古代九州は都! 3開

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1日本@名無史さん
第一条 責任をもってレスできる方の参加歓迎!
第二条 お互い思いやりで、対応しましょう。
第三条 無責任なレスは無視しましょう。
第四条 邪馬壹国九州論是非! 九州王朝是非! 参加してください!
第五条 畿内説畿内王朝説等の方の参加は禁止しませんが、九州諸説を阻害しないで下さい。
第六条 考古学の方は一般論を阻害しないよう、気を付け参加下さい。
第七条 証拠主義にてレスしてください。妄想論禁止!注意啓発!
第八条 下げ進行奨励 !
第九条 太国・九州王朝大好き・一応九州王朝説等の荒らしコテは参加禁止! 

2日本@名無史さん:2007/08/25(土) 10:02:50
古代九州は都! 2開
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1169539578/l50
前スレまだ健在だよ
3日本@名無史さん:2007/08/25(土) 10:26:47
早いねw
4日本@名無史さん:2007/08/25(土) 23:13:49
奈良以前の日本の首都は九州にあった これほんと
5日本@名無史さん:2007/08/26(日) 14:29:11
早めが肝心だね
6日本@名無史さん:2007/09/02(日) 14:41:14
松野連の系図が真実に一番近いよね
7日本@名無史さん:2007/09/12(水) 22:57:05
同感です
8日本@名無史さん:2007/09/15(土) 08:31:26
飛鳥は奈良の明日香村じゃなくて
福岡の大宰府!
その証拠に奈良は掘っても掘っても都が出てこないw
9日本@名無史さん:2007/09/15(土) 11:17:21
みんな本音と建前で
真面目に信じている人の扱いに苦労するよね
冷めた目で見られている事に早く気付いてほしい
10日本@名無史さん:2007/09/16(日) 08:46:02
再思三考
11日本@名無史さん:2007/09/16(日) 16:35:02
>>6
倭の五王は確実に日本に居た王である
しかしその都はいったい何処にあったのか?
朝鮮まで支配したような大規模な都は
畿内にからまだ掘り出されていない
12日本@名無史さん:2007/09/16(日) 18:02:21
倭の五王は、中国にも認められた王なのですが、系図も都も然るべきなのか。
記紀の間違いを、ある程度認めないと、辻褄の合わない事が多いようです。
13日本@名無史さん:2007/09/16(日) 20:29:45
条理制の地方出先機関で
あったと言われている大宰府は
条坊制の倭の五王の都だったんでしょうねwww
14日本@名無史さん:2007/09/16(日) 20:43:08
条坊制とは?
条坊制とは,中国の「みやこ」の制度にならって日本古代の「みやこ」で施行された
碁盤目状の都市区画です。藤原京で確認されていますが,それ以前は不明です。
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi03.html#a 参照

      朱雀大路迄発掘された大宰府は「みやこ」だと書いてあるねw
15日本@名無史さん:2007/09/16(日) 23:15:40
朱雀地名のある出先とはこれいかに
太宰不思議に思ったそうです
16日本@名無史さん:2007/09/17(月) 07:23:50
朱雀地名が古くから残るのは、
奈良京都に太宰府だけです。
こういう基礎的なデータも、蔑ろなのも残念です。
17日本@名無史さん:2007/09/17(月) 10:01:20
朱雀なんてお気楽な命名出来ませんよね
18日本@名無史さん:2007/09/17(月) 12:06:55
ただし、当時そこに住んでいた人々は蛮族だったそうです
身長は低いのに、手は異常に長いらしい
19日本@名無史さん:2007/09/17(月) 13:59:04
いつの時代も国際都市は多人種
ローマ・エルサレム・洛陽・神戸
鎖国でもしてなきゃ単民族の方が不自然
当然支石墓や甕棺のように墓も色々
これ世界史じゃ国際都市の常識だよw
20日本@名無史さん:2007/09/17(月) 17:03:35
奈良は都なのに
日本人しか住んでいなかったみたいだね
可笑しいな朝鮮も押さえていたのに
まるで僻地みたいだねw
21日本@名無史さん:2007/09/17(月) 20:18:47
だれか蛮族でびびる?
22日本@名無史さん:2007/09/17(月) 20:41:21
朝吉だけだよwww
23日本@名無史さん:2007/09/17(月) 22:12:40
すると多人種で、朱雀地名があり、条里制のある出先機関は
都としか考えられませんね
24日本@名無史さん:2007/09/18(火) 07:02:10
結局奈良の都なんて
記紀の捏造なんだよ
25日本@名無史さん:2007/09/18(火) 10:35:33
チャイナタウンも
日本人街も
国際都市にしかないね
26日本@名無史さん:2007/09/18(火) 11:13:22
大宰府に蛮族住んでて当たり前
国交を結んでいる相手国の人が
日本の首都周辺に居ない訳が無い
九州王朝の頃にもズバリ韓泊なんて地名がある
大使館制度は最近出来たもんじゃ無い
紀元前から存在してる
見識狭いよ
27日本@名無史さん:2007/09/18(火) 17:49:01
今も東広島にはノバも無いw
28日本@名無史さん:2007/09/18(火) 21:28:58
奈良にも外人住まないと
説明つかないよ
29日本@名無史さん:2007/09/18(火) 22:23:11
奈良で外国の影響は
高松塚とか僅かだな
30日本@名無史さん:2007/09/19(水) 08:36:52
東京にも外国人墓地に横須賀基地
31日本@名無史さん:2007/09/19(水) 09:35:45
江戸には外国人どころか象までいたw
32日本@名無史さん:2007/09/19(水) 10:43:09
古代は単民族なんて妄想は、誰がばらまいたのかな?
33日本@名無史さん:2007/09/19(水) 16:54:03
日本列島は古代に
大陸を始め大挙移民がやってきて
丁度アメリカの西部開拓に近い状態であった
34日本@名無史さん:2007/09/19(水) 17:44:24
ちょっと失礼
スサノオの6代後が大国主だと記紀は言うけど
スサノオの娘と結婚するなんて可笑しいよね
世代が矛盾して引き伸ばしをしてる事は直ぐわかる
だから記紀以外の史料が言うように
どうみても大国主はスサノオの子供で
須勢理姫とは兄弟婚したとしか考えられない
どう思います?
35日本@名無史さん:2007/09/19(水) 21:00:05
いんじゃね
36日本@名無史さん:2007/09/19(水) 21:45:10
スセリ姫も大国主同様の別名沢山だもん
37日本@名無史さん:2007/09/20(木) 07:50:19
基本的に記紀は儒教道教仏教によるモラルに影響されているから
近親相姦も出来るだけ薄めて書かれている
元来日本は血の保存の為最近まで近親相姦はタブーとされていなかった
38日本@名無史さん:2007/09/20(木) 17:49:52
記紀の隠したい事の一つだよね
39日本@名無史さん:2007/09/20(木) 18:35:14
創世は兄弟婚が多いだろ。何処の土地も。
40日本@名無史さん:2007/09/20(木) 21:17:11
>>34
結局スセリも櫛稲田も同じ人で
天照であり卑弥呼でもある
そしてその子が大国主
記紀しか読んでないとわからんだろうけど
41日本@名無史さん:2007/09/20(木) 22:32:25
いづれにしてもあんなに複雑に沢山の神様が居るわけないな
42日本@名無史さん:2007/09/21(金) 07:03:46
天照なんて紀元前の訳無い
43日本@名無史さん:2007/09/21(金) 12:00:19
奈良砂漠
44日本@名無史さん:2007/09/21(金) 17:40:56
干からびてる学者が多いw
45日本@名無史さん:2007/09/21(金) 20:12:28
歯止めが取れ
砂漠学者を裁くw
46日本@名無史さん:2007/09/21(金) 23:26:36
大宰府は飛鳥と呼ばれていた
都として外人も沢山住んでいた
47日本@名無史さん:2007/09/22(土) 06:53:23
天照前後では
福岡周辺にお住まいでした
48日本@名無史さん:2007/09/22(土) 07:35:03
大宰府の地名は都の証拠です
49日本@名無史さん:2007/09/22(土) 09:40:28
大宰府にある俗名院なんて地名
直訴に来た人々の待機所兼救護所だったそうです
これも都でなければありえない施設です
現在も中国北京では同様の待機街がある事も面白い
50日本@名無史さん:2007/09/22(土) 11:27:15
謡曲砧をおもいだしますな
51日本@名無史さん:2007/09/22(土) 18:40:37
筑紫野市役所と二日市温泉を結ぶ南北道路は
ぴったりと朱雀大路に重なる
広い条坊制ですね
52日本@名無史さん:2007/09/22(土) 22:40:28
字では大裏(ダイリ)があるよ
53日本@名無史さん:2007/09/23(日) 00:02:10
天皇の居所以外使えない地名だw
54日本@名無史さん:2007/09/23(日) 08:05:13
太宰府から都らしい呼び名に変えないとね
55日本@名無史さん:2007/09/23(日) 08:47:26
三笠の宮だったんだよ
56日本@名無史さん:2007/09/23(日) 09:59:33
古田史学会報 2001年 4月22日 No.43
「三笠山」新考 和歌に見える九州王朝の残映
京都市 古賀達也 氏の考察
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga43.html
57日本@名無史さん:2007/09/23(日) 11:11:12
奈良の三笠なんて
倭名抄にも続日本紀にも
全く記載無し
比較して福岡は
三笠川に三笠郡に三笠の森と
遺称地名は文句無し
58日本@名無史さん:2007/09/23(日) 13:29:04
奈良文化財研究所には内緒だね
59日本@名無史さん:2007/09/23(日) 13:55:29
記紀に三笠と記載されるのは
三笠の森だけだし
明らかに福岡だよねw
60日本@名無史さん:2007/09/23(日) 14:36:20
九州の蛮族は身長は低いが手だけ異常に長いらしい
61日本@名無史さん:2007/09/23(日) 15:05:13
>>59
奈良市平城京の三笠山も、名前だけの移設なのは誰でもわかる。
62日本@名無史さん:2007/09/23(日) 15:30:38
奈良の三笠山は鹿島・香取から春日大社の祭神を勧請したとき、常陸鹿島の三笠山にちなんでつけられた。
意外としられていないマメ知識。
63日本@名無史さん:2007/09/23(日) 17:24:33
>>61
移設された事は誰でもわかるよねw
しかし町買った痛切は訊きたくないよねw
64日本@名無史さん:2007/09/23(日) 18:44:08
2600年前でも信用するぜきっと
65日本@名無史さん:2007/09/23(日) 20:18:21
常陸鹿島の三笠山見に行けよw
その目でよおく焼き付けてこい!
66日本@名無史さん:2007/09/23(日) 21:37:17
マメ知識の人よりみんな知ってるよw
67日本@名無史さん:2007/09/23(日) 22:36:03
延喜式のうち鹿嶋神宮のように宮が付く神社は少ない
神宮すなわち御所であり都の事
こんな岬の先端の日の立つような僻地が都なのか
鎌足もエライ所の御出身だ
68日本@名無史さん:2007/09/23(日) 23:41:52
当時常陸の鹿島に住んでいたなら
鎌足は宮中に入れるような身分じゃないよw
九州の鹿島に確実に住んでいただろうけど
69日本@名無史さん:2007/09/23(日) 23:46:17
読み方違うよね
70日本@名無史さん:2007/09/24(月) 07:08:15
三笠の三は御の事で、古代に於いては、天皇に関連する地名に用いられた。
それを裏付けるように、筑紫周辺の郡名には、三が多用され、とても偶然とは言い難い。
同様に、朝倉や席田等も、天皇以外では用いられない地名なのも申し添える。
すると高貴な地名が多用される筑紫に比べ、畿内の凡庸な郡名は、代々の都のおかれた地として考えてみると、大きく見劣りする。
地名が固定化するまでの、発展段階における状況に、大きな違いが見られるのである。
補足として、三笠ついては、天皇分家にも用いられ、由緒高き地名である事も、考慮しなければならない。
71日本@名無史さん:2007/09/24(月) 09:03:31
添上郡とか山辺郡とか高市郡とか
どう見ても馬の骨地名
何処にも飛鳥なんて地名が無いしw
72日本@名無史さん:2007/09/24(月) 09:10:51
奈良の三笠山は、山焼きの若草山と春日大社の裏山の二つ。
73日本@名無史さん:2007/09/24(月) 09:39:37
>>70
平群郡に葛城郡なんて
あきらかに氏族発生後の名前
仮にその氏族により変えられた名前としても
それ以前の名前に効力がない程
歴史がないと言っていると同じ
筑紫周辺には郷名に僅かに見られる程度
74日本@名無史さん:2007/09/24(月) 10:58:25
中臣氏は鹿島の神官
75日本@名無史さん:2007/09/24(月) 14:16:24
>>73
磯城郡なんて海も無いのに
典型的な移設地名だよね
76日本@名無史さん:2007/09/24(月) 16:10:58
>>73
武内宿禰の後にこの氏族達は生まれたから
やっと倭の五王の後となる
都の周辺なのにこの開発遅れには恐れ入るw
77日本@名無史さん:2007/09/24(月) 18:09:23
確かに
倭名抄の大和国の地名は
郷も郡も総て凡庸だね
都なのにオリジナリティが無いみたいw
78日本@名無史さん:2007/09/24(月) 20:15:35
少なくても奈良には、白村江以前には、都らしきものは無かったって事かな。
79日本@名無史さん:2007/09/24(月) 20:38:01

中臣鎌足は百済の人質王子

80日本@名無史さん:2007/09/24(月) 20:59:35
>>78
それは間違いないねwww
81日本@名無史さん:2007/09/24(月) 21:23:24
奈良から都が移った後、総てが去り、歴史的には全く何も無くなった。
この極端な軽重は、その時期にしか必要のない、事情を汲み取らなければならない。
端的に言えば、防衛のみなのだが。
82日本@名無史さん:2007/09/24(月) 22:06:09
奈良時代の頻繁な遷都もそれを補足する
83日本@名無史さん:2007/09/24(月) 23:23:47
奈良の三笠って
庶民は維新後やっと認識したらしいよ
ご苦労なこった
84日本@名無史さん:2007/09/25(火) 18:55:39
奈良擁護の立場だと口数が少ないこと少ないこと
85日本@名無史さん:2007/09/25(火) 21:41:15
九州に都がある頃奈良って
認識されていたのかな?
86日本@名無史さん:2007/09/25(火) 22:17:53
奈良すような土地には
都を作る気は無いだろね
87日本@名無史さん:2007/09/25(火) 23:31:14
>>85
負けて可愛そうだよ
88日本@名無史さん:2007/09/26(水) 07:01:41
従属しつつ再戦も想定すればこそ
奈良盆地東縁の立地条件を満たす
89日本@名無史さん:2007/09/26(水) 09:40:18
あの砂漠で何するつもりだったのか?
90日本@名無史さん:2007/09/26(水) 17:10:42
九州の葛木の郡は別名があるよ
91日本@名無史さん:2007/09/26(水) 21:00:44
>>88
奈良の西側斑鳩のような土地の方が、
水も豊富で都に向いてる。
聖徳太子は福岡の人だけど。
92日本@名無史さん:2007/09/26(水) 23:34:45
平城京や藤原京は
水が少ない為
ゴミだらけだったらしい
93日本@名無史さん:2007/09/27(木) 07:05:11
京都盆地と奈良盆地の決定的違いは水
94日本@名無史さん:2007/09/27(木) 10:29:14
そういや藤も橘も丈夫だね
奈良砂漠でも元気な訳だ
95日本@名無史さん:2007/09/27(木) 17:16:54
御笠の笠に糟屋の糟に春日のかすは
同音同意として使われていた
96日本@名無史さん:2007/09/27(木) 17:47:25
神武の都の橿原kasiharaもこの地域だったんだろうね
97日本@名無史さん:2007/09/27(木) 18:37:26
KASって音はなんかあるね
98日本@名無史さん:2007/09/27(木) 21:07:25
「粕」と受け取りがちだけどね
99日本@名無史さん:2007/09/28(金) 07:05:56
香椎KASIHI
100日本@名無史さん:2007/09/28(金) 07:37:37
好字を当ててるけど
樫の事だよね
101日本@名無史さん:2007/09/28(金) 12:31:06
樫ですか・・・
やっぱりあの人とあの人は同じ人だね
102日本@名無史さん:2007/09/28(金) 17:58:37
橿原と香椎ですね
103日本@名無史さん:2007/09/28(金) 20:02:23
>51
地図で見たら、筑紫野市役所の真北が大宰府政庁あとなんだね
あと、御笠川から北側はきちんと道路も東西南北に走っている
南側は、努力したかもしれないが、余り名残は残ってなさそう

104日本@名無史さん:2007/09/30(日) 21:45:32
>>102
樫濃い国かな?
105日本@名無史さん:2007/10/02(火) 10:29:47
奈良の橿原にある神武天皇陵は
江戸時代に作られたそうで
橿原と呼ばれ始めたのも
その頃からなのだそうです
106日本@名無史さん:2007/10/02(火) 18:40:43
記紀の地名改竄は過激過ぎて
倭名抄等は付き合いきれないと言っている
107日本@名無史さん:2007/10/02(火) 20:12:52

稲作が中国から日本へ直接伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州や西日本に最初に伝わった稲作が弥生中期頃に
伝わってきた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から日本へ直接伝来した事の証拠にはならないのである。

単に定着しなかっただけで、かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲
があった可能性もある。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
108日本@名無史さん:2007/10/02(火) 21:29:09
>>106
みんなそんなもんで
明治以降に突然統制されてるねw
109日本@名無史さん:2007/10/03(水) 07:02:40
神武東征のルートからして
奈良の都の橿原に都を造る訳がない
110日本@名無史さん:2007/10/03(水) 08:57:48
徳川さんは朱子学がお好きだから
記紀の改竄にかなり加担したね
ちなみに神武天皇陵は徳川家作w
111日本@名無史さん:2007/10/03(水) 11:06:07
大阪の仁徳天皇陵にしても
江戸の頃にはまだ馬の骨古墳だしね
112日本@名無史さん:2007/10/03(水) 12:11:07
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも稲と
同時に検出されており、小麦が中国よりも数千年も前から、ハトムギが
江戸期伝来の通説よりも5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
113日本@名無史さん:2007/10/03(水) 14:45:00
>>111
ただでかいだけの古墳だから
以外に簡単に造れるそうだね
114日本@名無史さん:2007/10/03(水) 15:47:23
仁徳は記紀によると、民衆思いの慈悲深き大王だから、
間違っても、人手のかかる大きな古墳に、入る訳がない。
罪深き捏造だ。
115日本@名無史さん:2007/10/03(水) 17:54:25
倭の五王の入った墓は装飾古墳だろうねw
116日本@名無史さん:2007/10/03(水) 18:12:22
江田船山古墳は五王の墓なんだよ
http://members.jcom.home.ne.jp/sachiyama2/page011.html
117日本@名無史さん:2007/10/03(水) 21:04:14
仁徳の扱いは五王時代の鍵を握る
活躍が無いからこそ
徳高き王として奉りやすかったんだろうが
118日本@名無史さん:2007/10/03(水) 21:20:17
追贈嵩増天皇の香w
119日本@名無史さん:2007/10/03(水) 23:32:51
仁徳は五王の前だろ
120日本@名無史さん:2007/10/04(木) 08:01:27
>>116
菊池川添いは古代天皇家やその親戚の故地
関西にも石棺はこの地より運ばれた
121日本@名無史さん:2007/10/04(木) 11:05:10
倭五王軍の本体は、玉名から海路半島へ遠征したんだよ。
122日本@名無史さん:2007/10/04(木) 11:46:33
倭の五王時代には何で中国の冊封を受けたのか?
その後の蘇我時代には何故受けなかったのか?
123日本@名無史さん:2007/10/04(木) 13:42:46
国内を治めるのに中国のご威光が便利だったから。(卑弥呼以来)
その後は国内も治まり必要なくなったから。中国も分裂・弱体化してたし。
124日本@名無史さん:2007/10/04(木) 16:46:09
>>122
隋以降は倭国と同格やそれ以下で
奉るべき対象では無い為
これ史書類等から読み取れる
いい変えればそれ以前の中国王朝は
倭国と縁戚だったとも言える
軍事経済等による冊封なら
戦争による優越をつけるのが国際常識!
125日本@名無史さん:2007/10/04(木) 17:38:55
五王物部政権と蘇我政権は
同じ武内宿禰の末裔で親戚だしね
126日本@名無史さん:2007/10/04(木) 20:55:09
>>124
従属する理由は、相応な理由が必要。
理由も無しに従属するのには、血縁をまず疑うべきです。
127日本@名無史さん:2007/10/04(木) 21:36:36
春秋戦国時代には姫氏だらけだから
それも当然の考え方だよね
128日本@名無史さん:2007/10/04(木) 23:10:41
隋って政権は馬の骨だった訳だね
129日本@名無史さん:2007/10/04(木) 23:10:44
隋皇帝の出自が天皇家を下回った
そうとでもしないと説明つかない
130日本@名無史さん:2007/10/05(金) 07:38:16
白村江から暫く後は、唐の従属国であった。
律令や漢詩・墓碑と、まるで小中国に化した。
これは敗戦という、経済的理由によるもの。
しかし倭の五王時代の従属には、それを伴わない。
今迄の通説である中国信奉だけでは、説明に全くなっていない。
何故中国を信奉するのか?それが無いのである。
131日本@名無史さん:2007/10/05(金) 08:48:54
中国の側から扶桑の国日本は憧れの存在でもあったし
朝鮮まで実効支配していたのに
ご威光にすがるってなんだろね?w
132日本@名無史さん:2007/10/05(金) 10:21:04
外国かぶれかよw
133日本@名無史さん:2007/10/05(金) 12:01:55
なるほどね、古代天皇家(蘇我物部)の出自は、中国からとしないと、説明がつかないのか。
そういえば、秦とか紀氏なんて、天皇家に絡みながら、外国氏姓だしね。
134日本@名無史さん:2007/10/05(金) 12:15:43

稲作が中国から日本へ直接伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら最初に九州や西日本に伝わった稲作が弥生中期頃に
伝わってきた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から日本へ直接伝来した事の証拠にはならないのである。

それにRM1-b遺伝子の稲はかつては朝鮮半島にもあったが、
単に定着しなかっただけという事も十分に考えられる。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
135日本@名無史さん:2007/10/05(金) 14:28:59
>>133
秦も紀氏も物部も蘇我も
みなさん同じ御親戚
136日本@名無史さん:2007/10/05(金) 14:29:23
>>134
ばか!
論理展開の方法を勉強をして出直して来い。
137日本@名無史さん:2007/10/05(金) 15:47:24
理由は無いけど中国皇帝の御威光におすがりした方がいいみたいだぜw
138日本@名無史さん:2007/10/05(金) 16:44:00
物部君はなんか凄いと思ったので子分になった
親戚の蘇我君はどうでも良くなったので子分は止めた
既に道義という言葉は日本に伝わっていた・・・
139日本@名無史さん:2007/10/05(金) 17:37:59
>>135
秦河勝さんは聖徳太子さんで蘇我馬子さんで○○天皇なんだってさ
140日本@名無史さん:2007/10/05(金) 18:11:13
中国南北朝時代の南朝は倭の天皇と仲良しだよね
141日本@名無史さん:2007/10/05(金) 20:37:54
倭の五王以前に
敗戦や干渉により
従属を肯定する記録が
全く見当たらない
海を隔てて恐れ慄く必要性は
極めてゼロに近いにも係わらず
142日本@名無史さん:2007/10/05(金) 22:34:13
中国の前方後円墳も沢山ある
御親戚がお造りになったのですね
143日本@名無史さん:2007/10/06(土) 07:17:52
中国の前方後円墳は無視されてるね
144日本@名無史さん:2007/10/06(土) 08:34:45
wikiより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%96%B9%E5%BE%8C%E5%86%86%E5%A2%B3
>・・・中国や朝鮮半島では見られない日本独特の特徴である。・・・

中国には山ほど前方後円墳があるのにねwww
http://www.banri.net/naniwa/kofun/

無視しか出来ない奴らに学問は語って欲しくないよw
145日本@名無史さん:2007/10/06(土) 10:23:42
同様の墳墓だね
146日本@名無史さん:2007/10/06(土) 15:16:26
中国に前方後円墳が無いなんて誰が言ったんだw
147日本@名無史さん:2007/10/06(土) 21:55:21
日中共同宣言みたいやで
148日本@名無史さん:2007/10/07(日) 11:22:36
>>144
明らかなる前方後円墳ですな
149日本@名無史さん:2007/10/07(日) 11:46:44
150日本@名無史さん:2007/10/07(日) 13:25:34
周囲に環濠の名残まであるね
151日本@名無史さん:2007/10/07(日) 14:46:58
中国では前王朝の墓を破壊するのが常識ですので
綺麗に残っている物の方が少ないです
しかし前方後円墳だとしか判断出来ない物もある事は事実なのです
ですが中国は前方後円墳の存在を頑なに認めません
これは建前的に秦王朝の末裔が現在の漢民族なのですが
異民族に犯され続け本来の記憶が残っていない為
日本の方が古代中国の風習が残っている事をよしとしていないようです
こちら日本の方も独自王権の材料としたいようですし
日中同歩調で中国の前方後円墳は無いことになっています
152日本@名無史さん:2007/10/07(日) 16:00:41
中華思想も自尊心が高すぎるよな
欧米は間違っても中華だと思ってないし
中華とよばないよ
153日本@名無史さん:2007/10/07(日) 17:10:01
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも稲と
同時に検出されており、小麦が中国よりも数千年も前から、ハトムギが
江戸期伝来の通説よりも5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
154日本@名無史さん:2007/10/07(日) 20:21:37
>>151
秦漢唐とどれも大型古墳を作り続けた
それが前方後円墳ではないとしても
日本の大型古墳との類似性は認めて欲しいよねw
155日本@名無史さん:2007/10/07(日) 20:41:37
時々思うけど
当時の漢民族政権が残っているのは
日本だけなんじゃない?傀儡だけど
156日本@名無史さん:2007/10/07(日) 20:59:27
157日本@名無史さん:2007/10/07(日) 22:00:18
>>154
そうだよね
日本と中国の古墳止める時期も似てるよ
158日本@名無史さん:2007/10/07(日) 22:06:44
巨大古墳って奴は
漢民族が大好きで
その他民族はそんなでっかいの作ってないじゃん
159日本@名無史さん:2007/10/08(月) 10:14:14
いえますね
160日本@名無史さん:2007/10/08(月) 11:58:57
三国・晋時代以降の中国では、
北朝は鮮卑人で、南朝がかろうじて漢人、
統一政権である隋唐も鮮卑人。
その後も漢民族による王権は、ほんの僅かである。
20世紀ソビエトの、中国戸籍調査によると、
各王権交代時に、中国人口は必ず半減以下となったとのこと。
ということは、時代と共に古き漢民族の血は薄れ、
今の漢民族は、全く違った人種と考えられるのである。
これで日本に来た漢王権が、ノルマンディであったにせよ、
その血を頑なまでに、近親相姦より守りぬいた事の意味が、
ようやく解かってくるのである。
161日本@名無史さん:2007/10/08(月) 12:36:51
全国通津浦裏に漢民族道教変化系の神社がございますな
162日本@名無史さん:2007/10/08(月) 15:49:27
神社も漢民族の模倣
163日本@名無史さん:2007/10/08(月) 16:54:19
古来中国の道教は神道と呼ばれていたんですよ
164日本@名無史さん:2007/10/08(月) 17:10:33
中国道教も、日本神道も、それぞれ変化し今の形となった。
特に中国のそれの変化は著しい。
儒教が過激になったように。
165日本@名無史さん:2007/10/08(月) 19:00:42
姥捨山=楢山節考
長野の何処を探してもそんな酷い事を指示した
殿様は居なかったようです
いったい何処の殿様なのか?
外国の更科でも探したほうがいいのかな?
166日本@名無史さん:2007/10/08(月) 20:28:42
長野更科は移設確実だね
167日本@名無史さん:2007/10/08(月) 20:54:24
仏典の中に楢山節考もどきがあるらしいね
168日本@名無史さん:2007/10/08(月) 21:44:08
かなり多くの地域に姥捨て伝説があるようだ
これも移設により広がったとして考えないとね
169日本@名無史さん:2007/10/08(月) 22:21:42
姥捨なんて日本の話の訳がないw
老人の食い扶持減らす程年中貧困地帯なんて
日本には殆どありえないからね
近年まで開墾可能な地域が山程あったし
老人の草むしりだって立派な労働力だ
とんだ子供騙しだなw
170日本@名無史さん:2007/10/08(月) 22:37:04
姥捨は能楽にあった
能楽には中国のお話が沢山入っている
それと同じように持ち込まれた感は否めない
あと意味深なのは
能楽に朝鮮の話は全く無いんだ
171日本@名無史さん:2007/10/09(火) 06:57:42
能楽とはいえ宮廷歌謡から発展したもの
天皇家の立場に添う物が基本
172日本@名無史さん:2007/10/09(火) 17:32:24
>>170
朝鮮由来の物語が無いのは面白い
173日本@名無史さん:2007/10/09(火) 18:20:19
こんなんで
なぜ朝鮮人が日本の天皇になったとか言えんだろうね?
174日本@名無史さん:2007/10/09(火) 18:45:05

稲作が中国から日本へ直接伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら最初に九州や西日本に伝わった稲作が弥生中期頃に
伝わってきた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から日本へ直接伝来した事の証拠にはならないのである。

それにRM1-b遺伝子の稲はかつては朝鮮半島にも存在したが、
単に定着しなかっただけという事も十分に考えられる。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
175日本@名無史さん:2007/10/09(火) 23:30:32
 倭は、商には知られ、周には通じていた。従順と判断されていたようだ。

 関係が大きく変わるのは後漢の光武帝の施策による。周辺国政策として倭に着目し金印を与え東方の安定を磐石のものとした。
後漢にすれば、前漢の匈奴との争いを教訓とし周辺国政策を定めたと思われ、目論見は成功し東方を気にする心配はなくなった。
倭王は後漢の技術的文化的支援のもと「天子」に与えられた正当性「天孫」を称し漢の将軍として行動した。

 時代がたつと「倭国大乱」と「卑弥呼」の即位があり、「卑弥呼」は外交使節を魏に送った。
丁度3国の争いのほぼ大筋が見えたころで、東からの天子あてN使者が来たので正統の証のように見え、魏を大いに喜ばせた。
これにより「親魏倭王」の印を賜ることになる。また魏から軍事顧問が派遣されたがそのまま居ついたのが坂上田村麻呂の先祖である。

 三韓の台頭、特に高句麗の勢力拡大と百済(ここは必ずしも敵ではないが)は倭にあせりを与え「安東大将軍」の名を望むことになるが、
武王が宋に出した上表文は、「宋」の正統性を示す形になっていたため、高く評価され、外交的成果をもたらした。

隋が中国を統一した。しかし倭はその正統性を認めなかった。「お前が天子なら、俺も天子だ」という外交文書を送った。これは煬帝を狼狽させ
力で正統性を証明しようとして狂ったとうに高句麗遠征をする引き金になった。。

白村江の戦いの後、唐は倭から正統性を認める外交文書をもらうのを期待して使節を送ったが、そこはかつての倭ではなく期待はずれに終わった。
外交消極派の天智系の治めるところであった。もっともこの事件がきっかけで外交積極派の天武系が政権をとることになった。。。。


176日本@名無史さん:2007/10/10(水) 00:20:23
>>175
>魏から軍事顧問が派遣されたがそのまま居ついたのが坂上田村麻呂の先祖である。

ごもっとも!
でも、何故上記の判断ができたの?
177日本@名無史さん:2007/10/10(水) 01:43:18
「坂上田村麻呂の先祖」と「坂上田村麻呂」との年代差は、そんなには経っていない。
また「坂上田村麻呂」の時点で、征夷大将軍になれるほど十二分に高い家柄であったはずだ。
当時、家柄の「沈み」は早くても、「浮き」は難しい。
なので、坂上家の先祖の伝説を信じるなら、倭国(日本?)到着時はかなりの厚遇であったと考える。

坂上家の先祖の伝説は、捏造が入るには時期が短すぎる。捏造するならもっといい血筋がありそうだ。
時期が短いので、まだ先祖への尊敬の念が生きていただろう。 由にまあ信用できる。

後漢末期の時期では、倭国大乱の時期。大乱が収まるまでは流石に海を渡るのはためらうだろう。
到着時はかなりの厚遇を考えれば逃げ出してきては考えにくい。また後年、征夷大将軍を出すには
兵法書とかそれなりのを子孫のために携えていたと考えている。


さて、魏が供給でき、卑弥呼が欲したものはなにか?


こういったことをぼんやり考えたら その考えに行き着いた。

178日本@名無史さん:2007/10/10(水) 09:27:17
>>174-177
朝吉以外に書けないわ
179日本@名無史さん:2007/10/10(水) 17:15:54
>>173
中国→朝鮮
中国→日本
といった具合に漢民族は追い出された
だから朝鮮と日本は当然似ている
180九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/10(水) 19:42:52
>>178
>>174-177
>朝吉以外に書けないわ

>>175は、「第九条 九州王朝大好き」 の認定荒らしコテです。
朝吉氏の自演レスではありません。

朝吉氏ってどんな人?
181九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/10(水) 23:47:25
>>180のアンカー間違えた

正:
>>176は、「第九条 九州王朝大好き」 の認定荒らしコテです。
朝吉氏の自演レスではありません。
182日本@名無史さん:2007/10/11(木) 12:23:37
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも稲と
同時に検出されており、小麦が中国よりも数千年も前から、ハトムギが
江戸期伝来の通説よりも5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
183日本@名無史さん:2007/10/12(金) 20:34:28
>>179
朝鮮が先祖じゃないと困る人がいるみたいだ
184日本@名無史さん:2007/10/12(金) 20:56:14
www
185日本@名無史さん:2007/10/12(金) 21:09:33
>>170
朝鮮由来の物語が無いのは面白い
www
186日本@名無史さん:2007/10/13(土) 07:15:44
漢字は中国から漢音ともに大量に入ってきた
187日本@名無史さん:2007/10/13(土) 07:50:49
朝鮮語が日本語として
使われているのはわかるけど
絶対量に開きがあるね
漢字と比べちゃね
188日本@名無史さん:2007/10/13(土) 13:06:05
少なくても紀元後の朝鮮語の影響は僅かだな
189日本@名無史さん:2007/10/13(土) 17:32:09
確かに同じ習俗の人が住んでいたけど
それは日本が支配していたからだね
190日本@名無史さん:2007/10/13(土) 19:19:37

稲作が中国から日本へ直接伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら最初に九州・西日本に伝わった稲作が早くも弥生前期末には
伝わっていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から日本へ直接伝来した事の証拠にはならないのである。

それにRM1-b遺伝子の稲はかつては朝鮮半島にも存在したが、
単に定着しなかっただけという事も十分に考えられる。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
191日本@名無史さん:2007/10/13(土) 20:17:22
>>189
阿比留文字も日本から朝鮮への輸出品
192日本@名無史さん:2007/10/13(土) 20:36:20
神代文字図鑑3
http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/mojizukan3.htm

ハングルの制定1446年以前みたいだね
193日本@名無史さん:2007/10/13(土) 23:46:15
漢字の輸入以前にアヒル文字が使われていたのか?
194日本@名無史さん:2007/10/14(日) 00:01:00
可能性は無きにしもあらず
証拠不足は否めない
195日本@名無史さん:2007/10/14(日) 06:51:39
朝鮮を天皇家の先祖と結びつけた通説は
やはり意図的なものを感じる
中国VS朝鮮にすると解りやすい
196日本@名無史さん:2007/10/14(日) 08:35:01
五胡十六国の変遷を見れば
漢民族がいかにして華北から
追い出されたかよくわかる
197日本@名無史さん:2007/10/14(日) 10:15:26
五胡とは多彩な民族を表して
入り乱れたまま興亡を繰り返した
追い出された漢民族を含む諸民族は福岡にも来た
当然葬制も福岡では多彩であり
中華の淵として福岡は存在した事が解る
異民族の痕跡がない奈良はその枠外であった
当然冊封の対象にすらなる訳がない
198日本@名無史さん:2007/10/14(日) 13:08:27
そーだな
異民族がいたら
異民族しか住んでいなかったと
考えるのは超愚かだわ
隣の中国は五胡十六国
異民族いない方が不自然だし
199日本@名無史さん:2007/10/14(日) 13:59:40
奈良は化外の地
異民族も行きたくないほど
僻地だった訳だ
200日本@名無史さん:2007/10/14(日) 14:59:57
北方領土はいまだかつて一度も
外国の領土となったことのない
日本固有の領土です  九州王朝
201日本@名無史さん:2007/10/14(日) 16:13:51
>>199
奈良の外国人墓って聞いたことないよなw
202日本@名無史さん:2007/10/14(日) 16:52:08
北方方面に目が向いてたところを東から不意打ちを食らった。
いわゆる 「磐井の乱」 はどう考えてる?

王朝の再建後、無策はありえないから
文明教化策くらいをとって、欽明朝の仏教伝来もその流れの一環かと
203日本@名無史さん:2007/10/14(日) 18:34:55
>>201
古墳は一応純和風として考えるとそうなるね
厳密には漢風なんだけどね
204日本@名無史さん:2007/10/14(日) 18:52:23
>>202
欽明は継体朝を倒した九州王朝の畿内の地域大王。
205日本@名無史さん:2007/10/14(日) 18:59:41
日本書紀には6万の軍を半島に送ったとあるけど
それらの兵站はどうやったんだろう。
秀吉のときでも陸路はかなり補給に苦労したんでしょ?
206神功皇后:2007/10/14(日) 19:17:08
奈良だけがまともな住める土地だった、ほかは水に浸かったしっちしかなかったので、
奈良は最高の地でありました
207日本@名無史さん:2007/10/14(日) 20:27:06
>>204-206 馬鹿印
>>202 馬鹿印
>>200 馬鹿印
>>190 馬鹿印
本人以外はみんな解かるよwww
208日本@名無史さん:2007/10/14(日) 21:30:32
>>207
凍結頭
209日本@名無史さん:2007/10/15(月) 09:42:54
>>203
なんかピント外れのご意見が目立つねw
しかし方墳も円墳も前方後円墳も中国由来なのは確かだね
210日本@名無史さん:2007/10/15(月) 11:18:31
五胡以降の中国の影響が
前方後円墳だと考えられる
211日本@名無史さん:2007/10/15(月) 12:24:49
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも稲と
同時に検出されており、小麦が中国よりも数千年も前から、ハトムギが
江戸期伝来の通説よりも5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
212日本@名無史さん:2007/10/15(月) 20:51:55
>>170
>姥捨は能楽にあった
>能楽には中国のお話が沢山入っている
>それと同じように持ち込まれた感は否めない
>あと意味深なのは
>能楽に朝鮮の話は全く無いんだ
213日本@名無史さん:2007/10/15(月) 21:08:13
>>170
>朝鮮由来の物語が無いのは面白い
214日本@名無史さん:2007/10/15(月) 22:21:03
>>210
箸墓みたいな前方後円墳が古いことになってるしね
215日本@名無史さん:2007/10/15(月) 22:37:49
箸墓が卑弥呼かよ
216日本@名無史さん:2007/10/16(火) 07:04:19
大きな古墳は奈良時代の築造なのに
217日本@名無史さん:2007/10/16(火) 09:46:00
しかし古墳の説明や時代設定について
ちゃんと説明しているHPって無いよね
余程いい加減なので自信が無いんだろうね
218日本@名無史さん:2007/10/16(火) 10:06:16
そりゃそうだよ
古墳時代前期に前方後円墳が作られたなんて
明らかに妄想が妄想を生んだ
何一つ証拠の無い通説だもんw
219日本@名無史さん:2007/10/16(火) 12:46:10
朝鮮人も漢人も昔は二文字姓を名乗る者が多く
母系社会だったそうだ
未だ二文字姓を名乗り
平安まで母系社会だった日本には
漢人の大移動の形跡が読み取れる
220日本@名無史さん:2007/10/16(火) 15:13:53
もともと一文字姓を
わざわざ二文字に直している
これは源氏などに多くみられ
天皇家の出自にからみ興味深い
中国においては五胡の風習
221日本@名無史さん:2007/10/16(火) 20:37:10
司馬・公孫・諸葛
この後の異民族圧倒を見りゃ
漢の二文字が消えた意味も解るな
222日本@名無史さん:2007/10/16(火) 20:54:10
漢民族が一文字姓じゃなくて
一文字二文字併用が漢民族となる
これは勉強になりますね
223日本@名無史さん:2007/10/16(火) 23:57:39
本当の漢って国に最も近いのは何処だろう
224日本@名無史さん:2007/10/17(水) 07:04:20
五胡じゃ無く漢に分があるようだね
いづれにしても今の中国朝鮮の方が変化したようだね
225日本@名無史さん:2007/10/17(水) 07:26:31
姓と云う漢字にも、漢民族が母系社会であったと、書かれています。
226日本@名無史さん:2007/10/17(水) 07:41:05
古代中国と日本は似てるよね
227日本@名無史さん:2007/10/17(水) 12:18:49

稲作が中国から日本へ直接伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら最初に九州・西日本に伝わった稲作が弥生前期末には
既に伝わっていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から日本へ直接伝来した事の証拠にはならないのである。

それにRM1-b遺伝子の稲はかつては朝鮮半島にも存在したが、
単に定着しなかっただけという事も十分に考えられる。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
228日本@名無史さん:2007/10/17(水) 18:12:08
>>226
漢が身近に感じられますね
229日本@名無史さん:2007/10/17(水) 21:31:34
遡る程中国の姓は二文字になる
230日本@名無史さん:2007/10/17(水) 22:04:30
秦の多民族政策と福岡の多民族墳墓は偶然の一致じやない
231日本@名無史さん:2007/10/17(水) 22:25:02
なんか中国皇帝って
自称漢民族でもみんな異民族説があんね
232日本@名無史さん:2007/10/18(木) 07:04:03
結局漢民族って漢語を使う人達で
人種的には古くから混血している為
分類が難しいよね
233日本@名無史さん:2007/10/18(木) 10:35:38
漢とは元は地名称でありしたが、
漢政権により支配された民族の総称となりました。
それが現在のように漢語を使用する民と、
言葉の意味もかなり広がったのです。
234日本@名無史さん:2007/10/18(木) 15:20:36
漢より前は何民族と呼んでたの
235日本@名無史さん:2007/10/18(木) 17:45:40
なんか最近みたいよ漢民族と呼んだの
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E6%B0%91%E6%97%8F
236日本@名無史さん:2007/10/18(木) 20:20:18
漢の影響は強いよね
周秦と言っても名前を残せない
それだけの存在なんだよ
237日本@名無史さん:2007/10/18(木) 20:28:43
>>235
中国大陸は多民族、多語源、多文化、多国家の国だもん
ローマ帝国、トルコ帝国、ギリシア帝国、モンゴル帝国とかが支配してた時期もあるし

今でも250の民族と語源がある
238日本@名無史さん:2007/10/18(木) 20:34:43
中国大陸もヨーロッパ大陸と同じような土地だよ

多国家、多民族。 それこそ歴史に名を残さない国も沢山あるよ。満州国とかさ


中国の歴史っても今の中国の歴史は60年しか無いんだから
239日本@名無史さん:2007/10/18(木) 20:56:09
>>236
「CHINA」の語呂 は 秦 が元だと聞いたなあ。
240日本@名無史さん:2007/10/18(木) 22:08:30
>>236
九州の都では漢の影響が非常に大きいよねw
241日本@名無史さん:2007/10/18(木) 23:24:05
日本にある山城は朝鮮式山城って云って
無理やり朝鮮に結び付けてるけど
それよりずっと古く中国春秋時代から
中国の万里の長城は山峰を縫って作られていた
なんでこの山城を無視するのかな?
これも中国発日本行きと朝鮮行きだろうね
242日本@名無史さん:2007/10/19(金) 07:09:54
山峰を縫うと云えば大野城
万里長城か盲点だったな
他にも朝鮮由来とされてるのは
中国由来とみるべきかもね
243日本@名無史さん:2007/10/19(金) 09:12:12
なんか改めてみると
通説って強引な朝鮮誘導してんだね
よくみんな黙ってるな
244日本@名無史さん:2007/10/19(金) 09:56:16
朝鮮経由は当然あるよ
仏教の第二波なんかは百済経由だしね
でもあくまでも経由だね
245日本@名無史さん:2007/10/19(金) 10:39:36
最近は、考古学者でも「経由地」と「起源地」を分けて考えるべきだと言う人がいるようになってきた(当然の常識だよね)。
「半島経由なら何でも半島起源」とこじつける古い偏見は、今後改善されていくだろう。
246日本@名無史さん:2007/10/19(金) 11:24:32
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも稲と
同時に検出されており、小麦が中国よりも数千年も前から、ハトムギが
江戸期伝来の通説よりも5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
247日本@名無史さん:2007/10/19(金) 18:03:42
>>244
狛犬のせいで神社は朝鮮伝来と云うけど
狛犬は鎌倉時代から置かれたようだね
後付けの飾りだね
248日本@名無史さん:2007/10/19(金) 20:47:40
朝鮮鐘も経由したからそう呼ばれただけ
249日本@名無史さん:2007/10/19(金) 21:41:57
漢民族の大移動かな?
250日本@名無史さん:2007/10/19(金) 23:33:49
最初銅鐘は福岡産だね
なんで奈良じゃないんだろう?
251日本@名無史さん:2007/10/20(土) 06:29:31
銅鐘伝播は中国→朝鮮→九州→畿内と云うルートがハッキリする
ここで九州が経由地となることは記紀と明らかに食い違う
252日本@名無史さん:2007/10/20(土) 10:33:22
畿内に伝わったのはやっと奈良だしね
253日本@名無史さん:2007/10/20(土) 12:33:34
記紀と云う建前もいつぞは崩れる
254日本@名無史さん:2007/10/20(土) 16:08:40
もう戦前じゃ無いからね
大義名分は無いけどさ
既得権益を守るだけ御権威が
ウジャウジャいる
255日本@名無史さん:2007/10/20(土) 16:53:22
どうしても朝鮮にしとかないと
先輩方に申し訳が立たないとかいって
実は金の亡者
256日本@名無史さん:2007/10/20(土) 20:43:25
朝鮮半島の三国史記見りゃ
日本よりも遅れていたことは明白だね
257日本@名無史さん:2007/10/21(日) 08:25:01
日本には記紀を遡る史書があった
焚書改竄ばかりだね
258日本@名無史さん:2007/10/21(日) 09:31:14
太宰府の南北水城は中国式都市都城だ
もし正しければ
中国にも類を見ない広大な都城となる
259日本@名無史さん:2007/10/21(日) 10:55:27
基肄城には北帝なんて小字があるね
まるで帝がいたみたいだね
260日本@名無史さん:2007/10/21(日) 12:59:34
まるで九州に都があったみたいだなw
261日本@名無史さん:2007/10/21(日) 17:46:51
天智天皇が築造を指示したこの険固な基肄城があれば
壬申の乱の時には九州にいるよなw
262日本@名無史さん:2007/10/21(日) 20:26:49

稲作が中国から日本へ直接伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら最初に九州・西日本に伝わった稲作が既に弥生前期末には
伝わっていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から日本へ直接伝来した事の証拠にはならないのである。

それにRM1-b遺伝子の稲はかつては朝鮮半島にも存在したが、
単に定着しなかっただけという事も十分に考えられる。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
263日本@名無史さん:2007/10/21(日) 20:36:56
>>261
そういえば壬申の乱の頃に
畿内には山城が高安城しかないからね
戦争出来ない場所で戦争しているよね
264日本@名無史さん:2007/10/21(日) 21:30:07
近江の大津には何も無いが
那の大津には城があった
どんな戦争するんだよw
265日本@名無史さん:2007/10/21(日) 22:24:58
話が戻るが
史記こそ史書であり漢人の書いた書である
聖徳太子の善政や書記類も同様である
対し記紀は儒教に狂った異民族の書である
266日本@名無史さん:2007/10/21(日) 22:54:49
で?
267日本@名無史さん:2007/10/22(月) 04:28:57
>>265
マジ史記だけ毛並みが違うよな
268日本@名無史さん:2007/10/22(月) 06:59:38
司馬遷
つかさうまめぐる
通じるよ
269日本@名無史さん:2007/10/22(月) 11:10:05
記紀の捏造は儒教的な媚諂い
史実を伝える態度は二の次とし
建前の構築のみに終始する
270日本@名無史さん:2007/10/22(月) 16:05:24
九州に対する後ろめたさがありありと伝わる
271日本@名無史さん:2007/10/22(月) 16:49:38
>>265
異民族かどうかは解らないが
儒教に狂っている事はなっとくするよ
272日本@名無史さん:2007/10/22(月) 21:01:05
中国史書もそこまでは無いな
273日本@名無史さん:2007/10/23(火) 07:40:23
記紀では形の上で政権交替を経ずに史書を作ったが為悪く書かれた天皇は僅かである
大部分が儒教的な聖帝として描かれ血脈の正当性を主張する
製作当時は女帝続きと云うこともあり最高女神に挿入女帝としっかりご機嫌取り
だから史書的要素を蔑ろにしてでも天皇の御意向を優先しなければならない状況で作られた
客観的な立場に立たない偏向史書なのである
274日本@名無史さん:2007/10/23(火) 07:50:56
手前味噌だね
275日本@名無史さん:2007/10/23(火) 09:07:49
>>273
ごもっとも
中国史書は史記を除いて政権崩壊後に書かれ
史記も当時の漢皇帝には批判的に書かた
記紀とは史書としての立場が違うね
276日本@名無史さん:2007/10/23(火) 13:09:57
記紀の仲哀や武烈や斎明なんかは多少批判されてるね
277日本@名無史さん:2007/10/23(火) 17:07:33
ほほ〜
仲哀や武烈は血脈が途絶えた天皇として
理由付けの意味があるだろう
だけど斉明は難しいね
斉明でも途絶えたと考えるべきなのかもね
278日本@名無史さん:2007/10/23(火) 21:24:24
斎明周辺の記述を見れば、血脈断絶をほのめかす部分も、確かにあるね。
279日本@名無史さん:2007/10/24(水) 03:27:20
239
>>236
>>「CHINA」の語呂 は 秦 が元だと聞いたなあ。

わしは「清」が元だと聞いたぞ。
280239:2007/10/24(水) 07:31:40
「china 語源」 で ぐぐれば

秦 概要 戦国の七雄のひとつ. B.C211年に全国を統一し統一国家となる.
後にこの名が“chin”として西方に伝わり、“china”の語源になったといわれる.

みたいなのが、いくつか出てくるよ。
この説が誤り?真偽までは知らないよ。
でも 清 は ずいぶん新しいなあ。

281日本@名無史さん:2007/10/24(水) 08:31:29
>>278
あるな斎明断絶説w
282日本@名無史さん:2007/10/24(水) 13:15:14
斎明も仲哀同様
九州拠点に行動し
そこで死んでいる
283日本@名無史さん:2007/10/24(水) 17:06:04
なんか共通のキーワードがあんのね
284日本@名無史さん:2007/10/24(水) 20:49:33
天智ってホントに実子なの?って思っていたんだ
285日本@名無史さん:2007/10/25(木) 07:23:35
天智の記述には腑に落ちない事が多い
大兄とは皇太子であるにもかかわらず
何度も天皇即位を見送られた事等
本当に斉明の実子なのかと疑われる記述が多い
286日本@名無史さん:2007/10/25(木) 12:27:43
後付けで作られた記紀だからね
287日本@名無史さん:2007/10/25(木) 13:32:54
日向三代

・高天原の神は統治者を派遣する事とした
・ニニギが任命された
・猿田彦が道案内を申し出た
・ニニギは5人の神を従えた
・こうして準備を整え、ニニギは筑紫の高千穂の峰に降りたった
・ニニギは天照大神の孫なので、これを天孫降臨といいます


ニニギは高志(越、北陸沿岸部の事)から命を受け筑紫を統治しに行ったらしいよ
つか記紀にちゃんと書いてあるし
288日本@名無史さん:2007/10/26(金) 07:01:10
天武の出自は問われるけど
天智は盲目に信じ込まされてる
通説の落し穴
289日本@名無史さん:2007/10/26(金) 07:57:23
同時期に、古人大兄と、中大兄の、二人の皇太子がいます
どちらかが捏造皇太子とすれば、非常に解りやすいですね。
290日本@名無史さん:2007/10/26(金) 09:28:45
ほんとだわ
間違いを見つけて欲しいと言わんばかりたな
291日本@名無史さん:2007/10/26(金) 14:13:10
すると古人大兄が皇太子だと考えるぺきだね
292日本@名無史さん:2007/10/26(金) 15:43:12
自作自演乙
 
293日本@名無史さん:2007/10/26(金) 20:32:52
>>289
山背大兄皇子と田村皇子の争いも
皇太子を退けたと読む事ができる
確かに天皇の子供である山背に対し
田村皇子は孫と血統が悪い
クーデターの匂いもする
294日本@名無史さん:2007/10/26(金) 22:12:37
記紀ってあんまり細かいとこに気配ってないね
295日本@名無史さん:2007/10/27(土) 10:18:10
斎明死後天智は即位式をせずに皇太子のまま約五年政務をとった
この空白の間は長津宮(博多)にいた
ここの謎が解ければ断絶説もはっきりする
296日本@名無史さん:2007/10/27(土) 11:07:17
進駐軍が大挙筑紫に来ている、その状況から天皇になるのなら、
まず前政権を踏襲するような、人物はありえないだろう。
しかも天智は中国式の制度改革に着手している。母とは毛並みも違うようだ。
297日本@名無史さん:2007/10/27(土) 12:38:13
筑紫都督府が設置されてますね
298日本@名無史さん:2007/10/27(土) 15:51:45
都督府を作った天皇w
299日本@名無史さん:2007/10/27(土) 20:58:00
天皇にも色々居るよね
300日本@名無史さん:2007/10/27(土) 21:23:57
困ったよねw
301日本@名無史さん:2007/10/28(日) 08:25:11
戦前の最高権力者は昭和天皇
戦後の最高権力者は吉田茂
進駐されて同じ頭にはなる訳ないよな
302日本@名無史さん:2007/10/28(日) 17:43:07
>>297
これを無視するから
歴史が滅茶苦茶になる
これは明らかな唐による
占領があったとみるべきですね
303日本@名無史さん:2007/10/28(日) 21:04:13
筑紫都督府
記紀の編者も匂わすね
304日本@名無史さん:2007/10/28(日) 21:35:34
マキムクとかいってる奴に
天智の筑紫都督府のコメントお願いしたらw
305日本@名無史さん:2007/10/28(日) 22:30:27
日本書紀天智天皇4年紀抜粋
9月23日唐が〜劉徳高等を遣わしてきた〜
7月28日対馬着
9月20日筑紫につき
9月22日に表凾をたてまつった

斉明も天智も記紀の云う本来の本拠奈良にいない
306日本@名無史さん:2007/10/29(月) 07:04:15
奈良には王権は無かったって事
307日本@名無史さん:2007/10/29(月) 16:20:31
マキムク遺蹟の集落跡が首都ならば
当時の日本は鎖国でもしていたのかもね
308日本@名無史さん:2007/10/29(月) 16:46:20
どのニュースも理由を誤魔化して推測だもんね
309日本@名無史さん:2007/10/30(火) 07:05:11
吉田茂が天智な訳ね
310日本@名無史さん:2007/10/30(火) 07:49:42
何だかんだ言っても
茂ちゃんはアメリカの犬だよ
311日本@名無史さん:2007/10/30(火) 11:47:22
しからば天智が犬ならどう云う立場なのかだな
312日本@名無史さん:2007/10/30(火) 15:14:43
斎明と血縁が無い事だけは云えそうだ
313日本@名無史さん:2007/10/30(火) 16:16:35
斎明孝徳兄弟からして
あやしい天皇だよ
敏達の曾孫なんて無いだろ
314日本@名無史さん:2007/10/30(火) 21:29:04
別血統の意見があっていいね
315日本@名無史さん:2007/10/31(水) 15:12:38
記紀は何処まで信用すればいいのかな?
316日本@名無史さん:2007/10/31(水) 17:02:31
豊の国京都郡ってどうよ
317日本@名無史さん:2007/10/31(水) 17:08:45
仲哀峠は心霊スポットとしても有名で、県内では犬鳴峠に次ぐとされる。
特に峠の頂上付近にある旧道トンネルには奇妙な噂が後を絶たない。
旧道トンネルは現在ガードレールで閉鎖されているが、トンネルの手前
までは車で行くことが可能である。
しかし旧道トンネル内は維持管理が行き届いておらず落盤の恐れがあり、
トンネルに至る峠道は人家も少なく暴走族が溜まり場としていることもあり
危険であるため、決して興味本位で立ち入るべきではない。
318日本@名無史さん:2007/11/01(木) 16:03:49
>>316
綾塚古墳は言い伝えは凄いよ
319日本@名無史さん:2007/11/01(木) 17:19:51
御所ケ谷神護石だよ
320日本@名無史さん:2007/11/01(木) 21:03:05
321日本@名無史さん:2007/11/01(木) 21:33:48
ぴったり眉唾くせぇな
322日本@名無史さん:2007/11/01(木) 22:09:15
思い=重いね
323日本@名無史さん:2007/11/01(木) 23:01:12
貝原益軒曰く
「むかし景行天皇が筑紫の国に来られたときに
行宮を建てて住まわれたのでこのあたりを京都郡と名付けた」
324日本@名無史さん:2007/11/02(金) 07:07:46
それじゃ何処もみやこになるよね
325日本@名無史さん:2007/11/02(金) 07:48:54
>>318
景行の后神八坂入姫とは
あの神様だもんね
326日本@名無史さん:2007/11/02(金) 10:49:10
これだけの横穴は並じゃないな
327日本@名無史さん:2007/11/02(金) 11:59:02
豊日別
直訳すれば「日神の子の豊」
解りやすいよね
328日本@名無史さん:2007/11/02(金) 17:02:19
「白日が相続した」じゃね
329日本@名無史さん:2007/11/02(金) 22:33:55
kjinnmo
330日本@名無史さん:2007/11/02(金) 23:15:24

日神の国
それだけは
確実に伝わる
331日本@名無史さん:2007/11/02(金) 23:34:05
好いよね
332日本@名無史さん:2007/11/03(土) 01:13:23
日本の歴史では名目上の権力者と実質の権力者がずれてることが多い。
古代ではどうだったんだろう。

>>328
「別」 を 「分」 と判断しているんだね?
でも相続財産を分けるは戦後。
それ以前の家督相続では、長男がすべて相続。
「のれんわけ」なら傍流。
「別」 本来の感じの意味なら。。。
333日本@名無史さん:2007/11/03(土) 07:12:06
別は子供だよw
334日本@名無史さん:2007/11/03(土) 08:16:47
建日向日豊久士比泥別は
お子様達混在地帯だね
335日本@名無史さん:2007/11/03(土) 17:37:28
京都郡は一番古い都
336日本@名無史さん:2007/11/04(日) 17:39:23
記紀では頻繁に「東国の国司に詔して」と
全国詔勅をしているが
西国はどうなったんだろうねw
337日本@名無史さん:2007/11/04(日) 19:55:32
西側に何もなかったのかもねw
338日本@名無史さん:2007/11/05(月) 02:21:54
>>333 そんな無茶苦茶を。 もっと勉強しなさい。
339日本@名無史さん:2007/11/05(月) 07:52:54
別雷って雷様の子孫らしいねwww
340日本@名無史さん:2007/11/05(月) 09:43:46
そういえば
別れると若(嫡男)って似てるよね
どんな勉強するのかな?
341日本@名無史さん:2007/11/05(月) 12:35:10
若雷なら解りやすいね
342日本@名無史さん:2007/11/05(月) 19:15:07
総ての神社は雷様の子孫なんだ
343日本@名無史さん:2007/11/05(月) 21:53:33
特別・格別・別段
別けると上に上がるんだね
344日本@名無史さん:2007/11/05(月) 23:41:02
稲荷雷大山積
345日本@名無史さん:2007/11/06(火) 10:48:17
〆縄は雷カットで悪霊の侵入を防ぎ
電電太鼓の音で悪霊を威圧し
三つ巴の霊力で悪霊を幻惑する
総て雷様の得意技
水神でも海神でも姫神でも
同じ得意技で勝負しております
346日本@名無史さん:2007/11/06(火) 10:49:03
〆縄は雷カットで悪霊の侵入を防ぎ
電電太鼓の音で悪霊を威圧し
三つ巴の霊力で悪霊を幻惑する
総て雷様の得意技
水神でも海神でも姫神でも
同じ得意技で勝負しております
347日本@名無史さん:2007/11/06(火) 13:45:34
雷さんよりも天照が偉いことになったからね
348日本@名無史さん:2007/11/06(火) 14:34:37
神社に対する言葉で、恐れ多いとか奉るとかを聞いてると、今の神社とはかけ離れて、軍事力の高い強権領主のイメージが、思い浮かびますね。
349日本@名無史さん:2007/11/06(火) 17:42:45
>>346
伊勢賀茂春日のような移設後大社は
雷カット注連縄はあんまり無いけど
その分社にはちゃんと付いているw
記紀の建前上雷様の御子孫とは言えないんだね
350日本@名無史さん:2007/11/06(火) 21:14:59
建前重視だよね
351日本@名無史さん:2007/11/06(火) 21:26:13
〆縄って本当は恐い物だったんだね
352日本@名無史さん:2007/11/07(水) 18:04:14
雷様が記紀以前の最高神
353日本@名無史さん:2007/11/07(水) 21:30:54
すが・う
1 直ぐあとに続く。次(つ)ぐ。また、匹敵する。多く、複合語の形で用いられる。
2 くいちがう。いきちがう。

354日本@名無史さん:2007/11/08(木) 07:44:07
稲荷は正一位だね
355日本@名無史さん:2007/11/08(木) 15:06:46
>>353
春日の事か?
356日本@名無史さん:2007/11/08(木) 17:01:39
>>353
彼(か)+すが
春日になるね
357日本@名無史さん:2007/11/08(木) 23:28:24
意味迄合うだろ
358日本@名無史さん:2007/11/09(金) 14:17:46
宮地岳古墳は副葬品からかなりの貴人の墓と云われている
すると九州王朝の墓制の秘密についてもこの墓にあると考えられる
359日本@名無史さん:2007/11/09(金) 16:48:46
あの骨壷の見解はおもしろいよな
360日本@名無史さん:2007/11/09(金) 20:48:43
山の天辺でもなく
下社の位置でもなく
中腹のあの位置に古墳がある
これは聖神の墓地を紛らわし
しかも神聖な山としての存在を伝える
現在に伝わる上中下社様式の
在り方の原点が此処にあると考える
361日本@名無史さん:2007/11/09(金) 21:49:39
神社三つに分ける意味ないもんね
362日本@名無史さん:2007/11/10(土) 08:35:20
カモフラージュやな
363日本@名無史さん:2007/11/10(土) 09:25:57
宮地嶽古墳は骨蔵器が出てきたから
古墳時代末期に推定されているんだろ
笑わすよねw
364日本@名無史さん:2007/11/10(土) 10:04:29
記紀なんて信用して習俗を誤解すると
時間軸がメチャクチャになる
無理矢理な当てはめだと気付かないまま
新たな間違いを冒す
鈍感なのか鈍感の振りなのかw
365日本@名無史さん:2007/11/10(土) 14:48:43
火葬=骨壺が間違いだと言いたいわけね
366日本@名無史さん:2007/11/10(土) 16:17:08
近くにある宗像大社の存在意義や遺跡の意味を
宮地嶽と組み合わせて考えれば
出る結論は一つなのにね
367日本@名無史さん:2007/11/10(土) 20:28:44
宗像と宮地嶽は御葬式の当時の定番だね
368日本@名無史さん:2007/11/10(土) 21:23:50
白村江前白村江後の違いは、史学からもはっきりしている。
369日本@名無史さん:2007/11/10(土) 21:49:17
まぁね
370日本@名無史さん:2007/11/11(日) 06:12:38
以前を同じ政権と混同させると
歴史深さも付いてきて大義名分も立つね
371日本@名無史さん:2007/11/11(日) 08:39:39
宮地とは都の事です
372日本@名無史さん:2007/11/11(日) 09:00:22
この地は古代天皇家の拠所なんだろうね
373日本@名無史さん:2007/11/12(月) 09:12:02
筑前に宮地岳が四つある
どれも神の墓だろうね
374日本@名無史さん:2007/11/12(月) 22:13:58
筑紫野市の宮地岳には神護石が確認されたね
375日本@名無史さん:2007/11/13(火) 08:01:50
伊都志摩両郡の宮地岳?
やっぱりあの辺だろうね
376日本@名無史さん:2007/11/13(火) 21:43:09
名前って何かをしめしてるよね
377日本@名無史さん:2007/11/14(水) 10:32:40
斎明天皇の多武峯は明らかに大野城だよね
378日本@名無史さん:2007/11/14(水) 18:10:44
そっくりだよね
379日本@名無史さん:2007/11/14(水) 21:39:23
奈良の多武峰談山神社ってあれ何?
380日本@名無史さん:2007/11/14(水) 22:06:32
朱子の色どり美しい限り
歴史学とは違うものを感じます
381日本@名無史さん:2007/11/14(水) 22:16:46
飛鳥を掘れば穴しか無く、多武峯には石垣が無く、どっかに似すぎの飛鳥の北にある。
382日本@名無史さん:2007/11/15(木) 06:59:12
江戸幕府が石垣作ればよかったね
383日本@名無史さん:2007/11/15(木) 07:37:37
>>379
取って付ければいいってもんじゃねいよなw
384日本@名無史さん:2007/11/15(木) 11:18:58
本当の史実を知っているから、こんなに手の混んだ移設が出来たと考えるべき。
庶民の知識レベルが、こんなに上がるとも考えていなかっただろうし。
385日本@名無史さん:2007/11/15(木) 18:44:07
疑わしいのに信用するか?w
386日本@名無史さん:2007/11/15(木) 20:58:47
記紀の有り方捉え方
もう少し考えた方がいいね
387日本@名無史さん:2007/11/15(木) 21:53:50
矛盾だらけで正史は頂けない
388日本@名無史さん:2007/11/15(木) 23:31:00
多武峯みたいに明らかなものは認めるべきだよ
389日本@名無史さん:2007/11/16(金) 06:57:42
大野城から出土した焦げた米は戦争の痕跡だね
390日本@名無史さん:2007/11/16(金) 07:50:43
藤原純友の乱じゃ間が抜ける
史実は壬申の乱だろうけどね
391日本@名無史さん:2007/11/16(金) 15:49:43
吉野も大津も九州だもんね
392日本@名無史さん:2007/11/16(金) 18:09:12
大津はみんな知ってる那の大津
393日本@名無史さん:2007/11/16(金) 20:58:27
斉明天皇は九州の多武峰に居て
天智天皇は那の大津に板ねw
394日本@名無史さん:2007/11/16(金) 22:18:48
滋賀の大津は瀬田川下れないけど
袋湖琵琶湖のあまりに大きな経済圏に感銘した古代人の気持ちを
激しく必死に表した地名が大きな港大津だよ!
395日本@名無史さん:2007/11/17(土) 07:09:16
奈良の北にある当時一番大きな港
選考理由はこんな感じです
396日本@名無史さん:2007/11/17(土) 07:47:19
苦渋の選択なのかね
安易な思考にも見えるけど
397日本@名無史さん:2007/11/17(土) 10:05:09
内陸の川船程度の港でも大津と云うのはこれ如何に?
地名移設時にはジョークだと受け取っただろうねw
398日本@名無史さん:2007/11/17(土) 10:07:52
どうして大津に三井寺を移設するかな?
399日本@名無史さん:2007/11/17(土) 14:30:43
三井寺はその名のとおり三井郡にあった
移設が乱れて辻褄おかしい
400日本@名無史さん:2007/11/17(土) 17:54:47
大津と同じ規模の大きな港が
琵琶湖にもう一つ無いと
船運なんて出来たのかな?
乗せたら下ろさないとね
401日本@名無史さん:2007/11/17(土) 21:08:59
那の大津博多にも
比恵(日吉)と山王と云う地名があるんだね
これはそのまま移設した証拠だね
桓武天皇の頃の移設だってさ
http://www6.ocn.ne.jp/~hiyoshi3/history_y.htm

古事記の大山咋神は近海淡海国の日枝山に坐すって
滋賀の大津じゃ無い事はハッキリするw
402日本@名無史さん:2007/11/17(土) 21:14:16
無闇に古い事を主張していないだけ日吉神社は好感持てる
403日本@名無史さん:2007/11/18(日) 08:16:10
日吉神社は新しいだけに
本来の史実を暴露しているよね
記紀と違う事が沢山見つかるよ
404日本@名無史さん:2007/11/18(日) 08:57:47
丸子船
405日本@名無史さん:2007/11/18(日) 09:27:03
日吉と書いてヒエと読ますだけでも移設確定だ
406日本@名無史さん:2007/11/18(日) 13:47:20
神社伝承を網羅してから
日吉大社を傍観すれば
家康は史実を知っていた事が解るよね
407日本@名無史さん:2007/11/18(日) 18:07:13
福岡市博多区山王 日吉神社
http://www.jinja.sakura.ne.jp/hakataku/no21/index.html
御多分に漏れず、時期も云わずに滋賀からの勧請とあるあたりが、かんなり従属的です。
何故か付近一帯は弥生時代の農耕集落遺跡と、鄙びた神社にしてはかなり謎めいてます。
江戸時代に、筥崎宮、住吉神社と同格の勧請神社なんて、一段と謎です。
408日本@名無史さん:2007/11/18(日) 18:29:49
宣化(せんか)元年(536)那津(なのつ)(博多湾)のほとりに官家(みやけ)(福岡市博多区比恵(ひえ)が置かれた
409日本@名無史さん:2007/11/18(日) 18:35:39
比恵遺跡群
http://www.city.fukuoka.jp/contents/7d14c213126f/7d14c213126f37.htm
滋賀の大津からは何が出たのかな?www
410日本@名無史さん:2007/11/18(日) 19:08:49
皇子山古墳 百穴古墳群
411日本@名無史さん:2007/11/18(日) 20:15:20
可愛そうに土器しか出てこない古墳に皇子だってさw
412日本@名無史さん:2007/11/18(日) 21:08:35
延暦寺は、桓武の平安遷都に僅か先立ち、比叡山に作られた。
三井寺も僧円珍の記録ば九世紀から。
日吉大社も延期式には記録されてはいるが、やはり最澄の記録から。
天智の痕跡は、記紀以外に滋賀大津から見つからない。
413日本@名無史さん:2007/11/18(日) 22:40:44
貧弱な証拠だから唯一記紀だけが頼りなのか
414日本@名無史さん:2007/11/19(月) 07:03:45
天智が白村江の後最高権力者なら、大陸に囚われていた事は、万葉集にも書いてある。
遷都なら唐の都合になるから、博多以外に考えられない。
415日本@名無史さん:2007/11/19(月) 08:00:36
斉明の都は九州の大宰府周辺
そこで唐から離れるような遷都は無いよね
416日本@名無史さん:2007/11/19(月) 08:09:28
百穴古墳群は無視だね。
壬申の乱は、何処で起きたのかな?
417日本@名無史さん:2007/11/19(月) 09:27:14
>>407 >>409
濃い遺跡だねw
418日本@名無史さん:2007/11/19(月) 10:18:29
従属国の首都や
地方出先機関は
中央に偏って出来る事が多い
大津京の地勢も同様だろうね
419日本@名無史さん:2007/11/19(月) 11:50:54
何で法隆寺があの位置に出来たのか
奈良に首都があるとしたなら説明出来ない
420日本@名無史さん:2007/11/19(月) 17:08:55
九州に寄ってるよね
421日本@名無史さん:2007/11/20(火) 17:45:37
天智9年の法隆寺焼失は
元々九州の出先としての国府である寺があって
それが燃えた
その用地に新たに観世音寺を移設した
422日本@名無史さん:2007/11/20(火) 22:39:55
記紀以降の地名に見られるように
日本の漢字は歪曲されて使われている
これは改竄移設の影響が多き為だ
寺も同様に本来の役所と云う意味で使われていない
国府であり寺である事に不自然は無い
423日本@名無史さん:2007/11/21(水) 07:02:56
国分寺も各国一つの役所だしね
424日本@名無史さん:2007/11/21(水) 08:28:30
奈良の端っこ大和川の出口に、あんな重要な寺を作るんだもんね。記紀云うの都からは離れるように作った理由はなんだろうね。
425日本@名無史さん:2007/11/21(水) 08:40:53
奈良・九州二朝並立なんて言ってる方に、
法隆寺の位置についてご意見聞きたいですよね。w
426日本@名無史さん:2007/11/21(水) 09:41:44
伊勢の海 阿漕が浦に打つ網も 度重なれば 人の知るらむ

阿漕が浦は現在香川県だけど、伊勢の国の中に阿漕が浦があるみたいだね。w
427日本@名無史さん:2007/11/21(水) 10:19:26
能楽の阿漕も伊勢詣りだしね
428日本@名無史さん:2007/11/21(水) 10:36:47
能楽なら三輪のほうが面白い。
429日本@名無史さん:2007/11/21(水) 13:15:40
関裕二
「天武天皇 隠された正体」
稀薄な証拠にすげー強引な断定
思う思うの連発に付いていけない
出雲王朝系と九州王朝系の区別にはわろた
430日本@名無史さん:2007/11/21(水) 14:00:04
出雲は九州で日向とは目と鼻の先
そうじゃなきゃ辻褄合わない事
神話にも沢山書いてあるのにw
431日本@名無史さん:2007/11/21(水) 17:13:34
だいたいスサノオと天照だけで7人も子供作ったのに
遠く離れ離れで何とか王朝は無いよw
432日本@名無史さん:2007/11/21(水) 20:31:20
天照とスサノオの祭り方には何も違いが無い
433日本@名無史さん:2007/11/21(水) 21:30:30
ほんとほんと
世界中に遠距離交際で八人も子供作った別王朝夫婦なんているのかよ
434日本@名無史さん:2007/11/21(水) 21:59:24
歴史的常識を知らないまま
程度の低い妄想が突っ走ったみたいだねw
435日本@名無史さん:2007/11/21(水) 22:51:03
滋賀大津京を考古学的に補足するものが無いようにね
436日本@名無史さん:2007/11/22(木) 06:56:44
百穴があると都なのかwww
437日本@名無史さん:2007/11/22(木) 08:15:30
味水御井神社
http://www.genbu.net/data/tikugo/umasi_title.htm
昔は境内も広く、高良大社御幸の頓宮として、絵巻物のような御輿の行列が往復した花形の地だった。

匂わしますねw
438日本@名無史さん:2007/11/22(木) 10:41:42
鬼室神社
439日本@名無史さん:2007/11/22(木) 16:16:17
>>437
今京都に移設され雅な祭礼は続いてますね
440日本@名無史さん:2007/11/22(木) 20:52:52
絵巻物とは都の風俗でございますね
441日本@名無史さん:2007/11/23(金) 09:07:48
久留米の片田舎に都の風俗とはこれいかに?
442日本@名無史さん:2007/11/23(金) 09:16:34
梅沢恵美子って関裕二と同一人物だよねw
443日本@名無史さん:2007/11/23(金) 10:27:56
そっくりだな
444日本@名無史さん:2007/11/23(金) 13:31:09
どちらも妄想が強過ぎるのに
同じような説で落ち着くあたり
別人と云うほうが無理があるね
445日本@名無史さん:2007/11/23(金) 18:04:42
福岡の大宰府には俗明院と呼ばれる、一般人の訴訟待機所があったそうです。
これはどうやら能楽砧の舞台だと考えられるようなのです。

この能は、筑前芦屋の男が、都にて訴訟を待ち続け3年が達ち、残して来た妻が無くなる・・・といった粗筋です。
現在の解釈でこの能は、現在の京都府にて訴訟を待ったものと、思い込まれているようですが、
よく考えてみますと、飛鳥時代以降の九州では、大宰府や九州探題が置かれ、訴訟は九州島内にて、
受け付けられていたのですから、都にて訴訟を待った話は、まず起こりえない話なのです。
記紀等の正史では、九州には暫定的にしか都は置かれなかった筈ですから、
九州島内に都が無いと、全く辻褄が合わないのです。
だからこの能は「九州に都があった」と、史実を暴露している、貴重な能だと解かるのですね。
まぁ室町時代の人達も、ある程度の史実は知ってますから、特に変える必要も感じなかったのでしょうけど・・・。
446日本@名無史さん:2007/11/23(金) 18:22:04
「古代」っていつ頃の話なん?
九州は確かに昔から筑紫国だったから都もあったよ
447日本@名無史さん:2007/11/23(金) 19:49:34
>>445
時々可笑しな人も来るけど気にしないで
私も砧は読みましたがそれは気が付きませんでした
448日本@名無史さん:2007/11/23(金) 20:17:52
>>445
その読み方は参考になるね
世阿弥も自賛した砧にそんな秘密が隠されているとは
449日本@名無史さん:2007/11/23(金) 21:51:18
世阿弥の自賛も意味深!
「かようの能の味ひは、末の世に知る人あるまじければ・・・」
450日本@名無史さん:2007/11/24(土) 08:34:54
流行作家は今も昔もタブーを好むのかな?
451日本@名無史さん:2007/11/24(土) 11:08:36
砧には原拠が無いとされ世阿弥の創作とされているが
室町に下った世阿弥が九州の都の話を原拠無しに作ったとは考えられず
室町期にはまだ九州時代の書物が残っていたものと考えられる
事実江戸明治期の焚書は大変激しく
30以上の僧坊ごと潰されたような焚書まで起きている
だから世阿弥の居た室町期迄は比較的九州時代に寛容な時代であったのであろう
452日本@名無史さん:2007/11/24(土) 16:37:10
世阿弥の能楽には、九州を原拠とする作品が、沢山あります。
確かにその後の時代とは、状況が違うように感じますね。
453日本@名無史さん:2007/11/24(土) 21:32:40
まず高砂だな
454日本@名無史さん:2007/11/25(日) 07:58:22
能楽の内容には地理的な疑問が多いんですよね
逆矛の龍田大明神の近くに天の浮橋がある筈だけど
奈良じゃとっても理解できないよね
455日本@名無史さん:2007/11/25(日) 09:34:18
一応淡路島とかをオノロコ島として
天の浮橋はその周辺と記紀は云ってるから
龍田大社の近くでは無理があるね
移設前のオノロコ島はさて何処だろうね
456日本@名無史さん:2007/11/25(日) 16:49:10
大概福岡県内探せばOKだよ
457日本@名無史さん:2007/11/25(日) 21:20:22
残島の神社にはイザナミイザナギが祭られています
458日本@名無史さん:2007/11/25(日) 21:26:43
移設も元をかなり意識してますね
459日本@名無史さん:2007/11/25(日) 21:39:36
淡路の対岸には淡海で
天の浮き橋でつながるのですか
なるほどね
460日本@名無史さん:2007/11/25(日) 22:40:17
能楽阿漕も可哀想だけど辻褄可笑しいよね
本当に伊勢の大神宮に行くお話なのかなw
461日本@名無史さん:2007/11/26(月) 16:43:26
岩戸山古墳が磐井の墓?
岩戸山博物館の学芸員のテレビインタビュー
可愛そうに目が泳いでいたw
462日本@名無史さん:2007/11/26(月) 18:06:25
そのとき歴史がうごいた見たな 
463日本@名無史さん:2007/11/26(月) 20:54:56
負けた磐井に何で墓があるのよ
464日本@名無史さん:2007/11/26(月) 21:23:14
そりゃそうだ
単なる地方の長官が謀反を起こして
なんで墓作って貰えるのか
インタビューで聞けよ!
465日本@名無史さん:2007/11/26(月) 21:44:25
都合のいいとこだけは和をもって尊し
466日本@名無史さん:2007/11/27(火) 07:40:12
負けた岩井があんなにデカイのもおかしい
467日本@名無史さん:2007/11/27(火) 10:18:27
前方後円墳なんて終末期の古墳だろうね
468日本@名無史さん:2007/11/27(火) 16:04:01
考古学が作った嘘はおおい
罪深き考古学
469一応九州王朝説:2007/11/27(火) 19:59:23
長らく来てなかったんで久々に来てみれば、荒らし扱いかw

470日本@名無史さん:2007/11/30(金) 21:04:30
岩戸山古墳
http://www.city.yame.fukuoka.jp/iwatoyama/
築造者と築造年代が判明していることでも極めて貴重な古墳です。

判明の理由はなんだろうね
471日本@名無史さん:2007/12/01(土) 07:42:27
奈良の藤原京以前の都発掘の報道も子供騙しだもんね
都の理由は一切書かない
地方の集落遺跡と遜色ないのに何で都なんだろうねw
472日本@名無史さん:2007/12/02(日) 08:41:39
理由を聞かないのに納得する、そんな日本人は大変多いですよね。
例えばサブプライムローンの損失については、
殆どの人が理由が解からないままに流してしまう。
しかも殆どの証券会社が、理由も無く損失したと迄思ってしまう。
尻馬に乗って乗った人の理由が「流行だから」なんて、只管日本人らしい。
どんな事にもきちんとした理由があるから結果がある。
どの分野でも理由から考え直して欲しいですよね。
473日本@名無史さん:2007/12/02(日) 09:00:01
古代史の御権威に理由を聞くと怒られる
こんなに胡散臭い匂い話は無いよw
474日本@名無史さん:2007/12/02(日) 12:29:20
大宰府天満宮に伝わるうそ替え神事は、
鬼すべ神事に先立ち、境内広場にて木うそ(7日のみ授与)を手にした人々が注連縄で囲った斎場で
「替えましょう 替えましょう」と呼び合いながら、木うそを互いに取り替えることで、
一年間に知らずについた嘘やどうしてもつかなければばらなかった嘘を清算し、
御神前で天神さまの誠心に変えて幸運を戴き、新しい気持ちで本年を過ごす為の迎春の神事です。

意味深なお祭りですねw
475日本@名無史さん:2007/12/02(日) 17:35:47
>〜どうしてもつかなければばらなかった嘘を清算し〜
渋いお祭りだね
476日本@名無史さん:2007/12/02(日) 17:56:01
この神社じたい主祭神から変えられて、千年以上も嘘を付き続けてますからね。道真が天満宮の神とするのは無理あるよね。
477日本@名無史さん:2007/12/02(日) 20:08:15
全国天満宮でうそ替え神事があるんだね
478日本@名無史さん:2007/12/02(日) 21:47:01
天満宮の総本社は九州だよね
479日本@名無史さん:2007/12/02(日) 23:14:53
九州の天満宮が
何故嘘を清算しなければならないのか
本音と建前だね
480日本@名無史さん:2007/12/03(月) 07:50:22
菅原道真に祭神が変わったのは周知の事実
問題はそれ以上に嘘を付かなければならないこと
481日本@名無史さん:2007/12/03(月) 10:06:20
うそ替え神事は、鬼すべ神事の一部として行なわれ、道真公の曾孫が始めたそうです。三大火祭りに数えられております。
482日本@名無史さん:2007/12/03(月) 10:46:42
鬼に対して敵味方に別れて攻防するなんて、とても興味深い祭りですね。
現代の風潮では鬼に味方は付かないですから、天満宮の立場はおのづと解ります。
鬼が誰なのかも言わずと知れたもの。
この祭りに込められた想いを、感じずにはいられませんね。
483日本@名無史さん:2007/12/03(月) 15:02:27
鬼の味方と云う立場を守り抜いた天満宮だから
京都移設はかなり遅かったのでしょうかね?
484日本@名無史さん:2007/12/03(月) 16:19:42
でしょうね
何気ないお祭りですけどね
485日本@名無史さん:2007/12/03(月) 21:49:29
鬼に対して親和性の高い昔話は多いよね
486日本@名無史さん:2007/12/04(火) 08:13:55
来年の事を云うと鬼が笑う話も
鬼じたいが虐げられて堪え忍ぶ状況からの話だね
487日本@名無史さん:2007/12/04(火) 08:48:45
鬼のような形相
488日本@名無史さん:2007/12/05(水) 07:12:29
必ずしも鬼は敵じゃないな
489日本@名無史さん:2007/12/05(水) 08:29:29
鬼の味方を誇り思うお祭りみたいね
490日本@名無史さん:2007/12/05(水) 10:26:16
鬼退治桃太郎のご褒美は吉備団子
米団子じゃない所が味噌
491日本@名無史さん:2007/12/05(水) 11:09:06
昔話も史実を探るヒントが多いですよね
492日本@名無史さん:2007/12/05(水) 14:50:40
桃太郎は爺婆とは血縁も無く
「川上から黍の出来る所に流れてきた桃」から生まれた
これは大変だよ!
493日本@名無史さん:2007/12/05(水) 18:33:44
黍団子配った日本人じゃ無いね
494日本@名無史さん:2007/12/05(水) 18:52:55
修正
黍団子配ったのは日本人じゃ無いね
495日本@名無史さん:2007/12/05(水) 20:38:44
そういえば桃太郎は可笑しいよねw
496日本@名無史さん:2007/12/05(水) 21:57:23
黍団子か・・・w
497日本@名無史さん:2007/12/05(水) 22:24:22
こういう教訓を伴わないタイプの昔話は、結局口伝目的で語り継がれているから、脚色されているにせよ、史実を伝える役割を担った筈。
ほぼ史実を伝えるとすると、桃太郎の黍団子はかんなりあからさまだよな。
498日本@名無史さん:2007/12/06(木) 06:57:15
なんだろ暴露昔話って感じやね
499日本@名無史さん:2007/12/06(木) 07:43:56
九州王朝の草木は松竹梅、残党にこの手の姓が多い。桃の姓は以外に少なく、当初漢方薬効として広がった果実だけに、名字の面からも在来とは考えにくい。
500日本@名無史さん:2007/12/06(木) 09:09:46
日本では恐ろしい存在とされてきた鬼ですが、
鬼の出来た中国では詰まらない存在や忌々しい存在を指すそうです。
何となくイメージが湧きませんか?
501日本@名無史さん:2007/12/06(木) 10:45:48
いつも楽しく拝見しています。
鬼が恐れ多い存在となったのは、
日本の神と一部同化したせいなのかもしれません。
祟り神はいつも鬼のように描かれておりますし、
雷神の風貌は、鬼を混同しているように感じます。
日本には中国同様愚で身近な存在としての鬼も残っていますから、
日本に来てから一部変化したと見るべきなのでしょうね。
502日本@名無史さん:2007/12/06(木) 12:49:41
鬼に金棒
鬼の目に涙
503日本@名無史さん:2007/12/06(木) 15:01:18
鬼の居ぬ間に・・・w
504日本@名無史さん:2007/12/06(木) 16:39:12
鬼の見直しは必要ですね
505日本@名無史さん:2007/12/06(木) 20:54:19
どっちが鬼かわからんような気がする
506日本@名無史さん:2007/12/07(金) 07:08:51
正直鬼の定義はメチャクチャだな
507日本@名無史さん:2007/12/07(金) 08:05:22
桃太郎一座に負ける鬼連中は
本当に鬼なのかな?
508日本@名無史さん:2007/12/07(金) 10:18:42
単なる敵対勢力の事を言ったようだね
509日本@名無史さん:2007/12/07(金) 12:35:23
猿雉犬も河童も亀も鬼同様に
征服者から見た被征服者だよね
全てその視点で見ると歴史を垣間見れる
510日本@名無史さん:2007/12/07(金) 14:12:55
古来より日本では
伊勢大神宮や仏のような表の神と
大黒恵比寿かまど神に代表されるような裏の神が存在し
ご指摘の亀や河童は裏の神として
より親しみをもって信仰されて来たそうです
これは歴史の表と裏にも例えられているようですね
511日本@名無史さん:2007/12/07(金) 14:32:12
確かに神社神の中でも、伊勢神宮だけは別個性だね
512日本@名無史さん:2007/12/07(金) 17:12:06
全国通津浦裏
家の神の頭は天照大御神
その傍に地元神と来るね
513日本@名無史さん:2007/12/08(土) 07:12:14
天照の最上位は気持ち悪い程徹底されている
514日本@名無史さん:2007/12/08(土) 13:33:34
太宰府天満宮の鬼すべ祭りは、観世音寺の追難祭りを継承した鬼追いです。
鬼と鬼警固をお堂から煙で追い出す始終を致しますが、
まるでストーリーのある歴史絵巻のようです。
515日本@名無史さん:2007/12/08(土) 16:25:29
鬼がなんでお堂の中に居たのかな?
516日本@名無史さん:2007/12/08(土) 18:14:47
政権交替の戦闘の様子を簡略化して現在に伝えているんだろ
観世音寺はそのまま内裏だし
517日本@名無史さん:2007/12/08(土) 20:12:33
今に伝える必要は
節目節目の出来事
に限られるだろうね
518日本@名無史さん:2007/12/08(土) 20:32:44
>>511
伊勢神宮に伝わる舞楽は別個性を際立たせるね
519日本@名無史さん:2007/12/08(土) 21:36:54
舞楽なんて大陸の歌謡なのに、最古の神社の神様が喜ぶとは思えない。
伊勢神宮の神様は本当に天照なのかな?
520日本@名無史さん:2007/12/09(日) 00:06:46
伊勢と熱田と春日と天王寺と厳島に残る舞楽
九州には残っていないのがご愛嬌
可笑しな残り方だねw
521日本@名無史さん:2007/12/09(日) 08:24:20
発祥はインドで中国朝鮮を経て今では日本にしかのこってない
なんだやっぱりかって感じw
522日本@名無史さん:2007/12/09(日) 08:39:10
中国本体は隋唐以降は殆ど異民族皇帝だし
日本は中国系の天皇が続いた訳だから
どっちが古来中国を保存しているのか
そこんとこキチンと認識しないとね
523日本@名無史さん:2007/12/09(日) 10:27:05
伊勢は延起式での権威が低い
皇室の宗廟にあるまじき低評価
524日本@名無史さん:2007/12/09(日) 14:26:28
表向き豊受と天照は同等のようだけど
毎朝晩に天照の食事係している豊受との関係は
主従がはっきりしているみたい
従属を誓った藤原氏と天皇家のような関係になぞらえるw
525日本@名無史さん:2007/12/09(日) 17:49:53
延喜式神名帳 東海道伊勢國度會郡
大神宮三座 相殿坐神二座 並大 預月次新嘗等祭

伊勢神宮の事を云っているようですが、現在とは明らかに祭神数が変わっています。
526日本@名無史さん:2007/12/09(日) 18:22:04
延期式以後に記紀の体裁にあわせたのね
527日本@名無史さん:2007/12/09(日) 20:44:53
皇室の第二の宗廟と云われる宇佐神宮は、
現在でもしっかりと宗廟形式三座崇拝を守り通している。
しかし伊勢は、現在でも皇室の第一の宗廟と云われているのに、
宗廟形式三座崇拝から変えてしまった。
矛盾だらけの記紀に合わせた為に、宗廟としての体裁を捨てたようです。
なるほど体裁ですね。
528日本@名無史さん:2007/12/10(月) 07:06:42
宗廟なら宗廟らしくしておかないと
529日本@名無史さん:2007/12/10(月) 09:58:40

大阪の住吉大社は博多の住吉神社のパクリ

太宰府天満宮も関東でぱくられてる

530日本@名無史さん:2007/12/10(月) 15:16:31
もしかしたら当初は天照を始祖として二代三代も祭ったの宗廟を造ったけども
二代三代は記紀と辻褄が合わずに削除したんじゃないかな?
当然史実通りならみんな知ってる結構な有名人が来るだろうしね
531日本@名無史さん:2007/12/10(月) 16:24:37
天照大御神の孫か曾孫が神武世代だろうしねw
532日本@名無史さん:2007/12/10(月) 17:03:30
豊受は天照の子か孫なのかもね
533日本@名無史さん:2007/12/10(月) 21:15:10
外来舞楽する宗廟
534日本@名無史さん:2007/12/10(月) 23:12:05
実のところ天照を祭る古社ってかなり僅か
535日本@名無史さん:2007/12/11(火) 07:00:17
梅原さんの持統=伊勢天照も強ち否定できないね
536日本@名無史さん:2007/12/11(火) 09:30:45
配置からいって伊勢内宮の裏にある荒祭宮がいっちゃん偉いんとちゃう?
537日本@名無史さん:2007/12/11(火) 11:02:24
この時代には既に、太上天皇って云う複式王権になっているから、
宗廟の制度を変えたついでに、神社にも複式使って、ちゃかり天照の威を借りた持統にしたのかもね。
荒祭宮も天照本宮と同様の待遇を受けているらしいし
538日本@名無史さん:2007/12/11(火) 12:43:06
記紀にだけ高評価受けてるけどサッパリ実が伴わなかった伊勢だよね
539日本@名無史さん:2007/12/11(火) 15:41:23
伊勢なんて江戸以降の流行だよね
540日本@名無史さん:2007/12/11(火) 17:18:15
漢風諡号     持統天皇
日本書紀和風諡号 高天原廣野姫天皇
続日本紀和風諡号 大倭根子天之廣野日女尊

「高天原」が意味深だね
541日本@名無史さん:2007/12/11(火) 18:06:33
伊勢神宮のHPを確認した
荒祭宮の天照坐皇大御神荒御魂
この神名かなりおかしくねw
542美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/11(火) 18:16:36
>>525
伊勢ってやっぱ東海道付近にあったんだ?
やっぱ今の「伊勢」や「紀州」じたいが移転後の地名だよ
543日本@名無史さん:2007/12/11(火) 20:47:02
>>541
おかしいよはっきりと
544日本@名無史さん:2007/12/11(火) 21:10:39
最古社の神名じゃないなw
545日本@名無史さん:2007/12/11(火) 21:45:01
舞楽を踊りたくなるよこれじゃ
546日本@名無史さん:2007/12/11(火) 22:42:05
>>540
持統は他の天皇よりも
一段高い所を狙っていたね
547日本@名無史さん:2007/12/12(水) 07:18:58
漢風謚号はその天皇の事績を表すとゆうが
良く考えてみれば統べてを持つと謚される事は並の事じゃないな
548日本@名無史さん:2007/12/12(水) 10:13:12
伊勢が転々としたように見せ掛けたのは
記紀の都が転々とした話をそのまま真似ただけ
あやふやにすることで嘘を複雑にして言い訳を増やした
だからどちらも考古学的裏付けは無い
いつかは暴かれる運命悲しい結末
549日本@名無史さん:2007/12/12(水) 10:34:20
元伊勢は九州のご近所を転々としたのにねw
550日本@名無史さん:2007/12/12(水) 17:00:34
福岡じゃ伊勢も丹後も大和も近い
倭姫命世紀みたいにあちこち行ったら不自然過ぎる
551日本@名無史さん:2007/12/13(木) 07:33:13
記紀地名の多くは九州地名だよね
552日本@名無史さん:2007/12/13(木) 08:03:30
元々丹波は丹波と丹後と但馬を含めた地域
移設された際に広い地域名の為分割された
丹波はそのまま「にわ」と読むように意味合いは「庭」
広い平らな平原や入り江を指す言葉
あの山岳地域には似つかわしくない移設地名です
553日本@名無史さん:2007/12/13(木) 09:00:37
田+庭→たにわ→たんば こんなかんじね
554日本@名無史さん:2007/12/13(木) 10:29:51
移設の際に相当苦労したのは解るよね
都に近い上に字面にあう場所なんて確かに難しいね
大津も難波も字面に完璧にあって無い訳だし
555日本@名無史さん:2007/12/13(木) 16:34:02
元伊勢が畿内の北の丹後に行ったとなると相当嫌われていたのかな?w
556日本@名無史さん:2007/12/13(木) 18:03:30
伊勢神宮では外宮の豊受が当初の祭神だとかの説を良く見るけど
何処にそんな記録があんだろ?
妄想が突っ走っておりますなw
557日本@名無史さん:2007/12/13(木) 20:48:19
妄想天国混乱誘導
558日本@名無史さん:2007/12/14(金) 06:59:33
伊勢って天武朝に人気あるね
559日本@名無史さん:2007/12/14(金) 18:21:47
宇佐神宮も下社はお食事係なんだね
560日本@名無史さん:2007/12/14(金) 19:02:28
宇佐も怪しくなってきたねw
561日本@名無史さん:2007/12/14(金) 20:13:03
伊勢もそうだけど
神様にそんなに差があるとマジ引くねw
562日本@名無史さん:2007/12/14(金) 20:38:13
ホントだよね
563日本@名無史さん:2007/12/14(金) 22:01:48
やっと判ってきたよ
神様には2通りあるんたね
564日本@名無史さん:2007/12/15(土) 06:54:01
同じ祭神でお食事係って事は
どちかは通説とは違う祭神としか考えられない
多分神功応神姫大神は下社になるのかな
565日本@名無史さん:2007/12/15(土) 07:06:15
八幡大菩薩は応神じゃ無いって事だろ
566日本@名無史さん:2007/12/15(土) 07:55:57
考えてみれば応神天皇の頃には仏教の影響は弱かったし
排仏派の物部氏は応神から始まったのだろうから
応神と菩薩を組み合わせる事自体が矛盾だと考えられるね
567日本@名無史さん:2007/12/15(土) 09:10:58
そういえば神仏習合はどこもしてるけど
八幡からみの祭神ばっか菩薩になってるねw
568日本@名無史さん:2007/12/15(土) 09:30:22
八幡大菩薩≠応神
間違いないな
569日本@名無史さん:2007/12/15(土) 11:41:27
となるとすればその後の天皇等の誰かだな?
570日本@名無史さん:2007/12/15(土) 14:19:25
応神って神を応援するとも読め無くもない
悲しい名前だなぁ
571日本@名無史さん:2007/12/15(土) 15:02:25
朝鮮を支配した大王も漢風謚号に形無しだなw
572日本@名無史さん:2007/12/15(土) 21:19:50
踏み込んでみれば当然の見晴らし
573日本@名無史さん:2007/12/15(土) 21:54:42
結局はお食事係がこの国の総て
574日本@名無史さん:2007/12/15(土) 22:10:38
負けた事を認めないのはいけない事だよねw
575日本@名無史さん:2007/12/15(土) 22:38:58
お食事係の議論は大切だよね
576日本@名無史さん:2007/12/16(日) 03:04:40
主義主張
そんな事よりさ
まず真実を伝えて
みんなそれぞれに考えて貰うべき!
577日本@名無史さん:2007/12/16(日) 08:22:34
同感ですね
建前は嘘なのは当たり前だね
578日本@名無史さん:2007/12/16(日) 09:15:34
宇佐は移設先なのは確実だけど
途中香春も寄ったよね
579日本@名無史さん:2007/12/16(日) 10:25:03
580日本@名無史さん:2007/12/16(日) 14:18:37
殆どの神は取って代わられたのかもね
581日本@名無史さん:2007/12/16(日) 17:43:13
福岡市内は遺跡だらけだけど
保存研究がままならないのは痛いよね
582日本@名無史さん:2007/12/16(日) 20:22:02
失われる物は多いよね
583日本@名無史さん:2007/12/16(日) 20:55:48
記紀では頻繁に「東国の国司に詔して」と
全国詔勅をしているが
西国はどうなったんだろうねw
584日本@名無史さん:2007/12/17(月) 07:00:46
西国なかったんだねw
585日本@名無史さん:2007/12/17(月) 10:23:31
蘇我入鹿は御子とハッキリ書かれているしね
586日本@名無史さん:2007/12/17(月) 17:55:29
谷の宮門(みかど)にすんでおりまつ
くれぐれもみかどでございまつ
587日本@名無史さん:2007/12/17(月) 21:21:34
天皇記・国記・珍宝を持ってる臣下
588日本@名無史さん:2007/12/18(火) 08:22:11
必死に隠匿している訳じゃないねw
589日本@名無史さん:2007/12/18(火) 21:23:22
入鹿はやられても分派は残った
日本の良き所も現在に繋がる
590日本@名無史さん:2007/12/19(水) 09:55:24
古代九州は都! 4開
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1198025518/l50
作ってしまいました まだ暫くこちらで
591日本@名無史さん:2007/12/19(水) 21:09:24
「此阿弥陀佛は金銅なりしか百済より船に積て志摩郡岐志浦につく。其所を今も
佛崎とよぶ。此佛の座床なりし鐵今も残れり。依て其村を御床と云。彼寺の佛像ハ
天正十四年兵乱に掠られてなくなりしといふ。」
『筑前国続風土記拾遺』御笠郡三、観世音寺

百済から貰った本尊が九州の観世音寺に関が原の頃まであったそうです。
百済ですから記紀とは又辻褄があいません。
592日本@名無史さん:2007/12/20(木) 07:00:45
阿弥陀って云うのもおもしろ
593日本@名無史さん:2007/12/20(木) 12:47:23
九州を九つの国なんて解説してる奴は歴史のカテゴリから足を洗って欲しい
594日本@名無史さん:2007/12/20(木) 13:08:38
記紀擁護の地名の謂われには頭抱えたくなるものが多い
例えば三河は元元は御+河
大王の都と大きな川があったから
当然現在の三河には当てはまらない
移設前を想像しない限り理解出来ない
595日本@名無史さん:2007/12/20(木) 16:21:01
徳川家康は三河出身だと云われています。この国名は家康以前に付けられたもので、家康の出身の為ではありません。
その家康も家族も三河の「三」の意味をどうやら知っていたようで、自家の宗廟は、二荒山に日光(にっこう)と、わざわざ「二」にこだわり、へり下った地名を選んでいます。
その後の朱子学も徳川主導なのを鑑みれば、意図的な命名なのは確実でしょう。
神武天皇陵も徳川の作品ですし、徳川も「三」の史実を知っていた事は間違いありません。
596日本@名無史さん:2007/12/20(木) 18:11:55
なんか記紀至上主義にはうんざりだね
597日本@名無史さん:2007/12/20(木) 21:35:10
九州以外は化外地って意味なんだよねw
598日本@名無史さん:2007/12/21(金) 10:37:32
少し中華思想を触るとでてくるね
599日本@名無史さん:2007/12/21(金) 15:08:50
美濃もいかんね
600日本@名無史さん:2007/12/21(金) 17:46:10
隠れた「み」地名
上毛(かみつみけ) 現在(かみげ)
下毛(しもつみけ) 現在(しもげ)
豊前には都郡もあるしね
601日本@名無史さん:2007/12/21(金) 18:27:50
上野と下野も似過ぎだね
602日本@名無史さん:2007/12/21(金) 20:52:59
毛の国ね
603日本@名無史さん:2007/12/21(金) 22:46:29
毛は化外の化じゃないか?
604日本@名無史さん:2007/12/21(金) 22:59:36
二毛作みたいに穀物の意味だよ
605日本@名無史さん:2007/12/21(金) 23:38:28
>>603
御食(みけ)=御毛(みけ)
同じ意味ですから、そう考えた方が無難でしょう。大王の御食とする田畑だと考えるべきです。
毛を化とする考えも面白いですね。
606日本@名無史さん:2007/12/22(土) 08:10:09
豊の国の地名って面白いですよね
607日本@名無史さん:2007/12/23(日) 08:59:14
豊の国には武蔵まであるよね
608日本@名無史さん:2007/12/23(日) 10:02:13
本当だ!小さな日本列島のようだね
609日本@名無史さん:2007/12/23(日) 12:52:56
四国霊場巡りをすれば世界一周した事になるらしいけど
日本武の方はそれよりもかなり狭いから
日本一周になるわけね納得!
610日本@名無史さん:2007/12/23(日) 17:10:46
霊場巡りの原点だったりしてねw
611日本@名無史さん:2007/12/23(日) 21:12:39
北九州霊場巡りじゃ露骨だな
612日本@名無史さん:2007/12/23(日) 22:52:02
日本中まともに道も無かったのに日本猛は空でも飛んだのかもね
613日本@名無史さん:2007/12/23(日) 23:55:55
日本武尊の行軍路はほとんど海路だよ
特に関東遠征は太平洋沿岸の主要地域に上陸しては制圧しまた海上を進むというのを繰り返している
614日本@名無史さん:2007/12/24(月) 08:12:55
あの君いつものズッコケ君?
吾妻国とか信濃国とか伊吹山はどうするんだ?
海際ばかり制圧してたら海際しか足跡が残らんぞ!
相模から上総の東京湾が荒れたんじゃ可笑しいな
他の外海が荒れるべきだよな
君もう疲れるから来ないでね
615日本@名無史さん:2007/12/24(月) 09:36:17
>>613
殆ど海路なんてどこに書いてあるんだ?
妄想を書き込むのは止めてくれ!
616日本@名無史さん:2007/12/24(月) 13:57:54
日本猛の記述も含め、どう見ても記紀の作者達は、船舶とか交通について、無知に斉しい。
例えば最初の道が奈良盆地に出来たらしいが、大和川に船で遡上出来無いから、明らかに矛盾するし、
道も無い紀伊山地で、そこの熊野川を神武御一行は遡上して奈良盆地に入ったとか、
作者達の無知な記述は、目を覆うばかりだ。
これらを疑問にも思わない人は、正直議論に参加して欲しくないよね。
617日本@名無史さん:2007/12/24(月) 14:36:32
江戸時代には「筑紫館皆言鴻臚還館也」だってさ
最近無理矢理分けようとしてるよね
618日本@名無史さん:2007/12/24(月) 14:39:05
訂正 「還」はいりません
619日本@名無史さん:2007/12/24(月) 20:00:10
大和→(陸路)→伊勢→(海路)→尾張→(海路)→駿河・相模→(海路)→上総→(海路)→陸奥
620日本@名無史さん:2007/12/24(月) 20:12:32
途中で送信しちゃった

日本武尊側の拠点・伊勢と尾張は海路の要衝だよ
その後海路で敵の拠点近くに上陸したあと足柄坂などの敵本拠地を衝き再び(おそらく海路で)東進している
日本武尊が伊勢尾張に拠点を持ってるのに水軍を使わずに当時の大河が何本も流れる東海道を陸路で進んだという方がナンセンス
陸路を進軍路としたのは科野路と伊吹山討伐行くらいだ
621日本@名無史さん:2007/12/24(月) 20:32:01
>>617
やっぱり鴻臚館は福岡だよね
記紀が可哀想になってくるよw
622日本@名無史さん:2007/12/24(月) 22:42:38
>>616
宇陀に入ってからの神武天皇(当時は即位前だから狭野尊)軍の行動はリアルすぎるほどリアルだが
まず兄猾との謀略合戦で宇陀の地を制すると忍坂(桜井市)→磐余(橿原市)→葛城と地図通りに攻略している
磯城(橿原市のすぐ北にある)の首長の討伐も苦戦に苦戦を重ねた末に謀略によって騙し討ちにしているのは
あまり神話的存在の神の御子らしくない
奈良盆地南部の制圧に関しては神武を称える創作らしくなく史実をベースにしてるとしか思えないよ

日向からの東征は神話じみてはいるが不可能ではないし地理的に魏志倭人伝ほど間違ってはいない
河内から日下(奈良時代ごろはすでに陸地化していたが河内平野開拓前は潟だった)上陸後は案内なしに
生駒山地を越えようとして失敗したのもリアルだし熊野→宇陀は案内者さえあれば行軍は可能だ
むしろ生駒葛城山系を越えて大国と当たるより宇陀の小領主を標的にして足元を固めたあとに順次拡大していく
記紀の記述の方が現実味があると言える
熊野越えは神武集団が女子供を置いてきた純軍事集団だということも記憶しておいてもらいたい
623日本@名無史さん:2007/12/25(火) 00:03:44
>>621
福岡の鴻臚館遺跡の木片を、炭素測定したところ、340〜630年とでました。これは文句の無い数字です。
かたや大阪難波の鴻臚館は、影も形も見つかっていません。
記紀は胡散臭いのに、よくも信用出来るよなぁ。
624日本@名無史さん:2007/12/25(火) 06:46:46
天武期になっても外国の使者は殆ど筑紫に来ているね
625日本@名無史さん:2007/12/25(火) 08:06:03
国際色豊かな出土品だよね
626日本@名無史さん:2007/12/25(火) 08:06:18
どうしても記紀に沿った歴史に
持って行きたい人が多いようですが
史実とのズレが多き過ぎる
既に冷静な判断が必要な時期に来ています
思い込みの強すぎる人や
想像逞しい人の発言は熱すぎて近づけないですしね
627日本@名無史さん:2007/12/25(火) 17:01:13
飛鳥以前の都や大阪鴻臚館の考古学的な裏付けなんて何も無いからね
628日本@名無史さん:2007/12/25(火) 20:40:30
075 鴻臚館跡(こうろかんあと)
http://www.city.fukuoka.jp/contents/7d14c212173a/7d14c212173a85.htm
当たり前の事だけど舶来品が沢山出てきてますね
629日本@名無史さん:2007/12/25(火) 21:09:59
14Cの結果に対応せず、未だ現地では奈良から平安時代と解説されている。時代を止めたままでどうするつもりなんだか。
630日本@名無史さん:2007/12/25(火) 21:31:12
大阪は単なる地方遺跡
631日本@名無史さん:2007/12/26(水) 06:59:03
大阪島に最初にすみついたのは百済の人達だろ
それもかなり遅れて
632日本@名無史さん:2007/12/26(水) 11:45:40
アメリカに入植した開拓民の殆どは
宗教戦争や迫害で逃げたり強制的に移動させられたカトリック教徒で
実はドイツ人が最も多かった
これは権力者の都合で闇に葬られた西洋の史実である
これと同じ事が東洋でも起こっている
白村江で破れた百済人や高麗人の多くは日本に渡った
そのため全国にそのままズバリの地名が延喜式に沢山記録されている
現在の大阪市域難波周辺も百済郡と呼ばれていた
これは入植以前にめぼしい地名が無かった事の表れであり
命名時期までほぼ掴む事ができる史実なのだが
記紀擁護の立場では不都合であるため表ざたにはされていない
大きな声で言えないが大阪には百済人が最初に入ったのである
633日本@名無史さん:2007/12/26(水) 12:47:57
アメリカに入植した開拓民の殆どは
宗教戦争や迫害で逃げたり強制的に移動させられたカトリック教徒で
実はドイツ人が最も多かった
これは権力者の都合で闇に葬られた西洋の史実である
これと同じ事が東洋でも起こっている
白村江で破れた百済人や高麗人の多くは日本に渡った
そのため全国にそのままズバリの地名が延喜式に沢山記録されている
現在の大阪市域難波周辺も百済郡と呼ばれていた
これは入植以前にめぼしい地名が無かった事の表れであり
命名時期までほぼ掴む事ができる史実なのだが
記紀擁護の立場では不都合であるため表ざたにはされていない
大きな声で言えないが大阪には百済人が最初に入ったのである
634日本@名無史さん:2007/12/26(水) 15:22:27
新選姓氏録を見ればいかに渡来人が来ていたか判ります
大阪市丸ごと百済人入植でも不思議は無い位ですね
話変わるけどこれだけ大挙して来て混血していれば
日本人の祖先と言って可笑しくないと思うなw
635日本@名無史さん:2007/12/26(水) 16:47:42
そうだよね、古代に来た渡来人を、外国人扱いする奴って、どっか可笑しいよね。w
636日本@名無史さん:2007/12/26(水) 20:45:14
古代の渡来人の血を全く引いて無い奴なんてまずいないだろ
637日本@名無史さん:2007/12/26(水) 23:15:28
だいたい大阪難波はこれだけ古代に繁栄していて
石山本願寺まで長期空白になる
不便な場所に移設した為だけど
638日本@名無史さん:2007/12/26(水) 23:34:56
大坂は水の都だから海上交易の価値と瀬戸内海の治安度によって大きく変わる
白村江の敗戦によって海上交易の価値は低下していたが
中世の瀬戸内水軍の活発化によってさらに低下した
大坂の復権は石山本願寺が毛利と同盟した村上水軍と手を結んだことから始まる
639日本@名無史さん:2007/12/27(木) 06:12:11
>>637
大阪難波は実際には本願寺まで何も無かったって言いたいんだろw
640日本@名無史さん:2007/12/27(木) 07:08:59
堀っ立て柱の穴だけじゃ
都でも迎賓館でも無いないわな
641日本@名無史さん:2007/12/27(木) 08:52:14
大宰府の掘っ立て柱時代を知らないの?
642日本@名無史さん:2007/12/27(木) 12:28:39
>>640
少し南にづれますが四天王寺がありますね
これ有名なおとぼけ寺ですけど
643日本@名無史さん:2007/12/27(木) 17:51:03
四天王寺
本尊は四天王じゃなければならないのに何気に救世観音で四天王は一体も無い
宗派は初期仏教→真言宗→天台宗→独立系と節操が無いのは日本一
実は平安初期から三千院の属院扱い
元々九州にあった頃は山の上にあったが今は何故か難波の隣にある
記紀に合わせた由緒があるが実が全く伴わない悲しいお寺四天王寺
これじゃ難波の空白も埋まらない
644日本@名無史さん:2007/12/27(木) 20:28:29
づれたのかw
645日本@名無史さん:2007/12/27(木) 22:00:46
大宰府にも掘立柱があったなんて
そんな当たり前の事は誰も求めていない
求めているのはスレタイに基づく証拠や思考を
出せる範囲でお互いに享受すること
646日本@名無史さん:2007/12/27(木) 23:03:39
掘立柱が青森にもある事しらないの?w
647日本@名無史さん:2007/12/28(金) 08:12:09
延暦6年(787)に
空海が四天王寺に借住したとの由緒があるけど
当時13歳の修行前の空海はただ居ただけだねw
承和4年(837)には
四天王寺の最初の別当に真言宗徒が就いたらしいが
東寺との掛け持ちだったそうだ
その後は三千院の属寺が長く続いたのだから
移設から後は寺として機能してたかどうかかなり疑問?
648日本@名無史さん:2007/12/28(金) 08:47:36
大阪難波の港としての機能だけど古代は悲しい程不便だね
649日本@名無史さん:2007/12/28(金) 12:57:05
奈良からは生駒の麓の枚方神社とかが利便に優れているし
山城からは神戸周辺の方が淀川渡らない分だけ楽だ
難波の移設した記紀作者達は相当の地理音痴だよ
650日本@名無史さん:2007/12/28(金) 13:11:29
大阪難波は島だったから間違いなく不便な場所
福岡難波とは比べものにならない
651日本@名無史さん:2007/12/28(金) 18:56:29
上町台地が半島なら現在の大阪市が摂津に含まれる訳が無いよな
652日本@名無史さん:2007/12/28(金) 20:51:07
島じゃないとないだろうね
653日本@名無史さん:2007/12/28(金) 23:22:19
河内湖も淀川も広かったらしいね
654日本@名無史さん:2007/12/29(土) 07:36:31
石山本願寺は寺とは名ばかりで結局城だよね
655日本@名無史さん:2007/12/29(土) 11:15:36
大和川は上町台地の山側を通って淀川に合流してた。
656日本@名無史さん:2007/12/29(土) 23:41:33
大阪は石山と呼ばれていた
これ案外忘れられてるよな
657日本@名無史さん:2007/12/29(土) 23:51:36
石山本願寺が今の大阪城の位置にあったことはこの板じゃ基本知識だろ
658日本@名無史さん:2007/12/30(日) 08:42:47
記紀にも頻出する逢阪を移設したのは秀吉が有力と言いたいようなのに
ピントの外れたウンチク自慢だことw
659日本@名無史さん:2007/12/30(日) 09:29:49
逢坂は滋賀県
660日本@名無史さん:2007/12/30(日) 10:38:15
いつものズッコケ君教えて上げるからもう来ないでねw
福岡博多付近は移設前の摂津や近江等
沢山の地名に当てられているんだよ
記紀真面目に読んでいれば矛盾に気が付くけどね
琵琶湖に大津なんてありえると思う?
661日本@名無史さん:2007/12/30(日) 10:42:43
信長は何で滋賀の大津に代官を置く事を求めたと思うの?
662日本@名無史さん:2007/12/30(日) 10:43:53
大津という地名があったからwww
663日本@名無史さん:2007/12/30(日) 10:48:29
バカ?
福岡という地名はどこから移設したの?
長浜と同じように大阪という地名を作り出しただけだろ。
664日本@名無史さん:2007/12/30(日) 14:39:07
記紀の逢坂はおおさかと読み元々の博多付近
難波(那+庭)と那大津が別れて移設された為
同じような地名が別れて存在する
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A2%E5%9D%82

逢坂だけじゃない探せば沢山ある


665日本@名無史さん:2007/12/30(日) 16:11:52
神功年〜近江の逢坂(おおさか)に〜楽波(ささなみ)の栗林〜
欽明31年紀 〜難波の佐々波山(ささなみやま)〜
孝徳2年紀 〜北は近江の楽波(ささなみ)の逢坂山(おおさかやま)〜
主要ポイントで同じ場所ですよw
666日本@名無史さん:2007/12/30(日) 16:12:45
修正
神功年→神功2年
667日本@名無史さん:2007/12/30(日) 20:15:29
逢坂関も何処にあったのかハッキリしないそうですね
記紀による通説じゃ考古学の裏付けが絶対取れませんから当たり前の話ですが
668日本@名無史さん:2007/12/30(日) 21:11:28
別れて移設されて別々に逢坂を作るあたり必死さ故の過ちだな
669日本@名無史さん:2007/12/30(日) 22:32:33
秀吉の前に大阪府内に逢坂山という地名があったんだけどな
記紀や万葉集にも出てくる有名な山
670日本@名無史さん:2007/12/30(日) 22:53:56
まず大阪府内ってなんだw
あったのは良かったねw
記紀や万葉集に移設前の地名も
読まれているのは知って云ってるのかどうなのか?
いったい何を突っ込んだつもりなんだ?
意味不明だよねw
671日本@名無史さん:2007/12/30(日) 23:46:40
>>665
これもあった
天武8年〜大阪山に関所を設け、難波に羅城を築く〜
672日本@名無史さん:2007/12/31(月) 06:06:21
面白い検討だ
大阪難波周辺の山となると上町台地が最寄にあるが
他は結構離れてて生駒山地とか悩ましい
秀吉の関白の肩書きは記紀擁護派にふさわしく
神武天皇陵を作った家康と同様に
記紀逢坂の怪しげな辻褄合わせに協力する動機だと云える
大切なのは既にあった石山と云う地名を
わざわさ秀吉が記紀地名に変えたと云うこと
673日本@名無史さん:2007/12/31(月) 08:08:40
福岡の近江は多々良川のあたりが砂丘内湖だったみたい
674日本@名無史さん:2007/12/31(月) 09:57:43
>>672
豊臣とは豊の家来、豊とは豊の国主で伊勢外宮や宗像神。秀吉の立場は明確に現れた。
古代の神々の復興をも目指し、従属国であった朝鮮を攻めた。
秀吉が大阪城を作った為、記紀の伝説の港である難波の体裁が整った。
伏見城も隠居の居所だが、賀茂・八坂・伏見稲荷神の真南を意識した事は確実である。
675日本@名無史さん:2007/12/31(月) 14:02:39
結局儒教に染まった権力者が天皇を奉るつつ2を標榜して
わが世の春を謳歌する為記紀の取り繕いに加担したって訳
676日本@名無史さん:2007/12/31(月) 15:49:52
難波潟って古代歌は沢山ありますが
大阪の難波に潟なんて矛盾だらけですよね?
砂州に隔てられた入り江なんて出来ない地形ですし
よく解説にある遠浅の干潟なら港の船が入港できません
この難波潟もどうやら九州の事を歌っていますね
677日本@名無史さん:2007/12/31(月) 16:45:56
難波潟の歌って沢山あるねw
678日本@名無史さん:2007/12/31(月) 21:58:57
ラグーンに船の入港ができないならヴェネチアの発展はなかったな
679日本@名無史さん:2008/01/01(火) 01:02:39
あけおめ
正月休暇ぎぶん
680日本@名無史さん:2008/01/01(火) 01:39:57
潟地形は古代の港。
難波もヴェネチアも然り。

681日本@名無史さん:2008/01/01(火) 01:50:58
>>650
>大阪難波は島だった

半島の北端。
淀川中州潟[南方(JR新大阪駅の南側)=南潟]の南側
682美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/01(火) 04:06:49
>>673
福岡にも「近江」ってあるんだ?
琵琶湖の近江
新潟の近江
福岡の近江

他には紀記には「遠江」とか言う記述もあったはず

「近江」ってのは単に「ここから一番近い江(港)」って意味なのかも知れないね
近国、遠国とか、近つ飛鳥、遠つ飛鳥なんて書き方もしてるしさ


誰目線のどこから目線での「近江」なのかによって福岡だったり琵琶湖だったりするのかも知れないっす
683日本@名無史さん:2008/01/01(火) 09:44:24
>>678
笑い話は地理を知ってかららw
地の理をしることだぞ!
684日本@名無史さん:2008/01/01(火) 11:15:41
難波の何処に潟地形があったのやらw
685日本@名無史さん:2008/01/01(火) 13:12:14
きっと干潟と港が並び立たない意味が解って無いんだろwww
686日本@名無史さん:2008/01/01(火) 14:50:01
ベネチアと大阪難波の地理条件が違い過ぎるし成立条件も違いすぎる
どう比べたいんだろうねw
687日本@名無史さん:2008/01/01(火) 15:20:22
船の入港可能な港に
潮干狩の出来る遠浅の干潟
国際的な国都の置ける土地や遺跡
この条件を揃えないと難波とはいえない
当然大阪難波には当てはまらない
688日本@名無史さん:2008/01/01(火) 18:05:52
0312:昔こそ、難波田舎(なにはゐなか)と言はれけめ、今は都(みやこ)引き、都(みやこ)びにけり
藤原宇合(ふじわらのうまかい)

これは天平4年(732)に完成した難波京は聖武天皇が作った当時の歌ですね
その前にも都になったり古くから鴻臚館があったり賑やかな国際港湾都市であった筈なのに
この難波は可笑しな難波ですよね
689日本@名無史さん:2008/01/01(火) 20:58:35
移設後の難波が、いかに名ばかりの難波なのか、よく解るね
690日本@名無史さん:2008/01/01(火) 22:32:09
聖武天皇もあんなに不便な難波に遷都したのは軍事かもしれない
691680-681:2008/01/01(火) 23:10:02
>>686-687
8世紀初頭までの大阪の地形の変遷をご存知でないようで。
>>687の言う条件は満足している。

でも、大阪は新興の地方拠点にしか過ぎなかった。
692日本@名無史さん:2008/01/01(火) 23:43:09
干潟が出来る条件も知らない馬鹿は来るなよなwww
693日本@名無史さん:2008/01/01(火) 23:48:11
>>688
当時は栄えてないよ
中大兄皇子や中臣鎌足がいた間だけはともかく
孝徳天皇が難波宮の都で死を迎えるときの記述を読んでみ
694日本@名無史さん:2008/01/02(水) 00:03:48
↑鴻臚館は何処いったんだw来るな馬鹿w
695日本@名無史さん:2008/01/02(水) 00:05:59
上町台地の西側に難波はあるんだよな
潮の流れのそこそこあるような大阪湾に干潟できるのかなw
有明海のような干満の差で海が後退するのが干潟だよな
潮の流れが少ないから遠浅の海が出来るんだよな
現在の有明海もちゃんとした港殆ど無いらしいな
大阪は条件満たして無いと思うけどなw
696日本@名無史さん:2008/01/02(水) 03:54:41

難波の北対岸(淀川河口中州)に潟(南潟=南方)がある。
難波の北は河内湾(湖)の放水口であり入り江である。淀川水路とは別。
入り江(放水口)の南岸が浪速の港。
難波(浪速)の西は砂浜の海、難しい波(三角波)の海、浪が速い(沿岸潮流)海。
難波の東は上町台地。
難波の南は大和に通じる道。

河内湾はラグーンのようなものだね。

参考
難波(天神・今宮神社)の西対岸に西宮神社、その東側に今津がある。
今津は武庫川河口西横にある入り江に出来た港。
(甲子園球場は武庫川河口河川敷にある)
今津は難波の港に行く船の潮と風の退避港。
難波の海は荒れるので。

697日本@名無史さん:2008/01/02(水) 07:49:34
>難しい波(三角波)の海
難しい波って書くじたい終わってるwww
難=波静かな こんな常識知らないのかw
浪速なんて当て字は万葉集に出てこないぞw
あとね淀川河口部は西成東成郡でね
難波はその南百済郡にあったんだよw
無理矢理淀川付まで難波にすんなよwww
必死に考えたみたいだねw笑わすなズッコケ君www
698日本@名無史さん:2008/01/02(水) 09:12:41
>>696
調べて書いたにしては稚拙
699日本@名無史さん:2008/01/02(水) 09:46:14
304:大君の遠の朝廷(みかど)とあり通ふ島門(しまと) を見れば神代し思ほゆ
1063:あり通ふ難波の宮は海近み海人娘子らが乗れる舟見ゆ

難波の宮は海に近い場所にあって、川に近い場所じゃないみたい。
「あり通ふ」は筑紫の歌みたいだな。
万葉集は勉強になるなw
700日本@名無史さん:2008/01/02(水) 10:36:41
>>697は灘と難の区別がつかぬバカ。
淀川本流は現在よりもっと西。現在の神崎川のあたり。
旧淀川河口よりもっと西の海が灘。上記今津から西側の海。
難波の南が百済。

>>699
大阪の難波は淀川の東の入江(河内湾放水口)の南岸。
倉庫群跡も発掘されている。
701日本@名無史さん:2008/01/02(水) 10:55:01
>>699
上記の歌の難波は前期(一次)難波宮(上町台地)とも考えられる。
これは大宰府の出先機関だろう。難波の宰府。

304の歌は大阪。
1063の歌が九州か大阪かどうかの判断はできない。
702日本@名無史さん:2008/01/02(水) 13:20:30
「大阪」「歴史」で検索した。
古代については殆ど出てこない
知ってる人は知ってるからね
703日本@名無史さん:2008/01/02(水) 18:46:43
難波の波にサンズイついてないかwww
704日本@名無史さん:2008/01/02(水) 19:14:10
>>700
ズッコケ君!
それでも漢字辞書調べたよな!
まさか難波=灘に気が付かなかった訳無いよなw
705日本@名無史さん:2008/01/02(水) 20:13:40
>>700
天才的な妄想だなw何時もながらどの資料見て云ってんだろうねw
>難波の南が百済。
倭名抄によりますと四天王寺が百済郡の南端みたいだよねw
現在の難波は四天王寺の直ぐ西北にあるけどね
難波が百済郡に入っていないなんて
馬鹿な誰かの妄想の尻馬に乗ってんじゃねーのwww
あと笑うのが倉庫があると難波なら全国何処でも難波だなw
www
706日本@名無史さん:2008/01/02(水) 20:14:40
妄想とか出典の怪しいネタは投げ込まないでほしい!
707日本@名無史さん:2008/01/02(水) 20:57:04
>>697は灘と難の区別がつかぬバカ。

区別してんのは君だけだ
皆ほぼ同じ意味だと受け取っている
特に難波の難とはね
708日本@名無史さん:2008/01/02(水) 22:01:34
>>702
大阪の古代は触れちゃいけないみたいだね
709日本@名無史さん:2008/01/02(水) 22:39:52
住吉神社の面している海が灘のようだね。
710日本@名無史さん:2008/01/02(水) 23:04:36
>>699
「あり通ふ」は枕詞
これは博多湾にかかる詞でしょうね
711日本@名無史さん:2008/01/02(水) 23:16:50
>304:大君の遠の朝廷(みかど)とあり通ふ島門(しまと) を見れば神代し思ほゆ
柿本人麻呂が筑紫に下って書いた歌だよね
712日本@名無史さん:2008/01/02(水) 23:44:07

難波津の中心地は、上町台地の東部に、河内湾に面していた港(東成郡)だったようだね。
上町台地の西部の倉庫群跡のあるところは難波津の入口部(西成郡)。
難波津は難波評(郡)にあり、又その名称は難波評の港の意。

wiki
>713年(和銅6年)、郡郷の名称が公式に定められ、
>東部の難波大郡を「東生(ひがしなり)」、
>西部の難波小郡を「西成(にしなり)」と称するようになった。
>「東生(ひがしなり)」の「なり」は「生る」に由来し、
>「上町台地の東に新たに生まれた集落」という意味であった。

713日本@名無史さん:2008/01/02(水) 23:51:58
逆だね。
難波津があったから難波評となった?

元々の難波は河内湾の静かな海のことを指したのでは?
714日本@名無史さん:2008/01/03(木) 00:21:01
>>710
>「あり通ふ」は枕詞
>これは博多湾にかかる詞でしょうね
なるほど。

>>711
そうだね。
遠の朝廷は九州王朝のことだね。
715日本@名無史さん:2008/01/03(木) 00:43:49
>>712
出典位確認したら?w
wikiの出典は、古事記も書記とも難波大郡と名前しかでてこねぇのに、
713年は続日本紀で元明天皇が、「畿内の郡郷の名前を付けろ」としか書いて無い。
明らかな妄想発展ネタだな。w 
福岡から移設後の難波なんて何処にも書いてない。w
史料の扱い位身に付けましょうね。w
716日本@名無史さん:2008/01/03(木) 05:56:25
続日本紀も読まずに古代史語る人もいるのかw
717日本@名無史さん:2008/01/03(木) 09:02:59
くれぐれも大阪難波なんて持統以降の奈良遷都に伴う移設で
名ばかりの難波を大阪に移設した事について議論しているけど
記紀に書かれた難波はほぼすべて福岡難波!
荒らしみたいなトンチンカンな突っ込みには注意注意!
718日本@名無史さん:2008/01/03(木) 11:33:48
難波が北に寄って潟があったところで
史料にも載らない大阪難波をどう証明すんだろ
東西成郡と百済にあった難波は別物だしね
719日本@名無史さん:2008/01/03(木) 12:58:34
wikiもヒドイもんだな
720日本@名無史さん:2008/01/03(木) 15:09:22
倭名抄の摂津に難波郡も難波郷も無い事じたいがおかしいよw
721日本@名無史さん:2008/01/03(木) 15:59:26
難波大郡は博多の事
前出の難波潟に難波港に鴻臚館遺跡に
どれ取っても大阪の訳ない
722日本@名無史さん:2008/01/03(木) 16:38:19
304:大君の遠の朝廷(みかど)とあり通ふ島門(しまと) を見れば神代し思ほゆ
これは柿本人麻呂が筑紫に下って書いた歌だよね
1063:あり通ふ難波の宮は海近み海人娘子らが乗れる舟見ゆ
    するとこれは筑紫に難波があった事が解かる歌だよね
723日本@名無史さん:2008/01/03(木) 20:31:21
大阪なんてね難波じゃないのよ
724日本@名無史さん:2008/01/03(木) 20:37:46
孝徳天皇が孤独な死を迎えた難波も福岡なのか
意外と寂れてたんだな当時の福岡
725日本@名無史さん:2008/01/03(木) 20:44:13
つまらん! くだらん! あほくさ〜い!
726日本@名無史さん:2008/01/04(金) 07:54:52
>>722
あり通ふ程賑やかな難波は福岡しかありませんね
727日本@名無史さん:2008/01/04(金) 08:41:08
大阪へ移設が名ばかりで
移設後も石山本願寺迄空白なのは
ここまでの考察ではっきりした
728日本@名無史さん:2008/01/04(金) 17:41:17
=難波結論=
大阪摂津の離れ小島で不便な石山は、
記紀の名ばかりの移設をして、名目上難波と呼ばれてはいたが、
石山本願寺や四天王寺が、実質機能し始めてから注目を浴び、
秀吉の大阪城で難波としての体裁を整えた、辻褄合わせの難波である。
よって古代に栄えた難波は総て福岡難波の記述である。
詳細は上記や参考関連スレに詳しく参照されたい。
(参考関連スレ【記紀?】畿内の寺社は移設ばかり【米田良三】等等)
729日本@名無史さん:2008/01/04(金) 20:31:52
>>728
>大阪摂津の離れ小島で不便な石山は

アホ!

石山本願寺は上町台地半島の北端の高台。
其の東側は河内湖(河内湾)。
河内湖の南端は、長居矢田のあたり。現大和川付近まで。
上町台地半島の南の付け根は、住吉神社、我孫子へと、浅香山に繋がっていた。

難波は大阪城の東西近辺。
河内湾西岸こそ「難波」にふさわしい地名として、九州人に名づけられた。
「難波」は地形を示す一般名詞だろが。

ボケ!
730日本@名無史さん:2008/01/04(金) 20:56:49

大阪の天神は九州人がやって来て住みついいた証拠だろ。
天神の場所こそ河内湾排水路の南岸に面している。
天神・天満の地名がどこか調べてみろ。
そこが難波の一部だ。

その水路の北側に中島南方(南潟)がある。
神武が河内湾から敗走途中に通過したその南方だ。
ここで神武は畿内攝津軍(銅鐸族軍)の追走を受け惨敗したのだ。
731日本@名無史さん:2008/01/04(金) 21:28:55
>>729
朝吉君
どれもこれも君が議論で負けた話じゃないかwww
詳細は上記や参考関連スレを見たほうがいいよwww
732日本@名無史さん:2008/01/04(金) 21:44:53
>>729
wikiの出典でも探して来たら
733729:2008/01/05(土) 03:34:53
>>731
朝吉って何や?
東成が朝鮮人の巣だからか?
ワシは半島人ではない。
顔は似ているかな?

>>732
wikiの出典を示すことは妥当だろうな。
734日本@名無史さん:2008/01/05(土) 09:09:43
>>729-730
>>733
議論で負けたから荒らしに来たのかw
頭の中味は落ちぶれた半島人みたいだなwww
735日本@名無史さん:2008/01/05(土) 23:30:25
朝吉に生まれなくて良かったよw
736日本@名無史さん:2008/01/06(日) 12:29:06
難波論を朝吉にすり替えるとは。
君は人格まで根底から叩き潰されたようだね。

以下の主張はもう決してしませんね?
@大阪(石山本願寺)は島であった。
A7世紀の大阪には難波はまだなかった。
B難波は摂津郡ではなく百済郡にあった。

737日本@名無史さん:2008/01/07(月) 15:36:25
大阪は島で!
大阪難波は秀吉が辻褄合わせたし
難波は百済郡
総てこのスレやこの板にて証拠付きで証明してあるじゃないか
きみ大丈夫?www
738日本@名無史さん:2008/01/07(月) 17:39:43
>大阪は島で!
地図も読めないのね。

>大阪難波は秀吉が辻褄合わせたし
何のこと?

>難波は百済郡
「難波」
地名→なんば→ネギ畑→鴨うどん→百済郡
地域名→なにわ→湊→政庁→東成郡・西成郡近辺
739日本@名無史さん:2008/01/08(火) 22:28:13

大阪の「難波」の読み方

@なにわ 現代の大阪市、「浪速」とも書く。
Aなんば 地名:大阪市浪速区難波。鴨と葱の料理。

昔「なんば」は葱の産地であったことから、
鴨と葱の料理をしゃれて「なんば」と言う。
740日本@名無史さん:2008/01/09(水) 11:14:09
難波の葱で鴨を調理すると、
鴨が格段に美味くなったんだろうなぁ?
741日本@名無史さん:2008/01/09(水) 20:48:49
>>738-740
朝吉www
742日本@名無史さん:2008/01/09(水) 21:46:21

朝吉って何?

おまえは、夕凶か?晩凶か?
743日本@名無史さん:2008/01/13(日) 20:41:34
アスペルやだね
744日本@名無史さん:2008/01/13(日) 20:52:45
■シラキとは『知らす城』のこと

 古代の半島東南部に、志羅紀(シラキ)という倭人国が存在した。天日矛の祖国・シラキの国号の意味が、
ついに明らかになった。
 シラキとは、『知らす城』の意味である。つまり、「首都」という意味の言葉なのである。
シラキとは金城(現在の慶州)の別名であった。古代日本人は、金城とその周辺地方をシラキと呼んでいたのだ。
 なんと、1世紀頃まで、つまり漢朝の時代まで、シラキは半島南部の全域を支配していたらしい。
紀元前1世紀の半島にあった漢朝の地方領である真番郡・臨屯郡の南方に位置した韓(カラ)という国。
実は、この韓(カラ)こそが、神武天皇の皇兄=稲飯命によって建てられた志羅紀(シラキ)なのである。
 日本海側から東シナ海側に至るまで、4世紀以降からミマナ・クタラと呼ばれるようになる地域まで、
シラキ領土だったのだ。
 大和朝廷が半島南部を支配するために置いていた官庁・任那日本府は、3世紀頃までは金城(シラキの都)に
置かれていたのである。
 しかし、3世紀頃から、北方の太白山脈からワイ族(朝鮮人の先祖)という異民族が志羅紀領の北部に
侵入するようになり、やがて志羅紀はワイ族に乗っ取られた。こうしてワイ族国・新羅が誕生したのである。
 神功皇后の『新羅征伐』は、ワイ族に奪われた日本領土・シラキを取り返すための軍事行動だったのだ。
けして侵略ではなかったのだ。


745日本@名無史さん:2008/01/14(月) 02:24:25

ワシは超高度知能発達アスペルガーの爺だ。
文句あっか?

ションベン起きでおじゃました。
又寝る。
746一応九州王朝説:2008/01/14(月) 10:42:05
なんか罵り合いが凄いですね。流れをロムってもよくわからんw

「浪速(なにわ、なみはや)」「難波(なにわ、なんば)」の各読み方や
起源についてはまだまだ確定してない事が多いので、アマチュアが
罵りあいする必要はないと思うんですがね。
最近の研究では、干満差や地形の複雑さから波=潮汐が速いので
こう呼ばれるようになったという説もあるようです。それもどの地点が
そうなのかなんですが。

神武説話原理論(笑)に立つなら、通過時に通った通路でそういう場所
があって、そこをそう名付けたということになるんでしょうかね。ただそれ
にしても「なみはや」と「なにわ」の関係、難波との関係、色々問題がある
わけで、それを地道にクリアするのは大変な作業だよね。

ただ、どれも試論だから別にバカとかいわんでもと思うが。
747日本@名無史さん:2008/01/14(月) 17:20:08
↑>744-746朝吉って馬鹿だなw
>起源についてはまだまだ確定してない事が多いので、アマチュアが
>罵りあいする必要はないと思うんですがね。
素人でも史料で証拠立てれば、玄人の妄想に楽勝だよ。www
玄人は怖くてこんな証拠付きな話に、実名で首突っ込まんよ。
どんな感覚してんだか馬鹿な朝吉。www
748日本@名無史さん:2008/01/14(月) 22:29:29

河内八尾の朝吉 今東光

宮廷言葉起源の河内弁 7世紀前期難波京の残渣
749一応九州王朝説:2008/01/14(月) 23:07:17
俺が朝吉って・・・。文も日本語でおk だし。


  お 前 は 何 を 言 っ て る ん だ ?
750日本@名無史さん:2008/01/16(水) 20:44:16

大阪市東淀川区東中島の愛宕神社
この神社は中島でも柴島でもない別の島であった。
この島に逗留したのは隼人。
by続日本紀
751日本@名無史さん:2008/01/17(木) 15:20:48
隼人か
752九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/01/31(木) 11:32:49

九州派同士の激論(罵倒?)はなかなか面白い。
>>738-750への反論が止まっているが、乞反論、反論期待。


立ち入り禁止者だが、おじゃました。
753日本@名無史さん:2008/02/16(土) 17:28:08
>>747
お前は所詮アマチュアw
754日本@名無史さん:2008/02/16(土) 21:15:04
玄人さんに証拠だせなんて聞かない方がいいぜw
755日本@名無史さん:2008/03/26(水) 21:05:41
756日本@名無史さん:2008/03/26(水) 21:06:57
まもりきれないよね
757日本@名無史さん:2008/04/12(土) 11:35:12
あげ
758神奈川県民:2008/04/29(火) 23:16:04
スレ乱立晒しage
及び
自演スレ晒しage
759神奈川県民:2008/04/30(水) 08:42:41
スレ乱立晒しage
及び
自演スレ晒しage
760神奈川県民:2008/04/30(水) 14:29:47
スレ乱立晒しage
及び
自演スレ晒しage
761神奈川県民:2008/04/30(水) 18:16:52
スレ乱立晒しage
及び
自演スレ晒しage
762改め:2008/04/30(水) 19:52:52
重複スレさらしあげ
763朝吉:2008/05/02(金) 00:01:02
あげ
764日本@名無史さん:2008/05/05(月) 11:32:02
      / ̄ ̄ ̄ ̄\ 
     (      /=\  )
      |;;;;;   ー◎-◎- )
      (6     (_ _)  )  
      |  ∴ ノ 3   ノ  こら 僕の荒らしを放置するな! 僕は怒ると怖いんだぞ 
   /⌒\ ____ ノ、        荒らししかできないけど  荒らされたらなんか反応しろ!
  /   ,           ヽ
 |   r 、_ ・ 人 ・ ,.y   i
 |   |    ̄    ̄  |  |
 |  \         ノ  ノ
  \  6    x    9  /
    しμゞ 、_;;;;;;;;;;;;_,ノ彡イ
     |    ;;;;(:υ:);;;    | 
    (      人      )
765日本@名無史さん:2008/05/17(土) 09:29:37
俺たちの違反なんて立ちじょん程度
人を騙してなんかいないから罪なんてたかが知れてる
だけど運営とか他人に成り済ましたら明らかに詐欺
いくら2ちゃんでも御縄だってあるんだよ
解ってるのかな?w
766日本@名無史さん:2008/05/18(日) 16:25:05
削除人の方よく読んで下さい

削除ガイドライン(抜粋)
 重複スレッド
  同じ事象・人物に関するスレッドは、個々に多少の違いがあっても原則的に削除対象になります。
 削除人は恣意的な削除をしてはいけません。
  削除ガイドラインを熟読し、ルールに則った公平な削除作業をしましょう。
  「好き・嫌い」「ウザイ」「不愉快」などといった自分だけの主観を元に行動してはいけません。
  嗜好や価値観も捨ててください。

ここよりも邪馬台国系や薩長系のように、【同じ事象・多少の違い】のスレが圧倒数重複しています。
それでも猶主観的に、この関連スレに対して重複誘導を続けますか。?
差別的な重複誘導は明らかな荒らしです。
767日本@名無史さん:2008/05/22(木) 21:44:53
常駐して荒らしじゃ世話無いw
768日本@名無史さん:2008/05/24(土) 22:37:04
このスレも重複で削除依頼が出てるよ
769日本@名無史さん:2008/05/25(日) 10:28:16
この板の場合削除依頼出してる側が荒らし常習犯です
よく見極めて削除して下さい削除人さん
770日本@名無史さん
ここは学問・文系の日本史板です
学究の為に使いましょう
茶番の自作自演スレはほっといて下さい