◇藤原道長とその娘たち◇

このエントリーをはてなブックマークに追加
1日本@名無史さん
藤原道長と、その娘たちについて語りましょう。

2日本@名無史さん:2007/06/14(木) 15:53:49
長女;彰子(988〜1074) 一条天皇に入内、翌年立后して中宮。初の一帝二后の例となる。後一条、後朱雀母。上東門院。紫式部、和泉式部らが仕え、87歳まで生きた。
次女;姸子(994〜1027) 東宮居貞親王に入内、居貞親王即位後(三条天皇)、立后して中宮。三条天皇が長年連れ添った妃女成子を立后させたことで父道長と不和になり、夫と別居。
三女;寛子(999〜1025) 父道長によって東宮を辞した小一条院妃。若死にしたのは、小一条院元妻父子の怨霊であるとされた。
四女;威子(999〜1036) 姉彰子の産んだ9歳年下の後一条天皇に入内。立后の際、三人の娘を立后させた父道長は望月の歌を詠む。夫後一条天皇の死後まもなく、後を追うようになくなる。
五女;尊子(1007〜1084) 源師房室。道長の娘で皇族に嫁がなかったのは、尊子だけ。
六女;嬉子(1007〜1084) 甥の後朱雀天皇の東宮時代の妃。後冷泉天皇を産んだ2日後、19歳で死去。
3日本@名無史さん:2007/06/14(木) 15:55:36
藤原盛子は道長の娘なんでしょうか?
4日本@名無史さん:2007/06/14(木) 16:06:06
>2
すまぬ。嬉子の没年、正しくは、1021年。ということで、訂正。

長女;彰子(988〜1074 母;源倫子) 一条天皇に入内、翌年立后して中宮。初の一帝二后の例となる。後一条、後朱雀母。上東門院。紫式部、和泉式部らが仕え、87歳まで生きた。
次女;姸子(994〜1027 母;源倫子) 東宮居貞親王に入内、居貞親王即位後(三条天皇)、立后して中宮。三条天皇が長年連れ添った妃女成子を立后させたことで父道長と不和になり、夫と別居。
三女;寛子(999〜1025 母;源明子) 父道長によって東宮を辞した小一条院妃。若死にしたのは、小一条院元妻父子の怨霊であるとされた。
四女;威子(999〜1036 母;源倫子) 姉彰子の産んだ9歳年下の後一条天皇に入内。立后の際、三人の娘を立后させた父道長は望月の歌を詠む。夫後一条天皇の死後まもなく、後を追うようになくなる。
五女;尊子(1007〜1084 母;源明子) 源師房室。道長の娘で皇族に嫁がなかったのは、尊子だけ。
六女;嬉子(1007〜1021 母;源倫子) 甥の後朱雀天皇の東宮時代の妃。後冷泉天皇を産んだ2日後、19歳で死去。

三条天皇の尚侍、盛子については史料が少ないね。
「御堂関白記」などの一級史料に現れない点、
仮に道長の娘であったとしても、卑母だったのかもしれない。
明子の娘だとしても、待遇が劣っているような・・・
5日本@名無史さん:2007/06/14(木) 16:08:32
>4
嬉子の没年、1025年。ありゃりゃ・・・
6日本@名無史さん:2007/06/14(木) 18:47:37
彰子・妍子・威子・嬉子(母・源倫子)→摂関家一軍
寛子・尊子(母・源明子)→摂関家二軍
7日本@名無史さん:2007/06/14(木) 19:08:55
摂関家一軍、二軍は当てはまらないな。
息子なら、
母源倫子=摂関になった(頼通、教通)
母源明子=摂関になれなかった(頼宗、顕信、能信、長家)
って感じだが。
倫子と明子の息子たちの出世の差が、どれくらいの時期に定まったかも検証の余地あり。
明子腹の寛子は、当初、東宮妃候補と目され、
結局、敦明親王が廃太子に追い込まれたためそうなれなかったものの、
天皇の中宮に立てられる可能性も十分にあった。
倫子が重んじられたのは、彼女が長女彰子をはじめ、
持ち駒となる娘を多く持ったことも大きく、
倫子(宇多天皇の曽孫)と明子(醍醐天皇の孫)の妻の格差がはじめからあったとも思えない。
8日本@名無史さん:2007/06/14(木) 19:43:47
明子は父が流罪並びに政界復帰ならず、方や倫子の父は左大臣のまま死去。
道長が17歳の時に明子父が死去していることもあり、東三条院から後見されていた
明子であっても、倫子とはお互いの婚姻当初から、格の違いがあったと思う。
9日本@名無史さん:2007/06/14(木) 21:07:29
明子の父源高明が安和の変で失脚したことは認めるが、
明子はその後父の弟醍醐皇子盛明親王の養女となり、
さらに道長の姉東三条院詮子の養女になっているから、
それほど悲惨な待遇であったわけではない。
東三条院の養女になった経緯は、永井路子の「この世をば」では
藤原氏の多氏排斥への反省と怨霊対策のように述べられているが、むしろ、
明子の母は東三条院や道長の父兼家の妹であり、
明子はいとこにあたっていた血縁関係の近さにあるように思う。
倫子の父源雅信は、左大臣の要職にあり、道長も結婚当初は気を使っただろうが、
倫子は雅信晩年の子で(後妻との子)、雅信は孫の彰子の入内を見ずに死んでいる。
高貴な家柄の姫君でも父の死により失脚する例はあり、
倫子の兄弟は凡人で全く出世しなかったため、兄弟に頼ることは不可能で、
倫子が絶対的優位にあったとは思えない。
東三条院の四十の賀の席でも、一条天皇が倫子腹の頼通を差し置いて、
明子腹の頼宗に衣装を与えたのを、
倫子が見咎めて道長に文句を言う話が「御堂関白記」に出てくる。
10日本@名無史さん:2007/06/14(木) 21:33:58
藤原朝臣頼通(992〜1074、83歳)
 正五位下(1003、12歳)→侍従→右少将(1003)→従四位下(1004、13歳)→従四位上(1005)→
 従三位(1006、15歳)→正三位(1006)→従二位(1008、17歳)→権中納言・左衛門督
 (1009、18歳)→正二位(1011、20歳)→権大納言(1013、22才)→左大将(1015、24歳)→
 内大臣(1017、26歳)→摂政(1017、26歳)→関白(1019、28歳)→従一位(1021、30歳)→
 太政大臣(1021、30歳)→関白(1045、54歳)→左大臣辞任(1060、69歳)→太政大臣
 (1061、70歳)→太政大臣辞任(1062、71歳)→准三宮

藤原朝臣教通(996〜1075、80歳)
 正五位下(1006、11歳)→侍従(1006)→右兵衛佐(1007)→右少将(1007)→従四位下
 (1008、13歳)→右中将→従四位上(1008)→左(権?)中将(1009)→従三位(1010、15歳)→
 正三位(1011、16歳)→権中納言(1013、18歳)→従二位(18歳)→検非違使別当(1013)→
 正二位(1015、20歳)→左大将(1017、22歳)→権大納言(1019、24歳)→内大臣(1021、26歳)
 →皇太子傅(1037、42歳)→皇太子傅(1046、51歳)→右大臣(1047、52歳)→従一位
 (1058、63歳)→左大臣(1060、65歳)→氏長者(1064、69歳)→関白(1068、73歳)→
 左大臣辞任(1069、74歳)→太政大臣?(1069?74歳?・1070?75歳?)→太政大臣辞任?
 (1071、76歳)→贈正一位

藤原朝臣頼宗(993〜1065、73歳)
 従五位上(1004、12歳)→侍従(1005)→右兵衛権佐(1005、13歳)→正五位下(1006)→右少将
 (1007)→従四位下左(権?)少将(1007、15歳)→右(権)中将(1009)→従四位上(1009)→
 正四位下(1010)→従三位 (1011、20歳、19歳?)→正三位(1012)→従二位(1013、21歳)→
 権中納言(1014、22歳)→右衛門督(1016、24歳)→検非違使別当(1016)→左衛門督
 (1017、25歳)→正二位(1018、26歳)→権大納言(1021、29歳)→按察使(1028、36歳)→
 右大将(1045、53歳)→内大臣(1047、55歳)→従一位(1058、66歳)→右大臣(1060、68歳)→
 出家(1065、73歳)
11日本@名無史さん:2007/06/14(木) 21:36:33
藤原朝臣能信(996〜1065、70歳)
 従五位上侍従(100611歳)→右兵衛佐(1007)→蔵人(1010)→正五位下(1010)→少納言(1011)
→蔵人→従四位下(1011、17歳)→左権中将(1013)→従四位上→蔵人頭(1013)→従三位
 (1014、19歳)→左京大夫(1014)→正三位(1015)→左(右?)権中将→従二位(1016、21歳)→
 権中納言(1017、22歳)→正二位(1018、24歳)→左兵衛督(1020、26歳)→権大納言
(1021、27歳)→按察使(1033、39歳)→贈正一位太政大臣(1073)

藤原朝臣長家(1005〜1064、60歳)
 従五位上(1017、13歳)→侍従→右(権?)少将(1017)→正五位下(1018)→権中将→従四位下
 (14歳)→従四位上(1018)→正四位下(1019)→従三位(1022、18歳)→正三位(1023)→
 権中納言(1023、19歳)→従二位(1024、20歳)→正二位(1024)→権大納言(1028、24歳)→
 →按察使(1038、34歳)→出家(1064、60歳)

どうみても任官当初から差を付けられてます。
12日本@名無史さん:2007/06/14(木) 21:40:56
あの時代にしてはみんな長生きだね。
13日本@名無史さん:2007/06/15(金) 08:53:34
>11
頼通、教通の同母姉が中宮彰子であった影響が大きいと思うよ。
彰子は道長の第一子でかつ長女であり、
彰子が一条天皇の中宮に立てられたとき(1000年)、
頼通は9歳、明子の長子頼宗は8歳で、まだ元服もせず、任官もしていなかったため。
彰子の入内以前から差がついていたのならば、倫子が正室、明子が第二夫人であったせいだといえようが、
彰子の入内以前から腹違いの兄弟に差がついていたことの証明にならない。
倫子が女子に恵まれず、一条天皇に入内したのが明子の娘であったならば、
あるいは、倫子が四人も娘を産まずに仮に一人でも明子の娘が天皇の中宮に立てられていたならば、
歴史は変わったと思う。
14日本@名無史さん:2007/06/15(金) 09:42:47
彰子があそこまで長寿じゃなくて、教通と能信の没年が逆だったら、
能信系が摂家になった可能性はあるな。
15日本@名無史さん:2007/06/15(金) 12:35:13
後三条ー白河親子にとっては、後三条立太子の立役者、能信には頭が上がらなかっただろうね。
白河は常日頃、「この祖父(能信は、白河の母藤原茂子の養父)なかりせば(今の自分はなかっただろう)」
といっていたというし、能信は後三条の即位を見ずに権大納言でなくなったけれども、
後三条即位後、養子の能長は内大臣に就任、能信が生きていれば大臣昇格は確実だったろうね。
能長は実兄を超えてはならないという理由で右大臣就任を辞退していたから、
能信ならば、甥たちを超えて生前に太政大臣に就任していたかもしれない。
摂関になれたか、というのは、どうかなあ。
能信自身は後三条の外祖父ではないので、白河天皇の関白になれたかということなんだけど。
白河天皇は、頼通の子藤原師実の養女賢子(師実の妻源麗子の弟顕房の子)を寵愛、
恩義ある能長の娘女御道子を退けて、賢子を中宮としたからね。
能信、後ろ盾のない後三条立太子の手腕は見事で、
頼通や教通よりも有る意味、有能だったろうけどね。
ちなみに、能信には実子がなくて、
後三条天皇の東宮妃藤原茂子は養女(茂子は、能信の妻ネ止子の弟の子)、
能長は養子(実際は、能信の実兄頼宗の三男)だね。
16日本@名無史さん:2007/06/15(金) 17:54:26
>>14
もし能信が白河天皇即位後まで長生きしてくれたら、
倫子系直系の没落がもっと激しかったかも。

歴史への「もし」は、後世の人間が楽しむためだけに存在しているけどね。
17日本@名無史さん:2007/06/15(金) 18:30:35
一つ言えるのは倫子も明子も高齢出産
18日本@名無史さん:2007/06/15(金) 19:15:14
彰子・頼通・教通は母倫子の血を引いてか長生きなんだよね。
結局この一番重要な人物達が長生きしたことが権勢維持の秘訣か。
でこの三人が相次いでなくなると、瓦解してしまった。
もう一世代前なら完全に零落していたかもしれない。
19日本@名無史さん:2007/06/15(金) 19:29:15
道綱も同母姉妹に国母がいなかったためかな。
才能の問題という気もするけど。
20日本@名無史さん:2007/06/15(金) 19:47:11
道綱は無能だったが異母弟の道長のおかげで大納言になれたらしい。
21日本@名無史さん:2007/06/15(金) 20:00:14
道長は、無害な異母兄道綱を「よろずの兄君」と呼んで厚遇したみたいだね
道綱が蹴落とされんかったのは、道綱に同母姉妹がなかったこと、
無能だったことが幸いしたのかな
道長は道綱を倫子の同母妹の婿に迎え、一時、土御門殿に一緒に入り婿同居してたらしい
(この道綱妻は早逝したが)
道長は道綱を大臣にしたかったらしいが、やっぱり能力に問題あったらしい
22日本@名無史さん:2007/06/15(金) 20:30:20
日本教育ママの走りって感じの才女のお母ちゃんがついていたのにね。
23日本@名無史さん:2007/06/15(金) 20:34:31
顕光も無能だ何だとぼろくそに言われているが左大臣。
それより酷いとすると本当にどうしようもない無能人物だったのだろうか。
まあ顕光も若い頃は蔵人頭だったりするし、あれは本当の馬鹿じゃあ勤まらないと思うか
らまあ普通の無能だったのか、若い頃はまともでぼけただけだろうか?
24日本@名無史さん:2007/06/15(金) 20:47:52
後三条天皇が誕生しなかった場合、小一条院系に皇統が遷ったりするのかな?
25日本@名無史さん:2007/06/15(金) 20:57:38
学者の中には、なぜ頼通は、藤原氏と縁が薄い後三条を廃太子にして、
異母妹寛子が産んだ小一条院の皇子を天皇にすえなかったかといってる人もいるみたいだね
顕光女延子が産んだ皇子に帝位がいくことはなかったと思うけれども、
寛子の皇子ならば可能性があったと思う
道長ならきっとそうしていただろうと
26日本@名無史さん:2007/06/15(金) 21:52:06
一条以後後三条までの3世代6人の天皇は全員が兼家の遺伝子を1/4保持。
単純に外孫である一条・三条はまだしも、後三条あたりは何重にも兼家の血を受け継い
でいる。さすがにもう限界だったのかもしれない。
27日本@名無史さん:2007/06/15(金) 21:53:56
>>25
同母妹の外孫と異母妹の子とどっちを選ぶかってところか。
自分に駒がないから悩ましいところだ。
28日本@名無史さん:2007/06/16(土) 08:47:44
この時代、天皇の外戚として権力を振るうには、
天皇の外祖父か外舅(叔父、伯父)であることが重要だったから、
それだったら異母妹の子のほうがまだましだったろうね。

後三条にしても、もともと母の禎子内親王(三条皇女)は、外祖父道長にかわいがられ、
嬉子没後の東宮時代の後朱雀後宮に入内した際、道長の命令で頼通が同行して後見人になっている。
若くして父母をなくした禎子内親王は、伯父の頼通をとても頼りにしていた時期があったんだよね。
もっとも、頼通は、姉彰子の勧めもあり、後朱雀の後宮に養女の女原子を入れたため、
禎子内親王はこれを激怒、頼通に反抗的な異母弟能信が禎子内親王に付け入る隙を与えてしまったわけだけだが。
これ以後、養女の入内が増えるから、どの妃を後見するか、これは重要なことだったかもしれない。
29日本@名無史さん:2007/06/16(土) 13:01:10
>23
顕光が左大臣に就任したのは、道長が全体的な権力を握る前だよね。
顕光の就任時、道長の長女彰子はまだ入内していない。
顕光は、自分の娘を蹴落として立后した彰子の祝いに駆けつけたりしていたから馬鹿にされていたけれども、
本当に馬鹿だったかどうかはわからない。
若死にした異母弟に、生前官位を越されていたようだから、
見栄えが悪くて要領の悪い人だったのかもしれないけれど、
そんなに馬鹿でもなかったんじゃないのかな。
30日本@名無史さん:2007/06/16(土) 13:09:03
>29
訂正。
彰子の入内前の顕光の官職は、右大臣だった。
顕光が左大臣に就任したのは、寛仁元年3月。
当時、娘婿の敦明親王は東宮で、顕光が東宮ふだった。
この年の8月、敦明親王は東宮辞退。
31日本@名無史さん:2007/06/16(土) 14:16:16
実資は多分他人がみんな馬鹿に見えちゃう人だったんだろうな。
まあ自分が実力ほど報われていないと思うと、無能な上司や同僚は腹立たしくて、
実際以上に無能に思えるかもしれない。
ところで、不思議と四納言の子孫は公家につながってないな。
32日本@名無史さん:2007/06/16(土) 14:53:43
>>31
四納言は、いずれも時が時なら摂関になってもおかしくないような家柄の子息なのにね。
娘を天皇にいれようなんて思いもよらず、それどころか、娘を道長の息子の嫁にしようと必死になっている。
藤原公任の長女は道長五男教通の正室、藤原行成の娘は道長六男長家の正室だね。
実資は、道長を批判している割に、一時、一人娘を道長長男頼通の正室に、と請われたことがあったようで、
このときばかりは浮き足立っているね。
結局、この縁組はなかったことになったようだけれども。
33日本@名無史さん:2007/06/16(土) 16:34:38
源俊賢の醍醐源氏、藤原公任の小野宮流、藤原行成の世尊寺流も白河院政の
初期は活躍している。源俊明は閑院流公実が摂政就任を望んだ時、猛反対して
白紙に戻し、藤原通俊(小野宮流)は大江匡房と並んで重用され、行成の孫・
伊房も「前の三房」の一人に数えられている。

ただ、彼らが法皇の独裁を抑制する存在で煙たがられたのも事実。結局、藤原
為房の子孫・勧修寺流が実務官僚の地位をほぼ独占することになってしまった。
宇多源氏(倫子の一族)は音楽で、世尊寺流は書道で身を立てることができたので
生き残れたが(ただし、世尊寺流も結局は断絶)。
34日本@名無史さん:2007/06/20(水) 10:34:25
道長時代に話を戻すけど、源俊賢は、道長の妻明子の異母兄でありながら、
退出する藤原定子の供を勤めたり、一線を画している。
けして明子の縁で道長に擦り寄ることなどない人だったけれども、
それでも、四納言の一人として道長が重用するほど、有能であったんだろうね。
明子の同母弟経房は、姉明子と道長の結婚の際、幼少だったために姉に伴われて
道長の庇護を受け、その後、やはり官僚として活躍している。
逆に、倫子の兄弟は、中宮彰子の立后時に中宮職の官僚として取り立てられたりしたのに、
その後あまり出世していない。
倫子の子の出世ぶりとは対照的。
35日本@名無史さん:2007/06/21(木) 13:11:40
道隆の場合高階は家格が低すぎてあまり取り立てようがなかったけど、
左大臣の息子なんだから有能だったらもっと出世してもよいよな。
やっぱり親が流罪になったりして苦労してるのと、
裕福な高官の子供としてぬくぬくと育ったのとじゃあ、
人間の出来が天と地ほど違っても仕方がないのかな。
36日本@名無史さん:2007/07/11(水) 20:50:18
平安時代になれば、正妻とそれ以外の妻が産んだ子は出世のスピードはかなり違うもんなのかな
37日本@名無史さん:2007/07/12(木) 18:31:43
>>36
この時代は通い婚だし、後の時代のような正室、側室の区別は明確にはなかったようだけれどもね。
例えば、藤原道長の祖父藤原師輔、この人は、醍醐天皇の皇女を3人までも妻にした。
このうち、勤子内親王、雅子内親王には子がなかったけれど、
村上天皇の同母姉康子内親王には深覚、公季などの男子があり、血筋は妻たちの中で最も良い。
しかし、師輔の子の中で摂政、関白になったのは、いずれも中流貴族に過ぎない
武蔵守藤原経邦女、盛子の産んだ伊尹、兼通、兼家ら。
師輔と盛子の間には村上天皇中宮藤原安子があり、兼家らは同母妹安子の恩恵をかなり受けたようなんだね。
一方、藤原道長の母は、やはり中流貴族の摂津守藤原仲正女、時姫。
時姫もまた、兼家の妻の中で特に身分が高かったわけではないけれども、
道長らは同母姉妹の冷泉天皇女御藤原超子、円融天皇女御藤原詮子の恩恵を受けた。
ちなみに兼家の妻には、「蜻蛉日記」を書いた伊勢守藤原倫寧女、道綱母や、
太宰大弐藤原国章女、対御方(三条天皇尚侍の母)があって、
いずれも出自は時姫と同じく国司クラスの中流貴族の娘、
兼家には三人の妻があった、としている史料もあることから、
これら三人の妻たち自身には特に序列はなかったようだ。
同母姉妹に天皇妃が出ると、その同母兄弟たちは恩恵を受けたけれどもね。
38日本@名無史さん:2007/07/12(木) 22:02:23
雅子内親王には高光や為光などの息子がいたよ。
源明子の生母愛宮も雅子の娘。
兼家は村上天皇皇女保子も妻にしていたよ(夫婦関係はほとんどなかったらしいが)。
39日本@名無史さん:2007/07/13(金) 18:14:28
実資は自分の家が藤氏嫡流の意識が強かったせいかプライドが異常に高い
40日本@名無史さん:2007/07/13(金) 22:23:20
実資が三条天皇の強行した娍子立后の儀式に参列したのも、小野宮流の矜持だろうね。
41日本@名無史さん:2007/07/15(日) 17:18:31
同じ小野宮家の藤原公任が、藤原道長べったりで、
道長の五男坊を自分の長女の婿に迎えて
孫娘の入内を夢見ているのとは大違いか・・・
42日本@名無史さん:2007/07/15(日) 21:19:50
実資より公任のほうが合理的だね
ところで教通(と公任の娘)の子孫って何家なの?
43日本@名無史さん:2007/07/18(水) 17:49:07
教通の子・信長には、兼実・知房・信子(師通の室)などの子がいたが
「はかばかしき末もおはせぬなるべし」(『今鏡』)とあるので、繁栄せず
断絶したものと思われ。信長は承暦4年(1080年)に太政大臣になるが、席次が
関白・左大臣の師実よりも下だったことから「もう出仕はしない」と怒り狂い
参内のための牛車を燃やしたそうだ(『古事談』)。
44日本@名無史さん:2007/07/18(水) 20:57:29
どの本で読んだか忘れたが信長は太政大臣に「左遷」されたと書いてあった。
その当時は太政大臣で左遷かよ!と思ったが、実験が伴わず席次が関白の下じゃあ
左遷と思ってもおかしくないか
45日本@名無史さん:2007/07/18(水) 23:26:35
頼宗や長家の子孫がわりと繁栄しているから教通の子孫も繁栄していると思ったら滅んだんだね・・・
では公任の子孫は今は・・・
46日本@名無史さん:2007/07/25(水) 17:17:11
公任や実資の子孫だけでなく、小野宮流(実頼の子孫)全てが断絶です。
                       by『尊卑分脈』   
47日本@名無史さん:2007/07/27(金) 20:01:06
藤原公任の家系はしばらく残っていたけど、
鎌倉時代ぐらいに断絶したんじゃなかったかな。
48日本@名無史さん:2007/08/26(日) 01:41:36
こうやって見ると道長って能力、本人の努力に加えて運にも恵まれてるな
兄達の早逝、特に道兼の死がなかったらその後の展開は変わったはず
子出しが良く体が丈夫な源倫子という妻にも恵まれて
49日本@名無史さん:2007/08/26(日) 03:49:05
上東門院彰子は可哀想
子には先だたれ同母兄弟姉妹の中で残ってたのは教通だけか
50日本@名無史さん:2007/08/26(日) 06:59:13
道長の娘たちの中では最も早死に
甥と結婚させられて19歳で産で死んだ
六女嬉子よりましだろう
51日本@名無史さん:2007/08/27(月) 05:11:04
>>50
勿論貴方の言う通り
これからっていう人生を失ったのだから
ただ長生きしすぎた不幸せというのも有ると思う
52日本@名無史さん:2007/08/27(月) 23:19:00
嬉子(よしこ)が生まれたとき、道長は42歳。倫子は44歳。すごいな・・・。
嬉子が長命だったら、禎子(よしこ)内親王は後朱雀天皇の后にならず
後三条・白河の登場も無かっただろう。もっとも、頼通・教通の娘たちは
皇子を産まなかったので、結局は同じことかな?円融天皇の系統も、あるいは
断絶になっていたかも。
53日本@名無史さん:2007/08/28(火) 00:29:35
隆家が花山法皇に矢を射かけたという話はどの程度の信憑性?
大鏡以外にソース有るの?
54日本@名無史さん:2007/08/28(火) 06:09:29
>>53
当時の一級史料、小右記、日本紀略等々に
記載があるのだが
特に、藤原実資による小右記には
犯人確定にいたるまでの詳細が載っている
55日本@名無史さん:2007/08/28(火) 15:09:44
結局は国母である彰子の存在が一番大きかったのだと思う。
寛子が長生きしていれば、寛子の子に皇位がいった可能性は有ると思う。
56日本@名無史さん:2007/08/28(火) 16:27:09
>>55
頼通が異母妹寛子の皇子を登位させなかったのは、
頼通に敵対心をもろに見せる、寛子の同母兄能信や、
従順そうに見えて、さりげなく娘を後宮に押し込む頼宗を恐れていたんだと思う。
頼宗、能信らは、腹違いとはいえ紛れもなく道長の息子で、
同母妹の寛子が仮に長生きして、国母、皇太后に納まるようなことになったら、
当然、上東門院に匹敵する権力を手中にした寛子の贔屓で摂関の地位が狙えるはずだった。
寛子の皇子が登位しなかったのは、寛子の早世のせいではなく、頼通や彰子の意向だと思う。
三条天皇や後冷泉天皇は、生母の死後に登位しているから、生母が存命であることが絶対だったわけではない。
小一条院は、妍子と争った皇后娍子の皇子、しかも寛子の皇子は明子腹の兄弟たちによって庇護されている。
彰子や頼通自身が、異母妹の生んだ小一条院の皇子よりも、彰子の直系の孫に当たる後三条の即位を望んだのだと思う。
事実、後三条の中宮馨子内親王(後一条と威子の皇女)は、威子の死後、上東門院彰子の後見を受けており、
馨子内親王の皇子が登位していれば(実際には早世)、彰子と頼通は政治の中枢に居続けることができたはずだった。
57日本@名無史さん:2007/08/28(火) 19:40:16
今更だがものすごい近親結婚社会だな
58日本@名無史さん:2007/08/28(火) 19:50:26
道長に養女はいても養子がゼロだったのは史実か。基経など他に例は散見出来る筈。
59日本@名無史さん:2007/08/28(火) 22:47:12
猶子はいたけど、養子はいたっていう証拠はないよね。いなかったって断言は出来ないけど。
60日本@名無史さん:2007/08/30(木) 10:54:36
道長の養子(家系図上、道長の子と記載される)となったとされる人物
・藤原通基(道長五男教通の子。祖父道長の養子となる)

道長の猶子(家系図は実父のところに入っているが、道長と義親子関係にあった)とされる人物
・藤原兼経(道長の異母兄道綱の子。実母は道長室倫子の同母妹で、
       兼経を産んだとき産でなくなってしまったので、母の姉倫子の手元で育った)
・藤原兼隆(道長の同母兄道兼の子。父道兼が死んだとき幼少であり、母藤原遠量女が別の公家と再婚後、
       道長の庇護下に置かれる。道長が加冠を勤めるなどした)

道長に幼少期から庇護を受けた人物
・源経房(道長室明子の同母弟。父源高明が死んだとき幼少で、姉明子が道長の妻となった際、
      姉に伴われて道長の庇護を受けた。明子腹の能信などと親しかったとされる)
61日本@名無史さん:2007/08/31(金) 02:17:56
>>56
道長も倫子の生んだ子女とそれ以外の出生の子供とでは
きっちり序列を付けてるみたいだし。そのせいかは知らんが
頼宗と能信などは、結構問題のある行動を起こしてたみたいだな。
62日本@名無史さん:2007/08/31(金) 10:34:45
まあ頼通は長兄だから仕方がないとも思うだろうけど、
大して有能でもなかったらしい弟の教通ごときの後塵を拝させられたら腹も立つよね。
63日本@名無史さん:2007/08/31(金) 17:00:07
彰子腹の天皇に明子系の娘を貼り付けてれば同じ叔母甥の結婚でも少しはましなわけで、
案外ぽろぽろと皇子が誕生していたかもしれない。
64日本@名無史さん:2007/08/31(金) 23:08:30
まあ、尊子は子沢山だったらしいからね
後朱雀天皇がもう少し生きていたら延子も二人目以降生んでいた可能性もある。
65日本@名無史さん:2007/09/01(土) 13:13:01
>>63
彰子腹の天皇に明子腹の女子でもあんまり変わらない。
結局、生まれた子供に頼通、教通、頼宗の女子が張り付くのだから、
同じ結果。
66日本@名無史さん:2007/09/01(土) 14:09:57
考えてみると後一条天皇、後朱雀天皇、威子、嬉子の4人って兼家・時姫・円融天皇・倫子の血しか引いてない。
さらにこの組み合わせから生まれた後冷泉天皇と章子内親王ではさすがに純粋培養が過ぎる。
まずまともな子にはなりそうもないな。
それともとてつもない天才が生まれるかも。

後一条天皇、後朱雀天皇
 兼家1/4・時姫1/4・円融天皇1/4・倫子1/4
威子、嬉子
 兼家1/4・時姫1/4・倫子1/2
後冷泉天皇、章子
 兼家1/4・時姫1/4・円融天皇1/8・倫子3/8
仮に後冷泉と章子に皇子誕生として
 兼家1/4・時姫1/4・円融天皇1/8・倫子3/8
67日本@名無史さん:2007/09/01(土) 14:45:25
ちなみに後三条天皇は
村上天皇1/8、師輔3/16、盛子(兼家と安子の母親)3/16、時姫1/4、倫子1/4と後冷泉天皇、章子内親王、馨子内親王に劣らず濃い。
68日本@名無史さん:2007/09/01(土) 15:15:19
>>62
教通の、同母兄頼通に対する追い上げもすごいからな。
教通は、親が決めた正室藤原公任女が産でなくなった後、
かつて兄頼通に降嫁の噂のあった三条天皇皇女℃q内親王に求婚、
妻にしたが、これにより兄弟一身分の高い正室を持った。
教通は五男坊にもかかわらず、男兄弟内では一番早くに子を儲け(公任女との間の長女生子)、
兄弟内では先陣を切って生子を後一条天皇に入内させようとするも、頼通と後一条中宮威子に阻まれる。
結局、後朱雀に入内していた頼通養女の死後、生子を後朱雀に入内させたが、摂関の娘でも国母でもないからと立后を阻まれ、
後冷泉に入内させた三女歓子は、あとから入内した年下の頼通の娘寛子が立后するのを見送るしかなかった。
教通は、姉上東門院の意向もあり、晩年頼通から関白を譲られるにいたったが、
関白就任の同日、真っ先に娘の歓子を立后させる。これにより後冷泉天皇一人に対して、后が三人並び立ったが、
(皇太后章子内親王、皇后藤原歓子、中宮藤原寛子)
これはもう、教通の執念に近い。
69日本@名無史さん:2007/09/01(土) 15:25:16
細かく言うと兼家・時姫・円融天皇・倫子自体親類同士だし、
恐るべき血の凝集、血統書付きの犬猫ってこんな感じ?
70日本@名無史さん:2007/09/01(土) 16:12:46
この時代、天皇は配偶者を選べないからね。
それに対して、摂関家はある程度選べる。
藤原師輔ー藤原盛子
藤原兼家ー藤原時姫
藤原道隆ー高階貴子
これらは男が摂関家の子息であるのに対して、妻は受領階級、
いろいろいわれることもあるが、近親婚ではない。それに対して、
藤原道長ー源明子(従兄妹同士。明子の母愛宮は、道長の父兼家の異母妹)
源倫子と道長は多少離れるが、倫子の祖母(時平女)と道長祖父師輔がいとこ。
道長は少し近親から妻を選びすぎたかもしれない。
道長以降は、摂関家同士での近親婚も起こる。
同じ道長の子孫同士、摂関家嫡流となった倫子系子孫が、明子系の子孫から妻を娶る。
藤原師実(頼通の子・倫子孫)  −源師房女麗子 (尊子の子・明子孫)
藤原師通(師実の子・倫子曽孫) ー藤原俊家女全子(俊家は頼宗の子・明子曽孫)
藤原忠通(師通の子・倫子曽々孫)ー藤原宗通女宗子(宗通は俊家の子・明子曽々孫)
倫子系と明子系の融合が起こる。
71日本@名無史さん:2007/09/01(土) 19:12:46
結局同等か直近下位としか婚姻関係を結ばないからどうしても最上層は近親婚にならざる得ない。
明みたいに皇后は下級官吏とかから選んだ方が血統的にも政治的にも得策かも。
武士は側室の子が多いから比較的活力を維持できたんだろうか。
72日本@名無史さん:2007/09/01(土) 21:10:55
>>70
忠通は師通の孫(忠実の息子)。
忠通の母源師子は源麗子の姪。
忠通と宗子には五人ほど子供がいたらしいが皇嘉門院聖子以外は全員夭折。
忠実は麗子の別の姪との間にも数人子供がいたがこれまた全員夭折。
73日本@名無史さん:2007/09/02(日) 13:38:21
教通って若い頃ははお母ちゃんのひいきで、晩年はお姉ちゃんのひいきでやっと昇進した感じ。
中間は五月蠅い頼宗や能信を押さえるために頼通が利用した感じ。
道長における顕光や公季見たいな役割で。
74日本@名無史さん:2007/09/04(火) 17:38:43
教通は、摂関家内争を目論む後三条天皇にも利用されたけどな。
摂関家を外戚としない後三条天皇が登位すると、
教通は関白辞任を申し出たが、後三条天皇はこれをとどめた。
後三条天皇は、頼通の息子師実ではなく、教通が息子の信長に関白を譲りたい意思
を見せるのを許容する一方で、師実の養女賢子の東宮(のち白河天皇)入内を認め、
頼通、教通の兄弟争いを煽っていた形跡がある。
75日本@名無史さん:2007/09/05(水) 10:58:23
結局、>>2にある道長の娘たちの中で、現代にまで血を残せたのは
彰子(後朱雀天皇〜)
妍子(禎子内親王→後三条天皇〜)
尊子(村上源氏)
だけってことかな?

この三人の中でもなんだかんだ言って
夫が出世して長生き・大勢の子供も出世して長生き・自分自身も長生きな
尊子が一番穏やかで幸せな人生だったんじゃないかと思える。
源師房と結婚するときには「ただ人」だとがっかりした尊子も
孫の賢子が東宮貞仁親王に入内するときは嬉しかっただろうな。
76日本@名無史さん:2007/09/05(水) 13:23:20
尊子は道長の娘たちの中では一番扱いが低くて、
(美人ではなかったという説もある)
未婚時代は六人の娘たちの中では一番
父道長からの愛情が薄そうだったけれどもね。
息子の顕房が有能だったから、報われた面はあるけれども。
77日本@名無史さん:2007/09/08(土) 23:57:39
>>75
尊子は娘も摂関家に嫁いでるから子孫の数はとんでもないだろうなw
>>76
一番美人は妍子だっけ?
派手好きで、だけど自分の死期を悟るや
悲しむ道長を尻目に毅然とした態度で出家に臨んだという。
78日本@名無史さん:2007/09/11(火) 03:28:39
>>77
麗子だね>摂関家に嫁いだ娘

師房・尊子の長女である女元子も頼通の長男通房に嫁いだけど
通房は早くに死んでしまった。

四女の麗子は藤原信家(教通長男)の養女になり、
信家は東宮(後三条)に入内させたいと思っていたらしい。
しかし馨子内親王に遠慮して結局師実を婿に迎えたとか。
結果としてこれは大当たりだったんじゃないかな。
麗子は師実の嫡男師通を生み、
養女にした姪の賢子は皇子を生んで中宮にまでなった。
麗子は村上源氏の発展に少なからず貢献したと言えるかもしれない。
79日本@名無史さん:2007/09/11(火) 16:58:11
>>77
妍子については顔の描写はないけれども、栄華物語に、髪がとても長いと褒めちぎっている。
髪が長いことは、美人の条件だったけれどもね。
母親の倫子のほうは、小柄で大層ふっくらしている、とあるみたいだね。
当時、40を超えていたはずの倫子を20ぐらいに見える、とあるのはいいすぎだとしても、
栄華物語の作者は、倫子の娘に仕えた女房だといわれているから(最有力は赤染衛門)、
当然、倫子とも面識があったはずで、倫子は小柄でぽっちゃり、童顔の女性だったと考えていいみたいだね。
妍子は、男子2人を生んで道長に貢献した姉彰子と常に比較されるも女子しか生めず、
夫三条天皇とも道長の意向で別居状態になったから、ちょっと羽目を外していたのかな?
妍子付きの女房が、十二単を20枚も重ねて着るという派手なことをやって、
責任者の頼通が父道長に叱られているけど、気の毒な面もある。
80日本@名無史さん:2007/09/11(火) 22:43:13
倫子は高齢出産したぐらいだから肉体的にも若々しかったのだろう
81日本@名無史さん:2007/10/08(月) 12:39:59
彰子は小柄な人だったらしいけどね
82日本@名無史さん:2007/10/12(金) 20:10:20
>>80
44歳の時に末の子を産んだんだっけ?
83日本@名無史さん:2007/10/12(金) 20:34:22
倫子は44歳で末子嬉子を産んだが、
同年、道長のもう一人の妻明子も尊子を産んでいる
明子の正確な年齢はわからないが(倫子の1歳年下説が有力)
どっちみち40歳は過ぎていた
84日本@名無史さん:2007/10/12(金) 21:03:42
このころの貴族の女性って頑健な人は滅茶苦茶健康で、寿命もなんか長短両極端だな。
85日本@名無史さん:2007/10/12(金) 21:06:32
倫子は父母とも相当な長命、出産とかで早死にした娘も多いが、
残る長女と息子は二人は当時としては嫌になるほど長寿。
やはり遺伝的なものも大きいのかな。
孫はさほど長生きじゃないけど。
86日本@名無史さん:2007/10/12(金) 22:27:09
倫子の孫は、長命だった人もいるよ。
藤原寛子(92歳で没・長男頼通の娘)
藤原歓子(82歳で没・五男教通の娘)
禎子内親王(82歳で没・次女?子の娘)
章子内親王(79歳で没・四女威子の娘)
藤原信長(73歳で没・五男教通の息子)

源明子も、源倫子が死ぬ4年前になくなっていて、そこそこ長生き。
明子の孫源俊房は、87歳まで生きている。
87日本@名無史さん:2007/10/12(金) 22:35:06
明子の両親の寿命は?
88日本@名無史さん:2007/10/12(金) 22:42:39
そうですか、早死にした後一条とか通房の印象が強すぎて。
まあしかし大体このころの天皇は長生きできないことが多いですね。
さっさと退位した(させられた)陽成・冷泉はともかく、
宇多や白河あたりはよほど頑健だったのかな?
まあこの二人も在位自体は長くはないけど。
89日本@名無史さん:2007/10/12(金) 22:45:26
父親の方は69だから少なくとも早死にじゃあない。
安和の変がなければほぼ間違いなく70超えただろうな。
90日本@名無史さん:2007/10/12(金) 22:45:28
源明子の両親

父;源高明(914−983)70歳で没
母;藤原愛宮(生没年不詳)

明子の母愛宮は、道長の父兼家の異母妹なので、道長と明子は従兄弟同士。
91日本@名無史さん:2007/10/13(土) 08:39:36
このころの女性は出産で命を落とさなければ(あと、はやり病に引っかからなければ)そこそこまで
長生きだったんだろう。
ただ、初産年齢が比較的低い(現代で言う中高生)のと多産が多いので、体への負担が非常に大きい
92日本@名無史さん:2007/10/13(土) 17:45:29
愛宮の母親は雅子内親王だからすごい近親婚だな
93日本@名無史さん:2007/10/13(土) 19:02:55
雅子って皇太子妃の?
あの人は小和田の出身だから内親王ではないよ。
94日本@名無史さん:2007/10/13(土) 19:04:36
雅子妃の娘さんは愛宮でなくて愛子。
95日本@名無史さん:2007/10/14(日) 00:11:59
>>93-94
釣り?それともマジで言ってんの?
96日本@名無史さん:2007/10/14(日) 04:00:09
>91
初産年齢が低いと早死にの傾向はあったかもしれないね
藤原教通の最初の妻藤原公任女は、十代半ばから産み始めて
24歳で7人目の子を産んで死んだ
倫子も明子も当時としては晩婚で、いずれも20代後半で初産だった。
(倫子が第一子彰子を産むのは25歳)
子供のいない女性や少ない女性は、長命だった人が少なくない。
97日本@名無史さん:2007/10/14(日) 13:35:49
>>92
愛宮の母雅子内親王は源高明の同母姉。
明子の両親、源高明と愛宮は叔父と姪の結婚。
源高明は最初藤原師輔の三女を妻としていたけれども、
この妻が早世したため、亡き妻の異母妹愛宮と結婚した。
98日本@名無史さん:2007/10/14(日) 15:22:55
話変わるけど、教通の子孫って断絶だよね確か
教通の息子信長と師実の間で確執があったと、何かの本で読んだけど
その影響なんかな?
99日本@名無史さん:2007/10/14(日) 17:03:08
教通の息子・娘たちの家系は子孫がいなくて断絶。
教通は息子の信長に関白を譲りたがったが、
白河天皇の中宮賢子の養父である師実が関白になったという事実はあるが、
別に関白になれなかったところで子孫は続いていくので、政権争いと断絶は別物。
師実の正室で嫡男師通の母である源麗子は信長の養女で、
この系統は摂関家内に残ったが、教通の血は引いていない。
100日本@名無史さん:2007/10/15(月) 09:46:11
ふと思ったんだけど、道長の同母兄弟はさほど長生きしてないな。
超子は年齢不明だけど50行ったとは思えないし。
道長以外は大体40前後?
101日本@名無史さん:2007/10/15(月) 13:39:13
>>99
源麗子(よしこ)は、源師房と藤原尊子(道長の五女)の間に生まれた子で
山井大納言・藤原信家(教通の長子)の養女として、天皇の后にと期待されて
いましたが、結局は師実と結婚して師通を生みました。姪の賢子(かたこ、
実兄・顕房の娘)を養女にしていたところ、賢子が東宮(後の白河天皇)に
入侍したことで従三位に叙されます。なお、頼通は師実からこの事を聞くと
涙を流して喜んだとか(『愚管抄』)。

麗子は、師実の妹・四条宮寛子(ひろこ、後冷泉天皇の皇后)と仲が良く
一緒に行動することが多かったようです。

>>100
道隆・道兼が長生きだったら、道長の出番は初めから無いですよね。道長は
能力よりも運に恵まれて頂点に立ったと思います。頼通・教通は全ての運から
見放されてしまいましたが。
102日本@名無史さん:2007/10/15(月) 16:48:54
>>100
超子はむしろ早死。時姫もあまり長生きしていない。
103日本@名無史さん:2007/10/15(月) 16:54:25
皇室より養女 擬装源氏物語
104日本@名無史さん:2007/10/15(月) 18:16:12
>>100,102
超子は天元5年(982年)に死去。
超子は、安和元年(968年)に入内、亡くなった時、
長子の三条天皇は7歳、末子の敦道親王は2歳だったので、
亡くなった時おそらく20代後半ぐらいだったと思われる。
道長らの母親時姫は、981年に亡くなっているので、短命とまではいえない。
時姫が亡くなった時、長男道隆はすでに29歳だったので、
時姫は少なくとも40代半ばまでは生きたと思われる。
道隆43歳で没、道兼35歳で没、詮子40歳で没。5人兄弟の長命順は、
道長>道隆>詮子>道兼>超子
この長命順がかわっていれば、歴史がかわっていた。
105日本@名無史さん:2007/10/16(火) 01:07:06
>>104
同意
道隆は親父が隠忍自重してる間に酒に溺れ、いざ自分がトップに立った時
ちょっとズッコケぎみ
道兼はよく分からないが花山の側近だったところをみると
政治センスはかなりのもの
道長は・・・
106日本@名無史さん:2007/10/16(火) 12:54:42
兄貴達は親父が不遇の間に年を取ってしまったが、道長は若かったからその点もラッキー
しかも参議飛ばして中納言に昇進だからな〜
107日本@名無史さん:2007/10/16(火) 13:45:32
>>106
58歳でやっと摂政に収まった親父の兼家に比べれば、38歳で摂関になった
息子の道隆、35歳で関白になった道兼はましだったかもしれない。
兼家は摂政を勤めること約3年、62歳で没したが、道隆や道兼の年齢で没
していたら摂政なんて回ってこなかった。
しかし、道長も摂政になったのは51歳のときだから、どうなんだろうな
道長は31歳で内覧になって以来、一の上としての力は行使できたものの、
一条天皇の第一皇子敦康親王、三条天皇の第一皇子敦明親王(小一条院)など、
父帝の寵愛を一身に受ける道長を外戚としない有力な皇位継承者たちがほかにあり、
外孫の後一条天皇即位、同じく外孫の敦良親王(後朱雀天皇)立太子を見た51歳までは、
権力掌握のために走り回らざるをえなかったしな。
108日本@名無史さん:2007/10/16(火) 15:51:14
三条天皇との抗争だって、もし三条に眼病が無くて道長がぽっくり逝ってたら三条の勝ちじゃん
所詮どちらが長生きするかの運勝負
道長=幸運児ってことに変わりはないさ
109日本@名無史さん:2007/10/16(火) 16:56:52
>>108
三条天皇も、生母で道長の姉でもある藤原超子が生きていれば
あれほど悲惨な目にはあわなかっただろうけれどもね
藤原道長も、姉詮子のおかげで一条天皇の内覧になれたけれども、
ライバルの藤原定子の皇子に親王宣下をすることなど煮え湯も飲まされている
一条天皇と道長の権力バランスは詮子が牛耳っていたからね
110日本@名無史さん:2007/10/16(火) 19:45:30
流行病の道兼はともかく道隆の方は自己責任じゃないの。
健康管理が出来てなかったってことで。
111日本@名無史さん:2007/10/16(火) 22:16:56
道綱をいれた場合は道綱が一番長生きだったような。
確か66歳で亡くなっているはず。
112日本@名無史さん:2007/10/17(水) 02:43:46
>>110
だからズッコケ
113日本@名無史さん:2007/10/17(水) 10:33:16
>>110
道隆は大酒のみが命取りになったけれど、本人は
酒と女に囲まれて結構楽しい人生だったかも
道兼はあまり女運がよくなかったらしいし。
道長は、結果的には62歳まで生きたけれど、持病があったようだね
死ぬ、死ぬ、とわめいて、一条天皇に辞表を提出したり、
邸へ引きこもったりと、気鬱になることが多い人だったようだ
114日本@名無史さん:2007/10/17(水) 13:56:56
本人はやりたいことやって死んだから満足かも知れないけど、
息子は悲惨だったな。孫はもう無茶苦茶だし。
兼頼くらいの立場の方が気楽で良かったかも。
115日本@名無史さん:2007/10/17(水) 14:13:40
>>114
たしかに道隆の息子や孫は悲惨だったね
まだましなのが、道長の次男頼宗の正室になった伊周の長女?
それもときがときなら帝の中宮に立てられていたはずの姫君だから、
伊周が生きていたら落胆したかもしれないね。
道隆の三男隆家の子孫は、堂上家に残り(とはいっても、摂関家ではない)、
女系で天皇家へもつながっているけれどもね。
116日本@名無史さん:2007/10/17(水) 15:56:51
伊周と道雅、親子二代続けて女性問題で失敗。
道雅はいくら失脚した伊周の息子とはいえ、あれがなければ権中納言は行けたはず。
そうすれば院政期に入るくらいまでは子孫が公卿で続いていたと思う。
その後、南北朝・戦国時代と続く危機を乗り越えていけるかどうかはともかく。
117日本@名無史さん:2007/10/17(水) 16:21:52
道雅と当子内親王の間に子供がいたら面白かったのに
118日本@名無史さん:2007/10/17(水) 18:05:18
明子は、倫子より10歳くらい年下だよ。15歳くらいで道長とケコーン。
119日本@名無史さん:2007/10/18(木) 08:56:25
>118
根拠は?
明子の母愛宮は、異母姉で源高明室だった師輔三女がなくなったために
源高明の後妻になったが、師輔三女がなくなったのが962年。
明子は960年代半ばに誕生したと推測されている。
根拠となるのが、同母弟源経房の存在。
明子が道長と結婚したとき、同母弟経房は姉明子に伴われて道長の義子の扱いとなったが、
経房の誕生が969年。
969年には明子や経房姉弟の父源高明が大宰府へ左遷されており、明子はこれ以前の誕生。
藤原道長は966年の誕生で、一般的に明子は道長よりも1〜2歳年上だったと見られている。
120日本@名無史さん:2007/10/18(木) 09:47:40
しかしその論拠だけですと、経房と道長が数えで3歳違いなわけですから、
明子の方が道長より1、2歳年下ってことは十分あり得るんじゃないのですか?
どうして明子の方が1、2歳上ってことになるのでしょう?
前妻没後すぐに再婚したとも限らないわけですし、
再婚後すぐに明子が生まれたとも限らないわけですよね。
少なくともどちらも同程度にはあり得ると思えるんですけど。
極論だと経房が年末の生まれで、明子が969年の年始めの生まれってことも
なくはないですね。
そこまで疑うときりがないので一応兄弟順を信じての話ですけどね。
121日本@名無史さん:2007/10/18(木) 10:01:51
ふと思ったんだけど、光源氏のモデルの一人にも擬される道長だけど、
どっちかって言うと夕霧のモデルかな。
奥さん二人、どちらも子沢山。若い頃は出世の面でぱっとしない。
十代の道長は、公任とは別格としても、誠信・斉信より出世遅いし。

それと道長って奥さん二人とも年上ってことはシスコン?
本当は詮子姉ちゃんが一番好きだったりして。
本質はマザコンが転じたシスコンかも知れないけど。
122日本@名無史さん:2007/10/18(木) 10:30:32
>>120
118がいうような、道長より明子は8歳下(倫子より10歳下ですから)というのはありえないということです。
左大臣にまで上る高明が長年男やもめでいたとは考えづらく、師輔三女が残したまだ幼い子供たちもいた、
高明の再婚の時期は、先妻が死んで間もなくと考えていいんじゃないでしょうか?
兄弟順を信じて・・・・というのは、明子は経房の妹である可能性ということでしょうか?
経房誕生の同年、父源高明が安和の変で左遷されている事実から、
明子が安和の変以降にできた経房の妹だとは考えづらいでしょうね。
明子は、父高明の弟盛明親王の養女となり、ついで道長の姉詮子の養女になりますが、
経房は終始、明子に伴われていたようです。
経房が明子の兄ならば、むしろ、経房が誰かの養子となり妹の明子を伴うのが自然で、
明子が姉であったとみてしかるべきでしょう。
経房は、明子が道長と結婚すると、道長と明子の義子の扱いすら受けていますので。
123日本@名無史さん:2007/10/18(木) 11:00:39
道長って男色趣味はなかったの?
経房は道長の義子という名目の寵童だったんじゃないの?
124日本@名無史さん:2007/10/18(木) 15:38:11
>>121
光源氏の正室腹の長男である夕霧は、五男坊の道長よりずっと出世は早いですよ。
夕霧の妻は正室格の落葉宮を入れると3人ですが・・・
藤典侍は源氏の侍者惟光の娘で、宮仕えをしていたという設定なので、
道長の妻の倫子や明子よりもずっと身分は下ということになります。
源氏物語の中で夕霧は脇役なので、扱いはいまいちですね。
紫式部の時代に一番輝いていた政治家が道長だったということで
光源氏に当てられるのでしょうが、あまり共通点はないですよね。
125日本@名無史さん:2007/10/18(木) 17:22:17
道雅の女性問題って、花山法皇の娘ブッ殺したってヤツのこと?
まあ宮中で下半身丸出しストリップショーやったりとか、過激な人ではあるなw
126日本@名無史さん:2007/10/18(木) 18:58:00
>>125
前斎宮当子内親王との密通が発覚して、三条天皇の怒りを買ったって奴です。
で、内親王に泣く泣く「人づてならで言ふよしもがな」の歌を贈って、その後グレた。
127日本@名無史さん:2007/10/18(木) 19:59:43
三条天皇って摂関系とうまくいかなかった割に結構権力有るよな。
後三条天皇なんか東宮時代にないがしろにされた貴族に大した報復も出来なかったのに
128日本@名無史さん:2007/10/18(木) 20:45:39
>>123
実資は頼通と一緒に寝た夢を見たそうで、もしかしてそう言う関係?
その場合やはりはるかに年少の頼通の方が稚児さん。
実はそれで長いこと子供が出来なかったんだりして。
129日本@名無史さん:2007/10/18(木) 20:50:01
林幹弥って言う人が書いている1970年版平凡社世界大百科事典の「源師房」の項目、
「醜女といわれていた関白藤原頼通の妹を妻とし、頼通の子となった」
なんて書いてあったんですけど、根拠は何だろう?
130日本@名無史さん:2007/10/19(金) 00:16:16
道長って年上妻が高齢出産するまで浮気せずSEXしてたのか?
131日本@名無史さん:2007/10/19(金) 00:19:41
頼通は正妻隆姫女王との間に子供がなかっただけで
妾妻には複数の子供がいる。
132日本@名無史さん:2007/10/19(金) 01:17:42
>>129
根拠が何か知らないし実際の容姿も分からないけど、
祖母(尊子)が醜女だったのに孫(賢子)は魅力的な女性で
天皇の寵が厚かったというのはなかなか面白い。
133日本@名無史さん:2007/10/19(金) 01:45:55
>>129
根拠は分からないけど
頼通が子のない隆姫に気をつかって弟の師房を養子にしたという記述を
見た事がある。この間師実の兄に当たる男子二人を仏門に入れている

疑問点
1.師房には相続権があったのか
2.最終的には師房は村上源氏の祖となっていて藤原とは別家

増鏡、愚管抄などを調べてみる
134日本@名無史さん:2007/10/19(金) 06:36:25
>>130
源倫子、明子の2人の妻以外にも、道長の愛人だったといわれている人はいるよ
一番付き合いが長かったというのが、倫子の姪、大納言の君。
夫と離婚して実家に戻ってきたところを、倫子の計らいで
中宮彰子の女房として召し出したところ、道長に寵愛されたらしい。
この話は宮中知らぬものはなく、大納言の君の元夫は、
なぜ道長ほどの男にあれほど愛される女を手放したのかと、馬鹿にされたらしい。
さらに、かつて花山院の愛人だった、為光四の君。
花山院が亡くなった後、一人身でいるという聞いた道長は興味津々、
早速、娘の中宮威子付きの女房として召し出した。
四の君は、道長の子を出産する際、子と一緒に死んでいる。
道長は、紫式部の部屋を深夜にこんこん叩いていたとか、好きものは
平安貴族の条件だから、他にも女性はいたかもしれない。
135日本@名無史さん:2007/10/19(金) 11:11:53
>>133
師房が姉の夫頼通の猶子(もしくは養子)になったのは実父がなくなってまもなく、
元服前のことで、元服前は王を名乗り元服後は臣籍降下して源氏を名乗っている。
師房が頼通の異母妹尊子と結婚したのは1024年。
しかし、この結婚により師房が頼通の後継者とされたかは疑問で、
翌年、頼通に妾腹の長男道房が生まれると、祖父母の道長、倫子夫妻が道房を引き取り、
嫡流として養育していた(道房の妻は、師房と尊子の娘)。
頼通は、父母に預けた道房以外の庶子を認知せず、養子に出していたが、
1044年、道房が20歳で夭折してしまったために、当時3歳でまだ養子に出していなかった
妾腹の六男師実を認知して後継者と定め、同時に師実の同母姉寛子も世に公表して
帝の后候補として養育した。
このことから、師房は頼通の養子であったことは事実であろうが、
頼通の後継者であった(頼通の実子扱いで摂関を譲る用意があった)とは考えづらい。
136日本@名無史さん:2007/10/19(金) 11:27:31
紫式部は道長の妾ってどっかに載ってなかったっけ?
でも、愛人ではなかったろうな。
何かあったら絶対古事談辺りに載ってるだろうしw。
137日本@名無史さん:2007/10/19(金) 11:53:55
確かに愛人説は嘘っぽい。
紫式部は文人としての才能はすごいが、女としての魅力はなさそうだ。
結婚も異常に遅いし、恋人の話も聞かない。
現代に生まれてたら腐女子系の喪女だっただろう。
138日本@名無史さん:2007/10/19(金) 12:17:05
坂本賞三氏によれば、師房は一時頼通の後継者だったらしいよ
通房誕生で後継者の地位を譲り渡すが、
後継者だった師房への配慮から、その後生まれた男子を出家させたり養子に出したらしい
だが、村上源氏の師房が一時的にせよ摂関家の後継者だったことは、
摂関家にとってばつの悪いことだったので、隆姫の嫉妬のせいということにして、全てを隠蔽したのだそうな
139日本@名無史さん:2007/10/19(金) 12:17:49
>>136
つ 『尊卑分脈』

>>137
紫式部腐女子喪女説 禿あがるほど同意w
140日本@名無史さん:2007/10/19(金) 12:54:13
>138
その説をとるならば、師房が尊子との結婚と同時に藤原姓を名乗らなかったのはなぜ?
道長は頼通に対し、隆姫のほかにも妻を多く娶り子を作ることを奨励していたようだが、
道長や倫子夫妻は、自分と血の繋がらない師房を嫡孫として歓迎していた事実はあるの?
血の繋がらない師房嫡流で意見が一致していたのならば、わざわざ頼通の長男を手元に引き取り、
自分たちが後見人になるようなこともしなかったと思うのだが。
隆姫が道房誕生を嫌がった事実はあったらしい。
道房生母は隆姫の従姉妹で、父をなくしたのを隆姫が哀れんで引き取り、頼通の女房にしたところ、
この娘が裏切って頼通に通じた(実際は頼通が手を出したのだろうが)。
そのために、頼通は長らく道房以外の子を認知しなかったといわれている。
141日本@名無史さん:2007/10/19(金) 14:10:55
>>140
>師房が尊子との結婚と同時に藤原姓を名乗らなかったのはなぜ?

同じく坂本賞三氏によれば、摂関家の家格を賜姓源氏並に引き上げる意図があったと言われている

>道長や倫子夫妻は、自分と血の繋がらない師房を嫡孫として歓迎していた事実はあるの?

師房は従四位下に叙せられるから四年間そのままだったが、道長の娘と結婚した直後
一挙に従三位に越階して昇進
これはかなり異例な昇進速度

>血の繋がらない師房嫡流で意見が一致していたのならば、わざわざ頼通の長男を手元に引き取り
>自分たちが後見人になるようなこともしなかったと思うのだが

だから、通房誕生で師房は後継者を外されることになったわけ

>そのために、頼通は長らく道房以外の子を認知しなかったといわれている

それこそ奇妙に思えるのだが
もし通房以外を養子に出して、通房が死んでしまって跡取りがいなくなったらどうなるのか?
偶然、師実がいて助かったわけだけど
摂関家の跡取りのような重大事が、正妻の嫉妬のような事情で左右されてしまうとは考えづらい
142日本@名無史さん:2007/10/19(金) 14:30:06
>>141
晩年、藤原頼通が実子の師実に摂関の地位を譲ろうとして、
姉の上東門院彰子に伺いを立てたところ、髪をくしけずらせていた彰子は
急に不機嫌となり、にわかにすずりを引き寄せて、後冷泉天皇にあてて
「関白の申すこと承引あるべからず」と手紙を書き送ったと言うエピソードがあります。
亡き父道長が、頼通の次には弟教通を摂関に据えよという意向であった、というもので、
やむなく頼通は教通に摂関を譲りました。
これを見ると、道長の意向は、倫子の2人の男子いずれに摂関を伝えてもよいという意向
であったと見てとれます。しかし、源氏に摂関を譲ろうとしたエピソードはありません。
嫡男頼通には長らく子がありませんでしたが、同母弟教通にはかなり早くから子があり、
道長は自分が五男から這い上がった実績から、特に2人の兄弟を差別していなかったように思います。
道長の実子であり、後一条、後朱雀、後冷泉の3代の帝の実のおじに当たる、
頼通の5人の弟達を差し置いて、師房が関白になることなどできたのでしょうか?
仮に、頼通に一人も男子が存在しなかった場合、道長や倫子は教通に期待をかけていたように思います。
教通一人では心もとないと思ったのか、わざわざ明子腹の六男長家を倫子の養子にまでしています。
143日本@名無史さん:2007/10/19(金) 14:58:00
>>142
師実が頼通の後継だったけど、師実はまだ若いから教通を一時のつなぎにしたとは考えられない?
史実でもそうなったし
つまり摂関の後継者変遷としては
師房→通房→通房死亡で師実→師実が若いから、つなぎで教通
てな具合
あと師房が関白になれば、頼宗・能信は支援したと思うけど
頼宗・能信の同母妹と師房は結婚してるんだから
そうなれば、頼通ら倫子の子孫が関白にならずに済むし
144日本@名無史さん:2007/10/19(金) 16:22:00
>>143
頼通が隠居を決めた際、師実はかつて頼通が摂関になったのと同じ26歳になっており、
若かった為と言う理由はありません。
また、この時代の摂関が政権を掌握するには何よりも天皇との血縁関係が重視されたということです。
上東門院彰子は、師実ではなく、後冷泉天皇の叔父に当たる教通を関白に選んだわけで、
かつて東三条院詮子が嫡流の伊周ではなく、一条天皇のおじである通兼や道長を擁立したのと同じことです。
通説にある通り、頼通の次には教通を関白に、という道長の意向もあったものと思われます。
摂関家が確立していなかったため、教通が後朱雀天皇と後冷泉天皇に入れていた娘に皇子が誕生していれば、
姉彰子の手を煩わせることなく、政権は教通の系統に移行していたものと思われます。
また、明子系の頼宗や能信は、娘や養女を天皇や皇太子の後宮に入れ、
自ら倫子系から政権の座をを奪い取ることを試みています。
勿論、自ら天皇の外戚となって、摂関になることを望んだのでしょう。
天皇と血縁関係を持たず、異姓である源師房が摂関になることは、
国母彰子や教通はもとより、尊子の同母兄弟頼宗や能信ですら容認しなかったでしょう。
藤原氏を外戚とする当時の天皇たちが否定したかもしれません。
源氏の師房は藤氏氏長者を継ぐ事すらできず、ほかの藤原氏からも批判されたと思います。
145日本@名無史さん:2007/10/19(金) 19:13:53
つか、隆姫って本名?通称?
あんまりない名前だよね?
146日本@名無史さん:2007/10/19(金) 20:07:27
>>144
頼通の摂政就任は、道長の後見があればこその話
「万事は道長の指図で決まる、頼通の思い通りにはなり難い」と小右記も記してる
若くて経験不足だったと言わざるを得ない

頼宗や能信も外戚になること狙ってたとは思うけど、摂関が頼通・教通であるよりは
ずっと娘を入内させやずい
その点でも師房の摂関就任を支持したはず

また師房の昇進パターンを見てみると
15で従三位→17で参議飛ばして中納言
この昇進パターンは当時、摂関家嫡流にしか許されていない
明子腹の道長の実子、頼宗や能信よりも早い
(頼宗・能信らは20前後で従三位→23くらいで中納言)
なぜこのような異例な昇進を遂げたかと言えば、摂関候補者、或いは過去の一時期摂関候補者だった
と考える以外説明がつかないのでは?

他の藤原氏の批判はあったでしょうね
実資も批判めいた事を日記に記してるから
147日本@名無史さん:2007/10/19(金) 20:41:50
忠通の時といい、やっぱり当主が30も40も過ぎて嫡子がいないとお家騒動の元だな。
年の離れた弟がいたり、弟の方に子供がいればそっちに継がせようって動きが出るのは当然で、
年取ってから子供作る方が悪いな。
ある程度の年齢になったらもう諦めろよ。
148日本@名無史さん:2007/10/20(土) 04:31:22
忠通は妻の宗子(忠実の母の姪)との間に何人か息子や娘がいたけど皇嘉門院以外は皆夭折した
149日本@名無史さん:2007/10/20(土) 09:16:08
>>146
頼通も当然、息子の師実を自ら後見しようと考えていたよ。
道長は出家してからも実権を握っていたし、
宇治に篭った頼通も、それから更に生きている。
師実が関白で、実権は頼通が握る、という道長ー頼通のパターンでよかったわけだ。
批判好きな実資のことはおいといて、頼通の例の場合、
頼通は後一条天皇の叔父という外戚関係にあり、姉である国母彰子の信任も得ていたから、
その摂政就任に何の障害もなかったわけだ。
一方、師房は当時の天皇の外祖父でもおじでもなく、外戚として不充分だった。

師房の昇進は、道長の娘婿として相応なものであったと思うよ。
道長は娘たちが嫁いだ天皇は勿論、尊子の同母姉寛子が嫁いだ
小一条院すら厚遇し、二世王の寛子の皇子女に親王、内親王宣下までしていた。
尊子の夫は、他の姉妹の夫達に比べて特別に厚遇されていたわけでもない。
仮に、師房が倫子系のほかの男子と同じスピードで出世した所で、
道長実子の教通、長家(倫子の養子)を飛び越えて
道長の嫡流におさまっていた理由がない。
150149:2007/10/20(土) 10:10:59
>師房は当時の天皇の外祖父でもおじでもなく、外戚として不充分だった。
師実は当時の天皇の外祖父でもおじでもなく、外戚として不充分だった。
訂正。
151日本@名無史さん:2007/10/20(土) 10:50:36
史実と異なって頼通が40代くらいで死んでしまっていた場合だと、
いくらなんでも通房が若すぎるから少なくとも一時的には教通が後継になって、
で史実通りに通房が20歳で死んでしまえば、そのまま教通系が摂関家になってしまう。
って言うのは十分あり得るな。
もっとも教通は、頼りなさそうに見えて案外したたかな兄頼通と違って
兄弟で一番無能だったようにも思えるから、頼宗や能信に足下をすくわれたかもしれない。
152日本@名無史さん:2007/10/20(土) 12:06:16
教通が無能というのはどうなのかな?
娘の立后や息子信長への関白譲渡を最後までしつこく食い下がった
頼通最大のライバルは弟教通だったし、(娘の立后は実現している)
むしろ、頼通に遠慮し過ぎの頼宗のほうが教通より無能だった感じがある。
能信は後三条天皇立太子の活躍でこんにち評価されているけれども、
頼通や教通の娘に皇子が誕生して後三条があっさり廃太子にされていた場合、
こんにちほどの評価は受けなかった気がする。
153日本@名無史さん:2007/10/20(土) 12:18:29
>>151
摂関家の確立(天皇との外戚関係に関わらず、摂関を世襲する)はもっと後じゃないの?
鳥羽天皇の外戚を退け、天皇の外戚ではない藤原忠実が関白となった辺りからだと思うのだけれども。
たしか、頼通の子師実が関白になれたのは、頼通の後継者だったせいではなくて、
父頼通の死後、白河天皇の中宮に師実の養女の賢子が立てられて、
中宮賢子が皇子を出産したためだったよね?
いわば、未来の天皇外祖父を約束された為、自力で関白になった。
この段階では、頼通の子であるという理由だけでは摂関になれなかったはず。
頼通の子の年齢に関わらず、摂関の座は天皇のおじである頼通の弟たちに渡っていた。
教通の関白就任が、中継ぎだったと言うのならば、
道長の内覧就任もまた、兄道隆の嫡男である伊周が若かったための中継ぎで、
伊周が相応の年齢に成ったら摂関を譲るはずであったと言う事になってしまう。
(勿論、伊周が女性問題を起こさなかったとしなかったとしてね)。
154日本@名無史さん:2007/10/20(土) 13:02:05
>>149
>頼通も当然、息子の師実を自ら後見しようと考えていたよ。

これは完全な事実誤認、後見しようとは思っていない
治暦三年、頼通は関白を辞任して「政巨細悉可諮詢」を命ぜられるが、
翌四年この「諮詢」すら辞してしまう
後見するつもりなら。この「諮詢」を辞するわけがない

>師房の昇進は、道長の娘婿として相応なものであったと思うよ。

尊子と結婚しとのなら、尊子と同母の頼宗や能信と同スピードの昇進が妥当なはず
特に師房に目を掛けてなかったというのなら、尚更
なぜ頼宗や能信をも上回るスピードで昇進したのかが、依然として分からない

>仮に、師房が倫子系のほかの男子と同じスピードで出世した所で、
>道長実子の教通、長家(倫子の養子)を飛び越えて
>道長の嫡流におさまっていた理由がない。

だから通房が生まれたので師房は後継者を外れた
だが、一時期後継者だったことに配慮して、
頼通・教通と同じスピードで昇進したのだろう、というわけ
155日本@名無史さん:2007/10/20(土) 13:27:49
>>154
道長は、頼通に関白を譲った後、1019年に一切の官職を辞して出家していますよね?
役職がないのに、権力はなおも道長のもとにあった。この事実をどう理解しますか?
師房が頼通の養子だった事は事実なので、
別に倫子系と出世のスピードが一緒でもおかしくないけど。
それと、頼通の後継者だったということとは別問題。
摂関家の確立はもっと後だという意見に対してはどう?
天皇と外戚関係にない師房が摂関になるのは不可能だったのでは?
156日本@名無史さん:2007/10/20(土) 13:50:55
摂政はともかく関白は外戚が条件じゃないんだよね。
それは外戚の方がやりやすいには決まってるんだけど、
外戚に適当な人物がいなければ仕方がない。
年齢が低すぎるとか、どうしようもなく無能だとか、
外戚ではあるけど家柄低すぎるとかで。
そうなると藤原氏主流で身分の高い人と言うことになる。
157日本@名無史さん:2007/10/20(土) 14:02:45
>>155
後見するのに適当な「諮詢」の地位にいながら、その「諮詢」すらをも辞したのはなぜ?
しかも、師実にとって厄介な教通が後に控えてるというのに

また養子だからと言って、出世のスピードが養子先と同じとは言えない
道長の養子になった源成信・藤原兼経らは、道長の息子たちと同スピードで昇進はしてない

外戚関係にないものが摂関に就くのが不可能と言うのなら、
兼通から関白を譲られた頼忠の例はどう説明する?
158日本@名無史さん:2007/10/20(土) 14:14:20
外戚が絶対条件なら花山天皇の関白は義懐しかあり得ないわけだけど、
さすがにあの時点では地位が低すぎてすぐには無理だった。
二〇年後なら義懐はとっくに大納言か中納言にはなっていて、
譲位の直後に内覧となり、早々に大臣・関白となっていたはず。
ちょっと時代が早すぎた。
159日本@名無史さん:2007/10/20(土) 14:27:52
ちょっと時代が遡るけど、醍醐天皇の外戚・藤原高藤も摂関になってない
結局、その時の人間関係やらなにやらが複雑に絡み合って摂関が決まるわけで
外戚=摂関って完全に決まってるわけじゃない
まあ、外戚の方が有利だとは思うけどさ
160日本@名無史さん:2007/10/20(土) 16:16:50
>>159
横レスだが、
醍醐天皇の頃は摂関常置じゃなかったから、その例はおかしいよ。
醍醐天皇の在位中、摂政も関白もおかれなかった。
天皇親政だった。
161日本@名無史さん:2007/10/20(土) 16:22:01
>>156
教通は、天皇の外戚にして、摂関になるのに不充分ではなかった。
師房を摂関に、というのならば、せめて藤原姓を名乗らせなかったところが異常だと思う。
白河天皇の中宮になった賢子は養父の藤原姓に改名したからね。
道長の実子である頼通の弟たちを飛び越えて、
道長と血縁関係のない師房に摂関が回ってくることはなかったと思う。
ましてや、上東門院彰子の存在があったのだし。
162日本@名無史さん:2007/10/20(土) 16:31:20
>>157
>兼通から関白を譲られた頼忠の例

その例がことに異常で、兼通を批判する材料になっていることは
「大鏡」をはじめとするさまざまな文献に書かれている。
兼通からすれば弟兼家に関白になられたくない一身だったのだろうけれども。
頼忠はかろうじて、円融天皇と花山天皇の岳父(天皇の正室である中宮の父)
として関白の任務にあたることになったけれども、円融朝、花山朝は不安定で、
兼家を外戚とする一条天皇が即位すると、頼忠は摂関の座を去らなければならなかった。
藤原氏で最も身分の高いものであるならば一条天皇即位時太政大臣だった頼忠ということになるし、
藤原氏嫡流が摂関に任じられるのならば、頼忠が一条天皇の摂政に就任できたはず。
頼忠の摂関就任は、当時の例からも外れていた。

163日本@名無史さん:2007/10/20(土) 17:27:39
>>161
台記には「源師房は、道長の子孫(末葉)である」と書かれてる
つまり源氏だろうが道長の一族と認められてた、ということ
異姓養子は珍しいが、信西など他に全く例がないというわけでもない

>>162
異常だろうがなんだろうが先例は先例
つまり、外戚である兼家を差し置いても、それ以外の人物を摂関にしようと思えばできた、ってこと
では、明らかに兼通以上の影響力を持ってる道長が、30になっても子供の出来ない頼通に業を煮やして
師房を後継者含みで養子にしたのを、一概に外戚じゃないからあり得ないって否定できるのかね?

つか、自説に都合のいい先例だけ寄せ集めて、他の例を異常と切り捨てるのは、公正な態度ではない
164日本@名無史さん:2007/10/20(土) 17:47:31
>>163
後冷泉朝で、教通が関白になったのはなぜでしょう?
仮に、教通や頼宗の娘に皇子が誕生していても、
師房は摂関になれていた?
あなたの説だとそうですよね。
藤原道長の嫡流が天皇との外戚関係に関わらず摂関になるのですから。
道長の前時代からそうだったと考えますか?
つまり、伊周が変な事件をおこさなければ、
道長は兼家の嫡流である伊周に摂関を譲らねばならなかったと。
165日本@名無史さん:2007/10/20(土) 18:14:58
>>164
嫡流が常に関白を継ぐべき、なんて何時言ったの?
こちらが言いたいのは
・師房は一時期子供のない頼通の跡継ぎに擬せられてた
・外戚であることが摂関の絶対条件とは言えず、その時々の人間関係にもよる
この2点
頼通に子供が無ければ師房が跡を継いだだろうが、
教通や頼宗の娘に皇子が誕生してその皇子が即位してれば、そちらに摂関がいっただろうね

後冷泉朝で、教通が関白になったのは師実が若くて経験不足だったから
詮子が道長を後継に選んだのだって、外戚がどうこうじゃなくて伊周が嫌なヤツだったからでしょ

兼家や道長の後宮政策が当たりすぎたせいで、外戚=摂関と後世の人間は勝手に考えるが
当時の人間がそんなこと考えてたと「どうかは別
冷泉天皇即位時でも、なぜか外戚でない実頼が関白になってるし
外戚の伊尹は当時45歳で権大納言、十分摂関になってもおかしくない
まあこれもそちらに言わせれば、異常な例ということになるのだろうが
166日本@名無史さん:2007/10/20(土) 18:30:35
実頼は外戚でない自分の立場を、「楊名関白」(名のみの関白)と愚痴ってますね。
円融天皇は兼家が権力を増大させるのを嫌い、兼家を抑えるために頼忠を引き立てて
懐仁親王(一条天皇)の母・詮子ではなく頼忠の娘・遵子(のぶこ)を皇后に立てたとか。
遵子の兄・公任は、詮子の邸の前で
「この女御はいつか后にはたち給らん(こちらの女御はいつ立后されるのか?)」と
言い放って侮辱します(『大鏡』)。

これで遵子に皇子が生まれれば小野宮流復活となったはずですが、結局のところ
円融天皇の子は懐仁だけであえなくジ・エンド。円融天皇も兼家と協調せざるを
得なくなります。外戚であるということは極めて重要であり、摂関の地位は
ある意味、二次的なものと言えるかもしれません。
167日本@名無史さん:2007/10/20(土) 18:47:52
一定の範囲内(当然時によって変化)の家系に属していて、外戚関係を築けるか、
臣下第一人者(形式上は責めて三位以内)になれれば関白足り得たってことだと思う。
あくまでこれは必要条件にすぎず、条件満たす物が複数おり選択の余地が有れば、
時の天皇や母后の意志も介在してくる。
例えば公季か、その子供の世代で外戚関係を築ければ摂関足り得ただろうが、
数代後の子孫になって外戚になってももう手遅れってことだったのだと思う。
公任や実資・隆家・誠信も彼らの段階で外戚足り得れば摂関の目はあっただろう。
道長の世代くらいまでは忠平の子孫で公卿になれた程度の人はほぼ全員が、
微かとはいえ摂関の目は合ったと思う。
168日本@名無史さん:2007/10/20(土) 19:14:43
円融中宮遵子が詮子より早く皇子を産んでいたら間違いなく摂関家の嫡流は公任の子孫になり教通室あたりは中宮になっていたりして
169日本@名無史さん:2007/10/21(日) 07:06:45
>>168
関白頼忠の娘導子が中宮に立てられたとき、兼家はこれに抗議して
詮子を実家へ連れ戻し、息子たちとともに出仕をとりやめて
円融天皇に退位をせまりましたからね。
中宮導子が皇子を産めば、仮に女御詮子の腹に第一皇子があったところで
これを飛び越えて立太子することは当然でしたから。
結局、円融天皇は若くして退位したから、兼家、詮子の粘り勝ち。
170日本@名無史さん:2007/10/21(日) 10:44:47
>>169
導子じゃなくて遵子だろ
171日本@名無史さん:2007/10/25(木) 16:46:21
>>167
たしかに道長の頃はまだまだライバルが多かったもんね。
実際に摂関となった道長兄弟は勿論、
娘を一条天皇の女御にしていた
右大臣藤原顕光(道長の従兄)
内大臣藤原公季(道長の叔父)
などは、当然摂関の座を狙っていた。

三条天皇に娘を入れていた
右大将藤原斉時(道長の父兼家の従弟)
も、早死にしてしまったが、当然狙う気持ちはあったのだろう。
172日本@名無史さん:2007/10/25(木) 16:49:01
済時
173日本@名無史さん:2007/10/25(木) 17:07:02
ねんぴょう その1
872年 基經(良房の兄長良の三男、なぜか養子) 初の非皇族摂政に成る
 891 菅原道真(天神)が天皇秘書室・蔵人所長官に成る
897 醍醐天皇(桐壺の御門)御歳十三にて御即位。
899 時平左大臣(上席)に道真右大臣。 宇多太上天皇御出家(歴代初、太上法皇)
901 菅原右大臣、突如、九州福岡、太宰府(対韓中外交通商部)副長官に転身。
903 道真公、京を想い没す
904 宇多の法皇、仁和寺御室ニンナジオムロに御移住になる。
907 法皇は、紀伊熊野に御参りされる
914 醍醐の帝、第?皇子、高明生誕される。
920 高明親王賜姓源氏源高明と成る
923 菅公天神(故人)、右大臣復官となる。
930 醍醐・桐壺のみかど御譲位、同年崩御さる 朱雀の帝、御歳17で御即位。源高明は同年16歳。 忠平摂政。
936 忠平 太政大臣
941 忠平 関白
946 朱雀天皇23歳にて譲位、朱雀上皇に。 村上の帝20歳にて御即位。 高明公22歳です。
947 実頼左大臣 道真公(天神)京都北野に祭られる
952 朱雀上皇御歳29歳にて崩御さる
960 右大臣師輔没する53歳
961 経基王、源氏に(初代清和源氏)
966 高明公 右大臣に成る。御歳52
967 村上帝在位中にて崩御42歳。 17歳の冷泉天皇御即位。67歳の小野宮実頼、関白兼太政大臣に。高明公は左大臣(上席)に。師尹は右大臣。
969 左大臣の高明公は、菅原公(天神)に続き、異例の太宰府行きが決まる。 冷泉帝は19歳にて御譲位され、御歳10歳の円融天皇が御即位になる。 小野宮実頼が、関白から摂政に移行する。
970 摂政の実頼、70歳にて突如没する。急遽、77歳の伊尹 が摂政を引き継ぐ。
972 79歳の摂政伊尹が没する。兼道が関白に(円融天皇13歳成人式のため)
977 兼道は小野宮家頼忠を関白に推挙。前関白兼道は没す53歳。
984 円融天皇は25歳にて御譲位され、16歳の花山天皇は御即位になる。
174日本@名無史さん:2007/10/25(木) 17:07:51
ねんぴょう その2
986 花山のみかどは18歳にて突如出家させられ、御歳七歳の少年一條天皇は即位をされる。 兼家(道長公の父)が摂政に就く。
989 兼家は関白と太政大臣に成る、60歳。
990 兼家は出家したので、長男道隆が摂政となり、 兼家は没する。摂政道隆の娘定子が11歳の一條帝の中宮に。

993 道隆は関白に。
995 道隆は43歳にて没する。弟道兼は関白に成るが、突如没す、35歳。 その弟道長「内覧宣旨」を受ける(天皇第一秘書)。 高明公三男の俊賢公、参議(政策参加)に。
996 兼家長男道隆の子、伊周と隆家は左遷となる。翌年恩赦。
1000 道隆の娘定子は皇后になるが、御歳25にて突如崩御。道長の娘(?)彰子は中宮に。

1011 一條天皇32歳で崩御、冷泉上皇も61歳で崩御、三條天皇は即位35歳。
1012 道長の娘(?)妍子ケンシは三條天皇の中宮に。
1016 三條天皇は眼疾にて譲位され40歳、御歳九歳の後一條天皇は即位。  道長、摂政になり、突如、長男頼道に摂政の地位を渡す。道長自身は太政大臣に成る。
1018 皇太后の彰子は太皇太后に成る。妍子は皇太后に成る。道長のさらに別の娘(?)威子は、中宮となる。後一條天皇陛下は11歳の少年。
1019 頼道は関白に。
1020 道長は出家。
1021 兼家の弟、公季が太政大臣、 道長の長男頼道は左大臣、小野宮実頼の孫で、なぜか頼道の養子の実資は、右大臣に成った。
1027 道長は没する、62歳。

http://same.u.la/test/r.so/academy6.2ch.net/kobun/1188257444/より
175日本@名無史さん:2007/10/25(木) 17:16:57
コピペ厨
176日本@名無史さん:2007/10/25(木) 20:02:47
一条天皇は道長をよく思ってなかっただろ。
定子、御櫛笥殿、敦康親王の悲劇があるし。
177日本@名無史さん:2007/10/25(木) 23:12:27
定子厨 ここにもキタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!
178日本@名無史さん:2007/10/26(金) 06:21:50
>>176
「愚管抄」や「古事談」には、一条天皇の死後、愛用の硯の中から
「道長の専横で思うとおりに政治が出来ない」という意味にも取れる
漢文が出てきて、道長が焼き捨てたという一説がある。
道長と一条天皇は必ずしもうまくはいってなかったのだろうね。
定子の件はそれほど関係ない、
後ろ盾のない敦康親王を退けて彰子腹の敦良親王を選んだのは一条天皇自身だし、
一条天皇の晩年の寵は彰子に移っていた。
敦康親王は彰子の弟頼通が妻の妹婿に迎えて後見、
敦康親王の娘は頼通と彰子の後見で後朱雀天皇に入内している。
179178:2007/10/26(金) 06:23:21
>彰子腹の敦良親王

弟のほうの名前を書いちゃった、
正しくは兄の敦成親王ね
180日本@名無史さん:2007/10/26(金) 13:19:22
彰子って馬鹿そう。
181日本@名無史さん:2007/10/26(金) 13:33:29
>180
お前のほうが馬鹿そう
182日本@名無史さん:2007/10/26(金) 14:42:15
本当に馬鹿だったら、あの口うるさい実資が賢后とは言わないんじゃないか?
183日本@名無史さん:2007/10/26(金) 20:44:31
彰子は良くも悪くも地味。でも賢明な女性だったと思う。
道長や兄弟の好き勝手ぶりを諌める発言も結構しているし。
しかし自分の息子よりも定子の産んだ敦康親王の立坊を
薦めた意図はなんだったんだろ。一条がそう望んでたのを知ってたのかな。
184日本@名無史さん:2007/10/26(金) 22:43:33
朱雀→村上とか冷泉→円融、花山→(間に一条入るけど)→三条とかみたく
兄弟間で帝位を回せば良いと思ったんでない?
敦康が立坊しても、自分の妹の誰かを入内させて
一族でガッツリ囲ってしまえばいいんだし。
最終的に自分の子に帝位が回ってくれば彰子としては問題なしだったとか。
さっさと可愛い孫を即位させて摂政になりたかった道長としては頷けん意見だろうが。
185日本@名無史さん:2007/10/27(土) 11:08:45
露の身の草のやどりに君をおきて塵を出でぬることぞ悲しき(
186日本@名無史さん:2007/10/27(土) 11:35:06
>>183
本当か嘘かは別として、彰子と敦康親王の間には、
藤壺と光源氏にも似た感情があったとか・・・
敦康親王は母定子の死後、彰子の手元で育てられていた。
彰子が敦成親王を生むまでは、いうまでもなく敦康親王が一番の東宮候補だったため、
もともとは父道長が仕組んだものだったのだが。
彰子は、皇太子に立てなかった敦康親王のために、弟頼通に後見させたり
(敦康親王は頼通の正室隆姫女王の実妹と結婚、頼通と婿同士同居した)
敦康親王が19歳で病没すると、その遺児で頼通の養女となった嫄子女王を
息子後朱雀天皇に入内させて自ら後見したり、
彰子が継子敦康親王に見せる気遣いは並々ならぬものがある。
187日本@名無史さん:2007/10/27(土) 13:05:57
>>184
「栄華物語」も、彰子に「自分の皇子はまだ若い、
(一条天皇没時敦成親王満2歳、敦康親王とは9歳年が離れていた)、
まだ登位の可能性はあるのだから・・・」
と言わせているので(栄華の作者は彰子女房赤染衛門か)、
彰子が兄弟相続を念頭においていたことは間違いないと思う。
それとは別に、彰子と敦康親王の仲はうまくいっていたのだろうと思う。
彰子が入内してからの9年間、敦康親王は
帝王教育を受けていたのだろうし。
188日本@名無史さん:2007/10/29(月) 19:24:25
敦康親王は母定子に似て美しく、光源氏のモデルの一人と言われている。
189日本@名無史さん:2007/11/08(木) 07:11:35
>>188
義母彰子が敦康親王に、親子ってより男女に近い愛情を持っていたんじゃ
ないかと言ってる人がいたらしいが、だとしたらまさにそのまんま。
190日本@名無史さん:2007/11/08(木) 09:31:44
>>189
逆かもしれん。
敦康親王だって年上の継母に優しくされたら憧れるかも。
191日本@名無史さん:2007/11/08(木) 15:27:34
>>189
物語の源氏と藤壺は5歳しか年が離れてなかったから
恋愛も過ちもあったかもしれんが、彰子と敦康親王は12歳年が離れている。
彰子のもとへ敦康親王が初めて引き取られたときも、彰子が14歳であったのに対し
敦康親王は数え3歳で、赤子の頃から面倒を見た男性に恋愛感情というのは厳しいかもしれない。
もっとも、幼ないときから彰子の手元にあった敦康親王は彰子になつき、実の母親以上に慕っていた可能性はある。
姉の修子内親王は16歳になったときに、道長方に養われていることに鬱憤を募らせ、
実のおじである藤原隆家の邸に転がり込んだが、敦康親王は生涯彰子や頼通の庇護下にあったようだ。
192日本@名無史さん:2007/11/09(金) 10:40:56
>彰子は良くも悪くも地味。

何言ってんだよ。国母としてやりたい放題だよ。
愛宕郡を賀茂社に寄進するって言い出して、
道長を含め当時の貴族がどれだけ振り回されたことか。
その後も国政にしょっちゅう口出し。まさに女院による院政。
193日本@名無史さん:2007/11/09(金) 11:09:39
賀茂社寄進の件で一番割り食ったのは実資だろうな
つまらん仕事の後始末に、随分悩まされたみたいだからw
そーいや、あの話は延暦寺が寄進に抗議して伸び伸びなったけど
最後はどんな風に決着したんだろう?
194日本@名無史さん:2007/11/09(金) 16:34:43
後一条天皇
即位は母后(上東門院彰子)が賀茂社に愛宕郡を一郡神郡として
寄進することを約して祈願しその霊験で実現したとされる。
寛仁二年(1018)上下賀茂社に報賽として愛宕郡八郷が寄進され長く
両社の膝下神領の基盤となった。

http://www.kamoagatanushi.or.jp/docs/%8C%C3%93T%98a%89%CC%82%C6%89%EA%96%CE_HP%97p_.pdf#search
195日本@名無史さん:2007/11/10(土) 11:10:04
定子に比べれば偏差値低い娘どもだな。
196日本@名無史さん:2007/11/10(土) 13:41:23
定子って后時代に何かやったっけ?
197日本@名無史さん:2007/11/10(土) 14:03:23
セックス
198日本@名無史さん:2007/11/11(日) 16:07:27
これと言って評価されるようなことは何もしてないような。
てか何でそこで定子が出てくるの?
199日本@名無史さん:2007/11/11(日) 16:38:56
定子ちゃんがいたおかげで枕草子が出来たんだから、それでいいんじゃない
200日本@名無史さん:2007/11/11(日) 21:29:02
>>199
( 'A`)
201日本@名無史さん:2007/11/12(月) 08:30:00
兄弟の伊周、隆家に左遷が言い渡された際、
定子は中宮御所で兄弟の手を握り締めていて
天皇の命令である左遷を妨害した。
すんなり左遷に応じていればよいものを
最後の最後まで中宮定子が兄弟を引きとめ、
暗に夫一条天皇に対して自分に免じて兄弟を許すよう
恩赦を要求したことで中関白家の評価は地にまで落ちた。
当時、世間一般からの中宮定子の評価は非常に低かった。
枕草子がなければ、今でも低いままだっただろう。
そうでなければ、たとえ尼姿になったからといって
参内をあれほど貴族社会から批判されなかっただろう。
202日本@名無史さん:2007/11/12(月) 08:34:03
尼になっても天皇とセックスしてたんでしょ?
結構性欲強かった?
203日本@名無史さん:2007/11/12(月) 11:06:32
一条天皇が求めたんだからいいじゃん。
204日本@名無史さん:2007/11/12(月) 11:21:08
そうそう、一条天皇も結構好き物だよね
妊娠中の元子たん呼び出してイッパツやってるし
205日本@名無史さん:2007/11/12(月) 11:34:42
一条天皇は産後間もない彰子のところへもお見舞いに来てるよね
まさか一発やってないとは思うけど
定子は2人目を生んだ1年1ヵ月半後に3人目を(このとき死亡)
彰子は1人目を生んで1年2ヶ月後に第2子を産んでいる
産後間もない婦人も好きだったってことで
206日本@名無史さん:2007/11/12(月) 14:33:51
なぜか定子厨がスレを荒らしに来てるんだけど・・・
藤原彰子が読んだ歌を挙げておくね。
彰子は教養がない女性などではなかった。

(詞書;一条院かくれ給ひにければ、その御事をのみ恋ひ歎き給ひて、夢にほのかに見え給ひければ)
逢ふことも今はなきねの夢ならでいつかは君をまたは見るべき「新古今和歌集」

(出家の後、妹の妍子から数珠と歌を贈られての返歌)
まがふらん衣の玉にみだれつつなほまださめぬ心ちこそすれ「新古今和歌集」

(詞書;後一条院かくれさせ給うての年、郭公のなきけるによませ給うける)
一こゑも君につげなんほととぎすこの五月雨は闇にまどふと「千載和歌集」



207日本@名無史さん:2007/11/12(月) 15:17:41
いや歌なぞいくらでも代作できるわけだが
208日本@名無史さん:2007/11/12(月) 15:39:04
定子の歌も代作?
そうだよね、臨終のときに歌が結んであったというのも、
産で苦しみぬいて死んだ定子にそんな暇なかったしね。
209日本@名無史さん:2007/11/13(火) 13:01:33
定子厨って>>207のこと?
どのスレにも変な人はいるもんですね
210日本@名無史さん:2007/11/13(火) 13:11:00
211209:2007/11/13(火) 13:23:36
ごめん、>>199はおいらのレスw
半分冗談で書いたつもりが、厨扱いされちまったorz
212日本@名無史さん:2007/11/13(火) 19:54:49
>>211
いやお前は厨以外の何ものでもないわけだが。
いい加減気付け。
213日本@名無史さん:2007/11/13(火) 21:32:29
と、厨がほざいてます
214日本@名無史さん:2007/11/15(木) 20:05:53
>>56
小一条院の皇子(母=寛子、頼宗女)は、親王宣下を受けているケースが多い。禎子内親王に
尊仁が生まれなかったと仮定すれば、円融天皇の系統は断絶。寛子や頼宗女の腹に生まれた
皇子が即位する可能性も充分にあった。頼通・教通にすれば、尊仁の即位は頼宗の外孫に即位
されるよりはマシだったのかもしれない。
215日本@名無史さん:2007/11/25(日) 17:35:04
道長の子供たちの代ではまだ誰が摂関になるかは
流動的だったということだな
216日本@名無史さん:2007/11/25(日) 21:38:04
詮子があと10年も生きていれば養女分の明子に肩入れして、
明子系が摂関になった可能性は結構あると思う。
道長はお姉ちゃんに全然頭が上がらなかったようだし。
217日本@名無史さん:2007/11/26(月) 22:52:28
いや、そうでもない。蔭位は嫡妻所生しか嫡子待遇しない筈だから。
218日本@名無史さん:2007/11/27(火) 19:11:56
詮子が亡くなったとき、まだ道長の息子たちは幼くて叙位してなかったからな。
詮子の四十の賀のとき、倫子腹の田鶴君(頼通)と明子腹の巌君(頼宗)が
舞いを舞ったが、臨席していた一条天皇が巌君にだけ衣を与えたので、
それを見ていた倫子が怒って道長に抗議したと言う話が御堂関白記にある。
頼通が道長の嫡男と決まっていたのならば天皇の行動はありえない処遇で、
この頃、まだ倫子が嫡室とは決まっていなかったのだろう。
明子は男腹で、娘の寛子が生まれたのは999年。
同年、倫子腹の彰子は、すでに一条天皇に入内している。
明子にもっと早くに娘があったならば、当然養母東三条院が一条天皇の后に所望し、
倫子と明子の地位はひっくり返っていた可能性もあったが。
219日本@名無史さん:2007/11/28(水) 12:28:24
嫡妻って単語を辞書でぐぐれ。
ついでに倫子・明子が結婚したときの左大臣は誰だったかも。
220日本@名無史さん:2007/11/28(水) 14:52:40
>>219
倫子の父が左大臣源雅信だから何?
道長が倫子と結婚したのは、母穆子がこっそり手引き、
つまり、密通だったとか書かていますね。
父源雅信が許した結婚相手ではなかったのに、
いつの間にか娘を妊娠させて婿に収まっていたと。

一方、明子は東三条院詮子の養女で、
道長の兄道隆、道兼からも求婚を受けていた。
詮子がその中から道長を選んだのは、道隆、道兼に正室がいたのに対し、
弟道長にはまだ正室がいなかったためと言われています。
明子は、道長ー倫子の結婚以前に正室として道長に送り込まれていたか、
倫子の地位が固まらないうちに送り込まれたと見られる。

同時代の史料は、倫子も明子も道長の「室」で区別をしていない。
小右記が明子を道長の「妾」とするのは、倫子が天皇の祖母となった後。



221日本@名無史さん:2007/11/28(水) 19:39:07
結果的に倫子が嫡妻になったことは否定しませんが、
そもそも当時の嫡妻って最初から決まっているものでも固定的でもないと思う。
実家の家柄が上だったり、嫡子の母だったりすれば有利では有ろうけど、
明治初期のように妻と妾が戸籍に書いてあるわけじゃなし、
法的に決まった嫡妻は存在しないわけで、
必ずしもそれらが嫡妻足りうる決定的条件はないと思う。
詮子がずっと健在で明子を庇護し続けていれば、
彰子が明子の娘として後宮入りすることさえあり得たと思う。
源氏物語の明石中宮のようにね。
事実しても明子の子である長家が、
既に嫡妻の地位をほぼ固めていた倫子の子として扱われているような例もあるわけだし。
222日本@名無史さん:2007/11/28(水) 20:03:24
道長は結婚後どこに住んでたの?
臨死のとこ(源雅信邸?)に婿取られて、
そこがのちに道長の栄華の舞台になった〜なんて話はよく聞くけど。
つうか明子って道長と同居してた?
223日本@名無史さん:2007/11/28(水) 20:16:23
結婚後ー土御門殿と高松殿双方に入り婿。

生まれた子供は母方で育つ。
土御門殿は天皇の后たちの中宮御所となり、
親王、内親王もここで誕生。
必然的に歴史の表舞台にでることが多かった。

(土御門殿所有者)藤原穆子ー源倫子ー藤原彰子
(高松殿所有者) 源高明ー源明子ー藤原寛子
224日本@名無史さん:2007/11/29(木) 01:53:59
私の知る限りでは、明子は道長より年下で15歳くらいでけこーんしてる。
225日本@名無史さん:2007/11/29(木) 07:19:18
>224
既出だが、明子は父源高明左遷前の出生。
経房は同母弟。
なお、明子は道長よりも1歳年上説が有力なので、
詳しくは松村博司氏著「栄花物語全注釈」
に挙げられてある文献を読むべし。
226日本@名無史さん:2007/12/03(月) 12:33:49
そもそも律令格式、明法家などの意見になどで嫡妻の定義ってないのか?
継継令規定に深く関わることなのだから規定がなくても明法家が誰か意見をつけているだろう。
227日本@名無史さん:2007/12/03(月) 13:02:29
明治時代の戸籍まで法的な根拠は一切ないよ

天皇の嫡妻を皇后と呼ぶことは律令の規定にあったと思う
あとはなし
228日本@名無史さん:2007/12/03(月) 13:44:49
彰子あっての道長その他だね。
229日本@名無史さん:2007/12/03(月) 18:58:33
明子は道長より10歳くらい年下だって文子がいってた。
230日本@名無史さん:2007/12/03(月) 19:00:59
>229
円地文子?
小説の話してもな。
231日本@名無史さん:2007/12/03(月) 22:45:58
229は馬鹿な定子厨だから放っておいていいよ
よそのスレでも嫌がられてる
空気読めないし日本語も不自由だし頭が足りないんだろう
232日本@名無史さん:2007/12/04(火) 01:41:32
次女研子はブスだったし、道長に嫌われてた。
233日本@名無史さん:2007/12/04(火) 08:46:52
彰子が早死にして子なしだったら時代は変わってた。
234日本@名無史さん:2007/12/04(火) 09:33:05
伊周復活もあり得た?
けどこの人かなり嫌われていたらしいからな。弟の隆家系統が摂関家だったりして。
で頼通の子孫が諸大夫やってたんだけど、時の上皇に取り入って羽林家に昇格とか。
235日本@名無史さん:2007/12/04(火) 09:55:23
伊周は若い頃に叔父道長を超えて大出世、
そのために道長寄りの「大鏡」はぼろくそに書いているけど、
一方で、博学であったことも知られているから、
ほかの史料ではそれほどのこともかかれてないような。
のちに儀同三司になっているから、敦康親王即位なら
外戚にふさわしい地位にはついたんじゃないか。
一方、弟の隆家は中納言が極官だったから、
兄伊周を超えて摂関に収まることは無かっただろう。
敦康親王が東宮に立てなかったとき、姉の修子内親王は敵方ともいえる
道長陣営の彰子に養われていることを忌んで、
実の叔父隆家の邸へ自分の意思で移ったことが見える。
(中納言の財力で内親王の世話をすることに隆家は困惑しているが)。
敦康親王や修子内親王が実際に頼りに思っていたのは
隆家のほうだったかもしれない。
236日本@名無史さん:2007/12/04(火) 23:01:13
敦康親王は、光源氏のモデルの1人といわれる。
定子様に似ていたらしい。天皇の秘蔵っ子だった。
237日本@名無史さん:2007/12/05(水) 07:59:06
>>232
定子厨でスレが荒れてるなw
次女妍子は姉妹たちの中でも特に髪が長く美しく、
道長の娘たちの中では一番容姿を讃えられているのだが。
妍子が道長より早く32歳で死んだとき、
道長は相当落ち込んだようだ。
妍子の字が違うしw
238日本@名無史さん:2007/12/05(水) 13:19:10
大納言の年収は、現代の貨幣価値で1億ほどだったと聞いたことがある
もちろん中納言はそれ以下だろう
一方、今の秋篠宮一家の年間経費は5千万くらいだとか
やはりちょっと苦しいかな
239日本@名無史さん:2007/12/05(水) 17:00:24
>>238
一夫多妻の当時、隆家も扶養家族が
多かったみたいだしね
妻の数も子供の数も
秋篠宮家の妻1人+子供3人ではすまない
240日本@名無史さん:2007/12/05(水) 20:16:50
研子はブスだったよ。
241日本@名無史さん:2007/12/05(水) 20:44:04
ここは藤原道長とその娘のスレであって、
定子やらその子供達及び中関白家はスレ違いじゃないのか?

定子厨、そんなに語りたければスレ立てろ。
242日本@名無史さん:2007/12/05(水) 21:11:05
彰子に子がなかった場合、伊周復活より円融系断絶の方があり得たシナリオでは?
元々円融系は少子でしかも短命、敦康親王が仮に立太子、更に即位できたしても、
史実通り短命で嫡子なしの可能性はかなり高い。
その場合三条系が皇統主流となっただろう。
その後の歴史は想像もつかないけど。
243日本@名無史さん:2007/12/06(木) 01:57:42
原子が道長にやられなかったら。
244日本@名無史さん:2007/12/06(木) 07:13:40
でも原子って、女成子入内後は、日陰の存在じゃなかった?
245日本@名無史さん:2007/12/06(木) 08:17:42
娍子は原子より入内の時期が早いよ。
三条天皇の後宮へ入内した順は、
綏子(道長異母妹)→娍子→原子→妍子
娍子が「東宮更衣」と呼ばれていたのに対し、
関白の娘原子は「東宮女御」と呼ばれ、
入内時には華やかにもてはやされたが、
原子入内の4ヵ月後父道隆がなくなった。
原子は出家した姉定子と異なり、
兄弟左遷後も三条天皇(東宮時代)の後宮にあったようだ。
原子がなくなったのは1002年。
道長の娘妍子は三条天皇と18歳年齢が離れており、まだ幼くて入内していない。
三条天皇元服の添い伏しだった綏子は、密通を起こしてこれより先に退出。
このとき三条天皇の後宮にいたのは原子と娍子のみだった。
原子が吐血して死んだので、娍子方女房の毒殺ではと噂された。
246日本@名無史さん:2007/12/06(木) 08:49:43
彰子って夫は仕方がないかもしれないけど、子供どころか孫にも先立たれて、
栄光に包まれているけど寂しい晩年だな。
光輝有る孤独老女。
247日本@名無史さん:2007/12/06(木) 12:36:29
男の孫はそうだけど、女の孫はまあまあ長命な人もいたから
孤独ってことはないだろうw
とくに彰子が幼い頃から可愛がって養育してきた章子内親王は長生き。
本当は後冷泉と章子の間に子が生まれればもっと良かったんだろうけど。
章子の妹の馨子内親王も彰子より先には亡くなっていないはず。
248日本@名無史さん:2007/12/06(木) 13:05:46
なまみこ物語でいくと定子&一条天皇の愛は深いのじゃ。
249日本@名無史さん:2007/12/06(木) 17:08:14
彰子・・・道長一族の栄華はこの人から。12歳で入内、13歳で立后。
      男子2人(後一条・後朱雀)をうみ、人生の勝利者?
妍子・・・父から姉同様男子を産むことを期待されるも、
      生まれたのが女子であったために露骨に嫌な顔をされる(小右記)。
      父と夫の不和からのちに夫と別居。
      妍子方の女房は宴で十二単を二十枚も着込むなど派手好きで、
      姉妹の中では一番容姿を褒められている(栄華物語)。
威子・・・望月の歌で有名な道長の娘の中では三人目の中宮。
      夫後一条天皇は姉彰子の子で、すでに道長に対抗する貴族はおらず、
      よって威子は後一条天皇の後宮を独占、一夫一妻。
      姉たちのような、ほかの妃と寵を分け合う自体は皆無だった。
250日本@名無史さん:2007/12/06(木) 17:16:50
嬉子・・・後朱雀天皇の東宮時代の妃。
      後朱雀天皇は嬉子の甥だが、年齢は2歳しか違わず、
      夫と9歳も年が離れていた姉威子と異なりお似合いだったようだ。
      19歳でのちの後冷泉天皇を生んで死去、姉妹の中では一番短命。

寛子・・・廃太子小一条院の妃。
      それまで左大臣藤原顕光娘を妻とし顕光邸にいた小一条院は
      この結婚により高松殿に入り婿。
      27歳で没するが、顕光と小一条院妃延子父娘の祟りと言われた。
尊子・・・道長の娘たちの中では唯一、臣下の源師房に嫁ぐ。
      最晩年には左大臣と右大臣に上った息子から年賀の挨拶を受けた。
251日本@名無史さん:2007/12/07(金) 00:46:09
妍子は、一番撫す。
威子は、年下夫を苦しめた悪女。
252日本@名無史さん:2007/12/07(金) 07:53:33
定子厨うるせえなあ。専スレたてろよ目ざわりなんだよキチガイが。
中宮にもなってその影響力も使いこなせず、後先考えねえで尼になったうえに
一条の召しにほいほいのって、世間の評判落としただけの無能な后だろ定子なんて。
天皇の閨で兄弟を救うくらいの手腕をみせるかと思えば、ただ妊娠出産くりかえして
白眼視されただけじゃん。
253日本@名無史さん:2007/12/07(金) 15:01:04
一条天皇がそれだけ愛してたんだよ!!
254日本@名無史さん:2007/12/07(金) 15:28:54
一条天皇の意思だけで定子を宮中には呼べなかったでしょう。
伊周、隆家を配流にしたあと母東三条院の病気が重くなり、
いわゆる兄弟恩赦とのセットだったわけです。
定子の再入内が認められたのは、兄弟恩赦の勅がでた3ヵ月後。
一条天皇はその間、定子が居ない間に入内した
元子、義子(こののち尊子も)を可愛がっていたわけで。
255日本@名無史さん:2007/12/07(金) 15:41:05
役立たず馬鹿な定子でも
性欲処理用としてはそこそこ重宝してたんじゃないか
一条も若かったし

まあこのスレには全く関係ないからよそでやってくれ
まさかスレの立て方が分からないわけではないよな?
大好きな定子様のためならスレ立てぐらいできるよな?
それとも定子様は道長家スレに寄生して語れば済む程度の
軽くて薄っぺらい存在なのか?
256日本@名無史さん:2007/12/07(金) 18:21:39
呼び戻して2度懐妊は愛のチカラ。
死後面影を残す4の君を懐妊させるし。
257日本@名無史さん:2007/12/07(金) 18:27:30
彰子も2度妊娠しているから一条天皇の寵愛を受けていたわけだ。
妊娠していない義子や尊子は寵愛が薄かったの?
定子厨にも困ったもんだ。
258日本@名無史さん:2007/12/07(金) 19:20:54
まじで専スレたてなよ定子厨。
だがまじめな話、後ろ盾をなくして落ちぶれた定子を後宮に
呼び出して妊娠させるのが一条の愛だと単純に結論づけるとしたら
迷惑千万だよな。定子の立場を悪くする結果にしかならないんだから。
定子も迷惑だったんじゃないの? でも一条の寵愛を無くせば
本当に零落するかもしれないから仕方なく応じてたとかな。
妊娠なんて運とタイミングだよ、元子がいい例。
愛の深さの問題じゃないだろ。
259日本@名無史さん:2007/12/07(金) 19:41:32
>258
相手にしないのが一番。
相手にされると大喜びでまた書くから。
スルーしましょう。
260日本@名無史さん:2007/12/07(金) 19:42:35
同じく。

定子やその子供たち、中関白家の人々がどうたらこうたらとしつこく書き
込んでる人たちは、単独スレ立ててさっさとそこに引き移っていって欲しい。
そこでなら思う存分あなたの大好きな定子様の話が出来るよ。
261260:2007/12/07(金) 19:43:41
>>259
ごめんorz
262日本@名無史さん:2007/12/08(土) 19:27:10
白河天皇は彰子のことをどう思っていたんだろう。
国母はおろか祖母どころか曾祖母が健在って結構鬱陶しいかも。
263日本@名無史さん:2007/12/08(土) 21:02:13
ありなれし契りは絶えていまさらに心けがしに千代といふらむ

道長が倫子に詠んだこの歌がとても好きだ
いかにも人生を共にした熟年夫婦の情愛という感じ
264日本@名無史さん:2007/12/09(日) 04:37:36
意味は?
265日本@名無史さん:2007/12/09(日) 10:07:26
ボケ老人なってたのかな>彰子の晩年
266日本@名無史さん:2007/12/09(日) 11:01:05
同母弟の頼通や教通は晩年までしっかりしていたみたいだから、
死の直前まで猛烈オババだったんじゃないの?
267日本@名無史さん:2007/12/09(日) 11:44:11
シワシワばーさんだっただろうな。
268日本@名無史さん:2007/12/09(日) 15:06:52
ウィキより。現皇室御祖先あきこ様御晩年 『万寿3年(1026年)正月19日、落飾し法名を清浄覚とする。同日、一条天皇母后東三条院詮子の先例にならって女院号を賜り、上東門院を称した。後年、父道長が建立した法成寺の内に東北院を建てて、晩年ここを在所としたため、
別称を東北院ともいう。二代の国母、また後冷泉天皇・後三条天皇の祖母である彰子の影響力がいかに大きかったかは、次の逸話が如実に語ってくれる。それは後冷泉天皇の代、息子師実へ関白職を譲りたい頼通からそのつもりを聞かされたとき、
女官に髪を梳かせていた彰子はにわかに機嫌を悪くし、内裏へ「父道長の遺令に背くのでお許しにならぬように」との旨を奏上させ、ために頼通は弟教通へ譲らざるをえなかったという話である。衰落しつつある摂関体制の維持を一身に担った彰子は、
必ずしも一門の政略の具に使われた人形ではないのである。…曾孫・白河天皇の代、承保元年(1074年)10月3日に87歳で崩御。同年2月2日に薨去した弟頼通に遅れること八ヶ月であった。翌年には次の弟教通も没し、院政開始への道が敷かれた。』
269日本@名無史さん:2007/12/09(日) 15:50:59
今の皇室のご先祖様と考えるとあらためてすごい女性だな。

おそらく白河天皇と彰子は疎遠だったんじゃないか。
後三条の御代を経て彰子の影響力もどんどん薄れていただろうし。
でも世間で国の母として重んじられ本人もしっかりした人だったから
白河天皇も粗略にはしていなかっただろう。

ただ栄華物語には、東北院(彰子)に仕えていた女房(源顕房女)に
白河天皇が手を出して男子を生ませたとあるので、
疎遠ながらもそれなりにやりとりはあったのかも?
270日本@名無史さん:2007/12/09(日) 16:58:08
 後拾遺和歌集より。選子内親王御歌/『後一條院』の御時、賀茂の行幸侍りけるに、『上東門院(彰子様)』御輿にのらせ給ひて、むらさき野よりかへらせ給ひける、又のあしたきこえさせ給ひける:御幸せしかもの川波帰るさにたちやよるとて待明かしつる。
 上東門院中將歌/『後冷泉院』の御時、『上東門院(彰子様)』に御ゆきあらむとしけるを、とゞまりて、後うちより硯の箱の蓋に、桜の枝を入れて、奉らせ給ひたりける、御かへしに、おほせ事にてよみ侍りける:みゆきとか世にはふらせて今は唯梢の桜ちらずなりけり。
271日本@名無史さん:2007/12/09(日) 17:12:02
そりゃあまあご機嫌伺いとか贈答のやりとりくらいはあっただろうから、
顔見知りの侍女くらいはいて当然でそれに手を出すこともあったでしょうね。
272日本@名無史さん:2007/12/09(日) 17:52:01
>>270
 後一条天皇1008〜1036 在位1016(9歳)〜1036(29歳)  ;後冷泉天皇1025〜1068 在位1045(20歳)〜1068(44歳)  ;彰子(上東門院)988〜1074(御歳87歳)お若い天皇たちの実母と実祖母。
273日本@名無史さん:2007/12/09(日) 18:53:30
彰子は「大宮」と呼ばれて摂関家の人々から重宝されていた。
白河天皇の曾祖母というよりは、白河天皇中宮賢子(師実養女)との絡みで
大事にされていた気がする。
平安時代は母系家系であるため、どうしても男系の孫、曽孫とは疎遠になりがちなのだが、
(白河天皇は父方ではたしかに彰子の曽孫なのだが、
 母方の閑院家とのほうが親密だった)
彰子は里の摂関家では大事にされ、後冷泉妃寛子など、
摂関家出身の妃たちとは親しく交流があった。
彰子が亡くなったときには同母兄弟の中では唯一生きていた弟の教通が
懇ろに弔ったことが「栄華物語」に見える。
274日本@名無史さん:2007/12/11(火) 23:52:10
くだらん
275日本@名無史さん:2007/12/16(日) 01:48:10
徳井の有名なカキ池田麻理子、カキから本命に昇格
276日本@名無史さん:2007/12/16(日) 15:29:26
研子はブスだって書いてあったよ。
277日本@名無史さん:2007/12/17(月) 04:56:45
ブスな順番(倫子娘)

次女<三女<<長女<末娘
278日本@名無史さん:2007/12/17(月) 11:28:00
三女最低!
279日本@名無史さん:2007/12/18(火) 04:02:38
 生物学的に道長が皇室腹の養女を入内させている筈ことは、東大では常識。以降の摂関家主流による文書記録改ざん抹消により、現段階では未解明なだけ。将来の解明可能性は大いにある、研究者の資質次第です。
280日本@名無史さん:2007/12/18(火) 09:43:37
ものすごい荒れ方だなw
281日本@名無史さん:2007/12/18(火) 17:24:27
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
|  電波が強すぎます。. |
|__________|

             /
           //ビビビビビィィィ!!!
    どかーん!  _
       从";从 /||__|∧,
      (( ; ;"、; :(O´Д`)
     ((;";从.")と ))  ))つ
     `;Y ;"、 Y ノ ノ ノ
          (_ノ、_ノ
282日本@名無史さん:2007/12/19(水) 21:32:26
今度は研子sageかよw
定子スレはまだ立てられないのか。
283日本@名無史さん:2007/12/19(水) 21:34:14
すまん、妍子だ。
284日本@名無史さん:2007/12/20(木) 11:08:30
三女最低!10歳も上なんだから若い女を女御に入れさせろやDQN女!
285日本@名無史さん:2007/12/20(木) 11:09:51
女宮(女+鳥居)で道長の使った暗号さ。醍醐天皇系の皇族筋の養女さ。後の道長の子孫たちが実女であるかに糊塗したに過ぎない(藤原北家九條家の日本支配の秘密の一つ)のに、未来永劫謎解き出来ない98%のJAP被支配民たち。
286日本@名無史さん:2007/12/20(木) 12:20:39
強烈なデムパを発する香具師がいるなと思ったら
何だ、特亜かよw
287日本@名無史さん:2007/12/20(木) 18:12:06
ここは「藤原道長とその娘たち」スレです。
スレタイを読めない、
もしくは史料に基づかない妄想を語る
基地外は出て行きましょう。
288日本@名無史さん:2007/12/21(金) 14:37:27
289日本@名無史さん:2007/12/21(金) 17:34:43
明子腹の娘は道長にかわいがられてなかったみたいだね。頼宗達も官位で冷遇されてるしね。
290日本@名無史さん:2007/12/21(金) 17:45:32
大して年の違わない能信と教通の逆転はまだしも、頼宗との逆転は酷いとは思う。
291日本@名無史さん:2007/12/21(金) 17:53:58
既出だが、一条天皇の中宮彰子の恩恵でしょう。
一条天皇に入内したのが明子の娘だったら、
明らかに倫子系のほうが劣っていたはず。
倫子は天皇の外祖母として従一位にまで登りますから。
292日本@名無史さん:2007/12/21(金) 22:14:24
道長的に娘産んでくれればいいってかんじー?
293日本@名無史さん:2007/12/27(木) 19:43:32
>>120 亀だけど。
大鏡に、道長室源明子(高松殿)について、
「延喜の皇子高明の親王を左大臣になし奉らせ給へりしに、
思はざるほかのことによりて、帥にならせ給ひて、いといと心憂かり
しことぞかし。その御女に御座します。それを、かの殿、筑紫に御座
しましける年、この姫君まだいと幼く御座しましけるを」とある。
大鏡は明子系の能信に近い人物が書いたとされ、信憑性は高い。
これによれば、明子は父源高明が大宰府に流された際、
すでに出生、幼い年齢であり、高明の弟宮に預けられたことが見える。
294日本@名無史さん:2007/12/28(金) 00:13:49
師輔(九条家)、道長流は、高明とその子女にからみついて、彼ら彼女らを皇族本流にさらに継ぎ合わせることで、得意な形で北家で道長子孫以外近寄れない摂関家を作り上げ日本を支配したのだ。勿論最大ライバルは小野宮家(実頼流)だった
295日本@名無史さん:2007/12/28(金) 07:26:04
明子は、道長より年下です。
296日本@名無史さん:2007/12/28(金) 08:13:44
>>294
明子が東三条院詮子の養女となり、その弟道長にめあわされたのは
明子が東三条院や道長のいとこだった血縁関係によるのだろうけれども、
そもそも、源高明が師輔女をめとったのは、
師輔が高明の同母姉2人と密通し、強引に妻にしてしまったから。
16人いた醍醐天皇の皇子たちの中でも、高明の生母は身分の低い更衣で、
高明は親王を宣下されることもなく臣籍降下、落ちぶれてしまうところであった。
しかし、師輔妻となった姉たちの引き立てで高明は姉婿師輔の庇護を受けて順調に出世、
自らは師輔の娘を妻に迎えて左大臣にまで上った。
師輔流が更衣腹の高明に絡みついたのではなく、
むしろ、日の出の勢いの師輔の恩恵を受けたのが高明。
しかも、高明の娘明子腹の男子は誰一人摂関にのぼっていない。
297日本@名無史さん:2007/12/28(金) 23:21:46
更衣源周子さまは、〇〇天皇の娘。そのまま高明を自由身分で泳がせることは、藤原北家にとって外戚を外れた有力天皇候補をつくるに等しい。
小野宮は高明左遷で対応したが、北家本流小野宮家つぶしを謀る九条家は従って高明とその子孫を権力収奪(外戚創出)に最大限利用した。
298日本@名無史さん:2007/12/28(金) 23:40:07
このスレに猛烈な電波を(AA略
299みゆき:2007/12/29(土) 05:35:51
道長に盛子という娘はいたの?
資料によって載っていたり載っていなかったりして、
どうも存在がよく分からない。
三条天皇の後宮に入ったとか言われているが。
道長が対立した天皇の後宮へ二人も娘を送り込むこと自体、不思議。
300みゆき:2007/12/29(土) 05:40:29
話は逸れてしまうけど、
同じように二人の娘を一人の天皇に入内させた道長の先祖基経を思い出した。
301日本@名無史さん:2007/12/29(土) 08:31:18
>>299
「盛子」は尊卑分脈以外には見えず、存在の可能性は低いよ。
一次史料の「御堂関白記」「小右記」、あるいは「日本紀略」に盛子という娘は登場せず、
妍子以外に三条天皇に入内した道長の娘の存在も出てこない。
道長の子能信に近い人物が書いたとされ、今日道長の裏舞台暴露としても知られる「大鏡」、
これにも、道長の子供は12人で、1人も欠けることなく成長したと書かれてあり、
息子6人、娘6人の概略が記されるが、
やはり盛子という娘も、妍子以外に三条天皇に嫁いだ娘も出てこない。
302日本@名無史さん:2007/12/29(土) 20:52:01
三女最低。
303日本@名無史さん:2007/12/29(土) 21:34:16
頭がおかしかった道隆の知障三女よりましですwww
大鏡ぐらい読んでこい馬鹿定子厨が
304日本@名無史さん:2007/12/30(日) 16:32:58
次女は道長に好かれてなかった。
三女はどっちもDQN.
305日本@名無史さん:2007/12/30(日) 17:14:01
中宮にまで登り、宮中での儀式にも欠かすことなく
出席していた藤原威子がDQNであるはずもない。
ちなみに、厳密には藤原威子は道長の四女で、
道長の三女は明子腹の小一条院妃寛子ね。

道長が禎子内親王を嬉子亡き後の東宮(のちの後朱雀天皇)
に入れたのは、後一条天皇の世、
姉の彰子は国母、妹の威子は中宮として宮中行事に参加するのに、
妍子のみが枇杷殿に引きこもっていることを道長が哀れみ、
東宮妃生母として宮中行事に参加するよう促すためだったとされる(栄華物語より)。
道長が妍子を好いていなかったはずはない。
妍子の一粒胤の子が女子であったことで、男子誕生を期待していた道長は
たいそう不機嫌だったと小右記には書かれてあるが、
生まれてしまえば道長は孫の禎子内親王を可愛がっていたし。
306日本@名無史さん:2007/12/30(日) 17:23:13
威子は、藤原教通が後一条天皇に娘の生子を入内させようとした際
これを悲しみ、頼通もこれに反対したため果たせなかったと言うが、
むしろ当然の反応だったといえる。
禎子内親王にいたっては、頼通が養女の嫄子女王を後朱雀に入内させた際、
これに抗議して自ら天皇の後宮を出、以後参内することをやめてしまった。
(ここにつけこんだのが藤原能信だが)。
威子が後一条天皇唯一の妃であったのは、
事実上父道長や兄頼通にたてつく貴族がほかにいなかったためで、
威子の資質に問題がないことは当然のこと。
307日本@名無史さん:2007/12/30(日) 17:47:50
感傷的な考えだけど、研子は相当なストレスにさらされてたんだと思う。
夫の三条には子沢山の古女房がでんと構えていて、周りは男を産めと
無言のプレッシャー。おまけに姉が器用にニ男をもうけているからね。

美人でかなり年離れていたから三条は研子をかわいがったらしいけど、
生まれたのが皇女(禎子)で帝位を脅かさないから、安心した愛したって
部分もあるかもしれない。

道長も研子の臨終のさいは相当悲しんだみたいだけど、普段はやっぱり
なんで男を産まなかったのか、みたいな不満はあったかもね、権力者だし人間だし。

馬鹿みたいに女房に衣着せてファッションショーやってたのも、不満が鬱積してた
はけ口なんじゃないかね。今でいうストレス解消のためにドカ食いしたり無駄遣いしたりするみたいな。
308日本@名無史さん:2007/12/30(日) 20:43:28
結局、後一条天皇と威子の間に生まれたのは女だけ。周囲にしてみれば
もうガックリという感じかな?威子が「私はもう年ですから、新しい娘を
主上に入れて下さい」とでも言ってくれたら、嫄子女王は後朱雀ではなく
後一条に嫁いだ可能性もある。
309日本@名無史さん:2007/12/30(日) 21:50:19
10歳も年上なら、ガンガン女御入れろよ!
310日本@名無史さん:2007/12/30(日) 22:00:10
嫄子女王も女しか産まなかったから、同じことだがな。
そうそう、中宮定子は4歳も年下の一条天皇の後宮を
5年間も独占していたが、この間まったく子供がなく、
男子を産むまでに実に入内から9年もかかっている。

4歳年増の定子に任せるよりも、
一条天皇にも、もっともっと早い時期から
女御をがんがん入れるべきだったろうね。
311日本@名無史さん:2007/12/30(日) 23:56:10
後一条天皇と威子たんの間にできた内親王は、その後どうなったの?
誰かに嫁いで子孫は続いてるの?
312日本@名無史さん:2007/12/31(月) 00:01:16
一条、後一条の後宮ともに時の権力者を憚って、
入れたくても迂闊に入れられない状況にあったのでは。

>>307
同じく、妍子のはじけっぷりには彼女が受けてた相当なストレスを感じる。
姉の彰子に対して劣等感を抱いてしまうような面もあったのかも。

それにしても死際の父とのやり取りは印象的。
妍子や嬉子を亡くす時の道長の取り乱しようは泣かせる。
寛子の時も何か記録に残ってるんだっけ?
313日本@名無史さん:2007/12/31(月) 00:08:10
>>310
後一条天皇と中宮威子の間の内親王は2人。
章子内親王と馨子内親王。
幼くして両親を失い、上東門院彰子に引き取られた。
内親王は未婚で生涯を終えることが多い中、
章子内親王が後冷泉天皇、馨子内親王が後三条天皇の后となったのは、
後一条天皇の後を絶やしたくないと言う彰子の意向であったそう。
章子内親王には子供はなく、
馨子内親王は記録では一男一女を産んだことが確認できるが、
皇女は半年、皇子は数日で夭折。子孫は残っていません。
314日本@名無史さん:2007/12/31(月) 00:42:09
>>312
寛子が死亡したとき道長が取り乱したと言う話は直接記録には残っていない
ただ、「大鏡」に小一条院の元妃延子とその父顕光が寛子に取り付いたために、
寛子が結婚以来病に臥せることが多かったと考えられていたこと、
「栄花物語」に寛子が死ぬとき顕光、延子父娘の怨霊が現れたと書かれていることなどから
道長の外戚政策の犠牲となって若死にしたと考えられていたようではある
315日本@名無史さん:2008/01/05(土) 14:10:10
hoshu
316日本@名無史さん:2008/01/06(日) 10:43:12
次女が不細工
317日本@名無史さん:2008/01/06(日) 11:45:15
ガリレイの相対性原理も、アインシュタインの相対性理論も
破棄されました。!

21世紀の科学、物理学は支配の法則が支配する!!!!!

http://home9.highway.ne.jp/cym10262/fenomina.html
318日本@名無史さん:2008/01/06(日) 13:55:26
三女、威子が性格最低!!!!!!!!!!!!!
319日本@名無史さん:2008/01/06(日) 22:30:17
>>7 格差は「源氏物語」による「安和の変」の裏取りによる「小野宮家(皇室は藤の木の藤原北家の畑)」つぶしとして、皇室を重んじる立場(藤原が、松柏である皇族の畑や庭)を明らかにできること。
320日本@名無史さん:2008/01/09(水) 14:27:45
威子ってジャガー横田みたいだっただろう。
321日本@名無史さん:2008/01/09(水) 15:16:37
威子は20歳で入内したとき、
小柄で少女のようだったと書かれてあるのだが。
倫子や彰子も小柄でぽっちゃりと書かれてあるので
母倫子や姉彰子とも体型が似ていたのだろう。
史料に基づかない妄想を毎回書き込んでいる馬鹿がいるね。
322日本@名無史さん:2008/01/09(水) 17:00:51
しーっ、定子厨にはお触り禁止アルヨ
ついでに御櫛笥殿はたぶん宮崎あおいそっくりだったんでしょーねー











とかいったら
ホイホイ食いついてくるはずだからw
323日本@名無史さん:2008/01/09(水) 17:30:19
源氏物語では、あれほど源氏に愛された紫の上が、
年若い女三の宮に源氏の寵愛が移ることを恐れて
そうなる前に出家してしまいたいと願い出ている。

一条天皇は4歳年上の年増女房定子より
8歳も年下の愛くるしい彰子に夢中になったでしょうね。
定子は長生きしても、彰子に寵を奪われるのを
傍観しているだけだった。
紫の上のように出家して引っ込んでいたい、どころか、
どこまでも性欲に生きた皇后だったから。

姉の夫にあっさり股を開いた定子の妹御櫛笥殿も
性にかなりルーズ?
実は姉の定子存命中から不倫決行してたりして・・・
(御櫛笥殿は姉定子に存命中から仕えていた)
324日本@名無史さん:2008/01/09(水) 19:08:16
>>323
やめなよ定子厨あおるの。他人の言葉(レス)なんか見もしない奴だからさ。
それと>>323のレスもかなり下品だぜ。同じレベルまで落とすなよ。
325日本@名無史さん:2008/01/09(水) 21:13:01
威子って柳原加奈子みたいだっただろうな。
326日本@名無史さん:2008/01/10(木) 07:07:06
www
327日本@名無史さん:2008/01/10(木) 08:02:10
>324
いやいや。
御櫛笥殿は枕草子にも頻繁に登場する定子の妹で、
定子が内裏へ行くときも、里に帰るときも同行していた。
当然、一条天皇とも定子存命中から面識があったんだよ。
一条天皇が修子や敦康に会いたい、といえば、
普通は乳母を同行させて参内すればいい。
それなのに、未婚の御櫛笥殿が同行するのはなぜだと思う?
定子存命中から御櫛笥殿と関係があった一条天皇が、
おおっぴらに所望するようになったため、ともとれるわけだよ。
定子厨に対する煽りではなく、歴史学的にね。
328日本@名無史さん:2008/01/10(木) 08:16:14
村上天皇は、こっそり寵愛してきた藤原登子(村上天皇の弟の嫁)を
姉の中宮藤原安子の没後、宮中に呼び出し大っぴらに寵愛するに
当たって、尚侍にした。
本当は、登子を中宮にでも立てたかったが、
登子が子持ちの未亡人であったために反対にあったためらしい。

それに比べると、一条天皇の扱いは酷いね。
未婚の御櫛笥殿に手をつけて、女御に迎えるどころか昇進もない。
御櫛笥殿は産で子供と一緒に亡くなったけど、
子供もどっかの養子に出して一生日陰の身で置いておくつもりだったんだね。
責任も取れないのに手を出して、扱いは女房以下。
御櫛笥殿はなぐさみものだったのだと思う。
329日本@名無史さん:2008/01/10(木) 08:28:17
>>327
事実史実や資料レベルのはなしじゃないんだよ。
>>328のレスもそうだが、目的は定子厨を攻撃したいためだろ。

歴史学なんて言葉使ってるけど、最後にはなぐさみものだの、性欲だの
不倫だの、性にルーズだの、下卑た単語で締めくくって、汚い根性丸出し。
結局言いたかったのはそこなんだろ?
行動のレベルは定子厨と同じだって意味だよ。わかんないのか?

一連の定子・御櫛殿攻撃してんの女か? 歴史学なのに「責任とる」とか
どこのワイドショーなんだよ。
330日本@名無史さん:2008/01/10(木) 08:48:36
平城天皇以来立場上やばい女は尚侍にするのが伝統?
331日本@名無史さん:2008/01/10(木) 09:00:40
>>329
おたくは御櫛笥殿が女御にも尚侍にもなれなかったことを
どう思ってるの?

>一連の定子・御櫛殿攻撃してんの女か? 歴史学なのに「責任とる」とか
>どこのワイドショーなんだよ。

レベルの低さではおたくがピカ一。
レスを読んだだけで男か女かあてずっぽう言ったり、
女=ワイドショーだなんて、おたくがいかに低脳かがわかりますよね。
歴史学の話題が触れないからって、他人を攻撃して暇つぶし?
興味がないならレスしなきゃいいじゃん。
自分のレス読み直してみたら?低脳なのはあなたのほう。
332日本@名無史さん:2008/01/10(木) 09:02:16
331=女なのは確定だな
333日本@名無史さん:2008/01/10(木) 09:04:35
>>332
荒らしは出て行きましょうね。
平日暇なニート君。
334日本@名無史さん:2008/01/10(木) 09:32:24
人が働くのは平日昼間だけじゃないのも知らないの?
働いたこともない寄生虫チュプか。
335日本@名無史さん:2008/01/10(木) 09:35:20
>334
私は主婦ではありませんが?
ぷっ。
そもそも君がニートではないなんていったところで
誰が信じると思うの?
頑張ってね、ニート君。
336日本@名無史さん:2008/01/10(木) 09:51:55
スレタイからずれるけど、薬子以後で純粋な女官の尚侍っていたの?
337日本@名無史さん:2008/01/10(木) 10:03:34
いたんじゃないかな。有名どころだと、

嵯峨・淳和天皇 尚侍 藤原美都子(藤原巨勢麻呂の娘)
宇多天皇    尚侍 藤原淑子(藤原長良の娘)
円融天皇    尚侍 藤原怤子(元冷泉天皇女御)

尚侍は次第に任じられなくなっていくから・・・
女官の場合、「公卿補任」みたいな明快な史料がないから、
史料から拾っていくのは時間がかかるけど
338日本@名無史さん:2008/01/10(木) 10:12:49
早い、早速解答が。
なるほどそれなりにいるのか。
どうも平安時代の尚侍って言うと正規のポスト外のお后ってイメージが強くて。
ところで元女御が尚侍ってなんか訳あり?
現代で言うと元社長夫人が生活に困って秘書として就職とかそんな感じ?
まさかそんなのじゃないよね。
339日本@名無史さん:2008/01/10(木) 10:22:57
337です。
藤原怤子は幼かった円融天皇の養育に携わり、そのために夫冷泉天皇が退位した後も
内裏に残り、円融天皇の尚侍となったようです。
怤子は円融天皇の叔母に当たっていたこととも関係あるかもしれません。
ちなみに怤子は藤原師輔の娘で、村上天皇中宮安子は姉、
関白となった伊尹、兼通、兼家の3兄弟は兄に当たるという
一流の家の出自なので、生活に困っていたと言うことは無いでしょう。
この例を除いても、尚侍は権力者の身内が当てられることが多い地位だったようです。
340日本@名無史さん:2008/01/10(木) 10:41:29
これは懇切丁寧にありがとうございます。
つまりこの場合の尚侍は准母とか超高級乳母のような人に対する肩書きとして使われたのですね。
341日本@名無史さん:2008/01/12(土) 11:00:12
飛鳥朝まで皇后(身分)は皇族出身女性しかなれなかった。藤原鎌子の子孫たちが天智天皇との睦みを盾に、中宮だの尚侍だの女御だのさまざまな後宮ランクを創造して、とうとう皇后独占(寡占)を外戚として打ち立てて仕舞ったのね。
342日本@名無史さん:2008/01/12(土) 11:26:00
>>341
律令の規定では「尚侍」は天皇の妻妾ではないよ。
律令の規定では、皇后ー妃ー夫人ー嬪
それが平安時代以降変化して、皇后(=中宮)−女御ー更衣
尚侍はもともと天皇への奏請・伝宣を職務とする女官。
源氏物語の朧月夜が有名すぎるせいかもしれないけれども、
本来、薬子や朧月夜は女官であって天皇のきさきではない。

なお、尚侍がはじめて皇位継承者のきさきとして迎えられた例では
三条天皇の添い伏しに立てられた藤原綏子がある。
もっとも三条天皇がまだ東宮で、綏子が女御宣下を受けることが出来なかったためで、
以降、皇太子の妻(夫が即位すれば女御宣下)が尚侍を称した(藤原妍子、藤原嬉子など)。
しかし、この時代にも純粋な女官の尚侍はいて、
後朱雀天皇の尚侍藤原眞子(関白藤原教通の娘)の例などがある。
343日本@名無史さん:2008/01/12(土) 20:15:50
威子=柳原加奈子ww
344日本@名無史さん:2008/01/12(土) 21:04:51
>>343
ちょww吹いたww
345日本@名無史さん:2008/01/12(土) 23:21:39
>>342
道長に胸を揉まれた人だっけ?
346日本@名無史さん:2008/01/13(日) 11:34:11
威子=性格きつい。
347日本@名無史さん:2008/01/13(日) 18:11:14
なまみこ物語最高です。
348日本@名無史さん:2008/01/13(日) 22:23:29
26 :日本@名無史さん:2008/01/13(日) 11:33:07
なまみこ物語最高です。

を書き込んだ直後に>>346

28 :日本@名無史さん:2008/01/13(日) 18:10:33
なまみこ物語最高です。

を書き込んだ直後に>>347

わかりやすいのにも程がある。
349日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:15:46
>>342
真子(さねこ)は、子供の頃から病弱だったので家で過ごすことが
多かったようですが、意外と長命ですね。以下、教通の娘たちの生没年。

生子(なりこ、1014〜1068)55歳 真子(1016〜1087)72歳
歓子(よしこ、1021〜1102)82歳
350日本@名無史さん:2008/01/20(日) 17:40:11

351日本@名無史さん:2008/01/20(日) 17:51:35
>>349
教通の三人の娘たちは外祖父藤原公任に溺愛されたようだね。
公任の邸が火事にあったときに、生子と真子の産着が燃えてしまい、
産着にかかれてあった生年月日が分からなくなってしまった。
公任は記録魔の実資に誕生日が記されていないかたずね、
実資が過去の日記を調べてこれを告げたところ、公任は大喜びしている。
晩年出家を望みながらも、孫娘の生子の入内をみるまでは、と、
と公任の関心事はこの頃孫娘たちの入内のことばかりだったようだ。
352日本@名無史さん:2008/01/21(月) 08:28:02
公任の娘は早死したよね
353日本@名無史さん:2008/01/21(月) 17:14:41
教通室公任長女は15歳ぐらいからほぼ年子で子供を産み続け、
7人目の子を産むときに難産のため25歳で死んでしまった。
7人の子のあとは皆絶えてしまっている。

教通は若くして最初の妻と死別した後、三条天皇の皇女℃q内親王と再婚。
℃q内親王は、かつて三条天皇が敦明親王を後見させようとして
頼通に降嫁させようとし、三条天皇と不和な道長が妨害しておじゃんになった皇女。
教通は40代で℃q内親王とも死別し、具平親王女嫥子女王と再婚。
嫥子女王は頼通の妻隆姫女王の妹。
354日本@名無史さん:2008/01/21(月) 17:28:30
隆姫女王ってなんで「姫」がつくの?
当時「姫」ってそんなに一般的じゃないよね?
355日本@名無史さん:2008/01/21(月) 19:19:24
>>353
確か(女専)子はかなりの高齢での初婚だよね
356日本@名無史さん:2008/01/21(月) 19:51:45
>>221
遅レスだが、最近出た山中裕が書いた人物叢書「藤原道長」では、御堂関白記を例証に挙げて明子は妻妾であったと書いてあります。
357日本@名無史さん:2008/01/21(月) 21:06:52
>>355
嫥子女王は若い頃伊勢斎宮に卜定されて、
20年間も伊勢斎宮を勤めていたからね。
47歳のとき教通と結婚したのが初婚。
夫の教通はこのとき56歳だった。
358日本@名無史さん:2008/01/21(月) 21:30:48
それって単に教通を庇護者として選んだってこと?
359日本@名無史さん:2008/01/21(月) 22:55:42
教通は47歳の処女とセックスしたの?
360日本@名無史さん:2008/01/22(火) 08:27:56
嫥子女王は源師房の同母姉。長姉は藤原頼通の正室。
嫥子女王は別に庇護者を求めていたわけじゃないでしょ。
内親王や女王は生涯未婚であることも多かったし。
姉弟は道長一族に取り込まれていたし、
男やもめの教通と結婚しては?という話が持ち上がったのでは?
56歳、3度目婚の新郎と47歳初婚の新婦に
性生活があったかどうかなんて推測したってしょうがない。
この時代、初婚=処女だったかどうかだって分からないでしょ。
361日本@名無史さん:2008/01/25(金) 16:52:32
道長の娘たちの中で、
彰子、妍子の血が現代の天皇家にまで続いているのは有名だけど、
(彰子ー後朱雀天皇→現在の天皇家)
(妍子ー禎子内親王→後三条天皇→現在の天皇家)
高松系の尊子の血も現在の天皇家に繋がっているね。
(尊子ー源顕房ー賢子ー堀河天皇→現在の天皇家)
倫子系の男系子孫は明子系の子孫の娘を
正室に迎えていたりして、複雑に入り乱れている。
362日本@名無史さん:2008/01/25(金) 19:12:22
頼宗が、わざわざ政敵だった伊周の娘を正室にしたのは、嫡流の倫子系に
対抗心を燃やしていたのかな?『古事談』にも、頼通に「自分の方が和歌の
才能がある」と言い放つ逸話がある(頼通は軽く受け流したようですが)。

頼宗自身の心情はどうあれ、子孫は摂関家(頼通の子孫)と協調的だった
ようですね。教通や能信の系統はあからさまに摂関家に対抗して、潰れて
しまいましたが。
363日本@名無史さん:2008/01/25(金) 19:48:45
伊周は美男だったとされているから娘も美女だったかもしれない、
単に頼宗が言い寄ったのかもしれないけどね。
倫子系の男子はあまたの貴族が娘婿にしようと競ったみたいだけど、
明子系にはあまりそういうエピソードもないしね。
頼宗は妻伊周女との間に儲けた娘の延子を
伊周の姪に当たる一条天皇皇女修子内親王の養女にしていて、
延子を後朱雀天皇に入内させるに当たっては
後朱雀天皇の異母姉に当たる修子内親王に口利きをしてもらっている。
単に政敵というのではなく、妻の実家を利用した感じもあるわけで。

教通や能信の系統は、頼通に対抗したからではなく、ただ子孫がいなかったから滅んだのでは?
能信は生涯実子がなく、教通の子たちは子を残すことが出来なかった。
能信養女茂子(白河天皇母)、信長(教通の子)養女麗子(関白藤原師実室)など、
養女の系統は残っている。
364日本@名無史さん:2008/01/25(金) 21:13:19
そう言えば基長はなんで失脚したんだろう?
365日本@名無史さん:2008/01/25(金) 22:27:55
権大納言藤原能信=(養子)内大臣藤原能長(実は藤原頼宗の三男)−権中納言藤原基長

能信の養子能長は後三条・白河天皇に厚遇されたものの
実兄俊家の官位を超えることを恐れて右大臣を譲り能長は内大臣だった。
子の基長が権中納言どまりだったのは
姉の白河天皇女御道子が国母となれなかったせいか。
基長の子実兼は教通の子信家の養子になったとも。
基長の弟参議長忠の娘は院近臣参議藤原忠能に嫁ぎ長成を産んだ者、
藤原基経(藤原隆家の子孫)の妻となり院近臣忠隆を産んだ者がある。
366日本@名無史さん:2008/01/26(土) 08:39:14
>>365
藤原基経は隆家の先祖だよ
367日本@名無史さん:2008/01/26(土) 21:38:32
>>365
藤原基経→藤原基隆
368日本@名無史さん:2008/01/26(土) 21:56:26
そういえば伊周と隆家の嫁は誰の娘なの?
369日本@名無史さん:2008/01/26(土) 21:58:27
売国企業マルハン
2chでパチンコの大手、株式会社マルハン(代表取締役会長 韓 昌 祐、代表取締役社長 鈴木 嘉和、代表取締役副社長 韓 裕)
のスレで ホルコンや遠隔や桜などについて書き込むと工作員(渋谷マルハン社員、マルハンに依頼されたネット工作会社)(仮)
がやってきてスレを荒らしてスレを機能停止させます。(大量のコピペを連投するのでコピペ馬鹿と呼ばれている)
↓↓荒らしのやり方↓↓
2007/11/03(土)ID:b+XZQwwt0
マルハン難波店http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1146755003/417
マルハン総合スレッドhttp://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1187021165/413-416
MPT渋谷パート9http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1197771701/9
2007/11/14(水)ID:IQ2W+BsJ0 2007/11/15(木)ID:Fi5mVWm/0
マルハン総合スレッド 9http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1187021165/486-488
マルハン難波店http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1146755003/434-437
ガイア(笑)http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1178977365/490-492
ガイア正社員友の会http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1188211786/134-138
2007/11/25(日)ID:XeE9yAd+0
マルハン総合スレッド9http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1187021165/538
【香川】パーラーグランドのスレ2【徳島】http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1188315438/147

工作員に荒らされ機能停止したスレ
■■■■マルハン総合スレッド 9■■■■http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1187021165/
【山崎】MPT渋谷パート9【シャネル】http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1197771701
【基地外が大暴れ4】エスパス日拓総合スレ【18発目】http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1188885488
MPT渋谷はマルハン・パチンコ・タワー渋谷の略です。
パチンコ産業は荒らすことでレスとレスの間を空けて読む気をなくさせたり
マネーロンダリング、さくら、ホルコン、遠隔、などの風評被害を最小限に抑えようとしてる。


370日本@名無史さん:2008/01/26(土) 22:11:03
藤原伊周の正室は、権大納言源重光女。
源重光は醍醐天皇皇子代明親王の子。
伊周と重光女は父関白藤原隆家在世中に結婚、
重光は権大納言を娘婿伊周に譲って引退している。
この正室は配流の憂き目にあった伊周を都で待ち続け、生涯添い遂げた。

藤原隆家の妻は従四位下備前守藤原景斉女などが知られているが、
それほど身分の高い正室の存在は知られていない。
隆家は17歳で配流され、結婚したのは都へ戻ってきてからのようだ。
371日本@名無史さん:2008/01/27(日) 13:46:45
重信の婿になってなかったけ?>隆家
372日本@名無史さん:2008/01/27(日) 15:31:36
>>361
小野宮流の血も今の天皇家につながってるしな
男系で断絶してても、女系で見ると子孫が続いてるってのはよくある
373日本@名無史さん:2008/01/27(日) 16:36:07
>>371
隆家は中関白家の全盛期に源重信の娘婿に迎えられたが
他に寵愛する女があってこの妻のもとには寄り付かなかったらしい
自然消滅だっけ?
374日本@名無史さん:2008/01/28(月) 03:58:30
>>370
大変ありがとうございます。
375日本@名無史さん:2008/01/28(月) 07:07:46
頼通は正妻の隆姫女王にずいぶん気を使って、側室に産ませた男子を父の養子に
したり、三条天皇皇女の降嫁も断っている(病気になったという理由で)
寛子も晩年の子だし。単なる恐妻家だったのか。
376日本@名無史さん:2008/01/28(月) 11:28:10
頼通はただ円満夫婦をやりたかっただけじゃないのか。
正室の父は頼通が結婚してまもなく亡くなり、後ろ盾などなかったのに、
頼通は正室の弟妹まで養子にして全員の面倒を見ている。
師実や寛子の母で愛妾祇子を晩年まで公表せず、子を次々養子に出していたのは
父母に預けた長男の存在があったためで、この長男が没すると
師実と寛子が公表され、日陰の存在だった祇子も屋敷をもらっている。

三条天皇の皇女を受けなかったのは、頼通というより父道長の意向。
頼通が三条天皇皇女℃q内親王と結婚するということは、
℃q内親王の同母兄敦明親王の後見を頼通が引き受けるということで、
敦明親王の立太子を阻み、彰子の生んだ敦良親王を立太子させたい
道長には到底容認できるものではなかった。
頼通自身は、病が癒えると、皇女と結婚しなかったのはちょっと勿体無かったかな、
などと思っていたようだ(栄華物語)。
377日本@名無史さん:2008/01/28(月) 18:50:36
内親王と結婚した場合って、婿取られるの?
それとも内親王が嫁いでくるの?
378日本@名無史さん:2008/01/29(火) 22:33:50
内親王さまは、皇族か(少し遠縁も含む)藤原貴族の5位以上の実力者の親族としか結婚しなかったでしょ、つまり政略結婚。希少な宝石がどこの宝石店にあるかの違いよね…でも最近のさーや様のケースはどうなんでしょう、アナクロニズムよね
379日本@名無史さん:2008/01/30(水) 07:28:04
>>376
ありがとうございます。前半の部分ですが父(具平親王でしたか)が亡くなっても
どうしてそんなに隆姫女王の身内を庇護したのでしょうか。それからこの時代
多くの子供たちは一家繁栄のため大切でしたが、子供のいない正室に気兼ねしたと
いうのがよくわかりません。後半はよくわかりました。
380日本@名無史さん:2008/01/30(水) 09:47:49
一族の繁栄のために多くの子供が必要・・・
ということもなかったかも。
この時代すでに、身分の低い女性に産ませた子や兄弟順が下の子供は
摂関家といえど将来就かせてやる役職がなく、
幼いうちにさっさと寺へ入れられ出家させられている。
381日本@名無史さん:2008/01/30(水) 09:56:03
頼通の場合、庶子が一人いただけで摂関家に必要な女子は後年産ませた寛子
ぐらいしかいませんよね。父の道長は倫子と明子の二人の妻に12人産ませているのに
どうして大臣家や親王家の息女と結婚しなかったのか不思議なのです。正室の
隆姫女王に子供がいなかったから余計そう思うのです。
382日本@名無史さん:2008/01/30(水) 10:08:13
>381
頼通の場合、自分の姉妹が天皇后として張り付いていて、
頼通が高齢になって引退するまで甥たちが天皇を勤めていたからね。
弟教通は妹の威子が入内している後一条天皇に自分の娘を入れようとして
兄頼通や妹威子と対立している、姉妹が多かったせいでそれほど
多くの娘が必要ではなかったということはあるよね。

頼通は隆姫の姪女原子女王を養女にして後朱雀天皇に入内させるということもしている。
頼通の後継者藤原師実は好色で知られ、正室の麗子以外にも言い寄った女は数知れず、
結果的に十数人の子供があったがなぜかすべて男子。
仕方がないので正室麗子の姪である源賢子を養女にして白河天皇に入内させている。
教通も最初の正室との間には7人の子があったが、その後結婚した2人の正室との間には子がなく、
天皇に入内した最初の正室の娘は2度目の正室の養女にして入内させている。
正室と死別や離婚したならともかく、正室がいるのにあえて親王家や大臣家から
また正室を迎えるというのも例がないよね。
383日本@名無史さん:2008/01/30(水) 10:35:43
つまり、この時代、正室に子供がなければ養女、養子でかまわなかった、
ということなのでは?
道長は例外的に二人の妻が子だくさんだったが、ほかにも養子、養女がいた。
道長の子供たちの代になると養子、養女の例はさらに増える。
384日本@名無史さん:2008/01/30(水) 10:46:07
なるほど姉妹の関係が大きかったんですね。それから兄弟の娘より妻の姪のほうが
実権を握れますしね。
385日本@名無史さん:2008/01/30(水) 11:31:04
一条天皇の第一皇女脩子内親王と同母弟敦康親王との間はどうだったのでしょうか。
女美子内親王は早世していますが、脩子内親王は弟の娘、女原子女王などは
養育したのでしょうか。それから敦康親王の曾孫の源基子が後三条天皇の
女御になっていますが敦康親王の正室は誰で御子は幾人ほどいたのでしょう。
20歳そこそこで亡くなっているのであまりいないと思いますが。
386日本@名無史さん:2008/01/30(水) 12:46:12
脩子内親王と敦康親王は母皇后定子、その妹御笥殿が没した後、
一条天皇中宮彰子の手元で育てられます。
修子内親王は敦康親王が三条天皇即位時に立太子できなかったことを見届けると、
自ら道長陣営を去り、実の叔父道隆の邸へ移りますが、
その後も敦康親王が有力な皇位継承者のひとりであることに変わりはなく、
敦康親王は生涯養母彰子の庇護を受けました。
敦康親王は、彰子の意向もあり、
彰子の弟頼通が養女にしていた正室隆姫の妹祇子女王(具平親王次女)と結婚。
隆姫の弟妹たちは頼通と隆姫夫妻の邸にいましたから、
敦康親王はここに入り婿して頼通と婿同士同居し、
温厚な頼通は敦康親王の世話をよくしたといいます。
敦康親王は正室との間に一人娘の女原子女王を残して没。
若くして夫をなくした祇子女王は精神が不安定となり出家したようですから、
女原子女王は同居する姉の隆姫が引き取って養女としていたようです。
敦康親王の子は後朱雀天皇の中宮となった女原子女王のみです。
祇子女王以外に妻の存在は知られていません。
ちなみに、源基子は小一条院と藤原頼宗の長女との間に生まれた源基平の娘です。
基子の母は藤原隆家の長男良頼の娘ですので中関白家の血は引いていますが、
敦康親王の血は引いていません。

一方、実の叔父隆家のもとへ移った修子内親王は、
頼通夫妻のもとにあった姪の女原子女王との接点はなかったようですが、
もう一人の叔父伊周の長女が頼宗室となると、間に生まれた延子を養女として引き取り、
延子が頼通の養女や教通の娘が凌ぎをけずる後朱雀天皇の後宮に入内するに当たっては、
修子内親王が異母弟の後朱雀天皇に対して入内を要請しているようです。
387日本@名無史さん:2008/01/30(水) 12:51:10
本当に詳しく教えてくださってありがとうございます。敦康親王と敦明親王を
混ぜてしまいました。ごめんなさい。これからも教えてください。よろしく
お願いいたします。
388日本@名無史さん:2008/01/30(水) 17:38:04
彰子ってよくできた人だったのね しかし修子さんとはうまく行かなかったのか?
389日本@名無史さん:2008/01/30(水) 22:35:47
頼宗長女(延子と同母)って可哀想だな
本来なら女御にもなりえたのに頼通に子供が生まれなかったばかりに小一条院の後妻になって・・・
まあ母親の伊周娘からして本来なら中宮にもなりえた身分なのに・・・
390日本@名無史さん:2008/01/30(水) 22:43:53
彰子と脩子は手紙の遣り取りをしていたらしいから、
悪いと言うほど悪くはなかったみたい。
391日本@名無史さん:2008/01/31(木) 03:15:25
道長って摂関になったことないのになんで日記は御堂関白記て名前なの?
392日本@名無史さん:2008/01/31(木) 13:19:51
平安末期の師通や頼長の日記などでは、
「入道殿御暦記」「入道殿御日記」「御堂御日記」「法成寺摂政記」「法成寺入道左大臣記」
等と書かれているそうです。
「御堂関白記」とか言い出したのは江戸時代くらいかららしいです。
393日本@名無史さん:2008/01/31(木) 14:35:25
>>389
小一条院の皇子は親王宣下をされているケースが多いのに、なぜか
頼宗長女が産んだ皇子は、臣籍降下されて源基平なんですよね。

これは、頼通・教通が「お前のところの娘が産んだ皇子なんて、最初から
皇位継承の資格は持っていないんだよ」と圧力を加えたのかも。
394日本@名無史さん:2008/01/31(木) 18:29:55
>>393
いや、最初に産んだ息子は親王になっている
395日本@名無史さん:2008/01/31(木) 18:44:53
>>394
基平が兄。
頼宗長女には男子が2人あったが、
兄の源基平のほうが臣籍降下で源氏となり、
弟の敦賢親王のほうが親王宣下を受けている。
396日本@名無史さん:2008/01/31(木) 21:49:56
源基平(1026〜1064)
敦賢親王(1039〜1077)
397日本@名無史さん:2008/02/01(金) 06:31:49
敦明親王は延子、寛子、頼宗長女と3人の正室がいたんですね。子供は
どの正室に何人いたのでしょうか。また、結果論で見ると敦明親王は皇太子を
辞退して幸福な生涯を送ったように思えます。また、親王の同母弟の3人の
親王の生涯はどうなったのでしょう。
398日本@名無史さん:2008/02/01(金) 09:11:42
藤原延子
・敦貞親王・栄子内親王・敦昌親王
藤原寛子
・儇子内親王・敦元親王
藤原頼宗長女
・源基平・敦賢親王

なお、敦明親王が晩年に大層寵愛し、あたかも女御のようだということで
「瑠璃女御」と呼ばれた源政隆女との間に源信宗と斉子内親王、
さらに母親不詳ですが伊勢斎宮となった嘉子内親王があります。
399日本@名無史さん:2008/02/01(金) 09:30:15
小一条院の3人の同母弟たち

敦儀親王(997〜1054)
父三条天皇即位後の寛弘8年(1009年)親王宣下、同日、三品。
中務卿、式部卿などを歴任、のち王氏の爵を受ける。
長兄敦明親王はやや精神異常があったとされ、父母は
次男の敦儀親王に期待するところが大きくかったといわれる。
そのためか、正室の藤原隆家長女との結婚の際、
当初藤原道長の不満により延期されたことがある。

敦平親王(998〜1048)
寛弘8年(1009年)親王宣下、
長和2年(1013年)元服した際、三品に叙される。
のち二品。兵部卿や中務卿を歴任。
妻は藤原兼隆(藤原兼家の子・道長養子)女など。

師明親王(1002〜1085)
5歳で親王宣下を受けた後、18歳で仁和寺に入り、出家。
大御室と称された。弟子に白河皇子覚行法親王がある。
400日本@名無史さん:2008/02/01(金) 09:34:01
教えてくださってどうも有難う御座いました。とても詳しいですね。また、
よろしくお願いいたします。
401日本@名無史さん:2008/02/01(金) 13:15:57
>>389
>本来なら女御にもなりえたのに頼通に子供が
>生まれなかったばかりに小一条院の後妻になって

ん?これは関係ないよね。
頼宗長女が15歳の万寿2年8月、叔母の東宮妃藤原嬉子と
やはり叔母の小一条院妃藤原寛子が相次いで亡くなった。
頼宗は嫡腹の長女を将来の中宮候補として期待をかけており、
その第一希望は嬉子を失った東宮敦良親王(のち後朱雀)であったと見られる。
ところが、当時は祖父藤原道長の在世中。
東宮母藤原彰子との兼ね合いもあり、明子系の孫娘が東宮に侍ることは遠慮を余儀なくされ、
道長は東宮妃に倫子系の孫娘禎子内親王を選び、
頼宗長女は寛子の死により後ろ盾を失うことを恐れた小一条院の後妻に納まった。
寛子と小一条院の結婚の際には、頼宗、能信など高松系の子息たちが奉仕したことがみえ、
小一条院は引き続き高松系の娘婿として頼宗が後見していくことになった。

402日本@名無史さん:2008/02/02(土) 15:55:48
いつも質問ばかりですみません。
彰子ー後朱雀天皇ー後三条天皇ー白河天皇(皇太子)
禎子ー後三条天皇ー白河天皇ー堀河天皇
というように子孫が続くわけですが、母研子に先立たれた禎子は彰子に養育されたのですか?
禎子は姪になりますし。また、彰子は曾孫の白河天皇(まだ即位していませんが)
にまで強い影響力を待ち続けたのでしょうか。男系と女系の役割分担と
強さの割合がわかりません。弟たちに影響力があったのは知っていますが。
また禎子ですが嬉子はともかく生子、延子、女原子などの入内があって
子供たち3人をつれて里帰りしています。里はどこだったのでしょう。
二人の内親王が斎宮、斎院に選ばれ禎子は尊仁親王と二人きりになります。
ここで父に阻害された母と息子に深い結びつきができ、禎子は彰子なきあと
大きな母権を握ったと思うのですがそこの点はどうなのでしょう。それとも
茂子や賢子の実家が力を握ったのでしょうか。長文でまとまりもなくすみません。
403日本@名無史さん:2008/02/02(土) 16:50:54
>>398
横から失礼します。
この瑠璃女御の父の源政隆というのは、
どのような出自の人物なのでしょうか。
外孫の信宗が臣籍降下しているところからして、
さほど高い身分の方ではなかったのでしょうかね。
404日本@名無史さん:2008/02/03(日) 08:31:32
>>403
源政隆は、従五位下下野守とありますから、受領階級の人です。
大臣や摂政を父とする3人の正室たちとは明らかに身分が違ったのでしょうね。
瑠璃女御の姉妹の一人は、後冷泉天皇の后藤原寛子に仕えて、
四条宮下野と呼ばれる歌人でした。
405日本@名無史さん:2008/02/03(日) 08:46:04
>>402
禎子は母姸子の存命中に成人し東宮妃となっています。
そのために特に誰かに養育されたということはないようですね。
彰子は父道長亡き後、自ら長姉として弟たちを盛り立てていくことに心を砕いたようです。
後朱雀天皇に頼通養女嫄子女王が入内する際、彰子は頼通の願いどおりこれを盛り立てます。
後朱雀天皇にはすでに東宮時代からの妃である禎子があり、皇子もいたわけですが、
摂関政治を維持するには天皇の外祖父あるいはおじとなることが必要であり、
頼通の姪である禎子の皇子では血縁関係が弱く、摂関としての威力を発揮できないという事情がありました。
ところが、自分にはばかりもせず嫄子女王を入内させたことに立腹した禎子は、
自ら後朱雀天皇の後宮を出て里第に帰ってしまいます。
禎子の中宮大夫を勤めていた藤原能信が、頼通、教通への対抗心もあり、
禎子のためにさまざまに動くのは周知の通りです。
406日本@名無史さん:2008/02/03(日) 09:17:59
>>402
禎子が帰った里第ですが、母姸子から伝領した枇杷殿です。
禎子は後三条天皇即位後、女院号を受け尊ばれますが、
それほど政治に口出しすることは無かったようです。
禎子に有力な兄弟がおらず、後ろ盾がなかったこと、
それに有力な外戚がいないことを逆手にとって親政を推し進めた
後三条天皇の性格によるところのもののようです。

一方、後一条天皇・後朱雀天皇の国母として、
また妹嬉子の没後、庇護した後冷泉天皇の世において大変力を持った上東門院彰子は、
後三条・白河天皇の世に政治的発言力を持つことは無かったようです。
白河天皇は、母方の外祖父に当たる藤原能信については、常に呼び捨てにすることなく
「殿」をつけてよび、「この祖父なかりせば(帝位につくことは無かった)」と
常に敬ったといいますが、父方の尊属である彰子らとは疎遠だったようです。

白河天皇が即位したとき、すでに外祖父能信、生母茂子はこの世にいませんでしたから、
外戚の一族が政治に干渉するということはなかったようです。
白河天皇の中宮賢子は藤原師実の養女でしたが、
白河天皇の即位当時、関白は藤原教通で師実への政権移譲は微妙であり、
白河天皇の配慮で師実が関白となった後も、白河天皇の後継を位置づけられていた
異母弟実仁親王、輔仁親王の存在から賢子の皇子への譲位が当初困難と見られていた背景から、
摂関が以前ほどの威力を発揮することなどもなかったようです。

白河天皇が異母弟を退けて、子の堀河天皇に突発的に譲位したのは白河天皇の独断と見られており、
そのために堀河天皇に対する実父の発言力は増したともいわれています。
407日本@名無史さん:2008/02/03(日) 11:08:27
彰子はやはり道長の娘なんですね。妹の娘である禎子が入内していても、摂関家の
ために弟の妻の姪(養女ですが)をわが子の後宮にいれたのですね。女原子は
二人の内親王しか産みませんでしたが、これが親王だったなら後三条天皇の即位は
なく、禎子内親王も女院になれなかったかもしれませんね。
もし、彰子がもっと禎子親子を後見しておけば、彰子が後三条天皇に影響力を
もてたのではないかと考えたのです。
でも生母の禎子内親王ですら口出しできないとなれば、無理ですね。
ここで禎子以外の摂関家の息女たちが親王を産んでいれば摂関政治が続いたのかと
思ってしまいます。
教えてくださってありがとうございました。
408日本@名無史さん:2008/02/03(日) 11:38:05
「大鏡」によれば、後朱雀天皇が危篤となり、東宮(後冷泉天皇)に譲位する際、
次の東宮がまだ決まっていませんでした。
しかし、関白頼通がこのままで、と言ったので後朱雀天皇は何もいえなかったとあります。
頼通は後冷泉天皇に入内が内定していた娘寛子が皇子を産めば、すぐに立太子できるよう、
東宮の座を空けておくことを提案したとされています。
能信の機転で東宮に立つことが出来た後三条ですが、
異母兄後冷泉の後宮には、関白頼通の息女寛子、左大臣(のち関白)教通の息女歓子、
上東門院の後見する後一条皇女章子内親王の3人の后(一帝三后)が並びたつという
凄まじい状況で、藤原氏系の后たちから皇子が生まれれば後三条はいつ廃太子にされるやも知らず、
実際、盗賊が出たとかで東宮御所近辺に武士が出動した際、
東宮方ではいよいよ関白の命令で後三条が廃太子になると大騒ぎしたことがあったそうです。
409日本@名無史さん:2008/02/03(日) 11:57:27
そうだったのですか。後三条天皇の即位は綱渡りだったのですね。能信が
機転を利かせたのはやはり倫子系に対するライバル意識だったのでしょうか。
それから彰子が孫である章子内親王を庇護するのはわかるのですが、禎子内親王と
待遇が違うのはどうしてでしょうか。二人とも藤原氏ではなく王氏ですのに。
410日本@名無史さん:2008/02/03(日) 12:04:52
409です。章子内親王も威子の娘ですよね。これは禎子内親王の父が三条天皇、
章子内親王の父が後一条天皇ということが関係しているのでしょうか。
章子内親王は彰子の孫になりますし。
それから独身でいた内親王も多いのにどうして後一条天皇の二人の内親王は
入内できたのでしょうか。
411日本@名無史さん:2008/02/03(日) 14:49:25
章子内親王、馨子内親王の場合、年少時に
生母を亡くしたことが大きいのではないでしょうか。
同じく生まれたときに母を亡くした嬉子同様、
母の姉である上東門院彰子の庇護を受け、愛情を受けて育ちました。
一方、禎子内親王は、15歳まで母姸子のもとで育ちました。
禎子内親王は同年、外祖父藤原道長の意向で東宮敦良親王に入内しますが、
4ヵ月後に母姸子が、半年後には外祖父藤原道長が亡くなり、後ろ盾をなくしてしまいます。
禎子内親王には同母兄弟がなく、疎遠だった異母兄たちにも有力者はいませんでした。
また、母の姉である彰子を養育者としたこともありませんでした。
彰子に養育された章子内親王は、後から入内した寛子が立后したときも、
歓子が入内したときも、おっとりと構え、動じなかったといわれています。
一方、嫄子女王が入内、立后した際、禎子内親王は後朱雀天皇の後宮を出てしまいました。
禎子内親王の脳裏には、伯父頼通や伯母彰子が自分を後見しなかったことを
恨んでの行為だったようですが、これにより頼通や彰子との亀裂を
修復不可能にしてしまったということはあります。
けして頼通や彰子が禎子内親王を後朱雀天皇の後宮から追ったのではなく、
後宮を独占できなかったことに対する禎子内親王の抗議ですから、
禎子内親王がここまで頼通や彰子に敵対心を見せなければ、
それほど仲が悪化していなかった可能性があります。
禎子内親王は、後朱雀に入内する際、形ばかりとはいえ頼通の養女となっています。
頼通にとって、生まれたときから正室のもとで養育してきた養女嫄子女王の入内は悲願だったでしょうし、
頼通、彰子とも嫄子女王の入内に対して禎子内親王がここまで過敏に反応するとは思わず、
禎子内親王が後宮を出なければそれなりの処遇を受けていたような気もします。
412日本@名無史さん:2008/02/03(日) 16:41:14
彰子太皇太后の禎子内親王と章子内親王、馨子内親王に対する態度の違いが
わかりました。やはり、手元で養育した子供には情がわきますものね。
賢后といわれたいる彰子が冷たい人ではなくてほっとしました。
禎子内親王は自分から出て行ったんですね。後宮は複数の妃がいても当たり前ですのに。
父三条天皇が敦明親王の即位にこだわっていたのを思い出します。
教えてくださってありがとうございました。
413日本@名無史さん:2008/02/06(水) 14:38:56
414日本@名無史さん:2008/02/06(水) 16:50:37
>>412
中宮になった次の月に皇后に祭り上げられたら、まともな神経をしてたら腹を立てるわな。
ましてそれを推進したのが自分の母の実の兄・姉となったら、同じ血を受けた自分に対して
この仕打ちは何だと、深い恨みを抱いても仕方がない。
415日本@名無史さん:2008/02/06(水) 17:09:56
>>414
禎子内親王は叔母嬉子の没後、男やもめとなった東宮時代の後朱雀に、
万寿四年に入内。以降、十年間、東宮の後宮には禎子内親王ただ一人
しかおらず、まさに独占状態でした。
入内から十年後、東宮が即位して後朱雀天皇となるわけですが、
このときはじめて対抗馬となる3歳年下の嫄子女王が入内。
禎子内親王入内の1ヵ月後に嫄子女王が入内したわけではなく、
禎子内親王が十年間後朱雀の後宮を独占した後の入内だったわけです。
頼通の養女である嫄子女王は、当然のことながら立后。
禎子内親王は中宮から皇后になるわけですが、
後宮退出の第一の理由は十年間独占した後朱雀後宮への失望でしょうね。
後冷泉天皇の後宮では、先に入内していた中宮章子内親王が、
後から入内した藤原寛子が立后する際、寛子に皇后を譲り、
先に入内していた后が中宮にとどまるということも起こっています。

416日本@名無史さん:2008/02/06(水) 17:13:34
>>414
補足;
東宮妃の段階では立后できないため、
禎子内親王は夫が即位した後で女御宣下を受け、そののち立后しました。
つまり、禎子内親王が女御になり、続いて立后したのは結婚十年目。
禎子内親王が1ヶ月しか中宮でいれなかったからといって、
特に冷遇されていたということではありません。
417日本@名無史さん:2008/02/06(水) 17:23:36
禎子内親王を入内させた責任者は内実はともあれ一応は頼通で、
禎子内親王もちゃんと皇子を産んでその務めも果たしている。
禎子内親王には父はもちろん、同母の兄弟も、支えてくれる有力な
異母兄弟もいないから、頼通・彰子は一番近い身内であって、
頼通に道長ほどの才覚があれば、「娘」として取り込むことも、
十分可能であった。
418日本@名無史さん:2008/02/06(水) 17:39:00
禎子内親王が産んだ後三条天皇は第二皇子。
後朱雀天皇の第一皇子としては嬉子の産んだ後冷泉天皇があって、
後冷泉天皇にすぐにでも嫡子(藤原氏系后たちの皇子)が誕生すれば、
もともと弟である後三条天皇が即位する可能性は低かった。
禎子内親王は頼通の養女として入内したけれども、
実際には、頼通や彰子の関心は妹嬉子の産んだ第一皇子後冷泉天皇にあって、
世間の人も禎子内親王の皇子にはあまり関心がなかったんだよね。
結果的に後冷泉天皇には3人の后があったにもかかわらず皇子女が一人も誕生しなかったため
(歓子が一度だけ皇子を死産。ほかに身分の低い女房に産ませた男子を養子に出したとも)
弟の後三条が即位できたが、当初、後三条はそれほど注視された皇子ではなかったんだよね。
419日本@名無史さん:2008/02/06(水) 18:13:25
確かな後見のない禎子内親王の後見役を買って出て安心させ、
尊仁親王(後三条天皇)元服に際して手駒とも言える馨子内親王を
東宮妃に入れておけば、頼通晩年の凋落はなかったかもしれない。
420日本@名無史さん:2008/02/06(水) 18:23:44
禎子内親王の実父は道長と激しく対立した三条天皇だったし、
相当気が強かったとされる禎子内親王が
どこまで養父頼通の意見を受け入れたかだよね
禎子内親王は同じ養女とはいっても嫄子女王のように
幼少時から頼通に育てられたわけでも養われたわけでもない

実際、禎子内親王の母姸子の中宮大夫を勤め、
禎子内親王の中宮大夫もまた勤めて
常に禎子内親王に近侍していた藤原能信は
異母兄頼通に失言を吐いて父道長にたしなめられるような人だったし
能信が兄頼通への対抗心から意図的に禎子内親王と頼通の仲を
はばんでいたという説もあるしね
421日本@名無史さん:2008/02/06(水) 19:01:21
>>419
馨子内親王は後三条元服の添い伏しでこそなかったけれども、
東宮時代の後三条に入内し、後三条が即位したときには中宮に立てられている。
馨子内親王は8歳で父母を亡くした後、上東門院彰子に養育された皇女。
馨子内親王に男子が生まれて成長していれば、
能信養女茂子を母とする白河天皇の出る幕などなかった。
実際には馨子内親王の皇子は夭折、子は育たなかった。
馨子内親王自体は東宮妃になっているのでその点は問題ないと思うが、
ここでも跡継ぎとなる皇子を得られなかった。
422日本@名無史さん:2008/02/06(水) 23:32:23
現皇室御遠祖禎子内親王さまバンザイ!
423日本@名無史さん:2008/02/07(木) 00:00:01
>>420-421
まあ、結果だけ見ればその通りなんだが、物事にはタイミングがあるからな。
頼通のやっていることはどうも一貫性がなくて、後手後手に回ってるように思う。
424日本@名無史さん:2008/02/07(木) 01:26:05
3歳年下?の教道との兄弟ライバル関係のトラウマが晩年までも響いたのさ、教道よりはやく老けてたみたいよ
425日本@名無史さん:2008/02/07(木) 08:46:00
道長と三条天皇は仲が悪かったのですが、三条天皇の母は道長の同母姉超子
道長が彰子を入内させた一条天皇の生母もやはり同母姉詮子。二人とも道長の
甥になります。条件は同じなのにどうして道長は三条天皇を冷遇したのでしょう。
本によると超子は早死にして道長との接点が少ないが、詮子は40まで生きて
道長をバックアップしたからと書いてありました。
もしかしたら三条天皇に道長の近親者ではない女成子が入内して6人御子を
産んでいたからではないかと思います。道隆の娘原子早死に、異母妹のすい子は
不祥事によって去っており、摂関家にとって都合の悪い天皇だったからと
考えます。でもそれなら三条天皇に摂関家の娘(養女)を入内させればよかったのに
どうしてしなかったのでしょう。
426日本@名無史さん:2008/02/07(木) 09:27:51
男系で吉外で忌諱された冷泉天皇の子孫になるから・・・という説が有力じゃなかったっけ。
427日本@名無史さん:2008/02/07(木) 13:07:19
>>425
藤原道長は娘の姸子を三条天皇に入内させているよね。
しかし、姸子が産んだのは女子の禎子内親王のみだった。
一方、皇后娍子には皇子が四人。
姸子が皇子を産んでいたら、皇子は後一条天皇に続いて即位しただろうし、
三条天皇も、天皇の父としてそれなりの権力を有していたかもしれない。
だけど、女子が誕生したことでそれもできなくなってしまった。

一条天皇のときは、弟道長を寵愛した姉詮子が、道長を引き立て、
道長の娘彰子がすでに妃が四人もいた一条天皇に入内するに当たって後見し、
彰子が男子を産めばすぐに立太子できるよう、中宮にまで引き上げている。
また、彰子が子に恵まれなかったときのために定子の皇子女を養育させるなど、
一条天皇のために道長ー彰子に譲歩も強いている。
一方、道長のもう一人の姉超子は、わが子三条天皇が立太子するのすら知らずに没したし、
三条天皇が即位したとき、母はおらず、父冷泉天皇は正気ではないという状態で、
道長との調整役が誰一人いなかった。
428日本@名無史さん:2008/02/07(木) 15:32:39
嫄子女王に皇子が恵まれていたら
定子さまの遺伝子が今の世にも・・・・。
429日本@名無史さん:2008/02/07(木) 15:56:34
>>427
超子が生きていたら、そして妍子が親王を産んでいたら三条天皇の人生も
変わっていたんですね。男子が生まれるか女子が生まれるかまた不妊か、
偶然が作用する摂関政治だったのですね。教えてくださってありがとうございます。
430日本@名無史さん:2008/02/07(木) 20:53:39
御櫛笥殿が皇子を生んで彰子に子がなかったら。
431日本@名無史さん:2008/02/08(金) 08:15:45
定子様の孫が天皇になってほしかった・・。あ、ひ孫か。
432日本@名無史さん:2008/02/09(土) 00:57:43
21世紀まで続く宿命の彰子定子ばとる...
433日本@名無史さん:2008/02/09(土) 10:03:11
御櫛笥殿が皇子を生んで彰子に子がなかったら。
434日本@名無史さん:2008/02/09(土) 16:24:44
嫄子女王に皇子が恵まれていたら
定子さまの遺伝子が今の世にも・・・・。
435日本@名無史さん:2008/02/09(土) 16:50:55
公家ってどうやってセックスしてたの?
全裸?それとも着衣で?十二単とか着ながらやっちゃったりした?
っていうか、当時って風呂はいらなかったんでしょ?
マン垢とかたまりまくりですんごい臭かったんじゃない?
436日本@名無史さん:2008/02/09(土) 19:36:19
嫄子女王に皇子が恵まれていたら
定子さまの遺伝子が今の世にも・・・・。
437日本@名無史さん:2008/02/10(日) 09:29:21
御櫛笥殿が皇子を生んで彰子に子がなかったら。
438日本@名無史さん:2008/02/10(日) 09:39:02
↑たら鍋オフ会のお誘い?
439日本@名無史さん:2008/02/10(日) 15:16:46
中関白家の子孫はただの平民、定子様もがっかり
440日本@名無史さん:2008/02/10(日) 18:58:59
嫄子女王に皇子が恵まれていたら
定子さまの遺伝子が今の世にも・・・・。
441日本@名無史さん:2008/02/10(日) 21:19:44
綸子腹の4人の姫はいずれも天皇や皇太子の后妃となっています。
明子腹の寛子は小一条院の妃です。どうして尊子だけ源師房の正室になったのでしょう。
頼通が正室隆姫女王の兄弟を庇護していたから、尊子もそのなかに加わったのでしょうか。
また、源師房には尊子以外の妻や妾はいたのでしょうか。
442日本@名無史さん:2008/02/10(日) 21:27:41
訂正
綸子→倫子
443日本@名無史さん:2008/02/10(日) 21:33:33
>>441
wikiも見てみることですね。
自分だけが「ただ人」と結婚させられたことに、尊子としては確かに
不満であったかもしれないが(『望みしは何ぞ』でもそう描かれている)、
一人の女性の人生としては、出来のよい子供たちに恵まれて、
幸せな人生だったのではないでしょうか。
444日本@名無史さん:2008/02/10(日) 22:50:33
>>443
3部作は読みました。尊子は不美人で父からもあまり可愛がられず、同母兄の
能信も格落ちの結婚に不満を持ち、もちろん尊子も不満で結婚式のとき
そっけなくしていたと書かれています。しかしこれは小説です。
445日本@名無史さん:2008/02/10(日) 23:33:40
その不美人から美女と言われた賢子という孫が生まれたのが面白い。
446日本@名無史さん:2008/02/11(月) 08:41:15
嫄子女王に皇子が恵まれていたら
定子さまの遺伝子が今の世にも・・・・。
447日本@名無史さん:2008/02/11(月) 09:01:36
>>443
ウィキペディアを見てきました。藤原尊子だけでなく源麗子まで載っているんですね。
教えてくださってありがとうございました。
448日本@名無史さん:2008/02/11(月) 11:57:44
>>441
確か頼宗娘も妻にしていた様な・・・
449日本@名無史さん:2008/02/11(月) 13:12:46
>>439
レス違いだけど、後鳥羽天皇の生母七条院殖子は藤原道隆の血筋。
隆家系列だけど、中関白家の血筋は天皇家に続いている。
450日本@名無史さん:2008/02/11(月) 13:18:34
嫄子女王に皇子が恵まれていたら
定子さまの遺伝子が今の世にも・・・・。
451日本@名無史さん:2008/02/11(月) 14:05:59
殖子さまは先祖筋の定子さまのかたきをうってくれたのですね、彰子さま。
452日本@名無史さん:2008/02/11(月) 15:27:07
仇も何も後朱雀天皇以後、今上帝まで全員が彰子の子孫だが?
当然後鳥羽天皇も彰子の血筋。
453日本@名無史さん:2008/02/11(月) 15:39:49
後朱雀の後宮って、中関白の孫と三条院の娘が妃になってたり
後見人になったりしてるよね。
陽明門院、げん子女王、延子が前者で、
脩子内親王、℃q内親王が後者。
454日本@名無史さん:2008/02/11(月) 15:44:13
℃q内親王は後見人というよりも母親代わりだっけか。
生子の母親はもう亡くなってたし、継母の内親王をつけることで
箔でもつけようとしたのかな。
455日本@名無史さん:2008/02/11(月) 17:32:36
嫄子女王に皇子が恵まれていたら
定子さまの遺伝子が今の世にも・・・・。
456日本@名無史さん:2008/02/12(火) 10:07:33
>>453
℃q内親王は教通の後室だったから、
生子は℃q内親王の養女という名目で入内したみたいだね
457日本@名無史さん:2008/02/12(火) 10:21:01
>>441 >>443
源師房の正室については、養父藤原頼通が結婚相手探しに奔走していたことが知られる。
「小右記」によれば、当初、頼通は実資の一人娘を相手に考えていたことがあったらしい。
しかし、結局、道長一族の結束のためか、師房の相手は頼通の異母妹尊子に決まったようだ。
当時の天皇、東宮には倫子系の尊子の異母姉妹が張り付き、尊子の結婚相手は
天皇、東宮には求められず、次には異母兄頼通の養子が妥当だと考えられたためか。
もっとも、道長の娘のうち尊子一人が「ただ人」と結婚させられたことは「大鏡」に見え、
高松殿陣営では相当不満だったことが暴露されている。
458日本@名無史さん:2008/02/12(火) 13:56:27
嫄子女王に皇子が恵まれていたら
定子さまの遺伝子が今の世にも・・・・。
459日本@名無史さん:2008/02/12(火) 22:30:52
尊子は明子が40前後の娘で尊子も40前後で息子(のちに僧)を産んでいる
しかし女系で
雅子→愛宮→明子→尊子→麗子
となっているが愛宮は雅子弟高明と結婚して明子は従弟の道長、尊子は5親等で両親ともに近親婚から生まれた叔父と姪を両親にもつ師房と結婚して麗子は従弟と結婚しているw
しかも書いていて明子の異母姉(母親も異母姉妹)が師房祖母ということに気付いたww
しかし5親等でもずいぶん近親婚じゃなく感じるwww
460日本@名無史さん:2008/02/13(水) 04:54:30
御櫛笥殿が皇子を生んで彰子に子がなかったら。
461日本@名無史さん:2008/02/13(水) 22:29:58
能信系は孫の代で失脚、その弟は弁官コースに転じた。
その転身は本人の代では成功し、弁官から現任公卿になっている。
さらに本人が弁官から離れるのと前後して息子を弁官に押し込むことに成功。
このままいけば名家に転じていたかもしれないが、
惜しくも息子が28歳の若さで従五位上左少弁のまま死亡。
そこで頓挫したようだ。
462日本@名無史さん:2008/02/14(木) 11:11:29
>461
能信には実子がなかったから、
養子能長(実は能信の同母兄頼宗の子)の家系だよね?
能長は能信の養子でありながら、
実兄俊家に遠慮して俊家に右大臣を譲ったり、
養父の死後は頼宗の息子として行動することが多かった。
463日本@名無史さん:2008/02/14(木) 13:49:01
能長の子長忠
兄基長は、羽林系の昇進で二〇代後半で従三位、三年で参議、十年で権中納言となるも、
九年で権中納言停止。失脚?
これで上級貴族としての能長系統は脱落か?
長忠の方は地道な弁官勤めで五〇代後半でようやく参議、その後従三位→権中納言と昇進。
息子は能忠、能の字の使用に能信系嫡流意識がうかがえるような気がする。
464日本@名無史さん:2008/02/14(木) 16:21:53
頼宗の系統が頼通の系統である摂関家に
何度も正室を送り込んで政治の中枢に残ったのに対し、
能信の養子の系統は白河天皇女御道子以降、
天皇家とも摂関家とも姻戚関係を築けずに没落した感じがある。
465日本@名無史さん:2008/02/14(木) 16:31:44
頼宗の子俊家は父親から通字を受けていないね
孫の代で急に宗が復活するが
藤原頼通の後継者も藤原師実で父親から一字受けていない
466日本@名無史さん:2008/02/14(木) 19:37:55
信長の子はどうなっちゃったんだろう?いなかったの?いたけど早死?
関白の孫で、棚上げとは言え太政大臣の子息が参議にもならないって普通はないと思うけど。
孫以降で脱落することはままあるけどね。
467日本@名無史さん:2008/02/14(木) 22:08:28
>>466
信秀は関白じゃないし信長は太政大臣じゃない。
息子の信雄は参議くらいにはなってたはず。
468日本@名無史さん:2008/02/15(金) 05:26:58
>>467
藤原教通の子の信長ですよ。
469日本@名無史さん:2008/02/15(金) 08:06:46
>>467-468
ワロタ
470日本@名無史さん:2008/02/15(金) 08:41:44
>>466
尊卑分脈などでは藤原信長の実子の存在は知られていない。
信長は師実室の源麗子(実父は源師房)を養女にしていたことは知られるが
子がなかったところでなぜ男子の養子とらなかったのかは不明。
教通に最も血縁が近い同母兄頼通には後継者の男子は師実一人しかなく
(ほかは死んだり養子に出した)
高松系から養子をとることは考えられなかったためか。
女子の養女は源氏から迎えてもいいが、男子は藤原氏の近い血縁者でなければ
あえて養子にとらなかったということか。
教通には記録に残るだけで8人程度の子があったとされるが(僧侶を含む)、
信長を含めどの人物にも子がなかった(娘の歓子が死産したことはある)。
471日本@名無史さん:2008/02/15(金) 11:03:59
正妻倫子腹
彰子 12歳で20歳の一条天皇に入内
頼通 18歳で具平親王の娘隆子姫に婿取られる 隆姫15〜16歳
研子 16歳で34歳の居貞親王(三条天皇)に入内
教通 17歳で13歳の公任娘に婿取られる
威子 20歳で11歳の甥後一条天皇に入内
嬉子 15歳で13歳の敦良親王(後朱雀天皇)に入内
長家 14歳で行成娘に婿取られる 生母は明子だが倫子の養子
次妻明子腹
頼宗 20歳のとき伊周大姫18〜19歳にかよう 正式な婿取りではないよう
能信 妻実成娘 結婚の時期は不明
顕信 出家
寛子 19歳ごろ即位の可能性のない小一条院の妃となる
尊子 18歳のとき異母兄頼通の養子となっていた15歳の源師房と結婚 
472日本@名無史さん:2008/02/15(金) 13:55:31
正妻倫子、次妻明子ってw

ちなみに「大鏡」「栄華物語」によれば、
道長は三条院の意思をさすがに粗略にできず、
高松系の寛子を東宮時代の敦明親王に入内させて
敦明親王を後見するらしいとの噂があったらしい。
能信が敦明親王に呼ばれたときも、当初は、敦明親王が、
早く同母妹の寛子を奉れとの催促だろうと思っていたとある。
実際には敦明親王の呼び出しは東宮辞退の申し出であり、
これを聞いた道長は大喜びで気の変わらないうちにと
敦明親王に院号を受けさせて外孫敦良親王を早々と立太子させ、
世間の批判から目をそらさせるために
娘の寛子だけは当初の約束通り小一条院となった敦明親王に与えた。
寛子が東宮妃になっていたら明子系の息子たちの行く末も変わっただろうが。
473日本@名無史さん:2008/02/15(金) 18:57:55
>>471
倫子系の息子は倫子に近侍する女房が描いたと思われる(赤染衛門か)
「栄華物語」など婿取りの様子が詳細な記録があるが、
明子系はあまり史料がないからね。
まあ、頼宗や能信は妻と長らく添い遂げた感じがあるから、幸せだったんじゃない。
教通や長家は代々的に婿取られていったけれども、このとき結婚した初婚の妻は
いずれも出産の際に若死にしている。
後妻と暮らした年月のほうが長かったみたいだしね。
474日本@名無史さん:2008/02/16(土) 07:33:58
伊周娘って何人子供を産んだの?
475日本@名無史さん:2008/02/16(土) 09:47:33
長男 兼頼
次男 俊家
四男 能長 能信養子
長女 敦明親王妃
次女 延子 脩子内親王養子 後朱雀天皇女御
三女 昭子 後三条天皇女御
476日本@名無史さん:2008/02/16(土) 09:48:59
伊周女の子は6人(3男3女)

藤原兼頼・・・頼宗の長男だったが、弟たちより先に死んだため中納言止まりだった

藤原俊家・・・頼宗の次男。実弟能長が白河天皇の叔父として大臣に昇進する際、
        能長が実兄俊家の官位を超えることを恐れて俊家を大臣に推薦。
        俊家は頼宗の息子では最も高位の右大臣に。
        以後、俊家の系統が頼宗系の嫡流になる。

藤原能長・・・子がなかった叔父の藤原能信の養子になる。
        白河天皇生母茂子は義姉(こちらも能信の養女)に当たり
        内大臣になる(右大臣は実兄俊家に譲った)。
        白河天皇女御道子の父。

長女・・・叔母寛子の没後、小一条院妃となった。
藤原延子・・・脩子内親王の養女。後朱雀天皇女御。
藤原昭子・・・後三条天皇の女御。
477日本@名無史さん:2008/02/16(土) 15:16:40
話は変わるけど、道長の息子たちは
姉妹に仕える女房たちにも熱心に手を出していたみたいね。
例えば平安朝きっての女流文学者、和泉式部と紫式部の娘(いずれも彰子女房)とかね。

小式部内侍=藤原教通の恋人だったことがあり、教通との間に一男。
       教通と藤原定頼(公任の息子)を同時に2股を掛けていて、
       両者が鉢合わせしてしまったときの逸話が残っている。
       教通の異母兄頼宗とも付き合っていたことがあったらしい。
       藤原公成(能信正室の弟)の子を産んだ際25歳で死去。

大弐三位=藤原兼頼(道兼の子・藤原道長の養子)の恋人となり、一女がある。
      こちらも藤原頼宗と付き合っていたことがあったらしい。
      30代半ばで高階成章と結婚、一男がある。
478日本@名無史さん:2008/02/16(土) 17:17:06
>>477
藤原兼頼じゃなくて兼隆な。
一瞬、頼宗との親子丼だったのかと焦ったw
479日本@名無史さん:2008/02/16(土) 18:31:46
小式部内侍=藤原教通の恋人だったことがあり、教通との間に一男。
       教通と藤原定頼(公任の息子)を同時に2股を掛けていて、
       両者が鉢合わせしてしまったときの逸話が残っている。


この子が教通の子だって確証はあるのだろうか・・・??
480日本@名無史さん:2008/02/16(土) 18:38:47
まあ、それを言い出したら
この時代父親を確定するのは難しいかも・・・
481日本@名無史さん:2008/02/17(日) 09:58:25
DNA検査ができる現在でも父子の判定はしない人がほとんどなのに平安時代に
女房と関係した貴族は本当に自分の子と思っていたのか。源氏物語でも光源氏が
父桐壺帝の妻藤壺中宮との間に女房?乳母?の仲立ちで冷泉帝を産ませているのに。
482日本@名無史さん:2008/02/17(日) 11:13:00
その小式部も生まれたとき、父親から
[本当の父親は誰だろうね」と言われたらしい。
母親の和泉式部は結婚前から色んな貴族と付き合ってたんだろう。
483日本@名無史さん:2008/02/17(日) 11:31:19
平安時代のことではないが、廃太子直仁親王は公式には花園院の子供となっているが、
実は光厳院の子供だったりするしな
史実では確認できないが、そういうことは結構あるのかも
484日本@名無史さん:2008/02/17(日) 13:49:46
威子って最低
485日本@名無史さん:2008/02/17(日) 14:05:01
藤原組長を晒すのはしょうがないとして、娘を晒すのはよくないと思います
486日本@名無史さん:2008/02/17(日) 16:04:43
>>483
明治天皇も本当は大室なんとかという百姓らしいね。
487日本@名無史さん:2008/02/17(日) 16:25:14
>>486
そういうネタはほかの該当スレでやれw
488日本@名無史さん:2008/02/17(日) 19:11:39
>>485
組長ってww
489日本@名無史さん:2008/02/17(日) 23:13:22
>>488
懐かシス
490日本@名無史さん:2008/02/18(月) 12:36:14
藤原教通と小式部内侍の子

静円(1016−1074)
天台宗門跡聖護院に入り、出家。
木幡権僧正と呼ばれた。
仏教に深く傾倒した異母妹皇太后藤原歓子が
晩年異母兄の静円に帰依したらしい。
491日本@名無史さん:2008/02/18(月) 19:00:22
誰が父親か怪しかったから出家させられた。
492日本@名無史さん:2008/02/18(月) 19:08:06
>>491
教通は正室公任女との四男も出家させているからそうでもないかも
小式部内侍の子は藤原公成との子も出家している
有力貴族にとって嫡子がいる場合女房クラスの愛人との間に作った子供は
寺に入れるしかなかったのかも
493名無しさん@お腹いっぱい:2008/02/18(月) 20:46:33
大宅壮一は「実録・天皇記」のなかで出家は人工的な淘汰であると書いている。
ある程度の人数がいればそれで良く、それ以上抱えておくのには経済的な負担が
大きいと。これは天皇家や宮家の中世以降に顕著に見られ、寺側にとっても
寺格が高くなるメリットもあった。
494日本@名無史さん:2008/02/19(火) 06:50:58
>>492
じゃあ小式部には子孫はいないのか・・・?
495日本@名無史さん:2008/02/19(火) 09:02:31
僧侶だからと言って子孫がいないとは限らない。
と言ってみるテスト
496日本@名無史さん:2008/02/19(火) 09:05:31
>>494
小式部内侍に子孫はいない模様。
小式部内侍については、藤原範永との間に
堀河右大臣家女房となった娘を産んだとする説もあるが、
この娘が範永女であったことは当時の史料で確認できるが、
母親については確認できず、範永とも付き合っていたという
小式部内侍がいつのまにか母ということになったものらしい。

平安時代の文学者の中では、
紫式部の娘大弐三位が高階成章との間に産んだ子が
高階家を継ぎ、院近臣を輩出した。
紫式部の血は高階家を通じて女系で現在の天皇家にも繋がっている。
赤染衛門の血も大江家に入ったね。
497日本@名無史さん:2008/02/19(火) 09:05:56
>>495
男色では子供は作れないよ。
498日本@名無史さん:2008/02/19(火) 17:29:11
>>496
高階?大弐三位は二度目の結婚で高階家に嫁いで高齢で息子を産んだことは知っているがどこがどうなって天皇家につながるの?
499日本@名無史さん:2008/02/19(火) 17:31:01
>>497
スレチだが土御門天皇の生母の実父は僧侶
500日本@名無史さん:2008/02/19(火) 17:35:00
藤原教通の子

藤原通基(母;公任女)・・・参議
藤原信長(母;公任女)・・・太政大臣
藤原信家(母;公任女)・・・権大納言。伯父頼通の養子。
静円(母;小式部内侍)・・・権僧正(僧侶)
静覚(母;公任女)・・・権大僧都(僧侶)
行覚(母;不祥)・・・(僧侶)
證仁(母;不祥)・・・(僧侶)

藤原生子(母;公任女)・・・後朱雀天皇女御
藤原真子(母;公任女)・・・後朱雀天皇尚侍
藤原歓子(母;公任女)・・・後冷泉天皇皇后。のち皇太后。

以上、七男三女のいずれもに子がなかった。

なお、信長と信家は養子(男子)をとっている。
信長の養子兼実(美濃守基貞の子だが、正四位下で終わる。
信長のもう一人の養子知房(越中守源良宗の子)だが、正五位下どまり。
信家の養子忠綱(関白藤原頼通の子)は正四位下近江守。
信家のもう一人の養子宗家(三条院皇子敦貞親王の子)は従四位下右少将。
いずれも実父の身分上出世できなかったものか、形だけの養子関係だったものか。
太政大臣にまでなった信長も、養子の官位昇進を願うようなことをしていないため。
501日本@名無史さん:2008/02/19(火) 17:37:45
>>499
院政期には随分僧の性関係が乱れ、
僧が女を囲ったりしていたみたいで、
天台座主となった慈円(こちらは誤ちはなかった模様)
が下々の僧侶の女犯を嘆いている。
だけど、この時代はそれほど乱れていない。
502日本@名無史さん:2008/02/19(火) 17:47:49
>信長の養子兼実(美濃守基貞の子だが、正四位下で終わる。
>信長のもう一人の養子知房(越中守源良宗の子)だが、正五位下どまり。


受領の息子を養子に迎えたの?
いったいなぜ?
503日本@名無史さん:2008/02/19(火) 18:05:57
>>502
いずれも親戚関係にあったから。
ただし、高松系で多少遠い。
兼実の父である美濃守基貞は、藤原頼宗の子(ただし妾腹)。
知房の父である越中守良宗は、源経房(道長妻明子の弟。道長猶子)の子。
504日本@名無史さん:2008/02/19(火) 20:21:21
へ〜。
父親はそれなりでもあっさり受領階級に落ちたりするんだね。
505日本@名無史さん:2008/02/19(火) 21:41:08
>>500
実父の身分上…といっても、藤原忠綱の実父は頼通なんだよね?
それで正四位下というのはどうしたことでしょうね。
そんなに早死にした風でもないし。
506日本@名無史さん:2008/02/19(火) 21:45:34
「宮廷公家系図集成」東京堂出版によると、
信長の実子に法眼澄仁と言うのがあがってるけど実在?
507日本@名無史さん:2008/02/19(火) 21:49:00
跡継ぎ以外は出世しない場合も多いよね。
けど信長のように摂関を狙ったほどの人が後継者のことを考えていないように見えるのは異様だ。
もしかして本人一代のみの摂関で子供がいないんだから次代は本家に返すよ。
って言う考え方?
師実との年齢差から言ってそれなら特に我が儘っわ分けでもないと思う。
508日本@名無史さん:2008/02/19(火) 22:21:59
信家が頼通の養子になっていると言うのは、
信家を摂関家の後継者にするが嫡流はあくまで頼通系で、
信家は頼通の子として摂関になるのであって、
摂関家の分流はしないって意味合いのなのか?
それとも後継者とかそう言う意味は別になくて、
単に信家の出世の便を図るために便宜上頼通のことしただけ。
どちらだろう?
509日本@名無史さん:2008/02/19(火) 22:51:19
身内から坊主が出たら功徳が及ぶという考え方があったから。
510日本@名無史さん:2008/02/20(水) 09:04:55
>>505
藤原忠綱の実父は藤原頼通だが、頼通が認知しない子だった。
忠綱の母祇子は頼通の隠し妻であったため。
頼通と祇子の間に生まれた四人の男子は次々と養子に出された。
祇子の子で頼通に認知されたのは、
頼通長男が早世したときまだ養子に出ていなかった
頼通末子の師実と、師実の6歳年上の同母姉寛子だけ。
511日本@名無史さん:2008/02/20(水) 10:25:51
>>507
信長は白河・師実らの主流派ににらまれてたみたいだし、
たとえ子供の出世を望んでも無理だったんじゃないかな
つか尊卑分脈見てると、親は摂関・大臣でも子供や孫は納言・参議止まり
更にその子孫は公卿にすらなれずに、4位・5位止まり
終いには子供は全部坊主になってて、そこで断絶ってパターンがよくあるね
512日本@名無史さん:2008/02/20(水) 12:15:10
>>506
「尊卑分脈」からの転載かと思うが、系図では信家の子じゃなかったか?
実は、澄仁という僧は非常に近い血縁で2人存在。
教通の子にも全く同じ名前の僧が存在する。
叔父と甥で全く同じ法名を付けられた僧がいたと考えるより、
系図の混乱でもともとは同一人物であると考えたほうが賢明。
信家に実子がありながらあえて実子を出家させ他から養子を迎えたと考えるより、
父教通の子だったのを兄である信家が猶子にしたとかいう理由が考えられる。
513日本@名無史さん:2008/02/20(水) 12:28:44
514日本@名無史さん:2008/02/20(水) 12:32:54
>>498
紫式部ー大弐三位ー高階為家ー高階文章ー高階宗章ー女ー藤原隆季ー藤原隆房ー
四条隆衡ー四条貞子ー西園寺姞子ー後深草・亀山天皇→現在の天皇家
515名無しさん@お腹いっぱい:2008/02/20(水) 13:43:00
>>514
スレチだが北山准后こと四条貞子は平清盛の孫娘。従って現在の皇室にもつながる。
516日本@名無史さん:2008/02/20(水) 14:09:03
>>508
若い頃子がなかった頼通は、
正室隆姫の弟源師房と、実弟教通の長男信家の両者を養子にした。
この時点では、信家は頼通の最も有力な後継者の一人だったと思われる。
しかし、頼通に長男が誕生した時点で信家が頼通の嫡子扱いを受ける可能性はなくなった。
信家の室は環子内親王(小一条院と藤原寛子の娘)であったが、
信家が生きていたころは叔父、伯父たちが上位にひしめいていたこともあり、
結局、権大納言までしか出世できなかった。
517日本@名無史さん:2008/02/20(水) 14:31:04
>>515
同じくスレチだけど、清盛のライバル義朝も現在の皇室とつながってたりするよな
518日本@名無史さん:2008/02/20(水) 19:20:49
>>517
これか。

義朝−一条能保室(坊門姫)−西園寺公経室(全子)−西園寺実氏−大宮院−後深草天皇
(以下同文)

脱線するけど、
義朝−全成−女子−阿野実直
の後もどこかで現皇室に繋がっているんかいな。
519日本@名無史さん:2008/02/20(水) 20:51:42
坊門姫は頼朝の同母妹だね
520日本@名無史さん:2008/02/20(水) 22:46:11
>>512
「宮廷公家系図集成」を確認、やはり法眼澄仁は信長の子として上がってますね。
信家の子の転記ミスかどうかは不詳?
なお教通の子にも澄仁が有り、やはり仰るとおり系図の混乱でしょうか。
521日本@名無史さん:2008/02/21(木) 09:13:26
どなたか顕信の官歴をご存じないですか?
522日本@名無史さん:2008/02/21(木) 17:52:43
>>521
出家したときに左馬頭。
顕信は従三位にも参議にもなっていないから
公卿補任にも載ってない・・・
523日本@名無史さん:2008/02/21(木) 18:49:39
>>520
「尊卑分脈」で確認してみた。
すまん、信長の子。母は美濃守源資家女とある。
ただ、澄仁のすぐあとには信長の女子として、従三位師通北政所とある。
師通の正室で従三位を受けたのは藤原全子のことだと思うが、
全子は信長の娘ではなく藤原俊家(頼宗の子)の娘であることからして、
どこまで信憑性のある史料なのかはわからん。

教通の子供たちの消息についてかなり詳しい記録を残している「今鏡」でも、
教通の子は信家、通基、信長、静円、静覚、生子、真子、歓子しか上がっていない。
このうち信家については「すゑをはせぬに」とあり子がいなかったと記し、
通基、信長については「はかばかしきすゑもおはせぬなるべし」としている。
通基、信長については養子のことを言っているのか、
出世はしなかったが実子がいたことを示唆しているのかは不明。
524日本@名無史さん:2008/02/21(木) 19:19:24
>>522
やはりわからないものでしょうか?

藤原顕信(994〜1027、34歳)
 従五位上(1004、11歳)→従五位上左兵衛佐・侍従(1006時点)→
 従四位下(1010、17歳)→右馬頭(1012時点)→出家(1012、19歳)
と手持ちと図書館にある本でこの程度は調べたんですが、何歳頃に正五位下になったかとか、
少将になったかどうかとかわからないのでしょうか?
なんか同母兄弟の中でも少々出世が遅れ気味?
525日本@名無史さん:2008/02/21(木) 19:31:13
しかし道長の息子として世間に認知されたの六人の中で、出家した顕信はともかく、
最も策謀家的雰囲気を持つ教通と能信の子孫が続かなかったのは皮肉。
年もが近いこともあってか、性格が似てる?分近親憎悪的に仲も悪かったみたいだけど。
あれこれ動きすぎて敵が多く、落ちぶれ掛かると味方がいなかった?
526日本@名無史さん:2008/02/21(木) 19:33:00
従兄弟の子で同年輩の道雅も公卿補任だけでは官歴はよくわからない。
ただこの人は歌人としての小伝があり結構経歴がわかる。
527日本@名無史さん:2008/02/21(木) 20:31:52
そういえば道長には長信という息子もいたね。
明子腹の顕信が出家したときには意外だ意外だと
道長も明子もたいへん悲しんだというが、
こちらははじめから出家が決まっていたらしい。
母親は権大納言源重光(代明親王の子)女。
源重光は伊周を婿取りしたものの婿の伊周は失脚。
長信は外祖父源重光没後の誕生で、
母親は道長の妾にまで落ちてしまったものか。
528日本@名無史さん:2008/02/21(木) 21:10:04
>>523
全子との間に忠実が生まれた後、師通は信長の娘と結婚したので
全子が師通を恨んだという話を見たことある。
529日本@名無史さん:2008/02/21(木) 21:43:21
藤原信子は信長の娘だったのですか。
530日本@名無史さん:2008/02/22(金) 12:33:27
>>524
それ以上調べようと思ったら、小右記とかの日記にあたるしか無いんじゃない?
531日本@名無史さん:2008/02/22(金) 16:41:59
>>528
師通の再婚相手は信長の養女です。
全子と疎遠になってからすぐの再婚
というわけでもなさそうです。
532日本@名無史さん:2008/02/22(金) 17:11:52
しかし当時の天皇家とその周辺は近親婚だらけだな。
その周囲の周囲も近親婚。
ごくごく緩やかに循環?
533日本@名無史さん:2008/02/22(金) 17:28:54
>>528
「台記」久安元年十二月二十三日条で、藤原頼長が父忠実から聞いた話として、
忠実母全子は師通の北の方だったが、師通は他に女を作って自邸に女を連れ込み、
全子と疎遠になってしまった。
全子はこれを恨んで、亡父俊家の肖像画を描かせて飾り、
夫師通への恨みを晴らさんと日夜拝んだ。
すると夢に俊家が現れて、恨みを晴らしてやろうといった。
まもなく師通は死んでしまった、という話だった気が。
534日本@名無史さん:2008/02/22(金) 17:48:50
藤原師通
延久4年(1069年)11歳で元服
承保3年(1076年)15歳。藤原俊家(頼宗の子)に婿どられ、2歳年上の全子と結婚。
承暦2年(1078年)17歳。全子との間に長男忠実誕生。
承暦4年(1080年)但馬守藤原良綱女との間に二男家政誕生。この頃には全子とは疎遠になっていた模様。
永保3年(1083年)師通の日記「後二条師通記」が始まる。すでに疎遠だったのか、正室であるはずの全子は全く登場せず。
寛治4年(1090年)全子の甥、宗忠による「中右記」に、全子が兄宗俊とともに邸を移る記事がある。
          ここで全子のことを「内大臣(師通)殿北方」と書いており、まだ信長養女は師通室になっていない。
寛治6年(1092年)「中右記」2月3日条で、全子が父母である俊家とその室とともに一条第へ移る記事がある。
          この時点でまだ全子のことを「内大臣殿御前」としている。
         「後二条師通記」7月2日、師通は「女房」が藤原惟信宅から師通邸二条殿へ帰ってきたとしるす。
          一条殿にあって別居している全子とは明らかに別人であり、後室信長養女のことかと思われる。
寛治7年(1093年)「中右記」2月27日条で、宗忠は全子を「中納言中将殿(忠実)母御前」と呼ぶ。
          以降、全子は一条殿と呼ばれて師通室と呼んだものはない。
          一方、師通の日記には後室が「北方」「女房」「九条上」などとして登場する。

師通が信長養女と結婚したのは寛治6年2月4日〜7月1日の間?
しかし、全子と疎遠になってからはかなり時間が経過している。
全子が恨んだというのは、但馬守藤原良綱女のことであったかもしれない。
ただ、信長養女が後室に収まるまでは、全子は疎遠になっても相変わらず「師通室」と呼ばれており、
師通が31歳で再婚、全子を正室の地位から追った信長養女のことだったかもしれない。
535日本@名無史さん:2008/02/25(月) 23:49:51
太政大臣、摂政・関白、征夷大将軍 4
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1203870640
536日本@名無史さん:2008/02/26(火) 18:19:39
>>525
結局、頼通が弟たちを振り切って座を守り抜いたということじゃないか
才能がないだのいろいろ言われても長年一の人を続けることができるだけの
才覚はあった
頼通の弟たち、教通や能信は頼通よりは策士だったかも知れんが
五男から這い上がった父道長ほどはあくどいこともできない良家のぼんぼんだった
運も悪いな。
能信は外孫白河天皇の即位まで生きていることができなかったし。
子のいない能信、孫のいない教通と、あとから汚名をそいでくれる
子孫も持たなかった。
537道長(本人):2008/02/26(火) 18:28:35
この世をば
わが世とぞ思う望月の
欠けたることも無きと思えば
538日本@名無史さん:2008/02/26(火) 18:54:22
>>537
おいおい、まだ成仏できんのか?
539日本@名無史さん:2008/02/26(火) 19:13:59
自分で建てた法住寺阿弥陀堂に病床を設け、
阿弥陀如来と自分の手を五色の糸で結び、
読経しながら極楽浄土へ行けることを願いつつ、
死んだはずでは?
540日本@名無史さん:2008/02/26(火) 22:43:56
>>511
ただ伊周の子の道雅でさえ若年で従三位にはなっているわけで、
道雅がその後塩漬けで出世できなかったのは素行があまりに悪すぎた為で、
普通にやっていれば権中納言あたりにはなれたはず。
当時の公卿の昇進は確かに権力者や名家の子弟は特別に早いとか、
蔵人弁官などの優遇とか、そう言うことで抜かれることはあったが、
同じ程度の家柄の出身だと基本は年功序列。
比較的早いうちに公卿昇進コースに乗ってさえしまえば、
あとはよほどのことがない限りゆっくりではあってもほぼ自動的に昇進する。
信長も羽振りの良い時期もあったから、養子を後押ししていれば、
公卿の末席あたりには押し込めたんじゃないかな?
孫世代あたりで脱落するかもしれないけどね。
541日本@名無史さん:2008/02/27(水) 10:12:47
>>540
教通が娘の生子や歓子を皇后に、
息子の信長を関白に、と力の限り運動したのに比べれば
信長が養子にかける情熱は足りない感じがするね。
信長と養子は血縁も離れているようだし、
どこまで養子に思い入れがあったのか、
形ばかりの養子縁組だった気はするがね。
542日本@名無史さん:2008/02/27(水) 10:36:43
道長は一門の長として甥の昇進を手助けしたしてるみたいだけど、
頼通はなかなか実子がなかった割にそう言う配慮が欠けているように思う。
初期の跡継ぎ候補は父親に押しつけられた感じだし。
どうも利己主義的な傾向が強い人だったんだろう。
押しが強かったぽい母親譲り?頼通は押しは弱いけどねばり強い。
そう言う利己的な部分が権勢の秘訣?
543日本@名無史さん:2008/02/27(水) 10:50:18
>>542
頼通は教通の長男信家を養子にしていた。
頼通に実子が誕生しなければ、教通の長男に藤氏氏長者を
譲るつもりだった可能性はある。
結局、信家が元服する前に頼通に妾腹の長男が誕生したわけだが。

道長は兄貴の子供などを養子にして昇進の手助けをしたが、
当の兄貴は死んでおり、道長の息子たちにたてつく可能性も皆無だったからこそ
できた余裕がなせるわざであって。
頼通の場合、弟たちも長生きだったから、迂闊なことはできなかった。
特に、教通、頼宗らは姉妹たちが嫁いでいる天皇に娘を入内させようと画策、
下手に甥を手助けすれば頼宗自身、地位を失う可能性があった。
親父をなくして庇護を求めてきた道長の甥たちとは違うだろうね。
頼通の甥たちは明らかに父親とともに頼通追い落としを狙っていただろうから。
544日本@名無史さん:2008/03/15(土) 13:30:28
教くんと頼くんは互角だった、大鏡の二人の翁ね、ゥフフ(ひみつ)。
545日本@名無史さん:2008/03/22(土) 10:03:04
頼宗はなんで伊周の娘を正室にしたんだろ。
男兄弟の中で唯一後見のない姫君を正室にしている。
単に三男三女産んだからかな。
546日本@名無史さん:2008/03/24(月) 16:44:11
ほかの兄弟の嫁たちも大層な家の出ということもない
道長も長男頼通の嫁選びのときぐらいは出てきたみたいだが
中書王と呼ばれた具平親王の娘ならば聡明だろうとかそのぐらい
具平親王が後ろ盾になってくれるかなんてどうでもいい
娘の婿選びは家の存続に直結するから道長も大いにごり押ししたが
息子の嫁選びなどそれほどのこともなくあまり興味なさそう
547日本@名無史さん:2008/04/05(土) 11:23:33
>>545
頼通の正室、能信の正室にも子はないね。
長家の正室は第一子出産時に子供を死産して死亡。
子供の有無は関係ないでしょうね。
548日本@名無史さん:2008/04/05(土) 12:29:21
>息子の嫁選びなどそれほどのこともなくあまり興味なさそう
むしろ嫁の親の方が必死。
549日本@名無史さん:2008/04/05(土) 12:31:28
>>548
そうなの?でも娘のセックス相手探しに必死な父親ってのもちょっと・・・。
550日本@名無史さん:2008/04/05(土) 19:34:47
ある意味道長と天皇家の関係みたいなものなんですよ。
摂関家と姻戚関係を結ぶことにより権勢に近い付きたいって言う。
もう皇室中枢との縁組み事実上不可能になったから、
娘の相手に少しでも家柄がよい家ってなると摂関家くらいしかないってこともある。
551日本@名無史さん:2008/04/07(月) 07:53:16
息子たちは他家へ婿どられるのに対し、
親は娘や娘婿と同居するのだからどうしても興味は婿選びになる。
息子の昇進はある程度親次第で決まっているのに対して、
娘婿は選び方次第で家が興隆したからね。

道長の関心事は専ら娘や娘の孫のこと。
教通に長女生子が誕生したとき、将来の后がねと喜んだのは
父方の祖父道長ではなく同居していた母方の祖父公任だった。
552日本@名無史さん:2008/04/07(月) 11:19:31
・・・道長の娘婿の大半は天皇or天皇家メンバーな訳だが
553日本@名無史さん:2008/04/07(月) 15:21:15
後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇は
すべて外祖父道長の邸で誕生している。
道長の五十の賀には、ときの後一条天皇、
東宮(後朱雀天皇)とも道長の邸へ祖父のお祝いにやってきた。
娘が産んだ外孫たちは外祖父道長の邸を
我が家のようにして育ち、成人後も頻繁に行き来した。
一方、息子の孫たちはもっぱら自分の外祖父の家で育ち、
父方の祖父である道長の邸にはそれほど顔を出していない。
(道長の養子となった孫を除いてね)
554日本@名無史さん:2008/04/07(月) 20:46:47
そうなると婿や外孫が政治的地位も継承する方が自然だと思うんだけど、
なんでそうならなかったんだろう?
555日本@名無史さん:2008/04/08(火) 20:04:29
子供は母方の祖父母と同居し父方の祖父母とは疎遠だけど、
実父は当然、母親のもとへ通い婚なわけで、
父親と子供を断絶するものではなかったからでは?
一夫多妻の平安時代においては地位の高い男性に妻が集中し、
妻の実家よりも婿のほうが地位が高いことが多かった。
子供は母方の祖父母から屋敷や荘園の提供を受けたが、
地位の高い実父について出世したほうが得だったからでは?
556日本@名無史さん:2008/04/21(月) 01:15:37
そもそも蔭位からして父親基準だろう
557日本@名無史さん:2008/04/21(月) 17:36:26
招婿婚だからといって、天皇家は女系ではつながっていないでしょ。
558日本@名無史さん:2008/04/21(月) 18:00:44
でもたくさんいる皇子たちのうち
どの皇子が天皇になるかは
母親の実家次第だったけどね
兄弟順関係なしに
559日本@名無史さん:2008/04/21(月) 20:33:52
キリスト教以前は世界中どこでもそうでしょ。
560日本@名無史さん:2008/04/22(火) 02:00:13
そうやって近親婚を重ねるうちに、
精神薄弱・遺伝性の病弱が増えたんだな。
平安末期になるとますます酷くなるね。
骨のない皇子が寝たきりのまま亡くなったとか。
561日本@名無史さん:2008/04/22(火) 02:09:11
ふと考えたんだけど、外祖父とか外孫とかって中国風な表現だな。当たり前といえば当たり前だが。
562日本@名無史さん:2008/04/22(火) 18:31:58
>>560
>骨のない皇子が寝たきりのまま亡くなった

待賢門院の皇子のことか?
鳥羽天皇と待賢門院はいとこ同士で血縁が非常に近いということもないんだが。
現在の民法でもいとこ同士は結婚できるしね。
563日本@名無史さん:2008/04/24(木) 17:06:32
頼通に跡継ぎが生まれなかったら
源師房に摂関家を継がせてもいいと
道長は本気で考えていたんだろうか
564日本@名無史さん:2008/04/24(木) 17:16:02
>>563
既出。
総合すると、頼通個人としては師房が後継ぎでもよいと考えていた。
ただし、源氏の出である師房が藤氏氏長者まで継ぐことは適当ではなく、
頼通は教通の長男信家もまた養子にしており、こちらが引き継いだ可能性が高い。
この時代はまだ摂関の地位は流動的で、仮に頼通の弟たちが天皇の外祖父となれば
頼通の系統から別系統に摂関の地位が移ることは充分考えられることであった。
まだ摂関の地位は世襲ではなかったために、誰が摂関になるかは運次第だった。
565日本@名無史さん:2008/04/25(金) 13:04:23
ていうか、摂関家の娘ではない母を持った後三条天皇と白河天皇が連続して即位したから、
誰が摂関でも同じで、家格に応じて(つまりは世襲で)継がせとけばよいとなったんでは。
566日本@名無史さん:2008/04/25(金) 15:09:16
結局、頼通の子孫が摂関家として世襲できたのは
後冷泉に跡継ぎが生まれず、皇女腹の後三条が即位したことと
彰子、頼道姉弟が異常に長生きしたことにつきるのでは?
567日本@名無史さん:2008/04/25(金) 15:15:02
藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位すると、
それまで関白だった藤原教通は摂関を辞す旨を後三条に伝えている。
後三条としては、これを受け入れ、摂関を廃して天皇親政にするのも
ひとつの手であったとは思う。
しかし、後三条は肥大しすぎた摂関の権力を弱体化させようと、
教通を関白にとどめる一方、師実の養女賢子を東宮妃に入れさせ、
故意に藤原摂関兄弟(師実の父前関白頼通と、関白教通)の対立を煽る。
結果、後三条天皇の権限は増し、関白がありながら天皇親政を可能にし、
さらに白河天皇に藤原氏を外戚としない異母弟実仁親王、輔仁親王への譲位を約束させ、
将来の布石とした。
藤原師実が白河天皇の関白になれたのは、養女の白河天皇中宮賢子を白河天皇が
異常なまでに寵愛、賢子の嘆願によるものだとされている。
摂関が世襲になるのは、外舅である藤原公実が官位の低さから摂関になれなかった
鳥羽天皇の頃からで、それまでは流動的だった。

568日本@名無史さん:2008/04/25(金) 16:35:42
とどのつまり、古代の蘇我体制の反動よね、中古以降の藤原(摂関)体制は、武力が文力(官僚的コントロール)に変わっただけよね
569日本@名無史さん:2008/04/25(金) 16:40:41
そして摂関制度を崩壊させたのが源師房の子孫である
岩倉具視なのである
570日本@名無史さん:2008/04/25(金) 16:53:41
実際の権力がなくなって700年も経ってから崩壊ですか・・・
571日本@名無史さん:2008/04/25(金) 17:27:09
江戸時代は朝廷&公家社会内部に限定すれば絶大な権力を持ってましたよ。
下手をすると道長並みに強大な権力。
もっともあくまで徳川の代理人としてですけどね。
572日本@名無史さん:2008/04/25(金) 18:32:40
>>571
江戸時代の摂関は徳川家と姻戚関係になって力をもった。
江戸時代、天皇をも唸らせ長年にわたり対立した摂関、
近衛基熙&家熈父子は、基熙の娘、家熈の姉である熙子が
6代将軍徳川家宣の御台所であったことから力をもったものだし、
江戸時代は5摂家による摂関交代であったにもかかわらず
30年間も関白の地位にあり権力を行使した鷹司政通は
水戸藩主徳川治紀の娘婿だった。
古代には天皇家との姻戚関係により力をもった摂関が、
今度は徳川家との姻戚関係をフル活用したものだね。
573日本@名無史さん:2008/04/25(金) 18:54:13
2条家って代々将軍から一字与えられてなかったっけ?
574日本@名無史さん:2008/04/25(金) 22:23:14
道長の息子6人娘6人って見事に長命と短命に分かれているね。
長家は短命ではないが。
575日本@名無史さん:2008/04/26(土) 10:03:36
>>572
政通は妹が天皇の妃だったよ
また別の妹は家定の御台所
さらに姉妹は前田家、蜂須賀家、尾張徳川家、伊達家、伏見宮、閑院宮、本願寺等に嫁いでいる
576日本@名無史さん:2008/04/28(月) 14:50:44
政通の妹繋子は仁孝天皇の女御だったが
産で亡くなってしまった
そのため政通がさらにその妹の祺子を
自分と正室の養女にして仁孝天皇の女御にした
577日本@名無史さん:2008/05/08(木) 22:37:23
政通と言えば准摂政
578日本@名無史さん:2008/05/13(火) 03:53:59
ほしゅ
579日本@名無史さん:2008/05/28(水) 23:59:21
ge
580日本@名無史さん:2008/06/02(月) 01:46:21
age
581日本@名無史さん:2008/06/19(木) 15:28:10
暗部屋の女御ってどうして?
582日本@名無史さん:2008/06/22(日) 12:27:50
暗部屋の女御ってなんでだろう?
その後どうなったの?
583日本@名無史さん:2008/07/14(月) 22:05:06
暗部屋の女御
この時代、天皇の妃たちは与えられた殿舎の名前で呼ばれました
一条天皇の後宮では藤原彰子が藤壺、藤原義子が弘キ殿などと呼ばれています
暗部屋の女御と呼ばれた藤原尊子(藤原道兼女、母は一条天皇乳母藤原繁子)は
一条天皇の里内裏であった一条院で与えられていた殿舎が暗部屋と呼ばれていたために
このように呼ばれていたのだと考えられています
尊子は関白藤原道兼の長女ですが母がすぐに別の男性と再婚したため
尊子の出生を疑った道兼は尊子を愛さず父の存命中入内の話が出ることはありませんでした
父道兼の死後、長徳2年(998年)、一条天皇の乳母であった母繁子のたっての望みで一条天皇に入内。
長保2年(1000年)に女御宣下を受け、以後従二位にまで上ります
一条天皇と死に別れた後は、母繁子の配慮で藤原通任と再婚しています
584日本@名無史さん:2008/07/19(土) 23:45:07
何か気の毒な人生だね。最後に通任とは幸せに過ごしたのであればいいけど。
585日本@名無史さん:2008/07/20(日) 09:19:01
なんか
繁子・・・やり手
尊子・・・おとなしい

そういうイメージがある
586日本@名無史さん:2008/07/21(月) 02:29:28
藤原道長にも?「不適切な関係」報道 
米紙が1000年元日紙面発行 

【ニューヨーク12日=山中季広】 
「ききんの日本で藤原道長が不倫」「神聖ローマ皇帝の残忍さ顕著に」? 米紙ウォールストリート・ジャーナルは
11日、架空の紙面である西暦1000年1月1日付けの別刷り特集=写真、AP=を発行し、
千年前の世界のニュースをこんな風に伝えた。平安中期に権勢を誇った藤原道長の記事は一面に。 
クリントン米大統領が不倫問題の釈明に使った言葉を引用し、「ききんと疫病に見舞われた日本では、
支配者の道長が複数の女性と不適切な関係にあることが発覚。農民は一揆を起こす構えだ」と伝えた。 
一面トップは「オットー3世の野望」。神聖ローマ帝国の領土拡大を狙う若い皇帝が世評とは違って
性格に偏りがあると報じた。宋王朝の記事も大きく、当時の都開封発のニュースで
「実用的な知識で世界の先頭を行く。西洋も見習うべきだ」と伝えた。
米国では、他のキリスト教圏と同様、紀元3000年まで続く新たな千年紀をめぐる催しや出版が相次いでいる。
同紙の特集は逆に千年をさかのぼったのがみそ。当時の世界を現在の紙面に似せた体裁でまとめた。 
朝日新聞 1999/01/13 から
http://bhn.jpn.org/yamanaka/1999.html
587日本@名無史さん:2008/07/24(木) 14:19:33
彰子が子供も無く20歳くらいで死んだら道長も終わってたな。
588日本@名無史さん:2008/07/24(木) 20:45:49
彰子に子供がない場合のことも想定して
敦康親王を彰子の養子にしていたんだけどね
彰子に男子2人が産まれた後も
夭折した場合に備え
敦康親王を藤原頼通の正室の妹と結婚させ
道長陣営に取り込んでいた
道長は周到だったよ
589日本@名無史さん:2008/07/25(金) 02:00:53
修子内親王が三条天皇と結婚して皇子が出来てたら・・。
590日本@名無史さん:2008/07/26(土) 21:45:46
三条天皇には寵妃藤原娍子があったし、
修子内親王は后にも立てず不幸な結婚になっただろうがね。

そもそもこの時代、内親王の一番の幸福は
父帝から多くの遺産をもらって未婚で生涯を終えることだったから。
591日本@名無史さん:2008/07/27(日) 00:25:42
修子内親王は弟が死んで出家したんだっけ?
一品宮だからお金に困らなかっただろうし。
女房にも百人一首の相模かなんかがいたよね。
592日本@名無史さん:2008/07/28(月) 23:05:27
修子内親王の出家の理由は栄華物語などでは
もともと修子内親王は仏教に造詣が深く
それならばなぜ出家をためらうことがあろうと出家したとある
修子内親王が出家したのは同母弟敦康親王の死後5年もたってからだし
直接の関係はなかったはず
593日本@名無史さん:2008/07/29(火) 18:09:48
子供のうちに身内に次々不幸があったからなー修子内親王。
594日本@名無史さん:2008/07/29(火) 20:44:58
それだけでもないような
彰子も天皇、東宮の御生母にして太皇太后という絶頂期にある
39歳の時に出家しているし、
この時代の貴族のもののあはれだの出家願望は
現代人とはかけはなれたものがあるよ
595日本@名無史さん:2008/07/29(火) 22:44:43
藤原氏って百済の王族達が日本に渡って天皇の側近に仕えて家名を立てたって
本当なの?

韓国の中央日報に書いてあったよ
596日本@名無史さん:2008/07/29(火) 23:07:37
韓国の新聞はある心ある人曰く チ ラ シ と
日本の新聞も「hentai」タグであふぉの外人を総釣りしようとしてたとかチラシ以下レベルなんで
よそのこと言えないがな。




と夏休み中のホロン部さんに釣られてみました。
597日本@名無史さん:2008/07/30(水) 02:43:20
>>594 父親の悪行への罪滅ぼしだろw
598日本@名無史さん:2008/07/30(水) 02:46:03
定子様はもっと早く出家したぞ。
599日本@名無史さん:2008/07/30(水) 07:29:56
>>594
女院になるためじゃなかったの?
自分のあとには妹達がひしめいて三后も満員だから。
600日本@名無史さん:2008/07/30(水) 10:08:52
>>599 そう思う
601日本@名無史さん:2008/07/30(水) 21:06:51
彰子が人生の絶頂期で髪を短くして鈍色の法衣をまとったとき
道長や倫子は大変悲しんだらしいけどね
東三条院の出家の場合は大病で死を意識し
なんとか仏の力で直してほしいというものだったから
当然といえばそうなのだが
彰子の場合は全くもって健康だったから
(彰子は87歳まで生きてるし)
それに彰子が出家した時点で一番末の妹東宮妃嬉子はすでに産で死去したし、
残る同母妹である皇太后妍子と中宮威子とすでに后の地位にあり
さらにその下に妹たちがひしめいていたという事実はない
(彰子の異母妹たちは配偶者が天皇ではなかったので后になれないしね)
602日本@名無史さん:2008/07/31(木) 05:27:51
妍子の娘が一族の息の根を止めた!
603日本@名無史さん:2008/07/31(木) 08:33:42
彰子 森三中黒澤

威子 柳原加奈子
604日本@名無史さん:2008/07/31(木) 17:19:54
ふと思いついたんだが、政略結婚の多い時代
正妻よりも側女のほうが美人が多かったりして・・・・・
605日本@名無史さん:2008/08/01(金) 05:16:30
当たり前じゃ。
606日本@名無史さん:2008/08/01(金) 20:12:36
彰子の死で全てが終わった。
607日本@名無史さん:2008/08/02(土) 18:13:40
道綱が優秀だったら時代は変わっていたな。
あの両親にして凡庸なんて・・・。
608日本@名無史さん:2008/08/02(土) 19:11:19
http://www.chosunonline.com/article/20060621000062
【歴史】「古代日本の主流階層は渡来人」
609日本@名無史さん:2008/08/02(土) 22:05:05
威子の2人の内親王は美人だったのか?なんで、2人とも独身じゃなかった?
610日本@名無史さん:2008/08/02(土) 22:27:40
>>609
>美人だったのか?
さぁ?

>何で、2人とも独身じゃなかった?
道長の後継者である頼通に妃がねの娘がなかなか誕生せず
頼通の他の兄弟が娘を入内させて権力争いが激化し摂関家を不安定になるのを防ぐために
藤原道長の孫娘で内親王という高い地位にあった威子の娘達が利用された。
611日本@名無史さん:2008/08/03(日) 00:05:04
その二人の内親王なら、頼通に後見を頼むしかないからな。
612日本@名無史さん:2008/08/03(日) 07:27:19
大体、威子は10も年上なんだから側室認めろヤ。
613日本@名無史さん:2008/08/04(月) 17:34:46
後一条天皇かわいそうに・・。
614日本@名無史さん:2008/08/05(火) 08:05:38
>>221-222
大遅レスだが、動機はどうあれ道長と倫子の結婚は結果的には摂政の息子と一上である左大臣の娘との政略結婚。
橋本義彦あたりが倫子と明子は台頭だったと言っていた気がするが、源雅信が一上として意外と権力があって、兼家がこれを避けるために大臣を兼ねない摂政になったとする山本信吉あたりの研究を考慮すれば、
道長と倫子の結婚は一条天皇体制の安定に資するための政治的意義の濃い結婚であったんだよ。
615日本@名無史さん:2008/08/05(火) 14:04:28
つーか道長が反対されてもしつこく通ってるし。
616日本@名無史さん:2008/08/05(火) 15:09:03
倫子と明子のルックスってどうだったのよ?
617日本@名無史さん:2008/08/05(火) 20:42:57
>>610
威子の2人の娘
威子の娘章子内親王と馨子内親王はいずれも父母が亡くなった時まだ幼く、
父方の祖母であり母の姉でもある上東門院彰子に引き取られて育った。
後一条天皇の妃は威子のみで2人の内親王以外に子はなく、
上東門院は若死にした愛息後一条天皇の血を絶やさないために
2人の内親王を自ら後ろ盾となって入内させた。
結局、後冷泉天皇に入内した章子内親王に子はなく、
後三条天皇に入内した馨子内親王の子は夭折、
後一条天皇の血は絶えた。
618日本@名無史さん:2008/08/05(火) 20:48:16
>>611
2人の内親王の後見人は頼通ではなく、あくまでも上東門院彰子。
章子内親王は成人するまで育った頼通唯一の娘で
頼通がどんな出費も惜しまなかったという愛娘寛子が
入内予定の後冷和泉天皇に入内しているし、
馨子内親王は後三条天皇の中宮であったにもかかわらず
頼通は中宮の後見人として政務の口出しをしていない。
それに2人の内親王の入内の時期は
頼通の娘や教通の娘の入内の時期より必ずしも遅くない。
2人の内親王を育て、後見していたのは上東門院彰子。
619日本@名無史さん:2008/08/05(火) 20:55:49
>>614
たとえ摂政の息子だろうが、五男坊で同母兄が2人もいた
道長はふつうに考えれば摂関になれない。
雅信にしたら倫子を兼家の地位を確実に受け継ぐ嫡男道隆の
室にでもしてもらったほうがよかっただろう。
(倫子は道長より年上だしね)
兼家が雅信を恐れ、政権安定のために政略結婚を申し入れたとして、
摂関を譲るわけでもない末子の道長の嫁に
雅信の正室腹の長女をくれと言えば雅信は確実に激怒するだろう。
この2人の結婚の政略結婚説は成り立たない。
結婚の翌年には彰子が誕生しており、密通の結果、
道長が倫子を妊娠させたためにやむなく認めたというところだろう。
620日本@名無史さん:2008/08/06(水) 02:12:36
異母兄弟の道綱が凡庸でよかった。
強烈な両親から生まれたのに・・。
621日本@名無史さん:2008/08/06(水) 18:40:01
藤原氏は渡来人(百済人)
つまり韓国人
622日本@名無史さん:2008/08/06(水) 18:49:42
>>620
強烈すぎて子供は萎縮してしまったのかもね
623日本@名無史さん:2008/08/06(水) 19:47:41
で、倫子と明子の容姿ってどうだったの?
624日本@名無史さん:2008/08/06(水) 20:57:12
倫子の容姿については
倫子のいずれかの娘に実際に倫子の身近にいたと思われる
女房の筆により成立した「栄華物語」(作者は赤染衛門?)に
「小柄でよく肥えていて美しく、(40歳を超えているのに)20歳ぐらいに見える」
とある。
40歳が20歳だと見えるというのはお世辞だとしても、
小柄でぽっちゃり体系、童顔の女性だったらしい(ぽっちゃりは平安美人の条件)
娘の彰子についても大丈夫かと思うぐらいに小柄だという記述がある。

明子については、その容姿について書かれた史料がないね。
625日本@名無史さん:2008/08/07(木) 04:44:53
柳原加奈子を連想しましょう。
626日本@名無史さん:2008/08/07(木) 07:36:05
>>624
ものすごいうろ覚えで悪いのだけど、倫子が化粧かなにかをしているところに
道長と子供がいて、道長が「ほら、お母さんは髪がすてきで美人だね」とか
子供に話しかけて、まあ実は倫子を間接にほめてのろけているという
のを読んだような気がするのだが、栄華物語だったろうか…。

ずいぶん創作的な色が強いし、女性の目線ぽいけれど、子沢山で仲の良い夫婦
の描写としてはいい感じだと思ったことがある。
627日本@名無史さん:2008/08/07(木) 09:02:24
>倫子が化粧かなにかをしているところに道長と子供がいて、
道長が「ほら、お母さんは髪がすてきで美人だね」とか子供に話しかけて、
まあ実は倫子を間接にほめてのろけているという
全然間接的ではないような、と言うかストレートに誉めているのではないですか?
628日本@名無史さん:2008/08/07(木) 16:42:00
明子を道長より年上っていってる人間違ってるよ。
年下だよ。
629日本@名無史さん:2008/08/07(木) 19:46:21
>>627
本人を目の前にしても直接言わず、そばにいる子供に語るというやりかた
が間接的だなと思ったのですが、ぜんぜん直接ですね。すいませんでした。

ま、貴族的な行為だなとは思います。
630日本@名無史さん:2008/08/07(木) 20:47:45
倫子 森久美子
娘たち 森三中&柳原加奈子
631日本@名無史さん:2008/08/07(木) 20:49:12
>>626
栄華物語にその記述はなかったんじゃ?

娘の前で倫子をだしにして自分を自慢した話なら。
彰子に皇子を産ませた道長が得意満面で自画自賛、
皇子の五十日祝いに居並ぶ女房たちに向って
「私は中宮(彰子)の父としてふさわしいし、
中宮は私の娘として全くふさわしい。
母上(倫子)だって、私のような男と結婚できたからこそ、
あんなに幸福そうな顔をしているのだよ。」
と言ったため、倫子はいたたまれず席をたってしまった。
道長は「お見送りしなければ」と言って倫子を追いかけながら、
尚も今度は彰子に向って
「こんなに立派な親がいるから中宮も立派なのだよ」
などと言っている。
この記述は「紫式部日記」ならびに
この部分を紫式部日記から転写したと思われる「栄華物語」に見られる。
632日本@名無史さん:2008/08/07(木) 20:52:43
>>630
定子も負けず劣らずのデブだったんだけどね。
定子の同母兄伊周は、糖尿病になるほど太っていた。
でぶの肖像画が多い平安時代にあっても特筆に値するほど太っていたようで、
「大鏡」に「帥殿(伊周)はそれ、あの通り、大変太っていらっしゃるから・・・」
という記述がある。
633日本@名無史さん:2008/08/07(木) 23:41:53
定子様は若くて身罷られたからちがうしょ!
634日本@名無史さん:2008/08/08(金) 13:03:49
定子様がデブという記録はない!
635日本@名無史さん:2008/08/08(金) 20:44:11
あの時代はデブすぎるのはともかくぽっちゃりが美人だったんだから、
定子様が美人!と主張するなら、ぽっちゃりは否定出来ないのでは?

道長の娘で美人って言われていたのって侍女の研子だっけ?
髪が長くて綺麗だったとか・・・綸子譲りだったのかな。
636日本@名無史さん:2008/08/08(金) 20:46:45
道長の娘たちにもでぶという記述はないのだが。
母親の倫子が太っていたから娘たちも太っていたというのならば、
同父同母の兄を太りすぎが原因の糖尿病で亡くした定子も
相当太っていた可能性は極めて高い。
同母兄妹である伊周と定子は遺伝的には大変近いし、
共に育った同母のもとで共に育った兄妹であるため、
幼いころからの食生活や生活環境がほぼ同じであったため。
また、太りすぎている人は難産になりやすく、
(胎内で胎児が大きくなりすぎ、出産に障害が出る危険性が高まるため、
肥満の妊婦は減量を言われたりする)
定子が24歳で難産で死んでいるのもこれが原因の一つともとれるしね。
637日本@名無史さん:2008/08/08(金) 22:25:34
当時はデブ専が主流の時代だったし。
638日本@名無史さん:2008/08/09(土) 03:11:31
糖尿病=デブってかぎらんじゃん。
639日本@名無史さん:2008/08/09(土) 19:47:48
>>638
伊周はずばり太っていたという記述が「大鏡」にあるよ。
読んでご覧。
糖尿病だったというのは平安時代にこれを意味する
「飲水病」という記述があることから。
まず史料を読もうね。
640日本@名無史さん:2008/08/09(土) 19:52:49
定子や伊周などの話題は専用スレが立っているから
こちらに移動して欲しい。

☆☆☆一条天皇と取り巻く女と子供と貴族達☆☆☆
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1218215666
641日本@名無史さん:2008/08/09(土) 20:42:42
道長も糖尿病もってたじゃん。
642日本@名無史さん:2008/08/09(土) 20:46:01
>>641
道長は糖尿病じゃなかったよ
「飲水病」の症状がどの史料にも表れていない
また当時としては高齢の60歳過ぎまで生きている
伊周や定子の父道隆は糖尿病だね
「飲水病」だと史料に出ているし
大変な酒飲みであったとも書かれてあるから
道長が糖尿病だというのなら史料を上げよう
643日本@名無史さん:2008/08/09(土) 20:59:27
飲水病=糖尿だよのどが渇くのが症状だから。
酒=糖分だし。
644日本@名無史さん:2008/08/09(土) 23:23:58
645日本@名無史さん:2008/08/10(日) 00:00:43
道隆は、済時、朝光と酒飲み過ぎたから、糖尿病だろうなあ。
道長は、躁鬱病かとは思うが、糖尿病ではないだろう。
646日本@名無史さん:2008/08/10(日) 11:47:32
道長が躁鬱病の根拠は?躁鬱って2,30歳代が発症だけど、
田宮二郎もそうだよね。
647日本@名無史さん:2008/08/11(月) 15:52:15
花山院は躁鬱っていうけど
648日本@名無史さん:2008/08/11(月) 18:01:04
冷泉帝の皇子だから、仕方がない。
649日本@名無史さん:2008/08/11(月) 18:10:50
冷泉帝は、統合失調症みたいだけど。
650日本@名無史さん:2008/08/11(月) 22:42:30
道長は人生うまくいかないと家に引きこもったり
辞めるといってわめいたりすることがあっただけ
特に精神の病気だというわけでもないよ
まあ人生うまくいかない、もう死ぬ、と思うと
体が悪くなることはあったみたいだな
晩年には目を患ったり
死ぬときには体に悪性の腫瘍ができたみたいだけど
若いころは特にどうということもない
道長は兄弟の中では一番長生きだったしね
651日本@名無史さん:2008/08/12(火) 14:56:35
かなりイジけた男だな。
652日本@名無史さん:2008/08/15(金) 21:49:52
死ぬときは苦しんだんだよな。
653日本@名無史さん:2008/08/15(金) 21:51:47
ほかの兄弟が記録に残ってないだけだけどな
654日本@名無史さん:2008/08/16(土) 00:42:42
道長のすぐ上の兄の道義ってどうして存在自体が隠蔽されているのでしょうか。
655日本@名無史さん:2008/08/16(土) 08:45:57
>>654
既出だが存在が消されているということはない
大鏡にも尊卑分脈にも四男道義のことは出てきてるのだから
ただ病弱でほとんど出仕せず、ほかの兄弟より早くに死んだから
エピソードがないだけ。
656日本@名無史さん:2008/08/16(土) 15:36:33
道隆の最初の息子(枕草子にも出てくる大納言)は、なんで祖父の息子になった?
657日本@名無史さん:2008/08/17(日) 17:51:34
>>656
通称「山の井の大納言」の母親は親からあてがわれたようなもんで、
道隆の愛情が薄かったから自分の養子にしたと思われる。
そのせいか、兼家の存命中は伊周より出世が早かった。

ソースは「山の井の大納言」で検索したどこかのブログ。
658日本@名無史さん:2008/08/18(月) 20:47:54
>>656
藤原道隆の長男道頼
母は伊予守藤原守仁女
さすがに親からあてがわれた妻ではなかったが
間もなく道頼の母と道隆は疎遠になってしまい
道隆は次に迎えた妻高階貴子との間に儲けた次男伊周を嫡子と定めた
ただ祖父の兼家は初孫だった道頼を溺愛し
道隆の嫡男になれないのを惜しんで自分の養子にした
道頼が15歳で初めて叙位したのに対し伊周は12歳から叙位を受けており(いずれも兼家存命中)、
兼家存命中から伊周が嫡男扱いであったことは明らかである
659日本@名無史さん:2008/08/18(月) 21:51:28
また、この一族は兄弟、親子仲悪いからね。
兼家と長男道隆は、不仲だったそうだし。
660日本@名無史さん:2008/08/18(月) 22:03:13
山の井の大納言は、かなりイケテル男だったみたいなのに。
661日本@名無史さん:2008/08/19(火) 21:34:44
>>659
兼家は自分が関白在任中に長男道隆の娘定子を一条天皇に入内させているし、
さらには自分の関白の地位を道隆に譲っている。
摂関が親子相続されたのはこれが初めて。
兼家と道隆が不仲だったというのはありえない。
花山天皇を退位させる際に一役買い、一条天皇即位に尽力した
道兼がこれを恨んだという話はあるが、
兼家が道隆と不仲だったのならば道兼に摂関を譲っただろうし。
662日本@名無史さん:2008/08/20(水) 20:07:28
藤原穆子は倫子の婿に道長を迎えるときは凄い判断だったが、
何故、倫子の妹の婿に道綱なんか迎えたんだろう?
663日本@名無史さん:2008/08/20(水) 20:38:03
>>662
道長が政権をとった当時、道長の兄たちは異母兄道綱を除いて尽く没していた。
もはや道長が憂慮する相手はこの異母兄だけで、
道綱は凡庸だったというから道長に抹殺されることもなかったけれども、
道綱はそれなりにこの兄に遠慮し、自分の政権下にうまく丸めこみたい気持ちが強かった。
道長が自分より官位の低い道綱を「よろづの兄君」と公言して持ち上げたり、
自分の妻の妹と結婚させたのはそのため。
穆子にしても、倫子が鳴かず飛ばずのしがない五男坊道長と結婚したのに比べ、
道綱は仮にも大納言の地位にあり、執政者道長がよろづの兄君と厚遇していたのだから
それほど悪条件の相手ではなかったのでは?

このとき道綱と結婚した倫子の同母妹は、初産の際、産で亡くなってしまい、
道綱は別の女性と再婚してしまったけれども。
664日本@名無史さん:2008/08/20(水) 20:49:31
BIGな両親からボンクラが生まれるのは、芸能界とかでも良くある。
しかし、あれだけ強烈な両親のDNAはどうなったんだ>道綱
665日本@名無史さん:2008/08/31(日) 21:14:55
無能なのに、母親のおかげで歴史上では有名人。
666日本@名無史さん:2008/08/31(日) 21:26:07
>>665
道綱は兼家の息子、道長の異母兄だったことだけで充分有名人じゃないか
「小右記」の中でも大活躍(特筆に値するという意味で)
定子の里帰りに付き添ったり反道長とも思える行動をとっていて
あれで有能だったりしたら道長によって政界から抹殺されてただろう
母親の日記だけでは母親思いの良い息子という側面しか現れず
別に蜻蛉日記があるから有名人なわけでもない
667日本@名無史さん:2008/08/31(日) 21:30:13
できの良い異母弟に全然頭が上がらないから、
時々嫌がらせ的に逆らってみたのかな。
668日本@名無史さん:2008/08/31(日) 21:47:40
もやしっこで温厚って感じだね>道綱
669日本@名無史さん:2008/08/31(日) 21:59:09
道長が重病で出仕もできず苦しいんでいたとき
これを喜んでいるであろう者の名として道長は何人かの名をあげ
その中にこの道綱の名が挙がっている
当時、道長は長女の彰子を一条天皇に入内させてはいたものの
まだ皇子の誕生を見ておらず
自分が死んだら兼家の息子で唯一生き残ることになる道綱が
自分の地位を奪うことになるのではないかと恐れていたことが分かる
670日本@名無史さん:2008/08/31(日) 22:41:30
道綱って摂関足りうる教育を受けていたのかな?
文書とかのノウハウが有ったんだろうか?
公季とか公任、実資、斉信あたりはどうだろう?
これより遠い系統はまずそう言う意味での資格には欠けているんだろうな。
671日本@名無史さん:2008/08/31(日) 23:09:04
藤原公任、藤原行成、藤原斉信、源俊賢の「寛弘の四納言」の評議は凄かったとか
どこかで見たなあ。
672日本@名無史さん:2008/09/01(月) 07:13:30
道綱は、癌、糖尿病説もあるが、ハンセン氏秒だったとも言われる。
プロミンなどの特効薬がない時代顔は崩壊していたんだろうな。
673日本@名無史さん:2008/09/01(月) 15:01:05
>>672 間違えた藤原道長の方ね。
674日本@名無史さん:2008/09/01(月) 15:08:27
暴れん坊少納言の彰子すげーな。
675日本@名無史さん:2008/09/01(月) 19:49:50
ところで倫子の妹の道綱嫁が命をかけて産んだ子供はどうなったんだ?
676日本@名無史さん:2008/09/01(月) 20:03:35
>>675
藤原道綱と源雅信女(倫子の同母妹)の間の子
藤原兼経(1000〜1043)
生まれたときに実母を亡くし
母の姉夫婦である藤原道長と倫子夫妻の猶子となる
出世は道長の実子には大きく劣るものの
24歳で参議になるなど猶父道長の庇護をうけた
その後病により一時出仕を辞めたこと
さらに最大の庇護者であった道長が没したことにより
以降はぱっとしなかった
正妻は藤原隆家(関白道隆三男)女
子孫からは院近臣などが出ている
677日本@名無史さん:2008/09/01(月) 20:42:11
>>672
道綱がハンセン氏病だった可能性は低い
なぜならハンセン氏病は伝染病であるために
道綱がかかるなら当時の貴族たちに流行していたはずだからだ。
日本人には長らくハンセン氏病患者はほとんどいなかったらしい。
この時代に流行した伝染病といえば、専ら赤痢や天然痘。
特に藤原道長の時代には天然痘は
「もがさ(裳瘡;かさぶたが裳のように広がっているという意味)」
と呼ばれて猛威をふるい、特に長徳元年(994年)には
関白藤原兼家(道長兄)、大納言藤原道頼(道長甥)らが天然痘で没したのをはじめ、
平安京の庶民の約半分が天然痘で死んだという。
話はそれたが、道綱がはやり病で死んだという記述はない。
678日本@名無史さん:2008/09/01(月) 21:05:59
>>672じゃないけど、ハンセン病は>>673で道綱じゃなくて道長の方って訂正してるよ?
まぁどのみち天然痘が流行ってたのは間違いないから、ハンセン病の可能性は否定するかもしらんけど…
679日本@名無史さん:2008/09/01(月) 21:08:16
道長の頃の貴族は道長も含め
ハンセン氏病にかかった形跡はないってことじゃね?
680日本@名無史さん:2008/09/02(火) 00:11:19
ハンセン病はそんなに簡単に感染しないでしょ。
681日本@名無史さん:2008/09/02(火) 08:01:15
道長が才気にぼろぼろだったのは、ハンセン氏病で
傷が出来ても痛みがわからなくて、化膿してそこが
はじけたんだろうな。
糖尿もあったら(当時は糖尿は普通に多かった)Wで悲惨だな。
最後は苦しんだのが事実だったというし。
682日本@名無史さん:2008/09/02(火) 11:24:38
顔が崩れただろうな、そこは割愛されただろうが。
683日本@名無史さん:2008/09/02(火) 12:59:42
>>677
天然痘で死んだのは兼家と道頼じゃなくて道隆と道兼。没年は995年。
684日本@名無史さん:2008/09/02(火) 13:12:03
あと5年で史上初の1000年を迎えられるとこだったのか・・・。
二人とも悔しかっただろうね。
685日本@名無史さん:2008/09/02(火) 13:16:59
天然痘とハンセン氏病(らい病)は、違います。
道長、らい病説はある。記録も病状に合ってる部分多い。
686日本@名無史さん:2008/09/02(火) 15:37:19
道隆は、イケメンだったんだよね。
687日本@名無史さん:2008/09/02(火) 20:36:28
>>683
道隆の死因は天然痘ではなく酒の飲みすぎによる糖尿病
道隆の長男道頼は天然痘で995年に死んでいる
>>685
天然痘とハンセン氏病が違うのは当たり前だろ
晩年まで天皇や后妃たち、他の貴族たちと普通に接していた道長が
ハンセン氏病ならなぜ他人に移らなかったんだ
また道長はだれから移されたんだ
またハンセン氏病にかかると知覚障害がおこる
しかし道長は死の直前まで内裏を退出して見舞に来た娘たちを気遣って
早く内裏へ帰るように言ったりと意識は相当はっきりしており
知的障害が発症していた形跡はない
(道長に知的障害が現れたら実資辺りが必ず記録するだろうがその記述もない)
道長が死の直前腫瘍ができたことは記録に見えるが
ハンセン氏病らしい症状は何一つでていない
688日本@名無史さん:2008/09/02(火) 20:52:05
左大臣辞めたいとか、出家したいとか、起伏の激しい部分はあったけど、
晩年も含めて知的障害とはとても思えん。
689日本@名無史さん:2008/09/02(火) 20:59:25
まあ大臣とか止めたいと思う方が人間としてはまともだよね。
わざわざなりたがるなんて精神か知能に欠陥があるとしか思えない。
690日本@名無史さん:2008/09/02(火) 21:40:07
道長が知的障害なら顕光なんて目も当てられない。
691日本@名無史さん:2008/09/03(水) 09:28:48
道長=らい病説は昔からある。
また、双極性障害だった可能性も高い。
692日本@名無史さん:2008/09/03(水) 12:52:51
>>687が相当じゃないか。
大人になってから感染することはまずない病気だからな。
693日本@名無史さん:2008/09/03(水) 12:56:34
らい病の症状は末期にあったよ。(医療関係者)
694日本@名無史さん:2008/09/03(水) 14:19:26
らい病だけにしかない症状は?
695日本@名無史さん:2008/09/03(水) 14:32:24
威子ってかわいげ無い感じする。
696日本@名無史さん:2008/09/05(金) 20:50:21
威子って他に女御入れるとかさせたら太っ腹なのに。
697日本@名無史さん:2008/09/05(金) 21:04:45
>>696
定子も父の存命中に元子や義子を入内させてあげればよかったね。
4歳年下の若い男が欲求不満で年満女を
一日に2回も抱かねばならないなんて可哀想。
定子失脚後はたくさんの妃に囲まれて良かったね。
698日本@名無史さん:2008/09/06(土) 05:57:24
威子は、39まで生きたから定子様とは違う。
699日本@名無史さん:2008/09/06(土) 13:13:23
39まで生きたババーなら女御くらい許せ。
700日本@名無史さん:2008/09/06(土) 17:41:21
道長ってイケメンだったの?ただ単に社交的で政治的手腕?(権力に対する執着)に長けてただけ?
側室はいるけど浮気的なのってあんまり資料にないよね
701日本@名無史さん:2008/09/07(日) 08:06:28
>>698
定子も39歳まで生きていたら女御を許してたの?

違うでしょ。
定子の父親が死に、兄弟が左遷、自分も一条天皇の後宮を去っていたから
その間に他の貴族が次々と娘を入内させただけ。

じゃあ、自分が不遇になったおかげで
元子や義子、尊子が入内でき、
中宮彰子という自分より12歳も若い妃が一条天皇に侍ることができて、
定子は本当に良かったと泣いて喜んでたわけね。
702日本@名無史さん:2008/09/07(日) 08:15:27
>>698
それをいうなら36歳のばばあ皇后定子よりも
24歳の中宮彰子のほうが一条天皇だっていいわな
常考
703日本@名無史さん:2008/09/07(日) 08:59:33
後一条天皇は藤原教通の娘生子の入内を打診されたとき
賛成したという話があるが断る天皇などまず存在しないわな
一条天皇だって義子や元子、尊子や彰子など一度も断ったことなどない
元子や彰子など産で退出ししばらく会えなかった妃には
まめに早く戻っておいでといっているし
どの妃たちも大事だったんだよ
704日本@名無史さん:2008/09/07(日) 13:35:58
>>703 道長がバックで勧めてたからだろw
705日本@名無史さん:2008/09/07(日) 14:25:53
どの妃も大事かどうかは知る由もないがな。
一条というか天皇側に入内を拒否する理由もないし、拒否権は事実上なかったろう。
ただ、どの妃をどれだけ寵愛するかは本人次第だから、自然と疎遠になった
妃もいるだろう。(義子、尊子あたり?)

接触がなければ、相手のことも分からないから、よけいよそよそしくなる。
わかりあえない、のスパイラルでしょ。
一条は思いやりのある男だったようなので、里にいる妃に「たまにはおいで」
と声をかけもしたということだ。
706日本@名無史さん:2008/09/07(日) 16:28:22
彰子を早く無理に入内させるなようぜーな。
707日本@名無史さん:2008/09/07(日) 19:57:25
>>705
彰子が敦成親王を産んだ時期に書かれた「紫式部日記」に
義子のことが出てくる。
中宮彰子らとともに一条天皇のもとにあった模様で、
中宮方と義子方の女房がやりあったという記録が残っている。

いつのまにか疎遠になったって?
このスレの連中が史料を読まないのはいつものことだが、
嘘は書くな。
708日本@名無史さん:2008/09/07(日) 19:59:56
>>705
女御尊子も一条天皇の第一皇女修子内親王の裳儀の際
腰紐を結える役を務めたことが「小右記」出てくる。
一条天皇が頼んだんだろうが
疎遠な妃にそんなことを頼めるはずもない

嘘だらけだぞ
709日本@名無史さん:2008/09/07(日) 20:00:38
>>706
彰子よりほかの妃たちのほうが入内は早いでしょw
710日本@名無史さん:2008/09/07(日) 20:09:38
>>705
元子や彰子には早く帰っておいで、でしょ。
定子に対しても一条天皇のせいで実家が失脚して恨んでいるだろうな〜と
生霊になられるのも怖いから思いやりで「たまにはおいで」と声をかけてあげただけ。
昔道隆からの圧力で毎日セックスしてた頃には全く孕まなかった定子だったけど、
たまに抱いてあげたらちゃっかり妊娠しただけ。
一条天皇が11歳の時に政略結婚させられただけの妃に思い入れがあるわけないでしょ。
711日本@名無史さん:2008/09/07(日) 21:22:48
一番愛したのは定子様よん!
712日本@名無史さん:2008/09/07(日) 21:53:16
>>711
いいからなまみこ物語ソースのいつもの暇な主婦は出てけって
すごい投稿数だな
今に2ちゃんねるから規制食らうぞ
バカじゃね?
713日本@名無史さん:2008/09/21(日) 17:31:43
研子を敦明親王か敦康親王に嫁がせておけば結果は変わったんだろうな
年齢的にも三条よりお似合いだし、そうすればよかったのに
714日本@名無史さん:2008/10/04(土) 07:07:50
威子を敦康親王に嫁がせておけば良かったのに
同い年だし、9歳も年下の後一条よりお似合いだと思う
715日本@名無史さん:2008/10/05(日) 21:30:46
>>713-714
まとめると研子―敦明親王、威子―敦康親王か
確かに、まだ子供も生まれやすい組み合わせだったかもしれない

ちょっとスレ違いかもしれないが、
竹御所が15歳年下の頼経に嫁いだのは悲劇って言われがちなのに
威子が可哀想って感想はあまり聞かないね
子供の夫に大人の妻って対比は同じなのに不思議だ
716日本@名無史さん:2008/10/12(日) 15:35:22
平清盛の娘・徳子だって6歳も年下の高倉天皇と結婚させられてるしw
おおっと、スレ違いスマソ
717日本@名無史さん:2008/10/13(月) 09:11:30
>>713−715
三人の娘を后にたてて「この世をば〜」と悦に入っていた
道長が天皇にする気もない敦康親王や敦明親王に
倫子との娘を嫁がせ義理の息子として後見するはずもない
敦明親王妃になった寛子は明子との娘だったし
妍子は18歳年上の三条天皇に嫁ぎ入内後2年で第一子を産み、
9歳年下の後一条天皇に嫁いだ威子は3度妊娠(成長した子は2人、三度目は流産だった)
子供の生まれやすさを考えれば年の差婚はあまり影響していない
718日本@名無史さん:2008/10/14(火) 17:17:06
彰子が敦康親王を皇太子に推したのは
威子と敦康、敦成と嬉子、敦良と頼通または教通の娘・・・
というカップリングを考えていたから
っていう妄想は駄目ですか?
719日本@名無史さん:2008/10/14(火) 22:11:58
この頃の天皇位って、一人っ子の一条は別としても
冷泉&円融、花山&三条と兄→間に一人→弟と皇位の兄弟相続が行われていたから、
彰子は「敦康→敦明→敦成の兄弟順でいい」と思っていたんじゃないかな。
後見が脆弱だと即位してもさっさと退位させたり、
それこそ妃に自分の妹や姪を送り込んで取り込むことも出来る。
道長は自分が生きているうちに孫を天皇位に付けたくて焦っていたんだろうけど、
彰子は長期計画で自分の子供が天皇になればOKだったんでないかと。
720日本@名無史さん:2008/10/16(木) 21:15:54
敦康親王は異母弟の敦成親王が生まれるまで十年間一条天皇唯一の息子で最有力の皇位継承者だった
とりあえず一度は即位したという既成事実を作れば敵を増やさなくて済むという考えだったのかも
彰子だって最終的には自分の息子が即位し自分の血筋の者が代々帝位についてほしいと思っていただろう
我々は道長が栄華を極め彰子の子孫が天皇家を代々継いでいったという歴史を知っているから
彰子は何年でも待つつもりでいたという余裕のなせる技だと思うことができるけれども
兄たちの早世を見ている道長はいつまで生きていることができるか分からず
彰子も自分の息子の即位前に父道長に死なれればどれほど不幸なことになるかはわかっていたはず
この時代摂関家の成立はまだならず摂関の地位は流動的
現実に生きていた道長や彰子にはこのときそんなに余裕はなかったと思うよ
721日本@名無史さん:2008/10/17(金) 07:08:07
摂関家は成立していたが、摂家としての家格は固定化していないということだね。
外戚関係なしで摂関の地位が継承されるのは頼通の子の世代からになる。
722日本@名無史さん:2008/10/18(土) 06:06:43
敦明立太子の交換条件を飲むくらいだから、道長は余裕なかっただろうね。

彰子にしても、実子の方がかわいいというのは断言できると思う。
一条天皇崩御時に何歳だっけ?数えで5歳と4歳?
おしゃべりが上手になってきて、一緒にいるのが楽しくなる時期。
自分が子どもを持ってみて分かった。
だから彰子が敦康を新東宮にと言ったのは、死にゆく夫への義理立てだと思う。
一条天皇が死の床に就いていたとき、彰子はけっこう動揺してたみたいだし
そんなときに、やっぱり夫の願いを叶えてあげたいと思うんじゃないかな。
723日本@名無史さん:2008/10/18(土) 20:25:35
>>722
夫への義理立てというのも違う気がするんだよね。
一条天皇は本当に敦康親王を皇太子にする気だったのかという点で。
一条天皇は伊周の内覧を取り上げ、配流後の帰京にも否定的だった。
道長や東三条院によって朝堂復帰が許された後も
一条天皇は親しく伊周をそばに召すわけでもなく
天皇親政を望む一条天皇は強引な伊周に気を許すことは最後までなかったんだ。
敦康親王は伊周の甥、伊周を外戚としている。
表向き彰子の養子にはなっていても、この時代の摂関は世襲ではない。
一条天皇没後敦康親王の世が来れば、その外戚伊周が摂関として政治を牛耳る可能性は十分あった。
天皇はそれを望まなかったんじゃないか。
なぜなら、一条天皇は最後まで伊周の朝政復帰に否定的だったから。
一条天皇は道長の治世をある程度は許容し、その上での敦成親王立太子だったんじゃないか。
死ぬ間際には年子で子をなした彰子にある程度は寵愛が移ってもいただろう。
つまり、一条天皇は彰子に実子が生まれた場合、初めから敦康親王を皇太子にする気はなかったんじゃいかということ。
死ぬ間際、一条天皇が行成に敦康親王をどうするべきかと尋ねたのも
第一皇子を退けることの言い訳を求めていたともとれるし。

ちなみに一条天皇が没したとき、彰子の皇子は数えで4歳と3歳。
敦康親王は13歳。
724日本@名無史さん:2008/10/19(日) 21:08:29
>>717
え、威子っていつ流産したの!?
流産は全く初耳でつ
725日本@名無史さん:2008/10/21(火) 09:07:54
威子て女しか生んで無いじゃん。
726日本@名無史さん:2008/10/23(木) 20:24:11
摂関家では后がねとなる娘の誕生が喜ばれたのにね
蜻蛉日記の作者も娘をほしがっていたっけ
道長の母らに娘が生まれず道綱母にしか娘がいなければ
こちらが兼家の正室に納まっていただろうしね
727日本@名無史さん:2008/10/24(金) 17:13:02
>摂関家では后がねとなる娘の誕生が喜ばれたのにね

だから、後一条天皇はこれ見よがしに娘を新帝に入内させようとしたんだと思う。
かわいい娘2人が産まれたときに冷淡な態度をとった者どもが
自分に娘がいなかったり、いても入内させられずにいるのを横目に
どうだ羨ましいかと言いたかったのでは、復讐したかったのではと思えて仕方がない。
(後朱雀にはすでに禎子がいて、さらに章子と結婚すれば、この2人が皇后・中宮となり
頼通・教通の娘といえども立后できないし。)
しかしそれが実現せず、結局頼通が後見するような形で章子が親仁と結婚したのは皮肉だが・・・。
728日本@名無史さん:2008/10/24(金) 21:28:28
あれ?章子内親王の入内は後一条天皇の遺志だったのかえ?
729日本@名無史さん:2008/10/25(土) 06:51:58
一条天皇は定子様を一番愛してたってこと。
730日本@名無史さん:2008/10/25(土) 10:53:27
定子は道長の娘じゃないからどうでも良い。

>>728
章子内親王の入内は女院である彰子の後押しを受けてのもので、
後一条天皇の意思は関係ないと思う。
でも後一条崩御の翌年の入内だから、
後一条と彰子の間では内々に話が進められていたのかも。
少なくとも後一条が威子との娘達を大事に思っていたのは確かだろうね。
731日本@名無史さん:2008/10/25(土) 21:06:35
>>728
章子内親王は後一条天皇没後の入内。
後一条天皇が2人の皇女をかわいがっていたことは事実だが、
威子と後一条天皇が生前、いつか男子に恵まれることを望んでいたことは否定できない。
威子は没する前年まで懐妊祈願をしているため。
威子には後一条天皇の後宮をただ一人独占するがための苦悩
(何としても男皇子を生まなくてはという圧力)があったのだと思う。
章子内親王の入内は上東門院が愛息後一条天皇の血を絶えることを惜しんで行ったものだとあり、
(こののち妹の馨子内親王も同様に入内)
後一条天皇当人は生前、娘たちに対して私の血をたやさないようにしてくれ、
と思ってもいなかったような。
尚、章子内親王や馨子内親王を後見していたのは上東門院で、頼通が後見した事実はない。

732日本@名無史さん:2008/10/26(日) 06:13:31
章子内親王や馨子内親王ってルックスどーだったの?
733日本@名無史さん:2008/10/26(日) 16:12:08
>>730-731
やっぱりそうだよね

>>727みたいな珍説をさも有力な学説のように書く香具師がいるからビックリしたよ。
734日本@名無史さん:2008/10/28(火) 15:42:08
>>733
は?別に学説なんて言ってないけど?
ただの自分の感想だけど、そんなのは書いちゃ駄目なの?
731の人もちゃんと読んでほしい
後一条が娘を入内させる目的が、血を絶やさないためなんて自分は書いてない。

後一条は最晩年に、譲位とともに章子を新帝に入内させる計画を立てていた
が、病が重篤になり、延期しているうちに崩御。
章子と馨子は彰子に引き取られ
彼女たちの結婚は、彰子が決めた。
(だから、後一条が考えていた相手と違う。おそらく頼通・教通と相談して決めたと思う。)
でも、血が絶えることを惜しみ云々ってのも聞いたことないけど・・・?
735日本@名無史さん:2008/10/28(火) 19:27:45
>>734
血を絶やさないためは「栄華物語」にある記述。
別にお前の意見だなんて言ってないが?
お前が書きなぐった支離滅裂な文章を学説だなんて信じる人もいるはずがない。

逆に、お前が主張する後一条天皇が生前章子内親王を新帝に入内させる
予定をしていたという史料はないんだが。

>かわいい娘2人が産まれたときに冷淡な態度をとった者どもが
>自分に娘がいなかったり、いても入内させられずにいるのを横目に
>どうだ羨ましいかと言いたかったのでは、復讐したかったのではと思えて仕方がない

お前にいろいろ意見してくれた人たちは
後一条天皇がそんなうらみがましい思いをしていたはずがないと言っているのだが。
736日本@名無史さん:2008/10/28(火) 20:03:09
この時代の内親王は結婚しない人が多かったしね
737日本@名無史さん:2008/10/28(火) 22:15:47
不細工な内親王かもしれんだろw
738日本@名無史さん:2008/10/29(水) 01:00:06
心配しなくても定子が生んだ脩子や女美子の方が不細工ですからw
定子厨は消え失せろ
739日本@名無史さん:2008/10/29(水) 08:57:49
躾子内親王は超美少女だったみたい。
740日本@名無史さん:2008/10/29(水) 11:59:41
たしか後一条帝が新帝に、章子内親王を入内させようとしていた話も
その『栄華物語』に出てくるんじゃないでしょうか・・・?
741日本@名無史さん:2008/11/01(土) 03:28:29
後一条天皇は、男子が欲しかっただろうな〜。
742日本@名無史さん:2008/11/02(日) 06:20:11
威子って人間的にどうかと思う。
743日本@名無史さん:2008/11/02(日) 08:29:24
>734
威子よりもお前のほうが人間としてどうかと思う。
744日本@名無史さん:2008/11/02(日) 09:28:08
>>738
実は彰子腹の後一条・後朱雀よりも定子腹の敦康の方が不細工だった、かも知れんなw
定子とその血縁者って美化されすぎで気持ち悪いわ。
745日本@名無史さん:2008/11/02(日) 11:25:15
敦康は、光源氏のモデルの一人ともされている。短命の美しい貴公子。
746日本@名無史さん:2008/11/02(日) 11:28:45
>>745
現実言えばただのチョン面だけどな。おそらく千原兄の征二面が昔は光源氏なんだろうから
747日本@名無史さん:2008/11/03(月) 07:43:35
思うに、敦康、躾子内親王は、定子様に似ている。
一条天皇似にてるのは修子内親王じゃないかな?
748日本@名無史さん:2008/11/03(月) 12:40:24
一条天皇も定子も彰子も、イトコ同士でしょ。みんな揃って同じような顔だったかもよ?


定子とその血縁者って美化されすぎで気持ち悪いわ
に、同感。
749日本@名無史さん:2008/11/03(月) 19:54:54
敦康親王はイケメンだったじゃん。
750日本@名無史さん:2008/11/03(月) 21:34:28
>>749
そんな史料、どこにもありません。
残念、定子厨。
751日本@名無史さん:2008/11/03(月) 22:30:54
イケメン、人間的にも素晴らしかった定子様に似たんだね。
帝の秘蔵っ子だったし。
752日本@名無史さん:2008/11/03(月) 23:24:29
定子と敦康親王が人間的に素晴らしかろうが美形だろうが、道長の娘に何の関係もない。
いい加減スレ違いなんだが・・・
敦康親王について語りたければ、一条天皇のスレに行ったらどうだ?

敢えて言うなら、実際に敦康親王の人柄は良かったと言われているが、
それは顔も覚えていない生母定子の影響じゃなくて、育ての親の彰子の影響だと思うが。
753日本@名無史さん:2008/11/04(火) 20:11:30
>>752
なまみこ物語命の有名なおばはんが一人で
このスレと一条天皇スレの両方に書き込んでるんだよ
文体が全く同じだからよくわかるよ
旦那にかまってもらえない欲求不満からか
一日中書き込んでるからな
754日本@名無史さん:2008/11/05(水) 06:18:26
威子ってブスだったと思う。
755日本@名無史さん:2008/11/05(水) 16:40:10
しかし威子への悪口多いね(苦笑)なんで?
確かに「栄花物語」の記述は、遠まわしに威子は美人じゃないと
書いてあるようにも思えるが……。
しかし彼女はそんなに性格悪くない。
同じく皇女のみしか産んでいない妍子はグレて彰子や頼通らと距離を置いて
バブリーな暮らしをしてたっぽいが
威子は彰子に対して従順で一切反発していない。
756日本@名無史さん:2008/11/05(水) 16:42:03
阿波にでもいくかなー。狸もなついてるしなー。
757日本@名無史さん:2008/11/05(水) 17:09:27
威子は、低脳だったとか?
758日本@名無史さん:2008/11/05(水) 19:00:06
>>755
なまみこ婆は、9歳も年上にもかかわらず夫に大切にされ
娘を生み中宮としての務めも果たした威子を僻んでるんだよw
婆はなまみこ読んできもい妄想膨らますぐらいしか能がないからな
759日本@名無史さん:2008/11/05(水) 20:11:40
>>80 >>だいたい神社の由来になってる「○○記」という代物の100パーセントが明治期に創作された
確たる証拠もなくねつ造された政治的な戦略副産物であり、とても信用するに足りえぬ。

明治政府お得意の一次史料や神位資料の創作活動は頻繁だったからな
760日本@名無史さん:2008/11/05(水) 21:03:07
もしかしたら漏れはすごい誤爆をハケーソしたのか
761日本@名無史さん:2008/11/06(木) 07:51:56
威子、大切にされたってか、叔母さんだからな〜。
ある意味それいがいに行動しようがなかった帝かわいそう。
762日本@名無史さん:2008/11/06(木) 20:10:36
>>761
11歳の若さで15歳のおばはんを押し付けられた一条天皇もかわいそうだったじゃん。
伊周を失脚させた後はたくさん妃が入内してきていいことだらけだったけどね。
763日本@名無史さん:2008/11/06(木) 20:22:32
>>755
威子は後一条天皇に半年早く死に別れるまで、
ずっと天皇とともにあったからね。
この前年まで威子が懐妊祈願をしていることからも
亡くなる直前まで2人の間には性生活もあったんだろう。

一方、妍子は禎子内親王を産んだあと、
父と夫の不和のために夫三条天皇とは別居生活に入っていた。
18歳も年上の夫に妍子が愛情を抱いていたかどうかは分からないけれど、
寵妃皇后娍子と同居する夫の話を遠くで人づてに聞くのはつらいことだったかもしれない。

もっとも、敦成親王の50日祝いの際、主役の彰子方の女房よりも、
まだ結婚前の妍子方の女房のほうが派手な装いをしていたというから、
姉妹一の美貌に恵まれていたという妍子が派手好きだったのは
独身時代から。
もともとかもしれない。
764763:2008/11/06(木) 20:32:50
続き

威子は、彰子や頼通に従順だったというよりも、
夫後一条天皇と仲が良かったことこそが
彰子や頼通の意にかなったということなのだろう。
彰子と頼通が他の妃の入内を妨げ、威子を守ったことで
威子も彰子や頼通を信頼していたということもある。
そういう意味においては後一条天皇朝は政治的には
たいへん安定した時期でもあった。

その点、若いころから父に夫との別居を強いられていた妍子は
どれほど周囲を信頼していたんだろうか。
夫三条天皇が父にあてつけるように娍子を立后させたことにも
若い妍子は胸を痛めたかもしれない。
道長が政権を取る以前に入内した妃たちを抱える
一条天皇、三条天皇に入内した道長の娘はそれなりに前途多難だったと思うんだよね。
夫が他の妃との間に設けた皇子女を養子とすることで夫に従順であろうとした彰子は
のちに自身に皇子が授かることで国母として絶対的な権力を手中にした。
一方、娍子立后、敦明立太子で蚊帳の外に置かれた妍子は、
美貌で天皇からの寵愛を受ける自信もあったであろうだけに
不遇であったかもしれない。
765日本@名無史さん:2008/11/07(金) 04:56:19
威子は、帝に女御数名くらいつけてやれよ!
アラフォーの分際で!
766日本@名無史さん:2008/11/07(金) 08:25:12
とアラフォーなまみこ婆の分際で喚いておりますw
近親相姦クソ尼の分際で宮中に入った定子の方が最低最悪だけどな
汚ない女だな定子は
767日本@名無史さん:2008/11/07(金) 09:33:20
一条天皇が愛していたから!
768日本@名無史さん:2008/11/07(金) 20:48:46
定子がいなくなった宮中で
一条天皇は元子、彰子、義子、尊子らの美女に囲まれて
楽しくやってたじゃん
769日本@名無史さん:2008/11/07(金) 21:02:46
最後は、定子様に歌を贈る一条天皇(涙)
770日本@名無史さん:2008/11/07(金) 21:13:12
>769
生きている人に対して別れの歌を詠んでるんだから
彰子に対してでしょw
あの世にいる定子に再会の歌なんて詠んでないんだから。

だれかが行成の日記に皇后とある、と書いていたけど
行成の日記にはこの歌は載っておらず(確認した)
定子に対して詠んだものではないことだけは事実だわな。
771日本@名無史さん:2008/11/08(土) 08:21:21
皇后は定子様だった・・・・
内容も定子様の歌に返している。
772日本@名無史さん:2008/11/08(土) 14:22:58
767の法則(?)でいくと、後一条天皇の後宮に威子しかいなかったのは
「後一条天皇が威子を愛していたから!」
なんだよね?

『権記』は確認していないので、どうとも言えないけど
もし日記に「皇后」と書くとしたら、それはやっぱり生きている人間のことを指すのでは。
定子の事を書くとしたら「故」を付ける筈だと思うんだけど、違うかな?
威子立后の時の『小右記』も、実際には中宮になったのに「皇后に立つる」とか書いてなかった?
773日本@名無史さん:2008/11/08(土) 16:20:29
明子の娘を後一条の中宮にすればよかったんだ。
倫子は、我が強すぎ!
774日本@名無史さん:2008/11/08(土) 19:45:55
明子の娘を中宮にすべきだったのは賛成。
775日本@名無史さん:2008/11/08(土) 21:01:05
威子の立后は後一条天皇の母彰子の主導で進められている。
(彰子のほうから父の道長に威子を早急に立后させるよう要求している)
後一条朝において、姑彰子と嫁威子の仲が非常に良好だったのは
やはり彰子と威子が一緒に育った同母姉妹だったことが大きかったんじゃないかな。
東宮時代の後朱雀に入内した嬉子のときも同様で、
彰子は嬉子の出産のために里帰りまでして同母妹嬉子の後見を務めている。

明子腹の異母妹である場合、異母姉妹は別々の屋敷で育つため、
ここまで良好なものとはならなかったと思われる。
しかも、明子腹の寛子ならば、威子と全く同年の生まれであるため
(威子が12月生まれのため、何月生まれか不明の寛子がやや早い可能性が高いが)
後一条天皇との年齢差は威子の場合と変わらない。
776日本@名無史さん:2008/11/08(土) 22:27:28
彰子は自分が入内した頃一人で寂しかったんじゃなかな。
勿論多くの女房には傅かれていただろうけど、
気を許せる環境ではなかったという意味で。
同年の妹のどちらかを入内させるか考えた時、
>775の言う通り同母姉妹の方がよほど気心が知れているし、
何かとフォローしやすいから威子を選んだんだと思う。
777日本@名無史さん:2008/11/09(日) 07:42:15
>>776 一条天皇は定子様のとりこだったもんなw
778日本@名無史さん:2008/11/09(日) 11:46:32
>>776
彰子は自分が入内したとき寂しかったというよりも
国母である東三条院が自分が入内した際に引き立ててくれ、
中宮になることもでき、2代の国母となる道を作ってくれたことに大変感謝していて、
自分も国母として妹たちのためにできる限りのことをしようと考えたんじゃないかな。
国母がどれくらい強い権限を持っていて、その権限をどう使ったらいいのかは、
東三条院を見ていてよくわかっていたのだろうと思う。
東三条院はいろいろ言われるけれども、
突然出家の花山天皇、執政者と対立で不遇だった三条天皇にはさまれて
一条天皇が賢帝と呼ばれ政権がそれなりに安定していたのは
東三条院が心を砕いて息子一条天皇と執政者である兄弟との調整役を
すべて買って出たためだったというのは非常に大きかったと思うし。
花山天皇も三条天皇も即位したときには母親をすでになくしていて
指南してくれる一番近い身内を失っていたんだよね。
(両天皇の父親は長生きだったけど政治ととれない冷泉上皇だったしね)
779日本@名無史さん:2008/11/09(日) 12:11:21
暴れん坊少納言、凄すぎるぜ。
780日本@名無史さん:2008/11/09(日) 13:47:20
一条天皇の第2皇女躾子内親王が長生きしていたら、中宮にして欲しかったわ。
781日本@名無史さん:2008/11/09(日) 14:07:07
誰の中宮? 後一条・後朱雀は異母弟だから論外。
それとも自分の父親よりも年上の三条天皇?
長生きしても、姉の脩子内親王共々誰にも嫁がずにいた確率が高いと思う。

あと躾子じゃないよ、「躾」じゃなくて「女偏+美」。
782日本@名無史さん:2008/11/09(日) 14:59:45
修子(しゅうし)内親王を三条天皇あたりに入れておけばね〜。
783日本@名無史さん:2008/11/09(日) 15:20:49
修子じゃなくて脩子な、脩子。
自分より年上の従兄に鍾愛の娘をやりたくないだろ、一条天皇だって。

ついでに定子所生の内親王二人は道長の娘とは関係ないから、
続きがしたければ一条天皇のスレにでもいってくれ。
784日本@名無史さん:2008/11/09(日) 16:05:40
明子の娘を遠慮せず中宮とかにすべきだったんだよ!
785日本@名無史さん:2008/11/09(日) 16:21:29
780、782、784
なまみこばああは理屈で言っても納得しないから
スルーするべし
道長の娘たちスレにまで来て荒らしをやってる
暇なばばあだよ
786日本@名無史さん:2008/11/09(日) 16:35:29
ていうか高松殿源明子を主役にした小説もあったはずだから
なまみこ婆はそれを読んで倫子威子を目の仇にしてるんだよw
分かりやすすぎ
どうせ栄華も大鏡も権記も小右記も御堂関白記も読んだことないんだろう
787日本@名無史さん:2008/11/09(日) 16:52:12
円地文子(なまみこ物語作者)の作品で明子主役のものはなかったはず。
別の作者のもので明子が主役の小説はあるが
なまみこ婆は読んでないだろう。
明子の娘たちに関する知識は全くないから。
小説読んで日本史板で荒らしするのも無知な証だが。
788日本@名無史さん:2008/11/09(日) 20:48:34
明子を主役にした小説書こうかな♪
789日本@名無史さん:2008/11/10(月) 08:15:19
明子の方が倫子より年下で
道長からも近い関係にあったのに
なんで先に妻にしなかった!?
790日本@名無史さん:2008/11/10(月) 10:52:07
明子は、道長より年下ってうちの教授は言っていたよ。
791日本@名無史さん:2008/11/10(月) 20:12:27
うちの教授曰く、倫子は道長より2歳上。
明子はたたりを恐れ、詮子の養女になっていたが
まだ、少女だった。
なので、倫子と最初に結婚し、その後15歳くらいになった
明子と結婚したといっておった。
792日本@名無史さん:2008/11/11(火) 10:49:15
近親相姦にあった栓子に遠慮して明子に手が出せなかったのよ!
793日本史@名無しさん:2008/11/11(火) 12:48:48
栓子って誰?
道長の身内に栓子なんて名前の女性はいないけど?
794日本@名無史さん:2008/11/11(火) 20:17:46
>>791
それ、「なまみこ物語」だろうがw
お前の教授が頭おかしいかだな。
倫子が道長より2歳年上であることは一次史料読めばわかるだろ。
明子は「大鏡」「栄花物語」に父高明が配流になったときに
幼かったことが記されてあり、父高明配流時にはすでに生まれていた。
自演のなまみこばばあは少しは史料を読め。
795日本@名無史さん:2008/11/11(火) 20:24:20
>>794 私のことかしら?
 私は、当時の女子としては珍しく大学に進学いたしました。
 史学では有名な教授のいる大学で、日本史学を学んでいましたが何か?
 終日、図書館に篭って資料を読み漁った女子大生の頃が懐かしく思われます。
 明子が道長より年下は明白でございます。
796日本@名無史さん:2008/11/11(火) 20:36:42
>>795
おばはん、史料を出せよ。
日本史板なのにお前のレスは史料裏付けひとつもなしだ。
どんな低偏差値の女子大だろうが
教授は一次史料を読めと言わなかったのかよw
お前さんは史料が全く読めないみたいだ。
しかも、旦那に全く相手にされないのか
一日中2ちゃんねる三昧、すでに荒らし認定されてるがな。
797日本@名無史さん:2008/11/11(火) 21:04:54
びっくりしたっていうか、ほんとうに婆だったんだな、なまみこ婆。
普通に「当時の女子としては」とか書いてるから、よっぽど年寄りだ。

マジキチだったんだ。真性には日本語も通じないはずだよこりゃ(笑)
旦那(笑)も教授(笑)も脳内なのは言うも愚かだけど。
定子もあの世で迷惑がってるよな。こんな真性がファン(笑)だとは。
798日本@名無史さん:2008/11/11(火) 23:05:22
彰子:憎まれっ子世にはばかる
799日本@名無史さん:2008/11/12(水) 10:03:51
倫子:憎まれっ子世にはばかる
800日本@名無史さん:2008/11/12(水) 11:25:54
うわぁ・・・なまみこ婆って粘着系 誰ににたんだかw
801日本@名無史さん:2008/11/12(水) 12:20:46
>>795
ところで一次史料ってご存知?

いくらそれっぽく書いても、資料と書いた段階で嘘だとバレていますよ。
802日本@名無史さん:2008/11/12(水) 13:18:02
倫子の母親ってもっと長生きしたんでしょ!
ドロドロした世界に強い女は長生きね!
803日本@名無史さん:2008/11/12(水) 14:24:40
嬉子って高齢でできたけど、ダウンとかじゃなかったの?
804日本@名無史さん:2008/11/12(水) 15:01:33
ばーか
知的障害があったのは道隆の三女だよ
大鏡読んでみろ
同父母の定子や伊周も知障だったんじゃねーの
じゃないと兄妹でセックスしてガキまで作ったりしないだろ
805日本@名無史さん:2008/11/12(水) 15:44:07
威子も自己主張がない=池沼臭い

>>804 三の君は、池沼じゃなくて精神疾患だろ頭は良かったみたいだから(偏差値的なのね)
806日本@名無史さん:2008/11/12(水) 18:24:45
自己主張って何?
実兄とセックスしてガキ作って
「この子は天皇の子です」ってアピールすること?

知障以下じゃんw

道隆三女の偏差値が高かった?どこが?
まさか詩の優劣を大声で批評したとかいうくだりか?
あっちが上手いこっちは下手くそ程度なら知障でも言えるぞ
807日本@名無史さん:2008/11/13(木) 08:06:08
威子は、頭悪そうね。
808ミレニアム新聞店:2008/11/13(木) 18:10:12
∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧
----------------------------------------------------------
ウォールストリート・ジャーナル  長保二年(西暦1000年)1月1日(火曜日)〔元旦〕
----------------------------------------------------------
藤原道長にも?「不適切な関係」報道
米紙が1000年元日紙面発行

【ニューヨーク12日=山中季広】
「ききんの日本で藤原道長が不倫」「神聖ローマ皇帝の残忍さ顕著に」? 米紙ウォールストリート・ジャーナルは11日、
架空の紙面である西暦1000年1月1日付けの別刷り特集=写真、AP=を発行し、千年前の世界のニュースをこんな風に伝えた。
平安中期に権勢を誇った藤原道長の記事は一面に。クリントン米大統領が不倫問題の釈明に使った言葉を引用し、
「ききんと疫病に見舞われた日本では、支配者の道長が複数の女性と不適切な関係にあることが発覚。
農民は一揆を起こす構えだ」と伝えた。 一面トップは「オットー3世の野望」。神聖ローマ帝国の領土拡大を狙う若い皇帝が
世評とは違って性格に偏りがあると報じた。宋王朝の記事も大きく、当時の都開封発のニュースで「実用的な知識で世界の先頭を行く。
西洋も見習うべきだ」と伝えた。米国では、他のキリスト教圏と同様、紀元3000年まで続く新たな千年紀をめぐる催しや
出版が相次いでいる。同紙の特集は逆に千年をさかのぼったのがみそ。当時の世界を現在の紙面に似せた体裁でまとめた。


http://bhn.jpn.org/yamanaka/1999.html
http://www.ycaster.com/diary/99jan.html
http://www.daito.ac.jp/~hama/news/michinaga990113.pdf
809日本@名無史さん:2008/11/13(木) 20:54:04
>>807
威子は定子と違って生涯一夫一妻、
後一条天皇だけを夫としていたのだから立派だったね。
頭が悪いのは威子じゃなくてあんたでしょ。
810日本@名無史さん:2008/11/14(金) 07:58:16
威子のDQNを隠すためにかわいそうな一夫一妻を帝に強いたんだろうね。
彰子、道長最低。
811日本@名無史さん:2008/11/14(金) 20:40:22
なるほど。
道隆は定子のDQNを隠す為に、一条天皇にかわいそうな一夫一妻を強いたんだ。
おまけに事実がバレないように清少納言に持ち上げさせてまで。
大変だねぇ・・・
812日本@名無史さん:2008/11/14(金) 22:52:05
嬉子って少しDQNだと思う。
813日本@名無史さん:2008/11/14(金) 22:59:41
道長の娘たちはかなり出来が良かったよ
道長が自分で自分を褒めるくらいにね

それに比べて道隆の娘と来たらw
尼になってもセックス狂いの定子
娍子に寵を奪われ血を吐いて不審死の原子
客の前でおっぱい丸出しの三の君
姉の夫と不義密通の御匣殿(四の君)
逸材揃いだねえ。
814日本@名無史さん:2008/11/14(金) 23:38:34
母親の違いだろうな。
道長は「をのこはめがら」と言ってるぐらいだから
倫子・明子ともに妻としても母としてもよく出来た女性で
娘への教えも行き届いていたんだろう。

一方、道隆の妻貴子はたかが受領階級の娘のわりには目立ちたがりのでしゃばり。
お勉強は多少できたので自信家で華やかな当世風を好んだが、
配慮に欠ける性格で逆境には滅法弱い。
この貴子の性格は伊周と定子に特によく受け継がれている。
815日本@名無史さん:2008/11/15(土) 10:13:27
道長が自分で自分を褒めるってwwただのナルシストやんw
816日本@名無史さん:2008/11/15(土) 20:46:44
道隆は出来の悪い娘たちを褒めようがなかったから。
817日本@名無史さん:2008/11/16(日) 10:01:13
多分、彰子=女芸人柳原加奈子そっくり
   威子=和製ビションセ(ブヨンセ)そっくり


だっただろうな。
818日本@名無史さん:2008/11/17(月) 12:20:25
後一条天皇の死後になって、敦成を「あつなり」と読み間違えた人がいたので
彰子が「あつしげ」だと思ってた、と言ったという話は本当?
どの史料に載ってるのか知ってる人いる?
事実だとしたら、彰子は息子が生まれてから死ぬまで一度も正しい名前で呼んだことが
なかったということになるのかな・・・。
もちろん諱を口に出して呼ぶことは滅多にないだろうけども。
819日本@名無史さん:2008/11/17(月) 16:00:16
彰子DQNだな、麻生太郎かよ。
820:2008/11/17(月) 17:41:56
なまみこ婆 乙
821日本@名無史さん:2008/11/17(月) 19:06:47
>>818
その話、一条院についてじゃなかったっけ。
史料思い出せなくて思い違いかもしれないが、

一条崩御後に、一条のいみな(懐仁)が、やすひと なのか かねひと
なのか分からないと道長たちが困っていたら、彰子が「××ひと、でしたよ」
と発言したって話。
ごめん、やすひとなのかかねひとだったのか、すっかり忘れてる>自分

どこかの歴史読み物で見たような記憶なんだけど、それだけ当時では
本名(いみな)が日常から使われていなかった、という例えで挙げられた話。
822日本@名無史さん:2008/11/17(月) 21:12:37
彰子のバカップリを隠すために紫式部などがいたわけで・・・
823日本@名無史さん:2008/11/18(火) 13:55:48
彰子=麻生太郎ww
824日本@名無史さん:2008/11/18(火) 19:34:05
部下を見れば上司の人柄も自然と知れると言うけど
ファンを見ればご本尊の人柄も知れることかな。
他人の悪口三昧の性根卑しい定子ファンが崇める定子様とやらも
同じくらい性根が卑しいんだろうね。

元子ファンはそんなこと思いながらマータリ見ているよ。
825日本@名無史さん:2008/11/18(火) 20:21:19
元子は、定子様の次に美人だったが水出産で残念だったな。
826日本@名無史さん:2008/11/19(水) 11:58:34
>>821
ありがとう!!
一条天皇だったんですね。
だから「やすひと」と「かねひと」の2説ある・・・?
個人的には「かねひと」が好きだな。兼家の孫ってことで。
827日本@名無史さん:2008/11/20(木) 09:14:07
彰子ってDQNすぎるww
828日本@名無史さん:2008/11/20(木) 20:33:06
どういうところがDQN?
むしろ彰子って地味で生真面目かつ堅物なイメージあるんだけど。
829日本@名無史さん:2008/11/21(金) 11:08:05
彰子の賢明さは、定子と同じことをしなかったってところじゃないか?
性格も違うから、前の皇后と同じことしても結果がでないって。

あと勝利者道長の娘だから、おごりたかぶった言動をするのを控えていたのかもしれない。
ただでさえ、ハレの場合に道長が準備した衣装や文物は過奢で、下の人々から不満が
でてたらしいし。

定子=芸術サロン開いて文芸楽しむ華やか活動。
彰子=人事・朝政に関与の現実的活動。
みたいな
830日本@名無史さん:2008/11/21(金) 14:15:46
彰子のアフォさ加減を隠すために紫式部や赤染衛門なんかで脇を固めた。
831日本@名無史さん:2008/11/21(金) 15:53:06
みんな「暴れん坊少納言」読もうぜ!
832日本@名無史さん:2008/11/21(金) 19:58:42
>>830
定子も阿呆さを隠すために清少納言を雇ってたもんね。
そして清少納言に定子が才女だったする枕草子を
書くように命じたんだな。
833日本@名無史さん:2008/11/21(金) 20:38:14
>>829
定子の性格は母親の高階貴子に生き写しだったんだろうね。
高階貴子は宮仕えをやめ関白夫人となった後も
どこかで歌会があると聞くと
私が行かずにどうするのとばかりに
どこへでも真っ先に飛んでいかずにいられない
非常に派手好きな女性だったらしいから。
結構当時は評判悪かったらしいね>高階貴子
834日本@名無史さん:2008/11/21(金) 21:12:44
定子様は知的遊びのお相手が必要だったから少納言を召したのじゃ!ボケ。
835日本@名無史さん:2008/11/21(金) 21:22:46
彰子様も紫式部、和泉式部に赤染衛門と
知的なお遊び相手が多かったね。
当時の文芸サロンの先駆け的存在だった大斎院
選子内親王(村上天皇皇女)とも交流があったみたいだしね。

定子のサロンが文芸サロンだったなんて
同時代の史料には全く見えない。
836日本@名無史さん:2008/11/22(土) 06:34:07
威子は、皇族に嫁がせる必要なかった。
彰子の娘が良かっただろ。
837日本@名無史さん:2008/11/22(土) 11:03:49
彰子じゃなくて明子の娘ね!
838日本@名無史さん:2008/11/22(土) 11:55:00
明子の娘というと寛子?
寛子が後一条に入内したら、威子は小一条院に嫁ぐだけで
威子と寛子は同い年だし、寛子でも他の兄弟の娘は入内出来なかっただろうし、
はっきり言ってあまり変わらないよ。
末娘の尊子が例外だったくらいで、道長の娘は基本的に皇族に嫁いでいた。
839日本@名無史さん:2008/11/22(土) 12:33:29
明子には、他に娘いただろ。
840日本@名無史さん:2008/11/22(土) 12:46:11
明子が産んだ娘は寛子と尊子だけ。
姉より先に妹が嫁ぐことは基本的にない。
あの時点での道長の娘の中では、後一条の相手は威子か寛子のどちらかだった。
で、彰子の同母妹の威子が選ばれ、寛子は小一条院に嫁いだ。
威子と寛子は同い年だから、後一条との年齢差は同じだね。

明子は四男二女の男腹で、綸子は二男四女の女腹。
あの時代は娘を入内させてなんぼだったから娘の少ない明子が綸子よりも下になるのも仕方がない。
例えば彰子に前後して娘が生まれていたら道長はその子を三条天皇に入内させ、
歴史は変わっていたかも知れないけど。
841日本@名無史さん:2008/11/22(土) 13:47:58
尊子を入内させればよかったのに!

まー倫子、明子が女御として入内していたら明子>>>倫子だったわね。
842日本@名無史さん:2008/11/22(土) 14:28:30
明子って何歳まで生きたんだっけ?
御堂関白記の高松方の最後の記述ってどの辺なんだろう。

倫子と同様に道長との同伴外出の記録とかあるのかな。
843日本@名無史さん:2008/11/22(土) 14:53:17
>>841
明子が入内していたらそもそも道長との絡みも皆無になるが?
というか誰に入内するの?
一条天皇?
そしたら明子は東三条院のバックアップもあって定子以上に寵愛されていたかもね。
844日本@名無史さん:2008/11/22(土) 20:17:27
>>841
明子は永承4年(1049年)7月22日没。
明子は生年が不明なので何歳で没したかは不明。
夫の道長が没してから21年後に没しているので
倫子ほどではないにしても長命だろう。
(倫子は明子の死の4年後に没)
845日本@名無史さん:2008/11/22(土) 21:11:48
>>841
年齢だけでいえば後一条天皇にもっとも年齢が近い道長の娘は嬉子(母は倫子)。
後一条天皇と嬉子は1歳違い。
結局、嬉子は後一条天皇の年子の弟(のちの後朱雀)の妃になったけど。
尊子は残念ながら生年が明らかではない。
国母彰子との兼ね合いから考えれば彰子と親しい同母妹が嫁ぐのは自然の成り行き。
倫子に女子がなく、彰子の母親が明子だったのならば立場は逆転しただろうけど。
明子は最初の3人がいずれも男子で、初めて女子の寛子を授かったのは999年、
同年には倫子の長女彰子は早くも一条天皇に入内している。
倫子は1008年には娘の彰子が敦成親王を産んだことで一条天皇から従一位という高位を賜り、
すでに人臣位を極めてしまっていたから。
846日本@名無史さん:2008/11/23(日) 14:22:06
尊子を入内させればよかった。威子は、公家か源氏に嫁がせとけばよかった。それか花山院。
847日本@名無史さん:2008/11/23(日) 17:41:13
花山院に入内させても、道長にとってのメリットが無いからw
道長にとっては、正妻腹の四姉妹が天皇の中宮や東宮妃になったという
快挙に勝る物はないのでは無いかと。
848日本@名無史さん:2008/11/23(日) 18:02:06
敢えて言うなら、尊子は敦康親王という手もあったかもね。
年もさほど離れていないし、小一条院同様に身内に取り込んでおいて損はない相手だし。

母親に関係なくは年齢順に娘を片付けていくなら、
威子&寛子→敦康or小一条院、嬉子→後一条、尊子→後朱雀
にでもなったのかな。これはこれで良いような気がする。
849日本@名無史さん:2008/11/23(日) 21:16:58
定子様の血を残すためにも敦康親王には早くから子作りして欲しかった。
850日本@名無史さん:2008/11/24(月) 09:04:46
倫子自体が花山天皇に入内するかもしれなかっただろ。
851日本@名無史さん:2008/11/25(火) 09:07:22
倫子は円融でもよかっただろ。
852日本@名無史さん:2008/11/25(火) 21:02:45
>>848
敦康親王は999年生まれ。
道長の娘たちの中では威子、寛子と同年の生まれ。
しかし、東宮に立つこともなかった敦康親王は
東宮辞退の小一条院よりも皇位には遠く、道長の実娘の婿には選ばれなかった。
威子や寛子が適齢期になったころにはまだ後一条や小一条院という婿候補がいたからね。
敦康親王の外戚伊周までが敦成親王誕生の祝いに駆け付ける中、
道長を苦しめ続けた伊周や定子をこれ以上応援する必要もなくなり、
道長の脳裏からは敦康親王という線は完全に消えていたのでは?
敦康親王を頼通養女と結婚させたのは道長というより養母の彰子。
また、尊子は嬉子の異母姉。
尊子の袴着、裳儀は嬉子よりも以前に行われている。
嬉子が道長の子女の中で一番最後の子。
また、尊子の結婚は1024年、嬉子の結婚は1021年。
敦康親王の結婚は1013年、敦康親王は尊子や嬉子が結婚する以前の
1019年にはすでに没している。
853日本@名無史さん:2008/11/27(木) 12:38:44
彰子って顔赤かったらしい。
リンゴ病??オカメみたいだったんだね。
854日本@名無史さん:2008/11/27(木) 22:00:27
定子は年下の一条天皇ではなく花山天皇のほうが年齢的に釣り合ったのにね。
花山天皇は寵妃が妊娠中に亡くなると出家して帝位をおりてしまった。
祇子ほどには寵愛されなかっただろうけど。
855日本@名無史さん:2008/11/27(木) 22:03:30
>>853
彰子をブスと言いたいのかもしれんが、
平安時代の基準で行けばオカメはむしろ美人だぞ?
もちろん君の大好きな定子様だって美女だと主張するならオカメだ。
856日本@名無史さん:2008/11/27(木) 22:10:33
彰子は「紫式部日記」「栄花物語」に美人だったとあるよ
小柄で可憐な女性だったらしい
857日本@名無史さん:2008/11/28(金) 01:15:30
☆☆☆一条天皇と取り巻く女と子供と貴族達☆☆☆
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1218215666/
858日本@名無史さん:2008/11/28(金) 08:49:21
若い天皇には、年上の定子様が最高だったのよ。
859日本@名無史さん:2008/11/28(金) 08:50:00
若い天皇には、年上の定子様が最高だったのよ。
860日本@名無史さん:2008/11/28(金) 18:29:59
>>850
倫子・明子が入内して女御になることは困難だと思う。冷泉〜三条で
天皇の后妃となったのは、内親王&藤原氏(忠平の子孫に限る)のみ。
他の氏族(源氏)の割り込む余地は全くなし。

これが後一条〜後冷泉になると、内親王&藤原氏(道長の子孫に限る)と
さらに範囲が狭まる。
861日本@名無史さん:2008/11/28(金) 21:24:06
>>860
明子の姉は明らかに女御、中宮候補だったんだよな。
源高明の長女(明子の異母姉)が嫁いだのは冷泉天皇の同母弟、為平親王。
冷泉天皇が政務をとれなかったために、為平親王は大変な期待された皇子だったんだ。
高明の長女は為平親王の正妃として、のちの女御、中宮候補として迎えられた。
ところが、母の中宮安子が没し、外祖父の師輔、そして父の村上天皇もが没すると、
藤原氏は為平親王を差し置いてその同母弟守平親王(のちの円融天皇)を東宮にした。
さらに源高明を左遷して源氏の力をそいだ。
為平親王とその妃は仲好く添い遂げたようだけど、この時点で明子の入内はなくなっていただろう。

倫子の場合、妃がねとして育てられていたという記事があちこちに見られ、
左大臣源雅信は最高の出世としてやはり倫子を天皇の女御にしたいという希望はあったのだろう。
ただ、おそらくは源高明の二の舞になることを恐れたのだろう。
倫子に関して言えば、入内ははじめから不可能だったという印象はない。
ただ、倫子を入内させていれば雅信は兼家あたりから恨まれて政変になっていたかも。
862日本@名無史さん:2008/11/28(金) 21:43:38
>>858>>859
なまみこ婆、連投ごくろうさん。
後一条天皇も年上の威子が最高だったろうね。

道長が東宮辞退の小一条院を厚遇し、娘婿にしたように、
道隆も自分たちが無理やり帝位から引きずりおろした花山天皇を
せめて娘定子の婿に迎えて面倒を見てやったりしていれば、
道隆没後、伊周や定子があれほどみじめな世間からの評判を
得なくて済んだかもしれないのに。
定子にとっても幸せだったかもよ?
863日本@名無史さん:2008/11/28(金) 22:15:52
実の叔母をマジで愛せるかよ(10も上の)。
864日本@名無史さん:2008/11/28(金) 22:43:17
>>863
お姉さん代わりでよかったんじゃないの。
草壁皇子と元明天皇、後朱雀天皇と嬉子、みんな叔母との結婚だけど?
一条天皇も年上のいとこ定子を近親すぎて愛せなかっただろうね。可哀そうに。
865日本@名無史さん:2008/11/29(土) 11:16:56
威子なんか押し付けられて、まるで小柳ルミコに呪われたケンヤ状態だったろうな><
866日本@名無史さん:2008/11/29(土) 11:55:42
>>863
堀河天皇は十四歳年上の実の叔母の篤子内親王を妻に望んだけど?
「幼くより類なく見とり奉らせ給ひて、ただ四の宮をとか思ほせりけるにや侍りけむ」
年上の実の叔母を愛せるかどうかなんて本人の問題だろ。
867860:2008/11/29(土) 11:57:28
>本人の問題→本人の気持ちの問題。
868日本@名無史さん:2008/11/29(土) 14:04:17
『栄花物語』巻31「殿上の花見」に、「嫄子(頼通養女)と生子(教通長女)が
後一条天皇に入内するという噂があった。天皇は乗り気だったが、威子の反対で
立ち消えとなった」という逸話がある。威子の存在は、頼通・教通にとって
障害であると同時に、兄弟の対立を抑える歯止めだったと思う。
869日本@名無史さん:2008/11/29(土) 15:20:47
嫄子サマといえば定子サマの孫娘!
威子!やっちまったな〜!
870日本@名無史さん:2008/11/29(土) 20:13:48
>>869
嫄子は幼少期から頼通と子のなかった正室隆姫夫妻の手元で育ち、
入内後は公の場においても頼通を実父と称し、藤原嫄子として藤原姓を名乗っていた。
嫄子と定子の一族との接点はないに等しく、頼通の実娘に近い扱いだった。
祖母定子の血を辿れば難産の家系だというのだけは当たっていたのか、
2人目を産んだとき難産が原因で没したけど。
嫄子が産んだ皇女は頼通によって庇護されたが、精神がおかしかったみたいだけどね。
871日本@名無史さん:2008/11/30(日) 09:28:59
>>870 祐子内親王?一品じゃない?
872日本@名無史さん:2008/11/30(日) 13:14:35
>>871
精神がおかしかったらしいのは祐子内親王の妹禖子内親王だよ。
病弱だったけど、歌才に優れていた。
ついでに祐子内親王は三品だよ。
873日本@名無史さん:2008/11/30(日) 17:54:50
祐子内親王ももののけにつかれて岩倉で療養してない?
874日本@名無史さん:2008/12/01(月) 19:45:55
>>872
嫄子の子は2皇女とも精神を病んでいたみたいだね。
特に禖子内親王は「前後のことが全く分からず、
生きているのが気の毒な状態(40代〜50代頃の記録)」だとあるので、
かなり重症ではあったようだ。
875日本@名無史さん:2008/12/02(火) 06:29:46
祐子内親王は経済的には恵まれていたようだね。
876日本@名無史さん:2008/12/02(火) 13:53:08
てことは、嫄子が産んだ子が男じゃなくて良かったってことになるのかな?
877日本@名無史さん:2008/12/02(火) 18:41:26
近親婚の連続が悪影響だったのか。白河法皇が長命だったのは
道長の系統ではない女性(藤原茂子)の血が入ったことが
大きかったのかもしれない。
878日本@名無史さん:2008/12/03(水) 19:24:42
>>877
前にも出てなかったっけ?
精神病は優勢遺伝ではなく、近新婚の影響は全く受けない。
2皇女の異母兄弟姉妹は、2皇女と同程度(いとこ婚)かそれ以上の近親婚(おば甥婚)
によって誕生しているにもかかわらず、異常はない。
近親婚をすると、ありとあらゆる病気と障害が現れると信じている奴が多すぎる。
879日本@名無史さん:2008/12/03(水) 22:33:42
Q:
精神病は遺伝すると聞いたことがあるのですが、本当でしょうか?
A:
精神病の遺伝は有り得ない事ではないそうです。

しかし、それは病気自体が遺伝するのではなく、要因、性格的な物であって、
またそれよりも家庭・生活環境などが発病に大きな影響を及ぼすそうです。
精神疾患の場合は、まず、「遺伝病ではない」ことをはっきり認識してください。
原因の一つは、「遺伝的体質」、それから「ストレス」が2大要素だと言われています。
加えて、統合失調症(旧称精神分裂病)や躁鬱病は、脳内物質の異常が指摘されています。
「遺伝的体質」とは、例えば、糖尿病のように、家系的に病気の人がいると「なるかも」というもの。
あくまで「体質」なのです。
ともかく、精神疾患は「遺伝病」ではありません。
体質は遺伝しますが、それも100%ではありません。
予防法も特にありません
精神疾患の人が多い家系では、優秀な人も多く出ています。
ゲーテやベートーヴェンなどがそうです。
880日本@名無史さん:2008/12/03(水) 22:46:04
統合失調症は遺伝が若干ありますが、双極障害(躁鬱病)は、遺伝は今のところ指摘されていません。

知的障害は、ダウンなどですが、高齢・近親出産と、早すぎる出産にもあります。
881日本@名無史さん:2008/12/05(金) 12:27:52
史実から行くと、彰子ってリンゴ病じゃない?顔赤いって。
882日本@名無史さん:2008/12/05(金) 17:18:47
藤原は糞
883日本@名無史さん:2008/12/05(金) 20:19:56
>>881
りんご病がどういう病気か調べてから書き込んだら?
無知を晒して恥ずかしくない?
884日本@名無史さん:2008/12/06(土) 16:08:56
>>881
昔は、若くて美しいことを「紅顔」と言った。
だから、その顔が赤いっていうのは、彰子が若くて美人だってことだと思う。
883の言うとおり、べつにリンゴ病になったって恥ずかしいもんでもないし
感染症だから、治るもの。
ホント無知だ・・・。
885日本@名無史さん:2008/12/06(土) 21:44:55
彰子、柳原加奈子がほっぺた真っ赤な感じだろうなw
886日本@名無史さん:2008/12/06(土) 22:06:31
>>885
すぐ前のレスくらい読めば?
ついでに柳原加奈子って誰? どこの有名人?

本当に頬が赤かったとしても栄養状態の悪いあの時代、
白粉を塗っても仄かに赤く透けて見えて、むしろ健康的で良かったのかも。
なにしろぽっちゃりおかめが絶世の美女だった時代、現代とは美の基準が違うしね。
887日本@名無史さん:2008/12/07(日) 09:44:50
「いらっしゃいませ〜」の芸人w
888日本@名無史さん:2008/12/07(日) 10:41:23
スレ違い承知でつっこむけど、それは柳原加奈子じゃなくて柳原可奈子だ。
柳原可奈子だけじゃなく、脩子内親王、媄子内親王、詮子と名前の間違いが多いよね、なまみこ婆って。
人の名前を間違えるのは失礼だし、それ以前に人の外見を嘲笑うのは性根卑しくて醜い証拠だね。
あと柳原可奈子のぽっちゃり体系は平安時代ではむしろ美人要素だよ。
889日本@名無史さん:2008/12/07(日) 10:47:09
彰子は当時の史料で美人だと出ているから美人だ。
むしろ、定子を美人だとしている史料って枕草子ぐらいで、
それも定子の「若さ」について褒めている部分が多い。
(袖から出ている白い手が(若くて)美しかったとか)
出仕当時30歳ぐらいでバツ1、前夫との間に子供もいた清少納言から見たら
当時18歳で出産を経験していない定子の肉体は若く、美しく見えたのだろう。
清少納言は枕草子で定子の目がどうなっていて、口がどうなっているという
記述は一切していないので、むしろなまみこ婆が主張する定子美人説のほうが
相当あやしいものだと言わざるを得ない。
890日本@名無史さん:2008/12/08(月) 15:10:41
女院や后をめぐる研究論文でおすすめのものを教えてください
891日本@名無史さん:2008/12/08(月) 20:00:51
上東門院周辺ならこのスレでもいいけど、
もっと後の時代の女院や后なら↓で聞いた方が良いかも

▲▼皇后・国母・女院を語る▼▲Part2
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1199023998/l50
892日本@名無史さん:2008/12/09(火) 13:00:10
>>889 道長の娘だからどブスでも美人になるだろ。
893日本@名無史さん:2008/12/09(火) 20:06:38
別に彰子がブスだろうと美人だろうと、
あの実資をして「賢后」と言わしめ、
後一条・後朱雀両天皇を産んだ事実に変わりはないけどね。
894日本@名無史さん:2008/12/10(水) 13:06:07
>>893 別に賢いとは思わん。
895日本@名無史さん:2008/12/10(水) 14:06:52
>>894
そりゃあ、香炉峰の雪は〜とか、文学的教養をひけらかして
アハハ☆ウフフしてるほうが、ぱっと見ではああ、漢文を色々と
知っているんだなー、頭いい♪
って上辺しか見られない単純な人間ならそう思うんだろうね。

そういう派手なだけの奴は、いざ自分の立場が悪くなると
見苦しく逃げ回って妹の手を握って罪を許されようとしたり
正気を失って尼になって、後々周囲に迷惑かけたりして
みっともないことをするんだよね☆
896日本@名無史さん:2008/12/10(水) 18:17:58
一条天皇が尼になっても超定子様を愛したからいいじゃん。
897日本@名無史さん:2008/12/10(水) 19:25:32
>>892
定子も権力者道隆の娘だからどブスでも美人になっただろうね。
そもそも、使用人の清少納言以外だれも定子を美人だと言ってないじゃん。
これは認めるよね。
>>894
定子にいたっては賢いとしている史料が皆無であるばかりか
尼になってもセックス狂いの恥ずかしい記録しかないけどね。
898日本@名無史さん:2008/12/10(水) 19:27:47
>>896
天皇は妃を選べないだろ。
一条天皇は元子とも義子とも尊子とも彰子ともセックスしてたわけだし
たまたまその中で彰子と元子、定子が妊娠しただけ。
尼になった定子を宮中に戻したのは東三条院で、一条天皇ではないし。
899日本@名無史さん:2008/12/10(水) 20:20:33
>>894
彰子を「賢后」を褒め称えたのは彰子と同時代に生きた藤原実資です。
実資は母后だろうが天皇だろうが上皇だろうが言いたいことをずばずば言う人で、
権力者に阿ったりはしなかった人です。
さらにはアンチ道長で、とにかく道長には批判的でした。
その彼が道長の娘である彰子を「賢后」と言ったのは、
お世辞でもなんでもなくそれが事実だからでしょう。


>>896
定子のみを語りたいなら、スレ違いです。
ここは道長とその娘達のスレであって、道長の姪の定子は対象外です。

☆☆☆一条天皇と取り巻く女と子供と貴族達☆☆☆
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1218215666/l50
にお帰り下さい。
900日本@名無史さん:2008/12/10(水) 21:41:27
彰子は、賢くないと思う。

それから明子の娘も平等に扱えよ!道長!
901日本@名無史さん:2008/12/11(木) 20:11:45
>>900
お前が賢いと思わなくて、同時代に生きる人は彰子を賢后と思っていたんだよ。
資料にも彰子が賢后と言われた所以は色々残っている。

あと倫子と明子は立場が違う為、平等に扱うのがそもそも無理な話。
倫子は、彰子を産み、その彰子が敦成親王を産んだことで従一位を賜っている。
一方明子は無位無官。
そんな二人及びその子供を同列に扱うのは失礼に当たる。

その子供達にしても、天皇に入内した后の同母兄弟の出世、異母兄弟の出世が違うのは当然のこと。
兼家の子供達の中でも、円融天皇妃・詮子の同母兄弟の道隆・道兼・道長と異母の道綱は出世スピードが違う。
道隆の子供だって、定子の同母兄弟の伊周・隆家と異母兄弟の道頼は出世スピードが違う。
同母の姉妹がいるのといないのとでは、兄弟の待遇も異なるわけだ。
倫子腹の子供と明子腹の子供の扱いが違うのは当たり前。

彰子の母親が明子だったら、また違っていたんだろうけどね。
902日本@名無史さん:2008/12/11(木) 20:50:53
>>900
母親によって待遇が違うのは仕方がないよ。
道隆だって高階貴子を母としない長男は嫡子ともせず冷遇してたじゃん。
道隆こそ、長男の道頼を大事にして家督を継がせるべきだったでしょ。
定子の母高階貴子こそ出自は倫子よりも明子よりもはるかに悪かったし。
道頼の母と定子の母貴子は同程度の出自だし。
903日本@名無史さん:2008/12/12(金) 09:49:00
彰子って長生きしただけジャン。
904日本@名無史さん:2008/12/12(金) 13:27:34
彰子の賢后と言われた具体例。
1013年、道長が彰子に一種物の宴会を催そうと発案した時、
彰子は「夫の一条天皇が亡くなったばかりで身を慎むべきであり、
また行事続きでは人々の負担が重くなります」ときっぱりと断り、
道長の意を受けた弟頼通が何度も説得して許さなかった。
この中止に至る経緯を聞いた藤原実資は「賢后というべきだな」と感嘆した。

他にも、一条天皇女御だった元子が藤原頼定と密通し、
父の顕光は堀川屋敷の相続を元子にさせないと言い切られた時、
困った元子が彰子に相談し、彰子の口添えで堀川第は元子のものとなった。


継子である敦康親王擁護のことと言い、上記に上げたことと言い、
彰子はその地位に奢ることなく、人への気配りが出来る女性だったってわけ。
ただ長生きしただけではないし、あの時代で長生き出来るだけでも凄いと思うけどね。
905日本@名無史さん:2008/12/12(金) 21:16:13
敦康親王の場合、自分になかなか子供が出来なかったからだろ、あとショタコンだったんだろ。
元子の場合は、DQNなスキャンダルの相手とくっつけただけやんw
906日本@名無史さん:2008/12/12(金) 22:32:04
>>905
元子の相手がDQN?
源定頼のことを言ってるのなら、若い頃は皇太子妃と通じて、相当な不良だったけど。
そいつは父に追い出された元子にも変わらず通って添い遂げた男でもあるよ。

元子が家を追い出された当初は、その扱いの酷さに世間は父の顕光を非難したくらいだ。
ヘタをしたら元子は顕光の遺産も相続できなくなるかもしれないところを、この親子の確執に
口ぞえして、元子をかばってやったのが彰子で、いわば彰子は元子の第二の人生を後押し
してやったわけだ。

なまみこ婆には難しい説明でどうせわからないだろうけど、他にレス見てる人の知識の
とっかかりとして書いてみた。
907日本@名無史さん:2008/12/12(金) 22:34:43
↑ 悪い「頼定」が正しい。
908日本@名無史さん:2008/12/15(月) 21:57:52
皆落ち着け!「暴れん坊少納言」でもみて気持ちを落ち着けろ。
909日本@名無史さん:2008/12/16(火) 10:13:22
研子ってデムパだったの?
910日本@名無史さん:2008/12/16(火) 11:52:24
研子って誰?
道長の娘に研子なんていないんだけど。
もしかして誤爆?
911日本@名無史さん:2008/12/16(火) 20:39:19
>>905
彰子は自分に2人の親王が誕生した後も、
敦康親王を弟頼通が後見していた祇子女王(頼通の正室の妹)と結婚させ、
なさぬ仲の敦康親王の面倒を生涯見ている。
敦康親王の遺児がわが子後朱雀天皇に入内するのも手助けした。
彰子に関しては自分に男子が生まれれば敦康親王とは手を切る、って
そんな薄情なまねはしていないよね。
>>906
頼定と元子が添い遂げたというのは頼定の意思というよりも元子の何が何でも
この恋を成就させるという強い意志の賜物であったような気がするけど。
元子は父親に勘当されて、頼定と別れるどころか逆に頼定のもとへ転がり込んだんじゃなかったっけ?
綏子と頼定の恋愛はお互いに火遊びだったような気がするけど、
元子は根が真面目なだけに頼定に本気で入れ込んだんだろう。
道長の娘とは話がそれちゃったけどね。
912日本@名無史さん:2008/12/16(火) 22:38:23
>>861
山本信吉氏あたりは、実際の雅信は兼家に対抗までは出来なかったが、円融・花山両天皇の支持のもとで一上として牽制する位の政治力はあったとしていた筈。
実際、兼家が右大臣を辞めて摂政のみになったのは頼忠・雅信の風下に立つのを嫌がっていたかららしいし。
913日本@名無史さん:2008/12/17(水) 10:09:21
敦康親王にもっと格上の女性と何人か結婚させて欲しかった。
914日本@名無史さん:2008/12/17(水) 11:57:47
この時点で格上の女性というと道長の娘達くらいしかいないね。
三条天皇の内親王達は格上と言うよりもほぼ同格になるのかな。
ただ内親王はよほどのことがない限り生涯未婚が当たり前だから、
選ぶなら道長の娘の誰かってことになるね。
それこそ威子・寛子・嬉子・尊子の誰かになるんだろうけど。
915日本@名無史さん:2008/12/17(水) 20:12:10
>>914 少し年上でいいから道長や他の藤原氏、王族などやりまくって10人くらい子供を残して短い人生を終わって欲しかった。
916日本@名無史さん:2008/12/17(水) 20:35:16
敦康親王は奥さん一筋だったんだが・・・
実資も「好色な冷泉院の皇子達のようだったら、世間も同情しなかった」と言っているし。
>>915のいうように見境なく女に手を出す節操なしだったら、誰もその早死を惜しまなかっただろう。
敦康親王の娘の嫄子女王と後朱雀天皇は仲睦まじかったんだよね。
頼通も彰子も可愛がっていた敦康親王の忘れ形見の嫄子女王が幸せになれて嬉しかっただろうな。
917日本@名無史さん:2008/12/17(水) 22:31:07
>>915
敦康親王は19歳で没。
母親の定子は19歳のころ一人も子供を産んでいなかったことを考えれば
19歳で子供1人残していたことはまだいいほうだろ。
この時代体の成熟は現代の子供よりも悪かっただろうし。
918日本@名無史さん:2008/12/17(水) 22:39:41
>>916
嫄子女王は関白頼通の養女だったから、後朱雀天皇もけしておろそかにはしていない。
後朱雀天皇の后でそれまで後宮を独占していた禎子内親王が
嫄子女王の入内を見て後宮を去ったことから仲睦まじいように言われるのかもしれないが
嫄子は入内後2年で没、あまりに早くに没しすぎて真実のところは分からない。
むしろ、嫄子没のわずか2か月後に後朱雀天皇に入内、
頼通と教通兄弟の関係悪化の最たる原因となった
教通の長女生子については、後朱雀天皇が大変寵愛し、
常に上の御局(天皇の常御所である清涼殿にある妃たちの控えの間)に召されていたとある。
教通の娘たちは母方の秀才藤原公任を外祖父としているせいか、
どの娘も学問に秀でていたといわれているね。
919日本@名無史さん:2008/12/18(木) 05:11:49
> 母方の秀才藤原公任を外祖父としている

ちょっと「腹を切腹」みたいだな
920日本@名無史さん:2008/12/18(木) 08:59:09
教通って明子の子供?
921日本@名無史さん:2008/12/18(木) 10:27:03
倫子の次男
922日本@名無史さん:2008/12/18(木) 11:19:27
生子って子供産んだの?
923日本@名無史さん:2008/12/18(木) 14:44:55
ちょっと調べたら分かると思うけど・・・
生子は子無しです。
かたや年上女だけしか妃がいなかった兄後一条天皇
かたや妃がどんどん入れ替わっていく弟後朱雀天皇
どっちが幸せだったんだろうか。
924日本@名無史さん:2008/12/18(木) 19:27:13
>>923 弟の方だろ。生子いいじゃん、子供生まない方が指名する回数が多くて。
925日本@名無史さん:2008/12/18(木) 19:35:53
>>923
後朱雀天皇は短命な妃が多かった。
道長の末娘であった最初の妃藤原嬉子が長生きしていれば、
姉の威子のように後朱雀天皇の後宮を一人独占して長らく連れ添っただろう。
しかし、嬉子は後冷泉天皇を産んで2日後、産後の肥立ちが悪く19歳で没。
後朱雀天皇はいとこの禎子内親王を後妻に迎えることになる。
しかし、禎子内親王は頼通、教通の娘でも姉妹でもなかったために
頼通が嫄子を入内させ、禎子内親王は後宮を退出。
嫄子が長生きしていれば頼通の後見の元後朱雀天皇の後宮を独占していただろうが、
嫄子も入内の2年後、皇女を産んだ際に難産で死亡した。
嫄子の死後入内したのが4人目の妃、藤原生子。
生子は後朱雀天皇の最晩年まで連れ添い、大層寵愛されたために、
父親の教通は寵愛の生子を立后させるよう何度も後朱雀天皇にせまったが、
後朱雀天皇は関白頼通に遠慮して最後まで生子を立后させることはなかったという。
926日本@名無史さん:2008/12/18(木) 19:55:45
後朱雀天皇にはもう一人、彰子の異母弟の頼宗の次女が入内しているね。
伊周の娘を母に持ち、、後朱雀天皇の異母姉・脩子内親王に養育された藤原延子。
容姿美麗で筝の名手だったとか。
27才で入内して、後朱雀天皇崩御後に正子内親王出産。

こうしてみると後朱雀天皇は子供が多いね。特に娘は五人も。
それでも結婚して子供を残したのは後三条天皇と娟子内親王のみ。
後冷泉天皇は結局子女には恵まれなかった。
927日本@名無史さん:2008/12/18(木) 20:04:01
内親王は結婚しない方が普通の時代だからねぇ>平安時代
928日本@名無史さん:2008/12/18(木) 20:19:41
>>926
後朱雀天皇の子女で結婚して子供を残したのは後三条天皇のみ。
後三条天皇の同母姉娟子内親王は源俊房と駆け落ち同然に結婚したが
娟子内親王に子はなかった。

後冷泉天皇は、妃の藤原歓子(教通の三女)が一度だけ男子を死産している。
そのほかに後冷泉天皇が女官との間にひそかに儲けた一男があったが、
この男子はこっそり受領の養子に出された。
この男子は後冷泉天皇と顔がそっくりなのに低い地位で人々に仕えていたと
「増鏡」などにある。
929日本@名無史さん:2008/12/19(金) 09:30:23
>>926 27歳で入内って遅くないか?
930日本@名無史さん:2008/12/19(金) 20:52:15
>>929
藤原嫄子は24歳で入内、藤原生子が26歳で入内。
道長の息子たちは父道長の栄華にならうべく外祖父の地位を目指して
娘を后がねとしてどこにも嫁がせず養育していたが
娘を入内させることは政治に直結するからなかなか思い通りにはならなかったんだね。
教通の長女生子は、道長が死んだ直後、14歳ぐらいで後一条天皇に入内する噂があったがならず、
後朱雀天皇にも頼通が後見する姫が入内したりでなかなか入内できなかった。
頼宗も長女の天皇入内を希望していたが異母兄頼通にはかなわず
后がねの長女は異母妹寛子の死により男やもめとなっていた小一条院に嫁がせている。
延子は頼宗の次女。
延子の入内は養母の脩子内親王が異母弟朱雀天皇に直々に頼み込み、実現したものらしい。
931日本@名無史さん:2008/12/19(金) 22:27:53
頼宗の長女は小一条院に嫁いで男児を二人産んでいるから、
頼宗も延子には期待をかけたんだろうな。
と言うか明子が男腹だったってわけでもないけど、
明子の血筋の女性は男児を産みやすいような気がする。
娘→寛子:小一条院との間に敦元親王
 →尊子:源師房との間に源俊房・顕房・仁覚
孫娘→頼宗長女:小一条院との間に源基平・敦賢親王
932日本@名無史さん:2008/12/20(土) 19:53:09
>>931
倫子腹の女子に比べて特に明子腹の女子が男子を産みやすいということは
史実に基づく限りはいえない。
○倫子の娘
・彰子=男子2人    ・妍子=女子1人
・威子=女子2人    ・嬉子=男子1人
倫子の娘が生んだ孫は三男三女で男女同数
○明子の娘
・寛子=男子1人、女子1人  ・尊子=男子3人、女子3人
明子の娘が生んだ孫は四男四女で男女同数

結果を見れば明らかなとおり、どちらも同数。

頼宗の娘の話も出ていたから参考までに
・長女(小一条院妃)=男子2人 ・延子(後朱雀天皇妃)=女子1人  
・昭子(後三条天皇妃)=子供なし
娘が生んだ孫は二男一女で、特筆して男が多いというわけでもない。
道長の娘も長女の彰子は男子2人だったが次女は女1人だったしね。
933日本@名無史さん:2008/12/21(日) 10:55:42
結局、御堂関白家は彰子の存在が7割がただった。
彰子が子供がないまま20歳くらいで死んでたら
道長、兄弟の人生もかわってただろうし。
934日本@名無史さん:2008/12/21(日) 12:21:39
そうなったらそうなったで三条天皇・敦康親王に娘を送りつけていたとは思うけど、
彰子のように政治力を発揮したり、兄弟を上手く束ねられたかは微妙だよね。
長女である彰子は家刀自としての役目を果たしていたんだな。
935日本@名無史さん:2008/12/21(日) 12:54:52
>>934 道長は息子には恵まれてない(長男は長生きしただけ)彰子の存在は大きかった。
   彰子が小梨で早死にして、敦康親王が長生きしていっぱい子女をつくったっら
   御堂関白家の栄光はなかっただろ。敦康親王の母方が後見として意味がない存在でも
   同母姉が御堂関家に好きにさせないように、弟に吹き込むだろうから。
936日本@名無史さん:2008/12/21(日) 17:21:15
>>935
長寿だった兄を越えられず、影が薄い教通を忘れないで下さい><
937日本@名無史さん:2008/12/21(日) 17:46:43
>>935
頼通が不詳の息子だったとは思わない。
少なくとも大事件を起こして左遷までされた道隆の息子たち(伊周・隆家)
に比べれば、素業が良かっただけでなく能力もあった。
初期のころの荘園整理令は頼通の命令によって出されていたし、
天皇の後宮のことはすべて姉の彰子が握っていたところで
女である彰子は朝議に参加することができず、
後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の三代の御世の政治を行っていたのは
まぎれもなく頼通だったから。
頼通は姉の彰子に似て地味だったが、しっかり者ではあったよ。
自意識過剰な道隆の嫡男伊周などでは人々をとてもまとめることができなかっただろう。
>>936
教通は道長の子女の中では一番最後まで生きた(没年が一番最後)。
姉彰子の助言もあって関白にまでのぼりつめ、関白になった同日に宿願だった娘の立后
(後冷泉天皇妃だった娘の歓子を皇后にする)も行っている。
この時点で兄の頼通は隠居の身で歓子の立后を止めることができなかったから、
兄を超えたと言えなくもない。
教通の後継者道長は頼通の後継者師実と摂関の座を争うほどだった。
938日本@名無史さん:2008/12/21(日) 17:58:35
頼通が苦労知らずなところはあるがな
姉妹が次々と天皇を産んだことで父の恩敬を受けすぎた
道長だったら後三条天皇の即位は確実に阻止しただろう
>>935
敦康親王が長生きしたところで娘を押し込んで
さっさと退位させていたことだろう。
後ろ盾が失脚していた敦康親王は、
三条天皇が東宮に立てた敦明親王よりも立場が悪い。
敦明親王には弟たちが大勢いたし、
当時の貴族たちの間でも失脚した中関白家を忌む気持ちが強かったから
敦康親王は長生きしても帝位につけなかった可能性すらある。
939日本文尊 ◆m0yPyqc5MQ :2008/12/21(日) 18:09:43
くっだらねースレだな。バーカw
940日本@名無史さん:2008/12/21(日) 18:16:55
528 名前:日本文尊 ◆m0yPyqc5MQ :2008/12/21(日) 18:10:46
それより俺のチンコを舐めろよ。

941日本@名無史さん:2008/12/21(日) 23:17:51
>>938 長生きしてたら確実に帝位にはついていたよ。
942日本@名無史さん:2008/12/21(日) 23:46:02
むしろ彰子が早死にしたまま三条天皇即位になったら、道長は三条天皇と協調路線をとっただろう。
彰子が産んだ敦成親王を早く即位させたくて三条天皇をさっさと譲位させたかった道長だけど、
その敦成がいなければ、三条天皇と対立する必要もないし。
他にも妍子を三条天皇に入内させるだけじゃなくて、早々に威子あたりを敦明親王に送り込んでいた可能性もあるよな。
既に祖父が死んでいる敦明の方が、中関白血筋の敦康よりも扱いやすいだろうし。
また、敦康が東宮になっていたとしても、何らかの圧力を掛けて東宮を辞退させるか、
もしくはやはり道長の娘の誰かと早々に縁づけておかすればいい。
とにかく道長は娘が多かったから幾らでも手段はある。

>>935
>同母姉が御堂関家に好きにさせないように、弟に吹き込むだろうから。
所詮は一内親王にそこまで権限はない。
道隆存命中、母后詮子が何も出来ずに一条天皇の後宮が定子独占状態だったように、
道長一家も自分たち以外の娘以外近づけさせず、内親王もそれを阻止することは出来ない。
943日本@名無史さん:2008/12/22(月) 08:21:58
>>941
敦康親王は母方の祖母が高階家出身というのがネックだったから、
仮に長生きしても即位出来たかどうかは不明かと。
高階家は、当時の伊勢斎宮に密通して子を産ませたと噂された在原業平を
祖先に持つために、伊勢神宮に参詣することを許されない家系という風評が、
定子が生存中にもあったとされている。

天皇家の神事を全う出来ない皇子が即位するのは非常に難しいという見解は、
伊勢斎宮関連を調べれば出てくる話です。
944日本@名無史さん:2008/12/22(月) 19:40:40
>>938
道長が生きていたら、後三条即位には反対しないよ。
そもそも、禎子内親王の婚姻は道長の意向であったとされるし、
道長は後一条と後朱雀の両方に娘を嫁がせて両統迭立のリスクすら平気で冒している(結果的に後一条が男子を遺さずに崩じたから問題にならなかったが)。
そもそも頼通が後三条即位に反発したのは、皇統の安定化と効率のいい外戚政策推進のために皇統が1つの方がやり易かったから。
その証拠に上東門院と頼通は後三条に馨子内親王を嫁がせて男子誕生を策しているが、馨子の男子が生まれて皇位を継いでも外祖父を後一条とする「第二の後三条」が誕生するに過ぎないから、後三条の母方の問題が排除の理由でないことは明白。

945日本@名無史さん:2008/12/22(月) 20:09:07
道長が、内覧になる前に死んで、彰子も小梨だったら時代は大きく変わっただろう。

しかし、ワケアリ学者家系(受領階級)の高階貴子が北の方になれるなんて
性格は・・・だけど才色兼備だったんだろうな。
946日本@名無史さん:2008/12/22(月) 21:33:18
しょーもないたらればを言っても仕方ない

ついでに貴子が美人だったという史料はなく
自慢のかしこいおつむに関しても
世間からは冷めた目で見られていたようだが
947日本@名無史さん:2008/12/22(月) 22:57:19
円融帝の初恋は貴子ちゃう?
948日本@名無史さん:2008/12/22(月) 23:26:52
>>947
スレ違いです。
該当スレにいって聞いて下さい。
949日本@名無史さん:2008/12/23(火) 13:41:59
次女は、道長を恨んだだろうな、その恨みを娘の内親王が・・・そして院政に
950日本@名無史さん:2008/12/23(火) 14:35:43
恨むも何も禎子内親王が後朱雀天皇に入内したのは、道長の意思ですけど?
当然、道長は禎子内親王が皇子を産む=曾孫が即位を期待していたわけだ。
院政となったのは結果的に、であって最初から禎子内親王が目論んでいたわけではない。
「栄花物語」の妍子臨終の下りを読めば、単純に研子が父を恨んでいたなんて思えないし、
そもそも頼通が養女を入内させるまでは、禎子内親王と頼通の仲は悪くなかった。
禎子内親王が東宮妃となった時の後見が頼通だしね。
951日本@名無史さん:2008/12/23(火) 17:07:03
>>950
後一条天皇の御世、彰子は天皇生母、威子は天皇中宮、
嬉子は東宮妃と皆内裏に住んで華やかな生活を送っていた。
ただ、女子のみを残して若くして未亡人となった妍子だけは
同母姉妹の中でただひとり内裏に住めず、里暮らしを余儀なくされていた。
道長は妍子のことが不憫でならず、嬉子が没した後に禎子内親王を東宮にいれ、
妍子が東宮妃生母として内裏に住めるようにした。
道長はこのとき禎子内親王が皇子を産み、曾孫が即位することを期待していたわけではない。
後朱雀天皇には娘の嬉子がうんだ第一皇子(後冷泉天皇)があったし、
威子も道長が死んだ時には懐妊中で男子を産む可能性は十分あった。
威子は男子を産めば後朱雀天皇の皇子に優先して即位するわけだし、
仮に禎子内親王が男子を産んでも皇位継承順位はかなり後になるから。
頼通が禎子内親王を養女にしたところでそのつながりは薄く、
道長は頼通に大勢の娘を持てと正室以外に妻を持つことを勧めていたくらいだから、
道長は頼通が自分のように大勢の娘を持ち、次々と天皇に入内させることを応援していた。
禎子内親王の入内はあくまでも自分の娘妍子を気の毒がってのことで、
道長が生きていれば、血縁の薄い禎子内親王を日陰に追いやって
やはり自分が外戚、外舅になることのできる皇子を即位させただろうから。
頼通と禎子内親王の養女関係はそれほど強いものではない。
嫄子が頼通を実父と公称し、藤原姓を名乗っていたのとは異なる。
禎子内親王が頼通の娘となって藤原姓を名乗った事実はなく、
その意味では頼通の遺産などは相続できない「猶子」関係だったといったほうが正しいだろう。
952日本@名無史さん:2008/12/24(水) 10:33:33
院生は、禎子内親王の影響が多きかったことは、幾つかの歴史本にも載ってる。
953日本@名無史さん:2008/12/24(水) 12:58:30
まぁ院政だろうとなんだろうと道長にとっては、
自分の娘の彰子と妍子の血を引いた天皇であることに変わりはないんだよな。
頼通・教通からはちょっと遠くなってしまったけどさ。
954日本@名無史さん:2008/12/24(水) 14:16:20
>>951
重箱の隅つっついてごめん。
道長が死んだ時に威子は懐妊中ではなく
道長の死後、法成寺から内裏に戻って2〜3ヶ月くらい後に妊娠。
955日本@名無史さん:2008/12/25(木) 20:57:40
>>951 そんな奇麗事あの時代の、御堂関白家にはなかった。
道長の父兄弟、自分の兄弟がそうだったように。
956日本@名無史さん:2008/12/25(木) 21:21:54
>>951
道長は悪い意味で禎子内親王を排除しない。
結局、道長は自分の血を引く人間が天皇になれば誰でも構わないという考え。
その象徴が後一条と後朱雀の両方に娘を嫁がせて両方に男子出生を願っている。
これは一歩間違えれば、両統迭立、最悪の場合には皇統分裂すら招きかねない朝廷にとっては危険極まりない行為。
(それが回避できたのは、単に後一条に男子が生まれなかったという偶然に過ぎない)
957日本@名無史さん:2008/12/25(木) 21:37:18
結局のところ>>953に尽きるんだろうな。
自分の血筋の天皇であればOK。現代まで続いているしね。
また教通はともかく頼通の子孫もそれぞれ五摂家として存続したし、
本当に道長は勝ち組。
958日本@名無史さん:2008/12/26(金) 09:59:40
禎子内親王が息子(後三条天皇)に藤原家に好き勝手させないよう
政治をとるように、何度も帝に忠告しまくったらしいからね。
959日本@名無史さん:2008/12/26(金) 15:42:18
藤原家ってどこからどこまでを指しているの?
後三条最愛の妃は藤原茂子は藤原公成の娘だし、
その息子の白河天皇の妃も藤原賢子とこれまた藤原氏の娘。
また禎子内親王と懇意だった能信も藤原道長の息子だし、
禎子内親王からして藤原氏の中で育った内親王。
どこを見回しても藤原氏だらけ。
また後三条天皇在位は五年ほどで、跡を継いだ白河天皇は
藤原賢子の産んだ親王に帝位を譲りたいからと摂関家との協調路線を取ってしまう。
960日本@名無史さん:2008/12/26(金) 21:21:21
母が藤原、親戚藤原でも心は皇族1番だろ、馬鹿か。
961日本@名無史さん:2008/12/26(金) 21:29:23
彰子が小梨だったら、次女も気が楽だっただろうな。
生んだだけマシとかw
962日本@名無史さん:2008/12/26(金) 22:16:43
>>960
藤原氏という後ろ盾あっての天皇であり、その一族だよ。
建前はともかく実質そうだった。

>>961
逆だね。
彰子が子無しだったら、余計に妍子は親王を産むことを求められたよ。
最初が内親王でも次に親王を産む可能性は高いんだしね。
そもそも彰子が子無し=敦成親王がいないってことだから、
道長は妍子が親王を産むまでは三条天皇を退位させることが出来ない。
963日本@名無史さん:2008/12/27(土) 11:12:37
禎子内親王は実は祖父道長好きじゃなかったと思う。
964日本@名無史さん:2008/12/27(土) 12:09:38
道長は禎子内親王を大事にしていたけどね。
「栄花物語」では、禎子内親王の着袴の支度を道長(と三条天皇)が張り切っていたとあるし、
また着裳の際には伯母の太皇太后彰子が腰結いの役を務め、調度品も儀式も大変華やかだったとある。
あと>>950が言うように禎子内親王と頼通の仲は藤原嫄子までは良好だった。
それまでの関係が良好だった分、裏切られたと思った禎子内親王と険悪になってしまったのだろう。

それよりも禎子内親王が入内を嫌がって泣き出してしまったことが気になる・・・
良くも悪くも感情の起伏が激しい人だったのかな。
965日本@名無史さん:2008/12/27(土) 15:09:14
>>960
つ称徳・孝謙
966日本@名無史さん:2008/12/27(土) 16:23:24
入内を嫌がって泣いた話は、自分的にはとても謎が多いのですが。
というのも、普通、入内の数日前には天皇・東宮から文が来て
2通目の文に返事を出して・・・と順序があるよね?
なのに、方違えと偽られて内裏に連れてこられたって
誰からも事前に知らされなかったんだろうか?
嫌がっていたから、知らせないでとにかく連れて行っちゃえと?
なぜ内親王という貴い身分の人をそのように扱ったのか?
そうまでして入内させないといけないほど切迫した状況だったのか?
967日本@名無史さん:2008/12/27(土) 19:16:00
>>964
禎子内親王が泣いたという話は一次史料にはなく信憑性は薄いだろう。
今から男におかされると知れば処女は怖くて泣いたかもしれないが、
入内そのものを嫌がったとは到底思えない。
968日本@名無史さん:2008/12/27(土) 19:22:49
>>964
道長が禎子内親王を庇護するのは当たり前だろう。
この時代の皇子女は外祖父母の家で成長する。
後一条天皇や後朱雀天皇、後冷泉天皇が道長を外祖父とし、
道長の庇護を受けたのと同様に、禎子内親王も外祖父道長の庇護を受けた。

ただし、頼通や教通の代になると話は別。
禎子内親王はもともと後ろ盾となる同母兄弟を持たず、
父三条天皇をも幼いころになくし、
さらに外祖父をも失った時点で後ろ盾を完全になくしてしまった。

藤原綏子が関白兼家の息女として華やかに東宮時代の三条天皇に入内したのに
(添い伏しだった)、実父兼家を失ってしまうと
腹違いの兄たちの庇護を受けることたできず、
東宮の後宮を退出してしまったのと状況は似ている。
せめて母の妍子が長生きしていれば
兄弟の頼通・教通との潤滑油になったかもしれないけど。
その場合でも禎子内親王が後朱雀天皇の後宮を一人独占することは
難しかっただろう。
969日本@名無史さん:2008/12/27(土) 20:15:23
後三条天皇となる尊仁親王が産まれた時の祝いを取り仕切ったは頼通。
頼通の実の娘は寛子だけで、嫄子は養女とはいえ「教通に嫁ぐのでは?」と言われていて、
后がねとして育てられていたわけではなかった。
頼通にとって他の兄弟を牽制する意味で禎子内親王は貴重な存在だった。
嫄子女王を入内させたことで全てがぱぁになったけど。

そもそも後宮を一人独占というのが滅多にないことだけどね。
威子の時が例外中の例外で、後冷泉天皇の後宮に至っては
頼通の娘よりも先に教通の娘が入内している。
970日本@名無史さん:2008/12/27(土) 21:05:42
妍子が潤滑油になる人物だとは思えない。
入内自体なかっただろうし、させなかっただろうから。
971日本@名無史さん:2008/12/27(土) 23:39:13
>>969
頼通は長元9年1月、養女の嫄子を入内させながら、
翌2月にはまず先に禎子内親王を立后させている。
嫄子が立后して中宮となり、禎子内親王を皇后としたのは翌3月。
頼通は禎子内親王をないがしろにするどころか、
自分の養女よりも先に立后させ、ちゃんと顔は立ててるんだよね。

この時代、天皇の後宮を一人の妃が独占するのが異例だったのは自明のこと。
次の後冷泉天皇の後宮では先に后として章子内親王があったところへ
頼通が娘の寛子を立后させたが、高貴な章子内親王は嫉妬の心を起こさず、
後冷泉天皇の後宮は平穏なままであったとある。
自分の後に嫄子が入内・立后したからと言って後朱雀天皇の後宮を去ってしまう
禎子内親王の行動こそが異例で異常。
頼通は禎子内親王の顔を十分に立てており、
禎子内親王が異例の行動をとらなければ、
後朱雀天皇の後宮には波風も立たず、
摂関家との関係はこののちも良好であったと思われる。
972日本@名無史さん:2008/12/28(日) 10:03:07
>>971 万が一の時、藤原の駒として内親王は必要だっただろうからね。
しかし、その後皇后に追いやられ激怒。
973日本@名無史さん:2008/12/28(日) 11:07:08
>>972
後朱雀天皇の後宮に最初に入ったのは東宮時代の妃嬉子。
禎子内親王が、后がね、道長の駒として期待された嬉子と生い立ちが
異なるのは事実だろう。
嬉子が長生きすれば、禎子内親王は生涯未婚で終わった可能性が高い。
禎子内親王の入内は、嬉子が19歳で死亡という非常事態のためにわき起こったもの。
そういう意味では、禎子内親王はいずれ結婚するという覚悟をもって
成長したわけではなかっただろう。
嬉子が長生きしていれば禎子内親王の入内はなかったし、
外祖父道長のためになんとしてでも男子を産むという
指名を帯びていたとも思えない。
974日本@名無史さん:2008/12/28(日) 11:40:42
あの当時の内親王は生涯未婚が普通だったからね。
道長の孫娘として、准三宮の一品内親王として、
摂関家の庇護を受けて生涯を終える予定だった。

ところが嬉子の死後、後朱雀天皇の後宮は空になってしまった。
頼通には養女の嫄子女王しかなく、教通・頼宗には適齢期の后がねの娘がそれぞれいた。
この兄弟間のバランスを取る為に禎子内親王は入内させられたものだよね。
事実、道長の死後〜後一条崩御まで誰も娘を入内させることが出来なかった。
975日本@名無史さん:2008/12/28(日) 19:01:05
>>969
嫄子が教通に嫁ぐ予定だったとは考え難い。
教通の最初の結婚は1012年。
このとき嫄子はまだ誕生しておらず、当たり前だが妻候補ではない。
教通が最初の正室公任を亡くしたのが1024年。
ただし、このとき嫄子はわずか9歳で、26歳の教通に嫁ぐにはあまりに幼すぎ。
それに、兄頼通と異なり好奇心旺盛で愛人も大勢いた教通がこのとき目を付けていたのは
高貴なことこの上ない内親王。
教通は2年後、24歳の℃q内親王(三条天皇第二皇女・かつて三条天皇が頼通に降嫁させようとした)と再婚。
教通は2度目の正室℃q内親王と48歳まで22年間連れ添っており、
教通が39歳の時に後朱雀天皇に入内し、教通が41歳の時に没した嫄子との接点はない。
教通は、正室の℃q内親王を、嫄子没後後朱雀天皇に入内した娘生子(実母は公任女)の母と公称し、
生子の入内に付き添わせるなど、兄弟一高貴な姫を妻とした効力を発揮させている。
尚、長命だった教通は48歳のときにも自慢の妻℃q内親王に先立たれ、
嫥子女王(兄頼通の正室隆姫の妹)を3度目の妻としている。
しかしながら、教通が℃q内親王に先立たれたとき嫄子はすでに死んでこの世にいなかったから、
嫄子との再婚話がでるはずもない。
976日本@名無史さん:2008/12/28(日) 19:28:45
嫄子女王に教通に嫁ぐ予定が実際にあったかはともかく
「栄花物語」には「教通の妻になるのでは?という噂がある」と記されているよ。
そういう噂が立つこと自体、嫄子女王が后がねでなかったということ。
977日本@名無史さん:2008/12/29(月) 01:41:11
そんなの定子様と敦康親王がゆるさねー。
978日本@名無史さん:2008/12/29(月) 02:40:47
別に許して貰わなくても構わないよ。どうでも良いし。
入内したからって幸せになれるわけでもなく、結婚してもまた然り。
嫥子女王は後朱雀天皇の中宮となって摂関家の権威に守られて煌びやかな宮廷生活を送ったけど、
結局は皇子を産むことなく、二人の内親王を残して早死にした。
入内せずに他の男に嫁いで子供を産むことなく過ごした方が長生き出来て幸せだったかもしれない。
979日本@名無史さん:2008/12/29(月) 12:03:09
>>978 きっと定子様に似て美人だっただろうな。
980日本@名無史さん:2008/12/29(月) 12:28:01
嫄子女王が美人って表記あったっけ?
教通の娘生子は後朱雀天皇が夢に見るほど寵愛し、また公任ゆずりの教養豊かな美女、
頼宗の娘延子は美貌誉れ高い頼宗の血を引いてかやはり美麗な女性で、しかも筝の上手。
公任から手ほどきを受けて育った生子と、脩子内親王に預けられて教育を施された延子は、
まさに后がねとして育てられた才色兼備な女性だけど、
嫄子女王については頼通養女って以外は特筆されていないね。
娘二人は歌人としての才は高かったようだけど。
981日本@名無史さん:2008/12/29(月) 19:39:58
>>979
そもそも定子が美人だったという記述がないから。
982日本@名無史さん:2008/12/29(月) 21:11:12
>>980
藤原教通の娘は才色兼備だったらしいね。
後朱雀天皇が大層寵愛した生子は特に容姿が美しく、
天皇の没後は深く仏門に帰依した才媛だった。
生子の同母妹で後冷泉天皇の妃だった歓子は
頼通の娘寛子ほどはときめかなかったものの
絵画と琵琶が得意でやはり天皇の没後は仏教に帰依。
白河法皇の小野雪見御幸にも登場する才媛で、
藤原宗忠は歓子を「所謂賢女歟」と評した。
小野宮嫡流で、姉妹に后妃を持つ外祖父公任による教育が効をなしたものか。

延子は後冷泉天皇の最晩年に入内したためか
それほどときめいたという記述は残っていない。
後三条天皇は皇后馨子内親王など有力な妃がありながら、
後ろ盾が有力者ではない源基子を寵愛するという破天荒な天皇だったが、
その後宮にあった同母妹昭子もどういう訳か影は薄かった。
983日本@名無史さん:2008/12/29(月) 22:40:33
>>981 釣りか?「総毛立つほど美しい」とある。一条天皇最愛の后。
984日本@名無史さん:2008/12/29(月) 22:45:20
>>983
出典を示して正確に引用しようね。
そんな記述どこにもないから。
なまみこ婆w
985日本@名無史さん:2008/12/30(火) 12:54:33
道長は最低の男だから権力で史実を歪めてたんだよ。


それでも、一条天皇は定子様を・・・・・
986日本@名無史さん:2008/12/30(火) 13:19:23
道隆や伊周も最低の男だから、清少納言に命じて史実を歪めたんじゃないのwwwww
定子を美人だとか嘘っぱち書かせたんだろう

年末だから病院も休業にはいっちゃうからな
お薬きれちゃったのかな、なまみこ婆
987日本@名無史さん:2008/12/30(火) 17:37:02
家系図みたいなのって
検索すれば出る?
988日本@名無史さん:2008/12/30(火) 17:43:30
>>986
枕草子が褒めてるのは定子の若さだけで、美人だとはどこにも書いてないよ。
さすがの清少納言も、嘘は付けなかったんだろうね。
989日本@名無史さん:2008/12/30(火) 21:00:09
総毛立つほど美しいという表現がなされてます。
990日本@名無史さん:2008/12/30(火) 22:21:46
別に定子が美人だろうがどうでも良い。
このスレとしては、嫄子女王の祖母でしかないんだから。
そしてその嫄子女王は内親王二人を産んで没した、それだけ。

定子が美人だのなんだのはスレ違い。
991日本@名無史さん:2008/12/31(水) 11:12:45
皆、なまみこ婆に関わりすぎ。
なまみこ婆自身、定子もお与津もどうでもよくて
暇つぶしにここの連中をからかってるだけなのにさ。
ここまで荒らされたら「道長の娘」の次スレはないだろうな。
992日本@名無史さん:2008/12/31(水) 12:01:48
でもまぁなまみこ婆のおかげってわけでもないけど、
禎子内親王や嫄子女王の辺りとかは読んでいて興味深くて面白かった。
個人的には次スレも欲しいかな。

専用ブラウザで「定子様」をNGワードにしておけばなまみこ婆もさして目障りでもないし。
993日本@名無史さん:2008/12/31(水) 19:02:23
禎子内親王も嫄子女王も道長の孫(養孫)であって娘ではないんだが。
意外に道長の娘ってその人生が知られてないのかな。
なまみこ婆の冷やかし以外にあまり語られることもなかったし。
994日本@名無史さん:2008/12/31(水) 22:44:07

−藤原氏族総合スレその1−
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1140182170/
995日本@名無史さん:2008/12/31(水) 22:44:37
996日本@名無史さん:2008/12/31(水) 22:46:37

【公実】 藤原北家閑院流について語る 【実公】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1200220545/
997日本@名無史さん:2008/12/31(水) 22:47:24
998日本@名無史さん:2008/12/31(水) 22:47:57
999日本@名無史さん:2009/01/01(木) 00:27:07
奥州藤原氏について語ろう第参話
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1205694633/
1000日本@名無史さん:2009/01/01(木) 00:27:39
【実務貴族】藤原北家日野流を語ろう【富子・親鸞】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1208792084/
10011001
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。