1 :
無名之介:
ふたつなの はじもさらせし いまがわの むかしをどこに たずねけむかは
3 :
葛山何某:2007/01/18(木) 21:16:41
てか、この葛山ってのどうやって、半島に陣ひいたんだ?水軍使いか?
6 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 00:59:19
1550年代、今川義元が実力あるのはわかるが
それでも中央の実力者である三好長慶にはちと及ばなかったのでは。この人が当時の事実上のNo1でしょう。
時には大友義鎮のことも思い出してあげてください
8 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 01:35:14
l;:;:;:;:;:;:;:;:l;:;:;:;:;:;:;:;:`丶、;:;:;:;l
,l;ィ'----┴――--、、;:丶、!
,ノ7 '"^ ^`' ,ィ'三ミ、_〉
{:/, ニ丶 ,r,=-、 ヾ:::::::ミヾ
〃ィ'。`>ソ { ィ'。`'ァ::.. !::::::ミ:l おお 新スレとな!
l:! `~´/ ,l、  ̄´ ,. }:::::三<
ll (、 っ) : ,l::::シ久'l
l ,.,__、 ,:' f::/ン ノ/ 麻呂は苦しゅうないで おじゃるぞ
l 、 f{二ミァ ,) {,ツ>-‐'′
ヽヽ`ー ' : ヽ ,_ソ/
丶、__, -―''"/,/
,} ヽニニ =彡シ,ンヽ,
,/(`=- r‐ ''" / ,/丶、
ノヽヽ、_;__,∠..ィ"-――ュ、
,∠三二二,,___,,. -― ''"~⌒`丶、、_
,, - '"´ ̄/ / /``
,イ´ / / /
/ / / / /
後裔の今川一策は評価高いのに、何で今川家は人気がないんだ?
.| | | |:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;i;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;|
| | | |;:;:_:;:_:;:_:;:_;:;_:;:l:;_;:_:;:_:;:_:;:_;:_;|
.| | | |______|_____|
| | | .| 三| _ _ |三 !
.| | | | 三| 三シ ! ヾ三. |三 |
| | .| | 三'-、_.,.ノ i;;iヽ、,.,___、 i三 |
. | .| | ト、ニ|``ィヽOン , .;'iィKOン |三.|
| ,l、.゙l、 ', iヽ! 、 ‐' / !、 ーシ |シ,イ
..l_,..-−-`-、 i,ヽリ ,' : !. |f ノ
_,..-l´-'"~二二~`'=、_ .ヾ! / i ,、 ,..、ヽ lノ
/ / ̄ _;,: =‐、‐'ト、_ ヾヽ .| ,__,.-;-;-;、._、ヽ l
`、.ヾi´ _,,....L:;_)`t、'´ l イ,=,=,='='='=l'ヽ /、
`〉 ''"~´ _j,, )`´ ゙i.、 `'"~⌒~"' /'"\
l 、-''"´_,,. ::.〕 | \ ー一 / / _,ン'゙\
〕 、-''"´ _,..、〉 ,ィ|、 \ /_,、-'" _,.-''´ `丶__
i゙:';; ,ィ-'゙ !i _,. イ | ヽ_ 二=''" _,. -''´ """""´´ `、
12 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 05:01:29
義元が一般的に人気がない理由。
劇画で簡単に信長に討たれるから。
しかも信長や秀吉、家康らが中心人物として描かれる場合
討たれる以前の勇猛な義元の描写が少ない場合が多いため
なおさら大したことのない公家風殿様のイメージがある。
義元って勇猛じゃないじゃん。
>>13 桶狭間で織田の旗本3人と戦い2人を再起不能にしてる
>>14 足軽の膝を割って、同じく足軽の指を食いちぎっただけだろ。
そんなんが勇猛ならほとんどの武士は勇猛になっちゃうよ。
16 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 15:39:09
義元は今川家の総大将だよ。
それでそれだけ出来たら
世間のイメージからすれば大したもの。
バカ殿ではなかった。
領土的に旨みが無い割りに小煩い山猿軍団の武田と婚姻を結び
関東の銘菓上杉憲政を動かして元はといえば居候のくせに
最近デカイ面をしていい気になってる北条を叩き駿河から駆逐。
東を向いてたら隙を狙って三河にうつけの父親がのこののこと侵入
するも余裕で追い出す。
関東制覇ゴッコに巻き込まれ泥沼に陥る前に武田北条と三国同盟を結び
西進するための戦力集中を可能にする。
あっさり討たれて上記の功績が吹き飛ぶ。
18 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 16:27:20
当時、この合戦は
どれぐらい大きな事柄だったのだろう。
全国に衝撃が走ったのかな。
朝倉宗滴(1477年-1555年)
伝承
臨終をむかえた際、当時無名であった尾張の織田信長の台頭を予言したと伝わる。 『朝倉宗滴話記』に
「今すぐ死んでも言い残すことは無い。ただあと3年は生きていたい。 遣り残したことや命が惜しくて言って
いるのではない。 織田上総介の行末をもう少しだけ見てみたいのだ。」(意訳) と記されている。
彼の死後、5年。桶狭間の戦いが起こった。
20 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 16:42:44
大将が襲われてるのに、親衛隊?は何をしてたんだ??
義元は、桶狭間で見捨てられてたのか?
びっくらしたけど大勢に影響はないだろと考えられてたと思われ、
表紙破れちゃったね、なくらいの物かと。
23 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 16:48:42
>>21 あぁ…義元いなくても氏真がいるから大きな変化はないと思われたのか。
大名が侵攻先でチョンボやらかして討死ってパターンは特に珍しくもない
25 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 02:17:36
>領土的に旨みが無い割りに小煩い山猿軍団の武田と婚姻を結び
小煩わしいどころかボコられています。恐いから辞を低くして和を請うた。
>関東の銘菓上杉憲政を動かして元はといえば居候のくせに
>最近デカイ面をしていい気になってる北条を叩き駿河から駆逐。
大恩ある北条を裏切って武田と結んだために、怒り心頭の北条にあっさり河東を占領された。
しかも河東を返してもらうために上杉も裏切った。
>東を向いてたら隙を狙って三河にうつけの父親がのこののこと侵入
>するも余裕で追い出す。
織田にも押されっぱなしだったが、雪斎和尚の功績によりなんとか戦線を支える。
当然義元には何の功績もない。
>関東制覇ゴッコに巻き込まれ泥沼に陥る前に武田北条と三国同盟を結び
>西進するための戦力集中を可能にする。
北条は既に関東で圧倒的な勢力となっていた。
一方今川は弱く、武田の助けなしには到底北条に太刀打ちできなかった。
が、武田も今川救援にばかりかまけているわけにもいかない。
3国同盟は弱体の今川が生き残るための唯一の策だった。
>あっさり討たれて上記の功績が吹き飛ぶ。
ド素人義元が何を勘違いしたのか自ら出陣し、実力通りに頓死した。
元康はどういう処遇にしていくつもりだったんだろ?
三河に閉じ込めておくのか、参謀格にするつもりだったのか
28 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 14:05:20
なもん働きと態度次第で変わりまんがな
外戚重臣以上には、どうせなれん>元康
31 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 18:26:23
桶狭間の前に、若手No1ともいうべき朝比奈泰朝と競わせるように
2つの砦を同時に攻めさせているので、二人をライバルにして、次代の
両輪とする気だったんじゃないか。
32 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 00:11:40
>>28 今川の親族の関口氏の娘を嫁にしてやったりして、結構優遇してる。
結構、おべっかがうまかったに違いない。
>>32 築山殿ですね。尾張攻めが成功してたら、
有力武将の一人くらいにはなるんじゃないか?
元康の事だ、最初は大人しくても周りの勇将が老いたら、信康を立てて専横するに違いない。
狸はどこまでも狸。
まあ、武田家における木曽以下の扱いではあっただろうね。
36 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 14:06:47
桶狭間では、織田が降伏の会見を桶狭間で行うとだまして奇襲したという説もあるが、
実際に降伏していたら、今川方の武将として織田、松平は結構活躍したかもしれん。
37 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 14:54:43
元康が氏真を失脚させて、自ら今川家当主となり駿遠三の国主になる道はなかったのか?
元康が今川家当主は無理だろう
信康を氏真の養子にさせて乗っ取るなら可能かも
残念ながら、義元亡き後に台頭する武将は元康しかおらんよ。後は、皆、雑魚武将しかいないもんwwwww
今川家wwwwwwwwwwww 岡部元信と朝比奈くらいか。
40 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 18:52:27
信長の野望では雑魚武将ばっかりだね。
41 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 20:11:38
しってるか?
最近の研究ではヨシモトは実は団子屋の親父で
部下達が担ぎ出したカイライにすぎなかったってさ
42 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 21:17:59
上洛説は嘘で実は三河と知多半島確保の制圧説あるね考えると
三河ー尾張ー美濃か伊勢ー近江ー山城ルートでいくと地元大名踏み潰して
いっても制圧でなく占領だし残党蜂起も危険だし、将軍か朝廷から上洛頼まれてもいないだろし
血筋はいいからそこはいけそうだけどルートで同盟か友好勢力もみえないしね。
上洛するのに通り道の大名を倒していく必要はない。
44 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 22:18:27
元康も信長みたいなDQN武将の風下に立つくらいなら、今川家の実権を掌握して
駿遠三の太守となる道を選んだ方がよかったのにな。
45 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 23:27:38
まともな男子は義元のような麿の下よりも信長のような風雲児の下を好むと思われ。
46 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 23:59:49
通り道の大名倒さなくってもというけど無視すると自国落としかねない勢力が縄張り通るし
警戒する気もする、信長も美濃確保のち浅井同盟して義昭通して朝倉中立にさせて道確保したし
家康も素通り(自同盟国攻撃目的だが)する武田追撃したしせめて根回したとも聞いたことなしですけど
そりゃ警戒くらいは当然するでしょ。
48 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 00:34:40
織田家では篭城するかどうかで揉めていたのだから?
義元は輿に乗っていたらしい。
49 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 00:36:45
50 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 00:37:29
そんなことより、なんで日本史板はPCだと人多すぎになってしまうんた?
51 :
日本@名無しさん:2007/02/04(日) 00:45:19
____
/ \
/ ─ ─ \
/ (●) (●) \
| (__人__) |
\ ` ⌒´ /ヽ
(ヽ、 / ̄) |
| ``ー――‐''| ヽ、.|
ゝ ノ ヽ ノ |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
お団子一つくださいな♪
52 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 01:02:20
警戒はほぼ敵対、たとえ通り道大名が交渉承知か篭城して見て見ぬふりしたとしても
京にいる三好とは一戦はするだろしそれだと補給路の確保がみあたらないし決戦して追い出しても
本拠地から京まで遠く制圧用意でないし三好と小競り合いするだろから山城安定せず自軍を維持するのが難しいのでは?
あと素通りした大名が叛意したら孤立戻る道なく危険、今川水軍ももってるけど三好もあるし物資運送がおそらく目的となる今川水軍しかも目的地までの海路も
確保してないと思うし、しかも三好水軍地元今川戦闘船撃破せずとも輸送船沈めればいいしね。
義元の真の目的が尾張攻めだったか上洛だったかは別として
仮に上洛するつもりだったとしても、別に三好と戦う必要はないし、三好の方も戦う理由がない。
謙信の上洛と同じく、帰国するのをおとなしく待っていればいいだけのこと。
そもそも(守護)大名が上京するなど、
本来は珍しくも何ともないことだった。
いくら乱世とはいえ、守護が上京するのを拒む理由は付けにくい。
54 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 03:33:46
それだと二万大軍の意味がなくなりますね、謙信は一説だと八千の兵とともに上洛したとありますが
当時の謙信足場はそこまで安定してませんので数十名の家臣でいったらしいそのため三好も下手にでこと構える必要ないですし
守護の上洛は珍しくはありませんが当時の足利の権威は地に落ちていたはずいく意味すくないですね
謙信は王道権威主義者信長は父信秀、平手の尊王献金により朝廷評判が良好それを背景に当時足場がための意味を込めて上洛
くらべ今川は名門官位もあり足利途絶えれば吉良が次吉良が絶えれば今川がと言われるほどの家柄
ご機嫌伺いにいく意味が見当たりません、数名でいくならまだしも中核家臣団に大軍率いていくのはただことでなし
三好も軍事力による傀儡政権なのでそんな威力上洛させて見過ごしたら自政権の崩壊を招きますし交戦必須はかと思われます
信長も数名上洛のときは相手にされませんでしたが軍隊率いていけば交戦するはず現に軍隊率いていったら戦いましたし義昭
要していたので義昭の意見で三好一党害されると思い交戦したかもしれませんが信長は再三通り道義昭上洛を唱えていき三好も六角
組んで防いでいます、自分らが政権ゆずるならまだしも六角組み込んでまで軍事背景にした上洛軍をいれるわけにはいきませんでした
なのであの時の今川の上洛は大軍有してのこと戦闘は必須かと。
55 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 03:46:20
今川義元は織田信長をあまりにもなめすぎ油断したそうです。
北条氏康だったかな?あれでは死にに行くようなものだと言った
そうです。
もし桶狭間で織田に勝ったとしてもこれでは天下は取れそうも無い
ような気がします。
>>54 どうでもいいけど、人に読ませるために書いてるんなら、
もうちょっと句読点、改行について留意した方が良いよ。
あまりにもひどい。
>足利途絶えれば吉良が次吉良が絶えれば今川がと言われるほどの家柄
よく見かけるセリフだが出典が不明。俗説か?
58 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 12:44:05
昨日、杉並区の観泉寺に行ってきました。
メトロ丸の内線の荻窪駅から歩いて行きましたが、西武新宿線の井荻駅から
の方が近かったようです。
59 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 12:47:51
今川本家は明治に絶えたが、品川家の子孫はいまでもいるのだろうか?
60 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 14:55:01
>>54 謙信は義輝に御下命あらば我が兵で三好勢(3万)を打ち破って見せましょうと
進言したようだが、義輝は決心がつかなかった。
結局、謙信の帰国後に松永弾正の謀反でお陀仏。
61 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 16:02:59
>60
謙信上洛したとき手勢恐らくすくないのでその次点は無理でしょうしもしそれが三好に漏れたら
謙信京からでられないはず、あとそのときは足場固まってませんし討伐出兵したら自国の守りが
手薄になるので危険なのでは?越山と違ってはるかに距離もあるし義輝も無理だとわかりつつ、謙信も儀礼だと思います。
62 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 16:49:12
今日の風林火山で谷原義元初登場。
自信過剰な謙信なら、5000も手勢がいれば三好くらい一ひねりと思ったのかもしれん。
三好もにわか政権だからな。基盤は決して強くない。
携帯厨だろ。
66 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 09:32:12
一応歴史的な流れを見ろよな
ついこの前まで畿内で大軍勢が西軍東軍とか言いながら入り乱れていて
そこで一応の勝者であったはずの大内があまりにも中央に干渉しすぎてしまって
国許での求心力を失い尼子やら陶→毛利に乗っ取られてしまっている状態だ
結果大大名達は中央政治に口を出さなくなってしまって三好さらには松永が中央でやりたい放題
北面の武士である朝倉ですらすぐ近くにある京都へは信長がのさばるまで不干渉を貫いてるだろうに
67 :
○「本能寺の変、425年目の真実」:2007/02/05(月) 10:20:08
というか、天下をどうすれば統一できるか?
の発想が戦国初期には無かったのでは?
そのうち足利将軍がなんとかするだろう、くらいにしか。
○「人大杉」人多すぎ状態を何とかするべし。
自由に書き込めないだろう。
68 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 10:37:39
足利将軍・・天下を統一したいが無力
戦国大名・・自分の領土を拡げたいだけ
もし今川義元が尾張を併合し、武田・北条との同盟も守られ
史実どおり道三・義龍も死に美濃も手に入る
その段階で足利義輝が上洛を要請、三好・松永を駆逐すれば
今川の天下も夢ではない
足利義元と改名して第二次足利幕府が成立
>>66 もともと中央政治に口を出せる格の大名はごく一部。
70 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 12:52:32
ってかな
よく勘違いされるんだが
戦国時代=全ての大名が天下取りを目指していた
というのが大間違いなんだよ
信長ですら義昭が包囲網とか余計なことをしなければあのまま畿内を治めて
すげーじゃんで終わったのにな
実際に秀吉が統一を急いだのは外敵要因じゃないかと言われておりまして
各地方大名が勝手にポルトガルなどと交易をして利益を上げていたので
それを独占したいとおもったということらしい
それを江戸時代に鎖国という政策で完了するわけだが
71 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 13:46:03
名門の今川なら朝倉や北畠、六角もすんなりと従ったかもしれないし
案外上洛は早くできたかもね
72 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 13:47:23
>>71 今川が上洛をするメリットは?
義元上洛中に国許で何か起こる可能性が高いのに
上洛するほどのメリットはあるのかね?
三好と一戦なんてのは、信秀の代から
ちょっかいだしてくる織田を黙らしてからだろ。
京に行くかやっぱやめるかは尾張をおとしてから考えればいいこと
尾張をおさめることの延長線に上京や天下がみえてくる
74 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 14:37:34
尾張を落としたら美濃・近江へ進むのか、それとも伊勢・伊賀へ進むのか。
75 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 17:23:14
駿河・遠江・三河・尾張ここまで領土化すれば
一国しか領土が無い大名はすり寄ってくる
それに室町時代の価値観では今川は家柄がいい
有力な武田・北条が同盟国、毛利・長宗我部とは家格が違う
一時的には今川の覇権はあるだろう
76 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 18:12:21
で、無能な氏真を隠居させて元康が継承、今川元康として覇権を握ると。
77 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 18:20:13
>>75 すり寄ってはこないよ
義元死亡で崩壊というシナリオだろ
大丈夫!氏真は優秀
79 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 19:51:08
元康が今川元康になって、結局、史実どおりの江戸時代になりそうな・・・
80 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 20:08:52
元康なんて最前線で流れ弾に当たって終わりでしょ。
元康だと氏真の子供の代あたりに外戚として権力握ってそうだな
執権北条氏のようなポジションというのも面白い気がする
まぁ元康は有力外様ぐらいだろうな
せいぜい三河先方衆の旗頭程度だろ。
84 :
日本@名無史さん:2007/02/06(火) 10:21:07
もし尾張に影響力を残せる形で義元が死んだとしても
氏真の代になれば統率力を見せねばならず
反抗した勢力を叩き潰して当主の座をアピールせねばならんのだが
実際跡を継いだ氏真の所業を見ているととてもそういうことは下手っぽいんだよね
85 :
○「本能寺の変、425年目の真実」:2007/02/06(火) 10:51:45
○今川義元はかなり学問をし、外交能力はあったと思われる。
が、実践兵法は苦手だった。
○東海地方を制しても、北条、武田がいる以上、簡単に京都には進めない。
上杉謙信が軍とともに一度京都に行ったが、将軍に会っても何も出来なかった。
○人大杉状態をなんとかするべし。自由に書き込めないぞ。
86 :
日本@名無史さん:2007/02/06(火) 10:57:08
>>85 京都に進めないんじゃなくて
京都に行っても意味がないってことだ
謙信もそうだろ?大義名分がいるんだよ
義元がもし桶狭間で死ななければ
義昭奉戴を名目に上洛することも可能だろう
そして自分は副将軍になって事実上の天下人として覇を唱えるだろうが
息子の代まで睨んでというほど長期間地元を離れていたら
まちがいなく地元豪族が独立反乱を起こして帰る場所がなくなるだけだ
ただの負け戦じゃなく総大将が討たれた
義元の影響力より信長の影響力が残ったんよ
88 :
日本@名無史さん:2007/02/06(火) 16:53:57
>>86 ○天皇、将軍がいる京都に行くこと自体に意味がある。
○駿遠三三カ国程度の大名が独力ではるか彼方の上方に遠征するなど自殺行為。
○管領、管領代ならともかく、副将軍なんて今川には夢の又夢。
○もし仮に長期間副将軍として天下に覇を唱えられるとしたら、
そのころには上方に数カ国の地盤が出来ているだろう。
駿河に帰る必要なし。
○人大杉状態をなんとかするべし。自由に書き込めないぞ。
89 :
日本@名無史さん:2007/02/06(火) 16:58:10
>>88 今川家は過去に副将軍を輩出しているので
義元も状況が許すならば当然副将軍にはスムーズになれますよ
90 :
日本@名無史さん:2007/02/06(火) 17:46:15
>○駿遠三三カ国程度の大名が独力ではるか彼方の上方に遠征するなど自殺行為。
これ以上の国力を持ったヤツってかなり限られるだろw
まあ中央になんの根回しもないまま上洛したところで意味がないからする必要もないわけだが
91 :
日本@名無史さん:2007/02/06(火) 18:36:34
独力はツライね、副将軍になっても制圧地維持する軍事力ないし半農兵できてるだろうから
長期はいられないだろうし、外交がおざなりすぎるんだよね役職もらっても他の追随ゆるさない
軍隊いるしあと謙信上洛はほぼ数十人でいったので三好追い出すはあそらくはったり
武田と揉めてたしそれそのまま兵隊つれてったら自国危険武田の信濃侵攻やめさせてくれって
いいに京までいったようなこと聞いたな。
携帯厨読みにくい
93 :
日本@名無史さん:2007/02/07(水) 11:32:21
春だねえ
挨拶周り程度の上洛なら、少数で行けば済む事。信長も謙信もやっている
日本古来からの政治経済の中枢を抑えるような展望が無ければ、本国から離れた長期遠征なんて馬鹿げているだけ
95 :
日本@名無史さん:2007/02/07(水) 11:47:30
>>94 しかもその馬鹿げていることをずっと応仁の乱と称してやり続けて
そのすぐ後の時代だからなおさらアホらしいんだよな
だから戦国時代=だれもが天下を狙っていたなんて嘘は撤廃して欲しいもんだ
>だから戦国時代=だれもが天下を狙っていたなんて嘘は撤廃して欲しいもんだ
そんな当たり前のことを今更・・・。
お前自身が最近嘘だってようやく気付いたんだろう?
バカマルダシ
尾張を落としてから長期的視野で天下をねらえばいいだろ
すぐに大軍で上洛してどーのこのじゃない
それがわからん義元でもないよ
98 :
日本@名無史さん:2007/02/07(水) 12:25:55
>>96 つまりおれがいいたいのは
今川家が天下狙ってたってのもその嘘の中に含まれるって話だ
普通に尾張攻撃だろ、平定すら危うい
織田家に絶対的勝利を得て知多半島以東を確定させたかっただけの戦いだってことだ
天下取ろうなんていう途方も無いことを考えつくほうが異常で、さらに実施する人間は稀
天下を統制する中央政権が没落したからこその戦国時代
価値の暴落を見たものを、再び苦労背負い込んで再生させようとは思わないだろうな
地方割拠が目標だったんじゃないか
>>98 いや、そんな当たり前の話を、わざわざ書き込むと。
あたかも最近知ったばかりの知識を喜んで披露しているようで恥ずかしいよ、
ってことだと思うが。
まあまあ
103 :
日本@名無史さん:2007/02/08(木) 08:52:14
春だねえ
104 :
○「本能寺の変、425年目の真実」:2007/02/08(木) 10:33:19
○人大杉、ひと多すぎをなんとかするべし、
自由に書き込めないだろう。
○桶狭間で今川義元が逃げ遅れたのは、地酒に酔っていて馬に乗れなかったから。
と推測、
105 :
日本@名無史さん:2007/02/08(木) 10:37:52
大軍を上洛させて将軍を廃立して天下に号令・・大内義興が試みて失敗
それ以降は地域割拠主義が主流、頭の良い毛利元就も上洛しないように遺言している
今川が上洛するとすれば力の誇示と尾張守護の公認を求めるためだろう
天下を獲ろうとした信長は壮大な馬鹿かもしれない
106 :
日本@名無史さん:2007/02/08(木) 10:44:53
>>105 信長も別に天下を狙ったわけじゃないだろう
中央の争いに参入して気がつけば勝ってしまっただけの話だ
実際どういう形で天下を治めるかすら構想する前に死んでしまうわけだが
>>106 天下を狙ってたでしょ
天下布武の印を用い、他の大名が無視した足利義昭を奉じる。そして全国の大名への影響力の行使
例えば島津大友間を調停したりとかね
もし信長がその気なら、それこそ中央なんかに進出せず本貫地尾張の周辺に固執したはず。旧今川領という格好の餌があったことだしね
天下統一前に死んだ信長が天下人とされるのは、天下統一(一統)という構想をぶち上げて実際にその道筋をつけたからだよ
極端に言えば秀吉や家康、果ては信玄や謙信といったライバル達の天下志向は信長の後追いに過ぎない
108 :
日本@名無史さん:2007/02/08(木) 12:01:56
>>106 美濃を取ってから、「天下布武」などと言い出してるが?
俺的には今川のイメージって志村けんのバカ殿なんだよw
>>105 >大軍を上洛させて将軍を廃立して天下に号令・・大内義興が試みて失敗
大内が天下に号令しようとした??
111 :
日本@名無史さん:2007/02/08(木) 14:16:28
信長は三好党との政権争いには参加したが天下という明確なビジョンは持ってなかったじゃん
義栄追って義昭を15代将軍に据えたまではよかったが幕府の官職一切もらってないし
しまいにゃ義昭と対立して袂を分かってるし
そんなに信長が天下を取りたかったならばそれに向けての軌跡があるはずだか全然見えないんだが
まあ一応朝廷の官位は上がってるがそれくらいじゃね?
それも秀吉と比べて別段早い速度でガンガン上がってるわけでもないしなあ
112 :
日本@名無史さん:2007/02/08(木) 15:02:39
113 :
日本@名無史さん:2007/02/08(木) 18:07:06
信長は義昭を擁して天下に号令するつもりだったが
義昭が逆らったので自分が天下人になるしかなかった
義昭に味方するものを滅ぼしているうちに
本人のもくろみ以上に巨大になってしまったと思っている
大内義興は将軍を擁して上洛しているだろう?
足利義稙を山口に保護、1508年に義稙を奉じて上洛
将軍足利義澄を追放し足利義稙を将軍職に復し、
管領代・山城守護として11年間、幕府を牛耳っている
その間に地元の中国地方では尼子経久が台頭した
信長は尾張・美濃・伊勢の守護になったのかな?
114 :
日本@名無史さん:2007/02/08(木) 18:11:06
号令するつもりがあたら管領なり副将軍なりやってるさ
本人は幕府要職をことごとく断ってんだぞ
>本人は幕府要職をことごとく断ってんだぞ
これがどういう事を意味するか足りない脳味噌フル稼働して考えて見ろ。
116 :
日本@名無史さん:2007/02/08(木) 18:30:06
>>115 おまいこそよく考えろ
将軍奉戴して上洛してるのに要職についてないんだぞ
117 :
日本@名無史さん:2007/02/08(木) 18:49:05
>>116 だったら信長は義昭や足利幕府のために無料奉仕したのか?
家臣や同盟者(徳川・浅井)も慈善事業に付き合ったのか?
要職につかないことはむしろ恐ろしい野心があったからではないのか?
幕府の役職を辞退したのは信長が謙虚な人間だったからですw
信長は足利義昭公の忠臣ですw
>>113 で、大内義興が天下に号令しようとしたと?
大内程度がそんなこと出来るわけないし、義興程の人物がそんな夢想家なわけないじゃん。
ただ将軍を擁立しで細川よりもしたの、でも分不相応な管領代を褒美にもらっただけだろ。
東海の信長が、わざわざ他の大名から総無視喰らった義昭を助けてわざわざ畿内まで出張る時点で何の意志も無いと考えるほうが無理でしょ
121 :
日本@名無史さん:2007/02/09(金) 09:16:26
中央の政争に参加して一旗上げようとは思ったと思うが
天下を取るっていう意味ではなかったと思うよ
122 :
日本@名無史さん:2007/02/09(金) 09:20:14
つ天下布武
123 :
日本@名無史さん:2007/02/09(金) 09:44:46
幕府に取って代わろうとするのを天下取りと仮定するならば
そういう思想なりバックボーンがないといかんわけだが
そういう学問なり思想なりが蔓延してたと思うか?
将軍の首を挿げ替えて影響力は持っただろうが信長自信が幕府を作るとかという構想はどこにあるんだ?
一旗上げるのが目的なら、それこそ中央に出て行くなんていう難儀なことしないで地方でブイブイ言わせてればいーじゃん
わざわざ北に本拠地変えたり、岐阜という大陸の故事に倣った改名したり、天下布武の印を使い出したりその意志を感じさせる証拠が多い
だいたい天下取り=幕府と限定している理由がわかんね
125 :
日本@名無史さん:2007/02/09(金) 09:56:34
>>124 当時の価値観からして武士が天下取るのは幕府だろ?
だから信長は義昭を将軍に据えるために上洛したんだろ?
それ以外での天下取りというのを当時の価値観を鑑みて示してくれないか?
>>125 秀吉は武家関白っつーことで天下を取りましたが
平清盛という前例もあるし、幕府だけなんていうのはそれこそ狭い視野じゃないか?
127 :
日本@名無史さん:2007/02/09(金) 10:03:31
話を整理してみてくれよ
信長がわざわざ総すかんくらってる義昭を連れて上洛して将軍に就けたってのが天下布武なんだろ?
後で義昭との関係がこじれるのは置いといて、これで信長は天下取ったという認識だろ?
幕府を否定するのは現代人の感覚だからであって当時はやはり幕府=天下だったんじゃないのか?と問うているわけだが
まさか義昭なしで勝手に山城周辺に軍勢がいるからといって天下人とは認識されんだろうによ
>>127 いや、それはおかしい
「信長公家一統の政道、五百年以前の如く申し行うべきの由、存じより候」(三条西実澄書状)
当時の公家の書状だが、公家と武家の統一政権への期待を表している
そもそもその幕府の将軍を追放したのが信長だしね
天下布武は別に義昭奉戴の上洛限定のスローガンじゃないでしょ
その後も使ってるわけだから
むしろ晩年に使い出した龍の印章から、中国式の主権者を志したんじゃないかって説もある
130 :
日本@名無史さん:2007/02/09(金) 10:16:49
易姓革命で織田王朝か?
131 :
日本@名無史さん:2007/02/09(金) 10:22:44
白熱した議論が展開されていらっしゃる中、非常に申し上げにくいんですが
ここは今川スレですので信長の天下布武につきましては信長スレでお願いできないでしょうか?
三官推任を蹴った信長だからなー
あるいは三官兼職という日本史上に無い地位を狙ったのか
単純に「天下の儀も御与奪」と伝えた息子の信忠のほうを出世させて欲しかったから自分の昇任はスルーしたのか
旧来の官位に拠らない権力基盤を作ろうとしたのか
まぁ、想像の世界だよな。本人が政権構想諸共灰になったんだから……
133 :
○「本能寺の変、425年目の真実」:2007/02/09(金) 10:26:36
○人多すぎ状態を早くなんとかしてくれ。自由に書き込めないぞ。
○上杉謙信は一度軍を率いて京都に行っただろう?
しかし将軍が煮えきらず効果は無かった。
むしろ、その教訓から、武田、北条を滅ぼして、大勢力になった方が
天下を統一できると考えていたような感じだ。
134 :
日本@名無史さん:2007/02/09(金) 10:47:42
こらこら
謙信は関東管領だから関東にこだわるんだろw
そういえば義元って幕府の官位はなんか貰ってたのか?
136 :
日本@名無史さん:2007/02/09(金) 11:04:57
つ 駿河守護
駿河守護が、関東公方・管領の敵である後北条と同盟組んで東日本で猛威を振るう、か
幕府権力なんて形式だけのものだね
分国法でも「オレ(義元)の力量でこの法律やるんだぜ」と豪語してるし
138 :
日本@名無史さん:2007/02/09(金) 12:15:57
>>127 >信長がわざわざ総すかんくらってる義昭を連れて上洛して将軍に就けたってのが天下布武なんだろ?
×
>後で義昭との関係がこじれるのは置いといて、これで信長は天下取ったという認識だろ?
×
>幕府を否定するのは現代人の感覚だからであって当時はやはり幕府=天下だったんじゃないのか?と問うているわけだが
×
>まさか義昭なしで勝手に山城周辺に軍勢がいるからといって天下人とは認識されんだろうによ
×
0点。
家柄もいい義元だから
天下を狙っていたかもしれんが
上洛すれば天下をとれるものでもなし
それこそ孫の代までかかるだろうし
中央が混乱してる時こそ地元をおさめなければなるまい
「天下を取る」という言葉のもともとの意味は
「取る(盗る)」じゃなくて「摂る」、
「てんか」とは殿下、転じて摂政や関白のことで、
早い話が「(中央の)政務を摂る」という意味だったんだが、
いつしかまるで横から天下をつかみ取りするみたいなイメージになっているな。
これも司馬遼太郎が売れて以降の影響か?
>133
上杉謙信が天下統一?アホらし。
戦国大名はみんなチャンスがあれば天下を狙っていた、
なんてのは後づけの思い込みに過ぎないよ。
143 :
日本@名無史さん:2007/02/09(金) 20:11:44
チャンスがあれば狙ったろ
チャンスがないだけで‥
誰でも天下を狙ったというのは違うと思うが
誰も天下を狙ってないというのも違くないか
>>141 信長曰く 「天下布武」
司馬遼太郎は全然関係ないね。
>>144 とりあえず司馬遼って言ってみたかったんじゃないの?
なんかこういう人時々いるよね。ちょっと歴史をかじると司馬遼をやり玉に上げたがる人。
司馬遼なんて有名だけど小説家にすぎないのに。
武田騎馬隊
鉄砲三段撃ち
司馬遼太郎
天下統一
>>144 信長の天下布武ってのは、
天下を正すため武断政治を行なうって宣言しているんであって、
足利幕府の実権を横から奪い取ってやるぜ、って言ってるわけじゃないでしょ?
結果的にはそうなったけれど、最初からそういう意図が当たり前のようにあったようなイメージが定着しているのはどうして?って話をしたつもりなんだけど。
>145
別にやり玉になんか上げてないのに、その頓珍漢な反応は何なのかと。
言うまでもないことだが、
売れっ子作家の影響は決して小さくないよ。
信長や秀吉に限らず、世間で思ってる歴史上の人物のイメージなんて
ほとんどが物語からのものだしね。
こっちはただ司馬遼太郎が乱世史観にというものに基づいてその手の小説を書き、
しかもそれがバカ売れしたのは事実で、その影響は大きいんじゃね?
って言ってるだけ。
違うってんなら乱世史観がここまで流行った他の原因を教えてくれよ。
149 :
日本@名無史さん:2007/02/09(金) 23:20:11
↑
コーエー信長の野望ハンドブック&武将ファイル
150 :
日本@名無史さん:2007/02/10(土) 03:28:49
信長の父が朝廷に莫大な献金をしていたり、朝倉が見向きもしなかった義昭
を擁して上洛など、他の領土を拡大したいだけの戦国大名?とは違うだろ。
151 :
日本@名無史さん:2007/02/10(土) 06:49:39
杉並区の青梅街道の「八丁」交差点付近が今川家陣屋跡(遺構は無し)
とのことで、そこへ行ってきました。
八丁交差点から北(観泉寺の方)へ続く道を100mくらい行くと、
東西方向の続く谷があります。
現在は完全に宅地化されていますが、地形がはっきりと残っています。
これは陣屋の堀の遺構か、陣屋ができる前から谷があったのを堀として
利用していたのではないかと思います。
陣屋と距離が近いので、この地形は防衛線として利用しないはずがないと
思います。
・・・ということを想像しながら、その近所を散策してたら、楽しい気分に
なってきました。
今川義元の義の字は将軍義晴の一字を貰ったものだが
中央情勢に対して何か活動したって話は聞かないね
使者ぐらいは送ったりしてたんだろうか?
氏真には一字もらってやろうとしなかったのだろうか?
154 :
日本@名無史さん:2007/02/10(土) 16:58:47
足利将軍家の権威は没落の一途を辿ってるから
わざわざ一字貰う意味はないと思ったんじゃないの?
155 :
日本@名無史さん:2007/02/10(土) 19:39:45
もらう前に義元が死んだんじゃないのか。
しかも、そのあと幕府も義輝が殺されて空位時代が続いたし。
もし貰ってたら「輝元」になってたのかな?>氏真
義真じゃね?
158 :
日本@名無史さん:2007/02/10(土) 21:02:27
氏真って誰から一字もらったの?
159 :
日本@名無史さん:2007/02/10(土) 21:11:55
氏は今川家の通字だろ。
160 :
日本@名無史さん:2007/02/10(土) 21:49:54
そういえば北条も氏康・氏政・氏直だな
161 :
日本@名無史さん:2007/02/10(土) 22:05:49
伊勢長氏→北条氏綱→北条氏康→北条氏政→北条氏直
今川氏親→今川氏輝→今川義元→今川氏真
武田信縄→武田信虎→武田信玄→武田勝頼→武田信勝
ん?
163 :
日本@名無史さん:2007/02/10(土) 23:36:38
何で義元ばかり「義」が付いて「氏」が付かないの??
164 :
日本@名無史さん:2007/02/10(土) 23:36:48
信玄は出家後の法名で、イミナは晴信だろ。
165 :
日本@名無史さん:2007/02/11(日) 00:06:14
「氏」を付けないで「義」にしたので、義忠・義元と…。
166 :
日本@名無史さん:2007/02/11(日) 08:47:30
俺の家系は、
不明→善次→庄三→龍應→英輝→俺
名前に一貫性が無いです。
168 :
日本@名無史さん:2007/02/11(日) 11:44:34
今川義元は出家していたぐらいだから嫡子ではないんだろうな
後継者争いの内戦に勝利して国主になったなら実力派だろ
信玄・・父を追放、謙信・・兄を追放、信長と政宗・・弟を粛清
みんな似たようなものだが
正室腹だったから周りがお膳立てしてくれた。
170 :
日本@名無史さん:2007/02/14(水) 09:14:45
>>168 あんぐり
兄貴がだれかも知らんのか。。。
義元のアニキ?
雪珍とかいう香具師だろ?
くぐったら今川氏親だてよ
ウィキによれば享年27さい
実子がいないため弟達の花倉の乱へと
まずは大河ぐらい見てから来てくれ
テリー伊藤は雰囲気でてたよな
175 :
日本@名無史さん:2007/02/15(木) 11:05:38
大河や映画、小説、漫画、ゲーム、通説という所から
スタートするからどうしても、あの義元のイメージが
刷り込まれてしまうよね。
負の印象の原因追及したり(恰幅がよかった+公家風→
デブ+ぷよぷよ→馬に乗れないほど短足 みたいな)、
一級資料を基に復元したり、当時の常識や風俗をふまえれば
なかなかの武将だったってことが分かる。
因みに公家顔の殿様=無能でヘボいってイメージは、
かなり志村けんのせいだと思うw
なんでも雪斎の功績にしちゃうのは、徳川史観の影響?
177 :
日本@名無史さん:2007/02/15(木) 13:48:51
徳川史観というか後世の人間からみたら雪斎死後衰退してしまうから余計にそう思えるんだろうが
雪斎が生きていてもいつかはそういう流れになるんだがな
直江とか鍋島とか秀長人気と似たようなもんだとは思うけどね
雪斎は家康の師匠(この時点で史実的にすげー疑問だが)
今川が強かったのは雪斎のお陰、つまり雪斎の弟子である家康が優秀でかつ今川家に取って代わったのは当然!
…ってな感じか?
っていうか、義元個人の功績って何?
180 :
日本@名無史さん:2007/02/15(木) 16:54:20
義元個人の功績ってか
当時は血統だけでも重要な要素だからなあ
今では信長や秀吉の功績になっているものも配下のだれかの功績だろうし
明治維新くらいまで近代だとそれが如実に記録で残っているから伝わっているだけの話だし
人間は社会的な動物なんだから、
個人だけ切り離してその功績はなんて言い出したって始まらん。
裸一貫で成り上がる奴だって誰かしらの世話にはなる。
仮に義元の智謀が全て雪斎だとかいっても、
その雪斎の意見を取り上げて実行するのは義元の裁量。
>>雪斎は家康の師匠(この時点で史実的にすげー疑問だが)
家康の器量を見込んだ義元が後々のことを考えて
雪斎に今川万歳思想を刷り込んでもらうつもりだったんじゃないかと思えてしまう
183 :
日本@名無史さん:2007/02/15(木) 18:13:35
雪斎って坊主のくせに、なんであんなに強いの?
184 :
日本@名無史さん:2007/02/15(木) 20:02:46
>>179 ない。義元は先進的な大名家の正室の子として生まれただけ。
東をかためて西にのばせるようにした
わりとまともな戦略じゃん
186 :
日本@名無史さん:2007/02/15(木) 23:21:28
母親の寿桂尼の存在も大きかったんじゃない?
信玄も彼女が死ぬまでは手を出せなかったわけだし。
桶狭間は軍事作戦に問題があったんかいな?
だとすれば雪斎は軍務的に重要だったのかな?
義元は内政や外交は強くても戦には弱いタイプのイメージ
お家騒動が年中行事の今川家で24年間主を勤められているんだから、立派なもんじゃないの?
189 :
日本@名無史さん:2007/02/16(金) 00:05:56
>183
同意だね、まさに天才ってやつだね歴史において時折現れる人物こういう奴
みると神とか仏とか信じれるね人を作ったといわれる者に、けど義元配下に
岡部とかの猛者心服(当人義元の首もちかえてった)させてたし、雪斎の策かもしれんが信虎退けたし
北条とも戦ったしなにより軍事二万の大軍を維持動かせた時点で総合的な戦下手とは一語にいえないのでは、数に勝るもの
ナシっていうし戦術戦略云々より油断だと思うけど?
190 :
日本@名無史さん:2007/02/16(金) 01:51:38
雪斎は小豆坂で織田信秀も叩いているし、信虎も手玉にとったところを
併せて、想像を絶するスーパー和尚だ
>>188 義元が当主になってからは対抗馬はいなかったような。
有能な人材を活用するもの能力のうちでしょ
雪斎が亡くなってから桶狭間が起こるまで今川の勢力は拡大の一途だったんだから、なんでもかんでもっていうのは疑問
よく考えれば三国同盟はすべて滅亡だな
194 :
日本@名無史さん:2007/02/16(金) 17:57:27
>>192 雪斎が死んでから桶狭間までに今川を傾けることの出来る当主がいたとしたら、
そいつは世紀の大暗君だろうね。
領国においては伝統的な安定君主、東と北は同盟国、西は自分の足元も固められないお漬け物。
これほど恵まれた大名もめずらしかろう。
195 :
日本@名無史さん:2007/02/16(金) 18:34:00
一応三国同盟も盟主的存在だしな
そうだっけ?一番弱かった(武田を攻めては大敗、北条に攻められては
武田の援軍のお蔭で何とか戦線を支える)のが今川だと思うが・・・。
自国の安全のためには三国同盟しかなかったんだよ。
当初
今川・北条VS武田 武田に勝てない
↓
義元と武田の娘がケコーン
今川・武田VS北条 勝てないと見るや婚姻政策 しかし北条ブチキレ
どっちと組んでもどっちかに怒られる。そして被害を被るのは今川。
だから雪斎は頑張った。
双方相手に勝てなかったから同盟になったんでしょ
もし今川だけが突出して弱かったら潰されてるよ
そういうのは1対1の関係の場合。
1対1対0.5の三つどもえの場合は1+0.5対1となるか、
0.5対1+1で強者が弱小を分け取りにするかだよ。
どっちにしろ主戦場は駿東で一番困るのは今川。
200 :
日本@名無史さん:2007/02/17(土) 13:59:23
>>199 数値化で判断するヤツw
ゲームのしすぎじゃね?w
数値化するのはいいのだが、あまりに大ざっぱ過ぎだな。
ゲーム厨と思われても仕方ない。
202 :
日本@名無史さん:2007/02/17(土) 20:57:23
あんなのが数値化って・・・
ゆとり世代か??
一対一っつーのが数値化ですかねw 斬新な発想だわ
11対11でボール蹴り合うゲームはどうなんだろうね
こんなこと言ってる時点でゲーム厨ですかw
数字が出てくると即数値化=ゲームと思い込んでしまう子なんだろう。
可哀想だからそっとしておいてあげて。
205 :
日本@名無史さん:2007/02/18(日) 12:16:42
石高や、内政の改革度を見たら今川は北条についで二番手で、未だ信濃も制圧しきれなかった武田が一歩劣るように見えるが
実際に武田の対今川援軍は当主自らが参陣しなきゃいけない清洲同盟の徳川状態
206 :
日本@名無史さん:2007/02/18(日) 17:31:12
>>205 今川は甲斐一国すらろくにまとめ切れてなかった武田に負けっぱなしだよ。
清洲同盟で例えるならば、長篠まではるばる救援にやってきた信長=信玄、
武田に攻められて顔面蒼白の家康=義元だね。
信長は家康を外征にこき使っていたが、義元は自分が攻め込まれたときに信玄に助けてもらっていたんだよ。
北条に一方的に本領を侵略されて、信玄自ら救援に出陣しなければ立ちゆかない今川なんて、
お荷物以外の何ものでもないね。
そういえば、今川義忠討ち死に以降、今川の当主ってあんまり戦場に出てなくね?
駿府を出陣しても戦場まで行かなかったり。
今川は公家だからな
209 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 10:03:53
大体伊勢氏を支援して伊豆を乗っ取られてしまうのがねえ
そこで伊豆返せって戦争仕掛けて負けてる時点でダメダメだな
対武田はまああんなもんだ
なにせ尾張一国もまだ手中に収めていない対織田ですら決定的な勝利を
得られてないんだからな
織田は尾張一国も統一していなかった時代でも
美濃や三河にちょっかい出してるよ。
信秀時代は結構強かった。
211 :
○「本能寺の変、425年目の真実」:2007/02/19(月) 11:03:33
○人大杉状態を何とかするべし、自由に書き込めないぞ。
○桶狭間の油断が言われているが、当時は夜襲を警戒して、夜酒を飲まなかった。
むしろ昼間に飲んだ、とかいう話が出始めたな。
となると、別に油断でもなくなるが、、、むしろ警戒線の問題か。
212 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 11:32:48
強かったのに尾張もろくに統一できなかった信秀と
弱い(?)のに遠江と駿河をがっちりキープできていた義元?
なんか矛盾してねーか??
213 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 11:58:43
>>212 身分の差
アホでも二世三世なら簡単に国会議員になれるし
有能でも学歴も家柄もなければ難しい
>>212 織田信秀の家系がどのようなもので、信秀がどのような立場で動いていたのか調べましょう。
215 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 12:46:28
今川家ってまさに華麗なる一族だよね
216 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 12:47:10
>>214 そっとしといてやれよ
尾張の国主が歴代織田家世襲だと思いこんでるんだろうからさw
217 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 14:47:58
花蔵の乱はあっさり終わったように見えて、実は結構根深いよ
義元の戦歴のほとんどは既存の領国内での反乱鎮圧ないし粛清で、外部に介入できるようになったのは結構後
そのやり方も、前代までの侵攻路線からパトロン化(松平氏の保護・川中島合戦では今川からの支援物資は荷改めしないように、という信玄の触れが出ている)することによって間接的に安全化しようという方法
義元の力量が発揮されたのは主に内政部門なのは状況からして当然なのかもしれない
>216
おまえそればっかりだな
能無しのレスはいらん
219 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 15:29:54
斯波氏(尾張守護)
織田大和守家 織田伊勢守家 (守護代)
↓
織田弾正忠家(守護代の家老三家の一つ)
220 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 15:37:51
今川氏(駿河守護)
222 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 18:11:18
織田弾正忠家で経済に明るい信秀は当時港町だった清洲を地盤にして一気に力をつけていきます
息子信長の代に伊勢守家、大和守家、そして斯波氏すらも従えて事実上尾張統一を果たすわけです
223 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 18:15:51
ところで甲斐や駿河・遠江には守護代はいるの?
224 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 18:18:01
今川義元はそもそも今川家という駿河守護の家に生まれる
長男氏輝死後に環俗し後継者争いに名乗りを上げて花倉の乱を戦い勝利
その後も必死に内部結束を保つ努力と共にどちらかと言えば関東方面での戦いが目立っていた
北条、武田との三国同盟を結ぶに当たり東西に長い戦線を西だけに絞り三河掌握と尾張攻略に
力を注ぐも桶狭間の戦いにおいて討ち死に
その後息子氏真の代に武田と徳川に両面から攻められあえなく領地を失ってしまう
226 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 20:22:19
今川の当主っていつ頃から麻呂になったの?
やっぱり寿桂尼の影響かね?
>>226 麻呂ってなんだよ
公家風って事か?
日本史板なら正しい日本語使おうぜw
そういえば大成した麻呂大名っていないような。
東西二大麻呂(今川義元・大内義隆)両方とも末路は惨めだったしな。
>>228 大遠征して失敗し、家をぶち壊したこともな。
230 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 00:54:38
というか、麻呂なのに(大名として)生き残った大名っていないんじゃね?
京 極 家。
京極高次の息子の名は熊 麻 呂。
まさに麻呂一家です。
「京は武士を腐らせる」ってやつですな
マジレスする
今川の当主は公家で馬鹿殿のふりをしてみただけ
信長みたいなかんじで
京とのパイプ作りでしょ?
それでもあくまで結果として、公家に近づいた武家は大成しないってことで
くだらん
大内義隆卿は百済系らしいね。
武田信玄は新羅系だそうだ。
今川義元は高句麗系?
238 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 08:47:17
大内はまあ中央で権勢を振るったので公家化したと言えますね
今川の場合は義元自信が京の寺にいたことが京風文化にかぶれた理由っぽいなあ
かぶれたも何も、連歌師の来訪を受けるのは織田家でもやってるよ
公家風の衣装は家格により、元々今川家自体が京からの下向組だから当然
連歌師が来たからと言って麻呂化したとは言えないし、
今川は京からの下向組じゃないし。
241 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 10:09:21
今川家がいつ京都にいたのかと
義元は坊さん時代に京都在住だが
242 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 10:16:25
今川家は公家。
243 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 10:24:18
従四位下では微妙だな
本当に麻呂だったのか?
時代劇の見過ぎじゃないの
お公家さんが槍でつきかかってこられたのをかわして脛に反撃の斬撃飛ばしたり、首取られかけても敵の指食いちぎったりできるとは思えないわ
>>244 公家も討ち死にする時代だよ
>槍でつきかかってこられたのをかわして脛に反撃の斬撃飛ばしたり、
これは見事だが
>首取られかけても敵の指食いちぎったりできるとは
これは武将の作法ではあるまい
母親は公家の出・平和な駿河を頼って多数の公家が京から頼ってきた
そういう背景が公家化伝説の素地になってるんじゃないの?
「自分の力量で領国を支配する、旧来の特権なんて認めない」と仮名目録追加分で示した姿勢なんてもろ戦国大名じゃん
247 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 11:40:12
駿河・遠江の2国を完全支配なんて家柄が良いだけじゃ治められませんて
しまいにゃ三河と尾張に仕切りに介入してるし
ただ、合戦での活躍がないと後世マンセーしにくいのは確か
戦国武将に触れるのって、大抵が合戦物の創作物でしょ?
戦で撃たれましたが内政は良かったです、だとコアな玄人以外には見向きもされない
249 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 12:06:21
まあ通常
戦国モノといえば信長で
今川義元が出てくるとなれば桶狭間というのが定番だもんな
いきなり出てきて討たれる巨大大名というイメージが定着するのも仕方ない
内政って、贅沢三昧とか戦三昧とか、余程ひどいことやらなきゃ悪くはならないんじゃ?
251 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 12:14:53
>>249 同意。しかも巨漢の麻呂大名なんだもん。
インパクトでかすぎ。
252 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 12:31:53
>>250 このころはすでに豪族達を抑えて自分が国主であることを誇示しつづけなければならない時代だから
内政と一言でいっても内輪もめの仲裁やらで結構大変
一つ間違えば内乱だからな
実際隣じゃ信虎追放されてるしな
>>252 そればかりではなくて、今で言う「制度改革」も同時進行させなければならないし、
なおかつ「暮らしが豊かになった」という実感を持たせなければならない。
結局は、どこか別のところから金や技術を導入しないとダメなんだな。
255 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 13:28:44
そもそも義元も父と同様国内を二分する争いに勝ちあがって
しかもほぼ完全な統治状態を作って他国を併呑していく
実力を見せていた立派な戦国大名なのに、名家の流れだけで
苦労知らずに育ったみたいな見られ方をされるのが気の毒。
まあそれも今年で風向きは変わるんだろうが。
256 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 13:50:51
でも実際に今川家って
戦の数だけは多いが実入りが少ないから配下豪族は不満タラタラだったんだろうな
義元死後あっけなく崩壊したのはその辺の恨みも込みだろ
>>255 でも家督争いの頃はまだ高僧に尻穴を献上して可愛がってもらうのが務めの稚児小僧で、
まわりがお膳立てしてくれたから家督を継げたわけだし、
統治体制は氏親の頃からかたまってたし、
他国に併呑されなかったのは律儀に当主自ら助けに来てくれる武田のお蔭だし、
西に勢力を伸ばせたのは織田家の尾張統治が不安定だったからだし・・・。
結局今川義元、氏真ってのはいいとこのボンボンにすぎないんだよね。
258 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 15:44:47
信玄、氏康のような修羅場をくぐってきた武将と比べるとひ弱感はぬぐえないな。
ほとんど唯一といってもいい合戦で数に劣る織田に完敗、戦死してるという点も大きい。
>>258 そういえば、東西二大麻呂の両方とも自分ではほとんど戦場へ行かず、
珍しく自ら指揮をとった戦いで完膚無きまでの敗戦をしてるね。
義元は自分自身が戦死、義隆は養子が溺死してる。
260 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 16:56:45
今川義元・大内義隆だけ麻呂なのは不公平だ。
朝倉義景や大友宗麟は麻呂じゃなかったのか?
細川昭元や畠山高政はどうなんだ?
261 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 17:37:39
一条氏とか吉良氏とか足利氏とか北畠氏とか上杉氏とか
262 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 17:59:09
麻呂という基準がわからん
公卿の列せられていたとか京風文化を地元に根付かせたとかそういう具体的な基準がないとな
まあ麻呂麻呂いっているが、室町後期から織田信長の時代までは
荒廃した京都の文化や産業の担い手の受け皿となって
「小京都」を作ることに守護(戦国)大名たちもやっきになって
いたんだから、どうこういうもんじゃないんであって。
それで一応成功したのが今川と大内というだけ…
そうか?大名たるもの自国が栄えるような施策をとるもんだが、
べつに京都文化の受け皿やら小京都やらをつくろうとしたわけではないと思うんだが。
大内以外は。
今川だって義元母が公家の出で、その縁で時々公家が来てたようだが、
べつに小京都とか考えてないんじゃね?
265 :
日本@名無しさん:2007/02/20(火) 19:18:26
>>264 義元って武士と麻呂のハーフだったのか。
なるほど。
267 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 19:28:59
義元は麻呂は麻呂でも務めは立派に果たしていた麻呂。
大内義隆は敗戦ショックで現実逃避して家来に滅ぼされたダメ麻呂。
同じ麻呂でも、実情はずいぶん違う。
でもさあ、義元はなぜよりにもよって麻呂なんかになっちゃったんだろう?
誰か止めてくれる人はいなかったのか?
武田北条織田に松平なんかみんな秘かに笑ってたんじゃねーの?
織田「麻呂キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!」
北条「義元m9(^Д^)プギャーーーッ」
武田「( ゚д゚)ポカーン」
雪斎「義元(#゚Д゚) ゴルァ!!」
朝比奈「今川(´Д⊂ モウダメポ」
松平「チャンス!(`・ω・´) シャキーン」
なんで麻呂をマイナス扱いしているのが多いのよ
大内義隆は子供が死んだからの厭戦気分になっただけだし
そんな大名割といるだろ
270 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 21:53:48
長曽我部元親でさえ息子の信親が死んでから精彩がない
三好長慶もそうだったな
長曽我部ってなんか麻呂っぽいよね。
いい家に生まれてたら絶対麻呂化したと思う。
ところで今川氏真も麻呂だったのだろうか?
272 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 08:54:52
蹴鞠の名手に向かってなんて口の利き方。。。
麻呂ってか、当時の公家風のステイタスをバカにしすぎw
他の大名は、したくてもできなかったの。
あのころ信長や氏康や信玄が公家風にしてたら、
身の程しらずで笑いもになったからだよ。
大学生ばかりのコンパに、浪人生が参加するようなもんだ。
ちと違うか?w
麻呂呼ばわり自体がネタだろ
逆に個人資質に帰したくなるほど桶狭間の敗戦が不思議だということだ
本隊は2万5千の圧倒的大軍(公記だと4万)、伊勢一向衆を誘い国レベルの挟撃作戦を実施
実際の戦況も砦を幾つも粉砕して小勢の織田軍を粉砕。あとは清洲の信長をじわじわ締め上げるだけという状況で奇襲だから
275 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 09:24:18
それは迂回奇襲説(戦前の軍部が結果から逆算して想定)が正面奇襲説(信長公記の記述を忠実に信頼)に変りつつある程度じゃ?
277 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 10:36:14
公家だったからいくさの仕方を知らなかったんでねーの?
278 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 11:04:23
今川家は公家じゃないぞ、武家だぞ
まあそれ以前に当時は公家と武家の間に明確な区分けすらないわけだが
麻呂の実力
北畠顕家>京極高次?>今川義元>=大内義隆>今川氏真
280 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 14:27:37
正真正銘の麻呂、一条家を忘れるな
ゲームかドラマでの知識しか無いようなレベルの低い奴ばっかだな
レベルの高い
>>281氏が為になる講話をしてくださるそうです。
皆さん静かに拝聴しましょう。
いや、戦国板ならまだしも、日本史板では
>>281がいうように
レベルが低い人が多いのは確か。
それなりにしっかりした人がいるのが救い。
学問日本史板らしい良スレにしようぜ、マジで。
|:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:i;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;|
|;:;:_:;:_:;:_:;:_;:;_:;:l:;_;:_:;:_:;:_:;:_;:_;|
|______|_____|
| 三| _ _ |三 !
| 三| 三シ ヾ三 |三 |
| 三′ .._ _,,.. i三 |
ト、ニ| <でiンヽ ;'i"ィでiン |三.|
', iヽ! 、 ‐' / !、 ーシ |シ,イ
i,ヽリ ,' : !. |f ノ
ヾ! i ,、 ,..、ヽ lノ
| _ _ イ l
l ,ィチ‐-‐ヽ i /、
゙i、 ゝ、二フ′ ノ/'"\
| \ ー一 / / _,ン'゙\
,ィ|、 \ /_,、-'" _,.-''´ `丶、__
_, イ | ヽ_ 二=''" _,. -''´ """""´´ ``ー
285 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 17:48:27
今川了俊って実力派なの?
286 :
日本@名無しさん:2007/02/21(水) 17:59:52
>>285 九州の南朝勢力を一掃した猛者。その猛者ゆえに時の将軍、足利義満に疎まれた。
287 :
日本@名無しさん:2007/02/21(水) 18:02:20
>>271 麻呂ぢゃなく、かなりの戦国武将タイプでしょう。元親は小さい時にひ弱だったのでそういうイメージがあるが
実際は、身長は180以上の巨漢だったらしい。息子の盛親もね。
長曽我部元親って巨漢っつーよりやせ形じゃなかった?
289 :
日本@名無しさん:2007/02/21(水) 18:26:08
wikiソースは・・・あてにならんw
背が大きかったとしか書かれていないな。
292 :
日本@名無しさん:2007/02/21(水) 22:49:57
父によく似た剛毅な風貌を伝えている。
肖像画ミロ。 ガリヤセオタクドモ。
>>292 でかい口叩くのは元親の肖像うpしてからにしれ
デブマロヲタクメ
元親は剛毅か?w
キョトンとした顔だがw
まあ、スレチだからそろそろ軌道修正しないとな
295 :
日本@名無しさん:2007/02/22(木) 01:29:05
ここは、東の麻呂こと義元様のスレでごじゃるぞ?四国の一領具足の田舎者と一緒にされては困るのぢゃよ。おほほほほほほ。
お前ら麻呂と馬鹿にするけど、古代の坂上田村麻呂は蝦夷征討に名を馳せた
勇将だぞ
>>296 中世の今川義麻呂は桶狭間で泥にまみれながら足軽の指を相手に格闘した猛将ですが。
298 :
日本@名無史さん:2007/02/22(木) 09:28:17
えーっと。。。春モード突入されてしまってる中でブツブツいうのもなんだが
もし義元が麻呂風ファッションに傾倒していたとしても
当時はそれが上流階級の嗜みだったりそういう格好ができること自体がステータスだったし
だれかれできるものではないのでうらやましがられるわけだがな
>>298 武家の上流階級のたしなみではないだろ。
義元は従四位下にすぎず、同程度の官位の大名は珍しくない。
が、麻呂大名は多くはない。
勢力的にも今川を上回った大名は多いが、彼らは麻呂化していない。
家柄的にも今川はそれほどいいわけでもない。(例の足利絶えれば吉良が継ぎ〜ってのは出所不明の与太話)
麻呂化が武家においてもステータスだったんなら、義元級の有力大名は軒並み麻呂化してると思われ。
武士の麻呂化はただの趣味だろ。
300 :
日本@名無史さん:2007/02/22(木) 10:30:52
当時は武家とか公家の区別は曖昧
はっきり区別しなおしたのは家康が幕府を作る辺りから
301 :
○「本能寺の変、425年目の真実」:2007/02/22(木) 10:54:47
○人大杉状態をなんとかするべし、自由に書き込めないぞ。
○今川義元の桶狭間敗北原因は、織田が攻勢には決して出ないだろう、確実に篭城だろうと
いう一方的な思い込み。
これを考えるに織田重臣内部に大物スパイがいたのかもしれない。
前夜会議は篭城に決まっていたらしいし、、、
302 :
日本@名無史さん:2007/02/22(木) 11:07:13
そもそも義元が麻呂風なのは何か出典元なんだ?
303 :
日本@名無史さん:2007/02/22(木) 13:17:19
>>300 曖昧つっても、公家の家柄は固定されてたし、武家と公家の区別はあったからなあ。
まあ麻呂になっても文句言う人はいなかったんだろうけど。
304 :
日本@名無史さん:2007/02/22(木) 13:32:35
義元が輿に乗っていたというのが麻呂に繋がるのではないか?
>>298 義元は公家じゃなくて足利将軍を模倣していたんじゃないの?
>>299 >義元は従四位下にすぎず、同程度の官位の大名は珍しくない。
そうなの?義元以外に何人くらいいた?
ある程度家柄のある有力大名って大体従四位下じゃね?
義元のまわりだと武田、北条、上杉、斯波、小笠原、吉良・・・
いや調べてないからわからんけど。
309 :
日本@名無史さん:2007/02/22(木) 23:28:32
>>307 左京大夫右京大夫修理大夫大膳大夫衛門督弾正少弼
このへんは従四位下になってる可能性が高い
310 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 08:36:03
北条は従五位下だな
311 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 10:02:54
大内の方が官位高いな、従三位ぐらいだろう
足利将軍でも従四位下・左馬頭ぐらいから始まる
大内は義興が従三位、義隆が従二位
313 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 10:15:46
まあ大内は事実上応仁の乱の勝者だからなあ
あのまま地元で尼子なりが暴れなければ大内が天下取ってたろうに
官位貰うとお礼をするのが慣例になっているが、同じ従四位なのに細川高国が百貫払ったのに対して義元は二十貫
将軍家繋がりだから安くて済んだのか?w
それとも実はあまり京方面に興味はなくて、公家のほうから平和な駿河に下ってきただけだったりして
315 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 12:41:30
今川もどれくらいの想像をされていらっしゃるかわからんが
副将軍を出したこともある家柄なのでそれほど悪い家柄ではない
だが細川や畠山や斯波や吉良とは比べるべくもないがな
義元が家督を継ぐ辺りでは圧倒的に大内が一番だな
316 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 22:05:42
>>315 斯波・吉良はともかく、
細川や畠山よりは格上ではないの?
それにここで麻呂麻呂言ってるのは鉄漿のことか?
そうすると、島津家久とかも麻呂か?
317 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 11:54:32
足利家の血筋では吉良・斯波>畠山・今川>>細川その他
幕府内の権力では細川>畠山・斯波>>今川>吉良ぐらいかな
318 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 16:27:30
今川吉良ってやたらと家格がいいように言われるけど、
そのように言われる根拠とかってあるん?
幕府内ではさほどの地位や待遇を受けてたようには見えんけど。
>>318 今川範政が副将軍になったといわれているね。
もっとも副将軍は常設ではない、っていうより範政以外なった人がいない。
今川が副将軍格の家柄であったというよりも、範政に功績があり、
また関東公方を牽制するために与えられたものであろう。
足利直義と織田信長
信長は辞退したが。
321 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 19:18:45
吉良の初代は足利家の庶長子
たかが庶長子じゃん
323 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 22:32:17
斯波の初代も初長子。
324 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 22:33:23
庶長子でした。
斯波初代の母親って北条一族出身で、結構良い家ではなかったか。
326 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 11:19:57
大河の太平記では尊氏が挙兵前に吉良など三河の同族には気を使っていたな
327 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 23:15:10
>>325 庶長子・(斯波)家氏の母親は北条朝時の娘だが、北条朝時は北条氏といっても反主流派ともいえる名越流北条氏の祖。
嫡男・頼氏の母親は得宗家の時頼の妹。
家氏の母親は北条義時の孫。
頼氏の母親は北条義時のひ孫。
328 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 23:40:39
幕府の職制とは別にして、足利一門中での家格は将軍家の次が関東公方家。
次は斯波家。そして吉良家。
細川家なんて下っ端だよ。管領だけど。
329 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 23:50:49
330 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 04:05:57
斯波吉良は鎌倉の世には足利を名乗ってたしな
石橋・渋川も家格高いよね
331 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 18:26:46
尾張足利が斯波、三河足利が吉良ということなのかな
332 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 21:29:16
姓は源、氏は足利、苗字(家名)が斯波・吉良です。両家とも、足利本宗から独立した鎌倉御家人でした。鎌倉時代〜南北朝初期は足利を名乗っていました。
同様に、山名・里見も新田本宗とは別の鎌倉御家人でした。新田を名乗った記述はないようですが…
足利家氏が、陸奥国紫波(斯波)郡の地頭職を得たのが斯波家の興りです。分流に奥州探題大崎家と、羽州探題最上家があります。
三河国吉良荘を発祥とする吉良家には、今川等の分家があります。
333 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 09:36:35
斯波、細川、畠山は管領家だよね?
吉良や今川は一門衆だよね?
↑
なにそれ?
335 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 16:07:46
それにしても吉良は存在感薄いね
既に江戸時代における高家みたいな存在だったのだろうか
336 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 16:23:45
>335
何せ日本史上で吉良といえば、真っ先に出て来るのは
赤穂事件の吉良上野介だからな。
石橋とか渋川の方がまだ存在感あるような。
337 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 19:13:45
奥州や九州で勝っていればなぁ…
338 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 20:09:26
でも、9代義尚の六角征伐に従軍した幕臣たちの中に、
「吉良殿、渋川殿、石橋殿」っているから、京都に滞在してる人もいたのかな?
従軍した幕臣の中で「殿」付で呼ばれてるのは、この人たちだけだから、
まあ別格扱いとは想像できるが、やはり高家か公家みたいな存在だったのか?w
339 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 09:25:56
一門衆。。。
340 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 11:30:24
江戸時代でいえば尾張殿・紀州殿・水戸殿・会津殿みたいなものか?
いいえ。ただの雑魚です。
342 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 13:20:03
吉良は足利家内でも名門の家柄だが
今川もそういう扱いなんだっけ?
ただの吉良の分家だろ??
まあ東海道の要所を任されるだけあって信任は厚そうだが
>>338 それ一門なだけじゃね?
要職としての格では斯波、畠山、細川の三職
344 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 19:19:40
345 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 19:35:23
今川は常時在京して中央政界で活動する立場ではなかったけど、
叛服常なき鎌倉公方に対する抑えとして重要な役割を担っていた。
346 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 19:43:56
桶狭間って、良く映画とかでは織田方が後方に回り込んだりして奇襲してるけど、
実際は、そんなことなくてほぼ正面激突でしょ?
>>345 重要な役目を担ってた家は沢山あるよ。
管領、関東管領、各地の探題・・・
348 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 10:16:12
足利一門の中で
管領職と一門衆のままとだとどっちがいいと思われてたんだ?
349 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 10:27:47
管領は権力はあっても家来・格下
江戸時代でいえば大老みたいなものだろうか?
酒井や井伊はどんなに偉くても家臣、御三家や御家門は主筋
でも斯波が管領に入っているのはおかしいよな
四職は非一門の有力者が多いが、なぜか一色は足利系
赤松・京極(佐々木源氏)・山名(新田系)
大内・土岐はなぜ入らないのだろう?
350 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 10:57:43
>>348 足利の一門衆って何ですか?
いつそんなものが組織されたんですか?
役職をもらうと一門から外されちゃうんですか?
351 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 11:09:22
役職を貰うと家来になるので一門扱いではなくなります
今川範国 駿河・遠江守護、引付頭人
今川範氏 駿河・遠江守護
今川泰範 駿河・遠江守護、侍所頭人
今川範政 駿河・遠江守護、副将軍
今川範忠 駿河守護
今川義忠 駿河守護
役職もらってますが
吉良、石橋、渋川も引付頭人や探題もらってますね
354 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 13:02:15
結局のところ
斯波、畠山、細川などなどは血縁関係もついている役職からも重要な一族である
吉良(今川含む)、石橋、渋川は血縁関係は重要な一族である
ってこと?
355 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 13:22:41
>>354 そうなんだが、しかし少なくとも
細川よりも吉良今川の方が、家格は上だろうと一般には思われている。
じゃあその根拠は何?って言われると
俺はよく知らんのだが。
356 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 16:28:33
応仁の乱後なんかもう役職とかってただの権威付けだからね
義元が当主になった辺りの今川家ならば大大名だし血統は足利家お墨付きの一門だし
実力も家柄も備えた一大勢力という意味では存在感は大きいよ
357 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 17:01:27
足利本家に近い血縁・格式・伝統ということなのかな?
吉良・斯波は鎌倉時代から独立した御家人だったらしいし
358 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 17:46:40
清和源氏嫡流というものが再び価値を見出されるのが室町期なわけだが
その清和源氏の棟梁という座を河河内源氏である足利と新田が争って足利が勝つわけだ
その足利に近ければ近いほどもし足利が絶えた場合に近い方が後釜に座れるわけで
当然足利系の源氏には正式ではないがある意味足利が絶えたら吉良みたいなのがあって
それが権威に繋がっていることは考えられるだろう
実際には足利は絶えず権威を失い、新田系を称した徳川家に取って変わられるわけだがな
っていっても、血縁的にも母親の格から言っても斯波の方が上だし、
世代が離れるにしたがって足利宗家にもどんどん分家(鎌倉公方)、
あるいは分家候補(坊主)がストックされてくわけだし。
吉良ってもともと使えねー一親類でしかなかったんじゃね?
>>349 > でも斯波が管領に入っているのはおかしいよな
当初、斯波は家来筋になるからって理由で
管領になるのを嫌がったらしいよ。
>>360 それは管領(執事)がもとは公の役職ではなかったから。
執事=御家人足利家の家宰=足利家の私臣
でも息子の家長は奥州総大将(奥州管領)、義詮の執事になってるんだな。
362 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 20:39:23
管領は高帥直の後釜という意味なら身分は低く、権力は巨大なのは納得
鎌倉時代の内管領(平頼綱・長崎円喜)だと思えばいい
363 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 21:38:18
でも尊氏が将軍になることで足利氏の家政機関から天下の統治機関に変化している。
名称が執事から管領に変わった頃には内管領どころか執権に近いものになっている。
もちろん将軍権力の強さが全然違うために執権ほど権力は揮えなかったが。
なんか管領の地位を貶めたい人がいるみたいだけど、
管領は足利一門の有力家がなる幕府内で最高のポストだよ。
そんじょそこらの凡庸な木っ端守護じゃ、とても就任できない。
>>362 高師直のあとの執事は足利一門が就任している。
権力からいっても就任者の家柄からいっても、
執事の後身である管領が、身分が低いはずがない。
>>364 いや管領が強大な権力をもつ役職だっつーのはたぶんみんなわかってるんだが、
実際に斯波は最初、管領になるのを嫌がったのは事実なようだしね。
斯波がそうなら、じゃあ吉良だって、管領に「なれなかった」のではなくて
管領というポストが吉良の家柄にふさわしくなかったのではないの?
と思われるわけだ。
その辺はどうなのよ
>>365 吉良ってそもそも管領のお誘いが来るほど活躍してないじゃん。
別流の吉良氏が奥州管領で頑張ったくらい。
格の高い足利一門でも、斯波ならば奥州総大将、関東執事、執事、九州探題と引く手数多だが。
367 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 23:39:40
>>366 吉良も今川も公家だから戦で活躍しないのは当たり前。
彼らの仕事は麻呂姿でおほほほほと笑うこと。
蹴鞠が出来れば完璧。
>>366 足利の場合、徳川氏とかと違うのは
前の時代の鎌倉期に、既に武家源氏の嫡流として名門の御家人だったこと。
で、斯波や吉良は鎌倉期には足利を称して、幕府直属の御家人だったんじゃないかと。
そうすると、足利宗家の家臣となった細川なんぞとは家格が違う、って話になる。
室町期に入るとそういう区別は意味がなくなるんだが、
本人の意識としては「俺は足利家の家臣ではなく、分家なんだ」という
思いがあったと思われる。
>>368 本人にそんな意識があったかどうか知らんけど、
斯波ですらお役目をいただいて忠勤に励んでるのに、
三河の一豪族程度でしかない吉良がそんな思いを持ち続けたところで
滑稽なだけだと思われ。
370 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 06:00:52
>>364[足利一門]以外の管領もいます
鎌倉御家人ではない高(高階)家の身分は、他の守護職よりはだいぶ低かった
>>370 いない。管領と執事の区別がついていない人?
それに
>>364のいうとおり、高師直退場後、
斯波氏がなるまででも執事は足利一族しかなっていない。
それに鎌倉時代の執事と室町時代の管領は、
性質が全然違うんだから、高氏の家柄で
室町管領の身分を語るのは、お門違いもいいとこ。
>>369 滑稽かどうかは知らんけど、
もともと「家柄」なんてのはそんなものだよ。
旧華族とかと同じで、
前の時代にどのような位置にいたか、というのが「家柄」というものなんだから
そんなものは滑稽だと思うかどうかはまあ、あなたの好みの問題だが、
いずれにせよ当時、吉良家が高い家柄の一族だと思われていたことに変りはない。
373 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 09:07:14
>>372 ・吉良よりも斯波の方が功績も実力も上
・吉良よりもむしろ家柄が上の斯波でさえ各種役職についている
・実際は吉良も役職に就いている
吉良が管領になれなかったのは家柄じゃなく、単に吉良の実力不足と思われ。
実力不足で管領になれないのに家柄がどうとか頓珍漢な理由付けて自己弁護ですか。
つうか、家柄じゃなく本人たちの人格の問題だな。
ほんとに吉良家の面々がそんな自己弁護をしたのかどうか知らんが。
>>373 いやだからさあ、・・・・orz
俺は、吉良が何故管領になれなかったのか?という話をしてるんではなくて、
単に、吉良は当時、家柄の高い家だと一般に認知されていたはずだ、
という話をしてるだけなんだが。
家柄の高い・低いなんていう実質を伴わない概念が「頓珍漢」だと思うのは
何度も言うように、あなたの自由だが
少なくとも当時はそういう観念が世間一般の中に広く普及していた、というのは事実。
戦国末期に吉良と斯波の当主(何れも既に織田・今川の傀儡に過ぎなかった)が対面した時には、
実際に、「どちらが席次(家格)が上か?」で対立してるわけで。
少なくとも吉良の家格は斯波と匹敵すると思われていたことには間違いなく、
そうである以上恐らく細川よりは、確実に上だと認識されていたと思われる。
で吉良家の当主が管領にならなかった理由などは、当人が数百年前に死んでいる以上
今となっては、誰にもわからん。
恐らくはあんたの言うとおり、もしなりたかったとしても、なれなかったのかも知れん。
しかしそれと同時に、そもそも管領になりたくなかった、という可能性だってある。
(上で何度も出ているが、斯波高経は自分の家の当主が管領に就任するのを
躊躇していた、といわれている)
>>374 横からスマンが、吉良の家柄がいいことは誰も否定していないんじゃないの?
家柄のいい斯波が管領その他を務めているのに、吉良はなぜやらなかったのか?
問題は家柄じゃなくて能力だったのではないか?ということをいわれてるのに、
家柄の高さにこだわってレスしても意味がないのでは?
>>375 いや、斯波氏は最初、家格のせいで管領就任を渋ったといわれている以上
吉良氏も同様の意識を持っていた可能性は否定できない、
という話の流れだったと思うんだが、
それに対し、
>>369さんが「そんなの滑稽だ」とか言い出したので
当時の社会通念からしたら、別に滑稽ではないだろ、って俺は言ってるだけで。
実際に吉良がなぜ管領にならなかったか、なんてのは
上にも書いたように、もはや誰にもわからんだろ。
・・・ていうかここは今川のスレじゃなかったっけwww
吉良の家柄が斯波と同程度に高いことは認めるとしても、
吉良の分家である今川はどうなんだろう。
377 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 12:21:40
>>376 斯波が本当に管領就任を渋ったのかどうか知らないけど、
斯波義将の兄たちは足利義詮の執事や九州探題になっている。
世子の執事はいいのに将軍の執事は嫌なのかね?
まあ当初は「そんな役職俺がやれるかよ」って思っていたのが
ある時点で、恐らくは数年くらいの短い期間にでも
斯波高経本人含め、みんなの意識が変ってきたのだろうな。時代の推移ってそんなものだ。
しかしそれにしてもその頃吉良は何をしていたのか。
本人がどう思ってたかは知らんがボヤボヤしているうちに時代にのり後れたものと見える。
>>377 あのころの時期の執事って、高や仁木、細川もそうだけど、
権力が大きいがために、佐々木どうよとか斯波とかとぶつかることが多かったからな。
斯波も、執事になるのが嫌と言うよりも、変な肩書きがついて
有力大名たちの袋叩きになるのを恐れたのではないだろうか。
>>378 気楽な立場で麻呂遊びしてたかったでおじゃる
今は反省してるでおじゃる
382 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 17:53:56
三管領・四職というがこれは当時から決まっていたの?
後世から見て結果的にそうだっただけではないのか
吉良今川も管領になる資格はあった、土岐大内も侍所別当になる資格はあった
なった奴がいないだけではないのか
>378
斯波高経といえば、新田義貞の所持していた源氏重代の名刀を
義貞戦死後に自分で持っていたところ、
足利尊氏から「それはおまえのようなものが持つべきものではない。
さっさとこっちに献上するように」
と言われて、随分憤懣を抱いたらしいな。
本家に対するライバル心は結構露骨に持っていたんじゃないか?
385 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 18:50:55
斯波も義将以降は当主の相次ぐ若死に等で実力を失い、
管領に任命されるのも細川畠山にほぼ限られるようになったわけ
畠山も政長以降は・・だから実力がないと管領にはなれない
では家格の低い細川が何故なれたかと言えば頼之の存在が大きい
義満の時代に三管四職の家柄は固まってる
あと武家社会は「先例」が重要だったてことも忘れてはいけないね
>>376 だからさあ、家柄があったところで使える人ならば斯波見たくあっちこっちに引っ張り出されるでしょ。
吉良はろくに活躍していない。だからはなから声がかからない。
そんな声もかからん人が「俺は家柄がいいから下らんお役はやらなくていいんだ!」とか
吠えたところで滑稽なだけだといってんの。
家柄にこだわるのが滑稽だとか頓珍漢とか、曲解はやめてくれ。
387 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 19:11:58
>>382 武家社会の家格秩序というのがわかってない
江戸時代でもそうだけど一旦固まれば体制が安泰である限り
滅多に例外はでないよ
388 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 19:16:06
鎌倉時代ならば足利と吉良斯波は同じ御家人、あるいは守護として同格になるが、
鎌倉幕府が滅びて足利の世になれば、吉良斯波とその他足利一族は何の変わりもない足利一族でしかなくなるわけだ。
389 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 19:21:54
吉良って管領はおろか守護にすらなってないんじゃないのか?
今川は斯波の家来?足利の家来?
それとも独立の御家人なの?
391 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 19:25:10
室町期の家格秩序が固まった義満以前と以後は分けて考えたほうがいいよ
392 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 20:42:06
>>389 三河の守護じゃないのか?
足利一門の第二の故郷で松平発祥の地でもある
だから室町・江戸を通して名家の扱いだった
>>386 あなたの言うことには一々同意してもいいんだが
だから結局何だと言いたいの?
「俺は家柄がいいから下らんお役はやらなくていいんだ!」などと吠えるのが滑稽だ、
というのには別に賛成も反対もしてないんだが。
もし、それが滑稽だから、吉良氏はそうは思ってなかっただろう、と言いたいのなら、
貴族のプライドってのはそんなもんじゃない、とは言いたいな。
人間っつーのは大体そういう、傍から見たら滑稽なプライドで生きてるものだ。
勿論何度も言うように、吉良家の当主が本当のところ考えてたかは、誰にもわからんのだが。
>>393 吉良ごときが貴族かよw
あ、従四位だから貴族の端くれか
395 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 21:19:02
>>389畠山と一緒に奥州探題をやってなかった?
吉良は直義派(反尊氏派)だったから冷遇?
>>395 吉良といっても2家あって、奥州いったのは今話題になっている吉良と別系統。
三河の吉良の祖は長氏、奥州に行った吉良の祖は長氏の弟。
両方とも三河の吉良に領地もってたから同じ吉良を称した。
>>393 何だと言いたいのなどと今更聞かれても困る。
家格と役職の話をしてたんだが、どうやら君は話の流れなど無視して
言葉尻をとらえてかみついただけのようだな。
渋川って斯波の分家だよね?
いわば今川と同じような家なわけだ。
九州探題とかやってたはずだけど、その後どうなったの?
>386>398
横レスだけどさぁ、
あんたの「滑稽だ」とかいう、この際まったくどうでもいいような
主観が余計なんだと思うよ。
あんたの価値観で歴史上の出来事や人物を
判断しても何の意味も無いんだから。
>>401 余計つか、「滑稽」などという、
それこそどうでもいいことにこだわる意味はあるの?
傍で見てる者にしてみたらどのレスが誰か判別不能なくらい
ぐだぐだになってきてるのでそろそろやめてもらえまいか
そうだっ。麻呂にして武将。
日本史上指折りのあいの子権力者、今川義元にもっと認知させるのだ!
406 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 12:07:32
麻呂って何?
朝廷の官位だったら秀吉や家康の方が上だし
もしかして光栄の武将ファイル命の方ですか?w
407 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 16:09:38
>>386 文章自体が中学生レベルなんだよ
お声がかかるとか滑稽・・
408 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 20:11:17
↑
こいつが一番滑稽な点・・
409 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 21:14:45
本人乙
中学生レベルの文章しか書けないなら最初から書き込むな
410 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 22:39:15
↑
実はこいつの文章は小学生レベルだった!
残念!
411 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 01:53:03
西尾市も今川市に改名すればよいのにな。
麻呂と負け犬のイメージがあるから
改名は無理だろw
413 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 19:32:57
今川焼きというのは実在する
414 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 04:59:53
415 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 05:44:13
>>392 吉良氏は南北朝の初期の頃は探題や守護になってることもあるが、
南北朝後半以降は、守護にはなっていない。
一般的には、直義・直冬派だったのが祟ったともいわれるが、
しかし吉良氏の系図を見ると、
南北朝後半〜室町でも守護家クラスの家との婚姻関係はかなりあるし、
公家の日記等に吉良氏の当主の死亡記事なんかが出てくることもあるので、
没落していたといえるのかどうかも難しい。
要は室町幕府体制下での位置付けが難しい家。
416 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 11:21:08
三河の吉良はずっと内乱やってたじゃんよ
で、気がつけば今川が膨張してきてどうしようもなくなったんだがさ
だからある意味勝手に没落した家の一つってことだ
417 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 15:37:44
はぁ?
418 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 16:46:18
春だねえ
419 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 18:14:58
吉良は室町初期はある程度の軍事活動はしていたけれども
ある時期から高家みたいな存在になっていったんだな
権力はないが、家格の高さ故にある程度敬われる存在
420 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 18:17:47
室町後期には山名・細川・斯波・畠山・大内などの存在が目立つな
421 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 19:48:24
斯波は義将以降はパッとしないが・・・
品川さんて今いる?
何してるのかな?
普通の会社員?
氏綱の中の人
は関係ないか
424 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 03:53:23
>>420 そいつらは南北朝・室町前期でも十分に目立つよ。
425 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 05:56:10
426 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 09:31:10
吉良って東條と西条で揉めてたろ
あのー品川さんは・・・w
今も続いてるの?
誰か知ってる人いないかな?w
428 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 12:35:21
品川庄司として続いてるだろ!ボケ!!
つか、ここ、品川じゃなくて今川スレなんだが…
430 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 12:54:19
話を戻そう
義元の代にやりたかったことはなんだろうと
北条を元通り家臣に戻したかったのか
甲斐のボンクラを徹底的にぶっ潰して影響力を与えたかったのか
尾張のウツケを蹂躙して東海道制覇を成し得たかったのか
>>430 自家の発展だろ。
内政を整備し、隣接する強豪と和を結び、西の小名たちを平らげる。
これらはすべて自家の発展のため。
432 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 16:41:37
たとえばある企業がやりたいことというのは、
○○社を徹底的にぶっ潰したいとか
○○社を蹂躙したいとかじゃないだろ。
端から見ててぶつかり合いに見える企業戦争も、合法的な利益生産の
場であって「戦争」はそれに付随するものでしかない。
社員をいかに富ませるか、最初も最後もそれしかないよ。
>430->432
一番は自国(自家)の安全保障。
富むことも発展したいというのも
基本にそれがあるから。
>432
今更そんな当たり前のことを確認しなければならんとは‥‥
いかに戦国ゲーム厨が多いかってことだな。
435 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 19:45:41
436 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 20:18:48
信長って義元を殺す必要あったの?
あのままスルーしてもよかったんじゃ?
437 :
427:2007/03/06(火) 20:45:44
>>435 へー、復姓したんだ
今も続いてるのか
ありがとー
428-430みたいなレベルの人たちだけかと残念に思ってたとこだったから、良かったです
復姓した?
何年か前にテレビで見たときは、品川という姓のままで、確か都内で自転車屋を
営んでいたと思ったが。
439 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 11:04:30
440 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 11:07:54
勝利条件
1、敵を全滅させる
2、敵を降伏させる
3、敵を撤退させる
4、敵の大将を殺害する
このどれかを満たせば勝利
441 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 11:09:45
>>440 こらこら
戦闘は外交の延長線上の話だ
最後の交渉にて講和条件を確認し合って終了な
442 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 11:48:03
信長と家康が講和条件を確認したのかな?
今川は無視されたのかも
443 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 11:53:50
>>441 馬鹿かお前?
負け戦で敗走中にいちいち講和条件をつめたりすると思うのか?
それとも講和条件をつめるまで戦は終わらないとでも言うのか?
444 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 11:59:56
>>443 戦が終わった後の話な
講和がなければ戦の勝利は確定しないよ
戦術的な勝利という意味では大将の首が取られる前に大勢は付いている場合が多い
ちなみに義元の首が今川家に戻ってるのは何でかしってるのか???
445 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 12:47:14
>>444 岡部が城明け渡す代わりに返してもらったんだろ。
これが桶狭間の戦いの講和条件だとでも主張する気かね?
残念ながら戦の決着に講和など必要ありません。
戦場から兵を引けばそれで戦は終わり。
講和のない戦など腐るほどあるが。
446 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 13:26:35
447 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 14:58:08
>>446 岡部が今川方の代表権を持っていたとでも?
岡部は自分の戦(鳴海城攻防戦)の講和をしただけ。
桶狭間、と言うか、今川による尾張侵攻戦の講和などではありませんが。
448 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 15:42:40
今川軍の目標が知多半島の完全制覇と尾張への影響力行使だとして
大将が討たれて本隊が崩れたあとも現地で奮闘していた大将は岡部だろ
だから信長と岡部の講和により桶狭間は終了したんだろうに
何をムキになってんだか
449 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 17:41:36
>>448 岡部はただの敵中に取り残された鳴海守備隊長ですが?
今川が当主自ら大軍を率いて攻め込んだ戦の講和を
何で一部隊長がとりまとめることが出来ると思うんだい?
こんな無茶苦茶のことをそんな必死に主張しなくても。
で、話は戻るけど、戦は講和など無くても終結します。
まだ反論ある?
戦には講和が必須とか言うやつは、そのうち布告もしてたとか言い出しそうだな
451 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 18:00:12
そもそも織田と今川の敵対関係は終わっていないだろう
田楽狭間の局地戦で織田が勝利しただけ
452 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 18:01:16
もうおまいら
ここは学術板だ
ちゃんと具体例を出し合って議論してくれ
>>452 戦の終結に講和が必要ないなどというレベルの低いことをわざわざ具体例あげて議論せよと?
・桶狭間
・姉川
・長篠
・武田討伐
・本能寺
>>436みたいな質問から噛み合わない話をつづけて
ここまでこじれさせることのできるお前らが案外好きだ
そうだね
>>453の出した例の講和を、ぜひ見てみたいねw
誰と誰がどんな風に結んだのか
どんなトンチンカンな講和がされたことになってるか楽しみだw
要するにだ、「戦争は外交の一手段である」という格言を勘違いして、
最後に外交で確定させないと戦争は終わらないと思い込んでしまった人がいるというわけだ。
まあ近代以降ならその傾向は強いが、議論の対象となっている桶狭間の戦いは中世だし、
戦争ではなく局地戦、戦闘。
460 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 20:52:40
>>411 岡崎市が細川市や仁木市に改名するくらい可能性が低いと思われます。
461 :
411:2007/03/07(水) 21:28:43
>>460そうですか…
西尾って聞くと、リース屋さんを連想してしまうので、足利一門の今川のがよいのにな
勿論、↓も駄目ですねw
@常陸太田市 → 佐竹市
Aひたちなか市 → 武田市
B太田市 →新田市 C榛名町 → 里見町
D吉岡町+榛東村 → 桃井町
E厚木市 → 毛利市 F大井町 → 大友町
G佐用町 → 赤松町 H都城市 → 島津市
I豊田市 → 松平市
462 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 00:48:42
>>442 織田と今川の最終的な講和は、桶狭間から10年くらいあと。
武田信玄が甲相駿三国同盟を破棄して駿河に侵攻した結果、北条と上杉が
和睦して越相同盟が成立する(今川氏真も北条・上杉両者と同盟)。
また最終的に今川氏真が駿遠両国から退去する際に、徳川と北条が協調して
「武田をするがから追い払った暁には、氏真を駿河国主の地位に復帰させる」
という趣旨の誓紙を交わしたともいう(これは真偽不明)。
ただこれによって、ごく一時期ではあるが、
武田 vs 今川・北条・上杉同盟 + 徳川・織田同盟
のような構図になった。
そして、この頃に上杉謙信の仲裁で、信長と氏真は
「桶狭間の一件を除けば、両家には特に因縁もないので、以後、敵対関係を解消する」
という趣旨の約束をしている。
なお上杉謙信は、以前に今川義元が川中島の戦いの仲裁をしたことがあるので、
今川方とは一応窓口があったし、織田信長とも義昭上洛の歳に提携する交渉を
していたので窓口があった。
463 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 03:21:22
織田信長と今川氏真って、
京都で交流があったんだよな。
もし、織田信長が天下を統一していたら
ある程度の地位を与えられていたのかも。
464 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 09:43:52
講和云々に構う気は毛頭ないんだが
戦術的な局地的講和を否定しているヤツが例に出すのが戦術的な局地戦というのはいかがなものかと
織田家が対朝倉、対浅井、対武田とどういう講和を結んだのかを問うべきでないのか?
>>464 戦術的な局地的講和を否定しているからこそ
講和の結ばれていない戦術的な局地戦を例として出すんじゃん。
そもそも戦術的な局地的講和の話をしてるのに
戦略的、包括的な講和の話を持ち出す人間は論理性0だろ。
466 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 10:47:01
「戦争は外交の一手段である」であるならば戦術的な局地戦は無視すればいいんじゃね?
それは近代戦だってそうだろ、真珠湾攻撃で講和が結ばれたのかとか硫黄島は講和なく占領されたとか
そもそもこの話自体が春だねえという話ではあるがなw
467 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 11:17:20
>>459 「主は主たらずとも臣は臣たれ」と教えていた徳川家が主家を
裏切ったことのいいわけに「義元は暴君、氏親は暗愚」説を捏造
↓
権力者のフォローは大好きな日本の作家・漫画家などが近代に
入ってもおんなじイメージを拡大再生産
というとこでしょ。近代ではテレビと漫画のイメージが決定的だね。
ちなみの俺の中では子供の頃見た太閤記関係の読み物と山岡宗八原作
アニメ「少年徳川家康」の麻呂イメージが強い。
大河ドラマの勘九郎でだいぶイメージが是正され、やっと世の中も
変わりつつあるという感じ。「センゴク」桶狭間篇がヤマという感じかな。
>>466 局地戦にも勝ち負けはある
その局地戦に勝ち負けを付けるのに講和が必要だと説く人がいる
そもそも戦いの終わりに講和は必要ない
469 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 11:42:27
>>468 もうそんなかみ合ってない話題はいい
今川の話をしようぜ
470 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 11:53:59
最近のドラマは
今川義元を暴君というふうには
描かないな。
471 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 11:56:54
>>470 麻呂に暴君は似合わない。
馬鹿殿なら似合うが。
472 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 12:02:45
今川に限らずの話だが
時代考証やらを無視して勝手に現代劇風にするのが流行する世の中だからなあ
ただ時代設定が室町後期とか江戸時代とかになってるだけの昼メロみたいなドラマ
ああいうのはやめていただきたいものだ
ドラマや小説、マンガ、ゲームは人気が出てナンボだから仕方ないよ。
ストーリーが大事だから、中途半端な筋書きやキャラクターの演出
するよりは、極端な方が分かりやすいし。
時代が現代のモノだってそうでしょ。
そのうち興味もったら色々調べ始めるさ。
誤解したままの天狗君がいたら、暖かい微笑みで見守ってやるのさ(´ー`)
474 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 20:19:47
家康が天下を取れたのは、義元が家康を英才教育したからだ
家康は義元を崇めろ
>475
いいえ、彼はいつまでもわたしたち日本人の心に生き続けているのです。
477 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 04:15:07
>>473 それでも極端に酷い描き方をすれば子孫の家から苦情が来るのが普通なんだけど
今川の場合は本家は絶家しちゃってるからなぁ。
死人に口ナシで書きたい放題に書かれちゃう側面もあるかもよ。
>>477 普通の人間は、父親や爺さんにならともかく、
何代も前の先祖を気に入らない描写されたからといって、クレームなんかつけないよ。
信長の野望には結構子孫からクレームがきたらしいぞ
480 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 09:29:25
宮本武蔵を執筆中の吉川英二は
東大の本位田教授に訴えられた
481 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 09:38:56
確かに自分の先祖が作品中に出ていて
あからさまに貶められていたら嫌だな
482 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 11:15:14
吉良の子孫がいたら忠臣蔵差し止め訴訟をおこすかもしれない
483 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 11:41:35
吉良だけじゃなく上杉も訴えたいだろ
484 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 14:49:32
上杉は、吉良の息子が養子にはいったけど
どっかで断絶して、また他から養子とったんでは?
今の上杉家に吉良の血は流れていないと思うが
485 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 16:21:24
上杉は血統的な話もあるが
あの時点で武門の家として応対しなかったということで家名が汚されてるんだが
しかも実際にはどこぞのえらいさんに手出し無用と釘をさされて応対できないのを
作り話では自分のところの部下の進言を聞いて応対できなかったという改変までされてさらに家名を汚されているわけだ
486 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 18:31:50
忠臣蔵差し止め訴訟原告団
吉良・上杉・柳沢・綱吉・大野九郎兵衛
487 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 19:39:40
>>486はぁ?
上演差止めの原告団は高氏、塩冶氏等だろ
488 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 20:36:31
>>484 上杉綱憲〜上杉重定:義央の男系子孫
上杉治憲(鷹山):秋月氏よりの養子(母方の祖母が義央の孫)
上杉治広〜:義央の男系子孫に戻り、現在に
489 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 20:39:42
結局、浅野がDQNってことでおk?
だいぶスレタイからズレとるが、dqnでおk
492 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 22:22:08
吉良上野介も麻呂だったの?
493 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 00:24:58
で、吉良義央には、女系を介して今川義元の血が入っているんだよね。
氏真の娘が吉良に嫁いでいるから。
494 :
日本@名無史さん:2007/03/12(月) 09:35:00
吉良と浅野の首隠し
495 :
日本@名無史さん:2007/03/12(月) 13:05:10
みなもと太郎の受け売りだが、「仁義なき戦い」の
「オンドリャー!なめとんのかいゴラァ!死にくされ!」
というあの言葉、河内弁でもいわゆる広島弁でもなく、
播 州 赤 穂 の 言 葉
だそうです。浅野は「待たんかいこらジジイ!」と吉良に切りかかり、
大石らは「死ねやオドリャ」と無抵抗の子供まで惨殺して殴りこんだ
わけですね。
496 :
日本@名無史さん:2007/03/12(月) 13:15:44
さて、話を今川に戻してっと
今川のいいところを上げてみよう
蹴鞠がうまい
498 :
日本@名無史さん:2007/03/12(月) 15:45:59
蹴鞠といえば中国の物語でも結構蹴鞠のシーン出てくるよな
隋唐演技とか水滸伝にも蹴鞠出てくるよな
499 :
日本@名無史さん:2007/03/12(月) 17:10:06
>658 :公共放送名無しさん :2007/03/11(日) 20:38:07.85 ID:U8nD1uwV
>次期信長の野望で義元のCGがカッコよくなってたらテラワロスwww
いや、絶対なってるからww
今年は「今川=おじゃる・お歯黒・短足」という俗説が崩壊する年だよ。
500 :
日本@名無史さん:2007/03/12(月) 17:16:55
501 :
日本@名無史さん:2007/03/12(月) 17:33:42
今川って新羅三郎の同族でしょう?
韓国系じゃん!
502 :
日本@名無史さん:2007/03/12(月) 18:06:07
503 :
日本@名無史さん:2007/03/12(月) 18:09:22
今川は八幡太郎の子孫だぞ
なにをいってるんだ
>>501は
504 :
日本@名無史さん:2007/03/12(月) 18:11:05
>>501 新羅三郎自体、古代の新羅とは
全く無関係。
おまえは、阿呆か?
505 :
日本@名無史さん:2007/03/12(月) 18:34:09
>>503 八幡太郎は新羅三郎の兄。ということは八幡太郎は韓国系。
そもそも八幡は韓国から渡ってきた神。
506 :
日本@名無史さん:2007/03/12(月) 21:09:25
信長は義元の首を取るべきではなかった。
城にこもってスルーするか、どっかに隠れてればよかったのだ。
507 :
日本@名無史さん:2007/03/12(月) 23:03:16
そもそも今の韓国は日本に移住してきた民族とは別の汚い人たちだし
>>505 その思想自体が大間違い。
おまえは、阿呆か?
八幡は、あくまでも神功皇后の海外遠征を記念したもの。
そして、その武運の神様の神社で元服したのが源義家。
その弟の義光が新羅神社で元服しただけ。
他の兄弟も元服した神社の名前をとって
賀茂次郎義綱
石川五郎義時
とか多数。
もういいかげんに歴史を捏造するな。
そんなに歴史を捏造していると、新羅や百済が
中国人の国だとばらされるぞ。
509 :
日本@名無史さん:2007/03/13(火) 08:49:02
春だねえ
510 :
日本@名無史さん:2007/03/13(火) 09:56:17
実際今川家ってどれくらいの名門なん?
まあ織田家と比べるのは失礼な話として普通に守護職の中では一目置かれるくらいの家柄なん?
>>510 言っていることが分からん。
室町時代の名門度は
今川家>>>>>>織田家だろう?
今川家は足利家の分家であり、
管領になっていた細川家(同じく足利家の分家)よりも
家格は上とされた。
足利一門の中では、斯波家、吉良家、今川家が最高。
512 :
日本@名無史さん:2007/03/13(火) 10:55:07
>>511 ソース派でも醤油派でもないんですが
それを裏付ける資料とかってあります?
513 :
日本@名無史さん:2007/03/13(火) 21:58:12
>>512 ない。細川斯波は足利一門の最高位、吉良分家の今川はただの守護、
吉良は足利の血をひく三河の土豪。
>>512 鎌倉時代、足利一門の中では
斯波家と吉良家は足利をずっと名乗っていて
足利宗家に匹敵していたんじゃないのか?
細川家は早い時期に分家したから、足利一門内では
早々と家来筋になったけど
そのことが、室町時代に、
足利家の家臣の中で重要な地位を占めたんでしょう?
>>514 斯波と吉良は、鎌倉時代は足利姓を称していたが、室町では称していない。
つまりただの家来に成り下がった。細川と一緒。
それでも斯波は細川と並んで世襲の首相家とも言うべき管領家になったが、吉良は田舎の市長程度。
>510
たぶんおまえ如きが這いつくばって、
「面をあげい」と言われてもすぐには上げられず、
やっと0.5秒上げてすぐにまた平伏、2度と直視できない相手。
もちろん直答なんて論外。
517 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 09:30:59
今川家は室町で要職を得たことってほとんどないよね
518 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 14:22:24
>>517 初期の頃は結構ある。
しかし了俊が応永の乱に関与したことが原因で、了俊とは別系統の本家の
駿河守護職を残してそれ以外の要職は綺麗に消えた。
ただ今川は、位置的に関東に近いから、越後上杉や信濃小笠原と同様に、
関東に変事が起こった際に即対応できるようにすることを求められており、
そのため中央で幕府の役職には就かない家になったということも言われる。
吉良とか今川って要職に就かないかわりに
足利宗家に何かがあったら、将軍職の有力候補だったんじゃ
ないのか?
ちょうど、徳川時代の尾張家、紀伊家みたいなもん。
斯波家とか細川家は、京都で要職についていたから
徳川時代でいう、水戸家や保科松平家みたいな感じでは?
>>519 それは散々がいしゅつだが、根拠のない妄説と言うことになっている。
っていうか、吉良や今川は引付頭人や探題などの要職を務めてるし。
521 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 18:17:11
当時当然ながら吉良と今川も別家として認識されてるわけだよね?
人括りで吉良と今川を語ってはいけないと思うんだが
仁木氏は足利の支族だろ?あいつらは、一体、何の役職だったんだ?
523 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 04:22:44
>>521 鎌倉段階だと吉良氏(足利上総家)は足利宗家とは別に鎌倉幕府の
御家人扱いで、今川氏は吉良氏の分家扱いだけどね。
南北朝以降は別の家と考えていいだろう。
>>522 仁木頼章が高師直死後に代わりに執事になっている。
またその後も伊賀の守護として存続(初期には丹波の守護も兼ねる)。
524 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 11:59:05
結局のところ、今川家は確かに名門ではあるが
他の一族と比べて特別扱いをされていたわけではないってことだよな?
桶狭間が上洛戦でないとされる根拠の一つにもなるわけだが
今川が強いと言われたのは、雪斎がいたのと三河兵が強かっただけ。
雪斎と三河兵がいなくなった今川軍は、麻呂の集団に過ぎなかった。
武田勢も、余りの弱さにびっくりしたそうだ。甲陽軍艦より。
526 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 14:03:30
>>525 その武田勢も織田が進入してきただけれ崩壊したじゃないか
織田は武田の弱さにびっくりしたんじゃないか?
織田は、織田信忠、滝川一益が高遠城の仁科盛信を絶賛してるな。武田の崩壊は有力武将が長篠でほとんどいなかった点。
親類集、国人の裏切りが激しすぎたな。以外に、一番びっくりしたのは武田勝頼かもしれないな。俺の軍隊、こ、こんな、弱かっ
たっけ???ってw もっとも、みんな、途中で逃げたんだがなw
528 :
日本@名無しさん:2007/03/15(木) 14:27:11
>>527 今川家も似た様なもんか?家臣の裏切りが相次いで勢力が衰えた。だが、たかが、二カ国の大名(武田)と一国半(徳川)に
挟撃されてアボーンする今川家って、最弱では? 武田攻めは、状況があまりにも酷すぎる。西からは織田軍10万(信忠先発隊5万)
南からは、徳川軍一万二千、東からは北条5万。どうしようもないだろ。。。。
529 :
日本@名無しさん:2007/03/15(木) 14:29:29
麻呂が一番強いんでしゅおおおおお!!
馬鹿にしたら駄目でしゅおおおおおお!!
討伐軍出すだおおおおおおおおおお!!
え?わらわを捕らえるだと?(;^ω^)
蹴鞠して、生きてくだお( ^ω^)v
530 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 15:10:06
>>528 しかし徹底抗戦をやって最終的にたくさんの一族・家臣を巻き込んで凄惨に
滅亡した武田勝頼と、
流れが変えられないことを悟った時点で交渉によって上手くケリを付けて
一族・家臣の誰も死なない状態で身を引いた今川氏真と、
どちらが賢い選択かね?
531 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 15:41:56
>>530 ?
勝頼が徹底抗戦? 凄惨に滅亡??
夢でもみたのか?
532 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 15:47:02
533 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 15:57:18
534 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 16:42:41
武田の時って交戦したのって仁科盛信くらいじゃね?
535 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 17:52:36
長篠の戦いから天目山での滅亡まで7年間も織田への降伏を拒否してた時点で十分に徹底抗戦。
本来なら長篠で負けた段階で力の差を感じて無条件降伏すべきだった。
しかしそれをせずにその後7年間も甲斐の山奥に籠って抵抗を続けたドキュソが武田勝頼。
一族・家臣のなかには、その馬鹿さ加減に失望して寝返ったもの多し。
一方、今川氏真公は、戦国大名としての滅亡よりも、今川一族や家臣の家の滅亡のほうをできる限り回避する道を選んだ。
尤も戦国大名としての今川の滅亡時に武田信玄に降った家臣もいるが、それは真田幸隆同様の人徳者であった氏真公の
「生き残るためには、とりあえずは降伏したふりをして武田に仕えよ」
との指示があったからに他ならない。
そのため彼らは武田滅亡時には、かつて今川を裏切ったことを咎められることもなく、氏真公の後継者となった徳川家康の下への帰参を許されている。
536 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 18:18:42
春だねえ
537 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 18:20:10
氏真はなんで桶狭間後も蹴鞠ばかりして織田徳川を討伐しなかったの?
氏真はなんで掛川に逃亡して無駄な抵抗をしたの?
桶狭間後は家中を引き締めるので手一杯だったと思うが
539 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 19:01:05
540 :
日本@名無しさん:2007/03/15(木) 19:31:38
必 死 な 奴 が 一 人 い る な (笑)
↑
どう見てもこいつが一番必死な件
↑きっと、こいつが必死な奴だったんだなwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>537 静岡はね、日本で一番サッカーが盛んなんだよ。
544 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 09:03:22
氏真がじっと座して滅亡を待っていたかのように言うのは何かの陰謀か?
基本的に二方面から攻められれば対応はものすごく難しいんだが
それに対応して今川・北条・上杉の同盟締結は立派な対抗措置だと思うぞ
実際に機能したかどうかは別の話しだがなw
>>544 桶狭間後織田徳川に対しほとんどなすすべなくやられっぱなし。
やったのは家来の殺害と手紙をちょろっと書いただけじゃん。
これじゃあ武田に見限られるのも当然。
家臣に見限られるのも当然。
何もしていないのと同然だね。
546 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 09:46:44
一応三河にも出兵してるだろ
一向一揆に乗じて介入、しかし撃退されて逆に完全に三河と縁が切れるわけだが
547 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 10:42:27
三河を守りきられて逆に遠江を切り崩されてしまったなあ
あそこで三河を切り崩せなかったのが氏真の汚点だろうな
無為無策で過ごしたわけではないしまずい策をとったわけでもない
ただ負けただけ
あんな程度はやったことにはならん。
無為無策だろ。
>549
では、どうすれば良かったのか具体案を教えて下さい、軍師殿w
・蹴鞠をやめる
・切腹する
少しは状況はマシになる
親父があんなアホな死に方すれば
初戦は豪族連合。まとめあげるのも困難ナ状態だろう
豪族や部下も言う事きかないわけだし
まじ大変そうだ
うじざねが有能か無能かともかく
おまいらがうじざねの立場になっても結局同じ結果だったと思う
勝頼は親父からしっかりと後継をたくされて
あの顛末
どっちが無能かは明か
>>537 親父と重臣クラスの連中があらかた桶狭間で事故死したもんだから
今川家は勿論、重臣の家の連中も跡目やら相続やらでてんやわんやの状態でした
外征なんて出来る余力は無かったと思います。
桶狭間で死んだのが義元だけだったらまだ良かったんだけど奇麗さっぱり重臣クラスが一掃されてたのが
不幸だったと思う。
氏真が蹴鞠に明け暮れていたというのは後世の後付けじゃまいか
掛川で抵抗したのは、掛川城の城主が
同年代の幼なじみで恐らく氏真にとって信用できる家老がそいつだったからじゃないか
最後、真田でなく小山田を信じて裏切られた勝頼に比べると
意外と人望あるみたいだね
徳川は先に武田に掛川
に来られるのを最も恐れていたから、時間稼げば
うまく交渉して有利に開城できると思ったんだろう。
掛川の士気は孤立してたにもかかわらず相当高かったらしい。たまに城門から出て撃って出たりしているらしいし
>>553 >掛川の士気は孤立してたにもかかわらず相当高かったらしい。たまに城門から出て撃って出たりしているらしいし
そりゃ、主将が武闘派の筆頭とも言うべき朝比奈だからな。
氏真はじめ駿河の腰抜けどもとはモノが違う。
555 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 18:56:32
最近の氏真ヲタは勝頼をライバル視してるの?
しかしなぜ桶狭間の戦いなんてマイナーな戦をあげるんだよ
他にも義元公は信玄や謙信とも戦っているし
もっと他にも苦境に立たされた時期はあったんだが
桶狭間ってたんなる小競り合いだろ
俺、名古屋地元人だけど、織田信長なんて知っている人の方が少ないって
557 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 20:03:08
558 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 20:06:45
義元や氏真、今川家臣団を無能とか罵倒しかしない人は、きっと十代の人が多いだろう。
はたち越えて社会人になって、社会の波にもまれたら、きっと違った見方ができるようになる。
少なくとも「自分に比べたらなんぼかマシ」くらいの人物に見えてくるよ。
自分が日本有数の大企業の社長の息子で、二十歳ちょいで急に親父が死んで跡を継いだとして、10年近く企業を保たせられるかな?
世間の流れやスピードは違うとはいえ・・・
560 :
日本@名無史さん:2007/03/18(日) 08:15:59
>>559 「自分に比べたらなんぼかマシ」
こんな下らない規準で歴史上の人物を評価するようなくたびれた人間は、
今のご時世、遠からずリストラされるであろう。
561 :
日本@名無史さん:2007/03/18(日) 09:09:47
>>560 くたびれたリーマンと言うよりも賢しらな小学生レベルだろw
「永田寿康ってアホだよね」
「なにいってんだよ!お前に比べればなんぼかマシだろ!」
「松井稼頭央って守備下手だよね」
「なにいってんだよ!お前に比べればなんぼかマシだろ!」
・・・次元低っ!w
はいはい、スゴイスゴイ
次元の高い、名も無い庶民さんw
まあ自分のことは棚にあげてるわけだな
564 :
日本@名無史さん:2007/03/18(日) 11:40:41
自分に引き比べたら今川氏真や朝倉義景も笑えない
信玄などは偉人、信長と元就は凄すぎて悪魔に見える
鳴海の猛将岡部元信はなんで氏真を見限ったんだろ?
>>559のような人間は、学者評論家から一般人にいたるまで、
あらゆる知識層による人物評にケチ付けてまわるんだろうね。
まあ氏真>>>>勝頼>>(越えられない壁)>>義元と主張したいんでしょ。
桶狭間で頓死した義元が無能でないとすると彼の主張の整合性がめちゃめちゃになるからなw
>567>568
ほんとに馬鹿なんだな、おまえらはw
>>567 人物評‥‥w
そんなご大層なものがこのスレのどこにあるのかとw
そういえば・・・妖怪大図鑑に、今川義元が死んだ後に
でっかい蛍になったとか書いてあったけども
知ってる人はこのスレにおるん?
574 :
日本@名無史さん:2007/03/19(月) 18:15:13
まあどうでもいいんだが
三河での蠢動を抑えきれない時点で今川家の運命は崩壊に向かったわけだが
介入むなしく一向一揆は鎮圧されて家康の力が強くなり
逆に遠州にちょっかい出されて崩壊
まあ関東史観で言えば 織田・徳川・武田連合 VS 上杉・北条・今川連合 という面白い構図ではあるんだがな
塩止めたつもりが上杉が持ち込み逆に挟撃されて北条に逃げ込むだけの戦いといえばそれまでだが
ちゃんと対抗軸は作った点を評価したい
575 :
日本@名無史さん:2007/03/19(月) 18:21:44
>>574 徳川はともかく織田が親武田かどうかは、かなり微妙でしょ。
それに徳川も武田と共同歩調なのは遠江の今川領を回収するまでだけ。
三方が原の段階では、織田・徳川は明らかに親上杉・北条だし。
三河の土豪が2分していがみ合ってるのに手も足も出ない時点で終わってる。
577 :
日本@名無史さん:2007/03/19(月) 22:06:37
逝ってよし元も、後継者が馬鹿息子で家を潰すことになるとは
草場の蔭で泣いてるだろうな
578 :
日本@名無史さん:2007/03/19(月) 22:38:26
そのばか息子に面倒事を押しつけて京都に遊びに出かけたのは吉元自身なわけだが。
579 :
日本@名無史さん:2007/03/20(火) 09:41:56
>>575 この段階では織田と武田は親密だよ
信忠と松姫の婚姻を決めたりもしてる
状況が変わるのが今川家滅亡後だが
今川があっさり滅亡してしまったので時間的にはかなり短い蜜月関係という印象を受けてしまうんだなあ
580 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 11:16:32
春厨房にも見放された寂しいスレはここですか?
581 :
580:2007/03/22(木) 11:48:25
自己解決しました
今年の大河の義元はまだ普通のファッションだね。
麻呂化まだぁ〜??
583 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 13:19:09
大河ドラマつまらんなあ
584 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 15:47:28
585 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 09:19:52
公家の定義を言ってみろ
586 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 10:23:25
細長い帽子を被ってまろまろ言ってる人
587 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 10:34:41
顔を白塗りにして歯が真っ黒で、おほほと気持ち悪く笑う人。
588 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 14:28:35
馬に乗らずに輿で移動する人
589 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 15:47:28
胴体と袖が別々になってる服を着てる人
590 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 18:02:29
輿に乗れるというのは身分の高い証拠ではあるな
591 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 22:42:19
>>590 今更何いってんだよ!
麻呂になるくらいだから身分が高いに決まってるじゃん!
592 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 00:03:19
織田右府、猿太閤、東照大権現は、義元と比べるとそれこそ雲上人であるが、麻呂化はしていない。
身分の低い義元はなぜ身の程知らずにも麻呂になったの?
593 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 08:31:13
あほを相手にすんなよ
595 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 09:58:58
マジレスしていい雰囲気かどうかはわからんが
義元個人の京かぶれは出家時代に京の寺にいたことに由来するかも
あと本家である足利家がすっかり京文化に染まっているので分家筋である今川家だって染まっててもおかしくないだろう
織田家はまだ京文化に取り込まれるには時間がなさすぎるし
秀吉もそれは同じだな
徳川に関しては京と江戸を区別したため交わることなく逆に武家文化というのを確立している
家康がいろいろと制度を決めるまで公家と武家の明確な区別ってしにくい部分が多いんだよね
596 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 10:40:10
足利はすっかり京文化に染まって、徳川は全く京文化に交わらなかったのですか?
597 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 10:49:02
徳川は染まる必要がないんじゃない?江戸に本拠置いたし
京都には京都所司代置いて対処してる
足利は逆で京都に本拠を置いて関東に鎌倉公方置いてる
>595
どこがマジレスなの?
599 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 20:08:34
足利将軍は麻呂だったの?
秀吉なんかは公家と近そうだけど、麻呂にはならなかったの?
600 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 20:55:13
江戸城の大奥なんか、実際には上臈クラスの大部分は公家出身者で占められていたわけだが。
601 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 21:40:45
>>599摂関家の猶子って事で、じゅうぶん麿っぽいですよね。
602 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 22:30:09
秀吉は分からないけど、秀頼はドラマに出てくるときは必ず細長い黒の帽子かぶって、しっかり麻呂の格好で出てくるよね。
603 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 10:22:49
秀頼は当時の豊臣家の家柄からしても立派な公家ですからねえ
今川家は別に公家扱いされるほど家柄もよろしくないはずなんですが
604 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 21:13:31
大河「義経」のときは源氏方も平家方もみんな麻呂の格好だったよ。
テレビとかゲームの影響って大きいねぇ(嘲笑)
606 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 03:55:39
武士=ちょんまげ
麻呂=黒のとんがり帽子
607 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 07:00:34
>>606 それを言うなら
武士=黒のとんがり帽子
麻呂=細長い黒帽子、または尻尾付き黒ギャリソンキャップじゃね?
ところで、麻呂化と言えば従三位大内義隆様が最強だろうな。
>>607 こらこら、大内義隆卿は従二位であらせられるぞ。
従三位は御父上の義興卿だ。
609 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 09:19:01
まあ義興も義隆もその官位ならばいわゆる貴族様だな
今川の官位はそこまで行ってないんだけどな
610 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 09:21:14
従二位とかなら大臣級、ほとんどの足利将軍より上
612 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 09:37:19
大内はまあ応仁の乱の覇者でもあったし当時の権勢はすごかっただろうからなあ
いわゆる天下人だし今川とは大違いだ
逆に言えば今川も中央での政争に参加して勝ち残れば同じくらいの栄達はあったってことだな
東西2大麻呂
今川義元・大内義隆
一条は?浪岡は?
615 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 02:16:32
>>610 そんな馬鹿な。足利将軍家はほとんど従一位だよ。秀吉や家康も同じ。
日本文化チャンネル桜は、平成十九年三月三十一日をもってスカイパーフェクTV!Ch.767における
24時間放送を休止し、同Ch.241「ハッピー241」の夜の時間帯で放送を続けることになりました。
※「ハッピー241」での放送時間(4月1日?)は、以下のとおりです。スカイパーフェクTV!
の受信環境があれば、どなたでも無料でご覧になれます。
【月?金】18:30?21:30/23:00?24:00
【土・日】21:00?24:00
http://www.ch-sakura.jp/index.html
618 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 23:06:56
>>614 その両御所は本当の麻呂麻呂様だろう。
みんな飛騨の麻呂様を忘れていないだろか?
三木中納言様を。
で、厨な質問だが義元様の位はどこまで行ったの?正五位上くらい?
619 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 00:13:09
なにを言うか、彦麻呂(正一位)さまが本当の麻呂なのだ。
620 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 16:11:01
621 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 16:38:22
「〜卿」の継承は参議以上の身分の者に対するものですが、何か?
622 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 16:39:32
× 継承
○ 敬称
623 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 17:12:12
義麻呂様は従四位下か。
なら我等が北条氏政呂様も同じだな。
624 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 21:15:20
公・・・内大臣以上の身分の者に対する敬称
卿・・・大納言・中納言・参議などに対する敬称
なので、「〜公」および「〜卿」と呼ばれる身分の人を総称して「公卿」という。
625 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 10:15:40
義麻呂も上洛に成功してたら公卿になれたのかね?
>>625 むしろ公卿にしてもらいに上陸するもんじゃないのかと小一時間(ry
×上陸
〇上洛
628 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 17:10:59
北畠卿や姉小路卿は一度も上洛しなくても公卿ですが、何か?
義麻呂には卿よりも公がふさわしい
清和源氏の中でも足利一門は別格だろう?
真の公家としての体裁があるのは足利一門だけで。
631 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 21:31:42
>>630 ・足利一門といってもピンキリ。
・足利以外の清和源氏の公家が存在する。
632 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 03:21:38
633 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 08:02:20
だから義元には大臣が似合ってるという事じゃないの?
左大臣今川義元
似合わねー
634 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 09:25:50
北畠や姉小路は過去の活躍があるからねえ
今川の場合はやはり大きな戦功を立てないと無理だろ
635 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 16:14:41
位階だけで、官職ナシの従三位なら、室町の守護クラスではときどきあるね。
しかし三位になったはずなのに公卿補任に名前ナシってことも多い。
636 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 19:15:56
従四位下にすぎない義元はなんで麻呂になれたの?
麻呂になるのに誰かの許可は必要ないの?
637 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 00:21:05
立烏帽子は五位以上で着用OKじゃなかった?
638 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 08:48:08
だから麻呂の基準をしめせってのw
以前のスレの流れからして籠に乗れるのは偉い証拠って話で
馬に乗ってないから云々はアホの言うことっていうのは出てたな
信長だってその地位なら籠に乗ってただろうって話
↑
あんたの基準ではカゴに乗れる身分が麻呂だというのか?
義元も信長もカゴに乗れる身分であり、麻呂だったということか?
640 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 13:34:47
義元に比べれば信長の方が高位についているし
貴族趣味かどうかは別としてやりたい放題やってるんだがな
641 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 19:06:07
はい結論。信長も麻呂でした。オホホホホ
秀吉も関白になってからお歯黒してたから麻呂だな。
643 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 23:34:28
織田右大臣 平信長 様
644 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 00:58:21
家康も高位にのぼり、老人になってからは肥満(ドン・ロドリゴの報告)だった、
それまでは「海道一の弓取り」と言われた義元と同じように夏の陣では首を取られる寸前
だったから、麻呂の資格はあるな。
645 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 01:19:25
646 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 09:33:31
単純に義元の京かぶれを麻呂と呼ぶのでしょうね
でも大内は麻呂と呼ばれない不思議
小京都なんてそこら中に残っているのにそれを導入した領主が麻呂と呼ばれないのが不思議
ある意味義元は知名度が高いからそういう京かぶれの代表みたいな感じで語られるのでしょうね
647 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 12:45:04
648 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 12:47:49
上の理屈でいけば大内も官位が高いからいいんだろw
官位の低い今川が京かぶれなのが不思議なんでない?
649 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 19:25:01
なるほど。同じ麻呂でも大内は真の麻呂、今川はなんちゃって麻呂ということか。
650 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 23:56:52
上総介は信長にもってかれたの?
651 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 08:26:39
氏真も麻呂?
653 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 08:55:34
高家に列せられたからこれは真の麻呂と認定していいのかな?
654 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 12:10:50
今川義元の男色相手は誰が有名ですか?
655 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 02:01:43
656 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 06:30:20
良し基の母は公家出身だから 公家趣味なんだろう
その縁で 武田春の部wにも公家の嫁さんを世話してやった
658 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 13:36:05
>>656 あれ?武田春信ってホモじゃなかった?
公家の娘ともセックスしてたの?
正妻は公家の娘だったろ?
660 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 14:03:06
三条家の令嬢もこのスレにくると形無しだな
661 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 15:58:29
吉本は 武田の妻が逝ってからは後妻や側室は いなかったのだろうか?
信長って、是が非でも義元を討つ必要あったのかね。
桶狭間では今川勢をスルーするか、追い払えばいいわけで、義元の首を取る必要ないだろ。
過剰防衛もいいとこだ。
>>662 結果・・・
三河の間接経営権が手に入ったじゃん
664 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 20:13:04
結局、売り出し中の織田組の若親分が大手の今川組の大親分の玉を取って、
名を上げたかったというだけか。
義元こそ、いい迷惑だな。
何を言ってるんだ、こいつらは・・・
666 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 12:24:48
なにがなんでも義元をコロス必然性はないと思われ。
戦場で大親分が麻呂だったら殺すだろw
668 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 19:24:36
戦国大名同士の戦で相手側の総大将を討ち取るなんて、滅多なことではない。
なのに、領土侵犯くらいで義元をヌッコロしたノブナガって・・・・
669 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 20:31:49
義元はすでに麻呂になってたんだからさ、殺す必要なんかないジャン。
牛車にでも乗せて京にでも送りつけるだけで十分だったのに。
義元も討ち取られるなよ
戦場で直接討ち取られるなんて
なっとらん
負けても落ち延びて、城を枕に戦うぐらいしろ
671 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 02:46:10
>>668 そんなにまれではない。
「河越夜戦」では北条氏康が、扇谷上杉家当主の上杉朝定を討ち取り、
毛利元就も若いときに「有田中井手の戦い」で数倍する敵軍(安芸守護の武田氏)
の大将を討ち取っているし、厳島の戦いでは陶晴賢を討ち取っている。
「沖田畷」では島津家久に龍造寺隆信が討ち取られている。
駿遠三と尾張の一部を領する今川の圧力を無くするには、義元を討ち取るしかない.
もし、義元が生き延びたら、織田家は滅亡していたか、今川家の軍門にくだり、
駿府での松平元康のような立場(属国)になっていただろう。
但し、桶狭間で信長が義元の首が取れたのは幸運に幸運が重なるラッキーな
勝利だったが、その運も最後までは続かなかった。
672 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 03:15:19
桶狭間の不覚も本能寺の不覚も同じということだな
673 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 10:23:27
桶狭間の時点じゃ、天下取りなんて信長も考えてなかったろう。
せいぜいが尾張の統一と支配の維持。
だったら、今川と従属的同盟を結ぶって選択肢もあったんじゃないか?
674 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 11:16:44
義元は田舎暮らしが嫌になったから上洛しようとしたんだろ?
だったら駿河なんか織田に売ってしまえば良かったのに。
領土は惜しい、お供は大勢連れて行きたい、では織田に警戒されて襲撃をうけるのは当然。
675 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 13:27:53
いずれにせよ、義元の首を取ったのはやりすぎ。過剰防衛だろ。
676 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 16:35:13
信長のほうも義元の首が取れるなんて思ってなかっただろう。
あれはほとんど偶然というか事故に近いものだろ。
677 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 16:49:06
生け捕りにして、交渉の道具にするわけにいかんかったのか?
678 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 17:53:40
公家の義麻呂をとらえて朝廷を脅迫すれば、従三位くらいもらえたんじゃねーの?
信長ってアホだね。目の前に麻呂になれるチャンスが転がってたのに自らそれを投げ捨てるなんて。
なんだ、この流れはw
ネタなのか本気なのか??
680 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 19:13:06
>>677 生け捕りにするのは殺すのよりも普通は難しいよ。
捕まえようとすれば相手も武器を持って抵抗するはずだからね。
681 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 19:13:52
ああでも麻呂は丸腰か。
682 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 19:37:21
毛利新助と服部小平太の先走りだな。
義元に噛み付かれて逆上したか。
683 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 22:12:10
>>682 毛利や服部は身分の低い足軽だから、本物の麻呂を見たことがなかった可能性が高い。
戦場で気が立っていた上に、初めて見る白粉お歯黒の肥満体が突然現れたものだから、
びっくりしてついつい襲撃してしまったんだろう。
684 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 22:46:35
現代でヤンキーがキモオタを発見してオタク狩りと称してカツアゲしてボコボコにするのと似ているね
この頃からの文化なのかなあ^^
685 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 01:20:10
麻呂は親衛隊が弱いから やられたということでOK?
親衛隊が弱いと言うよりもまさか織田が攻めてくるわけないと思ってたんだろ。
バカにマジレスすんなよ
688 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 18:23:57
麻呂麻呂うぜえなあ。
今川義元が公家風で軟弱なヘタレ大名なんていうのは虚像だろ。
京都文化の摂取や公家との交流は、ある程度の大名ならみんなやってること。
義元だけ、ことさらに麻呂呼ばわりされる筋合いはない。
そもそも、ホントの麻呂なら自ら陣頭に立って敵地に乗り込むかよ。
689 :
YAP?:2007/04/16(月) 23:24:43
公家との交際なら、織田信長の父親の信秀が、有名だが、この勝幡織田家は
信定やおそらく良信も、京との交際があり、この家系は、本来、斯波氏の
尾張守護代織田伊勢守家の初代守護代常松の京の屋敷を取り仕切っていた
老臣「織田弾正」を家祖とするのだろう。
勝幡織田氏が、本来、尾張守護代家のいわば「京家老」的存在であったとすれば、
京の情報に詳しく、敏感なのは、当然だろう。
京の貧乏公家との縁戚である今川義元よりも、織田信秀・信長父子のほうが、
京との付き合い方を知っていたのだろうな。
690 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 06:44:09
>>688 ・麻呂になった大名は極僅か。
・義元は陣頭になど立っていない。
691 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 12:24:21
>>688 麻呂がどういう定義だかは知らんが
立派に貴族と呼ばれる身分の人でも陣頭に立つことはあるんだぞ
692 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 16:51:01
「橋之助秀吉」の時の義元は
ひどいイメージで作られてたよね。
>>692 実際の義元はもっとひどかったかもしれない。
694 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 18:14:58
ここの連中の言ってる「麻呂」って、志村のバカ殿様みたいなイメージだろ。
橋之助太閤記でもそんなイメージでマンガチックにデフォルメされてたな。
そういう戯画的な義元像は、そろそろ脱却するべきじゃないのか?
ここでいう「麻呂」って単に公家ファッションのことじゃないのか?
こういうのとか。
|;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノ|
|丶、 ;;; __;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;_,,: ィ";;_|
ト、;;;;;;;;;;;;;;;` ` '' ー -- ‐ '' ";;;;;;;;;,:ィ;:;!
,';:``' ‐ョ 、 ,_ ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;; , - '"l;:;:;:;:l だまりゃ!麿は畏れ多くも帝より三位の位を賜り
l;:;:;:;:;:;:;ミ ` ` '' ー -‐ '" ,リ;:;:;:l
l;:;:;:;:;:;:;:ゝ く三) (三シ `ヾ;:t、 中納言を務めた身じゃ!
fミ{;:;:;:;:f'´ , -−-_,, _,ィ 、_,,ィ,.-−、 };f }
l トl;:;:;:;:l 、,ィ或tュ、゙:ミ {,'ィt或アチ l:l,/ すなわち帝の臣であって、徳川の家来ではおじゃらん!
゙i,tヾ:;:;:! `ヽ 二ノ ト ` ‐''"´ l:l:f
ヽ`ー};:l ,r'、 ヽ リ_) その麿の屋敷内で狼藉を働くとは言語道断!
`"^l:l ,/゙ー、 ,r'ヽ l
゙i ,ノ `'" 丶. ,' この事直ちに帝に言上し、きっと公儀にかけおうてくれる故
゙l、 ′ ,, ィrェェzュ、,_ 〉 } /
',ヽ ヘヾ'zェェェッ',シ' //ヽ 心しておじゃれ!!
} 丶、 ` ー--‐ '"'´,/ノ:.:.:ヽ
/l 丶、 ,.イ:.:.:.:.:.:.:.:丶、、
,r'"^l ! ` ー‐;オ´:.:.:.:.:.:.:.:.:.,ノ ,}、
,. -ァ=く(:.:.:.l l //:.:.:.:.:.:., - '" ,/ ヽ、
, - '"´ / ,/`>'t、_」___,ィ'゙,ィ,.: -‐ '" ,. -‐ '" \
696 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 06:49:58
>>694は高貴な麻呂と志村のばか殿の区別のつかない愚か者
白塗りのキモいおじゃる丸じゃないか>麻呂
698 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 10:26:52
かつて朝倉スレとハイレベルを競い合った今川スレもいまじゃこのレベルか
なさけない
699 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 10:59:07
桶狭間の戦いは本当は田楽ヶ窪の戦いである
今川軍が丸根砦を撃破し、田楽ヶ窪で休憩している所へ、農民に化けた蜂須
賀小六ら野武士が戦勝祝いに鮎の味噌焼きと酒でもてなした。女たちが田楽(猿
楽の一派)の踊りを披露して慰労した。そこへ、信長の軍隊が奇襲してきた。田
楽師に化けていた忍者である服部小平太が敵の槍を奪って義元の腹を狙って刺
した。今川軍は信長軍の奇襲と味方の裏切りの偽情報でパニック状態に陥り、
その隙をつかれて壊滅したのである。その故事を暗号にして後世に伝えるため
に、豆腐などを串刺しにして焼いたものを田楽踊りにちなんで田楽と言うよう
になったのである。みそをつけるという悪い意味の言葉もこのことから由来し
ている。
700 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 17:10:13
今川義元の男色相手は誰が有名ですか?
今川義元のスレだというに誰一人として
返答出来ませぬのかゑ?
義元、コロす必要なかったじゃん。
702 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 23:51:37
703 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 08:22:54
>>702 問題にしているのは血統じゃなくスレの内容だ
704 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 09:39:05
>>703 麻呂の高貴さを明らかにし、信長の野蛮性を糾弾する。
このスレは非常に良識のあるスレだね。
705 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 18:52:15
何が何でも義元を腑抜けた軟弱キャラにしておきたい麻呂厨がいるなw
706 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 23:04:12
>>702 日下部姓の出世頭 > 清和源氏の末端
朝倉のが上と言いたいのだな?
707 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 00:06:05
>>705 ・義元はサムライから麻呂に出世した身。サムライとは違うのだから腑抜けでも軟弱でも恥じる必要はない。
・義元は桶狭間で泥にまみれながら足軽の指相手に奮闘した猛将。いや、猛麻呂というべきか。
708 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 02:39:16
んで、レスのほとんどは静岡県民?
709 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 06:56:05
麻呂なんて意味不明の言葉で義元を貶めて何が楽しいのやら。
↑
麻呂は高貴な身分であり、羨望の的であったことが分かっていれば
「貶めて」などとは言えないはず。
>>709は無知蒙昧な輩。
711 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 08:37:34
義元の代で出世といえるほどの出世はしておりません
地方守護の中でも有数の実力をもつ足利一門衆という扱い程度です
713 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 12:26:15
今川義元の男色相手は誰が有名ですか?
今川義元のスレだというに誰一人として
返答出来ませぬのかゑ?
痴れ者揃いが!
このスレは麻呂バカにあげて戦国板にでも移住した方が良いよ
戦国板だともっとグレード低くなるような
バカが飽きるまで待つしかないか・・・
スレタイが、ちょっとバカを誘いやすいってのもあるかも
↑
こいつが一番馬鹿な件
>716
>715の「バカ」が自分のことだという自覚はあるんだなw
718 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 20:12:46
↑
お前のことじゃね?
黙って麻呂をNGにしときなよ。それですべて解決。
>>719 お前のレスあぼ〜んされてるんだけど・・・。
いいんじゃない?
麻呂レスが見えてないなら俺のレスも無用だろうし。
>>711 :日本@名無史さん :2007/04/20(金) 08:37:34
>義元の代で出世といえるほどの出世はしておりません
>地方守護の中でも有数の実力をもつ足利一門衆という扱い程度です
それは、桶狭間の戦い=今川の上洛
という誤った認識から出たものだろう?
今川の国力は、50万石前後で、三河も加えて70万石くらい。
他の足利一門が軒並み凋落しているのを考えると
今川は足利一門期待の星だったかもしれないが。
>>722 言ってる意味がよく分からないんだけど、今川は大して有力な大名じゃなかったってこと?
724 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 14:20:10
少なくとも氏親以前の今川は超弱体な大名ではあるな。
725 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 16:08:18
氏親以前の、駿河守護今川氏は、幕府にとって、関東に対する重要な役割だったんじゃないか。
9条は改憲してはならない。日本の為にならない。
日本人ではない朝鮮総連や民団でさえ、日本を心配して改憲への反対運動を行ってくれている。
私は日本人だが、「改憲すべき」などという者は、日本人として彼らに恥ずかしいと思います。
Q.中国から身を守る為、戦争に対する抑止力が必要では?
A.前提から間違っています。そもそも、中国は日本に派兵しようと思えばいつでもできました。
なぜなら、日本には9条があるため、空母や長距離ミサイル等「他国を攻撃する手段」がない。
つまり日本に戦争を仕掛けても、本国の、命令をだした幹部の命は絶対に安全なのです。
「安心して戦争を仕掛けられる国」を、中国は、今まで攻めずにいてくれたのです。
Q.それは日米安保によるものでは? そして、その日米安保も絶対ではないのでは?
A.中国の良心を信じられないのはなぜですか? そして、日米安保は絶対です。
知り合いの韓国人の評論家も「絶対だ」と言っていますし、私も同じ考えです。
更に、9条が消えても米国の戦争に協力する義務は発生しませんが、米国が被害者の場合は別です。
米国は日本を守る為に戦っても、(9条があれば)日本は米国を守る為に戦う必要がないのです。
Q.9条が本当に「平和」憲法なら、世界中で(日本以外に)1国も持とうとしないのはなぜか?
A.これは、日本以外のすべての国が誤っているとも言えます。
「敵国に攻撃が届く国は攻められづらい」というのは、誤った負の考え方です。
(もっとも韓国や中国の軍に関しては、日本の右傾化阻止の為でもあるので例外ですが)
更に日本の場合、隣国が韓国・中国・ロシアと、GDP上位の安定した信頼できる国ばかりです。
Q.「9条改憲派」は「戦争反対派」。侵略者に戦争を挑発する、戦争憲法(9条)を撤廃したいのです。
A.それは、貧しい考え方ではないでしょうか?
中国や北朝鮮を信じる「強さ」があれば、そんな考えにはならないはずです。
日本が信じれば、彼らも信じるでしょう。そして、真に美しい関係が始まるのです。
尾張、三河、遠江、駿河、相模、武蔵と
東海道の重要国はすべて足利の名門一門で抑えているのが
ポイントだな。
尾張・・・斯波家
三河・・・吉良家
遠江・・・今川家(分家・九州探題の今川貞世の家)
駿河・・・今川家(本家・今川義元が戦国期に登場)
相模・・・関東公方・足利家
武蔵・・・関東公方・足利家
徳川時代になったら、ここらの国は徳川一門が抑えた。
728 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 21:48:54
>>727 遠江は了俊失脚以後は斯波氏だろ。
また相模・武蔵の守護は上杉氏。
729 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 21:49:35
あと三河守護も1440年以前は一色氏、以後は細川氏。
730 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 05:13:38
三河の守護は吉良家だよ。
あの司馬遼太郎さんもそういってる。
三河の守護は吉良家だけど
司馬遼太郎はお笑い種。
732 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 05:28:12
まろでおじゃる
733 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 09:10:25
義元時にたいした大名ではないということはないんだが
かといって天下に覇を唱えるほどの大名でもないってことなんだがな
まさに東海道一の弓取りの位置なんだが
734 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 10:19:26
駿河・遠江には守護代の家柄はあるの
今川が在地だから守護代は不要だったのかな
甲斐も守護代がいない
今川が尾張も領土化すれば松平元康が三河守護代になれたかも
735 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 10:42:37
甲斐の場合はそもそも守護自体が領地入りできない異常な状態が続いたわけだが
甲斐って跡部が守護代で暴れてなかったっけ?
737 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 14:32:17
738 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 14:35:02
>>734 駿河は厳密に守護代に当たる家がない。
遠江は、斯波氏が守護の段階では甲斐氏が守護代。
三河は、細川氏が守護の段階では東条氏が守護代。
739 :
YAP?:2007/04/23(月) 21:52:52
甲斐の守護代の跡部氏は、信昌の代に滅亡した。(尤も後に跡部勝資がでたが)
三河の守護代には、短期間西郷氏が、勤めたこともあったが、
このときの守護は、たしか仁木氏だったかな?一色氏だったかもしれないが。
一色氏は、尾張の国の知多・海東2郡の分郡守護職でもあったが。
740 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 23:49:13
徳川家定生母の跡部氏は甲斐守護代の末裔?
741 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 19:40:07
そういえば幕末の武鑑で跡部良弼の家紋がのってたが、小笠原と同じ三階菱だった。
やっぱり甲斐源氏の末裔なんだな。
良弼自身は水野忠邦の弟で、男系の先祖は広島の浅野クンだが。
そういえば跡部って小笠原一族だったよな。
信濃から甲斐に来て守護代になったはず。
743 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 14:46:01
甲斐で武田家が実権を握るのなんて信玄の爺様だか曾爺様の時代になってからだろ
名門今川家とはわけが違うのだよ
744 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 16:28:32
甲斐武田と若狭武田とどちらが本家なの?
745 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 16:34:06
甲斐武田が本家
746 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 16:43:55
麻呂の家が潰れた原因
それは麻呂が息子の蛆座寝を甘やかして育てたこと
747 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 16:45:55
>>746 織田家の場合を見てみればいい
だれだけの大組織ですら分裂し下克上の対象になるんだよ
氏真は結果家を潰してしまったかもしれないが義元死後は三河で家康に歯向かわれただけで
なんとか今川家を維持したぞ
>>747 織田の分裂はにわかに肥大した大名だったからだろ。
今川は昔ながらのただの駿河の土豪にすぎなかったから分裂はせずにすんだ。
反乱が起こったのは義元によって侵略されたばかりの土地。
749 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 17:06:46
似たような規模の武田は麻呂でもない武名轟く勝頼が跡を継いだが
結局織田が攻めてきたときに今川家のようにあっさり潰れたぞ
750 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 19:20:24
義元が麻呂なんてまだ言ってるのか。
751 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 19:23:52
>>750 まさかとはおもうが、義元は麻呂じゃないと主張するつもりか?
752 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 19:23:00
日本男性と生まれ来て衆道の嗜みも無き者は
出来損ないの変態でしかないだろう。
753 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 20:08:36
麻呂は坊主のできそこない
754 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 20:08:39
755 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 13:52:42
12 :日本@名無史さん :2007/01/20(土) 05:01:29
義元が一般的に人気がない理由。
劇画で簡単に信長に討たれるから。
しかも信長や秀吉、家康らが中心人物として描かれる場合
討たれる以前の勇猛な義元の描写が少ない場合が多いため
なおさら大したことのない公家風殿様のイメージがある。
13 :日本@名無史さん :2007/01/20(土) 10:01:08
義元って勇猛じゃないじゃん。
14 :日本@名無史さん :2007/01/20(土) 11:04:44
>>13 桶狭間で織田の旗本3人と戦い2人を再起不能にしてる
15 :日本@名無史さん :2007/01/20(土) 15:06:01
>>14 足軽の膝を割って、同じく足軽の指を食いちぎっただけだろ。
そんなんが勇猛ならほとんどの武士は勇猛になっちゃうよ。
16 :日本@名無史さん :2007/01/20(土) 15:39:09
義元は今川家の総大将だよ。
それでそれだけ出来たら
世間のイメージからすれば大したもの。
バカ殿ではなかった。
756 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 14:38:12
う、氏真様をバカにするなぁ!
蹴鞠では天下一なんだぞっ! とか何とか
757 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 16:48:15
家康は、あのまま今川に残って今川の名跡を継ぐという道もあったのでは?
上杉謙信の場合みたいに、氏真の養子になって今川元康になればよかったのに。
>>757 今川の宿老から話があれば可能性もあるが、まずそれはないよ。
信康を氏真の養子にして今川乗っ取るほうがまだ可能性がある。
760 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 19:18:36
その場合、「信」は信長の一字だから、今川義康だな>信康
761 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 03:14:37
氏真から一字貰うなら「真康」じゃないの?
「義」だと将軍家からってことになるぞ。
762 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 07:18:24
氏康じゃね?
763 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 07:24:13
北条とかぶるな。
764 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 19:33:18
>>世間のイメージからすれば大したもの。
>>バカ殿ではなかった。
え?
今川義元ってそんなイメージもたれてるのか?
氏真ならともかく親父はダメだろ・・無知もいいとこだ
765 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 19:42:46
氏真も現代に生まれていれば サッカー選手になって
有名になっていたかもしれんのに 残念だ
蹴鞠とサッカーをいっしょくたにしないでくださーい
ギャグなんだろうけど見飽きたし
767 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 08:31:41
貴族のお遊びだった蹴鞠とハードなスポーツのサッカーを同列に論じられてもなw
ピラピラした衣装でやるお遊びと汗まみれ、泥まみれになるスポーツは別物。
768 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 10:39:20
息子に武芸ではなく蹴鞠をさせて遊ばせてるんだから
やはり麻呂は武士に向いてなかったんだ
公家風を好む→弱いってのは
エロサイトを見てる→犯罪者ってのと同じくらい偏見が入ってるんじゃね?
770 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 17:58:25
蹴鞠ができる
茶道をたしなんでいる
絵画に精通している
それだけは朝廷や幕府を相手にする上で必要なスキル
と思っていましたが
771 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 18:56:33
>>770-771 和歌/漢詩と書と舞くらいは必要かと。
絵と蹴鞠ができればなおよいが、これらは資質がいるから。
>>772 全部要らない。
和歌・漢詩・・・平安の世ならともかく、戦国時代には不要。ただしできると話のネタにはなる。
書・・・右筆が代書するので不要。せいぜい署名できるくらいのスキルがあればOK
舞・・・全く不要。まれに宴席の余興で趣味人が舞うことはある。が、それも家臣任せでOK
絵・・・全く不要。
蹴鞠・・・全く不要。
はっきり言って戦国時代は田舎武家にお公家がすり寄ってきた時代。
お公家とつきあうのに教養など一切不要。お金と力さえあればOK
774 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 23:02:33
連歌くらいはできないと公家が飽きて逃げるんじゃない?
775 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 00:23:15
>>773 なくても構わないってのは確かだが、
実際のところ大抵の戦国大名はその種の嗜みを持っていたな。
細川や武田のような名門武家はもちろんのこと、
信長や家康だって一通りの嗜みはあった。
秀吉みたいな野猿でさえ、茶道を積極的に保護しようとした。
>>775 >実際のところ大抵の戦国大名はその種の嗜みを持っていたな。
つまりそれらに特別抜きん出ている必要は無いが、
大名の一般教養としてある程度は出来るのが普通、ということだな。
公家と付き合う以前に、武家同士でも付き合いはあるんだし。
まあ大名自ら蹴鞠までやる必要は無いけど
それにしたって氏真が治政や軍事でも実績を残していたなら
信長の幸若舞みたく単にユニークな趣味として語られていただけだと
思う。
氏真は蹴鞠をしてたからじゃなくて
何にもしなかった事が問題だったんだよな
とりあえず織田に再戦くらいはしとかなきゃねぇ・・・
778 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 03:48:37
細川幽斎は和歌・茶道の大家であり、特に和歌は古今伝授を受けた大家である。
また剣は塚原卜伝に学んでいる。
前田慶次は大武辺者であるが、彼の道中日記には彼の詠んだ
俳句・和歌・漢詩が記されている。もちろん茶道も嗜んでいた。
直江兼続も和歌や漢詩は当然だが、特に漢詩に造詣が深く
『文選(直江版文選)』(日本における最初の銅活版印刷)を残している。
もちろん、信玄や謙信の和歌や漢詩も残っている。
特に謙信は漢籍はもちろん和歌・連歌に優れ、近衛・一条・西園寺等らと交際し、
上洛した際に足利義輝と唱和した歌も残っている。
書は青蓮院流書家の正統であり、今に残っている。
茶道は紹鴎から伝授され、謡曲は自ら仕舞と太鼓を演じ、一節笛も吹いた。
琵琶も巧みであった。伝授された武芸百般は数え切れん。
謙信はこんなに不要?なことをしてるのに何も言われてない。
779 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 03:55:00
>>776 >大名の一般教養としてある程度は出来るのが普通、ということだな。
達人になる必要はなくても一定レベルまでは、大名クラスの武家としては
当たり前の基礎教養だから、逆に全くできないと色々な意味でマズい。
もっとも、まともな武家の家に生まれれば物心つく頃から周囲が有無を言わさず
教え込んでいるはずだから、それが問題になることもなかっただろうが。
780 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 04:00:51
特に和歌の素養に関しては、この当時は中央だけにとどまらず全国的に連歌が
流行しているから、まあできないことのほうが考えにくい。
また武家の嗜みとして臨終の際には辞世を詠まなければならないから、最低限の
和歌の素養は、切腹の作法と同様に、元服までに必ず叩き込まれるもの。
781 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 04:36:38
建設業者がゴルフできないとつきあいで困るのと同じかな
有名なもの
謙信、信玄の漢詩
信長の舞(あつもり)
茶・・・大勢
書、和歌は字が書ける程度、57577にまとめる程度ならば非常に容易。
783 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 09:02:21
ただ戦国だと、既に口語と文語文法が若干乖離しているから、全くの無教養では
和歌は詠めない可能性がある。
784 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 09:25:59
そういや太閤秀吉も、晩年、異常なほどに和歌を残していたな。
とても教養があったとは思えんが。
当時の人が上手いと思ったかどうかは別問題として。
785 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 10:00:46
現代人が俳句つくるくらいの難易度じゃね?
786 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 10:05:19
和歌とか漢詩を作る際に
故事をもじったりすることがあるので
やはり嗜む程度にしてもそれなりの教養は必要ですよ
秀吉なんかは特に派手に花見だとかを開催しまくっていて
そういう場所では必ず歌が付きまとうからそれなりの素養があったんだろうね
得意でないものを好きになるわけもないしな
>>786 漢詩は難易度が高い。和歌は難易度が低い。
戦国武将の残した和歌の大半は教養不要のレベルだよ。
788 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 13:50:20
秀吉はむしろ一般的な当時の武将と比べても和歌好きだったって話も聞くな。
789 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 13:58:52
信玄や謙信には七言絶句が残っているが、確かに秀吉が漢詩を作ったという話は聞かない。
直江山城も漢詩を多く残しているが以下はその一つ
織女惜別
二星何恨隔年逢
今夜連牀散鬱胸
情話未終先灑涙
合歡枕下五更鐘
土岐頼芸の描く鷹の絵は玄人はだし。
武田信玄の弟逍遥軒も画の達人。
でも大名としてやるべきことをやっていないと、
折角のこういう取り柄までがまるでバカ殿の証拠のように言われて
しまう。
「そんな遊芸にうつつをぬかしてるから駄目なんだよボケ!」ってな
具合に。
791 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 14:30:42
>>790 その風潮がだんだん平和になってきていきなり逆向きに動きだすんだよな
歌も読めないとか茶も嗜まないととか
なんか中小だったのがいきなり大企業に成長しちゃって急にゴルフとかを始める社長みたいで笑える
792 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 14:30:58
当時は隣国でも言葉が違っていたから
古典の教養がないと外交が出来ない
今川義元の弟(名前は知らない)が、尾張のどこかの城に住んでたときに、
信長の父の信秀が、
『連歌しよう』と、遊びに行って、その夜兵を引き入れて、城をのっとったという事件があるよね。
こんなふうに、外交や謀略に利用できるんだから、教養は必要だろう。
氏豊かな。
頭のいいやつは教養を生かせる。
頭の悪いやつは教養あっても生かせない。
結局は能力次第。
いや、朝廷や幕府との交渉に教養は必須かどうか、といった話ではなかったか。
796 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 08:34:44
教養のあるヤツがすればいい
という返答で終わったと思う
797 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 11:44:11
教養は無くてもいいが、あればいろいろと使え。
細川幽斎は、彼が死んだら古今集の秘伝を伝えるものがいなくなるので、
関ヶ原でだいぶ得をしたようだ。
>>793 ということは、その時までは、尾張の一部が今川の勢力下だったということかな?
799 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 12:51:26
>>798 まあおれは793ではないが
以前の今川スレでそのあたりが検証されていたね
熱田屋敷が今川のモノだったらしい
信秀がそこを奪い取ったので桶狭間は尾張奪回戦だと位置付ける説もあった
800 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 13:04:50
>>798 その時まではというか、桶狭間時点でも鳴海城(名古屋市緑区)、大高城(名古屋市緑区)、沓掛城(豊明市)
のように、尾張には今川方の城があった。
>>800 その3城は織田信秀死後の混乱で今川方に寝返っただけじゃね?
802 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 23:31:57
那古野城は、織田信秀が今川氏豊から奪ったんだよな。
あと、よく「尾張守護代家が二つに分かれ各々上四郡・下四郡を支配した」と書かれるが、知多郡は一色家や吉良家が度々守護職(分郡守護)を拝命したように、斯波家(即ち守護代織田氏)の影響力は弱かった。
803 :
YAP?:2007/05/04(金) 00:18:30
和歌ではなくて連歌が盛んだったのではないかな?
まあ、連歌も和歌の連続だから、同じようなものか。
尾張8郡のうち、一色氏が、知多・海東両郡の分郡守護蜀だった。
一色氏は、三河の守護職も務めていた時期がある。
今川氏豊は、たしか、12〜3歳の頃に、信秀に那古屋城を奪われて、
京へ逃れた。
ただ、名児耶全域が、今川領というわけでもないだろう。
当時は、土地の両主権というのは、何重にも重なっていたからな。
804 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 01:14:12
尾張・三河・遠江・駿河の奉公衆て誰?
>>803 >>今川氏豊は、たしか、12〜3歳の頃に、信秀に那古屋城を奪われて、
てことは、義元が家督を継ぐ前?
信秀は、何歳くらいだったの?
806 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 09:45:42
「飲んだら乗るな 乗るなら飲むな」
今川義元、辞世の句でございます。
807 :
YAP?:2007/05/04(金) 12:39:07
今川氏豊は、氏親の5男で、大永元年(1521)に生まれ、大永初年准一門の名児耶氏(尾張今川氏)に養子に入ったと考えられている。
この第永「初年」というのが、実際に何時のことかは判らないが、まさか、数え年1歳で遠方に養子にやることもないだろうから、まあ、
大永2〜4年ぐらいではないか?
勿論、氏親が、まだ尾張に権益」を持ってたわけでは無く、昔からの那古屋氏 (名児耶氏)の家督相続人として、末子をおくっただけなのだろう。
名児耶氏は、幕府奉公衆の家格で戦国時代には、今川名児耶氏を称していた。
天文二年(1533)7月には、勝幡城主織田信秀が、京都から公家の飛鳥井雅綱と山科言継を招き、そのときの記録が『言継卿紀』に記載されている。
その7月23日に、
飛(飛鳥井)・予(山科)・蔵人・今河竹王丸・三郎(信秀)・兵部丞
という6人が、蹴鞠を楽しんだという。このとき、今川竹王丸は、飛鳥井の蹴鞠の門弟になっている。
尚、「今河竹王丸」之所に、「那古屋十二歳」という注が在り、これが言継の誤記・誤認でなければ、氏豊はこのとき数え年12歳で
大永2年の生まれということになる。
まあ、信秀の本城である勝幡情で、蹴鞠や連歌にお呼ばれされるぐらいだから、後に、城をのっとられても不思議はないだろう。
通説では、名古屋城を氏豊が失ったのは、天文元年とされているが、先の日記のように翌年に氏豊が、名児耶城主だったことははっきりしているので、実際に
名古屋城を信秀が奪った俊は不明だ。
父氏親が大永6年、長兄氏輝と次兄彦五郎が天文五年(1536)3月17日に死亡しているから、氏親没後でまだ氏輝が自立せずに寿桂尼が貢献している
時期出ないとすれば、天文五年3月以降義元の権力の確立する(天文6年の河東一乱と遠江の堀越氏延の乱)前後の事を考えれば、天文5〜6年がもっとも考えやすい。
小和田氏は、天文7年に名児耶近辺の神社の焼失の伝承があることから天文7年と
考えているようだが。
氏豊富が、12〜3歳で名古屋城を失なったというのは考え難くなった。
やはり、17〜8歳頃なのかな?
808 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 23:41:39
尾張守護に今川仲秋・今川讃岐守法珍がなった事があって
その関係から、尾張に権益を持ってたってことは無いかな。
809 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 00:34:59
>>808 今川那古屋氏(尾張今川氏)は、今川仲秋が尾張守護だった時代の尾張守護代だった可能性がある。
多少時代が下って、足利義教の富士遊覧のときの『満済准后日記』か何かで、尾張国那古屋について、今川某(名前失念)の知行地だと記している箇所があったはず。
なおこの今川某は、同日記では仲秋の子供(こちらも名前失念)と一緒に出てくることが多い。
810 :
YAP?:2007/05/05(土) 16:32:23
今川仲秋の尾張守護就任は、明徳4年(1393)から、応永五年(1308)の間らしいが、
その今川讃岐守法珍というのは、逸頃尾張守護になったの?
仲秋の子は、貞秋、氏秋、直秋の3人がいるが、誰も守護にはなっていないようにおもうのだが。
名児耶氏は、「那古屋」の在地名を名乗っているところから、ほんらい、名児耶を名字の地とする
尾張に土着性の強い一族ではないか?
信秀は、那古屋城を手に入れるとき、那古屋氏の「庶家」を切り崩して、味方にしたのではないだろうか。
那古屋勝泰等は、どうかな?
例の「名古屋山三郎」は、織田氏の一属で、名児耶に領地を持っていたから、那古屋氏を称したのか、
本李の那古野氏の出身だったのか、どっちだろう?
811 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 16:58:47
>>810 応永5年は1398年だな。
あと、
>>809の仲秋の子供は貞秋ね。
南北朝期の尾張守護は、鎌倉期以来の中条氏が没落した跡は、
土岐・山名・今川などに目まぐるしく変わるから、わけがわからない。
最終的に今川から斯波に変わる理由は今川氏の勢力削減とともに、この時期の
室町幕府の主導権が細川派から斯波派に変わることも関係していよう。
今川氏は室町幕府での立場は伝統的に親細川だから。
812 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 16:59:29
余談だが遠江守護が今川から斯波に変わるのも同じ時期。
813 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 18:15:36
>>810 今川讃岐守は、蒲原直忠の事らしく、応永4年から仲秋の後、
少しの間なっていたよう。
814 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 21:42:37
それは守護なの?守護代ではなくて?
815 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 22:14:05
「愛知県史資料編」によれば守護。
816 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:51:57
守護ってしゅごいの?
817 :
YAP?:2007/05/06(日) 21:56:10
仲秋が、応永5年まで尾張守護だとしたら、蒲原直忠が応永4年の守護というのは、おかしくないか?
しゅごだいだったら、わかるが。
蒲原氏の初代は誰だっけ?
私の記憶では、仲秋だったように思うのだが。
仲秋の弟、氏兼じゃね?
819 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 00:14:47
821 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 12:44:33
もし桶狭間で麻呂が逝かなかったら
麻呂は何歳まで生きていただろうか?
822 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 13:03:05
・キッチリと氏真に家督を譲って隠居
・死後やはり分裂騒動が起き結局今川家崩壊
のどちらかしか選択肢はないなあ
823 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 00:35:53
麻呂の官位は 従四位下、治部大輔。上総介、三河守
とWikiにあるが
織田信長も同じ上総介持ってた?
824 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 02:44:02
信長は自称
825 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 11:16:53
>>823 つまり麻呂と自称するほど高位の人ではなかった
京かぶれのお殿様という意味ならばそうだろうが
そんなお殿様はこの時代そこら中に居た
つまり麻呂麻呂いうのは的外れ
もう出てくるな
>>826 何とかして義元を貶めようとする信玄の策略だろ
828 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 11:59:26
>>825 義元は身分が低いのになんで麻呂になってたの?
不遜じゃない?
829 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 12:13:49
>>828 だから京かぶれ
現代でいうと宮崎県に居ながら東京ではね。。。と東京で流行ってるファッションしてただけだ
830 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 16:49:07
>>829 じゃあ本当は義元ってナウい人だったの?
831 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 17:01:31
>>830 よーく考えてみよう
周りが宮崎県(なんで宮崎なんだ?)のヤンキーファッションの中
一人だけ東京風(どんなのが流行してるからしらんw)のファッションで
ぼくちゃんナウいでしょー ってやってるんだ
まあでも各地にある小京都なり京風文化の名残を見れば
ある程度地元のヤンキーも京風にあこがれていたのかもしれんが
832 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 19:20:31
京風文化を取り入れたから「麻呂」(=柔弱な公家かぶれ)とは思わない。
ここのバカどもの「麻呂」連呼は、義元を不当に貶めて面白がってるだけだが、
義元は足利一門であると同時に、母親が公家の娘で「公家ハーフ」なんだから、
京風文化を愛好しても何の不思議はない。
833 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 19:47:53
>>832 >「麻呂」(=柔弱な公家かぶれ)
妄想乙
834 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 19:48:54
そういう妄想で義元をバカにしてるのは、このスレの麻呂厨だろうに。
835 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 21:40:13
836 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 22:40:30
麻呂厨にも困ったもんやね
837 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 22:59:35
今川義元ってホモっぽいんだけど。いやなんとなく・・・
838 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 02:08:16
義元=麻呂
これは常識
今川領を掠め取った武田厨が義元のイメージダウンしてるんじゃねーの?
840 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 06:18:02
>>839 >>830−831を嫁。
麻呂は最先端のナウいファッションだった。
だから麻呂は誉め言葉。イメージダウンなどになるはずがない。
それを褒め言葉と採るかどうかは人によるでしょう
義元本人はどうかしらんが
現代人から見るとマイナスなイメージを抱く人もいるだろうな
842 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 10:03:34
>>841 結局信長の引き立て役なのが現代人のイメージにあるからだろうね
たとえ公家風の衣装を着ていなくても義元のイメージはやられ役だからなあ
まあ忠臣蔵の吉良上野介のイメージがそのまま義元と被ってるってのが興味深いわなw
843 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 10:32:52
今川と吉良は親戚だからな
844 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 10:54:43
>>843 だからそういうのを絡めて江戸時代に人気だった忠臣蔵と太閤記が。。。
って話しだと思うぞ
845 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 11:53:07
当時高家であった吉良のイメージを
そのまま桶狭間の義元にぶっかぶせたってことか!
忠臣蔵で悪役であった吉良のイメージもさらにぶっかぶせて
討ち取られる義元、あっぱれ毛利新助!みたいな
846 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 12:42:51
麻呂は織田や徳川の敵なんだから
徳川の天下になれば 麻呂が悪役になるのは当然のなりゆき
847 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 14:07:02
>>842-843 親戚というか、氏真の娘が吉良氏に嫁いでいるから、今川義元と吉良義央は
血縁的に繋がる。
848 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 14:11:42
ちなみに吉良とのつながりを強調するために
実際の今川家にはありえない
足利亡き後は吉良、その次は今川
などという紹介をしていたりする
義元自身が京風文化をどこまで好んだかはしらないが
現存する限り静岡県で小京都と呼ばれるような地域があるかどうか見ればよくわかると思う
849 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 14:20:54
戦国時代の今川は麻呂であったことが確定的だけど、
吉良はどうだったの?やっぱり麻呂だったの?
850 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 14:39:36
戦国時代、公家風にしていた武家は、今川に限らないんじゃないかな?
信長の妹お市の肖像画をみると、明らかに天上眉だし、
江戸時代の浮世絵にもお歯黒の風習を見ることができる。
公家の風俗を真似るのは有る意味、貴種になった証で、
皇族や公家は明治初頭までお歯黒、天上眉を続けていた。
851 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 14:44:21
室町末期の今川家が京風の格好をしていたのは決定的なの?
852 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 15:20:27
>>850 信長の妹も麻呂だったの?
ひょっとして信長も麻呂だったの?
853 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 15:21:19
信長は京風だった可能性は十分あるぞ
信秀自身、歌も蹴鞠も嗜む人だったからな
854 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 15:42:05
手元にある平凡社発行の「徳川十五代」という雑誌に、
歴代将軍やそれにまつわる人々の肖像画がのっているんだが、
今川家ゆかりの徳川家康の最初の正室築山殿、
さらに家康の2度目の正室で豊臣秀吉の妹旭姫、どちらも天上眉。
家康側室、お亀の方の肖像画は少し口元を開いていて、お歯黒が見える。
公家の風俗をまねる武家は特殊ではなかったようだが。
ちなみに、歴代将軍が描かせた公式の肖像画は、
武家の正装かみしも姿ではなく、すべて公家の正装である束帯姿。
855 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 19:09:24
公家かぶれと言えば木下秀吉だ
氏素性もはっきりしない下層出身のコンプか 関白になって貴族趣味三昧
さすがに お歯黒はしてなかっただろうけど
856 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 19:36:20
麻呂とかいうふざけた言葉が、このスレでは一人歩きしてるな。
857 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 19:43:57
麻呂は一人では歩けない
お供がいる
858 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 19:44:16
>>855 秀吉は天皇の御落胤だよ。関白になるのは当然。
むしろ駿河の地侍が麻呂になって大いばりしているのの方が滑稽。
859 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 22:37:52
>>857 同意。麻呂は太っていて歩行困難だから、移動には輿が必要。
860 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 07:57:46
麻呂が鎧甲をつけた姿とか想像できんな
桶狭間で討たれた時は鎧着てたんだろうか?
暑かったらしいし相撲取りみたいに浴衣じゃね?
まーたバカが妄想に耽ってるw
>861
褌一丁だろ
864 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 18:57:01
麻呂には側室はいなかったんだろうか?
女房(信玄姉)が早く逝ってから独り身はつらかったんではないか?
865 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 19:05:11
866 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 19:36:11
麻呂厨うぜえ。
867 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 20:21:47
あの氏真の他に男児がいたら 今川の歴史も変わっていたに違いない
腑抜け氏真を追放し 麻呂の仇討ちをする豪傑が欲しかった
868 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 23:38:05
869 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 01:44:12
いや、気概のあるのが居れば、ちょっとは変わった
870 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 03:45:36
気骨があり武勇に優れていた子供がいれば今川は滅亡しただろう
浅井朝倉のような運命だろう
871 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 09:27:36
1965年くらいまでに もう一度 今川家の全力を挙げて尾張の織田討伐をすれば
今川は勝ち織田は滅亡するか今川の家来になっていただろう
今川が滅亡したのは 腑抜けの氏真がいけないから
872 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 09:37:39
太平洋戦争後にもう一度戦争か
873 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 10:00:09
>>871 1560 父麻呂 ×
1565 子麻呂 ××
条件の良かった1560年であの体たらくなんだから、
子麻呂の氏真が出兵してもより悲惨な結果になるのは火を見るより明らか
874 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 10:26:11
三河の内紛に乗じても取り返せなかったのに
尾張なんかまでいけるわけねーだろ
875 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 11:19:25
桶狭間で麻呂は消えたが 今川の家臣団は ほぼ無傷
ただ戦意がなり衰えているが
元主君の仇討ちという名目で出兵すれば 織田なんぞ1週間くらいで蹴散らせる
876 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 11:31:22
蹴散らせてないっての
家康が岡崎城に立て篭もったのに取り返せてすらないじゃないか
さらに三河で一向一揆に乗じて介入してみようと試みてもだめだったじゃないか
織田どころか家康すら蹴散らせてないのに何言ってんだか
877 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 12:38:08
桶狭間直後だったら松平元康も今川に残って
織田攻めに参加するだろう
事実、元康は氏真に復讐戦を勧めたらしいし
すべては麻呂が氏真を腑抜けに育てた報いだ
878 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 12:46:38
>>875 桶狭間では麻呂のみならず麻呂の幕僚たちも皆殺しになった。
っていうか、スレタイ間違ってるな。
「一生の不覚」ではなく「不覚の一生」ではないだろうか?
879 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 12:54:42
>>877 >元康は氏真に復讐戦を勧めたらしいし
これは単に復讐戦もしないくせに跡取り気取りでいるんじゃねーよっていう
決別宣言だろうに。。。
880 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 15:28:35
桶狭間では 麻呂だけ討ち取って織田は消え去った
麻呂を失った今川は統制がとれず大混乱のうちに駿河に逃げ帰った
>>878 >麻呂の幕僚たちも皆殺しになった。
いい加減なこと書かないように
事実なら桶狭間で戦死した今川武将を列記してくれ
881 :
日本@名無しさん:2007/05/11(金) 16:00:45
>>881 リンク先には陣形と名前が載ってるだけで誰が戦死したとかは書いてないが?
仮に881に書いてある人物が全員戦死したとしても 今川軍団は健在だと思うが?
883 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 18:20:27
>>882 >今川軍団は健在
何を以て健在とするのか?
たとえば長篠合戦後の武田軍。
言いようによってはこれも健在と言える罠。
89 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/10/28 22:15:24
永禄3年1月 品野城松平家次・戸田直光、織田軍攻め落される。
2月 家康、広瀬城三宅高清攻める。
5月 三河守となる。出陣。家康、大高城へ兵糧入れる。
家康丸根砦・朝比奈泰朝・井伊直盛鷲津砦、攻め落とす。
桶狭間戦い戦死者名
今川義元・三浦義就・井伊直盛・蒲原氏徳・飯尾乗連・松井宗信・関口氏緑
一宮宗是・由比正信・久野元宗・久野宗忠・庵原元政・松浦康直・後藤真泰
江馬秀時・奥山朝宗・尾上氏・富永氏・小野政直の子2人
沓掛城近藤景春討死、落城。
鳴海城岡部元信、刈谷城水野信近討死、攻め落とす。水野信元奪い返す。
終わりです。
今川義元・三浦義就・井伊直盛・蒲原氏徳・飯尾乗連・松井宗信・関口氏緑
一宮宗是・由比正信・久野元宗・久野宗忠・庵原元政・松浦康直・後藤真泰
江馬秀時・奥山朝宗・尾上氏・富永氏・小野政直の子2人
沓掛城近藤景春討死、落城。
鳴海城岡部元信、刈谷城水野信近討死
個人の役職や役割知らないけど
首脳部がごっそり討ち取られて機能不全に陥ったんじゃないかな
886 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 19:29:41
井伊とか水野とか、よく家康に仕える気になったな。
887 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 19:32:33
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
● ● ●
● ● ●
● ● ●
● ● ●
● ● ●
● ● ● _( "''''''::::.
● ● ● ●__ ____,,,... --‐'''^~ ヽ ゛゛:ヽ
● ● ● ●:::::::::....:"""" ・ ・ . \::. 丿
● ● ● ●::::::::::::::::::: ・ ....:::::::彡''ヘ::::/
● ●:::::::::::::::::::::::::::::;;;;;,, ---‐'' "^~
●●●●●-‐‐
保守
889 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 01:03:52
桶狭間で重臣が数名逝っても 今川の大勢には影響少ないだろう
麻呂が逝ったのが一番痛い
氏真では麻呂の代役は務まらなかった
890 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 01:54:16
麻呂がいなくなったので 麻呂との結びつきで今川に従属していた土豪層が離反した
これが今川弱体の要因だ
事実、三河の松平は今川を見限って織田に寝返っている
麻呂さえ生きていたら 松平は今川の家来のままだった
信玄没後の状況に似ている
891 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 07:36:55
信玄が駿河に攻め込んで来た時、氏真に従って戦う家来はいなかった
氏真は戦わずに掛川まで逃げ出した
892 :
日本@名無しさん:2007/05/12(土) 15:18:15
薩垂峠の戦い。
今川氏真軍20000人
武田信玄軍12000人
結果。
今川勢、遁走。
893 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 16:32:37
敵が戦国最強の武田騎馬軍団とあっては逃げるしかないだろう。
894 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 16:54:52
>893
武田って、そんなに強かったの?
信玄があの時死なずに京に入っていたら、征夷大将軍?
信長も信玄破るのは無理?
895 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 19:18:07
戦わずして勝つ
戦の前に工作して 今川武将の内応をとりつけてあるから
今川は戦うわけない
896 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 20:54:02
>>895 なんでそんなに簡単に今川家臣の内応を取り付けることができたの?
信玄の知謀が高かったから?
氏真の魅力が低かったから?
今川家臣の義理が低かったから?
義元の死で今川家臣の忠誠が下がってたから?
駿河って金山があるはずだから、今川って金持ちでしょ?
家臣たちに褒美の金を与えて忠誠を高くしておけば良かったんじゃないの?
897 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 21:00:04
毛利元就にしても武田信玄にしても
戦は 戦闘の前に勝つ工作をしつくしてから行った
家臣が寝返ってることを知らないのは 阿呆の氏真だから
898 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 06:36:33
麻呂が あと20年生き延びていれば
日本の歴史は変わっただろう
>>898 息子がやったことを麻呂がやるだけじゃね?
歴史は変わらないと思われ。
900 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 10:20:07
いや麻呂が生きていれば、信玄も今川領に攻め込まないし
元康も今川の家来のままだ
信長が じわじわと三河に浸食してくるかもしれないが
駿河・遠江は安泰
901 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 11:07:33
むしろ氏真よりも化けの皮の剥がれた麻呂の方が格好の餌食だろう。
北条、武田、松平、織田が一斉に攻め込んできて麻呂は捕獲→京都に追放となる可能性が高い。
902 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 14:13:15
>>900 そうだな、家康の場合でも夏の陣では家康本陣が強襲されるとは思わず本陣が潰走、
あやうく首をとられるところだったが、結局は最後は兵力差で豊臣を滅亡。
義元も桶狭間で家康のように逃げることに成功していたら、織田家は滅亡。
日本の歴史は変わっていた。
それまでは海道一の弓取りとされていたし、天下取りに近いだろう。
903 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 18:50:01
>>901 そうだな、義隆の場合でも出雲攻めで命からがら逃げ帰ったあとは
趣味に没頭して自堕落な生活をおくり、あぼんぬだもんな。
義元も桶狭間で義隆のように逃げることに成功していても、今川家は滅亡。
日本の歴史は変わっていなかった。
それ以後は家康が海道一の弓取りとなり、天下取りに近いだろう。
海道一の弓取りつーても、麻呂とかウンコ漏らしだからなw
905 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 20:04:43
>>904 合戦中にウンコ漏らしは徳川家康じゃなかった?
今川義元にそんなエピソードあったっけ?
906 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 20:13:57
>>905 義元はウンコ漏らしたかさだかではないが、足軽の指にむしゃぶりついた。
なんだこいつら
908 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 20:21:11
信長の最後も一生の不覚だったけど。
義元の場合は不覚の一生、だな。
910 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 23:05:36
>>901 違うね、逃げるのに成功して夏の陣の家康のように攻撃を続行。
夏の陣の兵力差より、はるかに戦力に差があるから織田はここで織田仏。
義隆が尼子晴久に敗れた時のように全軍崩壊していたわけでなく、
崩れたのは義元本体だけで岡部や松平など他の部隊は健在なので夏の陣の様相に近い。
「信長公記」に桶狭間時点では信長は尾張半国しか掌握しておらず、
河内郡は服部左京進横領、知多郡は駿河より乱入などという記述があるので、
多少の犠牲はいとわず織田攻撃を続行すれば尾張一国は麻呂の物。
>>909 不覚だったのは桶狭間だけだな。天正17年には織田軍に大勝してるし、
翌年には織田方が押さえていた安城城を攻略。政治・軍事におこたりはない。
「信長公記」にも義元は馬に乗っていて、桶狭間で最初に切り付けた織田兵に対して、
自ら太刀を抜いて戦い撃退したと記されているので、
べつに肥満もしておらず、輿にも乗っておらず、自身の武芸もおこたっていなかったことがわかる。
肥満で乗馬できないとか、輿に乗っていたとかの記述は江戸中期以降のものしかなく信憑性はない。
911 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 23:55:31
>>910 無理。
本陣壊滅して指揮系統が消滅してしまえば、雪斎におんぶにだっこでろくに戦に出たこともない
ド素人義元が軍を立て直して反撃するなどあり得ん。
大内は殿軍を敵中に捨てながらなんとか退却したが、今川は各城に籠城中の支隊を除いてまさに全軍崩壊。
そんな状態で惰弱な義元に戦を続行する根性などあるはずがない。
残った部隊も岡部や松平など敵中に孤立したものばかり。
運良く命の助かった義元にできることといったら、降伏するか必死に故郷に逃げ帰るかの2つに1つだな。
912 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 02:36:11
>織田はここで織田仏。
wwwww
麻呂は織田を甘くみすぎたから失敗したんだろう
本来なら美濃の斉藤氏とか 伊勢の北畠氏とかと同盟し
万全の体制で長期戦にもちこめば 織田は自滅していた
窮鼠が猫を噛んだのが桶狭間
猫(今川家)は負けて 二度と立ち上がれなくなった。
913 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 04:04:45
氏真は麻呂がガタガタにした今川家を立て直そうと必死に頑張った。
麻呂の浪費で財政は破綻状態、桶狭間の完敗で今川軍は再起不能の状態に陥っており、
家臣たちは今川を見くびって謀反をたくらんだ。
不義理な武田は今川をさらに衰退させようと、到底不可能な麻呂の敵討ちを強要し、
賢明にも氏真が拒否すると、良識派の息子、義信を切腹させまでして今川領に攻め込んだ。
氏真は巧みな外交戦略で対抗したものの、麻呂統治下の拝金主義、享楽主義にどっぷりつかった
家臣たちは武田の碁石金による買収工作の前になすすべなく裏切り、氏真に刃を向ける始末。
謀反人たちは氏真を掛川城に追いつめたものの、軟弱な謀反人たちでは到底落とせず、
結局開城、北条領への退去を承認せざるを得なくなった。
その後氏真は恥を忍んで御家再興に務めたが結局果たせず、
今川に恩義を感じていた旧臣の徳川某に保護されて生涯を終えた。
麻呂さえいなければ今川は・・・。
915 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 08:30:59
家臣が離反したのは 敵討ちもできない腑抜けの氏真に
嫌気がさして見限ったんだろ
三国同盟の維持のための外交もした形跡ない
戦も外交もできない氏真は阿呆
↑
麻呂の幻術にどっぷり嵌った麻呂ヲタ
918 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 12:16:07
仮に桶狭間で戦力の半分を失ったとしても まだまだ織田家の数倍国力ある
それに北条・武田と同盟してるから 全力で尾張まで遠征できるし
いざとなれば北条・武田に援軍も頼める
そういう状況にあっても動かずに 家臣の粛正だけしか頭になかった氏真は
腰抜けだろ
919 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 12:34:54
920 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 12:43:28
現代の研究によると
尾張一国と今川の領土だとそれほど石高はかわらなかったという話はあるよね
信長はまだ尾張一国は掌握しきれてなかったがもっとも儲かっていたであろう清洲を
抑えていたのは大きかったと思うんだな
921 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 14:07:55
今川義元
戦闘 24
政治 78
知謀 43
魅力 56
今川氏真
戦闘 51
政治 86
知謀 62
魅力 37
922 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 16:24:08
麻呂の全盛期には 駿河・遠江・三河全域と
尾張の一部まで領土を広げていた
那古野城だって 麻呂の父の氏親が築城したらしいではないか
それを信長の父の信秀が略奪した
麻呂の全盛期の領土は 石高にすれば100万石超えてるだろう
923 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 18:17:06
本領の駿河では北条に虐められてたけどな。
武田の救援がなければ麻呂は三河の山奥で山賊やる羽目になっていただろう。
924 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 18:36:50
このスレは麻呂なんて言葉を使う輩が住み着いてからはほんとに糞スレになり下がったな
925 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 18:52:37
北条は駿河の領土を少し欲しがっていたようだが
本気で今川を潰すつもりはないだろう
そもそも北条は今川の食客から成り上がった親戚だ
氏真の嫁は氏康の娘だけど、もし信玄の娘が氏真の嫁になっていたとしたら
歴史は変わっていたかもしれん
926 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 19:34:03
武田から今川に嫁がいったら 諏訪家の二の舞だろう
織田、武田、北条に囲まれて滅亡必至の麻呂家
928 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 20:27:14
今日は麻呂の命日です
929 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 20:31:06
Wikiによると 桶狭間の戦は5月18日らしいぞ
もうすぐ麻呂の命日か
930 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 00:22:42
>>927 北条氏康は今川との同盟を守り通したな。
同盟を破って自滅した武田、桶狭間以上の不覚の死をとげた信長。
因果はめぐる。
931 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 06:16:07
>>930 >北条氏康は今川との同盟を守り通したな。
ダウト。「今川氏真との同盟を守り通した」が正解。
>>930 麻呂の頓死は何の因果が巡ってきたの?
兄殺し?北条を裏切って武田と結んだこと?
氏真の苦労は「親の悪業子を祟る」ってやつかね?
火星包茎か真性包茎か程度の違いしかないだろ
934 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 10:31:17
正直義元は戦国大名になり損ねた感があるからなんとも評価しづらい
あと10年くらいの間に歴史はグルグル動くわけだがその間に豪族の力をがんがん削って
義元中心の体制を確固なモノに出来たのかどうかってことなんだがな
>>921 今川義元
戦闘 24
政治 78
知謀 43
魅力 56
麻呂 84
今川氏真
戦闘 51
政治 86
知謀 62
魅力 37
麻呂 100
936 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 16:48:50
937 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 16:54:22
>>920 太閤検地段階での国別石高順位
1.陸奥1,672,358 2.近江775,379 3.武蔵667,126 4.尾張571,737
5.伊勢567,105 6.美濃540,000 7.常陸530,008 8.越前499,411
9.上野496,733 10.大和448,945 11.豊後418,313 12.信濃408,358
13.越後390,770 14.越中380,298 15.上総378,892 16.下野374,082
17.下総373,255 18.播磨358,584 19.摂津356,066 20.加賀355,570
21.肥後341,220 22.伊予336,200 23.筑前325,695 24.出羽318,095
25.肥前309,935 26.三河290,750 27.薩摩283,488 28.筑後265,998
29.丹波263,887 30.遠江255,160 31.紀伊243,550 32.河内242,105
33.甲斐227,616 34.山城225,266 35.備前223,388 36.能登210,000
37.相模194,204 38.安芸194,150 39.出雲186,650 40.備後186,150
41.美作186,017 42.阿波183,500 43.備中176,929 44.大隅175,057
45.周防167,820 46.駿河150,000 47.和泉141,512 48.豊前140,000
49.長門130,660 50.讃岐126,200 51.日向120,087 52.但馬114,235
53.石見111,770 54.丹後110,784 55.伯耆100,947 56.伊賀100,000
57.土佐98,200 58.因幡88,500 59.若狭85,000 60.伊豆69,832
61.淡路62,104 62.安房45,045 63.隠岐40,980 64.飛騨38,000
65.志摩17,853 66.佐渡17,030
壱岐・対馬・琉球・蝦夷地を除く。
938 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 17:23:58
そういえば今回の「風林火山」では、武田晴信が祝言の場面で麻呂の格好で出ていたね。
公家風の黒くて細長い尖り帽子をかぶっていた。
武田みたいな勇猛な武人でも、あういう儀式の場面では、格好いいチョンマゲじゃなくて、キモい麻呂になるんだと思った。
939 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 21:09:52
20:54〜
開運なんでも鑑定団
桶狭間の戦いに新事実か?今川義元の書状を発見!
義元治下の今川家は戦国大名としては先進であるというのが戦国史研究
では通説じゃなかったのか。
941 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 22:03:42
>>940 今川と後北条が2大先進大名っていうのが一般的。
ただ後北条の場合は、支配地すべてが征服地だからある意味やりたい放題できたわけだけど、
今川の場合は前代からのしがらみがいろいろある中で先進大名になった。
そういう意味では今川のほうが、より凄いって感じかな。
942 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 22:46:00
麻呂の最大領土は 駿河・遠江・三河全域と尾張だから
100万石ちかく
尾張全部の石高が57万石だとすると 桶狭間当時の
信長の領土は20万石程度だろう
943 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 01:50:37
>>938 それはTPOに応じて公家風の格好(立烏帽子)はするさ。
信玄、謙信、家康、信長、義元、みな同じ。
>>942 義元は駿府にいて尾張攻略は配下の武将にやらせておけばよかった。
それでも、「信長公記」に「俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる」
というように、急な豪雨が信長の部隊の急接近を隠し、義元本陣にとって不意打ちになるような
百に一つの幸運がなかったら、5千(義元本隊)対2千(信長隊)で信長は返り討ち。
信長はイノシシ武者と後世言われただろう。
944 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 02:59:25
信長が立烏帽子をかぶっているのって、大河とか時代劇では見たことないな。
>>943 今川家で当主の代理として大軍を率いることのできるのは太原雪斎か朝比奈の当主くらいのもの。
桶狭間の時、雪斎はすでに亡く、朝比奈当主の泰朝は若年だった。
また戦国大名として脱皮するには強い権限は当主に集める必要があった。
だから義元は自ら総大将として出陣した。
946 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 07:13:21
公家風は格好悪いと思ってる癖に公家風するんだね。
公式の場所でスーツを着るのと同じようなもんだからな
948 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 07:23:25
でも、スーツ=格好いい、公家風=キモい、ってなわけでしょ?
949 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 07:39:32
謙信も参内したとき麻呂になってたの?
950 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 08:13:02
どうせなら氏真が桶狭間に出かけて 麻呂が留守番していればよかった
氏真が討たれていたら 今川は織田を滅ぼし繁栄しただろう
951 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 08:33:36
現代ではわかりにくいかもしれんが
衣装ってのは非常に重要で
どこで何をするからこの衣装みたいのは決められていたんだよ
さらに官位に応じてこの衣装を着てもいいとかも決められていたんだ
麻呂といわれているのがどれかは知らんが
戦国大名だからといってそれが別枠なわけではないよ
952 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 08:58:53
マロスタイルは江戸時代の武士も式典で義務付けられていた
一般的なフォーマルスタイル。
ヤンキーだった信長がアルマーニのスーツ着ていたエリートを
殺して「こんなカッコしてやがるからオヤジはダメなんだぜ
キェ〜ヘッヘッヘェ〜」と奇声上げてたけど、結局は自分も
オッサンスタイルになった。
でも自分に都合のいい部分だけ見たい現代の落ちこぼれ、下層
階級の人間どもが「公家スタイルは時代錯誤」と勘違い発言を
連発し、時代の読めないアフォだけがそれを信じた、ということ。
953 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 10:22:59
>>952 >でも自分に都合のいい部分だけ見たい現代の落ちこぼれ、下層
>階級の人間どもが
平日の真っ昼間にそんなカキコをしている君はまさにこれなわけだなw
954 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 10:39:44
若者はスーツでネクタイは親父臭いと思っているが
就職活動するときはスーツでネクタイ
左翼系の作家やアングラ出身の役者や奇行の多い芸術家でも
園遊会や勲章もらう時は正装している
955 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 10:53:32
作業によっても衣装が決められているから
何かするたびに着替えだよ
956 :
日本@名無しさん:2007/05/16(水) 10:53:52
/、;:;:;:;:;:;:;:;:;ー-:;、_;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:l
./ミミミミミ、;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:ー-;:;、;:_;:;_:;::-‐'"´i
lミミミミミミミミミー-::、;;;;_;:;:;:;:;:;i;:;:;:;:;:;:;:;:i
,!ミミミミミミミミミ _;`-、;;;!:-‐'''´|ミi
//`,ヾミミミミシ‐'″ 'ー‐' : 'ニフ' i;/
l l ,rヾミミミ _,,,,, ノ _,,_ l
',ヽヾ、ヾミミ ィで)ヽ、 r';ィび、.ノ
ヽ、__,, ミミ `゙゙'''"フ` | `゙'''フ'i
〃 i l ミミ /´ | `ー'´l
/ヾ.l ミミ /' | /
. /:::::',ヽヽ` / ` `゙ー-' /
r/::::::::::',ヽヽ i:i ', /
/::::::::::::::ヽヽ\ '"ー===-'/
ヽ:::::::::::::::::ヾ、 ` 、 ゙'一''ー'ノ′
、 \:::::::::::::::ヽ ` ー‐-t't::i´゙ー-、
.`-、 `ー-:、::::::ヾ'、 //:::l ヽ `゙ー- 、 今宵は何を奏でもうか?
昨日、何でもお宝探偵団に今川義元が松平元康に充てた感状が出てた。プライスは紙切れ一枚で700万。
義元直筆だそうです。 字も綺麗で元康をかわいがってる様子が良く分かる感状でしたが、かわいがられて
たの?
いくら正装だからって普段からそればっかじゃだめだろ 切り替えが大事なんだよ
有事の際にスーツ着てる奴はバカ以外のなにものでもないし
959 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 11:45:23
元康はめちゃくちゃかわいがられていたぞ
そりゃまあ一応最前線に当たる岡崎当主になるわけだし
それなりの待遇は与えるつもりでもいたんだろうなあ
960 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 11:48:54
>>957 うそつけ。家康へじゃない。足軽三七への書状だろ。
962 :
日本@名無しさん:2007/05/16(水) 13:08:39
今川義元の書に間違いない。義元の書は本物が少ないので歴史的に見ても貴重な資料となる。義元は公家文化に憧れていたので非常に品がいい。
つまり、麻呂か。。。。。。。
>>960 正確にはそうだが、宛先は松平元康だぞ。その足軽は元康の家臣。 良く見れ。 禿げ。
963 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 13:37:01
964 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 15:16:18
>>952 でも江戸時代の武士の烏帽子は、細長い尖り帽じゃなくて箱形じゃん。
やっぱ公家風そのまんまはダサすぎだから、形を変えたんだよ。
965 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 16:01:40
966 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 16:13:02
余談だが、江戸時代、公家の装束も随分変わったからねえ〜
武家や庶民の女性は、江戸時代初期ごろから髪を結い上げるようになったんだけど、
これが公家の女性にも伝わって、江戸時代中期頃からいわゆる「おすべらかし」になった。
髪を結わえもせずに長くのばして、墨をすっていたら自分の髪の毛も一緒にすっちゃった、
っていう清少納言の時代に比べたら、随分動きやすくなったと思う。
>>964 むしろ官位によって着る物も被り物も違うからだよ。
歌舞伎なんかだと忠臣蔵の吉良と浅野は似たような服着てるが、確か四位の吉良は狩衣で五位の浅野は大紋だから着て
るものが全然違うってのと一緒。
かっこいい悪いで勝手に変えられるものじゃない。第一、武士だって朝廷に使いする場合があるのに勝手に変えてたら問題に
なってしまうよ。
968 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 17:40:09
>>962 うそつけ。宛先は討ち死にしたやつのアニキ。討ち死にしたやつは足軽じゃないし。
あの書状に松平なり元康なりの字が書いてあったようには見えなかったんだが。
書いてあったら番組が大喜びして取り上げるだろ。
今川義元が若き日の徳川家康に送った書状発見!って。
つーか、どこから松平元康の名が出てきたんだか。
寝ぼけてんのか?
971 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 20:58:47
972 :
書跡:2007/05/16(水) 20:59:38
↑詳しいことはココをどうぞ。
どう見ても宛先は足立馬の助だな。
974 :
日本@名無しさん:2007/05/16(水) 22:58:00
足軽にまでも感状を送るマメな麻呂さんに感動した!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
もしかしたら麻呂仲間だったのかもな
いや、そうに違いない
976 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 00:14:30
>>967 狩衣や大紋なんて本来的には普段着用の略装。
武家だって、戦国以前なら、鎌倉幕府や室町幕府の公式性の高い儀式・行事では
直衣&立烏帽子がフォーマルだったはず。
もちろん朝廷が絡む場合は、束帯とか衣冠になるが。
スレの流れを見ると次スレは今川氏総合スレッドにしたほうがいい気がします。
武将単独スレは日本史より戦国板向けだろうし。
AA厨や麻呂バカに乗っ取られてるしな。
義元単独スレとして続けるなら戦国板の方がいいと思うよ。
979 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 01:23:03
そろそろ次スレ準備をしておじゃれ
980 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 07:36:57
今川なんていったら 今川焼き?と勘違いされそうなほど
知名度のない今川にあって、桶狭間で逝った麻呂ほどの有名人はいない
981 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 08:42:06
山梨の武田信玄、新潟の上杉謙信、山形の最上義光、仙台の伊達政宗とかは
地元で今も崇拝されてるのに
静岡では 何故今川義元が崇拝されていないんだ?
静岡人が崇拝するとしたら義元しかおらんだろ?
清水次郎長なんかで喜んでる場合ではないぞ
984 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 08:55:22
松平元康は静岡人ではない
静岡を自己の都合で利用しただけの余所者
985
986 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 12:54:23
徳川家康は死んだところだけは駿府だったが。
有名人がいない都道府県は、そんなのもあるぞ。
時代行列で、出身は違うけれど、誰それがここで死にました〜、
ってことで有名人が出てくる。
姫路なんかサル猛プッシュしてるしな
988 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 18:23:18
岡山では宇喜多親子は崇拝されていない
池田光政が岡山の創始者扱い、天皇の次に偉いのは池田家だと思っている
小早川秀秋は黒歴史、浦上・三村・金光はマニアでも知らない
もっと古ければ吉備真備・和気清麻呂が尊敬されている
989 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 18:47:31
やはり歴史の勝者でないと人気ないね
麻呂みたいに格好悪い最後を迎えたくないし
990 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 19:29:44
腐っても鯛、虎は死んでも皮を残す。 と言うか・・・
公家ルックを今に伝えるキャラは今川義元しか居ませんからね〜
重要人物。
995
|:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:i;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;|
|;:;:_:;:_:;:_:;:_;:;_:;:l:;_;:_:;:_:;:_:;:_;:_;|
|______|_____|
| 三| _ _ |三 !
| 三| 三シ ヾ三 |三 |
| 三′ .._ _,,.. i三 |
ト、ニ| <でiンヽ ;'i"ィでiン |三.|
', iヽ! '⌒` / !、 "⌒` |シ,イ
i,ヽリ. '""` ,' : !. '""` |f ノ
ヾ! i ,、 ,..、ヽ lノ
| _ _ イ l
l トェェェェェィ i /、
゙i、 トェェェェタ′ ノ/'"\
| \ ー一 / / _,ン'゙\
,ィ|、 \ /_,、-'" _,.-''´ `丶、__
_, イ | ヽ_ 二=''" _,. -''´ """""´´ ``ー
ぶっちゃけ ありえなーい♪
,.-ァ'':::::!:::::::::'''ー=ニ-_;;::::ヽ;;::';ハ! / .,r';::-‐ァ;i ;';;;:-'''""ニ=-、、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;'、
.r'r'゙:;r'::;:::!;:'ヾ''ー-;r'`ヽ ヾト;;';-:::::Z ,' .,'/ ./;;;;| ;/ "~~`ヽ /!;;;;;;;;;;;;;;',
//::;'::::;':::|:!\\、,,!_ ,.-ニ'' '!、',‐-、 ,' !;//r'`,' r'''='ヽ、 .''メ-、,!;;;;;;;;;;;;;;;!
リ|:::;:::::!::::!'、,.-'ー、,,__. ' i::;;;;) .レ,. ) ,' ` ';;',.!,' ,.i;;;;;ノ _,,,! ';;;;;;;;;;;;;;'
';:::!:::|::::|r'ヽ,,.-- `‐'゙ ','、 ,' ,,_:;;::|i `'' , ,.::;;;,ヽ. ';;;;;;;;;/
'|:::::;:::;'! / !:::;;;) `,. '`、 .,!-、'!'ー、 / ir'、 r-、,,_ .i;;;;;lノ ' ,i;;;;;;;;!
ノ!:::';::!::'、 `ニ-' ヾ、 ', /、 ヽヽ、ヽ // \. i ,/ `` ,.-'゙'''!;;;;;;'、
'"`リ、:|';:!゙`ヽ、 ヽ、_,ノ/|',:', ..,.!::''ヽ,`,rr''"/ !:iヽ、,___,,,,. ァ'/、-;;'";;;;;;;;;`ー
,,、 ._>、''゙`ー-i'ー---;--─' .!:i ,,:;!‐:::-', '!::::::!:;:, ';:', ,,.-''"-'/;;'//!;;r;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
>'''" ` ヽ,', `ヽ、,,_,ノノ ,:;;/:::::::::::|::!:レ':'、:, '、-‐'''" .,,.`,ゞ-'ヽ'i-、;;;;;;;;;;;;;
'"`ゝ _,,.-r‐''" ヽ、:: :;: ,,:,,.. ;/::`''ー-ァ、!!';::::::'!、;::;..,, . .,;: ;:;;/、 .\ i;;;;;;;;ノ!;
-=`、-''" `、',.-'" `7''ー-‐''"::\::::::::::/ ,',`、:;::,':::::::`i‐-‐''i"::::::::\ \''" /
ゝ '、ヽ;::::::/::::::::;'::::::';::::::::`ヽ,/ / ',i|`、!、:::::::::!::::::::::';::::::::;;:-,>、 `ヾ;'
`" ``'! >、ヽ/::::::::::;::::::::::';::::::;:-' >' .!' ヾ、`ー-'--‐二',,.-‐"!',. '、 _,,,、,r-'
ヽ、-' ! ./`-、''-:::;;';;;;;;;;::::ヽ,,.-;" ! '、``''''!'''" ', ./ゝ '、 '、\ ヾ
,ゝ '、! ``7'ー--‐''" `ヽ--' \ '、 ! ソ,彡! .! /'"ヽ
∧_∧
∧ ◯( ´∀` )◯
∧_( ´∀ \ /
∧_∧ ∧_( ´ (つ. _/ __ \_
∧_( ´∀∧_∧ ∧_( ´⊂ 人⌒l(_/ \_)
( ´ (つ ⊂( ´∀∧_∧ (´∀( つ ノ ノ し(_) ∧
∧_∧(○ | ( / ( ´∀`) ⊂二、 \ヽ (_ノ、_ノ 僕は、今川義元ちゃん!
( ´.( ´||し⌒/ ⊂ ノG( こ ∧_⊂(´∀`⊂(_(__)
⊂ ( | .|,ノ し (_,\ ( (´∀` ) / / /
〈 〈 .) (_) (_ ⊂ (ノ (ノ (__)_)
(__(__)__) (__)_)
999
1000 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 23:04:33
麻呂麻呂
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。