1 :
広瀬満:
天皇について議論するには天皇の正体について知る必要があります。
古事記を丹念に研究した結果、天皇家の真の皇祖は蘇我馬子、さらにその祖先は百済の貴族、木満致であるというが判明しました。すなわち天皇家は万世一系ではなく、飛鳥時代に蘇我氏に切り替わっていたのです。
この説はわたしのHPで「大国主伝」としてまとめました。
http://www.kojikiden.com この説に対する批評、意見を広く求めます。
広瀬満
2 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 13:30:11
ゲッ
3 :
日本@名無史さん:2007/03/19(月) 13:15:15
突拍子もない話だが面白そうではある・・・・
4 :
日本@名無史さん:2007/03/21(水) 09:49:13
5 :
日本@名無史さん:2007/03/21(水) 10:25:57
>>1 蘇我氏自体が、天皇家から分かれた家系。
百済貴族だなんて、とんでも説だよ。
蘇我氏は、武内スクネ系の子孫で、皇別・葛城氏の傍系。
蘇我氏は百済管轄の軍事を担当していたらしく
武内系の豪族で百済貴族の娘を妾にしていて
それに産ました子供が蘇我氏を名乗ったわけで。
蘇我氏が男系で見たら天皇の分家だったからこそ、
彼らは大臣になれたわけで。
大臣は、皇別氏族しかなれなかったの、当時は。
6 :
日本@名無史さん:2007/03/21(水) 11:15:40
>>5 それも記紀や新鮮商事録をそのまま祖述してるだけの話だけだけどな。
歴史学では系図なんてものはアテにしないのが鉄則。
7 :
広瀬満:2007/03/21(水) 13:34:45
天智天皇の祖父は押坂彦人大兄皇子であるが、この人物は蘇我馬子と同一人物であるというのが私の説である。
日本書紀の用明天皇のあたりの記述を私の「大国主伝」を参考によく読んでもらいたい。
日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。
にもかかわらず押坂彦人大兄皇子の舎人の迹見赤檮(とみのいちい)は蘇我馬子の元で活躍している。
押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だという疑いを誰も持たないのだろうか。
広瀬満
http://www.kojikiden.com
8 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 09:48:09
た、た、確かにおかしい
9 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 12:10:04
あんまりおかしくない。
蘇我馬子は彦人皇子が消える前から登場している。
迹見赤檮が「彦人皇子の舎人」とは書かれてない。
(むしろ記事からは、赤檮が彦人皇子直属の舎人ではなかったことが読みとれる)
物部合戦で、迹見赤檮が「蘇我馬子の配下」であったとも書かれていない。
>蘇我馬子は大々王
元興寺縁起を読む限り、大々王は女性だし、
大々王が馬古大臣に告宣する場面も出てくる。
別人だな。
10 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 12:32:47
日本版のFBIを創設しろ!!
11 :
広瀬満:2007/03/22(木) 14:25:32
彦人皇子と中臣勝海連の話の後に舎人迹見赤檮と記されているので迹見赤檮は彦人皇子の舎人と見るべきである。
迹見赤檮が彦人皇子の舎人でないとすれば彼はいったい誰の舎人なのか。
迹見赤檮は中臣勝海連が彦人皇子の所から退出するのを見計らって惨殺している。このような状況から迹見赤檮は彦人皇子の命で中臣勝海連を殺害したと見たほうがよい。
ちなみに「聖徳太子伝歴」では迹見赤檮は蘇我馬子の命をうけていたとある。
押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子が同一人物であるか否かは大変重要なことなのでここは徹底的な議論を望みます。
広瀬満
http://www.kojikiden.com
12 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 15:09:37
>>7 押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だという疑いを誰も持たないのだろうか。
押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だとすると、日本書記など多くの資料に、その何倍、何十倍いや何百倍もの疑問や矛盾が発生することになるが、広瀬満という方は、そういう疑いに気が付かないのであろうか?
一度、落ち着いて、
押坂彦人大兄皇子≠蘇我馬子 の場合の矛盾点
押坂彦人大兄皇子=蘇我馬子 の場合の矛盾点
について、一覧表などを作ってみたらどうですか。
おそらくその作業の途中で、自分の愚かさ加減に気が付くでしょうけど・・・。
13 :
広瀬満:2007/03/22(木) 15:48:03
押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だとすると、日本書記など多くの資料にどのような疑問や矛盾が発生するのか具体的に説明してもらいたい。
押坂彦人大兄皇子に関する疑いについては早急に、具体的に説明させていただく。
なおこの板に書き込む場合は名前(仮名でよい)を書き込んでいただきたい。そうでないと誰からの質問だか、誰に返答を返して良いのかわからない。このことはくれぐれもお願いしたい。
広瀬満
14 :
広瀬満:2007/03/22(木) 19:10:17
ここでは押坂彦人大兄皇子はいかに矛盾に満ちた人物であるか具体的に説明していきたい。
1,押坂彦人大兄皇子(以下、彦人皇子とする)の母は敏達天皇の皇后、息長真手王の娘・広姫であるがこの息長真手王が王女が天皇の妃となったこと以外具体的な記述が何もなく正体不明の人物である。広姫という名前も皇族にしては短かすぎる。
2,敏達天皇と皇后の第一子で太子とされていたのに敏達天皇や用明天皇の崩御後、なぜ即位しなかったのか。
3,彦人皇子の后は糠手姫皇女、大俣王、桜井弓張皇女、小墾田皇女の4人であるがこの内、糠手姫皇女、桜井弓張皇女、小墾田皇女は敏達天皇の娘である。従って彦人皇子が自分の妹を3人も后にしているのは何とも異常である。
この時代、自分の妹を娶った例はいくつかあるがそれは皇后、正后の一人に限られている。3人も后にした例はなくその理由も説明がつかない。
4,皇統譜上、彦人皇子は極めて重要な人物でありながら没年についての記載がない。一方天智天皇の祖母の薨去についての記載は存在する。
5,推古天皇には5人の娘がありそのうちの二人(桜井弓張皇女、小墾田皇女)が彦人皇子に嫁いでいるが蘇我馬子には一人も嫁いでいない。時の権力者は王族と深い姻戚関係を結ぶことが普通である。
6,蘇我馬子と物部守屋の戦いの3ヶ月前、中臣勝海連は守屋を助けるため彦人皇子と竹田皇子の像を作り呪うが、なぜ彦人皇子の像があって馬子の像がないのか。中臣勝海連と物部守屋の二人が最も敵対視していたのは馬子だったはずである。
7,蘇我馬子と物部守屋の戦い以降、彦人皇子についての消息が全く不明である。
8,彦人皇子は皇祖大兄とも呼ばれていた。父が天皇なのになぜ彼は皇祖と呼ばれていたのか。
15 :
広瀬満:2007/03/22(木) 19:11:11
続き
9,『延喜式』には彦人皇子の墓についての記載があるがその墓域の広さは東西15町、南北20町と尋常ではない大きさである。これは『延喜式』では最大の大きさである。
敏達天皇が東西3町、南北3町、天智天皇でも東西14町、南北14町にすぎない。即位したわけでもないのになぜこのように大きいのか。
10,彦人皇子の墓(成相墓)が広陵町にある牧野古墳である可能性はかなり高いとされている。なぜなら成相墓があったとされる大和国広瀬郡(現在の河合町や広陵町)には牧野古墳以外、飛鳥時代の墓はほとんどないからである。
牧野古墳の石室は明日香村の石舞台古墳とほぼ匹敵する大きさである。蘇我馬子と物部守屋の戦い以降の蘇我氏の全盛期になぜこのような巨大な墓が即位したわけでもない彦人皇子のために造られたのか。
牧野古墳についての情報:
http://www.kojikiden.com/newpage25.html 11,推古天皇の崩御後、天皇に即位した舒明天皇は日本書紀によれば蘇我氏とは血の繋がりはない。山背大兄王といった蘇我系の皇子をさしおいてなぜ蘇我蝦夷は彼を天皇に即位させたのか。
舒明天皇の次も蘇我氏とは血の繋がりのない宝女王(皇極天皇)である。蘇我氏の全盛期になぜ非蘇我系の皇子が次々と天皇に即位したのか説明ができない。
彦人皇子が蘇我馬子と同一人物という私の説を疑う人はこれらのことについてきちんと説明してほしい。彦人皇子は敏達天皇の皇子ではなく、蘇我馬子と同一人物であればこれらの謎は簡単に説明できるはずである。
天智天皇の祖父の彦人皇子が蘇我馬子と同一人物ということは天智天皇は蘇我馬子の孫ということになる。天皇家は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた。すなわち天皇家は万世一系ではないというのが私の考えである。
天智天皇が蘇我馬子の孫であることは私のHPの「大国主伝」において、上記以外にも様々な角度から検証しているのでぜひ参照してほしい。
広瀬満
http://www.kojikiden.com
16 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 23:47:41
1.広姫は敏達即位4年目に亡くなっており、先后・石姫も存命と思われ、特記事項が無くても不思議ではない。
また、この時代、坂田耳子王が中央政治に関わっていた記事が見えるから、同族の息長王家から后が出てもおかしくはない。
息長広姫あってこその「押坂」皇子だし、「息長足日広額」天皇であろう。
2.先后の意向や存在が重視されたのではないか。(このケースでいえば額田部皇女の意向)
(例・欽明における春日皇后、乙巳の変時における皇極、天智後の倭姫皇后=大海人の提言、天武没後の持統など)
3.3人が同時に妃だったとは限らない。記と紀それぞれの伝承では2人である。
(ちなみに平城天皇は異母妹を2人、妃にしている。甘南備内親王を入れれば3人である)
4.舒明が即位したため結果的に皇統譜上重要になっただけのこと。天智の祖母が亡くなったのは天智の時代。
5.この時代に皇女が臣下に嫁いだ例などない。
6.だったら、「勝海が馬子の像を造って呪った。これを知った馬子が怒って勝海を殺した」と書けばよい。
7.一度本流から外れた人の記録が疎かになるのはある意味当然。
8.時の孝徳天皇や中大兄から見れば、彦人大兄は祖父ですから。
9.兆域の拡張は後世の事業だろう(施基親王の例参照)。
おそらく斉明女帝や天智の意向が働いていたと思われる。
10.広瀬地域と蘇我氏の関係は希薄。この地は敏達天皇との関係で捉えた方が自然。
それに、牧野古墳は620年代まで降らないと思う。
11.蘇我氏との血の濃淡だけで皇位継承が決められたわけではないだろう(上の2にも関わってくる)。
親族関係で云えば、山背大兄は蝦夷の甥だが、舒明は蝦夷の義弟である。
17 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 23:56:27
赤檮は「太子」の舎人
18 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 10:05:28
>>13 押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だとすると、日本書記など多くの資料にどのような疑問や矛盾が発生するのか
押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子の祖先や子孫の系譜はどうなるの?
蘇我馬子と厩戸王子との関係はどうなるの?
蘇我馬子と他の群臣との関係はどうなるの?
これらのことすべてについて、一般に史実とされることであれ、聖徳太子の伝説的なことであれ、蘇我馬子と書かれているところを単に押坂彦人大兄皇子と読み替えてうまくいく箇所はほとんどない。
例えば、5が指摘したように「蘇我馬子=押坂彦人は葛城系」となるが、これを矛盾と思わないのか?
このようなことすべてについて、日本書記等の記録がほとんど矛盾となる。
ささいな疑問を解消するために莫大な矛盾を発生させる珍説と言わざるをえない。
19 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 10:24:15
迹見赤檮についても、むちゃだ。
主人を変える、兵力を貸し出す、二人の主人を持つなど、たいして珍しいことではない。
当時の舎人は終身雇用だったのか?
そんな話は聞かない。
押坂彦人の舎人である時代と馬子の舎人である時代とがあったはずがないと、どうして分かるのだ?
舎人のレンタルや派遣はなかったのか?
物部戦争のときに、押坂彦人が馬子を支援するため、兵糧、武器、兵力などを貸したり提供したりしなかったと、どうして分かるのだ?
舎人の主人は一人だったのか?
複数の主人に仕える、あるいは複数の指揮命令系統に従うことなど、近代以前の軍隊では珍しくない。
迹見赤檮の身分について疑問はあるが、ささやかなものであり、「押坂彦人=馬子」の根拠とするほどのものではない。
>>13 > なおこの板に書き込む場合は名前(仮名でよい)を書き込んでいただきたい。
> そうでないと誰からの質問だか、誰に返答を返して良いのかわからない。
これは無理な話ですよ。
2ch内では、むしろコテつけてる方が「うざい」というのが一般的な感覚。
それが嫌ならば初めからこの板には書き込むべきではない。
あと、
コテつけてなければ「誰からの質問だか、誰に返答を返して良いのかわからない」
というのは、意味不明ですな。
コテのあるなしにかかわらず、全ての質問に誠実に返答していただければ良いだけの話だと
思うんですが。
せっかくみんな、あなたに対してこんなに真面目にレスしているのですから。
21 :
広瀬満:2007/03/24(土) 09:36:38
>>16 他の掲示板でも同じような質問を出しているのですが思ったような返答がなくがっかりしていました。歯ごたえのある返答をいただき感激しています。
4時間あまりの短時間にすべてに返答していただいたこと、内容の鋭さと相まって感服いたしました。
相当古代史に精通した方とお見受けしました。
早速反論させていただきますが項目が多い上、なるほどと思えるもの、そうでないもの様々ありますのでしばらく時間をいただきたいと思います。
広瀬満
22 :
広瀬満:2007/03/24(土) 10:24:50
>>18 莫大な矛盾を発生させるというのならそのような具体例をけちけちせずに一つだけでなく10個ぐらいあげてもらいたい。
私はむしろ押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子を同一人物とした方がこの時代の謎や矛盾は少なくなると思う。
葛城に蘇我氏の祖廟が建てられていたことからわかるように確かに蘇我と葛城は深い関係にあった。
彦人大兄=葛城系に疑問を持つのなら彦人大兄の孫の中大兄皇子の別名、おそらく幼名だと思うが葛城皇子となっているのはどういうことか。
中大兄皇子は蘇我の一族だったからこそ蘇我ゆかりの葛城あるいは葛城氏の元で養育されていたのではないだろうか。
このことも押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物とする根拠の一つにあげておきたい。
広瀬満
http://www.kojikiden.com
23 :
日本@名無史さん:2007/03/24(土) 11:00:01
>>1
んじゃなんで
天皇家は代々にわたり蘇我馬子よりも年長の
天照や応神なんかの祭祀を続けてるんだ?
同じ年長でも長髄彦や川上猛は祭祀してないぞ
明らかに天皇家は年長の血縁神の祭祀してるぞ!
貴方の話じゃちっとも説明つきませんよ
妄想が過ぎるんじゃありませんか?
貴方もやっぱり大林賢栄君ですか?w
24 :
日本@名無史さん:2007/03/24(土) 11:15:43
天智は嶋宮に住んでたばあさん連中の采女が乳母だったんだよ
25 :
広瀬満:2007/03/24(土) 14:16:32
>>19 19さんの論法では仮定の議論しかならないと思う。
今は押坂彦人大兄皇子の疑惑について徹底的に議論したい。
押坂彦人大兄皇子=蘇我馬子とみれば特殊な事情を考慮しなくても迹見赤檮の行動はスムーズに理解できるはずである。
広瀬満
26 :
広瀬満:2007/03/24(土) 21:16:13
>>20 >2ch内では、むしろコテつけてる方が「うざい」というのが一般的な感覚。
>それが嫌ならば初めからこの板には書き込むべきではない。
これは言い過ぎであろう。
書き込みには名前の項があるのだから名前を書くことが非難されることはない。
むしろ「うざい」という理由で書き込まないことが一般的になっている2ちゃんねるのマナーの方が問題では。
このスレでは当方の持論に対し意見、反論をいただきそれに私が返答する格好になっている。
すべてが「日本@名無史さん」では反論をいただいた相手が以前にどのような書き込みをされているのかわからない。
返答に正確を期すためにもぜひ協力してほしい。
>せっかくみんな、あなたに対してこんなに真面目にレスしているのですから。
真面目なレスが多く本当に感謝している。こちらもがんばってお答えしたい。
広瀬満=大林www
28 :
衣笠宮:2007/03/25(日) 09:01:14
多くの方々がいろいろな説を唱えておられるが、
はっきりとした根拠もないのに、皇族と臣下
の枠を簡単に飛び越えている説には辟易します。
そこには現在も過去も歴然とした壁が存在しており
それなりの説得力がないと、にわかには信じられ
ませんね!
29 :
広瀬満:2007/03/26(月) 07:59:35
>>28 早速名前を記入していただきありがたい。こちらも返答しやすいし、このスレを見る人にも楽しんでもらえると確信している。
たいした根拠もないのにこのような説を展開しているわけではありません。
疑惑を提示し議論をしているところです。
大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
これは大日本帝国憲法第一条である。大日本帝国は皇統の万世一系を日本国の基礎をなす最も重要な要素としていた。
今もこの見方は重視されている。いわゆる皇国史観である。
しかしその肝心の皇統譜の上に押坂彦人大兄皇子のような疑惑にみちた人物が存在することは大きな問題である。徹底的な議論が必要と感じている。
その結果によっては影響力の大きいシビアな議論となるがここでは堂々とやる!!
今後の議論に期待してほしい。
広瀬満
http://www.kojikiden.com
30 :
日本共産党:2007/03/26(月) 11:53:17
期待している
宣伝乙
おもしろそうだけど
32 :
広瀬満:2007/03/26(月) 15:16:04
>>16 1.同意する。従って1の疑惑については取り下げる。
2.先后の意向や存在が重視されたという記述はない。日本書紀の記述からも彦人大兄はかなりの実力者だったと思われる。そう簡単に無視されたとは思われない。
3.確かに「記紀」の記述に食い違いがある。理由はわからないが一応ここでは通説に従って三人という前提で説明する。
確かに平城天皇は異母妹を3人娶っている。しかしそれは彦人大兄から二百年も後の事例である。彦人大兄の前後にはそのような事例はない。
しかも平城天皇は即位している。即位もしていない彦人大兄のこのような婚姻関係の異常さは払拭できない。
4.日本書紀が完成した時代の天皇は彦人大兄の直系の子孫になる。傍系の皇子ならともかく事跡はおろか没年の記載すらないのはおかしい。
5.蘇我馬子は単なる臣下ではない。時の実力者が王族との婚姻関係を求めるのは普通のことである。
現に後の藤原氏はそれまでの慣習を破り、藤原氏の娘を聖武天皇の皇后に押し込んでいる。馬子が推古天皇の娘を求めたとしても不思議ではない。
ただしこの時代に皇女が臣下に嫁いだ例はないのは事実であり、疑惑の根拠として弱いのは認める。
6.この事件の前後の状況からして物部守屋の最大の政敵は馬子であった。
その守屋を助けるために中臣勝海連は人形を作って呪ったのだから彦人大兄≠馬子とすれば人形は馬子、彦人大兄、竹田皇子の三体でなければおかしい。
二体でしかないのは彦人大兄=馬子だからである。
「勝海が馬子の像を造って呪った。これを知った馬子が怒って勝海を殺した」と書けばよいというのは全くその通りである。
馬子一人で通せばよいのに日本書紀はあえて使い分けている。このことは大きな問題であることは以前から認識している。
日本書紀の編纂者はこのような使い分けによって読者に彦人大兄は馬子と同一人物ではないかという疑念を生じさせることを狙ったと考えている。
すなわち暗示である。この時代の書物にはこのような例がいくつかある。このことは私のHPの「大国主伝」に詳しく述べている。参照されたい。
7.彦人大兄の記録自体がないのだから本流から外れた人物であったかどうかはわからない。外れた事情の記載はない。
次に続く
33 :
広瀬満:2007/03/26(月) 15:22:13
>>16 続き
8.祖父ということなら皇祖父とすべき。現に中大兄の祖母は「嶋皇祖母命」となっている。皇祖は皇統の起点の意味と見る。
なお馬子は「嶋大臣」とも呼ばれていた。彦人大兄の后に「嶋」と付いているのは実にアヤシイ。
9.後世に拡張したという記述はない。仮にそうだったとしても15町・20町は巨大過ぎる。
施基親王の墓も9町・9町と大きいが三割以下にすぎないし父の天智天皇を超えてはいない。敏達天皇は3町・3町、舒明天皇は9町・6町でしかない。
墓の規模は通常被葬者の生前の実力を表していると考えられている。成相墓は飛鳥時代前期最大の実力者であった馬子の墓と考える。
10.牧野古墳の立地は難波、斑鳩、飛鳥の中間にあり立地的にも第一級。大実力者であった馬子の墓にふさわしい。
同時期の古墳で被葬者、築造時期の確定している古墳はない。唯一牧野古墳の被葬者が彦人大兄として有力視されているだけである。
牧野古墳の築造時期が六世紀末とされているのは被葬者を彦人大兄とみての憶測である。
11.義兄弟というような意識がこの時代にあったかどうか。舒明天皇が馬子の娘を一人娶ったというにすぎない。
用明から推古天皇までは蘇我系の天皇である、また後の藤原氏も自らの権力強化のため天皇家との血の繋がりには大きなこだわりを見せていた。
血の繋がりのあるなしは大きな問題である。皇位継承の決定権を握っていた蘇我蝦夷がそのことに無頓着だったとは思われない。
また田村皇子の即位が推古天皇の意向だったとすれば、なぜ蘇我氏の全盛期にあえて田村皇子を蘇我系の推古天皇が推したかが問題になる。
舒明天皇が蘇我蝦夷の弟だったとなればこのような疑問は全く生じない。
なお彦人大兄=馬子ということは皇統は推古天皇と舒明天皇の間で蘇我氏に切り替わったことになる。
このことも近日中に論じてみたい。
広瀬満
http://www.kojikiden.com
34 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 18:04:34
>>22 「けちけちせずに一つだけでなく10個ぐらいあげてもらいたい。」
失礼な物の言い方を「する方のようなので、こちらも遠慮なく。
人の話の内容が理解できないのか?18では、
押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子の祖先や子孫の系譜はどうなるの?
蘇我馬子と厩戸王子との関係はどうなるの?
蘇我馬子と他の群臣との関係はどうなるの?
とっくに大きな括りで3種類の疑問や矛盾を投げかけている。
当然これらは、細かく見ればさらにたくさんの疑問や矛盾から構成される。
その程度の読解力もなしに、「けちけちせず」などと挑発する言い方をするものか?
まずは、押坂彦人=蘇我馬子 の場合の系譜・系図はどうなるのか?
こうした話の初歩の初歩の第1歩のような疑問であろう。
まっとうに答えられるのか?
35 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 18:12:22
>>34 (続き)
まじめに日本書紀を読んだことあるのかな?
蘇我馬子=押坂彦人 ということで、日本書紀等に疑問も矛盾も無いのだな?
では、まず敏達のところから、
敏達元年4月蘇我馬子宿禰を大臣とした。⇒つまり、彦人が大臣になった、つまり、彦人は臣下なの?
敏達元年5月天皇は皇子と大臣に尋ねられた。⇒つまり、彦人以外に政務上重要な皇子がいた?それは誰?
もし、それが彦人のことなら、「彦人と馬子に尋ねられた。」となるが、馬子=彦人なので、分身の術でも使ったのか?
敏達4年1月広姫を皇后とした。(広姫は)押坂彦人を生んだ。⇒彦人の父は敏達、故に馬子の父も敏達? 故に稲目=敏達?
敏達14年2月馬子は父の祀った仏に祟られて病となる。⇒馬子=彦人の父である敏達も仏教徒?
実は「父の時に祀った仏・・」という表現なのだが、まるで過去形。敏達14年に敏達は過去の人?それとも敏達はゾンビ?
敏達14年3月物部守屋は天皇に「疫病の流行は蘇我氏が仏法を広めたことによる」と奏上し、仏像や仏殿を焼き、馬子を責める⇒
臣下の守屋が、天皇の第1子の彦人(=馬子)を責めることができる立場だった?
守屋の奏上は「蘇我氏」となっているが、彦人(=馬子)以外の蘇我氏も責められたのか?
それとも従来の説のように馬子(=彦人)は蘇我氏筆頭の立場という理解で良いのか?
敏達14年8月守屋は誄をのべる馬子の姿を「矢で射られた雀のようだ」と笑う⇒
臣下の守屋が、天皇の葬儀の場で、その第1子の彦人を笑いものにした?
馬子の記述がもっと多いのは、この後の用明、崇峻、推古のときだが、もういいだろう。
蘇我馬子=押坂彦人で、日本書紀等に疑問も矛盾も感じないというのは、まじめに読んでいないか、疑問や矛盾に気付く注意力や感覚が鈍いとしか思えない。
36 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 18:15:09
>>35 (続き)
どうせ、また何か屁理屈をこねて反論するのだろうが、
自説に都合の悪い記述はすべて、「真実を隠すために捏造された」という、陳腐なB級陰謀論はやめてくれよ。
それから「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。 」という類の真っ赤な嘘もダメだよ。
(自分で迹見檮(=迹見首赤檮?)と押坂彦人のことに触れているが、それって敏達の次の用明のとき!
ぬけぬけとした嘘っぷりにあきれる!)
37 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 18:17:38
>>36 (続き)
蘇我馬子=押坂彦人
日本書紀等に照らして疑問も矛盾もないと強く主張しているが、
日本書紀等に照らして疑問も矛盾もない系譜・系図を想定済みだよね。
蘇我馬子=押坂彦人 という説を主張する以上、その先祖や子孫の系譜について考慮していなければただの阿呆だもの。
早く系譜・系図を見せて。蘇我馬子=押坂彦人かつ日本書紀等とまったく無矛盾のものな。
とっとと系譜・系図が示せないようなら、大言壮語のペテン決定だな。
38 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 18:22:32
>>26「このスレでは当方の持論に対し意見、反論をいただきそれに私が返答する格好になっている。 」
2chは匿名が原則。
自分勝手なルールを作らないで欲しい。
>>29 「萬世一系」だの「皇国史観」だのを批判するために、トンデモ説をぶち上げているなら大いに迷惑。
今どき、そんな観念やイデオロギーにこだわるのはカビの生えた年寄りぐらいだろう。
素朴に、古代の歴史を勉強したいだけなのに、ヘンテコなイデオロギー及びアンチイデオロギーは不愉快。
日本が歴史上で誇ってきたものを短絡的なトンデモ説で貶めて自己満足か?
それを喜ぶのは、隣りの国々の方々ぐらいだよ。
>蘇我馬子=押坂彦人
これに関してはなんとも言えんが、蘇我入鹿が殺されて
蘇我蝦夷が自決するとき「国記」、「天皇記」も焼けてしまった?
という記述があるらしいが、普通「国の記録」や「王家の記録」って
大臣が処分するものなのか?
それは滅ぼされる王の行為だろ?おかしくない?
40 :
広瀬満:2007/03/26(月) 20:43:57
>>34 私の書き方が気に触ったのなら平にお詫びしたい。今後は気をつけたい。
例に挙げられた葛城系の件は疑問とお見受けしたのでこれには22でお答えした。
>押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子の祖先や子孫の系譜はどうなるの?
>蘇我馬子と厩戸王子との関係はどうなるの?
>蘇我馬子と他の群臣との関係はどうなるの?
上記に関しては大括りの内容で、これではあなたが何を謎として疑問に思われるのかわからないので質問としてお答えしたい。
まず「押坂彦人大兄皇子(彦人大兄)と蘇我馬子の祖先や子孫の系譜はどうなるの?」について
私は押坂彦人大兄皇子(彦人大兄)は蘇我馬子の別名と考えている。したがって敏達天皇の太子ではない。蘇我稲目が父である。
押坂彦人大兄皇子が敏達天皇の太子となっているのは日本書紀の欺瞞と考えている。このことに関しての疑問はすでに提示したとおりである。
子孫の系譜は彦人大兄と蘇我馬子の系譜を合わせればよい。したがって馬子の子の蘇我蝦夷と舒明天皇は兄弟ということになる。異母兄弟だろう。
また中大兄と蘇我入鹿は従兄弟同士ということになる。
41 :
広瀬満:2007/03/26(月) 20:44:49
続き
「蘇我馬子と厩戸王子との関係はどうなるの?」について
今は押坂彦人大兄皇子について論じているところで、まだ蘇我馬子と厩戸皇子について論じる段階ではないが一応私の結論だけは述べておきたい。
私は蘇我馬子と厩戸皇子は親子であると考えている。これは古事記の研究から引き出した結論であるがその説明は膨大な量になるのでここでは書ききれな
い。
私のHPの「大国主伝」で詳しく論じているので、是非を読んでいただきたい。その上で疑問にはお答えしたい。
「蘇我馬子と他の群臣との関係はどうなるの?」について
蘇我馬子と他の群臣との関係は日本書紀の記述通りで良いと思う。特に疑問となる点はない。
>素朴に、古代の歴史を勉強したいだけなのに、ヘンテコなイデオロギー及びアンチイデオロギーは不愉快。
私もそう思います。ただ日本書紀の記述に疑問があればそのことを議論することは歴史研究の立場からは必要だと思う。
>2chは匿名が原則。
「日本@名無史さん」ではわかりにくいので匿名で結構なので名前の記入をお願いしたい。
そうでないとどのレスが誰のレスだかわかりにくい。こちらとしても正確な返答をしたいのでお願いしている。
広瀬満
42 :
広瀬満:2007/03/26(月) 20:55:12
>>39 おそらく蘇我宗本家が事実上の大王家だったのだと思う。
天皇は蘇我氏の傀儡に近いものだったのではないか。
したがって歴史書編纂のような大事なことは蘇我宗本家が中心になって実施していたと思われる。
そのため「国記」、「天皇記」が蘇我氏の手元に有ったのではないだろうか。
広瀬満
ここに書かずにHPに書けよw
44 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 00:35:14
ここで続けていいよ。
45 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 00:42:51
ここに書かずにHPに書けよ。うざいよ。
46 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 02:06:08
>>32 2.
>>16は、私が『日本書紀』の6・7世紀部分を読んだ上での類推である。敏達崩の時点で広姫は故人であり、ならば次后・額田部皇女及びその皇子がクローズアップされるのが自然と考えた。
ただし、皇子・竹田がまだ若かったので、王族中の年長者である用明が即位したのだろう。なお、彦人皇子が諸皇子の中でも有力者であったことは否定しない。
3.しかし実例が存在するのだから仕方がない。平城天皇の2人の異母妹も東宮時代に妃となっていた可能性が高い。
4.直系なら何でも記載がなされるわけでもないだろう。例えば(例えが悪いが)、現代の「歴代天皇紀」に、誠仁親王(後陽成父)や典仁親王(光格父)のプロフィールがどれほど詳細に載るだろうか。
5.皇女(内親王)はおろか、二世女王と臣下の婚姻が公式に認められたのは(しかも藤原氏だけに)、推古朝から200年も経った後世であったことをつけ加えておきたい。
6.それだと、何故竹田皇子までが入っているのかという疑問が湧く。
7.『書紀』は朝廷中枢の記録が主であって、よっぽどの事件にでも関与しなければ、皇子とはいえ何処で何をしていたかなど記録には残らないであろう。
何でもかんでも「記録されたはず。記録に無いのはおかしい」という考え方は止したほうが良い。ことに7世紀以前に関しては。
47 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 02:10:05
>>33 8.先祖の系譜を記すのに、祖父を「祖」とする例はある。「嶋」についてだが、この時代、妻が夫に因んだ名称で呼ばれたという例を私は知らない。
9.兆域の大きさだけで判断するのはどうかと思う。これで行くと、藤原武智麻呂や冬嗣は「途轍もない」権力者だったということになる。
10.水派宮の推定地や茅渟王墓との絡みから、この地はやはり彦人大兄との関連で考えたい。
牧野古墳からはTK209の初期段階の須恵器が出ているということだから、626年頃という年代にはちょっと無理があると思う。
11.これも『書紀』を読んでの印象だが、推古の遺詔や山背王の性格、舒明即位前紀最後の歌謡などからすると、飛鳥においては田村王優位の風潮が元からあったような気がする。
また、この時点で蘇我蝦夷が他者とは隔絶した大権力者であったかどうかは、舒明即位までの経緯を見る限り疑問が感じられなくもない。
48 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 02:49:01
>>1のような人は本人の自覚あるなしに関わらず歴史研究家ではなく歴史作家なんだよね
49 :
広瀬満:2007/03/27(火) 08:11:27
>>46 >>47 相変わらず鋭い反論をいただきありがとうございます。
早速再反論といきたいところだが、おそらくこれ以上議論しても水掛け論にしかならないだろうし、
お互い主張すべき所はしたと思われるので再反論はやめにしたい。結果は読者の判断にゆだね、議論を先に進めたい。
広瀬満
50 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 10:23:44
>>49 自分の敗北宣言か?
勝手に「水掛け論」などと決め付けるなよ。
疑問1は速攻で破綻(
>>32)
疑問2〜11は憶測ばかりではないか。(
>>32,33)
51 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 10:46:14
>>40 「例に挙げられた葛城系の件は疑問とお見受けしたのでこれには22でお答えした。」
蘇我=葛城系であるので、馬子=押坂彦人であれば、押坂彦人も葛城系となってしまう。
その根拠に中大兄=葛城皇子を持ってくるのは、理由になっていないよ。
(というよりトンデモ説であることを自ら証すような釣られっぷりだな。
幼名と島の屋敷から、中大兄と蘇我とを結びつける珍説など、ずっと昔からあったからね。)
幼名は、必ずしも父方にユカリのあるものだけとは限らず、母方や乳母などのユカリのものであることが多いのは常識。
子供の名前が葛城皇子だからといって、その父親が葛城系とは言えない。
根拠として、こんなものにすがるか?
>>42 私も蘇我氏が倭国大王家だったと思います。
後隋書(だっけ?)に書かれた「日本はもと小国、大国である
倭国を併呑した」との記述が真実に近いとすると日本書紀が
編纂された目的もわかってくると思います。
53 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 10:51:34
>>40 「馬子の子の蘇我蝦夷と舒明天皇は兄弟」
「敏達4年1月広姫を皇后とした。(広姫は)押坂彦人を生んだ。」は「欺瞞」ですか。
その他の敏達のときの疑問や矛盾もスルーですか。
結局、馬子=押坂彦人 は、日本書紀等に照らして疑問も矛盾もテンコ盛りの説ではないか。
馬子や押坂彦人の父の代について、合理的な説明がまるでできないペテンじゃないか。
自説に不都合な「敏達4年1月広姫を皇后とした。(広姫は)押坂彦人を生んだ。」は、「真実を隠すために捏造された」ということか。
陳腐なB級陰謀論に過ぎないじゃないか。
馬子や押坂彦人の子の代についても、同じ兄弟が、片方は大王家となり、もう片方は以前から何代も続く臣下の家系となることに、何の疑問も感じないのか?
これらを疑問でも矛盾ではないと強弁するようでは、根拠のない説と言わざるを得ない。
自説に有利な記述だけを、重箱の隅を突付くように堀り出して、自己陶酔・自己満足しているだけ。
54 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 11:02:05
>>41 「蘇我馬子と他の群臣との関係は日本書紀の記述通りで良いと思う。特に疑問となる点はない。」
疑問となる点はないのではなく、疑問を感じ取る感性が鈍いのだろう。
馬子=押坂彦人 とすると、例えば、敏達の時代でも、守屋との関係などに疑問や矛盾があると指摘済みだが、それもスルーか? (
>>35)
蘇我・物部の争いなど、教科書にも出ているような有名な話だが、それが大王家の者が辱めを受ける解釈となっても疑問を感じないのか?
自説に都合の悪いことは無視か。
自説に有利な記述だけを、重箱の隅を突付くように堀り出して、自己陶酔・自己満足しているだけ。
55 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 11:12:18
それから「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。」(
>>7)という真っ赤な嘘はどう言い訳するのだ?
これもスルーか?
自分で迹見檮(=迹見首赤檮?)と押坂彦人のことに触れているが、それって敏達の次の用明のとき!
ぬけぬけとした嘘っぷりにあきれる!
56 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 11:15:55
>>55 (続き)
ついでにいうと、迹見赤檮は、=迹見檮=迹見首赤檮 で間違いないのだな?
古田信者が見たら「迹見赤檮はいなかった」と馬鹿にされるぞ。
呪の人形の数がおかしい(
>>32)など重箱の隅を突付くようなことばかり言うのだから、こういうところも厳密にしないと、偏ったアンフェアな論理であると言わざるを得ない
57 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 11:20:19
とにもかくにも、
a 馬子=押坂彦人
b 蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子は、馬子の子
という系図をとっとと見せてよ。
当然、既に作成済みだよね。
系譜・系図の全体像の想定なしに、こんな親子関係の説を唱えたら、ただの阿呆だもの。
aとbを満たし、日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」系図を見たい。すごく見たい!
理屈が破綻すると「水掛け論」とか負け惜しみを言って逃げる卑怯技を使うようなので、とにかく早く系図を見せて!
58 :
広瀬満:2007/03/27(火) 21:15:13
>>52 蘇我氏の先祖は5世紀末に我が国に渡来した百済の貴族木満致というのが有力な説となっています。
「日本書紀」によれば木満致は任那を支配し、事実上伽耶の王だったとされる人物です。
私もこの説を支持しています。
天皇家の出自が蘇我氏となると天皇家の祖先は任那からの渡来人だった可能性が高くなります。
そうしますといろいろ議論のある任那日本府の実体や旧唐書の「日本はもと小国・・・云々」の記述もわかってきます。
また飛鳥時代以降の天皇家の動きも説明しやすくなるはずです。
天皇家と蘇我氏を結び、古代史の謎を解き明かすキーマンこそ押坂彦人大兄だと私は考えています。
広瀬満
59 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 22:21:07
現在、京都大学では、蘇我氏の先祖は阿蘇山周辺の出身者であるというのが有力な説となっています。
物部氏が蘇我氏を愚弄する時に
「この阿蘇の者が!!」
「阿蘇に帰れ!!」
という言葉が使われている文献があります。
その文献は戦後、東京大学によって改竄されました。
東京の方では、蘇我氏は朝鮮出身ということにしたいらしいですが。
京大は国家権力に反発できますからね。
東京は国家権力に従順ですが。
みなさんも戦後、GHQと東京大学によって日本書紀や古事記など多数の文献が改竄されたという事実を知っておいた方がいいですよ。
60 :
広瀬満:2007/03/28(水) 07:37:33
>>59 そのような文献があると聞いて驚いている。初耳である。
是非詳しく紹介してほしい。
「日本書紀」「古事記」は戦前にすでに広く出回っており、戦後にGHQと東京大学が改竄することは無理なのでは。
広瀬満
62 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 09:28:26
>>59 宮内庁書陵部所蔵の敏達紀のことでしょうか?
63 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 11:45:28
>>41 私のHPの「大国主伝」で詳しく論じているので、是非を読んでいただきたい。その上で疑問にはお答えしたい。
こういうことを言うなら、自分のHPから出てこないでほしい。
2chの一つのスレッドを私物化する行為だということが理解できないのかねえ。
64 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 11:48:20
>>58 「蘇我氏の先祖は・・・木満致」
これは、
>>22 の
「葛城に蘇我氏の祖廟が建てられていたことからわかるように確かに蘇我と葛城は深い関係にあった。」
と矛盾するとは思わないのか?
65 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 11:52:41
>>58 話題を勝手に変えるなよ。
a 馬子=押坂彦人
b 蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子は、馬子の子
aとbを満たし、日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」系図を見せてよ。
「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。」(
>>7)という真っ赤な嘘の言い訳は?
(自分で迹見檮(=迹見首赤檮?)と押坂彦人のことに触れているが、それって敏達の次の用明のとき! )
その他、これらの疑問は?
>>19,
>>34, 35, 36, 37,
>>51,
>>53, 54, 55, 56, 57,
>>64 都合が悪くなると話題を勝手に変えるような卑怯でアンフェアな態度はやめてほしい。
系図を示さずに、このまま2chから逃げ出すような卑怯でアンフェアな態度もやめてほしい。
67 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 13:52:47
10件の疑問や矛盾を示し(
>>14,15)、それを解消するために 馬子=押坂彦人 と主張する。
(疑問1は、
>>16 で秒殺)
しかし、 馬子=押坂彦人 では、かえって疑問や矛盾が増える。
主に、敏達のときを中心に拾い上げても、
>>19,
>>34, 35, 36, 37,
>>51,
>>53, 54, 55, 56, 57,
>>64 これに用命、崇峻、推古の時代の疑問や矛盾を細かく取り上げたらどれほどの疑問や矛盾が生じるか。
呪いの人形の数がおかしいなどのチンケな10件の疑問や矛盾を解消するために、かえって疑問や矛盾が莫大に増えては、意味ないじゃん。
68 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 14:11:38
>>25 「迹見赤檮がずっと同じ主人に仕えていて、他の者の指揮命令を受けることはまったくなかった」というのも仮定に過ぎない。
a 同じ主人に仕えた根拠を示してよ。
まさか、その根拠が、豊臣以降の「奉公構い」や「忠臣二君に仕えず」では、笑っちゃうよ。
時期によって押坂彦人、馬子、厩戸と、主人を変えてもおかしくない。
終身雇用の時代じゃあるまいし。
しかもこの時代の渡来人(1世)の多くは、主人を変えているはず。主人を変える例はむしろ多いかもしれない。
b 馬子の指揮命令を受けなかったと言い切る根拠を示してよ。
物部戦争に押坂彦人は参加しなかったが、兵糧・武器・兵力などの協力を行わなかったと言い切る根拠を示してよ。
迹見赤檮が押坂彦人の舎人の身分のまま、馬子の指揮下にいても何の不思議もない。
それがありえないと考えること自体が、一つの仮定に過ぎない。
自分の仮定は棚上げして、他人の仮定は「仮定の話だから無視」では、卑怯だよ。
自分の主張が仮定ではないという根拠を示してよ。
69 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 14:41:35
>>32 疑問1 秒殺で消滅(笑)
疑問2
>>16が実例を挙げているのに、日本書紀に一言一句同じ文章表現がないからといって「記述はない」は屁理屈。
疑問3 自分の説に疑問や矛盾は一切ないと自慢するくせに、「理由はわからないが・・・という前提で説明する」とは何のこっちゃ?
要するに、自分の説でもすべての疑問や矛盾が解消できていないではないか。
そもそも、古代の通史で、まったく疑問も矛盾もない説などお目にかかったことがない。
自分が提示した疑問や矛盾が解消できなければ、自説が正しいという論法は、論理的におかしいことに気が付かないのか。
疑問4 彦人大兄について「事跡はおろか没年の記載すらない」と主張している。
にもかかわらず、疑問2で「かなりの実力者だったと思われる」とどうして思えるのか?
3行書くと、もう前に書いたことは忘れているのか?
支離滅裂。
疑問5
>>16が「この時代」に例がないといっているのに、「後の」時代の例で反論するのは論点を摩り替える卑怯技。
疑問6 中臣勝海が馬子呪殺という狙いを持っていたかどうか、単なる憶測。
そもそも大王の後継者争いで、その有力対立候補を呪殺しようとするのに何か大きな疑問があるのか?
「呪いの人形の数がおかしい」ことを根拠に 彦人大兄=馬子 を主張するくらいなら、
「有力対立候補を呪殺しようとしたが、馬子を呪殺しようとはしなかったのだ」とそのまま素直に読むほうが賢い。
読解力が低いから「暗示」なんぞのB級陰謀論にすがることになる。
疑問7 これも「記録自体がないのだから本流から外れた」あるいは「本流ではない」とそのまま素直に読むほうが賢い。
池辺皇子、田目皇子、宅戸皇子、・・・。本流から外れた事情の記載のない皇子など、この時代でも珍しくもない。
70 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 14:45:17
>>33 疑問8 「皇祖大兄」を勝手に「皇祖」で打ち切って読んで、因縁を付けているだけ。
しかも、自分自身「皇祖母」という例を同時に挙げているのだから、そうとう論理思考が弱い。
「皇祖大兄」、「皇祖母」(さらに「皇祖父」)という言い方があるのだろう。
疑問9 「墓の規模は通常被葬者の生前の実力を表していると考えられている。」がまったくのダウト。
一般に、古墳では、被葬者だけでなく、その後継者や墳墓造営・葬送を行った者の影響も無視できない。
(欽明天皇と堅塩媛の例もこれに近い。)
そして、馬子の時代は、古墳、特に、前方後円墳の終末期であることは常識。
墓の規模が被葬者の生前の実力を表しているとは、とても言えない。
さらに、もう少し後では、薄葬となるので、ますます関係が薄れる。
疑問10 「牧野古墳の立地は難波、斑鳩、飛鳥の中間にあり・・・」
何じゃコリャとしか言いようがない阿呆さにあきれる。
地図を見たことあるのか。
これに該当する地域は、牧野古墳のある広陵町だけでなく、上牧町、香芝市、柏原市、藤井寺市、羽曳野市、八尾市、松原市、etc。
あの太子町も該当する。
(古墳好きなら、藤井寺市、羽曳野市、太子町などの地名には脊髄反射する。)
広陵町の牧野古墳の立地だけを、「立地的にも第一級」など、どうして言えるのだ?
難波宮と結びつける伏線として「難波」を持ち出したのだろうが、自爆して論理破綻したとしか言いようがない。
疑問11 「舒明天皇が蘇我蝦夷の弟だったとなればこのような疑問は全く生じない」
もうトホホの阿呆ぶりだな。
舒明と蝦夷が兄弟という説が成り立つなら、「兄である蝦夷が天皇にならなかったのはなぜか」というもっと大きな疑問が生じるだろう。
何の疑問の解消にもなっていないどころか、疑問を増幅している。
71 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 15:41:49
第9章 第10章 読んだ 面白い。
けどね、
1・古代の神社はそもそも全国山頂にある、別に出雲だけでない。
2・山頂は、他国からの進行を防ぐ監視の基本。 鏡信号 鐘信号
古代の見張台が後の世で鏡とともに信仰の対象となる
3・大和にとって、半島方面の海を見渡す出雲の山頂に、神社跡が残っているのは
朝鮮半島を敵と見なしている場合に当然の処置の跡である
白村江の話
1・ そもそも5−6世紀、倭と百済の大王はそろって、漢の南朝の大将軍位
2・ 倭も百済もそろって、南朝の漢式文化様式を取り入れている
3・ 隋・唐は、非漢文化の敵国であり、漢の大将軍の遺臣として倭と百済の王が
そろって、対唐防衛ラインに戦うのは当然の成り行きである。
そもそも、倭帝は漢の威光を元に何十という国を併合して東の地を治めて、
その地位を保ってるわけであって、 記紀に登場する半島と列島の
小さな世界観で、収まる世界じゃないんだな
漢亡き後、百済と倭は後ろ盾をなくし、変わって漢代には将軍位でもなく虐げられていた
新羅が唐をバックに、 漢陣営の百済と倭を侵攻してきたわけだ
でも、 大倭木マンち のとこは特に面白い。 なんで大倭がついたんだろう
72 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 17:48:46
お〜〜〜い、日が暮れるぞ〜イ。
馬子=押坂彦人 and 蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子は馬子の子 and 日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」系図は、まだか〜〜〜〜?
73 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 18:19:20
69と70が、ちぎれたので再掲
>>32 疑問1 秒殺で消滅(笑)
疑問2
>>16が実例を挙げているのに、日本書紀に一言一句同じ文章表現がないからといって「記述はない」は屁理屈。
疑問3 自分の説に疑問や矛盾は一切ないと自慢するくせに、「理由はわからないが・・・という前提で説明する」とは何のこっちゃ?
要するに、自分の説でもすべての疑問や矛盾が解消できていないではないか。
そもそも、古代の通史で、まったく疑問も矛盾もない説などお目にかかったことがない。
自分が提示した疑問や矛盾が解消できなければ、自説が正しいという論法は、論理的におかしいことに気が付かないのか。
疑問4 彦人大兄について「事跡はおろか没年の記載すらない」と主張している。
にもかかわらず、疑問2で「かなりの実力者だったと思われる」とどうして思えるのか?
3行書くと、もう前に書いたことは忘れているのか?
支離滅裂。
74 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 18:20:24
69と70が、ちぎれたので再掲
>>32 疑問1 秒殺で消滅(笑)
疑問2
>>16が実例を挙げているのに、日本書紀に一言一句同じ文章表現がないからといって「記述はない」は屁理屈。
疑問3 自分の説に疑問や矛盾は一切ないと自慢するくせに、「理由はわからないが・・・という前提で説明する」とは何のこっちゃ?
要するに、自分の説でもすべての疑問や矛盾が解消できていないではないか。
そもそも、古代の通史で、まったく疑問も矛盾もない説などお目にかかったことがない。
自分が提示した疑問や矛盾が解消できなければ、自説が正しいという論法は、論理的におかしいことに気が付かないのか。
75 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 18:22:07
疑問4 彦人大兄について「事跡はおろか没年の記載すらない」と主張している。
にもかかわらず、疑問2で「かなりの実力者だったと思われる」とどうして思えるのか?
3行書くと、もう前に書いたことは忘れているのか?
支離滅裂。
疑問5
>>16が「この時代」に例がないといっているのに、「後の」時代の例で反論するのは論点を摩り替える卑怯技。
疑問6 中臣勝海が馬子呪殺という狙いを持っていたかどうか、単なる憶測。
そもそも大王の後継者争いで、その有力対立候補を呪殺しようとするのに何か大きな疑問があるのか?
「呪いの人形の数がおかしい」ことを根拠に 彦人大兄=馬子 を主張するくらいなら、
「有力対立候補を呪殺しようとしたが、馬子を呪殺しようとはしなかったのだ」とそのまま素直に読むほうが賢い。
読解力が低いから「暗示」なんぞのB級陰謀論にすがることになる。
76 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 18:23:35
疑問7 これも「記録自体がないのだから本流から外れた」あるいは「本流ではない」とそのまま素直に読むほうが賢い。
池辺皇子、田目皇子、宅戸皇子、・・・。本流から外れた事情の記載のない皇子など、この時代でも珍しくもない。
>>33 疑問8 「皇祖大兄」を勝手に「皇祖」で打ち切って読んで、因縁を付けているだけ。
しかも、自分自身「皇祖母」という例を同時に挙げているのだから、そうとう論理思考が弱い。
「皇祖大兄」、「皇祖母」(さらに「皇祖父」)という言い方があるのだろう。
77 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 18:29:02
疑問9 「墓の規模は通常被葬者の生前の実力を表していると考えられている。」がまったくのダウト。
一般に、古墳では、被葬者だけでなく、その後継者や墳墓造営・葬送を行った者の影響も無視できない。
(欽明天皇と堅塩媛の例もこれに近い。)
そして、馬子の時代は、古墳、特に、前方後円墳の終末期であることは常識。
墓の規模が被葬者の生前の実力を表しているとは、とても言えない。
さらに、もう少し後では、薄葬となるので、ますます関係が薄れる。
78 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 18:35:49
疑問10 「牧野古墳の立地は難波、斑鳩、飛鳥の中間にあり・・・」
何じゃコリャとしか言いようがない阿呆さにあきれる。
地図を見たことあるのか。
これに該当する地域は、牧野古墳のある広陵町だけでなく、上牧町、香芝市、柏原市、藤井寺市、羽曳野市、八尾市、松原市、etc。
あの太子町も該当する。
(古墳好きなら、藤井寺市、羽曳野市、太子町などの地名には脊髄反射する。)
広陵町の牧野古墳の立地だけを、「立地的にも第一級」など、どうして言えるのだ?
難波宮と結びつける伏線として「難波」を持ち出したのだろうが、自爆して論理破綻したとしか言いようがない。
疑問11 「舒明天皇が蘇我蝦夷の弟だったとなればこのような疑問は全く生じない」
もうトホホの阿呆ぶりだな。
舒明と蝦夷が兄弟という説が成り立つなら、「兄である蝦夷が天皇にならなかったのはなぜか」というもっと大きな疑問が生じるだろう。
何の疑問の解消にもなっていないどころか、疑問を増幅している。
79 :
広瀬満:2007/03/28(水) 21:53:59
>>71 ご意見ありがとうございます。
参考にさせていただきます。
木満致になぜ「大倭」が付いたかはいろいろ想像をかき立てられる面白い問題だと思います。
私は朝廷内部にレジスタンスがいたと考えています。
第10章は古事記成立論となっています。
通説とはかなり異なる内容ですがこの説には自信を持っています。
飛鳥時代から奈良時代にかけて全国的に国民教化が行われ日本民族が誕生するとともに天皇の権威が確立したと考えています。
広瀬満
80 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 04:40:01
僕も、この5年2ch日本史板で 独自の記紀成立論を残してるよ
基本は、漢帝なき東アジアで、隋唐に舐められないために国史や国号が編纂され
漢の将軍位としての倭王の歴史を全て封印して、歴史を打ち立てる必要が合った事。
その為に、倭の五王に該当する王は、天武の直系から排除した系図を成立させる。
これが日本書紀の主たる目的であった事。 具体的には、
応神帝 → → → → → 継体帝==== 天武帝 であり、
よって、応神は八幡神であり、 八色の姓は継体帝の子孫のみが皇族であるとする
それ以外の、古代の伝承は朝廷書記官が秦氏や東漢氏など渡来系であったため
必然として彼らの祖先である、弓月王(三日月をシンボルとする王)中東からの神話が
必ずやミックスされているだろう。
蘇我馬子は「我は蘇る馬の子」であまりにもイエス神話に近い
聖徳太子や蘇我馬子は、天武帝時代 唐ですでに国教と認知されつつあった
「大秦教」景教への対抗から生まれた名称創作。
天武帝の唐への対抗心は、
道教(同じく唐の国教)においての 天皇号や真人の採用を見ても多く、
天武帝時代の創作は、常に 東アジアでの宗教的な権威付けが目的である
81 :
広瀬満:2007/03/29(木) 08:31:24
82 :
広瀬満:2007/03/29(木) 08:33:22
>>46 >>47 さらなる立証をただいま準備中です。
あとしばらくお待ちください。
広瀬満
83 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 09:59:22
早く系図を見せてよ。
話題を変えて、議論から逃げ回ってぐずぐずしてるから、どんどんハードルが高くなっているじゃないか(笑)。
馬子=押坂彦人 、かつ、
蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子は、馬子の子 、かつ、
蘇我氏は木満致の子孫で百済系、かつ、
蘇我氏は葛城系、かつ、
日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」
という系図を見せてよ。
84 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 10:10:56
こういうトンデモ説は大いに迷惑。
ネットで何か調べ物を検索してると、引っかかり、すごく邪魔。
トンデモ説とはいえ、言論の自由はあるので、唱えるのは勝手にすればよい。
しかし、紙などネット以外の媒体を使って欲しい。
あるいは多少妥協して、自分のホームページの中だけなら、ネットで検索して引っかかっても、2回目以降は、
「またトンデモに来てしまった」とすぐ分かるので、中を読む時間が節約できる。
最低限、自分のホームページから這い出ないで欲しい。
大人のマナーだね。
85 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 10:13:36
「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。」(
>>7)という真っ赤な嘘の言い訳は?
蘇我馬子が大臣になったのは572年(敏達元年)
自分で迹見檮(=迹見首赤檮?)と押坂彦人のことに触れ、それを重視しているが、それは587年(用明2年)
すさまじい嘘っぷり!!!
86 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 10:16:24
>>71 >>79 何じゃ、このやり取りは。
自分に都合の良いことだけ対応か。
「批評、意見を広く求めます。 」は嘘っぱちか。
もしかして、自作自演???
(*・∀・)
88 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 11:13:54
>>33 「墓の規模は通常被葬者の生前の実力を表していると考えられている。」の根拠を示して欲しい。
この時代の墓は、古墳ということで検討させてもらう。
1 古墳の被葬者が明確なものは少ないことは、古代史の常識中の常識。
したがって、「被葬者の生前の実力」も明確でないものが多い。
したがって、「規模」と「被葬者の生前の実力」との間に、厳密な相関関係は主張できない。
「被葬者の生前の実力」は古墳の規模を決める大きな要素であるが、それだけで決まるとはとても言えない。
2 「被葬者の生前の実力」が古墳の規模に影響を及ぼすとしても「実力」とは政治的・軍事的なものだけではない。
財力も重要だが、これは記紀等の記述からは、なかなか実態が分からない。
記紀等に記述された政治的・軍事的な実力だけで、古墳の規模が決まると考えるのは、早計である。
3 寿陵を除き、古墳を造営するのは後継者や関係者であり被葬者ではない。
また、生前葬を除き、葬送儀礼等を主催するのは、被葬者ではありえない。
古墳の規模や副葬品の豪華さは、これら後継者や関係者の「実力」の影響も無視できない。
89 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 11:18:41
>>88 (続き)
4 実例
a 吉備の造山古墳が堺市の上石津ミサンザイ古墳(伝履中陵)とほぼ同規模なのは有名な話。
墳長でいえば、全国ベスト4とベスト3で、知らないとは言わせない。
どちらも被葬者が確定されていないが、当時は吉備の豪族より河内の大王のほうがはるかに有力と考えるのが、「通常」だろう。
b 馬子と同時代の例では、春日向山古墳(伝用明陵、辺長63m×60m)と山田高塚古墳(伝推古陵、辺長63m×56m)をご存知ないか。
どちらも被葬者が確定されていないが、比定が正しいとすると、わずか2年で崩御した用明の墓のほうが推古より若干大きいことになる。
「墓の規模は通常被葬者の生前の実力を表していると考えられている。」というのは無理だ。
被葬者が違うかも知れないというなら、なおさら「墓の規模は通常被葬者の生前の実力を表していると考えられている。」というのは無理だ。
おおよその傾向として被葬者の実力と古墳の規模が相関すると考えるのはよいが、(前方後円墳体制など)
厳密な相関関係を主張するのは無理だし、ましてや天皇の系譜を大きく覆すような説の根拠とするなど、トンデモである。
「墓の規模は通常被葬者の生前の実力を表していると考えられている。」の根拠を示して欲しい。
90 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 13:28:06
>>49 論破されて論に負け、逃げ出すための言い訳が「水掛け論」という屁理屈であるようにしか読めない。
しかも、負け惜しみの捨て台詞が「結果は読者の判断にゆだね、議論を先に進めたい。」というのも、とてつもなく卑しい。
急いで先に進まなければいけない理由があるのか?
自分から言い出して、都合が悪くなると一方的に議論を打ち切ろうとするのは卑劣だ。
「結果は読者の判断にゆだね・・・」 ⇒ あきれる!!!!
歴史は、読者の多数決や人気投票で決まるのではない。
誠実な人間であれば、こう言うだろう。「読者がどう言おうと、真理を探求することは止めない」
91 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 13:30:35
「天皇家の真の皇祖は蘇我馬子」(
>>1)
「皇祖は皇統の起点」(
>>33)
つまり、馬子は天皇ではなかったということだな。
では、馬子=押坂彦人 の身分は何なのか、はっきりさせるべきだ。
臣下か、皇子か?
肝心なところが、すごくいい加減。
92 :
広瀬満:2007/03/29(木) 13:55:51
93 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 14:07:34
よくわからんがマッタリいこうよ。
半年くらいして、反証を見つける事もある
94 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 17:43:09
いつまでたっても系図を見せないから、しかたないのでスレ主のHPを見てみたのよ。
そしたらなんと、系図があった。
ttp://www.kojikiden.com/image/keizu0010.jpg で、もっとも大事な馬子=押坂彦人 のところは、敏達天皇と蘇我稲目の両方から線が伸びているのよ。
まるで、敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだという系図に読める。
敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだって、気色悪くない?
もう疑問や矛盾を超越している。
結論:広瀬満の説とは、
「敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだ」
95 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 17:47:51
「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。」(
>>7)という真っ赤な嘘の言い訳は?
蘇我馬子が大臣になったのは572年(敏達元年)
自分で迹見檮(=迹見首赤檮?)と押坂彦人のことに触れ、それを重視しているが、それは587年(用明2年)
すさまじい嘘っぷり!!!
96 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 19:01:55
あんま攻撃的レスをしなさんな
広瀬氏の論述法には、根本的な問題があるでしょ
「A=B 仮説X
Xが真実である以上、C=D である。 仮説Y
Yが真実である以上、E=F である。 仮説Z
今、Zという真実が解き明かされた。」
こういう論述法は、歴史ロマン派の醍醐味なわけだし
攻撃的なレスをするより、暖かくロマンを広げる方が好きだなー
97 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 20:32:57
某なんとか法スレと同じタイプだな
史学と小説の区別はつけたほうがよい
98 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 20:53:43
いやいや、 ”仮説Xが成立すると、Z となる”
という事項はそれはそれで、科学的意味を持つ
史学分野だよ。
ただし、仮説Xを前提に という注釈を明記しないと×
大事な事は大らかに検証しようという事だよ
出物がクズであっても、掘らない人は掘った人を貶してはいけない。
掘ってればそのうち、お宝が出る事もある
99 :
九州出身:2007/03/29(木) 20:58:49
ほんとかな?
100 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 23:54:02
疑似科学ではないのか?
101 :
広瀬満:2007/03/30(金) 09:07:09
ちなみに牧野古墳は「うまさん公園」として地元の人たちに親しまれています。
石室の入り口は普段施錠されていますので入ることはできませんが外から中の石棺を見ることはできます。
広瀬満
102 :
広瀬満:2007/03/30(金) 19:24:12
これまで押坂彦人大兄皇子にまつわる疑惑について議論してきたわけだが、私の説明不足かもしれないがこのスレの読者には少しわかりにくいようなので、
ここで私が押坂彦人大兄皇子、蘇我馬子および「日本書紀」についてどのように考えているのか簡単に述べておきたい。
わたしは元々日本神話を研究していた。そのなかでスサノヲの正体は蘇我馬子であるという結論に至った。
このことは私のHPの「大国主伝」に詳しい。なお神話に関しては別途スレを立てる予定であるのでそこで議論したい。
ところがスサノヲは出雲大社(中世はスサノヲが祀られていた)、熊野大社、津島神社、氷川神社などの著名神社に祀られ歴代の天皇からあつく崇拝されていた。
そこで私は天皇家と蘇我馬子には血の繋がりがあると考え皇統譜を調べた結果、この押坂彦人大兄皇子にまつわる疑惑が数多く浮上したのであった。
この疑惑を検討した結果、押坂彦人大兄は蘇我馬子の別名、すなわち彦人大兄と馬子は同一人物であり、彦人大兄は敏達天皇の太子ではなく、蘇我稲目の子であるという結論に達した。
103 :
広瀬満:2007/03/30(金) 19:25:52
続き
すなわち蘇我蝦夷と舒明天皇は兄弟であり、蘇我入鹿と中大兄はともに馬子の孫で、従兄弟同士ということになる。
天皇家(大王家)は飛鳥時代にそれまでの天皇家から蘇我氏に皇統が切り替わっていたのではないだろうか。
「日本書紀」は皇統が切り替わっていたと正直に書くわけにはいかないので天皇家の出自が蘇我氏であることを隠蔽し、
舒明天皇以後の皇統を推古天皇以前の皇統に繋いで万世一系の皇統とするために馬子の別名の彦人大兄を使いこのような皇統譜の改竄が行われたと考えている。
中大兄が蘇我馬子の孫であり、推古天皇と舒明天皇の間に王朝の交代があることは「日本書紀」の記述等からも伺えるので次にそのことを論じてみたい。
近日中に掲載したい。
広瀬満
http://www.kojikiden.com
104 :
96です:2007/03/31(土) 04:57:57
僕ね、広瀬さんのHPのファンです。
でもそれは、賛成してるからではなく、
真摯な情熱を感じるからなのです。
とても、頭から否定したり、冷や水をかける気にはならない。
がんばってください。
ただし、論述方法は結果を証明する構成になってない事は理解してください。
大まかに言って
1・大国主=天武
2・すさのう=蘇我馬子
まずこれ全くの、思い込みですね。 この仮説を事実と断定して
次の議論が進みますが、今度はこの仮説を根拠に消去法から
別の結論を導いています。 これは笑えるところです。
せっかく、面白い指摘が多数出てくるのだから、仮説を常に仮説として
次の議論に注釈を必ずつける配慮が必要でしょう。
それがないと、白けてしまいます。
蘇我馬子が天皇なら私も天皇家の血が混ざっているはず。
我ながら高貴な感じがすると自分で思ってたんだよw そこのけ天皇家www
ばかだなあ。
守屋が天皇と兄弟なんだよ。
自分のHPでやれば?宣伝うざいよ
108 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 13:59:33
>>5の
>蘇我氏は、武内スクネ系の子孫で、皇別・葛城氏の傍系。
>蘇我氏は百済管轄の軍事を担当していたらしく
>武内系の豪族で百済貴族の娘を妾にしていて
>それに産ました子供が蘇我氏を名乗ったわけで。
という部分に対して、>>6に
>それも記紀や新鮮商事録をそのまま祖述してるだけの話だけだけどな。
とあります。蘇我氏が皇別であることと葛城氏と同祖であるとの主張が
記紀や新撰姓氏録にあるのは知ってますけど、
武内系豪族と百済系の女性との間に生まれた子孫が
蘇我氏であるという主張は、記紀や姓氏録にあります?
もしあったら、どのへんなのか知りたいんですけど。
109 :
広瀬満:2007/04/01(日) 14:38:09
>>88 >>89 私は「墓の規模は通常被葬者の生前の実力を表していると考えられている。」と述べましたが古墳の規模と被葬者の生前の実力との間に、厳密な相関関係があるとは言っておりませんし、そうも考えておりません。
私の言葉遣いに誤りがあるのかと思い、国語辞書を調べたりしていました。「通常」とは「一般的には」の意で、「例外はない」ということではありません。
従って伝推古陵より伝用明陵の方が少し大きいからといって私はそこに何らの疑問も感じません。吉備の古墳もその実体は不明です。
しかし古墳の規模と被葬者の生前の実力には全く関係がないと考える人はいないでしょうし、河内の大古墳(大山古墳、誉田山古墳)を倭国大王の墓ではないと疑う人もいないのではないでしょうか。
私が問題にしているのは敏達天皇が3・3の規模でしかないのにその太子とされ即位もしなかった押坂彦人大兄の墓がなぜあのように巨大(15・20)で、守屋を倒して以降の蘇我氏の全盛期に築造されたかと言うことなのです。
押坂彦人大兄=蘇我馬子ではないとお考えならその理由を提示して頂けないでしょうか。
私は成相墓(牧野古墳)こそ「隋書」にその名の見えるオオキミ「アメノタリシヒコ」、すなわち蘇我馬子(押坂彦人大兄)の墓と考えています。
広瀬満
http://www.kojikiden.com
110 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 11:33:14
>>109 押坂彦人大兄=蘇我馬子でない 理由
押坂彦人=馬子とすると、日本書記の記述(系譜や事績)と矛盾する。
もし、「押坂彦人=馬子」が従来からの学会の定説であったら、トンデモ論者は間違いなく、「別人」と主張するだろう。
日本書記等に、「押坂彦人≠馬子」の根拠となる記述が満載だからだ。
「押坂彦人≠馬子」とした場合の疑問・矛盾を上げつらうだけではなく、
「押坂彦人=馬子」とした場合の疑問・矛盾も上げつらうべし。
まったく疑問・矛盾のない古代通史などこれまでなかったのだから、総合的に判断するしかない。
111 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 11:38:31
いつまでたっても系図を見せないから、しかたないのでスレ主のHPを見てみたのよ。
そしたらなんと、系図があった。
ttp://www.kojikiden.com/image/keizu0010.jpg で、もっとも大事な馬子=押坂彦人 のところは、敏達天皇と蘇我稲目の両方から線が伸びているのよ。
まるで、敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだという系図に読める。
敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだって、気色悪くない?
もう疑問や矛盾を超越している。
結論:広瀬満の説とは、
「敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだ」
112 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 11:42:17
>>109 。「通常」とは「一般的には」の意で、「例外はない」ということではありません。
では、「押坂彦人大兄の墓がなぜあのように巨大」なのは、「例外」ということもありえるね。
すなわち、「押坂彦人大兄=蘇我馬子」の根拠にならないと認めたわけですな。
(「通常」の意味を「国語辞書を調べた」なんぞとガキの喧嘩みたいなこと言ってるから、自爆するのだ。)
113 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 11:47:42
>>109 河内の大古墳(大山古墳、誉田山古墳)を倭国大王の墓ではないと疑う人もいないのではないでしょうか。
勝手に決め付けるな。
大豪族が建造したものであろうことは疑いないが、それ以上のことは断定できない。
大王の墓かどうかは分からない。
例えば、箸墓古墳は、建造時には日本最大であるが、大王の墓ではないという説が圧倒的に多い。
厳密な意味での墓かどうかも分からない。
建造途中で放棄、あるいは「拝み墓」などの可能性もゼロではない。
すくなくとも実際の埋葬があるかどうかは発掘しなければ分からない。
114 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 16:47:12
>>103 「日本書紀」は皇統が切り替わっていたと正直に書くわけにはいかないので天皇家の出自が蘇我氏であることを隠蔽
陳腐なB級陰謀論に突っ込みを入れてもしょうがないが、他のトンデモ批判でも応用できそうなので、少し矛盾を指摘する。
a 「正直に書くわけにはいかない」理由は何か?(B級陰謀論の定石)
蘇我氏が強大な権力があったと再三主張しているのに、なぜ正直に書けなかったのか理由が立たない。
b 「天皇家の出自が蘇我氏であることを隠蔽」とは、誰からその事実を隠すのか?
(a) 同時代の倭国の人々から真実を隠す ⇒ 不可能
(b) 同時代の外国の人々から真実を隠す ⇒ 難波高麗館など常設の大使館のようなものがあり、不可能
(c) 後世の人々から真実を隠す ⇒ 権力闘争真最中に何故後世のことなど考えていたのか疑問
c 「隠蔽」工作の時期はいつか?
皇統簒奪とほぼ同時に隠蔽工作が行われたのか、後の日本書紀等編纂時か?
d 「隠蔽」工作が不完全なのはなぜか?
(a) 「隠蔽」したつもりだが、後世のトンデモ論者は頭が良いので、それを見破った
(b) 「隠蔽」がバレるように、ところどころに暗示を残した
などもB級陰謀論の定石だが、何故そんな不完全な隠蔽を行うのか。
特に「暗示」を残したなど、その理由は何か?
115 :
広瀬満:2007/04/02(月) 19:42:04
確かに私の「大国主伝」が論述方法が問題であることは認めます。
おそらく論の進め方が強引過ぎると言うことだと思いますが他の方からもこのことは指摘されたことがあります。
仮説をまず実証して次に進むべきではということなのでしょう。私も「実証」を軽視しているわけではありません。
しかし史料の少ない古代史研究では十分な実証は容易ではありませんし、実証したとしてもそれに要する文の量も膨大なものになるはずです。
「大国主伝」は古事記論、古代史論、神話論など膨大な内容を含んでいますので丁寧に実証して論を進めていたのではおそらく今の何倍もの分量になってしまうでしょう。
それはとてもではないが普通の人が読みこなせる分量ではないと思います。
そのような事態を避けるため多くの論文では権威ある大学者の説を引用したりするのですが私説のように通説からかけ離れた説ではそれも不可能でした。
続く
116 :
広瀬満:2007/04/02(月) 19:43:26
続き
>>104 そこで私は仮説のままで論を進めても、古事記や古代史の謎の解明につながったり、神話の解釈が可能になることが重要と考え論を進めました。
従いまして「実証」を重視する方からすれば全く不完全な論文、あるいは壮大な仮説と言われても仕方ないとは思っています。
ただ古代史研究に多くの材料を提供することはできたのではないかとは自負しています。
こじんまりとまとまった「ぬかりのない」論文よりも穴は多いが魅力的な仮説の方が今は必要なのではないでしょうか。
ただし、「仮説を常に仮説として 次の議論に注釈を必ずつける配慮が必要でしょう。 それがないと、白けてしまいます。」という指摘には留意しています。
参考とさせて頂きます。
広瀬満
117 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 09:35:18
118 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 10:07:05
>>117 ほかにどう読めと?
母方の記述もなければ、他の主要な皇子や姫の記述もない断片的なもの。
敏達の后姫や子供はいないのか?稲目や馬子に夫人や他の子供はいないのか?
それらの多くは、天皇や有力皇子や有力臣下であったり、それに嫁いでいたりして、系譜上重要。
複雑になりすぎるし、内容的にも日本書紀と矛盾しない系譜が書けないのだろう。
自分の妄想を絵にしただけの代物。
結論:広瀬満の説とは、単なる妄想であり、
「敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだ」
119 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 10:43:11
そもそも
>>7 の「押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だ」という言い方からして誤解を招きやすい。
主張したいことは、正しく「押坂彦人大兄皇子は蘇我馬子の別名」(
>>40)という表現に統一すべきであろう。
もちろん、これもトンデモ説だ。
いつから別名を名乗ったのか?
a 馬子の存命中に別名を名乗っていた
b 死後、捏造した
120 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 10:46:52
>>119 (続き)
これらは、その答えによって、さらにいくつかの疑問を派生させる。
c aの場合、単なる別名ではなく、押坂彦人皇子というぐあいに「皇子」という身分も称していたのか。
d 「皇子」という身分も称していた場合、本当に皇子の身分だったのか。
e 皇子の身分であるとすれば、臣下の身分から、いつ、いかなる理由で、いかなる手続きや手順や段階を経て、皇子の身分となったのか。
f 皇子の身分ではなかったとすれば、身分の詐称が何故許されたのか?
g aの場合、同時期に押坂彦人と馬子の両方の名を称したのか、あるいは使う時期が異なるのか?
h 同時期に両方の名を使った場合、どのような基準で使い分けたのか?
i 使う時期が異なるとすると、それぞれを使っていた時期はいつか?
実は、「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。」(
>>7)と主張しており、g〜iについては、時期が異なり、最初のうちは押坂彦人と称し、後に馬子と称したという主張である。しかしこれは完全に記紀等の記述と異なる。
敏達元年(572年) 蘇我馬子が大臣になる
用明2年(587年) 中臣勝海連が押坂彦人と竹田皇子の呪殺に失敗し、押坂彦人へ寝返ろうとする
これほどひどい事実誤認があると、g〜iなどの疑問を提示することじたい、虚しくなる。(トホホ)
121 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 10:49:16
>>120 (続き)
bの場合も重大な疑問が派生する。
j bの場合、別名を呼称するようになったのはいつからか。記紀編纂時などに捏造されたのか?
j bの場合、何故、別名を名乗るような記述としなければならなかったのか?
そして、どのような場合であれ、記紀等の記述について重要な疑問が伴うこととなる。
k 別名を名乗るにしても、それを隠蔽しようとしたのは何故か?
l 別名を名乗ることを隠蔽することは、本当に可能だったのか?(
>>114 参考)
m 別名を名乗ることを隠蔽しようとしたにもかかわらず、それがばれるようにわざと記紀等に「暗示」(
>>32)を残したのは何故か?
122 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 11:01:14
>>116 古代史研究に多くの材料を提供することはできたのではないか
自己満足、自己陶酔の妄想など何になる。
古代史研究の材料どころか、他人のオナニーのオカズを見せ付けられるような醜悪さだよ。
最大限妥協しても古代史研究にとって、おおいに邪魔。(
>>84)
紙などネット以外の媒体を使う
又は自分のホームページの中だけ
として欲しい。
プラスの要素は、世の中の様々なトンデモ説全般への対処法を学ぶ材料として、反面教師になっていることぐらい。
124 :
104です:2007/04/03(火) 15:33:56
>>116 広瀬さん レス有難うございます。
貴方のHP相当面白いですよ。 教科書じゃないんだから歴史ロマンを追求する姿勢は
貴方の脱線の仕方も正しいし、読み応えもある。人の10倍の努力も感じるし、
本人が楽しんでるのも判る。 がんばってください。
さて、
A=B の仮説を元に C=D を結論付ける場合、
A=Bと仮説づけた章の最後に、
「歴史においてはこの説は仮説だが、自身の説である以上
以降の章ではこれが真である前提でA=Bであったら歴史はどう解釈されるか
論証したいと思う」 等と記述し、
さらに、C=Dの章では、 ところどころで (A=Bだった場合)などと注釈をつける
学者的な注意深さを演じるのも、逆にC=Dのロマンをかきたてるプラスに作用すると思います。
A=Bを信じる事の出来ない読み手すら、A=Bを否定証明はできない事から
C=Dの可能性もあるかもな・・・ とロマンを感じてしまうのです。
ただし、それぞれの章の、嘘や誤認での論述であれば論外なので、
それは、否定派と正々堂々競えばよいのです。
125 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 15:46:37
>>102 「押坂彦人大兄皇子にまつわる疑惑」とは、
>>13の「疑い」や
>>14の「矛盾」と同じことか?
疑惑1は、
>>32で取り下げ
疑惑2は、第1皇子なのに即位しなかったのが疑惑らしい。
珍しいことか?
同時代でも、竹田は推古の第1皇子、厩戸は用明と間人との間の第1皇子だが、即位していない。
特に、厩戸(=聖徳太子)のことは知らぬはずもなかろう。
また、
>>33で、「皇位継承の決定権を握っていた蘇我蝦夷」とか「舒明天皇が蘇我蝦夷の弟だった」と強く主張しているが、これと矛盾する。
すなわち、皇位継承の決定権を握りながら、押坂彦人=馬子の第1子ではありえない田村皇子(=舒明天皇)が即位した。
あるいは、皇位継承の決定権を握りながら、蝦夷の子である入鹿は即位しなかった。
と主張している。
「第1皇子なのに即位しなかったのが疑惑」と言いながら、自己矛盾で御都合主義もはなはだしい。論理破綻!
結論:疑惑2は、誤り、あるいは自己矛盾!
126 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 15:49:01
疑惑3は、異母妹が3人も后妃になったことが疑惑らしい。
しかし、3人という根拠は、
>>33で「理由はわからないが一応ここでは通説に従って」とあり、いい加減。
櫻井弓張皇女は敏達の娘(敏達五年の条)だが、日本書記のどこに妃になったという記載があるのか教えてほしい。
日本書記では、糠手姫皇女と小墾田皇女となるが、敏達の皇后が廣姫のときの采女の娘と、敏達の皇后が炊屋姫(=推古)のときの皇后の娘となり、時期も格も違い、政略的な意図・ねらいが同じとは言えない。
政略的な意図に大きな差がないと証明できない限り、異母妹がも后や妃になったことは疑惑になどならず、単なる思い込みに過ぎない。
また、こんなことに疑惑を持つのであれば、押坂彦人=馬子であろうとなかろうと、天皇の娘が何人も同一人物の后妃になること自体に疑惑を示さないのは、自己矛盾、御都合主義。
結論:疑惑3は、根拠のない思い込みであり、しかも自己矛盾!
127 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 15:53:23
疑惑4は、没年の記載がないことが疑惑らしい。
疑問ではあるが、没年の記載がない皇子は多いし、皇統上重要なのに没年のない彦主人王などの例もある。
そもそも、
>>103「推古天皇と舒明天皇の間に王朝の交代がある」と主張するほど皇統上重要なはずの舒明天皇は生年不詳である。
父の没年が不詳だと疑惑だと大騒ぎするくせに、子の生年が不詳でも無視するというのは御都合主義すぎる。
押坂彦人だけ強調するのは偏った狭いものの見方であり、自己矛盾だ。
また、没年の記載がないことを根拠に押坂彦人は実在せず(馬子の別名)、日本書記等における記載は捏造であるかのように主張している。
しかし、捏造したとしても何故没年の記載をしなかったのか、疑問は膨らむばかりであり、これでは没年の記載がないことの理由にならない。
結論:疑惑4を強調するのは偏狭であり、しかも自己矛盾!
また疑惑4を根拠に、押坂彦人に関する記載が捏造であるとすると、かえって疑惑が増大する。
128 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 15:55:41
疑問5は、推古天皇の娘が馬子には一人も嫁いでいないことが疑問らしい。
何が疑問なのか意味不明である。
>>32で、「時の実力者が王族との婚姻関係を求めるのは普通のことである。」と言いつつ「この時代に皇女が臣下に嫁いだ例はない」と
自ら認めている(認めざるを得ない)。
「例がない」ことが「普通のこと」とは、論理破綻もはなはだしい。
結論:疑惑5は、自ら認める論理破綻!
129 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 16:08:57
疑問6は、中臣勝海の呪殺対象が彦人皇子と竹田皇子の2人であり、馬子を含めた3人でないとおかしいという疑惑である。
これも何が疑問なのか意味不明である。
中臣勝海は物部守屋を助けるため呪殺を行うのだが、臣下の敵は馬子一人ではなく「群臣たちがおとしめようとしている」と記載されている。馬子が必ず呪殺対象でなければならいという必然性は乏しい。
一方、物部守屋は穴穂部皇子を擁立しようとしており、その対立候補の彦人皇子と竹田皇子を呪殺対象とするのは不思議ではない。
すなわち、中臣勝海が彦人皇子、竹田皇子、馬子、他の群臣の誰を呪殺対象としようとしまいと、大して疑問とはならない。
馬子を呪殺対象としていたと決め付けるのは単なる思い込みであり、その根拠を示さなければならない。
また、馬子が呪殺対象であったとしても、それを何故押坂彦人(=馬子)と記さなければならなかったのか、疑惑は膨らむばかりである。
>>32では、「日本書紀の編纂者はこのような使い分けによって読者に彦人大兄は馬子と同一人物ではないかという疑念を生じさせることを狙った」「すなわち暗示である」と言っている。
しかし、読者に疑念を生じさせなければならないのはなぜか、どういう基準で「使い分け」たのか、など疑惑は増大するばかりである。
結論:疑惑6は根拠のない思い込み。
また疑惑6を根拠に、押坂彦人=馬子とすると、かえって疑惑が増大する。
130 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 16:11:32
疑問7:馬子と守屋の戦い以降、彦人皇子についての消息が全く不明が疑問らしい。
消息不明という言い方は誤解を招こうとする印象操作であり、不正確である。
正しくは、記載が無いというべきである。
皇統以外での押坂彦人の記載は用明紀ぐらいしかないが、このとき馬子と守屋の戦いは始まっていない。
用明紀の記載は、疑問6の中臣勝海の呪殺未遂に関連するもので、馬子と守屋が直接争うものではない。
正しくは、馬子と守屋の戦い以降ではなく、「用明2年を除き、記載がない」と言うべきだろう。
こうした不正確な書き方は、悪質な印象操作である。
なお、皇統以外での記載がほとんどない皇子など、珍らしくもなんともない。
この時代で言えば、皇極と孝コという2人の天皇の父である茅渟王も記載がほとんどない皇子であるが、茅渟王について、疑問を持たないのは何ゆえか?
結論:疑惑7は、不正確。
131 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 16:14:16
疑問8は、「皇祖」とよばれていたというのが疑問らしい。
そもそも、孝徳紀の大化2年の「皇祖大兄」という記述を「皇祖」で勝手に打ち切って疑問と騒ぐペテンであり、疑問などない。
また、皇祖大兄=押坂彦人と明記されているわけでもない。
なお、押坂彦人が「皇祖」と呼ばれていても疑問はない。
例えば、
>>33で「祖父ということなら皇祖父とすべき」という反論はひどい。
押坂彦人=馬子としても、皇祖大兄=押坂彦人=馬子は孝徳天皇や中大兄の祖父であることに変わりはない。
つまり、押坂彦人=馬子としても、「祖父ということなら皇祖父とすべき」ということになる。
「孝徳天皇や中大兄の祖父」と言っているところを、単に「祖父」と冒頭部分を勝手に打ち切って書くことで反論らしくみせかけているペテンのような文で、とても悪質。
蘇我系ではない、舒明、孝コ、天智(=中大兄)の祖という意味で、「皇祖」という解釈はなんら不自然ではない。
結論:疑惑8は、文章から恣意的に文字を抜き取って並べ、因縁をつけているだけのペテン。
132 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 16:16:42
疑問9は、彦人皇子の墓が大きすぎると言う疑問である。
当時の墓=古墳の大きさが何によって厳密に決まるかは疑問であるが、押坂彦人の墓が大きいことの疑惑にはつながらない。
疑惑9は、古墳全般にいえる疑問の一つであり、押坂彦人のケースだけ取り上げて論じるのは偏狭である。
しかも、
>>9で「即位したわけでもないのになぜこのように大きいのか」と疑問を呈しており、即位していない者の墓は大きくてはいけないと主張している。
押坂彦人=馬子としても、即位しておらず、墓が大きいのはおかしいこととなる。
すなわち、ここでも自己矛盾をきたしている。
結論:疑惑9を強調するのは偏狭であり、しかも自己矛盾!
133 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 16:19:53
疑問10は、牧野古墳を彦人皇子の墓とすることへの疑問である。
これは、古墳被葬者の比定の問題であり、一般的によくある疑問で、押坂彦人のケースだけ取り上げて論じるのは偏狭である。
古墳被葬者の比定が確かでないからといって、その人物が実在しないかのような論は本末転倒である。
また、
>>33で、「牧野古墳の立地は難波、斑鳩、飛鳥の中間にあり立地的にも第一級。大実力者であった馬子の墓にふさわしい。」としている。
しかし、その中間地域には古市や近つ飛鳥などの有名な古墳群もあり、広陵町の牧野古墳の立地を第1級とするのは、根拠のない思い込みである。
結論:疑惑10は本末転倒で一般論の捻じ曲げ、しかも根拠のない思い込み!
134 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 16:48:20
疑問11は、蘇我氏の全盛期に非蘇我系の皇子が次々と天皇に即位したのが疑問らしい。
日本書記を読めば、蘇我蝦夷が他の群臣の意向を気にするなど、絶対的な天皇の決定権を持ってはいなかったことは明らかであり、疑問と強調するほどのことでもない。
結論:疑惑11は日本書紀の読み込み不足。
全体の結論
疑惑はすべて、誤り、思い込み、又は一般論の捻じ曲げに過ぎない。
疑惑に対する説は、疑惑の解消になっておらず、むしろ疑問を増幅するものばかりである。
135 :
104です:2007/04/03(火) 18:05:43
広瀬さんの思想の流れは、
いわゆる、「日本の皇祖が朝鮮半島出身だった。」
という結果ありき でそれを正当化するためのアプローチでしょう。
点と点はあって、それを線で結ぼうとしている
1・出雲神社を半島信仰の神社と位置づける
2・その出雲神社の祭神は、スサノウ
3・スサノウは半島ゆかり
4・天武帝とスサノウを直系であれば、現天皇の家は半島出身となるはず
5・その糸口・・・蘇我氏 蘇我氏は朝鮮系と位置づける
6・蘇我氏とスサノウをつなげ 蘇我氏と天武とつなげる 事を記紀に探ってみる。
7・お? 蘇我氏つながりで記紀解釈 できそうだ・・・発表
で、論述として重要な事は、 「結果ありきで、点と点を結んでみた」
「十分に線は結べないが7割程度の線はできるようだので私は歴史でこの実線が存在したと思う」
と論ずればよいにに、
現状のように、全く不十分な点と点の集まりを根拠に「こういう結論の線となった」と発表するから、
は? 全然結べてないじゃん? なんでそんな結論になるの? それじゃ捏造だよ
と、返ってくる。
素直にそもそも 結ぶたい点と点が先にあって、間を埋めたくて、埋めそうな点と線を発表してる
とすればいい そうすると中途半端でも価値のある発表となる
136 :
広瀬満:2007/04/03(火) 18:51:09
>>123 石渡信一郎
小林惠子
面白いですか?この二人の本
一応参考にと思い、古書で買いましたが私はあまり評価しておりません。
広瀬満
なんでレスの最後に自分の名前書くの?
138 :
広瀬満:2007/04/04(水) 09:43:57
言われてみればそれもそうですね。
139 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 10:42:35
>>119 〜
>>121 及び
>>125 〜
>>134 に答える力はないのか、やる気がないのか?
自分が不利だとトンヅラか?
批評や意見にきちんと答える気がないなら、
「この説に対する批評、意見を広く求めます。」(
>>1)などと書くべきではない。
何から何まで、いい加減でペテンだな?
140 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 10:44:58
いつまでたっても系図を見せないから、しかたないのでスレ主のHPを見てみたのよ。
そしたらなんと、系図があった。
ttp://www.kojikiden.com/image/keizu0010.jpg で、もっとも大事な馬子=押坂彦人 のところは、敏達天皇と蘇我稲目の両方から線が伸びているのよ。
まるで、敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだという系図に読める。
敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだって、気色悪くない?
もう疑問や矛盾を超越している。
結論:広瀬満の説とは、
「敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだ」
>>136 御二人ともあなたと同様に普段から他人の意見を聞かない思い込みの強い性格の人だと
思うんですよ。自分を客観的に見れない、まぁよくいる困ったチャンなんですが…
あなたも彼等の突飛な説そのものに興味をあったのではなく、一方的な手法を駆使する
彼等自身に親近感を抱いたんじゃありませんか?
そういうことであなたが彼等の本を評価していない、というのも非常に納得できるのです。
142 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 15:07:55
「迹見赤檮がずっと同じ主人に仕えていて、他の者の指揮命令を受けることはまったくなかった」というのも仮定に過ぎない。
a 迹見赤檮がずっと同じ主人に仕えていたという根拠を示してよ。
まさか、その根拠が、豊臣以降の「奉公構い」や「忠臣二君に仕えず」では、笑っちゃうよ。
時期によって押坂彦人、馬子、厩戸と、主人を変えてもおかしくない。
終身雇用の時代じゃあるまいし。
しかもこの時代の渡来人(1世)の多くは、主人を変えているはず。主人を変える例はむしろ多いかもしれない。
b 迹見赤檮が馬子の指揮命令を受けなかったと言い切る根拠を示してよ。
押坂彦人は物部戦争に参加しなかったが、兵糧・武器・兵力などの協力も行わなかったと言い切る根拠を示してよ。
迹見赤檮が押坂彦人の舎人の身分のまま、馬子の指揮下にいても何の不思議もない。
それがありえないと考えること自体が、一つの仮定に過ぎない。
自分の仮定は棚上げして、他人の仮定は「仮定の話だから無視」では、卑怯だよ。
自分の主張が仮定ではないという根拠を示してよ。
143 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 15:20:09
早く自説で想定する系図を見せてよ。
話題を変えて、議論から逃げ回ってぐずぐずしてるから、どんどんハードルが高くなっているじゃないか(笑)。
馬子=押坂彦人 (別名) 、かつ、
馬子=蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子の親、かつ、
馬子=スサノヲ (正体) 、かつ、
蘇我氏は木満致の子孫で百済系 、かつ、
蘇我氏は葛城系 、かつ、
日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」
という系図を見せてよ。
天皇家はブッダの実家かもしれん!!!
天皇家はイエスの実家かもしれん!!!
天皇家はマホメットの実家かもしれん!!!
天皇家は始皇帝の実家かもしれん!!!
天皇家はエジプト王家の実家かもしれん!!!
結局のところ記録、考古学的証拠がなければ、どうとでも言える!!!
145 :
広瀬満:2007/04/04(水) 17:38:46
>>124 なるほど、なるほど、よくわかります。
実に貴重なアドバイス、ありがとうございます。
さっそく検討してみます。
PS.とうとう「かたり」も登場しました。
広瀬満
146 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 18:30:14
>>119 〜
>>121 及び
>>125 〜
>>134 に答える力はないのか、やる気がないのか?
自分が不利だとトンヅラか?
批評や意見にきちんと答える気がないなら、
「この説に対する批評、意見を広く求めます。」(
>>1)などと書くべきではない。
何から何まで、いい加減でペテンだな?
147 :
広瀬満:2007/04/04(水) 20:18:34
>>46 >>47 これまで押坂彦人大兄皇子が蘇我馬子の別名、すなわち彦人大兄と馬子が同一人物であることを説明してきたが、
彦人大兄と馬子が同一人物とすると皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていたことになる。
このことは「日本書紀」の記述等からも伺えるので次にそのことを論じてみたい。
1,蘇我馬子は崇峻5年(592)、崇峻天皇を弑逆(この場合は臣下が天皇を殺すこと)した。これは記録に残る唯一の例である。
天皇家の側からすれば大変な不祥事で当然弾劾されるべきと思うが「日本書紀」は馬子を非難していない。
しかも馬子のことを武略備わり、政務にも優れた人物と賞賛さえしている。
2,乙巳の変の直後の8月8日、天皇はいわゆる仏教統制の詔を出している。この中で蘇我稲目、蘇我馬子の仏教における功績が称えられている。
蘇我の宗本家を滅ぼした直後にこのような詔が出されるのはたいへん奇怪である。
3,天智10年(671)、天智天皇は病に倒れる。その直後天皇は珍宝を飛鳥寺に奉納している。
病に倒れた直後と言うタイミングから見て、病気の平癒を祈願したものと思われる。
飛鳥寺は蘇我馬子によって創建された蘇我氏の氏寺である。なぜよりによって飛鳥寺なのか。
続く
148 :
広瀬満:2007/04/04(水) 20:20:06
続き
4,天智天皇の崩御の直前、大友皇子は内裏の仏像の前で重臣たちに忠誠を誓わせている。
その顔ぶれは左大臣蘇我赤兄臣、右大臣中臣金連、蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣の5人である。
鎌足の従兄弟といわれる右大臣中臣金連を除けば他の4人は蘇我氏か、あるいは蘇我の同族である。
なぜこのような蘇我氏に偏った人事が行われたのか。その理由が知りたい。天智天皇が蘇我の一族だとすればわかりやすい。
5,比定がほぼ正しいとすれば天皇陵は形状の不明な孝徳天皇を除けば舒明天皇以降、墳丘の形がそれまでに方形から8角形に変化する。
これは推古天皇と舒明天皇の間に画期、すなわち王朝の交代が有ったことを示すのでは。
6,上に関して、天平6年(734)4月17日聖武天皇は大きな地震のあとで山稜の被害の調査をさせている。
そのとき調査を命じられた天皇陵の数は8カ所である。天皇陵は数多いのになぜ8カ所でしかないのか。身近な天皇陵とするとその天皇陵は
元正天皇陵(奈保山西陵)
元明天皇陵(奈保山東陵)
文武天皇陵(檜隈安古岡上陵)
天武・持統合葬陵(檜隈大陵)
天智天皇陵(山科陵)
斉明天皇陵(越智崗上陵)
孝徳天皇陵(大阪磯長陵)
舒明天皇陵(押坂内陵)
以上で8カ所である。舒明天皇までで推古天皇まで届いていないのは舒明天皇以降が新王朝だったからではないか。
広瀬満
http://www.kojikiden.com
149 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 09:50:59
天智が蘇我系など、ありふれたトンデモ説。
ましてや、天智や天武が○○だったねんて、もう腐るほど見たトンデモ説。
パクリ、2番煎じと笑われるのがオチ。
しかも、この内容じゃあねえ〜〜〜〜。
よほど、阿呆な人でもなきゃ相手しないんじゃないの。
トンデモ説としてもC級だな。
150 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 10:07:45
>>1 「この説に対する批評、意見を広く求めます。」
⇒
>>46 〜
>>47 及び
>>119 〜
>>121 及び
>>125 〜
>>134 これらは、あなたが望んだ批評や意見です。
これらに答えることができずに話題を変えようとするのは、
自分の説が完全に欠点だらけであることを認めるわけですね。
自 分 の 説 が 完 全 に 欠 点 だ ら け
151 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 10:10:39
>>1 「この説に対する批評、意見を広く求めます。」
⇒
>>142 これも、あなたが望んだ批評や意見です。
これに答えることができずに話題を変えようとするのは、
自分の説が完全に欠点だらけであることを認めるわけですね。
152 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 10:18:37
自説で想定する系図を早く見せないのは無責任です。
話題を変えて、議論から逃げ回ってぐずぐずしてるから、どんどん系図の条件が多くなっています。
あなたには、
馬子=押坂彦人 (別名)、かつ、
馬子=蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子の親、かつ、
馬子=スサノヲ (正体)、かつ、
蘇我氏は木満致の子孫で百済系、かつ、
蘇我氏は葛城系、かつ、
天皇及び主要な皇子、姫、臣下を記載、かつ、
日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」
という系図を見せる責任があります。
皇統の系譜が替わったという説なのですから、系譜・系図はとても重要です。
というより核心です。
どれだけ複雑になろうと、日本書紀等の記述と照らし合わせることが可能なレベルの詳細さが求められるのは、当然のことです。
無責任な気持ちでいるのなら、このスレッドを閉じて欲しい。
153 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 10:23:23
>>7 「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。」
この指摘は、次のとおり明らかに完璧に100%間違っています。
蘇我馬子が大臣になったのは572年(敏達元年)
自分で迹見檮(=迹見首赤檮?)と押坂彦人のことに触れ、それを重視しているが、それは587年(用明2年)
このことは、何度も指摘されています。
これについても何も説明しようとしないのは、自説の欠陥を認めるているということですか?
>>1 「この説に対する批評、意見を広く求めます。」
と望んだ以上、きちんと説明する責任があります。
無責任な気持ちでいるのなら、このスレッドを閉じて欲しい。
154 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 11:44:30
広瀬涙目
155 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 11:46:36
>>147 根拠1 馬子は崇峻天皇を弑逆したが非難されていないことが、「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」根拠らしい。
a 有名すぎる話で、馬子が非難されない理由など昔からある。
例えば、日本書紀編纂時の文武、元明、元正は、馬子の子孫であったからといった説明を見たことないのか?
b 安康天皇が眉輪王に殺されるという前例も、臣下によるものではないが「天皇家の側からすれば大変な不祥事」。
トンデモ論者には意外かもしれないが、日本書紀の記載は結構冷静なのだ。
c 入鹿が山背等を滅ぼしたときは、蝦夷が嘆くような文章表現で、非難している。
トンデモ論者には意外かもしれないが、日本書紀の記載は結構冷静なのだ。
結論:根拠1から「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」を言うのは、とうてい無理。
156 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 11:49:00
>>147 根拠2 乙巳の変の直後に馬子を称えているのが、「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」根拠らしい。
a 根拠1と同様、日本書紀編纂時の文武、元明、元正は、馬子の子孫
b 乙巳の変の後に、蘇我赤兄臣や蘇我果安など、馬子の孫が重臣となる。
乙巳の変の直後に馬子を称えても不思議はない。
結論:根拠2から「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」を言うのは、とうてい無理。
157 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 11:51:05
>>147 根拠3 671年に天智が飛鳥寺に珍宝を奉納したことが、「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」根拠らしい。
a 乙巳の変の時、天智(=中大兄)は飛鳥寺に立て篭ったことも知らんのか?
飛鳥寺は、天智にとっても縁のある寺なのだ。
b 乙巳の変の後、蘇我本宗家の財産は大王家が没収した。
例えば、蝦夷・入鹿の邸宅は消失したが、馬子の邸宅は後に草壁皇子の宮(嶋の宮)となる。
飛鳥寺も大王家のものとなっていたのであろう。
結論:根拠3は日本書紀の読み込み不足による、思い込み。
158 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 11:53:23
>>148 根拠4 天智あるいは大友の重臣に蘇我系が多いことが、「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」根拠らしい。
a 蘇我石川麻呂は、乙巳の変の功労者でもある。(後に謀殺されるが。)
その兄弟が重用されていて何の不思議がある。
b 天智あるいは大友の重臣から、舒明の皇統を論ずるのはむちゃくちゃだろう。
672年の重臣の構成から629年の天皇の擁立を論ずるなど、
現代の政党・派閥の勢力分布から1964年の佐藤栄作の総理大臣選出を論ずるようなもの。もう○○かと!
おそらく、頭の中には飛鳥時代という括りしかなく、672年と629年がどれほど時間が隔たっているか、またその順序などの認識ができないのであろう。
結論:根拠4は思い込み、及び、時間認識の欠如。
159 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 11:56:06
>>148 根拠5 舒明以降、墳形が方形から8角形に替わったことが、「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」根拠らしい。
a それ以前に前方後円形から方形に替わったことを「画期」としないのはなぜか?(お得意の御都合主義)
それ以後に火葬等が行われるようになったことを「画期」としないのはなぜか?(お得意の御都合主義)
天智の墳形が上円(8角?)下方形であることを「画期」としないのはなぜか?(お得意の御都合主義)
墳墓の形や葬送・埋葬の方法から皇統を論ずるのは無理。
自説に都合のよいところだけをつまみ食いする御都合主義だ。
b 八角墳や上円下方墳に特別な意味を持たせる考えはあるが(白石など)、徐々に例外が増えつつあり、あまりあてにできない。
結論:根拠5はご都合主義によるコジツケ。
160 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 12:03:28
>>148 根拠6 天平6年の地震のときの被害の調査対象が8箇所で、弘文を除くと、8代遡って舒明までとなることが、「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」根拠らしい。
a 8箇所がどこだか分からないが、被害があったのが8箇所なのであろう。
すなわち、地震後に陵戸などから被害の報告があり、修陵等を行うための調査が必要と判断されたのが8箇所なのであろう。
それが何か?
b このトンデモ説は、そもそも「天皇家の真の皇祖は蘇我馬子」(スレタイ)のはず。
何故、馬子=押坂彦人 の山陵を調査しないで放置なのだ?
すご〜〜〜〜〜く不思議!!!
枝葉末節を突付き回して妄想しているうちに、根幹となる本論を見失ってしまったのだろう(あ〜〜あ、また自爆かよ(笑))。
結論:根拠6は自爆
161 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 12:40:44
「こんなはずじゃなかったのに…」
ディスプレイを前にして広瀬は戦々恐々とキーボードを叩く。
目頭が熱い。辛い。もう終わりにしたい。でも…出来ない。
痛いところを突かれたのがそんなに応えたのか?
冷たくされたのがそんなに辛かったのか?
本当の理由は誰にも解らない。広瀬にも解らない。
でも…手だけは動く。
名無しの指摘を無視する書き込みを続けて行く。
一体これは誰の意志なのか?この手は、この指は一体誰の物に
なってしまったのか?
そしてまた一つ、ディスプレイに映し出される彼へのレス。
162 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 12:42:11
151 :日本@名無史さん :2007/04/05(木) 10:10:39
>>1 「この説に対する批評、意見を広く求めます。」
⇒
>>142 これも、あなたが望んだ批評や意見です。
これに答えることができずに話題を変えようとするのは、
自分の説が完全に欠点だらけであることを認めるわけですね。
何が起こったのか理解できなかった。
俺が?俺の「天皇家の真の皇祖は蘇我馬子」論が欠点だらけ?
そんな、嘘だ、俺が、この俺の論説が…?
涙が止まらない。嗚咽が止まらない。
何で?どうして、俺がこんな目に…。
ホントは有名歴史研究家になりたかった。ホントは皆に誉めて欲しかった。
涙が止まらない。嗚咽が止まらない。
何で?どうして、俺がこんな目に…。
ホントは笑いたかった。ホントは皆にウケたかった。
「ホントは…ともだ・ち・・日本…@名無史さんも… 」
ガシャアッ!!
感極まった広瀬の腕がディスプレイを乱暴に叩く。
それだけは認めない。それだけは拒否する。
だってそれを認めてしまえば…俺が俺じゃなくなるから…。
「クールな…俺じゃなくなるから…」
163 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 22:17:31
>>147 1.事件の真相はよく分からない。少し前に馬子は、額田部大后を後ろ盾にして穴穂部皇子を消している。
その後、他の王族をすべて滅ぼしてしまうでもなく、また崇峻暗殺で逆臣として即座に討たれてしまうでもなく、
推古朝のもと執政を続けたというところに何かしら事件を解くヒントが隠されているのかもしれない。
つまり、崇峻対馬子の対立を、天皇家対蘇我氏という単純な家の対立図式で捉えるのが正しいのかどうか。
2.この詔は、飛鳥寺に使者が遣わされ発せられたものであろう。
稲目・馬子は仏教導入に指導的役割を果たしたのだから、ごく当然の内容といえる。
いわゆる乙巳の変は入鹿を討ったのであって、「蘇我氏」を全否定したわけではない。
大化新政府の右大臣は御承知のとおり蘇我石川麻呂であり、言うまでもなく彼は稲目・馬子の子孫である。
3.飛鳥寺は日本の寺院の元祖である。皇室とも縁のあったことは、日本書紀や元興寺丈六光銘・塔露盤銘からも見て取れる。
ところで、のちに「大官大寺」となるのは、馬子の飛鳥寺ではなく、舒明天皇の百済大寺である。
皇室の飛鳥寺に対する考え方は、日本書紀の天武9年4月条を参考にするとよい。
164 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 22:20:00
>>148 4.それだと、三公を藤原氏で固められていた平安時代の天皇は、「藤原氏出身」なのかということになってしまう。
それに、そもそも蘇我・中臣・巨勢・紀は、推古朝以前から政事・祭事上重要な地位を占める氏族であった。
5.八角墳の採用には、前代からの離脱、中央集権的大王権拡張の表意が見られるのであり、「馬子の墓制を採用していない」のは確実である。
墓制の変化は、王系の交代もさることながら、政治的・文化的時代背景から見極める必要があろう。
6.のちの十陵制や国忌の例を見るまでもなく、時代が降れば直接的な先祖祭祀が近親者や直系に絞られていくことは、容易に想像できるであろう。
天平時代における他の山陵使派遣のケースに比すれば、8か所というのは最も多い数字ではなかろうか。
なお、ここにいう「8か所」は、舒明・斉明・天智・天武・持統・草壁・元明・文武であろうと推測する。
165 :
広瀬満:2007/04/06(金) 20:02:26
>>155〜
>>160 163,164と比較して頂けるとよくわかるがあまりにも程度の低い返答であほらしくて答える気にもならないが、ちょうどよい機会である。
155〜160のレス主の古代史に対する知識の、程度の低さを立証してみたい。
1,現存の「日本書紀」はほとんど平安時代以降の写本である。文武、元明、元正時代の物は残っていない。
したがってその内容は蘇我氏とは血の繋がりのないはずの天智系の天皇にも承認されていたのはなぜか。写本作成の際に書き換えることもできたはずである。
2,この詔が出したは蘇我氏とは血の繋がりのないはずの孝徳天皇である。
蘇我赤兄臣や蘇我果安が重臣になったのは671年で20年以上も後のことである。なぜこのようなトンチンカンなことを言うのか。
レス主は「日本書紀」をちゃんと読んでいないか、あるいは読んでいても理解できていないかどちらかであろう。
3,ちょっと理解に苦しむ回答である。乙巳の変の時、中大兄は近くに立派な宮殿(飛鳥板蓋宮)があるのになぜ飛鳥寺に布陣したのか。
自分が蝦夷、入鹿に変わって馬子の後継者になったことを誇示したと見る。
続く
166 :
広瀬満:2007/04/06(金) 20:03:43
続き
4,全く答えになっていない。蘇我氏が重臣になっていることが問題なのではなく。重臣がなぜ蘇我氏とその一族で占められているのかを問うている。
1300年もたてば制度や、考え方も大きく変わっているのに佐藤栄作のことを引き合いに出すなど言ってることがもうむちゃくちゃである。
5,墳形や葬送の形態に変化が生ずれば、その政治的背景に疑問の目を向けるのは研究者として当然。
6,地震後に陵戸などから被害の報告があったというようなことは書かれていない。レス主の想像にすぎない。
全く書かれてもいないことを自分の主張の根拠にしてどうする。山陵に被害が出ているかもしれないからその調査が命じられたのである。
レス主は「続日本紀」をちゃんと読んでいたのかどうか疑問である。
広瀬満
http://www.kojikidenn.com
167 :
広瀬満:2007/04/06(金) 21:41:28
日本文化チャンネル桜は、平成十九年三月三十一日をもってスカイパーフェクTV!Ch.767における
24時間放送を休止し、同Ch.241「ハッピー241」の夜の時間帯で放送を続けることになりました。
※「ハッピー241」での放送時間(4月1日?)は、以下のとおりです。スカイパーフェクTV!
の受信環境があれば、どなたでも無料でご覧になれます。
【月?金】18:30?21:30/23:00?24:00
【土・日】21:00?24:00
http://www.ch-sakura.jp/index.html
169 :
広瀬満:2007/04/07(土) 07:40:10
170 :
広瀬満:2007/04/07(土) 12:01:59
171 :
広瀬満:2007/04/07(土) 13:17:53
172 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 13:18:56
// 1 . {. . .ヽ. . ヽ. . ',. .ヽヽ
/ .:/ ハ: :!: :.:ト、:.:. :\:...l:.. :}: : |_⊥ 、
j . {: .:{ :l、:l、: :.ト-ヽ、_:..`ヽ、j__イ_つノ
l 1:ハ.::{ゝl=くヽ:.ヽ トィjr}Tァ┬ァ:.:´|
|ハ :ヽlァ{トィrj \i ー_'っ /:.イ-、:。:|
ヽ。ハ^rぅ' 丶 ` ノ', く } }:.ol゚ o
。 `ハ 。 {ァ´ヽ ,ー o':.へl お客様の中にお医者様は
゚ ´ノi\ ー' ィ:;:.ィ/|/゚ 。 いらっしゃいませんか??
。 o 。 ゚ハヘ;:>ー--<_rv〈、_
/ ̄ヽ \/ll }l}`'^'ト、
/ ::Y77l j l !_`7
l, ---::、〉 jl l ハゝ-i
173 :
広瀬満:2007/04/07(土) 19:48:20
>>171は広瀬満の「かたり」です。
念のため・・・・・・
175 :
広瀬満:2007/04/08(日) 18:06:00
>>174 貴重な情報ありがとうございます。
広瀬満
176 :
衣笠宮:2007/04/08(日) 22:35:41
HPを拝見しました。
疑惑とか立証とか沢山列挙されておられますよね。
今後、研究されたら面白いと思われる箇所が
多々あり、楽しませていただきました。
あの時代は、押坂彦人大兄皇子、茅渟王、漢皇子等、
興味ある位置づけでありながら情報が極端に少ない
皇族方がおられることから学者や歴史愛好家の方々が
想像をたくましくされている箇所ではあります。
だからと言って押坂彦人大兄皇子が敏達天皇の皇子で
あることの疑惑や蘇我馬子と同一人物であったとか、
皇統が切り替わっていたなんてことはいささか飛躍
のしすぎじゃないですか?
あなたの古代(誇大)妄想でしかありませんよね。
>1
飛鳥時代に切り替わって以降は現在まで万世一系なんでしょ。
だったらいいじゃん。女系は無理ってこったね。
178 :
広瀬満:2007/04/09(月) 11:03:02
>>176 衣笠宮様、レスを頂きありがとうございます。
私説に対する反応は色々ございます。
肯定派、否定派、おそらく今は否定派の方が多いかもしれません。
ただ「日本書紀」は奈良時代の天皇が自らの由来を記した書であって、第三者が書いたのではないということだけは心得ておかなければならないと思います。
何が真実で、どれが嘘なのかこれから色々議論していけばよいと思います。そのきっかけに私のHPがなればと願っています。
広瀬満
179 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 18:01:26
>>170 議論で都合悪くなると、自分のHPを見ろというのですか?
だったら自分のHPから出てくるべきではありません!
このスレを閉じて欲しい。
180 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 18:28:17
>>165 1 これが
>>155の根拠1が無理なことと、どう関係あるのか?
天智系に代わったら歴史書も変えないといけないのか?
それで歴史が変わるわけでもない。
そもそも、日本書紀はその内容について講釈なども行われ、中国などにも示されたことはまちがいない。
一度公表したものを、写本の段階で大幅に改竄できるわけないだろう。
そんな発想だから、B級陰謀論、C級トンデモ論といわざるを得なくなるのだ。
2 馬子を称えるのはおかしいというのが根拠2
日本書紀で馬子を称えるのはおかしくないことが言えれば反論になるのではないのか?
いったい何を主張したいのだ?
論理的思考力は大丈夫か?
3 宮殿には天皇がいるのに、皇子とはいえ勝手に占拠できるのか?
根拠のない思い込みのほうが理解に苦しむ。
181 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 18:30:54
>>166 4 あなたの根拠がむちゃくちゃだから、今日の例で分かりやすく教えてあげたのだ。
それから、論理のすり替えをするな。
天智あるいは大友の重臣に蘇我系が多いことが、「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」根拠なのであろう。
天智あるいは大友の重臣に蘇我系が多いことは、「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わって」いなくても十分に説明ができ、そのほが日本書紀の他のさまざまな記述と矛盾しないというのが理解できないか?
天智あるいは大友の時代の話が、なに故、それよりずっと以前の話の根拠になるのだ?
しかも、「切り替り」が「推古天皇と舒明天皇の間」の時期に特定できる根拠になるのだ?
むちゃくちゃだろう。
5 だから、自分に都合のいい変化だけに目を向けるなと言っているのだ。
そういうのを、歴史の「つまみぐい」だと言っているのだ。
もっと、総合的に考察しろと言っているのだ。
6 この反論の本質は、
a 「調査」の意味は、多様な解釈がありえ、「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」根拠とはなない
b スレタイの皇祖の墓を放置は笑止
ということが分からんのか?
182 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 18:32:44
>>165 155〜160のレス主の古代史に対する知識の、程度の低さを立証してみたい。
ほざけ!!!
>>7 「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。」
この指摘は、次のとおり明らかに完璧に100%間違っています。
蘇我馬子が大臣になったのは572年(敏達元年)
自分で迹見檮(=迹見首赤檮?)と押坂彦人のことに触れ、それを重視しているが、それは587年(用明2年)
このことは、何度も指摘されています。
これについても何も説明しようとしないのは、自説の欠陥を認めるているということですか?
>>1 「この説に対する批評、意見を広く求めます。」
と望んだ以上、きちんと説明する責任があります。
無責任な気持ちでいるのなら、このスレッドを閉じて欲しい。
183 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 18:35:39
自説で想定する系図を早く見せないのは無責任です。
話題を変えて、議論から逃げ回ってぐずぐずしてるから、どんどん系図の条件が多くなっています。
あなたには、
馬子=押坂彦人 (別名)、かつ、
馬子=蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子の親、かつ、
馬子=スサノヲ (正体)、かつ、
蘇我氏は木満致の子孫で百済系、かつ、
蘇我氏は葛城系、かつ、
天皇及び主要な皇子、姫、臣下を記載、かつ、
日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」
という系図を見せる責任があります。
皇統の系譜が替わったという説なのですから、系譜・系図はとても重要です。
というより核心です。
どれだけ複雑になろうと、日本書紀等の記述と照らし合わせることが可能なレベルの詳細さが求められるのは、当然のことです。
無責任な気持ちでいるのなら、このスレッドを閉じて欲しい。
184 :
衣笠宮:2007/04/09(月) 20:08:48
広瀬様
かなり苦戦されていますね。
皆さんから系図を出せと言われていますが、
あなたの説の通り蘇我馬子=押坂彦人大兄皇子であるなら、
正史では馬子の姪となっている推古天皇が叔母になって
しまいます。入れ替わりだから関係ないと言われるかも
知れませんが馬子の世代が2世代若くなってしまうわけです。
これはどう言うことかおわかりですか?
それと石舞台古墳は一体誰のお墓なのですか?
まさか皇祖様の墓があんな状態で放置されませんよね!
185 :
広瀬満:2007/04/09(月) 21:08:04
>>184 私が主張しているのは押坂彦人大兄皇子が敏達天皇の子ではなく
蘇我稲目の子の蘇我馬子と同一人物だということです。
従いまして推古天皇と蘇我馬子との関係は変わりません。
石舞台古墳は蘇我蝦夷の墓だと考えています。
広瀬満
186 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 21:21:05
なかなか良スレだな。
>>1は無茶苦茶なんだろうけど、反論してる人がいい。
色々勉強になる。
オレは専門じゃないし日本書紀の原文にはあたったことがない素人さんだけどね。
ということで
>>1も引き立て役としてトンデモ電波流し続けてください
187 :
衣笠宮:2007/04/09(月) 22:48:40
>>185 私が主張しているのは押坂彦人大兄皇子が敏達天皇の子ではなく
蘇我稲目の子の蘇我馬子と同一人物だということです。
従いまして推古天皇と蘇我馬子との関係は変わりません。
広瀬様
同じことなんですよ。馬子の世代が2代若くなるんですよ。
姉の蘇我堅塩姫の曾孫にあたる皇極天皇が、息子の舒明天皇
(蘇我馬子=押坂彦人大兄皇子説を採用すれば)の皇后でしょ。
(それもひとつ違いの..)やはり2世代ずれちゃうんですよ。
その手の矛盾は、調べればいくらでも出てくると思いますよ。
また舒明天皇は姉もしくは妹の蘇我法提郎媛との間に
古人大兄皇子をもうけたことになるよ。あなたが押坂彦人大兄
皇子の疑惑でしきりに指摘されている姉妹との婚姻ですよ。
どだいあなたの説には無理があるんですよ!
系図がなりたたないんですよ!
だから皆さんから系図を出せと言われているのですよ!!
188 :
衣笠宮:2007/04/09(月) 22:50:32
>>185 私が主張しているのは押坂彦人大兄皇子が敏達天皇の子ではなく
蘇我稲目の子の蘇我馬子と同一人物だということです。
従いまして推古天皇と蘇我馬子との関係は変わりません。
広瀬様
同じことなんですよ。馬子の世代が2代若くなるんですよ。
姉の蘇我堅塩姫の曾孫にあたる皇極天皇が、息子の舒明天皇
(蘇我馬子=押坂彦人大兄皇子説を採用すれば)の皇后でしょ。
(それもひとつ違いの..)やはり2世代ずれちゃうんですよ。
その手の矛盾は、調べればいくらでも出てくると思いますよ。
また舒明天皇は姉もしくは妹の蘇我法提郎媛との間に
古人大兄皇子をもうけたことになるよ。あなたが押坂彦人大兄
皇子の疑惑でしきりに指摘されている姉妹との婚姻ですよ。
どだいあなたの説には無理があるんですよ!
系図がなりたたないんですよ!
だから皆さんから系図を出せと言われているのですよ!!
おちつけ
190 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 10:39:37
>>165 155〜160のレス主の古代史に対する知識の、程度の低さを立証してみたい
「知識が乏しい・少ない」や「知識が誤っている」という批判ならその言葉の意味を理解できますが、
「知識の程度が低い」とはどういう意味か理解しがたい。 「程度」とは?
差別的な意識の表れであるなら、誹謗・中傷ということになりますよ。
「程度が高い」ということが「知識が豊富で専門的」という意味であるなら、そして、
そういう人だけ相手にしたいなら、学会などへ行くべきです。
2chを誤解していませんか?
>>1の「この説に対する批評、意見を広く求めます。」は嘘っぱちですか?
191 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 10:42:26
>>7 「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。」
この指摘は、次のとおり明らかに完璧に100%間違っています。
蘇我馬子が大臣になったのは572年(敏達元年)
自分で迹見檮(=迹見首赤檮?)と押坂彦人のことに触れ、それを重視しているが、それは587年(用明2年)
このことは、何度も指摘されています。
これについても何も説明しようとしないのは、自説の欠陥を認めるているということですか?
>>1 「この説に対する批評、意見を広く求めます。」
と望んだ以上、きちんと説明する責任があります。
無責任な気持ちでいるのなら、このスレッドを閉じて欲しい。
192 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 10:46:57
>>148 では、地震があった時、元正〜舒明の天皇陵の調査を命じたと推論(?)し、それを根拠に、「皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていた」と主張しています。
あたたの説において歴史書(あるいはその写本)を捏造するほど大切な「皇祖」様であるはずの馬子=押坂彦人の山陵は、何故放置されたのでしょう?
皇祖の山陵が調査もされずに放置されたことに、何の疑問も疑惑も抱かないということを、自分自身で矛盾とは思わないのですか?
193 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 10:49:57
>>165 155〜160のレス主の古代史に対する知識の、程度の低さを立証してみたい
自説の程度が低いから、批判の程度も低くなるのでしょう。
(陰謀論やトンデモ説としてもかなり程度の低いこんなB級陰謀論・C級トンデモ説を、まっとうな人は相手にしませんので。)
一般に、豊富な知識がなくても、批判をすることができる場合があります。
ましてや、枝葉末節・重箱の隅を突付くような知識がなくても、批判はできます。
例えば、
>>191 では、重大な事実誤認があります。 (まさに、「知識の程度」が低い)
>>192 では、論旨に著しい矛盾があります。 (枝葉末節・重箱の隅を突付くうちに、本来の結論を見失うという失態)
>>1の「この説に対する批評、意見を広く求めます。」は嘘っぱちですか?
蘇我稲目は継体天皇と近江からきたって説あったな
195 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 13:58:30
>>166 全く書かれてもいないことを自分の主張の根拠にしてどうする
それが分かっていながら、日本書紀等に全く書かれていないことだらけの、こんなC級トンデモ説に、何故固執するのやら。
196 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 14:03:15
>>166 地震後に陵戸などから被害の報告があったというようなことは書かれていない。・・・全く書かれてもいないことを自分の主張の根拠にしてどうする。
日本書紀や続日本紀等は当時の人々にとって当たり前のことはいちいち書くとは限らない。(書くこともあれば書かないこともある。)
例えば、
法隆寺について、天智9年の消失の記述はあるが、再建の記述がないという例は、とても有名。
当時の人々にとって消失した法隆寺を再建することは当たり前すぎることだったのだろう。
例2
推古十六年に小野妹子が裴世清を伴って筑紫に帰ってきたとき、その迎えに難波吉士雄成が派遣される。
小野妹子と裴世清が筑紫へ来たことを、大和の人々はどうやって迅速に知ったのであろうか?
おそらく、筑紫から大和へ誰かが報告に行ったのであろう。
日本書紀では、当たり前すぎて、そのことを書いていないのだ。
しかし、日本書紀に書いていないから、
「報告はなかった」
と断定し、それを根拠に
小野妹子はテレパイシーを使えたとか、小野妹子と厩戸皇子(=聖徳太子)は心が通じ合っていたなどの説を主張したら、阿呆だろ。
続日本紀では、太宰府から報告があったといった記述は稀に見かけるが、役人の報告をすべて載せているわけではない。
ましてや陵戸のように位の低い役人からの報告など、記載がなくても不思議はない。
197 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 14:07:42
>>196 (おまけ)
なお、この「書かれてないから事実もなかった」論に関連して、トンデモの世界では俗に「悪魔の証明」と呼ばれるような水掛け論を呼ぶことがある。
しかし、本来は、常識的な判断をするものであろう。
書かれていないことでも、
例えば、厩戸皇子(=聖徳太子)は『聖徳太子絵伝』では空を飛ぶが、日本書紀ではそのような記述はない。
日本書紀に書かれていないので、『絵伝』の伝承とは異なり、聖徳太子は空を飛ばなかったのであろう。
これは常識的な判断である。
書かれていないことでも、
法隆寺は再建され、小野妹子の一行の中の誰か又は筑紫の役人の誰かが大和へ報告に向かったのであろう。
これも常識的な判断である。
陵戸についていえば、山陵の管理が職務なのであるから、自分の手に負えないような大きな地震被害があれば、報告するのが責務と考えるのが、常識的な判断である。
198 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 14:15:35
>>166 地震後に陵戸などから被害の報告があったというようなことは書かれていない。
実は、修陵を行ったと言うことも書かれていない。
広瀬氏の主張に基づけば、山陵の被害を調査したが、壊れていることを発見しても放置したと言わざるを得ない。
何のための調査なのだ?
広瀬説 = 壊れた山陵は放置
(自爆というべきか、ブーメランというべきか、・・・トホホ)
199 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 14:57:08
>>187 188 衣笠宮さん ご指摘のとおりだと思います。
大王家と蘇我家との間で系譜が複雑に絡み合うところで、系譜上の粗略なトンデモ説を展開するところに、この説の愚かさがあると思います。
昔から、崇神、応神、継体などのところで、王権、王朝又は系譜が代わったという説はありますが、これらの時期は、確かに系譜や事績等の継続性が低い時期で、日本書紀の記述のごくごく一部を「誤り」とすれば成り立つ説です。
しかし、このスレの説では、日本書紀の記述の多くを「誤り」としなければ成り立ちません。
枝葉末節の重箱の隅を突付くような疑問・疑惑・矛盾をほんの数件だけ解消するために、
それよりも重大で深刻かつ致命的な疑問・疑惑・矛盾を莫大に発生させるのが、この説です。
矛盾が増幅してしまうのです。
これが、トンデモ説の本性なのでしょうか。
【トンデモ説とは、矛盾の増幅装置なり】
う〜〜〜ん、勉強になります。
200 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 16:06:52
明治天皇は南朝系(日本人)の大室寅之助だが、その子が大正天皇でこの天皇はき
ちがいにされて、また北朝系(朝鮮人)の昭和天皇にすり替ったのである。
日本に渡来した秦一族(フリーメーソン)
秦の始皇帝は日本に自生する不老長寿の薬草を求めるために、徐福を派遣したと
あるが、本当は日本の優れた神書(天皇記など)を盗み出す事が目的であった。焚
書抗儒は日本の神書をあたかも中国の書物であるかのように書き直し、その神書を
焼却し、作業に関わった儒者を生き埋めにした事件である。四書五経、東洋医学は
日本文化の精華なのです。
白鳳時代、朝鮮人(秦一族)の蘇我氏(フリーメーソン)によって日本は乗っ取
られ、日本の国体、神道破壊の計略にかかり、神代文字の古文献は改ざんされ、悪
魔の仏教に汚染された。
蘇我氏(中大兄皇子は百済皇子豊璋)は政敵物部氏を滅ぼし、大化の改新によっ
て聖徳天皇(聖徳太子)を暗殺し(聖徳太子は蘇我氏の血筋ではない。高貴な天皇
家が朝鮮人を妻にしない)、蘇我氏は悪名が広がったので藤原氏と改名し、日本の
政治を牛耳った。麿と言う言葉は日本語と馴染みがなく、朝鮮王家の人が使した王
(自分)と言う意味である。
藤原氏は藤の生命力をめでて、家紋とした。斎藤道三、木下藤吉郎・秀吉、細川
藤孝、徳川家康はフリーメーソンである。
家康の正体は世良田元信で、松平元康を殺し元康に化けた。元康の嫡男、信康と
その妻築山殿は邪魔になり殺された。
徳川家康は岡崎で産れたのだから、岡崎に霊廟(東照宮)を建てるのが筋である。
寛永21年家光は上野国新田郡世良田庄の長楽寺隣に日光東照宮の奥殿(実は遺骨)
を移築して世良田東照宮を建てた。
ここを中心にして、東北(表鬼門)に日光東照宮があり、南西(裏鬼門)に久能
山東照宮がある。と言うことは、世良田庄を鬼門の金神の祟りから護る為の呪術を
施した事になり、徳川家康は世良元信である事の証拠となる。
201 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 16:14:56
明治維新にまつわる陰謀をあばく
1853年米国ペリー提督は日本を占領するために来航し、国富を略奪する
ための日米修好通商条約を締結させた。この不平等な条約によって、日本の金
貨を同量の銀貨と交換出来る様になり、米国はその金貨を外国で大量の銀貨に
換え、それをまた日本の金貨と交換して限りない利益を得たのです。幕府は金
の流失を防ぐため、金の含有量を少なくした金貨を鋳造したために、金貨の価
値が減り物価が高騰して、庶民を苦しめた。欧米諸国は日本を侵略するために、
幕府と革命軍に軍備を貸して、互いに戦わせ弱ってから支配すると言う漁夫の
利を得る作戦を企てた。これはフリーメーソンの陰謀である。革命軍を指導し
たのが米国人フルベッキで、武器を調達したのが英国商人グラバーである。
坂本竜馬はこの陰謀を悟って、大政奉還によって同士討ちを防いだのです。
これによって、フリーメーソンの恨みを買い暗殺された。
ここに「倒幕リーダーの歴史的結集」と記された写真がある。フルベッキを中
心にして、倒幕の英雄が写っているが、坂本竜馬などの著名人の顔が周知のも
のと違うのは、フリーメーソンが陰謀を隠すための捏造の手段である。中央で
刀を抱いているのは、後に明治天皇に摩り替った大室寅之祐で、左端に立って
いるのは後に竜馬に化けた勝海舟で、頬骨が尖った特徴的な顔の人は横井小南
で、調査するとこの写真は本物と認めざるを得ない。幕府のお尋ね者で偽名を
使って逃げている者が、自家の家紋の紋付の着物を着る訳がない。フリーメー
ソンと結託した土佐藩が竜馬を暗殺後、海舟が竜馬に化けて写った写真が巷に
広まったのです。
坂本竜馬は明智光秀の一族明智秀満の子孫で、家紋は違い桁に桔梗である。
日本霊異記は言う。長屋親王の骨が土佐に流れ着いて祟りをなして農民が死ん
だとある。光秀は長屋親王の子孫であり、こうした因縁によって、秀満が土佐
に移り住むことになったのである。
竜馬が滑稽な手紙を書いて乙女姉を笑わせたり、国家を論ずる時に、男女の
卑俗な機微を喩え話の猥談にして、三条実美卿を大笑いさせた等の話は、戯曲
師が話を面白くする為に装飾したもので、誠実な竜馬が冗談など言わない。
202 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 16:46:02
作った人間の頭の程度が判る物語であり
ここはその見本市ですか?
203 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 18:22:41
(天平六年)夏四月
戊戌。地大震。壤天下百姓廬舍。壓死者多。山崩川壅。地往往坼裂不可勝數。
癸夘。遣使畿内七道諸國。檢看被地震神社。
戊申。詔曰。今月七日地震殊常。恐動山陵。宜遣諸王眞人。副土師宿祢一人。檢看諱所八處及有功王之墓。
又詔曰。地震之災恐由政事有闕。凡厥庶寮勉理職事。自今以後。若不改勵。隨其状迹。必將貶黜焉。
3行目は、凡そ次のような意味となろう。
詔して曰く。「今月7日の地震は普通ではなかった。恐らく山陵も動いて(壊れて)いるであろう。諸王又は眞人を派遣して、土師宿祢を一人従わせて、天皇陵8箇所と功のあった王の墓を調査させる。」
204 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 18:27:55
>>203 (続き)
スレの説では、天皇陵8箇所が、聖武から遡って天皇陵8代分とすると、重祚や合葬もあるので、元正〜舒明となるので、舒明天皇以降が新王朝だった。
しかし、歴史書やその写本を改竄するほどに、このスレにとって最も重要な、皇祖(=馬子=押坂彦人)の山陵は調査しないで放置となる。
これは、重大矛盾で論理破綻で説崩壊!
そこで、「功のあった王」の一人が押坂彦人(=皇祖)と考えるのはどうか?
一見つじつまは合うように思えたが、やはりダメだ。
かつて「皇祖大兄」と呼んでいたのに(
>>14)、しかも歴史書やその写本を改竄しほうだいのはずなのに(
>>165)、
ただの「王」に格下げした記述とするのは珍妙で重大矛盾で論理破綻で説崩壊!
そのうえ、広瀬流は、「全く書かれてもいないことを自分の主張の根拠にしてどうする」(
>>166)とケナスので、
a 「功のあった王」が押坂彦人であるとは書かれていない。
b そもそも天皇陵8箇所も元正〜舒明とは書かれていない。
c しかも、調査しただけで、修陵したとは書かれていない。壊れたまま、放置!!
調査に派遣された者たちは、「見てるだけ〜〜〜」
アホらしか。
205 :
広瀬満:2007/04/10(火) 20:41:28
押坂彦人大兄皇子にまつわる疑惑
このスレッドでは天智天皇の祖父の押坂彦人大兄皇子(彦人大兄)が蘇我馬子の別名、
すなわち彦人大兄と馬子が同一人物であることを論証しているが初めてこのスレッドを見た方もおられると思うので
ここでは改めて押坂彦人大兄皇子にまつわる数々の疑惑を列挙しておきたい。
また彦人大兄と馬子が同一人物ということは天皇家は推古天皇と舒明天皇の間で皇統が切り替わっていたことになる。
このことは「日本書紀」等の記述からも伺えるので合わせて紹介しておきたい。
●彦人大兄が敏達天皇の皇子であることの疑惑
1、彦人大兄は敏達天皇と皇后の第一子で太子とされていたのに敏達天皇や用明天皇の崩御後、なぜ即位しなかったのか。
2、彦人大兄の后は糠手姫皇女、大俣王、桜井弓張皇女、小墾田皇女の4人であるがこの内、糠手姫皇女、桜井弓張皇女、小墾田皇女は敏達天皇の娘である。
従って彦人大兄が自分の妹を3人も后にしているのは何とも異常である。この時代、自分の妹を娶った例はいくつかあるがそれは皇后、正后の一人に限られている。
3人も后にした例はなくその理由も説明がつかない。
3、皇統譜上、彦人大兄は極めて重要な人物でありながら没年についての記載がない。一方天智天皇の祖母の薨去についての記載は存在する。
4、大化2年(646)3月の詔に「皇祖大兄」とあり、それに「彦人大兄をいう」の註が付けられている。
彦人大兄は「皇祖大兄」とも呼ばれていた。父が天皇なのになぜ彼は皇祖と呼ばれていたのか。
5、『延喜式』には彦人大兄の墓についての記載があるがその墓域の広さは東西15町、南北20町と尋常ではない大きさである。
これは『延喜式』では最大の大きさである。父の敏達天皇が東西3町、南北3町、天皇としては最も大きい天智天皇でも東西14町、南北14町にすぎない。
即位したわけでもないのになぜこのように大きいのか。
206 :
広瀬満:2007/04/10(火) 20:42:29
続き
●彦人大兄と馬子が同一人物であることの立証
1、推古天皇には5人の娘がありそのうちの二人(桜井弓張皇女、小墾田皇女)が彦人大兄に嫁いでいるが蘇我馬子には一人も嫁いでいない。
時の権力者は王族と深い姻戚関係を結ぶことが普通である。
2、蘇我馬子と物部守屋の戦いの3ヶ月前、中臣勝海連は守屋を助けるため彦人大兄と竹田皇子の像を作り呪うが、なぜ彦人大兄の像があって馬子の像がないのか。
前後の状況からして物部守屋の最大の政敵は馬子である。馬子の像がないのは彦人大兄と馬子が同一人物だからではないか。
3、その後、中臣勝海連は守屋を裏切り彦人大兄側に付こうとし、その宮に行くが出たところを彦人大兄の舎人の迹見赤檮に斬殺された。
「聖徳太子伝歴」はこの事件のことを中臣勝海連は馬子の命を受けた迹見赤檮に殺されたと記している。
4、蘇我馬子と物部守屋の戦い以降、彦人大兄についての消息が全く不明である。
彦人大兄の舎人の迹見赤檮が馬子と守屋の戦いにおいて馬子の配下として行動している。しかし戦いに彦人大兄の名は見えない。
5、彦人大兄の墓(成相墓)が広陵町にある牧野古墳である可能性はかなり高いとされている。
なぜなら成相墓があったとされる大和国広瀬郡(現在の河合町や広陵町)には牧野古墳以外、飛鳥時代の墓はほとんどないからである。
牧野古墳の石室は明日香村の石舞台古墳とほぼ匹敵する大きさである。
蘇我馬子と物部守屋の戦い以降の蘇我氏の全盛期になぜこのような巨大な墓が即位したわけでもない彦人大兄のために造られたのか。
一般的に墓の規模は被葬者の生前の実力を表している。牧野古墳は飛鳥時代最大の実力者馬子の墓と考えられる。
6、牧野古墳の発掘調査では石室から桃の核が見つかっている。発掘の状況から見て埋葬時に石棺の上に置かれていたものらしい。
桃の実がなるのは初夏である。馬子が死んだのは旧暦の5月20日、その月の内に葬られているのでこれはほぼ符合する。
207 :
広瀬満:2007/04/10(火) 20:44:12
続き
●推古天皇と舒明天皇の間で皇統が切り替わっていたことの立証
1、推古天皇の崩御後、天皇に即位した田村皇子(舒明天皇)は日本書紀によれば蘇我氏とは血の繋がりはない。
山背大兄王といった蘇我系の皇子をさしおいてなぜ蘇我蝦夷は彼を天皇に即位させたのか。
田村皇子が馬子の子だったとすればこのような疑問は生じない。
2、蘇我馬子は崇峻5年(592)、崇峻天皇を弑逆(この場合は臣下が天皇を殺すこと)した。
これは記録に残る唯一の例である。天皇家の側からすれば大変な不祥事で当然弾劾されるべきと思うが「日本書紀」は馬子を非難していない。
しかも馬子のことを武略備わり、政務にも優れた人物と賞賛さえしている。
3、乙巳の変の直後の8月8日、天皇はいわゆる仏教統制の詔を出している。この中で蘇我稲目、蘇我馬子の仏教における功績が称えられている。
しかし仏教の大功労者であった聖徳太子については何も語られてはいない。蘇我の宗本家を滅ぼした直後にこのような詔が出されるのはたいへん奇怪である。
功績が称えられているのは天皇が稲目や馬子の子孫だからではないだろうか。
4、天智10年(671)、天智天皇は病に倒れる。その直後、天皇は珍宝を飛鳥寺に奉納している。
病に倒れた直後と言うタイミングから見て、病気の平癒を祈願したものと思われる。
飛鳥寺は蘇我馬子によって創建された蘇我氏の氏寺である。父や母にゆかりの百済寺や川原寺ではなく、なぜよりによって飛鳥寺なのか。
天智天皇が馬子の孫だったと考えれば彼のこのような行動はよく理解できる。
5、天智天皇の崩御の直前、大友皇子は内裏の仏像の前で重臣たちに忠誠を誓わせている。
その顔ぶれは左大臣蘇我赤兄臣、右大臣中臣金連、蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣の5人である。
鎌足の従兄弟といわれる右大臣中臣金連を除けば他の4人は蘇我氏か、あるいは蘇我の同族である。
なぜこのような蘇我氏に偏った人事が行われたのか。その理由がわからない。天智天皇が蘇我の一族だとすればわかりやすい。
6、比定がほぼ正しいとすれば天皇陵は形状の不明な孝徳天皇を除けば舒明天皇以降、墳丘の形がそれまでに方形から8角形に変化する。
これは推古天皇と舒明天皇の間に画期、すなわち王朝の交代が有ったことを示すのでは。
208 :
広瀬満:2007/04/10(火) 20:46:27
続き
7、上に関して、天平6年(734)4月17日聖武天皇は大きな地震のあとで山稜の被害の調査をさせている。
そのとき調査を命じられた天皇陵の数は8カ所である。
天皇陵は数多いのになぜ8カ所でしかないのか。身近な天皇陵とするとその天皇陵は
元正天皇陵(奈保山西陵)
元明天皇陵(奈保山東陵)
文武天皇陵(檜隈安古岡上陵)
天武・持統合葬陵(檜隈大陵)
天智天皇陵(山科陵)
斉明天皇陵(越智崗上陵)
孝徳天皇陵(大阪磯長陵)
舒明天皇陵(押坂内陵)
以上で8カ所である。舒明天皇までで推古天皇まで届いていないのは舒明天皇以降が新王朝だったからではないか。
209 :
広瀬満:2007/04/10(火) 20:47:34
続き
●最後に
私が押坂彦人大兄皇子に対して抱く疑惑は以上の通りである。
よく考えて頂きたいのはこれらの疑惑は押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の子ではなく、蘇我馬子と同一人物、
すなわち皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていたと考えればすべて氷解すると言うことである。
もしこれ以外に気づいたことがあればぜひ広瀬満までお教え願いたい。
ともあれ、現天皇はこの押坂彦人大兄皇子の直系の子孫である。
この皇統譜の上において重要な人物にこのような出自にまつわる疑惑が数多く存在することは大きな問題である。
天智天皇と天武天皇が実の兄弟であるかどうかどころの問題ではない。日本の歴史学はこの問題を無視することは許されないと思うのである。
広瀬満
http://www.kojikiden.com
210 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 00:29:26
すでに破綻してるのに何も答えないまま全く同じ電波流すってなんなの
もうここの
>>1は相手しないで紀年法スレに来てください
212 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 10:29:34
>>205 彦人大兄が敏達天皇の皇子であることの疑惑
1
>>14 の矛盾2と同じ。
まず、
>>125 に答えるべき。
それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
2
>>14 の矛盾3と同じ。
まず、
>>126 に答えるべき。
それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
3
>>14 の矛盾4と同じ。
まず、
>>127 に答えるべき。
それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
213 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 10:32:11
>>205 彦人大兄が敏達天皇の皇子であることの疑惑
4
>>14 の矛盾8とほぼ同じ。
まず、
>>131 に答えるべき。
それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
『「彦人大兄をいう」の註が付けられている。』が付加されている。(修正点を明記せず、姑息にこっそりと微調整)
本文についてはあちこち捏造だなんだと言うくせに、自分が批判を浴びると注を持ち出すとは、ご都合主義ですね。
それほど、卑怯技を使いたいなら、
>>131の「また、皇祖大兄=押坂彦人と明記されているわけでもない。」の1行は撤回します。
しかし、かえって、
>>131の反論の他の行は鉄板であることを自ら認めるようなものですね。
ご自分の説を論証するうえで、たいして補強になっていないところが悲しいですね。
5
>>15 の矛盾9と同じ。
まず、
>>132 に答えるべき。
それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
214 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 12:02:17
>>206 彦人大兄と馬子が同一人物であることの立証
1
>>14 の矛盾5と同じ。
まず、
>>128 に答えるべき。
それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
2
>>14 の矛盾6と同じ。
まず、
>>129 に答えるべき。
それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
「中臣勝海連と物部守屋の二人が最も敵対視していたのは馬子だったはず」(
>>14)が
「前後の状況からして物部守屋の最大の政敵は馬子である」(
>>206)と代わっているが、大意は変わらない。
しかし、多少表現を変えたところで、そんなこと日本書紀に書いてない。
つまり、日本書紀では、「群臣たちがおとしめようとしている(群臣圖卿)」とあり、複数の群臣が守屋に敵対しているのであって、馬子一人が敵対しているとは書かれてない。
しかも、日本書紀では、馬子と守屋は、用明の後継者選びで対立しているのであって、まだ軍事的に対峙しているとは書かれていない。
「全く書かれてもいないことを自分の主張の根拠にしてどうする」(
>>166)が広瀬流だろ。(自爆というかブーメランというか、・・・トホホ)
215 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 12:05:26
>>206 彦人大兄と馬子が同一人物であることの立証
3 迹見赤檮については、まず、
>>191 にきちんと答えるのが誠実な態度というものであろう。
さらに、
>>142 に答えないのは、当初の主張は論破されたと認めるわけですね。
で、しかたなく「聖徳太子伝歴」を持ち出したと。 迹見赤檮が中臣勝海連を殺したのも馬子の命令によるものだと。
守屋やその仲間の舎人でもない限り、誰の舎人であろうと、この時期の馬子の指揮・命令に従うことは必ずしも珍しくないということが、まだ理解できないようですね。
馬子が、竹田皇子と押坂彦人皇子を呪殺しようとした犯罪者を捕えて殺すように諸王や群臣に命じることが不思議ですか?
いつまでも理解できないようでは、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
4 前半は、
>>14 の矛盾7と同じ。
まず、
>>130 に答えるべき。
それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
特にこの件については、内容もひどいが、表現について「こうした不正確な書き方は、悪質な印象操作である」と指摘したはず。
それでも表現を改めようとしないのは、かなり悪質ですね。
後半は、迹見赤檮について。
これは、まず、
>>191 にきちんと答えるのが誠実な態度というものであろう。
さらに、
>>142 に答えないのは、当初の主張は論破されたと認めるわけですね。
悪質な印象操作を繰り返すようでは、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
216 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 12:07:00
>>206 彦人大兄と馬子が同一人物であることの立証
5
>>15 の矛盾10とほぼ同じ。
まず、
>>133 に答えるべき。
それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
また、「一般的に墓の規模は被葬者の生前の実力を表している。」が追加されているが、これについては
まず、、
>>70の疑問9への反論
>>88〜89 さらに
>>109 を経て、
>>112〜113に答えるべき。
それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
さらに、「牧野古墳は飛鳥時代最大の実力者馬子の墓と考えられる。」が追加されているが、
馬子が、自分が仕える敏達、用明、崇峻、推古より実力者であるとは、きちんとした根拠なしに言えることではない。
しかも、
>>109を見ると、広瀬流では、ある時期に最大の古墳はその時代の「大王の墓ではないと疑う人もいない」のだろう。
何故、4人の大王を無視する。
(♪ブ〜メラン、ブ〜メラン、ブ〜メラン、・・・)
217 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 12:10:57
>>206 彦人大兄と馬子が同一人物であることの立証
6 これは、新規。
牧野古墳の石室に桃の実があったことから埋葬の時期的に馬子の墓だと主張したいらしい。
しかし、肝心な「埋葬時に石棺の上に置かれていたものらしい」という根拠を示すべきだ。
私の知る限りでは、
a 桃の実は奥壁の前から発見された
b 石棺は家型で蓋は屋根のような形をしている
bから、石棺の上に桃を置くというのは、アクロバチックな空想のように思える。
何か、私の知らない根拠があるのであろうか。
根拠がなければ、盗掘時に墓泥棒のオヤツとして持ち込まれたなど、桃の説明はどのようにでもなりそう。
桃を置いた時期:埋葬の時 (埋葬と「同時代」は却下)
桃を置いた場所:石棺の上 (多少緩めて、石棺の上以外の埋葬時に目立つ場所でも可)
この2点の根拠を示せないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
218 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 13:23:36
207 推古天皇と舒明天皇の間で皇統が切り替わっていたことの立証
1
>>15 の矛盾11の前半分と同じ。
まず、
>>134 に答えるべき。
それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
特に、「田村皇子が馬子の子だったとすればこのような疑問は生じない」は、
>>33 の11の「舒明天皇が蘇我蝦夷の弟だったとなればこのような疑問は全く生じない」の改良版か?
これについては、
>>70の疑問11への反論で完全論破されたものな。
再掲しよう。
> もうトホホの阿呆ぶりだな。
> 舒明と蝦夷が兄弟という説が成り立つなら、「兄である蝦夷が天皇にならなかったのはなぜか」というもっと大きな疑問が生じるだろう。
> 何の疑問の解消にもなっていないどころか、疑問を増幅している。
こそこそと目立たぬように自説を微調整するような卑怯で姑息なまねはせず、どこを修正したのかをもっと明確に示すべき。
公明正大にやってほしい。
そうでないと、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
219 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 13:26:07
207 推古天皇と舒明天皇の間で皇統が切り替わっていたことの立証
2
>>147 の根拠1と同じ。
まず、
>>155 さらに
>>165の1を経て、
>>180の1に答えるべき。
それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
220 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 13:28:58
207 推古天皇と舒明天皇の間で皇統が切り替わっていたことの立証
3
>>147 の根拠2とほぼ同じ。
まず、
>>156 さらに
>>165の2を経て、
>>180の2に答えるべき。
それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
なお、
>>165について。
自分は40数年もさかのぼった因果関係を主張するくせに、同じような論法を他人が用いると「トンチンカン」とか「ちゃんと読んでいないか、あるいは読んでいても理解できていないかどちらかであろう」と罵倒する。
なんとも、卑劣な人だ。
ここでの本質は、「日本書紀で馬子を称えるのはおかしくないことが言えれば反論になる」(
>>180)であるのに。
論理的思考力を疑う。
だもんで、
「乙巳の変の後に、蘇我赤兄臣や蘇我果安など、馬子の孫が重臣となる。」を
「乙巳の変の後に、蘇我倉山田石川麻呂や蘇我赤兄臣や蘇我果安など、馬子の孫が重臣となる。」
に訂正する。(卑劣漢を相手にするのは疲れる。)
ついでに。
新たに聖徳太子の名を出したのは、元々の主張の阿呆さがヤバイと思ったからか?
論証上、何の補強にもなっていないのが、悲しいが、・・・。
221 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 13:31:30
207 推古天皇と舒明天皇の間で皇統が切り替わっていたことの立証
4
>>147 の根拠3とほぼ同じ。
まず、
>>157 さらに
>>165の3を経て、
>>180の3に答えるべき。
それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
なお、新たに、「父や母にゆかりの百済寺や川原寺」とあるが、百済寺(=百済大寺)はよいとして、舒明や皇極と川原寺との間には、日本書記上「ゆかり」といえるほどの関係があるのか?
(川原寺=川原宮跡地説は、日本書記に書いてないので却下だよ。)
根拠を示してほしい。
それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
5
>>148 の根拠4と同じ。
まず、
>>158 さらに
>>166の4を経て、
>>181の4に答えるべき。
それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
ところで、巨勢や紀が蘇我と同族とはどういうこと?
まさか、武内宿禰の子孫などと言わないよね。
それを言ったら、平群や葛城なども含め、古代豪族の多くが同族になってしまう。
「蘇我氏に偏った人事」が悪質な印象操作ということになってしまう。
222 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 13:34:15
207 推古天皇と舒明天皇の間で皇統が切り替わっていたことの立証
6
>>148 の根拠5と同じ。
まず、
>>159さらに
>>166の5を経て、
>>181の5に答えるべき。
それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
特に、この根拠は最低最悪である。
墳形が変わるつど、王朝が変わる? 馬鹿丸出し。
古代では、前方後円、方、円、八角、上円下方などと天皇陵の形は変わるが、そのつど王朝交代か?
(円形は、雄略が比定されている高鷲丸山の後円部が有名)
何よりも八角墳ではなくなったとき、王朝は変わったのか?
近代でも、墳墓が円形の孝明天皇から上円下方形の明治天皇に変わったとき、王朝が変わったのか?
ああそうですか。アホクサ。
どうにも、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
223 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 14:01:51
207 推古天皇と舒明天皇の間で皇統が切り替わっていたことの立証
7
>>148 の根拠6と同じ。
まず、
>>160さらに
>>166の6を経て、
>>181の6に答えるべき。
さらに、
>>196〜198 及び
>>203〜204 に答えるべき。
それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
特に、
>>203〜204 については、
「レス主は「続日本紀」をちゃんと読んでいたのかどうか疑問である」(
>>166)と罵倒しておきながら、無視するのは卑劣である。
日本書紀は、当時の人たちにとって当たり前のことはいちいち書かない。(書くこともあれば書かないこともある。)
調査した山陵が壊れていれば修陵するのが当たり前と思うが、広瀬流はそういう常識を許さない。
調査に王又は眞人と土師氏(陵墓建設の専門集団)が派遣されながら、壊れた山陵を「見てるだけ〜〜〜」とは珍妙であろう。
私は枝葉末節・重箱の隅を突付くような読み方は苦手だが、それを欠点とは思わない。
むしろ、行間を読み取る能力、総合的に判断する能力のほうが、「ちゃんと読む」ことにつながると思っている。
ここで、さらに重要なことは、
何ゆえ、スレタイの「皇祖」様の山陵は、調査もしないのだ? あるいは、
何ゆえ、スレタイの「皇祖」様をただの「王」と格下げして表記するのだ?
これに答えられないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
224 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 14:39:04
ほかにも何件か、すっとぼけようとしているものがあるが、卑劣だね。
「押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だ」(
>>7)
これについては、まず、
>>119〜121に答えるべき。
それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
さらに、
馬子=押坂彦人 の身分は何なのか(
>>91)
こんな本質的な問いにも答えていない。まず、きちんと答えるべき。
それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
225 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 14:41:53
「押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だとすると、日本書記など多くの資料にどのような疑問や矛盾が発生するのか具体的に説明してもらいたい」(
>>13)
これについては、とりあえず敏達記だけをまず取り上げてみた。(
>>35, 54)
これも答えていない。まず、きちんと答えるべき。
それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
特にこの件では、「説明してもらいたい」と人に偉そうに要望しておきながら、自分が不利とみるや放置とは、無責任すぎる。
「中大兄皇子は蘇我の一族だった」(
>>22)
これについては、まず、
>>51に答えるべき。
それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
「「日本書紀」は皇統が切り替わっていたと正直に書くわけにはいかないので天皇家の出自が蘇我氏であることを隠蔽」(
>>103)
これについては、まず、
>>114に答えるべき。
それができないなら、根拠のない妄言・電波を繰り返し垂れ流しているだけと言わざるを得ない。
226 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 14:46:57
自説で想定する系図を早く見せないのは無責任です。
話題を変えて、議論から逃げ回ってぐずぐずしてるから、どんどん系図の条件が多くなっています。
あなたには、
馬子=押坂彦人 (別名)、かつ、
馬子=蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子の親、かつ、
馬子=スサノヲ (正体)、かつ、
蘇我氏は木満致の子孫で百済系、かつ、
蘇我氏は葛城系、かつ、
天皇及び主要な皇子、姫、臣下を記載、かつ、
日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」
という系図を見せる責任があります。 (
>>53や
>>118も参照)
皇統の系譜が替わったという説なのですから、系譜・系図はとても重要です。
というより核心です。
どれだけ複雑になろうと、日本書紀等の記述と照らし合わせることが可能なレベルの詳細さが求められるのは、当然のことです。
無責任な気持ちでいるのなら、このスレッドを閉じて欲しい。
227 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 14:50:52
「この説に対する批評、意見を広く求めます」(
>>1)
「今は押坂彦人大兄皇子の疑惑について徹底的に議論したい。」(
>>25)
話題を勝手に変更しようとしたり、同じ内容を繰り返すだけだったり。
議論を逃げ回るばかりで、嘘っぱちではないか!!!
228 :
広瀬満:2007/04/11(水) 17:30:27
>>163 >>164 いつもながらの歯ごたえのある返答をありがとうございます。
1、守屋の妹で馬子の妻の謀で守屋は殺されたと「日本書紀」は記している。
物部氏、蘇我氏、大王家の関係がどのようなものであったかは重要だが謎に包まれている。
神話、古代朝鮮史、神社祭祀などあらゆる角度から考えてみたい。返答にはなっていないかもしれないが・・
2、たしかに稲目・馬子は仏教における功労者なので詔が彼らの功績にふれていたとしてもおかしくはない。
しかし乙巳の変のわずか2ヶ月後ということを考えれば稲目・馬子の功績ばかりが強調されていることに違和感を感じる。
仏教に功績があったのは稲目・馬子だけではない。推古天皇や聖徳太子も大きな功績があった。
なぜか彼らの功績にはまったくふれられていない。
3、珍宝の奉納が病気の平癒を祈願したものなら国家行事と言うより個人的な色彩が濃い。寺の選定はその寺の起源が問題になる。
父母にゆかりのある百済寺や川原寺の方がふさわしいのでは。馬子と天智天皇の強い絆を感じる。
続く
229 :
広瀬満:2007/04/11(水) 17:32:14
続き
4、平安時代の天皇は藤原氏と濃い血の繋がりがあったのだから重臣が藤原氏で固められていたのは当然である。
天智天皇は蘇我氏と血の繋がりが無いはずなのに重臣が蘇我氏とその一族で固められていることが問題。
蘇我・中臣・巨勢・紀の各氏だけが重要氏族だったわけではない。大伴、阿部など蘇我系以外の大豪族は多い。
5、墳形の変化は6と関連する傍証であって、これだけで王朝交代の明確な証拠とするつもりはない。
墓制の変化は、政治的・文化的時代背景から見極める必要があろうと言うのには同意できる。
6、定期的に実施され費用も手間もかかる山稜の祭祀と地震災害の被害調査とは本質が異なる。
天皇陵とともに皇族の墓も調査されているのに調査が実施された天皇陵が8カ所だけで他は調査も実施されなかったというのは問題である。
8カ所の天皇陵と他の天皇陵は区別して扱われていたのではないか。区別されていたのは王朝が異なるからだろう。
皇族の墓は数の記載がなく、天皇陵のみ数が記載されているのは「続日本紀」の編纂者のある種の意図(暗示)を感じる。
7、これまでの分も含めあなたとのやりとりを私のHPに掲載したいので承認してほしい。
広瀬満
http://www.kojikiden.com
230 :
衣笠宮:2007/04/11(水) 22:59:30
229 :広瀬満 :2007/04/11(水) 17:32:14
続き
4、平安時代の天皇は藤原氏と濃い血の繋がりがあったのだから重臣が藤原氏で固められていたのは当然である。
天智天皇は蘇我氏と血の繋がりが無いはずなのに重臣が蘇我氏とその一族で固められていることが問題。
蘇我・中臣・巨勢・紀の各氏だけが重要氏族だったわけではない。大伴、阿部など蘇我系以外の大豪族は多い。
天智天皇は蘇我氏と血の繋がりが無いと言っているのは勉強不足の学者や作家のみ
欽明天皇&蘇我堅塩媛−桜井皇子−吉備姫王&茅渟王−皇極天皇&舒明天皇−天智天皇
231 :
改竄される前の古事記に書いてあること:2007/04/12(木) 01:43:02
まず、応神天皇の次に宇治天皇が即位しますが、久米派内で跡目相続をめぐって内乱が起こります。
これで、久米派自体が弱体化し、大和の王、仁徳天皇が久米派を破って即位しました。
これに異論をとなえた播磨が討伐を受けます。
鴨、明石が戦い、伊和は静観したので、伊和一ノ宮は保護されます。
明石のご神木の楠が切られて、船にされたようですね。
切られて後もその船は鳥之磐楠船神として崇敬を集めました。
仁徳天皇は播磨討伐をなされたようですが、それを応神天皇がなされたよう、大幅に歴史の書き換えがありました。
大変大規模な書き換えがあったので、かなり作業が煩雑になったようです。
ここで政権が大和系の政権になります。
これで、隼人は余計反乱を起すようになり、播磨系の吉備も非協力的になっていきます。
この系統は雄略天皇まで続き、ここで何かあって、その後、播磨系の天皇に代わります。
しかし、数代後に跡継ぎが絶えて、結局、久米系の継体天皇が跡を継ぐことになります。
その父上様がヒコウシ命ですね。久米系の方でした。
その後、しばらく久米系が続きますが、白村江戦で日本が敗北し、
その期に乗じて、大和系の天智天皇が政権をとり、唐に対して、逆賊を討ったので、政権を認めてほしいと使者を送ります。
これを唐が認め、日本は領土を失うことを免れたようです。
これを快く思わない群臣が天武天皇を担いで反乱を起し、久米系がまた政権を取り戻した、という状況らしいです。
大山寺の僧、大蔵院の僧、許波多神社の神主、吉田神道の神主から色々お話を伺い、参考にしました。
232 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 05:37:43
/\
/ \
//⌒ヽ \
/( ^ω^) /\
\( ) / \
\ / \
\/ \
/⌒ヽ⌒ヽ\
( ^/) )) ヽ
/ / / ^ω)/⌒ヽ
( イ ( ,つ,^ω^) ここまでスクロールしたお
/ヽ )) ヽ )ヽ )と , イ
(_/(_/(_/(_/ノ(_/⊂ノ> )J
/ ̄Y ̄`|/ ̄^Y ̄ヽ/ ̄ ̄Y `´ ̄\
233 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 06:09:41
昨日NHK教育で蘇我馬子の石室古墳の内部まで映像を映し、
内部構造から韓国中国の影響があると解説。
ほんとかな?
234 :
広瀬満:2007/04/12(木) 08:00:46
>>230 天智天皇の祖母が吉備姫王が稲目の娘の孫といわれていることは認識していた。
「繋がりが無いはず」としたのは誤りである。
ただ繋がりが女系である上、稲目まで5世代も前の話である。したがって「繋がりがほとんど無いはず」と訂正する。
ただ吉備姫王が桜井皇子の娘という記述は「記紀」にはない。
15世紀に編纂された「本朝皇胤紹運録」の記事である。
指摘には感謝する。
広瀬満
235 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 10:45:08
自説で想定する系図を早く見せないのは無責任です。
話題を変えて、議論から逃げ回ってぐずぐずしてるから、どんどん系図の条件が多くなっています。
あなたには、
馬子=押坂彦人 (別名)、かつ、
馬子=蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子の親、かつ、
馬子=スサノヲ (正体)、かつ、
蘇我氏は木満致の子孫で百済系、かつ、
蘇我氏は葛城系、かつ、
天皇及び主要な皇子、姫、臣下を記載、かつ、
日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」
という系図を見せる責任があります。 (
>>53や
>>118も参照)
皇統の系譜が替わったという説なのですから、系譜・系図はとても重要です。
というより核心です。
どれだけ複雑になろうと、日本書紀等の記述と照らし合わせることが可能なレベルの詳細さが求められるのは、当然のことです。
無責任な気持ちでいるのなら、このスレッドを閉じて欲しい。
236 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 10:45:43
「この説に対する批評、意見を広く求めます」(
>>1)
「今は押坂彦人大兄皇子の疑惑について徹底的に議論したい。」(
>>25)
話題を勝手に変更しようとしたり、同じ内容を繰り返すだけだったり。
議論を逃げ回るばかりで、嘘っぱちではないか!!!
237 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 10:46:25
>>7 「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。」
この指摘は、次のとおり明らかに完璧に100%間違っています。
蘇我馬子が大臣になったのは572年(敏達元年)
自分で迹見檮(=迹見首赤檮?)と押坂彦人のことに触れ、それを重視しているが、それは587年(用明2年)
このことは、何度も指摘されています。
これについても何も説明しようとしないのは、自説の欠陥を認めるているということですか?
238 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 10:49:19
239 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 10:50:40
>>212 〜
>>227 答えられず、話題をそらそうとするのは、自分が卑劣な人間であることを認めるのですね。
240 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 15:35:49
珍妙なやり取り。
163 :日本@名無史さん :2007/04/05(木) 22:17:31
164 :日本@名無史さん :2007/04/05(木) 22:20:00
228 :広瀬満 :2007/04/11(水) 17:30:27
>>163 >>164 いつもながらの歯ごたえのある返答をありがとうございます。
163と164は、HNもないのに、何故「いつもながら」なのだ?
自作自演?
241 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 15:55:12
>>29 >>徹底的な議論が必要と感じている。
>>その結果によっては影響力の大きいシビアな議論となるがここでは堂々とやる!!
不利な議論からは逃げ回るばかりで、議論がまるで徹底していないよ。
不利な議論からは逃げ回るばかりで、ちっとも堂々としていないよ。
242 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 00:00:30
@ 議論の内容はすべて論破された
A 議論の論理的方法も否定された
B 議論に臨む態度も卑劣と非難された
3点セットでダメダメやね。
243 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 09:23:31
広瀬君の洞察力は鋭いものがあるが惜しいかな矛盾点が幾つかある。
押坂彦人大兄皇子は皇位継承の第1候補者で、なぜ天皇に成れなかった
のか。彼が馬子ならどんな名前の天皇になったのか。蘇我氏は先祖に高麗
と言う者がいる様に朝鮮人である。蘇我氏が日本固有の天皇になる事は不
可能。なぜ彦人皇太子が蘇我馬子と言う名前を名乗らねばならないのか。
聖徳太子の正体は用明天皇の第1皇子の押坂彦人大兄皇子である。
すると、聖徳太子は皇位継承の第1候補者で、天皇に即位していたはずで
す。推古天皇(女帝)の治世下の摂政になっていたというのは嘘になりま
す。
根拠
「日本書紀」によると、用明2年(587)4月物部派の中臣勝海が彦人
皇太子(押坂彦人大兄皇子)と竹田皇子の像を作って、呪い殺そうとした
が、それが、難しいことを知り、彦人皇太子に帰順した。水派宮の彦人皇
太子の家臣亦見赤壽(トミノイチヒ)は、中臣勝海が退出するところを刀
を抜いて殺害したとある。
覚什著の「太子伝記」によると、物部守屋が用明天皇と聖徳太子を呪詛し
たことが書かれ、勝照3年(587)7月、聖徳太子率いる4将軍の中に
亦見赤壽(トミノイチヒ)(「伝暦」では太子の舎人となっている)がい
て、この人物が物部守屋を弓矢で射殺している。
この二つの事件は587年に起きた物部・蘇我氏による神仏戦争の中での
出来事であることは一目瞭然で、同時期に亦見赤壽(トミノイチヒ)は彦
人皇太子と聖徳太子の両方の家臣になっている。こんなおかしな事はあり
えません。彦人皇太子と聖徳太子は同一人物であると断定できます。
なぜ、聖徳天皇の業績が残らなかったのか。聖徳天皇を暗殺した事実を隠
蔽するためなのです。645年、天皇になっていた聖徳天皇(聖徳太子)
は、三韓の使者の挨拶を受けていた時に、中大兄皇子(百済王の子豊章)
と中臣鎌足(新羅の武王)によって殺害され、日本は朝鮮人に乗っ取られ
てしまったのです。
大化の改新では聖徳天皇を蘇我入鹿にすり替えられてしまいました。
中大兄皇子は祖国復興のために、日本軍を白村江の戦いに派兵して、大量
の犠牲者を作りました。
244 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 10:01:33
京都の太秦にある広隆寺には聖徳太子の等身大の木像が安置されており、歴
代の天皇が大嘗祭で身に着けた衣装をこの木像に着せることになっている。と
言うことは今の天皇家が聖徳太子を殺害し、皇位を奪ったため、聖徳太子の祟
りを恐れて慰めるための行事だと分かります。
日本書紀に隠されていた暗号
なぜ、男性天皇であった伝統が聖徳太子の時代から女性天皇に変ったのか。
このことに疑問を感じないのは不思議である。日本書紀は矛盾点が多く改ざん
されている可能性があるため、内容が難解で改ざんしにくい先代旧事本紀大成
経を調べてみると、推古天皇治世の中に突然、欽明天皇の事績が出てくる。こ
れにも改ざんの魔の手が伸びていた。何か手がかりがないかと見ていると、見
出しが目に入った。帝皇本紀上巻上に継体天皇の事績が書かれている。その後
を推定すると、上巻下が安閑天皇、中巻上が宣化天皇、中巻下が欽明天皇、下
巻上が敏達天皇、下巻下が崇俊天皇となる。次が聖皇本紀上巻上となっている。
聖徳太子の聖の字と一致するから、聖徳天皇に推定する。上巻下は高市天皇、
下巻上は天武天皇、下巻下は長屋天皇となる。このように推定した根拠を示す。
日本書紀によると、欽明天皇と石姫皇后の間に2男1女が生まれ、皇太子は
箭田珠勝大兄皇子と言い、二男は渟中倉太珠敷尊と言う。ここでおかしいのは、
二男の名前が本名でなく、諱(死後の尊称)であり、珠の一字からこれは箭田珠
勝大兄皇子の諱である。すると用明天皇の存在が消えてしまうのである。
敏達天皇と広姫皇后の皇太子押坂彦人大兄皇子の又の名を麻呂古皇子と言い、
用明天皇と広子の長男も麻呂古皇子と言う。同じ名前なら入れ替えても同じで
あると言う事は入れ替わったと言う暗号である。押坂彦人大兄皇子は麻呂古皇
子(朝鮮人)に入れ替わったのである。彼は皇太子なのに天皇になれず、いつ亡
くなったのか分からない。まるで聖徳太子とそっくりである。聖徳太子の正体
は押坂彦人大兄皇子で、皇位継承第1候補者で天皇になっていた。このことを
隠すための嘘の女帝が推古天皇である。用明天皇は聖徳太子の血筋を朝鮮人に
卑しめて、天皇になれなかったとするための虚構である。高貴な天皇家が朝鮮
人を妻とする筈がない。
245 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 10:06:40
朝鮮人が聖徳太子を暗殺したことが証明された
日本書紀によると645年に大化の改新の政変が起こり、蘇我入鹿は中大兄
皇子と中臣鎌足らに暗殺された。それを目撃した古人大兄皇子は走って帰り、
「韓人、鞍作臣(蘇我入鹿)を殺しつ、吾が心痛し。」と言った。朝鮮人が蘇我入
鹿を殺した。胸が張り裂けそうだと言った。史学会の学者は現場に朝鮮人がい
ないので、朝鮮の政治がらみで殺したと歪曲した解釈にした。騙されている先
入観でものを考えるから、判断を誤るのである。朝鮮人は中大兄皇子(百済王
豊璋)と中臣鎌足(新羅武王)らである。
大阪府にある野中寺の弥勒半跏思惟像には次のように書かれている。天智5
年(666)栢寺の智識ら、中宮天皇の大御身労き座しし時に詣り、誓願して弥
勒の御像を奉る。栢寺の縁者が中宮天皇の病気平癒を祈願して弥勒像を贈った。
中宮とは皇后と言う意味ではなく、宮に中(あ)たると言う意味で天皇を指す。
上宮が聖徳太子であるから、中宮は聖徳太子の子・高市皇太子、下宮はその孫
・長屋親王となる。高市天皇は毒殺された。二人は天武天皇の血筋ではない。
天智7年(668)に中大兄皇子は天智天皇になる。23年間皇太子のままで
いたのはおかしい。成れない事情があったのです。高市天皇が亡くなって成れ
た。この時の斉明天皇は嘘。中大兄皇子が生まれた年は625年で、大海人皇
子は621年である。天武天皇の方が兄である。中大兄皇子の周りは胡散臭い。
文武元年(697)に軽皇子は文武天皇になる。高市皇子が亡くなるのを待っ
ていたように。この高市皇子は嘘で長屋親王である。この時の持統天皇は嘘。
女帝は聖徳天皇らを隠すための隠れ蓑の役割である。聖徳太子の暗殺を隠すた
めに645年を挟んで太子の事跡を前年にずらし、長屋親王が太子の孫である
ことを隠すために彼の事跡を後年にずらしているのです。
246 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 10:11:13
長屋親王は天皇になっていた
天皇は中国語読みではてんのうだが、日本語読みではあめのすめらきと読む。
天孫降臨説から天を前につけているが、皇の一字で天の下を治める尊と言う意
味である。また、王は1国を治める君主である。皇子は天皇の嫡流の子で親王
はその孫である。王子は嫡流外の子を指す。
昭和63年から長屋親王邸の木簡の発掘調査が行われた。邸宅は5.7ha
の広さで、不比等邸に匹敵する。
宅地東辺に掘られた溝から大量の木簡が発見された。
長屋親王宮大贄鮑十編
これは長屋親王に献上された干しアワビに付けられた荷札で、大贄とは天皇
の食物を表す。長屋親王は皇太子になる前に、天皇の代理を務めていた?献上
する者が親王と尊称し、大贄と書いた。
吉備内親王大命以符 婢筥入女進出
吉備内親王の命令で端女の筥入女を呼び出す。大命とは天皇の命令を表す。
これは長屋天皇の死後、その室である吉備内親王が天皇の代理を務めていた?
長屋親王御命符
長屋親王の命令書に御命が使われており、これも天皇の命令を表す。
長屋皇宮俵一石舂人夫
長屋天皇の宮で人夫が米一石搗く。
後皇子 後皇子命宮
後天皇の子 後天皇の子の宮殿
芳野幸行用貫簣
天皇の芳野御幸(外遊)用荷物
長屋親王邸の木簡が千年以上の間保存出来た理由は、粘土によって密閉され
て、空気と水から遮断されていたからです。溝に廃棄後すぐに、粘土で埋めら
れたと考えられる。すると、この木簡を後世に残そうとした意図が読み取れる。
以上のことから推論すると、長屋親王が前皇(聖徳天皇)の孫で後皇(高市天
皇)の死後、長屋親王が天皇の代理を務めたのは祖父、父が相次いで殺された
からである。後に天皇になったが藤原氏の陰謀によって毒殺された。その室吉
備内親王が天皇の代理を務めていたが、長屋天皇一族すべてが殺された。その
事実を後世に残そうとして、家臣が木簡を土に埋めて隠したのである。
247 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 10:15:20
聖徳太子の謎
蘇我馬子の専横によって、蘇我稲目の娘の子が用明天皇になり、次に崇俊天
皇になった。崇俊天皇が暗殺されて、蘇我氏の血筋の男子が絶えた状態になっ
た。当然聖徳太子が天皇になれば良いのに、用明天皇の妹が推古天皇になった。
なぜ、太子は天皇になれなかったのか。摂政を務めるなら天皇になれば良い。
この後押坂彦人大兄皇子の子が舒明天皇になり、其皇后が皇極天皇になった。
皇極天皇在位中に蘇我入鹿が専横の罪で中大兄皇子に暗殺された。彦人皇太子
は蘇我氏の血筋ではない。なぜ、天皇の血筋が本筋に戻ったのか。どうして、
本筋に戻った事が蘇我入鹿の専横となるのか。皇極天皇は後に斉明天皇になる。
この辺りの皇位継承はおかし過ぎて話しにならない。時の彦人皇太子がいつ亡
くなったのか分からないのもおかしい。
聖徳太子は仏教を普及させた事になっているが、神道の奥義書、先代旧事本
紀大成経を撰述している。この中に予言書の未然本紀がある。神仏論争時代に
この両立は難しい。
太子の正妃は莵道貝蛸皇女であるが、太子が病となり、妃の膳大郎女が看病
して二人が同時に亡くなった。太子の死亡年が621年と翌年の2説ある。太子
を妻でなく妾が看病し、二人が同時に死亡し、その年が2説ある。こんな話は
不自然であり、2説あるのは捏造の疑いがある。
「上宮聖徳法王帝説」に、聖徳太子と山背大兄王が親子でないと言う人がいる
ようだが、それは良くない事だとある。そのように言論統制するのは本当の事
が広まると困るからである。書記は太子の子が山背大兄王だと言っていない。
729年に長屋王が死亡し、737年藤原不比等の4子が疫病で死亡した翌年から
藤原氏が法隆寺の食封を再開し、夢殿を建立した。これらの行為は長屋王の怨
霊封じであり、長屋王が太子の孫だと分かると、法隆寺が太子一族の怨霊封じ
の祈祷をした事が分かる。
隋書に、600年倭王あり、姓は阿毎、字は多利思比孤(天足彦)で天下を支える
男(天皇)となる。この時は推古天皇で男の天皇は聖徳太子以外は考えられない。
248 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 10:44:55
法隆寺の謎
聖徳太子は607年に法隆寺を父用明天皇の為に薬師如来像を本尊として建てた。
しかし、623年に太子の菩提を願って遺族が造った釈迦如来像と鎌倉時代の阿
弥陀如来像が同じ金堂に三具並んでおり、中央の釈迦如来像が本尊だと分かる。
薬師如来像は釈迦如来像に比べて鋳造技術が進歩した物であり、前者の方が後
作となり、製造年が逆転する。法隆寺の本尊が2具あるのはおかしい。
書記に670年に法隆寺が焼失したとある。しかし、「法隆寺縁起幵記資財帳」
には再建されたと言う記載が無く、建物の尺度が大化の改新以前の高麗尺で後
の唐尺でないから、再建説は成り立たない。様式も雲形斗栱など飛鳥時代の物
である。西院伽藍内を掘ったが焼土は無かった。
すると、若草伽藍説が出てきたが、再建するなら同じ場所に建てる筈で、法
隆寺の南に面する向きと若草伽藍では、ずれている。区画の時代が違うのだ。
609年に造られた飛鳥寺の丈六如来像の大衣は、右肩から前を覆って後ろへ
回して左腕前膊にかけているから襟が2重である。しかし、法隆寺の釈迦如来
像は襟が1重で最後は左肩の背面に垂れている。作者は両方とも止利で、前作
が正しく着用し後の物が着用法が分からないのは理解に苦しむ。釈迦如来像は
溶銅が拙く鋳造し直した跡がある。
このように文化が衰退したのは侵略されたからであり、大化の改新を境とし
て飛鳥から天平へと移り、唐様式になったのも侵略が原因である。
書記が670年に法隆寺が焼失したと記した目的は、唐文化によって再建した
事にしないと飛鳥文化の技術の高さを否定出来ないからだ。
やはり、聖徳天皇は大化の改新時に暗殺されて、それを隠蔽する為に622年
に病死したと言う嘘を後世に残す為に釈迦如来像が造られ、薬師如来像は聖徳
太子の様な聖者が仏教を勧めたと言う方便で仏教を普及しようとした。其像が
あった寺が太子の崇りで焼失したから法隆寺に移したのである。
天皇家はフリーメーソンだった
狛犬を研究して分かった事だが、神社の前に護りの神獣として据えてある狛
犬の起源は古代イスラエルまでさかのぼる。向かって右の狛犬は獅子であり、
左のものは狛犬で本当の姿は一角獣の麒麟である。皇室に伝わる紋章にも同じ
物がある。
249 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 12:45:48
新しい電波がw
250 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 13:39:02
舒明は義慈元年に王の名代として倭国に派遣された男だよ
天智は舒明の弟塞城、古事記でいうと中津王だ
251 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 14:38:50
古墳について一言。
これまでのやり取りを見ると、広瀬氏は古墳についてほぼ無知のようである。
>>92 では、「史料を当たりますので3日ほど時間をください。」というのだが、調べる古墳は
造山古墳(岡山県)と上石津ミサンザイ古墳(伝履中陵、堺市)という、全国有数の巨大古墳
春日向山古墳(伝用明陵)と山田高塚古墳(伝推古陵)という、馬子の時代の天皇陵
これらを知らなかった、あるいは3日もかけて資料を調べないと回答できないとは、ちょっと情けない。
また
>>109 では、「伝推古陵より伝用明陵の方が少し大きい」というのであるが、これは
>>89 で指摘された墳丘の大きさについてのことであろう。
>>15 や
>>33 で、兆域の大きさを基準にして自説を主張していながら、なぜかここでは兆域を無視する。
用明 磯長原陵 東西二町南北三町
推古 磯長山田陵 東西二町南北二町
実は、兆域は用明のほうが1.5倍広い。
やはりというか、古墳について無知か、あるいは自説に不利なところは黙殺しているようである。
ここは、学会ではないので、十分な知識なしで説を主張することもあろう。
しかし、古墳についてほぼ無知であるにもかかわらず、古墳を根拠にした説を、何度も批判されながら、何度も繰り返し主張するというのはいかがなものか。
特に、馬子の時代の天皇陵もよく知らずに、馬子の墓を論ずるとは、ひどすぎる。
252 :
衣笠宮:2007/04/14(土) 02:51:29
>>244:聖徳太子の正体 は押坂彦人大兄皇子で、
皇位継承第1候補者で天皇になっていた。
この説を採用すれば聖徳太子(天皇)の皇子は
茅渟王、舒明天皇、山背大兄王、長谷王その他大勢
弟は竹田、葛城、難波、田目、来目その他大勢となるね。
麻呂子皇子(王)って何人いたと思っているの?
そこらじゅうにいたんだよ。こんなことを理由に
同一人物視するなんて..
>>245:聖徳太子の子高市皇太子
>>246:長屋親王は天皇になっていた
こりゃ大変だ。これらが本当だとしたら、何のために
今の系図を採用したの?それによって誰か得した?
私的には、ひとりよがりな想像の産物でしかないね。
9条は改憲してはならない。日本の為にならない。
日本人ではない朝鮮総連や民団でさえ、日本を心配して改憲への反対運動を行ってくれている。
私は日本人だが、「改憲すべき」などという者は、日本人として彼らに恥ずかしいと思います。
Q.中国から身を守る為、戦争に対する抑止力が必要では?
A.前提から間違っています。そもそも、中国は日本に派兵しようと思えばいつでもできました。
なぜなら、日本には9条があるため、空母や長距離ミサイル等「他国を攻撃する手段」がない。
つまり日本に戦争を仕掛けても、命令をだした幹部の命や本国の資産は9条により絶対に安全なのです。
にも関わらず、中国は、今まで攻めずにいてくれたのです。
Q.日米安保も絶対ではないのでは?
A.いえ、絶対です。
知り合いの韓国人の評論家もそう言っていますし、私も同じ考えです。
そして日米安保が絶対なら、日本を攻める国はなく、改憲の必要はありません。
しかも9条があれば、米国を守る為に戦う必要がなく、一方的に守ってもらえるのです。
Q.9条が本当に平和憲法なら、世界中で(日本以外に)1国も持とうとしないのはなぜか
A.これは、日本以外のすべての国が誤っているとも言えます。
「敵国に攻撃が届く国は攻められづらい」というのは、誤った負の考え方です。
(もっとも韓国や中国の軍に関しては、日本の右傾化阻止の為でもあるので例外ですが)
さらに日本の場合、隣国が韓国・中国・ロシアと、GDP上位の信頼できる国ばかりです。
【韓国】韓国の市民団体「憲法9条はアジアの安定剤」と強調
ttp://news21.2ch.net/test/read.cgi/dqnplus/1162566642/l50 投票法可決、平和主義に対する改憲勢力の攻勢が新たな段階に…アジア各国に不安
ttp://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1176427381/l50
254 :
広瀬満:2007/04/14(土) 17:07:26
>>243 亦見赤壽が「伝暦」では太子の舎人となっているのは知っています。
日本@名無史さんは彦人大兄と聖徳太子は同一人物であると主張されていますが
私は彦人大兄(蘇我馬子)と聖徳太子は親子であると考えています。
親子なら亦見赤壽が両方の舎人だったとしても不思議ではないでしょう。
なかなか面白そうなので読ませて頂いています。
広瀬満
http://www.kojikiden.com
255 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 19:04:20
このスレに憲法9条は関係ないけど
蘇我氏が百済から仏教を持ち込んだんじゃまいか?
朝廷で重く用いられた理由が他に思いつかない。
257 :
広瀬満:2007/04/16(月) 10:32:47
258 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 12:36:21
>>257 この説の核心部分にかかわる、
馬子=押坂彦人の身分は何か?臣下?皇子?
兄の蝦夷を差し置いて弟の田村皇子が天皇となったのは何故か?
これが、まっとうに「何の疑問も疑惑も矛盾もない」かたちで説明できない限り、
トンデモ論としてもC級です。
(自己矛盾だらけの箇所なので、説明不可能であろうが、・・・。
さらにその先に山のように矛盾がある説なのだが、・・・。)
もう少しまともな、つまり多少はなるほどと思えるトンデモ論が世の中にはゴマンとあります。
いい加減、恥ずかしくないの?
259 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 13:16:35
>>254 亦見赤壽がなにか?
まず、次のことに答えるべきでしょう。恥知らずですね。
>>7 日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる
この指摘は、次のとおり明らかに完璧に100%間違っています。
蘇我馬子が大臣になったのは572年(敏達元年)
自分で迹見檮(=迹見首赤檮?)と押坂彦人のことに触れ、それを重視しているが、それは587年(用明2年)
このことは、何度も指摘されています。
これについても何も説明しようとしないのは、自説の欠陥を認めているということですか?
260 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 13:34:38
>>257 やはり、というか、見に行った私が愚かというべきか、とても人に見せるようなレベルではなかった。
状況証拠どころか、コジツケとも言えないような憶測が少しあるだけ。
木満致=蘇我氏の祖先 and 馬子=押坂彦人 ⇒ 木満致=天皇家の祖先
ということらしいが、木満致=蘇我氏の祖先 という説は珍しくもなく、広瀬流は、その中でも説得力が最低の部類だろう。
なにしろ、広瀬流の脳内では、必要条件と十分条件の区別がつかないのだ。
必要条件と十分条件の区別もつかずに論理的な推論をするので、まるでトンチンカンになる。
こういうのが、後々、googleとかの検索にかかると、ほんと邪魔なんだよな・・・。
261 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 13:37:18
>>242 @ 議論の内容はすべて論破された
A 議論の論理的方法も否定された
B 議論に臨む態度も卑劣と非難された
3点セットでダメダメやね。
262 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 22:57:27
はじめの勢いはどこへやらwww
263 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 02:25:05
高校から理系で、一年のときは公民だけ。2年から世界史だけ。
だからよくわからない。
264 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 07:58:01
>>263 雑誌ムーに掲載されるようなトンデモ論者のスレなので
純粋なお子さんはご遠慮ください
265 :
広瀬満:2007/04/20(金) 17:26:56
「天皇の先祖は木満致」の証明
蘇我氏の先祖については諸説あるが門脇禎二氏の唱える5世紀に渡来した百済の貴族で任那を支配していた木満致と考える説が有力である。
また私は天皇家の祖は蘇我馬子と考えているので、もしそうだとすると天皇家の祖先は百済の貴族で任那を支配していた木満致ということになる。
そのことは「日本書紀」等の文献からも伺うことができるので論じてみたい。
1、内宮家
推古朝において任那は内宮家と呼ばれていた。宮家とは屯倉のことで朝廷の直轄地のことをいう。
この宮家の特に「内」が冠されているのは任那が天皇家の元々の領地であったことを表している。
2、任那の調
調とは領地から徴収する税金のことである。562年に任那は新羅に併合されている。
その後、大和朝廷は新羅に対して調を要求した。
同様に任那の一部を占領した百済に対しても調を要求している。そして両国はその要求に応えている。
つまり形式的にではあるが両国は任那が天皇家の領地であることを認めていたのである。
認めていたのは天皇家の祖先が任那を支配していた木満致だったからと考えれば理解できる。
続く
266 :
広瀬満:2007/04/20(金) 17:27:57
続き
3、白村江
663年、倭国は660年に唐、新羅によって滅ぼされた百済の復興のために大軍を派遣した。
このときは都を九州の朝倉に遷したほどであったから国を挙げての大軍派遣であった。
しかし超大国唐を敵に回すという大きなリスクを冒してまでも、既に滅びてしまった百済の復興にこだわったのはなぜか。
天皇家の先祖が百済の貴族でもあった木満致と考えればこの大軍派遣は理解できる。
おそらく木満致は百済王家の一族だったのだろう。
4、日本国
記録の上に置いて「日本」の名称が最初に登場するのは任那日本府である。
その実体は諸説あるが、そのころの我が国の国名は「日本」国ではなく「倭」国だったから、
「日本」というのは朝鮮南部に存在した小国の名かあるいは地名だったのではないか。
おそらく木満致はその地を中心に任那を支配していたのでは。
その木満致が倭国に渡来し、蘇我氏となり、天皇家になった。
その後、天皇家は先祖の地にちなみ「倭国」を「日本国」に改めたのではないだろうか。
そう考えれば「旧唐書」にある「日本国は倭国の別種なり・・・・・日本は旧小国、倭国の地を併せた」との記載と符合する。
5、20度
聖徳太子によって立てられた法隆寺(今の浅草伽藍跡)がその中心軸が真北から西に約20度振って立てられていることはよく知られている。
同様に渡来系氏族の鞍作氏の氏寺の坂田寺、明日香にある馬子の邸宅跡も20から30度振って立てられている。
このような角度が付けられているのは朝鮮を意識していたためでは。天皇家の祖先が朝鮮からの渡来人だったからではないか。
続く
267 :
広瀬満:2007/04/20(金) 17:31:53
続き
6、大佐平
673年天武天皇は百済人の沙宅昭明に大佐平の位を賜わったと「日本書紀」に記されている。
「大佐平」とは百済王が臣下に授ける最高の位である。
天皇家が百済王家と何の関係もなければこのような位を授けるというような事はできないし、
仮にしても何の意味もない。位を賜わったのは天皇家が百済王を形式的ではあるが継承していたからと考えられる。
継承していたのは天皇家の先祖が百済出身の木氏だからと考えられる。
7、大刀契
平安時代、天皇家では三種の神器以外に「大刀契」と呼ばれる宝器を皇位継承において伝授されていた。
「大刀契」の実体はよくわからないが百済伝来の宝器と考えられている。天皇家は百済王位を継承していたのでは
8、木満致と大倭木満致
「日本書紀」の元本は存在しない。今に伝わるのはすべて後世の写本であるが、木満致は「大倭木満致」と記載されている。
しかしもっとも古い写本の田中本(平安時代初期成立)には「木満致」と記載されている。おそらく元本には「大倭」はなく、
平安時代以降に書き加えられたものと見られる。「大倭」は天皇の和風諡号に見られるように大変な尊称である。
木満致が単なる渡来人ならこのような書き加えが行われる理由はない。木満致が天皇の祖先であるという認識があったのでは。
続く
268 :
広瀬満:2007/04/20(金) 17:33:18
続き
番外、木と馬
日本の多くの神社では木や馬を「御神木」、「御神馬」として大変神聖視している。
これは天皇家の祖が蘇我馬子、さらにその祖先が木満致だからである。
まとめ、
その他、平安時代に盛んに行われていた韓神祭など天皇家と百済の結びつきを示す事象は数多い。
また天皇家の祖先が朝鮮渡来であることは神話からも伺うことができるので後にこのことも述べてみたい。
また何度も繰り返すようであるが押坂彦人大兄皇子に関する疑惑(>>205-
>>209)の解明は極めて重要であることを指摘しておきたい。
広瀬満
http://www.kojikiden.com
269 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 20:51:18
もう議論する気はないんだなwww
270 :
歴史凡人:2007/04/21(土) 01:07:31
天皇家が朝鮮からの起源である説はかなり有力だと信じてる。
朝鮮から渡来し南九州だったと思うが、久那国(たぶん・・)を建国し、さらに弱体化していた邪馬台国を滅ぼしたのち、邪馬台国を基礎とし、その国の名にちなんで大和政権として君臨。
明治天皇は帰国思想からか、朝鮮併合を強く望んでいたこともあるらしい。
明治以前の女官の半数は朝鮮人。
別に天皇家に限らず、この島国に住んでる連中は、みんな大陸から
渡ってきたんだよ。さらに遡れば、アフリカからやってきたんだよ。
今頃何言ってんの。
272 :
歴史凡人:2007/04/21(土) 01:20:41
自分なりの素人の勘だが、古代日本にあった国々のほとんどが朝鮮系であることは事実。
秦王国や久那とか・・
なぜ、朝鮮系の国々が日本にやってきたか??
下級貴族達と王族達の亡命がほとんどじゃないか?
最初の朝鮮系の国々は、地理的に朝鮮から近い九州にほとんどできた。
邪馬台国は北九州が起源だとすると、弱体化した邪馬台国を天皇家元流の国が滅ぼしてから暫くは、邪馬台国としての性格を保持しつつ、機内に遷都してから周りの国々を従えていったのか。
273 :
日本@名無史さん :2007/04/21(土) 01:25:17
アフリカとかホザイテルてるぜよ!!
>>270 半島からハヤト領域にとぶな、ボンクラ。
>>270 > 明治天皇は帰国思想からか、朝鮮併合を強く望んでいたこともあるらしい。
> 明治以前の女官の半数は朝鮮人。
ソースあったらよろしく
276 :
広瀬満:2007/04/21(土) 09:14:11
>>270 >明治天皇は帰国思想からか、朝鮮併合を強く望んでいたこともあるらしい。
そういうこともあるかもしれませんね。
277 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 10:15:46
なんだ?
結局、朝鮮スレになったんかここ?
278 :
広瀬満:2007/04/21(土) 18:59:48
まとめ
要するに「日本国」という国は5世紀の終わり頃、朝鮮半島から「倭国」に渡来してきた「日本人」によって造られた国である。
279 :
広瀬満:2007/04/23(月) 18:36:50
>>265から
>>268について
1から7までは状況証拠、番外は半分冗談
問題は8である。
なぜ木満致に「大倭」がついたのか。しかも平安時代になって。
これが最も重要である。
広瀬満
280 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 20:13:52
日本府が先にあって日本か それは面白いな
でもそれ、渡来とは言わないだろ。 半島の南はもともと倭人の領地なんだから。
木満致に後世 「大倭」がついたのならますます、そういうこと。
半島経由でも、大倭帝国出身ですよ。 と念を押したい子孫がいたんだろ。
渡来という言葉は外国から来た場合を指すでしょ。 半島を納めるのがいやで本国に帰ってきて姉を困らせた
スサノウが天皇の祖先なら別になにもおかしくない。
>>270 韓(カラ)が本当に半島のことなのか
南九州に姶良郡(あいらぐん)という地名があるだろう
これも古代は(から)と呼ばれていた可能性はあるのではないか?
韓国岳もあるし・・逆に本来カラとは南九州のことを指していたのでは?
282 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 15:23:42
木羅斤資
神功皇后摂政四九年
木羅斤資と沙沙奴跪に命じて新羅を討ち破った
神功皇后摂政六二年
木羅斤資に命じて加羅の社稷を復活させた
応神天皇二五年百済記逸文
木満致なる者は、木羅斤資が新羅を討った時に、その国の婦を娶って生せたものである。
その父の功によって任那を任された。百済へ来て、日本との間を往来した。
283 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 15:26:05
木滿致
応神天皇二五年
百済直支王が薨じ、子の久爾辛が王に立ったが、王は年が幼かったので、大倭木満致が国政を執った。
王の母と相婬し、無礼な行いが多く、天皇はそれを聞いてこれを召した。
百済記逸文
木満致なる者は、木羅斤資が新羅を討った時に、その国の婦を娶って生せたものである。
その父の功によって任那を任された。百済へ来て、日本との間を往来した。
制を承り百済の国政を執った。
権勢盛んであったが、天皇はその暴を聞き、これを召した。
284 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 15:30:57
直支王(ときおう)
応神天皇八年
(百済の)王子直支を天朝に遣した
応神天皇十六年
百済の阿花王が薨じ、天皇は直支王を召されて、「汝は国に返って位を嗣ぎなさい」と謂われた。
応神天皇二五年
百済の直支王が薨じた。
285 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 15:34:14
>>282〜284 から、
木羅斤資は神功や応神の家来、木満致は応神の家来としか読めないが、アンチ皇国史観という古臭い偏見のため、百済の将軍とされた。
時には、「木羅」という名が朝鮮っぽいから百済人などと言う学者もいる。
偏見やコジツケを捨てれば、木羅斤資も木滿致も倭人としか読めない。
彼らの数代前が何民族かは知りようがないが、少なくとも彼らは天皇に忠誠を誓っていた。
木満致など、新羅との混血で、あまり行いの良い家来ではないようだが、天皇の命令で、任那を支配し、百済の政治を補佐していた。
木満致=朝鮮人と考えるアホが昔からいたのであろう。わざわざ「大倭木満致」と、倭人であることを強調する必要があったようだ。
いつの世も、トンデモ説を吹聴する馬鹿がいて、周囲のまじめに勉強したい人々に迷惑をかけていたという証かもしれない。
直支王も、王子のときは倭の人質であり、応神天皇の命により百済王となる。
この時期、百済は倭の属国状態と考るのが、合理的な理性のある人間の解釈である。
(ほかにも、百済が倭の属国状態となった時期がある。)
これ以外の解釈は、古臭い偏見やこじつけによるもので、「木満致は、百済人で、蘇我の祖先」という説など、根底からお笑いである。
286 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 15:37:52
木満致は、百済人で、蘇我の祖先。
その理由は、
a 木満致の父の「木羅」という名が朝鮮っぽいから。
b 木満致の満致が蘇我満智のマンチっぽいから。
アホらしか。なら行くぞ。
満致がオマーンっぽいから、木満致は、オマーン国王の祖先!!!
287 :
広瀬満:2007/04/24(火) 17:44:43
>>282〜
>>286 先週の火曜日からレスがなくなったので入院でもしたのかと思っていたら、
しっかり調べてたんだ。えらい!えらい!
しか〜し
>木満致=朝鮮人と考えるアホが昔からいたのであろう。
木満致は新羅との混血で素行のよくない人物と記してあるのに木満致=朝鮮人だとどうして都合が悪いのか。
>わざわざ「大倭木満致」と、倭人であることを強調する必要があったようだ。
素行不良の人物を倭人と強調するのに頭に天皇の諡号と同じ「大倭」と付ける必要がなぜあったのか。
後に宿禰とでも付ければよいではないか。そもそも付ける必要もないのでは。
広瀬満
http://www.kojikiden.com
288 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 18:33:51
素人ですまんが大倭って邪馬台国の話で出てくるよね?
まったく関係なし?
289 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 10:50:52
>>287 しっかり調べてたんだ。えらい!えらい!
スレ主のくせに、まじめに議論する気がないのか?
それとも、品性が根っから下劣で、人を見下した物言いしかできないのか?
例えば、
>>92 用明や推古や履中の陵墓及び全国第4位の古墳のサイズを調べるのに、な〜〜んと3日もかかっていたことは、おとぼけか?
(そもそも、用明や推古の陵墓のサイズも知らずに、同時代の墓のサイズについて自説を吹かしていたことは、おとぼけか?)
そして、
>>251 兆域を基準に自説を展開しながら、用明や推古の陵墓の兆域を調べもしなかった(あるいは、とぼけた?)ことを指摘され、
恥の上塗りをしたことは、おとぼけか?
つくづく、恥知らずで卑劣な人間ですな。
290 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 10:56:23
>>287 広瀬流は、
木満致=朝鮮人 (したがって、木満致=倭人だと都合が悪い。というより、説が完全崩壊する。)
後世、「大倭」と付けて、木満致を倭人とみせかけた
だったはず。
木満致=朝鮮人だ都合が悪い理由 ⇒
>>282〜
>>286 をよく読め。
応神の家来であること、
天皇の命令で任那を支配していたこと
百済記逸文でも、日本の領域(任那含む)から「百済へ来た」としか読めないこと
応神の命令で百済の国政を執ったこと
応神の命令で日本へ送還されたこと
程度のことは、読み取ってくれないと疲れてしまう。
291 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 10:59:57
>>290 (続き)
で、むしろ、
日本書紀には素行のよくない天皇や皇子すら何人も記述されているというのに、木満致=倭人だとどうして都合が悪いのか?
木満致を倭人とみせかけるのに、頭に天皇の諡号と同じ「大倭」と付ける必要がなぜあったのか
自分で批判していることが、自分自身に降りかかっているんですけど、・・・。
相変わらずの、ブーメラン&自爆がお好きなようで。
で、広瀬流も、
木満致は、蘇我の祖先の理由は、
木満致の満致が蘇我満智のマンチっぽいから。
しか根拠がないのだな。
292 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 11:40:57
>>288 スレ主が、記紀等をつまみ食いしたような知識しかなく、また、まじめな議論をする気もないようなので、横から失礼します。
『魏志倭人伝』 「有市交易有無使大倭監之」(市場があり、交易の有無は、大倭にそれを監督させた)
この大倭と、大倭木満致の「大倭」との関係は不明です。
広瀬流は、懿徳、孝安、孝霊、孝元など天皇の和風諡号で「大倭」が使われてれているので、大倭木満致は天皇の祖先という説。
むちゃなコジツケで、例えば、この時代、
大和国を「大倭國」と表記
大倭氏という豪族がいた
ことも知らんらしい。
大倭⇒天皇 という発想は、単細胞。
「大倭木満致は天皇の祖先」が真実なら、日本書紀でそうことをハッキリと書かなかった理由は見当たらない。
日本書紀編纂社は真実を隠蔽したが、目立たぬように「大倭」と書いておいて、後世に暗示を残した、それを天才広瀬が発見した、
というトンデモに良く見られる、お馬鹿な御都合論法。
293 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 11:43:52
木満致は、百済人で、蘇我の祖先。
その理由は、
a 木満致の父の「木羅」という名が朝鮮っぽいから。
b 木満致の満致が蘇我満智のマンチっぽいから。
アホらしか。なら行くぞ。
満致がオマーンっぽいから、木満致は、オマーン国王の祖先!!!
294 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 12:10:00
満致がオマーンっぽいから、木満致は、オマーン国王の祖先!!!
八幡平(ハチマンタイ、岩手県)が「ヤマンタイ」っぽいから、八幡平は邪馬台国!!!
(鯨説だったけ?)
295 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 16:43:37
押坂彦人皇子って、用明2年4月条で「太子」と表現され、
用明天皇の皇太子であったことがわかる。
が、実際には、その後用明天皇の弟祟俊天皇が擁立され(馬子が暗殺)、
その後敏達天皇の大后で用明天皇の妹推古天皇が即位。
推古天皇は押坂彦人皇子の継母に当たり、押坂彦人皇子とは合い入れない人物。
推古天皇のもとで政治手腕を発揮した馬子と同一人物であるはずもない。
押坂彦人皇子の没年が日本書紀に書かれてないのが議論の一因かもしれないが、
用明天皇が没すると同時に若死にしたか失脚したと見るのが妥当。
敏達天皇の死後、天皇の後継者決定権を一手に握っていた炊屋姫(推古天皇)と
合い入れなかったのが原因か。
296 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 17:36:39
>>293 そうか不明なのか。
同じだから役職名なのかなとかちょっと思ったんだ。
日本書紀は詳しく読んだことないから・・・。
レスありがとな。
297 :
広瀬満:2007/04/25(水) 19:18:05
>>295 どうも誤解があるようです。
敏達天皇の子の押坂彦人大兄皇子が馬子と同一人物であると私が主張していると思われているようですが、
そうではなく押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の子ではなく蘇我稲目の子の馬子と同一人物(あるいは別名)であると私は主張しています。
広瀬満
298 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 19:38:42
半島人→b ×
b→C ×
c→d ×
d→天皇 ×
したがって 半島人→天皇
広瀬氏おしい 後四つ◎なら証明できたのに!
299 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 20:32:20
>>297 蘇我馬子が天智、天武の祖父である押坂彦人大兄皇子であるならば、
蘇我蝦夷は舒明天皇の兄。
推古天皇の死去によって王朝が交代したとするならば、
舒明天皇の兄である蘇我蝦夷が即位すればよかったはず。
なぜ即位しなかったのですか?
蝦夷が蘇我氏を外戚としない田村皇子(舒明)を擁立したわけも、
田村皇子が妹婿であった(田村皇子の妻は馬子の娘法提朗女)ことからわかります。
かつて、蝦夷の父馬子は、祟岐天皇を娘婿として即位させましたからね。
押坂彦人大兄皇子が異母妹をめとっているのも普通ですね。
敏達天皇とその大后推古天皇は異母兄妹ですし、
厩戸皇子の両親、用明天皇とその大后穴穂部間人皇女も異母兄妹。
天皇にならなかった皇族でも、山背大兄皇子は異母妹春日大娘を妻にしている。
敏達天皇に広姫と炊屋姫(推古)、二人の大后がいることについても、
日本書紀に広姫が没したので、炊屋姫をめとるように群臣が求めたという記述があり、
二人が同時に大后であった事実はなく、なんら問題はない。
押坂彦人大兄皇子が用明天皇の皇太子であったことはどう考えます?
木満致の父はキラ・ヤマト
301 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 11:09:07
>>297 どうも誤解があるようです。
こいつは、まるで誤解した人間が悪いかのようなものの言い方をする汚いやつである。
1 こいつは、はっきりと断言している!
>>7 天智天皇の祖父は押坂彦人大兄皇子であるが、この人物は蘇我馬子と同一人物であるというのが私の説である。
この段階で、押坂彦人は敏達の子ではないと、きちんと書かなければ誤解するのは当然である。
7の表現が自説の正確な表現ではないというなら、まず、それをきちんと訂正すべきだろうに、そんな誠意はないらしい。
2 系譜・系図を示せ!
自説に基づくきちんとした系譜・系図を示せば、誤解をかなり避けられる。
ところが、こいつはそれを絶対にしようとしない。
>>34, 37, 57, 65, 72, 83, 94, 111, 140, 143, 152, 183, 184, 187, 226, 235
これほど繰り返し要求されていることを無視し続けながら、「誤解」で済まそうとする恥知らずである。
3 下劣なビッグマウス!
これまでの書き込みを見れば分かるとおり、こいつは、さんざん議論を逃げ回りながら、
この説に対する批評、意見を広く求めます。(
>>1) とか
徹底的な議論を望みます(
>>11) などと、吹かしている。
こいつは、大げさなものの言い方で、嘘を吐き続ける、卑劣な嘘吐き人間である。
302 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 11:12:14
>>235 (再掲)
自説で想定する系図を早く見せないのは無責任です。
話題を変えて、議論から逃げ回ってぐずぐずしてるから、どんどん系図の条件が多くなっています。
あなたには、
馬子=押坂彦人 (別名)、かつ、
馬子=蘇我蝦夷と舒明天皇と厩戸皇子の親、かつ、
馬子=スサノヲ (正体)、かつ、
蘇我氏は木満致の子孫で百済系、かつ、
蘇我氏は葛城系、かつ、
天皇及び主要な皇子、姫、臣下を記載、かつ、
日本書紀等に照らして「疑問も矛盾もない」
という系図を見せる責任があります。 (
>>53や
>>118も参照)
皇統の系譜が替わったという説なのですから、系譜・系図はとても重要です。
というより核心です。
どれだけ複雑になろうと、日本書紀等の記述と照らし合わせることが可能なレベルの詳細さが求められるのは、当然のことです。
無責任な気持ちでいるのなら、このスレッドを閉じて欲しい。
303 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 11:55:51
>>287 こいつは、人を見下すようなことをいうくせに、自分の言葉に責任を持とうとしない。
「大倭木満致」の「大倭」について
>>267 木満致が天皇の祖先であるという認識があったのでは
なんぞと、吹かしているが、以前に、
>>79 木満致になぜ「大倭」が付いたかはいろいろ想像をかき立てられる面白い問題だと思います。
私は朝廷内部にレジスタンスがいたと考えています。
と、吹かしたことをスットボケようとする。
この段階で、267のようなことを考えていたのであればそう書くべきであるし、後から思いついたならきちんと訂正すべき。
>>288の魏志倭人伝と関連付けた質問にも答えようとしない。魏志倭人伝の「大倭」を知らないのであろう。
行き当たりばったりに記紀のつまみ食いをし、それをみっともなく自慢しようとしているだけだということは明白である。
なんとも卑劣なやつだ。
304 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 11:58:21
こいつのダメぶりを、少しだけ整理 (あまりにひどすぎるので、全体像を整理することは困難!)
a 押坂彦人=馬子 (同一人物)⇒ 破綻
このスレの至る所で反論され、それに答えることができず。
相手を見下してからかうような負け惜しみしか言えない状況。
b 押坂彦人=馬子 (別名) ⇒ 破綻
おそらくaのようなセンセーショナルな表現により、2chの世界で大ウケすることを狙ったのであろう。
しかし、ぼろ糞にコケたので、bのように表現を変えた。(
>>40あたりから)
しかし、自説の表現の訂正をきちんと言うこともなく、「誤解があるようだ」なんぞと他人を暗黙に馬鹿にする卑劣っぷり。
もちろん、これも破綻し、まったく反論できず。(
>>119〜
>>121)
305 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 12:01:27
>>304 (続き)
c 古墳についての珍説 ⇒ 破綻
これもこのスレの至る所で論破されまくり。
特に、
>>251などで、大恥決定。
d 木満致は、百済人で、蘇我の祖先 ⇒ 破綻
この結論は、トンデモの世界でありきたりの説なので、これぐらいはもう少し説得力のある説明ができそうなものなのだが、
こいつの場合は、まったくダメダメで、軽く論破!
記紀の知識をひけらかすつもりが、枝葉末節をつまみ食いするような知識しかないことが暴露され、
原文を示した反論などには、まったく無力。
特に、自説で気付かなった記述を指摘されると、完全黙秘という卑劣ぶり。
306 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 15:44:26
@ 議論の内容はすべて論破された
A 議論の論理的方法も否定された
B 議論に臨む態度も卑劣と非難された
3点セットでダメダメやね。
307 :
広瀬満:2007/04/26(木) 19:09:59
>>299 早速のレスありがとうございます。
>>舒明天皇の兄である蘇我蝦夷が即位すればよかったはず。
なぜ即位しなかったのですか?
舒明天皇の母は糠手姫皇女で敏達天皇の皇女ですから天皇(大王)と血は繋がっています。
一方蝦夷の母は物部守屋の妹ですから天皇と血の繋がりがありません。このことが重要だと思います。
飛鳥時代以前の皇統は双系主義、すなわち男系、女系どちらかで繋がっていることが皇位継承の条件だったのではないでしょうか。
>>押坂彦人大兄皇子が異母妹をめとっているのも普通ですね。
この時代1人というのはよくあります。しかし3人ともなれば見過ごすわけにはいかないと思います。
>>二人が同時に大后であった事実はなく、なんら問題はない。
重大な問題とは思いませんが、注目すべきことだとは思います。
308 :
広瀬満:2007/04/26(木) 19:11:10
続き
>>押坂彦人大兄皇子が用明天皇の皇太子であったことはどう考えます?
彦人大兄が用明天皇の皇太子であったというのは彦人大兄を敏達天皇の子としたことに伴う書記の欺瞞だと思います。
後代史料ですが『本朝皇胤紹運録』や『一代要記』では、舒明天皇は49歳で崩御したとされています。
そうだとすると舒明天皇の生誕は推古元年(593)となり、彦人大兄はそのころまで生存していたことになります。
もし彦人大兄が用明天皇の皇太子だったとするとなぜ天皇に即位しなかったかが問題になりますし、
皇太子といえば天皇に次ぐ地位なのになぜ没年についての記載すらないのかが問題になると思います。
広瀬満
http://www.kojikiden.com
309 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 19:51:04
>舒明天皇の母糠手姫皇女の件
舒明天皇は押坂彦人大兄皇子と糠手姫皇女の間に生まれていますが、
蘇我馬子が糠手姫皇女の夫であったという説は不自然です。
なぜなら皇女が臣下に嫁いだ例が日本書紀には一件も見えないからです。
皇族同士の異母兄妹間の結婚はよく例のあることですが、
馬子が前人未踏、史料上一度も確認されない皇女3人との結婚が事実だったとはとても考えられない。
敏達の母は息長広姫で、蘇我氏とは血縁関係も全くなく、馬子に皇女を下賜する理由もありません。
それも、3人までも。
欽明天皇と石姫皇女の間に生まれた敏達天皇であってみれば、やはり娘は皇族に嫁がせたでしょう。
>>押坂彦人大兄皇子が用明天皇の皇太子の件
たとえ押坂彦人大兄皇子が用明天皇の皇太子であったとしても、
継母推古天皇との確執失脚、廃太子に追い込まれていれば、没年が残らなくても不思議はありません。
皇太子として没年が残っているのは厩戸皇子くらいで、
ほかの皇子は攻め滅ぼされただの、事件性がない限り、ほとんど記載がありませんからね。
『本朝皇胤紹運録』は室町時代、『一代要記』は鎌倉時代に編纂されたもので、一次史料とは言い難いと思います。
310 :
広瀬満:2007/04/27(金) 18:41:16
明日返答をいたします。
311 :
広瀬満:2007/04/28(土) 18:12:21
>>309 順序が逆になりますが舒明天皇の年齢についいて
『本朝皇胤紹運録』はたしかに室町時代時代の史料ですが、後小松上皇の命で編纂されたもので皇室関係の
資料としてはかなり信頼度の高い史料とされています。
また天智天皇の生年が推古34年(593)、また舒明天皇の母が天皇の崩御から23年後(664)に
死去しているところから見て舒明天皇の49歳というのはまず信頼できると見てよいのではないでしょうか。
もし彦人大兄の死去が丁未の役の直後だとすると天智天皇の生誕は舒明天皇が40歳以上ということになりますし、
同母妹の存在も考えるとそれよりさらに高年齢で子をもうけたことになりそれでは年齢的に遅すぎると思います。
たしかに「日本書紀」に皇女が臣下に嫁いだ例は一件も見えません。しかし婚姻関係の不明な皇女も多く、
この時代に皇女は臣下には嫁がなかったとは言えないと思います。おそらく臣下に嫁いだ皇女の婚姻関係のことまで
「日本書紀」には記されなかったのではないでしょうか。
皇后でもなかった姉を欽明天皇の陵に合葬したり、崇峻天皇を弑逆しながら何ら処罰されず、
傍若無人とも言えるような馬子を並の臣下と同列に扱うことはできないと考えます。
前天皇の皇女を複数娶り、生まれた子を皇位に付けようと考えていたとしてもおかしくないと私は思います。
彦人大兄が敏達天皇の皇女を娶ったのはおそらく敏達天皇の死後、丁未の役の後でしょう。
続く
312 :
広瀬満:2007/04/28(土) 18:12:54
続き
いうまでもなく「日本書紀」は彦人大兄直系の子孫の手によって編纂されたものです。彼らからすれば傍系になってしまった
厩戸皇子についてはあれほど饒舌に語る「日本書紀」が、直系でしかも丁未の役の直前、事件の渦中にあったと思われる
彦人大兄についてはなぜあれほどまでにかたくなに口を閉ざしているのか、疑問は持たざるをえないのではないでしょうか。
また仮に推古天皇との確執で失脚、廃太子に追い込まれていたとすれば、なぜ推古天皇の後継者として田村皇子が
即位できたのか難しい問題が浮上することになります。
広瀬満
http://www.kojikiden.com
313 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 20:11:43
>>311-312 蘇我蝦夷には、雄正(雄富)という兄がいたことが知られています。
しかし、雄正の子蘇我倉山田石川麻呂や蘇我赤兄が正嫡とならず、
弟蝦夷からその子入鹿に大臣の位が譲られている所を見ると、
蝦夷が馬子の嫡子であった(母親が正室だった)からでしょう。
蝦夷の母が物部氏であり、馬子が滅ぼした物部守屋の妹であったことは、知られるところです。
馬子の正嫡であった蝦夷は、馬子から大臣位を受け継ぎ、「天皇記」「国記」を受け継ぎました。
仮に、馬子が敏達天皇の3人の皇女をめとっていたとすれば、
これらの皇女は、滅ぼされた物部守屋の妹よりも、格段に上。
ことに、舒明天皇の母糠手姫皇女は3姉妹のうちもっとも年長で、
間違いなく馬子の正室であったはずです。
となれば、馬子は当然、皇女たちとの間に生まれた子息にそれ相応の
身分と位を与えねばならず、蝦夷への政権委譲が簡単に行い得たはずはありません。
外戚政策で栄えた蘇我氏が、皇女たちの生んだ娘達を天皇家へ一切いれていないのも、おかしな話です。
ことに、蘇我氏が滅びる時に蝦夷の手元にあった「天皇記」「国記」は、
馬子正嫡舒明天皇のあるはずで、庶兄が伝えているとはおかしな話です。
314 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 20:23:50
313の続きです。
推古天皇の話に移ります。
推古天皇には竹田皇子、尾張皇子という皇子がありましたが早世し、
推古天皇は、以後の天皇を自らの息子以外から出さねばなりませんでした。
そのために、皇太子厩戸皇子と、押坂彦人大兄皇子にそれぞれ娘を嫁がせました。
いずれかに皇子が生まれれば、将来大王として君臨する日も来ると願ったのでしょう。
馬子は、推古天皇の父欽明天皇の31年に父稲目が没し、以来、
推古天皇の夫敏達、兄用明の代にも大臣であった人です。
当然、推古天皇よりも年上であったと思います。
その馬子が姪の推古天皇の皇女を娶り、山代王、笠縫王を生ませたというのですから、
その年齢差は相当なものです。
推古天皇は、押坂彦人大兄皇子をいったんは皇太子の座から追いましたが、
有力な皇位継承者であることは認識していました。
そのために自らの皇女を嫁がせたのです。
田村皇子にも推古天皇の皇女が嫁いでおり、その意味では推古天皇が田村皇子を
擁立しようとした理由は十分にあります。
315 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 20:43:03
続きです。
推古天皇は母方の蘇我氏を優遇しましたが、父方の大王家も敬っていました。
田村皇子が馬子の男系孫であったならば、迷わず即位に反対したでしょう。
推古天皇の死により皇統が蘇我氏に移ってしまったのなら、
多くの2世王、3世王がこれに反対し、とても山背大兄皇子一族のみを滅ぼせばすむ話ではなかったはずです。
史料に一度も現れない女系相続、皇女との婚姻を推測するのは、あまりに無謀です。
『本朝皇胤紹運録』ですが、後小松天皇の命により洞院公賢らが編集した当時、
すでに世が室町次代で、何らかの文献によらねば飛鳥時代の事はかけません。
公賢がさまざまな文献に当たったであろうことは推測できますが、
見比べてみると、この時代に関しては。「日本書紀」によった部分が多いと思います。
紀記、上宮聖徳法王帝説等には触れるところがないのですが、なにか、室町時代に残っていた古文書で、
舒明天皇について『本朝皇胤紹運録』に引用されるべき史料をご存知なのでしょうか?
父母の年齢から舒明天皇の年齢を推測したというのならそれはそれでいいですが、
この時代のことを語るのに『本朝皇胤紹運録』『一代要記』を引用するのは適当ではありません。
316 :
広瀬:2007/04/29(日) 17:25:13
>>313-
>>315 早速のレスありがとうございます。
あまりに早いレスに驚きました。
連休中につき、あさって頃返答いたします。
317 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 18:38:33
珍説だなあ。。。。
自分としては同じ珍説でも、蘇我家は天皇家の直接の祖先というのではなく、
天皇家とは別系統の王統だった、という見解を持っている。
318 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 01:40:42
そうなの。血縁築いてよしんば大王を名乗り誰かと同一人物になったとしても
大勢に影響なし。
別系統でひっくり返す気概がウマコにあったとなれば興味も持てるのだけど。
馬子と厩戸ってどっちも(ウマコ)と読めるよね。
なんでウマヤドなの?
聖徳太子の生誕説がキリスト教から流用したものなら
厩(ウマヤ)皇子でよいと思うがなー
320 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 14:51:18
>>317
>天皇家とは別系統の王統だった、という見解を持っている。
どんな説か一度聞かせてくれ。
321 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 16:57:24
>>320 詳しく説明するのは面倒くさいんで
「九州王朝説」の亜流みたいなものだ、と言えばピンと来てもらえるでしょう。
322 :
320:2007/04/30(月) 17:22:50
なるほど「九州王朝説」か
323 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 09:57:14
GWの間に、なにやら怪しげなやり取りが進んでいたのだな。
しかも、広瀬流は、ついにチョット以前に流行った「双系主義」なんぞと言い出した。
最重要ポイントだが、そこを突っ込む前に、まず細かいところから片付けよう。
>>307 糠手姫皇女で敏達天皇の皇女
同じ敏達の子と日本書紀に書かれているのに、
押坂彦人は捏造
糠手姫皇女は真実
このように読み分ける根拠は、そうすれば自節に都合がよいという以外、何も示されていない。
あいかわらずの御都合主義の広瀬流。
トンデモ説の見本!!!
324 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 09:58:00
>>307 3人ともなれば見過ごすわけにはいかない
まず、下劣にも、「3人」という数字が「理由はわからない」という、いい加減な数字だったのをトボケている?(
>>32,
>>69)
御都合のよろしい広瀬流!!!
そして、もっと本質的な矛盾もスルーしてしまうのが広瀬流。つまり、
広瀬流は、即位していない皇子(=押坂彦人)に3人も妹が結婚するのは、異常で説明がつかないと言っている。
その矛盾を解消するために、その3人は馬子と結婚したのが画された真実だと言いたいらしいが、、
臣下の馬子に天皇が3人も自分の娘を結婚させることのほうが、よほど異常で説明がつかないだろう。
矛盾を増幅していることが理解できない広瀬流。
325 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 10:00:21
>>308 彦人大兄が用明天皇の皇太子であったというのは彦人大兄を敏達天皇の子としたことに伴う書記の欺瞞だと思います
広瀬流は、「書記の欺瞞」とする根拠が、自節に都合が悪い記述だからという以外、何も示すことができない。
それでいて、「(自説が)日本書記など多くの資料にどのような疑問や矛盾が発生するのか具体的に説明してもらいたい」(
>>13)
などと吹くのだから、よほど論理思考ができないのであろう。
「自説に都合の悪い箇所は欺瞞あるいは捏造とする。故に自説には疑問や矛盾もない。」
こんなタワケタ論法が許されるなら何でもありとなる。
資料の断片的知識をひけらかし、衒学的ポースで自己陶酔する広瀬流。
トンデモ説の見本!!!
326 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 10:03:11
>>308 もし彦人大兄が用明天皇の皇太子だったとするとなぜ天皇に即位しなかったかが問題になります
もう何をか言わんや、という感じである。
用明が病死しそうになったとき、中臣勝海連が押坂彦人を呪殺しようとするのはおかしいという、以前の主張と矛盾する。(
>>14)
これって何度も繰り返し強弁していたことだが、ここではトボケる。
押坂彦人が有力な天皇候補であれば、穴穂部を天皇に推す守屋のため、中臣勝海連が押坂彦人を呪殺しようとしても不思議はないのだが、
用明が病死しそうになったとき、押坂彦人は殺す必要もないような存在、すなわち天皇候補として有力ではなかったと、以前は主張した。
今さら「なぜ天皇に即位しなかったかが問題」など、よく言えたものだ。
広瀬流は、行き当たりばったりの説である。
というより、御都合主義で、資料の枝葉末節をつまみ食いして、食い散らかしているだけであるから、すぐに自己矛盾が発生するのだ。
327 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 10:06:08
>>309 蘇我馬子が糠手姫皇女の夫であったという説 (← 309は、広瀬流への反論 ?)
確かに広瀬流では、馬子=押坂彦人(別名)なので、「蘇我馬子が糠手姫皇女の夫」となる。
しかし、これまでの広瀬流の記述で、「蘇我馬子が糠手姫皇女の夫」とはっきり書いた箇所はない。
即位していない皇子に3人も妹が結婚するのは、異常で説明がつかないと言っているのである。
309を書かれた方は、広瀬流トンデモ説を、とても、とても、とても良く理解しているようである。
313は、広瀬流の「よく分からない」と本人自らうっかり吐露してしまったいい加減な前提を受け入れて議論しているし、
314で、推古の立場を言及するのは再反論及び議論を混乱して敵前逃亡するための伏線を用意してあげるようなものだし、
315で、ずっと後の時代の資料の価値・信憑性を論争するなど本来の専門のやることで、ここでは低レベルの言い放しになること必定だし、
広瀬流に「お付き合い」しすぎだよ。
広瀬流は、313〜315に対して水掛け論とは言わんのか?
用語や文体も、広瀬流に良く似ていることで。
おい、仲間どうしでエールの交換か?
まさか自作自演・・・。
328 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 12:13:57
>>307 飛鳥時代以前の皇統は双系主義、すなわち男系、女系どちらかで繋がっていることが皇位継承の条件だったのではないでしょうか
久しぶりに、自説の核心に近いことを言ったな。
こういうことを、明確にするためにも、系譜・系図をとっとと示せと言っているのだ。
広瀬流を整理しよう。
疑問:広瀬流では、馬子=押坂彦人であり、蝦夷と田村(=舒明)は兄弟であるが、
兄の蝦夷ではなく弟の田村が即位したのは矛盾ではないか?
答え:飛鳥時代以前の皇統は双系主義であり、田村の母が糠手姫で天皇(敏達)の血を引いているから。
疑問に答える屁理屈が立ったように見えるが、以下のとおり、お得意の「矛盾の増幅」&「恥の上塗り」となってしまった。(続く)
329 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 12:16:04
>>328 (続き)
「飛鳥時代以前の皇統は双系主義」
広瀬流は、こんな重要なことをなぜもっと早く言わなかったのか?
おそらく、先の矛盾を突きつけられて窮したあげく、田村の母が糠手姫であることに、ある日、天才広瀬が気付いたのであろう。
そして、「双系主義」なんぞと、今さら言い出した。
例によって、御都合主義である。
しかし、これによって広瀬流の説は大きく変節した。
男系、女系、いずれを正統な後継とするかは、とても重要である。
「天皇家の真の皇祖は蘇我馬子」というスレタイは、「双系主義」なんぞと言い出す以上、正しくは、
「天皇家の男系の皇祖は蘇我馬子」とすべきである。
いや、それと同程度に重要な双系主義も結論として明記すべきであって、
「天皇家はかつて双系主義であり、男系の皇祖は蘇我馬子」とすべきである。
330 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 12:18:06
>>329 (続き)
広瀬流とは、馬子の箇所については、
a 馬子=押坂彦人
馬子=皇祖
ではなく、「馬子の別名が押坂彦人であり、馬子は男系の皇祖である」、すなわち、
b 馬子=押坂彦人(別名)
馬子=皇祖(男系)
というものである。
aと比べると、bはずいぶん後退している。
本当は、aのようなセンセーショナルな説で注目されたかったのであろうが、ボロ糞にやられたので、bに後退したというのが実態だろう。
ショボイ話だ。
しかも、矛盾を取り繕うために後退したつもりが、かえって矛盾が増幅されていることが悲しい。(というか、思考力なし)(続く)
331 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 12:20:25
>>330 (続き)
「飛鳥時代以前の皇統は双系主義」の根拠は何か?
こんな重要なことを根拠なしで主張するなど許されることではない。
チョット以前に流行った『養老令』の「凡皇兄弟皇子、皆為親王。女帝子亦同」に言及することもできない無学ぶり。
(もっとも、学会の大勢は、これを双系主義の根拠とすることを否定しているらしいが。ここは大勢に迎合したのか?)
今のところ、「飛鳥時代以前の皇統は双系主義」の根拠は、そうでないと自説に不都合で、解消不能な自己矛盾が生じてしまうからである。
アホらしか。
矛盾の増幅!!!
矛盾の増幅!!!
矛盾の増幅!!!
矛盾の増幅!!!
矛盾の増幅!!!
本当に恥さらしです。(続く)
332 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 12:23:40
>>331 (続き)
実は、「兄の蝦夷ではなく弟の田村が即位したのは矛盾ではないか?」は、ほとんど解消されていない。
この答えとして田村の母が天皇の皇女だからというものだが、
1 では、なぜ、蝦夷が即位し、蝦夷の母を天皇の皇女と捏造しなかったのか?
広瀬流は、馬子に押坂彦人大兄皇子と別名を付けて、父を敏達と捏造したという説なのであるから、
蝦夷の母を皇女と捏造することなど造作もないことであろう。
2 あるいは、なぜ、蝦夷(あるいは入鹿)が天皇の皇女を娶り、その子を即位させようとしなかったのか?
馬子が天皇の皇女を娶ることができたのであれば、蝦夷も同様のことができたであろう。
自分の異母弟が天皇となることを傍観し、自分の子が天皇となるように画策しないほど、蝦夷はノンキだったのか?
大王位を簒奪しようとしていたとされる入鹿についても、母を皇女と捏造したり、天皇の皇女を娶らなかったのは何故だ?
「兄の蝦夷ではなく弟の田村が即位したのは矛盾ではないか?」が解消されたとは、とても言えない。
「双系主義」なんぞというお馬鹿な矛盾の増幅をしてみたものの、そもそもの矛盾も解消できないという、
恥の上塗りをやらかしている。
333 :
広瀬満:2007/05/01(火) 19:56:33
>>313 私は蘇我氏による王権の簒奪があったことを主張しているわけですから、簒奪された側の王朝の皇女が
馬子の妻より立場が上であったと言い切れるか疑問です。守屋はその妹で馬子の妻の謀で殺されたといわれ、
蝦夷はその母方の財力で勢威を張ったとされ、馬子の妻はかなりの実力者だったと思われますので、糠手姫皇女が
馬子の正室だったとは考えにくいでしょう。
皇女の生んだ子が天皇に即位したわけですから皇女たちの生んだ娘が天皇に嫁ぐ必要もないでしょう。
本来なら天皇家にあるはずの「天皇記」「国記」が蘇我氏の館にあったこと自体が
天皇家が蘇我氏だったことの傍証ではないでしょうか。
蘇我氏の正嫡の蝦夷が政治の実権を握るとともに天皇家を支えていたと思います。
334 :
広瀬満:2007/05/01(火) 19:57:34
>>314 権力者が若い女性を娶るというのはよくある話です。
推古天皇が彦人大兄をいったんは皇太子の座から追放したというのは記録になくレス主の想像ですが
これを前提に議論を勧めるにはそのようなことがあったことの証拠なり、傍証がいくつか必要だと思います。
仮に追放というようなことがあったとしても一度廃太子になった人物が有力な皇位継承者として認識されていたかどうか・・・
335 :
広瀬満:2007/05/01(火) 19:58:47
>>315 蘇我氏の全盛期に推古天皇や2世王、3世王が田村皇子の即位に反対できるだけの立場にいたかどうか。
田村皇子の母は敏達天皇の娘ですし、314でおっしゃるように推古天皇の娘が田村皇子に嫁いでいたことも忘れてはならないでしょう。
「日本書紀」は天皇が自らの正当性を明らかにするために書いた歴史書ですから女系相続(王朝交代)があったとは
書けなかったのは当然で、そのことの推測が無謀なことだとは思いません。
舒明天皇の没年齢を推定するのに『本朝皇胤紹運録』『一代要記』の引用は不適当というのは疑問です。
舒明天皇の没年齢を推定しようと思えば『本朝皇胤紹運録』『一代要記』を引用するしかありません。
たしかに後代史料ですがこの時代まで舒明天皇の没年齢を記した文献が残っていなかったとは言い切れません。
したがって史料批判が必要となりますが「日本書紀」の天智天皇の生年、母の没年等から考えて49歳というのは
ほぼ信頼できるのではないでしょうか。
336 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 12:04:05
読めばすぐ分かるが、313〜315は、完全に論理破綻をきたしている。
まず、333であるが、これは、すべての文がメタメタである。
>>333 私は蘇我氏による王権の簒奪があったことを主張しているわけですから、
簒奪された側の王朝の皇女が馬子の妻より立場が上であったと言い切れるか疑問です。
自分の主張を前提にして他人の批判を「言い切れるか疑問です」と反論するのは、なんとも珍妙。
議論の前提条件は普遍的あるいは共通的なものでなければならず、そうでなければその前提条件そのものがまた議論の対象となる。
当たり前すぎることで、冒頭のような反論は中学生でもやらないような低レベルの反論だ。
前提条件と結果との区別がつかないらしい。
頭の中は混乱の極地なのであろう。
337 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 12:07:15
>>333 守屋はその妹で馬子の妻の謀で殺されたといわれ、蝦夷はその母方の財力で勢威を張ったとされ、
馬子の妻はかなりの実力者だったと思われますので、糠手姫皇女が馬子の正室だったとは考えにくいでしょう。
何を言っているのかとても分かりにくい悪文の典型である。
「守屋の妹」=「馬子の妻」=「蝦夷の母」=「馬子の正室」と読んで良いのかどうか不安になる。
「守屋の妹」=「馬子の妻」=「蝦夷の母」=「馬子の正室」は「かなりの実力者だった」が糠手姫皇女はそうでないらしいのだが、
そう主張する根拠が見当たらない。
糠手姫皇女の子が天皇になるのだから、それなりの実力者と考えないと、広瀬流そのものが破綻してしまう。
あるときは、天皇家は蘇我氏と比べてちっぽけな存在と言い、またあるときは、
天皇家を正当に継いだように歴史書を捏造しないといけないほど、天皇家は重要な存在と言う。
広瀬流のご都合主義です。何の一貫性も論理性もない。
338 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 12:13:19
>>333 皇女の生んだ子が天皇に即位したわけですから皇女たちの生んだ娘が天皇に嫁ぐ必要もないでしょう。
意味不明。
何を言いたいのか理解できる方います?
313の反論にもなっていないし。
そもそも、「皇女たちの生んだ娘が天皇に嫁ぐ必要」性を論じても意味ない。
古代ではそういう例が多いのに、広瀬流ではそうならなくなってしまうのは疑問(というより矛盾の増幅)だろうということなのに。
頭、大丈夫か、心配してもしょうがないか。
339 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 12:16:27
>>333 本来なら天皇家にあるはずの「天皇記」「国記」が蘇我氏の館にあったこと自体が
天皇家が蘇我氏だったことの傍証ではないでしょうか
「天皇家=蘇我氏」というのが、また、あいまいなものの言い方で、どうにも困ってしまう。
広瀬流において、舒明以降は、馬子の子孫で、双系主義であるものの父系が蘇我系という主張のはず。
「天皇記」「国記」が蘇我氏の館にあったとき、例えば乙巳の変のとき、天皇は皇極だった。
広瀬流においても、「天皇家≠蘇我本宗家」である。 (今のところ。広瀬流はご都合主義なので、いつ主張が変わるか不安。)
「天皇家=蘇我氏」なんぞと聞いたら誤解する人多いだろうな。
で、「天皇家≠蘇我本宗家」である以上、「天皇記」「国記」が蘇我氏(正しくは、蘇我本宗家)の館にあったことについて、
何の疑問の解消にもなっていない。
広瀬流がいう「天皇家が蘇我氏だったことの傍証」であるはずもなく、論理的にトンチンカン。
というより、蘇我氏全体と蘇我本宗家をわざと混同させて自分の主張を通そうという、詐欺的文章。
340 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 12:20:39
>>333 蘇我氏の正嫡の蝦夷が政治の実権を握るとともに天皇家を支えていたと思います。
「政治の実権」というのも、あいまいだな。
ここで問題にすべきは、内政や外交、軍事の実権ではなく、皇位継承における決定権や影響力がまず第1であるべきだろう。
このスレでは、スレタイのとおり皇祖は誰かが最重要課題であり、皇統の系譜が重要であるからだ。
ところが、皇位継承における決定権や影響力について、蝦夷がどれほどのものであったかということについて、広瀬流は触れようとしない。
肝心の論点が理解できていないのか?
そうかも知れない。(馬鹿だから)
そうでないかもしれない。(卑劣だから。)
ちなみに、舒明即位前紀には、「当是時蘇我蝦夷臣為大臣。独欲定嗣位。顧畏群臣不従・・・」とあって、この後、蝦夷は群臣を招いて宴会を開いたりするのだが、
誰を天皇にするか蝦夷一人では決めかね、群臣の顔色を伺っていた様子がありありと描かれている。
広瀬流でいうところの「蘇我氏による王権の簒奪が」行われるちょうどその時期のはずであるが、広瀬流はこの箇所を触れようとしない。
いつもは、記紀の知識をひけらかすのが自慢のくせにである。
読めば分かるが、蝦夷の力は王権を簒奪するほどのものとはとても読めないからであろう。卑劣な人だ。
「政治の実権」などの、あいまいな表現で妙な結論を導こうとする詐欺的文章の連打。
このスレもトンデモ説のご多分に漏れず、
資料の恣意的な引用解釈+想像によってのみ立論されてる説だな。
342 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 15:12:08
>>334 皇太子の座から追放
314のポイントは、第1に、古事記によると (豊御食炊屋=推古)
豊御食炊屋−玄王─┐ ┌山代王
├─┤
押坂彦人─┘ └笠縫王
となるので、押坂彦人=馬子だと、馬子は年下の姪の子供に2人も子供を生ませたことになり、世代的に疑問だと言っている。
第2に、推古は、厩戸皇子と押坂彦人(及びその子の田村)の両名を有力な後継者候補と考えていたということである。
314にある、「押坂彦人大兄皇子をいったんは皇太子の座から追いました」は、たいして重要ではなく、その箇所だけほじくり出して反論しても有効な反論ではない。
というより、本質から議論をそらそうという、卑怯技でしかない。
実際には、先の文は、「有力な皇位継承者であることは認識していました。」と続いており、334が反論どころか、悪意の言いがかりであることは明白である。
343 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 15:14:35
>>334 推古天皇が彦人大兄をいったんは皇太子の座から追放したというのは記録になくレス主の想像ですが
これを前提に議論を勧めるにはそのようなことがあったことの証拠なり、傍証がいくつか必要だと思います。
自分は、記録にないことをいくつも前提として議論を組み立てているくせに、ほかの人に対してはこのようなことをヌケヌケと言う。
本当に卑劣な人だ。
>>335 「日本書紀」は天皇が自らの正当性を明らかにするために書いた歴史書ですから女系相続(王朝交代)があったとは書けなかったのは当然で、
そのことの推測が無謀なことだとは思いません。
334と335のこの箇所を読み比べると、いかに卑劣かよく分かろうというものだ。
自説の場合には、日本書紀に書けなかった、すなわち記録になくても「当然」のことなのだとよ。
論理的思考力以前の問題だ。
344 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 15:19:16
>>335 蘇我氏の全盛期に推古天皇や2世王、3世王が田村皇子の即位に反対できるだけの立場にいたかどうか。
舒明(=田村)即位前紀を読めば、蝦夷に対して、一部の群臣が反対したり(同じ蘇我氏の摩理勢、許勢臣大麻呂、佐伯連東人、紀臣塩手が反対;蘇我倉麻呂は留保)、泊瀬王が抵抗したりしている(抗争中に急に病死するが、・・・。)。
蝦夷に逆らう王はいたのだ。
315は、もしも田村の父系が蘇我氏であれば、もっと多くの王たちが反対したろうといっている。
実際の舒明(=田村)即位時の記録から、もっと大きな反対運動が起こるだろうと推測するのは「当然」のことだ。
自説に不利だと記録にないことはダメだと言うが、実は、自説に不利だと記録にあることも無視する卑劣ぶり。
345 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 15:23:56
>>335 314でおっしゃるように推古天皇の娘が田村皇子に嫁いでいたことも忘れてはならないでしょう
人の言うことをわざと捻じ曲げている。
推古の娘は、厩戸皇子と押坂彦人及びその子の田村に嫁いでいて、いずれも有力な後継者候補だと推古は考えていたというのが、314の主張だ。
田村だけが推古の娘を娶ったような書き方は悪質。
314は、そんなこと言ってもいないし、田村だけを有力候補と言っているわけではない。
346 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 15:24:53
>>335 「日本書紀」は天皇が自らの正当性を明らかにするために書いた歴史書ですから女系相続(王朝交代)があったとは書けなかったのは当然で、
そのことの推測が無謀なことだとは思いません。
無謀だぞ。無謀すぎる。
皇統の根本にかかわることを、何の根拠もなしに主張するなど阿呆すぎる。
女系相続があったことにしないと自説が崩壊してしまうのだろう。
ここに、広瀬流の核心部分である「双系主義」は、何の根拠もないことが宣言された !!!
347 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 17:57:06
やれやれwww
348 :
広瀬満:2007/05/07(月) 19:10:17
349 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 02:37:06
無視かよ(w
350 :
広瀬満:2007/05/16(水) 17:51:30
351 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 18:19:41
UPしました!!
352 :
広瀬満:2007/05/27(日) 19:17:31
353 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 20:03:23
UP!
354 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 12:48:43
>>185 石舞台古墳は蘇我蝦夷の墓だと考えています。
>>350 高松塚古墳は蘇我蝦夷、キトラ古墳は蘇我入鹿の墓というのが私の説です。
最初から論理が破綻している。
まともな人間に読んでもらおうなどと期待しないほうがよいぞ。
355 :
広瀬満:2007/06/10(日) 19:32:50
>>354 このレスの内容からもこのレス主が私の説にほとんど目を通していないことが明らかである。
目を通さずに批判だけは繰り返しているのだからあきれてものも言えない。
石舞台古墳は蘇我蝦夷が生前に作った自らの墓、高松塚古墳は天武天皇によって
築かれた蘇我蝦夷の真の墓というのが私の説である。
356 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 10:38:53
>>355 あきれてものも言えない
だったら、ものを言わなきゃいいのに。
他人にケチ付けるときまで論理破綻している。(まあ当然か。)
357 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 10:48:45
>>355 185の「石舞台古墳は蘇我蝦夷の墓だと考えています。」は、184の
「石舞台古墳は一体誰のお墓なのですか? まさか皇祖様の墓があんな状態で放置されませんよね! 」への回答である。
(スレタイのとおり「天皇家の真の皇祖は蘇我馬子」であれば、石舞台が放置されているのはおかしいだろうという指摘)
>>184-185 「石舞台古墳は蘇我蝦夷が生前に作った自らの墓」などといまさら言わずに、そのとき
石舞台:蘇我蝦夷が作った蘇我蝦夷の墓
高松塚:天武天皇が作った蘇我蝦夷の墓
と明確に言えばよい。
後から得意のご都合主義で、自分の主張を少しずつこコッソリと変節させるのは卑怯だと、何度言ったら分かるのか。
考えが変わることはあるが、それならそれで明確に言うべきだ。
358 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 11:10:17
>>355 なお、184の石舞台は石室むき出しで放置された矛盾は、回答不能なまま。
つまり、185や355は、まっとうな回答になってない。
石舞台を作りかけで放置し、新たな場所にわざわざ規模の小さい高松塚を作ったのはなぜか?矛盾は増幅するばかりだ。
お得意の【矛盾の増幅】、そして論理破綻のままだ。
また、「私の説にほとんど目を通していない」というのが、自分のサイトを見ていないという意味ならひどい勘違いだ。
自分のサイトを見ずに自分を批判するななど、この場所でよくも言えたものだ。
そういうのは、自分のサイト内での掲示板やブログでの場合に限る。
専門家や学会の論争ではあるまいし、批判相手の著述を一通りチェックしろなど、偉そうに義務を課すべきではない。
ここでは、スレッド内で議論がある程度完結し、必要に応じ文献等客観的なソースを示すというのでなければ、議論にならないだろ。
何様のつもりだ、この場を私物化するな!!!
そういう常識がないのなら、自分のサイトから出てくるべきではない。
359 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 17:51:05
広瀬って何一つ支持できるところがない上に説教たれるよねw
360 :
sage:2007/06/11(月) 20:10:47
361 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 13:44:41
そういって相手してやる人間がいるからこそ、
広瀬氏も2ちゃんねるから離れられないんだよ
,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
(.___,,,... -ァァフ| あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
|i i| }! }} //|
|l、{ j} /,,ィ//| 名人3連覇で、17世名人まであと2期だったのに
i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ 17世を谷川に、18世を森内に奪われていた
|リ u' } ,ノ _,!V,ハ | そして当時10歳だった渡辺と19世をかけ戦うことになっていた
/´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人
/' ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ な… 何を言ってるのか わからねーと思うが
,゙ / )ヽ iLレ u' | | ヾlトハ〉 おれも何をされたのかわからなかった…
|/_/ ハ !ニ⊇ '/:} V:::::ヽ 頭がどうにかなりそうだった…
// 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ
/'´r ー---ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐ \ 光速流だとか
/ // 广¨´ /' /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ 鉄板流だとか
ノ ' / ノ:::::`ー-、___/:::::// ヽ } そんなチャチなもんじゃあ 断じてねぇ。
_/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::... イ もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ・・・
363 :
日本@名無史さん:2007/06/26(火) 21:36:44
↑↑??
364 :
○○日本の被暗殺部者とそのご遺族たちに○○:2007/07/01(日) 04:08:21
245
軽皇子
か文武 06−15?
?幸徳 10−10?
天皇。
毛アレ
スミス
珍しい
♪♪♪
365 :
○○日本の被暗殺部者とそのご遺族たちに○○:2007/07/01(日) 04:15:35
267!
太刀契?
大刀契?
本当は!
366 :
○○日本の被暗殺部者とそのご遺族たちに○○:2007/07/01(日) 04:21:34
243
247
248
!!!
「どうすれば日本はよくなる?」などに板りしてね親父。
因に、鎌足Uがひきつけちゃって困り末世なんちゃって。
367 :
広瀬満:2007/07/01(日) 10:04:47
>>356 どこまでもトンチンカンな人である。
あきれてものが言えないからほとんど返答をしてこなかったということがまだわからないのだろうか。
>>356 古代史に関する私の意見を「大国主伝」としてまとめ、これに関する批評、意見をもとめたのがこのスレの趣旨である。
全く目を通す気がないならこのスレに参加するべきではないし、説が愚論というなら無視すればよいだけである。
議論を仕掛けるなら相手の著述に一通り目を通すのは常識である。
レス主にはこの常識が全く欠けているからレスの内容はピント外れで揚げ足取りのような内容にしかなっていない。
このスレを私物化しているのは罵詈雑言のようなレスを次々に書き込んでいるレス主の方である。
このレス主は一体どのような頭の構造をしているのであろうか。
広瀬満
368 :
八百長出版社100選・・・:2007/07/01(日) 10:33:16
200 :日本@名無史さん:2007/04/10(火) 16:06:52
明治天皇は南朝系(日本人)の大室寅之助だが、その子が大正天皇でこの天皇はき
ちがいにされて、また北朝系(朝鮮人)の昭和天皇にすり替ったのである。
日本に渡来した秦一族(フリーメーソン)
秦の始皇帝は日本に自生する不老長寿の薬草を求めるために、徐福を派遣したと
あるが、本当は日本の優れた神書(天皇記など)を盗み出す事が目的であった。焚
書抗儒は日本の神書をあたかも中国の書物であるかのように書き直し、その神書を
焼却し、作業に関わった儒者を生き埋めにした事件である。四書五経、東洋医学は
日本文化の精華なのです。
白鳳時代、朝鮮人(秦一族)の蘇我氏(フリーメーソン)によって日本は乗っ取
られ、日本の国体、神道破壊の計略にかかり、神代文字の古文献は改ざんされ、悪
魔の仏教に汚染された。
蘇我氏(中大兄皇子は百済皇子豊璋)は政敵物部氏を滅ぼし、大化の改新によっ
て聖徳天皇(聖徳太子)を暗殺し(聖徳太子は蘇我氏の血筋ではない。高貴な天皇
家が朝鮮人を妻にしない)、蘇我氏は悪名が広がったので藤原氏と改名し、日本の
政治を牛耳った。麿と言う言葉は日本語と馴染みがなく、朝鮮王家の人が使した王
(自分)と言う意味である。
藤原氏は藤の生命力をめでて、家紋とした。斎藤道三、木下藤吉郎・秀吉、細川
藤孝、徳川家康はフリーメーソンである。
家康の正体は世良田元信で、松平元康を殺し元康に化けた。元康の嫡男、信康と
その妻築山殿は邪魔になり殺された。
徳川家康は岡崎で産れたのだから、岡崎に霊廟(東照宮)を建てるのが筋である。
寛永21年家光は上野国新田郡世良田庄の長楽寺隣に日光東照宮の奥殿(実は遺骨)
を移築して世良田東照宮を建てた。
ここを中心にして、東北(表鬼門)に日光東照宮があり、南西(裏鬼門)に久能
山東照宮がある。と言うことは、世良田庄を鬼門の金神の祟りから護る為の呪術を
施した事になり、徳川家康は世良元信である事の証拠となる。
↑本当かあ?赤とんぼ青トンボ縁筆親父。
それはそれとし勉強になったが原減った♪
369 :
広瀬満:2007/07/01(日) 11:40:23
なにいってんの
370 :
広瀬満:2007/07/01(日) 11:43:49
371 :
ヒロセマン:2007/07/01(日) 14:32:00
フヒヒwwww
サーセンwwwwwwwwww
372 :
八百長出版社100選・・・:2007/07/01(日) 18:16:37
ギャ〜〜〜〜〜!!
きょう一二枠AC番
L銃かL重屋根も唐
からきたらしい噂の
317号線か37号
線かそばの談山神社
のどほっとけ骨塔中
噂の13重の塔一着
!
感謝のサインか鎌足
11ー17新嘗祭と
同じ日にか高なすっ
た西村さんのACや
坂本の妻お龍五枠も
一着やったが半信半
疑のお方は阪神競馬
の出目をみやがれ!
だって言ってたよん
オジサン?因みに、
談山神社は昔は確か
法華経と理趣品と一
字をあわせたかはし
らんけとな、妙楽寺
といったんやでにょ
にん謹製だったんや
、否女人近世だった
んやで、だってさ!
373 :
広瀬満:2007/07/01(日) 20:00:37
>>358 石舞台は作りかけで放置されているとは私は言ったことはないし、そのような説も聞いたことがない。
どうやらレス主の説のようであるが珍説である。
このような虚偽を交えて自説を構成するのがこのレス主の常套手段である。
374 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 20:39:45
最近、石舞台のそばで発見された遺跡はもがり屋の跡ではないかと言われてる。
375 :
八百長出版社100選・・・:2007/07/02(月) 09:43:46
イタっ・・・
376 :
ったく・・・:2007/07/02(月) 12:09:46
2007年07月02日
うまなで関連の
胡に日本を侵略し日本の庶民の王と自称自慢したらしい邪悪な池田工作八百長日本の恥不治テレビば取りあえず怨霊さげてから録画しろい!
Posted by eemmww33 at 12:06 │Comments(0) │TrackBack(0)
377 :
ったく・・・:2007/07/02(月) 12:15:35
492 :そうか・・・もしれん・・・なあ・・・:2007/07/02(月) 12:14:17 ID:goDylYsf0
八百長インサイダー
笑っていいとも犯罪
!
378 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 15:33:57
>>373 このような虚偽を交えて自説を構成するのがこのレス主の常套手段である
広瀬氏のデタラメを指摘している記述はたくさんあるが、
そのレス主の「自説」など、どこに書き込まれているのだ?
379 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 15:41:16
>>373 >>357のとおり、
石舞台:蘇我蝦夷が作った蘇我蝦夷の墓
高松塚:天武天皇が作った蘇我蝦夷の墓
であるなら、石舞台を完成させた(蘇我蝦夷を埋納した)のは誰か、はっきり書け。
どちらかの墓が拝み墓のようなものなのか、分骨のようなことがあったのか、改葬があったのか、はっきりさせろ。
蘇我蝦夷が自分で自分を石舞台に葬ったとでも? (ゾンビかよ!)
蘇我蝦夷その1が石舞台に葬られ、蘇我蝦夷その2が高松塚に葬られたとでも? (分身の術かよ!)
こういった説明もせずに、「石舞台を作りかけで放置」と言われたぐらいで、ガタガタ騒ぐな!!!
もっと、身のある本質論をやろうぜ。
380 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 15:50:24
>>367 議論を仕掛けるなら相手の著述に一通り目を通すのは常識である。
ここは、議論のために「相手の著述に一通り目を通す」ような義務を課す場ではない。
そういうのは、学術的な板や自分のサイトでやれっての。
所変わればルールも変わる。
郷に行っては郷に従え。
硬直したやり方を常識と勘違いしているだけ。
本当の常識がないのはあなただろ。
381 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 16:05:21
系図の提示
双系主義の根拠
などなど、3〜4か月越しで山のように積まれた宿題はどうした。
その他数限りなく指摘された矛盾点について、整理はできたのか?
結局、すべて回答不能で、相手を罵倒することしかできないのか?
回答にあたって大事な条件は、【矛盾の増幅】をしないこと!!!
分かっているよね!
382 :
広瀬満:2007/07/02(月) 17:27:36
>>379 この答えは私のHPをチェックすればすべて載っている。
私のHPに全く目を通さないからあなたはこのような間の抜けた質問をするのである。
それでいて身のある本質論をやろうというのだから聞いてあきれる。
>>380 そもそもここは「学問・文系」の学術的な板である。
あなたは何か勘違いをしているのではないか。
ここは私が設定した板(郷)である。
郷に行っては郷に従えというならあなたが従うべきだろう。
従えないというなら書き込まないでいただきたい。
広瀬満
俺の考えは、蘇我馬子はオオキミの旦那。
入鹿を皇位につけようという動きがあって
皇統が蘇我氏に移ろうとしていたから、
大化の改新があったのではないかと。
勝手に人のスペースでスレ立てといて何言ってるんだ?
まるで戦後のドサクサに紛れて土地を不法占有した朝鮮人みたいだな
385 :
広瀬満:2007/07/02(月) 19:08:34
人のスペース???
386 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 19:24:17
>383
君も広瀬君と同じ考えのようだが、
馬子が皇女や天皇と結婚した事実はないよ。
残念ながら。
結婚しなくても子供はできるものかと。
神功皇后と武内宿称のエピソードなんか、
それを暗示しているように見える。
エピソードに三韓って言葉を入れたのも
両者の関係を暗示しているように見える。
388 :
ったく・・・:2007/07/02(月) 20:08:21
512 :今やってる現代クローズアップ:2007/07/02(月) 19:56:07 ID:T/I7xHOpO
NHK現代クローズアップの長年毎週の八百長サインVTRをみたか2親父。745ドルのワンカットボイス!eemmww33に写真ある!
389 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 20:21:17
???
390 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 08:29:21
>387
しかしながら、蝦夷の母は物部守屋の妹であることが特定されている。
そのために入鹿は物部の支配する土地を伝領したらしい。
馬子の正室が物部氏であったことはわかるが、
君の説を補強するものは何もない。
391 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 09:19:30
>>382 私のHPをチェックすればすべて載っている
だから、そういうことを今さら言うなら、
「この説に対する批評、意見を広く求めます。(
>>1)」なんて偉そうに言うなっての。
自分のサイトに引っ込んでればいいだろう。
それから、言ってる内容そのものに食い違いや矛盾が多数あると指摘しているのだが、・・・。
つまり、HPに載っているかどうかではなくて、これまで言っている内容には相互に矛盾しているものがあると指摘しているのだが、・・・。
で、宿題の答えは?
392 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 09:22:56
>>384 そもそもここは「学問・文系」の学術的な板である。
こらこら、言葉のスリカエは汚いぞ。
「学問」は小学生でもやるし素人も参加するが、「学術」は専門の者が行うし資格を問われる分野もある。
ここは学問・文系板であるので、素人でも参加できるよう、議論のために「相手の著述に一通り目を通す」ような義務を課すべきではない。
>>382 ここは私が設定した板(郷)である。
勝手に自分の郷にするな。
自分のルールでやりたいなら、自分のサイトでやれってのが、理解できんのか?
>>384 勝手に人のスペースでスレ立てといて何言ってるんだ?まるで戦後のドサクサに紛れて土地を不法占有した朝鮮人みたいだな
そのとおり。しかし、それが理解できない知能レベルらしい。(
>>385)
393 :
実乃丸:2007/07/03(火) 09:23:52
>>387 結婚しなくても子供ができるのは古今東西ありふれた現象かと。
神功皇后は確か寡婦になる前に結婚していたような記憶が。
話題はずれますが、
応神天皇はさすが並外れて偉大な英雄です。
遠征中、産まれるなという皇后様のお言葉に従われ、
皇后様の御腹に留まられていたのですから。
武内宿称も立派です。
皇后にずっと付き従ったばかりでなく
御生れになった御子を
まるで吾が子であるかのように
抱き守っているのですから。
ヨソの子にあれだけの父性愛を発揮できる
なんてタダモノではありません。
後に武内宿称命と崇められるだけのことはあります。
つまり皇統なんてものはすでにころころ代わっているのでしょうし
建前さえ繕ってくれれば、私のような一小国民は十分満足です。
皇統無系なことを申しまして恐れ入りますです。
394 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 09:37:23
【広瀬氏が背負う宿題の一例】
蘇我が半島系という根拠は、
a 蘇我満智(そがまち)が木満致(もくまんち)っぽいから、同一人物
b 木満致(もくまんち)の父の木羅斤資(もくらこんす)の木羅が朝鮮っぽい名だから、百済人
c ゆえに蘇我は百済系
というだけの3段論法(?)か。
○○っぽい、○○っぽい、というだけの、ただの駄洒落を根拠にした、ありふれたC級トンデモだよ。
(しかも、門脇の劣化版。これは門脇の数多いトンデモの中でもDQN度の高い珍説で、それを劣化させたしろもの)
(なお、日本書紀を先入観なく素直に読めば、木羅斤資は神功や応神の家来、木満致は応神の家来としか読めない。
アンチ皇国史観という古臭い偏見のため、この二人は百済の将軍とされた。
主に朝鮮半島で活躍したので、 倭人か半島人か大陸人か分からんが、百済人と特定する根拠は薄く、倭人である可能性のほうが高い。)
なら言うぞ。
満致がオマーンっぽいから、木満致は、オマーン国王の祖先!!!
395 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 12:58:24
>>392 学問と学術か。
連続して書かれているので、キー入力しているときに気がついただろうに、そのままアゲてしまったのか・・。
バレなければシメシメと、スレ主は思ったのだろうな。
汚い。
396 :
広瀬満:2007/07/03(火) 16:07:44
>>394 なら言うぞ。
満致がオマーンっぽいから、木満致は、オマーン国王の祖先!!!
何とかのひとつおぼえじゃあるまいし。
397 :
384:2007/07/03(火) 18:23:15
>>392 はぁ?なんでお前がいうんだよ
自分が作ったスペースでもない2chで広瀬がたてたスレッドだろ
何顔真っ赤にして反論してんだよ
お門違い
398 :
384:2007/07/03(火) 18:24:22
あーごめん。
ただのアンカミスっぽいね
条件反射したオレも一回死んでくるわ
399 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 18:26:33
m9(^Д^)プギャー
>>390 蘇我の長男は、蝦夷じゃなくて善徳だから。
まあ、善徳も物部の子ということだけど。
ただ、中国の書によれば、
このころ日本には2人の王がいたそうだし、
オオオミはオオキミと同格という説もある。
善徳を隠蔽するだけの理由がそこにあるんでしょう。
「王」(キミ)と「臣」(オミ)が同格って...なんじゃそりゃ?
そんなこと言ってる阿呆がいるのかね?
402 :
日本@名無史さん:2007/07/04(水) 09:46:27
>>400 蝦夷の母は物部氏だが、
善徳の母も物部氏って、何の史料にあるの?
むしろ、蝦夷は正室の子だったからこそ
弟であるにもかかわらず蘇我宗家を継げたわけで、
長男であるのに蘇我宗家を継げなかった善徳は、
庶子だったから=母親が正室物部氏ではなかったから
であるはずなんだが。
403 :
日本@名無史さん:2007/07/04(水) 13:22:36
>>396 >満致がオマーンっぽいから、木満致は、オマーン国王の祖先!!!
>何とかのひとつおぼえじゃあるまいし。
つまり、自分の説がそのレベルということだろ。
他人を罵倒するだけでなく、中身のある反論はできないの?
駄洒落以外で、蘇我満智=木満致 を説明しろよ。
満致がオマーンっぽいから、木満致は、オマーン国際女子大学の創設者!!!
404 :
広瀬満:2007/07/04(水) 14:31:45
367と同文
405 :
ったく・・・:2007/07/04(水) 15:14:45
ご存知、不謹慎親父。
多大まあ参上で〜す。
駆けつけサンク親父。
うまいぜよ〜
荒唐無稽な
393さん
でもねだが〜
タライラマさま
思い出そう
肉の血キレても
実が霊(ち)は壱系
天地神仏
意図みえた
五色糸なら
有難や
八重
弥栄
ヤベ〜も〜行かなくっちゃ親父。
406 :
ったく・・・:2007/07/04(水) 15:24:02
残念無念ですがね〜
ここにはもうカキコ
出来ませぬ
ん
おたっしゃでねえ
因みに、「メンバーの既知ガイ自称3タイム親父。」。
鎌足の五重娘か五十鈴川よ弦の娘が鎌足Uの娘に。
信長の○○が信長Uの娘に。
龍馬のお姉さんが龍馬Uの娘に。
以上明日の常識風鉄板予想親父。
それではご町内皆様、語機嫌陽?
407 :
日本@名無史さん:2007/07/04(水) 16:09:25
>>367を校正しました。
スレ主には・・常識が全く欠けているからレスの内容はピント外れで揚げ足取りのような内容にしかなっていない。
このスレを私物化しているのは罵詈雑言のようなレスを次々に書き込んでいるスレ主・・である。
このスレ主は一体どのような頭の構造をしているのであろうか。
408 :
日本@名無史さん:2007/07/04(水) 16:11:48
スレ主よ!
他人を罵倒するだけでなく、中身のある反論はできないのか?
駄洒落以外で、蘇我満智=木満致 を説明しろよ。
409 :
広瀬満:2007/07/04(水) 20:21:45
スレ主は完全敗北を認めました
411 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 09:43:55
お薬とお酒はいっしょに飲んでは駄目よ
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●●●●●●●●不合格●●●●●●●●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
これを見た人は確実に【不合格】になります。どこかに3回コピペすれば回避できます。
これは本当です。やらないと一年無駄になります
413 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 09:50:02
そういう簡単な話ではないぞ
414 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 11:28:26
>>382 そもそもここは「学問・文系」の学術的な板である。
こらこら、言葉のスリカエは汚いぞ。
「学問」は小学生でもやるし素人も参加するが、「学術」は専門の者が行うし資格を問われる分野もある。
ここは学問・文系板であるので、素人でも参加できるよう、議論のために「相手の著述に一通り目を通す」ような義務を課すべきではない。
>>382 ここは私が設定した板(郷)である。
勝手に自分の郷にするな。
自分のルールでやりたいなら、自分のサイトでやれってのが、理解できんのか?
>>384 勝手に人のスペースでスレ立てといて何言ってるんだ?まるで戦後のドサクサに紛れて土地を不法占有した朝鮮人みたいだな
そのとおり。しかし、それが理解できない知能レベルらしい。(
>>385)
415 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 11:29:17
スレ主よ!
他人を罵倒するだけでなく、中身のある反論はできないのか?
駄洒落以外で、蘇我満智=木満致 を説明しろよ。
416 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 12:26:26
>>382 >
>>379 > この答えは私のHPをチェックすればすべて載っている。
それがウソでないなら、具体的に回答をここに書いたらどうなのだ。
HPの記載箇所へのリンク付きでな。
(ウソつき!)
417 :
広瀬満:2007/07/05(木) 17:40:30
418 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 17:46:55
>>417 書いてないからそういうゴマカシになるのだろう。
少しでも良心があるのなら、まともに回答してみろよ。
>自分で探したら
私があなたに命令されるいわれはない。
本当に常識のないカスだな。
あなたは、「この説に対する批評、意見を広く求めます。(
>>1)」という以上、
というよりそもそもスレを立てた以上、質問に誠実に答える責任がある。
本当に無責任なカスだな。
419 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 17:56:10
とりあえず、
>>379 の答えは?
a 石舞台に蝦夷は葬られたのかどうなのか?
b 葬られたとしたら、それは誰が行ったのか?
c 葬られたとしたら、何故、高松塚も蝦夷の墓なのか?
(どうせ行き当たりばったりで、何も考えていなくて答えに窮しそうだから、拝み墓or分骨or改葬と、ヒントまで親切に書いてあげたのに。)
d 石舞台はなぜ石室がむき出しなのか?
これの答えがHPのどこに書いてあるのだ。
記載箇所が特定できる形で答えてみろ。
ただし、ここのものを単発で答えるだけでは不十分で、aからdまで全体として矛盾のない回答でなければダメだぞ。
420 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 18:02:47
>>419(続き)
早く示せ!!!
この件は、あなたは、
>>382、
>>409、
>>417 と既に3度もレスしている。
よもや未確認ではあるまい。
HPの記載箇所はすぐに示せるだろう。
早くしろ、早く!
ウソじゃないなら、とっとと記載箇所を示せ!
できなきゃ、ウソ認定な。ウソツキ認定な。
421 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 18:07:27
これで終わったと思うなよ。
未回答の宿題が山のようにあるのだからな。
次々いくから、誠実に答えるのだぞ。
>>419-420は? 早くしろ、早く!
422 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 19:21:29
/ ヽ、_
/ / ヽ
/ / /| l \
/ / | | ゙、 l ヽ,
/ / \ヽ, ヽ.ヽ.ヽ.ヽ_ ヽ i
/ | ヽ; _ ヽ_ヽ._ヽ_ヽ \ヾ、 |
| | ` `ー-、ヽ丶 |
! | ` ̄`ー、 |
|. | `ヽ |
. i | | |
| _ | | /
/ _ヾ|  ̄ニニニニニ、ヽ r'''',ニニニ二二 | ´`j
| i )| ヽ. _`'゚'´_ _ノ i ヽ._ _`'゚'´_ ,ノ | 人, |
i ヾ ( | ,  ̄ ,'i  ̄ . | !)/
ヽヽ | ' ´ ! ; ヽ | ノ /
゙、ヽ! i リ /!
|ヽ-! / / 丶 ヽ /_/ |
| ヽ ヽ-、 , -‐' /´! | ______
ヽ| ヽ `ー ‐' / リ / |
ヽ|| ヽ ー‐‐‐-‐‐‐一 / i i/ < 歴史は繰り返す
ヽ.| ヽ - - - - / | j/ |______
| ヽ , / |´
_/ ヽ ' / !_
/ `ー、_ \ _____ / _, -' ヽ
/ `ー 、 _ _ _ _,- ‐'´ ヽ
423 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 21:56:51
木満致のことだけども
田中本応神紀ではただの木満致
それ以降の写本はすべて大倭木満致
これって改ざん?
それとも田中本の誤写?
424 :
え?:2007/07/08(日) 03:31:10
確かに蘇我氏は大王家だろう
安閑帝−豊彦王(蘇我稲目)−馬子−蝦夷−入鹿
425 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 07:21:46
>424
またまたとんでも説やろうが来たなw
426 :
広瀬満:2007/07/08(日) 18:37:07
田中本の誤写ではないでしょう。
改竄でしょう。
この板で意見を求めといて自分のホームページに書いてあるってのはおかしいのではないでしょうか?
皆さん質問してるのだからここで、
『ここで』答えて下さい。よろしくお願いします。
428 :
広瀬満:2007/07/11(水) 19:34:12
>>427 418-421と同じレス主でしょ。
答えは同じ。
429 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 19:21:47
孝元天皇の末裔・武内宿禰後胤の傍流である蘇我氏が権力を承諾できたのは
武内宿禰後胤の嫡流である葛城氏が謀反が原因で最大の要因だろう?
蘇我氏の領地と葛城氏の領地がもろダブル。
最近、外国で出版された天皇家・ヤマト王権の本に
蘇我氏は300年間、権勢を振るっていたと書いてあるから
おそらく、武内宿禰からカウントしたんだと思う。
武内宿禰の祖父・彦太忍信命の支配領域は
後の武内氏〜葛城氏〜蘇我氏と子孫に受け継がれている。
万世一系って言うけど、継体天皇のときに王朝は変わったという説もあるよね。
継体は、臣籍降下してオキナガ氏を名乗っていたっぽい感じはする。
今で例えるなら、旧皇族を引っ張ってきたようなものかと。
厳密な意味ではアウトかもしれないが、
源氏に降下した人も天皇になっているし、よくあるようなことかと。
他には持統の子は危ないかなと。藤原不比等の子じゃないかと。
想像の域を出ないが。
後は、明治維新だよね。南朝系に移ったのかどうか。
もうさすがに日本史では釣られないんではないだろうか
433 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 18:03:33
欽明天皇以前の皇統譜と説話はほとんど信用しないほうがいい。
434 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 19:41:03
?
高句麗と対抗する扶余は、崇神が任那に拠を構え、北部九州に侵攻。
そのため、大和は、邪馬台国以来の半島経由大陸ルートを喪失し、中国への使者派遣は不可能に。
扶余系連合国は、任那の鉄資源の直接輸入が必要となった大和と交易するようになる。
扶余は応神時代に中国地方を回避して海上ルートで河内に侵攻して王朝を形成。
しかし騎馬戦術が通用しにくい内陸盆地の大和への侵攻は困難だった。
続いて大和と半島を繋ぐ交通の要衝である吉備も屈服させた。
勢力を増して、高句麗と大規模の交戦を企てる一方、扶余河内を警戒する大和とも対立。
半島情勢が緊迫する状況で、中国との連係を模索する外交を試みた結果が、
いわゆる倭の上表文である。
しかし思うように半島での苦戦を打開できず、高句麗に半島から駆逐されかねない情勢となった。
そのため扶余は外交革命と言うべき大和との連合を模索した。
その結果として生まれた扶倭連合王国の初代国王は扶余系大王・蘇我馬子だった。
そのお披露目も兼ねて、高句麗と対抗する中国へ使者が派遣されたが、
これが隋書倭国伝に記録されたところである。
当時の倭国王は女帝の推古天皇とされたが、記録には「多利思比孤」と言う名の男王である。
これは、本当の国王・蘇我馬子を指しているためである。
蘇我氏が自らを大王と称し、一族の邸宅を「上の宮門」「谷の宮門」と呼び、
「国記」「天皇記」を史書として残していたとされることからもそれは明らかである。
藤ノ木古墳などは蘇我稲目の墓である。以下、キトラ古墳、高松塚なども蘇我氏系であろう。
蘇我一族は、扶余系一族として、百済で普及してる外来仏教の普及にも努めたが、
こうした宗教文化上の対立もあり、倭人系豪族の激しい反発を招き、
倭人系・天智天皇がかつがれて、大化の改新という宮廷クーデターにより滅ぼされることとなった。
ここに、扶余王朝は、遂に倭人豪族によって簒奪される羽目となった。
437 :
436:2007/07/23(月) 00:24:19
今日の天皇家の直接の祖先は天武(及び天智系の血統の)天皇であり、
彼に都合よく歴史(記紀)が記載されることとなったことは改めて言うまでもない。
魏志倭人伝や隋書倭国伝など中国の歴史書、そして蘇我氏の国記・天皇記や、
天智天皇系の帝紀など、あらゆる歴史書を矛盾なくつなぎ合わせようと図った結果、
邪馬台国・卑弥呼は天照大神となり、
自らの系図を、そこから続く一系の系譜であると天武天皇は主張したのである。
一方、歴史を粉飾する際には、その中での蘇我氏の業績は無視するにはあまりに巨大であり、
そこで蘇我氏を悪人と描く一方、その優れた業績は別人格に分離した架空の人物・聖徳太子に
仮託し、聖徳太子という存在を合理化する目的で、推古天皇を仮の“女帝”だと偽装して、
「摂政」を捏造したわけである。。女帝が初めて“誕生”したのはそのような事情からである。
また国記・天皇記に記された、応神天皇など、河内王朝の存在は、
その巨大古墳が存することからも無視し去ることは困難で、
やむなく扶余河内王朝も強引に飲み込んだが、さすがに吉備の大古墳はほぼ無視するより他なかった。
こうした結果として、記紀には、高句麗王伝説などの扶余系神話に類似するエピソードや修辞など
が含まれることとなったが、これは扶余系蘇我氏の国記・天皇記の影響である。
扶余族の任那から九州、河内への東遷の歴史は、
時系列上の都合から、邪馬台国(高天原)と大和とをつなぐ神話時代の記録として
切り離され、神武神話になったものと思われる。
いわゆる神武以前にニギハヤヒという天孫が何故か既に存在していたが、
これは壬申の乱で大友皇子と天武天皇が対立したことを描いたものであり、
天武が勝利して飛鳥浄御原宮で即位するまでの経緯は、
神武がナガスネヒコを降し橿原宮で即位するまでに相当しており、
ニギハヤが天智、ナガスネヒコが大友皇子にあたると考えられる。
すなわち、神武の神話は、崇神から応神、天智から天武に至るまでの歴史を
神話風に叙述したものと見ることが出来よう。
438 :
436:2007/07/23(月) 00:24:50
元々、倭国には専制的な支配者は存在しなかったと思われる。魏志倭人伝でも、邪馬台国を盟主とする
ゆるやかな共同体連合があって、その祭司者として卑弥呼がいただけだ。
そこから同笵鏡とか配って各地の共同体の首長とが非・支配被支配の盟約関係を結んでいた。
倭国の領域は大和から九州、対馬を経て、朝鮮半島南端まで広がっていたと思われる。
もともと絶対王権の存在しなかったところに、大陸的な専制支配体制を体現した扶余が侵攻してきたわけだ。
中国のような長い歴史のある文明ですら、その王朝の出自はほとんどが北方民族なんだから、
日本とて例外ではなく、本来、農耕民族には、そうした王権を形成する文化的背景が無かったのだろう。
王権は馬にまたがってやってきたのである。その扶余王朝ですら一系のものではなく、それぞれ別個に
日本列島に進出してきたものではないだろうか。ちょうど朝鮮半島が高句麗・百済・新羅に分立してるような
イメージだ。たとえばイリ王朝とかタラシ王朝とかワケ王朝という区分があるけれど、
崇神(イリ王朝)と応神(ワケ王朝)とは、そもそも別個の王朝で、
崇神が九州を陥落させ、それとは別に応神が河内に侵攻、ずっとのちに継体が大和へ潜入を試みて阻止された。
この場合、おそらく血統の断絶が、新たな扶余の進出をもたらしたとも考えられる。
だから、継体が応神の五世孫だというのは事実だとは言えず、実際には百済王家から見繕って
日本海ルートででも連れてこられたものにすぎないだろう。
騎馬民族と言えど、当時の拙いレベルの海上輸送では、敵前上陸を果たすほどの戦闘能力はなく、
九州に侵攻する時には、一旦出雲を押さえて、そこから北部九州という具合に段階を踏んでるのが、
天孫降臨神話の出雲と筑紫の順になってて、次が河内になってるのも、中国地方の制圧がそれほど容易では
なかったため、交通の便がよく、かつ軍事的真空地帯だった河内が選択されたのだろう。
だから地形上の理由から、大和には簡単に攻め入ることは不可能だったと考えられる。
439 :
436:2007/07/23(月) 00:25:50
よって、騎馬王朝を作った時点でも、倭国王として中国に上表文を出してはいるが、
実際には一地方のおける王権でしかない。勝手に「倭国王」を名乗ってるだけで、
東には大和がれっきと存在している。いまだ倭国で広汎にその王位を容認されたわけでもない継体に対して、
日本生まれの百済王・武寧王がいち早く鏡を贈ってるが、これも扶余族内の馴れ合いみたいなものだ。
倭国全体で見るなら、大王なるものは、ちょうど日本の戦国時代をイメージしてみた場合に、
各地の大名に相当してるにすぎず、諸国が分立して存在してるわけだ。
そして継体の頃前後に、倭風に染めて、大和との本格的な国家連合を模索したものの、
当時の大和はある種の祭司集団としての合議体のような組織だったのだろう、
絶対的な王権は未だ存在せず(幹事役みたいなものはいただろうが)
その中の有力氏族の一つとして扶余も仲間入りするようになった。
その後、扶余百済との関係にもとづいての交易への便宜により、扶余族の蘇我氏が台頭し始めたと思われる。
だから蘇我氏が大王と称するようになったのは、必ずしも王権を奪取したのではなく、
もともとそこに存在しなかった絶対王権を、扶余族の文化体系の中から持ち込んで新たに創出したことによる。
そこに悲劇の源があった。もともと仲好しクラブだったものを、完璧な序列体制に再構築して、
その頂点に自分が立った時に、滅亡への導火線が敷かれたのである。そして仏教導入などの急進的な
改革が点火に至らせることになった。
これはちょうど戦国時代に天下統一を果たす間際まできた織田信長が本能寺の変で部下の明智光秀に事実上、
誅殺されたのに似ている。炎の中で自刃した最後は、入鹿が殺害され、蝦夷が火を放って自殺したのと瓜二つだ。
しかし扶余蘇我氏がもたらした変革は、倭国社会に不可逆的な文化的変質をもたらした。
その最たるものが王権であり、蘇我氏の権力体系を、その後独自に咀嚼して吸収した結果生まれたものが、
「天皇」という称号であって、それゆえ厳密な意味における日本の初代天皇は、記紀を編纂させた天武天皇だと
言える。「天」の文字がともについてる天智は、万世一系の血統を主張する上での便宜的な“初代”天皇だ。
440 :
436:2007/07/23(月) 00:32:28
こうした文脈で王権の歴史を再検証すると、神話上の天皇は別として、
崇神から倭の五王などは勝手大王であって、地方権力者にすぎない。
蘇我氏は自称国王ではあるが、惜しいところまで行ったものの天皇にはなれてない。出が悪かったからだ。
戦国時代でたとえるなら、いわゆる大王は大名に相当し、国王は関白、天皇が征夷大将軍にあたると言える。
崇神やら倭の五王は諸大名で、蘇我氏は織田信長及び秀吉、天智が明智光秀及び秀吉、大友皇子が
秀吉、天武が徳川家康で、大化の改新が本能寺の変、壬申の乱が関ヶ原の戦いだと言えよう。
もともと大化の改新はその信憑性が疑われていたが、にもかかわらずそこまで大仰に記されてる以上、
易姓革命に匹敵するほどの大事件だったと思われ、そのため単なるクーデター以上の意味を持っている。
それは扶余王朝とその専制支配体制の成立を阻止して倭人王朝を創出させた大革命だったわけである。
その後、万世一系の思想を普及させて、王権の永続性を保証しようと、歴史書の編纂に乗り出したが、
その際には全く別系統だった、崇神を始祖とするイリ王朝や応神の河内王朝などを全部つなぎあわせて
一系の王朝に仕立て上げたわけだ。
邪馬台国以来の大和には古来から大王は存在してなかったし、記録すらなかったはずだ。
よって、そこには扶余族の大王の系図をそのままあてはめたのだと思われる。だから仁徳天皇が
善政だったか悪政だったかはまるで見知らぬことだし、実際のとこどうでもいいのである。
蘇我氏の天皇記・国記をそのまま使っただけだろう。
よって、天智から前の「天皇」は、実際には日本国天皇ではないものを、
後から勝手に歴史編纂の都合により認定されたすぎないわけで、当然、崇神も応神も「天皇」ではない。
また天孫降臨、神武神話などを年代を遡上させて盛り込んだ際には、当然、記紀編纂者である
天武天皇自らの業績も含めるだろうから、壬申の乱が神武とニギハヤヒの戦いになったのである。
高天原は天津神の住む場所だが、ある時は邪馬台国だし、別の時は朝鮮半島だ。
具体的な実態ではなく、地理的にかけ離れた場所を媒介してつなぎ、
そこから大いなる人物が降臨してくるという、抽象的な概念として創作されたものだと言える。
441 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 17:47:42
??
442 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 00:35:23
押坂(おっさかと発音、忍坂同じ)
奈良県の地名、現在の桜井市を中心とする。
三輪山の南、御破裂山(とうの峰)に東に位置する狭い盆地で、大和から西に向かう街道沿い。
雄略の朝倉宮、舒明の忍坂中陵、崇峻の倉梯宮、同倉梯岡陵を含む。
日本で1番古い地名とされる。
ちなみに、牧野古墳の石室は奈良県下でもっとも大きなものの1つとされ、崇峻の天王山古墳、
石舞台古墳、竹田皇子の陵の可能性が有る植山古墳の西室などと同じ設計とされている。
なお、これに匹敵するものとして、聖徳太子の太子廟、市尾基山古墳、見瀬丸山古墳、都塚古墳などがあり、
やや小ぶりなものとしては、与楽鑵子塚古墳、真弓鑵子塚古墳、乾城古墳などがある。
要するに、飛びぬけて大きいものではない。
もう一つ、牧野古墳は円墳で、蘇我系とされる方墳ではない。牧野古墳を持って来て、馬子説は無理でしょう。
443 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 00:42:03
追記
刑部、忍壁は、おっさかの民をさし、おそらく土地人民ごと財産として支配されたのではないかと思われる。
押坂彦人王の名は、その支配者であることから来たと思われるが、この地域に蘇我の影はない。
百濟 近蘇我王の子 蘇我馬子太子 宗像
445 :
広瀬満:2007/08/02(木) 19:42:03
>>442 蘇我系の墓を方墳とするその根拠を教えてほしい。
446 :
ぜにとこ平治:2007/08/02(木) 20:56:19
つまり、蘇我善徳(ぜんとこ)=聖徳太子=蘇我入鹿
という事でファイナルオッケー?
蘇我馬子の息子は豊浦大臣で、名を入鹿という、と資料にもあるし。
447 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 23:10:28
>445
白石太一郎らが言ってる。、崇峻、用明、推古、孝徳とこの間の天皇陵はみな方墳。
白石の著作には殆ど書いてある。ただ、おいら自身は、これらの古墳が、天皇陵だから方墳なのか、
蘇我系だから方墳なのかはまだ考える余地があると思っている。
舒明以後は、八角墳となる。
ただ、こないだ今城塚の現地説明会で、後円部の三段目は方墳ではないかと言う話を聞いた。
こしこれが本当なら、継体は蘇我系ではないので方墳は蘇我氏とは関係ないことになる。
はやく結論を出してほしい。
後円部の三段目が方墳? 何だソレ?
そんな話、初めて聞いたぞ。 新聞には載らなかったのか?
449 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 11:51:24
テレビニュースでやってたはず。早く文献化してほしい。
それ聞いて、欽明天皇の墓だといわれる見瀬丸山古墳見てきた。
三段目は鉄条網で囲まれているけど、ラインが妙に直線的なのが気になった。
やっぱ、ちゃんと調査してみるべきだな。
450 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 11:53:03
>>447 7世紀ころの蘇我系の有力者の墓 ⇒ 方墳 という説があるのであって、
すべての方墳 ⇒ 7世紀ころの蘇我系の墓 という説はないし、
すべての方墳 ⇒ 様々な時代の蘇我系の墓 という説もない。
必要条件と十分条件の違いをわきまえて欲しい。
ちなみに、方墳のサイズの全国ベスト10のうち、蘇我と関係ありそうなのは、春日向山古墳(5位、用明陵)と山田高塚古墳(6位、推古陵)ぐらい。
なお、竜角寺岩屋古墳(2位、千葉県)など関東の終末期の方墳について蘇我氏との関係を指摘する説もあるが、終末期で方形という以外に根拠は何もなく、方形(ほうけい)だから半島系(高句麗系)と主張する在日の方々と同程度のレベル。
451 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 12:11:58
>>447-449 今城塚の後円部ではなく、前方部の上段が方形という説ではないのか?
前方後円墳で前方部の墳頂に方形壇があるのは珍しくない。
有名なのは、西殿塚(天理市。手白香皇女墓とされ、登れないが、測量図などから確認できる)
あるいは、青塚古墳(犬山市。方形壇が復元されている。昔は登れたが、今は登れない)
あるいは、心合寺山古墳(八尾市。方形壇が復元されており、登って観察できる。)
方形の上に円形の段が乗っかるのは、ないわけではないが、
a 上円下方墳:熊野神社古墳(府中市)など若干 (最近の昭和天皇陵もこれね!)
b 前方後方墳の上に前方後円墳が乗っかっている形:西山古墳(天理市)の1例だけ
円形の上に方形の段が乗っかるのは見たことがない。
ただし、円形の墳丘の頂上の主体部の周りを、埴輪や覆屋(?)の柱跡が四角く囲む例は多数あり。
452 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 12:37:56
スレ主がいないところで、スレタイと関係ない話題だと、比較的まともになるな。
>土地人民ごと財産として支配
そんな観念は領域型荘園が登場するまで無い
454 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 16:24:58
馬子の墓とされる石舞台古墳は上円下方墳の可能性がある。
455 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 21:40:48
>450
1、蘇我氏の話をしているときに、5世紀やら8世紀やらは端から話題にしないだろう。
(確かに、五世紀にも三塚古墳やらの方墳はあるけどね。200年も昔のことを言ってもね)
2、私は、白石太一郎が、方墳は蘇我氏に近い者の墓と言っている、と書いた。
3、白石太一郎が、方墳は蘇我関係者のものと言っていることは彼の著作にいっぱい出ている。
(手っ取り早くは、文春新書「古墳と大和政権」P187を読むこと)
4、私自身は、それに対して多少疑義を持っていると書いた。
なぜなら、蘇我氏との濃密な関係下にあった聖徳太子の太子廟(崇福寺)は円墳である。
この墓が本当に太子廟であるかどうかは難しいが、年代などに大きな疑問は出ていないようである。
信用できないと言われれば、推古陵や用明陵もみな怪しい。
日本語をよく読んでくれ。
456 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 21:53:35
>450
もう一つ。
方墳が高句麗の影響を受けたかどうかは、別の問題だが、折角なので多少私見を。
高句麗の将軍塚は三段構造の石造りの墓で長寿王の墓とされている(らしい、写真しか知らない)。
日本で最も保存状態のよい方墳は、平群の西宮古墳だと言われている。この古墳は、中世の城郭の下敷きとなり、殆どそのまま保存された。
それを見ると、かなり緻密な石組みに覆われ、石の塚のように見える。将軍塚と類似性も、思わず、ん?と思うほどだ。
推古紀に、高句麗僧慧慈が倭に来て顧問のような職にあった。
飛鳥寺は三堂一塔構造で、この類型は、高句麗の清崖里廃寺に見られ、高句麗の影響が以前から言われている。
と色々考えてみると、方墳が高句麗の影響を受けて出来た可能性はありうると思う。
在日の妄言だと言わずに検討してみるべきだろう。
457 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 22:00:56
>451
確かに後円部だと聞いたと思うが。
文献化して貰っていないからなあ。
そういえば、今城塚の第10次発掘報告書の後円部の最上段は妙な形に書いてある。
誰か、、詳しいこと知ってる中の人、いない?
458 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 01:13:46
後円部の最上段は崩落してるんじゃなかった?
二段目のてっぺんから石室の基礎部分が出てきたので、
伝統的な三段築造と推定されたのではなかったかと。
459 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 01:59:06
>>456 高句麗系の積み石塚は結構あるみたいだよ。
群馬の長瀞西遺跡には、
出土物からも見ても明らかに高句麗系の積み石塚があるけど、
他の円墳などに比べ、端っこに追いやられてる感じだね。
で、積み石塚ではない普通の方墳が高句麗系かと言えば、
そうは言えないんじゃないかな。
460 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 15:26:53
>446
特に突っ込む気はないのだが、
蘇我馬子は嶋大臣
蝦夷は豊浦大臣
入鹿は林臣鞍造
のはず。
461 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 15:33:56
>458
崩落した3段目の基礎部を調査した結果と聞いたんだが。
現地に行って、言質を取りたいんだが、暇がない。
高槻市の教育委員会の方、いませんか?
462 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 16:18:22
>454
石舞台は、上円下方墳と言う人もいる。現地の立て看にもそう書いてある。
でも、地理的時代的近縁に上円下方墳という形式は存在しない。
舒明天皇陵とされる忍阪段塚古墳は、現在は斜面に水平な基段を造ってその上に八角墳を造ったとされている。
だが、かってはその形態から、上円下方墳と間違われた時期があった。石舞台が上円下方墳と呼ばれるのはそのせい。
第一、とっくになくなっている上部の形を断定することは無理。
石舞台は、そのすぐ南の都塚古墳とほとんど同じなので、ペアだと言う説がある。
河村邦彦さんにいわせると、書紀に言う、双の墓(蝦夷入鹿の墓)ではないかと。
463 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 18:55:19
>>460 先代旧事本紀では馬子の子が「豊浦大臣で名を入鹿という」と記されている
蘇我善徳入鹿 法隆寺の初代管長だっけ?
465 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 22:27:05
スレ主がいないと、話が進むな。
鬼の居ぬ間に何とやらだ。
どうせ、元はろくでもないスレだ。少々突飛な事でもいいから書こうぜ。
466 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 01:27:06
しかし「天皇家の真の皇祖」という言葉じたいがわからんですよ
467 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 11:39:40
なるほど、蘇我が滅びて天皇があとを継いだというのなら、蘇我は天皇家の祖先じゃない。
表題自体が間違っているわけですか。
468 :
広瀬満:2007/08/06(月) 18:14:09
469 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 22:36:47
また出てきやがった。
470 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 10:52:27
>>455 5世紀やら8世紀やら
カメレスですみませんが、何を言っているのか分かりません。
>>450で挙げた例の中にそういう古墳があるのでしょうか?
ちなみに、竜角寺岩屋古墳も7世紀です。
>>450の書き出しは「7世紀ころの蘇我系の有力者の墓」となっていて、、それに続く記述を読んでいただければ、
「7世紀以外の時代のことはあまり取り上げてもしょうがないでしょ」という趣旨であることは読み取れると思います。
そもそも、
>>447で今城塚や継体のことに言及していますが、今城塚も継体も6世紀前半のことですよ。
三塚古墳? 土師ノ里の近くで修羅が出たやつのことですか? 何でそのような古墳をここで言い出すのでしょうか?
年代観がメチャクチャなのではないでしょうか?
471 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 11:59:15
>>456 方墳が高句麗の影響を受けて出来た
将軍塚:長寿王(好太王の子)の墓? 花崗岩を7層に積み上げ、高さは13m
平群の西宮古墳を例に挙げているが、石積ではなく、石は表面だけの葺石で、3世紀以来の日本の伝統によるもの。
将軍塚は、日本の方墳とずいぶん違うぞ。似ているのは、平面形が四角いというだけ。
「影響を受けた」と言う根拠がいい加減過ぎる。
四角という形など珍しくないので、影響の根拠にならない。(アフリカにもアメリカにも有名な四角い墓があるしな。)
高句麗王墓から日本の7世紀の方墳に至る系譜をたどれないようでは、根拠のある話にならない。
472 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 12:06:59
>>456 方墳が高句麗の影響を受けて出来た
次に、「影響」という言葉が、そもそもいい加減だ。
高句麗の王墓を作ったのと同じ人間あるいは集団が日本の方墳を作ったのか?
慧慈という坊さんが墓作り職人も兼ねていたのか?
あるいは、慧慈という坊さんが墓作り職人(日本の土師氏のような)を引き連れて来たのか?
ノウハウ(構造や工法などの知識)が伝わっただけなのか?
慧慈という坊さんが墓作りの知識を持っていたのか?
慧慈という坊さんが墓作りの設計書やマニュアル本でも持参したのか?
古代史の分野で、「影響」という言葉は、大陸人や半島人のうち日本を貶めようという卑しい性根の連中が巧みに使う言葉なので、注意しないと騙されるよ。
473 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 18:57:50
>470
こっちも7世紀以外の方墳については端から取り上げてないと言ってる。
崇峻、用明、推古、孝徳の時代と限定しているはずだ。妙にからむなよ。
厳密には用明推古の陵が造られたとされる6世紀後半から舒明忍坂中陵の八角墳が造られたと思われる
7世紀後半まで。
>472
じゃあ君は、この国で最初の寺院である飛鳥寺が造られたとき、
半島の集団がやってきて作ったのか、
坊主が墓造り職人も兼ねていたのか、
ノウハウが伝わっただけなのか、
墓造りの知識だけが伝わったのか、
設計書やマニュアルが伝わったのか、
断定できるのかい。今の知識では無理だろう。
私は別にサヨクでも、朝鮮史観論者でもない。あまり過剰に反応するなよ。
474 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 09:58:20
>>473 それでは、
>>447の今城塚と継体や、
>>455の三塚は、脇へ置いといて、中身のある話をしましょう。
方墳と蘇我系を関係付ける場合は、
6世紀末から7世紀の(今日の)京都府、大阪府、奈良県あたりの大きめの方墳 ⇒ 蘇我系の有力者の墓
という主張になります。
小さな方墳には陪塚も多く、蘇我系だけと関係付けることは、もともと無理です。
大きな方墳でも、時期や地域が異なるものを蘇我系と関係付けようとすると、まだまだ根拠が不足しています。
逆に蘇我系の有力者であっても、聖徳太子の磯長墓(叡福寺北古墳)のように円墳もある。(ただし、この比定は異論もあり。)
すなわち、方墳と蘇我系を関係付けるのは、もともとかなり限定的な話であり、あまりあてにならないと思ったほうが良いと思います。
475 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 10:01:41
>>473 次に古墳や寺院への半島の「影響」についてです。
何でもかんでも半島の「影響」を排除したいと、過剰に反応しているわけではありません。
初期の寺院は東漢や秦や司馬などの渡来系集団が建築を行ったというのは、異論がないと思います。
特に飛鳥寺(法興寺)については、日本書紀の崇峻元年に、寺工や鑪盤博士や瓦博士や画工の名前まで記載されていて、渡来系集団が建築を行ったという根拠は明確です。
(ただし、数十年も経ないうちに、渡来系ではない工人(今日風に言えば宮大工)も大量に養成・出現したと思います。
少なくとも、鞍作鳥(司馬鞍首止利)のように、渡来系といっても日本で生まれ育ち、大王家や有力豪族に忠誠を尽くす世代がすぐに主流になったと思います。)
一方、古墳については、例えば、草壁の墓という説がある束明神古墳の切石積の石室、あるいは高松塚古墳やキトラ古墳の壁画など、大陸や半島の影響があったということに異論はありません。
しかし、これは結論ではなく、検討の出発点です。
476 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 10:04:27
>>473 古墳あるいは天皇や有力者の墓は、土師氏が中心になって作り続けていたと考えます。
埴輪伝説など古くから、古墳の造営には土師氏が深く関わっていたようですし、奈良時代になっても、
続日本紀の天平六年夏四月には、地震による王の墓の被害調査等のため、諸王真人に土師宿祢を従えさせて派遣したとあります。
古墳の造営の全体の仕切りは土師氏が行い、その作業員の一部に大陸や半島から来た人がいたか、あるいはそのノウハウを学んだ人がいたということです。
壁画などは、(半島というよりは)大陸の影響があるものの、結局のところ、直接描いたのは日本人ではないかという見方も強くなっているようです。
(このあたりは、美術史などの専門家の世界で、素人がとやかくいえる領域ではない。)
「影響があった」というときは、
⇒ 影響の内容は? 影響の範囲は? 影響が及んだ経緯や方法は? これらを明らかにしないといけません。
「影響があった」と言うとき、自説に都合のよい例を挙げるだけで、影響の内容等について具体的なことを語ろうとしない人がいたら、何か悪意の魂胆があると疑うべきで、要注意です。
477 :
日本@名無史さん:2007/09/14(金) 11:09:44
UP!
478 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 16:20:30
・
479 :
日本@名無史さん:2007/09/26(水) 19:06:58
古墳時代末期の方墳は蘇我氏の有力者の墓というのがなかば通説のようになっているがたいして根拠のある話ではないようである。
480 :
日本@名無史さん:2007/09/28(金) 16:19:43
日本書紀神代下と神武天皇によると天皇家の皇祖は高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)とありますが
馬子となんか関係あるんでしょうか?
神代の系図をそのまま信じれば、
タカムスヒはアマテラスの息子ホミミの嫁トヨの父親だよね。
蘇我氏自身や、蘇我氏の息が掛かった皇族って、
皆トヨって付く愛称を持っているよね。
豊浦大臣とか豊御食炊屋姫(推古天皇)とか。
なんか関係あるのかも。
482 :
日本@名無史さん:2007/09/29(土) 10:47:52
天皇って、どこの馬の骨かと思っていたが、蘇我「馬」子の末裔(骨)か
483 :
日本@名無史さん:2007/09/29(土) 11:18:03
豊桜彦
484 :
広瀬満:2007/10/03(水) 18:36:06
>>482 舒明天皇以降の天皇はすべて蘇我馬子(=スサノオ)の末裔である。
したがって蘇我馬子が皇祖である。
津島神社を崇拝した嵯峨天皇が
「素尊(スサノオ)は則ち皇国の本主なり,故に日本の総社と崇め給いしなり」
と言っているのはそのためである。
嵯峨天皇は蘇我馬子が天皇家の起点であるという認識を持っていたのである。
広瀬満
http://www.kojikiden.com
確かに一時期、蘇我氏に乗っ取られていたくさい。
記紀に、武内宿禰に皇統乗っ取られたくさい記述があるのは
それを反映しているんだと思う。
で、大化の改新で取り戻したんだと思っているんだけど・・・
よく分からんけどね。
486 :
日本@名無史さん:2007/10/04(木) 09:46:32
天智天武は日向から近江に流れついた隼人の俳優の末裔だったんじゃないの?
487 :
日本@名無史さん:2007/10/04(木) 18:50:20
.
488 :
日本@名無史さん:2007/10/10(水) 20:00:55
UP!
489 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 20:51:00
反日本親朝鮮の記事捏造アサヒる新聞は日本から出て行け。
逃げちゃダ
メ
だ
広
瀬
491 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 20:06:20
相変わらず蘇我さんは悪役っすね………
492 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 20:11:06
馬子は権力を維持しようとした
ただの守旧派。
偉大な改革はできますまい。
493 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 20:15:34
というより馬子が改革をする必要性がない。
むしろ今の権力を維持するため改革は避けたい。
494 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 20:22:06
法隆寺釈迦三尊像は北魏様式。
馬子の百済系とは違いますね
495 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 20:43:10
>聖徳太子=蘇我入鹿
このネタもう秋田。
496 :
日本@名無史さん:2008/01/07(月) 16:57:54
飽きた、飽きないは感情であって学問ではない。
散々論破されてるのに未だに主張し続けることが原因で「飽きた」んでしょ
498 :
広瀬満:2008/01/09(水) 15:09:48
499 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 18:08:22
.
500 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 20:24:34
都合が悪いことには理由をつけて答えないのは正解
広瀬のスタンスは間違ってないよ
>>498 思うか思わないかは個人の勝手だよwww
正当な質問を愚問揚げ足取りって逃げ続けておいてよくいうなとは思うけどwww
502 :
広瀬満:2008/01/10(木) 00:50:11
私の説が論破されたというならどこでどのように論破されたのかきちんと指摘してほしい。
私があげた様々な傍証に対して反論はでているが天智天皇が蘇我馬子の孫であるという私の説が
論破されたといえるような反論があったとは全く思わない。
広瀬満
http://www.kojikiden.com
503 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 02:24:39
504 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 20:39:11
↑??
505 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 02:55:07
常に下を向いて生きてろ
506 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 20:57:02
↓??
507 :
古代:2008/01/12(土) 01:13:12
蘇我入鹿が実は天皇になっていたという説ならあるけど、天皇のような宮殿建てたり、墓(凌)を作ったり天皇のように振舞っていた。
ようにではなくて天皇だったと見る方が自然。という説。
上宮法王帝説にそれらしき記述があるけど、正史としては認められていない。
上古代では王朝交代があったとみる学者も多いし、天皇大権は天武の時に確立したので可能性は皆無ではない。
そもそも大化の改新のあたりは謎がいっぱい。
今の 家係が天皇になったことは百済滅亡以後..
木満致は 中王係 山背 阿華知
健 中 三
天穂日 任那宿彌 家都美 速玉 とても絶妙だ文字のアートだ
文字細工だと言うか...纎細に輝く 金飾りみたいだ...
512 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 07:09:19
新たな基地外が…
513 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 17:28:50
>>507 舒明、皇極は無視?
蘇我蝦夷、入鹿の邸があったとされる甘樫丘は発掘が進み、
焼け跡も見つかり、ここに遺跡があったことは間違いがない。
(現時点では倉庫のような跡のみで大宮殿はみつかっていない)
一方、入鹿が殺害された皇極天皇の飛鳥板蓋宮もまた、場所は確定されている。
問題は山面の不便なところに天皇が宮殿など建てるかということだ。
蘇我氏は天皇を補佐する大臣として、天皇を飛鳥に居住させて以来、
蘇我氏の本拠地でもある飛鳥を守るために、常に外敵から天皇を守る立場にあった。
蝦夷、入鹿が見晴らしの良い甘樫丘に邸を構えたのもそのため。
入鹿が天皇なら、官僚たちの参内に不便な丘陵地に邸は構えない。
一方、皇極天皇が住んだ飛鳥板蓋宮は平地にあり、
官僚も皇族も集いやすく、宮殿としてふさわしかった。
蝦夷、入鹿は飛鳥板蓋宮を見下ろせる場所で、天皇とその宮殿を守っていたのだ。
514 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 17:37:09
古代の半島東南部に、志羅紀(シラキ)という倭人国が存在した。天日矛の祖国・シラキの国号の意味が、
ついに明らかになった。
シラキとは、知城(知らす城)の意味である。つまり、「首都」という意味の言葉である。
シラキとは金城(現在の慶州)の古名なのである。金城とその周辺地方をシラキと呼んでいた。
なんと、1世紀頃まで、つまり漢朝の時代まで、シラキは半島南部の全域を支配していたらしい。
紀元前1世紀の半島にあった漢朝の地方領、真番郡・臨屯郡の南方に位置した韓(カラ)という国。
実は、この韓(カラ)こそが、神武天皇の皇兄=稲飯命によって建てられた志羅紀(シラキ)なのである。
日本海側から東シナ海側に至るまで、4世紀以降からミマナ・クタラと呼ばれるようになる地域まで、
シラキ領土だったのだ。
大和朝廷が半島南部を支配するために置いてた官庁・任那日本府は、3世紀頃までは金城(シラキの都)に
置かれていたのである。
興味深いのは、漢朝が半島に四郡を置いて支配していた紀元前1世紀の時代においても、
漢朝は韓(カラ=シラキ)を漢領土に組み込むことなく、その独立を認めていたことである。
この事実は、紀元前1世紀の時代に、すでに倭人と半島漢人の間には友好的関係が確立されていたことを
暗示している。
515 :
日本@名無史さん:2008/01/13(日) 19:38:18
.
516 :
古代:2008/01/14(月) 12:15:28
513
舒明、皇極の後に即位ですね。ですから居所とかはあまり関係がない気がしますが。
仮に不便な山面に宮殿があったとしても、当時は天皇でさえ暗殺される時代です。
見晴らしのいい山面の方が安全だったからといえばそれまでです。
天武天皇から天皇大権が確立されたとされていますからね。
蝦夷の屋敷を「上のミカド」入鹿の屋敷を「谷(はざま)のミカド」と呼ばせたり、祖廟を立てたとき帝だけが舞わせることの出来る八ツラの舞いを舞わせたり
自分たちの墓を建て大稜(おおみさぎ)と呼ばせたり、帝のごとく振舞っていた。
そこで中大兄皇子が乙巳の変で入鹿を暗殺、蝦夷は自殺。と書かれています。
この時、蝦夷の屋敷にあった「天皇記」・「国記」も共に焼けた。となっていますが、自殺ではなく「天皇記」・「国記」を燃やすために屋敷に火を放ったのでは?とも思えます。
都合の悪いことが書かれていたからです。
乙巳の変で入鹿が暗殺された時は、仮にも天皇の儀式の途中でした。そんな時に天皇の御前を血で穢し中大兄皇子らはよかったんでしょうか?
神道では死は黒不浄といって最も忌み嫌われていました。天皇家の為にと言うことであれば皇極帝の御前を血で穢すというのはおかしいように思いますが。
もっとも自分は本当に入鹿が天皇だったとは思っていないですけどね。
ただ、歴史は勝者のものですからね。真実が書かれているとは限らない。
逆に蘇我氏が帝のごとく振舞っていたなんて事もなかったかもしれない。
517 :
日本@名無史さん:2008/01/14(月) 13:39:29
>>516 入鹿は皇極4年に殺害されている。
舒明、皇極の後に即位したとはどういうこと?
当の入鹿は死んでしまっている。
>「天皇記」・「国記」を燃やすために屋敷に火を放ったのでは?とも思えます。
>都合の悪いことが書かれていたからです。
「天皇記」「国記」を編纂したのは蘇我馬子ですよ?
馬子が息子や孫にとって都合の悪いことを書きますか?
乙巳の変は蘇我氏が有る限り帝位につく可能性がまったくなかった
中大兄皇子が非常手段として起こした出来事でしょう。
この時代、天皇は軍を率いて出兵する最高責任者です。
現に皇極天皇も斉明天皇となったとき女帝ながら全軍を率いて筑紫まで行っています。
死が不浄だといわれだしたのは、天皇が合戦に出陣しなくなった随分後のことですよ。
この時代、天皇は地位を守るために率先して敵を血に染める役割を担っていました。
そもそも、このとき入鹿を斬ったとある中大兄皇子が天智天皇として即位するわけですから。
518 :
古代:2008/01/14(月) 22:42:27
「天皇記」「国記」を燃やしたのは蝦夷が屋敷に火を放って自殺したのではなく、中大兄皇子達では?という事がいいたかったんですが・・
まあでもない歴史書のことを言ってもしょうがないですね。
519 :
日本@名無史さん:2008/01/15(火) 08:06:17
天皇記・国記を日本紀に置き換えて考えてみよう
日本書紀の内容から判断すると舎人親王自身は名誉総裁的立場であり
直接執筆に深く関わっていたとは思われない
馬子の場合もこれと同じだったのだろう。
二書は東漢氏のやりたい放題な内容だったはずだ。
520 :
日本@名無史さん:2008/01/15(火) 09:24:18
その割りに東漢氏の活躍があまり描かれないのはなぜだ?
やりたい放題なら歴代大王の寵愛を受け、
お褒めの言葉をこんなに預かった、
という東漢氏の自慢話が随所に出てきてよさそうだが。
521 :
日本@名無史さん:2008/01/15(火) 10:36:54
二書って天皇記国記のことなんだけど…
まあ、日本書紀にも東漢氏の自慢話は複数みられます。
たとえば雄略紀には身狭村主青と桧隈民使博徳を寵愛した、とあります。阿知・都加親子は武内宿祢みたいな象徴的始祖と考えればよいでしょう。
話は飛びますが天武の「東漢氏は七つの悪事を働いてきたが許す」という発言は
天武の修史事業に東漢氏の所有する史料が必要だったからではないでしょうか?
522 :
日本@名無史さん:2008/01/15(火) 11:23:48
>>498、
>>502 過去のレスを見てごらん。
広瀬氏は「天智天皇が蘇我馬子の孫である」という系統に関する説を主張しながら、まっとうな系図を示すことができない。
彼の説において系図の提示が「愚問や揚げ足取りのような質問」であるはずがないが、応えることができないままだ。
ゆえに、とっくの昔に、論破完了している!!!
ここでは百済近肖古王の子供 温羅王というので使われていますね..
上に 広瀬満氏が言う蘇我馬子、木満致 全部登場する..
ところで 広瀬満氏は来ない? エンジョイ歴史版に遊びに来てください..
東韓というのは偉い名前 阿華というの...悲しい 仲哀 百済 中子係の子供...
ところで、石舞台は馬子の墓で決定なの?
石積みの墓はなんだか、大物主や出雲を連想します
528 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 06:51:34
鎌足の死因は水銀中毒
529 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 09:11:42
530 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 09:53:53
>>527 石舞台はもともと土が盛られて円墳であったものを、
乙巳の変のあと馬子の墓があばかれて、
古墳を破壊し石棺が丸見えになったのもだって
分かってる?
前方後円墳では なかったと。
じゃあ、大王ではないか。
532 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 13:07:50
533 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 13:24:42
>>527 石室がむき出しになった古墳は各地にあります。
例えば、関東の方なら行田市の八幡山古墳に是非。(さきたま古墳群から、北へ2km程度。)
中国地方なら倉敷市の有名な楯築遺跡を含む王墓の丘など、むき出しになった石室・石棺のオンパレード♪
534 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 14:03:03
作りの簡単な群集墳などでは
雨風で土が削られてむき出しになるケースも多いね
あとは周囲が開墾されてむき出しになるケースも有る
付近の農民が古墳だと知らずに小山を崩して開墾したら
石室が出てきたとか
535 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 22:29:10
日本史の謎解きは、やはり「蘇我」だろうな!
ある意味、「天皇家=天皇制」を造ったのは、「蘇我稲目・馬子」の親子でしょう!
大王家が途絶えて、継体天皇を福井から持ってくる。しかしその息子とされる欽明天皇から天皇制が実質始まる。継体天皇の息子でなく、稲目の息子、馬子の兄弟ではなかったのか?天皇家と蘇我一族の近親相姦によって特別な一族が誕生しついく。
そこには、あるのは流行りの密教たる仏教!
536 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 22:35:47
聖徳太子に至っては、用明天皇と穴穂部間人皇后の息子であり、両親とも蘇我馬子の姉妹を母とする完全な「蘇我一族」!彼の頭にあるのは、神道ではなく密教的な当時流行りの仏教!
大改はこの流れに対するあきらかなクーデター!
537 :
日本@名無史さん:2008/01/18(金) 10:32:13
up!
538 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 20:47:17
.
539 :
日本@名無史さん:2008/02/06(水) 12:53:15
>>530 石舞台古墳が馬子の墓で乙巳の変のあと暴かれたという記録がどこにあるのか?
根拠のない単なる想像だろう。
540 :
日本@名無史さん:2008/02/06(水) 14:18:54
>>539 石舞台古墳はその作造時期から飛鳥時代のもの。
石舞台古墳の一帯は蘇我氏の本拠地で、
すぐ北側に蘇我馬子の邸宅があった。
石棺の巨大さから言っても、相当な権力者の墓であることは
疑いようも無く、馬子の墓ではないというのならば
誰の墓だと思っているのか。
541 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 09:07:00
石舞台古墳が飛鳥時代に造られた古墳でその被葬者が相当な実力者であることは確かだ。
しかも蘇我氏の本拠地にあることからして蘇我氏の有力者の墓であろう。
考古学者の河上邦彦氏がこの古墳が南にある都塚古墳とよく似ていることから
石舞台古墳と都塚古墳が「日本書紀」に見える蘇我蝦夷と蘇我入鹿が生前に作った
ならびの双墓ではないかと言っていた。(飛鳥発掘物語)
542 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 11:34:01
>>527-541 最近の発掘では、石舞台のすぐ近くの遺跡は馬子の島庄でほぼ確定、
さらに、境部摩理勢が壊したという石舞台造営のための庵(宿泊所)らしきものが隣接して発掘されるなど、
石舞台=馬子の墓 という根拠が増えている。
まだ、確定ではないが。
いずれにしろ、石舞台が大物主や出雲ということはありえない。
543 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 18:48:05
>>542 石舞台古墳の近くに馬子の邸宅があったことは否定しない。おそらくそうだろう。
石舞台=馬子の墓とすると都塚古墳はいったい誰の墓か。
石舞台=蝦夷、都塚=入鹿と考えたほうがよいのでは。
544 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 19:01:22
>>542 いずれにしろ、石舞台が大物主や出雲ということはありえない。
↑ 同感、蘇我氏の実力者の墓であることは間違いない。
545 :
日本@名無史さん:2008/02/08(金) 10:30:03
>>543 石舞台=蝦夷、都塚=入鹿 ←某大先生の説ですね。
皇極元年(642)十二月に蝦夷が双墓(ならびのはか)を今来に造り、蝦夷と入鹿の墓とした。(預造双墓於今来。一曰大陵、為大臣墓。一曰小陵、為入鹿臣墓)
皇極四年(645)六月十三日に中大兄は、蝦夷と入鹿を墓に葬ることを許した(蘇我臣蝦夷及鞍作屍許葬於墓)
これが石舞台と都塚のことであると・・。気になるのは3点
1 都塚の築造年代は6世紀後半とされており、642年との開きが大きい。
2 石舞台と都塚は、谷や川をはさんで数百メートル離れており、双墓(ならびのはか)というイメージはきつい。
3 しかもこの場所が今来とよばれる土地であったのか。
また石舞台を馬子の墓でないとすると、それはそれでいろいろと不都合が増えます。
被葬者が分からない古墳は多く、無理に被葬者をあてはめても何の解決にもならない。
(真弓鑵子塚など、今後もまだまだ巨大石室の発見が続きそうですし・・。
http://www.shikoku-np.co.jp/national/main/article.aspx?id=20080207000340)
現状で最も蓋然性の高い考え方は、石舞台の被葬者は馬子、 都塚の被葬者は不明。
546 :
日本@名無史さん:2008/02/09(土) 10:25:05
>>545 1
↑年代の確かな古墳は皆無に近く古墳の築造年代を確定することは困難。都塚の築造年代を
6世紀後半とするのも石舞台=馬子と考えての推定だろう。
2
↑石舞台と都塚はほぼ同じ高さにあるので飛鳥中心部からみれば並んで見えたのではないか。
3
↑「今来」とは「新しく来た」の意味。都塚の場所は坂田。飛鳥時代鞍作氏の居住していたところと言われている。
被葬者が分からない古墳は多く、無理に被葬者をあてはめても何の解決にもならない。
↑同感。だからこそ石舞台=馬子という前提で飛鳥の考古学が考察されていることには疑問を感じる。
石舞台≠馬子で飛鳥を考えてみることも重要だと思う。
547 :
日本@名無史さん:2008/02/09(土) 23:36:40
某大先生=河上邦彦?
548 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 20:53:13
.
549 :
カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト:2008/02/17(日) 16:58:49
>>546 石舞台≠馬子だと考えろということだが、
石舞台≠蘇我氏だと考えろということ?
当時の豪族の配置から考えて
あの場所に蘇我氏以外の豪族が墓を造るとは考えづらいが。
攻め滅ぼされ、有力な子孫も残らなかった蝦夷や入鹿が
大規模墓に埋葬されているとも考えがたい。
551 :
日本@名無史さん:2008/02/17(日) 18:52:22
私もあの場所に蘇我氏以外の豪族が墓を造れるとは考えていない。
おそらく蘇我氏の有力者の墓だろう。
「日本書紀」の皇極元年(642)十二月条に
蝦夷が双墓(ならびのはか)を今来に造り、大きい墓を蝦夷の墓とし小さい墓を入鹿の墓としたとの記述がある。
石舞台古墳はこの蝦夷の墓の可能性を考えたい。
552 :
日本@名無史さん:2008/02/17(日) 20:33:34
553 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 10:40:04
都塚古墳は(一辺28m)は石舞台より小さい古墳だがとくに小ぶりというわけではない。
すでに盗掘を受けていたようだが残された遺物から現存の石棺とは別に木棺も置かれていたとみられている。
「日本書紀」には蝦夷と入鹿は即日墓に葬ることを許されたと書かれている。
蝦夷、入鹿の権力の象徴であった石舞台は中大兄たちによって破壊され、残された都塚に二人一緒に埋葬されたのではないか。
石室は小さいので石棺はひとつしか入らない。そこで木棺が用意されたのではないか。
「紀」には入鹿は斬り殺されたとは記されているが首を刎ねられたとは記されていない。
首塚は後世に作られたものと考えられている。
>>553 石棺と木棺があった=蝦夷と入鹿の2人が葬られていた
とするのはおかしくない?
その説だと、石舞台古墳は蝦夷の墓として作られたが
誰も葬られなかったことになる。
ところが、実際には石舞台古墳の中には石棺がある。
石舞台古墳の石棺の中に埋葬された人物は誰?
555 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 11:26:45
石舞台古墳の中には石棺は残されていない。
ただし石棺の破片らしきものが出土していることから石棺があった可能性がある。
その石棺に蝦夷が葬られていたとは考えていないがあらかじめ用意されていたのかあるいは妻の棺だったのかもしれない。
556 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 11:42:36
>>555 石棺があらかじめ用意されてあるものだったのならば、
都塚古墳に石棺&木棺があるから2人埋葬という根拠にはならないよね?
そもそも、石棺は死体を収めた後で羨道を通って石室に納められるもので、
もともと石室においてあとから死体だけを運んでくるものではないはず。
この時代、夫婦合葬の風習はない。
同時代の例としては推古天皇が父欽明天皇の陵にもともとは別のところに葬られていた
母を合葬したという記述があるが、わざわざ史書に書き残されたほど。
欽明天皇はもともと大后石姫皇女とも合葬されておらず、
推古の母蘇我堅塩媛との合葬は推古天皇の専横と取られたようだ。
この例を除いては、歴代天皇や豪族に夫婦合葬の例は見られない。
蝦夷の妻(物部氏)が眠る墓を中大兄皇子が破壊したとするのも不自然。
また、蝦夷より妻が早死にだったとする資料もない。
557 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 12:11:18
>>553 石室は小さいので石棺はひとつしか入らない。そこで木棺が用意されたのではないか。
石室内の石棺の位置から見て、同時に2つの棺(石棺と木棺)を置こうという意図には見えない。
二つの棺は埋納の時代が異なると見るべき。
(
ttp://shigakuorc.nc.otemae.ac.jp/st_chamber/nara/takaichi/298miyakoduka.pdf)
どうしても蝦夷と入鹿を同時に埋葬したと主張したいなら、藤の木古墳のように一つの石棺に2体入れた例ならある。
しかし、その場合は
1 都塚のもう一つの木棺の説明がつかない。
2 石舞台の石棺の説明がつかない。
都塚の年代が石舞台より50年近くズレていることに変わりはないし、
都塚と石舞台が飛鳥中心部から見ると並んで見えたのではないかというのも、景観シミュレーションぐらいやってくれないと、単なる思いつきだし、
坂田が今来という地名だったというのも根拠がないし。(このころ、このあたりに渡来人など珍しくないので、ここだけ今来と呼ばれる理由がない。)
558 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 18:24:34
>>556 石棺があらかじめ用意されてあるものだったのならば、
都塚古墳に石棺&木棺があるから2人埋葬という根拠にはならないよね?
↑石棺&木棺がそれぞれ一個づつあったなら普通なら被葬者は二人と考えるが?
そもそも、石棺は死体を収めた後で羨道を通って石室に納められるもので、
もともと石室においてあとから死体だけを運んでくるものではないはず。
↑古代の葬儀については不明なことが多い。石棺は死体を収めた後で羨道を通って石室に納められるもの
と言い切れる根拠は何か?
この時代、夫婦合葬の風習はない。
(欽明天皇の例をのぞいて)歴代天皇や豪族に夫婦合葬の例は見られない。
↑まったくの事実誤認。聖徳太子、天武天皇・持統天皇の例がある。
蝦夷の妻(物部氏)が眠る墓を中大兄皇子が破壊したとするのも不自然。
↑なぜ不自然なのか?
また、蝦夷より妻が早死にだったとする資料もない。
↑蝦夷より妻が遅死にだったとする資料もない。
559 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 18:50:42
>>558 557さんが言っていることについては?
都塚の築造年数が石舞台より50年新しいことに対する反論は?
蝦夷、入鹿の墓は双方の生前、同時期に作られたはずよね?
それに都塚は石舞台とは川を隔てていて
とても並んで作られたとは言えないよねえ?
560 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 18:53:11
>>558 >石棺&木棺がそれぞれ一個づつあったなら普通なら被葬者は二人と考えるが
>古代の葬儀については不明なことが多い。石棺は死体を収めた後で羨道を通って石室に納められるもの
>と言い切れる根拠は何か?
ほらほら、矛盾、矛盾w
石舞台でははじめから誰も葬られていない石棺が放置されていたとしているのに、
なぜ都塚では被葬者が2人?
あなたの説だと、都塚の石棺だって、誰も葬られずに放置されていたことになるじゃない。
561 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 18:58:24
>>558 石棺と木棺の設置時期が異なることについては?
557さんは、同時期に死んだ人をひとつの古墳に葬るなら、
ひとつの石棺に2人をいれた藤の木古墳がある。
だが、石棺ひとつ用の古墳に木棺があったのは
あとから木棺に眠る被葬者が追葬された可能性が高いと
おっしゃってるんだけど?
563 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 17:31:11
ho
>>535 反論
>欽明天皇から天皇制が実質始まる。継体天皇の息子でなく、稲目の息子、馬子の兄弟ではなかったのか?
欽明は509生、稲目は506生、稲目の娘2人を欽明に嫁がせているては言え欽明と稲目が親子とは考えられない。
(どちらかと言うと兄弟的な年齢関係!)
◆蘇我の名前はおかしい!〈韓子に高麗〉〈馬子に入鹿〉〈蝦夷〉〈稲目〉
こんな名前は親なら付けないよ!絶対に。史書の編纂時に付けられたんだろ。悪意を持って〜
馬子じゃないだろ。
韓子や高麗は実在しなかったんじゃないかな!
稲目から蘇我は始まると見た方がスッキリする。
568 :
日本@名無史さん:2008/08/10(日) 08:23:26
〜蘇る我〜
1500年の時を超えて!
>>1 俺は欽明と稲目を同一人物として仮説を考えている。
俺は兄弟だな!
571 :
日本@名無史さん:2008/10/14(火) 21:53:46
今日本書紀を読んでいる初心者なのですが書記の推古天皇の時代14年5月5日に
鞍作鳥に詔して「自分は仏教を興隆させたいと思い〜仏舎利を求めた〜叔母の
嶋女を出家させた云々」←これって天皇(推古)の発言ですよね?でもこれ
敏達天皇時代に馬子がしたことじゃないんですか?
なんか中国の遣隋使にもアメタリシヒコとかいう名前が出てくるし
官位十二階やら国記!(すごくないですか?家来がこんな事するの)
作ったり飛鳥寺や最先端の仏教はやらせたり・・・
素人にも”嶋の大臣”じゃなくて”嶋の大王”じゃないかと。
あと太子も馬子の子供では?一族が根絶やしにされたのは蝦夷との後継者
争いの結果だとか。トンでもですか?スイマセンm(_ _)m
572 :
広瀬 満 :2008/10/28(火) 16:41:19
573 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 16:18:54
ほー
もしも蘇我氏が、長屋王のような皇族だったのなら
物部氏も戦争に発展するほど対立できなかっただろうし
不比等といえど書記からその痕跡を消すことは不可能だろうと思う。
世間はもとより当の蘇我氏が残っているのだから。
大和南部の渡来系豪族で、
越からやってきた応神の子孫という男と、
大和盆地を掌握したら、
御輿として担いだはずの男の子供達に、
逆にやられてしまったというのが実際のところでしょう。
血筋の交錯した支配階級同士の争いが、
壬申の乱まで何百年も続いていたのでしょう。
576 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 23:54:37
>541
都塚は、規模も全然違う。見てきてみな。実見したらがっかりするから。
石舞台は、むしろ方墳の規模や石室の構造が赤坂天王山古墳とそっくりといわれている。
天王山古墳は、御破裂山(旧倉橋山)をはさんだ反対側にあり、何らかの関係があるのは、確実だろう。
ちなみに、地元では天王山古墳は崇峻天皇の御陵とされている。
577 :
日本@名無史さん:2009/04/06(月) 22:51:58
王城の地は、三輪から飛鳥へ移ったが、その間に短期間ながら倉橋の地に置かれた時期がある。
倉橋時代とも言うべきこの時代はもっと考察してしかるべきだと思うが?
それを邪魔しているのが、馬子天皇説。
馬子が天皇なんかで無かったと認めれば、日本史はもっと分かりやすい。
欽明と稲目の謎解が必要!
579 :
凶悪な知障麻生と鬼畜の身障天皇は死ね:2009/04/08(水) 16:28:44
・変態レイプ魔のクソ天皇が徘徊しています
・人殺し虐殺指導者のゴミ汚物キチガイ天皇が逃走中です
・顔面奇形障害者の天皇、皇后、皇太子が暴走中。目に毒です。
・淫売ブス売春婦(梅毒持ち)の不細工ビッチ皇后が不法営業中。保険局より。
・鬼畜クズ戦犯で凶悪犯罪者で殺人犯の天皇が逃亡しました。賞金10ドル。
・ニート精神障害者キチガイ馬鹿カルト不細工女の雅子皇太子妃が生活保護詐欺で逮捕。
・不逞バカ自意識過剰うんこ蛆虫カス野郎の秋篠宮が脱糞・失禁・食糞中。衛星上の難題。
・知的障害者で池沼でキチガイで精神障害者で変質者で変態で脳カタワの天皇が入院。
・ダメ人間クソガキ馬鹿キチガイ糞ゴキブリ廃棄物の悠仁が虐められています。
・知的障害者で発達障害者でアスペルガーで唯の馬鹿キチガイの愛子が発狂。
・戦犯鬼畜凶悪犯罪者で人殺し人でなし殺人鬼レイプ犯放火魔のクズゴミカス天皇は死ね。
・穢い臭いキモイ気色悪い病原菌の天皇・皇后・皇太子・秋篠宮・雅子・豚ビッチ紀子クソ淫売
・腐ったゴミ汚物の各種皇族 死ね
・鬼畜凶悪犯罪者で大量虐殺レイプ犯のクソ天皇は死ね!!!
580 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 23:55:19
実は非常に突飛な事を考えている。
石舞台のことなんだが、あれの被葬者想定。
石舞台が天王山古墳と密接な関係があるのは確実。
倉橋から飛鳥には時代が下っていると考えると、
石舞台の被葬者は、崇峻天皇の近親者ではないか、と。
で、579の吉外は無視して、続きしようぜ。
581 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 00:07:03
過疎スレ
582 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 00:15:00
今の天皇家には、蘇我の血は一滴も入っておりません。あしからず
東大寺創建の皇統の子孫でもありません。ヤマトタケルの男系末で
非天武系で天智系末、さらにーと〜
583 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 00:19:14
>579のやからは
日本で軍クーデターが起きれば、送信履歴から、責任もって処刑すか判断させます。
>>582 普通に入ってんじゃん。
稲目−馬子−倉麻呂−連子−女−藤原武智麻呂・房前……(以下略)……今上天皇
585 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 01:45:51
586 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 08:30:24
>>584 585
学制さんかなあー 教科書や簡単な歴史書は、歴代天皇を直列つなぎで番号順に示しいるが
多くの側室が天皇にはいて、並列つなぎで並べ替えてみてください。歴代天皇記を参考されてはー
587 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 08:41:59
>>584 585
ですから、蘇我系天皇は即位させても、意図的皇統からはずされ、蘇我でない側室が生んだ
男系天皇がつないで即位です。蘇我から渡来を匂わせたいなら、宮内庁公認の桓武天皇の実生母は
新羅王家末の高野がいます。平将門も清盛も子孫で 南朝も北朝の皇統も、その桓武天皇の子孫
588 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 00:50:44
高野新笠は百済系じゃなかった?
高野(こうや)
交野(こうや)
広野(こうや)
みんな同音、誰かどうしてか知らないか?
589 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 08:58:20
>>588 私も間違えそうだかー新羅王家ですね。高句麗亡命王家が大和にいたが、朝廷の
外交政策から、秦荘のある滋賀に集団移住になり、さらに北関東移住にー将門の
有力武士団になり、彼らが鎌倉の関東武士の原型決めた部分もあり、高句麗王家
子孫は神社本庁の要職に。
591 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 00:01:34
>>590 590は憲法第1条違反で、警察に告訴しましょう。
在日三国人の外国籍なら、強制国外追放願います。
今軍クーデター起きたら、その時は配信履歴から同胞含め
どの宗教が調べ全員処刑するかいなか決めますわ
592 :
日本@名無史さん:2009/05/16(土) 00:48:58
>589
>>588 私も間違えそうだかー新羅王家ですね。
確か今上が高野新笠の事に触れたとき、喜んだのは全裸道の連中だったが?
593 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 00:08:56
いいなあ。全裸道・・・
594 :
soopllofeiv:2009/07/06(月) 22:04:03
天皇は在日シナ人です
595 :
soopllofeiv:2009/07/06(月) 22:05:53
邪馬台国以後 大陸からきた渡来人一族は
土着の日本人達を優れた大陸の戦術と馬で押さえていった
そして生まれたのが大和朝廷である
朝廷という言葉は古代中国のまつり事を行う場所をさす
最近レッドクリフという映画が出てきたが、そこにもソレ系の話が出てくる
上記は当初 天皇家が血筋とイイのでと述べ
日本人と性交しなかったのにも関係がある話かもしれない・・
天皇は初め仏教で国をマトメタが
仏陀が天皇を神格化して呉れないので
神道を新たに持ってきた
現在どんどん海外のロイヤリティが出入り禁止にしている
日本の天皇(低能平下)&美智子一族
596 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 00:13:09
>>595 >神道を新たに持ってきた
三輪山信仰ってのは仏教伝来より遥かに昔だよなw
597 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 19:17:42
三輪山信仰を知らない奴は日本人じゃないからな。
598 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 19:24:01
>>588 高野(こうや)
交野(こうや)
広野(こうや)
みんな同音、誰かどうしてか知らないか?
・・・歴史的かな遣いではカウヤ、キャウヤ、クワウヤと同音ではないな。
山鹿素行 『中朝事実』 (→吉田松陰、乃木希典に続く)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6938281 http://www.youtube.com/watch?v=t8zEJ6UnaiI 皇統(上) 皇統章
故に皇統が一度(ひとたび)定まって億萬世之れに襲(よ)って変ぜず、天下皆正朔
を受けて其の時を二つにせず、萬國王命を稟(う)けて其の俗を異にせず、三綱終に沈
淪せず、徳化は塗炭に陥らず、外国の到底企て望み得ることではない。夫(そ)の支那
では天子姓を易ふることを殆ど三十で、戎狄が入って王となった者が数世ある。春秋の
二百四十余年に臣子が其の國君を弑した者二十又五もある。其の先後の乱臣賊子に至っ
ては枚挙することは出来ない。朝鮮では箕子(きし)が天命を受けて王となって以後、
姓を易ふること四氏、其の國を滅して或いは郡縣となり、或いは高氏は滅絶することが
凡そ二世、彼の李氏は二十八年の間に王を弑する者四度あった。況んや其の先後の乱逆
は禽獣の損ない合うと異ならない。唯我が中國(なかつくに)は開闢からこのかた人皇
に至るまで二百万歳にも近く、人皇から今日まで二千三百歳を過ぎてゐる。而も天神
(あまつかみ)の皇統は違(たが)ふことなく、其の間に弑逆の乱は指を屈して数ふる
程もない。其の上外国の賊は吾が辺藩をも窺ふことも出来なかった。後白河帝の後に武
家が権力を執って既に五百余年にもなる。其の間に利嘴長距が場を壇にしたり、冠猴封豕
が火を秋の蓬に縦つ類のないこともないが、それでも猶ほ王室を貴び君臣の儀を存してゐ
る。是れは 天神 人皇の知徳が顕象著名であって世を歿するまで忘れられないからであ
る。其の過化の功、綱紀の分がこの様に悠久で、このやうに無窮であるといふことは皆至
誠から流れ出たからである。三綱が既に立つときはその条目は治政の極致として著はれる。
凡そ八紘の大なるも、外国の汎きも中州に如くはない。皇綱の化文武の功、其の至徳、何
と大きいことではないか。
→中国や朝鮮では易姓革命が度々起こり、乱臣による弑逆も度々起こった。
一方、日本の皇統は神代以来一度も変わることなく萬世一系である、ということを示す。
萬世一系の皇統を以て日本が中朝である事実、即ち「中朝事実」を示している。
601 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 13:08:43
廃太子となれば、歴史上に残る平成の乱。
ν速+【皇室】天皇陛下の級友が進言「皇太子さまの選択肢は別居治療 離婚 廃太子」
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1247280392/ 選択肢の1番目、別居については、〈「皇太子妃、そして妻、母という三つの役割を
同時に果たす今の状況での治療は中途半端です。一度すべてから離れたほうがいいのでは」〉。
離婚〈「現行の皇室典範では、理論上も無理」〉〈「だが、皇室会議を経て結婚が認め
られるように、離婚という議論が行われてもいいはず」〉
3番目の廃太子。あまり聞きなれない言葉だが皇太子がその地位を廃することで
〈現状でいえば、秋篠宮さまに皇太子の座を譲ること〉〈「今の状況下では、
これがいちばん現実味があるのでは」〉。橋本氏はこの本をきっかけに
〈これからの皇室のあり方について国民的議論が起こることを願っている〉という。
602 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 15:28:46
603 :
馬鹿な学者の妄説信者へ:2009/07/12(日) 14:10:54
聖徳太子の未来記
その時、魔王波旬は仏法によって釈迦の仏法を破り、日本を乗っ取って鬼の
国にしようと願う。故に3人の眷属を使う。邪法を授けて日本の衆生を惑わし、
三悪道に落さんと欲する。
親鸞法師、阿弥陀仏の念仏を唱えさせ、戒律を守らず、女犯を許し、斎食を
行わずして肉味を喰らう。法を破って肉食する事が戦争が起きる因縁(怨霊が恨
みを晴らす)であり、亡国の基である。日本の末世には六天の魔王が猛威を振る
い。日本人の悲劇を見て外国人が喜ぶ。畜生顔の人が物を言う。夜半に太陽が
出る。地獄の苦しみに耐えて誠を尽さねば罪を償えない。早く改心する者程楽
になるぞよ。
人の先祖は神であり、生物は神魂の宿った同類である。この様な教の神道が
あるのになぜ仏教が普及したのか。外国に侵略され、仏教の邪法と煩悩に迷わ
されのである。
乙巳の変は三韓の献貢の日に、倉山田麻呂、犬養連勝麻呂と佐伯連子麻呂が
天皇の御前へ進み、子麻呂は将書を読もうとしたが、汗が出て体が震えて出来
なかった。入鹿がなぜ震えているかと問い。天皇の近くで恐縮し、入鹿の威厳
に恐れたと言った。その時中大兄皇子が飛び出て、入鹿を斬殺した。子麻呂ら
3人は三韓の使者であり、将書は天皇に渡す物である。入鹿大臣が同席する必
要なし。子麻呂は天皇殺しが恐ろしかったのだ。子麻呂と中大兄(百済豊璋)は
仲間で、鎌足(新羅武列)も然り。
年号は天皇名と一致する筈だが、変後に九州年号が使われたのは天皇暗殺の
証拠。
2・26事件は百姓一揆である。景気悪化のしわ寄せを米価引き下げによる農民
苛めによって消費者を助けて凌ごうとしたのである。昭和天皇は弱者を見殺し
にする冷血漢である。
天皇はアメリカとの密約で原爆投下まで降伏するなと命令されていた。朝鮮
人の天皇は日本人が幾ら死のうが平気なのである。本当なら自決する筈である。
604 :
日本@名無史さん:2009/07/18(土) 21:38:37
>554 :日本@名無史さん:2008/02/18(月) 11:07:43
>>553 石舞台古墳の石棺の中に埋葬された人物は誰?
聖徳太子
605 :
日本@名無史さん:2009/07/20(月) 01:03:50
>603
鬼塚英昭のトンデモ本か?
606 :
日本@名無史さん:2009/07/20(月) 05:58:25
★今上天皇と皇太子には皇位継承権がない。
★悠仁親王は正統な皇位継承者。
★日本が主権を取り戻すためには、小和田一味の策謀を粉砕するためには、皇室の秘密を明らかにするしかない。
★東宮家以外は秘密がバレる前に、一時的に、自主的に野に下るべき。
★下野することによって、国民に反省している姿を見せるべき。
★野に下る皇族のうち、偽者で高齢の者は、自主的に出家して、誠意を見せるべき。
★東宮が調子に乗って、天皇になったところで、秘密を暴露し、東宮一味を粛清する。
★野に下った皇族のうち、本物の皇族は旧皇族と協力して、宗教法人もしくは財団法人を設立し、皇室制度を維持するべし。
★皇族以外の誰かにバラされたら、皇室制度の廃止は避けがたい。
607 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 19:12:14
上のアホはほうっといて、次行こう。
蘇我氏の出自は未だにはっきりとした説が無い。これについては如何に?
百済出身なんてくだらない説は頼むから無しね。
608 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 21:49:11
>>565 >>◆蘇我の名前はおかしい!〈韓子に高麗〉〈馬子に入鹿〉〈蝦夷〉〈稲目〉
・・・韓子、高麗というのは半島渡来の倭人という意味だろうな。
609 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 22:41:17
まあ蝦夷はねえだろうな。
今でいうなら『鈴木野蛮人』みたいな名前ってことだぜ。
蘇我氏の名前はおかしい。
なんの記録が基準なんだろ。
最初から蘇我氏悪人のストーリーで伝授されてる
物語りなんじゃね?
610 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 21:34:13
馬子に入鹿って・・・
要するに馬鹿って事だからな。
書紀を編纂したやつもそのつもりだったんじゃね?
611 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 20:55:56
どの名もみんな、普通の人間じゃない。
外国の人間か、僻地の野蛮人か。
そういう名前ばかり集めたような・・・
ま、創作だろうな。
>>607 >百済出身なんてくだらない説は頼むから無しね。
当時は百済も加羅も倭国も支配層は同族と考えられのでは?
613 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 21:03:15
今さら日鮮同祖論かい。止めてくれよ。
614 :
日本@名無史さん:2009/10/14(水) 09:44:54
皇居の位置的損失、年間200億円。
皇室のお出まし損失、年間400億円。
皇室が抑えてる土地周辺の経済的損失60億円。
皇室に払う税金収入、5千億円。
民主党にお願いする。公共事業よりも、たった一つの
人間一家がこれだけの損失を日本国民に与えてる事実を公開しましょう。
皇居は国民が使える公園にすればよい。天皇は元々京都の人だから京都に帰せばよい。
615 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 23:43:11
だから、早く京都に帰せって言ってるだろう。
皇室を江戸なんぞに置いてとくから日本がおかしくなるんだ。
さっさと皇室を戻して、田舎は元の田舎に戻れ。
616 :
日本@名無史さん:2009/10/18(日) 21:04:56
>614
そう、君、いい事言う。天皇京都帰還運動を開始しよう。
実現すれば、首都移転問題も中央集権の問題も全て解決する
東京の繁栄の源泉は、いまだに生けている戦中の統制経済にある
天皇を京都に帰すことが、その強固な既得権の破壊につながる
618 :
日本@名無史さん:2009/10/19(月) 08:33:11
今の天皇家には蘇我馬子の濃い血が流れている。
入鹿が暗殺されて宗家は滅亡
壬申の乱で分家も衰弱したが、藤原不比等の子孫が蘇我家の血を伝えている
不比等の妻は、入鹿の従兄弟の娘だそうだ。
[偽書とされる書における檀君] <清の嘉慶5年(1800年)に命名された地名「長春」が見え>
<20世紀に入ってから作られた男女平等、父権などの用語が使用されている>
『桓檀古記』に含まれる「檀君世紀」上編[2]によれば、檀君朝鮮は始祖王倹より古列加まで47代続いた王朝であったという。
しかし、同書や同じく『桓檀古記』にある「太白逸史」には清の嘉慶5年(1800年)に命名された地名「長春」が見え、
「太白逸史」の引用書「朝代記」に至っては男女平等、父権などの近代になって登場した用語が使用されている。
このことから、20世紀に入ってから作られた新しい偽書であることが確実視されている。
[偽書とされる書における檀君] <清の嘉慶5年(1800年)に命名された地名「長春」が見え>
<20世紀に入ってから作られた男女平等、父権などの用語が使用されている>
『桓檀古記』に含まれる「檀君世紀」上編[2]によれば、檀君朝鮮は始祖王倹より古列加まで47代続いた王朝であったという。
しかし、同書や同じく『桓檀古記』にある「太白逸史」には清の嘉慶5年(1800年)に命名された地名「長春」が見え、
「太白逸史」の引用書「朝代記」に至っては男女平等、父権などの近代になって登場した用語が使用されている。
このことから、20世紀に入ってから作られた新しい偽書であることが確実視されている。
621 :
日本@名無史さん:2009/10/19(月) 11:53:44
●蘇我氏(そがうじ)日本大百科全書
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%98%87%E6%88%91%E6%B0%8F/ 大和(やまと)国家から飛鳥(あすか)時代にわたる有力氏族。姓(かばね)は臣(おみ)。
後世の系図では、孝元(こうげん)天皇の孫(または曽孫(そうそん))の武内宿禰(たけしうちのすくね)を、波多(はた)
・巨勢(こせ)・平群(へぐり)・紀・葛城(かずらき)氏とともに祖先とし、武内宿禰の子の石川宿禰に始まるとする。
その起源は、奈良県橿原(かしはら)市曽我(そが)または大阪府南河内(かわち)郡の石川流域とする両説があったが、
百済(くだら)の高級官人木満致(もくまち)が5世紀末に渡来し、大和の曽我に定着したのに発したとの説も有力である。
氏名の蘇我は、曽我、宗賀、巷宜、巷哥などとも記される。
>>621 それ書いてるやつの名前が読めないんだけど
623 :
日本@名無史さん:2009/10/21(水) 18:40:43
624 :
衣笠宮:2009/10/27(火) 00:04:42
聖徳太子≒押坂彦人大兄皇子は多分違うと思うけど
私の次の疑問に答えていただきたく
■どうして麻呂子(椀子)皇子があんなにたくさんいるのか?
7、8人はいるでしょ。このことによる系図上の混乱があってもおかしくないけど..
■どうして推古天皇の子であり竹田皇子の弟である葛城、尾張皇子は
全く天皇の候補になっていないの?、また、どうして尾張皇子の娘と聖徳太子との間に
生まれた白壁王が全く日の目を浴びていないのか? 血筋的には最大の候補と思うけどね。
■どうして舒明天皇の兄であり皇極、孝徳天皇の父である茅渟王は情報がないの?
歴代の政権担当の藤原・平家・源氏・足利・徳川みな天皇家と姻戚関係をもっているだろ!
【日本国家の成立】
〜日本民族の統一〜
@神武朝(神話)
A崇神朝(大和朝)
B応神仁徳朝(筑紫朝)
C顕宗仁賢朝(播磨朝)
D継体欽明朝(越近江朝)→天智・天武→聖武・桓武→明治(維新近代化)→現在に至る。王朝内は男系にて繋がっており、各王朝間は女系にて繋がりを維持。125代!
蘇我が欽明朝成立に関わったのは事実。しかし蘇我王朝の夢が潰れた時に、日本は大きく動きだす!
国記、天皇記
629 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 01:48:30
ん?
>>1 >この説に対する批評、意見を広く求めます。
いいしせいだ
631 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 23:41:21
ほー
632 :
日本@名無史さん:2010/04/09(金) 23:28:02
蘇我馬子の血統を受け継ぎ、皇室にも血統を伝えた藤原氏は蘇我氏の
末裔として名誉回復に動くべき。
んっ!蘇我氏の悪口をさんざん正史に記録させたのは蘇我氏から正室を
迎えた藤原不比等じゃないか?!
633 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 01:22:26
>>611 >>外国の人間か、僻地の野蛮人か。
・・・外国、僻地を平定したという意味だろうな。
【日本国家の成立】
【日本民族の統一】
@神武朝(神話)
A崇神朝(大和巻向朝)
B応神仁徳朝(筑紫朝)
C顕宗仁賢朝(播磨朝)
D継体欽明朝(越近江朝)→天智・天武→聖武・桓武→明治(維新近代化)→現在に至る。王朝内は男系にて繋がっており、各王朝間は女系にて繋がりを維持。125代!
蘇我が欽明朝成立に関わったのは事実。しかし蘇我王朝の野望が潰れた時に、日本は大きく動きだす!
蘇我は後世から「馬鹿」命名されたからな!
蘇我・「馬」子
蘇我・入「鹿」
636 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 08:34:10
本家の入鹿が滅ぼされた後に分家の石川麻呂、連子、赤兄が大臣に
なっている当時の蘇我氏の名門ぶりは異常。
後世の藤原氏や源氏みたいな存在か。
637 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 08:35:45
平成天皇はどこの馬の骨かもわからないよね
>>635 まさか本気でそう思ってるわけじゃないよな?
浩宮を廃太子に賛成!
蘇我の名前てみなおかしいんだよね。
変な名前ばかり付けられている。
親なら決して付けない名前だらけ!
641 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 14:40:27
当時は蘇我だけではなく、みんなヘンテコな名前だよ。今の基準で話すなよ。
642 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 00:52:39
日本最強の軍事氏族の物部を滅ぼし、天皇すら言いがかりをつけて殺せるほどの
力を持った馬子が政治に無関心であったはずがない。
遣隋使や17条憲法なんかは最高権力者の馬子がやったことなんだろ?
馬子だったらもっと早くやってたんじゃないか、って意見もある。
蘇我一族の名前は、特におかしい!
アソコまで変な名前の一族は無いだろ。
645 :
日本@名無史さん:2010/04/27(火) 00:38:32
冠位制を超越した立場にある蘇我氏の族長が世襲した紫冠が
見てみたい。
日本の歴史2000年のなかで、馬子は天皇を暗殺した唯一の人。
戦前は、足利尊氏のように評価が低かったのかな。
647 :
日本@名無史さん:2010/04/29(木) 18:06:34
>>624 どうして麻呂子(椀子)皇子があんなにたくさんいるのか?
>麻呂子という名前は「太郎」のように男子を代表する名前だったって言う
説がある。諱を出せない時代だから。識別は養育氏族や部で判断。
また、どうして尾張皇子の娘と聖徳太子との間に
生まれた白壁王が全く日の目を浴びていないのか? 血筋的には最大の候補と思うけどね。
>白髪部王ではなくて?
彼のことは知らないけど、名前から夭折したのかと思っていたのだけど。
■どうして舒明天皇の兄であり皇極、孝徳天皇の父である茅渟王は情報がないの?
>大俣王という漢王の妹と押坂彦人皇子が両親ですよ。
確か桑田王という妹がいたはず。
舒明に関しては実弟についても名前以外の情報がなく、その後も出てきません。
彼が死んだ後も、一切名乗り出ることなく。妻の弟が即位したときでさえ、
ちらとも出てこない、欲のない人たちでした。
648 :
日本@名無史さん:
蘇我系天皇が即位しても、皇統は蘇我の血を避けて繋いでいますね。