1 :
日本@名無史さん :
2007/01/10(水) 12:37:19
2 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/10(水) 13:07:17
あ、やっとクマクマのミコトだっ。ありがとうございます。 久しぶりにこの絵ですねっ。もう一匹は?ちなみに今日はおやすみです。
7 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/10(水) 13:56:41
乙 さんってあり難いですよ。みんなで盛り上げて、立派なスレにしましょう。
8 :
追加 :2007/01/10(水) 14:47:25
9 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/10(水) 17:12:11
>>878 >天皇を政治利用しないためにも、
ここでいう政治利用とは、戦争への道に日本を引っ張り込むような利用法のことをいう。
世界と仲良くする為の外交も、あなたは政治利用というのかな。
むしろそんな外交が天皇の存在理由じゃないかね。
昭和天皇がA級戦犯の合祀で、ド素人宮司にコケにされて靖国神社に行かれなくなられたのを
政治利用として非難するのは、日本を戦争が出来る「普通の国」にしたい連中の策略。
むしろ日本を戦争から遠ざけ、無用な国粋主義に引っ張られないためにも天皇のお考えを
表明するのが日本のためだ。
朝鮮人を馬鹿にして溜飲を下げる国粋主義者は、日本を危険にしてしまう。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
我々は、西洋人が不倶戴天の敵であり、日本を破壊し、日本人を奴隷にすると信じていたのである。
我々は戦争に敗れ、敵は軍隊をもって我が国を占領した。しかし占領軍は、日本人を絶滅させるこ
とも奴隷にすることもなかった。逆に、彼らはこの国を再建し、国民を解放した。
彼らは、我々が今まで知らなかったほどの寛容さ、正義感、同情心を示した。かつての敵のこう
した高貴な態度は、見習うべき特質であると感じる。
私の国民とともに、この尊敬すべき精神的価値を学び取り、我が民族の道義心を高めて救いを得たいと願う。
http://www.yorozubp.com/0408/040818.htm
10 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 17:15:21
バカサヨ丸出しだなw
11 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/10(水) 19:35:09
>>7 漢籍調べていけばこんなものも発見します。
『新校本宋史/志/卷一百四十九 志第一百二/輿服一/記里鼓車』
【足輪各徑六尺圍一丈八尺足輪一周而行地三歩以古法六尺為歩三百歩為里】
12 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 19:37:10
>>プラムさん 移転しましたになってはいれなかってけど、どうして。
13 :
太国 :2007/01/10(水) 19:46:46
恵也は津田病患者のようだ。治療が困難で、何とかせなばなるまい。
14 :
九州ですが :2007/01/10(水) 19:58:44
12は私です。プラムさん暗号が消えちゃいました。どうするんでしたっけ?
15 :
九州ですがcdEg7T5ias :2007/01/10(水) 20:24:29
>>524 邪馬台国への「水行十日陸行一月」を「帯方郡からの全行程」と読まないほうが、恣意的だと思う。
水行二十日も、水行十日陸行一月も、何十泊もする長旅で、船から下りずに食料を調達したり、
余所の国を何の挨拶も無く通過したりするのは考えられない。必ず下船して何らの記述がされるはず。
それが無いのが、水行十日陸行一月」を「帯方郡からの全行程」とみる理由。
水行二十日については、投馬国が帯方郡から船でこれる距離を独自に伊都国で地元の倭人から聞いたものを、そのまま載せたもの。
と考えている。まあ消去法ですね。
16 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/10(水) 20:24:43
私も初めての経験ですし、 携帯からのアクセスに規制がかかったみたいです。 詳しい方事情ヨロシクデス。 運営板なら解るかな?
17 :
九州ですがcdEg7T5ias :2007/01/10(水) 20:29:08
>>16 プラムさん
へえー。プラムさんでも初体験なんですか。よかったぁー。
もうみんなに会えないのかとあせりましたよ。
18 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/10(水) 20:39:47
>>10 >バカサヨ丸出しだなw
あんた自身、右翼がわかってないだろう。
右翼にも革新派がいるし、保守派もいる。
いい加減な言葉を、いい加減に信じて使ってるのじゃないかな。
俺は右翼を天皇を大切にする思想とみる。
左翼は天皇を含めて、すべてを平等の地位にする思想。
日本は天皇だけは大切にして、国家のまとまりを子孫に伝えた方がいいと思う。
さもないと、バラバラになりやすい並みの国になってしまうよ。
それに
>>9 で紹介したのは、昭和天皇がアメリカ大統領に個人的に出された手紙文。
それがバカサヨなら、天皇陛下はサヨクとでもあなたは言いたいのかね?
19 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/10(水) 20:42:48
>>13 太国
>治療が困難で、何とかせなばなるまい。
あなたに他人を治療する力があるわけでもあるまいに。
大言壮語も限度があるぜ。
あんた医師免許持ってるのかい?
20 :
九州ですが333338 :2007/01/10(水) 20:49:47
恵也さん、太国さん。仲良くお願いします。 コテ4人とも意見の食い違いはありますけど、それでいいと思いますよ。
21 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/10(水) 20:51:49
22 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/10(水) 20:54:01
と、思ったうちに 以前と同じように復旧していた。
23 :
太国 :2007/01/10(水) 20:54:06
倍暦の研究から、神功39年は365年と算定した。200年代ではないな。 そのころ女王国が九州にあったのだ。神武のころとかけ離れているぞ。
24 :
九州ですがkittokatu :2007/01/10(水) 20:56:28
トリップがおかしくなっちゃった。これでよかったのかな。
25 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/10(水) 21:03:19
>>15 >余所の国を何の挨拶も無く通過したりするのは考えられない。必ず下船して何らの記述がされるはず。
あんたね!
魏志倭人伝は邪馬台国がどんな国かを書くための、魏の時代の外国情報誌。
旅行記は陳寿が参考にしたであろう書物に書いてあるもの。
混同しないように、
むしろ魏志倭人伝だけでも、子孫の為の外国情報誌としては文章の長さが長すぎるくらいだ。
陳寿自身、この文章を短くしようと悪戦苦闘したことだろう。
この上に、余所の国への魏使の挨拶文章なんて外国紹介をダラダラ長くするわけにはいかんよ。
何のために陳寿が魏志倭人伝を書いたのか、根源的思考力が不足してる。
中国人のために書いたもので、倭人の子孫であるあなたのために文章を残したものじゃない。
26 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 21:03:19
魏志倭人伝には、狗奴国の「狗古智卑狗」が出てきて これを「クコチヒコ」と読んで、菊池彦と解釈しますが これはは間違いです。 魏略では、「拘右智卑狗」になってて、 これは「コウチヒコ」と読んで、河内彦と解釈します。 これが正しいです。 崇神天皇やモモソ姫に謀反を起こした崇神の叔父の武植安彦が 河内彦(河内の長官)をやっていたので、 拘右智卑狗とは、武植安彦のことです。
27 :
九州ですが19583298 :2007/01/10(水) 21:04:07
28 :
九州ですが19583298 :2007/01/10(水) 21:12:06
>>25 僕が言いたいのは、水行十日陸行一月が、あんまり短い記述過ぎる事、
そして、吉備、出雲の名が倭人伝に見えないこと、です。
29 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/10(水) 21:23:36
鯖の点検ですかなぁ〜?
30 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 21:35:10
>>26 違うだろ?それなら、「武植安彦」に似た名前になってるだろ?
狗奴国の「狗古智卑狗」は、あんたが言うように、「クコチヒコ」と読んで、菊池彦と解釈すべきだよ。
狗奴国の「狗古智卑狗」が居たのは、現在の熊本県菊池市あたりと考えるのが普通だろ?
ということは、邪馬台国はその北、筑後川流域でしょ。
とりあえず、ドンこい12 オメ!
31 :
九州ですが19583298 :2007/01/10(水) 21:37:14
>>26 それよりまず、クナ国が畿内に会った証明が何もなされていません。
一大率を置いたという伊都国の南に女王国があり、さらにその南にクナ国はあるんですよ。
畿内なわけがありません。
32 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 21:48:02
それからさあ、邪馬台国から、狗奴国までの間、かなりの数の国名(実際は集落名?) が列記されてるけど、邪馬台国から、とうま国までは何故同様に多くの国名が列記されて いないのか? そして、邪馬台国が畿内だとすると、卑弥呼の宗女「トヨ」を思わせるものが何も無いのだが 畿内説者はこれをどう強弁するのか?
33 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 21:52:27
>>30 魏略では、「拘右智卑狗」になっている。
そのほうが重要だな。
というか、どう考えても、畿内説になるんだわな。
でも、タイミング的には今まで公に出来なかったんだわなw
でも、そろそろ、良いじゃんかということになって...
34 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 21:53:49
九州説なら狗奴国の南に考えられますね>>とうま国
35 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 21:54:03
>>32 崇神天皇の皇女が、モモソ姫の後をついで
巫女になっている。
崇神天皇の皇女の名前は、豊鍬入姫命
36 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 21:55:40
台与:豊鍬入姫 卑弥呼:倭迹々日百襲姫
37 :
九州ですが19583298 :2007/01/10(水) 22:00:04
>>33 そんなことで証明になるなら熊本にも、河内という地名はあるが。
38 :
九州ですが19583298 :2007/01/10(水) 22:03:20
>>34 僕は、「、投馬国が帯方郡から船でこれる距離を独自に伊都国で地元の倭人から聞いたものを、そのまま載せたもの」と考えているから
矛盾しません。
39 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 22:04:19
昨年の初期は、自分も九州説だったw 一緒になって、畿内説をたたいていた。 でも、昨年の中頃から、畿内説にシフト。 裏話を聞いたら、邪馬台国(やまとこく)は畿内だったんだって... そろそろ宮内庁も古墳の発掘を認可した。という裏話。 実は、皇室や宮内庁は、ユダヤ人に、皇室=ユダヤという淡い期待を抱かせるために あえて、発掘を阻止していましたとさw 三笠宮ご老人(中東歴史専門)も、皇室=ユダヤ説は、皇室・日本にとって利用価値あると 言ってなかったけ? でも、その必要がなくなってきた。 イスラエルもなくなりそうだし(中東でイスラエルはもう存続不可能です) で、もうOKなんじゃないかと...そういう流れ。
40 :
九州ですが19583298 :2007/01/10(水) 22:06:16
>>35 その人は崇神天皇の皇女でしょ。卑弥呼の親戚のトヨとは無関係じゃない。
41 :
太国 :2007/01/10(水) 22:09:30
女王国が畿内だったら、魏志倭人伝に「女王国」の記載を書くついでに、 「天皇国」に至るとかの、双方の記述が載る。 そんなこと、片方は書かれていない。つまり女王国は九州にあったのだ。
42 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 22:13:46
天孫降臨って、高千穂の峰に高天原からニニギが下った事になってるけど、 まさか、人が空から降ってきたと考えるお目出度い香具師はいないよな? そう、高天原と称する地域から高千穂峰(九州山地と逝ってもいいと思う。)を 越える事に成功して、宮崎平野に降り立ったのだよ。(その結果、嫁取りに成功。) もう一度、記紀神代で、高天原がどう描かれているか良く読もう。 「略 常夜の状態が続き、略、「天の安河原」に集まり 略」とある。 高天原には天の安川があったのである。 高天原は小石原川流域。(筑後川流域でも桶) そこから出発して九州山地(高千穂峰と書かれている) を越え、宮崎平野と交流を持ち、嫁取りまでおこなう。 この此花さくや姫から生まれた子が宇佐のトヨ(比売大神)と結ばれ、子がうまれ、さらにその子 が東遷して「神武天皇」となるのである。
43 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 22:15:30
>>41 天皇なんて名前は当時はありません。
崇神天皇は、御間城イリヒコ。
天皇国という名前なんてあるはずない。
つまり、当時は、巫女が占って、それを大王が政治をするという体制があった。
巫女が宗教的権威、大王が実務権力者でしたとさ。
44 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 22:18:34
安帝永初元年(107年)、倭國王帥升等、獻生口百六十人願請見 (後漢書倭伝) この「倭国王帥升等」は、「ヤマトクニオシヒト(第六代孝安天皇)」である。 「倭国王帥升等」は、種々の表記があるが、 「升等」は「ヒト」で全体を表音表意混合文とみる。
45 :
九州ですが19583298 :2007/01/10(水) 22:23:57
大和朝廷と、邪馬台国卑弥呼は同一ではない。戦時中、天皇を現人神と崇める八紘一宇の 思想を世界に広めようとした軍部が、壬申の乱と、邪馬台国は万世一系を否定するものとして、 絶対に学校で教えることを禁じていた。これは当然、卑弥呼が、天皇家とは血筋違いである事を示している。 故に、天皇の皇女である倭迹々日百襲姫 が、卑弥呼であるわけが無い。
46 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 22:45:30
>>45 自分も最初は九州説だったけど
もう畿内説は否定できないようになっている。
つーか、そういう決定的な証拠が存在する。
47 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 22:50:18
>>46 自分も最初は畿内説だったけど
もう九州説は否定できないようになっている。
つーか、そういう決定的な証拠が存在する。
48 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 23:04:18
阿蘇山が移動したという畿内説は、その証明をしてみろ!
49 :
太国 :2007/01/10(水) 23:18:07
>>43 神武以降畿内には天皇がいましたよ。それは確かの神功の摂政とかは
ありましたがねぇ。それを含めて言ってるんですよ。
神功は卑弥呼じゃぁないし、天皇国っていうのは厳格に言ってるんでは
ないですよ。そういうような似たような国名で倭人伝に書かれるはず
でしょうが〜。畿内に女王国があったんだから、天皇とか類似の名で
女王国のわきに天皇が住んでる記載があって然りです。
それがないんだから、女王国は天皇のいる朝廷から離れた九州にあ
ったわけですよ。
50 :
九州ですが19583298 :2007/01/10(水) 23:25:56
箸墓古墳をもし卑弥呼の墓に比定できるとしたら、卑弥呼の墓は前方後円墳という事になり、 仁徳天皇陵や応神天皇陵などへ続く、4〜5世紀の近畿を中心とした「大古墳時代」へと、その勢力は拡大して行っているはずである。 邪馬台国は発展し、子々孫々が強大な大和朝廷を形成していったはずではないか。 しかし、邪馬台国の中国への朝貢は、卑弥呼の次の女王「壱与」をもって消えてしまう。紀元266年、壱与が 数回朝貢船を送ったのを最後に、邪馬台国は歴史からかき消えてしまうのである。 これは、邪馬台国になんらかの異変があった事を示唆している。つまり、前方後円墳と邪馬台国は関係ないのである。 それはとりもなおさず、大和朝廷と邪馬台国が関係ないという事である。このふたつは別系統の王朝なのだ。
51 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 23:26:54
>>49 卑弥呼には弟がいて、政治をしていたと
魏志には書いてあるだろう?
>>48 阿蘇山が移動したなんて書いてないだろうが。
そもそも、あれらの文は、複数のネタ元が混乱しているから起こったこと。
52 :
太国 :2007/01/10(水) 23:31:11
>>51 モモソヒメは女王の地位にはないでしょう。当時は男王国ですよ。
53 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 23:40:40
>>51 記紀を読め。崇神天皇は、何か起こると
叔母の巫女だったモモソ姫の占いを受けて、それに従って政治をしている。
叔父の武植安彦の謀反も、叔母のモモソ姫の神託のおかげで察知し
北へ遠征していた四同将軍を呼び戻して、謀反を鎮圧している。
こういう政治体制だったのは、崇神の皇女の豊鍬入姫の途中までで
崇神は途中で巫女を宮中から遠ざけるようになった。
おそらく、その時に、この政治体制は終焉を迎えたのであろう。
54 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 23:43:28
やれやれ、こっちにも畿内厨が入り込んできたのか・・ 畿内ではないと困るだけだろ、何故かはしらないが・・
55 :
九州ですが19583298 :2007/01/10(水) 23:51:34
>>54 いやここの畿内論者は真面目な人々。こんな人達なら大歓迎です。
議論するスレだから、勝ち負けはつきもの。でも、賑わったほうが楽しいですよ。
56 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 23:57:12
>>50 箸墓古墳の選定を間違えているんでしょう、その場合ね。
それか、後から舗装工事をしたとか。
57 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 23:58:18
それにしても、なぜ、九州説って こういう場所で必死で かんじんの学会とか権威のあるところとかマスコミでは 九州説は殆ど相手にされてないの?
58 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/11(木) 00:01:07
>>53 崇神天皇を240年ころまで繰り下げるのは難しいと思う。
1、崇神天皇以降数代の天皇の在位が後の時代に比べて長くなりすぎる。
2、神功皇后の朝鮮征伐(370〜400頃)までの期間も長くなりすぎる。
のちの時代との比較で1代10〜12年で遡ると310〜350頃が崇神の即位になる。
起点を変えてもこの範囲に収まるので、崇神を23〜240頃即位とするのは、難しい。
故に、畿内説の主流派は初期の天皇の実在性や記紀の史実性を否定してる。
59 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 00:08:42
>>57 畿内厨の集まりにしか出席しないから、そんな偏った人間に
なってしまうのですよ。
もっと、常識的な人になりましょう。
60 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 00:11:06
61 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 00:14:17
『のちの時代との比較で1代10〜12年で遡ると』 これがどんだけ馬鹿馬鹿しい事か早く気付けよ
62 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 00:16:37
>>59 でもな...俺は九州説なんだけど、
九州説の集まりって、専門家というよりは
専門外出身の愛好家が殆どなんだよなw
これじゃ、かんじんの学会では、全く影響力がない。
63 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 01:15:47
>>62 あと、九州説は、安本氏の
平均在位説みたいな暴論信者がいるからなw
あれが、そうとうマイナスだな。
64 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 01:50:00
平均在位説みたいなアホ説を信じるのは、 学会で馬鹿にされるから止めたほうが良い。 あれは、記紀とかの細かい年代解明を放棄し 天照=卑弥呼という自説のための思い込みからきた馬鹿説。 だから安本氏は、天文学の専門家に馬鹿にされるような PCソフトの皆既日食みたいなもんに飛びついたんだわな。 天文学会では、247年、248年とともに、 日本では皆既日食は観測されませんでしたと断言している。 平均在位説よりも、それぞれの天皇の生存期間を全部解明して この天皇や皇族は、父親である天皇の何歳の時に生まれた子供か?とか 何歳の時に皇太子になったのか?いちいち50人くらいの登場人物を 全部調べないと分からないよ。
65 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 01:51:07
安本氏の説を強行すると もう、皇統譜の系図をたくさん操作しないと無理をきたす。 記紀の系図を100%信じろとは言わない。 ただ、だからといって、安本氏みたいに、系図上の人物の前後の親子・兄弟関係を かったっぱしから否定して、捜査しまくったら もう、これは完全に、安本説の妄想の領域に入ってしまう。 いずれにせよ、安本氏らは赤っ恥を書く。 そのことが気の毒でならない。 宮内庁が発掘を許可したのは、その線があるから。
66 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 02:07:38
506 :日本@名無史さん :2007/01/09(火) 19:58:01
>>503 はい、そうですね、トロイの遺跡は何層にもなっていて、
シュリーマンが発掘したものは時代的に、新しいとか。
確かに、神話的な、神代の時代の物語と思えるものに歴史的事実があることもありますよね。
中国の夏王朝も伝説と思われていたのが、甲骨文字やら遺跡やらで実在したかもってお話もあります。
しかし、神代のお話が全く関係なかったりもします。
例えば、トロイで言えば、ローマはトロイ人がトロイ滅亡後に難を逃れでやってきて、
建国したことになってますが、これは全く事実無根なんですね。
言語の面からも、人種の面からも、トロイ滅亡と推測されてる時代の遺跡なんかも、
ローマの近辺にはなんにもない。
文献だけで推測すると危険ですね。
その反対に、古代イタリア半島を統一したのはローマであることは紛れもない事実と文献でわかっていますが、
一切の文献がなく考古学だけに拠ったら、
おそらく、エルトリア人がローマを併呑したと理解するしかないでしょうね。
考古学的資料だけで推測するのも危険ですね。
67 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 06:25:40
>>65 宮内庁はついに「発掘」を許可したのですか?
68 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 09:39:45
>>67 ソースを探せ。昨年の暮れかな。
いよいよ、今年からだ。
69 :
太国 :2007/01/11(木) 10:13:30
>>58 (最上段)
拙者の倍暦計算ですと、実年代は
崇神即位 237年 同崩御 259年
で、ほぼ合ってますね。
2は、三韓征伐が皇紀860年で、実年代352年です。
70 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 10:18:41
天皇には権力が無いからどうにもならんけど、俺が天皇だったら、宮内庁に先祖の墓掘らす許可与えるように懇願するね。
71 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 10:20:23
そもそも、崇神の実在の有無から議論しようではないか
72 :
太国 :2007/01/11(木) 10:30:48
津田病患者の妄想だよ。もう今は、こういうのはトンデモだ。 記紀、旧事紀、大成経、他の古史古伝等は全部崇神を記述している。 これだけ文証が出揃ってれば問題ない。 古代天皇の超長寿も倍暦と判明して、現代人と大差ない寿命なわけだし、 無かったという文献は目立って見られない。見られるのは津田文献ww とかその後代の文書くらいだからな。w
73 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 10:40:27
俺は中立なんだが、確かに九州説者はかなり感情的になるので(少なくともここでは)うんざりする。 もしかしたら本当に邪馬台国は九州なのかもしれないが、なんだか正しいことを とって、「な、本当だろ?え?俺の言ってることが正しいだろ?」って サディズムを満足させるように言ってくる奴ってたまにいるじゃん。あんな感じ。 九州の人は単身赴任や新入社員の赴任で大阪や東京に飛ばされることも多いから、 (大会社の本社は東京か大阪が普通だから)そういうのが恨みに思っている人もいるのかもしれない。
74 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 10:45:01
107年の倭王・帥升等(ししと)は 6代目・孝安天皇(おしひと)でしょう? この人物は、前の57年の倭奴(本当は委奴か?)国王とは違って 単純に倭の国王となている。 そういうのを計算していくと、崇神は3世紀中葉の天皇ということになる。
75 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 10:53:17
倍年暦研究に関しては、2003年ころに 公式に学会で発表されて 今年から研究が本格化しだすらしい。 だから、サガミハラハラさんというコテハンが あわてて本を出すんでしょう?
76 :
サガミハラハラ :2007/01/11(木) 11:10:00
其の通りです。 本読んでくださいね。
77 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/11(木) 12:24:49
倍年暦って、自然の循環を無視した、単なる数字合わせですよね!
78 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 12:46:45
倍歴厨は、専用スレで大いに語って下さい。 一般の常識人は無視してますから。
79 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 13:06:54
ローマとか中国も昔は、倍年暦だったんだよね。 三倍年暦だったら、自然の環境の上では説明しにくいけど 二倍年暦だと単純に説明できる。 記紀の天岩戸の話は もろ倍年暦の話にかぶるだろう?
80 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 14:50:07
ここで素人意見を。 邪馬台国がヤマトの前身であれば、日本書紀に記述があるべきだ。 なぜなら魏により国王と認定されたんだから。 九州勢力であるなら、これまた日本書紀に記述があるべきだ。 なぜなら勝手に国王を自称し魏から叙任を受けたから。 征伐する正当な理由となる。 ならば、邪馬台国はどちらでもないのではなかろうか? 対馬、壱岐から松浦を経て、九州を横断しさらに海路を進み 南鳥島のあたりとか。
81 :
太国 :2007/01/11(木) 14:57:26
九州ですよ。神功39年、同66年の記述から、どうやら記載はあるのですが 猫の額ほどの書きこみです。そんなに少ないのは、女王国が畿内と離れた 遠い位置にあって畿内に情報流入が少なくならざるを得なかった為です。 上段の2行は秀逸です。次下の3行はそのとおりですが、畿内と女王国 の遠隔性から、紀の記事は倭人伝より大幅に少ない状態です。
82 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 15:11:58
>>80 あるわけないじゃんw
だって、魏志倭人伝のあれは、あくまでも中国皇帝への朝貢なんだからw
逆に、隋に対する「日の出る処の天子〜」のほうは
自信満々に記紀に記してあるだろうw
そういうことだわな。
83 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 15:23:14
そだね。武士は食わねど高楊枝って感じで、 中国にひざまずいた邪馬台国は、日本人のプライドにもとるって 判断されたんだろう。
84 :
80 :2007/01/11(木) 15:49:59
>>81 ありがとうございます。
素人の戯言ですので、気分転換にでもなれば幸いです。
>>82 ありがとうございます。
その側面も考えましたが、朝貢の記録が恥だとすれば
実際に朝貢の使者を派遣するのはもっと恥なのではないでしょうか?
それなのに、朝貢とはやや違いますが隋や唐には使者を派遣し
律令や仏教文化の輸入には精力的です。
つまり、朝貢の記録そのものが恥だとする認識は
著者にはなかったのではないでしょうか?
さらに、神功皇后の条にて倭人伝を引用してます。
恥とするなら引用すらしないでしょう。
85 :
80 :2007/01/11(木) 15:55:03
で、私の結論です。 邪馬台国はヤマトではない。 ヤマトに滅ぼされた九州王朝でもない。 魏に朝貢し、その後なんらかの内乱により滅亡し 歴史から姿を消した幻の国だと考えます。 ゆえにヤマトには記録がなく、日本書紀の著者は 「正直、わかんない」 と開き直りテキトーに神功皇后の条に引用した、と。
86 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 16:03:50
解らなかったのではなくて故意に記載しなかったのだろう 世界中の歴史を見ればそんな事は腐るほど有るのだが
87 :
80 :2007/01/11(木) 16:09:26
>>86 その「故意に記載しなかった」理由がどうにもわかりません。
歴代天皇の悪行や失敗、失政などは記載してますし
出雲神話などヤマトの前政権まで詳細に記載されてます。
なぜ邪馬台国だけ抹殺する必要があるのでしょう?
88 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 16:09:34
>>84 >さらに、神功皇后の条にて倭人伝を引用してます。
>恥とするなら引用すらしないでしょう。
倭人伝という現に存在するものを無視するわけにはいかねえじゃん。
こっちゃあ倭人伝より古い話しているのに辻褄が合わなくなる。
まあ、はぐらかした引用ってところだろうな。
89 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 16:13:36
倭人伝はがっちりした他の解釈を許さないような書き方してないからね。 まあ、それが邪馬台国論争の発端なのだが、こんな適当な文書、 どうとでも解釈できる。そこで引用してもたいして痛手でないと思ったんだろう。
>>84 あのね、世の中にはシガラミってもんがあるのよ。
嫌な奴に頭を下げたくない気持ちは誰にでもあるけど、
社会人なら、ほとんどがやらなきゃいけないのよ。
91 :
80 :2007/01/11(木) 16:22:47
>>90 その通りだと思いますよ。
仮にヤマトが邪馬台国だとして、
当時の外交政策として魏との親和を必要とし朝貢したのなら
それを日本書紀に潤色して記載すればよいわけですよ。
それをしていない。
つまり、ヤマト≠邪馬台国となりますよね?
92 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 16:26:25
しゃあねえよ。九州なんて大陸にびびるしかねえんだから。
93 :
80 :2007/01/11(木) 16:29:54
話を少し脱線させて古事記のほうに。 古事記にも、邪馬台国は当然ながら記載されていません。 でもコレ、古事記のネタとしては抜群に面白い話じゃないですか? はるか数千里の大海原をこえ未知なる異国に乗り込み 君命を辱める事なく同盟を締結する使者難升米。 邪馬台国がヤマトの前身であるなら、これを記載しない手はないでしょう。
94 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 16:31:31
>>80 さん
邪馬台国は無視されてないよ。よく日本書記読んでごらん。
95 :
80 :2007/01/11(木) 16:36:59
>>94 ん?神功皇后のところ以外でそれらしき記述ありましたっけ?
ちょい今出先でして手元に資料がないのです…
ここまで、お付き合い下さいました皆様、ありがとうございました。
今から所用ですのでロムに戻ります。
もしご不快になられた方がおられましたら、お詫び申し上げます。
でわ。
>>91 万民が仰ぐべき天皇が、
困ったときは外国に頼りにいくと記録に残してたら
民は外国に直接頼みにいこうとするかもしれないと不安になったんじゃないか?
外国が攻めてきた時に、あっさりそっちに乗り換えられても困るだろ?
97 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 18:17:48
つーか、邪馬台国にかぎらず 唐以降の対中国外交も、かなり曖昧な記述だよ、記紀では。 だいたい、5世紀以前は、遣唐使みたいな使節もなかったわけだし、 天皇の長い治世の間でも、中国への使節なんて ほんの一瞬のことなわけだから。
98 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 19:43:29
日本書紀:39年、40年、43年、66年がでてますね。援軍たのんだ のが抜けてる。やはり恥と思ったのでは? 卑弥呼は、1女子とある。皇女ではない。さらに、夫せいなし。お子が いない。そして、宗女イヨ。血統がずたずた。これを天皇にしたら、魏志 で事実がばれる。神功皇后が卑弥呼なら、イヨは、応神天皇?日本書紀 ってほんとに正確ですね。基準になります。海をまぜると島が出来る。 これは事実。多分、阿蘇山も移動したのも事実だと思う。
99 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 19:58:51
>>80 邪馬台国は高天原として書かれているのではないですか?
>>98 来ましたね! 今夜も呑んでるの?^^
イヨタン・・・
101 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/11(木) 21:13:19
>>98 >水行十日陸行一月が、あんまり短い記述過ぎる事、
その間、不弥国までは詳しいし、投馬国もいちおう解説がしてある。
俺は邪馬台国宮崎説だから、九州横断中の山の中じゃ見るべきものといえば、虎や豹、羊や
鳥のカササギなど、中国の山にいるはずのものがいないと確認できたというべき。
1ヶ月も山の中を旅したのだから、山には赤土がでます。木では、クス、トチ、クスノキ、ボケ、
クヌギ、スギ、カシ、ヤマグワ、カエデなどがある。
竹では、シノダケ、ヤダケ、カヅラダケがあります。
また、ショウガ、タチバナ、サンショウ、ミョウガなどもある。
しかし、賞味することをしらない。オオザルやクロキジもいます。
なんて記事が書けるんだよ。
むしろ、あんまり山奥の長い記事を書いてるというべき。
旅をした実績がなければ、こんな記事は絶対に書けるものじゃない。
大きな都市のない山奥じゃ、日数には言及できても、吉備、出雲に言及しないのは当たり前。
102 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 21:16:03
>絶対に書けるものじゃない。 ww
103 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 21:21:22
>>101 あの〜公式的には
魏志倭人伝が書かれたのは、西暦280〜290年くらいで
魏の国はとっくに滅亡してしまった時代ですよw
はっきりいって、魏志倭人伝の作者は
完全には、日本は知らなくて
ほかの人の二次情報を又聞きで書いたものがメインですよ。
104 :
太国 :2007/01/11(木) 21:25:10
記紀の日の数字とやらも、原本の読みの実績が無ければあんな記事は絶対 書けるものじゃない。こうじゃないのかね恵也殿。 今日TVで殺人事件のニュースをやってたが、『被写体』が防犯カメラに写って ないことから、某人を追及したそうだ。八代間も1日〜14日で、月後半の 『日捨退』が無いんだよ。 恵也殿。君は孝安即位が1/27と抗弁していたが、 紀の別本でが1/7であり、こっちを取るべきではないのかね? それでも1/27だと言い張るのならば、君は祭礼は月初めのほうに移動してると 言って、1/27の月後半の主張は自語相違的になるんではないか?
105 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 21:37:51
>>104 一月が14日と言うのは、何を基準に計っているのだろう。
普通に考えれば、一月と言うのは月の動きから来ている。
新月から満月になり、また新月になるまでに30日かかり、これが一月。
だから、仮に二倍暦をとるとしても、一年が6ヶ月と言うほうがまだ理がある。
なのに、日本書紀などには十二月などの記述もあるからこれは却下。
よく見ると、日にちには月の後半が少ない。だから、一月は14日なのだと
決め付けるのではあまりに御都合主義といえる。
106 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 21:43:04
107 :
太国 :2007/01/11(木) 21:43:34
>>105 月後半は特殊な理由のあるとき使っていたようです。
まぁアパートマンションでも104号室はないけれども、ある物件もありましょう。
その部屋の号数が無いのは不吉な数字を嫌うからでしょうが?
昔はもっと縁起を担いでいやぁしませんか?
それに通常暦の時代もあったようで、単に12月があるから却下は短絡的ですな。
108 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 21:48:07
従来の邪馬台国論争は、あまりにも「魏志倭人伝」の解釈にふぃりまわされ ていて、当時の政治的、社会的な基盤が見落とされている感があります。 九州に鉄製の農機具が現れた頃、畿内では、櫛描き文土器がようやく普及 した程度で、とても中国の王朝に入貢して、金印を授かるどころではなかった。 そのためには、船が必要ですが、船の発達と銅・鉄文化は密接に関連して います。鉄文化の発達が盛んなところほど、大型船が構築できるのです。 九州から、大挙して畿内にいくことは可能としても、畿内から古代の手漕ぎ 船できたとしても、ほとんど難民扱いでしょう。
109 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 21:48:22
>アパートマンションでも104号室はないけれども、ある物件もありましょう ww
110 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 21:50:53
>>108 残念ながらここは「魏志倭人伝」の解釈にふぃりまわされるそういうスレなんです・・・
>>84 はげどう
>>85 その結論は蓋然性が高いと思います。
くな国の一部が東進(敗走)し、その後くな国の本体が邪馬台国を滅ぼした、
とすれば説明がつきますね。
しかし、それでは逆に説明がつかなくなることも多いですね。
orz
112 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 21:52:02
そ、文学至上主義
113 :
太国 :2007/01/11(木) 21:55:00
>>105 允恭の時代は通常なる等倍暦(1倍暦)ですよ。
だから紀の 允恭3年9/28 の記述は28日という14日の倍数になっており、
等倍暦を使用していたのは固く、この日に真偽を決定する探湯の行事をやって
イカサマ人の排除をしたのは「28日迄は真に、事実存在した日だぞ。」という
ことを宣言する紀の等倍文面であり、さらに允恭はあんたのいう12月即位であり
ここの点では通常暦だからあんたの言い分とそれがしの言い分とに矛盾は
なく、あんたの却下は単純そのものの猫の小判的論理であります。
114 :
九州ですが19583298 :2007/01/11(木) 21:56:10
>>80 さんへ
拍手。素人など誰が思うでしょうか。
なんと弁舌爽かなのでしょう。新風を吹き込んでくれました。
115 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 21:56:37
>28日迄は真に、事実存在した日だぞ ww
116 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 21:58:39
>>108 その解釈は大いに間違えているな。
もう一度、歴史を見直して来い。
117 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 22:01:56
畿内 BC200年 BC100年 稲作が少しずつ始まる。 櫛描き文土器の流行 漆器の使用 墓に板を組み合わせた木棺使用 銅鐸の鋳造 九州 BC200年 BC100年 農耕文化の出現 甕棺、支石墓の普及 弥生土器の出現 前漢鏡の副葬品 石包丁、鉄器の使用 鉄材の輸入 鉄製農具の出現 九州 AD57年 倭の奴の国王が後漢に入貢 畿内 AD50〜100年 銅鐸の大型化、高地性集落の出現 簡単に列挙しましたが、九州からの侵略で、畿内の温和な農耕 部族が、仕方なく高地性集落を作ったとおもわれます。 倭国の大乱が160年頃です。 畿内説がいかに、矛盾してるかわかりますか?
118 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 22:02:04
>>111 狗奴国東遷説というのも確かあった。水野祐だったかな。
それによると、狗奴国が力をつけ邪馬台国から禅譲を受けた。
つまり、倭国の盟主の地位をお前に譲ると言うわけ。
その狗奴国が日向を経て、大和に東征するという筋書きだった。
119 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/11(木) 22:10:48
>>103 >魏志倭人伝が書かれたのは、西暦280〜290年くらいで
>魏の国はとっくに滅亡してしまった時代ですよw
魏から晋には、国家が265年に禅譲されたの。
戦火にまみれて公文書が焼失しなくて、生の公文書を著者の晋の役人である陳寿は見れたんだよ。
これが蜀や呉であれば、戦禍を受けてると思うけどね。
よって魏王室は滅亡しても魏の役人はそのままなんだよ。
だから1次情報をみれる、恵まれた立場に晋の役人の著者はいたの。
判ったかね?
禅譲::権力の座を話し合いで、譲り渡す事。
120 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/11(木) 22:13:29
>>104 >記紀の日の数字とやらも、原本の読みの実績が無ければあんな記事は絶対
>書けるものじゃない。
日の数字なんて、簡単に適当に書けます。
嘘の内容を書くのは、難しいけどね。
121 :
太国 :2007/01/11(木) 22:22:25
>>120 今日の殺人事件で防犯カメラの空白はどうなんだ?
犯人らしき者?を崩す絶好の矛盾であり、捜査機関はその矛盾を追及して
自供に至らせたらしい。月後半の空白も君の言う適当ならば月前半に集
める必要も無く、ランダムに月の30日全体に振り分ければいいことで、
月後半の「空白」はお前の『適当』と食い違うイカサマの矛盾そのものだ。ww
122 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 22:26:36
恵也 ◆o4NEPA8feA って なんで、こんなに論破されまくっているのに 執拗に同じような主張を繰り返すの?
123 :
九州ですが19583298 :2007/01/11(木) 22:28:11
>>117 うーん。解りやすい。
「九州からの侵略で、畿内の温和な農耕 部族が、仕方なく高地性集落を」・・・。
インカもマチュピチュなど空中都市を建設したのに似ています。
畿内は銅鐸文化で、九州は剣の文化。記紀に銅鐸が全く記載されておらず、
剣が登場するのも、剣の文化が勝利した事を物語っていますね。
124 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 22:31:20
九州ですがは近畿に個人的な屈辱を受けた経験があるから 近畿をやっつけたくてしょうがないんだね。哀れ。
つーか、そんな個人的な意見を持ち出してスレに粘着するなっての。ウザイ。
126 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 22:34:12
九州ですがっていじめられっ子だったんじゃねえの?
127 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 22:36:05
九州説のやつって、ほとんど 感情論で語っているんだよな。
128 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 22:38:15
>>123 だって要は「強い九州、弱い近畿」の意見に拍手してるだけだろ。
ほんと、感情論だよ。だから君は誰にもモテナイんだよ。
129 :
九州ですが19583298 :2007/01/11(木) 22:40:21
>>126 確かに小さい頃、近所の女の子にのけ者にされて
遊びに混ぜて貰えなかったそうです。おばあちゃんが言ってました。
130 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 22:40:50
ちなみに福岡はいじめ自殺が多いのだ。
131 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 22:43:11
>>129 うん、あんた、何かトラウマがあるって感じだもんな。
よかったな。2ちゃんという絶対追い出されない場所があって。
132 :
九州ですが19583298 :2007/01/11(木) 22:44:35
思春期の頃になると、クラスの女の子にズボンを脱がされ、苛められていました。 しかし、それはそれで楽しい思い出ではありました
133 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 22:48:41
それで女王様指向になった?いや揶揄じゃなくて真剣な質問。
134 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 22:49:11
九州説は殆ど厳しいわな。 この元旦から、考古学の特集が新聞でもあったけど ほとんど畿内説で流れが止まらない状況になっている。 しかも、宮内庁が古墳の一部、発掘を認めた。 しかし、これは全部、そういう流れがあるから。 いや、実は分かっているのさ。ただ、今までは表に出来ませんでしたとさ。 それが、ようやく公表される。 むろん、畿内で確定だ。
135 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 22:51:12
まあ、卑弥呼時代に、卑弥呼女王国に属せず、当然、中国とも縁のない 文明が近畿にあったのは確かだろう。
136 :
九州ですが19583298 :2007/01/11(木) 22:53:46
>>134 それが、ようやく公表される。っておたくその内容を知ってんの?
137 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 22:53:59
日本の銅鐸は、舌のある小型のものならともかく、1メートルを超える 大型となると、とても吊るして叩いたとは考えられない。 この銅鐸の出土分布を詳細にみると、海・湖・川に近い場所からに限られて いることに気づく。 弥生時代の農耕者たちは、泥沼状の田でしか、稲を作物していないことに 気づく。(鉄製農機具があれば、引き水が可能だが・・) 農耕民族は、あくまで自分の土地を守り抜く性質・気質があり、おおらかで 楽天的だが、進んでほかの土地にには侵略したりはしない。 いえることは、戦闘にはからっきし弱いということです。 畿内は、豊穣で肥沃な土地が無数にありますが、弥生時代には、吉野ヶ里 みたいな、戦闘的集落はありません。 畿内説の人のは南だ東だの前に、この分野は無視するのでしょうか?
138 :
太国 :2007/01/11(木) 22:55:35
>>134 君がそうほざいても畿内には女王国は存在しない。朝廷と女王国とが隣り合わせ
にピッタリ寄り添うようにあれば、記紀の記述は大違いになってるさ。
モモソヒメとやらが卑弥呼だったら伝の記述は 「天皇国」に至る に
なってるのさ。九州で確定。〜まぁあきらめが漢人だ。w
菜の花が咲いたり、柿が熟したり、雪がふったり、季節がわからない ことはない。魏略に4節知らずとあるので、季節をしらないというより、 魏略に問題が。一大国など良田なくだから、稲を作ってた。当然、暦が わかなければつくれない。稲作とセット。1年を2年とするには、無理 がある。阿蘇山は、移動した。
140 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 22:57:24
>>137 農耕民族が戦闘に弱いつうのは俗説というか、イメージだよ。
たとえば黒澤の「七人の侍」みたいな映画がすごい影響している。
141 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 22:59:46
>九州で確定 ww
142 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 23:00:57
>>140 棒切れと剣で勝負するか?
喧嘩もできない、書生タイプ?
143 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 23:05:58
>>142 アホ。物理的に考えろ。
武士だってもともとは農民の自衛集団から発生したからね。
農具は武具にもなる。後期において権力者はこれが恐ろしくて
農具に金属を用いることを禁止した。おかげで農業生産はサパーリ。
144 :
九州ですが19583298 :2007/01/11(木) 23:08:26
>>137 そうですよ巻向なんて環濠すらない。弥生時代の集落すらない。
宮内庁が古墳の一部、発掘といっても、ホケノ山、箸墓は、倭人伝の記述と異なる。
{ホケノ山は、木槨木棺墓}それなのに、畿内説はそれを無視して、卑弥呼の墓だと言ったりする。
今度はどんなものを出してくるのか、そういう意味で怖い。
145 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 23:08:57
なんで九州はさっさと日本から独立しないんだろう?
146 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 23:10:25
>>144 また九州ですがの「強い九州、弱い近畿」の妄想がはじまった。
女の子にいじめられてた奴が何をぬかす。
つか九州人だろうが近畿人だろうが、本当に男っぽい奴は
>>144 みたいなことで
喜ばない。
148 :
九州出身 :2007/01/11(木) 23:12:32
149 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 23:13:13
>>143 日本の戦国時代の話を、弥生時代の銅鐸文化圏に摩り替えるとは
詭弁もいいところですな。
当時は人口の割には、畿内の肥沃な土地はあまりもにも広く分布
しており、土地をめぐって戦う必要はない。
戦闘は、常時、戦っていて、戦術・戦闘力を磨かないと精強な集団
はできないのは、常識です。
銅鐸文化圏にまだ鉄剣はありません。
151 :
休み時間 :2007/01/11(木) 23:16:36
152 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 23:18:37
俺も九州説なんだけど 九州説は変な固定のせいでだいぶイメージ悪くなってるよな・・・ なんというか宗教じみてるというかなんというか・・
153 :
九州ですが19583298 :2007/01/11(木) 23:20:47
>>151 はひょっとして危険?知らない人には注意しよう。
154 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 23:21:55
>>152 すげえのは、その狂信ぶりを指摘されても平気な点だ。
>>154 本州じゃそんなの通用しないこと教えてやれよ。
156 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 23:28:08
>>150 稲の話をしましょう。
当時のの稲は気温が22度以上でないと、十分に育たない。
それと、ある一定の土壌群でないと育ちません。
専門家では、灰色土壌群などといってますが、畿内はこの土壌群
の70%が集中しており、九州・中国地区ではぜいぜい10〜20でしょう。
いかに畿内が肥沃な土地かわかりますか?
何故、九州勢力を含め、百済・新羅からの勢力が畿内をめざしたのか
何故、古墳時代に、あれほど精強をほこった九州勢力が大和勢力に
負けたのか、理由は簡単で、同一武器・戦術であれば、あとは食料
が勝敗をきめるのです。
157 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 23:28:52
>>155 もともとは東大系が九州説を支持していた。
それに異を唱えたのが京大系?。
畿内説のほうがローカル色が強い。
いや、だから九州人の九州説者だろ、ここの狂信コテは そのこと言ってんだよ。
>>156 >何故、古墳時代に、あれほど精強をほこった九州勢力が大和勢力に
>負けたのか
まだ笑わせるつもりかよ
160 :
九州ですが19583298 :2007/01/11(木) 23:33:17
でも
>>138 太国さんの説は正論だと思いません?天皇紀と、邪馬台国が、かぶっているでしょ。
そうしたらどちらかの伝説なり何なりに、普通残しません?この2つの国が、同じ畿内にあったならなおさら。
戦いに勝ったほうが、口伝ででも何でも、トルバドールのような語り部によって子孫に誇らしげに伝えようとすると思うが。
161 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 23:33:26
>>157 でも、今の考古学会は
畿内もその他も、畿内説が圧倒的に有利だな。
162 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 23:34:22
>>156 畿内の方が人口が多いのに
なぜ、人口の希薄地帯の九州が乗り込めるのさ?
君の言っていることは論理破綻だよ。
あのー、両説のみなさん。。。 地理お国自慢板みたいのはやめませんか。。 真実の追求にお互いに協力できたら、と思うのですが。。
164 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 23:36:52
>>163 両説でもないよ。俺は中立、分からん派。
真実の追求はそうしたいのに「九州で確定!」とかほざくバカがいるから
ケンカになる。
165 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 23:38:35
>>162 烏合の衆は20人の戦闘集団で、簡単に制圧できますよ
神武も最初は20人程度ではありませんか?
166 :
太国 :2007/01/11(木) 23:40:45
>>148 奴は論破できていないでしょう。それがしはちゃんと反論していますよ。
今日の殺人事件の防犯カメラの被写体の空白は、犯人を突き崩す論拠になって
いるわけですよ。おかしいでしょう? ある被写体が写っているはずなのに、
それがないという矛盾の捜査機関の追及が、逮捕に直結の手段になっているよう
なんですよ。これだけあの矛盾は嘘を見抜く痛い所なわけです。同様に
月後半の『日捨退』の空白の矛盾は、恵也らの嘘の抗弁を崩すべくものなんです。
>>105 は、単純な研究不充分のメッキが剥げる付け刃的弁護であり、
ヌカに釘です〜ぐ崩れます。
167 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 23:44:31
>>108 九州から、大挙して畿内にいくことは可能としても、畿内から古代の手漕ぎ
船できたとしても、ほとんど難民扱いでしょう>>
そうともいえません。現在、中国では美国のアカデミーと共同して太平洋の
古代の交易について研究が行われており、既に江南から北米西岸に我々の航
海者が継続的な訪問をしていたという証拠が様々に見つかりはじめています。
日本の近海からも我々の航海者が用いていた船具や錨等の出土物が散見され
ていると聞いています。十三湊から我々の船の船具も出土しています。
日本の小船でなく、我々の船が九州・関西・関東・東北へ赴くのにさほど違
いはないのです。我々に親密な関係を築ける者であれば、誰でもよかったは
ずです。漢字を学ぶ意思のある者、鉄の採掘に協力する者であれば誰でもい
いのです。
魏の時代に倭には何度も使いが通行しています。一度確立された交易路はな
くなるものではありません。国同士の国交記事がないからという理由で経済
的需要と活動もなくなるという考えは、経済的動物の日本人の考えではない
でしょう。
ホタテや真珠や昆布があれば、取りに行くのです。それが貿易です。
168 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 23:45:44
>>165 烏合の衆って...
卑弥呼以前に、明らかに巨大な古墳を作る勢力が存在しているのに...
どうやって、それが出来るんだよw
神武東征をよく読んでみろよ。
あれは、先住民を殲滅したという話ではなくて
畿内本家に、九州分家の神武が婿養子におさまった話だろうが...
169 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 23:46:59
>>144 九州ですが氏へ
>{ホケノ山は、木槨木棺墓}それなのに、畿内説はそれを無視して、卑弥呼の墓だと言ったりする。
誰がホケノ山を卑弥呼の墓だ、と言ったのですか。お答えください。
こういう場合、きちんと名指しで批判してください。名指しすることが学問上のマナーです。逆ではありません。
私や、私の友人たちにも畿内説論者は多いのですが、誰もホケノ山を卑弥呼の墓などとは毛頭考えておりません。
170 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 23:48:46
>>108 普通はさw
九州から攻め込むよりも、
畿内から九州へ攻め込むほうが簡単。
地政学的に見て、前近代の時代では
畿内の方が圧倒的に有利。
171 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 23:51:03
纒向石塚古墳 纒向勝山古墳 この古墳のほうが、モモソ姫=卑弥呼 の墓に近いんじゃないのか?
172 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 23:52:01
弥生時代の話をいつも古墳時代の大和朝廷に摩り替えるのが畿内論者 ですか・・・ 巨大な古墳とは大山古墳ですか?
173 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 23:54:15
もともと畿内家と九州家はまったく異なっていて、両者に顔がきく出雲家の はからいだと思ったりしているのだが・・・ 畿内家ってハッキリいってナガスネだとかアラハバキだとかアシタカだとか 「足」系のトーテムみたいな集団にみえるんだけど・・・これってアイヌに の部族と共通するんだよね。 それを内側から祭祀を「乗っ取った」のが阿毎氏のほんとのところじゃない だろか。
174 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 23:54:56
>>170 手漕ぎの船で、大挙して九州の精強軍団にいどむ姿は哀れです。
多分、全滅でしょう。
大和朝廷以降の話は邪馬台国でなく、大和朝廷スレでお願いします。
175 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/11(木) 23:58:48
>>170 >畿内の方が圧倒的に有利
ソロソロ雑談のお開きを願いたいので、圧倒的とする根拠或は、理論構成はどのようなないようですか?
176 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 23:59:06
>>170 当時は中国・朝鮮の方が先進国で鉄等の新素材も当初、すべて輸入して
いた。やがて渡来人の出雲族等の鉱山師冶金集団が渡来してきて各地で
鉄や銅や金を掘り出しはじめるのだが、畿内の青銅器勢力では鉄器には
やはり勝てないだろうな。やっぱ。
177 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 23:59:57
>>166 105を書いた者だけれども、あなたの考えはけっこう無理があって、しかも、
頑固と来ている。その最たるものが、卑弥呼の存在した時期です。
あなたは、神功皇后と同時期と言っているが、神功皇后のほうは良いとして
卑弥呼の時期が全く合っていない。
卑弥呼は、西暦248年頃には死んでいるのです。これはこの世界の常識。
それを訂正しないとあなたの全ての意見は信頼性がうすい。
二倍暦についても、以前書いたが、何月何日と書かれているからには、
詳しい記録があることが前提となる。しかし、日本書紀と古事記では、
天皇の寿命が大きく異なる。これは確かな記録がなかったことを意味している。
つまり、ここで二倍暦の前提が崩れているのです。
確かな記録があり、それを二倍したわけではなく、適当に書いたと考えるほうが
理にかなっているのです。もちろん、何月何日と言うのも適当。
なのに、あなたは、月が14日しかなかったとつじつまを合わせようとする。
やっぱりおかしいのです。
178 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/12(金) 00:02:27
>>171 >近いんじゃないか
その考えに至った経緯のご説明ヨロシク御披露あれ
179 :
九州ですが19583298 :2007/01/12(金) 00:07:10
>>169 はいはい。抜けておりました。ゴメンなんしょ。
「{ホケノ山は、木槨木棺墓}それなのに、畿内説はそれを無視して、箸墓を卑弥呼の墓だと言ったりする。」が、正解です。
同じ巻向に倭人伝の記述と合わない ホケノ山木槨木棺墓}があるのに、箸墓が卑弥呼の墓だというのはおかしい。
というくだりです。
180 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 00:07:43
>>174 しかし神武東征では神武はあえて明石海峡ではなく鳴門海峡(速水の瀬戸)を
選んでるところをみると、戦力的には相対差はなかったのかもしれないけど。
181 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 00:09:57
畿内説はまず阿蘇山問題を解決しないといけない。近畿には阿蘇山どころ か活火山そのものがない。これは中国の客観資料からみて致命的。
182 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 00:11:20
マキムクで最古と見られているのは下の古墳 いずれも埴輪は発掘されていなく、 年輪年代測定法では、木材が伐採されたのは新しくても210年代。 古墳は出来たのは、それより新しいだろうから ↓ 纒向石塚古墳 纒向勝山古墳
183 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 00:13:41
>>174 おまえさ、軍事の専門知識
分かってないんじゃないのか?
あほか?出直して来い!
古代の船に優劣なんて、存在しないし、
ましてや、上陸して陸地で戦わないと無理だろうが。
184 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 00:14:57
>>180 九州や朝鮮半島からの畿内への移住は、それこそ何度となく移住
してきたのでしょう。
あるものは、平和的に、あるものは戦闘的にその象徴として、神武の話
が神話として、記紀にあるのかと思います。
人間の歴史で、肥沃な土地は必ず異民族の侵入にあっています。
日本列島の畿内がまさにそれでしょう。
肥沃な土地から、ほかの土地に攻めるときは、その肥沃な土地が
完全に制圧された以降でしょう。
185 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 00:15:03
>>161 なぜって、畿内説は東大考古学部がついてて、京大の九州説派と対立している
からさ。東大が自分の不備を認めると思うか? 権威と人脈とプライドが、不毛
な議論を空回りさせているだけ。
誰もわかってていえないんだよ。干されるのが怖いからね。
186 :
九州ですが19583298 :2007/01/12(金) 00:21:37
>>170 神武の東征という話が記してある以上、神武の征西では無い。
文献に基づかない話は文献の不確実性云々以前に、根拠が無い。
187 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 00:22:34
>>183 なれない土地に上陸して戦うのかね。
当時は、地図もないし、河川には橋なんてかかってないよ。
今の常識では考えられませんよ。
当時の九州は海人族が跋扈していて、新羅まで何度も攻め込んで
ますから、戦闘は強いですよ。
新羅もずいぶん悩んで、「新羅新記」にも記載されております。
私は、別に九州説をとりませんが、畿内説にした場合の矛盾点を
列挙しているだけなに、あほ呼ばわりですか・・
畿内説の人は怖いですね。
何故、畿内でないと困るのか、理由がわかりません。
188 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 00:22:36
奈良の原初王朝は三輪山のレイライン「太陽の道」に見られるように、 淡路島以東の世界だったのだろう。銅鐸の分布ともほぼ適合する。 大坂湾周辺に点在する高地性集落をみれば、ここが最前線だったことが よくわかる。
189 :
九州説、死亡... :2007/01/12(金) 00:27:57
701 :日本@名無史さん :2007/01/12(金) 00:01:53
>>696 なぜかというと...今は詳しくはいえないだろう。
これは一部、政治的な話だから...
でも、宮内庁が今年から陵墓の一部、発掘を認めました。
そういうことですね。
皇室は日本にとって政治的な一家なんですよ。
つまり、皇室にとって不味いものが発掘されるのなら、宮内庁は許可しない。
でも、あらかじめ分かっていて、大丈夫なら発掘してもOKとなる。
そして、近代以降の日本の皇室は、自分たちの出自を曖昧にすることによって
皇室=ユダヤ系説の噂を流布してきた経緯がある。
そうすることによって、国際政治的に自身に有利なように展開してきた。
実際、中東研究家の三笠宮も同じようなことを言っている。
皇室=ユダヤというのは有利に展開できると。
でも、その国際政治環境に変化が出てきた。
イスラエルの存続も絶望的になりつつある。
もう、そろそろOKだろう?という展開になってきたわけです。
190 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 00:29:21
そういや、岡山の桃太郎の伝説は、もともと悪さをする鬼を桃太郎が 退治するのだが、岡山にある「鬼ケ城」遺跡は朝鮮式山城なんだよね。 それを退治する「桃(李)太郎」って・・・ 中国系渡来人と朝鮮系渡来人の戦争の比喩なのでは? 「金太郎」がどこの渡来人の話かは、また憂鬱になるが・・・
191 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 00:32:30
>>149 > 戦闘は、常時、戦っていて、戦術・戦闘力を磨かないと
> 精強な集団はできないのは、常識です。
どこが常識だよ。ゲームじゃあるまいし。
>>174 > 手漕ぎの船で、大挙して九州の精強軍団にいどむ姿は哀れです。
> 多分、全滅でしょう。
「潮」っていうのを知らないらしい。
192 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 00:42:52
>>190 朝鮮式山城という言い方も
否定されてきている。
だって、あれは日本にはもっと古いのがあるし
そもそも、何々式みたいにいえるものではないから、あんな単純なものは。
193 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 00:45:31
>>190 前から思うんだけど
このスレって、朝鮮人の工作員が潜伏してないか?
685 :日本@名無史さん :2007/01/11(木) 23:36:38
というかさ、九州説は
2ちゃんで遠吠えを吐くしかない。
学会やマスコミが畿内説でその方向に突き進んでいる。
この流れは止まらないよ。
696 :九州出身:2007/01/11(木) 23:54:38
>>685 わぉーーーーん!!(遠吠え)
『学会やマスコミが畿内説でその方向に突き進んでいる。』←確かにそうだが、
何故なのか詳しく知らないので説明してくれ
701 :日本@名無史さん :2007/01/12(金) 00:01:53
>>696 なぜかというと...今は詳しくはいえないだろう。
これは一部、政治的な話だから...
でも、宮内庁が今年から陵墓の一部、発掘を認めました。
そういうことですね。
皇室は日本にとって政治的な一家なんですよ。
つまり、皇室にとって不味いものが発掘されるのなら、宮内庁は許可しない。
でも、あらかじめ分かっていて、大丈夫なら発掘してもOKとなる。
そして、近代以降の日本の皇室は、自分たちの出自を曖昧にすることによって
皇室=ユダヤ系説の噂を流布してきた経緯がある。
そうすることによって、国際政治的に自身に有利なように展開してきた。
実際、中東研究家の三笠宮も同じようなことを言っている。
皇室=ユダヤというのは有利に展開できると。
でも、その国際政治環境に変化が出てきた。
イスラエルの存続も絶望的になりつつある。
もう、そろそろOKだろう?という展開になってきたわけです。
195 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 00:49:44
畿内説の人は野蛮ですね。
196 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 00:54:40
>>193 2ちゃんだから、誰が参加してもいいじゃないですか。
ちゃんと自分の意見を書き込んでくれればいいです。
ひとの意見の一部をコピーして、バカ・あほよばわりする
畿内論者より、よほどましでしょ。
>>194 だから、宮内庁は発掘を認めてもOKとか言い出してきたのか...
そういえば、前、別の板だけど
古墳と宮内庁云々の話で、実はあらかじめ調査は入っていて
全く無知でも何でもないという書き込みを見たことがある、大分前だったけど。
中東歴史専門家の三笠宮電化が、
「皇室はユダヤ系説は国際政治上、有利に展開できる」とかいう発言を
どこかで見たことがあったけど...
そういうことだったの?
>>80 です。
まず、昨夜から議論を重ねて来られた皆様にお礼申し上げます。
ようやく所用が片づきスレに戻って参りました。
ログ読むのが正直たいへんだった…
さておき、私はまさに素人であります。
ゆえに、考古学などの観点や文学的な視点からの解釈はチンプンカンプンです。
ですので、私の意見はまさしく素人の戯言と思って下されば有り難いと思います。
今後も、このスレで勉強させて下さい。
皆様、どうか仲良く活発な討論を…
199 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 04:23:32
マキムクみたいな連合が何故できたかというと理由は外敵 その外敵はどこなのかと言うと九州の可能性は高い それが邪馬台国なんじゃないかな 近畿地方に私怨がある文献至上主義の九州説論者は マキムクの年代なんてデタラメとか考古学に対した興味もないくせに言う。
>>199 あの〜おまえさ、九州論者は文献主義者じゃないよw
文献、考古学、その両方で見ても
畿内説のほうが有利なのさ。
マキムクが出来た最大の理由は記紀にも書いてあるし、
考古学の調査でも分かっている。
それは、疫病や飢饉による社会不安から、宗教政治の権威が高まったわけ。
だからこそ、崇神天皇は、叔母のモモソ姫の祭祀政治に頼り、
その時代、女性の巫女の力が増大した。
実際、マキムクからは祭祀施設主体に発掘されている。
また、崇神天皇という名前自体、宗教的な名前だからね。
201 :
九州ですが19583298 :2007/01/12(金) 05:35:33
邪馬台国は伊都国={佐賀県糸島郡}の南にある。 と倭人伝に書かれていることにまったく気が付いていないんじゃない。よく読んでみよう。 それに、奴国が女王国との境となるところ、と書かれている。本州には上陸しない。 奴国推定地博多から漢委奴国王の金印が発見されている。{委は倭の簡略文字である。当時は良くなされた} もし、邪馬台国が畿内なら、魏使が当時権勢を振るっていたであろう出雲、吉備の2大文化圏を通過したのに、地名が記されていない。 まずそれらの答えを出さないと前には進めないんじゃ。それに、倭人伝に出てくるのは九州の地名ばかり。 大和はだいわであり、やまと、という呼び名は当て字。 これらのお答えををよろしくうー。
>>201 残念ながら、君の説は全て
論破されている。
>>201 あの〜地名なんかは
ほとんど畿内地方にあるものばかりなんですけど。
204 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 06:02:18
倭人伝によると、帯方郡から狗邪韓国までずっと水行している。陸路を取ることも 出来たのに水行というのは、やはり船のほうが安全で楽だったからだと思う。 その意味からすると、邪馬台国が関西にあったとすれば、ずっと水行のはず。 しかも、海を渡るの記述があってもよさそうな気がする。 さらに、方向も違うわけで、倭人伝の里程・日程から畿内説は無理だと思う。 倭人伝には末盧国から不弥国まで陸行の記述がある。合計で七百里。これには 何か理由があったと考えたほうがいい。つまり、その経路しかなかった。 地図をじっくり眺めると、有明海に出たと考えるのが一番妥当だろう。 つまり、不弥国は、有明海の入り口。吉野ヶ里あたりかもしれない。 しかし、帯方郡の使いが実際に行ったのは、この不弥国まで。 その先の日程で示される国には行っていない。 投馬国が三潴(みづま)郡で、邪馬台国が山門郡というのも考えられるかも しれない。恵也説も有りかもしれない。その中間かもしれない。 個人的には、邪馬台国は宮崎までは行かないような気がする。
>>204 方角は畿内でも、そんなに間違ってないんだけどな...
半島南部から対馬海流にのって水行したら
南に進む感じでも、東南の出雲に辿り着くから。
なぜ、投馬国から違う書き方をしたかというと
それは、伊都国や不弥国から非常に遠くて行けなかったから。
206 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 06:15:41
>>205 しかし、狗邪韓国から対馬にはたどり着いている。対馬から壱岐にも着いている。
壱岐から九州本土はもっと近い。地図を見るとわかるが、壱岐から九州に
辿りつくのは容易だと思う。万が一流されても、漂着するのは、福岡県になる。
壱岐から松浦半島を目指して漕ぎ出して出雲漂着はないと思う。
>>706 まず押さえて置かねばいけないのは
投馬国以降の記述と、不弥国以前の記述は
ソースが違うところから参考にしているということだな。
だから、それ以前は、○千里という中国的な書き方をし
それ以降は、倭人の距離の測り方で、○日という日数で距離を表している。
そして、もし、九州説のように佐賀県あたりに邪馬台国があるのなら
伊都国などから近いわけだから、○里という距離のあらわし方で
記述していたはずだ。しかし、それをしなかった。
つまり、邪馬台国は、伊都国などの近くには存在しない。
>>206 出雲漂着というのは、何も望まずに漂着という意味ではない。
対馬へ行く時は、明確な意思を持っていけば、十分にわたれる。
なぜなら、半島南部から見えているから。
でも、最初から対馬に行かず、出雲へ行くことを目的に渡れば
対馬海流の流れに逆らわずに南行する感じで渡れば
ちょうど出雲へ到着するという意味。
209 :
太国 :2007/01/12(金) 07:17:14
>>177 お前さん。宝クジ式に円盤の的をクルクルと回転して、0〜9の数字に矢を
あてると0〜4の五個の数字になるものなのか? そうはならないぜ。ww
必ずと言っていいくらい0〜9の数字全体に矢が行く。それでも0〜4まで
なるならば、その0〜4までの数字の宝クジを買えばいいわけで、5〜9までの
五個の数字のクジは買わなけりゃぁいいわけだ。お前そうするのか?
しないだろうが? 矢は0〜9まで全部の数字のいずれかに当たるのだ。
こういうのを「適当」って言うんだよ。w
昨日の殺人事件の報道では、防犯カメラに【被写体】が空白の矛盾を追及して
某人を自供に導き、事件解決に至ることが出来そうな話である。このように本来
あるべき物が無いのこの一点は、某人にとっては手痛いウソの防壁であったわけ
で、捜査機関はこの矛盾を相手に徹底して突付いて某人を落としたのである。
お前の言ってる事は権威をかぶる為の「常識」とか、さらには『適当』とかの語
で誤魔化そうとしているが、紀のとりわけ八代間の15日〜30日なる【日捨退】
の空白(無記述の0)は、お前のデタラメ抗弁を打ち崩す強力な文証であり、
『適当』ならば1日〜30日まで、全域にまんべんなくの記載になるはずであり、
1日〜14日までしかない月後半の空白は、お前の『適当』の語を強く破折して
いる。宝クジ円的回転を見てみろ。数字が0〜4しか当たらないのか。w
お前も円の的を回して矢的の回転で『適当』に当ててみろ。若い数字の片半分
のみに数字が片寄ることは絶対的に起こりっこない。wwwww つまり
お前の論は【日捨退】の【無】の矛盾をくらまそうとするデタラメ論なわけだ。
210 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 07:40:25
>>209 二倍暦と言うなら、それが一番当てはまりそうなのは、寿命が極端に長い
崇神天皇。しかし、崇神天皇には月の後半も多々ある。
これはどうします?
欠史八代のほうはそれほど長い寿命ではない。なのに、それを取り上げたのは、
要するに、八代のほうに月の後半が少なかったからでしょう。
宝くじのほうは、まあ散らばるかもしれない。
しかし、書物のほうが編者の好みが出るから片寄る可能性もある。
たとえば、あなたがじゃんけんをしたら、最初に出すのは片寄るでしょうね。
まんべんなく、グー、チョキ、パーが出るとは思えない。
知らず知らずのうちに、同じものを出していることに気がつくはずだ。
そして、いつか気がついて違うものを意識して出す。
日本書紀の編者も小さい数字が好きだったのでしょう。
崇神天皇のときになって、おっといけないと気がついたのでしょう。
>959 人口をどう推理したかしれませんが、宮崎県には3000基の古墳がある。 この古墳からわりだした人口では、宮崎県は、人口すくないといえるので しょうか? 暦にというか、初霜とか、啓蟄とか時期を知るてがかりがある。暦なしでは 稲作は、無理。 阿蘇山は、移動した。
212 :
太国 :2007/01/12(金) 10:04:47
>>210 あいかわらず詭弁に終始しているなぁ。ww 【崩御は自然現象で恣意的には
できない。】お前は恵也と同様自分の死ぬ日が選べるのか? 誤魔化せないぞ。
見ろ、以下の表を。
【欠史八代間の 立太子、即位、崩御、葬儀、立后の日数の統計表】
1日 3 11日 2 21日 0
2日 2 12日 3 22日 0
3日 3 13日 2 23日 0
4日 1 14日 7 24日 0
5日 3 15日 0 25日 0
6日 3 16日 0 25日 0
7日 2 17日 0 27日 0
8日 3 18日 0 28日 0
9日 4 19日 0 29日 0
10日 1 20日 0 30日 0
紀の統計をとってみろ。月後半のあるのは崇神と仲哀位で、あとの天皇世は
0か0にほとんど近い。とくに下旬は全く無いのがかなりあるのだ。
ただしこれは佛伝前の天皇のことだ。仏伝以後は通常暦だからな。
213 :
太国 :2007/01/12(金) 10:18:29
>>210 崇神とかの月の後半の記述とは、何らかの特殊な事情があったときに月前半の
日を+14日とかして月後半のようにしているのだ。それは不吉な事象だとか
旅行だとか何らかの理由がある場合に限り、月後半に持っていっているんだよ。
それは現今の時間の午後7時が19時で書き表せるように、双方の記載の片方を
ある特殊な場合に違う日のつけ方をしているだけなのだよ。
だから月後半の記載があるのも少量的にあるも、実質上は月前半のことで
おかしくはない。先述したが1倍暦の天皇の時代もあったのだ。
お前は八代間の紀の記述を短い年齢のように言ってるが、これも欺瞞であり、
そのまま読めばすごい長寿だ。そんなことはあるわけが無い。2倍暦等と
わかれば、古代天皇の超長寿は何のことはない、現代人と大して変わりはぜぬ
通常の寿命だったのだ。あまり日偽捨のような詭弁を使うな。
214 :
太国 :2007/01/12(金) 10:24:38
>>210 重ねて言うが、崩御は自殺暗殺とか以外、編者の好みで決まるのではない。
これは自然現象であるからして、勝手に決めることは不能である。これで、
お前の弁解は口からの出まかせであるわけで、完全に破綻しているのだ。ww
215 :
太国 :2007/01/12(金) 10:51:53
>>210 日数の統計表を見てじっくり考えるんだな。お前は自分の死ぬ日も月前半に
じゃんけんのように決められるそうだからな。他の人物の死亡も1日〜14日間
に収められるのかいな?www それともまだ史裸をきるのか?www
216 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/12(金) 11:02:43
すると、二倍暦とは 正月一日 (正月一日) 二月一日 (三月一日) 三月一日 (五月一日) 四月一日 (七月一日) 五月一日 (九月一日) 六月一日 (十一月一日) 六月十五日 (十二月一日) と、成り 七月一日が、次の年の(正月一日)の計算かな? この暦に合わせ稲作を考えて見よう。
217 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/12(金) 11:20:02
稲作設定を考慮し、陰暦四月一日を二倍暦正月一日にすることも、考えられそうだな? どっちですか?太国さん
>>210 崇神と、垂仁って
明らかに改竄の後が言えるんだよ。
この両天皇の治世は長いけど
真ん中ぐらいに、何も記述していない期間がある。
これって、倍年暦計算だけじゃなくて
ある引き伸ばし改竄した形跡がある。
219 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 14:59:31
2chが閉鎖された場合、議論をどこで続行するべきだろうか? せっかく多士済々な顔ぶれなんだから…
220 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 15:08:43
>>219 これほどの議論(言い合い?)を無料で見る機会は少ないからね。
221 :
太国 :2007/01/12(金) 15:14:46
>>216 カッコ内はなんでしょうか?
各天皇世でn倍暦法のnが同じでも、実際の使用方法が違うみたいですので、
いちがいにどうだかということは、まだ決められるまでには至っていません。
そこまで分かればすごいですよ。
で、このまえ示しました 崇神62年7/2 の、崇神天皇が始めて農事を薦め
た紀の記述は参考になります。とにかく各天皇世で特色を出して暦を操作して
いたんではないかと想っております。信じにくいのはごもっともです。
ですが、それがしは当時は倍暦をやっていたと考えています。
222 :
太国 :2007/01/12(金) 15:16:24
>>219 新聞に載ったみたいですね。本当なんでしょうか?
その閉鎖されん理由とはなんですかな?
223 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/12(金) 15:38:46
>>221 太国さん
農事と、1〜14日迄に日が片寄っている考えを結び付けるなら
それは二十四節気で換算されたという見方もあるのでは?
約二週間で節が変わる。と、言うように
>>222 ZAKZAKのネット版には
掲載されたみたいだけどね。
大手の新聞に載ったかは分からない。
225 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 15:44:17
226 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/12(金) 15:52:41
>>209 >宝クジ式に円盤の的をクルクルと回転して、0〜9の数字に矢を
>あてると0〜4の五個の数字になるものなのか? そうはならないぜ。ww
確率の問題でなります。
36回に1回くらいの割合で出るはずで、確率問題の基礎なんだけどね。
アンタ数学は苦手だったでしょう??
227 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 15:59:09
電車男文庫化されて金あるだろ。 さっさと払えや。 裁判には一切出てないそうだな。
228 :
太国 :2007/01/12(金) 16:28:11
>>223 そういうシステムの世もあったかもしれません、
崇神世においての特色は3倍暦の使用と想われて、紀の記事は
@崇神1年(元年)、4年、7年、10年・・・・・ では 4月5月6月 が無い。
A崇神2年、5年、8年、11年・・・・・では 1月2月3月 が無い。
B崇神3年、6年、9年、12年・・・・・では 10月11月12月 が無い。
ということを把握しております。(7月8月9月はいずれもあるようです。)
このことは当時は1年が9ヶ月で、1ヶ月が14日。何らかの特殊の場合は
数字+14日で月前半の記述なる日のものを月後半の記述へと置き換えたと考えて
います。現今の午後6時がもう一つの18時という記載方法が出来るようにです。
特殊の場合とは先述しましたが、多分凶事や旅行とかそういう時のよう
です。各年が3ヶ月分抜かしていたということで、今のアパートマンションが
104号室を縁起が悪いとかで欠とするのと似たような感じです。
14日×9=126日 で 3倍暦から 126×3=378日 378−365=13日
となり、14日に1日不足の超過の閏月となりますが、
これも何らかの方法で調節していたのかも知れません。
229 :
太国 :2007/01/12(金) 16:37:30
>>224 フジかゲンダイ、どっちだか忘れましたが、一面に大きく出ていました。
>>226 お前は揚げ足取りをやる男か? そんなことはわかっている。滅多に起こり
得ないことを言ってるんだよ。八代間はそんな蜘蛛の糸的な悪い確率で
起こったとお前は主張するのか? えらい冒険だな。月前半ばかりなのは万勝
を狙う競馬理論で決着の賭けか〜? もう破綻は目に見えてるぞ。ww
それだけ買いなら、ま〜ず、みんな外れ馬券になる。よっぽど運がよくないと
(論の)失敗は当選確実だ。ww
230 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 18:46:20
2ちゃんみたいなのがあるのは日本だけだそうだ。 そこらへん誰か論じてよ。
>>229 ZAKZAKと夕刊フジは
同じです、あれは。
232 :
九州ですが19583298 :2007/01/12(金) 21:36:07
>>202 「残念ながら、君の説は全て 論破されている」
だったら、どの論破とやらを聞こうじゃありませんか
233 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 21:42:15
>>232 聞くだけ無駄なような気がする。
ちょっとだけ、考古学をかじっただけで、持論を展開していないよその人は
人のスレをいつも断定的に否定するが、それだけの人みたいです。
234 :
九州ですが19583298 :2007/01/12(金) 21:48:53
>>233 だからいつも答えが返ってこないんですね。
235 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 21:55:58
>>234 「九州ですが」さんの方が余程持論を展開していますよ。
畿内説の方は
・マスコミや学会の主流は・・・
・すでに畿内説で世間は・・・
・残念ながらその説は論破されている・・
その繰り返しです。w
236 :
九州ですが19583298 :2007/01/12(金) 22:05:02
237 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 22:07:03
2ちゃんが閉鎖されるのは、管理人のこといろいろ言われているが、 あまりに無秩序、淫行だからだろう。別に俺は困らないからいいけど、 コテは困るんじゃねえの
238 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/12(金) 22:14:29
>>237 >コテは困るんじゃねえの
残念だが 困らない
239 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 22:24:23
ああ、それはよかったw
240 :
80 :2007/01/12(金) 22:34:45
ここみたいに、一定の秩序に基づいて 忌憚ない議論がされているスレなどは迷惑な話ですね。 2chといえど、モラルは守られるべきですが、 各地の板などを回ると逆恨み的に 原告の氏名などを晒しているなど呆れ返る状況です。 本当に残念な話です…
241 :
九州ですが19583298 :2007/01/12(金) 22:37:18
>>237 困るというと?何もやましい事をしたわけじゃないし。
確かに、おかしなスレもあるが、ドン来いは真面目に議論し合ってきた。
例えば、誰かは知らないが良いスレとそうでないスレをごっちゃに考えて
言論の封殺をしようとする動きがあるのなら間違いだと思うから、
必ず再び良い議論の場は開けると思うよ。
242 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/12(金) 23:23:41
【阿蘇】に関する学習 ※其時秦宜祿兒“阿蘇”亦隨母在公家 (新校本三国志/魏書/卷九魏書九/曹真) ※…日巴里彦河日“阿蘇”日淘斯河… (新校本清史稿/志/卷五十七志三十二/地理四/黒龍江/序言) ※東海吟他伯齊坂南界“阿蘇”台札(ロ葛)西界嫩江 (新校本清史/卷七十七 志五十二/地理二十四/内蒙古) ちょっと 調べただけでもこれだけ「中国漢籍」に登場する【阿蘇】
243 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/12(金) 23:28:00
>>202 待ってるけどとうとう返事が無いようだ。まもなく寝るが。
244 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/12(金) 23:37:40
ところで、畿内説人が言う阿蘇山が移動したってどういうこと?
245 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/12(金) 23:47:44
>>244 わからん?
隋書に記載されてる「阿蘇」を、九州の阿蘇山と思い込んでるほど、オメデタイものはない。
246 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/13(土) 05:13:10
とうとう差し押さえ? 思わず「みんなーっ」て叫んでしまった。
247 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/13(土) 05:37:24
あら?今朝は書き込めるようよ。まだ何も答えが出ていないのに このままお別れになるのは口惜しいね。思わず全会話をコピーしたけど 読んで思い出すたびつらくなるね。 恵也さんも、プラムさんも、太国さんにも、他のみんなにもこれで会えなくなってしまうのでしょうか。 ホームページを立てるからもしこれで会えなくなったら、遊びに来てね。連絡を取り合おう。 ページ名は、うちの猫の名をとって「おちゃぽくらぶ」です。まだ立ててないけど。 あくまでこれでお別れになった場合にね。本当は僕がが初心者なので、まだどうしていいか解らないから、 新しく議論の場が出来たとき教えて欲しいからです。不安です。 OCHAPO CLUB です。それでは最後までひょうきんでゴメンなんしょ。 ♪邪馬台国、ドンと来い♪ 万歳。
248 :
奈良県民 :2007/01/13(土) 05:43:12
>>246 掲示板が閉鎖されるぞー、なんて騒いどるから、
わしゃ早起きして、好きな歴史板のスレッドを20ばかり、
いま保存の措置をとったところや。
これが、ムダな労力だったわなー、となってくれれば
ええんじゃがの。
249 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/13(土) 05:46:58
>>248 そうですね。仕事から帰ってもまだあればいいのに。
オーナーの方。そこんとこよろしく。
250 :
奈良県民 :2007/01/13(土) 06:02:22
>>249 わしゃ南北朝が大好きで、史跡めぐりのついでに
古代史も勉強するよになったが、邪馬台国論争も
おもろいなあ。簡単には結論が出んところが。
皆さんの意見がすぐには一致しないわな。
それで、このスレッド、長続きしてるんやろな。
251 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/13(土) 06:28:16
温泉などの情報交換の場所に多くの人が利用してたりする2ちゃんは、 日本独自の文化と言えるかも。いかがわしいものとは一緒にして欲しくない真面目なスレも多く、 かなり年配の方も使っているんですよね。私の知人もそうですが。 こんなに人材が集まってるのに、知恵を出せる人いないのかな。よろしくね。 では仕事ですので。
252 :
日本@名無史さん :2007/01/13(土) 09:06:11
>>247 九州さん、ホムペが出来たらぜひ教えて下さい。
ワガママ言わせてもらえば、自分はよく出先から携帯で見てますので
携帯対応ページだと嬉しいのですが…
日本海航路 小浜上陸 そのまま陸地を南下 京都を経由して奈良へ。 これで陸行1月は解決
254 :
日本@名無史さん :2007/01/13(土) 10:54:58
2ch閉鎖騒動、今朝の日経には記事がありません。 なんででしょ?
255 :
日本@名無史さん :2007/01/13(土) 11:15:02
>>190 そうですよ。邪馬台国は魏誌にも記述あるとおり元々、中華系渡来人なんです
よ。だから自ら「大夫」と中国系官名を述べている。
それに対して大和朝廷は百済・新羅系の半島系渡来人だったんですよ。
大和朝廷が当初、中国に朝貢する必要が低かったのもそのへんでは?
逆に九州の邪馬台国は半島と対立関係にもあったから、中国に近づいた。
吉備のダンゴを取り合った鬼(百済・新羅系)と桃太郎(中国系)の民話だ
ったんでしょう。
後の大和朝廷の渡来豪族のほとんどが朝鮮系なのも納得がいくのでは。
中国からくるのは鑑真のようなテクノクラートばかりだ。
>>255 トンデモ説を撒き散らすなw
もう、いい加減にしろよw
ちなみに、古代の天皇のことは、ある程度、分かっている。
調べずに放置しておくはずが無いじゃんw
ちなみに、君の希望的観測にようなことは、全く無いからw
258 :
日本@名無史さん :2007/01/13(土) 18:17:55
2ch\(^o^)/オワタ
259 :
日本@名無史さん :2007/01/13(土) 19:18:19
ま、確かに古事記を書くにも渡来人が必要だったし、利水事業をするにも渡来人 が必要だった。宮廷の占いや葬礼さえ渡来系が支配していた訳だが・・・
>>259 記紀に中国人が必要だった理由は
明らかに、記紀の年代の補正だろうが...
古事記のほうは日本人だけで日本人に見せるために書かれている。
しかし、日本書紀のほうは、明らかに中国人に見せるために書かれている。
宮廷の占いや祭祀は、もろ原始日本的だろうが...
>>260 在日が書いているんだろう?
やつら、最近、中国人の学者に
韓国の古代史がデマだって、ばらされて
あせっているんだろう?
2003年に学会で 記紀の倍年暦研究がスタートしだしたけど 今年から、いよいよ 研究発表がそこらから始まる。 楽しみだな。
こんばんわ。例の素人です。 ふと思った事があり皆さんのご意見をうかがいたく参りました。 魏志倭人伝の記述ですが、あれはあくまで 「倭人伝」であり「邪馬台国伝」ではありませんよね? だから、その記述などは基本的には「倭国の国家群」についての記述であり 邪馬台国のみを主題にしたものではないですよね? もちろん、朝貢してきた邪馬台国の記述に比重がおかれているのでしょうが トータルでは「帯方郡の東南にある倭国」についての記述ですよね? 方位などを読み解く手掛かりが、そこにあるのではないでしょうか?
264 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/13(土) 20:43:45
>>252 解りました。書き込めたり、込めなかったりしてましので、
完全に通じなくなったら、おちゃぽくらぶ、ですから、お間違いなく。
今はまだ立ててません。
>>263 そう。別にあれは、邪馬台国だけに、焦点を当てているわけではない。
また、倭国の目的地までの道程には
一貫性が無いと言われている。
つまり、投馬国以降の記述と、それよりも前の記述は
違うソースを元に、著者が倭人伝を記したのでは?と思われる。
266 :
九州出身 :2007/01/13(土) 20:51:36
素人くん 当たり前のこと言ってるんじゃない 私は邪馬台国の場所はすでに解いてある!
267 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/13(土) 21:02:28
>>260 >記紀に中国人が必要だった理由は
>明らかに、記紀の年代の補正だろうが...
そんなクダラン理由じゃないよ。
その当時の世界一の先進国の中国人に恥ずかしくない漢文を書くこと。
タドタドシイ日本風漢文じゃなくて、中国人に通じる不自然さのない漢文は、日本育ち
の日本人じゃ無理。
ここにも日本風漢文解釈を、知ったかぶりして我流解釈をして悦に入った変わり者もいるけど
三角縁神獣鏡なんて、日本育ちの日本人が日本風漢文で文字を書いたようだ。
今の世なら、アメリカ人に通じない日本風英語で、ご先祖の業績を書いてはサマにならんだろう。
アメリカ人に日本国家が馬鹿にされるのがオチ。
三角縁神獣鏡って韻というものを全く知らない、日本人が書かれた作品だという。
魏の曹操という方は、凄い政治家であるとともに芸術家であったから韻を含まない詩は考えられない
韻::行のはじめもしくは、終わりに同じ響きを持つ文字のこと。
中国語の発音が出来ない人間にはチンプンカンプン。
−−−−−(引用開始)−−−−−
押韻の意識すら持たない三角縁神獣鏡の拙劣な銘文は、親魏倭王のみならず魏の皇帝の権威にも
傷が付く。こんな銘文をもつ鏡を特鋳して賜るはずがない。三角縁神獣鏡魏朝特鋳説は幻想だ。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku235.htm
268 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/13(土) 21:08:57
>>262 >2003年に学会で 記紀の倍年暦研究がスタートしだしたけど
こんな研究する人間は、バカタレ!
結論が最終的に出ない研究なんて、時間の無駄。
可能性があるのは、宮崎や鹿児島の黒潮がぶつかる暖かい場所のお米の2期作が出来る場所だけ。
政治権力は奈良、京都に移ったのだから、倍年暦の研究なんてニートの暇潰し研究マガイモノに過ぎん
269 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/13(土) 21:19:41
>>263 >トータルでは「帯方郡の東南にある倭国」についての記述ですよね?
トータルでは邪馬台国でしょう。
魏志倭人伝は、魏の時代の邪馬台国に行ってその目で邪馬台国の文物を見、生活、習慣を記録した
数少ない書物。
しかも著者が卑弥呼と同時代に生きた人(陳寿)で魏の公文書を見れた数少ない役人。
邪馬台国でない倭国なら外の書物で十分研究が出来る事。
邪馬台国に関しては、魏志倭人伝の右に出る書物は現在のところ確認はされてない。
270 :
日本@名無史さん :2007/01/13(土) 21:24:14
>>266 どうした?今夜はもう酔っぱらっちゃったのか?
ではその答えを聞こうじゃないか。Q州出身くん。
271 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/13(土) 21:26:46
>>255 九州の邪馬台国は半島と対立関係にもあったから、中国に近づいた。
邪馬台国は、公孫と最初は通じていたのが、後に公孫が滅亡した為、
魏と親交を深めるようになっていったと考えられます。
272 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/13(土) 21:30:00
>>264 >完全に通じなくなったら、おちゃぽくらぶ、ですから、お間違いなく。
アチャコの間違いじゃないの?
この方なら花菱アチャコで少しは知ってるけど・・・
でも俺は2chは残ると見てるよ。
言論の自由と、名誉毀損じゃ格が違う。
今の温室育ちの裁判官じゃ、核の違いが判らんかも知れんけど、・・・・・
273 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/13(土) 21:42:04
>>266 >私は邪馬台国の場所はすでに解いてある!
たとえ解いてても、証明しなくては屁みたいなもの。
自己流で解くだけだったら、この世にはゴマンと人間はいる。
でも証明が難しい・・・・
金印が卑弥呼の古墳から出る可能性も少ないし、遺体が卑弥呼という断定が出来ん。
銀韻を貰った難升米も遺体には、一緒には埋葬されてないでしょう。
魏が滅びた後には、一緒に埋葬が出来る可能性が大きくはなるが・・・・・・・・・・
274 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/13(土) 21:47:28
>>265 >違うソースを元に、著者が倭人伝を記したのでは?と思われる。
俺は同一のソースで、一貫性があると見てる。
里で書ける行程もあれば、日数でしか書けない行程もある。
魏の公文書を見て、出来るだけ正確に著者は魏志倭人伝を書いたと俺は見てる。
他のいい加減な書物とは格が違う。
275 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/13(土) 21:49:59
>>272 またー。恵也さん面白い冗談を。こんな事にまで持論を展開しなくていいんですよ。
それよりCAD は、完成しましたか?
ちなみにおちゃぽ、とは、うちの飼い猫で、名はチャチャ丸。だったのですが、
後にメスである事が判明、チャチャとなりました。しかし愛称である「おちゃぽ」で呼ぶことも多く、
本人も最初は混乱した様子でしたが、今はどちらの名で呼んでも来ます。
このことが邪馬台国のなぞを解くヒントになりませんか? ならんわっ。
276 :
日本@名無史さん :2007/01/13(土) 22:05:22
今、「魏志倭人伝の史料批判」という本を読んでいるがなかなかいいことが 書いてある。曰く 「倭人伝の地理的記述を、東夷伝全体の中で考えた論説はほとんどみられない」 そうだわな。よく「魏志倭人伝」というが正確には 「三国志」の中の「魏志」の中の「東夷伝」の中の「倭」の記述だけんなあ。
277 :
太国 :2007/01/13(土) 22:17:42
>>268 それはお前の短絡狭小的頭脳の小賢しい結論であり、肯定はできない
デタラメ推測である。
江戸時代も米を作る農民より刀の威力が先行するのであり、古代に
おいては稲作も大事には違いないが、それよりも草薙剣の三種の神器の
古神道が先行する。お前は武力のすごさを知らないのか?お前こそが
お坊ちゃん的甘い考えである。暦法は大祓いの半年毎の儀式等に則り、
2倍暦等は充分可能なのである。
卑弥呼の鬼道の「鬼」も、力の原理的意味に見えてしまう。
278 :
日本@名無史さん :2007/01/13(土) 22:33:25
279 :
日本@名無史さん :2007/01/13(土) 22:40:07
>>260 古事記を編纂した太安万侶って朝鮮人だよな。
280 :
日本@名無史さん :2007/01/13(土) 22:45:37
>>278 そうなん? その史料は1966年になってるが。
281 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/13(土) 22:49:27
今日はプラムさん、お見えで無いですね。
>>277 >卑弥呼の鬼道の「鬼」も、力の原理的意味に見えてしまう。
そのあたりもう少しお願いします
283 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/14(日) 01:08:20
>>275 >それよりCAD は、完成しましたか?
JW-CADで何とか図面は出来ました。
ただ今毎日、土台のバタ角をノミで加工してます。
時間があっという間に過ぎてしまう毎日だ。
284 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/14(日) 01:15:48
>>277 >2倍暦等は充分可能なのである。
可能というだけじゃ、最後まで結論のない議論。
2倍暦の暦の現物が出てきてからホザキナサイ。
アンタは砂上の楼閣を作るのが好みのようだ。
俺はそんな無駄な仕事は遠慮する。
285 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/14(日) 06:53:15
「春耕、秋穫を以って一年となす」みたいなのがありましたよね。 あれを2倍歴の根拠と考えるのは、はっきりいって間違いだと思う。 文脈から言って、中国と倭国との違いを際立たせてるところだから。
286 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 07:04:45
ちんぎす半
287 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/14(日) 07:17:33
書き込み窓の上にカウントが出るのは何?
288 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/14(日) 07:18:30
書き込み窓の上にカウントが出るのは何?
例えば、書紀の仁徳年間は87年ありますが 仁徳67年の廿餘年無事矣を捉えて、20年を水増しとし、 87から20を引いて、残りを2で割ると (87-20)/2=33.5年 これを古事記の応神没年干支設定年の394に足すと 394+33.5=427.5 で、そのまま古事記の仁徳没年干支設定年の427年 と言う事でも良いのではないか? 等々、他にもイロイロ考えられますが どうでしょうか
290 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/14(日) 07:32:59
古代は血なまぐさい時代といえ、天皇の死を以って次代の天皇に即座に移行するという事はあまり無く、 皇位継承争いなどで天皇不在時期も長かったのかも知れませんね。その不在時期を一応前代の天皇の御世としても、 天皇は既に亡くなっていたりするかもしれない。つまり、長寿という事になるのでしょう。 天皇在位期間=天皇の生存、と安易に考えない方がいいかもしれません。
291 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 08:16:24
三角縁神獣鏡の景初3年鏡はいったいどうしたものだろう。
292 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/14(日) 08:55:04
>>291 それは卑弥呼が、魏王に貰ったという鏡では無いと言える。
広峯古墳から出た景初4年鏡からして倭で作られた可能性が高い。{正始元年}
三角縁神獣鏡は中国からは一枚も出土していない。
後漢鏡と違って、大型で実用的というより、権威を示す象徴的なもの、信仰、を表している。
使者の足元に30枚ほどが並べられていた事などからも、あまり重要視された鏡という印象は薄い。
293 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 09:57:25
中華では、鬼道とは御祖信仰の事をいいます。先祖を敬えという考えは後に道教に強く結びつきました。 基督教では三位一体といいますが、中華で鬼道といえば、人間は精神を司る(魂)と、肉体を司る(魄) との二つの神霊を持ち、死後魂は天上に昇って(神)となり、魄は地上にとどまって(鬼)となると考 えていました。鬼は顕現の仕方によって善と悪になり、祈禳の対象にとなる超自然的・神秘的な霊格を 持ち生者に禍福をもたらすのです。 卑弥呼が公孫氏の親縁といわれ、または鬼道に関わるという点は、公孫氏に深く関係があります。 史記孝武帝本紀、第十二にあるように八通鬼道・方士をもって中華に遣えた公孫氏の教養と合致するの です。
294 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 09:59:12
三国志の倭人伝は「三国志」の一部ですが、「三国志」は魏を本紀、蜀と呉を列伝とした歴史書で、魏 から政権を禅譲された晋の創始者である司馬懿の正当性を記すための書物です。 文官であった司馬懿の立身出世を語る時、卑弥呼は大変重要であったので倭人伝が書かれたのです。 曹丕の後、明帝の頃のに魏の中心的な将軍は、曹真、曹休、陳群、司馬懿の四将軍でした。曹真は大月 氏国のある西北方面、曹休は呉のある東南方面、司馬懿は湖北方面の担当でした。 227年、曹真が戦勝し大月氏国王の使いが魏に来訪した。明帝は、大いに喜んで「親魏大月氏王」の称号 を送っている。大月氏国を朝貢させた曹真は得点を稼いだが、231年曹真は病死する。
295 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 10:00:03
司馬懿に運が舞い込んだのは、蜀の諸葛孔明が陜西に攻め込んできた時。陜西は西北方面管区で曹真の子 曹爽の範囲であるが、若すぎたので司馬懿がピンチヒッターとして送られることになった。魏軍と蜀軍は、 小規模な小競り合いだけで魏軍が勝利を収めた。これまで魏軍は諸葛孔明には辛酸を舐めていたのでこの 勝利で司馬懿は部下から信頼を得た。234年、諸葛孔明は、大挙軍を送り出してきた。司馬懿は五丈原で迎 え撃ち、兵力温存に努めたが、諸葛孔明は病死し蜀軍は引き上げた。これにより、魏軍の士気は大いに上 がり、司馬懿は魏の将軍の中で第一に上った。この後、魏は満州・朝鮮の公孫淵を237年、母丘倹を総大将 とする遠征軍を出したが成果がなく翌年、司馬懿を総大将として公孫淵の10倍の遠征軍を送りだし、苦戦し ながらも破り、朝鮮半島を魏の領土とした。 明帝は病没し実子がいなかったので、養子の曹芳を後継者とし斉王とした。曹真は大月氏国の朝貢という大 きな成果を上げた人である。司馬懿は、諸葛孔明との戦いに勝ったとは言っても蜀が滅んだ訳ではなく、朝 鮮半島の公孫淵を滅ぼしたという手柄はあったが、曹真の大月氏国の朝貢よりは、小さかった。 司馬懿の手柄として朝鮮半島や中国東北部から7つの国、扶余、高句麗、東沃沮、ユウロウ、ワイ、韓、倭 が魏に朝貢してきた、魏からもっとも遠くにあり西の名馬の産地の大月氏国の朝貢と対をなす極東の邪馬台 国という対比で三国志は陳寿により書かれました。 魏は大月氏国に「親魏大月氏王」の称号を与えたが、邪馬台国に対しても同等の「親魏倭王」の称号を与え た背景はここにあったのです。
296 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 10:16:46
魏志倭人伝の戸数や距離が相当水増ししてるのは間違いないだろうな。 現在でもプロ野球の観客動員とか水増しは日常茶飯事だもの。
297 :
太国 :2007/01/14(日) 11:20:36
>>284 お前も単純10年計算の成立する具体的暦を発掘して持ってこい。
こんな計算こそ無駄な徒労だ。w
298 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/14(日) 11:30:01
>>296 >水増し記載
倭人伝とプロ野球の観客動員数の何処に共通性があるの?
299 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 11:47:18
>>292 >三角縁神獣鏡は中国からは一枚も出土していない。
あげたからないんだろ。
300 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/14(日) 11:59:03
>>292 景初四年の鏡が倭製の可能性が高いとする理由は?
301 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 12:03:27
ただ、もらったのを日本でコピーしたのは不自然じゃないな。 しかし年号が卑弥呼時代と一致しているのにこれを無視するのは 恣意的すぎる。
>>292 普通に考えればそうですよね。
なのに、幾ら漢鏡が出てきても棺のそとの足下とかに沢山転がっている
△なんちゃら鏡の方を学者もマスコミも大きく採り上げるんですからw
三国時代という軍事的脅威に基づく地理的拡大の時代に△鏡なんて粗末
なものを送りつけられたら、いっそ卑弥呼も呉の方に行っちゃったかも
しれない。鏡の善し悪しは流石にわかったでしょう。既に鏡の儀式に類
するなにかを行っていたから鏡を所望したわけですし。
303 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/14(日) 12:24:17
>>302 >三国時代という軍事的脅威に基づく地理的拡大の時代に△鏡なんて粗末
なものを送りつけられたら、いっそ卑弥呼も呉の方に行っちゃったかも
しれない。
魏に泣きついて貰った(金印)、鏡の質云々で寝返るような立場ではない。
それに、魏は倭に対して呉の牽制などほとんど考えてなかったし、
いつの時代も、帝国が倭に求める仕事は半島の安定化。
304 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 12:49:00
景初3年鏡は、239年(景初3年)に、作られた国産鏡。 景初4年鏡は、240年(正始元年)に、作られた国産鏡。 国産だから、倭の鏡工人は、「改元があったぞ、正始になったぞ」という情報が、 鏡製作時に届いてなかった、と考えればいい。 鏡は複製できるから、出土品が239年・240年の製作品そのままかどうかは検討を要するが、 239年・240年に初鋳の神獣鏡が倭国内で製作されたことは、事実であって、疑うべきではない。
>>302 >△鏡なんて粗末なものを送りつけられたら、いっそ卑弥呼も呉の方に行っちゃったかも
>しれない。鏡の善し悪しは流石にわかったでしょう。
なんか男を弄ぶ女って感じだなww
306 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/14(日) 13:01:37
前も大分議論し合ったが三角縁鏡は、銘文を刻む、という呉の慣わしを受け継いでおり、徐州の銅を使っているとされている。 さらに、中国から一枚も出土していない事からも、呉の鏡職人か何かが倭で製作したと考えるのが妥当だ。 倭国にとって、中国の元号などはどうでもよい筈である。元号の変化を知り得なかったので、景初4年鏡が作成された。
307 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 13:02:18
>>304 >景初3年鏡は、239年(景初3年)に、作られた国産鏡。
景初4年鏡は、240年(正始元年)に、作られた国産鏡。
国産だから、倭の鏡工人は、「改元があったぞ、正始になったぞ」という情報が、
鏡製作時に届いてなかった、と考えればいい。
鏡は複製できるから、出土品が239年・240年の製作品そのままかどうかは検討を要するが、
239年・240年に初鋳の神獣鏡が倭国内で製作されたことは、事実であって、疑うべきではない
一年忌の関係上、景初四年の存在は既に確定されていることなんですが。
帝紀読めば解ること
日本の帝紀で確認されても意味無いんじゃ・・・。 中国史上そんなのはないんだから、国産の証拠を補強する話ではあっても。
309 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/14(日) 13:07:55
>>306 >中国から一枚も出土していない事からも、呉の鏡職人か何かが倭で製作したと考えるのが妥当だ。
さて、それはどうかな?
柿右衛門の輸出品が逆ルートで製作国に入ってくることを考えれば・・・・
310 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/14(日) 13:14:08
それに、斉王の即位が一周忌の翌年正月二日以降なら景初五年もOKだが
鏡とか硝子、そして鉄鋼というのは今も昔も製造法がトップシークレットのところがあるんだよね。 近代西洋の鏡はイタリアが発祥だが、イタリアはこれの製造法を 他国に知られまいとしていたが、フランスが職人を拉致したのだ。 ガラスだって同じような歴史がある 何が言いたいかというと、Aという国の様式だからといって、それがそこの国のものとは 限らないってこと。高等技術は略奪されるんだから。 ちなみに今でも水銀の上でガラス板を作るフロート製法はトップシークレットになっている。
312 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/14(日) 13:24:44
>>310 補足
即位と言ったのは、事実上改元(正始)された時からの事ね
>>308 帝紀と言っても(三少帝紀)の事
313 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/14(日) 13:27:11
314 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/14(日) 14:02:00
景初四年正月・五年正月と、複数度の正月の存在を記録上嫌った。 故に “後十二月”と、三年を十三カ月と記録。 十二月詔日「烈祖明皇帝以正月棄背天下臣子惟忌日之哀其復用夏正雖違先帝通三統之義斯亦禧制所由■改也又夏正於數為得天正其以建寅之月為正始元年正月以建丑月為後十二月 (新校本三國志/魏書/卷四 魏書四 三少帝/齊王芳)
315 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 14:04:33
>>306 >倭国にとって、中国の元号などはどうでもよい筈である。元号の変化を知り得なかったので、景初4年鏡が作成された。
後段の、「元号の変化を知り得なかったので・・・」は、賛成なんだけど、
前段の、「倭国にとって、中国の元号などはどうでもよい」は、どうかなあ。
いささか乱暴な推論のように思えるんだが、再考の余地はないのか。
倭国でも、「ことしは(中国年号で)何年だよ」との意識は、きっとあったと思うんだけど。
316 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/14(日) 15:01:17
>>309 漢にとって鏡はただの日用品。「卑弥呼は鏡が好き」と言ってるように、
魏の皇帝から見れば、変なものが好きなんだな。という意外な感じ。
実用に適さないでっかい鏡は、権威のシンボル。三種の神器の一つ。
それが和製と、中国製の違いである。呉の様式であると言うのは前述したとおり。
{ポストスクリプト}
しかしスレが新システムになってる。
>>306 部にカーソルを置くだけで、その文が出て便利だ。
317 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/14(日) 15:11:43
>>310 でも普通は新しい元号を用いた方がめでたいでしょう。
元号が改まって、気分が一新してるときに、前代の号を持ち出すのはどうかと思う。
318 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/14(日) 15:14:55
>>316 >三種の神器の一つ
何故三種なんだろう?何故公開しないのだろう?(特に伊勢の鏡は)・・・・
直径約40cm位の漢鏡形態だとまずいからか?
319 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/14(日) 15:17:14
>>317 >でも普通は新しい元号を用いた方がめでたいでしょう。
喪中に改元しないのはしきたり。
320 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 15:22:59
中国では使用目的に応じて青銅の銅と錫の成分比率は、 周礼できちんと決められている。
321 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/14(日) 15:27:11
>>319 やはり魏領で見つからないのが大きいでしょう。
それに呉様式であり、魏から下された鏡の可能性は無いといえます。
322 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 15:45:24
で、卑弥呼がもらった鏡はどこへいったのか?
323 :
太国 :2007/01/14(日) 15:54:58
>>282 「鬼道」っていうのは、特殊神道の一種であろうと考えています。女王
ですから強い権力を保持していたでしょうし、古代の道教っていう説も
あなどれません。
言えることは、彼女は正面に円形の日像鏡のついた冠をかぶっていて、冠の
頂上にはアンテナ様の針型がまっすぐ天頂を刺すような感じでのアクセサリー
があって、それが権威を高めるためか印象的であり、彼女の生存は神功の時代
前後で、神功39年とか同66年の記述等からして、倍暦計算の結果前者は365年、
後者は374年がその実年代です。200年代の人物ではありません。
片や天照大御神は遥か神武以前に生存た美姫で、ふっくらとした卑弥呼よりも
細面で瓜実顔に近く、また華奢でやせた神々しい女性です。ただ安藤美姫さん
には似ていません。詳細な生存年代は神武以前は確かですが明確ではありま
せん。日神は卑弥呼に対して、正面に八角形の八咫鏡のある冠をかぶっており、
日本誕生で演じた女優にも似ていないです。彼女はその姿はミス・ユニバース級
ですよ。似た女性は見たことはありませんが、強いて似てると言えば、
2年位前12chの昼間の番組でやっていた新スーパーマンTのロイス・レーン役、
テリー・ハッチャーさんに少し感じが似ています。同U以降の彼女の姿は
似なくなってますね。
324 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 15:59:38
しかし景初三年って書いてあるのはできすぎだろう。 鏡が呉の様式というより(これもどこまで本物の美術的考察があるのか知らないが) そっちの事実のほうが重い。
325 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 16:03:39
まあ、事実が重いから邪馬台国が畿内だと証明されたと愚にもつかぬこと 言ってるわけじゃないぜ。 ここの九州説厨は、すこしでも畿内説に偏った意見を見せるとヒステリックに 反応するからちょっと注釈つけただけ。
326 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/14(日) 16:23:40
>>323 「細面で瓜実顔に近く、また華奢でやせた神々しい女性です。ただ安藤美姫さん には似ていません」
久々にこの話を聞きました。フィギアの安藤美姫のファンなんですか?
いま歴代天皇の諡号を調べていますが、 反正、允恭の二人がよく意味がわかりません。 反正天皇は、無難に平穏に治世を終えましたし 允恭天皇はわりと誅殺などを行ってますので 「允す(ゆるす)」というイメージがありません。 どなたか諡号に詳しい方、説明していただけませんか? 割り込みすいません。
328 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/14(日) 16:58:35
>>327 別に詳しいわけではないけど
允恭天皇の諡が、雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさずまわくごのすくねのすめらみこと 、と言うんじゃないんですか。
允恭と言うのは、単なる中国の元号の風習を受け入れたもので、各天皇の特徴を表したものでは無いと思うけど。
329 :
327 :2007/01/14(日) 17:15:27
>>328 そうでしょうか?諡号には何らかの意味があるのが普通じゃないですか?
中国では、たとえば漢の劉邦などは「高祖」と呼ばれてます。
後漢最後の皇帝は「献帝」です。
それを踏襲し、高祖として「神武」とし後継を「綏靖(おさめる、やすんずる)」としたのでは?
欽明天皇などが顕著だと思います。
以後の皇統の、確実な天皇であると淡海三船が保証しています。
330 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/14(日) 17:19:23
>>329 >中国では、たとえば漢の劉邦などは「高祖」と呼ばれてます。
漢興高祖(身弓)神武之材
ですね。
まさに神武ですね
331 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/14(日) 17:28:39
>>328 続き
ああ、元号と言うと語弊があるから古代年号ね。
中国から元号を持つ事を正式に認められていなかった時代も、中国の影響で、立てちゃったんでしょうけど。
私年号だから、本人が勝手に自分の都合の言いようにも付けられるんじゃないの?
允恭は、本人の意向で付けたとして、反正は正しい状態に戻すと言う意味だから、本人が付けたと考えると、
何となくみえてくるものが。でも反正天皇も、良くないことをしてるけどね。
参考にならない意見でした。
332 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 17:39:15
>>329 「允恭と言うのは、単なる中国の元号の風習を受け入れたもので、各天皇の特徴を表したものでは無いと思うけど。」
と言うのはちょっと極論かもね。
まあ、一概にそうとばかりも言えないって事。それに、諡号は、その人が号したいみなでしょ。
だから雄朝津間稚子宿禰、の方になると思うけどね。
後は
>>331 で言ったように、自分で好きに付けてたんじゃないの?
333 :
九州ですが :2007/01/14(日) 17:44:11
コテが消えてました。
>>322 は九州ですが、です。
334 :
327 :2007/01/14(日) 17:44:39
>>334 允恭については少し見えてきました。
誅殺や追放など、不穏な情勢での天皇であったため、
それをカモフラージュ(美化)する狙いで「允・恭」と三船がつけたのかも知れませんね。
335 :
334 :2007/01/14(日) 17:46:44
336 :
大和 :2007/01/14(日) 17:48:06
プラムさん久しくご無沙汰です。以前、登呂遺跡の稲作の収量、もしくは景初2年肯定論
で意見交換させていただいた大和です。お忘れかも知れませんが暫くお付き合いください。
>>307 239年・240年に初鋳の神獣鏡が倭国内で製作された
大和は西川寿勝氏の論に賛同し楽浪製と捉えているのですが、プラムさんは列島のどの辺
りで製作されたとお考えなのですか?。
>>314 故に “後十二月”と、三年を十三カ月と記録。
これは景初三年まるっぽ1年間を13ヶ月としたのですか?。「後十二月」というのは景
初2年12月の後に再度12月を設けたということではないのですか?。
>得天正其以建寅之月為正始元年正月以建丑月為後十二月
これは「天正(夏の暦)を得て(正始元年正月は)寅の月(即ち1月)となすが、正始元
年正月を以って丑の月(12月のこと)を建てて後12月となす」(素人の勝手訓につき
深く追求しないで参考程度にお願いします)
即ち、景初二年が13ヶ月あると言うことではないのでしょうか。
337 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/14(日) 17:51:57
訂正
コテが消えてました。
>>322 は九州ですが、です。
は間違いで、
>>332 は、九州ですが、です。
が正解です。
338 :
307 :2007/01/14(日) 18:03:45
>>336 私307レスした者ですが、私はプラムさんじゃありませんので、念のため。
339 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/14(日) 18:24:23
>>336 いや〜っお久しぶりの大和さん。お元気でしたか? な〜んかおなつかしゅうです。
早速ですが
>これは景初三年まるっぽ1年間を13ヶ月としたのですか?。「後十二月」というのは景
初2年12月の後に再度12月を設けたということではないのですか?。
確か明帝の崩御が景初三年正月、既に三年が始まっています。
340 :
304 :2007/01/14(日) 18:25:21
>>336 >>338 338訂正します。(私304が、勘違いして「307」のHN使っちゃいました)
大和さんが引用した
「239年・240年に初鋳の神獣鏡が倭国内で製作された」
は、私304が
>>304 で最初にレスした文の一部です。
それを307さん(=プラムさん)も
>>307 で引用されているわけですが、
プラムさんの引用は304の全文コピペで、かつ「>」を冒頭1個しか付してないため、
大和さんが上記、「239年・240年に初鋳の神獣鏡が倭国内で製作された」を、
プラムさんの意見だ、と勘違いされたのではないかと思います。
ややこしいことで、ごめんなさい。
341 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/14(日) 18:27:48
>>315 前段の、「倭国にとって、中国の元号などはどうでもよい」は、どうかなあ。
当時、まず漢字を読む人間が、殆ど居なかった事。
中国の元号や年号が違ったまま銘文化されたとしても、誰も気付く人がいない事。
だからコピー鏡で十分満足し有難がってもらえる事。
などから無駄な苦労はせず、いちいち変えなかった、もしくはその本人も大陸の変化を知らなかったかであり、
景初と言うのと違ったら、何故私のは違うんだと、文句を言うくらい倭人は無知だったかも。
「倭国でも、「ことしは(中国年号で)何年だよ」との意識」は無いと思うよ。
342 :
304 :2007/01/14(日) 18:36:30
ついでに大和さんへ 神獣鏡の日本での製作地・・・。これは奈良県だろうと思う。 きっと九州説、畿内説を問わず、賛成多いのでは。(甘いか) 奈良県の、桜井市・天理市か、田原本町・三宅町か、そのあたり。
343 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/14(日) 18:48:13
私は今のところ帝国製造の鏡と考えています。
344 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/14(日) 18:54:17
>>341 漢字を読めた知識層が一体どれだけいたか、特定は出来ませんが、
政権中枢部は少なくともわかっていたと思いますが。
それだけ超大国・中国の文化を理解することは重要事だったと思い
ますよ。また中国の年号についても、当時年号が代わることは新し
い施策方針の発布ですから当然外交上の重大事ですし。
346 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/14(日) 19:03:25
>>344 一番の決め手は(景初四年)の年号でしょう
347 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 19:49:39
景初の遣使(難升米ら)だが、おそらく景初3年(239)6月に九州から帯方郡へ渡り、 帰ってくるのは翌正始元年(240)になってから。向こうで年を越したわけだ。 何月に帰国したかは記載がないが、たぶん正始元年の春以降、暖かくなってからだろう。 このとき五尺刀2口とか、銅鏡100枚とか、いろいろ貰ってきたわけだが、 今みんなが話題にしている古墳出土の景初3年銘や景初4年銘の三角縁神獣鏡は、 魏帝が卑弥呼に与えた「銅鏡百枚」のうちには入らない、と考えた方がよい。 それとは別個に、当時の日本で独自に神獣鏡の鋳造を、もう開始してたわけだ。 景初4年銘鏡(の初鋳鏡)は、難升米らの帰国より前に、240年の前半段階で 日本で造られた鏡のはず。正始元年へ改元されたことを鏡工人が知らずにね。 難升米らが戻ってきた後では、改元があった事実が日本でも判ってしまう。
348 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/14(日) 20:19:24
>>347 >景初の遣使(難升米ら)だが、おそらく景初3年(239)6月に九州から帯方郡へ渡り、
帰ってくるのは翌正始元年(240)になってから。向こうで年を越したわけだ。
何月に帰国したかは記載がないが、たぶん正始元年の春以降、暖かくなってからだろう。
景初二年の記事に何故月までカキコしてあるかを考えればいい事。
倭側からの使者は六月帯方郡通過、倭へは十二月帯方郡
>魏帝が卑弥呼に与えた「銅鏡百枚」のうちには入らない、と考えた方がよい
そのように考えなければならない理由は?
>景初4年銘鏡(の初鋳鏡)は、難升米らの帰国より前に、240年の前半段階で
日本で造られた鏡のはず。
理由もなく、個人的な意見ですか?
349 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 20:39:00
■志羅紀の地理的位置■ 『後漢書』の馬韓については「その北は楽浪と南は倭と接し、辰韓の東にあり」と記している。 また弁韓についても、「辰韓の南に(弁韓は)あり、その南また倭と接す」とある。 『三国志』も同じく、「馬韓は南で倭と接す」とある。 さらに「弁辰は十二国のうち、讀盧(どくろ)国は倭と界を接す」とある。 「辰韓の南に弁韓あり、その南また倭と接す」 これは興味深い記録である。 ・辰韓は北にある。 ・弁韓は辰韓の南にある。 ・弁韓の南に倭がある。 この記録は、稲飯命が建国した志羅紀(シラキ)の位置を語っているのである。 辰韓=ワイ人の国(後の新羅)。3世紀に南下して志羅紀を侵略する。 弁韓=倭人の国。神武天皇の皇兄=稲飯命が建国。天日矛命の国。 倭=弁韓(志羅紀)の南方にある倭人国・ヤマト。日本国。 こういうことだ。 やはり、志羅紀と新羅は別の国だったのである。シラキの王子=天日矛命が倭人であることが 証明された。 天日矛命の子孫が神功皇后である。神功皇后の新羅征伐は、ワイ族(朝鮮人)に侵略された 先祖の祖国=志羅紀(シラキ=弁韓)を解放するための聖戦だったことが明らかになった。
350 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/14(日) 21:02:59
>>348 景初4年鏡は、京都の広峯古墳で見つかった。
たとえ、難升米一行が、それを知ったとしても、邪馬台国と畿内との行き来が
なければ、畿内で、このことが知れ渡っていたとは言えない。
351 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/14(日) 21:09:14
>>349 >「辰韓の南に弁韓あり、その南また倭と接す」
これは興味深い記録である。
・辰韓は北にある。
・弁韓は辰韓の南にある。
・弁韓の南に倭がある。
意訳が違っています。
『接』の解釈は (AとBの相互関係)
【弁辰在辰韓之南亦十有二國其南亦與倭接】
弁辰韓は、その南に位置する倭と(與)の関係
年号についてはどう思う? うん... ちなみに、古代、中国の洛陽から、日本の九州や畿内へ 使節が行くのに、どれくらいの日数がかかったのかな? やはり、一年くらい、かかったのかな? 倭の五王なんかも、時差がそうとうあって、中国へ使者が入っている間に 日本で皇位継承があったり、権力闘争があたりして それが、倭の五王をそれぞれ一人づつ 特定の天皇には当てはめられないという意見もある。
353 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 21:14:07
>>323 中華では「神」と「鬼」は厳密にいうと違うです。
「神」はあくまでも超自然的な霊格を示すものに与えられるものであり、山・河・海・嵐・星等の霊です。
「鬼」は前身が人間であることです。先祖の人々の恨み・怒り・喜び・哀しみ等が集積した霊力です。
格的には「神」が上になります。
日本のシェライン(神社)は「や・よろずの神」として神も鬼も仏も物も一緒くたにしていますが、中華で
は老子により仙道と神道・鬼道は区分けされていますです。
それにしても、「景初四年」という鏡が たとえ、魏や卑弥呼とは関係ない呉製か日本国産の鏡だったとしてもだ、 なんで、魏の「景初」という元号を用いた鏡を作り 畿内を中心にあんなに多く鏡を配りまくったかだ... これは、凄い謎だ。
355 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/14(日) 21:20:45
>>350 >景初4年鏡は、京都の広峯古墳で見つかった。
たとえ、難升米一行が、それを知ったとしても、邪馬台国と畿内との行き来が
なければ、畿内で、このことが知れ渡っていたとは言えない。
鏡はそもそも不動産であり、年代的に以前じゃない限り時系列的に否定出来ないし、
帝国に挨拶したのは何も、卑弥呼関係者だけではないし、
もう少し正史の熟読を希望します。
冊封関係上、帝国からの相互交易は一地域一国が原則で邪馬台国だけに絞られていたが、
向こうから一方的に訪れる 朝賀などは断る理由がない。
単に正式な交易外交がないだけの話。
356 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 21:25:45
>>351 >「辰韓の南に弁韓あり、その南また倭と接す」
從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
とあるとおり、帯方郡より倭国へ行くには、朝鮮半島の西海岸に沿って
航行し、南や東に蛇行しながら進むと狗邪韓国に到ると魏誌にあります。
始度一海千餘里至對海國
というようにその倭人の国、狗邪韓国は一海(対馬海峡)をはさんで対馬
国と相対している地理から現在の釜山付近にあったことがわかります。
加羅・任那とも後に言われた朝鮮半島内の倭人古来の固有領土であった
ことがわかります。邪馬台国は対馬海峡にまたがる海峡国家であった訳
です。
弁韓は、南に倭人の国、狗邪韓国と国境を接していたのです。
たとえば、邪馬台国が魏から鏡を貰ったとしても その100枚を日本中(あるいは九州中)の豪族に配りまくるか?だ。 意外に、それをレプリカとして、自分たちで勝手に鏡を作ったりするかもよ。 あるいは、魏から貰った鏡というのは、各地の豪族に配るために もらったわけではないのかもしれない。
358 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/14(日) 21:38:23
>>356 いいですか?
『接(せっ)していた』=これは日本語
『接(せつ)』=これは漢語
違いが解りますか? 『南與倭接』=これは漢語ですよ
漢語『接』の解釈は、(AとBの相互関係)
(接合)は AとBの独立したものが(合)わさるから(接合)=AとBが合わさる関係
359 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 21:44:53
>>355 中華ではよくあるのは、青銅器等には古くからその道の骨董市場があった
ことです。200年、300年前の時代の古器には収集家がいれば、供給する者
がいました。古器は珍重されましたが、その為に中には贋作や写物も多く
ありました。それを見抜く目利きの鑑定商人も長安にはいました。
日本の鏡は、中華でずっと後の時代になって江南や広東で作られた物かも
知れませんし、また中華の鋳工が倭で銅を持ち込んで作ったものかも知れ
ません。青銅器の成分含有量は銅の精錬地・精錬法により不純物の種類が
異なります。分析すれば銅の産地はある程度、調べられるでしょう。また
漢字銘文の字体・表記法は中国の時代・地域でも微妙に異なります。
詳しく中国で調べれば、どこで原版が作られたかもわかるでしょう。
ただ日本で出土するような大型で華美な装飾の鏡はもともと中国ではあま
り作られず、また日本の鏡の銘文をみると文字が比較的新しく、間違って
いるものが多いです。魏の時代からずっと下った時代のものかも知れない
と感じたことがあります。
360 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/14(日) 21:52:16
>>359 >ただ日本で出土するような大型で華美な装飾の鏡はもともと中国ではあま
り作られず、また日本の鏡の銘文をみると文字が比較的新しく、間違って
いるものが多いです。魏の時代からずっと下った時代のものかも知れない
と感じたことがあります。
その考えに私も異論ありません。
たとえば平原から出土した超大型鏡などは、国産の可能性大と見ています
361 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 21:52:31
>>348 プラム氏へ
(
>>347 古墳出土の景初3年銘や景初4年銘の三角縁神獣鏡は、
魏帝が卑弥呼に与えた「銅鏡百枚」のうちには入らない、と考えた方がよい)
>そのように考えなければならない理由は?
@三角縁神獣鏡は中国で発見されない。
A三角縁神獣鏡の鉛同位体比の値が、中国鏡の値とは異なる。
362 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/14(日) 22:15:59
>>361 >@三角縁神獣鏡は中国で発見されない。
A三角縁神獣鏡の鉛同位体比の値が、中国鏡の値とは異なる。
以前から不思議に感じてた一つなんだが、中国製の鏡の全てが規則通りの
鉛同位体比に整合するのかい?
それに、三角縁が中国で見つかっていないのに、どうやって三角縁に鉛同位体比
測定比較できるのか?
363 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 22:23:03
日本は二倍年暦だから、景初3年(春季)、景初4年(秋季)で無問題(何
364 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 22:23:49
青銅製品を作るときのお約束。 周礼
365 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/14(日) 22:33:19
>>364 >周礼(しゅうらい)
私も詳しい事はしらないけど
どうやらこの周礼に疑問符が打たれているけいこうのようだが、貴方の見解はどうなの?
私もまだ検証していないエリアなもので、取り扱いに難渋しているんだよ。
366 :
太国 :2007/01/14(日) 22:40:21
>>363 神功の時代は3倍暦だと考えています。竹内宿禰の超長寿が2倍暦ではまだ、
現今の世界記録をかなり超えていますから。
367 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/14(日) 22:47:58
三角縁日本製説の根拠。正直、いまだに魏鏡説が存在していることの方が不思議。 1、中国からは1枚も発見されていない。 2、239年に遡る遺跡、古墳からの出土例がない。せいぜい300年頃に遡るのみ。 400年頃の古墳から出土しても239〜266頃の製造というのは、無理。 3、日本で同等の鏡を生産する技術は200頃から存在した(平原遺跡)のに、その後 約200年以上も日本国内での鏡製造が大きく停滞したとするのは不自然。 4、古墳築造年に対応した画文帯や三角縁の変遷が想定可能(伝世の否定)。 5、画文帯、斜縁などとの連続性から一連の鏡を日本で製造したとする方が、自然。 6、同時代に中国で流通していた鏡より、特に大きく、日本の独自性が強い。 7、鏡の文章が稚拙で韻を理解していない。 8、同位体比に均一性があるから、全部舶載か日本製かのどちらかになる(後者)。 9、日本で約500枚が発見されており、枚数が圧倒的に多い。魏で1000枚製造したと する特注説自体が苦しく、類似の鏡が出土していない以上、無理。 10、多種多様の三角縁を魏で特注したという事態を想定できない。需要が魏に伝わった とは到底考えられない。
でもさ、なぜ、景初四年という元号を入れたんだろうな? 景初四年という...
369 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 22:54:47
華僑が日本で「これは由緒ある卑弥呼の鏡」って宣伝して売り歩いたんじゃ ないか?(笑
370 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 22:57:19
>>363 それはさすがにないだろう(笑
いや、ないはずだ。
いや、ないかもしれない。
でもな、魏志倭人伝に出てくる卑弥呼が、魏で銅鏡を100枚購入したらしいが それは各豪族に配るために購入したのか? それが物凄く不思議だったりする。 それに、それ以前に鏡を作る技術は日本で確立されていた可能性が強いし、 後漢や前漢の鏡だって、日本で発見されているわけだから 別に魏から鏡を得る必要なんて無いように思う。 なにか、その魏志倭人伝の銅鏡という記述を特別視しすぎてないか?
372 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 23:01:37
>>371 購入ではなく下賜された(もらった)
しかし卑弥呼がもらった鏡はどこへ消えたのか?
373 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/14(日) 23:02:53
>>371 >その魏志倭人伝の銅鏡という記述を特別視しすぎてないか?
同意
>>372 魏から貰った鏡をわざわざ各豪族に配るかな?
むしろ、自分たちの一家で管理していないか?
375 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 23:07:25
>>368 難問。
>>369 案外、ありえるかも。椿井大塚山古墳とか黒塚古墳とか見ると、大事にされていた
のは明らかに画文帯神獣鏡のほうだから。
ところで、鏡が出てきたついでに、日田のダンワラと言う遺跡から鉄鏡が
出土している。名前は、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡。
鉄鏡は、中国でも皇帝クラスの人物しか持ち得ないとされた鏡。
もし、当時の日本でこの鏡を中国からもらえる人物と言えば、卑弥呼しか
思い浮かばない。しかし、倭人伝の記録の中に「鉄鏡」の文字はない。
とすると、この鏡をもらったのは誰だろう。
中国の記録の中から相当する人物を探すと、帥升しかいないような気がする。
これもけっこう大きな謎のように思うのだが。
376 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 23:08:26
卑弥呼の場合、鬼道との関係があったのではないかな? 邪馬台国の政治体制は巫女-男王の関係に見える。邪馬台国以外の国も 同様の祭祀体制を取っていたとしたら、鏡は各国王の斎女か巫女(つま り神社)へ配布したのでは。魏という遠い国の舶来品として。 逆にいえばその情報網を使って卑弥呼は「占い」を細木和子みたいに していたのかもしれない。
>>375 帥升等の件は、何にも書いていないよ、後漢書にも。
378 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 23:13:37
つーか、鏡はどちらかといえば中国でも呉なんだよね。レパートリーとか銘文表記とか いっても・・・
379 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/14(日) 23:13:52
>>369 それもありうると考えています。以下、想像ですが。
1、魏志が300〜350頃に日本に輸入されて、その中の「銅鏡100枚」という記述に
こじつけて、「景初三年」とか「景初四年」の文字を入れた可能性が一番高いと思います。
もらう側が「景初三年」の意味を知らないと価値がないので、魏志の輸入が前提になる。
三角縁が多種多様であるという事実からは、注文した豪族が「景初三年」という年号を
入れるように要求した可能性もあります。
逆に、製造者が古い由緒ある鏡であるとウソをついて渡す場合でも、魏志の輸入がないと、
そのウソに価値がない。
2、金印の側面に「景初三年」と書いてあったからこの年号が重宝された。
想像の域を出ませんね。しかも、前期の三角縁に紀年がないことの説明もできない。
>>375 >ところで、鏡が出てきたついでに、日田のダンワラと言う遺跡から鉄鏡が
>出土している。名前は、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡。
>鉄鏡は、中国でも皇帝クラスの人物しか持ち得ないとされた鏡。
>もし、当時の日本でこの鏡を中国からもらえる人物と言えば、卑弥呼しか
>思い浮かばない。しかし、倭人伝の記録の中に「鉄鏡」の文字はない。
>とすると、この鏡をもらったのは誰だろう。
中国でも皇帝クラスなのに、なぜ、はるか東方の
倭王がそんな鏡をもらえるんだよ?
382 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 23:23:01
>>382 でも、何も書いていません。
前(57年)の倭奴国とは、明らかに待遇が違うんだよな、
帥升等は。(書き方も倭国とか、倭面土国とか)
384 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 23:37:47
>>380 中国では「鉄器の最上は呉へゆけ」といいました。鉄器が最も早く発達し、武具もすば
らしいものがあったからで、秦の始皇帝も認めています。
鉄鏡は確かに珍しいものですが、日本に運ばれるとしたら、三国時代、280年3月に晋が建
業を包囲し孫晧が降伏し、呉が滅亡した後のものかもしれません。戦乱で財物・記録が盗
難・散逸したものが流通したのではないかと考えられます。
正等な国家間で下賜されたものならば、何かに記録されたでしょうが・・・。
1996年に長沙市で10万枚以上の呉の時代の簡牘(走馬楼簡牘)が発見されました。呉の文
化や地方政治体制、外交文書についてはまだ研究が続けられているところです。今後、倭
との関係についての書簡等の発見があるといいですね。
385 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/14(日) 23:44:03
>>383 >何も書いてない
書いてあるよ。
「倭国王」と
しかし、それだけの事
朝遣交易の原則は、あくまで冊封関係による特権交易だから
386 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 23:44:32
>>383 後漢書には「倭国王」と書いてある。
倭面土国も、ヤマトがなまったと言えなくもない。
倭人伝には、「その国もとまた男子をもって王となす、住すること7,80年」
とある。
つまり、邪馬台国という国の創設者が帥升であり、7,80年たって、跡継ぎが
いなくなり、その地位をめぐって争いが起きる。それが倭国の大乱。
そのあと、卑弥呼が女王になって国は治まる。
卑弥呼が死んで跡継ぎ争いがまた起こり、千人あまりを殺しあう。
壱与が女王になって国は治まる。
これで一つの歴史が現れる。
387 :
太国 :2007/01/14(日) 23:46:42
>>386 創始者かどうか分からぬが、そうかそれに近いかいずれかだ。この点は秀逸。
388 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 23:50:38
>>384 この鉄鏡は、後漢の時代のものといわれる。また、日田では、鉄鏡のほかに
金錯鉄帯鉤も3個だったか出土しており、これは漢の皇帝が諸侯に忠誠の
あかしとして配ったものとされる。
だから、鉄鏡は、後漢の時代に日本に渡ってきたものと考えられる。
ちなみに、金錯鉄帯鉤というのは、帯留めだが、女性用ではなく、男性が
使うものらしい。
389 :
太国 :2007/01/14(日) 23:55:29
>>386 ただ国名は「邪馬壹國」ではなく、別の国名だったかもしれない。
帥升は、創始者かそれに準じた人物のようだ。zzzzzzzzzzz・・・・・
390 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 23:56:00
>>387 なんせ、漢に献上した生口が160人ですからね。
自分の国で、これだけの人間がいなくなったら、何かと苦労するし、もったいない。
しかし、よその国を攻撃して奴隷として連れてきたのなら、それも出来るわけで、
帥升と言うのは、かなり大規模な戦乱の勝者と考えられるわけです。
帥升の武力が、邪馬台国連合国を築いたと思います。
>>390 だからさ、そう言い切るな。
自分は、57年の倭奴国と、107年の倭国王・帥升等とは
因果関係は無いように思うんだな。
あの金印があんな北の外れの志賀島で発掘されたのは
倭奴国は別の国に滅ぼされたからだと思うよ。
それが畿内か九州中部の国かは分からない。
392 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 00:00:41
>>388 後漢書には使通する国30余りと記録がありますから、その中の1つだったのでしょう。
393 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 00:10:58
>>391 建武中元二年の倭奴国と安帝永初元年の倭國王帥升の国が同じとは言っていない。
違う国と思う。
つまり、どうして帥升は漢に朝貢したのか。
個人的な推理だが、帥升は、いわゆる倭奴国を滅ぼしたのではないか。
倭奴国は、漢から金印をもらっているなど親密な関係にあったので、
その国を滅ぼして「ごめんなさい」と言う意味があったのではないかと思う。
日本書紀に仲哀天皇が伊都国王に 「むかし、お前の先祖が 俺に色々、宝物を貢いでくれたよな」 って、言っているんだろう?
395 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/15(月) 00:30:04
396 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 00:35:20
>>395 日本書紀には、景初三年(239年)と書いてある。
一般的には景初三年が正しいと思われているらしい。
魏志倭人伝はけっこう間違いが多いかもね。
397 :
347 :2007/01/15(月) 00:48:29
>>395 >間違い!
いいよ、もう・・・。グスン。(泣)
景初二年か景初三年かを論じ始めたら、キリないもんな。(アキラメ)
だから恵也さん。
行った年は争わんから、難升米らが帰ってきた年が240年(正始元年)であること、
これだけは認めてくれ、な、頼む。
398 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 00:54:23
何につけ、文献というのは、その資料的限界を考慮しなきゃだめだよ。
399 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/15(月) 01:18:47
>>375 >鉄鏡は、中国でも皇帝クラスの人物しか持ち得ないとされた鏡。
これは間違いだろう。
確かに日田で出土した鉄鏡は、皇帝クラスの方が持っててもおかしくない高級美術品。
しかし、鉄鏡自体はピンからキリまで存在するものだ。
これだけの装飾を施した鉄鏡は数少ないのじゃないかな。
でもよく鉄の分際で、2000年近くもこの微細な姿を残してくれたものだ!!!
−−−−−(引用開始)−−−−−
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡。
http://iris.hita.net/~city/hhft/kagami.htm
400 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/15(月) 01:24:47
>>396 >日本書紀には、景初三年(239年)と書いてある。
どちらの書物が信頼性があるかということだ。
少なくとも俺は、日本書紀の年代は間違いだらけと思ってる。
日本書紀が作られたのは西暦720年頃。
魏志倭人伝は西暦280年頃。
まったく格が違うよ。
401 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 01:36:13
>まったく格が違うよ。 関係ないと思う。
402 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/15(月) 01:37:07
>>397 >難升米らが帰ってきた年が240年(正始元年)であること、 これだけは認めてくれ、
認めがたい。
西暦238年6月、難升米帯方郡に着く
西暦238年12月、難升米、魏皇帝に引見。土産を貰う。
これなら239年中には邪馬台国に帰ってるはずだ。
みやげ物を貰って、母国に届けもしないで遊んでいるわけにも役人として出来ないだろう。
403 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 01:57:55
>>402 >西暦238年12月、難升米、魏皇帝に引見。土産を貰う。
>これなら239年中には邪馬台国に帰ってるはずだ。
違う、違う!
恵也さん。その次なのだ!
その次、魏志倭人伝の、正始元年の記事! そこになんと書いてある?
この正始元年の記事があるため(もちろんそれだけじゃないが)、遣使「景初二年説」に、
疑いが持たれてきたのだよ。
ぜひ再考たのむ。
404 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/15(月) 04:07:05
倭国では中国の元号にこだわったって仕方が無いと思う。三角縁鏡よりも後漢鏡の方を大事に扱い、死者の枕元に置いて葬ってるのに対し、 三角縁鏡は足元に30枚も無造作に重ねて置いてあったりして、明らかに扱いが格下。 模様や、韻を踏む銘文なども呉でもてはやされた様式。しかも、当時はもう使われなくなった漢代の韻を踏んでおり、 それも漢人が用いる韻とは思えない変なものである事から、卑弥呼が明帝に貰ったのは後漢鏡の可能性が高く、 いくら景初の文字があろうとも、呉様式、倭物、というキーワードが浮かび上がる。 卑弥呼が貰ったという100枚の銅鏡の景初の文字のある鏡と同じものを欲しがった倭人がただ有難がって複製を作ってもらい、 誇らしげに満足していたとしか思えない。文字が理解できない人々の悲しさではある。
九州氏は働いてらっしゃる年齢の方でしょう? なんで朝の4時に書き込みできるんかな? 前に老教授氏にコテンパンにされたとき 「トイレが近い。ふとPCのぞいてみれば」とかいう夜中の書き込みも記憶してるが それにしても、なんか…。 書き込み内容以前に、人としてのあやしさを感じてしまうんだよね
406 :
太国 :2007/01/15(月) 07:43:51
>>400 日本書紀は稗田阿礼の記憶から出来た古事記とは違い、原書群が多々あったこと
が記載内容から確認できる。だから倭人伝のほうが権威があるとは必ずしも
言えず、むしろ伝以上にもっともっと古い記録がゴマンとあったのが真なの
である。お前は安本氏の誤説を吟味も充分せずに単純に信じこみ、その信念が
東京タワー以上に高く増幅ししたために哀れ脱却できなくなった人間である。
そのため自説の成立のため自分ではあまりまずいと感じてない状態で恣意的に
取捨選択を繰り返す脳になっているから、紀より伝のほうが数字を出しながら
古いから権威があるように主張して誤説の砦を造ってしまっている。
残念ながらもう矯正は困難な頭脳の状態にあり、矛盾を衝かれながらも不利は
少しは承知してるものの、他の何かを持って来てまたまた誤論を正解だと
思いこんでこれをカバーしている。これがお前の大きい失敗なのだ。
407 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/15(月) 07:47:26
>>403 >魏志倭人伝の、正始元年の記事! そこになんと書いてある?
もちろん読んでるが(梯儁を派遣して、詔書、金印などを持たせ倭国に行かせた)
これは別口の魏からの金印を卑弥呼の与えるための使節団だよ。
お土産を持たせる邪馬台国の連中に、お土産のついでに金印を与えるわけにはいかんだろう。
金印に値打ちを持たせるためにも、それなりの地位の魏の役人に持たせ兵隊に警護させた魏の使節団。
難升米は邪馬台国の使節団。
全く別!
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
408 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/15(月) 07:52:13
>>406 >古事記とは違い、原書群が多々あったこと が記載内容から確認できる。
アンタね、そんなところで確認なんて言葉は使わないの。
使うときにはその原書とやらが「現在に残存」しててこそ言う言葉。
今にありもしない物を、確認なんて出来はせんだろう。
それは「噂」という言葉を使うものだぜ。
409 :
太国 :2007/01/15(月) 08:00:37
>>408 そこんとこがあんたの大間違い。多数原書群があったのに、見向きもしないで
伝を信じこんでいる。自分の腕前を過信しすぎた間違いであり、ドライブして
目的地へ行こうとするに、そっちの道は間違いだぞといままでの人間が経験も
含めてまちがいだぞとアドバイスを車窓に首を近づけて教示案内してるのに、
自分がもらった消息の少ない推量であっちだと言っている人間の紙っぺらのみ
を信じこみ、行く所はデタラメあさっての、180度も違う別世界。ww
↑ よ、よくぞ太国さん、言ってくれたね〜。うぅぅ。(泣)
411 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 09:49:21
稗田阿礼は習唱
412 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 10:00:24
議論の白熱はけっこうですが、皆さんもう少し発言は穏健に、ね?^^;
413 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 10:03:05
>>284 >可能というだけじゃ、最後まで結論のない議論。
>2倍暦の暦の現物が出てきてからホザキナサイ。
このレス笑った。
どっかの国の歴史書に書かれている女王の国がどこにあったか
必死に論争してる人達に対する皮肉ですね。
414 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/15(月) 10:13:56
景初二年と三年の問題は、基点と時系列を同一でかんがえるから間違うの。 ・倭人伝の基点は帯方郡(景初二年十二月) ・日本書紀の基点は、任務完了帰国時点(景初三年) だからどちらも正解な訳で、最初から二年・三年と論争することじたい馬鹿げた話なんです。
魏略、魏志倭人伝、古事記、日本書紀は、それぞれ歴史書としては何級資料?
416 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 10:48:33
結構。ここの住人って定年超えた方が多い?
417 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 10:48:49
超一級でしょ。
418 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/15(月) 10:53:19
>>416 バリバリ現役だけど
>>415 魏略の扱いは別物
魏略は複数の書の中に、逸文の形で断片的に見えるだけ
魏略として纏まった形では無い。
419 :
太国 :2007/01/15(月) 11:30:33
恵也の失敗は、最初に 卑弥呼=天照大御神 という考えが若いころから 頭中に湧出してきて、それをそうだと思いこんで行ったのが最初の原因である。 これは通常人ならば無理もない。そこ迄で前に行かずに、ここで思考をストップ させ、この両者は同一人物に見えて払拭できないが、果たして本当にそうなの か? と考えるべきで、ここで諸古文献をあさり、不一致点が多々あるか否かの 検討をしておけば、まぁこんなことにはならなかっただろう。 それをあまりしないうちに安本氏の論を読んだからたまらない。かれは氏の 名づけた数理文献学という語に権威性を見出し、自己の等号の考えと会う点が 少なからずあることから、学のある恵也はこの「学」という権威付加語に 吸引されてしまった。それほど恵也位の学者肌はこういう権威を信じさすく勝手 に付加したのかと思われる安本氏のような学的理論の語にベッタリとなりやすい。 これが恵也の第2の失敗なのである。 さらにこういう学の語に溺れ心酔すると、当人と安本氏の学者的人物の論が 古代人の学より数段上に見えて、どうしても古代人の記述が馬鹿らしくなめて かかるようになる。この辺で自論が合ってるような錯覚が確信に変わっていて、 なめ始めた古代人記述の古文献を大きく軽視するようになる。 これが恵也の第3の失敗で、このころになると多方面からの自論に合わない 説は、ことごとく勝手な理由をつけて否定するようになり、相当の権威者が それは誤りだと警告しても、もう遅い。カルトのように恵也の頭は、さらに 津田病患者の諸説の聞くに及んで、そうだそうだと思いこむようになり、 何から何まで記紀の記述を適当、いい加減な記載でデタラメだと断定に 心が回る。こうなると、もう取り戻しは困難であり、誤算の回復は不可能 になってしまうのだ。
420 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 11:34:14
>>418 バリバリ現役がなんでこんな時間書き込んでいるんだよ。俺は学生だけど。
421 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/15(月) 11:41:53
>>420 仕事は平日 8:00〜17:00だけしかない世の中なのかい?
422 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 11:44:13
じゃあ、おたくさん何の仕事してるの?
423 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/15(月) 11:54:42
424 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 12:13:20
425 :
太国 :2007/01/15(月) 14:29:12
>>419 というわけで、自分に不利な資料とか証拠らしきものを出されると、間違いの
自説を頑なに信じこんでいるから悉くに容易な理由を探し見つけて否定に回る。
それも強信してるからであり、自分が間違ってるのを知ってそれがバレるのが
まずいからというよりも、幾度も言うが最初の確固たる間違いの「信」が定着
してる為であり、容易な理由のてっとり早い選択は、何と云ってもその資料等が
出鱈目だとか、現代の世間一般の習慣の相違での勝手な古代観を示し、単にあり
そうもないとか信じられないとかで、成るほどという具体的否定理由の詳細
を中途半端の説明で、したようでしておらずに結論に至らせ、自論を曲げない。
これが恵也の古代史論の、出入りへの応酬の仕方なのである。
もう治らんだろうな?ww
426 :
太国 :2007/01/15(月) 14:33:32
427 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 15:56:04
「投馬国」って、現代中国語では なんて発音するの? 北京語、上海語、広東語、客家語 それぞれで教えてほしいね。
428 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 16:41:37
>>428 >自分で調べろ
と意地悪さんも確かにいるが、しばらく待てば親切さんが出てくるかもしれないよ。
そこが2ちゃん掲示板の面白いところ。
427さんは、ムキになってあわただしく報復レスしないように。
430 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 17:10:19
ここ数週間考えたけど 畿内説も九州説もどちらもそれらしく思える。 しかも、畿内説のなかでも九州説のなかでも 複雑に意見が分かれている。
431 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 17:11:22
>>429 善意の第三者をきどってないで、
>>427 に教えてやれよ。
教える事も出来なで語っているなら(最悪)確定の赤ランプ
433 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 17:24:49
>>403 江戸時代の新井白石、本居宣長以来の邪馬台国論争にそう簡単に
終止符はやってこない。
江戸時代の一般庶民も、結構、邪馬台国の存在は知っていた。
志賀島の金印も、商人が鋳造しようとしていたところに、藩の
勘定方の1役人が待ったをかけられたのも、そういう背景があった
からこそです。
これから、土建屋や、企業が、貴重な邪馬台国遺産を壊そうとした
時にちゃんと、待ったをかける人材が何人輩出されるかが、大事だ
と思っております。
ー1古代歴史ファンよりー
434 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 17:25:30
403 → 430です。 すまそ
435 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/15(月) 17:44:12
>>415 >魏略、魏志倭人伝、古事記、日本書紀は、それぞれ歴史書としては何級資料?
魏略は歴史の闇に消えた書物で、歴史書としては等級外。
古事記や日本書紀は西暦720年ころに出来たから、西暦650年頃からの歴史書としては
1級資料だがその前の時期に関しては、疑問符がつく。
魏志倭人伝は、著者の陳寿が卑弥呼死亡したときに10歳くらいの少年で同時代の人間。
しかも魏の禅譲国である晋の文書関係の役人。
国家の機密資料も見れる立場だった上に、魏の国家利益もあまり考えないで良いという
恵まれた立場。
よって1級資料もいいところだろう。
436 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 18:17:19
魏から禅譲されたから、魏の皇帝を正統として三国志を書いたんだけどね。
三倍暦なら竹内以外にも長寿がゴロゴロ出てきそうなものですが
439 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 18:42:03
>>436 もしかして蜀が正統だとお考えですか?
明らかに魏が正統です。漢より、正式な手続きを踏んで帝位を禅譲されています。
蜀や呉は地方軍閥が皇帝を自称したに過ぎません。
スレ違い失礼しました。
440 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/15(月) 19:28:01
>>439 >魏は漢より正統な手続を踏んで…
その情報は何処からどのような史料を元に判断されているのでしょうか?
まさか魏書じゃ無いですよね。
441 :
太国 :2007/01/15(月) 19:49:46
>>438 3倍暦で111歳計上ですよ。他の3倍暦論者もおそらくは 110歳±α を
主張すると思いますが? この数字では記紀に記載する名たる人物でも
ザラにはいないでしょうが? 竹内くらいですよ、そんな長寿は・・・。
442 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 20:09:21
竹内だけがイレギュラーなんですよ。 三倍暦を持ち出すには材料が乏しいと思いませんか?
443 :
太国 :2007/01/15(月) 20:37:18
「孝」の字のつく天皇と「神」の字のつく天皇(神功を含む)は すべて3倍暦だ。ただし佛伝以前の話だぞ。 2倍暦じゃぁタケウチノギネスは140歳余になり、そんなことはありっこない。 現今の世界記録以上になるから、そういうことはまずない。 3倍暦だと合理的数字になる。5代に遣えていたから、この数字くらいだ。 神武以降では、名たる記紀の人物では最長寿者だ。 当時は2倍3倍と通常暦を取替えて使用していたのだ。この方法で不合理を潰 しながら神武の時代へと遡り計算すると、神武即位は 西紀元年 を計上した。 他スレ(過去スレ)での某人の解説では、以下のとおり 「神武の即位は辛酉年で、春正月の庚辰日、月齢は朔(新月)だった。 書紀の記述を信ずる限り、神武即位年は干支60年の倍数の2月11日で、 なおかつ新月でなければならない。これに該当する年号は B.C.660年を除けば、B.C,60年か A.D.1年 しかない。 パソコンソフトを調べてみ。」 「日本書紀紀年法が解明されました part3」(06.5/19) つまり、それがしの神武即位西暦元年説はどうやら正解が濃厚のようだ。 断続的ながら、以下に年表を作ってあるから見られたい。 「邪馬台国は大和朝廷になったのか part21」>411〜>499
444 :
太国 :2007/01/15(月) 21:01:58
>>443 訂正
× パソコンソフト ○ 天文ソフト
445 :
九州出身 :2007/01/15(月) 21:06:56
てか3倍暦って日本人の誰が考え出したの?太国氏?? 八木倍年説はどこへ・・・
446 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 21:15:49
史書の記述間違いの可能性に言及しないのは、他の理論が崩れるからみなさんしたくないのは分りますが 細かい数字なんかについては結構いいかげんだと思う、特に年齢なんかは割と多く伝えられたりする。 武内宿禰が120歳まで生きた可能性はほぼ皆無 千数百年前の人間が120歳まで生きる確率と年齢記述を誤る確立比べると天と地の差がある。
447 :
太国 :2007/01/15(月) 21:16:43
>>445 それがしは数年前から紀年法に興味を持っていたが手をつけられず、やっと去年
あたりから徹底?して研究を始めたので、これに関わる研究史のほうはあんまり
分からんのが本音だ。そのうちそっちのほうも明かるくなりたい。
倉西の婆さんの書の研究史の解説を読んだが、3倍暦は書かれてなかったな。
だが有コテハンの征東大将軍氏も3倍暦を支持しているようだ。
古代マヤ文明の暦法の「ツォルキン暦」は 1.4倍暦だよ。
448 :
太国 :2007/01/15(月) 21:17:43
しかしですねぇ太国さん 日本書紀が一旦等倍で書かれた後に、特定区間毎にn倍で計算したとしても n倍での引き伸ばし計算後に、治世年間に対して加算(或いは減算)して調整している筈なんですよ ですから、n倍説が正しい場合でも、当初の当倍での日本書紀の原型での年代設定を完全に算出する為には 我々は割り算を始める前に、今の日本書紀の治世年間から引き算(若しくは足し算)をやらなきゃいけない訳ですね そうすると、我々が引き算をしてから割り算を使って求めるべきなら 日本書紀を作った側の人間は、 三倍を使わずに二倍と足し算だけで作れる可能性なんかも考えなければならない訳です
450 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/15(月) 21:55:46
>>405 前に老教授氏にコテンパンにされたとき
そんなこといつありましたか? あの方の方が居なくなって、他の人から逃亡は良くない。
と言われてたみたいだったですよ。
夕べはワインを飲んだら早く寝てしまい、今朝、トイレに早く起き、仕事が朝早いので、そのまま起きていたと言うだけの事。
おかげで今日一日眠かった。
老教授との会話は読み返してみるといい。彼はこちらの指摘に答えていません。勝手に勝利したなど思い込まないように。
451 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 21:55:59
私はここで四倍暦というものを提唱したい。
452 :
太国 :2007/01/15(月) 22:01:45
連れないなぁ
454 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 22:22:18
>>439 中華では中原が乱れ戦局に臨み勝った者のみ祀られます。歴史を残すのは勝者を
讃えその偉業の正当性をあまねく知らしめる為です。
そして覇業を成した勝者は、戦局で倒れた者達の魂魄を鎮める為に、泰山に登り
神仙や鬼神を敬ったのです。
漢の後が魏が正統とはいえません。蜀や呉は三国分立の戦局の中、魏の後継たる
晋に負けたからその権威も百官も国史も守れなかったのです。
強い者、新しい時代を拓いた者だけが歴史を残す事ができるのです。中原の掟で
す。
455 :
一応九州王朝説 :2007/01/15(月) 22:43:56
>>449 なるほど。三倍という複雑な計算には閉口するが、二倍+nなら・・・。
三倍なら三倍で、その方法論の確立がないと、ただの数字の辻褄合わせ
だもんね。後付けなら何とでも言える。
倍歴の場合、そう言う仮定で推論するといろんな事が見えてきたわけだが、
それを三倍にすると何が証明されるのかどうも納得できないですな。
456 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 22:55:40
457 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 22:57:06
ところで稲荷山の鉄剣の「獲加多支鹵」ってワカタケルって読めるか?
458 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 23:11:06
倭国専用に制作って・・・通常の鏡の3倍のスピードで反射するとか???
459 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 23:14:57
なんで呉人が魏に行って倭国御用達の鏡を作るわけ?
アホくさすぎ。
>>457 読み方不明としておくべきだよな
金になるなら行くだろ
461 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 23:25:47
だから金になるのかよ! 僻遠の野蛮国の使いのためにどこまでするかwww
462 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 23:26:57
稲荷山鉄剣の「辛亥年」銘文だけで471年に特定されると断言する頭脳の 皺のなさが畿内説らしいというもの。
463 :
大和 :2007/01/15(月) 23:54:42
30時間で130カウントUP凄い。ところでRes遅出しごめん、すぐ埋もれてしま
った。いろいろ規制に引っかかっているみたい、やはり早々に巣穴に戻りそう
です。
プラムさん、
>>340 さん、書き込みできずにごめんなさい。
464 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 23:56:11
拘右智卑狗はコウチヒコ(河内彦) 魏略のほうは、そう書いてある。 また、狗奴国の男王の名前は書いていない。 魏志倭人伝のほうは、狗古智卑狗はクコチヒコ。 で、狗奴国の男王の名前は卑弥弓呼で、卑弥呼を意識した名前。 たぶん、正しいのは魏略のほう。魏略のほうが元だから。 河内彦といえば、モモソ姫・崇神天皇に 謀反を起こした武植安彦(崇神天皇の叔父)
465 :
大和 :2007/01/15(月) 23:57:21
もう一度。
>>340 の304=342さん。
過去Res読まずにプラム氏発言と勘違いいたしました。ご容赦を。
ところで
奈良盆地南部地域での鏡つくり。どうして鏡鋳型が出てこないのでしょうね、
銅剣・銅矛・銅鐸・銅鏃などは大量ではないが各地で鋳型の出土がみられます
。ところが鏡は福岡県で二件ほど出ているだけ、それも流通した鏡図案ではな
いらしい。もし、制作に鋳型を使用したならいたるところでもっと大量に出土
してもよさそうですが、当然銅鐸にも同じことが言えます。
これは制作技法を根本的に考え直さないと駄目なのではと思っております。銅
鐸制作では愛媛大学の村上恭通氏は鋳型技法の一つ真土(まね)を使ったとす
る。鏡製作も同様技法を利用していたのではないでしょうか。だとすると平原
の大型国産内向花文鏡もうなずける。当然桜井茶臼や下池山の大型内向花文鏡
もそう困難を伴わず制作できたのではと。
466 :
大和 :2007/01/16(火) 00:01:05
柳の下。
>>339 >確か明帝の崩御が景初三年正月、既に三年が始まっています。
まことそのようです。
『
ttp://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gi-syou1.html 』を参照
三少帝紀 齊王芳
青龍三年、立爲齊王。景初三年
正月丁亥朔、帝甚病、乃立爲皇太子。是日、即皇帝位。
二月、西域重譯獻火浣布、詔大將軍,太尉臨試以示百寮。
三月、以征東將軍滿寵爲太尉。
夏六月、以遼東東沓縣吏民渡海居齊郡界、以故縱城爲新沓縣以居徙民。
秋七月、上始親臨朝、聽公卿奏事。
八月、大赦。
冬十月、鎮南將軍黄權爲車騎將軍。
十二月、詔曰:「烈祖明皇帝以正月棄背天下、臣子永惟忌日之哀、其復用夏正
;雖違先帝通三統之義、斯亦禮制所由變改也。又夏正於數爲得天正、其以建寅
之月爲正始元年正月、以建丑月爲後十二月。」
正始元年春二月乙丑、加侍中中書監劉放,侍中中書令孫資爲左右光祿大夫。
467 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 00:02:08
三角縁神授獣鏡って、かなり長期間、日本で作られたみたいだね。 つまり、三角縁神授獣鏡って、発掘された500枚は 全部、同時期に作られたものではなく、 出来にも不出来なものも混じっている。 つまり、日本でコピーしたものが多く存在している。 初期に作られたものは、一応、卑弥呼の時代に近い時期らしい。
468 :
大和 :2007/01/16(火) 00:02:47
柳の木が三本。
上記、『景初三年』の時系列を参照するに、正月・二月・三月・夏六月・秋七
月・八月・冬十月・十二月。『正始元年』の、正月・二月と並んでいる。
上記十二月条はプラム氏が参照した記事と思われるが、大和はこの十二月条を
景初二年条のこととした。しかしながら上記をつらつらと読むと正始元年正月
をして、景初三年後十二月と捉えることもできる。
ところで裴松之の独り言に『魏武以建安九年八月定鄴、文帝始納甄后、明帝應
以十年生、計至此年正月、整三十四年耳。時改正朔、以故年十二月為今年正月
、可彊名三十五年、不得三十六也』[同上HP漢籍より抜粋]というのがありま
す。
後十二月を景初二年のことか、景初三年のことか、判断に迷う。
とりあえず
>>336 の景初二年条のこととするを留保したい。
ということで
>>343 の帝国産の証を景初四年とすることに多少の可能性を秘めているのでZ
とします。
469 :
九州出身 :2007/01/16(火) 00:08:51
>>464 なぜ狗奴国の男王の名前は卑弥弓呼はコウチヒコ(河内彦)なのか詳しく教えてくれませんか。
それと各国の官・副官は誰に当たると思いますか?
>>464 魏略が元だからってのは根拠にならないでしょ。
陳寿は、魏略その他の史料が多く残っている時代に書いているんだから。
裴松之あたりが訂正していれば別だけど。
471 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 00:20:27
>>469 自分も確実には分かりません。分かったら
この時代の歴史はもっと早く誰かが解明しているでしょう。
一応、魏略と魏志なら、魏略のほうが先だし
元になったのが、魏略ですから、魏略のほうを重視しようかな?と。
魏略のほうは、狗奴国の男王の実名までは書いてなくて
その次に官が、拘右智卑狗となっているだけ。
魏志倭人伝に出てくる国々って、必ずしも全部の国に国王がいるわけではなく
邪馬台国、伊都国、狗奴国にだけ、王がいるみたいに書いてあるから、
このへん、この狗奴国というのは、そこの官が謀反を起こして
王を名乗ろうとしたので、そういう意味で、ごちゃごちゃになったのでは?と
勝手に推測しただけで、それで確定とは思っていません。
472 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 00:24:11
魏略では「拘右智卑狗」で、 別の汲古閣本では「拘右制卑狗」となっている。 どちらも、「コウチヒコ」って読めそう。 だから、魏志倭人伝の作者が間違えて書いたのかな?と。 「古」と「右」は、書き間違いしそうだし。
473 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 00:27:26
>>465 石製の銅鐸鋳型はかなり出てるが、後期の大型銅鐸には真土を使ったらしく
真土鋳型だと鋳造後グシャグシャにとり崩されてしまうから、残らない。
銅鏡鋳型も、弥生後期以降はすべて真土鋳型だろうから、発見は難しいでしょうな。
しかし、フイゴとか、青銅の残滓とかで、鏡工房が今後判明する可能性は十分ある。
田原本町・三宅町には鏡づくりの伝承(神社)が残っている所なので、有望地だと思う。
474 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 00:28:45
>>443 太国の2,3倍暦みたがどこかでみたような 神武即位西暦元年てすごいね!
475 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 00:32:43
武植安彦が祀ってあるのって、河内に集中してある。 記紀によると 彼の母親が河内の豪族の出身で、彼も河内に領地があったんだけど、 崇神10年くらいに謀反を起こしていて、 それを崇神天皇の大叔母のモモソ姫が占いで予言して 崇神天皇は、ただちに全国に派遣していた四道将軍たちを帰還させて、 中でも北陸へ遠征していた軍が武植安彦の謀反を鎮圧したとなっている。 また、その直後に、モモソ姫が急死している。 そういう意味で、魏志倭人伝の記述と関係があるのかな?と思ったりしたのだが むろん、確証は無いよ。 もし、確実に判明するのなら、誰も畿内説だ!九州説だ!って 永遠に議論していないさw
476 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 00:41:18
>三角縁神授獣鏡って、発掘された500枚 発掘されたのが、500枚だから作成されたのは低く見積もっても その10倍として、5000枚か・・ 卑弥呼の鏡なんてよく言えるよね。 畿内は剣・矛文化になるときに、以前の銅鐸はすべて壊されたか 埋められたけど、銅鐸を作った集団は残った筈だから、次に作った のが、三角縁神授獣鏡かもしれないね。
477 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 00:44:49
475さん 「武埴安彦」。・・・文字化けしないからね。 念のため。
479 :
九州出身 :2007/01/16(火) 00:48:00
480 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 01:03:51
>>476 >畿内は剣・矛文化になるときに、
おかしな歴史認識だな。
仮に一歩譲っても、「矛」は入らんだろ。
>銅鐸を作った集団は残った筈だから、次に作った
>のが、三角縁神授獣鏡かもしれないね。
これは大賛成です。
481 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 01:05:46
>>476 三角縁神授獣鏡は全部
一律ではないんだよ。
品のよって、作成された時代や出来も
違っていたりする。
482 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 01:19:32
みんなまとめて俺が訂正。 × 三角縁神授獣鏡 → 〇 三角縁神獣鏡
483 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 02:19:45
>>443 >「孝」の字のつく天皇と「神」の字のつく天皇(神功を含む)は
>すべて3倍暦だ。ただし佛伝以前の話だぞ。
なぜ?
>当時は2倍3倍と通常暦を取替えて使用していたのだ。
何でそんな面倒な事したんですかね?
意味不明すぎるんですけど!
484 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 04:14:43
>>471 狗奴国の官の名前をどうして地名と結びつけるのか。
対馬国から邪馬台国まで8つの国にも官はいるが、
これらの官は、はたして地名と結びつくのか。
ということかな。
485 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/16(火) 05:57:40
>>464 拘右智卑狗はコウチヒコ(河内彦)
例えそう読んだとしても、「伊都国には一大率がいる」事をどう説明するのか。
「女王国の北には一大率を置いて」とあるから 女王国は伊都国の南にあるは自明。
クコチヒクが長官のクナ国はさらにその南に位置する。
それに、河内という地名は熊本にもあり、中国地方あたりにも結構ある。
近畿地方の河内を指すと言うのは、極論過ぎると思う。
486 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 06:05:03
>河内という地名は熊本にもあり、中国地方あたりにも結構ある。 九州ですがさんがめずらしくまともな指摘してるぞ
487 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 06:10:50
>>486 確かに。
>>485 後漢書には、
自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王
とあるのだが、どういうわけかこれはあまり取り上げられない。
488 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 06:37:14
>>486 たぶん、九州さん、
前は、拘古智卑狗は菊池彦だといっていた部類だよw
>>485 問題は、魏志の編纂者は、直接は邪馬台国に行ってなさそうだなということ。
また、伊都国は、女王国連合の中で数少ない
独立の国王を認められて国。
その女王国の北というのは、どういう意味なのかな。
489 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/16(火) 06:51:33
>>455 >その方法論の確立がないと、ただの数字の辻褄合わせ
>だもんね。後付けなら何とでも言える。
タダの辻褄合わせの為の倍暦論。
世界ではまず通用しないし、科学的基礎知識のない連中の妄想に過ぎん。
490 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 06:55:11
>>476 銅鐸(鈴)と銅鏡(鏡)の最大の違いは鏡面の研磨技術。ただ鋳ればいいというものでは
ない。日本の博物館で鏡はすべて裏向けで展示されているが、表面の方の技術レベル
を調べれば三角縁神獣鏡の製造時期も特定できるだろう。
491 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/16(火) 06:58:05
>>461 >僻遠の野蛮国の使いのためにどこまでするかwww
野蛮国が高給で女つき、贅沢な生活を保障してくれるなら
呉の鏡職人は喜んでいく奴は、たくさんいるんじゃないかな。
今の世の中でも、旧ソ連の混乱で「核科学者」が大量に
北朝鮮に招待されていかれたという。
母国が大混乱になったら、外国に逃げ出すのは当たり前だろう。
492 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/16(火) 07:11:48
>>471 >一応、魏略と魏志なら、魏略のほうが先だし
間違い!
同時期とはいえても、どちらが後先はいえません。
−−−−−(引用開始)−−−−−
その後、逸文の中には魏の最後の帝である陳留王奐の時代のことがかかれており、また、
魏略は司馬昭を文王と記しているが、これは咸煕二年(=晋の泰始元年)に送られた諡号
であるので魏代の成立ではありえない事などが判明し、現在では、成立年代は三国志と
ほとんど変わらない太康年間(280-290)かその直前ぐらいであると考えられています。
こうなると、果たして三国志の倭人伝が魏略によるものかどうかはいささか怪しくな
ってくるわけで、三国志と魏略はむしろ兄弟のような関係
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/gisi.html
493 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/16(火) 07:19:39
>>476 >畿内は剣・矛文化になるときに、以前の銅鐸はすべて壊されたか
>埋められたけど
いやそれに、溶かして三角縁神獣鏡になった可能性も大きい。
大昔なら銅はそれ自体で非常に高価なもの。
壊して捨てるなんてもったいない事は、為政者はしないでしょう。
第二次大戦でも鉄が足らないからと、お寺の鐘まで兵器にしたというし
ユダヤ人虐殺でも、人間の金歯を集めて金のインゴットにしたという。
時期的にも、銅鐸の消えた時期と三角縁神獣鏡が出現した時期が重なる気がする。
494 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/16(火) 07:28:56
495 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 07:38:45
恵也 ◆o4NEPA8feA の自説は そうとう厳しくなってきているよ。
>>493 >いやそれに、溶かして三角縁神獣鏡になった可能性も大きい。
>大昔なら銅はそれ自体で非常に高価なもの。
この指摘は鋭い。
>>494 拘奴國が432年にも残っていたのであれば、
倭人伝の誤記が修正されただけとも考えられる。
497 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 10:15:58
銅鐸と鏡の成分比率を調べるとわかるかもね。
498 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/16(火) 10:27:24
>>494 相変わらず“頭痛え〜”な〜
後漢書の信頼性云々を語る前に、比べる書物が違うでしょうに!
魏志倭人伝は、魏時を中心に魏時をタイムリミットとした書物
後漢書は、後漢時中心に後漢時をタイムリミットとした書物。
時系列の違う書物を比較し、とやかく評論する可きものではない。
499 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/16(火) 11:02:49
>>496 >倭人伝の誤記が修正されただけとも考えられる。
後漢書は後漢の時代の事を、後漢が滅びて200年後に書き記したもの。
今の時代で言ったら、徳川時代のことを戦乱の直中をくぐった今の時代に
外国の噂話を書いただけのもので、1級資料自体がなくなってる。
あなた自身で江戸時代の外国の噂話を確かめれるかい?
それに比べ、魏志倭人伝は魏の国の機密資料を見れた陳寿が、40年くらい昔の
邪馬台国や狗奴国を書いたもの。
40年といえば2世代は変わってしまう。
誤記を修正する限度がそのくらいで、200年後なんて生の資料がなくなってるよ。
その200年の間に後漢→三国時代→晋→五胡一六国時代と戦乱をくぐってるからね。
日本はその点、本土が戦乱を受けたのは明治維新と米軍の空襲くらいのものだろう。
それなのに江戸時代の外国の噂話なんて、調べる方法さえ考えんとイカン。
500 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/16(火) 11:09:43
>>498 >時系列の違う書物を比較し、とやかく評論する可きものではない。
時系列が違っても「明らかに内容が違う」なら、書物の信頼性を見るべきでしょう。
戦乱の中で200年も経った昔のことを書いた書物と、ほとんど同時代で機密資料が
見れた人間の書物とは、内容の点で信頼性には、雲泥の差がある。
501 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 11:12:58
>>500 なんかあなたの史料信頼各付け論は恣意的で説得力がないな。
502 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 11:24:02
>>499 江戸時代の書物にペリーが南米から来たって書いてあるならば、
俺にも北米と修正するくらいの事はできるぞ。
503 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/16(火) 11:48:59
>>500 縦の時系列評価をしたならば次に横軸を検証し、尚且つ内容の吟味をし
始めて 信頼性云々を語る可きだろう。 後漢書に対する眉唾感覚を唱える書物の大部分は、固定観念先行の何処か間抜けな(片手落ち的)考察だ。
縦軸重視、横無視できな……。
504 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/16(火) 12:39:37
>>500 >戦乱の中で200年も経った昔のことを書いた書物と、ほとんど同時代で機密資料が見られた人間の書物とは内容の点で信頼性には雲泥の差がある。
概念ばかり語らず、具体的にどのくらい雲泥の差が生じるのかを、逃げずに示してくれ。
後漢書の何処がどお史実と掛け離れているのか?以前から要求しているが、一向に提示されず否定するのは何故か?
今日もまた逃げ回るのかい?
>>486 全くその通りで、アレは元々中村や田中といった一般名詞に過ぎない。
506 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/16(火) 13:48:57
>>504 >後漢書の何処がどお史実と掛け離れているのか?以前から要求しているが、一向に提示されず否定するのは何故か?
アンタ教えて「クレクレ病患者」のようだね。
何でアンタに教えてやる義理があるのか、一向に提示されないけど・・・
それとも教授料を払ってくれるのかい?
507 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/16(火) 14:01:14
>>501 >なんかあなたの史料信頼各付け論は恣意的で説得力がないな。
あなたの話の方が説得力がない。
史料の信頼性はあなた自身の、今までの経験から判断できるもの。
史料に簡単にダマクラかされたり、信じてしまう反省から「何を恣意的」というのかまで
判るようになるのだけどね。
南京大虐殺では、他人の日記の改竄までやって、本まで出すような猛者がいるんだぜ。
本人以外に見れない史料だと思い込むと、平気で改竄してしまう猛者。
もう少し世間の修行をやってから、他人に対する批判を書き込みなさい。
−−−−−(引用開始)−−−−−
松井岩根大将「陣中日記」改竄の怪
日中戦争研究の第一級資料の活字本は、かくも原
資料と異なっている――近現代史研究者への警告
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/3924/article/tanakam.html
508 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/16(火) 14:12:32
>>506 書かれているもに非信頼性を見出だす以上、その論説を提示し、その非信頼性を示すのが筋。
貴方の我が儘を押し通すだけのレスなら、議論とは無縁だろうから他の掲示板へ移動願えないか?
509 :
太国 :2007/01/16(火) 14:20:09
恵也はもともと恣意的ばっかり。不利な資料は時代が古いとか口先、噂 だとか現代の習慣を超えてるから信じないだとかで否定する。 否定の仕方が何か資料、根拠を持って来て反証するんでなく、上のようなやり方 での否定に終始する。もちろん(引用開始)の文は根拠からほど遠いものが ほとんどで、奴のは間違いなく破綻に至る、運転を外れた事故行き論。
510 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 14:27:07
511 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/16(火) 14:31:12
>>497 >銅鐸と鏡の成分比率を調べるとわかるかもね。
三角縁神獣鏡は、成分の鉛の放射線同位体分析結果から日本で作られた鏡だといわれてます。
畿内説の大先生:樋口隆康京都大学名誉教授はトンチンカンな分析をされて新聞発表されたが
この行為を見ると、京都大学というのは考古学では屑ばかりが教授になれる大学のようだ。
自分のケツも拭けない、バカタレばかりの畿内説論者。
間違いは誰にでもあるが、間違いを訂正しない品格でも大先生とはね!
−−−−−(引用開始)−−−−−
銀(Ag)と錫(Sn)の比率を縦軸に、アンチモン(Sb)と錫(Sn)の比率を横軸にとって描いたグラフ
をもとにして、「舶載鏡」と「製鏡」の間に、原料差があるとした推論方法自体が誤りである
という。
金属考古学的に見ると、アンチモン(Sb)/錫(Sn)の比率を用いることはまったく意味がない。
アンチモンは錫原料からではなく、銅原料からもたらされたというのが金属考古学では常識
であるという。
したがって、今回発表された分析結果は、三角縁神獣鏡の原料組成の差について何の情報も
もたらしておらず
http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2005_08_28.htm
512 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/16(火) 14:45:26
>>509 反論に困れば人格攻撃を交えたハグラカシ、自己中心的なレスの進行並びに詐欺師的なテクを用し、すり替えを行う。
と、言う事ですかな?
513 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/16(火) 14:52:07
>>502 >江戸時代の書物にペリーが南米から来たって書いてあるならば、
>俺にも北米と修正するくらいの事はできるぞ。
それはあなたが、学校教育で教えてもらったからだよ。
しかし修正するのなら、根拠になる文献を出し、その部分を抜書きして否定して修正すべき。
後漢書とやらは、その根拠を示してるのかい?
あなたみたいな単細胞が、誰かに教えてもらった通りに文献も確かめずに書いた雑文だろう。
なんといっても200年前のことを書いてるんだからね。
−−−−−(引用開始)−−−−−
『三國志』と同一の記事を記した場合でも、文章は読みやすくなっていますが、そこには
「范曄がこう解釈した」というフィルターが在ることを忘れてはいけません。
しかし三国・晉代には書けなかった記事(例:荀イクの死亡が、自殺ではなく憤死に近かった等)
も見られますので、一概に『三國志』のみを参考にする訳にもいきませんが、おおむね後漢末〜
三国に書けての記事は、『三國志』を参考にする方が良いでしょう。
http://www.shuiren.org/sangoku/gokanjo.htm
514 :
太国 :2007/01/16(火) 14:54:37
>>483 理由は過去スレの「2倍年暦の真実」「日本書紀紀年法が解明されました
part3以下」に書きこんでありますが、
簡単に気づくかなと思うことは、3代安寧の即位日が3日、4代懿徳の即位日
が4日と、この二代は代数と日が一致している。ところが次代の孝昭は
即位日が代数の5日とならず、開化の代数の9日になっている。このこと
から、この三天皇は他の理由を含めて同倍暦(この場合は2倍暦)思うように
なりました。そこで途中挟まれる「孝」の字のつく天皇は他の倍暦だなと思っ
て別暦法の3倍暦だろうと思考しました。
「孝」の字のつく天皇世が2倍暦だとすると、各四人の天皇はだいたい
30代半ばから40代半ばの年齢のときに皇太子が誕生となっており、生物学的
にはありうる年齢ですが、当時は10代での早婚のことを考えるとき、2倍暦
では子供の生まれる天皇の年齢が高すぎる嫌いがあり、3倍暦であろうと
結論したものです。
紀の仏伝前の記述を調べるに、なぜか5月、6月の記述が極度に少なく、
とりわけ5月は滅多にないほど少ないのです。かようなことと3倍暦の使用
にあっては空白月があって、今のアパートマンションに凶?の104号室の欠損
の多いこととの類似から、当時も縁起をかついで、空白の欠損月を設定して
いたと思いました。いろいろやり方を変えながら、当時1年を9ヶ月とかの
使用に限定したりして、おそらくはもう一月分欠損があるんではなかろうか?
との考えで調べてみるに、11月が3倍暦では不使用としていただろうと考え、
開化(2倍暦)の11月の有使用と「孝」の字の上部の『土』と『/』から、
『土』は十一(11)を示唆し、『/』は抹消の否定を示唆してるとの考察
から、孝昭、考安、孝靈、孝元は3倍暦の時代と認定しました。
515 :
太国 :2007/01/16(火) 15:02:50
>>514 続き
欠史八代間で、唯一5月の記述あるのは綏靖(崩御)で、不使用の月が使用
されていることから、この天皇世は等倍暦と認定しています。つまり
この天皇の時代は12ヶ月丸々使用していたということが分かりますから、
等倍暦だということとなります。
516 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/16(火) 15:07:13
>>508 >その論説を提示し、その非信頼性を示すのが筋。
それは反論をする、あなたが出すべき仕事。
大昔の事ではあなたの好みに合った資料なんて、空想の産物だろう。
戦乱の中では公文書も、あらゆる資料も、歴史の闇に飲まれてしまうという現実を忘れた空論。
第二次大戦が終わったときでさえ、日本の政府は資料の焼却処分に血道をあげてたんだぜ。
戦争が終われば、敗戦国の指導者は戦犯として処刑されてはたまらんからね。
戦火に見舞われたら、証拠隠滅するのは歴史的事実。
その点、あなたの話は他人に資料を要求するばかりで、話に全く具体性やイメージ力がない。
−−−−−(引用開始)−−−−−
玉音放送が敗戦を告げた同日午後には、「陸軍の機密文書と重要書類は、保持している
者が焼却せよ」と命令を追加。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/books24.htm
517 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/16(火) 15:20:29
>>514 >唯一5月の記述あるのは綏靖(崩御)で、不使用の月が使用
>されていることから、この天皇世は等倍暦と認定しています。
こんな程度のことで、認定するとは砂上の楼閣もいいところだ。
ダイタイ100年以上前の出来事を、口伝で残したとしても年月日が残るはずがない。
書いてあったとしたら、年月日のところは偽物だというくらい分からんのかね。
−−−−−(引用開始)−−−−−
日本で文字が使われるようになったのは聖徳太子の頃、おそらく西暦600年前後で
あるから、継体天皇即位の頃については文字としての記録はなく、口頭での言い伝
えとして大和朝廷周辺に記憶があったのみである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80
518 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/16(火) 15:25:37
>>516 >反論する貴方
おいおい。すり替えは止しなよ! 史料の非信頼性を唱えたのは“ア・ナ・タ”無理矢理説明を拒もうとする行為は見苦しいぞ。
それに、一般論など延々と垂れ流されても、何も見出だすことなどない事は、古代史の常。
必要なのは、一般論ではなく個々の細部検証だよ。
519 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/16(火) 16:13:36
>>518 >史料の非信頼性を唱えたのは“ア・ナ・タ”
俺はその理由を書いてるはずだが、アンタには文章の理解能力がないだけのことだろう。
アンタの理解能力のなさを、俺のせいにして貰ってもしかたないよ。
後漢書に信頼性がないからだよ。
書かれたのは、魏志倭人伝の方がはるかに早い。
書物は書かれた時期と、作者に注目しなくてはね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
魏志倭人伝::西暦280年〜290年
後漢書::::西暦432年
−−−−−(引用開始)−−−−−
『後漢書』の成立は既述の通り、432年と後漢滅亡から200年以上が経って
からのことであり、年代的には後のことを記述している『三国志』の方が
先に成立していた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%BC%A2%E6%9B%B8
520 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 16:40:40
>>517 ワカタケルの銘文はどう解釈すればよいですか?
521 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/16(火) 18:08:30
>>519 的外れな悠意一般論を述べ、人格攻撃する事が理由なら、学問板なんていらないよ!
>文章理解能力
ま、あんたほど我が儘な理解能力には敵わない事は確かかも
で、たどり着いた引用先がウィキペディアとはイヤハヤ………(時間の無駄か?)。
自分で思考すること、学習することを知らんのかね?
後漢書の非信頼性をとやかく言い、その理由を後漢書には一切触れずのすり替えさぎょう。揚句の果てにはサイトからの受け売り引用とは、『おそれ入谷の鬼子母神』だね ヤレヤレ ハァ〜っ
522 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/16(火) 18:17:33
>>519 時系列云々で信頼性ををとうなら、魏史・倭人伝は十二世紀の版本。
魏略との比較になると、若干の差で魏略に信頼性を置くことになるが いかが?
それに、後漢書と魏書を比較する矛盾をどおするのかね!対象時代が違うのだが?
悪いことは言わないから。暇潰しの遊び半分では無く、もちょっと勉強してから出直しなよ! 君にはマダマダ敷居が高い学問 だよ!
523 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/16(火) 18:21:57
>>519 他サイトからの引用に頼らなければレス出来ないほど幼い学問では無いんだ。
古代史は!
引用なんて必要ない。必要なのは君の頭の中で考えた合理的かつ建設的な意見なんだよ。
524 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/16(火) 18:29:33
>>519 何年も高い授業料払い学校出ているなら、それなりのレス入れなよ!
無駄銭になるよ……。
三国志では狗奴國は女王国の南にあると言う。 後漢書では東に海を渡ること千余里のところに狗奴國があるという。 ならば、女王国の南隣と遥か東の両方に当時<狗奴>と発音される国があったと解釈するのはどうだろうか。 いや、三国志で女王国より南の記述はあてにならんよって書いてあるんだけど。
526 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 19:06:02
恵也さんもプラムさんも落ち着いて。 罵りあうのはやめましょう。私らロムラーは「議論」を望んでいます。
527 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 19:24:45
マトメ 九州派の恵也さんとしては、所謂魏志倭人伝を唯一無二の聖典(論拠)にしてるから 後漢書他なんて信用ならない、って感じをチョロっと出したら、 原書原字原文無謬派のプラムさんが、バカモノ、大体魏志倭人伝の版本なんて後漢書成立から何年経ってると思ってるんだ と言って、九州派のプラムさん自身が景初「二」年を肯定する論拠や「壹」を肯定する論拠はすっ飛ばして恵也さんをやっつけちゃいました
528 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 19:31:37
一般論として言えば、いろんな書物に接することは、大切だろう。 中にはくだらない書物もあるだろうけどね。 でも読んでみないことには、中身の価値は判断できない。 恵也とプラムの論争、本人同士は真剣かもしれないが、 外野として読まされる方は、かなりシラケる。 三国志も後漢書も、ともにかけがえのない史料だと思うよ。記紀もね。 だから、プラムのここでの意見は、悪くはないんだが、 だったらプラムが別スレで、陳寿だけを読めばいい、みたいな 書き方をするのはどうかな。 ともかく恵也もプラムも、相手の人格攻撃は今後やめてくれ。 みんなが興味をもてる個々の問題を、これからやっていこうじゃないか。
529 :
太国 :2007/01/16(火) 19:47:12
>>489 世界で通用しないだと。なぜだ? た〜だ通用しないでは根拠がない。
お前はいつも資料、根拠を出さずに否定する。こちらには3倍暦の現物を
もってこいと言う。ふざけるなよ。
お前も通用しないと言う資料根拠を出しなよ。こちらだけ出せはないだろう。
現にマヤの1.4倍暦は今でもマヤの現地で使用されており、好事家はマヤ
のこの暦(ツォルキン暦)でカレンダーを作って使用してるやつは、世界に
かなりいる。これは倍暦を世界の一部で通用してることになり、これだけでも
お前の主張はデタラメなのである。
530 :
太国 :2007/01/16(火) 19:50:21
>>495 心配しなさんな。こやつの言うことは殆ど恣意的妄想のデタラメだ。
531 :
太国 :2007/01/16(火) 20:02:17
>>500 その信頼性とやらは、お前の恣意的な取捨選択で決めてるものであり、これでは
論が甚だしくデタラメの方向に進行するだけである。
噂をナメきっているが、噂にも真のあることは多々ある。こういう不利な資料を
好き勝手にお前は否定してるが、中には本物がある可能性は相当程度ある。
お前はもしや本当かも知れない?とかの疑念を少しも持たず、後戻りの
ブレーキペダルを踏まずにつっ走って行く古代史の運転方法だから、もう
破綻は当選確実であるぞ。
532 :
太国 :2007/01/16(火) 20:21:37
>>517 日本書紀をお前読んでないのか? 「一書に曰く・・・」の書き出しが
かなりの数存在し、口伝ではないのが分かる。これはちゃんと原書群があっ
たからであり、信用性は充分である。だいたいお前のほうのが根拠を
出さないので信用はまったくできない。
〜そして口伝ではないぞ記載されていたものだとこちらが言うと、今度は
書いてあっても年月日は出鱈目だとかではぐらかす。出鱈目ならその証拠
を現物で持って来い。お前の言い分がその要求だったろうが。www
佛伝以前は紀には5月の記載などほんの少しである。なのに綏世にこの
貴重な数字が書かれている。このことは重要である。数字が出鱈目ならば八代
1日〜14日内ばかりに他の全部の数字が落ち着くはずは、確率を考えても
起こりうることは滅多にない。現に天体ソフトも余の元年説を支持している。
お前の10年説では天体ソフトも口から飯を噴出すだろう。wwwww
533 :
太国 :2007/01/16(火) 20:44:32
>>512 プラムさん
まぁ自己中心もそうだが、事故忠臣だよ。w 倭人伝に忠臣なんですよ。ww
こやつは資料、根拠、証拠を殆ど出さないで否定する人間だから、全く
評価は0以下の黄泉の国まで落下ですよ。破綻は当人が気づいてないだけ。
彼の罹患してる津田病も末期らしく、救済の余地はまず、無いです。ww
534 :
一応九州王朝説 :2007/01/16(火) 21:31:43
>>489 恵也君に横レス頼んだ覚えはないがなw
君は、部分部分ははっとするひらめきがあるが、如何せん緻密な論証の積み上げが
ないから全体としては非常に浅はかに見えてしまう。人の意見に対してあまりに断
定的すぎて、とりつく島がない。知識をひけらかしているだけなのかなw
博学なんでかしこい子どもさんなんだが、もったいないね。
535 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/16(火) 21:36:20
>>533 太国さん
古代史って誰でも参加出来そうに見えるが、足を一歩踏み込むと
生半可では挫折必死の蟻地獄 ですね
536 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/16(火) 21:40:48
>>488 前は、拘古智卑狗は菊池彦だといっていた部類だよw
今でもその可能性が一番高いと思ってますが何か。
537 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 21:42:54
■中国の古代史書に記された三韓の正式国号(日本名)■ 馬韓→ 任那 弁韓→ 志羅紀 辰韓→ 志羅紀北部 ちなみに、3世紀の時代に百済は存在しない。 百済は4世紀(315年)に、ヤマト朝廷が帯方郡の漢人・倭人たちを支援して 日本領=任那の北部に建国した。
538 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/16(火) 21:53:22
恵也さんとプラムさんのやり取りはなんなのこれは。不毛とまでは言わないまでも。 どっちが信憑性が高いかなんて判るわけないでしょうに。 よっぽどタイムマシンにでも乗って両方の作者にでも会いに行くしかー。 結論の出ないいいあいはやめようね。
539 :
太国 :2007/01/16(火) 21:58:35
>>478 これは3倍暦に関してえらく参考になった。提出方有難う御座います。
>>535 そのとおりですね。百鬼横行です。恵也氏はもうデタラメ帝王・・・・・
だが稀に的を射た批評をやる。これのみはいい。
540 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/16(火) 22:18:08
>>538 >恵也さんとプラムさんのやり取りはなんなのこれは
新しいコミュニケーション。
541 :
太国 :2007/01/16(火) 22:18:22
>>519 お前は古いのほど信用ができないという主張じゃなかったか? 逆か?
紀の原書群は倭人伝以上に古いことが記述されてるから信じないんでは
なかったのかね? ならば720年と云ったって、原書群のほうは倭人伝より
もっと古い。古いだけなら、新しいようで紀のほうが古いものが詰まって
いるな。信頼性のないのは、中国後文献よりお前の頭だ。w
542 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/16(火) 22:22:04
>>538 >どっちが信憑性が高いかなんて判るわけないでしょうに。
よっぽどタイムマシンにでも乗って両方の作者にでも会いに行くしかー。
結論の出ないいいあいはやめようね。
自分でものすごく矛盾した発言してるの気が付かない?
543 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/16(火) 22:28:30
>>541 >信頼性のないのは、中国後文献よりお前の頭だ。w
『一本』それまで。 勝負アリ
544 :
太国 :2007/01/16(火) 22:32:52
不利なことに対して、やつは資料、根拠、証拠等を提出しないで、 噂さとか時間が古いとか現今の習慣の物差しで無いとかを言いまくって 信じないと、まぁこういう否定しかあいつはまず出来ない。 資料、根拠、証拠等の無しの一方的大声否定は津田病患者の得意技で、 犬の遠吠え、否々津田猫人の猫の遠吠えだな。www
545 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 22:51:39
「邪馬台国スレはなぜこうなった!?」 「坊やだからさ」
546 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 23:10:12
日本の皆さんは魏志倭人伝のみを詳しくみられる方がいるようですが、歴史とは 大河のようなものです。偉大な皇帝も、高名な軍師も、狡猾な奸雄も、傾国の美 女も、その流れの瞬間、瞬間を時の流れに自らを記そうとしましたが、長い時の 流れの中で後の世の人々からの評価に耐え忍ぶしかないのです。 君子は欲よりも徳に生きるべし。実より名を惜しむべし。それは後世の人々の目 がある事を考えて君子は生きねばならないよという帝王学です。 強者、勝者は都合の悪い真実や恥ずべき事実を歴史書物に残す事を嫌うでしょう。 三国志を書いた陳寿も、司馬懿の政敵であった曹真・曹爽親子の事績は、最小限 にし、魏志中に西荻伝がないのも西北方面担当であった曹真・曹爽親子の功績を 隠蔽している。
547 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 23:10:49
倭については以下の書に記録あります。 後漢書 25巻 東夷 倭 南朝宋王朝 ハンカ(398〜445)著 三国志 30巻 東夷 倭人 西晋王朝 陳寿(233〜297)著 晋書 97巻 東夷 倭人 唐王朝 房玄齢(578〜648)著 宋書 97巻 夷蛮 倭国 南朝梁王朝 沈約(441〜513)著 南斉書 58巻 東南夷 倭国 南朝梁王朝 薫子顕(487〜537)著 梁書 57巻 東夷 倭 唐王朝 ヨウ思廉(?〜637)著 南史 79巻 夷カイ下 倭国 唐王朝 李延寿(?)著 北史 94巻 四夷 倭国 唐王朝 李延寿(?著 隋書 81巻 東夷 倭国 唐王朝 魏徴(581〜643)著 旧唐書 199巻上 東夷 倭国・日本 五代晋王朝 劉ク(887〜946)著 新唐書 220巻 東夷 日本 宋王朝 宋祀(998〜1061)著 宋史 491巻 外国 日本国 元王朝 脱脱(1314〜1355)著 元史 208巻 外夷 日本国 明王朝 宋レン(1310〜1381)著 新元史 250巻 外国 日本 中華民国王朝 アショウユウ(1850〜1933)著 明史稿 196巻 外国三 日本 清王朝 王コウショ(1645〜1723)著 明史 322巻 外国 日本 清王朝 張廷玉(1672〜1755)著 清史稿 164巻 邦交六 日本 中華民国王朝 趙ジニ(1845〜1927)著 清史 159巻 邦交六 日本 中華民国王朝 張其キン(1900〜)著 残念ながら、倭・邪馬台国の末路については旧唐書と新唐書の比較をすれば中国では理解 できます。他の胡国等の表記と同じ。連綿と続く記録の大河の中で、表記が消え途切れる ことが最大の暗黙の表記。冊封が変わるとはそういう事なのです。
548 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/16(火) 23:26:54
>>547 単純に『倭や倭人』だけなら他に
(論衡)の
【周時天下太平 倭人來獻鬯草】(異虚篇第一八)
【成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯】(恢国篇第五八)
(山海経)の
【蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕】(山海經 第十二 海内北經)
などがありますよ
>>543 信頼性のない数字合わせの太国が一本取れるわけないだろ。
550 :
太国 :2007/01/16(火) 23:32:29
>>549 天文ソフトが余の倍暦での元年説を支持している。くやしいか?www
552 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/16(火) 23:36:58
いまTV でやってたけど、2ちゃんの利用者 一千万人だって。 そんなにいるのこれ。おったまげたー。
553 :
太国 :2007/01/16(火) 23:38:58
554 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/16(火) 23:41:06
スレの中にコマーシャルでも入れたら物凄い宣伝効果抜群なのにね。
555 :
347 :2007/01/17(水) 00:10:47
議論がこじれている様子で胸が痛む。元はといえば、俺がレスした
>>347 >景初の遣使(難升米ら)だが、おそらく景初3年(239)6月に九州から帯方郡へ渡り、
>帰ってくるのは翌正始元年(240)になってから。向こうで年を越したわけだ。
>何月に帰国したかは記載がないが、たぶん正始元年の春以降、暖かくなってからだろう。
に発端しているようだから。
プラムさんは
>>348 で、 また恵也さんは
>>395 、
>>402 、
>>407 でこれを否定したわけだが、
俺はなにも奇説珍説を披露した覚えはなく、「景初2年(238)は、3年(239)の誤り」、
とする通説にしたがったまでのこと。中学・高校でも、「フミく(239)ださいと卑弥呼言い」と
習ったし、今も大半の教科書や年表が239年説を採用していると聞く。
だから、議論をそこへ戻してもらえないか。「景初3年」説に賛成の人もいるんだろ?
556 :
大和 :2007/01/17(水) 00:23:07
>>473 >真土鋳型だと鋳造後グシャグシャにとり崩されてしまうから、残らない。
現在の鋳造技術に通じるわけですね、そのような高度な青銅加工技術のある銅
鐸工人が銅鐸と入れ替わりに銅鏡製作に携わればいいわけです。銅鐸と時期を
共有する弥生後期の高槻芥川遺跡で、内向花文鏡では舶載最古といわれる破鏡
が採取されている。安満宮山古墳で有名なこの地域では銅鐸本体や銅鐸鋳型が
出土、その気になれば弥生の後半には100%国産の列島製銅鏡を作り出すことが
可能な地域です。
ところが実際は、前漢の銘帯鏡や後漢の内向花文鏡、方格規矩鏡、楽浪製とい
われる画文帯神獣鏡や諸々の鏡型の流入をみてから、列島内でそれらの倣製鏡
や独自の三角縁神獣鏡の制作に踏み切るとする。それもよりによって流入渡来
系の人たちに銅鏡の制作を託すというもの。これは明らかに銅・鉛・錫という
原材料や、鏡の文様・銘文に起因する文意や見た目の判断が大きく影響してい
ると考えます。原材料は中華、神仙も中華、吉祥文も中華、弥生中期まで遡る
鏡もやはり中華。だから作り手である鏡工人も渡来系漢人にしてしまえ、とい
う乱暴な話でつじつまを合わせようとしているのではないでしょうか。
557 :
大和 :2007/01/17(水) 00:24:07
つづき 大量の銅鏡製作の為に銅鐸・銅剣・銅矛の鋳潰し論が根強い。当然である、銅 鐸だけで平成15年までに凡そ470個発見されている(資料提供不可)銅剣 ・銅矛も相当発見されていると思う。地中に眠っていたものだけで此れだけの 数です。これらがもし不法に隠匿されたものであれば、表に出た量は数倍、数 十倍のおびただしい数のものが鋳潰された勘定になろうかと思います。鏡作り の原材料としてこれほど恰好なものはないでしょう。 これら精錬のいらない、ほとんど銅のインゴットと変わらない銅鐸・銅矛の青 銅品と、それらを巧みに操る青銅工人。本来、銅鐸工人は銅鉱脈の見つけ方か ら採取・精錬・加工の一貫した技量を有した集団(村上恭通説)でしょうから 、そのお誂え向きの材料と職人がいるのになぜこの人たちを使わず、材料も職 人も半島経由で持ち込むのか不思議です。 他の鏡型は舶載なのに三角縁神獣鏡のみ国産とする。なぜ最初から他の鏡型も 含めて列島内で制作しなかったのでしょうか。
558 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/17(水) 00:25:52
>>555 そうそう。みんなで恵也さんを叩いてるような感があるが、
僕は一方的に恵也さんが間違っているとは思えない。
ウィキペディアが、どうのというのがあったが、
通説というのがあって、その時々に一番支持されている考えを引用しただけのような気がする。
あくまで少数意見は少数意見であり、通説は通説、として尊重されるべきである。
そのたてわけの上で、自分の意見として述べるべきではないか。
559 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/17(水) 00:34:03
>>558 なら
ウィキペディアの組合せだけで事足り、議論等は必要なしと言う事で一件落着だな!
560 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/17(水) 00:41:05
どおやら話が纏まったようなので この辺で解散しますか? お休み。
561 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 00:41:16
>他の鏡型は舶載なのに三角縁神獣鏡のみ国産とする。なぜ最初から他の鏡型も >含めて列島内で制作しなかったのでしょうか。 面白い着眼点ですね。 このスレで、最初に、銅鐸と三角縁神獣鏡との職人集団の存在を指摘したものですが、 他の鏡との関連については、十分な知識が用意されてなかったので、割愛しました。 画文帯神獣鏡などは、その発掘された分布状況を調査して、またこのスレが あれば、書き込みたいと思います。 もうすぐ、サラリーマンを卒業して、本格的にこの分野で余生を楽しみたいので、 このような着眼点は、楽しいです。 倍暦説は、安本説に変に対抗しているみたいで、すごく嫌というか、 勉強したくもないし、学問的価値もないような気がして、読むのも嫌ですが。 今、古事記を少しずつ、読破しております。
562 :
九州出身 :2007/01/17(水) 00:42:20
すごいね〜博士!w
563 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 00:53:05
>>443 数字合わせどころか、こじつけだなw
神武もイエスキリストになってしまうw
564 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 01:18:18
>>563 忌憚なく仮説を展開し、忌憚なくそれを検証する。
その地道な繰り返しが古代史の血肉となり成果となるのです。
それを、これからも重ねていこうではありませんか。
565 :
347 :2007/01/17(水) 01:19:42
卑弥呼の最初の遣使に関して通説は、倭人伝の記載「景初二年」の「二」を 「三」に改めるわけだが、おそらく理由は大きく次の3つ。 1 倭人伝は、その年12月に卑弥呼に対する詔が出され、また正始元年(240)の記事には、 詔の内容に合致する品々(鏡とか)が、郡太守弓遵を経て、倭へ贈られたことがうかがえる。 これは239〜240年の出来事と理解しないと、不自然な点が多くなってしまう。 2 日本書紀(神功皇后紀)の割注に、この出来事に関する魏書からの引用があり、そこでは 「景初三年」である。 3 三国志は公孫氏の事跡も記述するが、司馬氏によって公孫氏が滅ぼされるのは景初2年暮。 景初2年6月段階は、まだ公孫氏が帯方郡に居座って抗戦しており、政情すこぶる不安定。 とても魏が帯方郡に太守(劉夏)を設置し得ていたとは考えられない。
566 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 01:43:47
>>556-557 大和さんへ
>他の鏡型は舶載なのに三角縁神獣鏡のみ国産とする。
これは、すこし以前までの認識で、現在はずいぶん変わってきてますよ。
前原市の平原1号墓は、例の大型内行花文鏡だけでなく、方格規矩四神鏡の多くも
国産鏡ではないか、と言われてきていますし、津古生掛古墳(福岡県小郡市)の
方格規矩鳥文鏡も同様です。まだいろいろあります。
567 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/17(水) 01:49:24
>>556 >>557 趣旨が今ひとつ分からないのですが。
A説:いままで舶載鏡とされていたものにも多数の国産鏡が含まれる。
B説:三角縁もやはり大多数が舶載である。
私は、基本的にA説の方向性です。
平原の巨大内向花文鏡(国産)の技術があれば、方格規矩、画文帯なども舶載が1個あれば
複製が無限に作れる技術を持っていたという事実が存在します。
この観点からは、多数が日本で発見され、中国とは流通時期が異なる画文帯は大多数を
日本で製作したと考えた方がいいと思います。三角縁は全部日本製と考えています。
568 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 02:18:29
>>567 奴国さんへ
賛成です。
昨秋出たばかりの『東アジアの古代文化』129号(2006秋号、大和書房)に掲載の、
新井宏さんの論文、「鉛同位体比から見て三角縁神獣鏡は非魏鏡」を読むと、
従来「中国からの輸入品」とされていたさまざまな鏡についても、
その鉛同位体比(Pb208/Pb206が)の値から、国産(もしくは朝鮮半島製作)であった
ことがうかがえます。
新井さんは「三角縁神獣鏡は非魏鏡」に論点を絞っておられるので、
他の鏡式の銅鏡についてはほとんど言及されていないのですが、
添付の一覧表を眺めていると、「えッ! この鏡もそうなのか!」と
思うような事例が、いろいろ載ってますよ。 ぜひみなさん、ご一読を。
>>565 もう二つ。
4.魏志韓伝によれば楽浪・帯方の二郡を定めたときの帯方太守は劉夏ではなく劉キ。(キは日偏に斤)
この2郡への作戦は司馬宣王の襄平攻めと平行して行われたと考えられるため、
景初二年の太守はこの劉キのはずであり、卑弥呼遣使のときの太守が劉夏であることと矛盾する。
5.中華書局版北史の倭伝の含まれている列傳第八十二の校勘記では、諸本の校合の上、
『若倭使是淵破後始來,則三國志倭傳之「二年」當是「三年」之誤』と
魏志倭人伝の二年は三年の誤りであると結論づけている。
念のため全文。
[七九]魏景初三年公孫文懿誅後卑彌呼始遣使朝貢 百衲、北、汲、殿四本「三」作「五」,南本及梁書作「三」.
按三國志卷三0倭傳云:「景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡帶方郡,求詣天子朝獻.」
又據三國志卷三明帝紀,公孫淵被殺,在景初二年八月.若倭使是淵破後始來,則三國志倭傳之「二年」當是「三年」之誤.
今從南本及梁書.
ついでに訂正。
>3 三国志は公孫氏の事跡も記述するが、司馬氏によって公孫氏が滅ぼされるのは景初2年暮。
襄平が落ちるのは景初2年の八月。
570 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 02:40:38
>>514 >「孝」の字の上部の『土』と『/』から、
>『土』は十一(11)を示唆し、『/』は抹消の否定を示唆してるとの考察
>から、孝昭、考安、孝靈、孝元は3倍暦の時代と認定しました。
というか、上代の天皇に漢風諡号が奉られたのは奈良時代なんですけど?
奈良時代の人は3倍暦や2倍暦の事を知っていたのでしょうか?
あと飛鳥時代の第36代「孝徳天皇」も3倍暦の時代だったのでしょうか?
571 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 02:49:01
>>529 >現にマヤの1.4倍暦は今でもマヤの現地で使用されており
>これは倍暦を世界の一部で通用してることになり
だからと言って古代日本で3倍暦や2倍暦が使われていた証拠にはならないと思いますが…
そもそも常夏のマヤと違って日本には四季という天然のカレンダーがあるじゃないですか?
一年を3倍暦や2倍暦にすることにどんな意味があったんでしょうか?
私は古代日本で3倍暦や2倍暦が使われていたとは思ってないが、全否定も出来ないねぇ そもそも暦は農業に欠かせないもの そう考えると、耕地がやせるのを防ぐために2年や3年ローテーで連作防止の為とか 1年耕作して次の年は1年休ませるとか・・・・そういうのに合わせた暦を作ってたなどと理由付けは出来る まぁ論点からズレた無理矢理論なんでスルーでよろしくww
573 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 03:17:13
>>568 それ読みました。
新井の論文はたいてい無視されている感じがするけど、これはどうなるのだろう。
学会では、平原は柳田、纏向は石野、鉄は村上というような感じで他の人の専門を尊重する
風潮のなかで、自説に都合のいい引用と、不利な主張への無視が多すぎる。
「同一鏡種であっても、庄内期・布留期の遺跡から出土した場合と古墳から出土した場合で、
その鉛同位体比に大差があることを見出した。」の部分は石野、白石、寺沢、岡村とかには、
かなり不利だが、やはり今までみたく無視するのだろうか?
ただ、布留の時期が想像以上に長くなりそうな結果は少し意外だった。
この結果だと、箸墓が350年以降でも問題ないと考えています。
574 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/17(水) 05:48:00
>>559 という訳では無いですが、邪馬台国ドンと来い、を読んでる多くのファンが居る事をお忘れなく。
一つの説に対し、さらにそれを覆す論を展開していくところに、邪馬台国スレの醍醐味はあるんですから、
相手を罵倒するだけなら、他人攻撃スレと同じになってしまうんじゃないでしょうか、という事を申し上げてるわけですが。
実際に
>>561 以下の書き込みも反対意見のようなものが多い。
それに丁寧に答えていくのがプラムさんの役目だと思います。それが出来る人なんだからプラムさんは。
ファンはみんなそれを待っています。感情的になるなど、らしくないですよ。
>>573 >ただ、布留の時期が想像以上に長くなりそうな結果は少し意外だった。
>この結果だと、箸墓が350年以降でも問題ないと考えています。
新井の新論文での「布留」は、「ほぼ布留0」の意。 本人がそう断っている。
ただ、「布留0」「布留1」を合わせ、「古墳時代前期前葉」が、案外長そうだ、
ということならその通りで、誰だったか、俺もそんな意見を読んだ覚えあり。
しかし古墳時代中期〜後期は、精緻な須恵器編年がデンとして控えている。
6世紀以降は、実年代さえ、要所要所で押さえている。
もしそちらへ布留期を押し下げるとなると、須恵器研究者は絶対「ノー」と言う筈。
だから布留0〜1は、(従来の)弥生に向かって押し上げてやるしかない。
「この結果だと、箸墓が350年以降でも問題ない」は、キミの大失考。
576 :
太国 :2007/01/17(水) 06:10:13
>>563 天体はコジツケで回っているんじゃないの。余がわざわざ天体ソフトに無理に
合わせたわけではない。コジツケの糊塗はあんたよ。
ソフトが信じられないなら、それはあんたの勝手。別にイエスに区付けてる訳
でもない。神武がイエスになる訳でもない。同一年でも誕生日が違うだろうが。
577 :
太国 :2007/01/17(水) 06:23:58
>>570 それはたびたび云ってきたが、貴殿は初聞だからもう一度云うが、佛伝以前の
天皇のことだよ、でないと孝明も入れねばならないしね。
その「孝」の字の天皇は[4つ連なっている]が孝徳は遠く外れているし、佛伝
以後は通常暦だから関係が薄い天皇だと観ている。
三船さんだっけ、名付け親は? まだ倍暦の秘密とかを知っていた者がいたの
かも知れないね。それとも当時名付たい理由の別の古文献に書いてあったか?
そこのところは何ともだ。
578 :
太国 :2007/01/17(水) 06:46:18
>>571 コヨミは「古黄泉]と読めて、記紀のイザナギイザナミの黄泉国ので千五百の
産室と千人絞殺の宣言からの数字の比率 1500:1000=3:2 に因む。
記紀の神代以前はよく8神づつの記載が多いが、この宣言以後、イザナギは
筑紫の日向において禊祓いをやるが、このときのみは12神(12月分の示唆か)
になっており、先頭の突立船戸神は「月経つ船戸神」の意味の神名か、これと
半年毎の6月末の大祓いが、半年を当時の1年と数える2倍暦の根拠になって
おり、さらに 12神:8神=3:2 で3倍2倍の結果が出る。
「船戸」はフナ戸で2・7戸を意味し、2×7=14 の、1ヶ月が2週間の
2倍暦を黙示する神名である。
恵也が5月をなめていたが、これは朝廷が高天原暗黒の様相となる「五月蝿」
を嫌うために、その戦慄から倍暦使用にあっては特別の状況以外空白月とし、
避けていた。だから佛伝以前の紀の記述には5月の記載は猫の額の如くである。
579 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 07:21:25
↑読んでて、気恥ずかしさに、こちらが赤面してしまう。 こんなコジツケを学問板に書いて、恥ずかしくないのだろうか。 自分の子どもやそのお友人達に、 「これが本当の日本史だよ、学校で習う古代史は間違いだよ」 と、胸を張って教えられるのだろうか。
580 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/17(水) 07:23:49
>>553 >お前
>>443 を見てみろ。天文は誤魔化しは効かず。
天文に誤魔化しがないなんて、初めて聞いたけど・・・
たしか卑弥呼の時代の2回の皆既日食でさえ、計算間違いじゃないかとか
いってる御仁が居られたけど、2000年も前の話になったら天文の誤差も
拡大されるのは当たり前。
ダイタイ俺は日本書紀の干支は、書かれた西暦720年から200年前の520年
くらいまでしか信用してない。
信用のない干支をイジリ回しても屁みたいなもの。
581 :
太国 :2007/01/17(水) 07:44:10
>>579 ならば竹内宿禰の超長寿をどのように説明するんだい?
恵也のように記紀は出鱈目か? 舎人も超長寿をコジツケたのかいな?
紀年研究家はみんな苦労してるんだぜ。そこは余も絶対正だとは告げていない。
こうだと説明がなかなかスムーズに行くから言ってるんだよ。
お前の言い分では否定の資料、根拠等が書かれてないぞ。
余は恵也のようなそれらを出さずに主張してるのではなく、ちゃんと記紀等
から説明をしてるんだよ。なにもムリにコジツケなんかやってはいない。
現段階ではこうではないかと書きこんでるわけ。お前も否定の一言だけで
ほかに否定の核心が何も書いてない。
>>580 お前が噂だ現代の習慣からありえないって言ったって、天体は物理法則に
よって恣意的でなしに動いていくから、お前の恣意的大言動より確実に絶対的
で正確である。
>>443 から考えるに紀の記述はどうやら、正確だな。
お前は津田病人で、天文計算も否定するジャングルの蛮族と同類項の頭。www
>>443 は動かぬ証拠だな。ww 八代間の紀の記述もすべて1日〜14日だし、
やはり倍暦が正解は濃厚だ。つまりお前の論は大々・・・デタラメ。
582 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/17(水) 07:53:06
>>520 >ワカタケルの銘文はどう解釈すればよいですか?
俺が出したHPの
>>517 での文字には、俺は省略した文章があるとして理解してる。
日本で(大和朝廷の歴史を書いた)文字が使われるようになったのは聖徳太子の頃、
という意味で、文字自体は卑弥呼の時代から、中国語が日本の権力者間の手紙には
使われていたと見てる。
邪馬台国と狗奴国の争いに、魏が調停に入ったと回状を諸国間に廻したという記述がある。
これは中国文で書かれていたはずだ。
だから文字自体が存続していたのは確実。
583 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/17(水) 08:01:56
>>574 後漢書の信憑性云々が語られているようだが、後世誰も註訳すら入れず放置されたものを、今更信憑性云々もないだろう。
敢えて非信憑性を提示するなら、約1500年ぶりの訂正となるのだから、具体的に不具合箇所を提示し一つ一つ検証のまな板に乗せ、吟味するのが筋というものだろうし、
それもせずいきなり『通説』もないものだ!
584 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 08:05:52
>>582 文章として有名なところでは、倭王・武が宋の皇帝に上表文を送っている。
これは西暦478年。
585 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 08:22:40
詭弁リストの4番め。 主観で決め付ける。 黄泉が暦はいいんだがな。
586 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 08:25:39
>>584 上表文と書いて、ふと思ったのだが、上表文には「西は衆夷を服すること六十六国」と
ある。つまり、西暦478年当時で、中国・四国・九州は六十六カ国。
倭人伝の29カ国が全て九州と言うのが妥当かもしれない。
さらに、邪馬台国の大きさもわかるというもの。七万戸はありえないな。
587 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 10:22:43
589 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/17(水) 12:59:13
>>586 >倭人伝の29カ国が全て九州と言うのが妥当かもしれない。
卑弥呼の時代から宋の時代だと200年くらいの差がある。
弱肉強食で29カ国からもっと少なくなってるよ。
九州地方、四国地方や中国地方を征伐して、武の国家は66カ国を領土としたんだろう。
朝鮮まで手を伸ばしてたのだから、高句麗と紛争になったもの。
しかし、邪馬台国本国が7万戸42万人というのはありうる話。
宮崎県から大分県まで広大な領土を有していたとすればいいのだからね。
領土の大きさも出さないで、有り得んなんて子供の理論!
−−−−−(引用開始)−−−−−
東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のかた海を渡って、
平らげること九十五国に及び、強大な一国家を作りあげました。
http://www2.ocn.ne.jp/~syouji/kodaisi_5.htm
590 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 13:12:12
>>575 須恵器が380〜390頃から始まったことは否定しないよ。
ただ、須恵器は当初は任那地域からの渡来人が主として使っていたと考えている。
それが徐々に広がる間は、依然として布留が使われていたはずで、かなりの重複が考えられる。
土器が全国で同時期に一律に変化するわけではなく、古墳前後で同じ庄内、布留を用いていても、
その時期が全く異なるという新井の結果を布留・須恵器でも応用できるのでは?
591 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 13:29:19
魏志に出てくる倭国大乱って 孝霊天皇の吉備遠征(古事記による)の頃でしょう? その後ぐらいに、彼の皇女のモモソ姫が巫女として 政治をするようになった。
592 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 13:32:00
>>586 倭王武の発言は、卑弥呼よりも前の時代の話かもしれんぞ。
その時代の話かもしれん。
卑弥呼よりも前は百余国。
593 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 13:35:02
>>591 孝霊天皇なんていう天皇は存在が否定されており、その皇女なんてのも
実在しない。
皇国史観から、脱却してくれ
594 :
太国 :2007/01/17(水) 14:24:53
>>593 実在しない論拠を出されたい。無いんじゃ一蹴。肯定もされている。
津田病が始まったときはそれで通ったが、いまは恵也はどうだか知らんが、
信じるやつはトンデモの時代だよ。w
595 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 14:26:36
日本書紀の疑問 干支が記述されてますが、日本に干支が伝えられたのはいつ頃でしょうか? 伝来後に逆算したのでしょうか?そうなると 算術の伝来とも関係してきますよね。 あと、「○○天皇」という諡号の記述がありますが、 諡号じたいは成立当時はまだ確定してないですよね? ならば、現存する日本書紀は改訂が加えられてると考えられます。 その時に恣意的に修正がなされた可能性もありますね。
596 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 15:13:21
>信じるやつはトンデモの時代だよ。w そっくりその言葉をお返しします。 信じるほうがどうかしている。
597 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/17(水) 15:13:30
>>595 干支の起源は定かではないが、胤の時代には既に何らかの用途に使用されていた。
よって列島でも、大陸からの渡航者よりその情報がかなり古い時代から伝わり、農耕に摘要されたことが考察対象となりうるだろうし、決して否定材料にはならない。
598 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/17(水) 15:14:35
>>555 >今も大半の教科書や年表が239年説を採用していると聞く。
俺はそこまで知らなかったけど、調べた上で答えておくと魏志倭人伝の記述:景初2年
(西暦248年)を書き間違いだとして、後世のあなたが書き換えるのには反対したい。
あなたが書き間違いだと思うのなら( )をしてあなたの考えを書いておくべき。
239年の方が、日本では大勢だからと勝手に書き直すのは著者に対する冒涜と思う。
魏と公孫氏との抗争で、西暦248年は激動の時代ではあるけど、だからといって書き直し
する事には賛成派できん。
−−−−−(引用開始)−−−−−
景初2年8月に公孫淵が誅殺されるまで、倭国は魏に使者が派遣できなかった。
したがって、景初2年6月に倭国の使者が帯方郡に朝見を申し出ることはない。
景初2年6月は、景初3年6月の誤りであろう。
http://www.geocities.jp/yasuko8787/1-1-2.htm
599 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 15:25:08
>>591 面白いと思う。最近話題の6代目孝安の帥升オシヒトと、
7代目孝霊の吉備遠征で、国譲りも見えてくるのか。
600 :
太国 :2007/01/17(水) 15:30:55
>>596 資料、根拠等の出さないんじゃお前の一過言。
このスレに来ないでいい。
601 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/17(水) 17:09:30
>>555 >議論をそこへ戻してもらえないか。「景初3年」説に賛成の人もいるんだろ?
景初2年(西暦238年)でも話は通じる。
卑弥呼の使者が6月に帯方郡に着き、洛陽の魏の皇帝の返事は半年後の12月だ。
魏と公孫氏の戦乱に巻き込まれて、帯方郡→洛陽に半年かかったと思えば納得がいく。
しかも魏の皇帝としては、頭の上のタンコブの公孫氏を滅ぼせた直後で気前もいい。
たった10人の留学生と斑文様の布二匹二丈に対して、無茶苦茶に土産を持たせて親魏倭王
を与える約束まで卑弥呼にしてる。
しかし、皇帝は翌年(西暦239年)の1月に死亡だ。
親魏倭王の金印が西暦240年と遅れてしまった理由も、皇帝の死亡じゃ当然の話だろう。
よって景初2年をあなたが書き変えるのは、越権行為もいいところだ。
−−−−−(引用開始)−−−−−
魏の景初二年(二三八年)六月、帯方郡の帯方(北朝鮮・シャリウォンの南)を訪れた
東夷の使節がいた。
倭の女王卑弥呼の大夫難升米であった。彼は帯方郡太守の劉夏に会うと次のようにいった。
「臣は女王の使者です。どうか魏都までご案内下さい。天子に慎しんで女王の献上品を
捧げたいと思います」
http://bunko.shueisha.co.jp/yomi/0312_8.html
602 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/17(水) 17:21:13
>>593 >孝霊天皇なんていう天皇は存在が否定されており、その皇女なんてのも実在しない。
間違い!
孝霊天皇の存在を、あなたが客観的に納得してないだけの話。
大昔の人間の存在を「否定する」なんてことは現在の人間にはできる事ではない。
それともあなたは、悪魔か神様並みの超能力でも持ってて分かるとでもいうのだろうか?
言葉は正確に使いなさい!
603 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/17(水) 17:29:43
604 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 17:51:23
>>603 すると、神武即位の干支などは6世紀以降の創作と考えられますね。
神武天皇が実在したかはともかく、
日本書紀などの記述には多分に恣意的なものがあってしかるべきです。
神武即位は辛酉との事ですが、これにも作為がありそうですね。
酉はヤタガラスにちなんだとして、辛…かのと…火の弟…火の巫女の弟?
605 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 17:54:20
>>604 です
失礼しました。辛は金の弟でしたね
ちょいボケてました。
606 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/17(水) 18:03:53
>>604 >すると、神武即位の干支などは6世紀以降の創作と考えられますね。
どうして?
国内において干支の使用開始時期の確定もないのに?
銅鐸銅鏡の時代に、干支は刻されていたのでしょうか・・・?
608 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 18:15:39
恵也 ◆o4NEPA8feAは無視の方向で... 干支は、大分前から使われているでしょう。 たぶん、紀元元年前後くらいには使われていたはず。
609 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 18:21:03
干支の起源は中国、殷(いん)の時代。 人々は木星を尊い星とし、その動きを詳しく観察しました。 その結果、木星は空をほぼ12年で一周することがわかり、その位置を示すため空を12に分割しました。 それぞれに名前をつけた のが十二支(じゅうにし)の始まりと言われています。そして、この12の部分は、 1年の月を表すことにも用いられるようになりました。十二支(じゅうにし)に動物の名前をつけたのは、 中国周辺の未開の民族に1年の月数を教えるときに、わかりやすいようにしたためだそうです。
610 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 18:21:38
日本書紀の神武即位年は 干支の区切りの良い時期を選んだんでしょう? でも、神武がいたのは、ほぼ確実。 物部氏らの伝承では、神武の先祖と物部氏の先祖は繋がっていて 物部氏のほうが畿内にいて、神武のほうが九州にいたんでしょう?
611 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 18:24:46
孝霊45年、71年に 吉備平定にむけて戦闘が始まったという伝承が残っているのだが その先代の孝安80年にも、戦闘があったという伝承があるんだよね。
612 :
347 :2007/01/17(水) 18:32:36
>>598 、
>>601 『日本書紀』巻9、神功皇后39年の条の割注を、国史大系本(吉川弘文館 1979)から引用しておく。
魏志云。明帝景初三年六月。倭女王遣大夫難斗米等。
詣郡求詣天子朝献。太守ケ夏遣使将送詣京都也。
国史大系本が底本としたのは江戸時代寛文9年刊の板本であるが、
現存する多くの古写本等を校合し、高水準のテキストとなっている。
なお引用部分の校異も、国史大系本の頭注から引いておく。
◆三、魏志は二に作る。 ◆斗、魏志は升に作る。 ◆ケ、熱田神宮所蔵本・国立博物館所蔵玉屋本・内閣文庫所蔵伊勢本は劉に作る。魏志は[登編リットウ(リ刀)]に作る。 ◆也、魏志には無し。
613 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/01/17(水) 19:01:02
私も孝霊伝承周辺と倭国大乱の関係のリンクを考えて居ます 年代的にも同期しますから
614 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/17(水) 20:39:02
>>613 >私も孝霊伝承周辺と倭国大乱の関係リンクを考えて居ます。
年代的にも同期しますから
これって単なる偶然?
【孝靈皇帝諱宏……】
(新校本後漢書/本紀/巻八 孝靈帝紀第八)
615 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/17(水) 20:40:51
>>588 魏略曰:其俗不知正?四節,但計春耕秋收為年紀。 この記述は2倍暦を覗わせると思うな。
僕はそうは思わないんですよ。この文はコンマの左右で対比させている。
つまり、「四季を知らない」と、「ただ、春に耕し、秋に収穫 ばかり」と。
「倭人は四季を知らない」、だから、「春に耕し、秋に収穫 するを以って、それに代えている」
わけです。「四季」が一年で、「春に耕し秋に収穫 」が一年、の対比なのです。
自国{魏}と倭の比較です。
616 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/01/17(水) 20:43:44
以前に太国さんが言ってた孝安元年の日付け件に付いてのフォロー 現在の主な刊行本で三つ調べましたが当該箇所は ■国史大系(底本/寛文九年刊本) >元年春正月乙酉朔辛卯 ■古典文学大系(底本/卜部兼方筆本神代紀二巻、卜部兼右筆本神代紀以下二十八巻) >元年春正月乙酉朔辛亥 ■新編古典文学全集(底本/寛文九年版本) >元年春正月乙酉朔辛亥 甲子を1とすると、乙酉は22、辛卯は28、辛亥は48ですから 国史大系の乙酉朔辛卯は1月7日、旧大系と新全集の乙酉朔辛亥は1月27日になります しかしです、旧大系と新全集の校訂表を見ると、両書とも北野本(卜部本系)等を根拠に校訂してあるんですね 旧大系と新全集は両方とも校訂前の底本は「卯」だった事を書いています (国史大系と新全集の底本は同じと云う事で良いのかな) 北野本は全30巻の揃いの内に筆写された時期によって第一類から第五類まで分類されるようで 欠史八代の孝安はで書紀の第四巻ですから、第四巻の校訂に使った北野本は、 南北朝時代に写された北野本第三類と分類されるモノのようです。(第一類のみ古本系)
617 :
大和 :2007/01/17(水) 20:45:04
>>561 さん。では同志ですね、以後宜しくです。
>面白い着眼点ですね。
素直に謝辞。
618 :
大和 :2007/01/17(水) 20:49:54
>>566 の340さん。
>すこし以前までの認識で、現在はずいぶん変わってきてますよ。
>方格規矩四神鏡の多くも国産鏡ではないか、と言われてきていますし、
訂正があります。
大和Res
>>556 の『弥生後期の高槻芥川遺跡で、内向花文鏡では舶載最古』の
「内向花文鏡」を、「方格規矩鏡」に修正させてください。うろ覚えで書いて
しまいました、お詫びし訂正いたします。
本論に戻りまして、「三角縁神獣鏡のみ国産(大和論)」は他国に見れず、列
島のみに採取されているということなのでそのように称しました。「平原王墓
の方格規矩鏡はすべて国産」は賛否両論あろうかと思いますが、柳田康夫氏の
説として存じ上げております。
半島・平城出土方格規矩鏡(朝鮮古文化綜監)の銘帯に、紀元すぐの王莽の時
代の「新」が書かれており、新の尚方作とする(大庭脩氏論)。同じような特
徴を持つ、紫金山出土の方格規矩鏡は国産と云われる。舶載と倣製の分かれ目
はどういうところにあるのか。
少なくとも列島外出土鏡のある内向花文鏡・方格規矩鏡・画文帯神獣鏡・斜辺
縁神獣鏡の舶載鏡・倣製鏡・純粋国産鏡とはいかようなものであろうかと。
>津古生掛古墳(福岡県小郡市)の方格規矩鳥文鏡も同様です。
これなども、玄武・朱雀・青龍・白虎を配して銘帯もあり、平縁の文様といい
安満宮山の青龍三年鏡と殆ど同じではないですか。玄武にからまる神蛇の尻尾
の位置とか、内区の干支の「己」の文字も同じ。まあ、若干画面が退化してい
るきらいはあるが、舶載の許容範囲ではないのですか(怒られるかな)。
[ふたかみ邪馬台国シンポジュウム5・資料集P66白黒縮小コピー。但し、宮田1988]
>>615 >>588 で抜き出した前半部分(1行目)で、中華と倭人とでは暦の概念が違うと前置きした上で、
後半部分(2行目後半)で寿命が100歳とも80−90歳とも書いてある事から推察するに、
当時の(成人)平均寿命は50歳弱で2倍暦なら丁度いい具合の年齢になると考えたわけなんですよ。
620 :
大和 :2007/01/17(水) 21:00:54
>>567 奴国さん。
>>367 の10箇条みてまいりました。大和と
>>340 さんのRes交換
の中での横Resごもっともです。以後宜しくです。
>>567 >趣旨が今ひとつ分からないのですが。
すみません。そもそもプラム氏記事と勘違いが源で、突発にて争点定まらずで
す。でもこの機会に鏡種の個々の制作地論より先に、倭地即ち列島で鏡製作が
可能なのかどうか。可能なのになぜ作り得なかったのか。作り得ていたとして
、二世紀段階で秀逸の大型鏡や方格規矩鏡を保有し、配布もしくは技術移転し
ているのに、どうして明帝は100枚もの銅鏡を下賜し、国中のひとに見せび
らかせと云うのか。をまずは知りたいな〜と。その後、この明帝が下されし鏡
はどのようなものであったのか等々を論じ得ればと。ご教示宜しくです。
ところで、奴国さんは平原王墓主体墓の築造年代を2世紀末とされておられま
すが、やはりガラス製勾玉が決めてですか。この付近、倭奴国当時から銅剣・
銅矛文化圏で石製鋳型が主流(?)ではなかったのですか。銅矛も真土で作ら
れていたのですか。
621 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 21:01:17
欠史8代の天皇について、そもそも天皇という呼称はいつ頃からか 神武以下、すいぜい、あんねい、いとく、孝昭、孝安、孝霊、孝元、 と皇統は続いているが、いずれも事蹟はなきに等しい。 ほとんどの天皇は姫を娶って、誰が生まれたのといった記述で終わっている。 さらに、不審な点は、相続の方法にもあり、必ず天皇の子が嫡男として位を 継ぐという、不自然さがある。 天皇系図を見ると、傍系相続といって、父から子でなく兄弟が次の天皇になって ているのが多い。 これは、昔から指摘されていることであり、この点を無視して倍暦に夢中になったり、 言葉は正確に使えと剥きになるのは、おかしい。 記紀の記述が絶対ではない。
622 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 21:05:25
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。三つの足の部分は空洞に
なっており,その部分に水をため,足の上にのせた簀のこ(すのこ)の上に米を
置く。足の間の火で炊く(というより蒸す)と,上にのせた蓋(ふた)の間から,
湯気が立つ。この様子がそのまま漢字になりました。つまり「氣」です(後漢の
『設問解字』による)。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
623 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 21:06:07
そうだね、偉そうに講釈を垂れ流しているけど、自分の考えを 否定されたら、感情的に敵意むき出しが、2名ほど常駐してるね。 このスレは。
624 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/17(水) 21:06:45
>>615 >「倭人は四季を知らない」、だから、「春に耕し、秋に収穫 するを以って、それに代えている」
わけです。「四季」が一年で、「春に耕し秋に収穫 」が一年、の対比なのです。
自国{魏}と倭の比較です。
それは
但計春耕秋收為(年紀) ではなく
625 :
太国 :2007/01/17(水) 21:12:23
>>621 兄弟継承は履中からで、それ以前は絶対ありません。
これは古神道の最高機密でして、理由は出せませんがこれは厳格です。
それを知ってますから倍暦に夢中になれます。
現代も厳格でして新宮さまが前年ご誕生になられましたが、皇位は行きません。
今後当分の間、この厳格性が続きます。
626 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/17(水) 21:14:05
>>615 カキコ途中でクリックしてしまった スマソ
続き
それは
但計春耕秋收為(年紀) ではなく 但計春耕秋收為(紀年)ですよ
ここは(年紀)だから
帝国のように一年を四季で区別するのではなく、春耕秋收という植生にて区別している
ということです。
この場合、春耕が正月か、秋収が正月かは判断できませんが
627 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/01/17(水) 21:15:48
つづき 旧大系では校訂表で三書までしか使用書を挙げないようなので解り難く 新全集では校訂に使った全書を列挙するようなので取り敢えず新全集に注目しますと どうやら新全集の校訂の傾向を見ていきますと、この編集者達は北野本の価値を高く認めて、 底本と異なる時は北野本を優先させているような感じがありますね 北野本が他の写本と整合性が高く、他の写本との一致性が高いので 校訂表では北野本の記述が頻出しますが 北野本の他は、少数の本でしか、確認できない箇所も北野本を根拠に 底本を改めているようです しかし、月の前半のみに日付が集中すると云う太国説を考慮すれば 底本通りに孝安元年は春正月乙酉朔辛卯(1/7)が有力ではないでしょうか? 新全集ではこの箇所の校訂に使ったのは、北野本の他は三手文庫本だけです。 他の写本が全部間違っていて、北野本(第三類)他少数のみが正しいのでしょうか? 旧大系と新全集が根拠を明確にしない限り、北野本(第三類)による1/27説は 留保されるべきではないでしょうか? 太国説で北野本(第三類)の信頼性は揺らぎ、太国説の信頼性は高まった感じです 太国さんが月前半の偏りとの絡みで孝安元年の1月7日であるべき事を指摘した事は画期的な事になる可能性がありますよね
628 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 21:24:00
>>618 大和さんへ
>舶載と倣製の分かれ目はどういうところにあるのか
>舶載の許容範囲ではないのですか(怒られるかな)
怒りはしませんが、大和さんのお考えには、用語の意味を曖昧に
されている印象を持ちますゆえ、いささか危惧いたします。
すでに弥生後期以降、倭では粘土鋳型を使用していた点は、お認めですね。
だったら、いくらでもコピー鏡が鋳造できるわけですよ。
文様がいかに漢式(中国風)であっても、日本での鋳造鏡の可能性があります。
ですから大和さんは、出土鏡自身を「舶載」と考えるのか、
それとも、出土鏡の手本になったかもしれない初鋳鏡を想定してそれを
「舶載」と考えるのか、この点を、まず区別していただきたいと思います。
629 :
太国 :2007/01/17(水) 21:27:50
>>627 さすが貴殿は研究の猛者ですなぁ。感心しました。
あのぅ、
>>616 はノートをとらせてもらいました。参考になります。
その全部八代間が月前半に日が1/27以外寄っているわけですが、それがしは
綏世は等倍と観てますから、ここの時代は月後半の記載が抜けていても
欠史のための記事不足のためで、綏は1ヶ月が後半までの28日まであっ
たはずだと観ております。
630 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/17(水) 21:28:18
>>610 >日本書紀の神武即位年は 干支の区切りの良い時期を選んだんでしょう?
神武天皇の即位年は、ずいぶんいい加減な方法で西暦に直してるぜ。
こんな雑な取り扱いされては、神武天皇もあの世で腹立ててるのじゃないかね?
−−−−−(引用開始)−−−−−
『日本書紀 』は年月日は全て干支 で記しており即位年月日は「辛酉 年春正月庚辰朔 」とある。
明治維新 で暦としてグレゴリオ暦 を明治6年(1873年)1月1日 から採用決定した明治 5年
(1872年)11月15日に、紀元節 始めるにあたって旧暦 である天保暦 の正月(旧正月 )とは
ならないようにするため、神武天皇即位の日をユリウス暦 ではなく、グレゴリオ暦の遡り暦に
換算して、紀元節を特定の日付に固定するため、文部省 天文局が算出し、暦学者の塚本明毅
が審査して2月11日 という日付を決定した。
http://epedia.blog360.jp/%BF%C0%C9%F0%C5%B7%B9%C4
631 :
太国 :2007/01/17(水) 21:35:49
>>630 お前さんよ、以後はこういうふうに根拠を出して抗弁してくれよ。
内容は後で読んでやろう。どうせお前の否定からだから、その引用が真か
どうか疑問だが、逆にいままでのお前だったら『信用できない』で終始
し、一発で毀棄するんだろうが? 余もその手を使うか?ww
632 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/01/17(水) 21:38:23
それからもう一つ、ネット上で公開している国史大系を底本にして 電子テキストが幾つかありますが、国史大系に従って >元年春正月乙酉朔辛卯 としながら、( )内に1月7日でなく、1月27日としているモノ等が幾つか在ります。 これは国史大系自体にはそう云う日付換算の箇所はありませんでしたので >元年春正月乙酉朔辛亥 となってる旧大系なんかに書いている日付だけをそのまま挿入したんだろうと思います。 と云う事は、国史大系を底本にしている電子テキストで、 孝安元年の乙酉朔辛卯に(1月27日)と注記を入れているようなテキストは、 国史大系の本文に対して、当該箇所の旧大系か新全集なんかの日付けを入れているだけなので 両書の校訂の差で本文の干支が違いますから所々で本文と注記された日付けが合わない筈ですよ ネット上の電子テキストは検索で便利なんですが、こう云うのは注意が必要ですね
633 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/17(水) 21:43:40
>>623 >否定されたら、感情的に敵意むき出しが、2名ほど常駐してるね。
悪かったな、常駐してて。
でもね、感情剥き出しのほうが、面白いし本音が簡単に出てしまう。
優等生同士のお話じゃ、俺は眠たくなってしまうよ。
634 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/17(水) 21:50:16
>>625 >これは古神道の最高機密でして、理由は出せませんがこれは厳格です。
怪しげな最高機密だこと。
一体全体どんな方が最高機密と指定し、その保持を2000年近く続けてきたんだね。
その費用だけでも天文学的費用がかかりそうだ。
可笑しいのがタカガ、大国氏程度の理解力しかない人間がその「最高機密」を
どうして教えてもらえるだけの資格があったのかね。
太国氏の血統がそれほど良いとは感じれないのだが・・・・
635 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/17(水) 21:52:18
>>629 太国さん
〔綏靖〕の記録
【惟元始五年(AD5年)五月庚寅太皇太后………(中略)………有“綏靖”宗廟社稷之大勳……】
(新校本漢書/列傳/巻九十九上 王莽傳第六十九上)
636 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/17(水) 22:03:25
>>628 >文様がいかに漢式(中国風)であっても、日本での鋳造鏡の可能性があります。
確かにこれは言える。
三角縁神獣鏡が日本製だとすると、当時の日本はこのくらいの銅鏡をつくる技術が存在したことだ。
中国の鏡というだけで2倍の値段で売れるのなら、俺だってつたない技術で同じような鏡を作る仲間に
入って技術に挑戦する事だろう。
現代は中国人が日本の技術に挑戦して、見た目は何とかクリアしたようだがそれなりの技術は習得してる
−−−−−(引用開始)−−−−−
同社はこれまで,トヨタ自動車の旧型の「ハイラックスサーフ」そっくりのSUV(名称はふざけた
ことに「SAFE」)や,日産自動車の「ダットサン」そっくりのピックアップトラックなど,日本
車のデザインを模倣した製品を販売してきた。
http://techon.nikkeibp.co.jp/free/NEWS/20040611/103948/index.shtml
637 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 22:24:56
>>636 >中国の鏡というだけで2倍の値段で売れるのなら、俺だってつたない技術で同じような鏡を作る仲間に
>入って技術に挑戦する事だろう。
すべての歴史は現代史だ。
ではなく
すべての歴史はオレ史だ。
って感じだな。
638 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/17(水) 22:32:15
>>633 そうですね。おかげで退屈しません。本音で会話するのが傷つけ合う事では無いですから。
2ちゃんのおかげで楽しい毎日を過ごせていますよ。
恵也さんのは御愛嬌といった感じですもんね。職場でドン来いの話題を出す事も多いけど
「楽しそうだなー」と、喜んで聞いてくれます。
639 :
太国 :2007/01/17(水) 22:32:20
>>630 まぁこういう資料、根拠を持ってきたのはいいが、
>>610 氏に、この資料の
どういうところがこう主張していて、こういう矛盾とかが氏にあるから、
その主張は否定されるとか、資料等におんぶしないで、自ら具体的に説明
をすべきであり、これを怠けると評価しにくい。
それに資料の権威とか、なんとか学とか博士だとか小難しい科学技術計算の
名で圧力をかけるのは無駄だと思え。あんたはすぐそういうやり方に心酔
しやすいから、傍観者の余はそんな威力の名には欺かれないぞ。
なお余は古神道の最高権威であり、それはお前さんに見物させるべきおもちゃ
ではない。ww
640 :
いじめっ子 :2007/01/17(水) 22:33:26
>>636 そんなにいじめっ子が憎いか?
そろそろ大人になりなさい
641 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 22:48:25
642 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/17(水) 22:53:59
今宵は退屈だから ついでに 『安寧』の記録 【成王將崩懼太子(金リ)之不任……(中略)………故成康之際天下“安寧”刑錯四十餘年不用…】 (新校本史記三家注/史記/本紀/第四 周本紀第四) ……他多数……
643 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/17(水) 22:58:35
>>631 >一発で毀棄するんだろうが? 余もその手を使うか?ww
アンタのは人の丸写しだろう。
俺の相手にはならんよ。
俺のはオリジナル!
644 :
太国 :2007/01/17(水) 23:12:06
>>627 >>632 征東大将軍さん
解説有難う存じます。参考になりました。
>>635 プラムさん
いい資料の提示方感謝しております。
A.D.5年ですとそれがしの説と50余年差のようですが・・・?
これは綏崩御でしょうか?紀では5月です。葬は10月ですから。
645 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/17(水) 23:13:57
646 :
太国 :2007/01/17(水) 23:19:30
>>643 丸写しはお前さんの超得意技ではないか?ww 信じないの語で、いつも論なし
の論破理学説。ww
それ(丸写し)はこちらの言うセリフだよ。ww
647 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/17(水) 23:23:56
648 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 23:28:37
太国、今夜はもう寝たら?
649 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/17(水) 23:36:08
>>644 >
>>635 プラムさん
いい資料の提示方感謝しております。
A.D.5年ですとそれがしの説と50余年差のようですが・・・?
これは綏崩御でしょうか?紀では5月です。葬は10月ですから。
いや〜っ 単に私は史料提供したまで
これをどのように活用するかは太国さん次第。 一つだけ言える事は
国内天皇のシ号を考えた人物は、何らかの形で中国正史を利用した。或いは
天皇のシ号は帝国側から日本に渡りそのまま利用した
そして(綏靖)に当て嵌められた人物は、AD5年以前の人物でない事も考察
対象に十分なりえるという事ではないでしょうか?
半分遊び感覚ですので 参考にもなりませんが
650 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/17(水) 23:37:38
>>637 >すべての歴史はオレ史だ。 って感じだな。
俺自身の感覚を抜いたら、屁みたいな文章になるよ。
種子島から日本に伝わった鉄砲だって、ごく短時間の内に日本で作るようになり
関が原の合戦の頃には、世界でも指折りの鉄砲製造国になっていたという。
日本人の特質として、猿真似の才能は世界屈指の才能があるというべきだろう。
−−−−−(引用開始)−−−−−
16世紀後半の日本は、非西欧圏で唯一、鉄砲の大量生産に成功し、西欧のいかなる国にも
勝る鉄砲使用国となった。にも拘わらず江戸時代を通じて日本人は鉄砲を捨てて刀剣の
世界に舞い戻った。
武器の世界において起るべからざることが起ったのである。
http://familyties.seesaa.net/article/29911841.html
651 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 23:43:36
>>577 >佛伝以後は通常暦だから
それは何故でしょうか?
というか、仏伝以降に2倍暦・3倍暦から通常暦に変更したという事を
記した文献があるのでしょうか?
是非、不勉強な私にお教え下さい。
>>578 >コヨミは「古黄泉]と読めて
それの説は誰の説でしょうか?
江戸時代の国学者「谷川士清」の『和訓栞』では
日、一日一日を読む行為の「日読み(かよみ)」から転じた言葉だと説いていますが。
そもそも「古い+黄泉(死後の世界)」とは何の事なのでしょうか?
死後の世界に古いも新しいも無いと思われますが…
>千五百の産室と千人絞殺の宣言からの数字の比率 1500:1000=3:2 に因む。
その記述部分がどうして暦に関連しているのですか?
前後の記述を読んでも全く暦とは無関係な話にしか見えないのですが…
>「船戸」はフナ戸で2・7戸を意味し、2×7=14 の、1ヶ月が2週間の
>2倍暦を黙示する神名である。
船戸神は民衆を悪霊や疫病から守る「塞の神」ですよね?
何故それが暦に関係するのでしょうか?
あと「船戸」の「フナ」が「2×7」というのは単なる語呂合わせではないでしょうか?
その論だと「2+7」でも「2-7」でも「2÷7」でも「2√7」でも良い事に成りませんか?
しかも「フナド」なので「2・7・10」ともとれませんか?
652 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/17(水) 23:48:24
>>646 >丸写しはお前さんの超得意技ではないか?ww
あなたの論理は「八木壮介」氏の焼き直しだろう。
数字に少しだけ手を加えただけのコピー商品。
−−−−−(引用開始)−−−−−
決定的とは認知されていないが、八木壮司 は「魏略 」にある『倍年説』を基に歴史を
再計算しその結果、神武天皇の即位は西暦181年 であり、寿命は128歳の半分の64歳で
あったと主張している。
現代の調査では大和朝廷 の成立は西暦2世紀 前後とされており[要出典 ]、神武天皇の
西暦181年即位説は信頼性が高い。
また是によって欠史八代 にあてられる天皇の実在性も高まる。
http://epedia.blog360.jp/%BF%C0%C9%F0%C5%B7%B9%C4
653 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 23:54:30
>>608 >干支は、大分前から使われているでしょう。
>たぶん、紀元元年前後くらいには使われていたはず。
その使用の証拠となる金石文など発見されているのでしょうか?
埼玉の稲荷山鉄剣や熊本の江田船山鉄剣(ともに5世紀初め)の遥か数百年前の物的資料ってあるんですか?
654 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/17(水) 23:55:27
>>640 >そんなにいじめっ子が憎いか?
いやいや、そうでもない。
いい酒の魚になり、暇潰しと頭の体操で歓迎してるよ。
でも最近、歯ごたえがなくなってきたな・・・・・
655 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/17(水) 23:57:10
初代天皇とされている 和風号は『カムヤマトイワレビコ』 漢風シ号は 『神武』 実は以前にもレスしたが、この(神武)は漢王朝高祖に使用された文字である 【漢興高祖(身弓)神武之材】 と
656 :
九州出身 :2007/01/17(水) 23:59:11
初代神武が女性だったって書いてあったね!本当かな?
657 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/01/18(木) 00:04:30
>>616 のタイトル修正
・新訂増補国史大系(吉川弘文館)
・日本古典文学大系(旧大系)(岩波書店)
・新編日本古典文学全集(新全集)(小学館)
えぇーっと、これで良いと思いますが、良くなかったらまた訂正します(スイマセン
>>629 神武から垂仁までは元年記事なんかは三倍換算後に加減算で補正かと踏んでましたが
太国さんの月前半集中説を「純粋に」考えると(5月を避けるとかは考慮せずに)、
二倍換算後に加減算で補正かな等と、思い直したりもしています
(昨日一昨日あたりに、そう云う話をチョットしたと思いますが)
それから、2代〜4代までは同一世代の筈だと思って居ます
ですからこの区間の書紀の記述を等倍と見るなら、治世年間の重複を前提にすべきじゃないかと
孝霊〜開化でも同一世代の天皇が存在する筈です
以前は孝元と開化を同世代と見ていましたが、旧事本紀なんかを見ると孝霊と孝元が同世代であった方が自然のようですね
ま、二統並立とか兄弟継承とかのような話になるので、この当たりの見解は太国さんとはずぅっと一致しないかな
658 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 00:05:16
>>625 >兄弟継承は履中からで、それ以前は絶対ありません。
>これは古神道の最高機密でして、理由は出せませんがこれは厳格です。
そういう事を言ったら、そもそも学問として成立しなくなりませんか?
というか、学問ではなく宗教思想のお話になってしまいます。
それはもはや科学ではなく「ファンタジーの世界」ではないでしょうか…
659 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/18(木) 00:07:21
>>656 >初代神武が女性だったって書いてあったね!本当かな?
神武(カムヤマトイワレビコ)は、果たして一人か?それとも複数か? なぜあそこのページで
イヨとダブらせたのか? その答えは・・・・・・・・・・?
全体の三割と言ったろう。
660 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/01/18(木) 00:09:56
>>614 偶然とは言えないと思います、「孝」の4天皇なんかは
漢籍から取ったと言う説もありますし
>>635 >>642 うーん、こう云うのもあるんですねぇ
>>478 のMM3210さんなんかは年代復元の結果から
光「武」帝と神「武」が対応し、
「安」帝と「安」寧が対応し、
「霊」帝と孝「霊」が対応すると言って居ます
ただ、これは微妙に各後漢帝と各天皇との在位年間にズレが発生しています。
私はこのMM3210説を修正してY=3X-830だと考えて直してみると、
(Yは日本書紀のAD換算での西暦値、Xは算出実年代の西暦値)
光武帝と神武、安帝と安寧、孝霊と霊帝の全てで在位年間の重複期間が発生します
この式では
Y=AD-659(書紀神武元年)の時に、X=AD57(倭奴国王遣使)なのですが
Y=AD-509(書紀懿徳元年)の時に、X=AD107(倭国王帥升等遣使)
Y=AD-87(書紀崇神十年倭迹迹日百襲姫命没)の時に、X=247.67(卑弥呼没)となります
>>658 >そういう事を言ったら、そもそも学問として成立しなくなりませんか?
>というか、学問ではなく宗教思想のお話になってしまいます。
烈しく同意、です。名無史さんガンバレ!
……あ、俺も名無史か。
662 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/18(木) 00:12:54
>>653 >干支は、大分前から使われているでしょう。
>たぶん、紀元元年前後くらいには使われていたはず。
これはまず、考えられん!
干支を利用するには、干支を書いた書物が必要だしまた、その解説文が必要だ。
記録してある実用的な紙が発明されたのは、西暦100年頃に樹皮・麻クズ・破れた魚網な
どの原料から紙を作り出し、これを和帝に献上し、この紙は蔡侯紙と呼ばれたという。
その前の記録じゃ、竹の板を糸でつなぎ合わせた物や絹などに書いていたが、竹は非常
にかさばるし、絹は非常に高価であったので気軽には使えなかった。
そんな膨大な竹の書物を中国から日本に、どうやって運び干支を解説できるのだろう。
仏教の伝来した6世紀なら、実用的な紙も一緒に日本につたえれる。
よって干支が伝えられたのは、仏教と同時期と見るべき。
−−−−−(引用開始)−−−−−
蔡倫の改良でそれまでの竹では荷車に積んでいた本が片手で持てるようになったのである。
蔡倫の改良製紙法は非常な大進歩であり、これ以降の中国では優れた詩文・論文などは筆写
により全国に広まるようになり、文化の発展に大きく貢献した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%A1%E5%80%AB
663 :
九州出身 :2007/01/18(木) 00:20:27
>>659 どうやって残りの7割を手に入れる?言語虫は本だしてるみたいだけどそれに載ってるのかな?
664 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/01/18(木) 00:21:29
この事から現在の日本書紀の以前の、等倍の日本書紀から 実年代側の神武元年をAD57に設定し、書紀の神武元年を讖緯説でBC660に設定し、 実年代の1年を、書紀では3年に換算しなおして、 治世年間を三倍に引き伸ばし、最後に治世年間の対称関係を取るために加減算したのではないか? 等と考えて居ます。 ただ、太国説の月前半集中説も在りますし、これを純粋に解釈すると二倍までじゃないとか、 或いは等倍で加減算だけじゃないかとか、イロイロ詰めなきゃいけないところがあります それに治世年間内の内政記事の年代配布問題も未解決ですし まぁ、今の段階では考え方の大枠の段階ですかね ただ、この様に三倍で年代観を考えると、一世30年説を同時に使用する事で 3倍の妥当性と、一世30年説の相互関係から、 神武〜崇神が計七世代だと云う結論が導かれます 神武〜崇神がそもそも計七世代だとすると、先代旧事本紀周辺の記述の重要性が急浮上し 記紀と旧事本紀等を併用して、連鎖的に系図を補正出来たりしてきます 神武〜崇神と同期する先代旧事本紀の尾張氏/物部氏は計七世代でしかありません つまり日本書紀は年代を引き伸ばし作業後に、 当初七世代だったオリジナルの日本書紀原案から、系譜を直系十世十代に改変したのではないでしょうか? しかし年代引き伸ばしに無関係な筈の古事記も日本書紀と同等の直系十世十代の系譜を残して居ます と云う事は古事記成立は、日本書紀の年代引き伸ばし作業後の系譜改変後でなければならないのではないでしょうか? こう云う風に考えると、古事記の成立過程も収束されて行くと思うのですが、どうでしょうかね
665 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/18(木) 00:22:07
神武天皇を、第50代桓武天皇(781年〜806年)を基準にしてハシゴをかけてみる。 第31代用明天皇は西暦585年に即位してる。その間221年を20人の天皇が即位した。 1人当たりの平均即位年数は 221/20=11.05年 傾向として安本氏の天皇の平均在位年数グラフを見ると5世紀から9世紀にかけて 1.36年延びている。100年間に0.34年だ。 用明天皇と桓武天皇の中間地点は696年 神武天皇が300年頃の即位だとすると、中間地点は553年 中間地点の差が143年ある。 143/100*0.34=0.486 11.05−0.49=10.56 これを平均在位年数として計算すると 初代の神武天皇の死亡年は 806−(50−1)*10.56=289 天照大神の死亡年は 806−(50+3)*10.56=246 卑弥呼の死亡年は西暦248年 2年の差とは驚くべき一致度ピッタリ。
666 :
九州出身 :2007/01/18(木) 00:28:25
界王拳2倍か3倍かしらないけどそんなのありえなくない?all
667 :
九州出身 :2007/01/18(木) 00:29:32
頭ゴチャゴチャになってないか?・・・って思う。
668 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/18(木) 00:31:10
>>660 焦らずユックリ行きましょう。
倭人伝に登場する『壹與』。実は倭人伝だけではなく、倭人伝以前の後漢書やその他の正史にも、登場しま〜
669 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/01/18(木) 00:40:52
海部氏が宮司の籠神社(元伊勢と言われる神社)所有の 伝世鏡に邊津鏡(前漢鏡)と息津鏡(後漢鏡)があります。 海部氏勘注系図には、天祖がこれを火明命(≒饒速日命)に授け、 更に火明命が邊津鏡を子の天香語山命に分け授け・・・ 等と云う旨があります 先代旧事本紀では天香語山命が高倉下命であるとしています 高倉下命は日本書紀の神武天皇即位前紀にあるフツノミタマの剣を皇軍に授けた熊野の高倉下の事です。 ですから神武と天香語山命は同世代で、 その一世代前の火明命(≒饒速日命)が息津鏡(後漢鏡)を持っていた。と云う事に成ります つまり後漢鏡を火明命(≒饒速日命)が授かってないといけないので 神武が紀元前などとすると辻褄が合いません。神代と人代の切り替わりは一世紀です と云う事なので、安寧AD5説も否定されるべきだと考えます ですから天孫降臨から神武東征までの179万2470余歳とは、 実年代を考えれば、短く取るなら17年9ヶ月24日程度か、長くてもその三倍程度しか許されません 神代の終わりとは、179万2470余歳と云う書紀の修飾文が誘う「人代と隔絶された果てし無い過去」と云うイメージに反して 一世紀の神武東征直前から見て、つい最近の出来事でした
670 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/18(木) 00:42:08
>>663 残り七割の入手法は、逃げずに毎日レスのやり取り
宿題(新しいネタ)沢山出されるよ〜っ
それに、
虫さんのレスは
全て筆写し、復習。
一年掛けて7000レスほど書き写し、頭の中に叩き込み後5000レスで終わる。(ボールペン十本ほど)
それでも基礎は終わらない。
671 :
九州出身 :2007/01/18(木) 00:45:11
>>668 ぉ いたいた!言語虫について少し語りましょうか。
言語虫は卑弥呼の都とするところは行橋市として宮の規模まで正確に答えてたし、他の説より細かくある程度は信用できる。
あの規模を示したには訳があるはず!そこんとこ何か情報掴んでますか?
それとあのHP探し当てたのは偶然みつけたのかな?
672 :
九州出身 :2007/01/18(木) 00:48:22
>>670 言語虫氏はこのサイト利用してるんですか?みたことないけど・・・
673 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/18(木) 02:07:16
>>620 平原王墓は230〜250頃と考えています。
柳田は200〜250頃としていますが、彼は卑弥呼の1代前の女王の可能性が高い
としているので、柳田は230±20年という考えであると理解しています。
私も基本的にその考えに賛成です。
なお、巨大内向花文鏡の技術が200年頃からというのは、技術は先に成立していたという
考えであり、平原を200年とする意図ではありません。
銅矛は真土ではなく石製鋳型と漠然と考えています。
鏡で石製鋳型では複雑な文様が難しいのではないかという考えと、踏み返しで若干ずつ
小さくなり、大きさにばらつきが生じることの説明になるので、1個1個製造、複製したと
見ています。これに対して、銅矛は単純な造形で石製鋳型に向いていると考えています。
674 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 02:17:39
>>637 中国では、日本で出土する三角縁神獣鏡という大型鏡は、おそらく日本で企画・製造
されたものであると考えられます。
その理由の一は、晋が三国を統合するまで魏鏡と呉鏡は様式が大きく異なり、神獣鏡
のスタイルは呉鏡のそれであり、魏から下賜するには不適であること。下賜品は国の
威信を贈呈先に知らしめる為のものであり、わざわざ他国の製品を購い下賜するよう
な俗はありません。
その二は、下賜の記述にある100枚からかけ離れた枚数が日本で出土していること。お
そらく出土した500枚の以外にも鋳潰された三角縁神獣鏡はあったはずで生産されたの
は1000枚以上の可能性が高く、記録にある数の10倍以上が生産されていた可能性が否定
できません。
その三は、その一に関わることですが、三角縁神獣鏡が魏の頃の鏡だとすると、複数国
の技術を無作為にミックスした創作鏡になり、中国(魏)での作成は考えがたいこと。三
角縁神獣鏡は画紋の様式や銘文記載は呉、紐孔の形状は魏という珍奇な鏡であり、およ
そ中国で1枚も作られることはなかったはずです。これはそれぞれの鏡についてよくしら
ない第三国の人が魏や呉の鏡のスタイル・形状の好みのおいしいとこどりをした創作性が
みてとれます。事実、中国からは出土は1枚もしていませんし、魏・呉それぞれで作ること
もなかったはずです。
その四、銘文が誤っているものが多い。漢字をしらない者が製造したとしか考えられないも
のがあります。韻や製造年等の問題もありますが、まず中華では読めません。
王仲殊氏は呉の鏡工が倭で製造したと仮説されたのは、魏の時代ではなくもっと後代の200
〜300年後を前提とされています。呉が滅んだ影響をみこしてです。
ただ呉の人なれば漢字を誤ったり、韻を違えたりすることはありえません。この鏡は日本で
日本人の手で作られたものだと思います。
675 :
↑ :2007/01/18(木) 03:12:16
王仲殊? そんな得体の知れない支那人の言うことなんか信用すんなよバーカw どうせ自国の鏡は世界最強とか言いたいだけだろう。 邪馬台国向けに魏が倭人好みの意匠で特注したんだよ、あの鏡は。 あと卑弥呼も台与も何度も朝貢してるから、その都度100枚づつ下賜されたので 1000枚ぐらいあっても全然不思議ではない。 そもそも、あんな鏡は当時の日本では製造不可能だ。 だからこそ、数百年も大事に伝世させた後に権力者の墓に埋葬されたんだよ。
676 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 03:19:01
王仲殊は畿内説だよ、一応。 ただ、三角縁神獣鏡は 呉人が作成した日本国産じゃないのか?と言っている。 ちなみに、その後、三角縁神獣鏡は 約60年間にわたり、あの景初4年ってのが 作られたんじゃないのか?というのが分かってきた。 つまり、仮に畿内の王家が邪馬台国だったとしても、 魏からもらった100枚の鏡を元に、 日本独自の複製品を作っていたのでは? とも思われる。
677 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 03:29:33
678 :
一応九州王朝説 :2007/01/18(木) 06:14:11
>675 ひどいレスやね。王仲殊の説も読んだことないくせに偉そうに。 >邪馬台国向けに魏が倭人好みの意匠で特注したんだよ、あの鏡は 例えば、戦時中アメリカ製の物を、相手がお好みだからと言って当 時の支配領域内のフィリピンやシンガポールに日本が売るか?生き るか死ぬかの超大国同士の代理戦争なんやぞ、辺境の倭国くんだり といえども。 >1000枚ぐらいあっても全然不思議ではない。 既に500枚、日本中全部ひっくり返したら何枚になることやら。 それにお前の計算やったら10回遣使した事になるけど、ずっと 景初4年なんかよ。10回行ったら、2年に一回としても257 年やぞ。魏すら滅亡直前やのにそんな実在しない年号を後生大事 に掘り続ける鋳物師も点検する役人もアホすぎて涙がでる罠w >そもそも、あんな鏡は当時の日本では製造不可能だ ちょっと修行すれば現代のシロウトでも作れるらしいで、粗末な △なんちゃらは。 >数百年も大事に伝世させた後に権力者の墓に埋葬 出土状態知って言うとんかいなorz
679 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/18(木) 07:19:42
>>672 虫さんはここには来ないし、一度も来ていないし、
あのHPは虫さん自らが教えてくれました。
行程記事は全体の鼻糞程度で、初級程度で〜す。
680 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 07:21:31
681 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/18(木) 07:51:43
>>672 それよりも
何故、宮があの辺りに落ち着くのか理解できますか?これが理解出来ないと、説明しても無意味になるので
682 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 08:03:35
>>618 大和さんへ
>>677 からつづき
すみません。次の論文があることに気付きました。 平尾さん、榎本さんは、
鉛同位体比法など遺物の科学分析で、いくつも論考を発表されている方です。
平尾良光、榎本淳子「新発見の「青龍三年」銘方格規矩四神鏡の自然科学的研究」、『考古学雑誌』86巻2号(2001 日本考古学会)pp.98-104
大田南5号墳の発掘で「青龍三年」方格規矩四神鏡が出土したのが1997年(平成9年)。
また3枚目「青龍三年」鏡(個人蔵)が確認されたのは2002年初頭と覚えているので、
上記論文は、きっと安満宮山古墳の青龍三年鏡が対象になっていると思います。
(当方未入手。今度図書館で読んでみますが、内容をご存知の方レスお願い)
なお、菅谷文則さんの「邪馬台国と卑弥呼の鏡」と題する講演があり、そこでこれらの
青龍三年方格規矩四神鏡に触れておられたことが、次のページに見えています。
http://www4.ocn.ne.jp/~komiyama/page4.html (ずっと下の方)
683 :
682 :2007/01/18(木) 08:19:52
>>682 訂正です。えらい記憶違いしてました。トシやな…
× 大田南5号墳の発掘で「青龍三年」方格規矩四神鏡が出土したのが1997年(平成9年)。
↓
〇 大田南5号墳の発掘で「青龍三年」方格規矩四神鏡が出土したのが1993年(平成5年)、
安満宮山古墳の発掘で「青龍三年」方格規矩四神鏡が出土したのが1997年(平成9年)。
684 :
682 :2007/01/18(木) 08:26:43
記憶違い、プラス勘違いです。お恥ずかしい…
685 :
大和 :2007/01/18(木) 09:07:00
>>628-641 さん。
>用語の意味を曖昧に
認めます。私は結構鏡の資料本を読んだりしておりますが舶載・倣製・踏み返
し・国産の定義が今ひとつ理解できていないようです。
舶載鏡のなかには原鏡もあれば倣製・踏み返しもあるでしょうし、真正なもの
でも鋳上がりや絵面の不味いものもあろう。反面列島製作でも従来の鏡製作を
踏襲する渡来鏡工人の手による精緻な鏡製作も考えられる。又、それを倣製し
た場合や踏み返した場合の分類、倭人の手による全く新しい意匠の鏡製作やそ
れを倣製・踏み返した場合の分類等々悩ましすぎて答えを見出せないままRes
つけたりしております。多分このままグレーな気持ちが当分継続しそうです。
原鏡=初鋳鏡がどこにあるのか、何を持って原鏡とするのか、一子相伝的な技
術の伝承が守られているならともかく、作れる立場の人が思いおもいに作って
いるだけのように思われる。しかしながら、鏡型に一定の時間軸(王朝の交替
等)があるようですので無法図ななんでもありの状況にはなく、なんらかの力
が働いていると考えているのですが、私はこの力を時の王権との関わりで捉え
ております。
686 :
大和 :2007/01/18(木) 09:07:41
つづき >新井氏論文 最初の論文は読み、手元にあるのですが今回おっしゃる論文は未読です。 以前に漢籍の古書の孫引きみたいな資料を見たことがあります。銅器製作に於 ける成分表と筒型銅器といわれる青銅品の分析結果です。採取先が異なる複数 個の成分が記されており、銅・鉛・錫の成分結果は3グループに分かれており 、黄金色か白銅色かぐらいのことしかわからなかったようです。結構バラつき があるんだな〜と変に関心した記憶があります。 たしか新井氏論文によりますと、錫の多寡が銅器の腐食に大きく影響するよう な記述があったように思います。そのうち筒型銅器の成分表と腐食の関係を少 し追っかけて見ます。 津古生掛古墳のUP有難うございます。参考にさせていただきます。
688 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 09:18:38
△鏡は、卑弥呼の時代に呉からきた渡来人が お土産用に生産したと思う。
689 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 09:56:10
690 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 10:05:59
>>689 >注目て言っても、津古生掛古墳は、住宅開発の犠牲にされてしまったんだ。(TοT)
これ、全般的にそういう印象受ける。福岡とか古墳、遺跡の発掘、
考古学の進展に疎い。わざとか知らんが。
691 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 10:26:19
九州古代史学のレベルの低さが証明されたわけだ
692 :
太国 :2007/01/18(木) 10:28:24
>>651 紀の佛伝以降はその以前に殆ど無い5月の記述が著しく増え、今まで空白的で
あった月があるということは、1年を丸々使っていたということで『等倍暦』は
固いです。だいたいこの『等』の字でさえ佛の竹林精舎の『竹』と『寺』がある
ところから、永世的に等倍になるのを感じとれます。他にも理由はありますが、
さらに推古の崩御のころの記事でしたか、日食があり、天文計算結果から
記述の一致は年代と確かだそうで、恵也が紀の数字はデタラメとか騒いでも
推古世の等倍暦は間違いありません。その世からもう少し手前の時代から
等倍になったであろうという推定が濃厚になります。
コヨミの論は今のところ、わりかし説明がスムーズであるという拙者の説
ですから、確定的ではなく、他説と照合したりして貴殿も思考されたい。
693 :
訂正 :2007/01/18(木) 10:37:21
>>689 ニワトリ型土器(×) → ニワトリ形土器(〇) スマソ
694 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/18(木) 10:44:35
>>674 >漢字をしらない者が製造したとしか考えられないものがあります。
>韻や製造年等の問題もありますが、まず中華では読めません。
まあ、ロクに本物の中国語を知らない大国氏みたいな日本人が銅鏡をデザインしたんだろう。
日本語風漢文というのかな、日本書紀にもそういった表現が多いという。
三角縁神獣鏡が500枚見つかったのなら、ゴキブリじゃないけどその30倍15000枚はある。
とくに天皇のお墓だとして発掘を禁止されてる古墳からは、大量に出てくるんじゃないかね。
たった2倍の製造量なんてのは、あまりにも予想知らず。
俺は競輪予想でその経験だけは人並み以上だ。
695 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/18(木) 10:50:34
>>692 太国さん
『寺』という文字はどおして『寺』という形の文字になったか解りますか〜?
この文字は元々、寺の役割から発生しました。
696 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/18(木) 11:04:17
>>675 >そんな得体の知れない支那人の言うことなんか信用すんなよバーカw
得体が知れないのはあんたの方だろ。
アンタは日本人かも知れんが得体は知れん、だが王仲殊氏は個人名を出した中国科学院研究所長
というレッキト身元がはっきりした方で、ずいぶん高い書物まで出しておられる方。
アンタは個人名や書物を出してるのかい?
俺は、王仲殊氏とアンタはまったく品格が違うと思うけどね。
−−−−−(引用開始)−−−−−
中国社会科学院考古学研究所長である王仲殊氏の三角縁神獣鏡に関する論考を
少し詳しく見てみたいと思います。その骨子は以下のようです
http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page029.html
697 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 11:06:18
九州はいまでは最先端の土建屋大国
698 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 11:08:24
はこものつくって中身つくれず
699 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/18(木) 11:13:40
>>675 >邪馬台国向けに魏が倭人好みの意匠で特注したんだよ、あの鏡は。
不可能!
鋳物を製造するときにはそれなりのノウハウという物がある。
直径15cmくらいの鋳物を大量に作ってる工場で、急に直径20cmのものを作れといわれても無理
●鋳物の砂を入れる容器を大きくしないといけない。
●薄い鋳物なので、熱が冷めたときの応力割れが生じる心配があり数多くの実験が必要。
まあそんな大きな銅鏡なら、普通の単価の5倍くらい貰っても商売的には引き合わないでしょう。
700 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/18(木) 11:25:24
>>676 >呉人が作成した日本国産じゃないのか?と言っている。
呉人の技術的援助はあったようだが、呉人が最終的に作成したものじゃないでしょう。
あくまでも中国語もロクに知らない太国氏みたいな、日本語風漢文を書いて一人悦に入り
世間知らずの豪族に売りつけた「日本人」が作った製品。
呉人の職人は、戦乱の地呉から逃げ出し「日本人」に雇われて技術を教えてるだけの
弱い立場の難民で「日本人」のプライドを傷つけることは絶対にいえない立場。
腹の中では軽蔑してたと思うが・・・・
701 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 11:27:57
>>699 考えが浅はかだな
『お役人さん!それは無理です。』
その瞬間、職人の首は地面とキスしてる。
702 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 11:31:41
703 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/18(木) 11:44:13
>>687 >平均在位が11.05年というような、誤差が+−〜100年みたいな説にも、
100年くらいの誤差なら御の字だろう。
何の物差しもない時代測定に、誤差はあっても確実そうなモノサシを提供してくれただけで
俺としては十分だよ。
それに超長生きした天皇がいても、その子供や親族が年寄りになってるからタイシテ誤差は
大きくならないよ。
平均在位11年というのは大きな発見だぜ。
704 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/18(木) 11:51:28
>>701 >その瞬間、職人の首は地面とキスしてる。
本当に腕のある職人は下っ端役人よりはるかに強い。
下っ端役人なんて代わりはどれだけでも補充できるが
本物の職人の代わりは金だけでは出来ない。
才能と、小さい頃からの経験があってこそはじめて
芸術的な作品が出来るもの。
そんな大切な首を切ったら、役人の首も即飛んじゃうぜ!
705 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 11:58:48
職人の首が大切なら、親妻子の首が有る。
706 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 12:15:05
>>703-704 その程度のモノサシでいいのならば
考古学者にももっと敬意を払うべきだな。
考古学者も職人だぜ。
707 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/18(木) 12:15:46
>>704 例え下っ端役人から発せられた言葉で有ろうが、国家事業に関する命令なら
それ則ち皇帝命令。
それが腕のいい職人で有れ、皇帝命に反発したも同じ。
寝ずに一週間、同じピッチで船を漕げと言われればそうするより仕方ない時代。
708 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/18(木) 12:16:50
>>685 用語の定義が学者の間でも今ひとつ統一されず、あいまいで分かりにくいですね。
以下は、私の個人的な理解です。
昔は、「同笵鏡=同じ鋳型から作られた鏡」としていましたが、その後粘土鋳型では一個ごとに
鋳型を壊さないと鏡が取り出せないと考えられるようになって、同じ鏡を粘土型にとって複製した
ものも以前と同じく「同笵鏡」と呼び続けている人もいます。
これに対して、これを「踏み返し」と呼んで「同笵鏡」の言葉を避ける人もいます。
ただ、Aを踏み返してBを作り、Bを踏み返してCを作った場合も、CはAの「踏み返し」になりますが
(BとCは区別不能?)、踏み返しを繰り返すと鏡が小さくなっていき、個体差も広がります。
そこで「同型」という言葉も考えられますが、同じ型式に属する鏡という広い意味まで含むので不適当。
むしろ、「複製」という言葉で、Aから(B1〜B8)を作ったという表現をした方が良いと考えています。
ただ、複製という言葉は、日本で作ったというニュアンスも出てくるのが難点でしょうか。
709 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/18(木) 12:30:42
鏡職人は鏡を作ってナンボの人。船乗りは船を上手に操ってナンボ そいつらが『出来ません。無理です。』と、言った瞬間 職人では無く ただの謀反人(反逆者) 何も役人は、鏡職人にパンを焼けとは命令していない。鏡職人に鏡を作れと、しごく当たり前な命令をしただけ それが例え一日に千枚作れと言う命令であろうとも。
710 :
太国 :2007/01/18(木) 14:38:23
>>652 神武天皇誕生は神武即位前になり、即位前は何の倍暦を使用していたかどうか
把握してないので、いずれそっちのほうも手をつけたいが、古文献での
神武誕生に関する数字がいつなのかは、今のところはっきりと見聞していない
ところ、後回しにならざるを得ない状況にある。だから神武の実質寿命は
こっちもとれていない。うまい方法があるなら書きこんでくれや。w
だから八木氏のコピーというのは、貴様の余に対する勝手な糊塗である。
こっちは見覚えはないぞ。
711 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 14:55:41
>>691 でも逆に言うと、九州からいろんなものが出てきたらマズイと思われてて
その反映かもしれないね。福岡あたりの乱開発つうか考古遺跡軽視は。
712 :
太国 :2007/01/18(木) 14:56:00
>>658 青色発光ダイオードの科学研究で名をあげた某人も、成功すればあのとおりだが、
それ以前は完成のひらめき、ヒントの内容ばそんな簡単にはおおっぴらに
はしないですぜ。w コカコーラの製造法も秘密だろうし、引田天功さんの
空中浮揚だって絶対種明かしはしないですよ。うまい蕎麦屋のツケ汁も
店員らに製法を聞いたってまぁ教えてはくれないよ。
科学界だって教授、研究家も利害のでかいものは、時期が来るまで絶対秘密
で研究してるはずですな。貴殿は甘ったれてるようで、そこまで言うんなら
コテハンをつけたり、2ちゃんに貴殿の住所氏名を明示し名乗ったらいかがだ?
名を隠す名無史さんでは自語相違的であろうがね?ww
713 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 15:23:38
>>712 そこまで自信があるなら、本名と顔を晒してみろ。
できないならちゃんと論拠を述べろ。
それもできないなら他説を遮るな。
714 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 16:30:01
いかさま師の手口にも似たやり方ですな。 世間ではよくいるタイプですよ
715 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 16:57:03
>>712 タネは絶対明かせない、最高機密だから書けない、と
言うのだったら、とにもかくにも、沈黙が一番だろうに。
716 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/18(木) 17:52:57
>>706 >考古学者も職人だぜ。
ありゃ、税金泥棒だ。
世界に通じる奴が、何人いることか!
特に畿内説を唱えてた京都大学の連中、見とれんほどの準文盲。
何でこんな連中が京都大学の教授になれたのか、情けない!
717 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/18(木) 17:58:35
>>707 >それ則ち皇帝命令。
アンタね「上官の命令は、恐れ多くも天皇陛下の命令と思え!」
なんて教育を受けた世代なんかい?
そんな洗脳をこんなところで繰り返しても・・・・・・・・
腕のいい職人は、おだてて使うのが世の常識。
アンタは非常識。
アンタみたいな奴が皇帝になったら、皇室も風前の灯だ。
718 :
太国 :2007/01/18(木) 18:09:37
>>713 そういうお前は名無史で自語相違ではないか? 言ったお前から顔を出すんだよ。
出来ないならとっとと失せろ!
719 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 18:46:59
太国まあ餅つけ。ペッタンペッタン(AA略
720 :
太国 :2007/01/18(木) 19:18:02
721 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/18(木) 19:27:44
>>717 >アンタね「上官の命令は、恐れ多くも天皇陛下の命令と思え!」
なんて教育を受けた世代なんかい?
そんな洗脳をこんなところで繰り返しても・・・・・・・・
オイオイ頭大丈夫かい?
ここのスレは『戦後の歴史を探る』か?
>上官の命令は、恐れ多くも天皇陛下の命令と思え
そんな時代を考証してるんだけど・・・・スレか板を間違えてるようだから
出直してきな な。
>アンタみたいな奴が皇帝になったら、皇室も風前の灯だ。
そんな時代だから王朝がいくつも変わってるんだろう。
寒さで頭の血管詰まったか?
722 :
太国 :2007/01/18(木) 19:30:08
>>660 征東大将軍さん
「安」帝 と 孝「安」 とは対応無しでしょうか?
723 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 19:43:13
>>718 言いだしっぺはお前だろうが。
言った方から顔を出すんだよな?
さあ、はやくやれ!
724 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 19:46:48
>>712 顔じゃない、名前と住所だな。
さあ、言いだしっぺからはやく晒せ!
725 :
太国 :2007/01/18(木) 19:50:34
>>664 >>669 征東大将軍さん
平均的に一世20〜30年が妥当じゃないですかね。
まだ自説を調べてみてなかったかな?
すでに拙者の書きこみで承知でしょうが? 神武以前のある時代は1年が今の
1日相当ではなかったか? と思考したりしていますが、これだと179万余歳は
5000年くらいかな、もしかしたらそんなかも知れません?
>>695 プラムさん
字の意義は知りません。ご教授されたい。
726 :
太国 :2007/01/18(木) 19:54:37
727 :
太国 :2007/01/18(木) 20:13:17
728 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/18(木) 20:21:18
結局、三角縁鏡が卑弥呼の鏡である事の立証はどうなったのだろう? まず、なぜあのような大きな鏡なのか、そして薄いのか、 それは、鏡を信仰として用いていたからで、使者の黄泉の旅路の不浄を払い、悪霊を遠ざける為であり、 薄いのは儀式に用い掲げるとき、重くならない為であると思う。 この鏡を使者とともに埋納する際も、後漢鏡より扱かわれかたは粗末であり、 その様な鏡を明帝が親魏倭王の卑弥呼に与えるはずも無い。 よって、卑弥呼の鏡は後漢鏡の可能性大である。
729 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/18(木) 20:41:36
太国さん 『寺』の字義でしたね 寺と言う文字は(土)に(寸) 【度量衡を管理する役所的な場所】であり。 決して仏教関係の為に造られた訳ではありません。 だから『時』の文字は ・(日)によって地面(土)に出来た影の長さ(寸)を計り(時)としたのです。 その(度量衡)を管理する役所(寺)をる管理役人(人)を『侍』と言いました。 どおでしょうか? これが『寺』と言う文字が持つ本来の意味(字義)です。 決して学校では教えてくれません。
730 :
太国 :2007/01/18(木) 20:46:22
731 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 20:57:14
>>726 718 名前:太国[] 投稿日:2007/01/18(木) 18:09:37
>>713 そういうお前は名無史で自語相違ではないか? 言ったお前から顔を出すんだよ。
出来ないならとっとと失せろ!
−−−−−
言いだしっぺから出すんだろ?
出来ないならとっとと失せるんだよな?
出せないんだよな?
ならさっさと消えろ!
732 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/18(木) 21:19:31
>>729 鏡を知るなら
まず、『鏡』を何故(かがみ)という音を当て嵌めたかを考えないと (鏡/カガミ)の本意は 永久に解らない。
733 :
太国 :2007/01/18(木) 21:29:38
>>731 おやおやお前何、で名を隠すんだ? それはお前の機密か〜?
ならば余と同じ穴の狢ではないか? なぜさっきから仲間を攻撃するのか?
734 :
太国 :2007/01/18(木) 21:32:35
>>731 お前とはお互いに機密の持ち合いではないか?
なぜ同志を攻撃するのか?? つまり
お前と余とは、同じ穴の知られたくない『無字名』ではないか?ww
735 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 21:36:40
>>733 こら、お前のような卑怯者と同じにすんな。
言いだしっぺから晒さなきゃいけないと
>>718 で言ったんだよな?
出せなければ失せなきゃいけないと
>>718 で言ったんだよな?
ちゃんとした大人なら、自分で言ったことはちゃんとやるべきだよな。あ?
ならとっとと失せろ!
736 :
太国 :2007/01/18(木) 21:46:48
>>735 ハハ〜ン。同じ知られたくない、同じ穴の『無字名』のようで、
俺は『太抜き』じゃ〜ないが、
お前は子タヌキならぬ『コテ抜き』だからだ〜〜。wwwwwwwwww
わ〜かった、わ〜かった〜 Pupupupupu!!!!
737 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 21:50:46
邪馬台国がどこかは分からないけど 投馬国は、やはりduma(ヅマ)国と呼ぶみたいだ。 つまり、出雲だ、投馬国は。 また、官がミミとか、副官がミミナリという特徴的な名前が出てくるが これは、出雲の王族に流行っていた名前だ。 となると、邪馬台国は...畿内? いずれにせよ、今、500枚くらい多数見つかっている三角縁鏡は 魏から貰ったものではなく、 魏から貰ったものを元に量産したレプリカみたいなもの。 あの500枚見つかっている三角縁鏡は、同時期に作られたものではなく 古いものは3世紀中葉、新しいものは4世紀初頭と幅があり 長期間、日本で造られたものだ。 魏からもらった貴重な100枚は、安易には配ってないもよう。
738 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 21:53:53
相変わらずクズだな、犬国
739 :
太国 :2007/01/18(木) 21:55:38
>>738 お前は津田猫人だろう? 早く治療して来い。wwwww
740 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 22:04:20
常識的に考えて、皇帝の下賜品は事前に相手国の嗜好を聞いておいて、どれだけ 「君の国の事を知っているぞ」「君の欲しい物を気遣ってやっているぞ」という 意味合いをこめて考えて選別していたと思う。猫に小判なのだ。もらってその良 さ、意味合いがわからなければ下賜は失敗である。 しかして倭の代表団がこういう鏡が欲しいといって呉の神獣鏡を魏の皇帝や役人 にみせるのは、それはまた外交儀礼をわきまえない不味い代表団であるだろう。 魏鏡は中国の鏡にふさわしくない呉鏡こそ逸品と倭人が述べているのと同じで すこぶる無礼である。 また百歩譲って、倭人のオーダー通り呉工に鏡をつくらせたとすれば、異例な その特殊対応の時事はその記事に特筆されるはずだ。 それがないということは、三角縁神獣鏡にその事実はなかったということなの だろう。 大体、皇帝に鏡を注文なんて倭人はできる立場にないんじゃないかい?
太国は、自分がレスした
>>578 を、まず取り消せよ。
「スマン、俺の浅慮だった」、と言ってな。
が、もし取り消すのがイヤなのなら、
>>651 氏の疑問に対して
>>692 のようないい加減な答え方ではなく、
「
>>578 はコジツケでも語呂合わせでもなく、キチンとした
根拠があるのです。根拠とは、これこれ、こうです」、と、
逃げずに、誠実に回答してやれ。
それができないのなら、やはり
>>578 を取り消すしかない。
742 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 22:15:26
中華思想という点から考えると、倭人の気に入るものをつくって下賜するということはありえないです。 中華の押し付けはやりますが。
743 :
太国 :2007/01/18(木) 22:19:35
古神道の最高権威は古神道からの意見を撤去などするわけがあるまい。w 笑わせるな。それは誤りが明白ならば、それはそうするよ。 朝廷はイザナミの呪いが怖いのだ。農作も、お前の脳作も大事wwだろうが、 当時の朝廷は古神道で物事を考えたのだ。 お前も九州説が正しいと知ったら、お前の畿内説も浅薄だったと畿内説代表 で地べたに頭をこすりつけてわびを入れるのか? www
744 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/18(木) 22:30:39
昨日までで、神武、綏靖、安寧、まで紹介したから、今日は『懿徳』から 『懿徳』 【穆王將征犬戎〔一〕祭公………(中略)………〔五〕我求“懿徳”肆于時夏允王保之】 (新校本史記/本紀/巻四周本紀第四)
745 :
太国 :2007/01/18(木) 22:41:05
>>741 お前の脳作は、古代を象牙の塔の津田猫患者のようにあまい左党をなめ過ぎて、
餌舐メル質、象牙質が穴〜空きの状態になり、危険な歯層の状態に陥って
いるのではないのか? 思想濃露に陥っているようだな??
至急、水で口をよくゆすぎミソギを徹底し、さらに
6月末(2倍暦)ごとに大歯ブラシで大祓いをせねば、リトマス史見紙を赤化
する強酸政に冒されて、忠崇神敬は台無しになり、古神道をないがしろに
するようになる。お前の言動からして、これは一応にも言ったが、強円旗政を
持って忠倭し、お前の危険な史想を防御せねば、古神道の最高権威に対して、
狼藉を働く無礼者に成り下がる。
ブラック珈琲(古秘=古神道)という好黒嗜感は、左糖を入れたんではその味
が撹乱されるに至る。お前はやはり津田猫に罹患している可能性がありそうだ。
早急に治療せねばお前はもう汚史毎だな。古代歯に強酸糖は不要だ。
746 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 22:42:01
三角縁鏡は、呉方式の国産の可能性が強い。 しかも、長期間、作られた模様。 よって、数も多いし、出来もマチマチ。 しかし、この鏡は、なぜか、呉と敵対していた魏の元号を元にした鏡。 魏とまったく関係ないわけではない。 そして、その鏡は広範囲に配られている。
747 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/18(木) 22:47:46
『孝昭』 【後進好事儒者……(省略)……故復修記“孝昭”以來功臣候者編於左方…】 (新校本史記/表/巻二十 建元以來候者年表第八)
748 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/18(木) 22:49:51
>>737 つまり、出雲だ、投馬国は。投馬国は、やはりduma(ヅマ)国と呼ぶみたいだ。
ヅマって、古代語は濁らないんじゃないの?
それに、
古神道関係ってこんな人格失陥者が多いの? つかこういう人間を『最高権威者』にしてる古神道なるものはトホホだな
750 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/01/18(木) 22:58:23
>>722 現在のところ世代的な同期関係までは認められないようです
>>725 実測すれば30年弱になる筈ですよ
サンプルを短くしても所によって30年強が出るぐらいでしょうか
ま、書紀の編者が持てるサンプル数からすれば、彼等は実測なんかしてる訳じゃないでしょうけどね
それと天孫火明命が後漢鏡を授かった事を示す記述通りに
今日に至るまで海部氏が後漢鏡を保持している訳ですから
東征五千年前云々と云う事は在り得ません
東征五千年前に後漢鏡を手に入れる事は不可能です
勿論前漢鏡すら手に入れる事は出来ません
皇孫瓊瓊杵尊/天孫饒速日命(≒火明命)の次の世代が、
即、神武/天香語山命・宇摩志麻治命の世代と云う先代旧事本紀のタイムスケジュールは
実年代モデルと一致する正確なものでした
>>747 プラムさん、もしよろしければ
その諡号について解説してる本の書名、著者、出版社などを
教えていただけませんか?
752 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 23:00:25
>>748 そうそう。古代語というのは少なくとも最初に濁音はない。
それは、わりと言われていること。
でも、中国人には、倭人の言った言葉が何に聞こえたのか?
ということを考えてみたわけ。
最初の母音は、oとかiとかは割りと抜かしやすいように思う。
で、知り合いの中国人に実験してみた。
そしたら、連中はよく聞き逃すんだわなw
753 :
太国 :2007/01/18(木) 23:00:56
>>749 お前もどうやら頭のほうが危険な歯層に冒されているようだ。
お前は象牙の塔に籠る大学教授連の左糖好きの古代歯史想に頭が占領され
ニッチもサッチも行かない忠崇神敬が、哀れデンジャーの穴〜空き歯に
陥っている。どうもお前は少しながら虫核歯に冒された、危険な歯層の
状態に進行しており、古神道関係者に狼藉を働く兆しが見えている。
至急津田猫の治療するよう警告する。
754 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/18(木) 23:06:07
>>751 出版本なんて判りません。何せ独学だから…
漢籍から引っ張り出してるだけです。誰かの学習参考になればと?
755 :
太国 :2007/01/18(木) 23:15:02
>>747 プラムさん
古文献の提示に感謝しています。
756 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/18(木) 23:33:38
『孝安 ・ 天安』 【恭宗“孝安”皇帝諱(示古)〔一〕肅宗孫也父清河孝王慶…】 (新校本後漢書/本紀/巻五 孝安帝紀第五) 『天安』 【三月丙申詔日「比年不登………(中略)………〔三〕三公朕之腹心而未獲承“天安”民之策數詔有司務擇良吏……】 (新校本後漢書/本紀/巻四 孝和孝殤帝紀第四/和帝)
757 :
太国 :2007/01/18(木) 23:38:15
>>750 征東大将軍さん
いろいろと幅広く研究なされていて、教えてもらうことが多々あり、感謝して
います。神武誕生を恵也氏がどうのこうの言ってきたことから、未研究の
自分を見つけ、紀年はまだまだだなぁと自分を責めてたりしています。
貴殿なら、神武誕生も何時だか把握してるんではありませんか? 拙者は
そこまで至っておりません。
神武以前を論ずるならば、古史古伝のウガヤフキアヘズ朝に対して見解が
おありでしょうが、この点何かお考えでしょうか?
今晩はこれにて失礼します。
758 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 00:11:02
『孝靈』 【“孝靈”皇帝諱宏〔一〕肅宗玄孫也曾祖河(門の中に月/カン)孝王開……】 (新校本後漢書/本紀/巻八 孝靈帝紀第八) 『孝元』 【韋丞相玄也即前韋丞相子也代父後失列侯……(中略)……數年病死“孝元”帝親臨喪賜賞甚厚…】 (新校本史記/ 列傳/巻九十六張丞相列傳第三十六) これで やっと八代かぁ〜っ
759 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 01:16:14
考えたら今、漢字使ってるのって中国語が母語の国以外は日本だけだね。
760 :
大和 :2007/01/19(金) 02:24:33
>>677-682 さん。 遅出しになりました失礼。
色々参考文献ご提示ありがとうございます。
安満宮山古墳については地元、高槻市教育委員会編集・「邪馬台国と安満宮山
古墳」を、青龍3年銘鏡3枚は「今城塚と三島古墳群」高槻市埋蔵文化センター
、森田勝克行氏著に詳細が記されております。氏によりますと、太田鏡→安満
宮山鏡→車崎氏紹介鏡、の順位付けができるとのこと。
また、先のResの筒型銅器の成分分析は、東 潮著「倭と伽耶の国際環境」吉川
弘文館2006−7月刊に載せてありました。(p162-p165)「筒型銅器は鏃・鏡とと
もに古墳時代前期に生産されたものである。その筒型銅器7例の金属的分析
(EPMA)によると・・・(久野雄一郎1988)」として、
『錫を殆ど含まないもの、錫・鉛それぞれ数%を含むもの(銅鐸タイプ)、錫
を15%・鉛数%を含むもの(銅剣・銅鏡タイプ)の3種類があった・・・池ノ内
5号墳(メスリ山古墳の近く)の筒型銅器は青銅ではなく、鉛約3%・錫0.3%
を含む銅器である。錫の含有量がタニグチ1号墳二例(46.81%・18.81%)、高
岡2号墳(44.9%)、新沢500号墳(37.7%)と高い。錫を含まず鉛のみを含む
銅合金より、音響効果が優れていることが判った・・・。7例の筒型銅器の色
は赤銅色・黄金色・銀白色と推定された』と記す。
761 :
大和 :2007/01/19(金) 02:25:32
つづき そこで問題点2つ、 新井氏論文によると、泉屋博古館発表資料に対して『・・・しかも舶載鏡と仿 製鏡のあいだで、錫が異なることなどすでに40年以上も前に・・・明らかに している』と記し、『・・・その当時の青銅器原料はすべて中国からの輸入に よっていたとするのが定説・・・』とも記す。 (1)原産国が同じで完成品か、半製品かで原料成分が異なるのはおかしい。 青銅鏡の耐食性は主として錫によって維持されている。だから出土鏡が黒く輝 くような良質な「舶載鏡」には錫が多く、腐食して表面性状の劣る「仿製鏡」 には錫が少ないであろうということは容易に推測できる。新井氏論文に載す田 辺儀一作成の錫含有量で、舶載鏡35面は15%〜35%を示し、仿製鏡6面は0〜20% を示す。ところが、先に記した池ノ内5号墳の筒型銅器は錫が0.3%であるのに もかかわらず美形で腐食もなく黒光りをしている。 (2)例え一例であろうとも先の筒型銅器の久野説と齟齬をきたす検証手法で ある。 新論は存じ上げませんが旧論はいかがなものでしょうか。
ここは良い隔離スレですね
763 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/19(金) 04:28:40
>>737 つまり、出雲だ、投馬国は。
ではフミ国の南に投馬国がある、という方向はどのようにお考えに?
764 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 04:34:23
>>763 の、この夜中レスはトイレ起きついで、ですので余計な詮索は無用です。
でもその詮索が面白くて笑っちゃうんだけどね。
765 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/19(金) 04:37:07
>>764 は九州ですがです。名前が消えちゃった。しかし夜中になにやってんだか。
766 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 07:20:56
>>763 >不彌の南に投馬国
文献だけの解釈なら『奴國の南に投馬』なんだけど
ハァ〜っ
767 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 07:57:20
投馬国が不彌の南であろうが、奴国の南にあろうが 地理的には何等影響を伴うものでは無いが そういう細かなミスが積み重なり、結果 大きなズレが生じてしまい、不毛の考察が循環的に繰り返される。 しごく合理的に書かれているものを より複雑化している
768 :
大和 :2007/01/19(金) 07:57:25
>>677-682 さん。
訂正
>>761 新井氏資料批判(2)筒型銅器 美形品は紫金山古墳出土でした。
池ノ内5号墳の筒型銅器の資料写真はありませんでした。新井氏資料批判
(2)は根拠を失せております。素人考えでしたお詫びし取り消しいたします。
769 :
大和 :2007/01/19(金) 08:12:31
>>673-708 の奴国さん。詳細なResありがとうございます。
平原王墓の内向花文鏡が全ての列島作仿製鏡のした支えになっているように
感じます。聞き及びますと、基本的なるところで功績ある臣下に下賜される
と言われる、四葉座紋を模倣する八葉座紋丑に凝縮されるとか。まあ、大き
さ、外周の同心円、紋様の退化など指摘されるところ多数。
まず腑に落ちないのが稀に見る大きさで精緻な造りが為されている最古の国
産銅鏡がなぜ畿内大和でなく博多なのか。また、北九州に於ける青銅祭祀器
は半島流入の銅剣銅矛の類と捉えておりますが、重要な祭祀器具である銅矛
を作らず銅鏡を作る動機。縦に細長い青銅文化圏の賢者の発想として、丸く
薄い大型鏡なるものに行き着くものかどうか、模倣するなら前漢の鏡とか後
漢の鏡とかサイズ的にも手近に手本が沢山あったと思われる。
また、細かい粘土と砂の混合を空焼きして再度粉砕、鋳型土即ち真土の本格
使用や丑の中子の工夫など畿内銅鐸製作技術の導入が為されたと思いますが。
駄目ですか?
770 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 08:18:58
投馬国はフミ国の南にあるし、奴国の南でもあるし、マツロ国の南でもあるし、壱岐国の南でもあるし、ツシマ国の南でもあるし、 クヤ韓国の南でもあるし、タイホウ郡の南にもあたります。
>>770 そういう場合『緯度的に』と、断り書きを入れとくと誤解を生まないよ。
772 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 10:31:16
>>763 >>不彌の南に投馬国
俺の勝手な解釈...魏志の編纂者の勝手な想像...w
というか、その真相がわかれば、邪馬台国論争なんて
何百年も繰り返していないわな。
773 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 10:32:44
魏志倭人伝で注目なのは わざわざ各国の官の名前とか使者の名前が出てくること。 これが、当時の漢音でなんと読んだのか? これは重要なこと。
プラムさん、諡号の資料の件了解です。 しかし独学とは凄いですね。 自分も見習って少しずつ頑張っていこうと思います。 早く、ここの皆さんのレベルに追いつけるようになりたいですねぇ…
775 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 11:45:51
>>774 さん
余りムズク考えないことです。
漢字で書かれたモノは、先ず思考する前に(中国漢籍)で検索すればいいだけです。
776 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 12:14:49
漢字の諡号というのは、記紀編纂時の後付けだしな。 少なくとも、日本書紀の編纂者が、古代の天皇の各人物に対して どのような認識を持っていたのか分かる。
777 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/19(金) 12:23:09
>>766 >文献だけの解釈なら『奴國の南に投馬』なんだけど
>ハァ〜っ
それはアンタの自己流解釈だろ。
文献を素直に解釈したら「不弥国の南に投馬国」だよ。
至と到を恣意的にトンチンカンに解釈したり、起点を適当に変えるから、あんたみたいな結論になるの。
それに判りきった同じ字を、気分によって省略して書くのはよくある事だろうに。
行きもしない土地には、誤解されないため(東行至不彌國)と書くより(東行有不彌國)と書くよ
アンタはタイシテ文章を書いてないでしょう?
−−−−−(引用開始)−−−−−
東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離有千餘家 南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
東へ百里行くと不弥国に着く。官を多模(たも)といい、副官を卑奴母離(ひなもり)という。
千戸余りの家がある。
南へ水行二十日程で、投馬国に着く。官を弥弥(みみ)という。副官を弥弥那利(みみなり)
という。五万戸余りある。
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
778 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 12:31:33
>>777 現代の感覚『戦後の日本を考える』貴方に言われても全く説得力に欠けるのだが。
もう少し古代漢籍に触れてからの反論願います。
webサイトばかり参考にしていると 片寄るよ
779 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 12:46:38
>>777 恵也さんよ
文献はそこだけ見て判断してはダメだよ、紹煕本を見たら次に紹興本を見、何故『自女王國』が『自女三國』となっているのか検証或は校勘が必要なのかも考え、全てに理由付け出来る形にする訳。
編纂者がワザワザ奴國と投馬國の記事の間に 不彌國を入れたか ジックリ考察すれば判るはずだよ。
780 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/19(金) 12:47:11
>>778 >もう少し古代漢籍に触れてからの反論願います。
古代漢籍に触れても、知ったか振りしかできない人間よりは数倍まし。
あんたの中身なしの「知ったか振り」には辟易してるよ。
781 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/19(金) 12:55:30
>>779 >不彌國を入れたか ジックリ考察すれば判るはずだよ。
これが「知ったかぶり」の典型。
考察したという本人の肝心の内容がない。
逆にいえばジックリ考察の内容に、本人は自信がないから「知ったかぶり」しか出来ないもの。
俺の一番軽蔑する人間の典型。
くれぐれも恥をかくことを怖がる人間に成らないようにしなさい。
「聞くは一時の恥、聞かざるは一生の恥」って知らないのかな。
恥をかくことで初めて人間は成長するもの。
782 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 13:11:27
>>780 >>781 以前散々やった事を繰り返してもしゃあないじゃん。
>『知ったかぶり』
あんたが知らないだけだよ
それに、あんたに説明した所で無駄な事はここでは常識だから 自分の許容範囲を越えれば必ず罵倒されるのは目に見えてるし な
783 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 13:24:48
>>777 恵也さん
これはプレゼントだ
『東行至不彌國』の『行』は
(学校に“行”く)(会社に“行”く)と同じ用法で使用されている。
これで十分だろう。
784 :
卑弥呼 :2007/01/19(金) 13:56:23
喧嘩をやめて! 二人を止めて!
785 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 14:32:34
786 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 14:37:50
787 :
太国 :2007/01/19(金) 15:09:46
プラムさん
恵也氏はプライドが須弥山以上に高いから、貴殿におそわるような立場になれ
ば、
>>781 のようにひっくり返す言葉で、「教えるのは俺のほうだ」とばかり食
いついて来ますよ。このスレで自分は一番学があると思っていますから、奴は〜。
貴殿に教えを請うっていうのは、あいつは物凄く嫌うわけですよ。w
788 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/19(金) 15:48:30
>>783 >(学校に“行”く)(会社に“行”く)と同じ用法で使用されている。
それがどうした?
知ったかぶりさん、言葉にはイタズラに長くならないように省略という方法がある。
東南陸行五百里 到伊都國
東南 至奴國百里
東行 至不彌國百里
南 至投馬國水行二十日
すべて繰り返しに同じ言葉を何度も使わなくても分かるから省略しただけだろ。
それと中国語で読みやすいように著者が書いた可能性もある。
あなたに中国語が発音できれば判るかも知れんが、無い物ねだりはしないよ。
789 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 17:13:54
>>788 >東南陸行五百里 到伊都國
東南 至奴國百里
東行 至不彌國百里
南 至投馬國水行二十日
すべて繰り返しに同じ言葉を何度も使わなくても分かるから省略しただけだろ
>それと中国語で読みやすいように著者が書いた可能性もある。
オイオイ『〜だろう』『可能性もある』と、想像と希望で反論するなよ。
私は
(学校に“行”く)(会社に“行”く)と同じ用法で使用されている。
と説明した。
その意見に対し反論あるならば、私の提示した用法ではありえないことの説明を
提示すべきだろう。
それとも何か? 自分の考えにそぐわない意見は、全てスレを荒らす事でうやむやにしてしまうのか?
790 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/19(金) 17:34:44
>>789 >(学校に“行”く)(会社に“行”く)と同じ用法で使用されている。 と説明した。
それがどうした???
当たり前の話をもったいぶりやがって、あんたの話は中身ゼロ。
翻訳には何の役にも、主張にもなってないタダの知ったかぶりさんだ。
少しは自分で、日本人に分かる言葉で翻訳でもしろ!
アンタは全く内容なし屁みたいな奴!
791 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 18:04:26
>>790 全く幼稚なレスだなぁ〜っ。 向きになってどおするの?
今貴方に必要なのは、泣きわめく事じゃないだろう。
『はしたない』
792 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 18:43:48
『東行至不彌國百里』 ここでの『行』が、(学校へ行く)と同じ用法なのか? 『行』と言う動詞が有るのに(陸とも海)とも指定されず、移動手段が書かれていないからです。 【陸行〇〇里至〇〇國】 なら 起点から着点〇〇國まで〇〇里と数値化された区間行程距離が“徒歩”(陸行)によって計測された事が判るからです。 詰まりこの【東行至不彌國百里】には、区間行程距離計測を示す移動方法がないため、(百里)も区間距離を示す訳ではなく、 『行』の動詞も、 (学校へ行く)と同じ、家→学校→家 と いう表現方法となるわけです
>>665 その計算で初代〜15代天皇の没年だせますか?
トヨに関してはどのようになってるんですか?
794 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/01/19(金) 20:30:07
問題は七千余里をどうやって計測したか
795 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 20:46:56
796 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/01/19(金) 20:50:48
ピッチとは?
797 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 21:09:37
ところで箸墓ってほんとに古いの?
798 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/19(金) 21:18:04
>>766 文献だけの解釈なら『奴國の南に投馬』なんだけど
蒸し返すわけでは無いですが、僕が話の発端の様ですので、聞きます。「文献だけの解釈」とはどういう意味で、
なぜ、「奴國の南に投馬」となるのか、出来る限り具体的に教えてください。
799 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 21:24:57
800 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 21:29:24
801 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 21:33:39
>>796 >ピッチ
櫓によって 一日に進む距離が一定に。です
802 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 22:02:15
>>799 箸墓ミステリー
箸墓は倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)の墓とされている。
そして畿内説は、この倭迹迹姫命こそが卑弥呼だという。
諸君、ではここでクイズだ。
@以下の文書はどこからの引用か?
倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣有屋室父母兄弟臥息異処以朱丹塗其身體如中國用粉也食飲用邊豆手食
A倭迹迹姫命が自殺に用いた凶器は何か?
B小野妹子が帰国後に都の貴族に食事の作法を伝えたのはいつか?
答えは既に、墓の名に表されていたのだ。
803 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/01/19(金) 22:09:51
櫓による方法が具体的にどうなのか良く判りませんが あくまでも七千餘里は沿岸部等の陸路での距離じゃない、と云う訳ですね? これで1日に進む距離が一定でそれが解るなら、この間何日掛かるのかも解る筈ですよね でも→対馬國、→一大國、→末盧國なんかは各千余里としていますよね 精度に問題がありませんか? これは一日に進む距離を千余里としてるんじゃないですか? 精度の限界でしょうか? 他の方法でも、この誤差に気付く事は出来なかったと云う事なんでしょうか? 一日に進む距離を一定に出来るのなら、水行十日も水行二十日も彼等は距離を解って居た筈ですよね でも、こう云うのって本当でしょうか?彼等は一定になんか出来たんですかね 波も風も潮流も在りますし
804 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 22:12:36
>>802 ちょっときみの主張がわからん。端的に説明してよ。
806 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 22:39:51
神武天皇は「なかった」 '神武'も'天皇'も後付けで、当時はそう呼んで居なかったので 神武天皇はなかったのである 箸墓は「なかった」 '箸'は後付けで、当時はまだなかったので 箸墓はなかったのである
807 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 22:41:09
>>803 >あくまでも七千餘里は沿岸部等の陸路での距離じゃない、と云う訳ですね?
はい。水行とかいてありますので
>これで1日に進む距離が一定でそれが解るなら、この間何日掛かるのかも解る筈ですよね
でも→対馬國、→一大國、→末盧國なんかは各千余里としていますよね
精度に問題がありませんか?
解ります。 精度の問題? どのように調べたらいいのでしょうか?
>これは一日に進む距離を千余里としてるんじゃないですか?
度量衡と文献からです。(文献の提示も出来るのですが いま資料を書いた場所を探すのに時間が・・・機会があったらていじします。)
>一日に進む距離を一定に出来るのなら、水行十日も水行二十日も彼等は距離を解って居た筈ですよね
でも、こう云うのって本当でしょうか?彼等は一定になんか出来たんですかね
波も風も潮流も在りますし
もちろん。より正確に距離を示すために日数でカキコしたのですから
>潮流の影響
私達が心配する問題ではないでしょう。潮流の影響があるから『余里』を使用したり
(サンズイに翰)海の文字や(門の中に活)海の文字にて潮流影響を示していますから
プラムさん、お願いだから恵也はスルーしてくれないか。 まじめにあなたの説を聞きたいと思っている、私みたいな人間もいるのです。 あくまでここは、学問板。 プラムさんの賢明な判断を期待します。
809 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 22:42:37
以下、邪馬台国は「なかった」禁止↓
810 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 22:45:27
ハッケヨ〜イ!「なかった」「なかった」
811 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 22:46:58
>>803 @魏志倭人伝
A箸
B天平時代
これでいいでつか?
812 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/19(金) 22:47:12
倭迹迹姫命が、箸が陰部に刺さって亡くなったという話は、以下のように考えています。 1、倭迹迹姫命は、陰部の出血を伴う産婦人科系の病気で死亡した(子宮筋腫、内膜症など)。 2、人々がそれを「箸」に結びつけたのは、箸は出雲(大国主)の象徴でもあったから。 3、箸の使用は400年頃からとされているが、出雲では早くから箸が使用されていたことから、 「出雲の人間=箸を使う」という認識が倭迹迹姫命の時代に存在していた可能性がある。 4、スサノオが出雲で上流から箸が流れてくるのを見て人がいることが分かる部分がある。 これは、「出雲では箸を使う」という考えが背景にあるように考えられる。 5、倭迹迹姫命は、「大国主を夫とする」と見られていたほどに大国主を畏れ祀っていた。 6、つまり、「箸墓」とは箸がほとんど普及していない時期に大国主(出雲=箸)を祭っていた 倭迹迹姫命のあだ名(箸の姫)がそのまま墓の名称になった可能性が高いと考えています。
813 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/19(金) 22:56:22
>>792 ここで大事なのは、「行」の一字じゃないと思う。又、「陸」の字を取っても意味が通じる。
ポイントは、東などの方向だと思うけど?
814 :
九州出身 :2007/01/19(金) 22:57:12
815 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/19(金) 22:57:22
>>793 >その計算で初代〜15代天皇の没年だせますか?
簡単に出せるよ。
初代の神武天皇の死亡年は
806−(50−1)*10.56=289
第15代応神天皇
806―(50−15)*10.56=436
台与を山幸彦の奥さん豊玉姫神(とよたまひめのかみ)と考え
806−(50+1)*10.56=267
まあ、13歳で最高指導者になれた台与だから、20年くらいは頑張って旦那と一緒に生きれたかもね。
トヨタン・・・
恵也 ◆o4NEPA8feAはスルーで
818 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/19(金) 23:02:21
>>794 >問題は七千余里をどうやって計測したか
狗邪韓国と帯方郡での天体観測で計測したもの。
当時の測定誤差はプラマイ500里くらいはあるようだがね。
>>808 むしろ相反しあう説を私は両方とも聞きたいけどなぁ
もちろん罵倒合戦や侮辱的な言葉を相手に投げるのは勘弁だが
恵也 ◆o4NEPA8feAはスルーで
821 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 23:08:34
>>813 >ここで大事なのは、「行」の一字じゃないと思う。
どうして?そう思った理由は?
>、「陸」の字を取っても意味が通じる。
通じるからさっき説明したのでしょう。 では陸を付けても意味が通じるの?
>ポイントは、東などの方向だと思うけど?
また思っちゃうの?
反論に主観や想像は厳禁と前から言ってるでしょう。
822 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/19(金) 23:11:43
>>801 >櫓によって 一日に進む距離が一定に。です
アンタは本当にバカ!
日本海では対馬海流があり、船自体が流されてしまう。
日によっても時間によっても風によっても、船の流され方はバラバラだ。
角川春樹氏の発案で野生号という再現した船で渡ろうとしたが、ずいぶん苦労したみたいだぜ。
−−−−−(引用開始)−−−−−
対馬海流は相当の早さで流れている。平均1.3ノットと言われるこの海流に、3ノット
程の古代船が航行するには大分難儀を強いられそうだが、経験によりあらかじめどう流さ
れるかがわかっていれば問題ない。
http://inoues.net/science/war.html
可哀想な気もするが、俺も恵也はスルーでよいかと
824 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 23:12:47
>>808 >プラムさん、お願いだから恵也はスルーしてくれないか。
まじめにあなたの説を聞きたいと思っている、私みたいな人間もいるのです。
あくまでここは、学問板。
プラムさんの賢明な判断を期待します。
スルーだけは約束できないかも
学問を納めようなどとは思っていない恵也 ◆o4NEPA8feAはスルーで
826 :
太国 :2007/01/19(金) 23:16:43
>>815 あの計算は大外れになる。目のご不自由な方が弓で的を射るようなもの。
当てるのは極めて困難。卑弥呼は神武以後の人物。
>>824 負担をかけて申し訳ございません。
できるだけスルーしようと意識してくださるだけでも結構です。
それだけでも、かなりこのスレが読みやすくなると思います。
828 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 23:19:15
>>822 >アンタは本当にバカ!
日本海では対馬海流があり、船自体が流されてしまう。
日によっても時間によっても風によっても、船の流され方はバラバラだ。
角川春樹氏の発案で野生号という再現した船で渡ろうとしたが、ずいぶん苦労したみたいだぜ
バカでも何でもいいけで
野生号のことを承知でカキコしています。
貴方の場合 渡海する前に誤訳が生じているからそんな意見が出てしまう事をここに記します。
レスはいらないから
古神道の権威たる太国さんに頼みがある 太国さんも恵也はスルーしてくれないか このスレを正常化したいと思う 貴殿の協力なしにはなしえない
830 :
九州出身 :2007/01/19(金) 23:23:11
831 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 23:25:24
みなさん!恵也さんにバンバン質問して下さい><
832 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/19(金) 23:27:54
>>821 東南陸行 東南至 東行至 南至
この4つは同じ意味だと思う。ただ、陸行だけが、水行を含んでないだけで。
たて分けているという事は他の3つは陸行に限らないんでしょう。
何故言葉を違わせてるのかは、恐らく韻を踏んでいるんだと思うよ。
古代中国の韻には詳しくないけど。韻は踏むんじゃない?
833 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 23:30:07
>>恵也先生 根源的思考を身につけるコツを教えて下さい。 それと先生の実用新案は実用的ですか。
834 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 23:35:31
>>829 ブラムと豚国を信奉している貴方、
頭大丈夫ですか?
835 :
九州出身 :2007/01/19(金) 23:35:51
>>812 >箸は出雲(大国主)の象徴 とははじめて聞いた(笑)
大国主は天皇家に国譲り(表向きは国譲りだが・・・)したんでしょ?
その大国主とももそ姫がどうして関係あるんだか・・
836 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 23:40:44
>>812 モモちゃんが結婚したのは
×大国主
○大物主
837 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/19(金) 23:42:24
陸行何日、水行何日、というのはただの目安に過ぎない。 定期航路じゃあるまいし、きちっとその日時に到着する事などあり得ない。 誤差は当時の常識の範疇で、暗黙の了解の下、このように記されたものだと思う。
838 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 23:42:45
恵也さん、ブラムと豚野郎に屈しないで下さい。 こいつら、ただのの異常妄想基地外ジジイですから。
839 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 23:44:33
>>792 あなたの言っていることもちっともわからない。
>『行』の動詞も、
(学校へ行く)と同じ、家→学校→家 と いう表現方法となるわけです
では、たとえば、「天国に行く」の場合は、家→天国→家となるわけ?
けっこう身勝手な解釈だと思うが。
倭人伝の里程・日程の解釈は、およそ出尽くしている感じがあるが、
あなたの場合は、いわゆる放射説でいいわけかな。
伊都国が基点となるわけかな?
放射説の場合は、北九州説の人が採用するけれども、これは要するに
北九州の範囲に邪馬台国をおさめようとしている。
「到」の文字がその根拠とされたりするわけだが。
でも、たとえば、狗邪韓国でそういう放射説的な記述はない。
末盧国や伊都国までは完全に連続している。
突然、放射説のような方向に持っていくのは身勝手な解釈と言える。
それに、不弥国に行っていないのに、不弥国までの距離を書いた理由もわからない。
ほかに近くに国はなかったのか。どうして、わざわざ不弥国だけ距離を書いた
のだろう。
おおざっぱでいいから、末盧国から邪馬台国までの行程を示してみて!
840 :
九州出身 :2007/01/19(金) 23:45:14
>>837 のわけないでしょ。
おたく国史って知ってる?
>>838 恵也擁護だけはやめましょうよ(あとの二人も擁護の必要なしだが)
842 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 23:47:40
今日は『開化』からです。 『開化』 【邊城左郡太守文帝元嘉二十五年………(省略)……樂安光城ウ■史水“開化”邊城七懸…】 (新校本宋書/志/巻三十六 志第二十六/州郡二) 『崇神』 【…文苑英華巻八八四姚“崇神”道碑作「貞文」】 (新校本新唐書/列傳/巻一百二十四 列傳第四十九)
恵也さん
逃亡ですか?
逃げずに
>>833 に答えて!!
844 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/19(金) 23:53:32
>>825 >学問を納めようなどとは思っていない恵也
あなたの考える学問なんて、屁のツッパリにもならんまま事だろう。
第一面白くもないし、俺は眠たくなるよ。
845 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 23:53:58
>>578 腹イテー!!!!!!!!!!!!!!!!!!
久々に笑ろうた!!!!!!!!!!!!!!!!
こいつ狂ってるの?
846 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 23:56:27
>>839 >では、たとえば、「天国に行く」の場合は、家→天国→家となるわけ?
けっこう身勝手な解釈だと思うが。
実際に天国と言う場所が存在し行くことが可能ならね
>あなたの場合は、いわゆる放射説でいいわけかな。
伊都国が基点となるわけかな?
放射説? 商業本の読みすぎかと(榎本なんとかさん)でしたっけ?
基点は帯方郡ですよ
847 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/19(金) 23:56:33
>>835 たしかに、強引な推論ですね。いわゆる「仮説」論法です。
1、大胆な仮説を一本釣りで想定する(推論、演繹を根拠にしない)。
2、仮説をもとに整合する事実を組み合わせる。
3、仮説全体を検証する。
という方法で、全体としてスジの通った考えなら、それもアリというものです。
事実から「推論、演繹する」といっても、厳密には細かな仮説の組み合わせで、「知らないうちに
こんなに遠くに来ちゃった。」となることも多々あります。
自説が仮説であるというのは、安本がよく言うことですが、「仮説」からの出発というのは、
推論、演繹を度外視して、一本釣りするという組み立て方でもあるという視点が、安本には
欠けていると思います。
ただ、出雲で早くから箸が使われていた証拠がないところが、苦しいところです。
だから、「仮説」です。現在、証拠待ちです。
恵也はスルー
849 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 23:58:46
>>837 >陸行何日、水行何日、というのはただの目安に過ぎない。
定期航路じゃあるまいし、きちっとその日時に到着する事などあり得ない。
誤差は当時の常識の範疇で、暗黙の了解の下、このように記されたものだと思う。
あくまでも想像で押し通すつもりですか?
850 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/20(土) 00:01:40
851 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/20(土) 00:04:32
>>828 >貴方の場合 渡海する前に誤訳が生じているからそんな意見が出てしまう事をここに記します。
自分でマトモナ翻訳も出来ない程度の人間が、他人の翻訳を誤訳と断言するとは
自分で情けないと思わんのかね?
852 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 00:05:16
>>847 >ただ、出雲で早くから箸が使われていた証拠がないところが、苦しいところです。
>だから、「仮説」です。現在、証拠待ちです。
それは仮説ではなく「妄想」と言います。
時代考証も無しに奈良時代の古事記編者が不用意に箸のエピソードを挿入してしまったからだろ。
まるで日本伝来前の火縄銃が南総里見八犬伝出てくるようにね。
>>恵也 ◆o4NEPA8feA 涙を拭いて☆がんばれ♪ファイトッ
854 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/20(土) 00:07:33
>>850 >本当に内容のない知ったかぶりしか出来ないお方だ。
このようなレスに対する回答を持ち合わせていないので失礼します。
855 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/20(土) 00:07:49
>>834 >それと先生の実用新案は実用的ですか。
実用的だと思ったんだけどね・・・・
80社くらいに手紙を出し、10社ほど返事は着たが、市場調査を1社
だけがやってくれたが無理だった様だ。
残念ながら・・・・
レスいらないってのをレスされたって迷惑なんだよなー。 ストーカーなのか? どうしても構って欲しいのか?
857 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/20(土) 00:10:45
>>840 のわけないでしょ。 おたく国史って知ってる?
何が「わけない」のか解らんが、
陸行10日のつもりが、天候不順で12日かかれば、陸行10日は立派な目安だろう。
水行10日のつもりが天候不順で12日かかれば、陸行10日は立派な目安だろう。
どこが「のわけないでしょ。 おたく国史って知ってる? 」なのだ。
>>恵也先生 根源的思考を身につけるコツを教えて下さい
859 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/20(土) 00:16:24
>>837 >定期航路じゃあるまいし、きちっとその日時に到着する事などあり得ない。
俺は実際に旅行した魏の使節団の、概略の日数だと思う。
100人くらいの使節団が、小さな船をチャーターしバラバラになったり、集まったりして
邪馬台国まで長い、1ヶ月以上の徒歩の苦難の旅をしたのだろう。
その実績がなければ、動物や植物の状態をこれだけ詳しく書けるものじゃない。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
木では、クス、トチ、クスノキ、ボケ、クヌギ、スギ、カシ、ヤマグワ、カエデなどがある。
竹では、シノダケ、ヤダケ、カヅラダケがあります。
また、ショウガ、タチバナ、サンショウ、ミョウガなどもある。しかし、賞味することをしらない。
オオザルやクロキジもいます。
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
恵也とやらはこのスレでは不要。 専用スレ立てたらいかがかね。
861 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/20(土) 00:18:58
>>852 「箸墓」の名称が、古墳築造時期に遡る可能性も否定できない。
1、記紀の地名説話は、ほとんどが後の時代に考えられたもので、地名自体は古くから
存在していたと考えられる。但し、地名説話も記紀成立以前から存在していたと考えられる。
2、箸墓も、「箸墓」という古くからの名称の説明を後の時代に考えたものとするのが、合理的。
箸が刺さって死んだという事実が存在したとは考えられない。
3、箸墓古墳ができた当時に別の名称があったのであれば、その名称が異伝として残った
はずであり、異伝さえない以上、後の時代に名称が決められたとは考えにくい。
4、そのように考えていくと、「箸墓」の名称が、古墳築造時期に遡る可能性は否定できない。
まあ、あくまでも「仮説」なんですけど。
862 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 00:20:16
>>860 恵也さんに論破されるとすぐコレだものwwww
>>855 新たな実用新案の申請の予定はありますか。
864 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 00:25:57
>>恵也先生 誰にも邪魔されずに、先生の優れた説をもとに議論をしたいです。 新スレ立てていただけませんでしょうか。
867 :
斉木 :2007/01/20(土) 00:30:59
>>865 恵也さんに論破されるとすぐコレだものwwww
ママのおっぱいでも吸ってろ。
不自然な恵也さん擁護もスルーで
869 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/20(土) 00:41:16
>>661 >箸が刺さって死んだという事実が存在したとは考えられない。
全く可能性がないわけじゃない。
俺の実体験からいうと、マンホールに乗せてあったベニヤ板がずれてて、金玉をモロに打ったことがある
あの衝撃の時に、箸でも立っててたら完全にアウトだ。
子供が箸を加えてて倒れ、喉に突き刺さってたのを医者が見逃し裁判沙汰になった事件もある。
医者が箸に気が付いても、たぶん死んだと思うけどね。
箸墓伝説の可能性はないわけじゃない。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
くわえていた綿菓子の割り箸が、転んだとき喉に刺さって亡くなった男の子がいました。
この事故を医療過誤だと考える人がいます。
http://home.catv.ne.jp/dd/fumisan/silver/masuda/060408fude.htm
870 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 00:43:59
日本をしょって立つのは三沢さんか恵也さんだな
871 :
斉木 :2007/01/20(土) 00:47:11
実際に古墳時代初期の遺跡から箸が出てきたことってありますかね?
872 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/20(土) 00:47:44
>>863 >新たな実用新案の申請の予定はありますか。
友人のアイデアだが、頭の中にあるんだけど、俺の力不足で文章がまとまらん。
このアイデアは実用新案の対象にならず、ボランティアになりそうだ。
まあ、やれるだけは最後までやろうとは思ってるけど・・・
874 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/20(土) 00:57:24
あと、出雲の人間(王族)が箸を使っていたと考える根拠は、 1、箸自体の起源がかなり古いことから、早くに日本に伝わった可能性も十分にある。 2、出雲は新羅との関連が強いと考えられ、箸も早くに伝わった可能性がある。 3、朝鮮からの小銅鐸(伊都国、奴国の地域で多数発見されている)が出雲で発展した。 4、スサノオが新羅を経由して、出雲に天下ったという異伝もある。 5、スサノオの出雲での話(川を箸が流れていた)。 なんかもあります。 基本的には、発展段階論を否定して、地域ごとの発展の差を大きく見る考えが根底にあります。 箸も全国一律に普及したのではなく、地域差が大きかったのではないかと考えています。
875 :
斉木 :2007/01/20(土) 01:02:41
弥生〜古墳時代にかけての出雲の遺跡で箸は出土していますかね?
奈良時代だと箸は用便器具ではなかったけか
877 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/20(土) 01:40:03
878 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 01:40:52
もっとまともに話したいよね・・ わざわざレスに馬鹿とか罵倒しないでいいのに。
879 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/01/20(土) 05:49:49
>>878 恵也さんはそういった行き過ぎは多少あるが、切り口そのものは引用などを用いてそういい加減ではない。
引用があるということは、例え少数派の意見であれ、そういった説も世の中にある程度認知されたりもしてるという事。
けして自分一人で勝手な論を展開してるとばかりは言い切れない。ので、
むやみに否定するのはやめましょう。否定するのであれば代わりに誰もが納得いく論を自身が展開すべきでしょう。
880 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 05:50:04
>>814 箸墓ミステリー
箸墓は倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)の墓とされている。
そして畿内説は、この倭迹迹姫命こそが卑弥呼だという。
クイズの答え
@以下の文書はどこからの引用か?
倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣有屋室父母兄弟臥息異処以朱丹塗其身體如中國用粉也食飲用邊豆手食
⇒魏志倭人伝
訳:倭の地は温暖で、一年中生野菜を食べています。倭国の人々は皆裸足で歩いており、家屋には居
室があって、父母兄弟の寝室は別々の部屋になっています。倭国の人々が朱丹を身体に塗る様子は、
中国人の(白)粉を用いる方法と同じです。飲食の際は、茶碗から直に手で食べています。
つまり魏志倭人伝で邪馬台国の人々は箸を使わず茶碗から直に手で食べていたと書かれている。
A倭迹迹姫命が自殺に用いた凶器は何か?
⇒箸
881 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 05:50:44
B小野妹子が帰国後に都の貴族に食事の作法を伝えたのはいつか? ⇒飛鳥時代 お箸が日本で初めて一般の食事に使われたのは7世紀初め。初めてお箸を食事に使ったのは聖徳太子 だ。聖徳太子は中国(随)に使節を送り、そこで使節団は王朝の人々に歓迎を受けたが、王朝の人た ちが箸を使って食事をしているのを見て大変驚いたと記録にある。日本に戻った使節からこの報告を 受けた聖徳太子も驚き、今度中国の使節を日本に招待する時のために、大急ぎで箸を使った食事の作 法を朝廷の人に習わせた。日本で食事に箸を使う風習が始まった。 8世紀頃から箸食の文化は一般に広がった。そのころの箸は唐箸(からはし)と呼ばれる現在使われ ているような二本一組の箸になっていた。箸という字が「竹かんむり」でできているように竹製だっ た。日本最古の箸の発掘はこの時代のものである。 たしかに日本古来の箸として二本一組の箸ではなく「折箸」という、細く削った一本の竹をピンセッ トのように折り曲げたものもが使われていたという説もあり、当時の箸は一般の人が使うものではな く神様が使う神器で、または天皇だけが使うことを許されたものだとしているが、出土もなく記録に もなく神社説話を元にしている。 またこの折箸の実物をみたところまさにピンセットであり、強度・大きさからいってこれを陰部に刺 す事は不可能である。 ことことからいっても箸墓の説話は後代のもので、卑弥呼は箸すら知らなかったはずなのだ。
882 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 05:57:49
883 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 06:20:41
箸墓を発掘すれば、絶対に出るんだよ!箸は! 邪馬台国は巻向にあったんだから。
884 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 06:32:43
↑ 出ては不味いんじゃないか? 魏志倭人伝には「手食」とかかれてるんだろ?(藁
885 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 06:37:33
箸なんてどうでもいいってことだよ 整理すると、倭人は7世紀まで箸を使ってなかった。なのにそれ以前のヤマトトトビモモソヒメノミコトの話に箸が出てくるのはおかしい。 要するにこの話は跡付け。
886 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 06:40:21
地名は簡単に変わらないと思うぞ。箸をしらない卑弥呼が「箸墓」に葬られる のはどういうことだ? もともと箸墓の名があったから、後代に説話を造作した のだろう。つまり「箸墓」は昔からそう呼ばれていたんだよ。 でなければヤマトトトビモモソヒメノミコトの墓かどうかも怪しくなる。
887 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 06:53:28
だから魏志倭人伝の記述はウソなんだよ。邪馬台国は巻向にあったんだから。
888 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 07:06:32
つーか、その前に記紀のヤマトトトビモモソヒメノミコトの話に箸が出てくる 点の不備をまず再評価しろ。このバカ畿内説。
889 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/20(土) 07:16:50
『箸のはなし』本田氏著書より参照 日本に箸が入ってきたのは弥生時代と言われている。
890 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 07:22:31
>>889 で、どこから出土してまつか? 九州? 大和?
891 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/20(土) 07:36:35
>>889 わかりません。
細い木や竹は出土する可能性、かなり低いんじゃないの?
892 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/20(土) 07:52:51
>>890 出土例あったよ!
日本最古の箸は七世紀
(飛鳥板蓋宮 藤原宮から出土)
と、言うことは
それ以前から使用されていた物証にもなりますな。
一般に普及する前は、神事用に使われていたみたい。
893 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 08:06:01
これはどうだッ! @ モモソヒメが箸で陰部を撞いて亡くなったのは崇神天皇即位10年の秋である。このモモソヒメや崇神天皇が西暦でいつごろの人かは、はっきりとは判らない。 A いっぽう、遣隋使小野妹子らにより箸が初めて中国から日本にもたらされたのは、推古天皇・聖徳太子の時代であり、西暦では7世紀初めであることがはっきりしている。日本では、これよりも前には、箸は存在していなかった。 したがって@Aを勘案するなら、モモソヒメや崇神天皇は7世紀以降の人物であり、 モモソヒメの墓である箸墓が造られたのは、7世紀以降ということになる。以上。 どうだッ! 謎だった箸墓築造年代の解明に、大きな手がかりだぞッ!
894 :
太国 :2007/01/20(土) 08:09:10
崇神が7世紀以降になるわけはない。これは大間違い。
895 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 08:12:03
推論のどこが間違いか、理由を言ってくれないと・・・
896 :
太国 :2007/01/20(土) 08:18:12
>>895 朝飯食うから、簡単に。古事記、日本書紀成立が8世紀前半。
崇神が7世紀以降で、その間100年前後だ。次代の垂任〜記紀成立のころ
元明あたりまで100年くらいで経過するには、あまりにも代数が多数すぎない
かね? 崇神は実年代が3世紀の人物。
崇神即位 237年 同崩御 259年
897 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 08:24:44
推論のやり方のどこが悪かったか、それを言ってほしかったのになあ・・・ でもまあいいや、おれも朝メシ食お〜♪
898 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 08:46:52
え、と・・・。 じゃあ畿内説の無駄に偉い学者さん達は、後世の俗説を元にありもしない お箸が出てこないのを「発掘屋の馬鹿」とかのたまってるということですね? じゃあ風評被害で訴えてもいいのですね?
↑ ??? 意味サパーリ分からないでつ
900 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 09:03:03
>>892 7世紀以前でないとだめじゃないか。聖徳太子の時代は出て当然。
卑弥呼がつかってないと・・・しかしそれだと魏志倭人伝とは合わない・・・
901 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 09:05:43
ついに畿内説最大の危機到来??? > 箸論争
902 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 09:50:23
むむ、鋭いが、箸1本ならどうとでも・・・・フッ
903 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/20(土) 09:54:44
『手食』にしても、食の為の道具として箸の有無を議論されているのであって、箸が他の用途に使用されていた場合には この『食手』の記事と『箸』の結び付きは無くなってしまう。 そもそも 箸墓伝説をストレートに机上で取り扱う事自体が不自然だと考えますが。
>>893-897 二つの前提を書く。
1 モモソヒメの、「箸で死亡、箸墓づくり」伝承は、史実である。
2 「7世紀、遣隋使により箸はじめて渡来」伝承、これも史実である。
このように、伝承がともに史実(=真)だとする前提に立つかぎり、
>893が下した結論:「モモソヒメは7世紀以降の人物」は、正しい。
論理のやり方としては、決して間違っていない。
だが、前提1、2のどちらかが史実ではない(=偽)のであれば、
論理学的には、どのように工夫しても真なる結論は、導きだせない。
ゆえに、>893が下した「モモソヒメは7世紀以降の人物」が明白に
虚偽である、というのであれば、1、2の前提のいずれかが(または
両方ともが)すでに正しくなかった、ということになる。
905 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 10:17:58
>>903 じゃあ箸墓事件で、ガイシャ(モモソヒメ)の凶器は割れたんですかい? 警部。
まさか、まだ日本にもなかった凶器が使われたなんてことはないでしょうね?
906 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 10:22:11
>>902 まさかフジムラではあるまいな。フィリピン産やカナダ産のラワン材はバレバレだぞ。>箸捏造
907 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 10:24:20
>>905 犯人はひょっとして、不法入国した中国からの… WWW
908 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 10:27:02
>>904 記紀の中だけでまず整合性がとれていないですね。
魏志倭人伝は更に追い討ちをかける展開。
記紀を書いた時に箸と杼を間違えたのでは?
そうすれば、スサノオの乱行の時の話と一緒に使える。
909 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 10:39:59
>>905 いや、自殺・他殺とは言い切れない。本官は事故説を取りたい(何
910 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/20(土) 10:48:56
>>905 日本で食事用に箸が普及したのは七世紀と言うこと。
>>905 本件は事故死
オナピー中過って箸を深く挿入し、出血多量による死亡。
………………………………引用開始……………………
古代日本で箸は大人の玩具として重宝された。
912 :
あっくん :2007/01/20(土) 11:02:30
みなさんの好きな古田武彦風発想でいくと、 ハシマンコは何らかの歴史的事実の比喩なんだよ。
913 :
大和 :2007/01/20(土) 11:03:40
新板がたつまえに。
仕事を持つ身ではResが早くて、ついていけません。しばし退場。
>>304 さん。
新井氏新論読んでおきます。
ニックネーム「昔の304」さんで書き込みいたします。
安満宮山鏡で、後日再論を。
>>奴国さん。
>>367 をよく読んで理解しておきます。又、単発ですがResさせていただきます。
ご教示宜しくです。
>>プラム さん。
結構トリッキー論、気に入っております。隠れた努力さすがです、お気張りやす。
914 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/20(土) 11:31:40
大和さん >お気張りやす。 ありがとう またね!
915 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 12:23:07
箸墓古墳は、「はしはか」とルビ振ってある本が多いが、おそらく昔の 読み方は、「はしのはか」、だったであろう。 最近、考古学界では、紀伝を丸呑みの古墳名ではまずい、と判断してか、 地元の人たちの呼称に倣い、「箸中山古墳」と表記するようになってきたが、 あの古墳の所在地名(大字)が、じつは、「箸中」(はしなか)なのだ。 箸中は、ハシノハカ → ハシナカ と転訛して出来た地名に間違いない。 (ハシハカ → ハシナカ の転訛は考えにくい) というのは、江戸時代より昔は、箸中村あたりの地名が、まさに「箸墓」 と呼ばれていたのである。これは平安期、永保年間の記録が残っている。 ・永保元年(1081)付 大般若経奥書 (五条市二見町、生蓮寺蔵) 「大和国城上郡箸墓郷内承暦寺御経」
916 :
あっくん :2007/01/20(土) 12:31:19
・当時、複数国があった ・モモソヒメの国では箸を使ってなかった ・しかし、箸を使う習慣のある国があった、 ・でその国のヤツにモモソヒメは嫌らしいやり方で殺された っていうのはどうですか?
と言うより、 ・モモちゃんは何か鋭利な棒状のもので怪我して死亡した。 ・当時、まだ箸はなかった。 ・後世、箸が輸入された。 ・その箸の形状がモモちゃんに刺さったものと似ていると 当時の人々が感じた。 ・結果、モモちゃんは箸が刺さって死んだという伝承が成立した。 こうなるんじゃない?
919 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 13:15:47
>>915 <承前>
室町期、永享年間の記録には、「箸墓荘」とある。いまの箸中集落と
同じ所であろう。永享以前より、興福寺鎮守・春日社への夕御供料所
とされていた様子が窺える。
・永享8年(1436)大東家文書 旬及夕御供催進記録(春日大社文書6)
「箸墓荘<皆損>」
箸墓の“ハシ”が指しているのは食べるときにつかう箸じゃなくて、 占いか何かに使う棒かなにかだって言うのはときどき見るけどね。 何でそうなるのかは知らないけど。
卑弥呼は誰だスレその2が立っていたんですね。 でも、せっかくの情報が分散しちゃうので 卑弥呼関連、邪馬台国関連は このドン来いに統一するべきだと思いますがねぇ。
922 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 16:34:05
>>916 ということは・モモソヒメの国は祟神天皇の国だから、それ以外にも大王が
いる国が3〜4世紀に畿内にあったということか?
923 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 16:43:59
頭が痛いが、邪馬台国は巻向にあったのだ!ならぬものはなりませぬ。
924 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 17:04:32
>>918 では
「箸墓」の記載は記紀編纂者の書き間違い
「モモソヒメの箸の説話」も記紀編纂者の書き間違い
モモソヒメの名前や家族関係も間違えないだろうね?
箸=食事用ってのに限定するのが無理っぽいのでは それ以前では農業用や火箸等なら、日本にも存在してたらしいし
926 :
大和 :2007/01/20(土) 17:08:17
本日はResが余り進んでなかったので参加する機会ができた。出戻りです。
>>892 プラム さん
書紀編纂時は今の箸状のものは糞べらに使っていたらしいですよ。
福岡鴻臚館で大量に出たらしい8世紀前半。当時は籌木と称したらしい
(発掘された日本列島・2003 写真付き)
さすがにミソ・クソは一緒にしないでしょう。
927 :
大和 :2007/01/20(土) 17:15:21
奴国さん、こんにちは。
>>367 序文の三角縁神獣鏡>いまだに魏鏡説が存在・・・
これは、明帝が下賜した鏡を含めて、曹魏の治世領域地内製作鏡を魏鏡とひと
括りで言い表すものですか。それとも下賜鏡という性質上、魏の職能として存
在したとする官職右尚方作でないと認められないとするものですか?。
私は公孫氏支配下の半島も魏領にはいり、列島出土の方格規矩鏡・画文帯・斜
辺縁の全部若しくは大半が半島製作と考えております。但し、証拠はなし、西
川寿勝氏に追随。
注文していた岩波文庫「日本書紀」が届きました。 これでようやく古代史勉強のスタートラインに立てました。 しっかり読みこなしていきたいと思います。
929 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 17:30:48
>>928 本気で勉強したいなら自ら通販より自ら本屋に行ったほうがいいよ。
930 :
大和 :2007/01/20(土) 19:25:07
書き込みテスト どうも動きがおかしい。いよいよか。
931 :
大和 :2007/01/20(土) 19:32:28
304 さん。どうもです。 景初三年方格規矩鏡・景初三年画文帯神獣鏡・景初三年三角縁神獣鏡・景初四年 斜辺盤龍鏡、正始元年三角縁神獣鏡。これらは王蒙の『新』以降の時代の代表的 な鏡型が見られ、それも各鏡型とも所属する鏡型を代表するかのように主に1枚、 多くて2枚、画文帯だけが3枚報告されている。景初四年銘鏡のみ国産とされた かどうか存じ上げませんが鏡型に1〜2枚から3枚の極、限られた枚数ですが各 鏡型に共通した現象です。なんらかの意図を感じますね。
>>924 記紀の記述は正しいが<ハシ>=<箸>ではないという推論なのだが・・・
933 :
大和 :2007/01/20(土) 21:22:35
そうか、サーバー不良ではなく周の東遷か。ではしっかりお留守番と。 でも都が移って放棄された都にいてもいいことないか。羅生門なみの 鬼が出るかもしれん。くわばらくわばらは幽霊か。
934 :
逃げ腰の留守番 :2007/01/20(土) 21:41:24
935 :
九州出身 :2007/01/20(土) 21:49:58
936 :
九州出身 :2007/01/20(土) 21:50:54
訂正 828⇒928
937 :
逃げ腰の留守番 :2007/01/20(土) 21:55:12
938 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 22:00:25
岡崎久彦氏は、日本人と韓国人を「同祖」だと思っているようだが、間違っている。
岡崎久彦:『なぜ、日本人は韓国人が嫌いなのか』
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31805481 日本人と韓国人は、まったく別種の民族である。言語も異なっている。
日本語と韓国語は似ていない。
岡崎氏は、韓国人がワイ族の子孫であることを知らないようである。
古代カラ半島北部に、ワイ族という、倭人とは別種の民族が住んでいたことも
知らないのではないか。
韓国人はワイ族の子孫なのである。
書籍名:『なぜ、日本人は韓国人が嫌いなのか。 隣の国で考えたこと』
価格:980円(税込)
<本の内容>
第1章 日本人の好きな国・嫌いな国
第2章 日本人の常識の空白
第3章 日本語に一番近い言葉 (←間違い)
第4章 日本人の唯一の親類 (←間違い)
第5章 統一新羅と日本
第6章 日本と韓国の歴史の岐路
第7章 近代化の神話
終章『韓国の人々に訴える』
939 :
逃げ腰の留守番 :2007/01/20(土) 22:04:43
940 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 22:08:38
>>926 大和さん
>
>>892 プラム さん
書紀編纂時は今の箸状のものは糞べらに使っていたらしいですよ。
福岡鴻臚館で大量に出たらしい8世紀前半。当時は籌木と称したらしい
(発掘された日本列島・2003 写真付き)
さすがにミソ・クソは一緒にしないでしょう。
ありがとう 資料は逃げないからじっくり食文化でも探ってみます。
941 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 22:09:10
942 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/20(土) 22:09:56
943 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 22:13:14
■三韓の朝貢と応神天皇の涙 応神天皇が23歳の時、つまり神功皇后の摂政時代の23年(2倍年暦では47年。西暦385年)の夏、くて、弥州流(みする)、 莫古(まくこ)という3人が百済国主の使いとして、貢物をもって日本にやって来た。その時、新羅からの調使(みつぎのひと)も 一緒だった。このことを神功皇后(皇太后)も応神天皇も大いに喜んでこう言われた。 「先皇である仲哀天皇が望見されようとした国々の人が、今やわが国に貢物をもってやって来た。先帝が生前にこれを見ることが できなかったのは、まことに痛ましいことである」 そして、応神天皇の顔(龍顔)からは涙がはらはらとこぼれた。 この光景を見、この言葉を聞いて、群臣たちは雄図半(なかば)にして亡くなられた仲哀天皇と、それを痛まれる皇后と応神天皇の心を 察して、誰も涙を流さない者はなかったという。 この記録に登場する『新羅(シラキ)からの調使』というのは、ワイ族(朝鮮人)の国である辰韓(辰国。志羅紀領=北部) ではなく、倭人の国・志羅紀からの使節団であろう。神功皇后の志羅紀出兵によって辰韓は滅ぼされ、辰韓を支配していた金奈勿一派は、 おそらく高句麗領内に逃げ込んだのだろう。 神功皇后の志羅紀出兵の後、ワイ族に支配されていた志羅紀は解放され、任那に避難していた志羅紀の豪族たちはふたたび志羅紀に 戻ったようである。そして、志羅紀は任那日本府の管理下に置かれたようだ。 神功皇后による最初の志羅紀出兵は西暦363年である。ワイ族の金奈勿が志羅紀を侵略したのが356年であるから、 その7年後に出兵したわけだ。しかし、西暦385年に百済と志羅紀からの使節団が朝貢に来たにもかかわらず、その6年後の391年に、 応神天皇はふたたび志羅紀に軍を派遣し、志羅紀を占領しているのである。 これは、385年から390年までの期間に、高句麗に逃げていた金奈勿一派が高句麗の軍事支援を受けて、また志羅紀を侵略したからであろう。 西暦300年代の半島世界は、政治的にひじょうに不安定な地域だったのだ。
944 :
太国 :2007/01/20(土) 22:22:48
>>943 神功と應神の時代はいずれも3倍暦。應神23歳は実年代375年でこの年皇后崩御。
945 :
大和 :2007/01/20(土) 22:38:37
プラムさんこんばんは。少しだけですが出戻りです。 あまりResが進んでないので調子にのって書き込んでいたらサーバーOUTとか。 急いでyahooで検索、どうもメンテナンス?ということで落ち着いた。 しかし多方面からの切り口いいですね。景初4年銘鏡帝国説、UP戴いた韓伝に のす明帝3年条「得天正其以建寅之月為正始元年正月以建丑月為後十二月」。 この記事がどうして景初3年12月の後段に挟まっているのでしょうね。この辺 りを解決しないと景初四年銘鏡が作成された過程もわからないと。
946 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/20(土) 23:22:14
>>927 大和さんこんばんわ。
1、朝鮮で発見される鏡の枚数が少なすぎる(紀元前から圧倒的に日本より少ない)。
朝鮮では、日本のような鏡信仰はなかったと思います。
2、画文帯にしても楽浪で同向式が1枚見つかったのみで、日本の数十枚も「楽浪製」と
するのは無理がある。むしろ、日本から持ち込まれたと見るほうが自然。
3、同位体比では、中国産と朝鮮産に明確な違いがあるので、中国産のものが下賜品と
見たほうが自然です。
4、方格規矩鏡・画文帯・斜縁など鏡が多種多様であるのは、需要の地と供給の地が同じと
考える根拠になると思います。
947 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/20(土) 23:35:19
>>938 第3章の「 日本語に一番近い言葉」は読みました。
大半が全然ダメだと思いました。
1、文法の類似性は高いけど、語彙の違いが大きすぎることを無視しすぎ。
2、漢語表現での語彙の類似性を述べている部分は、論外。元が朝鮮語ではない。
3、音韻法則が重要でないというのも、暴論。類似性がないことを直視すべし。
4、基礎語彙を含めた単語全般が「風化する」とかも、論外。
5、この前提で、言語学会の通説に挑む無謀さは、岡崎氏ならではですね。
948 :
大和 :2007/01/21(日) 00:31:10
>>946 奴国さん。有難うございます。
>序文の三角縁神獣鏡>いまだに魏鏡説が存在・・・
の意に於いて、殆ど半島独自での製作・使用習慣はないとのこ、畿内洛陽
周辺での製作を念頭に10か条を示唆されたということでよろしいですか。
1・2・4、は了解いたしました。
>3は同位体比では、中国産と朝鮮産に明確な違いがあるので・・・
3は保留にし勉強させてください。ちなみに、「中国産と朝鮮産」の鏡型
を明示していただければありがたいです。10か条を理解するためによろ
しくです。(1000UP時は当板13がたてばそこで、立たなければ「神奈川
県民さん」の卑弥呼板にUPでお願い致します)
>>948 中国と朝鮮の鉛の違いは、『東アジアの古代文化』129号の新井論文参照。
そこで、掲載されている鏡の一覧表で大まかな区分が可能であると思います。
新井は、中国産と朝鮮産の区別は可能だが、朝鮮と日本は同じ鉛を使っているので厳密には
どちらで製造したのかは確定しないとするも、三角縁を発見の多い日本製であろうとしています。
ただ、日本で舶載鏡を溶かして別の鏡を作るときに
1、新たに鉛を使用する必要があるのか。
2、使用した場合に同位体比への影響はどうなるのか。
を検討しないと、中国の同位体比であっても日本製の可能性が否定できないのではないか、
という疑問があります。この点は、私の知識不足が原因ですが。
今のところ、新井の一覧表で中国鏡と推測されても、確定ではないと考えています。
ただ、朝鮮産の鉛が使われているものは、「中国製ではない」ことはほぼ確定と見ています。
950 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 01:16:30
その 『東アジアの古代文化』129号の新井論文の信憑性というか評価はどうなのか? 管見では考古学陣営には黙殺されているようにも思うが、気のせいでしょうか
951 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/01/21(日) 02:43:13
新井のデーターは他の金属考古学の学者も共有しているようなので、基本的に信頼できる と考えています。 金属考古学の成果を特に畿内説が黙殺してきたことは、村上も『古墳時代像を見直す』 で厳しく批判しています。鉄器の九州優位は60年代から明らかであったのを、最近まで ほとんどの畿内説論者が無視してきた経緯を村上は書いています。 鉄器は、畿内説論者でも認める学者が増えてきたけど、同位体比のデーターは黙殺 されていますね。まあ、魏鏡説自体が、「最高レベルの腫れ物」のような扱いなので、 鏡の問題に言及すること自体がタブーになっているような感じもしますが。
952 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 04:43:26
コーヒータイム。 向野田古墳 …熊本県宇土市 全長98mの前方後円墳。4世紀後半の築造。 竪穴式石室に、長さ4mの舟形石棺が納められ、30歳代の女性の人骨が出土。 石棺の中からは、内行花文鏡、方格規矩鳥文鏡、鳥獣鏡の三面の鏡。 さらに、碧玉製車輪石1個、硬玉製勾玉4個、碧玉製管玉83個、 ガラス製小玉94個、貝輪20個が副葬されていた。 棺の外の石室からは、長剣1本(118cm)、短剣3本、直刀4本、刀子78本、 鉄斧3本、鉄鎌1本などが発掘された。 卑弥呼の時代からは遠いのだが、なんか気になる。
953 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 10:43:26
>>940 >当時は籌木と称したらしい
ではなぜ記紀編纂者達は「箸」ではなく「籌木」と書かなかったのか?
地元の人々は「箸墓」ではなく「籌木墓」と呼ばなかったのか?
まず地名に「箸」墓の字があったからこそ、説話が作られたのではないのだろうか?
954 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/21(日) 11:05:07
>>945 大和さん
景初三年の帝国側のドタバタ劇はおもしろいですよ〜。
そんなタイミングの朝献ですから
955 :
太国 :2007/01/21(日) 11:16:42
>>642 プラムさん
安寧天皇の件
ここの 四十餘年 というのはなんでしょう? 在位ですか、宝算ですか?
956 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 11:18:47
>>947 岡崎久彦を馬鹿にするけど
これでも彼は安倍首相の知恵袋だからなw
だからこそ、問題なんだが...
自分は安倍首相の保守思想を胡散臭く感じるのはそのせいだがな。
957 :
一応九州王朝説 :2007/01/21(日) 11:19:16
>>951 中世以降は普通に放射年代つかってますがねw
古代史だけ異常
958 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/21(日) 11:26:13
>>355 >そう、大和盆地には、昔、大きな湖があった。
葦原の中つ国とは...そういうことである。
水の豊富な葦生い茂る大和(湖)の土地に
比定されるのだ。
どうよ?
どうよ?と言われても、『アシハラノナカツクニ』の何処に葦が沢山生えてるとかいてあるの?
葦だらけじゃ 人は住めない。
『アシハラノナカツクニ』って 単に(本州)のことだろう。
それとも、奈良盆地特有の植物かい?
959 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/21(日) 11:29:12
ごめん
書き込むスレ間違えた。
>>958 のレスに対し お詫びいたします。 スマソでした。
960 :
一応九州王朝説 :2007/01/21(日) 11:31:27
あ、同位体比の話ですか。失礼。 まあ、理科学データ無視乃至否定の基調は同じか。
961 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 11:40:26
でも記紀の「葦原中国」って、何の説明もなく突然出てきますよね。
962 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/21(日) 11:44:59
>>961 >でも記紀の「葦原中国」って、何の説明もなく突然出てきますよね。
淡路島なんて突然どころではないだろう?
何でいきなり(淡路島)?って感じで。
963 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 11:48:22
葦原ってのは、湿地地帯だろう? 大和盆地がそういうところだったのかもしれんが これは、大和盆地にかぎらず あちこちにあったと思うべき。
964 :
大和 :2007/01/21(日) 12:11:12
>>952 さん。大和といいます。
>「箸」ではなく「籌木」と書かなかったのか?
NHKではミソもクソモ一緒にしていたらしい。
このあたりは、石野博信編・初期古墳と大和の考古学「倭人手食考」高倉洋彰氏
が詳しい。NHKのテレビ製作では太宰府風食膳に箸が置かれていた。なぜ置か
れたかは検討することなく疑問も生じなかった。今は漢籍「礼紀」により疑問視
している。と書かれている。
でご質問の件は、
>>940 の>当時は籌木と称したらしい。は私、
>>926 の発言です。
どうして書かなかったかは文化庁に聞いてみてはいかがでしょうか。文化庁編・
朝日新聞刊行でした。
965 :
大和 :2007/01/21(日) 12:15:20
>>949 奴国 さん。有難うございました。後日まとめてです。
966 :
大和 :2007/01/21(日) 12:46:35
>>954 プラムさん。
景初二年の論功行賞劇は知っておりますが。景初3年ドタバタ劇は見目せ
ずですね。主役、太守劉夏・劉マ・王頎は景初三年十二月条に関わる人選。
二年劇は参加したが三年劇は参加せずです。なんてねまた勉強しときます。
967 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/21(日) 14:38:55
>>966 大和さん
>景初二年の論功行賞劇は知っておりますが。景初3年ドタバタ劇は見目せ
ずですね。主役、太守劉夏・劉マ・王頎は景初三年十二月条に関わる人選。
二年劇は参加したが三年劇は参加せずです。なんてねまた勉強しときます。
景初三年元日に崩御した明帝の祥月命日法要を何時行うかで、相当もめたみたいです。
こんなところに景初四年(決して否定出来ない)の裏技が眠っているのです。
景初四年の文字が刻まれた△鏡。現在(国産説、魏説)は少数意見で、楽浪製の粗悪品で
固まっているようですね。 私もその点は同意です。
そうなんだ・・・
969 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 16:57:29
では、畿内説になるのか?
970 :
大和 :2007/01/21(日) 17:29:51
>>967 プラムさん。
>景初三年元日に崩御した明帝の祥月命日法要を何時行うかで、
過去Res、>景初三年は始まってます。は了解しましたが、どうもモヤモヤが
吹っ切れない。本来景初二年十二月の後にくる、後十二月がなぜ景初三年十
二月のあとにくるかの如く記載されているのか。この記載があるが故、景初
四年銘鏡ができたとするプラム説大いに同意。陳寿の説法は×だがこれはい
ただき。だが本当にそうかなとしつこく疑う・・・。
971 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/21(日) 18:02:50
>>970 大和さん
>プラム説
違いますよ〜。結構この景初四年のタイムスケジュールを把握している人は多いし、
単に文章化されていないだけです。
(このスレも残り僅か
続きは“邪馬台国問題に終止符”スレにて)
972 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 19:00:39
「箸墓はなかった。」 「箸墓説話はなかった。」
973 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/21(日) 19:16:05
大和さん 『景初四年』の謎に関する意見を (邪馬台国に終止符 2)の NO378にカキコしておきました。
974 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 19:34:54
>楽浪製の粗悪品で 固まっているようですね 歴史捏造の現場に立ち会ってるみたいだね。 なんでそんな中国でも使われない大型鏡が楽浪あたりで大量に生産されて 倭国御用達なのかさっぱりわかんね・・・。
975 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 19:37:41
976 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 19:49:30
>>975 >うまくまとめられたサイト
そこ、邪馬台国関連では、最高水準のサイトですよ。
977 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 19:56:21
>>962 淡路島は泡ツ島がナマった言葉だろうねえ。
つまり、泡のように消えた島。海底火山の島。
978 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 20:04:21
>>975 それ読んだら、畿内説か九州説かどうかは分からないけど
畿内説のほうが有利なのかな?と思った。
どうよ?
979 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 21:10:56
どうよって・・・。 その板作った人が畿内説ってだけの話だよ。 典型的に九州の過小評価。年代決定だって、オーソドックス。 土器編年も疑問だったって言ってるが、最初から大声でじゃなくて、近年に なって再編し出してから言ってるだけ。結局更に精緻にしただけの話。
>>977 淡路島の語源は阿波(あわ)への路の島です。
981 :
一応九州王朝説 :2007/01/21(日) 22:28:03
淡島は博多湾
982 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 22:39:06
ハンパな島作って、吾恥じで、アワジだろ。
983 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/21(日) 23:26:23
>>980 >淡路島の語源は阿波(あわ)への路の島です。
じゃあ 淡路より阿波の方が古いんだね? じゃないと、その考えは矛盾するよ
>>980 でも、粟国造と淡道の屯倉で、字が違うんだよなあ