♪邪馬台国ドンと来い♪ 13

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1プラム ◆TOfHBAKZgM
妄想なしで

どおぞご自由に
2プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/22(月) 11:45:24
過去スレの補足や備考は誰か(^-^)/
3日本@名無史さん:2007/01/22(月) 12:00:13
プラムさん乙です。

どなたか熊耳尊をお願いします。
4橿原一派 ◆6Zok7FAjsY :2007/01/22(月) 15:46:23
>>1プラム ◆TOfHBAKZgM
乙です。引き続き拝見させていただきます。
5日本@名無史さん:2007/01/22(月) 15:57:27

.   ∩____∩: :.+
ワク. | ノ      ヽ+.:
:.ワク/  ●   ● | クマ
  ミ  '' ( _●_)''ミ クマ
. /  ._  |_/__ノヽ 
 -(___.)─(__)─

九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
  出来るだけソースを出して後はお好きに!
※携帯からコピーしました。
前スレURLや過去スレ一覧などは頼みます。
6日本@名無史さん:2007/01/22(月) 15:57:36
   ―――――♪邪馬台国、どんと来い♪―――――
 
 ''';;';';;'';;;,.,       ・・・・・・神武東遷(想像図)・・・・・・
   ''';;';'';';''';;'';;;,.,   ドッ
   ;;''';;';'';';';;;'';;'';;;          畿内だー!
    ;;'';';';;'';;';'';';';;;'';;'';;;
      vymyvwymyvymyvy     
ドッ    n_n,n_n、n_n,n_n、n_n,n_n、        それー畿内へ逝け !
      ∩_∩^−^∩_∩^−^∩_∩^−
  ドッ   ∩__∩ ∩__∩ ∩__∩ ∩__∩
         ∩_ ∩__∩ ∩__∩ _∩ ∩_    ドッ
     ∩___∩    ∩___∩ ∩___∩ ∩___∩
     | ノ      ヽ   | ノ      ヽ | ノ      ヽノ      ヽ
     /  ●   ● | /  ●   ● |  ●   ● | ●   ● | ドッ
    |    ( _●_)  ミ |    ( _●_)  ミ  ( _●_)  ミ  ( _●_) ミ
    彡、   |∪|  、` 彡、   |∪|  、`\ |∪|  、`\ |∪| 、`\
   / __  ヽノ / / __  ヽノ /´>  ) ヽノ  / ノ //ヽノ /´>  )
   (___)   / (___)   / (_/_)   / (_/    / (_/

前スレ
♪邪馬台国、ドンと来い♪ 12
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/history/1168400239/l50
7日本@名無史さん:2007/01/22(月) 16:17:13
   ,.'´,^!´ヽ
   i卅<0>》
   川^ヮ^ノ!  <まだ議論してるの?
  巛(づ○つ
   ./_,バ)
   ん,__!_リ
8日本@名無史さん:2007/01/22(月) 19:19:35
妄想なしですか・・・・ きついなw
9日本@名無史さん:2007/01/22(月) 20:26:12
最近、古代史スレって、新コテ増えてない?
10日本@名無史さん:2007/01/22(月) 20:48:07
このスレ、プラムさん立てたの?
11日本@名無史さん:2007/01/22(月) 20:55:05
プラム ◆TOfHBAKZgMさん、GJ!

おーい!太国。なんか書けよ。
12日本@名無史さん:2007/01/22(月) 20:55:50
神武は漢では劉邦のこととか、
鏡は帯方郡産とか、最近はコテも冴えてるね。

でも東遷説とかまだ拘るんだろうな。
13日本@名無史さん:2007/01/22(月) 21:12:24
「とおせんぼ」とは「東遷ぼ」から来ている。

              民明書房刊「日本にもあったダ・ヴィンチ・コードより」
14日本@名無史さん:2007/01/22(月) 21:31:08
>>13
ぜひコテハン「月光」を名乗ってくれ
15日本@名無史さん:2007/01/22(月) 21:44:47
今までで残されている課題点

@二倍年暦についての可否

A邪馬台国への行程計算術

B箸墓ミステリー。「箸」を卑弥呼は使ったのか?

C三角縁神獣鏡、景初3年〜4年の狭間

君は生き残ることができるか・・・
16プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/22(月) 21:48:32
大和さん 『景初四年』の検証  こっちにカキコ

足りない頭だからスグ混乱して・・・ ちょっくら整理してみます。

【十二月、詔曰:「烈祖明皇帝以正月棄背天下、臣子永惟忌日之哀、其復用夏正;雖違先帝通三統之義、斯亦禮制所由變改也。又夏正於數爲得天正、
其以建寅之月爲正始元年正月、以建丑月爲後十二月。」】

詰まり、 明帝の崩御は 殷暦:(景初三年)建丑の月の元日。 このまま暦で法要を行うと次の年(正始元年)建丑の月の元日に行う事に也、これでは嫌だと
皇太后から物言いが入り (詔)を、
十二月をもう一つ(後十二月)を作り、正始元年元日から夏暦を採用し、
かぞえ十三ヶ月めの(後十二月/殷暦では建丑の月))命日に法要を行おうと計画した

   子  丑  寅  卯  辰  巳   午  羊  申  酉  戌  亥

殷暦 12 正月  2   3  4   5   6   7  8  9  10  11

夏暦 11  12  正月  2  3   4   5   6  7  8  9  10     
17日本@名無史さん:2007/01/22(月) 21:50:22
箸には竹筒や樽と言う意味もあるね。
どんなにガバガバでも、樽がアソコに入れるのは無理だけど。w

三輪の神様は化粧道具入れに入ってたんだから、ここで言う箸は白粉か紅を練るための
竹べらか何かだと思う。
18プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/22(月) 22:00:09
>>16 訂正するよ

夏暦 は 夏正
殷暦 は 殷正 に
19プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/22(月) 22:12:58
>>13

>「とおせんぼ」とは「東遷ぼ」から来ている。

じゃあ 「とうせんぼ」は「東遷」の後に出来た言葉なんだね?
20大和:2007/01/22(月) 22:40:44
プラムさん 乙です。宜しくです。

>>16
改めてResを。

21日本@名無史さん:2007/01/22(月) 22:46:45
四倍年暦くらいまで、認めてほしい。
22九州出身:2007/01/22(月) 23:52:21
>>19>>13
「とうせんぼ」は「東遷]からきてる?
23日本@名無史さん :2007/01/22(月) 23:57:36
倍暦なんて、専用スレで十分
見たくもないし、読みたくもねー
24プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/23(火) 00:02:09
>>22

私も>>13からの返事を待っています。
25日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:06:25
『倍暦の根拠』

イザナギイザナミの黄泉国ので千五百の産室と千人絞殺の
宣言からの数字の比率 1500:1000=3:2 に因む。

「船戸」はフナ戸で2・7戸を意味し、2×7=14 の、1ヶ月が2週間の
2倍暦を黙示する神名である。


これは日本史の常識ですと太国さんが言ってましたw
26月光:2007/01/23(火) 00:08:19
神武天皇が東遷したさい、難波で難破した。これが難破の語源である。

             民明書房刊「浪花のイワレ」より
27九州出身:2007/01/23(火) 00:14:27
イザナギイザナミの離婚・・・なぜイザナミは出雲に・・・
28月光:2007/01/23(火) 00:16:46
魏の使者が伊都国に着いたとき、「噂の女王国はどこにあるか」と倭人に訊いた。
倭人は、奥座敷に異人を上げまいと「女王国へは二ヶ月かかる」と嘘を言った。
方角もでたらめを言った。「山遠い国ですから」とも言った。
この「山遠い国」が「邪馬台国」と誤って伝えられた。

             民明書房刊「遥かなる山の呼び声」より
29日本@名無史さん:2007/01/23(火) 01:09:46
>>27
伊邪那美は離婚したのではなくて、火の神を生んだやけどが原因で
死んでしまい死者の国(黄泉の国)に行った。
伊邪那美は神様だから、死ぬというのはちょっとおかしいとは思うけど。
30雷電:2007/01/23(火) 01:17:42
>>28
むう…噂には聞いておったが。
31奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/23(火) 16:25:26
>>15 年代遡上の可否
(その1)
素朴な疑問なんだけど、巻向石塚、矢塚、勝山とかホケノ山、箸墓なんかを200年代に
持ってくると、300年代の古墳が少なくなりすぎないか?
年代遡上の人達の考えだと、特に280〜380頃の古墳がほとんどなくなるんじゃないの?

昔、古墳時代を300年からとしていた根拠は、400年頃以降の馬具や土器などで年代が
はっきり判明している古墳と同レベルの速度で築造が続いてきたという前提で遡ると、
300年あたりに始点が来るというのも根拠の一つだったはずだが。
32日本@名無史さん:2007/01/23(火) 20:05:45
実家に帰ってしまった嫁のイザナミを連れ戻しに行ったように読めるよね
かなり情けないけど
33大和:2007/01/23(火) 20:38:26
天平人はミソもクソも一緒にしてた、箸と籌木。

大阪柏原・安堂遺跡のゴミ捨て遺構から杓文字と箸(18〜20cmぐらい)と木簡を採取。
天平八年(西暦736年)九月・若狭の国からの木札。(柏原市歴史資料館展示中)

書紀編纂720年、書紀編纂時には知識人の間では使用していたことが窺える。
34恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/23(火) 21:29:43
>>32
>実家に帰ってしまった嫁のイザナミを連れ戻しに行ったように読めるよね
>かなり情けないけど

俺もそんな感じがする。
そして結局失敗して、1人で逃げ帰って1人寂しく人生を終えた。
今日では、当たり前のことじゃないの?
35プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/23(火) 22:21:36
>>33 大和さん

>籌木

どうやら(籌木)は日本独特の名称みたいだよ? 中国漢籍から拾えないから
36日本@名無史さん:2007/01/23(火) 22:42:38
秦の始皇帝は東海に蓬莱・方丈・瀛洲の三神山があって仙人が住んでいる
ということを聞き、方士を不老不死の薬を探しに行かせた。
最初に不老不死の薬を探す旅に立ったのは燕の国人、盧生であった。盧生
は秦皇島から出発したが、たどり着くことができなかった。
盧生に次ぎ、徐福が始皇帝に派遣され、不老不死の薬を求める旅に立った。
初回の旅では徐福は不老不死の薬を見つけることはできなかったが、帰国
後、始皇帝に「蓬莱の仙山に登って不老不死の薬を見つけたが、優れた男
女と職人を連れて行かないと仙人が薬をくれない」と伝えた。
秦の始皇帝は若い男女3000人のほか、優れた職人を選抜して、徐福と共に
不老不死の薬を探す旅に行かせた。
二回目の旅で、徐福はまたもや失敗したが、竜と鯨に阻まれてたどり着け
なかったと始皇帝に報告した。
三回目の旅に秦の始皇帝自らが参加したが、不老不死の薬がなおも見つけ
ることはできなかった。結局、徐福は3000人の男女と中華に戻らなかった。

現在、ホピ等の北米インディアンが甲骨文字を用いていた事が研究により
わかてきた。中華は古代、東海を渡り、美国に到達していたのだ。
鉄の使用、銅貨の使用、桃の栽培、長城の建設、中国語に似た言葉を話す
部族。徐福が到達した扶桑の地、蓬莱は美国にあったのだろう。

そして美国西岸で用いられた鉄は朝鮮・倭で産したものが見つかるかもし
れない。
37プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/23(火) 22:59:30
>>36

>結局、徐福は3000人の男女と中華に戻らなかった

昔の風船おじさんは団体で飛んだのね
38一応九州王朝説:2007/01/23(火) 23:16:14
別に風船で飛んでったわけじゃ・・・
39奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/24(水) 01:17:49
>>31 の続き。   ひとつの指標として、崇神天皇稜について。
1、崇神の活躍年代は?
2、被葬者は崇神でいいのか?(いまいち分からない)
3、いつ頃の築造か?
4、箸墓との年代差は?(箸墓の10年後くらいか?)

崇神の実在性を否定する説はほとんどないから、崇神稜が決まれば芋づる式に
箸墓、ホケノ山、石塚あたりまで年代が決まってくると考えているのだが。

今のところ、崇神(350〜370頃)、箸墓(340〜360頃)、ホケノ山(320〜340)
位に一応考えているが、没年干支を信頼すると20年位遡るのが悩みの種。
40恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/24(水) 02:23:27
>>39
>今のところ、崇神(350〜370頃)、

俺の安本式年表じゃ崇神天皇は西暦384年死亡だが、あなたのは神村式年表368年死亡なのかい?

確かにこちらの方が信頼性はあると思うが、神武天皇の死亡年が俺のとはずいぶん違ってしまう。

−−−−−(引用開始)−−−−−
私の年表から割り出すと、崇神天皇は368年に没しています。これは、崇神稜の考古学
的年代である4世紀後半に一致しています。
http://www.tg.rim.or.jp/~picno/index03.html
41奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/24(水) 04:06:59
>>40 私は、巨大古墳の築造に10〜20年かかると考えています。
起点のアマテラスが魏志の「卑弥呼」ではなく、その1、2代前である点が恵也説との
違いですね。なお、安本は「応神天皇の秘密」では355頃没と少し変えています。

築造は没後(生前だと不謹慎)に開始して、完成までの間は、仮の安置廟
(もがり宮ではない)をつくり、古墳築造後に遺体を移したと考えています。

当然、仮の安置廟にお参りする人もいたであろうと考えて、さらには、
後の神社のような存在ではなかったか、とも考えています。Zzzzz
42日本@名無史さん:2007/01/24(水) 06:34:04
初歩的な話だと思いますが、さっき気がついた。

持統天皇の和風諡号て「高天原」なんですね。
これは作為的に贈られた諡号でしょうか?
43日本@名無史さん:2007/01/24(水) 06:39:32
>>42
作為的もなにも…
高天原観念、及びアマテラス神格が完成したのは
持統期ではなかったかという説があるくらいで。
その手の論者は少なくないです
44日本@名無史さん:2007/01/24(水) 06:43:29
>>36
方士はいわゆる鬼道の実践者であり、漢でこれを司っていたのがまさに
公孫氏。卑弥呼の邪馬台国が鬼道巫女の王国とされたのも、東方蓬莱の
神域と中国の人々は固定観念をもってたのでは?
45日本@名無史さん:2007/01/24(水) 08:48:40
>>42
恐らくは奈良県御所市の高天に由来すると思われる。
46太国:2007/01/24(水) 10:51:30
>>40
恵也の説は自分に有利なものだけ出して、他の不利な資料は無視したり黙って
いたりしていて、信用はできない。

どういうわけで4世紀後半が正解だという論拠をしないで、自論を固めている。
だいたい陵に後代に物を入れこんだり、埋葬時に埋葬前のものを形見で入れ
たりすることもあろうし、なんでも以前、陵の特定の入れ替えもあったそうな?
さらに後代にエジプトのピラミッド等の修復のようにこちらも修復している
可能性も充分あるし、4世紀後半をひっくり返す根拠は充分出てくる可能性が
う〜んとありそうである。4世紀前半だとか言ってる連中もいるし、ご陵から
じゃぁ、いまのところ確定しうる論拠とするにはイマイチで、失敗の危険は
あり余るほどあると観てよい。

恵也は出すだけで、どうして引用をして、これにはこういう他説もあって
、その中でこの引用をこういう理由で採用したとかの話がまるでない。
あいつは不利な資料等はナベにふたで、押し黙っているだけで、このごろ
食料の不都合を隠匿していたニュースのごとく、恵也のうわっつらの自論
肯定論はまったく信用できない。
47奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/24(水) 11:10:26
>>40 >>41 つづき。
崇神で悩ましいのは、神功皇后の時代設定に関るから。

三韓征伐は370頃に開始とする三国史記とすり合わせると、神功皇后をこの頃まで遡らせる
ことになるが、そうなるとそれ以降の天皇の在位が間延びした感じになる。ただ、幼少で即位
した応神天皇の治世が長くなることはあり得るし、没年干支との整合性も出てくる。

一方、広開土王碑の391年頃に半島の奥地まで侵攻したときが神功皇后の時代とすると、
その後との整合性はよくなるが、神功紀の記事(三国史記の370年代頃か)と整合しない。

安本は、三国史記の引用部分は後の時代の付け加えとするが、新羅の人質の和風表記は
リアルタイムでの日本独特の呼称と考えられるので、日本側の資料もあると考えられる。

朝鮮進攻(370〜400頃)の時期の日本の天皇が1代だけとは、考えられないので
今のところ、神功は最大派兵と考えられる390頃で、伝承が神功1代にまとめられたと
考えています。
48プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/24(水) 11:16:34
>>46 太国さん


あいつにそれを望むのは“間違い”ですよ。
はじめから暇潰しで参加してると自称している以上、それに見合った対応するしかありません。

深入りは時間の無駄遣い。
49日本@名無史さん:2007/01/24(水) 11:34:54
干支について質問です。

干支は甲子から始まりますが、やはり神武のいう
「179万年前」は甲子になるんですかね?
どなたか計算された方いませんか?
50日本@名無史さん:2007/01/24(水) 11:40:34
>>42
井沢が持統天皇=天照説だろ?
51プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/24(水) 11:45:29
>>49

干支は(10と12)の最小公倍数「60」にて、一回り
それで計算してみたら?

無駄な作業になるけれど
52恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/24(水) 12:46:50
>>36
>ホピ等の北米インディアンが甲骨文字を用いていた事が研究により わかてきた。

怪しげな話だ。
誰の研究で、どんな文字を「甲骨文字」と判断したのかさえ書いてない。

本物の甲骨文字は、亀の甲羅や骨を炊いてそのヒビ割れの仕方で占いをし
何を占い、どんな結果が出たのかを書いた漢字の祖先。

北米インディアンが何を占い、それでどんな結果が出たと書き記したのかさえ
分からんウヤムヤナ話を信じろというのがドダイ無理な話。

あんたは甲骨文字の写真を見たことさえないのじゃないの?

−−−−−(引用開始)−−−−−
昭和61年、京都の某氏より購入
旧蔵者の入手経路は不明
東京大学東洋文化研究所
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/DM_CD/DM_CONT/KOKOTSU/HOME.HTM
53プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/24(水) 12:53:50
>>52


>甲骨文字の写真も見た事無いの?


プッ!
以前「モノサシ」の写真公開したとき なんて言ったか覚えているのかな?


プッ!
54日本@名無史さん:2007/01/24(水) 13:25:36
179万年前の件について。
原田実氏は平成15年2月11日の横浜県民センター305号で行われたユニバーサルフォーラムの会において、
「天降り神話とヤマト王権のルーツ」と題して講演を行い、1792476年とは唐代において宇宙が一巡する周期
であると述べ、古史古伝の類の長い年月はここに起因するのか、と述べた。

いかがでしょうか?ご本人から確認の一言があれば有難いのですが
55日本@名無史さん:2007/01/24(水) 15:23:07
干支について質問した者です。
皆さんレスありがとうございました。

>>54
そんないわくがあったのですか。
今電卓たたいたところ、干支29874周+36年となりました。
これが神武東征開始年との差にはまればよいのですが…

いま手元に資料がないので、後ほど調べてみます。
56恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/24(水) 15:32:47
>>44
>方士はいわゆる鬼道の実践者であり、漢でこれを司っていたのがまさに 公孫氏

間違い!
方士とは、超能力(雨乞い、透視、予知など)や手品を使う人のこと。

鬼道とは、超能力のこと。

公孫氏は、帯方郡付近を支配した国王の一族のこと。
57恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/24(水) 15:44:49
>>46
>恵也は出すだけで、どうして引用をして、これにはこういう他説もあって
>その中でこの引用をこういう理由で採用したとかの話がまるでない。

そこまでやれるか!

タダでさえ文章が長くなりそうなのに、小学生に解説するみたいにアンタは1から10まで
ダラダラ文章を俺に書けというのかね。

大人なら俺の紹介したHPで、俺の意見と違う場所も多々あるのくらい常識だと思うけどね。
俺が作ったHPなら、俺の意見と同じなのは当たり前だが、それ以外は全部違うよ。

そのことを俺に不利な資料なんていうところが、アンタはまだ子供。
当たり前のことなんだぜ。

「正解だ」と書いたのは、その部分だけは俺の持論と同じだという意味。
その論拠は、いままで嫌というほどここには出してるはずだが調べたければ過去ログを見なさい。
58太国:2007/01/24(水) 16:05:27
>>57
だったら分割してもっと具体的に書け。そうすればやれる。それを
長いから面倒だとかでさっさと逃げて遠い所からグタグタと文句を並べて
いるようにしか聞こえない。それはITは便利だから目前で言ってるように
なるはなってるが? 整然と順序立てて説明することを余計な理由をつけて
しないで済ましている。お前の書きこみは遠い狼の遠吠えそのもの。

だいたい八代間などは記載が1日〜14日までに全部が集中しており、月後半の
記載が有るべきが無しで、まさに【有り倍】(不在証明)が記紀の文証で成立し
ている。かように倍暦は証されており、お前の10年説は砂上の楼閣で、目に見え
るようである。文証は「後半偵」で正当との半欠が下されるのは間違いない。w
59太国:2007/01/24(水) 16:31:00
>>57 >>58
数日前、東京の広小路あたりだったか、外国人が盗難にあったとかで
ケーサツに届け、捜査機関が被害場所の状況を望半カメラの中身で
調べたが、半稿を行っている様子が撮影されてなかったので、その外国人
を詰問したところ、「今日幻」であることを白状した。

このように八代間が等倍暦(通常暦)でやっていたならば、月後半の
数字が紀に記載されて然るべきであるが、そのカメラの如くに、後半は紀
の原書群からの月日が全く書写されていない。これは当時月後半たる15日
〜28日が虚無、不使用の半稿が無かったことを物語っているのだ。

恵也の10年計算は、無計画的でいい加減な滅茶苦茶方法そのもの。
60日本@名無史さん:2007/01/24(水) 18:09:00
>>47
神功皇后の実在性については疑問もある。
日本書紀の編者は、どうも中国の書物の記述を無視できなかったようで、
倭・女王を神功皇后に重ねたふしがある。

日本書紀の年代観によると、仲哀天皇から応神天皇あたりが卑弥呼の時代になる。
それにあわせて架空の神功皇后を作ったのかもしれない。

卑弥呼が魏に使いを送った景初三年が神功皇后39年になり、壱与らしき人物が
晋に使いを送った泰初(泰始?)二年(西暦266年)が神功皇后66年。
神功皇后が亡くなったのが、神功皇后69年。

つまり、70年ほども天皇不在の時代が続いたことになる。
神功皇后は天皇になることもなく、次の天皇が即位することもなかった。
これはなんかおかしいと思う。
61太国:2007/01/24(水) 18:19:53
>>60
70年では確かにおかしいが、当時は3倍暦の時代だから実際の年月の経過は
23年であり、そんなにおかしくはない。

神武から今上まで不在が無いのならば、何も摂政の語は不要なわけで、こういう
語がある以上、過去に数回天皇不在の時代があってもおかしくはなく、現代も
愛子様で行くならば、いずれ摂政とかその代替の語の称号で現皇太子の次代が
成る可能性はあろうし、そうなれば23年くらい不在があっても不自然ではない。
62日本@名無史さん:2007/01/24(水) 18:48:23
>>60
日本書紀の編纂者は、神功皇后を
卑弥呼に重ね合わせたということは
日本書紀の編纂者は、最後まで
昔の日本が、倍年暦だったということを気がつかなかったんだなw
何故なら、倍年暦では無かったのなら、
仲哀天皇、神功皇后、応神天皇と卑弥呼を合わせるのには
時期的にずれているからだ。

だから、苦し紛れに、仲哀天皇の妃、応神天皇の生母を
神功皇后という執政を行った女性皇族ということにした。
63プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/24(水) 19:06:20
>>60 太国さん


>魏に使者を送った景初三年

景初三年に使者を送る無謀行為は、私が最近説明しましたよ。
64奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/24(水) 20:13:11
>>60  10代崇神以降の実在について。

11代垂仁の治世に、天の日鉾が来て近江の吾名の邑に住み、鏡村に従者が居住したとあるが、
鏡村に「須恵」という地名が残り、須恵器の伝来も考古学的にこの頃(370〜380頃)、この場所
からであると確認できる。

12代景行の頃に東国遠征の記事があり、13代成務の治世に景行が拡大した地域の国境を
定めて国造を配置したとの記事があり、整合した内容となっている。

この流れだと、14代仲哀の死後の三韓征伐は、広開土王碑の391以後の記事と時代が重なり合う。
390〜400頃の進攻が神功の頃ということになる。

「三国史記」には、402年に新羅が王子未斯欣(みしきん)を人質として倭国へ送ったとある。
彼は神功皇后紀で微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)という日本風の名前で残っている。
 
というように、歴史の伝播が確認できるので神功皇后の実在性を現時点で否定するのは、難しい。
昔は、朝鮮侵略の正当化で皇国史観の権化として、何が何でも認めないという学者が多かった
みたいだけど、この考えを受け継いでいる若手はほとんどいないのでは。ただ、タブーになっていて、
神功の実在性への言及を避ける傾向は感じる。

と書いてきて、やっぱり崇神の治世は350〜360頃(陵墓の完成は370〜380頃)と思えてきたw
>>39はちと訂正。
65九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/24(水) 20:29:36
>>63
プラムさん、邪馬台国決着スレで僕に言ってる人は一体誰で、僕は一体どうすればいいのか教えてくれませんか?
相手が例え誰だろうと、あんな言い方で言われて、はいそうですかと引き下がるのもシャクに触るしね。
僕も忙しくなっていくので、どうせこれからあんまり書き込めなくはなるけど。
相手が理由も言わないし、なんか納得いかない。でも本心は皆に感謝してるし、今度のことも時が時だけに悪いようには取っていないけどね。
むしろ僕が迷惑かけちゃったのかなー、なんて申し訳ないような気さえしてるけど。おそえてね。
66一応九州王朝説:2007/01/24(水) 20:31:53
ほっときいな。そんなん気にしとったら2ちゃんなんて見てられへんでw
何処の誰かわからへんちゅうのがそもそも2ちゃんなんやから。
67日本@名無史さん:2007/01/24(水) 20:33:30
>>47 >>60
神功皇后は370年頃に実在した人物でよいのではないでしょうか?
ちなみに私は神武畿内入りは270〜280年頃、崇神天皇は320〜330年頃に崩御、
応神天皇は370年頃に誕生、ではないかと考えています。

その前提ですが、
1:トヨと神武は祖母と孫の関係にある。
2:欠史8代は実在するが、幾人かの天皇は兄弟であり、なかには在位2〜3年の天皇もいる。
  世代としては3世代か?
3:神功皇后は実在の人物
です。
奴国 ◆BdeghU15Mk さん、>>60さん、九州ですがさん、いかがでしょう?^^
68九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/24(水) 20:34:02
>>66
そだねー。たとえ閉鎖になるにしても皆と一緒に終わりたいし。
69日本@名無史さん:2007/01/24(水) 20:37:26
>>66
ところで、一応九州王朝説さんは、関西弁なんだね。
関西の人?邪馬台国は九州のどこにあったと考えてますねん?
70九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/24(水) 20:40:39
>>69九州ですがでした。
71一応九州王朝説:2007/01/24(水) 20:52:52
>>69
何度も言ってますが、 ま た 大 阪 か やちゅうねんw
主に大阪中部の神社などを巡って由来や歴史を調べております。特に
長脛彦、ニギハヤヒ、物部などに興味がありますです。

邪馬台国は、コテにあるように、一応九州と思ってます。ただ、まだ
まだ九州王朝説も仮説の域を出ていない部分もあるし、畿内説とひと
くくりに出来るわけじゃない。真面目な研究者も沢山いるようですか
ら、具体的、部分的な結論は大事にしながらモザイクを組み立ててい
かなければならないと考えています。
「市民の古代」の分裂騒ぎは勿論他人事ですがw、でもその影響は大
きかったと思います。それが、例えば安本氏のような、手段を選ばな
い糾弾、というかただの学者馬鹿ですが、あんな人に足下を掬われる
結果になったことは致命的でしたよね。
私なんて所詮シロウト愛好家ですし、別に畿内説だろうが何だろうが
合理的で面白ければいいと思ってます。安本説でもわかりやすい部分
は好きですし。
ま、その辺りが大国さんみたいな狂信者との違いですかね。
72日本@名無史さん:2007/01/24(水) 21:04:18
>大国さんみたいな狂信者

邪馬台国を真面目に論じてるだけで皆、狂信者に見えるよ。
73プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/24(水) 21:07:31
九州ですがさんよ
私も(一応九州王朝さん)と同じ考えです。

まったく気にする必要なしです
74プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/24(水) 21:11:49
>>67

>トヨと神武は祖母と孫の関係にある

だから、そのトヨってなに?
75九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/24(水) 21:12:10
>>73
ありがとうございます。プラムさんに言われてさらに安心しました。
76プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/24(水) 21:15:23
人生長くて60年
これを過ぎると誰でも別人だワナ  だから還暦
77日本@名無史さん:2007/01/24(水) 21:16:00
>>71うーん。なるほど。丁寧にどうも。
78九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/24(水) 21:36:17
>>67
という事は、67さんは邪馬台国東遷説という事ですね。
79太国:2007/01/24(水) 21:36:19
>>67

神功39年 365年     崇神崩御 259年     神武畿内入り 西紀前年
應神誕生 352年
80一応九州王朝説:2007/01/24(水) 21:56:01
私も実は、東遷説もありかな、と思うこともある。
こんなこというと矛盾しまくりで怒られるけどw

トヨ=ヒメ大神だとすると、その子孫乃至は後世奉ったのが
応神、神功。時代的にかなりずれると思うが、神功が女性の
王の残滓を残した存在だったかもしれない。
そして、トヨの国の仏教王国が後の近畿天皇家の神仏混淆の
モデルケースになった。

ならば、何度も伊勢にお伺いのデモンストレーションを行っ
た理由もわかる。アマテラス=卑弥呼、ヒメ大神=トヨだか
ら別の神ということで。今でも例えばお札勝手にどんどやき
すると恐ろしいなんて言うぐらいだから、当時は神様同士が
喧嘩するとそれはもう(以下略)

あと、問題は、応神の出身が九州なのか畿内なのか、九州か
ら再侵略して九州に統合したのか、それとも再分流したのか、
あるいはそのまま畿内に首都機能まで持っていったのか。
−この最後のケースが「東遷」と言うことになります。
81大和:2007/01/24(水) 21:57:53
>>16 プラムさん。

景初四年鏡、補足サンキュウです。(お断り、夏と殷を漢書記述にあわせてしまいました)
漢書律暦志第一上(ちくま書房和訳)、冒頭に云う「夏・殷・周の三代は古を稽えて、制度が
明らかであった・・・云々」。文が進み、三統の記述の中に「三正」が記される、「三正」を
して注に云う三代の暦と。暦は正月を始とするので正という。三統同じ。夏の暦は建寅の月を
立てて正月とし、人正(人統)という。殷暦は建丑の月を正月とし地正(地統)という。周暦
は建子の月を正月とし天正(天統)という。

        
夏暦(景初三年)10月(亥)11月(子)12月(丑)正月(寅・正始元年)2月(卯)3月(辰)

殷暦(景初三年)11月(亥)12月(子)正月(丑・正始元年)2月(寅)3月(卯)4月(辰) 

周暦(景初三年)12月(亥)正月(子・正始元年)2月(丑)3月(寅)4月(卯)5月(辰)

秦暦(参考)  10月を子・正月と定め、以降11月を(丑・2月)12月を(寅・3月)・・・

漢朝(参考)  10月(亥)11月(子)12月(丑)正月(寅)2月(卯)3月(辰)4月(己)

            (参考は、「旧暦で読み解く日本の習わし・大谷光男」に従う)
82大和:2007/01/24(水) 21:59:24
つづき

大谷氏によると「寅の月から1年が始まるのは、古代中国で夏の時代に決められた夏暦を、
漢代以降にも使用したためだ」と記す。

これによりますと、景初三年正月時の曹魏暦は夏暦としております。殷暦正月は既に過ぎて
いるように思いますが。曹魏暦が殷暦を使用していればその限りにあらずですが。

私の勝手読みですが「又夏正於數爲得天正」この『天正』を上記、周暦とするならば「建丑
の月」は既に景初四年二月に突入しており、プラム氏おっしゃる景初四年鏡もあながち捨て
たものではありませんね。

※2枚にわかれました。UPすると作表が壊れましたこれでご容赦を。
83日本@名無史さん:2007/01/24(水) 22:05:41
>>56
中国においては例外もあるが、一般的には「鬼は先祖の霊」と云う。

『史記』孝武帝本紀、第十二の「八通の鬼道」を参照の事。公孫卿と方士
についての記述がある。孝武帝は仙道、鬼道に関心が強く、方士をよく使
った。秦以前から前漢にかけての方仙道、後漢の時代の黄老道、そして漢
代の巫鬼道は、道教の先駆として強い影響を与えたが、方仙道・巫鬼道は
東北アジアにとくによく広まり、陳寿著『三国志』では東夷の諸国はすべ
てが鬼道か鬼神を祭っているという。
これは公孫氏の統治・隣接した地域とも符号するのである。
84九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/24(水) 22:11:04
>>80トヨ=ヒメ大神

卑弥呼は当時の帯方郡の古代語で、ぺメハ、といってたから、
奈良以前は、ぱぴぷぺぽ、以後は、はひふへほ と発音する事から
へメ、ヒメ、となって卑弥呼がヒメ大神の可能性が高いのではないでしょうか。
85プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/24(水) 22:12:47
>>82 大和さん

景初三年正月に「夏暦」を使用していたら その年の十二月の出された詔

【十二月、詔曰:「烈祖明皇帝以正月棄背天下、臣子永惟忌日之哀、其復用夏正;雖違先帝通三統之義、斯亦禮制所由變改也。
 又夏正於數爲得天正、其以建寅之月爲正始元年正月、以建丑月爲後十二月。」】

との兼ね合いがなくなりますよ
86大和:2007/01/24(水) 22:22:37
>>35 プラムさん。

中国語でなんて検索したんですか?かの国ではどうしていたんでしょうね。
ペーパーでは勿体なすぎの気がする。
87プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/24(水) 22:29:54
>>86 大和さん


>中国語でなんて検索したんですか?

【籌木】で検索してみました
88日本@名無史さん:2007/01/24(水) 22:30:36
>>64>>67
好太王の碑に刻まれた辛卯(西暦391年)を神功皇后、神功皇后が架空ならば、
仲哀天皇というのは正しいのじゃないかと思う。
景行天皇や成務天皇以前の部分には、朝鮮に関する記録は全くないわけだから。

また、倭の五王についても、通説に従い、讃を仁徳天皇または履中天皇としても
だいたい合うと思う。讃は、西暦421年と425年に使いを送っている。
九州王朝説の人は納得できないだろうが。

そうなると、崇神天皇については、詳しい数字を挙げることは出来ないが、
だいたい西暦350年頃がひとつのめどになると思う。

一方で、卑弥呼+壱与=天照大神という立場からすると、
壱与が西暦250年頃に女王になる。西暦266年に晋に朝貢。このときは、何度も
通訳を重ねて使いを送ったらしい。
どういう理由で朝貢したのか非常に興味があるところだが。

だから、邇邇芸命の日向降臨が西暦260年頃とすれば、日向三代を経て神武東征は、
西暦300年頃と思う。今のところそういう考えだというだけの話だが。
89奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/24(水) 22:36:08
>>67  私は、アマテラスは平原の女王(230頃)とみて神武東遷は255〜260頃で、
魏志の「邪馬台国」(北部九州)を、南部九州の神武が征服して引き継いだという見方です。
イメージとしては、壬申の乱の古代版。

安本説と異なる部分の根拠は、
1、「邪馬台国」の風俗記事が畿内にストレートにつながらないので、九州勢力の中核が
そのまま東遷したように考えられない。
2、魏志の「卑弥呼」は独身
3、魏志の「卑弥呼」を基点とすると、10代までの年代が窮屈(欠史8代も普通に在位)
4、邪馬台国(北部九州)のなかでも、(伊都国、奴国)と(甘木朝倉=高天原)とで派閥(勢力)
争いがあり、「卑弥呼」の時代は高天原に実権があったが、神武は伊都国、奴国側と組んで
ヤマト国の実権を奪った・・・というのは、先走った古代妄想ですがww
一応の根拠は、天神、天孫の区別。物部を奴国出身と推測(旧事紀より)など。

5、その後、北部九州が停滞して、日向(西都とか)が一時期発展したように見えるのは、
東遷後に日向を基点として九州を統治していたと考える。
6、画文帯が南部九州で出ても、北部で出ないのは、340頃まで日向に基点があったから。
三韓征伐(370)の頃に、北部九州に基点を移したと考える。

と微に入って妄想しておりますが、すぐに考えが変わることもあります。
90太国:2007/01/24(水) 22:36:38
>>88
ほぼ間違い。
91プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/24(水) 22:39:35
景初四年の謎のカギを握るのは「後十二月」ではないかな?
この後十二月を(閏十二月)として扱うのか、正規の月として数えるかで
かなり違ってきます

明帝の崩御が(殷正・建丑の元日) 一周忌は(殷暦なら・建丑の元日・夏暦はまだ前年の12月)
92大和:2007/01/24(水) 22:39:58
>>85 プラムさん

で悩ましい。まあ、暫く私への宿題ですね。又そのうち閃くかも知れません。
93日本@名無史さん:2007/01/24(水) 22:45:27
日本書記をまともに信じているのもスゴイ話だ。
94日本@名無史さん:2007/01/24(水) 22:52:20
>>90
九州王朝説と東遷説は、水と油みたいなものですからね。
九州王朝説は、東遷説よりもどちらかといえば畿内説のほうが近い。

>>93
まともに信じているというよりも、可能な限り信頼しようとしていると言った方が
当たっているかも。そして、それが一番正しい手順のように思う。
信頼しないという前提でいくのは、自分勝手に物語を作っていることになるわけ
だから。一人ひとりがそんなことをし始めたら、きりがない。
95プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/24(水) 22:55:10
この景初四年問題に誰か物言い付けるヤシは(大和さん)しかいないのかね〜?

ここをクリアーしないと、倭人伝の外交記事は先に進まないし滅茶苦茶になる。
96太国:2007/01/24(水) 22:55:23
>>71
お前さんは左糖の味がその脳内が忘れられないらしく、歯槽脳露の危険な
歯層の状態にあり、脳内で危ない歯垢をいろいろと重ね、リトマス歯険紙は
赤化を示し、強酸政の穴空〜き、虫核歯という記紀が目前に切迫している。
その忠崇神敬の堅牢な壁は歯科医糖から強酸糖に満たされ、治療しなけりゃぁ
もうしまいだ。象牙の塔にこもる甘い左党をなめた教授連の歯垢に冒されて、
餌舐める質、象牙質はしてやられ、警告の歯痛はもう秒読みだ。。
97日本@名無史さん:2007/01/24(水) 23:11:52
おじいちゃん何言ってるの?
98日本@名無史さん:2007/01/24(水) 23:14:59
>>94
俺は違うな。可能な限りって遠近感では捉えない。
史実とそれの時代、空間の置き換えという見方をする。
99日本@名無史さん:2007/01/24(水) 23:21:55
崇神天皇の没年は西暦288年。


100元祖プラム:2007/01/25(木) 00:09:00
主として 100はいただきます
101恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/25(木) 00:48:42
>>59
>このように八代間が等倍暦(通常暦)でやっていたならば、

俺は等倍暦とも、なんとも思わない。
年代に関しては全部信用にならんというだけ。

キリスト教徒は、等倍暦どころか1日が1000年だとか考え計算するみたいだ。
神の予言と異なったら、いろんな手品を考えて聖書が「真実ばかり」だと洗脳してる。
ここの信者とタイシテ変わらん。

その点、安本式年表はわかった年代から科学的に過去にはしごをの引きのばすのもの。
倍暦信者とは、中身が違う。

−−−−−(引用開始)−−−−−
天皇の活躍年代の検証へのアプローチ
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/nendai.htm
102日本@名無史さん:2007/01/25(木) 00:59:37
>>101
おまえには脱力だ。
安本氏の年代推定法が、実に
いい加減で、憶測の適当な年代方法か...
あれこそ、天照=卑弥呼を実現させるための
オカルト思想だ。
103日本@名無史さん:2007/01/25(木) 01:03:49
>>102
そういう面があるのは動かし難い事実だけど、単純一律に何分の1とかにするよりはマシじゃない?
104日本@名無史さん:2007/01/25(木) 01:10:27
>>103
あんな適当な年代推定方法で決めるのなら
記紀の年代や事柄を見極めたほうが、よほど正当なやり方だ。
倍年暦というのは、世界中どこでもあった暦だから
全体に無視してはいけないんだわな。

まあ、とにかく、安本氏の手法は見苦しいとしか言いようが無い。
なにせ、天岩戸を皆既日食にあてるというのは
天文学の専門家に完全に否定されたしなw
魏志倭人伝には、卑弥呼と台与と二人の女王が出てくる。
あのへんの話と、記紀の天照の話は全く共通点が見出せない。
105日本@名無史さん:2007/01/25(木) 01:46:50
>>104
そうすると、大乱・卑弥呼・男王・壱与(台与)のストーリーはどこに出てくるのか?
106日本@名無史さん:2007/01/25(木) 06:25:45
なんだ恵也って偉そうに言ってても安本の信者なの?
107太国:2007/01/25(木) 08:15:31
>>101
ならば記紀の全部を信用しないっていう論理を何故しないのだ? 恣意的だぞ。
登場人物の名前は信用できる、年代は信用できないっていうのはおかしいでは
ないか? そのお前さんの話では、記紀双方とも文書に記録しておらず古代人
の脳内の記憶から搬出されたものだからな名前は覚えてても年代は記憶が
いい加減になりやすいから年代のほうは信用できないっていう論の仕方だった。

だがこれはおかしい。記は稗田阿礼の脳内からでお前さんの言うとおりだが、
紀はちゃんと永く原書群に記録されており、脳内にたよっていたのではない。
だからお前さんの主張どおりなら記の年代は信用できず、紀の年代は信用が
おけるということになる。たしかに記紀双方の宝算結果は違うわけだから、
お前さんのいうとおりに紀の年代のほうを採用すれば、お前さんの主張と一致
していることになり、紀も信用しないと言い出すとなると、それはお前さんの
自語相違となるわけで矛盾に満ち満ちた言い訳である。

これを突かれると今度は聖書を持って来たり、他の恣意的な説明を即興でやって
否定に回る。これは論理の展開に欠陥があるからで、おかずの中の美味い物、
好きな物のみ食べて、気に入らぬものは何らかの理由をつけて食べないのと
変わりはなく、お前さんの脳の選別、判定脳力は非常に勝手恣意的であり、
こんなんでは、古代史の考察においてデタラメ王になる候補的論理手法になり、
真実からは地球と火星の距離以上にほど遠い。

>>40の引用開始の内容からすれば、欠史八代がすべて2年〜4年の在位に
なっている。
こんなことは父子継承ではあるわけがないのが一発でわかるのが自明的であり、
お前さんはよくこれに疑問を持たないのか、お前さんの脳は安本氏の統計学
とやらの、一見科学的に見える学名と彼の教授とかいう美名にとびついて
しまった哀れな男で、お前さんのような人間ほど吸引されてしまうようだ? w
108大和:2007/01/25(木) 08:35:51
>>95 プラムさん。

いえ、サンキュなんですよ。後十二月を景初二年十二月のあとにくるものと考えて
おりましたが、景初三年後十二月になると知りました。お陰で景初四年鏡の説明が
つきました。この一年のギャップが四年鏡の説明を困難にしておりました。ただし
曹魏が夏暦か殷暦かは図書館行きですが、景初三年後十二月は同意です。
109日本@名無史さん:2007/01/25(木) 08:36:28
今朝の新聞見たら、
教育再生会議の提言で
民話や神話を教えて、徳目教育に生かすらしい。

ちょっと前、旧皇族の竹田さんのブログで
「日本の記紀の研究を国策でやるべき、竹田さん人脈を生かして
政治家に働きかけてください」という書き込みがあって
竹田さんがそれに対して、「そのとおりだと思うので
どういう方法があるのか考えてみる」という返信があった。

はやくも、そういう動きが出てきた?
110プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/25(木) 09:51:54
何故胤暦から夏暦に変更しなければならないかを考えてみると、
こう言う事も考えられる。
胤暦建丑の朔に崩御した明帝の小祥月は、暦日13ヶ月目の今月今日に行う訳で、これからも胤暦を
採用する限り、毎年正月元日の祝い日に先帝の忌が訪れる事になる訳
そこで、景初三年後十二月を作り次の月から夏暦に変更することにより、
今後忌日を十二月とし、正月は正常通に成り立つようにとの 思惑も垣間見られる。

と、言う考え方もあります。
111プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/25(木) 13:27:25
ここで閏月を考えると、そもそも閏月とは、足りなくなったものを何年かに一度調整の為設ける例外月
(現)二月二十九日に亡くなった人の小祥月日は、次の年の三月一日と、暦によって確定し、閏日を計算外としています。
その様に、後十二月を閏月と考えると、やはり
小祥月は、夏正を採用しても正始元年正月元日に当たると言う事に……!
112恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/25(木) 16:50:15
>>104
>倍年暦というのは、世界中どこでもあった暦だから

そんな話は、確認された話じゃない。
タダ異常に長い伝説の寿命を、倍年暦というものがあれば少しは常識的に説明できるという
仮説に過ぎない。

どこにでもあったというのはデマ!
113恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/25(木) 16:59:40
>>107
>ならば記紀の全部を信用しないっていう論理を何故しないのだ? 恣意的だぞ。

子供並みに単純な脳みそだ!

犯罪者を取り調べるにも、いってる言葉を全部信用できないとするのでなく
言葉の中に「事実」が紛れ込んでると見て取調べをするんだよ。
あなたの理論じゃ、取り調べさえ出来んよ。

事実と虚偽の区別が、子供には区別できないのは当たり前だがな。

世の中は白と黒で出来てないんだぜ。
灰色なんだよ。
嘘を言わない人間がほとんどいないのさえ、理解してないのじゃないアンタ。
114恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/25(木) 17:03:16
>>107
>紀はちゃんと永く原書群に記録されており、脳内にたよっていたのではない。

その原書群は歴史の闇に消えたものだろう。
そんなものを当てにしても・・・・・

またその原書も口伝を、いつに時代かに書き記したものだろう。
どちらにしても信頼性ははるかに低い。
115日本@名無史さん :2007/01/25(木) 17:03:17
倍年歴で、記紀を解読するとして、それが何になるの?
このスレの住人でさえ、納得しないのいるのに、世間に
出して恥ずかしくないですか?

このスレで、自説を展開されるのはけっこうですが、
詐欺師の講釈としか見ていません。
116恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/25(木) 17:09:12
>>107
>一見科学的に見える学名と彼の教授とかいう美名にとびついて

俺はどちらかというと教授とかいうのは嫌いな方だ。
東中野修道氏みたいな、準文盲の先生さえ日本には存在するんだからね。

−−−−−(引用開始)−−−−−
この処刑が、合法的な死刑執行かどうかは実は分からない。引用部分は、もしそうなら、
という仮定の前文で、主文は「そうだとしても・・・」池の中での射殺は困るという抗議
で、処刑を合法と認めたものではない。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8503/itakura2.html
117恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/25(木) 17:14:16
>>115
>詐欺師の講釈としか見ていません。

俺もそんな感じがしてきた。
詐欺師は話を利益のために、自己暗示で自分に信じさせて、相手に信じ込ませるという。
ここに居られるのはその必要もない天然バカ!
118日本@名無史さん:2007/01/25(木) 18:20:31
倍年暦研究は、2003年に学会で発表されて
今年、いよいよ活発化するということだな。

このスレで追い込まれた九州説?論者が
感情的に批判しているけど
その流れは、もう止まることは無いよ。
119日本@名無史さん:2007/01/25(木) 18:22:10
倍年暦って、やはり事実らしいね。

問題は、記紀の編纂者は
その倍年暦のまま、一部、年代を改竄したということだな。

でも、その箇所が分かれば、邪馬台国の真相も見えてくる。
120日本@名無史さん:2007/01/25(木) 18:44:38
>>78 九州ですが ◆uZFVMLIhZI さんへ
67ですが、そうです。
ただ、東遷とは言っても、北部九州の代表として、神武兄弟たちが九州西部を出発し、
九州を海沿いに周り、日向、宇佐、遠賀川河口、そして吉備で補給をうけ、
(吉備ではかなり滞在しており、それゆえ北部九州勢力を畿内の大物主に紹介したのは吉備ではないかと考えています。)
正面からの畿内入りはナガスネヒコに阻まれたため、裏口の吉野からこっそり入ったというものです。
ですから、北部九州本体はそのまま存続しつずけ、後世「筑紫国造」になったのではないかと思います。
英国からの移民が米国を創っても英国はそのまま存続しているのと似ていますか?^^
121大和:2007/01/25(木) 18:54:46
プラムさん。

景初三年十二月詔曰・・・。文意がもう一つ理解出来ていないかもしれませんので
図書館にて調べたいと思います。結果理解が大きく違っていたらあらためてResい
たします。よろしく。
122太国:2007/01/25(木) 19:30:27
>>112 >>104
去年だったと思うが、6chの「世界不思議発見」という番組で、
古代エジプト暦がB.C.2772年以前は月に基づく暦法をやっていたが、同年以降
は1年が265日の数え方での暦法であった時期があることを放送している。
もう定説だが、1年を260日の暦法は古代マヤ文明のツォルキン暦であり、
双方5日違いで、ほぼ「1.4倍暦」でやっていたというのがわかる。

それにこのマヤの暦法は現今でも現地で行われており、古代は倍暦をやって
いたことが認容できる。こうなれば整数倍の2倍暦3倍暦等の使用ばあっ
たことは充分うかがえる。

つまり恵也の言い分は出鱈目のデマカセ。
123日本@名無史さん:2007/01/25(木) 19:31:34
古事記と日本書紀って、細部に違いはあれどほぼ同じ内容ですよね。

日本書紀の「一書日」などの註も極端な年代の違いもありませんし。

そうなると、それらの原書こそが歴史の真相を隠蔽したと言えるでしょう。
私の考えでは推古朝の「国記」「天皇記」だと思います。

それまでの伝承で、多岐にわたった歴史認識を一書にまとめ
天皇を中心とした国家形成に恣意的に誘導したのでは?

それらが、半世紀ほど経て手書による謝書や他の人物などの
恣意的な改竄により内容に差異を生じてしまったため
「一書」として引用しつつ編集したのが日本書紀であろう、と。
124太国:2007/01/25(木) 20:45:01
>>115
倍暦が確定し当時の年数が判明してくれば神功皇后の年代がいつ
だったか判明してきますし、神功39年等の記述から女王国の年代までも
が判明してきますから、このスレでは論議すべき話です。

詐欺というのは相手をだまして金とか品物等を不法に頂くことですから、
現時点ではここでは無関係のことでしょう。
125プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/25(木) 20:57:58
>>121 大和さん  参考になれば

「烈祖明皇帝以正月棄背天下、臣子永惟忌日之哀、其復用夏正、雖違先帝通三統之義、斯亦禮制所由變改也。
又夏正於數爲得天正、其以建寅之月爲正始元年正月、以建丑月爲後十二月。」

 【読み下し】
「烈祖明皇帝、正月ヲ以ッテ天下ニ棄背シ、臣子ハ永ク忌日之哀ヲ惟ウ、其レ復夏正ヲ用イレバ、先帝ガ三統之義ヲ通ゼシムルニ違ウト雖モ、斯チ亦禮制ノ變改ノ由ル所也。
又夏正ハ數ニ於テ天正ヲ得ルト爲ス、其レ建寅之月ヲ以ッテ正始元年正月ト爲シ、建丑月ヲ以ッテ後十二月ト爲セ。」

 【現代語訳】
「烈祖明皇帝は、正月に崩御された。臣民は末永く(正月に)命日の悲しみにくれることになる。
再び夏王朝の正月を採用することは、先帝が三統の意義を通し(て殷王朝の正月に改暦し)たことに違うことになるけれども、
(正月に命日の悲しみにくれる臣民を思うことも)また礼制を変改する理由である。
また夏王朝の正月は計算上自然の正月と一致する。そこで、建寅の月を正始元年正月とし、建丑の月を(景初三年)後十二月とせよ。」
126九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/25(木) 21:29:38
>>67さんへ 「ちなみに私は神武畿内入りは270〜280年頃」

ところがですね、この頃既に大和朝廷が成立していたという考え方が
以前のスレでは活発に議論されていたんです。ですから67さんの説ですと、
畿内に邪馬台国から発展した大和朝廷と、もう一つの、二大勢力が存在した事になるんです。
それに、邪馬台国が、大和朝廷になったとするならば、卑弥呼は、現天皇の直接の先祖になるわけでしょう。
大手を振って卑弥呼を祀ると思いますが、なされていません。
戦前、戦中の教育でも壬申の乱と、邪馬台国は、教科書で教えていなかった。
万世一系を否定するものだというのがその理由です。
卑弥呼という現人神の天皇の御先祖に対し、そんな扱いをするでしょうか。
どう思われますか?
127日本@名無史さん:2007/01/25(木) 21:31:44
卑弥呼って今の天皇家の祖先なのか?
128日本@名無史さん:2007/01/25(木) 21:34:17
>>122
あるテレビ番組で、どこかの国は、古代から冬至を盛大に祝うというのがあった。
なぜかというと、太陽が新しく生まれる日だからだそうだ。
昔から人々は、太陽の動き、月の動きで暦を作っていた。

だから、二倍暦というのなら、その基準がなくてはならない。
何をもって一年とし、何を持って一月とするのかその基準がないと、
単なる数字合わせに過ぎない。

もし、記紀が二倍暦を採用していたとすれば、その規準が書かれているだろうし、
基準が変わったのなら、その旨が記されていて当然だと思う。
129奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/25(木) 21:34:38
>>39>>41>>47>>64 ときた古墳年代の流れで。(私は、第13スレはこれで行きますw)

仮に、10代崇神の治世が350頃〜360頃で陵墓完成が370〜380頃とした場合。
1、箸墓の築造は、いつごろか?
2、ホケノ山の築造は、いつごろか?

箸墓は、崇神稜の10年位前(350〜370頃)。
箸墓の周濠の古い堆積層から馬具(鐙・あぶみ)が出ている。これは、朝鮮出兵の始まった370頃に
馬具が伝わり始め、完成後間もない頃の周濠の堆積層に捨てられたと説明できる。

問題は、ホケノ山。これは悩ましい!
ホケノ山は箸墓より10〜20年位前と言われることが多いが、安本は、崇神稜と瓜二つの形である点に
注目して崇神稜と近い時期の可能性を述べている。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku238.htm#238hokeno
しかし、ホケノ山を350頃まで新しく見ると、三角縁が出ていないことと整合しにくい。
ホケノ山の時期は、「画文帯はあるが、三角縁はない」という時期。
「画文帯後、三角縁前」は、310〜330頃と考えているが、320〜350頃にも思えてきた。

ホケノ山とかを古く見すぎると、天皇が前方後円墳を作り始める時期と隔たりすぎて、不自然な感じもする。
家来の方が立派な墓を作ってきたというのは、どうもおかしい!となるとホケノ山も350頃か?
130プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/25(木) 21:38:09
>>126

>大手を振って卑弥呼を祀ると思いますが

徳川家康は東照宮にて祀られているが、征夷大将軍は祀られたためしがない
131日本@名無史さん:2007/01/25(木) 21:38:17
>>126
東遷説では、卑弥呼(+壱与)=天照大神。
いうまでもなく、天照大神は皇祖神。
132九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/25(木) 21:45:26
>>128
それって、エジプトなんとか、でしょう。
エジプトも一年は今の一年とほぼ同じ。
マヤなどの暦はもっと正確で、現代の暦の一年と誤差が殆ど無いという。
133九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/25(木) 21:47:57
>>127
だからそれを議論してるんでしょう。
134日本@名無史さん:2007/01/25(木) 21:52:18
普通邪馬台国論争ってのは場所だろう?
卑弥呼が天皇家の祖先かどうかは別の話だ。
135日本@名無史さん:2007/01/25(木) 21:55:00
まあ直感では卑弥呼≠天皇家だな。
女系と男系というのも違うし。
136九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/25(木) 21:57:07
>>130
それって、卑弥呼というのが名前では無く、役職名という事を前提にして言ってるんでしょ。
でも、例えば「とよ」に対しての「卑弥呼」と考えればやっぱり名だととるのが自然じゃない?
137日本@名無史さん:2007/01/25(木) 21:57:42
ヤマタイカ!!
138日本@名無史さん:2007/01/25(木) 22:03:50
>>126 九州ですが ◆uZFVMLIhZI さんへ
67です。
ですから、神武が畿内に入った時点では、出雲主導で建設された、出雲〜畿内〜信濃川〜信濃川流域に至る大国
が既に存在していたと思うのです。大和朝廷とは、この国の後身です。
ところが、もともとこの「大国」の地位にあった出雲系の勢力を、北九州から招かれた神武やその
子孫が抹殺してしまった為、(とって変わった為、)
(それは、欠史8代の間に起こった事であり、記紀には「神代の国譲り神話」として書かれています。)
その結果、この「大国」の名前は「ヤマト朝廷」とされてしまったのでしょう。
(中華民国=「大国」が、毛沢東=「神武&その子孫」にトップの座を乗っ取られて、国名が「中華人民共和国」=「ヤマト朝廷」となった)
ようなものでしょうか?
2大勢力は無かったのです。あったのは1つの「大国」。その主が「大国主」。
(それを謀殺し、自らが大王(のちに天皇)になったやましさから、「出雲大社」が祀られたのではないでしょうか?^^)
139日本@名無史さん:2007/01/25(木) 22:11:07
>>129>>133
佐原編年では、庄内期は、だいたい西暦300年頃に始まるとされた。
佐原氏は、畿内説の考古学者。
その頃の古墳の編年としては、箸墓よりも、崇神天皇陵のほうが古いとされた。
その根拠は、崇神天皇陵の方が山すそに築かれており、前方部が開いた形を
していること。
箸墓の場合は、より平野部に築かれており、しかも、前方部が発達している。
築かれた場所と古墳の形から箸墓のほうが新しいとされた。

このような状況の下では、纏向遺跡の成立、銅鐸の消滅など東遷の条件が
整い、しかも年代的にも妥当性があった。

しかし、たとえば、寺澤編年では、庄内期の始まりが西暦200年まで遡った。
こうなると、東遷の条件としては年代がネックになる。
また、最近では、箸墓のほうが崇神天皇陵よりも古いとされる。

長年培ってきた考古学の成果が、最近になって100年も遡ったことは妥当なのか。
個人的には、無理があるのではないかと思うのだが。

ただ、三角縁神獣鏡魏鏡説が破綻した今、畿内説としてこれを譲ったら、
もう畿内説はおしまいということになるわけだが。
140九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/25(木) 22:15:56
>>138
それはあくまで、滅ぼされたんではないんですか?
大国主命は国を譲ったのですから、穏便です。
国を譲った変わりに大きな神殿を建ててもらいそこの神主に納まった。
実際に平安時代まで、地上40メートルを超える大神殿が建っていた、と文献にあります。
141プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/25(木) 22:19:10
>>130

>でも、例えば「とよ」に対しての「卑弥呼」と考えればやっぱり名だととるのが自然じゃない?

最近あちこっちで目立つんですが「とよ」ってなあに?

>「とよ」に対しての「卑弥呼」と考えれば

その関連性からどのように人名と考えられるの?
この記事は中国漢籍であり、「壹與」の文字は倭人伝の遥か以前に使用されているのです。
そのような文字を後世のしかも異国の人名に当て嵌める事の異常さ。

【・・・使者五日(壹與)太守倶問起居・・・】

壹與 とは、職称あるいはその特徴を形容したものです。

(新校本漢書/列傳/卷七十二)


142太国:2007/01/25(木) 22:39:57
>>128 以下をどう想う? 紀の欠史八代間の記述の日の数字の頻度だ。
当時の1ヶ月は通例で14日までしか無かったという相当な文証がこれだ。
恵也殿これがイカサマか? イカサマなら1日〜30日全域でランダム記載に
したほうが八百長がバレないはずだが? これはランダムじゃぁないぞ。

【立太子、即位、立后、崩御、葬儀の日数の統計表】

1日 4   15日 0   29日 0
2日 2   16日 0   30日 0
3日 3   17日 0
4日 1   18日 0
5日 3   19日 0
6日 3   20日 0
7日 2   21日 0
8日 3   22日 0
9日 4   23日 0
10日 1   24日 0
11日 3   25日 0
12日 4   26日 0
13日 2   27日 0
14日 7   28日 0  

143奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/25(木) 22:40:28
>>139  古墳時代の始まりが300年頃というのは同意です。
最近の畿内説が古墳時代を繰り上げるのは、無理があるというのも同意です。
三角縁国産説が出た70年代には、鉄器もあって畿内説の敗北は決定的だったのに
その後の年代遡上は、見苦しいという感じで見ています。

ただ、庄内式と布留式については、少し見方が違います。
1、庄内式は200年頃に北部九州で始まり、その後北部九州全体に拡がる。
2、240〜260頃に庄内式が畿内の一部地域のみに伝わり始める。
3、畿内の一部地域では庄内式のまま古墳時代に入り、古墳時代初期は庄内式。
4、畿内の別の地域では、庄内式を経ずに280〜320頃から布留式が始まり、
古墳時代に入っても布留式内での変化が生じ、430頃まで続く。
5、庄内式の伝わった地域でも、途中から徐々に布留式に代っている。
6、須恵器が380頃に渡来人により始まり、430頃には須恵器が広く普及していた。

というように、畿内のなかでも地域ごとの違いが大きかったのではないかと考えています。
*前スレで出てた新井(東アジアの古代文化129号)なんかを参照。
144九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/25(木) 22:44:32
でも実際に、古代日本に豊玉ヒメという人がいたのも確かな事。
この人をトヨと考えれば、>>67さんの説もわかる気がする。
>壹與 とは、職称あるいはその特徴を形容
中国音壹與がたまたまトヨに似ていたのかも。
145日本@名無史さん:2007/01/25(木) 22:44:41
卑弥呼を知るにはその大元である漢代の巫鬼道を知る必要がある。
漢代の社会では、中原では方仙道と黄老道が伝播し、辺境の地区では巫鬼道が
活動していた。巫鬼道はもともとは古代原始宗教の残存であるが、民間で行わ
れていた俗神信仰・家族祭祀・療病禳災・送葬求雨などの活動と密接に結び付
き、根強く活動していた。漢代に国が開かれると巫の風潮も盛んになり、その
後も絶えることなく盛んに伝わった。中国のどの地方にも巫術の活動によって
生計をたてる多くの巫覡[呪術師]がいたが、彼らは王公大臣の家族や帝王の
宮室にも出入りしていた。
《漢書・郊祀志》には漢代の帝王が巫を信じていたという記載があるし、武帝
の時には巫蠱[巫術によって人を呪うこと]が大きな事件に発展した。当時の
巫の多くは若く美しい少女で、きれいな服を着て歌い舞ながら巫術を行った。
巫は民間で福を祈り災いを払うために神を降ろしただけでなく、貴族が先祖を
祭るときにも常に術を施した。当時、死んだ人を埋葬するには、巫覡に死者の
罪業を払ってもらう必要があった。
鬼道とは、祖霊の掌握、葬礼・墓制の儀礼支配を背景とした政治である。統治
者たる巫覡たる卑弥呼等は、人々に必ず訪れる死を担保に豪族・民衆をまとめ
たと思われる。卑弥呼の卑を日(ヒ)に例えて太陽神の巫女と考える者がいるが、
鬼道とは、もともと神ではなく人霊を祀る霊(ヒ)の巫女である事を記しておこ
う。鏡に固執した理由もおのずとわかるだろう。
146プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/25(木) 22:47:44
>>130 九州ですがさん

いいですか?
倭人伝の中に「世有王」と言う記載があり、一般的には(代々王が居た)と訳されている。
しかし、この「世有王」と言う文は
中国二十五史(39,966,344)文字中 たった一ヶ所(倭人伝)ノミに記載されている
大変貴重な文字なんだよ だから用例を使う事の出来ない特殊な文字列なんだよ
だから、単純には訳せないということだよ(代々王が居た)などと

理解できるよね

それから「十三経」(約四千万文字)の中からも拾う事の出来ない特殊な文字だよ、この「世有王」は
147太国:2007/01/25(木) 22:49:47
>>128 >>142
これは当時2倍暦等をやっていたからであり、1ヶ月が14日となると1年が半年
けいさんとなり、いまの1年が当時は2年分だったことを意味してくる。
ただ、これはおおざっぱな話であり、さらに探ればいろいろ違いが見えて来る。
神功の時代は3倍暦であり、神功39年は365年、神功66年は374年に相当する。
卑弥呼はこのころ、九州で鬼道をやっていたことになる。
148プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/25(木) 22:51:28
>>144

>中国音壹與がたまたまトヨに似ていたの(かも)

確かに 冬の鴨南蛮は美味しいよ


なに? あくまでも妄想中心で行こうとするつもり?
149日本@名無史さん:2007/01/25(木) 22:53:22
>>143
土器で正確な実年代を出すのは無理だと思うので、おおよそで言えば、
庄内期と布留期についてはだいたい賛成。
畿内の庄内期はごく限られた範囲らしいし。

賛否はあると思うが、庄内期を饒速日命に関連付け、布留期を神武東征に
関連付けるのも面白いと思う。

というわけで、庄内期は3世紀後半。布留期は、4世紀になってからが
妥当ではないかと思う。
150奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/25(木) 23:05:05
>>139  マキムクについては、一部の学者のみが先走っているようにも
見えるのですが、どうなんでしょうか?

私の理解は、
1、王宮等の支配者層の居所群と推測される遺構は、発見されていない。
2、鉄器さえ皆無。
3、威信財も皆無。。
というように、莫大な費用を投じたにも拘らず、平原1基にも及ばない成果なのを
ごまかすために、「フカしている」というものです。

より大きな都市のなかの一部の地域という性格で、地方から来た者をそこに住ませて、
古墳築造や兵役などの労役に使っていたと見るのが、素直な見方だろうと思います。
151九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/25(木) 23:07:17
>>146
有千餘戸世有王皆統屬女王國 という文の前後から読み取っても皆という文字は
前の世有王にかかっているので、世にある王は皆、と訳すんじゃないの?
152日本@名無史さん:2007/01/25(木) 23:09:15
>>149  庄内の伝播を饒速日命とするのは、賛成です。
布留と神武については、ちょっと分かりません。時代的には重なる可能性も
ありそうですね。
153九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/25(木) 23:10:39
>>148
まあ、壹與が古代の発音で何というかが解らない限り、
妄想の謗りは免れ得ないけど。
154日本@名無史さん:2007/01/25(木) 23:17:17
>>151

代々王有り
155九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/25(木) 23:20:15
>>154
それは和訳でしょ。
156日本@名無史さん:2007/01/25(木) 23:23:28

お前アホだろ。
さっさと逝けよプラム。
157プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/25(木) 23:24:17
>>151

>>146の検索とカキコの意味を良く理解してよ。

>>153

>まあ、壹與が古代の発音で何というかが解らない限り、

そんなこと関係ないよ。漢語文字は視覚で楽しむもの
158プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/25(木) 23:27:29
>>156

>お前アホだろ。
さっさと逝けよプラム。


てめ〜っなにほざいてんだよ あっ
159日本@名無史さん:2007/01/25(木) 23:29:22

お前アホだろ。
さっさと逝けよ九州ですが。
160九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/25(木) 23:31:18
>>157「世有王」のどこがどう特殊なの?珍しいから?
161プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/25(木) 23:37:10
>>160

用例命の漢籍にて(用例が存在しない)という異常さを知ってほしい

二十五史と十三経だけで(約八千万文字)だよ
文字数足りなければ、もっと増やそうか?
162九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/25(木) 23:39:25
>>159
あのね、書き下しで「世にある王は皆」になるでしょう。
中国では、王の代、つまり世世ごとに元号が変わり、治世が変わるイメージがあるから、
代々の王は・・・。と訳されます。
163恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/25(木) 23:39:39
>>122
>マヤの暦法は現今でも現地で行われており、

それは占い用の暦。
実生活でマヤ人が使ってたのは太陽暦のハアブ暦
そんな占い用で農作業をしたら、農作物は全滅だよ。

あんたの話じゃ、仏滅の日のたびに歳を計算するような連中がいたというような暴論。
仏滅や大安は占いのためのもので、歳を数える為じゃない。

−−−−−(引用開始)−−−−−
マヤ文明には、非常に正確な独自の暦がありました。複数の暦が使い分けられていたようですが
http://www.puertalatina.jp/shohin_mayaG.html
164日本@名無史さん:2007/01/25(木) 23:43:30
>>150
纏向遺跡については良くわからないのだけれど、遺跡の大きさ、巨大水路と
搬入土器が強調されているような気がする。
しかし、各地からの土器が見つかるのは、弥生時代の遺跡ならどこでも
あることで、そんなに珍しいことではないと思う。
たとえば、吉野ヶ里遺跡でも、近畿地方、山陰地方、瀬戸内地方、中九州と
各地の土器が展示されていた。
熊本県の遺跡でも、山陰地方、近畿地方の土器などが出土しているし。

冷静に見て、纏向遺跡の価値とはなんだろう。
むしろ、鳥取県の妻木晩田遺跡のほうが面白いような気もするが。
165恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/25(木) 23:46:05
>>127
>卑弥呼って今の天皇家の祖先なのか?

その可能性が存在してるから、これだけ話が盛り上がるの。

神武天皇を、第50代桓武天皇(781年〜806年)を基準にしてハシゴをかけてみる。
第31代用明天皇は西暦585年に即位してる。その間221年を20人の天皇が即位した。

1人当たりの平均即位年数は
221/20=11.05年

傾向として安本氏の天皇の平均在位年数グラフを見ると5世紀から9世紀にかけて
1.36年延びている。100年間に0.34年だ。
用明天皇と桓武天皇の中間地点は696年

神武天皇が300年頃の即位だとすると、中間地点は553年
中間地点の差が143年ある。
143/100*0.34=0.486
11.05−0.49=10.56
これを平均在位年数として計算すると

初代の神武天皇の死亡年は
806−(50−1)*10.56=289

天照大神の死亡年は
806−(50+3)*10.56=246

卑弥呼の死亡年は西暦248年

2年の差とは驚くべき一致度ピッタリ。
166プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/25(木) 23:46:07
>>161 訂正します

十三経は(約八百万文字)  臺灣文獻叢刊 が(約四千万万文字)
二十五史(約四千万文字)

合計(約九千万文字)です    文字化けしていたらスマソです
167太国:2007/01/25(木) 23:47:29
>>163
古代日本は占い国家。世界も同様。
農事も大事だが、亀卜、鹿卜は古神道の宮中必須の行事だ。
世界も古代は迷信深く、占いはどこでもやっていた。だからお前さんは遠回し
に古代の占いの倍暦を肯定したことになる。ww

もっともなぁ〜?自語相違の名人だから、そんなことはひっきりなしの
滅茶苦茶論だから、これは得意の即興の証拠だな。ww
168太国:2007/01/25(木) 23:49:38
>>165
この計算ははなはだしくズサンであり、地球が火星になるくらいのマズイ
やり方だ。
169恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/26(金) 00:04:41
>>136
>例えば「とよ」に対しての「卑弥呼」と考えればやっぱり名だととるのが自然じゃない?

日本では最高指導者に対しては、役職名で呼ぶ事が多い。
それを魏の使節団が理解してないので、後継者を台与と呼んだもの。

−−−−−(引用開始)−−−−−
日本人は、天皇を名前で読んだりしない。

実名と本人は同一のものなので、みだりに実名をあかすと、攻撃の目標になったりするから
である。実名そのものが当人の分身なのである。
http://www.aoikuma.com/kotodama1.htm
170日本@名無史さん:2007/01/26(金) 00:08:34
>>165
こいつ、まだ解らないのか。
すっげー馬鹿。
171恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/26(金) 00:28:53
>>142
>恵也殿これがイカサマか? イカサマなら1日〜30日全域でランダム記載

イカサマをする作者がそこまで、考えなかっただけの話。
172日本@名無史さん:2007/01/26(金) 00:35:29
>>169
> 日本では最高指導者に対しては、役職名で呼ぶ事が多い。
そんなのは中国のはるか以前からの慣例に倣っているだけ。
臣従したなら名乗るのが当たり前で、記録されているのは名前ということになる。
使節団も、儀礼の点でも、また、任務の点でも、軽い身分の使い走りなどを
派遣したはずがない。
卑弥呼が仮に記紀に名を残している人物なら、当然、難升米も、それに
比肩するような重要人物でしかありえない。
なのに等閑視しているとしたら、国際儀礼に無知だからとしか考えられない。
173日本@名無史さん:2007/01/26(金) 00:56:57
鍵は神武の東征に
174恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/26(金) 01:39:53
>>170
>こいつ、まだ解らないのか。

理解できないあんたが「すっげー馬鹿}
175恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/26(金) 01:55:06
>>172
>臣従したなら名乗るのが当たり前で

臣従したという意識は卑弥呼にあったのかね?
タダ贈り物をしただけで、魏の皇帝に気に入られて歴史に残っただけだろう。
その証拠に卑弥呼は、 ワザワザ魏から来た使節団に対して会いもしてません。

魏に行った難升米はどんな挨拶をしたんだろうね、でも臣従の挨拶じゃないと思うよ。
聖徳太子の時代でさえ「日の出る国の天子から、日の沈む国の天子へ」という挨拶だぜ。

−−−−−(引用開始)−−−−−
日本は聖徳太子が「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」という隋の皇帝に
書簡を送ったことが、そもそもの由来だと聞いたことがあります
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&page=12&nid=1615210
176日本@名無史さん:2007/01/26(金) 02:17:08
>>175
へ? 泣きついたというのに?
全く関係ない後世の話を持ち出している暇があったら、ちゃんと倭人伝を読むこと。
続きはその後。
なお、正しく中国語文として読めるだけの素養がないせいで、我流の出鱈目な読み方を
云々する輩もいるが、その轍を踏まないように。
177奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/26(金) 02:18:39
>>164 妻木晩田は色々出ていて情報価値は、文句なく纏向より上ですね。

纏向重視で、纏向の古墳のみ、ことさらに古く見ようとする傾向にも辟易します。
勝山古墳なんかは、年輪年代のみで220年頃という人達は、布留0式を無視。
私は、310〜330頃と一応考えます。

形では勝山(布留0、鏡なし)→ホケノ山(庄内式、画文帯)→石塚(庄内式、鏡なし)
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku238.htm#238hokeno
一連の古墳とみなせば、3基とも近接した時期と考えるのが素直だと思います。
178恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/26(金) 02:51:59
>>176
>へ? 泣きついたというのに?

国家存亡の危機になったら、格好を気にしとけないのは常識。
アンタだって日本が、滅ぼされそうになればあらゆる手段を取るだろう。
見栄や外聞なんて屁みたいなものにならざるをえん!
179恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/26(金) 03:03:50
−−−−−(引用開始)−−−−−
妻木晩田遺跡が最盛期を迎える弥生時代後期中頃(1900年前)に埋まり始めます。

そして、この丘の上で竪穴住居の建設が始まる弥生時代後期後半(1900〜1800年前)
には、すでに窪地のような状態になっていました。

 窪地となった環壕の跡からは、たくさんの土器や、石の道具、鉄の道具が出土しました。
発掘中の環壕は足の踏み場もないほどです。
http://www.z-tic.or.jp/p/yayoi/mukibanda/hakkutsu/13/gomi/
180日本@名無史さん:2007/01/26(金) 03:14:22
>>175
倭人伝には、「…、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼」とあり、
また、「制詔親魏倭王卑彌呼…」とあるから、名前と取れないこともない。
魏の皇帝にしてみたら、卑弥呼は臣下扱いだから、名前で呼んでも不思議ではない。
181日本@名無史さん:2007/01/26(金) 03:24:21
>>179
妻木晩田遺跡については、次のようにも書かれている。

ムラの人口が増えるにつれて住まいの範囲は広がっていき、妻木晩田遺跡が
最盛期を迎える弥生時代後期後葉(2世紀後半)には、住まいの範囲が遺跡全体に
広がります。この時期を境に、妻木晩田のムラは少しずつ衰えていき、古墳時代の
初め頃には住まいがほとんど見られなくなるのです。

吉野ヶ里と似たような経緯をたどっていると言える。
しかし、年代については注意したほうがいいと思う。
弥生時代後期後葉を2世紀後半と書いてあるが、違う人だったら、違う年代を
つけたかもしれない。
182日本@名無史さん:2007/01/26(金) 03:36:36
とにかく、銅鐸が39個もまとまって出土した島根県の加茂岩倉遺跡。
銅剣が、358本も出土した同じく島根県の荒神谷遺跡。

弥生時代最大級の環濠集落である鳥取県の妻木晩田遺跡。
同じく、青谷上寺地遺跡。

このあたりはタタラで知られるように、鉄の産地としても有名なところである。

以前は、記紀で、出雲が重要な役割を果たしているのを軽視されていた。
これらの遺跡が発掘されて、出雲の重要性が認識されるようになった。

記紀はやはりおろそかには出来ない。
これは日向も同じだと思う。
183一応九州王朝説:2007/01/26(金) 05:12:54
>>182
前半はもっともだが。

かつて出雲神話が軽視されていた事は、大学者の誰も反省も総括も
自己批判もない。どころか相変わらずマキムクだの箸墓だのホケノ
山だのしか言ってない人多いし。

でも、
>これは日向も同じだと思う。

宮崎と考えてるなら、違う。「宮崎」は出てこない。ひむか=福岡
184日本@名無史さん:2007/01/26(金) 05:29:17
>>177
>形では勝山(布留0、鏡なし)→ホケノ山(庄内式、画文帯)→石塚(庄内式、鏡なし)
>一連の古墳とみなせば、3基とも近接した時期と考えるのが素直だと思います。

禿しく意味不明!
いったいこの「→」は、何なのだ!?
それに奴国氏は、ホケノ山が纏向の遺跡だとは、考えておらんのだろう?
185一応九州王朝説:2007/01/26(金) 05:45:43
>見栄や外聞なんて屁みたいなものにならざるをえん!

古くからの盟友の百済があっさり滅亡したのに、その超大国に対して
弓引くような事が出来るわけがない。細心の注意を払って、とことん
へりくだって対応するでしょうね。それはもっと前の時代でも同じ。

倭の五王の時代については、南朝相手だから事情は多少異なるにして
も、やはり極東の軍事指揮権のために応分の代償は払ったはずです。

どうも恵也君というのは、引用さえすればしっかり読む作業は必要な
いと考えている気がします。
186九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/26(金) 05:52:47
>>166プラムさん
お仕事に行く前一レス。これこそ想像ですが中国から見たら倭は外国なので、魏王朝との王政の区別を設けるため、
外国らしさを醸し出す為にこのような珍しい語彙を用いたとは考えられませんか?
187太国:2007/01/26(金) 08:01:11
>>171
考えるもクソもない。八百長をやるなら一見1日〜14日に寄せる奇異なマネ
はやらない。イカサマならば漠然と1日〜30日までに第三者に気づかれない
ように巧妙にやる。
それが一見して(向かって)全部の数字が左よりで月前半の2週間に収まって
いる。こんなことは当時日数の経過に何らかの特筆すべき決まりがあったから
で、>>142の如くになっていることは、これが古代の日数の法則が現代まで
古文献で確実に伝わっていることを物語っており、逆に信用性が強くなると
いうべきである。つまりお前さんのいうような日付の記載がデタラメではない
ことを>>142の表の内容は一目瞭然で指し示している。

欠史八代は日数の 【有り倍】 が >>142 の全部向かって左よりになること
から、当時はまず15日〜30日は数字が不在の無いことがこれにて判明する。
だいたい不作為でこんな左よりになることなんて、お前の大好きな統計学から
考えてもほとんど皆無に近い確率だろうが。w

すなわち当時はこの>>142表から観て倍暦を行っていたことは間違いない。
結局お前さんの主張の10年計算説は甚だしくズサンであり、大間違いへ
進む標本のようなもので、失笑は当選確実なのである。www
188プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/26(金) 08:01:34
>186
九州ですがさん おはです。

>外国らしさ


列島だけを外国と扱う事に懸念があります。
それに、後にも先にもこの一例のみというのも面白いですね!

この事実は、後々議論するにあたりかなり強力な武器になることも
しっかり学びとって頂ければ幸いかと この様な裏付けを持つことにより、かなり強引に自分のペースを保てるのも事実です。
189日本@名無史さん:2007/01/26(金) 08:16:33
>>183
日向は宮崎。
福岡は高天原の候補地の一つ。
高天原が邪馬台国。
190日本@名無史さん:2007/01/26(金) 08:52:17
人口から考察したら
邪馬台国はどう考えても畿内なんだけどね。
191日本@名無史さん:2007/01/26(金) 09:30:30
>>190
何度も出てきているはずだが、西暦200年頃の推定人口。

畿内(大和・山城・摂津・河内・和泉)3万人。
畿内周辺(近江・伊賀・伊勢・志摩・紀伊・淡路・播磨)7万人。
北九州(福岡・佐賀・長崎・大分)4万人。
南九州(熊本・宮崎・鹿児島)6万5千人。

http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/EV_P_NJ1.html
192プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/26(金) 10:01:30
「七万戸」

この数値と人口の関連って何?

規模じゃないの?
193日本@名無史さん:2007/01/26(金) 11:07:14
>>191
古代の人口なんて分かるのか?
戸籍調査なんてしていないのに...
農耕の開始時期も、諸説あって
それによって、西暦200年代の人口なんて
全く変わってしまうのに...
194日本@名無史さん:2007/01/26(金) 11:08:37
>>191
それなら、奴国二万戸=福岡市くらい
すら当てはまらないぞ。
195プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/26(金) 11:26:26
唐代の食貨志にて


諸戸以百戸為里、五里為郷、四家為隣、五家為保、毎里置正一人


そして、それ以前の史料には


…今多作里二十五家為里方居一里之中也……
196日本@名無史さん:2007/01/26(金) 11:34:24
>>191
それはソースが古い。
基本的に日本である程度、正確に
人口を調査できたのは、江戸時代になってからであり
それ以前に関しては、正確な人口は分からない。
197日本@名無史さん:2007/01/26(金) 12:33:56
調査したことにしたんでしょ。魏の使いが。
198日本@名無史さん:2007/01/26(金) 12:50:50
>>174

そんなやり方は

幼稚だって事にきずけよ。
199奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/26(金) 13:01:34
>>184  私のマキムクの位置づけは、>>150 のように「より大きな都市のなかの一部地域」で、
「より大きな都市」とは、崇神以降に勢力を拡大した時期を中心とした前後50年位のヤマトと
一応考えています。

神武東征後に、徐々に権力が浸透し、租税としての労働力をヤマトに集中させるようになり、
崇神の頃には、外来の集団を住ませて、外征や古墳築造などの使役に従事させていた
という前提で、その労役者の集積地の一つがマキムクであったと見ています。

従って、マキムクは300〜400頃が中心で、勝山、ホケノ山、石塚もその期間内と見ています。
http://www.geocities.jp/j_imada1999/xa_kfn02.htm
の地図の点線内に3基ともあり、場所的にもまとまった一連のものと考えています。
200日本@名無史さん:2007/01/26(金) 13:05:15
>>198

安本に騙される奴って高卒や3流大学出の
アンポンタンぐらだわな
201プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/26(金) 13:12:45
>安本に騙される奴って高卒や3流大学出の
アンポンタンぐらだわな



俺。高卒ですが何か?
202日本@名無史さん:2007/01/26(金) 13:19:18
高卒で安本さんとやらも知りませんが何か?
203日本@名無史さん:2007/01/26(金) 13:19:38
スレタイに邪馬台国や記紀がつくところは皆アンポンタンだよ
まじめに議論したい連中は、わざとそういう言葉を外してやっている。
この板のなかにもそういった地味な良スレがいくつかあるが、そっちには絶対に行くなよ。
君らは君らでやってなさい。
204プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/26(金) 13:32:52
>>203
つまり キミは何が言いたいの?
多分、その良スレの住人達が一番勘弁してほしいと思っているのは
キミが今やってる行為だよ!
205日本@名無史さん:2007/01/26(金) 13:37:15
>>199
あなたが提示したサイトのページはオオヤマト古墳群についてのものですよね。
しかし同じサイト内に纏向古墳群についてのものがあります。
これを引用しなかったのはなぜですか?

おそらくあなたの自説である纏向4世紀説に反するデータが述べられているので
わざと4世紀以降であることが判明している近隣のオオヤマトの方を持ってきたのでしょうが
そういう恣意的な引用は、あまりにも卑怯だと言わざるを得ません。
万一知らずにやってしまったのなら、あなたには古代史の基本的知識が欠けているということになり、あなたの説そのものが信用できなくなります。

いくら2chでも、そういった見え透いた手口で他人を騙す行為は許されていません。
猛省を促します。
206日本@名無史さん:2007/01/26(金) 13:38:08
なんだ、プラム自身もここが糞スレだって自覚してんじゃねーかw
207日本@名無史さん:2007/01/26(金) 13:48:28
>>199 これって安本や鳥越なんかがよくやる手口だよね
いかがわしい健康食品の実演販売なんかと一緒で
嘘は言ってないけど本当のことも言わないってやつ
208プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/26(金) 13:52:45
>糞スレ自覚


まっ。スレ主がスレ主だし〜
せめて感想文の一つぐらいは無くそうと思い、立てたスレだから
そのへんの主旨も判ってくれ なぁ
209奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/26(金) 13:53:35
>>205 反論の主張は歓迎します。どうぞどうぞ。
そのサイト内の他のページとやらを引用して下さい。
ここは「どんと来い!」スレですから。
210日本@名無史さん:2007/01/26(金) 14:01:05
>>150 >2、鉄器さえ皆無。
>>199 >マキムクは300〜400頃が中心で、勝山、ホケノ山、石塚もその期間内と見ています。
    >地図の点線内に3基ともあり、場所的にもまとまった一連のものと考えています。

アンタがホケノ山をマキムクに含めるのなら、「鉄器さえ皆無」などと、ウソ出鱈目を書くな!

>>177 >形では勝山(布留0、鏡なし)→ホケノ山(庄内式、画文帯)→石塚(庄内式、鏡なし)

アンタは、いったいどんな意図で、ここに土器型式「布留0」「庄内式」を書き込んだのか?
いったい、矢印「→」の意味は、何なのだ? 誤魔化さず説明しろ!
211日本@名無史さん:2007/01/26(金) 14:11:11
>>209
反論ではなく批判です。
嘘を書いてはいけないと言っているのです。
もしここが糞スレだとしたら、あなたのやっている行為によって結果そうなっただけでしょう。
まずは>>210の指摘にお答えください。
鉄器さえ皆無って、嘘でしょうが。

同一サイト内のページです。
まだ言い逃れする気ですか?
http://www.geocities.jp/j_imada1999/xa_kfn10.htm
212日本@名無史さん:2007/01/26(金) 14:26:09
もうひとつ不思議なのが、あなたが>>177
>布留0式を無視
と書いていることです。
布留0を重視するならば、絶対に4世紀にはずれ込みませんよ。
同時に出土している遠賀川や西新町、円筒埴輪なども4世紀ということですか?
ならばあなたの主張する東遷は根本から成立しません。
これは単なる間違いや勘違いというより、明らかな嘘でしょう。
考え方や主張の違いといったレベルの話ではありません。
213奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/26(金) 14:27:21
>>210、>>211 反論でなくて、批判でもどうぞ。具体的に書いて下さい。
その考えが説得的なら、私の考えも変わるかも知れないですよ。
コロコロ考えが変わる人ですから、私は。
214日本@名無史さん:2007/01/26(金) 14:36:15
>>213
あなたの考え方など問うては居ません。
嘘を書いたことを責められているんですよ。
>>210-212はこれ以上ないってくらい具体的に嘘を指摘していますよ。
これでもまだ具体的になどといってとぼけるのでしょうか?
215日本@名無史さん:2007/01/26(金) 14:39:24
糾弾するのもよいが、せめて仮コテぐらい名乗ったら?
トリの付け方ぐらいわかるでしょ?捨てコテでいいんだから。
216日本@名無史さん:2007/01/26(金) 14:42:15
>奴国 ◆BdeghU15Mk

http://www.begin.or.jp/sakura/maho1.htm#top
ここにホケノ山の出土品が載ってるね

ほかにも「ホケノ山 鉄」でぐぐったら、畿内説に批判的なサイトも含めてみな
大量の鉄鏃が出土したことを載せている

つまりアンタはこれらがすべて嘘を書いていると言いたいんだね?
自分の書き込みが正しくて、他の報告はみな嘘だと
217日本@名無史さん:2007/01/26(金) 14:46:18
>>215 匿名掲示板では名無しがデフォ
それは認められたルールであって、無問題
それが嫌なら匿名掲示板を利用しないことだな
しかし名無しでもコテでも、嘘はいかん
どこであろうとも明らかなルール違反だ。
218日本@名無史さん:2007/01/26(金) 15:50:46
邪馬台国はチェジュ島です。



      ・・・これにて終了・・・







219恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/26(金) 16:20:28
>>180
>魏の皇帝にしてみたら、卑弥呼は臣下扱いだから、名前で呼んでも不思議ではない。

だから俺は、魏が日巫女というのを名前と誤解して、卑弥呼と記録したといってるのだけど・・

さもないと朝鮮の新羅本紀で西暦173年に在位してた事になり在位期間があまりに長すぎる。
まあ、新羅本紀も日本書紀と年代に関しては、タイシテ変わらん信用度だが・・・・

−−−−−(引用開始)−−−−−
三国史記の新羅本紀に「阿達羅王20年(173)、倭国女王卑弥呼
が使臣を遣わし修交した。」という記事があります。
http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page021.html
220太国:2007/01/26(金) 16:54:28
>>219
お前さんのは短か過ぎ過ぎる。ww
221恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/26(金) 17:02:07
>>183
>宮崎と考えてるなら、違う。「宮崎」は出てこない。ひむか=福岡

あんな小さな峠を、ワザワザ書くものかい?
あまりにも大和朝廷が書くにしては小さすぎるし、神武天皇関係の遺跡がない。
少なくとも畿内を征服して大成功し、故郷に錦を飾ったのなら神武天皇の奥さん
(吾平津神社)や父親(鵜戸神宮)、お爺さん(青島神社)などの神社などが
残ってるのが常識。

そんなものが福岡の「ひむか」とかに残ってるかな。
いわば日向の大儲けをした、英雄伝説というべきものがあるのかい?
その点、宮崎県には沢山ある。

−−−−−(引用開始)−−−−−
吾平津(アヒラツ)神社:妃のアヒラツヒメを主祭神としています。アヒラツヒメは東征
         には同行せずこの地に留まるのです。

狭野(サノ)神社:神武天皇は幼名をサノノミコトといい、誕生の地と伝えられている神社です。
http://www.0503ak1025.net/zinmu.html
222恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/26(金) 17:12:25
>>185
>古くからの盟友の百済があっさり滅亡したのに

なんか時代がずいぶんズレテないか?

百済は新羅と唐に西暦660年に滅ぼされたが、邪馬台国は西暦240年頃の話だ。
公孫氏と間違ってるのかな。

公孫氏が邪馬台国の盟友という話は聞いた事がないけど・・・・
223恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/26(金) 17:26:24
>>187
>イカサマならば漠然と1日〜30日までに第三者に気づかれない
>ように巧妙にやる。

日本書紀をそんなに全文を読んで、統計を出して研究するようなバカが
いるなんて作者は思わなかったんだよ。
本がムチャクチャ高価な昔に日本書紀なんて、刊行して赤の他人に見せるよう
なシロモンじゃなかろう。

あなた自身、漢文で書いた30巻を全文を読んだわけじゃないでしょう。
あなたの話は、他人が書いた奴の孫引きじゃないの?
相当な暇人でなければ、そんなヘンテコナ統計を取ったりはしない。

そんな暇人の第三者なんて作者には頭の中にはないよ。
224恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/26(金) 17:28:35
>>190
>人口から考察したら

邪馬台国時代の人口なんて、どうやって調べんだ?
ずいぶんいい加減な測定法だろうね。
225恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/26(金) 17:31:27
>>197
>調査したことにしたんでしょ。魏の使いが。

魏の使いは、邪馬台国の連中から聞いて書いた数字だろう。
226恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/26(金) 17:39:11
>>198
>そんなやり方は 幼稚だって事にきずけよ。

アンタの文章の方がはるかに幼稚すぎる。

科学的計算というのは、原理は単純なものだよ。
あなた自身で、何かの統計に挑戦した事がないのじゃないかな。

俺はあるぜ、競輪で必勝法を見つけようと2年分くらいの競輪専門誌を集めて
統計を取り頑張った事がある。

1ヶ月間は、給料以上の儲けがあったが2ヶ月目にはトントン。
3ヶ月目になって、必勝法にしがみ付けず、自己流になり有り金を全部すってしまった。
まあ、負けてしまったからエバレンけどな・・・・
227太国:2007/01/26(金) 17:44:43
>>223
相変わらず、おとぼけが上手のようで下手だな?w
統計が出てくりゃぁ、数字の左寄りなんて確率的の0でお前の得意技の
ところなんだが、虚を突かれるとバカだとか全文読んでないとか、反証
もせず、あさっての無関係なる言い訳で逃げようとしている。w
だいたい余は孫引きなってやってないぞ。これも反証にもならんだろう。

それは西遊記の孫行者の話は引用開始することがあるぞぅ。ww

>>223は反証ゼロの逃げ口上。
「バカだ読んでない孫引きヘンテコナ統計」などの語は反証には全くならない。
余はちゃんとお前の反証(>>142)をしている。なぜ1日〜14日までしかない
のか、じっくり考えるんだな。これは倍暦の極めて強固な証拠。

すなわちお前の説はデタラメのセメントで固めたような暴論。ww
だいたい在位が父子継承で10年くらいでずっと進んでいくわけがない。
これは笑い話の極論だ。ww
228日本@名無史さん:2007/01/26(金) 19:25:22
>>178
言うことが分裂していると自分では気が付かないかね?
229太国:2007/01/26(金) 19:35:43
奴は自分の得意技(確率統計)を逆に相手に使用されて論破された。
反証がないのがその証である。

「バカだ読んでない孫引きヘンテコナ」は反証に見せかけているだけの狼の
遠吠えのようなものであり、実なる反証の文には全くならない。
230九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/26(金) 20:59:21
>>188 列島だけを外国と扱う事に懸念があります。

それはそうですね。プラムさんは、「世王有」の文をどの様に解釈しているのですか?
又その次下の文とどんな関係があると考えてます?
231プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/26(金) 21:11:59
>>230

【世有王、皆統屬女王國】正確には【丗有王、皆統屬女王國】

伊都の範囲内に三十人の王が政務を、その王達は皆、女王に統属していた。 
232プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/26(金) 21:19:02
>>230

【世有王、皆統屬女王國】正確には【丗有王、皆統屬女王國】

伊都の範囲内に三十人の王が政務を、その王達は皆、女王に統属していた。
233プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/26(金) 21:24:19
ゴメン

二重カキコに
234日本@名無史さん:2007/01/26(金) 21:51:19
>>210
そういう感情的な言い方はどうかと思う。
九州説も様々。畿内説もいろいろ。
真実が一つだとしたら、ほとんどの人は間違ったことを言っている。

だから、間違っていると思ったら、その旨を指摘し、自分はこう思うと言えば
良い。自分の意見と違うからと言って、嘘つき呼ばわりをするような人は
掲示板に書き込みをするのは遠慮すべき。

まず、あなたの嘘偽りのない真実を書いてみること。
それが他の人の批判に耐えるかどうか試してみたらいい。
235プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/26(金) 22:03:15
【丗有王】
この【丗】を(代々)と意味をもたせるなら、【丗丗】と記載するのが通例で
漢籍(二十五史)にても(223の例)あります
そして、(代々〜有り)とする【丗丗有○】の用例も、4例あり

【丗丗有祿秩家】 (史記/書/卷三十)
【丗丗有頼】   (宋史/本紀/卷四十七) などがあげられます
236日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:17:26
>>234
ホケノ山古墳の発掘調査で多くの鉄器が出土した。これは事実である。
にもかかわらず奴国氏は、「鉄器さえ皆無」と、正反対のことを言う。


したがって奴国氏は嘘つきである。


以上。
237日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:21:28
>>236
まあまあ、悪気はなかったんだろ。悪気のある香具師もこのスレには多いが。
238日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:33:13
>212
もともと纏向遺跡は、4世紀になってから出現したものとされた。

その意味では、纏向の古墳群は、4世紀になってからできたものということが
出来る。しかし、たとえば、石塚古墳は、出土した木材の年輪年代法によって
3世紀初頭ということにされた。

ところが、布留0式の土器がまとまって出土したことにより、変更を余儀なくされ、
寺澤氏などは、3世紀初頭の可能性は皆無と断定しているらしい。
で、最近では、庄内3(3世紀半ばから後半)というのが主流になっている。

となると、年輪年代はあまりあてにならないことになる。

つまり、年輪年代によって遡った庄内期の始まりも断定することはできない。
専門家の間でも、畿内説の学者の間でも石塚古墳の築造年代に統一した意見は
ないと言われている。

また、畿内と九州の土器を関連付けるのは強引過ぎるとも言われる。
まあ、アメリカで自動車が普及した時期と、中国で自動車が普及した
時期が同じだと考えるようなものかな。
239日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:38:27
>>237
奴国氏は、己の不明を詫び、問題の箇所を自ら訂正すべきであろう。
虚偽を前提に論じた部分は、いったん撤回し、再検討すべきであろう。
240日本@名無史さん:2007/01/26(金) 23:19:02
>>236
鉄器が皆無というのは、恐らく唐古・鍵のことではないかと思う。
僕はそのように受け止めたのだが。
>>239
しつこい。そんなことグダグダ言う前に自分の意見を言え。
241日本@名無史さん:2007/01/26(金) 23:19:03
>>238
年輪>編年
242日本@名無史さん:2007/01/26(金) 23:42:58
>>240
>鉄器が皆無というのは、恐らく唐古・鍵のことではないかと思う。
>僕はそのように受け止めたのだが。

違う。その受け止め方はおかしい。
奴国氏は>>150で、「鉄器さえ皆無」と書いたあと、
「古墳築造や兵役などの労役に使っていた」とも書いているではないか!
弥生時代の唐古・鍵に、「古墳築造」は、ない。
243プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/26(金) 23:52:26
(スレ主としての意見)奴国さんへ

> マキムクについては、一部の学者のみが先走っているようにも
見えるのですが、どうなんでしょうか?

私の理解は、
1、王宮等の支配者層の居所群と推測される遺構は、発見されていない。
2、鉄器さえ皆無。
3、威信財も皆無。。
というように、莫大な費用を投じたにも拘らず、平原1基にも及ばない成果なのを
ごまかすために、「フカしている」というものです。

より大きな都市のなかの一部の地域という性格で、地方から来た者をそこに住ませて、
古墳築造や兵役などの労役に使っていたと見るのが、素直な見方だろうと思います。


奴国さんの考えに、古墳は含まれていたのか知りたいのですが?

244九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/26(金) 23:57:19
>>235 プラムさん
中国は4000年の歴史があるから世世というが、
中国から見て、歴史の浅い、しかも遅れた国の倭国に中国と同じ世世というのはどうだろう。
ということで、やっぱり倭国への劣った未開の後進新興地域という偏見は無かったのでしょうか?
245日本@名無史さん:2007/01/26(金) 23:58:35
>>243
なるほど。エジプトと一緒か。
吉村先生に出てもらわなきゃいけないのかな。
246プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/27(土) 00:22:20
>>244 九州ですがさん

『丗丗』ですが

『丗丗傳統』と、後漢書倭傳にて范曄はカキコしています。
247九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/27(土) 00:39:06
>>246
うーん。この問題は難しい。【丗有王】 をどの様に書き下して読んでるのかを聞いて、
今夜はおやすみなさふぃ。
248日本@名無史さん:2007/01/27(土) 00:44:32
思いつきですが…

「ヤマト国」とは「ハヤト国」ではありませんかね?

「邪馬台」が「ヤマト」なのか「ヤマイ」なのか「ヤマドゥ」
なのかは知りませんが。
249プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/27(土) 00:47:35
後漢書を編纂した范曄は、陳壽の『丗有王』のカキコを見て、自らは
倭伝の中で
【三十許國國皆稱王】と
カキコしました。
250大和:2007/01/27(土) 01:20:50
「昔の304」さんへ。見ておられるかな、新井宏氏新論もありますが。
景初四年紀年鏡列島製云々の一考察です。ただし、大半がプラム氏意見採用の
結果ですが。いかがでしょうか?

>>125 プラムさん。【現代語訳】サンキュです。図書館行き免れて助かりました。
>また夏王朝の正月は計算上自然の正月と一致する。

現代語訳から思いまするに当時の暦、殷暦の景初三年十二月時に於いて、前回の
閏月より20数ヶ月経過した後の殷正として正月を祝い(この歳の場合は法要)、
暦上でも月の運行で一ヶ月の遅れを生じていたので、この殷正を閏月として後十
二月に副え、翌夏正をもって正月として、月の運行にも合致させた。との詔。

プラムさんに同意、検証いたしました。
前Resの続きになりますが、「漢書U・律暦志第一上P217」ちくま書房和訳。
『天統━周暦━正月(子)・地統━殷暦━正月(丑)・人統━夏暦━正月(寅)、
の初めに受け』とあります。

三国志・明帝紀(例の如くアレックス氏に感謝)に、
『景初元年春正月壬辰・・・中略・・・、以為魏得地統、宜以建丑之月為正。三月、
定暦改年為孟夏四月。』
その分注に、
『・・・今推三統之次、魏得地統、當以建丑之月為正月。考之羣藝、厥義章矣。
其改青龍五年三月為景初元年四月。・・・』
251大和:2007/01/27(土) 01:22:00
つづき

(無責任文意として)
曹魏地統を得て、建丑之月を正月となす。暦を改め青龍五年三月を景初元年四月と
なす。即ち、地統は殷を表し、暦に於いて建丑之月を正月となすで、景初元年曹魏
が暦を殷暦に改めたことが記されている。

『景初三年十二月、・・・又夏正於數爲得天正、其以建寅之月爲正始元年正月、
以建丑月爲後十二月。・・・』
>【現代語訳】
また夏王朝の正月は計算上自然の正月と一致する。そこで、建寅の月を正始元年正
月とし、建丑の月を(景初三年)後十二月とせよ。」

閏月について、
『青龍五年三月為景初元年四月』にて閏月が行われたことがわかる。
また、『以建丑月爲後十二月』にても閏月が行われている。

この期間2年9ヶ月。
陰暦19年に7閏月、平均2年9ヶ月で一ヶ月のずれ。ぴったり合致します。

景初三年十二月が曹魏殷暦景初四年正月として始まっていたのを確信し、景初四年
鏡は錯誤とか、誤記ではなく間違いなく景初四年の正規製作鏡として存在したと考
えます。
252奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/27(土) 01:25:13
>>242 なんか、私が仕事してた間に面白いことになっていますね。
じゃ、面倒だけど反論。

まず、>>205 に対して。
>>199 は、写真のみを引用しただけ。あまりにも下らない言いがかり。
得意げに「猛省」とか書いているのでげんなり。>>207の連投も彼の癖だね。
まぎらわしいから、昔みたいにkkk関係者とかのコテで書いてよww

>>210に対して。 >>236も。
これも下らぬ言いがかり。>>150 の趣旨は、一部の学者が「王都マキムク」とか、
「マキムク王権」とか言っているが、発掘した多数の住居跡には、支配者の居所群と
推測されるものはなく、鉄器も威信財も出てきていないの意味。
「マキムクをいくら掘っても鉄器さえ出てこない」とは、よく言われること。知らないの?
多数あるマキムク古墳群を含まないことは「威信財も皆無」から明らか。鏡も威信財。

>>210で土器のことを何か言っているみたいだが。 >>212も。
庄内と布留が地域ごとに偏在し、同時代でも並行して使われていたことは、既にこのスレ
でも書いたので、それが前提になっている。>>143を参照して下さい。
「単純一律に、布留は全て庄内より新しいとはいかない」ことはいまや当たり前。
「勝山→ホケノ→石塚」の「→」は前方部の発展のこと。普通に理解可能だと思うが。

くだらぬ言いがかりの前に、とにかく自分の意見を書いて議論しようよ。
253九州出身:2007/01/27(土) 01:48:03
景初四年(239) 斜縁盤龍鏡の謎を考えるとき昭和65年の10円を例にだして考えてみよう
254九州出身:2007/01/27(土) 01:49:42
丗有王については>>249でプラムさんが答えだしてる。
255スレ汚しになったらごめん:2007/01/27(土) 05:14:57
さっき初めて倭人伝の全文を読んだような素人の疑問なんだけど聞いていいかな。
卑弥呼の時代はいまよりずっと気温が高かったの?

倭人伝を見ると「倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。みんな裸足である。」とか
「一重の布を真ん中に穴をあけて首から通してこれを服とする。」ってあるけど
近畿に住んでるんだが、仮に邪馬台国が奈良なら、邪馬台国がメインと取れる文章で
倭の地は温暖で、冬も生野菜を食べ、裸足で一重の貫頭衣着てます。みたいな表現になるかな?
256日本@名無史さん:2007/01/27(土) 05:15:48
奈良は雪はほとんど降らないけど、冬の寒さは盆地のせいで近畿でもトップレベルなのよね。
あと生野菜の保存方法として、雪がたくさん降る場所では雪の下に埋めて保存して掘り出して食べる
っていう方法を今でもやってるんだけど、奈良は寒いけど雪は降らない地方だからその方法は無理なので
そうすると生野菜は冬季も栽培してるっていうふうに読めるんだけど、九州ならともかく奈良で可能なの??
257255=256:2007/01/27(土) 05:19:59
連カキすみません。>>255-256は続けて読んでください。
258日本@名無史さん:2007/01/27(土) 07:47:18
>>252
鉄が出てこないってことは、マキムクの古さの証明になるんじゃないの?
259プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/27(土) 07:51:09
>>253

>昭和65年のコイン


昭和64年は一月七日まで、その次の日は一月八日から
昭和65年の入り込む余地さえ有りません。ましてやコインとなると、その製造は前年に終了しているわけでその前年が、実質七日間それも正月休み明け僅か
製造ラインにものってないのでは?
仮にいくらかでも製造したものがあっても、
65年が存在しないのですから そのコインは破棄されれば済むことです。
260プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/27(土) 07:56:30
>>256さん ごゆっくりと

帯方郡からかなり南下し列島に到着した 人達は、自分達が住んでいた 魏地や半島北部と比べて
かなり温かな土地と感じるのは 当たり前の事でしょう。

北海道の人が九州に移動するのと同じ感覚と考えますがいかがでしょう。
261日本@名無史さん:2007/01/27(土) 08:18:54
ホケノ山からザクザク出てるがな
262日本@名無史さん:2007/01/27(土) 08:51:12
>>254
後漢書の「使驛通於漢者三十許國、國皆稱王」は、倭人伝の「今使譯所通三十國」
を受けたもの。つまり、三十カ国というのは、対馬国、一支国から始まって、
投馬国、邪馬台国までの8カ国。その余の旁国の21カ国。それに狗奴国を
加えた合計30カ国を指している。

伊都国についての、「世有王、皆統屬女王國」は、代々王がいて、皆女王国に
統属するで良い。
263日本@名無史さん:2007/01/27(土) 09:15:29
>>255

その問いには、当時は現代よりも海進が進んでいたことからもいまより温暖
な時期であったと考えられています。当時まだ大阪平野のほとんどは内海で
あり、奈良盆地には巨大な湖沼が広がっており、森林が豊富で水量も今より
多かった大和川・吉野川(紀ノ川)は中世〜近世頃まで大坂湾から奈良盆地ま
で船で遡上できました。関東平野の多くもまだ汽水の湿地帯だったのです。
その後、徐々に海抜は数十m下がって現代の海抜に下がっていきます。
264日本@名無史さん:2007/01/27(土) 09:45:47
>>255
一度、日本を出て西安とかピョンヤンとかヨーロッパの北の方とかで冬を過ごしてみたらわかるんじゃないだろうか。
気温マイナス20度の中を毎朝通った経験を持つ身としては、下がっても零下そこそこの日本はとってもぬくぬく。
265日本@名無史さん:2007/01/27(土) 09:52:13
問題は「阿蘇山」だよ。
266プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/27(土) 09:55:49
>>262

>代々

じゃあ、何時から何時まで?

漢籍読めば答えは自然と導き出されるよ!
これを(代々)と解釈しているのが 日本人だけだって
267一応九州王朝説:2007/01/27(土) 10:06:18
まあ魚や生野菜の話は一般的には九州っぽいですね。冬に野菜を
栽培するのは古代にはそれは簡単ではない。

でも、中国人の感覚からすれば河内湖→奈良が一日〜二日だから、
魚については十分新鮮と言ってもいい。川魚は一杯とれるし。
野菜については、どんなもののことなのかがわからないので、考
古学的にはどちらとも言い難いと思います。その話は傍証として、
一般論的には使えても、どちらかと言い切るのは今はまだ無理か
と。まあ、ほうれん草づくりは難しいけど寒い方がいいし、ネギ
も季節も寒さも関係ないからね。肥料も世話もいらへんし。

268プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/27(土) 10:09:57
>>262

「丗」を どおしても世代を表す(代々)と解釈したい場合は、それに見合う定型文を多くの漢籍文から見付だし、その文とこの「丗〇〇」を照らし合わせるんだよ
そうすれば結果が出るから

貴方はその作業した?
二十五史(約四千万字)
十三経 (約八十万字)


ガンバレ!
269日本@名無史さん:2007/01/27(土) 10:15:11
ヤマト=ハヤト?
と書いた者ですが、見事にスルーされてますね…
やはり発音の関係で無理なのでしょうか?
270プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/27(土) 10:19:31
>>269


>ヤマト=ハヤト

そこに至った経緯がカキコされていなくちゃコメントのしようがないよ!
271九州出身:2007/01/27(土) 10:36:13
>>255-256
わたしも>>260>>264と同じ考えです。
氷河時代に比べたらたかが1800年前です。
気温に関しては詳しくは解らないのですが、個人的な考えは現在より少し寒いか同じ位ではないのでしょか。
自分達の土地に比べて暖かかったとみてます。

冬でも野菜の栽培は可能と聞きます。有名なのは大根、白菜、ねぎ、ほうれん草等。
272日本@名無史さん:2007/01/27(土) 10:38:58
>>267
栽培するなんて書いてないぞ。冬夏食生菜。食べるだよ。
今でも北陸なんかじゃ、庭先に天然の冷蔵庫をつくって野菜を生のまま保存してる。
273九州出身:2007/01/27(土) 10:45:16
>>259
現在の情報社会ではそうなる!
274九州出身:2007/01/27(土) 10:48:05
>>272

冬でも野菜の栽培は可能と書いたんだが・・・
魏志倭人伝に栽培すると書いてるとか誰もいってねーし
275九州出身:2007/01/27(土) 10:52:37
>>272おまえはバカだ
276日本@名無史さん:2007/01/27(土) 11:01:22
菜とは野菜山菜等植物質のものだけではなく、魚・肉等も含む(中国では)と聞いた事があえりますが?
どうなのでしょうか?
277日本@名無史さん:2007/01/27(土) 11:06:37
日本って、中国北部や半島北部に比べて
そうとう、暖かい土地。

緯度からみたら、中国北部や半島北部って、日本の北海道や東北だから。
しかも、中国北部や半島北部は内陸部だから、
シベリアから冷たい風が直撃し、
日本の北海道や東北どころの寒さじゃない。
278プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/27(土) 11:35:48
>>251 大和さん
『景初四年問題』


今度は、景初三年十二月公布の『詔』の流れを考えてみますか?


公布()


適用()


施行()


こんなところですか?
279日本@名無史さん:2007/01/27(土) 12:36:57
東アジアの古代文化の雑誌129号の新井さんのお話直に聞いてきました。
三角縁は、100%日本製と判断していいとのこと。朝鮮半島の可能性も
あるが、韓国などの古墳では鏡の出土が少ない。つまり鏡にはほとんど
興味がなかったと言える。そのため、韓国等で造る可能性はほとんどない。
つまり日本製。この部分は確かに推測であるが、他のdataは、誰が
判断しても同じ結果になる。推測はないから。科学的dataから
からえられる結論は誰も反論できない。
ただし、阿蘇山は、移動した。
280日本@名無史さん:2007/01/27(土) 12:51:33
>>279
>ただし、阿蘇山は、移動した。

プッ。 ワロタ

んなこと新井先生、言うわけねえだろ。 www
281プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/27(土) 13:48:17
>阿蘇山は移動した


ま、いたるところに阿蘇はあるから そう考えたのだろう。
中国にだって阿蘇はあるから


でも、100%を使用しながら可能性を残すとは
イヤハヤ商売人だな!
282日本@名無史さん:2007/01/27(土) 14:21:42
>>274
あんたにはレスしてないから。アンカーちゃんとみてね。
283日本@名無史さん:2007/01/27(土) 15:21:12
>>252 奴国氏へ質問
>多数あるマキムク古墳群を含まないことは「威信財も皆無」から明らか。鏡も威信財。

墳墓以外から出てくる鏡が威信財であって、
墳墓から出てくる鏡は、威信財ではない、ということ?
284九州出身:2007/01/27(土) 15:37:39
>>282
勘違いしてた!そまそ
285大和:2007/01/27(土) 15:48:07
>>278 プラムさん。
景初年間の諸問題はおおむね解決。今回もいたるところで新知見収穫ありサンキュでした。
お蔭様で景初年間はかなり深い部分での理解ができたと喜んでおります。

次は新井氏論文で[昔の403]さんにご教示いただこと思っております。宿題を預かっておりますので。
詔を含めてその内にまた琴線に触れる投稿があればResさせてください。宜しく。
286269:2007/01/27(土) 16:05:55
>>270プラムさん

自分の推測では、邪馬台国は畿内でもなく北九州でもなく
南九州のいずれかだと考えます。

●理由
1、記紀には邪馬台国らしき記述がない
2、北部九州が邪馬台国ならば、何らかの記述が記紀にあるべき
3、謎の倭の五王

以上です。
1についてですが、倭人伝の記述によれば

男王(内乱)

女王

男王(内乱)

女王

といった系譜になりますが、合致する歴史は記紀にありません。
朝貢云々ではなく、歴代天皇の悪行なども記す記紀ならば
これら事績の記述はあってしかるべきです。
287269:2007/01/27(土) 16:06:59
そこで、ヤマトと不仲であった熊襲に着目しました。
熊襲は隼人でもあります。
隼人は隼人の自称で、熊襲はヤマトによる蔑称です。
隼人の女王が朝貢し、自国を「ハヤトのクニ」と称し
それを魏人が「-a-a-o」の韻を誤り「邪馬台」と記述したのでは?
と考えた次第です。

むろん、古代中国語の韻律などは存じませんので妄想の範囲でありますが…
288269:2007/01/27(土) 16:13:25
つまり、南九州にあった邪馬台国は、その後別の勢力に滅ぼされ
歴史から姿を消したのではないでしょうか?

その勢力は後にヤマト王権に参画し、ヤマトは邪馬台国を知らずに
南九州の「クマソ」の抵抗に手を焼いた。
「クマソ」は、先に別の「ハヤト」を滅ぼした政権であったが
邪馬台国の朝貢の事績などを知らずそれは歴史に埋もれていった…

従って、邪馬台国の位置の特定はもはや不可能だと考えます。
永遠に歴史のロマンであると。
289269:2007/01/27(土) 16:15:31
訂正
「参画し」ではなく「反抗し」です。
290プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/27(土) 19:41:12
>>286さん レスありがとうございます。


早速ですが

>1・記紀には邪馬台国らしき記述がない


ではお聞きしますが、記紀以前に編纂された(倭伝)との共通記事を見付ける事は出来ましたか?
291日本@名無史さん:2007/01/27(土) 21:12:04
>>288

筑紫君磐井の乱だろう。叩き潰されたんだよ。他の諸国と同様に。
292九州出身:2007/01/27(土) 21:30:13
みなさんはどうなの?
記紀と倭人伝で共通記事はみつけた?
293日本@名無史さん:2007/01/27(土) 21:41:24
新井さんの講演では、年号の入った、三角と青竜年などの鏡も日本製
としてAB2つのグループにわかれる。さらに年号が違う鏡も同じ値を
示す。同時期に造ったと考えるしかない。従来中国製といわれた後漢鏡も
日本製と考えられる数値であった。
阿蘇山は移動した。これは新井さんでなく私の30年にわたる研究の
結論である。
294日本@名無史さん:2007/01/27(土) 21:46:13
山は動かぬぞ。byシンゲン・タケダ
295日本@名無史さん:2007/01/27(土) 22:03:07
「出雲」は佳字でこれが卑字になると「土蜘蛛」と表現された。
「八雲立つ」というように、出雲は「八」がシンボルである。
「八又のオロチ」「八束の剣」すべて「八」が関わっている。
砂鉄精錬の技能集団として渡来した彼等の精神世界がそこに反映
されていた。
しかし技能の低い渡来人もいた。そのような者達は「八」の半分
の「四」しかない半端ものであるとして「出」から「土」に変え
て蔑まれた。土蜘蛛としてまつろわぬ者達とされたのである。

日本では九は苦に通ずるからと嫌う人が多いが、中国人は九を「
永遠の象徴」として好む。筑紫のあった「九州」はまさに中華的
思想の現われである。
古事記に既に「九州」の表記はある。それは記紀編纂者達も周知
の事実だったからだろう。しかし中国に記述のある「阿蘇山」は
古事記に何の記述もない。九州の山で出てくるのは高千穂峰なの
である。この辺に分水嶺があるのかもしれない。
296奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/27(土) 22:35:20
>>279>>293
東アジアの古代文化129号では、微妙に断言をさけて朝鮮半島の可能性もわずかにあるか
のように言っていたけど、やっぱり本心は100%国産だった訳ですね。

ただ、ちょっと疑問なのは、
1、中国製と日本製とで、原料となる銅の種類も違うのか、加える鉛の種類だけが違うのか。
2、舶載鏡を再利用して国産鏡を作った場合に同位体比が変わるのかどうか。
という点はどうなんだろう。

129号の一覧表では、舶載鏡と日本製との中間値の同位体比で、判別困難なものが結構あった
けど、それらは舶載鏡に鉛を加えたりして再利用した結果のブレンド値なのか、もともと重なり
合うものなのかという点を疑問に感じた。
あと、鏡職人は、古い鏡の光沢・渋み出すために古銅を加えることもあるらしいけど、そういった
場合でも同位体比が変わるのだろうか?

というような話はなかったでしょうか?
297プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/27(土) 22:48:51
>>285 大和さん

また遊んでくださいね
298日本@名無史さん:2007/01/28(日) 00:29:23
>>295
九州は、国が九つで九州だろう?
299日本@名無史さん:2007/01/28(日) 00:33:38
74ページ図8を利用しての説明です。x印の左下とx印の右上が中国製。
三角縁の多くは、両グループを結んだ線上にあるので、中国製の鉛を
まぜてつくった。つまり、中国製と考えられる。図中央の三角。しかし、
異常Aは韓国の鉛が入ってる。異常Bは、神岡の鉛がはいってる。鉛を
入れると融点が下がり、融けやすくなる。鉛のすくないものや、模様の
複雑なものは、鉛を追加する。追加は必ずしも必要ではない。中国の鏡
を混ぜただけでもつくれるのがほとんどと思える。つまり、図中央の
三角は、原料は中国であることをしめすが、それが中国でつくられたなら、
x印のグループにはいるはず。しかし、別のグループをつくり、異常
グループが近くにある。追加の鉛は手じかのものを使う。中国でつくるの
に、神岡の鉛をつかうものだろうか?三角は原料は中国でも、日本で作った
ので、神岡の鉛を使ったと考えるのが自然。ただし、異常Aは、韓国の
鉛であるので韓国で造った可能性はあるものの。韓国は、そう鏡を大事
にしてない。ほとんど興味がないようだ。それより、日本で作ったが鉛
が必要で韓国から買ってきたとするほうが、神岡使用とあわせ考えると
自然。つまり三角は、すべて日本製(造った場所、原料は外国が主)と
結論付けた。
付録:阿蘇山も鉛を調べれば日本製がわかると思う。これは私の希望
ですが。
300日本@名無史さん:2007/01/28(日) 01:18:45
>>298
違う。畿内王朝に敗北し吸収されたから九州。
301奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/28(日) 03:39:19
>>299 大変分かりやすい説明です。ありがとうございます。
これで、三角縁が日本製と確定したとすると、いつから三角縁が作られ始めたのかが、
いよいよ問題となりますね。

よくよく考えてみると、三角縁が崇神天皇の時代、もしくは350年より前に確実に遡る
出土例がないのではないかと考えているのですが、どうでしょうか?

そうなると、「画文帯後、三角縁前」の時期がは320〜350頃になって、ホケノ山が
340〜350頃という可能性も高くなると考えられます。
私は、ホケノ山は、8代孝元天皇の陵墓の可能性を考えています。
302日本@名無史さん:2007/01/28(日) 06:22:57
350年を確実に下回る出土例は更にないな。
303日本@名無史さん:2007/01/28(日) 07:53:33
阿蘇山が移動したしたのは350年?
304日本@名無史さん:2007/01/28(日) 08:05:34
三角縁神獣鏡は、布留0式になって登場するらしいが、では布留0式とは何か、
ということになると良くわからなくなる。

だいたい、土器の編年は限られた狭い地域ではかなり有効らしい。
基本的には、古い土器から新しい土器に順番をつけるというものである。

ところが、最近はこれに絶対年代をつける傾向がある。
聞くところによると、国際学会では、土器編年は絶対年代の基準としては
認められていないらしい。日本の考古学者が「土器による年代判定」を
力説したが全く相手にされなかったという話もあるという。

また、最近の日本では、各地の土器を関連付けようとする傾向もある。
これが果たして可能なのだろうか。
もちろん、以前は各地の土器編年は完全に独立していた。

土器の場合、作られた時期と捨てられた時期は異なるだろうし、古代だから
各地の交流も少なかっただろう。また、現代でも、箱型のテレビと薄型の
テレビが混在しているように、土器の混在もあったに違いない。

このような難しい問題が、まるで定説であるかのように語られているのは
果たして正常といえるのかどうか。
305日本@名無史さん:2007/01/28(日) 08:29:11
阿蘇山といえば、9万年前だったか大爆発を起こしたらしい。
そのときの火砕流で、大分県の日田市では大木がなぎ倒された。
佐賀県でも、火砕流で倒壊した木が見つかっているらしい。
九州全部が被害を受けたと考えられる。

隋書・東夷伝などには「其石無故火起接天者」とあるから、古代でも大爆発が
起きたと考えられる。これが東遷の原因だったりして。
306一応九州王朝説:2007/01/28(日) 09:31:04
喜界カルデラや姶良カルデラ規模の噴火はともかく、中・小規模の噴火は
あったようだからね。ただ、王都を移動させるまででは無かったっぽい。

長江の大洪水がボートピープルを大量に生んだり、寒冷気候から半島での
争乱→日本への移動、など、自然現象の要因も古代には大きかったでしょう
ね。
307SOY:2007/01/28(日) 10:02:18
>>304
> 土器の場合、作られた時期と捨てられた時期は異なるだろうし、古代だから
> 各地の交流も少なかっただろう。また、現代でも、箱型のテレビと薄型の
> テレビが混在しているように、土器の混在もあったに違いない。

土器の場合、作られた時期と捨てられた時期はかなり近いという前提が
あるのだと思います。

また、各地の交流は存在しているので土器編年の関連付けはある程度
可能だと私は考えます。

寧ろ私は庄内式や布留式の時代ともなると、土器編年の有効な地域が
狭い地域とはもはや言えないとまで考えています。
 
308日本@名無史さん:2007/01/28(日) 10:05:15
神武東遷を史実として
東遷の理由は
ア.畿内が戦国時代で言う京のような存在であり天下統一のため
イ.畿内王権の一族だった神武の先祖が何らかの理由で九州へ移住
 神武の代で故郷に戻った
309日本@名無史さん:2007/01/28(日) 10:10:06
>>304
だからこそ、日本の考古学の権威らが
年輪年代測定法とか
導入し始めたんだな。
310日本@名無史さん:2007/01/28(日) 10:13:22
神武東遷を史実として
東遷の理由は
ア.畿内が戦国時代で言う京のような存在であり天下統一のため
イ.畿内王出身だった神武の先祖が何らかの理由で九州へ移住
 神武の代で故郷に戻った
ウ.畿内外の出身だった神武一族が何らかの理由で移住
 畿内へ流れ着いた
この3パターンのどれかに該当しそう。
自然災害説は初めて聞いた説。イかウの理由としては十分考えられる。
なんか痕跡とか残っていないのかなあ。

>>308は間違えスマソ。
311日本@名無史さん:2007/01/28(日) 10:16:38
>>307
都合が悪くなるとその部分の概念を拡大・援用していく泥縄の典型
やね。
土器の交易・移動ルートの解明、なんで捨てる時期が同じなのか、
形が同じだと同じ生産地、同じ時代なのか、など、課題はむしろ
等比級数的に増えていきますよ。そんなに物を買ったり交換したり
が誰でも自由に出来たわけではない貧しい時代に、流行に追随して
同じように土器を取り替えるわけない。中世でも、戦国時代南蛮か
ら持ち帰った壺とかでももの凄く長く大事に使ってましたよねw

世界で哄笑されたのは、むしろ放射年代を比定する非科学的頑迷さ
だと思いますよw 確かに日本の土器文化の優秀性は間違いないで
すが、それは縄文の話。縄文土器で10年単位の編年が作れますか?
312日本@名無史さん:2007/01/28(日) 10:23:34
>>310
東遷というと凄くややこしくて大がかりな手続きが必要だが、
そんなこと神武記になにも書いてないよ。ただ、三種の神器?
らしきものを持ってて、ニギハヤヒも持ってるから長脛彦が
不審がったって話。無理に生駒越えを強行したから咎められて
ボロボロにされて逃亡しますた、って話、
それで当時既に大規模な国家の体裁を整えていた時代に遷都な
んて出来ますか?
領民数十万を引き連れて負けて逃げて熊野越えかよw
せいぜい数百のわかい連中の部隊だろ。各地の国を挙げて高地
性集落を作らせるほどじゃないよ。
313日本@名無史さん:2007/01/28(日) 10:48:06
>>301
新井さんは、最後に「2.12以下は本物」と言われました。早見方法
です。本物の意味は多分、中国製という事だと私は思う。
論文の表を見ると、2.12以下は、漢6,7ぐらいです。
67ページの下段の表。景初4年は、2.1365、2.1287.
青龍3年は、2.1305.すべて、日本製となる。データーはすべて
書いてありますので各自でグラフをつくってみるといいと思います。
2次元、3次元、棒クラフ等。三角は、魏と言える図は出来ないはず。
これは、推測を含んでないから誰が考えても日本製になる。
重要:阿蘇山は移動したという私の説が教科書にのるのがちかずいた
と思う。時期は350年かどうかは、まだ解明してない。
314日本@名無史さん:2007/01/28(日) 10:50:44
>>313
阿蘇山はどこからどこに移動したの?
315日本@名無史さん:2007/01/28(日) 11:57:03
神武とナガスネヒコの戦闘と、
ニギハヤヒが神武に恭順したりするのは
遷都という行為だったかどうかはともかく、
神武が畿内へ侵略したのではないかと思うのだが。
316SOY:2007/01/28(日) 12:00:01
>>311
> 課題はむしろ 等比級数的に増えていきますよ。
課題があるから否定する、課題があるから解決する。
それは研究姿勢の違いだと思います。

しかし、課題が等比級数的に増えてゆくというだけでは話にすら
ならないので具体的に否定の材料として挙げられたことについて
意見を述べるなら

> 形が同じだと同じ生産地、同じ時代なのか、など、
これは貴方の思い込みです。
必ずしも形だけで生産地と時代を決めているわけではありません。

また、作られた時期と捨てられた時期が同じとは限らないことを
主張するなら、戦国時代南蛮の壷のような話よりも、
例えば、弥生V期の土器が後世までかなりの量出土するという
事実がある為、数十年単位の土器編年には意味がないといった
ようなことを具体的に主張すれば良いと思います。
実際、そんな事実はありませんが…

> 世界で哄笑されたのは、むしろ放射年代を比定する非科学的頑迷さ
> だと思いますよw 
私は『誰が言ったか』より『何を言ったか』に重きを置く人間なので
世界の評価など気にも留めませんが、
数十年単位で絶対年を比定できるほど放射年代の精度は高くないと
考えています。

> 縄文土器で10年単位の編年が作れますか?
それは実際の土器の出土状況から決めることだと思います。
ただ、10年単位の土器編年は不可能だと私は考えます。
 
317日本@名無史さん:2007/01/28(日) 12:30:51
>>306
近代のボートピープルという難民の概念を
古代に過剰に考えるべきではない。
318日本@名無史さん:2007/01/28(日) 12:33:20
>>315
記紀によれば、神武は
畿内の王家の姫の婿養子に入った。
そして、その畿内の王家とは同族関係だった。
319日本@名無史さん:2007/01/28(日) 12:33:54
>>304
>日本の考古学者が「土器による年代判定」を
>力説したが全く相手にされなかったという話もあるという。

聞きはじめなので、いつ、どこで、誰が、そしてその具体的な内容を明らかにしていただきたい。

>また、最近の日本では、各地の土器を関連付けようとする傾向もある。
>これが果たして可能なのだろうか。

遠くから運ばれてきた土器が地元の土器と同じ層位から出てくる(供伴する)場合がある。
この同じ事例が多数集まると、これはたんなる偶然ではなく同じ時期の土器と結論できる。
当り前の事だと思うが?

>土器の場合、作られた時期と捨てられた時期は異なるだろうし、

土器は捨てられて遺物になるのでわかるのは本来は捨てられた時期ということになるのだが、
土器でわかる年代の幅は20〜30年ぐらいはあるので今のところ誤差のうち。

>古代だから各地の交流も少なかっただろう。

弥生後期以降になると交流が活発になり、異なる地域の土器が供伴する事例が沢山ある。

>このような難しい問題が、

全く難しくない。事実を受け入れるのが難しい人が多数いるのは事実のようだが。
320奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/28(日) 14:50:32
土器編年については、下のサイトにいくつかの編年表が列挙されているけど。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.html

1、まず疑問なのは、庄内式は、畿内の一部地域にしか普及しておらず、庄内式を経ていない
地域もあるのに、編年表では、一律に「庄内→布留」になっている。

2、庄内式は畿内よりも北部九州の方が広い地域から発見されていることからは、北部九州で
ある程度時間をかけて普及した後に、畿内の一部地域(東大阪、磯城など)にのみ普及したと
考えて、その普及に時間差を考えた方がいい。

3、同じ庄内、布留の土器を使っていても、古墳時代とその前では出土する鏡の傾向(中国製
中心と日本製中心)の違いが明白(新井)ということからは、庄内、布留は並存しながら
古墳時代に入っていったと見たほうがいい。

というのが、私の>>143での考えです。
321奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/28(日) 15:45:55
>>313  それを前提に「大和柳本天神山古墳」の鏡を抜き出して見てみると・・・
http://www.narahaku.go.jp/exhib/2002hei/2002hei_42_2-5.htm(天神山古墳)
年代は崇神稜の前後頃(360〜380頃)かと思うのですが。

1、劉氏作画像・・・            1個(2.110)
2、画像鏡・・・1個(2.127)
2、画文帯・・・3個(2.125以上)   1個(2.099)
3、獣帯鏡・・・               1個(2.116)
4、半三角・・・1個(2.142)
5、獣形鏡・・・3個(2.124以上)
6、三角縁・・・2個(2.124以上)

画文帯のうち1個が中国製?これはどうなんだろう?
322日本@名無史さん:2007/01/28(日) 16:19:54
>>305

鬼界トラフの大爆発はもっとすごかった。被害は沖縄・九州・朝鮮半島に
までおよび、九州の有紋土器縄文文明は壊滅した。南米バルディビアから
同様の土器が発見されたものと同じ土器である。
323阿蘇山は移動した:2007/01/28(日) 18:27:16
姫川のヒスイが吉野ヶ里の王墓から首飾りででてくる。鏡は、卑弥呼
ルート以外でもきてるかも(推測)。それが交易か贈与かわからないが、
九州から近畿へ入る事はさほど不思議ではないのでは?(推測)
324SOY:2007/01/28(日) 19:33:36
>>320 奴国
発祥地が何処であるかという問題と周辺地域に広域に伝播するという
問題は別の問題だと思います。

畿内で庄内式土器が発祥していれば必ず偏在性なく広がると仮定する
のであれば、河内に伝播しても偏在性なく広がると考えられます。

また、画文帯神獣鏡のような舶来の鏡から日本製の鏡へと移行する
理由についても、例えば楽浪郡の滅亡といった別の仮説の入り込む
余地がまだあるように思います。

因みに庄内式土器の発祥地としては私は河内が怪しいと考えています。
庄内式土器は吉備の流れを組むといった話を聞いたことがあります。
そして、河内では吉備の土器が多く出土しています。
もし、北九州から伝わったとするのならば、吉備ではなく北九州の
土器がもっと出土するのではないかと考えるからです。

それはともかく、
北九州最古の庄内式土器がどういった位置付けにあるか気になります。
庄内式土器が突然誕生するとは思えません。
となると、北九州最古の庄内式土器の周辺には庄内式土器の原形となる
北九州の土器あるいは吉備の土器が必ず九州に存在するはずです。

そのあたりについて何かおさえられていますでしょうか?
あるいは北九州で出土する庄内式土器が極端に古いという情報を
何かお持ちでしょうか?
 
325奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/28(日) 20:20:54
>>324 画文帯については、色々疑問があって、考えが定まっていません。
岡村とかによれば、画文帯は中国では150〜220頃に(呉の地域を中心に)流通していた
らしいのですが、日本で発見される画文帯は、古墳時代以降がほとんどで、古墳時代以前
に確実に遡るものがない。あと、中国よりも日本で多く見つかっているので、大部分は
日本製であろうと考えています。新井のデーターもそれを裏付けています。

ただ、日本で複製を作るにしても元になるものが舶載されているはずで、画文帯のなかには
舶載鏡があると考えていますが、中国と流通時期が違いすぎるので、多数が舶載された
ようにも思えない。
同向式神獣鏡のようにほぼ全部日本(若干、楽浪郡)で発見ものは、日本で考案された図柄と
考えるのが素直ですが、数枚の舶載鏡が元になっている可能性もある。

楽浪からは、中国で流通している鏡の一部しか見つかっていない反面、中国で流通量の少ない
亜種が多いとされるので、楽浪辺りで中国とは別系統の鏡生産拠点があったように見えるけど、
朝鮮での鏡の流通量自体が少ないので、全部を楽浪からの舶載とは考えられない。

ということで、数枚の画文帯が300年以降に舶載されて、これに色々バリエーションをつけて複製
した事態が想定できますが、そうなると、SOYさんの示唆するように、313年の楽浪郡の滅亡により、
その数枚の画文帯が持ち込まれたという考えは魅力的ですね。
326大和:2007/01/28(日) 21:04:25
>>299 >>313さん。
素朴な疑問。元の銅合金に神岡の鉛を混合した場合、元の銅合金が持つ鉛同位
体は新しくできた銅合金に影響を与えないのですか。混合された銅・錫・鉛を
含む銅合金の鉛同位体比が神岡の鉛同位体比と同じは納得できません。

元の銅合金が鉛を含まない青銅器なら別ですが、少なくとも表6・Bに示すPb
鉛同位体を見ますとその他鏡と同じように鉛を含んでいます。ならば、神岡の
鉛を使うということは数値的には神岡の数値とかけ離れた数値が表示されるの
ではないでしょうか。
327日本@名無史さん:2007/01/28(日) 21:05:56
鉄の流れを追えばいい。出雲系の氷川神社の展開をみれば当時、瀬戸内海
よりも日本海沿岸の物流の動きが活発だったことがわかる。
島根から新潟、十三湊を介して、関東・中部・東北までその流れはみてと
れる。
328SOY:2007/01/28(日) 21:30:00
>>325 奴国
画文帯神獣鏡については私も考えが定まっていません。

・呉鏡の流れを組む画文帯神獣鏡は呉が併合された280年以降の
 流入と考えるべきか
・そう考えると画文帯神獣鏡に後出する三角縁神獣鏡の紀年は
 疑うべきか
・画文帯同行式神獣鏡は楽浪郡もしくは日本制と考えるべきか
・313年の楽浪郡滅亡は鏡生産の一つの契機と考えるべきか
・魏晋の位至三公鏡と魏の年号のある三角縁神獣鏡の年代差は
 位至三公鏡を後漢鏡と解釈することで解決すべきか
 あるいは三角縁神獣鏡の紀年を疑うことで解決すべきか

これらの答えを出す為にも、遅まきながらまずはその新井氏の
データを自分なりに検証してみたいと思います。

まだデータを見ていないのでよく分かりませんが、
直感的に>>326 大和のような疑問が生じるのも妥当に思います。
329阿蘇山は移動した:2007/01/28(日) 23:05:32
確かに、変だ。新井理論は破綻した。明日でも、電話してみます。なぜか
自宅の電話番号を知ってる。でも、教えてくれないだろうな、、、
もうどうでもいいかも知れませんがあと1つ。
新井さんは、常にイミテーションを考えろっておっしゃってました。
貴重なものほどイミテーションが多数出る。
330日本@名無史さん:2007/01/29(月) 05:57:59
中森明菜?
331日本@名無史さん:2007/01/29(月) 08:03:22
山口百恵ですよ。
イミテーションゴールド
332日本@名無史さん:2007/01/29(月) 09:22:06
♪ホクロが違う〜
333日本@名無史さん:2007/01/29(月) 10:32:01
そういや鹿児島の上ノ原遺跡も、噴火がトドメを刺したという話だったなぁ
334日本@名無史さん:2007/01/29(月) 10:42:30
むしろ日本海沿岸の方が交易が盛んだったのならば、考えられてる以上に当時の航海技術が進んでたと
想像できる
日本海沿岸を小型船の目測航行のみでで移動するのは、今でも大変だからね
最低でも陸上目標を使った三角計測が必要だ
335奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/30(火) 02:52:42
新井の結論と、安本の言うブレンド論とは整合するだろうか?
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku238.htm  の下のほう参照。
>>321で書いた4個の画文帯も同じ同位体比で上のサイトに引用されている。

安本には、原料の銅に鉛を加えて同位体比が変化するという新井の視点がないけど、
製品としての鏡の同位体比は、新井も安本も同じなので、直ちに誤りとも思えない。

129号74頁の図7で新井が「中国製が確実な漢6,7期の領域」としている部分は
本当に、「中国製が確実」と言えるのか、疑問がある。特に、内向花文と斜縁。
あと、三角縁の一部が「確実な領域」に入ってしまっている。

そうなると74頁の図8の「確実な領域」にも少し疑問がある。
むしろ、「確実な領域」も日本製に含めて、ブレンド収縮によって新しい鏡は中央値に
集中する傾向があるとしたほうが、良いのではないかと思えてきた。

この点は、中国にある中国鏡の同位体比の調査がなされるまで、保留にしたほうが
良いと思う。
336日本@名無史さん:2007/01/30(火) 08:41:19
age
337日本@名無史さん:2007/01/30(火) 12:32:20
何故見れないんだ?
338日本@名無史さん:2007/01/30(火) 12:58:29
>>337
>何故見れないんだ?

学問板でありながら、あまりにも低レベルのレスや、下らぬ応酬の繰り返しに、
卑弥呼サマをはじめ、天皇・皇族・貴族・豪族・武士・農民・漁民・町人・・・、
これら日本史をつくって下さった全ての方々が、あの世で等しくお怒りなのじゃ!
339大和:2007/01/30(火) 17:05:40
>>335 奴国さん。
省略された記事、再投稿願う。宜しく

2chも貪欲に儲けを考え出したのかも知れん。
無料だからこその2CHに意味ありと思うが。
340日本@名無史さん:2007/01/30(火) 17:10:07
321 名前: 奴国 ◆BdeghU15Mk [sage] 投稿日: 2007/01/28(日) 15:45:55
>>313  それを前提に「大和柳本天神山古墳」の鏡を抜き出して見てみると・・・
http://www.narahaku.go.jp/exhib/2002hei/2002hei_42_2-5.htm(天神山古墳)
年代は崇神稜の前後頃(360〜380頃)かと思うのですが。

1、劉氏作画像・・・            1個(2.110)
2、画像鏡・・・1個(2.127)
2、画文帯・・・3個(2.125以上)   1個(2.099)
3、獣帯鏡・・・               1個(2.116)
4、半三角・・・1個(2.142)
5、獣形鏡・・・3個(2.124以上)
6、三角縁・・・2個(2.124以上)

画文帯のうち1個が中国製?これはどうなんだろう?

「人大杉」で見れないのでしょうか?
「ギコナビ」で検索してツールを使って見た方が良いですよ。
341征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/01/30(火) 20:22:28
ほれ♪
342日本@名無史さん:2007/01/30(火) 20:57:27
大和さん、一応九州さん達のためにage
スレをブックマーク等を推奨します。
343日本@名無史さん:2007/01/30(火) 21:10:39
これは大国主の祟りに違いない。
344日本@名無史さん:2007/01/30(火) 21:13:54
パソコンからでも、携帯iモードへ行けば、重いが一応すべて読み書きできるようだ。

携帯iモードへは、2ちゃんの入口(壺の表紙)の最上行左から入るが、
ここに、日本史板携帯iモード版への直行リンクを、張っておこう。
http://c-others.2ch.net/test/-/history/i

下位のスレタイを表示させるには、下から2行目の「次」をクリック。
逆に上位スレタイ表示に戻るときは「前」をクリックする。

お目当てのスレッドの中でも、レスの上げ下げは、同様に「次」「前」で。
レス末尾に「省**」とあるのは、省略されているので、そこをクリック。
書き込みたいときは、「書」をクリックすれば、書き込み枠が表示される。
俺は畿内説だが、九州説のヤシらよ。俺に礼を言え!
345日本@名無史さん:2007/01/30(火) 21:30:18
>>344
相手がいなけりゃケンカは出来ないもんなw

俺は畿内説だから礼は言わんぞ。
346大和:2007/01/30(火) 21:47:46
>>344
サンキュウです。
347日本@名無史さん:2007/01/30(火) 21:51:02
いいかげん、鯖にやさしい線ブラ使えよ
348九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/30(火) 21:51:41
「有棺無槨 棺あって槨無し これに該当するのは北部九州であり
木槨木棺墓の畿内は該当しない。
   この答えをまだ貰ってないんですが?」

これに誰かなんか言ってたけど誰か解らなくなったので改めてどうぞ。

古墳を例に挙げていたけど、古墳の年代測定など当てにならない。
隋書倭人伝に、「墓を造るに棺槨を以ってする」と明確に述べているように、
木槨木棺墓は時代の下ったもの。倭人伝の「棺あって槨無し」の記述は、
弥生後期、甕棺墓が最盛期を迎えていた北部九州の様子を魏使が見て
記録したもの。
349SOY:2007/01/30(火) 22:18:14
>>348 九州ですが
>弥生後期、甕棺墓が最盛期を迎えていた北部九州

魏使が来た頃は既に甕棺墓の衰退期。石蓋土壙墓・箱式石棺墓が
増加する時代といった認識の方が妥当に思われます。
350九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/30(火) 22:36:31
>>349
さあ?大まかに言って、甕棺墓の最盛期は弥生後期としか認識してないんですが。
どこにその様な説があるのですか?
351サガミハラハラ:2007/01/30(火) 23:04:13
安本美典氏によれば、甕棺墓は180年頃をもって終息したとのことです。
これは卑弥呼の即位183年の頃であることから、卑弥呼は即位とともに墓制を改革したようです。
352SOY:2007/01/30(火) 23:05:15
>>349 九州ですが
説というよりは事実です。甕棺墓の全盛期は弥生後期ではないです。
全く消滅したとは言わないまでも甕棺墓はかなり衰退しています。

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3
↑ここの墓制のところを読んでみてもいいかも知れません。

甕棺墓の可能性は0ではありませんが、個人的には「棺あって槨無し」
は箱式石棺墓のように思えます。もちろん絶対とは言えまえんが…

353大和:2007/01/30(火) 23:38:08
>>340 さん。
>画文帯のうち1個が中国製?これはどうなんだろう?

画文帯対置式神獣鏡 山城町椿井大塚山古墳 0.8221 2.0658
(邪馬台国の会HPより)
これも新井論でいくと数値的には完璧な後漢鏡・魏晋鏡の範疇。鉛同
位体比では八王子遺跡銅鐸近辺にプロットされる。この銅鐸近畿周辺
から関東に多い型式だ。

武器保存庫と思っている天神山古墳と山城椿井大塚山古墳からでた画
文帯が舶載鏡を示唆するとは面白い。私としては銅鐸鋳潰し論に熱が
こもる。
354阿蘇山は移動した:2007/01/30(火) 23:54:18
新井さんでなく、私の説:三角って、中国でサンプル造ってもらって日本
で大量生産。無理かな?中国製に幾つか入ってるから。
355プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/31(水) 00:22:01
誠に申し訳ありませんが、暫くの間
スレ主代行をどなたか引き受けて戴きたいのですが?お願い出来ますでしょうか?
356日本@名無史さん:2007/01/31(水) 00:49:43
魏志倭人伝には奴国か二つ出てくる。

最初の2万戸の奴国は、現在の福岡市。

後から出てくる奴国は、難波国。
357奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/31(水) 01:16:07
>>353  大和さん。
色々考えましたが、新井論文については、中国製ではないとした領域は正しいけど、
「確実な領域」は、むしろ「楽浪郡〜日本」の鏡も混在していると考えます。
中国の鏡の同位体比をみないと結論は出ませんが。

理由は、
1、「確実な領域」に中国では亜種とされる斜縁や日本製が疑われる鏡が混在する。
(一方で明らかに中国製と思われる鏡や古い時代の墳墓から出たものあり、日本だけで
このバリエーションはありえないので、中国産もあると思いますが)
2、中国で流通していた時代と、発掘される古墳の年代とがかけ離れている(画文帯)。
3、三角縁の一部が含まれている。
4、「確実な領域」は広い領域であるのに対して、画文帯、三角縁となるに従い領域が
狭くなるのは、大量生産による同位体比の均一化と見たほうが合理的。
特に三角縁は数千枚を大量生産をする過程で均一化されたと考えられる。
358一応九州王朝説:2007/01/31(水) 03:37:27
>>355
専ブラ使えばいいですよ。多分何らかの秘密裏のアクションがあって、ほんとに負荷の
かかるIEを嫌がってるんだと思う。管理人が。
359九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/31(水) 05:15:58
>>352
確かに弥生時代全体ではそうだし、年代も説によっては多少ずれているが、身分によって違っていたとも考えられる。
弥生時代は貧富の差が出来た時代。豊かな豪族の一族と、貧しい人が同じ墓制で葬られたとは考え難いのでは?
一般の大勢は石棺など使えなかったと思うよ。いちいち古墳なども造らないし。
360日本@名無史さん:2007/01/31(水) 09:14:57
ここから好きなの選んで使え、愚民共
http://www.monazilla.org/
361プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/31(水) 09:40:26
age ますよ


今日の一言

漢和辞典をダイレクトに使用してはいけません。
スペースの都合もありますので、要約されたモノが殆どです。
362日本@名無史さん:2007/01/31(水) 10:08:40
人大杉というのは、学問・文系だけみたいだな。
363日本@名無史さん:2007/01/31(水) 10:28:31


古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。三つの足の部分は
空洞になっており,その部分に水をため,足の上にのせた簀のこ(すのこ)
の上に米を置く。足の間の火で炊く(というより蒸す)と,上にのせた蓋
(ふた)の間から,湯気が立つ。この様子がそのまま漢字になりました。
つまり「氣」です(後漢の『設問解字』による)。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html

古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。

364日本@名無史さん:2007/01/31(水) 12:48:48
定期ageしまーす
365日本@名無史さん:2007/01/31(水) 13:52:53
竜田揚げ
366日本@名無史さん:2007/01/31(水) 16:51:33
ドンとあげ
367日本@名無史さん:2007/01/31(水) 17:04:13
携帯からc-docomoで見るぶんには復旧したみたいです。
現在、読み込みはスムーズです。パソのほうはどうですか?
368大和:2007/01/31(水) 17:42:33
>>355 プラムさん。
随時age操作ぐらいはさせていただきます。

>>354 阿蘇山は移動したさん。
新井氏の主旨から外れますが画文帯でぴったりの鏡があります。
椿井大塚山古墳の対置式神獣鏡、八王子遺跡銅鐸の近傍にプロットされる
これならお手本鏡になり得ます。ついでに内向花文や方格規矩もお仲間に。

>>357 奴国さん。
結局安本論、大量回収大量製作に落ち着くわけですね。
新井新論は三角縁は魏鏡でないと言うことを立証されたとする。
奴国さんには始めのほうで鏡型と製作地でご教示いただき、各鏡型の半島
製作の存在を否定できず、結局玉虫色で落ち着いたかと。
新井氏も三角縁は鉛成分比で魏鏡ではないが、少なからず半島製作の可能
性に言及。

新井氏論文、半島製作鏡は魏鏡にあらず。列島製作鏡の色濃いが、楽浪鏡
もあり得るとする。かなり高度の保険がかかっているように思う。

結局、前Res10しか見れないか。>>360 さんの提案考えるかな。
まあ、2chの動向みてからにしょう。
369大和:2007/01/31(水) 18:32:31
だめだ〜、スマソ。退出します。
370日本@名無史さん:2007/01/31(水) 20:30:37
オダブツあげ
371日本@名無史さん:2007/01/31(水) 20:40:57
しかし、いつになったらちゃんと見られるんだ?
おーい!太国!!
3ちゃんねるにどんこいスレたててくれーっ!!
372日本@名無史さん:2007/01/31(水) 20:50:01

                         3ちゃんねる   ザッ
          ザッ            ;;''';;';'';';';;;'';;'';;;
                        ;;'';';';;'';;';'';';';;;'';;'';;;
                        vymyvwymyvymyvy     ザッ
               ザッ     MVvvMvyvMVvvMvyvMVvv、
                   Λ_ヘ^‐^Λ_ヘ^‐^Λ_ヘ^Λ_ヘ
                 ∧_∧       ∧_∧     彡'⌒`ミ
             (ヽ(    ;)ノ)  (ヽ(    ;)ノ) (ヽ(    ;)ノ) ♪
           ♪  ヽ ̄ l  ̄ ./   ヽ ̄ l  ̄ ./  ヽ ̄ l  ̄ ./
              丿 . .  /     丿 . .  /    丿 . .  /
            (( ( ___人__丿)) (( ( ___人__丿))(( ( ___人__丿))
              J   ヽ )     J   ヽ )   J   ヽ )
                  し          し        し
373日本@名無史さん:2007/01/31(水) 22:54:09
メンテ明け。でははじめようか。景初4年の謎は今、明かされる・・・
374プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/31(水) 23:07:36
>>373 明けましておめでとう。

いきなり景初四年かい?
375日本@名無史さん:2007/01/31(水) 23:13:48
やはり近畿説としては、まず破壊された銅鐸の謎が先でしょう。
376SOY:2007/01/31(水) 23:57:18
>>359 九州ですが
>一般の大勢は石棺など使えなかったと思うよ。いちいち古墳なども造らないし。

確かに階級によって墓制は異なりますが、『有棺無槨、封土作冢』は
ある程度高い階級の人々について書かれた記述だと私は考えています。

このように私はある程度高い階級の人々と限定しているので、畿内の
石囲い木槨、竪穴式石室、九州の石蓋土壙墓、箱式石棺墓から選択し、
箱式石棺墓が一番『有棺無槨』に合致していると考えました。

ただ、合致するというだけでは机上の空論に過ぎず、実際に九州の
遺跡を見ても、純一な墓制は少なく、魏の使いが箱式石棺墓だけを
見て、石蓋土壙墓を見なかったとは考えにくいので、
果たして両方を見て『有棺無槨、封土作冢』と記述するかといった
点でまだまだ試行錯誤を繰り返しています。
377奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/01(木) 00:15:31
>>368  安本のブレンド論は大量生産による同位体比の集中というところだけは、
正しいと考えています。
しかし、安本が画文帯が280年以降になるという根拠として、徐州の銅がそれ以降に
入手可能になったという説は、無理スジと思います。

1、銅の同位体比のみを見て鉛の添加を無視している点で、疑問あり。
2、画文帯が280年まで遡るという前提も出土状況に合わないように見える。
3、安本は、画文帯が中国で作られたのか、中国(徐州)の原料で日本で作ったと主張する
のかが曖昧。前者は全部中国製説で取れない。逆に後者だと全部日本製となり、おかしい。

楽浪郡の滅亡をきっかけに、高句麗人により楽浪の漢人墓地が荒らされて画文帯などの
古い鏡が日本に持ち込まれ、それを320頃から複製し始めたという考えはどうでしょうか。
ただ、原料の銅がどこのものかはよく分かりません。
378奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/01(木) 01:44:56
>>368 オリジナル(中国?楽浪?)の画文帯の銅の産地はよく分かりませんが、
複製の画文帯や三角縁については、一応の考えがあります。

三角縁を350頃からとみて初期の頃の原料にばらつきがあり、後世には一貫して
同じ原料を用いていたという前提が成り立つならば、任那近辺の鉱山の可能性が
最も高いのではないかと考えます。原料の安定供給が説明できます。

そうすると、舶載と推測される画文帯もそれに近い値なので、近くの別の鉱山とも
考えられるのですが、中国製と見られる別種類の鏡(キホウ鏡など)も同じ原料
(楽浪製)とするのはやはり難しい。除州の鉱山がここで候補に挙がる。
中国にある鏡の同位体比を調べれば一発で結論が出るのがもどかしい。

*ギコナビ(無料)をダウンロードした方がいいですよ。瞬時に前レスも見れます。
379九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/01(木) 08:19:56
>>376 SOY
北部九州は、渡来人も多いので、伝統を守って朝鮮式の墳墓が造られているところもあるようだが、
ピンポイントで考えると、畿内のホケノ山古墳は間違いなく木槨木棺墓であるから倭人伝の記述と合わない。
かたや、平原遺跡の築造年代は、「弥生終末から庄内期に限定される」{柳田康雄・平原王墓の性格・東アジアの古代文化}
であり、墓穴の中に、割竹形木棺があった。木の枠で囲った部屋などは無く、倭人伝の記述に合っている。
380日本@名無史さん:2007/02/01(木) 09:32:26


古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。三つの足の部分は
空洞になっており,その部分に水をため,足の上にのせた簀のこ(すのこ)
の上に米を置く。足の間の火で炊く(というより蒸す)と,上にのせた蓋
(ふた)の間から,湯気が立つ。この様子がそのまま漢字になりました。
つまり「氣」です(後漢の『設問解字』による)。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html

古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。

381日本@名無史さん:2007/02/01(木) 09:41:21
>>379
柳田康雄のいう「弥生終末から庄内期」というのは実年代だと西暦200年前後なんですが
それでは卑弥呼とは50年ほど合いませんね。
柳田ははっきりと「平原は卑弥呼の墓ではない」と言い切ってますので
彼の論文を恣意的に引用するのはやめたほうがいいですね。
382日本@名無史さん:2007/02/01(木) 09:41:31
『設問解字』って何よ?

この人、あっちこっちで同じコピペしてるみたいだけど、
書名も正確に書けない様なヤシらのサイトを引用して、
あげくに自分もミスに全然気付いてないんだから、プッ。
383太国:2007/02/01(木) 10:33:45
>>381
西暦200年からでは150年ほど合わんな。

神功39年=365年   神功66年=374年

卑弥呼は崇神世あたりの人物じゃぁないね。
384プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/01(木) 11:22:42
>>381

>柳田氏の見解では、平原はAD200年前後だから……


考古学の見解で、50年の差をどのように捉らえるか? 絶対的に許容出来ない範囲なのか?或は
十分許容できうる範囲なのか?

文献では 一日の誤差が内容を変えますが……。


多分。柳田氏にとって考古学設定50年の世界は、断定出来るほど 許容されない範囲なのだろう。
385九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/01(木) 11:39:11
>>381 彼の論文を恣意的に引用するのはやめたほうがいいですね。

ただ鵜呑みにしてるわけじゃなくて、これこそ三世紀の邪馬台国時代に相当する、
というのが僕の考えです。
>「柳田ははっきりと「平原は卑弥呼の墓ではない」と言い切ってますので」
それに、卑弥呼の墓と主張しているわけではなく、魏使が訪れたときに、
棺あって槨なし、の倭人伝の記述に符合した地域が北部九州だということを、議論し合っているのです。
その意味においてはソイさんはほぼ同意見ではないかと思いますが、未だ断定せず、試行錯誤中だそうです。


386九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/01(木) 12:20:22
>>384
終止符スレが入り難いので、あっちに書き込んだことを、ここにもコピーしておきました。どうぞ。

>>878
厳密に言うと本、と元は、全く一緒ではないです。
又、漢字は表意文字なので、それ自体に深い意味があるが、慣用的に使う事があること。
それに、>「【亦、又、復】これら全て(マタ)と読み、意味も全て(繰り返す)です」
ではなく、>>873さんが言っているのが正解で、「遠方より友来る、また楽しからずや」
と同じ使い方だと思いますよ。「遠くから友が訪ねてくる。それもまた、楽しみにしていることである」
「やはり」ということでしょう。
387日本@名無史さん:2007/02/01(木) 14:01:24
>>384-385
九州ですがさんの
>これこそ三世紀の邪馬台国時代に相当する
の範囲を2世紀末から4世紀あたりまでに設定するならば、平原王墓は初期段階にあたると言ってもいいかもしれません。
しかしどう下っても250年あたりかそれ以降には持ってこれないです。、
長くなるので簡潔に言うと、三雲遺跡あたりから大量に出る韓式土器や工芸品などが半島、大陸、本州、南中部九州と連動しているため、平原だけを動かせないのです。
これは土器様式だけではなく、泥断層(ピート層)が一致しているなどの出土状況からも明らかです。

続いて
>棺あって槨なし、の倭人伝の記述に符合した地域が北部九州だということ
これも厳密には違います。
実はこの記述に一致する形式は、北部九州でも平原付近と那珂に2箇所、合計3箇所があるのみです。
(それ以降の時代になると、今度は本州全般で散見出来ます)
これをして北部九州特有の墓式とは言えないですね。
伊都国と目される地域でも、また奴国とされる地域でも全体には行き渡っていないのです。
また郡吏達がどうやら奴国から先には行っていない事から考えても、この記事がそれらのいずれかの墓式を過去に記した資料から引用したものであると見るのが妥当でしょう。
文献史学ではそれが通説化しております。
つまりこの記事そのものは、九州説に有利に働かないのですよ。
だからといって畿内説その他に有利だとは決していえません。
こいつは全くヒントにすらならないんですよ、困ったものですね。
388日本@名無史さん:2007/02/01(木) 14:17:21
ついでに、平原2号墓はなんとか該当するかもしれませんが
1合墓その他はすべて一致しません。
また「槨」とは現代の感覚で言うと、少なくとも八畳一間くらいの容積を指します。
これは追葬を可能にするためのスペースです。
列島においては実のところ「槨」に相当する墓室は、古墳中期前半まで出現しません。
東夷伝、西域伝、韓伝などに記された記述と、出土した墓室の大きさを鑑みても、これは「槨なし」と書かれても仕方がないとの意見もあります。
平原も那珂も「槨」と呼ぶには狭すぎるんですよ。

やや否定的な見解を述べましたが、御説のご参考になれば幸いです。
サーバのせいかBBQが悪いのか、私のクッキーが焼けていないか理由は判りませんがHNが表示されません。
以上、纏向スレに書き込めないで焦っている老教授でした。>>381 >>387も私です。
389九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/01(木) 14:21:33
>>387
もともと棺あって槨なし、の記述は、ホケノ山古墳が、有槨であるのに対して、
平原王墓を比べたもの。「記述に一致する形式は」とはどのような形式をいわれてるのでしょうか?
あくまで、墓穴を木枠で囲むなどの細工がなされた墓の事を言われているのでしょうか?
そこがはっきりしないといけません。
390日本@名無史さん:2007/02/01(木) 14:26:09
>>388あらーお久しぶりです。どうりで違うと思いました。
でもそろそろテストパターンで小一時間ほどスレがストップするようですよ。
お知らせがありましたから。
391日本@名無史さん:2007/02/01(木) 14:28:40
>>390は九州ですがでした。
392九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/01(木) 14:39:53
又お知らせがあり、電源工事は4時から5時までに変わったそうです。
393プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/01(木) 14:47:41
九州ですがさん

昭和64年硬貨は、平成元年三月迄製造ライン(製造)に乗っていたんですよ!
394日本@名無史さん:2007/02/01(木) 14:57:45
>>389
いえ「槨」と言うのは要するに部屋のことなんです。
何かで囲っているという意味ではありません。
ですのでホケノ山を「槨有り」と呼ぶのも正しくありません。
先ほども書きましたように、追葬可能な空間が槨の条件です。
出先からですので、これにて失礼します。
395日本@名無史さん:2007/02/01(木) 15:06:40
>>394  要するにホケノ山は、形状は「槨」と言えるが、
狭い(追葬できない)から「槨」ではないということ?
ちょっと苦しい限定解釈ですね。
396九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/01(木) 15:27:35
>>394 いえ「槨」と言うのは要するに部屋のことなんです。

それはどうですかね?隋書倭国伝には「葬るに棺槨を以ってする」とちゃんとかかれてあるんですがねえ。
中国の皇帝の墓のようなまるで核シェルターの様な部屋のある墓は倭国には無いでしょう。
倭国のも小さくても槨と、漢人は呼んでいるみたいですけどね。
397日本@名無史さん:2007/02/01(木) 18:30:34
■カラとは何か■

 加羅と書いてカラと読む。韓と書いてカラと読む場合もある。
カラの語源は、日本語古語の離る(カル)である。カルとは「離れる」という意味の大和言葉である。
このカルが変化してカラとなった。「大和から離れた土地」「海の向こうの土地」という意味である。
 加羅(カラ)のことを加耶(カヤ)とも言うが、カヤの語源も離ゆ(カユ)であり、やはり「離れる」
という意味の日本語古語なのである。
 カラの地には、紀元前から多くの倭人(日本民族)が住み、華やかな日本文化が栄えていた。
カラは倭人の世界だったのである。
 現在、カラ半島に住んでいる朝鮮人は、4世紀頃(300年代)に、カラ半島北部から南下してきた
ワイ人の末裔なのである。
 結論は、朝鮮人はカラビトではない、ということである。
398日本@名無史さん:2007/02/01(木) 18:41:02
>>381  柳田は1号墓も2号墓も200〜250頃としています。
http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/tusin/honbun/tusin3.html

あと、卑弥呼の墓である「可能性」は認めています。
ただし、結論としてはその1代前の女王ではないかとしてる。
399SOY:2007/02/01(木) 18:56:02
>>387 老教授?
>しかしどう下っても250年あたりかそれ以降には持ってこれないです。、
>長くなるので簡潔に言うと、三雲遺跡あたりから大量に出る韓式土器や工芸品などが半島、大陸、本州、南中部九州と連動しているため、平原だけを動かせないのです。

それは韓式土器では既に絶対年代が出ているということでしょうか?
私の認識ではまだそんな段階ではなかったように思います。

平原に並行する韓式土器などの年代が絶対的なものでなければ、
平原の年代は十分動かせると思います。

>平原だけを動かせないのです。
もちろん、平原だけを動かすのではなく並行する年代も合わせて動くことになります。

八畳一間未満の槨は槨でないという考えについては
私はどちらかと言えば根拠というよりは一意見に過ぎないように思えます。

ただ、その厳密な八畳一間という数値と槨の定義の出所が気になります。
400日本@名無史さん:2007/02/01(木) 18:56:44
編年
それは国際的には
否定され排他される
非科学的な
年代基準

科学の無い考古学は日本にしかないW
401日本@名無史さん:2007/02/01(木) 19:17:37
盛り上がっているみたいですので、時間は余りありませんが少し参加させていただきます。
先に述べました様に「槨」の本来の定義は、追葬可能な空間を有することです。
これは(確認できるものでは)前漢黎明期から中国は元より、チベット、トルコ、そして韓国などで前漢の規模には及ばないものの
十分な空間を有する墓室がすでに何件も発掘されています。
またこれに三国志などの文献を照らし合わせ、棺槨に関する記事においてはかなりの精度を有しているというのが、日中韓、中東の古代史での共通見解です。
しかし当時の列島内においては、残念ながら「槨」と呼べるだけの規模を持つ墳墓は、今のところ存在しません。
ちなみに(これは決して嫌味じゃないですよ)棺槨論争は九州説畿内説などに関わらず、上記内容で80年代初頭にはけりがついたはずなのですが・・・。
これも皮肉ではありませんが、正直ネタの割れたオーパーツ(水晶ドクロとか)が再利用で出版されるムーの手口に似ているようにも思えます。
もしそのような内容のことを未だに書いている本やサイトがあるならば、眉に唾をつけた方が宜しいかと思います。
402プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/01(木) 19:26:55
(木郭)は釈名にて「廓」であるとする
「廓」は “広い”“大きい”の意がある

そのあたりから(木郭)を部屋と当て嵌めているのでは?
403日本@名無史さん:2007/02/01(木) 19:36:17
>>398
非常に良い資料を発見されましたね。
しかし惜しむらくは、それが平成10年のものであるということです。
記された発掘状況や出土物に関してはそのままご参考にされても宜しいかと思いますが
柳田氏の見解は、少なくとも平成15年以降の論文では「実年代200年前後」と結論付けられています。

まあ、このあたりが日進月歩(と言えば聞こえは良いが)、ぶっちゃけ新資料ひとつで猫の目のように変化する歴史学の宿命とも言えるでしょうね。
ですので資料発表年月日を必ず確認してください。その上で最新の論文はないかと、さらに疑ってかかってみてください。
特に古代史は凄まじいほどの急流で常に変化しています。
最寄りの埋文関係機関に問い合わせるなどして、常に最新の資料をお揃え下さい。

正直これが仕事でも滅入るほどのハイペース(PCの進化より早いかも知れない)で常に変化しています。
大変でしょうが、好きになったんだからしょうがねぇーよなくらいに笑い飛ばして、資料漁りにお互い東奔西走しましょう(笑)

>>400
日本のみでなく、東アジアの土器編年が根本から覆されたり、AMSなどを無視して海外の学者から揶揄された例はただの一度もありません。
むしろヨーロッパ古代において不明とされる数々の地方文明の編年を探る手ががりとして、各国から要請が引く手あまたと言うのが現状です。
これも現場からちょっと愚痴ですが…それに対してまったく人手が足りません。
私も年の半分くらいは海外です。主に私の場合はチベットやウイグルといった「非常に治安のややこしいところ」がほとんどです(笑)
もしお手伝いしていただける奇特な方が居られましたらぜひおっしゃってください。
身の安全の保障は一切できませんが(爆)
404プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/01(木) 19:36:41
>>401 老教授?


>(木郭)の本来の定義は追葬可能な空間を有する事です。


それは変です。
それでは埋葬施設が出来上がってから(木郭)の文字が出来上がったみたいです。
追葬可能な空間を有する施設に(木郭)の文字を後世割り当てた と、す可きです。
405九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/01(木) 19:48:26
>>401 は、老教授だと思われますが、

隋書倭国伝には倭国の葬制について「葬るに棺槨を以ってする」とありますこれをどうお考えですか?
八畳ほども有る追葬が出来る墳墓というのは私は倭国には記憶がありませんが。
406太国:2007/02/01(木) 19:50:39
>>400
根拠のないお前の話は、いずれ念愚の汚醒め時がやって来る。
それまで南極で寝ていろ。
407日本@名無史さん:2007/02/01(木) 19:54:00
>>403
柳田は「伊都国を掘る」(平成10年12月)では、種々の根拠を挙げて200年以降であることは、
(ほぼ)間違いないという論調でしたが、その後の彼の論文で200年前後への決定的な変更を
したのを確認できないのですが・・・

説の変更となると前の説のどの根拠を変更されたのでしょうか。
その論文もあわせてご紹介いただけないでしょうか。
408日本@名無史さん:2007/02/01(木) 19:57:56
>>399
2,3世紀の韓式土器については、流石に動乱の時代だけあって半島の至る所で出土しております。
(残念ながら38度線より北の論文はかなり怪しいので、参考にはなりませんが)
これらは勿論の事、大陸系土器や遺構内出土物(前漢、後漢、三国時代、西晋以降も含めて)と同時出土しています。
勿論地層分布も一致しております。
もしこれらのうち、どこかひとつが動くのならアジア全体の時代設定が同時に動いてしまいます。
つまり魏・呉・蜀興亡の実年代も、文献資料とは全く一致しないとの結論になってしまいます。
私は文献を無批判に「ここに書いてあるのだからそうなんだ」的な取り方は致しませんが、流石にそれは考えにくいと思います。
また隋書は魏志のみでなく宋書、後漢書などの元資料から、当時の記録者が提示したひとつの仮説であるとの扱い方をすべきかと思います。
これは記紀も同様です。彼らなりに誠心誠意検証した結果を記している訳ですから、逆にそこに記されているからと言って鵜呑みにしてしまうのが彼らの労に報いる行為だとは思えません。
彼らの事跡に敬意を表した上で、しゃぶりつくすまで徹底批判してください。
ちなみに我々には戦前・戦後問わず、一切の政治的イデオロギーは存在しません。
思想的立場や宗教的立脚点に立っての解釈などとは全く無縁の存在です。
ましてやお国自慢などとんでもない話ですので、あくまでもニュートラルを保ってお楽しみくだされば幸いです。

409日本@名無史さん:2007/02/01(木) 20:05:34
申し訳ない、約束の時間が迫っております。
書き忘れました、老教授です、
柳田論文については手元に正式なものがありませんので、後日明記します。
とりあえず2001、2003発表の平原および三雲における泥炭層内での出土状況が、変更の決め手です。
また2006出版(内容は2005シンポジウム)においても訂正発言をされておられます。
出来るだけ早期に正式論文名を提示しますので、今夜は失礼させていただきます。

P.S.「地獄少女」はいっぺんに観るモンじゃないですね…
一週間ぐらい鬱になりました(汗)
410日本@名無史さん:2007/02/01(木) 20:06:33
>>403まあ、このあたりが日進月歩(と言えば聞こえは良いが)、ぶっちゃけ新資料ひとつで猫の目のように変化する歴史学の宿命とも言えるでしょうね。
ですので資料発表年月日を必ず確認してください。その上で最新の論文はないかと、さらに疑ってかかってみてください。

と言う事は、あまり当てになる資料にはならないということではないでしょうか。
>「最新の論文はないかと、さらに疑ってかかってみてください」
なぜ、新しい論文だといけないのですか?それはとりもなおさず御自身の説に都合の悪い説が出たからではないですか?
貴方の説は非常に学術的、論理的は一方でどうも初歩的に納得いかない一面があります。答えていただければ幸いですが。

411九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/01(木) 20:08:19
>>410
九州ですがです。
412九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/01(木) 20:17:48
>>408 「また隋書は魏志のみでなく宋書、後漢書などの元資料から、当時の記録者が提示したひとつの仮説であるとの扱い方をすべきかと思います」

と言われてますが、隋書倭国伝には倭国の葬制について「葬るに棺槨を以ってする」とあります。
これは、原文は何で、どこからの引用となったのでしょうか?

413日本@名無史さん:2007/02/01(木) 20:32:48
>>410 おまけです。
我々には固執するべき自説などはなっからないんですよ(笑)
最新論文のチェックが必要な理由は
「私は以前このような見解を述べたが、信用するに足りる新資料が提示されたので訂正する」といった類のものです。
私が個人的に九州説論者に頑張って頂きたいのは、是非そのような驚天動地の新資料を「正式な論文として」ご提示いただきたいからです。
やや言葉にトゲがありますが、本当に自信作であるならば「同人誌扱いの身内の回覧誌」に載せる前に、正規の学会において発表すべきかと考えます。
鉛同位対比の論文が議論の俎上に乗らないのは「正規の発表の場を持ちながら、あえて土俵に上がってこない」理由が解せないからです。
沖縄の海底遺跡なるものも、そういった不自然な発表をしていますよね。
ちなみに「圧力」だとか「上下関係」などは一切ありません。
恩師の生涯かけた論文だろうがなんだろうが、それが間違いならば洟紙すらならない厳しい世界です。
内実は恣意的な解釈などは立ち入る余地が無い世界だとご理解ください。

それでもマスコミ向けの派手な宣伝が必要不可欠な、カネ集めに駆け回るという宿命に悩まされると言うのは事実ですが。
余談で宜しければこれも後日どこかでしたためさせて頂きます。
それでは…やべぇ!間に合わん(汗)
414日本@名無史さん:2007/02/01(木) 20:45:34
九州ですが、はどうしてコテハンを途中で抜くんだ?
415一応九州王朝説:2007/02/01(木) 20:51:25
世界中を飛び回っておられるんですね>老教授

「老」の冠は諧謔なんですかね。ほんとは30代とかw

お久しぶりです。相変わらずスレのレベルを下げております。
墓制の話になっていますが、教授は「墳」と「塚」の問題については
どうお考えでしょうか。「塚」で直径百歩のでかい墓なんて何処にも
ないわけですから、箸墓ぐらいは欲しいとかいう議論も無効ですよ
ね。「一歩」の大きさを別のスケールで計測したとしか考えられませ
んが、どうでしょうか。
416日本@名無史さん:2007/02/01(木) 20:55:37
>>400
考古学は本質的に、証明可能の問題しか取り扱わない科学の範疇には属さない、ということが分かっていないわけだね?
417奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/01(木) 20:55:46
>>413  同位体比が「正規の発表がない。」というデマはどこから出てくるのかな?
西川も著書では同位体比のいくつかの論文に触れてはいる(なぜか深入りしないがw)。

80年代初頭には同位体比から、三角縁の大多数が均一の原料であることが判明していた。
つまり、(ほぼ)全部舶載とするか日本製とするかの選択をその時点で迫られていた。
この現実から逃げ回るだけではなく、「議論の俎上に乗らない」とは凄まじい言い草ですね。
418日本@名無史さん:2007/02/01(木) 21:01:06
中国でさえ作られたことのない鏡だからね。
419SOY:2007/02/01(木) 21:26:03
>>408
>もしこれらのうち、どこかひとつが動くのならアジア全体の時代設定が同時に動いてしまいます。
>つまり魏・呉・蜀興亡の実年代も、文献資料とは全く一致しないとの結論になってしまいます。

お忙しい中、ご回答ありがとうございました。

私も中国の遺物の年代についてはかなり信用できると考えています。

ただ、気になるのは絶対年の分かる中国系遺物と平行する韓式土器を
何式土器と考え、その韓式土器と平行する日本の土器を何式土器と考
えて、堅固な年代観と考えられているかという点です。

日本の土器編年はかなり精度の高い相対編年と考えています。
中国系遺物の絶対年もかなり信用できると考えています。
これが韓式土器を介して結びつけば、邪馬台国の研究は大きく
前進すると考えられます。だから非常に興味があります。

因みに私の認識では楽浪あたりを介して多少年代が絞れるくらいかと
思っていました。
420九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/01(木) 21:28:02
>>414 一度書くとページの期限切れになって、間違ってそこに書くとコテハンがなくなるわけ。
だからいちいち、もとのページに戻って書き込んでるんだが。
421日本@名無史さん:2007/02/01(木) 21:30:55
中華では、日本は何でも大きくするのが特徴的だと思っています。
中国の銅鈴が、日本では大きな銅鐸となり、際限なく巨大になりました。
中国の銅鏡は、日本では表と裏が逆になり、これも際限なく巨大になりました。

共通している事は、中国では音色を楽しむ銅鈴も、女性の為の姿を映す銅鏡も、
その本来の目的とはかけはなれた物として使われたようである事です。
その巨大さを誇る事こそが、日本では大切だったのでしょう。

これは中国の文明初期でもみられましたが、機器ではなくその素材への信仰で
す。古代、金銀銅という金属は地金だけで資産・通貨としての価値を持ってい
ました。未開の地では金属そのものが財産価値があったのです。
当然、大量の金属を加工・鋳造してより巨大な金属器を持つことが、その力を
誇示する事につながっていました。

日本で無為に目的を失った巨大な青銅器が作られたのは、その持ち主が自己の
財力を示すため、または財産の分与・相続の目的で用いたのだと思います。
同じ大きさ、重量の鏡を大量に生産したのは一定の流通を念頭においていたの
ではないじょうか?これは日本における通貨の先触れだったのかもしれません。
でなければ、映らない巨大な鏡など大量に作らないでしょう。
422SOY:2007/02/01(木) 21:41:33
>>413
私も東アジアの古代文化を読んでみましたが、同位体比の研究は信用
できる数値データを挙げて意見を述べているので寧ろ議論のしやすい
研究だと思います。

それにしても断言してもよさそうなものを断言しないあたり、新井氏の
あの姿勢は好ましく思えました。数値データに支えられた余裕なのでしょうか。

>>老教授
何か質問ぜめのような形になっているので時間に余裕がなければ、
私の発言はスルーして他の人を優先してあげてください。
423日本@名無史さん:2007/02/02(金) 00:18:41
【九州説のマトメ】

1、考古学上の年代を50年〜100年分新しく見せようと試みる

2、同じ期間だけ畿内の年代も新しい方へずらす

3、自分達が見勝手にズラした年代を基準にして、
  「畿内説は意図的に50〜100年分古く見せようとしている!」と言い始める

4、土器編年や年輪年代法からの反論には華麗にスルー
424大和:2007/02/02(金) 00:34:51
>>377 奴国さん。
安本氏論に振っておきながらその実、私は安本氏をよく存知上げないのです。すみません。

ところで、
>2)画文帯が280年まで遡るという前提も出土状況に合わないように見える。
>楽浪の漢人墓地が荒らされ持ち込まれそれを320頃から複製し始めた。

とされるが、安本氏HPによると、 山城町椿井大塚山古墳の画文帯対置式神獣鏡の同位
体比は0.8221 2.0658(5)とされる。これは佐原真氏の「銅鐸から描く弥生時代」にい
うところの『朝鮮半島産多丑文〜細型銅剣分布中央線』近傍にプロットされ、八王子遺跡
出土銅鐸成分に類似し、後漢期に分類される。ここで椿井大塚山の築造年代が問題になる
が前方部出土土器年代で三世紀後半の年代観が報告されております。

新井宏論文でも舶載とされる領域です。ここは、荒らされ持ち込まれた年代が重要です。
森岡秀人氏は204年に画期があるのではないかとするが、半島で製作、伝世され凡そ
115年後の320年ごろに複製は時期が合わないように思います。

>>378
>三角縁を350頃からとみて
椿井大塚山の年代観が三世紀後半ですから難しいかも。

>*ギコナビ(無料)をダウンロードした方がいいですよ。瞬時に前レスも見れます。
ご案内有難うございます。暫く留保させてください。
425日本@名無史さん:2007/02/02(金) 00:48:26
>>424
こっちの Jane Style のほうが簡単じゃないかと思います。
http://hp.vector.co.jp/authors/VA041125/
426奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/02(金) 01:43:38
>>424 椿井大塚山を280頃とするのは、年代遡上の結果であって議論の前提に
ならないと思います。私は、400年〜420頃の古墳であると考えます。

年代基準にする古墳は、鏡編年や土器編年と無関係のものを用いないと循環論法
に陥ります。

このスレで述べているように私は、崇神の実年代を350〜360頃と考え、崇神稜の完成を
370〜380頃と考えています。 >>321 の天神山古墳は、崇神稜と同時期であることは、
その位置関係などからほぼ争いがないので、360〜380頃と考えます。

大和柳本天神山古墳は、「画文帯後、三角縁前」の次の時代である「画文帯、三角縁並行」の
なかでも中期よりやや前頃の出土状況と考えると、三角縁の製造開始時期は、その少し前
の350頃となり、画文帯の製造開始時期は、310〜320頃となるというように考えています。

三角縁魏鏡説を捨てれば、「画文帯後、三角縁」、「両者並行」の概念が自然に生じるので
それに従って、考えています。
427奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/02(金) 03:09:59
>>426 古墳の築造が死亡後であることについては、

1、生前に墓を作り始めるのは、不謹慎。
2、巨大古墳は、その築造に10〜20年を要すると考えられますが、在位10年以下の
天皇では即位直後に作り始めても完成は没後。
3、筑紫の磐井は、「皇風にしたがわず、生前に墓を作った。」と、筑後国風土記にあり、
実際にも磐井とされる古墳がある。
4、次の天皇にとっても前の天皇の陵墓を盛大に作ることは、自分の権威の増大になる。

5、雄略の陵墓が異端(元は円墳)ですこし貧弱なのは、死後に作り始めたから。
武烈の陵墓(比定間違い?)も手抜き。
6、古墳築造までの期間は仮の安置廟に祭られ、完成後古墳に移されたと考えられるが、
安置廟に対する参拝もなされたと考える。墓と区別して遺体のない建物に魂があるとして
参拝することは、後の神社信仰につながる起源ではないかとも考えている。Zzzzz・・・
428日本@名無史さん:2007/02/02(金) 08:15:23
>>419
交差年代法についても正確なことはわからない。
たとえば、19世紀にスウェーデンのO.モンテリウスが年代のわかって
いるエジプトやメソポタミア地方との交差年代によって、ヨーロッパ先史時代の
年代決定の枠組みが考えられたことがある。
のちに、この方法をさらに深めて、20世紀半ばまでにはG.チャイルドによって、
ヨーロッパ先史時代の体系的な年代がうち立てられた。しかし、第二次大戦後の
炭素14年代法の登場によって、アルプス以北の年代は大幅に修正されている。

違う地域の土器を同じ物差しで計ることは慎重にすべきだと思う。
極端な言い方をすれば、九州で鉄器が普及した時期と、畿内で普及した
時期を同じ時期とみなすようなものだから。
429日本@名無史さん:2007/02/02(金) 08:19:25
>>423
土器に絶対年代を付するためには、基準となるものが必要になる。
その、数少ないものが貨泉。貨泉の場合は、西暦14年から数年間作られたことがわかっている。
しかし、貨泉が出土しても、その遺跡が西暦14年より前でないことしかわからない。
出土した貨泉がいつ日本に渡ってきたかもわからないし、いつ捨てられたかもわからない。
100年後に捨てられた可能性も十分にあるわけである。

では、年輪年代法はどうか。
法隆寺の心柱が、年輪年代法で測定された。結果は、西暦594年の伐採と出た。
しかし、607年に創建された法隆寺は、670年に全焼し、700年頃再建されている。
日本書紀にそのように記されているし、瓦も8世紀初頭のものだという。
年輪年代法を信用するなら、法隆寺はどのように解釈することが出来るだろう。
430日本@名無史さん:2007/02/02(金) 08:21:37
>>429
つづき。
石塚古墳の場合も、年輪年代法では190年とか200年とか出たが、布留0式の土器が出土し、
どう考えても、3世紀前半まではいかないといわれる。

そのほか、正倉院の宝物の木材では、記録と年輪年代法の測定で600年もの誤差が出ている。

年輪年代の測定結果に疑問を持つのも当然だと思う。そうなると、池上・曽根遺跡の木材に
紀元前52年の結果を出した年輪年代を元に、畿内V様式が100年遡り、それにともなって
庄内期も100年遡ったことにも疑問を持たざるを得ない。
431大和:2007/02/02(金) 08:22:01
>>426 奴国さん。
>400年〜420頃の古墳であると考えます。

このころには庄内期も終わり布留期から須恵器の流入・製作が為されていたかと。
椿井大塚山古墳のすぐ下流の宇治市街地遺跡では三世紀中頃ともいわれております。
土器編年で庄内・布留共伴期で5世紀は苦しくないですか。

>鏡編年や土器編年と無関係のものを用いないと循環論法に陥ります。
>私は、崇神の実年代を350〜360頃と考え、

鏡はともかく、土器編年は共伴する遺物との関係に於いて、その時代を共有するもの
であり、土器の相対年代において、時間軸上の絶対年代を得る手法として確立された
ものと捉えております。又、崇神天皇没年は西暦318年が一般的でしょうが私は田
中卓氏説により258年を採用しております。

ことほどさように、この辺りの認識の違いは研究のスタンスにより人さまざまかと思
います。いろんな方向からのアプローチは至極当然と考えます。
残念、>>427は読んでいなかった。また、後ほど。
432日本@名無史さん:2007/02/02(金) 10:36:21
>>401
>先に述べました様に「槨」の本来の定義は、追葬可能な空間を有することです。

これは考古学用語としては真かもしれないですが、中国史書にいう槨とは別物ですね。

>またこれに三国志などの文献を照らし合わせ、棺槨に関する記事においてはかなりの精度を有しているというのが、
>日中韓、中東の古代史での共通見解です。
>しかし当時の列島内においては、残念ながら「槨」と呼べるだけの規模を持つ墳墓は、今のところ存在しません。

なんかマユツバだなぁ。考古学用語の「槨」の使い方が間違ってるだけじゃないの?

『葬卓于[眉β],大風暴雨震卓墓,水流入藏,漂其棺槨.』
【(董)卓を[眉β]に葬す,大風・暴雨が(董)卓の墓を震わし,水は藏に流入し,其の棺槨が漂う.】
ttp://members3.jcom.home.ne.jp/wakokunosobo/hougen/gishiwa/kankaku.html
433プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/02(金) 10:54:09
早い話「業界用語」
と、言う事ですね。

成る程!だから文献と一致しない訳だ いっくら探しても見つからないし……
434日本@名無史さん:2007/02/02(金) 11:03:04
ねんのため

>>432
>これは考古学用語としては真かもしれないですが、中国史書にいう槨とは別物ですね。

『中国史書にいう槨』は漢和を引いてみればすぐわかることですが、棺の外箱のことです。たとえば、学研の漢和大字典。

>《意味》
>{名詞}うわひつぎ(うはひつぎ)。棺を入れる外箱。外棺。「古者棺椁無度=古者は棺椁に度無し」〔孟子・公下〕

昔は棺を保護するために、棺の外側に二重、三重の箱をもうけました。これが中国史書に言う槨です。

参考
>  中国の棺は、遺体を長く保存することを目的としたため、棺は大変頑丈に作られた。
>殷時代中期には木槨墓がみられた。槨は棺を外部から何重にも保護するものである。(中略)
>戦国時代になると礼楽制度によって葬制が整備され、身分による棺槨の数が決められた。
>「国君は3重、外の棺は厚さ8寸、中間の棺は厚さ6寸、中央は4寸。上大夫は2重で8寸と6寸、
>下大夫は2重で6寸と4寸」(『礼儀』喪大記編)。『礼儀』檀弓編上に、「天子の棺は4重とする。
>もっとも中央の棺は、牛の革を張り合わせて覆い、厚さは3寸。次は白楊の棺、次に梓の棺が2重とし、
>みな周囲を皮や木で覆う」とある。
ttp://www.osoushiki-plaza.com/institut/dw/199506.html

ただ、どこまでが槨でどこからが藏であるのかは今ひとつはっきりしません。夫餘伝のように、追葬できるものを槨と呼んでいる事例もありますので。
それでも本来の意味としては、棺の保護の役目をする外箱です。追葬が可能かどうかなんていうことは定義には入りません。

倭人伝を読むときには『考古学用語の槨』ではなく『中国史書にいう槨』をとらなければいけません。

ただし、ホケノ山の石囲い木槨を当時の中国人が槨とみたかどうかというのはまた別の話で、これをどちらかに決める確証はおそらくないでしょうねぇ・・・・・
個人的には、礫で保護されているといっても木棺は地面にじか置きされているわけで、どう見ても『外箱』には見えないだろうなぁ…というのが感想です。
435日本@名無史さん:2007/02/02(金) 11:04:46
編年による時代設定に
14Cで裏付けとったら
九州が畿内より
どれも百年以上早かったそうです。
いつも決まってそう出るそうです。

編年に将来ないと思いませんかW
436太国:2007/02/02(金) 11:07:47
編年は過去の確定があればいいことだ。将来のことは『卜』だ。
437日本@名無史さん:2007/02/02(金) 11:11:46
また馬鹿国かよ
ちゃんと書け!WWW
438太国:2007/02/02(金) 11:13:50
くやしかったらコテハンで来い。お前がいくら能書きを垂れようとも
編年の研究はすたれないんだよ。
南極下でエイリアンと相談でもしてろ。
439日本@名無史さん:2007/02/02(金) 11:22:38
>>435
以前はそうだった。畿内と九州では百年の差があるというのが常識だった。
畿内の土器の編年を何とか古くしようとする人達がいて、百年遡ったのだが、
無理をしている部分があると思う。
以前のほうが正しかったのかもしれない。
三角縁神獣鏡といい、畿内説の学者はむちゃをするという印象がある。
440日本@名無史さん:2007/02/02(金) 11:29:08
馬鹿国出て来んなW
アホがうつるW
441プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/02(金) 11:29:26
考古学者の話だけだと、「椁」は埋葬施設あっての「椁」になる。
埋葬施設が無ければ「椁」の文字なんて不要だ みたいな
442双国:2007/02/02(金) 12:01:49
太国さんのファンです
国の字頂きます
切れ味鋭い太国節を今後もお願いします。
443奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/02(金) 13:17:56
>>431 崇神没年は悩ましいですね。
ただ、崇神没年を318年崇神稜を330〜335頃とみて、大和柳本天神山古墳を同じ頃と
しても、椿井大塚山はその後の時代(360以降)となるように思います。

椿井大塚山の時代を280頃とした場合、あれだけの三角縁が280頃にあったのに、天神山の
時代には、貧弱な亜種の三角縁が少量しかなかったというのは整合しません。

これを説明するために、(魏鏡説+伝世説+伝世のひずみ説)のような理屈を考えなければ、
ならないというのは、苦しいことです。130〜140種ほどで数千枚が製造されたとされる
三角縁は、その製造開始時代から豊富な量が流通していたと考えられます。
444奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/02(金) 13:20:18
>>443 はちょっと訂正。
>その製造開始時代から  →その製造が軌道に乗ってからは
445太国:2007/02/02(金) 13:26:00
拙者の倍暦計算では   崇神崩御 259年
446サガミハラハラ:2007/02/02(金) 13:49:05
古事記分註天皇崩年干支2倍年暦では、崇神天皇崩年は288年春年です。
これで正解でしょ。
447吉備国 ◆5qhHP5zMMs :2007/02/02(金) 13:51:42
自分もコテつけますね。
岡山在住の古代史入門者です。
邪馬台国は吉備だと信じたいです。心情的にw
448太国:2007/02/02(金) 14:03:57
>>446 サガミハラハラさん
崇神の時代は3倍暦と観ていますが、貴殿はここの世は2倍暦と
考えているんですか? つぎはぎやってるんですか?
3倍暦と2倍暦とでは49歳か60歳で、その差は11年ばかり。
449プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/02(金) 14:45:35
>>447吉備国さん

いらっしゃい! ごゆるりと


でも〜っ。 お国自慢西東は止そうよ。

(スレ主より)
450吉備国 ◆5qhHP5zMMs :2007/02/02(金) 14:47:34
素朴な疑問ですが、倍暦とかで計算して整合性あわすのはどうかと思います。
合う計算なら採用し合わない計算なら採用しないのでは恣意的です。

暦法、干支、十進法の伝来年代はいつですか?
それを明確にする作業が先じゃないですか?
451吉備国 ◆5qhHP5zMMs :2007/02/02(金) 14:50:25
>>449プラムさん
いや、お国自慢とかじゃないですよ。
ただ地元であればロマンだなー、てぐらいです。
452日本@名無史さん:2007/02/02(金) 14:57:59
>>450
>合う計算なら採用し合わない計算なら採用しないのでは恣意的です。

よくぞ言ってくれた、吉備国さん! (あんがいマトモな人みたいだ)
「素朴な疑問」、とても大切です。 (これがなかなか通用しないんだなあ)
どんどん発言してください!
453太国:2007/02/02(金) 15:06:02
合わない計算を無理やりそうだと採用し、合う計算を古いから信用
しない云々とかで自説をゴリら押しする奴がいるよ。
恵也氏がそれい近い。合うならまだ仮説の域に留まるが正解の可能性は
あるわけで、必ずしも恣意的ではない。
454プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/02(金) 15:27:09
>>453 太国さんやサガミさんに一点だけ質問しますね。


過去に、14日や15日の事を『晦日』と言った事ありますか? そういう伝承が何処かに残っていますか?
455吉備国 ◆5qhHP5zMMs :2007/02/02(金) 15:36:01
恣意的かどうかの議論は
泥仕合になりそうなので置いておくとして…

問題は、天皇家がいつ頃から「一年は○ヶ月」という暦を採用したかにあります。
欽明天皇の頃から、日本書紀の記述が克明になると聞きました。
そうなると仏教伝来と同時期に歴法も伝来したかも知れませんね。

それ以前は、とくに「一年」という概念がなかった可能性もあります。
456太国:2007/02/02(金) 15:39:48
>>454
今んところは無いですね。ミソカはストレートに三十日ですからねぇ。

九州の地名で、肥の国は1の国、豊の国は14の国ですな。
肥の国は建日向日豊久士比泥別で中身の日豊を注視し、豊の国の豊日別
は『14日別』と読めます。
457太国:2007/02/02(金) 15:51:45
>>455
神武即位〜同崩御の間で、もう3倍暦を採用していた可能性があり
ますよ。紀の記述はそこの間1月〜4月までの4ヶ月間しかあり
ません。以下のとおり

神武元年1月 即位
同 2年2月 国造、県主を定める
同 4年2月 鳥見山で天神を祀る
同 31年4月 巡幸
同 42年1月 神沼河耳尊 立太子
同 76年3月 崩御

しかし崩御のあとは即位を待たず通常暦に戻しています。だから5月
以降の月が出始めます。以下のとおり

神武76年9月 神武葬儀
同 79年11月 神沼河耳尊ら手研耳尊を討つ 
458プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/02(金) 15:55:04
太国さん

確かに言い方が変でしたね!(失敬)
詰まり、晦日的な呼び名の事です。

以前にもお話ししたかと思いますが、14日単位なら二十四節季の方が無理なく説明出来ると考えますよ
農耕には欠かせぬ暦です。
459太国:2007/02/02(金) 16:00:20
>>458 プラムさん
倍暦でも、1ヶ月が14日制の場合と28日制(あるいは30日制?)
のとかといろいろ採用を変えているんではないかと観ています。
神武の場合は後者ではないかと考えられます。
460吉備国 ◆5qhHP5zMMs :2007/02/02(金) 16:45:18
>>457 太国さん
それは、偶然五月以降の事績がなかっただけじゃないのでしょうか?

・五月以降の記録がない→三倍暦である
・彼はゴールド免許である→事故も違反も一切しない

逆であるべきですよね?

・三倍暦が採用されていた→五月以降がない
・事故も違反も一切しなかった→ゴールド免許となった

こちらを証明すればよいと思います。

暦法がいつ頃日本に伝わり、それを天皇家が
いつ頃採用して先祖の伝承に組み込んだかがポイントですよね?
461太国:2007/02/02(金) 17:02:15
>>460 吉備国さん
貴殿のいうとおりの証明ならば、もう臥海がそうだと言っていますよ。
3倍暦の可能性があるということです。神武の次、以下はどう考えます。

【欠史八代間の立太子、即位、立后、崩御、葬儀の日数の統計表】

1日 4   15日 0
2日 2   16日 0
3日 3   17日 0
4日 1   18日 0
5日 3   19日 0
6日 3   20日 0
7日 2   21日 0
8日 3   22日 0
9日 4   23日 0
10日 1   24日 0
11日 3   25日 0
12日 4   26日 0
13日 2   27日 0
14日 7   28日 0
       29日 0
       30日 0

この時代、1ヶ月が14日しかなかったことを意味しています。綏世は別
462日本@名無史さん:2007/02/02(金) 17:06:01
>>460 吉備国さんへ

議論をふっかけてる相手は、数多い2ちゃんコテハンの中でも
「横綱」と衆目が認める札付きの×××××××××なのだ。
倍暦議論にはか関わり合っちゃダメだよ。ひたすらスルーだよ。

それよか、吉備国さん。お国自慢してよ。
みんな吉備の重大性がよく分かってないんだよ。
製塩土器、特殊器台と埴輪の起原、墳丘墓、楯築遺跡、弧帯文・・・
463吉備国 ◆5qhHP5zMMs :2007/02/02(金) 17:24:24
>>461 太国さん
欠史八代の事績をいくら検証しても、事実性が疑わしいと思います。
前半に集中しているのは、あるいは創作である可能性も捨てきれませんし。
スイ靖のみがスルーされてる点も解せません。

>>462
すいません、考古学には興味がなかったので…
ただ、興味深い話としては岡山中西部に「総社市(そうじゃ)」という地名があります。
由来は様々ですが、吉備一宮など多数ある神社の
「総社」であると言われています。

また、地名や人名で「音読み」なのも珍しい話ですね。
山田さん、田中さん、大原さん、たいてい訓読みなのに。

「鬼退治」の「温羅」が大陸人だった名残かも知れませんね。
464恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/02(金) 17:37:37
>>461
>【欠史八代間の立太子、即位、立后、崩御、葬儀の日数の統計表】

あんたね、水戸黄門の印籠みたいに書くその日数は、記紀に算用数字では書いてないだろ。
干支で書いてあるのに、あなた程度の人間が太陰暦か太陽暦か判らんが算用数字に直せるものかい?
なんか怪しい算用数字だね・・・・
465太国:2007/02/02(金) 17:43:53
>>463
何のための創作なんですか? 紀は小説だというんですか?
これは当時1ヶ月が14日間でやっていたという文証ですよ。貴殿はこの
説明ができないので「創作」の語でうっちゃろうとしていることは、紀
の記述を正視せずに特殊な例外の可能性を強調して逃げてるだけです。

文書偽造をやるなら1日〜30日の全区間でまんべんなくランダムに
やるほうが発覚しずらいですよ。八王長はデカイ利害がからんでくると
やる可能性が出てくるものです。まさか貴殿が人生経験が少ないわけ
でもないでしょう? いっぺんに全部得心が行くものではないことは
分からんわけでもありません。1日〜30日を1日〜14日にする利害甚大
なことっていうのは何ですか? あるならお聴きしましょう。

綏天皇は5月崩御ですから、等倍の通常暦の使用だと思います。
佛伝以前、紀の天皇の記述では5月の記載は猫の額のほど少ないん
ですよ。崩御の記述は稀少ものであり、神武の4月までの記述に反して
5月以降の月も使用していたことを物語っているものです。
466日本@名無史さん:2007/02/02(金) 17:51:53
吉備国さん。スルーだよ、スルーするぅ〜!
467太国:2007/02/02(金) 17:52:04
>>464
ならば、お前のよく使うアラビア数字は干支以後のものだろうが?w
なるとお前の10年説など、なおさら信ずるわけには行かない。ww
お前の計算こそ干支ではなく、それ以後のアラビア数字の怪しいもの
ではないか? つまり自語相違数字でお前は計算してるわけだ。

さらにその計算に至っては、はなはだしくズサンであり、全く信用は
できない、これこそ 卑弥呼=日神 を意図創作したデタラメそのもの
である。お前がなんとひっくり返そうとしても、当時はお前の意に
反して倍暦をつかっていたのさ。まぁ〜お前の諦めが肝心なのさ。ww
468太国:2007/02/02(金) 18:02:54
>>464
お前もこれから干支で拾年説を展開したらどうだ?
それのほうがまだお前の言う信用度がアップするんだろうが?ww
あの表は動かぬ証拠に近いさ。真に諦めたほうが賢明だな。
469吉備国 ◆5qhHP5zMMs :2007/02/02(金) 19:00:12
ちょいと今から飲み会ですので暫くレス出来ません。

とりあえず太国さん、その説だと結局は

「俺様はゴールドだから絶対に事故などせん」

なのですよ。ではなく

「無事故無違反を心がけていたら幸いにもゴールドを貰えた」

であるべきでしょ?
スイ靖の件では

「でもアイツ、こないだ信号無視しとったで」

という話にもなりますから。

ではまた後ほど、
470日本@名無史さん:2007/02/02(金) 19:03:52
干支をどう現代の算用数字的に解釈するか、それが問題ですなぁ
こういうのって最近の学説とかどうなってるのかな?
統一見解ってのは、やっぱり無いんだろうなぁ・・・


通常の一年暦を国産化するには天文観測が不可欠だから、文化がそういったレベルまで来ないと
難しいんだけどね・・・
太陽観測を基にした暦では倍暦のほうが容易な気がするが、あえて不正確さを覚悟のうえの導入なら
一年暦も使用可能なんだよなぁ
471日本@名無史さん:2007/02/02(金) 19:13:36
プラムの二十四節気が鍵かもしれん。
24じゃなく4でよいのかもわからんが。
春夏秋冬があり、それが古代人には暦だった。

神武の伝承は春が一月に、夏が二月に変換され記録されたとか。
472日本@名無史さん:2007/02/02(金) 19:19:46
神武東征の年、安芸の国に至る段

十有二月丙辰朔壬午

壬午…みずのえうま…27日w
473日本@名無史さん:2007/02/02(金) 19:29:38


古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。三つの足の
部分は空洞になっており,その部分に水をため,足の上にのせた
簀のこ(すのこ)の上に米を置く。足の間の火で炊く(というより
蒸す)と,上にのせた蓋(ふた)の間から,湯気が立つ。
この様子がそのまま漢字になりました。つまり「氣」です。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html

古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。

474日本@名無史さん:2007/02/02(金) 19:33:01
ん〜・・・十干がすでに殷代には登場してるわけだから、アラビア数字と同じ概念のものはあるんだよね
だからこそ60進法が存在するんだから、恵也氏の10年説は別に不思議でもなんでもない

ただ私はこの時代は太陽観測、つまり夏至と冬至を基準に暦を作ってたと思うんだよ
もともと神道にしても神話にしても太陽神信仰なだし、太陽観測の方が容易だからねぇ・・・
太陽の影の長さを日々記録するだけでいいんだし
そうすると倍暦のほうが、当時の人にとっては手を付けやすかったんじゃないかと・・・


そういや学生の頃、古代史研究者の講演会で「五進法説」を聴いた事がある
途中から話が飛躍しすぎて思わず引いてしまったがww

475474:2007/02/02(金) 19:35:13

X 影の長さ
○ 影の長さと方向

失礼しました 
476SOY:2007/02/02(金) 19:55:55
>>428
>交差年代法についても正確なことはわからない。

>違う地域の土器を同じ物差しで計ることは慎重にすべきだと思う。

私も概ね同じ意見です。特に西新土器などは定義がまだまだ揺れ動き
そうなのでこれに絡むあたりはさらに注意が必要だと思っています。

平原のことに話を戻すと、私はまだまだ実年代は確定しているとは思
えず、平原の年代確定という発言に疑問を感じています。

それにしても、

よく『あらゆる遺物によって証明されている』といった抽象的な根拠
をよく見かけますが、私にとっては検証できない根拠は根拠ではない
ので、どうして年代が確定と言えたのか依然気になります。
477太国:2007/02/02(金) 20:12:40
>>469
そんなことは貴殿に言わずともわかっているよ。
そうならば倍暦で無い考えで終始貴殿の脳内に温存しておけばいい
ことであり、そこまで要求するならば、ここに神武ご本人を出せと
言い出すのと大して変わりは無い。つまり否定のための否定で
あるわけのことだ。

貴殿は水道の水を水道局や一般人が心配ないといっても、「それは
毒の入れられる可能性はいくらでもある。」と言っているように
聞こえるが、実際は家や会社で平気で飲んでるはずだろうが?
余が安全な資料を持って来ても否定に終始するなら、以後は水道水
を飲まないで入られるか?それを飲むのならば、都合のわるい証拠
が突きつけられてもその証拠は飲まない(信用しない)が、
水道水は飲むという恣意的論者になり、矛盾極まりない自語相違的な
男だということになる。

貴殿が否定しようが、あの表は冷静に観て、当時1ヶ月が14日間で
やっていたまず動かぬ証拠だ。あんたの主張する免許でのスリ抜けは
確かにありうることだ。八代間でも綏世では通常暦であるからスリ
抜けて月後半の日があったのだ。しかし八代も全部はそうならんゼ。
478太国:2007/02/02(金) 20:37:35
>>459
現今の食品は、例のFのニュースを思いだすが、氷山の一角的記事だ。
君はこれから飲み会へ行くそうだが、君の主張からすれば免許と言わず、
賞味紀元切れの数字も信じないだろうから、何も食べずに残して帰って
来れたか? そうであるまい。ほぼ飲み食いして来たろうな?wwwww

だとすればあの表の数字は信じない、賞味紀元は信じるで、はなはだしく
恣意的であり、好きなものは何をおいてもたべる、紀来なものはたべない
と勝手きままな論述になるから、免許証も返上したほうがいいぜ。
さもないと危なくてしようがない。ww

世の中には、賞味紀元の数字とかを改ざんしてるのも多いんではないの?
それをよく信用して飲み会に行けるなぁ〜? 余に抗弁したように、
こんなもの信用できないと疑念を言い張って飲み食いなしに返れるか?
君はあの表(の論)を飲まずにいるからな。
479日本@名無史さん:2007/02/02(金) 20:44:20
吉備は不思議ですね〜。
神武は畿内入りの前にずいぶん長く吉備に滞在してますしね〜。
私は、吉備が北部九州を出雲が主催する畿内に手引きしたんじゃないかなーって思ってます。



でも、いつになったら、人大杉が解消されるんでしょ?
480恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/02(金) 20:50:26
>>470
>太陽観測を基にした暦では倍暦のほうが容易な気がするが

太陽観測なら1年暦でしょう。
夏至の太陽が一番高い日にちから、次の夏至までがちょうど太陽暦で1年。

倍暦の可能性があるのは、お米を年に2回取り入れれる暖かい場所だけの話。
宮崎県や鹿児島県ならありえる事。
481征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/02(金) 20:59:44
>>447
十分可能性が在ると思いますよ

仮に箸墓が卑弥呼の墓と云う事になった場合を考えると、
それでも卑弥呼の墓の所在地が即ち邪馬台国の位置と云う事じゃないと思うんです

倭迹迹日百襲姫命が何時から何時までに何処に居たかが重要だと思うんですけど


どうやら吉備周辺の伝承では、
倭迹迹日百襲姫命は幼なくして大和から吉備へ送られたようですね

書紀三倍説、一世約三十年説、先代旧事本紀、の全てが
孝霊元年がAD180年前後である事を許容しています

そうすると孝霊伝承の範囲からすると、AD180年前後に
吉備を中心に讃岐から伯耆を含む周辺地域で紛争があった訳ですから

これが倭国大乱だと考えると、孝霊が原因の侵略か、騒乱の平定かは解りませんけど
とすると大乱終結後に共立されたのは、イヨ/トヨのように当時の一三歳程度だった
書紀で倭迹迹日百襲姫命とされた者だったと考えられるんじゃないでしょうか?
宗教的カリスマになったんですかね

そう考えれば、邪馬台国の所在地は吉備でも全然おかしく有りません
邪馬台国の南、或いは東の狗奴国こそが大和朝廷と云う事でしょうか

ま、倭迹迹日百襲姫命が早期に大和にトンボ帰りしてたなら別ですけど
482日本@名無史さん:2007/02/02(金) 21:05:59
ところで2時間ドラマで箸墓登場ですよw
畿内説のようです
483恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/02(金) 21:27:19
>>474
>十干がすでに殷代には登場してるわけだから、

殷代に中国で出来たとしても、干支が日本に伝わったのは仏教伝来の西暦550年頃。
紙が出来、書物が格安で手に入るようにならないと、干支を調べる元の本が日本にはない。

干支を書いてある本は、非常に小さな字で沢山書かなければ役に立たないもの。
重くてかさばる竹簡に書いて大船にのせ、中国で通用してたという干支を日本に輸入するかね。
季節が中国内地とは全く違うんだけど・・・・・・

仏教という精神的な教えでさえ、紙の発明がないと日本には伝わらなかったんだぜ。
それを役に立つか立たないか判らん外国の干支なんて・・・・
484太国:2007/02/02(金) 21:27:26
>>480
恵也の説は刀より食料だからな?pu!w
485恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/02(金) 21:33:03
>>482
>畿内説のようです

畿内説なんて屁みたいな話、
箸墓古墳を取り上げるから卑弥呼と関連付けたいだけだ。
全く関係ないのに・・・・・
486太国:2007/02/02(金) 21:35:12
>>483
恵也はもう
文字通りに字語相違。アラビア数字は外国のだ。
こう言うと、またおかしな奇異論で能書きを垂れにくる。
487九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/02(金) 21:35:23
おっ。久しぶりに恵也さんが。
488太国:2007/02/02(金) 21:37:11
>>485
これは恵也の正論。
489日本@名無史さん:2007/02/02(金) 21:37:35
そうだ。箸も知らなかった卑弥呼が箸墓にいるもんか。
490九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/02(金) 21:55:47
>>485
私もついでに大賛成です。
491日本@名無史さん:2007/02/02(金) 22:18:55
>>483
無問題。魏志倭人伝に曰く。倭人はかつて自ら「大夫」と名乗り、
古代、中国から渡った渡来人であると認めている。
492大和:2007/02/02(金) 22:42:59
>>奴国さん。
椿井大塚山の年代観、石野博信氏推定年代布留2式少し厳しいすぎ。
もっとも近藤義郎氏もB型壷とするが、竪穴式石積石室を持っている
んだからせめて桜井茶臼山と同時代にしてほしい。黒塚のあとぐらい
で辛抱する。ちなみに、天神山は黒塚の前に置きたいと河上邦彦氏。

しかし、天神山の出土鏡状態悪すぎ(大和の古墳Uグラビア写真)
20数面出ているらしいがこれは良品ですか ↓
(4) 画文帯神獣鏡 奈良県天理市柳本天神山古墳 0.8439 2.0993
安本氏HP転載ですが新井氏グラフA式図では後漢鏡に属し、舶載の
可能性が大きいように感じられます。

>>425 さん。
>ttp://hp.vector.co.jp/authors/VA041125/
ご紹介有難うございます。奴国さんご紹介分も含めて勉強させて頂きます
493奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/02(金) 22:43:05
>>476 私もほぼ同意見です。

平原については、土器編年をみても、
1、平原が庄内期なのか、その直前なのか100%の断定はできない。
2、平原が庄内直前としても、それは墳墓周辺の狭い地域のみに該当し、周辺地域では
既に庄内が普及していた可能性は否定できず、その逆もありうる。
3、北部九州の庄内そのものが年代指標に乏しい。
と言うレベルの不確実性で4,50年の誤差が生じる。

鏡については、
三角縁を魏鏡(239頃から流通)として、画文帯を180〜240頃とする学説に押し出されて、
平原を古く見る傾向があるけど、あの、超巨大内向花文鏡を古く見ると、その技術で作られた
国産鏡が北部九州一体に多数発見できなければ整合しにくくなる。

平原では、ほかの漢式鏡の多くも日本製とされている(新井の調査と整合する)にも関らず、
北部九州での国産鏡が多いようには見えないから、なおさら新しく見る要素がある。

ということで、私は平原を230年頃〜250頃と考えています。
250年前後に奴国との戦いがあり、その後政治権力が畿内に移ったため、北部九州で
国産鏡が多数製造される時代が生じなかったという説明になります。
494日本@名無史さん:2007/02/02(金) 23:41:31
>>493 ちょっと帝政
250年前後に奴国との  →  狗奴国との
495日本@名無史さん:2007/02/02(金) 23:48:31


言葉も使えない
コテハンがいるんだね
恥ずかしくないのかW



496日本@名無史さん:2007/02/03(土) 00:28:23

くだらない馬鹿話スレ 乙
497日本@名無史さん:2007/02/03(土) 00:36:59
暦について中国の書物に書かれていることは、
(晋書)不知正歳四節、但計秋收之時以為年紀
(訳)一年の歴や四節を知らない、ただ、秋の収穫時を以て年紀としている。

ところが、隋書には「毎至正月一日、必射戲飲酒、其餘節略與華同」とある。
(訳)毎回、正月一日になれば、必ず射撃競技や飲酒をする、
その他の節句はほぼ中華と同じである。

なお、梁書は、卑弥呼が始めて魏に朝貢した年を景初三年としている。
498九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/03(土) 00:43:19
>>496
畿内説の馬鹿馬鹿しさに比べれば、どんな奇想天外な話も真実に見える。
499日本@名無史さん:2007/02/03(土) 00:52:26
正歳=正月
500SOY:2007/02/03(土) 06:14:38
>>493 奴国
まだ一仮説の段階とは思われますが、鏡についての解釈。
非常に参考になりました。

これに鉛同位体から読み取れることを合わせて考えれば
さらにそのあたりの認識が深まりそうな感じがするので、
この休みにでも自分なりに勉強してみようと思います。

とにかく、庄内式土器や木棺の話などいろいろと理由は
ありますが、以前に考えられていたよりも平原は新しい
という可能性が自分の中では濃厚になりました。
501日本@名無史さん:2007/02/03(土) 06:52:35
>>498
東大閥が支配する現在の考古学界において、それはタブー。
鏡論争や土器論争は、今までの日本の考古学の通説としてきた示準
年代自体の崩壊をもたらす危険なものであり、今までの考古学的功
績を根底から否定するものであり、学界の権威を貶めるものだ。
到底、承認などできるはずもない。巻向・箸墓・稲荷山等は絶対に
譲れないのだ。
502太国:2007/02/03(土) 07:13:40
まぁとにかく譲れないって言ったて、巻向は卑弥呼の場所とはほど遠い。
これは完全なる間違いなのだ。女王国は九州であ〜る。

巻向なら記紀に女王と天皇との付き合いが書かれるに決まっている。
同じ畿内で二つの国が隣接していて、あさっての大陸文書に詳細の記述
があるのに、自分のところの地図上で目と鼻の先にある女王国の記述が
無いことをおかしいとは、まともな頭脳なら容易に察知できうる。w
503恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/03(土) 07:27:41
>>491
>古代、中国から渡った渡来人であると認めている。

日本に中国から渡来人が古代から来てるのは常識。

あなたは干支を知り、占いをされる方を直接知らないのじゃないの?
俺は知ってるけど、大きな本を出し干支や吉凶、性格を調べるもの。

紙もないのに、そんな情報が日本に入ってきてるとは考えられない。
弥生時代に竹簡という、重くてかさばるものが日本では発見されてないだろう。
504太国:2007/02/03(土) 07:43:56
【漢委奴國王】という金印が九州志賀島から出土していること
を考えた時、この王はだいたい崇神〜景行の時代の人物であり、
このことから、もう当時日本に文字がわかる奴が少なくとも
いたことが分かる。でなければ、金印があっても【 】の文字が
何の意味かわからず国璽に使用するにははばかることになって
しまう。ということは、当時一部でも漢字は知っていたであろう
ことは間違いない。
これを考えたとき、もう干支のやり方位は漢字を知ってるんだから
日本産でなくても60通りで当時の日本でも理解使用できうる。
後の時代に干支が入ってきたと云っても、再輸入的事項だな。
505日本@名無史さん:2007/02/03(土) 07:54:47
歴代の先生達が溜め込んだ積年の矛盾のせいで、
今の考古学の先生は、素人の単純な質問にも答えられないらしい。
ある説明会で小学生に質問された先生は、
自分の過去までも無視する事にしたそうだW
506太国:2007/02/03(土) 08:01:25
國王の「王」字も真下の−を一本除けば『干』の字になるし、王名の
「奴」字のツクリを見れば『支』の+部分を除いた『又』の字だという
ことが解かる。+も「王」字の上下の二を除けば『+』になるわけで、
崇神世あたりで似た部分ある【干支】の字が日本にあっても何らかしく
はない。【漢委奴國王】より【干支】の字のほうが簡単な文字であるから
なおさら後者の字の意味が解かるはずである。

紙、竹などは焚書が簡単で資料が極めて少なくなっていることは否め
ない。だいたいそれが隠滅を防ぐため、記紀の成立に進展して行ったと
考えても当然である。
507太国:2007/02/03(土) 08:07:05
>>505
どんなことだろう? 自分の過去って?
508プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/03(土) 08:15:25
>>506 太国さん


『奴』の文字は見ての通り『女』+『又/股』だ
詰まり、 古代の人は女性をこのように見ていた証拠ですよ

・女の股からは男とは異なり『血』が流れ 汚らわし

・その反面
股から『新しい生命が』生まれ(造り出す)
それを『神』と崇め奉る


『奴』と言う文字は 相反する二つの顔を持つ文字、
だから(卑字)的な使われかたもする。
509プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/03(土) 08:42:43
>>506 太国さん
ついでに『王』の字意も


『王』は『三』『|』に分解出来ます。
『三』は 自然界で見れば「天、地、人」 人間社会で見れば「上位、中位、下位」と、 (全て)と 言う意味になり、

『|』は 貫く

●全ての者を支配する
これが『王』の字意です。
510日本@名無史さん:2007/02/03(土) 08:52:29
宮崎かどこかにあった九州王朝の2倍暦の記録を持ってきて
そのまま記紀の前のほうに据えた・・・・ ってことですかね。
511プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/03(土) 08:53:53
『王』の字意を把握出来れば、例え
(紹興本)に、女三國
(紹煕本)に、女王國
と、書かれようが、一切不自由しないし、「誤写、誤刻…」 等の無用な詮索も、校勘などの煩わしさからも開放されるわけです。


女王國にしろ女三國にしろ、内容は一緒 編纂者(写本監修者)の技量の違いだけと、解るわけです。
512日本史@名無しさん:2007/02/03(土) 08:57:40
>>501
>東大閥が支配する現在の考古学界において

違います。と思います。

>>493
私も同意です。プラムさんよのうに深い研究があってのことではないですが。
文献史学と考古学と物理学その他がそれなりの一致をみないと確定はできない
ですから。古くなるほど、そうですよね。
鏡も土器も、流通・下賜等によって生じるタイムラグが証明しにくいのは勿論ですが、
なんの方法論もなしにモノだけで判断する傾向もある中、1、2、3に挙げられている
ような慎重な見方は当然とは言え冷静で好感がもてます。それが一つ出てくるだけで
全部を覆すほどのモノっていうのは少ないですよね。
513日本@名無史さん:2007/02/03(土) 09:39:33
稲荷山鉄剣の銘文「獲加多支鹵」を「ワカタケル」と読めなければ東大
には入れないという事だろう。
514日本@名無史さん:2007/02/03(土) 09:50:47
神武って東征以降の話は有名ですけど
ヒコホホデミ時代はあまり注目されてないですね。

人間離れしすぎてるからですか?w
515日本@名無史さん:2007/02/03(土) 10:08:03
二倍年暦を単体だけで語るから三倍暦等のおかしな話に逸れてしまう。まずそれの後につながる邪馬台国の「年号」、いわゆる禁断の「九州年号」について語るべきであろう。記紀の皇朝と明らかに異なるこの年号。当然、「正統」考古学者からはタブーとされいるものだ。

517年 継体 丁酉 継体11年
522年 善化(善記) 壬寅 継体16年
526年 正和 丙午 継体20年
531年 発倒(教到) 辛亥 継体25年
536年 僧聴 丙辰 宣化 1年
541年 同要(明要) 辛酉 欽明 2年
552年 貴楽 壬申 欽明13年
554年 結清(法清) 甲戌 欽明15年
558年 兄弟 戊寅 欽明19年
559年 蔵和 己卯 欽明20年
564年 師安 甲申 欽明25年
565年 和僧 乙酉 欽明26年
570年 金光 庚寅 欽明31年
516日本@名無史さん:2007/02/03(土) 10:10:29
>>507
かいてあるけど・・・大丈夫?
517日本@名無史さん:2007/02/03(土) 10:10:44
576年 賢接(賢稱) 丙申 敏達 5年
581年 鏡當 辛丑 敏達10年
585年 勝照 乙巳 敏達14年
589年 端政 己酉 崇峻 2年
594年 従貴(告貴) 甲寅 推古 2年
601年 煩転(願転) 辛酉 推古 9年
605年 光元 乙丑 推古13年
611年 定居 辛未 推古19年
618年 倭京 戊寅 推古26年
623年 仁王 癸未 推古31年
629年 聖徳(なし) しょうとく 己丑 舒明 1年
635年 僧要 乙未 舒明 7年
640年 命長 庚子 舒明12年
647年 常色 丁未 孝徳 3年
652年 白雉 はくち 壬子 孝徳 8年
661年 白鳳 はくほう 辛酉 齊明 7年
684年 朱雀 すざく 甲申 天武12年
686年 朱鳥 しゅちょう 丙戌 天武14年
695年 大和(大化) 乙未 持統 9年
698年 大長(なし) 戊戌 文武 2年

これらは、続日本紀や伊予風土記にも記録されており、法隆寺金堂釈迦三尊像の光背金石文
からも発見されている。記紀編纂で「一書」として参考されたものもありそうだ。
518吉備国 ◆5qhHP5zMMs :2007/02/03(土) 11:21:19
おはようございます。
激しく二日酔いでございます。スナック5件ぐらいハシゴして
新聞配達の兄ちゃんと握手した記憶があります。
さてさて…

太国さん、私はけして三倍暦を否定するものではありませんよ。
ただ、アプローチの仕方に納得がいかないだけです。
信憑性に疑問のある、神武〜開化までの記述では証明材料になりえません。
それよりは、仏伝時に暦法が伝来したと仮定して、それ以前に暦法が伝わっていた可能性を探りあてるほうが手堅いのではないでしょうか?

仏伝時には確実に伝来していたと考えられます。
それは教典など諸書の伝来に含まれていた可能性もありますし、状況証拠としては欽明以降の歴史が克明となるためです。

ではそれ以前、たとえばオケヲケ時代やワカタケル時代に暦があった可能性はどうでしょうか?
519太国:2007/02/03(土) 11:22:13
>>509 >>511 プラムさん
漢字の博学なのは畏れいってます。
今後も参考にさせていただきます。多分何か話してくると思って
いました。何か日本、中国の語学を大学等で修めていたんですか?
520日本@名無史さん:2007/02/03(土) 11:32:08
>>518
吉備国さん、あなたは
神武〜開化を信憑性に疑問と言いますが
そんなこといって、考察しなかったら
研究は進まないんですよ。
これが、戦後の記紀の研究を遅らせる原因を作った。

一番やってはいけないこと。
21世紀の我々が、勝手に想像では語ってはいけないこと。
よって、7世紀当時に語られた記述を
一通り素直に読んでみることだ。
読みもしないのに、嘘っぱちという人が多いこと。
これは非常に問題がある。
521吉備国 ◆5qhHP5zMMs :2007/02/03(土) 11:43:14
記紀の記述で疑問なのが、神武東征開始から、それまで一切記述がなかった年月や干支の記述が現れるところです。

上で誰かが書かれてましたが、ヒコホホデミの物語には年月がありません。
同じ神武の物語であれば、干支何年に釣り針騒動があったとかの記述があってもおかしくありません。

ここで一つの仮定をします。

ヒコホホデミ≠神武

だとすればどうでしょう?俗に言う

神武=祟神

の仮説に至るかも知れませんが、それは別問題として。
522太国:2007/02/03(土) 11:44:26
>>518
信憑性に疑問があると言ってますが、どのような疑問があるのか
言及していませんね。今大相撲の八王朝問題で週間現代誌が某関取
の件で疑惑を言っているようですが、紀に疑惑があるのならば、
どのように舎人さんが文書偽造を犯した疑惑が生まれて来るのか、
具体性を出して下さいよ。
紀の記述だと仁徳以前の天皇の大半が現今で考えられないくらいの
超長寿だからおかしいではないのかなどと論点を言うべきでしょう。
倍暦ならばな〜に今の人間と大して変わらない寿命だったとこちら
は解説してるわけで、その根拠の一部として>>461の表を提出し
たわけです。これは当時まず1ヶ月が14日までの2週間であったと
いう証拠であり、それを崩すならば、単に信用できないだとか
古いからダメ(←恵也の得意技)だとかでなく、資料根拠等を持って
きてやって下さい。
顯宗仁賢と雄略の時代は通常暦ですよ。
523プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/03(土) 12:08:04
>>519 太国さん

>大学等で

イエイエ高卒の一般人です。
それが幸してか?余計な知識を身につけず、シンプルに物事を見られるだけです。
何気に使う『東西南北』
何故『東』が言葉のスタートなのか?
別に『西東北南』でも構わないと、思いませんか?
お解りのように、東は太陽が昇り一日の始めです。
でも、これだけじゃあ無い筈
詰まり、人が朝目を覚まし朝、最初に見る 太陽の昇る方角が『東』だからです。
ここで大事なのは『最初に見る』と、言う人間の生活行動なのです。漢字は人が使用するモノですから。

私の漢字に対する根本姿勢
524プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/03(土) 12:14:17
どんなに偉い学者の唱えた解釈でも、この人間の節理や道理を離れた解釈には、断固反対論を唱えてくつもりです。
人が考えその人が使う文字だから
道理や節理を離れません。
525一応九州王朝説:2007/02/03(土) 12:19:21
なるほど。
いや、別に漢字だけにお詳しいとも思っていませんが。
色々ご存じなので、大学で史学専門かと。
526日本@名無史さん:2007/02/03(土) 12:20:32
神武≠崇神だよ。

二人の経歴には、あまりにも違いが多すぎる。
527日本@名無史さん:2007/02/03(土) 12:38:39
九州説とか記紀を嘘っぱちといって研究しないような連中は
なにか政治的な匂いがするんだよ。
528日本@名無史さん:2007/02/03(土) 12:44:22
>>497
晋代には暦がなく、隋代には使用していたと言うことですね。
仏教伝来の頃に暦も伝わったのかしら。
529日本@名無史さん:2007/02/03(土) 13:12:35
>>523
確かに『東南西北』この言葉ひとつとって見ても、
太陽が東から南に上り、そして西に沈むということを表し、
季節も、東=春 南=夏 西=秋 北=冬と配し、
1日とともに1年をも理路整然と配しているあたり言葉の順番って大切なんだなと痛感しますね。
しかし、なぜ方角の<子>を東に当てなかったんだろう・・・
530九州出身:2007/02/03(土) 13:30:01
>>525 一応九州王朝説 さんへ
『大学で史学専門かと。』
ってあーたね・・・2年以上いれば当たり前。
あなたってここの古株なんでしょ?逆にいままで、何してたのって聞きたい。
531九州出身:2007/02/03(土) 13:43:04
太国さん、一応九州王朝説さん
向こうで「太国や一応九州王朝説などは一応古参なんだから」って記載されてたよ。
情けない所ばっかではなく古参らしいところを見せてもらおうじゃないか。


532太国:2007/02/03(土) 14:28:00
>>531 九州出身さん
何が情けないんだい? だいたいそれを言い出したのはみどもでは
なく、名無し氏だろう?

古参がどうのとか、有名になりたいんだろうとかよりも、
研究ししたこととか参考になるようなこととかを書きこんでくれ
ればいいことだよ。

相手の批評は、恵也氏や吉備国氏のような不信だとか古いんだとか
恣意的に都合のつく否定反論ではなく、合理的資料根拠とかを
並べたりして論を張るのがいいだろうな。これでgoodだ。
533吉備国 ◆5qhHP5zMMs :2007/02/03(土) 14:30:42
>>497
ありがとうございます。
これにより、暦法の導入は3世紀なかば〜4世紀末までの約200年間に絞り込む事が可能かも知れません。
この間の、外交動向などを調べればさらに絞れるかも知れませんね。

>太国さん
オケヲケ時代の暦法ではなく、その当時に干支や暦法が使用されていたかが問題です。
渡来人などは当然使用していたと思われますが、それを天皇政権が正式に採用していたかがまだ不明です。
そのあたりをお願い出来ますか?

あともう一点。ホホデミの事績に干支年月が記載されてない点はどう考えられますか?

【質問まとめ】
・雄略治世での干支採用の有無
・神武とホホデミで干支の有無の違い
534太国:2007/02/03(土) 15:03:47
>>533 吉備国さん
これから外出するので、後は夜にスレを見るので簡単に・・・。

>オケヲケの暦法ではなく、その当時に干支や暦法が使用されていたか

この文は何か矛盾しているようで、一寸戸惑うが、
当時干支が使用されていたかどうかは、拙者には取れていません。
それで恵也は倍暦を否定したりする論の栄養にしているわけです。
だがそれで倍暦を否定するのは早計すぎます。何らかの方法で暦法
の計算は可能です。当時であろうと編纂の時代であろうと、干支
で紀を記述している以上、それは現今では数字をアラビア数字で
書いているようなものであり、いずれにしろ役に立っているわけ
です。もし当時朝廷あたりで干支がないとすれば、他の方法で暦法
の計算使用は出来えましょう。漢字はもう崇神世のころ使用して
いたでしょうから、雄略〜仁賢世で干支でない代替えでの漢数字でも
やれるはずですよ。

現にニ天皇は雄計尊、億計尊の御名を有し、億の数字の計算が
出来うる尊称であることから確かですよ。(雄は雄大で大数)
それになぜ倍暦でないこれら通常暦の時代を述べよというのは
何か思惑があるんですか?

火火出見尊の時代は神武以前のため、今のところ資料不足で、ここ
の箇所を正論できるのは誰でも困難なはずで、論説はまだ拙者には
無理なるところです。神武即位直前は3倍暦の即位後と異なり、
通常暦と観ています。
535吉備国 ◆5qhHP5zMMs :2007/02/03(土) 15:30:37
>太国さん

回答ありがとうございます。
繰り返しますが、私はけして倍暦などを否定するのではありません。あくまで客観的に肯定できる材料を求めているだけです。

>もし当時朝廷あたりで干支がないとすれば、他の方法で暦法の計算使用は出来えましょう。漢字はもう崇神世のころ使用していたでしょうから、雄略〜仁賢世で干支でない代替えでの漢数字でもやれるはずですよ。

これは同意できます。口承で年数を伝えていたとして、その数十年後の仏伝時あたりに干支も伝えられたとすれば正確に逆算して記録可能です。

>それになぜ倍暦でないこれら通常暦の時代を述べよというのは
何か思惑があるんですか

先も申し上げた通り、時代を遡りながら証明するためです。
これまでの議論で、雄略朝前後に干支に準ずる程度の暦法が存在した事が証明されつつあります。
この当時が通常暦ならば、それが採用された時代があるハズです。

聞いた話では、雄略朝ごろから暦法などの記録に変化があるそうです。
もしかしたら朝鮮出兵による文物往来に干支があったのかも知れませんね。
次はそこを埋めていきましょう。
536日本@名無史さん:2007/02/03(土) 15:39:16
>>511
プラム氏の字の解釈は全く不可解。

>女王國にしろ女三國にしろ、内容は一緒

では、三国時代も王国時代も似たようなことというわけ?
女三と女王が同じ内容というわけ?
そんなことないでしょう。
537恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/03(土) 15:54:20
>>508
>・女の股からは男とは異なり『血』が流れ 汚らわし

{汚らわし」より「神秘的」だよ。
キリストでもお釈迦さんでもどんな英雄でもここからひり出したんだぜ。
しかも男を狂わし、全財産でもつぎ込ませてしまう場所。

どこかの公務員が8億円も横領してつぎ込み、刑務所の中でこの前離婚させられたはず。
どんなに素晴らしいところか、童貞のアンタには理解できんだろうね。

−−−−−(引用開始)−−−−−
公社の横領事件では元職員が横領金のうち8億円以上をアニータさんに送金し、アニータ
さんがチリに豪邸を建てるなどして話題になった。
http://www.asahi.com/national/update/0131/TKY200701310377.html
538保存しましょう:2007/02/03(土) 16:06:24
■古代カラ半島と日本国の古代史年表■

(省略・・・)
396年- 高句麗、百済を撃ち、58城を奪い、百済王弟を人質とする。
397年- 百済、倭国に救援を求め、太子を人質とする。
433年- 百済、任那・志羅紀との同盟を強化。
455年 高句麗、百済を撃ち、任那・志羅紀が百済を救う。
458年 百済余慶(蓋鹵王)、宋に使者を送り、臣下の叙授を求める。
472年 百済王余慶、北魏に使者を送り、高句麗出兵を求める。
475年 高句麗長寿王、百済の漢城を陥落させ、百済蓋鹵王を殺す。
(省略・・・)
645年- 倭国(日本国)に、三韓(百済・漢城〈コマ〉・志羅紀)の使者が派遣され、三国の調の儀式が行われる。←(注目!!
      中臣鎌子と中大兄皇子が、蘇我入鹿を暗殺。
645年- 倭国と百済・志羅紀の連合軍が、新羅を攻撃。旧任那領を奪還する。←(ここも注目!! 
655年- 新羅、百済の刀比川城を攻撃。
660年- 唐・新羅連合軍、百済を滅ぼす。
663年- 倭国の百済救援軍、白村江(はくすきのえ)戦争で唐軍に大敗。
539恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/03(土) 17:05:23
>>520
>読みもしないのに、嘘っぱちという人が多いこと。

これでも少しは読んだのだが・・それで西暦500年以前の日時に関しては日本書紀は
完全に嘘っぱちだという結論。
少なくとも西暦585年第31代用明天皇以前は、信頼性がない
それを第一代神武天皇から第10代崇神天皇なんて取り上げても・・・・

あなたは信憑性のない日時を真面目に土台にして、お城でも作る積もりかね。
それを「砂上の楼閣」といって昔からバカタレ連中の無駄な努力の象徴なんだよ。

しっかりした土台の上に作るのはたとえ「あばら家」でも住むことは出来るぞ。
他に役に立つ分野の努力があるだろうに・・・・・
−−−−−(引用開始)−−−−−
 第31代の用明天皇は、2年ほど在位し、586年には活躍していたことが確実な天皇である。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/nendai.htm

552年(日本書紀による。元興寺縁起では538年),百済の聖明王の使いで訪れた使者が
欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上したことが仏教伝来の始まり。
http://www.asuka-tobira.com/syotokutaishi/bukkyodenrai.htm
540恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/03(土) 17:38:59
>>522
>古いからダメ(←恵也の得意技)だとかでなく

誰が古いからだめなんて事いったか!
コピペして出せ。

欠史八代なんて、西暦の年代も判らんのになんで干支から月日が判るというのだろう?
太国氏の脳内妄想だよ。
ロクに日本書紀さえ自分では読めないのじゃないかな・・・適当な丸写し!

−−−−−(引用開始)−−−−−
乙卯年(きのとのうのとし)の春三月(やよい)の甲寅(きのえとら)の朔己未(つちのとひつじのひ)
に、吉備国(きびのくに)に徙(うつ)りて入(い)りましき
541九州出身:2007/02/03(土) 17:41:14
>>532 太国さんへ
それは別の人で太国さんではなかった。申し訳ない。
542恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/03(土) 17:51:09

>>528
>晋代には暦がなく、隋代には使用していたと言うことですね。

俺もそう思う。
晋代(西暦300年頃)には日本は暦を使っておらず、お正月にもお祝いをしてなかったが
隋代(西暦600年頃)には使っていたわけだ。
300年も経てば世の中は激変する。

水戸黄門の時代と、車の走る現代社会くらいの時間が過ぎてんだぜ。
543日本@名無史さん:2007/02/03(土) 18:19:05
それでも8時45分に印籠がでてくるのは300年かわらない
544太国:2007/02/03(土) 18:35:28
>>539
恵也はこんなズサンな計算をよ〜く信じてしまったな?ww

こういう恵也みたいな学者的インテリが結局磁石のように、向こう
も学者で××××学とかいう理論的美名の為にまんまとはまりやすく
気づかぬ泥沼に入ってついに抜けなくなるのが弱点なわけだ?ww
哀れなもんだ。用心深い恵也がコロリとはまった足かせの学。
もう治らんかも知れないな。

記を踏まえて、とことん検討して成立した紀はそこまでデタラメ、
いい加減ではないんだよ。
545日本@名無史さん:2007/02/03(土) 18:35:55


古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。三つの足の
部分は空洞になっており,その部分に水をため,足の上にのせた
簀のこ(すのこ)の上に米を置く。足の間の火で炊く(というより
蒸す)と,上にのせた蓋(ふた)の間から,湯気が立つ。
この様子がそのまま漢字になりました。つまり「氣」です。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html

古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。

546日本@名無史さん:2007/02/03(土) 18:39:30
九州年号なんて、ただの素人の戯言ですよ。頭大丈夫?
547日本@名無史さん:2007/02/03(土) 19:18:02
>>545
おー、コピペさん。「設問解字」は、さすがに恥ずかしくなって、やめたんだな。www (正解は「説文解字」)
じゃ、これも言っておこう。

漢の許慎が「説文解字」を著したとき、甲骨文字は全く知られていなかった。
甲骨文や金文を用いて漢字の成り立ちの研究が始まったのは、清朝末期以降である。

で「氣」(気)の初文は「气」。 立ち込める雲気(うんき)のさまを「气」字で表した。
炊飯の湯気なんて、謬説もいいところだ。www  コピペさん、もっと勉強したまえ。
http://www.wind.ne.jp/khari/riron/ki,ketu.html
548日本@名無史さん:2007/02/03(土) 19:22:55
>>537
プラム氏の価値観ではなく、古代人の考え方でしょ。
http://seikyoken.org/rounenki/kourei2.htm
549日本@名無史さん:2007/02/03(土) 19:27:14
>>547
コピペ100回増量(狂笑)
550日本@名無史さん:2007/02/03(土) 19:28:28

古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。三つの足の
部分は空洞になっており,その部分に水をため,足の上にのせた
簀のこ(すのこ)の上に米を置く。足の間の火で炊く(というより
蒸す)と,上にのせた蓋(ふた)の間から,湯気が立つ。
この様子がそのまま漢字になりました。つまり「氣」です。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html

古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
551日本@名無史さん:2007/02/03(土) 19:35:40
>>550
どういった理由でコスペしているの?
最近このスレ見だしたのでわからない。教えて
552日本@名無史さん:2007/02/03(土) 19:41:11
これが答えだw

古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。三つの足の
部分は空洞になっており,その部分に水をため,足の上にのせた
簀のこ(すのこ)の上に米を置く。足の間の火で炊く(というより
蒸す)と,上にのせた蓋(ふた)の間から,湯気が立つ。
この様子がそのまま漢字になりました。つまり「氣」です。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html

古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
553日本@名無史さん:2007/02/03(土) 19:41:26
ついでだが、誰かさんが言ってた「王」の字義。
上位・中位・下位を貫いて支配する王、…なんていうのも、甲骨文を知らずして許慎が妄想した謬説。
甲骨文、金文での「王」の初文は、その下部を、鉞(まさかり)の刃状につくる。
http://www.nikkei.co.jp/kansai/elderly/30826.html
http://www2u.biglobe.ne.jp/~UMESAN/koukotsu05.htm
http://www.japanknowledge.com/nihongo/column_jitsu_guide.html
554日本@名無史さん:2007/02/03(土) 19:43:07
>>551
人大杉対策でスレ上げしてくれてるんじゃない? 暇そうだから。
555プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/03(土) 20:42:27
>>529さん

>なぜ方角の(子)を東にあてなかったんだろう?

そうですね、いまだに解決出来ない謎の一つです。
何かいいアイデアでも思いつきましたら、解析にご協力願います。


>>536さん

>プラム氏の字の解釈は全く不可解

そりゃあそうでしょう、当然の感想かと思います
未だに誰も言い出しませんし、ましてや学校で教えてもらうわけでもないですから
どんどん反論してください。
出来れば、なぜ不可解なのかもカキコしていただければ、今後に役立てたくおもいます。
556プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/03(土) 20:50:31
>>537

>童貞のアンタには理解できんだろうね。

今日も右手がお友達ですか? なかなか思いつかない発想されるのですね
『童貞』によほどの執着がおありのようで


>>553

>ついでだが、誰かさんが言ってた「王」の字義。
上位・中位・下位を貫いて支配する王、…なんていうのも、甲骨文を知らずして許慎が妄想した謬説。


せっかく反論したのだから、もそっと詳しく
557奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/03(土) 20:56:56
>>492 大和さん。
三角縁については、開始時期のほかにも終了時期という問題がありますが、
この点ははっきり言って、開始時期以上によく分かりません。

三角縁が現在130〜140種発見され、数千枚製造されたと推定できることからは、
150年以上にわたって色々な種類が次々に製造されたとも考えられます。

しかし、一方では、一箇所で大量に数種類の三角縁が見付かる例が多いことや、
同型(同笵)鏡の分布の複雑さからは、狭い期間(最盛期)に大量に作られたとも
考えられ、同位体比の均一性の強さは製造期間を短く見る要素になります。

終末期の三角縁の製造時期については、何か考えがありますか?
私は、100年くらいが流通期間ではないかと漠然と考えていますが。

魏鏡説だとこの問題自体が生じないので、文献があるのかどうかも分かりません。
558太国:2007/02/03(土) 20:57:14
恵也のは、インドかチベットあたりにある卑弥呼とアマテラスの
歓喜天式レスビアンのにこにこ論。ww
559一応九州王朝説:2007/02/03(土) 21:00:42
>>553
なるほど。面白いですね。篆書も好きだからそう言うのは見たことあるけど、
言われてみたらなるほど。

でも、それも労作というか、苦労して見つけだした研究だから、プラム氏が
知らなくてもしょうがないよ。
560太国:2007/02/03(土) 21:09:14
>>535 吉備国さん
変化とか言ってましたが、
雄略、顯宗仁賢世の後の繼體の時代あたりは2倍暦を使用して
いるようです。
561プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/03(土) 21:13:28
>甲骨文、金文での「王」の初文は、その下部を、鉞(まさかり)の刃状につくる

ちょっと疑問に思っているんだが
『甲骨文字』がどおして字義に役にたつのか? 甲骨文字が漢字の原点と言う訳ではないだろう?
ただ未だに一番古いだけの話で
562プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/03(土) 21:17:33
『川』や『山』の文字は
どおして三本長さが異なった線なのか?  考えた事ありますか?
平行した同じ長さの線でもよかろうに
563日本@名無史さん:2007/02/03(土) 21:32:28
>>557
合理的ですね。
564吉備国 ◆5qhHP5zMMs :2007/02/03(土) 21:36:17
>>560 太国さん
そこが解せないんですよ。
記憶が曖昧ですが、これまでの太国さんの主張によると

・神武世 倍暦
・雄略世 通常暦
・継体世 三倍暦
・欽明世 通常暦

となりますよね?この様に暦法をコロコロ変更する必要があるのでしょうか?
大陸との交流により最新の暦法として紹介され導入されたとしても、通常暦を複数回導入する必然性がありません。
記録の年数から暦法を推定するだけでは、どうしても恣意的な感が拭えません。
記紀の記述に創作性があるのなら説明可能かも知れませんが…
565プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/03(土) 21:42:34
>>553

ちょっとサイトのコピペするね
>そこでは王の文字は一番上の棒がなかったり、下半分が三角形に塗りつぶされている(図参照)。
他の甲骨文字や考古学、民俗学から類推し「鉞(まさかり)を下に向けた形状であることを突き止めたのが白川説」(笠川さん)。
鉞は多くの出土品からも王の権威を象徴するものであることが分かっている


この記事は以前拝見したことあるんですが、なかなか興味深い内容と思います。
で、特に疑問をもったのが

鉞有りの甲骨文字(王)と現在使用している『王』と関係が書かれていない
初めから『王』の文字と判断しての考察だ、ということです。
それに、なぜ一番下に鉞が描かれるかの説明がないし、あの記事では
下に付く事が当然かのように無視されているということです。
もし>>553
が、なにか情報を握っているのならヒントだけで戴けないでしょうか?
566太国:2007/02/03(土) 21:52:57
>>564
神武は即位前は通常暦であり、即位後は3倍暦を使用していたようです。
繼體世は2倍暦ですよ。

現代的常識とかいうものは一切捨ててかからないと、恵也のごとく失敗
しますよ。100年以上前は刀をさして歩いていたわけで、映画等をみんな
見ているからこれは信じている者が殆どのはずです。それほど視覚と
言う利器が現代人に江戸時代の状況を信じさせる力を持っています。

しかしただ耳や古文献のみでしたら信じない奴が出てくると思います。
今の者は経験がない人が多いでしょうが、みどもは50年以上前、銭札で
食品を買った経験があります。状況は今と全く違い刻々と変遷して行く
のが真です。

当時の古代はどうやら天皇の変わるにおいて、暦法の取替えをやって
いたとみどもはそう思っています。紀の記述の記録を調べた結果です。
567日本@名無史さん:2007/02/03(土) 22:08:46
>>566
神武帝の時すでに暦を使用していたと言うことは、暦を知らない魏志倭人伝の倭国は大和朝廷の祖先ではないと言うことでいいでしょうか?
568太国:2007/02/03(土) 22:10:07
>>564 吉備国さん 特異以外14日迄です。

【紀の繼體世の記事の日数統計表】

1日 3   15日 0
2日 0   16日 0
3日 2   17日 0
4日 2   18日 0
5日 3   19日 0
6日 1   20日 0
7日 2   21日 0
8日 1   22日 0
9日 2   23日 0
10日 1   24日 1 ←即位前の1/24(先帝武列の通常暦)
11日 1   25日 0
12日 0   26日 1 ←百済武寧王の子 死 8/26(百済暦)
13日 1   27日 0
14日 2   28日 0
        29日 0
        30日 9
569太国:2007/02/03(土) 22:12:57
>>568 訂正

× 30日 9     ○ 30日 0
570太国:2007/02/03(土) 22:15:23
>>567
ほぼそのとおりです。(九州王朝は)大和朝廷の祖先でありません。
571プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/03(土) 23:02:29
なんでこんなに重いのよ?   鯖が腐ったか?
572日本@名無史さん:2007/02/03(土) 23:26:46
単に記紀編纂者が適当に干支を当てただけだろ。
記紀には大和にありながら銅鐸記事は一切ないし、スサノオ神話に天平期に中国から伝来したばかりの箸のエピソードがでてくる。干支にはそれぞれ占術的な意味がある。エピソードにあわせて適当に編纂者が造作しただけで、外交相手の中国人を強く意識
した結果だ。
事実、旧唐書等に新しい日本の統治者について、疑義が多しと記録されている。大和朝廷が信用されてなかった証拠だ。
573日本@名無史さん:2007/02/03(土) 23:31:54
>>570
中国の書物にあるとおり、「倭の別種なり」つまり九州王朝の地方官僚か将官
クラスが植民地で旗揚げした感じだと思うね。京から遠く鎌倉で頼朝が挙兵し
たのと同じ感覚だ。
574日本@名無史さん:2007/02/03(土) 23:34:38
>>573
くだらない妄想書くなよ、タコ!
575日本@名無史さん:2007/02/03(土) 23:35:41
>>566
太陽や月の見かけ上の変化のように、今も昔も人間の行動に重要な影響を与え続けている事柄を
全く無視した暦が採用されたと仮定するのは、それ自体が不自然ではないかと思いますが。
576日本@名無史さん:2007/02/03(土) 23:47:25
>>575
お舞の思考回路の方がよっぽど不自然だぜ
577太国:2007/02/03(土) 23:52:09
>>572
適当で、欠史八代の>>461表のように、数字が全部向かって左に行く
のか?適当に宝クジの各回転的を射るとこんなふうに前半の数字
(たとえば1,2,3,4、5のみ)に矢が行くのか?
そんなことは滅多にならんぞ。全部1日〜14日間の数字だ。

次の>>568>>569訂正)はどうだ?これも特殊な二つを除いて、
あとの全数字が向かって左に集中している。適当にランダムにやると
こうなるのか? 確率を考えてもそうはならんのだよ。このうち
特殊なのは24日(1/24)と26日(8/26)の二つの例外であり、前者
は即位直前の通常暦の先帝武烈の日数だから下旬に来てるんだ。
後者は百済太子涼陀の死の記事で通常暦であろう百済暦の古文献
を紀に書きこんだから下旬の数字になっているわけだ。その二個を
除けば全数字が1日〜14日に収まっている。これは繼體の時代が
2倍暦法を使用していたことを物語っている。

「適当」っていうのは、あんたの頭が適当に吐露したいい加減な推量。
578日本@名無史さん:2007/02/04(日) 00:00:25
>>573

どうでしょうね。「筑紫君」として記紀で出てくる九州討伐の場面をみるとどうも編纂者の筆の動きがぎこちなく感じるのですが?
攻めてるはずなのに、こう敵に対する表現に配慮というか同情がこもっている。なぜでしょう。
飛鳥大仏や法隆寺の仏像は、もともとそれらの寺にあったものではないと分かっています。どこから持ち込まれたのか?

記紀を編纂した天皇の書記官達は、記紀編纂時に大々的な焚書を
全国に命じてますし、九州の破壊された石人像群等をみるに、歴史的なテロリズムが記紀が書かれた時に行われた背景には、天皇に都合の悪いものを隠そうとしたとしか考えられないでしょうね。
下克上のような、本来あってはならない形で、大和朝廷は日本の統治権を獲得したのを、隠す必要があったのですよ。例えば白村江戦での裏切りや、新羅の傀儡政権という理由だったのかも知れない。中国との外交上、隠したかった。
ただそれは中国の官僚からは見破られたが、それは追認されたのでしょう。旧唐書と新唐書の記述で明らかです。
579日本@名無史さん:2007/02/04(日) 00:02:22
倭面土国とか、倭面上国って
当時の音韻では、なんと読むんだ?

魏志倭人伝関係は、上古音とか中古音とか
参考になるソースはネットにあるんだけど、

後漢書関係は無いんだよね。
580日本@名無史さん:2007/02/04(日) 00:11:51
邪馬台国連合+狗奴国=倭国で
旧唐書でいう倭の別種っていうのは、魏志で言うところの<女王國東渡海千餘里復有國皆倭種>という可能性もあるね。
581日本@名無史さん:2007/02/04(日) 00:16:20
>>576
生活常識が欠損した者には関係ない話なんでね。
582日本@名無史さん:2007/02/04(日) 00:21:58
旧唐書には「毛人」もあるから日本には南から倭には邪馬台国・その別種・毛人(アイヌ)の順になる。
583日本@名無史さん:2007/02/04(日) 00:25:24
畿内説では、九州に単一王国は存在しない。一部だが九州からの貢納の為の土器も巻向から出ている。
584日本@名無史さん:2007/02/04(日) 00:30:52
2世紀後半の倭国大乱(卑弥呼擁立の切欠)は
瀬戸内海沿岸が舞台だよ。
考古学的に視ても、2世紀後半の軍事施設の遺跡が
突然、登場して、消えている。
岡山の桃太郎伝説と孝霊天皇・モモソヒメ・吉備津彦は
全部つながってくる。
このへんの神社の伝承にも
孝霊天皇が何度か遠征軍を数十年に渡って派遣したことが残っており、
古事記にも、孝霊天皇が播磨を通過して吉備へ派兵・平定したと出てくる。
585日本@名無史さん:2007/02/04(日) 00:41:44
別スレで面白いものを発見した。卑弥呼の統治背景に葬礼の支
配があったとしたら、畿内の前方後円墳の広まりと何らかの因
果関係がでてくるのではないだろうか?
卑弥呼の時代の墓制を特定すればその支配範囲も分かるという
ことでは?

103:02/03(土) 19:36
>>96

それは卑弥呼が「鬼道」による政治をしたという点で明白です。中華から広まった鬼道は「巫鬼道」という未婚女性を寄代とした
先祖信仰です。漢代に大流行した「巫鬼道」は後に仙道等と体系化され道教として学問的に昇華されていくです。

中華では神と鬼を分けて考えます。神は山・河・天・風雨・星日等の自然的な超常的存在、鬼とは人が死んだ後、魂魄の魄という欲望・妄執・恨怨の部分が地に残されたり、集まった意識的な超常的存在を一般的に指します。

つまり「巫鬼道」はこの先祖の祖霊を、出産により物質的肉体的に先祖とつながる女性を寄代(門)とすることで呼び出し、祖霊の言葉を伝える術であるです。先祖を司るところから、中華では葬礼や墓制と「巫鬼道」は深いつながりがありました。

倭で大乱となり多くの戦死者が出たことで、葬礼を通じ各国に共通の宗教的影響力を卑弥呼は持ったと考えられます。
先祖はこのような争いを望まなかったぞ、戦死や負傷したのは先祖が怒って加護をしなかったのだと祖霊信仰を通じて国をまとめるシンボルになったのではないでしょうか? 
記録には実務的には男王もついていたようですが。
586日本@名無史さん:2007/02/04(日) 00:52:19
卑弥呼とモモソヒメが同一人物かは分からないけど

古事記での孝霊天皇の吉備平定
(岡山の神社などの伝承には、孝霊46年、孝霊71年?に吉備へ派遣軍がきたとある)

日本書紀・古事記での
崇神5年の疫病
崇神10年の四道将軍(古事記では吉備派遣軍の記述はないのだ三道)と
        河内の武埴安彦の謀反・モモソヒメが予言
        モモソヒメの急死

これらは、魏志の邪馬台国の記述と
2世紀後半の短期間の瀬戸内海沿岸の高地性集落の防御遺跡の出現と
おもいっきりかぶるんだよね。
587奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/04(日) 00:57:27
>>500 SOYさん。 
平原の土器編年そのものについても、決め方が分かりにくいですね。
私の大まかな理解ですが、王墓周辺から庄内が出てきたけど、「それは
王墓ができた後に紛れ込んだから違う。」という意見があり、

それに対して、紛れ込みではないとか、後のものであったとしても時期が
ほぼ同じとかいう感じでのやりとりで、訳が分からない説明で「庄内直前」の
ような感じで政治的な決着が導かれているように見えます。

けど、紛れ込みを言い出したら、古墳周濠の土器とかでほぼストレートに
決めている畿内はどうなるんだ?というのが正直な感想で、本当は庄内で
問題ないのに難癖をつけているようにも見えます。

ただ、平原は元は小さな塚(墳丘)だったのが平らにされた過程で紛れ込んだ
可能性はあるとは思いますが。
588日本@名無史さん:2007/02/04(日) 01:53:46
>>586
孝霊天皇って在位76年なんだね。
倭人伝の

「その国、本亦男子を以って王と為し、とどまること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、
すなわち一女子を共立して王と為す。名づけて卑弥呼という。」

で、とどまること=在位すること と解釈するのが一番素直な訳
在位年数もぴったり合うなあ。
そして、父帝が76年在位したあとなら当然 年齢もかなり上
おまけに弟も即位している。
名前も<ひめのみこと>なので<ひ・み・こ>の三文字が入っているか。
589日本@名無史さん:2007/02/04(日) 02:15:10
瀬戸内海沿岸地方は二世紀頃の高地性集落が多く,併せて,
小型の鉄鏃の出土が多い。他の地域の鉄鏃の増加はそれほど多くないのに
中国地方は後期中葉から後葉にかけて多く出土している。
多くは高地性集落からの出土である。
まさに、この地域が臨戦態勢にあったと想像される。

590日本@名無史さん:2007/02/04(日) 02:26:30
591日本@名無史さん:2007/02/04(日) 02:29:55
>>586
倭人伝時代には、邪馬台国や魏からの使者が半島西岸経由で問題なく行き来できていた
ことから考えて、邪馬台国連合と半島南部や西岸は友好関係にあったと考えられますが、
瀬戸内海あたりに、そういう痕跡が認められるでしょうか?
認められるなら邪馬台国連合側、全く認められないなら敵対側の可能性があることに
なりそうですが。
592日本@名無史さん:2007/02/04(日) 02:36:00
>>588
それは「(例外的に)女子が王になった」こととの対比で、「(普通に)男子が王だった」
という意味合いではないですかね?
593日本@名無史さん:2007/02/04(日) 02:56:26
>>592
大意は、今は女王だけどもともとは(男子の)王だった。ってことだけど、
何代か王が続いたとか、代々王だったという意味合いの語句がなく、
<とどまること7−80年>と記述してあるので、(先代)1人に対する記述と見るほうが単純な解釈じゃないかな。
594日本@名無史さん:2007/02/04(日) 02:58:41
>>593の補足
女王国となったいきさつを書いている文章だね
595日本@名無史さん:2007/02/04(日) 03:49:51


卑弥呼スレとの重複(コピペ)はさけて、卑弥呼スレの方で統一して下さい。

596九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/04(日) 07:21:51
>>585
中国では鬼道つまり初期道教黄巾は、祖先信仰と深く結びついていたかもしれないが、
倭では初期道教の影響を受けているだけで、完全に一致するものではないと思う。
その証拠に、倭人伝に
「この国の風俗は何かを命令したり、おこなったりする時はまず骨を焼いて、卦をたてる。
   そして、吉凶を占って、その結果を告げる。この占いの方法は中国の亀卜に似ています」
とあって、倭国独自の宗教が存在している。原始シャーマニズムと異国の道教的思想が結びついて、
いわゆる鏡信仰なるものが出来上がっていったと思われる。
597九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/04(日) 07:37:14
>>588
だったら素直に卑弥呼なんて持って回った言い方しないで、考霊天皇の皇女たるモモソヒメメ、って書けば済むんじゃない?
そう書けなかった理由は何?
598日本@名無史さん:2007/02/04(日) 07:41:37
>>596-597
自作中ですねw
599日本@名無史さん:2007/02/04(日) 07:45:55
>>591

一般的だが、青銅器の分布ではこうだね。銅鐸(突線鈕式IV)と広形銅矛の出土状況。

ttp://www.setouchi.ac.jp/~dnagoh/kantouzusetu/kantouzusetu.html%20img/image911.jpg
600九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/04(日) 07:46:41
>>598
自作と思われる場所はどこ?
601日本@名無史さん:2007/02/04(日) 07:49:59
自作してる本人は
気が付かないのかwww
602日本@名無史さん:2007/02/04(日) 07:56:49
>>598
卑弥呼は女王ですよ。皇女なんかじゃなく。
それに、邪馬台国連合で協議して女王に決めた女です。
やんごとなきお方ではありません。
603日本@名無史さん:2007/02/04(日) 08:01:37
>>602
なんでそれ書き込むの?
しかも妄想で?

卑弥呼は皇女から女王になったし、
当時の相続法は、
単なる末子相続だよw
なんでそんなに妄想で決めるんだw

意味解らんよw
しかも誰も突っ込まないままずっとレスは続く・・・www
604九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/04(日) 08:03:21
>>596
それに道教の影響は吉野ヶ里遺跡にも見られる。
墳墓の入り口がきちんと東南の方向を向いている。
卑弥呼は、女王になってからは人前に姿を見せないなど、
道教の思想そのものです。この時代今で言う風水のようなものがあったのです。
605日本@名無史さん:2007/02/04(日) 08:07:29
時々見せてもらっていますが・・・
妄想に誰も突っ込まないレスが、
なんでこんなに延々と続くんですか?
あんまりみっともない自作は辞めたほうがいいですよw

>墳墓の入り口がきちんと東南の方向を向いている。
そんなの殆どの神社がそうじゃないw
改めて吉野ケ里に何故するの?
606日本@名無史さん:2007/02/04(日) 08:15:20
>>596
興味的意見です。
中華では、鏡は帝王権力を象徴する玉鏡、天鏡、金鏡以外は、
巫鬼道において鬼を駆除し災いを回避する道具として使用され
ました。
例えば安徽省阜陽で出土した漢簡には「事到らば高く大鏡を懸
けるなり。」と災いが起こった時には高く大鏡を懸けて不幸を
防止せよ、と記録されてます。
「太平経」には、明鏡(鏡を見て占う事)を道術「照鏡之式」と
しています。
黄巾の乱で一時は壊滅的な打撃を受けた巫鬼道も、三国両晋期
に到ると勢力を取り戻し、道教経典では鏡に関する術法が書かれました。東晋の道士葛洪の「抱朴子」登渉篇には、「古えの入山
の道士、皆な明鏡の径九寸已上なるを以て背後に懸くれば、則ち
老魅敢て人に近づかず。」とあります。老魅とは魑魅魍魎の悪鬼
です。
中華では張蓋蹹、偶高成、郄伯夷が鏡で鬼魅を退治した故事があ
ります。鏡が方士修行の必需品であることを説いています。
「雑応篇」では、鏡によって鬼神を見る術を「明鏡は或は一を用
い、或は二を用う。之を日月鏡と謂う。或は四を用い、之を四規
と謂う。四規とは、之を照す時、前後左右各施すこと一なり。四
規を用いて見る所、神を来たすこと甚だ多し。」記しているあります。

中原で黄巾の乱が起こり、道士・方士が追われ、多くは公孫氏を
頼りました。東海地域の諸国に鬼神を祭る風が残されたのはその
為であるでしょう。
607九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/04(日) 08:19:16
>>603
天皇家の御先祖たる大和朝廷イコール邪馬台国ではありません。
天皇を現人神と拝め、八紘一宇の思想を世界に広めようとした軍部でさえ、
邪馬台国と、壬申の乱は、万世一系を否定するものだとして、絶対に学校で教えなかった。
だから邪馬台国は、戦後初めてその存在を知った人が数多くいた。
卑弥呼がモモソなら、皇室の祖先だから、大手を振って教えられるはず。
ただでさえ、紀元は2600年などと日本の歴史の長さを強調していた軍部が、大和民族の誇りとして宣揚する材料となり得るものを、
みすみす教えないなど、まず以って考えられぬ事である。
608九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/04(日) 08:24:28
>>605そんなの殆どの神社がそうじゃないw 改めて吉野ケ里に何故するの?

出来た時期を考えなさい。出来た時期を。神社が出来るずっと以前、弥生時代から
もう既に、道教の思想は浸透していた。
609日本@名無史さん:2007/02/04(日) 08:28:34
>>608
何処にその証拠あるの?W
それにそれだから何?
大丈夫?
610日本@名無史さん:2007/02/04(日) 08:28:53
>>606
うーん。貴方はなかなかのインテリですね。さすがです。
>>603のおかしな意見と天地雲泥の差が有る。
611日本@名無史さん:2007/02/04(日) 08:31:10
>>609
うーん。それにこの文章。
気が狂ってるとしか思えない。
612日本@名無史さん:2007/02/04(日) 08:31:54
>>606

ふーん。だったら墳墓から出る銅鏡は、被葬者の死後の生活の為
にではなく、被葬者の霊を鬼神から守るか、鬼神に変えない為の
封印としての役割があったのだろうか?
黄泉平坂の神話を思い出してしまった。
613603:2007/02/04(日) 08:32:04
>>610
妄想と違ってちゃんと証拠もあるのに
なんでおかしいのかな?
君の思い込みには理由があるの?
614日本@名無史さん:2007/02/04(日) 08:34:42
>邪馬台国連合で協議して女王に決めた女です。
こんな証拠何処にも書いてないよwww
615日本@名無史さん:2007/02/04(日) 08:35:11
>>606
しかしこの人の書き込みは勉強になるわァ。
知らなかった事も多数ちりばめられているし。
大変参考になりました。有難うございます。
永久保存させていただきます。
616日本@名無史さん:2007/02/04(日) 08:36:48
>>608
道教がそんなにはやくからきていたのなら、六曜・干支も来ていたのでは?
617日本@名無史さん:2007/02/04(日) 08:38:11
いつもながら ここのコテって妄想専門だよなw
618日本@名無史さん:2007/02/04(日) 08:39:06
>>612
ボクは小学生だからしらないだろうけどね。
黄泉、よみってわかる?鏡は死後の世界の魔よけのようなものだと考えるといいよ。
619日本@名無史さん:2007/02/04(日) 08:39:31
妄想と証拠の区別なく
自信満々なのが
一段と不思議ですよねw
620征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/04(日) 08:40:51
孝霊が皇孫族でなければ、モモソは皇室の祖先ではないですけどね
621日本@名無史さん:2007/02/04(日) 08:41:09
まー
中身は変んない事は解ったよ
そんな突っ込み放題の
レス続けて
はじゅかしいでちゅねw
622九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/04(日) 08:45:32
>>609
共立一女子爲王名曰彌呼
と原文にあるでしょ。
623日本@名無史さん:2007/02/04(日) 08:45:49




妄想と証拠付きの区別位、つけたほふが宜しいですよ。
突っ込み放題の、人だけで自作中なのは解りまふたよ。


624日本@名無史さん:2007/02/04(日) 08:49:16
九州ですが さん
>出来た時期を考えなさい。出来た時期を。神社が出来るずっと以前、弥生時代から
>もう既に、道教の思想は浸透していた。
証拠どこ?
625九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/04(日) 08:55:44
>>616
九州は早くから渡来人が多く、中国の黄巾の乱で、多数の難民のような形で、
倭国に渡って来た人々により道教は伝えられた。しかしそれはペルーなど世界を見ても解るように、
キリスト教と地元の宗教儀礼などが入り混じった姿であったろう。
干支などは倭人は理解出来なかったのではないか。なぜなら、倭人は四季を弁えていない。
とあるから。暦系はまだまだ、というところだったろう。
626日本@名無史さん:2007/02/04(日) 08:59:21
>>625
それで神社が出来る以前って言う理由は?
して何処に浸透の理由があるの?
言葉なんで選ばずに使えるんだ?
627日本@名無史さん:2007/02/04(日) 09:03:17
>>616
中華で道教が体系的に完成したのは唐代です。

ここで皆さまにも関係の深い話あります。
唐代道教の鏡は、日本とも何らかの関係があるようです。
唐・昭宗天復二年(902年)。帰耕子が序を付した『神仙錬丹点
鋳三元宝照法』に、三種の大型鏡の記載がありそこで鏡背の文様
の鋳造法が記載されてます。
そしてその一つは、面広三十六寸(現在の寸法で直径112、32セン
チ)の巨大鏡です。
私が日本の鏡に興味持ったのはその鏡についてが初めてです。中
国歴史博物館には、直径76、5センチの日本の大型鏡が所蔵されて
いますが、巨大な鏡の実例は中国では極めて稀です。

帰耕子のその書によれば、その神鏡の名は「天照」といいます。
日本の三種の神器の一「八咫鏡」が、"天照"大神を象徴しているということと、何らかの関連性が否定できませんと私思います。
628九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/04(日) 09:15:48
>>624
>>606さんを参考にすればいいですよ。マジでこの人凄いですよ。
僕は>>604に書いてますが。他に色々あります。例えば鳥居、あれはもともと弥生集落の門だった。
そこに鳥が止まるのが縁起が良いという道教の思想が入っている。
古代、大海原を航海中に船に鳥が止まると、島が近いので凄く喜んで事とも関係があったのではないでしょうか。
何かでそう読んだ事があります。他に、神社の建築様式は南中国の古い建築そっくりです。
倭人も中国に頻繁に渡っていたし、後期の黄巾の乱は揚子江流域で起こってることから、
黒潮に乗って大陸から渡って来た人々によって初期道教は伝えられたと考えています。
確か、畿内の唐古鍵遺跡の渦巻きも道教からの影響と記憶していますが。
629日本@名無史さん:2007/02/04(日) 09:22:35




最初からそんないい加減な事言わなきゃいいのに

いつもながら後で補足しても証明できないだろw


馬鹿じゃなきゃ言葉は選んで使うんだよw



630九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/04(日) 09:24:25
>>627
中華で道教が体系的に完成したのは唐代です。

体系で完成する前から民間信仰、黄巾として古くから中国では根付いていたものが、
弥生人自体が渡来人みたいなもんですから、倭に影響を及ぼすのは当然のことといえます。
ただ、その程度は、倭においてはもっと原始的で、シャーマニズムと混合していたといえるでしょう。
631日本@名無史さん:2007/02/04(日) 09:28:25
ほんと
「突っ込み放題スレ」
に名前かえたら!

各レスごとに
突っ込める程の
心許無いコテさん達が
大集合していますねw
632日本@名無史さん:2007/02/04(日) 09:32:24
畿内説なんかで、神代だ、神話だとかやってるが、東アジア全体の歴史の潮流の中では、三国志のやられ役の黄巾党の更に落ち武者程度の意味合いしかないご先祖の実体を突きつけられて、ま、
そんなもんだなと納得してみたり。

なんたって三国志の英雄が群雄割拠していた時代に、神武の大遠征(架空)だなんていってモナー。しょぼいしょぼい。

コップの中の戦争ですよ > 畿内説VS九州説
633日本@名無史さん:2007/02/04(日) 09:34:47
>>630
>弥生人自体が渡来人みたいなもんですから、
かなり昔からいる渡来人だな
アフリカ除いて総てが渡来人にしてくれよw

>〜倭においてはもっと原始的で、シャーマニズムと混合していたといえるでしょう。
またおまえの妄想だよなw
634九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/04(日) 09:36:24
>>615
は九州ですがでした。
635日本@名無史さん:2007/02/04(日) 09:40:24
なにいうか。皇室は万世一系にして臣民は陛下の股肱であるぞ!
邪馬台国など、支那のいいがけんな捏造に他ならない。
古事記にそのような記述は一切ない。皇紀2600年、日本にその
ような戯けた国などなかった。日本は単一民族の神国である。
636日本@名無史さん:2007/02/04(日) 09:43:14
いつもと同じボケ突っ込みだなw
637日本@名無史さん:2007/02/04(日) 11:01:26
>>632
そうでもないです。
中華では古来より東方扶桑蓬莱の伝説があります。この世の楽園が
東にあるというものです。かの孔子さえ憬れた戦乱のない豊かな地。
南蛮、東夷、西戎、北狄の中で東の夷は、もっとも穏やかな民と考
えられていました。魏志倭人伝にも争いや訴訟もないと書かれてい
ます。「貴為和以」は中華の皇帝でも為しえませんでした。
元代も「黄金島」として豊かな国であると憧憬をもち考えられ、現
代も文明経済の先端にあります。見習うべきところあるです。

自信をもってくたさい。
638日本@名無史さん:2007/02/04(日) 11:05:33
あーびっくりした。数軒先で火事があった。消防車が来て大騒ぎだった。
639九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/04(日) 11:22:27
>>637
含蓄の有る深い書き込みです。徐福が訪れた蓬莱も倭国ではないかといわれます。
あちこちに残る徐福伝説も、それを物語っています。
古来、インド、中国では、東北の方角に有る国は深い意義を持っているとされていました。
そして、それは日本であると認識されていたのです。
以前のスレで、中国や朝鮮から見て、倭国の位置が云々、という議論がなされていましたが、
少なくとも平安時代頃までには、中国から見て倭国は東北{鬼門}の方向にあるとされています。
ちなみに>>638はわたしです。まだ外が騒がしいようです。
640月光仮面:2007/02/04(日) 11:23:14
>>627
>直径76、5センチの日本の大型鏡が所蔵されて いますが、巨大な鏡の実例は中国では
>極めて稀です。
http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/iseki/ookagami.jpg
日本最大の銅鏡 直径46.5cm
http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/iseki/hirabaru.htm
嘘なしの話はこんなところです。
>>606
>中原で黄巾の乱が起こり、道士・方士が追われ、多くは公孫氏を
>頼りました。東海地域の諸国に鬼神を祭る風が残されたのはその
>為であるでしょう。
上記の鏡を製作する技術もその頃渡来したのでしょうかね。

641日本@名無史さん:2007/02/04(日) 11:40:14
中国からみて東北の異民族を粛慎
東南の異民族を倭人と呼んでいたのかと思ってた。
642九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/04(日) 11:41:53
>>640
断言は出来ませんが、その可能性は高いと言えるでしょう。
難しい銅鐸などもコピーする技術もその後身に付けていきますから。
ただし、倭に来ていた南中国出身の漢人がが作った可能性もあります。
643日本@名無史さん:2007/02/04(日) 11:48:18
う〜ん。。。邪馬台国の時代にはもう、伊都国に帯方郡の使者がきてんたんだよね

暦の話に戻っちゃうけど。。。
「郡使往来常所駐」ってわざわざ記すくらいだから、結構な回数来てて航路も開かれてたと推測するんだが。。。
彼らが暦を持ち込んだとか考えたらまずいのかな?
夜間に目標の無い海上を航行するには初歩的レベルでも天測が不可欠で、そのためには天体の動きを元にした正確な暦が必要
また天測技術を持っていれば渡航行程の距離もある程度は測れる(だから魏志倭人伝でも海上の2点間距離を記せた)
紙が発明されてなかろうが嵩張って邪魔だろうが、何かしらの暦を彼らが所持してたと考えたらダメなのだろうか?
何度も伊都国に渡航してる彼らが、倭国の支配階級に暦を伝えてても不思議は無いかと。。。
恵也氏の言うように一般でも簡易に使える暦は仏教伝来時だったかもしれないけど、支配階級には1年暦が以前からあったのでは?

(以下妄想)
しかし暦を実際に作る技術までは伝えられなかったので、彼らが持ち込んだものをそのまま使ってた
しばらくは1年暦でいってたが、そのうちに実際の太陽との動きとずれてくる
しかし閏のような調整方法は知らないので1年暦は役に立たなくなって使用されなくなる
だがまた船乗りや渡航した役人から暦が持ち込まれる(以後ループ)

これだと1年暦や倍暦などが混在してた理由にならないかなぁ



644九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/04(日) 11:53:58
>>641
東南の異民族を倭人

日本列島は南北に長いからね。沖縄あたりを指して倭といえばそうなる。
中国から見て東北というのは平安時代以前は不明だが、朝鮮で15世紀に書かれた逆転したような地図が
邪馬台国の位置の参考になるという説は信憑性がないということでしょう。
645日本@名無史さん:2007/02/04(日) 12:10:35
>>643
良く考えておられると思うけど、どうだろう。一般には文字自体無かった頃だから。
支配階級に中国の暦があったかもしれないのは否定しないけど、
当時暦を使っていたという明確な記録が残されていないからね。
昔からの自然から四季の変わり目を知るという土着の、伝統的農法がまだ息づいていたんではないか
646九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/04(日) 12:11:59
>>645は九州ですがでした。
647日本@名無史さん:2007/02/04(日) 14:00:10
◆ 逃がすな 甘やかすな これが恥知らずで頭のおかしいニートの正体だ ◆
      |ミ/  ー◎-◎-)  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     (6     (_ _) )< ボクはいつも被害者なんだ!こんな不幸な生活をさせられてるのは
      |/ ∴ ノ  3 ノ  \_________ 親のせい!社会のせい!
      \_____ノ,,    ∩_
     /,|┌-[]─┐| \  (  ノ 甘やかされている恥知らずなんて言うな! 被害妄想なんて言うな!
      / ヽ| |賊 国 | '、/\ / /        怒らせると怖いんだぞ!

648日本@名無しさん:2007/02/04(日) 14:19:03
>>643 >>645
当時の暦(後漢四分暦や景初暦、乾象暦)のことをごぞんじないの?
649日本@名無史さん:2007/02/04(日) 16:19:24
>>644
初めから日本人を指して倭人と言っていたわけではないでしょ。
東南方向の異民族を倭人と名付けてそれを日本人に当てはめたのでは?
それと、古代中国で沖縄あたりを倭と言っていたの?
650日本@名無史さん:2007/02/04(日) 16:31:21
>>643
裴松之の注で
魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀

とあるから、暦を知っている人が一部にはいたとしても、一般に普及していなかったと見るべきじゃないかな。
651太国:2007/02/04(日) 16:49:36
>>650
それが正解だろうね。
652日本@名無史さん:2007/02/04(日) 17:00:16
>>650

倭人は文字をもたず、縄の結び目や木に刻みを入れて記録していたらしいし。
653九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/04(日) 17:07:10
>>649
それって、東夷、南蛮、北てき、とかいうやつじゃないの?
あれは中華から見て、周囲の野蛮国とか言う意味だけど、
倭というと有る程度決まった範囲の国名としてるみたいよ。
倭国とはいっても、実際に中国から認められたいわゆる国では無かったけれど。
中国から見ても、倭と呼ぶ地域は漠然としていて、実体は掴めていなかったんじゃないかな。
良く知られてるのは島国が点在してる事ぐらいで。
654太国:2007/02/04(日) 17:09:24
>>650 >>652
九州志賀島の金印の刻印の【漢委奴國王】の國王から、当時九州王朝
があったことは動かないし、そういう王朝がこの金印を使用するに
あたって、漢字が読めないんではお話にならない。つまり國王の近隣
取り巻きはこの金印がある限り字が読めてたに違いない。

ということは、そういう取り巻き関連以外の一般の民は、まぁ字が読めな
かったということになろう。この國王は崇神〜景行世のころの人物
だから、このころ一部においては字が日本にあってそれを読むことが
少人数できたということになる。
655日本@名無史さん:2007/02/04(日) 17:37:36
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
656恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/04(日) 17:49:55
卑弥呼に送った金印より、玉製の印の方が中国では上なんだね。
今の価値観とはずいぶん違う。

それなら宮崎県で見つかった丸い穀璧も、品物としてはずいぶん高級なものだったんだろうな。
北九州を支配下においてた宮崎県というべきだな。

−−−−−(引用開始)−−−−−
この時の魏の待遇は、外臣の諸王に対するものとしては、最大級の厚遇であり、西方の大月氏
に対するものとほぼ同じ扱いです。これをそれほどの厚遇ではないとする説もありますが、確
かに中国国内の王(金属製の印ではなく、「玉」製の印を使用する)よりは下位
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/hn2602/16.htm

“1818(文政元)年、福島今町の百姓佐吉が王之山にある自分の畑の古墳を掘ったところ、
石棺が出土し、その中に古玉や鉄器など30余品とともに穀璧(玉璧)があった。
http://www.kushima.co.jp/jc636/
657九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/04(日) 17:52:50
>>655
で、何?一般人は、やはり土器じゃないの?
トリポッドみたいな、鼎の類のものを言ってるのだろうけど。
よかったら、そのさきもせつめいしてみよう。 
658日本@名無史さん:2007/02/04(日) 17:55:19
659日本@名無史さん:2007/02/04(日) 18:01:20
>>656

そのまんま東もビックリ!

九州の霊園墓地。


西都原か?
660日本@名無史さん:2007/02/04(日) 18:17:33
661奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/04(日) 18:28:45
>>557  に続いて、古墳年代を(このスレでは、私はこれで行きますww)。

三角縁日本製説を前提とすると。
1、使用の痕跡がないものが多く、三角縁の製造から埋納までの期間が短いと想定できる。
2、作られた時期ごとに、三角縁の種類が変遷すると考えられる。
3、ならば、三角縁の種類の変遷に従って、古墳の年代も変遷するという法則が推測可能。
4、特に、同型鏡の分布を段階的に見ていけば、古墳年代も段階的に把握できるはず。
・・・誰でも思いつきそうな考えですが、そういった検討はしてる人はいないのかな。

舶載説だと、最盛期の三角縁(特に紀年鏡と同型鏡)を遡上させて、私が初期と考える亜種を
後期〜末期にして、末期に別の鏡を国産とするニュアンスが感じられる。
そもそも「伝世」だったら三角縁の変遷と古墳年代の対応などありえないwwので、その辺を
ぼかして述べているので、いまひとつ判りにくいのですが。
662日本@名無史さん:2007/02/04(日) 19:10:39
>>659
黒潮に面し良港志布志湾を抱える串間(県南)で見つかった穀璧
天孫降臨伝説の残る四方を山岳に囲まれた高千穂町(県北)
そして中間に位置し水上移動にも可能な一之瀬川が流れ肥沃な土地の西都原

西都原古墳群には朝鮮半島と同系の古墳も残る

海幸彦山幸彦の神話と絡めると、なんかドキドキなんすがw
663大和:2007/02/04(日) 19:14:52
>>661 奴国さん。
jane Styleの無料ソフトをインストールしました、奴国さんご紹介分でなくてすみません。
まことストレスなく全Res読めます、ご紹介いただいた>>425さんに感謝。

>>557 >>661
少し遡って読ませていただきます。暫くお時間頂戴です。よろしく。
664日本@名無史さん:2007/02/04(日) 19:33:26
◆ 逃がすな 甘やかすな これが恥知らずで頭のおかしいニートの正体だ ◆
      |ミ/  ー◎-◎-)  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     (6     (_ _) )< ボクはいつも被害者なんだ!こんな不幸な生活をさせられてるのは
      |/ ∴ ノ  3 ノ  \_________ 親のせい!社会のせい!
      \_____ノ,,    ∩_
     /,|┌-[]─┐| \  (  ノ 甘やかされている恥知らずなんて言うな! 被害妄想なんて言うな!
      / ヽ| |賊 国 | '、/\ / /        怒らせると怖いんだぞ!
665大和:2007/02/04(日) 19:42:40
>>656 恵也 さん。
私は友人と二人で福島川から天神川を遡り、穀壁出土地といわれる「王の山」に行って来ました。
谷あいの奥まったところにあり、杉山の小高い山でした。手前田んぼで稲刈りしていたお百姓に
尋ねるとそうだと仰っていたが玉壁の一つ、完璧な穀壁が出た場所にしては静寂が支配する忘
れられた存在でした。福島川河口の百姓が農作業中にみつけるのは訪ねた限りでは難しそうな
場所でした。

恵也さんは天神川源流の王の山以外の「王の山」情報をお持ちでしたらご教示いただけませんか。
私も古霧島神宮には興味深々なもので宜しくお願いします。
666太国:2007/02/04(日) 22:10:56
それがしは偽物です。
667日本@名無史さん:2007/02/04(日) 23:51:05
何でそんなところに隠したのか? 戦争のせい?
668日本@名無史さん:2007/02/05(月) 00:48:29
age
669大和:2007/02/05(月) 20:11:25
串間教育委員会の調査によると翡翠の本物とのことです。
670大和:2007/02/05(月) 20:13:38
>>492 自Res
読めない中でのResでした。
柳本天神山古墳を400年初頭ぐらいに置かれていたのでちょっと想いを書きました。

>>661
>古墳年代を(このスレでは、私はこれで行きますww)。
この年代以降まで三角縁の初現が待たれるということですね。この古墳についてよく知りませ
んので少し調べさせてください。

>>557 >>661奴国さん。
>終末期の三角縁の製造時期については、何か考えがありますか?

三角縁神獣鏡の始めと終わり。柳本天神山を三角縁時代の直前に置き、河上邦彦氏の被葬者が
いなかった説に従い、武器等の保管庫と想定、武器を大量に保管するメスリ山の副室、同時代
で石室内に多くの鉄族を有する桜井茶臼、鏡種副葬に於いて椿井大塚より一世代古い黒塚そし
て椿井大塚山の流れかと。後は交易で入手したり、列島で傍製・踏み返し入り乱れながら作ら
れ、終わりは仏教伝来と共に流入したと考える海獣葡萄鏡の直前ではないかと漠然と考えてお
ります。

前漢・青白銘鏡群−王莽・方格規矩鏡群−後漢・内向花文鏡群−公孫・画文帯鏡群−曹魏・帯
方郡鏡群(斜縁神獣鏡・三角縁神獣鏡を軸とした各鏡交雑型)−隋唐・海獣葡萄鏡。(勝手読
みによる、主な列島流入鏡)
671大和:2007/02/05(月) 20:15:40
>>670 つづき

私も実際のところ三角縁は曹魏右尚方で製作されたとは考えているわけではなく、楽浪発祥鏡
と考えております。しかし流れとしては、曹魏畿内その周辺で顔氏により方格規矩青龍三年紀
年鏡が作られ、陳氏により楽浪へ持たされたと考えております。
三角縁は西川説に従い楽浪製が順当とするものですが鏡型の変遷に於いて、公孫氏が遼東で燕
を名乗った前後ぐらいに画文帯を、その流れで陳氏が画文帯景初三年紀年鏡、引き続き三角縁
景初三年紀年鏡を作る。翌、景初四年五月に斜縁盤龍鏡2面を作るも改暦されたのを知り、改
めて三角縁正始元年紀年鏡3面を作った。これら一連の紀年鏡は明帝亡き後の三代皇帝曹芳に
由来していると捉えております。

もっとも三角縁神獣鏡国産説に疑義を感じておりますが、魏鏡説でも同じです。厳密な意味で
の製作地論争でどなたも明確にご提示できないのが現状と思います。しかしながら、当時は遼
東・楽浪・帯方は曹魏の政治体制下にあり、各鏡型復古鏡も含めて大枠に於いて魏鏡として宜
しいのではないかと考えます。勿論、各種報告・図録等に見る出土鏡が全て半島製・大陸製と
するには明らかに幼稚・拙作なものがあります。これらを除外するになんら躊躇するものでは
ございません。
672日本@名無史さん:2007/02/05(月) 20:54:26
串間の穀壁の、紀元前三千年頃って本当?


この穀璧は紀元前三千年頃に作られ、
ttp://www.kushima.co.jp/jc636/
673日本@名無史さん:2007/02/05(月) 21:08:50
◆ 逃がすな 甘やかすな これが恥知らずで頭のおかしいニートの正体だ ◆
      |ミ/  ー◎-◎-)  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     (6     (_ _) )< ボクはいつも被害者なんだ!こんな不幸な生活をさせられてるのは
      |/ ∴ ノ  3 ノ  \_________ 親のせい!社会のせい!
      \_____ノ,,    ∩_
     /,|┌-[]─┐| \  (  ノ 甘やかされている恥知らずなんて言うな! 被害妄想なんて言うな!
      / ヽ| |賊 国 | '、/\ / /        怒らせると怖いんだぞ!


674プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/05(月) 21:22:00
>>671 大和さん


>景初四年五月

有り得ない
675日本@名無史さん:2007/02/05(月) 21:43:33
>>637

貴為和以って何?
676奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/05(月) 23:29:32
送信と間違えて消したみたいなのでwwもう一度書き直し・・・orz
>>670 大和さん
方格規矩−内向花文−画文帯−斜縁までの流れは私も同じです。三角縁も楽浪から
来た数枚を複製した「可能性」はあると思いますが、斜縁を三角にして、画文帯の文様も
取り入れて、国内で多種に発展させた可能性が高いと見ています。
但し、内向花文と画文帯の間にかなりの年代差を見ています。

>>671
西川は楽浪重視の部分は正しいと思いますが、同位体比のデーター無視、楽浪製の
三角縁の下賜を想定するのは困難、楽浪での画文帯の出土がわずかで三角縁の
出土がないこと、楽浪での鏡の大量生産が想定しにくいという問題があります。

また、画文帯の中国での流通時期(150〜220頃?)や楽浪での出土がわずかで
あることなどからは、楽浪での画文帯の発展が想定しにくいので、>>377のように
313年の楽浪滅亡により200年頃の墳墓から取り出された画文帯数枚が日本に来たと
いうような事態を想定しています。
677日本@名無史さん:2007/02/05(月) 23:46:27
>>670 大和さん。
三角縁の変遷については、現在考案中です。骨子としては、

1、同型の分布域: 畿内→西日本→関東の順で支配地域の拡大に対応。
2、文様: 抽象化したものは新しい(具体化してオリジナルに近づくのはおかしい)。
3、紀年はあてにならない。
4、天皇陵との位置関係でだいたいの年代が想定できるものは、それを利用する。
5、複製品により年代差が分かるものは、それを利用する。
6、神像1体→複数の方向性があると思われる。

など、色々な要素を考えているうちに、並べるのが面倒になっています。
678恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/06(火) 00:33:26
>>665
>恵也さんは天神川源流の王の山以外の「王の山」情報をお持ちでしたらご教示いただけませんか。

現場まで行ったのかい!
羨ましいね。

残念ながら俺はネットで検索するくらいで、その情報でも出土地の正確な場所は不明というのが
ほとんどだった。
何といっても200年前の江戸時代の話で、農地を作ってる時に石棺にぶち当たり発見されたものの
ようだ。
当時の大名はそんな古墳を保存する事には無関心だった様だね、個人所有だものな・・・・

−−−−−(引用開始)−−−−−
文政元年千八百十八年二月の事、中国漢代の皇帝が臣下の倭国の諸王の一人に与
えたという硬玉穀璧が、日向の国串間今町王の山から発見された。
http://www.btvm.ne.jp/~g-taka/yamaichikoku/yamaichikoku_8yamatomiyama2.htm
679日本@名無史さん:2007/02/06(火) 00:40:22
>>678
なぜ、その話は有名じゃないんだ?
680大和:2007/02/06(火) 01:25:19
>>672
>紀元前三千年頃って本当?
玉壁のルーツがということではないでしょうか。もともとのルーツは遼河流域興隆窪文化(前6000〜5000)
まで遡れるが、鳥越憲三郎氏は良渚文化(前3300年頃)の時代には神器として完成していたとする。
「中国古玉器総説・吉川弘文館」に詳しい。ところで、串間の壁は翡翠の精緻な作りで後漢時代の作、福
岡市博物館所蔵の壁はガラス製で串間より相当古いらしい(時期は失念、多分前漢期)。

>>674 プラムさん。
その心は。
681日本@名無史さん:2007/02/06(火) 01:41:19
>>672
紀元前3000年はないんじゃないかな。
今から3000年前ならあるかもしれないが。

王の山というのは現在は串間市付近にはない地名らしい。
都井岬の北部に大納山というのがあるらしく、ここから石棺が出ているらしい。

ガラス製の璧は福岡県の前原と須久岡本だったかな、破片が2つ出ているらしい。
しかし、串間の穀壁のほうがすばらしいらしい。

穀壁というのは、どうも江南のものらしく、あの付近から流れ着いた
人が持ってきたという説もあるらしい。徐福の名前が出てきたりして。

以上聞きかじりでした。
682日本@名無史さん:2007/02/06(火) 02:11:06
Dat落ちからこんなの見つけますたw

【邪馬台国関連要注意人物一覧】

[太国]・・・毎日2chに書き込む、自称古神道の影の権威。古代史関係にところかまわず現れ、スレと関係ない二倍暦の話を書きまくる。
そのためどこのスレでも嫌われ者。「犬国」と呼ぶと面白いくらいにファビョる、お試しあれ。  
[プラム]・・・初心者を言い訳にのべつまくなく妄想を書きまくる中年ニート。恵也は別ハンドル。名無しでの自作自演も多数。
畿内説、九州説どちらからも相手にされなかったため、自作自演を駆使して自慰行為を繰り返す毎日。
[サガミハラハラ]・・・本名、後藤幸彦。元教師で現在無職。自費出版で邪馬台国本を出すもまったく売れず、家族から厄介者扱いされている。
2chで本の宣伝を試みるが、当然逆効果となり現在生活は困窮。家族はすでに見放したとの説あり。
[16歳中卒ヒッキー]・・・27歳ヒッキーと名乗る時もある。基本的に煽り専門で、九州説のふりをしながら実は痛いコテハンを嘲笑っている。
あまりの暴れっぶりに削除人の逆鱗に触れ、彼の立てたスレが一挙に削除された前科あり。
[九州ですが]・・・最近現れた真性厨房。古参コテ以上に論理的にむちゃくちゃでありながら、指摘を受けるととたんにキレる。
神経疾患の噂あり。社会復帰の第一歩としてネットを利用しているみたいだが、はっきりいって逆効果。家庭内暴力を自慢した前科あり。
[奴国]・・・安本信者でありながらなぜか頑なにそれを否定する。かつて畿内説論者にこてんぱんに叩きのめされて以来、復讐の権化と化す。
しかし肝心の論がついて行かず、もっぱら嘘、誹謗中傷を流すことで憂さを晴らす日々を過ごす。
[神奈川県民][愛知県民][福岡在住]など・・・同一人物がおちょくりで複数ハンドルを使用していると思われる。その手口から16歳中卒ヒッキーが性懲りもなく現れたとの説あり。
683日本@名無史さん:2007/02/06(火) 03:00:44
>>682
サガミハラハラ=後藤幸彦ってこの人だね
http://www.toonippo.co.jp/l-rensai/shutoken/shutoken15.html

思いっきり馬鹿にされとるがなw
684プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/06(火) 07:20:31
>>682 夜中に乙

>恵也と私が同一

ワザワザキャップ付けてまで?



何か嫌な事でもあったか?
685大和:2007/02/06(火) 07:49:59
>>678 恵也さん。
早速のRes有難うございます。
大阪−宮崎航路フェリーで一泊三日の弾丸ツアー、天神川に引かれて行って
きました。ついでに西都原81号古墳や生目の発掘現場も見て参りました。
宮崎県、あちらこちらでお宝探し。そのまんま東知事も頑張っているし暫く
気になる存在。
686大和:2007/02/06(火) 08:09:24
>>681
>紀元前3000年はないんじゃないかな。
殷の「トウテツ文」の元祖とか。玉jのことですが、玉j・玉壁・玉鉞が鳥越氏によると
3種の神器になるらしい。
687日本@名無史さん:2007/02/06(火) 12:22:14
>>683
邪馬台国関連スレでここまで有名になったら
出版費の元も取ったと同じだね。
688日本@名無史さん:2007/02/06(火) 14:05:29
暦が違っていたというのは
別におかしくないわな。

世界中何処の国でも、最初は倍年暦からスタートしている。
ただ、日本書紀の編纂者は、明らかに別の手後心を加えている。
だから、後世の学者らの解明を困難にしている。

あと、邪馬台国は、明らかに畿内だな。
この政権は、それまでの倭にあった各々の小国とは
明らかに違う政権だ。
689日本@名無史さん:2007/02/06(火) 14:30:03
安本氏って、畿内説論者=神武東征否定論者
って言うけどさ

これって、また、別にお話じゃんw

神武東征ってのは、文献史学のお話だから、
考古学オンリーだけでは難しいので
今後、総合して、考えることだよ。
690恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/06(火) 17:25:33
>>682
>しかし、串間の穀壁のほうがすばらしいらしい。

たしかに素晴らしい。
ネットの写真でみたけど、これだけの彫刻を玉に出来る技術に感心した。
国宝になった理由も十分にあるくらいの、芸術作品だ!

どちらでもくれるというなら、俺なら卑弥呼の貰った金印より、こちらを選ぶだろうな。
ガラス製なら大量生産できるけど、串間の穀璧は玉だから世界に2つとないもの。

−−−−−(引用開始)−−−−−
日本で発見された穀璧は他には破片が2つだけです。ひとつは伊都国三雲の王墓、もう
ひとつは福岡春日市の奴国王墓ですがこちらは焼失したとされます。
三雲のものはガラス製で漢皇帝が各地の諸侯に与えたものといわれます。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/kk08.html
691日本@名無史さん:2007/02/06(火) 17:30:54
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
692日本@名無史さん:2007/02/06(火) 17:33:25
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
693日本@名無史さん:2007/02/06(火) 17:34:31
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
694恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/06(火) 17:34:52
>>688
>世界中何処の国でも、最初は倍年暦からスタートしている。

それはデマ!
ネット中毒のおかしな奴が、我田引水しただけのおとぎ話に過ぎない。

俺も少し読ませてもらったが、その根拠を確かめられない話を外国の有名人の年齢まで
羅列してやってたけど、あなたは年齢の根拠を自分で確かめたかい?
695恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/06(火) 17:37:13
>>689
>安本氏って、畿内説論者=神武東征否定論者 って言うけどさ

それはアンタの脳内妄想。
安本氏はそんな単純な話は全くしてないよ。

出すのならソースを出してから書きなさい!
696日本@名無史さん:2007/02/06(火) 17:46:06
>>690
串間の穀璧。日田の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡。
球磨地方、才園古墳の金鍍金の獣帯鏡。
http://webkoukai-server.kumamoto-kmm.ed.jp/web/jyosetu/kouko/kof_index.htm
九州では意外な場所から意外な鏡が出土している。
697太国:2007/02/06(火) 17:47:16
>>695 恵也殿
誰かさんが 貴殿=プラム氏 だって言ってるそうだが、
そうなると

 卑弥呼=天照大御神

も間違いだとの愚かさが身に沁みないか?w
698日本@名無史さん:2007/02/06(火) 17:53:33
とりあえず、三足土器コピペ荒らしをアク禁依頼しませんか?
699プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/06(火) 17:53:55
>>697太国さん

貴方まで、恵也=プラム説を……………?
700太国:2007/02/06(火) 17:55:31
>>699 プラムさん
読んでたんですか。イコールとは思っていないですよ。
701日本@名無史さん:2007/02/06(火) 18:03:12
>>698
そうだね。ほんとに不愉快だ。全然脈絡無くコピペしてくるからな。古代史は当たり構わず、だろ、
でもさ、こういう反応すること自体が、奴の思う壺なんだと思うよ。(お互い様だが)
不愉快であっても、虫唾が走っても、以後、やはり完全スルーでいこう。
702プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/06(火) 18:09:32
>>700太国さん

今、家に帰り昼間のレスを検索していたところです。色々勝手なこと言ってるようですが、慣れてますので(笑)


正直、恵也氏のレスは真似できないし、彼も私のレスは真似出来ない筈
703太国:2007/02/06(火) 18:15:56
>>702 プラムさん
そのとおりで・・・この前の、貴殿と恵也氏との論争が想い浮かびますよ。

彼の漢字の「干支」から、拙者がちょっと反論的の論を書きこんだところ
『王』字の論争が始まるところまで行きましたのを思い出します。
704日本@名無史さん:2007/02/06(火) 18:24:53
こんにちわ。はじめまして。

私は西都原古墳群のあたりが邪馬台国じゃないかと素人考えしてます。
年代考証的にはどうなんでしょうか?
否定意見歓迎ですので教えて下さい。
705プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/06(火) 18:45:45
>>703

初心者がいきなり比定地の旗を掲げたら、後は悠意的に、かつ無意識に都合のいい文言をチョイスしちゃいます。

取り敢えず、当時の墓制と居住地の関連性でも調べてみたら如何でしょう。
墓が有るから邪馬台国は余りにも短絡的かと
706プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/06(火) 18:48:21
>>705は誤爆でした

>>703ではなく >>704でした。


スマソ
707日本@名無史さん:2007/02/06(火) 18:53:44
>>705
プラムさんこんにちわ。
いつも拝見しております。

調べたいのはやまやまですが、パソを持たないため携帯で勉強してます。
仕事の都合により日中は書店にも図書館にもいけません。

墓制を調べるにもなかなか資料が入手できません。
簡単でけっこうですので、年代や地理的側面などからの
考証を教えていただけませんか?
708プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/06(火) 19:01:05
>>707さん

http://c-docomo.2ch.net/test/-/history/1166155276/i

こちらで質問してみては?
あと、Google利用もいいかも。携帯でもみられますし
709プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/06(火) 20:06:48
>>707
携帯で見られるサイトって少ないですね〜
取り敢えず、基本的なhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%A2%93%E5%88%B6
これかな?


ただ、考古学界で使われてる(木郭=椁/部屋)と、文献に記述されてる(木郭=椁)では、意味が少し違う事に注意すべきだろう。
710日本@名無史さん:2007/02/06(火) 20:29:56







711九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/06(火) 20:55:06
>>682
しかし笑うー。みんな真剣に議論してるのを一蹴するかのように。
乙さんですか?よほどひまな人なのね。せっかくおたくに好意を持っていたのに。
おたくが実は隠れ畿内論者で、陰に陽に九州説を陥れてきた調本とは恐れ入ったり。
他にも色々姦計を巡らしているんじゃないのォ?おてやわらかにね。
712日本@名無史さん:2007/02/06(火) 21:56:39
モモソヒメの後を継いだのは誰?
713日本@名無史さん:2007/02/06(火) 22:05:14
>>682 畿内説はコテ無しでもすぐ誰か分かる。
「既に論破」・・・「それは既に論破されている。」が口癖。論破された理由は不明。
「既に解決」・・・既に解決済みという反論も好きだが、解決した理由は常に不明。
「それ改説」・・・森浩一なども都合が悪くなると、「改説した」ことになる。
「白石叩き」・・・白石だけ畿内説から分離してバカにする。
「反安カルト」・・・安本が大嫌いで、特に在位平均年代論には脊髄反射。
「連投レス」・・・一人で多数派工作。時間帯と文体を変える暇を惜しむ。
「マキムク厨」・・・とにかくマキムクはスゴイらしい。
「しょうゆ」・・・ソースは出ない。
但し、全部同一人。 >>682の作者。
714九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/06(火) 23:17:03
>>713
しかし笑うー。みんな真剣に議論してるのを一蹴するかのように。
九州ですがさんですか? さすがです。
715日本@名無史さん:2007/02/06(火) 23:32:56
>>714
>九州ですがさんですか? さすがです。

この部分、烈しく意味不明! 
九州ですが◆uZFVMLIhZI 氏よ!  解説してちょ!!
716日本@名無史さん:2007/02/06(火) 23:43:31
九州ですが ◆uZFVMLIhZI 06/10/18 15:20:25

俺はケツ感じるまで2年かかりました
最初はこんなんありえへんってくらい激痛だったけど
今じゃモロ感じまくってます。なので
痛いのを我慢して>>1さんも、回数こなしてみて下さい

その日の体調、相手が自分のタイプか
タチのチンポの形、大きさ、テク、ローションの種類
などでも左右されると思いますが頑張って下さい


>>20
間違えた。。。名前とトリップは忘れてください

717日本@名無史さん:2007/02/06(火) 23:45:44
ひどい自演を見たので皿仕上げ
718九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/06(火) 23:48:14
>>715
別に深い意味はありません。>>682スレに対し、>>711しかし笑うー。
>>713スレに対し、>>715しかし笑うー。と韻を踏み、
後は誰も書いてくれない褒め言葉で、自画自賛してるだけです。
719日本@名無史さん:2007/02/06(火) 23:57:07
>>718]九州ですが ◆uZFVMLIhZI
>>716もあなたの自演がバレたときの記録ですか?
こういうふうに自演をひんぱんに繰り返す方とは議論したくないです。
逃げずに返答願います
720九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/06(火) 23:59:20
>>716
人のコテを使って自分の体験談を語らないように。
しかし救いようの無い、品格に欠ける書き込み、ざんねんです。
721日本@名無史さん:2007/02/07(水) 00:04:47
>>720
名無しを使って自分のレスに語らないように。
しかし救いようの無い、品格に欠ける自演、ざんねんです。






722日本@名無史さん:2007/02/07(水) 00:28:32
荒れてますね。
しばらく放置しましょう。
723恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/07(水) 01:48:38
>>697
>九州では意外な場所から意外な鏡が出土している。

全く以外じゃない。
当時は「九州全体」が日本の先進国だったんだよ。

鹿児島県くらいが敵対国として、邪馬台国連合に歯向かってたの。
もっと大きく邪馬台国を見なさい。
724恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/07(水) 02:03:13
>>704
>私は西都原古墳群のあたりが邪馬台国じゃないかと素人考えしてます。
>年代考証的にはどうなんでしょうか?

その可能性は十分にある。
卑弥呼の古墳は直径30mくらいの円墳だが、このくらいの大きさなら無数に西都原古墳群にあるだろう。

もっと大きな前方後円墳も、古いという箸墓古墳の時期のも存在してる。
周や漢がの王侯に与えたという「穀璧の出土地」を考えると、宮崎市内の無数の円墳の1つが卑弥呼
の墓という可能性も大きい。
耕作地の面積は西都原市より、宮崎市の方が大きいのじゃないかな・・・

−−−−−(引用開始)−−−−−
宮崎大学グループは遺物の発掘状況も加味し、81号墳は卑弥呼の墓とされる奈良県の
箸墓古墳より古い3世紀前半の古墳とみている。
[宮崎日日新聞記事より一部引用] 記事原文
http://www.pmiyazaki.com/saitobaru_81/pano.htm
725日本@名無史さん:2007/02/07(水) 02:14:22
>その可能性は十分にある。

と、思っているのはお前だけ!

そんなド田舎に卑弥呼の墓があるわけ無いだろボケ!
726日本@名無史さん:2007/02/07(水) 02:19:40
ただの地方豪族の墓。
727恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/07(水) 02:20:27
>>705
>取り敢えず、当時の墓制と居住地の関連性でも調べてみたら如何でしょう。

逆だよ。
専門家と自称する人間に限って「偏見の目」を持ってしまいトンチンカンな話をしてしまう。
畿内説の樋口隆康なんて、完全にモウロク爺。
ただマスコミ操作だけは天才的で、口だけでマスコミを簡単に動かし宣伝する。

これが京都大学教授の正体。
−−−−−(引用開始)−−−−−
考古博物館の担当学芸員は「イランで仏像が発掘された例はない。報道を聞いて驚いた」と言明。
仏像を確認したとされる樋口隆康・京都大名誉教授が考古博物館を訪れた際、通訳を介したため
「誤解があったのではないか」と話した。
http://www.ne.jp/asahi/koto/buki/bukkou/bututou/bututou.htm

ふつうの人は「中国製」と書かれれば中国産と信じてしまうが、これらの鏡は模様などから
館長の樋口隆康氏が中国製と判断しているだけで、中国で作られたものかどうか疑わしい。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku224.htm
728恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/07(水) 02:32:32
>>725
>そんなド田舎に卑弥呼の墓があるわけ無いだろボケ!

アンタ諸行無常という言葉を知らないのかい?
今は田舎でも昔は、九州でも最先端を走ってたのが宮崎県なんだよ。
だから非常に珍しい穀璧も出土したし、神話に出てくる神武天皇の親戚が何人も神社に祀られてるの。

百済から逃げてきた王様まで、神社にお祭りしてるぜ。
昔は大和朝廷と対等以上の存在だったんだよ。
日本にはこんな県は他にないでしょう。

−−−−−(引用開始)−−−−−
宮崎県にも、百済王にまつわる不思議な伝説が残り、地元の人たちによって、根強く語り継がれ、
今も祭が絶えることなく続けられているのだった。
http://www.infonet.co.jp/nobk/kwch-lit/hyuga.htm
729奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/07(水) 02:36:39
>>724  私は、もう少し新しいと考えています。
草創期の古墳と言われる纏向型が、実は結構多くて、纏向古墳群のほかに、
西都原古墳群、奴国・伊都国の古墳群などもある。

となると、東征後に全国的な支配が確立した時期以降に定型化したと考えて、
時期を新しく見た方が自然であると思います。

但し、320以降とすると、伊都国、奴国での画文帯の出土状況に合わないので
その前の280〜320頃ではないかと考えています。東征後、伊都国・奴国は
徐々に衰退し、その後に西都原も衰退したという見方をしています。
730日本@名無史さん:2007/02/07(水) 02:40:57
神武の東征は、1世紀前後
731日本@名無史さん:2007/02/07(水) 02:44:50
>>728
興味深い記事ですね。
私は「耳川」という名称が気になりました。

この付近が、仮に神武一族の本貫だとすれば
「タギシミミ」などの「ミミ」に通じるものもありますね。

宮崎、あなどれないなー。
732日本@名無史さん:2007/02/07(水) 02:47:01
宮内庁が箸墓の発掘を許可してくれれば
こんな低脳アホ連厨どもがいつまでも
下らない妄想を吐きまくらずに済むのに
733日本@名無史さん:2007/02/07(水) 02:50:12
>>732
で、箸墓の中の人がオッサンだったらどーすんだアンタw
734日本@名無史さん:2007/02/07(水) 03:00:01
古墳て、そもそも豪族とか権力者の墓ですよね。
パンピーは古墳なんか作ってもらえず、
そのへんに埋めて石のせて終わりですよね?

西都原に、多数の古墳があるって事は、
少なくともその周辺にはある程度の長期政権があり
しかも規模が大きい政権だったって事になりますよね?

しかし、なぜそんな大型政権の伝承がないのでしょうか?
735日本@名無史さん:2007/02/07(水) 03:02:21
>>724
西都から新富にかけては、古くから宮崎有数の農業地帯ですよ
736日本@名無史さん:2007/02/07(水) 03:07:48
「政権」なんて大袈裟だよ。

単なる後の鎮守府みたいな所。
737九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/07(水) 05:50:12
>>725
そんなド田舎に卑弥呼の墓があるわけ無いだろボケ!

卑弥呼の墓は、都会にあるほうが不自然。
邪馬台国は田舎で、しかも消え去る運命にあったもの。
ヤマタイの名だけ生き続けて、ヤマトの語源となった。
738日本@名無史さん:2007/02/07(水) 05:51:38
夕べは多少酔っておりましたもので、馬鹿みたいな書き込みになって
ゴメンなんしょ。
739日本@名無史さん:2007/02/07(水) 05:52:34
>>737
は私でした。
740九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/07(水) 05:54:14
>>738>>739
は私でした。
741日本@名無史さん:2007/02/07(水) 06:16:14
>>716
周りをうかがってコソコソしてたり、
男と群れたがるのはホモだったせいか・・・。
742日本@名無史さん:2007/02/07(水) 06:52:38
>>716
以前からニュー速+によく貼られてるコピペだねぇ
743太国:2007/02/07(水) 07:19:53
>>734
古史古伝に、ウガヤ朝70余代が神武以前にあったという記述がある。
これは長期政権だろうが?
744日本@名無史さん:2007/02/07(水) 09:35:11

> ヤマタイの名だけ生き続けて、ヤマトの語源となった。

邪馬台(ヤマタイ)って読み方でいいのか?
漢・魏音で(ジャバディ)という発音だと読んだことがある。
745日本@名無史さん:2007/02/07(水) 09:54:45
>>743
まずウガヤ朝が存在したという実証をしてから言わないと単なるデムパですよ

それにウガヤ朝が70代以上続いたとすれば在位が平均10年としても最低700年以上は西都原に存在した事になる
これだけ長期間続いた王朝なら遺物であれ遺構であれ、何らかの痕跡が残らない方がおかしい

ウガヤ朝を全否定する気は無いですが、西都にウガヤ朝なる長期政権が存在したとは思えない
746太国:2007/02/07(水) 10:29:46
>>745
>ウガヤ朝っを全否定する気は無いですが

これは君自体がデムパと自認した文である。
747日本@名無史さん:2007/02/07(水) 11:21:57
「墨攻」の映画おみたが、邪馬台国のはるか以前の紀元前に
九州の対岸の中国の山東省を拠点にした墨家のストーリーですが、
鉄剣どころか、さまざまな武器が登場する。

日本はまだ、弥生中期だから、石斧、石包丁ののどかな村落との
認識でいいのかな?
748日本@名無史さん:2007/02/07(水) 14:24:43
このスレ的に邪馬台国は西都原でFA?
749日本@名無史さん:2007/02/07(水) 15:11:04
西都原は隼人を監視する為の機関が置かれた場所で、
多く存在する墳墓は、邪馬台国(畿内大和)から
其処の官に任命され出向した人間やその一族のものである。
750恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/07(水) 15:20:13
>>732
>宮内庁が箸墓の発掘を許可してくれれば

箸墓ばかりじゃないだろう。
宮崎県の古墳も90%は発掘されてません。

−−−−−(引用開始)−−−−−
特に西都原古墳群のなかで最大古墳(中期)である、男狭穂塚(全長155メートル)と女狭穂塚
(全長176メートル)は宮内庁管轄のために調査が難しいとのこと
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tonbi/histry/saitokofun.html
751日本@名無史さん:2007/02/07(水) 15:35:57
イザナギイザナミか?
752太国:2007/02/07(水) 16:30:10
>>745
無理に西都原がウガヤ朝のあった所だと決め込んでるわけではない。
古史古伝にはちゃんと痕跡がある。
だいたい生活の場(産室)が仮的で、もう、とたんにできそこないの
建物のバラック的か、不適格の不合でなくしちまうんだろうから、
そんなにやたらに痕跡が見つかるわけがない。

伊勢神宮も20年ごとに取り壊しているくらいの国だから、そんなに
残存が出来うるわけもなかろう。不合の解体だから神代文字だって
そのように雲散消霧だよ。消えるから水蒸気は存在しないにはなら
んぞ。
753恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/07(水) 16:35:12
>>736
>西都から新富にかけては、古くから宮崎有数の農業地帯ですよ

宮崎市の大淀川流域と、西都市の1ツ瀬川流域とどちらが大きいのだろう。
地図を見ると宮崎市のほうが大きいように感じるけど・・・・

西都市なみにいろんな遺跡や古墳もあるようだしな・・・

−−−−−(引用開始)−−−−−
古墳の墳丘内に棺(ひつぎ)を安置する部屋を木板で囲んだ国内最大の「木槨(もっかく)」
の跡が宮崎市檍(あおき)古墳群の檍1号墳で見つかった。

長さ約7・5メートル、高さ約1・5メートルで、これまで最大とされていた奈良県のホケノ
山古墳(長さ約7メートル、幅約2・7メートル)を上回る規模。
http://www.toonippo.co.jp/news_hyakka/hyakka2002/20021102.html

宮崎県立西都原考古博物館
■インターネット収蔵品検索■
http://saito-muse.pref.miyazaki.jp/www_search.htm
754恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/07(水) 16:39:22
>>744
>漢・魏音で(ジャバディ)という発音だと読んだことがある。

そんな大昔の発音がどうやって現代に残ったんだろう?
日本のむかしの発音なんて残ってるかい、レコードもないのに。
なんか怪しい話だ・・・・
755日本@名無史さん:2007/02/07(水) 17:27:45
前方後円墳以前の方形周溝墓は、前方後円墳と同様に畿内を中心(最大)とし
全国に分布しているが、これは、当時の全国の国々が畿内王権に従属し傘下に
入っていたためと考えられる。つまり畿内を中心とし東北から九州までを支配
する、倭国の広域国家は、倭人伝よりもずっと古い時代に、
すでに出来あがっていたと考えられるのである。
卑弥呼は倭国王であり、その畿内中心広域国家の形態を継承した
政権の王と考えられるので、当然、畿内に居たのであり。
地方である九州の独立政権の王などではありえ無いのである。
756日本@名無史さん:2007/02/07(水) 17:33:49
墓が同じだから統一国家ですか。
じゃ中国の春秋時代などは各国で墓が違うんですね。
757太国:2007/02/07(水) 17:36:48
>>755
卑弥呼は畿内にはいないよ。居れば倭人伝以上の記事が記紀に載る。
遥か遠い大陸の古書に女王国の詳細な記事があるわけで、地図上で目と
鼻の先にある朝廷と女王国の関係の記述がまるで記紀にないんでは
卑弥呼が畿内にいたことには全くならない。

つまり女王国は九州にあったことがわかる。九州ならばそれだけ大陸に
近いから女王国の情報が大陸に入りやすく、その分、畿内から遠方に
なるから九州女王国の情報が畿内に流入しにくいわけで、記紀に書かれ
てない理由に合理性が生まれる。
758日本@名無しさん:2007/02/07(水) 18:07:08
>>754
アンタ、理論言語学をなめとらんか?
759日本@名無史さん:2007/02/07(水) 19:08:39
倭人伝を読むかぎりでは九州しかない。

でも畿内にも古い遺跡や伝承やらがあるから納得できない。

畿内論者の本音はこういうものでしょう。

760日本@名無史さん:2007/02/07(水) 20:25:20
畿内論者は、内心「やべー、ほんまは九州ちゃうん?」と思いつつ、
生活のためには「邪馬台国は機内である。」と言わざるを得ないんだよ。w
解ってやれ。www
761日本@名無史さん:2007/02/07(水) 20:36:36
確かに、いわゆる仁徳天皇陵や応神天皇陵は大きいが、これは岡山県の
造山古墳(全長350m)よりもあとにできたものらしい。
つまり、造山古墳は築造されたとき、全国で最も大きな前方後円墳だった
らしい。
古墳については畿内中心主義みたいなものがあるが、案外そうではなかった
かも知れない。前方後円墳は最初に畿内に出来て、全国に広まったというのが
定説になっているが、これもどんなものだろうかと思う。
762九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/07(水) 20:37:57
>>744漢・魏音で(ジャバディ)という発音だと読んだことがある。

僕は古代の帯方郡の言葉でヤマドゥと聞いたが。各地でだいぶ発音が違うのが中国の特徴。
その解明が、邪馬台国の謎を解く鍵かも。
763日本@名無史さん:2007/02/07(水) 20:59:33
だから卑弥呼はアマテラスって書いてある。天皇家と血の繋がりがないから、神話の話として書かれている。という以前に日本書記の400年前の出来事なので。
蘇我氏がもしかすると卑弥呼の後継だったのかもしれないよ。
764九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/07(水) 21:02:41
>>761前方後円墳は最初に畿内に出来て、全国に広まったというのが
定説になっているが、これもどんなものだろうかと思う。

ピラミッドも、クフ王のものが完成するまでには試行錯誤を繰り返して色々なピラミッドを造り、
やっと完成しているように、巨大な前方後円墳も、何の土木技術もノウハウも無く突然出来るわけが無い。
やはり吉備のそれがあったればこそ出来たものと考えるほうが自然。
765日本@名無史さん:2007/02/07(水) 21:35:40
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/history/1169979531/126-129

126 :プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 07:57:12
ナンダカンダと迷惑そうに書いているようだが
結局 邪馬台国関連厨(九州嫌々厨)が立てたスレであることは明白だな
何時もコノテのスレは……。
ガンバレよ

127 :日本@名無史さん :2007/02/07(水) 09:44:52
違うよW
IP抜いてみな
お前は九州以外にも嫌われてるんだよW

129 :プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 10:44:17
>>127
>嫌われている
何だよそのお前の価値観?
ネットで好かれようが、嫌われようが、一体そこから何が生まれるんだ?
好かれれば何かが変わるんか?
嫌われていると何かの損失になるんか?
訳解らん事言ってるなよ!詰まり、好かれていないと「群」に入れなく、片寄せ有って馴れ合えないと、言うことか?


766日本@名無史さん:2007/02/07(水) 21:36:54
>>763
乱暴だが
九州王朝(卑弥呼)=日本
畿内・出雲王朝(スサノオ)=倭(蘇我氏)
で、いっしの変・大化の改新で小国日本が大国倭を乗っ取った。

日本書紀は、蘇我氏を一大臣に落とした挙句、天宗をかたむけようと
したから誅滅したという倭国遺民にたいする言い訳の書。
767太国:2007/02/07(水) 23:29:03
>>763
古文献のどこに 卑弥呼がアマテラス だと書かれているんだ?
768恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/07(水) 23:30:36
>>758
>アンタ、理論言語学をなめとらんか?

役に立ってこその学問だろう。
理論言語学って屁みたいなもんじゃないの?
769日本@名無史さん:2007/02/07(水) 23:32:01
卑弥呼の塚は古墳としては現存しない可能性もある。
770日本@名無史さん:2007/02/07(水) 23:51:05
>>恵也 ◆o4NEPA8feA
ヤキソバパンとセブンスター買ってこい
771日本@名無史さん:2007/02/07(水) 23:56:49
>>770
貧しい食生活だな
772日本@名無史さん:2007/02/08(木) 00:06:47
>>恵也 ◆o4NEPA8feA
俺はコーヒー牛乳とカントリーマームな。
「ありませんでした」とか言うなよ。
絶対買ってこい。
773日本@名無史さん:2007/02/08(木) 00:52:14
考古学、文献史学の研究者諸氏の論文など読む事もせず
ネットや書籍に書かれている様なちっぽけな情報しか知らない井の中の蛙たち
哀れだ
774日本@名無史さん:2007/02/08(木) 02:09:39
薄く狭い見識では真実を知りえる確率は低い
もっと知識を高め広い見識を身に着けてこそ
真実を知りえる確率は高まるのである
西国のみの偏った研究ではなく
東国の研究も十分にしてほしいものだ
さすれば自ずと考えが改まるであろう
775九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/08(木) 05:11:49
>>772俺はコーヒー牛乳とカントリーマームな。

おたく、ひょっとして年端も行かない子供さんですか?
776九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/08(木) 05:48:43
>>773
考古学によらず、日本の学者の質の低さは昔から巷で言われている事。
それより自由な発想でこのように議論するのもまた有意義。
所詮は古代人も同じ人間であり感情は同じ。考古学的知識をこねくり回すのも良いが
一人の人間に立ち返ったとき、古代の人はどのように考え、又、行動したかを考えるのは、
想像性豊かな作家や、漫画家、芸術家、などが向いている。
世間知らずな学者先生方では、遠く及ばぬ発想をなさる。
我々もそれに続いていけばいいだけの話。それが嫌なら考古学者におなりあそばせ。
777日本@名無史さん:2007/02/08(木) 09:44:23
古本屋のおばちゃんが勉強家で質の高い考古学者になったりするよね
778日本@名無史さん:2007/02/08(木) 09:49:44
なんで魏の使いが邪馬台国に来たのか
誰か教えて。
779日本@名無史さん:2007/02/08(木) 10:10:17
>>735
>>753

高鍋藩と佐土原藩は3万石ずつしかないのか?
780日本@名無史さん:2007/02/08(木) 10:23:09
延岡藩と飫肥藩は5万石ずつ。
781プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 11:37:32
>>776 九州ですがさん

(スレ主として一言)

>>776での考えをここに持ち込む事は 完全に「板違い」かと 思われます。
如何でしょう?
782日本@名無史さん:2007/02/08(木) 12:54:56
>>773 では、貴殿が議論に参加して、ソースを出して他説を論破してはどうか?
何とかの遠吠えと思われたくなくば。
783日本@名無史さん:2007/02/08(木) 12:55:37
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
784日本@名無史さん:2007/02/08(木) 14:12:31
>>769
卑弥呼の墓があるとしたら、当然、壱与の墓もあるだろうし、壱与と
共に中国の爵命を受けたとされる男王の墓もあるだろう。
難升米とか牛利とかの墓もあると思われるし、かなり古墳?が集中して
いる可能性があるんじゃなかろうか。

>>778
魏というか、帯方郡の使いは確か2度日本にやってきている。
一度目は、卑弥呼の朝貢に対する返礼として、詔書や金印とかを持って
梯儁がやってきた。これが正始元年(240年)。

もう一度は正始8年(247年)。卑弥呼が狗奴国との戦いを報告する
ために帯方郡に使いを送った。たぶん、その仲裁のために張政が
やってきた。張政は壱与が女王になるまで日本にいたらしい。
785日本@名無史さん:2007/02/08(木) 14:35:03
邪馬台国は畿内ではない。
日本書紀には二代にわたる女王の記述がないからだ。
女王の存在を隠蔽したとも考えられない。
神功皇后をあれだけ賞賛しているのだから。
786太国:2007/02/08(木) 14:36:40
>>785
秀逸。
787日本@名無史さん:2007/02/08(木) 15:14:16
串間と同じく志布志湾近くに存在する、肝付の串良地区古墳群にも興味があるんだが・・・
過去に調査された時は古墳時代中期の物がほとんどで、弥生期の墳墓は確認できなかったらしいが
古墳を構築してる土中からかなりの弥生土器の砕片が見つかったと聞いた記憶がある
肝付川によって弥生期の墳墓や遺跡が流失した可能性も考えられるらしい
788日本@名無史さん:2007/02/08(木) 16:41:35
>>787
肝属平野は宮崎平野と深い関連があると思う。
土器にも共通性があるといわれるし、墓制も、大きな前方後円墳があり、
地下式横穴墓もあるということで似ているし。
少なくとも、鹿児島県のほかの地域と全く異なることは確かだと思う。

宮崎平野から西に小林市、えびの市、大口市まで延びるライン。それと
肝属平野だけに存在する地下式横穴墓もなんだろうと思う。
789日本@名無史さん:2007/02/08(木) 17:12:44
>>784
ありがとうございます。
先に倭国が朝貢したのですね。

だとすれば、邪馬台国とか卑弥呼という字は朝貢の時に
自らへりくだって自称したのでしょうか?疑問です。
790日本@名無史さん:2007/02/08(木) 17:18:39
>>789
こうだと思う。

倭人「吾(ア)レ、クニ、ヤマト」
通訳(渡来人)「○×△…ヤマトゥ」
魏人「邪…馬…台?カキカキ」

倭人「クニ、ヒメミコ、オサメル」
通訳「○×△…ヒメィコ」
魏人「卑…弥…呼?カキカキ」

音を文字化しただけだろう。特に意味なく。
791阿蘇山は移動した:2007/02/08(木) 17:29:50
邪馬台国の官 伊支馬 に似てる、宮崎市に生目古墳群がある。
19年度に古墳公園として公開。出土品も展示されるのでは。
792日本@名無史さん:2007/02/08(木) 17:31:00
>>790
魏政庁の担当官が、一生懸命仕事をしている様子がうかがえ、ほほえましいレスであった。パチパチ
793太国:2007/02/08(木) 17:37:48
イクメイリヒコ(垂仁天皇)
794日本@名無史さん:2007/02/08(木) 17:42:28
>>790
古い時代とはいえ朝貢するときには
親書とかなんかなかったのですかね?
795日本@名無史さん:2007/02/08(木) 17:49:39
いま気分転換に手塚治虫の火の鳥よんでたんだが
卑弥呼が献じた「生口」て奴隷のことなんだろうけど
実は親書がわりの「テープレコーダー」だったりしてねw
796日本@名無史さん:2007/02/08(木) 17:50:17
>>791
邪馬台国の官名は垂仁天皇の家族に
すべてあてはまる。と聞いたw
797日本@名無史さん:2007/02/08(木) 19:09:08
>>796
詳しく。

手元に倭人伝がないので確認できないが、そうだとすると
垂仁皇后の御間城姫が卑弥呼で娘の倭姫がトヨ(イヨ)てこと?
798日本@名無史さん:2007/02/08(木) 20:18:34
いつまで人大杉なのだろう?
799日本@名無史さん:2007/02/08(木) 20:42:24
>>797
伊支馬   イキマ     活目                   垂仁天皇

弥馬升   ミマジョウ   御間城    御間城姫        垂仁天皇の母

弥馬升   ビバス     日葉酢    日葉酢姫        垂仁天皇の皇后

弥馬獲支  メマクワシ   眼々妙媛   遠津年魚眼々妙媛  垂仁天皇の妃

奴佳革是  ヌハダイ    沼羽田入   沼羽田入比売

読み方は3世紀ではなく書記・古事記が書かれた時代だって。
800日本@名無史さん:2007/02/08(木) 20:56:03
>>799
<弥>の字を<ミ・ビ・メ>と読んでいるのがちょっと辛い気がする。
801日本@名無史さん:2007/02/08(木) 21:49:41
う〜ん。
802九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/08(木) 21:53:57
>>778
両方においしいからでしょう。
卑弥呼においしい、
 自分の権威付け。魏を用心棒にして、クナ国の脅威をけん制する。
 魏の先進文化に触れられる、鏡などがもらえる。

魏においしい、
 敵対する呉に対する包囲網を築く。朝鮮半島、倭国を重要軍事拠点と位置づけていたのではないか。
いざとなれば倭国を不沈空母と化し、魏人が乗り込んでくる事も視野に入れていたのでは。
その為卑弥呼を鏡などで手なずけておく必要があったのでは。今のアメリカと手口がおなじね。



803日本@名無史さん:2007/02/08(木) 21:56:11
邪馬台国ど〜んと来い♪
804九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/08(木) 21:57:19
>>803
もうすでにどんときてますがなにか。
805日本@名無史さん:2007/02/08(木) 22:07:12
それはさすがに違うだろう。
魏がなぜ公孫氏を攻めたか知っているか?
当時、魏が最大の危険と感じていたのが、一方的な完全勝利を納めた
ことがない蜀が、後背の北東に当たる公孫氏と二方面作戦で挟撃され
ることだった。これは三国志を読めばわかること。
魏が見知らぬ島国の倭国に、半島にも大きな影響力を持った諸軍事に
命じたのは、叛徒である公孫氏の息のかかっていた半島諸国に対して
一定の軍事的プレゼンスをそれまで与えてきた実績と、倭が公孫の乱
に直接関わっていなかったからだ。
806日本@名無史さん:2007/02/08(木) 22:18:06
>一方的な完全勝利
やるねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
807日本@名無史さん:2007/02/08(木) 22:28:28
問題は何故、大和の古墳から、卑弥呼が魏に遣いを送った年の年号が
入った鏡が出土したのか?という事。
この年号の一致は、偶然ではありえない確立。
808一応九州王朝説:2007/02/08(木) 22:53:51
>>805
蜀?呉の間違いでは。

実際奴隷狩りに大船団仕立てて成果もあったからね。兵士や住民を
倍増させるほどではなかったが。
そんな動きの中で楽浪郡〜半島〜倭〜琉球列島と呉になびかれたら、
海上封鎖など不可能なだけに、相当の脅威を感じていたわけで。蜀や
呉が南方への地理的拡大を企図していたのに見合うものは、魏にとっ
て東方と西方しかない。その進出路を横取りされたら・・・。

倭人伝が魏誌の最後に置かれた意味も、親魏倭王の称号も小さくは
なかったと思いますね。それなのに景初四年なのか、というのも疑問。
809プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 23:02:59
>>807

>問題は何故、大和の古墳から、卑弥呼が魏に遣いを送った年の年号が
入った鏡が出土したのか?という事。
この年号の一致は、偶然ではありえない確立。


卑弥呼が魏に遣いを送ったことと、畿内で出土した魏の年号入り鏡の接点はなに?
810日本@名無史さん:2007/02/08(木) 23:38:30
>>807
かっぱらってきたけど、いらないから埋めたんじゃない?
811太国:2007/02/08(木) 23:48:56
鏡はいったん北九州に存在するから、一部少々は畿内に横流入は
ありうる。その古墳は卑弥呼の墓にあらず。
812日本@名無史さん:2007/02/09(金) 00:11:56
西都原における宮内庁管理の陵墓が気になる。
被葬者は誰に比定されてますか?
813日本@名無史さん:2007/02/09(金) 00:14:16
邪馬台国は九州は鹿児島
大隅地方である
814恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/09(金) 00:28:56
>>794
>古い時代とはいえ朝貢するときには
>親書とかなんかなかったのですかね?

当然あったでしょう。
それがなければ、邪馬台国の使節である証拠がないし、マトモに魏の役人に会えもしないよ。

卑弥呼が魏に滅ぼされた公孫氏の血族だったという話も残ってます。
卑弥呼の側近には中国人や朝鮮人の難民が、数多く居たんじゃないかね。
だから竹簡などを作って、漢字で公文書を特別にしつらえて外交交渉をしたんだろう。
815恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/09(金) 00:41:58
>>795
>卑弥呼が献じた「生口」て奴隷のことなんだろうけど

俺は留学生、通訳の卵みたいな連中だったと見てる。
邪馬台国と魏の永い友好のためなら、そんな人間は大量に両国にとって必要になる。
魏から邪馬台国に行くときにも、その逆の時にもペラペラの通訳が居ないと面倒くさくて仕方ない。
辞書を片手にタドタドしい通訳じゃ・・・・・・

魏志倭人伝には、「生口」と別に卑弥呼と殉死させた100人の奴隷を「奴婢」と表現してます。
同じ奴隷なら「奴婢」で表わすはず。

わざわざ生きている口という、表現なんだから奴隷じゃないよ。
単なる奴隷なら、中国は戦争で大混乱してるのだから国家にとって商品価値はないよ。

ーーーーー(引用開始)−−−−−
この時、卑弥呼はすでに死んでいたので、大きな墳墓をつくらせた。直径は百歩余りで、
男女の奴隷(奴婢)を百人以上殉死させた
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
816恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/09(金) 00:52:04
>>807
>問題は何故、大和の古墳から、卑弥呼が魏に遣いを送った年の年号が 入った鏡が出土したのか?

それは偽物。
卑弥呼が死んで百年以上たって作られたもんだろう。

日本製じゃ高く売れないから、卑弥呼が貰った鏡だとか嘘八百でベラボウに高く売りつけたマガイモノ。
今でも豊臣秀吉が使った、純金の茶碗なんて言ったら飛びつくお金持ちは一杯居るだろう。
でも偽物でも、技術的水準は高かったぜ。
817恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/09(金) 01:01:22
宮崎市には縄文時代から弥生時代までいろんな遺跡があるんだね。
遺物も凄いぜ!
これで少ないとは、贅沢者としかイエン。

ーーーーー(引用開始)−−−−−
南九州へ「神話と考古学の旅」に出かけた。宮崎総合博物館を見に来たら薫蒸
(くんじょう)中でこの日まで閉館だった。残念無念と思ったらすぐ側に「埋蔵文財センター」があったので見学した
が、側に博物館があるからだろう、さすがにここは展示品が少なかった。
http://inoues.net/museum/miyazaki_maizou.html
818恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/09(金) 01:19:17
>>812
>西都原における宮内庁管理の陵墓が気になる。 被葬者は誰に比定されてますか?

男狭穂塚はニニギノ命、女狭穂塚はその妻コノハナサクヤ姫
神武天皇のヒイ爺さんとヒイ婆さんというところだろう。

西暦260年頃に死なれたと思うが、仁徳天皇の頃に遺体の再埋葬を行ったのじゃないかな。
819日本@名無史さん:2007/02/09(金) 01:46:44
>>815
> 単なる奴隷なら、中国は戦争で大混乱してるのだから国家にとって商品価値はないよ。
そういうことはありえない。戦乱が続いていた時代だからこそ、戦力・労働力は多ければ
多いほど有利になるわけで、単純労働しか提供できない者であっても有意義。
ただし、わざわざ連れていったくらいなら、ある程度以上の知力を持った「商品価値」の
高い者だった可能性のほうが高いという点は同感。
820778:2007/02/09(金) 11:09:08
>>802
朝貢の理由はその通りだと思います。

ただ気になったのは、親書が存在するのであれば
従来言われてたように、邪馬台国や卑弥呼といったような
わざと悪字を当て字されたという説は成立しないことになるのでは?

>>813
同意します。
821日本@名無史さん:2007/02/09(金) 11:26:48
「親書」じゃなく使者の口頭による「信書」だったのかも知れない。
当時はまだ文字文化はないでしょ?
822日本@名無史さん:2007/02/09(金) 15:13:33
定期age
823日本@名無史さん:2007/02/09(金) 16:16:17
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
824日本@名無史さん:2007/02/09(金) 20:18:11
>>823
唐揚げお疲れさまです。
私は象印炊飯ジャーで炊飯しています。
825唐松山:2007/02/09(金) 20:59:58
代筆 承り
826九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/09(金) 21:29:39
>>823
ねえ。どうでもいいけど、それちょっと他のフレーズにしてくんない。飽きてきた。
今、飽きてきた、を間違って秋田北って打ってしまった。
秋田北って言うジャンクションあるかしらん?
827日本@名無史さん:2007/02/09(金) 21:42:42
秋田北インターチェンジは秋田市にある秋田自動車道のインターチェンジである。
秋田北インターチェンジは秋田市にある秋田自動車道のインターチェンジである。
秋田北インターチェンジは秋田市にある秋田自動車道のインターチェンジである。
秋田北インターチェンジは秋田市にある秋田自動車道のインターチェンジである。
秋田北インターチェンジは秋田市にある秋田自動車道のインターチェンジである。
秋田北インターチェンジは秋田市にある秋田自動車道のインターチェンジである。
秋田北インターチェンジは秋田市にある秋田自動車道のインターチェンジである。
秋田北インターチェンジは秋田市にある秋田自動車道のインターチェンジである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E7%94%B0%E5%8C%97%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B8
828阿蘇山は移動した:2007/02/09(金) 21:59:11
生口って食用人間で決定してなかった?
829日本@名無しさん:2007/02/09(金) 22:45:13
>>820
そういえば、倭の他の国や人物は、別に悪字を当てられているという程ではないですね。
そう考えると、「邪馬台国」や「卑弥呼」の字は、よく言われる「悪意を以って悪字を当てられた」
というのは本当なのでしょうか。シナとの関係が良好なら尚さらありえない気がします。
邪馬台国側が支援や同盟を断るなどして、シナの不興を買ったのならありえることですが…
830日本@名無史さん:2007/02/09(金) 22:49:55
昭和3年から5年にかけて「生口論争」と呼ばれる一大論争が
巻き起こる。昭和3年9月に中山平次郎は「考古学雑誌」に『
魏志倭人伝の生口』を発表した。この中で中山は、生口を日本
初の留学生であると解釈したが、翌年1月、橋本増吉は中山を
批判し橋本の生口論は、捕虜ではないが女王から贈り物として
献上された特殊技能の例えば潜水夫のようなものであるとした。
二人の間で毎月のように生口を巡る論争が行われ、波多野承五
郎が生口は捕虜であるとし、沼田頼輔がこれに賛同した。
昭和5年3月に、市村讃次郎は生口論争に加わりこれを奴隷と
した。しかしやがて橋本増吉は、生口は捕虜を意味しており奴
隷の意味も併せ持つと宣言する。
しかし、わが国では「死に口」「生き口」という言葉がある。
死に口とは口寄せの一。死霊が巫女に乗り移ってものを言うこ
と。「生き口」は、巫女が生きている人の霊魂を招きよせて、
その言葉を伝えること。鬼道の術者も「生口」というのである。
831日本@名無史さん:2007/02/09(金) 23:05:03
>>829
中華思想のもと周辺異民族は未開の蛮族と言う認識で悪字を当てられているように見受けられます。
倭国に限らずネ
832日本@名無史さん:2007/02/10(土) 08:50:37
やはり「邪馬台国」や「卑弥呼」という字は、倭国側から自ら名乗った
のではないでしょうか?
833日本@名無史さん:2007/02/10(土) 09:31:10
そう推測する根拠は?
834一応九州王朝説:2007/02/10(土) 13:18:20
卑字の例はそれこそ山ほどある罠
835日本@名無史さん:2007/02/10(土) 14:11:36
卑弥呼(ひみこ)=倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)

卑弥弓呼(ひみここ)=彦命(ひこみこと)
=河内南部の難波の領主・武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)

拘右智卑弥狗(こうちひこ)=河内彦
836日本@名無史さん:2007/02/10(土) 14:41:31
壱與はだれ?
837プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 15:46:39
>>836

>壹與はだれ?


それって、総理は誰?って言っているのと同じだぞ。
838日本@名無史さん:2007/02/10(土) 15:48:55
プラムさんの会社って何してるの?
839プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 15:57:22
>>383
(スレ主として一言)


スレと関係無いレスは控えてほしい。
840日本@名無史さん:2007/02/10(土) 16:01:16
>>839
都合いい時だけこうなんだなw
別コテで邪魔ばっかりするくせにw
841プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 16:14:33
>>840

>別コテで邪魔


そお考えるなら早急に削除依頼をしてください。
842日本@名無史さん:2007/02/10(土) 16:24:26
>>839
そお考えるなら早急に削除依頼をしてください。


843日本@名無史さん:2007/02/10(土) 16:33:50
議論をしましょう。
844日本@名無史さん:2007/02/10(土) 16:57:08
邪馬台国の所在地(官名・人名などから推定)
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/32352359.html
845日本@名無史さん:2007/02/10(土) 17:18:23
>>835
卑弥呼と倭迹迹日百襲姫の共通点を述べよ。
百襲姫って一応、大物主神と結婚もしているみたいだし、女であること以外に
卑弥呼との共通点は全くないと思うが。
846日本@名無史さん:2007/02/10(土) 17:44:29
共立され戦乱を鎮めた女王なら
神功皇后と同じくらい礼賛されただろうな。

なんで巫女と記録されてるの?女王でいいじゃん。
847プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 17:51:47
>>846

当時「女王」の概念は大陸側に有り、列島側にそのような概念が存在しなかった。 ただそれだけの事だよ
848日本@名無史さん:2007/02/10(土) 18:05:10
そりゃ、時の天皇たちは
政治や戦争をする時、親族の巫女のお告げを聞いて
それを参考に動いていたんだろう・
中国人が見たら、女王じゃん!って思うかもよ。
849日本@名無史さん:2007/02/10(土) 18:06:19
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
850日本@名無史さん:2007/02/10(土) 18:08:47
>>835
結婚したって...
神様じゃん。
しかも、何代か前の人物でしょう?
851日本@名無史さん:2007/02/10(土) 18:11:18
倭人伝には、卑弥呼には弟がいて、助けて国を治めると書かれている。
倭迹迹日百襲姫にはそんな弟がいるのか?

比べてみれば、すぐにわかる。二人は似ても似つかない。
852日本@名無史さん:2007/02/10(土) 18:11:30
なるほど、それで記紀には巫女を女王と書いているわけですね。
今日のプラム氏、冴えてますなあ。ガッテンがいきました。
853日本@名無史さん:2007/02/10(土) 18:17:00
>>851
彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命)=伊聲耆
彦狭島命(ひこさしまのみこと、日子寤間命)=難升米
稚武彦命(わかたけひこのみこと) 吉備氏の祖。桃太郎のモデル?
854日本@名無史さん:2007/02/10(土) 18:17:21
>>850
だから、卑弥呼と倭迹迹日百襲姫のどこが似ている?

百襲姫は皇女。例えて言えば、清子元内親王とか島津貴子さんとか
そんな立場で、しかも、天皇もちゃんといるのに外国が女王と
言うのはありえない。
855日本@名無史さん:2007/02/10(土) 18:24:01
>>854
おまえには唖然。
おまえみたいな奴は、いくら邪馬台国=畿内説の決定的な証拠が
出されても、違うと言い張るんだろうな。
いや、別に良いんだよ、九州説を盛り上げてくれて。
じゃ、ないと、世間の注目が沈静化して、発掘調査資金が集まらないから。

でもね、本当は分かっているんだよ、もう。
今は言えないけど...そのうち明らかにしなきゃいかんから
メディアなどで小出しに情報を出してきている。
856日本@名無史さん:2007/02/10(土) 18:24:55
>>853
単に弟がいるかどうかではなくて、国を共に治めているような弟が
いるかどうかということ。
それよりも、何度も尋ねているけれども、二人の共通点は?
何を根拠に二人が同一人物というのかその理由が聞きたい。
857唐松山:2007/02/10(土) 18:28:07
卑弥呼=倭迹迹日百襲姫
是を認めるには、
崇神をオカマにして
源氏名 倭迹迹日百襲姫 これしか 考えつかん。
男王 なし。
858日本@名無史さん:2007/02/10(土) 18:34:34
>>856
おもいいきり、国を統治に関係していた人物じゃん。
859唐松山:2007/02/10(土) 18:46:39
マツラ から イト までの 道 (当時の1級国道か)
これさえ 獣道程度 崇神時代に 畿内崇神が 九州を 治めた
不可能
景行 が 九州王朝の要請で熊襲討伐 この時代に 卑弥呼
860日本@名無史さん:2007/02/10(土) 18:57:18
本居宣長の偽僭説にまさるものはないな。
861日本@名無史さん:2007/02/10(土) 19:46:55
>>855
倭人伝の邪馬台国と畿内って距離も方角もちがうのに
何がどう関係してるのかわかりません。
バカなボクに教えて下さい。
862日本@名無史さん:2007/02/10(土) 20:00:17
>>861wプラ国お得意馬鹿きゃら
863日本@名無史さん:2007/02/10(土) 20:01:02
>>832
実名を伝えたのを、向こうの係官が適当な文字で表したと考えるのが穏当でしょう。

>>837
国際儀礼に背いて、女王の実名も知らないような下っ端を派遣して、非常識な申告を
行わせたと仮定するのは無理があるでしょう。
864日本@名無史さん:2007/02/10(土) 20:06:23
>>851
必然的に実年代も異なることになりますな。
865日本@名無史さん:2007/02/10(土) 20:20:29
邪馬台国論
地政学的見地からみた裏日本地図
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/31289979.html
866日本@名無史さん:2007/02/10(土) 20:26:39
俺の手元にある岩波日本書紀では卑弥呼は神功皇后と同じ時代だ。
従って卑弥呼は神功皇后である。
867日本@名無史さん:2007/02/10(土) 20:53:19
>>865
とりあえず そいつが「地政学」の意味を知らない事はわかった
868太国:2007/02/10(土) 20:53:30
>>866
違うよ。確かに神功の時代にかぶってはいるが別人。
だって、倭人伝と記紀の年数でない記録内容がほぼ合わない。
869日本@名無史さん:2007/02/10(土) 21:25:20
太国さんこんばんわ。>>866です。
>>866は畿内論者への皮肉ですので。

自分は神功皇后はもう少し後の時代だと考えます。
卑弥呼と同時代なのは神武だと私見してます。
870プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 22:33:36
>>863

>国際儀礼に背いて、女王の実名も知らないような下っ端を派遣して、非常識な申告を
行わせたと仮定するのは無理があるでしょう。

『壹與は人名ではない』
壹與の文字は中国漢籍に書かれた漢字で、これを読むのも漢人です。
もしこれが「イヨ」という倭語名をランダムに漢字に当て嵌めたとしたら
構成の漢人読み人は『壹與』の文字に困惑する事でしょう。

日本語で(はし)は様々なものを表現しますが、漢字は【箸、橋、端・・・】と、表現するものによって
文字が区別されています。しかし日本語はそれらを「はし」と統一されているのです。

漢語『壹與』の文字は、魏志倭人伝が編纂される以前から、漢籍文に当用されています。
すると、その漢籍に当用されている『壹與』は倭人伝に記述されている『壹與』と同じ(人名)となってしまいます
『ソンナバカな』現象が発生してしまうのです。

【有詔許使者五日(壹 與)太守問起居・・・・・・】

(漢書/列傳/卷七十二)

【・・・ 壹與之齊・・・】

(断句十三経経文)

871一応九州王朝説:2007/02/10(土) 23:56:20
>>870
もう少し同ケースを増やさないと苦しいと思うんだが。

それに、親魏倭王の印綬を与え、さなぎだに緊迫した情勢下で
下賜品まで与え、朝貢貿易の体裁を与えたのに、王を間違える
わけがない。
女王なんて、中国の方が遥かに太古の話なんだけどな?
確かに母親の方は女だてらに意富夜麻登の称号を与えられてい
るが、それは母親の話。私的には、九州王朝に近い吉備の姫で
あり、称号と共に吉備からの物的援助があった故と思うんだが。
モモソヒメ=卑弥呼なら、そんな称号のひとつもあってバチはあた
るまい?なんといっても大乱の末共立された女王なんだから。
872プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/11(日) 00:18:27
>>871

言ってる意味がよく解らない。
873日本@名無史さん:2007/02/11(日) 00:35:04
>>872

それは貴様がバカだからだ。
874日本@名無史さん:2007/02/11(日) 00:36:27
>>870
「臺」の単なる誤刻ではないかと思いますが。
875日本@名無史さん:2007/02/11(日) 00:37:00
>>873
興奮して中身を撒き散らさないように。
876日本@名無史さん:2007/02/11(日) 00:51:05
>>872
興奮して精液を撒き散らさないように。
877恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/11(日) 01:04:02
>>872
>言ってる意味がよく解らない。

珍しくあんたと同意見だ。
>>871の方には、人に意思を伝える国語能力に欠陥があるとしかいえない。
878日本@名無史さん:2007/02/11(日) 01:06:23
セックス
セックス
セックス
879恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/11(日) 01:12:45
>>863
>実名を伝えたのを、向こうの係官が適当な文字で表したと考えるのが穏当でしょう。

アンタだって、外国人に日本の象徴は誰ですかと聞かれたら「天皇」と答えるだろう。
それとも実名で答えれるかねアンタ!

邪馬台国当時は国際儀礼なんて、未開国の日本はロクに知らないよ。
その当時、日本の新興国が入れ替わり立ち代り、中国に挨拶してたのを知らないの。
邪馬台国でさえ、台与の時代から先は歴史の闇に消えてるんだぜ。
880日本@名無史さん:2007/02/11(日) 01:16:50
>>877の方には、人に意思を伝える国語能力に欠陥があるとしかいえない。
881九州出身:2007/02/11(日) 01:56:11
>>837>>870 プラムさんへ
なぜ『壹與は人名ではない』 といえる?
882日本@名無史さん:2007/02/11(日) 02:04:25
>>881
プラムさんではないが、>>870を読んでその質問はないだろ。
壹與は人名ではないという根拠が>>870なんだから
883日本@名無史さん:2007/02/11(日) 02:17:26
>>879
自分自身のようなチンピラを念頭において物事を推し量ろうとする悪い癖を改めるように。

女王国連合の浮沈を賭けた重要な頼み事をするために行ったのだから、常識的に考えて、
使節団のメンバーは、それにふさわしい身分・地位と見識を持った人物が選ばれたと考えるのが
妥当だし、国際儀礼に関しても、多少なりとも使者の行き来があったのだから、最低限の
常識程度は当たり前のように弁えていたと考えるのが妥当。
あまりに非常識では、頼み事を聞き入れてもらえるどころか、門前払いを食らうのが落ち。
884九州出身:2007/02/11(日) 03:28:53
>>881は削除

なるほど・・・>>870
>漢語『壹與』の文字は、魏志倭人伝が編纂される以前から、漢籍文に当用されています。

↑凄い発見だ。最近のプラムは冴えてるが、嫌われてるよね(笑)

みなさん>>839みてよ。こうゆうのが嫌われる原因。


885日本@名無史さん:2007/02/11(日) 07:02:29
有詔許 使者 五日壹 與太守 問起居
詔有りて許す。使者 五日に壹(ひと)たび 太守と(與)起居を問う。

【・・・ 壹 與之齊・・・】
壹たび之と(與)齊すれば、終身改めず。故に夫死するも嫁せず。

與=〜と、〜と共に
886日本@名無史さん:2007/02/11(日) 08:50:43
卑弥呼は天照大神。
卑弥呼は、(親魏)倭王。天照大神は高天原を治める主神。
立場的に、これ以上ぴったり来る人物はいない。

卑弥呼は実名ではないかと思う。
倭人伝には、皇帝が卑弥呼に送った詔書に「親魏倭王・卑弥呼に制詔す。
(中略)これは汝の忠孝である…」と書かれているわけで、
魏の立場からすると、官職の名前ではなく実名と捉えていたのでは
ないかと思う。

ただ、卑弥呼と伝えたのは、倭国の人間のはずだから、自分の王を
名前で言ったかどうかはわからないのだが。

壱與(台與)については王になる前だから、まず実名であると思うが。
887九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/11(日) 09:58:58
卑弥呼も実名だしトヨも実名だと思う。役名で呼ぶなら女王卑弥呼、何々トヨ、と記さないと読む側に誤解を与える。
第一、役名だったと捉えると、実名はなんだったのかという疑問が残る。確かに時として外国人には勘違いが起こる。
例えば、カナダという国名はもともと集落を表すカナートだし、ブリキはブロックを包んでいたトタン板だった。
勘違いで今日本ではトタン板をブロック、つまりブリキと呼んでしまっているが。
888太国:2007/02/11(日) 10:16:08
>>886
卑弥呼はアマテラスにあらず。双方の記録を見れば合っちゃぁ
いないんだから、別人だ。
五男三女神からして、卑弥呼にイヨの他もう2人女の明確な記述が
ありもしない。つまりイコールにはならない。
889日本@名無史さん:2007/02/11(日) 10:20:47
アホナ理論だなw
890日本@名無史さん:2007/02/11(日) 10:23:38
イヨタン・・・・
891プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/11(日) 10:31:13
『臺與でも、人名に非ず』

湖南氏の時代はともかく、我々の時代は中国正史を全て検索出来る環境にある。その恵まれた環境を無視し、「あ〜だこ〜だ」 語ることは 取り組む姿勢が歪んでいまいか?

参考までに、
『臺與』の文字も
「漢書用例」を含め、二十五史内に 18例を数える

つまり、『壹與』にしろ『臺與』にしろ
間違っても人名で無いことの根拠とします。


古代漢籍解析は、ひたすら地道な作業の繰り返し、つまらん歴史観等持ち込む余地無しです。
892プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/11(日) 10:43:24
>>887


>実名はなんだったのか?

それを語る前に、当時列島に、名前が存在していたかどおかの検証証明をし、それを仮説にしてからの作業だろう。
それをせずして
「あ〜だこ〜だ」言った所で 所詮主婦の井戸端会議にすぎない。

ソロソロ感想文議論を卒業されたらどおだろうか?
貴方に新しい世界が広がりますよ!
893プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/11(日) 11:16:33
>>885

和訳サンクスです。


>與 〜と、〜と共に
●この『與』の扱いはかなり難易度の高い文字、辞書掲載活用の他にも多数の 使途があるようです。

●(〜と)の例
※ 知可以戦“與”不可以戦者勝
〈訳〉(戦えると戦えないとを理解する者が勝利する)

●(〜と共に)の例
※礼“與”俗化
訳(礼制度は世俗とともに変化する)
894日本@名無史さん:2007/02/11(日) 11:28:16
>>888
古代では、尊い人物がなくなることを「岩戸に隠れる」と言っていた。
天照大神は、岩戸に隠れる前と隠れるあとでは違う人物。
つまり、岩戸に隠れる前が卑弥呼で、岩戸を出てからが壱与となる。

天照大神はスサノオの乱暴に怒って岩戸に隠れる。
卑弥呼は狗奴国との対立の最中に亡くなる。

天照大神が亡くなると、高天原は真っ暗闇になる。
卑弥呼が亡くなると、跡継ぎをめぐり戦乱となり、千人あまりを殺しあう。

天照大神が岩戸を出ると高天原は明るくなる。やがて高皇産霊尊が登場する。
壱与が女王になると平和になる。やがて男王が立ち、中国の爵命を並び受ける。

これだけ似ていれば、同一人物と思うほかはない。
895九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/11(日) 11:39:28
>>892 それを語る前に、当時列島に、名前が存在していたかどおかの検証証明

それはあって当たり前でしょう。ヒミコ、トヨという官職名があって、名がないということは考えられない。
天皇にもそれぞれ名がある。いくら原始時代でも名前を呼ぶコミュニケぐらいは無いと、集団で狩をする事も出来ない。
ネアンデルタール人まで遡るとアーとか、ウーとかしかいえなかったが。
896太国:2007/02/11(日) 11:47:06
>>894
貴殿の主張は、結局

天照大御神=卑弥呼=壹与

であり、誰かが 神武=崇神=應神 と言ってたのと似たようなものと
なり、探偵小説のようで許容できない。

今三重の伊勢に祀られる日神の女系とは宗方三神であり、これは壹与
ではない。こういう「三重過縄文」は乱歩の「悪魔の紋章」の見過ぎに
想えてしまう。
897プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/11(日) 11:48:48
>>895

>考えられない


個人的な主観が通用するほど、この世界は甘くないよ! 主観を状況証拠、物証なりで現実の世界に引きずり出さなくてば……


歴史小説を元ネタに、歴史談義をするようなモノ
当時、列島に名前が存在していたことを証明するには、同時代に書かれた書物を虱潰すべし。
898日本@名無史さん:2007/02/11(日) 12:08:16
卑弥呼と壹与という二代続けて女王が日本にいた事は魏志倭人伝以外に
も隋・唐の基本的理解・大原則である。二人とも、中国に朝貢をしているのである。
記紀にそれはどこにあてはまるというのか?
899九州ですが ◆uZFVMLIhZI
>>897
というか、ヒミコとかトヨというのが名前ではないという説の方が初めて聞いたんだけれども。
トヨは女王の立場に着いたんだよね。だったら、いわゆる「トヨ」というのは女王以外、どんな官職を指すわけ?
それを証明する方が先じゃない?それがないなら普通に考えて一般に言われているように名前だととるのが正論じゃないかな。
倭人伝には「官名を何々という」というのがあるでしょう。
そこまで書くなら、重要人物に対してはさらに詳しく書くのが道理でしょう。