魏志倭人伝を読む   ???

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952九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/30(日) 20:55:47
>>950
40年前、眉唾で『邪馬台国はなかった』を読んでみた。
それ以来、40年間麻疹に罹りっぱなしらしい。
という事かな?

しかし、「古田史学」なんて知らない。
ぼくが知っているのは古田説。
953九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/30(日) 21:26:46
>>946
卑弥呼死後=壹與後はどうなった?

壹與後数十年、
狗奴國狗古智卑狗が北上攻め込んで来た。
邪馬壹国は敗北し狗奴國の支配下に入った。
それは、菊池の中部九州古墳形式の北上として物語たっている。
そして倭五王政権へと繋がっていく。

狗奴國=3世紀熊本の国、として。
狗古智=菊池ではないかと思われる。
(狗古智卑狗=菊池王)

954九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/09/30(日) 21:49:05
>>953 (狗古智卑狗=菊池王)

一つ聞きたいけど、狗古智卑狗って王じゃなく
クナ国の長官の名前じゃ無かった?
955九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/30(日) 22:04:35
長官クラスにとどめているは、
魏使と女王の政治的立場による偏見。
女王に敵対して並立しているのだから、狗古智も王となる。

卑狗=彦なら、彦は王です。
中国式の「王」は古代日本では「大王」
956九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/09/30(日) 22:25:49
>>955 狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗

が原文ですが、男子を王となす。
狗古智卑狗という官がいる。に分かれてません?
957九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/09/30(日) 22:42:56
王の名は卑弓弥呼(ひこみこ)。狗古智卑狗は長官だと思います。
958ローガン:2007/09/30(日) 22:44:29
>>953「菊地の中部九州古墳形式の北上」が、狗奴国の北進を証明している、という事ですね。
レスを拝見する限り、狗奴国の墓制は「中部九州古墳」ですね。
3世紀の狗奴国の墓制、「中部九州古墳形式」の祖型は、どこに求めておれらるのでしょう?

>そして倭五王政権へと繋がっていく
北進した狗奴国が「倭五王政権」になると仰る。
貴方のいう「中部九州古墳形式」の墓制を持った集団の王が所謂、倭の五王であったとするなら、その王墓をどこに比定されますか?
また、「中部九州古墳形式」の持つ顕著な特徴とはなんでしょう?
是非!ご教示ください。
959九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/30(日) 22:55:30
>>956-957
「其官」は魏使と卑弥呼の政治的立場による呼称です。
実際は、女王と狗古智卑狗は対等に対立しているのです。
これは、卑弥呼が王なら、狗古智も王であることを示しています。
960九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/30(日) 23:02:42
>>958
菊池川流域
横穴式で装飾古墳として発展するタイプ。
961神奈川県民改め三重県民:2007/09/30(日) 23:27:44
>>911-915
九州一周説・・・それは無理と思いますよ。

魏志倭人伝の記事が本当に実在した国を書いてるのであれば、九州南部に狗奴国。

敵対していた狗奴国が、卑弥呼と親しかった魏国の調査隊をこころよく受け入れるでしょうか。
少しありえないですよね。それより二つの都を書かれてるとみたほうがよいかと思います。
962九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/30(日) 23:28:51
>>958
回答忘れを追加
倭五王の古墳の位置は特定できていません。
963神奈川県民改め三重県民:2007/09/30(日) 23:29:40
狗奴国の協力なしでは調査隊など難しいということです。
九州南部の人に見つからずに協力なしでは無理。
964九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/10/01(月) 05:06:01
>>959 
其官は、ただ単に「その官」と読んで「其」は
クナ国を指しているだけだと思うんですがねえ。
965九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/01(月) 11:39:26
>>964
何を勘違いして書き間違えたのか?
狗古智卑狗は官ですね。

狗奴國王は卑彌弓呼です。
卑弥呼も王で、卑彌弓呼も王であると書いてありますね。

修正文:「壹與後数十年、狗奴國(弟)王が北上攻め込んで来た。」

既に狗奴國王は卑彌弓呼は王でなかったでしょう。
実際に攻め込んだのは、魏使によって「官」と呼ばれた、狗古智卑狗でしょう。

九州は兄弟政治でしたから、
卑彌弓呼は兄王で、狗古智卑狗が弟王では、とみています。
つまり、兄王がいたのは、邪馬壹國、狗奴國と伊都國の3国だけです。
王の存在について、餘旁國では不明ですが、
特に取り上げられていないので兄王はいなかったと見ています。
966日本@名無史さん:2007/10/01(月) 12:12:03
>>951
プラムさん
では、是非“プッ”と失笑せずにすむご説明をお願いいたします。
これまでも、エキセントリックな説を様々披露していただいたので、
今回もきっと面白い説が聞けるのではないかと期待しております。
967阿蘇山は移動した:2007/10/01(月) 12:52:02
現代の論点は、邪馬一国と2倍暦みたいですね。この2つは
私は、どうかな?って思ってた。つまり、否定的。
でも、皆さんの書き込みみてると確かにな、って思う。
21か国の解釈。略載とかの箇所は、興味あるな。
968プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/01(月) 13:15:08
>>966

笑えませんか?

『可能』がどうたらこうたらって、
じゃあ
『可得』には(可能)が必要であり、可得よりも先に可能が存在したって?
だから可得を説明出来る


そう言ってるようなものでしょ
969日本@名無史さん:2007/10/01(月) 13:26:57
>>968
それって、もしかして「可得」の説明に「可能」という言葉を用いているのがおかしいってこと?
ということは、「可得」という言葉の意味・用法を説明するのに、
「可得」より以前に存在していたことが明白な言葉を使わなければいけないということ?
辞書や文法書に、そんなルールがあるなんて聞いたことがないですね。

例えば、今たまたま国語辞典を開いたら「朝野」という言葉が載ってました。
「政府に関係のある者と民間の人」という説明でした。
「朝野」には「政府」や「民間」という言葉がが必要であり、「朝野」よりも前に「政府」や「民間」とうい言葉が存在したのかい?
だから「朝野」を説明できるの?
970日本@名無史さん:2007/10/01(月) 13:38:00
>>967
略載の意味・用例については、プラムさんの立てたスレ

「魏志倭人伝」等を読む
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1175779841/

に詳しく紹介してありますので、興味があれば御覧下さい。
何回かに別けて書いてますので、スレ内を「略載」で検索すると見つけやすいかと思います。
971プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/01(月) 13:44:18
>>969

仮にも辞書に携わろうとする人の行為じゃない
と、いいたい訳ですよ

例えば『可』の読みには(べし)や(ばかり)等が記載されていますが、
何故、そのような読みになるのか根本の部分もせつめいしなければならないのでは?
それを『可能』の『可』で説明しちゃうなんて
素人じゃあるまいし…

『可』→(口)(┐)
(口)→限定された範囲
(┐)→把握する
★範囲の把握

そういう根本的な字義があるからこその(べし)や(ばかり)なんだと。
972プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/01(月) 14:25:41
>>971続き

詰まり
『可』の文字を使った言葉には、必ず『可』の意である(範囲の把握)が含まれるのです。
973日本@名無史さん:2007/10/01(月) 14:42:52
>>971
プラムさん
「可能」の「可」で説明しているのではありません。
「可」という古漢語に、現代日本語の文法用語で言う「可能の助動詞」という働きがあるといってるのです。
古漢語の「可得」を、現代日本語の「可能」という言葉を使用して説明しているのです。
あなたのいう「根本的な字義」は、あなたがた、きわめて少数の人が唱えている特異な説でしかありません。
そのような説が、辞書に載るはずもありません。

それから、辞書は、語源や漢字の成り立ちを載せることが主目的の書物ではありません。
どのような意味・用法があるのかが主目的で、漢和辞典では、付録的に漢字の成り立ちを載せるものもある程度です。
なぜそのように読むのか、なぜそういう意味になるのか、語源は何なのか、
そういうことは、辞書の役割ではなく、専門の論文・著作で論じられるべき内容です。
974プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/01(月) 15:07:07
>>963

辞書の性質は理解しています。

>そんな特異な説、載るはずもなく


そんな事はないですよ
ちゃ〜んと(べし)や(ばかり)と掲載されていますよ。
貴方達は“特異”で処理してしまいますが、貴方達は無意識のうちに使用しているんですよ、その特異を
私はただ、無意識の部分を文字で表面化させたにすぎません。
それを“特異”と言われても……
975日本@名無史さん:2007/10/01(月) 15:28:59
>>974
>ちゃ〜んと(べし)や(ばかり)と掲載されていますよ。
ここの意味が解りません。
「べし」「ばかり」は、「可」の訓であって、古漢語の「可」を日本語に訳したときの意味です。
それを載せるのが辞書本来の目的なのでしょう。掲載されていて当たり前だと思いますよ。

>貴方達は無意識のうちに使用しているんですよ、その特異を
>私はただ、無意識の部分を文字で表面化させたにすぎません。

あなたのいう「根本的な字義」を、私たちが「無意識に使用している」ということも、
「根本的な字義」が、わたしたちの「無意識の部分を文字で表面化させたもの」だということも、
あなたが主張しているに過ぎません。広く一般に承認された事実ではありません。
あなた、もしくは、そのお仲間だけが主張していて、
日本語や漢字に携わる人間の大部分が与り知らぬる説は、
“特異”としか言いようがありません。
976プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/01(月) 15:53:45
>>975

そうですよ
(べし)や(ばかり)は訓であり、日本語訳
私もぜんぜん否定しません。

でも
何で(べし)や(ばかり)なんでしょうね?
わかりますか?
977日本@名無史さん:2007/10/01(月) 16:19:24
>>976
訓読法を創始した人々が、「べし」「ばかり」の訓をあてようと決めたからです。
話がそれてしまいました。
二つの奴國が同一か否かの問題でしたが、そのためには、下記の部分の読みを確定しなければなりません。

自女王國以北,其戸數道里可得略載,其餘旁國遠絶,不可得詳.
女王國より北は、戸数道里は簡略化した内容を記載することができる。
その余の旁の国々については遠くて、詳細を記述することが出来ない。

「不可得詳」との対比からも、「可得略載」の「略載」が「略」と「載」に別れるものではないことを説明しました。
それに関しては、「可」と辞書の話になってしまい、有効な反論はありませんでしたね。
「略載」の用法については、既に説明してあります。
戸数道里を略載していない21国は、女王國の北にはありません。
だから、21国の最後の奴國は、一周して初出の奴國に戻ってきたのではありません。

さて、「略載」の問題と、「女王國と女三國」の問題で、反論がありましたらどうぞ。
978ローガン:2007/10/01(月) 16:41:15
>>967では邪馬壹国についてもうひとつ…
対馬は魏志では、「対海国」ですね。魏志から引用している文献で対馬が登場するのは、「太平御覧」「通志」「文献通考」だけですね。
この中で、我々が今見ている三國志南宋刊本と同じように、「対海国」と書かれているのは、1317年に出来た「文献通考」だけです。「三國志南宋刊本」以前に書かれた太平御覧や、同時代の通志は「対馬国」と書いてあります。
これも、「壹」と同様、南宋刊本を境に表記が変化したと思いますよ。

やっぱり邪馬壹国の存在を信じる人は、対馬と別の対海国があった!なんて考えているのでしょうね?
979プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/01(月) 16:47:57
>>977

二つの奴國については
もっと根本的な事を議論しなければ何時までやっても平行線です。

結局は原文の解釈の違いによって様々な方向に分散しますから
どうしてもと言うなら

まず
『自女王國…』の『自』からですね
既にそこから違っていますから
980日本@名無史さん:2007/10/01(月) 17:11:31
>>979
プラムさん
では、「自」の解説から、「『魏志倭人伝』等を読む」でやってください。そのために自分で立てたスレでしょう。
「可」の問題も、そちらだったら他の人の迷惑にならないので、いくらでも議論できますよ。
981太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/01(月) 18:12:23
>>978
それは字がまるっきり違うでしょう。w 

それはいいとして、「邪馬壹国」も「邪馬臺国」もいずれもあったということ
ですよ。前者は女王国で、後者は倭の五王朝あるいは大和朝廷のことですな。
当時九州のほうは十数国とか数十国か? とにかく国が分裂していて『邪馬』
の字が普及的になっていたようで、「邪馬国」もそれでしょうがね。

貴殿のいうオルジナルの伝とやらに、数歩譲って後者とあったとしても、文字の
書き換えがあるならば誤記のほかに訂正もあるわけで、オリジナルが間違って
いるを発見した何らかの日本の正確な情報を知っていた者が、後世にオリジナル
を訂正で『臺』から『壹』に直したということだって充分言えますよ。
982九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/10/01(月) 19:02:48
>>977 戸数道里を略載していない21国は、女王國の北にはありません。

ではそれらはどこにあると考えていられるのでしょうか?
女王国は甘木にあると考えているので21カ国のうち、大分県把木のハリ国、
玖珠国、邪馬国、きい国、など殆ど女王国の北にあるものだと思ってきました。
女王国の南にはクナ国が広がっていた筈ですし。

983日本@名無史さん:2007/10/01(月) 19:58:01
>>982
福岡県朝倉市甘木のことですか?(甘木市は合併して朝倉市になったそうです。)
ならば、杷木も玖珠も耶馬溪も甘木の北にはないですよ。
984日本@名無史さん:2007/10/01(月) 20:10:04
朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも稲と
同時に検出されており、小麦が中国よりも数千年も前から、ハトムギが
通説の江戸時代よりも5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
985ローガン:2007/10/01(月) 20:51:11
>>981太国さん。
という事は仰る所の「何らかの日本の正確な情報」とやらが、
「邪馬壹国という女王の国が3世紀に存在した。」事を証明している訳ですね。
その何らかの日本の正確な情報とはどんなものでしょう?
又、何を根拠に言っておれらるのか?
是非それをお訊きしたい!
986プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/01(月) 21:24:20
>>980

>プラムさん
では、「自」の解説から、「『魏志倭人伝』等を読む」でやってください。そのために自分で立てたスレでしょう。
「可」の問題も、そちらだったら他の人の迷惑にならないので、いくらでも議論できますよ。


ありゃ〜っ
迷惑でしたか?こりゃあ申し訳ない
いや〜悪気はないんです。
しゃべりだしたら止まらない性分なもので、ついつい

でも、韓国横断ウルトラクイズよりは役に立ちますから
987日本@名無史さん:2007/10/01(月) 22:05:08
>>986
魏志倭人伝を読むために、漢字の成り立ちからやるというのも一つの方法論ですが、
スレ主さんや他の住人さんが賛同するかどうかはわかりません。
専用スレをほったらかして、わざわざこっちで可の成り立ち云々をやって、
もし、そんなの関係ねーと怒られるたらアホみたいですやん。
そのためにご自分で立てたスレがあるのだから、あっちでやるのが無難でしょう。
興味を持ってくれる人は、あっちのスレも覗いてくれますよ。
988プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/01(月) 22:22:05
>>987

>専用スレをほったらかして、わざわざこっちで可の成り立ち云々をやって、
もし、そんなの関係ねーと怒られるたらアホみたいですやん。


アホですか?
やっぱり

そ〜でしょうね〜
989ローガン:2007/10/01(月) 22:44:52
987の人、大阪弁ですけど。 私ではありませんので。
990九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/10/01(月) 22:48:24
>>983
こちらの言う「北にある」という表現は変ですね。
女王国は甘木に都があって菊池と比定しているクナ国と直接、南接していたと考えていますから、
玖珠国などは女王国と横並びでクナ国と南接していたクニだったのではないか、というのが
前から抱いていた考えではありますが。
991太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/01(月) 22:50:28
>>985 ローガンさん
拙者は貴殿のおっしゃるオリジナルという原本のことですが、それには拙者は
「邪馬壹国」と書かれてあると思うわけですよ。それを別の無コテの方がそんな
ことはない、裴松之が必ず注を入れるのことを主張しておられましたから、それ
でもしも彼の云うとおり、また貴殿の云うとおり原本に「邪馬臺国」と書かれて
いたとしても、必ずしも『臺』のほうが正解だとはまだ云えず、逆に考えれると
いう論もあるだろうということです。

もしも原本が貴殿らの云うとおりであろうと、それで女王国が「邪馬台国」だ
とは決定的にはならんでしょう。なぜかというに、文字が取り替えられていると
主張することは誤記という場合もあるが訂正の場合もあるでしょうからね。

とりわけ根拠を持ってるものでもないですが、『臺』だったとしても、訂正の
可能性論を成立しないとしなければ、女王国は「邪馬臺国」だにはまだならんと
いうことです。つまり逆の考えを合理的に否定できて貴殿らの論が正解になるわけ
で、まだまだ字がそうなっていたとしてもヌカ喜びの段階ですよ。
992ローガン:2007/10/01(月) 23:30:50
>>991早速のお答えありがとうございます。
私はこう考えるって言った迄で、私の考えが100l間違っていないとは思ってないんだけど。
名無しの人の考えかたもきっと違うものでしょう?
勿論太国さんとも違う。
それはそれで良いのです。貴方が「邪馬壹国は邪馬臺国とは別の国として存在する」と考えるなら私は頭からそれを否定しょうなんて大それた考えはありません。
ただ貴方がその考え方に至った、その根拠をお訊きしたいだけです。
993日本@名無史さん:2007/10/02(火) 00:39:22
>>990
「女王國より北」という場合、概ね北東方向から北西方向の90℃の範囲にある地点を指すと思うのです。
たとえ緯度的に多少女王國より北にあっても、上記の範囲からはずれる場所は、東もしくは西と表現されると思います。
それで、戸数道里が略載されている對馬國から投馬國が、だいたい上記の90℃の範囲に入っているのだと考えています。
そして21ヶ国は、上記の範囲から外れているということになるのでしょう。
それが、女王國とならんで狗奴國に接していたか、女王國より南にあって狗奴國との間に挟まっていたのかは、
「女王境界所盡」をどう解釈するかと関わりますが、正直なところ倭人伝だけでは全く解りませんね。
古地名や考古学的な知見に頼るしかないと思います。

そもそも論ですが、倭人伝自体、その信頼性にちょっと疑問を感じます。
裴松之の注では、三国志本文で三箇所の伝写の誤りを指摘しています。内一箇所は倭人伝です。
陳寿が使用した資料が既に誤っていたのか、三国志編纂以降の伝写の誤りかはわかりません。
もし前者なら、全ての元資料が正確だったわけではないということになり、倭人伝の元資料は大丈夫かという疑問に繋がります。
後者なら、裴松之以降宋本ができるまでの期間(700年くらい?)に伝写の誤りは蓄積されたと考えるのが妥当でしょう。
一大國や邪馬壹國や二つの奴國や一大率などは、大変怪しいと考えています。
どのような立場の人が三国志を書写したのかわかりませんが、本紀や有名人の伝は頑張っても、
辺境の國の伝は、書写するのに注意力が散漫になったとしても不思議はありません。
994日本@名無史さん:2007/10/02(火) 06:07:25
「女王境界所盡」
これは「奴國」の処で海岸線に達するという意味ではないかと思う。
995太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/02(火) 07:45:51
>>992
だって貴殿は女王国が「邪馬壹国」でなく「邪馬臺国」だとの考えなんで
しょう? それは倭人伝の国名の『壹』が後世の誤記でその原本のほうは『臺』
だと裴松之の注の作為不作為から結論つけておられるのでしょう?
拙者のほうは原本は『壹』だと思うから誤認はないだろうという考えなわけ
です。つまり国名という重要部分に間違いするようではもうおしまいだ、伝の
信用はドカ落ちする、女王国の存在性にも不信を大きく抱かれても致し方ないと
いうことになってきます。だから陳寿は伝を書くにあたって、幾度も、書き上げ
文のチェックをしているはずだということです。重要部分ですからしっかりと
点検をして怠っていないとみるべきです。だから原本もその字であると観るのが
至当という考えに至るわけで、文字が変わってるんだよいう主張は裴松之の件が
どうであろうと可能性が薄いと想うわけです。
貴殿の考えでの原本と写しが別字に換わっていると主張なさるならば、文字の
改変は誤記と訂正か、あるいは極論ですがイタヅラのいずれかがありうるわけで
しょう? ですからその件を誤記だと確定するのはまだ早計であり、貴殿は少な
くても後世の誰かが真を知っていて訂正したんではないのかという線も一応
洗っておくべきではないですか? それをしないで誤記と結論するのは片手落ち
だということですよ。
996ローガン:2007/10/02(火) 09:36:56
>>995
そうですね。仰る通り、陳寿は国名は重要てあるから入念にチェックして書いたのでしょうね。
その絶対間違っていない国名を、北史隋書、通史、太平御覧が引用していますね。
すべて「臺」です。
お分かりいただけなければ結構です。この件はこれくらいにしておきましょう。
997太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/02(火) 09:42:54
>>996
そうなると、彼らは大和朝廷をヤマトの一国と考えて「邪馬臺国」としたん
ではないですか? このスレもまもなく終わりなのでこちらもこれでfineです。
998プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/02(火) 10:01:38
『壹』と『臺』に終止符


陳壽も地理志だけの編纂なら『邪馬臺國』と書いたろうね

それだけの事。


お・わ・り
999サガミハラハラ:2007/10/02(火) 10:07:55
最初に魏に貢献した時は邪馬壱国となのり(この時だけです)、その直後国名を邪馬台国と変更しこれは長く続きました。
両者はにた字であったために陳寿は間違えなかったが後世の人たちは間違えたのです。
これが真相です。
1000サガミハラハラ:2007/10/02(火) 10:09:10
真相が解明されてこのスレは終了です。めでたしめでたし。
10011001
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。