【麻呂】今川義元 Part3【上洛】

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940日本@名無史さん:2009/01/08(木) 08:38:30

藤本正行『桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』(洋泉社、2008年)
941日本@名無史さん:2009/01/08(木) 14:12:18
福島正成と福島正則は血縁?
942日本@名無史さん:2009/01/08(木) 22:18:04
>>941
血縁(同族)だという説もあるようだが、たぶん違う。

福島正則の母親は豊臣秀吉の叔母。
つまり、尾張西部の、身分の低い階層の出身者。

一方の福島正則の方は、「ふくしま」ではなく「くしま」。
九島と表記されることもある。
今川の重臣だったが、甲斐の国へ攻め入って、武田信虎に討たれた。

住んでいた住所も離れているし時代も若干ズレている。
身分も違うし、苗字の呼び方も違う。
943日本@名無史さん:2009/01/08(木) 22:27:42
テリー伊藤がやってた人の親戚かな?

くしまめ!やりおったわ!アーっはっはっ!!!!(・∀・)
944日本@名無史さん:2009/01/11(日) 10:18:03
>>934
岡部元信が今川家を裏切ったことは無いが?
945日本@名無史さん:2009/01/11(日) 16:13:12
武田に寝返ったよ。
946日本@名無史さん:2009/01/11(日) 16:37:56
>>942 の 「一方の福島正則の方は、「ふくしま」ではなく「くしま」。

は俺のタイプミス。
× 福島正則
○ 福島正成
947日本@名無史さん:2009/01/12(月) 19:56:36
>>945
情報源ってなに?
Wikipediaにそれらしい情報が有るけど、
俺は知らないので、寝返ったとは思っていないんだが。
948日本@名無史さん:2009/01/12(月) 21:28:19
あれは寝返ったんじゃなくて見限ったんだと思う。
949日本@名無史さん:2009/02/07(土) 22:08:35
麻呂あげ
950日本@名無史さん:2009/02/07(土) 23:58:27
そもそも”上洛”についての戦国における定義がわからん
要するに京に軍隊を連れて乗り込んだら 天下?と昔謎に
思った。その先端が今川義元でした 単に京都を見物する
のでは駄目なのか、 あと通過する国は侵略されるのか、
どうぞお通りくださいと言えば害されないのか。大名が
上洛を遮るのは何故か?桶狭間の戦いについてもあまり
わからない。そもそも京都の大名が天下なら松永久秀が
天下人だったのかなどと思いました!上洛はセレモニー?
どんな意味合いがあるのか。大軍を率いたらそれだけ費用もいるだろうに。
951日本@名無史さん:2009/02/08(日) 00:11:52
>950
今川義元は、大名としては上洛していない。
大名になる前には上洛歴があるが。

単に京都を見物するだけだったら、信長がまだ美濃を攻めてたころの謙信も、(信長在世時の)家康も、これに該当する。

通過される国だけでなく、近隣諸国も含めて、
「天下人」の傘下に入らないと侵略される。

松永は天下人になる前に降伏せざるを得なかったから、天下人じゃない。
そのまえの、三好長慶は天下人だったけど。

ちなみに、当時の言葉としては、「天下」という言葉は京都周辺地域のことを指し示していたと思っても、さほど大きな間違いじゃないだろうと思う。
つまり、「京都を安定支配していること」が、天下人としての絶対条件。

軍隊を引き連れて上洛しただけでは、すこし不足。
952日本@名無史さん:2009/02/08(日) 00:13:08
京都の実権を奪っても、戦国時代という単位で見て。
それほど意味があるのかについて謎。どのみち朝廷の言うことを聞かないから
”戦国大名”なのであって。権威のない 将軍家を抱え
込んでどれだけのメリットがあるのか。 当時は全国統一
が大名の最終目標だという解釈からすれば亡びかけた
室町幕府をかかえる意味がわからない
953日本@名無史さん:2009/02/08(日) 00:14:44
>>951 ありがとうございます
954日本@名無史さん:2009/02/08(日) 08:49:33
守護大名は本来京都に集住するものだった。
守護大名たる今川義元が京都に向かうのに、道中の大名たちは
それを遮る合理的な理由がない。
もちろんただ京都に向かうと言うだけで天下人になどなれるわけはないし、
大名たちは傘下に入る必要など全くない。
955日本@名無史さん:2009/02/09(月) 14:12:52
>>952
メリットがあるから、信長は義昭を擁して上洛したんでないの。
956日本@名無史さん:2009/02/18(水) 11:29:16
今川に関する信頼のおける良質な1次史料は存在しない。
よって、小和田などの狂信者の盲説妄言が定説史実化する。

徳川における三河物語、家忠日記、信長公記のような著者のはっきりした
来歴の明らかな歴史書は、今川にはない。

上杉、武田、北条なども軍記しかない。

伊達にいたっては、家譜(自己を絶賛するインチキ本)しかない。
957日本@名無史さん:2009/02/18(水) 16:42:43
信長はどうも武田家を滅ぼすことに乗り気は無かったみたいで天正十年に甲斐に攻め入ったが、穴山信君の息子に武田家を相続させることを約束してる。
今川義元は討ったがその後、氏真は赦されている。
根絶やしという考えは無かったと見える。
荒木村重は裏切ったから根絶やしにされたが、茶々をはじめとする浅井の娘3人も信長の姪ということで赦されている。
958日本@名無史さん:2009/02/18(水) 18:22:43



あえて問う。
信長は義元を殺す必要があったのか?


959日本@名無史さん:2009/02/18(水) 18:26:57
>>957
斎藤や朝倉は?
960日本@名無史さん:2009/02/19(木) 09:09:37
>>959
斎藤は逃亡を許されてるし
朝倉も存続を許された。

961日本@名無史さん:2009/03/05(木) 22:52:03
寿桂尼に抱かれて息絶えたい
962日本@名無史さん:2009/03/05(木) 23:05:21
毛利新介に抱かれて息絶えたい
963日本@名無史さん:2009/03/16(月) 11:48:14
元亀元年6月28日;織田信長感状、徳川殿。是より、家康の武名
いよいよ高く、今や世に海道一の弓取と、歌わる。姉川合戦での
大勝における徳川家康の抜群の武功を賞賛する。
高祖(劉邦)、張良、武門之棟梁など賞賛の言葉が並ぶ。
新井白石の『藩翰譜』に「海道第一と聞えさせ玉ひし弓取の、
御母にてましませば」と記述されている。
成島司直の『改正三河後風土記』に、「海道一の徳川殿」、
と記載されている。小牧・長久手戦役の項目で。
幕府編纂の東照宮御実紀(徳川実紀)巻三天正十二年の項で
「徳川を海道一の弓取とはいひしぞ」と記述されている、
豊臣秀吉との小牧・長久手戦役でのことである。秀吉の三河先入れ軍
が家康に大敗した報告を受けて、豊臣秀吉が「家康を名大将、
軍略妙謀まろの及ぶところにあらず」と言ったことになってる。

964日本@名無史さん:2009/03/16(月) 19:26:25
>>963
もういいよ。
そのレスは見飽きた。
馬鹿の一つ覚えもいい加減にしな。
965日本@名無史さん:2009/03/26(木) 12:04:33
元亀元年6月28日;織田信長感状、徳川殿。是より、家康の武名
いよいよ高く、今や世に海道一の弓取と、歌わる。姉川合戦での
大勝における徳川家康の抜群の武功を賞賛する。
高祖(劉邦)、張良、武門之棟梁など賞賛の言葉が並ぶ。
新井白石の『藩翰譜』に「海道第一と聞えさせ玉ひし弓取の、
御母にてましませば」と記述されている。
成島司直の『改正三河後風土記』に、「海道一の徳川殿」、
と記載されている。小牧・長久手戦役の項目で。
幕府編纂の東照宮御実紀(徳川実紀)巻三天正十二年の項で
「徳川を海道一の弓取とはいひしぞ」と記述されている、
豊臣秀吉との小牧・長久手戦役でのことである。秀吉の三河先入れ軍
が家康に大敗した報告を受けて、豊臣秀吉が「家康を名大将、
軍略妙謀まろの及ぶところにあらず」と言ったことになってる。


966枡居堅:2009/04/02(木) 15:03:33
義元ってけっこうチビのオッサンだったらしいね
967日本@名無史さん:2009/04/15(水) 06:26:20
今川って嫡流は絶えたけど、品川のような傍流は現在も残ってんの?
968日本@名無史さん:2009/04/28(火) 20:56:28
元亀元年6月28日;織田信長感状、徳川殿。是より、家康の武名
いよいよ高く、今や世に海道一の弓取と、歌わる。姉川合戦での
大勝における徳川家康の抜群の武功を賞賛する。
高祖(劉邦)、張良、武門之棟梁など賞賛の言葉が並ぶ。
新井白石の『藩翰譜』に「海道第一と聞えさせ玉ひし弓取の、
御母にてましませば」と記述されている。
成島司直の『改正三河後風土記』に、「海道一の徳川殿」、
と記載されている。小牧・長久手戦役の項目で。
幕府編纂の東照宮御実紀(徳川実紀)巻三天正十二年の項で
「徳川を海道一の弓取とはいひしぞ」と記述されている、
豊臣秀吉との小牧・長久手戦役でのことである。秀吉の三河先入れ軍
が家康に大敗した報告を受けて、豊臣秀吉が「家康を名大将、
軍略妙謀まろの及ぶところにあらず」と言ったことになってる。

969日本@名無史さん:2009/04/28(火) 22:46:54
今川の尾張進攻は旧領回復と織田攻略が目的で上洛のためではない
970日本@名無史さん:2009/04/28(火) 23:43:28
つか、そもそも遠州侵攻(文明頃)からして旧領回復のためだしな。
んで返り討ちにあって当主義忠が討ち死にしてから今川家の困難が本格化したんだろ。
義忠の嫡子(のちの氏親)が、身の危険を感じてか(←与太)、国外退去を余儀なくされたぐらい。
氏親の代の後半になってようやく、因縁の地・遠州を制圧できたわけだしな。

その次の「因縁の地」である尾張への侵攻は、氏親の子・義元を待たねばならなかったわけだが。
971日本@名無史さん:2009/05/20(水) 15:24:15
信長も下立つて、若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒ほし、
いらつたる若もの共、乱れかゝつてしのぎをけづり、鍔をわり、
火花をちらし火焔をふらす。然りといへども、敵身方の武者、
色は相まぎれず。爰にて御馬廻・御小姓衆歴々手負・死人員を知らず。
服部子平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ倒伏す。毛利新介、
義元を伐臥せ頸をとる。
おけはざまと云ふ所は、はざまくみ、深田足入れ、高みひきみ茂り、
節所と云ふ事限りなし。深田へ迯入る者は所をさらずはいづりまはるを、
若者ども追付き追付き二つ・三つ宛手々に頸をとり持ち、御前へ参り候。
頸は何れも清須にて御実検と仰出だされ、よしもとの頸を御覧じ、
御満足斜めならず。もと御出で候道を御帰陣候なり。
世はぎょう季ニ及ブト雖モ、日月未ダ地ニ堕チズ、今川義元、
山口左馬助が在所へきたり、鳴海にて四万五千の大軍を靡かし、
それも御用に立たず。千が一の信長、纔か二千に及ぶ人数に扣立てられ、
迯死に相果てられ、浅猿敷仕合、因果歴然、善悪二つの道理、
天道恐敷候なり。
972日本@名無史さん:2009/05/25(月) 04:21:26
麻呂麻呂言われてる割にはかなりの武断派だったなぁこの人
領内自体はともかく領民達は度重なる合戦で結構疲弊してたけど

何より足利の分流というのがよろしい、大変よろしい
973日本@名無史さん:2009/05/25(月) 18:01:06
今川義元の欠点は猜疑心が強すぎたことだな。
家臣が裏切ったと思い込んで、真相を見極めようともせずに誅殺したりしてる。
974日本@名無史さん:2009/05/27(水) 08:29:25
単に頭が悪いだけだろ
975日本@名無史さん:2009/05/27(水) 10:35:10
( ^ω^)今川アンチ乙
976日本@名無史さん:2009/05/27(水) 13:04:27
まぁ海道一の弓取りという異名は義元には付くべきでは無いよな
城攻めの名人と言われた秀吉をして、野戦の達人とまで言われた家康なら戦上手として充分値するが
義元にそんな傾向は無いだろ
977日本@名無史さん:2009/05/27(水) 16:18:39
>>973
息子はともかく、義元はそんなにたくさん家臣を殺してたの?
978日本@名無史さん:2009/05/27(水) 16:35:16
>977
国境紛争に際して、前線の現地武将だった山口とか渡戸とかが殺されてたっけ。
他にもいた気がするが記憶はない。と横レスしておこう。

>973 はもっと多く知ってるんだろうな?
979日本@名無史さん:2009/05/27(水) 20:24:40
>>978
ありがとう。
こういうことって義元に限らずあったのかな?
氏真のほうは遠江関連で結構殺したのは知ってるんだが
義元が家臣を殺したのって井伊位しか知らなくて、
井伊が北条との繋がりが限りなく黒に近いものだったので、
単純に義元が殺した=猜疑心が強すぎるとは思えなかったんだが
ちょっと調べてみるわ。
980日本@名無史さん:2009/05/27(水) 23:23:24
信長(ら織田氏)を見限って今川について、近隣武士たちを積極的に今川へ誘いまくって、
今川方の前線基地として大活躍した山口や、
山口に誘われて今川に付いた戸部(上記、渡戸は間違いじゃね?)らを殺して、
その居城に今川近臣を城代として送り込んで、かなりの規模の軍を滞在させたんだっけ

「信長に内応して今川を罠にはめる件についての打ち合わせ文書」を偽造して
今川方に流れるように細工した信長の罠にはまったんだ、ということになっている。
981日本@名無史さん:2009/05/28(木) 01:29:58
980をみてちょっとネットで調べたんだが、山口って山口教継でいいのかな?
とあるHPには信長が、今川方に寝返った山口が自分側の情報を今川に与えないようにするため
「山口は実は今川に寝返ったふりをした織田の間諜」だという手紙を今川方にもたらして殺させた、とあった。
ただ、wikiには寝返って数年後(1560年?)に死んでいるとあって、情報を知られないために調略したにしては
時間が経ちすぎ?とも思えるし、山口が死んだあとは岡部が鳴海城に入っていて、別に織田にとって調略してまで
山口を殺すメリットがあると思えないんだけど、なんかあったのかな?
ネット知識だけの素人考えなのだが、義元の山口親子殺しは、寝返りを疑ったというよりは、難癖つけて殺してしまい
腹心を尾張攻略のために鳴海城に置きたかったのかと思った。
982毛利新介、 :2009/05/28(木) 14:28:57
信長も下立つて、若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒ほし、
いらつたる若もの共、乱れかゝつてしのぎをけづり、鍔をわり、
火花をちらし火焔をふらす。然りといへども、敵身方の武者、
色は相まぎれず。爰にて御馬廻・御小姓衆歴々手負・死人員を知らず。
服部子平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ倒伏す。毛利新介、
義元を伐臥せ頸をとる。
おけはざまと云ふ所は、はざまくみ、深田足入れ、高みひきみ茂り、
節所と云ふ事限りなし。深田へ迯入る者は所をさらずはいづりまはるを、
若者ども追付き追付き二つ・三つ宛手々に頸をとり持ち、御前へ参り候。
頸は何れも清須にて御実検と仰出だされ、よしもとの頸を御覧じ、
御満足斜めならず。もと御出で候道を御帰陣候なり。
世はぎょう季ニ及ブト雖モ、日月未ダ地ニ堕チズ、今川義元、
山口左馬助が在所へきたり、鳴海にて四万五千の大軍を靡かし、
それも御用に立たず。千が一の信長、纔か二千に及ぶ人数に扣立てられ、
迯死に相果てられ、浅猿敷仕合、因果歴然、善悪二つの道理、
天道恐敷候なり。

983日本@名無史さん:2009/05/28(木) 17:58:58
>981
>980をみてちょっとネットで調べたんだが、山口って山口教継でいいのかな?
うn

>とあるHPには信長が、今川方に寝返った山口が自分側の情報を今川に与えないようにするため
>「山口は実は今川に寝返ったふりをした織田の間諜」だという手紙を今川方にもたらして殺させた、とあった。
いちおう、それ通説のはず。

>情報を知られないために調略したにしては 時間が経ちすぎ?とも思えるし、
>山口が死んだあとは岡部が鳴海城に入っていて、
>別に織田にとって調略してまで 山口を殺すメリットがあると思えないんだけど、
当然の疑問だと思う。解答はない。

>ネット知識だけの素人考えなのだが、義元の山口親子殺しは、寝返りを疑ったというよりは、難癖つけて殺してしまい
>腹心を尾張攻略のために鳴海城に置きたかったのかと思った。
たぶん、近隣の領主たちも同様に感じたんじゃないかなあ。
984日本@名無史さん:2009/05/28(木) 18:58:23
信長はわざわざ今川義元を殺す必要はなかったと思う。
スルーするか降参して臣従すればよかったのだ。
いくら戦国時代でも、敵の総大将(というか隣国の国主)を討つなんて、
最終決戦でもない限りやらないだろ。

信長、空気読めよ。
985日本@名無史さん:2009/05/28(木) 20:07:17
やっぱり突飛だよな。
あそこで義元の首を取るのはスタンドプレーというか過剰防衛だろう。
やりすぎとしか言いようがない。
986日本@名無史さん:2009/05/28(木) 20:51:39
野獣の本性に起因するとしても、突飛な感は否めないな。

当時の織田家には、まだ今川家を滅ぼして領国を併呑するだけの力も意志もないのに、
義元だけ討ってどうするつもりだったのだろう。

信長個人の武名をあげんがための厨臭い行動にしか思えない。
987日本@名無史さん:2009/05/28(木) 21:27:56
いずれにしても、部下の信頼を大きく低下させる愚行なのは明らか。
この時代の武士の忠誠はギヴ&テイク。
988日本@名無史さん:2009/05/28(木) 21:31:59
987 は >>983 へのレス。

>>984>>986
その件については既に議論が尽くされている。
ようするに、もののはずみでアアなってしまっただけ。
989日本@名無史さん
>>983
この一件の後に実際、義元への部下の信頼は低下したり、なにか問題って起こったりしたの?