1 :
日本@名無史さん:
くまー
r -、,, - 、
__ ヽ/ ヽ__
くまー ,"- `ヽ, / ● l )
/ ● \__ (● ● i"
__/ ●)  ̄ )"__ "`;
.(_i ● ' __, '"  ̄`'(___/.i⌒i
丶_ ,i⌒i,,_(_/ ● i ̄ ̄ )_|__
__, '"  ̄ ヽ! ● ●) ミ~ ̄_● ヽ)
くまー (_/ ● i ∪ / ⊂{● | くまー
l ●( _●) (  ̄)- / -' i
/ヽ、 |∪l T i ● '")
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに!
♪邪馬台国、ドンと来い♪ 8(どうでもいいが実は9)
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1164632540/
2 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 15:38:32
気に入らなかったら、邪馬台国、ドンと来い!! 10 で立て直してくれ。
3 :
日本@名無史さん :2006/12/05(火) 16:05:15
今晩か明晩にでも、「邪馬台国」を入れない形で新スレを立てようと思っています。
興味がある方は覗いてみてください。
出先ですので、以上とりあえず。
私はもうここへは来ないと思います(苦笑)。Good Luck!
5 :
太国:2006/12/05(火) 16:34:20
前スレ(邪馬台国ドンと来い 8)から
>976 恵也
>記紀を書いた連中が、年齢に関しては適当にデマを書いただけの話
そんなことはない。この件で適当にデマを書いているのはむしろお前のほう
だろう? 確かに記紀双方は宝算が違うから、いずれかがおかしいことは間違い
ないが、記の編纂の後、紀の編纂に際して記の誤りを正したのが紀のほうなので
ある。記の編纂のころにもう原文の天皇紀、国紀等に太古の正確さが多少
失われていたことは否めない。記にはウガヤ朝の記述がなく、かたや古史古伝
には同朝が70数代とかで記述があり、どうやら文献の散逸とか焚書とかで
正確に記載が出来にくくなっていた事がうなずける。
このようなことに紀の編者は敏感であったはずで、先に出来た記の欠点の是正
を兼ねて紀が編纂されたものと考察すべきなのが、双方の宝算の相違なのである。
であるから、訂正的に改良が行われているべき紀の宝算は、記の記述を翻して
の、押しのけての記載内容であるからして、たかが10年追加の単純計算の論より
紀の文のそれはずっと確かな年数字である。
だいたい欠史八代間の年月日の数字を見て言えることは、その総てと言ってよい
くらい、日の数字が月の前半にある。このことは1ヶ月が当時は14日の2週間とか
現今の半月文であったということであり、恵也の言う適当にデマを書くならば、
なにも数字を月の前半に全部集合させる必要はなく、ランダムに全体的に散逸的
に日の数字記載をするほうがデマいかさまを隠匿出来やすいはずだ。ところが
紀の八代間の記述はそれに違い、ほぼ全部が月前半の14日までしかないので
ある。このことは当時2倍暦等を行っていた史実を語っていることになる。
であるからしてデマは、恵也のこの>976こそ、そうであると言わ猿を得ない。w
前スレで論破された畿内説をわざわざ入れたうえ
ここには来ないで別スレ作るという・・・畿内の基地害隔離スレか?
よかろう。
俺はスルーさせてもらうぜ
8 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/05(火) 19:39:31
こっちがドンコイの本物だったのね。向こうに書き込んで損しちゃった。
解らない人ばっかりだったみたい。
9 :
太国:2006/12/05(火) 20:02:53
10 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/05(火) 20:08:40
やっぱり本物スレは落着くワァ。なんて言うかなこう温泉につかってるような。
妄想というけど基本が出来てて初めて妄想を膨らませる段階に九州説はある。
妄想と基本思考との区別もつかないで混乱している、なにがし内説は
ただの被害妄想。
11 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 20:16:12
12 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 20:18:11
>>10 こいつは人を見下してばかりなんだよ。ろくな死に方しないと思う。
13 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 20:36:32
考古学的な大発見がなけりゃこの不毛な論争は終わらないだろうに・・・
分かってやってる
>>10は立派だよ
がんばれ
14 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/05(火) 20:42:47
>>13 喜んでいいのやら。ともかくご声援ありがとう。
15 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 20:52:06
自演乙
16 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/05(火) 20:57:24
>>15 自演ではありません。世の中には正視眼を持った人が居るものです。
17 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 21:01:18
九州ですがのしゃべり口ってカマっぽくね?
まあ、もともと九州ってのはオカマ、ホモの多いところだが。、
18 :
13:2006/12/05(火) 21:01:27
自演ではないよ
まあ俺は前スレ1000なのだが
タイトルだけ立派で何の中身もないとこだな
20 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 21:04:17
質問です。
九州ですが ◆cdEg7T5ias氏は、畿内説ですか?
21 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/05(火) 21:17:26
22 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 21:21:24
前スレで問題提起のあった「邪馬台国の女王」の問題、おもしろい。続けようじゃないか。
>南至邪馬台国、女王之所都、水行十日、陸行一月。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/wajin.html#top いままで何となくこの一節の「女王」=卑弥呼と思ってたが、俺にも先入観があったようだ。
ここの「女王」は、台与と考えるべきだろう。
だって卑弥呼はもうとっくに死んでるんだぜ。新女王は台与、それを中国側は知っている。
それに、「邪馬台国」は、魏志倭人伝でここだけしか出てこない。
卑弥呼が女王とは書いているが、卑弥呼が「邪馬台国の女王だ」とは書いていない。
卑弥呼が住んでいた所にそのまま新女王・台与も住んだ、とも書いてない。
「宗女」とは書いていて、親戚だとは思うが、同じ住所だっただろうか。
居場所が移動したのかもしれない。
23 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/05(火) 21:22:44
>>17 おたくドン来い9の方がホームでしょ?
おたくにふさわしーい、お膳立てが出来てるけど。
24 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 21:24:09
>>21 そうですよね。ならばスレタイからして、こちらを近畿隔離スレに
したほうが良かったのではないでしょうか?
25 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/05(火) 21:32:12
>>24 ほんとにね。隔離されるべきなのが今度はこっちに入り込んで来た。
僕は向こうでも質問されてるし、身は一つしかないつーの。
26 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 21:40:18
おいおい、今どうなってるんだ。
日本史板上位に邪馬台国関連スレ3つも上がってるぜ。
それに
>>4は、今晩か明晩にまた新スレ立てるって言ってるぜ。
そんなに乱発したら、中世史・近世史ファンから「引っ込め!古代史野郎!」って文句が出ねえか。
27 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 21:40:25
>>22 うむ、そうだ。倭王卑弥呼とは言ってるけど、文章を厳密に追うと
卑弥呼が邪馬台国の王とは書いていない。
28 :
古代史大好き:2006/12/05(火) 21:43:45
>>22 >「女王」は、台与と考えるべきだろう。
何の根拠もなしにただ思い込むのか?
「女王」の称号は、帝国側からの表現 よって「女王」と言えば(卑弥呼)オンリーだ
「イヨ」に女王の称号が下賜されたなどの記録はないけど
29 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 21:47:27
最後のほうでトヨは「為王」って書いてあるから女王だろう。
女王を卑弥呼限定にするほど厳密な言葉の定義で書いてるとは思えない。
30 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 21:48:20
卑弥呼が果たして「邪馬台国の女王」かどうか、それを議論してるんだ。
31 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 21:51:43
つまりトヨが女王之所都=邪馬台国在住であるなら、必ずしも先王卑弥呼が
邪馬台国とは限らないってことですね。確かにいえてるな。
32 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/05(火) 21:51:48
>>27 そんなの文脈からも解るでしょう。倭というのは対外的な、
各国に通じる呼び名なのでいちいち邪馬台国と書いてないだけで。
そんなことに異論がある人はじめて知った。
33 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 21:54:12
そうだ。卑弥呼の居場所が問題なんだ。
邪馬台国か? ひょっとしたら違うかもしれんぞ。
それと、居場所とお墓の場所も、同じ所だとは決めつけられないかもしれんぞ。
34 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 21:54:50
卑弥呼のあと立てた男王も邪馬台国とは限らないよね。
案外持ち回りだったりしてね。
35 :
古代史大好き:2006/12/05(火) 22:00:49
>>30 >卑弥呼が果たして「邪馬台国の女王」かどうか、それを議論してるんだ。
その前に邪馬台国の定義は?
36 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/05(火) 22:01:35
>>29 あのね、倭人伝のメインは女王卑弥呼が、魏王に、銅鏡100枚など貢物を貰った、
というところなの。魏王がこれほど邪馬台国を大事に思ってるから、
良い物を汝に与える、と言ってるように、恩着せがましく明王が特筆させてる
わけだから、女王は卑弥呼に決まってんの。
37 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 22:01:38
現女王トヨがいるところってことだろ
38 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 22:05:11
華奴蘇奴国は金沢?
巴利国はフランスだったりしてww
39 :
古代史大好き:2006/12/05(火) 22:05:43
>>32 >そんなの文脈からも解るでしょう。倭というのは対外的な、
各国に通じる呼び名なのでいちいち邪馬台国と書いてないだけで。
そんなことに異論がある人はじめて知った。
何を血迷ったことを
「倭」は帝国側が付けた名称 「倭」は漢字だぞ
40 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 22:07:26
定義って??
ああ、倭人伝は、正確には
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。」
だから「邪馬壹國」だよ。メンドーだから「邪馬台国」と便宜上書かせてくれ。
だって漢字変換、一発でできるし。
41 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 22:07:33
当時の倭は自分たちのことをなんて呼んだんだろうね?
それともワとかイとか呼んだのを、中国人が勝手に倭の字を
当てはめた呈だろうか?
42 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 22:09:52
>>36 >あのね、倭人伝のメインは女王卑弥呼が、魏王に、銅鏡100枚など貢物を貰った、
というところなの。魏王がこれほど邪馬台国を大事に思ってるから、
良い物を汝に与える、と言ってるように、恩着せがましく明王が特筆させてる
わけだから、女王は卑弥呼に決まってんの。
では、王朝に朝献した他所の国への下賜品の状況は?
43 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 22:14:20
君たちは何を言ってるんだ。
邪馬壹与國なんだよ
44 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 22:16:00
45 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 22:16:25
>あのね、倭人伝のメインは女王卑弥呼が、魏王に、銅鏡100枚など貢物を貰った、
というところなの。
だったら、倭の風俗描写なんか適当なんだろう。
46 :
古代史大好き:2006/12/05(火) 22:17:34
>>40 >「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。」
なぜ「南水行十日陸行一月至邪馬壹國女王之所都」と、かかなかったのか?
47 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 22:18:03
48 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/05(火) 22:18:16
>>39 またおねぼけになった振りをして。
対外的といったのは、魏が各国に対して諸外国に通じる
倭という名称を用いたと言う意味だから。
49 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/05(火) 22:22:23
>>42 言わんとしてる意味が不明。
「王朝に朝献した他所の国への下賜品の状況」???
何でそれが倭人伝に関係が???
【コテハントリオ】
恵也 西都原説らしい。
一日中、PCの前に座っているようである、余計なお世話であるが。
やたらと他人の文章を貼り付ける問題児。
ホームページの作者に、ちゃんと了解を得てるのか?
太国 九州王朝説。
何故か二倍暦に拘り、記紀の内容全てを、史実として復元できると主張。
正直、かなりヤバそうな人なので、私は完全に読み飛ばしてます。
皆さんはご自由に。
九州ですが 気持ちの悪い、馴れ馴れしい文章を書く。
プの別人格の可能性が高いと思われる。
宇佐説らしい。
NHKを、唯一の主張の根拠にしている困ったちゃん。
人間的には悪い人ではなさそうではある。
なお、邪馬台国スレの人気者?・プラムの主張について知りたい方は、
言語虫のホームページをご参照下さい。
常識に慣らされてしまった我々の眼を、思いっ切り醒ましてくれるような、
奇想天外な新説(珍説?)の数々を読むことができます。
なかなか大変な人だよ、プラムは。
52 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 22:34:25
>>33、
>>44 >それと、居場所とお墓の場所も、同じ所だとは決めつけられないかもしれんぞ。
> 東京に住んでた明治天皇のお墓は京都にあるよ。
そうですね。
卑弥呼の墓(冢)が邪馬台国にある、とは書いてないですね。奴国でも投馬国でもいいんじゃないかと。
場合によっては、戦った相手の狗奴国の中にあってもいいかと。
でも、そしたら将来、卑弥呼の墓が見つかって発掘されても、「ここが邪馬台国だ!」と言えなくなるわな。
53 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 22:34:26
しかし邪馬壹國は宮殿なんかもあまり、特別な描写してないね。
たいしたものではなかったんだろうか。
54 :
昨日のジョー:2006/12/05(火) 22:36:50
>>52 俺は多分、卑弥呼の墓はもう見つかったんだと思う。
だから逆に言うと今後見つかることはない。
そうでなければお上も枕を高くして眠れないだろうけんな。
55 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 22:45:45
56 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/05(火) 22:48:47
57 :
昨日のジョー:2006/12/05(火) 22:51:40
>>55 でも、そう思わない?卑弥呼の墓は今後永遠に見つからないんじゃないかって……。
58 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/05(火) 22:56:35
>>56 あっ。恵也さんこっちにいる。ドン来いスレ9で今日は来ないねって
みんな心配してましたよ。
59 :
太国:2006/12/05(火) 22:57:07
>>56 そんなの時間ないので読んでられない。いずれヒマの時でもちょいと見て
やろう。だいたいべらぼうに長い宝算では、イカサマだということを見て下さい
というような記紀の文ではないか? 八百長をやるならば、もっと巧妙にわから
ないように所作するのが常だろうが。
だからこんな長寿の天皇が仁徳ころまで続くのが人目で分かるくらい目立つのは
イカサマをやるための文章だったのではない。他に何かがあるからだ。
となればその何かとは2倍暦3倍暦とかであり、真に合理的な考察であるのだ。
60 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/05(火) 22:59:30
うーん。これで安心して寝れそう。
61 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 23:15:07
>>59 太国って、本当に馬鹿だな。
感情的な馬鹿が「合理的な考察」だって?
ププッ
62 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 23:22:10
登美が丘にはナガスネヒコの遺跡は残ってるのかな?
63 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/05(火) 23:24:13
>>52 >卑弥呼の墓(冢)が邪馬台国にある、とは書いてないですね。奴国でも投馬国でも
>いいんじゃないかと。 場合によっては、戦った相手の狗奴国の中にあってもいいかと。
常識的には個人が落ち着ける生まれた場所の近くか、晩年を過ごした場所。
弘法大師は四国で生まれ、和歌山の高野山に遺体を安置されてる。
その霊能者にあやかってお金持ちや大名が高野山を、お墓の山にしてしまった。
卑弥呼もその当時は最高の、霊能者。
西都原古墳群はその可能性を示唆してる感じがする。
古墳時代の初め頃に卑弥呼は死なれたんだからね。
しかし、上海の東という記述から、邪馬台国の中心地は宮崎市だったんだろう。
64 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 23:28:35
>>52 〇〇古墳群てのは、どこでもそうじゃないですか。
べつに西都原に限らないと思いますが。
65 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 23:30:44
失礼 上↑レス番つけ間違い
>>63に訂正 すまそ
66 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 23:44:51
>>65 全部糞チョン恵也の妄想だ。まともに相手にするとバカを見るぞ。
67 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/05(火) 23:51:29
68 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 23:52:22
69 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 23:58:11
あ、恵也さん、こっちにいたんだ。良かった〜♪
う〜ん、これこれ。この恵也さんブシ♪
やっぱ一日これを見ないと、心配で心配で…
よおし、ぐっすりと眠れそうだ♪〜
70 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/06(水) 00:20:09
71 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/06(水) 01:06:35
72 :
日本@名無史さん:2006/12/06(水) 01:19:26
いけすかねえヤツだな、ニニギって。
もっと優しく声をかけてやってもいいじゃねえかよ。
顔の美醜で、人間の中身が判るってんですかい。
それよか、恵也センセよ。
ニニギが聖陵団地近くに住んでたのは、ま、ええとしましょうや。
大問題は、ニニギの前住所だ!
いったい何処からやって来たんですかい?
やっぱ大陸方面ですかい? それとも南洋の島からですかい?
73 :
日本@名無史さん:2006/12/06(水) 02:11:38
このまま前進する事なくスレ消費してくんだろなー
まぁ読んでるだけで面白いからいいけど。
74 :
日本@名無史さん:2006/12/06(水) 02:55:32
>>72 邇邇芸命は、高天原からやってきた。
日向の高千穂のくしふる岳に降りてきた。
日本書紀にも古事記にも船を使ったとは書いてないから、陸続きだろう。
大陸も南洋の島もありえないんじゃないかな。
大和に行った饒速日命は、船に乗って高天原からやってきたと
日本書紀には書いてあるが。
ニギハヤヒの船はの飛行船みたいなものだったのか
宮崎市だけは絶対にない。その「上海の東」にこだわりすぎる
アフォが痛いな。
当時の中国の方眼はかなり正確だったから距離や方位はかなり正確だと
思ったほうがいい。なんせ発明されたのが1世紀。この書物が書かれた時代4世紀
にはかなり進んでいるんだ。
が、落とし穴。地球を平面だと思っていたので実際に丸い地球で歪みが
どんどん出てくる。つまり彼らの最新技術で測った上海の東は東南か東北側に
歪んでいる。古代の地図が、特に海岸線がわかりずらい島国で膨張しているのは
このため。(海岸線全部を測った伊能忠敬の功績は神。)
6世紀ごろの地図はアジアの海岸線が膨張気味なのだが、それでもかなり正確。
距離は、朝鮮半島からの距離から言って割と正確だと思われ。
77 :
日本@名無史さん:2006/12/06(水) 05:29:36
>>75 >ニギハヤヒの船はの飛行船みたいなものだったのか
まさか水素ガス発生装置はなかっただろう。プロペラやジェットエンジンやロケットも、可能性は低い。
だがな、鳥が空を飛ぶのは、古代人ももちろん知っていた。
で、10羽や20羽ではまだダメかもしれないが、何百羽という鳥、たとえばツルを集めるのだ。
それぞれのツルの足にヒモをくくりつけて、そのヒモを束ねていって、船に取り付けた数ヶ所のフックと連結させると、「飛行船」になる。
ツル一羽が、1kg程度を担当(=持ち上げ)できるとする。
船の重量が500kg、人間が60キロ、携行品40キロで、合計600kg。
すると、だいたい600羽ほどのツル君たちが、頑張って協力してくれれば……
おい、だれかTVプロデューサーと面識あるヤツ。紹介してくれ。頼む。
78 :
太国:2006/12/06(水) 10:01:26
>>61 馬鹿なんて言うなら、お前古代天皇の超長寿を2倍暦3倍暦を外してどのように
説明できるのか? 馬鹿だと言えるくらいならば、その他の合理的理由がお前に
出来、云えるのか? 人を馬鹿などど軽く言ってるが、お前が説明できないん
じゃぁ、お前はそれ以下だと言われても仕方あるまい。
じゃぁ、その超長寿の合理的理由を具体的に、ここで説明をやれ。それともお前
は讖緯説なのか〜? どうなんだよ? 出来ないと誰かに
「超馬鹿」と言われるぞ、そうならないように説明をしろ。出来ないのか?
コテハン無いのは逃げの1手のためだろう?
79 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/06(水) 10:49:14
80 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/06(水) 11:06:36
>>74 >大和に行った饒速日命は、船に乗って高天原からやってきたと
ニギハヤヒの命も大陸か朝鮮から追い出されて、船に乗って逃げ出した仲間だろう。
神武天皇と戦い、負けてしまったから臣下として仕えて大和の経済発展に尽くしたんだよ。
まあ、神武天皇を取り込んで九州王朝から独立し結論的には、九州王朝まで占領したけどな。
最高の戦略家だったのかも!
ーーーーー(引用開始)−−−−−
饒速日命は素戔鳴(すさのお)尊の子で神武天皇は饒速日命の娘婿として養子にきたのだと
いう結論を持たれました。
http://www.loops.jp/~asukaclub/hmemo/hmemo014.html
81 :
日本@名無史さん:2006/12/06(水) 12:22:57
>>78 2倍暦3倍暦のいったいどこが合理的なのか?
没年が月の前半の日が多いというだけじゃ説明にならんぞ。
82 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/06(水) 12:37:00
>>76 >つまり彼らの最新技術で測った上海の東は東南か東北側に歪んでいる
間違い!
最新技術とかで自分で誤魔化しをしてるのじゃないの。
現在の技術でさえ現在地を「上海の東であるかどうか調べる」には星か人工衛星を使わないと
調査方法はないでしょう。
どこか知らない場所に行って、どうやって本国からの距離、方向を調べるか自分の頭で考えなさい
星以外の最新技術とやらを教えてくれないかね?
それと当時の天文学者が全員、地球を平面だったと信じてたとは思えない。
ガリレオにしても、地面を球とする少数派の天文学者だったがエジプトのエラストテネス頃
紀元前200年頃には球だとするのが多数派じゃなかったのかい。
ピタゴラス派は球だと考えたようだけど古代中国でも球だと考えてた天文学者も存在してたと
思うぜ、歴史には残らなかったようだけど全員の考え全部が残るわけじゃない。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
地球が球形であるとの考え方は古代ギリシアからあった。
海岸に立って沖へ遠ざかる船をみていると、次第に船の姿が水平線下に没してみえる事実、
南から北へ旅すると、北極星の高度が次第に高くなるという事実などから、地球は丸いと
いう考え方が生まれたものと思われる。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/ES_CK_O1.html
83 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/06(水) 12:39:25
>>77 >だいたい600羽ほどのツル君たちが、頑張って協力してくれれば……
頑張らせるのが大変だ。
その前にツル君の言葉を覚えて、頑張ってもらうようにお願いしないと・・・
84 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/06(水) 12:45:47
>>78 >馬鹿なんて言うなら、お前古代天皇の超長寿を2倍暦3倍暦を外してどのように
どうして2倍暦とか3倍暦とか出来たのかを考えて書きなさい。
暖かい場所での、お米の二期作は日本で聞くけど、3期作なんて聞いた事がない。
そこまで考えないあなたは馬鹿に過ぎん。
85 :
太国:2006/12/06(水) 14:56:58
>>81 説明になる。月後半がない。それでストレートで2倍暦等だとはさすが
言わないが、ないということは八代間は14日(か15日)までしか日の数字が
なかったという文証になる。後半があるなら、八代間でたとえば20日とか28日
とか日の数字が少なくとも3〜4回くらいあって当然だ。
それが説明にならんならほぼ全部14日までしか数字がないのはどう説明
するんだ。説明ならんと豪語する自信あるならコテハンつけて解説しろ。聴いて
やるぞ。説明しなければ、お前はまるで説明が出来ないで否定している虚無言。
86 :
太国:2006/12/06(水) 15:26:41
>>84 お前の経験未熟が、そんなたわけたことを抜かしている。
その回答では説明になっていないではないか? それを舎人親王がデマ
とかで文書偽造をやったような口ぶりである。どこに舎人殿がそれに
関与した根拠があるのか? 説明してみろ。
なにも2倍暦3倍暦は農作に論拠が限ってはいない。天皇、朝廷の行事
は農作も大事だがこっちはそれ以下にならぬくらい彼らにとっては重要
なのだ。大祓いは6月の半年の区切りに行うのだ。穢れを祓いに祓って
新年を(つまり7月)迎えるのだ。当然2倍暦はあって然りである。
3倍暦だと4月分で1年であり、朝廷は5月を暦で使用するのを極端
に嫌っているのだ。勿論全部が全部そうではないが、3倍暦の使用に
あっては5月を避ける傾向は濃厚なのだ。紀の仏伝以前の記録を見れば
なるほどと思う位5月の記述が殆ど無い。あるのはまずは3倍暦でなく
2倍暦とか等倍暦とかの時代のはずだ。紀には次いで6月も少ない。
ということで、3倍暦では1ヶ月が14日で5月6月と11月を避けて運用
していたようだ。ということは、1年が
14×9=126日 で4ヵ月 126×3=378 378−365=13 で
うるう月が14日に近い−13日の行き過ぎを調整可能である。
綏天皇崩御は 5/10 の5月なのだ。だからこの天皇の世は3倍暦
を使用していなかったと解釈している。余はそのように論を組み立てた。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
古事記に曰く
「尓ち高天原皆暗く、葦原の中ツ国悉く闇く、此に因りて常夜往く、
是に萬の神の聲は狭蝿(五月蝿)なす満ち、萬の妖悉に発りき。」
87 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/06(水) 20:26:06
みんなこっちにいたね。ドン来い9は畿内説崩れの
完全な馬鹿スレに乗っ取られてるね。真面目な人もいて心を痛めてるだろうに。
何一つ邪馬台国のことには、まともに答えられないくせに、人を謗るのはうまいという
畿内説の常套手段なんだよね。難しい質問投げかけてきたから今頃、ほえ面かいてるかもよ。
88 :
日本@名無史さん:2006/12/06(水) 21:08:30
邪馬台国は畿内説は崩れると思う。
しかし、同時に邪馬台国は大和王権には
継承されなかったということだろう。
つまり、九州から畿内へ朝廷が移行したわけではない。
日本書紀の神武東征とは、朝廷や軍隊が東征したというような大規模なものではなく、
あくまでも、九州南部の日向の神武天皇が僅かな家来を引き連れて
畿内の王家に婿養子に行った話しだということ。
目的は畿内と日向の同盟で、その間にあった
筑紫・出雲などの勢力を打倒することだ。
しかし、畿内では、婿養子をとるのに反対する勢力が多くあり
一悶着があったんだろうね...だから、神武の兄も死んでいる。
とにかく、日本書紀を正しく読むことだな。
皇国史観の原因は古事記のほうであって、
日本書紀は当時の官僚たちが、日本を律令国家として
中国に宣伝することを目指した公正さを努力した歴史書物。
古事記のほうは、神道の祭祀者が神話的に書いた書物。
89 :
日本@名無史さん:2006/12/06(水) 22:35:10
>>88 それだと畿内を征服したという記紀の内容と整合しない。
畿内王朝があったなら、3種の神器の文化を受け入れるはずがない。
東遷後の北部九州が「権力の空白地」になっているように見える。
1、古墳時代に入る頃に終了している環濠集落が結構ある。
→破壊、殺戮の結果なのか、畿内への移住なのか?物部氏については
博多のあたりから大量に畿内に移住したことが伝承として残っている。
2、画文帯は、北部九州からは1枚も出ない。
→鏡を受けるれる権力が一時的に存在しなかったからと考えられる。
狗奴国の王族が北部九州を破壊して、邪馬台国を引き継いで畿内に遷都
したと考えれば、説明し易いと思う。
遷都の理由としては、新興王族による旧王族打破というのが、私の考え。
南部九州の神武伝承を認める点では、>>88とは一部共通する考え。
>>88 >とにかく、日本書紀を正しく読むことだな。
皇国史観の原因は古事記のほうであって、
日本書紀は当時の官僚たちが、日本を律令国家として
中国に宣伝することを目指した公正さを努力した歴史書物。
古事記のほうは、神道の祭祀者が神話的に書いた書物。
仮にだからといって
神武「紀」が史実を反映しているということにはなるまいよ。
『「紀」を正しく読め』とか、なんだかなー
91 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/07(木) 11:29:43
>>89 >鏡を受けるれる権力が一時的に存在しなかったからと考えられる。
むしろ流行が廃れたと見るべき。
もしくは戦禍で、権力者であってもそんな流行を追うどころじゃなくなったんだろう。
92 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 13:29:52
「旧唐書」で、日本の使節が唐の役人に「我々は倭国ではない。
もともと小国だった日本国が倭国を併合する形になった。
だから、我々の名称を倭国から日本国に改めろ」とか言っているだろう。
これって、神武天皇〜崇神天皇までの間
天皇家の所領が、大和盆地周辺に限られていたということ。
日本書紀を見れば分かる。その狭い範囲の話しか出てこないから。
しかも、この間の天皇の妃は、出雲国関係の人だ。
つまり、倭国は出雲王家が主導し、天皇家は出雲王家の女性を妻に向かえ
政略結婚で親戚関係になることで、出雲に従属していた。
それが崇神天皇の代になって、河内(現在の大坂)に拠点を移し
出雲・吉備を制圧し(出雲から倭国指導者の座を剥奪・国譲りの話として後に神話化)、
関東も制圧し、四道将軍を配置し
筑紫も制圧しその直後、半島の任那に朝貢を強要している。
日本書紀では崇神天皇は初めての天皇らしい天皇だといっている。
つまり、神武天皇と崇神天皇は同一人物ではない。
神武天皇は天皇家の最初の確認できる男系の先祖で畿内王権の最初の国王だった。
それ以前の畿内王権の国王は、天皇家の男系の先祖ではない。
そして、崇神天皇の代になって、倭国指導者の出雲国を倒し、
更に、九州北部から関東まで勢力を拡大、任那にも朝貢を迫るようになった。
まさに、崇神天皇は始めての日本国皇帝らしい人物だ。
93 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 14:37:05
>>85 記紀の編者が適当に日を決めたんだろ。
あるいは偶然か。
2倍暦3倍暦など根拠の無い妄想説の1つに過ぎない。
これに反論できるのかな?
それに、20日とか28日という日付が仮に3〜4回あったとしても、
その時は、あった天皇の代だけ当倍だったとでもするんだろ。
そういう人物が太国氏以外に現れたとき、太国氏はどうやって反論するのか、教えてくれないかな?
2倍暦3倍暦など、その程度の軽い軽い説の1つにしか過ぎない。
94 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 14:48:19
伊勢神功が別スレで随分と話題になっていましたが、
伊勢志摩は東海地方と畿内が結びついて海上交易が発達した時に重要になる土地。
卑弥呼の頃は、それほど重要視されてなかったんじゃないかな。
宇佐や宮崎高千穂にしても、鹿児島や沖縄までに及んで、初めて重視する土地じゃないのかな。
魏と交易を始めたばかりのクニには不必要かと思う。
95 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 15:06:29
邪馬台国が畿内かどうかは分からないけど
自称・日向出身の神武天皇が
出雲王家の娘と婚姻して、大和三輪山の小さな領主だったのは確実。
神武天皇から9代目の天皇までは、三輪山周辺の豪族で
最大勢力だった出雲国の王女を代々、妃に迎えていたのは確実だ。
それが10代目の崇神天皇の時、日本全国規模の政権になったということ。
だからこそ、河内に拠点を移した。
河内は瀬戸内海〜淀川〜琵琶湖を結ぶ水運の要所。
日本全国規模の政権を作ろうと思えば、必然とここを抑えなければいけない。
中世の豊臣秀吉も河内に大阪城を築き拠点とした。
96 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 15:14:14
確かにそうだな。だから徳川政権も大阪は重要地として扱った。
だが、それで邪馬台国の話に戻すと、そのラインに関係ない
北部九州に邪馬台国があったのが見えてこねえ?
97 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 15:17:38
祟神は河内に拠点は置いてません
98 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 15:20:27
つまり列島支配の中央集権国なら必然的に大阪か、それに近い畿内となるとは思うが、
魏志の邪馬台国はこのような大規模な列島支配の中央集権国家ではないと思う。
倭は道だってろくすっぽ整備されてないようなことが書いてある。
こんな交通整備網で大規模な倭に大規模な中央集権国家があったとは思えない。
そうなるとやはり小さい国、九州のどこかだと思うなあ。
99 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 15:21:13
そのラインってどのライン?詳細希望。
100 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 15:23:48
つまり
>>95が書いている日向→出雲→河内ライン
ああ、ちなみに大和王朝が中央集権と言っても、とってもムリしてるけどねw
101 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 15:25:29
どう無理してるの?意味がワカラン
102 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 15:27:53
つまりさ、唐を真似て条里制や律令制整備したわけだろ。
しかし、こんなの一昼一夜にしてできるわけないんだよね。
結局破綻してるもん。
ここらへん、明治の文明開化で欧州真似たところに似てるかななんて思うわけ。
103 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 15:35:12
邪馬台国を筆頭とする連合体の倭国は
中央集権国家ではないことくらい承知だよね?
数十カ国あまりが連なる巨大な連合体だったと理解していたが?
違うのかな?
104 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 15:38:11
つまり、邪馬台国論争で、みんなが大喧嘩する最大の理由が
邪馬台国=日本全国規模政権という認識があるから。
実際は邪馬台国は日本の地方政権の話。
しかも、日本全国を統一したのは
邪馬台国の東に広がっていた地域(畿内、出雲、吉備など)の国家で
邪馬台国でも狗奴国でのなかったということ。
105 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 15:39:55
>>103 日本の歴史って、常に数十カ国の連合体でしょう?
徳川政権だって、3百の藩からなる連合体。
邪馬台国も似たようなものと考えればよい。
106 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 15:40:31
何で邪馬台国は日本の地方政権の話と言い切れるの?
普通は倭国と聞けば西日本一帯でしょう?
九州に邪馬台国があったなんて何処にも書いていないが?
107 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 15:51:44
>>106 しつこいようだけどさ、中央集権国家成立のために一番物理的に必要なのは
大建築を擁する都でも、武器でもなくて、交通網整備なんですよ。
いや、もちろん海路も含めてだけどね。
かのローマがどうしてあれだけの支配力を行使できたかというとローマ人が
道路整備も含めて土木工学の天才だったから。
中央集権のために交通整備網が必要なのは今も同じ。日本の鉄道だってもとは
そのためにできたし、高速道路なんかもしょせん都市が田舎を搾取する手段。
108 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 15:54:24
邪馬台国時代も航海術はそれなりに持っていたと思うが?
なんせ比定住が祖の海人がいた地域ならなお更得手だと思うが?
109 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 15:58:25
魏志倭人伝読んだら、
邪馬台国は多くの国を束ねて、南の狗奴国と戦っているんだよな。
しかし、実はそれ以外にも国々があって
邪馬台国の東にも更に海を越えて、倭の大地が広がっている。
これって、どう考えても、邪馬台国は北九州で
そらにその東は出雲とか大和とか、
邪馬台国の影響力が届かない地域があったつーこと。
110 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 15:59:20
オオモノヌシやニニギが末っ子なのは遊牧や海人である比定住部族の影響が
大きいらしいね、
つまり移動をつずけた種族の多く住む地域が葦原なんじゃないですか?
交通手段はお手の物でしょう?
111 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 15:59:38
>>108 だとは思うが、陸路のほうがお粗末すぎる。末櫨でさえ、歩いている前の人が見えんほどの道とか
言ってるからなあ。
112 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 16:08:00
結局ヤリ逃げと一緒、言いっぱなしで根拠なし、
そんなんじゃ説得力なしですよ、糞振りまいてお終い。
113 :
太国:2006/12/07(木) 16:08:15
>>93 適当に決めただと? ↓ これでか
綏 1/3 1/8 5/10 10/11
安寧 1/7 7/3 12/6 8/1
懿徳 1/1 2/4 9/8 10/13
孝昭 2/12 1/9 8/5 8/14
孝安 1/14 1/7 1/9 9/13
孝靈 1/5 1/12 2/8 9/6
孝元 1/1 1/14 9/2 2/6
開化 1/14 11/12 4/9 10/3
日数をhとしたとき、全部 1≦h≦14 となっているではないか?
これはどういうことなんだよ?
おやおや20日とか25日とかなど月後半が、からきし皆無ではないか?
ひとつも妄想ではな〜い。お前の言う適当に決めたというのならばこの不等式
にはならんのだよ。紀は5月6月の記事が猫の額ほど少ないのだ。3倍暦を
やっていたのならば、当然のことだ。アパート、マンションで104号室を
毛嫌いして使わぬ建物が多くあるのと同様、高天原の五月蝿なす災いを回避
するために(
>>86)使用しなかったんだよ。
114 :
太国:2006/12/07(木) 16:10:57
>>113 言いわすれた 最初のタテ数字が立太子、次のタテ数字が即位、
次のそれが崩御、最後のタテ数字が葬儀だ・
115 :
太国:2006/12/07(木) 16:12:49
>>113 綏の崩御のみ5月がある。だからこの天皇の世は3倍暦はやらな
かったことになるようだ。
116 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 16:15:04
>お前の言う適当に決めたというのならばこの不等式にはならんのだよ。
それをどう証明するんだ?
偶然かもしれないし、月が欠けていく期間を編者が嫌っただけかもしれないだろ?
117 :
太国:2006/12/07(木) 16:23:38
>>116 偶然が月前半にしわよせになるか? なるわけがない。
最後の文は、余の論から借りて無理な否定のためのお前の苦しい言い逃れだよ。
118 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 16:24:22
九州説は、出雲や吉備を軽く見すぎてるんだよね。
この地の勢力が、東に伸びるにあたって、
大和を開発していったと考えるのは自然な事だと思う。
昔はワシントンもニューヨークもフィラデルフィアより田舎だった。
119 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 16:36:07
>>117 >偶然が月前半にしわよせになるか? なるわけがない。
これをちゃんと証明してみろ。
>>116も2倍暦3倍暦も、
>>113から導かれた、
同じくらい意味のない推論にしか過ぎない。
なんにせよ、
>>113を見て、3倍暦までねじ込むなんて酷いもんだな。
一体どこに説得力があるというのやら。
120 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 16:36:45
何月何日という記述にどれだけの信頼性が?
121 :
太国:2006/12/07(木) 16:40:37
でたらめ逝ってゴメンナサイ....
122 :
太国:2006/12/07(木) 16:50:10
>>119 証明できれば、もう何も言うことがなかろう。そうなれば臥海が認容するに
決まっている。ここは論議の場だ。そこまで言える奴は紀年論者にも滅多に
いないよ。余は証明したとまでいってはいないよ。有力論ではないかとの
解説だよ。
どうすんだ?2倍暦だけじゃぁタケウチノギネスの寿命はまだまだ長すぎ
ではないか? 3倍暦だと5代仕え、さらに現今の寿命内に入りこむ。
その世あたりには3倍でやっていたということさ。それを否定するのならば、
どういう理由でタケウチノギネスがこんなに長寿なのだ? ストレートじゃぁ
285歳だぞ? イカサマでないとしたときどのようにお前は合理的説明をつける?
あんたが他の連中でも言っても、あまり言わない証明とかいう言葉をしつこく
使ったということは、逆にこちらの言い分がある程度、力がある感化と直感する。
1≦h≦14 では1ヶ月が14日の2週間でやっていたということではないか?
ただ15日は記述はないが可能性として接着した日の数字から、1ヶ月が当時は
15日の半月であった可能性もあろうが?
123 :
太国:2006/12/07(木) 16:52:07
>>121 この者は余のニセ者です。あまり頻繁にニセ者が書きこみすれば
いったん静観しますので・・・。
124 :
日本@名無史さん :2006/12/07(木) 17:49:32
もう2倍歴、3倍歴の話は止めにしないか。
日本書記の8代の天皇の年齢を正当化するための無駄な
努力だし。
存在すら否定されている。
125 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 18:13:22
>>82 >>ガリレオにしても、地面を球とする少数派の天文学者だったが
ガリレオ(1564年生まれ)の生まれる40年前の1522年に
マゼランの部下が世界一周をして地球が球であることを実証しているので
少数派ではありえない。
126 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 18:34:48
>>122 >あんたが他の連中でも言っても、あまり言わない証明とかいう言葉をしつこく
>使ったということは、逆にこちらの言い分がある程度、力がある感化と直感する。
なんのこっちゃ。
>>113なんてのは、偶然でも故意でも片付く現象で、
そうではないというなら、証明してみろと言ったまで。
それを、こちらに分が無いと直感しただと?
ならば、
>>124の提案もあるし、
長引かせないように、次のレスで、ちゃんと証明してみな。
ぐだぐだと言い逃れせずにな。
127 :
サガミハラハラ:2006/12/07(木) 18:38:33
>>1242、3倍暦については、来春新しく出版される本にくわしく書かれていますのでその出版を待つのがいいと思います。
128 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 18:57:07
待つまでもない
何故なら事実だからだ
129 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 19:08:39
九分九厘書き上げた先月の段階とどうせ変わってないんだろうな
130 :
サガミハラハラ:2006/12/07(木) 19:26:19
はいそうです。
ちなみに、仮題「神功皇后の実在を証明する」です。
第一部 神功皇后の時代
第二部 日本書紀二倍年暦
付録 メジャーで辿る邪馬台国
となっております。
各部それそれ一冊の本となるべきところを、三つまとめて一冊という大変なお買い得となっております。
値段はまだきまっておりません。
サガミさんはもう出版社に原稿上げちゃったんですか?
132 :
太国:2006/12/07(木) 19:29:56
>>124 8代くらい増加させる甚大なる利害がありそうもない。
存在を肯定する論がここにある。
天皇の歴史をもっともっと古くしたいのなら、イカサマをやるならば、
100代とか1000代とか増加させなくては効果が薄い。単に1桁の代数増加など
では大して古くはできない。つまり存在を否定するほうがイカサマなのであ〜る。
10代にも満たない八代だからこそ存在がデタラメではないことを物語る。
紀年の研究は無駄ではない。女王国の真の成立年代の追究にも不可欠である。
努力をサボれと言いたいようなお前は、ココのスレから下落しろ。それとも
舎人親王らが8代を捏造したとかいう文書偽造の関与の根拠があるのか?
133 :
太国:2006/12/07(木) 19:35:35
>>126 紀の八代間の 1≦h≦14 の日の数字は重要な文証である。(hは日の数字)
証明証明とくやしかったら 15≦h≦30 の数字のないことの理由を説明しな。
お前が何を言おうと14日までしか記述がないんだよ。知れたことよ。
当時2倍暦等をやっていたということさ。お前の暦法では説明無理だろうな?w
134 :
太国:2006/12/07(木) 19:43:49
>>126 どうだい〜。w
>>122の力のところの文は、お前の腹内の本音をビシリ
と突いているだろう?ww
映画、演劇でもよくあるよなぁ〜。 真犯人が窮地に追いこまれたとき
に、その証拠証拠と言うんだよ。www
紀年に関して
お前の脳内の考察がデタラメである判明の文章だったから、何としても
否定に回らざるを得ない苦しいお前の胸の内が見え見えだっていうこと
(お前の本音)がねぇ〜。wwwww
推奨NGワード
陸行
水行
短里
長里
倍歴
136 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/07(木) 20:04:36
>>133太国さん
>紀の八代間の 1≦h≦14 の日の数字は重要な文証である。(hは日の数字)
この記述は確認しました。
そこでいくつかの質問です。
@何故、二倍暦を八代に使用したのか?
A二倍暦を九代に拡大使用しなかった理由は?
二倍暦を推奨する以上、これらの質問を理論的かつ合理的に説明して下さい。
137 :
太国:2006/12/07(木) 21:41:51
>>136 @ その八代間全部が2倍暦ではないようです。拙者は最初は仁徳以前が
2倍暦と考えていましたが、それではどうしても解決できない問題が
残ることが次第に知れて来たんですよ。
倉西の婆さんはそれは2倍暦では説明出来ないから、120年とかいう
自説に誘引してきたのですが、拙者は無理なる120年の追加とやらは
いくら数字が整化されつろは言え、その数字の件は黄金ではなく、
たまたま合っただけの黄銅的数字であり、採用に疑問に思っていました。
何が解決できないことかと言いますと、2倍暦では武内宿禰の寿命が
142歳余となりまだまだ長くおかしいと某スレ人からも疑問の声を頂き、
拙者も同感の意を強くしていましたし、他に皇后の出産が10歳の時に
なったり親子の系譜の逆転だったか?おかしな結果が多少なりとも出る
ことにさらに疑問を深めたのであります。これが3倍暦ではなかったか?と
の考えの始まりです。たとえば親が死んでる時代のその子が生まれるわけが
ないようなことで、そういう矛盾がわりかしあることが知れたので、こう
いう論に傾いて行ったということです。
A 9代というのは神武のことですか? 神武は3倍暦と観てますが、
どうやら9代間で2倍暦だったというのは、安寧、懿徳、開化です。
なぜか? 長くなりますので簡単に・・・数理的研究からです。
「孝」の字のつく天皇世は3倍暦だと思います。同様の研究からです。
具体的には日本書紀紀年法のスレとその過去スレ、及び2倍暦の真実の
過去スレを見れれば書きこんでありますが・・・。
結論的に言えば、佛伝以前は時代によって2倍、3倍、等倍暦を混交して運用
していたようだと考えざるを得ないということなのです。三つの期間は、
回数的に 5:5:5 の割合を算出しました。
138 :
太国:2006/12/07(木) 21:44:25
>>137 訂正
× 整化されつろは言え ○ 整化されてるとは言え
139 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 21:59:37
>>134 なんて頭の悪そうな書き込みだ。wwwww
ちなみに天武は40代天皇。
八代を含めるかどうかで代だけでも二割増、
年代は三割以上の増加になってるけどな。
実際に天武と繋がってない部分は、それよりもっと短いだろうし、
甚大な利害に近いものがあったとは十分に考えられるな。
140 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 22:02:22
という事で、妄想満載で根拠の無い
キモチワルイ2倍暦3倍暦は、
どこか隔離スレでも立てて論じてください。wwwww
141 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 22:24:07
3倍暦なんて思いつきより干支繰上げのほうが遥かに説得力あり
可能性も数億倍高い
142 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 22:27:45
2倍、3倍になってるのはレスのような気がする。
143 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/07(木) 22:35:04
太国さん 大事なところですので少し厳格にいきます
>神武、安寧、懿徳、開化
今 記紀の話ですよね? これはなんですか? 意味判りません。
144 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 22:41:00
太国さあ、酒はほどほどにしとけよ。w
145 :
太国:2006/12/07(木) 23:09:10
>>139 8代くらいで、そんな利害の埋め合わせが出来るなんて、考えたってあり
っこな〜い。なお2割増やして何のどでかい利害が埋まるのだな。
わらわせるなよ。w 納得できるものを具体的出すんだな?w
舎人親王がお前の考える文書偽造に関与したという根拠は、何なのかいな?
こんなこと今まで幾回も書きこんでいるが、うんと言える出した奴の回数は
0回で〜〜ま〜お前の脳ミソが0になる日を待つしかな〜い。www
146 :
太国:2006/12/07(木) 23:12:23
>>143 膨大になりますよ。時間かえて話すしかないかな?
やはり、過去スレは無理ですか? 以前読まれているかと思いましたが?
後日に・・・。
147 :
太国:2006/12/07(木) 23:15:05
>>141 あんたは讖緯説派だな? その説もあるそうな。
拙者は採用してないがね? 数億倍あるという根拠をどうぞ。
148 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 23:17:35
>>143 恵也氏みたいにどこぞのサイトを引用すればいいのかな?
歴史や系図を少しでも古くしようなんてヤカラはゴッドハンドだけではないぞ。
149 :
148:2006/12/07(木) 23:19:52
150 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/07(木) 23:27:42
>>146 >>148 言いたい事を簡単に言えば
「神武」とは外国語 記紀で扱えるしろものじゃあないでしょう。
そのところ意識しての便宜上「神武」と置き換えているのならいいけど
その前に
最低限、神武=カムヤマトイワレビコの証明ぐらい前置きしてから始めてくれよ
と、言うこと。
151 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/07(木) 23:30:44
152 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 23:31:33
>>147 数億倍の根拠、オタクの説が正解なのは限りなく零に近いという事。
日本史の場合、文献、考古学(実験も含む)等を駆使して一番可能性の高いものを
一応歴史的事実としている。つまり確率論に近いかもしれない(統計学を必要以上に振りかざすのも問題だが)
兎に角、自分に都合のいいように歴史を捻じ曲げるのは、どっかのしょーもない国の歴史教科書だ
なんか自分に言い聞かせてるみたいだな笑
154 :
太国:2006/12/07(木) 23:47:02
>>143 プラムさん 追伸 簡単ですまんですが
初代〜4代間を当初のとおり2倍暦であろうと考えてましたが、それだと
先ほど述べたとおり、親子関係にありえない矛盾が出るんですよ。
まずは2倍暦でやってごらんなさい。おかしいはずです。このことは
倉西のおばあさんに突かれたので矛盾を知ったのです。
半年以上経ってますので、過去スレを見ないと忘れてすぐにはっきりしま
せんが、安寧天皇が12歳で懿徳天皇を生んだことになるんであります。という
ことは安寧が11歳のときに皇后が身ごもったことになり、生物学的に2倍のみ
では考えにくいということになります。ここの二天皇世は2倍と観てますが
綏を等倍暦の余とすれば、懿徳は安寧が大人の25歳頃に生まれた皇子となり、
矛盾が解消されてきます。綏は5/10崩御ですから、紀に滅多に記述がない5月
の数字から3倍暦を否定し、今の2倍では考えにくいこととから等倍暦を
使っていたと考えました。3倍暦は5月は不使用と観てます。(
>>86)
こういうことで、2倍暦だけでは成立しないんですよ。
神武が3倍、綏が等倍(5/10の崩御の件)、安寧、懿徳は2倍暦なんです。
155 :
太国:2006/12/07(木) 23:49:14
>>152 あんた朝鮮の人かい?
眠いから明日言う。zzzzzzzzzzz
156 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 23:49:17
>安寧が11歳のときに皇后が身ごもったことになり、
だから3倍説って。wwwww
オタクね。w
オタクだから、人の話しを聞かないのね。wwwww
158 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 23:51:12
>>137 武内宿禰ってのは、本当に一人の人物なのか?
159 :
太国:2006/12/07(木) 23:51:52
zzzzzzzzzzzzzzzzzzz訂正zzzzzzzzzzzz
× の余 ○ の世
160 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 23:53:02
161 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/07(木) 23:55:35
太国さん
無理に年代を合わせる事は無いと思いますよ
「カムヤマトイワレビコ」その中に何人の人物が隠れ潜んでることか?
162 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 23:56:13
素直に親子関係が成立しないなら、真相は兄弟関係ではなかったのか、
とは考えないのか?
163 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/07(木) 23:58:08
>>158 その考え方、大事にした方が良いよ。
(*^_^*)
164 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 00:02:47
二倍暦か三倍暦かの話だけど、いわゆる欠史八代というのは、それが全部
本当に直系なのか?という疑問もある。
まず、日本書紀を編纂した人たちの立場になってみよう。
おそらく、彼らは、現在の畿内王権の王統が
何百年前、日向から婿に来た神武からだということは分かっていた。
それは象徴的なことで、後世へ言い伝えられてきたことのはず。
しかし、日本全国規模の政権を作った崇神までは、
出雲の王に従うただの地方の領主だったから、はっきりとした
ことが分からなかったのでは?つまり、こういう人はいたことは分かったが
親子関係・兄弟関係については、曖昧だった。
ただ、適当に直系でつないだ系図にした。
でも、崇神からは日本統一したから、話が違ってくる。
165 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 00:05:16
>>162 :日本@名無史さん :2006/12/07(木) 23:56:13
>素直に親子関係が成立しないなら、真相は兄弟関係ではなかったのか、
>とは考えないのか?
普通、兄弟だったのではと思う。もし、親子でも兄弟でもないのなら
崇神天皇から始まる皇統系図にしていたはずだけど、
神武からにしたということは、日向から入婿した神武の存在が象徴的だった。
166 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 00:07:30
>>164 崇神から成務まで親子関係だよ。
俺はこの辺も怪しいと思っている。
武内宿禰の問題があるから
167 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 00:14:14
>>166 武内宿禰も一つの謎だ。
武内宿禰は成務と同じ日に生まれたといっているが
この同じ日って、本当に同じ年という意味なのか?
それとも、同じ月日に生まれたというだけじゃないの?
168 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 00:27:28
同世代 開化・崇神・垂仁
同世代 景行・成務・仲哀・(武内宿禰)
同世代 応神
同世代 仁徳・履中・反正・允恭
>>166 何ともいえないが、年齢的に近いと思われる。
ヤマトタケルが双子というのと伝承が混同したのか?
169 :
168:2006/12/08(金) 00:29:44
170 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 00:59:04
日本書紀に、武内宿禰が自分の子に
武内宿禰と名付けたという記述ないか?
171 :
太国:2006/12/08(金) 08:01:03
>>164 古神道の秘密に属することなので、何故かは具体的にどうだとかは言えないが、
仁徳までは兄弟継承はやらないんですよ。一定時期では、これは厳しいんです。
兄弟継承はある時期が過ぎると許容されてやることになるんです。その時は
履中、反正、允恭の時です。
>>166さんのは怪しいはどうだか?正解です。
172 :
サガミハラハラ:2006/12/08(金) 08:25:59
私の年代計算によると、武内宿禰はAD317年ごろに生まれ、422年ごろまで生きていたことになります。
105歳ですので、常人よりも長生きであるが、古代でもそのくらいはホモサピエンスの体質として以上ではありません。(人間の寿命は120歳ぐらいまでと聞いたことがあります。)
今でしたら珍しくもない。
ただ、私の計算では、政務天皇の在位は7〜8年となります。つまり、水増しされていたということです。
173 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 09:56:48
宿禰は、臣・連などと同じような物では?
174 :
太国:2006/12/08(金) 10:13:21
>>164 それに当時兄弟継承ならば、その宝算の説明がより合理的にできましょうか?
なおさら無理になりそうに感じますが?
175 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 11:34:46
今後の歴史学会では
神武天皇は一応、実在しただろうという説が有力になるかもね。
神武・崇神同一人物説も消し飛ぶだろう。
今後の焦点は、古代の天皇の生きた時代が焦点。
東京大学の井上光貞氏は、崇神天皇を270年-290年ごろの人
安本美典は、崇神天皇を360年前後の人
この両者の意見によって、邪馬台国論争にも大きく影響すると思う。
自分は井上氏の意見を尊重したい。
安本氏は古事記のほうを重視しているように見られ
古事記というのは皇国史観の原因になった書物だと思うから
あまり尊重できない。
>古神道の秘密に属することなので、何故かは具体的にどうだとかは言えないが、
2000年前の古神道に通じる太国さんて凄い人なんだね。
177 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 12:35:54
畿内を考える上で、謎の1つが唐子や巻向の鉄の少なさ。
これをどう考えるのか?
鉄は未発掘の古墳に眠っているのか?
あるいは鉄なしで古墳や水路は作られたのか?
178 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 12:40:16
鉄は初めからないんやろ。
奈良の山んなかじゃ鉄はないでw
179 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 12:58:58
そうや、奈良は鉄なんて出ない。
でも、鉄が出なくても
飛鳥時代、奈良時代と日本の中心だった。
鉄が出る出ないは、あんまり関係ないように思う。
鉄が出ない土地でも、中心地にはなれる。
石油が出まくる中東ではなく、そうではないアメリカが中心地であるように。
180 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/08(金) 13:10:09
>>148 >歴史や系図を少しでも古くしようなんてヤカラはゴッドハンドだけではないぞ。
確かにいえてる。
記紀を書いた天皇家だけでもなく、人間の業が「少しでもよく思われたい」という
欲望を招くんだろう。
女の子に良く思われたいだけじゃなく、回り全部にたいして、そう思うのが男かも知れん。
背伸びしたら後で、ツジツマを合わせるのに苦労するのは判ってるのにね!
181 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/08(金) 13:26:44
>>158 >武内宿禰ってのは、本当に一人の人物なのか?
一人でしょう。
天皇の在位期間をムチャクチャに引き延ばしたから、怪物みたいな長生き人間になったけど
安本氏の推定値を使えば、現代人でも十分通用する程度の寿命だよ。
第12代景行天皇→第16代仁徳天皇まで西暦377年→西暦427年まで50年間仕えるのくらい
現在に人間ならヘッチャラだろう。
天皇陛下は、権力がありすぎて贅沢するからストレスと贅沢病で長生きは出来ん。
昔から一番長生きしてるのは坊主だという。
お経を読んで粗食で生きてたら大丈夫!
182 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/08(金) 13:47:02
>>164 >出雲の王に従うただの地方の領主だったから、
出雲の王に従っていたのなら、銅鐸宗教が大和政権にも入ってるはず。
鏡宗教しか信仰してないのだし、出雲の銅鐸は一度に滅ぼされて埋められてしまった。
大和政権が滅ぼし、銅鐸や銅剣をカッパラッテ三角縁神獣鏡に作り直したとしか思えん。
銅という材料費がタダなら神獣鏡も特別価格でお安く出来るぜ。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
神庭荒神谷から出土した358本の銅剣のうち、344本に刻まれていたX印が12個の加茂岩倉
銅鐸にも見つかった。この印は製作者のサインなのだろうか。
Xは現在から見ると「バツ」の意味のようだが、これを手紙の封に使うように「シメ」と
考えたらどうであろうか。もしかすると、神的なものを封印したのかもしれない。
銅鐸、銅剣ともにX印が付いている場所は、実際に用いた場合(銅鐸の場合は紐で吊るした時、
銅剣は柄を結び付けた時)には見えなくなってしまうのである。超不思議である。
http://www2.pref.shimane.jp/kodai/seidouno.html
183 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/08(金) 13:56:44
>>172 >(人間の寿命は120歳ぐらいまでと聞いたことがあります。)
今は死なれたが、屋久島だったかに124歳の男の方が居られた。
だから寿命的には150歳くらいまではあるんじゃないかね。
衛生や食べ物、運動にさえ気をつけてれば。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
「私は1875年生まれで、今年でもう130歳だよ。まぁそれを証明する公的な記録は何も
ないんだがね。」と言うWasimyさんは、思考力もいまだに鮮明であり、決してボケて
いるわけではないのである
http://kkeita5129.blog8.fc2.com/blog-entry-196.html
184 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/08(金) 14:10:45
>>177 >あるいは鉄なしで古墳や水路は作られたのか?
木でもずいぶん丈夫だよ。
硬くて水に沈んでしまうくらいの丈夫な木だったら、鉄と同じように使えるでしょう。
でも鉄と違って加工するのが大変だけどね、硬すぎて。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
島原半島の筏遺跡、又福岡板付遺跡などで「コメ痕」の土器が耕作具(木鍬)、収穫具
(石庖丁)又水田の一部が水路と共に発掘された、唐津の莱畑遺跡からも板付より古い
水田遺構が発見され、多量のコメも確認された。
近くでは八女市長崎より前三世紀の炭化米が出土した。いずれにしても日本の稲作の発祥
は北部九州である。
http://snkcda.cool.ne.jp/ookityousi/chapter2-1/chapter2-1.html
185 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/08(金) 14:12:55
>>175 >古事記というのは皇国史観の原因になった書物だと思うから
>あまり尊重できない。
皇国史観が悪いわけじゃなかろう。
悪用して戦争に使うのが悪いの!
186 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 14:15:20
187 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 14:39:53
>>182 出雲の王に従っていたというよりも
どちらかというと、出雲の国王のほうが有利だった程度じゃ?
あくまでも、畿内と出雲は別々で展開していたと見ている。
188 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 15:30:35
出雲で威勢が良かったタケミナカタ結局は東国の諏訪に逃亡したんだよな
出雲って大和からみて西なんだけど?
189 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 18:25:46
>>185 >皇国史観が悪いわけじゃなかろう。
>悪用して戦争に使うのが悪いの!
皇国史観ってのは日本独善、日本団結というためのものだから根本的に
外国との関係では相容れない。
190 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 18:31:12
古代史のサイトで、邪馬台国や日本書紀などのサイトを作ろうと思ったけど
いろいろ見ているうちに止めた!って感じだ。
そりゃ、こんなの教科書に断定して載せられんわな。
あまりにも説が多すぎて...
そもそも、邪馬台国論争ですら、単純に九州説・畿内説の
二者択一では分けられんわな。
実際、九州説も畿内説もそれぞれ複雑に説が分かれている。
確認できるだけでも、数十個の説に分けられ、
そのどれもが決め手にかける。
タイムマシンでも開発しないかぎり、永遠に不可能だわな。
191 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 18:35:28
>>190 だからってタイムマシンの開発開始を宣言したいのなら俺は君を止めたいと思うよ。
192 :
サガミハラハラ:2006/12/08(金) 18:41:03
邪馬台国は佐賀県小城市で確定間違いございません。
卑弥呼の墓は小城公園内桜ヶ岡です。
193 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 18:50:09
独善?団結?
外国との関係?グローバル化を国を捨てることと勘違いしているのかな?
194 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 18:57:14
確定してしまったらお仕舞いだ。見つからないことを前提に、見つかって欲しくないことを前提にみんな書き込みをしているのだから。
195 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 19:22:31
日本の古代史を探ろうとしたら
日本書紀の解明は絶対にしなきゃいかんわな。
西欧でも旧約聖書の解明に永遠に注いでいるようなものだ。
196 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 19:31:49
>>193 もともと天皇というのは外国を「敵」とみなした上で発達した対の概念だからね。
197 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 19:32:38
それに別に皇国史観なんかなくても日本の文化はある。
198 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 19:47:54
古墳の分布から考えて、
卑弥呼の時代に既に、大和三輪山から前方後円墳の兆しがあり、
そこから全国に政権が広がったのは明らかだわな。
問題は、本当に卑弥呼の国が大和王権になったかだ?
卑弥呼の国が北九州にあったとしても、
それが東征して、大和王権になったわけではない。
卑弥呼の国は、東からやってきた大和王権に吸収されたんじゃないのか?
199 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 19:49:21
>>198 >そこから全国に政権が広がったのは明らかだわな。
そんなのは「明らか」って言わないッ!
200 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 19:50:44
201 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/08(金) 21:27:09
>>198 >大和三輪山から前方後円墳の兆しがあり、そこから全国に政権が広がったのは明らかだわな。
全国に広がったとしたら、前方後円墳の前段階の小さないろんなタイプの物があるべき。
技術者が試みたであろう、試行錯誤の小さな古墳が存在すべき。
残念ながら畿内よりは、宮崎県の方がいろんなタイプの小さな前方後円墳は多いぜ。
畿内は完成したタイプの古墳のうち、評判のいい古墳を大金をかけて大規模にして作っただけ。
悪く言えば、持ちなれない金を持った奴の「成金趣味」
ーーーーー(引用開始)−−−−−
前方後円墳や方墳など、我が国で知られている古墳の形は、山陰の四隅突出型古墳を除き、全てある。
http://inoues.net/museum/saitobaru_museum.html
ここの畿内論者はよそのスレで
幼稚な個人の非難中傷を続けるんだからな。匿名掲示板をいいことに
どんなに考古学を掲げて立派なこと言ったところで、
最低レベルだよ
>>201 コピーしそこないがいっぱいあるだけかもしれんぜ
204 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 22:23:33
前方後円墳はイスラエルのマナの壷
205 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 03:40:32
恵也 ◆o4NEPA8feAって別すれで
論破されまくっていた奴じゃん。
206 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 03:44:49
邪馬台国は北九州にあった、
しかし、同時期に畿内で勢力を拡大していた
崇神天皇とその子孫に併合され、
その崇神天皇の子孫にヤマトの名前は奪われた。
卑弥呼の神話も、天照大神として
崇神天皇の子孫に奪われる形になってしまった。
これでOK。
>>205 論破というか・・・九州説唱えながら九州王朝も熊襲も知らない奴だから。
九州に住みながら、基本的な地元の知識に欠けていることから親は日本人では
ないのでは。
208 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 03:58:43
恵也 ◆o4NEPA8feAは朝鮮人かもね。
しかし、ここの畿内説の方々は
>>202のいうとおり。
よそに出張して必死になるよりここで「考古学の畿内説」説を
積み重ねるべきだね。
おなじ、似た説同士でいろんな面から語り合うほうが、
全く別の説と喧嘩して罵りあうよりよっぽど発展性があるから。
しかも、その考古学の畿内説が意見をいわず、ほとんど語られていないから
それを理由に金目当ての宣伝じゃないかなどと言われる。
210 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 04:27:07
自分の考えは、
中国の魏の物が多く発掘されるのは北九州。よって、卑弥呼の国はここ。
しかし、日本全国を統一したのは、
マキムク遺跡の出現から、卑弥呼と同時期に起こった
崇神天皇の畿内政権。
で、天照は卑弥呼がモデルだが、それは、
畿内政権の天皇家が、その北九州の卑弥呼の話を
自分たちの神話に無理やり盛り込んだと思う。
無理やり盛り込んだから、卑弥呼の話は整合性がとれないから
日本書紀では、神代の話として人間社会と別にした。
後の旧唐書では、「自分たちは倭国ではない。
倭国は倭の奴国の後裔で、自分たちは倭国とは別種で、日の出るところに
存在して日本国という。わが日本国は倭国を併合した」
って必死に発言したんだと思う。
211 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 05:03:59
魏志倭人伝に記された、
「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年」
の倭国乱を、「東遷」に伴うゴタゴタではないか──と想定する考え方があります。
この立場をとれば、卑弥呼の「共立」はその後のことなのですから、邪馬台国=畿内説が成り立ち得ます。
東遷に言及する九州説の諸説では、倭人伝の「倭国乱」は九州内でのゴタゴタ──と考えているのでしょうか? それでは弥生の高地性集落や環濠集落に対する説明が、うまくできないような気がします。
212 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 05:18:10
>>211 自分は神武東征は怪しいと思うが、
もし、神武天皇が存在するとしたら
卑弥呼の時代よりも前の時代だと思う。
だから、神武東征があったとしたら、卑弥呼の時代よりも前に
行われていなければならない。
ただ、倭国乱といっても、どの程度のものか分からない。
九州内のゴタゴタで、卑弥呼の時代よりも前に
日向から畿内へ旅立った豪族がいるのかもしれん。
ただ、記紀の神武の話は、畿内で土着の王家の入婿になって王位を継承したあとは、
大和三輪山周辺の狭い話しか出てこないので、
大軍で征服したのではなく、普通に畿内へ難民として流れて
入婿になったとしか思えんが、そんな奴が王家の入婿になれるのか?
よって、神武東征は本当かどうか確認しようがナイト思う。
213 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 05:25:45
神武記紀が、なんらかの史実の痕跡を残してるかどうか。
わたしは断片的な痕跡はあると思いたい人だが
今後研究がすすんでも証明は不能なのでしょうねえ
215 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 05:33:32
>>213 自分は、邪馬台国は北九州か九州中部だと思う。
しかし、その邪馬台国は
卑弥呼のいた同時期に畿内のマキムクに都市を作った崇神天皇(10代目)や
その子孫によって滅ぼされたのでは?と思う。
そして、その畿内王権は、後に
中国と交易するのに、その邪馬台国の後継国として振舞った。
つまり、自分は、邪馬台国は九州のどこかだと思うけど
日本を統一したのは、卑弥呼がいた同時代に畿内で勢力を拡大していた
崇神天皇という意見。
邪馬台国は日本を統一できなかったのでは?と思う。
216 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 05:50:54
>>215 天理市・桜井市の前期の前方後円墳が、
@墳丘(各古墳)
A葺き石(箸中山など)
B特殊器台(箸中山・西殿塚・中山大塚)
C鏡(中山大塚、下池山、黒塚など)
といったものを備えていることを、どうお考えですか。
これらは、前代の西日本各地域の墳墓に、すでに見られている現象です。
@吉備・出雲 A出雲 B吉備 C北部九州
特にCについて説明キボ。
217 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 06:05:21
>>216 鏡について、普通に北部九州はもっとも
日本に入ってくるのが早かったんだと思う。
自分が、邪馬台国は北九州だと思うのは、
畿内よりも北九州のほうが、魏の国に関するものが多く出土しているから。
しかし、古墳の形態をみていると、崇神のつくったと言われるマキムクから
始まって、全国に拡大、で、一度広がってしまうと
今度は作られなくなり、またまた畿内へ収束していく。
どう考えても、畿内中心に日本が統一したとしか考えられない。
218 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 06:18:07
>>217 祟神の墓は、いま宮内庁管轄の行燈山古墳とお思いですか?
219 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 06:24:39
>>218 それは不明だな。宮内庁の指定している古代の天皇の古墳は
江戸時代末期に指定されたものだから。
220 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 06:27:48
日本は、中世以降だって
外国の文化が一番最初に入ってくるのは九州が最初だった。
鉄砲や大砲だって、実戦配備したのが一番早かったのは
九州の大名だった。島津氏とか大友氏とか...
しかし、悲しいかな、後出しじゃんけんの畿内の政権が
その人口=動員兵力の大きさで、
外国文化の刺激の激しい九州を併合してしまう。
織田・豊臣がそう。
221 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 07:32:09
崇神と景行の比定陵墓は入れ替わったようですが
入れ替わる前の方が正しければ、二世代だから築造時期が60年は違う筈ですよね
日本書紀の時点の比定が正しければ
222 :
216:2006/12/09(土) 07:35:37
223 :
太国:2006/12/09(土) 10:37:34
>>176 表に出てるものでは、孝明以前の天皇は伊勢行幸を禁じられていました。
いずれの天皇でしたか、「伊勢へ行ってみたい。」と言っていたそうですが、
時期尚早で stop をかけられました。「前例がない」と側近でしょうが、
「いけません」との話で、天皇はあきらめたわけです。
明治天皇以後は各天皇は参拝をします。今後も当分の間はそうなります。
224 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/09(土) 10:51:21
>>207 >九州に住みながら、基本的な地元の知識に欠けていることから
お前にそこまでヌカす知識があるとは思えないぞ。
どうだ!
225 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/09(土) 10:56:51
>>210 >マキムク遺跡の出現から、卑弥呼と同時期に起こった 崇神天皇の畿内政権。
ずいぶんゴマカシの言葉が混ざってる。
マキムク遺跡が西暦何年で、卑弥呼が何年、崇神天皇が何年とその根拠を
出さずに断言するセコさ。
あなたは詐欺師の資格を、十分に持ってるよ。
226 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 11:04:22
>>183 124歳を例外と見るべきだと思う。
今後は医療や衛生でどうなるかわからないけど。
>>184 木は軽すぎて土木工事には向かないと思う。
>>201 宮崎の古墳群は畿内より新しいでしょう?
不毛のシラス台地を墓地にして、
でかいのを作りまくっただけでは。
227 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 11:05:10
>>220 古代の近畿地方のほうが九州よりも人口が多かったという根拠は?
人口は時代によって変わる。移民の国のアメリカは今や世界有数の
人口を持つ。
日本でも、漁村の村に過ぎなかった江戸は徳川家康の時代になって
急速に発展した。
228 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 11:13:29
現代でも、九州は、よその人が思っているほど人口は少なくない。
沖縄を除いても1260万人。これに対して畿内は1130万人。畿内周辺が1000万人。
ちなみに、畿内とは大和・山城・摂津・河内・和泉
畿内周辺とは近江・伊賀・伊勢・志摩・紀伊・淡路・播磨。
九州と沖縄を一緒にするな。
北緯三十度以南の土地なんか腐った化外の土地だ。
230 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 11:38:25
恵也 ◆o4NEPA8feA は、またまた
出てきたか...
随分、論破されたのにな...
231 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 11:43:33
232 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 11:44:05
>>215 俺も北九州説だが、そうなると魏に朝貢したから中国の史書に書かれただけで
すごい小さい支配圏しか持たない国ってことに不可避的になるんだよな、邪馬台国は。
それが全国支配したとは思えない。のちの天皇家の風俗とも全然違うし。
233 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 13:12:11
>>232 旧唐書の日本使節の対応なんか見たら
もともと倭国が中国と交易していたけど
その倭国よりも東(日の出るところ)の日本が
倭国を併合したという記述見たら
最初は九州王朝が倭国の名で中国と交易したんだけど
やがて、本州の日本が倭国を併合した。
しかし、そのまま日本は倭国という名を使い続けたが
旧唐書に書かれた時の日本使節は、その歴史を説明して
倭国から日本国に書き直させようとしたように見える。
234 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 14:24:49
なんかもう無茶苦茶になってるな
推理データに考古知識をまるで組み込んでいないから
今ではありえないと考えられる説を未だに語ってる奴がいる
太国なんぞがその筆頭だが、他の者もそうなのか?
単純な九州説や畿内説、東遷説なんぞ
とっくの昔に消えてしまってるぐらいは皆知っているだろうに
纏向が邪馬台国かどうかなんて、考古学にとっては単なる解明の手段であって目的ではない
3世紀の列島の状況を知ることこそが真の目的だろう?
その答えは既に出ているのも皆知っているだろうに、今頃なにやってるんだよ
235 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 14:52:06
>>227 弥生時代の遺跡の規模。
吉野ヶ里以外、九州で出てこないのだから仕方が無い。
>>228 北九州説などは、それを、奴国、伊都国、邪馬台国、狗奴国に分割しなければならない。
236 :
235:2006/12/09(土) 14:53:26
投馬国が抜けた。
237 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 15:04:14
>>234 >その答えは既に出ている…
上記の「その答え」について、5〜6行でいいですけど、もうちょっぴり具体的に解説キボンヌ。
238 :
237:2006/12/09(土) 15:20:50
それと
>>234さんにもう一つ。
>単純な九州説や畿内説、東遷説なんぞ…消えてしまってる
とのとこですが、これは、
「単純でない九州説や畿内説、東遷説なら、消えていない」
という意味ですか。
239 :
太国:2006/12/09(土) 15:29:00
>>234 偉そうなことを言うだけで、論がなさそうだな?w
240 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 15:40:09
じゃあ、要点だけ
2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され
それが王権の礎になったってことです。
その母体は、参加時期や規模の差はあるが
北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
後の大和朝廷だと考えられています。
ただしすんなりと発展したのではなく、様々な政権奪取というか
内部抗争があったとは考えていいでしょう。
241 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 15:54:09
>>238 「単純でない」というのは
唐古・鍵などの畿内のクニがそのまま発展したという昔の畿内説や
九州島のみで邪馬台国連合が成立していたとの、これまた昔の九州説
はたまた神武がどうしたとかいう東征による建国など
考古事実に反する説が淘汰されたという意味です。
纏向が邪馬台国かどうかはさておき、倭人伝に記された時期に
列島最大の勢力が存在したのは纏向です。
そしてそこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
それだけを踏まえたうえで考えたとしても、選択肢は多くはないでしょう。
問題はそれだけの勢力を「どこが」主導したかなのです。
それは北部九州かもしれませんし、吉備や畿内かもしれません。
そのあたりは過去に散々議論されていますし、各説一長一短があります。
伊都国主導というのも有力説ですし、また阿讃、東海も一概に否定できません。
ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね。
>>240 なんだ結局同じただの妄想じゃねーかw
なんでその政権がヤマトだと断定できるんだか教えてもらいたい
しかも北部九州なんてひとくくりで
簡単に済ませる事ができるくらいだから
多分何にも分かってないんだろうな
243 :
234:2006/12/09(土) 16:04:23
240-241は私です。
それと興ざめかもしれませんが、「文献資料のみ」では
歴史学は成り立ちません。
考古事実によって物理的に証明されて、やっと確定するものです。
鎌倉幕府の成立年が未だに諸説あるのもそのせいです。
文献を頼りにする場合は、立場も違い、利害も無関係の客観的記述がなされた史料が
複数存在し、しかも様々な写本を照らし合わせたうえで、それでも慎重にならざるを得ません。
残念ながら古代史ではそれが不可能です。史料が少なすぎます。
ですので、発掘された遺跡や遺物が重要視されるのです。
244 :
237:2006/12/09(土) 16:05:03
>>240 ありがとうございました。近い考えでホッとしました(笑)。
ただ、そうした理解が答えとして正しいものだとしても、「纏向初代王の出自は何処?」という新たな問題が、依然、探究すべきものとして残るのではないでしょうか。
大和の中から出てきた王なのか?
それとも、お示しになった諸国の中のどれかに、王の出自があるのか?
私はそれが大変気になります。ご高説がおありなら、ぜひご示教ください。
それとも、こうした方面の探究は無意味・無価値なんでしょうか?
245 :
237・238・244:2006/12/09(土) 16:09:51
241をまだ読まない間に244を書きました。悪しからず。
246 :
234:2006/12/09(土) 16:12:28
>>242 別に便宜的に「ヤマト」って呼んでるだけですよ。
名前は「畿内王権」でも「原ヤマト政権」でも
主張する論に従って呼べばいいんです。だからカタカナで呼ばしていただきました。
北部九州にしても、前原と西新町では相当な違いがあるのはご存知のはず。
その違いが何によって発生したのかも、もちろんご存知でしょ?
西新町で、纏向で、また各地の弥生終末期の遺跡で
何が出土したかを考えれば、一番蓋然性の高い仮説はそうならざるを得ないでしょう。
247 :
234:2006/12/09(土) 16:23:48
>237さん
ご高説はやめてくださいなw
日本史板邪馬台国関連スレで、過去に挙げられた説ですが
1、王権の象徴である副葬品が伊都国のものと酷似している
2、前方後円墳のルーツが阿波、讃岐にある
3、布留0(箸墓)以降の祭祀が、吉備様式になる
4、畿内各有力遺跡は弥生中期から各地と交易している
5、纏向成立寸前に、先に東海で集落再編成が短期間で勃発している
6、その前に高地性集落が瀬戸内に乱立している
7、朝鮮半島が公孫氏の滅亡によって、動乱化している
8、出雲、丹後などの日本海が独自の外交ルートを獲得している
9、3世紀に入って、奴国に庄内式土器が大量に輸出されている
まだまだありますが、これらをどう捉えるかというか
最低でも仮説のベースに置くべきではないかと思うだけです。
>>246 ヤマトを使うセンスはどうかと思うぜ
素直に畿内王権とでも言えば済む話を
249 :
234:2006/12/09(土) 16:32:41
ちなみに文献解釈というか、これは仮説というより
根拠なき妄想の段階ですが
日本書紀の崇神記から応神記あたりを素直に読むと
ある任意の一族の単独支配だとは考えにくいですね。
しかし「王の出自」というか、後付けで「オウ」と見なしたとすれば
各地のクニの首長もしくは纏向に派遣された代表たちが
交代または政治的優位によって「為政王」として存在したのかもしれません。
してみると卑弥呼などの巫女は「祭祀王」だった可能性もあります。
実際はそんなに単純なものではないでしょうが
ならば魏が祭祀王を「女王」に認定した可能性は高いですね。
250 :
234:2006/12/09(土) 16:35:45
>>248 「王権」という言葉を使用するのに躊躇しちゃったんですw
寺沢説に噛み付くつもりはないのですが
纏向を都市や王権だと断定してよいのかどうかは
まだ議論の余地があると思いましたので。
スレ的用語として「畿内王権」で、今後は書きますのでご容赦を。
ならば畿内政権でもよかったな
252 :
237:2006/12/09(土) 17:09:11
近藤Y先生が、大和における最古の古墳4つとして、
箸中山、 西殿塚、 中山大塚、 葛本弁天塚
を挙げられたのは、私にはメッチャ心強く感じたものです(笑)。
宮山型特殊器台が出ており、そこまで遡れるのは大和盆地ではこれだけ、ということですよね。
(馬口山に向木見型が出た、というのはガセ?)
ところが、纏向の例の4つの墳墓のうち、勝山が年輪年代法によって相当古くなるという報道がありました。
200年ごろ!? ええっ! …古すぎて、いささか慌てております(笑)。
纏向古墳群の4墳墓は、畿内王権初代の王墓の候補に入ってくるんですか?(入れたくな〜い)
私としては、畿内王権最初の王墓は箸中山にしたいのですが(一番大きいから、笑)。
纏向古墳群の4墳墓は、どういう性格のものか? どう理解したらいいのか?──その辺りに悩んでおる今日このごろであります。
253 :
252:2006/12/09(土) 17:16:08
失礼。纏向5墳墓、とすべきでしたよね。訂正
勝山、石塚、矢塚、東田大塚、ホケノ山
254 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 17:17:00
畿内説を唱える奈良国立考古学研究所?など国の考古学の権威と
九州説を唱える安本氏のようなアマチュア研究家の言い分を聞いていたら
どちらにも言い分があり、ある実情が見えてくる。
ほとんど真相が出掛かっているのだ。
255 :
254の続き:2006/12/09(土) 17:20:28
考古学研究所の場合、これは日本の公の認識になりつつあるが
3席中葉のマキムク周辺から、前方後円墳がはじまり、
やがて日本全国にその形式が拡大し、また、それがある時期に急に作られなくなり
畿内(記紀にある天皇家の中心)だけに前方後円墳が集約されていくような感じになる。
これは、つまりのところ、邪馬台国がどうかではなく、
日本書紀にある天皇家の大和朝廷の動向そのままなのである。
崇神のころマキムクに宮を作ったり、日本全国に領土が拡大させたことが分かり、
二倍年暦での計算だと、崇神前後の時期とマキムクの年代も一致する。
また、大和朝廷は当初は同じような古墳を作るのを全国に命令していくんだけど
ある程度、広がったら、急に天皇家の権威付けか、他の地域のやつに
作らせなくなるんだよな、その動向が前方後円墳の拡散状況にそっくりなのだ。
つまり、邪馬台国が畿内にあるということではなく、
日本書紀に書かれている崇神天皇の動向そのままなのである。
256 :
255の続き:2006/12/09(土) 17:37:48
しかし、安本氏は違うことを言う。
魏志に出てくる邪馬台国のことの手がかかりになるのは
北九州にしか出てこなくて、畿内には殆ど出てこないし、
文物は九州から畿内へ流れているんだと。
だから北九州に邪馬台国があるんだと...
自分もそう思う。邪馬台国は北九州にあったのだ。しかし...
ここからが安本氏の間違いである。
安本氏は邪馬台国は畿内へ移り天皇家になったんだと思っている。
そのために、平均在位説という数学的な暴論を唱えて、
無理やり歴代の天皇の生存時期を遅らせたりする。
なぜ、安本氏が暴論を展開させたのか?
それは、卑弥呼・台与の即位時期は皆既日食の時期とかぶり、
天照大神神話の天岩戸神話そっくりだと...
だから、天皇家の公式神話であるとおり、卑弥呼が天照のモデルなら
天皇家は卑弥呼の子孫でなければいけない。そう考えたのだ。
しかし、そもそも、あの日本書紀の神話って、本当に
天皇家と因果関係があったのか?
なぜ、古事記には神話と正史に境界が無いのに
中国系1世の人を多く加えた日本書紀の編纂者たちは
神代という章を加えて、正史とばっさり分けて、
天孫降臨〜神武を数百万の時間というふうにしたのか?
これって、神代の部分は、天皇家とは実は直接の関係はありませんよって
宣言しているようなもんだw
257 :
太国:2006/12/09(土) 18:15:33
>>243 確定するのは臥海とその関係者と、それを虎の威を借りる狐の一般大衆がそうか
とうなずくだけで、古代史においてはそれ以外の基地外でない特殊な者らには
権威がまるでな〜い。
彼らは考古の名を用い、まるで鬼に金棒のその棒のように豪語し振舞うだけで、
金箍棒を持つ古神道の権威筋にはからきし吸引力がない。つまり権威がない。
それを致し方なく考古とかいう美名に力を付けさせて確定とかぬかす天才の連中
が彼らであるからだ。ww
確定するものもそれはあるだろう? しかし確定しないものもあ〜る。
考古で確定とか言っても現実はクルクル変わる走馬灯の如きであり、考古で
確定とか言っても信用はできない。
だいたい臥海は遊星の数を勝手に8に減量したり、白亜紀の後の第三紀第四紀を
パレオジーンとかネオジーンとかにして勝手きままに不確定的に変動させている。
確定ならば未来永劫変わらないの真である。
258 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 18:29:09
太国の特徴だが、痛いところを突かれると
学者は信用できないだとか言い出して、自分の世界に逃げ込むんだよな。
そんでもって意味不明の例えを、しかも間違って持ってくる。
遊星と惑星を間違えるって、なあw
減量って、おまいはボクサーかw
確定の定義は別にしても、あんたが間違ってるってのは誰の目にも明らかだ。
ずっと2ちゃんにへばりついている、そんな自分が悲しくならないのかねぇ。
259 :
太国:2006/12/09(土) 18:33:58
>>258 笑わせるな。逃げるだと?〜www 俺はボクサーではな〜い。
お前も玉(倭人伝)王(記紀)より飛車(考古)を可愛がるほうだな。w
それでは勝負の確定にはほど遠いのだ。
260 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 18:43:20
>>255 >3席中葉のマキムク周辺から、前方後円墳がはじまり、
これには、同意できない。
ホケノ山では画文帯が出土しているが、画文帯は、明らかに「邪馬台国」時代より後。
伊都国などの北部九州から1枚も出土しないのが、画文帯の特徴。
魏志での伊都国の扱いから見れば、同時代に画文帯が存在したなら、出土するはず。
「神武東遷」後に北部九州に権力の空白時期が存在し、そのため280〜300年頃まで
鏡の配布が受けられない状況が存在したと考えれば、つじつまが合う。
要するに、画文帯は270〜280年以降から製作が始まったということ。
画文帯各種の次に三角縁の時代になるから、三角縁は300年以降。
261 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 18:43:41
倭人伝と記紀は王や玉じゃなくて、歩かせいぜい桂馬ぐらいだと思いまつ
262 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 18:49:44
>ホケノ山では画文帯が出土しているが、画文帯は、明らかに「邪馬台国」時代より後
そうか?ピンポイントに3世紀前半だろう。
>伊都国などの北部九州から1枚も出土しないのが、画文帯の特徴。
・・・・・・本気?
>「神武東遷」後に北部九州に権力の空白時期が存在し
神武は故郷に守備隊も経済基盤も置かずに出征したの?
もしそうならば、ただのアホなのだが。
263 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 19:10:35
よっぽどの事が無い限り、
物証は今後増えても減る事はない。
慌てず考古学の進歩に期待したいものだ。
>>263 無理です。何故なら
ここに来て騒いでる奴は余命後わずかだからですw
265 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 19:22:33
>>263 まあな、そのとおりだな。
学問というのは、じっくりやるというもの。
266 :
太国:2006/12/09(土) 19:52:52
>>261 記紀や倭人伝がなければ、考古ではアマテラスと卑弥呼の ア の字も出て
こんだろうが?考古はそんなものだ。
267 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 19:56:03
出てこなくても困ることは無いが?
幻想ではない現実の人の営みを知ることが出来る。
268 :
太国:2006/12/09(土) 19:58:48
どんな営みだ?盆栽か?
269 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 20:00:29
>>262 >ピンポイントに3世紀前半だろう。
その理由が知りたい。
むしろ、邪馬台国時代以降で、三角縁の一部と並行という点からピンポイントで、
280頃〜330頃までの流通時期が判明していると考えた方がいい。
伊都国・奴国から出土しないのは、舶載鏡とするのに決定的なマイナスポイント。
要するに、畿内に「東遷」したあとに畿内中心の分布が存在するということ。
画文帯以前の鏡は北部九州中心の分布。分布の違いは時代の違い。
画文帯のうち、同向式は99%が日本で出土(1枚が楽浪郡)。
これは普通に、日本製と考えられる。画文帯は大半が日本製で、一部が舶載。
270 :
太国:2006/12/09(土) 20:04:31
>>258 お前知らないのか? 惑星のことを遊星というんだろうが。
お前、まだパンパースが恋しい年頃だろ。ww
>>269 >むしろ、邪馬台国時代以降で、三角縁の一部と並行という点からピンポイントで、
>280頃〜330頃までの流通時期が判明していると考えた方がいい。
というそのその理由が知りたい。
272 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 20:40:16
結局、神武東征という少数の人数で長い時間かけて
日向から瀬戸内海の孤島を通って
畿内に上陸したら、なぜか、あっさりと熊の山奥の裏手に回って
畿内に住んでいた地元の豪族の娘と結婚して
畿内の狭い範囲での生活で終わるという
ありえね〜よという話がすべての混乱の元だ。
しかも、その後、十代目の崇神天皇まで、欠史になっている。
273 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 21:23:17
>ハツクニシラススメラミコトとの称は、神武天皇(『日本書紀』では
>始馭天下之天皇:はつくにしらすすめらみこと)にも贈られており、
>初めて天下を治めた天皇という意味であるが、
>はじめて国を治める天皇が二人いることになる。
>これについては、神武の称号にみえる「天下」という抽象的な語は、
>崇神の称号にみえる国という具体的な語より上位の観念であり、
>また、後に出来た新しい観念でもあるので、神武は崇神より後に
>「帝紀」「旧辞」の編者らによって創られたと考えられ、
>国をはじめて治めたのは崇神であると考えられる。
>『常陸風土記』にも「初國所知美麻貴天皇」とある。
結局、崇神天皇は実在性があるが、
神武天皇は新しい時代に作られた創作の可能性がある。
崇神天皇を徳川家康に例えるなら
神武天皇は徳阿弥・松平親氏みたいなものか?
274 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 21:28:28
>むしろ、邪馬台国時代以降で、三角縁の一部と並行という点からピンポイントで、
>280頃〜330頃までの流通時期が判明していると考えた方がいい。
たしか、画文帯の製作を、呉の滅亡以降、とかだったと思う。
東遷説の悪あがき
276 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 21:42:35
277 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 21:46:32
>>269 魏と呉が争ってたとしても、呉の銅や鏡が入ってこないという証明にはならないんだよな。
278 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 21:59:55
政冷経熱か。
>>269 中国の鏡の王仲殊が論証しているとおり、
黄初の紀年がある画文帯同向式は、孫権が魏に服属していた頃の製作。
何度も教えてやってるのに、全く成長しない奴だな。
都合の悪い考古学を排除しようとする。典型は、画文帯を後世の贋作とする。
しかしその贋作の根拠も実は曖昧、というか殆んど無い。
自説に都合が悪い年号があるから、というだけのこと。
要は、九州東遷の根拠に画文帯贋作を言い、画文帯贋作の根拠は九州東遷と言うわけだ。
中国の鏡の専門家も、画文帯を中国鏡と認めており、何をか言わんや、だな。
画文帯が中国で出土していることは事実だが、魏ではなく、呉の領域。
中国で出土例のない様式の画文帯(同向式)が日本で多く出土。
これは、「画文帯」という括りがなければ、別の種類の鏡。
要は三角縁と同じで日本でしか出土しない形式の鏡。
その鏡に中国の年号が書かれていても中国製と決められない。
内向花文鏡の一部(平原)は日本製が確定している。これは200年頃。
製造技術の面では、三角縁までの鏡は全部日本で製造可能。
内向花文の製造集団が、その後活動を停止したと見る根拠もない。
画文帯、斜縁、三角縁は一連で製造者の交代が想定しにくい。
三角の紀年鏡は400年頃の古墳等から出土。年号と整合しない。
鏡の種類から遺跡、古墳の時期の分類が可能で伝世論も成り立たない。
現に、内向花文→画文帯→三角縁という流れが時代区分に対応。
同一鏡種であっても、庄内・布留期の遺跡から出土したものと古墳から出土
したものとでは鉛同位体比が明白に違う(東アジアの古代文化129号、新井)。
画文帯の大多数が古墳から出土している。
>>282 >要は三角縁と同じで日本でしか出土しない形式の鏡。
楽浪は当時中国領域だが。
呉の鏡を、遼東の公孫氏経由で、倭が入手していた鏡だろう。
倭が最初、公孫氏に属していたんだし。
>内向花文鏡の一部(平原)は日本製が確定している。これは200年頃。
一緒に出土した中国鏡から、もう少し前のようにも思うが。
まあ、ヒラバルの実年代は、確かに議論の分かれるところ。
>三角の紀年鏡は400年頃の古墳等から出土。年号と整合しない。
その400年という実年代はどうやって割り出したのか?
>同一鏡種であっても、庄内・布留期の遺跡から出土したものと古墳から出土
>したものとでは鉛同位体比が明白に違う(東アジアの古代文化129号、新井)。
んー、何が言いたいのか分からない。
庄内・布留の古墳から出土したものは、中国鏡と認めると?
萩原1号とかホケノ、黒塚の鏡は?
284 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/10(日) 12:37:24
>>257 僕も太国さんの意見に賛成。昔から「論より証拠」と言う言葉がある。
例えば宇宙科学の進歩とともに、子供の頃の図鑑では冥王星は、
今より物凄くぶっとく描かれていたのに、今は、惑星の名さえ失う程小さいことが判った。
昔は常識でも今は違う。時とともに変わるのが、学問。
その学問を変化させる源泉こそ、新たな発見。それに照らし合わせての文献の再検証。
学問は、その上で確立されるべきものであり、以上のプロセスを軽視して成り立つものではない。
それに人の心理を読む専門家とも言うべき、心理学者や、作家の目は、下手な考古学者より鋭い。
太国さんは邪馬台国の謎に挑戦し続けるフロンティアとも言うべき存在であり、
勇気ある論戦を展開していると思う。
285 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/10(日) 12:54:38
>>262 ホケノ山の話が出ているが、邪馬台国の記述と相反する部分が多い。
葬制然り、画文帯鏡然り。特に画文帯鏡は呉系の鏡。邪馬台国とは無縁。
北部九州との関係も無い。
286 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/10(日) 13:03:22
>>277 要は、「画文帯は卑弥呼の鏡では無い」
というポイントがしっかり位置づけられておれば、まあいいか。
>>286 画文帯が卑弥呼の鏡かどうかは、確かに議論の分かれるところ。
しかし画文帯が4世紀以降に日本で贋作された、と結論付けるには根拠薄弱過ぎやしないか?
288 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/10(日) 14:41:51
>>287 画文帯は呉様式の鏡だが、どこで作られたかについては、異論のあるところだろうが、
大陸で僅か80枚、日本で150枚出土、と断然日本が多く出るので、
当時、大陸で倭人も多く活躍していたことから、倭人が持ち込んだものかも知れないと思っている。
雲南だけでも六千万人住んでいたと言うから、80枚程度では数のうちに入らないと思う。
289 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 14:51:47
冥王星を持ち出すなら、
記紀に拘り、他の分野の学者の学説を排除するのではなく、
考古学者や植物学者の地道な研究を正確に評価する姿勢をこそ
見せてもらいたいものだ。
そうでなければ、冥王星も占星術で使われているから惑星
というようなオカルト論と何もかわらんよ。
290 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 15:03:53
画文帯鏡が呉の鏡としたら卑弥呼と関係ない
というか、卑弥呼と仲が良かったのが魏なわけで。
呉は魏と敵対していた国。
ということは、マキムクって卑弥呼と敵対していたのでは?
291 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 15:04:52
>>288 >雲南だけでも六千万人
どう考えても無理。
292 :
太国:2006/12/10(日) 15:09:42
>>289 走馬灯競馬場か〜?w
ならば何でクルクルとメリーゴランドのような真似をやって我々を誑かす
のだ? それにだ、人類発生の場所とかいうのも、なにやら原人をうんと名を
つけて配置し、支離滅裂のような状態ではないか?
いや〜北京原人だ、ジャワ原人だ、××原人だ〜とか、こういうのを地球全体
にばら撒いているようであ〜る。
それがまるで競馬の本命(アフリカか〜?)対抗とかで、本命から流して多数
馬券を買い、人類発生地が間違った場合の押さえをしっかりやって、うちらを
幻惑させている。要するに、それが外れたときの用意にいろいろと原人を
沢山こさえておかなくてはならない。そうでないと、もしアフリカでなかった
ことが判明したときに、臥海の面子が丸つぶれにな〜る。ああそっちの原人の
地なんですと言い逃れが利くようになっている。
うちらにはそのような誤魔化しは出来ないのであ〜る。
293 :
太国:2006/12/10(日) 15:22:17
飛車落ちで充分指せるのが古代史の特に女王国の論なのである。
どうせ畿内なんかにはありっこな〜い。記紀の記述量から九州にあることは確か
であり、このまま行けば臥海の定説とやらの畿内説はいずれ白黒がはっきりし、
臥海の面子が潰れることは目に見えるように確かなのであ〜る。
これは文献がいかに重要だか思い知らされる結果が来て、考古が文献を馬鹿に
したツケが到来するのであ〜る。だから最後は考古が確定するのではなく、
考古が大恥をかくことが確定するようになる。
大きく逆に考古の面子が台無しになり、慌てふためくお陀仏のときがやってくる。
こちらはそうなることが深い読みで分かるから、左団扇で平然といられるのだ。
294 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 15:32:03
邪馬台国がどこかよりも
マキムク遺跡について、いろいろ調べたいわな。
マキムクって、何世紀の遺跡なんですか?
295 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/10(日) 15:33:16
>>289 「昔は常識でも今は違う。時とともに変わるのが、学問」と言うのが主旨でしょう。
「 他の分野の学者の学説を排除するのではなく」、排除はしてないでしょう。
優先順位が違いますよといってるんであって。何か良くわからない文面だけども。
296 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/10(日) 15:41:07
>>290 マキムクは卑弥呼とは関係ないというか、知らなかっただろうと思う。
邪馬台国連合のほかの国々、またその他はあまりに遠いので、正確に記する事が
出来ない。 主意 とある。
297 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 15:57:03
邪馬台国かどうかは置いておいて
マジでマキムクを詳しく調査しないといかんわな。
邪馬台国問題だけじゃなくて、記紀の文献史学にも大きな影響があるし。
あと、富士山の噴火時期も知りたいな、地質学的にね。
崇神天皇の先代の時代に富士山が噴火したみたいだし。
富士山の研究している人のサイト見たけど
過去の歴史のところでは、古代の天皇の頃の噴火時期は
ばっさり切ってある。専門外なのでマルクス史観がすみついている。
298 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 16:19:19
>>297 >マジでマキムクを詳しく調査しないといかんわな
結局、考古学が足止め食ってんのが現状。
古墳だって中見れないんだもん。
299 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 16:22:03
>>298 宮内庁、マキムクくらい見せてくれたら良いのにな。
300 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 16:22:40
中国でも始皇帝の墓は
足止め食らっているんだってな。
301 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 16:22:59
>>296 当時日本列島最大の規模と技術を有した集落を、魏が知らないとは考えにくい。
楽狼郡とは直接商取引をしてたんだからね。
>>297 石野博信の「大和・纏向遺跡」をお勧めする。それと
>邪馬台国かどうかは置いておいて
実際ほとんどの考古学者は邪馬台国かどうかなどどうでもいいと思っている。
ただ纏向がそうでないとしても、それに匹敵する3世紀の遺跡がどこにもないんだな、これが。
同時にそれまでの九州から各地へと流れていた物流ルートが
3世紀中葉から突然畿内発信に変わることなどから、他に候補地を見つけられないってのが現状なのさ。
302 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 16:24:09
>>301 そんなことはない。
中世以降だって、中国人の日本に対する認識の甘いこと。
303 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 16:25:02
>>283 >同一鏡種であっても、庄内・布留期の遺跡から出土したものと古墳から出土
>したものとでは鉛同位体比が明白に違う(東アジアの古代文化129号、新井)。
古墳時代より前に、庄内、布留を使用していた地域が存在し、鏡の同位体比により
古墳時代の庄内・布留とは区別できる。また、「古墳」も時代区分の指標になる。
つまり、九州と瀬戸内等での庄内・布留は、畿内の古墳時代の庄内・布留より、古い。
端的には、庄内・布留の九州起源となる結論をオブラートに述べている。
この結論に従うと、古墳時代から出土する鏡はほぼ全部古墳時代の製造で、画文帯も
三角も、邪馬台国時代に遡らないということになる。
304 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 16:30:43
>>301 邪馬台国がどこかなんて、アマチャの歴史家が騒いでいて
マスコミが煽っているだけだな。
305 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 16:31:34
>>299 古墳で昔のことがいろいろ分かったって
現状の皇室に対する敬意は変わらんと思うんだがなー。
306 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 16:34:37
>>299 いや纏向のほとんどは私有地なんだ。だから逆に発掘が進まない。
箸墓は宮内庁管理だけどね。
でさ、もし纏向が邪馬台国じゃなかったとしたら、候補地はどこだと考える?
これが九州や吉備あたりだったら、到底戸数7万だとかにはならないし
倭人伝が水増ししていたとしても、その半分以下も無い訳だ。
伊都国を糸島半島周辺、奴国を博多湾沿岸と比定すると
もうそれ以上の規模を持つ地域は無くなっちゃうんだよね。
同様に投馬国の戸数も怪しい(つーか奴国から先は伝聞推定だろう)
結局、倭人伝は邪馬台国が畿内一円、狗奴国が東海一円だと
その程度の認識で書いていたに過ぎないのではないかね。
西域伝も訪れていない国に関しては、ひどく曖昧な記述しか無いしね。
307 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 16:38:58
いわばジグゾーパズルの半分は宮内庁に持っていかれてるから、
手持ちがそろわないんだよな。それで勝手にいろんな絵を書いているだけなんだよな。
そんでキーになるパズルのパーツは宮内庁が独占してんじゃね?
308 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 16:44:06
邪馬台国が九州だと仮定すると、根本的なな矛盾が発生するんじゃないかな。
まず伊都国や奴国を支配下に置いていた訳じゃない?
それが可能な規模や内容の集落遺跡が無いでしょ?
「まだ見つかっていない」なんて今ではもうさすがに考えられないしね。
少なくともこの二つと同程度のレベルのクニだった訳だから。
それは狗奴国も同様。
だから九州説に立つならば「邪馬台国の規模は小さかった」とせねばならないんだよね。
例えば宗教施設に特化した集落だったとかね。
でもってこれがもう既に倭人伝の記事に反してることになる。
これって方位や距離などよりよほど重要な問題なんじゃないかな。
309 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 16:45:19
エジプトや中国でも、重要な皇帝の
陵墓は発掘は進まない。
310 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 16:50:38
>>292-293 底の浅い自説に引きこもる人間を、
広い外の世界に連れ出すのはどうすればいいか、
現代的な問題を提起してくれてるな。
あと、畿内説はメンツには拘っていない。
考古学や古代史や心理学から見える真実から
目を逸らさないようにしているだけだ。
311 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 16:50:42
>>304 これが痛し痒しで、マスコミやアマチュアが騒いでくれないと
発掘調査なんてぜんぜん進まないんだな、これがw
なんせ「何も生み出さないうえに保存に巨額の金がかかる学問」なんだから。
考古学者が過剰なリップサービスをするのも、そこに理由がある。
312 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 16:54:17
>>306>>308 邪馬台国が北九州なら、九州上陸からの国の数から考えて
邪馬台国って、かなり狭い国だったことになる。
邪馬台国が北九州説って、かなり無理がある。
というか、魏の使者って、本当に邪馬台国に行ったのか?
313 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 17:00:55
>>312 少なくとも文面から察するに、最初からレポート提出のために倭に行ったのはないわな。
314 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 17:02:43
>>308 マキムクから鉄と一緒に出てきてくれるのをキボン。
315 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 17:03:16
>>312 倭人伝を読む限りでは、おそらく行ってない。
倭の風俗に関する記事は、これは北部九州のものだろう。
ただそれは伊都国や奴国あたりのもので、邪馬台国そのものではない。
これは榎説(放射説)を持ち出すまでも無く
戸数や里程記述がまるっきり変わっていることから明白だろう。
ただvs狗奴国の際に張政が行った可能性はあるが、そのあたりは詳しく書いてないもんな。
陳寿自身が倭国どころか半島にも行ってないんだし。
それでも半島に関してはかなり詳細な報告がなされていたから
そう的外れなことは書いていないのだけれど、これが海の向こうの島国ともなると
楽狼の報告を信じるほか無かったのだろうね。
316 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 17:15:00
>>314 鉄の北部九州優位は揺るがないよ、3世紀中庸まではね。
他の弥生遺跡と比べて纏向が特殊で異様なのは
2世紀末頃に、ほぼ無人の湿地帯を造成して水路までつけて新規開発したってことなのさ。
しかも西日本一円の技術と労働力が集結した上でだ。
それだけの大事業を敢行した勢力がどこなのかは諸説あるが
少なくともそれとは別の邪馬台国連合が九州にあったとは流石に考えにくいよ。
伊都国や奴国(前原・板付など)が纏向と密接な関係にあったことは、様々な遺物からも明らかだしね。
317 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 17:20:18
>>316 安本氏が北九州だとか騒いでいるけど
彼の説では、倭人伝の人が
邪馬台国まで行ったと仮定して書いているのか?
318 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 17:25:47
まあ文献的にも考古学的にも、纏向が邪馬台国だと断定するには至らないし
実のところそう考えたとしても様々な矛盾があるのは確かだ。
だけど九州でそれらしき遺跡がまったく見つからないからどうしようもないんだな、これが。
古田説じゃないが、博多湾沿岸を邪馬台国だと考えないと、他に候補地が無いんだ。
宇佐だとか甘木なんてのは論外だし、日向も時代がまったく合わない。
まだ高知県あたりのほうが考古学的には整合性がある。それか吉備か出雲だな。
それにしても纏向との強い結びつきをどう説明するかが問題だし。
一種の消極的肯定かもしれないが、纏向しか候補地が無いんだよね。
319 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 17:29:16
>>318 大宰府みたいな大都市なら、その下にあったって仮定できない?
320 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 17:29:41
>>316 最近の本は知らないが「卑弥呼考」ではそう考えていたようだね。
文献史学の世界では、基本的に「せいぜいフミ国まで」というのが定説。
それは倭人伝がそういう書き方をしているからで、実際はどうかは判らんが。
321 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 17:34:08
>>318 逆に大都市のほうが見つかりやすいんですよ。
大阪の難波宮だとか京都市内の弥生遺跡だとかが好例です。
基礎工事が必要な規模のビルが建っている地域は、ほぼその下に何があるか判明しています。
吉野ヶ里にしても、有名になる相当前からかなり判明していました。
322 :
太国:2006/12/10(日) 17:38:09
>>310 そういうんでは、古代史の明智小五郎にはなれない。
浅いのは臥海のほうであって、紀には神功39年の記述くらいしか女王国の話が
猫の額の如くにして少いのでは、考古の云う畿内説の成立は、猫どころかネズミ
の額よりも成立の可能性はな〜い。
実の女王国は九州にあったのであ〜る。
323 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 17:39:47
マキムク(3世紀中葉?)の頃って
出雲・吉備はどんな感じだったと分かっているんですか?
最近、出雲・吉備も候補地に指定する人がいるんです。
324 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 17:40:37
>>317 安本氏の不思議なところは、日食やら地名の類似だとか
とっくの昔に論破されたことを平気で今でも書くところだね。
卑弥呼死亡時(246年だったかな?)の日食は、九州でも奈良でも観測できないし
2年続けて日食が起きたというのも誤りだったというのが判明している。
DOS時代のアスキーのアストロノーツのデータが元になっているそうだが
現在のバージョンではそうはなっていない。
325 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 17:41:04
神功皇后と卑弥呼って、どう考えても
別人ぽいような気がしますです。
326 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 17:42:55
>>324 あと、安本氏の平均在位説って、凄い暴論らしい。
あれって、何とか天照=卑弥呼にするために
無理にこじつけた説らしい。
327 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 17:46:41
>>323 まだ全容解明には程遠いってとこかな。
ただし、かなりの部分が判明している。
寺沢の「王権誕生」か石野の「大和・纏向遺跡」あたりに詳しく載っているよ。
>出雲・吉備も候補地に指定する人がいる
遺跡の無い九州よりは現実的な説だけれど、そう考えるより
邪馬台国という連合を形成した重要な地域と見たほうが蓋然性は高いよね。
上の書き込みにもあったが、北部九州、南部九州、阿波、讃岐、播磨、丹後、尾張も同じグループだろうね。
328 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 17:49:33
>>327 >上の書き込みにもあったが、北部九州、南部九州、阿波、讃岐、播磨、丹後、尾張も同じグループだろうね。
それら全部、マキムクのグループなんですか?
ああ、マキムクの古墳の中を見たい。
ここは、一応、記紀の崇神から数代の拠点の可能性大なんだから。
329 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 17:51:18
>>326 アマテラス神話のモチーフのひとつだという可能性はあるけどね。
でもそれを証明するには至っていない。あくまでも可能性の話。
平均在位説の欠点は
「記紀に書かれた天皇がすべて実在しており、かつ順番も正しい」
これが前提としてあるってところかな。
それはまだ誰にも言い切れないだろうw
330 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 17:53:54
>>329 安本氏の平均在位説は継体以前から神武までを計算しているんだけど
こんな長い期間だと、誤差によって全く異なった結果になるらしい。
だから、全く統計的に無茶な暴論だとか...
331 :
太国:2006/12/10(日) 17:56:12
恵也の云うそれは暴論。
332 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 17:59:21
>>328 グループというか、纏向で使われている造成技術や祭祀形態の国内ルーツが
それらの地域に見られる訳です。
記紀的には崇神や景行の記事なんかには、強固な王権というより
有力グループの集合体を匂わせる神官的エピソードが多いでしょ。
武力(軍事力)を連想させるのは、応神以降ですね。
神武伝説などは、一種の応神崇拝であり崇神否定であるかもしれないですね。
333 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 18:14:09
>>288 >雲南だけでも六千万人住んでいたと言うから
またすごい数字をさらっと平気で使ってんな
誰がどこで言ってたかしらないが
中国が1億超えたのが何時だか知ってる?
後漢末期で6千万人ぐらいだろう
3世紀は中国史上、とびぬけた人口崩壊期だった事が認められてる
人口把握を見直した方がいいよ
どうも毎回許容範囲をかなり超える数字を取り上げてるようだ
334 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 18:17:37
少し前までは、纏向造成に北部九州は関与していなかったか
相当後になって参加したとする説が有力だったけど
今では早い時期から関与していたと見る向きも多い。
特に初期の祭祀形態には、伊都国の影響があると見たほうが正解かもしれない。
その後布留0(箸墓)あたりから吉備が影響を強めていることから
政治的な変遷があったのかもしれないし、単なる流行なのかもしれない。
また技術的には阿波、讃岐の墳墓造成技術が大きく影響しているし
地元奈良にしても鳥形木器が大溝から多数出土していることから
他の地域に征服されたなどという単純な見方はできない。
そして労働力の供給には東海地方が力を発揮している。
これまた東海が協力したのか、難民が大量発生したのか意見が分かれてはいるが。
それと何より重要なのは、纏向造成あたりから全国の弥生遺跡が同時多発的に
放棄、再開発されているということ。
少なくともこの時期に、列島情勢に何らかの大事件が起こったことだけは間違いないですね。
335 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 18:34:31
>>332 よく有力グループによる集合体という意見を聞くけど
そんなのは中世以降だってそうじゃん。
336 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 18:39:59
>>332 じゃあ、邪馬台国云々は別として、纏向あたりから王権が拡大したのは事実ですか?
日本書紀でも、崇神ー垂仁あたりの天皇から全国に拡大していったみたいですし、
現に記紀では、垂仁が纏向に都を作ったことが記載されている。
纏向の年代と、二倍年暦で計算した崇神ー垂仁の年代も近いみたいだし。
337 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 18:40:38
>>335 その通りですよ。
強力な軍事専制国家を連想しちゃうと道を誤る。
邪馬台国なんて統一国家でもなんでもなく、あくまで倭国連合なんですから。
それも経済連合だったと考えたほうが正解じゃないですかね。
338 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 18:50:23
>>336 さあ、記紀がそう書いているだけで事実はどうだったかは判らないですね。
倭の五王にしても「俺を将軍だと認定しておくれ」と再三申請しながら
なかなかそれが叶わなかったのですから。
前方後円墳の分布にしても、勢力範囲というより同盟範囲と見たほうが良いみたいだし。
ホムタワケ(応神)が実在したとしても、統一したとは言い難い。
ワカタケル(雄略)はかなり積極的に拡大に努めたみたいですけどね。
「○○王朝」とまでは行かずとも、各地にそれなりの抵抗勢力はあったのでしょうから。
それと、記紀の実年代にはあまり拘泥しないほうが良いですよ。
天武の頃ですら、もう判らなくなっていた可能性が高いのですから。
339 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/10(日) 18:54:41
>>301 魏が巻向を知らなかったのではなく、邪馬台国から畿内が知られていなかった。と言う事。
340 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 18:55:05
>>338 統一と連合体の境界線と難しい。
よく、統一していたとか、連合体だったとかで喧嘩するが
そんなもん、文献の豊富な中世以降だと笑われるでしょう?
徳川幕藩体制、豊臣政権、鎌倉政権、足利政権
全部、統一体制もあり、連合体とも言える。
よく、マスコミとか韓国と喧嘩する時
統一体か連合体かで喧嘩するが、全く意味無しだと思う。
341 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 19:05:04
要するに結果論なのじゃないかと思います。
纏向という新都市ににモノとヒトとカネとテクノロジーが集まって
その結果、力を持ったというところじゃないですか。
その纏向を中心とした物流(または取引)ルートにしても
4世紀には全国で一斉に放棄されていますし。
王朝交代は言いすぎですが、これまた何らかの変容がその頃に発生しているのは事実です。
邪馬台国も大和朝廷も、基本的には派閥連合なのだと思います。
その派閥の長、つまり天皇たちの系譜をひとつに纏めたのが記紀ですし
彼ら自身も赤の他人ではなく、婚姻などで相互に親戚関係であったと考えるのが自然でしょう。
天武が正史という名の歴史書を欲したのは、対中国外交に必要不可欠だったせいでもあり
自分たちの政治基盤を磐石のものにしたかったとの意図もあるでしょうから。
342 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 19:11:13
>>341 >4世紀には全国で一斉に放棄されていますし。
それって、いつぐらいですか?4世紀のどの辺?
もっと詳しくお願いします。
343 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 19:18:34
>>339 邪馬台国が九州にあって、畿内とは別モノだったとしても
それはちょっと考えられませんね。
北部九州の繁栄は、列島各地に半島から輸入した文物を売りさばいたことによって成り立っていた訳ですから。
それを示す遺物は、それこそ日本全国で出土していますよ。
>>340 定義については仰るとおり。
イメージとしては、強力な軍事勢力が各地を支配下に置いたのでは無く
主に経済的メリット、そして不可侵条約的な決め事があったグループと見ていただければありがたいです。
三輪山祭祀にしても、「市」としての纏向を正常に機能させるために
いわば商取引の宣誓として、各々の神に誓い合ったのが元だと考えられませんか?
そのために神官、つまり卑弥呼という役職が居たのだと。
魏が彼女を女王と認定したのは「王の資格とは神との交信が出来る者」という
中華思想に基づいてのものだと、まあ仮説ですが考えています。
344 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 19:25:39
>>342 纏向衰退というか放棄は、4世紀末頃と考えられています。
同時に吉備や九州にあった、いわゆる纏向タイプの新設都市が
意図的に埋められて放棄されています。
この辺りから前方後円墳が異常な巨大化を始めるんですね。
具体名を挙げるほどの確証は無いですが、例えとして
崇神タイプの神官系為政王から、応神タイプの軍事的為政王へと
畿内王権が変化した蓋然性は高いと考えます。
345 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 19:28:01
すみません。
>>343の「中華思想」は「天帝思想」の誤りです。
346 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/10(日) 19:36:50
>>306 何か言ってる事が無茶苦茶では。倭人伝では、投馬国は北部九州から南方向。
さらに細かい記述では、「有棺無槨 棺あって槨無し」という葬制。
巻向のホケノ山古墳は「墓を造るに棺槨をもってする」という、隋書倭国伝の記述に合っている為、
卑弥呼時代より下った時代のもの。画文帯鏡も魏王が、敵対国の呉の鏡を卑弥呼に
贈るわけが無いことから、呉が晋に滅ぼされて後、難民となって倭に渡った呉の鏡職人が倭国で
作ったのかと思う。
347 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 19:41:24
この一連の高度な内容と平易な文体には覚えがあるぞ。
もしかしてアナタ、3年ほど前にコテハンで参加してませんでしたか。
2ちゃんの邪馬台国論争に事実上の終止符を打った、アノ人でつか。
348 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 19:53:37
>>346 倭人伝の方位記事は実際には反時計回りに45〜90度ずれていますよ。
対馬、壱岐からしてもう南ではないでしょ。
棺槨に関しては、葬送について魏が相当な関心を持っていたことは事実ですが
当時の中国の定義からすると、ホケノ山でさえ棺あって槨無しになっちゃいます。
画文帯が呉鏡だと断定するのは、いささか無理がありませんか。
そういう話はちょっと聞いたこと無いです。宜しければソースを教えてください。
>>347 終止符を打ったかどうかは知りませんが、仰るとおりコテで書いていました。
そうか、あれから3年も経つのか・・・年取る訳だ(笑)
当時は「老教授」と名乗っていました。
349 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 19:54:49
>>333 人口が倍以上違ってくると世界観ががらっと変わるね
俺も九州説だが、ここ適当な奴の話は信用がおけない
まあちょっとありえないだろう事を平気で言ってたりするから
注意しないと
350 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/10(日) 19:55:43
>>318だけど九州でそれらしき遺跡がまったく見つからないからどうしようもないんだな
吉野ヶ里は開発されていなかったため、そっくり出てきた珍しい遺跡。
平安時代にも、都こそ立派な建物が建っていたが、田舎は旧態全とした
竪穴式住居が広がっていた。それらが、時代を経て、徐々に無くなって言った。
都市、町、村、へとそのまま立て替えられ、変化していったものも多い。
ちなみに吉野ヶ里は、見つかっているものの中では大規模級。畿内のより大きい。
それよりさらに大きい弥生遺跡がまた見つかっていて、発掘が進んでいる。
351 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 20:01:46
町の規模から考えて、やはり畿内のほうが有力だな。
というか、邪馬台国がどうかではなくて、
その当時、日本列島の集約地域が
畿内にあったということしか分からん。
352 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 20:04:04
>>350 >吉野ヶ里は開発されていなかったため
いえ、単に全面保存しただけです。そういう意味では珍しいのですが。
>畿内のより大きい。
池上曽根や唐古・鍵はもっと大きいですよ。纏向はさらに大きい。
ついでに言うと東海の朝日遺跡や出雲の妻木晩田なども相当な規模ですよ。
また、平安時代に竪穴式住居が「広がっていた」というのは、いかがなもんでしょうか?
>それよりさらに大きい弥生遺跡がまた見つかっていて、発掘が進んでいる。
申し訳無いが、初めて聞きました(笑)
是非遺跡名を教えてください。
353 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 20:06:51
>>344 4世紀末の応神天皇ぐらいに
マキムク型が破棄されたと言いますが、
前方後円墳は、その後も破棄されなったんでしょう?
前方後円墳は大型ということですが、
日本全国に広がった前方後円墳の状態を教えてください。
354 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 20:08:09
>352
>平安時代に竪穴式住居が「広がっていた」というのは
このへんは常識だろ
355 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 20:09:35
>>351 >というか、邪馬台国がどうかではなくて、
>その当時、日本列島の集約地域が
>畿内にあったということしか分からん。
そう言う事です。それ以前は伊都国、さらにその前は奴国が集約地でした。
我々が知りたいのは邪馬台国の位置ではなく、2〜5世紀の列島情勢なのですから。
記紀とのすり合わせは、それが終わってからでも遅くは無いでしょう。
では落ちます。久々・・・3年ぶりの登場でしたが、またいずれ。
356 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 20:09:53
>>348 横レスするんですが、よろしいですか? 畿内説の考古ファンです。
「老教授」さんに、いくつか教えていただきたいことがあります。
あと1時間ほど、おつきあい願えませんか?
357 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 20:16:08
おおお!やっぱ老教授氏でしたか!
貴方の講義を当時楽しみにしていたもんです。
復活おめでとうございます!
時間のあるときでいいですから、またおながいします。
358 :
老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/10(日) 20:18:33
>>356 ちょっと食事に行ってきますので、出来れば30分ほどお時間下さいませ。
宜しければ質問事項を書いておいていただければ有難いです。
359 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 20:19:07
>>355 距離的にいってさ、伊都国から
急激に畿内へ東征するのは考えられないね。
なんでだろうね。
360 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 20:23:22
>>358 あ、間に合ったんだ。ホッ。(笑)
ありがとうございます。千載一遇?のチャンスなので…
それでは私も質問をまとめてみます。
どうぞごゆっくりお食事を。
361 :
質問者:2006/12/10(日) 20:39:23
>>358 質問@ 箸中山古墳の築造年代(=実年代)は?
11月に香芝市の二上山博物館であった邪馬台国関連シンポに行ってきました。
シンポ2日目のパネルディスカッションの冒頭で、石野博信館長が、パネリスト全員に、上記の質問をされました。
老教授さまにも、これはぜひお尋ねしておきたいです。
4世紀末、各地域の集落拠点が再編されるのは、高句麗南下が直接の契機
だったのだろう。
挙国一致で大国との戦争を遂行するにあたり、緩やかな連合政権の盟主に
過ぎなかった大王が、軍事的指導者として、より大王権力の強大化が起きた。
私は、この政治的混乱、どさくさに乗じて九州から東征、大王位を簒奪したのが
応神じゃないかと思うのだが。
仲哀紀に書かれる「国内の熊襲より朝鮮半島に目を向けよ」との神託。
その神託を信じないで死ぬ天皇。神功の三韓征伐など、記紀の記述も
整合性がありそうである。
363 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/10(日) 20:51:08
>>348 当時の海上の方向は多少感覚が違っていたのかもしれない。が、
まつろ国に上陸してからは、ほぼ正確に記されている。フミ国までを東とかとせず、
角度として考えた場合、それを、そのまま、投馬国に当て嵌めても、畿内方向になる事は無い。
葬制では、韓伝、夫余伝では棺あって槨無し、高句麗伝では石を積みて封となす。
東沃祖伝では、大木の槨を作る長さ、十余丈、といちいち書き分けている。
「死者を納めるに棺槨をもってする」という、隋書倭国伝の記述にあるように、木槨と言うのは
墓室を木で囲む枠の事と存じている。長いので、鏡については、続きでどうぞ。
364 :
質問者:2006/12/10(日) 20:51:44
>>361 ちなみに、そのときのパネリストの回答です。
(聴講しながらの簡単なメモなので、不正確かもしれませんが)
森岡秀人:250年頃
山田隆一:250年頃
大久保徹也:布留0
岸本道昭:庄内の一番新から布留
菅原康夫:おおまか250年代
岸本直文: 同上
菅原康夫:250年代の後半
石野博信:わたしだけが違うなあ(と苦笑)。280年ぐらい
365 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 20:59:21
>>362 応神天皇以降って、豊臣秀吉と同じ河内政権ですけど、
河内政権っていつぐらいまで続いたんですか?
366 :
質問者:2006/12/10(日) 21:03:25
>>364 菅原さんは、
「画文帯同行式神獣鏡が出た萩原1号墓が3世紀前半と考えられ…
……VL3……黒谷……中山……」
とかブツブツおっしゃってから(私わからん)、「250年代の後半」と2度目の発言で「後半」を付け加えられました。
>>364 いわゆる、布留0の実年代を大体250年としてる訳だな。
ここまで足並みが揃ってしまうのもどうか、と思うが。
三角縁との兼ね合いで、250年になるんだろうけど。
俺としては、庄内開始が何年頃かの方が、興味あるなあ。
368 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/10(日) 21:09:09
>老教授
これは懐かしい響き
あれはわたしのデビュー時
>終止符
とんでもない
369 :
老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/10(日) 21:11:39
>質問者様
いきなりキツいご質問を(汗)
森岡先生だけでなく岸本さんや菅原氏まで250年代ですか・・・
私は実は280年から300年までの間と見ています。
布留0をどう捉えるかによってもちろん前後する訳ですが
それ以前に築造技術そのものが旧態依然なのが気にかかるんですよ。
もしかすると2重構造というか、追葬による改築があった可能性も否定できませんし。
ただ被葬者が女性かどうかは、かなり疑問ですね。
倭人伝に登場した卑弥呼の墓という認識は持っていません。
また気になるのが木製鐙の存在です。石野先生も「落ち込み」ではないと仰ってますし。
でも大まかに逃げるのはちょっと卑怯ですね。
ここは男らしく「280年代後半」としておきましょう。
370 :
質問者:2006/12/10(日) 21:20:47
質問A 纏向勝山古墳、ホケノ山古墳の築造年代は?
例の年輪年代法での、奈良文化財研究所の発表です。
http://www2.begin.or.jp/sakura/maka02.htm いまもう一度読み直しますと、公式?発表は
「この木材の伐採が200年ごろです」
と言っているだけで、べつに勝山の年代は何も述べてませんでした。
盛んに述べているのは考古学者さん。マスコミ相手に……(苦笑)
で、勝山を200年ごろとするのは、ほんとうに妥当なのでしょうか?
(私は250年ごろかと思っていて、うわ古い!と驚いたのですが…)
371 :
老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/10(日) 21:21:25
>>362 応神の東征までは判りませんが、私も同意見です。
ただ北部九州において軍事拠点を有していた人物の発言力が増したとは考えられます。
>>365 河内王権といったものは存在しなかったのではと考えます。
連合内の軍事勢力を想定していただければ良いかと。
>>366 >萩原1号墓が3世紀前半
これは同意見です。ただ箸中山をそこから導き出せるかは、ちょっと・・・。
皆さん過激だなあ(汗)
>>367 私も庄内開始の方がキーポイントになると思います。
布留0は特異点というか、一過性のものではないかと見ておりますので。
372 :
老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/10(日) 21:26:29
>質問者様
>>370 伐採は200年で間違いないと思います。
しかし実際に使用されたのはもっと後でしょう。
私は早く見て230年、本命はは250年あたりだと考えます。
ホケノ山もその範囲内です。
光岡さんは「木材のそりによる歪みが極めて小さいことから、相当な期間置いてあったと考えられる」とも仰ってますね。
373 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/10(日) 21:26:55
>>352 保存されていたのではありません。神埼工業団地が着工されて工事が進む中で、
初めてその姿が現れ、保存か、工業団地開発かで揺れにゆれたのです。一部は破壊された。
ぎりぎりで、保存と決まったのです。
「平安時代に竪穴式住居が「広がっていた」というのは、いかがなもんでしょうか? 」
これは当然の範疇。説明するまでもありません。
「唐古・鍵はもっと大きいですよ」この環濠集落は埋められている。
倭国大乱をあらわす環濠の存在は重要で、邪馬台国は環濠と考えられる。
「それよりさらに大きい弥生遺跡がまた見つかっていて、発掘が進んでいる」
これは事実のようですよ。前スレで、名前も出てましたが、思い出せませんが。
おたく全部質問でなんにも知らないじゃないですか。
明日仕事が速いのに、今まで議論したことを今から、蒸し返すのって大変なんですから。
画文帯が呉様式なのも知らないでしょ。これ説明長いのよね。
吉野ヶ里が保存されていたと思っていたんですか?プロジェクトXでも事の顛末を
やってましたが、全く違います。いちいち全部聞かないで、何かで調べてもらえません?
374 :
362:2006/12/10(日) 21:28:07
>>365 俺は、老教授さんとは別人なので、一応。
河内王権は、大伴金村による継体擁立、6世紀初め頃まで続いたと思う。
ただ、最近は、三輪→佐紀→河内と王権の所在地が移動しただけで、
水野祐の言うような三王朝交替説とかは、無視されてるのが趨勢みたいです。
俺のような意見はマイノリティのようだ。
神武─成務までの大王位の父子相続が、応神以降、兄弟相続に
変わる意味でも、何らかの政体の変化があったとみて然るべき、
だと、俺は思うのだが。
具体的に言えば、応神までは、有力豪族による大王位持ち回りであったのが
(現大王が前大王と、擬制的親子関係を結ぶ)、
応神以降は、ホムタワケの係累により、大王位が独占されたのではないか、
と考えている。
他にも、
前方後円墳築造規制が緩和、吉備や葛城に大規模前方後円墳が出現する
辺りとかも、政変を推測させる事象は多い。
375 :
老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/10(日) 21:28:40
プラムさんというのは、当時多くの書き込みをされておられた方でしょうか?
お久しぶりです。ご健勝何よりです。
376 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/10(日) 21:33:08
>>368 でしょー。疲れるー。ごちゃごちゃ書き込ませて。
今までドンと来いで論破された内容ばっかり。
ドンと来いってほんとレベル高いよね。プラムさんに言われた
漢書は少し読んだけど、むずかしいーっ。特に漢字が。
和訳なしではちょっとどうかな?
>>373 この程度の事で。
あなたの好きな他の九州説の方はもっと酷いのに。
>>363 まだ倭国と邪馬台国を混同してるんですね。
江戸時代にラクダや象が江戸に来たからと言って、
日本にはラクダや象がいるとは書かれないでしょ。
槨ありは巻向の王だけの例外だったんですよ。
378 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 21:34:33
宮内庁指定の応神天皇陵って、
本当に彼の陵墓なんですか?
379 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 21:37:22
380 :
質問者:2006/12/10(日) 21:38:00
質問B
「定型化した前方後円墳」という概念がひと昔前から言われ、
それを構成する要素として、
墳丘、長大な竪穴式石室(いまは石槨ですか、それと割竹形木棺)、
とならんで、円筒埴輪の樹立のことが言われていたように思います。
ところが、前期の、墳形を見ればかなりな程度「定型化」したと思われる前方後円墳の中にあっても、
埴輪を伴わないもの、あるいは壺形埴輪だけあって円筒や朝顔が見当たらないものも、けっこうあるような気がします。
これは、どういうことですかッ!? (老教授さまに文句言っているわけではありません)
381 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 21:40:37
>>374 父子相続、兄弟相続ってのは、
記紀がしっかりしている時代でも
変化しているし...
私も二上山シンポ、行きましたけど。
パネリストの面々も、箸墓の実年代を答えるのは苦笑してましたよ。
皆さんが、「実年代で考えたことはありませんが、250年でも
おかしくはない」みたいな、逃げの発言w
そりゃ、そうなんですが。
実年代を簡単に確定できるなんて、逆におかしいわけ。
結局、年輪とC14の成果待ちですか。
倭人伝の話をするパネリストも殆どおらず。
箸墓の実年代予想は、石野さんの観客サービスなんでしょうねえ、やっぱり。
一般大衆はやっぱり、倭人伝の話、実年代の話をして欲しい訳です。
383 :
老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/10(日) 21:41:05
>>373 >九州ですが様
吉野ヶ里は私も若りし時に関わっていましたので、詳細は大体存じておりますが
ちょっと何か思い違いをされておられるのではないでしょうか。
環濠(壕)には意図的に埋められたものはほとんど無いですよ。
自然に土砂が堆積して、仕方ないからまた掘ってを20〜30年単位で繰り返しています。
画文帯が呉様式というのは、私の周りで主張する者が居ませんので
どのような根拠に基づくものなのか、参考書籍がありましたら教えてくださいな。
>>374 362様
>応神以降は、ホムタワケの係累により、大王位が独占されたのではないか
これは物証は無いですが、その可能性はありますね。
それも長くは続かなかったとは思いますが。
384 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/10(日) 21:44:08
>>375 老教授さん
本当にお久しぶりです。
あの当時は何も知らない無鉄砲 今は多少ですが落ち着いてきました。
久々の登場ですので、暫くはごユックリ滞在なさって、スレを盛り上げて戴きたいと、思います。
一言だけ、
>応仁の東征
いけませんよ、外国語と記紀の内容を混同しては
385 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/10(日) 21:46:03
日本書紀では箸墓の被葬者の倭迹迹日百襲姫命没をAD247年(最大誤差+1年)に設定しています
さて上代の日本書紀製作者が正しいか、現代の考古学者が正しいか
386 :
質問者:2006/12/10(日) 21:47:41
質問C (まだいぱ〜いお尋ねしたいですが、遅くなって申し訳ないので、ひとまずここまでにします)
古墳に副葬された国産銅鏡の生産地は、どこにあるんでしょう?
これから発掘で銅鏡生産遺跡を検出するには、どこを掘ればいいのでしょう?
ここはぜひ、シュリーマン先生に成り代わって、お答えを頂戴願えませんでしょうか。m(__)m
ぶしつけな質問にお答えいただいて、本当に感謝しております。質問は以上です。
387 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/10(日) 21:47:46
>>383吉野ヶ里は私も若りし時に関わっていましたので、詳細は大体存じておりますが
ちょっと何か思い違いをされておられるのではないでしょうか。
何がどう思い違いなのか教えていただけませんでしょうか。
388 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 21:48:33
記紀の話ですが、崇神から
大和王権の活動の動向が見えてくるんですよね、
マキムクなんかでも...
けど、応神だけじゃなくて、明らかに
大和王権が攻撃的だなと思えるのが
日本武尊くらいなんですよね。
ここからは明らかに軍事的な色彩が強いと思う。
彼ぐらいの年代って、2倍年暦でいうと、どんくらいですか?
389 :
382:2006/12/10(日) 21:51:21
二上山シンポでは、山田氏の製塩土器の推察から、
塩が労働対価として支払われていたのでは?という意見が面白かった。
いわゆるサラリーですね。
まあ、マキムクではあれだけの大土木工事をやってるわけだし。
390 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/10(日) 21:52:44
>>383 引用をどうぞ
■ 画文帯神獣鏡
画文帯神獣鏡は中国でも日本でも出土している。
材料に含まれる鉛同位体の分析から、画文帯神獣鏡は三角縁神獣鏡と同様に中国南方の銅を使用していることがわかっている。
また、神獣文様も中国の南方で普及していた文様である。
西晋が、南方の銅材料や南方の文様を入手し、画文帯神獣鏡を製作できたのは、280年に、中国南方を支配していた呉を滅ぼした後のことと考えられ、これが画文帯神獣鏡による年代判定のポイントとなる
391 :
老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/10(日) 21:52:49
>>380 >質問者様
ごめんなさい(謝)
これは祭祀形態が決して定型化されていたわけでない証だと考えます。
そのことからも前方後円墳の被葬者達が、一枚岩ではなかったと見ております。
>>382 >年輪とC14の成果待ち
これとて○○年以降としか言えない訳でして
それこそ墳墓の築造技術による古墳編年を構築せねば確定は困難ですね。
そういう意味でトレンチだけでも入れさせていただきたいのですが・・・。
392 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 21:53:21
>>369 >また気になるのが木製鐙の存在です。石野先生も「落ち込み」ではないと仰ってますし。
鐙を古墳と同時代とみるなら、350年以前に遡るのは難しいのでは?
乗馬は400年ころから開始というのがそれまでの定説だった訳で、280年まで遡らせるのは
無理があると思う。モモソヒメを記紀のとおりに見れば、死亡後に古墳が作られたのは350〜
370年頃の間になるはず。
393 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/10(日) 21:55:01
>>376 和訳を頼るくらいなら
古代史なんてやめたほうがいい
和訳に頼れば自分の思考は必ず減退し、いつかは必ず和訳の範囲内でしか物事を判断出来なくなるよ
私もまだ中途半端 毎日漢和辞典との睨めっこだよ
慣れればなんとなくだが、読めてくる。
394 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 21:59:38
>>387 思い違いとは、ここを差してるんじゃない?
>環濠(壕)には意図的に埋められたものはほとんど無いですよ。
>自然に土砂が堆積して、仕方ないからまた掘ってを20〜30年単位で繰り返しています。
これについての見解は?
395 :
老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/10(日) 22:00:48
>>386 質問者様
冷や汗の湧き出るようなご質問ですね。
個人的には山城から丹波にかけてか、播磨の湾岸地域などが面白いのではないかと思います。
>>389 382様
これまた同意見です。私は特に東海からの労働力は組織的なものだと考えておりますので。
難民説には賛同しておりません。
さて、今宵はこれまでにしとう御座います。
答え切れなかったご質問には、後日出来る限り対応させていただきます。
おやすみなさいませ。
>>370 >と言っているだけで、べつに勝山の年代は何も述べてませんでした。
それらしきことはいってるよ。かなりあいまいではあるけどね。
>木材の伐採から製材、加工にかかる時間幅、および、使用から廃棄に至る経緯やその間の時間幅をも考慮する
>必要があることは言うまでもない。残念ながら、現段階ではこれらの時間幅を明らかにするてだてはないが、
>それを【極端に長く】見積もる必要はないものと考えられる。
http://www.kashikoken.jp/from-site/2001/katuyama4b.html この【極端に長く】がどのくらいを意図したのかはわからないけど、
とりようによってはかなり前倒しを考えているようにも読める。
>盛んに述べているのは考古学者さん。マスコミ相手に……(苦笑)
もとKKKのK上さんですね。勘弁してくれよ、本当に。
397 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/10(日) 22:06:35
景行年間はAD300〜330が中心年代の筈ですが
景行年間に日本武尊を活躍させる為に没年は+10年ぐらいして置きましょうか
398 :
質問者:2006/12/10(日) 22:12:54
老教授さま、ありがとうございました。
また機会がありましたら、いろいろご教示ください。
では私は退散します。
399 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 22:14:14
年代あわせの話は本当につまんね。もう一度入ったら、数字いじり自体が目的に
なってるって感じだな。
400 :
太国:2006/12/10(日) 22:16:11
401 :
サガミハラハラ:2006/12/10(日) 22:18:19
古代史とは算数である、となってしまいますね。
私の年代論はどこにいっても不評でした。
402 :
サガミハラハラ:2006/12/10(日) 22:20:30
かといって、年代論がしっかりしなければ、記紀が日のめをみないのです。
説話だけを取り出してありうる話だでは納得しえないのです。
403 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/10(日) 22:23:02
>>383環濠(壕)には意図的に埋められたものはほとんど無いですよ。
不思議なことに、弥生後期後半から末ころ、ほぼ時を同じくして環濠が一斉に埋没するのである。
唐古・鍵遺跡では大量の土器が環濠に捨てられ、埋め立てられている。
土器は意図的に捨てられたらしく形をとどめるものが多い。
奈良盆地では弥生後期後半に、なにか大きな社会変動が起きたと考えられる。
長年、唐古・鍵遺跡の発掘に携わってこられた、藤田三郎氏による、遺跡の変遷を、
環濠の消長から論じた、注目すべく論考がある。以下にその論考の図を示す。
出典:古代探求 森浩一70の疑問・中央公論・1998年
『古墳時代の唐古・鍵遺跡の消長』藤田三郎
404 :
382:2006/12/10(日) 22:32:21
>>403 老○○は、吉野ヶ里のこと、言ってるんじゃね?
405 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/10(日) 22:34:08
>>393 でも見た事の無い字が多くて・・・。
なんて泣き言はいえないよね。時間あるかな。
>>400 日本書紀の神功の記載からも、編纂者は神功=卑弥呼という見解を
持っている。
わざわざ肖古王を120年ズラして引用してる位だし。
百歩譲って、二倍暦なる代物が本当にあったとしても、
記紀編纂時には完全に忘れ去られていたわけ。
記紀を二倍暦で復元出来るとかは、不毛な作業だと、俺は思うけどね。
407 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/10(日) 22:39:08
404いんや。
>>373の「唐古・鍵はもっと大きいですよ」この環濠集落は埋められている。
に答えてるようよ。
408 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 22:41:07
>>402 でもちょっと考えてご覧よ。編纂者はいろんな史実を分解して物語を構成したにしてもそれを
どの時代にでも当てはめられる立場にいたのだぜ?
俺は年代から帰納するのは一番実りがないアプローチだと思う。
409 :
太国:2006/12/10(日) 22:42:05
>>406 編纂者の一部には、貴殿の考えの者がいたかもしれないということは
相当程度言える。ただあの文のみでそうだとはならない。
諦めるのが早いねぇ〜。
老教授氏は慇懃な物言いをする人だから、はっきりとは言わないが
あんた、それはむちゃくちゃでんがなって事を大人の言葉で言ってるんだと思うよ。
411 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/10(日) 22:56:22
>>405 生ある限り貴方の時間
努力すれば必ず報われますよ。
私はこの一年、自分の過去の考察を全て捨てて
一から そうしてきました。一切の主観を捨てて
412 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/10(日) 23:08:17
日本書紀は算数だ。その算数が正しいか否か、
書紀の陵墓比定が正しいか否かを実証出来るのが考古学
>>406 日本書紀の神武天皇治世元年をBC660年に設定して
実年代の1年が3倍に引き伸ばされていると考えると
AD57→BC660、BC659、BC658
∬
AD247→BC_90、BC_89、BC_88
と云う具合に成る。つまり、
AD57=建武中元二年の倭奴国遣使→日本書紀神武天皇治世元年(BC660)
∬ ∬
AD247=正始八年の卑弥呼没→日本書紀崇神天皇治世十年倭迹迹日百襲姫命没(BC88)
こう云う風に日本書紀製作者は意図的に設定していた筈だ。
そして近代考古学の成果と云えば箸墓の築造年代はAD250年程度を限度にしている
勿論八世紀に近代考古学なんてない。日本書紀製作者は箸墓の実年代を知って居なければならない。
ほぼ全てを把握した上で意図的な年代操作を行なっている。これが日本書紀。
それから、古代日本に2倍暦だの3倍暦だのと云う暦法が実際に使用されて居た訳ではない。
日本書紀製作者がそう云う倍率で、特定年間に対して適用したと云うだけに過ぎない
413 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/10(日) 23:09:02
>>411でも正直言って、ページを開いたら笑っちゃいましたよ。
あんまりにも読めなくて。古文は結構スラスラ読めるけど、
漢文、しかも昔の字でしょう。どこか、幅広い中から、
ここだけは邪馬台国論議の中で必要だというところを限定で、
教えてくれません?書籍も買うのはは高価だし、とても全部は・・・。
古本屋でもさがせばあるかな。
414 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/10(日) 23:27:01
>>381 >父子相続、兄弟相続ってのは、
>記紀がしっかりしている時代でも
>変化しているし...
当時の平均寿命、医療技術から考えても、神武〜成務まで順調に父子相続
がなされているのはおかしい・不自然と考えるのが普通と思うのだが。
天武以降、大和朝廷は再び父子相続を志向。中継ぎの女王をいっぱい立てざるを
得ない事態に至っている。
また、父子相続では、天皇が幼少になってしまうことが多く、古代、
天皇が軍事的指導者でもあった時代に、父子相続が何代にも亘って
行なわれてきたとは考えにくい。
平安以降、幼少の天皇が即位するようになり、権力は摂関家へ。
院政により、ようやく皇室氏は権力を奪回するのだが。
416 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/10(日) 23:41:45
417 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/10(日) 23:44:06
>>413 本気で古代史したくなったら声かけて下さい。
微力ですが お手伝いしますよ
418 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/10(日) 23:49:07
419 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/10(日) 23:59:09
>>418 お互い足の引っ張り合いだけでは
脳が有りませんから。
420 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/11(月) 00:03:37
>>418 あ! そうだ
漢籍に挑戦する前に、
この文字の違いを考えてみませんか?
『初』と『始』の違い
答えられますか?
どちらも(はじ‐めて)ですが………。
421 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/11(月) 00:05:11
>>419 それが本音?でもどうして和訳を読んじゃいけないんでしょうか?
大体その時代の読みを専門家が訳してるのでは?まもなく寝ます。
422 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/11(月) 00:17:31
>>420 漢文だと良くわかんないけど、何らかの行動を起こすときに始める、を使うけど。
始皇帝、始動、みたいに。
初めて、は
423 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/11(月) 00:20:56
>>420 すみません
>>422 は書き間違いです。もう明日が早いので寝ます。
また明日お願いします。
424 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/11(月) 00:21:32
本当にそう思いますか?
425 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 00:24:35
>>350の、
>ちなみに吉野ヶ里は、見つかっているものの中では大規模級。畿内のより大きい。
>それよりさらに大きい弥生遺跡がまた見つかっていて、発掘が進んでいる。
これが気になる。
情報を持ってる方、教えてください。
426 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/11(月) 00:26:26
427 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/11(月) 00:39:53
428 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/11(月) 01:02:59
429 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 01:17:08
>>426 それ、その後、音沙汰が無いね。
というのは、本当に前方後円墳がどうかは分からないから。
いずれにせよ、マキムクを中心に
そこから徐々に広がったのは事実だよ。
430 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 01:19:51
>>426 もう、古代の天皇の年齢が高い理由は
かたがついているよ。
神格化するなんて、アホな理由があるかよ。
もし、引き伸ばしたいのなら、天皇の代数を増やすだろうし
また、中国系1世が大量に関与しているんだぜ。
431 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/11(月) 01:26:07
>>393 >和訳に頼れば自分の思考は必ず減退し、いつかは必ず和訳の範囲内でしか物事を判断出来なくなるよ
>私もまだ中途半端 毎日漢和辞典との睨めっこだよ
それじゃ、プラム製中国語であって本物の中国語じゃない。
漢和辞典が正しいというものじゃあるまいに!
今の日本では和製英語が氾濫してるが、あなたみたいな奴が広めた素人英語なんだろうね。
肝心のアメリカ人に通じない和製英語をどれだけ覚えても屁のツッパリにもならん。
現在の中国語をペラペラ喋れるようになってから、大昔の中国語に挑戦しなさい。
アンタは順番が逆!
中国語は外国語であって、日本語じゃない。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
シュークリーム cream puff:shoe creamは「靴磨き」の意味。シュークリームが
食べたくなった時に「クリームパフ」という言葉を知らないとありつけないかも。
http://nonnonken.exblog.jp/2820332
432 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/11(月) 02:44:12
>>429 >それ、その後、音沙汰が無いね。
どちらの方が音沙汰ないのかね?
マキムクの箸墓古墳は1998年の調査で、その後音沙汰あったかい?
西都原81号古墳は2005年で去年の事でマダマダ、出来立てで暖かいと思うけど・・・・
どちらが中心かなんて、どうして断言できるものかな。
先に出来たのだったら、同じような形式の試行錯誤の小さな古墳の方が可能性は大きい。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
纒向遺跡第109次発掘調査資料、(財)桜井市文化財協会、桜井市教育委員会
1998年9月13日
http://www2.begin.or.jp/sakura/hasihaka1.htm
433 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/11(月) 02:45:57
>>430 >もう、古代の天皇の年齢が高い理由は かたがついているよ。
かたはついてない。
あんたがそう思ってるだけの話!
恵也さんの年齢はおいくつですか
42歳ぐらいだろ。幼稚で低学歴が一目瞭然だが、
頑固で自分が正しく、他人を馬鹿にしている。未婚で無職、社会に属したことがない
30代後半から40代の典型的なパターンだからね。
若いひとはこうはいかない
436 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/11(月) 04:51:10
>>433 恵也さん、待ってました。昨日出てこないから心配したー。
どこいったんだろうと他のスレまで見たり。
夜中にトイレ起きして気になって見たら、いたいた。またすぐ寝ます。
ここね、引用先ばっかり探さなきゃならなくて、疲れるの何の。
あんまり前のスレで会話したので覚えてない事もあったりして手が掛かる。
恵也節見てスカッとしました。お見事。
これで漢文のお勉強に少しは向けられる。
437 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/11(月) 05:09:58
>>352「>畿内のより大きい。
池上曽根や唐古・鍵はもっと大きいですよ。纏向はさらに大きい。」
に答えてませんでしたね。引用をどうぞ。
「唐古・鍵遺跡は、奈良盆地のほぼ中央、初瀬川と寺川に挟まれた沖積地に営まれた弥生時代の環壕集落の跡である。
環壕遺跡としては近畿地方では最大、全国的にも佐賀の吉野ヶ里に次ぐ30fの広さを持っている。」
438 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/11(月) 05:25:49
>>352 纏向はさらに大きい。
引用ー
「吉野ヶ里遺跡の面積は約40ha(外濠で囲まれた範囲)。一方の纏向遺跡は約300haに達すると推定されて
いる」と、つまり推定。確定していないのに持ち出すのは危険。
439 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/11(月) 05:33:19
>>352「>吉野ヶ里は開発されていなかったため
いえ、単に全面保存しただけです。そういう意味では珍しいのですが。」
引用ー
吉野ヶ里が大規模な工業団地建設予定地の事前調査として発掘された(遺跡の保存が決まり工業団地
建設は中止された)
このやり取りはちょっと誤解が混じってるかも。でも一応どうぞ。
440 :
太国:2006/12/11(月) 07:45:30
>>426 神格化したいため寿命を加増したとかの主張だが、ではなぜ武烈天皇の犯罪的
行為を紀は記載したのか?神格化が16代までやればあとの天皇は不良行為を
紀に記載してもいいのか?
こんな記事があるところを観れば、仁徳以前も無理な神格化をしていたという
ことにはならない。つまり超長寿記載のの意味は神格化のためではなく、他に
あったと考えるべきである。いくら仁徳まで神格化したって後代の天皇が非業
をやっていたんでは神格化に傷がつくものである。
親父が鼻高いノーベル賞をもらうくらい名誉を築きあげても、その孫とかが
覚醒剤とか強姦だとかやってるのが発覚したんでは名誉の高揚には全く
ならない。つまり紀の編者は神格化のために数字を加増したんではない。
その論はデタラメであって棄却される。
当時は2倍暦等をやっていたのである。超長寿の謎はほぼすっきりと
分かるのである。
441 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/11(月) 09:05:48
>>431 言ってること目茶苦茶だよ
>本物の中国語じゃないよ
言葉に本物・偽物が有るの?
>漢和辞典が正しいというものじゃああるまいに
単に否定するのではなく、具体的に何処がどのように間違っているのか指摘しなければ、単なるひやかしと同じだよ
>中国語ペラペラ……
じゃあ、君も止めたら
どうせ君もペラペラ喋れないだろう。
それに、ペラペラ喋れる事と、古代の漢字を知ることの因果関係を説明してもらわないと。
反論・批判が目茶苦茶だ
442 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 09:51:54
森博達先生が「オレはペラペラだ」とお怒りです↓
443 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 10:02:54
>>440 天皇の血筋そのものが尊いと言いたいのだよ。
天皇が我侭や馬鹿でも、下々のものは我慢して補佐しなさいと、
記紀はそういう意図で書かれているわけだ。
444 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 10:17:57
>>439 >>352氏ではなく、横槍ですまないが、かみ合ってないように見える。
>>352氏は、それまで土地が使用されてなかったので、
全面的な保存が可能だったと言ってて、
九州ですが氏は、そこに、団地建設の危機にさらされたと言ってるのでは。
>>438は、池上曽根が漏れてるし、
纏向も、一般論の7分の1でも吉野ヶ里よりも広いのに、
確定してないから持ち出すなという意見はちょっとありえない。
445 :
太国:2006/12/11(月) 10:19:53
>>443 尊いとかはまだいいとして、それが時間の引き伸ばしとは因果関係が
あるとはいい難い。
もしそうだと云うなら、例えば記なら推古までも引き伸ばせばいいではないか?
そうなっていないだろうが。
446 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 10:27:55
>>426 現代でも124歳まで生きるのが例外と言いたかったのであって、
記紀の100歳以上のバーゲンセールが普通にありえると言いたいのではないよ。
水に沈む木でも、固い土を掘る土木工事は難しいと思う。
鉄は7.87。
太い杭を、牛に引かせて土を掘り起こすという手段もあるだろうけどね。
畿内王権が大陸から輸入していたとか?
447 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/11(月) 11:17:14
>>436 >恵也さん、待ってました。昨日出てこないから心配したー。
気に入って貰ってうれしいが、これでもいろいろ野暮用があってね。
昨日は93歳のお婆さんを送って、そのお婆さんとツガニの蟹味噌料理を1日してたよ。
ミキサーにかけ、米ぬかと混ぜ塩を振り、フライにしたが旨かったね。
これこそグルメの味というか、こいつは本当に旨い。
ビールのつまみには最高だ。カラスミ以上じゃないかな!
448 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 11:22:28
近所のご隠居さんが集まる喫茶店みたいになってるスレはここですか?
449 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/11(月) 11:39:32
>>440 >神格化が16代までやればあとの天皇は不良行為を紀に記載してもいいのか?
あなたの神格化の理解と、俺の理解はずいぶん違う。
記紀の編集者が考えた神格化は、慈悲心を持った第16代仁徳天皇の出せば、凶暴性を
もった武烈天皇も出し恐れさせる必要も考えた神格化。
優しさだけの神話なんて、読んでても眠たくなるだろう。
キリスト教やイスラム教やユダヤ教が、神の書かせた真実の聖なる書として旧約聖書がある。
旧約聖書でも神の命令として、町を女子供・牛やロバにいたるまで全滅させてます。
神話とは、神を恐れ敬わせ頼らせるべきもの。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。彼らは、男も女も、若者も老人も、
また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼしつくした。
(ヨシュア記6章16〜21節)
http://www.j-world.com/usr/sakura/other_religions/divine_murder.html
450 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 11:41:36
田辺昭三氏は、特殊器台を根拠に、箸墓古墳の年代を遡らせようとした張本人
のような印象を受けたのだが、最近は箸墓の築造年代を4世紀半ばと考えて
いるらしい。関川尚功氏も同じような年代と考えている。
また、斎藤忠・元東大教授は4世紀後半としている。
最近のこのスレでは、まるで3世紀で決まったかのように印象を受けるが、
いろんな説があるようだ。
それから、畿内説の人は現在の人口を重視しているようだが、古代を
そのように考えるのは正しくないと思う。
九州より近畿地方のほうが人口が多かったというのは先入観に満ちている。
また、南九州より、北九州のほうが人口が多かったというのも正しくない。
鬼頭氏の調査によると、3世紀始めの三重県まで含めた近畿地方全体の人口と
九州全体の人口はだいたい同じになっている。
また、北九州よりも南九州のほうが人口は多いとされている。
弥生後期の鉄の出土で言えば、熊本が圧倒的に多い。
大規模な遺跡は、かなり踏み込んだ調査をしないと全体像がつかめないわけ
だが、九州では有明海沿岸に大規模な環濠集落は多い。
吉野ヶ里遺跡は良く知られているが、甘木市の平塚川添遺跡、
熊本県の方保田東原遺跡、同じく、うてな遺跡などがある。
九州の中心が福岡市付近というのは古代には当てはまらないと思う。
451 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/11(月) 11:44:24
>>440 >当時は2倍暦等をやっていたのである。
2倍暦が考えれるのは、お米の2期作が出来る暖かい宮崎や鹿児島だけ。
真冬の寒すぎる奈良では、そんな暦は存在理由がない。
だから神武天皇の頃までは、2倍暦の可能性はあるがそれ以降は全く存在しない。
452 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/11(月) 11:51:15
453 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/11(月) 12:30:46
>>452 スルリと論点をずらすねぇ〜っ
ここで取り上げているのは『中国語』
それを『和製英語』の例を出しかわさなくとも。和製英語の派生と、私の漢字解釈にどのような共通点があるの?
せめて、和製中国語辺りの例を取り上げてくれ
そのような、トンチンカンな“すり替え”で、肝心な要点をそらすことが、多々みうけられるよ
454 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/11(月) 13:09:06
>>453 >せめて、和製中国語辺りの例を取り上げてくれ
俺は中国語の専門家じゃない。
専門家に聞いてくれ。
俺が知ってるのは「迷惑」という中国語と日本語の意味の差くらいだ。
中国語では、スカートに水をかけて謝る意味の「失礼しました」という程度の意味と聞く。
和製中国語で、本物の中国語を類推するものじゃない!
455 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/11(月) 13:18:05
>>454 >専門家に聞いてくれ
専門家からのクレームならそうするけど、クレーム先は君だよ
クレームだして説明出来なくちゃ 原因究明出来ません。
456 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 13:18:44
>>436 結論が出るのが怖くてスレを混乱させたいわけじゃないよね?
457 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 13:39:30
つか
>>436みたいにスレを私物化したようなノリは2ちゃんにそぐわないと思う。
458 :
太国:2006/12/11(月) 14:11:21
>>449 そうすると古事記の33代全天皇は悪神の神格化を確立するために、寿命が
べらぼうに長く拡大したというわけか?
そんなことはないだろう。お前の恣意的勝手な暴論の果て収拾がつかないので、
そんな逃げ口上を言ってるだけだろうが。
もしもノーベル賞受賞の親父が凶暴性をもった息子、孫への教育目標として
彼らを育てて、覚醒剤とか強姦とか恐喝の手助けなどするわけがな〜い。
つまりお前の反論は全く説得力がないデタラメの極地であ〜る。
459 :
太国:2006/12/11(月) 14:20:55
>>451 無い理由が前々書いてな〜い。お前の否定だけの説明であって、全く説得力を
欠いている。この前言ったとおり、暦は必ずしも農作で決まるのではない。
天皇の信仰のほうが暦では農作より以上に重要なのである。大祓祝詞に於いて
半年の晦日に大祓いを慣行する。これが古代の1年なのである。
つまり現代の1年は当時の2年に相当する。2倍暦は天皇の超長寿の疑念を
ほぼスッキリと氷解に導く。
460 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 14:44:36
461 :
太国:2006/12/11(月) 14:54:01
それに似た桜?があるのをこの前TVでやっていたと思ったな。
しかし、植物にこだわらなくてもいい。
462 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 14:54:57
>>450 >それから、畿内説の人は現在の人口を重視しているようだが、古代を
>そのように考えるのは正しくないと思う。
>九州より近畿地方のほうが人口が多かったというのは先入観に満ちている。
>また、南九州より、北九州のほうが人口が多かったというのも正しくない。
>鬼頭氏の調査によると、3世紀始めの三重県まで含めた近畿地方全体の人口と
>九州全体の人口はだいたい同じになっている。
>また、北九州よりも南九州のほうが人口は多いとされている。
確かに、畿内のほうが九州よりも人口が多いという先入観を
古代から持ってはいけない。
しかし、九州の場合は、そこから勢力伸長が難しい。
逆に畿内には陸続きで、新たな併合地域が多く存在する。
考古学の観点から邪馬台国がどこにあったのか?なんてことよりも
マキムク遺跡の発掘で、そこから国家統合の波があったのは否定できないと思う。
463 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 15:00:12
>>461 こだわりますよ。植物は暦が無くとも毎年ほぼ決まった時期に花を咲かせますから。
それに、農耕対象も植物です。
464 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/11(月) 15:06:36
>>461 太国さん
冬至と夏至も二年に一度なの?
それじゃあ(ゆず湯)は二年に一回?
バレンタインデーは一年に二回?
465 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 16:38:01
日巫女は畿内で祭祀政治をやっていたのだろう
まあ邪馬台国の素となるものは九州に在ったんだろうがな。
466 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/11(月) 16:39:08
>>459 >無い理由が前々書いてな〜い。
あんた理解力がないね。
理由::2倍暦が考えれるのは、お米の2期作が出来る暖かい宮崎や鹿児島だけ。
結論::神武天皇の頃までは、2倍暦の可能性はあるがそれ以降は全く存在しない。
467 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 16:44:06
九州ですが≒プ&太のレスは読む価値なしだよ。相手すんな。
468 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/11(月) 17:18:07
>>455 >専門家からのクレームならそうするけど、クレーム先は君だよ
言葉の使い方の間違い!
クレーム::商品取引での苦情の事
ここではあなたの中国語の語学力に対する、能力の問題。
469 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/11(月) 17:28:12
>>486 ハイハイ 確かに適切な使用ではないね
でも、そんなどおでもいい文言で対処すとは(至〇・〇至)か?
(・_・、)よ
470 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 17:35:12
二倍年暦で計算したけど、割と正確なんじゃないのか?
少なくとも、崇神以降は割りと正確だ。
もっと日本書紀を素直に読んだほうがよいと思う。
中国の考古学会も、高句麗の問題があって
中国、日本、朝鮮半島を含めた北東アジア情勢の研究に力を
入れはじめだしたみたいだけど...
大和国の統一を西暦300年の頃と見積もっている。
というのは、二倍年暦で計算したら、ちょうど景行天皇の頃なんだよね。
この天皇の時、日本武尊の活躍で、ほぼ北九州〜関東まで
支配下に治めたと記紀には記している。
よって、卑弥呼の頃は崇神天皇の時代だ。
また、神武天皇に関しては、もし実在していたとしたら、
卑弥呼よりもずっと前に、九州王朝が畿内へ派遣した軍司令官では?
とも思われている。
また、二倍年暦で計算したら、日本書紀の三韓征伐と
広開土王碑文の記述も合ってくるし...
471 :
日本@名無史さん :2006/12/11(月) 17:41:05
もう、二倍年暦の不毛な議論は止めませんか?
472 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 17:44:29
>>471 いや、二倍年暦は不毛な議論ではない。
邪馬台国がどこにあったのかは分からないけど
少なくとも、日本書紀に書いてある大和王権の成立過程は
二倍年暦でだいたい合致してくる。
473 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 18:00:02
邪馬台国がどこにあったか解らないだって?
畿内大和ととっくの昔に場所が特定されてるんですけどね。
474 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/11(月) 18:21:15
二倍だけではなく、三倍も使われている
475 :
太国:2006/12/11(月) 19:12:54
>>463 はいはい。
>>464 プラムさん
懐疑的になるのはお察しします。まさか当時バレンタイン・デーはなかろかと。
貴殿も古代天皇の超長寿を何故か? 女王国と一緒にお考え願いま〜す。
>>466 お前の脳作は真のダタラメ王だ。2倍暦の区分けは農作に限っていな〜い。
>>470 景行世ということでは300年はほぼ正解。卑弥呼は神武より後の代。
>>471 2倍暦等の議論は女王国の時代の研究に役立つので前後の時代の倍暦論は
やったほうがいい。
476 :
太国:2006/12/11(月) 19:17:42
477 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/11(月) 19:29:45
二倍であろうと、三倍であろうとも構わないけど、
一年の誤差も許されないよ。
文献で一年の違いは別世界、これ常識だから
478 :
太国:2006/12/11(月) 19:32:19
>>477 まだ完全かどうか、そこまで至っていません。それが出来ますと権威の力が
付与されます。ただ倍暦は確かだとそう考えます。
479 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/11(月) 19:36:21
実年代の神武天皇治世元年を建武中元二年のAD57年に設定し、
日本書紀の神武天皇治世元年をBC660年に設定して
実年代の1年が3倍に引き伸ばされていると考えると
AD57→BC660、BC659、BC658
AD58→BC657、BC656、BC655
∬
AD247→BC_90、BC_89、BC_88
と云う具合に成る。つまり、
AD57=建武中元二年の倭奴国遣使→日本書紀神武天皇治世元年(BC660)
∬ ∬
AD247=正始八年の卑弥呼没→日本書紀崇神天皇治世十年倭迹迹日百襲姫命没(BC88)
こう云う風に日本書紀製作者は設定していた筈だ
一年の誤差もない。
まぁ、あるとすれば、日本書紀製作者が卑弥呼没年を248年だと解釈していたとする場合だ。
何が正しいかはいずれ明らかになるだろう。
480 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 20:37:59
日本書紀を研究している中国の学者は
普通に継体天皇以前は二倍年暦で素直に計算しているな。
それで考えたら、邪馬台国は九州のどこからしいが、
安本氏みたいに邪馬台国・卑弥呼以後、東遷したなんて考えていない。
神武天皇は卑弥呼よりも200年以上前の人で
その時代に、九州王朝の派遣軍ぐらいの立場で畿内へ東征?したのではと...
だからこそ、神武〜崇神ぐらいまでは欠史八代といって詳しく書いていない。
詳しく書いちゃうと、ただの地方長官だったというのがバレルからw
しかし、崇神天皇(卑弥呼と同時代)ぐらいになると急に詳しく書き出す。
なぜなら、その頃ぐらいから、天皇家は自分の歴史に自信を持ち出す。
大和王権の覇者として歩き出すから。
そして、西暦300年ころ、景行天皇の時、北九州から東国まで平定、
中国の考古学者もこの頃、統一国家・大和がほぼ完成したのでは?と。
だからこそ、後に、旧唐書で、日本の使節が
「倭国と日本は別種。もともと、日の出るところの日本が倭国を併合した。
よって、我々は倭国ではない」とか
「倭国は奴国の後裔なり」みたいなこと言ったんだな。
481 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 20:51:37
482 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 21:17:14
恵也さんも、太国さんも、プラムさんも、ちょっとぐらいおちついて。
みんなそれぞれ個性があっていいところを持ち合わせてるのに。
「三人寄れば文殊の知恵」と言うでしょ。この何人かで団結すりゃ敵無し。
お互い古代ギリシャのポリス同士がギリシャの共通の敵に立ち向かうときに
見せるような団結をしましょう。
歌にもあるでしょう。「怪鳥ラプロス空を行け、ポセイドンは海を行け
ロデム変身地をかけろ。」と。
483 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 21:20:11
>>482 アホカ。古代ギリシアのポリスは団結などしとらんわい。
半分以上はペルシアが怖くて寝返った。テルモピュライでも
最後に残ったのはスパルタとテスピアイだけ。
484 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/11(月) 21:23:15
ありゃ?名前が消えていた。
>>482は九州ですが が仕事からやっと解放され
おおくりしています。
485 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/11(月) 21:28:45
>>482 ♪ コンピューターに守られた バビルの塔に住んでいる
超能力少年バビル二世
地球の平和を守るため 三つの下部に命令だ
『怪鳥ラプロス空を行け ポセイドンは海を行け ロデム変身地をかけろ』
486 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 21:30:20
ロプロスな。
487 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/11(月) 21:34:20
>>483 言うと行かんけど、XXねーあんた。
古代ギリシャのポリス同士はお互い戦争ばっかりしてたりもするけど、
いざ共通の敵が現れたら、一致団結して戦う。仲が悪くとも、
オリンピアの競技には、集まってくる。このように行きましょうね、
といってんだから。誰が「最後に残ったのはスパルタとテスピアイ」
の話なんかしてるかいや。
お三人に呼びかけてるんだから横から、いらんチャチャ入れんといて。
488 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 21:37:28
ケンカなんかさせときゃいいんだよ。2ちゃんなんか、この九州のオカマジジイ
489 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/11(月) 21:37:54
>>486 ギリシャ神話では「ラプロス」と出て来る事もあるのでわざわざ
発音を変えてみました。
490 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 21:40:34
>>489 ギリシア神話のどこに「ラプロス」とか「ロプロス」なんて出てくるんだよ?
ポセイドンだけだろうが。おまえ、大して知らねえな?
491 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/11(月) 21:40:57
>>482 ゴメン。今、全部思い出した
>>485かなり間違っているので訂正しますね
砂の嵐に隠されたバビルの塔に住んでいる 超能力少年バビル二世
地球の平和を守るため三つのしもべに命令だ
(怪鳥ロプロス空を飛べ ポセイドンは海をゆけ ロデム変身地をかけろ)
コンピューターに守られたバビルの塔に住んでいる 正義の少年バビル二世
悪魔の基地を壊すため三つのしもべに命令だ
( )繰り返し
これであってる?
492 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/11(月) 21:44:50
>>491 ピンポーン。大正解です。
パチパチパチパチ。
493 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 21:47:01
この>>九州ですが ◆cdEg7T5ias というか薩摩の男色オカマジジイは
邪馬台国に関してもこんな調子で知りもしないことをでっち上げてエエカッコして言っているだけなんだろうなww
494 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/11(月) 21:49:22
>>490 そんな事どうだっていいの。どうせ方便なんだから。
日本神話だって、そんないい加減な、くっつけ、はっつけが行われたと思うよ。
辻褄合せに。
495 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 21:50:56
ほほう
>>489みたいな調べたら分かる大嘘こいててよく言うわ。
それだったらおまえのそのオカマ口から出るのも全部大嘘の類ってこったな。
496 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/11(月) 21:53:04
>>492 今から三十年以上前 確か?(現)テレ朝系?
流石にそのあたりはうる覚え 毎週欠かさず見てたよ(フルミコウイチ?)
497 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/11(月) 21:55:06
>>493 惨めな負け犬の遠吠えもそのくらいにしといた方がいい。
このスレ読んでる善男善女、みなそう思うだろう。
おたくら畿内説を除いては。まともな議論では勝てないモンねぇー。
悪口がすべて、ですか・・・。
498 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 21:56:25
俺は九州説だってえの。だからギリシアの一致団結なんか出すなって言ったんだよ。
この中年すぎのオカマジジイ。
499 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 22:01:13
それよか、ギリシア神話ではロプロスはラプロスとも発音することがある
なんてガキのウソに回ってしまうオツムを冷やして来い。今なら玄界灘も
冷たくてちょうどいいだろう。
500 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/11(月) 22:02:02
>>496 ところで、昨夜の話なんだけどこうじゃないの?
始(め) → 始の台の字は、ム(鋤(すき))+口で、鋤を持って口で物を言う意味。始めは女+台の会意文字で、女としてはじめて身ごもること。転じて広く物事のはじまりの意味。その時になって、はじめて。
初(め) → 初の字は刀+衣の会意文字で、衣料に一番さいしょにはさみを入れて、切ること。しはじめる。
始と初の用字例
◆仕事始め、始業、開始...Etc.
◆初めまして、渡り初め、最初、初日...Etc.
501 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 22:04:35
ふん、今度は大人ぶってシカトか。
そんな大人ぶって常識ぶってるからおまえの説は常識を敷衍してるだけで
つまらねえんだよ。
502 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 22:06:26
初はFIRST、始はSTARTだ。それだけだ。バカ。
503 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/11(月) 22:14:09
>>500 今のところ
>>502が一番近いよ 簡単すぎる説明だけど
それだけ熟語上げたんだから、一つずつ意味を調べてみたら?
ヒントは
>>502が言ったろう
504 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/11(月) 22:24:03
>>503 だからそれは
>>500で具体的に説明してるでしょう。僕が聞いてるのは
古代の漢文の意味だとどうなるのか、と言う事。
漢書の助けになるから聞いたんじゃないの?
現代と、古代では漢文の意味が違ってる部分もある。
現代の読みではいけないのでは?
考古学の本流を全面否定する、プラム=九州ですがは、この畿内説スレの住人には
相応しくないように思うが、どうか?
まあ、書き込むのはいいけど、過剰な畿内説に対するルサンチマンを
爆発させるのは止めてくれ。
読んでいて、いい気はしないしな。
冷静な議論を希望する。
506 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/11(月) 22:47:09
>>503 何故、楽をしようとするの?
古代漢文であろうと現代漢文であろうと(漢字)の本来持ってる意味はいっしょ。
辞書に記載されているのは
その本来の意味から応用された様々な日本語解釈だよ
だから『漢和』なんだよ『字義辞典』じゃないだろう
『初』とは (時間の限定された物事のはじめ)
→後の時間をを遮断したその場のtop
『始』とは (時間の限定されない物事のはじめ)
→その場だけでなく、後にも繰り返されるそのtop
507 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/11(月) 22:58:19
>>505 十分冷静ですよ。
それより、昨日
>>383の人に投げられた球を
>>390>>403>>437>>438と
立て続けに投げ返したにもかかわらず、何のコメントも無いのはどういう訳か?
「相応しくない」かどうかは、以上の質問に答えてから言うもの。
馬鹿話をしながら、その答えを待ってるんだが。
こちらの書き込みを否定するような内容もあった。
まず、それに答えるのが礼儀でしょう。
508 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/11(月) 23:10:21
>>503 君が提示した用例だよ
>始と初の用字例
◆仕事始め、始業、開始...Etc
◆初めまして、渡り初め、最初、初日...Etc.
>◆初めまして、渡り初め、最初、初日...Etc
これらは繰り返されるものかな?
>◆仕事始め、始業、開始...Etc
これらは一度限りと限定されるものですか?
>始(め) → 始の台の字は、ム(鋤(すき))+口で、鋤を持って口で物を言う意味。
始めは女+台の会意文字で、女としてはじめて身ごもること。転じて広く物事のはじまりの意味。
その時になって、はじめて。
出産は一度だけと限定出来ないでしょう。だから(始)
>初(め) → 初の字は刀+衣の会意文字で、衣料に一番さいしょにはさみを入れて、
切ること。しはじめる。
はさみをもう一度入れるかどおかは、予想不可能 だから(初)
509 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/11(月) 23:18:20
>>506『始』とは (時間の限定されない物事のはじめ)
って事は無いと思うけど。広義で始を使ってる事からも。
初は限定させて使ってる。例えば、無始無終、といった場合、
はっきりとした始まりがある、その逆と言う事。何度も繰り返される始では無い。
古来からその様な使い方をする。
510 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/11(月) 23:24:33
>>508 それは現代の使い方。それでも「広義には始を使う」となっている。
あまり明確な違いがあるわけではなく、後になって、解りやすいように
便宜上使い分けるようになったもの。
511 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/11(月) 23:33:21
>>509 >何度も繰り返す
違うだろう『繰り返される』
最低回数で言えば二回
詰まり、
(最低二回繰り返される最初)が『始』
始発電車は、その後何本も電車が発車するから始発なんだろう。
それ一本だったら(始発電車)なんて言わないよ
512 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/11(月) 23:37:13
513 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/11(月) 23:40:47
>>512 ダメだよ 君の個人的な感想文書いては
学問なんだから、こちらが用例示しているんだら
そちらも反対用例提示しなくては
514 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/11(月) 23:45:36
>>513 個人的な感想文じゃ無いですよ。すべて調べた事しか書いていません。
>>507 老○○に代わって答えるが、
余 裕 な い よ な 君。
画文帯の推測だって推測に過ぎないのに、自説に都合が悪い推測は、
「あくまで推測は危険」とか言う。
ソースも安本ばかりで危険な上、独自に解釈して空想してしまっている。
ネットの情報だけでなく、自分で文献に当たる努力もして下さい。
それが出来ないなら、学問板に書き込みは遠慮してもらいたい。
少なくとも、畿内説憎しの感情論は、見ていて不快だし。
鉛の同位体比とは、あくまでどこの鉛かを推測する手段(あくまで推測ね)
であって、銅鉱床とは別問題だよ? 分かって書いてるのかな?
516 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/11(月) 23:56:17
>>513 引用ー
現在は一般的に、
【初め】は“後”に対して時間的に“先”とか“前”の意味で、
【始め】は“終わり”の対で“着手”や“出発”の意味で使うのが正しいとされています。
[現在は一般的に、]と断ってあるように今は分けていますが、
古くはそうとは限りません。
517 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:02:17
自分が批判されたら畿内説の奴
と思ってる所が痛すぎる
うぬぼれすぎ
518 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/12(火) 00:03:07
>>516 だから
それに該当する熟語は?
用例文でもいいよ
ただ用例文の場合は、解釈が悠意的になりやすいから、出来れば熟語で頼むよ
519 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:06:07
ネットで調べた話だけど、安本氏の平均在位説って本当に幼稚な説らしいw
似非数学的理論だとかw
なんか、天照大神を卑弥呼にするために
無理やりした暴論らしいw
それよりも、いつの時代から二倍暦から通常暦に変わったのか
調べる必要があるとか...
九州ですがは新参者だからしょうがないかも知れんが
老教授の正体は現役バリバリの考古学者なんだよ、本物の。
だから君は、論外って事で鼻で笑われてるのさ、教授に。
プラムはそれ知ってるんだろうから、ちゃんと教えてやれよな。
あんたもかつて自作自演を咎められたんだからな。
521 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/12(火) 00:11:25
>>516 私が言っているのは
(野球の場合)
細かなルールを言っているんじゃないんだ
ルールは時代と共に、その時の環境により変化するけど、
根本的な『投げて、打って、捕る』 この事なんだよ
特に古代漢籍の解釈には、この根本的な理論が必要不可欠なんだ
ほんでもって、おまいらのやってる会話な。
サーバ資源の無駄遣いだからやめれ。
邪馬台国どころか日本史とも無関係じゃねーか。
本物のメンヘルさんじゃないってのなら、いますぐやめれ。
523 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/12(火) 00:17:52
>>520 それは違うよ
そういうモノは自分で感じるモノ、誰其から聞いた所でどう変わる訳じゃあ無い
三年もしたらいやでも自然と身につくよ
〈噛み付ける時に噛み付けばいい〉
と、思うが
邪馬台国東遷説は、色んな無理を通さなければならない。
@まず、画文帯や三角縁など、魏の年号のある紀年鏡を、全て後世の贋作と
しなければならない。
A卑弥呼の埋葬された径百余歩(150m)の塚は、庄内以降の古墳のことだと考えられる。
庄内以前の九州に、そのような巨大なマウンドは存在しない。
B弥生後期、玄界灘沿岸部グループを上回るような勢力が、九州に見当たらないこと。
C庄内開始を邪馬台国以降、300年頃とすると、弥生後期の土器X式の
期間が長くなり過ぎ、逆に、庄内布留の期間が短くなり過ぎてしまう。
あくまで、邪馬台国東遷説についての反論なので。
邪馬台国九州説(東遷無し)とか、マキムク以前に九州勢力東遷→畿内邪馬台国に、
などは、まだ充分に議論する余地が残されているように思う。
525 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:20:11
2ちゃん自体が電気の無駄使い
526 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:21:19
日本書紀の研究なくして古代史の研究は出来ないよ。
考古学の分野はそれなりに発展しているんだから
文献史学のほうも発展させなきゃいかんでしょう?
別の板で、日本書紀の倍年暦の話をしていたら
元大学の研究生のやつ曰く、中国共産党が留学生に金だして
日本書紀、古事記、万葉集の研究をしているらしい。
これらの書物は漢文(古代中国語)で書かれている上に、
戦後の日本で禁門の書扱いになったのを良いことに
自分たちの都合の良い解釈にする目的があるとか...
だから、大学のほうも、研究の準備に取り掛かっているらしい。
本当のことを言うと、政府が金を出さなきゃいかんみたいだけどね。
なんせ、こういう研究は金にはならんことだから、なかなか辛いらしいが
日本でも日本書紀の研究が始まっている。長かったな戦後は...
527 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/12(火) 00:24:56
>>515 かわりに答えるがー。とか言って何の答えにもなっていない。
画文帯鏡は中国では呉の領域からしか出土していない。魏の領土からは、一枚も出ていない。
呉様式の鏡の特徴は、呉で使われた文様、又、銘文を入れるのも呉の様式、などはっきりと特徴がある。
「自説に都合が悪い推測は、」とは巻向のことを言ってるのだろうと思うが、
倭国大乱からまもなく女王になった卑弥呼がいた邪馬台国は無防備ではない。
環濠の無い、巻向が例えいくら広かろうと、時代の下った後の遺跡。
並べて持ち出す方がおかしい。
憶測とか言う前に、なぜその説が違うと思うのか、説明するのがこのスレの本分。
「ネットの情報だけでなく、自分で文献に当たる努力もして下さい。」当たり前。
ただし、クルクル変わる考古学の年代測定はあまり当てにしていないだけ。
528 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:28:42
2倍暦が史実に大体合ってるなんて、どうやって証明するんだ。
景行の時代が3C前後で一致するとか、使えなさ杉。
>>451の恵也氏の書き込みを、久々に褒め称えたいよ。
529 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:35:19
>>527 巻向は台与の時代の集落という可能性もあるので、
並べて持ち出すのはおかしくない。
むしろ並べなきゃおかしい。
530 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/12(火) 00:35:31
>>520昔そうだったからと言って、今の世で優れてるとは限らない。
医者も古い常識に縛られてるのより、新しい技術や、医学知識を
持ったものが優れている。昔の常識で合格した大学も、今では通用しない。
そういうのを有難げに、いつまでも尊敬信奉する事から、正しい目が曇ってゆく。
判断を過つ元であろう。
531 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:44:18
>>519 >安本氏の平均在位説って本当に幼稚な説らしいw
・・・それを具体的に言わないと意味がない。
安本説の弱点は以下のとおり。
1、起点の定め方次第で大きなズレが生じる。
在位長い天皇の前と後を起点とする区別だけで結論に30年位の差が生じる。
2、そうなると、数種類のモデルケースを提示して検討した方がいい。
安本自身も初期の自説からの変更を繰り返して、現在の説に至っている。
3、生前退位のある後世とそれのない古代とで単純に比較できない。
2度即位した天皇や中継ぎ的天皇のいる時代との単純比較も妥当でない。
後世の方が平均在位が短くなる要素が多いとも考えられる。即位の不明確な天皇もいる。
4、安本は、2〜9代の天皇の在位期間を自説の論理より短く操作している。
安本説を基礎にしても、起点を変えて、2〜9代を10年とすると、230年より前に神武即位になる。
5、東遷に従った豪族の世代数と天皇の世代数との照合を併用して1世代の年数から年代を求める
方法もある(宝賀寿男)。彼は神武は200年より前とする(これは無理スジのような気もするが)。
こう考えると、神武東遷が遡る可能性も十分あると考えられる。
神武東遷を遡らせると、高地性集落の時代がニギハヤヒの頃ともできて、整合性も出てくる。
安本説だと、高地性集落と東遷との関連が説明しにくい。
532 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:44:22
421 日本@名無史さん 2006/12/12(火) 00:33:36
174 本当にあった怖い名無し New! 2006/12/11(月) 19:09:09 ID:F0l707JR0
少しだけ話が変わるが...
今度、日本と中国がはじめて歴史の共同研究をするが
今まで近代史しかテーマにならなかったのに
はじめて近代史以外がテーマになる。ここがポイントだ。
特に、古代史と現代史がポイントになってくる。
現代史に関しては、中国側は「これからも研究し続ける
ことが重要だ」と提言している。これは要するに
「現代史は、日本が中国に対して友好関係にあったのは認めてやるが、
これからも日本は日中友好に努力しろよ、じゃないと、
現代史の評価は覆るぞ」という脅し。
古代史に関しては、明らかに高句麗問題。
そこでセットになってくるのは、任那日本府だ。
中国社会科学院の教授たちは、日本の記紀の通説は正しいと断定している。
また、正しいとしなかったら、中国の高句麗主張の整合性もとれないから。
533 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:45:21
422 日本@名無史さん 2006/12/12(火) 00:34:53
175 本当にあった怖い名無し New! 2006/12/11(月) 19:11:14 ID:F0l707JR0
中国の考古学者は、日本書紀に書いてある継体天皇以前の歴史は
ほぼ二倍年暦(春〜秋で1年、秋〜春で1年)の計算で正しいと思っている。
神武天皇は紀元直前ぐらいの人で
おそらく九州王朝が畿内に派遣した軍司令官では?と思われている。
神武〜崇神の間が欠史八代なのは、
地方の軍司令官程度の存在だったのがばれるからだと思われる。
それが10代目の崇神天皇の時、マキムク(奈良県桜井市)から
全国制覇に向けて動き出したように思われる。
ちょうど、女王・卑弥呼と同時代だ。
そして、西暦300年頃、北九州から関東くらいまで制覇する。
それが景行天皇の時だ。ちょうど、息子の日本武尊の活躍で
全国平定に乗り出した頃だ。
534 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:46:23
423 日本@名無史さん 2006/12/12(火) 00:36:09
201 本当にあった怖い名無し sage New! 2006/12/11(月) 21:47:42 ID:GxMEkATZ0
>>192 言っては悪いが、そんなものは「たかが」レベルの枝葉末節に過ぎない
これは構造的な問題でね
日本では史学系の古典研究者は学位を取っても、大学教員としての就職先が
見つかるかどうか分からないのさ
東大はじめ有名国立大学文系では、一人前の研究者を育てるのに時間がかかる
先行き怪しい古典をも効率化と称して削っているんだ
せっかく最近の遺構発掘調査で日本の古代史の実像が徐々に明らかになるような発見が
相次いでいるのに、それを解釈し、研究する人材をなくしてしまいそうな状況に陥りつつあるんだ
これに加え、日本古代史は漢文=中国語文語文で書かれている史料が多い
中国共産党の上層部はこれに目をつけて中文・中哲系の大学院の中国人留学生に記紀や
万葉集研究を推奨させて、『古事記』『日本書紀』『万葉集』で学位を取らせ
日本史ではなく、中国史の分野から日本史の論文を提出させ海外の国際学会における
古代日本史の定説を中国の言うとおりにコントロール可能なよう資料を改竄・捏造してるのさ
中国の日本学研究の大物は留学・客員先の高等研究機関でも、この中国政府が求める立場を貫いて
「日本の文化は中国文化の模倣である」と国際学会で口にしている
本来なら文科省が日本の文化を専攻する研究者を一定数確保する努力をすべきだが、
日教組や赤い方面から邪魔されて思うに任せない状況にある
このまま行けば将来、日本の古代史研究者は中国人が中心になるぞ
424 日本@名無史さん 2006/12/12(火
535 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/12(火) 00:47:24
>>530続き
ゆえに古い試験で合格した年老いた医者も、常に新しい学会で次々に発表される新学説を
たゆまなく皆、勉強している。それをしないと時代に取り残されて、落ちていくだけだからだ。
536 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:48:31
424 日本@名無史さん 2006/12/12(火) 00:39:14
日本の学者や愛好家が一番駄目なのは、最初から
中国の史書の記述(57年の奴国、107年の師升、239年の卑弥呼)と
日本書紀の天皇とを無理やり関連付けしようとするから
混乱しまくるようになるわけで。
中国の史書というのは、重要な手がかりにはなるんだけど、
しかし、あまりにも記述が曖昧で、どこまで日本のことを分かっているか怪しいわけで。
こういうことは、中世以降にもあって、中世以降も日本の文献が豊富だから
それが中国側の勘違いだと分かるが、もし、その時代も日本側の文献が無かったら
これまた歴史論争で混乱していたはず。
425 423の続きのコピペ New! 2006/12/12(火) 00:40:01
>>208 漏れは元大学事務で研究ドロップアウト組(しかも実は日本史系ではない)
危機的というより、このまま行けば危機に至る可能性が出だしていると言うべきかな
だが、エライひと含め危機感抱いてる香具師らがマジ準備中と聞いてる
実働始めたら手伝いには行くとオモ
>>209 上の事情で漏れがある程度知る話も数年前になるんで今とは状況がずれている
ただ全般傾向は余り変わってないとオモ
ただ国外の場合、個々の学者の人格や学術に対する良心とは別に、
家族が郷里にいたりするからな
特亜方面に限らず汚い話出ることもあるよ・・・
537 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/12(火) 00:51:38
>>527 神獣鏡自体の認識にズレがあるな。
呉の様式、呉の様式というが、神獣鏡生産が始まったのは、四川広漢郡で
あって、揚子江中下流域に伝播したとされている。
で実際のところ、呉の領域とは言え、湖北省鄂城からは多数の
画文帯同向式の紀年鏡(2世紀末〜3世紀前半の年号)が出土してる訳で、
「日本で出土した物だけが後世の日本での贋作」という主張自体が、
説得力がまるで無いわけだ。
安本を過信するだけでなく、色々な人の本を読むべきだよ。
>>535 あかんわ、こりゃ。
老教授が2006年時点での最新の説を述べていることにすら気づいてないんだから。
君の大好きな安本こそが、取り残された年寄りなんだぜ。
君は単に初心者過ぎて現代の古代史学についていけないだけなんだってことを自覚しろよな。
540 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 01:05:03
>>526 金にならんどころか
田舎の政治家は古代氏族がベースになった票田でなりたってるからな
おまけに神社関係も自民にとっては大事な支持基盤
「美しい国」なんて神武の話から持ってきてんだろきもいよ
明治維新は古代氏族の復権だぜあれ
541 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 01:05:15
>>539 そういえば九州説論者って押しなべて考古学を憎悪しているな
よほど都合が悪いのか、理解できないコンプレックスの裏返しかどっちなんだろうか。
安本がなぜ相手にされていないかというと、
とうの昔に否定された説を未だに主張していて、
自分が相手にされていない理由を、
「畿内説が捏造しているから」みたいな被害妄想に
取り憑かれているからだよ。
あと、安本のホームページの内容がかなり古そうなので、
安本自身は色々自説を変更修正したりしている可能性はある。
>>541 実際「出土してる」と言うしかないのだが。
545 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 01:15:28
>>543 安本が畿内説から無視されている理由は、
1、畿内説に都合が悪く、論破不能と考えてしり込みしている。
2、畿内説が不都合として無視している同位対比などのデーターを用いている。
3、他分野からの参入組みなので、無視しやすい。
4、安本は反論には徹底的に反論する性格なので、相手にしたくない。
といったところか。
畿内説は、昔から自説に不利なデーターは無視し続けてきたから、同じことを
安本にもしていると言った感じを受けている。最近では安本だけを無視しても
埒が明かない状況になっているが、どうするんだろう?
547 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 01:19:02
>>542 憎悪なんて全然してないよ
むしろありがたい
特に鉄についてもっと語って欲しい
どう考えられてるのか今ひとつよく分からない
>>545 うんにゃ、4だけはまあ当たってるかも知れんが
根本的に安本が間違っているからという単純な理由だよ。
自説に不利なデータを無視するってのなら
安本より柳田や寺澤を無視していいはずなのに、実際はそうなってないだろうが。
同様に石野や北條のデータだって誰一人無視していない。
それこそが思い込みの産物だ。
>>545 物凄く気持ち悪い書き込みだな。
陰謀史観とか信じてそうな奴だ。
544 :日本@名無史さん :2006/12/12(火) 01:14:22
>>541 実際「出土してる」と言うしかないのだが。
このようにして、安本の出鱈目が少しずつ明らかになっていくんだろうな。
552 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 01:32:03
畿内説は語りたがらないね鉄の話は
急に歯切れが悪くなる
553 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 01:33:38
>>546 1、箸墓の周濠から木製鐙が出土していること。
普通に見ると箸墓が350年以降になる。
2、同位体比データーで三角縁のほぼ全部が同質の材料を用いているとされること。
普通に考えると、三角縁は全部日本製。故に、スプリング8の事件も起きた。
3、平原遺跡に言及する畿内説論者はほとんどいない。柳田の鏡の見解も黙殺。
後漢鏡の一部も日本製として、反対説を厳しく批判するが、無視されている。
4、銅鐸の起源が北部九州にあることも畿内説は無視する傾向があるね。
奴国、伊都国の領域で多数の初期型銅鐸が発見されているのに。
5、
>>303で出てくる新井の論文もほとんどが無視されている。
畿内説の著書ばかり読んでると、知識が偏る。
最近出た、宝賀寿男の「『神武東遷』の原像」は面白い。畿内説も九州説も石野も
安本も柳田もなんでも引用して検討している。所々、なるほどと思うところもあった。
とりあえず今度教授がご登場あそばされたら
現代の畿内説とはいかなるものかって聞いてみな。
前のときもそれを説明するのに腐心していたからな。
そうすれば安本がいかに時代遅れの代物か、サルでも理解できるだろうから。
555 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 01:38:42
>>548 学問の正解では反論しないことは、敗北を意味する。
「反論の必要がない。」というのは、負け犬の遠吠え。
>>550 現代の畿内説って、どんな感じなの?
@庄内の最初に、阿波讃岐播磨、大和川水系(大和・中河内)など東瀬戸内地域
の連合を結成。三輪山の神官を大王に推戴しプレ・ヤマト王権が誕生。
庄内甕、マキムク型が各地に普及。
(倭人伝で言うところの、卑弥呼の前の男王?)
A庄内末〜布留に、吉備、筑紫、東海、丹波、淀川水系、大和川水系、東瀬戸内
など、強国の首長たちが卑弥呼を共立、列島規模の大連合を形成する。
みたいな流れか。
>>553 1、木製鐙だけが特異点なんだよ。しかしこれが謎だってのは同意だがな。
2、同位体比データでは全く逆の数値が出ているぞ。
スプリング8の事件って何だ?それこそ安本だけが認めたくないが故のいちゃもんをつけているだけだぞ。
3、おーい、柳田を無視する畿内説なんていまどきあるのか?
4、もっと古い初期型が紀伊で出土している。第一それは畿内や東海で大型化したこととは全く無関係だ。
5、これまた嘘だな。新井論文は無視などされていない。むしろ都合のいい部分だけ抽出して恣意的に使用しているのは安本だろうが。
柳田や寺澤の論文もそういう使われ方をしているがな。
安本は単に商売上の理由で畿内説に噛み付いているに過ぎないのだから、そろそろ目を覚ましなよ。
>>553 ヒラバルは俺も邪馬台国の可能性があると思ってるのだが。
559 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 01:51:50
>>556 古墳時代を遡らせて著書の冒頭を使ってまで
勝ったと宣言したものの
弥生まで伸びてしまって逆に生き恥さらしてる感じ
>>555 そんな身勝手な定義があるとは知らなんだw
おまいだって地球は丸いってのに反論する奴がいたら、あきれ返って無視するだろうが。
そういうレベルなんだよ、安本説ってのは。
あすかあきおにまともに反論する物理学者なんていねえだろうが。
あ、大槻センセみたいな奇特な方もいたかw
>>559 本当に何も知らないっつーか、理解力がないんだな。
弥生開始や古墳時代開始がさかのぼるのは、邪馬台国とは全く関係ないぞ。
むしろそれによって整合性が高まっている事実をいいかげんに認識したらどうかね。
>>559 何書いてるの? 「著者の冒頭」って何?
「弥生まで伸びてしまって」とか意味不明過ぎ。
ただ「古墳時代を遡らせて」については、
今までも言ってきたように、過去にいい加減に決められた実年代を
修正してるだけ、だから。
何度も書かせないように。
563 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 02:05:12
おそらく、卑弥呼の邪馬台国は3世紀前半〜中期のマキムクにあった。これは
出雲と関係が深い。国譲りで大和に都がおかれたのかもしれない。
そして、後半にトヨが女王。北九州をも支配していた。
しかし、3世紀後半〜4世紀にかけて、南九州の一派(神武)がマキムクを
攻略。ヤマト政権を樹立する。彼らは渡来系なので、父系制。
しかし、邪馬台国の母系と婚姻したので、母系的要素も残存。
邪馬台国の前方後円墳を取り入れ、故郷の南九州にも波及。
しかし、あたらしいヤマト政権に反発する勢力を組み込む為、六道の派遣
など、戦いの日々が続く。
564 :
559:2006/12/12(火) 02:20:38
思いのほか食いつきがよくてちょっとビックリ
565 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 02:25:04
566 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 02:39:21
>>557 私は安本説は一部しか認めていないよ。
>>531も私。
ただ、安本説は石野、白石とかの畿内説の大半よりまともだとも考えている。
三角縁を未だに魏鏡とする説は、検討するのもバカらしいと思っている。
ギャグ本として読んではいるが、それこそ無視に値するレベルじゃないの。
1、特異点というより、記紀のとおりの年代と見れば済むだけ。
2、石野、寺沢、白石とかが、同位体比データーに言及したのを見たことない。
「スプリング8」は検索すれ。
3、平原を200〜250年にすると、畿内説は成り立たない。庄内の始期を畿内でも200年
とする部分だけ畿内説は利用してる。この点はありうると思うが、
>>303の考えだと、古墳期
の庄内、布留とは区別されることになる。
4、北部九州の銅鐸出土地が多いことと、初期型が多いことは、知らない人も多いのでは。
鋳型も見つかっているね。紀伊の方が古いと言い切れるか。
5、石野、寺沢、白石とかが新井を引用しているのは見たことがない。
>>563 マキムクは天皇の祖先がいたのは間違いないが、規模自体が小さすぎて、
3世紀から、他に中国地方、瀬戸内海全域・四国北部・
そして伊都の九州北部まで30数カ国をも制圧できるほど
陸・海上支配権が及んでいたとは考えられないよ。
逆にそこまで支配が及んでいたら朝廷や貴族・天皇の法治国家が
数百年以上もっと早くできていたはずだと思うんだが。
邪馬台国はもっと原始的な国家だよ
568 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/12(火) 04:56:36
>>538「日本で出土した物だけが後世の日本での贋作」という主張
誰がいつそんな主張をした? 誰が安本の説と言った?
画文帯鏡が卑弥呼の貰った銅鏡100枚かどうか、と言うのが元々の論点。
魏の領土から1枚も出ない、それも大陸からは80枚ほどしか出ない。
呉でもてはやされた文様。年号入りは呉式。時代の下った前方後円墳から多く
出土する。のはなぜか一つ一つ説明したら?卑弥呼の貰った銅鏡100枚の
可能性は、こちらのそれより可能性は限りなく低いことを知らないとだめ。
569 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/12(火) 05:12:52
>>539 最新の説?そんなの知るわけ無いでしょうが。
どうせ多説の中の一。信憑性の無い説など、新しければ言い訳では無い。
学問が邪魔をして、舟が山に登るような説を繰り返したところで、
過ぎたるは及ばざるが如し。第一、伊都国、奴国など九州の地名は
倭人伝にあっても、出雲、吉備、そして畿内の地名が出てこない。
指摘すら出来ないでいるような駄説。教授ですか?45度から90度地図が
傾いてるとか何とか。はっきり言って高校生かと思いました。
東でなく、南に進んだら、、角度的に、投馬国は沖縄方向になりません?
少なくとも、上陸してからは、東、東南、へと進むわけだから、
いくらひっくり返っても畿内方向は無いでしょ。
570 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/12(火) 05:19:25
>>542九州説論者って押しなべて考古学を憎悪しているな
確かに素人目に見ても無理な論を展開するところが腹立たしいと感じた事はありますがね。
それより、ありえないという一心が強いでしょう。
571 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/12(火) 05:25:03
>>563 ただの妄想。全く大事な要素を無視している。
572 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/12(火) 05:38:39
それに巻向は吉野ヶ里より広い、と、誰かがのたまってたが、
集落と古墳群が散らばってるのを、一まとめにしてるだけじゃないの?
邪馬台国のようにクナ国に攻められて、争っていたような場所じゃない感じ。無防備すぎる。
そういえば老教授とやらが、唐古鍵の環濠を雨などで徐々に埋まったような
ことを言ってたが、いっぺんに埋められたと、発掘に携わってた人が言ってたにも
拘わらず、どっちかの見分けもつかないのかねえ。
573 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/12(火) 05:42:08
ではお仕事なので、ゴメンなんしょ。
群馬台国畿内説を議論するスレ10はここですか?
575 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 06:15:22
>>574 はい。名目はそうなんですが、
>>1で「諸説OK」みたいな不適切な指針があるため、大量の九州諸妄説がレスされてしまいます。
畿内説が自由に意見を交換できる場であったらいいな…と思うのですが、実際は見ての通り。
なんとか改善できないものでしょうか。(嘆)
九州説人っていうのは畿内説人が話をしているところへよってくるという習性がある。
九州説自体が目的というより、畿内説をこき下ろすことが彼らの目的なんだな。
不思議なことだが、彼らは九州説よりも畿内説が大好きなんだよ。
かつてのアンチ巨人みたいなもんだな。
577 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 09:36:09
>>575 続き
もちろん畿内説といえども批判される点はあるでしょう。
もしタイミングよい、鋭い観点からの批判がなされるのであれば、それは悪いことではありません。
しかし現状は、あえて比喩的に述べれば、
「ここ陸上競技場なのに、レスラーやらボクサーやら力士やら柔道家たちが勝手に大挙押し寄せて、異種格闘技バトルロワイヤルをやってま〜す」
…そんな感じですよね。肝心の陸上の競技者は、スタンドの隅へ追いやられてしまってる…
異種格闘家さんたちには、それにふさわしい武道場へ移って行ってもらいたいものです。
578 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 09:52:15
>>480 >日本書紀を研究している中国の学者は
>普通に継体天皇以前は二倍年暦で素直に計算しているな。
これはデマ。
デマの特徴は、ごく一部の人を取り上げてそれを全部の人間かの様にしてしまうこと。
そのために人間の名前さえ出さないで「断言する」特徴を持つ。
中国の学者だって、13億人もいたら数百万人の学者数がいるだろう。
中には変わり者がいると思うが、こんな研究してる中国学者なんて俺は聞いた事さえない。
579 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 09:56:03
>>482 >「三人寄れば文殊の知恵」と言うでしょ。この何人かで団結すりゃ敵無し。
いやいや、水と油は一緒には混ざらん。
無理やりに界面活性剤で混合したら、北朝鮮みたいな怪物になってしまうよ。
怪物になったら話も自由に出来なくなってしまう・・・
580 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 10:05:16
>>491 >正義の少年バビル二世
こんな能力を持ってしまったら凄い孤独感になりそう。
回りの人間は力も格段に無いし、すぐヨミに洗脳されていう事聞いちゃうし・・・
本当の神様連中もそんな孤独感の中で生活してられるんだろうかな。
まあ神様同士でそれなりのお付き合いをしておられるんだろう。
581 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 10:25:22
>>504 >現代と、古代では漢文の意味が違ってる部分もある。
当たり前のこと。
時代とともに言葉の意味は激変してます。
中国の漢字だけが変わらない訳がない。
日本でも古文で「おかし」という言葉がある。
今の言葉だと風情があるとか、面白い、趣があるという意味のようだが、今の世で「おかし」
なんていえば「怪しい」とか「おかしい」「変だ」という意味に取られてしまう。
言葉とはイメージを伝えるのには非常に不完全な道具にすぎん。
それを外国語である漢文を自己流に解釈しても、蟷螂の斧になるだけの無駄な抵抗。
やるのなら中国語をものにする中で、漢文を勉強すべきだろう。
順番が逆!
ーーーーー(引用開始)−−−−−
国語のテスト(古文)で「いとおかし」の意味を現代語に直せ、という問題が出た。
私の答え、「大変おもしろい」、もちろん不正解であった。ところが私と同じ答えを
書いた者がいた。
(クラスで不正解は二人だけだったと思う) その彼が答え合わせの時に教師に
異議を訴えた。
正解は「大変趣がある」であったが、彼氏曰く、「美術(絵画、書道、風景)に関し
て"これはおもしろい"という言い方をして、そこには"趣がある"という意味が含
まれるのでは」と。
http://www.spacelan.ne.jp/~kamenaku/iwana/iwana10.htm
582 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 10:33:08
>>519 >ネットで調べた話だけど、安本氏の平均在位説って本当に幼稚な説らしいw
>似非数学的理論だとかw
アンタに数学的な知識がないだけだから、簡単にこんなネットに騙されるの。
このHPを作った方は、数学の基本がなってない。
在位年数を1年から19年まで乱数表を使って、どれが出るかの可能性が全部等しいとしてる。
これが等しく出る確率なんてものはない。
社会情勢によって殺されたり、衛生観念も、医療水準も常に変化してるという前提を無視してる。
根源的な数学の使用法を理解してない低脳児のHPで、準文盲という部類の人間のHP。
583 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 10:39:54
古代史のことを調べていたら
邪馬台国の話なんて、どうでも良くなってきたわな。
というか、中国の一民間の大富豪の記述なんか、あてにはならん。
それよりも、倭の五王時代の記述のほうが
はるかに興味深いよ。
584 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 10:39:54
>>520 >老教授の正体は現役バリバリの考古学者なんだよ、本物の。
今の日本の考古学界のレベルを見てから言え!
税金で食わせてもらいながら、偽物ばかりが日本の考古学界を占領してるだろう。
旧石器の「神の手」というアマチュアの捏造物にダマクラかされたのも考古学会。
高松塚古墳をカビだらけにしてしまった連中もプロを自認する考古学会だろう。
1300年前の先祖の保存技術さえ、下回った日本の考古学界なんて屁のツッパリくらいのもの。
こいつらは税金の無駄使いする連中だ。
何が現役バリバリだ!!!!!
585 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 11:01:09
高松塚古墳をカビだらけにしたのは文化庁と東大関係者。
ゴッドハンドは東北の人間。
九州説を唱えるのは東大を中心とした派閥。
こいつらが学問をおかしくする。
586 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 11:04:11
>>524 >邪馬台国東遷説は、色んな無理を通さなければならない。
@三角縁神獣鏡は偽年号が証明されてるし、画文帯にも偽年号が入ってる可能性だけで十分だよ。
証拠価値は旧石器の藤村氏みたいな例もあるんだし、埋める時のビデオ撮影までの必要はない。
一部の偽年号が証明されたら、鏡の年号には偽の可能性があるだけで十分。
A径100歩は、魏志倭人伝の文中に確定してる距離(釜山→壱岐)2000里から計算できる直径30m
という数字が正確な数字というべき、150mというのは偽物。
B弥生後期と思われる時期じゃないかも知れんが、宮崎の串本市の石棺で、中国皇帝から送
られたという、有力な諸侯にしか持てない玉でできた完全な穀璧が出ただけで十分だろう。
日本で完全な穀璧なんていうのは、出てきてないのじゃないかな?
美術的にも非常に高度な品物だ。
C庄内布留の期間が短くなり過ぎると、なんの不都合があるんだろう?????
587 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 11:24:50
>>531 >安本説の弱点は以下のとおり。
久方ぶりにマトモな美味しいご馳走だ。
1、起点とする区別だけで結論に30年位の差が生じるのは当たり前の話だが、それらを
たくさん集計する事でその差はなくなるのが統計学の基礎。
また、この安本説の算出値はプラス・マイナス50年くらいは見るのも常識だろう。
2、モデルケースをいろいろ作って算出するのは安本氏以外でも出来るし、俺もやったよ。
以外と正確な値が出たと自認してる。
3、生前退位とか、2度即位、中継ぎ即位なんて、古代に存在しなかった根拠がない。
それにそれを言い出したら計算が複雑怪奇にならざるを得ないし、正確なソースも
大昔の事で、現代ではその収集ができない。
4、俺が安本説で単純明快にやったら、神武天皇の死亡年は西暦277年になった。
あなたの計算法を明示してくれ。
5、東遷に従った豪族の世代数なんて、公開されてる信頼の出来る長い記録があるのかね???
588 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 11:26:10
>>586 恵也センセよ。
そのアンタの言う直径30mの卑弥呼さんの墓は、何処にあるんですかい?
いまもまだ残ってるんですかい?
589 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 11:34:48
>>581 >当たり前
…………………………
全く別な悠意的な話を提示し、さも自分の主張の正論性をかもしだし、主張の正しさを強調する安易な主張。
しかし、何時になっても肝心な中国語《古代と現在の違い》的なものは一切提示されることは無い。
いつの間にかすり変わっているのです。
590 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 11:35:48
>>538 >「日本で出土した物だけが後世の日本での贋作」という主張自体が、
これは誰も主張してないでしょう。
ただ三角物神獣鏡は、日本で作ったものだし、その年号は架空の偽年号だったという事。
画文体神獣鏡は日本でも中国でも発掘されてるというだけだろう。
あんたは、言葉が過激なだけの詐欺師に過ぎん。
591 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 11:38:41
>>539 >老教授が2006年時点での最新の説を述べていることにすら気づいてないんだから。
中身のないお話だ!
新しけりゃ説がいいというもんじゃないだろうに。
それなら俺の説が「最新の説」なのは俺が保証してやるよ。
内容はともかくとしてWWWWWWWWWWWWWWWWW
592 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 12:08:08
>>543 >安本自身は色々自説を変更修正したりしている可能性はある。
当たり前だろ。
人間の考えは、時代とともに知識とともに変化するもの。
変わらないのは畿内説の石頭くらいのものだ。
593 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 12:10:00
>>544 >実際「出土してる」と言うしかないのだが。
あんたサービス精神がないね。
何枚、どこで、何時出土したくらい書きなさい。
こんな返事じゃ調べれもしない!!!
594 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 12:19:42
>>553 >同位体比データーで三角縁のほぼ全部が同質の材料を用いているとされること。
これは滅ぼした銅鐸文明の国の、銅鐸や銅剣を一箇所で溶かしたせいかも知れんね。
その使い道として鏡文明の大和朝廷が、神聖なる三角縁神獣鏡を大量生産して同盟国
にばら撒いて祀らせたもの。
それも統一協会じゃないけど「磨けば磨くほど霊験がまして奇跡を起こす」なんて
迷信を国家権力を背景に広めて大儲けしたのかも。
たしかに美術的には高度なレベルに行ってるから、国家権力の後押しがあったんだろう。
595 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 12:43:42
>>557 >安本は単に商売上の理由で畿内説に噛み付いているに過ぎないのだから、そろそろ目を覚ましなよ。
それは畿内説の連中の事だろう。
医学部の大学教授は、ムチャクチャに利権があり教授になるには何億円かの選挙費用がかかるという
大学病院では教授の診察では、大名行列みたいに手下を引き連れて新米医師を睥睨するとか・・・
考古学の大学教授も同じようなシステムじゃないの?
だから考古学という商売でお世話になった、大先生の教授が振りまいた害毒から抜け出せないのかもな。
大先生の面子を潰す事に成るからね。
596 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 12:53:57
>>568 鏡に関して言えば、私は福永説を大体支持してるので。
一度読んでみることを勧めますよ。
画文帯の前に、日本に流入する中国鏡が極端に少なくなる時期があって、
恐らくは内乱により華北の鏡工廠が壊滅したためだろう。
代わりに徐州での鏡生産が活発になり、流行りの神仙世界を描いた画文帯神獣鏡を製作。
で、その画文帯が、公孫氏を通じて、倭に流入したと。
ここまでは、納得出来るかな?
597 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 12:59:08
>>585 >高松塚古墳をカビだらけにしたのは文化庁と東大関係者。
あんたね「目糞 鼻糞を笑う」
という言葉を知らないのかい?
同じ考古学会のお仲間なんだろう。
考古学の学会員として恥ずかしくないのかね、仲間の悪口を自分で言うなんて。
アンタはタダの目糞に過ぎん!
598 :
日本@名無史さん :2006/12/12(火) 13:00:06
鉄剣・銅鉾の分布から、北九州の部族の戦闘的な優位は動かない。
畿内の方が銅文化が発達していたかもしれないが、その部族が
北九州を勢力圏にできる筈がない。
文化・文明の発達と滅亡の歴史を振り返れば、よく分かる。
伊都国は北九州で、その伊都国を属国としていたとする発想が
そもそもおかしい。
近畿に平和な文化・文明があったのなら、それで納得します。
ただ、それは戦闘国家ではない。
他から異民族・部族がきたら、略奪の対象になる部族。
599 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 13:05:21
>>588 >そのアンタの言う直径30mの卑弥呼さんの墓は、何処にあるんですかい?
宮崎の西都原古墳群のひとつとは思うが、30mクラスの円墳じゃ無数にある。
おまけに、墓室を作らないで埋めてるから副葬品も少ないだろう。
死んだときに魏から送られた金印は、まず一緒に埋葬はされて無いし
人名の特定が今の科学力じゃ出来ないだろうな。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
西都原古墳群は特別史跡指定になっており、334基の古墳がある。そのうち地域
首長墓とされる前方後円墳が31基あり、円墳が279基ある。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tonbi/histry/saitokofun.html
>>599 恵也センセよ。
「30mクラスの円墳じゃ無数にある」とお書きになって、引用文では、
「円墳が279基ある」
ってんじゃ、あっしにはワケ分かりませんなあ。
無数か、それとも279か、一体どっちなんですかい?
601 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 13:25:26
>>598 当時の日本なんか山ばっかだから、一部鉄器を持ってる程度で優位になれたとは
思えない。むしろゲリラ戦だったと思うし。
602 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 13:26:13
卑弥呼の墓は平原一号墳で確定なの。だからつべこべ言わない。
603 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 13:29:38
>>589 >何時になっても肝心な中国語《古代と現在の違い》的なものは一切提示されることは無い。
中国語の素人にそんな要求をされても・・・・・
日本語や英語じゃだめなのかい?
たった70年前の英語の翻訳でもこれだけ解釈の差が出てしまうのに、1700年前の
古代中国語だけを素人が、自己流に解釈しようなんて、蟷螂の斧に過ぎん。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
f)日本語訳にいう「職員」に相当する英語は、"workers"ではなく、"staff"だそうだ。
OALDの "staff"の説明を見てみよう。[註3]
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
すなわち、"staff"とは、"all the workers employed in an organization considered as a
group"とある。例えば Y.M.C.A. workers は「YMCAの職員」という意味である。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/3924/kitamura/kitamura01.html
604 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 13:32:55
>>600 >無数か、それとも279か、一体どっちなんですかい?
無数だよ。
宮崎全体じゃ数え切れんくらいあることだろう。
605 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 13:35:15
>>597 糞も味噌も一緒にするな。
他山の石とはしてるがな。
606 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 13:41:45
>>601 >当時の日本なんか山ばっかだから、一部鉄器を持ってる程度で優位になれたとは
当時の日本でも平野はたくさんあったよ。
田舎に旅行して、田舎とはどういうものかを見ときなさい。
鉄器を持ってるということは、鉄を溶かし加工し製品に作る技術力があったということ。
軍事だけでなく農業の生産力にも直結するしてるし、それを売ることで経済面にも影響するよ。
だからこそ、明治政府は大々的に製鉄所を国家が援助して作らせたの。
607 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 13:43:14
>>605 >他山の石とはしてるがな。
同じ穴のムジナだから、未だに畿内説に執着してるんだろう。
608 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 13:49:10
九州説は感情的過ぎるな。もうちょっと冷静な反論を。
609 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 14:04:29
>>604 恵也センセよ。
あっしが卑弥呼さんの墓の場所を訊いて、
「宮崎の西都原古墳群のひとつとは思う」
とお答えになったそのハナから、
「宮崎全体じゃ数え切れんくらいあることだろう」って、そりゃ一体どういうこってすかい?
卑弥呼さんの墓は西都原古墳にあるのか、ないのか──、センセのお答え、あっしにゃさっぱり理解できねえや。
610 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 14:10:01
全体を公平に読むと近畿・大和が優位と見える、九州説の方々は何かこう
チグハグで中身が無いというか、不毛の論ばかりが目立って
説得力のあるものは皆無であり、窮屈な言い訳ばかりに徹しているように見える。
史記や考古学に絶対は無いと思うのだが、九州説の人間は
どうも切羽つまっているというか、もう少しゆとりをもって
木ばかりではなく森全体を一服しらがらノンビリと眺めたでみてはどうだろうか?
と、初めてココを覗いた一考古学ファンの意見でした。
611 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 14:18:56
日向の℃田舎に卑弥呼の墓があるわけねえだろ
612 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 14:33:20
>>598 そう北九州の部族の戦闘的な優位は動かないし、揺ぎ無い事実だと思う。
そして東征は倭国大乱のことなんだろ、時期は2世紀中頃を過ぎた辺り
無論、鉄の出土量からもお分かりのように、九州とそれ以東との軍事力の均等など
もともと無いに等しい。銅鐸祭祀をやりながら土着と結んだ流民は
比較的九州より温厚な人たちだったと想像する、そのような場所に
スサノオウ率いる九州や半島の所謂倭韓どもが侵入し「倭国乱」と称される
原因を引き起こしたのだろう。
畿内邪馬台国はその後に誕生するのだ。
613 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 14:58:43
>>603 中国語出さないで英語出されても困る。しかも日本語で
オッチャンあのな。
中国娘の今と昔の違いを問うてる時に、アメリカ娘の今昔話されても困る。
反応するのは俺のチンチンだけや!
女は日本女が一番。ましてや白人のセックスなんて見ても全然興奮しない。
セックスするなら日本女が一番でしょう。
615 :
日本@名無史さん :2006/12/12(火) 15:12:31
>>612 時代の観念が相違している気がします。
4世紀以降の話でなく。
3世紀初頭、中期までの話に4世紀の畿内の話を
もってきても、無理があります。
3世紀の畿内では鉄剣はほとんど皆無です。
616 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 15:29:28
>>609 恵也センセ、どこか行っちまったみてえだ。じっと待ってるってえのに…。
そんなら602さんにちょっとお尋ねしたいが、よろしいですかね。
>>602 >卑弥呼の墓は平原一号墳で確定なの。
あっしにはよう分からんが、たしか卑弥呼さんが死んだとき、ジュンソウ何人とか、倭人伝に書いてあったんと違いますか?
あれは、えーと、何人だったか…
すまねえ、ちょっと度忘れしたが、平原一号墓にそんなものは無かったように、あっしは聞いておりますけどなあ。
617 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 15:48:03
>>609 >卑弥呼さんの墓は西都原古墳にあるのか、ないのか──、センセのお答え、あっしにゃさっぱり理解できねえや。
筆が走りすぎたようだ、悪かった。
邪馬台国本土は宮崎県と思うが、卑弥呼の墓で一番怪しいのは西都原古墳群で2番目が宮崎市
周辺の古墳群。
俺の考えは、一箇所にまだ固定できてるわけじゃない。
生目古墳群も畿内で古いといわれる箸墓古墳の相似形のがあるし、古さでは捨てがたい所がある。
邪馬台国の中心都市は、西都原市より宮崎市のほうが賑やかだったと思うしね。
ここには円墳だけで22基ある。
宮崎市には外にも後、5箇所あるし、新田原古墳群には古墳が200基あるというし・・・・・
まあ、無数としかいえない。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
1号墳(墳長136m)は、古墳時代最古期(3世紀後半)の大王墓である奈良県、箸墓
(はしはか)古墳の半分の大きさに設計した相似形とされる。
http://www.pmiyazaki.com/ikime_kohun/
618 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 15:49:33
同じ重量の石鏃と鉄鏃では、石鏃のほうが貫通力が高い。
619 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 15:52:39
>>613 >中国娘の今と昔の違いを問うてる時に、アメリカ娘の今昔話されても困る。
知りもしない娘の話をするわけにはいかんだろう。
話すのなら知ってる「日本娘」や「アメリカ娘」から類推するしかない。
それともアンタ知らない娘の話しをしろと人に強要するのかい。
ソラ無茶というもの!
620 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 15:55:29
>>615 もともと記紀の内容自体に無理がある
それを踏まえて合理化したまで。
諸国王合意の下、強国が推す1人の女王を共立し
支配域を監視しあう国家システムだったとすれば
連合の都に武器など特に必要はないでしょう。
分かり易く言えば
連合の象徴である平和都市が落ちれば再び戦乱の世に逆戻りするだけです。
あと先端技術をタダでばら撒くアホはいません、しかも敵の諸領地だった場所
ならなお更。
621 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 15:56:05
>>617 恵也センセよ。
ようがす。だいたいは分かりました。
要するに、宮崎県の中にある直径30mぐらいの円墳を調べていきゃあ、卑弥呼さんの墓にぶち当たる、ってことですな。
622 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 16:02:02
>>616 >平原一号墓にそんなものは無かったように、あっしは聞いておりますけどなあ。
殉死させたのは奴隷が100人。
卑弥呼はお棺に入れられたと思うけど、貧乏な奴隷にはお棺はないでしょう。
直に埋葬されてたら1700年間には、骨も完全に土に吸収されてしまう。
そうなったら、今の日本の科学では人間の痕跡を見つけることは無理のようだ。
石のお棺ならお骨は残るけど・・・・
ーーーーー(引用開始)−−−−−
直径は百歩余りで、男女の奴隷を百人以上殉死させた。
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
623 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 16:07:32
>>618 >同じ重量の石鏃と鉄鏃では、石鏃のほうが貫通力が高い。
鏃を作る能率じゃ、100倍くらい鉄鏃の方が早いでしょう。
石を1個1個、引っ叩いて作るなんて、気が遠くなるよ。
大量生産、大量破壊が現代戦の鉄則。
石鏃じゃ完敗だ。
624 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 16:15:36
>>620 >支配域を監視しあう国家システムだったとすれば
監視しあうじゃなくて、邪馬台国本国が伊都国に警察みたいな役人組織をつくり監視してたもの。
連合の都なら、反連合国から狙われやすいし、警察組織みたいなものじゃ調査権限だけで強制権
とはまったく別でしょう。
裁判組織、軍隊組織は邪馬台国本国が責任を持ってるというのが常識で、平和都市とは全く逆。
625 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 16:16:26
>>616 殉死の100人ってのは、そうするってえと、掘った穴か溝かなんかに100人を埋めて、バッサバッサと土をおっかぶせた──、とまあ、こういうこってすな。
……うーん、骨のカケラも残らんのですかい?……
殉死100人って、あっしは重大な点と思っとったんですが、なーんも証拠が残らんとなると、「ここが卑弥呼さんの墓や!」とは、誰も言えなくなりますなあ…
626 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 16:21:50
>>621 >卑弥呼さんの墓にぶち当たる、ってことですな。
たとえ今の人間が、ぶち当たっても卑弥呼と特定が出来ん。
魏の金印は貰ったがそれは邪馬台国が貰ったもので、墓に埋葬するとは思えん。
鏡を魏におねだりした位だから、中国鏡の1つくらいは一緒かも知れんけど
卑弥呼と彫られた目印なんて書いてはいないだろうね。
まあ、未来の科学技術に期待して残しとく方がいいでしょう。
627 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 16:23:24
>>619 オッチャン 知らんのならむやみやたらレス付けんなや
628 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 16:35:04
>>626 >魏の金印は貰ったがそれは邪馬台国が貰ったもので、墓に埋葬するとは思えん。
それはあっしも賛成だ。ハンコは大切なもんだ。
ちゃんと印鑑登録している会社印を、いまの社長が死んだからって一緒に墓に埋めてしまった日にゃあ、引き継いだ新社長は仕事になりませんぜ。
別なハンコ勝手に作って法務局に申請に行っても、書類は突っ返されますわな、「印影が違う! おまえはニセ者だなッ!」て。
629 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 16:46:55
>>624 もう推理というより空想の域に達してるな
630 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 16:48:26
631 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 16:54:23
632 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 17:03:52
>>629 >もう推理というより空想の域に達してるな
アンタ魏志倭人伝をロクに読まないで書いてるんじゃないの?
一大率という連邦警察長官を、邪馬台国から女王が派遣してたんだぜ。
アメリカ大統領が、州の境を越える犯罪を取り締まる警察組織FBIを支配してる
ようなものだろう。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
女王国より北には、一大率という指令官を置いて、諸国を監視させている。
諸国は指令館を大変恐れけむたがっている。一大率は伊都国にいるが、
国中に監視員を派遣していろいろ報告させている。
王の使いが魏の都、洛陽や帯方郡や韓国から帰還した時、また、郡の使節
が倭国へ行く時はみな津で文書とか送り物とかを点検し、不足や食い違いが
ないようにしてから女王のもとに運ばせる。
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
633 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 17:05:09
>>630 >皆無は大袈裟
皆無じゃないというなら、1つくらい証拠を出してからにしなさい。
634 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 17:06:09
>>631 恵也センセよ。
それでも、卑弥呼さんの亡骸と一緒に、鏡はたくさん埋葬したのと違いますか?
卑弥呼さんの以前にも、福岡県では鏡をたくさん入れた墓、見つかってるのと違いましたかい?
卑弥呼さんは、それよりかもっと立場は上。なんせ30か国ものトップに立つ女王じゃないですか。
それに卑弥呼さん、魏帝に鏡をねだってたようですぜ。
宮崎の卑弥呼さんの墓からも何十枚かは、当時の鏡が出てくる、と期待してもいいんではないですかい?うーん。
635 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 17:12:52
>>616 >>602たが
平原一号発掘の時、堀っこから何人もの仏さん出てきたろう
1700年経ってあれだけ出れば十分だろうよ
636 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 17:17:11
>>635 それは一号墓の堀? そんな報告、出されてなかったと思います。
637 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 17:19:24
>>616ここじゃあプラムが必死に平原主張してるから奴に聞けよ
638 :
きのうのジョー:2006/12/12(火) 17:24:10
でも俺は磯城で建築の仕事したことあるんだけど、
当然、土工事中に遺跡が出ても出なくても、掘り終ったか途中かで
条例により、役所に「遺跡がないか見たってちょ」って報告しなきゃならなかったんだが、
そういう意味じゃ、遺跡調査ってのは全部、当局の管理下にあるわけで、
いろいろ捏造するってことも可能で、なんかいまいち信頼できねんだけどな
つまりは考古学が。
639 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 17:31:14
>>635 1号墓と3・4号墓(当時「東古墳」と言われた」)を混同してると思われ。 年代が違うぜ。
640 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 17:45:16
>>639 その通りだと思います。
それに3・4号墓から殉死の仏さんが出てきたわけではなく、溝に赤色顔料があることから埋葬(殉葬)の可能性を言われたまでのこと。
それも十数人が限度で、あのスペースでは、とても百人は無理です。
641 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 18:04:04
お〜っ 間違えたか
三号だったか
年代が違うって?どのくらい違うんだ?
年代もあてにならんからな平気で五十年や百年はサバ読むから 確かに平原から一本だけ太刀が出てきたな?
どのみちあそこしかありゃせん。
642 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 18:13:52
殉死者が主人と一緒に葬られたとは限らないし
死に方も謀殺っぽい。立派な墓を造ってもらったとは想像できん。
あの墓の規模であの異常な鏡、そして埋葬者が女性とくれば 先ず第一候補に揺るぎ無し、
未だ発掘すらしていない、どっかの化け物墓に比べれば、かなり確証高いぞな。
643 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 18:30:29
>>624 >アンタ魏志倭人伝をロクに読まないで書いてるんじゃないの?
一大率という連邦警察長官を、邪馬台国から女王が派遣してたんだぜ。
そう派遣したんだよ、女王任意の連邦長官を各国にね
A国の監視をB国の出身者が、B国の監視はC国の出身者が
。。。卑弥呼の命のもと監視。
おそらく各国から派遣されてきた次官レベルの人間を卑弥呼が
ちゃんぽんして各国の監視に当たらせていたのだろう。
卑弥呼という連合の象徴である絶対的後ろ盾があるから怖いものなし。
その上、監視国に対する大きな権限も与えられたと推察
国連大使のような国務次官が各国に派遣されてる様なものか。
644 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 18:36:15
>>642 平原1号墓が卑弥呼の墓だ、と言っているようだが、あそこは邪馬台国かぁ?
伊都国ってのが大方の定説だろう。
平原1号墓がスゴイ!というのは全く同感だが、名前未詳の伊都国王の墓とちがうのか。
あれがもし卑弥呼の墓なら、邪馬台国は何処だぁ??
645 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/12(火) 20:25:15
>>644 >邪馬台国は何処だ
邪馬台国は三十国の総称(自称だが)
646 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 20:47:10
>>645 ん? ピンと来ないが、じゃ、こう訊こうか。
>居處宮室・樓觀・城柵嚴設、常有人持兵守衞。
この宮室・樓觀は、一体どこに建ってたんだ? いまの前原市内ていうことか?
647 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/12(火) 21:00:28
>>646 >この宮室・樓觀は、一体どこに建ってたんだ? いまの前原市内ていうことか?
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
女王の都だよ
『南水行十日陸行一月至邪馬壹國女王之所都』の文なら
邪馬壹國、他の国と同じ様に、一つの国とみなし、そこに女王の都があったと読めるが
『南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月』
この文では無理だよ
この場合
『南至邪馬壹國』『女王之所都水行十日陸行一月』となる
648 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 21:11:58
>>647 >居處宮室・樓觀・城柵嚴設、常有人持兵守衞。
この宮室・樓觀は、一体どこに建ってたんだ? 現在の市町村名で回答してください。お願いします。
649 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/12(火) 21:20:57
>>648 >この宮室・樓觀は、一体どこに建ってたんだ? 現在の市町村名で回答してください。お願いします。
ごめん、まだ現地に行きこの目で確認していないので公表しません。
場所は豊前国(福岡県)周防灘沿岸地(宇佐ではないよ)に在る(・・・)
650 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/12(火) 21:23:31
伊都国の話が出ていたが、
倭人伝に曰く「代々王がいるが、みな女王国に属している」
というのは、伊都国が邪馬台国連合の一員である事。
さらに「一大率は伊都国にいるが、国中に監視員を派遣していろいろ報告させている。」
一大率というのは、
>>624で説明しているが大体合ってると思う。
さらに「女王国より北には、一大率という指令官を置いて、諸国を監視させている。」と。
一大率が、伊都国にいるということは、女王国は、伊都国の南にあるという事を意味する。
今回大事なのは、次の、
「女王国より北にある国々の、その戸数や道のりは簡単に記載できるが、
それ以外の国はとても遠くにあるため詳しく調べることは出来ない。」の文。
「女王国より北にある国々の、その戸数や道のりは簡単に記載できるが」は、伊都国などで、
そのほかはとても遠くにあるため、詳しく調べることは出来ない、という事は、
当時のクニの単位が、今でいう一つの郡くらいの大きさだったことを考えると、それが30カ国ほど
集まっていても、とても、本州の先までは行かない。吉備、出雲の名が倭人伝に現れていない事からも、
そこまでも邪馬台国の勢力範囲は及んでいない事が伺える。
まして畿内までは届かず、邪馬台国までの距離は、帯方郡から一万二千余里という倭人伝の記述は正しい。
よって、邪馬台国は九州内に存在していた。
651 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 21:36:18
>>649 プラムさんへ。
俺は
>>637をてっきり真に受けて、プラムさんが
>卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。
の冢を、前原市の平原1号墓にあてている、と思ってしまったんだが、それでいいのかな。違うんだったら、はっきり「違う」と言ってくれ。
652 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 21:46:24
>>587 思いのほか、まともな反論なので、ちとレス。
私は、安本説に弱点があるから全部ダメという考えではないですよ。
1と2、安本も統計値の誤差に言及しているし、誤差があるからダメという訳でもない。
ただ、統計の視点によって誤差も変わる。そもそも、統計の基礎のおき方次第で統計値も変わる。
3、安本は時代ごとの在位年数を出して統計的には短くなるとして、国際比較もしている。
けど、国境が地続きの国と、他国からの侵略を受けにくい島国の日本とで単純比較は妥当でない。
時代が古いほど在位が短くなるというのは、証明されざる予想に過ぎない。この点は安本が嫌いな
マルクス主義的発展段階論の匂いがする。実際には後世の方が短くなる要素もある。
4、そもそも、「統計」が正確性を付与されるためのサンプル数が絶対的に不足している。
1000代続いた天皇制であれば、「469代は大体この頃」という統計値を出せるが、20〜100代
までのサンプルで1〜20代までを想定するのは、統計的ではない。サンプルの均一性、同質性も弱い。
特に、中間地点ではなく、ブランクである当初期全体の推定という点で統計としてはかなり弱い。
安本説は一つの推論としてありうる考えではあるが、その結論が強い根拠になるというわけではなく、
1〜10代の実在性を認めるという前提に立った場合に、神武がだいたい210〜280頃に即位した
という幅のある結論を支える弱い根拠として考えるべき。
対して、ピンポイントの結論を支持する根拠に用いている点で安本説は論理的ではないように思う。
653 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/12(火) 21:56:14
>>651 >プラムさんへ。
俺は
>>637をてっきり真に受けて、プラムさんが
>卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。
の冢を、前原市の平原1号墓にあてている、と思ってしまったんだが、それでいいのかな。
違うんだったら、はっきり「違う」と言ってくれ。
そのとおりだよ
間違っていない
654 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/12(火) 22:00:32
>>650 >女王国より北にある国々の、その戸数や道のりは簡単に記載できるが、
そんな事、何処に書いてあるの?
>それ以外の国はとても遠くにあるため詳しく調べることは出来ない。」
これも、そんなこと何処に書いてあるの?
市販の読み下し訳本を鵜呑みにしているからトンチンカンな訳文が出来上がる
655 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 22:03:38
>>645 オイオイ、そんな邪馬台国は30国の総称とか都合良く読み変えしたら
伯済国が馬韓54国の総称とかそう云う事に成るだろ
656 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/12(火) 22:06:40
>>655 >オイオイ、そんな邪馬台国は30国の総称とか都合良く読み変えしたら
伯済国が馬韓54国の総称とかそう云う事に成るだろ
否定するだけの根拠ありますか?
657 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 22:07:10
プラムは漢文の一字一句に拘っても、書いてない事は総作して良いのか
勝手に作文するなよ
658 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 22:09:22
659 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 22:11:47
>>653 わかった。じゃ、プラムさんは、
卑弥呼の宮殿… 福岡県の周防灘沿岸地
卑弥呼のお墓… 福岡県前原市、平原1号墓
と、離れた場所に想定してるんだ。それならそうと、早く言ってくれりゃ…。(苦笑)
宮殿と陵墓が離れている例は、記紀でも飛鳥朝あたりまで、かなりあるみたいだから、俺は別に驚かないがね。
だが、プラムさんが倭人伝をどう解釈して、上のような考えに至ったかは、説明が要るよ。きちんとした根拠を挙げてね。
急がなくてもいいから、また聞かせてくれ。俺は今夜はこれで退散。
660 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 22:12:15
>>634 >卑弥呼さんの以前にも、福岡県では鏡をたくさん入れた墓、見つかってるのと違いましたかい?
俺はその説に疑問を持ってる。
どちらが先かは、卑弥呼の死は中国の魏志倭人伝でダイタイ西暦で判明してるが、平原古墳の
年代は西暦ではっきり判らんアヤフヤなもの。
古墳の堀に落ちてた土器とか、上に載せてあったらしい埴輪とか、木棺の年輪とか怪しすぎ。
魏から送ってきた鏡は、たぶん贈り物を提出させた同盟国の権力者に分けて与えたと思うよ。
今後の事もあるし100枚も1人で持ってても、役にたたんだろう。
敵性国家の狗奴国にも送った可能性もある。
それだけ当時は珍しく高価なもので、狗奴国に対するゴマスリにもなるだろう。
卑弥呼の墓からザクザク鏡が出るのはないでしょう、この当時なら外交の道具に使える。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
この土器と2号墓付近から出土した土器を参考にすると、墓が作られた年代は弥生時代終末から
古墳時代初頭(西暦200年〜250年前後)にかけてと考えられます。
http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/tusin/honbun/tusin3.html
661 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/12(火) 22:13:17
662 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 22:16:38
恵也 ◆o4NEPA8feA よ、
ソースにWikiぺディアなんて貼るな、ぼけ!
それと、安本氏の統計は、絶対的
サンプル数が少なすぎるし、ありゃ、何が何でも
天照=卑弥呼を重ね合わせるためにやっているとか思えん。
実際、誤差が激しすぎるし、倭の五王の初代を
応神天皇にしている時点でアウトだよ。
663 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 22:22:34
664 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 22:26:22
プラムの手に掛かれば、倭国の極南界の倭奴国を指して
「倭奴国は倭国〇〇ヶ国連合の総称なんです」
とか言い出しかねないな
自説を貫く為に無理筋を通して
漢文を読み違えるのがプラムさんの遣り方なんですかね、へぇ〜
665 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/12(火) 22:27:17
>>654 ではどのように訳すのか聞きたいけど。
トンチンカンな訳というけど、以前おたく、邪馬台国と、女王国を別のようにいったよね。
あれって結局変だったんじゃないの?実際に、邪馬台国連合30カ国程、とはあっても、
別記して、女王国何カ国、というのは無いよね。書いてない事は、想像に過ぎないと思うが。
666 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/12(火) 22:29:15
667 :
プラム:2006/12/12(火) 22:35:49
違います倭奴国の極南界が倭国です
668 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/12(火) 22:36:26
>>665 だだこねるなよ
>ではどのように訳すのか聞きたいけど。
トンチンカンな訳というけど、以前おたく、邪馬台国と、女王国を別のようにいったよね。
あれって結局変だったんじゃないの?実際に、邪馬台国連合30カ国程、とはあっても、
別記して、女王国何カ国、というのは無いよね。書いてない事は、想像に過ぎないと思うが。
女王の都があり直轄しているから女王国。女王国は邪馬台国(三十国体制)の中の一国。
>書いてない事は、想像に過ぎないと思うが。
倭伝全部読みこなしてからの発言にしてくれ
669 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/12(火) 22:39:21
>>667 いいかげんにしろよ 以前みたいに荒れたスレにしたいのか?
>>660 三雲南小路遺跡(35面、22面)、須玖岡本遺跡(30面+)、井原鑓溝遺跡(21面+)
671 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 22:48:26
>>652 >国境が地続きの国と、他国からの侵略を受けにくい島国の日本とで単純比較は妥当でない。
間違い!
昔は人間の移動距離が短いから、日本みたいな島国でも単純比較は出来る。
島国とはいえ他国がすぐそばにあり、侵略を受けやすい地続きの国と考えればいい。
現在は地球全体が、昔の日本と考えれば妥当だろう。
行こうと思えば、1日で地球の裏側にまで行けるほど移動距離は伸びたけど
昔は博多から大阪に行こうとしても、どんなにお金を使っても1日じゃ無理でしょう。
それだけ人間にとって、地球が小さくなったともいえる。
それだけ科学が発達したから、アメリカの軍事戦略のそれに合わせて変化してるよ。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
米軍が日本や韓国から撤退するのは、米軍の世界的な再編の一環である。
「ミサイルや戦闘機、輸送機などの性能が向上し、より遠くから大量の武器や物資
を戦場に運べるようになったので、以前より後方に基地を置いても十分有事に
対応できる。
だから、米本土から遠い日本や韓国の基地を縮小し、より近いグアムに結集さ
せることにした」
というのが、米軍再編の考え方である。
http://tanakanews.com/f1124japan.htm
672 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/12(火) 22:52:48
>>665 >ではどのように訳すのか聞きたいけど
【自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳】
翻訳:女王国の北側に位置する諸国の規模や戸数の記載は省略する。
更に、北側には傍らに国があるが国交がないために情報は不明
質問に答えるよ
673 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 22:57:36
674 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/12(火) 23:04:16
>>665 いいかい
邪馬台国が、その他の 伊都国や投馬国のように単独の国ならば
本文中に 【其國本】【自女王國】などの記載はなくなるよ
675 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 23:05:21
これって卑弥呼じゃなくて男王だったら、男王国が代名詞だったのか?
自男王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
って考えれば只の代名詞だろ、代名詞なんだから
邪馬台国=女王国なんだよ
676 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 23:14:19
みんな、恵也 ◆o4NEPA8feAを無視でOK?
こいつ、基礎知識的なことすら知らない。
古代の日本が倍年暦なんて、戦前に英国人の学者が
すでに指摘始まれている。
そりゃ、そうだ。欧州でもどこでも、倍年暦は珍しくない。
その倍年暦だったというのを口封じしてきて、日本書紀はでっち上げだ!
ってわめき散らしたのが、戦後のマルクス主義史観。
恵也 ◆o4NEPA8feAよ、いくら
おまえが喚き散らそうが、古代史の真の解明を防ぐことは出来ない。
677 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 23:16:04
>>652 >20〜100代までのサンプルで1〜20代までを想定するのは、統計的ではない。
>サンプルの均一性、同質性も弱い。
これだけのサンプルがあれば均一性、同質性も十分にある。
俺は競輪の研究をした事があるが、同じ競輪選手の最近の力なんて5レースくらいしかない。
それを80個もサンプルが使えるなら、十分自信を持って統計は出る。
あなたは統計学を自分で使った事がないド素人でしょう。
イラクの人口2400万人の中から、戦争による犠牲者数を統計学的に推計するのに約2000世帯
たった1万2000人の調査で犠牲者数を出してます。
統計学とはこういうふうに使うんだよ。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
論文を出したのは、米ジョンズ・ホプキンス大医学部のギルバート・バーンハム教授ら4人。
今年5月から7月にかけて、無作為に抽出したイラク国内の47地域で各40世帯、合計約
1万2800人を対象に面接調査を実施、家族構成や誕生、死亡の数、その経緯について詳
しく調べた。
その結果を統計処理して推計した死亡率は、年間1000人当たりで、イラク戦争前は
5.5人だったのに対し、今年7月の時点では、13.3人だった。イラク全体にあては
めると、戦争がなかった時点よりも65万5000人多い死者が出たという勘定になるという。
(Asahi.comより)
とっととNGにいれろ
679 :
注目:2006/12/12(火) 23:22:53
680 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 23:23:56
>>652 >神武がだいたい210〜280頃に即位したという幅のある結論を支える弱い根拠として考えるべき。
俺の単純な計算では、神武天皇は西暦289年死亡だ。 だから270年〜300年頃まで即位だろう。
神武天皇を、第50代桓武天皇(781年〜806年)を基準にしてハシゴをかけてみる。
第31代用明天皇は西暦585年に即位してる。その間221年を20人の天皇が即位した。
1人当たりの平均即位年数は
221/20=11.05年
傾向として安本氏の天皇の平均在位年数グラフを見ると5世紀から9世紀にかけて
1.36年延びている。100年間に0.34年だ。
用明天皇と桓武天皇の中間地点は696年
神武天皇が300年頃の即位だとすると、中間地点は553年
中間地点の差が143年ある。
143/100*0.34=0.486
11.05−0.49=10.56
これを平均在位年数として計算すると
初代の神武天皇の死亡年は
806−(50−1)*10.56=289
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/nendai.htm
682 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/12(火) 23:26:14
>>675 >>674参照
>男王だったら
陳壽に質問してよ。
あんまりごねないでね
邪馬壹國 > 女王國
『南水行十日陸行一月至邪馬壹國女王之所都 』
じゃあないんだから
その辺そろそろ理解しなよ
683 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 23:26:57
安本理論は根本的に間違ってるんだから色んなスレでやる意味あんのか
684 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 23:30:37
685 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/12(火) 23:31:57
>>668 おたくこの前、奴国が女王国との境というところで、奴国は、女王国だ、と
いいはってなかった?だから、女王国つまり、女王国の直轄の国は何カ国あって、
どことどこか、こういう事を倭人伝のどこに書いてあるのかということを聞いてるんだから。
そしてさらに、邪馬台国というのが30カ国の総称なら、何故個々の国名が別にあるわけ?
まとめて邪馬台国一つの名前で言いと思うが。
686 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 23:34:05
どうでもいいけど
ここは畿内説のスレだぜ
ちょっとは遠慮しろよ爺さんたちw
by九州説論者
687 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 23:36:55
男女が全て逆の立場を仮定すれば
邪馬台国以外の国が女王を立てる国ばかりで
邪馬台国が男王だったら男王国って代名詞使っても書き分け上も何ら問題無い
代名詞として使えるじゃないか、代名詞である以上は
本文中では、邪馬台国=女王国
688 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/12(火) 23:37:06
>>684 解らなければ読まないでくれ。
解るようになってからでも遅くないので
日本書紀の解明が手薄になるよ
なんだこりゃ?? 邪馬台スレに競輪が出てくるんか!? (@_@?)
690 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/12(火) 23:43:00
>>672 略して載せる。この略は簡単にという意味をあらわしてる。
略すのではない。
遠絶不可得詳 遠く絶えて、は国交が無いんじゃなく、場所が離れているの意味。
遠絶、は隔絶の意味合い。それくらいは僕だって解ります。古文に直すとよく解る。
691 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/12(火) 23:54:57
>>672 >翻訳:女王国の北側に位置する諸国の規模や戸数の記載は省略する。
その翻訳には苦労したんだろうね。お見事。
でも「女王国より北にある国々の、その戸数や道のりは簡単に記載できるが」
と内容的には同じじゃないの?
著者の陳寿は女王国の北側:21カ国ほどが邪馬台国の同盟国で戸数や道のりが公文書
から判ってたが、戸数や道のりを省略し、国名だけを記載したんだろう。
全く同じ内容みたいだけど、あなたの翻訳は硬すぎて口語体じゃない。
692 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/12(火) 23:55:25
>>690 続き。書き忘れたが、「略して載せる。この略は簡単にという意味をあらわしてる。
略すのではない」証拠に、伊都国など女王国の来たに歩くにはきちんと、
方角も距離も、書き表されている。 簡単に書けるとはこのことを指しているのである。
693 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 23:55:46
だいたい邪馬台国は他の国と同列の固有名詞だろ
この一番確実なポイントを何で外すんだよ
694 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/12(火) 23:57:02
>>685 >おたくこの前、奴国が女王国との境というところで、奴国は、女王国だ、と
いいはってなかった?だから、女王国つまり、女王国の直轄の国は何カ国あって、
どことどこか、こういう事を倭人伝のどこに書いてあるのかということを聞いてるんだから。
そしてさらに、邪馬台国というのが30カ国の総称なら、何故個々の国名が別にあるわけ?
まとめて邪馬台国一つの名前で言いと思うが。
後漢書倭伝の
倭在韓東南大海中依山嶋爲居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國
國皆稱王世世傳統其大倭王居邪馬臺國
ここをようく眺めてくれ
ハンヨウは、陳寿の倭人伝を知りながらこの記事をカキコしました
695 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/13(水) 00:00:27
>>679 >安本氏の「数理歴史学」の誤り
このHPを作った方は、数学の基本がなってない。
在位年数を1年から19年まで乱数表を使って、どれが出るかの可能性が全部等しいとしてる。
これが等しく出る確率なんてものはない。
社会情勢によって殺されたり、衛生観念も、医療水準も常に変化してるという前提を無視してる。
根源的な数学の使用法を理解してない低脳児のHPで、準文盲という部類の人間のHP。
696 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/13(水) 00:03:44
>>690 >略して載せる。この略は簡単にという意味をあらわしてる。
略すのではない。
遠絶不可得詳 遠く絶えて、は国交が無いんじゃなく、場所が離れているの意味。
遠絶、は隔絶の意味合い。それくらいは僕だって解ります。古文に直すとよく解る。
>略して載せる
何を略すの?
>遠く絶えて
何が?
>場所が離れてる
書いてもないのに勝手に遠ざけてはいけないよ
>それくらいは僕だって解ります
ぜんぜん解ってないよ
もう一度やり直し
697 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/13(水) 00:03:58
>>683 >安本理論は根本的に間違ってるんだから色んなスレでやる意味あんのか
数学が得意なら、俺の
>>695に反論して書きなさい。
さもなければ統計学の根本なんていう言葉は、あなたには似合わないよ。
698 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 00:06:03
統計学の根本なんて私は使ってませんが?
699 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/13(水) 00:12:24
>>698 >統計学の根本なんて私は使ってませんが?
安本氏が使ってる統計学や数学に、あなたは自信がないことがわかったよ。
無理しないで引っ込んでなさい!
700 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 00:14:47
安本理論が根本的に間違ってるのは
天皇の数だけは正しくて、一代十年で計算して
遡る代数*十年で基準年から算出出来ると考えているところ
安本理論が如何に日本書紀の設計を理解していないかが丸解り
701 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/13(水) 00:22:11
>>692 いいかい
「略して載せる」と、書く場合は(何を略し、そして何を載せるのか)明確に表していなければならない。
ここで略してあるのは「道里、戸数、規模(可)」
それらを略し簡単に記載したモノが(国名称)なわけ
詰まり、
女王国以北にある
諸国20国の事なんだよ
ちゃんと前後の間近な文にカキコしてあるだろう
推理や推測なんていらないの。
全ては合理性だけ
702 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 00:22:32
>>673 リンク先の
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/10nen.htm の図1は時代ごとに
在位年数が長くなっているという傾向が分かり易くていいね。 けど、問題はそこから。
まず、5−8世紀は最も在位年代の短い期間かもしれない。10.88年が極限値ではないと
どうして言い切れるのか?安本は、1−4をさらに短いはずとして10年以下にする補正値を
用いているが、それは統計ではなく、推論(私的見解)である。たぶん、この出発点が私との
違いだね。
1〜20代の空白を21〜100代の統計で求めるのは困難であるというのは、そういうこと。
朝鮮の長寿王みたいな人がいたかもしれない。記紀ではたいてい長寿だし。
人間の平均寿命は時代ごとに長くなっているけど、特定の200年くらいのスパンを取り出して
それが、20人ほどの対象サンプルに確実に反映されるかどうかは、別問題。
これがサンプルの絶対的な不足の問題。
>>677が無作為で47地域、各40世帯、合計1万2800人も調べているのとは、大違い。
私は、安本の基本的な考えは間違っていないとは思うけど、この考えを強い根拠にするのは、
ちょっと難しいとやはり思う。異なる時代のサンプルで、その絶対数も少ないのが難点。
>>679のリンク先はちょっとダメ。まず、何を言ってるのかがよく分からん。
703 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/13(水) 00:27:35
ようするに、
道里、戸数、規模がカキコしてある国は
ここでは 全て該当しない ここで該当するのは、国名称だけ簡単に記載された国々
704 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/13(水) 00:33:57
>>696もうねむいんだから。
あのね、これ常識の範疇。「何を略すの? 」じゃなく、略、という言葉に、
大事なポイントという意味がある。これが、さらに煮詰まったものが要。
いわゆる、{広・略・要}ってやつよ。その意味合いで、「簡単に載せられる」わけ。
遠絶、というのは遠く絶えている。の意味。遠は遠く。絶、は絶縁してるわけよ。何がか、土地が。
遠くて、地続きではない、故に、遠く離れてる、事になるわけよ。
705 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/13(水) 00:40:05
>>700 >天皇の数だけは正しくて、一代十年で計算して
天皇の捏造が出来なかったから、ムチャクチャな長生き天皇ばかりを作ってしまったの。
むしろ数だけは正しいというべき。
日本書紀も中途半端に正直だったんだぜ。
即位年数1代が10年くらいだというのは、統計学的に出た数字。
勝手に作った数字じゃありません。
706 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/13(水) 00:42:24
>>704 俺は寝る
根底からやり直さないと重傷患者になる
これは一文字一文字が大事な古代漢文だよ
その辺の本屋に積み重なってる駄作本と
一緒にしないでね
真面目に漢籍解読する気あるの?
あるならまた 声かけてくれ 君ならまだ軽傷だから大丈夫
お休み
707 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/13(水) 00:49:07
>>702 >まず、5−8世紀は最も在位年代の短い期間かもしれない。
それは考えられん。
その前の1〜4世紀に、戦争に明け暮れたであろう天皇の危険性、衛生思想、食事内容など
悪くなる事はあっても良くなることは考えられん。
最高権力者に着いたのなら、ストレスだけでも大変なものだろう。
それも伝統の短い権力者じゃ、いつもオチオチできんよ。
長生きまず無理な社会情勢。
それに未開国の人間には、医療手段も知識も乏しかったんじゃないかな。
708 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/13(水) 00:51:17
709 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 00:51:54
日本書紀は一代平均の在位を求めて書かれてる訳じゃないよ
安本理論の妥当性がある場合は、
日本書紀を作る側が安本理論とほぼ同じ方法で作ってる場合だけ
しかしそうじゃない、
だから安本理論のアプローチの仕方は根本的に間違ってる
710 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 00:52:10
卑弥呼は70年くらい生きていますけどね
>>705 恵也 ◆o4NEPA8feA よ、おまえの考えは
全く非論理的なんだよ。
おまえ、朝鮮人か?
天皇の年齢が長かったら、捏造なんか出来るか・
嘘って、即ばれるわけだし...
>>697 分散が存在するようなまともな確率分布に独立に従う標本を集めて来れば、
確かに標本平均から全体の平均が求められる。
残念ながら、天皇の在位年数は独立ではない。
ある天皇の在位年数が短ければ、その時代は不穏だったり伝染病が流行していたりする確率が高く、
次の天皇の在位年数も短い可能性が高い。(現代だと逆の相関になるけど)
そして、社会情勢の時間スケールはかなり長いから、こういう相関は無視できない。
>>707 それは統計とは関係ないのでは?
何回も言うけど、私は、安本の方法論は基本的には間違っていないという考えです。
たとえば1〜20代の天皇の在位時期を考えるとして、
1、人数が確定している。
2、だいたいの在位年数が想定できる。
3、ゆえに一定のわく内の結論が出る。
というのは当たり前のことだから、方法論として間違っているはずがない(当たり前)。
(前提の20人いるというところが間違っていなければ)
その在位年数を後世の平均値とかの比較で求めるというのも方法論として正しい。
但し、統計手法での限界から誤差が想定されるから、ピンポイントの結論に対して
強い根拠にはならない。
それだけのことです。
714 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 02:15:24
>>711 2倍暦だの倍年暦だのいうものは、畿内説は誰も相手にしてない。
持ち出すのは、記紀を古代史で権威化しようとしてる一部の九州説の思想犯。
古代史の資料の一部として、他の分野と比較しながら
合理的な説を求めなければならない。
次スレから、スレルールとして記載するべきなのかね。
畿内説で気になるのは、マキムク=邪馬台国→大和朝廷だったとしたときさ
卑弥呼や台与が女王どころか女天皇だわな・・・。なんせ直結だろ。
で、天皇家の人間どもは同じ畿内で何してたんだ?
卑弥呼や台与など、巫女の女王国などとよばれて魏に貢物して親魏倭王などという金印を
もらったりしていたのを傍らで見ていた、あるいは近辺の女王国属国の自称王族か?
天皇が邪馬台国と同じマキムクにいたんなら、王は名乗れないよ、卑弥呼が女王なんだから。
家来とか豪族になるんかな?平民だわな・・・こりゃやばいよ。日本書紀でごまかすはずだ。
”真実の畿内説・マキムク邪馬台国で天皇は卑弥呼の家来だった!!” こんなのも有りか。
しかし、その後の大和朝廷はともかく、古代の天皇家の動向をみていると辻褄は合う。
アマテラス信仰は鎌倉時代や明治時代から。それまでは無視だった。
マジで卑弥呼なんかどうでもいい、天皇家の本当の出生が気になるよ。
畿内説=マキムク邪馬台国の場合、少なくとも卑弥呼と台与が女王と名乗っていたころは
天皇家は王ではない。いや、マキムクには居なかったので4世紀ごろ後でやってきて
日本書紀で歴史改ざんか?
普通さ、大和が邪馬台国で女王国なら普通に書くだろ?いきなり”神話”状態
どっかに追いやってしまった。こんな風になってしまう。
日本書紀は天皇家が指示して都合よく書いたもの。神孫降臨で九州が出てくるのはなぜだ?
自分たちでそういってんだから。
邪馬台国・畿内説での天皇家の立場。
王は名乗れない天皇家。なんだよ、こりゃ。
これが昔から疑問、疑問つーか天皇家の正体。奈良の盆地の卑弥呼の何だったんだよ?え?
>神孫降臨で九州が出てくるのはなぜだ?
書いてある通りだよ。出身が九州だからだよ。
>奈良の盆地の卑弥呼の何だったんだよ?え?
卑弥呼が祭司王で、崇神が政治王だったんだよ。
当時はどこもそうだよ。宇佐とか賀茂とか、ヒコ・ヒメ制だっけ。
詳しくは義江明子でも読んでくれ。
>大和が邪馬台国で女王国なら普通に書くだろ?
書かないんだよ。『日本書紀』編纂時は男尊女卑社会だから。
だから↓
>日本書紀は天皇家が指示して都合よく書いたもの。
その通り。歴史書とはそういうもの。時の政権の都合のいいように書く。
『続日本紀』での種継暗殺事件記事についての、その後の政権(桓武・平城・嵯峨)の扱いようなどが典型。
『日本書紀』も8世紀政権の都合のいいように書いてある。
もちろん筋・骨格は壊さない程度に。
>>718 >大和が邪馬台国で女王国なら普通に書くだろ?
書かないんだよ。『日本書紀』編纂時は男尊女卑社会だから。
記紀成立時は女帝時代だし、紀の最終編纂過程における
持統政権下の影響はいろいろ言われているようなのですが
720 :
太国:2006/12/13(水) 10:33:08
>>719 書かない理由は、卑弥呼と天皇がかすかにしかお互いがしれない地に住んで
いたからだ。つまり女王国は九州にあったことを物語っている。
721 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 10:49:28
聞き飽きたよ
722 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 11:24:59
関裕二は2ちゃんからのパクリネタ本に書いてるし
723 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 11:31:41
この中の誰かに関裕二がいるぞ
724 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 12:08:44
なんかこのスレの九州説者ってファナティックな印象受ける。
725 :
日本@名無史さん :2006/12/13(水) 13:04:06
>ファナティックな印象
どんな印象??
おまえらさ、憶測で邪馬台国かどうか騒いでいても意味が無い。
それよりも、古事記や日本書紀に記されている年代を
西暦に修復していくほうが重要だ。
そのほうが、よほど邪馬台国の解決にもなるよ。
ヒコ・ヒメ制に関してはそうだね。
古代の豪族は、男王が政治をして、女性の巫女が祭祀をした。
つまり、明確な役割分担があったんだけど
時代が天武朝に近づくにつれて、男王が政治も祭祀も担うようになった。
これが日本的な天皇の誕生を意味した。
しかし、時代が中世に近づくと、天皇が祭祀をして
政治は摂関や征夷大将軍に任命されたものがするようになった。
>>726 女教祖が政治まで支配する宗教団体のような形態だった可能性も高いが、
記紀を、大陸の文書や考古学などと突き合わせる必要性があるのは同意。
728 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 15:59:45
>>726 紀の実年代を復元するも何も、編纂者自身が殆んど知らずに書いてるんだからw
何も伝わってなかったと見るべきだろ。
あと、記述内容についても疑わしい部分が多過ぎ。後世の追加やら、捏造部分が多いだろう。
応神以降か、せいぜい崇神以降しか、史実性はないであろうと。
729 :
老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/13(水) 17:37:48
久々に出てきましたけど、これはもうまともに書ける状態ではないですね。
別に二倍暦を無理に使用せずとも九州説は一応成り立つのですが
何故かそこに拘る方が多いですね。
あと、邪馬台国が戦闘国家だった事にしたい方とか。
とりあえず九州説を主張されるならば
1、庄内開始を遅く見るならば、同時に西新式も遅く見なければならなくなる。
2、画文帯(と言うより神獣鏡)がもし呉鏡なら、魏に組した北部九州と呉に属する畿内という図式となるが、そう主張するのか。
3、平原1号墓がもし卑弥呼の墓だとするならば、伊都国や奴国の位置はどこか。
4、西都原ならば、二百年以上の時代のずれが大陸及び東アジアでも発生するが、それについてはどう考えているか。
5、倭人伝において邪馬台国連合内にあるとされている伊都国などが通説通りの比定地であるならば、本州各地との強い結びつきがある事と矛盾するのではないか。
つまり糸島や博多湾以外の他の候補地を探さないといけなくなるが、それは提示できるのか。
要するに、台与以降に跡形もなく消滅したとするか
例えば正史に記載されなかっただけという、九州王朝説に近い考え方をするかなのです。
仮に現在の考古学的データのほとんどが誤りだったと仮定してみても
九州島に持っていく事はかなり困難だと思いますが、そのあたりを再考されてみてはいかがでしょうか。
730 :
老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/13(水) 17:57:21
あと唐古・鍵の環濠について、少々誤解されておられるようですね。
あそこは纏向造成とほぼ同時期に、それまでの古い(使用していなかった)濠を整地して
新たに3分割された地域に再開発され、4世紀前半つまり纏向と平行して存在したと言う珍しいパターンの場所です。
但し、新たに造られた濠に防御的要素は全くありません。
私はそもそも弥生後期以降の濠は防御の役割が忘れられ、地区内とその外との境界に過ぎなくなっていたと見ています。
これは第2次高地性集落の全盛時には、全国的にはっきりと見て取れる特徴でもあります。
例外として、終末期直前の東海や上越、関東などには、極めて防御能力の高い濠が発掘されていますが
それとて逆茂木などの複合防御施設を有しています。
多数の軍団が直接の地上戦を展開したとは流石に考えられない状況です。
むしろ景行記のヤマトタケル伝説に見られるような、オウの暗殺のほうが脅威だったでしょうし
そちらの方が現実かつ効果的であると考えます。
無理に大スペクタクルを想定する必要も根拠も無いでしょう。
731 :
老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/13(水) 18:12:12
あと、記紀から実年代を推測するのは不可能かと思われます。
登場人物や各エピソードにしても、時代の引き伸ばしや架空以前の問題として
果たして正しい時系列で並んでいるのか、これをまず照査せねばなりません。
今の時点で正しいと言い切れるはずもなく、根本的な部分において仮説以前の推測でしかありません。
蛇足ですが最近の傾向として、邪馬台国関連の本は全く売れないと聞いております。
あまたの九州説が不成立だと判明した事が不況の原因だそうですので、整合性のある新たな説を構築されて盛り上げてやってくださいませ。
それではまた機会がありましたら。
3世紀あたりの議論をされる別スレあたりがあればそこにお邪魔することにします。
出来れば邪馬台国に拘泥することの無いスレタイとローカルルールが望ましいですね。
732 :
サガミハラハラ:2006/12/13(水) 19:11:22
邪馬台国はすでに発見されております。
ただそれを皆さん認めないだけなのです。
理由は
1 従来の古色蒼然たる定説や権威に縛られているからです。
2 決定的な考古学的物品がないからです。
3 それぞれ自分の邪馬台国論が可愛くてすてられないからです。
4 発見された場所やされかたが劇的でないからです。
以上から邪馬台国の発見を認めないのです。
733 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/13(水) 19:13:24
神武元年AD57
懿徳元年AD107
崇神十年AD247
応神元年AD390
仁徳末年AD427
勿論書紀の没元年は最終段階で修正されている訳ですが、史実かどうかは別として、
書紀の実年代はこのぐらいの精度で算出出来る訳ですから
後は考古学とどれぐらい一致するかじゃないですか
734 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/13(水) 19:17:10
おっと、
仁徳末年AD437
に訂正です
735 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 19:27:30
そっか、学会どころか出版社からも相手にされていないのか、九州説。
九州説コテが偏執狂的に常駐して誰も読まないような駄文を毎日うpするのは
まさにこんなところでしか発表できないからなんだな。
やつらの異常性の理由がわかったよ。
736 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 19:38:56
>>729 >仮に現在の考古学的データのほとんどが誤りだったと仮定してみても
>九州島に持っていく事はかなり困難だと思いますが、そのあたりを再考されてみてはいかがでしょうか。
こういう事言ってしまえる人だったんだね。
自分から小物っぽく見せなくてもいいと思うんだけどね。
あなたの場合。
737 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 19:52:21
>>731 悪いけど正確に言うと
勢いで「判明した事にしちゃったから」じゃないのかなあ?
自分のケツは自分で拭いて下さいね
738 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 20:18:09
自分としては、ヒラバルのオウが畿内勢力の圧力に屈し南下。
熊本に遷都したのが邪馬台国じゃないかと思うのだが。
奴国はヒラバル・マキムク、どっちつかずで日和見。
狗奴国は畿内マキムクのこと。
伊都ヒラバルは、畿内マキムクの葬送儀礼とは、明らかに異質じゃないかと。
739 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 20:29:49
>やつらの異常性の理由がわかったよ。
お前も十分に異常だがな。
教授が「最近の傾向として、邪馬台国関連の本は全く売れないと
聞いております」のソースも信憑性もわからないのに。
まあ畿内説の退屈さ、つまらなさを考えれば、確かに読む気はせ
んだろうなwww
740 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 20:42:31
>>729 じじいを自称する割りには、若い文体ですねw
書いてある内容は、前スレから某名無しが繰り返していたことがそのまま。
文体を変えたつもりでも、句読点の打ち方や接続詞の種類や付け方、文間の間合いで
クセが出るもの。連投もクセの一つ。
ココは権威ではなく、カキコ内容の合理性とソースの確かさで議論する場所です。
741 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 20:44:19
735じゃないが、売れてないというか出版されないのは事実だな。
実際ひと頃のようなブームじゃないからだろうが。
畿内説が退屈だってのは同意だな。
戦闘も隠蔽された真実もロマンもへったくれもないから。
しかし客観的に見ると畿内説が圧倒的に優位ではある、悔しいが。
742 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 20:46:15
743 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 20:53:59
>どこが「客観的」なの?
教授じゃねーがあまりに基礎的事実を無視しすぎなんじゃね?
ここの九州説コテはさ。
魏志倭人伝の方位記事にずれがあるなんてのは、九州説であっても常識のはずなのに
無いって言い切るのなんて、それはどうかと思うよ。
それと議論と称して罵倒合戦に終始しているイタさも問題あるな。
744 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 21:01:05
俺はマツラ、イト、ナは定説のままでいいと思うが
そうなると邪馬台国がどこかと問われたら考え込んじまうんだよね。
少なくともこれを前提とすると九州では苦しい。
これは指摘されたとうりでもある。
そこでおまいらがどう考えているかを聞いてみたいんだが。
九州のどこにあると考えているのかをさ。
745 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 21:08:46
でさ、いくら2ちゃんだといってもここはまがりなりにも学問板なのよ。
脊髄反射で罵倒レス返すのは他の板にまかせといて
教授の挙げた前提が本当に正しいのかも含めて自説を書くのが筋だろう。
俺は正直反論できんから九州説は厳しいと見ている。
746 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/13(水) 21:10:17
>>744 >そこでおまいらがどう考えているかを聞いてみたいんだが。
九州のどこにあると考えているのかをさ。
九州全て
747 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 21:10:27
>魏志倭人伝の方位記事にずれがあるなんてのは、九州説であっても常識のはず
そうか?太陽が出てくる「東」と、太陽が最も高く登る「南」を間違えるなんて、ありえるか?w
748 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 21:11:51
畿内説が退屈に思えるのは、元々言われていた事そのままだから、なんでしょうか。
八世紀、紀編纂の頃から言われていた保守本流ですから。
通説を打破したいという欲望、新説を発表したいという功名心は悪いことではないでしょう。
ただ、神武東征やら騎馬民族とかにしかロマンを感じられないというのも、
寂しい感じがします。
例えば、庄内・布留の、畿内王権の成立過程は十分スリリングなものですし、
布留末期、四世紀末の拠点集落の再編なども、非常に興味深いです。
749 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 21:17:16
>>747 いまだにそのレベルかよorz
マツラが唐津あたりでイトが前原あたり
ナは玄界灘沿岸なんだろ?
だったら方向が合わないやん。
750 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 21:19:23
>>749 ってことは、魏志倭人伝の方向はまったくあてにならないと言う事で桶?
751 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/13(水) 21:21:29
>>729 どどっといっぺんに、持ってこられてもねえ。仕事で疲れてるし。
いちいち答えるのは大変だ。まず感じたのは次の文。
「仮に現在の考古学的データのほとんどが誤りだったと仮定してみても
九州島に持っていく事はかなり困難だと思いますが、そのあたりを再考されてみてはいかがでしょうか」
というもの。
伊都国、奴国、などは畿内説も、九州説もほぼ同じのはずなのに、疑問を呈し、
さらに倭人伝の道のりや、方向の矛盾の説明などがなされておらず、ひとえに
「九州島に持っていく事はかなり困難」と断じているところに、何かしらの異常さを感じました。
今仕事から帰ったので、まずはこの一点。
752 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 21:24:48
まったくじゃなくて、イキから少しずつ左回りにずれている。
イトからナなどは大方60度以上狂っている。
いくらなんでも誤差の範囲とはいえない罠。
753 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 21:29:41
>>751 教授はイトやナが定説のとおりなら、九州説は成り立たないっていってるように俺には読めるのだが。
疑問など呈していないんじゃね?
噛み付く前によく読んでみ、あんた余裕なさ杉。
754 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 21:33:16
>>751 実際問題、伊都・奴の玄界灘沿岸部を超えるような遺跡が、
九州から発見されてないから。
仮に庄内が四世紀だとしても、三世紀の卑弥呼の時代は、土器編年での弥生後期となる。
弥生後期は、玄界灘沿岸部を中心とした広形銅矛文化圏の最盛期。中国鏡の出土分布からもそれは分かる。
少なくとも、弥生後期に伊都王・奴王を従えるような王権の存在を示唆するような遺跡は、
どこにも見つかっていない。
755 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 21:38:35
>>754 そういう都合の悪いことは無視している
それがここの九州説クオリティってかw
756 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/13(水) 21:41:21
>>711 >天皇の年齢が長かったら、捏造なんか出来るか・
捏造はバレはしないし、出来るよ、あなたみたいな信者人間はゴマンといる。
なんだったら、天皇の年齢が旧約聖書のアダム並みに930歳なら信用しないのかね。
俺のところに来るエホバの元お医者さんは、その930歳を糞真面目に信じてるけどな・・・・
ーーーーー(引用開始)−−−−−
旧約聖書では族長たちが後世の人間よりもはるかに長生きしていた時期のことが語られている。
当然、彼らの長寿が単なる隠喩なのか文字通りなのかをめぐって、大変な議論が続いている。
アダムは930歳まで生きたことになっており、三男セトが生まれたときは130歳だった。
http://www.taishitsu.or.jp/tsubuyaki/tsubuyaki2.html
>>754 これがキモだよね。
九州随一、というか、唯一の王権所在地候補が玄海灘に面したところにしかなくて、
そこが邪馬台国ではありえないんだから、九州に邪馬台国をもってくるのはまず無理。
だから学界では畿内説支持者が増える前に九州説支持者が減って行った。
何処かはわからないけど、九州じゃない・・・って。
758 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 21:53:50
>>754 >>757 でもさ、これから発見されるとか
今発掘中だとか
無責任なうそばっかじゃん、ここの九州説って。
私はすでに発見しているとか、どうなのよこいつってのもあったし。
そういうやつらはぜんぶ読み飛ばすかNG指定にするしか手はないのかね。
759 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/13(水) 21:54:13
760 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/13(水) 21:56:35
>>758 >でもさ、これから発見されるとか
今発掘中だとか
無責任なうそばっかじゃん、ここの九州説って。
私はすでに発見しているとか、どうなのよこいつってのもあったし。
そういうやつらはぜんぶ読み飛ばすかNG指定にするしか手はないのかね。
多数を排除するより、自分が移動した方が合理的
761 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/13(水) 21:58:08
>>729「倭人伝において邪馬台国連合内にあるとされている伊都国などが通説通りの比定地であるならば」
というのが今ひとつ良く解らない。当時の地図があるわけじゃないから、
かつての、マツラ、伊都、の中心集落を指して 東へ、などと記した可能性だってある。
又、当時のマツラ、伊都が今と全く同じ場所にあるとも限らない。
プロイセンはドイツに併合される前はバルト沿岸国だったが、後にドイツ全体を指して言うようになった。
徐州は漢、晋の時代は徐州といい。呉の時代は、徐州とは呼ばれなかった。
このように、大体このあたりであったろう、としかいえないのである。
弥生時代の古い地名が残されている。としかいえない。
762 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 21:59:07
ココは自作自演の連投を生暖かく見守るスレになったんですねww
763 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/13(水) 22:01:13
>>715 >”真実の畿内説・マキムク邪馬台国で天皇は卑弥呼の家来だった!!” こんなのも有りか。
むしろ書くなら「卑弥呼の子孫(邪馬台国)の家来だった」と直すべきだろう。
卑弥呼が死んでから40年位して神武天皇は死んでるんだから、約4世代は後の子孫。
大和朝廷が邪馬台国から独立できるのは、第10代崇神天皇まで待たんといかん。
764 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 22:02:32
>>761 いやそうじゃなくて、その方向には何もないって。
中心集落どころか同じ時代の遺跡もないってw
屁理屈はいいから具体的にいこうよ、かえってみっともない。
765 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/13(水) 22:04:42
>>761 >かつての、マツラ、伊都、の中心集落を指して 東へ、などと記した可能性だってある
可能性の段階でカキコしてはいけない (チラシの裏認定になるよ)
ところで 昨夜の
【自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳】
理解できたのかな?
766 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/13(水) 22:09:32
>>761 続き
だから、九州に上陸してからは、東へ、・・東南へ・・などの記載は
ほぼ正確であり、投馬国は九州を南下して、邪馬台国があったものと考える。
伊都国の南に邪馬台国があったと倭人伝からも読める。
さらにクナ国は熊本県菊池を中心とする地域だと考えている。
767 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/13(水) 22:10:45
>>729老教授 ◆DaLsTNW7DE
>西都原ならば、二百年以上の時代のずれが大陸及び東アジアでも発生するが、それについてはどう考えているか。
あんたね、いくらプロかも知れんがTPOを考えなさい。
素人には全く意味の判らんものを書いて、こんなところに書いて粋がるんじゃないよ。
馬鹿か、お前は!
>>759 >>伊都王・奴王
>何それ?
57年の倭奴国も知らんのか。
あと、伊都国には王が代々いたと倭人伝にも書いてありますが。
>>766 >伊都国の南に邪馬台国があったと倭人伝からも読める。
で、伊都国の南の邪馬台国比定地はどこなんだ?
伊都国から南に行くのに、奴、不彌と東南に行く理由もわからない。
その後に水行だから、余計に難しくなるな。
770 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/13(水) 22:20:04
>>768 小学生の授業じゃないんだから、もちょっと真面目にカキコしようよ
もう一度後漢書読み直しなよ
771 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 22:21:25
>素人には全く意味の判らんものを書いて
素人過ぎるorz
本気か!本気で判らんのか!
よくそんなレベルで書くよなーおまえ
>>760 >多数を排除するより、自分が移動した方が合理的
よく分からない言い掛かり。
畿内説を語るスレに、押し掛けてるのは九州説・九州王朝説の方だろ。
二倍暦とか、紀の実年代の復元とかも、完全にスレ違いだし。
773 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/13(水) 22:22:20
>>764 何を言ってるのか具体性がない為、さっぱり解らない。
何度も言うが、九州説も、畿内説も、フミ国までの方向はほぼ同じと考える
とは聞いていたが、地図を逆さまにしたり、最初から方向が間違っている
という説は今回初めて聞いた。畿内説の中でも異端なのでは?
さっきも書いたように、当時の伊都国、マツラ国がどこかはっきりしていにのに、
90度ずれている、などという説は成り立たない。
>>770 君の後漢書の読み方が特殊過ぎるんだよ、きっと
775 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/13(水) 22:23:30
>>743 >魏志倭人伝の方位記事にずれがあるなんてのは、九州説であっても常識のはずなのに
俺の宮崎説に「方位記事にずれ」があるのならどこの場所か指摘してくれ。
●1里は何kmと計算すべきか?
倭人伝では韓国から壱岐まで2000里となってる。
釜山から壱岐まで160kmとして、1里=0.08km
●水行する距離に関して、数百人の人間が移動するには、漁師や運搬船を総動員しないと無理。
本隊が着く前に先遣隊が大金を使って段取りしても、4日間くらいのタイムラグがあるとする。
風を待つという待機もあるし、酒宴もあるし、船もピストン輸送とし段取りでマイナス4日も
しくは2日とし 1日平均5km進むとする。
●陸行する距離は、段取りでマイナス4日とし1日4kmとする。
江戸時代の朝鮮通信使は12回も、江戸まで往復6ヶ月もかけて旅行してたという。
下関から東京まで900kmを90日間かけたとしたら、1日に10km。
日本との親善が目的なんだから魏志倭人伝とよく似てる。交通網の発達や初めての見せびらかし
旅行と、地元との宴会・意見交換を考えると1日4kmでも良いだろ
●船を乗り換えてるので、漁業者のテリトリーが変化したものとし三角港を投馬国とす(熊本平野
八代平野も領土とする)
韓国80km南→対馬80km南→壱岐(一大国)80?km→唐津(末盧國)40km東南
→小城町(伊都国)8km東南→佐賀市(奴国)8km東→千代田町(不弥国)80km南→
三角港(投馬国)40km南→芦北に上陸100km→宮崎市・・「ここが邪馬台国」
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
776 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/13(水) 22:26:42
>>768 >伊都国には王が代々いたと倭人伝にも書いてありますが
ここで『世有王』の議論でも又 久しぶりにおっぱじめるか?
777 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/13(水) 22:26:47
>>773マツラ国がどこかはっきりしていにのに、 は
マツラ国がどこかはっきりしていないのに に訂正。
778 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 22:27:43
>>773 今すぐ北九州の地図を広げて
遺跡のある場所にしるしつけて
分度器で図ってみよう。
逆に君ぐらいだよ、いまどき方向が正しいと主張するやつは。
>>773 >畿内説も、フミ国までの方向はほぼ同じと考える
いやさ。何度も書いてるけど、畿内説の各国の比定地は、
マツラ=唐津、イト=前原、ナ=博多、フミ=宇美だから。
90度ズレてるというのが、畿内説。
780 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/13(水) 22:29:20
>>777 >マツラ国がどこかはっきりしていないのに
伊都國の西隣
>>776 いいよ、もう。
前にも読んだし、正直、君の特殊な読み方には飽き飽きしてる。
>少なくとも、弥生後期に伊都王・奴王を従えるような王権の存在を示唆するような遺跡は、
>どこにも見つかっていない。
この辺りの考古学的指摘には、九州説、まともに答えられていないな。
情けないぞ
783 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 22:36:06
このレベルの連中に居座られたんじゃかの老教授もきついわなw
俺的には老教授とともに畿内王権を語り合いたいんだが
別スレたてるか?
3世紀の日本列島を考察するスレとかで。
賛同者が居るならやってもいいが。
784 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 22:37:10
おっ、今日は畿内説が押してるジャン!
785 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/13(水) 22:38:11
>>778 >今すぐ北九州の地図を広げて
遺跡のある場所にしるしつけて
分度器で図ってみよう。
逆に君ぐらいだよ、いまどき方向が正しいと主張するやつは
間違ってないよ
786 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 22:39:47
787 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/13(水) 22:42:10
>>781 >正直、君の特殊な読み方には飽き飽きしてる
じゃあやらない お休み
>老教授
お久しぶりです。少し煽りますね。
敗走はよくない。
>>254-6 は私の書いたものではないが、非常に説得力があると考える。
貴兄の考えをぜひお聞かせ願いたく。
789 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 22:44:07
>>783 それがいいかも知れない。いっそのこと考古板にたてれば?
790 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/13(水) 22:50:27
>>778 ハハーン。遺跡がある場所を言ってたんだ。始めて知った。
それ大間違い。今まで見つかってる場所が中心だったかどうか解らない。
倭人伝がそこを指してるかどうかも解んないのに、変なこというなー、と思ったら。
実際、卑弥呼の都もどこか見つかっていないように、マツラ、伊都。などのいわゆる首都は
まだ見つかっていないかもしれないし、クニの位置も今と同じじゃない、とは
このことを言ってたわけ。
791 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 22:56:40
>>790 おまいの根拠は魏志倭人伝の記事のみかよorz
方向が正しいってのも根拠なしかよorz
考古学的根拠どころか、遺跡の特定すら出来てないのかよorz
これは付き合いきれん
おれも別スレに一票
792 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 22:59:33
793 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 23:01:10
安本の平均在位説のまずいところ。
神武から仁徳までは比較的に直系で継承されてきたが
それ以降は、兄弟、従兄弟などの傍系継承に切り替わったことを全く考慮していない。
よって、仁徳以降は、必然的に天皇の代数が多くなり
平均在位数も極端に少なくなっている。
安本氏はそれを全く考慮していない。
それにしても、なぜ、仁徳以降が傍系継承が多くなったのだろうか?
これは、ある程度、大和王権の勢力拡張が限界に達したためだと思われる。
つまり、景行くらいに日本の大半を統一し、
応神時代に朝鮮半島へ進出し、そこで限界点に達した。
つまり、成長率が高い時代は、政権外の目標があり、直系継承で安定していたのが
成長率が低い時代になると、政権内部の争いになる。
その結果、争いが起こったように思われる。
794 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/13(水) 23:03:29
>>791 第一、海岸線が昔と今では大分違う、津、なんて地名が凄く内陸にあったりして、
昔はこのあたりまで海だった、と聞いてびっくりしたことあるでしょう。
又、平安時代まで陸だったが、今は海の底になっ手いる場所もある。
そんな遺跡は発見が難しかろう。
795 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/13(水) 23:03:29
796 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 23:05:30
方位の問題は、九州説でも畿内説でも結局解決しない。
邪馬台国=ヤマト国=日本というように、これを国名と考えると、邪馬台国のどこかに
「邪馬台国」という国があると考えるのが間違いで、終わりのない探索。
伊都国の帥升が「倭国王」と称した時点で「ヤマト国王」だったかも知れない。
奴国の時点で、「倭奴国」は「ヤマトの奴国」の意味だったかもしれない。
奴国が外国に進出した時点で、自民族とその国を指す言葉が存在したことは間違いない。
基本的な国際用語であり、日本人が外人に「私は○○の人間です」という必要性がある。
私は、その言葉として「ヤマト=倭」を使用していたのではないかと考えている。
他の候補が皆無であり、実際にもヤマトという言葉は、邪馬台国時代以降も、日本と日本人を
指す言葉として使われ続け、倭=日本となっている。
だから、魏志のこの部分は執筆者が基本的発想として、倭=ヤマトと考えずに、邪馬台国
=日本のどこかに邪馬台国(=日本)があると考えて、筆が迷走していると考えている。
>>794 倭人伝のみだから、九州説は世間から取り残されてしまったんだよ。
798 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 23:09:53
>>796 興味深い意見だが、
では、邪馬台国が地域名でないとして、女王はどこにいたとお考えか?
799 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 23:20:47
卑弥呼(+壱与)を天照大神に比定するのは、第一に、倭人伝や梁書など
中国の書物と、記紀の記述に強い類似性が見られること。
たとえば、記紀によると、岩戸を出てからの天照大神には高皇産霊尊が
突然のように現れ、『天照大神と高皇産霊尊は…』と並び称されている。
一方、梁書では、壱与が王になった後、再び男王が立ち、中国からの爵命を
同時に受けており、並存している様子が伺える。
そのほかの類似点も書物を読めばわかるが、このように良く似た存在は他にはない。
安本説が数学的に問題があったとしても、天皇の一代を10年程度とみなすことは、
在位期間のわかっている初期の天皇の平均を取ることにより、十分に可能性が
ある。
それで十分だと思う。
800 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 23:22:21
結局畿内説が正しいかどうかは分からんが
九州説は死亡確認ってので桶?
801 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 23:40:40
>>800 老教授という人がこんなことを言っている。
>(記紀の記述が)果たして正しい時系列で並んでいるのか、これをまず
照査せねばなりません。
つまり、記紀に書かれている時系列をいじくり回さなければ畿内説は
成立しにくいのです。倭人伝もそうです。邪馬台国は『南』にあると書かれている。
この時点で畿内説は成立しないのです。
だから、考古学というものを救いを求める。しかし、考古学では歴史はわからない。
たとえば、無数といっていいほどたくさんある古墳が誰の墓かは、考古学では
一つもわからないのです。文献があって、初めてわかる。
考古学者の解釈一つでどうにでもなる考古学に頼っている畿内説は危なっかしい。
その証拠に考古学の結論はどんどん変わっているのです。
802 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 23:41:41
>>798 筑紫のどこか
1、伊都国だと、使節に会っていないように読める魏志の記述と合わない。
2、南九州に狗奴国があったと考えるので、南は除外。
3、奴国王族と奴国拡大後のヤマト国(邪馬台国)王族との力関係から見て奴国では
なさそうである。
4、筑後の中でも熊本に近いところは除外。熊本辺りから、対抗勢力と考えている。
5、筑紫のなかでも朝倉市近辺を中心としたの少し高い位置が高天原ではないかと
考えているが、その中でも伊都国と奴国のある方角に近い北側の位置で台地のような
場所ではないかと考えている。筑前町から大宰府にかけてのあたりか。
803 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 00:01:40
>>802 しかし大宰府だと奴国とあまりに近すぎないか?
それに水行の件。たとえ川があっても逆航するわけだから、全道程歩いていくのが
当然と思われる。
さらにここまで来て、あと20キロほどなのに女王の都に行かないというのは
腑に落ちない。
北九州はほぼ考えられないと思うがどうか。
804 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/14(木) 00:02:25
>>754 >伊都王・奴王を従えるような王権の存在を示唆するような遺跡は、
魏志倭人伝に書いてあるのは、伊都国や奴国などから共立された政権だろう。
アメリカが合衆国として首都をワシントンにしてるけど、どんな遺跡が1700年位したら残るかね。
産業の大都市であるニューヨークは大きなビルなどがたくさん残るけど、ワシントンには???
ちなみにワシントン市は60万人くらいの人口で、ニューヨーク市は800万人だ。
どちらの遺跡が巨大かで、区分けするものではない。
805 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 00:10:05
>>804 おい、せめて、わが国か中国ぐらいの例にしてくれや。
近代アメリカなんて特殊な国なんだからよ。
806 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 00:28:32
807 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 00:32:05
7万戸ってすげえぞ。一戸5人としても35万人だ。
大都市じゃん。これだけの食いぶちとなると稲作だって
相当の面積いるだろう。北九州じゃないなら南九州にだってこんなのない。
808 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 00:37:52
宮崎市が今ちょうど35万ぐらいじゃなかったかな。
「ソース出せ」連発の恵也、哀れ。
何も知らなくて、ネットの情報のみが彼のソースなんだろう。
810 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 00:49:13
なんか今日は、いつもの九州説勢のジャブの連発に対して、畿内説側がストレート一発で
のしちゃったって感じでつね。
811 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 01:00:09
邪馬台国をヤマタイコクと読ませる様にしたのは誰?
812 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/14(木) 01:05:19
>>790で、
>>794 で今日の分は説明した。
後はあきれ果てて、ものが言えないのと、
果たして反論する価値ってあり?と悩んでしまうのと、
仕事の疲れもピークで、反論するのが億劫なのと。
トイレ起きしただけだから、又すぐ寝ないといけないのとで
寝させていただく。恵也さん達もおんなじ心境じゃないの?
813 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 01:13:44
>>812 トイレ起きしただけなのに
パソ立ち上げて2chチェック
さらには捨て台詞
断言していい
あんた相当に病んでいる
まじで医者池
814 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 01:13:49
奴国でも二万戸って相当スゴイと思う。
そもそも畿内派は発掘されてる遺跡から邪馬台国の可能性を論じていて。
九州派は資料考慮や地理的要因から主張してるんでしょ。なら九州派は邪馬台国の位置はこのへんにある!と具体的に絞っていって発掘される方向に導くべきであって。そんなものは海に沈んだとかもう無くなったとかじゃあ単なる妄想になっちまう訳です。
816 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 01:24:03
でも、距離換算だと、帯方〜対馬が千余里、対馬から壱岐までが同じ
壱岐からマツロまでがやはり同じなら、だいたい千里が70キロぐらいじゃね?
それで最終的に、帯方から邪馬台国まで一万二千里だったら840キロ。
だいたい大和国になる。
817 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 01:53:45
>>815 畿内説の言う邪馬台国は、纏向遺跡かな?
でも、物的証拠は出てきていない。
物的証拠といえるのは、金印か銀印だと思うけども、畿内説の人は
倭人伝を信用していないみたいだから、金印も銀印も嘘だと言うかもね。
そうなると、もう証拠も何もない。
一体、畿内説の言う邪馬台国の証拠とはなんだろう。
818 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 02:00:10
>>817 >一体、畿内説の言う邪馬台国の証拠とはなんだろう。
それはお互い様じゃね?それに決して畿内説も倭人伝をまったく信用してないわけではないよ。
820 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/14(木) 06:01:56
>>815 弥生時代の地名を正確に論ずる事は不可能に近いが、
九州は倭人伝に実際、国名が記されているから、その場所を検証する段階で、
色んな可能性を考えないといけない。今まで出た遺跡をクニの中心ときめつけ、
角度を取って90度ずれている、などというのは、短絡的過ぎやしませんか、といってるわけ。
他に遺跡が見つかったら、又そこで言う事が変わるのでは考古学は後追いばかり。
文献の検証の方がまだそれよりも確かである。
倭人伝をあまり正確では無いとしながらも、倭人伝の銅鏡100枚が、卑弥呼の鏡=三角縁鏡
に始まり、倭人伝の記述に合わせようと、躍起になってるのは畿内説の方。
そして矛盾を指摘されると、倭人伝の記述は正確でないなどと、言ったりするのはおかしい。
小学生が言い訳してるみたいな雰囲気がある。
821 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/14(木) 06:02:55
それではお仕事なので、ゴメンなんしょ。
822 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/14(木) 08:31:43
>>805 >おい、せめて、わが国か中国ぐらいの例にしてくれや。
卑弥呼を国家間で共立したというのは、国家間の民主主義なんだよ。
それならアメリカが今のところは、一番有名だろう。
贅沢言うな!
823 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 08:37:48
九州説は、考古学の新発見待ちか。
それも、今までの考古学の通説を覆すような「世紀の」級の。
そんなことを言い出せば、日本全域が候補地になってしまうと思うが。
結局のところ、倭人伝の風俗記事を読んだ印象で、
「邪馬台国は九州のどこか」と思っているだけなんだよな。
824 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 08:39:28
帯方から840kmで大和国って、この大和国ってどこのこと?
現代県名でいってください。
825 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/14(木) 08:42:03
>>807 >7万戸ってすげえぞ。一戸5人としても35万人だ。
邪馬台国を今の宮崎県くらいの大きさと考えればOKだよ。
中国の戦国時代を見ると、大都市の集まってる場所は多くの国に分かれてるけど
田舎の方の秦が面積ははるかに大きかったんじゃないかね。
宮崎県以上の大きさが邪馬台国だったとしても不思議じゃない。
826 :
日本@名無史さん :2006/12/14(木) 08:45:17
827 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/14(木) 08:46:38
>>815 >具体的に絞っていって発掘される方向に導くべきであって。
十分遺跡は宮崎県に出てるよ。
西都原遺跡、生目古墳、新田原古墳、その他諸々・・・
畿内の古墳によく似たミニサイズも多いぞ。
828 :
サガミハラハラ:2006/12/14(木) 08:48:41
全部時代が違いますよ。
829 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/14(木) 08:52:54
>>816 >だいたい大和国になる。
ならないよ。
帯方郡は今の、ソウルから平壌にかけてあったという。
宮崎県ならちょうど範囲にいるけど、奈良県じゃ1200kmくらいだ。
830 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/14(木) 08:55:08
>>828 >全部時代が違いますよ。
アンタね、自分で調べて書きこしなさい!
831 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 08:59:48
そういわれても、素人の私が発掘することはできないし、勝手に発掘したところで、信用されないでしょうから。
832 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 09:04:45
>>827 恵也さんは、「そういうものは宮崎県にのみに見出される。他の県には何も無い」と、主張できるのでしょうか。
833 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 10:02:14
834 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 11:29:10
>>825 そこで急に邪馬台国だけ、現在の県クラスの規模に置き換えるのは恣意的すぎ。
そりゃ前面否定はしないが、まず、結果ありきでこじつけてる感は否めないな。
835 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 11:35:03
はっきり言って九州説は謙虚さがないと思う。
普通、九州説であっても、どっかおかしいところが出るのに、
「そこが分からない」とか「ではないか」とか言わずにいきなり
小説的なトンドモ論を展開して、「こうだから」とねじ伏せようとする。
この態度がかなり反感を与えてることは事実。
836 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 11:40:01
>>835 >小説的なトンドモ論を展開して、「こうだから」とねじ伏せようとする。
そこにファナティックなもの感じるんだよな。
837 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 12:34:19
>>835 >小説的なトンドモ論を展開して、「こうだから」とねじ伏せようとする。
そう。まったく同感だ。
おまけに、「こんなことも解ってないアンタは低脳ッ!」、なんて罵詈雑言まで付け加えるし…。
心ある古人が説いてきた、物の道理とか分別とか、社会のルールとかマナーなど、微塵も感じられない。
少年犯罪の増加や凶悪化が言われるが、大人がきちんとした規範を示していないからじゃないか。
少数とは思うがこんなマナーをわきまえぬ大人たちをネットでのさばらせていては、子供たちに示しがつかない。
838 :
すみませんが、名無しです:2006/12/14(木) 12:50:55
確かに、マナーは良くないね。
九州説そのものも否定されかねないので、慎重に理論展開を
お願いします。
書き込みの内容は良く考えられ、まったくのでたらめでも
なさそうですが、批判的な書き込みにも、寛容さが大事かと
思います。
839 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 12:54:18
840 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 12:58:11
というか九州説者は、少なくとも、ことこのことに関しては他のものが
見えなくなってしまう心理状態に陥ってしまうのではなかろうか。
確かに畿内説側も無礼な物言いしてるんだけど、畿内説者がワル上手というか、
まだ自分たちのやってることが見えてる感じ(見えてるからいいものでもないんだけどね)がするのに
九州説者は必死で、自分が相手に不快感とか与えてるのも自覚がないような気がする。
案外、この九州説者の心理は歴史的に何かを解く鍵なのかもしれないが。
841 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 13:16:29
まぁ少数派ほど感情的になりやすく必死になりがちなんだよな。
そのことを頭の片隅にでも置いとくと哀れみすら感じるよ。
ココを覗くたびに例のコテハン連中が同じこと
ノイローゼかよ!?と思う程に毎日毎日繰り返してほざいている。。。
大勢のロム連中は「ああ股何か逝ってりらー」位にしか診てないんだよ。。。
噛み付けば噛み付くほど九州説の終わりは近くなります。
842 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 13:47:44
九州って、邪馬台国関連の話題が無いと
首を吊らなきゃいけないくらいに貧しいのだろうか。。。
843 :
すみませんが、名無しです:2006/12/14(木) 13:52:54
>>840 >>842 そういうのを「頭にのる」って言うの知ってる?
団塊の世代の特徴の1つでもあるが、九州説とひとくくりにして
すべてを片付けたがる。
844 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 13:54:40
なんか別スレだと、邪馬台国がどうかよりも
日本書紀・古事記の年代を西暦に修正
マキムク遺跡
そこから算出される記紀に天皇や大和王権の成立過程
そちらに興味がうつっている。
邪馬台国みたいなアヤフヤな話題はどうでも良い感じ。
唯一、参考になるのは、「魏略」の「倭人は四季を知らず」
「長寿の人が多い」「春耕秋収で1年」ぐらいかな?
いや、この記述によって、記紀の解明に大きく役立っている。
845 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 13:58:56
>>843 >そういうのを「頭にのる」って言うの知ってる?
なんか言い方が「九州ですが」してるなww
846 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 14:05:02
847 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 14:08:13
ニニギに続く山ホヲリと海ホデリの物語は熊襲と隼人のことだろうか?
道具の交換は交わりであり融合の事象で、
熊襲出のホヲリが結果的に一帯を支配し、子であるウガヤアへズも
叔母である隼人と結び本拠は宮崎に置いたのか。
因みに隼人の祖はホデリであったとも言われている。
ウガヤアへズの子イワレビコは入り婿としてヤマトに上り
同時に災いも持ち込んだのと見る。
イワレビコは乗っ取った。何を?。倭国中枢≒邪馬台国をってことだろう。
848 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 14:18:37
恵也の場合は、確かに論理的とは言いかねるけれども、一生懸命調べているし、
まあ、自説を展開していると言えなくもない。
しかし、ここの畿内説の連中の中には、自分の説を論じることもなく、
ただ誹謗・中傷しているとしか思えないものも多い。
>>842 九州の人間ばかりが九州説というのはどうかな?
畿内説を唱えるのは、近畿地方の人間だけ?
纏向遺跡周辺の古墳発掘は、口に出して言われることはないけど、
間違いなく、金印や銀印を捜していると思われる。
しかし、出てこない。もう、探す古墳はなくなるんじゃなかろうか。
ちなみに、
卑弥呼は『親魏倭王』の金印。
難升米が『率善中郎将』の銀印。
牛利が『率善校尉』の銀印。
掖邪狗が『率善中郎将』の多分、銀印。
そのほか伊声耆を含め7人も印をもらっているだろう。
さて、どこから出てくるか。
849 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 14:23:47
>>848 >しかし、ここの畿内説の連中の中には、自分の説を論じることもなく、
ただ誹謗・中傷しているとしか思えないものも多い。
だから、それがお互いさまだってえの。
850 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 14:24:33
>>803 たしかに、遠路はるばる日本に来て伊都国から先にはほとんど進んでいない
とか、すぐ近くの王都(?)に行かなかったというのは、疑問点。
ただ、この点は王都が畿内であっても同様に問題になる。
私は、「礼の問題」がその原因ではないかと考えている。
日本としては、魏の後ろ盾を国内外で利用したいが、魏の使節団を王都に迎え入れ、
女王が「臣下の礼」を取るというのは、国内的には避けたい。
同じ問題は遣唐使の時代でも起きていて、日本は唐の使節に対して臣下の礼を拒んで
紛糾しているが、最終的にはそれを押し通している。
邪馬台国は、冊封は受け「親魏」の国ではあっても「臣魏」の国ではないとも考えられるが、
直接使節に会えば、儀礼のなかでどちらが「上」に扱われるかで問題が生じる。
そこで、伊都国で「王都はず〜〜と先で行くのは困難です。女王は人とは会わないです。」
とか説明して生かせないようにして、嘘の道程を教えたと考えれられる。
魏の使節としても、日本を冊封したことで半島諸国への圧力になり、それ以上を無理して
望む立場でもないから、女王に会えない理由(距離が遠い。女王は誰にも会わない。)と
倭国のあるていど細かな情勢を記載して、役割を果たしたと考えられる。
851 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 14:35:12
>>847 熊襲と隼人は同じだと思う。熊襲というのは、襲の国を軽蔑して言ったもので、
時代が下ると、隼人と呼ばれるようになったと思う。
本拠地は同じだと見られているから。
日向に下ったのは狗奴国で、その勢力が邪馬台国から禅譲を受け、東征したと
する説もあるらしい。
山幸彦と海幸彦の物語が何を意味するかについては、隼人が絡んでいると
する説が有力らしいが、他にもいろんなことが考えられるんじゃないかと
思うのだが…。
852 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 14:40:56
熊がつく地名つうたら、九州は熊本、近畿は熊野があるわけで話が
平行しちゃうんだよね(笑)
しかもそこからお互い南、鹿児島と和歌山南部ってのも
なんか似てるんだよね。いや顔が。
西郷隆盛と南方熊楠が親戚って言ったら俺信じるぜ。
853 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 14:42:46
>>850 それはそれとして、伊都や奴国を押さえ込むことのできる程の勢力
つまりは遺跡が九州に存在しないことの方が重要だろう。
854 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 14:49:02
>>852 それは神武天皇の故郷が
鹿児島とか熊本とかそういうところで、
そこから派遣された軍司令官だったからだろう?
だからこそ、彼は故郷を懐かしかったので
熊野という名をつけたと...
855 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 14:53:19
856 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 15:10:14
>>854 本国は筑後一帯で女王は大和に鎮座でいいんじゃね?
狗奴国は熊本以南であり、大和における和歌山・三重
狗奴と隼人の融合から、神武と大和の融合まで
ある程度古代国家形成過程に沿った中身になるんじゃね?
857 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 15:10:34
邪馬台国が九州だというのなら、
おそらく、その後、マキムク政権によって滅亡させられたんだろう?
邪馬台国は東征していない。
また、神武東征というのは、魏志の女王卑弥呼よりも前の時代の出来事。
神武天皇は熊襲(狗奴国)の出身。そこから派遣された軍司令官か
あるいは、出雲王権の分家だった畿内の王族へ婿養子に行っただけか?
婿養子が目的なら、最大の狙いは、
熊襲(狗奴国)の宿敵である奴国邪馬台国を挟み撃ちにするために
出雲と手を組んだと。
しかし、当初は、出雲本家の分家的な位置づけだった。
天皇というには、ほど遠い存在だった。
それが、崇神天皇の時代から天下統一に乗り出し、
主君的な存在だった出雲を討伐、かつての宿敵だった奴国邪馬台国も討伐、
そして、最後には、天皇家の故郷だった熊襲も討伐。
西暦300年前後にほぼ全国制覇を達成した。
858 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 15:25:04
>>857 銅鐸の消滅と鏡の拡散、あと鉄の出土状況からして、出雲ってそんなに長生きできたのか?
マジで疑問です。
859 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 15:27:51
>>855 巻向の10分の1、妻木晩田遺跡の5分の1以下では?
860 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 15:30:39
九州派はまだいいとして東征を言い出すから胡散臭くなるんです。
むしろ邪馬台国以前に東征をして畿内に邪馬台国を気づいたんでは
862 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 15:32:22
>>857 >邪馬台国が九州だというのなら、
おそらく、その後、マキムク政権によって滅亡させられたんだろう?
もし、そういう出来事があったとしたら、歴史に残る大事件ということに
なる。ところが、記紀にはそのような事件は見当たらない。
6世紀の磐井の乱まで、大和と九州の争いは書かれていない。
ちなみに、磐井の乱は、天皇の系図しか書かれていない古事記にも書かれて
いる重大事件だった。大和朝廷の重鎮・物部麁鹿火と大伴金村の二人を
派遣するという大和政権の総力を挙げた戦いだった。
863 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 15:36:07
>>861 神武東征を言い出したのは、近畿地方の大和朝廷だから。
864 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 15:42:22
>>855 >九州には遺跡はたくさんある。吉野ヶ里遺跡が有名だが、その周辺にも
たくさんの遺跡がある。
にもかかわらず、銅鏡を何十枚と独占できるような王の墓は、筑後や肥前・肥後には無く、九州島では筑前にしか見出されていない。
865 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 16:15:29
>>858 神武天皇が畿内の出雲系豪族へ婿養子にいって、
それからの天皇は何度の出雲系の奥さんを后にもらっていたはず。
つまり、出雲と畿内は一体関係だった。
畿内の国王の座に着いた熊襲出身の天皇家は
主君であった出雲の王家の関係の女性を常に迎えていた。
それが、崇神天皇の代に出雲を討伐、出雲の国譲りが起こった。
その後、筑紫にあった?宿敵の奴国・邪馬台国を討伐、
景行天皇の時代には、彼の息子の小碓命は
熊襲(狗奴国)を討伐、その熊襲の勇者・熊襲タケルの名を譲り受けて
ヤマトタケルと名乗りましたとさ。
天皇家の先祖が熊襲だったと告白しているわけ、やんわりと。
866 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 16:19:15
>>864 確かに、玄界灘沿岸の方が大量を鏡を副葬している。
しかし、玄界灘沿岸には大規模な集落跡は見つからない。
佐賀平野では、中国鏡も出土しているが、こちらはせいぜい2枚か3枚。
1枚というのもある。
やはり、国力や財力ではなく、文化的な違いだと思う。
吉野ヶ里遺跡が発掘されたときも、そんなことを言う専門家がいた。
吉野ヶ里遺跡は、大規模な集落があり、豊かな国力が感じられるが、甕棺の中の
鏡は少ない。玄界灘沿岸は逆。
たとえは悪いが、中小企業の社長と大企業の社長の違いだとかいう声もあった。
しかし、椿井大塚山古墳や黒塚古墳を見ると、鏡の大量の副葬ということでは
玄界灘沿岸と共通点があるのかもしれない。
867 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 16:26:43
歴史から学ぼう。
博多は近世まで商人の強い町だった。
商人は高価な品物を財力で蓄える事ができた。
つまり、玄界灘の小さな墓は、
有史以前から王たちに匹敵する力を持つ
商人たちのものだったのだよ。
868 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 16:32:14
>>859 数字的な根拠は?
>>858 山陰地方を代表する大規模集落である鳥取県の妻木晩田遺跡は、
弥生後期の終わりくらいに最盛期を迎えるが、徐々に衰退し、
古墳時代の初めには人が住まなくなるらしい。
実年代で言うのは難しいが、卑弥呼の時代と重なるのかな?
倭国の大乱の頃最盛期で、卑弥呼が死ぬ頃終わるのかな?
詳細はわからない。
869 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 16:53:30
>>865 其れもアリだが。倭国大乱の時に出雲や機内は既に落ちていたんじゃないかと思ってるわけ
んで銅鐸祭祀が突如消滅したり、高地性集落が出現したりと、時期的にも重なるわけ。
んで其の乱を引き起こしたのは軍事力で優位にたつ九州なんじゃないかと疑ってるわけ。
それに付随して鏡祭祀も広がっているわけ。んで大国主は神殿を与えられて出雲に伏せられたわけ。
んで畿内では一部の土人が服従しないまま熊野に辺りに篭ったわけ。ニギハヤヒは従順だったga。
九州からの討伐隊長を仮に神武とするなら、其れが葦原総督になってタタラヒメと、恐らくは出雲出
の子娘と結んで支配下というより、九州と融合したわけよ。
後代になっても尚生意気な本国下腹部の害虫どものを押さえるべく、その国の長を迎え入れて
支配下に入れたわけ。
しかし、その婿どのがトンでもない奴でね、神との梯子であるシャーマンをヌッコロシテしまったわけ。
んで世を混乱せしめたとさ。
870 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 16:57:06
このように見てみると、吉野ヶ里遺跡の終焉の時期と同じ頃、熊本県の
うてな遺跡も、吉野ヶ里と同じように、環濠に大量の土器が捨てられて
終わりを迎える。
同じ頃、鳥取県の妻木晩田遺跡も終わる。
近畿地方の唐子・鍵遺跡も同じような状況らしい。
ある時期、全国的な大変革が起きたような気がする。
その時期は、3世紀の後半のような気がするのだが。
871 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 17:02:43
アーリア人でも進入してきたか?
872 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 17:05:35
873 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 17:09:56
>>872 だから、数字を示せといっているわけ。
>>870 安本氏ご推薦の平塚川添遺跡も、同じように、古墳時代前期に終わり、
その後人の住んだ形跡は見られないらしい。
874 :
872:2006/12/14(木) 17:56:08
>>873 これ以上なんの説明がいるんだ?
こんな小さな遺跡を並べられても、
邪馬台国があったなどと信じられんぞ?
875 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 18:01:24
>>867 >歴史から学ぼう。博多は近世まで商人の…
キミのレスは、その本意はどうであれ、大事な点を掴みかけていると思う。
その通りなんだ! 古代においても「商」に着目しなければ、王というものの実像は見えてこない。「農耕だけの王」なんてあり得ない。
たとえばだが、
「あの爺様はメチャ田植えが上手だ、みんなで崇めて「王」にしよう」
なんて御伽噺だ。その程度ではただの集落の長ぐらいなものだろう。
弥生期、青銅器の鋳造工房はあちこちで発見され、その製品がとび離れたところで見つかっている。
あるいは、内陸部の遺跡なのに製塩土器が見つかる──。塩づくり専門工人だけでなく、塩を運んだ商人の存在が、恐らくあったのだ。
「農」だけではなく「工」も、そして「商」をも掌握した人物にのみ、「王」としての資格が付与されたのではないか。
倭人伝には、「南北市糴」「國國有市。交易有無、使大倭監之」──ということも見えている。
伊都国に「一大率」が常駐していたことの意味も、もう少し深く考えてみるべきだろう。
876 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 18:09:55
博多をいっぺんさら地にし、掘り返してみればお宝ザクザク 今の大都市は昔もそれなりだから栄えたのよ。
田舎の遺跡並べてウダウダ言っても何の意味もない
その辺解らないの考古厨は?
877 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 18:15:24
何も無いだだっぴろい原っぱ,ナ国w
878 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 18:15:44
考古厨はその遺跡だけ虫眼鏡で眺め考えていればいいの。普段細々作業の人達が全体語るから、糸の切れたタコの様に舞上がった考えしかできないの 解る?
やたらと話だけはでっかくおおざっぱ
879 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 18:19:21
何も無いだだっ広いゴビ砂漠よりはまし
880 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 18:19:55
九州ってバカの集まりって意味ですか?
881 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 18:27:21
おまえら、記紀を読め。
邪馬台国は北九州だ。狗奴国は南九州で、熊襲・隼人といった。
神武が東征したのは、魏志倭人伝の卑弥呼よりも前の時代だ。
紀元前1世紀、九州で、北の奴国と激しく争っていた南の熊襲(狗奴国)は
奴国打倒のために本州の出雲王権と同盟を結ぶ必要があった。
一方、本州では、出雲王権は、畿内王権と激しく争っていた。
882 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 18:32:54
何故金隈や那珂川が福岡平野の奥まったとこに在あるか知ってるか?
知らないならしゃべるなw
883 :
881の続き:2006/12/14(木) 18:37:55
九州南部の熊襲(狗奴国)は、出雲と同盟を結ぶために
出雲王権の畿内征服戦争に加勢することになった。
その派遣軍の司令官が神武天皇だった。
神武天皇は水軍を率いて、畿内へ上陸し、勇敢に戦ったものの
畿内王家の軍に大敗し、命からがら和歌山の裏手から上陸する羽目になる。
生き残った家来も少数だった。
しかし、神武の軍は大打撃を被ったが、
同盟者の出雲王権は遂に畿内王権を滅ぼし征服した。
そして、出雲王家は、援軍として駆けつけ大量の犠牲者を出しながらも
出雲王権の畿内征服に功績のあった熊襲の神武天皇を
畿内の領主に任命し、彼の妻として出雲王家の女性をあたえた。
そして、その後、何代かの天皇は、出雲王家から妻を迎え、
出雲王権と姻戚関係にある家臣として、畿内の狭い領主として存続した。
この時代は欠史八代というが、この時代はまだまだ出雲王家の家臣だったので
あんまり語ることが出来なかったのだろう?
884 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 18:42:43
>>975 堺や博多の商人たちは様々な財宝や武器を集める力はあったし、
商人が大名になった小西行長のような例はあるが、
堺や博多が王都であるかと言われれば、そうではない。
有史以前の玄界灘の商人たちも、
鉄製の武器や鏡を所有する事ができたという事も、
十分にいう事ができる。
諸国の王たちも、交易を重視すれば、当然玄界灘に倉を持ち、
役人を送り込んだだろう。
その典型的な例が邪馬台国の一大卒という事だな。
885 :
883の続き:2006/12/14(木) 18:43:03
そして、出雲王家の家臣として畿内領主となった熊襲出身の天皇家は
自分たちの故郷を懐かしんで、和歌山の神武が通過した土地に
熊野と命名した。
しかし、そんな天皇家だったが、やがて主君の出雲王家を倒し
全国制覇に乗り出すのである。そう、出雲の国譲りだ。
その天皇こそ、初めての天皇らしい天皇だった崇神天皇だった。
ちょうど、その頃、九州では邪馬台国の卑弥呼の時代である。
886 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 18:44:20
>>882 海岸に近づくにつれ湿地になるからだろ?w
だだっぴろい平野のような湿地が
広がるっていたのが古代の福岡平野。
前原の中心街は海のそこで、平原は雷山の麓。
そんなところに邪馬台国なんて在るわけねーしw
887 :
883の続き:2006/12/14(木) 18:46:34
そして、西暦4世紀の初頭、12代目の景行天皇の時
彼の息子の小碓命の活躍で、日本の大半を支配下におさめる。
この戦争で、強敵・熊襲との戦いは有名。
小碓命は、熊襲の勇者・熊襲タケルを倒すが
その暁に彼から名をもらい、ヤマトタケルを名乗るのだ。
これって、要するに、天皇家の出自は熊襲ですよって告白しているようなものw
888 :
サガミハラハラ:2006/12/14(木) 18:50:46
紀州に熊野という地名ができたのは、崇神天皇の時代です。出雲振根の事件に連座させられた出雲熊野神社の近くの豪族が紀州に配流され、炭焼きに身をおとしたが、そのとき故郷の熊野神社の分霊を持参しまつってから、その地を熊野と呼ぶようになったのです。
889 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 18:51:59
んじゃ、熊本は?
890 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 18:53:49
妄想炸裂だな眼がチカチカするよwww
891 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 18:59:52
>>889 熊のような毛人って意味だろ? 原人色の強い地域だろ?w
いやはや
893 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 19:09:41
妄想アンポンがやけに多いなwww
894 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 19:11:30
妄想に批判を加える俺もバカだが…(苦笑)
>>885、
>>887 >そう、出雲の国譲りだ。
それでは、神武の後に神代がきてしまうじゃないか!
>ちょうど、その頃、九州では邪馬台国の卑弥呼の時代である。
卑弥呼が出てくるのはそんだけ?
狗奴国と不和だった、という倭人伝の記事はどうでもいいわけか。台与のことも。
895 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 19:25:28
>>894 神代の話は神代なわけでw
あれは、前とか後とか関係が無いんじゃ?
要するに、卑弥呼と崇神天皇は同時代の人物。
卑弥呼は北九州、崇神天皇は畿内にいた。
896 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 19:39:46
>>882 どっかの本で得た受け売り知識で偉そうな口叩くなよ!馬鹿は馬鹿なりに謙虚がお似合いだ
897 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 19:41:27
>>895 >卑弥呼は北九州、崇神天皇は畿内にいた。
二人は相知らぬ仲か。
898 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 20:09:59
>>881 熊野の地名の由来は知らん。
「隈(くま・ひきこもる)野(の・未開の地)」という説もあるし、
出雲に熊野神社があって和歌山に分祀したというが、
実は、出雲の熊野は、出雲の勢力下にあった和歌山の熊野方面から
木材を運んでいたのが由来かもしれんし...
それを崇神が分祀して戻したのかもしれない、出雲征服のあかつきに。
また、九州南部の熊襲が由来という説もある。
神武天皇の故郷だし、後に神武天皇の故郷(熊襲)は日向一国から
日向・薩摩・大隈の三カ国にわけて
大隈は、「大(おお)隅(すみ・くま)」の隈は、
熊野とか熊襲と同一的な意味かもしれんし...
まあ、いろいろ説がある。
899 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 20:11:16
900 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 20:33:00
時代的にあり得ないと思う
901 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 20:34:53
902 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 21:34:47
崇神天皇では、まだまだ出雲・吉備くらいまでじゃ
なかったのか?
北九州は完全には征服してないように思う。
記紀で注目されるのは、日本書紀の場合は
神武天皇以降(人間の世界)と、
それより前(神代の世界)では明確に話を分けているところ。
天孫降臨〜神武まで、数百万年という天文学的な時間を設定している。
これって、要するに、神話の時代と神武天皇は実質的に
何の関係もありません(事実ではありません)って宣言しているようなもの。
ただ、その神話世界の話って、その後の正史(人間界の話)での
天皇家を正当化するような話が出てくる。
畿内の出雲王家の入り婿に入って
最終的に畿内も出雲も乗っ取った天皇家を正当化するって感じでね。
また、神武天皇の出自である日向の神話と
神武天皇が入り婿に入った先の出雲の神話を重要視している感じだ。
それを統合するのが高天原神話って感じかな?
903 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/14(木) 21:46:19
>>853「伊都や奴国を押さえ込むことのできる程の勢力 」
が、あったというより、卑弥呼は「鬼道によって衆を良く惑わす」と倭人伝にあるように、
{鬼道とは、初期道教の黄巾とされる}それによって人々の心をつかむのが上手く、
何らかの今でいうカリスマ性があった為、30カ国の王も容認したと思われる。
つまり、武力ではなく、宗教の力でクニをまとめていたといってよい。
904 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/14(木) 22:03:11
>>850 この人の洞察は凄いと思う。ただ、魏王に対し、臣下の礼を拒むことが出来たかは解らないが。
後の遣隋使でさえ煬帝に、倭国を独立した国とは認めてもらえなかったようであるし。
理由としては律法がなかったというのが、最たる理由のようであるが。
又、卑弥呼が人に会わなくなったのは女王になってからであり、
黄巾の教えに基づくものである、といわれている。
905 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:13:55
>>889 熊本は加藤清正が名づけた。それまでは隈本といっていた。
906 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:24:29
>>894 記紀のエピソードの順序は当てにならないと思う。
30で童貞失った奴が、18とか嘘言ったりもするんだから。
だからバイ暦も嫌いなんだよ。
907 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/14(木) 22:29:07
>>833 >
>>828に対するレスは極めて見苦しいぞ!まるで餓鬼だ。
見苦しいのは名無しの分際でデマを流す行為!
おまけにデマを擁護する「馬鹿」ほど見苦しいものはない。
908 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/14(木) 22:32:47
>>834 >そこで急に邪馬台国だけ、現在の県クラスの規模に置き換えるのは恣意的すぎ。
俺の最近の考えなんだけどな・・・
邪馬台国のメイン都市は宮崎市、西都市を考えてるが、宮崎県より大きいくらい
の領土を邪馬台国本土は所有してたんじゃないかね。
まあ俺の考えは、常に変化はしてることは認めてるぜ。
909 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:36:21
>>895 当時、魏に使いを送っていた国は30カ国。
つまり、狗奴国も魏と交流を持っていたらしい。
崇神天皇は魏と交流していなかった?
それとも、魏からは全く無視される存在だった?
九州の30カ国近い大連合の長である卑弥呼とも交流はなかった?
やはり、卑弥呼と大和政権が並存するという考えは無理がある。
910 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/14(木) 22:40:05
>>848 >そのほか伊声耆を含め7人も印をもらっているだろう。
そんなに貰ってるのかい?
魏志倭人伝を読んでも、卑弥呼以外に貰ってるという記述はないのだけど・・・・
911 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/14(木) 22:41:39
畿内説の、古墳の年代をごっちゃにするやり方はもう、うんざりするほど聞かされた。
宮崎の古墳に時代の食い違いがあるなら、証論をもって示すべき。
それが出来ないならただの中傷に過ぎない。
913 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:44:02
>>903 鬼道と言うのは、「怪しげな術」という意味。
つまり、中国人から見て、わからないものということだろうと思う。
道教に近いものなら、そのように書くと思うが。
914 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:53:17
>>910 卑弥呼と難升米、牛利は印をもらったと書かれている。これで3個。
そのほか、正始四年に伊声耆・掖邪狗ら八人を派遣し、掖邪狗等は
等しく率善中郎将の印を授かったとある。
ここで多分、八個。合計11個だと思う。
915 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/14(木) 22:53:44
>>853 >つまりは遺跡が九州に存在しないことの方が重要だろう。
「存在しないことの方が重要」なんて詐欺師の言い分。
ないことを証明するのは悪魔の証明というけど、人間にはなかなか出来ない作業。
あなたは悪魔ほどの知恵があるとは思えないから「詐欺師」というべきだろうね。
916 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:54:28
>>908 >まあ俺の考えは、常に変化はしてることは認めてるぜ。
いや、変化するのはいいじゃん。別に邪馬台国のありかは人生のスジではないのだから。
ただ
>してたんじゃないかね。
などという語尾を用いられると、「え?」ってなっちゃうじゃん。
これって頭から邪馬台国=宮崎って決め付けたいいかたになってる。
ここは、せめて
>してたと考えたい。
とか
>してたと考えれば説明がつかないこともない
とか言ってほしい。
そうでないと、やはりムッとなる人いると思うよ。
917 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:57:26
>>909 >やはり、卑弥呼と大和政権が並存するという考えは無理がある。
全く無理は無い。
魏略には、邪馬台国の東にも違う倭種の国が永遠と広がっている
みたいな記述がある。
中国にとっての最初の日本は、あくまでも
九州の国々だろう?
918 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/14(木) 23:00:03
919 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 23:00:25
>>917 そだね。親魏じゃない国は十把ひとからげでほぼ無視状態ってのは
スジが通る。
920 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 23:03:15
>>917 ただ
>中国にとっての最初の日本は、あくまでも九州の国々だろう?
ではなく
>中国にとっての最初の日本は、あくまでも 邪馬台国だろう?
だろう。どさくさにまぎれて、邪馬台国が九州になってるなw
921 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/14(木) 23:07:45
>>913 違います。惑わす、という文言からそういう印象を受けるのだろうが、
ここで言う「衆をよく惑わす」とは、「民衆をよくまとめ導いた」の意味。
黄巾の影響は吉野ヶ里などでも見られ、墳丘墓の入り口がが真っ直ぐ東南の
方向に向けられている事も黄巾の影響とされる。
卑弥呼が女王になった後、民衆に姿を見せなくなったのも黄巾の影響といわれている。
大陸では黄巾の乱が頻発しており、倭人も大陸で活躍していた、
逆に、難民として、倭国に渡来したものもいたであろう。
又、実際に、「鬼道とは黄巾なり」と記した中国古代の文献がある。
全く同じのもというより、シャーマニズムを取り入れていたとは思う。
922 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 23:20:32
>>919 しかし、卑弥呼の時代に畿内に大和政権があったとすれば、大和政権は
いつから始まったのだろう。その本拠地らしき痕跡が大和にあるのだろうか?
もし、纏向遺跡だ言うのなら、纏向遺跡がいつから始まったかという議論にも
なる。畿内説同士でも意見が分かれるのではないだろうか。
923 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 23:22:04
おまえら、記紀を読め。
おまえら、本当に洗脳されまくっているな。
924 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/14(木) 23:25:08
925 :
太国:2006/12/14(木) 23:27:58
>>909 交流がなかったは、まぁどっちもそのとおりだろう。
卑弥呼は大和朝廷と並存していたのが正解。つまり九州は女王国、朝廷は
畿内にだ。畿内に女王国などあるわけがない。天皇の近所に住んでいるくらい
で倭人伝に載るくらい大なる女王国ならば、記紀に倭人伝以上に卑弥呼ら
の詳細が記述されて然るべきだ。だがほとんどそれがないのは、知れたことよ、
天皇の近所には卑弥呼は住んでいなかったということを意味している。
つまり卑弥呼は天皇と関わりにくい、遠い九州に住んでいたのだ。
卑弥呼が神武のころだとか神武以前の者だというのは、時系列を滅茶苦茶に
した暴論だ。神武以前としたいのは、卑弥呼とアマテラスをべったりくっつけ
たい、はったはれたのwエッチな論理で間違いだ。こういうレスビアン好きの
説に惑わされてはならない。www
926 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 23:28:19
>>922 畿内の政権は結構、交代が激しかった気がするな。
少なくとも現皇室が来たのはすごく新しい時代だと思う。
そうでなければ、古墳を秘匿する意味が分からない。
巻向だって出てきた何を隠したか分かったもんじゃない。
927 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/14(木) 23:35:44
>>925 おっ、太国さんも来た。太国節も健在だ。そしてこの説にも大賛成だ。
928 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 23:44:43
安本氏が、天照大神=卑弥呼にするために
平均在位説をぶちまけたけど、
神話学の観点から、天照大神を実在の人物に無理に
当てはめようとして見苦しいらしい。
そもそも、安本氏は崇神天皇を4世紀半ばの人物にしようとしているがw
どう考えても無理だw 代数からいって、ぎゅうぎゅうって感じw
929 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 23:48:20
>>925 そして邪馬台国は大和朝廷に武力で滅ぼされたか、吸収されたんだな。
だから九州ってえのかしらw
930 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/15(金) 00:09:57
931 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 00:17:36
>>930 それ、まだ前方後円墳とは確定していない。
ただ、同時代の北九州にはそういうものは見つかっていない。
宮崎だというのが味噌。
932 :
日本@名無史さん:
>>929 古代も戦国時代も、九州は近畿に負けっぱなしだから、
いろいろ恨みつらみがあるんでござしょー。