☆☆☆一条天皇と取り巻く女と子供と貴族達☆☆☆

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952日本@名無史さん:2010/01/11(月) 19:54:35
>>946
「紫式部日記」では中宮彰子が好色めいたことが大嫌いな律義な人柄なので、
男が引っかけ(ナンパ)したくなるような出たがりな女房はおらず、
総じて女房たちは引っ込み思案である、
そのことをとやかくいう男たちもいる、とあるが、
男たちが彰子と定子のサロンを比較して定子のサロンが良かった、
と言っているシーンはないよ。
紫式部日記の書かれた彰子出産の場面は1008年のことで、定子が死んでからすでに8年、
定子のもとに大勢の人が出入りしていた道隆存命中より14年以上が経過している。
そんな前の妃のことを若い男たちは知りはしないだろうし、
比較をするはずもない。
953日本@名無史さん:2010/01/17(日) 15:45:17
90近くまで生きたババアより薄幸の定子さまのほうが人気あるのはしょうがないね
954日本@名無史さん:2010/01/17(日) 20:18:14
彰子は後一条天皇、後朱雀天皇の国母として崇拝された
何をどうしたら世間から白い目で見られながらセックス三昧
産で死んだ定子に人気があったことになる?
しかも自分の死後は夫に裏切られ姉妹丼された
定子の妹が17歳ぐらいで死んだのはよくもこの姉を裏切って〜っていう
定子の怨霊だったのかも
955日本@名無史さん:2010/02/06(土) 03:07:48
>>947
>晩年の定子があんな醜態を晒すこともなかったのに…
晩年の醜態って、何のこと?たしか定子は、夫との3人目の子の出産時に
若くして産褥死したはずだが?
956日本@名無史さん:2010/02/06(土) 14:34:06
>>907
この「天皇たちの孤独」によれば、一条実母の詮子は長兄の道隆を疎み、弟道長を
好ましく思い、道兼後継関白に道長にするよう一条に強いたと。で長兄所生の定子を
やはり疎ましく思い、道長所生の彰子に肩入れしたとあるが、詮子の道隆疎みの
理由は何だったのですか?
天皇たちの孤独 玉座から見た王朝時代 角川選書 繁田信一 2006/12 p94〜
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4047034045.html
957日本@名無史さん:2010/03/06(土) 05:48:17
道隆というよりも、道隆の嫁とその子供を嫌っていたのだろう
高階の連中は道隆の威光を傘にきて、でかい態度取ってたらしい
958日本@名無史さん:2010/03/08(月) 13:15:38
保守
959日本@名無史さん:2010/04/10(土) 19:25:10
点検
960日本@名無史さん:2010/04/13(火) 19:37:48
その点、明子は詮子のお気に入りだった
961日本@名無史さん:2010/08/03(火) 22:05:49
>>960
明子は詮子のお気に入りというか
詮子が養女にしていて(明子の母は詮子の父藤原兼家の妹)
詮子の発案で道長に嫁いだんだよね。
962日本@名無史さん:2010/08/04(水) 02:44:12
明子が養女っていうのは本当?
昔はは二人正妻っていわれてたけど、最近の研究によれば、
正妻は倫子一人で、あくまでも明子は側室みたいだね。
963日本@名無史さん:2010/08/04(水) 04:40:31
道長の正室2人説の方が説としては新しい筈。
倫子が正室だと言うのは、『御堂関白記』でも確認できる話だし。
964日本@名無史さん:2010/08/04(水) 10:23:47
>>962
明子が東三条院の養女だというのは彰子に仕える女房(赤染衛門?)
が書いたと思われる「栄華物語」でも確認ができる。
「日本紀略」でも養女だという記述が見られる。
>>963
大鏡などでは複数の妻を妻妾の区別つけずに並べる事があり
倫子と明子はいずれも妻。
天皇ですら正室が複数いる時代だから
貴族は正室ひとり出なければ法令違反とかいう次元の問題でもない。
道長の御堂関白記では倫子を「女房」と表現。
これに正室と言う意味があるのかは確認できていない。
965日本@名無史さん:2010/08/04(水) 14:16:59
「御堂関白日記」の「女房」は正妻ととっていいんじゃない。
「玉葉」でも兼実は正妻の季行女を「女房」と書いてるし。
というか道長の行動をみれば正妻は倫子だろう。子どもも明らかに差別されてるし。
実資も明子のことは妾妻と書いてるよ。
966日本@名無史さん:2010/08/04(水) 15:07:28
「女房」は「嫁さん」ぐらいの意味だね。
それ以上ではない。
実資が明子を妾妻と書いているのは
倫子がのちの後一条天皇誕生により新皇子の外祖母として従一位を受け、
臣下として最高の地位についた後(このとき夫の道長より上の官位を受けた)。
東三条院存命中に両者の間に差がついていた記録はない。
967日本@名無史さん:2010/08/04(水) 17:29:15
じゃあ、東三条院崩御によって庇護者を失い、正妻から格落ちされたっていうこと?
崩御翌年に元服した頼通は正五位下なのに、頼宗は従五位上。
中宮彰子の同母兄弟というのもあるのかもしれないが。
あと、道長は土御門殿に住んでたんじゃないの。
968日本@名無史さん:2010/08/04(水) 22:29:52
頼通は中宮彰子の同母弟というのが大きいだろうね。
頼通は頼宗の1歳兄で、兄弟順から言っても道長の長男。
姉の彰子は12歳の若さで入内したが頼通も12歳で元服させており、
両方とも他の同母異母の妹弟たちより入内や元服の年齢が早く、
道長が政権を安定させるために、
彰子、頼通、といった年長の子供たちの出世を特に急いでいたことが分かる。
一条天皇も執政者道長を安心させ、政治を安定させるために、
道長の長女彰子、長男頼通の出世を後押しした。

ちなみに藤原道長は元服した時、従五位下だった。
道長の長兄の藤原道隆も元服時には従五位下だったから、
これからみれば頼通も頼宗も破格だった。
969日本@名無史さん:2010/08/05(木) 11:09:39
>>968
道長や道隆が元服した時点じゃ、父の兼家は「一の人」じゃなかったんじゃ?
父親が日の当らない時代では、その息子が元服しても並みの扱いにしかならないでしょ

>>967
正妻、側室とかはっきり区別していた時代かどうかは??じゃないかな
経済的な後ろ盾があって、通ってくる婿の世話をできる女性は皆、同格ではないかと
ただし、自家に仕えてる女房(侍女)に手をつけたのは妾扱いのようだけど
道長の父兼家はどの妻とも同居していないで、通いで済ませてるようだし
「女房」(侍女という意味の)に手をつけた女性は「権妻」と明らかに他の夫人と区別してるようだし
道長の時代から院政期にかけてが、婚姻の形態に関しての移行期なのかも
970日本@名無史さん:2010/08/05(木) 13:11:08
倫子は源雅信の女。
明子は安和の変で失脚した源高明の女。

単純に考えて、倫子が正室だろ。
971日本@名無史さん:2010/08/05(木) 13:44:49
>>970
源明子は父高明が左遷された際、まだ幼かったので、
父の弟である盛明親王が引き取って養女にした。
明子を「明子女王」としている史料があり、
盛明親王の王女として扱われたためだと思われる。

また、高齢となった盛明親王が新たに明子をたくせる
人物を探したところ、皇太后藤原詮子がこれに応じた(詮子は明子のいとこ)。
明子は皇太后の養女として引き取られた際に、
詮子の兄弟である道隆・道兼・道長に求婚されたことが「栄華物語」に見える。
この中から詮子が末弟の道長を選んだのは、
道長にまだ正式な妻がおらず、詮子が妻として選んだためと考える学者もいる。
明子が東三条院詮子の養女であったこともほぼ事実として認められる。

仮にも親王や皇太后の養女であった明子が
むやみに妾であったとは判断しがたい。
高松殿という自邸を持ち、道長を婿どっているのだしね。
972日本@名無史さん:2010/08/05(木) 22:45:46
雅信が出家するまで現役の一上だった事実はスル―かよwww
摂政の兼家だって、太政官で雅信の下にいるのが嫌で「摂政は大臣を兼ねる必要はない」という新たな慣例を創出した訳なのだが。
973日本@名無史さん:2010/08/06(金) 13:38:46
>>971
「栄華物語」では、倫子が懐妊中に道長が明子の元に通うようになり、
倫子は恥ずかしく思ったが、そっとしておいた、って話じゃなかったけ?うろ覚えだわ
でも盛明親王の薨去が寛和2年(986年)だから、
詮子の養子になった時に同時に三兄弟の中から未婚の道長が婿に選ばれたというのは自然な展開のように思えるね
これは服藤氏の説ですか?(未読です)
かたや親王の養女で詮子の養女、かたや左大臣の娘、それと相前後して結婚したから、
並び立つ「二人妻」っていうイメージが強いのかな
ただ御堂関白記見てると、やっぱり道長の意識の上では、結局人生の伴侶は倫子だったような気がする
公的外出の機会の多さとか、里内裏の関係とか諸事情あるし、
先に子供に恵まれたことに起因するのはもちろんだが、それにしてもあの二人三脚っぷりは凄い

しかし道長と明子っていとこだったんだね、知ったのつい最近だったw
あらためてホントに狭い世界で代々婚姻関係くり返してるんだねぇ、この人たち
974日本@名無史さん:2010/08/06(金) 20:18:59
>>972
兼家は従兄の藤原頼忠が太政大臣としていたので
大臣より摂政のほうが上だと言って右大臣を辞したんだよ。

頼忠が死んだあと、兼家は一条天皇の外祖父として雅信など飛び越えて
太政大臣に就任。
摂政太政大臣として外孫一条天皇の加冠を勤めている。
兼家は太政大臣として雅信の上位に立ったことを知らなかったの?
975日本@名無史さん:2010/08/06(金) 20:21:16
>>972
国母である東三条院より源雅信のほうが上なんだ・・・
ふとどきな臣下だね。
976日本@名無史さん:2010/08/06(金) 22:04:07
平安時代の太政大臣が太政官においてどういう地位を占めていたかも理解できないでこのスレに来ていること自体が驚きなのだが。
まさか、絶滅したと思われた政所政治論者なのか?
977日本@名無史さん:2010/08/07(土) 01:17:30
>>973
高明の妻が師輔の娘だったね
一条天皇以後の皇室と摂関家もめちゃくちゃ近親係数高そう
道長以後の後宮政策がうまくいかなくなるのもそのせいかな
近親婚続きで子供ができにくくなるとか

スペインハプスプルグの断絶も末期にはとんでもない近親係数になってたらしい
978日本@名無史さん:2010/08/07(土) 13:14:00
http://twitpic.com/2c0nbd

信長の末裔が、永楽通「貨」だって・・・・www
979日本@名無史さん:2010/08/07(土) 15:10:34
>>977
閑院流の血が入った白河法皇になると急に寿命が延びるよな
平安中期の天皇の寿命の短さは、やはり近親結婚が一因になってると考えざるを得ない
980日本@名無史さん:2010/08/07(土) 21:22:35
そう言えば、円融天皇って一条天皇以外に子供がいなかったけれど、あれってなんか裏があるのか?
981日本@名無史さん:2010/08/07(土) 22:06:22
>>976
太政官制で太政大臣は左大臣の下だと思っている人が
このスレに書きこんでいることが驚きだね。

天皇と姻戚関係のない左大臣が
天皇の実の外祖父である兼家の下で何ができたの?
982日本@名無史さん:2010/08/08(日) 15:59:17
源雅信は兼家のことあまりよく思ってなかったらしいが
道長を婿に取って兼家に手なずけられちゃったのかね
983日本@名無史さん:2010/08/08(日) 17:04:30
>>982
個人的に好きな相手でなくても、政治的に手を結んだ方が有利なことってあるんじゃないの?
どの道、倫子を入内させたくても天皇皇太子とは年回りが悪いし
他にもっといい相手に心当たりがあるともいえなかったんじゃ?
雅信本人より妻というか母親の穆子が道長を気に入ったというのもあるらしいけど

兼家としてはむしろ同族内との争いの方が多くなるから、源氏の筆頭と手を組むのは悪い話じゃない
984日本@名無史さん:2010/08/08(日) 17:37:33
>>983
しかし道長は五男坊で、普通に考えれば摂関は回ってこない。
道長が執政者になれたのも2人の同母兄が偶然早死にしたことによる
偶発的なものだった。
2人の兄の存命中、道長はやっと権大納言だったし、
道隆の長男伊周にすら官位を越されて、大臣になれるかも危ういところだった。
そう考えると左大臣の嫡腹の長女の婿としては不満だったろうな。
もっと将来を約束された男のほうが良かっただろう。
985日本@名無史さん:2010/08/08(日) 17:56:56
続きはこちらでどうぞw

☆☆☆日本史板雑談スレ正化肆年☆☆☆
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1208959674/
986日本@名無史さん:2010/08/08(日) 18:08:25
>>984
もっと将来を約束された男って具体的に誰?
いればそっちの方の縁談が進まなかったのはなぜ?
道長の兄たちにすでに妻子がいるなら、そこへ割り込むのも考え物だし
それに娘の結婚には母親の意見が大きかった時代だったのかもしれない
そうなると穆子が気に入った時点で話は半分決まったようなものかも
道長を婿にする代わり、出世を心がける密約のようなもんがあったかも
永井路子説だけど

道長の場合は父親の不遇時代が長かったため、逆に末子であったことが有利だったとも言われてるね
父親が政権獲った時、兄たちはすでに年だったからあまり時間がなかった
兄の道隆が死んだ時、道長ってまだ三十前だったんだね
おいの行周とそんなに年が違ってなかったとに驚き
987986:2010/08/08(日) 18:23:00
想像だけど

倫子の結婚が24、当時としてはあるいは遅めだったかもしれない
あるいは雅信が考えていたのは、入内だとして相手は花山天皇だった?
倫子の方が二つ年上だけど、年回りとしてはまあまあ
機会をうかがっていたが、たった二年で出家騒動を起こして退位
(無分別のようだけど、二十前だったのね)

雅信も内心面白くなかったかもしれないが、天皇が子供の一条帝じゃどうしようもないし
皇太子(三条天皇)も娘よりかなり年下になり、しかもいつ即位できるかわからない

慌てて娘の縁談を考え直したってことかな
988日本@名無史さん:2010/08/08(日) 18:33:13
>>985
道長が倫子と結婚した当時、二十一、二で相前後して従三位になってる
従三位なら悪い結婚相手とは思えないな、左大臣の娘の相手と考えても
989日本@名無史さん:2010/08/08(日) 21:29:18
左大臣の長女なら入内目的で何の問題もない。
それか年は多少離れても現役の参議以上か。
>>986
永井路子説を取るなら藤原朝光を倫子の候補に挙げていたね。
実は倫子の母穆子も雅信の後妻で
倫子の両親は親子ほど年齢が離れており、雅信には穆子と同年代の息子がいた。

道長は倫子の先に明子を妻としていた可能性があり、
「未婚だから」という理由だけで穆子に選ばれたかどうかは疑問の残るところ。

990日本@名無史さん:2010/08/08(日) 21:33:24
>>986
倫子の夫になぜ道長が選ばれたのかは「栄華物語」ぐらいしか描かれず
真相は分からない。
ただし、当初雅信が反対していたことが「大鏡」などに見えることなどから
親の許可を得た結婚ではなかったことを総合的に考えると、
道長が女房に賄賂でもおくって左大臣邸に忍び込んで
倫子と実力行使でやっちゃったのがアタリだと思う。
倫子はすぐに妊娠、彰子が産まれちゃったもんだから、雅信もやむなく道長を認知。
今で言うデキ婚に近い状態だったんじゃないの。
991日本@名無史さん:2010/08/09(月) 00:21:36
>左大臣の長女なら入内目的で何の問題もない。
現実に入内する相手が子供じゃしょうがないでしょ、と言ってるんだが
それは何度も言ってるのに無視かよ
>それか年は多少離れても現役の参議以上か。
で、具体的にはだれ?その朝光?

>道長は倫子の先に明子を妻としていた可能性があり、
子供の出来た順序からいって、倫子の方が先だと思うけど
992日本@名無史さん:2010/08/09(月) 13:25:29
>>991
「道長は、雅信が選んだ最適、最上の倫子の結婚相手だった」
と言いたいがためにやたら必死すぎて怖いんだけど。

最適な結婚相手がいなければ独身をえらばせることだってできた。
公任の次女は入内を目指したが機会が無く、生涯両親の元でくらしたし、
藤原公能の娘は長女が後白河中宮、三女が近衛・二条の后で
間に挟まれた次女には「姉妹の顔をつぶすような結婚しか出来ないのなら
尼になれ」と父に言われてその通り若くして尼になった。

左大臣の娘なら生活に困る事はまずないのだし
雅信が何が何でも娘を結婚させなければ、と男を物色していたようにも思えない。
それなら倫子はなにも24歳まで独身じゃなかっただろうしね。
993日本@名無史さん:2010/08/09(月) 15:18:35
>>992
24まで独身だったのは花山天皇相手の入内をもくろんでたから、でしょ
すでに>>987でその可能性を書いてるのに、そっちを無視してるのはどうよ?
そのくせこっちを必死呼ばわりですかそうですか

最良だとは言ってないけど、反対するほど悪い相手でもないってそれだけのことでしょ
まさかベスト以外は意味なしとか考えてるわけ?
それじゃあんた人生渡っていけないよ

>左大臣の娘なら生活に困る事はまずないのだし
甘い、父親が死んで零落した姫君の話なんざ腐るほどあるわな
結婚してても相手がスカならそういうリスクがあるだろうけど
994日本@名無史さん:2010/08/09(月) 17:23:44
>>993
じゃあ、なぜ花山天皇に入内しなかったの?
花山天皇は大勢の女たちに求婚したのに
候補にも挙がってなかった。


>それじゃあんた人生渡っていけないよ
ほらほら、超必死じゃんw
レスしてるだけの赤の他人になんか人生関係あった?
ろくな人生歩いてないんだろうね。
その言葉、そっくりあんたにお返しするよ。
995日本@名無史さん:2010/08/09(月) 18:17:03

>じゃあ、なぜ花山天皇に入内しなかったの?
>>994>>989
>989 名前:日本@名無史さん :2010/08/08(日) 21:29:18
>左大臣の長女なら入内目的で何の問題もない。
じゃあこの書き込みは?
もし989と別人なら失礼したってとこだが

想像だけど、在位たったの一年半だったじゃん
特定のお妃に耽溺したりって言行(年齢考えると無理もないか)に逡巡したかも


>公任の次女は入内を目指したが機会が無く、生涯両親の元でくらしたし
当時は通い婚だったから、結婚してもそれは同じだが?
大体、最初から親の合意で始まった結婚ばかりじゃない時代に
最初は夜這いなんて普通だろ、内親王ですら夜這い→既成事実で事後承認ってのがありなのに

既成事実からでき婚をさも特別みたいにいいたてるあんたにドン引き
996日本@名無史さん:2010/08/09(月) 21:49:41
>公任の次女は入内を目指したが機会が無く、生涯両親の元でくらしたし
当時は通い婚だったから、結婚してもそれは同じだが?

独身で暮らすことも可能だったってだけの説明じゃん。
どこまで頭が悪いんだか。
997日本@名無史さん:2010/08/09(月) 21:57:57
花山天皇は即位したとき17歳で幼帝ではなくすでに女性に興味のある大人。
しかも、すでに外祖父や生母をなくしていたから
外戚をはばかることなく比較的自由に好みの女性を後宮に呼ぶことができた。
そこで、ほうぼうの貴族の姫たちに入内を働きかけた。
藤原℃q(関白藤原頼忠の三女)
藤原姫子(権大納言藤原朝光の長女)
藤原祇子(大納言藤原為光の長女)
婉子女王(為平親王の王女)
花山天皇即位から半年たたないうちに先の3人が入内し、
その後婉子女王も入内。
花山天皇が誰を一番に寵愛しようが入内はどんどん受け入れていたのだから
倫子が求婚されていれば十分入内する暇はあった。
しかし、倫子の入内はなかった。
998日本@名無史さん:2010/08/09(月) 22:53:38
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☆☆☆日本史板雑談スレ正化肆年☆☆☆
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999日本@名無史さん:2010/08/09(月) 22:55:22
1000
1000日本@名無史さん:2010/08/09(月) 22:58:14
千石
10011001
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