戸、弁辰12国弁辰12国4-5万戸から比して矛盾しませんか?

水稲に適した平野面積で比較すると矛盾しません。
筑紫平野(白石地域・佐賀地域・筑後地域・北野地域)の面積は、韓(馬韓・辰韓・弁辰の地、帯方郡と倭人地域は除く)の平野総面積より広大です。
「馬韓在西・・・・散在山海間無城郭」とある様にまとまた広い海岸平野は無かったようです。
全羅北道の海岸平野は倭人地域であったと推定できます。
又辰韓・弁辰も内陸山間部にあり大きな平野はありません。

一方、人口は、三韓15万戸、筑紫平野部15万戸です。

又、韓地(半島中南部)に比べて筑紫平野は気温も高く、水稲の収量が多かったと推定できます。
人口のキイポイントは水稲作を含めた食料生産力です。
210日本@名無史さん:2007/11/09(金) 03:21:48
>>209
馬韓、弁韓、辰韓、那珂諸国、んで今の大連の当たりまでは倭人が納める国だった

って記述のある漢人の巍国の書物もある
211日本@名無史さん:2007/11/09(金) 08:29:12
百済の間違いじゃないですか?
212九州王:2007/11/09(金) 09:04:55
韓地(半島中南部)に比べて筑紫平野は気温も高く、水稲の収量が多かったと推定はできるが、国の面積当たりで精々2〜3倍、10倍を超えることはないだろ。
大倭弟王さんの説では生産力に数十倍〜百倍の差がないと説明がつかない。
三韓15万戸、筑紫平野部15万戸は無理がある。
213大倭弟王:2007/11/09(金) 12:10:05
>>212
>大倭弟王さんの説では生産力に数十倍〜百倍の差がないと説明がつかない。

食料生産力は国の面積に比例するのではありません。
食料生産力は耕作適地面積(利水可能な平野面積)に比例するものです。(特に水稲耕作では)
三韓の平野のそれは広めに見積もっても筑紫平野のそれを超えることはありません。
そこで、耕地単位面積当たりの食料生産能力が三韓より筑紫平野の方が少しでも多ければ、
食料生産能力は、筑紫平野>三韓の平野となるわけです。

なお、全羅北道北部の海岸平野は倭人地域ですから、それは馬韓の平野には含まれません。
弥生時代後期、西日本では水田に高度な配水設備があったことはよくご存知のことと思いますが、
それが当時の世界最高水準の単位面積当たりの食料収量であったことを示しています。

従来説の弥生時代人口論は真っ向から否定する立場におります。
弥生時代後期末の西日本の人口は300万人以上であったと思われます。
全日本の人口でも300万人を超える程度で、西日本の推定人口の誤差内だと思いますが。
214九州王:2007/11/09(金) 18:21:02
>弥生時代後期末の西日本の人口は300万人以上であったと思われます。
全日本の人口でも300万人を超える程度で、西日本の推定人口の誤差内だと思いますが。

妥当な数でしょう。
私は魏志東夷伝の戸は5人と想定しています。
九州だけで60〜70万人(邪馬壹國35万人、狗奴國25〜35万人)
南朝鮮100万人(馬韓50万人、辰韓弁辰25万人、投馬國25万人)
大倭弟王さんの説では九州の人口が大きくなりすぎます。
215日本@名無史さん:2007/11/09(金) 20:16:12
5人てw
当時核家族なわけねえだろ
216九州王:2007/11/09(金) 21:13:17
>当時核家族なわけねえだろ

魏志東夷伝の戸の意味を言っているのだ、核家族だったとは言っていないww。

奴國は二萬餘戸、一戸5人でも10万の大都市となり、5人以上は考えられない。
217日本@名無史さん:2007/11/10(土) 00:23:23
奴國は二萬餘戸、10万人でも、
佐賀平野全体にちらばっているんだから、
大都市にはならんだろう。
218阿蘇山は移動した:2007/11/10(土) 01:14:55
隋書では南北3月行。九州の南北3月行とすれば、今の地図で300km。
陸行1月って100kmでは?
219日本@名無史さん:2007/11/10(土) 01:40:35
時代が350年も違うから、単位長さが同じかどうか疑問。
220九州王:2007/11/10(土) 11:05:37
>>217大都市にはならんだろう。

10万人のうち1割が中心集落に住んでいたとして、1万人の町。
当時の日本としては他に無い大都市。

>>218陸行1月って100kmでは?

陸行1日が3kmはないな。陸行1日で20〜30kmは行く。
221日本@名無史さん:2007/11/10(土) 11:55:32
真っ直ぐで今の道路ならな。山道や湿地帯ならそうはいかんだろ。
222九州王:2007/11/10(土) 12:35:34
紀元前には小さな国が誕生し、既に数世紀が経っているんだ。
国と国を結ぶ人道の道路網は出来ていたさ。
今みたいに用地交渉など要らないから、割合真っ直ぐな道が簡単にできる。
道路は険しい山や湿地帯は避けるから陸行1日で20〜30kmは行く。
223日本@名無史さん:2007/11/10(土) 13:09:28
山や湿地帯を避けたら割合も真っ直ぐにはならん。つか避けられん。
それに、草木茂盛、行不見前人だぜ、葦原を進んでるだろ。
224九州王:2007/11/10(土) 13:26:58
「末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人」だろ。
濱山海居からして呼子に上陸し松浦半島を進んだんろろう。
松浦半島は今でも草木茂盛だ、道幅が狭ければ行不見前人だったろう。
この区間が道が悪かったので特に書き留めたのだ、それでも陸行1日で20〜30kmは行く。。
225日本@名無史さん:2007/11/10(土) 15:23:11
古代九州は中国色が非常に濃い。鹿児島・熊本、特に。
宇佐神宮も中華風なのをみればわかるとおり。

226阿蘇山は移動した:2007/11/10(土) 20:04:45
投馬国から南に水行10日で邪馬台国。南に陸行なら1月。つまり、南北
に海岸線がある。今の地図で見ると、南北の海岸は、延岡から宮崎市まで
の75kmにあたる。陸行1月は75km。時代がくだれば、道がよくなり、
1月100kmになったのでは?75kmは仮説だが、隋書でウラがとれた。
ゆえに、定説になりうる。不彌国から邪馬台国は水行30日。陸行3月
になる。不彌国を行橋とすると宮崎市からの直線距離は内陸部ですが
225km。だいたいいいのでは?
227日本@名無史さん:2007/11/10(土) 20:55:26
1日の旅の行程 約30km(約40里)。
1日に3kmしか進まない旅など聞いた事がない。
228日本@名無史さん:2007/11/10(土) 20:56:45
訂正
1日の旅の行程 約30km(約400里)。
1日に3kmしか進まない旅など聞いた事がない。
229日本@名無史さん:2007/11/10(土) 21:31:32
1日3Kmとは思わん。だが、どうしても太平洋上に持っていきたいがために、
距離を長く見積もりがちな既存の2大説には苦言を呈したい。
230日本@名無史さん:2007/11/11(日) 00:20:46
>>222
> 割合真っ直ぐな道が簡単にできる。
んなこたーない。それは機械仕掛けの土木工事の発想で、まるで逆。
大きな川とかを迂回して、基本的に山裾を縫って、ばあいによっては山の尾根筋を辿るしかない。
231日本@名無史さん:2007/11/11(日) 12:08:01
古代の道は歩きやすいルートが道になる。
即ち、少ないエネルギーで歩けるルートが道である。
古代の道は、現代の登山道の様なものだ。

>>230
だから、山の尾根筋や、谷筋は道にはなりにくい。
232日本@名無史さん:2007/11/11(日) 14:09:13
>>222
鏡100枚やら何やら持って陸行1日で20〜30kmは行く?
233阿蘇山は移動した:2007/11/11(日) 19:03:54
お、間違ってる。行橋と宮崎市の直線距離200kmでした。すまそ。
1日に30km行くって魏志のどこに書いてあります。勝手に距離単位
つくらないように。陸行1月は21世紀の距離単位でとでも書いてあるの
ですか?隋書は、どう説明されるのですか?
234日本@名無史さん:2007/11/12(月) 05:58:45
>>231
> 古代の道は、現代の登山道の様なものだ。
そういうことね。

> だから、山の尾根筋や、谷筋は道にはなりにくい。
んなこたーない。谷の切れ込みが深い関東山地などでは、尾根筋が道だったからね。
「ばあいによっては山の尾根筋を辿るしかない」という話であって、選択の余地があるなら、
山地は最初から迂回するに決まってるけど。
235阿蘇山は移動した:2007/11/12(月) 12:14:50
九州には、熊いないのかな?魏志にはでてこない。近畿だと、熊野はいる
よね?
236日本@名無しさん:2007/11/12(月) 12:51:03
>>235
正確には「ほぼ絶滅した」。
今でも祖母・傾山系にはいるといわれていますが。
http://www.coara.or.jp/~shuya/topics/kuma/kuma.htm

どうやら江戸時代には既に減っていたようです。
http://homepage3.nifty.com/muzina-press/jbn01.htm
237日本@名無史さん:2007/11/12(月) 15:46:42
日に30kmは騎馬の、しかも補給を気にしない強行軍のスピードに近い。

ちなみに近い時代ってことなら魏志で司馬懿が公孫淵の反乱の鎮圧について
明帝(曹叡)の下問に答えてる部分を参考にすると一日の行軍距離は概ね15、6km。
晋代の左伝の注だと一舎が当時(春秋時代)およそ30里で、
軽い荷を帯びた状態での一日の移動限界距離ってことになってる。
一舎は国によって違う(特に中原の国と楚)けど、kmに換算するとおおよそ15〜20km

ついでに書いとくと徐州での呂布の強行軍のケースを見ると
船での移動は穏やかで流速の低い黄河やその支流の下流域で
後先考えずに馬が倒れるまで騎馬兵を駆けさせたのとほぼ同じぐらいの速度が出せたっぽい
(深夜から日の出直後までで40里移動してる)
238九州王:2007/11/12(月) 18:39:08
行軍の場合は食料以外にも重い鎧を着て大量の武器を持っての移動。
通常の旅よりも荷物が多く、移動速度も当然落ちる。
食料が旅先で提供される旅なら更に身軽で軽快な旅が可能。
時速3kmで10時間歩けば30km。
239日本@名無史さん:2007/11/12(月) 20:32:08
>>238

根拠の無い妄想語らないでね
行軍の場合、四千里を100日と書いてあるでしょう。平常時一日五十里
これは動かせない史料事実
240九州王:2007/11/12(月) 21:00:44
>>239
行軍の場合はでしょ。
241日本@名無史さん:2007/11/12(月) 22:02:59
>>240

>行軍の場合はでしょ。


いいえ
平常時も制度化されています。
陸行の場合、日五十里の他に馬七十里、車三十里
水行は   日三十里、江四十里

とか
だから、妄想のスペースなんてありません
242日本@名無史さん:2007/11/12(月) 22:12:16
>平常時も制度化されています。

   ,-ー─‐‐-、
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  .|:::i ./ ̄ ̄ヽi
  ,|:::i | (,,゚д゚)||  < ソース出せ。ゴルァ!!
  |::::(ノ 中濃 ||)
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243日本@名無史さん:2007/11/12(月) 22:25:52
>>242

ボケっ こんなネタ常識だろう
今時小学生でもしっとるわい
244九州王:2007/11/12(月) 22:28:44
>平常時も制度化されています。

旅行するのに 制度化?
行軍と通常の旅が同じ?
245日本@名無史さん:2007/11/12(月) 22:49:08
>>244

魏使行程は公務、公務は制度に乗った行動

行軍は日四十里、平常歩は日五十里


後は自分で調べてよ
(ここの巻三、戸部の条に記載されているから、原文で調べてよ)

http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/h590/h590cont.html


246九州王:2007/11/13(火) 08:30:01
武具を持っての移動と、置いての移動の速度違いは、秀吉の中国大返しでも分かる。
247日本@名無史さん:2007/11/13(火) 09:05:58
>>246
時代をカなり下ったモノは、参考意見としての価値に止まるし、現に司馬懿による淵討伐の日程は、往路復路共に百日
248日本@名無史さん:2007/11/13(火) 18:35:50
>>246
そのうち江戸期の飛脚の話でも持ち出して日に70km移動したとか言い出しそうだなw
249阿蘇山は移動した:2007/11/13(火) 18:55:40
熊はダメか。くまったな。

日数表示は、倭人に聞いたものと思ってた。隋書に、夷人里数を知らず、
日を、、、、の文があるので。でも、中国の文献読んでまねしてるかもね。

自分の都合のいい文献もってきて合ってるといわれても、そうですねとか
言えないな。邪馬台国論争が終わらない一端が見えた。

飛脚も中国の文献見て、これ以上でないとダメって言われたって聞いた
ことあるよ。ほんとだよ。
250日本@名無史さん:2007/11/14(水) 04:48:16
熊野もクマが多いとはいえないけどな

定石どおり「隈」の方に語源を求めたり
「こもる」の古い語幹由来で考えた方がいいと思う。
産地に関していえば交易で邪馬台国に入ってきてるなら
魏からすれば採れるってことになりかねないし。

モノからアプローチするんなら出土土器の形体分類から
各遺跡の交易圏でも空想した方が楽しいかもよ。
現状だと纒向遺跡が図抜けてるから九州信者には辛いかもだけど。
251阿蘇山は移動した:2007/11/14(水) 11:52:56
土器編年って、絶対年代が鏡の年号だとあぶないからな。確かに、
考古学からは、近畿でしょうね。景初3年の鏡がでてる。決定的
物証でしょうね。でも、魏志からは、近畿には、無理がある。
どちらをとるかと言えば、魏志とるな、私は。
252太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/14(水) 14:33:34
決定的にはならない。倍暦計上から

 景初元年=237年=崇神即位元年

だから、238年の崇神の同床共殿による一般民への右に習え的政策での出土鏡
なので卑弥呼とは無関係。そのころ九州に女王国があったわけだ。
景初3年は239年。
253ローガン:2007/11/14(水) 15:09:59
久しぶりに覗いたけど相変わらずやね。
魏志倭人伝に帯方郡から女王国まで何里って書いてある?
12000余里やろ?
漢書地理志に帯方から倭国まで何里って書いてある?
10000里やろ?
「歳時來献見」の倭国って普通に考えたら、北部九州やろ?引き算してみ。
北部九州から女王国まで2000余里やろ?魏晋朝は1里は430mくらいか、そしたら860kmか?
まあ誤差を考えて、北部九州から700〜1000km位離れた所で、その時代の遺跡、遺物、遺構のある所を探したらええで。
254日本@名無史さん:2007/11/14(水) 22:45:23
>>253
漢書地理誌の帯方から倭国まで10000里の箇所、原文で載せてください。
漢書地理誌もってないものですから。
255日本@名無史さん:2007/11/14(水) 23:34:47
「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
の後に注釈として  
「如淳曰 如墨委面 在帶方東南萬里」
256阿蘇山は移動した:2007/11/15(木) 07:58:10
近畿の巻むくは、大きく古いけど、銅鐸が、日本書紀や魏志にない。
マキムクは、銅鐸以後の街でしょう。銅鐸後に、支配が変わったと
思うけど。
257プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/15(木) 08:55:10
>>254-255
如淳は魏の役人

漢書が萬里と述べているのではなく、魏時の認識が漢書に対し萬里と註訳している
ただし、萬里に対する度量衡モノサシは漢時換算の可能性が高い。
魏時の認識をそのまま使ったら、漢書の意味がなくなるから
258ローガン:2007/11/15(木) 15:17:15
>>257そう。如淳は魏の人。
顔師古は無理やけど、「如淳日」を陳寿は見てる。
>度量衡モノサシは漢時換算の可能性が高い
その可能性はあると思うわ〜。ただ可能性が高いかどうかはわからへん。
それに通常里であれば、漢も魏晋もあまり変われへん。勿論、漢代短里を用いたって考えるなら、それなりの論拠が必要。
あ〜それから魏晋代の一里が70mそこそこなんてデタラメやし。(おそらく昭和の日本で考え出されたんとちゃうかなあ?)
>>193スレ主の言う通りやな。
投馬国の起点は不弥国で間違いない。(まあ奴国でも、伊都国でも距離的にはたいして変わらないけど) 邪馬台国の起点は投馬国で間違いない。
あ〜それから韓地内陸行等は問題外。
259大倭(たい)國弟王:2007/11/15(木) 16:56:29
>>258
>魏晋代の一里が70mそこそこなんてデタラメやし。
>(おそらく昭和の日本で考え出されたんとちゃうかなあ?)

上の主張をしはるんやったら、
下の@〜Fについての説明責任がありまっしゃろなぁ。

@韓:方可四千里(在帶方之南、濊南與辰韓[濊伝]、東西以海爲限、南與倭接、弁辰瀆廬國與倭接界)
A郡〜狗邪韓國:七千餘里
B狗邪韓國〜對馬國:千餘里
C對馬國:方可四百餘里
D對馬國〜一大國:千餘里
E一大國:方可三百里
F一大國〜伊都國:千餘里
260ローガン:2007/11/15(木) 19:19:28
>>259説明責任とはえらい大層な
狗邪韓国〜對馬国千余里
對馬国〜一大国千余里
一大国〜末盧国千余里
ヘエ〜みんな同じ距離?壱岐九州間は近いように思いまっけど。
ほう!対馬は壱岐の1.3倍でっか?もっと大きいような気がするんやけど。
それはそうと「1里は70m」って中国のどの文献に書いてあんの?
261大倭(たい)國弟王:2007/11/15(木) 19:55:55
>>260

@〜Fを包括できる説明はでけへんのやな。
そんなら、引っ込んどき。

「1里は70m」と書いた文献なんかあるはずないやろ。
メートル法がでけたんいつか知っとるんか?
262サガミハラハラ:2007/11/15(木) 20:25:08
魏晋代に1里70mなどという短里とやらはありません。
倭人伝の1里=67.5mでこれは周尺です。
周代の尺度が不明なのは秦の始皇帝の圧政によるものであるようである。
始皇帝は新たな度量項をさだめ、それ以前や地方の尺度をつかったものは
万里の長城で酷使した。そのため人々は徹底して旧尺を捨て(あるとつい使ってしまったりする)
てしまったため、ものや記録としてのこっていないのです。
現在発見されている周代の尺は墓から発見された1本だけです。
始皇帝の定めたあらたな1里は周代のを6倍したもの(405m)である。
263ローガン:2007/11/15(木) 20:47:53
ほう〜そしたら貴方の「包括できる説明」とやらでは、対馬の大きさは壱岐の1.3倍で正解な訳やな?

「梁書」「通典」「冊府元亀」読んでみ。
アンマリ中国人信用シタラダメアルヨ。

>メートル法でけたんいつか知っとるんか

すり替えたらあきまへんなあ〜 魏代中国の一里の長さ知らんのかいな。
264プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/15(木) 21:17:41
>>258

>あ〜それから魏晋代の一里が70mそこそこなんてデタラメやし。(おそらく昭和の日本で考え出されたんとちゃうかなあ?)

魏時の一里は約430m(六尺一歩)一尺=約24cm


これ面白いから
暇なとき考えてね


「人行六尺牛行四歩」
265ローガン:2007/11/16(金) 00:21:45
>>264お〜プラムさんこんばんは。
人行六尺牛行四歩載一歳糧日行二十里か?
という事は一里はなんぼ?73m?短里を支持してんの?
説としては面白いかも知れないけど、これ、木牛の話やで。
266ローガン:2007/11/16(金) 00:28:30
>>262あ!サガミ先生もこんばんは。挨拶が遅れました。
レスの一行目、賛同致します。もう寝ます。
267日本@名無史さん:2007/11/16(金) 01:58:22
資料が手元にないので詳しく書けないのですが、
魏志倭人伝には邪馬台国の植生に関する説明もあるそうです。
現在では判明しない漢字も使われており、その文字を、まだ大陸から有用な植物が移植されてなかった
当時の日本の植生に照らすと残りの漢字の樹種名から予測できるのがシュロとツバキ(だったかな?)
が該当するそうです。
〜で、シュロが自生できてた場所を考えれば、植生で言えば、近畿でなく九州が有力になるんですと
記載ブック:『森の百不思議』
現在のシュロの北限は東北、しかし昭和30年辺りの北限は和歌山南端
268プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/16(金) 07:59:29
>>265 おはよう

そう
この牛行四歩の牛は、松坂牛ではなく木牛

だから面白い
269プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/16(金) 10:08:41
でもね〜
人工的に作られた木牛は、「一歩、二歩…」とは歩かないで、車輪がグルグル回るだけ
だから
「人行六尺牛四歩」の牛の正体は「モ〜」となく
松坂牛だよ
つまり
(人が六尺歩く距離を、牛は四歩でOK)
人歩六尺と松坂牛の四歩が同一の比率となったわけ


でも、木牛だよね?

面白いよね。
270阿蘇山は移動した:2007/11/16(金) 18:36:35
どうしても水行20日は、中国の単位なのね。困ったものだ。
271ローガン:2007/11/16(金) 20:58:00
>>262サガミハラハラさん。じゃあ、馬王堆から出土した、「黄鐘」は?
272プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/16(金) 21:03:37
>>270

>どうしても水行20日は、中国の単位なのね。困ったものだ。


漢人が漢人向けに書いたものだから
273サガミハラハラ:2007/11/16(金) 22:47:29
すみません。馬王堆のことはまったくわかりませんのでこの黄鐘についてご説明ねがいます。
274大倭(たい)國弟王:2007/11/16(金) 23:08:48
>>267
樹種名の推定では山茶花もあるよね。
野生の山茶花は背振山脈南麓が北限だから、
邪馬台国は筑紫平野以南。

275ローガン:2007/11/17(土) 00:28:59
>>273サガミ先生。ナイトスクープ視てたので遅くなりました。
周尺は知ってますね?18.8〜19.7cm位やね。漢や魏代よりだいぶ小さい数字やね。漢が23〜24cmですなあ。
馬王堆墓、前漢の墓ですが、黄鐘という楽器が出土したんですがな。寸法はかったら、17.65cm。
黄鐘(こうしょう)は漢書律歴志に9寸とあります。これでよろしいか?
276プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/17(土) 07:39:34
サガミさん
「周里」確認出来たの?
277サガミハラハラ:2007/11/17(土) 08:38:42
周里67.5mの根拠は、福永晋三史の拙によるところと、魏志倭人伝の行程距離が
68m弱でぴたりとあてはまることからです。
278プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/17(土) 09:52:41
いやサガミさん、そうじゃなくて


周時に「里」(距離としての単位)が存在したかどうか?

存在すら確認出来ないのに、周尺を当て嵌め「里」へ換算する(その逆もまた)なんて、正に愚かな行為そのもの
度量衡は、その時代の環境に合わせ時代ごとに変化し、それに対する単位比率も見直し、或は継続されるのですよ

それを
現代人しか知り得ない地図から距離を測り、古代の適用数値に適当に当て嵌め、偶然に合致したモノを
何の裏付けもなく主張する。

自分で変な方法だとは考えないのですか?
279日本@名無史さん:2007/11/17(土) 09:55:27
「中国人は漢字を使えない」

漢字は表意文字の為、それぞれの文字は言葉を表さない
始皇帝は統一後、漢字を3300字にまとめ、漢字一文字に1つの音だけをあてた
この書物(いわゆるテキスト)を「焚書」といい、これにより漢字の文字と発音が決められた
280日本@名無史さん:2007/11/17(土) 10:03:36
中国人にとっての漢字は表意文字である為、熟語も主語も文法もなく、またそのまま文字を発音しても、文字に付けられた音でしかなく発音では意味がわからない


毛沢東は中国統一にあたり中国言葉のローマ字綴りを開発し
中国ローマ字で統一しようとしたが、元々、多語源の大陸において北京語以外の言葉(上海、満州、広東、四川、他多数)を全て統一は難しく中国でのローマ字化を断念した
281日本@名無史さん:2007/11/17(土) 10:16:19
ってのが、大陸においての「漢字」らしいよ

手元にある岡田英弘って人の皇帝たちの中国って本に書いてあった

大陸において漢字はいわば象形文字のような表意文字らしいよ
今の大連や北京人は手紙やメールはローマ字で書くみたい

文法も決まって無く、書く人次第らしいよ
だからどういう文法なのかは同じ人が書いた他の書物などから推測するしか無いみたい

「、」や「。」ってのも無いんだっけ?


大陸では漢字は使いこなせてないみたいだよ
282日本@名無史さん:2007/11/17(土) 10:33:34
オレ中国の書物は三国志伝にしろ、唐書や随書にしろ、日本からの遣唐師達が同じ時代に書いたような気がする
三国志伝って平安時代には既に日本でも書物があったらしいもん


百済や新羅の倭人と半島へ来た秦族とで、統一された文字なのかも知れない

この時代の秦人と漢人は2世紀には滅んだとされてるけど、秦族とか漢族は日本に渡って来てるでしょ?

例えば空海のおじで、朝廷での家庭教師してた阿刀大足とかは新羅系だしさ
283日本@名無史さん:2007/11/17(土) 10:49:41
あと氏族みると
秦国=晋国=新(司馬氏)
漢国=韓国=濁=宋(劉氏族)

巍国は(鮮卑氏・元氏・揚氏)ってあるから司馬氏は関係ないかもだよ


あと朝鮮民族は「唐国」かもだよ
唐=鮮卑氏、トルコ、李氏
らしいから
後に清国の属国として朝鮮半島を納めた李氏朝鮮王朝は、この唐の氏族が来たんじゃないかな?

だとしたら朝鮮人はやっぱ他のアジア人と血統が違うね
284日本@名無史さん:2007/11/17(土) 11:02:48
漢字を作ったのは秦国〜漢国

ただこの秦氏族も漢氏族も2世紀頃には大陸から消滅
漢、秦の氏族や文化は百済や新羅などの倭人の国へ流れ、紀元前100年頃には日本でも普及

その後、漢字は日本や新羅からの遣唐師などにより、唐や梁へ三国史伝と共に普及
そのまま中国人(唐以降)は漢字を使いこなせずに現代に至る

って、やっぱ無理あるかなw
285阿蘇山は移動した:2007/11/17(土) 11:29:06
>>272
ものの基本がわからないのね。困ったものだ。
286日本@名無史さん:2007/11/17(土) 11:52:47
「國」って漢字は城を囲む城壁であったり地形の事
「州」って言うのは河川の土砂などにより平になった土地。いわゆる平野
「郡」ってのは「軍」の事で複数の國や都らによる地域同盟軍

らしいよ


それらを束ねる地域や王朝の呼び名として、頭に「大」を付けて「大倭」って事みたい
例えば日本書記でも唐の事は「大唐」って表記したりしてるみたいだし

多分さその時代は今で言う国家の事は基本的に漢字一文字で
漢、秦、唐、随、倭、晋、陳、和、
とかって表してたんじゃないかな?

半島には「辰韓」とかあるけど単に「秦と漢」って意味らしいよ
百済や新羅って二文字の呼び方される国もあるけど、巍志だか随書によれば「半島の三韓国は倭人の國」って書いてるからあの辺りも「倭」だったんだと思うよ
287プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/17(土) 12:40:35
>>285

主張には第一号証つけてね
288日本@名無史さん :2007/11/17(土) 19:59:14
>>274
だいぶ前に歴史読本の邪馬台国特集でさまざまな動植物についての考察があったな。
黒雉は日本にしかいないので,エジプトなんてありえないって書いてあった。
289日本@名無史さん:2007/11/17(土) 21:34:11
そんな小さいことを気にしてたらエジプト説なんてはれねぇよ。
エジブト説っていうのはな、もっと壮大な歴史のほんの一部にすぎないんだから。
290プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/17(土) 21:44:45
>>288

>黒雉は日本にしかいないので,エジプトなんてありえないって書いてあった。

それより
黒雉なんて細かな内容出さないと、エジプト説を否定できないアホらしさに「唖然」
291ローガン:2007/11/17(土) 23:44:17
え!エジプト説は成り立ちませんか?うわ〜残念やなあ。

エジプト…
沖縄…
九州…
全部ファンやったのに
292日本@名無史さん:2007/11/18(日) 03:23:49
おおw エジプト説かっこいいw

ただ旧約聖書の出エジプト記にあるエジプト王朝と、ピラミッドを作った文明は、別の文明だぜw
ピラミッドを建築した文明はもっと昔の文明だよ
293阿蘇山は移動した:2007/11/18(日) 10:35:41
卑弥呼は、狗奴国との戦争で中国に援軍頼んでる。邪馬台国近畿説なら、
西日本支配してたことになる。その大国が1つの国に苦戦するものかな?
294日本@名無史さん:2007/11/18(日) 16:54:05
>>292
>ただ旧約聖書の出エジプト記にあるエジプト王朝と、ピラミッドを作った文明は、別の文明だぜw

だからそんな小さいこと気にするなって。

つ http://homepage3.nifty.com/boumurou/tondemo/kimura/kimura00.html
295ローガン:2007/11/18(日) 22:58:00
>>293近畿説で、邪馬台国が西日本を支配していたって、どなたの説ですか?
296阿蘇山は移動した:2007/11/19(月) 11:42:32
対馬、壱岐、唐津、福岡(奴国)とすれば、邪馬台国近畿説なら、北部
九州から、奈良まで支配したって自動的になるでしょ?
狗奴国が南九州説と、東海、関東説もありますね。南九州説は、無理
かな?南を東に変えたら。
297日本@名無史さん:2007/11/19(月) 16:42:12
狗奴国東海説は、女王国の東に国あり、から、これは狗奴国のことであろうと推測しただけです。
298日本@名無史さん:2007/11/19(月) 16:44:04
>>297の文はかきまちがいです。おわびして削除いたします。
299ローガン:2007/11/20(火) 00:55:17
>>296畿内説支持者は貴方が言う所の「支配」といった中央集権的な考えをしていないと思いますよ。(もっともみんながそうだとは断言出来ませんが…)
ヒミコは共立された倭王ですね。
武力などを背景にして、成り上がった支配者ではなさそうですね。
たまたま共立され女王になったヒミコの住民票は邪馬台国にあった。ぐらいの事ではないでしょうか?




300阿蘇山は移動した:2007/11/20(火) 14:05:50
>>297
後漢書は、そうなってるから、間違いではないでしょう。まあ、説の1つ
ではある。正しいといいきれるかはためらうけど。

>>299
武力国家の前に宗教支配があると昔、中学かな?ならったけど。魏志では
内戦状態で、鬼道の卑弥呼が共立されたのでしょか?
伊都国の記事では、実際の王が伊都国にいるようにも取れる。まあ、少し
時代くだるけど、大和政権と伊勢神宮みたいな関係かな?って、卑弥呼
のなごりが伊勢神宮なのでしょうけど。証明は、むずかしいけど、感覚
的にこのほうが理解しやすいのでは。
301阿蘇山は移動した:2007/11/21(水) 09:48:02
ひだまりがいい季節。おちついたところで、sageでじっくり、研究する
かな?
302日本@名無史さん:2007/11/21(水) 15:10:17
トンデモ発言連発の邪馬台国スレも寂れたようだな。
303阿蘇山は移動した:2007/11/22(木) 12:15:10
ここは、トンデモではないですよ。魏志や日本書紀読めばわかる。
プ○○さんとかは、レベルたかすぎますが。近畿説など、説にも
なりえない。まあ、トンデモ説の代表でしょうね。
304阿蘇山は移動した:2007/11/23(金) 23:02:25
私みたいに、他のもので裏がとれない説が多すぎる。南を東にかえるなど
そのちょうたるもの。まあ、日本書紀で裏とれたっていうのでしょうね。
でも、日本書紀全部つかうわけでなく、都合のいい部分だけ。だから
学問でない。私みたいに統一理論でないとダメ。ここは120年ずらす
とか、ここは、倍歴とかね。あー専門家さんこここないでいいです。
ぼちぼちすすめていくので。
305プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/24(土) 00:20:53
>>304
最近スレが寂しいようだから

暇だったら
「韓在帯方之南東西以海為限南與倭接方可四千余里」

これでも訳してみたら?  
巷に溢れてる翻訳本のいい加減で、大雑把な所が浮き彫りになるから


では  そのうちまたね
306日本@名無史さん:2007/11/24(土) 01:06:16

韓は帯方郡の南側に在る。
その土地の東側と西側は海であり、
又南側は倭と接しており、
その土地の形状と広さは、四千余里平方である。

他スレよりの引用地図

海〜〜┃∵楽浪郡∵∵│∵濊(貊) ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┠──────┴┐2万戸 ┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵│∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┌┃◎帯方郡∵∵│∵濊∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┠─────┬┴───┨〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵│∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵│(辰韓12国)┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃(馬韓55国)│(弁辰12国)┃〜〜〜〜韓〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵10万余戸│∵4-5万戸 ┃〜〜〜方可四千里〜〜海
海〜┌┘┃∵∵∵∵∵│∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┏┛∵∵∵∵∵│◎瀆盧國∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┠──────┴─────┨〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 ┯
海〜↓┃∵∵∵狗邪韓國◎∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 ↑
海〜↓┃∵∵倭∵∵┏━━━┛〜〜〜〜〜〜韓地倭〜〜〜〜海 │
海〜↓┗━━━━━┛┌┤〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │

307日本@名無史さん:2007/11/24(土) 01:16:18

海〜〜┌┃◎帯方郡∵∵│∵濊∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┠─────┬┴────┨〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵韓∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵│(辰韓12国)┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃(馬韓55国)│(弁辰12国)┃〜〜〜〜韓〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵10万余戸│∵4-5万戸 ┃〜〜方可四千余里〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵│∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵│◎瀆盧國∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┠─────┴─────┨〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 ┯
海〜〜↓┃∵∵狗邪韓國◎∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 ↑
海〜〜↓┃∵倭∵∵┏━━━┛〜〜〜〜〜〜韓地倭〜〜〜〜海 │
海〜〜↓┗━━━━┛┌┤〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
308日本@名無史さん:2007/11/24(土) 02:10:46
卑弥呼=媛命=百襲媛命
卑弥弓呼=彦命=武埴安彦命
邪馬台國=大和國
狗奴國=許乃國

以上です。
309プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/24(土) 08:07:49
>>306

『…東西以海爲限…』

>東側と西側は海であり

この訳だったら
(東西有海)または(東西海)で十分じゃない?
でも
原文は『東西以海爲限』で、貴方の訳には「以海も爲限」も全然取り入れられていなくない?

つまり、もうこの段階から誤訳が始まっているよ。
310306:2007/11/24(土) 12:33:41
>>309
>訳には「以海も爲限」も全然取り入れられていなくない?

端折らないで、もっと説明を入れて翻訳すべきですね。

韓は帯方郡の南側に在る。
その土地の東西の範囲はその東側の海とその西側の海までであり、
又南側は倭と接している。
その土地の形状と広さは、四千余里平方である。
311プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/24(土) 13:23:30
>>310

韓域は帯方の南に位置し、、
(くみし韓)の東西は海と限定(くみし韓)の南も海
(くみし韓)の隣は倭
韓域の規模は(海測)方可四千余里


これでどうかな?
312306:2007/11/24(土) 15:24:44
>>311
「(くみし)韓」って何?

一部が違うようだね。

「韓在帯方之南」
韓は帯方郡の南側に在る=韓域は帯方の南に位置し

「東西以海為限」
その土地の東西の範囲はその東側の海とその西側の海までであり=(くみし韓)の東西は海と限定

「南與倭接」
その南側は倭と接している≠(くみし韓)の南も海(くみし韓)の隣は倭
疑問:
「其瀆廬國與倭接界」(韓人伝弁辰)と「濊南與辰韓北與高句麗沃沮接」(濊人伝)は、
どの様に翻訳するの?

「方可四千余里」
その土地の形状と広さは、四千余里平方である=韓域の規模は方可四千余里≠韓域の規模は(海測)方可四千余里
313312:2007/11/24(土) 15:31:29
書き間違えた
韓人伝弁辰(誤)→韓伝弁辰(正)
濊人伝(誤)→濊伝(正)
314プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/24(土) 17:05:02
>>312

>「其瀆廬國與倭接界」(韓人伝弁辰)

ここは地理的な位置を紹介する内容じゃ無いので、地理的なことは意識しないで

⇒(弁辰與辰韓雑居であることの風俗は)それら(くみし)トクロは隣倭と界す。


>濊南與辰韓北與高句麗沃沮接

⇒(くみし)濊の南の隣は辰韓、(くみし)辰韓の北の隣は高句麗沃沮


くみし=與し  「組し」よりも「與し」
315日本@名無史さん:2007/11/24(土) 17:53:01
対馬國=対馬
一大國=壱岐
末盧國=松浦(唐津)
伊都國=伊都(糸島)

斯馬国=糸島の志摩半島
好古都国=博多

対蘇国=鳥栖
蘇奴国=佐賀
呼邑国=小城
華奴蘇奴国=神崎(吉野ヶ里遺跡)

316日本@名無史さん:2007/11/24(土) 19:24:51
>>315訂正
伊都国=多久市
対蘇国=対馬北島
蘇奴国=北九州市小倉
呼邑国=飯塚市
華奴蘇奴国=苅田
以上訂正いたします。
317日本@名無史さん:2007/11/24(土) 19:40:48
>>316
根拠は?
318阿蘇山は移動した:2007/11/24(土) 21:40:49
みなさんは理解されてますが、まず、原文の次に句読点入れないと。
韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里。
中華書局より。
文書を解釈するときは、陳寿のクセを考慮しないといけないですよ。
放射式のように、順番とか字が違うのは、くりかえしを嫌う陳寿の文書
の特徴です。けっして放射式ではいけません。
319日本@名無史さん:2007/11/24(土) 22:29:19
>放射式のように、順番とか字が違うのは、くりかえしを嫌う陳寿の文書の特徴です。

この命題をどこから帰納したのか、聞いてみたいもんだな。
320プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/24(土) 23:03:52
>文書を解釈するときは、陳寿のクセを考慮しないといけないですよ。

その判断は誰が判断するの?
もともと原文に句読点はないし、句読点が無くても解釈できた時期が存在したことも事実。

321312:2007/11/25(日) 00:00:39

プラム ◆TOfHBAKZgMさんの翻訳は恣意的であると思います。
説明でもない事柄なのに、本文にないことを付加して翻訳に入れまくり。
322プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/25(日) 00:08:48
>>321

具体的に何処がどう恣意的?
323312:2007/11/25(日) 01:55:43
>>322
「東西以海為限」
(くみし韓)の南も海(くみし韓)の隣は倭
「南も海」と「隣は倭」はなんて何処にも書いていない。
韓伝の冒頭部を読むときには、まだ倭の内容はわからないのだよ。

「方可四千余里」
韓域の規模は(海測)方可四千余里
突然「海測」が出てくるの何故?

「其瀆廬國與倭接界」
(弁辰與辰韓雑居であることの風俗は)が何故入って来るの?
「其」は弁辰を指すのであって、辰韓は無関係。
324プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/25(日) 08:27:41
>>323

何故『東西以海爲限』と、限定するの?
ここは
韓域の地理的位置関係と規模の紹介文だから

『韓在帯方之南東西以海爲限南與倭接方可四千餘里』と、一気に読み
全体で解釈するんだよ
句読点は
後世に於いて便宜上付加されたモノ、句読点の有る原文なんてないだろう。

>倭

あるじゃん
『…南與“倭”接…』


>海測

ちゃんと書いてあるよ
(海を)方可四千餘里
325プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/25(日) 09:07:17
>>323


>「南も海」

書いてあるよ(以海)
用例は「以上、以降、以南…」
「以」の字義は(区切り)

>「隣の倭」

倭接
326日本@名無史さん:2007/11/25(日) 12:05:30
>>324
>>314
まさに恣意的だねw
でなければ人に自分の意見を伝えることができてないだけなのかも。
327プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/25(日) 13:11:12
>>326

結局
そういう意見がでるのね

書いてあることを述べて「恣意的」じゃ、話しにならないから
私はこれで失礼します。
328312:2007/11/25(日) 16:33:30
>>325
>「南も海」と「隣は倭」について
文頭から順番に読んでいくのではなく、一気読みですか?
言うことは何もありません。
他の論点についても言い及べません。

初めて出会う漢文の読み方です。
きっと、漢文は漢字の羅列だと言われるのでしょうね。
329プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/25(日) 17:08:09
>>328

「南も海」「隣は倭」は、書いてあること
書いて有るのに無視は出来ない。
ただそれだけ
漢文以前の問題だよ


トンデモ翻訳本に委ね続けた副作用だね



書いてあることを無視し「恣意的」だ、と言われながら続けてレス入れる意味もないだろうし
330328=312:2007/11/25(日) 21:16:28
>>328
「南與倭接」
(韓は)南に倭を接している、繋げている、の意味でしょう?
より広い意味の言葉に敢て置き換えれば「南の隣は倭」だろうがね。

「韓在帯方之南東西、以海爲限」
「韓在帯方之、南東西以海爲限」
上の様に句点を打てば、韓の南は海になるが。
そうすれば、韓と帯方の位置関係が理解不能となる。


>>326>>312では無いよ。
331プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/25(日) 22:26:57
>>330
>「韓在帯方之南東西、以海爲限」
「韓在帯方之、南東西以海爲限」
上の様に句点を打てば、韓の南は海になるが。
そうすれば、韓と帯方の位置関係が理解不能となる。

⇒ここは『韓在帯方之南、東西以海爲限・・・』
これで十分ですよ。  ここで重要な文字は「以」と「爲限」、ここで
何気に(以って)とか(限って)なんて翻訳し、疑問すら持たないと
通り過ごしてしまう箇所。
実はこの「以」の文字は、単独「以」では何の意味にもならない文字
「以○(以上、以下、以降・・・)」なんて形になって初めて(区切り)という意味を持つ文字

・以上なら→あるモノを区切りのポイントとし、区切りより上とか
韓域(方位)「以海」は東西だけでなく次の『南與倭接』の南にも効果し、
東西は(海)、南も(海)となるのです。
つまり
韓域の地理的環境は、北に帯方(地続き)、東西南は海
ただし、同じ海でも東西と南の環境が違うので、(東西)と(南)の二つに分けた事がここで分かります。
では、どうちがうのか?
(東西の海は)『爲限』(限定)であり、(南の海は)『倭接』
東西は海で何も無いけど、南の海は倭に続く(隣倭)があるからと書かれています。

これが『以海』の効果です。

因みに
『以海』だけでここまで深く追求した人は居ましたか?
古代漢文は、文字数を極力抑えた現代漢文とは異なるモノ、決して一文字もおろそかに扱えない一例です。

ここまで理解できれば『與』や『接』へと説明を移します。
332日本@名無史さん:2007/11/25(日) 23:09:34
>>331
恣意的な解釈は飽きた。
失礼する、と言いながら居座理続けるのを見るのも飽きた。
どうかお引き取りを。

それとも荒らし続けますか。
333阿蘇山は移動した:2007/11/26(月) 00:42:58
>>319
これはプラムさんが詳しいですよ。対馬、一大、末ロ、の方位南が、1つしか
かいてない。同じ文書ではない。これが陳寿の文ですよ。
334日本@名無史さん:2007/11/26(月) 00:46:41
なんかあんたらここでたたかれてるよ、俺まきぞえくったんだけど
てかさ一応乗せとくわ
【危険回避】日本史板誘導第2案内所【一日一回】
の板だ
335日本@名無史さん:2007/11/26(月) 00:53:15
>>332
ここは間違いなく隔離スレで、電波とそれを見て笑う物好きしかいなんだから、
むしろここで好き勝手にやらせとくほうが健全だよw
336330:2007/11/26(月) 01:49:40
>>331
主張の理解はできた。
が、しかし、、、
337プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/26(月) 07:22:47
何一つ反論も出来ずに「隔離」と位置付ける
呆れた連中。

それほどトンダモ談義がしたいのか?

いっちょ前の口叩く前に反論でもしてみろ
馬鹿ドモが!
338プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/26(月) 07:58:24
>>333

こいつらに
そんな説明しても無駄なレスになるだけ
始めから聞く耳なんてないし、言葉尻を捉え揚げ足の材料にされるのが関の山。
339日本@名無史さん:2007/11/26(月) 12:31:08
プラムがんばれ
340阿蘇山は移動した:2007/11/26(月) 19:53:24
ムダかな?かわりにかいてみよう。
始度一海、 又南渡一海千餘里、又渡一海、
2つめに又南とあるので最初のも南とわかる。3つめのは、又は、又南が
又だから、3つめも南。3つともに南だけど、文は3つとも違う表現。
また、国境をわたるときは、サンズイがない。方位は重要なので必ず
かいてあることになる。美文と言える。あるいは陳寿のくせというか、
表現力がすごいということ。1例まで、上の韓の記述の説明も
(プラムさんの)1票だしますよ。いいと思う。 
341プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/26(月) 20:20:45
>>340

チョット違うよ
『又』はだいたいそれでOKだけど、

>始度一海、 又南渡一海千餘里、又渡一海、
>国境をわたるときは、サンズイがない

「度」(たび)
(南一海)を三度(みたび)繰り返す最初の一回目だから「始度」なんだよ
「渡」の文字を使用していないのは、海域を挟み陸地から陸地の一海じゃないから

しかし、「渡」も「度」も(わた-る)と言う訓は存在するが、この使い分けは

・「渡/わたる」の場合、わたるとする行為の起点から着点の範囲が同一範囲内ではなく
・「度/わたる」の場合は、わたるとする行為の起点から着点の範囲が同一範囲内

ここまで出来て、ほぼ完璧。


342プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/26(月) 20:23:28
とにかく
古代人の漢字使用には到底かなわない。   脱帽
343ローガン:2007/11/26(月) 20:32:05
私も応援します
344プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/27(火) 07:55:30
では『與』について少しだけ

『…東西以海爲限南“與”倭接…』
『與』和訳=くみ‐する

(與する韓の)南も海、(與する韓の)隣は倭


実はこの和語(くみ‐する)にはもう一つ「組」するという漢字を当てることができるけど
「組と與」では文字が異なるので、当然使い方も違ってくる。

この「與する」は「組する」と違って、「與」‐する(〜する)と送り仮名を付しはじめて“クミ”と言う和語が当てられるのが特長

クマ‐ない、クミ、クム、クメ、クモ‐う
これらは全て「組」だ

・與党(党がくみし)
・〇〇組(任侠達がくみし)


後は少し自分で考えてみよう〜
漢字が面白くなる。
345312=328=330=336:2007/11/27(火) 11:50:48
>>プラム ◆TOfHBAKZgM

よくわかった。
放射式説、島半周説以来の目覚める思いだ。
「其瀆廬國與倭接界」が「其瀆廬國與倭接」ではなくて、何故「界」を入れたのかもより理解できた。
また、狗邪韓國が、韓伝ではなく何故倭人伝に記載されたのかもより理解できた。

ところで、「與」については、突き放さないで、もう少し書いて下さい。
又、魏書を踏まえたかたちで、「接」についても書いて下さい。

346312=328=330=336:2007/11/27(火) 11:58:26
>>プラム ◆TOfHBAKZgMさん

プラムさんの著書を、教えていただけませんか?
347312=328=330=336:2007/11/27(火) 12:00:21
>>プラム ◆TOfHBAKZgMさん

プラムさんの著書を、教えていただけませんか?
348プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/27(火) 12:42:59
>プラムさんの著書

ないない
しいてあげれば、四年ほど前からの2ちゃんの過去レス。
「チラシの裏プラム」に著書なんてないよ


>『與』

簡単だよ
韓域が統一された地域ではなく、大きく分けて三種(馬韓、辰韓、弁辰韓)を束ねた総称だから
それら三種も、複数の国からなる地域だから「組する」じゃなく「與する」


「組」は、最初から“組”とする器が用意され、そこに単体が集まり大きくなるが
「與」は、組とする集合体が複数集まり、集まった後に新たな集合体の器が出来る


だから東夷伝には、沢山“與”が使われている。

つまり
“與”と書くだけで、その対象地域が単体ではなく、複合地域であることが解ります。
349プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/27(火) 12:54:21
狗邪韓國は、韓域に属する弁辰狗邪だよ

倭人伝に記載されたから韓國の文字を挿入しただけ


二組の担任は、一組のA君を「一組のA君」と呼ぶが、一組の担任は「一組のA君」とは呼ばないよね
350阿蘇山は移動した:2007/11/27(火) 22:12:46
あー間違ってましたか。失礼。しかし、漢字に詳しいですね。
なぜ隔離されるのかわからない。
351プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/27(火) 22:36:34
>>350

>あー間違ってましたか。失礼。しかし、漢字に詳しいですね。
なぜ隔離されるのかわからない。


ま、『隔離』と言っている人に直接聞いてみないと真実は分からないから

こういうコツコツと積み重ねていく作業が嫌いなんじゃないのかな?


全文漢字で書かれた文章なのに
352日本@名無史さん:2007/11/27(火) 22:41:42
隔離ってのは恥ずかしいことじゃないぞ。
棲み分けは2ちゃんの基本。
プロ野球板で、いきなり鰻のうまい店を話してもされた方は迷惑だろ。
する方も有意義な情報交換できないだろ。

プラム君は、「隔離大いに結構」くらいの気持ちで、ここで思う存分活躍して欲しい。
353プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/27(火) 22:50:40
漢字一文字すら把握できないのに、文法もへったくれもあったもんじゃない。
文法なんて、完璧に翻訳されてからの話なのに
順番がまるで逆
文法云々語る前に、漢字の意味ぐらい完璧に把握してから語ってくれと言いたい。
354プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/27(火) 22:57:36
>>352

>プラム君は、「隔離大いに結構」くらいの気持ちで、ここで思う存分活躍して欲しい。

了解
355阿蘇山は移動した:2007/11/28(水) 19:39:27
やっと、論じられる。まあ、結論は、多分ことなるから、私たちも最後
は、けんかでしょうけど。まあできるだけ長くつづくことをねんじて。
大和さんがおしゃってた。東夷のとこで、韓の次に倭人伝がある。
これをみると、朝鮮半島ぎざぎざに陸行するのは、不自然とか。船を
おりて朝鮮半島陸行してまた、対馬へ船のるのは?倭人伝だけとりだして
論ずると可能な説も、東夷でみると変にみえるとか???
356大和:2007/11/29(木) 18:42:02
>>355 阿蘇山さんどうもです。
プラムさんこん○○は。陳寿の筆法で煙に巻く以外は尊敬しております、倭人伝に記すたか
だか2000文字されど2000文字への拘り、いつも感心しております。

>朝鮮半島ぎざぎざに陸行するのは、不自然

東夷伝「韓在帶方之南」・・・「漢時屬樂浪郡、四時朝謁・・・散在山海間」、「倭人在帶

方東南大海之中・・・」

この板でこのような発言したかどうか失念、いずれにしても古田史学にもの申すものではあ
りません。私的に思いますに、倭人の国に行く為にわざわざ船に乗ったもの、あえて韓の地
を通る必然がない、との立場での発言です。韓の朝貢は基本的には陸路、帯方・楽浪・遼東
から洛陽ではなかったかと、帰路も当然陸路。

これ、韓は帯方の南だから陸路での行き来に整合性はあります。ところが倭人の国は帶方
東南大海之中に在るとする。その倭人の国を訪ねるのに、韓半島を縦断する必然がありま
せん。湾岸水行で十分、安全な旅程が保障されると考えます。
357阿蘇山は移動した:2007/11/29(木) 19:46:39
実名だしたのまずかったかな?確かに、他の場所でしたね。すいません。
前後関係不明でごかいありますね。

板にもどるかな?

プラムさんの中国人が中国のために書いた、魏志は。
これは、中国の事ならいいのですが、倭人のことを書いてるから、中国
の文献は参考にはなるけど、あまり意味がないというのが私の考え。

陸行1月とかの話題です。

陸行1月が倭人の距離単位だとすると中国の換算いくら調べても
わからないことがおきませんか?もし、解るなら、記述時に里数表示
すると思う。
まあ、5000里とあるからしてるという説は一理ありますが、大月氏
との関係もあり、成り立つか微妙。
358改め:2007/11/29(木) 20:16:05
大月氏ね・・・。

大月氏側には資料は残ってないんだろうね。
359プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/29(木) 20:37:35
>>356大和さん  お久しぶりです。

>陳寿の筆法で煙に巻く

プリンセス天功のイリュージョン並か?


>>357

>プラムさんの中国人が中国のために書いた、魏志は。
これは、中国の事ならいいのですが、倭人のことを書いてるから、中国
の文献は参考にはなるけど、あまり意味がないというのが私の考え。

陸行1月とかの話題です。

陸行1月が倭人の距離単位だとすると中国の換算いくら調べても
わからないことがおきませんか?もし、解るなら、記述時に里数表示
すると思う。
まあ、5000里とあるからしてるという説は一理ありますが、大月氏
との関係もあり、成り立つか微妙。


じゃあ?何処が正しく何処が誤認識なの?
そんな事言い出したら
倭人伝の全てが、もしかしたら『不思議の国のアリス』状態で書かれたものかもしれませんよ?

『倭人在』?本当は『ザラブ星人在』かも?
『帯方』も『歌舞伎町』かも?
『東南』も本当は箸の倒れた方向がたまたま東南だったのかも?
『大海之中』も山の中では味気ないので普段見ることの出来ない海なのかも?

全て検証しての???????ですか?
360日本@名無史さん:2007/11/30(金) 12:29:11
>>プラム ◆TOfHBAKZgMさん
いろいろ解説ありがとう。

残る質問にもプラムさんの解釈を教えていただけませんか?
(A)「瀆廬國與倭接界」韓伝
特に「接界」をメインに。

もう一つの質問
(B)「使譯所通三十國」倭人伝
特に「使譯」をメインに。
361プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/30(金) 15:41:14
>>360
では一つずつ

>其トクロ國與倭“接”界

『接』(セツ・つぐ)

意=AとBとの相互関係

端的に言えば「接」の文字に(くっつく・つく)の意味はありません。
漢和辞典を見ても分かるように、古代の人は「接」の文字に(つく)ではなく、和語訓“つぐ”を付して(つく)とは別訓として別けています。

「接ぎ木」でも分かるように、“つぐ”木は基木(つがれる木)と付いた状態ではなく、基木についだ木になるまでの 木を“つぐ”木といいます。
決して、付く や くっつくではありません。

A=基木
B=つごうとする木

このAとB(一本の木への関係)が「接木」です。


……つづく……
362プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/30(金) 16:04:29
>>360 361の続き

では、国間どうしの「接」はどうなっているかみていきます。
この場合、国間AとBとの関係「接」は、
・直(真っさら陸地に国境線を引き、成り立つ直隣)・間(自然地形環境が間に入る間接隣)

これだけです。

つまり
国間関係で使われる「接」の意味解釈は

「接」⇒となり

この隣には(直接)隣と(間接)隣しかありません。

……つづく……
363阿蘇山は移動した:2007/11/30(金) 20:32:13
>>359
残念ながら文書になってませんね。倭人は、倭人のことです。たいほうぐん
は、たいほうぐんのことです。けっして魏のことではありません。
魏志をよまれるのがいいと思います。
364プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/30(金) 21:57:37
>>360 362の続き

『界』
「境と界」の使い分け

この両字は共に和語訓(さかい)が当てられています。

「境」⇒ 一つの範囲をサカイによって区切ることにより、新たな別の範囲が生じるとき
     Aという範囲にサカイを入れることによりAとBという異質範囲に分かれる
     AとBの範囲は、サカイを入れることによって生まれた範囲

「界」⇒ サカイを新たに入れることなく、初めからAとBとの異質な範囲は存在し
     その異質範囲のサカイを「界」

つまりAとBの範囲は、新たにサカイを入れることなく初めから区切られている
365大和:2007/11/30(金) 22:10:54
>>357 阿蘇山さん。
とんでもない、名前などバナナの叩き売り、かえって恐縮です。たまたま投げかけて戴いた
ので、半島縦断の可否論を怖いもの知らずであつかましく!!久々に持論を展開いたしました。
サンキュウです。

>>359 プラムさん。
>プリンセス天功並みか?

プラムさん不服?東洋の魔女素敵でないですか。昔舞姫今イリュージョン、楽浪の将軍さま
の好物。確かに皆様、大衆を煙にまくのに長けてはいますが、その分よく勉強されておられ
るということです。
366プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/30(金) 22:28:47
>>360 364の続き

つまり
『弁辰與辰韓雜居亦有城郭衣服居處與辰韓同言語法俗相似祠祭鬼神有異施竃皆在戸西
其toku[偏水旁賣]廬國與倭接界十二國亦有王其人形皆大衣服[旁潔]清長髮亦作廣幅細布法俗特嚴峻』

韓伝の一番最後の文、しかも一番最後に登場するトクロ国は
帯方郡を基点とする位置から一番遠くに位置する国である事が韓伝の構成上分かる。
三種(馬韓、辰韓、弁辰韓)の中でも一番遠い弁辰韓

その遠い弁辰12国の中のトクロ国だから『其トクロ國與』。

⇒遠く(くみす韓その三種内弁辰韓の中でも一番遠いトクロ國)の隣りは(境を必要としない異質関係/界)な倭
 海と言う境界線を必要としない自然地形を境とする国間関係


これで「其toku[偏水旁賣]廬國與倭接界」の解釈を終わります。

不明な点がありましたら、質問に答えます。




そろそろ詐欺まがいな(金とる)翻訳本とはおさらばしよう。
367360:2007/11/30(金) 23:02:39
>>364
ありがとうございます。

(A)「瀆廬國與倭接界」
「瀆廬國で倭と界を接ぐ。」
すなわち、
「瀆廬國で弁辰の社会と倭の社会が繋がっている。」ですね。
つまり、
「瀆廬國では弁韓人と辰韓人に倭人も混在して共存していた社会である。」

以上が正しいなら、
「弁辰與辰韓雜居、亦有城郭、衣服居處與辰韓同、言語法俗相似、祠祭鬼神有異」だから、
弁辰倭の言語は相似でしょうね?
368プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/30(金) 23:08:58
>>360

>(B)「使譯所通三十國」倭人伝
特に「使譯」をメインに。


ここは簡単に

よく、巷の翻訳本に「使譯」=通訳としている本を見かけるけれど
これって典型的なトンデモ解釈ね

言葉の違う異国間の交易に、通訳を挟むなんて当たり前の話
それをワザワザ文字に落とす事などしないし
その証拠に

通訳を担当する使者は「使譯」じゃなく「譯使」だから

「使譯」の譯=和語訓(わけ)
つまり
「使譯」=つかい説明する


因みに
「重譯」=何度も(繰り返し)説明する


これでいいですか?
369プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/30(金) 23:11:18
>>367

>「瀆廬國で弁辰の社会と倭の社会が繋がっている。」ですね


違います。

370プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/11/30(金) 23:31:12
>>365大和さん


漢字しか書いていない書だから
仕方なく漢字を覚えてるだけですよ


>プリンセス天功

『水色の手紙』を歌っていた当時の“あべ静江”が好き
当時、子供心にも「綺麗」と感じ、今でも目の裏に当時の彼女が焼き付いています
371日本@名無史さん:2007/12/01(土) 08:00:34
>>370 プラムさん。
>仕方なく漢字を覚えてるだけですよ

普通は幹の部分で意が通じればそれでOK、それを枝葉の部分まで拡げて理解されようと
するその姿勢がたまらんのです。額の汗に一票です。
372371:2007/12/01(土) 08:23:10
は大和です。失礼しました。
373プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/01(土) 11:57:50
>>371大和さん

>額の汗


これが意外な事に、額に汗は最初の二三文字だけ
考察のコツさえ掴めば後は「案ずるより産むが易し」です。
374大和:2007/12/01(土) 16:27:55
>373 プラムさん。
>額に汗は最初の二三文字だけ

プラムさんは既に、長年の研究により独自の倭人伝の世界観を構築されておられるように
捉えております。プラムさんおっしゃる行間を読む春秋の説法や陳寿の説法は存在すると
思いますが、されどそれは「額に汗」して初めて理解できるものであり、またそのように努め
てこられたと推察いたしております。

ご自身は正道を極め、間道に分け入る痛快さを楽しんでおられるように見受けますが、願
わくばこれから古代史を歩こうとする団塊世代1年生の澪として、正道を行く人の足元を
照らし、額の汗一滴を道標としてご提供いただければ喜ばしいかぎりです。但し、いずれ
の道が正道かは解なしです手前勝手ご容赦を_大和。

でこんなことばかり書いておりますと、スレ主さんより退去!!を命じられかねませんのでスレ
板に沿って、あまり取り上げられることのない序文文末の七文字。

蛮夷伝序文末文に「四夷の変に備える」というのがあります。「故但舉漢末魏初以來、以備
四夷之變云」(alex氏HPより)。考えようによっては倭人伝記述は、東夷の変(この場合倭
国)に際し、倭国への侵攻作戦敢行の道標になりえる。

このような軍事行動も想定しえる行程記述の上からも、半島経由はそぐわないと考えられ
ます。もっとも「四夷の変」の変がどういう状態なのか定かでない。単なる体制内の政局
の変化なのか、体制の転覆を謀る革命行動なのか、正始八年条に見る狗奴国との相争う
様は序文に見る「四夷の変」を想像するに難くないように思うがいかがでしょうか。
375美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/01(土) 16:47:47
漢文はやっぱ難しいね

漢文って呼んでるけど、表意文字としての漢「字」の羅列でしかなく、文法や書かれた字や並び方をどう解釈するかは書いた人しかわからないのが漢文らしいよ

例えば日本語は
「これはペンです」→是単筆呼升

北京語や英語は
「ジス、イズ、ア、ペン」→これ、です、1つの、ペン→是呼升単筆

文法により漢字の並び方が全数違うしさ

漢文は字の意味から解釈する文字でしかないみたいだよ
376プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/01(土) 18:25:57
>>375

そう
先ずは漢字の意味を把握し、それが完璧になされ
それから文法ですよ


私の経験上
文法にコダワリを持っている人ほど、翻訳目茶苦茶
受験漢文感覚で古代漢文扱いますから


@漢籍を見る

A漢和辞典にて漢字を調べる

B漢和辞典記載の意味を国語辞典にて調べる

C和語を把握する


一文字でも疎かにしたら
古代漢文の内容は把握出来ません。
377プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/01(土) 18:43:29
>>374大和さん


先ずは
見えるものだけ一心不乱に追い掛けるだけです。
そして
いっさいの主観を省く事が出来なければ
古代史なんて止める可きですよ。
中途半端に主観を織り交ぜて考察した所で、行き着く先は『永遠のトンデモ説』 ですから



ま、ミィーハー意見交換が目的なら、その限りではありませんが……
378プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/01(土) 19:03:21
『古代漢文解読』

《今日も雨》
と、翻訳出来たら
この文の意味解釈は

今日の天気は雨である事は勿論だが、「前日も雨」である事が分かります。



《東南》
この東南に対する意味解釈は、
「北西に東南とした起点が存在する」

この様に解釈する
癖を付ける事です。
379大和:2007/12/01(土) 20:20:36
>>377-378 プラムさん。

ご教示有り難うございました。こころしておきます。
380阿蘇山は移動した:2007/12/01(土) 20:32:54
あープラムさんは、倭人伝の里数と日数表示が同じだと解釈してるのね。
やはり、レベル高いですね。ここは、レベルの低い人ようですから。
参考までに、隋書の引用しておきます。
夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。

漢籍の書棚より。
381美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/01(土) 20:53:46
>>378
おおー
そかあー。なるほど
意味はすげー解る
382プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/01(土) 21:38:13
>>380

何故後世の史書を参考にするの?
倭人伝は取り敢えず3Cの作品だよ

晋時に読む人は、隋書が出るまで待たないと意味分からない謎の書物なの?


383日本@名無史さん:2007/12/01(土) 21:45:26
>>375
>「ジス、イズ、ア、ペン」→これ、です、1つの、ペン→是呼升単筆

バカじゃないの?
384プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/01(土) 21:55:30
>>380

それより、貴方の引用した

>夷人不知里數但計以日

この内容把握してますか?
引用文提示するくらいだから「無知」と「不知」の違いぐらいは把握してますよね?
385美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/01(土) 21:57:54
>>383
北京語しらんもんw
文法は英語と同じなんじゃないの?
386プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/01(土) 22:29:24
プラムからの問題


『夷人不知里數但計以日』

この文を正しく解釈出来る人はチャレンジしてください。
漢字一文字の威力が理解出来る文ですよ
387美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/01(土) 22:41:14
http://www.google.co.jp/gwt/n?u=http%3A%2F%2Fwww.pleiades15.net%2Fhistory%2Fasuka.html&hl=ja&q=%E5%AE%B6%E7%B4%8B+%E6%9C%A8%E7%93%9C+%E9%98%BF%E8%98%87&source=m&output=chtml&site=web
http://www.cosmos.ne.jp/~aika/JCSAhome/kyomi.html
http://www8.tok2.com/ii/i.cgi?U=home%2Fpengzi%2Fsuzhou%2Fetc04.htm
http://homepage2.nifty.com/Gat_Tin/fangyin.htm


やっぱ中国語は良く解らんよ
これ言葉や文字や統一されてないからだと思うよ
「中国」として統一されたのがまだ60年前の事だからでしょ?
漢、秦、随、唐、明、元、、、これらが同じ民族で同じ言葉とは限らないよ
今は毛沢東が普通語ってのを作って、教育したから、共通語で北京と上海と南京の人達が話せたりするみたいだけど、地元で使う言葉はそれぞれ違うらしいよ

388プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/01(土) 22:47:03
>>387

>やっぱ中国語は良く解らんよ

大丈夫
当の中国人が倭人伝(古代漢文)理解出来ない様だから

日本人が『記・紀』読めないのと一緒
389美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/01(土) 23:29:05
>>388
だよねえ?
そもそも今の中国人も朝鮮人も、漢字作った古代の漢人じゃないもん


よく「昔の中国では」なんて言い方するけど、あれって魏志や唐史に「中国を納め」みたいな「中国」って記述があるんですか?

だとしたらその中国は今ある中国って国家の事じゃ無いと思うよ

大陸の事を「中国」って呼ぶようになったのは戦後以降の事でしかないもん
390日本@名無史さん:2007/12/01(土) 23:33:29

中華同文

中国では時代的地域的に共通するものは漢字のみ。
391日本@名無史さん:2007/12/01(土) 23:55:32
>>390
中華って言葉も60年前頃に出来た言葉だよ

「中華思想」を掲げて清皇帝を退位させたのが蒋介石で、後に蒋介石を倒した毛沢東が受け継いだ思想

中華思想の発祥は清国に対抗したエン・セイガイって人が掲げて、孫文、蒋介石、毛沢東らに中華帝国の理想の根元になってるんだよ
中華統一
ちなみに華ってのは古代にあった夏国の意味で、この大陸は夏国から続く中華の統一国家だって思想だよ

392日本@名無史さん:2007/12/02(日) 00:09:56
日本では敗戦後の1946年に中国政府からの要請を丸呑みする形で


「今後は支那と言う表記を理屈無しで一切使用しないように」
って日本政府が正式に、国内のメディアから公人や教育者らに通達し
大陸の事を「中国」と言う呼称で呼ぶようになったんだよ

もうちょい詳しく言えば、戦中前後の日本では、中国ってのは支那の蒋介石の中華民国の事を差す言葉で、
毛沢東の中華人民共和国の方は蒋介石の中国と区別して中共って呼んでたよ

日本は中国政府に言われるままに中国って呼び名に変えたけど、他国は今でも「CHINA(支那)」って呼んでるよ
393プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/02(日) 00:10:39
>大陸の事を「中国」って呼ぶようになったのは戦後以降の事でしかないもん


すごーい
なかなかセンスいいじゃん
そうだよ 何処の場所でも中心的な範囲を中国と言うからね

たまたま世界中が自分の領土と思い違いしていた帝国が
自分の領土を世界のなかの中国と自称し、それが一般化されただけだから
394日本@名無史さん:2007/12/02(日) 00:20:24
だから俺的には「昔の中国では」って言い方が凄い気になる


例えば馬鹿の語源の
「昔、中国の皇帝が鹿を連れて来て馬だと言いました」
この話が1946年以前から言われてる話なら、この中国って今の中国の事じゃないよ

中国って言葉は紀記では
「中つ国原。納めてた地域。天下」
とかそういう意味だからこの皇帝は日本の天皇の事だよ
395日本@名無史さん:2007/12/02(日) 00:24:11

「中華同文」はシナ人の認識。

シナ人の間で歴史的地域的に共通するものは漢字のみと言う認識。
「中華」が、現代、六十年前、千年前、三千年前の何時に発明された言葉かとは関係ない。
396美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/02(日) 00:38:00
>>395
それシナ人に限定しなくてもアジアの仏教圏での事でしょ?
漢字は大乗仏教徒によって普及してるよ
キリスト教宣教師によってローマ字が普及したようにさ


それを「中華」とは呼ばないよ
397日本@名無史さん:2007/12/02(日) 00:47:35

「同文中華」ではないよ。
398阿蘇山は移動した:2007/12/02(日) 20:41:39
はいはい、ここはレベルの低い人のあつまりです。高い人は、どんとこい
行ってください。あげあしどりなどしてる人は、他へ。
レスは、こたえをかいてからください。
399日本@名無史さん:2007/12/03(月) 00:46:41
日本の中国地方の中国のいわれは?
400サガミハラハラ:2007/12/03(月) 09:33:44
九州と近畿の中間にある国々だからです。
401日本@名無史さん:2007/12/03(月) 10:48:08
>>400
四国も近畿と九州の間だし、近畿も中国と中部の間。あんたの考えは何時もどこか間が抜けてるなっw
402サガミハラハラ:2007/12/03(月) 12:12:20
>>401確かに四国も中間にありますが、問題は使用する側の便宜性にあります。
中間といってもこれは近畿と九州の交通ということを頭にいれてみると、
陸では山陽道を使うことになります。
ですから、四国はさして重要でなかったので省かれたのです。
そういうと、あなたは、「では山陰道はどうなるのか。」というのでしょうが、こういうことは、
こういうことは自然に生じたものであって、同じようなことに全てあてはめてというわけではないのです。
近畿と関東の中間の東海道は中国といわないのです。

ところで、私の考えは何時もどこか間が抜けているということですが、今後の参考にいたしたいと思いますので、
具体的にご指摘をお願いいたします。
403日本@名無史さん:2007/12/03(月) 12:25:09
ぐぐったりうぃきったりすりゃ直ぐに判ることを・・・・
404日本@名無史さん:2007/12/03(月) 12:29:36
なぜ近畿と九州を対象に中間という具体性が欠落していたり、毎回の様にプラムさんがアナタの短里説に詰めがなく、具体性を見いだせない。と、指摘しているでしょう。
405サガミハラハラ:2007/12/03(月) 13:11:10
近畿には朝廷があり、九州には大宰府があり遠の朝廷(だったか?)といわれており、
九州は特別であったわけです。
短里説の詰めは福永晋三氏の周里1里67・5m説です。
具体例は魏志倭人伝です。
406日本@名無史さん:2007/12/03(月) 13:42:08
>>405
そうなると大和朝廷と太宰府が確立された後、中国というものが成り立つわけですか。
その時期はいつ頃になるのでしょうか。それは延喜式の前ですか。

それから、短里は福永氏が発明され魏王朝にプレゼントしたのですか。
当時魏王朝では一里四百米ぐらいと記憶していますが、それは誤りなんですね。
407日本@名無史さん:2007/12/03(月) 13:58:41
>>405

>一里は周里67.5米

アナタの根拠は周里という事ですが、周時代に長さ里の単位ありましたか。
仮にあったとして、当時の尺は現代の何センチなのでしょうか
408サガミハラハラ:2007/12/03(月) 14:26:05
自然発生的なもので法令で規定されたものではないとおもいます。
倭人伝は陳寿成る人物が晋の図書館にあった資料をもとに倭人伝をかいたものですが、その中に
周尺で記録された倭国までの行路記事があったわけです。
陳寿はそれが周尺であらわされたものとは知らずにそのまま倭人伝にとりいれたのです。

ちょっと近くに資料がないのではっきりはいえませんが、角川の中漢和辞典の付録に各時代の尺度がのっておりますのでそちらをみたほうが、確実であると思います。
409日本@名無史さん:2007/12/03(月) 15:00:21
>>408
なんですか自然発生的とか、陳寿は知らずにとか。
周里は土の中から湧いてきたとか、はたまた氷が溶けると周尺が現れそれを利用した。
凄いですサガミハラハラさんの説は、既に人知を超越しています。
これでは陳寿も知らなかったし、間違えるでしょう。
アナタの説は凄い
著書は勿論王道たま出版ですよね
410日本@名無史さん:2007/12/03(月) 16:13:07
逃亡しました。
411サガミハラハラ:2007/12/03(月) 17:54:55
逃亡しました。って私のことですか、まあ面倒だからそういうことにしましょう。
412阿蘇山は移動した:2007/12/03(月) 20:42:13
ハラハラさん周の時代の距離の本が全ページインタネでみれますよ。
某所ご参照ください。
413プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/03(月) 21:17:36
いや〜私も今、レスの流れや内容拝見しましたが

誰が見たって>>408のレスはひどすぎますよ
414サガミハラハラ:2007/12/03(月) 22:25:35
逃亡常習者にそのようなことを言われるとはね。
415サガミハラハラ:2007/12/03(月) 22:28:45
>>414
は私ではありません。私は逃げてもういません!!
416イバラキプラプラ:2007/12/03(月) 22:45:17
サガミさん
わずか3分後にレスとは!
逃げずに常時監視されていたのですね
(逃亡)なんて言って悪かったね
417プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/03(月) 22:53:36
>>416

もう12月
茨城県民アピール強化月間は、11月13日で終わりましたよ(TDL)もね
418阿蘇山は移動した:2007/12/04(火) 20:31:14
ハラハラさん 逃げないでここのオーナーしない?あげるよ。仕事が
忙しくなってきた。毎日のぞけなくなった。どうするかな?
419日本@名無史さん:2007/12/04(火) 23:22:17
こんなくそスレさっさとたため。
420阿蘇山は移動した:2007/12/05(水) 20:36:32
そうですね。いいこと言う人いますね。
421阿蘇山は移動した:2007/12/11(火) 21:30:46
もっと下行け。ハラハラさん使わない?
422ローガン:2007/12/13(木) 23:47:01
サガミ先生宜しくお願いします
423日本@名無史さん:2007/12/24(月) 09:51:25
なんで同じのが二つあるんだ?
424阿蘇山は移動した:2007/12/24(月) 10:59:07
だからここは、sageてます。あげないようにお願い。
425日本@名無史さん:2007/12/25(火) 11:07:57
乱立させたなら削除依頼するのが筋だろ
426阿蘇山は移動した:2007/12/26(水) 21:12:54
まあまあ、落ち着いて。読めばわかると思いますが、乱立させたわけでは
ないので。まあ、もう、削除してもいいけど。
427サガミハラハラ:2008/01/24(木) 11:05:28
始皇帝が周制の尺を6倍した件について。(邪馬台国とは何だろうか 眞木林太郎 著 アドスリー刊)より抜粋
宮崎市定さんがいう。(『史記』は、秦の始皇帝が水徳にちなんで水の数である六を標準にしたという。))始皇帝は、六の数をたいへん尊びまして、基準をだいた六で統一するというやり方をとっていく)。(たとえば、)(六尺を
一歩にする)。(それから符節)。(やはり六寸にしてしまう。)(それから法冠の長さを六寸にしてしまう。天子の乗る輿は、柄の長さを六尺にしてしまう。さらに、郡県制を敷きますが、六×六の三六郡の制度をとる。このように、すべて六でもって割り切って
しまうというやり方をします。)
車が一回転すれば、18尺、6尺を1歩とすると3歩になる。十進法を採用し、もともと3尺に100倍していたから、回転数を100としうた。これで長里は短里に比べて6倍となり、長里に比べて短里は6分の1になる。)

このばあい、長里とは秦漢代の里であり、短里とは周代の里である。
428日本@名無史さん:2008/01/24(木) 13:29:13
いわゆる魏志倭人伝って
伝言ゲームの答えでしょ。
今となっては問題がなんだったのか解らない。
ましてや今目にできるのは陳寿の次の人の答え。

陳寿の時代にプラムさんとかいたら思い切り突っ込まれてたんじゃないのw

そんなので邪馬台国がどこだとか考えるだけ無駄な気がする。
429サガミハラハラ:2008/01/24(木) 13:38:20
無駄も何も、邪馬台国は佐賀県小城市とわかっていますよ。
430プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/24(木) 14:47:47
>>427サガミさん

で、始皇帝が六を好んだ事と、水の数から採用した事にどんな因果関係があるの?
始皇帝が六を好み、度量衡の「度」に 六を多用し、その他を何故六一新にしなかったの?

変じゃないですか?
431プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/24(木) 15:07:07
>>427サガミさん

いいですか!
倭人伝の“里”が長里であろうが短里であろうが、周里で書かれてようが
そんな事はどうでもいいんですよ

それよりも
何故?倭人伝はその「度」を使用したかの理由です。言うなれば(物証、論証)による裏付けですよ
それが無ければ全て『えに描いた餅』です。
だから小城は何時までも餅状態なんです。
432サガミハラハラ:2008/01/24(木) 18:25:22
>>431それは、当時(箕氏朝鮮?)半島ではその「度」を使用していたから、日常つかっていた「度」を使用して計測し記述したのです。
433プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/24(木) 18:44:21
>>432サガミさん

マジで弘前大卒?

>半島でその「度」を使っていたから


そんな発言したら
また突っ込まれますよ
「半島でそれを使った立証義務」を
434日本@名無史さん:2008/01/25(金) 17:16:26
魏志倭人伝→場所を特定→距離を逆算→それに合う基準を探すって手順だろうから
万が一、本当にそうだとしても実証するのは難しいのでは?
435サガミハラハラ:2008/01/26(土) 09:56:09
>>434総里数だけを計算したらたしかにそのようになります。
しかし、しかし、倭人伝には各国間の里数も記してあります。
よって部分里数も合うなら実証できたことになります。
ためしてみてください。ただし、壱海を渡るという外海については里数は不正確となります。
436日本@名無史さん:2008/01/26(土) 12:31:31
太平洋に真ん中、小笠原辺りに幻の大陸があったんじゃないのか?
437ご参考まで:2008/01/26(土) 13:22:27
サガミハラハラさん、魏晋短里説は知っていましたが周の云々は存じませんでした。
しかし、いずれにしても、各種の里程説は誤りです。陳寿の誇張誇大表現ですから。
証拠をお目にかけます。魏書明帝紀景初二年の詔勅記事であります。
『初、帝議遣宣王討淵、発率四万人。議臣皆以為四万兵多、役費難供。』
『帝曰、四千里征伐、雖云用奇、亦当任力、不当梢計役費』
つまり、洛陽から公孫淵の遼東までの間の里程は四千里と明記されています。
御説の小城説は短里説でないと辻褄が合わぬとお考えの必要はないかと・・・。
もともと、帯方郡から狗邪韓国までを七千里と記した、里程に関しては
そもそも出鱈目誇張誇大の倭人伝の里程記事ですからね。
地図帳であらためてご確認されたし。
ちなみに、昔の学者さんは、正史三国志の完訳本が出版されておらず、為に
倭人伝のみ読んだだけで、魏志倭人伝の解釈をしていたのでしょうね。
東夷伝も読みましょう。魏書も読みましょう、と申し上げたく存じます。
438ご参考まで:2008/01/26(土) 13:26:35
ついでに、私が小城説に賛同し難い理由は、奴國は博多近辺、不弥国は宇見
の近辺と読むのが自然かと考える故です。
このあたりの御説明を改めて賜わりますれば幸甚の次第です。宜しく。
439サガミハラハラ:2008/01/26(土) 13:52:44
倭人伝を素直に読み、素直に東南に陸を進めば、背丈を越えるような芦の密生した松浦川にそって
多久盆地に入ります。そこが伊都国です。更に東南に奴国がありますが、倭人伝に「行」とかいていないので
よらず、東に行くということで東に進み佐賀平野の西の小城市不二町につきます。そこがフミ国です。
フミの港から二十日行くと投馬国です。邪馬台国は、不二町の南に接してあります。小城市甘木です。
440ご参考まで:2008/01/26(土) 14:49:57
有難うございました。
多久も小城も車で通過したことがありますので、地理的には把握できました。
お尋ね申し上げます。
投馬国へは、おっしゃるとおり、やはり二十日間と素直に読むべきでしょうか。
また、当時の交通は殆どが水運で河川利用ということでしょうか。
小城市甘木にも、吉野ヶ里の傍らの河川のような川があるのですか。
という理由は、私は、それこそ素直に倭人伝を読むと致しますならば
邪馬台国は相当大きな集落となりますので、
当時の主たる交通手段もしくは物資運搬手段は、海または海から近い河川沿いに
存したであろうと推論するものだからです。
よろしく御教示くださいませ。
441サガミハラハラ:2008/01/26(土) 16:04:43
小城市街地の西部に晴気川という川がながれており、その袂に
大江という地名があります。今は小さな小川であるが、古代はそこまで入り江(牛津江)が
有明海から入り込んでいたものと考えられます。そこから党馬国へ出向っしたものと考えられます。
元論丸木船に毛のはえたような小型船です。
442日本@名無史さん:2008/01/26(土) 16:16:01
吉野ヶ里の「ヶ里」はモンゴル遊牧民の「ゲル(=家)」に通じ
吉野ヶ里に住んでいた住民がウラル・アルタイ語族だったと
いうことがわかります。
そうすると、邪馬台国は八女にあるアルタイ族の国、つまり、
邪馬台国は佐賀県八女市付近にあったというのが真相だと思い
ます。
443日本@名無史さん:2008/01/26(土) 16:16:49
吉野ヶ里の「ヶ里」はモンゴル遊牧民の「ゲル(=家)」に通じ
吉野ヶ里に住んでいた住民がウラル・アルタイ語族だったと
いうことがわかります。
そうすると、邪馬台国は八女にあるアルタイ族の国、つまり、
邪馬台国は佐賀県八女市付近にあったというのが真相だと思い
ます。
444日本@名無史さん:2008/01/26(土) 20:34:22
主観でものしゃべられてもなア・・・
445日本@名無史さん:2008/01/28(月) 08:45:33
到と至の字が魏志倭人伝の中に使われててその違いについて
って以前どこかで目にしたのがどうしても気になって調べてみた。

まず至、字の成り立ちとしてはこちらが先で矢が真直ぐ進む様子、つまりは
直線であることを表してる。
対して到、これは上記の至に刀がくっついてできた字で刀の動きつまり
至の直線的な動きに対し弧を描く動きを表してる。
との説明があった。(三省堂/漢辞海-第二版)

で倭人伝を見てみると到が使ってあるのは
”狗邪韓國”に乍南乍東したシーンと
”伊都國”に東南陸行五百里のシーン

狗邪韓國の方はなるほどと思える。
伊都國の方も通常言われている前原市付近だとすると
至ではなく到が使ってある意味が理解できる。

逆に言えば他の場所は直線距離でということになる。

で、”自郡至女王國萬二千餘里”これも帯方郡→女王國が直線距離で萬二千餘里ということ。
つまり東や南に行ったり東南に行ったりの合計ではないのではなかろうか?

もっとも、ご参考までさんが>437でおっしゃってるように距離が誇張されている
可能性があるので里数から探すのは難しいかもしれない。
446日本@名無史さん:2008/01/28(月) 10:50:43
447日本@名無史さん:2008/01/29(火) 14:30:41
禹貢地域図序
制図之体有六哉。一曰分率、所以弁廣輪之度也。二曰準望、所以正彼此之体
也。三曰道里、所以定所由之数也。四曰高下、五曰方邪、六曰迂直、此三者各
因地而制宜、所以校夷険之異也。有図象而無分率、則無以審遠近之差。有分率
而無準望、雖得之一隅、必失之於他方。有準望而無道里、則施於山海隔絶之地、
不能以相通。有道里而無高下、方邪、迂直之校、則経路之数必與遠近之実相違、
失準望之正矣、故以此六者参而考之。然遠近之実定於分率、彼此之実定於道里、
度数之実定於高下、方邪、迂直之算。故雖有峻山距海之隔、絶域殊方之迥、登
降詭曲之因、皆可得挙而定者、準望之法既正。則曲直遠近無所因其形也。
448ハガミサラサラ:2008/02/08(金) 00:25:16
>>441
上げた!
449サガミハラハラ:2008/02/11(月) 08:22:36
度量衡について
なぜ陳寿は距離が魏の時代にしては過大であるとおもわなかったのかという疑問があります。
まず当時長里と短里が併用されていたとの説がありますがこれはなりたたないでしょう。
もし併用されていたならば、どこかに長里か短里かの区別がつくような表記があったはずです。
陳寿は実測したわけではなく、なにかの書を見て文をかいたわけであるから、その所の行程記事がそのままで正しいと認識していたことになる。
また、陳寿は漢の時代党の西域記事等を読んでいてその中に万二千余里の語句をみていたであろうから、不思議に思わなかったとおもわれます。
450日本@名無史さん:2008/02/11(月) 12:01:40
例えばですよ。自分が編者になっている書物があって、
うち、自分の専門分野は証拠を集めて正確な記述を心がけた。
しかし、専門外の分野、特に国外の周辺地域の部分は、検証
を加えず、古い文献のまる写しだったことがばれた。
それをことさら騒ぎ立てていちゃもんつけられたら切れるだろう
な。

451ご参考まで:2008/02/11(月) 14:22:55
サガミハラハラさん、449の御疑問は
陳寿が、晋帝室の為に、司馬懿を顕彰するために、誇大誇張表現を行なったと
解すれば、即、氷解するものと存じますが・・・。
それから、晋帝室の図書館史料を基に陳寿が記したという点でありますが、
陳寿を拾い上げ引き立てた「張華」なる人物(朝鮮半島開拓長官)から、相当に詳しく
地理知識の伝授は受けたはずとして、自然で当然ですね。
御説の小城説について自分なりに検討中でありますが、
近傍の吉野ヶ里が急速に衰退しているという事から見れば、面白い説と存じ上げます。
452ご参考まで:2008/02/11(月) 14:39:37
サガミハラさん、小城説に対する私の疑問は、狗奴國との位置関係なのです。
つまり、狗奴國と戦っていたということからすれば、当時の武器が鉄の鏃ということからして
矢の鏃が、その戦線においては、相当数出土していいはずですよね。
また、地形的に平野部に連たんしていた、とは考え難いですよね。
そうすると、例えば「筑肥山地」みたいな、境を成す地勢が要りますね。
また、筑後川についてですが、筑後川を挟んで対峙していたとは考え難い。
理由は筑後川北岸は、当時は相当な湿地帯ですよ。筑肥山地を挟んで両国は戦っていたとすれば
筑肥山地(農耕地僅少)から出土する鉄器の相当数が、裏付けになるのではと
私は考えている次第でありますが・・・。
453日本@名無史さん:2008/02/11(月) 14:44:33
熊本と鹿児島の鉄器保有は異常な量。
つまり畿内に鉄器が行き届き追い越せるまでは手が出せる場所では
なかった。つまり熊襲征伐まではね。
454ご参考まで:2008/02/11(月) 16:12:05
三世紀に鹿児島とは初耳ですなあ・・・。
鹿児島はごくごく僅少ですよ。
『弥生時代鉄器総覧』広島大学考古学研究室の資料を御覧下さいね。
寺沢薫氏の『王権誕生』(講談社)にも載っていますよ。
是非とも、ちゃんと、きちんと、御覧あれかし。
折角の「学問版」のスレなんですからね。勿体無いですよ。
455ひっと:2008/02/12(火) 11:04:49
ご参考までさんは、倭国王が東遷して畿内を拠点に変えたとお考えなのでしょうか?
邪馬台国九州説の最も核となるものをお聞きしたいのですが。
456日本@名無史さん:2008/02/12(火) 11:58:45
チャンコロのインチキ歴史書なんて、読む必要なし。
日本の古代史が知りたいなら、富士宮下文書を読め。
457サガミハラハラ:2008/02/12(火) 14:00:08
顕彰するための誇大表現としてはどうでしょうか、晋が倭を征服したわけでもないですので。
図書館の半島関係の資料をもちこんだのは張華であるとの具体的なご指摘、調べてみる価値大です。ありがとうございます。

狗奴国との位置関係ですが、鉄器についてはわかりませんが、当時の高地性集落の分布が九州では、福岡県と熊本県の堺に東西にならんでおります。
このことから、この高地性集落は邪馬台国と狗奴国の戦争に由来するものであるとかんがえています。
458ご参考まで:2008/02/12(火) 15:32:28
ひっとさんへ返信。私は、結論から申し上げますと
九州の邪馬台国は滅び、畿内の勢力が西進して、九州を制圧し大和政権となった
と考えております。その理由の一つは、まずは鉄器です。既に明らかなとおり、
弥生時代の鉄鏃の出土数は、奥野正男著『鉄の古代史』に拠ると、福岡・熊本・大分が
圧倒的に多く、近畿は極ごく僅少である事実です。
ところが、四世紀から五世紀になると、近畿が九州北部を逆転する出土数となります。
この場合の鉄器は鉄鏃ではなく、鉄の甲冑です。
ということは、三世紀後半から四世紀前半に、倭では大きな変動が存したとなります。
その理由を追い求めるに当たり、私は、要するに近畿の経済力が北部九州を凌駕した故
と考えております。その理由は、はたして・・・となるのですが、そのひとつとして
たとえば、昨今の大型台風が連続して北部九州を襲えば、翌年の種籾にも窮したことでしょう。
なんなく、いとも簡単に九州邪馬台国は衰亡します。
まして、四世紀初頭は晋は衰弱し高句麗が強大となり、多数の渡来人がまとまって来着した時期です。
邪馬台国が疲弊していれば、渡来人は喰える所を目指します。大和は益々力を蓄えますね。
私は、東遷説は採りません。尤も、鉄器を保持している九州邪馬台国の流亡の民ならば、
大和の勢力が渡来人を優遇した以上に喜んで迎え入れた、と思いますよ。
459ご参考まで:2008/02/12(火) 15:45:40
サガミハラさんへ返信。
晋が倭を征服した訳では無論ありませんが、倭(邪馬台国諸国)は魏・晋の属国となったことは確かでしょう。
倭王が帯方郡に泣きついて、張政らが軍事顧問団として派遣され、難升米らは告諭されていますからね。
また、難升米が賜わった官位の率善中郎将とは、征服した蛮夷を監督する役職ですよ。
それよりも、顕彰については歴然たる証拠が存在します。
それは、司馬懿並びに司馬懿の子や孫を一貫して○○王と尊称して記している事実です。
これは、蜀書においても呉書においても同様です。
そもそも、正史三国志は、晋の魏からの政権簒奪を魏から禅譲されて当然だった、
ということを書くために、いや書かせるために、編纂されたという事においては
サガミさんも御異論は無い、と存じ上げるものですが・・・。
460日本@名無史さん:2008/02/12(火) 15:58:25
白村江の戦い以前にも非常に頻繁に半島へ軍事介入を行った形跡があります。
それによる九州王朝の疲弊の可能性もあります。
白村江の大敗がとどめになったかもしれません。
461ご参考まで:2008/02/12(火) 15:59:36
サガミハラさんへ追伸。
当時の高地性集落の分布が福岡県と熊本県の境に東西に並んでいる
ということを御教示賜わり、有難うございます。
両県の境となれば筑肥山地になりますね。筑肥山地は、高い山々が連なってはおりませんが
厚い山塊ではあります。一度、八女から県道で熊本県に入りましたところ、大変な悪路にて
難渋した記憶があります。
ところで、奥野正男氏は、農耕地僅少のこの地において近年夥しい鉄鏃が出土することは
注目に値する、と述べられています。よって、狗奴國と邪馬台国の境を、この筑肥山地では
と推測する次第である訳なのです。
御説の小城説には不都合なことであるのかもしれませんが・・・。
尤も、小城の邪馬台国の支配領域は、筑肥山地の北側まで及んでいたと反論されると、
私も別な反論を用意しなくてはならなくなりますけど。
462日本@名無史さん:2008/02/12(火) 21:40:47
しかし、いまだ邪馬台国九州説を唱える人がわいてくるというのが不思議です。
もはや、畿内のどこにあったかを論じたほうが、より建設的なスレになるのでは
ないでしょうか?
463サガミハラハラ:2008/02/12(火) 21:54:30
邪馬台国の領域がどの範囲であるかについてですが、西の方ははっきりしています。
佐賀平野の西、小城市と多久市の境界がそれにあたります。東は遺跡の分布からみて鳥栖市のあたりではないかと考えられます。
ただしこれは邪馬台国の直接統治域です。邪馬台国は盟主とも言える立場でほかの国々も統括しておりますので、勢力圏の境界は福岡県と熊本県の県境となります。しかし、
この地域は両国の力関係により時々境がうごいたようです。
両県にヤマトという地名があるところから。
邪馬台国の戸7万戸というのは女王の治下のあるほかの諸国もあわせての人口かとおもわれます。
464日本@名無史さん:2008/02/12(火) 22:29:06
それは、魏志倭人伝が書かれる以前の話。
卑弥呼の時代の邪馬台国は、すでに畿内に移っていたのだと
考えたほうが、辻褄が合います。
465日本@名無史さん:2008/02/12(火) 22:52:51
つまりそれは大和民族大移動ってやつですね。
466日本@名無史さん:2008/02/12(火) 23:12:15
それって九州民族大移動ってことじゃないの。
467日本@名無史さん:2008/02/13(水) 00:13:49
三国史記の新羅本記には、倭人が攻めてきた事が書かれている。
古い時代のことなので事実かどうか疑わしいところもあるが、たとえば、

西暦73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを
防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
西暦121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。

全く根拠のないこととも思えないので、ある程度信じるとして、この倭人と
いうのはいったいどこの人間か。
時代からして、間違いなく九州の人間だと思う。

では、朝鮮半島を攻めるような人々が、瀬戸内海沿岸を攻めることはなかったの
だろうか?これも十分ありうる話だと思う。
かなり頻繁に攻めていたから、防御のために高地性集落が出来たと思う。
468日本@名無史さん:2008/02/13(水) 01:33:41
>>458-459 >>461 >>463
海〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜〜〜〜〜一大國┃◎┃壱岐〜方可三百里〜〜〜┏━━━┓ │
海〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┃ │
海〜〜〜〜〜〜〜千餘里↓〜┏━━┓〜〜┏━┛∵∵∵∵∵┃ │
現長崎佐賀県境┐┏━┓↓┏┛∵∵┗━━┛∵∵∵∵∵∵∵┃ │
海〜〜〜〜┏━┿┛∵┗━┛∵∵∵∵◇博多∵∵∵∵∵∵∵┗ 使譯所通三十國
海〜〜〜〜┃∵│末盧國◎→→┐∵∵∵∵∵∵∵倭∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜┗┓└┐∵∵五百里↓∵百里∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜┗┓└┐∵伊都國◎┬→→●不彌國∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜┗┓└──┐百里│┏┓├┐∵∵∵∵∵∵∵∵ │ ●印:女王國構成国
海〜〜狗奴國領域┗━┓∵│奴國●┃┃●●邪馬壹国 7万餘戸 │伊都國:肥前国庁跡周辺
海〜〜〜〜〜〜〜┏┓┃∵│┏━━┛┃投∵∵ (女王之所都)∵ │
海〜〜〜〜〜〜┏┛┃┃∵│┃〜〜〜┃馬 五万餘戸 ∵∵∵∵ ↓
海〜〜〜〜〜〜┃倭┃┗┓└┻┓〜〜┃國∵┌─────── ┿現福岡熊本県境ライン
海〜〜〜〜〜〜┗┓┃〜┃∵∵┃〜〜┃┌─┘∵∵∵∵∵∵∵ ↑
海〜〜〜〜〜〜〜┃┗┓┃┏━┛〜〜┠┘∵◎狗奴國∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜┏┛∵┗┛┗━┓〜〜┗┓∵10〜15万戸?∵∵ 狗奴國領域
海〜〜〜〜〜〜┗━━━━┓∵┗┓〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┃〜〜┃∵∵◇熊本∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┏┛〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━┛〜〜〜┃∵∵∵∵倭∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜┃∵┗━━━┓┏━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
《 女王國構成国 》
邪馬壹国:久留米・八女・筑後・みやま  不彌國:上峰・みやき・神崎
投馬國:大川・柳川・大木  奴國:佐賀市
469日本@名無史さん:2008/02/13(水) 02:12:23
熊本県といっても広いからねえ。
玉名市の付近から古いものがたくさん出るので、玉名市の付近は古くから栄えて
いた地域だろう。この玉名市から菊池川を遡ると、山鹿・菊池に出る。
よく狗奴国に比定されるところで、装飾古墳がたくさんあるし、江田船山古墳も
ある。方保田東原遺跡やうてな遺跡など大規模な環濠集落もある。

有明海をもう少し南下すると、白川の河口に着く。ここを遡ると熊本市。
もっとずっと遡ると阿蘇に到着する。
阿蘇では製鉄の行われていた可能性も指摘される。

有明海をもう少し南下すると緑川の河口に着く。500の古墳が集中する
塚原古墳群があり、女王の眠る古墳、向野田古墳などもあり、前方後円墳も多い。

有明海を更に南下すると、球磨川の河口である八代市に着く。この川を遡ると
人吉市や旧免田町のある球磨盆地につく。

なお、大分県の日田市を押す人がここであまり見られないのは意外な気がする。
小迫辻原遺跡なんかは注目すべき遺跡だし、かなり貴重な遺物も出土している。
470日本@名無史さん:2008/02/13(水) 05:30:50

大和民族 対 朝鮮民族 
471ひっと:2008/02/13(水) 10:25:37
>>458
ご参考までさん、返信ありがとうございました。
大和が西進したという文献等はあるのでしょうか?
考古学の観点から当時九州は先進的な場所であったということは解ってもだからといって、
邪馬台国が九州だということにはならないと思いますが。

晋国の衰弱により、邪馬台国の運命も尽きたことは創造できます。当然倭国内は
混乱し、権力争いが勃発したことでしょう。そして、倭国を統一したのが仁徳である
と考えた場合非常に辻褄が合うのですがいかがでしょうか。この場合普通に考えれば
邪馬台国は畿内にあったと考えるのが合理性があると思われます。但し、当時の倭国
(倭人の国)は連合王国のため邪馬台国自体は九州にあったかもしれないし中国地方に
あったかもしれません。しかし、邪馬台国が倭国の中心地であったならばやはり畿内のどこか
ではないでしょうか。


472ひっと:2008/02/14(木) 16:57:39
邪馬台国連合の瓦解は313年以降で、ここから河内王朝まで約50年。
九州論者の方々が、この空白の半世紀を論理的に組み立てられるならば邪馬台国九州説に
説得力が出てくるのではと思われます。
473サガミハラハラ:2008/02/14(木) 22:00:50
>>472
邪馬台国連合は九州のお話で、河内王朝は近畿のおはなしです。
両者はまったくの別物ですので空白の半世紀を論理的に組み立てれようが組み立てれなかろうが
邪馬台国九州説には全く関係ございません。
474ひっと:2008/02/15(金) 00:08:17
>>473
邪馬台国連合国の中に畿内の国はなかったということですか?
私見では、畿内、中四国、九州の個別の王たちがそれぞれ同盟を組んだり敵対していたり
だという状況ではないかと思っているのですが。
魏志倭人伝の話が九州地方だけの話とはとても思えませんが・・・
倭国(倭人達が住む地域)とは当時、少なくとも近畿地方よりも西にある地に住む人々を当時の中国人
は考えていたはずです。
サガミハラハラさんの意見を逆用して畿内論者に言わせると、邪馬台国も河内王朝もどちらも畿内での
出来事であり九州は全く蚊帳の外ということも成り立ちます。
当時の倭国が西日本であったことをやはり無視するわけにもいかず、その事を念頭に置くと九州論であれ
畿内論であれ、この空白の半世紀はどうしても解明しておきたい事柄だと思いますがいかがでしょうか。
475ご参考まで:2008/02/15(金) 16:44:13
私は、サガミハラ氏を勿論、支持します。ヒットさんには恐縮ですが。
その根拠は、私の場合は鉄器です。鉄器についてのヒットさんのご高説を窺いたいです。
それから、九州邪馬台国の滅亡は313年以前であると考えています。
ところで、「溶けちゃった説」は、ヒットさんは、ご存知ですか。
この説のデタラメさについては、いずれ書きます。
476日本@名無史さん:2008/02/15(金) 20:17:46
いわゆる魏志倭人伝が本邦に伝わったのはいつですか。教えてたもれエロイ人
477日本@名無史さん:2008/02/15(金) 20:26:04
相模腹腹さん、み〜っけ!
こんなところにいたんですねえ〜。
それはインコのピーちゃんのお墓ですよお〜。
そもそも、小城が邪馬台国なら、奴国と投馬国
はどこなんですかあ〜?それぞれ2万戸、5万戸
の大国ですよお〜?
478サガミハラハラ:2008/02/15(金) 23:04:22
勝手に卑弥呼の墓にインコのピーちゃんを埋葬して、ピーちゃんの墓だと呼称しないでください。
奴国は伊都国(多久市南多久町した多久字外廻)の東南6.8kmの佐賀県杵島郡江北町山口集落です。
投馬国は宮崎県と大隅国(薩摩もふくむか?)です。5万戸にじゅうぶんでしょ。
奴国は江北まちから長崎県南部にかけてです。
479日本@名無史さん:2008/02/16(土) 00:21:49
>>472

日向3代 出雲臣 凡河内氏などが互いに自己の正統性を高めようとしていた
時期でしょう。葛城氏 物部氏はその末期に
480日本@名無史さん:2008/02/16(土) 09:34:03
新王朝による圧迫で大陸を追われた旧王朝や地方豪族が
王朝復活を果たそうと移り住んだ負け犬たちの楽園。
それこそが大和の正体。
481ご参考まで:2008/02/16(土) 09:38:52
サガミハラさん、おはようございます。
また、自説の魏志倭人伝誇大誇張表現説についてお話したく存じまして・・・。
邪馬台国の「七万余戸」についてです。
平城京にしたところで、人口は十万人未満と推計されています。
当然に、過大だとはお思いになりませんでしょうか。
482ひっと:2008/02/18(月) 12:52:31
>>475
鉄器の件ですが、私は考古学には疎いので鉄器に関して説明出来る知識を持ち合わせていません。すみません。
ただし、考古学というのは鉄器であれ、土器であれ、墓であれ、人骨であってもこれらは物を扱う学問で、
文字を扱う歴史学とは別物であると考えております。
考古学が扱う「物」に文字が書かれている。あるいは書物に書かれている裏づけとして「物」が出土するなどない
限り歴史学の代用にはならないと思っています。
ご参考までさんの九州に鉄器が多く出土していることが九州に邪馬台国があるのだという主張は、箸墓が卑弥呼の墓
だという主張とあまり変わるものでないように思えます。
「とけちゃった」に関しては、これをまじめに歴史に組み込もうとする学者が本当にいるのかと思わず吹き出して
しまった記憶があります。

邪馬台国連合王国の解体については、少なくとも300年までは連合国は存在していただろうと
考えています。八王の乱によって連合国も解体してしまった可能性はありますが、やはり、西
晋の滅亡により「親魏倭王」の威光がなくなった年(313年)に連合国も解体した年とするのが
妥当ではないでしょうか。
483日本@名無史さん:2008/02/18(月) 18:56:58
ド素人の僕の意見ですが、邪馬台国は巻向で決まりだと思います。

年輪年代法ですでに巻向が3世紀のものだと決定されましたし、高地集落の西日本全域に渡る分布、
魏の年代の鏡の出土が近畿に集中、巻向への各地からの土器の出土。
考古学的に見ればもう決まりでしょ。学者も皆さん畿内説ですしね。

なぜ今だに九州説を言ってる人がいるのでしょう?
魏志倭人伝の記述も伊都国への方位や戸数もでたらめですし
信憑性に欠けますよ。せいぜい邪馬台国が3世紀に日本のどこかにあったことしか
たしかな事実は魏志倭人伝からはわかりませんよ。
484太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/18(月) 19:59:01
>>483
垂仁世と、景行の即位後の初期は、倍暦計計算で3世紀の時代。
従って巻向はは卑弥呼の領域ではなく、垂仁、景行の支配域だから
女王国ではない。記紀に巻向の宮関係はこの二天皇の宮だと記述が
あるから卑弥呼とは関係ない。そこに卑弥呼がいるなら垂仁か景行と
卑弥呼の二王同座となり、君の論はまるで3/3のお雛様のお二方。ww
485日本@名無史さん:2008/02/18(月) 21:21:15
↑なにいってるかさっぱりわからん。
486太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/18(月) 21:31:31
>>485
倍暦計算で、

          崇神崩御 259年
垂仁即位 260年 同崩御 292年
景行即位 293年 同崩御 322年

3/3は桃の節句。w
487日本@名無史さん:2008/02/18(月) 21:36:08
>>483
>考古学的に見ればもう決まりでしょ。学者も皆さん畿内説ですしね。

また出て来た。w
考古学なんて、出雲がいい例だけど、ある日突然いままでの
「お偉い学者様のありがた〜い御説」が反古になる世界。
学者なんて、何の有り難みもない、それでご飯を食べてるって程度の香具師ら。
そもそも、考古学的には『決まり』などと言う事はありえない。
なぜなら、今現在も発掘作業が行われていたり、手つかずの古墳等が存在するように、
考古学が過去の事すべてを把握しているわけではないから。
488太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/18(月) 23:18:05
畿内説の連中って 決まり っていう語をよ〜く定型的に使うなぁ。w
489ひっと:2008/02/18(月) 23:44:05
>>483
>ド素人の僕の意見ですが、邪馬台国は巻向で決まりだと思います。

私はこれには賛成できません。考古学はあくまで考古学です。歴史の探求或いは、
史実の決定にはやはり、「文字」が必要です。「物」が色々出てきてもそれは、当時の
暮らしぶりや、技術の精度などの歴史の副産物にしかなりません。
私が考古学をあまり好まないのは、学者達が考古学を歴史の代用品に置き換えようとすること
、そしてよく言われる「墓」を暴いて中を見せろ。とか乱暴な意見が多いことです。
日本の古墳には「文字」が書かれた遺物が出土することがほとんどありません。考古学的には貴重
な資料が沢山出てくるでしょうが、「文字」がないことには歴史学の代用にはならないのです。
文字に書かれた史実の補てんのための考古学ならいいのですが、物から史実がわかることはいつの時代に
おいてもありえないと考えています。
490日本@名無史さん:2008/02/19(火) 00:45:08
鉄も当時の最大の産地は丹後地域ですよ。海部氏系図がある地域です。
491日本@名無史さん:2008/02/19(火) 02:22:21
>>487
>>489
文献史学でもほとんど畿内説できまりだろ
文献で九州説なんてその辺の新書とかでしかお目にかかれない
492太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/19(火) 07:27:23
>>491
記紀という文献に女王国の独立的記載がないから、朝廷の近隣に女王国がない
ことを物語っている。つまり女王国は朝廷から隔絶した地にあったから朝廷に
女王国の情報の手持ちがなく記載できなかったため。

つまり文献からは朝廷から離れた九州で決まり。
493女王國はどこか?:2008/02/19(火) 09:05:02
>>491
記紀という文献に女王国の独立的記載がないから、朝廷と同時代には女王国がない
ことを物語っている。つまり女王国は朝廷から隔絶した時代にあったから朝廷に
女王国の情報の手持ちがなく記載できなかったため。

つまり文献からは朝廷より古い時代で決まり。


以上の様にも言えるのではないかな?
494河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/19(火) 09:36:28
>>493

あともう一つ

本当に、記載がないのか?
そういう疑問も残ります。
495虹歩命:2008/02/19(火) 10:25:32
記紀をみてもわかるように、同一集団ではかなり隔絶した時代のことでも伝承はのこるものです。
残らない場合は在地集団が全く異なる集団に滅ぼされた場合です。
これを邪馬台国と大和勢力にあてはめて考えると
邪馬台国が大和にあった場合邪馬台国は他の勢力(天皇家の先祖)に征服されたことになります。
邪馬台国が九州にあった場合、九州が他の勢力(天皇家の先祖)に征服されたことになります。
邪馬台国については年代がわかっています。
記紀については編纂の年代8世紀初頭となります。
その差は450年となりますが、記紀の内容からして崇神(4世紀初頭?)の時代まではかくじつといわれることから、
実質50年の違いしかみられないことになります。
となればたかだか50年ぐらいで、音に聞こえたい卑弥呼の邪馬台国が記憶からかききえたことは(征服戦争があったとしても戦争の記憶は残るであろう)、畿内においては
考えられないのではと私はおもいます。
496太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/19(火) 10:25:57
>>493
神武のころより卑弥呼の女王国を古いとすると、天皇の在位期間がえらく狭小
になって不合理が起こる。卑弥呼をアマテラスとする説はスシ詰め天皇在位論
をゴリ押しせねばならなくなり、ここに神武前に女王国を設定する無理がある。

ということは女王国が神武以前に畿内にあったとするのはとても不合理となる。
つまり女王国は畿内にあったのではなく、記紀に情報が入りにくい九州の隔絶に
近い、大陸からでも判明しにくい地理的位置にあったと考えるのが相当である。

>>494
独立した記述はないようです。倭人伝から従属した記述は神功39年等のとおり。
497ひっと:2008/02/19(火) 11:02:25
>>491
記紀は何故邪馬台国のことを無視したのかというのは、実は簡単なことで「書記編纂時
の日本(皇室)が反中国だった。」だけのことです。
本来、中国が邪馬台国の女王を倭王と言っているのだから書記編纂時にこの血統を利用
すれば良かったのです。ところが、邪馬台国が「親魏倭王」の称号を与えてもらっている
ために反中の皇室がここに天皇の血統を置く事ができなかったのです。
日本書紀編纂の目的は、天皇の正統性と反中国のために造られた書物です。もともと何の繋
がりもないそれぞれの倭王に自分たちの(皇室)の都合のいいように血統を繋げてくという
作業をしていた時、邪馬台国には、この「親魏倭王」の称号が皇室にとって邪魔だったのです。
498太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/19(火) 11:07:53
しかしならば、記紀の皇族の奸だとか殺しだとかも皇室にとって邪魔だろうがね?
九州奥地は朝廷にとって別国の遥か彼方だから、そんな邪魔でもあるまいが?
499ひっと:2008/02/19(火) 12:42:27
まず、皇室は日本という国をどの範囲で考えていたか。私見では少なくとも
西日本と考えています。そうでなければわざわざ神代の話から九州という地域
は出てこなかったはずです。邪馬台国が遠方の地九州にあろうが、畿内にあろうが
皇室は親中の邪馬台国を無視しなければ書記編纂理念から外れてしまうと当時は
考えて記述を控えたのでしょう。もちろん、書記編纂から約500年前の出来事の
ために邪馬台国の位置がわからなかったという可能性は十分にありえます。

しかし仮に、邪馬台国と皇室が血統上繋がっていたとしても(ありえませんが。)
親魏倭王の称号があることで記述は出来なかったはずです。

中国の勝手な国内事情によって与えられた親魏倭王の称号は、日本の勝手な国内事情によって邪魔になったということです。
500ひっと:2008/02/19(火) 13:02:02
>>497冒頭 >>491は>>492の誤りでした。
大国さん失礼しました。
501太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/19(火) 14:17:38
>>499 >>500
そんなに女王国のことを書くのがいやでメンツが潰れるとかいうのならば、なぜ
倭人伝の書きこみ(神功39年等)があるのかい? こんな文をも記述はしな
いだろうね?? ということは、倭人伝の記述をしたくなかったということに
はならないはずだ? 親魏倭王がいやなら神功39年等の記載は舎人親王らは
空白とするだろうが?? 如何??
502ひっと:2008/02/19(火) 14:44:21
日本書紀が反中国のために造られた書物であることを念頭にこれを読めば色々な
矛盾点が整理されていきます。
最も有名な記述の一つである推古時代の話も実は反中国のために仕方なく推古天皇
という女帝を立てたのだとわかってきます。
本来ならば、阿毎多利思比孤(聖徳太子か竹田皇子)が天皇でなければならないのに
何故推古という架空の人物を置いたのか。色々諸説はあるにしても最も大きな原因は、
遣隋使を使わしたことです。親中の阿毎多利思比孤(倭王)を天皇に置く事ができず
しかたなく女帝にした。というのが真相でしょう。
このことさえ理解していれば、隋書と日本書紀の記述の違いが何故起こったのか明確に解ります。
503太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/19(火) 14:54:34
>>502
推古が架空という論は相当詳細を入れての根拠、説明が出来てから主張して下さ
いよ。それがないと、あなたが実在を架空と空想したとかしかこちらは捉えてし
まうほかはないです。その阿毎多利思比孤っていうのは九州王朝関係の人で
しょう? ごっちゃにしちゃうと間違いに進行します。
504ひっと:2008/02/19(火) 15:01:42
>>501
日本書紀では邪馬台国を無視しています。倭王卑弥呼を天皇にしていないのですから。
しかし、だからといって魏志倭人伝の記述がなくなるわけでもなく、そこでしかたなく
「中国の史書ではこんなこと言ってますよ」とおざなりに記述したのが神功39年です。
逆にこの記述を神功の時代にあてたということは、神功が架空の人物であったということです。
505太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/19(火) 15:10:56
神功39年等の記述を紀に入れこむということは、遠回しに倭人伝の親魏倭王の
記述と結びつくことを意味しており、あなたの云う舎人親王らが親魏倭王を回避
する無作為たる無記述とは矛盾します。
最後の行ですが、そうなら逆に卑弥呼も架空という論も成立しちゃいますが?
506ひっと:2008/02/19(火) 15:20:45
>>503
推古なる人物は実在したかもしれません。しかし天皇(倭王)ではなかった。
という意味の架空です。
私の勝手な解釈ですが、私は阿毎多利思比孤は聖徳太子だと考えています。
聖徳太子は遣隋使を送ったことにより、書記編纂時に降格させられたのであろう
と解釈しております。これ以上はレス違いになってしまいますので、詳しくは
説明しませんが、日本書紀を取扱う場合には反中国という国内事情が随処に見受けられる
のでこれをこのまま信用するのは十分気を付けなければなりません。
507太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/19(火) 15:26:42
外出なので取り急ぎ失礼。具体的にどんな箇所が反中国的なのですか?
508女王國はどこか?:2008/02/19(火) 15:45:28
>>504
推古が架空であると迄は思わないが、
崇峻舒明間に敢て挿入された天皇であろう。

推古記の記事の殆どは7世紀末の出来事を挿入した様に思われる。
509ひっと:2008/02/19(火) 16:36:12
日本書紀が実在の人物として書いている神武天皇が橿原で即位した年が紀元前
660年となっています。これをこのまま信用する人は少ないと思いますが、
この記述自体が反中国ということです。要は、皇室の歴史というのは始皇帝の
歴史よりもはるかに古いんだと主張しているのです。

日本国(皇室)の歴史は中国文明の影響など受けることなく、しかも大昔から万世一系という
日本独自の文明があるのだと主張している書物が日本書紀だということです。
裏を返せば、中国文明を否定した(反中国)書物が日本書紀だというこです。
そのために、中国が言う倭王が天皇であるということはいいとしても、中国文明と蜜に関わる
事柄は記述しない、或いは皇室とは関係がないことを主張しておかないと独自の文明という前提
が崩れてしまうわけです。
510太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/19(火) 18:16:08
>>509
B.C.660年くらいじゃ中国の古さには勝てんよ。殷とか夏とか、とにかくもっと
もっと中国のが三皇五帝とかでB.C.660年では追いつかないだろう?
だからそれでは反中国としても中国の古さに対抗するためには馬鹿に年数が途中
になって少ないではないかね?w ということはB.C.660年というのは、そういう
ためからだということにはならないと思うべきだろうが?
だからそんな事由で反中国にはならんだろう?
511ヒッキー:2008/02/19(火) 18:35:58
卑弥呼の記述が記紀にないのは万世一系の建前を守るためです。

すなわち卑弥呼=モモソ と崇神との間に王朝が変わっているわけです。

巻向の衰退とその後の三輪王朝の勃興をみればわかることです。
512日本@名無史さん:2008/02/19(火) 18:54:32
倭国”王”として対外的には中国下の柵封体制にあった状態から
何を考えたのか天”皇”と言い切ってしまったのは、中国からの独立というか
対等関係になりたいと考えたのでしょうかね。そのため、中国の影響を
消した史書が必要になってしまったということでしょうか。
513ヒッキー:2008/02/19(火) 19:24:08
現在の考古学的見地から魏志倭人伝に書かれてることが九州限定の部族間同士の争いという
小規模なものではないことは一目瞭然でしょ。邪馬台国が九州だと今だに言ってる人は頭おかしい人だけです。
514ヒッキー:2008/02/19(火) 19:39:14
魏志倭人伝も陳寿が諸所の情報を総合して書いたもので、
彼自身が見たものではないのですよ。なのであんな出鱈目な文章になる。

重要なのは確実に正しいと思われる文章だけです。
方位や距離や戸数と言った細部の信憑性は不確かすぎます。

魏志倭人伝から言えることは日本のどこかに卑弥呼がいたということだけですね。
515日本@名無史さん:2008/02/19(火) 21:46:31
古墳なんてものは、雨が降れば侵食されるし、洪水が起きれば埋まってしまうものです。
もし仮に、仮にですよ、卑弥呼が実在したとしても、墓は残っていない場合もあります。
516ひっと:2008/02/19(火) 22:06:14
>>510
中国皇帝の歴史というのは始皇帝からです。国土の歴史ではなく皇帝の歴史物語は
始皇帝が一番初めです。
反中国という概念は、日本建国時の概念です。いわゆる日本書紀編纂時である7世紀の
話です。紀元前660年から今日に到るまで反中国であったということを書記では言いた
かったのです。

>>511
万世一系を守る理由もあったかもしれませんが、それならば別に卑弥呼を神功や推古みたいに
皇族に組み込めばいいだけのことなので、それが最大の理由ではないと思われます。やはり
親魏倭王の称号が反中の皇室には不都合であったと考えるのが合理的ではないでしょうか。
517虹歩命:2008/02/19(火) 22:09:32
いや3世紀中ごろの古墳が数多くのこっているところからみると、
卑弥呼の墓がのこっていることはかなりの可能性があります。
もっとも雨風以上の威力のあるブルドーザーにかかればひとたまりもありませんが。
518日本@名無史さん:2008/02/19(火) 22:19:52
始皇帝はイスラエル人。
519日本@名無史さん:2008/02/19(火) 22:21:53
猿田彦も鼻が高くて西洋人ではないか?という説もあります。
520虹歩命:2008/02/19(火) 22:32:51
鼻が高いのは縄文人の特徴。猿田彦は国津神ですから縄文系となる。
両方とも縄文人をうらずけていますね。
521日本@名無史さん:2008/02/19(火) 22:49:55
縄文人。(笑)
522太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/19(火) 23:03:26
>>516
三皇五帝のが古いだろ? その皇と帝の両者の文字を合字として
始めて皇帝となったから始皇帝というわけだろ? 二倍に権威を有
するとでもいいたかったのが始皇帝だろ? だから始皇帝より
古ければいいなどど、反中ならば考えるわけもあるまい。反中で
中国史より古くするなら、紀の編者らは殷、夏より古くして神武即位
を決めるはずだよ。
523虹歩命:2008/02/19(火) 23:13:36
縄文人では可笑しいですか?では日本在来種ということで。
524ひっと:2008/02/19(火) 23:31:19
皇帝と天皇は同義語です。皇帝より古い歴史が天皇にはあるのだと書記は主張しているのです。

私は便宜上、「中国」とか「日本」とか言っていますが、史記にしても日本書紀にしてもこれは
国の成り立ちを語っているのでなく、皇帝の正統性、天皇の正統性を語っている書物であるという
ことです。国家という概念は実は非常に新しくフランス革命以後の概念なので、この考えを昔
の歴史書に当てはめて読むというのは間違った解釈をしてしまう可能性が大いにあります。
殷、夏には皇帝は存在していません。だからこれ以前に天皇を当てはめる必要はないのです。
525太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/19(火) 23:39:20
>>524
皇帝は存在はしてないことは始皇帝から皇帝となったのでそれは
肯定できるが、夏、殷当時は民主主義等でないので皇帝にかわる
王がいたことは確かだろ? ソウナラ紀の編者らはそれを乗り越え
たより古い時代的位置に神武即位を置くだろ? それでこそ反中の
可能性が肯定できうるというものだ。

正当だというなら、何故強姦や浮気、皇族同士の殺害等を生臭く
大量に紀に記述したのか? これはスキャンダル(醜聞)ダゾ。
526ひっと:2008/02/20(水) 11:50:48
日本書紀は、日本国の成り立ち、建国の様子と捉えがちですが、これは全く違います。
結果的には国家の成り立ちを書いているように見えますが、これらはすべて天皇の成り立ち
、天皇の様子を書いた物語です。
中国の歴史書も同じで、皇帝の物語を書いた書物です。司馬遷が書いた史記はいわゆる皇帝の
正統性、武帝が皇帝に至る道のりを書いたものです。
当時、国家と言う概念は無いので、国家の歴史というものもありません。だから、書記編纂者
は、夏、殷、周といった国(王の支配範囲)を意識したのではなく、皇帝(個人)を意識して
編纂したものです。

強姦、浮気、殺人は今でこそエログロな話に聞こえますが当時の感覚は今とは違っていたと思います。
まして、これらは正統性(血統の断絶)や反中になにも影響を及ぼしていません。

7世紀何故、日本(皇室)は反中になったのか。これもじつは非常に簡単で、白村江の敗戦が
当時の日本国中に激震が走ったためです。日露戦争によく似ているのですが、朝鮮が取られれば
次は日本だ。と言う感覚は当時もあったはずです。まして当時の日本の世界観は中国、朝鮮、
日本しかありません。中国との架け橋の朝鮮を取られてしまい日本は世界から孤立してしまいます。
そこで、しかたなく鎖国を国是とし中国とは関わっていないよう文字に記したものが日本書紀です。
527太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/20(水) 15:17:40
>>526
皇帝にこだわる根拠があるとは言えない。三皇五帝の単一的皇や帝をくっつけて
より権威ありそうな名前を始皇帝が考え出したというだけで、朝廷が始皇帝より
古ければよしとする考察が中途半端的、適当という考えに固まる舎人一派だと
いうことになり、中国側が始皇帝より以前にうんと皇や帝、あるいは夏、殷にも
王はいたと言い出してB.C.660年はまだ後代だと笑われ、からかわれるのがオチ
であろう。w 反中を、歴史を古くして日本の古きを強引により古代に引っ張り
たいと云うなら、夏や殷より古くせにゃぁ上のように中国側に云われ彼らにナメ
られるくらい舎人らは分かろうというものだ。だから紀の記述方針の大勢は
反中とかでなく、日本のより古代を赤裸々に書き、真が危うくなることで後世に
君のようなことを言い出す奴が出ないように、た〜だ史実を追究し記載したと
いうだけのことだよ。赤裸々だからスキャンダルもうんと書いてるわけで、本当
に反中ならば、まだ反半島だったのほうが考えが容認できる。だいたい中国は
畿内から遥か彼方の遠方であり、関わりあいはそれはあったが、遠いということ
反中なんぞやるより利害も中国側と半島を中に入れて遠方希釈で対立しにくく
なるから、そんなことはよっぽどの恒久性ある相手の誹謗とかが無い限り朝廷は
やるまでもない。つまり君の考えすぎの論だというのが正解。
528日本@名無史さん:2008/02/20(水) 16:36:00
>>520
縄文人、弥生人というのがどうも良くわからない。頭蓋骨が違うといっても
現代でも様々だから。故・渥美清なんかは典型的なモンゴル系で、
速水もこみちとかとは、全く違う骨格をしているが、どちらもほとんど同じ時代に
生きた日本人だろうし。

なんか、渥美清の頭蓋骨を見て、この人は大陸からやってきた人、もこみちの
頭蓋骨を見て、この人は○○出身とか言っているみたいな気がする。

食べ物の影響とかで骨格が変わってくることもあるだろう。
たとえば、江戸末期の日本男子の平均身長は155cmくらいだったらしい。
現代は、170cmくらいかな。でも、別の人種ということはない。

後の考古学者とかが見たら、わずか150年くらいで日本人は、違う人種の人間と
入れ替わってしまったなどというかもしれないが。
529日本@名無史さん:2008/02/20(水) 17:01:28
>>527
横レスで申し訳ないですが
ひっとさんの言うのは日本統一の過程の中で各地の王を支配する為の
王を越え支配する権威(例えば大名と将軍)を模索する中で
中華皇帝と同じ権威(意味)の物として日本の天皇と言う物を作ったと
元々大和朝廷も各地の王と同じ立場なので確かに必要かと
ただその中で歴史を紐解き邪馬台国がした様に中華皇帝に王に封ぜられる者が出て来ると
朝廷の日本支配を根本から揺るがす事になって行くので
支配が確立するまでは反中華と言うのは当然と思います
この板の邪馬台国関係のスレは熱いですね
530ひっと:2008/02/20(水) 17:20:09
日本書紀をすべて史実であると考える人々には私の意見は奇怪に見えるんでしょうね。

たった一つ、「反中」のキーワードを日本書紀にあてはめただけで何故邪馬台国を無視したのか、
何故神功なる架空の物語を作ったのか、何故推古なる架空の女帝を置いたのかなどあっという間
に解るのですが。。。
531日本@名無史さん:2008/02/20(水) 17:29:25
横からのコメントですまないが、
「何故神功なる架空の物語を作ったのか」
について。万葉集813番歌にオキナガタラシヒメが歌われており、
神功またはそのモデルは架空の存在ではないと思える。
532日本@名無史さん:2008/02/20(水) 17:46:17
>>530
僕は素人なんで奇怪なんて思いませんでしたよ
むしろ今まで邪馬台国=大和朝廷で場所はマキムク?って漠然と思ってましたが
この板の皆さんのレス読んで邪馬台国って大和朝廷とは別物?
じゃ場所も別?って思って来ました
理詰めで考えると、その方が整合性が採れてますね
533太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/20(水) 20:52:56
>>529
それじゃぁ、何故その女王国のほうは中国の一、魏に反中をしないんか??
534太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/20(水) 21:02:45
>>530
日本書紀が全部史実だとは言ってないですよ。ただあなたが言うよう
なコトは考えすぎでしょう。だいたい神代たる神武以前は年月日も
殆ど書かれてないですから、伝説の域内でしょう。
535日本@名無史さん:2008/02/20(水) 21:32:58
少なくとも、東夷伝は、後世の批判に耐えうる内容ではなかったと、
珍寿自身も割り切って書いたのではないでしょうか?
要するに、倭人伝なんていうのは別冊付録のおまけのおまけ。
どうでもいいですよ。と思っていたと思われる。
そんなものを真剣に検証してどうするんだよ?
536ひっと:2008/02/20(水) 23:58:49
突っ込み処満載の話を一つ。
3世紀、邪馬台国という国が日本にありました。邪馬台国女王卑弥呼は魏に朝貢しました。当時魏国の実権を握っていたのは
曹爽と司馬懿でした。曹爽の父曹真は大月氏王波調に親魏大月氏の称号を与える大功績を挙げることが出来ました。
司馬懿もなんとか功績を誇示したいと考えていたところにひょっこり卑弥呼の使いが現れました。これはしめたと司馬懿は
邪馬台国に親魏倭王の称号を与え、曹爽とのバランスを図りました。
日本国内のそれぞれの国の王(首長)はこの親魏倭王の威光の基に集まって邪馬台国連合を組織していたのです。ところが
313年楽浪、帯方が滅亡し400年に渡る中国の朝鮮支配に終わりを告げました。この出来事をきっかけに邪馬台国連
合王国は解体してしまいました。朝鮮半島の足がかりを無くし解体した邪馬台国連合は大混乱に陥りました。
大混乱した日本はどうなったでしょう。それぞれの首長達が権力争いをしたでしょうか?実は全く逆で、首長達は、ある王
の元へ終結していきました。その王が支配する国の名は狗奴国といいました。魏志倭人伝から狗奴国は女王国に属さない
国です。日本人の気質というか民族性は、外敵からの脅威に晒された場合、おにぎりのようにギュッと一つにまとまる習性
があります。白村江の敗戦や明治維新の時と似たような感覚です。
ここに、初めて倭国大王が誕生します。初代倭国大王の名を仁徳(実名不肖)といいます。仁徳は倭国大王の象徴として
ピラミッドよりも大きな墓を作り倭国大王の象徴としました。仁徳は再び朝鮮半島への介入をはじめ、ついに369年百斉
との同盟が成立し、百斉王は倭国王に七枝刀という記念品を贈りました。
先に述べた日本人の気質であるおにぎりのように固まる場所というのは、当時の首都に固まります。313当時の首都という
のは邪馬台国です。そして、初代大王の首都は河内です。この2つを重ね合わせると当時の首都は畿内ではなかろうかという
話でした。
九州論者も畿内論者も突っ込み処満載でしたでしょう。
537日本@名無史さん:2008/02/21(木) 00:04:57
少なくとも、東夷伝は、後世の批判に耐えうる内容ではなかったと、
珍寿自身も割り切って書いたのではないでしょうか?
・・・これは妄想・思い込みに近い。
538日本@名無史さん:2008/02/21(木) 00:22:12
>>533
太国さん良く読んで下さい
王として支配地と民な支配を認めてもらう側(邪馬台国等)は
反中華王朝になる訳ないですよね
王の一つ上の権威(皇帝や天皇は本来そう言う存在意義では?)からしたら
大和朝廷が唯一日本の中の王を認められる存在でないと
大和朝廷の日本統一過程で我々は中華王朝に朝貢して王としての支配を認めてもらう!
って国が出てくれば朝廷の支配権確立の大きな障害になるのでは?
実際、邪馬台国も魏に停戦の仲介に入ってもらったりと、その権威を最大限に使ってるんですから
539太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/21(木) 07:59:44
>>536
仁徳が架空だという論者は幾回もいたが、仁徳が初代だというのは彼が始めて
だな。仁徳が初代だと主張してるが、應神の伝承は畿内から遠隔の九州の神社等
にあるのだから、應神を架空のものとするのは考えすぎである。應神以前は記紀
以外では旧事紀もあろうが古史古伝にも仁徳以前の天皇の記述が多々あるんだし、
太安万侶や舎人親王と独立的であるから、資料は少ないものの架空にするのは
甚だしく早計と云える。それでもゴリ押しするとなれば、こういう古文献のほぼ
全て背反するることになり、それで自説があってるとするのは冒険以上の
津田病患者の症状だということになる。應神以前でも孝靈の活動などは詳細に
日野郡誌にも記載があり、こういう氷山の一角的資料があるということは應神
以前の天皇が架空というのはバッサリカットの考えなんだろうが、津田的失敗
の二の舞で滅茶苦茶論になる以外の何物でもない。

>>538
>王の一つ上の権威(皇帝や天皇)
皇帝は始皇帝が恣意的に権威を高めるために自分に考え出した称号だろうし、
天皇は神武が考えたんではなく、ずっと後代の誰かでしょう? だから女王国
時代の畿内朝廷が天皇の称号のもとに大陸と主導権を名でもって争うなどという
考えは早計。朝廷と大陸とは半島を隔てての遠隔だから、大陸側が俺達
のが上だと考えていたことは多分にあったろうが、朝廷はそんな遠い外国の
連中の考えなどは言わせておけくらいで利用できたりしてればいいことで、
大陸の支配なんかは畿内にまでは届きはしないよ。
540ひっと:2008/02/21(木) 11:08:51
>>539
仁徳以前の王がすべて架空だとは言ってないですよ。初代「大王」が仁徳だと言ってるんです。
それ以前の王はそれぞれの国(都市)の首長で、その首長たちを支配下に置いたのが仁徳という
ことです。ちなみに、応神は架空の人物です。書記の中で「神」の名が付けられている天皇は
いずれも架空の人物の疑いが大きいでしょう。

私は、邪馬台国連合解体から倭国統一までの期間はそう離れてはいないと考えています。せいぜい
20年くらいの間までには倭国は統一されていたと思っています。事は外交問題(朝鮮利権)なので
早急に日本国内が一つになって朝鮮半島に立ち向かったのではないでしょうか。
そう考えた場合、連合王国の首都邪馬台国が九州にあったとは考えにくいし、逆に畿内のどこかに
邪馬台国があればスムーズに権力の移行ができたのではと思っています。
541太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/21(木) 14:47:23
>>540
仁徳が初代天皇とか大王だとか、そういう記録はどこに書かれてあるんですか?
これらのあなたの文面では初代だというのは、たかがあなたの恣意的に付加
しだ新代数だという以外ないわけですがね。w それは始皇帝が「始」の皇帝だと
恣意的に言い出したことと似ていて想起をしてしまいますが、始皇帝の場合は
確かに皇帝号では始めてでしょう。でうがあなたの初大王=始大王というのは
ただ支配領域の大小に依っているわけで、それ以外では論拠が何も無いに等しい
結論だというこということです。まるで首都東京のある東京都が北海道より
面積が狭いから札幌とか函館が首都だとか主張しているようなもので、あきれて
しまう論説ですよ。

應神は記紀以外に当時朝廷の支配域でない九州のあちこちの神社等に伝承が多々
あるところを観ると、これらは朝廷とは独立した九州各地の伝承ですから、
そういう地域に創作をしろと朝廷がお達しをやることも遠隔で不可能に近く、
あなたの言い分のとおり應神ころは朝廷の勢力は上述のとおり九州に及んで
いないわけだから、これらの伝承が朝廷に従属での偽伝承ではないわけで、その
地の伝承がうんとあるということは應神が架空の人物ではないことを物語って
おります。そういうところが津田の病的速着的架空即断の考え論であって、こう
いう伝承等ヲ実地に行って調べぬいて根拠等を掲げてからそのとおりならば架空
と結論つけるべきで、津田はそういう点に大なる古代史観で失敗してるものです。

女王国が畿内にあるというならば記紀に独立的にその詳細が載るわけですが、
全くそういう記述がないということは朝廷と女王国双方の影響力ができにくい
状態にあったということを意味しており、両者の地が遠隔であったために女王国
の情報が朝廷側が得られず、記載の対象まで至らなかったという事が真でして、
このことは朝廷からかけ離れた九州に女王国があったという結論にならざるを
得ません。たまたま九州各地を探検した大陸の連中により、その情報が大陸に
届いたまでのことです。
542女王國はどこか?:2008/02/21(木) 15:41:40
>>541 >>540
>應神は記紀以外に当時朝廷の支配域でない九州のあちこちの神社等に伝承が多々
>あるところを観ると、これらは朝廷とは独立した九州各地の伝承ですから、
>そういう地域に創作をしろと朝廷がお達しをやることも遠隔で不可能に近く、
>あなたの言い分のとおり應神ころは朝廷の勢力は上述のとおり九州に及んで
>いないわけだから、これらの伝承が朝廷に従属での偽伝承ではないわけで、その
>地の伝承がうんとあるということは應神が架空の人物ではないことを物語って
>おります。

應神は九州から遠征し、畿内を九州の支配下にした最初の倭弟王(大王)なのです。
仲哀の九州への侵攻支配を食い止めた倭兄王(九州王朝)は、
畿内に應神を地域支配の4番目の弟王として指し向けたのです。

倭兄王:宗教王
倭弟王:世俗王 最大7王(筑紫弟王、肥弟王、出雲弟王、難波弟王、越弟王、尾張弟王、夷弟王)

543女王國はどこか?:2008/02/21(木) 15:55:42
>>542論のベース

倭の二元統治
■倭王以天爲兄以日爲弟天未明時出聽政跏趺座日出便停理務云委我弟(隋書俀國傅)

★倭王(以天爲兄)=宗教王=兄王=天皇=天子=卑弥呼・壹與・卑彌弓呼・伊都國王・倭奴國王・持統
兄王元号:九州年号
★倭王(以日爲弟)=世俗王=弟王=法皇(上宮法皇)=天子=多利思北孤・薩耶摩・磐井・讃・珍・済・興・武・狗古智卑狗・帥升・天智・天武・(応神〜持統歴代天皇)
弟王元号:法興(多利思北孤一代限)

持統及び文武以降は兄王弟王が統合され畿内朝廷天皇となる。
544ひっと:2008/02/21(木) 16:45:50
>>541
宋書に載ている倭王武の手紙です。私見では武の祖父(名前不肖)が仁徳であると考えています。
讃、珍、済そして興、武という5王が書記の系譜履中、反正、允恭そして安康、雄略と一致してきます。
そうすると、倭王讃の父は仁徳となります。
書記で唯一生前に墓を立てたのは仁徳ただ一人、書記で史実らしき物語が初めて出てくるのが仁徳天皇記。
宋書と書記の系譜の一致などをみると仁徳にたどり着きます。
545ひっと:2008/02/21(木) 17:54:17
>>544
書記で史実らしき物語が初めて出てくるのが仁徳天皇記。 は
書記で倭国建国の史実らしき物語が初めて出てくるのが仁徳天皇記。
に訂正です。失礼しました。
546太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/21(木) 18:02:27
>>542
仲哀、應神のころは、このお二方は九州においては仮住まい的であり、一時的の
支配。そこは九州王朝とそこの従属的国の支配でまだ朝廷の支配は弱小的。
雄略あたりでそろそろ全国的支配に近づいてきてるものの、まだまだであり、
九州王朝の滅ぶ文武を過ぎたころからが蝦夷は知らんがほぼ全国支配。

>>544
倭の五王は九州の小国の王であり、朝廷とはそんなに関係はうすい。どんだけ
一致してるか聞きたいところだが、おそらく名目だけで、不一致だろ?
一致するなら具体的にいくつか年代を示して云われたい。
547日本@名無史さん:2008/02/21(木) 20:32:30
いつの世にも他人を支配して自分だけ楽をしたい、自分だけいい生活をしたいと願う輩は
いるものです。そのためには自分だけが選ばれた人間であるということを誇示しなければ
ならないし、歯向かう者には容赦なく切り捨てた。そういう輩が祭り上げたのが卑弥呼の
という女。化けの皮がはがされる前に死んだのか、それとも石を持って追われたのかは
定かではないが良い死に方をしなかったことは事実だろう。
548女王國はどこか?:2008/02/21(木) 20:41:26

>倭の五王は九州の小国の王であり、
倭の五王は半島に出兵できるほどの太国だ。

>仲哀、應神のころは、このお二方は九州においては仮住まい的であり、一時的の支配。
仲哀は筑紫弟王が半島出兵中に畿内から九州に侵攻したのだが、九州勢の夜襲の反撃で殺された。
應神は筑紫弟王(讃珍済の頃)から別れて畿内に反攻した。

>讃、珍、済そして興、武という5王が書記の系譜履中、反正、允恭そして安康、雄略と一致してきます。
讃、珍、済、興、武は、履中、反正、允恭、安康、雄略とは関連性はない。
讃、珍、済、興、武は、筑紫の倭弟王です。
549太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/21(木) 21:08:51
>>548
應神、履中とかその頃は倍暦を行使しており、古代史の通常云われて
いる年数は間違いで真とかけ離れているから、五王との年数の
一致などはまずありえず、合うわけがない。
550太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/22(金) 07:49:32
>>548
倭の五王はおそらけは北九州所在の国だから、飛行機、新幹線もないような時代
では、畿内の朝廷よりは半島出兵は容易である。畿内の兵全員が馬で北九州まで
行けるんならだいぶラクにはなろうがね。畿内から兵が歩いて北九州まで行っ
たのが本来だろう? 各兵が二本足で走って行進して半島の中継地の北九州まで
行ったんではないだろう? この前の東京マラソンを観れば分かるとおり、
42km余でもあんなに疲労困憊になる。これを想えば畿内から北九州までの遠征
だけでも大変な道のりになろうというもの。畿内から半島まで戦いに行くなど
というのは、神功の例等あろうがそんなに滅多やたらとはやるわけがない。国力
の消耗が激しいことになろう? 畿内から半島への戦いはよっぽどのときの例外
なわけ。

半島と利害が出やすいのは北九州のほうで、畿内なんかは半島は外国の外国の
ような遠方で、当時国を固めるほうが遠い半島よりも大事なこと。
倭の五王は天皇にあらず。九州の将軍クラスの小国の王で、ここは畿内からも
当時外国とみなすのが主流的考え。
551ひっと:2008/02/22(金) 10:41:35
>>548
例えば、中国という国を支配した人種を見てみると、満州族しかり、モンゴル族しかり
畿内九州間より険しい道のりや環境であるにもかかわらず、首都(洛陽・北京)を征服
しています。今でも新幹線の整備など皆無に等しい状態ですが各貿易、流通などは行われて
います。
畿内九州間というのは実は非常に流通がしやすく、物資や人の運搬には瀬戸内海という航路
があり、昔からこの航路を通じて行き来することができました。瀬戸内海は波も穏やかで、常に
陸地が見える状態にあるため、簡単な造りの船で大量な物資や人の往来が出来ます。
昔から畿内九州間には密接な繋がりがあり、当時の中国人も日本人も少なくとも西日本を日本(
倭人達が住む国)だと考えていたはずです。
552ひっと:2008/02/22(金) 10:58:01
>>548
天皇(便宜上)と倭王は別人ですか。とてもそうとは思えませんが。
倭王武の手紙には、「東は毛人55国を制し西は衆夷の66国を服し、
(海を)渡りて95国を平らげ・・・」というのはどこの地域でしょう?
武が畿内にいたなら見ただけで簡単に理解できるのですが。
553太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/22(金) 11:18:39
ひっと氏の主張である神武即位を紀元前660年と紀が記載したのは、中国史に
負けないため始皇帝即位より古い時代にしたい反中的なことからだという考えは
非常に早計であり、そうならば夏、殷のいたであろう王より前に神武即位を舎人
らは設定するに違いない。だからそういうことは考えすぎからの間違いであって、
舎人らが紀元前660年に神武即位を位置付けたということは、他のなんらかの事由
があってのことだということになる。一つは創作だということにもなるが、それ
では舎人らの死罪、準死罪とかの冒険であるし発覚は可能性として十分彼らに
分かろうというものであるから、そういう考えも間違いと見てよい。彼らが重罰
を覚悟で、ブルブル震えながら紀を編纂したとは考えにくい。

然らば何ゆえそういう即位の位置付けをやったのか? 真相は大陸半島と日本側と
の当時入手している古文献の年代が相互に著しく合わなかったためなのであり、
それで舎人親王らがその調整で苦しんだのであって、いろいろと検討して次善策
である方法で各年代を合わせて行き、ここから神武即位を前660年とせざるを
得なかったということにある。その大陸半島と日本の年代の大きな違いは何に
よるのか? それは双方の暦法が大きく違っていたためで、前者は通常に暦法
を行使していたが、日本の朝廷は倍暦をやっていたために年代の大幅な断層が
できていたということにあるのだ。
554ひっと:2008/02/22(金) 14:02:22
>>553
司馬遷が言いたいことは、「武帝こそ正統な皇帝である」ただそれだけだす。後は武帝が皇帝に至る
道のりを書いたにすぎません。ところが、東アジアの歴史観というのはヨーロッパの歴史観とは違い、
司馬遷の「正統史観」という概念以外には歴史と言うものを理解することが出来ませんでした。
我々が今もっている国家観、歴史観というのは明治以降の非常に新しい考え方です。
中国の歴史の始まりは、始皇帝からです。国家史、国土史といった概念はありません。日本(皇室)には
皇帝史、正統史である史記よりもはるかに古い天皇史、万世一系史(正統)があるのだと書記は主張しているのです。
555女王國はどこか?:2008/02/22(金) 14:25:57
>>550-551
5世紀の日本では、馬は半島から導入されていても、まだ軍用一般には普及していないよ。
軍の主力は船と徒歩。
特に九州の兵装備は皮甲冑だから主力は船。同じ倭人である畿内も似たり寄ったり。

地形が大陸北部とは違う。南船北馬。
日本では山と湿地平野(沼沢地)が大部分、平原がなく馬は使いものにならない。

>>552
武が九州にいても成り立ちますよ。

毛人55国:長門・周防・豊・日向(景行の遠征地)
衆夷66国:筑紫・肥
海北95国:韓地(百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓)
556太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/22(金) 14:26:51
>>554
えらい中途半端だね。そのくらいで始皇帝より古いくらいじゃぁ、三皇五帝や
夏、殷とかでむこうにせせら笑われるのが関の山。だからそういうことで舎人
親王らが中国に勝とうとすれば、もっともっと古く年代を設定するはずだ。
紀元前660年に神武即位を故意に位置させたんなら、当時の支邦は始皇帝前の
秦のほか、周とか魯、晋、陳、楚、燕、曹、鄭とかの国々があったことになり、
これだけでも支邦には勝てぬ紀の記述だということになる。だから始皇帝に
負けないよう古く前660年に紀の編者らが位置付けても大した効果はないという
ことを意味し、あなたの反中の考えが紀の編纂の大勢的方針とは云えない。

彼らが前660年に位置つけたその真相は、先述のとおり支邦半島と日本との暦法に
大きな相違があったために、双方の年代に大幅なズレができていたということで
あるのだ。だから彼らは困ってしまっていたのであり、その調整の失敗が
紀元前660年即位の記述となったのである。
557日本@名無史さん:2008/02/22(金) 17:51:17
三国志を読んだ人ならわかると思うけれど、
曹操や劉備玄徳の時代にはすでに大型の軍船が使われていて、
赤壁の戦では数十万の軍隊が戦っているわけで、長江を下って
外洋まで乗り出していたことは明白。戦いに敗れて土地を奪われ
た流民が行き着くところは秦の時代からエデンの東、日本だった
わけです。人種の吹き溜まりの国=日本。
558ひっと:2008/02/22(金) 18:10:06
>>555
日中韓の歴史に妥協点を見出す必要はありません。後々の揉め事のもとです。
しかし、一致点は史実として捉えるべきです。特に古代史においては資料も少ないため
2つ以上ある一致点を史実としてみないと、歴史学というものが成立しなくなります。

>>556
何度も言いますが、国の歴史という概念がないのです。皇帝の歴史が現代の我々には結果として
国の歴史のように見えるだけなのです。だから始皇帝の歴史以前には歴史はありません。
本来は国土、国家として夏、殷などの歴史はあるのだけれど、そのことが理解出来るようになったのは
明治以降だということです。
559太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/22(金) 20:39:03
>>558
始皇帝以前にも歴史はあります。現に殷墟が中国にあるでしょう。
歴史がないなどというあなたの考えにおいては、具体的根拠
とか資料を出して云って下さい。歴史を恣意的に消すのはお止め
下され。
始皇帝以前にも大陸にはうんと国があったんですよ。明治以降に
論議されようとなかろうと、あったものはあったわけで、始皇帝より
古く神武即位を設定したと言っても、論戦となればあちらからもっと
こちらが古いと言い出されて笑われると思いますがね。ならば舎人は
やるんだったら夏、殷よりも古くするでしょうが。
560日本@名無史さん:2008/02/22(金) 21:02:45
しかし、遺跡というか大きな構造物を残すことだけが文化ではないと思います。
富の蓄積とともに階級社会ができて、支配者が領民や奴隷を使って巨大な墓
を作らせることが人間にとって進歩といえるのでしょうか?
561ご参考まで:2008/02/23(土) 09:37:52
三国時代以前の中国文明の実際現実の我が国への波及影響にもっと想いを致すべきかと。
前漢武帝の時代に朝鮮を討ち四郡を置いたとき、楼船将軍揚僕をして朝鮮を攻めました。
楼と言う位ですから、漢時においての造船航海技術の進捗を想うべきでありましょう。
軍事に限らず、春秋戦国時代において既に為替相場も有りましたし為替商も居たのです。
四郡の世界に冠たる中国商人は目と鼻の先の倭へ、当時から来訪し、商いの利を得ていたはずです。
貨泉や五株銭などの出土は、そのなによりの証拠です。
そもそも、国と国の国交をもって通商が始まる以前において、経済文化交流は始まるものです。
古代にあっては、人々の交流があって、初めて國の交渉は始まるものなのです。
無論、国は、当時においては、ときの権力と読み替えるべきことは、当然です。
文献において、かくかくしかじか、書いてある・・・ということばかりに、若干皆さんは
目を奪われがちな傾向にありはせぬかという想いにて、拝見仕っております。
562ご参考まで:2008/02/23(土) 09:44:47
経済史観ということでもうひとつ。
皆さんは金利の歴史をご存知でしょうか。
金利は紀元前3000年から存在しております。
倭人に貨幣を教え、ついでに金利を教えたのも、中国商人でありましょう。
記紀も倭人伝も勿論けっこう。
ですが、経済史眼を、もう少し取り入れての御議論を拝見致したく思います。
563日本@名無史さん:2008/02/23(土) 12:14:49
金利の歴史は、人類の歴史と同じくらい古いと言われています。
残存する記録のなかでは、バビロニアのハムラビ法典にもでてきています。
バビロニアが滅亡して土地を追われたユダヤ人が起こした国が秦であると
いうのは俗説かもしれませんが、シルクロード経由で古代ローマやエジプト、
バビロニアとも文化的な交流があったことはほぼ間違えありません。
564ひっと:2008/02/23(土) 23:32:52
話を戻します。
反中国をキーワードに何故、推古なる架空の天皇を仕立てたのか以前簡単に話しました。
この、反中理念を神功に当てはめると、何故三韓征伐という架空の物語を造ったのか何故
神功39年に魏志倭人伝の記述挿入したのか理解できてきます。三韓征伐は7世紀の白村江
の敗戦の悔しさをここで晴らした。という歴史家が多いのですが、確かにそれはそうなのだけど
最も肝心なことは卑弥呼が親中だった(親魏倭王)ということです。書記編纂者はここに神功と
いう反中の女性をでっちあげ架空の物語三冠征伐まで創作したものと考えています。だから神功皇后記
39年に魏志倭人伝の記述を挿入し皇室は昔から反中だ。とアピールしたかったのだと考えています。
そして仲哀から応神は架空だと私は思っています。何故か、ここに「邪馬台国」があったからだと私は
思っているからです。応神は実在したと言う歴史家は多々いるのですが応神はいわば仁徳に繋ぐために
創作されていると思われます。
私は、中国史書、日本史書を総合して邪馬台国は畿内ではなかろうかと思っているのですが、九州
論者の援護というわけでもないのですが(迷惑でしょうが)書記だけに限ると仲哀から応神の物語
は史実かどうかは別として主として、九州地方の出来事が詳しく書かれています。邪馬台国が九州
にあったのなら、この事実を消すために神功の物語を入れた可能性はあるかもしれません。
565ひっと:2008/02/23(土) 23:51:19
>>561 >>562

ご参考にまでさん、具体的に経済史観の影響というものをお教えねがいますでしょうか。
566太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/23(土) 23:57:13
>>564
考えのしすぎがさらに増幅して、考えが取替えしのつかない妄想の
蔓延に至っている。その考えが間違っていやしないか? 失敗で
ないか? のブレーキペダルとバックギヤの操作の使用を怠ったから
とんでもない方向に行ってしまい。もう後戻りできない危機に来て
るのがあなたの頭の中。君はアクセルばかり踏んで古代史の研究を
やって来たから、治療のできない状況に近寄っている。今からでも
間違っているんではないか? の自己の論の疑惑を持つようになら
ないと、もう矯正は不可能の重症にある。

神功39年はそのままだと239年だが、239年=景初3年 は倍暦
行使のために、実年代は 崇神治世3年 である。つまり

 崇神即位元年=237年=景初元年

なのである。これは大陸半島が通常暦を使っていたのに、当時の日本
が倍暦をいろいろ取替えながら行っていたために百年以上の段差と
なったものであり、これを知らなかった舎人らが年代調整に苦悩
したのち、卑弥呼を神功と思ったか、神功の年代に小康状態で合わせ
しまい、その波及で原書の調整から神武即位が紀元前660年に拡張
してしまったというのが真相なのであって、反中とは大勢的に無関係
のことである。
567ひっと:2008/02/24(日) 00:17:13
>>566
通常の暦を使って話をしていた私が妄想の蔓延で、2倍暦3倍暦を使う大国さんが
歴史の真実を語っているということですか。。。

すみません。妄想のままでいいです。
568太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/24(日) 07:52:37
>>564 >>567
白村江の戦いがあったんだからそのころは確かに反中の思想が大々的にあっただ
ろう。しかしそれから時代は降下し、元明のころとなって記紀の編纂となって
いるから、その後大陸との戦いを止めいい関係を結ぶことが重要なら、突き進ん
で記紀に露骨に反中を押し出せば大陸との関係は悪化の一途を辿るだろうし、
元明のころは朝廷がやっと全国支配が(一部はまだだろうが)確立した時代で、
そんな反中よりも国内の政治のほうが遠い大陸と張り合うより大事だろう。

大陸が勝ち日本が負けとなったとはいえ、逆に大陸が負け日本が勝ったことも
あったろうし、こういうんなら記紀が反中ならば向こうの古文献も全部的に反日
でなければおかしいこととなる。つまりだ、あんたの考えならば日中いずれの
古文献も、その殆どが反中反日を真の歴史を葬ってまでも曲げての記述となり、
日中全部に近い古文献が真より反中反日を優先としてるんだから、向こうの
古文献の年代も日本に負けないように記紀以前に始皇帝の即位を出鱈目に記載
して始皇帝の即位の実年代がもっと後代だったとの論理も、あんたの論の中国版
としての論も言い分が通ることになる。つまり君が中国人だったら、中国の
古文献は反日目的であって、始皇帝の即位とその年代は日本に負けないための
創作であって、そのころならば日本に負けないだろうということで位置付け
た年代での中国古文献のイカサマ記述であり、始皇帝自体も應神が君の言う架空
からこの人物も架空であることになると別の中国人の言い出してもよろしい論が
生まれ、それが真であるとの話も君も採らねば恣意的であることになる。
569ひっと:2008/02/24(日) 17:04:32
妄想ついでに、歴史書という物の創り方を妄想してみます。
アメリカ大陸という土地がありました。インカ国やマヤ国などそこには色々な言語や習慣の違う原住民がお互い協力
したり争ったりしていました。ある時、白色人が黒船にやってきました。そしてもともと住んでいた住民たちを武力に
よって支配していきました。インカ国やマヤ国にも「王」はいたのだけど、その白色人は次々とそれらの国を支配し、
ついにアメリカ帝国という国を造りました。初代アメリカ帝国大王の名はリンカーンといいました。リンカーン大王は
アメリカ帝国支配の象徴として王の中の王と言う意味で、「皇帝」を名乗りました。そして、皇帝がアメリカ大陸を支配
した正当性を主張するために、歴史書というものを造りました。そして時代はさらに進みます。
一方日本とアメリカは1000年以上もの間貿易や交流をしていたのですが、ブッシュ皇帝の時代になると突然国交や貿易が
できなくなりました。何故か、それまでの中継地点であったハワイをブッシュ帝国に取られてしまったからです。ハワイが
取られれば次は日本が支配されると思った日本の王達は早急に一つにまとまり日本帝国というものを造りアメリカに対抗
しました。その対抗手段の一つとして日本皇帝も歴史書というものを作ろうと考えました。日本は大嫌いなアメリカより
古い歴史があるのだと主張しようと考えました。
もし私が歴史書編纂者ならば、どこまで遡って古い歴史を考えるか。やはりリンカーン皇帝よりも古い歴史を考えます。
マヤ国やインカ国など眼中にいれないだろうと思います。へたくそな妄想ですみませんでした。
570太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/24(日) 18:01:02
>>569
アメリカは大統領でしょう? 皇帝は自己宣伝承認は別でしょうが? 皇帝は
合衆国にはいないでしょう?w
太安万侶、舎人親王は小説家ではないと思いますが?
571ひっと:2008/02/24(日) 18:41:39
>>568
歴史書というものを読み解くにはその歴史書が書かれた時代の政治や思想がどうであったか。という事が
最も肝心な事柄です。「歴史書」と言われるものは日記でもなく文献でもありません。歴史書と言われるものは
政治史です。文献や日記や回顧録みたいな膨大な資料を基にある種の物語を造らなくてはなりません。
文献や日記などはいわば電話帳みたいなものでバラバラな名前や番号に一つの道筋を付けたののが歴史書といわれるものです。
歴史というものが大河の流れのように見えたり虹のように見えるのもこれは歴史編纂者がバラバラに散らばっている事柄に
ある物語(ストーリー)を造っているからそう見えるのです。
では、ある物語の「ある」とは何かといえば、それがその時代の政治治世であったり思想であったりするわけです。
日本の歴史書も中国の歴史書も同じで歴史書が書かれた時代の政治や思想がどうであったか。ここを出発点にしないと、
とんでもない間違いや解釈をしてしまいます。
572太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/24(日) 20:31:20
>>571
記紀の出来た元明のころはやっと本来に近い日本統一のなされた時代
で、日本の政治体制を造るほうに気うをとられて、歴史のほうも
かなり偽が入りこんでいるところ、真の歴史もやっておかねば、
遺跡のように古文書、伝承等の壊滅が予想されるために真を保全
する目的で編纂されたもので、朝廷の都合のいいようにする為なら
皇族関係の強姦、殺人、浮気等のスキャンダルも無にされることに
なろうが、こういうこともキチンと書かれてあることはイカサマ
の故意は考えにくいわけで、そういう九州も入れた国家建設の最中に
遥か遠方の中国に反抗するとかのやってるヒマは絶対ではないが
そんなにあろう必要もなく、後回し的にしてればいい問題で
あるから、記紀にゴリ押しで介入させる必要もない。
573ひっと:2008/02/25(月) 15:02:06
朝鮮半島での最も古い歴史書というのは「三国史記」なのですが、三国史記では、朝鮮の
建国(新羅国)は前57年ということになっています。そして、後から出来た高句麗、百済
を滅ぼし半島を統一したという話になっています。
こんなことは、史実ではありえない話で、新羅が出来たのは500年後の事です。しかし、
編纂者は可能な限り歴史を前に持ってきて、昔から中国とはかかわりがなかったのだと主張
した書物です。これは、歴史事実でもなければ暦の読み方が中国と朝鮮と違ったからでもあ
りません。日本書紀と全く同じ動機です。朝鮮(新羅王朝)は中国に匹敵するくらい古い歴史
があるのだと言っているのです。
ところで、三国史記は何故前57年に新羅建国をもってきたのか。これは、武帝が前108年
に半島を征服してしまっていたために属国期間が終わった前57年しか新羅国建国を持ってく
ることができない事情がありました。
日本は幸か不幸か中国に征服されたことがなかったため、好きなだけ歴史を遡る事ができたという
ことです。
574ご参考まで:2008/02/25(月) 15:23:13
ひっとさんへご返信。
新の貨泉が近畿地方でも大量に出土することはご存知だと思います。
これは、後漢の中国商人が交易の為に大量に持ち込んだものと推定できます。
この場合、陸路の悪路を担いで運んだということは考えられません。
水行によることは疑いないところです。五銖銭も各地で出土しています。
さて、そうしますれば、三国時代以前において、少なくとも漢書に倭が記録された頃から
倭の地理風俗の知識情報は、漢の中国商人により中国に周知されていたことになります。
また、壱岐や九州北部の国々も船を仕立てて半島に渡っていたと推測できますから
帆の知識や中国の航海知識や造船技術は倭に流入していたことになります。
壱岐に中国銭が多く出土する理由は、立地条件もさることながら、自ら半島や楽浪郡へ
交易に出かけていた証拠です。現に壱岐原の辻遺跡の船着場は、大陸系楽浪郡系の土木技術で
築造されています。
なんとなれば、陳寿が倭の地理風俗を魏使から仕入れたなどという見解は失当となる
ということですよ。貨幣は代表的な経済史の要素ということです。
「租賦を納む」と倭人伝にありますね。この意味は、当時既に倭人は文字を用いていた事になります。
徴税は文字の存在無しには困難ですからね。
575太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/25(月) 15:27:29
>>573
そういうことは、だからねぇ〜あることはあるとは思うよ。ただそれが
あっちとこっちの動機が同じだということにはならないね。

だいたい神武即位を過去に引き伸ばしたというなら、もっと巧妙に創作
だと、客観的に観て一般の誰にも分からんように歴史を作るだろう?
まず先述したように、日本史を中国より古くしたけりゃぁ、前660年では
中途半端で要領が悪いとは思わんか? たしかに始皇帝よりは古くには
なってるが。w しかしだ、もし君の言うとおりなら、舎人らはあまり
にも死罪、準死罪の公文書偽造をやるならボロばあまりにも多すぎて、
天皇がそうしろと下命したというなら、雄略、武烈の先帝の極悪非道の
記事をあんなに露骨には書くまい。それが書いてあるし、それ以外にも
皇族の醜聞がたらふく記述されている。だから半島がそうだと言っても、
日本もそうなんだ、同じだとは云い難い。

ボロは他にもある。神武即位を前660年にしてだ、以後の天皇の寿命を
計算したりしてみると、特に仁徳以前の天皇ではその殆どがみな百数十歳
の超長寿である。一見して君の云う始皇帝に勝つためのものなら、そんな
超長寿の記載でオシマイにするほど君の主張での公文書偽造罪の舎人らは
一発でウソの記述だと分かるようなことをあからさまにやってるほど馬鹿
かということになる? つまり舎人らは自ら進んで始皇帝より古きを企ん
だ馬脚を現していることとなる。それほど彼らは読みがアマかったのか?

否々、そんなこと間抜けではないはずだよ。だから天皇のべらぼうな寿命
というものは、そうでない、もっと他に相当の理由があったんだという
選択肢を見つけるのが正解だということになる。それは何か?
先述どおり、大陸半島と日本の暦法が著しく相違があったことのために
これを調整しようとした舎人らが紀の完成は成るものの、倍暦に未知の
ため、紀年の策定に成功はしなかったということが真なのである。
576ご参考まで:2008/02/25(月) 15:33:22
ひっとさんへ追伸。歴史書の背景云々に関しまして。
正史三国志が書かれた政治背景を如何お考えでありましょうや。
倭人伝は魏書の末尾の二千字足らずですから、倭人伝からは見えませんよ。
魏書の政治史は帝紀に書かれています。お暇なら、いやお暇ならずとも
読んで御覧になることをお勧めします。
三国志は、晋の魏からの政権簒奪の経緯を、そのまま簒奪だとは晋帝室の手前
書けませんね。つまり、禅譲であったのだよ、と苦心惨憺イノチガケで陳寿が
書いたということです・・・最も簡単に要約すれば、こういうことなんです。
そこを踏まえて魏志倭人伝は読まなくちゃあ、ならぬのでありますよ。
577太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/25(月) 16:24:00
ひっとさん
神武即位元年が紀元前660年に設定すると、始皇帝元年は紀元前246年であるが、
かような神武の位置付けを始皇帝に勝つため古くするというなら、これよりも
神武即位元年を紀元前300年あたりにしたほうが、これでも始皇帝より古いわけ
で、かつ仁徳前の天皇の超長寿がかなりまともな寿命に収まってくるので、舎人
親王らにはより好都合ではないのかね? つまり360年くらいの縮まりだから
反中的でイカサマ年代の神武即位を位置付けるにはもってこいの頃合年代だと
いうことになるがね・・・? そうすれば神武以後仁徳あたりまでの天皇の
寿命がデタラメ創作とは分かりにくくなる筈だが、なぜそうしなかったのかい?

ひっとさん、こういう具体的な事にて納得できる合理的見解ができるなら、貴殿
の論説は効く耳を持てるということになって来るが・・・。
578ひっと:2008/02/25(月) 17:05:47
私もほぼ同じ見解ですよ。
中国と日本の国交は、武帝が朝鮮支配した前108年ごろからだと思っていますが、
史記からもわかるとおりそれ以前から人々の交流や貿易はあったのしょう。
陳寿は知っていて嘘(誇張でもいいです)の道のりを書いた。若しくは張華が書かせた。
ただし、倭人伝の道のりは邪馬台国に至る道のりです。里数や戸数などは全くあてにな
りませんが、里程(各国を巡る順序)まではデタラメとは思ってません。
日本に到着するまでは、何らかの資料を参考にした可能性は大きいと思われます。

>「租賦を納む」と倭人伝にありますね。この意味は、当時既に倭人は文字を用いていた事になります。
徴税は文字の存在無しには困難ですからね。
 ここの見解は難しいですね。隋書では「文字を知らない」と言っていますし、字が読めなくても昔から
農民からの徴税はありましたからね。
中国人のことを言っているように思われますが。。。
579日本@名無史さん:2008/02/25(月) 18:36:42
>>578
自分の都合に合わせた適当な発言は控えろよ。
580ひっと:2008/02/25(月) 22:04:50
>>579
どこが?
581ひっと:2008/02/25(月) 22:45:45
>>576
陳寿はもともと蜀の出身ですから、本当は蜀が正統だと書きたかったんでしょう。
三国志演義では蜀が正統となっているんですから。ただし、張華に拾われ魏国の人間
になったのだからか、司馬懿のいいところは誇張し悪いところは捨てるといった苦悩は
もちろんあったでしょう。
私が言う歴史書の中で三国志は特異なものだと思っています。大体歴史書というものは
過去のものを書くのですが(当たり前ですが)三国志に限ってはほぼ現代史に近いものですから
陳寿は特に気を使って書いたものと思われます。だから正史三国志はすこぶるそっけなく書かれ
ているためにその後裴松之は色々な資料から注記を加えなければならなくなったのでしょう。
三国志を読んで魏志倭人伝を語っていたのですが、どこか間違いがあったのでしょうか?
ちなみに、政治史と言ったのは歴史書というものは文献や日記と違い極めて編纂時の思想、政治
色の濃い書物であるため政治史と言っているのです。
582ご参考まで:2008/02/26(火) 07:43:51
ひっとさん、なかなか良い視点視座であると存じますよ。
司馬懿の息子や孫のことが「三少帝紀」に詳記されておりますね。
いわば、晋の政権簒奪の歴史経緯が掻かれてります。
禅譲されて然るべきだと書かれている次第ですが、それは、明帝評の記事を発端としています。
なんとなれば、魏書最終巻の最終条の魏志倭人伝の、陳寿の位置付けは
自ずと見えて来るのではありませんか。・・・ご参考まで。
583ひっと:2008/02/26(火) 12:56:36
>>577
書記編纂時、鎖国を国是としたことは以前書きました。反中国が思想なら、鎖国は政治です。
唐に朝鮮利権をすべて奪われて仕方なく鎖国したのだけど、そんなことは書記に記載は出来ません。
ところで、私見なのですが当時の中国人(現在もですが)は倭人(弥生人)のことを呉、越人だと
見ている節があります。漢書や倭人伝などの倭人風俗記事などはその典型ではないでしょうか。この
呉、越人たちが朝鮮半島に逃れさらに日本に流れ着いた時期が前5世紀頃からだとされています。
日本書紀のたてまえは、自生の日本人が大昔から鎖国をしていて中国朝鮮などかかわっていないこと
になっています。だから、神功記ではじめて半島が見つかったことにしているのでしょう。
前660年はその呉、越人というのを否定し昔から鎖国していたのだから日本人とは自生の人間なのだ
と言いたいのではないでしょうか。
584太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/26(火) 14:28:41
>>583
何か、釣りでもやってるんですかな?w あなたは神武即位を始皇帝に負け
ないよう、始皇帝元年より前の紀元前660年としたという主張ですが、ならば
神武即位年は何年頃だというんですか? 当然紀の即位よりは後の年代だと
なるわけですが? 始皇帝が徐福らに三神山へ不老長寿の仙薬を探しに行かせ
たというその場所は、鎖国だそうですから日本ではないという解釈を採って
いるわけでしょうね? それはいいとして神功世で始めて鎖国でなくなったよう
な話ぶりですが、女王国と魏とは国交があったのが倭人伝で明確ですから、そう
いう鎖国を日本側が敷いていたというのは甚だ疑問ですがねぇ? 遣隋使とか
遣唐使がいたんでしょう? これがいて日本が鎖国だったというんですか??

だから鎖国が紀元前660年に位置付けたというのは、まだまだ説得力に乏しいと
思われますよ。それとも鎖国というのを広義の意味で言ってるんですか? つまり
人為的でない自然的交流が困難な時期という意味の鎖国ですか?
585ご参考まで:2008/02/26(火) 14:43:19
ひっとさんへ、583は無理が有り過ぎというよりも、明らかに失当ですよ。
書紀には倭人伝を引用した部分が存在することは、周知の事実ですから。
つまり、記紀編纂時には、知識階級の渡来人が来着していたという証拠です。
鎖国を国是とした、は誤りだったと取り消されるべきです。


586ひっと:2008/02/26(火) 15:38:24
>>585
ご参考までさん。書記は何故、神功記に朝鮮半島を発見したと書いたと思われますか。
私は、この時代に倭人伝があったからだと思っているのですが、間違いでしょうか。
現実には鎖国(表現が悪いかもしれませんが)などなく昔から大陸、半島と交流、交易が
あったのはもちろんのことです。
しかし、書記編纂時期前にそれらの交流、交易などはなくなってしまいました。それほど
白村江の敗戦は当時の日本に激震が走ったのだと思っています。だから実際には鎖国など
ありえないのですが、書記では悔しくて昔から交流、交易などなかったと主張したかったの
ではないでしょうか。
もう一つ、私は、日本書紀と言う書物は中国人(帰化人)が編纂したのではなかろうかと
勝手に想像しています。ご参考までさんが言うように多くの知識階級の人たちも渡来して
いたでしょう。7世紀頃の日本国内は日本人中国人朝鮮人などさまざまな人たちがいたこと
も間違いないのですが、その帰化人たちの収入源の多くは貿易に頼っていたのではないでしょうか。
そして、白村江の敗戦でそれら貿易特権で生きていた帰化人と日本人たちが新たな出発点を
見出すために造った書物でもあるだろうと思っています。だから、日本書紀編纂者は嘘だと知りつつ、
万世一系や反中国や鎖国などと言っているので史実だと言う意味ではありません。
587太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/26(火) 15:58:38
>>586
>私は、この時代に倭人伝があったからだと思っている
この時代とは神功の時代の意味ですか、それとも紀の編纂時期のことですか?

あなたの鎖国の用語の使い方は著しくスレ人が読んで誤解してしまうというか、
何が何だか?あなた個人での鎖国の意味がもっぱら不明瞭で、困りますなぁ?
588ご参考まで:2008/02/26(火) 16:00:04
書紀が神功皇后紀を立てたのは、
ひっとさんが仰る裏から申しますならば、白村江敗戦の屈辱を消し去る意図が
存したからだと考えます。
渡来人知識階級に対して大和政権は様々な注文をつけたと容易に想像できます。
その点で申しますと、
卑弥呼の記憶を抹殺すべくアマテラスを創出考案した、というのが私の考えてすが
皆さんから多大の御反論ご批判を受けている次第です。
589日本@名無史さん:2008/02/26(火) 16:15:50
あの〜。
ご参考までさんと、ひっとさんは同じ人ですか?
590ひっと:2008/02/26(火) 16:29:29
>>586
仲哀〜応神時代に邪馬台国があり倭人伝に乗ったという時期です。
国交がない。貿易がない。人々の交流が無い。という意味での「鎖国」です。

私の表現方法が至らず大国さんやご参考までさんに迷惑をかけすみません。
反中国や鎖国というのは、もちろん史実ではありませんし、ありえません。
しかし、嘘だと知っていて日本書紀では大昔から日本は反中国であり鎖国し
ていたのだと主張したかった。ということです。これは7〜8世紀の書記編
纂時期の国内事情が反中鎖国だったからだと思っています。
591太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/26(火) 16:30:58
695年3月、新羅王子が来日しており、同年9月、小野毛野を新羅に派遣して
いる。718年3月、小野馬養を新羅に派遣している。これなど紀編纂の2年前だ。
ここで唐の悪口を紀に書けばせっかく国交がよい方向にあるのに台無しだろう?
ただ反中者は巷に結構いたことはいたろう。

日本も65年ばかり前、米国との戦争で負けているが50年も過ぎて双方が表面上と
はいえ、一応良好な関係に修復している。しかしまだまだ一般人では米国の恨み
を持っているものは影で少なからずいるんではないか? それがしの幼なじみも
建物を米軍の空襲で壊されているからな、恨み言を拙者によく言っていた。

そういうことで、敗戦の怨恨は相当なものだが、それを正式なる国の代表書物に
反中をだ、白村江の戦いで50年くらい経過して舎人らが書きこむものかという
と、まだまだ疑問であるね??
592ひっと:2008/02/26(火) 16:34:08
>>590
>>586は587の間違いです失礼しました。
593太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/26(火) 16:56:57
65年位前、太平洋戦争で枢軸国の日独伊は連合国に負けたわけだが、北さんは
当時連合国か? とにかくそのころの歴史には詳しくないが、どうなんだろう?
北さんは枢軸国側でないのに現今は反米だろう? ところが米国に負けた日本
は現今は友人同士だよ。だから負けたから国家同士が50年経過して表面的なこと
で、必ずしも反勝国だとは断言出来ない。国内ではそれはあるよ。w この前の
サッカーの日対中戦では、あちらはかなりの反日のようだが?

ひっとさんは紀の編纂の反中理由として始皇帝元年以前に神武即位を設定したと
舎人らを公文書偽造を主張してるようだが、具体的に紀のどのへんに確固たる
反中の文があるのかをいまだ提示していない。だから上っ面で紀が反中だと云う
よりも、そういうつっこんだ具体性を掲げるべきである。
594太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/26(火) 17:05:19
>>590
>仲哀〜応神時代に邪馬台国があり

あなたほ神功皇后を卑弥呼だと考えているんですか?
595ひっと:2008/02/26(火) 18:02:39
>>589
違います。

>>593
今まで、書紀を書記と変換していました。全く気がつかずすみません。
具体的に日本は反中だと書紀にはもちろん書かれていません。皇室が編纂時反中であったと考
え書紀を読み解いています。
>>590
全く違います。親中の卑弥呼の対極に反中の神功という架空の人物を創作したと思っています。
596日本@名無史さん:2008/02/26(火) 18:52:45
>>九州の邪馬台国は滅び、畿内の勢力が西進して、
>>九州を制圧し大和政権となったと考えております。

この説はキツいですね。
邪馬台国を滅ぼすほどの勢力が
日本の内陸に存在した、というのは無理がありますよ。
もしそんな勢力が存在したのなら、
中国の歴史書に名前が出ず、つまり交易もしていない、
そんな国が邪馬台を滅ぼすほどの勢力足りえるでしょうか?

正直、自分は
邪馬台国が畿内の未確認勢力に滅ぼされた、という説よりも
やはり邪馬台国が東遷したに過ぎない、
という説に説得力を感じますね。
597日本@名無史さん:2008/02/26(火) 19:27:26
卑弥呼の時代3世紀と
倭の五王の時代5世紀の200年の間に
何があってもおかしくないがな
598太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/26(火) 20:05:03
>>595
>皇室が編纂時反中であった
それじゃぁ紀の文面には反中の思想は書かれてないんだから、皇室
云々は単なる内面の無体物への想像的貴殿の判断としか言えず、
ハッキリ言えば根拠の具体性がまるで取れない状態での貴殿の恣意的
思いこみだという事を貴殿が遠回しに吐露したものだ考える他ない。

>親中の卑弥呼の対極に反中の神功という架空の人物
これだけでは上述と同様、貴殿の想像的思いこみとしか言いよう
がなく、地についた具体的文献、資料等の採用とかも無に等しくて
結論的ことのみだそうだと云ってるようなものであり、そういう
何ら根拠等がない論理であり、説得力は0に近い。
かような論の展開では、神功が架空なら卑弥呼も架空という論が対等
で成立するわけで、恣意的に神功のみ架空とするのはこれも勝手な
恣意的思いの吐露にすぎず、これでは津田は納得しても、こちらは
納得のナの字も出てこないよ。卑弥呼も架空なのか?w
599太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/26(火) 20:28:01
>>595
ひっとさんよ。親中の卑弥呼の対極が神功だと主張してますがね。
これは矛盾してませんか? 卑弥呼の神功を対極的に当てたという
のはむしろ考えにくく、神功と卑弥呼を神功紀で舎人らが合わせて
るような記述とは、卑弥呼は神功だろうという発想があったわけで、
逆に神功が親中の卑弥呼だと舎人らがっすり合わせたわけだから、
神功も親中だということになる。つまりだ、

 卑弥呼=神功皇后

と舎人らは考えたんだからイコールのため神功も親中だということ
になる。だから貴殿の言い分はおかしいことになる。
左辺が親中なら右辺も親中だということになるのだ。
600ご参考まで:2008/02/27(水) 08:02:05
ともかくも、記紀は、大和朝廷の政治的作為の産物であり、
正史三国志に比較すれば、その史料価値は非常に低く、その編纂時点も
歴史時空と言ってよい程に、後世のものにて、
だれかを誰かに比定したところで、何も見えては来ない
ということになるのでは、ありませんかね。
こう申し上げれば、記紀にご造詣の深い諸氏らの反発誹謗を受けることは
承知している次第ですが・・・。
601虹歩命:2008/02/27(水) 08:24:21
>>600このようなご意見は一昔前のものと認識しております。学問は日進月歩、現代では記紀を新しい視点からみなおすようになってきました。
かってはちょとでもおかしいと即否定するという見方をしていたのですが、最近では真実や真実にちかいものを
摘出したり、かつてより大幅に進歩した科学の目や文献考古以外の分野の学問をもって解釈するようになってきました。
602古代史大好き:2008/02/27(水) 08:30:53
>>600
国内記紀も信憑性がないといい、正史三国史も誇張という。
結局貴方は何を頼りに歴史を知る
603日本@名無史さん:2008/02/27(水) 08:43:59
否定する学問って、とどのつまり自分に都合いい部分を抽出したい
その願望の裏返しだろう
604ひっと:2008/02/27(水) 10:27:14
>>595
大国さん。確かに一枚のコインの裏表のような関係で見れば、卑弥呼と神功は
正反対だが同じ一枚のコインではあるという解釈は成り立ちます。
仲哀〜応神時代が架空の創作だという裏側にはこの時代に邪馬台国があった。
というのが私の主張です。対極だが同じコインだということですね。
親中であろうと反中であろうと中国のことを意識しているのは間違いないわけです。
日本文明は中国文明とは無関係なのだ主張している書物が日本書紀だと私は解釈して
いますがこれは逆に日本(皇室)は非常に中国のことを意識しているということです。
中国の歴史書と日本の歴史書を読み解くとき、このように裏表でみていけば解明
されていくことも多いのではないでしょうか。
だから、私と対極の考えで卑弥呼が架空で神功が実在ということも主張できますが
それにはどちらの歴史書のほうが信用できるかということになってきます。
これは、それぞれの主観の問題ですからここで意見がぶつかっても当然だと思っています。
私は、卑弥呼が実在で神功が架空という判断をしています。もちろん時代が違うという人も多々いますが。
605太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/27(水) 11:17:09
>>604 ひっとさん
反中で神武即位を前660年に引き伸ばして始皇帝に勝つようにしたというなら、
舎人らは元正天皇に奏上して始皇帝陵よりも神武陵を大きくするよう天皇に
お奨めをしなければおかしいではないか? なぜ紀のみを勝たせて始皇帝陵より
神武陵を莫大に大きくしなかったのか?? そしてなにゆえ仁徳前の天皇の寿命
が前660年の位置付けで一見して分かるほど考えにくい超長寿のままにして、
不審感を煽って神武即位年に疑念を容易に抱かせる間抜けな所為を舎人らは
やって紀を作ったのか??そしてそこの各天皇の超長寿の創作だとなる歳設定は
具体的にどういう理由で各天皇に割り振りをしたのか?? このような疑問に
説得力ある地についた論説を言うことが出来ればあなたの言い分は筋が通って
くるのであるがね?w

神功の時代に卑弥呼がいたことを神功は架空として時代はあった旨の話ですが、
ならば 景初3年=239年とするか、それの擬似的年代設定があなたの考えという
ことになるが、それだと仁徳即位313年は倍暦を認めてないだろうから、この年を
信じると、仁徳は百数十歳の年幅が埋まらず、あなたはなすすべもないというか、
そのまま放置してるのか、あるいは信じろというのか?w 仁徳の超長寿が一般
の考えでは生物学的におかしいことになるが? それをどう解釈するのかを
説明されたい。
606ひっと:2008/02/27(水) 12:46:11
>>604
まず、何故神武は九州に降り立ったかというと、日本(天皇の支配範囲)が九州以東であると主張
したいがために九州橿原という地を選らんだと考えています。
年代ですが、前にも言ったのですが(非難を色々浴びましたが)今の日本の研究者や歴史家のなか
でも弥生人は呉、越人だと言う人は結構いるんですよ。これは史記や漢書、三国志の影響なのですが、
今ですらそう思っている人がいるのだから昔の人も中国史書を読んで日本人とは呉、越人だと中国
は言っているようだと感じたのではなかろうかと思っています。それを否定し、日本人は自生の民族
なのだと書紀で否定するためにこの年代まで遡って創作したのだろうと考えています。
結局、ここまで遡ってしまったために仁徳に繋げるまでそれぞれの天皇の寿命を延ばさなければ辻褄
が合わなくなったということです。
607ひっと:2008/02/27(水) 13:13:54
>>605
先の>>604>>605の間違いです。失礼しました。
次に仁徳ですが、私は邪馬台国は311年ごろまではあったのではと考えていますから、
邪馬台国解体後、仁徳に至るまで320年から330年ころではなかろうかと思っています。
倭の五王武(孫)から仁徳(祖父)まで単純に在位期間がそれぞれ50年だとした、場合宋
書にある武の手紙の内容と一致してくるのではと考えています。
前に言ったコインの表裏一体だという考えを仁徳にあてはめて考えてみると、書紀の仁徳以
前は邪馬台国を隠すための創作だと思っているので313年即位というのは、その裏側に邪
馬台国が解体した時期とも読み取れます。
608ひっと:2008/02/27(水) 14:06:04
>>600
資料的価値は結構あると思われますよ。確かに記紀だけ見て判断したら
間違った方向に向かうことになるでしょうが、中国史書と日本史書の2つを
見比べる作業はとても重要だと思っていますし、なにより古代史の面白さを
増幅させてくれます(ファンタジーという意味ではありません。)
609太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/27(水) 14:23:17
>>606
あなたは大陸人が日本に来た旨それをえらく拡大視してるように見受けられま
すが、逆に日本から大陸へ渡って自生してそこから大陸人がうんとになったと
いうことも、あなたの日本への流入人からの話の逆では充分云えますがね?w

だいたいあなたの神武が始皇帝より上回る天皇と元正天皇がさせんとしたなら、
神武よりもあなたの初代とかいう仁徳の陵のほうが神武より大きいのはおかしい
もので、あなたに関してはこれは皮肉なことではありませんか?

>>607
いいですか。あなたが卑弥呼の実在のほうは確かとし紀はイカサマだとしても、
倭人伝はイカサマでないという考えなんでしょう? ならばもう分かるで
しょうが? 景初3年は239年だということは臥海(学会)も支持する定説で
しょうよ。だから女王国が311年などというのは伝を信じてないと同然であり、
これだけでもあなたの言い分は矛盾してますよ。景初3年=239年 は信用度が
高いでしょう。そんじゃぁ聞きますが、何ゆえ女王国が311年ころだと言うんで
すか? 紀が女王国を隠すためだとかおっしゃってますが、そうならば神功39年
、同66年等の記述を書けば舎人らが率先して女王国の存在を仄めかし紀に記述
しているわけで、女王国隠匿説は成立しないですよ。
610ひっと:2008/02/27(水) 15:50:43
>>609
邪馬台国は311年頃まであったというので卑弥呼が311年まで生きていたのではありませんよ。
倭人伝によると、台代が女王になったのが13歳、311年まで女王を続けていたとしても77歳だ
から卑弥呼が死んだ年齢より若いことになり別に矛盾はしません。
中国では、311年晋の懐帝が捕らえられ313年約400年の朝鮮支配が終わり316年西晋は
滅亡します。ちょうどこのころ邪馬台国も解体した。というのが私の見解です。
611ご参考まで:2008/02/27(水) 16:14:45
古代史大好きさん、私は
古代史大好きという視点観点から古代史を眺めておりますが、
古代史大好きさんは、史書は頭から全て信用してお読みになるという視座なのですか。
それは、違うでしょう。
・・・ご参考まで。
612太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/27(水) 18:25:09
>>607 >>610
おっしゃることがある程度分かりました。それでは倭人伝 の 239年=景初3年
は認めているわけですね? そして 仁徳即位=313年 も認めているとなれば、
このままだと先述のとおり仁徳の寿命が百数十歳を数えることになるんですよ。
これをあなたは詰めているんですか? それがいい加減で、反中だとか云っても
詰めガ甘いことになりますが?

それにあなたは神功は架空なるも神功の時代はあったことの論理展開で、まるで
チェスのクイーンのない将棋を指しているわけで、兵隊はいたんですな? その
兵隊は王も女王もいないでは分散していまい統率もとれなくなりますから、王、
女王の代用で将軍くらいはいたと云うんでしょう? その将軍の名は何者で
すか? 五王の一人にくっつけますか?W
613古代史大好き:2008/02/27(水) 19:05:54
>>611ご参考まで氏
史書の信用度とは何でしょうか。書に刻まれている一つ一つが歴史ではありませんか。
刻まれたものに疑いを持つと言う意味が理解出来ません。
例えば「裸國、黒齒國」と言う語句に現代の私達は違和感を覚えますが、その違和感は今の違和感であり決して史書が書かれた時の違和感ではありません。
史書を書く時代環境から判断しての違和感なら、正に歴史の真実を探る行為でしょうが、全ての環境が違う今の感覚で信用度を図る行為が正しい歴史の見方とは思いません。
「裸國や黒齒國」も歴史であり、史書全てが歴史です。その何処に信憑性や信用度を持ち込むのですか。
過去の書は全て真実の歴史です。
614太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/27(水) 21:20:26
>>610
>台代が女王になったのが13歳、311年まで女王を続けていたとしても
 77歳だから卑弥呼が死んだ年齢より若いことになり別に矛盾しません。

そっちは矛盾しなくても仁徳の超長寿は百数十歳を放置したままの論理で、
ちいとも若くはなく、これを解決しないで結論を出していたとするならば、
あなたの説はどっかが大間違いしてるという、シッポが出てるわけよ。w

それはそうだと思うね。仁徳手前の天皇が架空としたから。こういう失敗論
を失敗と思わず合ってると甘く考えると、さらに妄想の増幅に至るもの。
615ひっと:2008/02/27(水) 22:32:20
>>614
仁徳が313年に即位したなんて言ってないですよ。前におそろらく320年〜330年頃即位(大王
になった。)したのではないかと言いました。仮に仁徳が330年に即位しその時二十歳だとします。
仁徳が仮に70歳まで生きていたとしたら380年崩御。讃(履中)から済(允恭)の治世が50年
として430年、輿(安康)から武(雄略)の治世が50年とすると480年ということで、人の一生
としてはこんなもんではないでしょうか。倭王武の手紙が478年宋に送られていますから履中〜雄略
が倭の五王と考えて妥当ではないでしょうか。これに河内王朝をあてはめると一致するという見解です。
616ひっと:2008/02/27(水) 22:43:14
大国さんのお考えとして、邪馬台国連合というのはいつ解体し、何故解体したか
お聞きしたいのですが。
私は、この邪馬台国連合解体という意味は、邪馬台国所在地に関してかなりの重要度
があるのでは考えていますが、いかがでしょう。
617ひっと:2008/02/27(水) 22:56:05
>>613
私もほぼ同意見ですね。
まず、歴史書を素直に読む。素直に読めば色々矛盾点が出てくる。そこで何故かと
考え他の歴史書があれば見比べてみる。そうすると見比べた歴史書と齟齬が出てくる。
これまた何故と考え、頭が混乱する。それでもう一度素直に読むから始める。
という堂々巡りが非常に面白いと感じています。
否定から初めるとやっぱり面白くないですよ。
618太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/27(水) 23:37:22
>>615
一つも妥当ではないですよ。倭の五王が何故天皇なんですか?
あなたは先入観が強すぎるんですよ。そしてその強信ぶりから確定的
に古代史を結論(←恣意的のやりすぎ)して、その基盤に立ってああ
だこうだと上っ面の適合を選り好み的恣意選択で論説を作り出し、
自分でが合ってるつもりでしょうが、大きく軌道はそれ放題で宇宙の
果てに飛んでってる状況です。五王は天皇ではなく、彼らは九州の
小国の王ですよ。倭人伝にも女王国とは別に多数の国がある記述が
あるでしょう? 仁徳手前に天皇がいないとするあなたが、強信的
中国古文献にある五王を天皇と同一視するというのは一寸滑稽な
感じが拭えませんな。
619太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/27(水) 23:41:27
>>616
それはなかなか正確な回答の難しい質問ですな。とりあえずの考え
ですが、九州王朝は文武のころに滅亡してますから、それより以前
に連合的小国は無に近い状態になったのではあるまいかと思います?
620古代史大好き:2008/02/27(水) 23:45:11
>>617ひっと氏
>そうすると見比べた歴史書と齟齬が出てくる。

その見比べる歴史書もまた真実の歴史なのです。
見比べ食い違いが生じようとも両方とも真実の歴史、食い違いが生じるという真実の歴史なのです。
過去からの伝承されしもの全てが歴史そのものなんです。
621ご参考まで:2008/02/28(木) 08:36:12
過去から伝承されしもの全てが歴史そのもの、という古代史大好き氏の見解は
全くそのとおりで、意義は無いです。
が、しかし、史眼炯炯という言葉があるではありませんか。それが私の意ですよ。
魏志倭人伝も正史三国志の魏書の一部にしか過ぎません。
魏書の帝紀の明帝崩御の記事なんかを読まれても、古代史大好き氏にあらせられては
陳寿の作為を何ら感じることは、ないのですか。
それとも、正史三国志の中において、唯一、倭人伝のみが全て真実を述べている、
とでも、仰りたいのであるのですか。また、金科玉条の聖典とでも仰るのですか。
そもそも、貴方は、正史三国志を、どの程度お読みになっていらっしゃるのでしょうか。
参考までに、教えて下さい。
両方全て真実の歴史云々は、全くナンセンスですよ。
622古代史大好き:2008/02/28(木) 09:32:01
>>621ご参考ですが氏
正史三国志であろうと、去年の東京スポーツであろうと、同じ歴史の真実そのものです。

過去書かれ刻まれたものは、全て当時の歴史そのものです。書かれている内容の信憑性信頼度などというものは、未来が想像し評価するものであり、当時の歴史ではありません。
当時の歴史事実は当時の書物そのものだけ(考古遺物は除く)
ところで正史三国史を繰り返し読まれると、当時の歴史が変わるのですか?変わるのは、当時と係わり合いの無い今の自分の思考が動くだけではないのですか。
623古代史大好き:2008/02/28(木) 09:35:31
>>621ご参考まで氏

ハンドルネームを間違えました。
失礼しました。
624ご参考まで:2008/02/28(木) 09:55:45
古代史大好き
と名乗っておられますので、応じたものでした。
オシマイ。
625日本@名無史さん:2008/02/28(木) 10:03:35
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
626ひっと:2008/02/28(木) 10:30:28
>>618
「日本」という号も「天皇」という号も7世紀に造り出されたもので、それ以前
は「倭国」であり「倭王」であったのですよ。
仁徳以前に天皇がいないのでなく仁徳ですら天皇ではないのですよ。彼は倭王です。
ただ、仁徳(実名不肖)という人物は実在し河内を拠点とした河内王朝の創始者
であろうと思っています。
それ以前にももちろん「王」はいました。例えるなら16世紀の戦国時代の各国の武将たち
みたいなものでその武将たちを束ねたのが4世紀の時代では仁徳であろうということです。
7世紀書紀編纂時、皇室はこれらの各武将たちを自分達の都合のいいものは天皇として皇室
の血統に繋げ都合が悪いものは削除し、記述を避けられないものは悪口を入れる。といった
作業をしていったものと考えています。だから、日本書紀にも「王」としての史実は仁徳以前
にもあったものと思っています。
627古代史大好き:2008/02/28(木) 10:37:01
>>624
>オシマイ
それも宜しいでしょう。
私は未来から歴史をコントロールしようとする人に興味はありませんので。
628日本@名無史さん:2008/02/28(木) 10:48:21
仁徳天皇陵って、実際にだれもが知っているあれですよね。
しかし、実際あれは物部氏の大王の墓。天皇の墓ではあり
ません。それをあたかも自分たちの祖先であるかのように
でっち上げようとしたのが記紀。元の住民ならだれでも知っ
ていたのに、実に白々しいです。
629日本@名無史さん:2008/02/28(木) 10:56:18
>>628 いかにもありそうなこととは思うのですが、
「実際あれは物部氏の大王の墓」
とおっしゃる推論の根拠は何ですか?
630日本@名無史さん:2008/02/28(木) 10:58:35
>>628
5世紀って、物部氏はそれほど大きな勢力ではなかったと思うのですが、
(葛城氏のほうがかなり大きい)
具体的に、物部氏の誰が葬られていると?
奈良石上の武器庫を守るのが物部氏ならば、
大阪の仁徳天皇陵はかなり勢力範囲と違った場所にありますよね?
631太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/28(木) 11:07:36
>>615 >>626
仁徳即位が320〜330年だという資料、根拠がなくては、ただ寿命が長いから
あなたが勝手に10年余〜30年ばかり詰めたんだと考えるほかはありません。

あなたの論法っていうのは都合が悪いことがあれば自説が間違いでないのかとか
の振り返る意思がまるでないようで、おかしいところは年代も2,30年狭小とし
たりてブレーキ、バックギヤの操作は使おうとせずですから、失敗の上塗りの
繰り返しでもう真からあさっての方向に違えているとしか想えません。これでは
まるでイージス艦の親方日の丸的直進だけで進路をとってますから、前方に種々
の多船の障害が見えてもマズいと思わずオシマイデス。w
632太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/28(木) 11:26:45
>>626
天皇の呼称は論説では直視する必要はいまの話からはいじくることはないで
しょう。わかりやすいために使ってるわけですから大王でもいいことはいいわけ
で、いまの場合はほじくるまでもないことです。

あなたは紀の文書偽造をした被疑者は舎人もそうだが、主犯は元正大王がやっ
た旨の主張であるが、始皇帝より神武を偉大にさせたいならこんな紀の文書偽造
をやるよりもだ、朕の一言で始皇帝陵より少なくとも1.5倍、あるいは2倍とか
の大きさに陵を改修せよと勅命を出すほうが、中国人や未来人に対して偉大に
見える度合いが著しく大きいと観るべきだね。再度聞きますが、いかが??

>>628
もう畿内はそのころ朝廷が天下を取ってばんばん陵墓をこさえたんだから、世界
最大の面積を誇る仁徳陵が物部だということは絶対的にない。金将が王将の駒
より大であるなどの論は噴飯物であり、当然棄却される。wwwww

クフ王のピラミッドが代官クラスの者の墓だとか言ってるようなもので、滑稽
至極である。あまりいい加減なデタラメを誇張するな。
633日本@名無史さん:2008/02/28(木) 12:12:47
倭人伝だけじゃなく、倭国に関して書かれた記紀以前のすべての中国の
書物についてまとめて検証しようよ。
634日本@名無史さん:2008/02/28(木) 12:59:06
>>632その大和朝廷なるものは、すでに物部氏の執権政治であり、
傀儡政権であったわけだし、仁徳天皇が実在したという証拠もない。
国譲り=国獲りだったわけです。
635ひっと:2008/02/28(木) 14:05:21
>>631
ところで、恐竜の化石はご存知かと思われますが、歯抜けになっている箇所をどう復元していく
かという作業を世界中でやってますよね。その空白の部分を右から左から上下から色々な角度
で観察し、時には他の恐竜の化石の繋がり部分を参考にしたりして歯抜け部分にあてはめていく
わけです。現存している恐竜がいないため、人間の想像で歯抜けを埋めているのですが本当は
その部分に棘があるかもしれないし全く異なった形をしているのかもしれません。
歴史の空白部分も似たような感覚で埋めていっているため、見る人によっては非常にいびつな形
に見えるのは仕方の無いことです。
私は邪馬台国から倭の五王の空白を私なりの解釈で埋めているために、大国さんの目からみれば
歪で理解不能な埋め合わせだと指摘されてもしょうがないかなと思いますよ。
逆に倭の五王が九州の小国だという資料はどこにあるのですか?小国なのに宋書に載るほどの影響
力が何故あったのですか?履中や雄略より小さな勢力なのに中国では何故倭王と呼んでいるのでしょう?
636太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/28(木) 15:15:06
>>634
証拠というなら、クグツの証拠があのか? 証拠と言い出した君がそれを示さ
ねばならんだろう?w おまけに仁徳陵が物部だとかの証拠も書きこんでないぞ。
なら、物部のほうは実在した証拠があるのか?

>>635
なんで五王に限定されるのか? その前後の天皇(=大王)はいたろうが?
ただ君は仁徳前がいないから後代の天皇を考えれば数字が五で限定されるのは
おかしいだろう? すくなくとも元明、元正までの数字がなければうまくない。
いいかいイコールなどというのはなかなかあることではないのだよ。滅多に一致
などということは起こりにくい。五王は将軍クラスの王だよ。天皇は将軍以上
の勢力だ。これだけでも天皇とは合致するまいが? 記紀にも上表文なんか書いた
とかいう記事はないだろう? それにだ、讃だとか興だとかの号も天皇に付加され
た記述もないし、武王が武烈だとかいうなら、その手前の天皇も各一字ずつ字
が付加されてなくてはおかしい。金さんが金井さんにはならんだろう?
上表文の祖禰のDNA(禰名)も一致してないだろう?

ほとんど全部に近く事象が合致しなければ同一人物にするのは危険極まりない。
天皇でないとすれば、ほかのところの王だということだ。すると最も合理的に
考えていいのは九州(それも北九州か)が妥当だということになる。それは中国
地方の岡山だとかも可能性はあろうが、そこまでは否定はしないが、やはり九州
の小国の王と考えるのが自然である。当時九州にはかような小国が倭人伝とか
から分かるように、多数存在していたし、畿内は天皇が天下を強力に握って
いたんだから、天皇が否定されれば次に考えが向くのは九州だという事になる。

それにだ、仁徳が320年〜330年という算出はどのようにやったのか? それを
地について説明すれば相手が少しは聞く耳を持つということだ。それがないなら
なんの説得力もない。君の単なる、自説を有利にしたい結果のいいわけの数字。
637ひっと:2008/02/28(木) 17:59:00
>>636
倭の五王を漢委奴国王と同クラスで扱っているのですか?倭国の王で倭王です。
倭人が住む地域の一つである奴国の王とは全く違います。
五王の一人済は、使特使・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国緒軍事・安東将軍・倭国王
という長ったらしい名前まで宋国から貰っていて小国の一将軍ではありえないですよ。
倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓の将軍という規模から考えても天皇と同クラスの「王」
若しくは、天皇であることは間違いないですよ。
638古代史大好き:2008/02/28(木) 19:47:57
【河童虫からのお知らせ】

こんどハンドルネームを変更しました

河童虫⇒ 古代史大好き にしました


評判悪ければ元に戻しますが
639太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/28(木) 22:26:09
>>637
なぜ五王になってるんですか? 元正までで倭の四十四王でなければ
おかしいではないですか? 数歩譲って仁徳からならば倭の二十九王
でなければおかしいでしょうが? ということは五王は天皇では
ないです。DNA(禰名)も一致しないです。禰は、あなたは架空で
いないんでしょうが?ww
640ひっと:2008/02/28(木) 22:59:49
>>636
320年〜330年仁徳即位を話すには、まず邪馬台国の話が必要です。邪馬台国連合王国とは
どういった形態を取っていたのでしょう。連合国ですから各国々が連合してますよね。その連合
の接着剤は何であったかといえばやはり「親魏倭王」の称号です。この親魏倭王が何故接着剤と
なるかといえば朝鮮半島利権と中国貿易だと思います。ということは、親魏倭王の接着剤がある
限りこの連合は崩れなかったと思われます。ところが、300年頃から半島に不穏な動きが現れ
316年には西晋は滅亡してしまいます。この西晋の滅亡は何を意味するかというと親魏倭王の
威光が消滅してしまったことになります。中国の約400年にも及ぶ半島支配も終わり、連合
していた国々は、半島利権と中国貿易での恩恵をあっという間に失うことになってしまいました。
この利権、貿易の恩恵を連合国の人たちはみすみす手放すとは思えません。なんとかもう一度
この恩恵を受けたいと思い集まった所が仁徳の下ではなかろうかと思っています。
私は邪馬台国は311年ころ解体したと思っていますが最大では316年の西晋の滅亡まであった
かもしれません。仁徳の下に集まった国々は再び半島に進出し始めた。これがその後、宋書に載っ
た倭王武の手紙で、「〜祖父の代より軍事力によって勢力圏を拡大し〜」と繋がっているのではな
いかと筋立てしています。書紀では4世紀前半の天皇は仁徳ですから、邪馬台国滅亡そして仁徳と
繋がれば一貫した筋立てが出来ます。               非難は覚悟の上ですが。。
641太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/28(木) 23:56:23
>>640 ひっとさん
それがしが笑っているのは嘲笑とか冷笑とかではありません。なんで
こんなおかしな論理を自説が間違いでないのかという用心をせず、
突き進むんでしまうのか? という笑いですから、貴殿を卑下
してるとかそういうものではありません。ですから感情的に心が高揚
して面白くないとの想いはしないようされたい。

さてと、仁徳から初代となるのかとなれば、なぜそれ以前に女王国が
畿内にあったことを倭人伝以上に詳細に紀に記述が皆無なんでしょ
うか? おかしいと思いませんか? あなたは女王国隠匿説を主張
しておりますが、その仁徳前の神功紀に神功39年等倭の女王とかの
記述が舎人らによりありますから、これは暗に女王国があるという
ことを書きこんでいるわけで、隠匿ならばこんな記述は入れるわけが
ないでしょう? だから隠匿説は成立しないと観るべきです。

それともきちんとした合理的書かない事由があるんですかな? 即興
で仁徳即位を320年〜330年に恣意的に設定するのはお止めになるべき
でしょう。仁徳即位のみ浮き上がって超長寿が残り、それが立派に
合理的事由が語られないのならば、あなたの論理はもう破綻して
いるということですよ。年数の話が漠然としてるから、こんなんでは
もう失敗だと思いますね。

ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・・・
642ひっと:2008/02/29(金) 15:53:19
>>641
仁徳やそれ以前の天皇(王)の長寿にそんなに拘る必要はないように思えますが。
適当な王に適当な天皇号を与え適当な年齢を作り出しているだけのような気がします。
適当という表現が適切かどうか別として書紀編纂時、その時その時代にいた王あるいは
その時代に適当な王が該当しない場合は架空の天皇を作りあげているのでしょう。
邪馬台国は倭人伝に載ってしまったのでこれを削除することは出来ないじゃないですか。
だから神功を作り上げ皇室は卑弥呼とは一切関係がないことを強調するために書紀に載せ
ているんですよ。だからあんなおざなりな記述しかしてないんです。逆にここに倭人伝
記述を載せないと神功=卑弥呼と勘違いされかねないと皇室は考えたのではないでしょうか。
643太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/29(金) 18:38:43
されかねないはいいとして、そうなればあなたの言う女王国隠匿説はあなた自身
で否定したも同然じゃないですか? つまりあなたの論の牙城の一角が崩壊
したということですよ。 ホムダ以前が架空としたならば、紀の編者連はホムダ
までを超長寿とするはずでしょう。それが仁徳も超長寿なんですよ。だから履中
からが初代で実在だというならまだしも、仁徳が初代では仁徳のみ超長寿でどう
転んでも疑惑がひっかかるんですがねぇ? あなたの自説がおかしいとあなた
ご自身で思いませんかね? あなたの論は強引の滅茶苦茶に感じますねぇ〜?
644太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/29(金) 22:51:55
>>642
あなたは古代史における思慮が不足してますね。将棋をさせば10手位読んで、
あぁ俺は勝ったと観て即その手を指してしまう。100手も200手も奥まで読まない
と強い奴には勝てないでしょう?もっと強い奴にはもっと読み手を深くすべきで
はありませんか? かようにあなたは記紀の記載の古代天皇を最初の取り組み
から根拠も持ち合わせないのに、即創作だ、実在しないとかいう津田のような
思考形式で最初から記紀は架空だという結論を恣意的に決めこんで、それから
いろいろと研究していまのような考えに陥ったということですよ。そういう
先入観から出発するんでは、これは学的カルトだということです。つまりもう
なかなか直らないでしょうな?w 津田カルトの魔印度根吐露得留を解くのは
末期のガンを治療すぬのが難しいのと同様であなたももう手遅れの感がします。

あなたは紀の仁徳手前をすべて史実にデッチ上げた架空の創作だと主張し、
舎人らの公文書偽造を肯定しています。彼がそういう架空たる偽造をやるのなら、
もっと巧妙に一般に分からないようにやるでしょうが? 北さんのだという偽造
紙幣も機械で専門家が鑑定しなければ分からぬほど本物ソックリで、素人の目
では真偽は見分けられぬほど、その出来は真と違わぬほどスゴイです。

舎人らハ朝廷にいるくらいだから、相当学的知能は優秀だったでしょうから、
紀の編纂で偽造をたるなら、そういうふうに巧妙に一般の目をくらますくらいの
やり方で紀を完成させますよ。それが何で仁徳以前の天皇の殆どが、一見して
ありえないほどのウソだと思う位の超長寿で記載したのか? あなたのいう偽造
をやるにしてはあまりにもばれてる数字のようで、事が幼稚に想いませんか?
という事は、これは架空の偽造、創作ではないンですヨ。あなたは失敗ですよ。
645日本@名無史さん:2008/02/29(金) 23:00:25
いいぞ!太国!お前の言う事が正しいぞ!
いつも応援しているぞ!
646太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/29(金) 23:23:59
>>642 >>644 続き
先だって八王朝相撲とかで某誌が大々的に報じたことがありましたが、やるん
だったら一般の目に分からぬようにやろうと工夫して八王朝相撲を画策しま
すよ。勿論多少上手に行ったようでヒョンなことからイカサマがバレるわけで
すが、やる奴は相撲をとってるときは土俵で巧妙に立ち回ってるつもりの筈です。

印鑑の偽造をやる奴もやばいこととは知りながら本物ソックリに印をこさえ
ますよ。それは中には頭のめぐりの悪い奴は幼稚な造りもやるでしょうがw 通常
は犯行をやるには精密に分からんような偽作印鑑を作るのが,真の知能犯です。

通常の犯罪だったら、間抜けな泥棒もいることは確かですが、例えば会社の談合
だってバレれば即逮捕されますから、それは分からぬように事を運ぶでしょう?
今話題の中国産餃子も事故でなく犯人がいるなら、中国人が犯人の場合は捕まっ
て即死刑になりますから、やるならば徹底して分からぬように神経を使うはず
でしょうが? そういうことを考えたときに、一見してウソだろうと思われ
るくらいの大数字の長寿を間抜けにも学者的人物に舎人ら多勢がずべて共犯で
幼稚にも紀に記載するとは考えにくいです。そういう数字を並べたということは
架空、創作とかでない相当の深い理由があったのだと考えるのが正解です。

確かに大袈裟な記述の書もあるにはあります。大成経では天皇をガリバーのよう
に賛嘆した誇張をやってはいます。この著者は真偽の取捨をせず書を作った、
信仰もあってかの一種のカルトの思考からの著作のようです。こっちは天皇の
賛美からの誇張と思われますな。こういう書もあるんだということは言えます。
こっちも、創作というよりは信仰賛美からの動機ですよ。
647ひっと:2008/02/29(金) 23:24:21
>>644
将棋で10手先を正確に指すことが出来ればアマチュア全国レベルなので
ほめ言葉としていただいて置きます。
年齢にそんなに拘る大国さんに一つお聞きしますが、三国遺事記という朝鮮の史書
(史書とは言える内容ではないですが)に檀君という人物が出てきます。その墓が
1994年7月8日直前に発見されたのをご存知でしょうか?身長3メートルほど
の白玉のような美しい人骨が発見されたそうです。そして1994年7月8日に金
日成主席はお亡くなりになりました。さて、話を戻して、檀君は朝鮮半島の天帝と
して1500年在位して1908歳に亡くなったそうです。
えーと何倍暦で計算するのですか?
648太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/29(金) 23:34:39
>>647
そういう記述は始めて知りましたが、超古代では当時の1日が1年
だったという可能性はあります。そこの記述だけでは前後を読んだり
参考書を読んだり出来ませんから、即断の答えは出来にくいですね。
あなたはそういう記述をスグに即断しちゃうんでしょう?w

あなたの信じやすい「中国」の西遊記では、天上の1日は地上の1年
という設定です。穂穂出見尊は五百八十歳とありますから、2倍暦
とかではなくn倍暦は神武以前にはあったかも知れませんよ。伝説の
行きになるのが神武手前ですから、即断回答は出来にくいですね。
また明日。

ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・
649ひっと:2008/02/29(金) 23:37:29
>>647
1500年在位を1500年間に訂正です。
650日本@名無史さん:2008/02/29(金) 23:42:24
今月の月間ムーの邪馬台国はどうよ
651ひっと:2008/03/01(土) 00:01:37
>>648
司馬遷の史記では神話の時代、日本書紀では神代の時代に朝鮮半島だけは
人間として檀君という人物が実在していて、何倍暦か知りませんが半島に
15年から1500年位の間君臨していたということで正解ですか。。。
お休みなさい。
652太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/01(土) 07:16:42
>>651
さきほどの文面だけでは結論は無理でしょう? 記紀の神代つまり神武手前は
年月日が神武東征以外はほとんど無いですから、伝説の域を出ませんので推察
のみしか語れないということです。そのアリラン書も拙者の研究を距離があり
ますし、あの文面のみでの回答せよは即断につながり判断は困難ですよ。
653日本@名無史さん:2008/03/01(土) 11:39:29
天皇の年齢が長すぎて不自然だというのは大きな問題ではないと思われます。
名前やその功績のはっきりしない天皇を系譜から割愛しただけの話です。
無理やり適当な名前の天皇を押し込むより良心的だとも言えます。
654太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/01(土) 13:18:22
>>653
紀年策定には大きな大きな問題ですよ。
2段目を言っても割愛の根拠なしではあなたの恣意的考えにとどまりますよ。
どんな別の天皇がいたというんですか??
655日本@名無史さん:2008/03/01(土) 14:22:22
邪馬台国とは九州の王権
ヒミコが死んで解体し、その一部族が奈良に入り血縁の少女トヨを立てる
兄弟の崇神が実質支配者、トヨが後にアマテラスと称される部族の宗主
656ひっと:2008/03/01(土) 16:00:22
大国さん、何故金日成の死亡直前に檀君の墓というものが発見され、しかも3mもの
身長の人骨があったなどと発表したのか。これは「金」王朝の保全のために嘘デタラメを言って
いるのだと思ってしまうのは私だけですか?仮に北朝鮮が今歴史書の編纂にかかったとしたら
例えば、日清戦争によって日本が勝ち日本のおかげで朝鮮独立が出来ましたなんて絶対書かないで
しょ。史記にしったて、武帝の正統性のために作られた書物ですから前1世紀以前の歴史は史実か
どうか怪しいところが多々あります。日本だけが例外だ。なんてことはないんですよ。
そして、日本と朝鮮は何を基準に歴史書を造り上げたかといえば、「反中国」が基礎になっている
んです。このことは、日本書紀でも三国史記でもはずして読むことは出来ないと思いますよ。
657日本@名無史さん:2008/03/01(土) 16:05:24
>>654それがわからないから誤魔化しているのに…もう、い・じ・わ・る
658太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/01(土) 17:02:44
>>656
例外というのはだいたいにおいてありますね。北さんのほうと日本とはいろいろ
の面で違いがありますからねぇ。それに時代背景、政治事情、地理的要素とか
考えればあっちがそうだからこっちもそうだとはならんでしょう?w
いまは北さんは金さんの絶対的体制にありますからねぇ。上から言われたことは
絶対ですから真もへったくりもないでしょう?反体制社には恐怖政治的状況なん
でしょう? だからイカサマ文というのはあることはあるわけですよ。当時の
日本は¥も絶対性はあったでしょうが、それが恐怖政治だったのか、そこまでは
疑問でしょうよ。

例外がないならば倭人伝もそうなりますよ。あなたの説明だと全部古文書は
デタラメだという雰囲気ではないですか? 例外ないと言うなら倭人伝のほうも
デタラメだと主張するべきでしょうが?

>>653 >>657
>名前や功績のはっきりしない天皇を系譜から割愛しただけ

これもおかしな解釈ですねぇ? もしそうならば神武東征手前の、神代の記紀の
文はこれは名前とかはまぁいいとしても、年代が「はっきりしてない」じゃない
ですか? それなのに割愛するなら天之御中主神、天之常立神からアマテラス〜〜
天降りまであたりの文はなぜ太安万侶、舎人親王らは割愛をやらないんですか?
659日本@名無史さん:2008/03/01(土) 18:28:26
>>658それには他人に言えないい深い事情があるわけで、
    その辺の事情を汲んで解釈するのが大人というものですよ。
    身贔屓と言っちゃ聞こえが悪いが、まあ、そういうことですよ。
660太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/01(土) 21:13:08
>>659
>他人に言えないい深い事情

それがある可能性はあろうが、もう少し具体的にどういうものでどう
いうやり方で天皇の並外れて年齢がでかいのか? 信仰心からの
神格化でのガリバーの誇張というのはあるが、言えない事情が天皇
の超長寿にせねがならぬのか? そういうことを合理的に説明できて
からにされたい。そういう説明でなければ、あなたのこのスレを読ん
での思いつきでの即興話だと観ますよ。

拙者は倍暦でしょっちゅう関連スレでいろいろと説明を行ってます。
661日本@名無史さん:2008/03/01(土) 22:08:55
>>660
自分で倍暦、三倍歴などと都合のいい解釈をして、無理に
辻褄を合わせようとするからおかしなことになるのです。
わからないところはわからないでいいではありませんか。
662太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/01(土) 23:19:10
>>661
辻褄かどうかこれを見てから以後ものを言え。

【日本書紀 欠史八代間の天皇の崩御日表】

 綏 10日
 安寧 6日
 懿徳 8日
 孝昭 5日
 孝安 9日
 孝靈 8日
 孝元 2日
 開化 9日

こんなに死んだ人間が連続で全部月前半に死ぬものなのか? こう
いうことは、天皇が大半自殺したり殺されたりしたとかでない限り
生物学的にありっこない。こういうように文証を挙げてものを言え。

当時は月の後半(16日〜30日)がないではないか? こう考えたく
なるのが当たり前だろう。1ヶ月が14、15日だけだとか上旬だけ
しかないなら、これは2倍暦、3倍暦をやっていたとの文証になって
来る。しかも死ぬ日はある日突然来るんだから、基本的に恣意的とは
いい難いぞ。
663日本@名無史さん:2008/03/02(日) 21:57:27
古墳時代と現代では、生死観がまったく異なっていました。
現在の戸籍法なら届出義務者が、死亡の事実を知つた日から
7日以内(いろいろ例外がある)に届け出る必要がありますが、
天皇が崩御された場合は、いろいろ事情があってすぐ発表でき
ないこともあろうかと思います。
崩御日を10日までとするのは古来の習わしかと。

古代史研究には、柔軟な発想が必要です。
664日本@名無史さん:2008/03/02(日) 22:25:56
ところで、次の天皇はどのようにして決めたのでしょう。
中には、新しい天皇が決まるまでは、前天皇に生きていてもら
わないと困る人がいたのではありませんか?
そのへんが「他人に言えない深い事情」のような気がします。
665太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/02(日) 22:49:46
>>663
ならば10日までとする根拠をもって来い。もって来られなけりゃぁ、
お前の脳内での只今即興した恣意的思いつきだよ。お前の言って
ることは根拠からではなく、無根拠で勝手に数字を操作、うっちゃ
った脳内での創作もの。10日は20日だとの誤魔化しをせんが為の
即興のたくらみであり、何の権威もない。ww

666日本@名無史さん:2008/03/02(日) 22:54:11
残念ながら今のところその根拠を示すことはできません。
しかし、考古学に権威など必要でしょうか?
必要なのは、真実に対する飽くなき探究心です。

では・・
667太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/02(日) 22:55:51
>>663
いかにも即興の頭で論理的に見せかけて、もっともらしく論理的美辞麗句を並べ
ているだけで、その議論には資料等の片言もない。笑い止め。wwwww
668太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/02(日) 22:58:15
>>666
真実だと〜〜??ww 真実が

 10日=25日

になるのか??ww いい加減な大出鱈目を言うな。
669日本@名無史さん:2008/03/02(日) 23:24:37
実際に崩御されたのが25日でも、
古式の則って5日と発表しても、
何の問題もない。
670太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/02(日) 23:28:18
>>669
だからお前の即興したのを根拠を出せよ。そういう事は大問題となるので、
古式に則って10日は10日と発表するんだよ。
671太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/02(日) 23:35:14
>>669
お前の豆脳の論理では、隅田八幡鏡の銘文は

「・・・八月日二十大王年・・・」

となるのか? そうだと想うなら、お前嘲笑されるぞ。wwwwwwwwww
672日本@名無史さん:2008/03/02(日) 23:37:06
真実は一つ。
673ひっと:2008/03/03(月) 15:23:53
>>658
倭人伝にもデタラメはあるし、書紀にもデタラメがあると言っていますよ。
倭人伝の里数戸数はデタラメです(ご参考までさんは「誇張」と言っていますが同じ見解です)
嘘、デタラメ、誇張、歪曲などが何故起こるのかといえば、歴史書編纂時期の政治状況が非常
に大きく物を言うからです。史記、漢書などと比べても三国志というのは現代史に近いので
史料価値は非常に高い。それでも誇張、歪曲など多々あるのです。晋国の皇帝の都合の悪いこと
はやっぱり記述出来ないんですよ。
もし日本書紀が大国さんの言う中国史書とのすり合わせに作られた書物であるのなら注でも入れ
て年代の齟齬を付け加えていると思いますよ。
674太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/03(月) 16:08:30
>>673
九州と本州の畿内とは別国だよ。そんな九州にあった女王国を朝廷
が直接都合が悪いということは別の国だから考えにくい。あなたは
女王国が畿内にでもあったと考えてるんだろうが、そこにあったん
ならあなたの主張からだが、仁徳世の手前の辺に紀が畿内に女王国が
あったとかの記載をするはずだ。仁徳が女王国を滅ぼしたんなら
なおさら勝ったた勝ったと朝廷には都合がよくて舎人親王らが詳細に
戦況を紀に書きこむだろうが。誉田以前がいないならその分の数の
合ってる古墳はどこの馬の骨の墓なのか? そういうところまで仁徳
以前が無と言うならば相当程度具体的に調べて何様なのか議をせね
ば、恣意的一方通行の危険、冒険論だとしか思えないね。
675河童 ◆EY2wfgakAQ :2008/03/03(月) 16:11:54
>里数戸数はデタラメ

じゅあ
真実の里数戸数はいったいなに?
デタラメの対岸には必ず真実があるから、それをデタラメと表現する事ができるんだよね
676太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/03(月) 16:16:11
>>674 訂正 
× そういうところまで仁徳以前が無
○ そういうところまで應神以前が無
677太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/03(月) 16:32:30
>>673
一段目はそのとおりだよ。デタラメはある。だからと言って里数戸数
がデタラメだと言うんなら、その根拠がなきゃぁ単なる主張のみに
留まるだけだよ。一段目が正解だからそれらの数が出鱈目だというに
は必ずしもならんね。あなたは一段目の主張から飛躍してるんだよ。
あなたのは陳列棚に合った某パソコンが壊れてるから、そのへんの
パソコンが壊れているという説明なんだよ。こういう飛躍があなた
はここのスレで結構やってるが、こういう論では地についてるとは
言えず、根拠薄弱でのあなたの結論としかこちらは見ないよ。

当時は現代のような最新鋭の測定機器等があったわけでもないから、
あのくらいの数の説明は立派な記述だと言えるよ。だから誤差は
当時の状況からはやむを得ないものだよ。
678日本@名無史さん:2008/03/03(月) 17:10:51
てすと
679ひっと:2008/03/03(月) 17:17:53
>>675
ご参考までさんと里数戸数はほぼ同意見なのでそれを参照にしてください。

>>677
例えば、邪馬台国が沖縄にあったとしたら、誤差はやむを得ないかもしれません。
それでも、太平洋のど真ん中あたりに行く誤差は変ですけど。
しかし、里数戸数は明らかに陳寿の作意があります。倭人伝だけ読まずに三国志
全体を一度ご覧になれば陳寿の作意は他にもありますから解ると思います。
680河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/03/03(月) 17:34:42
>>679

どんな作為があるんだい?戸数里数の実態を掴まないうちからデタラメはないでしょう。
真実があるからこそのデタラメですよ
681河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/03/03(月) 19:18:11
「長安から」…漢書西域伝…


・ゼン善國(六千百里)
・尉犂國(六千七百五十里)
・小宛國(七千二百十里)
・ホータン國(九千六百七十里)
・皮山國(萬五十里)
・西夜國(萬二百五十里)・ケイ賓國(萬二千二百里)・烏弋山離國(萬二千二百里)
・安息國(萬千六百里)
・大月氏國(萬千六百里)
・康居國(萬二千三百里)
682太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/03(月) 19:24:15
>>679
他の方の言説ならそれを >>□□□ とかで示してくれなきゃぁ困りましたなぁ?

太平洋のど真ん中には行かないでしょ。陸行一月を言ってるのかと思うが、一本
線的意味の旅程の記述じゃないですよ。それは一本線的な記述も北九州までは
ありますがね。だから倭人伝は旅行記ですよ。

水行十日陸行一月っていうのは女王国初見聞のために、あるとき女王国の情報を
得たか、行ったことがないので海岸部観光から内陸部へ探索してみようという
ことで、遣使と観光とを兼ねてどんな所なのかと、内陸のあっちこっち
を探検したんですよ。だから分からない地帯なので一本線で女王国に到達したん
ではなく縦横に準ジャングルを探検していたところ、日々のうちのある日のこと
前方の視界が開けて木造建築群の小都を発見して喜び勇み、そこの住人と手まね
で話をして女王国と知り実態調査したというものです。観光と未知の場所の
探検であり、ゆっくり九州内陸を観光するなら三月、四月滞在してもいいわけで、
それが水行十日陸行一月という意味ですよ。おかしくはないです。
683日本@名無史さん:2008/03/03(月) 20:03:41
>>682
当時は正確な地図も無く、海岸〜平野部〜山間部を右往左往しながらの旅だったと思われる。
684日本@名無史さん:2008/03/03(月) 21:39:31
なぜこの時代の世界情勢や九州・出雲・吉備・大和・東国
の情勢を考慮しようとせず、ひたすら魏志倭人伝の記述に
だけこだわるのかわからない。
ものの見方があまりにも偏狭すぎはしないか?
685日本@名無史さん:2008/03/03(月) 22:02:21
邪馬台国が存在した時代に近い時期に、邪馬台国の詳細(と呼んでもいいのか疑問だが)を記載した文献が魏誌倭人伝しか無いからね。

例えば『日本書紀』や『古事記』に魏誌倭人伝に書いてある邪馬台国は日本の○○地方に有って、卑弥呼や台与については後の○○氏の始祖、または後の大王との繋がりを関連付けして記載してくれていたなら…
後世に邪馬台国所在地論争が果てしなく行われる事も無かったであろう。
いつの日か『親魏倭王』の金印が出土する日が来ると期待するしかないね。
686ひっと:2008/03/03(月) 22:28:36
>>682
東夷伝から読んでいくと、スタート地点が大体八丈島手前位からになっているんですよ。
そこから倭人伝の記述どおりに南に東南にて行ったら太平洋のど真ん中あたりにきますよ。
この、スタート時点がすでにデタラメなのにゴールが正確に書かれるわけないじゃないですか。
ここで、司馬懿が何を書きたかったか簡単に里数と戸数を説明すると、大月氏とのバランスです。
洛陽〜邪馬台国(首都)まで、約17000里
倭国合計戸数が約15万戸 邪馬台国に限っては約7万戸(洛陽に合わせた可能性もあり)
一方、この対比として、
洛陽〜藍氏城(首都)まで、16370里
戸数10万戸、人口40万
ここが大月氏です。トリキスタン、アフガニスタン、パキスタン、インドまでを征服した
王の次の次が波調です。そして229年この波調の使いが魏に朝貢したものだから明帝は大喜びで
「親魏大月氏」の称号を与えたものです。大月氏というのはガンダーラ文化の中心です。
親魏大月氏の称号がいかに強烈であるか理解いただけるでしょうか。

邪馬台国が大月氏と同じ親魏〇〇の称号をもらえる大国であったのなら解りますが当時の
日本がこんな大帝国を築いているはずはないと私は思っています。というか確信しています。
ところが、小国日本に親魏倭王など与えてしまったために陳寿は里数戸数をここまで肥大させ
ないと司馬懿の面子が立たなくなったということです。
687太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/03(月) 22:37:57
>>686
だからどうして八丈島手前からになるのか? そういうことを先に
説明なしで、すぐ飛ばす論理があなたのマズイ点。

日本が小国だから誇張したようなことを言ってますが、小国っていう
ことくらいならば、大陸の親分あたりも臣下から聞いて知ってるだ
ろうが?w だからものによってはそういういい加減な書はあろ
うが、だからといって伝もイカサマ紀もイカサマにはならんだろう?

たとえば大成経なんか信仰上のことでか天皇の誇張をやっていて滑稽
だよ。こんなことが偽書の汚名をつけられた因やも知れんが?
688日本@名無史さん:2008/03/03(月) 22:44:47
邪馬台国八丈島説に1票!
魏志倭人伝は正確無比。
689日本@名無史さん:2008/03/03(月) 23:14:31
『親魏倭王』の金印を授けたのは、日本海を渡りはるばる魏の都まで朝貢してきた事に意義があるからでは無いのかな?

わざわざ危険が伴う日本海を渡って、遠方からやってきた国に対して礼をつくした。
また、魏の敵対する呉・蜀に対して、海の向こうには同盟国があるんだと、牽制の意味を込めたとも考えられないだろうか?
690日本@名無史さん:2008/03/04(火) 02:56:50
実は邪馬台国は太平洋のど真ん中に浮かぶムー大陸
沈んでしまったのでもう無い
691日本@名無史さん:2008/03/04(火) 13:11:37
>>690
それはそれで、或る意味ロマンがあるね。
692日本@名無史さん:2008/03/04(火) 14:05:48
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
693ひっと:2008/03/05(水) 10:55:55
>>687
東夷伝では帯方郡より南の地を方4千里ばかりと言っています。この大きさが
大体八丈島手前ということです。
694太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/05(水) 11:16:52
>>693
外出なので要点だけ書くが、当時の大陸の連中は日本を九州のことを倭と考え、
本州のことをも含んで倭と考える交錯があったようで、あんたの言う八丈島云々
とは、後者の考えで言ってたんだよ。だから倭人伝の旅程関係に誤差はあろうが、
滅茶苦茶でもないんだよ。またあとで・・・。
695ひっと:2008/03/05(水) 12:10:58
>>694
朝鮮半島南部が方4千里だというのは、次の倭人伝で大体立証できるんですよ。
そして、三国志東夷伝の朝鮮半島南部からの里数が嘘(誇張)だというのも、
晋書で解るんです。また後で説明します。
いってらっしゃい。
696太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/05(水) 14:53:05
誇張もものによってはある。距離が間違っているからといって故意でイカサマ
したとはまだまだ言い難い。距離はおおむねの判断の参考でいい。あまり距離に
こだわらないほうがいいということだ。ただ、大陸から半島までは故意のウソで
ない限りは大陸半島の人らにとっては四六時中の往復ができるから旅程は殆ど
わかっていただろうから明白性が高いだろう? しかし倭は未知の土地、異国で
あるから、まぁ北九州あたりはけっこう大陸半島に交易等で情報が行って二次的
に正確性が高い状況にあったと思うが、それより九州以南は彼らでも正確性が取
れてなかったということだ。それに先述のとおり、倭とは九州のみの場合と本州
を含んでの意味の交錯を倭の情報が少ない大陸半島の連中にとっては当然あり
えたことで、さらに朝廷の基盤が堅くなってからは朝廷の畿内のほうを優先的と
いうか倭と考えていたとも想えるわけで、朝廷の勢力が拡大化のころからは畿内
を 大倭=大和 と言っていただろうとの推察も可能である。

そこで中国古文献と日本の古文献が違えた記述があるから、日本の古文献のほう
が出鱈目だとかその逆を、即断で主張するのはよくあなたのやる判断のようで、
よく調べて考察検討すれば、一見違えているようだがある合理的理由により双方
の記述が矛盾がないことも知れるわけで、イタヅラに両者の記載が合わないから
片方を恣意的に間違いだと断定的に結論するのは大間違いに至りやすく、この
間違いに気づくかないと、そこから間違いの増幅をやってさらに自説の失敗に
恒久的に近く分からず強信してしまうことになる。その典型があなたとスレ主。
697ひっと:2008/03/05(水) 16:05:31
>>693 続き
倭人伝では
郡(帯方郡)より倭に至るには、〜中略〜その北岸狗邪韓国に到る7千余里とあります。
これは、ソウルから釜山まで海岸線沿いに7千里ということなんですが、これが先に言った
方4千里と一致します。
一方晋書張華列伝では、幽州(北京)から馬韓(半島西南端)までの里数をほぼ正確に記述
されているのだから、陳寿も張華も魏志東夷伝の里数は嘘(誇張)と知りつつ記述したんです。
結局、こんな大きな朝鮮半島がスタートなのに、ゴールが正確になるわけもないのです。
698日本@名無史さん:2008/03/05(水) 16:32:57
>>695
ひっとさん

>郡(帯方郡)より倭に至るには、〜中略〜その北岸狗邪韓国に到る7千余里とあります。
これは、ソウルから釜山まで海岸線沿いに7千里ということなんですが、これが先に言った
方4千里と一致します。
一方晋書張華列伝では、幽州(北京)から馬韓(半島西南端)までの里数をほぼ正確に記述
されているのだから、陳寿も張華も魏志東夷伝の里数は嘘(誇張)と知りつつ記述したんです。
結局、こんな大きな朝鮮半島がスタートなのに、ゴールが正確になるわけもないのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一方晋書張華列伝では、幽州(北京)から馬韓(半島西南端)までの里数をほぼ正確に記述 していると分かるんですか?おしえてください。
それにひっとさんは、ソウルから釜山まで海岸線沿いに7千里と言っていますが、どうやってソウルや釜山が分かったのでしょう?おしえてください。
ひっとさんは、こんな大きな朝鮮半島がスタートなのに、ゴールが正確になるわけもないのです。と言っていますが、そんなに大きな朝鮮半島になるのでしょうか?おしえてください。

699太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/05(水) 18:37:15
>>697
そのころは大陸半島の往還はしょっちゅうやってただろうから、倭人伝に
イカサマを書けば、なんだこれはと里程を知る大陸人半島人に冷笑されるよ。
だから双方の記述の相違はイカサマの場合もあることはあるが、特段の事情の
何かがあるんだということだ。

それを出鱈目の一言でわき目もふらず結論しちゃうのがあんた。なにか事情が
あるんではないのかとか、そういう考えがないから何かと言えばす〜ぐ否定で
終了しちゃう。こういうんでは、うまくないですよ。

大陸半島の里程の記述のそういうのよりも日本上陸のほうが重視すべきだが、何
といってもあちらから見れば九州の奥は大陸半島よりも当時謎に包まれた地域
だから、日程、里程の記述があっても誤認はあろうし、参考に留めたほうが懸命。

八丈島とか太平洋の遠くになってしまうということは、あんたの里程、日程の
計算とか対応にどこかうまくない失敗があるからで、それを陳寿のせいに
するのはこれもうまくないねぇ。

あんたのどこかに失敗がある と考える。それをあんたは陳寿の記述が出鱈目
がある とする二本の分岐点で、いつも結論が後者に速着しちゃうのがあんた。
700ひっと:2008/03/05(水) 22:46:28
>>698
晋書張華列伝では幽州から馬韓まで4千余里と言っています。幽州は楽浪の東北2千里と言っていますから
洛陽から楽浪郡までが東夷伝から5千里なので幽州から楽浪が3千里となります。4千ー3千で楽浪から馬韓
までが千余里というこになります。張華が半島の大きさをよく理解していた証拠です。
だから、倭人伝の帯方郡から狗邪韓国が7千里になるはずがないということです。

まず、邪馬台国に親魏倭王の称号を与えたことが倭人伝での肥大里数になっているのですが、これは前にも
言ったとおり親魏大月氏とのバランスです。何故バランスが必要かといえば、明帝の死後斉王曹芳皇帝を司
馬懿と曹爽の2人で補佐したためで、曹爽の父が獲得した親魏大月氏の兼ね合いとして親魏〇〇が司馬懿
も必要であった。ということです。そこに司馬懿が支配下にしていた東夷の最も遠いとこから朝貢してきた
のが卑弥呼の使いだったので、卑弥呼に親魏倭王の称号を与えたものです。
この後、司馬懿が曹爽をだまし討ちで倒し、魏の実権を握ったために「東夷伝」が三国志に載ったのです。
曹爽が魏の実権を握っていたら「西域伝」になっていたでしょうね。
結局、司馬懿の親魏倭王を最大限肥大させないと曹爽の父曹真の親魏大月氏とのバランスが取れないということです。

701ひっと:2008/03/05(水) 23:06:07
>>699
里程や日程の計算を無理やり合わせるために「単里」や「倍暦」など荒業を使うほうが失敗だと思いますが。。。
史書の矛盾点を解明するには、歴史書が書かれた時の時代背景や政治状況が必要不可欠だと思っています。
歴史書を読む場合、後から前に向かって読むと色々矛盾点が解明されるのではないでしょうか。
702ひっと:2008/03/05(水) 23:13:57
>>700
幽州は楽浪の東北2千里は
幽州は洛陽の東北2千里の間違いです。
失礼しました。
703河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/03/05(水) 23:38:04
>>700

>晋書張華列伝では幽州から馬韓まで4千余里と言っています。幽州は楽浪の東北2千里と言っていますから
洛陽から楽浪郡までが東夷伝から5千里なので幽州から楽浪が3千里となります。4千ー3千で楽浪から馬韓
までが千余里というこになります。張華が半島の大きさをよく理解していた証拠です。
だから、倭人伝の帯方郡から狗邪韓国が7千里になるはずがないということです。


で、
>晋書張華列伝では幽州から馬韓まで4千余里と言っています
>幽州は洛陽の東北2千里
>洛陽から楽浪郡までが東夷伝から5千里
>幽州から楽浪が3千里

この数値は信用しちゃうの?

>親魏大月氏とのバランスです

→で、大月氏って一体何処に住んでいたの?(既に公式に確認されたのかな?)
バランスと言ってるけど、大月氏国までの(萬一千六百里)の起点は『長安』
女王国までの(萬二千余里)の起点は『帯方郡』からで、ぜんぜんバランスなんて考えていないんじゃないの?起点もバラバラだし

ま、その前に大月氏国の都ぐらいは確定させないと話しになんないんじゃないの?
704太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/05(水) 23:51:37
>>701
あなたのほうがよっぽど荒行でしょうが? あなたは今回はそうでもないが、
論理の飛躍が多く、肝心のところは論じないで上っ面での展開で結論のところは
強く言うような欠陥を感じますよ。

あなたは倍暦まで荒行だとか言ってますが、ならば>>662の崩御表はなぜ全部
月の上旬なんですか? こういうことは天皇が自殺とか暗殺とかでない限り死ぬ
日は人為的に決められないわけで、あなたはこの前適当に日数を配剤したような
話ぶりだったと思いましたが、およそ適当勝手に紀に舎人親王らが書き入れたと
いうなら、志望年月日を1日〜30日までイカサマ、八王朝相撲が分からんように
分散するでしょうが?ww こっちはちゃんと文献を出してあなたの言い分の
おかしいところを指摘してるわけですよ。このような死亡日は上旬に全部あると
いうことはだ、当時1ヶ月が10日しかなかった時期があるということを肯定せざ
るえませんね。つまり当時の1年は4ヶ月しかない時代があったということに
なるんですよ。

荒行では否定の根拠語にならんでしょうが?
705ひっと:2008/03/06(木) 00:11:31
>>703
大体あっていると思っています。
洛陽〜幽州間が今の鉄道路線で約808km(約1800里)、幽州から楽浪まで道路状況を換算して
約1000km余りでほぼあっているのではないでしょうか。

後漢書西域伝では大月氏の首都藍氏城が洛陽を去ること16370里とあります。
洛陽から楽浪が5000里+倭人伝12000里で洛陽から邪馬台国までが17000里ですから里数
を大月氏にあわせていると言っているんです。
706河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/03/06(木) 00:21:45
>>705

>後漢書西域伝では大月氏の首都藍氏城が洛陽を去ること16370里とあります。
洛陽から楽浪が5000里+倭人伝12000里で洛陽から邪馬台国までが17000里ですから里数
を大月氏にあわせていると言っているんです。


それはいいんだけど
大月氏国までの起点が洛陽からなのに、女王國までは足し算しなければならないの?
普通バランスを考えるなら、当然起点を洛陽からにして(萬七千里)とするんじゃないの?


>洛陽〜幽州間が今の鉄道路線で約808km(約1800里)、幽州から楽浪まで道路状況を換算して
約1000km余りでほぼあっているのではないでしょうか。

ところで、この千八百里ってどうやって測ったと考える?(結構大事なところ)
707ひっと:2008/03/06(木) 00:23:15
>>704
大国さんはいつから通常暦にしているとお考えですか?
708日本@名無史さん:2008/03/06(木) 00:24:52
天子の都とする洛陽が世界の中心とするのが中華思想
709ひっと:2008/03/06(木) 00:32:25
>>706
足し算をしなければならないところに陳寿の思惑があるように考えているのですが、
いわゆる、楽浪まではほぼ正確に書いて朝鮮半島南部に限っては嘘(誇張)を書いた
ために2つに分けなければならなかったのではと思われます。考えすぎだと非難される
でしょうが。

中国鉄道路線が、洛陽から北京までが約800kmだから約1800里です。当時はもちろん
トンネルなどないでしょうから2000里は妥当ではないでしょうか。
710河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/03/06(木) 00:40:59
>>709

>足し算をしなければならないところに陳寿の思惑があるように考えているのですが


>>708さんが言うように、中華思想の理念をないがしろにしても?


>2000里は妥当ではないでしょうか

で、その2000里はどうやって計測したの?
711ひっと:2008/03/06(木) 00:41:29
大国さんは私に「そんな嘘を書いたら笑われるだろう」とよく言われますが、
例えば、今中国共産党が今歴史書を作ったとして、「南京大虐殺30万人」等と
書いた場合、果たして中国人に馬鹿にされるでしょうか?もちろん私たちは
馬鹿馬鹿しいで終わりでしょうが、中国人は真剣に受け止めるとは言わないまでも
黙殺はしそうでしょ。こうして、500年、1000年経つと史実となるかもしれませんよ。
712河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/03/06(木) 00:45:35
>>709

つまり
時の帝国にはちゃんと長さを測る道具と、距離を測る道具があって
その道具によって計測されたんだよ

で、その2000里はどちらの道具で測った値なの?  で、その道具はいったいなに?
713ひっと:2008/03/06(木) 00:45:49
>>710
今の鉄道路線で1800里だから、当時では2000里ぐらいは妥当だと考えていますが
「200里」の差はそんなに大事ですか?
714河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/03/06(木) 01:00:11
>>713

別に二百里の誤差なんて気にしてないよ
715日本@名無史さん:2008/03/06(木) 03:37:28
>>712
陸路なら歩測だな。「測量」をするつもりで掛かれば精度はかなり高い。
716ひっと:2008/03/06(木) 09:51:07
>>712
道具は使ってないでしょう。おそらく。
715さんの指摘どおり歩測でしょうね。
717河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/03/06(木) 10:06:51
>>715-716

機械があるんだから機械を使おうよ
その為の度量衡だろう。
718太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/06(木) 14:29:28
>>707
仏伝あたりで恒常的に通常暦になっているようです。宣化の時代だね。
ただし、綏の時代頃も通常暦をやってたようだ。

>>711
それは利害がかかっているから、にくい相手には誇張で非難することはあるに
違いない。だから十のところ百だと言って来るわけだ。倭人伝の旅程なんか
そんな利害があるのかいな? だから見解の相違とかで、九州一国と観ての考え
と本州を含めての考えがあり、日本の姿が朦朧状態の時では双方が交錯して主張
が狂ってくるわけで、距離が違うから間違いだ〜では先行しすぎの短絡的判断で
あり、なにゆえ違うのか、ただ間違いだの即断ではなく、何らかの事由が存在
するためにかような記載の断層を生じたということを想うべきで、そういうこと
は相当ありうる事であって慎重に吟味、検討を加えての客観的な総合判断での
主張を行うべきであろう。それでも主張が正解でない場合だってわりかしあり
うることだがね・・・。
719ひっと:2008/03/06(木) 22:28:29
>>718
宣化の時代になにか大きな出来事があって、日本では現在の暦にしたのですか?
どうも書紀からそんな記述は伺えませんが。継体からの越前王朝ぐらいからならまだ大きな
出来事があったかもしれませんが。

話を倭人伝に戻して、もう一つ
「その道里を計るに、会稽の東冶の東にあるべし」
「有無する所儋耳・朱崖と同じ」
この2つの文にも陳寿の思惑があるものと思われます。
蜀に対しては魏と大月氏で挟み、呉に対しては魏と倭国で挟んでいたのだと言いたかったのでしょう。
720太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/06(木) 22:48:11
>>719
思惑を倭人伝に彼が書き入れることはありうることだ、それは出鱈目
を書かなくては達成できないことではない。イカサマを書かなくても
思惑は文のどこかに入れこむことは出来るものだ。

仏教伝来によりとりわけ外来の多様な物が日本に渡って来たことで、
暦法もあちら式にやろうということになり、通常暦を恒久的に行使
するようになったものと考えられる。現今では裁判制度が陪審員方式
に変化するらしいいが、かように暦法のほうも当時舶来化したという
ことにて倍暦を廃止したのだろう。
721日本@名無史さん:2008/03/07(金) 01:27:32
>>717
機械? はるか後世でも長距離の測定は歩測が基本だったというのに何を使うっての?
722日本@名無史さん:2008/03/07(金) 01:35:39
>>719
「会稽東冶の東」というのは、単なる地理概観じゃないですかね?
でも、地理の概観なら、基本行程で述べられているだけで足りているはずなのに、
あえて書きそえたというのは、確かに何かの意図があったと考えることも不可能ではないですが。
風俗の異同も、具体的な誰が調べたのかは分からないけど、持ち出したのは、
何か意味ありげではありますね。
723日本@名無史さん:2008/03/07(金) 12:19:56
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
724ひっと:2008/03/07(金) 14:17:50
>>722
陳寿は、漢書地理史、魏略、公志などを基に倭人伝を作っていることは間違いないでしょう。
邪馬台国を巨大国家にしたて、方位も南に持っていっている所に倭人伝の意図があると思われますね。

ところで、面白いことに九州論者の里数に拘っている人たちはあまりこの魏略を重要視されていない
ように思われますね。私が邪馬台国九州説を道のりだけに限って論じたとしたら、陳寿の里程は魚豢
の里程に新たにありもしない国々を付け加えて邪馬台国を遠くに見せかけてるだけで、魏略、公志の
里程が正しいと主張してしまうかもしれませんね。魏略の道のりだけに限ると邪馬台国は九州にあった
かもしれません。ただ、魏略自体はなく逸文がいくつかしか残っていないことが残念ですが。
725太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/07(金) 14:27:30
>>724
倭人伝のどこかに巨大国家と書かれてあるんですか? かなり規模は朝廷
のほうと比べて相当小さい国だったと想うね。大きければ畿内まで女王国
の所在が知れてくるし、伝以外で情報も記紀に載りやすくなるからな。
726河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/03/07(金) 15:40:01
>>721

>はるか後世でも長距離の測定は歩測が基本だったというのに何を使うっての?

http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/photo/stamp/kirikosha.htm

長距離ほど機械のほうが誤差は少ない
727ひっと:2008/03/07(金) 18:30:22
>>725
戸数15万、邪馬台国に限っては7万戸なんて、巨大国家ですよ。
728処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/07(金) 18:46:14
原文中の「至」と「到」の使い分けには注意しなさいよ。
729処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/07(金) 19:10:05
「至A百里」とあれば単に「百里行けばAがある」、「到A百里」なら
「百里でAに到着する」という感じにニュアンスが変化する。

「到」は二度使われている。最初は狗邪韓国、二度目は伊都国の部分。
狗邪韓国に「到」着して区切りがついて、「始」めに対馬国への
道程の解説が始まり、続いて「又〜至××」の形で伊都国に「到」着
するまでの経路が続く。その後は「又」はなしに伊都国から
それぞれの国にまで「至」る道のりが記してある。

これが倭人伝の「放射説(伊都国から放射状に道程が記してある)」、
乃至は「斜行式」の読み方。常識の範囲ね。
730処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/07(金) 20:24:35
この解釈が発表されたのは歴史研究が自由になったばかりの昭和二十三年。
それまでは北九州説も存在しはしたが、邪馬台国畿内説が前提の
直線的な読み方を中心に議論されてたんだと。

進歩しねえ国だな。
731処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/07(金) 20:29:53
この人ね。

榎一雄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E4%B8%80%E9%9B%84
732太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/07(金) 20:43:46
>>727
すると1万戸くらいだと狭小国家だというですか? もしそうならば
そのころ1万戸くらいの国家もあったというわけですね?
女王国が巨大国家だというと中規模国家もあったでしょうが、ならば
畿内朝廷はどのくらいの国家ということになりますか? 中規模
ですか、狭小ですか、巨大ですか?
733ひっと:2008/03/07(金) 23:04:33
>>732
晋代の首都洛陽を取り囲む河南郡は11万4千戸ですよ。洛陽だけでは10万は割っているものと思われます。
>>686で邪馬台国に限っては約7万戸(洛陽に合わせた可能性もあり)と書きましたが大体洛陽でもこんな
ものではないでしょうか。邪馬台国がいかに巨大に書かれてるかがわかり、そうすると、この戸数が嘘であ
ろうことも解るのではないでしょうか。
734太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/07(金) 23:08:31
>>733
洛陽の都より7万戸はやや少ないわけですね? 都より少なくて巨大国家と言え
るんですか? これでは小国家が妥当じゃありませんかな?
735ひっと:2008/03/07(金) 23:24:26
>>729
「郡より女王国に至る万二千余り」は途中経過ですか?
736ひっと:2008/03/08(土) 00:06:25
>>734
東夷伝では、帯方郡から馬韓まで
「約55国。大国は万余家、小国は数千家、すべて(合計)十万余戸」といっています。
辰韓の地と弁辰の地では
「24国。大国は4、5千家、小国は6百、7百家すべて(合計)4、5万戸」と言っています。
これを見ると邪馬台国がいかに超大国であるかのように書かれたか解りませんか。
対馬国〜邪馬台国の8国だけで15万戸、斯国〜奴国までの24国の戸数は解りませんが、
24国の合計が4、5万戸と仮定したとしたら、大国さんが当時の倭国や邪馬台国が九州に限
ったことの話だと主張するのであれば九州地方はとんでもない一大帝国が築かれていたこ
とになりますよ。
737日本@名無史さん:2008/03/08(土) 00:31:16
>>726
そんなのは、実際の路面の状態を無視した「実用に耐えない無意味な考案」。

> 長距離ほど機械のほうが誤差は少ない
根本的に間違ってますよ。実際の路面では、デコボコを拾ったり空転したりするので、
長距離になるほど誤差が大きくなるから、歩測のほうが正確。
もちろん、漫然と歩くだけでは駄目で、伊能忠敬がやったような要領で。精度を
確保することが不可欠。

いうまでもなく、「測量が目的で旅行するなら」の話で、測量など、未開地の旅行の
片手間にできることではないから、距離の数字自体を絶対視するのはナンセンス。
738日本@名無史さん:2008/03/08(土) 00:37:36
>>728
そういう仮説もあるのだが、一番肝心の中国語の文法では、「至」と「到」をことさらに
使い分けたりしないから、「中国語の文法を無視して、日本式魏志倭人伝文法みたいな
特殊な文法を創作する」のでもないなら、残念ながら、特に深い意味があると解釈する
ことはできないんだったりする。

>>729
という仮説もあるし、それに則ると、行程を整理できるんだけどね。
739河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/03/08(土) 01:46:52
>>737

そもそも距離に対する度量衡ってなに?
740日本@名無史さん:2008/03/08(土) 02:33:40
>>739
まず、距離を機械で測ると思っていたのは間違いであったと認めて明確に訂正しなさい。
それができないなら、何をやっても駄目。
741日本@名無史さん:2008/03/08(土) 03:05:32
秦軍が遠征するばあい、1日の旅程は30キロ
多くても少なくてもいけない、そう秦王が決めたからだ
軍の運用上、距離を正確に把握するのは軍事の要
地図は最高の軍事機密
日露の頃まで、外地の地図は日本陸軍の測量部が歩測で測って作っていた
旅人や通商隊に扮して命懸けで旅し、地図はカスピ海まで及んだ
742日本@名無史さん:2008/03/08(土) 03:10:36
>>741
うむ、単純な漫遊の類いではなくて、軍事目的も兼ねて、可能な範囲で正確に測定しようとした可能性も考えたほうが良い、ということね。
陸路はともかく、海路は物理的に無理だろうけど。
743河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/03/08(土) 06:13:13
>>740

距離を機械で測らずして、いったい何で測れというんだい?
詳しく説明して味噌?
744太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/08(土) 07:55:18
>>736
中国の見解はいいが、現今の日本の見解で言ってると思うから、あちらの見解を
主軸に考える場合でも、こちら主体の考えを忘れないで書きこんでもらいたい。

日本は小国と通常は言うと思うよ。国名には大日本帝国とか大韓民国とか
あるわけだが、現今では地理的規模では小国だと思うから。大国と言ったら、
ロシア、中国、米国とかを言うだろう?
745日本@名無史さん:2008/03/08(土) 13:23:52
>>744 太国さん
小国と大国は、面積ではなく、総人口(総経済規模)で判断すべきだよ。
面積で判断するなら、現代のモンゴルと日本では、モンゴルが日本より大国となる。

魏志東夷伝全体で見ると、倭は大国。(>>736ひっと氏の論の補強論です)

夫餘:8万戸
高句麗:3万戸
東沃沮:5千戸
挹婁:記述無し
濊:2万戸
韓:14〜15万戸(馬韓10万戸、弁辰4〜5万戸)
倭:30万戸≒14万6千戸+α(α≒15万戸)

倭内訳
倭8ヶ国:14万6千戸3千家(對馬國・一大國・末盧國・伊都國・奴國・不彌國・)
(α)倭22ヶ国:15万戸記述無し(邪馬壹國に対抗する狗奴國が含まれるから倭8ヶ国に匹敵するであろう)
女王國:14万1千戸(奴國・不彌國・投馬國・邪馬壹國)
746太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/08(土) 15:07:12
それは大国というよりも大人口国だろう。w
747処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/08(土) 15:19:38
>>738
現代日本語ですらはっきりした用法の区別があるのにか?

知ったかぶりして誤魔化すな。
748745:2008/03/08(土) 15:28:20
広いゴビ砂漠のモンゴルは日本より大国か?
749処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/08(土) 15:51:40
あ、距離は古来中国では一日に人が歩くのは五十里(約24キロ)で
考えるのが一般的だと。
750処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/08(土) 15:59:09
でね、倭人伝中、帯方郡から女王国まで一万二千里ってちゃんと
書いてあって、道程から割り出した帯方郡から伊都国までの距離を
そこから引くと、伊都国から女王国までは千五百里になる。
751河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/03/08(土) 15:59:27
>>749

で、
その五十里はいったい何で測ったの?
752処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/08(土) 16:06:17
昔の感覚なんてそんなもんだろ。大体で考える。

伊都国が北九州なのは異論はないだろうが、千五百里では畿内には
とても届かない。陸行で換算するとひと月、水行なら十日くらい。
つまり女王国の箇所の記述のままって話。
753ローガン:2008/03/08(土) 17:28:01
>>752
1500里って何km位になるのですか?
754日本@名無史さん:2008/03/08(土) 17:50:03
魏の軍は知らんが、秦軍はドラを叩く奏楽隊が付いてるから
行軍スピードは一定なのだ、時間の経過が解れば歩いた距離が出る
行軍列の中に歩測手がいるのは当たり前
755日本@名無史さん:2008/03/08(土) 18:01:48
古代殷王朝の時代から1里は約4qですから1500里は6000qということになります。
日本から遠く離れて6000qといえばガダルカナル島。幻のスンダーランドにあった
古代文明が邪馬台国ということになります。
三内丸山遺跡も6000q離れた南の島と交流があったとされています。
756処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/08(土) 19:35:09
一日50里歩いて30日なら1500里だろう。混ぜっ返すなよ。
757処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/08(土) 19:40:16
50里が約24kmなら1里は0.48km、ウィキの解説もそれくらいか。
758処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/08(土) 19:50:35
おお悪い。1500里なら720kmか。北九州から関東まで逝っちまう。
しかも直線読みなら不弥国から投馬国までの水行二十日1440kmが
加算されちまう。ロシアまで行けるか。
759処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/08(土) 20:21:27
場所の特定出来る対馬から壱岐までは千余里(480km強)と記述が
あるが、実際には100kmちょっとだ。余りアテにはならないが、
単純に五分の一で換算すると千五百里は歩いて三日前後の
距離に
なる。対馬から壱岐まで千里余なら伊都国から邪馬台国まで千五百里で
良いんじゃないか?

戦前にこの問題に絡んで「短里」って特殊な尺度を提唱した九州
王朝説の人物がいるとかウィキには書いてあるな。
760処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/08(土) 21:01:27
差し当たり議論の分かれ目は二つある。一つは直線読みか放射読みか。
もう一つは九州か畿内か。倭人伝のテキストから後者を議論するには、
まず前者の問題について態度を明確にしなければならない。

さて女王国に至る「水行十日陸行一月」だが、直接的な読み方だと
上陸地が無視されているのが不自然だ。また、陸行を里ではなく
時間で記しているのはこの箇所だけだという点にも注意すべき
だろう。
761処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/08(土) 21:18:00
あ、末廬国は松浦なんだな。ふ〜ん。
762日本@名無史さん:2008/03/08(土) 21:58:09
韓は方可4000里
韓〜対馬1000里
対馬は方可400里
対馬〜壱岐1000里
壱岐は方可300里
壱岐〜末廬国1000里

地図で距離を測定して平均すれば、
1里=70〜90mになる。・・・これ短里
763日本@名無史さん:2008/03/08(土) 22:00:31
1里=100歩 なのか?
764処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/08(土) 22:17:09
松浦から東に糸島郡志摩町があるんだが、律令制の頃からイト郡
(携帯だと漢字が出ない)と呼ばれていて、伊都国は概ね位置が
特定可能らしい。

距離はフカしてる可能性もある。田舎者が自分たちの国を大きく
話したがるのは不自然な景色ではないからな。

放射読みだと宮崎の妻町のある西都原が投馬国に比定出来るぞよ。
765日本@名無史さん:2008/03/08(土) 22:19:23
卑弥呼の墓を径100歩と書いてるが
なぜ1里と書かなかったのだろう
>762
766処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/08(土) 22:29:56
神話じゃ神武東征の話があって、ちゃんと邪馬台国東遷説の下敷きを
用意してあんのに、わざわさ話を混乱させてバカみたいに見えるぞ。

地名相似の件もあるから女王国の位置はあからさまじゃないのか?
767処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/08(土) 23:11:25
倭の五王と呼ばれる400年代の日本の支配者達についての記録で、
最後に武が南北朝時代の梁から東征将軍の称を受けたのが502年、
神武東征神話の歴史背景だって普通に思うだろ。
768日本@名無史さん:2008/03/08(土) 23:16:51
>>743
単なる基本的な常識だから、そのまま暗記すること。
769ひっと:2008/03/08(土) 23:41:52
>>763

1里とは300歩(ぶ)が基本です。
まず、両足を揃えて右足を1歩前に出す。その右足を起点に左足を出す。これが1歩(ぶ)
です。早い話、2歩が1歩(ぶ)ですから300を掛けると1里は450m〜500mになります。
通常450m計算でいいのではないでしょうか。
770処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/08(土) 23:42:41
535年にはインドネシアの火山噴火が渡来人のまとまった流入を
引き起こして社会発展が加速した。この時代には倭の中心の畿内への
移行は完了していたであろう。聖徳太子が登場したのは、時代環境が
整ってたせいもある。大陸の文明を吸収することで普遍的自我を
獲得した当時の日本人は初めて独立した国家として中国に向き
合った。御山の大将でも属国根性でもなしに。

こんな感じ?
771河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/03/09(日) 00:12:37
>>769 ひっとさん

>1里とは300歩(ぶ)が基本です。
まず、両足を揃えて右足を1歩前に出す。その右足を起点に左足を出す。これが1歩(ぶ)
です。早い話、2歩が1歩(ぶ)ですから300を掛けると1里は450m〜500mになります。
通常450m計算でいいのではないでしょうか


かなりメチャクチャ
『両足を揃えて右足を1歩前に出す。その右足を起点に左足を出す。これが1歩(ぶ)
です』 それは単位『歩』じゃなく、和語でいうところの『あるく、あゆむ』

一里がどうして300歩なのか考えたことありますか?
それに、一里=360歩 なんていうのもあるよ

772ひっと:2008/03/09(日) 00:17:12
>>767
神武東征の作り話は何が言いたいのかというと、「神日本磐余彦火火出見天皇」
という名前からも解るとおりすでにこの時代に「日本」という国号があり「天皇」
が存在していたと主張しているんですよ。この記述は8世紀の天皇の支配範囲(日本)
を表しているものです。日本は九州地方より以東であると言いたいがための記述であっ
ていつの時代か不明であるが東征が史実であるというこではないんです。あくまでも8
世紀の天皇の支配範囲を表したにしかすぎません。
773処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/09(日) 00:18:47
もちろん、政府に対するイヤミですからね?
774ローガン:2008/03/09(日) 00:20:45
>>771
まあ、ひっとさんの言わんとするところが、もし左足の動きの説明だったとしたら、
ニュアンスは伝わるではありませんか。


365歩のマーチは?

駄目?

失礼しました。
775ひっと:2008/03/09(日) 01:03:02
>>771
倭人伝でも使われている万2千里とはどういう意味でしょう。これは12000里
の距離があるということではありません。「非常に遠い」という意味です。日本で言う
八百万の神と同じ意味合いです。ではどこから万2千里を持ってきたかのかといえば
万里の長城からです。万里の長城の全長が万2千里で約6000kmですから1里500
mになります。当時の道路状況を考えて450m計算で妥当ですよ。
776河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/03/09(日) 01:10:22
>>775


>倭人伝でも使われている万2千里とはどういう意味でしょう。これは12000里
の距離があるということではありません。「非常に遠い」という意味です。日本で言う
八百万の神と同じ意味合いです。ではどこから万2千里を持ってきたかのかといえば
万里の長城からです。万里の長城の全長が万2千里で約6000kmですから1里500
mになります。当時の道路状況を考えて450m計算で妥当ですよ。


萬二千里は萬二千里の意味しかありませんよ

>これは12000里
の距離があるということではありません

なぜそのような事が言えるのですか?

777処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/09(日) 01:25:15
なる程ね。「千余里」は「割と遠い」くらいの意味かな。
778処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/09(日) 02:11:57
哲学の勉強もしないで歴史やってるバカはいないでしょうね?
779日本@名無史さん:2008/03/09(日) 03:48:25
>>777

「余」は現代でも使われる表現。
倭人伝では、4桁の数字は1000単位でしか使われないから、
そうすると1001里から1999里の間の距離のことだよ。

100万円単位で100万余円といったら1,000,001円から1,009,999円のこと。

使用するに当たって「余」の部分の大小は意識しない。
正確な数値を伝えることよりも語感を整えることに重点が置かれることばだから。
780処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/09(日) 07:11:49
「南東陸行五百里、伊都国」みたいな箇所から判断すると「千余里」は
「千里余り」くらいな風にも取れないかな。
781太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/09(日) 07:17:39
>>772
あなたは仁徳手前を架空だと津田さんお考えに近いんだろうが、それでは畿内
あたりにある神武〜應神陵は誰の墓なのかねぇ? 昔の宮内庁の陵の査定にいさ
さか間違いはあるやも知れんが、15代分の査定で畿内の大王級墓の数字は大筋
合致してるんであろうから、大王級の陵と記紀の天皇の数との数字が著しく
不合致なら記紀の記載はイカサマの可能性を疑ってよいが、そういう君の考えが
正当ならこれら浮いた15個の大王級墳墓はだれの墓なのかね? それをキチン
と合理的説明が君の論に出来ているんならなるほどとの考えが出てくるがね。w

時代が古いから信用できないなら、古代エジプトの各王は日本より遥かに古く、
紀元前3000年ころの記載がピラミッド等の壁面などにヒエログリフで書かれて
るわけだが、そういう古いがだめなら、これらもウソだということとなり、あの
大ピラミッドも架空のクフ王の墓となるがね? まぁ津田病の重症だな。
782太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/09(日) 07:45:42
津田式の連中は当時恣意的信念で切捨てた天皇の陵の抜いた数字分の大王級
墳墓が、それでは誰の墓なのかということを説明しないで結論を出すやり方なん
だろう? ひっとさんもそういう部類ではなかろうか? これでは当人は自論が
正解であるというウラをとってないで即断の結論を決めこんでいる。これが
大間違いの信念に即着し、津田病治療はなおも困難となる。

日本の字から神武が架空だとの考えから8世紀の支配範囲云々で、東征が史実で
ないと主張してるが、東征がないという当時の古文献もなけりゃぁ調査不十分
からの恣意的結論であって、その信憑性は認められない。

だいたい『日本』の文字だって記紀のそこの記述だけでなく、隅田八幡鏡の銘文

 「癸未年八月 日十大王年・・・」

のここを見れば、八月十日とすべきを「十」と「日」の逆転を書いた者が故意に
逆転して「日本」の字を示唆しているのが読みとれる。つまり

 「十」+「大」=「本」

という分解により「日十大王」を「日本王」だぞという隠匿を行っているもので
あるから、舎人らが日本の号から神武とその東征の架空をしたということには全く
ならない。鏡は舎人らが作成したんではないと言えるからである。
ここの「日本王」とは大日本根子天皇(清寧)であろう。
783処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/09(日) 11:52:31
神話史観やりたいなら中国側の資料なんか無視して記紀神話だけ
弄ってりゃ済むだろ。

え、漢字で書いてある?
784処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/09(日) 12:06:46
銅鏡も金印も大陸製? 考古学なんか止めて脳内世界一筋でさ。
785処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/09(日) 23:55:40
http://news.livedoor.com/article/detail/3537010/

こっそり貼って見るテスツ
786ひっと:2008/03/11(火) 01:04:21
>>782
隠匿する意味が解りませんが。
大体、もし昔から仁徳クラスの大王が大和に存在していたのであれば、東征の話なんか
せずに初めから倭国(日本)とは西日本であったと考えるのが常識的になってきますよ。
邪馬台国及び当時の倭国が九州に限ったことではなく、邪馬台国以前からさらに倭の五王
を含めて、倭国とは少なからずとも畿内以西の範囲であったとなりますが。
その上で、邪馬台国は九州にあったというのならまだ理解できますが、倭国を九州に限って
話をしていくと、矛盾だらけになりますよ。
787ひっと:2008/03/11(火) 01:50:38
7世紀の日本の政治を日本書紀という書物で探るとき、邪馬台国と推古朝というのは非常に
参考になる事柄ではないかと考えています。遣魏使と遣隋使を何故書紀では封印してしまっ
たか。あまりにも偉大な聖徳太子が何故皇太子なのか。書紀から見ても天皇でなければ辻褄
が合わない事が多々あります。書紀の邪馬台国黙殺と非常によく似た記述ではないかと考え
ています。
邪馬台国の位置までは解らないかもしれませんが、邪馬台国を語る上で重要な手掛かりになるかもしれません。
788太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/11(火) 07:10:23
>>786
ならば何故鏡の銘文は「・・・八月十日大王年・・・」と書かずに「・・・
八月日十大王・・・」としたのかね? これも明確におかしいと思うが?
字がひっくり返ってるんですよ。
>倭国を九州に限って話をしていくと、矛盾だらけになります
ならんですよ。何故か?当時の大陸人が海を隔てて存在する日本の国内事情を
精通できず、国名の交錯での間違った記述をしたりしてたからで、その古文献
の誤解のままの記述では矛盾に見えるのが当然でしょうが。

仁徳が初代だとかで神武が架空ならば、また神武を始皇帝よりも権威付けのため
紀が時代を古くデッチ上げたというなら、またそれを天皇が舎人親王らにそう
書けと下命したというなら、なぜ神武陵を仁徳陵よりも、また当然始皇帝陵より
も少なくとも一周り大きく造成しなかったのか? この始皇帝陵よりも大きく
神武陵をするやり方のほうがよっぽど架空とあなたが言う神武の権威が上がるで
しょうがね? つまりあなたの主張は反中という恣意的先入観からあなた自身が
考え創作した、これこそ架空の構築論だと言うほかはありません。
789太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/11(火) 07:18:28
>>787
>書紀の邪馬台国黙殺
デタラメ云わないで下さいよ。書紀には神功39年等の女王国記述が厳然として
あります。ですから紀の編者らが黙殺したことにはなりません。
790ひっと:2008/03/11(火) 11:07:41
>>788
>その古文献の誤解のままの記述では矛盾に見えるのが当然でしょうが。

九州にあてはめて矛盾に見え、西日本にあてはめて矛盾が無くなるのであれば
当時の日本とは西日本であったと考えるのが普通でしょう。
>>789
3世紀の倭王は卑弥呼なのだから書紀では黙殺してます。
聖徳太子か竹田皇子が推古治世では天皇なのだから書紀はこれも黙殺しています。
791太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/11(火) 16:04:28
>>790
>矛盾でなくなる
そんな単純に考えていいものではない。仮に崇神の時代にヤマトが畿内としてだ、
それが文武をすぎてはヤマトは日本全体を云う名だとしたら九州も含むから、
時代によってヤマトと呼ぶ範囲が違う。それに九州のみを九州出土の委奴国王の
金印からも想定できるように、九州のことをヤマト(委国=倭国)と読んで
いた時代も考えられる。こういう状況で大陸人が日本の内情を知らずにヤマトは
畿内だと言っても、九州のことを錯誤、間違えて記載してる場合も多々ありうる。
このように時代時代で国名があっちこっちと行ったり来たりで、先述で畿内も
九州も一緒くたにヤマトと云ったこともあるわけで、一見合ってるからもうそれ
でいいと云ってもさらに突っこんで矛盾が出てくる可能性は甚大だね。
甘いよ、考えがね。w
黙殺するなら神功39年等の記事が削除されてるよ。黙殺ではないね。あんた、
これはあんたのゴリ押し強行論であり、ここは完全に〜デタラメである。
792日本@名無史さん:2008/03/11(火) 22:16:15
倭人といえば、中国江南省付近に部族なり。
後漢書に登場する男王、倭国王帥升と併せて考えれば一目瞭然なり。
793ひっと:2008/03/12(水) 17:21:33
>>791
大国さんが使う暦を使用せずに普通に日本書紀を読めば、神功の時代に邪馬台国があり卑弥呼が
存在していたのですから、ここに神功39年の記述を入れておかないと、神功が卑弥呼だと思われて
しまいますよ。中国史書まで削除できないでしょ。
794太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/12(水) 18:14:39
>>793
それは舎人親王らが基本的に倍暦のことを知らなかったからですよ。それで
彼らはあっちとこっちの文献が極端に合わないので困っていたんですよ。それで
神功が卑弥呼だろうとの考えもあってか、その時代に卑弥呼をもって来ると
小康状態の記述となるからそうしたということです。でもそれは間違いだったと
いうことですよ。本当の卑弥呼の時代は崇神世のころですよ。そのころ
畿内は崇神が統治し九州は女王国が統治していたということです。伝の卑弥呼を
紀に載せたということは、抹殺どころか卑弥呼がいたことの伝の露呈、肯定
ですからあなたの言う抹殺はされてないということです。
795日本@名無史さん:2008/03/12(水) 20:29:39
>太国さん

卑弥呼の存在自体、日本書記も完全抹殺とまでは、出来なかったのでしょうね。
これは、編纂者が魏志倭人伝を読んでいたからでしょうね。

でも…壹與ちゃんは黙殺されてる。
(´・ω・`)カワイソス
796日本@名無史さん:2008/03/12(水) 21:49:50
太国の寝言を聞くためにこのスレに来ているんじゃないのに・・・
797ひっと:2008/03/12(水) 22:20:37
>大国さん
日本書紀から神武、日本武尊、神功など九州地方にまつわる話は沢山ありますが、それでも九州にある邪馬台国
の位置が7世紀の皇室には解らなかったというくらい邪馬台国連合国は脆弱な勢力でしかなかったのですか?
3世紀当時の日本は中国(魏)やクシャン(大月氏)に比べたら遥かに小国だったでしょうが、それでも日本
国内だけで見れば「親魏倭王」の称号を与えられるだけの唯一の大国(連合国)であったと考えるのが普通
だと思われます。
邪馬台国当時の日本の範囲が九州だけに限ったことではなく少なくとも西日本の範囲であって、その上で、日本
(倭国)の首都邪馬台国は九州にあったのだという論法が何故か九州論者の方々には見当たらないのが不思議で
しょうがないと思っています。だから私は畿内ではなかろうかと言っていますが、日本の範囲を最低でも西日本
であると前提をしたうえで、邪馬台国(首都)九州論を展開していけば説得力も出てくるのでは考えていますが。
九州論の方々には大きなお世話でしたね。。。
798ひっと:2008/03/12(水) 22:34:06
>>796
大国さんの倍暦には賛成できませんが、大国さんは記紀から邪馬台国九州論を唱える
異質な存在ですよ(あまり当たってるようには見えないのが残念ですが。)
倍暦を除くと私なんかより遥かに古代史に精通していることが色々なレスから伺えら
れます。
古代史というものの歴史観が大国さんと大きく違っていても大国さんの史観を見てい
ると勉強になることも多いですよ。特に、通常暦にしてからは。。。
799日本@名無史さん:2008/03/12(水) 22:41:31

イヨタン・・・・・・・・・・
800日本@名無史さん:2008/03/12(水) 22:42:40
>>799
「台与」の誤植と考えるのが妥当だと思うが。
801太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/12(水) 22:52:34
>>797
九州でもちょっと北九州からは臨めない準隔絶的地域に女王国があっ
たと思われます。半島から渡ってきて北九州に上陸してそのへんの
国々の状況は見聞できたが、その前方に立ちふさがる、何らかの
地理的事情で立入りも難しい事由があり、当時では以南の山奥は物騒
のためか、九州奥地に準秘境的未知の領域が盲点的に存在して
いたのだという事です。

だから着ないの朝廷のほうに情報が殆ど届かず、気付くこともないに
等しかったでしょう。たまたま大陸の物好きな遣使を兼ねた者が
北九州を見物しに来て観光していたが、この島(九州)の奥のほう
はどうなってるんだろうか、魏とその周辺の国々の人々でも知らな
いので大陸にも分かっていないから行ってみよう〜となったか、
あるいは北九州あたりで以南のどこかにあるという女王国の情報を
運良く始めて入手したので探しに行こうということで九州の南の特に
山奥を右往左往で準ジャングルを疲労困憊しながら幾日も探検して
ヘトヘトになって心身をすり減らして旅を続けていたところ、日々の
うちのある日、突然準密林の前方が開いて木造建築の都市国家を発見
した。
そこの住民と手まね足まねで会話し、卑弥呼女王と邪馬壼国のほぼ
全貌を始めて覗い知ることになった。まぁこういうことですね。
802太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/12(水) 22:56:59
>>801 訂正
× 着ない    ○ 畿内

× 邪馬壼国   ○ 邪馬壹国
803日本@名無史さん:2008/03/12(水) 23:01:00
もしかしたら、倍歴、3倍歴だけではなくて、
素数倍歴もあるんじゃないですか?
5倍歴、7倍歴、11倍歴、13倍歴…何と美しい!
古代バビロニア人の血を引く秦の始皇帝の末裔、
これが邪馬台国を打ち立てた卑弥呼の正体という説に賛成です。
804日本@名無史さん:2008/03/12(水) 23:01:03
>802
「きない」の誤変換は分かるけど、「邪馬壼国」ってのは、いったいどういう仕掛け?
805日本@名無史さん:2008/03/12(水) 23:03:07

ト、トヨタン・・・・・・・・・・
806日本@名無史さん:2008/03/12(水) 23:08:15
>805
「台」なら「デ」か「ダイ」に近い音(デやダイではないぞ)だと思うが。
807太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/12(水) 23:08:29
>>804
単純ミスです。視力が弱いからです。小細工はないです。
808日本@名無史さん:2008/03/12(水) 23:09:32
>>807
いや、それにしても、入力をどう間違えたのか分からんのですが。
809日本@名無史さん:2008/03/12(水) 23:14:45
かわいい太国さん =З
810太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/12(水) 23:17:26
>>808
画面右下の『般』マークの向かって右隣りのマークのIMEとかいうの
をクリックすると、自分で文字を書きこめるスペースがあり、書きこ
むと、似た漢字の羅列が出るから「壹」をタタイて書きこむところ、
隣に来た「壼」を目が悪いのでタタイたから後者の字の書きこみと
なったもので、小細工でないと回答したんだから変な想いを巡ら
すなよ。
811日本@名無史さん:2008/03/12(水) 23:17:27

デ、デ、デイ、・・・・、ディェヨタン・・・・・・・・・・;
812日本@名無史さん:2008/03/12(水) 23:21:35
>>810
納得
813日本@名無史さん:2008/03/12(水) 23:38:57
邪馬台国は蛇魔台国
蛇を信仰する出雲に通じます。
814日本@名無史さん:2008/03/12(水) 23:40:55
老眼に、白内障と緑内障ダブルはつらいのだ。
815日本@名無史さん:2008/03/12(水) 23:48:16
壹與ちゃん…黙殺されてるよね(´・ω・`)ショボーン
816日本@名無史さん:2008/03/13(木) 00:00:27
>>810
ややこしいことやってるな〜〜〜

変換候補にない文字列なら、任意の読みで「単語登録」すればいいじゃない。
「邪馬臺国」なら「やまたいこく」で登録するとか、「邪馬壹国」なら「こうせいのごこく」で登録するとか。
817太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 07:47:59
それはお前のをお前がやれ。
818日本@名無史さん:2008/03/13(木) 08:47:00
そもそも倭人は戦いを好まない民族。
古くは秦や楚による圧迫を逃れ九州に移り住んだ。
九州を戦乱に巻き込んだのはツングース系の騎馬民族。
戦火を逃れるため移り住んだのが畿内の邪馬台国。
しかし、そこにも天皇の祖先がやってきて横取りしようとした。
やはり戦いを避けて国を譲った。
そして移り住んだのが、東国ということになります。
しかし・・その東国も安住の地にはならなかった…
819日本@名無史さん:2008/03/13(木) 09:36:59
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
820ひっと:2008/03/13(木) 10:07:56
>>792 >>818
史記や漢書を読んで中国人も日本人の学者の中にも、今でも中国人の移住者たちが日本を造ったと
信じている人々が多いですね。
古代の日本の政治、経済に大きな影響を与えたことは間違いありません。しかし、彼ら移住者は
いわゆる華僑と言われる人々で日本を支配していたのはやはり日本人です。現在の東南アジア地域
でも華僑の影響力は非常に大きいのですが、だからといって東南アジアの国々の人々が中国人である
などということはありません。
このような考えでは、これから500年後には日本はアメリカ人などと言われるかもしれませんね。
821太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 11:15:27
ひっとさん
あなたは倍暦に否定的だが、自論が正解だというなら、仁徳が初代だそうだが、
なぜこの天皇の寿命のみ百数十歳なのか?? た〜だ百歳以下のある数字を想定
したって、それがどういう根拠なのかということが言わないならば、もうあんた
の説は崩れているよ。
822日本@名無史さん:2008/03/13(木) 12:04:27
>>820
中国からの移住者なんか一切ない。

古代中国の遺物文化を知らん馬鹿の無知から生じた妄想に過ぎない。
823日本@名無史さん:2008/03/13(木) 17:51:34
そうだよ。古代の対馬海峡は流れが速くて小舟で渡るのは不可能だった。
824九州王朝大好き:2008/03/13(木) 18:59:38
>>823
それでは、「行來渡海詣中國」した「持衰」はどんな舟に乗っていたの?
825日本@名無史さん:2008/03/13(木) 19:08:37
>>817
脳内に人のいうことを素直に聞けないバグが巣くっているからいつまで経っても駄目という仕掛けか。
826太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 20:29:56
>>825
お前の豆脳の中に余計なお世話をするエネルギーが充満して
るからそういう書きこみとなるわけだ。
827日本@名無史さん:2008/03/13(木) 23:44:29
>>826
子供の頃から散々言われて耳タコか。頭が足りない癖に我が強い。そういう奴は何をやっても駄目。

頭が良ければ構わないわけですよ。間違いは自分の頭で修正できるからね。
828太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/14(金) 07:54:19
>>827
それがお前なわけだ。こっちは小細工はやってないから打ち止めでいいよと
言ってるのに、尚もお前が頑強に話題を取り上げているから、よほどお前の
しつこさが分かろうというものだ。
829ひっと:2008/03/14(金) 10:49:59
>>821
仁徳の年齢や在位期間があまりにも長すぎるために、仁徳以前はすべて架空である。
という考えをしている人達もいますが、私は日本書紀を読んで「仁徳」という人物は
実在したであろうと考えています。ただ、在位年数が87年であるとか年齢が143
歳であるとかというのは信用していません。ただそれだけです。
仁徳記で最も肝心なことは日本(河内)の建国事業が描かれていることで、その内容は後の
履中や反正以降の河内開拓も仁徳に持ってきた可能性もあります。そのため在位期間や年齢を
長くしないと辻褄が合わなくなったかもしれません。
ちなみに、古事記崩年干支では仁徳の治世年数は34年ということになっています。
830日本@名無史さん:2008/03/14(金) 16:06:58
各々の見解を持ち寄り、議論をする事は良い事である。
そこで自分が得るものもある。

しかし、太国氏のレスの返し方は大人げない。
批判、反論もあるだろうが、そこに罵倒とも思える事付け加えては、氏の見解が幾ら素晴らしくても、悲しいかな雑音としか聞こえない。
俺は、氏の見解は筋が通っている部分もあり、これからの動向を見たいと思う。
だから、蛇足とも思える他の方への罵倒は、控えるよう願いたいものである。
831日本@名無史さん:2008/03/14(金) 21:33:05
光ファイバーの中には小人がいて、01001とデジタル信号を届けているんだろう?
832日本@名無史さん:2008/03/15(土) 02:42:47
>>828
駄目な奴はいつまで経っても駄目。
833日本@名無史さん:2008/03/15(土) 16:39:31

崇神天皇、仁賢天皇、推古天皇の共通するものは何でしょうか?
或いは身の処し方とでもいうべきものかもしれませんが・・・
834日本@名無史さん:2008/03/15(土) 21:11:50
>831
デジタル信号などというものは存在しない。ほとんど連続的に光っているだけ。
835日本@名無史さん:2008/03/23(日) 13:37:37
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
836日本@名無史さん:2008/04/03(木) 21:45:34
古代中国では,日本製電気炊飯器で炊飯をしていました。
その証拠に、「戸斯波」というロゴの入った鉄鍋が出土しています。
とでもいえばいいのかい?
837日本@名無史さん:2008/05/01(木) 09:47:08
age
838日本@名無史さん:2008/05/20(火) 22:21:04
誰が立てたの?
839日本@名無史さん:2008/05/24(土) 23:36:16
荒らしage
840日本@名無史さん:2008/10/17(金) 22:06:51
841日本@名無史さん:2008/11/22(土) 01:06:15
ん?
842日本@名無史さん:2008/11/22(土) 09:53:46
>>840
なんかSexyだな
843 サガミハラハラ:2008/11/22(土) 10:02:44
>>829仁徳天皇は実在しております。
古代天皇の年代はながすぎることから、実在性がうたがわれているわけですが、これは昔2倍年暦が使用されていたことと、日本書紀の編纂の際、ほかとの辻つまを合わせるために
修正をしたからです。
復元してみると、仁徳天皇は西暦411年春年に即位し、432年秋年に崩御しています。在位22年ですが、二倍年のほかに、神功皇后と卑弥呼の年代をあわせるために22年虚構年を加算したものである。
仁徳は実年22年虚構年22年の合計44年で2倍年暦にすると計88年で1をひいて87年としたわけです。
844唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/22(土) 20:33:18
>>843 サガミさん
倍年暦を使うと 倭人伝と書紀の登場人物を特定できますか?。
例えば 都市牛利=たじまもり、伊支馬=いくめ=垂仁、伊聲耆掖邪狗=いわか=六雁
こんな名前が倭人伝と同じ年数で読めれば良いが…。

845 サガミハラハラ:2008/11/23(日) 00:04:02
倭人伝と書紀は全く関係ありません。せいぜい神功が卑弥呼ではとにおわしているだけです。
よって、倭人伝の人名を書紀中の人物にあてはめるわけにはいきません。
846唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/23(日) 10:25:29
サガミさん では、倭女王卑弥呼の遣使に挟まれた
「正始四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人」
この「倭王」とは 誰?。

847 サガミハラハラ:2008/11/23(日) 17:07:06
勿論卑弥呼ですよ。親魏倭王の印をもらっていますから。
848唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/23(日) 17:36:20
では何故 倭王又は倭女王に統一しなかったか?
遣使の名前が違うからでしょう。
と言うことは、倭王≠倭女王が最有力。
初回の遣使に、太夫と次使の2名が記録される。卑弥呼単独の遣使なら、1名の記録
で充分。もし2組以上が共同して遣使すれば、次回別々に朝貢した場合
倭王遣使、倭女王遣使と別々に記録される。
「親魏倭王の印」がもし出るとすると、景行もしくは成務の古墳もあり得る。
849日本@名無史さん:2009/02/01(日) 01:52:04
ほほう
850日本@名無史さん:2009/04/17(金) 22:39:06
成務天皇なんて存在したのかよ。
851日本@名無史さん:2009/04/18(土) 00:11:47
性夢?
852サガミハラハラ:2009/04/18(土) 00:23:03
成務天皇即位345年春年
    崩年351年秋年T類
日本書紀では在位60年とありますが、実際は丸7年です。
853太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/21(火) 15:08:23
>>850
淡路島 岩屋神社の由緒に 成務13年、天皇の勅命あり。
854サガミハラハラ:2009/08/13(木) 19:09:17
もし新井白石がいなければ。
御存じのように邪馬台国畿内説の創始は新井白石である。
現在のべられている、畿内説の行路は白石が初めてのべたものである。
伊都国=糸島郡説や方角の南を東への強引な書き換えなどすべて白石をもって嚆矢となしています。

では、もし白石が邪馬台国機内説を持ちださなければ、畿内説は存在しなかったであろうか?
855日本@名無史さん:2009/08/15(土) 17:13:26
>854
実は邪馬台国九州説はもっと新しい。
白石の時代には、畿内以外を想定した人は誰もいなかった。
856サガミハラハラ:2009/09/09(水) 00:21:09
邪馬台国論争 一つの結論
周旋五千余里は固城から邪馬台国の前首都の吉野ヶ里までの道のりのことである。
857日本@名無史さん:2009/09/09(水) 02:28:27
おもしろいスレがあがっていた。
太国さんは岡田英弘の著作を読んでみればいい。
ひっとさんのネタ本だよ。
858サガミハラハラ:2009/09/09(水) 10:07:05
参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千余里。
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、
周旋五千余里ばかりなり。

倭国をおとずれてみると、そこは海の中、絶海の島嶼の中に存在し、島々をめぐりながら進むのであるが、それらの島々は
とおくはなれたり、近くにあったりとである。それらをまわり廻りながら五千余里(周尺)のところが倭の都である。

これは海を進むことに主眼をおいているので、出発は固城(コソン)である。固城から鴻島までは千里である。鴻島からはじめて外海にでて
千余里で対馬南島小茂田浜に着、小茂田浜から南の豆酸崎まで259里、ツツ崎から外海を千余里で壱岐島の勝本着、勝本から西唐津まで千余里、
西唐津から多久市中小路庄まで五百里、庄から不二町まで百里、不二町から吉野ヶ里(230年代まで邪馬台国の都)までは二百七十四里である。
ここまでの合計は五千百三十三里である。
よって周旋五千余里にピタリとあう。
この記事は半島から邪馬台国の都吉野ヶ里までのことを表しているものなのである。
859日本@名無史さん:2009/09/09(水) 11:03:27
>>858サガミハラハラさん。
「参問倭地絶在海中州島之上」は海中ではなく
「参問倭地絶在海」「中州島之上」です。

なぜかと言えば、倭人は当然倭地の中に住む人であり、その倭人は「大海之中」と最初に書かれています。
だったら倭地は「海中」ではなく「大海之中」にあるべき存在です。
倭人は「大海之中」で倭地が「海中」では、まるで小学生の作文以下。


いかがです?
860日本@名無史さん:2009/09/09(水) 11:54:21
「海中」とは伝統的な世界観に基づく観念的な言葉、「大海」と書かれればそれは現実の海。
両者は全く違う表現方法なので、倭地はどこそこで倭人はこちらとか使い分ける筋の言葉じゃない。

まさにプラム級の脳みその持ち主の発想w
861日本@名無史さん:2009/09/09(水) 12:11:42
>>860
観念とか世界観でお茶を濁しちゃ駄目です
862日本@名無史さん:2009/09/09(水) 12:30:31
仮に観念的な表現とした場合、「或絶或連」と言う現実的な表現をどう扱いますか?
海中が観念的な表現で、直ぐ後に観念的とは程遠い表現を使用するという
全くお粗末な文章構成でしょうか?


で、肝心の>>858はだんまりですか?肝心なひとからコメントいただきたいものですな。
863日本@名無史さん:2009/09/09(水) 12:33:49
>>858は、文章の中に存在しない「倭の都」まで登場させて説明しているので、今更観念的や世界観でごまかす余地はありません。
864日本@名無史さん:2009/09/09(水) 14:47:26
海中とは中華の外側のそのまた外と言う概念だ。
大海とは大きな海だ。
大海が中華の外の外まで広がっていれば、
倭地は海中に在って、その場は大海の中でもある。
そこに島が在れば、その島に形があってしかるべし。

単に「海中」と言う言葉の意味をブラムが知らなかっただけの話。
865日本@名無史さん:2009/09/09(水) 15:39:06
>>864

一生懸命説明しているみたいだけど
観念的な意味合い、中華の外の外で「海中」を使うなら

漢書のように
「楽浪海中」と明確に中華の外の楽浪の外の海中と明記されるわ


ま、ここを海中とする事自体無理があるから当然と言えば当然なんだけど
海て中洲島を上手く繋ぎ合わせたようだけど、所詮場繋ぎ的なことだわな
866日本@名無史さん:2009/09/09(水) 16:51:25
>>864

>海中とは中華の外側のそのまた外と言う概念だ。


では、又有州胡在馬韓之西海中大島上

これも中華の外側のそのまた外と言う概念?
867日本@名無史さん:2009/09/09(水) 16:51:50
何で漢書のように「明確」に位置情報が付加されなくてはならないと思うのかね?
この「海中」は「絶在」に係る言葉なんだよ。
どのくらい絶在かを修飾する言葉だ。
既知の事項である倭の基本的位置情報を重ねて伝えるものではない。

逆に問うが、海島を「中洲」と表現した文例があるのかね?
素っ頓狂な例示を出してる暇があったら、自説の根拠となる例を出す方が良いかと思うぞ。
868日本@名無史さん:2009/09/09(水) 17:25:45
>>867

>逆に問うが、海島を「中洲」と表現した文例があるのかね?

逆に問うが、倭地を海島と表現した文例があるのかな?
なければそんな問いを問うこと自体矛盾している。
869日本@名無史さん:2009/09/09(水) 17:33:23
>>867

陳寿はね、舟行一年可の本州を中洲島と表現したんだよ
これは ○○国の○○の部分と同じ名詞
それを例文だなんて素っ頓狂なこと言わないの 中洲島は世界中探しても
日本列島の中にしか存在しないんだよ


今日は勉強になってよかったね
870日本@名無史さん:2009/09/09(水) 17:35:17
>>869訂正

名詞・・・・・×

名前・・・・・○
871ローガン:2009/09/09(水) 19:43:32
>>868
> 逆に問うが、倭地を海島と表現した文例があるのかな?
> なければそんな問いを問うこと自体矛盾している。

横から失礼。 王維の詩に「主人孤島中」と。 天皇は孤島の中に居る だから海島と同じ意味でしょう。
872日本@名無史さん:2009/09/09(水) 19:55:54
>>371

何故国内漢籍から?
873日本@名無史さん:2009/09/09(水) 19:58:35
>>872は削除取り消し願います。
874日本@名無史さん:2009/09/09(水) 20:05:51
>>871

そんなのあり?
875日本@名無史さん:2009/09/09(水) 20:57:21
>>866

> では、又有州胡在馬韓之西海中大島上
> これも中華の外側のそのまた外と言う概念?

それは、「馬韓の西海中の大島の上」と言う意味ででしょ。
876日本@名無史さん:2009/09/09(水) 21:14:23
>>869-870

>陳寿はね、舟行一年可の本州を中洲島と表現したんだよ
>これは ○○国の○○の部分と同じ名詞
>それを例文だなんて素っ頓狂なこと言わないの 中洲島は世界中探しても
>日本列島の中にしか存在しないんだよ
>今日は勉強になってよかったね

>>869訂正
>名詞・・・・・×
>名前・・・・・○

さすがにプラムさん。
「固有名詞」と言うことばを知らないのかw

でもって、「參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里」を読んで
陳壽は本州のことを「中洲島」と名づけましたとww
本州のことを「舟行一年可」と言っていると・・・
それは、裸國、黒齒國への記述だろうwww

お笑い路線に転じて誤魔化すつもりなのね(哀
877日本@名無史さん:2009/09/09(水) 21:43:28
>>868


> 逆に問うが、倭地を海島と表現した文例があるのかな?
> なければそんな問いを問うこと自体矛盾している。

ハァ?
何で、文例が必要なの?
倭地を「海島」と表現してるのはオレなんですけど。
絶在海中なんだから海の島だろ。
よく考えもせずに鸚鵡返しレスでスルーしようと思ったんだろう、アフォ。
878日本@名無史さん:2009/09/09(水) 22:38:45
自分と同じくらい論理力が無く、軽い相手であるサガミさんにちょっかいを出そうと思っただけなのに
面倒くさそうな展開になったので、誤魔化そうとしたんだろうな。
もう言意学の方は飽きたと見える。
今日は終止符スレでもおちゃらけてる・・・閑人恐るべし。
879サガミハラハラ:2009/09/09(水) 23:31:15
まず、岩波文庫の専門家の訳文を紹介します。
倭の地を参問(まじえとう・てらしあわせたずねる)するに、海中州島の上に遠くはなれて存在し、あるいは絶えあるいは連なり、一周五千余里ばかりである。

「絶在海中」「洲島之上」とすると、「絶在海」では海にあることになります。海中は海水中では当然ありません。
楽浪海中であれば、楽浪郡の勢力圏内の海の中ととれますが、この場合は単に海の中に在るということでいいでしょう。
「州島之上」ですから、倭は島の上に在るということです。
中州島上では福岡市中州になってしまいます。
よって、海中の洲島の上に絶在するということです。
海中とは現実的な言葉です。
倭を参問は、倭の都を訪れることも意味します。従来は倭の各地をめぐりまわったという意味(文庫では一周するとととらえている)でとらえたようですが。
半島南岸から倭の都の吉野ヶ里までが五千余里であることから、この記事は海上の島々をめぐりまわり、倭の都に着くという意味であったことがわかりました。
880プラム ◆TOfHBAKZgM :2009/09/09(水) 23:41:27
>>877

>倭地を「海島」と表現してるのはオレなんですけど。

勝手に作ってんじゃねーよ

>絶在海中なんだから海の島だろ。

知ねーよ オメーが勝手に創作したことなんか

>よく考えもせずに鸚鵡返しレスでスルーしようと思ったんだろう、

してねーよ

>アフォ。

語尾に捨て台詞言わねーと、終われねーのかよ?
881日本@名無史さん:2009/09/09(水) 23:43:15
>>879 サガミさん

あとでコメント書いておきます。
882プラム ◆TOfHBAKZgM :2009/09/09(水) 23:54:30
>>878

>もう言意学の方は飽きたと見える

いいえ、絶好調です

>今日は終止符スレでもおちゃらけてる・

今日だけではありませんし、おちゃらけてなんていません。
883日本@名無史さん:2009/09/09(水) 23:57:49
>>880

ホントにアフォだなw
支離滅裂なことばかり書くなよ。

> >倭地を「海島」と表現してるのはオレなんですけど。
>
> 勝手に作ってんじゃねーよ

原文に無い言葉なんだから、普通に気づけよ。

> >絶在海中なんだから海の島だろ。
>
> 知ねーよ オメーが勝手に創作したことなんか

そんなこと言ってトボケないでな。
本州は川中島か?
じゃやなきゃ何も問題ないだろう。

> >よく考えもせずに鸚鵡返しレスでスルーしようと思ったんだろう、
>
> してねーよ

上記のとおり何も考えてなかったことは顕かだね。

> >アフォ。
>
> 語尾に捨て台詞言わねーと、終われねーのかよ?

ホントに言葉を知らないな。
「語尾」じゃない、「文末」って言うんだよ。
今度は「文頭」に書いて置いてあげたからねw
884プラム ◆TOfHBAKZgM :2009/09/10(木) 00:20:01
>>883
はいはい
文末文末

よかったね 自分がお利口さんになれる部分があって。
あんたの場合、どこかでお利口さんな場面がないと困るだろうから
これからも穴探し頑張ってね くれぐれも穴間違えて糞なんかつけないよいに。

偉い偉い。あんたは偉い。プラムはお馬鹿でアフォー者。
プラムは本当に言葉をしらなくて、その点アンタは偉い偉い。
885日本@名無史さん:2009/09/10(木) 00:26:24
>>883

あ、それからね
今プラムは新しい道に進もうとしている最中で忙しいから
アンタの相手中々出来ないわ

新星プラムにご期待あれ〜。

半端じゃないよ
886サガミハラハラ:2009/09/10(木) 07:24:26
>>879訂正5行目
「絶在海中」「洲島之上」を「絶在海」「中洲島上」に訂正いたします。
887サガミハラハラ:2009/09/11(金) 18:20:35
周旋五千余里が固城から漢代の邪馬台国の都である吉野ヶ里までの道程を表しているという東方の節に対し、反論や異議が
みられませんので、この説は清律ということになりました。
これで邪馬台国論の謎がまた一つサガミハラハラの頭脳によって解決されました。
888サガミハラハラ:2009/09/11(金) 20:47:33
あっ、>>881さんがいましたっけ。
889質問:2009/09/11(金) 21:10:18
庄内式土器に詳しい人いる?

庄内式土器は九州発祥の噂あり
その九州発祥の土器とはどこで出土されてるのですか。
890日本@名無史さん:2009/09/15(火) 22:20:44
>>889
> 庄内式土器に詳しい人いる?

いるけど何か?
他人にモノを尋ねるなら「いる?」じゃなくて「いらっしゃいますか」とか言えよ。

> 庄内式土器は九州発祥の噂あり

「噂」じゃなくて「デマ」だね。

> その九州発祥の土器とは

たった一行の間に噂から断定にステップアップしましたねw

> どこで出土されてるのですか。

九州在地系(いわゆる筑前庄内)は、主に福岡県の博多湾岸から春日丘陵一帯で出土する。
それ以外にも大分、佐賀県内で少数の出土例がある。

筑前庄内に限らなければ、例えば河内産の胎土で焼かれた河内庄内などは、
東は関東、西は佐賀までの広い範囲で出土する。

891日本@名無史さん