1 :
誠仁親王:
2 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 07:00:23
2get
あげておくか。
4 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 22:41:47
太政大臣かな。
仕事も責任も無いけど権威はあるし。
5 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 22:43:16
江戸時代にそれプラス天皇混ぜたら何選ぶ?
将軍は激務だし天皇は窮屈そうだから俺は関白かな?
6 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 00:06:05
とりあえずここでやるしかない
7 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 00:14:19
関白は朝廷運営のトップに立たなきゃならないから、それはそれで面倒。
臨時の名誉職である太政大臣がよい。
江戸時代の天皇って、
生れてから死ぬまで一度も、あの京都市内の更に狭い領域から
出られなかったのかな?
9 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 10:18:05
>>5 江戸時代の関白は、日参が義務付けられていたから、休みなしで大変。
老中のように月番制でもないし。
>>8 在位中は、火事のとき以外、御所から一歩も出られず。
退位後は、修学院の御茶屋くらいには行けた。
関白になって諸国漫遊してえよ
11 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 11:42:42
諸国漫遊したいなら副将軍の方がいいだろ
前中納言で十分。
>>8,9
お忍びで市中を徘徊し悪を懲らしめる天皇を主人公にした時代劇を作ればいいのに。
「政仁評判記 暴れん坊天皇」みたいな。
14 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 17:46:32
暴れる天皇か。おもしろい視点だw
15 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 17:56:01
>>13 志村けんのバカ殿様の
お忍び市中徘徊シーンを連想してしまったのだが。
服装は町人の格好なんだけど、顔は白粉ばっちりみたいな
16 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 21:49:01
近世以降で武勇に優れた天皇や関白っていたか?
光格天皇あたりでやれば良いのかな?
武勇はともかく行動力はあるし、爺役は関白?蔵人?
17 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 22:01:03
後光明天皇は?
18 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 22:24:56
つか悪人ども平伏す?
テレ朝 木曜日8時の京都枠でいいんじゃないのか。
退位後の後水尾院が廷臣を連れて京都の悪を切る。
でも嫁さんには頭が上がらない。
>>15 江戸時代の天皇は本当に白粉なんてしていたのかな?
常に御簾の中にいて公的には誰にも顔を見られないのだから、
化粧なんかしてなかったんじゃないか?よく知らんのだが
桃太郎侍みたいな登場。お面している。
ばったばったと敵を切る。
お面とったら白粉顔が、バーンとアップ。
(印籠代わりの公家メイク。額に菊の紋)
みんな土下座。
公家侍の漫画ならあったけどな。
強いて言うなら下級公家の家が賭場になってたところぐらいが
武勇ばなしの種になるかなって程度。
24 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 09:47:06
摂家は五つに分裂して楽になったのかな。
道長の頃は天皇の外戚になるべく自分の娘を入内させることに必死だった。
五摂家は官職を持ち回り。実権は乏しかったろうが誰がなっても同じ。
25 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 10:02:06
道長の子孫は徐々に実権を手放していって摂関の地位だけは
保全することに成功。
藤原氏の摂関位保全の知恵を後世の権門は学ぶべきであった。
平氏・豊臣氏なんかも実権を手放しつつうまくやれば公家として
そこそこの地位を保全できた可能性も。
足利義昭も織田信長とうまく妥協すれば征夷大将軍の地位だけは明治維新まで保てたかも。
平安貴族以前の貴族は全て零落し、
平安貴族以後の貴族は全て江戸時代には没落していた。(細川とか佐竹除く。)
確かにこいつら(藤原氏と村上源氏)が例外的にうまくやったことは確かだが、
それは単に歴史の偶然だと思うよ。
豊臣なんかは確かに、大阪の陣のときにつっぱらなければ
別格の大名として江戸時代を全うしたんだろうな。
秀頼が義直あたりを養子にして大阪城を譲渡、
実子は公家にすれば清華くらいにはなれたかも?
その後義直と家光の対立で大阪の陣?江戸の陣だったりして。
28 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 16:34:42
>>26 まずは貴方の中での貴族の定義を述べなさい。
29 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 20:29:00
>27
清華どころか摂家かも。
秀吉が意図したように摂関独占は無理にしても
秀吉・秀次の関白就任の実績引っさげて「六摂家」の一角に入れそうな感じが。
その前に26は「以前以後」と言うと平安時代も含まれてしまうことに気付くべき
31 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 21:28:56
後三条天皇即位で外戚の地位を失ったときが藤原氏が摂関位を喪失する最大の危機だった。
後三条天皇の反摂関家政策に下手に抵抗せずに、失うものは多くともギリギリの妥協をし、
摂関位の保全に成功。以後、外戚関係があろうが無かろうが「摂関は藤原氏」が定着。
32 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 21:36:43
>>31 >「摂関は藤原氏」が定着。
それをいうなら「摂関は藤原氏北家の御堂流」が定着と言ってくれ。
後三条以降、後白河院政期くらいまでの平安末期において、公家社会で摂関家に
とって一番脅威な存在になる可能性を持っていたのは、摂関家(御堂流)に
代わって新たに天皇の外戚という地位に収まった閑院流。
そして閑院流も当たり前だが藤原氏であることに変わりない。
藤原氏の中でも、道長・頼通の系統である御堂流が摂関家として固定化された
ことにこの時期のポイントがある。
33 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 21:39:21
>>29 松殿家という先例もあるから、そこまではどうかな。
それに江戸幕府のほうは、仮に豊臣氏を滅ぼさなかったとしても、これをあまり
権威ある家格として固定化することには難色を示すだろうし。
34 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 22:24:40
>32
確かに。閑院流に摂関の地位が移行してもおかしくない情勢だった。
そして「摂関は外戚が就任する」という意識が定着すれば、
後世もっと低い地位の家門の摂関就任もありえた可能性も。
35 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 22:32:52
>>16 >爺役は関白?蔵人?
光格天皇でやるなら議奏の中山愛親だろ。
>>21 明治初年に明治天皇に謁見した外国人の記録がある。
顔が異常に白く(白粉)、眉が異常に高い位置にあり(描き眉)、頬紅を注して、
口紅は金粉交じりだったそうだ。
ドナルド・キーンの「明治天皇」の中に史料の引用がある。
36 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 22:41:22
>27>29>33
いずれにしても豊臣氏は公家になるのが生き残る最善の手だったのかも。
一大名になって徳川の家来になるのは我慢ならんだろうし、
数十万石もあれば徳川家の脅威にもなるだろうし。
摂家、清華家等の高級公家なら征夷大将軍の家来ということにはならないし、
公家として五千石程度の知行なら徳川家の脅威にもならないだろうし。
37 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 23:45:09
数十万石の公家ってなんだよ?
江戸時代の近衛家なり九条家の石高を知ってるか?
脅威になるくらいなら徳川が存続を許さんよ。
38 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 00:06:49
>>28 大和政権下の豪族とか、鎌倉・室町期の守護・守護大名とかは、
世界史的に見ればじゅうぶん「貴族」だとおもうよ。
39 :
38:2007/06/11(月) 00:21:14
「世界史的に見れば」ってちょっと言葉がヘンかな、
ヨーロッパや中国の特権階級を「貴族」と呼ぶのと同等の意味で、
大伴金村や足利尊氏を「貴族」と呼ぶのはふさわしいと思うよ、ってことね。
40 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 00:32:43
断りなしに独自に解釈した用語を日本史板で使われてもな
世界史的に言って源頼朝や足利尊氏は軍人階級じゃないのか?
41 :
38:2007/06/11(月) 00:46:27
42 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 01:49:50
豊臣氏が「公家」って普通にあり得んだろ。
知行をわざわざ中途半端に数千石まで減らして、
しかも大阪城を出て京のあの一角に屋敷を構えて日々参内するのか?・・・
そんな余所者(しかも元々出自が卑しいことは、誰もが知っている)が
ぽっとそんな社会に入ったって、
他の堂上家から、激しくいじめられるだけになりそうだがww
むしろ豊臣が存続するとしたら、石高は大幅に減らされるかも知れないが
諸大名の中の別格の存在、という位置付けでしょ。
高家だとか喜連川家みたいなのが
もっと規模が大きく、格式も高くなったみたいな感じで。
43 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 07:35:13
大和に国替え、淀殿人質で江戸以上に摂家格式で3000石の公家は豊臣が飲まない
だろうって。
やっぱ滅ぼされるしかないんか?
44 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 08:13:48
藤原頼通の存在って大きいと思う。
父の道長とは違う意味で評価されてもいいかも。
道長は「怪物」で強力な権力を築きあげた。
その過程で、多くの皇族・公家に恨み・反感をかってしまっている。
そんな父の後継者になった頼通は大変だったと思う。
父のような「怪物」ではない彼にそんな「恨み」を押さえる力は無いかわりに、
譲るべきところは譲って、他の公家を立てるべきところはたてて、
「お、親父と違って話の分かる香具師かな」と周りの反感を徐々に解いていったのかと。
そうして御堂流に摂関位を定着させる礎を固めたと思う。
同じく「怪物」だった平清盛。
重盛が長生きしてれば平家も安泰だった、って評価する向きもあるけど
彼にしても父のような「怪物」ぶりを発揮するのは無理だったろう。
源頼朝が台頭してくるのは大きな時代の流れ。
できるとすれば藤原頼通のように、父がかってしまった「恨み・反感」を解いて
権力は手放しても公家としての地位を固める、ということだろうし、
重盛ならできた可能性も高いと感じる。
さて、豊臣秀頼。彼の父も「怪物」といって差し支えなかろう。
彼の場合、母の存在が大きすぎて人となりがよく分からん。
例え母がいなかったとしても藤原頼通のように振舞えたのかどうか
興味深い。
45 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 08:15:02
豊臣側が折れて、秀頼が江戸と駿府にご機嫌伺いに来たら
家康はどう対応したんだろうな。
幾らなんでも石高そのまま・大阪城もそのままでは危険すぎるから
やはり国替え、だろうな。
本来なら秀吉ゆかりの尾張とかだが
尾張は国が豊かすぎるから、与えたくないだろう・・・
そうするとやはり、大和とか山城の一部を与えるか。
石高は数十万石程度、官位は徳川家以下・前田家以上だろう。
(武家で関白の世襲は、さすがにないだろう)
↑これを淀殿が呑むことができれば、豊臣は存続したのでは。
そこまでいくとスレ違いだよん。
>>29 幕府は摂関を朝廷統制に利用しようとしていたから、
それだと豊臣を摂家にはしがたいんじゃないかな。
と思ったけど、千姫に子息が有れば秀忠の外孫か、
その子を摂家にするのはありかも。
叔母である東福門院和子・従姉妹明正天皇の補佐にもなるし。
48 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 19:54:25
なるほどな。
千姫に子がなかったのが豊臣氏の敗因か。
千姫が男子をバカバカ産んでたら豊臣氏が存続できた可能性高いか。
49 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 21:26:57
でも、徳川って身内でも平気で腹を切らせるからな。
50 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 21:44:59
いくら冷血家康でも本人には落ち度の無い幼い曾孫を殺せるかぁ?
豊臣を身内に取り込んじゃうってのは一つの手だと思う。
御三家等一門みたいに将軍位継承権がないわけだから、
家光の頃にはかえって信頼できる身内になるかも。
太政大臣に決まってるんだじょう。
53 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 00:43:31
>>34 藤原公実か誰かが実際に摂関になろうと動いたんだけど、「既に摂関は御堂流に
固定しているから不可」って横やりが入って成就しなかったって話も聞いたな。
まあ閑院流は摂関になるのには失敗したけど、娘が天皇の正妃になれる家格は
結果的に手に入れている。
これが後世のもっと下級貴族出身の女性だと、天皇の配偶者になったり、
次期天皇の生母になったりして、天皇の事実上の正妻ってことになっても
正妃扱いされなくなるからな。
54 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 00:53:53
>>38-39 そんなことは、ここの板にいるような人はだいたい分かってるだろう。
外国人向けの日本史の概説書とかで、公家と武家の違いを説明しているような
箇所では、多くの場合、公家=宮廷貴族or非軍事貴族、武家=軍事貴族のような
解説がなされる。
但し、一般に特に言葉の定義をせず無前提で日本史の話をしているときに
「貴族」といったら、朝廷の取り巻きを指す意味で使われることが普通。
だから、そうではない別の意味(例えば貴方がいうような世界史的な観点)で
「貴族」の語を使うなら、自分がどういう意味でその語を使っているのかを
ちゃんと明示すべき。
それを敢えてしないのなら、それは悪質な釣りと同じ。
また論文を書くときにそういうことをやると、かなりイタい論文になる。
以上
そんな言い方しなくたっていいじゃん
(と言ってみる)
56 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 00:59:56
>>42 喜連川氏は、近世の武家の中で唯一徳川将軍に臣下の礼をとらなくてよいと
されていた家だけど、江戸幕府が豊臣氏が喜連川氏のような存在として存続する
ことを良しとするとは少々考えにくいな。
>>38 鎌倉・室町の守護よりも、近世の大名のほうがよっぽど貴族化している。
58 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 09:49:27
>>53 >「既に摂関は御堂流に 固定しているから不可」って横やりが入って
院別当源俊明の助言に基づく、白河院の裁定。
59 :
38:2007/06/12(火) 22:52:12
>>54 > そんなことは、ここの板にいるような人はだいたい分かってるだろう。
少なくとも
>>40さんは、わかってないみたいに読めますが。
> 一般に特に言葉の定義をせず無前提で日本史の話をしているときに
> 「貴族」といったら、朝廷の取り巻きを指す意味で使われることが普通。
そんなことは、それこそこの板にいる人は誰でも知っていると思われ。
その上で、
>>26のように書いているのだから、
当然ながらここでは「貴族」という語を
>>39のような広い意味で使っているわけだ。
で、実際にそのような用法が決して珍しいものではない以上、、
その用法が良いのか悪いのか、というような議論は意味がない。
(特に学術論文でもないこの場では。)
ただまあ、
>>28さんが何か知らんが「貴族の定義」を述べて欲しがってるから、
厳密な定義ではないにせよ、大体こんな意味じゃないかな?
というのを述べてみた次第ですが。
以上。
>>56 そう?
大阪の陣をしなくても喜連川のような無害な形になって豊臣が残ってくれれば、
徳川としては万々歳じゃないか。
むしろ豊臣側が5000石じゃあ満足しない、と思うが。
62 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 00:04:08
で、幕末には天皇でなく豊臣家が担がれて
幕府が倒された後は大日本帝国皇帝となると。
63 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 02:01:52
貴族は五位以上
64 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 02:54:17
仮に
>>38の定義に従うとして、
大和政権の豪族と鎌倉・室町の守護を挙げて
近世の大名を挙げないなんてw
>>64 そう思うのなら単に
>>38に「近世の大名」をつけ加えて読めばいいんじゃないか?
それについては
>>38本人含め、別に誰も反対しないと思うよ。
全部挙げようとしたら、近代の華族も入れにゃならんだろうが・・・
いい加減喧嘩にもなってない喧嘩はやめろよ。
華族≠貴族
近世大名というと、もう公国の君主みたいな感じもするね。
たとえば数十万以上の民を治める大藩ならば、
その上層である藩主一門や家老クラスも貴族といってもおかしくはない感じ。
まあ大藩の家老クラスは万石以上の知行取りも珍しくないからねえ。
>>67 島津藩より規模の小さい琉球だって立派な王国で、
その中には王族以外に、貴族階級がいたわけだからなあ。
陪臣でも数千石も取っていれば、
庶民からはもう雲の上の別人種みたいな存在だっただろうね。
70 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 22:07:24
まあ新華族は貴族だとは認めない
71 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 22:10:54
直参で120石か陪臣で数千石かっていう話になるね。
どっちが上かは一概に言えないけど。
まあ陪臣とは言っても大藩の家老の方が下級旗本よりは実質的には立場は上でしょ。
江戸詰家老なら幕閣の要職にある人とも会見したりするわけで。
73 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 22:25:59
>>69 実質島津支配であっても琉球は、形式として清国より琉球国(王)の認証を受けている。国内の他藩と同様に論じるのはいささか違う。
家老はただの大名の家来だから
石高がいくら高くても貴族とは言えないだろうな。
75 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 23:32:23
日本の将軍はヨーロッパの神聖ローマ皇帝によくたとえられますね。
しかし江戸の漢学趣味で家老のことを大夫と言うが、
それは確か中国の春秋戦国時代あたりの大夫から来てるんだよね。
で、東洋における貴族とか貴族精神の典型、ひな型ってそこから来てるように思う。
下克上で成り上がった戦国大名は貴族なの?
江戸時代の大名は?
78 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 02:26:07
貴族は手取りがよくて独身者のことをいうだよ
二代目からは貴族です。たとえば秀頼はそう。
80 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 03:59:58
いや、生まれながらの将軍、義満や家光からだろ
81 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 11:17:01
しかし幼い頃に相当辛酸をなめた義満と、将来を約束され期待に満ちた日々を送った家光じゃ生い立ちにかなり違いがあるな。
ここは世界史板じゃないけど、ポーランド・ハンガリー基準だと、維新直後の士族・卒族
の段階での士族は全部貴族だな。
スペイン基準でも馬廻とか給人とか言われていたクラスは貴族。
一般的な西洋基準だと本間様や市島家の方が蔵米取りの武士よりも貴族に近いな。
ヨーロッパの場合下手をすると経済的には日本の本百姓レベルの貴族もいる。
場所によっては村全部貴族とか、地域の7割くらい貴族とか。
日本で言うと薩摩みたいなものかな?
85 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 14:08:28
>>76 春秋時代の卿大夫は貴族に分類されてるね。
すると日本の江戸時代の家老も広義では貴族かな。
86 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 14:10:55
title保持者はみんな国王の臣下かというとそうでもなくて、Dukeの臣下でもtitle保持者がいるからね。中世ヨーロッパでは。
つまり伯爵や男爵でありながら国王の陪臣もいるのだ。
奈良時代の僧侶も貴族といえるな
88 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 15:15:28
>>87 あれはそのまま特権を振りかざしたカトリックの教会関係者といえるのではないか
89 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 15:19:31
むしろ貴族の息子が僧侶になったんだと思うが
律令時代の僧侶は宗教家というより官僚であり貴族でもあるという感じだね
宗教家にして学者にして官僚にして貴族。
或いは、そのいずれでもない。
貴族で家督相続できなかったヤシが僧侶になったということは
貴族じゃないでしょ。高僧になると待遇は良かったのかもしれんが。
93 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 01:17:29
>>84 お隣の半島は総人口の9割が貴族(両班)らしいです。
貴族は貴種性が基本だと思うが、
日本は天皇中心の国家だから、天皇が認めれば貴族として取り立てられる。
秀吉なんかは天皇から豊臣姓を賜姓されて官位も与えられたことから
正式に貴族として認められたと考えられる。
95 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 06:49:42
>>94 そうだね。豊臣朝臣ってのは、お前も貴族だよ、って意味に他ならない。
周りの公家連中からしたら、
「プッあんな野蛮な猿が貴族ですかよww」て内心思てただろうが
96 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 06:55:11
普通に考えると、
江戸時代の陪臣(家老クラス)で朝廷から官位貰ってた連中まで含めて、
「貴族」と言って良いんじゃないかな。日本史では。
官位もらうって時点で正式には、朝廷の臣下になってるってことだしね。
下級武士まで「貴族」はさすがに、言いすぎだとおもう。
大石内蔵助みたいに僭称してた輩はどうよ、
とか言い出すと難しい話になりそうだwwwww
98 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 07:27:46
前田家も4位 地下大夫も4位
方や100万石、方や数石?
>>98 西洋だって同じ伯爵でも、大領主から貧乏人までいる。
そんなもん。
身分と富裕度はある程度の相関関係はあるけど、
なにせ貧乏貴族って言葉が存在してるしね。
三浦按針は250石貰って貴族になったって言ってるね
あの当時の250石なら馬に乗れて家臣も数人使える。
西欧人から見たら間違いなく貴族の生活だな。
幕末の250石取りが貴族に見えるかどうかは大いに疑問があるけど。
103 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 15:15:07
貴族は烏帽子直垂でおじゃるおじゃると言ってなきゃ認めない。
「おじゃるおじゃる」は政治的・経済的・文化的に卓越した真の貴族が零落して、
貴族のなれの果てになってから言っているようなイメージがある。
勘九郎義元か鶴太郎高時のイメージかなw
106 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 22:00:32
義元も高時も官位は低くなかった?4位下位だべ?
107 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 23:15:25
>>106 従四位ってのは「とても高い」位なんだよ。当時の感覚では。
108 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 01:37:12
>>103 侍烏帽子&直垂って普通に中世の武士の普段着だろ。
もっと身分の高い人なら、直垂なんて着ないで直衣か狩衣あたりが日常着。
>>107 じゃあ大内義隆の従二位なんかは雲の上の感覚か。
将軍&将軍家親族以外の武家で、ここまで上った例はなかなかない。
日本でトップクラスの金持ちを一位とか二位とすると、
数百億円程度の資産家は四位くらいになるわけだが、
それでも十分に「大金持ち」なわけだな。
歴史を見るときには目立った人物の視点から見るから
従四位下なんかはごく低い位のように思ってしまうが、
それだと当時の実際の感覚とは違ってしまう、だろうと思う。
110 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 07:55:09
大内義隆は文字通り雲上人
111 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 08:31:17
平公家でも長生きしたら二位位はなったべ?
武家は将軍で二位、長生きして従一位、最上級大名で4位のどっかで
中将止まりだったっけ?
112 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 08:35:25
武家の服装は段々簡素になっていったね。
鎌倉時代は直垂、水干なんか庶民でも着ていたのにそのうち裃が礼服に
なって烏帽子なんか全く付けないし、直垂に至っては江戸時代、
大礼服扱いで諸大夫は大紋までしか着れなかった。
時々束帯着るけどあれは正月とか?
金だけではどうもダメらしい、武力と経済力を兼ね備えていれば、金を払えば六位以上に
行けた。
あと京都の金持ちは七位の史生。
115 :
武陽陰士:2007/06/16(土) 12:58:18
官位はともかく北条時頼は日本国王というのが、当時の衆目が一致するところ(日蓮が時頼のことをそう呼んでたりする)。
得宗には官位とは別個の意味があるね。
官位じゃ計れない「位」ってのが中世以降はよくあるよ。
116 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 17:03:29
>>111 一般の大名クラスでも長生きして運が良ければ従三位くらいにはなれることがある。
>>112 武家が束帯を着る場面って、
肖像画を描かせるとき、
朝廷から官位を貰うとき、
その他朝廷がらみの儀式に出席するとき、
くらいじゃない?
117 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 19:03:30
岩倉「こりゃもうあかん。大久保、今のお上はもうあかんがな。一服ももらなもうあかん」
大久保「じゃっどん岩倉さぁ、一服盛れち、本気で言われっちごわんそかい」
西郷「一蔵どん、岩倉さぁがああ言われる。ここは岩倉さぁの軍配にお任せ致しもんそ」
大久保「じゃっどん、吉之助さぁ、こいばかいはいくらなんでん…」
岩倉「大久保、おまえはそれでも薩摩隼人かいな。キンタマ下げとんのか?何や、天皇の一人や二人、
一服盛るくらい何や、朝飯前や。京の都の公家を甘うみたらあかんがな」
大久保「分かいもした。一服盛りもんそ」
岩倉「それでええ。お上言うたかて、所詮は将棋の駒や、なあ、西郷」
西郷「そじごわす。主上でんなんでん、邪魔すっ和郎は成敗すっがよかが。アハハ」
118 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 00:20:11
>>115 得宗は無官で朝廷とは無関係というのなら
分かるが、わざわざ低い位をもらうのが分からん。
>>115 「衆目」ってのはもちろん、北条よりも官位の低かった人
(当時の日本人の圧倒的多数)の話でしょ。
京の公家たちが北条得宗のことを、日本国王だなどと思っていたはずはない。
121 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 08:49:45
北条は天皇よりは下だろうが、久我風情の公家よりは断然上だろう。
源頼朝も、娘をいれようとした天皇家や、
協力者の摂関九条家は敬っただろうが、それ以外の公家など眼中になし。
時頼の頃は、歴代天皇の中宮を排出しる家柄だった西園寺家すら、
北条家の犬のように鎌倉とを行き来して、朝廷に幕府意向を伝えていた。
久我家は、その西園寺家に嫁を出しているような家柄だったからな。
久我家よりは断然上。
実権が得宗にあるんだから公家なんて問題外でしょ。
何といっても皇位継承の最終決定権が幕府にあったわけで
その幕府の実質的な長である得宗が日本国王に擬せられるのも不思議じゃない。
123 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 19:22:53
そもそも僧侶に位階はないのでは?
124 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 19:33:00
僧にも位階はあるよ。僧正とか、律師とか、僧都とか(詳しくは、ぐぐってね)。
高位の僧ならば、一位や二位、牛車宣旨や紫衣を受けることも有る。
やはり、高貴な出自であれば、大寺院に入れたり、出世できたりしたみたいだね。
比叡山天台座主は、平安末期以降、ほとんど天皇家か摂関家の子息。
(一時期、足利義満の息子が勤めたことも)。
125 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 21:24:27
>>121-122 実質的権力は勿論北条氏が握っていたのに違いないが、
もし西園寺家の当主と北条得宗とが対面したような場合には、
やはり官位の高い西園寺の方が上座に座るものなのではないの?
それが社会っつーもんだ普通。
126 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 00:36:58
>>98 前田家は従三位、官は参議。つまり、羽林家相当だ。
三位以上は「貴」、五位・四位は「通貴」と言って、この差は大きい。
地下の四位とは、雲泥の差がある。
127 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 00:39:56
>>124 >(一時期、足利義満の息子が勤めたことも)。
青蓮院義円(のちの6代将軍足利義教)ね。
128 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 00:50:09
位階は、藤原一族が支配の確立の為に大宝律令で無理矢理造ったもの。清盛流や北條氏のように古代からの天皇の権威を自らも含めて、重んじているグループには究極では通用しない。
129 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 05:06:46
130 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 07:38:57
>>120 「源博陸」と言われた久我通親がもし関東に下向して北条氏の執権と会っていたら、
当然ながら北条の方が末座に座って平伏していただろう。
しかし道元は通親の子ではあるが、それこそ無位無官の一僧侶に過ぎん。
但し出家しなければ確実に公卿になっていた身だし
(母方の松殿家を嗣いで、運と実力があれば摂政関白になる可能性すらあった)、
高貴な生れであることは当時の人は認識していたはず。
しかもただの無位無官の僧侶ではなく、入宋して悟りを開いてきた当時著名な僧侶であり、
この後後嵯峨院から紫衣を受けてさえいる。(一度も著用しなかったらしいが)
その人を、仏教・とくに禅に対してあれほど熱心だった時頼がわざわざ招いたのだから、
やはり対面した時には道元を目上の人として扱ったに違いない、と思うが。
少なくとも、
>>120の漫画にあるように、道元が
「幕府の執権であらせられる北条時頼さまにお招きいただき恐縮です」
などと言うことはなかっただろう。
131 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 08:25:10
「久我より西園寺の方が上」とか言ってる人いるけど
少なくとも通親の時代には、実力からして久我>>西園寺だぞ。
何しろ村上源氏の最盛期で(短い最盛期だったがww)
摂関家以上の勢力を持っていた時期だったからな。
後の清華家に唯一村上源氏が残ることができたのは、
この時代の栄光があったから。
常識だと思ってたが案外知らない人もいるんだな。
ちなみに「こが」で変換しても「久我」が出ないwwww
マイクロソフトやばいだろ。もう少し日本文化に敬意を示せ。
132 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 08:49:31
通親が摂関家以上に力を持ったのって、
継子(妻の連れ子)の在子が産んだ土御門天皇の頃だろ?
あろうことか、通親は、妻の死後、継子の後鳥羽上皇妃在子と密通、
後鳥羽上皇は在子を遠ざけられてしまった。
通親は土御門即位後まもなく没しているし、
道元の頃は、勢力がなかった。
土御門天皇も、まもなく後鳥羽上皇に退位に追い込まれ、異母弟順徳天皇が即位しているし。
後嵯峨天皇は土御門の皇子だが、この頃は西園寺家の世だからな。
道元の頃が、久我家の全盛期だとでも思ってんの?
お前こそ勉強しろよ。
>>131 マイクロソフトがいちいちオタの要求に対応できるかってーの。
子孫の女優ですら「くが」と名乗ったが、日本文化を冒涜してるというのかw
いくら権力者でも師として招いたのなら、上座でふんぞりかえるのはおかしい。
絵の方が正しいのなら説明が間違いで、呼びつけたのか、面会を許してやったってことだし、
逆に説明が正しいのなら絵の方が間違ってるってことじゃないの?
135 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 22:30:06
>>132 いやだからさ、もちろん道元の頃に村上源氏が最盛期の栄華を誇っていた
などというつもりは全くないが、
それでも子の久我通光は(父よりも高い)従一位太政大臣まで昇っている。
西園寺と久我とはライバルではあり得ても、
少なくとも
>>121の言うように、西園寺の方が断然上、
ってことはないだろう。
で道元が鎌倉に下向した当時は
ちょうど(兄に当ると思われる)通光が太政大臣になった頃だ。
もしこの時に通光が鎌倉に来て時頼と面会したら、
もちろん時頼は下座に座って平伏していたはずで、
その点で
>>121の言うことは当を失している、と思う。
(もちろん何度も言われているように、
北条氏が下座に座っていただろうということと、
それにもかかわらず北条氏が公家の官位までをも左右し得る実質的な権力を
持っていたということは、全く矛盾しない。)
ただしこれは太政大臣の兄が鎌倉で時頼と会ったら、というIFの話であって
無位無官の道元本人ならば、また少し別の話にはなるがな。
136 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 22:32:19
137 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 23:30:42
>>133 でも「かつかいしゅう」だって変換できないしな
「きむでじょん」とか「ぱくちょんひ」とか変換できるけど
138 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 23:34:47
勝海舟変換できるが?!
>135
>もしこの時に通光が鎌倉に来て時頼と面会したら、
>もちろん時頼は下座に座って平伏していたはずで、
両者とも、鎌倉の秩序を根底から覆しかねない↑のような行動を取ることは、
考え難いんですが。得宗の側は無論だし、久我家の方でもそんな危険な行動を
強要する勇気があるとは考え難い。
「官位が秩序を規定する」という時代は、とうに過ぎていたんではないでしょ
うか。近いところでも、例えば平氏の時代もあったことですし。
140 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 07:20:24
>>139 北条よりも遥かに強い絶対権力を握り、
上級公家と同等以上の官位を持っていた徳川将軍ですら、
朝廷からの勅使に対しては下座に控えたのではなかったっけ?
徳川時代の将軍と勅使の位置関係は
将軍が上になったり、勅使が上になったり色々と変化したようだ。
しかしこれは、将軍が勅使として来る公家よりも高い位を持っていたからで
従五位しか持っていなかった北条氏とは話が違う。
江戸時代に旅先で大名と公家がかち合ったときには
位の高い公家の方が本陣に泊り、低い大名の方は脇に泊ったらしいから
やはり後代までも、席次とか家格というのは官位によって決っていたのではないかな。
江戸時代を持ち出すなら、たとえば摂家の者が
若年で官位が低い場合でも、他家の者が道を譲
り挨拶するというように、家格が官位より優先
ですね。
後、将軍と勅使は、幕末以外は、宣下の時も含
め、将軍が上座でしょう。
いずれにせよ、官位だけをたてに、例えば平家
や摂家の公達に平伏を要求する者がいるかどう
か、ですね。仮に一人いたとしても、末路をみ
れば、続く者はないでしょう。
>>142 それは、江戸時代の場合、将来その若造の方が自分よりも官位が高くなることが
確実に決っていたから、でせう?
先物取引の価格が結局はその品物自体の価値で決ってるのと同じで、
この場合も究極的には官位で規定されている、ということには
違いはない、と思うよ。
>143
「本人の官位が高くなることが確定だから」じゃないですよ。
摂家なり将軍家に無礼を働くこと自体が、間違いなく自分に跳ね返ってくるからです。
問題になるのは、「官位の高下」なんていう実態のないものではなくて、「自分の所領
や処遇の決定権を持っている相手が、当人の後ろ(あるいは本人自身の場合もある)に
いるかどうか」という、実力の方ですよ。
相手が、官位も所領も引き剥いで逼塞に追い込むだけの実力を持っているときに、「自
分の方が官位が上だから平伏せよ」と要求する奴は、滅多にいないし、仮にいても、
「じゃそう言えないようにしてやろう」と言って処分されるだけのことですから。
145 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 22:18:38
何か意味のない議論が続いてるが、
・官位だけで全てのことが決るわけではない。
実際の権力を持つ人間が、より尊ばれるのはいつの時代でもある話。
・しかし、だからといって、幾ら何でも二位の公家が従五位の執権に対して
本当に平伏していたはずはない。
江戸時代の将軍ならいざ知らず、鎌倉時代の執権にはまだそれほどまでの力はなかった。
(だから五位に留まってたわけだが)
↑これでFAではないの?
こんなの当り前の話で、議論するまでもないだろ。
146 :
145:2007/06/20(水) 22:31:07
すまぬ
若く死んだ時頼や時宗のイメージがあるから
つい執権は五位止りと思ってしまうが
実際には、従四位上くらいまでは進んでるな。
話の本筋には関係ないがいちおう訂正しておく。
>145
ごもっとも、なのだが一応。
さすがに、
>・しかし、だからといって、幾ら何でも二位の公家が従五位の執権に対して
>本当に平伏していたはずはない。
と書いている人はいないと思うが。元々、「当然執権が平伏していた筈だ」と
いう話に対しての突っ込みだし。
ちょっと時代は飛ぶけど応仁の乱の頃、京が戦禍にあって公家が地方に移った時期があるけど
代表的な山口ではやっぱり大内氏が公家に礼を尽くしたの?
普通に考えて単なる客人扱いがせいぜいだと思うんだけど。
朝廷内での席次は官位順になるのは当然だと思う。
しかし、それは朝廷内でしか通用しない指標に過ぎないのでは?
鎌倉の北条邸では道元が下座で正しいと思う。
150 :
145:2007/06/21(木) 00:23:31
>>148-149 普通に考えて、それなりに丁重に扱うだろ?
幕末の七卿に対する毛利家も、江戸時代の近衛信尹に対する島津家も、
貴人として丁重に扱ったはずだぞ。
道元云々は別として、
「朝廷の権威は朝廷外では全く通用しない」ってことはあり得ない。
って何度同じことを言わせるんだ。
151 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 00:42:41
執権の話題から逸れて申し訳ないんだけど藤原道長って関白にはなったことがないうえに摂政を1年程しかつとめてないのね。摂関の代名詞みたいにいわれてるのに意外に思った。
152 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 01:14:23
家康だって将軍職についてた期間は短かったしなあ。
しかし確かに、道長が関白でなかったってのは
初めて聞くと、かなり意外な気がする。
てか何が「御堂関白」だよwww
内覧なんて関白みたいなもんだよ。
忠通関白・頼長内覧の時期を見るとよく分かる。
154 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 03:00:52
そもそも関白は内覧+αの一形態。
内覧左大臣(太政官の実質筆頭大臣)であれば、政治力があれば関白よりも強力な権力を行使できる。
+αって具体的に何?
天皇の名代としての地位では?
157 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 03:59:07
藤原氏が造った令外の官に、国民は騙されてきた
だからそう言う官位秩序を嫌いそこから離脱するために得宗は出家したんだろう。
159 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 14:10:06
しかし、世を捨てた道元が、
もと執権に偉そうに説教たれるというのも
見たくない
我こそは、太政大臣の弟〜
なんてやってたら、ありがたみも失せる。
道元て、永平寺開いた人でしょ?
今でこそ観光バスががんがん来ているけれど、
当時は相当寂しい山里だったはず。
都を捨てて、ひたすら座禅を組んで悟りを開こうとしている人に、
似合わない。
全然レベルの違う話ですが、現行憲法下でも摂政にはなれますよね。
もしなるとしたらどういうひとが選出されるんですか?
象徴摂政として天皇の国事行為を代行するんですか?
161 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 15:14:07
第17条 摂政は、左の順序により、成年に達した皇族が、これに就任する。
1.皇太子又は皇太孫
2.親王及び王
3.皇后
4.皇太后
5.太皇太后
6.内親王及び女王
162 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 20:34:03
>>159 道元は「座禅を組んで悟りを開こうとしている人」ではなはくて、
「既に悟りを開いた人」だよね、一応。
宋の如浄禅師のもとで、身心脱落して帰ってきた人だ。
>>160 そういえば確かに、現行憲法下での摂政は
「象徴摂政」だなwwwww
ものすごく不自然な言葉だ。
163 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 21:42:04
特捜ってもうすこし高官望めば何とかなったんじゃないの?
中納言や参議位へ家格アップのチャンスはあったと思う。
ただあくまでも将軍の執事に過ぎないから敢えて4位で止めただけで。
よく分からんけど官位より「御家人代表としての北条一門の家長」みたいな立場の方が大事だったんじゃないかな
下手に朝廷に高位を貰っても関東や同族の中で浮いちゃったら元も子もない
北条氏はあくまでも御家人の代表として執権につくという形式を取ることで政権の正当性を確保していた訳だし、御家人の中には「反朝廷」感情が少なからずあったからそれを刺激する事は自殺行為でもあった。
位打ちはダメでしょ
平民宰相みたいなもんかい
168 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 08:53:30
流れを考えればいいさ
歴代将軍が官位に色気を出した時点で死んでいる
つまり公家化しないことが鎌倉期では要求されたわけだ
だからこそ承久の乱で朝廷と戦ったりしているわけだが
その状態で中央の官位など欲したらえらいことになるぞ
北条一門のなかに同時期の得宗より官位が高いのがいるってところが変なところだな。
170 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 09:09:05
公家化しない・・・には賛成。
のちの足利氏や徳川氏が、代々公家の姫を正室に迎えたのに対して、
北条家は、安達家などの坂東武士の娘を正室にし、
娘はやっぱり足利家などの坂東武士に嫁がせている。
摂家将軍、親王将軍はいたが、将軍の配偶者は都から公家の姫君を迎えて、
北条家とは一度も縁組していないんだよね。
その意味では、北条家は、のちの幕府とは一線を画していると思う。
171 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 11:08:17
公家化せず、しかし朝廷をないがしろにせずって感じか
一体鎌倉期って何を目標にしてたんだろうな
>>169 得宗って宗家の当主じゃないの?
一応執権という役職があったわけだし、得宗が幼少なら官位が上の
長老がいてもいいんじゃない?
173 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 11:53:00
坂東武士が官位を気にするようになったら終わりだろ
174 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 23:17:45
官位を気にしないのなら初めから、中途半端に五位なぞ貰わなければ良いのでは?
175 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 23:30:29
そこで末期の信長と義満ですよ。
実質的な最高権力者を律令規範中に取り込めないと朝廷としては極めて不安だから。
北条氏にとっては朝廷内での序列なんかどうでも良かったのだろうな。
177 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 01:58:16
五位が無ければ宮中で天皇に会う機会すらない。権力者は必ず天皇と交渉したがる、摂関なしで。
178 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 02:09:32
というより、北条氏はあくまで御家人の1人。
官位なんてもらったりしたら、他の御家人が反発する。
タテマエはあくまで御家人の中の「第一人者」、
実際は権力者ってことでローマ帝国の皇帝に似ていると思う。
>178
「執権(権力を執る)」「得宗」なんて名乗ってる時点で、
北条家は一御家人の地位を飛び越えてるよ。
足利尊氏も、当初は、烏帽子親である得宗北条高時から一字もらって
高氏と称していたし、
この場合、烏帽子親は親王将軍ではありえなかったからな。
180 :
武陽陰士:2007/06/23(土) 13:23:20
>>117 これは貴方の創作?「不謹慎」かつ「不敬」だけど、マジで笑ってしまった。傑作っす。
181 :
武陽陰士:2007/06/23(土) 13:32:55
北条氏は凄い奴らだと思うけどね。蒙古来襲のときなんか朝廷なんか無視して(初めは違うけどね)して外交権握っちゃうし。井伊大老なんか目じゃないな。滅亡のときも、高時の弟がコダイゴ暗殺しようとするのも凄いや。
182 :
武陽陰士:2007/06/23(土) 13:37:51
滅亡した後で西園寺と組んだ泰家の後醍醐暗殺計画。あれは大河ドラマなんかでやったことあんのかね?
183 :
武陽陰士:2007/06/23(土) 13:43:06
道元は遁世僧だったんじゃない?だとすると一応身分は低いということになるが。ただ鎌倉仏教特有の問題なんで話が長くなる。
184 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 14:05:51
>182
それって太平記以外でソースあんの?
186 :
日本@名無史さん:2007/06/24(日) 00:43:41
「摂家将軍」とか「皇族将軍」とか迎えてる時点でダメだと思う。
最低でも朝廷か中国に朝貢して王位を授けてもらうくらいじゃないと。
188 :
日本@名無史さん:2007/06/24(日) 01:58:16
>>186 そんなことすれば、御家人たちから猛反発くらって、殺されるよ。
ローマの皇帝も決して自分が王とも皇帝とは名乗らなかった。
>>187 ローマの皇帝が代々、「カエサル」を名乗ったようなものだな。
「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」byキリスト。
建前は御家人中の第一人者だった北条執権と元老院議員の第一人者だった
ローマ皇帝はそっくり。
189 :
日本@名無史さん:2007/06/24(日) 07:45:01
あくまでも「御家人中の第一人者」だった得宗家。
したがって、他の御家人は家来でもなんでもない。
家来でもない御家人達に言うこと聞かせるには
卓越した能力と指導力が必要。
「ヤツは仕事がデキる。ヤツの言うことはとりあえず聞いておくか」
と思われなくてはならない。
主君と家来なら「よきにはからえ」「ははー。」
ということもあるけど、「第一人者」なら「第一人者」らしい振舞いを
とりつづけることが重要。得宗は早死にが多い。働きすぎの過労死っぽい。
「闘犬にウツツを抜かして仕事しない」(本当かどうか分からんけど)
なんて噂がたったら「同格」の御家人は誰も言うこと聞かなくなる。
これが主君と家来なら必要な仕事は家来がこなすんだけど。
実際、得宗の家来たる御内人は最後まで主君を守り立てた。
政所の別当を代々世襲していたということ?
何で執権なんて名称が後々できたの?
役職名でもなんでもないのに。
191 :
日本@名無史さん:2007/06/24(日) 09:28:31
頼通って半世紀にもわたり摂関の地位にあったけど本人の実力ではなく道長のおかげなのかなぁ?
192 :
日本@名無史さん:2007/06/24(日) 10:36:15
>191
頼通が長期間摂関の地位にあったのは道長の威光だと思うけど
>44にあるように、外戚であろうがなかろうが御堂流に摂関を定着させる
基礎を気築きあげたのは頼通だろな。
健康に気使って、半世紀も摂関の地位にあったそれ自体が
「摂関は御堂流に定着」という印象を周辺に根つかせた。
親父の道長はやることなすこと豪快。
健康にも無頓着で連日徹夜で宴会やったりするのが好きだったみたいだけど。
それで晩年は糖尿病やら悪性腫瘍やらで、死ぬ程苦しんだみたいだけど。
頼通は親父に比べたら平凡の感はあるが、皇族・貴族の恨みを買うようなことしないし、
(「いつか蹴落としてやる!」とかいう動機を与えない)、女関係派手だった親父と違って
関係した女性も少数。そのせいか長年後継者には恵まれなかった。
妻の弟、源師房(村上源氏の祖)を養子にして後継者にすることを検討したとか
(実現したら源氏の摂関が出現)。
地味であっても摂生して長生きしたこと自体が頼通の功績かと。
193 :
日本@名無史さん:2007/06/24(日) 12:08:13
>>192 概ね同意するが、
養子になったら「源氏」ではない、のではないかと。
194 :
日本@名無史さん:2007/06/24(日) 12:15:20
頼道と教道は、大鏡の二人の翁。
>>193 養子の概念は当時は曖昧だった。
藤原実資は師房を「頼通の異姓の養子」と記述している。
196 :
日本@名無史さん:2007/06/24(日) 13:15:50
>193
平安時代は氏姓はあくまでも男系の実系で受け継ぐものとされてた。
異姓の養子をとって氏姓が変わった例として、熱田大宮司家がある。
元々尾張氏だったが、藤原氏(南家系)から養子をとって、
それ以降藤原氏となった。
院庁の場合、執事>執権なわけで、執権と言葉自体としてはそんな偉そうなものでもないのかも。
198 :
日本@名無史さん:2007/06/24(日) 22:50:47
>>190 執権という名称が後々にできただってw
院政期からあるよ。
頼通は、やはり父親の遺産を食い潰した印象が強い。道長は、彰子の反対を
押し切って敦成親王(後一条天皇)の立太子を強行。かたや、頼通は彰子に
「師実を関白にしたいんだけど・・・」とお伺いを立てて彰子が不機嫌に
なったと聞くと、ビビッて教通に関白を譲り渡してしまうヘタレ。格の違いは
歴然。頼通と教通の確執は息子の代まで引き継がれ、異母弟の能信は
摂関家二軍の扱いに我慢できず、後三条側につく有様。摂関家が頼通の子孫に
固定化したのは、白河天皇に対する中宮・賢子(師実の養女)の嘆願に
よるものが大きい。
201 :
日本@名無史さん:2007/06/25(月) 14:18:46
>200
彰子が不機嫌になったのは、外戚が摂関になることで、
天皇の地位を安泰させよう考えていたから。
外戚とは、天皇の外祖父、あるいは外舅(伯父、叔父)であることが条件。
後冷泉天皇にとって、教通は叔父だが、師実はいずれの外戚にも当たらない。
頼通がびびろうがびびるまいが、このとき帥実が関白になれなかったのは当然で、仕方がない。
道長すら、一条天皇の叔父として内覧になり、後一条天皇の外祖父として摂政になったからね。
教通を外戚としない後三条天皇が即位したとき、教通は関白を辞そうとしたが、後三条は引き止めた、
これは、一方で頼通の後継者師実に養女の賢子を東宮に入れるように勧め、
摂関家内部での力関係の均衡を図ってのことらしい。
師実が関白になるのは、養女の賢子を中宮に立て、白河天皇の岳父となったあと。
藤原能信は、後三条の立太子に活躍したのは事実だが、後三条の即位を見る前に没している。
能信がなくなったのは、まだ、異母兄頼通が関白の頃だよ。
けど彰子と頼通の関係って、詮子と道長の関係みたいなもんだし、
父である道長なら反対を押し切れもしようけど、
お姉さまの七光りの頼通では頭が上がらなくても仕方がないんじゃないの。
道長はライバルが勝手に死んだり自滅してくれた。
仮に道兼が史実逆に道長の弟で疫病で死んでなかったら、
顕光より相当五月蠅いナンバー2になっていそうで、
道長もやりたい放題は無理だろうな。
三条天皇と結んで無血クーデターくらいやる可能性もゼロではない。
>202
頼通は養女と娘を天皇に入れたが、天皇の外祖父となることができなかった。
これが、すべてを物語ってるんじゃないかな?
師実も、義理の姉の女原子や、実姉の寛子が国母であれば、
問題なく摂関に就けただろう。
道長の権力は、天皇妃になった姉や娘たちによって維持されていて、
道長が天皇の外戚でないならば、あれほどの権力は握れなかった。
仮に、姉の彰子がこのときなくなっていたとして、
頼通が、ごり押しして息子の師実を後冷泉天皇の関白にしたとしよう。
年若く、天皇の外戚ですらない師実が執政権を振りかざすことは不可能。
後三条即位を見る前に、摂関政治は有名無実になっていた可能性が高い。
下手すると、後三条によって摂関そのものが廃されていた可能性すらある。
205 :
日本@名無史さん:2007/06/25(月) 15:18:15
大鏡の入道殿下は勿論道長だが、おうなとは、彰子の事です。大宅(北家)世継閤下は頼道、繁木は教道、夏山は花山院との閨閥などを示唆。勿論、敗色の教道が書かせた頼道に対する名誉侵害作品。竹取、源氏などと同列。
206 :
日本@名無史さん:2007/06/25(月) 19:27:27
>>196 近衛家が、細川家から養子をとって源氏になった、
のと同じようなもんか?
現在の近衛家は源氏になったんだな。
207 :
日本@名無史さん:2007/06/25(月) 21:18:41
208 :
日本@名無史さん:2007/06/25(月) 21:46:54
>>206 じゃあ、あれかい。
江戸時代に皇族の養子を迎えたが近衛は皇室になったのか?
>>196はわざわざ平安時代はと書いてるのに別時代の例を出して話しを混乱させるヤツ多数
>>208 後陽成天皇の皇子が養子に入ってからは
近衛家は天皇家の分家という認識で問題ないだろう。
んなことはない
213 :
日本@名無史さん:2007/06/26(火) 01:36:32
北条氏が王になるには時間もチャンスも無かった。
ではどうして天皇や家康は同格のライバル達の中の第一人者ではなく
王になれたんだ?
>>211 近衛家しか知らないみたいだな。
浅学なやつだ。
215 :
日本@名無史さん:2007/06/26(火) 08:52:07
>>213 天皇家は律令制度を、家康は幕府制度を制定して運用したから
北条は上に将軍をいただきながらも結局はそういう形をキチンと作っていなかったのが原因だな
>>213 鎌倉時代の坂東ではまだ貴種性というものが棟梁になるための必須条件だったからじゃないか?
頼朝の子孫か、さもなければ都の摂家、皇家か、義家の男系子孫か。
いずれにしても北条の出る幕はなかったと思われる。
摂家将軍を担ぐことが出来なければ、案外足利幕府が100年以上早く鎌倉に出来てたかもしれないw
>>214 そういう奴は意外と多い。
ウィキペディアでも「一条家が九条流の嫡流だ」と言い張っていた奴が書き換えを行って物議を醸したことがある。
そのウィキペディアの[[鎌倉将軍一覧]]の記事中に
尚、北条氏が執権職にとどまり、征夷大将軍職に就かなかった理由として、「桓武平氏・平貞盛の子孫で坂東平氏と称していたため」とする説があるが、この説は根拠に乏しい。
「かつて北条氏は東国から伊豆・北条の地に移り住んだ土着豪族であったため、朝廷が将軍職への就任を拒絶した」とする説が現在では有力になっている。
これって誰が言っているの?
219 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 09:36:03
北条氏は承久の乱での勝利後だったら将軍でも新しい何かでも選びたい放題だったろ
でも過去の経緯からして将軍を立てて幕府維持に努めたわけだが
それのおかげでその後足利や徳川などが幕府体制を固めることができたわけだがな
>219
摂家将軍九条頼経が迎えられたのは承久の乱の前だからな
承久の乱後、将軍に立てられたわけではない。
承久の乱のとき、御家人は将軍頼経をいただく幕府存続のために戦ったのであって、
別に、北条義時のために戦ったのではない。
乱後、北条義時が将軍位のっとりを図ったならば、崩壊していただろう。
> 御家人は将軍頼経をいただく幕府存続のために戦ったのであって
だからといって将軍のためでも頼経のためでもないんで
そんな言い方してみたって何の意味もないけどね
>221
承久の乱に勝利しても、北条氏はあの時点で将軍にはなれなかったといいたいんだよ。
将軍でも何でも選び放題だった、ってマジで思ってんの?
北条氏は、幕府御家人内で、首領的特権を持っていなかったんだよ。
承久の乱もしかり。
223 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 13:27:14
とはいえ承久の乱でうろたえる御家人衆を纏め上げて戦ったわけだろ
そこからどう権力に結びつけるかだけの話だと思うが
それを承久の乱以前の執権体制の補強に使った結果が史実通りなんだろうし
違う形に使っていれば北条政権がもっと違う形で実現したんじゃないか?
するとこのスレのタイトルに執権も入ってくるんではないのかと
225 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 13:36:57
北条氏の、幕府内での地位は向上しただろうね。
ただ、将軍でも何でも選び放題、というのはかなり違うよ。
将軍位は幕府が与えるのではなく、朝廷が与えるもの。
朝廷が、北条氏に何らかの褒美を与えたことは、全くない。
> 北条氏はあの時点で将軍にはなれなかったといいたいんだよ。
が正しいのは当然なので、
「北条氏に将軍位への権利はなかった」
と言うなら全く正しいが、そこから
> 北条氏は、幕府御家人内で、首領的特権を持っていなかったんだよ。
という主張を導くならば飛躍に過ぎる。
「天皇にはなれなかったから
藤原氏御堂流には公家内の首領的特権がなかった」
などと言ってるのと同じ。
227 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 13:50:44
褒美を与えたことは史実としてまったくないわけで
承久の乱後の戦後処理如何では幕府軍の大将的位置にいる北条は朝廷に対して
なんらかできた可能性は高いんじゃないか?
結果してないだけの話だろ?
状況として御家人衆がどうこうという後付の理由はできるが
その後普通に執権として権勢を振るうことはできているわけだしな
228 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 14:06:23
近世の堂上公家の主要官職補任は、公卿補任、弁官補任、日本史総覧を見れば、
ほぼ網羅されているが、以外と近衛少将、中将が分からない。
公卿補任をあたればかなり纏められるとは思うが、そんな事までしている訳にもいかず、
公卿になれなかった公家のものは不明だし。
諸家伝も近世の途中までだし、さりとて、史料編纂所の補略を見る事もならず、
続群あたりが「近世堂上公家官職補任総覧」なんて出してくれないかね。
229 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 14:11:13
つまりあれか?
太政大臣、征夷大将軍、関白、執権 どれになりたいか?ってスレタイにすればいいのか?
>>228 なぜ自分でしようとしない?
やれば後学が喜ぶだろうし
ある意味ひとつの業績だろうに
232 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 19:04:02
>>230 だから、史料が揃わなければ無理だろう。
233 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 19:09:27
思う存分研究できる大学生や大学院生とかならいいが、
一般の社会人には入手困難な史料も多く、
大変だと思うが・・・
> 思う存分研究できる大学生や大学院生とかならいいが、
> 一般の社会人には入手困難な史料も多く、
史料の入手って院生と社会人でそこまで違うもんかな?
研究で食ってるわけでない社会人には
そこまで割ける時間がない、とかならわかるけど。
「近衛府補任」ってのは近世はのってないの?
近世の堂上公家の近衛次将って、後に公卿に到達した人か、
たまたま公卿になる前に死んでしまった人だけじゃないの?
237 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 22:20:01
>>218 >「かつて北条氏は東国から伊豆・北条の地に移り住んだ土着豪族であったため、
朝廷が将軍職への就任を拒絶した」とする説が現在では有力になっている。
誰が言ってるか知らんが、俺はありえないと思う。
たとえば土着の清原氏は鎮守府将軍になってる故事先例があることから、
あのときの北条の「功績」を考えれば、ワンランク上の征夷大将軍も可能だったと思う。
>>220 >北条氏は承久の乱での勝利後だったら将軍でも新しい何かでも選びたい放題だったろ
それは無理。
あの時点でも鎌倉で一番勢力が強かったのは三浦氏。
宝治合戦まで力的には三浦>北条だよ。
では、なぜ三浦は北条を倒さなかったのかといえば、北条を倒すだけの
「大義名分」がなかった。
義時、泰時の政治は後の武士嫌いの北畠親房でさえ善政と評価しているくらいだからな。
まあ北条は東国の武家の中でも、もともと筋目も実力も下位だったからじゃないかな。
三浦、千葉、上総、畠山のように一国レベルの軍勢を動かせる連中とは桁が違うでしょ。
その北条が彼らに対してあからさまに主人面できるような地位に就けば、
総スカンを食って失墜する恐れもあるし。
239 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 00:21:44
とりあえず北条氏が王になるにはさらに100年はかかったと。
240 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 08:44:37
鎌倉幕府があと5代とか続いていたら話は変わったのかね?
まあ現実問題としてこういうIF自体が無意味なんだろうけどさ
鎌倉幕府の執権の一代はとても短いんだが。
242 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 09:50:37
>>237-8 自分も同意だな。
日本の朝廷は案外柔軟だし実力社会だよ。
北条は弱小武家だったけど「将軍家の外戚」で物言わせたった感じ。
千葉氏なんかには実力でも功績でも敵わなかっただろう。
千葉親子が頼朝を助けるって決定した時に趨勢はきまったようなもんだし。
北条氏が幕府滅亡まで安定しなかったというのは元が脆弱だったからかもしれん。
243 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 10:16:35
形は違えど
北条も足利も足元弱いのに主導権を握ったわけだ
この時代にはやはり権門政治に対する批判から実力主義みたいな感じの風潮だったんかね?
244 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 10:19:56
しかしまあ、同じ征夷大将軍とはいっても、
坂上田村麻呂や文屋綿麻呂に比べて、源頼朝以降は随分違うよな。
そもそも「蝦夷」を「征」するための官職だった「征夷大将軍」が
なぜ頼朝によって復活させられたのか、
もはや必要のなくなった蝦夷征討のためのこの地位に、なぜ固執したのか、
なにか、論文や史料をご存知の方、いらっしゃいます?
245 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 10:22:18
>>244 少なくとも頼朝親子は征夷大将軍に関してそれほど固執はしていなかったような
中央の官位にフラフラ擦り寄って行って不自然な死を遂げたり暗殺されたりした親子でっせ
246 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 10:37:28
まあ、しかし、足利尊氏も徳川家康すら「征夷大将軍」だったわけで・・・
やはり、頼朝の初めて幕府を開いたという功績は認めてよいと思うのだが。
247 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 12:27:18
征夷大将軍自体の権威付けは頼朝とかその息子たちの世代というより
その後摂家将軍たちをいただく際に権威付けされたような感じだろ
248 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 12:30:15
では、頼朝がたまたま朝廷からもらった官位が、
「太政大臣」であったり、仮に娘の入内に成功して「関白」であったりした場合、
後世の足利尊氏や徳川家康も、権威付けのためにその官職を欲したということ?
(ちなみに徳川家康は太政大臣になっているが、江戸幕府のすべての将軍が得た
官位ではない)
249 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 12:40:03
思いつきで書くけどさ
任官という部分では頼朝はこれ以上ないくらいまで出世しているわけだが
それでも関東に拠点を置く地方勢力扱いだろ
ひょっとして朝廷の気が変わって他者に征夷大将軍を与えられて征伐されちゃいかんからと
自分達で抑えるようにしようとしたんじゃないか?
幕府を開いて軍政を敷くための「征夷大将軍」
251 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 14:11:10
>>248 当時の情勢では頼朝が関白はないと思うが、
平氏没落でブランド力の落ちた太政大臣もつらいな
清盛や秀吉が長期政権築けていたらめざす方向は将軍ではなかったかもね
>>241 関白は摂関家世襲が確立していたから無理だろうが、
太政大臣は、そんなに格が落ちていなかったよ。
その後も永らく清華家の最高位であったし、
鎌倉時代後期の天皇の外戚西園寺家は、
太政大臣を最高位としながら関白をもしのぐ権力を持っていた。
秀吉や家康は武家の棟梁でありながらこの地位についている。
>250
坂上田村麻呂や、文屋綿麻呂が「幕府」を開いた?
もともと、「征夷大将軍」は、
蝦夷征討のために朝廷軍を率いる大将の称号で、
幕府を開くという役割などないよ。
源実朝は右大臣・左大将にまで昇進していたので、暗殺されていなければ
太政大臣になれていたかも。武士が太政大臣になるのは、足利義満の登場を
待たなければならない。しかし、義満は太政大臣になった後に出家したり、
海外貿易を積極的に展開したり、やってることは清盛にそっくりだな。
>>254 足利義満がやったことは、清盛以上だ。
自分の嫁さんを、後小松天皇の養母にして
歴代唯一、皇族でも天皇の妃でもないのに、女院(北山院)にした。
後小松の父後円融は、皇位簒奪のノイローゼから、
義満との密通を疑って後小松の母を刀の鞘で打ち据えたが(妃は実家へ逃げ帰る)
そんな変な噂を利用してしまった感じ。
256 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 15:22:14
幕府自体は作ったろ
でも幕府を統治機構として利用はしなかったろうが
そもそも呼び名も幕府ではなかったかもしれんけどさ
源義仲も征夷大将軍なんですが、忘れらてませんか?
258 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 15:29:49
朝日将軍を忘れるわけがなかろう
征夷大将軍は蛮族を征討するために独自の軍事力を合法的に持つことができた。
260 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 15:40:24
義仲が平家水軍に負けた後、頼朝討伐を理由に征夷大将軍を無理矢理任命させて頼朝攻撃をしたのさ
鎌倉幕府の権力基盤自体で征夷大将軍という役職があまり意味をもたないのは前スレでもここでも散々
書かれていることだと思うが、彼が最後に征夷大将軍にこだわったのは朝廷の気まぐれに付き合いきれず
自分達(関東)の討伐を勝手にだされないようにとその役職である征夷大将軍を自分達で抑えたのではないのかと
262 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 15:59:44
木曽義仲の「征夷大将軍」は自称じゃなかった?
白河法皇は、あいまいに、「朝日将軍」と呼ぶことを
認めただけで。
263 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 16:36:56
>>244 やはり「大将軍」ってのが意味があったのでは?
鎮守府将軍では、清原氏や奥州藤原氏と同格になってしまい、
本来清原氏や藤原氏の主筋と思ってる頼朝には我慢ならなかっただろう。
実際、建武のときは尊氏は鎮守府将軍を受けたが、
北畠顕家は鎮守府「大将軍」じゃないといやだ、ってごねてるしw
武官としては、頼朝の選択肢は右大将か、征夷大将軍しかなかったんだよ。
264 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 16:54:44
後白河上皇が頑なに征夷大将軍をなぜ出さなかったのか
右大将でなんの問題もないのに征夷大将軍を欲しがったのはなぜか
265 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 18:04:46
なんでそんな概説レベルの議論してんの?
木曾義仲自体が蕃夷のようなものなのに…
267 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 20:39:04
「朝日将軍」の朝日ってなんだよw
268 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 21:11:28
>>253、
>>256 もともと幕府は近衛大将とか征夷大将軍などの陣営をさす言葉だろ。
頼朝の任右大将以降、幕府と呼ばれた。それに政所、侍所はもともと公卿の家政機関。
右大将の幕府は京都にあるのが当然なのに、頼朝が鎌倉にいたから
都の人から「鎌倉幕府」と呼ばれたんだろう。
都の人は鎌倉殿って呼んでたんじゃないの?
270 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 22:41:06
>>268 >都の人から「鎌倉幕府」と呼ばれたんだろう。
そんな人は当時誰もいませんがなw
271 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 23:36:30
鎌倉幕府も室町幕府も江戸幕府も後世の人が考えた名称だろ。
272 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 23:48:56
当時は「鎌倉殿」「公方」「公儀」よ呼ばれていたんだろ。
鎌倉、室町は組織と言うより将軍個人の家政機関と認識され
幕府に仕えるものはどっちかと言うと将軍の使い、家来と
見られていたと思う。
江戸になって、家政機関から国家機関レベルまで(形式的には
家政機関であって国家機関ではない)発達し、将軍の家来と
言うより官僚的になっていた。将軍個人を指すことはなくなって
行き、官僚機構として「公儀」と呼んだのでは?
少なくとも、当時の人が将軍の機関を「幕府」と呼ぶことは
なかったと思う。
ところで何で幕府を「ひらく」って言うの?
274 :
日本@名無史さん:2007/06/29(金) 01:38:04
>>273 「幕府」は本来建物の意味。
今でいう「(総理)官邸」みたいなもの。
官邸も「官邸開き」とか言うのと同じ。
275 :
日本@名無史さん:2007/06/29(金) 09:04:22
総理官邸というより陸自の現地司令部とかそんな感じのがわかりやすいんでね?
>>248 全ての徳川将軍が太政大臣にならなかったのは事実だが、
江戸時代には征夷大将軍・摂政・関白のいずれかを経験しなければ太政大臣になれなかったのも事実。
>当時は「鎌倉殿」「公方」「公儀」
低脳丸出しだなw
公方が幕府を指すのは鎌倉後期以降。公儀は14世紀以後。
「当時」がそれぞれ鎌倉の頃、室町の頃を指すと理解できれば↑みたいな馬鹿なこと言わないだろうにな
直前の
>>271に
> 鎌倉幕府も室町幕府も江戸幕府も
ってあるんだからほんのわずかでも文脈を読める
非低脳ならそう読むのが当然だ
280 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 18:52:19
>>272みたいな主張は新しすぎてもはや電波
というよりは全然知らないってだけかもな
281 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 21:16:23
277=279=280
278に指摘されて何、必死になっているやら。
284 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 04:21:21
>>179 烏帽子親子関係(偏諱授受関係)が主従関係の確認を意味するようになるのは室町以降。
鎌倉期だと実態は別にして直接的には主従関係を前提にするものではない。
だから後世と違って貰った偏諱を下に付けることもあり得る。
>>182 91年の大河「太平記」で描かれている。
>>190 「執権」ってもともと院や摂関家なんかでも政所別当の別称として使われてなかったっけ?
285 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 04:29:41
>>277 14世紀の史料に「公儀」なんて出てくるか?
俺は「公儀」の使用例は基本的に16世紀以降だと思っていたが。
あと室町の場合、「公方」は征夷大将軍現任者以外を指すこともあるから、
征夷大将軍に限定するなら、鎌倉期の「鎌倉殿」に対応する言葉は「室町殿」だね。
もちろん義満以降限定だけど。
286 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 04:32:48
「幕府」って当時の史料に現れる言葉でいうなら「柳営」とかだね。
あと奥州藤原氏の「柳の御所」も意味的には「柳営」とイコールだね。
287 :
武陽陰士:2007/07/01(日) 19:50:41
288 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 00:27:23
室町時代に「鎌倉殿」といったら普通は鎌倉公方を指す。
289 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 00:44:08
「公儀」ってのは「お上」ということで
「公方」ってのは「王様」という意味か。
公儀って実際は秀吉による天下統一=天下草創以降じゃない?
公方は複数ある場合もあるけど公儀は天下に一つ(の政権)という感じがする
291 :
277:2007/07/02(月) 03:49:48
>>285 岩波日本史辞典より
公儀【こうぎ】
14世紀以後,1)私に対する公,2)集団成員を拘束する一定集団の総意,3)将軍をさして使われた語。
とくに豊臣期以後は,将軍を表す〈公儀〉は,〈天下人〉のような排他的絶対者を意味するのでは
なく,領主階級の共同利害をも含意した。近世幕藩制社会の成立に従い,将軍を中心とする幕府,
大名を中心とする藩の双方が,この用語でよばれるようになり,前者を大公儀,後者を公儀と区別
してよぶことも行われた。また,複数領主の支配する領域・人に関係する民事裁判や重要な刑事
裁判を扱う江戸幕府の評定所も〈公儀〉とよばれた。このように〈公儀〉の語は,主に領主階級間
で使用される用語から,次第に庶民にとっての,領有制の枠を超えた裁判をも含んだ用語へとその
意味・用法を拡大していった。
太平記三四「上に公儀を借つて、下に私の権威を貪らんと思へる心」
自分が馬鹿だということ晒しといてよく再登場できるな
こりゃ本物だ
293 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 16:29:25
おまいらなにやってんだ?w
294 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 16:58:24
>>291 で、その「公儀」は「将軍」とか「天下人」の意なのか?
295 :
277:2007/07/03(火) 12:16:31
公方【くぼう】
古く天皇の地位や,朝廷の機関や職務をさして公方おおやけかたと呼んだが,鎌倉時代
後半以後,これにくわえて,鎌倉幕府の権力機構が,なかば自然発生的に公方と呼称され
るようになった。室町時代には,室町将軍と鎌倉府の当主,さらに九州探題なども公方と
称され,室町末期から戦国時代には守護や戦国大名の呼称としても使われて用例の広がり
がみられたが,江戸時代には将軍の別称としてのみ使われた。これとは別に,鎌倉後半以降,
本年貢などの徴収主体(多くは本所)が公方と呼ばれることもあった。
曾我物語「祐経在京して、公方の御意さかりに候ふなる」
296 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 04:50:50
基地外が出てきてスレの流れが停まっちゃったね。
297 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 12:34:31
あげ
298 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 00:26:56
>>249 位階はともかく、官職的には左兵衛佐時代が長くなかったっけ?
299 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 12:48:06
将軍 室町時代までは、たまに殺される。幕府は制度疲労して250年程度が寿命。
そして失脚。
関白 たまに政争に負けて失脚する。江戸期以降は嫡男にさえなれば余程のことが無いか限り
自身の嫡流血統は伝えられる。
太政大臣 江戸期以降は摂関経験者で長寿で平和に生きた人の名誉職的存在。
中世までは結構失脚したりもしている。
楽なのは太政大臣じゃないかな?
300 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 14:55:22
歴代最長関白の鷹司政通は関白在任中に太政大臣も兼ねてるね
それなのに息子の輔熙は関白も1年もたなかったし太政大臣にもなってない
関白辞任から15年も生きてるのに情けない
明治維新間際で関白になったことを考えれば、輔熙に対して酷でないかい?
302 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 18:06:11
ざっと流れからすると
天皇家→摂関→征夷大将軍→首相という順番でながれてるんだよね?
蘇我氏→藤原氏→治天→得宗→将軍→猿→将軍→元勲→首相
304 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 19:23:06
その流れからすると治天の君は元首でも官職でもない異質な存在だな
305 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 20:22:37
闇将軍というのもいたなw
306 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 21:05:59
>>304 得宗も同じだけど本家の家長という立場かな?
将軍家でもたまにあるけど将軍がお飾りで実権は大御所にってパターン。
>>304 猿だって元首でも官職でもないのでは?ww
味皇→味将軍→味っこ
309 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 09:33:09
猿のところはせめて関白とか太閤とか書いてやれよw
310 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 09:40:08
311 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 22:15:54
一座とは従一位ですか?
312 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 22:19:12
治天は、普通に君主だろうに。
本人が前天皇で天皇家の家長なんだから、名前はどうあれ、日本の正統君主だよ。
313 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 22:20:04
「治天の君」=「天下を治める(実質上の)君主」
314 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 22:46:53
一品二品三品は皇族限定位階。
315 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 22:48:43
開幕から右に左に打ちまくり、 打線を引っ張っていた矢野が (12日)、左足小指付け根付近に痛みを訴えて東京都内 の病院で検査 を受けたところ、「左足第5中足骨の疲労骨折」と診断されたそうです
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| ガンッ!! | |
| ,l ヽ
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| 从/ / |
| _.,/ , / lノ
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っっっっっっっつっっっっはああああいいいいい!!!
これまたこれまた!!きてるきてるあいいいいあああ〜〜〜!
ああああ〜〜〜〜〜〜ユートピア!!!!ああぁ〜〜〜〜ユートピア!!!
なるほどなるほどなるほど!!ああぁ〜〜〜〜〜なるほどなるほど!
あああああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜これはどうも!!ああ〜〜〜いやこれはまたどうも!!
ぶっべっらっぽっぷっしっぴっぱっぴっぷっぺっぽっっっっをををおおおおおおをををを!?!?
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316 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 15:42:01
治天と太閤と大御所ならどれを選ぶ?
そのときにどれが実質的に権力を握れるかで違うでしょ。
318 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 10:32:29
太閤が最高権力者なのは摂関期(道長とか)を除けば、秀吉だけだろ。
院政期なら治天の君、徳川時代なら大御所の方がいいに決まってる。
幕政も安定してくると、大御所でも将軍でもなく
老中の筆頭格(正式な呼称があるのか良く分からない)、側用人老中格以上、大老とか
いろいろ出てくるね。
320 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 12:55:02
そうは言っても、柳沢とか田沼とか水野忠成とかは将軍の信任あっての権力だからなあ。
321 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 13:29:40
明朝の宦官とかオスマントルコの宮廷奴隷のように
家奴が主人の首をすげ替えるようにはならなかったな
322 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 16:45:51
道長は太閤だったの?
323 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 16:51:26
>322
摂政退任後は太閤だったのだろう。
ただし、病気が悪化して権力を振るうどころではなかったと思われ。
324 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 16:58:33
>322
道長は摂政就任後、太政大臣(太閤)を兼ね、
孫の後一条天皇の元服に際して加冠の役を務め、その後すぐ、摂政と太政大臣を辞した。
摂関家ではその後、天皇元服の加冠を勤める際、太政大臣に就任する伝統になった。
もっとも、その後、太政官最高の地位である太政大臣は
清華家から出るようになり、摂関はさらにそれを超越する地位だった。
秀吉も、後陽成天皇の元服に合わせて太政大臣に就任して天皇に加冠、太閤と呼ばれたが、
秀吉の場合も、あくまでも摂関家同様、関白としての権威のほうが大きい。
ちなみに、家康も、晩年太政大臣になっているが、
それほど固執した地位ではなかったのだろう、のちの将軍は必ずしも太政大臣にはなっていない。
325 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 17:00:38
>>322-323 太閤とは、太政大臣のこと。
藤原道長は、太政大臣に就任したが、
後一条天皇加冠後、太政大臣を辞している。
326 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 18:27:38
そもそも道長って関白にはなってないんでしょ?
摂政を一ヶ月程度やってるだけ。
327 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 19:17:46
小右記には、道長のことを「太閤」って書いてるけど。
太閤は本来官職どころか公的地位でもなんでもない。
後世になると条件に合わない者に宣下されると言う本末転倒な事態も生じるけど。
道長以前に太閤の用件に該当するのは兼家だけ(2ヶ月足らず)。
この時期にはまだ用語としての用例も定まってなかったと思う。
従って日記等で道長を太閤と称しても不思議はないし問題もない。
それはそれとして実質から言うと道長以上に太閤の称号にふさわしいのは秀吉くらいだな。
太閤って息子に摂政・関白職を譲った人のことかと思ってた
おれもw
官職要解によると関白を辞してから、その子が関白となったときの称号とある。
ただし関白在職中に太閤を称する例もあったと書いてるのでいまいちはっきりしないw
太閤はリタイアした人間なのだから、ただの偉い人のはずなんだから
相応しいといってもねぇ…秀吉は独自に金と力を持っていただけだし。
秀吉は死ぬまで実権を握ってた。
俺はチンコ握ってた
336 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 17:49:40
家康だって死ぬまで実権握ってた
337 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 18:45:33
信長だって死ぬまで実権握ってた
338 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 22:26:47
よく考えてみたら右大臣辞任後の信長って、
単に散位の身で誰かの後見人でもないし、すごい権力者だよな
339 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 01:27:02
権力が確立した後は肩書きはいらないんだよ
必要になるのは次の代だ
だから信忠はちゃんと叙任されてる
340 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 08:42:22
『光の速さでマスかいたらどうなんの?』っと、
/⌒ ⌒\ )
/( ●) (●) \ )/⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y丶
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| l l||l 从人 l||l l||l 从人 l||l カ タ
ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、. タ
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
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 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ノ ̄ ̄
____
/::::::─三三─\ 正確に考察すると、光速に近づくにつれ、
/:::::::: ( ○)三(○)\ 加速させるのに必要なエネルギーは無限大に近づく。
|::::::::::::::::::::(__人__):::: | ________ ある瞬間お前の代謝量は肉体のエネルギー総量を超えおまえ自身が消滅する。
\::::::::: |r┬-| ,/ .| | | 残るのは光速の手とチンコのみ
ノ:::::::: `ー'´ \ | | |
341 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 08:53:00
>338
信長は引退後も全軍を率いて出兵していた
息子が能なしだったのか、
信長でなければ家臣を率いることができなかったのかは
わからんが
引退後は関が原へも出兵しなかった家康とは大違い
342 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 09:26:23
>引退後は関が原へも出兵しなかった家康とは大違い
>引退後は関が原へも出兵しなかった家康とは大違い
>引退後は関が原へも出兵しなかった家康とは大違い
歴史難民板へお帰りください。
>>339 大臣は朝廷儀式に出なければいけないので鬱陶しい(信長はほとんど出なかったらしいが)。
散位の前大臣の方が待遇は現職と比較してそれ程落ちないのでむしろ気楽。
でも現職の関白近衛前久は京都にほとんどおらず、諸国を
遊びまわってましたね。
345 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 13:36:45
◎安倍自民党改悪の住民税の大増税 2007年6月から開始
年収(万円) 月収(万円) 社会保険 18年度住民税 19年度住民税 上昇額 前年度比倍率
150 12.50 181968 19500 35200 15700 1.80 約2倍
200 16.67 245520 33600 65800 32200 1.96 約2倍
250 20.83 288864 47900 96500 46600 2.01 2倍以上
300 25.00 346632 61300 125700 64400 2.05 2倍以上
350 29.17 433296 73500 152000 64400 2.07 2倍以上
400 33.33 491064 88900 185200 96300 2.08 2倍以上
450 37.50 548832 113100 219500 106400 1.94 約2倍
500 41.67 592164 146000 255100 109100 1.74 約2倍
550 45.83 678816 175100 286500 111400 1.64 約2倍
600 50.00 722160 208000 322100 114100 1.55 約2倍
650 54.17 765480 241000 357800 116800 1.48
700 58.33 852132 275600 393100 117500 1.43
750 62.50 895476 316300 433800 117500 1.37
800 66.67 929424 358000 475500 117500 1.32
346 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 19:09:27
信長については官職を受けないことが天皇への無言の圧力だったんじゃないの?
最高実力者が官職に就かないということは律令体制の枠に収まるつもりがないって意味にもとれるから。
三職推任がもしも信長からの申し出だったとすると、天皇はむしろ安堵したんじゃないかな?
347 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 20:57:33
高校の教科書には太閤は前関白って書いてるね
348 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 20:58:24
>>311 朝廷での席次。
位階ではない。
>>338 皇太子(誠仁親王)を猶子にしているだけで十分では?
349 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 09:07:25
>>346 官職をまったく受けてないわけじゃないよ
右大臣右近衛大将兼任後官職辞任、この意味わかる?
この二つを兼任できるってのはもう事実上の天下人で
次の官職でさらに上を望んでいたのかそれとも幕府を開くのかって段階なんだな
つまり天下固めの大詰めの大詰め段階
そこで本能寺だったわけだ
信長は官職にまったく興味がなかったわけではないからな
350 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 09:22:28
本人がどれだけすごくても後継者を育てなきゃダメ。
または子孫が権力を維持できる体制をつくる。
最後発?の世襲将軍徳川家は最強だな。
351 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 09:26:31
信長はちゃんと信忠を育てていただろ
変で一緒に死ななければ織田家の天下はああも見事に終わらなかっただろうな
秀吉は自分で秀次を粛清してしまったから自業自得だが
352 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 10:14:21
東照宮をもってくるのはちょっと反則かな。あの方は偉大だもの。
東照宮は勉強家で東鑑を含めた和漢の書を読み尽くして研究してた。
それで御三家をつくったわけだし、栄枯盛衰の理をきわめていたので没落した名家の子孫を数多く保護してたし
353 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 12:08:24
そういえば頼朝も死ぬ前にすでに将軍を辞任していたという説があるね
正しいとすれば無官で幕府のトップだったのか
354 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 15:35:15
頼朝の死に関していろいろと疑惑があるんだろうけど
実際にはもっと上位の官職を望んでいて自分の出世にしか興味がない将軍と
御家人衆の目に映ったから暗殺されたという説もあったような気はするね
実際に権大納言兼右近衛大将を辞任して征夷大将軍になってからはずっとそのままの官職なんで
そういう動きがあったかどうかはわからないけど
355 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 19:21:32
>>349 その辞任が怖いじゃないの。
やり方が義満と同じ。
単に将軍に就任するつもりならわざわざ右大臣を辞任する必要はないわけで。
356 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 20:45:33
鞆の浦の足利義昭将軍が最強。
357 :
日本@名無史さん:2007/07/19(木) 09:32:20
>>355 だから殺されたという文面に見えるんだが
何について反論してるんだ?
信長の統治体制は結局頓挫してしまったわけだが
後に自分の腹心である秀吉がほぼ政策にせよ権力基盤構想を受け継いだと思って間違いなさそうだ
信長は関白になりその後すぐ関白を辞して太閤へ、そして信忠を関白へという構図で統治をした可能性が高い
信忠は実の子なんで秀吉の時のような悲劇も起こらないだろうし天下はしばらく安定したことと思われる
その後、天皇家との縁戚政策を取って世襲を狙って五摂家排除までも視野にいれていたかどうか
それをたくらんだので反乱が起きて秀吉がそこだけを妥協して大部分は信長流だとしたならばどうだろうか?
>>355 信長は右大臣辞任の時に信忠の昇進を願い出ている。
公家の高官が官職を辞するときに後継者の昇任を要望する事は一般的に行われている事で信長が同じ事をやったからと言って意図を勘繰るのは戦国時代には詳しくても朝廷制度の歴史には通じていない人。
>>348 それダウト。
信長の猶子は誠仁親王の皇子。
359 :
日本@名無史さん:2007/07/19(木) 16:00:51
>>357 つまりアレか?
五摂家のヤツラが既得権益を侵されそうになって光秀をそそのかしたと?
360 :
日本@名無史さん:2007/07/19(木) 21:05:53
秀吉は初め将軍狙ってたでしょ
361 :
日本@名無史さん:2007/07/19(木) 21:30:56
>>349 右近衛大将兼任の状態で右大臣から左大臣に転任すると、かつての暗殺された
将軍足利義教と昇進パターンが全く同じになってしまうので、それを嫌がったと
いう説も聞いたことがある。
362 :
日本@名無史さん:2007/07/19(木) 21:38:17
>>357 秀吉が信長の政権構想を単純に引き継いだとは考えにくい。
特に朝廷の官位についての政策は大きく違う。
信長時代には、信長とその嫡子の信忠を除けば、信長麾下の武将は高くても
せいぜい五位程度。
しかし秀吉時代になると、異常なほど武家が大量に参議や三位以上に
昇進するようになる。
363 :
日本@名無史さん:2007/07/20(金) 02:54:08
てゆうか大量の武家を高位高官にガンガン上げるのって、歴史的には平氏政権と豊臣政権だけだよね。
364 :
日本@名無史さん:2007/07/20(金) 06:53:43
平氏政権は武家貴族が公家に昇進したという感じだけど豊臣政権の場合は
単に武家が高い官位を得ただけな希ガス。
365 :
日本@名無史さん:2007/07/20(金) 08:47:51
清盛は天皇の外祖父だからね。
秀吉は本人のみならず養子までガンガン高位高官に昇進させたね。
家康は公家と武家の官位を別枠にしたのでお利口さん。
366 :
日本@名無史さん:2007/07/20(金) 09:44:26
清盛政権と秀吉政権の土台の違いってのもあるだろう
特に秀吉の時代ってのは激動の時代で長い間の混乱を収めるという内圧の部分と
ポルトガルはじめスペインなどの海外勢が押しかけてきてそれに対応をしないといけないという外圧の部分が
重くのしかかってきており
早急に中央政府を作り上げなければいけなかったわけで
なりふり構わず自陣営に取り込んで戦乱を収めて外国勢に地方政権を取り込ませる隙を与えないように
しないといけないからな
367 :
日本@名無史さん:2007/07/20(金) 16:36:30
官位と言えば、信長の野望で淡路守 壱岐守 隠岐守 佐渡守 対馬守や弁官、中務卿、宮内卿、大蔵卿のどれかに任命されれば絶対リロードするよな?
壱岐とかの下国の国司は格が低そうな大名や陪臣が自称するような感じで絶対に嫌だ
中弁とか中務卿なんか公卿や宮様が就く官だろ!武家が就任するべき官職じゃねー!!ださすぎ
ちなみにー、官職でかっこいいのって○○少輔とか大輔(やっぱ石田、大谷の影響、中央省庁の幹部という感じでインテリ風ただ大蔵省系だけはダサい)
○○守系だと筆頭は山城守(都会的でイイ!直江兼続など)とか
甲斐守(語呂がいい)、美濃守(柳沢吉保や原虎胤など時代に関わらず猛将、謀臣関わらず名将の多くが就任)なんかがカコイイ
司系は武士っぽくて良いけど、隼人正(はやとのしょう)や主水正(もんどのしょう)、は大名以下の家臣が就任するような印象が強く、ちょっと嫌
寮の長官系だと図書頭や大学頭も武士っぽく無くて萎える。ただ雅楽頭、掃部頭はこの限りではないよね?やっぱり井伊家や酒井家の影響が大きいな
368 :
日本@名無史さん:2007/07/20(金) 16:52:58
夏だなあ
近頃暑いからねぇ
>>367 武家の官職なら四大夫か六衛府・弾正台あたりが似合う
371 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 02:07:16
>>364-365 豊臣政権って、朝廷の官位体系を滅茶苦茶にしてしまった感があるけど、
平氏政権の場合は、平氏自体が当時の公家社会の中に完全に溶け込んでしまって
いるから、それほど官位体系を混乱させたイメージはないかも。
まあ平氏政権の時代だと、公家社会のほうも後世ほど家格の固定化が進んで
いないから、もともと流動的な感じもあってスムーズに平氏勢力が入り込んで
いったという面もあるかな。
むしろ朝廷の官位体系を滅茶苦茶にして混乱を招いたという点では、豊臣政権は
後醍醐の建武政権のほうに似ているかも。
で、だからその次の政権では、前政権が混乱させた官位体系をどうするのかが
重要な課題になる。
建武3年(1336)に京都から南朝を追い出して政権を掌握した足利尊氏と、
慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いに勝利して政権を掌握した徳川家康が、
ともにその直後に五摂家による摂関を復活させていることは興味深い。
372 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 18:38:19
373 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 23:08:48
374 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 02:20:53
>>373 上総は親王が国司に任じられる国だから。
375 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 02:22:55
上総は律令制下では大国のはず。
また上総・常陸・上野が親王任国になってから後は、
この3国の介の相当位階は、他の大国の守と同等。
376 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 03:06:09
>>375 同等と言うより格上だよ
小栗忠順も豊後守から上野介に進んでる
自演乙
>>377 醜態さらすのが趣味ですか?
具体的に反論できないなら引っ込んでろよ。
379 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 22:26:19
>>376 別に上野介に進んでいるのではなく、よくあるたんなる官名の変更。
武家の官位は、当然空位空官である。大国の守を名乗ろうが、
下国の守を名乗ろうが、一部の大大名や高家を除けば皆従五位下であり、
官名は叙爵の時、希望の官名、国名を名乗るのだから、その中での昇進はありえない。
太政大臣の最年少昇進記録って誰?
贈官だと家継なんだろうけど、生前の記録では誰なんだろう?
>>370 武人だったら防衛省長官、でなく兵部卿がお似合いだと思うが、
なった人ほとんどいないな。
刑部卿の方は、平忠盛とか一橋慶喜とか新旧のトップもなってるんだがな。
>>381 兵部卿は文官だからな
大内義隆が就任してるけど
徳川御三卿の清水重好は宮内卿だったと思うが、
江戸にいていいのかいな?
蔵人所とか補完出来る機関はいくらでもある。
385 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 14:01:51
>>383 それを言い出したら・・・
酒井雅楽頭がピーヒャラやってたのか
井伊掃部頭が掃除してたか
伊東修理大夫が大工仕事をしていたか
征夷大将軍も近衛大将を兼ねるのが多いな。
マトモに職を務めるんなら、どないせっちゅーねん。
387 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 15:49:03
>>379 アホかいな
上野介の方が上位だと認識してるからこその変更だろうが
それを「進む」と表現してるのがわからんのかこの低能
388 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 17:17:50
位階は一緒=同格
389 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 17:39:12
>>387 アホはお前だろう。上位ゆえの変更と言う事は、小栗の功績による昇格か?
でなければ、皆始め目から大国の守や親王任国の介を名乗りたがるだろう。
>>379にもあるように、叙爵の時に、武蔵守や陸奥守や薩摩守など幾つかの
遠慮する官名以外は希望するものが名乗れるんだよ、本人の希望でな。
たかが、朝散大夫の旗本の国名名乗りの変更に「進む」も「上位」もあるか。
寛政譜で、大名や旗本の官名変更が、お前の言う通り、上位へのものばかりかどうか
調べてみろ。
390 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 18:21:53
おいおい、
>>378って君じゃないのか?
その意見は全く正しいぞ。
392 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 18:56:19
>>376 親王任国の介は、大国の守と同等なのだから、上・中・下国の守よりは格上になるのは当たり前。
まあ、どうでもいいけどもう少し仲良くやれ。
地震の被災地はそれどころじゃないぞ。
394 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 22:03:35
みんな落ち着け。
仲良くやろうぜよ。
>>390みたいな一行煽りは見苦しいな。
異論があるなら具体的に書けよ。
かけないから
>>390みたいな事しかできないんじゃないか
察してやれよ
>>379 >武家の官位は、当然空位空官である。大国の守を名乗ろうが、
じゃあ公家の官位は空位空官じゃないの?
中世以降の公家にとって、受領の守・介なんて武家と同じかそれ以上に空官っぽい気がするが。
398 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 23:34:29
親王任国の介は、かつての八介をイメージさせるので関東武士には人気だった。
以上
時期が正確にわからないけど、名乗りを変えた頃に阿部豊後守が老中になって
いるみたいだから、よくある「遠慮しての改名」じゃないのかな?
朝廷からもらう官位官職なんて、一種の「免許」みたいなモンじゃないの。
アリさえすればそれでOKみたいな(名前呼ぶとき便利・笑)。
井伊直弼は玄蕃頭(従五位上相当)から、ご存じ掃部頭(従五位下相当)になってるし、
大岡越前守(大国)の上司、筆頭老中の水野忠之は和泉守(下国)・・・
401 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 00:33:45
**壱岐守なんて、壱岐を知行して1万石行くかどうかという気がするが
当の殿様は全く意に介さない
まあ江戸時代の実質的な「官位」は石高。「官職」はもちろん幕職だからな。
朝廷のヤツは、いちおう朝臣でもありますよー、って意味もあるんかねえ。
そもそも親王任国になったのは、国名に「上」の字が入っていて字面が良いからじゃない?
だとしたら普通にその領国の介が人気の官となるのは分かる。
404 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 02:21:58
>>400 掃部頭は近世の井伊氏の当主が代々名乗っている官途(官職)だからね。
すでに中世の段階から官位相当制(官途と位階の相当関係)は崩れているから、
律令時代の官位相当表で比較してもあまり意味はないよな。
>>402 官途はともかく位階に関しては席次の決定なんかにおいて、かなり意味を持つと
思うが。
405 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 02:23:16
>>403 上総と上野はそうだとしても、常陸はどう説明する?
406 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 06:48:14
つーか受領名なんか朝廷から貰っていないって。
井伊なんかも勝手に名乗っている。
武家が朝廷から貰える官位は4位以上に限られて下から侍従、少将
、中将、参議、中納言、大納言、大臣のみ。
407 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 08:45:54
上野介って縁起悪いね。
408 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 14:32:25
>>406 中世前期だと、官途の自称はまずあり得ない。
中世後期だと、自称のケースもあるが、正式に朝廷の任官手続きを経ている場合もある。
近世だと、将軍直臣(大名・旗本)の官途は、公家の官途とは切り離された上で、正式任官が基本。但し陪臣は基本的に自称。
その中世後期(具体的に戦国)で将軍から官位貰ったけど名乗らないとかあったみたいだが、公認でもこんな漢字なのに自称で意味あったのか?
410 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 18:30:23
将軍が官位を与える?
官位を与えるのは天皇だろ
将軍が推薦してやることはあるが
そうそう、将軍を通してって事ね
412 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 19:16:36
>>389の書いてることは分かるんだけど大大名やら御三家あたりだと年齢を重ねるだけで昇叙していくのもいるけど
この昇叙する大名としない大名の線引きはあったんだろうか?
413 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 22:17:43
>>412 >>389です。昇叙する大名は、譜代大名なら、幕府の要路に就ける家柄の諸家。
筆頭の井伊家は初叙が従四位下侍従で、その後、正四位上中将まで昇れる。
老中、京都所司代は従四位下侍従、大阪城代は従四位下。
外様大名は、国持ちの大大名なら、前田家の従三位参議を筆頭に、
島津、伊達両家の従四位下中将。他の国持ち大名は少将、侍従止まり。
三家、三卿、前田家を除けば、中将まで昇れるのは、上記の三家と、
会津、高松の松平家のみである。
それ以外の殆どの大名は従五位下の諸大夫で昇叙は絶対にない。
しかし「寛保三年御定」を見れば、その昇叙について、事細かい規定がある。
例えば「松平加賀守家者五十歳以上参議六十歳以上従三位可被仰付候
松平大隅守・松平陸奥守此両家者少将より三十年五十歳に及び候はば中将可被仰付事」
とあって、これ以外にも24項目にわたり、諸大名の官位規定が細かく記されている。
その中で、大名達は要路に賄賂を送り、一年でも早く上級の官位を得ようと、
必死に働きかけている。特に同等クラスの大名同士の争いは激烈だったようだ。
領地の石高変更は難しいが、官位の上昇が可能な大大名にとって、虚位虚官であっても、
そのステイタスとしての官位への執着は公家に劣るものではなく、幕府の大名統制は、
ここでも見事に功を奏したと言うべきか。
414 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 23:22:44
>>413 >その中で、大名達は要路に賄賂を送り、一年でも早く上級の官位を得ようと・・・
それって外様だけ?それとも譜代や親藩も?
幕職に就けない外様大名が、代わりに空手形みたいなモンに執着するのは解るが。
416 :
日本@名無史さん:2007/07/25(水) 02:02:18
>>414 坂上田村麻呂の時代には実質将軍とは思えないがw
418 :
日本@名無史さん:2007/07/25(水) 10:26:21
>>415 勿論親藩、譜代も例外ではなく、18世紀中期の井伊家と会津松平家の競望など、
まさに激烈を極めている。松平定信の四品昇格運動も激しかった。
今、四品と言ったが、幕府から正式に任命される官職は、従四位、従五位下ではなく、
四品、諸大夫、布衣と任命される。
例えば、酒井小平次忠敬が、日光奉行に任じられたときは、
十二月朔日
日光奉行 改因幡守
酒井小平次
右諸大夫被仰付旨於芙蓉間左京大夫申渡老中列座
となっている。つまり、諸大夫になったため、それに相当する従五位下に叙任され、
通称の「小平次」を改め、官名の「因幡守」を称した。
これを「名改」と称し、正しくは官職ではなく、たんなる名乗りなのである。
したがって、そこには
>>376の言うように、官名が上位に進むなどと言うような事はない。
それと、誰から任命されるかという問題だが、これは
>>410の言うように、
実質どころか、全く将軍(幕府)で、朝廷の関与はない。
朝廷は、幕府の指示通りに叙任の手続きをするだけで、その時の口宣案で初めて、
従五位下、従四位と記される。
419 :
412:2007/07/25(水) 20:07:20
>>413 どうもありがとう。
細かいとこまでよく分かった。
やっぱり決め事がきちんとあるんだね。
家ごとに極官が決まってるというのも公家みたいな雰囲気だなあ。
420 :
日本@名無史さん:2007/07/25(水) 20:10:31
今はどんなに運がよくても摂政にしかなれないな。
関っていう姓のところに嫁ぐなり、婿入りなりして白って名前を子供につければ…
そういえば学生のとき式部って名字の女の子いたんだよな
彼女んちに婿入りして息子を産ませて「大輔」って名前付けたら(ry
423 :
日本@名無史さん:2007/07/26(木) 09:54:22
現代でもまあなんだ、憲法改正と貴族法とかを通して
参議院を貴族院に戻してだな
別にできないわけではないんだぞ
国民の同意如何によるだけだ
424 :
日本@名無史さん:2007/07/27(金) 13:51:20
>>422 自転車屋で大輔、美輪、・・・と車扁で統一してたやつがいる
425 :
日本@名無史さん:2007/07/27(金) 15:20:19
【前回選挙前】
, - ,----、
(U( ) サラリーマン大増税は行いません!
| |∨T∨ 郵政民営化だけで全て解決です!
(__)_) どうか自民党に投票お願いします。
↓
【選挙勝利2日後】
↓自民党
∧_∧ サラリーマン大増税するのなんて解ってただろw
( ´∀`) 勝っちまえばこっちのもんwww口約なんて破る為にあるんだよ!w
( /,⌒l ギリギリまで税金絞り取ってやるからしっかり払えよ底辺どもwwwww
| /`(_)∧_0.
(__)(´∀`; )⊃⌒⊃ ←国民
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【2007夏選挙前】
, - ,----、
(U( ) 消えた年金対策はしっかりやります!
| |∨T∨ 責任取らせます。給料下げます。
(__)_)
↓
【選挙勝利後】
↓自民党
∧_∧ WE法案を早速導入するのは解ってただろw
( ´∀`) 反対しても強行採決するから無駄無駄www
( /,⌒l ついでに消費税も10%に上げるからしっかり払えよ奴隷どもwwwww
| /`(_)∧_0. は?消えた年金・・・?なにそれ。領収書持ってこいボケwww
(__)(´∀`; )⊃⌒⊃ ←国民
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
426 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 00:14:48
>>423 貴族院の本場のイギリスでさえ貴族院改革をしているこのご時勢に
427 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 09:12:54
貴族がいるとなんかいいことあるの?
428 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 16:53:52
世襲の上院なら、泥臭い選挙運動やらなくてすむ。
選挙対策に余計な労力や時間を使わずにすみ、大所高所から政策が論議できる。
429 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 19:34:18
貴族院なんて作っても貴族は便所を借りにくるだけじゃないのw
430 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 21:07:27
作るとしたら日本にわずかしか存在しない「稀族」議員だな
対象はノーベル賞受賞者とか世界記録保持者、両性具有者、五つ児ほかw
431 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 21:57:06
>>423 何でわざわざ名前を変える必要あるの?
「参議」院だよ。名称は堂々たる公卿扱い。
ま、下層民には理解すべくもあらじw 貴族なんて平易な物言いしか理解できないようだな。
皇族の嫁入り先、嫁取り元としての貴族制復活はあっていい
資格は公家の摂家、清華、平堂上のうちの旧家と鎌倉室町の守護の流れを引く大名と一部の神職
それで貴族とその家族は全員宮内庁職員にしちゃえばいい
もうオワダマサコとかいらねえ
433 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 22:10:47
ついでに言っておこう。
貴族院を参議院と改称すると聞いて、米国側はその意味を質したそうだ。
それに対し、日本側は貴族=ノーブル、参議院=第3の院、とごまかしたそうだ。
確かに「参」には「3」の意味があるからね。
すなわち、貴族院>衆議院で第1院、第2院。その第一を廃止して、第2院、第3院で衆議院>参議院と言い訳した。
しかし、日本の政治制度をちゃんと理解していれば「参議」が何を意味するか分かるはずだ。
「参議」=「公卿・貴族」。従って、意味は実質変わっていないんだよ。
日本的教養のない人の為に、敢えて解説しておく。
>432
そんな無駄飯ぐらいを養ってやってどうするのやら。
>>433 教養のある人は知識無い人間見つけたところで嬉々として演説始めたりしない
436 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 23:08:09
>>435 演説か、まぁ貴族院の復活なんてトンデモをいう人間がいたから、ナメられないように書いたのだが、大上段から言ったように読めたかもしれない。
これには、二つの意味がある。
ひとつは、敗戦で占領下におかれた日本人の意地。これは天皇を始めとする国体護持に拘った日本人の基本的センスだ。
この良し悪しについては、俺自身は見解を持っているが、敢えて留保する。各自が考えればよいだろう。
ふたつめは、貴族院を参議院と呼び変えただけで何か変わったような錯覚を抱いてしまうこと。
米国人は、律令制や令外官などを知る由もないから無理もないが、我々日本人は自国の歴史を一応習うわけだから、簡単に引っかかってはいけない。
これは、「演説」ではないつもり。
437 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 23:14:32
ていうか、辛亥革命直後の中華民国の国会が既に衆議院と参議院なんですけど。
438 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 23:18:40
昨今の政治家を見てると、貴族院(華族議員除く)の方がよほどマシだがな。
勅選議員と多額納税議員と学士院会員議員で「元老院」にしとけばよかった。
439 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 23:26:46
>>437 それを念頭に置いたものかも知れないが、裏付けるデータはない。
或いはそれにすらかこつけたものかも知れないが、やはり論証するには裏づけとなる事実を求めなければならないだろうね。
上記のエピソードは、動機として中華民国に倣おう、というセンスではないという提示。
当時の国務大臣金森徳次郎氏は「古くから尊重された良い言葉の印」と認識をし、「知恵を出して…(中略)…議会の働きを達成しようというものにはこういう言葉」が良いとなったというのをwebでググッたらあったのだが、建前と本音という問題かも知れない。
ちなみに現在の中華民国(台湾)は一院制。また、1912年制定の「中華民国臨時約法」では「参議院」の一院制。
440 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 23:32:06
孫文が南京に臨時政府を作ったときは「臨時参議院」の一院制だったが、
北京で袁世凱が大総統になってからは衆議院と参議院の二院制だよ。
>>436 教養のある人は舐められるとかそんなちっちゃなことで、必死になって言い訳したりしない
442 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 23:49:41
>>440 休む暇もないが・・・(笑)
直後、とあったので、直後のものを言ったのだが、確かに袁世凱が政権を持ってからそうなっているね。
しかし、もともと参議院は、大統領となる袁世凱の独走を阻むために設けられたという経緯があり、それに更に対抗して衆議院が出来たという経緯がある。
そのことと、日本で貴族院を参議院と改称したことは、無関係だと考えてよいだろう。
日本で参議院とは、令外官の参議から来ているというのは、いろいろな史料から伺えるので史実と見てよい。
中華民国に「参議院」があったというのを参考にしたかも知れないという「類推」は可能だが、それを断言するには、繰り返すが裏づけが必要だと思う。
まあ、「参議院」という言葉ひとつ取っても話せばいろいろ出てくるから、意見交換は意義があるとは思うが。
443 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 23:55:23
>>441 言い訳のつもりはないよ。何故ならこの事で、私自身は何等かの立場を守らなければならないようなものはないから。
いろいろ意見が出てくるのは良いことだ。ただ、思いつきで適当な事をいう(参議院廃止、貴族院復活)よりは、いろいろな経緯を踏まえた意見を出した方が有意義な内容なのは明らかだろう。
その意味で、
>>433以降に出てきた内容のある意見は、賛否に関わらず興味深いと思っている。
ちょっともうネタ切れ(笑)かつ、仕事の合間だったので、また気のついたことがあったら書いておいてくれたらと思う。
また暇ができたら読ませてもらって、書かせて貰うかもしれない。また、私自身も調べてみるよ。
>>443 有意義な議論したいなら教養のあるだのわざわざ煽り入れる必要ないだろ
445 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 00:21:53
ま、人による罠w
446 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 00:56:30
よくわからんけど衆院は世襲禁止(親と同じ選挙区での立候補禁止)
参院はそれをOKにすれば、自然と参院=貴族院になりそうだな・・
447 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 08:35:29
日本は衆議院のほうが発言力が強く、
歴代首相も圧倒的に衆議院から任命されている。
小泉も安倍も世襲議員だが、
参議院から出たら、首相は無理だっただろう。
前総裁選に出た麻生なんてのも、吉田茂の孫だしな(女系だが)。
448 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 08:37:17
日本以外でも下院優越の原則があるし、首相は大抵下院第一党の党首がなるもんだ。
449 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 18:08:49
亀井久興はとりあえず貴族の血が流れている
450 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 19:10:33
だが、娘の顔はそこいらのオバサンと変わらない。
もう貴族でもなんでもないな。
451 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 19:21:33
麻生はひょっとこ顔だが皇室の姻族だ
小泉は最初の選挙で落ちてるから純粋な世襲ではないな
小泉父も鹿児島から出た議員で後に義父の地盤を継いだ
452 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 20:06:46
皇室の姻族イコール貴族ではない。
全くの庶民の川嶋さんも姻族だけど「貴族」かねw
麻生閣下の場合、女系のそのまた女系で牧野とか大久保とか加納につながってるけど、
麻生家自体は筑豊の炭鉱屋というガラの悪い商売の平民だよん。
参議院の名前の由来については知らんけど、参議院に貴族院的なものを残す意図は当時の日本人政治家のほとんどは持ってなかったはず。
そもそも華族制度を廃止したのはGHQでなく日本側だからね。
日本の自由主義的政治家は華族制度を嫌ってたから。
GHQ原案にも日本国憲法草案にも華族は特権は持たないけど称号を有するものとして、一代限り存続を認めることになってた。
草案を修正したのが有名な芦田修正、この修正で華族制度の廃止が決まった。
この憲法改正案は衆議院を通過して貴族院に回され、貴族院では主に華族議員から華族制度廃止に賛成する意見が出され
勅撰議員が華族制度存続に拘ったものの最終的にそのまま可決されて華族制度廃止が決まった。
結局戦後政治家のほとんどと、華族自らが華族制度廃止に賛同したんだから、参議院が華族の存在を前提とする貴族院的なものになる可能性は
全く無かったと推定できる。
説明乙。
全く、参議院が奈良時代の参議と関係あるかのように吹聴するやつがいるから
ややこしくなる。近代の大蔵省(職掌は奈良時代の民部省)と奈良時代の大蔵省が
名前が一緒だから云々などとほざく、どこやらの三流文化人と同じだ。
455 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 06:55:21
>>454 全くその通りだが、省庁再編のとき東大出の大蔵官僚達がその三流文化人と同じ主張をしていたわけで……。
現代ネタ、うぜえよ。
スレタイともつながってねえし。
457 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 12:59:18
わははははは
ネタレスからよくここまで引っ張ったな
459 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 14:37:53
ぐへへへへへ
460 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 14:45:15
で、貴族院は作れるのか?
バカが開き直るスレですか?
462 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 19:00:51
共和制移行の場合
第1案
平成天皇の存命中に限り、皇位を認める。
徳仁親王は皇位継承権を奉還し、皇籍離脱して浩家を創設するかわり、
平成天皇の死後、日本国終身名誉大統領の称号を受ける。
第2案
平成天皇は退位し、その存命中に限って「国父」の尊号を受ける。
徳仁親王は皇位継承権を奉還し、皇籍離脱して浩家を創設し一市民となる。
463 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 00:01:18
>>462 「平成天皇」って誰だよ?そんな天皇いないぞ?
浩家って何だよ。
ありえねー
そもそも皇位継承権の奉還って何よw
466 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 02:50:14
今上天皇陛下崩御
皇太子殿下が皇位継承権を放棄
隣国より金正男将軍様をお迎えして天皇に奉戴
467 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 09:59:34
阿呆が群れるスレですね
夏休みになったからな…
469 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 17:21:52
どこに奉還するんだろうか・・・
470 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 17:40:54
主権者国民に奉還
471 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 18:46:15
>>462の第1案の場合なら、「平成天皇の存命中に限り、皇位を認める」ので、
徳仁親王が皇位継承権を「奉還」する相手は、いうまでもなく父天皇。
第二案でも、父天皇が退位する直前に皇位継承権を「奉還」することは可能。
ネタすれらしくなりましたね。
でもここは天皇スレじゃないし(・ω・)
473 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 19:39:56
474 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 20:20:40
スレ違い承知の上で
今の皇室典範で欠けているのは退位制度
陛下が80になって皇太子が50になれば
ご退位あそばされてもと思うのは俺だけか
475 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 00:37:52
退位はあってもいいと思う
特に医療が発達して新天皇はどんどん高齢になっていくし
ある年齢で国務に妨げがある場合に譲位してもいい希ガス
摂政があるから、退位はなくてもいいと思うお
まああってもいいけど
477 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 09:04:20
昭和天皇は最晩年のあの状態になっても、摂政すら設置させてもらえなかった。
あれで摂政が置けないのなら、摂政制度なんて無意味。
479 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 10:21:34
でもアレだろ
天皇陛下が引退されるとなると上皇とか法皇制度になりかねなくないか?
480 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 11:45:36
上皇といっても、歴史上すべての上皇が院政やってたわけじゃない。
一般的な上皇のイメージは「治天の君」の白河、鳥羽、後白河、後鳥羽などだが、
何の実権もなく天皇家の家長ですらない、ただの前天皇としての上皇もいた。
481 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 12:50:01
482 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 13:12:49
もし上皇制度復活するなら、皇太后の男性バージョンと考えればいい。
483 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 14:03:36
>>481 そういえば現皇室制度で皇族が法親王になることは不可能なのか?
484 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 14:35:59
近代天皇制で天皇陛下が仏門へ出家とな
485 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 16:23:57
現代は信仰の自由があるから、一個人としての皇族が仏教に帰依しようが、
出家しようが全くの自由だ。
ただ、政教分離の関係で国の制度としての称号は、「親王」のままだな。
侵攻の自由が保障されるのは国民じゃないのか?
487 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 17:57:40
日本国の公的制度としての天皇・皇太子は非宗教的存在である。
天皇家の神道の祭祀は公的地位とは関係ない私的な信仰にすぎない。
だから、天皇や皇族が仏教徒になろうがクリスチャンになろうが、全く自由。
488 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 19:07:52
論拠かえてきてるしw
489 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 19:35:26
一緒だろ。
信教の自由→皇族が何を信仰しても自由
政教分離→「法親王」の呼称は不可、皇室祭祀もあくまで私的行為
490 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 19:45:08
なら同一人物か
とりあえず皇族に信仰の自由が認められてるって資料教えて
憲法には国民のそれしか書いて無いし、典範にもなかったけど
491 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 21:21:47
>>490 憲法第20条第1項
「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。・・・」
国民ではなく「何人」としているので当然、皇族もこの適用を受ける。
492 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 21:29:28
まあ。概ね487の言うことが正解だな。
祭祀が私的行為で憲法の政教分離の原則で国家が関われないから
こそ、皇室祭祀をしきる掌典職の職員は公務員ではなく、天皇個人が
雇用している使用人で給与も天皇が私的に支払っている。
>>491 国民と天皇を区分してる以上適用されない
刑法の埒外に皇族が存在するのと一緒
494 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 22:07:42
>>491 それが適用されるなら男が優先して、世襲で皇位を継承するのも憲法違反だが?
495 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 22:24:37
>>493>>494 憲法上、矛盾する規定があれば当然、第2章の規定は適用されない。
(例 皇位の世襲を定めた第2条×職業選択の自由を定めた
第22条など)
しかし、信教の自由に関しては憲法上、天皇皇族だけ特別に
定めた条項はなく、矛盾する規定もない。だから天皇皇族にも
第20条が適用されると言うのが通説。
496 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 22:31:25
ちなみに通説では天皇は第4条で「国政に関する権能はない」と
規定しているので、参政権はないが、皇族に関しては参政権付与が
可能となっている。(現在は住民基本台帳に記載がないので
選挙権が停止されている形になっている)
つまり皇族将軍の時代がやってくるということですね(`・ω・´)=3
498 :
495:2007/08/03(金) 22:48:59
訂正 第2章(戦争放棄)ではなく、第3章(国民の権利と義務)ね。
499 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 23:09:02
>>495 第二章は戦争放棄をたからかにうたった九条しかないけど、他にあるのか?
それとも通説では二章は他の部分をさすのかな?
今度は「何人もだから天皇も入る!」から「通説だ」に代わったなw
コロコロ言うこと変えて恥ずかしくないの?
それに三章は思いっきり「国民の」権利と書いてるんだけどな
宮内庁みてきたが、神道に属する儀式も「公務」と表現されてる
そして政府のえらいさんの発言に「公式行為が国政を妨げない限りは、制限されない」とある
なれば宮内庁の公式行為である神道の儀式に支障がでるから信教の自由は制限されると
残念だったな
500 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 23:11:55
>>499 公務なら官報に公示されないとおかしいよね?
501 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 23:21:31
>>499 天皇も第3章の国民の権利及び義務の規定によって納税
しているのですが?(昭和天皇崩御による相続税を納税している)
502 :
495:2007/08/03(金) 23:28:12
>>499 だから
>>498で訂正しているだろ?
>>今度は「何人もだから天皇も入る!」から
「通説だ」に代わったな
意味不明。
503 :
495:2007/08/03(金) 23:35:22
>>499 だったら、聞くがある皇族が洗礼を受けてキリスト教に入信
すると天皇や政府を強制的にやめさせる権利や根拠があるのか?
できるのならその根拠となる憲法上の規定、法律、判例を
聞かせてもらいたい。
504 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 23:55:46
実際問題、皇族の出家てありうるのか?
信仰だけならありうるが、受戒して仏弟子になるとこまで認められる?
>だったら、聞くが
だったら聞くが、
が正しい点の打ち方。
法律も判例もないが、世間、社会、周囲が許さない。
それが日本という国。まあ、本人がこれらに抗してどこまでがんばれるかだ。
ずっと法律の話をしてるのかと思ってた
507 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 07:16:17
>>500 宮内庁に聞け
>>501 それで?
どこにも天皇を国民とするなんて書いて無いし、憲法自体天皇を国民として扱ってないのだから仕方ない
訳者か草案者に文句言えよ
>>503 国政に支障がでると判断すれば当然するだろうな
憲法は三条よく読んだら?
根拠も何も内閣が国政に支障が出ない限りは制限されるものじゃないと判断してるんだからな
というかな、一回でレスしろや邪魔クセえ
このスレもIDが表示されれば面白いのにな。
超絶バカが紛れ込んでる。
自己紹介乙。
510 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 14:36:12
共和制移行の場合
第1案
平成天皇の存命中に限り、皇位を認める。
徳仁親王は皇位継承権を奉還し、皇籍離脱して浩家を創設するかわり、
平成天皇の死後、日本国終身名誉大統領の称号を受ける。
第2案
平成天皇は退位し、その存命中に限って「国父」の尊号を受ける。
徳仁親王は皇位継承権を奉還し、皇籍離脱して浩家を創設し一市民となる。
511 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 20:37:34
その前に「伝・天皇陵」の発掘しないと・
512 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 10:22:23
おれなるなら関白がいいな
で、さだまさしの関白宣言歌うんだ
513 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 19:10:17
もし現代に関白制度があったら、関白はタキシードで片手にワイングラスでも持ってるのか?
船ももってないと
船舶をね
515 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 21:56:32
無人島買ってスッチーと結婚しないと
>512
「関白失脚」じゃないのか?
517 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 07:44:44
現代の関白がいたら
・タキシード姿で片手にワイングラス
・豪華ヨットを所有
・島を丸々所有
・スッチーと結婚
518 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 09:24:11
スッチーに膣内射精
夏だからクソレスで上げるのか?
520 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 05:41:49
スッチーに悉く中出し
521 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 10:38:59
夜の帝王
522 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 18:30:41
いちいち結婚するかよ
スッチーを次々に犯して射精するだけだな。
523 :
アセトアルデヒド ◆Kd5aTkfUC. :2007/08/16(木) 18:32:40
関白って正直貧乏だろ
524 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 19:32:53
まあ、現代に関白がいたら、スッチーに限らず、女優、モデル、女子アナから
高級クラブのホステスまで、よりどりみどりだろ。
525 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 21:07:19
関白と総理どっちが上?
具体的には行政の長と天皇代理対決か?
明治の宮内大臣に近い存在なのかな?
526 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 21:31:51
現代に関白がいたら、まあ、摂関家が日本有数の大金持ちとして国政のトップを
独占しているという状態だな。
総理は太政大臣や左大臣に相当するから、関白の兼務かその手足にすぎない。
なんだか、ブルネイのスルタンみたいだなw>現代の関白
527 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 09:58:04
宮内大臣(いまなら長官)は蔵人頭ぐらいじゃないの?
528 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 10:00:17
宮内大臣は普通に宮内卿だろ。
529 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 10:46:43
関白のポジションは
君主である天皇の下、行政府の長である太政大臣・左右大臣の上だから、
たとえてみればフランコ総統やホルティ摂政みたいなもんだろう。
530 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 10:54:14
宮内卿って実質の職掌はあったのか?(古代は別として)
531 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 11:19:27
西尾由佳理アナに射精したい
こなたは俺の嫁
源実朝様は何故若くしてあれだけの出世ができたのですか?
おう
535 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 09:27:50
そんな摂政な
>>526 ブルネイのスルタンちゅーのは国王兼首相兼議長だぞ。議員選出権もある。
むしろ摂政に近い。
537 :
日本@名無史さん:2007/08/25(土) 21:29:34
>>536 政治権力というより、ブルネイ国王はブルネイ国の社長だろう。
国民は社員。国家=企業、国家元首=企業主。
カネ持ってるもんな。
なんだか、そんな感じの方が効率良さげな感じがするな。
しかし、地下資源で食ってるだけだもんな・・・
効率の良さでは最高といえる政治制度ではある。
問題は、立ち行かなくなったとき。
540 :
日本@名無史さん:2007/08/27(月) 17:13:59
>>533 後鳥羽上皇にかわいがられたから。
京に憧れる源実朝は、後鳥羽上皇に手玉に取られていたからな。
実朝の正室は、都から迎えた内大臣坊門信清女だったけれども、、
後鳥羽上皇と実朝室は従兄妹の関係にあり、さらに実朝室の実姉は、
のちに後鳥羽の配流に同行するほど後鳥羽から愛された愛妾だった。
実朝は、後鳥羽上皇から、妻同士が姉妹なのだから、
お前は私の弟のようなものだ、といわれて舞い上がったりしている。
>>540 実朝は優れた歌詠みだけど、後鳥羽院は更に上を行く。
いわば一流選手が更にレベルが上の超一流選手に憧れるのと似たような感覚で実朝は後鳥羽院を慕っていたんじゃないかな。
そんな憧れの人から「弟だ」なんて言われれば、
そりゃ舞い上がるのも無理はない。
まぁ草深い坂東での血みどろな政治抗争にウンザリしていたというのもあったかもしれんが。
そうそう。
実は歌の力量は
定家<<<後鳥羽院 だったりする。この人は侮れないね。
543 :
日本@名無史さん:2007/08/28(火) 00:30:43
天皇がいるのに、何で上皇とか、将軍とか、関白とかに権力が集まるのですか?
>>543 上皇:もと天皇&実質天皇の後見人
関白:一応天皇の後見人
将軍:軍事&絶大な委任統治権を掌握
545 :
日本@名無史さん:2007/08/28(火) 01:53:21
形式や故実にとらわれない柔軟な政治ができるのもいいんじゃないか?
546 :
日本@名無史さん:2007/08/28(火) 02:10:17
治天・摂関は天皇の代理行為が出来ることが大きいんじゃないの?
547 :
日本@名無史さん:2007/08/28(火) 06:24:21
>>543 上皇=天皇家の家長
関白=あらゆる文書を天皇より先に見る内覧の権利
将軍=武力で年貢徴収の権利を奪い取った
このうち、将軍以外の上皇、関白については、
政治権力を思うがままに操るには、天皇との血縁関係が重要だった。
上皇が院政を執るには、天皇の父や祖父といった直系尊属である場合に限られ、
天皇と血縁があっても、兄やおじでは影響力をもてなかった。
関白なども、天皇の外祖父やおじといった血縁関係がなければ、
天皇に対して意見をのべても入れられず、執権者とまではいかなかった。
548 :
日本@名無史さん:2007/08/28(火) 10:42:35
院政期以降の摂関は天皇との血縁関係が薄いことも多いわけだが。
549 :
日本@名無史さん:2007/08/28(火) 16:30:53
>>548 おかげで院政期以降の摂関はあんまり権力がないね
550 :
日本@名無史さん:2007/08/28(火) 18:28:37
退位した皇帝や国王が現皇帝・国王に代わって実権を握る
ことは多々あるが、日本のように上皇が治天の君として
公に政務をとり慣例化しているのは他の君主国に比べても異質だな。
本来、天皇が皇室の家長でなければならないのに、上皇が家長と
言うのも異質。生前退位も諸外国に比べて多いし、戦国時代の
期間を除き、平均在位期間も短すぎる。
>>547 上皇に関しては養子縁組という裏技もあった。
後伏見院が弟の花園天皇を養子として治天の君となっている。
552 :
日本@名無史さん:2007/08/28(火) 21:04:14
後小松上皇も後花園天皇を養子という形にして治天のようになるけど、
後小松の死後は、後花園側によって、この養子縁組は事実上なかったことにされた。
>551
崇徳も、譲位のときに騙されて、「皇太子」でなく「皇太弟」に譲位させられた
のを恨んでいたとかいう話がなかったかな?
554 :
日本@名無史さん:2007/08/29(水) 12:48:46
>>552 後花園は酷い。
当初は後小松院とその正妃である光範門院(日野西資子)の養子として
即位したはずなのに、養父母が死ぬと自分の実の両親である
伏見宮貞成親王(後崇光院)と庭田幸子(敷政門院)に、
それぞれ太上天皇号と女院号を贈って、後小松夫妻との養子関係を清算している。
>554
まあ、それまでの後光厳流の仕打ちからすれば、致し方なかろうと思うけど。
実際、後小松院自身もそれを予想していて、遺言で抵抗したんだし。
>>554 余りにも酷いから尊号一件の際、松平定信が後崇光院の例を先例として認めなかったはず。
>556
あれは「結論ありき」でしょ?ひどかろうがひどくなかろうが、認めなかったはずですよ。
後高倉院と並べて「先例と認めない」としているんだから。
558 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 22:18:44
でも尊号一件の際は、後高倉の先例も認めていなかったと思うよ。
後高倉も十分酷い先例だが
560 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 23:10:50
561 :
日本@名無史さん:2007/09/01(土) 19:38:51
>>559 三上皇を流刑(土御門は微妙だが)した後で、天皇の実父とはいえ皇位についた事の人物に太上天皇の称号を送って院政をさせた。
「朝廷尊重」を掲げる松平定信としては絶対採用できない事例。
もっとも、定信上洛の際に吉野の後醍醐天皇陵に参拝して、北朝方の末裔が占める朝廷の公家達を激怒させたわけだが。
その末裔の末裔達が南朝正統にしちゃったのはなんじゃらほい?
> その末裔の末裔達が南朝正統にしちゃった
山県有朋は公家の末裔じゃないんだけど
*「大日本史」
*「日本外史」
*「平田国学」
がいずれも定信時代には少数派だった南朝支持。
これらの本の影響が尊皇攘夷→倒幕につながっていったために、いきおい尊皇を強調すると南朝が前面に出ざるを得なくなった。
実際に幕府倒して新政府を作ったのは天皇でも公家でもなくて尊皇攘夷派の武士階層だし。
565 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 20:07:20
殺生関白九条政基
566 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 20:43:30
567 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 20:48:07
>>561 松平定信が光格天皇実父に太政天皇号を認めなかったのは、
当時の将軍徳川家斉の実父水戸藩主徳川治済に
大御所の称号を贈っていないこととの絡みと読んだのだが。
天皇の実父に太政天皇号を贈るなら、将軍実父にも大御所の地位を、
ってことで水戸藩主に幕政にしゃしゃり出てこられちゃかなわない。
ということで、はじめから駄目だったんじゃ?
568 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 22:03:03
>>567 「太政天皇」じゃなく、「太上天皇」ね。
まあ、定信が認めなかったのは治済が大御所として
江戸城西の丸に入って幕政に口を出すの阻止するためと
言うのが通説だろう。
治済は田沼を組んで、御三卿出だった定信を白河松平に養子に
出して完全に将軍職継承権を消滅させた張本人だから個人的恨みも
大きいだろうしな。
>567
まあ、そういう話はよく言われているし、そうだろうとは思うけど、一つ。
「大御所」でもめたのは水戸じゃなくて一橋ですよ。
570 :
日本@名無史さん:2007/09/07(金) 00:21:58
まあ、物事表向きと裏側の真実は違うのはよくあること
571 :
日本@名無史さん:2007/09/07(金) 00:24:57
>>567 徳川治済っていつから水戸藩主になったんだ?
572 :
日本@名無史さん:2007/09/07(金) 20:49:29
573 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 02:12:18
本々源氏出身の将軍徳川家より源氏直系を後継者に残す為に江戸の江に口=公を意味する姓江口を与える
574 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 06:52:31
てか水戸には将軍家継承権はないだろうに。
>574
三家が将軍継承にからんだのは、実質八代争いのときだけだが、その時には
水戸綱條も名前が挙がっているという伝承があるんだから、「水戸には将軍家
継承権がない」とは言えないでしょう。
こんなのは明文化されている話じゃなく、結局は都合の良い前例と屁理屈だ
けの話なんだから。
576 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 21:13:51
確か水戸が財政問題で真っ先に撥ねられたために、その言い訳に「水戸には将軍継承権が無い」と自作自演したとか。
577 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 00:55:24
よく知らんですまんが
慶喜は将軍位を狙うためにわざわざ一橋に養子に出され、
それが見事に成功して将軍になった、っていうのは事実なんでしょ?
綱條の頃はいざ知らず、少くとも後代には
水戸は将軍家継承権がないってのは広く認められてたと思われる。
578 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 01:59:11
だって元々江戸初期には「御三家」とは将軍家・尾張家・紀州家を指し、
水戸はそれより格下という扱いだったし、石高も低い。
尾張家初代義直と紀州家初代頼宣は公卿への任官は同時だったが、
水戸家初代頼房は遅れている。
またそれ以後の官位の点でも水戸家は尾張・紀州両家より下がる。
実際問題として水戸家初代頼房が紀州家初代頼宣と生母が同じであることから
水戸家を紀州家の分家扱いとして見る向きもあったようだし、水戸家の通字が
紀州家と同じ「頼」であるのも、水戸家は紀州家の分家扱いだったから独自の
通字を設定しなかったとも考えられる。
>577
「水戸に継承権があるかどうか」じゃなくて、三家より三卿が優先ということでしょう。
継承権云々の話であれば、尾張が端から問題外の扱いになるはずがないし、紀伊
慶福は、三家である紀伊家の当主というより、家斉の孫という立場で候補となっ
た訳ですから。
将軍を狙うのであれば、三家よりは、家斉の実家である一橋の方が格段に有利
だから、そっちの口があれば当然養子に出すということだと思いますが。
>578
江戸初期には、そもそも「御三家」という概念そのものがないですね。「将軍家、
尾張、紀伊」というのは、元々は尾張辺りが負け惜しみで言い出した話でしょう。
水戸頼房がそういう事を口にしたという話もあるそうですが、当然、将軍家は、
主人である将軍(家光)と家臣である尾紀両家を並べる非礼は許さないでしょう。
三家への「様」付を禁止する位、三家抑圧をしている位ですし。
で、「御三家」確立の時期とされる綱吉時代には、当然ながら将軍とは並べる
こと自体が論外となっていますね。
>>575 > こんなのは明文化されている話じゃなく、結局は都合の良い前例と屁理屈だ
> けの話なんだから。
なら、これをどう解釈すればいい?
↓
「水戸宰相頼房を副将軍と免許賜うべく候 その謂れは将軍国政上邪なるときは将軍老中諸役人評定せられ水戸より指図を以て尾州紀州両家を見立て相続を奉文すべく、万一両家にその任に応ぜざるときは何れの諸侯の内天下を治鎮いたすべき品量を奉聞候は水戸家に限るべし」
581 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 10:58:55
なぜ平井理央の脚を見ると、オマンコを舐めたくなるのだろうか?
>580
その条文の出所は?そっちの方がいかがわしく見えるんですけども。
>>582 > その条文の出所は?
公家諸法度ですよ。
>そっちの方がいかがわしく見えるんですけども。
一言多いってのは、このことじゃないでしょうか?
正確には公家諸法度の1ヶ月後に出された、公武法制応勅十八箇条の方だ。
でもこの出典は明治になってから編纂された「徳川禁令考」。
水戸藩士とかが作ったデタラメだろうと言うことだ。 参考・YAH00知恵袋(笑)。
>583
いや、公家諸法度絡み云々という話をどこかでみたんで。公家諸法度自体には、こんな条文
はないし。
家康の頃の話であれば、「尾州紀州両家を見立て相続を奉文すべく」なんていう文言は絶対
に有り得ないから、「いかがわしい」と書いたんですが。
>584
なるほど、ありがとうございました。まあ、そうでしょうね。あの条文だと、頼宣の立場がなくなり
ますし。
言うまでもないけれど、家康が頼宣に与えたのは駿府城ですから、家康が「尾州紀州両家」と
言ったとすると、義直はさておくとして、頼宣を差し置いて浅野家からの相続を命じたという荒唐
無稽な話になってしまいますね。
捏造するならするで、もう少し上手くできないもんだろうかと思いますね。
確かに見事にボロが出てるね
588 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 04:01:47
捏造する人間は大抵自己の関心事以外には無関心だから思わぬところでぼろが出る。
589 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 09:56:08
で、おれが征夷大将軍になるにはどうすればいいんだ?
590 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 10:29:10
いきなり朝敵を征伐しても今の日本の
法制度では勲章を貰うのが関の山。
まずは征夷大将軍の制度の復活が必要。
そのためには自分の言うことを聞く人間で
国会の多数派を占める必要がある。
592 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 11:02:51
まずは帝を奉じて挙兵。暴力的に天皇中心の政権を樹立しろ
593 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 11:19:01
そして2.26の将校達のように
みじめな最後を遂げるのだ
594 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 19:41:46
今だったら征夷大将軍よりも大統領とかもっと効率的に権力が持てる職種もあるのだが。
征夷大将軍など敵に玉を奪われたら終わりだと言うことは薩長と一橋が証明済み。
今時の軍事政権のトップって、将軍より権力を持っているのかしら。
596 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 20:26:47
>敵に玉を奪われたら終わり
そうでもない
⊃足利義詮
597 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 21:28:51
摂政ならうまくやればなれるんじゃないかな。
あいこさまの婿になることから始めてみよう。
GO!
「海の無い国の提督」を見習うというのはどうだろうか。
599 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 22:25:48
>>584-586 確かに公家諸法度の一月後なら、頼宣はまだ駿府にいる時期だな。
あと俺は
>>582ではないが、俺も
>>580を最初に見たときの素直な感想は、
江戸初期の文書だとすると文言とかの面で何か微妙な違和感があるって
感じだった。
600 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 22:31:01
>>596 南朝に拉致られた天皇の代わりに新帝を擁立ってやつか。
まあこれで「北朝は終わりだ」と睨んでいた南朝にとっては悔しい結末だったで
あろうが、しかしこのときの後光厳擁立の案は尊氏と二条良基がいたからこそ
出てきたことで、義詮だけならどうすることもできずに
オロオロするだけだったって可能性もある。
601 :
日本@名無史さん:2007/09/12(水) 00:09:44
ははははは。
白い鴉。白い鴉。
ははは。
白い鴉。ははははは。ははは。
はははははは。
>599
後、頼房が宰相になったのは元和六年らしいんで、そちらの方でもつじつまが
あいませんね。秀忠のときであれば、時期としては一応つじつまあわせは可能
なんでしょうけど。
603 :
日本@名無史さん:2007/09/12(水) 01:49:11
604 :
日本@名無史さん:2007/09/12(水) 02:21:12
>>602 元和6年っていうと、義直・頼宣の参議任官がちょうどそのくらいじゃなかったっけ?
605 :
日本@名無史さん:2007/09/12(水) 02:22:29
頼房は確か『公卿補任』に武家の記載がある元和7年までに出てこなかったと
思うから、参議任官はもっとあとだね。
>603
です。
海の無い国の提督にして、王のいない
王国の摂政、でしたっけ?
607 :
日本@名無史さん:2007/09/13(木) 00:07:17
俺は太政大臣になりたいな〜。
将軍は殺されそうなんでヤダ。
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誠意大将軍に決まってるだろう
>>607 そういえば殺された太政大臣っていたっけか。
大友皇子(弘文天皇)は除いて。
610 :
日本@名無史さん:2007/09/13(木) 15:48:38
足利義満とか?
611 :
日本@名無史さん:2007/09/13(木) 20:23:21
藤原仲麻呂
612 :
日本@名無史さん:2007/09/13(木) 20:30:17
そういや太政大臣三条実美は
ダジョウダイジン・サンジョウサネトミだと思ってたけど
『幕末明治初期新聞集成』読んでたら Japan Weekly Mail に
SANJO SANEYOSHI, DAIJO DAIJIN と書いてあった
613 :
日本@名無史さん:2007/09/13(木) 21:35:34
昔の人って案外自分の名の読みにルーズだったりする。
まあ今と違って名前自体、簡単に変えてたわけだからな。
近衛文麿も本当は、あやまろだが本人がふみまろって読んでいるし。
614 :
日本@名無史さん:2007/09/13(木) 21:57:03
615 :
日本@名無史さん:2007/09/13(木) 23:54:39
太政大臣は本来ダイジョウダイジン
藤原教通の子・信長は承暦4年(1080年)に太政大臣になるが、席次が
関白・左大臣の師実よりも下だったことから「もう出仕はしない」と
怒り狂い、参内のための牛車を燃やしたそうだ(『古事談』)。
太政大臣はこれ以降、実権の無い名誉職のイメージが強くなる。平氏の
縁戚・花山院忠雅、後白河近臣・藤原師長などが典型。今で言えば、
衆議院議長・河野洋平、参議院議長・江田五月のようなものかな?
617 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 00:20:54
>>616 実権を持たない相国の出現は信長が最初じやないよ。摂関が1だと言う事に異は唱えないが、
やはり職であるため官としての裏づけが欲しかったんだろね、
忠平から頼忠までの五人の歴代摂関達は皆摂関任職後に相国になっている。
その間、摂関以外の相国の任官者がいないため、摂関=相国と言う既成事実が出来ている。
しかし、右大臣兼家が一条天皇の摂政になった時、なんと前関白頼忠が相国に留まってしまった。
困った兼家だが、ここで彼はウルトラCに出た。なんと兼家は右大臣を辞し無官の摂政となったが、
「一座の宣旨」を得て、三公の上に列すると言う独自の地位を獲得してしまった。
だが、その兼家も頼忠の没後相国となり、摂政を辞任するまでその地位を去る事はなかった。
ところがその後、摂関の可能性が無いと思われていた右大臣為光が相国になるに及んで、
摂関と相国の分離は決定的となり、相国は摂関クラスの家柄の長老の大臣の名誉職に変質して行った。
その後、公季、信長など摂関に関係のない大臣達の相国任官がみられ、やがて武家の相国出現に繋がって行く。
と言う訳で、信長よりざっと90年前の為光がその萌芽だろうね。
618 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 00:34:28
武家平相国のまえに、源氏相国の出現があるな
藤氏の独占がここでくずれたわけだな
619 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 06:40:21
摂関への一座宣旨っていつごろからあるの?
太政大臣なんて、初っぱなから職掌の無い名誉職みたいなモンじゃん。
右大臣良房は左大臣になりたかったのに、飛ばして太政大臣にさせられたので、
仕事の無い太政大臣に、仕事を与える方法が摂関の兼任と聞くが。
(律令そのものを改正すりゃ簡単なのにそうしない・・・)
後に摂関と太政大臣は分離するようになるけどね。
まあ職掌がないってことは無限大の職権を有することと同義でもある。
実力が伴ってれば政権を主宰することもできる。
一方信長は黒人を風呂に入れた。
623 :
日本@名無史さん:2007/09/19(水) 01:47:33
624 :
日本@名無史さん:2007/09/19(水) 10:21:51
太政大臣になると、諡号が貰えるんだっけ?
625 :
日本@名無史さん:2007/09/19(水) 20:49:31
出家すると貰えない
626 :
日本@名無史さん:2007/09/20(木) 15:13:20
>620
藤原道長以降、天皇に加冠する摂関は、
一時的に太政大臣を兼任するようになったがね。
天皇の元服が終わると、摂関はすぐに太政大臣を辞任する。
先例による、ってだけだね。
光源氏も太政大臣になった後は、ほとんど内裏に行かず、
六条院で紫の上や玉鬘たちと、イチャイチャばっかしてる。
政務の中心になってたのは、内大臣の頭中将(たぶん内覧の宣司もらった)。
628 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 17:32:54
紫式部の妄想を根拠に持論を展開すんなよ。。。
629 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 19:06:34
でも何となく蔵人頭あたりが実務を取り仕切ってそうな雰囲気はあるな。
しかし頭中将で内大臣ってよく分からんが実例はあるのかな?
頭中将は参議の前という思い込みがあるんだが。
630 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 19:15:58
>629
頭中将と内大臣の兼任はないよ。
源氏物語の中ですら、兼任などしてないんだが?
頭中将は若い頃の役職名、出世して内大臣。
627さんも、兼任という意味では書いてないと思うのだが・・・
葵の上の兄は、原作では源氏同様、どんどん役職が代わるのだが、
一般的な源氏物語の人物評などでは、若い頃の役職である
頭中将で呼ばれることが多いからね。
631 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 19:17:35
>629
ちなみに、頭中将は、
「蔵人頭」と「近衛中将」を兼任する役職ね。
632 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 19:25:45
>>630-631 なるほどありがとう。
源氏物語って高校の教科書レベルの知識しかなかったんで頭中将が個人を指すもんだとは思わなかった。
一般名詞として
>>631のことだと思ってたんで内大臣と頭中将を兼ねるなんて変だなあと思ってたんだw
通常蔵人頭は公卿になると辞めるの不文律。
蔵人頭の直後に参議になる例は多いし、三位に上がることも多い。
もっとも蔵人頭就任後数十年の余命があって官僚生活を続けたのに公卿になれなかった人も一人や二人ではない。
上記のように公卿になると蔵人頭は辞めるのだが中将の方は必ずしも辞めなくて良い。
これが三位中将・宰相中将(参議兼中将)と呼ばれるものでかなりの名誉。
摂関家嫡流などだと中納言兼中将もあるが、さすがに大納言で兼務した例は無いと思う。
超例外、藤原兼家(道長の父)は、従三位昇進後も頭中将のままだった。
さらに中納言昇進後もしばらくは頭中将のままで、これは異例中の異例。
634 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 20:48:15
いやしかし「内大臣の頭中将」って面白いわw
そんなバカな言い方があるかって思うけど、
あの小説の場合確かに個人名が出ていないので
あの人物を名指す場合、頭中将としか言い様がない。
個人のアイデンティティーを示す記号が存在しない。
ロラン・バルトあたりの現代思想家が何か言ってないのかな、その辺は。
頭中将からではないけど、正二位中将から一気に内大臣、更に関白に昇進したのが藤原(近衛)基通。
そう言えば確か黒坂伸夫氏の「平安王朝の宮廷社会」吉川弘文館発行に、
源氏物語と官職について話が載っていたと思う。
>>634 たしかに明治以前の日本の文化のなかに、
生前の個人のアイデンティティを示す記号は存在しないな。
相手を官職名で呼び合い、字名に相当する呼び名もないし
637 :
日本@名無史さん:2007/09/22(土) 01:12:18
そうだね源氏物語だけに限らない。
江戸時代にも大名とか身分の高い人は
官位のみで呼んでいたわけだな。
苗字もみんな松平だったりするしね。
638 :
日本@名無史さん:2007/09/22(土) 01:21:13
源氏物語と比較される大長編小説、
マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」でも
主人公の名前を最後まで明かさない、って話がある。
名を明かさない禁忌っていうと
レヴィストロースだのの文化人類学にも
主題の一つにもなっていたりする。
色々考えはじめるときりがないね。面白そうではあるが。
日本に限らず中国にも本名を明かさないっていう禁忌はあるな。
日本とか形は違うけど。
639 :
日本@名無史さん:2007/09/22(土) 03:02:32
本名を明かすと祟りがあると思われてたのかな
そのために字(あざな)というものがあるわけだ
641 :
日本@名無史さん:2007/09/22(土) 18:24:35
呪詛のない文化でも、
名前の禁忌はあることもある。
従って、「呪詛で使われるから」は十全な説明にはならない。
すると江戸時代の人物が神君家康公とか言ったら間違い?
643 :
日本@名無史さん:2007/09/22(土) 21:15:23
忌み名って事?
本名は
644 :
日本@名無史さん:2007/09/22(土) 21:29:34
室町幕府のボロボロ傀儡将軍からでも偏諱を受けた五摂家当主たちも
情けないな。
645 :
日本@名無史さん:2007/09/22(土) 23:17:29
>>633 宰相中将はその通りだが、近世では、三位中将はちょっと違うのではないかな。
三位になって頭を去り、兼帯していた中将は元の如しの三位中将ではなく、
清華家や摂家の子弟は、若年で三位まで昇進してしまう。
そして、その後参議を経ずして中納言に直任されるため、
その間帯びている官職が中将である事から三位中将と称されたはずである。
ざっと公卿補任を見てみたが、家格と官位制度が最終的に固定された近世においては、
頭になる羽林家の当主は、頭辞任後、四位のまま参議になり、三位昇進とともに中将を去る。
また、頭になれない羽林家の当主は、四位の間は参議にはなれず、位が先行して先に三位になるが、
その時、中将は辞任する。つまり、三位中将は、清華家と摂家の公達の名誉と言う訳。
646 :
日本@名無史さん:2007/09/22(土) 23:21:04
>>631 「頭中将」という名称の役職があるわけではない。
左近衛中将(左中将)または右近衛中将(右中将)の職にある者が、
蔵人頭の職を兼任すると、「頭中将」と呼ばれる。
また同様のケースで、左中弁または右中弁の職にある者が、
蔵人頭の職を兼任すると、「頭弁」と呼ばれる。
蔵人頭は定員2名で、原則的として1名を近衛府の中将クラスから、もう1名を
弁官局の中弁クラスから選んで、いずれも兼任させるから、平安期以降の
朝廷には、基本的に「頭中将」と「頭弁」が必ず1人ずついる状態になる。
イメージとしては、定員2名の天皇の筆頭秘書官を武官と文官から1人ずつ
選出しているような感じだろう。
>>634 確かにあの人物については頭中将としかいいようがないが、『源氏物語』の中で
あの人物が頭中将であった時期はほんの数年程度。
あと蔵人頭は、ある程度以上の家格の公家の子弟が公卿に昇進する前くらいの
若年の頃に就任するのが通例だから、大臣クラスの官職との兼任は常識的にも
あり得ないよね。
647 :
日本@名無史さん:2007/09/22(土) 23:31:20
実務能力は頭弁のほうが高いのが普通
源氏物語の頭の中将は、光源氏のライバルであり、右大臣家の跡取りだよ。
>>646 弁や次将は官(職事官)。蔵人は職(宣旨職)。兼任とは言わない。
弁(次将)にして蔵人を帯びている者(帯蔵人)と言う。
兼任は参議大弁とか、侍従中納言のように、双方が官の場合。
蔵人や検非違使・摂関などは、兼任ではない。
蔵人が公卿の前段階であることはその通りだが、若年とは限らない。
650 :
日本@名無史さん:2007/09/23(日) 01:31:51
令外 官 じゃないのか
651 :
日本@名無史さん:2007/09/23(日) 09:56:13
>>649 いままで「兼任」と「兼帯」に意味の違いがあるとは知りませんでした。
任は口宣案によるものを言うのですか?
652 :
日本@名無史さん:2007/09/23(日) 10:49:47
>>649 宣旨職ってなに?宣旨って簡単に言えば命令書の事でしょう。出典があれば、教えて下さい。
職事も、事を主掌する意味で、職掌のある官を職事官といったらしいが、
普通、五位以上(六位という説もある)の蔵人を言いますよね。
兼任も兼官は官の字が示すように、二つ以上の官を兼ねていることを指しますが、
「官職要解」では「兼任とも兼帯ともいい、兼官ともいう」と出ている所を見ると、
区別なく使っていたと見て差し支えはないかと思います。
「幕末の宮廷」でも、下橋翁は蔵人頭のところで「一人は中将を兼ね、一人は弁官を兼ねます」と、
書いています。
653 :
日本@名無史さん:2007/09/23(日) 16:54:14
>>647 ただ家格は頭弁より頭中将のほうが高いことが普通。
なぜなら、弁官は名家出身者がなるものだが、近衛府は羽林家出身者がなるから。
654 :
日本@名無史さん:2007/09/23(日) 17:13:23
確かに頭の首席は頭中将ですが、実務は頭弁以下、弁官を本官とする蔵人が取り仕切っています。
「幕末の宮廷」にもそのあたりを書いた一節があるので読んでみて下さい。
それをう裏付けるように、弁官補任を見ると、近世には頭が二人共弁官というのが散見されます。
それと、中弁ではなく、大弁の頭が増えてきますね。
655 :
日本@名無史さん:2007/09/23(日) 22:32:39
近世まで下ると、羽林家と名家の家格の差がかなり小さくなるからな。
まあこの辺りは、中世後半期(室町期)に日野・広橋・万里小路なんがが
のさばるようになってから、朝廷内での序列に微妙な変化が生じたような感じ。
656 :
日本@名無史さん:2007/09/24(月) 00:35:30
日野は将軍家の外戚だしな
657 :
日本@名無史さん:2007/09/24(月) 03:39:15
広橋は天皇の外戚だしな
>>652 官は除目で任ぜられる。代替わりしても無関係。官位相当が定められている。
宣旨職は有官者(無官者の場合もあるが)に、職を帯することを命ずる。
命じた人間(天皇など)が代替わりすれば、効力はなくなるので、引き続き
帯職する場合は、新帝の宣旨が必要。
国史のイロハなのでいちいち出典は示しません。蔵人や検非違使、摂関などの
補任を見れば一目瞭然。
659 :
日本@名無史さん:2007/09/24(月) 05:49:08
>>658 >国史のイロハなのでいちいち出典は示しません。
そういうの、古代や中世前期で朝廷関連のことを専門にしている人なら
常識的に知っている話だろうが、専門の時代や分野が大きく異なる人だと、
日本史の研究者でも分かっていないケースは多分にあり得るぞ。
少なくとも中世後期や近世なんかが専門で、なおかつ朝廷に関心のないような
奴だと、研究者レベルでも知らない可能性はかなりある。
国史にあんまり関係ない分野の人なら知らんだろう
でも官職要解の著者がそれを知らなかったとは思えないが
自分がたまたま専門にしてて知ってるからって偉そうなことw
662 :
日本@名無史さん:2007/09/25(火) 03:25:42
でもぶっちゃけこのスレはそんな奴ばっかw
663 :
日本@名無史さん:2007/09/25(火) 12:16:25
>>658 宣旨職と令外官には関連性はあるのですか?
挙げられているのが全部令外官なのですが……。
664 :
日本@名無史さん:2007/09/25(火) 13:20:41
令外官でも官位相当があるもの(中納言とか)は違うんじゃね?
665 :
日本@名無史さん:2007/09/25(火) 13:24:53
>>663 簡単に言えば「大宝令」以後に出来た官が令外の官。内大臣、中納言、参議など。
官は原則として官位が相当している(参議は普通正四位下といわれるが、厳密には相当していない)
宣旨の職は天皇によって補任され、職位の相当はない。摂関、蔵人、検非違使などがそうで、
本官を持ちながら兼帯するのが原則。ただこれらの職も新しい形の令外の官とも言えるだろう。
666 :
日本@名無史さん:2007/09/25(火) 13:36:05
>>665 >ただこれらの職も新しい形の令外の官とも言えるだろう。
それなら「兼帯」「兼官」「兼任」を厳密に区別する必要もなかろうて。
667 :
日本@名無史さん:2007/09/25(火) 17:45:16
検非違使庁は長官とか判官とか官位に相当があったんじゃないの?
668 :
日本@名無史さん:2007/09/25(火) 17:49:10
>>666 だから「とも言えるだろう」と言っている。言葉尻と捕らえるなよ。
検非違使は公式には官位相当はないはず。
兼務の職が事実上決まっているから、そちらの方の官位相当が事実上の相当職だろうけど。
なぜか按察使と勘解由使には相当位があるな。
正規のものじゃなくて准ずるくらいかも知れないけど。
670 :
日本@名無史さん:2007/09/25(火) 19:31:36
使庁は衛門が兼帯するものだから本官に連動する。
だから官位相当があるような無いようなだなw
すまん被った・・・
672 :
日本@名無史さん:2007/09/25(火) 22:59:25
673 :
日本@名無史さん:2007/09/26(水) 00:36:54
674 :
日本@名無史さん:2007/09/26(水) 10:35:24
検非違使を兼ねない衛門はあるの?
いくらでも有ります、って言うか兼ねる方が少数派です。
特に衛門佐はほとんど兼ねることはありません。
逆に衛門権佐はほぼ100%任命と同時か直後に検非違使となっています。
最初期は除いて一応慣例が出来てからだと、
別当は中納言又は参議で左右衛門督か左右兵衛督を兼ねる人が兼ねている。
左右佐は左右衛門権佐が兼ねる。
尉は左右衛門尉(ほとんどは少尉)が兼ねている。
志・府生も衛門府の志・府生が兼ねている。
677 :
日本@名無史さん:2007/09/28(金) 23:58:38
豊臣秀吉は正親町天皇から関白に任じられているけど
後陽成即位時にはやはり、関白辞職→後陽成帝より改めて関白宣下
という面倒な手続きを踏んだのでしょうか?
先に話題になった「宣旨職」でも、征夷大将軍は天皇の代替りでもいちいち
宣旨のやり直しはしないですよね
678 :
日本@名無史さん:2007/09/29(土) 16:15:12
摂関は天皇が退位すると同時に役を解かれて、新天皇が改めて任命する。
秀吉に限らず、歴代の摂関はみなそうだよ。
天皇の業務を代行する摂関の地位は、それくらい天皇権力そのものに密接だったということ
679 :
日本@名無史さん:2007/09/29(土) 18:52:03
>>677 新帝が先帝の行った人事をそのまま追認すればそのままなのだと思う。
ただ摂関に関しては、特に新帝が幼帝の場合は、関白から摂政への切り替えが
必要になる場合もある。
また蔵人は、やはり天皇が変われば交替することが多いな。
680 :
日本@名無史さん:2007/09/29(土) 20:23:55
>>677 でも吉田兼見だったか当時の貴族の日記に秀吉の実際の関白就任日は後陽成天皇の践祚当日であったとする記述があった筈。
従って、現在言われている秀吉の関白就任日が正しいかどうかは断定は出来ない。
681 :
日本@名無史さん:2007/09/29(土) 21:17:35
秀吉の場合、官位を急激に上げた経緯があるから、公卿補任の日付とかに操作がくわえられているってことはいわれるよな。
682 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 10:03:03
代替りがなくても、摂政は天皇が成人したら復辟して、関白宣下が改めて行なわれる
683 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 18:45:26
>>679 蔵人は変わらない。頭は変わる事が多いが、これも蔵人が設置された初期の頃と違って、
天皇の側近が力を振るうのではなく、新帝になり官房長官である頭を変えましたよと言う
形を示すため。最早頭も参議を待つ宮廷官僚の一ポストに過ぎず、
先帝に尽くした御褒美として、頭辞任、任参議となるだけの事でしょう。
684 :
日本@名無史さん:2007/10/02(火) 19:51:48
そう言えば、藤原兼家が一旦関白になった筈なのに、後を継いだ道隆はなんで摂政なんだ?
685 :
日本@名無史さん:2007/10/03(水) 18:33:17
関白と摂政だったらどちらが権力もてたの?
つか普通は並び立ちようがないでしょ
女子供なら摂政、男なら関白で住み分けが出来るんだからさ
687 :
日本@名無史さん:2007/10/03(水) 19:03:09
>>685 「摂政」は文字通り、天皇業の代行。「政を摂る」。
天皇の代わりに政治を行う役職。
「関白」は文書内覧の権利などに代表すされるように、
天皇に上奏される文書すべてを閲覧する権利を持つが、
採決権はあくまでも成人した天皇が持つ。「(政を)関り白す」。
どちらかといえば、摂政のほうが権限は強い。
天皇が幼少の場合は摂政、成人すれば関白が置かれた。
688 :
日本@名無史さん:2007/10/03(水) 19:11:48
>>684 藤原兼家が摂政を改め、関白となったとき、一条天皇はまだ11歳(満9歳)だった。
この年、一条天皇の添い伏しに道隆の長女藤原定子を当てるため、
一条天皇の元服を急ぎ、それにあわせて摂政を関白と改めたのだろうが、
満9歳の天皇では政務を執ることができなかったためだと思う。
兼家は摂政から関白になった3日後、長男道隆に関白を譲り、
道隆は関白就任後18日でまた摂政に戻っている。
そのため、満9歳の一条天皇に関白が置かれていたのは三週間ほどだけ。
一条天皇が14歳になったとき、道隆は改めて摂政を辞し、関白になっている。
689 :
日本@名無史さん:2007/10/03(水) 19:50:18
摂政は天皇の権力そのものだけど関白は補佐するだけ。
>>685 摂政=天皇の代理人
関白=天皇の後見人
権限的には、代理人>後見人
691 :
日本@名無史さん:2007/10/03(水) 20:05:41
道長も関白嫌がって摂政にしかなってない。
692 :
日本@名無史さん:2007/10/03(水) 20:52:00
道長は、摂政になる前に、先ずは准摂政宣下を受ける。
左大臣を兼ねて位階は正二位。
摂政を辞して従一位に昇り、後日、太政大臣となる。
関白より摂政の方が序列上は上位。
しかも摂政は天皇の権能を代行する権限がある。
関白を嫌がるより、摂政の方が実利がいいので
関白などお呼びではない。
すごい超初心者な質問なんだけど、正一位の官職って存在した事はないの?
太政大臣
695 :
日本@名無史さん:2007/10/03(水) 22:02:52
太政大臣でも通例は従一位。
生前に正一位を受けたのは5人だが、うち4人は奈良時代。あとは、太政大臣を辞めた御礼に貰った三条実美。
そうすると正一位でなければ就けない官職は存在せず、
太政大臣経験者の一部が例外的に生前に正一位の身分に昇進できたってだけか
そういやコーエーの信長シリーズでは暫定処置として正一位に関白を持ってきてたのを思い出した
お稲荷さんに与えるような位を人の身に与えちゃいけないよな。
タマキンのことかー!
699 :
日本@名無史さん:2007/10/04(木) 07:54:24
>>692 道長が関白に就任しなかったのは、
満16歳を越えた頃から一条天皇が関白を置くことを拒んだこと、
外孫への譲位を求めて、関白就任を要請した三条天皇の治世に
協力しなかったためといわれているね。
道長が摂政に就任したのは、外孫後一条天皇が即位したとき。
わずか2年で摂政を辞し、以降、関白にもならなかったのは
息子の頼通に摂関の地位を譲ったためで、道長が故意に関白にならなかったわけではない。
摂政であり続けるためには、常に天皇は幼少でなければならず、
道長が活躍した時期、常に天皇が幼少だったわけでもない。
>太政大臣経験者の一部が例外的に生前に正一位の身分に昇進できたってだけか
橘諸兄と藤原永手は太政大臣になってない左大臣のまま正一位。
藤原武智麻呂は従二位右大臣から一気に正一位左大臣だが死の直前で、感覚的には贈位に近い。
藤原仲麻呂は太政大臣相当の大師になって正一位。
こんな感じでこのころは正一位より太政大臣の方が貴重でして、
なので太政大臣経験者の一部がって言う表現は不適当ですね。
あと関係ないけど別に正二位で太政大臣になった例も多い。
全部確かめたわけではないけど多分従二位では無いと思う。
701 :
日本@名無史さん:2007/10/04(木) 12:41:04
>>699 あと、関白は天皇との力関係で権威が決まってくるから、地位的には不安定。
藤原頼忠あたりがその典型。
>といわれているね。
誰がそんなこと言ってるんだよ。
道長が摂関にならなかったのは、一上として政治を主導する為。
摂関になると陣定その他の朝儀に上卿として参加出来なくなる。
こんなことは摂関政治史のイロハ。土田・山本以来の定説。
>>702 レスアンカー付けてくれ。
探しちゃったよ
704 :
日本@名無史さん:2007/10/05(金) 01:07:17
基本的には
>>702の言うとおりだが、だからこそ
>>699のような論理展開にもなりうる。
関白の権威を決定づけるのは天皇と関白の親疎という人間関係に基づいた非常に不安定なものだから、一条・三条みたいに道長と決して親しいとは言えない天皇から関白に任命されても、天皇と対立したら梯子を外されてそれでお終い。
だからこそ法的根拠があって安定していた一上の権威にこだわり続けた。
自分の手元で育てた外孫が天皇に即位して、外祖父として摂政・関白に座った場合には天皇と関白の対立を想起しにくいだけに、一上に匹敵する安定感とより強力な権限を得ることが可能となる。
だから道長は一上の地位を保ったままで外孫の即位を促すために三条に非協力な対応も取った。
>>702の言い方だと一上になれば摂関にはならなくてもいいという解釈も成立してしまい、「じゃあ、何で藤原摂関家の連中は摂関を目指したのか?」という説明がつかなくなる点で言葉不足だと思われるが。
という、俺も説明不足だと突っ込まれそうなので、より上手く解説できる方の降臨を待ちたいところだが。
705 :
日本@名無史さん:2007/10/06(土) 04:41:28
706 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 19:02:26
707 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/10/08(月) 01:41:21
708 :
日本@名無史さん:2007/10/10(水) 00:09:50
このスレに欠けているのは摂政のことである。
摂政から関白に異動した場合、准摂政宣下を受ける場合もある。
関白自体が元摂政への冷遇として作られたって説もあったみたいですね。
でも関白が当たり前になると、別の特別待遇が必要になったってことでしょうか。
710 :
日本@名無史さん:2007/10/10(水) 09:15:55
関白より摂政の方が上位であるからこそ
摂政から関白に変わった場合、摂政に准じるということから准摂政などという
待遇を用意したということであろう。
711 :
日本@名無史さん:2007/10/10(水) 13:34:38
そこで内覧宣旨を。
712 :
日本@名無史さん:2007/10/10(水) 15:56:53
関白宣下の際、通常は内覧宣下や一座宣下も同時に行われる。
関白自体には、内覧や一座が内在していないから。
同様に摂政においても内覧や一座が内在していない。
713 :
日本@名無史さん:2007/10/11(木) 01:10:10
宣下と宣旨の違いは?
714 :
日本@名無史さん:2007/10/11(木) 01:12:28
てゆうか関白って内覧以外にやることあんの?
宣下=宣旨を下す
716 :
日本@名無史さん:2007/10/12(金) 12:55:29
保元の乱直前までは関白と内覧が分裂していたな。
717 :
日本@名無史さん:2007/10/12(金) 18:16:01
東三条院詮子が一条天皇に対して弟の道長を関白にするように迫ったけれど、
一条天皇が容認しなくて仕方なく内覧宣下をしたのが関白と内覧分裂の最初?
このときは関白がいなくて内覧だけいたわけだけど。
その前に伊周が内覧だった時期もあったんだっけ。
これより前に分離してたっけ?
時平・道真
兼通は最初から関白だった説と、当初は関白でなくて内覧だった説が有るようです。
准関白としての内覧はこれが最初ではないでしょうか。
時平と道真がなったのは多少性格が異なるような気がします。
伊周のは内覧はあくまで関白道隆の病気に伴う臨時代理ですね。
三条朝末期、准摂政で一の上の権限も行使した道長の権力が最強。
721 :
日本@名無史さん:2007/10/13(土) 20:15:20
>>719 兼通はいくら「関白は兄弟順」といってもまだ中納言で関白の資格要件には達していなかったから、とりあえず要件のない内覧にしただけ。
このスレと関係ないけど、年明け早々から東京国立博物館で
近衛家1000年の名宝 をやるってさ。
衛って本当は難しい字なんだね。
摂関と併存の内覧でも伊周はあくまで父親の代理、
摂関と内覧が本格的に分離したのは1132年の忠実からかな?
道隆・伊周親子は単なる代理のつもりではなかったんだろうけど、
一条天皇の意志はあくまで臨時代理だよな。
724 :
日本@名無史さん:2007/10/14(日) 00:38:27
>>723 親子の並存の例だと、一条兼香・道香の例がある。父親が中風で倒れたけど、当時他の4家が全員幼少だったため。
725 :
日本@名無史さん:2007/10/14(日) 01:07:39
そもそも内覧は天皇への上奏文を先ずは覧て、天皇に上奏する。
また、天皇から裁可が下った文書を先ずは、覧ることが可能な立場の人に与えられる。
摂政や関白が百官の頭目であるから、通常は、内覧の役割を得ることは当然のことだが
しかし、政治情勢によっては、関白の下位に位置する人物が権力を握っていた場合、
その人物が内覧の役割を担うことも当然ありうることになる。
関白は、通常、議政官会議には列席しないため、議政官会議でどのような
決定が下されたのかはわからない。
同会議で決定した事項は、天皇に上奏されるため、関白が内覧を兼ねることに
よってその会議での決定事項を把握することが可能になる。
天皇の政治的権能の代理人としての関白が内覧を兼ねる必要性がここにあるわけだ。
近衞
でるかな?
728 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 16:11:14
准三宮が与えられる要件ってあったの?
>>728 何にしても、准がつくものは「特典」に過ぎない。
だから准三宮においても、その時々の都合で与えられたわけであって
慣例化した要件というのはないんでないかと。
近衛って「近衛殿」っていう屋敷があったんだけ?
731 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 17:54:02
院政期に摂関家が持っていた2つの邸宅の名前がそれぞれ
「近衛殿(このえでん)」と「九条殿(くじょうでん)」だな。
732 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 18:05:42
関白藤原忠通の邸は近衛小路に面し近衛殿と呼ばれていた
忠通は娘婿の近衛天皇にこの邸を里内裏として提供、
そのため「近衛」は天皇の号にもなっている。
忠通の長男基実がこれを伝領してこの系統に伝わり、
近衛家と呼ばれるようになった
733 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 18:56:56
九条殿も藤原忠通が持っていた邸宅のひとつ
藤原忠通の娘聖嘉門院藤原聖子の中宮御所として使われた
聖子の養子として即位した近衛天皇の皇后呈子(忠通養女)
の院号九条院もこの邸にちなんでいる
聖子は甥の藤原良通を養子にしていたが、
良通の父は兼実であり、聖子の没後この系統が伝領した
ちょっと質問
近衛とか九条は苗字扱いでいいのかな?姓扱いにはならないよね?
735 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 02:04:12
家号扱い。
九条は師輔まで遡るなんつて
737 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 18:24:41
准大臣は従一位と同時になってるが内大臣より上なのか?
左右内大臣になれない人のイメージがあるんだけど。
准大臣はあくまで大臣に対する待遇だから内大臣よりは下と言うことになる。
幕末だと、内大臣>准大臣>従一位
739 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 02:17:42
大臣に対するんじゃなくて、準じるのでは?
741 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 16:07:26
准大臣は、文字通り、大臣に准じるという字義。
内大臣の下。大納言の上の列座。
大臣に欠員が無い場合、大納言の中で大臣に准じる待遇ということで
この准大臣になる。
従一位大納言から、准大臣従一位になるケースが多い。
尤も、この准大臣には職掌は無い。
名誉職のようなものである。
准大臣が従一位に叙せられているところから、唐名である
儀同三司の別名がある。
儀同三司は従一位の唐名であるところからくる。
742 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 18:31:17
正二位内大臣と従一位准大臣でも内大臣>准大臣ってことですね。
位階は序列の上下とはあまり関係ないのでしょうか?
ただ単に官が序列の上下に優先するってことですかね。
743 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 19:04:36
中国の儀同三司は確か幕府(日本の武家政権ではなく本義的な)を開けた筈ですよね?
744 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 20:19:20
藤原教通は透視能力があったのって本当ですか?
745 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 20:24:34
例えば、このような序列になる。
従一位太政大臣>従二位左大臣>正二位右大臣>従一位内大臣>従一位准大臣
但し、列座を指定した宣旨を蒙れば話は別。
儀同三司は略で、正確には、開府儀同三司。
中国の儀同三司
最初は後漢くらいからだったと思いますが、
もともとは文字通り三司(三公)と儀礼を同じくする意味です。
似たようなもので儀比三司とかもありました。
北朝の西魏・北周で軍団長のようなものとなり、
柱国>大将軍>開府儀同三司>儀同三司となり、
更に上柱国等、それぞれに上階ができますが、
その頃には実質が薄れ位階のようなものとなってきます。
唐では儀同三司はなくなり、開府儀同三司は従一品文官を表す位階とかし、
実質的な意味はなくなります。もちろん幕府は開けません。
なお中国では位でなく品と表示します。親王の品は名残でしょう。
また雅称で四位を四品とか言うのもその為です。
開府儀同三司は唐で従一品の文官を差す官職(職務なし)だっため従一位の唐名となり、
儀同三司は最初に大臣に準ぜられた伊周が、文字通り三公(大臣)に準ずる意味で自称
したことから准大臣の唐名となった。
ちなみに位階の唐名は、従一位の開府儀同三司以下少初位下の将仕朗に至るまで、
全部唐の文散官の名称をそのまま使用。
749 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 04:29:19
>>731 >「近衛殿(このえでん)」と「九条殿(くじょうでん)」だな。
「このえどの」「くじょうどの」って読むんじゃないのか?
750 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 07:50:37
殿(でん)とは邸宅の意味。
近衛殿(このえでん)と読めば、近衛家の邸宅の意味。
近衛殿(このえどの)と読めば、近衛家の人を指す。
前後の文章でどちらを指すのか判断する事になる。
読解力の問題だ。
>>750 ワロタw
>>751 一説によると、地名+「殿」で邸宅を表す用法にも、
かつては「でん」と読んでいた時期もあったらしい。
もちろん近衛流や九条流ができる頃にはとっくに
「このえどの」「くじょうどの」と読む慣わしになってる。
>>751で
>>751にアンカーつけたのは
>>749の間違いだった
>>749 一説によると、地名+「殿」で邸宅を表す用法でも、
かつては「でん」と読んでいた時期もあったらしい。
もちろん近衛流や九条流ができる頃にはとっくに
「このえどの」「くじょうどの」と読む慣わしになってる。
753 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 17:08:42
大河義経では、「○○殿」を全部「〜でん」と読んでいて気持ち悪かった。
殿軍
755 :
日本@名無史さん:2007/10/28(日) 00:50:06
殿軍と麿軍が戦ったら
麿軍が白粉目潰し戦略と夜間奇襲によって勝利を収めそうだ
756 :
日本@名無史さん:2007/10/28(日) 22:58:11
?
その前に麿軍は鎧の重さで全滅エンド
758 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 00:38:52
殿軍って「しんがり」だろ。
しんがりを変換すると殿とでる
760 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 02:05:18
玉姫殿
761 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 00:26:56
玉泉院
762 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 03:14:33
763 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 03:16:08
765 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 01:21:58
850 :日本@名無史さん:2007/11/06(火) 19:02:56
ちょっとおじゃまします。
この板の「日本女性の名前について」のスレッド
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1127124249/l50 で、藤原頼通の妻「隆姫」の名が、同時代の文献では「隆姫子」と書かれている
件について議論されています。この「子」の意味についてどなたかご存知
ないでしょうか?
852 :日本@名無史さん:2007/11/09(金) 20:20:30
>>850 確か、臣籍降下以前の名前が「隆子」だった筈。
逆に平安時代に「○姫女王」とか「○姫内親王」という例は無い筈だが。
853 :日本@名無史さん:2007/11/09(金) 22:29:23
>>852 隆子という名前は一度も与えられていない可能性もあるようだ。
そしていろいろな文書を確認すると「隆姫子」が正しいらしい。
知太政官事・太政大臣禅師・大師・内覧
768 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 02:32:35
内覧だけ仲間はずれ
関白・執権・管領・大老・内閣総理大臣←長い・・・
総理でいいじゃん
首相
第一市民でいいや
773 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 19:47:08
第三身分?
総統
国家主席、 国務院総理、党中央委員会総書記、全国人民代表大会常務委員長
源実朝って征夷大将軍と関白になれる可能性があったんだよね
777 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 06:53:48
何故実朝が関白になれるの?
778 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 07:31:30
太政大臣か何かと勘違いしているんじゃない?
あのまま生きていれば太政大臣は可能性あっただろう。
九条頼経なら可能性はゼロではなかったと思うが
780 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 14:42:33
在関東で関白は例がない
先例なんて破るためにあるようなものだから、可能性自体は否定できない。
そんなことを言ったらそもそも頼朝は在関東のままでは公卿になれなかった。
782 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 20:10:49
将軍と関白同時はさすがにないと思うが
歴任の形なら頼経はありえたかもな
頼経も摂関だと兄弟4人は新記録?
784 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 04:16:52
後世に子沢山の摂家から他の摂家に養子がばらまかれた例とかない?
結局征夷大将軍って実質日本国王であるうちは良いけど、実力が低下してしまうと、
たちまち摂関より格下の職で有るという来歴が幅を利かせちゃうんだよね。
摂関以上に権威のある職を創造できなかったところ、
または摂関に成り代わるところができなかったのが日本の武家の限界?
786 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 09:27:26
近衛家=摂関家嫡流だったが平氏の娘婿となる
松殿家=平家を都落ちさせた木曽義仲が擁立
九条家=源頼朝が擁立
忠通の摂関歴任の三人の息子はそれぞれの政治背景によって擁立された
過去がある
九条頼経を擁立しようと言う新勢力が出てこない限り無理だろう
本来なら近衛家が忠通のあとを継ぎ弟たちは庶流で摂関になることもなかった
787 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 10:36:05
良実、実経の場合はどうだったの?
兄弟3人摂関連任、最初の2例は兄二人が比較的早く死んでくれたおかげ。
特に2例の目兼家の息子達の場合は早死にとしか言いようがない。
長子教実が早世しちゃって良実が跡を継いだけど父道家と不仲で弟の実経を道家が贔屓した、
で普通なら良実は没落するところだけど西園寺の後押しがあって生き延びた。
って言う理解で良いの?
790 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 11:08:05
九条道家の摂関歴任3人の息子たち
九条教実=道家の長男だったが早世。九条家と親しい後鳥羽法皇の帰京を推進し、
鎌倉幕府からにらまれた。
二条良実=教実の同母弟。母方でもある西園寺家にとりこまれ、妻は西園寺実氏妻と姉妹同士。
西園寺家がいち早く後嵯峨天皇に娘を入内させ中宮に冊立すると、
西園寺家と対立姿勢をとり始めた父道家によって関白を取り上げられた。
一条実経=教実、良実、頼経の同母弟。父道家は実経を摂関家嫡流と定めた。
鎌倉で起こった名越氏の反乱に加担したとして九条頼経が捕らえられ、
将軍九条頼嗣が将軍を廃された際、九条道家は連座して謹慎処分、
一条実経も摂政を廃された。その後、関白に復されたが2年で辞任。
まあどの場合も嫡長子の(比較的)早世がきっかけだね。
その後次男も早世するか、なにかずっこけて3番手の出番が来る。
792 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 15:45:22
>>786 そういえば基実と基房って異母兄弟みたいだね。
兼実と兼房が同母だから、名前の付け方的に基実と基房も同母かなと思ったのだが。
ところで兼房の摂関就任はあり得なかったのだろうか?
793 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 15:53:13
>>792 兼房の上には向上心の強すぎる(?)同母兄兼実がいたからねえ〜
兼実が失脚すると摂関は近衛家に戻されているし。
ちなみに、基実と基房は異母兄弟だけど、
母親同士が姉妹(どちらも源国信女)。
忠通の正室藤原宗子を母とするのは崇徳天皇中宮聖子のみで、
忠通の男子はすべて妾腹。
>>788 兼家が兄兼通と激しく争った逸話とか、
道兼が兄道隆を敵視した逸話とかは「大鏡」に詳しいけどね。
兄弟順が下だった道長にいたっては、もはや、
兄たちが生きている間は兄たちに従順そのもの。
兄貴の娘、中宮定子の中宮大夫としてこと細やかに定子に仕えていたのに、
結局、勝利者になるなんてね。
小槻氏の壬生家と大宮家の関係って九条と近衛の関係にそっくり。
鷹司っていきなり第2世代の基忠・兼忠兄弟が摂関連任してるけど、
これは年の離れた兄の後継者?、中継?
それとも6番目の摂家を作ろうとした?
なにか次の世代の継承もややこしいな。
797 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 21:51:36
>>795 壬生と大宮は、大宮の戦国期における断絶を考慮に入れるなら、
近衛と鷹司とか、正親町三条と転法輪三条とかのほうがよい。
798 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 21:09:28
外戚関係を背景に自ら権勢をふるった摂関政治確立期と
摂関家が家格として固まる院政〜武家政権期では、
同じ兄弟連任でも様相がかなり変わるな
なんで鎌倉幕府の将軍は親子2世代しか続かないの。
カリスマが落ちちゃうからお払い箱?
800 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 20:15:03
南朝って摂関居たんですか?
どうもありがとうございます。
しかし後醍醐の時期にもうおいてあるとは、あっさり方針変更したものですね。
なんか節操がないというか。
>799
逆に、妙な権威がつくのを嫌ったのでは?
>>802 というか、光明天皇が即位したときにならされたのでは>関白
>>802 引用したウィキに誤謬があるようです。
後醍醐天皇の世に摂関はいたかということについて
後醍醐天皇は建武の親政までは関白を置いていました。
近衛経忠は1330年、建武の親政前に後醍醐天皇の関白となっています。
建武の親政では摂関が否定されて置かれず、経忠は左大臣として親政に参加しました。
北朝光明天皇が即位すると経忠は関白に任じられますが、
のち南朝後醍醐天皇のもとへ走り、関白を解任されました。
南朝後醍醐天皇のもとでは摂関は置かれず、
経忠は後村上天皇即位後、関白になりました。
摂関は良房の子孫に限られるけど、内覧は初例からして二人で片方は菅原氏。
これを前例に閑院流とか、清盛あたりが摂関は無理でも内覧就任を要求とか
と言う発想はなかったのだろうか?
まあ道真はよい先例じゃないかもしれないし、他の内覧は全部良房流だけどね。
時期的には実資の大好きなよき時代の先例なんだけどな。
807 :
日本@名無史さん:2007/12/16(日) 17:32:11
>>805 近衛経忠は、わざわざ北朝の関白職を蹴って、京都を脱出してまでして、
吉野の朝廷の元にやってきた忠節から、感動した後醍醐が摂関不設置の原則を
崩して例外的に関白に任じたとかじゃなかったっけ?
808 :
日本@名無史さん:2007/12/16(日) 19:24:13
>>805 内覧は、摂関が置かれないときに始めて意義を持つもので、
(摂関の置かれなかった醍醐天皇朝における藤原時平、菅原道真の例、
同じく一条天皇朝における藤原道長の例など)
摂関がおかれた場合、意味を持たない。
内覧=天皇に上奏される文書内覧の権利は、
もともと関白の職務に付随するもので、
関白がおかれた場合、関白がこれを遂行する。
関白藤原忠通と内覧藤原頼長が争ったケースがあるが、
本来、関白がおかれる場合、内覧は置かれない。
閑院流や清盛が台頭した院政期、摂関家はすでに確立されていたため、
内覧の権利も当然摂関家に付随するものだった。
809 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 00:50:17
建武政権期の後醍醐は摂関の存在を否認したけど、内覧は認めているな。
810 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 02:19:05
足利尊氏と徳川家康って、自らの政権基盤が確立すると、どちらも中絶していた
摂関を復活させているね。
やっぱ武家政権にとっても、摂関って重要なのかな?
811 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 06:32:46
鎌倉幕府や江戸幕府を見ていると
摂関を天皇の暴走を止める役割として
珍重していたようだね
812 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 10:02:47
摂関の中絶は後醍醐帝と秀吉の自己都合だし
まあそうなんだけど、邪魔に思っていたなら良い機会だからそのまま復活させないでしょう。
家康や尊氏はまあなんらかの利用価値くらいは有ると思っていたんでしょう。
接触的に利用することを考えていたかどうかまではともかくとして。
藤原師家、12歳で摂政、13歳で失脚。
数え年だから今なら小学生で摂政、小六か中一で人生ほぼ終了。
でも余生が50年以上。どんな人生。
と言うより、天皇が15歳以下だか未満の時に代理として置かれる摂政が
12歳ってあり得ない、舐めとるんか。
815 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 23:01:17
>>814 天皇の補佐役としての摂関の役割は、保元の乱までで終了したと考えて良い。
保元の乱で一番大きな打撃受けたのは、天皇でも院でもなく摂関家。
それ以降は単なる家格として固定した摂家によるたらい回しに過ぎない。
保元の乱の2年後に史上初めて10歳台の関白が誕生する。
816 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 23:03:23
>>810は「足利尊氏と徳川家康」っていってるのに、それへのレスっぽい
>>811が「鎌倉幕府や江戸幕府」っていってるのはどうして?
817 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 23:55:10
鎌倉段階だと、院と摂関が朝廷内の主導権争いをしていたりもするし、
武家政権側はその時々で自らにとって都合のいいほうと手を結んで朝廷に
干渉しているようなイメージがある。
院でも摂関でもない西園寺家が関東申次として大きく権勢を誇ったりもするし。
むしろ武家側のバックアップのもとに摂関が朝廷を牛耳るという構図になるのは
室町以降じゃないかな?
室町以降になると、院はいたりいなかったりで院政も中断することが
多くなるし、院政自体が形式的なものと化してくる。
足利尊氏と二条良基あたりから、武家政権と摂関の関係にそんなイメージが
出てくる気がする。
818 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 23:58:53
>>810 室町幕府成立=1336年、江戸幕府成立=1600年ってこと?
鎌倉だけじゃなくて、室町や江戸も征夷大将軍になった年には意味はないと?
819 :
日本@名無史さん:2007/12/18(火) 00:00:33
後花園も院政中に都を逃げ出すしな
820 :
日本@名無史さん:2007/12/18(火) 01:07:58
関白が幼少でも問題ないというコンセンサスがあれば、
秀吉は秀頼を関白に就けるべきだったな。
821 :
日本@名無史さん:2007/12/18(火) 09:54:13
>>820 さすがに4〜5歳の子供ではマズいだろ。
10歳台なら許容されるにしても。
征夷大将軍は4歳でも良いけどね。
執権は14歳以上って言う不文律が存在したらしい。
泰時から経時の相続が中間の早死で祖父ー孫の相続となり一挙に低年齢化。
以後の得宗は短命が続き、時宗は14歳で連署、
偶然だが時宗死亡時に嫡子貞時は14歳で、そのまま執権就任。
これが前例となったようで貞時の嫡子高時は父死亡時9歳であり、
その時点では執権に就任せず、14歳で就任。
と言うことは幕府があのまま続いていれば、
滅亡時に9歳だったらしい高時の子も14歳で執権に就任したんだろう。
824 :
日本@名無史さん:2007/12/18(火) 13:56:14
>>818 今の歴史学者は権力の実態が形成された時期を重視するから。
鎌倉幕府だって1185年成立説がある。
825 :
日本@名無史さん:2007/12/18(火) 17:37:14
秀頼7歳のとき、父秀吉が死去。
父秀吉が当時秀頼に与えていた官職は権中納言。
ん〜、やっぱり7歳の関白は無理かな〜
当時の後陽成天皇はすでに成人していたから、
関白が幼少でも政務に支障はなかっただろうけれども。
誰でも考えつくことだけど摂関の低年齢化に歯止めがかかったのは、
やはり摂家の分流が主因だろうな。
候補者が複数いれば無理に幼児に継がせる必要はないし、
他家もそんなことは許さない。
一家独占だとどうしても継承に無理が出るときがある。
結局摂関や執権は君主じゃなくてあくまでも官職だから、
意志決定はともかく最低限儀式は出来なければ駄目だから
中学生くらい年じゃないと無理だったのかな。
責任の重さとか意志決定を除けば中学の生徒会長レベルで勤まるのかも?
関白、執権、管領はあくまで補佐する職掌のある地位だから、元服は必須だろう。
第一、官位って元服してからもらえるんだよね。
江戸時代の藩レベルでも藩主には子供でもなれるが、藩職に就くのは元服後だろ?
官位もらった最低年齢は北畠親房等の1歳って言うのが有る。
もちろん数え年なので満年齢だと0歳。
1月始めに与えられことが多いので2歳の場合も満年齢だと0歳の可能性大。
必ずしも家格が高い程若年というわけではなく、
若年で叙爵した方が出世が早いと決まっているわけでもない。
摂関家はあまり極端に若年で位階を貰うことはないようだ。
830 :
日本@名無史さん:2007/12/18(火) 20:02:12
>>828 将軍家とかの場合は、4、5歳の子供でも無理矢理元服させることがあり得る。
>>825 中納言の摂関兼職はちょっと厳しいよな。
最低限、内大臣くらいになっていないと。
何事にも、特例みたいな事はつきものだな。
でも親房の場合でも、官職に付いたのはあくまで元服でだから、
ジャリに位階だけくれてやって、何かいいことでもあるのかね。
位階でなく官職なら楽人では「楽所補任」に3歳で兵衛尉とかあった。
13世紀初めだったかと。
>>831 例えば○○家は従五位下から従五位上に昇進するのに十年とか言う慣例だったとすれば、
早ければ早い程良いことになる。
何歳で従五位下、何歳で従五位上と言う決め方なら従五位下だけ早くても意味は少ないが。
帝政ロシアのある時期の場合、兵卒を何年だったか経験しないと将校になれないと言う規定があり、
乳幼児のうちからコネでどこかの部隊の兵卒名簿に名前だけ載せて貰っていたそうだ。
「大尉の娘」だったか(記憶うろ覚え)の主人公もそうだった。
明文規定はないけど摂関の条件は大臣経験者(現職含む)ってことらしい。
内覧は中納言以上のようだ。参議・非参議の内覧は居ない。
近衛基通の中将から一挙内大臣・内覧・関白ほぼ同時就任の荒技はあったが。
幼少関白の場合、氏の長者は別人がなるの?
>>830 可能性を挙げれば、藤原兼通みたいに一旦内大臣兼内覧になって関白就任と言う可能性はあるが、となると江戸内府をどうにかしないといけない。
836 :
日本@名無史さん:2007/12/19(水) 09:49:49
>>833 あれは松殿基房がいきなり失脚しちゃったから仕方なかったんだろう。
>>835 しかし関ヶ原前夜の朝廷は無茶苦茶だな。
摂関不在&左右大臣不在で、散位を除くと徳川内府が官位体系上トップって
どういうことよw
>>836 >散位を除くと徳川内府が官位体系上トップってどういうことよw
つ 【太閤殿下のアレやコレ】
皮肉といえば、皮肉なことよな。
話は変わるけど時平・道真の内覧って以後の内覧と同じ性格?
権限とかは一応同じなの?
>>836 経歴・家柄・官位・年齢の申し分のない兼実を超越してって言うところが凄い。
まあ清盛ごり押しのせいなのはわかっているけど。
840 :
日本@名無史さん:2007/12/20(木) 04:16:44
ただ道長以降〜忠通までしばらくずっと父子直系相続で続いてきた摂関家を
兄弟相続であまり枝分かれさせたくないってのもあったのかもね。
基通って摂関家の生まれに間違いないけど、父親が早死しちゃったわけで、
摂関としてのノウハウはどうやって会得したんだろう。
叔父達が教えてくれるとは到底思えないし。
そりゃあ相伝の文書くらいはあったんだろうけどね。
>>841 基通の母ちゃんじゃね?
近衛家がつぶれなかったのは彼女の力によるところ大だからね。
閑院流が摂関になれなかったのも忠平までさかのぼらないと摂関に行き着かず、
摂関のノウハウが全然ないからだったっていう説も有るようだな。
844 :
日本@名無史さん:2007/12/20(木) 14:45:12
道長はあんまり好きじゃないな。
>>844 道長はお前のことを嫌いだって言ってたよ。
847 :
日本@名無史さん:2007/12/20(木) 16:40:29
何故嫌いなの?
848 :
日本@名無史さん:2007/12/20(木) 17:57:18
好きとか嫌いとかは
学問板でやる話題じゃないだろw
849 :
日本@名無史さん:2007/12/20(木) 19:15:42
>>841 基通が摂関になった高倉天皇ー安徳天皇の頃、
政治は平氏のもので、若年の摂政近衛基通はすることなかっただろうな
もともと近衛基通は6歳で父親を亡くして以来、
嫡母平盛子によって成長し、盛子の妹を正室にし、平氏の一員みたいなもんだった。
摂関の役割としては故事にのっとった儀式の遂行があるが、
子孫のために儀式のやり方を事細かに記した
歴代摂関の日記の類は摂関家嫡流の近衛家が多く所有していたようだ。
ちなみに治承4年の関係図
安徳天皇(2歳)・・・平清盛の外孫
高倉天皇(20歳)・・・平清盛の娘婿
近衛基通(21歳)・・・平清盛の娘婿、養母も平清盛の娘
>>842 母は藤原忠隆(院近親で信頼の父)の娘で、継母は平清盛の四女・盛子(みつこ)。
父の死後継母盛子(年齢的には姉程度で妻の姉)が基通を自らの養子としてこれを後見。
生母も継母も生家摂関家とは縁遠く、ノウハウを持っていたように思えないけど。
でも我が子のために一生懸命勉強したのかもな。
盛子はわりと早死だけど、生母の方は長生きだったのだろうか?
851 :
849:2007/12/20(木) 20:03:12
訂正
治承4年の関係図
天皇=安徳天皇(2歳)・・・平清盛の外孫
院政=高倉上皇(20歳)・・・平清盛の娘婿
摂政=近衛基通(21歳)・・・平清盛の娘婿、養母も平清盛の娘
852 :
日本@名無史さん:2007/12/20(木) 23:18:42
>>849 逆に祖先の日記をほとんど近衛家に持っていかれた九条兼実は、
自分の子孫のためにせっせと自らが日記(『玉葉』)を書いたと。
853 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 00:17:21
歴代の日記は嫡流の証明だからな
854 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 08:10:06
藤原道長も嫡流ですか?
年明けから上野の国立博物館で近衛家展やるね。
松殿家がもぎ取った文書類は散逸?
それと九条はどちらかというと松殿傍流か?
江戸期に二度にわたって松殿家再興、但しすぐに断絶。
道長は庶流(但しかなり嫡流に近い)の庶子として誕生。
成長したらお姉ちゃんのおかげで嫡流の庶子に成り上がっていた。
中年にさしかかろうかと言う頃にお姉ちゃんの強力な後押しで運良く惣領となる。
ってそんな感じでは?
まあ、それを言ったら真盾も冬嗣も忠平も庶流だしな
859 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 15:47:43
>>857 藤原道長の祖父さん藤原師輔が書いた「九暦」は
完全に子孫のためのものだね
朝起きたら顔を洗って楊枝で歯を磨けということから書いてある
もっとも藤原師輔も次男坊で嫡流というわけではないが
(道長の父兼家は三男坊、道長に至っては五男坊)
ちなみに、同じ藤原家でも、儀式の遂行には
いろんな流儀があったみたいだね。
師輔の兄藤原実頼をする小野宮流の藤原実資は、
同じ小野宮流の藤原公任が九条流の儀式をやったとして
大激怒している。
860 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 16:05:10
歴代の関白でもっとも権勢をほこったのはやっぱり道長ですか?三人の天皇の外祖父だし。
861 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 16:10:56
藤原道長は一度も関白になったことはないよ
孫の後一条天皇の摂政を2年ほどやっただけ
862 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 17:03:15
2年やってない。1年弱しかやってないはず。
真楯は一時期北家の嫡子扱いだった節もある。
長子の鳥養と次子だが母の身分が高い永手のどちらが嫡子か両説あるようだが。
鳥養はどのみちどうやら早死したらしく、それ以後は永手が惣領で間違いないだろう。
ただし永手は五位昇進後長期にわたり官位昇進がなく、かなりの重病だった可能性もある。
その間三男真楯は順調に昇進しており、この時期は事実上の惣領だったのではなかろうか?
その後永手は一気に四位に昇進しており、病気が回復し惣領として配慮されたのでないのか?
864 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 17:50:58
>>860 道長は後一条天皇の在世中になくなり、
残りの2人(後朱雀、後冷泉)の世は見ていない。
道長を持って摂関全盛期というのは、
当時、藤原氏以外にライバルとなりうる他氏がいなかったこと、
藤原氏内部にも道長の敵がいなかったこと、
さらに天皇が幼帝で実権を行使できなかったこと、
天皇の家父長が不在であったこと、
などから道長が政の中心であったため。
道長の父兼家も外孫の幼帝一条天皇を即位させて実権を握ったが、
当時は一条天皇の実父円融上皇が生きていて、
一条天皇は毎年年始に大掛かりな行列で父の元へ行幸するなど、
父円融上皇の意向は無視できないものがあった。
後一条天皇の即位時にはすでにその父一条天皇は没しており、
事実上、外祖父道長と国母彰子の時代だった。
866 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 01:00:16
稀少性で言うと太政大臣になりたいな
867 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 08:36:26
868 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 12:41:22
>>865 頼通は26歳で父道長から譲られて甥後一条天皇の摂政を2年ほどやったあと。
以降は成人した天皇の関白ばかりだった。
頼通は天皇の外祖父となることはできなかったため、
天皇の生母たる姉藤原彰子の意向が大きかった。
頼通のほうが政権にあった時期は父道長より悠に長いのだけれども、
成人した天皇と国母の意向を無視して独裁というわけにもいかなかったらしい。
素朴な疑問、太政大臣はなぜ「だじょうだいじん」なの?
普通は「だ」って読まないよね。
「い」が欠落したの?
それとも昔は「だい」だった、あるいは「だい」もあってその名残?
って言うか大ならともかく太は通常濁音で読まないよね。
そうするとますます不思議?
>>869 呉音だと[dai][da]、漢音だと濁らずに[tai][ta]になりますです。呉音のほうが古い。
[i]ですが、これは去声(音韻の世界で、急にトーンが下がるタイプ)ですから、
[dai]のiが脱落してしまったと考えるべきでしょう。
ですから昔は[dai/da]だった…というのが正解になります。
あといい例としてこれをあげておきましょうか。
大宰府/太宰府 (だざいふ)
どちらも使いましたが、役所名としては「大」地名としては「太」を使い分けていたそうです。
ちなみに「大宰」とは役名で、今の宰相、総理大臣を意味し、これは「たいさい」と読みます。
ですから、「太政」は朝廷に唐風が積極的に導入される前からの言い方が残っていると
いえるんじゃないでしょうか。
んじゃ大名も「だみょー」になってたかもしれないのか
そう言えば摂政も「せっせい」じゃなくて「せっしょう」だな。
873 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 23:01:21
>>869-870 てゆうか、日本語漢字音のの漢音と呉音を比較すると、漢音には原則として
濁音がないことがわかる。
なお例外的に漢音が濁音になる漢字は、基本的に中国語の
漢字音(但し中古音以前)で頭子音が鼻濁音だったものに限られる。
つまり中国語の中古音で、頭子音が[n][m][ng]のいずれかであったものは、
日本語の漢音ではそれぞれダ行音・バ行音・ガ行音となって受容されている。
なお呉音ではナ行音・マ行音・ガ行音となる。
因みに現代の北京語や朝鮮語では頭子音の[ng]は脱落しているが、現代語でも
広東語・福建語・越南(ヴェトナム)語などでは、漢字音の頭子音に[ng]が
あり得る。
なお台湾語では日本語と同様に、頭子音[ng]が[g]に変化している。
874 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 23:41:05
せいいだいしょうぐん
876 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 23:49:19
学問みたいじゃん
太政大臣で摂関に就かずに内覧を兼ねた例ってないの?
878 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 17:41:46
後一条即位前の道長。
>>868 >成人した天皇と国母の意向を無視して独裁というわけにもいかなかったらしい。
それ以前にフツーに他の太政官もいるわけだから「独裁」には程遠いと思うが。
道長・頼道の権力は、清盛のそれに遙かに及ばないと思う。
独裁は軍事力の裏付けがあって初めて可能なんでないか?
古代では摂関といえど太政官がある限り「独裁」にはならんよな。
専制のイメージがある不比等や四兄弟も宮中と太政官を抑えての権勢だし
大師仲麻呂にしても似たようなもの。
院政期も天皇が成人すると院との対立や確執が見られるし
やはりクーデター後の清盛くらいで始めて「独裁」政権が樹立されたと見るべきか。
しかし清盛も高倉院政を期待していたしこれも結果論かもなあ。
882 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 20:23:10
日本史において本当の意味での独裁が可能になるのは、足利義満以降の武家政権だけだと思う。
室町幕府、将軍に公然と戦争を仕掛けてもなにもごともなかったかのように家が存続する場合もある。
仮に潰されても復活した場合も多いし。
江戸幕府、ちょっと規則違反しただけ、ちょつと藩内で内紛起こしただけで取りつぶし。
しかも藩主も家臣も唯々諾々とそれに従い、切腹・追放・流罪・浪人等々。
取りつぶしに反抗して謀叛起こした家もありしゃない。
幕末はちょっと違うけどね。
征夷大将軍という共通の職名は使っているけど、全然別物だな。
同等者中の第一人者(せいぜい調停者)と絶対君主の違い?
義満は一つのピークだったんじゃないかな。武家権力の。
逆にいえば朝廷・天皇は京都の施政権、実質的な官位叙任権すら失った最低の状態。
885 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 19:08:17
>>883 近世の場合も、大名の改易なんてそのときだけの方便で、ほとぼりが冷めたら
適当な規模の旗本クラスで復活ってケースが大半では?
家名の強制的かつ完全なる断絶を強いているケースなんて豊臣氏とかを除けば
まずない。
886 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 19:12:30
一番目:関白
二番目:太政大臣
三番目:征夷大将軍
887 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 19:14:28
>>884 義満時代っていうのは、武家の権力が朝廷・公家の力を完全に圧倒してしまった
最初の時期だろう。
ただそこまで肥大化した武家の権力を目の当たりにしてして、武家自身の側も
朝廷・公家側も、互いに相手とどの程度の距離感を保って関係を構築していけば
よいのかが分からず暗中模索しているような感じかな。
結局義満は朝廷に深入りしすぎたが、次の義持以降になると朝廷と幕府が一定の
距離感を保って共存していくような流れができてくるようなイメージ。
888 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 23:22:08
889 :
日本@名無史さん:2007/12/31(月) 17:27:33
>>886 征夷大将軍は蝦夷征討の際、朝軍の総司令官をあらわす地位で、
そもそもその地位そのものに政治権力があるわけではない。
今で言う防衛庁長官みたいなもの。
防衛庁長官が勝手に軍隊動かして、日本全土に軍を駐留させて
税金を搾り取る税務所を兼ね、
防衛庁内部での犯罪は防衛庁が裁くという
司法権まで持っちゃったのがいわゆる幕府。
890 :
日本@名無史さん:2007/12/31(月) 19:33:52
>>889 出征中の大将軍には部下を死刑に処する権限や戦地で軍政を敷く権限が
あった。
>>890 だからこそ義仲や頼朝はあれほど征夷大将軍のポストにこだわったんだよな
892 :
日本@名無史さん:2007/12/31(月) 22:08:53
高官位の近衛大将と格下の征夷大将軍の違いのいちばんのポイントだな
形式的にでも直接の徴発権や裁断権が征夷大将軍にはあったわけだ。
893 :
日本@名無史さん:2008/01/01(火) 00:09:23
近衛大将には随身がつくってことも征夷大将軍との大きな違いだな
894 :
日本@名無史さん:2008/01/01(火) 16:23:14
征夷大将軍は、令外の宣旨職。
895 :
日本@名無史さん:2008/01/01(火) 22:27:51
age
律令制って正式に廃止されたんかな?
内閣総理大臣も令外の官ではないのか?
897 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 17:49:36
太政官制が廃止された時点で廃止とみるべき。
898 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 19:34:35
>>896 総理大臣って太政官で言えばどこ?
行政の長に過ぎないからわかりにくいよね。
国務大臣は各省の郷あたりか?
4位相当官だから思ったより低いですね。
899 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 23:01:42
>>898 国務大臣は主任大臣を兼務しているだけであって、憲法上は
内閣の構成員として内閣総理大臣と他の国務大臣と連帯して
行政権を行使する立場。(憲法上、自分が担当している省庁以外の
行政に関しても国務大臣として閣議に議案を求めたりすることが
できるそうだ。例 外務大臣が国務大臣として年金問題に関する
議案を閣議に提出できる)
だから国務大臣が少なくとも左右大臣には相当するだろう。
900 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 23:15:01
現在では内閣総理大臣が死去後(現在の制度では生前に叙位は
できない)に正二位、国務大臣には従二位が叙位されるから
それで比較したらわかりやすいかもしれんなあ。
そうだとすると内閣総理大臣は左右大臣相当になるけど業績が
あった者には従一位が叙任されているから(吉田茂や佐藤栄作、
中曽根康弘も死去したら叙任されるのは確実)、内閣総理大臣は
太政大臣と左右大臣の中間ってところか。
901 :
お岩:2008/01/03(木) 09:41:04
>>890>>891 最近学界で頼朝は征夷大将軍を望んだ訳じゃないという新説が
出て有力になってる。
木曽義仲と同じでは嫌かもね
>>898 閣僚会議→陣の定と考えると、
首相が左右大臣、他の閣僚が大中納言ってとこかな。中納言は八省の長官を兼ねることも多いし。
内大臣は副総理みたいなモンか。今は無いが。
人口比でいくと衆議院が陣の定って事になるかな。そうすると衆院議員が参議ってトコか。
内閣官房長官は蔵人頭も兼ねていそうだな
905 :
日本@名無史さん:2008/01/07(月) 18:42:21
関白と征夷大将軍を兼任なら最強だろね。
906 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 21:44:09
准大臣ってそこで行き止まりの人専用の待遇だって言うイメージがあるのですが、
その後正式に大臣に任用された人はいるんでしょうか?
907 :
日本@名無史さん:2008/01/14(月) 17:28:53
>>905 慶喜は、将軍に加えて摂政を兼ねようとしたことを、のち公式
伝記の編纂者に突っ込まれて、しぶしぶ認めている。
これが「大君制」の正体。
908 :
日本@名無史さん:2008/01/14(月) 22:06:44
>>907 実際には随分長い隠居生活を送ったものだね>慶喜
909 :
日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:46:39
32歳で隠居して77歳で死去
余生の長さでは先祖(かもしれない)陽成天皇には負けるけど。
911 :
日本@名無史さん:2008/01/15(火) 14:03:33
912 :
911:2008/01/15(火) 14:04:32
あ、ごめん。わかったよ。
いわゆる清和源氏が実は陽成源氏、可能性と言うか検討の余地はあるよね。
徳川将軍家が清和源氏、まあ一応可能性がないとまでは言えないよね。
正直正体不明な分絶対違うとは否定出来ない。
限りなく可能性は低いだろうが。
914 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 10:46:40
まあいずれにしても、清和天皇の男系子孫であることに変わりない。
915 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 12:04:13
清和天皇の男系子孫って今の日本に何人位いるのだろう?
916 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 12:36:22
凡そ1100年間に1世代25年として44世代。
男子の仮に3人程度とすると
3を44乗して、9.8×10^21人くらい。当然ながら日本の人口(10^8人)を遥かに越える。
つまり殆んどが清和帝の男系子孫。
↑という計算をする人がいるがこれは間違い。
当然ながら身分の高い者は子が多く、庶民では男子の数平均1人程度だと思われる。
ある特定の現代人の男系先祖で清和帝と同時代の人は当然1家しかないわけで、
もし貴種であることによる多子性のバイアスがなければ、
ある当時の男子の男系子孫は当時と現在の人口の比率を考えても20〜30人とかそんなものだろう。
歴史上多少とも名が残るような貴族とか上級武士は男子が沢山いる場合もある
(もちろん男子がなくて絶える場合もある)が、それより身分が落ちた場合には男系子孫の数はそれほど増えない。
結論としては、清和帝の男系の子孫っていうのは、
現存する「真っ当な」皇族・貴族や清和源氏で男系子孫であることが証される人々の
せいぜい数倍〜10倍くらいだと思われる。
ざっと見積っても1000人くらいか?1万人はいないだろう。
917 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 12:47:42
女系を含めれば話は別で、
清和天皇の男女系子孫は現在の日本には数千万人、
恐らくは日本の人口の半分以上いると思われる。
918 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 14:28:54
みんな確率論に振り回されすぎ。実際血縁で繋がっているのはその数の三分の一程度。25代さかのぼると50万人との接点があるといわれてるが、そんなことは無いんだ〜よ〜、あほ。
>>918 人をアホ呼ばわりするんなら
もう少し根拠らしきものを書かないとな。
920 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 15:44:53
こういう確率論持ち出すヤツらは、
「だから俺も清和天皇の子孫(かもしれない)」
と夢想してる痛いヤツらが多いな。
家紋と名字「だけ」を論拠に武将の子孫を自称してるヤツらと同じw
逆じゃないの、そんなありふれてるんだから血統なんか意味ないぜって方向性じゃない?
922 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 15:56:04
こういう話を考える場合実は、明治以降の
血縁的・地縁的関係が希薄になってからの方が重要になる。
もし仮に、俺らと同じ世代で清和天皇の子孫(男系女系含む)が日本人の半分いたとしよう。
すると次の世代では75%が清和天皇の子孫になる。
更に次の世代では清和天皇の子孫でない人は、
わずかに全体の6%になり、更にその次の世代には
0コンマ何%になってしまう。
江戸時代以前には、身分や地域の違う人との結婚はあまりなかったから
僻地の、身分の低い人々の間では、清和天皇の子孫でない血を保存していたかもしれない。
しかし、例えば甲斐には武田の支流が沢山いたことから
武田家の家臣団はほぼ全員清和天皇の子孫であったことは間違いない。
武士階級に限って言えば、明治維新までの間に
大抵の藩で、清和天皇の子孫で占められてしまっていたことは間違いないと思う。
また、戦国時代に町人化した武士が結構いることから、
大都市の町人の間でも事情は同じだったはず。
そう考えるとどう少なく見積っても、明治維新の時点で
2、3割以上の人は清和天皇の子孫だったはずで
従って現在、清和天皇の子孫でない人はあまりおらず、しかもものすごい勢いで
絶滅しようとしていることは疑いない。
但しこれはあくまでも女系を含めた場合の話な。
男系子孫はかなり珍しいはず。
923 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 16:04:48
そもそも古代から人口の圧倒的大多数は地べたの土百姓だったわけで、
確率を云々するなら天皇の血以前に土百姓の血の方が濃厚だろうに。
924 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 16:07:55
土百姓の血という大海の中に、気づかぬうちに天皇の子孫の血が目薬一滴くらい入ったとして、
そんなもの、何の自慢になるの?
まして確率で数字遊びして可能性だけ論じても、系図も証拠もなければ立証不可能なのに。
925 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 17:24:44
>>923 924
ん?
別に土百姓の血が多いことを否定など、当り前だがしていない。
また天皇の子孫だから尊いなどとも全く言っていない。
>>921の言うとおり、全ての人が天皇の子孫だったら
天皇の子孫であること自体は何の価値もなくなるだろう。
ここでは単純に、清和天皇の子孫はどの程度いるか?という問いに
できるだけ真面目に答えてみると
>>922のようになる、と言ってるだけなので、
そんな問い自体スレ違いだろって言うのならわかるが、
「土百姓の血の方が濃厚だ」などというレスは全く見当違いなんだが。
あと上の方から、確率論確率論言ってる人がいるが、
あなたの言う「確率論」が悪いのなら、
実際にどう論じれば良いのか明確に、論理的に述べてほしいな。
あなたは単なる見当違いな悪口を言ってるに過ぎませんよ、端から見たら。
学会とかで議論をするときにはさすがにいないが、
一般の人むけに話をしたりすると、必ずこういう、
見当違いな文句を行ってくる人がいるよね。
例えていえば「現在の東京の地形はかなりの部分が家康入府後に作られたものだ」という意見があり
それに対してきちんと議論するのではなく、いきなり
「いや違う!家康は元々三河人なんだ!
それに江戸城の造成は全国の諸大名に命じてやらせたものだ。
関東人なんか全然偉くないんだよアホが!!!」
とか言い出す人みたいな。
ハァ?関東人が偉いとかそんなこと何も言ってないんですが。何を言いたいの?
としか答えようがない。
見事なクソスレ化w
928 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 21:29:02
>>922 隔離された島とかに先祖代々すんでいる人以外は、
日本人はほぼ全員が清和天皇の子孫だと考えるのが自然だな。
逆に、美智子妃の血が入っている皇太子はもちろん、
今の天皇陛下も、どこの馬の骨かわからない血がたくさん入ってるに違いない。
小説で、息子にお前は養子だと告白した後で
「大事なのは血統を受け継ぐことではない、その意志を受け継ぐことだ
お前は確かに、俺の息子だ」って言ってた
930 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 22:00:03
結局「家」ってのは、遺伝子ではなくて社会制度なんだよね。
今の天皇が天皇であるのは、彼が神武天皇(という人がいたとして)の子孫だからではなくて
彼が日本の歴史の中で、最も尊いとされてきた「家」の継承者だから。
女系でつながる養子だろうと、そもそも遺伝子上何のつながりもない養子だろうと
その家という制度がそれを認めれば良い、のだよね。
・・というまとめ方でどう?
>>930 一応遺伝子にはこだわるだろうけど、血族の一人に宗家のポジもバトンタッチでいいんじゃない?
いくら同じ遺伝子グループでも宗家以外には権限ナシって事で
932 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 10:31:42
>>928 そんなこと強調してもなんの意味もない。
大体、天皇の血をすぐ持ち出す連中は、氏素性も不明な農民の子孫が
家紋や名字だけ根拠に武将の子孫とか名乗る連中とほぼ同類。
それに、前近代は狭い通婚権で同じ身分同士で結婚するケースが多いから、
確率云々なら農民はどこまでいっても農民のことが多い。
女系(しかも母方のそのまた母方w)で武士がどうとか言ってる先祖ヲタなんて
傍から見てて見苦しすぎる。
まだいたのかこの人
アホ
934 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 11:20:16
アホなのは家系自慢のため、家紋や名字から類推して天皇や武将の末裔と称するような
家系ヲタや田舎のオッサンだろう。
時々、天皇の子孫がどうのこうのを確率論で強調するヤツが出てくるから、そんな数字遊びより
現実に農民の子孫が圧倒的大多数だという厳然たる事実を書いたまでのこと。
歴史ライターの書く雑文で、一億総皇胤みたいな書きぶりのものがあるが、
そんな文章読んで喜んでるヤツらこそアホだな。
悪いこと言わんから
>>926でも読んで出直してこい。
このスレももうすぐ終りだね。
よく3までも続いたもんだ。
誰の子孫であろうが貴種性がなきゃ意味がない。
みんなと同じでは特段の勝ちはない。
在日が沸いてファビョってんの?
938 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 12:53:16
上野の国立博物館の近衛家の特別展ってどうだった?
939 :
日本@名無史さん:2008/02/04(月) 14:15:57
あげ
940 :
武陽隠士:2008/02/07(木) 23:50:16
941 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 08:53:38
准摂政ってあるみたいだけど実際にこの職についた人はいるのでしょうか?
職って言いうるのかどうかは疑問があるけど、
確か藤原実頼が第一号で、かの道長が第二号だったと思う。
943 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 09:04:53
平清盛って関白になった?
なってないよ、藤原氏以外で関白になったのは豊臣2代だけ。
秀吉は近衛家の猶子として関白になったから当初は藤原姓ですよね。
豊臣姓を賜わってからは猶子縁組?は解消されたの?
猶子なんて仮養子だから
947 :
日本@名無史さん:2008/02/14(木) 12:39:03
秀吉は豊臣姓を受けた後
自分を養子にしていた近衛前久の娘前子を
今度は自分の養女にして後陽成天皇に入内させたから
近衛家との親しい関係までは解消していないけどね
秀吉は藤原秀吉として関白宣言を受けている
後陽成天皇から豊臣姓を受けたのは
二条家から秀吉に近衛姓を名乗らせるなと
横槍が入ったためらしい
948 :
日本@名無史さん:2008/02/14(木) 16:50:17
そもそも関白と太政大臣だとどっちが偉いというか格上なの?
949 :
日本@名無史さん:2008/02/14(木) 16:57:34
関白
平安時代中期、藤原兼家が外孫一条天皇の摂政になったとき、
右大臣兼家の上には、太政大臣藤原頼忠があって、
太政官制の上では兼家が臣下のトップに立つことが出来なかった。
そのため、兼家は右大臣を辞任、摂政のみを背任。
摂政兼家は太政大臣頼忠の上に置くという勅を受けた。
以降、摂関は太政大臣より上。
(勿論、摂関が太政官の最高位である太政大臣を兼ねることはあった)。
950 :
日本@名無史さん:2008/02/14(木) 18:32:45
てゆうか摂関が左右大臣or内大臣兼任で、他に太政大臣が別にいる
場合なんかでも、摂関は一座宣旨を蒙って常に臣下のトップになるじゃないの?
ただ摂関は若年でもなれるが(10〜20歳代の摂関は大抵左右大臣や内大臣を
兼任)、太政大臣はある程度の年齢以上じゃないと不可ではあったはず。
もっとも太政大臣は常置の官じゃないから、空席のことも多いけど。
951 :
日本@名無史さん:2008/02/14(木) 18:36:10
>>938 東博のこと?
一瞬、上野国(群馬県)の博物館かと思ったぞ
952 :
↑:2008/02/14(木) 20:52:21
こんなレスしなきゃ気が済まないのかねw
>太政大臣はある程度の年齢以上じゃないと不可ではあったはず。
すると最年少太政大臣って徳川家継?
死後だけど。
>949
まあ、「勅を受けた」というより、摂政として自分で出したんだろうけどね。
>950
秀次の時は、どうなんでしょう。
955 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 03:44:23
956 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 09:57:43
957 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 12:40:34
>>950 というか、太政大臣がほかにいるのに
摂関が左右内大臣を兼ねていたって
どの例のことを言っているの?
958 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 13:16:22
自分で調べろ。
959 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 13:25:42
かっけー
960 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 14:26:26
961 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 15:28:06
普通にあるだろ。
962 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 16:00:22
>>961 誰一人例があげられないのはなんで?
あげてみて?
例がないからでしょ
963 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 18:11:56
964 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 18:17:27
自演スレ
公卿補任を見ればいくらでも例はありますが、
986年、関白・太政大臣頼忠関白停止太政大臣のみ、代わりに右大臣兼家が摂政就任。
同年中に兼家が右大臣を辞任するまで太政大臣頼忠・関白兼家がしばらく続く。
1017年、道長太政大臣就任、時の摂摂政は息子内大臣頼通。道長辞任までこのまま。
1021年、公季太政大臣就任、同時期関白・左大臣頼通。公季死亡までこのまま。
966 :
日本@名無史さん:2008/02/17(日) 16:01:33
967 :
日本@名無史さん:2008/02/17(日) 21:35:18
豊臣秀吉も関白になったときは内大臣だぞ。
968 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 01:01:09
室町時代には、
太政大臣=足利義満
関白兼左大臣=一条経嗣
って時期もあるな。
969 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 01:06:45
桃山時代には、
太政大臣=豊臣秀吉
関白兼内大臣=豊臣秀次
って時期もあるな。
970 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 01:07:42
桃山時代には、
太政大臣=豊臣秀吉
関白兼左大臣=豊臣秀次
って時期もあるな。
971 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 01:11:35
江戸時代には、
太政大臣=徳川秀忠
関白兼左大臣=近衛信尋
って時期もあるな。
972 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 01:15:24
江戸時代には、
太政大臣=徳川秀忠
関白兼左大臣=一条昭良
って時期もあるな。
973 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 01:15:47
江戸時代には、
太政大臣=徳川秀忠
摂政兼左大臣=一条昭良
って時期もあるな。
>>962は釣り。
自分で調べられないから、わざと挑発的なことを言って情報を引き出す。
よくある手口。
975 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 03:38:10
986
太政大臣:藤原頼忠、摂政右大臣:藤原兼家
1017−1018
太政大臣:藤原道長、摂政内大臣:藤原頼通
1021−1029
太政大臣:藤原公季 関白左大臣:藤原頼通
1080−1083
太政大臣:藤原信長、関白左大臣:藤原師実
1122−1123
太政大臣:源雅実、関白左大臣:藤原忠通
1123−1124
太政大臣:源雅実、摂政左大臣:藤原忠通
1158−1160
太政大臣:藤原宗輔、関白右大臣:近衛基実
1160−1164
太政大臣:藤原伊通、関白左大臣:近衛基実
1203−1204
太政大臣:大炊御門頼実、摂政左大臣:九条良経
1348−1349
太政大臣:洞院公賢、関白左大臣:二条良基
1367−1368
太政大臣:久我通相、関白左大臣:鷹司冬通
1380−1382
太政大臣:二条良基、関白左大臣:二条師嗣
1394−1395
太政大臣:足利義満、関白左大臣:一条経嗣
1493−1496
太政大臣:一条冬良、関白右大臣:近衛尚通
1496−1497
太政大臣:一条冬良、関白左大臣:近衛尚通
976 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 03:39:11
1509−1511
太政大臣:徳大寺実淳、関白左大臣:九条尚経
1512−1513
太政大臣:近衛尚通、関白左大臣:九条尚経
1518−1521
太政大臣:花山院政長、関白右大臣:二条尹房
1582
太政大臣:近衛前久、関白左大臣:一条内基
1591−1592
太政大臣:羽柴秀吉、関白内大臣:羽柴秀次
1592−1595
太政大臣:羽柴秀吉、関白左大臣:羽柴秀次
1626−1629
太政大臣:徳川秀忠、関白左大臣:近衛信尋
1629
太政大臣:徳川秀忠、関白左大臣:一条昭良
1629−1632
太政大臣:徳川秀忠、摂政左大臣:一条昭良
1746−1747
太政大臣:一条兼香、関白左大臣:一条道香
1747−1748
太政大臣:一条兼香、摂政左大臣:一条道香
以上、太政大臣と左右内大臣兼任の摂関が並立する事例
977 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 05:18:11
「太政大臣空席、摂関は右大臣or内大臣を兼任、左大臣は別に存在」とか、
「太政大臣・左大臣空席、摂関は内大臣を兼任、右大臣は別に存在」とか、
って事例もあるかな?
右大臣伊尹、970年叔父摂政太政大臣実頼の死去に伴い摂政就任、翌971年太政大臣昇格。
この時だれか左大臣が居たと思うけど。
972年の関白内大臣兼通の時は、左大臣源兼明、右大臣藤原頼忠が在任。
1017年の頼通摂政内大臣、太政大臣不在、左大臣顕光、右大臣公季。
>>978 ウィキを信じるなら、源高明の後、藤原伊尹、藤原在衡、源兼明の順。
980 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 21:51:21
ウィキは子供たちに自分で調べる能力を奪うから使用禁止。
引用するなら文献だけ、著書名、ページ、著者を明記することとか
決まりを作ったほうがいいかも。
そうそう確か誰か左大臣がいたはずだけど兼明は翌年だし誰だろうと思ったら、
在衡だったね。
公卿補任から引いたメモで確認。