1 :
日本@名無史さん:
母親は芳春院(まつ、前田利家室)で決まりか。
2 :
日本@名無史さん:2007/08/19(日) 16:00:25
平師盛だろ。
4 :
1:2007/08/19(日) 16:20:39
5 :
日本@名無史さん:2007/08/19(日) 18:49:14
その人物が何歳かぐらいかけよ。
6 :
日本@名無史さん:2007/08/19(日) 20:16:38
前田まつは12歳で前田利家に嫁ぎ、13歳で長女の幸姫を産んでいる。
最終的に2男6女の8人の子を産んだ。有名なのは秀吉の養女となり、
宇喜多秀家の正室となった四女の豪姫。
平師盛は清盛の長男重盛の息子だが、13歳で戦死している。法然の
高弟である源智が師盛の息子といわれている。
7 :
日本@名無史さん:2007/08/20(月) 05:28:56
架空の人物だけど明石中宮
8 :
日本@名無史さん:2007/08/20(月) 05:59:45
真木蔵人
9 :
日本@名無史さん:2007/08/20(月) 08:51:43
>>6 師盛は1171年、源智は1183年生まれということなので、
源智は師盛の満12歳の時の子供ということなのかね。
本当だとしたら凄いな。
高倉院も15歳で最初の皇女が誕生しているので、男については精通さえあれば
子供つくれるでしょ。女性の場合は出産があるので生理があっても安全に出産
するのは難しいのじゃないかな。
まつなんて初潮がきてすぐ嫁ぎ、10歳上の利家の性欲の相手を毎晩・・・、
てのが容易に想像できるな。現代だってまだ子供の体格なのに、次々に
出産、本当に健康だったんだなあ。
武田信玄の最初の正室も、たしか13歳くらいで出産していなかったっけ?
お産で死んじゃったけど。
15 :
日本@名無史さん:2007/08/21(火) 11:59:13
>>13 高倉天皇の皇女の母は乳母(?)だったらしい
その後皇女の母は不倫で流産して死んだらしい
氏家幹人『江戸の少年』に
8歳で子供を産んだ女の子の話が載ってなかったっけ。
さすがに江戸時代でもワイドショー物事件だったようだが。
>>15 高倉天皇の第一皇女は、平徳子の入内が決まったとき、
乳母が高倉天皇に性の手ほどきをして妊娠してしまったものらしいね。
乳母は高倉天皇の正式な妃ではなかったから、不倫とはいえないけれど、
のちに高倉天皇以外の男性の子供を流産して死んでいるね。
18 :
日本@名無史さん:2007/08/21(火) 20:50:10
平安時代の摂政関白、藤原忠平は880年生まれだが、
忠平の長男実頼は900年の生まれなので、
忠平が満12歳のときの子供ということになる。
ちなみに、実頼の長男敦敏もまた912年の生まれで、
こちらも父実頼が満12歳のときの子供。
19 :
日本@名無史さん:2007/08/21(火) 21:00:56
江戸幕府の将軍の正室は京の姫君がほとんどだったが、なぜか男子を産んでいない
ことになっている。何とも不自然。男子が生まれても密かに殺されたとしか思えない。
>>15 >>17 その乳母っていくつ?
遊び相手くらいのちょい年上?
年増?
乳母が性の手ほどき、っていつごろから始まった週刊なんだ?
>>19 をいをい、それは本気で書いたのか?
一般向けの本でも分かることです。
もうちょっと勉強して下さい。
22 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 21:48:12
>>20 最初が乳母というのは皇族とか身分の高い人では割と普通だと思う。
例えば足利義政と今参局とか。
24 :
日本@名無史さん:2007/08/25(土) 18:57:55
>>20 高倉天皇の乳母で、第一皇女功子内親王を産んだ
帥局(少将藤原公重女)の年齢は不詳。
乳母ってぐらいだから、高倉天皇誕生のときから世話してたんじゃ?
普通に親子ぐらい離れてたと思うけれど。
高倉天皇の中宮平徳子も高倉天皇より6歳年上だったし。
25 :
日本@名無史さん:2007/08/25(土) 19:34:46
>>1 芳春院は1547年生まれで1459年に長女幸を産んでいるから、
満12歳で出産。
これに匹敵する人はいるね。
後醍醐天皇の中宮、西園寺禧子。
禧子は太政大臣西園寺実兼の末娘だったが、正和2年(1314年)秋、邸から俄かに失踪。
父実兼がいくら探しても見つからなかったが、
翌正和3年正月になり、東宮尊治親王(のちの後醍醐天皇)に盗み出されていたことが発覚。
持明院統よりの実兼を、味方につけるためだったらしい。
しかも、発見されたとき、禧子はすでに妊娠させられており、同年6月、懽子内親王を出産。
禧子は1303年生まれ。満11歳で盗み出され、満12歳で出産だから、芳春院と年齢で出産。
さすがは後醍醐、テラオソロシス・・・
>>24 >乳母ってぐらいだから、高倉天皇誕生のときから世話してたんじゃ?
普通に親子ぐらい離れてたと思うけれど。
おいおい、この時期の貴族(宮廷)の「乳母」は、現在の我々がイメージ
する乳母と違うよ!もちろん赤ん坊におっぱいをあげる役割の文字通りの
乳母もいるけど、幼児以上に育ってからの「乳母」は、「遊び相手」に
近い侍女、という存在だから、少し年上なくらいだとおもうよ。
これは史学の常識だよ。
そんとき後醍醐はいくつだったんだぁ?
調べりゃわかるけどめんどいので聞いてみる。(許して)
エロい話するわけじゃないけど、初潮が来ないと懐妊しないよね?!
いまより栄養悪い時代なのに今の女の子の平均より初潮が早い姫って
……単なる個人差だけのことなのかな?
29 :
日本@名無史さん:2007/08/25(土) 22:45:40
>>27 この時代の感覚なら、少し年上=親子くらいの年の差でもおかしくない。
14,5歳くらいの年の差の親子は普通な時代。
30 :
日本@名無史さん:2007/08/25(土) 23:24:55
・冷泉天皇(950年生)の皇女宗子内親王(964年生)
・以仁王(1151年生)の王子北陸宮(1165年生)
が皇室関係では最速か?
31 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 00:47:48
高倉天皇は子供たくさん作ってるから健康かと思いきや二十歳で崩御したね。
死因は何ですか?
32 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 06:54:13
>>28 後醍醐天皇は中宮西園寺禧子よりも15歳年上。
懽子内親王誕生時、父親の後醍醐天皇は満27歳。
後醍醐天皇には、このときでに、護良親王や尊良親王をはじめ、
多くの子がいて、懽子内親王がはじめての子供ではない。
満12歳で出産した西園寺禧子は、当時としても早い例だと思うよ。
33 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 07:24:10
>>32 皇室関係男性の最速は、「増鏡」にも「13ぐらいから子がおできになって・・・」
という記述のある、亀山天皇じゃないかな?
亀山天皇(1249年生まれ)の第一皇女睍子内親王(1262年生まれ)。
亀山天皇は、文応元年(1260年)11月26日、満11歳で
いとこに当たる4歳年上の洞院佶子と結婚。
弘長2年(1262年)11月8日、佶子との間に第一皇女睍子内親王を儲け、
亀山天皇は満13歳で父親になっている。
34 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 07:37:14
佶子は亀山のいとこではなくて亀山の母大宮院のいとこ。
35 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 11:11:31
愛知のキチガイ脳糞古川は神だと思っている。
半年ほど前の正月休みに両親と愛知のキチガイ脳糞古川の実家(もんじゃ焼き屋)に 食べに行った時の話。
両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなり脳糞古川が玄関から入ってきた。
もんじゃ焼き屋に似合わない勝負服ないでたちで。
脳糞古川が「私いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、
店内にいた高校生集団が「脳糞古川さん!」「脳糞古川さんかわいいー!」などと騒ぎ出し、
脳糞古川が戻ってきてくれて即席サイン会になった。
店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い サインをしてくれた。
高校生達が脳糞古川の母校愛知のキチガイ高校トラウマ部だとわかった脳糞古川は いい笑顔で会話を交わしていた。
そして脳糞古川は「またね〜」と二階に上がっていき、店内は静かになった。
私と両親は脳糞古川の気さくさとかわいさに興奮しつつ食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、
店員さんが階段の上を指差しながら 「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。
あれには本当にびっくりした
36 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 17:28:03
>>33 亀山天皇スゲー
恒明親王が生まれたのが1303年だから41歳差の兄弟か…
でも霊元天皇も15歳で長子、67歳で末子が生まれたから52歳差の兄弟スゴス
蓮如(1415生)は長男順如(1442年生)から末子実従(1498年生)は56歳差
しかし絶倫坊主だなW
>>35 ????????????
誰のこと?
釣られてる?もしかして。???
39 :
日本@名無史さん:2007/08/27(月) 01:35:12
徳川家康も母親との年齢差はかなり小さいね。
具体的数字は必須
41 :
日本@名無史さん:2007/08/27(月) 09:41:12
松平清康は1511年生まれ。広忠は1526年生まれ。家康は1543年生まれ。
祖父と孫の年齢差が32才は、当時としてもかなり短い方。
42 :
日本@名無史さん:2007/08/28(火) 01:18:50
於大は享禄2年(1529年)生まれであったと記憶する。
43 :
日本@名無史さん:2007/08/28(火) 01:24:27
織田信長(天文3/1534生)の父である織田信秀(永正7/1510生)は、
徳川家康(天文11/1542生)の祖父である松平清康(永正8/1511生)よりも
年上だったりする。
44 :
日本@名無史さん:2007/08/28(火) 06:14:08
於大は、没年からの逆算で1528年生まれ。
松平広忠の生年については諸説がある。
松平清康は、1935年、隣国の織田を攻めた際、
家臣に裏切られて殺され、孫家康誕生以前に没。
45 :
日本@名無史さん:2007/08/28(火) 10:43:50
松平長親・・・1471−1544
46 :
日本@名無史さん:2007/08/28(火) 19:48:45
まつは実際は11歳11ヶ月で出産したらしい(まつは7月生まれで幸は6月生まれ)
ただ当時は太陰暦なので太陽暦に換算するとわからない
当時満11歳で妊娠するのは現代だと8、9歳で妊娠する感覚なのだろうか?
とてもその幼さで健康な子供が出産できたとは思えない。幸とか、初期の
子供は、発育不全や未熟児など何らかの障害があったのでは?
早産や虚弱で夭折した子供もいただろうな。
48 :
日本@名無史さん:2007/08/29(水) 07:38:25
幸と利長(幸の3つ下)、簫(利長と年子)は普通に丈夫だったはず。それより麻阿(簫の8歳下)、豪(麻阿の3つ下)、与免(豪の3つ下)のほうが病弱だった。
簫と麻阿の間には兄弟がいないことになっているからここに夭折した喜意、斎、女児(久万?)が入るかもしれない(まつは満33歳で末子千世を産んでいるからその後かもしれないが)。
49 :
日本@名無史さん:2007/08/29(水) 09:12:17
このスレ読んでて、江戸時代以前の人達が気持ちいいセックスを
出来ていたのか心配になってしまったwww
クリトリスをグリグリすると気持ちいいとか理解していたのかな・・・
赤母衣衆も長くビンボだったのに子供はポンポンできていく・・・
利家が15歳あたりから何年か、主と関係があったのは有名な話だけど、
なんかの本で、赤母衣時代も関係していたのではというのを聞いて
かっこいいんだけど安いお給料のお仕事で満足してたのか?と想像したら
子だくさんなのに自分のしたいこと好き勝手してるお父さんって感じだ。
利家。
仲良しの秀吉んとこに子供がいないからってことで養女にだしてるけど
生活苦も半分あったのか。
・・・・まつはよくがんばってたなぁ。大喧嘩もいっぱいしたんだろうな。
51 :
日本@名無史さん:2007/08/29(水) 19:00:52
まつは利家の従兄妹で、実母の再婚後、利家の両親の養女になり、
利家とひとつ屋根の下で暮らしていた。
まつの出産はさすがに早すぎるだろう。
幸が生まれる前年に祝言を挙げたことになっているが、
利家が同居していたまつに手を出して懐妊させてしまったので、
あわてて妻にしたのかもしれない。
利家は前田家の四男坊で、まつと結婚したときには家督を継ぐ予定ではなかった。
>>51 なるほどねー、同じ家にいた利家がまつに手をだして、あわてて結婚させた、
っていうのは、想像上は、可能性あるよね。
あの時代の豪族の次男坊以下が、どのくらいの歳でどんな結婚をしていたか
わからないけど(養子に行かなかったいわゆる部屋住みが)、
帰るべき家のない恵まれない環境のまつを娘として長く抱えるのもやっかいで、
前田家からすると早く嫁にだしてしまおう(「嫁」ならば、どの家でも「家」と
いう固体に必要不可欠な存在だから)、と考え、部屋住みの利家の嫁にでも
させようという安易な考えから、早婚に至ったのかと思っていたけど。
ところで、まつの実母って、その後どうなったの?まつの出世後、異父兄弟が
いたと思われるが、前田家と何らかの近しい関係になったのかな?
53 :
日本@名無史さん:2007/08/30(木) 03:52:51
バイセクでロリかぁ。利家
ねねに告って振られたのはまつと結婚する前かな?
まつ実母嫁ぎ先はわからなかったが
まつのもともとの実家篠原家は
利家、利長や利常のあたりも、
前茸の家臣に篠原ナントカってのがけっこうでてくるから
活躍したのではないかな。
利家弟、佐脇良之の遺児の一人娘も利家が引き取ったあと篠原に嫁いでいたような。
54 :
日本@名無史さん:2007/08/30(木) 06:35:51
当時でも栄養状態の良い良家の子供は、現代の子供とそれほど体格は
違わなかったという説もあるよ。
>>54 それにしたって11歳の子がセックル妊娠ってのは・・・恐ろしいなw
小学校5年生が妊娠したって事だしw
56 :
日本@名無史さん:2007/08/30(木) 10:25:01
>>52 まつの実母竹野氏は、まつの実父篠原一計の死後、
尾張守護斯波氏の家臣、高畠直吉と再婚。
まつは、母の妹が嫁ついでいた前田家の養女となるが、
義父高畠直吉の庇護も受けて、高畠氏と呼ばれることもあったようだ。
57 :
日本@名無史さん:2007/08/30(木) 11:25:01
一緒におふろにはいるのが嫌になる妹の平均年齢は10歳。まつが
10歳8か月くらいでセックスし11歳2か月で受精し11歳11か月で
出産してもおかしくない。小学5年生でつきあってセックスしてたのでは?
中山ミキも12歳で結婚。僕のおじいちゃんのひいばあさんは13歳で結婚した。
58 :
打通君:2007/08/30(木) 11:33:01
昔は早婚だった。
♪姉やは十五で嫁に行き お里の便りも絶え果てた
この十五は数えだから、満年齢なら十三〜四歳。
59 :
日本@名無史さん:2007/08/30(木) 12:03:44
男も数え十五で元服、結婚。
女もそれぐらい。
まつはやっぱり早婚。
身内同士の結婚だったからだろうが。
もう少し後の大名同士の結婚だと、
セックスを伴わない幼児の結婚もあるがな。
豊臣秀頼(11歳)−千姫(7歳)
前田利常(7歳)−子々姫(3歳)
こちらはさすがに幼児のうちに親になるわけではない。
逆に20歳近くまで妻を持たなかった利家は、当時としては相当晩婚。
利家は10代の頃、主君信長と男色に耽っていたそうだから、
妻を娶ることは禁じられていたのだろうか。
(あるいは、利家も、美男の信長の相手をすることがまんざらではなかったのか?)
さすがに20超えると美少年も髭面のただのおっさん、男色の対象とはされなかったのか
なんか男色の相手に対する適齢期がどうのみたいのなかったっけ?
11歳は最高だ。12歳はもっといい。
13歳はさらにいい。14歳は特にいい。
でも一番いいのは15歳♪みたいなの。
>>60 成人した大人な男を、「掘ってみてぇ!ハァハァ」するようであれば、
オメーは変態です!!!
みたいな事がなんかの本に書かれてなかったっけ?
フツーに考えればオキニの茶坊主切っておんだされて(20歳ころ?)
2年後許してもらってからはセクシャルな関係はなかったであろう。
六尺の美男子だったそうだから母衣衆で駆け回れば戦場ではそうとう目立ったのでは。
うちの又左カッコイイだろ、ウリウリ〜。
で30近くなってもつれまわしてたんだろう。
でも第六天竿王のことだから
トッシーがいい年こいてヤらされれてたとしても全然違和感ないw
まつの早婚・出産が、昔であればそれ程珍しいことではない、というご意見
がいくつか挙げられていますが、ごめん、史実上の確証はなく単に私の感覚、
にすぎないのだが・・・・、
11歳で妊娠するのと、13歳や15歳で結婚するのとは、
まったく程度の次元が違うと思う。
13歳以上であれば、一般的に見て11歳より比較的、初潮がきている子が
ぐんと増加するだろうし、現代でも中学生、中等教育を施されるべき年代だ。
11歳と13歳では、いろんな意味での成長度、成熟度が全然違うと思う。
初潮がきても、胸なんかはまだ殆ど膨らんでいないのが女の体だ。今の少女達
も、おそらく初潮の年齢と、ブラをつけ始めた年齢は離れているだろう。女性
の体は、初潮がきてから徐々に女らしい体つきに変わっていくもの。
まつは利家とセックスをしていても、おっぱいなど膨らんであらず、幼女の体
だったと思われる。
直感、感覚だけで歴史を語って恐縮だが、わたし自身の女の実感として
11歳で妊娠すべき環境におかれたまつの環境は、異常だという感を禁じえ
ない。
64 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 01:31:42
現代の話だけど、婦女暴行罪が適用されるのも、被害者が13歳以上だよな。
まあいろいろな意味で13歳が妥当な線引きかも知れないな。
思春期って一番身体がかわってくる年だからねぇ。
1年違うだけでだいぶエロっぽい身体にもなってくるし。
まぁ個人差あるし、まつが11歳でも既にエロい身体になっていたという
可能性もあるけどね。
自分が小3の時にクラスにいた女の子でひとり、すでに大人っぽい
身体の子はいたから(胸があって、尻も大きかった)
66 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 11:09:38
有名な話だけど、東北、特に青森あたりは14歳で結構、妊娠もそれほど
珍しくなかった。しかし関西はもっと遅かった。
歴史人口学の本によく書いてある。
やることがないからヤルしかなかったんだろうな。
68 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 11:42:31
おかげで産で死ぬ女性も多かったけれどもね。
武田信玄の最初の正室(十代半ばで出産か)や、
明治天皇の側室橋本夏子(満15歳で出産)が、
子供を死産(もしくは子供は生まれてすぐ死亡)して自分も死んでいる。
69 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 22:15:15
しかし人生50年だから、15歳で産んでも子供が35歳ころで親は死ぬ
ことになる。やっぱり15歳くらいで生む必要があったんだろう。
70 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 22:15:36
10代前半はいろんな意味で負担が大きいよ。
71 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 22:17:08
もちろん一人しか産まないのではなく、4,5人は産むのだから、
15歳くらいで産み始めないと最後の子供の出産が25歳くらい
までに終わらない。25歳で最後の子を産んだとしたら、50歳
で親が死ぬとして末子はまだ25歳だな。
72 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 23:13:12
25までに終えなきゃならない理由はない。
当時としても、末子誕生時なら30まわっているのは、そんなに珍しいことじゃない。
73 :
日本@名無史さん:2007/09/01(土) 01:21:45
>>72 恐らく関西は比較的寿命が長く(豊かだから)、東北は短かったんじゃない
だろうか。それが初婚年齢や妊娠年齢の差になったのでは。
東北と関西では、歴史上、平均寿命に差があった、とういのは初耳だ。
確かにありえそうだ話ではあるが、ソースを挙げて欲しい。
飢饉が多いので、そういう非常事態で死んだ人も統計上含まれるのだろう?
中間地点の関東は?
75 :
日本@名無史さん:2007/09/01(土) 04:25:21
東北の場合は、あのやたらと塩分過剰摂取の食生活が寿命を縮めるんじゃない?
76 :
日本@名無史さん:2007/09/01(土) 09:14:06
>>71 藤原道長室源倫子;初産24歳(藤原彰子)ー最期の子出産時44歳(藤原嬉子)
醍醐天皇中宮藤原穏子;初産19歳(保明親王)−最期の子出産時42歳(村上天皇)
藤原師輔室康子内親王;初産36歳(深覚)−最期の子出産時38歳(公季)
後深草天皇中宮西園寺公子;初産30歳(貴子内親王)−最期の子出産時39歳(遊義門院)
後陽成天皇中宮近衛前子;初産23歳(皇女)−最期の子出産時40歳(皇女)
後水尾天皇側室壬生院園光子;初産33歳(後光明天皇)−最期の子出産時40歳(桂宮)
光格天皇中宮欣子内親王;初産22歳(温仁親王)−最期の子出産時38歳(悦仁親王)
30超えてから初産例もあるし、40過ぎてからの出産も普通にあった。
例を挙げていけば、早産例も、高齢産例も、どちらもあったということ。
高齢初産例で武士側で確認できるものとしては、足利直義(尊氏弟)室が、
十代の頃に結婚して、42歳で初産したという例がある。
77 :
日本@名無史さん:2007/09/01(土) 10:03:38
加藤シズエは十代で最初の結婚をして二十歳前後の頃最初の夫の長男を産み47歳で加藤タキの父親(当時五十代)と再婚して48歳で加藤タキを出産した
大正〜昭和なのでスレ違いだが
78 :
日本@名無史さん:2007/09/01(土) 10:12:24
79 :
日本@名無史さん:2007/09/01(土) 13:43:13
最年少の祖父or祖母は誰だろう?
若くして子を作った親に限って、子はすぐ死亡または晩婚してるような・・
>>79 後鳥羽天皇(1180年生)−土御門天皇(1195年生)−尊守法親王(1210年生)
後鳥羽上皇は満30歳でじいさんに。
81 :
日本@名無史さん:2007/09/02(日) 01:40:16
>>76 秀吉の姉ちゃんは初産(秀次)が満34、最後の出産(秀保)が満45だったよね。
>>79 芳春院が12に産んだ幸姫は子産んでないのかね。(年子の弟利長は子がおらんし)
82 :
日本@名無史さん:2007/09/02(日) 05:41:14
幸は一男二女を産んでいる。ただし子の生年その他は分からず。
83 :
日本@名無史さん:2007/09/02(日) 17:30:16
>>82 芳春院の長女幸と尾張前田家の前田長種が婚姻した時期は分からないが、
尾張・長久手の合戦後、徳川家に尾張前田家を滅ぼされた前田長種が
以降、加賀の前田利家に仕えるようになり、
これ以降に利家とまつの長女幸と結婚したと仮定するならば、
結婚の時期はどんなに早くても尾張・長久手合戦の1584年以降。
尾張・長久手合戦のとき、すでに幸は満25歳、その母親のまつは37歳になっており、
幸が子供を生んだ時期は、さらに、それ以降ということになる。
尾張・長久手合戦のときに尾張前田家が独自の判断をしているところを見ると、
このとき長種と幸の婚姻はなっていなかったとみるべきで、幸の結婚は20代後半以降、
幸は、母まつのような早婚、若年出産ではなかったと見られる。
一番は平師盛だろうが、織田勝長もなかなか。
85 :
日本@名無史さん:2007/09/03(月) 22:16:19
一番妊娠に適している年齢は15〜18歳と言われているからねえ。
18歳を超えると人間の最盛期が終わり老化が始めるとされている。
一番色気があるのもこの年頃。この年齢を超えると化粧とかの力が
必要となる。日本に限らず欧州でも昔は10代前半の結婚や出産は
珍しくなかった。
>>85 一番妊娠に適している年齢は15〜18歳と言われているからねえ。
ソースは?現代のことか?
お前男だろ、内容薄っぺら過ぎ。
しかも、10代前半の結婚や出産が珍しくなかった、なんて書いてる
けど、ここではみんなそんなこととっくにわかってるよ。
まつの、11歳で妊娠、が他の13歳や15歳の結婚・出産とは
ちょっと程度のレベルが違うなあ、という話題に変わってるんだけど。
よく読めよ。
87 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 00:29:21
>>86 いちいちちょっかい出すことないじゃん。
スルーすれば良いだけなのに。
君、みんなから空気読めないと言われない?
88 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 00:47:54
>>86 俺も聞いたことがあるよ。
>>一番妊娠に適している年齢は15〜18歳と
言われているからねえ。
実際、女子高生がトイレや自室で赤ん坊を産み落として、
そのまま何事もなかったように、生活していたと言う
ニュースが年に数件あるじゃない。この頃の年齢が一番
出産に適しているんじゃない?
>>88 ソースは?どこで聞いたの?
なにをもって出産に適しているといっているの?
便器に産み落とされるしかない赤ん坊とだれかに受け止められる赤ん坊とどっちが出産に適しているの?
女子高生の時代を過ぎた女が便器で気軽に子供生むことが可能かどうかはともかくやらないと思うけど。
年に数件あるニュースで?
20代・30代で産婆呼んで自宅であっけなく生んだり、出産用プール設置してしなやかに生み出したらニュースなんの?
90 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 01:34:13
>>89 反論するなら、そうではないと言うソースを自分で提示して反論
するのが筋だと思うが?
そんなに「ソース」「ソース」と言うなら。
91 :
88:2007/09/04(火) 01:49:16
>>89 なんでいちいち、お前に偉そうに言われお前に説明しなくては
ならないわけ?
俺が思っているだけであって、定説を述べたわけではないのに?
実際に女子高生が赤ん坊を「1人」で産み落としているニュースは
ある。(それぐらい自分で調べろ)
大抵は親にも黙っていて、何事もなかったように普通に
生活している→出産に伴う母体への負担が少ない→この年齢が
出産に適している。よってこの年齢が出産に適していると
思っただけだ。
医学の世界では35(だったっけ?)過ぎると高齢出産って呼ぶね。
15-18が最も適しているというのは私は聞いたことがない。
医学生理学上の適齢期としてどこかで示されているのか情報源を聞きたい。
それとも医学とは別の意味なのか?
個人的には、赤ん坊を受け止める人を準備できて成人まで生かす状況を作れる年齢が適齢だと思っているがな。
医学とは別の話。
>俺も聞いたことがあるよ。
っていうからどこで聞いたのか知りたかったのに・・・こんな言い方されるなんて。。。
そのうえ
>俺が思っているだけであって、定説を述べたわけではないのに?
思ってるだけだなんて。。。
うそまで吐かれた・・・
94 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 02:02:59
とりあえず88はガラスの十代決定
>>88 自分が思ってるだけ、というレベルならば、ちゃんとそう断ってから
書けよ。だから突っ込まれるんだよ。で、突っ込まれて逆ギレするのは
筋違いだと思うが。
個人的には、
>>89の指摘は正論だと思う。
>>87 お前のほうこそ、そう思うなら無視して読み流せばいいんじゃないか?
言ってる事とやってる事が矛盾している。多分周りの人から
思ったことなんでも口にするタイプ、って思われてると思うが。
96 :
88:2007/09/04(火) 02:14:22
>>この頃の年齢が一番 出産に適しているんじゃない?
これをどうやって定説と読めるんだろう?
>>93は。
「適している。」と断言しているのではなく「適しているん
じゃない?」としているのに。
97 :
88:2007/09/04(火) 02:15:35
自作自演か?
89=95
88よ、
もうどうでもいいからお前は早く退場しろ、ここは日本史版なんだから。
根拠(史実としてのソース)のないことや、
スレと関係ない単なるいちゃもんの繰り返しは
板違いだから。
ここまで来ると明らかにうざいぞ、早く黙って退場しろ、もっと
攻撃されるよ。
99 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 02:20:25
>>95 >>88の文はどう読んだって、感想文だろ。
88が
>>96で言うように疑問符で締めくくっているし。
>>89が生真面目と言うか文脈を解釈できなかっただけだろ。
100 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 02:23:18
確かに感想文レベルしか書けそうにないくらいレベル低い奴みたいだね。
88のその後のレスみてると。
日本史版だから、ある程度生真面目な反応のほうがいいと思うんだけど。
102 :
88:2007/09/04(火) 02:27:12
>>98 やっぱ自作自演か。
板違いなら、なんで質問してくるの?君も同罪だろ?
俺も板違いで悪いことをしたが君も俺を煽ったんだから
同罪だ。おれはもう寝る。
他のスレの方々、お騒がせてすいませんでした。ちょっと
感情的になってしまいました。
自作自演?
なんのこっちゃ?
また根拠のないことで自己満足したふりして片付けようとしてる。
明らかに日本史の知識レベル低い。
104 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 02:35:54
>>103 お前もいい加減にせい。板違いだし、
「煽りにはsageでもレスしないこと。無視できない
貴方も荒らしです。」に十分に該当するぞ。
105 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 06:41:27
人口から読む日本の歴史 鬼頭宏 によると、
江戸時代の女性の年齢別出産数は、全国(8地域)の平均で
単位 1000人・年あたりの出産数
16-20歳 232
21-25歳 264
26-30歳 226
31-35歳 195
となっていて、他の年代とまったく遜色ない出産数となっている。
つまり、肉体的には16-20歳は出産に最善かどうかはともかく、
まったく問題がないといえる。
陸奥では非常に早婚で、最も早婚の下守屋村では初婚年齢が
平均14.3歳だったという。
農家では、例え十代で第一子を産んだとしても、
避妊法もなく、代わりの女もいないため、
(一部の特権階級をのぞけば、昔から農村は一夫一妻だからね)
生理がある限り、昔の女性は四十代でも子供を産んでいた。
もっとも、戦前までは女は男より平均寿命が短かった。
いうまでもなく、出産で死ぬ女性が多かったためで、
そのために若い年代に出産が偏っていたということはあると思う。
(全般的に長生きできなかった)
平安時代だと、村上天皇の母や、藤原道長の妻は結構高齢で出産してた
はず。個人差と言ってしまえばそれまでかもしれないが、時代や環境に
よっても違いがあると思う。
よくバリバリの不摂生で長生き出来ないとか言われてる平安貴族なんかより、
江戸時代の武家のほうがずっと虚弱な奴が多いし、夭折する子が多い印象が
ある。
江戸時代の武家は「30過ぎた女は女じゃない」という風習になったから
最もこれ大奥とか大名クラスの武家だけなんで
中下級の旗本とか御家人とか大名の家臣(家老未満クラス)あたりになると話が変わってきそうだが…
おそらく大奥辺りから「乳への吸いつきをよくするために乳房に白粉を塗る」(※江戸時代の白粉は鉛入り)
という悪習も全大名にまたたくまに伝播したんだろうな。。。
かくて上級武家は夭折や体の弱い子ばかりに。。。
ってか、多分女の人なら理解出来ると思うけど・・・。
10代のうちってまだ身体が作られてない場合が多いと思う。
初潮がきても、胸がある程度大きくなっても
中学生の身体はまだまだ子供の体つき。
つまり出産に適している身体ではないと思う。
だから、このスレで、10代前半で女がセックスするのは当然!
とか言っているのは変なロリ男だけだから・・・
江戸時代の江戸城大奥では、30を過ぎると寝所を辞す風習があったようだけれども、
34歳で男子を産んだ甲州藩主徳川家宣(のち6代将軍)室近衛熙子、
同じく34歳で徳川慶喜を生んだ水戸藩主徳川斉昭室吉子女王の例もあり、
大名家で取り入れられていたかどうかはまちまち。
公家や庶民などにはこの風習はなかった。
111 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 23:07:03
>>110 >陸奥では非常に早婚で、最も早婚の下守屋村では初婚年齢が
>平均14.3歳だったという。
112 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 23:21:44
>>110 で、30過ぎて出産した例があるから何なの?
113 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 23:23:12
>>112 110は、大名家では30過ぎたら女は寝所に侍ることができなかったという
108へのレスだろ。お前は何?
114 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 00:01:52
昭和30年頃までは女性の最終学歴は中卒が過半だったこともあって
16,7歳での結婚、出産はそれほど珍しいことではなかったと記憶する。
どこかのスレでもあったかもしれないが、例えば江戸時代の大名家のお世継ぎ
をみると、
江戸初期は結構、正室が嫡子を産んでるけど、中期以降は正室には子供なし
が多い。正室が長男でなくとも、男子を産んでいる例を確認するほうが珍し
い。参勤交代の確立、であれば側室も正室も条件同じだし、化粧方法の変化に
よる白粉の悪影響で虚弱体質化、安泰な世になって正室の形骸化、娯楽の多様化
など理由は様々考えられるが、一番の背景は何だろう。
116 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 02:09:33
>>108>>110 江戸城大奥でも、例えば家治生母の梅溪幸子は家治誕生時に30超えてなかったっけ?
梅渓幸子は、公家の姫なのに、子供が将軍になったね。朝廷が力を持つのを
警戒して、公家出身の側室には子供が生まれないように・・・なんてのは、
もう徳川政権が磐石になったこの時期は関係なかったのかな?
参院議員の池坊保子氏が梅渓家出身だよね。あと鍋島直大の最初の正室も。
池坊保子氏の、家元を継いだ長女は美人ではないが、次女は美人だと思う。
>>116 やはり虚弱体質化だと思う。
あとは大奥にみられるような不摂生とかも大きいのでは?
将軍家や大名の子でも、何人かいても皆夭折し
た結果ぜんぜん血筋は関係ないとこから養子を貰ってたりする。そして、
そういうケースが増えてくるのが江戸中期くらいからだろうな。
119 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 03:36:06
>警戒して、公家出身の側室には子供が生まれないように・・・なんてのは、
>もう徳川政権が磐石になったこの時期は関係なかったのかな?
そんな話ホントにあったのか?
朝廷・公家が将軍家の嫡子に対して影響力を持つ可能性を警戒していたのなら、
例えば江戸初期でも、三条西家とのコネが強い春日局を次期将軍の乳母には
しないだろう。
乳母は次期将軍の人格・思想形成にもかなりの影響力を持つからな。
それに江戸城で大奥を構成する女官なんかも、最上位層は大半が公家出身者って
話だし。
120 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 05:32:07
・主人が正室に好みの妻を選べなくなり交わること自体がなかった
・取り巻きの陰謀で出生しても暗殺されることが多くなった
とか
121 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 07:08:38
池坊保子の母は仙石家出身でその母は久邇宮家出身。
122 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 08:08:29
>>120 正室を選べないのは、いつの時代も同じだと思うよ。
戦前までは日本人のほとんどが見合い結婚だったし、それはあまり関係ない。
暗殺はテレビの見すぎじゃないかな?
時期将軍を育てることが目的の大奥で、子供を次から次へと毒殺して、
子が誰一人育たないでは、存在価値すら疑われるから。
大奥が成熟した3代将軍以降、正室はもちろん、
側室ですら、子供の数は0〜産んでも2人程度。
将軍が大奥の女性を次々指名できる、あるいは、
大奥の御年寄などが特定の女性に将軍の寵愛が偏らないように、
指名する女性を分散していたなどの理由で、
将軍が同じ女性と何度も寝所を共にすることがなかったからじゃないかな?
123 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 08:27:28
>戦前までは日本人のほとんどが見合い結婚
戦前でも庶民にはあまり関係のない話だな。
むしろ主人が強くなって正室と寝所をともにしなくても正室が文句
をいいにくくなったのかな?
124 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 08:59:09
大奥という女性官僚組織が、正室の力を排除していたという事実はあるだろうね。
実質的に夫婦で一家を運営していた戦国時代までとは異なり、
将軍秀忠正室お江与と敵対下とも伝えられる春日局が作り上げた大奥制度は、
奥が女中筆頭御年寄らによって運営され、将軍正室は以前に比べ力のないものになっていたからね。
しかし、それと公家出身の正室や側室に子が少ないのとはあまり関係がないと思う。
虚弱体質の将軍が続いたための偶然かもしれないし。
125 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 11:12:58
明治以降は当然ながら正室に子供が生まれているね。
30代での出産も普通にあるし。
126 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 12:13:42
明治以降?明治天皇は?
127 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 12:53:55
>126
公家には30過ぎたら寝所を辞す風習がありません。
はじめから。
江戸時代を通じて、40近くまで子供を産んでいた記録がある。
>>123 逆に「子供を産みたくないので、おしとねを辞退します」と言ってのけた正室もいたな
徳川慶勝の正室・丹羽隼子だが。
江戸時代には、死や痛みから逃れるために
高貴な女性が出産をしないというのは普通にあったみたいだな。
天皇の后妃なども、当主と正室の娘として入内しても、
実際には家女房腹で、正室の娘として養育されていた者がかなりいたようだ。
内親王などは、相当の古代から生涯独身を貫いたものだが、
神事とは別に、出産の恐怖から逃れるためだったのかもしれない。
130 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 16:09:15
>>128 誰だったか忘れたけど、
亡くなった元婚約者への貞操を守るために
セックスしないことを条件に嫁いだ姫様もいたらしい。
131 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 16:12:12
>>131 お江与の養女として江戸へ下った孝子には、
婚約者はいなかったはずだが?
当時、家光が男色だったため、
手をつけなかっただけだと思う・・・
133 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 18:13:05
明治天皇の皇后は子供を産まなかったよね。
>>133 親戚に当たる柳原白蓮の話によると
「昭憲皇太后は体が小さかったので、最初から子供を産むことを期待されてなかった」
とのこと。
ということでスレタイから脱線したので誰か話を元に戻してくれw
135 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 19:09:58
じゃあ柳原愛子とも親戚?
柳原白蓮は、柳原愛子の姪。
明治天皇の皇后一条美子と柳原白蓮は血縁関係なし。
>>130 その姫様は、徳川随子(よりこ)。水戸徳川慶篤の娘で、蜂須賀茂韶の後室
として嫁ぐが、亡くなった元婚約者への義理から最初からおしとね御免、
自ら用意した妾と共に輿入れした。当然、隋子姫に子はなかったが、彼女の
系図上の孫に当たる蜂須賀年子著『大名華族』によると、実際は肉体関係が
あった、というようなことが記されている。
隋子の晩年の写真が残っているが、面長で、目鼻の整った現代美人。茂韶が
どっかで見初めて、問題ない妻を離縁してまで迎えた正室だ。
ちなみに、一緒に嫁いだ妾に、茂韶は素直にせっせと子供を産ませている。
何曜日と何曜日かは忘れたが、週の半分づつ、正室がいる本邸と妾宅を一日
ごと交互に過ごしたらしい。
138 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 23:20:00
妾(萩原京という名前)って沢山子供がいたの?
系図みたら茂韶の子供は正韶しかいなかった気がするが・・・
しかも正韶は茂韶の先妻の離縁前に生まれているはず。
あと随子の母有栖川宮幟子はものすごい美人で家慶の養女になるため江戸城に来たとき大奥中が騒然としたらしいが、そのために斉昭に迫られて自殺したらしい。
ちなみに随子の元婚約者は松平定敬で茂韶の先妻は蜂須賀斐(おそらく分家の出身)
139 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 23:34:58
>>128 丹羽さんには自分で産んだ子供はいたの?
慶勝の弟に嫁いだ丹羽さんの妹は30過ぎても自分で跡取りを産んでいたから(ただしその跡取りは子無し)姉の慶勝室はどうなんだろうと気になっていた。
それと慶勝には義恕という息子がいたのに高松松平家から義礼を婿養子に迎えたのが気になる。
しかも高松松平家はもっと相続が複雑で結局家は弟が継いで弟は子無しだからさらに弟の子が継いでいる。
極めつけは義礼の父は離縁した正室と再婚して再婚後は普通に子供を産ませている。
スレチガイゴメンm(__)m
松平信親(1473年生)と息子信忠(1481年生)が一番だろ。
141 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 23:52:08
無理やり捏造系図だから無意味
>>139 隼子は女の子を一人産んだが夭折。
側室との間に産まれた義宜が18歳で早世、
その後男子に恵まれなかったため将来を懸念し、婿養子に義礼を迎えた。
が、晩年になって慶勝は側室との間に次々に男子を儲けるのだった・・・w
そのうちの一人が昭和天皇の側近として有名な徳川義寛の父・義恕。
産まれたときから隼子が側室からさっさと取り上げて自分で育てたので
義恕は隼子を実の母と思って全く疑ってなかったそうなのだが(徳川義宣の回想記より)
しかし見た目の年齢でおかしいとは思わなかったのか?義恕・・・。
ということでスレ違いご容赦。
143 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 00:45:57
144 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 00:47:00
145 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 00:57:27
15歳で産んだ子供が15歳になっても親は30歳。
親が若いのは不思議でもなんでもなかったのでは。
146 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 01:23:49
147 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 01:43:35
松平信忠の生年を1481年とする説は恐らく誤りだろう。
信忠の場合、父長親(長忠)の生年(1473年)や嫡子清康(清忠)の生年(1511年)は、まず動かしようがない。
そう考えると、若年での婚姻・出産が多いとされる戦国期にあって、信忠と嫡子の生年に30年の開きがあるほうが不自然に思える。
そう。正しくは1491年。
149 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 03:39:04
>>147-148 しかしそうすると、どうして1491年なのに1481年なんて誤伝が生まれたのかな。
年代を西暦で表しているわけでもない当時に10年ズレるなんてあり得るんだろうか?
和暦で文明十三年(1481)と延徳三年(1491)を間違えるとも思えないし。
それとも年代を干支で記録していて、文明十三年の「辛丑」と延徳三年の「辛亥」を間違えたとか?
>>138 >あと随子の母有栖川宮幟子はものすごい美人で家慶の養女になるため江戸城
に来たとき大奥中が騒然としたらしいが、そのために斉昭に迫られて自殺した
らしい。
本当なの?来年の大河ドラマの原作、宮尾登美子の「天障院篤姫」のなかに
そういう内容があったけど、本当なのか気になっていた。ご老公は確かに晩年
も側室から子供がたびたび生まれているが、嫡男の、しかも自分の正室と同じ宮家
から降嫁した嫁に手をつけるほど常識なしか?
151 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 11:13:40
幟子女王は1835−1856年、満21歳でなくなっていて、短命だったけれども、
死因が自殺だったというソースが出てこない。
義父の斉昭が女たらしだったために言い寄られて云々
(小説「天璋院篤姫」では、大奥女中が犯されたと語っている)は、
何の史料にあるのかな?
事実だったら、有栖川宮家が苦情を言わないのもおかしいし、
幟子女王の兄弟熾仁親王と婚約中だった和宮を、
孝明天皇がみすみす大奥へやったとも思えないのだが。
152 :
142:2007/09/06(木) 11:31:05
153 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 11:39:42
このスレを総合すると、現時点で、
最年少の父親は藤原忠平 満11〜12歳(何ヶ月か不明)
最年少の母親は芳春院 満11歳11ヶ月
これを上回る人がいれば、どうぞ。
154 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 12:15:16
>>153 訂正
最年少の父親は藤原実頼(900年生;長子敦俊が912年生)満11〜12歳で父親に
最年少の母親は芳春院(1547年生;長女幸1559年生) 満11歳11ヶ月で母親に
芳春院は、さあや11才みたいに豊満だったんだろう
犬千代がロリだったわけではないと信じている
156 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 22:51:36
最近の心身ともに早熟で並の女より体格の良い女子小学生でも妊娠出産となると・・・!?だからまつは相当な早熟だね
同様に男子小学生でもオナヌーはしていても孕ますとなるとやはり実感がわかない。
ま、とりあえず男女ともにチャンプが決定したみたいだから、このスレ
終了でいいんでないか?
159 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 23:53:54
そもそも「ロリ」という発想が極めて近代的だと思う。
近代以前にはそんな発想自体ほとんど存在しなかっただろう。
光源氏は現代の意識におけるロリなのか?
ちなみにロリータを書いたナボコフは帝政ロシアの貴族の血統だ。
>>158 しょ、衝撃。
父親が誰なのか気になる。
体つきも、確かに頬とかあどけないのに、おっぱいも膨らんでるし、脚のライ
ンも丸みを帯びていて、大人の女性の体つき。初潮から2,3年たってる訳
だからか・・・。
>>159 光源氏はロリとは少し違うだろ。
確かに、5歳年上の義母藤壺そっくりの若紫をみそめたとき、
若紫はまだ10歳だったが、さすがに10歳の童女には手をつけなかった。
源氏が若紫に手をつけたのは、若紫が15歳になるのを待ってからだから、
その上では前田利家よりましだろう。
青田買いだね。人攫いだけどw
利家は出来心で手をつけちゃったのかね?
163 :
日本@名無史さん:2007/09/07(金) 15:48:40
>>153 師盛の生年には諸説あるんじゃなかった?
165 :
日本@名無史さん:2007/09/07(金) 18:32:49
現代のロリとは平均結婚年齢が高くなり過ぎて本来特殊な異常性欲として扱われた
少女愛がむしろ多数派が持つコンプレックスとなったと捉えるべきではないか?
166 :
日本@名無史さん:2007/09/07(金) 18:51:47
>>165 それはちょっと違うだろ。
ロリというのは、成人した大人の男性が、大人の女性ではなく、
未熟な少女にしか興味を持たないことを言うわけで。
前田利家は、22歳のときに数え13歳のまつに長女を産ませている。
まつの幼さに加えて、利家との年齢差がロリだと言わせているのであって。
現代の結婚年齢が高かろうと、同年代同士の場合、それはロリとはいわない。
167 :
日本@名無史さん:2007/09/07(金) 19:56:55
男のロリ、女の少年愛、現代ではフツー
168 :
日本@名無史さん:2007/09/10(月) 17:07:17
俺も蓮如みたいに83歳でガキつくれるように健康でいたい。
蓮如さん、秘訣は何ですか?
一人の母ちゃんだったら無理だったな。
170 :
日本@名無史さん:2007/09/10(月) 19:10:12
>>169 第一夫人が7人産んで、第二が10人、第五が7人で他にも数人
第五夫人は50歳年下だ
利家&松の場合は、当時としては在り来たりな政略結婚で夫婦になっただけであって
利家が幼女が好きで好きで、松を無理やり手に入れて孕ました訳ではないぞw
結婚したんだから手出してもいっか位の感覚だったんじゃないの
172 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 18:50:03
としまつって政略結婚じゃないでしょ。
そんな幼女とわざわざ結婚する意味がわからない。
なんかうっかり手を付けて妊娠したので結婚したんじゃない。
信長のお相手も長かったので婚期は遅れるわ
家に幼いのになんかムラっとくる女の子いるわで魔が差したのだと思う。
信長もこの婚姻あさっり認めるのがウケル。
信長だってオキニの小姓あがりには自分の都合のいい結婚してもらいたかっただろうと思う。
・・・ん?だから逆にすんなり認められたのかな?
(信長は前田利久が連れ子の滝川氏の実子慶次に前田家の女子を娶らせ
養子にしたのを、前田と滝川家臣同士の結びが強くなると嫌ってたみたいだし。)
利家ロリ疑惑だけど
おねに「結婚して」って言ってふられたのはまつと結婚する前?
高台院は1548年生まれだから利家の9歳下だよね。
25歳あたりが16歳に告るのと20歳あたりが11歳に告るのじゃ、なんか違うよね。
ロリだったのかな・・・・やはり。。
173 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 23:06:50
秀吉と高台院は、25歳と14歳。
一豊と見性院は、24歳と12歳。
結婚した年?
大河ドラマで秀吉の結婚式のシーン思い出したよ。「友情の証」とかいって
お金のない利家とまつが、ふたりに野で摘んだ花をプレゼントしてたな。
あのシーンの菜々子と法子、えー、14歳と12歳だったのぉー?
故酒井美意子が、「ある華族の昭和史」とかでさ、利家は男前の大男
だった、って何べんも書いてるんだけど、大柄だったのはいいとしても
男前だった、っていうのには抵抗あるんだけどな。
信長の小姓だったといっても、あの晩年の画像の顔みると
とても男前とは思えん。
例えば、明智光秀なんかの画像は、公家かと思うほどの品のいい
端正な顔した美男だと思うが。ガラシャも忠興が離さないくらい
美女だったのが想像できるよ。
まつの凄さは、利長の跡取りとして側室の子をあっさり認めたこと
だな。認めるも何も、まつには権限なかったのだろうが、息子である
当主の決定を尊重し、何も文句を言ってないみたいだもんな。
ねねさんとこを見て、悟っていたものがあったんだろうか。
それにしても11歳のときからあれだけ子供産んでるのに、男子が
2人だけだったことは不運だな。
側室の間には効率よく男児がポンポン出来てるから
まつは女腹だったのかもね。産んだ11人中男が二人だもん。
性別決めるは男の精子、とはよくいうけど、
女性の膣内の状態でXとYの生き残りが違ってくるよね。
自分の場合、酸性度がかなり低くて、第一子から女の子が生まれるように
食事、体位(キモいこといってごめん)がんばったが、三人全部野郎でした。
178 :
日本@名無史さん:2007/09/12(水) 02:31:00
>>174 秀吉・・・天文6年(1537)生まれ
高台院・・・天文17年(1548)生まれ
→婚姻・・・永禄4年(1561)
一豊・・・天文14年(1545)生まれ
見性院・・・弘治3年(1557)生まれ
→婚姻・・・永禄11年(1568)
※ 年齢は数え年
>>175 そうか?光秀なんかどこにでもいるような
冴えない中学生にしか見えんぞ。
ガラシャも少し昔の画家が描いたユリ抱えた
イラストみたいなやつ以外はブスだし。
180 :
日本@名無史さん:2007/09/12(水) 02:51:51
明智光秀なんて、先祖は確かに奉公衆の土岐明智氏に繋がるのかも知れないが、
光秀が生まれたあの段階では、美濃の田舎武士以上のなにものでもないな。
181 :
日本@名無史さん:2007/09/12(水) 05:52:11
>>171 土豪ともいえない地侍レベルの当時の前田家に政略結婚もヘッタクレもないと思うが。
182 :
日本@名無史さん:2007/09/12(水) 08:40:38
秀吉、一家離散の一豊、四男坊の利家、いずれも10代の頃の人生はよくわかっていない。
10代の頃に最初の結婚をするも、嫁に逃げられる&嫁は死亡、という小説もあるくらいだからね。
浪人だろうが百姓だろうが雇った信長によって拾い上げられ、
生活が安定したのが20代後半、それから嫁を娶ったということだろう。
この3人の出自を見る限り、そもそも護るべき家というものが存在しないのだから、
お家大事の政略結婚ということはないだろうな。
>>177 男の子3人、昔的に言えば「奥方さま、お手柄」じゃないですか!
個人的に、男女産み分けの食事(男だけ?)、体位教えて欲しい。
男の精子の染色体の割合って、食事で変わるものなの?
>>183 深刻な状況はワカランでもないが
思 い っ き り 板 違 い
既女板とか別の適当な場所でやってくれ。
184のカキコのせいで、誰もいなくなっちゃったよ。
186 :
日本@名無史さん:2007/09/28(金) 08:05:54
266 :日本@名無史さん:2007/09/24(月) 20:46:12
江戸時代の女性の平均寿命が50歳、現在の平均寿命が85歳とすると、
単純計算で江戸時代と現在では以下のような対応になる。
14歳→23.8歳
16歳→27.2歳
18歳→30.6歳
20歳→34歳
30歳→51歳
40歳→68歳
50歳→85歳
感覚的に合っている気がする。
187 :
日本@名無史さん:2007/09/29(土) 19:23:52
>>186 江戸時代に平均寿命が50もあるわけない。
明治期でも平均寿命という点では、30〜40程度のはず。
「人生50年」といった場合の50歳とは、平均寿命のことではなく、それまで
アクシデントに遭わずに生き続けられた人が第一線を退く年齢ということ。
なお当時は乳児死亡率が高く、また女性は出産が原因の死も少なくない。
そういう意味では、昔は現在よりもアクシデントによって死ぬ可能性が著しく
高いわけで、そうした状況を斟酌すれば、平均寿命を比較することにあまり
意味はない。
いくら平均寿命だといっても、昔の30歳と今の80歳が同じとはとても
思えないわけで。
そういう意味では、平均寿命ではなく
「アクシデントに遭遇せずに順調に生き続けることができた場合に現役を退く年齢」
を比較するという考え方のほうがまだ堅実。
つまり、昔の50歳を今の65歳と見なして、1.3を掛ける法則だな。
188 :
日本@名無史さん:2007/09/29(土) 22:14:01
昔は女の方が平均寿命は短かった
やはり「銃後を守る」「専業主婦」のキーワードで女性が辛い仕事を
しない率が増え、かつ少産化が進んだからこの1世紀あたりは女性が長寿に
なったのではないだろうか。それ以前は仕事もする上に多産で子育てにも忙
しかったからな。出産自体リスクが高かったし。
190 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 12:03:47
「男女平等」は女性の命(寿命)と引き換えに達成されるわけだな。
192 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 22:13:10
>189
昔の女性の平均寿命が短かったのは、
単純に、出産で死ぬ女性が多かったから。
それを言い出したら、長年、男性は戦争で死ぬ確立が高く、
男女ともに若死にの危険性は高かったわけだから。
逆に、出産で死ななかった女性は、
男性よりも長生きをしました。
193 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 22:16:55
>191
スウェーデンでも女性1人の出産人数は2人を割っていたはず。
それに、女性の社会進出が進んでいるとされる東欧諸国でも、
実態は、女性労働者の多くが短時間のパート労働者であることがほとんど。
ただ、パートであっても正社員と同じ時間給がもらえるんですね。
日本の男性は、酒、煙草、肥満などの生活習慣病を直せばもっと長生きできるといわれています。
自分で体に悪いことを嗜好品として続けているのだから、仕方がない。
↑ソース、とまでは言わないが根拠をいくつか示してね。
195 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 22:25:55
>長年、男性は戦争で死ぬ確立が高く
これは無茶苦茶ですな。第一次大戦、第二次大戦を除けば
人口に対する戦没率などごくわずかですがな。
江戸時代などほとんど戦争していないわけだし。
専業主婦だから長生きできるは根拠にならんだろ。
だいたい、今の高齢の女性たちは、
農業やって家計を支えてきた人たちだから。
ソースがないのはどっちもどっちだな。
197 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 23:55:13
>今の高齢の女性たちは、 農業やって家計を支えてきた人たち
農家の女性は早死にする印象があるのだが。
198 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 00:32:27
199 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 08:58:01
先週末、10歳の初潮がきてる娘に中だししてしまいましたw
日本の歴史に名を残すかもwww
200 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 09:02:21
>197
長寿姉妹きんさん、ぎんさんも
農家の主婦だったはずだが
201 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 09:28:59
>>200 歴史上最も長生きした日本人は初期の天皇だろ
202 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 10:20:54
伏見宮邦家親王は享和2年10月24日(1802年11月19日)生まれ。
邦家親王の第一王子の山階宮晃親王は文化13年9月2日(1816年10月22日)生まれ(9月ではなく2月となっている資料もある)。
9月誕生説をとると晃親王は邦家親王が満年齢で13歳11か月のときに生まれたことになる。
しかし文献によっては晃親王は貞敬親王の王子(邦家親王の弟)となっているものもある。
貞敬親王は安永4年12月10日(1776年1月1日)生まれだから 年齢的にはそのほうが自然だがどうなんだろうね。
一応公式の記録では晃親王の父は邦家親王ということになっているが。
203 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 11:37:03
>>202 貞敬親王は邦家親王の弟ではなく、父です。
晃親王は妹と駆け落ちして一度伏見宮家を除籍になっている、
邦家親王の皇子である可能性が高いですがね。
204 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 12:06:13
>>203 >>202だが補足までに。
>しかし文献によっては晃親王は貞敬親王の王子(邦家親王の弟)となっているものもある。
は晃親王の父は邦家親王、貞敬親王のいずれか?という意味で書いたもの。
貞敬親王が邦家親王の弟という意味で書いたのではない。
晃親王の駆け落ちの相手は貞敬親王の王女、隆子女王だが公式の系図によれば、
隆子女王は晃親王の伯母、異説によれば妹ということになるね。
205 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 22:27:31
鎌倉時代の北条為時は、15歳で父親になった
子は北条熙時。
思春期の、セクスに興味持ち始めた時点で即効、セクスできたのね。
身分高けりゃ「若様、若様」って侍女にかしずかれて生活してるからね。
10代前半で父親になってる場合、相手の女は年上が多いように思うが
その女もご奉公とはいえ、嫌だったろうなー。
エロジジイも側室も嫌だけど。
207 :
日本@名無史さん:2007/10/02(火) 08:16:40
嫌だった?まさか。
208 :
日本@名無史さん:2007/10/02(火) 10:03:36
女もそれ狙いで奉公しているのだからむしろ感激だろ
209 :
日本@名無史さん:2007/10/02(火) 10:16:25
>206
逆に、昔の若様は10代前半からセクスした代償として、
10代の頃から大勢の子供の扶養の義務を果たさなならんかったが。
>>207>>208 んなことねーよ、嫌に決まってんだろ。
女はすきでもない男と体を重ねるなんて拷問にちかいんだよ。
いくら封建時代でその時代相応の教育受けてきてても、根本は現代女性と
変わんないと思うよ。「まじィ?えー、すげーやだーーー」って言えないし、
それもご奉公だと諦めて我慢してるだけ。
臣下でもそれ相応の身分の男の正式な妻のほうがいいに決まってるじゃん。
殿様や若様のセクスの相手させられても、だいたいどの時代でも
子供が出来なきゃ身分は保証されないし、
たとえ子を産んでも嫡子にならなきゃ厄介払いされる可能性高いし、
都合のいい不安定な身分だもん。
>>210 朝もはよから過疎スレでごくろーさまです
上野千鶴子先生の信者の方
もし本人だったらどーしよw
212 :
日本@名無史さん:2007/10/02(火) 12:10:04
16歳の娘って、もう義務教育終えて、
結婚や妊娠しゅっ産もしてるのに、
ガタガタ文句言う人間むかつく
↑意味わかんねーよ。
20代でじーちゃんばーちゃんになった人いるの?
>>210 殿様や若様に取り入って愛人ライフを満喫狙いって女も普通にいると思うが。
お金目的で援交する女子高生やら中学生と一緒だ。
>>214 今までこのスレでさんざん話してきた
「10代前半で親になる」
人が2世代続けば、論理的には可能
なのだが、寡聞にして例を知らず
>>215 おまえ馬鹿だな、浅はかさからするとまだ学生か?
援助交際と一緒の感覚で考えるな。
あくまで援交は、一時的なもんだろ。将来ずっと愛情もないおやじと
同じことしていかなきゃならないわけでもない、わがままもいえるし、
わがまま通らなきゃ、足洗うこともできるし、他のおやじに乗り換えることだってできる。
一方、妾はどうか?
見初められて妾になっても、子供を産まなきゃ側室になれないし、
寵愛がなくなってしまったら路頭をさ迷う可能性だってある。
殿が急死したらもっと悲惨だ。
218 :
日本@名無史さん:2007/10/06(土) 16:30:24
>>217 殿様のお手つきって、側室になることじゃないの?
子供のいない側室もいたし、一度側室になれば、
貞操の義務を護る代わりに一生生活の保障がついた。
妾って、一夜妻のこと?
そんなのなりたい人いなかっただろうけどw
219 :
日本@名無史さん:2007/10/06(土) 16:32:55
>>217 当時の常識として殿様のお手つきになるというのは非常に幸運なこと
だと小さい頃から教えられているわけだ。今の価値観で語っても無意味。
220 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 17:37:22
>>206 >10代前半で父親になってる場合、相手の女は年上が多いように思うが
最初の相手は多くの場合、乳母。
そして乳母の場合、長期間に渡る情愛が蓄積されているので無問題。
>>219 おまえ男?
そんな風に教育を受けていたとしても、女としての自我は別にあるんだよ。
内心では嫌だと思うに決まってんだろ。
>>220 乳母が最初の女性、ってのは時代や階層が限られるだろうが。
ジェンダー論はやりたきゃ然るべき板でやれよ。
ここでやるのは板違い。
あと過去のことを現代の価値観で評価するのは歴史学においては禁じ手。
ここは学問文系のカテゴリーにある学問としての「日本史」を語る板なのだから、そこはしっかりわきまえて欲しい。
>>223 封建時代の習慣や風俗を現代の感覚で評価・論じてるのではない。
女性としての根本的な生理的感覚は生物学的なものであり普遍的なものであるはずだと言っている。
人の論点がなかなか読めない奴だな。
史学科卒で社会人経験も10年あるのに、論点や本質が読めないお前に「わきまえろ」とは片腹痛いよ。
225 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 21:53:59
>女性としての根本的な生理的感覚は生物学的なものであり普遍的なものであるはずだ
こんな主張したらゲイは怒り出すだろうな。
226 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 21:58:06
まともに取り合う気にもなれないが、
>>224は自分は社会経験があると
思いこんでいる割に、全く空気の読めない奴だということはよくわかった。
このスレでその種の話題を続けられても迷惑(スレの趣旨違うし)。
てかさ、生理的“感覚”は、“生物学”的なものなのか?w
>>226 傍観者ぶるんじゃないよ、傍観者なら余計な書き込みせずにスルーすればいいだろ。
スレ違いと指摘しているが、そんなことわかりきってるんだよ。
単にレスしただけ。
おまえは意味をなさない書き込みは自重しろ。
>>226 あんたが子供なのがよくわかるよ。
え?自分が社会人経験があると思い込んでる?
はあ?10年以上上場企業に総合職で勤務してるんだけど、
これでも社会人経験が妄想だというの?
おまえ自分の意見に否定的な人を攻撃したいんだろうが、訳わかんないこと言うなよ、餓鬼が。
空気が読めない?何度も言うが、いくつかの書き込みにレスしただけだから。
その流れもわからないのか?言うべきことが他にないの?
230 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 22:24:32
まあまあ、たしかにうざいけどさ。
学生とかニートのくせに食って掛かると墓穴掘るってのがわかったんじゃないかな。
今日の大河に出てた信玄の長女黄梅院(1543〜69)は1555年に北条氏政の長男(夭折)を産んでいる。
紫式部日記や源氏物語、蜻蛉日記を読むと
>女性としての根本的な生理的感覚は生物学的なものであり普遍的なものであるはずだ
とは全然思わないな。
習慣や風俗が違えば、そもそもの価値観や感覚が別だとよく分かる。
餓鬼とは言わんが、少女漫画脳の恋愛観しかないと思われても仕方ないぞ。
>>233 全く同時期の女官の日記を挙げているが、どこに好きでもない男の側室になるのを女が喜んで享受してると受けとれる記述があるんだ?
235 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 00:08:52
>女性としての根本的な生理的感覚は生物学的なものであり普遍的なものであるはずだ
ってことは男性の同性愛者はあくまで生物学的には男性だから、
「女性としての根本的な生理的感覚」は男性のゲイは決して持てないと
主張してるんだよ?
そもそも側室になれると言うか側室を持てるほどの家に仕える侍女って
やっぱりそれなりの家柄だろ。
娘を側室に差し出せば出世の道を開けるだろうし、
運良くお手つきになればそれこそ万々歳。
親も娘もそれを期待して娘を差し出すんじゃね?
好きでなくても嫌いでなければ別に相手することは嫌じゃないだろうし、
むしろ自家と自分の為には望むところだった女もいるだろ。
と言うか、いい加減ジェンダー論はスレ違い。
ここは最年少の父親&母親を語るところ。
女の生理的感覚について語るなら別にスレ立てろ。
>>237 ばかかお前は。
何度もおんなじこと書き込むなよ。
頭の固い童貞発見しました!
千鶴子チャソにはお触り禁止アルヨ
たしなめたり構ったり説得したりすると
ますます
「ケンカ売られたー」
と斜め上に興奮して喜ぶから。
同じ童貞しかいないから。
>>237 >ここは最年少の父親&母親を語るところ。
女の生理的感覚について語るなら別にスレ立てろ。
このスレはもうとっくに男女ともに結論でてるんだよ。
落ちてもいいくらいなのに、それを「ここは最年少の・・・ところ。」って笑わせんでくれ。
243 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 01:26:49
「結論」が出るとは思えないが。
「日本史上」の定義にもよるな。
子供はもう寝ろよ。寝ぼけたこと言ってないでさー
>>243 じゃあ、もうとっくに上のほうで出てる結論を覆す具体的人名とソースを出せよ。
なに屁理屈言ってんだって感じ。
246 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 02:41:19
>「女性としての根本的な生理的感覚」
これってかなり微妙だと思うけどね、やっぱり。
後、男の方も結構大変だった気もする。当然ながら、男にも「嗜好」はあるw
246は言ってる意味がわからん。
確かに殿のお手がつくことは、親親戚に利益をもたらす場合が多いので誉れだと
教えられてきた習慣はあるだろうが、その教育と女の本心とは別物だってことは理解できる。
けど、表向きはやはり「誉れ」だから側室に指名された女の本心がわかるものなんて何も残されていない
から証明することができない。だからこの議論終了。
また、あくまでも「誉れ」っていうのは江戸時代の上流武家の場合の話、ね。
249 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 03:05:22
女性にとって云々の話はもう終わりにしない?
これ以上続けてスレが荒れても、この話題を最初にふった釣り師の思う壺だよ。
側室に限らず正室の場合だって、政略結婚が当たり前の時代に個人の感情云々は議論しても不毛だろう。
与えられた環境の中で精一杯生きていくというポジティブな発想に立てなければ、生き残れない世界なのだから。
ってことで、この話題終了に賛成!
正室は家刀自としての立場があるから政略でもなんでも、妾のそれとは比べようもない違いだから
まったく根拠にならない。
それより、紫式部日記や蜻蛉日記を持ち出した奴、ちゃんと説明してほしいな。
252 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 07:18:45
>じゃあ、もうとっくに上のほうで出てる結論を覆す具体的人名とソースを出せよ。
日本史に民衆史を含めれば、どこぞの村の娘が9歳で妊娠とかいう話がある。
またいま現在でも日本史は継続している。
253 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 08:52:40
254 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 09:25:26
>253
日本史の話題に戻ってw
>>253 既出なのに、また出してきたのね。
>>252 「史」というからには、史料が必要なんだよ。これ史学の常識なんだが。
民衆であれば芳春院より若い出産もあったかもしれないが、史料が残ってない
次元のアバウトな話されてもまさに筋違い。
256 :
最後に:2007/10/08(月) 11:19:28
女性も生物だからね。。最初の印象悪くても・・・・ってのはある。
(まあ普通の恋愛も同じ)
それから、好きでも無いのとお相手しなきゃならないのは男も同じだ。
257 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 12:53:47
>>255 ほお、ここまで分かってるのにスルーですか。歴史って自分の見たいものだけ
見ればいいんだね。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~benchang/usagi3.htm 藤代村八歳の女子の子を産みし時の進達書(第二集 海棠庵記)
下総国藤代村(茨城県北相馬郡藤代町)で、八歳になる女子が子を産んだということは、
広く世間に知られているが、年月が経てば本当の事かどうか疑いも起こることであろう。
よって古いことではあるが、私が藩よりお上へ告げた口達一通をこの兎園に加えて事実
を永く伝えようと思った次第である。
258 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 12:54:39
文化九年十月十日、御勘定奉行柳生主膳正様へ口達
土屋洽三郎使者 大村市之允
拙者の在所下総国相馬郡藤代村百姓三吉の使用人忠蔵の娘でとやという、当年八歳
になる者が男の子を出産したという届けが先月十一日にありました。
年齢が不相応であったので検分の者を差し遣わし様子を見させこのことをただしましたと
ころ、このとやは文化二年五月十一日の生まれで、四歳の時から既に月経がありましたが、
病気だと思っていたということです。
ところが去年の秋頃から腹が膨れ気味になり、医師に診せると中気でもあろうかというの
で、腹薬を飲ませたり灸を据えたり手当てをしましたが一向に変化はありませんでした。今年
の春になり益々腹が膨れる様子なので色々療治し、また医師にも相談したら病気である事
は間違いないが、万が一懐胎でもあるかもしれない、どういったことかは解りかねるとのことでした。
259 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 12:57:54
その後最近になって乳も色づいてきた様子なので、これは懐胎でもあろうかと医師もいうの
で、出産の用意をしていたところ先月二日の夜中より産気づき翌三日の未明に出産しました。
母子共に健康で、乳も充分に出るとのこと。このとやは年齢の割には大柄に見えるということ
です。産まれた子供は普通より髪が黒く長いほうですが、その他は別段変わったところもない
と聞きます。
これにより当人はもちろん、両親はじめ三吉の家内の者や、村の者たちにも詳しく尋ねまし
たが、とやが幼いのでどうしてこうなったのかという心当たりも無く、それと疑わしい噂も一向
に無いとすべての者が言っておりました。この旨在所の役人から報告がありましたので、使者
を立ててご報告した次第です。
260 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 15:04:40
http://www.eonet.ne.jp/~otagiri/edokinew_page_2.htm 1811(文化08)年09月03日:下総国の百姓九右衛門の娘「とや」、
8歳にして男子を出生。母子共につつがなし。
→【斉藤月岑『武江年表』】
http://www25.big.or.jp/~monsters/books/books02a.html のっけから「八才の童女が妊娠して出産した」というスキャンダラスな事件の紹介
から本書ははじまる。現代ならネットやワイドショーや女性週刊誌が大喜びすると
ころだが、江戸時代(事件は文化九年)でもかわら版が出るほどの大騒ぎになった
そうだ。見物に来る人が多すぎて百文の見物料をとったという話まで伝わっている
ようだ。面白いのは地元領主の対応だ。時代劇などの印象からすると、「不吉な」と
か「不埒な」なんていって親子を罰しそうな気がするが、事実(を調べるのも大変な
のだけど)は全然違うようだ。
代官手代が親子を直接調査した注進書を上申し、幼い母子は殿様の御前に伺候し
たという。ねぎらいの言葉をかけられ三人扶持をたまわったらしい。支配する側として
は人心の動揺が一番困る。とりあえず「めでたいこと」としてしまうのが無難だという
ことだろうか。
261 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 15:21:24
http://www.varia-vie.com/sunclip/page1.html 一茶は八歳の女児が、妊娠、出産したことを日記に書きとめている。この
俳人が、なぜこうしたニュースを書きとめたのか、私は不審に思った。
偶然だが、ある著作にとりあげられていることを知った。
候文なので、読みやすいように、段落、句読点をつけて紹介しておく。
下総の国、相馬郡、藤代宿・・・土屋侯領分・・・百姓、忠蔵といふも
のの娘、八才にて男子を生む。母子つつがなし。御代官、吉岡次郎左衛
門より届出。
262 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 15:32:11
http://ameblo.jp/fushigisoshi/archive1-200510.html 土浦九万石の藩主土屋保三郎の知行地、下総猿島郡藤代宿の
忠蔵の娘で、「とや」というものが、文化九年申年八月に男子を出
産し、母子ともに元気であるそうだ。
とやは、4才で生理が始まり、現在8才とのこと。
8才の娘が子を産むなど妄説だと疑っていたが、当地代官吉岡次
郎右衛門の支配所が近くでもあり、珍事なので、代官手代が見回り
の途中、その目で確かめたとのこと。
知人の家来が、知行所に赴く際、忠蔵方に泊まって確認したところ、
間違いないと語ったと言う。
もっとも、相手の男はいなかったとも、あったが子細があって隠して
いるともいう。あるいは、生まれたのは偽りで、狐狸の類が子に化け
ているのではないか、などと疑問は解けなかった。
しかしながら、二百四十九年前、永禄七年甲子年に丹後の国で七
歳の少女が子を産んだ、という記述がある史書があるので、まんざら
の嘘でもなかろうと、話している。
【耳嚢(みみぶくろ)】根岸鎮衛著・三章企画編訳
263 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 20:05:52
まだ「まつ」が最年少母だと主張する人いるの?
清和源氏の祖源経基(921年生まれ)、長男源満仲(912年生まれ)
なんとー9歳の父親、しかも経基の父貞純親王は913没、
お母さんのお腹に少なくとも8年以上いました。
人間じゃありません。
別の説によると経基は914年生まれ(父没の翌年)、これならあり得ないことはない。
しかしそれでも息子より2歳年少、受精卵にもならないうちに長男誕生?
やっぱり人間じゃないです。
まあ実際は満仲の年がどう考えてもおかしいんだろうね。
265 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 20:35:28
同じ清和源氏のタレント
ベッキー
11歳(小五)当時体育の授業中に破水。無事に出産
満仲氏に限らず古代には時々父親より年上の子供がいたようです。
人体の神秘、やはりまだ神代の名残があったのでしょうか?
これひょっとして経基が満仲に改名したってことはないかな?
268 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 21:30:56
満仲の父についてはよくわからないようだ
当時の一次史料に父を経基としているものがなく、
あとから系図を足した可能性すらあるらしい
本当は仁明源氏とか文徳源氏あるいは存在していないことになっている淳和源氏だったりして。
二字名だから嵯峨源氏ではないだろうけど。
一番有名なのは「陽成源氏」説だわね
無理矢理「清和源氏」にするために1世代足してるんじゃないかという
なんか経基は確実な資料では946年の大宰少弐が最後らしい、
それに対して満仲の登場は扶桑略記だと960年。
経基は961年死亡説があり、源氏賜姓は961とか957とか960前後の説有り。
もしかして経基王が957年頃に源朝臣に賜姓されて、
その時ついでに満仲と改名したとかってないかな?
このころに満仲が経基の娘婿とされる人物に襲撃を受けたりしているし、
どうもこのあたり非常に怪しげではある。
それとも経基は通説通り清和源氏で満仲は陽成源氏で全く無関係だったりして。
子孫の誰かが平氏との対抗意識から先祖が純友討伐に関係したことにしたくて、
無理矢理系譜を結びつけただけとか?
ここは河内源氏スレの難民収容所ではありません・・・。
273 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 09:24:44
文化九年 下総国藤代村忠蔵の娘「とや」八歳で男児出産。
まだ200年も経っておらず、多くの目撃者がおり、「とや」の生年や
素性もはっきりしていることからまず間違いないと考えられる。
ただし永禄七年甲子年に丹後の国で七歳の少女が子を産んだ、
という記述がある史書があるとの情報あり(耳嚢)。
これって何のことだろう?
江戸幕府11代将軍はかぞえ11歳で父親になっている
とや
に関しては早熟症という病気だったという説もある
もしそうなら4歳で初潮8歳で妊娠は可能だが出産は子宮破裂などもあるので
難しいかも
でもこのの症状人間はホルモン系の遺伝子異常なので20歳までに老衰で死んでしまう
こと多し。
また劣性遺伝なので子供が女性の場合に同じ症状が出る可能性もある
耳嚢には不思議な話も含まれるが、著者の根岸鎮衛(やすもり)(1737‐1815)は
「幕臣で,佐渡奉行,勘定奉行を経て1798年(寛政10)より町奉行をつとめ,名奉行
として知られた。」ということであり、また原則として事実のみを書いたとしていること
から、「永禄七年甲子年に丹後の国で七歳の少女が子を産んだ、 という記述がある史書」
も存在しているのだろうな。
277 :
日本@名無史さん:2007/10/14(日) 20:07:44
さっきバンキシャで実録15歳の母ってやってたけど、現代と昔(といっても縄文や平安や江戸、戦前まであるけど)、10代半ばの妊娠出産が多いのはどっちなんだろう。
278 :
日本@名無史さん:2007/10/14(日) 20:13:48
278です
若年出産は割合なら昔の方が多いだろうけど、昔は人口そのものが少ないから、若年出産した人数としてどうなんだろうと思って。
連投スマソ
腹出して見せてましたね。あそこまでする必要有るんだでしょうか?
しかしお兄ちゃんもあの年で伯父になるとは思わなかったでしょうね。
スレの趣旨からはずれるけど同母兄弟の年齢差の最高ってどのくらい。
30程度なんだろうけど。
異母兄弟の方は平気で50超えるよね。
281 :
日本@名無史さん:2007/10/15(月) 17:54:03
いまは借り腹が出来るから50歳違いの同母兄弟がいてもおかしくない。
282 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 06:43:29
同母ではあっても同腹ではないって、なんか違和感あるな。
本来的な日本語では、
同母=同腹
異母=異腹(腹違い)
なのにね。
因みに父親については、
同父=同胤
異父=異胤(胤違い)
だね。
12歳や13歳で父親になるのも珍しくないだろうけど、その分寿命短かったんだよな。
昔は…。
今の世の中、良家のボンボンとかが12歳や13歳で筆おろしとかで父親になった場合、
子どもとその母親は如何扱われるんだろうね。
285 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 15:57:53
今時代はゴムつけるだろ
もしくは女がピルを飲むか
286 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 17:31:00
>284
歌舞伎の世界とかでは今でも私生児がいるじゃんw
女と籍は入れずに子供だけ認知。
私生児は生活のために子供の頃から母親によって芸能界に入れられ、
○○の私生児です、って自分を捨てた父親の名前も使って売り込み。
よくあるじゃん。
>>286 歌舞伎の私生児説が強いのって江守徹だっけ?
288 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 02:26:33
日本の歴史の中では、現代が何かも異常。
第二世界大戦くらいまでは、15才で結婚出産は普通だった。
二十歳過ぎれば年増だから。
寿命も現代は異常。
古代では、15歳以上生きた人の平均寿命が30才そこそこだった。
乳児死亡率まで含めると、15才くらいだと推定されている。
ちなみに、夜鷹とかは、21,22才くらいで死ぬことが多かったらしい。
しかも、ボロギレ同然で捨てられたらしい。
289 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 03:42:53
>>280 女性政治家の加藤何とかって人は17歳で第1子を生んで48歳で末っ子を産んだ。
291 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 10:30:57
>>287 歌舞伎界の若い世代でも、
市川海老蔵や市川染五郎は
十代の頃未入籍女性との間に隠し子を作ってるよね
292 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 13:17:57
>>291 染五郎はこの高校生時代に父親になったことを幼馴染で従姉妹だった寺島しのぶに
裏切り行為ととられたみたいだね。海老蔵は海老蔵で世間からの人気を下げた。
染五郎にせよ松たか子にせよ、役者としての実力は寺島しのぶに遠く及ばないよね。
関係ないけど。
293 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 17:05:23
>>288 乳幼児期に死ななかった人は50歳程度まで生きたんだよ。
ただ、避妊の術がなかったために、高齢出産も多く、
長子と末子の間が20歳程度はなれていることも少なくなかった。
末子が幼いうちに親は逝き、兄弟が面倒を見た。
294 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 21:14:57
加藤シズエ(広田→石本→加藤静枝)は17歳で結婚、20歳で長男、その1〜3年後に次男を産むも47歳で離婚、すぐ再婚して48歳で加藤タキ(多喜子)を産んでいる
ちなみに加藤タキが生まれたのは再婚から5ヶ月後。再婚の時にはおそらく妊娠が判明していたと思われる。
295 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 00:44:24
源義経も12~13歳くらいで子供生まれてね?
確か女の子だと思ったけど。
>>293 末っ子より初孫が先に生まれることなんてしばしばだよね。
297 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 06:06:03
曾孫がいるのに出産した人はいるのだろうか?
298 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 07:41:25
>>295 義経は結婚が遅かったはず
義経は12〜13歳の頃まだ出家する予定で鞍馬山にいたから
女と接するのは無理
静御前を妊娠させたとき25歳
死ぬときに妻(正室)と娘も一緒に自害したが
このとき娘は4歳で義経が27歳のときの子
299 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 03:06:02
正妻は離縁して鎌倉へ帰したんだろ。
数年前に大河でやってたじゃん
300 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 05:27:39
>>298 >295が言っているのは、源有綱の妻となった義経の長女のことじゃないかな。
平泉時代に作った子供だと言われている。
作ったのは12,3じゃなくて16くらいだろうけど。
あとやっぱり平泉時代の佐藤兄弟の姉妹を娶ったとか。
正室を娶ったのは二十過ぎだけどね。
302 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 17:50:42
>>301 一説にはそれは義経の「娘」じゃなくて「妹」だともいうね。
義経母の常盤御前が大蔵卿一条長成との間に作った異父妹。
年齢的なことを考えるとこっちの方が辻褄が合うわな。
303 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 20:22:59
>>302 義経の異父妹は、花山院某に嫁いだんじゃないの?
304 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 20:24:09
>>300 NHK大河にはちゃんと時代考証の先生がついている。
明らかな嘘を垂れ流すわけないだろ、ヴォケ。
305 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 20:34:10
>>304 ソースは大河
ソースはマンガ
ソースは2ch
ここは一応は史学板なんですが・・・・
頭大丈夫?
306 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 20:49:27
>>303 それは平清盛を父とする別の異父妹(廊御方)のことかと。
307 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 22:00:55
>>305 大河ドラマの時代考証の先生は、キミなんかよりもずっとまともな歴史の専門家だよw
308 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 16:12:47
>>304 時代考証が付いていようと大河はあからさまな嘘を平気で垂れ流す。
何故なら大河はあくまでもドラマ、フィクションだから。
大河が正しいなら、明智光秀なんて毎回関わるキャラが違うのはどういうことだ?
義経の正妻は離縁されていない。平泉で義経と共に死亡。『吾妻鏡』にも記されている。
310 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 21:58:18
でも吾妻鏡でも河越の娘が都落ちには同行したようには書かれてないんだよな。
なぜか平泉に行く頃になって唐突に「妻」が出てきてるだけで。
妻子と共に死んだって事自体、義経の悲劇性を増すための
吾妻鏡作者の創作なんじゃないかと内心疑ってるぐらい。
まぁジンギスカンになったとは思ってないけどなw
311 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 22:10:09
まぁ大河の時代考証って史実でなくて、服飾や風俗の時代考証だし
小説が原作ってのが殆どだからね
312 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 05:14:07
まあ女については何度も出てるけど芳春院(まつ)が最強だよ。
満11歳で初産してから、11人も子供産んで、70歳過ぎるまで生きたんだぜ。
ペルーに5歳で出産した子とかいるけど、そういうのは病気だからね。
帝王切開での出産だし、産まれた子も先天的な病気で死んでる。
8歳のとやが出産したとかいうのも同じようなもんだろ。
一方のまつは、すこぶる健康で産まれた子供も健やかに育った。
それ以前に、政略結婚主流の時代にいとことできちゃった婚した時点でかなりのつわものだよ。
むしろ、満11歳になったばかりのいとこに手を出して妊娠させちゃった利家がつわものかw
313 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 07:49:33
8歳で出産が病気で11歳で出産が病気でないという発想が理解できん。
こいつにかかれば身長2m以上ある人間は皆病気なんだろう。
314 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 07:55:01
>>310 吾妻鏡は妻と寵人(愛妾)を明確に分けている。
創作はないだろうね。吾妻鏡は鎌倉幕府公認の歴史書だから。
不正があるならば、御家人が抗議しただろう。
義経が妻と娘とともに平泉で自害したというのが
現在知られるところでは最も有力な史実。
当然、「妻」とある以上これは義経の正室のことであって、
絶対に河越女ではないと百歩譲っても平泉で迎えた義経の後妻としか読めない
通説では義経が河越女と事実上離縁し(前妻と離縁しないと後妻が取れない)
再婚したという歴史的事実が発見されないので河越女だろうといわれているけれども
>>313 312ではないが、ペルーの5歳出産例はホルモン異常の病気です。
生まれたときから初潮があるとか、とても出産に耐えられない体なのに
ホルモンだけは大人の女性と同じという病気があるようです。
帝王切開での出産ですから戦国時代の女性などだったら死んでいたでしょうね。
生まれた子もすぐではありませんが、母より先になくなりました。
まつの場合、余程体の発育が良かったのでしょう。
肖像画を見ても、余程肥えていたようですしね。
もっとも、昔は初潮や精通が来る前でも性交をするということはあったようです。
伊勢物語などでも男童が女童に一緒に寝ようと読みかける歌がありますが、
男は射精できずとも勃起すれば(小学生でも勃起は可能)女性と一緒に寝たようです。
利家はまつよりも十歳年上ですが、家でたまたまいとこに手を出したとき、
まさかまつにもう初潮がきているとは思わなかったのかも。
戦国時代の女性全般で見ると、それほど初産年齢は低くありませんから、
11歳で初潮がきていたまつの例はかなりの早熟だったと見るべきでしょう。
つまり明治維新前の人間は10歳にもならない少女に普通に手を出していたのか。
皇室でも孝明天皇は満15歳の少女に手を出して明治天皇を産ましてるし。
今じゃ刑事罰は勿論、全財産剥ぎ取られて大問題だよな。
317 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 20:34:22
>>314 仮に創作でも鎌倉方で義経の最期を見た人間はいないわけだから
御家人が抗議しようもないだろ。
義経の最期なんて、泰衡の事後報告でしかないわけだし。
318 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 07:36:00
>>315 8歳のとやもかなり体格が良かったそうだよ。
無論正常出産だし子どもも元気。
319 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 08:48:54
>>317 愛人と一緒に死んだのならば泰衡は愛人だと報告する。
それくらい、この時代の妻と愛人は明確に区別されていた。
静も愛人だしね。
>>316 17歳です。15歳に手を出したのは明治天皇(橋本夏子)
>>316 中山慶子は1回のセックスで明治天皇を孕んだらしい
宮中ですら噂にもならず父の中山忠能もまさか娘に天皇が
手をつけたとは知らなかった
やがて宿下がりする娘の様子がおかしいので問い詰めると
お上が無体なさったと慶子がいう
忠能が孝明天皇に必死の思いで確認すると確かに手をつけた覚えがあるとのこと
慶子はそのまま宿に下がって明治天皇を出産
5歳になるまで明治天皇は忠能に預けられっぱなしだった
322 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 17:32:10
>>318 とやは出産後すぐに死んだそうだよ。
それに4歳で初潮だったらしいから、いわゆる早発月経症で簡単に言えば病気。
栄養状態が良いとか悪いとかいう話ではなくて、ホルモンに異常がなければ起こりえない。
現代では、満10歳未満(9歳未満との説もある)で初潮を迎えた場合は異常と診断される。
まつは11歳で初潮がきていたということだけど、平均より早いくらいで完全に正常の範囲内。
70歳まで生きたってことからもわかるように、よほど健康だったんだろう。
11歳ってのは、健康な人間が出産できる限界だろうね。
323 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 18:40:54
>>322 出産後すぐに死んだというソースは?
以下では母子で殿様に伺候したとなっているが?
http://www25.big.or.jp/~monsters/books/books02a.html のっけから「八才の童女が妊娠して出産した」というスキャンダラスな事件の紹介
から本書ははじまる。現代ならネットやワイドショーや女性週刊誌が大喜びすると
ころだが、江戸時代(事件は文化九年)でもかわら版が出るほどの大騒ぎになった
そうだ。見物に来る人が多すぎて百文の見物料をとったという話まで伝わっている
ようだ。面白いのは地元領主の対応だ。時代劇などの印象からすると、「不吉な」と
か「不埒な」なんていって親子を罰しそうな気がするが、事実(を調べるのも大変な
のだけど)は全然違うようだ。
代官手代が親子を直接調査した注進書を上申し、幼い母子は殿様の御前に伺候し
たという。ねぎらいの言葉をかけられ三人扶持をたまわったらしい。支配する側として
は人心の動揺が一番困る。とりあえず「めでたいこと」としてしまうのが無難だという
ことだろうか。
324 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 22:09:44
勝手にとやを病気にするな>322
325 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 04:20:56
326 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 16:15:23
>>325 その数行上に何て書いてある?
1811(文化08)年09月03日:下総国の百姓九右衛門の娘「とや」、8歳にして男子を出生。母子共につつがなし。
327 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 16:25:27
いまだ講談(後段)を信じる人がいるということか。
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/itimuan/maru/old20/aya936.html 話を死兆星に戻すと、実は江戸時代に”幽霊星”という”その星を見ると死んでしまう”ことで話題
になった星というか星座というかがあったりします。
話の前段は、耳袋にも収録されているのですが、後段の方はあまり知られていません ・・・ あまりの
嘘臭さに記録することをためらったのかもしれませんが(笑)。
前段の方は、文政九(1812)年の9月3日に、下総国相馬郡藤代宿(この場合の宿は村に近い)で、
”とや”という8歳の娘が男の子を産み、”とや”が子に乳を与える光景などを見に見物人が押し寄せたという話。
いかに、昔は幼くして嫁いで子を産んでいたとはいっても、さすがに8歳というのは当時でも珍しかったようで、江戸の瓦版のネタにもなったそうですし、見物人から見料を取ってかなり稼いでもいたようです。
が、この騒動は唐突な幕切れを迎えることになり、ここからが後段ということになります。
翌、文政10年の六月頃には、”とや”とその子供は姿を消し、夜空の星になったと噂されるようになっています ・・・ その夜空の星が幽霊星で、位牌の形をしていたそうです。
一説には、この幽霊星を見てしまうと死んでしまうことになっていたそうで、前段とのあまりの脈絡の無さに、
何かおいてきぼりをくらったような気がしないでもありません。
328 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 16:45:35
まあ、日本史上一度だけ体つきの大きい女性が
8歳あるいは12歳で子供を生んで大丈夫だったからと言って
女性全員がそうであるはずもない
出産最低年齢を競ってどんな意味があるんだか
そういうスレだったっけ?
329 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 17:08:49
330 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 18:08:31
父親の分からない私生児の誕生を褒めると言うのも
江戸時代の倫理観から言えばどうかと思うが
大した問題ではなかったのだろうか
331 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 22:08:27
>>327 >>翌、文政10年の六月頃には、”とや”とその子供は姿を消し
死んだってことじゃないの?
夜空の星になったってのは嘘臭いけど、死んで姿を消すのは別に普通じゃん。
これが嘘臭いかどうかなんて議論しだしたら、
とやの存在自体嘘臭いとか言う人がいそうだからどっちでもいいけどさ。
>>329 【史上】歴史に記録されている範囲内(大辞林)
1.日本の歴史上の人物の内で最年少の母親を決めるスレ→芳春院?
2.日本の歴史に記録されている中で最年少で母親になった人物を決めるスレ→とや?
3.日本最年少の母親を決めるスレ→とやが有力だが記録に残らない人物で他にいるかも?
無理矢理解釈してみたけどこの3つのどれかでいいと思った。
ただスレタイの「父親or母親」を素直に読めば、
4.日本史上最年少で親になった人物を決めるスレ→藤原実頼?
だけど、父親なんて探しても無駄じゃない?
記録になんて書いてあったとしても、他の男の子供かも知れないでしょ。
332 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 22:58:10
娯楽も何も無い時代だからヤル事しか頭にないから
早婚、早出産
333 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 15:29:19
>>311 大河では、時代考証とは別に風俗考証・衣装考証が毎回必ずいる。
それに大河で時代考証をやっている人には、どう考えても風俗や服飾が専門とは
思えない先生も多い。
大河によっては他に建築考証などがつくこともある。
334 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 15:32:03
>>330 怪異現象はなるべく吉兆ということで処理したいという心理の現れかな。
特に支配者側からすると、人心の動揺を避けるためにもそういうことにしたい
という意識が働くのだろう。
335 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 14:53:52
考えてみると「父兄会」という言葉は女性差別でもなんてもなく、戦前は
実体だったんだよな。子供が多いから上の子供と下の子供では15歳くらいの
年齢差があるのはあたりまえで、下の子供が12歳くらいまでには父親が死んで
上の兄が就職して(農業なら家を継いで)弟の面倒を父代わりに見るなんて
ぜんぜん珍しくなかったのだろう。
336 :
バカウヨ追放汁! :2007/11/22(木) 15:47:14
337 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 18:16:24
338 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 22:00:07
>>309 NHK大河ドラマ「功名が辻」のせりふに時代考証上の誤りがあった。
ミスがあったのは豊臣秀吉の妻高台院(浅野ゆう子)が「うちの人が亡くなって10年、関ケ原の戦から3年」と言った場面。
秀吉の没年は1598年で、放送シーンは1603年の設定だったため「死んで5年」が正しかった。
放送当日に視聴者から指摘があって間違いに気が付いた。
このせりふは元の脚本になく、チーフプロデューサーが書き加えた際に事実関係を誤った。
ようするに大河の時代考証なんて信用するな!
339 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 00:58:42
松浦静山の甲子夜話に7歳で子供を出産したという話なかった?
340 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 12:00:55
公家大名の出産記録なんてインチキばかりだから
なんもアテにならん
息子の年齢を十才上に設定したけりゃ
平気で生年記録を変えるし。
なんでもアリ
341 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 21:35:36
age
342 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 22:44:00
旧石器時代や縄文時代だと何歳で生んでいるんだろ?
343 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 13:27:56
大河は「創作」なのにまだやってるw
常盤が源義朝の妾で一条長成の妻になったのは間違いないが
平清盛の妾になったというのはそもそも眉唾もの
これも嘘の多い「平家物語」にしか出てこない話
壇ノ浦後、花山院家に嫁いだ姉のもとに身をよせ、
いつのまにか姉夫の手がついて女子を産んだという
清盛の娘廊の御方の母親が不詳であっため
のちの時代の人が母親を常盤ということにしたらしい
そもそも大河の原作は小説、
面白ければどんな作り話を取り入れてもいい。
大河に毎回、架空の人物が登場すること、わかってる?
・・・どこかの誤爆かしらん
345 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 21:17:49
悪源太義平に子供はいなかったの?
346 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 22:43:56
>>345 中村氏が義平流だというのが本当だとしたら一子某がいたはず。
347 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 23:18:06
歴史人口学者は速水融などは一定の評価をされているが、
その弟子達といえば、品性が欠けているのか宗門改帳と称して
現代の人間の情報を穿り返しては、酒の席で肴にしている研究者も居る。
実に嘆かわしい。速水を超えられないのは無理もない。
348 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 19:40:55
平安時代とか戦国時代、江戸時代なんかは数えで12歳の男が4,5歳年上の腰元を
孕ませたりとか、村では夜這いとか雑魚寝で早々と親になってることも珍しく無
かっただろうね。
350 :
日本@名無史さん:2008/03/28(金) 19:01:49
最年少で父親となった天皇
醍醐天皇 元慶9年(885年)1月18日生
第一皇女 勧子内親王 昌泰2年(899年)3月4日生
満14歳1か月と16日で父親に
北魏だったか北斉で祖父と28歳差なんてのがあったから、まあそこらへんまでは普通にあり得る話。
んだすれ
353 :
日本@名無史さん:2008/06/10(火) 21:03:08
武田信豊 1514年生まれ
武田義統 1526年生まれ
12歳で父親に
354 :
日本@名無史さん:2008/06/11(水) 01:29:30
岐阜県のパチンコ屋で同級生を殺害した少年は12歳で子がいる
355 :
日本@名無史さん:2008/09/20(土) 21:19:46
>>351 確か13才とかいたな。
早く子供作って早く死ぬ
これが北魏クオリティ
356 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 08:45:25
>>310 「吾妻鏡」は元将軍源頼家の死亡すら伝えていないのだから
都合の悪いことは削除するのが常識
河越氏の娘が幕府を裏切って義経に殉じたとしても
都合悪けりゃ細かいことまで書かんだろ
ましてや義経なんて将軍でも何でもなかったわけだし
「吾妻鏡」なんて疑い出したらきりがないけどね
義経最愛の人として今日ドラマでよく取り上げられる
「静御前」も平家物語と吾妻鏡にしか記述がない
北条政子を持ち上げるための創作が含まれているかも
>>356 何ヶ月も前のスレ違い気味な話題にageレスしなくてもw
そうムキにならんでも、歴史学的には最期に義経と死んだ嫁は
河越娘とほぼ認定されてるよ。実名が不明な以上断定はしないというだけ。
それはさておき、もっと子作りネタ全般で語れるスレがほしいな・・。
358 :
日本@名無史さん:2008/09/25(木) 00:12:34
>>356 都合が悪いことは書かないわりには、義経死亡の際の描写ってやたらと細かいよな。
まるで誰かが柱の影からじっと見てたみたいにw
スレ違いネタを引っ張るなよ。
360 :
日本@名無史さん:2008/10/06(月) 22:43:12
>>351 文成帝 440-465
献文帝 454-476(文成帝の子)
孝文帝 467-499(献文帝の子)
祖父と孫が27歳差。異常すぎるな。
361 :
日本@名無史さん:2008/10/13(月) 03:04:35
女性週刊誌に9歳で出産した少女が載っていた
362 :
日本@名無史さん:2008/10/13(月) 09:29:37
彼女の友達は小3の8歳で初潮が来たと言ってた。
彼女は小5の10歳だとさ。
363 :
日本@名無史さん:2008/10/14(火) 00:03:49
普通の体型の子で
体重が36kg〜40kgを
超えたあたりで来ることが多い
百人一首の藤原(六条)顕輔・清輔親子もわずか14歳差でしたね。
しかも仲が悪く、顕輔の勅撰和歌集に清輔の和歌は一つも載せなかったとか。
365 :
日本@名無史さん:2008/12/16(火) 21:33:13
そんな早くからセクロスしてたのか
羨ましい
366 :
日本@名無史さん:2008/12/22(月) 01:40:42
初潮後4年以内、体重42kg前後が
結婚し頃というか適齢期だよ。
いまだに新聞なんて読んでる人本当にいるんだよ?
年間購読料(48000円)でパソコンが買えるなんだよ
368 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 09:19:16
加藤忠広(1601年生)の子、加藤光広(1614年生)
いいれす
370 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 21:16:15
ギネスで満5歳で出産したやつがいた
それ人間じゃないだろ明らかに
372 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 22:12:57
>>370 厳密にはギネスからその記録は削除されている。
というのは、ギネスに低年齢出産記録を掲載することが禁止されたため。
ギネスに載って有名人になることを目的に幼女を虐待することが
懸念されるため、現在ではこのような記録は取り扱っていない。
以前載っていた世界最年少記録は5歳7か月で出産したリナ・メディナ。
彼女が出産したとされるのは1939年のこと。
彼女はわずか生後8か月で生理が始まり、早発月経症という病気であった。
幼女であるため骨盤が小さく胎児が通れないために帝王切開が行われた。
父親のことは生涯明かされず(当初、幼児虐待の容疑で実父が逮捕された)、
またこのとき産んだ男子は40歳で死亡した。
リナ・メディナ本人は、その後結婚、
1972年に33年ぶりにもう一人男子を産んだとされる。
http://x51.org/x/05/05/2234.php
373 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 22:25:24
家康の母於大は40代でひ孫が生まれている
374 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 12:14:08
>>6 >前田まつは12歳で前田利家に嫁ぎ、13歳で長女の幸姫を産んでいる。
>最終的に2男6女の8人の子を産んだ。有名なのは秀吉の養女となり
>>14 >まつなんて初潮がきてすぐ嫁ぎ、10歳上の利家の性欲の相手を毎晩・・・、
>てのが容易に想像できるな。現代だってまだ子供の体格なのに、次々に
果報者なのは利家だな。
ウラヤマシス
しかも8人も産ませたのは若いときだけじゃなく、ずっと仲良かったんだな。
当時の大名なら側室が何人もいて次第に正室は房事から遠ざかりそうなものだ。
うらやましす
375 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 20:18:59
まつが末娘を産んだのは34歳の時(幸の21歳下)
やはり房事から遠ざかったんだろ
まあもし40過ぎても子供を産み続けていたら子供の数や幸との年齢差がとんでもないことになっていたんだけど
376 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 20:27:24
利家とまつ十分仲がよい夫婦じゃん。
まつ骨とかスカスカになってそうだな。
しかし裸になってスレを開いたらなんかほのぼのしてたな。
服着るか…
378 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 23:11:39
美少女アイドルってそんな年格好だろ
正直なだけ
380 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 21:17:38
へえ
381 :
日本@名無史さん:2009/05/07(木) 14:56:45
母親は「前田まつ」
父親は「伏見宮親王(晃親王父)」
でOK?
382 :
日本@名無史さん:2009/05/07(木) 22:13:20
>>381 伏見宮邦家親王(1802年11月生)=第一王子晃親王(1816年9月生)
満13歳10か月で父親に。
いや、こちらのほうが幼い父親。
亀山天皇(1249年7月生)=第一皇女睍子内親王(1262年11月生)
満13歳4か月で父親に。
伏見宮邦家親王も亀山天皇も両方陰暦で計算。
亀山天皇のほうが幼くして父親に。
383 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 02:10:07
亀山天皇も兄深草上皇もエロだな
385 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 18:23:53
武田震源は上杉朝興の娘13歳を正室にしてはらませたが
その上杉の娘は子を流産して産後の経過も悪く
亡くなってしまった
後藤先輩は16のときに父親になったよ
387 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 20:03:35
>>385 昔は男も女も15歳(現在の満13〜14歳)になったら結婚して
セックスするものだったから仕方がない。
武田信玄と最初の正室とも政略結婚だったし、
信玄がエロかったというより、
周囲が当主たるもの元服したら早く嫁をとれ、
早くセックスして早く子供をたくさん作れ、
とたきつけるのだから仕方ない。
元服したのにセックスしなかったら
それはそれで問題ある時代だったし。
後藤先輩も13でセックスしたらしいよ。
諏訪頼重がまだ出てないな。
最年少ではないが、関係者に早婚・早産が多い。
父・諏訪頼隆1499-1530
諏訪頼重1516-1542
娘・諏訪御料人1530-1555(信玄側室・勝頼母)
妻・禰々1528-1542(信玄異父妹)
息子・寅王丸1542-?
孫・武田勝頼1546-1582
孫嫁・遠山夫人1553-1567
曾孫・武田信勝1567-1582
390 :
389:2009/06/09(火) 00:33:09
うっかり間違い。禰々は異母妹だった。
391 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 18:32:15
前田まつって、おデブな少女だったんじゃないかな?
392 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 19:02:49
広田先輩も16で親父になってたな
393 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 12:45:22
まつと利家って出既婚?
394 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 14:50:33
>>389 みんな早いな。
大河ドラマに当てはめて抜けるレベル
395 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 14:37:13
NHK大河の11歳のまつ(松嶋)なら成熟しすぎていたw
396 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 15:48:29
そうだよなー。幼女、少女、女と三人役者が欲しい。
>>396 前田家の養女になるときの4歳の幼女役ならいたよ。
その次が利家との結婚前で11歳役の松嶋。
しかも、12歳であるはずの酒井法子演じるねねが
利家に色目を使ってた。
398 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 21:19:50
浅井久政(1526-1573)の娘昌安見久尼(1538-1585)
14才浅野ねねよりマシじゃん
400 :
日本@名無史さん:2009/09/21(月) 09:22:24
後京極院…後醍醐天皇(正応元年(1288年)生誕)皇后、嘉元元年(1303年)生誕、正和2年(1313年)結婚(11歳)、正和4年(1315年)出産(13歳)、元弘3年(1333年)崩御(31歳)。
黄梅院…北条氏政(天文7年(1538年)生誕)正室、天文12年(1543年)生誕、天文23年(1554年)結婚(12歳)、弘治元年(1555年)出産(13歳)、永禄12年(1569年)死去(27歳)。
芳春院…前田利家(天文6年(1537年)生誕)正室、天文16年(1547年)生誕 、永禄元年(1558年)結婚(12歳)、永禄2年(1559年)出産(13歳)、元和3年(1617年)死去(71歳)。
401 :
400:2009/09/21(月) 09:28:25
年齢はすべて数え年なので満年齢では1歳か2歳若くなる。
男が12歳で親になるとしたら11歳で相手に中出ししてるのか
良い物食って早熟なんだな
403 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 20:56:21
豊臣秀頼には、滅亡時に側室の子供がいた
15歳で父親になったようだぞ
404 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 20:57:36
松平元康は、母親が14歳の時の子供らしい
・福田首相は中国講演で歴史認識について村山談話をかみくだいて語った。
・だがそれは、日本人に向かって言ったのでも、日本人が聞いていたわけでもない。
・こういう大事なことは、日本に向かってこそ語りかけるべきだ。
406 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 23:29:20
松平清康(1511-1535)
松平広忠(1526-1549)
松平元康(1542-1616)
>>406の続き。
松平信康(1559-1579)
登久姫(1576-1607)
小笠原忠脩(1594-1615)
408 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 01:34:00
48歳で曾孫かよ。
409 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 12:11:05
すごいね。
410 :
日本@名無史さん:2010/05/03(月) 11:45:45
真実かな。
411 :
日本@名無史さん:2010/05/03(月) 12:10:24
三河松平家の早婚子作りは異常
早死にもな
なんか中国の北魏みたい
413 :
日本@名無史さん:2010/05/03(月) 23:14:32
北魏なんて20代で孫がいるのが普通だしな
2代連続で暗殺された所も北魏ぽい
415 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 21:38:56
拓跋晃(428-451)
文成帝(440-465) 拓跋晃の子
献文帝(454-476) 文成帝の子
孝文帝(467-499) 献文帝の子
宣武帝(483-515) 孝文帝の子
39歳で曾孫、55歳で玄孫。北魏異常すぎ。
416 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 13:34:35
417 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 18:00:38
>>404 徳川家康(松平元康)は母が16歳の時の子だよ。
北魏の何が凄いって皇太子の生母は死を賜る
419 :
日本@名無史さん:2010/06/23(水) 21:51:22
前漢の武帝もやったことだな
420 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 16:30:16
北魏には当主が死ぬと実母以外の母親を跡取りをめとるという風習もあったな
北魏では親父が死ぬと親父の妻たちを全部引き取って妻にしたらしい
421 :
日本@名無史さん:2010/07/13(火) 23:17:41
北魏王室に生まれて親父と女の趣味が違うと地獄だな。
422 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 08:52:41
鳥羽天皇、後白河天皇、後鳥羽天皇が第一皇子を儲けたのがそれぞれ16歳の時。
後白河は皇位とは無縁の遊興三昧の時の子だけど。
男は12歳くらいから生殖能力があるようです。他方女性は出産にエネルギーを要するので、
20歳でもまだ難しいかも。
>>422 そらまあ、現代日本社会の一般的価値基準でいえばそうなるんだろうね
晩婚で、早婚はヤンキーだけで、少子化で、年金問題深刻な現代の基準ではね
じゃあ平均年齢が五十くらいだった時代をよしとするのかといわれれば、
確かにそれも違うんだろうけど、高齢化少子化で未来の見えない現代人として、
かつ歴史を勉強するものとして、最後の2行は不用意すぎるんじゃないかねぇ
424 :
日本@名無史さん:2010/07/27(火) 13:15:15
結局とどのつまり経済力ですからね。
子供を儲けることは非常に簡単。だって本能だから誰でもできる。
ところが食べさせて行かないとダメなので、今の時代この部分で脱落。
高貴な身分の人だから、出産記録が残っているとも言えるけど、
高貴な身分でなければ、若年出産など不可能でもある。理由は冒頭のとおり。
>>422の人たちなんて、経済力はあるけどすること無い人ばっかり。
鳥羽天皇→白河法皇の院政中
後白河天皇→鳥羽法皇の院政中/4の宮だから普通に考えれば部屋住みで終わり
後鳥羽天皇→源通親と鎌倉幕府が執政中
>高貴な身分でなければ、若年出産など不可能でもある
それこそ現代かぶれの妄言だな
貧困農村でもポコポコガキ産んで、食えなきゃ土下座して奉公に出し、
それが無理なら身売りか間引きしたってだけの日本の歴史ですよ
結婚は産める限りにおいて早ければ早いほどいい、
子供は多く作るほどいい、たくさん産めば中には当たりも出るだろ
・・・という価値観が初めて衰退したのは、高度成長期の後半からだね
たかだか30〜40年くらいの歴史です
426 :
日本@名無史さん:
足利尊氏の父貞氏は家時が13歳の時の子