1 :
日本@名無史さん:
まだやるのか乙
それは総てあなたの思い込みです。
5 :
岐阜中納言:2006/11/20(月) 08:31:11
新すれあげ。
7 :
日本@名無史さん :2006/11/20(月) 21:43:27
直江山城守兼続はカッコいいのよ!
8 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 21:59:17
直江兼続こそ『漢』の象徴だよな!
義に生き、己の信念を貫き、なお敵にさえ認められる男だ。
俺は一番好きだぜ。
9 :
日本@名無史さん :2006/11/20(月) 22:07:23
>>8 7です。
ああもう、うれしいですわ〜。
「義」を分かってくれる人がいて!
10 :
金吾秀秋:2006/11/23(木) 18:13:15
兼続すきだぜ(´・ω・`)
11 :
独身ホモ貴族:2006/11/23(木) 19:12:06
越後の夜はハッテン場
>>8 小判を扇子でトスして嫌味を言う「漢の中の漢」w
うるさい訴訟人に逆切れして「閻魔大王にかけあえ」と皆殺しにしてしまう「漢の中の漢」w
13 :
日本@名無史さん :2006/11/24(金) 21:26:07
かっこええなぁ兼続の直江状
「ふふ・・これを受け取った家康の顔を見てみたいのぉ」
14 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 10:41:13
なぜ上杉景勝の名前ではなく直江兼続の名前で書状出したの?
書状の相手が家康の家臣だから? いざというときに景勝に責任を及ぼさないため?
檄文も高級になると筆者を出す
16 :
日本@名無史さん :2006/11/25(土) 18:25:29
>>14 う〜ん何でだろう?
景勝って「直江状」の事しってたの?
>>14 元の書状の差出人と宛先を調べてみな。
それと高貴な方々の間の習慣とかも。
俺の偏見では、西国の三大大名と聞けば毛利、宇喜多、小早川を思い浮かべる。
19 :
金吾秀秋:2006/11/26(日) 03:57:45
まあ当然だな(´・ω・`)
豊家の大老じゃまいか
21 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 12:28:04
直江状は偽物という説もあるが
なぜあんなものが徳川幕府によって抹殺されなかったか不思議だ
兼続・景勝・秀家・大谷刑部・立花宗茂・・・
家康も義を守って利に転ばなかった男たちの名誉まで奪おうとは思わなかったのだろうな
知るか、ボケ!俺は歴史が嫌いだ!信長しか知らん!くたばれ、オタクども!俺はインポだ、文句あるか
ない。
24 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 19:36:50
>>22 ん〜・・・・カッコイイ!!
よっ!インポ将軍!
なんか物言いが下品だから、インポ将軍というよりもインポ足軽じゃね?
26 :
岐阜中納言:2006/11/27(月) 08:33:39
雨上がりの紅葉あげ。
27 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 16:18:29
立花宗茂って関ヶ原の時なにやってたの?
28 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 16:36:25
29 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 00:28:23
30 :
金吾秀秋:2006/11/29(水) 02:57:54
実は、宗茂は、この漏れ様と一緒にいたかったんだぜ(´・ω・`)
31 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 08:46:42
実は、宗茂は、この金吾さまと一戦したかったんだぜ(´・ω・`)
32 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 17:43:47
家康は金吾には鉄砲を撃ちかけたがなぜ吉川広家にはそうしなかったの?
怖いから。
それは総てあなたの思い込みです。
35 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 03:12:08
吉川広家は、毛利秀元の軍勢を動かさないようにする密約をしていたので、
家康から見て十分に役割を果たしていた。
金吾ちゃんは、東軍につくと密書を送っていたが、勝手に松尾山に布陣し
てしまい、家康から見て西軍に寝返ったように見えた。
(松尾山に布陣したのは、金吾ちゃんが勝手に行動したのであって、
三成から見ても何を考えてるのかわからない不気味な存在だった。)
>>32 鉄砲を撃ちかけたについては最近疑問視する考えもあるよ。
南宮山に関しては、ちょっかいを出されると不戦を維持できない恐れがあると広家が
事前に注意していたはず。
37 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 10:24:28
吉川広家・・元就の次男の元春の子供
毛利秀元・・元就の4男の穂井田元清の子供
元春・隆景以外の元就の子は家臣扱いなので広家の方が生まれは上だな
毛利秀就は輝元の実子だが養子で分家した秀元のほうが力があったらしい
輝元は主体性の無い男だな若いころは元春・隆景つぎに安国寺と広家・秀元が実権を握っている
戦国大名らしくない
おひとよしであったという
輝元はあんま才能ないから手を広げるなと言われてたんだっけ?
言いつけを守りすぎ
40 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 17:13:56
元春が反秀吉、隆景は親秀吉、5大老にもなっている
安国寺・秀元が反家康、三成派、広家は家康派
これは偶然なのか?
どちらが勝っても家を残すために意識的に家中を分裂させているのか?
輝元の意思に反して家康に内通した広家がなぜ許されるの?
江戸時代を通して相当冷遇されたようだが>広家の子孫
いくら憎くても江戸幕府にとっては広家は関ヶ原勝利の立役者の一人
表立って処分することなんてできっこないでそ
42 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 11:54:55
本当は家康は輝元を改易して、広家に長門周防を与えるつもりだったらしい
広家が固辞した。
策士策に溺れるを派手にやらかしちゃった典型例だよな<広家
大狸からみれば広家レベルの小狸ほど愚弄・利用しがいのあるものはなかっただろう
本家当主の輝元が西軍総帥に祭り上げられるのを阻止できなかった時点で、腹をくくるべきだったんだよな
家康相手にまともに助かると思う辺りが小物すぎる
そう思わせてしまうほど、家康の方がはるかに上手だったのでしょう。
45 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 20:36:43
家康にとっては秀秋のようなアホが一番動きを読みにくかったかもしれないな
東軍の公式戦後処分としては、毛利本家は領地没収、吉川広家個人にはその功を認めて大幅加増、周防長門2カ国の褒賞。
広家は吉川家の領地を全て返上、代わりに毛利本家への付与を懇請し、それが家康に認められてかろうじて毛利家廃絶をまぬがれた。
その後の広家に対する毛利家中からの風当たりはそれはそれはもう凄まじく冷たいものだったらしいね。
「あの時、広家の制止なく南宮山から一斉に攻めかかっていたならば、、、」
陰に日に、家中のそちこちでそうささやかれたとか。
広家も終生それに甘んじたと聞く。
47 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 00:52:44
260年後に復讐したからいいじゃん。
48 :
金吾秀秋:2006/12/02(土) 00:53:30
>>45 家康も大したことない奴だぜ(´・ω・`)
49 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 01:42:12
50 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 02:09:55
51 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 17:06:59
>>45 コントロールのない投手の配球が読めないのと同じだろうな
52 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 18:16:17
小早川金吾中納言秀秋様へ
バカヤロー!
豚に噛まれて死ね。
53 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 13:23:48
小早川が家康を攻撃すれば、吉川も秀元・安国寺を抑えられないだろうな
天下の行方は低脳な秀秋が握っていたのか
54 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 14:27:17
逆に自分達が動けば西軍勝利、だとは思わなかったのかね?
そこでどうするのか?の天秤は考えたのかな?
考えたくなくとも、天秤を考えざるを得ない立場でしょ。
高台院縁戚の立場では東軍に回りたいわけだが、毛利一族の立場もあるから、
優柔不断な毛利に従っていないと、西軍の中で孤立して滅んでしまう。
東軍との物理的な距離が接近するまでは、西軍にいないと危ないw
その状態にあって、西軍有利でことが進むのであれば裏切る必要もない。
東軍側で秀忠隊未着で形成が芳しくないから、思い切り良く東軍に回りがたい。
宗家の毛利自体、西国で孤立するのを防ぐ意味合いもあって西軍にいる気配が
濃厚なわけで、不本意に総大将になってる。
遠く大阪にある毛利を眺めながら、思案ばかりしてただろう。
秀秋にしてみれば、秀頼出馬はなくても良いが、宗家で総大将でもある毛利が
一門を引き連れる形で最前線に出馬していないことは、もっとも大きな悩みの種だ
ったのではないか?
「家康が来てるのになぜ?」って思いも湧いてくる。
毛利が出てこないことから、西軍有利に傾きつつある情勢を正しく分析できない。
「この場に、輝元様がいて御指図下されば、そのとおり出来るのに」と思案に暮れる。
自分で考えて行動できないタイプの人間だと、相当迷うことになる。
優柔不断といえば、そうかもしれないが、可哀想な立場に置かれてしまったのは
気の毒だ。
「実質的な総大将は三成だから」と逃げる毛利に下駄を預けられて相当困ったと思うw
56 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 15:29:36
>>55 なるほど、秀秋についてはその通りだと思う。
じゃあ広家は?
徹頭徹尾、傍観と決めてかかっているような。実際の戦況を眼にしたときに逡巡はなかったのかな。そこまで東軍(家康)を信用?してたのか。
57 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 15:40:01
もともと、毛利の軍法では吉川が先陣で小早川が後詰という形だろう
それが、関が原では家康に脅された小早川が吉川より先に動いた
これで吉川が面目をつぶされたと激怒した それで最後まで動かなかった
吉川は東西両軍が疲れ果てたところで、毛利が総力で襲い掛かり
天下を取る予定だった それが小早川が先に動いたため出来なかった
大阪城には毛利輝元がいるわけだし、関が原で主だった家康などの
首を取ってしまえば毛利の天下だ
家康はそれがわかっていたから、毛利をつぶすと厳しい方針を出した
吉川の泣きで滅亡は免れたが、大幅に所領を減らされた
いや、小早川は伏見城を落した直後から家康に連絡を取って、既に寝返っていますよ。
松尾山占拠は西軍の予定にない小早川の独断で、実質その段階で東軍として行動していたといえる。
ところが、いざ戦闘が始まると以外に西軍が健闘するので、
この期に及んで迷ってしまったってとこでしょう。
それでも、結局東軍についたのはやはり勝率の高さ。
東軍は未だ3万といわれる家康本隊が戦闘に参加していない予備戦力となっていたが、
西軍にはそれにあたるような戦力はほとんどなかった。
小早川が東軍を攻めれば吉川・毛利も動くだろうというのはただの予想で確実ではない。
それに比べて西軍を攻めた場合、正面の敵と激闘を繰り返す西軍の側面を突けばよく、
大谷が小早川の押えにおいていた兵力も千にも満たないものなので、
東軍の家康隊3万とは比べ物にならない。
つまり、目の前の戦闘は一見西軍が健闘しているようだが、
もうちょっと良く考えれば東軍のほうが有利なので、結局東軍についたと。
吉川の場合も同様、自分らが東軍を攻めても小早川が必ず動くとは限らない。
南宮山の西軍を全部集めても、東軍の南宮山の押えの部隊+家康本隊に兵力で及ばないから、
勝てるという確証はない。
まして戦闘に参加さえしなければ本領安堵という約束があるのに、
無理に勝てるかどうか分からない戦闘をする必要は全くない。
60 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 18:02:25
徳川を潰したい者にとっては家康と秀忠を各個撃破できる千載一遇のチャンスだろう
三成にはそう見えただろうし、家康も実は肝を冷やしていたのでは
61 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 18:08:20
家康と三成があうんの呼吸で戦国最後の大戦争をして
戦国時代にピリオドを打ったとも考えられなくは無い
62 :
金吾秀秋:2006/12/03(日) 23:21:03
漏れ様が、決定打を打ってやったわけだな(´・ω・`)
エラーした結果サヨナラになった様なものだと思う。
小早川がどっちについても勝ちだったような気がしてならない。
狭い地形で正面の敵とあたる限り、マンチェスター第1法則が適用され決定打にはならないが
小早川が側面をつき、鉄砲の射線が2倍となれば、同第2法則が適用される。
メッケルが西軍必勝といったのにはこうしたことが根拠となっていると思う。
あと徳川の軍制では旗本の鉄砲衆の比率は10%だよな。
3万人いても鉄砲3000丁。関ヶ原時点での鉄砲装備率が推定4割なので
徳川直属軍は弱い、あまりにも弱いってことになったんじゃないか。
結局、小早川が東西どちらについてもついた方の勝ちとなると思われるんだが。
>>59 >戦闘に参加さえしなければ本領安堵という約束
確か、家康自らからの安堵状は一通ももらってなかったんだよな
黒田と藤堂あたりの空手形にまんまと踊らされたあたりが脇が甘すぎ
66 :
金吾秀秋:2006/12/04(月) 04:54:48
まったく、毛利の脇の甘さぶりには、あきれたもんだぜ(´・ω・`)
67 :
平岡頼勝:2006/12/04(月) 08:21:00
御意。
>>55 毛利が孤立?西軍諸将は毛利が総大将になったから参加したものも多い、毛利が東軍だったら西軍は成り立たない。
秀秋は家康に内応の使者を送って2度も追い返されてる、ここらあたりさすがに狸。
輝元が大坂を動かないのは西軍自身が家康の到着時期を誤ってた。
>>57 小早川を毛利の一門と考えるのは無理がある、家臣も変わっている。
>>40 安国寺・秀元が反家康、三成派>秀元は三成派ではないがやると決めた以上はやるというタイプ。
69 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 13:30:53
輝元が大阪城を動いたら誰が秀頼を守るんだ?
輝元としては秀頼を擁して戦場に向かいたかったのだろう
家康に内応した者が大阪城に入って秀頼奪われれば西軍は大義名分を失う
>>69 輝元が動かなかった有力な3つの理由。
・増田長盛の内応の噂
・三成が書状でまだ家康が来ないから必要ないと連絡
・本人が風邪で寝込んでいた。
71 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 14:24:06
>>70 風邪で寝込んでてほしいなぁ
そうだったかわいいなぁ
>>69 輝元が無理にでも秀頼を連れて出陣すれば面白いなあ。
その報告を聴いたときの家康の対応、秀頼の馬印を見たときの正則なんかの反応
を見てみたい。
そうすれば多くのIFが解ける???
74 :
日本@名無史さん :2006/12/04(月) 17:02:49
>>59 ほとんど同じくらいの兵力だと思うぞ。
毛利・長宗我部・吉川・名束で、3万弱はいたはず。
押さえの兵力は浅野・池田・山内と徳川本隊で、3万だろう。
75 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 17:20:39
>>73 無理に本人を連れ出さなくても出陣したという噂と太閤秀吉の馬印で十分だろう
淀がそれを拒むのなら西軍の大将から降りると脅せばよい
76 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 17:30:57
>>74 関ヶ原では山内部隊2千ほどです。
後半、小早川部隊1万5千が動いときに動きだしただけです。
77 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 17:57:42
関が原ってのは、家康が勝ったから、天下分け目であって。
敵味方の識別をはっきりさせるために、関が原におびきよせた家康の謀略。
秀忠軍3万、関東の後詰の兵力をあわせれば、徳川だけで8万の兵力。
ハナから西軍に勝ち目はなく、小牧長久手同様、誘い込まれて殲滅された。
東軍+西軍=太閤軍 どうだ!!!!!!!!!! 文句ないだろ!!!!!!!!
81 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 18:13:16
なんといっても東軍は実戦経験が豊富な武将が揃っていた
顔ぶれを見れば、どちらが勝つかはみんなわかっていただろう
後はセレモニーみたいなものだ
82 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 18:21:47
>>81 激しく同意!!
戦うのが主(正則、嘉明)・・・七本槍やね
頭を使うのが主(三成、正家)・・・五奉行やね
で、何で五奉行って西軍に多いの?
正則て案外実戦経験が豊富ではないよ。
七本槍程度でよければ三成も一番槍。
それに西軍も行長、秀家、義弘、宗茂、広家、元康、秀包、昌幸とみんな歴戦。
顔ぶれで劣るほどのもんでもない。
84 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 18:53:12
朝鮮の役で戦った武将は東軍のほうが多かっただろう
大谷刑部も三成から顔ぶれを聞いて、これは勝てん、やめとけと
最初は反対していたくらいだからな 最後は華々しく散ることに
重きを置いた戦いぶりだったな
85 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 18:56:14
東軍ってキャリアの浅い葉武者が多いよね。
地侍の息子・・・黒田、細川、藤堂、京極
足軽の息子・・・福島、加藤、浅野
無宿人の息子・・・井伊、山内
槍働きしかできないやつばっかじゃん。
86 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 19:06:32
87 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 22:12:55
>>83 三成さんは一番槍ですか
いや〜始めて聞きました!
有り難うございます!!!
>>84 朝鮮の役で戦った武将が多いのは西国の諸大名だね。
東軍の顔ぶれて三成が挙兵する前だから、だれが敵か決まってないんじゃないの。
大谷はもともと家康の実力を高く評価してたから、家康には勝てないという反対じゃないのかな。
最弱の恐れがあるのが小牧以来まともな戦をしていない徳川本体、最強と言われた秀忠隊も真田相手に
醜態をさらしてある意味あたりかなとも思う。
諸条件をクリアしたと仮定して、秀頼を奉じて毛利本隊や秀頼親衛隊の出陣があったら大津城での足止めや、
小早川その他の裏切り、南宮山日和見、東軍諸将の動向などにはどの程度影響があったのだろうか。
宇治瀬田あたりまで出張って増援部隊を関が原に派遣すれば、かなりのものだったと思うんだが。
>>85 細川は室町幕府管領家の一つの大大名の家柄、京極も近江六角氏の流れの大名で、到底地侍ではないだろ
>>89 蜂須賀、鍋島の参戦。
吉川の内応帳消し、小早川は最低でも不戦。
関ヶ原戦そのものが無い可能性が大。
>>73 輝元がそこまでの覇気があるなら、後陽成帝を動かして勅を貰うとか面白いかも。
>>90 忠興の家は細川は細川だけど分家末流、京極も既に没落してたよ。
地侍というよりも素浪人といった方があってるかもね。
つうか、あいつらは細川というより長岡だな。
95 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 13:26:11
小早川が裏切ったというより、松尾山で形勢をうかがっていたが
8時ごろ、開戦で西軍優位に進んでいたが、10時ごろ家康が
最前線に近いところに陣を進めたことから東軍が奮戦、優位になって
12時ごろには東軍勝利だなと判断して、勝ち馬に乗るという心理で
西軍を攻撃したものだろう 小早川の西軍攻撃がトドメの一撃になったのは
事実だが、その前に東軍が優勢という状況があったのだろう
そこら辺のソースは。
97 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 16:38:29
別冊歴史読本の戦況図録 関が原大決戦によると
午前8時 井伊隊。戦端を開く
午前9時 一進一退の攻防
午前9時30分 西軍の島左近負傷
午前10時 家康、陣馬野へ進出
午前11時 西軍が総攻撃のノロシを上げるが毛利隊、小早川隊動かず
正午 小早川の裏切り
12時30分 大谷吉継自刃
午後1時 西軍総崩れ
午前10時ごろ、家康が桃配山から最前線に近い場所に本陣を移した
積極策が、松尾山の小早川からは東軍が優勢と見えたのだろう
98 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 17:27:11
>>97 家康が陣場野に進出してから金吾が動くまで2時間も経ってるが。
99 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 17:50:40
戦国最大の謎の一つ「本能寺の変」。織田信長の遺体が発見されなかったことを筆頭に、
光秀嫉妬説、秀吉黒幕説、千利休黒幕説、はたまた足利義昭陰謀説など…諸説入り乱れ
定説がない。それは、明智光秀がたとえ信長を打ち倒したとしても、当時の状況からし
て秀吉、家康など信長配下の軍事力に屈することが目に見えていたはずだからである。
この謎を究明していた所、奇妙な事が判明した。光秀が信長を討った後の行動には不信
な点があったのだ!なんと何かを察知した光秀が、城から持ち出した財宝を逃走中どこ
かに隠したというのだ!今回この他にも取材陣は光秀の子孫とされる人物に接触!財宝
の在りかを示すとも取れる“先祖代々伝わってきたという歌”の情報を入手!!しかし
、その歌は祟りがあると恐れられていた・・・果たしてこのミステリーは解明できるの
か!?
■テレビ東京 : 新説!?みのもんたの日本ミステリー!〜失われた真実に迫る〜
2006年12月6日夜9時00分〜10時48分
http://www.tv-tokyo.co.jp/nihonmystery/
100 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 18:43:16
小早川は松尾山の上にいたわけだから、物見が家康の陣馬野への
進出を確認して秀秋らに報告、協議、仮に11時に西軍攻撃を
決定したとしても、西軍攻撃に部隊を再編成、命令を周知徹底させたりで
準備に1時間程度はかかるだろう 12時に裏切りというのは
妥当な時間だろう
101 :
日本@名無史さん :2006/12/05(火) 18:50:19
関白という条件を、素直に信じる小早川は阿呆。
小早川が関白になったら、秀頼はどうなるんだよ? 秀次の二の舞になるのに。
103 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 20:37:47
>>100 おいおい、山の上から関ヶ原は丸見えじゃん。
しかも目の前で合戦やってるのに一時間もチンタラ準備やるのかよ。おめでてーな。
敵が西軍だろうが東軍だろうが出撃の準備してないわけねーだろーが。
104 :
金吾秀秋:2006/12/05(火) 22:39:56
まったっく、おめでてーやつらだぜ(´・ω・`)
105 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 23:16:19
あの今更なんですけど、良くこんなに合戦の様子とか残ってますね
いやぁ〜なんかすごいと思いますよ
>>102 家康3マソは参謀本部かな、だとしたらあまり当てには出来ないな。
大河の解説では家康2マソて逝ってたしなあ。
>>103 まあ、素直に東軍攻撃なら手間ドラナインじゃないか、松野の件からしても
前線の指揮官クラスは内応なんぞ知らなかったと思えるから、かなり混乱したんじゃない。
西軍を攻撃しろとの命令です、よしっや!、え、待て、そんな筈無いだろ、戻って確認しろよ!
みたいな。
107 :
日本@名無史さん:2006/12/06(水) 13:43:01
>103
コンピュータゲームやってるわけではないからな
1万7000人の大軍を進撃させるのはそれなりの時間がかかる
松尾山の頂上から、一度関が原まで降りてみな わかるから
108 :
日本@名無史さん:2006/12/06(水) 15:09:52
>>69 どちらにせよ、輝元は無理にでも参戦すべきだったんじゃないか?大阪城奪われても、関ヶ原で勝ちさえすれば後で奪い返すのは容易だろう
110 :
日本@名無史さん:2006/12/06(水) 16:48:09
>>107 当時の松尾山は整備されて城になっていた。
別に全軍が山のてっぺんに布陣してたわけじゃなし。
ゲームに入れ込みすぎて仮想戦記の世界から抜けれなくなったのか?
あんまりでしゃばると次の討伐対象になっちゃうじゃん
つーか、松尾山城の外にも展開してたはずだが<小早川軍
そりゃそうだろ、岐阜城くらいの高さがあるんだろあそこ
115 :
日本@名無史さん:2006/12/06(水) 19:05:18
>108
>5千人だよ。
デタラメな数字だな どの資料を見ても最低でも1万5000人はいる
それは知行から割り出した推定兵力に過ぎんだろ<1万5千
全軍率いて国を空にして遠国に出陣するアホ大名はおらんよ
史料でおなじみの兵力の誇張も付き物だしな
実数は兵站部隊込みで8千ってところじゃなかったっけ
関ヶ原で金吾が動員出来たのは、一万四千ってトコだろ。夫丸の分とか差し引いて、誇張があったとしても一万前後はあったんじゃないか?
119 :
金吾秀秋:2006/12/06(水) 20:44:55
実は5万ほど率いてたぜ(´・ω・`)
5万も動かせる軍資金持ってないし、貸してもくれないだろ
>>115 当時の資料にそんな数字ないと思うが。
学○とかでない資料あるならソースきぼん。
普通にその時代の、もしくは江戸初期だろ
126 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 01:48:40
関ヶ原にはもう・・・何も無い!!
127 :
金吾秀秋:2006/12/08(金) 03:21:45
もうすぐ松尾山で、漏れ様のうんこが発掘されるよ(´・ω・`)
宇喜多秀家隊一万七千人と石田三成隊六千人の間に、毛利秀元隊一万五千人、小早川秀秋隊一万五千人
長宗我部盛親隊六千六百人を配置すればどうよ?
小早川秀秋の軍勢は8000、15000とは陸軍参謀部の戦史編纂科による算出。
それも会津征伐を命じられた島津が課した軍役100石につき3人を基にしてる。
ちなみにそれでも間違いで、秀秋は筑前32万石なので10000程度。
しかし石田三成の書状では小早川勢8000とあるので、今現在は8000とするのが主流。
130 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 14:31:43
おまえら頭いいなあ、勉強になるよ。
131 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 15:05:12
>>128 関ヶ原は独立した大名の団体戦なので三成はもちろん家康にも命令する権限はない
とくに西軍は戦場到着順に勝手に布陣している
福島、黒田、細川の部隊を合計すると一万六千くらいになる。
この3人が西軍についたら西軍の勝利だな。
宇喜多秀家隊一万八千人の方がより正確かな。
それなら、宇喜多秀家隊一万八千人、毛利秀元隊一万六千人、小早川秀秋隊一万六千人が正確だね。
石田6千、島千、豊臣2千、蒲生千、義弘750、豊久750
小西4千、宇喜多1万7千、戸田、平塚1千5百、大谷600
吉勝、頼継3千5百、秀秋1万5千、広家3千、秀元1万5千
安国寺1千8百、正家1千5百、盛親6千6百
実際、黒田長政の兵力は五千四百人 細川忠興の兵力は五千百人
名前の雰囲気から見た黒田の兵力は五千五百人 細川の兵力は五千三百人と考えてしまう。
細川5千、動員可能兵力5千4百
黒田5千4百、動員可能兵力5千4百
138 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 15:56:22
序盤戦は西軍が善戦、やや優位に戦いを進めたが9時半ごろ、石田軍の
島左近が黒田長政の迂回部隊に山側から鉄砲で撃たれ負傷、このあたりは
黒田長政の実戦経験の豊富さが出ている 島左近は意外に実戦経験が
少なかったのだろう アッサリとやられている
10時ごろ、家康が本陣を最前線に移したころから東軍が優勢に
石田軍は山城の中で専守防衛というように追い込まれている
石田三成自体が、島津軍に支援を頼みに行くなど、苦戦していたのだろう
主将がチョロチョロするようでは戦は勝てない
これらの状況を見た小早川軍が先ず最初に裏切り、同じく様子見の朽木、脇坂
小川軍も続いて裏切った 小早川の裏切りというのは想定内だったが
朽木、脇坂、小川の裏切りは想定外だった大谷軍はショックで潰滅する
このあたりが、家康、東軍の謀略戦が西軍をはるかに上回っていたことを物語る
元々、野戦が得意の家康に野戦を挑むことが間違っている
結局、秀才官僚の三成の机上の空論が実戦経験豊富な家康に負けたということだろう
それは総てあなたの思い込みです。
>>138 6時間の関ヶ原と葵の合戦シーンで有ったよね
竹柵等は何時作って置いたんだ?
石田は竹やらい程度と思われ。
大谷は早くから陣地を構築していたので本格的。
宇喜多はなさそう。
142 :
金吾秀秋:2006/12/11(月) 04:21:23
松尾山城は本格的なんだぜ(´・ω・`)
143 :
平岡頼勝:2006/12/11(月) 08:07:59
御意。
大津城囲んでいた1万五千のうち、せめて3,4千ぐらいは関が原に急派できなかったんだろうか。
島津の代わりにその軍勢を置くことができてれば石田への集中攻撃をもう少し抑えることができたような。
まあ事前に解って入れ歯ね。
関ヶ原に移動するなんて、
主導権を握っていたのがどちらなのかはともかく、
前日の夜に決まったことだからねえ。
逆に言えば、大津を落されて時間を与えれば家康も危ないよね
美濃に入って関ケ原突破これは早かったよね
たかが一万五千増えるだけだろう。
家康方は3万4千増える。
149 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 07:57:33
秀忠の事言ってるのかなあ、翌日に着いたのは本人と馬廻りのみだよ。
本隊はばらばらに到着してきていて戦力にならないのでカウントできないね。
路銀も使い果たしていた上に強行軍で疲労もピーク、隊列も満足に組めてない
からね。
大津の落城が早ければ関ヶ原に家康は進出しないんじゃない。
151 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 11:11:09
秀忠の到着って関ヶ原合戦の翌日?
もっと遅かったような・・・。
どっちにしろ西軍の武将は戦意の乏しいやつだらけで
戦力としてはカウントできないやつだらけだね。
戦力としてはカウントできないやつなんて、裏切り組だけだろ。
大津組の立花も惜しいが南宮山毛利秀元部隊も吉川に頭押さえられていなければな・・・
秀元隊が動けば長曾我部隊も動ける
154 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 13:01:11
南宮山勢が動けば、前線の東軍に衝撃を与えたと思われ。
土佐の暴れん坊長宗我部盛親ぜよ!
毛利輝元 伊達政宗 宇喜多秀家 上杉景勝 小早川秀秋 vs 徳川家康
毛利輝元 伊達政宗 宇喜多秀家 上杉景勝 小早川秀秋 前田利長 vs 徳川家康
158 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 16:31:53
本屋で軍事雑誌に関が原のことを書いていたので立ち読みしたが
東軍、西軍ともに誤算と蹉跌の連続で、双方ともなんで勝ったか?
なんで負けたか?わからなかっただろうというのが結びだったな
159 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 17:16:42
漏れもそう思うよ。
家康とてとても掌握できていない、いわんや三成。
最終的には三成と家康の信用力の差だろうな。
いざとなったらみんな打算で強いと思う方につく。
>>158 そりゃあちょっと強引な話だろう。
確かに家康側も小早川がなかなか動かなかったので気をもんだ、
つまり、直ぐに動くと思っていたのに誤算だった、というのはあったと思うけど、
結論からすれば、それでもやっぱり裏切ったから勝った、というだけの話。
>>151 確か五日後。
しかし、西軍が1万増えても東軍が無理な攻撃をしなければ、
すぐに壊滅ってこともなかっただろうから、秀忠軍は間に合ったと思う。
北からは前田隊も来るし、
長期戦になってもや輝元が来ない限りやはり西軍は不利でしょう。
>>161 家康の関ヶ原までの動きを見てると、あまり綿密な作戦という気もしないな。
その場その場の判断は結果から見ればさすがなんだろうけどね。
家康が秀忠を待てなかった最大の理由は長期戦になることを嫌ったんじゃない
かな。関東を長期に空けることは奥羽の情勢も不透明だし、何より輝元や秀頼
の出陣などがあれば、ばらばらな西軍がまとまる危険性もある。
ならば、秀忠が未着でも小早川の内応や毛利の不戦が確実な今勝負を決めよう
という判断ではないかな。
前田ははなから当てにしていないんじゃない、敵に廻らなければ良し位かなあ、
前田も余り効果的に動いてないよね。
>>162 そりゃあ、綿密な計画とはいかないでしょう。
何せ直前になって、来るはずだった3万8千もの兵が到着しないなんて事態になったら、
それ以前の計画なんて全てパーになってしまう。
しかし、だとしても、何で勝ったか分からないなんてのは言いすぎだろうと。
事前工作の差かな、そもそも求心力というかブランドの差が大きいんじゃないか。
秀忠の到着は遅れても仕方ないよ、家康の命令が無理すぎる、秀忠が気の毒。
165 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 08:58:10
事業が計画通りに運ぶとは限らない。
色々なアヤを想定し、手を打って行く。
三成は優秀な官僚だったが事業家ではなかった。
どこかへの手紙に書いてたそうだが、
金吾の領地筑前を貰っとけばそれなりの担保ができたのに。
結局今も昔も最後は担保なんだよ。
家康は250万石が担保、三成は信用貸し、誰が全財産貸すかよ。
166 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 11:24:37
前田ってやる気あんのかね、小城ひとつ落としただけで逆戻りの揚げ句に弟は引きこもり。
167 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 11:44:24
やる気なかったと思うよ。
どっちにしろ親父(利家)が守ろうとした形での豊臣家
存続は望み薄だっただろうし、旗色を鮮明にするのは、
できる限り避けたかったと思う。
168 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 11:46:06
三成は担保無くても毛利・上杉・宇喜多が保証人になっているよ
169 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 12:04:10
反徳川の旗頭だった前田が形だけでも東軍てことで家康には十分なんじゃねえ。
利政が家督を継いでたら全然違ってたろうけど。
結果的に最強の人たらしは徳川家康公、その人であったということね
>>168 まあ、だからこそ曲りなりにも東軍に匹敵する軍勢をかき集められたわけだけど、
なっていると思わなかった者も多かったのでしょう。
現に毛利あたりはだいぶあれだったし。
最後の最後には自己信用がものを言うってことかと。
>>164 使者が普通についていさえすればそれほど無茶でもなかったはずだけど。
173 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 22:47:41
『勝てば官軍=道理がどうあろうとも勝った者が正義になるということ』
光秀は敗れて忘恩の徒になった
家康は勝って征夷大将軍になった
家康が敬った頼朝は暗殺の常習者、上総広常以下大勢殺し、
脅しに負けて義経を殺した泰衡を弟殺しとして滅ぼした。
しかし頼朝は400年経っても武家の棟梁として崇められていた。
ならばワシもと思ったのだろう。
相手が太閤の息子だったのが不運だったのか、
明治政権の方針がアダとなったのか。
174 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 23:06:09
だからWそれが漫画だっての^^
歴史を少し学ぶと、頼朝や家康を尊敬する。
歴史を少し掘り下げると、頼朝や家康が嫌いになる。
人生経験が長くなると頼朝や家康の腹黒さも必要と思う。
・・・・まあ自分が黒くなったんだろうね。
176 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 01:37:04
歴史を少し学ぶと、金吾を尊敬する。
歴史を少し掘り下げると、金吾秀秋が好きになる。
人生経験が長くなると金吾秀秋の寝返りも必要と思う。
・・・・まあチンコけられないようにね。
177 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 01:57:40
養子になり小早川秀秋となったのよ で板挟み状態だったのが 小早川秀秋 三成につき徳川を崩せば 関白の座は小早川のものだったのに残念やな
家康を崩すには、吉川、毛利、長宗我部が不意を突いて攻めないとだめだな。
179 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 08:46:57
チン吾を尊敬したり好きになる人間なんかいるのか?
あの裏切りは深慮の上じゃなく発作だろう。
となると、家康の勝利も小僧の発作次第だったことに。
家康の天下盗りも小僧が采を東へ振ったら無かった。
徳川260年が小僧のおかげだったなんて・・・
>>179 徳川260年は家光時代の功績が大きいと思うが。
181 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 09:25:23
関が原はある意味デキレースだったが
すべての条件が東軍に不利に働けば家康死んでいただろう
秀忠遅参・・・・・・・・・・家康不利
秀頼・輝元が出馬しない・・・家康有利
広家・秀元が動かない・・・・家康有利
秀秋が裏切った・・・・・・・家康有利
秀頼・輝元が大坂城を出なかったのが西軍の最大の敗因
182 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 11:30:47
戦術的に見れば、小早川よりも、むしろ南宮山の毛利勢が
動かなかったのが大きい。
家康から見れば、小早川が動かないのはわかっているわけだし、
あとは左翼の石田勢の前進を封じれば西軍の「鶴翼の陣」は機能
しなくなり、自分の率いる手勢がそのまま予備兵力となる。
もし、毛利秀元が、(どのような形にせよ)戦闘を起こしていれ
ば、長曾我部らも必ず呼応しただろうし、後方で戦闘が始まれば
家康も、それに対応せざるを得なくなる。
>>182 あの位置にいるのは解ってて出ていったんだろう、家康
毛利とか山の中に隠れてた訳じゃないよね
184 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 11:49:47
>秀頼・輝元が大坂城を出なかったのが西軍の最大の敗因
後世から見ると輝元が日和ったのが原因だが、
今だから分かるのであって当時は、秀頼頂いて大坂城にいれば
安泰と思ってたんじゃないか。
如水もそうだったが、たった一戦で決着すると思わなかったのだろう。
それも吉川・小早川の裏切りで。
(裏切りは彼らの独断、事前協議があれば毛利は入城しない)
裏切りが出なかった家康と裏切り続出の輝元、(吉川は善意とは言え)
両将の器量・戦歴・信頼・畏怖、全ての差が出たのだろう。
吉川にしても輝元が天下狙える器量なら、独断で裏切らなかっただろう。
吉川は家康を甘く見過ぎた嫌いがあるが、
歴史に偶然は無く全て必然、毛利が苦渋飲まされたことによって
明治維新が起こったと思えば仕方ないのだろう。
185 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 11:57:59
岐阜城があんなにあっさり落ちなければ戦闘は泥沼化したかもしれないな
三法師秀信に有能な家老がいれば・・・・
186 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 12:08:25
小早川が寝返ったときは既に東軍の勝ちは決まってたけどな
西軍側が認めたくないから小早川の裏切りで勝敗が裏返ったとしてるだけで
187 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 13:01:17
>>186 最初から東軍側に布陣してればあんな裏崩れなんてしない。
189 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 13:26:20
>小早川が寝返ったときは既に東軍の勝ちは決まってたけどな
一進一退の五分だったんじゃないか。
心中で寝返ってた金吾が、西軍が押すのを見て迷ったくらいだし。
宇喜多・小西・石田に後詰なく、福島・細川・黒田には
家康本隊の後詰があるから東軍有利と言われるが、
金吾が裏切るまでは家康本隊も動けず五分だった。
金吾が裏切ったから雪崩打ったのであって、
東軍を攻めてたら吉川→毛利→長曾我部も動いただろう。
・・・それでも吉川は不動だったと言えるかな?
短期戦を望んでいたのは徳川家康
なにせ本拠地をわずかな留守部隊だけを置き遠く離れ、策源地である美濃までの東海道は
味方になったとは言えもとは尾張清洲福島〜駿河府内中村まで豊臣子飼い大名がずらり
これはかなり不安だったと俺は思うけどな
西軍は遅滞防御してればよかったのに短期戦それも野外決戦に釣り出されてしまった感がある
うーん、「野外決戦に釣り出されてしまった」て関ヶ原の事かな、
あれは西軍から動いたのであって家康に釣られたは根拠ないんじゃない
いわゆる俗説でしょ。
それに松尾山の築城や大谷が陣地を構築してたことから見ると、当初から
防御ラインとして想定してたんじゃないかあ。
192 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 14:38:32
小早川1万5000の部隊が 徳川2万ほどの本陣営突撃する徳川の首を取りに行く 徳川だけは潰す。
193 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 15:59:40
もともと秀忠軍はどこで東軍主力と合流する予定だったの?
真田攻略が目的ではないよな
小早川が東軍に横槍を入れれば、東軍左翼は壊滅して宇喜多・大谷隊が前進できるよね、
脇坂等は裏切るタイミングが無く、そのまま押し出されて家康の本隊と激突。東軍右翼も
脇を脅かされるので漸次後退、南宮山が勢が押し出せば東軍は袋の鼠。
石田の脳内ストーリーと漏れの妄想はこうだろうな。
>>193 もともとは信州方面の抑えじゃなかったかな、真田との戦闘はおまけ。
196 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 18:03:15
>>193 越後が旧上杉勢の一揆、信州は家康の苦手な昌幸、
これらを抑える戦略目的があった。
取りあえず牽制で良かったが、秀忠が力んで昌幸の謀略に嵌った。
197 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 19:21:02
>>185 西軍が大垣ではなく堅城の岐阜城に入城していたらどうなっていただろうか?
篭城するうち秀忠軍3万8千の到着もあるだろうが、大津から立花宗茂や宮部
長照らの1万5千も到着する。
小野木公郷のほうは間に合いそうにないが。
秀忠ばかりじゃなくて家康がまだ江戸だろ、家康は出ていかないかも知れないぞ
その間に和睦に入って対石田だったら福島たちを切ってしまえばいいのさ
徳川の悪口を言うと、そもそも16世紀後半に豊臣が天下統一した。
確かに、徳川は鎖国をして日本民族を守ったということは評価できるが、
家康の暴走のせいで戦国終結が17世紀前半に延びてしまった。
豊臣を滅ぼしたうえに、外様大名への嫌がらせも酷い。
17世紀になって、くたばるのは家康と秀忠だけで十分だ。
この2人を潰せば豊臣にとって怖いものはないだろう。
豊臣は明から日本国王に封じられたり朝鮮から敗走するなど日本の歴史に泥を塗った
こんな政権が今後も存続してもらっては困る
一刻も早く新政権に変わって日本が独立国家であることを証明しなければならない
そんな時に家康は本当によくやってくれた
旧政権の残党がテロリストを集めて武装し大坂を治外法権区域にしようと企んだ時も
家康は毅然たる態度で豊臣を滅ぼした
これほどの英雄は日本史上に家康しか存在しないだろう
199の続き。
とはいってもやはり、家康がいたから日本全土をうまく治めて
太平の世の基礎を築けたのであろう。江戸時代の平和の基礎は家康の
おかげだよね。
>>200
朝鮮征伐は日本が敗走した分けじゃないんじゃないの?
あの頃は家康しか全国を治められなかった。
天下太平の基礎が出来て、日本民族を守り、日本の平和が長く続いたのも
家康のおかげだろう。
204 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 00:33:17
西軍優勢に出れば東国は真田のものになってたのにね。
205 :
日本@名無史さん :2006/12/16(土) 00:42:41
>>181 前田利長遅参・・家康不利
一般にあまり知られてないのが不思議。
202で言ったことは、つまり
朝鮮征伐の最中、秀吉が病死したので軍を引き上げただけで、
日本が負けたという分けじゃないよ。
前田利長の部隊が二万。かなりの兵力だね。
秀忠の部隊は三万八千。この兵力は凄すぎる。
>>207 前田は去就不明であやしいんでないかな。
>>208 ちゃんと参加すれば協力だろうな、西軍は輝元か秀頼を引き出さないと厳しいな。
210 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 03:31:14
>>182 >>小早川が動かないのはわかっているわけだし
それはないと思うよ、裏切りを確約して陣城に誘い込み攻撃させるということもある、
吉川のように御人好しじゃないから、そういう可能性も頭にいれていたはず。
(長篠では佐久間信盛が裏切りを約束し設楽原に誘い込んだという説もある)
>>209 前田は日和見だろうね、丹羽の働き大谷吉継の情報戦にやられたということに
なってるけどね。
211 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 08:54:13
>>203 >あの頃は家康しか全国を治められなかった
家康が大人しくしてれば豊臣政権はそこそこ続いた。
豊臣政権のままではすぐに反逆者が出て戦国乱世に逆戻りする説は詭弁、
日本人の1度秩序が出来ると素直に従う特性考えると足利程度は続いた。
100万石超大名が3つあった豊臣と、大名の石高削った徳川と安定度は違うが、
毛利も上杉も性格・器量共に天下簒奪するとは思えず、
仮に利家が死なず家康が死んでいたら豊家は安泰だった。
どう歴史を糊塗しても忠臣面して主家を乗っ取った評価は消えない。
豊臣政権の弱点は独裁人治主義、徳川は官僚法治主義、
前者は主君が凡庸や幼少では裏切りが出る、
結局付け入る隙を残した秀吉が甘かったのだが。
212 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 09:47:22
>>211 >毛利も上杉も性格・器量共に天下簒奪するとは思えず、
この部分は同意しかねるな。
人間を形成する要因の一つに「立場」というものがある。
家康は自分が秀吉に告ぐナンバー2の立場であったときには
徹底的に豊臣家に忠義を尽く(すふりを)したが、
秀吉が死んで自分が実質ナンバー1になるや否や野望をむき出しにした。
これと同じことが上杉や毛利に起こらないと断言することはできないよ。
上杉や毛利が天下を簒奪しないというのは、
彼らにその実力がなく立場的にそれができる位置にいなかったからであって、
逆に天下を取れるチャンスが彼らの懐に舞い込んできたならば
積極的な行動に出るのではないか、というのが俺の意見。
>>211 足利程度は続いたって、
足利幕府なんてほとんど全時期に渡って戦乱状態なんですが?
前半は南北朝、最盛期といわれる義満時代も有力守護討伐の為に戦い、
その前後将軍と鎌倉公方が対立、さらに鎌倉公方とその配下たる関東管領が対立して戦になり、
そうこうしているうちに、応仁の乱から戦国時代。
確かに強大な力を持つ外様勢力の存在や、有力大名による合議制の統治体制と、
豊臣政権は足利幕府と似たような面があるから、
足利幕府と同じようなことになる可能性は高いが、それは安定とは全く逆の状態ですよ。
214 :
日本@名無史さん :2006/12/16(土) 11:44:04
>>211 家康の時は、独裁人治主義だろう。
秀忠・家光の頃になって、官僚法治主義になった。
215 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 12:07:19
西軍が勝てば200万石級が毛利・上杉、
100万石級が前田・宇喜多・島津・小早川
場合によっては伊達や佐竹や最上も巨大化する
それを50万石級の最高実力者・石田三成が統治する
どだい無理だろう
巨大化するってアンタ…
史実の関ヶ原以後に家康が行なったような大規模な増減転封が西軍側に可能だったと思う?
家康でさえ3年近くかかってるんだよ?
絶対的主導者がいない西軍では論功行賞で揉め、東軍側の大名への処罰で揉め、
瓦解するのが目に見えてる
217 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 14:30:30
家康の生前の夜話の中に
「天下が取れたのは武田信玄公と石田三成のおかげである」という言葉がある
関が原の戦いは時の運で勝ったようなものだが、あの乱のおかげで毛利を減封出来たし
薩摩も押し込めた 徳川の世が出来たわけだから石田三成には感謝していただろう
石田三成も本気で勝つ気が無かった?本気で勝つ気があるなら島津が勧めたように
夜襲をしていただろう 世界が原の戦いがあったおかげで一気に徳川の世が招来した
ただまあたらればの話をすれば徳川250年時代の前と後だと日本人の性格が変わってしまって
別民族の事跡をみるような点も多い
たとえば、もしあの当時の東南アジア方面への半ば自発的な商家単位な経済殖民が
継続しているとどうなっただろうか?などifに魅力が多いんだよね
219 :
金吾秀秋:2006/12/16(土) 22:20:46
実は、家康はこの漏れ様が好きなんだぜ(´・ω・`)
220 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 22:55:23
>>213 義満は権勢を極め、足利は曲りなりにも15代続いた。
2代で滅んだ豊臣と同じか?
>>220 武士が台頭してから消滅するまでの800年間をみると
平家・建武・織田・豊臣といった幕府以外の政権はすぐに滅びる
逆に室町幕府なんてボロボロな政権なのに幕府自体は信長の時代まで消滅することはなかったし
信長も明確な形で幕府を滅ぼしたわけではない
足利と豊臣どころか幕府と非幕府政権は同じ土俵に立てるレベルじゃないな
222 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 23:53:20
家康が「潰した」から豊臣は滅んだのであって、
秀吉が死んですぐに戦乱が起きたわけではない。
むしろ家康が乱を起した。(欲した)
御用学者は徳川政権の正当性を謳ったが、天下を強奪したのは違いない。
秀吉批判が少ないのは、信長が死に後継者も死に、
理論的には宙ぶらりんの天下を奪取したから。
強奪には変らんが、家康は直接後継者を蹴落として奪取したから分が悪い。
223 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 00:24:22
>>221 幕府というのは政権維持には好都合な制度だったのかな。
足利幕府でさえ組織構成はしっかりしていた。
あれ位細かいと裁量の入り込む余地が少なく、
大封守護でも動き難かったのでは。
224 :
日本@名無史さん :2006/12/17(日) 00:35:12
それに、細川家がしっかりと幕府を支えた。
細川家は足利家の分家だし。
225 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 01:02:20
>>216 「絶対的主導者がいない」ほうが集団指導体制になって
豊臣の存続の可能性が高まる。
5大老の内、徳川、前田がなくなり、上杉、毛利、宇喜田が
足利幕府の3管領家のようになり、案外続くかもしれない。
(但し、論功行賞で多少もめるのは確かだろう、特に上杉の周りは
徳川を含めて東軍だらけ、領土欲がないフリをやめたら大変なことになるかも)
226 :
金吾秀秋:2006/12/17(日) 01:54:26
西軍が勝ってからほざけ(´・ω・`)
御意。
>足利幕府の3管領家のようになり、
管領家は将軍家御支族。比較は無意味。
秀忠の遅参とか言われているが、
元々戦上手の上杉と真田の抑えだったんじゃないか
3万5千はすごいけど、家康はそれくらいに恐れていた
230 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 07:02:50
秀吉→秀頼の相続に無理がある
秀長・秀次が生きていれば家康も直接天下はねらえない
結城秀康が豊臣の後継者になったら家康はどう出ただろうか?
231 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 07:47:36
>>212 もちろん断言はできないけど、少なくとも家康より毒が少ないですね。
>天下を取れるチャンスが彼らの懐に舞い込んできたならば
実際は「舞い込んできた」じゃなく、「舞い込ませた」
あそこまで強引な手段を、義の上杉や守成の毛利がしたかどうか。
両家とも家歴が古く学もあり、後世の評価を考えた時、
田舎者の家康と同じような狡猾な手段を使えたかどうか。
232 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 08:18:15
学があって義の上杉 田舎者で狡猾な家康
なかなかよい判断基準をお持ちで。
ちなみに、チャンスが舞い込んでくる(秀吉が死ぬ)までの
家康の印象というのは、一にも二にも「律儀者」ですから。
天下取りのチャンスが、家康に律義者の仮面を捨てさせたのだよ。
>>220 >>211の言うような形で仮に長く続いても、
室町時代のような戦乱の時代になるだろうって話。
234 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 08:35:43
上杉でもチャンスが来れば豹変した可能性はあったでしょうね。
しかし果して家康のような灰汁の強い手段を取れたかどうか。
ゼロとは言わないが毒が少なかったのは確かでしょう。
秀吉の恩を考えれば前田がやらなければいけないことを上杉が最初にやった
あれで後世に上杉の義を知らしめたことになる
家康は自分が狡猾だからこそ律儀者の武将を愛した
豊臣家を裏切った福島、加藤、小早川は一斉に改易
主家を裏切る奴にいつ裏切られるか分からないリスクも考えてのことだろう
うむ、上杉家は大坂の陣のときも家康に認めてもらうために、粉骨して戦っているしな。
多分家康としても上杉家は外様の中では、
少なくとも福島とかよりはよほど信頼できると思っていたことだろう。
237 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 09:59:08
豊臣恩顧というなら蜂須賀・黒田・浅野がなぜ生き残れたんだ?
238 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 10:18:21
>>237 浅野は北の政所との縁でセーフ、
黒田・蜂須賀は恩顧と言っても子飼いではないし、
処世術が福島たちより格段に上手い。
福島も、右のクツを舐めたのだから左のクツも舐めれば良かったんだ。
前田のように1度折れたら徹底恭順する。
だが心中を考えれば後悔してたんだろうな、主家を守れなかったことを。
その葛藤が中途半端な対応になったのだろう。
239 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 10:42:54
>>223 幕府だと官僚を低い官位のままで使えるのが大きい。
公家型政権では権限は官位相当になるから、
どうしても大身者が政権の中枢を占め、譜代で独占できない。
家康はその弊を改め、身内でさえ大身者は幕閣に入れなかった。
大封を持った者が政権内にいる危険性を自分自身が証明したからね。
240 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 11:58:18
>>235 小早川や堀尾,中村らは無嗣廃絶だが、家康が娘婿の蒲生家を何とか残そうと
したのに比べるととは格段の違いだし。
堀尾と蒲生は後々
242 :
教えてくださ〜い:2006/12/17(日) 12:48:06
関ヶ原の戦いで 石田三成率いる西軍が 本拠地を置いた城はどこですか?
大阪城に決まってるだろ
もっとも大阪城にやる気のある奴は一人もいないけどな
三成がどのくらい率いてた知らないけど、三成は大柿だろうな
245 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 13:21:16
関が原の後だけど、どなたか清韓起草の方広寺の鐘銘を全て乗せてるページ知らない??
246 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 19:17:38
>>246 寝返りっていうても、会津に出たのは寝返りなのかな?
どこからが寝返りになるのかね、豊臣秀頼が号令を出した時かね
秀吉の天下っつーっても同盟みたいなもんだから脆弱だった
百姓からの成り上がりで1代の天下ということを考えるとあれしかなかっただろうな
中堅の武家と養子縁組を数多くやれれば良かったんだがな
家康はそれで次々と自陣営に大名を引き入れた
249 :
日本@名無史さん :2006/12/17(日) 21:17:34
>>248 同盟は言いすぎだろう。
大大名である蒲生・丹羽・信雄を大幅減封したり、上杉・徳川・伊達を国替えさせている。
特に戦もなく、命令書1本で。
250 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 22:06:02
>>250 仮にも関白太政大臣、クライジンシンヲ極めている。
↑殿下
小野寺昭
253 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:02:40
>>247 >どこからが寝返りになるのかね
豊臣政権が幕府であっても寝返りは起こった、
例え幕府であっても史実と変らない、の意。
不忠の上杉を討つ大義にあの時点で逆らえる者はいなかった。
敢えて寝返りの時期を特定するなら小山会議だろうか。
福島のバカは別だが、反転して三成と対決する真の意味を
分からない武将はいなかっただろう。
これは家康の天下盗りへ向けた戦だと。
現に家康と不倶戴天の真田昌幸は去った。
そうなると加藤、山内、堀尾、中村の裏切りは弁解の余地は無いね
完全な裏切りだ
255 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:22:36
>中堅の武家と養子縁組を数多くやれれば良かったんだがな
確かにあれは家康のヒットだね。
わが子の数は限られても、家臣の子を養子にして他家と婚姻させれば無限。
秀吉がそれをやろうにも家臣が少ない。
>大大名である蒲生丹羽信雄を大幅減封したり、上杉徳川伊達を国替え
伊達は侵略地のみを召し上げです。
強大な権力を有した秀吉だが、ただ一点家康の力を削がなかったのは何故か。
削「げ」なかったのか。
一説では小牧長久手の戦いがトラウマになったと言うが、
少なくとも北条が片付き、伊達の処分が済んだ時点なら
家康が秀頼にしたような難癖付ければ勝てたはずだし、
朝鮮へ行くより急務だったろう。
それとも家康の阿諛オベッカがそれ程徹底してたのか。
家康は「今後殿下に弓矢の手間はさせませぬ」
とか言っときながら朝鮮への出兵は逃れているのだが。
256 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:35:15
>山内、堀尾、中村
松平の姓を賜った山内は別格、どんなゴマスリしたのだろうね。
城地返上が評価されるがそれだけかな。
新撰組の土方は才子肌を嫌い粛清したが朴訥は信用した。
何かそういう肌に合うものでもあったのかな。
257 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 00:52:05
>>255 調略を得意としたことの、おごりかと分析している。
過去の実績から、家康とも旨くやれると錯覚したのではないだろうか?
個人的に、お市の娘に執着したことが、近江派と尾張派への分裂のきっかけを作ること
になるが、これは家康が画策したことではない。
内紛の火種が腹黒い人間の野心を焚きつけることになることへの警戒が全く無い。
秀次の件も穏便に解決できなかったことが、不安定さを助長してしまった。
美濃の斎藤氏のように、家が内から崩れる例を間近で見ていながら、自分には同じ事
は起きないと楽観していた。
家康に希望をもたらすことをどんどんやっていって、豊臣家の崩壊の道筋を自ら付けて
しまっている。
おごりがあったとしか思えないのだが・・・。
258 :
日本@名無史さん :2006/12/18(月) 02:41:34
>>255 伊達の場合、本拠地の米沢も召し上げて国替えさせたが。
259 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 09:15:26
>>257 >内紛の火種が腹黒い人間の野心を焚きつける
謹んで同意。
家康はある時点では中央より地元志向だったようだが、
秀吉が強大だったので次善策としてだったのかね?
秀吉がアアなったから色気が出たのか、爪を隠してたのか。
家康の若い頃の一向一揆処理など見ても約定反故の常習犯。
なぜ秀吉ほど人間通が・・・
260 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 11:30:52
>>257 >お市の娘に執着したことが
北ノ庄で娘たちが死んでれば歴史は変ったでしょうね。
子が出来ず秀次が跡継いでれば恩顧大名も史実ほど簡単に寝返れなかったし、
そもそも家康が前田や上杉に横車押せなかった。
たらればの話をするなと怒られそうだが、
たられば話が歴史好きの楽しみだから御容赦。
たらればついでに、秀頼が存在せず秀次が関白だったら
家康はどこから仕掛けたかな?
秀次でも結果は大差ない気が・・
家康が長生きしてるかぎりたちうちできる玉はいなさそう
正宗くらいか
262 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 13:09:47
史実は朝鮮帰りの七将が三成への攻撃、
家康が約定破りの婚姻政策からだったが、
秀次が生きていてそれを抑えられたどうかだろう。
婚姻は諸大名が遠慮しただろうが(特に伊達は)七将はどうだったか。
家康は強引にやったかもだが、後世にもっと悪評が残っただろう。
現役の関白を引きずりおろすか無視して幕府開くにしても。
まあ秀頼みたいな幼児を担がなきゃいけなかった史実の豊臣家より数段やりづらかったのは間違いない>秀次生存if
264 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 16:18:21
その秀次が死んだ時に召し上げた旧領をどう配分したか
詳しく分かる人(サイト)います?
秀長旧領も含め秀吉は気前良く配分したのか。
配分せず豊臣直轄領にして計400万石超にしたところで、
世継が幼少では同じことだけど気に掛かって。
石高が全てではないけど、人材不足の豊臣にとって2人の喪失は大きいね。
265 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 16:23:51
秀長・秀次・前田利家・小早川隆景・蒲生氏郷のうち3人が
家康より長生きすれば徳川は簡単に天下は取れなかったはず
その中の誰か一人が生き残るだけで難易度は跳ね上がるんじゃないか
隆景&氏郷は別に豊臣に忠義を貫く理由が無いのでちょっとわからないが
尊氏や信長や秀吉のように家来にポンポン領土を与えなかった家康の勝ち
268 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 16:52:10
年齢的に言っても秀長。次が秀次。
ただし秀次は秀頼に禅譲する時が難しい。
隆景&氏郷については266の人と同意。
269 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 17:07:23
石田軍「敵機直上急降下」
>>265 1600年前後に秀長に利家が生きていれば
関ヶ原は無かったかもね。
271 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 18:13:40
>>270 秀長はわかるけど、加賀のじぃはちょっと・・・・・
何かしてくれるかなぁ?
272 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 18:19:36
利家1人が長生きしてもやや微妙ですね
史実でも家康は婚姻政策をやったし
防げたのは
七将の三成襲撃・前田家に対する難癖
前田難儀がなく上杉が軍備増強しなかった
ならば家康の戦略は成り立たず受動的にだが関ヶ原はなかった
かもしれないがやはり微妙
1人限定なら秀長
秀長が存命なら秀次は助かっただろうな
・・・家康は手が出せない
273 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 18:30:55
七将襲撃が無ければ三成は失脚せず上杉の軍備増強も
三成が奉行なら国替え後の当然の仕置きだとして問題にもならなかった
前田恫喝も上杉成敗も三成失脚後だから利家が生きていれば結構違ったかな
楽観的if
秀長if
大和宰相と呼ばれ、兄を内・外・戦全てで支えていたことから、まずさんざん言われていることだが
朝鮮出兵は起こらない→近江系尾張系の確執はあっただろうが文治武断のような内ゲバ騒動もおこり
そうもない→家康死後に兄弟での分封(結城、秀忠、信吉で3家とか)まではしたと思う
秀次if
2代目関白として豊臣子飼い武将との交際は近江系尾張系を問わず密であったことから朝鮮出兵後の
混乱もおそらく押さえきれたはず。少なくとも福島加藤は徳川には走れないし増田浅野長束も同じ。
豊臣3中老生駒堀尾中村はもともと秀次付なので言わずもがな
この3家が豊臣のままだと駿河〜三河までの東海道ルートは徳川にとってほぼ敵となる
ちなみに中山道ルートも甲斐が浅野
前田利家if
ゆるやかに冷戦状態継続のまま推移、秀頼成人までは西は前田・東は徳川で裁量といった感じになる
のではと推測。秀頼の能力次第で豊臣の今後が決まると思われ
小早川隆景if
大毛利の実質棟梁として内・戦・外を裁量した器量と織田時代からの縁で秀吉からの信頼も厚い隆景が
存命なら5大老の重鎮のままであり、上杉征伐が起こる可能性がかなりなくなる。強引におこした場合、
小山会議で反転しても、東海道は毛利水軍によって補給線寸断され東軍は進退がかなり難しくなる
そして毛利軍2万5千にサボタージュはなく、小早川軍1万に迷いなど元からない
蒲生氏郷if
小山会議で反転西上そのものが出来ないため、上杉討伐を家康が起こそうとは画策しなかったと推測
家康は前田をひたすらつっつくか毛利を対象にしたと思われるが、当時の交通の大ルート瀬戸内は
毛利の庭で大阪城もあるため、かなりの長期戦になる。蒲生&上杉が関東を衝けば・・なので家康は
短期決戦しかない(かなりのギャンブル)
氏郷は利家と近しい仲で反家康。
氏郷が会津、景勝が越後に居たら家康も動きがとれない。
家康は天下を取れないと断言した氏郷はあの世から江戸幕府を見てどう思っただろうか?
所詮は凡人たちが長生きしたところで家康の頭脳に太刀打ちなどできないだろう
秀吉が後5年長生きすれば大分違っただろうけどなあ
278 :
金吾秀秋:2006/12/18(月) 23:43:48
実は漏れ様に長生きしてほしかっただろ(´・ω・`)?
御意。
>>276 氏郷は自分が会津にいて上方に利家がいるから家康は天下をとれないって趣旨じゃなかった。
281 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 01:01:03
>>277 というか秀頼の元服まで生きたなら、家康は天下は取れず、
二代目秀頼への代替わりで減封がおち。
豊臣秀長や、秀吉、前田利家らより長生きできたのも才能?
282 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 01:19:19
なんか、豊臣家存続の可能性を上げてる人って、次の後継者を秀忠って決め付けた上での判断なような気がする。
徳川磐石にならないような形勢になったら、さすがの家康も戦には不得手な秀忠を後継者にしないような気がするん
だが。。。
まぁ、他の息子を後継者にしたとして、上手くいくとは限らないんだけど、そういう可能性も視野に入れて話してるのかな?
って個人的には思う。
283 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 05:20:55
東京千代田区【歴史時代書房(時代屋)】
本屋スタッフが選んだ好きな戦国武将トップ10
@真田幸村
A伊達政宗
B明智光秀
C織田信長
D竹中重治(半兵衛)
E立花道雪・高橋紹運・立花宗茂
F石田三成
G小西行長
H宇喜多秀家
I長曽我部 信親・盛親
いへやす・・・(´・ω・`)ダメポ
285 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 08:45:55
人物批評はおもしろいね。
秀吉も御伽衆とよくやったそうだし。
>>274 分析乙です。
こうやって見ると家康の天下盗りってタイトロープだったんだね。
誰か1人存命でも格段に難しくなる。
長生きが家康の才能、って誰か書いてたのを読んだ覚えがあるが、
1600年時点で主だった武将が悉く死に、小粒ばっかり残ったから
座して食う天下餅と揶揄されても仕方ないね。
286 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 08:49:43
>>283 たいかうが入ってないね。
本屋スタッフだからメジャーは避けたのかなと思いきや信長が入ってる。
ていうか秀吉も家康も入ってないランキングは不自然だw
288 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 09:07:07
本屋スタッフでしょ、
もう秀吉や家康本は沢山あるから、次の市場を開拓してるんじゃない?
伊達や真田は江戸時代からマニア受けしてたし、
作家が良いの書けば売れると思う。
正則とか長政とかじゃ小説書いても売れないんだろうか
浅野三代とか
290 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 10:09:43
浅野は北の政所を絡めれば面白いかも。
功名ヶ辻見て思ったけど、小粒を主題にしても、
エピは大物絡みのことばかりだし難しいのだろうね。
前半は信長、後半は秀吉が主役みたいだった。
あと福島より加藤でしょね。
高虎なんか暗黒面はスルーして出世物語とすれば。
家康関連の本が出てきたのは戦後だな。
幕末・明治は悪の枢軸として扱われてたし。
秀吉はどう転んでも農民出であることに変りはないし、
やっぱ信長だよな。
292 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 11:03:46
>>291 明治帝が大坂行幸の際、幕府を開かなかった秀吉を忠臣と誉め、
豊国神社の再興を命じた。
徳川時代も朝廷や公家の間では豊臣が評価されていたのだろう。
293 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 11:19:56
豊国神社別当で北の政所と近しい梵舜が遺した
梵舜日記を元にした小説ができないかな。
日記によると、
北の政所は清正正則より三成と近しく、逆に淀殿が家康と近しかったと
思われる記述が多い。
佐和山落城の報を聞いて北の政所は急ぎ秀吉の遺品を豊国社に隠し、
そのまま徒歩で正親町准皇邸(後陽成帝生母)へ逃げている。
政所縁者で東軍は忠興妹婿の木下延俊と例の秀秋のみ。
豊国社での秀家出陣式には政所の側近が出席。
他にも秀家出馬は三成の要請より政所の示唆を思わせる記述。
八月二日毛利輝元と政所が社参。
三成三女辰姫を養女にしている。
294 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 13:54:58
北の政所も謀反に加担してたのか。
なら豊臣が取りつぶされたのも仕方のないことだね。
295 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 14:34:28
秀吉と艱難乗越え天下とった北の政所には家康の魂胆が見えていた
姫様育ちの淀殿には分からず家康に軍資金・兵糧を授けた
戦後処理、将軍宣下、将軍世襲を見て初めて気づいた淀殿は激怒したが後の祭
どうしても家康が許せない淀殿は破滅の道を選ぶ
>北の政所も謀反に加担してたのか
if北の政所黒幕説
三成や秀家に示唆したのは北の政所、
秀秋にも示唆、
が浅野からの書状により寝返り(書状には相つつき政所様へご馳走云々。)
戦後政所と秀秋は疎遠になり、秀秋が死んだ時の文章も至って簡潔、
一般には加藤福島が政所と近しいとなっているが、
彼らが豊国社へ初参拝したのは慶長10年高台寺建立前であり、
この頃豊国社へ病の時でも日参していた政所が、
彼らが参拝する日に限って参拝していない・・・
梵舜日記を読むと、
政所が家康を推した説は、その後徳川の与党となった
浅野・加藤・福島らが自らを正当化する捏造のように思える。
296 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 16:48:20
真田昌幸
我が郷士
297 :
日本@名無史さん :2006/12/19(火) 21:30:01
age
すぐに思いつく大名で、たとえ小国でも良いから
豊臣、真田、宇喜多、小早川、小西、長宗我部、安国寺、石田、
などの大名も一国の大名になってほしかった。
ましてや、小早川秀秋が発狂死したというのは悔やまれるところ。しかも若くして。
299 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 22:42:32
>>298 発狂ではない。
百姓の妻に手を出そうとして、夫にキンタマ潰されて死んだんだよ。
301 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 23:51:38
小西行長 ・ 福島正則 ・加藤清正 真田昌幸
など武将は好きです。
>>282 秀忠で良いんじゃない、彼は秀吉夫妻にも可愛がられてたはずだし、温厚な性格と言われてたから
うってつけ。
戦に弱いというのも戦らしい戦してないから解らないよね、真田にしてやられたとか、関ヶ原に遅参
したとかは止むを得ない面があるよ。
秀吉はどう転んでも農民出であることに変りはないし、
やっぱ信長だよな。>サクセスストーリだから面白いんだろうが、信長なぞ大した出自じゃないしな。
304 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 00:51:46
ねね黒幕説て何故か盛り上がらない、どうしてもねねと三成は仲悪なのが好きな人が多いのね。
305 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 00:52:21
>>302 いや、だからそれっていうのはあくまでも、豊臣家の一大名家で収まるか、もしくは徳川家が家康存命時の間に
天下を取れるっていう前提の中での跡継ぎなんじゃない?仮に、豊臣家が存続するためのIFの為に死んだはず
の有力大名を生きていたならばと仮定するなら、それなら徳川家にもそれなりに後継者もいたわけだし、そういう
選択肢も考えるべきじゃないの?って言ってるだけ。
306 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 01:23:26
家康は無理して天下取ろうとは思わないんだろうなあ。
寿命が尽きれば250満語句で十分て感じ、少し焦ったのは大坂の時くらいかな。
>>305 もし家康の死後に徳川に牙を向けそうな有力大名が残ってるなら、なおさら秀忠がいいんじゃないの
前田の兄弟と同じで覇気に溢れた人間では逆に危うい、徳川の家の存続を第一にするなら秀忠一押し。
308 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 01:28:00
>>306 そうかなぁ?
ただあの時点で天下を狙ってた人間がまったくいなかったわけでもないだろうし、
まだ戦国時代の気風が続いていたあの時点で、秀忠を後継者にしたかどうかは
疑問なんだけども・・・。
309 :
298:2006/12/20(水) 01:30:47
3行目の、などの大名も一国の大名になってほしかった。
の表現を、などの大名も一国の大名に復帰してほしかった。
に訂正します。
その方がより表現が適切かと思ったので。
310 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 01:32:13
>>308 家康と連盟で署名してるし、家康の評価は高かったんじゃないかな。
それに補佐役なら正信・正純や忠隣・康正なんかもいる。
家康死後の秀忠を見ていると家康以上に結構いけてるメンもあるよ。
311 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 02:10:18
>>307 それはあくまでも、徳川相手って前提ってことでしょ?
天下を目指す大名な訳で、その時点では豊臣政権な訳だからまず豊臣を倒す事を考えるのが普通でしょ。
NO2滅ぼしてもNO1が健在なら意味がないわけだし・・・・。
そもそも、秀忠で、御家存続考えるのならば、結局前田と同じ道歩むだけのことでしょ?
うーん、子供が少ないならまだしも、子供の多い家康がそういう事するのかなぁ?
>>308 他の兄弟は養子に出された&官位でも明らかに秀忠が一番上
313 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 08:42:11
>>306 家康の戦歴を見ると優劣不明時はひじょ〜うに慎重(臆病)。
しかし一旦優勢となると嵩に掛かって圧倒する。
姉川など織田勢への援軍の時は果敢だが、自らの戦は掛川城の今川氏真攻め
は和議で追い出すなど慎重。
高天神城を勝頼が囲んだ際も、織田の援軍を待ち続けました。
その和議だが家康は和議の約定を反故にする常習者。
三河一向一揆を始め、私婚を禁じた豊家の掟破り、関ヶ原では毛利伊達との
保証を破り、大坂の陣では講和条件を無視。
信長や秀吉に対する態度とは別人の如く。
大坂で焦ったから晩節を汚したのではなく、元々そういう人物だった。
むしろそれ程裏表の激しい人物が、よく15年も豊臣を生かした。
最初に指摘したように慎重居士が、
豊臣股肱が悉く死に、優勢を確信し我慢できなくなったのだろう。
314 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 11:23:51
>>304 「妾の子に自分と旦那が築いた天下を盗られるくらいなら、いっそ壊した方がずっといい」
が話としては面白いからね。
政所が家康に天下託した説は江戸中期に御用学者が唱えたものだし、
もし本当なら一次資料が残ってても良いはずだが無い。
逆に幕府に知られると危険なはずの梵舜日記は残ってる。
子飼い大名に家康に加担せよと言った痕跡もない。
言ったならせめて浅野家に残ってるだろう。
秀秋に裏切りを督促した浅野書状も、「相つつき政所様へご馳走」とあるが、
果して政所がそう言ったのか政所の名を浅野が勝手に使ったのか不明。
戦後の状況では彼ら股肱は政所と疎遠になっている。
政所の指示通り家康に付いたなら矛盾が生じる。
また秀秋の戦後の怯え方も政所から叱責があったと解釈する方が自然。
これらは状況証拠だが物証としては、
政所にとって限りなくクロの文書だけが残り、
徳川に有利なはずのシロの文書が存在しないのが釈然としない。
>また秀秋の戦後の怯え方も政所から叱責があったと解釈する方が自然。
この解釈は不自然
聞くところによると、東軍側によって西軍武将を南蛮貿易などに
売りつけ外国に渡していたというのは本当ですか?
もし本当ならこれはいくら何でも酷すぎるだろう。
317 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 12:07:39
うん、アップしてから改めて読んだら変だった。
三成怨念説とかアレなのは除外して、
もしなんらかの後悔、悔恨があったとしたら、政所の叱責が1番効いたかなと。
(これはあくまで自分の解釈だけど)
関ヶ原で自分の言い付け通り三成を裏切り、
家康を勝利に導いた甥が死んだ割には冷淡な記述しか残っていない。
長じてからはメッキの剥げた秀秋を遠ざけたとは言え、
関ヶ原で手柄上げたのに戦後疎遠になるなど不自然。
>>316 関が原に限らず戦国時代には普通にそういうことは行われていた。
戦国120間も?
320 :
319:2006/12/20(水) 12:43:21
誤→戦国120間も?
訂正→戦国120年間も?
南蛮貿易で外国に売り渡された日本人はどれくらいいたんですか?
詳しい資料とかはありますか?
322 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 13:12:35
裏の歴史、密貿易だから数を示す資料はないと思うけど、
少年使節団が日本人奴隷を見て驚いてる資料なら実在する。
323 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 14:44:27
通説ほど政所と子飼い大名が親密ではなかったのは確か。
政所=子飼い=家康加担説の根拠が彼らの親密さであるのに、
それを示す資料がなく、政所と子飼いの疎遠さを示す資料だけがある。
因みに、清正が政所と親密だったとされる理由は、
日記に頻繁に出る「肥後守」と推察されるが
当時清正は「主計頭」で肥後守は政所の兄木下家定。
第三者が書いた日記とは言え、毎日顔を合わせただろう政所の
心情を投影していると考えるのが自然、
その内容は秀家に手厚く、秀秋たち子飼いに冷たい。
また実家筋の浅野家の記述も少ない。
忠興妹婿延俊と秀秋以外西軍に付いた木下家には、
本領回復運動など手を尽くしているが。
(秀忠に回復の内定を貰い、家康が激怒して取り消す。
この時、家康は耄碌したなどと政所を罵倒)
関ヶ原直後の狼狽、戦後の東軍股肱衆との疎遠、
東西手切れ時に大坂入りしようして失敗、
大坂落城・豊国大社秀吉廟破却・・・政所の落胆如何ばかりか。
日記には天海の手により、秀吉の棺を掘り起こして
大仏殿の裏側に移したとあり。
しかしこの梵舜日記、なぜメジャー化しないのでしょうね。
NHKの「その時歴史が動いた」では秀家の出陣式に、
政所本人ではなく代理の東殿が出席したのを政所の真意としてたが、
8月2日毛利輝元の出陣式には本人が列席している事はスルーしていた。
輝元は総大将であり秀家より重要なのに。
>>314じゃなくて
>>313に同意
家康ってどうみても狡猾だよな
マスコミの作るイメージとは程遠い
狡猾だったからタヌキオヤジと呼ばれてるのではないか?
マスコミがどういうイメージをつくってるのか知らんが。
327 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 17:06:08
関が原や大阪の陣では徳川が憎たらしいが
幕末では徳川は哀れだな、歴史の敗者とはそういうものか
本能寺は明智と家康の共謀説の可能性が高いのに、
NHKで15年前やった特番の反響のデカさに放送しなくなったな
東京=江戸=徳川幕府=家康なわけで、家康のイメージを悪くしたくないんだろうな
329 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 17:10:23
本能寺は明智と家康の共謀説の可能性が高いのに
これ考証しているスレある?
>>329 状況証拠から見た可能性が高かったのでは?ってことだろう
毛利3万とガチ対陣している羽柴が大返しで戻ってくる可能性なんて計画段階では考えようもない
柴田は越中で釘付け
滝川は上野入国数ヶ月
問題は丹羽・信孝の堺組と尾張の信雄となるが堺組はあの段階では1万未満しか
動員してなく最悪直接対決でも打破可能
尾張から京都までは遠く、そもそも武将能力に疑問符がついていた信雄
明智が坂本安土を押さえておけばそれほどの脅威とはならない
この状況で明智が問題視しなくてはならないのは即フリーで動ける徳川
なぜなら徳川領は三河遠江西駿河で、東は穴山をクッションにしてもともと関東以西に
それほど興味を示さない北条。
この条件で変勃発時に少人数で大坂にいた徳川を明智が見逃すメリットは通常ならまるで無い
それなのに伊賀越え放置。徳川も徳川で復仇戦にはまるで色気をみせず甲信に即入国してきりとり
大返しがなかったと想定してみよう
明智は摂津丹波山城近江(あわよくば美濃まで)を固める
丹後細川、大和筒井、摂津高山・中川はもともと明智の与力武将
この状況で将軍宣下をもらい数ヶ月経過するとどうなるだろうか?
明智と徳川って実はつながってなかったの?
あ や し く ね?ってことだろうね
a
332 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 18:18:13
後世、秀吉が悪し様に語られず、家康が狸呼ばわりされるのは、
秀吉は約定を違えた生々しい事柄が無く(見落してたら指摘して)
家康は掃いて捨てる程多いからであって、大坂の陣の難癖だけの為ではない。
三河一揆、今川攻め、真田との確執も元はと言えば家康の不義。
謀略は元就も早雲もやってるが、家康の場合は痛快感が無く、
史実を読んだ後に不快感だけが澱のように残る。
前者は小が大と覆す過程での謀略であり、
後者は大が小を潰すのに謀略を使うからである。
333 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 18:24:32
今川が桶狭間で死ぬとすぐ独立するし、信長が死ぬと甲斐信濃をすぐとるし、秀吉が死ぬとすぐ天下をうかがうし、
義にあついイメージなんかないよなー信長との同盟をよくまもったというイメージが強いが
実際は油断ならないヤシだよね
334 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 18:35:44
>>325>>326 よく考えてみな、
関ヶ原で生き残り明治まで続いた大名はみんな華族さまだぞ。
皇室のご親戚もいらっしゃり、
東宮家に親王・内親王様がご誕生された時には、
徳川・前田の当主が梓弓を弾くしきたりなんだぞ。
それを先祖とは言え、悪し様に書けると思うのか?
裏切者だの狡猾だの日本史の大汚点だの。
335 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 18:40:10
>信長との同盟をよくまもったというイメージ
単に臆病だったから。
信長が死んだ途端に色々やってる。
336 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 19:05:27
律儀の看板は秀吉が言ったのを徳川御用学者が濫用したのだろう。
秀吉は逆に油断ならない奴だから、封じ込める意味で言ったのかも。
家康の「前歴」を知らないわけが無い。
とにかく2人の関係はお互い懸命に「努めた」。
337 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 19:09:40
秀吉が額面どお律儀者とおもっていたのなら、関東にお国替え命じるわけないしな。
正直、アレも家康を挑発する意図もあったんじゃないかと思ってる。
北条が始末ついたし、奥州仕置も終わったあの時点で家康が拒否すれば
即合戦の腹積もりじゃね。
北条の遺臣が反乱起こすの狙ってたかもな
>>338 それはそうだろうな
秀吉は九戸の乱のようなのを期待していたと思う
徳川単体で鎮圧しても地侍衆に不穏分子かかえこんで弱体化だし
長引くなら援軍送って、鎮圧後に領地不始末により再転封でもいいし、
弱体度が甚だしければ強制隠居でもいい
340 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 19:33:38
反乱を起こった事を口実に取り潰すのはアリだろう。
実際佐々成政はそうやって九州に配置転換の挙句、
国人が反乱起こした事を理由に切腹させられている。
341 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 19:50:48
秀吉の大名配置を見ると本心は明らか。
どんなに口で律儀と煽てても仮想敵国は関八州。
秀長存命時の東への布陣は完璧。
逆に毛利は信用してたのだろう。
抑えは若年の秀家のみだし瀬戸内はがら空き。
しかも毛利本家+隆景で170万石超を与えている。
342 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 20:02:34
秀長死去後の朝鮮出兵が致命傷かもな
武断派と文治派の抗争が結局家康に漁夫の利をなさしめた。
あれがなかったら、福嶋や加藤は家康に対して豊臣の藩屏の役割を
守り続けていた
小早川の独立分離宇喜多の重用、どうみても毛利弱体工作に必死だったんすけど
344 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 21:05:12
唐入りも秀吉が10年長生きしてたら、どうなったか分からない。
その後の推移からも明に余力はなかったのは明らか。
それに対して日本は直後に関ヶ原やったり余力があった。
宣教師から当時の「国際法」を聞いていた信長秀吉が
海外に目を向けたのは当然だが、秀吉の場合は家康をどうにかするのが先決だった。
秀吉が諸侯に下知する法的根拠は、関白としての惣無事令だから、
表面上にしろ服従した家康を攻めることは出来なかったのだろう。
もし難癖つけて攻めてたら後世の人気が落ちただろうけどね。
345 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 21:38:33
余力があったのは徳川氏であって、豊臣氏ではない。
346 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 21:40:28
>>343 宇喜多離間は信長時代、
隆景に本家とは別に知行を与えるのは離間にはならない。
手切れになれば小早川は毛利に付くから。
隆景と石川数正に対する工作では質が違う。
石川懐柔には家康に対する悪意が感じられる。
隆景には本当に惚れたのだろう。
347 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 21:44:54
>>345 秀吉在世なら、徳川に余力があれば出兵を命じるだけだろう。
家康が謀反企てるかは別だが。
それに秀頼の代、あれだけ寺社仏閣を普請したのに、
落城した大坂城に金銀が山とあったそうだ。
348 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 22:15:53
秀吉在世時に徳川は名護屋待機で自家の国力を温存している。
命じるも糞も史実として朝鮮半島にわたってなどいなんだが。
349 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 22:18:17
さらに付記すれば明にはどうあっても勝てない。
日本の国力では兵站がのびきってしまい、こう着状態におちいってしまっていたので、
どのみち唐入りは無理。
350 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 22:30:19
>>347の話は、344で秀吉が10年長生きしたら、からの導入だ。
仮の話と現実を一緒にするな。
349の件は水掛け論になるから止そう。
>>350の本音
349の件は議論では勝てないけど気に入らないからやめてね。
352 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 22:35:56
本音は、
バカと仮想の話をしても疲れるだけだから。
1次資料の裏づけのない話をするのは、
酒場で犬が利口か猫が利口か議論するようなものだ。
353 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 22:46:28
そもそも仮想ではなしてもたらればの話でしかない。
史実では家康は現に海をわたっておらず国力を温存している。
>>344の過程も秀吉は唐入りをめざしているが、覇権握った後の徳川は江戸開発や長安の黄金が
あっても和平をすすめているんで対外戦争を続ける意欲がほとんどない。
せいぜい島津の琉球征伐を黙認したり、松前藩の交易をみとめたりそのくらいさね。
家康自身は対外戦争よりむしろ朱印船による交易を考えていた。
信長や秀吉をみて社稷をかためてこその天下とおもったのだろうし。
354 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 23:26:37
うんこ漏らしちゃった。
>>323 そうだね、梵舜日記を否定する資料はないのに都合の良いところだけ引用してる。
TVでは相変わらず北政所は家康派ていうのがデフォだもんなあ。
>>333 桶狭間の後に2年も氏真に仇を討てと発破をかけたのに今川が断ったので諦めただけ
織田が秀吉打倒に協力してくれと頼むから戦ったのに織田の方が先に講和して裏切られた
五大老五奉行制は小田原評定になるのがオチなので頭数を整理していたら挙兵されたので正当防衛で倒しただけ
豊臣に配慮して豊臣がなりたがらなかった地位によって平和を築こうとしたら
豊臣の方が武装して反乱を起こしたので鎮圧しただけ
何も悪いことはしていないな
357 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 01:06:09
おまい、おめでたい奴かそうとういい奴だな。
358 :
岐阜中納言:2006/12/21(木) 01:32:49
おめでたあげ。
359 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 08:18:35
>>356 その論理が通用するなら北の将軍様も正義の味方。
おまい徳川御用学者の子孫か?
本能寺の家康と明智の共謀を書いた本が徳川家の一族に買い占められて発刊停止になったエピソードがあるわけだが
まあそういうことなんだろう
361 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 09:41:54
家康の人気が低い理由
@秀吉の哀訴を裏切り遺児と寡婦を葬った
A帝・朝廷を軽んじ後陽成帝に譲位させた
B若年からの数々の約定違え
C強者に徹底的に媚びへつらい弱者には冷酷
一般には@が理由、
幕末はAが喧伝され明治帝も
秀吉を功臣とすることで家康を比較批判された。
家康や秀忠の朝廷軽視は、学問が重んじられる元禄の頃
御用学者も困っただろうな。
Bは元々日本人には信義を守る気質があり、
個人レベルは別として天下国家レベルで平気で嘘をつくのを避けた。
嘘をつくにしても大義名分のファルターが必要だったが、
家康は老年の焦りか言い訳の出来ない難癖を付けた。
歴史上、大義の無い難癖付けた人物は評価が低く、
滅ぼされた人物は判官贔屓される。
秀吉人気が高いのは、それらのハードルをクリアし、
尊王に至っては本心はどうあれ聚楽第行幸など、見事と言うしかないから。
信義の点においても諸大名に対する重大な信義違反は無い。
(秀次の件は跡目争いで本質が違う。)
362 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 09:57:56
>>355 秀長の死際に「兄上が亡きあとは家康殿に託されよ」
と語らせた大河ドラマがあったね。
363 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 10:34:49
つうか、家康の人気って高いじゃん。
サラリーマン人気もNO1じゃん。
必死になって叩いてる人って一体何が目的?
364 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 10:56:02
>>363 ここのスレが関ヶ原の戦いだからじゃないかな。
365 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 11:18:46
>>362 梵舜日記を否定する説は、
北の政所が秀家の出陣式に代理を送ったのが本心で、
輝元の出陣式に参内したのは本心では無かった・・・
佐和山落城に狼狽した理由も西軍敗残兵の狼藉を恐れた・・・らしい。
確かに日記には政所が西軍に加担した直接表現・物証は無いが、
状況証拠を積み上げていくと、政所の心情が西軍に傾いていたとしか取れない。
註
政所=清正親密説の元になったのも同日記に頻出する「肥後守」らしいが、
これは明らかに先学の勘違い・無知誤解。
司馬遼の「関ヶ原」に政所の庵で家康・清正が出会わす場面があるが、
出典はいずれも江戸中期以降の書物であり、
日記には三者の会合は記されていない。
>>365 つまり曲解と我田引水な解釈に女の争いの面白さが加わり今の通説になったということか。
367 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 16:13:20
>>366 そうかも知れないな。
政所=家康派説の出典はいずれも江戸中期以降だからな。
政所は豊国神社に日参し、当然毎日顔を合わせただろう梵舜の日記に
家康との交信はおろか清正達との交流も書かれていない。
清正達の参内が散見されるのは高台時建立の前後で、
しかも政所は彼らの参内日に限って参内していない。
ずっと淀殿の浅慮でヒステリックな対応が疑問だったが、
実は淀殿=三成のラインではなく、淀殿=家康のラインで
忠臣と思っていた家康が戦後力を増し、
将軍宣下を受け豊臣の上位に立ち、臣従を迫ってきた事に
憤慨したと考えれば合点がいく。
>>361 @遺児も寡婦も徹底的に言うことを聞かない反抗主義者では救いようがない
救いの手そのものは15年間も差し出している
A幕府とはそもそも朝廷から独立して政治するためのもので朝廷を重視する時は幕府が滅亡する時
皇国史観をこの時代に持ち込むのは良くないこと
B有名な大阪城の堀埋めは和議の中に内堀を埋めることが入っているので正確には約束破りでない
婚姻政策も禁止ではなく事前許可制であり許可を出すのは執政を務める家康自身なので法律上は破っていない
道徳や義理人情の部分で問題なのは事実だけど
C意味不明。朝鮮に行きたくないと思えば絶対に行かないし、民衆を殺戮したりなどしていない
強者に媚びへつらってもいなければ弱者に冷酷なわけでもない
と弁護してみる
369 :
日本@名無史さん:2006/12/22(金) 00:37:46
>>368 >>361で言ったのは家康の行為の理非正逆ではなく後世の人気である。
@太閤としての家臣家康に対する命令は、
救いの手ではなく秀頼を君主として仰ぎ守り立てること。
A天皇譲位など義満・信長でもやっていない不遜行為。
B若年からの数々の約定反故はいかに?
また外堀埋立は約定だったが内堀は約定違反。
婚姻政策について、大老は家康1人ではなく五大老の許可が必要、
他の大老は連名で弾劾している。
C朝鮮入りを拒否したから媚へつらってないとの趣旨かと思うが、
新領地関東の整備を理由に猶予を願ったのであって強行に拒否したのではない。
そもそも出兵に強行反対していない。(逆らったら討たれていた)
前田利家と共に副将として名護屋で秀吉を補佐する立場だった。
361のCの趣旨は、
全盛期の今川・織田・豊臣下では従順に従い、
和議をした一揆衆・零落した今川・一旦は領地安堵をした真田・
秀吉亡き後の豊臣・関ヶ原戦後の毛利&伊達など自分より
弱者に対する行為の指摘であって民衆の殺戮など言及していない。
>>332も指摘しているが、
人を裏切る行為は弱者が強者を倒す時には支持を得るが、
強者が弱者に用いると後世の批判を受ける。
事実上トップだった家康が歴史の大舞台で露骨に使っては、
後世の批判を受けても止むを得まい。
370 :
日本@名無史さん:2006/12/22(金) 06:04:58
家康は徹底的なリアリストで「後世の人気? そんなもんに何の意味がある?」
っていう人だからねえ。
秀吉人気・家康不人気は明治政府のプロパガンダの影響だって大きいしね。
例えば@を秀吉の立場に置き換えると、足軽から大名に取り立ててもらった
織田家を蹴り落として天下人になった恩知らずと言う事ができるし、
Aで秀吉が行った朝廷政策なんてのは、要は天皇を政治利用しただけとも言えるわけで。
要は見る角度によって、良くも悪くも見えるってこったな。
371 :
日本@名無史さん:2006/12/22(金) 06:21:45
センズリした精液を女の顔に塗り付けろや。ガハガハム
家康が不人気って??
なんじゃそりゃ。
373 :
日本@名無史さん:2006/12/22(金) 09:23:01
>>370 >家康は徹底的なリアリストで
家康の尊敬は頼朝だったから、朝廷を封じ込める政策は当然と言えば当然だが、
ちょっと露骨すぎて眉をひそめてしまうのだろう。
逆に家康好きはその点を評価するのかな。
>織田家を蹴り落として天下人になった
主筋に成り代ったのは秀吉も同じなんだが・・・
ドラマ仕立てで恐縮だが、秀吉物は女性陣が前面に出るよね。
家康物ではごく脇役でしかない。
うちの祖母なんか「ねねさんがしっかりしてた」「淀さんがかわいそう」
と、まるで知り合いみたいに話す。(戦前教育受けた世代だから当然家康は悪)
まあ庶民の人気なんてそんなもんで、
山岡の家康が大企業重役クラスの必読書と聞いたこともあったが、
人心掌握術や必要とあれば石に噛付いても忍従する姿勢、
ここ一番では非情に徹する冷徹さが評価されるのだろう。
詰めを誤った秀吉より、非情に徹し詰め切った部分は評価できる。
働くなら徳川米穀だが提携するなら豊臣商店かな。
徳川米穀相手に商売すると思いっきり値切られそう。
築山殿の件いらい家康は良家の女性にはこりごりというトラウマができたので
地味な女性関係になったそうだね。
375 :
日本@名無史さん:2006/12/22(金) 11:30:08
>良家の女性にはこりごりというトラウマ
歳とってからはロリコンで、孫ができる歳にもかかわらず子作りに励んだ。
うらやますィ〜〜〜い?
>>373 >>織田家を蹴り落として天下人になった
>主筋に成り代ったのは秀吉も同じなんだが・・・
いやだから、それをもってして秀吉・家康の人気不人気を判定するのは
間違いだってことでしょ。
秀吉は織田家が恭順してくれたおかげでスムーズな政権移譲ができたが、
家康は豊臣家が徹底抗戦してくれたおかげで荒技を使わなきゃならなかった。
そういう事情もあるだろうし、明治政府の秀吉↑家康↓なプロパガンダもあったろうしね。
377 :
日本@名無史さん:2006/12/22(金) 13:54:24
大河ドラマで言えば太閤ものと家康ものではモチロン太閤ものが視聴率がいい。
秀吉が死ぬ前までは律儀な人を演じ、自分より上位のものがいなくなると、
欲望をむき出しにするような人物なので、いくら脚色してもダメなんでしょう。
378 :
せつこ:2006/12/22(金) 14:14:03
なんで小西すぐ撤退してしまうん?
379 :
日本@名無史さん:2006/12/22(金) 14:34:38
>>376 理屈をこねるようだが、現代人が考えるより当時の人間は大義名分や
家名・名誉に拘ってたようだから、その面から言わせてもらうと、
政権簒奪の有無
信長は生前すでに官位を返上しており、また織田家=政権の家柄ではなく、
法的にはあくまで「前の右大臣」「戦国の覇者」である。(足利氏はまだ将軍家)
つまり信長の力の前に各大名たちは従ったわけで、
織田家が朝廷から授かった法的な権威で号令したのではない。
現実に毛利・島津・北条・上杉などは従っていない。
秀吉はそこを捉え関白に就任することによって、織田家さえも支配下に置いた。
家臣としての忠義義務
三法師は秀吉により(多分に政略ではあるが)「織田家」の当主になったが
信長が指名した(馬揃えでの序列1位)のは信忠であり、
2人の叔父に無視されたかもしれない幼少の秀信を当主にした事により
一定の恩返しは済んでおり、それ以上の忠義を尽くすことは道義的には必要でも、
関白になった秀吉には最重要ではなかったのではなかろうか。
対して家康の場合、天下回り持ちとは言え既に戦国乱世ではなく、
秀吉の関白就任から15年経っており、
その天下人の遺言を守らなかったのはいかにも分が悪い。
明治期のプロパガンダも影響も喧伝されるが、
既に江戸期から太閤人気は高く、苦肉の策として三成と貶めたのは事実。
もしif、
夏の陣で秀頼助命嘆願に応じ江戸へ親子共に連れて行き、
高家として存続させていれば随分違った評価になっただろう。
しばらくしてなんくせつけられて改易だろうな。
381 :
日本@名無史さん:2006/12/22(金) 15:29:55
改易するにしても福島のように、
しばらくして秀忠に潰させれば、後世の誹りも緩やかだったのにね。
秀忠は秀吉の九州征伐時に、政所に人質として預けられ可愛がられ、
その縁もあってのちに木下家に寛大な処置をしようとして、
家康を激怒させており、家康としては心許なかったのかもしれない。
>>379 秀吉は関白になっても秀頼は関白になっていない
幼いから就任できないというのでは関白が真に天下人の称号へ昇華できていないということ
幼君でもすぐに就任できてこそ王朝と呼べるが残念ながら豊臣は王朝になれなかった
確かに遺言の有無はあるが所詮は秀頼も三法師と立場は変わらん
秀頼が外国でいうところの「王位」についていない以上は何をされても文句は言えない
383 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:43:16
>>382 >秀頼は関白になっていない
結局そこなんだよね豊臣の瑕疵は。だからこそ秀吉は泣いて頼んだ。
文句あるなら掛かって来いと言い放った家康の最期との決定的な違い。
秀次が生きていたら家康の天下は無かったとする見解の根拠はそこ。
家康が秀次を押し退けていたらそれこそ安禄山と言われてただろう。
>幼いから就任できないというのでは
摂政関白は全盛期の藤家でも幼少者は就けなかった。
ゴリ押しすれば可能だったろうがそれをしなかった故に、
人気ある面もないとは言えないだろう。
幼少の秀頼を強いて関白職に就ける傲慢を嫌ったのか、
そこまでしなくとも豊臣は安泰と思ったのかは、
泉下の秀吉に尋ねるしかあるまい。
>秀頼も三法師と立場は変わらん
これは大いに変る。
この頃まだ長子相続の習慣は確立しておらず、
当代の弟または次子以降の相続もあった。
天皇家の長子さえ立太子礼をせねば皇太子ではなく、
三法師は父信忠が斃れた時点でその「法的」立場は宙に浮いている。
秀頼は秀吉の正統な後継者であり「法的」立場は天と地ほど違う。
家康の弁護をすると、
関白=天下人ではなく覇者が関白や将軍になるから天下人であり、
(公家が摂政関白になっても天下人とは言われない)
秀吉亡き後、覇者は家康であった。
自らの死=家康が覇者、の構図を作った秀吉の失策であり甘さであった。
384 :
金吾秀秋:2006/12/23(土) 04:11:31
>秀吉亡き後、覇者は家康であった。
>自らの死=家康が覇者、の構図を作った秀吉の失策であり甘さであった。
秀吉も漏れ様と立場は変わらないんだぜ(´・ω・`)
385 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 08:27:52
>>370 ≫「後世の人気? そんなもんに何の意味がある?」
望み通り学無く狡猾な田舎者の狸オヤジと後世の誹りを受けている
前権力者の子を滅ぼすのは日本史上ままある
しかし墓を掘起し廟を破却した行為は寡聞にして聞かない
滅ぼした相手を神として祀るが普通
386 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 11:52:37
まあそうやって誹るのはアンチだけだけどね。
しかし、狡猾で田舎者で狸であることはその通りだと思うが、
駿府で雪斎の薫陶を受け、論語や史記を愛読書にしていた家康を
学がないというのは間違いだろうな。
これで学がないんだったら、字も満足に書けない秀吉はどうなるんだ。
家康から見れば豊臣なんて同盟者の家臣が謀反人を討った功績を盾に邪魔者を粛清し
織田家を乗っ取った簒奪政権でしかない
家康は「お前がやるなら俺もやるよ。」としか思っていないから良心の呵責などない
恩義なんて欠片もないのだから豊臣への忠誠を守れなんて言われても笑ってしまうだろう
>>385 日本は易姓革命がない特殊な国だからそう思うかもしれないが世界ではよくあることだぞ
388 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 13:50:18
>>385 家康ってそういう意味では異質な権力者だったな。
ま、厳密にいうと墓ほりおこしたのは孫の家光だったと思うけど。
いちおう天海の発案ということになっているが、秀吉にこれほど
憎しみ抱いているのは光秀=天海説ってマジなんかねぇ
別に織田家を乗っ取ったわけじゃない。
主家から独立しただけで、それは柴田などほかの織田家臣も同じ。
家康自身、今川から独立した立場だから、秀吉をとやかく言えた義理は無いw
「いざ鎌倉」と言う言葉が強制力の無い掛け声でしかないように、知行をもらった
恩より確保した土地の保全が武士の本業だから、実力者が死んで自分の土地の
保全に少しでも不安があったり、土地を増やそうとする野心があれば、本業に忠実
に生きるのが武士と言うもの。
もともと、恩義など二の次で冷酷でシビアな世界が武士の生きる世界。
豊臣恩顧って言葉を、秀吉夫妻への義理と置き換えてしまうと、三成を明確に支持し
ないことで家康への好意的中立を図った高台院への義理立ては、「三成に組しない」
ことと詭弁が使えるから、高台院縁故のものの離反を招いた豊臣恩顧ってスローガン
を立てたことに失敗があったといえる。
高台院は当事者だから、自分が頼んでもいない忠義を三成を介して諸侯に押し付けたく
は、ないのだろう。それゆえ中立を通すこととなる。
豊臣恩顧って言葉は、公の場では高台院だけが使って効果のある言葉なのであって、
一家臣に過ぎない三成が使えば、野心丸出しの軽薄な意味合いしかなくなる。
実力者が死んで、「一波乱起きそうだ」となれば、武士たちが浮き足立つのは当たり前。
国が二分されて争えば、生き残ったほうは領地が倍になる可能性を秘めているのだから、
土地にこだわる武士が命をかけて争うのも当たり前。
家康勢力と反家康勢力の争いは避けて通れない道筋だったから、関が原に至っている
だけで、結果的には軽はずみに使った豊臣恩顧ってスローガンが豊臣家の命取りになっ
てしまったに過ぎない。
三成が動かなくても戦は起きたはずだが、あのような勢力図にはならなかっただろう。
390 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 18:52:10
>日本は易姓革命がない特殊な国だから・・・世界ではよくあることだぞ
>家康ってそういう意味では異質な権力者だったな
日本では他に見当たらないな。
そういう執着と言うか度量の無さや異常性がアンチには許せないのだろう。
度量の大きかった秀吉とは正反対。
>>389 北の政所と家康懇ろ説の出典は200年も経って書かれた
頼山陽の「日本外史」だし、他にもあるがいずれも江戸後期。
リアルタイムで書かれた書物には一行も出てこない。
江戸初期には水戸光圀が三成を誉めたように割と大らかだったが、
時代が進み武家の教養が上がってくると、
徳川政権の正当性を証明する為にか、三成逆臣・政所=家康説が現われた。
今後の研究が待たれる。
391 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 20:11:21
日本は易姓革命は無いというのは嘘だろ?
制度として天皇家は存続しているけど権力という意味では、徳川幕府から薩長の下級武士へとシフトしていると思うが・・・
神武天皇以来、皇室の権威が一寸たりとも変わっていないのなら易姓革命は無いとしてもわかるんだけど・・
392 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 23:55:55
>>382 「王位」についていない以上は何をされても文句は言えない
て、日本の王は天皇家だけだろ?なに言いたいの。
393 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 00:05:03
>>368 A幕府とはそもそも朝廷から独立して政治するためのもので・・・・
勉強不足、ヒョウゲン不測?
394 :
金吾秀秋:2006/12/24(日) 00:17:46
明日ケーキ食べるんだよ(´・ω・`)
小便漏れ様
396 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 00:31:19
>>382 生前秀吉は諸大名に秀頼への臣従を誓わせ、五大老五奉行初めみな誓紙を出している。
この点で秀吉の三法師の場合とは全然違うわけで、主家簒奪は家康のみの悪行。
織田家の場合、信長の後継は信忠と決定していたが、明智がうまいこと二人そろって殺ってしまった。
家康の豊臣家討滅の倫理的是非を問うのはこのスレの主旨じゃないでそ
関ヶ原の時点では少なくとも家康は豊臣家筆頭家老としてそれに逆らう賊を討つ、
という大義名分が有って三成たちを討伐したんだし、戦後も一応秀頼の顔を立ててたんだから
家康はただ天下を取るだけでは飽き足らず秀吉が必死に知恵を絞った様々な策を逆手にとってやろうと考えた
まず秀吉が賢妻と称えたまつを自ら人質に赴かせて屈服させる
次に秀吉の転封のせいで地盤が固まってない上杉を標的にした後Uターンして上杉が南下できない姿をさらす
秀吉が東海道の押さえに配置した大名には城も兵糧も差し出させて服従させる
秀頼は成人するまで大阪城を出てはならないという秀吉の遺言を守らせ豊臣自身の首を絞めさせる
とどめに秀吉が小早川家乗っ取りに利用した秀秋を裏切らせてしまう
家康は堅苦しい人間と誤解されがちだが天下を取るという大事業でさえ
このように遊び心と痛烈な皮肉をこめるエンターテイナーなのである
まあ、家康が腹黒なのは否定しようがないな。
400 :
金吾秀秋:2006/12/24(日) 06:53:01
まったく、家康の腹黒ぶりには、あきれたもんだぜ(´・ω・`)
401 :
日本@名無史さん :2006/12/24(日) 07:25:15
楽太郎とどっちが腹黒い?
402 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 07:29:21
歴史において主家簒奪が悪行であるならば
明治政府も中国歴代王朝もすべて悪行において成立した政権と言わねばならない。
主家簒奪を悪行と言うのはアンチ家康くらいのもんだ。
弱い者は強い者にとってかわられる。歴史の必然に過ぎない。
家康は政権の簒奪だけじゃなくて
根絶やしに滅ぼしてるから日本史上では印象悪すぎ。
>>403 平家の失敗に学んでるからだろ
臆病で狡猾だから他人の失敗をしっかり研究してる
家康が尊敬してるのが源頼朝だしな
405 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 08:41:16
>>402 おまい、東亜板ならともかく日本史板で明治政府と中国を一緒にするな
みんな嘲笑してるぞ
それにアンチも簒奪そのものを非難しとらん
そのやり口を非難してるんだ
406 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 08:46:53
>>405 402は味噌と糞の見分けがつかないとお見受けした。
407 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 08:49:41
「政権交代」という事実のみについていっているだけなのに、
一緒にするなとか、ちょっと意識しすぎだわな。
家康のやり口は日本の歴史上でも一番親切だろ
秀頼がいる大阪を三成に抑えさせていくらでも協力できるようにしてあげているし
関ヶ原後も15年にわたり生き残るチャンスを与えて
冬の陣後でさえ半年も大阪を退去すれば許すと言っているんだから
豊臣家が日本の歴史上一番バカだったから勘違いされがちだが
こんなに優しい人間は日本の歴史上存在しないぞ
腹心で固めることの出来た大阪城を退去したら暗殺されるよ。
暗殺できる自信があるから、降伏を勧めてるんだよ。甲賀忍者の毒殺術をなめんなよ。
412 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 16:25:21
>「政権交代」という事実のみについていっているだけなのに
だからさぁ、政権交代の是非は言ってないって
その方法が狡猾だと言ってるんだよ
じゃあ聞くが政権交代は他の時代で何度も行われているのに
なぜ家康だけが狡猾だのタヌキ爺だの非難されるんだ?
397で倫理云々言ってるが昔は今よりずっと大義が重要視された
蘇我氏の故実を引くまでもなく公家武家問わず後世に悪名を残すのを厭った
乱世の梟雄として悪名を遺した松永久秀を見ろ
久秀は負けたから悪名が残った
家康は勝ったから助かっただけだろう
明治維新のときの薩長のやり方だって狡猾と言われてるけどね。
薩摩藩は大政奉還で恭順の姿勢を示した幕府に無理矢理開戦に踏み切らせるため、
江戸やその周辺で放火・略奪を行い、幕府に薩摩藩邸を焼き討ちするよう仕向けた。
これをきっかけに戊辰戦争が始まるわけだが、
このように被支配者が支配者を倒すのに狡猾な手段を用いることは
別に珍しいことではないわけで。
家康だけがそのように批難(あんた、この漢字よく間違うな)されるのは、
明治新政府が豊臣氏を持ち上げて徳川家をこき下ろし、
それに豊臣ファン・アンチ家康が乗っかってるだけだろう。
それ以外の人たちはたいてい歴史の必然としか見ていないよ。
414 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 17:30:52
>>402 明治政府も中国歴代王朝もすべて悪行において成立した政権と言わねばならない。>
喪前、幕府て何様か解って逝ってるのか。
明治政府が簒奪だとよ、叔母か。
豊臣を根絶やしにしたって言われても、秀頼一人だしなぁ
416 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 18:01:09
>>414 ふーん、幕府って薩摩や長州の主人じゃなかったんだ。
これまた新しい解釈だな。
太国さん鶏肉が上手いが、自作も相変わらず上手いな?
418 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 18:30:08
>>413 ひなん 1 【非難/批難】
(名)スル
相手の欠点や過失を取り上げて責めること。
「不手際を―する」
辞書読んでから非難批難しなさい
避難と間違えたの?
419 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 18:42:38
>薩長のやり方だって狡猾と言われてるけどね
ずっと家康を糞味噌に言ってるけどさ、
幕末物読むとその徳川(豚一ね)の不甲斐なさが腹立たしくなるし、
火付け盗賊みたいな薩摩が腹立たしい。
結局判官贔屓に過ぎん。
こんな歴史の仮話、リアルで出来ないから2ちゃんでやってるだけ、
そう熱くならないでやろう。(熱くならないと面白くないが)
たまにバカだの基地外だの半ば本気で叫ぶ奴がいるが、(市虎2バカ板は特に)
それはそれで面白いし。
つーかあれだろ
薩長の相手→いい歳した将軍を頂点とした幕府
家康の相手→幼児と寡婦を頂点としたせいぜい150〜200万石大名に転落してからはや15年経過
しかもまがりなりにも先君の遺児
しかも「後は頼む」とうるさいくらいまで頼まれていた
なんだかなーってかw
421 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 19:06:40
大坂の陣のとき、秀頼はすでにハタチを過ぎてるけどね。
戦国武将ならとっくに初陣を済ませ、御家を背負って立つべき歳だよ。
家康にとって秀吉に対しての恩なんてあってないようなもんだろうしな。
422 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 19:23:54
家康を叩くのは嫌いなのもあるが、
徳川260年間に培われた徳川史観に疑問を持つ為でもある。
徳川家が公爵に列せられたせいか、
済んだ事は掘り下げない日本人の気質のせいか、
江戸後期出典の説が現在も幅を利かせてるのが釈然としない。
淀殿悪女説、三成奸臣説、政所家康親密説、
果ては豊臣では世が乱れるから仕方なく家康が立った・・・
それらを頭から信じるのは新聞報道を丸々信じるのと変らん。
当時の公家・大名が徳川を批判した文書も出ない。
幕府に知れたら大変だったが皆無とは言えまい。
出ないのは徳川と共に豊臣を滅ばした各大名家が
維新後華族になったのと関係あるのか・・・
まあアンチ家康の言い訳にはならないが切り口はそれでいいだろう。
まぁ実際に豊臣では治まらんかった訳なんだが
薩長は関ヶ原以降の因縁あるから正統だろ
毛利本隊がガチで関ヶ原で小早川や吉原勢を加えて
参加していれば東軍なんて瞬殺していたのに
中国責め以降の秀吉とは正反対に恩を忘れて毛利を大減封なんてしちまったから
幕末で長州にやられたのに
425 :
金吾秀秋:2006/12/24(日) 21:44:16
ケーキうまうま(´・ω・`)
426 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 21:56:55
因縁があるから正当だなんて、日本を復讐法で成立してるイスラム国家と一緒にしてもねえ。
それに、曲がりなりにも毛利は西軍の総大将なんで、責任を取らされるのは当たり前……。
427 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:09:49
>>416 日本は全て天皇の臣下だろ、徳川は賊軍を宣せられたんだよ。
>>424 それなら家康も秀吉によって関東に左遷させられているんだから正統だろ
江戸が発展したのはただ家康にその能力があったからで
先祖代々の土地を追い出されたことに変わりはない
416>>帝の臣下であることを忘れてる徳川厨。
ふーん、幕府って天皇の主人だったんだ。
これまた新しい解釈だな。
>>429 それは幕末に尊皇意識が高まってから
確かに形式的に征夷大将軍は朝廷から貰うものだが
4代目から幕末までは上洛せず朝廷の使者を江戸に呼び寄せるかたちで貰うし
禁中並公家諸法度で朝廷を取り締まっているのは幕府
朝廷っていえば関白とその妻子をだよ、秀吉の遺言とか言われてるのは秀次事件後の誓だよね?
徳川だって将軍を解任して妻子を皆殺しにしたらどうなるだろ?将軍の権威
>>430 勅使は下向で将軍より上座じゃない、実力はないけれど制度上は天皇の方が上でしょ。
天皇から任命してもらうんだから、あくまで正当性は天皇の権威でしょ。
天皇を廃して、自らの王朝を開かない限り家臣は家臣じゃないの。
浅学でスマソ。
434 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 00:50:30
>>429 >>430 宮中から櫃を持った勅使が来て
その櫃から書面を取り出して上座で「宣旨〜〜〜」と読み上げる。
下座で畏まって受ける将軍。
実質はどうあれ公式な名乗りは源朝臣であり徳川は帝の臣下。
それを否定するなら徳川は夜郎自大である。
435 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 00:59:05
402、416、430は朝敵決定。ヾ( ̄◇ ̄)ノ))バイバイ
436 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 05:48:38
予想通り朝廷を持ち出してきましたね。
それを言うなら、徳川家康は1603年に征夷大将軍の宣旨を受けて
武家の棟梁となることを朝廷から認められているわけで、
その徳川家に逆らう者は逆賊と言う事ができる。
つまり、徳川が豊臣を滅ぼしたのは主家簒奪ではない、と言う事もできる。
このような議論をしてるときに天皇を持ち出してきても、
なんら問題は解決しない。
薩長が錦の御旗を手に入れたのは鳥羽伏見の戦いの際で、
それよりもずっと以前から、陰に陽に幕府への不忠の限りを尽くしていた。
そもそも明治天皇も若年で自分の意志で倒幕を企んだわけではない。
438 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 07:47:37
徳川に将軍を与えて秀頼に関白を与えないことを決めたのは最終的には朝廷だから
豊臣はそれに従わない逆賊なので討伐した家康は英雄として称えられるべきだろう
439 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 08:01:41
>>437 それを言い出したら後陽成帝の真意はどうなの、徳川に幕府を開かせたかったとでも言うのかな。
440 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 08:21:34
別に豊臣の正統性で朝廷がでたんじゃないよ。
明治政府の成立が悪行だの、幕府の方が朝廷より上なんてアホがいるからだろ。
441 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 08:21:39
>>438 思慮が長政。
例え上位であっても大義の無い戦線布告は難癖と言ってるのだよ。
>それに従わない逆賊なので
それとは何よ?
豊臣は2代続けて関白を出した家柄であり、
秀頼は12歳で右大臣になった。
当然あと数年で関白・太政大臣であり、
官位が逆転することを警戒した家康が難癖付けた。
それと秀頼は公式に家康に臣従してない。
つまり法的には家康は豊臣家の臣下。
(家康が秀吉に頭を下げて初めて臣下になったように臣下の礼が重要儀式)
そして臣下にならない秀頼に家康は業を煮やした。
だから極論するならば家康が逆臣で豊臣は逆賊でも何でもない。
442 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 08:30:52
天皇の真意なんて言い出したら鎌倉幕府から考え直さなければならんだろう。
天皇は取った行動が全てであり真意など持ち出したら
永久に古代の律令政治を続けなければならん
>>440 >幕府の方が朝廷より上なんてアホがいるからだろ。
誰だいそんなこと言ったのは。
戊辰戦争は薩長他と幕府の争いに朝廷が乗っかっただけなんだが。
良し悪しは別として、天皇の政治利用の最たるものだよ。
>>441 秀頼は1607年で右大臣を退いているよ。
また、頼朝以来征夷大将軍は武家の最高権威として位置づけられ、
豊臣家が武家であらんとする限りは当然その支配の下に置かれる。
秀頼が家康に臣従しなかったのは秀頼の勝手であって、
その不服従の対価として征伐されるのは当然のことだ。
さらに言うと、秀頼が順当に関白になれるかどうかも疑わしいしね。
すでに時代の趨勢は徳川に移ってるわけで、朝廷が徳川の機嫌を損ねてまで
秀頼を関白に任命するかどうかとなると……、疑問だな。
例えば方広寺事件のとき、京の五山の僧侶は徳川におもねって
「豊臣家に家康を呪詛する意図有り」なんて解釈してるくらいだ。
家康は信長や秀吉と比べると器が小さいが、
関が原前後はだれも実力者がいない空白ができた
そこを家康がものにしただけのこと
その時点で実力があった奴が天下取っただけさ
445 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 09:29:04
>その不服従の対価として征伐されるのは当然のことだ。
徳川が宣戦布告した大義は国家安康だぞ、この難癖が当然か?
征伐が当然じゃないからこその難癖だろう。
>さらに言うと、秀頼が順当に関白になれるかどうかも疑わしいしね
それはあなたの意見でしょ?
朝廷の前例主義をご存知か。また後陽成上皇の豊臣贔屓も。
家康が自分の死後どうなるか分からなかったから焦ったのである。
豊臣派は前例・大義・法的倫理的理論で議論している。
徳川殿におかれても理論的にその正統性を主張めされよ。
それがし拝聴するに、全て覇者の論理で申されておられる。
覇道は王道にあらず、王者ならば王者の論理を表されよ。
446 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 10:10:54
>>445 前例主義?朝廷は公家に関しては基本的に家柄に応じて極官が決まっていたが、
武士に関してはそうでもないが?
摂家に強引に割り込んできた豊臣が、一大名に落ちぶれたあとも関白になれる保証など全くない。
つうか、前例も大義も法的倫理的裏付けもなく成り上がったのが豊臣じゃんw
447 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 10:23:28
>>446 大義も法的倫理的裏付けもなく成り上がったのが豊臣じゃんw>家康も同じじゃん
乞食坊主の子孫。
443>>明治政府を簒奪なんて言う椰子がいるからだろ。
449 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 10:32:23
ここで質問。
幕府って夷蛮を征討するための臨時支配のためで、本来関東以北の支配だけじゃないぽ。
どういう正当性で日本国を支配できるの、教えてえろ夷人。
450 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 10:33:19
>豊臣家が武家であらんとする限りは当然その支配の下に置かれる
関白は将軍より上位、関白になる資格を有する豊臣家の存在を
危惧した家康が陰謀をもって豊臣家を攻め滅ぼした。
臣下の礼を取らなかったから滅ぼした?
北条氏を念頭に入れてるならそれは違うよ、北条は別に秀吉の盟主ではない。
秀信は臣下に下った?
秀信と秀頼では法的立場が違う。
秀信は後継者と認知されてない、秀頼は正式な後継者。
>前例も大義も法的倫理的裏付けもなく成り上がったのが豊臣じゃんw
なってしまえばそれが前例なの。
それに少々強引かもしれないが秀吉は法的手続きを踏んでるよ。
少なくとも難癖呼ばわりされない程度に。
>関白になれる保証など全くない。
だから〜ぁ、それはあなたの見解でしょ?
なれる可能性があったからこそ家康が強引に攻めたわけでしょ?
たとえ一大名でも「関白家」であり、
年齢が満ち、それ相応の根回し(献金など)をすれば朝廷に否やは無い。
>征夷大将軍は武家の最高権威として位置づけられ、
豊臣家が武家であらんとする限りは当然その支配の下に置かれる
異なる武家から将軍と関白が並立した前例は無いが、
その場合当然関白が上位、家康はその可能性を潰した。
覇者は覇者の論理(強い者勝ち)を押し通せば良い。
難癖を大義名分にすり替えるなど姑息な手段は恥の上塗り。
451 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 10:33:52
乞食坊主より百姓や田舎神官の方が百倍まし。
戦国時代に王道を貫いていて天下が取れるか。バカバカしい。
秀吉とて織田家を追い越して天下を取るという王道に背くことをしているだろうに。
別に秀吉と家康とどっちが善であるかを語るつもりはないし、
どちらかに肩入れするつもりはない。
家康が姑息な手で天下を奪ったことなんて、家康ファンが一番よく認識してるんでさ。
ただ、どっちも同じことをしているのに、アンチ家康だけが徳川を批判する。
不思議でたまらん。三半規管がおかしいんじゃないか。
何を盛り上がってるんだかw
織田から豊臣
1A:主君信長&後継者信忠死亡による織田家当主の不在
2A:織田家は天下統一に最も近かっただけで天下人の家ではない
(本能寺時点では全国の1/5程度が支配下に過ぎない)
3A:秀吉は織田家を旧主筋としてそれなりの待遇
(信雄信孝のことではなく清洲会議で決めた織田家正統後継者三法師のことね)
豊臣から徳川
1B:秀吉死後は秀頼という後継者がいた
2B:豊臣家は天下統一を成し遂げた天下人の家
3B:家康は秀頼及び国松を殺害し豊臣家の血筋は絶える
比較してみりゃ全然違うじゃん
454 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 10:49:02
>幕府って夷蛮を征討するための臨時支配のためで
そうですよ、それを頼朝が拡大解釈した。
義経を全国に手配した時に守護地頭を置いた、
続いて幕府設置も要請したが、真意を見抜いた法皇に拒否された。
だから幕府は法皇の死後。
本来前線司令部である幕府と守護地頭を巧みに併用し、
武家政権を固めて行った頼朝の手腕は評価されるが、
承久の乱を見るように軋轢が残った。
つまり幕府は朝廷にとって煙たかった。
面倒くさい人だね、あなたも。
そういう覇者の論理がまかり通るのが戦国時代だって何度も説明してるのに。
卑怯であろうとなんであろうと、強いものが勝つの。
(残念ながらというか何と言うか)戦国時代に限らず、
これが人間社会の摂理であることは歴史が証明しているんだよ。
いくら豊臣派の人が家康を卑怯だ卑怯だと喚いたところで、
「ああそうだね。滅ぼされた方はかわいそうだね」としか言ってやれないな。
頼朝、義経を生かした平家がどうなったかを見れば分かるよな
家康が理想としたのは源頼朝なのだから当然の処置
織田秀信は秀吉に服従し、忠誠を誓った。
豊臣秀頼は家康に臣従せず、大坂城に浪人を集めて合戦の準備を行った。
全然違うね。
秀頼は家康に臣下の礼取ってる
いずれにしても豊臣を最初から潰す気でいたのは間違い無い
それを早めたのが石田三成
関が原が無ければ戦国時代に逆戻りしてたに違いない
459 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 10:58:56
>>453 理論の簡素化、乙です
何度説いても堂々巡りですね。
無法者の横車は堂々と押せばいいのに。
堂々と言えば良い、
「豊臣の天下を簒奪しました、太閤の遺児を陰謀で攻め殺しました」と。
なら豊臣派は何も言わない。
それが武家の論理であり、強者の論理だから。
覇者の論理をもって王道を説かんとするから片腹痛くなる。
460 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 11:13:05
>「豊臣の天下を簒奪しました、太閤の遺児を陰謀で攻め殺しました」と。
>なら豊臣派は何も言わない
何度も言ってるけどね。
徳川派はその点については完全に認めてる。
しかしながら、滅ぼされた方にも落ち度があったよね、ということを言っているにすぎないわけで。
豊臣派は大坂方にも非があったことを認めようとしないから困る。
461 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 11:22:45
>>454 て言うことは幕府が日本を支配するのは本来非合法でいいのかな。
勝てば官軍
それなら源氏は徳川より極悪になるわな
463 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 11:27:24
>徳川派はその点については完全に認めてる
あらっ、認めちゃった。あなたいい人だね。
>滅ぼされた方にも落ち度があったよね
あったよ、間違いなく。
前田みたいに淀殿を江戸に送って、そのまま穏便に過ごせば良かった。
天下を覆すとか不穏なことを考えずに。
あの伊達政宗が穏便になったように、太平の世は人心を穏やかにする。
秀忠は豊臣と悪くなかったし(人質時代に厚遇を受けた)
関白資格の家として(出す出さぬは別として)別格待遇受けただろう。
また豊臣家滅亡で散逸した資料財宝も多く惜しまれてならない。
464 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 11:33:36
>>461 う〜ん難しいね、その解釈は。
朝廷の前例主義から言っても、法的には合法だったが、(信長に勧めている)
力に押されてのやむを得ぬ選択だったのでは。
明治帝の言動から推測してもそうだろうね。
465 :
日本@名無史さん :2006/12/25(月) 11:36:39
>>463 前田はまつを江戸に派遣した後も、関ヶ原で不穏な動きをしている。
江戸時代に「芳春院様を江戸へ送ってから牙をぬかれた」ふりをしていただけで。
関ヶ原の後は、豊臣家を見捨てて徳川に従順になったようだが。
秀忠はむしろ大坂の陣の時には対豊臣強硬派でそ
関ヶ原前後では単なる人の良い坊ちゃんだったようだが
467 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 12:03:03
>>464 前例主義という事は、朝廷も幕府が全国を支配することを公式に認めたという例があるの?
>>466 秀忠は将軍ていう立場上やむを得ないでしょうね、親豊臣の忠隣等も失脚させられているしね。
469 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 12:43:27
>>467 承久の乱後、それまで勢力の及ばなかった西国への
新補守護地頭を認めた時点で事実承認と解釈してます。
幕府=全国支配を認めた公式文書は知らないが、
信長に関白・太政大臣・将軍を薦めてるから、
合法的との認識だったでしょう。
470 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 12:53:38
>なってしまえばそれが前例なの。
じゃあその前例を崩してしまえばそれもまた前例だね。
・・・前例の意味ないジャンw
>だから〜ぁ、それはあなたの見解でしょ?
>なれる可能性があったからこそ家康が強引に攻めたわけでしょ?
>たとえ一大名でも「関白家」であり、
>年齢が満ち、それ相応の根回し(献金など)をすれば朝廷に否やは無い。
違うよ。関白という肩書きにたいした意味はない。
豊臣家が関白を世襲できるわけでもない。
そもそも徳川が秀頼の関白就任をおそれていたって、なんですか、その説は?
自説をさも通説の如く語るのはやめたら?
471 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 12:57:03
>>468 大御所派と秀忠派の暗闘があって秀忠が強硬になったのは確か。
それ以前の秀忠は関ヶ原で西軍に付いた木下一族を、
北の政所の懇願により助けようとして家康に叱責されているしね。
大久保一族が親豊臣とは知らないが。
472 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 13:09:21
>関白という肩書きにたいした意味はない
こりゃまた新説ですね〜
あなた明治政府が徳川から政権を簒奪したと書いた人?
>自説をさも通説の如く語るのはやめたら
恐れたとは書いてないよ、
家康の行動を鑑みて「可能性」を排除したと見るのは妥当。
>前例を崩してしまえばそれもまた前例
あのね、前例は出来てしまえば崩せないの。
だからこそ朝廷は前例作りに慎重なの。
それに朝廷は吉事は前例にしても凶事は前例にしない。
473 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 13:18:45
>>468 >>471 大久保一族で思い出したけど、
家康は死んだ長安の墓を暴いて、腐敗した首を晒している。
他に例ある?
彼の思想・思考回路はどうなってるんだ。
474 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 15:02:06
>>472 関白になったからといって日本が統治できるわけではない。
お勉強になっただろ?
>家康の行動を鑑みて「可能性」を排除したと見るのは妥当。
だからそれが何で秀頼の関白就任と繋がるんだい?
>あのね、前例は出来てしまえば崩せないの。
???
親の官位を引き継げなかった子は腐るほどいるが。
あれ?前例、崩れまくりじゃんw
墓暴きは家康の得意技だから別に驚くことは無い
罪人を処刑した後見せしめのために梟首するという例は珍しくないが、
墓を暴いて仏を辱めるという事例は本朝ではあんまり無い、というか自分は知らない
精々嘉禄の法難くらいか
476 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 17:17:06
>>474 文章がガキ丸出し、もうちょっとマシな文書け
>関白になったからといって日本が統治できるわけではない
前段では関白が統治と関係ないと言って
>親の官位を引き継げなかった子は腐るほどいるが
何が言いたいんだ?
これが所謂家康厨って奴か?下らん
477 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 17:40:55
豊臣方は話の筋がわりと理路整然としてるが
徳川方は論理が破綻してない、と言うか論理無くない?
豊臣を滅ぼす必要性正当性(正統性)を主張し、
難癖呼ばわりを覆す論理構成しないと。
そもそも関ヶ原スレで後年の豊臣家討滅の是非を問うこと自体おかしなことだと思うが
大坂の陣スレでやりなよ
まああっちは肝心の三河人が来なくて過疎ってるけどさ
479 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 17:46:21
>>476 日本語能力のないあほか?
お前のいくつかある狂った主張のうちの2つに、別個に突っ込み入れてるだけだが。
何でその2つを無理矢理関連づけようとするんだ?
気が狂ったのか?
480 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 17:52:00
もし金吾ちゃんが大谷隊に攻撃を仕掛ける段階で組織的に退却行動
を取ったらどうなっただろう?
481 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 18:30:01
>>479 はたからみれば
>>477の指摘してるようにあんたの方が日本語能力というか
文章構成力が皆無にみえるよ
脳内論理≠文章なのは誰でもそうだが、第三者に理解してもらう為にそれを近づける
努力の結果としての文章展開がまるで出来ない
だからなに言いたいのかわからないし、展開がはちゃめちゃ
賤ヶ岳の戦いで前田が取ったような戦術をとったらどうなるか、という仮定か
どうにもならんのじゃないかな
484 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 20:21:54
>>482 はたからみてると
>>476の日本語理解力のほうが皆無に見えるが。
脳内論理が暴走しすぎて悲惨極まりない。
箇条書きというものの存在を知らない人なんだろうな。
485 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 21:10:50
小説や時代劇なんかで三成が出てくるたびに、以前に勤めていた会社で
社長に辞任突きつけたが誰も自分に付いて来てくれずカウンター食らって解雇された常務思い出す。
486 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 22:30:44
>>484 無責任ロムだが、
せっかく反撃を楽しみにしてるのにオウム返しではつまらないよ。
相手は論理で攻撃してるんだから論破して大向こうを唸らせてよ。
それとも言い返せないの?
488 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 23:29:25
論理というより嘲笑の応酬になってる。
こうなると継続は無理っぽい。
476 :日本@名無史さん :2006/12/25(月) 17:17:06
>>474 文章がガキ丸出し、もうちょっとマシな文書け
>関白になったからといって日本が統治できるわけではない
前段では関白が統治と関係ないと言って
>親の官位を引き継げなかった子は腐るほどいるが
何が言いたいんだ?
これが所謂家康厨って奴か?下らん
こう書いてしまうと
479 :日本@名無史さん :2006/12/25(月) 17:46:21
>>476 日本語能力のないあほか?
お前のいくつかある狂った主張のうちの2つに、別個に突っ込み入れてるだけだが。
何でその2つを無理矢理関連づけようとするんだ?
気が狂ったのか?
どうしてもこういう返しになってしまうからねー。
両者とも詳しい方みたいなので残念。
今回はこれで終わりにすれば。
489 :
岐阜中納言:2006/12/25(月) 23:40:21
あほ、あげ。
490 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 23:49:23
>>486 論理で攻撃してるって?
その論理とやらは一体どこにあるのかなーー??
491 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 23:59:37
>>490 361・369・379辺りを論破すれば?
罵り合いは470のチャチャ入れが発端。
>違うよ。関白という肩書きにたいした意味はない。
>豊臣家が関白を世襲できるわけでもない。
主張するならその論拠を示すべきじゃないかな。
492 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 00:11:35
流れとしては460で徳川側が非を認め、
463で豊臣側も非を認め和議成立の雰囲気だったのが、
470が軽薄な言葉で蒸し返し豊臣側が切れた・・・
ロムにはそのほうがおもしろいけどね。
493 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 00:16:32
>>469 新補守護地頭を認めた時点で事実承認>朝廷側にすれば、これはあくまで動乱期における暫定措置の意味合いではないのでしょうか。
幕府の性格上そんな気がします。
信長に関白・太政大臣・将軍を薦めてる>時代がだいぶ押してますから既得権みたいな感じですかね、何にしても歴史で当然の様に語られる幕府て本当は限りなくグレーですよね。
494 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 00:29:35
>>493 新補守護地頭は承久の変で負けた朝廷が承認させられたのです。
なし崩しに既得権化したのでしょう。
464で明治帝の話を書きましたが、
帝は大坂行幸の際、幕府を開かなかった秀吉を功臣とし、
徳川に破却されてた豊国神社再建の詔を出されました。
これを裏読みすると朝廷は幕府を、ずっと朝敵と見なしてたことになります。
>>494 そうでしょうね、幕府なんて現地司令官の戒厳令みたいなものでしょう。
それを恒久化されてた訳ですし、秀吉が形だけでも素に戻したものを家康がもっとひどい形にしたんですよね。
戦乱も終わり、天皇中心の体制が現出してただけに後陽成帝の失意は大きかったと思います。
496 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 01:32:15
>>491 豊臣家が関白を世襲できると主張する人間が
その論拠を示すべきじゃね?
ちなみに「前例」とやらのあやしさについては
>>474
497 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 10:51:50
474=479=484=496
>>474 が何を証明してるの?
>親の官位を引き継げなかった子は腐るほどいるが
親の官位を継げなかったのと豊臣がどう関係あるの?
継げなかったのはその人に前後の事情があったからで、
関白有資格の家なら「可能性」はあったわけでしょう?
豊臣は関白を2代続けて出した家であり、
「関白有資格の家」であることは紛れも無い事実、
家康は自分の死後、豊臣家が関白になる「可能性」を
完全に摘み取る方策に出たのでは、と言いたかったんですよ。
その論拠として家康は紛れの芽は小さいうちに摘み取る傾向がある・・・
別に官位だけが「芽」ではなく、
豊臣の持つ財力・大坂城・人気(例、秀吉七回忌)
その全てが家康にとっては心配の種だった。
続く、
498 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 10:54:27
続き、
徳川方の人は、
>>438 で豊臣を逆賊としたのを、
>>441で反論され、
>>443で秀頼は家康の臣下だと反撃してますね。
その論拠は徳川が将軍家だからと言う。
そして臣従しなかったから討たれるのは当然と。
しかし家康臣従の例を見ると、
元々、家康は羽柴秀吉の臣下ではなく織田家の同盟者で、
秀吉が関白就任しても法的には臣下ではなく、大坂城で臣下礼をとり初めて臣従した。
つまり臣下礼によって主従関係が決まった。←ここ重要
秀頼と家康の例、
秀吉逝去後も家康は秀頼に臣従していた(官位は家康が上位)
関ヶ原後も臣従
徳川方が地位が逆転したと主張する将軍宣下後も、秀頼は家康に臣下礼をとっていない
二条城会見は祖父である家康に敬意を表し対等(諸説あり)
つまり当時の慣習では依然家康は秀頼の臣下である、
とした豊臣方の考えは現実の力関係はともかく、
法的には完全否定できない。(現実が見えなかったと言えるが)
将軍宣下=徳川家が上位とした論拠は何でしょう?
官位ならば関ヶ原以前でも既に家康が上位、しかし家康は臣従していた。
それが将軍宣下された途端に主従が逆転するのですか?
それとも将軍職は主従関係を凌駕する特権でもあるのですか?
それらは全て「力」によるものでしょう?
関ヶ原以前、更に言えば秀吉逝去直後から家康に靡いていた諸大名が、
将軍宣下を名目に公然と徳川の「力」に臣従した。
しかし依然正月節気に大坂城に伺候する大名公家もあり、
自分の死後、公家大名がどう靡くか心配だった家康は無理は承知で決着を急いだ。
つまり家康は「覇者の論理」を貫いたが、豊臣を滅ぼす正当な理由は見つけ出せ無かった。
だから国家安康で言い掛りをつけた。
499 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 11:31:27
>>497 ・天下人であった親が分不相応な関白になったからといって、
一大名に落ちぶれた息子が関白になれる理由はない。
・朝廷としても、徳川のご機嫌を損ねてまで秀頼に関白なってもらう必要はない。
・秀頼が関白になるのがいやなら、朝廷に圧力をかけるだけで事足りる。
・秀吉のケースは、天下人が関白という肩書きを帯びていたであって、
一大名またはただの公家が関白になったところで、
徳川家の脅威にはならない。重要なのは実力。
家康がつみ取らねばならなかったのは、秀頼が関白になる可能性などではなく、
大名たちに主君として君臨した豊臣家自体。
500 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 12:05:41
分不相応な関白になったからといって>余計な事はかかんでいいよ、分不相応は家康も同じ。
豊臣家の存在を消したかったには同意。
501 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 12:34:42
>>498 上横手雅敬氏の著作(だったと思う)によれば、
家康の頃には征夷大将軍=武家の棟梁であるとの認識が
確立されていたのだそうだ。
であるならば、家康が征夷大将軍に任じられた時点で
自動的に徳川家が豊臣家の上位に立つことになるわけだ。
豊臣家は武家であり、日本全土の武家を統治する権限を持つ征夷大将軍の
秩序下に組み込まれるのをよしとしないのであれば、
それは討伐されてしかるべきと言うほか無い。
>秀吉が関白就任しても法的には臣下ではなく、大坂城で臣下礼をとり初めて臣従した。
>つまり臣下礼によって主従関係が決まった。←ここ重要
確かに主従関係が確定したのは家康の上坂時だが、
実質的形式的上下関係はすでに決定している。
上位である秀吉が下位である家康に豊臣政権に入ることを強要したことにより、
君が言うように家康が上坂し、豊臣−徳川の主従関係が決定したわけ。
同様に家康の征夷大将軍任官によって(上で説明したように)上下関係は
すでに決定しており、その時点で豊臣家は徳川家に臣従しなければならなかった。
だが豊臣家は秀忠将軍就任時に秀頼が江戸に挨拶に来ることを拒否するなどして
すでに決定した上下関係を受け入れることを拒否し続けた。
その帰結として大坂の陣に至ったわけ(方広寺のようなやり方は非常にまずかったと思うが)で、
豊臣派の人はこの点については弁解のしようがないのではないか。
502 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 12:43:16
それから、覇者の論理だとか王道だとか何度も繰り返しているが、
実力がすべての戦国時代に覇道王道を持ち出すのはいかにもおかしい。
秀吉とて、武力を用い、数にものを言わせて諸大名を屈服させて天下を制覇したのであり、
それを棚に上げて家康を覇者だ覇道だなどと指弾するのは片腹痛いというほかない。
503 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 12:52:04
>>499 >家康がつみ取らねば・・・大名たちに主君として君臨した豊臣家自体
話の筋が変ってない?
私は1つ1つ当時の史実から似たケースを引き、政治力学を参照に検証しているが、
あなたの意見は単に否定しているように思えるが。
例えば、
>落ちぶれた息子が関白になれる理由はない
の根拠は何?豊臣家には朝廷から正月参賀の勅使が行っている。
他の大名家には行っていない。
朝廷は豊臣家は別格扱いしている。
☆笠谷和比古氏「関ヶ原合戦−家康の戦略と幕藩体制」から引用、
1603(慶長8)年の幕府開闢以後も、諸大名が大坂の秀頼のもとに伺候し、
年賀の礼などを継続していたこと。
そして諸大名が秀頼のもとに伺候することは幕府も認めており、
むしろ大坂に伺候することを催促したりしていた。
この傾向は次第に弱まり大坂に伺候しなくなる大名がだんだんと増えてくるのだが、
豊臣氏滅亡の年まで続いている。
二つ目は、勅使や公家衆が大坂の秀頼のもとに参向していたこと。
幕府開闢以後においてもこれは続けられ、
正月には勅使や各宮家・摂関などの公家たちが大坂に参向し、年賀の祝いを述べている。
これは朝廷が依然として豊臣家を武家の頂点に立つものと見なしており、
これも豊臣家滅亡の年まで継続している
504 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 12:55:39
さらに追加。
秀頼の関白就任可否が微妙であることについては
>>499氏が語ってくれているが、
仮に関白になれたとしても諸大名の統治権が徳川将軍家から
関白豊臣家に移るかどうかは、また微妙なところだ。
実力差が歴然としているのにいまさら諸大名が豊臣家に鞍替えするとは思えない。
大坂の陣の理由は関白云々ではなく、豊臣家が徳川の不安材料のダントツトップであり、
かつ臣従することをかたくなに拒否したからだろう。
505 :
日本@名無史さん :2006/12/26(火) 12:59:22
>>501 >上位である秀吉が下位である家康に豊臣政権に入ることを強要したことにより
小牧・長久手の前、秀吉は家康を平和的に臣従させるため、自分よりも高い官位を家康に与えているが。
506 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 13:10:03
>>503 政治力学から語るならば、落ちぶれた豊臣氏が関白になれる保証はないんじゃない?
>1603(慶長8)年の幕府開闢以後も、諸大名が大坂の秀頼のもとに伺候し、
>年賀の礼などを継続していたこと。
>そして諸大名が秀頼のもとに伺候することは幕府も認めており、
これは、
>>501で述べたように、上下関係は決まっても主従関係は
まだ確定していないことを証明しているに過ぎない。
幕府はまだ成立して間もない時期であり、諸大名に対し豊臣家への参向を
全面的に禁止できるほどの実力を備えていないことからの妥協にすぎない。
507 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 13:11:15
>実力がすべての戦国時代に覇道王道を持ち出すのはいかにもおかしい
秀吉は例え表面上でも後世に誹られる横暴はしなかったが。
私も当時の「力の論理・覇者の論理」を否定しない。
ただ如何にも横暴な徳川のやり方を正当化し賛同する意見に異を唱えるだけである。
☆先ほどの引用の前段、
従来は関ヶ原合戦に勝利した家康が諸大名に卓越した力を持ち、
戦いの3年後には征夷大将軍について幕府を開き、
豊臣秀頼は摂津・河内・和泉3ヶ国65万石余りの一大名に転落したと捉えられて来た。
しかしこの理解は誤りであり、豊臣秀頼は将軍家としての諸大名とは
別格の全国統治権を持つ「公儀の家」としての家格と実力を有しており、
秀頼の成人のあかつきには彼が関白につき再び豊臣の世が復活するものと、
当時の人々には考えられていたということが証明されてきている。
だからこそ大坂冬の陣・夏の陣によって、軍事的に豊臣氏を排除する必要があったのだ。
豊臣氏が徳川家と並ぶ「公儀の家」として諸大名の上に君臨していたと見なせる証拠は幾つもある。
508 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 13:17:39
☆引用、
さらに四つ目に、徳川氏は諸大名に自己の居城の普請を命じているが、
この際には秀頼に普請役を命じていない。
さらに1606(慶長11)年の江戸城普請に際しては、
秀頼の家臣が大御所家康・将軍秀忠の家臣と並んで普請奉行に任じられており、
このことは、秀頼は将軍や大御所と並んで諸大名に天下普請を命じる立場にあり、
豊臣家が公儀の家としての家格を有していたことを直接的に証明するものでもある。
また五つ目に、1605(慶長10)年頃に作成された伊勢の国(三重県)絵図において、
諸大名の領主名と並んで秀頼の家臣が数名領主としてその名を記載されており、
秀頼が依然として伊勢の国に設定されていた太閤蔵入り地の支配を継続している可能性が示されている。
そして1604(慶長9)年に讃岐(香川県)の生駒領内にある太閤蔵入り地についての算用書が残されており、
ここを差配していたのが秀頼近臣の片桐且元であることを考え合わせると、
秀頼が65万石の一大名ではなく、全国に多くの太閤蔵入り地を保有していた可能性も示されている。
このような証拠を並べて見ると、豊臣秀頼は秀吉が築いた豊臣公儀体制の頂点に今だ君臨しており、
将軍家康は豊臣公儀体制の大老筆頭として政務に当たっていたと見なされるのだ。
509 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 13:26:18
☆引用、
そしてこのことはさらに2つの事例で裏付けられる。
その一つは、1611(慶長16)年3月の京都二条城における家康と秀頼の会見のありさまである。
家康は二条城に到着した秀頼を庭に降りて迎え入れ、
御成りの間という二条城御殿の最高の場に案内している。
そしてその後の会見の儀礼においては家康が両者対等の儀礼で行うことを
提案したが秀頼がこれを固辞し、家康に御成りの間を譲ってこれに拝礼した。
これは家康が朝廷の官位でいえば従一位で秀頼が正ニ位であり、
秀頼が家康の孫婿であったことに基づいた秀頼の判断であり、
家康が両者対等の礼遇を提案したのに対する謙譲の作法であった。
そして家康は秀頼の二条城退出にあたっては玄関まで見送っている。
まさしくこの時点においても、豊臣家と徳川家は対等の存在であったのだ。
続く、
510 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 13:28:13
続き、
またもう一つ、豊臣秀頼が諸大名とは別格の存在であったことを示す証拠がある。
それは、この1611(慶長16)年の4月に幕府が出した、
「頼朝以後の代々の将軍家が出した法度は守らねばならず、
あわせて江戸より出された法度も守られねばならない」
とした3ヶ条の誓紙の問題である。
このとき、天皇の代替わりを祝賀するために二条城に集まっていた
西国大名のうちの主だった22名がこの誓紙に連署し、
さらに翌年の正月には東国大名が同じ文面の誓紙を出している。
この3ヶ条の誓紙は神に誓うという形をとってはいるが、
江戸幕府が出す法令に諸大名が服することを初めて定めたものであり、
徳川氏の覇権を示すものと受けとめられている。
しかしこの誓紙に豊臣秀頼は連署しておらず、これを求められた事実もない。
ということは、秀頼は徳川氏と同じく諸大名の上に君臨する存在であることが示されているのだ。
こうして関ヶ原の戦いや幕府開闢以後においても、
朝廷の権威の下で全国の統治権を総覧する存在としての
「公儀」とそれを構成する「公儀の家」という
近世政治秩序の頂点に豊臣氏は依然として君臨し、
将軍家である徳川氏はそれを補佐ないしは代行する存在であったことがわかる。
そして統治権に関る様々な儀礼が、京都の二条城か伏見城で行われていることは、
この時期の政治の中心地は依然として京都であり、
豊臣の世は依然として続いていたことを示している。
511 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 14:00:01
☆将軍位に関する引用、
征夷大将軍は、武家の棟梁がつく最高の官職であり、
じつは豊臣政権はその内部に、この官職を内包していた。
徳川家康は豊臣公儀体制の下で、事実上の武家の棟梁の地位についていた。
それは1587(天正15)年の12月8日のことである。
このとき家康は従来の従二位権大納言の官職にあわせて
左近衛大将および左馬寮御監の地位についた。
この官職は一般の大名がつくものではなく、
征夷大将軍とほぼ同格の右近衛大将の一つ上の官職であり、
征夷大将軍が兼ねることの多い右馬寮御監の一つ上の官職である。
ということは、関白秀吉の下で諸大名が後陽成天皇の前で秀吉に臣従を誓ったその同じ年に、
奥羽・関東の仕置きを任されている徳川家康が、
豊臣公儀体制の中で武家の棟梁の地位についたものと解釈できるし、
事実上の征夷大将軍とも言える地位にあったことを示している。
つまり豊臣公儀体制はその内部に、
武家の棟梁としての将軍の地位までも包摂するものであったということだ。
>>507 >ただ如何にも横暴な徳川のやり方を正当化し賛同する意見に異を唱えるだけである。
あなた潔癖すぎるんじゃないの?
横暴悪逆なんでもござれみたいな事例に枚挙にいとまがない戦国時代、
家康程度の横暴者はいくらでもいるというのに。
家康程度の横暴者はあの時代他に居ないことも無かっただろうが、
家康には彼のやることなすこと全て正当化して褒め称えようとする変な連中が江戸時代から憑いてるからなあw
それに反感を持つ人間が居るのも極々自然なことだと言える
514 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 15:22:14
>あなた潔癖すぎるんじゃないの?
かもしれないな。
うちは北摂で近所に石田三成軍旗塚がある、その関係かもな。
因みに近辺は石田姓がやたら多いぞ。
>>332や
>>369の後段でも指摘したが、
痛快感爽快感がなく、
これが日本史上トップの所業だと思うとやるせないのだよ。
老いの焦りとも言えるが「勝ちゃぁいいんだよ」的なやり方に。
秀吉も主家の簒奪や横暴はあったと言えるがそれなりに収めている。
>>514 そうか?方広寺のいいがかりなんかむしろ爽快さを感じるが。
難癖キターーーーー!!ってなw
516 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 16:37:07
>>507 長いなあ……。そのエネルギーには感服するよ。
将軍宣下以降も徳川が豊臣の公儀を完全に否定できなかったのは確かだよ。
それは徳川の権力が万全ではなく、豊臣恩顧の大名に気をつかう必要があったから。
けれども、力量的に上位に立っていたのは間違いなく徳川であり、
家康としてはそういう支配構造のねじれを解消し、徳川の天下を万全なものとする必要があった。
ゆえに豊臣に対し臣従するよう脅迫し、豊臣がそれを拒否した為に起こったのが大坂の役。
君はさも徳川と豊臣が並立しているように(あるいは豊臣が上位にあるように)言うが、
諸大名の心が徳川にあったのは、大坂の役で豊臣に味方した大名が一人としていなかった
ことからも明らかで、これはつまり、諸大名が徳川を天下人として認めていたということの証拠だよ。
517 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 16:53:44
>>510 「公儀」という言葉を持ち出すのであれば、1588年までは足利義昭が「公儀」と呼ばれており、
豊臣政権が公儀とされるのは1590年以降であることを紹介しておく。
ということはそれまでの豊臣政権は、足利義昭の下で政治を行っていたということでいいのかな。
>そして統治権に関る様々な儀礼が、京都の二条城か伏見城で行われていることは、
>この時期の政治の中心地は依然として京都であり、
>豊臣の世は依然として続いていたことを示している。
あまりにも無意味な指摘だ。
家康は1603年2月までは完全に豊臣家の家臣であった。
伏見で政務を執るのは当たり前のこと。
1603年2月に徳川家の京における居城である二条城が竣工してからは二条城に移っている。
>>511 あまりにも無理がありすぎるでしょ……。
征夷大将軍は征夷大将軍。左右の大将は左右の大将。
左右の大将に征夷大将軍の権限はない。
頼朝以来数多くの人物(武家公家問わず)が左右の大将に任じられているが、
それらの人物はすべて武家の棟梁たる人物であったか?
>>511 >征夷大将軍とほぼ同格の右近衛大将の一つ上の官職であり、
この理屈はよくわからないな。
頼朝が征夷大将軍になる以前に右大将になっていたことはあるが、
その一事を以て征夷大将軍と右大将がほぼ同格だといっているのかな。
本来左右の大将と征夷大将軍は全く別次元のものなんだけど。
>征夷大将軍が兼ねることの多い右馬寮御監の一つ上の官職である。
足利将軍が若いころに就任する右馬頭は五位相当のそれほど高くない官だよ。
これより上の官職についていた大名は多い。
519 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 18:42:28
思えば家康もかわいそうだな、将軍就任は一時的なものと豊臣恩顧の大名らに説明し、
豊臣との共存を考えていた家康であって、秀忠の官位も慶長19(1614:右大臣)年
に追いつくまで秀頼の下位にしていた。ところが、慶長16〜18年に加藤清正、堀尾吉晴、
浅野長政、浅野幸長、池田輝政らが相次いで死んでしまい、家康に悪心がきざしてしまった。
上洛した場合、将軍家よりも先に秀頼にあいさつする連中がいなくなれば怖いものはない。
520 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 19:00:43
>>517 義昭は1588年に出家し将軍辞任。矛盾はない。
>>518 まず、
右馬頭ではない左馬寮御監である。
>本来左右の大将と征夷大将軍は全く別次元
馬寮御監は左右近衛大将との兼務が慣例とされたためにその官位相当は
従三位であり馬寮(武家)では名目上の最高職
室町幕府では将軍がその上に立つ馬寮御監を兼務した。
>武家の棟梁たる人物であったか?
左近衛大将
源実朝 徳川家康
右近衛大将
源頼朝 惟康親王 足利義満 足利義持 足利義教 足利義政 足利義尚
足利義晴 織田信長 徳川秀忠 徳川家光
朝廷では明文化されてなくとも、前例があればそれが通用する。
左近衛大将および左馬寮御監が、将軍=右近衛大将より上位の扱いだったのは、
実朝が宣下された時の故事から言っても相違ない。
つまり家康の左馬寮御監就任=武家の棟梁との解釈は的外れではない。
って言うかさぁ、自分で調べてその解釈は違うとか反論反証すれば?
せめて左右馬頭と左右馬寮御監の違いくらいは調べてよ。
>>519 これまた随分と徳川にとって都合よく死んでるよなwとも思えてしまう死の連鎖だしね
本来大坂城の付け城的意義もあった姫路城の池田輝政
浅野と加藤の死は二条城までの往復行程をそれこそつききりで秀頼警護した後
522 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 19:16:31
>君は[さも]徳川と豊臣が並立しているように(あるいは豊臣が上位にあるように)言うが、
>諸大名の心が徳川にあったのは、大坂の役で豊臣に味方した大名が一人としていなかった
>ことからも明らかで、これはつまり、諸大名が徳川を天下人として認めていたということの証拠だよ。
名目上の上位下位あるいは並立と、諸大名が徳川に味方したのとは無関係。
大義無くとも自家を守る為に強者に味方するのは仕方ない。
しかしそれをもって心がどこにあったか言うのは私見。
523 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 19:47:29
>>520 >
>>517 >あまりにも無理がありすぎるでしょ……。
>征夷大将軍は征夷大将軍。左右の大将は左右の大将。
>左右の大将に征夷大将軍の権限はない。
>頼朝以来数多くの人物(武家公家問わず)が左右の大将に任じられているが、
>それらの人物はすべて武家の棟梁たる人物であったか?
全く反論になってませんね。近衛大将は公家でも任じられていて、武家の専売特許ではない。
公家が馬寮御監に就任したら、その人物が武家の頭領になったとでもいうのか。
それに将軍=右近衛大将っていつそんなことが決まったのだろうか。
524 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 20:12:02
>>520 いやだからね、どこをどうほじくりかえせば征夷大将軍=右大将なんて
トンデモ解釈が出てくるのよ。
トンデモ解釈に対して「反論反証すれば?」とか言われてもな……。
頼朝は征夷大将軍になるために右大将を辞任している。
つまり、頼朝はその権力の由来を征夷大将軍という職に求めたのであり、
君が言うように前例でものを言うならば、武士が右大将を武家の棟梁とみなすはずがない。
ちなみに、頼朝以降も藤原公継や藤原公経など、武士以外で近衛大将に就任している人物が
いることからも、近衛大将=征夷大将軍=武家の棟梁は明らかに間違いであることがわかろう。
確かに征夷大将軍は慣例として右大将を兼任してるけどね。
あくまでも兼任であって、イコールではない。
>>522 御家を守るために諸大名は徳川に味方したんだよ。
御家存続が大名の最大の務めなんだから。
その事実だけで諸大名の心が徳川>豊臣であったことの証拠としては十分でしょ。
言っとくが、心ならずも徳川に味方したとか、
そういうことを言ってるんじゃないからね。
526 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 21:35:02
中国では幕府とは近衛府将官(外征将軍)の幕舎、
転じて日本では近衛大将の唐名。
その後、右近衛大将源頼朝が征夷大将軍に任ぜられたことから、
転じて征夷大将軍の別称となった。
変遷から近衛大将=征夷大将軍としても的外れではない。
よって武門での左右近衛大将の上位である左右馬寮御監が
武家の棟梁たる地位と言っても過言ではない。
>公家が馬寮御監に就任したら、その人物が武家の頭領に
ある時は「一大名またはただの公家が関白になったところで」と言い、
ある時は「公家が馬寮御監に就任したら」と言う。
矛盾してないか。
「秀吉は左馬寮御監・左近衛大将を兼任させることによって、
間接的に将軍職・幕府をも支配下に置いたのかもしれない。」
この説は笠谷和比古氏「関ヶ原合戦−家康の戦略と幕藩体制」からの引用
であるから疑問があるなら笠谷氏に質問すればいい。
新しい説が出て来ても古い説を盾に取って論難するのは昔からだが。
>>526 4行目までは「前」右大臣であることをのぞけば間違っていない。
しかし、5行目は明らかに的外れ。というか間違い。
以下、日本史広辞典より引用
「大将:衛府の長官の官名。令下の中衛府・授刀府・近衛府・外衛府の長官。
平安前期に六衛府制に固定されてからは、左右近衛府の大将が後世まで存続した。
武官の最高職として栄誉職化し、大納言あるいは大臣が兼任するようになった。」
どこにも大将=征夷大将軍なんて記述はありませんがな。
ここでいう武官とは、もちろん武士のことではない。藤原氏も当然近衛府の職についている。
新しい説が的外れであるならば、否定されるのは当然のこと。
古い説を盾に取っているのでもなんでもない。
そもそも、将軍就任時に大将であった(あるいは大将になった)のは徳川将軍だけだと思うが。
もういっちょ日本史広辞典からいきましょうか。
「幕府:歴史的用例としては、中国で出征中の将軍の陣営を意味したものが、
日本では近衛府の唐名から転じて近衛大将およびその居館、のちに武家政権の
首長である征夷大将軍およびその居館、さらに武家政権そのものを
意味するようになった。」
これを普通に解釈すると、幕府=近衛大将、幕府=征夷大将軍ではあるが、
近衛大将=征夷大将軍とはどこにも書いていないな。
幕府とは「近衛大将」または、「征夷大将軍およびその居館あるいはその政権」を意味する、
と解釈するのが普通なのではないかな。
>>527ですが、
>4行目までは「前」右大臣であることをのぞけば間違っていない。
ここ、俺が間違ってるな。
○前右大将
×前右大臣
530 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 22:14:09
>>526 論理が滅茶苦茶。
しかも「質問があるなら笠谷氏に」ってか。
引用したくせにずいぶん無責任ですこと。
531 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 22:41:06
ねえ、もうそろそろ関ヶ原の話をしようよ
>>526 >ある時は「一大名またはただの公家が関白になったところで」と言い、
>ある時は「公家が馬寮御監に就任したら」と言う。
>矛盾してないか。
何を言っているのか。言っている意味がよくわからん。
>この説は笠谷和比古氏「関ヶ原合戦−家康の戦略と幕藩体制」からの引用
>であるから疑問があるなら笠谷氏に質問すればいい。
>新しい説が出て来ても古い説を盾に取って論難するのは昔からだが。
笠谷氏に丸投げするのなら、最初から笠谷説の引用のみに留め、議論などしなければよい。
しかも反論を「論難」よばわりですか。なんか新説=正しい 旧説=誤り と妄信しているみたいだ。
533 :
金吾秀秋:2006/12/26(火) 22:58:45
よくわからないけどカルピスのむ(´・ω・`)?
534 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:01:58
>>528 >近衛大将=征夷大将軍とはどこにも書いていないな
吾妻鏡に「将軍に補せしめ給うの後、今日政所始あり」
とあるが、これは頼朝の征夷大将軍就任前1191年、前の右近衛大将時の記述。
日本史広辞典に書いてないから、が理由では短絡的。
535 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:16:46
>>402 主家簒奪?
あくまで将軍は朝廷の権威下につくべき存在ですよ。
薩長は官軍であり、賊軍は徳川幕府ですよ。
536 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:19:44
>>411 暗殺か毒殺だろうなー豊臣恩顧の武将が関が原語次々に死んでいるんだよね。
漫画あすみみていると、毒殺や暗殺は恥だとして病死あつかいになると描写されてた
秀頼も柳生あたりに殺されるだろう。
上忍だし
537 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:21:20
>>416 薩摩、長州は徳川に征服されたことは無い。
逆に征服してやった。
薩長も250年間参勤交代させたし朝廷も法度で取り締まっていた
だがアメリカの開国要求によって崩壊に導かれた
その後の尊皇思想を極限まで高めた大日本帝国もアメリカがぶっ潰した
アメリカこそ日本の支配者だな
539 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:41:43
>>532 >笠谷氏に丸投げするのなら、最初から笠谷説の引用のみに留め、議論などしなければよい
では君らの論拠はどこから出たんだ、出典があるではないか。
それとも独自で理論を創造し議論しなきゃならんのか?
幕府は征夷大将軍でなくとも近衛大将でも開く事は可能。
よって右大将任官が行われた1190年を鎌倉幕府成立年度とする説もある。
吾妻鏡の記述を見ても将軍=近衛大将はほぼ同意と扱われてたと見てよかろう。
幕府=近衛大将、幕府=征夷大将軍であるのだから、
近衛大将=将軍と記された可能性はある。
540 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:42:48
>>534 三位以上の者であれば政所を設置することができる。
関白でも右大臣でも左大臣でも開くことができる。
そのことを以てして将軍=近衛大将の証拠とはならない。
そもそも鎌倉幕府の成立年代には諸説あってはっきりしていない。
だがしかし、頼朝が御家人統治のために将軍に就任したのは確かである。
541 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:46:38
>>535 幕府の家臣である薩長が幕府を攻め滅ぼす大義名分を獲得するために
天皇を担いだのであって、薩長が最初から官軍であったわけではない。
こんなことまで説明しないとわからんのか。
542 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:52:02
>近衛大将=征夷大将軍とはどこにも書いていないな
と書いてあったから、
吾妻鏡に前右大将頼朝を「将軍」と記してることを指摘した。
>鎌倉幕府の成立年代には諸説あって
政所成立は1190年または1185年、他説も征夷大将軍任官以前。
吾妻鏡は将軍が政所を始めた、と書いている。
wikiが出典で悪いけど、政所って
A 親王、三位以上の公家の家政を担当する機関。平安時代に設けられた
B 鎌倉幕府の職制の一
C 室町幕府の職制の一
なわけでしょ。このときの頼朝の位階は知らんけど、通常右大将は従三位以上だから、
その吾妻鏡でいうところの政所ってAなんじゃないのか。
ちなみに鎌倉時代の政所(Bだな)の設置は、1191年に公文所の改称によるものとされている。
これはその吾妻鏡の記述の翌年のことだ。
544 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:55:21
>関白でも右大臣でも左大臣でも開くことができる
頼朝が政所を開いた時は前右近衛大将。
関白でも右大臣でも左大臣でもない。
545 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:57:38
>1191年に公文所の改称によるものとされている
ウィキの記載はずれる。学説は1190年。
1191年にしても将軍宣下以前。
546 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 00:04:44
>頼朝が御家人統治のために将軍に就任したのは確かである
そんなことは尋ねていない。
吾妻鏡の記述は将軍=頼朝=前近衛大将の意味だが?
547 :
日本@名無史さん :2006/12/27(水) 00:11:02
>544
頼朝は二位の位だったわけだが。
当時から「二品」と呼ばれている。
548 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 00:15:08
>頼朝は二位の位だったわけだが
では二品=将軍か?
否、二位は官位であり有り得ない。
将軍=大将の方が同じ武官であり説得力がある。
549 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 00:21:36
>>530 尻馬に乗った金吾のような人、助け舟出さないの?
550 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 00:29:50
つまり吾妻鏡では右大将のことを「将軍」と称しているが、
これはもちろん征夷大将軍のことではなかった。
右大将左大将で幕府をひらくものも現れず、後世の研究でも「近衛大将=征夷大将軍」
と評価する人も(ごく一部の異端を除けば)いない。
ということだね。吾妻鏡の表現がいささか勇み足だったということか。
後世なら将軍=征夷大将軍となるが
当時はそういう意識はないし頼朝が征夷大将軍になる前はなおさら存在しない
律令下では将軍と呼べるものは他にもあったわけだ
頼朝は少しづつ既成事実を積み上げて政治機構を整えた後のとどめに征夷大将軍に就いた
このことによって将軍とは征夷大将軍のことだと世の認識が変わった
552 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 00:41:32
どこにも書いてないと言うから、
吾妻鏡の記述を指摘したら、今度は吾妻鏡を勇み足呼ばわりかね。
結局歴史はそれぞれの取りよう読みようで、
どちらでも解釈できるということで、
江戸時代の学者たちも喧々諤々やっていた。
現代になっても変らんということだ。
554 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 00:57:58
>>552 吾妻鏡に右近衛大将=将軍 と書かれていることはわかった。
でも軍司令官のことを将軍ともいうし、鎮守府将軍だって「将軍」だよね。
つまり将軍=征夷大将軍とは限らないわけだ。
で、この将軍ってのが征夷大将軍のことである、とする根拠は?
555 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 01:05:04
三位以上の者であれば政所を設置することが可能なのだから、
当時二位である頼朝は当然その権利を所有している。
それと征夷大将軍=近衛大将であるというのは別個の問題ではないか?
556 :
553:2006/12/27(水) 01:09:49
>>553に上げたWEBの原文サイトで色々探してみたが、
征夷大将軍を意味する「将軍」という言葉は1192年7月まで出てこないぞ。
軍司令官を意味する「大将軍(義経とか)」や、鎮守府将軍の「将軍」は見えるけどさ。
あとは、坂上田村麿のことを指す「将軍」もあったけど、これは確か1180年代のくだりだった。
関係ないけどさ、大政所や北政所はなんで「政所」なんだろうか?
政所って女性にはあまり縁のないところだよな。
御台所って台所に住み着いていたor台所の監督をしてたんだろうか?
謎だ。
558 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 08:04:52
>>511に話を戻すが、
左近衛大将=左馬寮御監>右近衛大将=右馬寮御監であり、
一般の「大名」が就くものではなく、
征夷大将軍とほぼ同格の右近衛大将の一つ上の官職であり、
征夷大将軍が兼ねることの多い右馬寮御監の一つ上の官職である。
左近衛大将=左馬寮御監>右近衛大将=右馬寮御監=征夷大将軍である。
馬寮(武門)において左馬寮御監は右馬寮御監の上官であり源実朝が就いている。
このことから家康の左馬寮御監就任が
豊臣公儀体制の中で事実上武家の棟梁の地位についたとの解釈は奇異ではない。
>>558 近衛大将と馬寮御監は密接な関係にあったが、
近衛大将と征夷大将軍は、兼ねることはあったものの、別個の職。
右大将=征夷大将軍ではない。
豊臣政権は武家政権ではありながら、頂点に関白をいただき、
有力大名に内大臣、大納言、中納言等を与えて秩序を構成する、
鎌倉幕府、室町幕府とは異なる、貴族政権的な一面をもっていた。
よって家康の左大将は、従来の武家政権の左大将と比較するよりも、
公家の左大将と比較する方が妥当。
560 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 08:41:20
>>558 >右大将と征夷大将軍は同格
右大将=征夷大将軍は取り下げたのかな。
それでも間違いなんだけどね。
征夷大将軍は令外官だが、従四位相当の位階の高くない官職。
一方近衛府の大将は従三位以上。大納言や大臣が兼任する要職。
全然同格じゃないよ。
また、家康が左馬寮御監に就任したことをもって
彼が武家の棟梁になったというのも飛躍しすぎ。
家康がそのような要職に就いたというのは、豊臣政権内における
彼の存在感の大きさを示す証拠にはなりえるが。
さらに言うと、その時点で家康が武家の棟梁になっていたのであれば、
関ヶ原ののちに家康が行った武家の棟梁に就くための工作はなんであったのか。
561 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 08:41:30
>>541 島津と毛利が徳川と同位と位置づけれれたのは維新後だっけ?
それとも倒幕起こす直前? 王政復古の頃?
562 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 09:05:40
おはようー、早いね。毎日議論してると妙な親近感がわくな。
>右大将=征夷大将軍は取り下げたのかな。
昨日は混乱してたが、
511には「ほぼ同格」とは書いたが「=」とは書いていない。
558は511から抜粋した。
家康が同職に就いたのはおそらく秀吉の工作(嫌がらせ)だろう。
同時期、義昭が将軍を辞し家康は源氏への改姓手続きをしている。
そこで秀吉は将軍では無いが上位の左近衛大将=左馬寮御監に
家康を就け自らは関白として上覧する、図式を作ったと推測する。
秀吉は将軍に「なれなかった」では無く「ならなかった」説を採るなら、
関白が上位、との菊亭のアドバイスを受けた秀吉が、
その権力を誇示したと考える。
563 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 09:29:55
>家康が行った武家の棟梁に就くための工作はなんであったのか
他の武門職は公家も就ける、
狭義の武家の棟梁は源氏の長者だが、秀吉時代に同職に就いていない。
あくまで相当の地位である。
また、将軍辞任時も長者は辞していないことからして、
家康の中では源氏長者こそ棟梁との認識があったと推測。
564 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 09:41:19
何で征夷大将軍と右近衛大将が同格などといいだしたのか知らないけど、
あえて言うなら、征夷大将軍と同格なのは左近衛中将だよ。
もちろんあえていうなら、だけど。
565 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 09:49:31
>征夷大将軍は令外官だが、従四位相当の位階の高くない官職。
>一方近衛府の大将は従三位以上。大納言や大臣が兼任する要職。
>全然同格じゃないよ。
官位は同格ではないが足利では同時就任がほぼ前例。
歴代がそうだったなら、ほぼ同格とするのが日本史の慣例。
後白河法皇は将軍を望む頼朝に右大将を与えた。
同じ武門職だから上位を与えれば喜ぶ、の考えと思われ
事実公家社会では1つでも上位を望んだ。
だが頼朝は同職を10日で辞し本来下位の将軍にこだわった。
『大将は軍を興すに節刀が要り、将軍は自由裁量』
この一見平凡な前例を法皇・頼朝の両者が見抜いてた。
566 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 10:01:38
『大将は軍を興すに節刀が要り、将軍は自由裁量』
説明補足、
将軍は1度なってしまえばあとは自由裁量。
567 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 10:02:36
>>565 >官位は同格ではないが足利では同時就任がほぼ前例。
議論に勝ちたいからってすぐにばれる嘘はよくないな。
足利将軍
義昭
将軍1568
中将1568
大将×
義栄
将軍1568
中将×
大将×
義輝
将軍1546
中将1547
大将×
義晴
将軍1522
中将1523
大将1546
義植
将軍1490
中将1490
大将×
568 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 10:11:07
>>565 >官位は同格ではないが足利では同時就任がほぼ前例。
>歴代がそうだったなら、ほぼ同格とするのが日本史の慣例。
これは大嘘。ちゃんと調べて書きなさいね。
以下、足利将軍の将軍就任時の官職内訳
権大納言 1名 尊氏
左中将 6名 義詮ほか
右中将 2名 義量ほか
左馬頭 6名 義満ほか。
征夷大将軍任官時に右大将だったのは、徳川将軍だけだ。
569 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 10:14:05
大将
足利義満 足利義持 足利義教 足利義政 足利義尚 足利義晴
同時とは職を兼ねるの意味で同時期就任ではない、その点は素直に表現が悪かった。
570 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 10:15:25
義澄
将軍1494
中将1502
大将×
義尚
将軍1473
中将1473
大将1486
義政
将軍1449
中将1449
大将1455
義勝
将軍1442
中将1442
大将×
義教
将軍1428
中将1429
大将1429
義量
将軍1423
中将1417
大将×
571 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 10:23:20
義満
将軍1369
中将1373
大将1378
義詮
将軍1350
中将1358
大将×
尊氏
将軍1338
中将×
大将×
572 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 10:39:22
>>569 ん?ますます主張の趣旨が通らなくなったが。
将軍は生涯で多くの官職についたものだが、
なんでその中の右大将に固執するんだ?
就任時期で言うなら大将より中将の方が近いし、
就任人数ならば権大納言(10人)のほうが多い。
何で中将=征夷大将軍 権大納言=征夷大将軍ではなく、
右大将=征夷大将軍なんだろうか。
ちなみに義晴は征夷大将軍辞任と同時に右大将。
近衛大将は征夷大将軍より明らかに格上だな。
青大将は?
575 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 11:43:18
>なんでその中の右大将に固執するんだ?
政所を開所した前右大将頼朝が吾妻鏡で将軍と書かれ、
その後征夷大将軍に就任し幕府が大将の幕営から将軍の幕営に転じた変遷に拠った。
(なお頼朝は権大納言にも就いているがこれは兵馬の官ではないので除外)
幕府・将軍に関する故実は家康が言うように先ず頼朝に拠ると考えた。
・頼朝の本望ではなかったとされる右大将だが吾妻鏡には(前)右大将と記されることが多い。
つまり頼朝=右大将から短絡的に、征夷大将軍=右大将と思い込んだというわけね。
実態を見ればそんな誤解に陥らなかったんだろうけど。
577 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 16:22:06
遡って読みましたが凄い論争ですね。ご両所おつかれさまです。
503以降の豊臣派?の提示に徳川派?は、511の将軍&大将問題に反論したほかは
516で少ししか反論してません。
将軍&大将論争は大迫力でしたが、やや上げ足取りの感も。
503以降への反論が見たいのですが・・・
主張の根源になる部分が間違っていて、それを指摘するのが揚げ足取り?
笑っちゃうな。
503周辺の豊臣派への反論は516の説明で充分だろう。
上下関係のねじれを無理やり修正しようとした結果が大坂の役だ。
それから
>>575 >政所を開所した前右大将頼朝が吾妻鏡で将軍と書かれ、
今日図書館で確認してきたが、国書刊行会(底本は吉川本)には書かれていなかった。
本文にも、注釈にもなかった。
コピーをとってきたので、ご希望とあらばUPしますよ。
579 :
日本@名無史さん :2006/12/27(水) 17:43:43
源実朝は従五位下で、征夷大将軍に任官されたけどね。
実朝は右中将になったが、右大将ではなく左大将へ昇進した。
580 :
金吾秀秋:2006/12/28(木) 18:44:29
議論終了(´・ω・`)
あとは、俺の輝かしい関ヶ原・伏見城・佐和山城の戦史を書き込もう(´・ω・`)
金吾ちゃん三成のことどう思う?
582 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 20:06:10
金吾ちゃん金玉秀掻のことどう思う?
583 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 20:11:26
584 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 20:12:18
秀秋=グルーシー
585 :
金吾秀秋:2006/12/30(土) 21:54:02
三成はよくがんばったな(´・ω・`)
586 :
金吾秀秋:2007/01/02(火) 18:08:02
おせちうまうま(´・ω・`)
587 :
日本@名無史さん:2007/01/02(火) 22:08:13
金吾ちゃん
あけましておめでとうございます
おせちの中では何が好きですか
588 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 14:16:33
589 :
金吾秀秋:2007/01/03(水) 19:24:24
ブリがすき(´・ω・`)
590 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 20:06:24
家康のカウンターパートって誰?
秀家?輝元(秀元)?
隆景が生きていたらなあ。
隆景存命なら関ヶ原は違う展開だろうな
そもそも関ヶ原がおこらないだろうというのは置いといて、史実ままに大垣を前線として西軍、
赤坂を前線として東軍がいたとする
南宮山の毛利秀元と吉川侍従はそもそも南宮山に布陣しない
麓にいた安国寺、長束、長曾我部も動ける
東軍の南宮山監視部隊である浅野山内も動ける
となると西軍は石田、宇喜多、大谷、小西の約3万に加えて島津1千、秀元&吉川2万、
小早川1万5千、長曾我部6千
東軍7〜8万vs西軍7〜8万
東軍は徳川秀忠隊3万5千、前田1万5千がプラスファクター
西軍は大津組1万5千、大坂城毛利本隊2万、豊臣旗本衆(秀頼出馬)がプラスファクター
隆景は御家大事主義者でそれも小早川ではなく毛利に対してだ
そんな隆景にとって最も嫌なのは毛利が存亡のかかる大戦に参加することだろう
三成が毛利を担ぎ上げようとすれば必ず阻止するのは間違いない
それどころか本能寺後に秀吉を天下人とみて接近したように
家康を天下人と判断して接近する可能性の方が高い
この時代の人間は早死にすればするほど美化され過大評価されるが
彼らが豊臣家を守るために命を賭ける可能性なんて残念ながら少ないと言わざるをえない
593 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 22:33:00
どうかな、家康が強大な毛利家をそのまま残すはずが無いと見て打倒家康に動くんじゃないか。
594 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 22:54:23
輝元が出陣するなら、兵力はどのくらいで
どの場所に布陣していた可能性が高いの?
大軍を指揮できる小早川隆景や前田利家が健在なら、そもそも家康が動くはずがない
596 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 23:21:19
三成は裏切られることを想定できないほど馬鹿だったのか?それとも追い詰められて根回しする暇がなかった?
597 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 23:29:17
隆景は朝鮮駅で総大将のような任務を経験済み。
気の利いたのが残ってるなら、上杉討伐軍出すとしても当事者の徳川軍と
援軍となる他軍勢の指揮は分けるくらいはするかな。
文禄の有り様を見る限り隆景には期待できそうもないが
600 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 23:59:41
寄り合いの大軍を動かすのは難しい。
さすがの家康も関ヶ原、大坂と余りうまく動けていない。
601 :
日本@名無史さん:2007/01/04(木) 04:31:17
碧蹄館で会戦での明戦軍大破は後々まで帝国陸軍の研究材料とされたわけですが?
602 :
日本@名無史さん:2007/01/04(木) 06:13:25
>>594 松尾山城。
松尾山城は総大将毛利輝元の陣城となる予定だったそうです。
三成の書状に「松尾山に中国衆をいれおき・・・」という意味の文があるそう
です。
そのために、予め伊藤某に城を整備させておいたそうです。
百歩譲っても、輝元の代理である秀元が布陣するべきなのであって、
断じて金吾ちゃんではないはずなのです・・・
隆景存命なら毛利第一主義で動くのは間違いないと思う
ただし山陽山陰北部九州12ヶ国を削らず徳川が味方大名にどこを恩賞地にするのか?と
考えればどうしても無事に済むとも思えない
おまけに徳川というのは近畿以西の大名とはもともと縁が薄い
豊臣とは秀吉中国攻め以来の縁でさらに瀬戸内の海運利権でも繋がりが深い
となればお家大事の為にこそ積極的に西軍参加で毛利4万吉川1万小早川1万5千は
広大すぎる毛利領の保持を賭けて動かざるをえない
604 :
日本@名無史さん:2007/01/04(木) 11:08:11
隆景存命if
>本能寺後に秀吉を天下人とみて接近したように
>家康を天下人と判断して接近する可能性の方が高い
この部分、詰めてみたい。
隆景が秀吉に家運を掛け成功したのは見事だが、
これは単に力量に拠ったのか秀吉の人柄をも勘案したのか。
秀吉死後、人変りした家康見てどう動いたか。
>山陽山陰北部九州12ヶ国を削らず徳川が味方大名にどこを恩賞地にするのか?
毛利が三成の誘いに乗らなかったら戦いの規模も大きくならず、よって恩賞も大きくならなかった。
まあ、毛利が立たなかったら三成の立たず上杉の挑発も無かったかもしれないが。
家康の戦略は大乱を起し豊臣秩序を崩すことだったから、
隆景や利家が生きてたら大乱の種火を起すのに苦労したのは確かでしょうね。
605 :
日本@名無史さん:2007/01/04(木) 11:48:20
東軍が先に動いて、家康が笹尾山に布陣していれば
どんな布陣になったであろうか?
いくら隆景本人が秀吉個人の人柄に傾倒していようが、
それで秀吉死後の豊臣家に義理立てするほど隆景は甘ちゃんじゃないし、またそうする理由もないと思われ
隆景が家康と対立することが有るとすれば、上でも出たように
来るべき徳川政権における毛利家の相対的な立場低下を怖れての場合でそ
隆景が存命かどうかでえらい違いが出てくるな
関ヶ原のような天下を2分したようないくさは起きないような気がする
隆景(毛利衆)が味方した方が楽々勝ちそうだ
毛利宗家も下手したら天下狙えそう
能天気だなぁ
609 :
日本@名無史さん:2007/01/04(木) 21:03:21
家康は7万5千の兵力が動員可能だったらしいけど、なぜ関が原には3万だけで布陣したの?
610 :
OPS:2007/01/04(木) 21:48:27
三成が挙兵した時軍を上方に引き返させる時殿軍として結城秀康に二万。
そして上田で足止めを食らった秀忠に三万数千。
611 :
日本@名無史さん:2007/01/04(木) 21:55:24
秀忠に兵を預けないで、家康が7万5千の兵を率いたら良かったのに・・・
>>609 秀忠は最初から上杉・真田の抑えだったということだろうなw
伊達もあるし
がら空きの江戸急襲されたらやばいしな
613 :
日本@名無史さん:2007/01/04(木) 22:09:28
家康が7万5千の兵力で関が原に出陣して、秀忠が5千の兵力で江戸に残留して
秀康が5千の兵力で殿軍を引き受けたら、どんな可能性が考えられる?
箱根で渋滞起こして圧死者がでる
軍を分けたのは純粋に東海道経由で徳川だけでも7万↑の軍を移動させることが困難だったからだろ
それに尾張→美濃→近江→山城→摂津で大坂目指すにしても尾張→伊勢伊賀→大和→摂津で
目指すにしても、どちらにしろ信濃を放置して進むには後方安全の面ではなはだ不安が残る
まさか東西両軍の戦闘が家康赤坂到着の翌日に関ヶ原1日で終わるとは予想できないし、
もしもそんな予測のもとに補給の計算していた徳川の兵站担当がいたとしたら単なるドアホだ
616 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 08:01:35
関が原の東軍は史実だと8万9千であり、このうち家康本隊が3万だから
もし家康本隊が7万5千なら、東軍は13万4千になる
しかし、進軍が遅くなるため開戦の時期が遅れる可能性がある
西軍は史実だと8万4千だが、時期が遅くなると後詰が到着して増える可能性がある
>>616 小早川が傍観し続けて、輝元と家康の本体が激突したらすごかっただろうな
618 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 08:56:47
>>617 輝元本隊はどれくらいの兵力になりそう?
>>596 秀秋の内応は知ってたが輝元のビビリ様は予想できなかったようだ
いや、小早川の裏切りは予想して無いだろ
もろ背後だし
大谷だけが予想してた
それに備えて配備した脇坂、朽木まで寝返るとは予想してなかっただろうがW
621 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 12:13:40
>>616 秀忠隊以外の関ヶ原家康本隊(除井伊隊)は旗本中心の護衛隊で、
10万石クラスの部隊長がいなかったから攻撃能力低かった、
そのヘタレぶりは夏の陣で証明された、との説があった。
とすると、小早川が寝返らず東軍を攻めても家康本隊が出るから問題なし、
とも言えないな。
それに小勢の真田に翻弄された秀忠軍も情けない。
朝鮮で戦ってないから鈍ってたのかね。
徳川はガチ勝負を10年近くやってないし。(正しくは何年?)
小早川毛利が裏切らず秀忠が到着しガチ勝負を見たかったが、
日本史上の戦いの多くが裏切りで決まるから仕方ない流れだね。
日本が一丸となって戦ったっていうの少ないな
そういう関連で太平洋戦争ばかり取り上げられるのも無理はない
島国の歴史ばかり見ていては駄目かもな
>>620 三成方の書状にも裏切り予測したものあったけど、輝元がこなくて仕方なく松尾山にいれたはずだが
624 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 14:59:37
>>623 秀秋に関白薦めるなど前後の行動から見ても想定はしていただろう、
って言うか秀吉が天下統一するまでは裏切り調略は
常道だったから計算外ならその時点で失格。
家康の裏切りを責めてるくせに、味方の裏切りを考えないなんて、
そんなにナイーブじゃないからね当時の人は。
考えて手当もしたが防げなかった・・・
人のフンドシで家康相手に相撲取ろうとした時点で負け。
625 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 17:04:43
>>621 小早川が東軍を攻めたら、吉川が動かなくても西軍が勝つ可能性が高いだろうな
626 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 17:49:19
東軍で三成や輝元、淀殿などに書状出した大名いないの?
心ならずも家康にしたがった者もいただろう
627 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 19:33:43
>>626 それは聞かないな、家康に書状出した西軍大名は多いが。
それだけ西軍が危ういと見られてた証左。
味方を鼓舞する為に毛利の裏切りを軍議で吹聴してたとしたら、
誰も書状なんて書かんだろうし。
>>623 入れたというか、無理やり入ってってとこでは?
629 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 19:54:27
石田三成は負けるとわかっていて何故関が原の戦いにのぞんだのか?
もしかしたら三成は心の中では徳川に帰参していたんじゃないか?
そのためにこの軍事的茶番劇を演じたのでは?
だとしたら、石田三成こそ戦争を終わらせた最大の功労者だ。
徳川秀忠も謎の行動が多い。
秀吉ほどの人物を前に何十年も忍耐した家康が突然戦争に踏み切った
理由。
豊家恩顧の武功派大名はなぜ激怒していたのか?
全てを裏で操っているのは秀忠だったような気がする。
そして一番気になるのが、大名は誰も写真が残っていない
ということ。
家康は実は美男子だったんじゃないか?大谷吉継のグロい顔。
ああ、真実が知りたい!
>>629 上段・・・最後の千円を玉貸し機に突っ込むおっさんの気分
中段・・・エースが好投しているのをベンチで眺めている中継ピッチャーの気分
下段・・・写真なんてまんだ発明されてねぇよ、といいたいが、、、、
欧では一応ピンフォールカメラの原理は知られ利用されていたね
631 :
日本@名無史さん :2007/01/05(金) 23:52:19
>>626 いたと思う。
江戸時代になって、慌てて三成からの書状を隠したor燃やしたんだろう。
隆景存命だとして、前田攻めみたいに毛利だけ攻められたらどうする?
実際に軍事行動起こされてからじゃどうしようもないわな、
その前にオカンでも差し出して和平。
634 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 04:47:05
>>626 堀秀治などは文書が残っている。
>>632 攻められるということは家康が秀頼の後見人として大阪城で権力を
握るということが必要条件だが、隆景が存命ならそんなことにはならない。
635 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 09:59:39
>>616 家康本隊7万5千が陣場野に布陣、輝元本隊2万5千が北国街道に布陣
だったら面白そうだな・・・
家康本隊7万5千が敗走したら、西軍の勝ちは決まりかな?
637 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 11:44:34
>>626 >>631 三成からの書状はあったが一豊みたいに家康に出すか隠滅してるけど、
問いは「三成や輝元、淀殿などに」だから、それは無かったが答え。
638 :
日本@名無史さん :2007/01/06(土) 12:05:50
>>637 あったと思うよ。
関ヶ原で家康が勝つなんて分からないし。江戸時代になって処罰を恐れて証拠隠滅したんだろう。
特に前田利長が怪しいと思う。
639 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 12:08:12
「もはやこれまでか」6時間関ヶ原、コニタンが敗走する時の
言葉、一番かっこいい。
まだだまだやられはせんよby三成
642 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 18:31:37
>>621 小牧長久手(1584)で秀吉軍に勝った徳川軍団が短期間に劣化してたのか!?
その戦いで家康は秀吉を翻弄し「海道一の弓取り」と恐れられたのに。
朝鮮は不参加だけど九州攻めに徳川は参加したの?
小牧の時の徳川軍の中核は精強を謳われた三河兵だけど、
関ヶ原や大坂の陣の時は新領地の関東兵だからそれほどでもなかったんじゃないの
644 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 18:48:39
関ヶ原は違う角度から見ると中央集権を目指した三成ら官僚派と、
地方に大封を残したい大名の争いだから、
三成に極近しい大名以外は味方が少なくなるのは当然。
朝鮮役で減封された小早川は有名だが蜂須賀・黒田も領地を一部没収されてる。
それらを家康が戻したから当然諸大名は家康に靡く。
案外毛利も危機感持ってたのかも。
>>642 まあ北条攻めとその後の奥州仕置きで徳川兵は戦ってるけどね
そこからみてもおよそ10年経験戦闘なし
そして国替えにより当時の駿遠三甲地侍衆はいない
さらに10年もたてば20歳が30歳に、30歳は40歳に
当時の平均寿命を考えればかなり劣化してたと思われる
関ヶ原での旗本衆や上田攻防の秀忠率いる本隊の戦果をみる限り予想以上に
弱体化してたんではなかろうかと
朝鮮に行ってたのは主に西日本大名だしね
646 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 19:14:24
>かなり劣化してたと思われる
夏の陣での本陣旗本の体たらくは酷かったと彦左も書いてるくらいだし・・・
>国替えにより当時の駿遠三甲地侍衆はいない
よく分からないけど地侍は付いて行かないものなの?
徳川は兵農分離されてなかったの?
>>646 そりゃあ国替えでもついていくのはついていく
特に石高だけは大幅加増だしね
現在の軍制で言うなら将校クラス(万石クラス〜国人衆まで)はほぼ一緒に関東行きだっただろうけど
いわゆる下士官クラス(地侍衆)は、ほとんど駿遠三甲に残ったと思う
連れて行くともともと関東にいる地侍衆が大リストラになるわ駿遠三甲から地侍が消えるわで大混乱に
なる
648 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 19:24:02
>連れて行くともともと関東にいる地侍衆が大リストラ
アッそうか、そりゃそうだね。 ありがとう。
649 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 21:57:46
でも、三河以来の家臣はほとんど連れていったんじゃないのかね。
甲州とか駿河とかの新参の家臣はともかく。
隆景だけで家康を牽制するのは無理
隆景がいてたら毛利一門は秀吉の時のように徳川に恭順でしょ
もちろん利家でもダメだし
秀長ですら秀吉の威光がなくなったら家康に屈するとおもわれ
当時の家康に対抗できるのは信長、信玄、秀吉(ボケ前)のみだよ
651 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 22:14:10
>>636 一日で蹴りがついたらの話だろ。西軍が瓦解したのは小早川、吉川の裏切りと
毛利、島津の日和見が大きいけど、家康はまだ関東に地盤がある。
三成とは基盤が違う上に。江戸を攻めるとなれば一月以上の陣営になるな。
そうなれば九州から黒田が上がってくるし(腹に一物かかえてな)
東北でも伊達、上杉になんらかの動きが起こることもありえるぞ。
東軍勝利だと史実どおりだが、西軍勝利の場合、はい三成の天下とは
すんなり逝かない。 とりあえず家康の野望を阻止できたというぐらい。
まだまだ天下の趨勢はわかんないよ?
652 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 22:18:11
それと三成自身にもあまり人徳がないから毛利島津がただでさえ統制できていなかった。
人徳あったら、そもそも徳川への押さえを秀吉からきたいされていた福嶋正則も東に
はしるはずがない。
とりあえず家康の台頭阻止で固まったかにみえる西軍も思惑はバラバラ
徳川がない。しかし秀頼も幼い。
秀吉が吉法師擁立したようにこのまますんなりと三成が天下の覇者となるのか?
絶対波乱ぶくみで推移すると思うね。
653 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 22:23:16
>>647 関東の地侍は一部を除いて庄屋層の地位を安堵されてますから、足軽大将クラスも相当渡ったんじゃない。
それにね、関ヶ原以降の徳川軍が劣化の一途を辿ったというけど、それって根拠薄いのよ
大坂夏の陣、天王寺合戦は別に逃げても良い局面なんだし
関ヶ原では直接戦っていないからそれ以前の問題だし
上田合戦だって絶頂期にも負けてるでしょ
>>645 直参の部下に戦わせることはどんな大名でもできること
赤の他人に殺し合いへの参加を命令できてこそ天下人といえる
そういう意味では関ヶ原は家康が天下人にふさわしいと証明された戦
>>651 黒田がどうやって九州から上がってくるのか、説明してみろよ。
656 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 23:10:44
>>651 輝元が出陣していた場合は、総大将である輝元の名声が上がって天下に近づいた可能性が高いだろう
7万5千の大部隊を撃破したという快挙は、さらに輝元の勇名を馳せることになるだろう
657 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 23:53:27
>>655 黒田は短期間で九州をほぼ制圧している。天下を伺うにたる勢力だと思われ
658 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 23:56:01
>>657 黒田如水が九州を「ほぼ制圧」したというのは初耳だ。
もう少し具体的に、説明してもらえるとありがたい。
660 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 00:06:29
>>657 えええ?九州が黒田領になってたのかよ!!
衝撃の事実!
黒田は豊前一国すら制圧できていなかったと思うぞ。
662 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 00:14:26
>>651 どこで合戦をするのかにもよるが、史実通りの関ヶ原合戦で東軍が負けたとするならば、
地形からいって東軍は袋の鼠となり、大打撃を受ける可能性が高い。
徳川の威信も失墜。そんな徳川にだれがつくかね?
664 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 00:36:00
>>650 何でそう思うのかな?輝元もお馬鹿じゃないから次は自分て思ったから参戦したんじゃない。
いわんや隆景なら家康の魂胆を輝元よりは見抜くし、一族の求心力も段違いだろうよ。
それに家康は利家程度の相手でも無理はしない男だよ、隆景と勝負するとはとても思えないし、
人望・経験ともに家康以上の秀長が何で家康に屈するのかな。
666 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 00:45:14
>>653 上田合戦だって絶頂期にも負けてるでしょ >規模が違うんじゃないかな、それに逆を言えば徳川軍が強いて証明は皆無だわな。
>>666 うん、だからわかんない
関ヶ原では伏見城と上田合戦(これ戦闘展開戦力はたいして変わらず)くらいなもんだもの
大坂夏の陣でも巷間、言われているほど弱いわけではない
多少、突撃馬鹿の傾向は感じるが、これは未経験者が多いからしょうがないといえばしょうがないし
これは何処も同じである。
668 :
日本@名無史さん :2007/01/07(日) 02:02:04
>>666 >これは何処も同じである。
三河兵・甲州兵が何処も同じレベルに成り下がったわけか。。
669 :
金吾秀秋:2007/01/07(日) 02:52:10
また風邪ひいたよ(´・ω・`)
670 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 05:01:28
>>650 >隆景がいてたら毛利一門は秀吉の時のように徳川に恭順でしょ
毛利は中央に覇を唱えぬ、の大方針があるから総大将に担がれたかどうか。
もし出馬したなら史実のような中途半端はしなかっただろう。
だがそもそも隆景存命なら家康があれほど傍若無人に振舞えたか。
あれと大坂陣前の行動は日本史上でも特筆もの。
秀吉・家康・隆景・如水たちを第1世代とすると、
福島・広家たちの第2世代は腹の読み方が格段に落ちるな。
黒田長政ぐらいか、近いのは。
隆景はともかく秀長が存命なら秀吉死後も家康の出る幕なんてなかったよ
そもそも五大老なんていかがわしいシステムも存在しなかったろう
672 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 07:17:10
結局、豊臣は秀長・秀次と柱石が死に、他家の人材に頼るしかなかった。
結局秀吉の耄碌で秀次を殺したのがすべて。
秀次が生きてれば求心力が全く違ってくる。
史実は秀吉後継が幼少の秀頼、よって五大老→家康台頭となった。
秀次がいれば五奉行のみだったろうし、あったとしてもより名誉職的だったろう。
家康は政権の空洞化を突いた。
秀次存命なられっきとした柱石であり、これを除くのは容易ではない。
秀吉はボケてたんだろうね、
文禄の講和調印の際に明の式服を着たりしてるから。
明を足下に置くなら束帯じゃないの?
(詳しい人、説明求む)
秀次は事実かどうかはともかく存命中から母子併姦や市民の殺害等で悪評が高く、
そのために豊臣政権そのものの求心力が低下するといった事態まで起きてたから
生きていたら生きていたで問題が有っただろうが・・・
まあ居ないよりはマシというのは同意
674 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 07:30:14
殺生関白の件、実話なのかな。
話としてはよく聞くけど1次資料に記載あります?
その件は別にして、
既存の政権を崩すのは並大抵ではなく、
幼少の主君という最大の瑕疵を突き崩した史実ほど、
簡単では無かったのは事実でしょうね。
太田牛一の大かうさまくんきのうちや当時の公家の日記などに秀次の乱行に関しての記述があるが、
事実かどうかはわからない(所詮は伝聞記事だし)
ただ秀次存命中から彼に関して何らかの悪評が有ったのは事実
女関係はたしかに乱れてたようだが。
677 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 07:59:58
太閤と言えども清廉潔白な秀次を殺すわけにはいかないから、
何か落度があったのでしょうね。
それを針小棒大に言い立てて殺した・・・
以前は三成陰謀説があったけど、助命工作に奔走していることや
家来衆の引き取りなど、現在では否定されているよね。
こんなちょっと調べれば分かることでも、否定されるのに長く掛かった。
真実はどうなんでしょうね。
・・・だから歴史が面白いのだけど。
678 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 08:02:37
>女関係はたしかに乱れてたようだが
爆笑
秀吉、お前が言うな!!
679 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 08:07:19
前野たちと謀った反逆説は濡れ衣?
殺生と反逆ならどっちが正史に残るのだろう。
勝者に好都合な記述が残るのが通例だから、やっぱ殺生かな。
これだと敗者に同情が集まらない。
>>679 謀反の容疑であれば、舞兵庫も誅殺されているのではないか?
家康は秀吉以上に精力絶倫
秀吉だけが叩かれるのは徳川家の情報操作もあるだろうな
>>668 個人としては何処そこの兵が強いというのは、領主に対する求心性がどの程度まである
という事でもあるから、大名の中央集権化でむしろ周りが追いついたんじゃない
三河は元一向宗の結束力、甲州は武田の軍法で精強さを得ていたと考えてるし。
683 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 10:39:56
>>682 旧陸軍でも何県の兵隊が強いとかあったから、
強弱は地域性(県民性)もあったんじゃないかな。
武田や徳川でも十六将とか謳われた大将級や幹部級は主君に忠誠を尽くしたけど、
地侍や土豪豪族たちは所領安堵されれば領主が変ってもそれ程関係無かったようだし。
土佐の一領具足は例外中の例外。
>大名の中央集権化でむしろ周りが追いついたんじゃない
自分の力不足か、ちょっと意味が分からない。求説明。
>>683 兵が大名の為に何処までやるかという事で、中央集権で直臣が大半を占めると
そういう意識の持ち方が明確になると思うんですわ
地侍・国人層は多数の陪臣を有してる分、そういう意識は薄いだろうから彼らを
どの様に直臣レベルまで求心力を上げさせるかが大きなポイントになると思う
ま、これは戦国初期の直臣も大して変わらない点はありますけれど
で、そこで大切なのはその方法で、自然に従うような土壌があればそれで良し
後は軍法や政策で纏め上げるように手腕が考えられるという訳だ
徳川家の場合、当初は元本願寺宗徒の統率力をそのまま受け継いだが、その内
領国が拡大し、世代交代も進んだのでそれに変わる手段として武田の軍法を取り
入れたと思うんです(政策に関しては一貫して優れた手腕を発揮している)。
685 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 11:35:39
>>684 分かりました。三河当時の徳川は一向宗などで強くなる条件に恵まれ、
その後中央集権化により他国もレベルアップした、ですね。
初期徳川は幼君家康が人質に取られ主従が辛酸なめたのが求心力に
なってたのでしょうね、伏見城で死んだ元忠など典型。
686 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 11:51:19
じゃあさ、三河勢中心の徳川を一蹴した信玄軍って相当強かったんだね。
勝頼に代替わりして弱体化説はあっても直前の高天神では強さ保ってた。
それに勝った織田は鉄砲&馬防柵があったとは言え、
中央集権化・専門軍団化で強くなってたってこと?
当時の戦いって、
鉄砲→弓合せ→槍仕合→白兵戦だと思うけど、
強弱は部将の采配の駆引きと、死を恐れぬ兵の強さと
どちらがより重要だったのかな。(どちらもあればベストだけど)
武田見ると采配が重いような気もするけど。
687 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 12:02:10
秀吉時代の家康は名将で最有力大名だが律儀でケチなのでスケールが小さく
天下を取る器ではないとされていた。蒲生氏郷などはそう評価している
結果的には小牧長久手で秀吉の次は家康の天下が決まったように見えるが
当時の人にはわからなかったはず
688 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 12:19:56
>>687 氏郷は利家贔屓で話の流れでそのような話が出たそうですね。
秀吉が家康を評価せず、ことさらに如水あたりを出したのは、
家康とは「言えなかった」部分もあるように思いますがどうでしょう。
本命の子には本心が言えないように、と例えたら怒られそうですが。
家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八
主に100万石↑クラスで列挙してみるか
主な戦歴
徳川家康 :義元没後の独立維持、姉川での朝倉撃破、対武田で耐え抜く、信長没後の甲信掌握、
小牧長久手での戦術的勝利
蒲生氏郷 :将器の片鱗、奥州仕置
小早川隆景 :元就没後の家中とりまとめ、対大友戦、内海の掌握による本願寺支援
対羽柴戦(別所荒木の寝返りそそのかし、羽柴講和後の状況判断)、朝鮮出兵司令官
豊臣秀長 :伯耆攻め、豊臣家の内政、天下の内政
上杉景勝 :謙信没後の勝利
前田利家 :
やっぱこう見ると家康は生き残った事そのものが大きい気がする
小早川は1部将としては厳島の陶奇襲から大内攻め、尼子攻めを経験し、方面軍司令として大友戦と
瀬戸内海掌握による本願寺支援、元就没後は元就一代で築いた大領土を吉川元春とともに掌握して
嫡孫輝元を補佐(離反したのは宇喜多のみ)
総大将としては対羽柴戦とその裏で荒木と別所を寝返らせた
豊臣の天下統一近くには九州征伐の一翼を担い、朝鮮でも司令官としてヘキテイ館で勝利
羽柴秀秋を毛利の養子にとの意向を察知すると実子がいるのに小早川家をあっさりと譲渡して
毛利本家には弟の子を素早く養子縁組させる
外交、内政統治、部将として、総大将として全てで実績ありでおまけに律儀と言うか基本的に
保守なのは輝元補佐と羽柴の中国大返し前後の対応で証明済み
>>686 武田軍は我の強い国人領主(一族衆含む)を強圧的に支配していた側面がありますから
勝頼の代になってこれまでの鬱憤が噴出、長篠の戦で直臣部隊が壊滅し武田家の
統制は急速に衰えていった。
織田軍に関してはその通りかと。
694 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 13:17:11
徳川秀忠は決戦に間に合わなかったが実はこれは
家康が最初から仕組んだもの
できるだけ豊臣恩顧の被害を出し、自軍の兵の損失を防ぐため
歴史の真実
被害って・・、そんな目先のことだけでやらんだろ。
なぜって、その代わりに功を取らせたら恩賞与えなきゃいけないし
それを口実に国替えできたとしても兵の消耗と比べ物にならない脅威。
豊臣恩顧潰しに年月かかってるし、家康もあそこまで長生きできるか
確信はなかったはずだし、懸念を残すような事。遅参を意図的なものとしても別の問題だろう。
696 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 13:41:05
小早川秀秋 :幼少時より大器の片鱗。11歳で従三位権中納言に叙任。
14歳で乞われて小早川家へ養子入り。
蔚山城の戦いで敵に囲まれた加藤清正を救出する。
筑前名島30万7千石から越前北庄15万石への転封は、家康
のたっての願いでやむを得ず思いとどまる。
19歳で伏見城攻めと関ヶ原の戦い、続いて佐和山城攻めで
抜群の戦功をあげ、備前岡山55万石に加増される。
岡山城を改築して規模を以前の2倍にし、領内で検地の実施、
荒廃していた寺社の復興、農地の整備などを行い、近代都市
岡山の礎を築いた。
この文武兼備の名将の存在は、徳川幕府にとって目障りなも
のとなり、21歳のときに幕府の隠密により暗殺された。
>>686 ワロタ
いろんな解釈の仕方があるんだな
凡庸ではないのかもしれんな
698 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 14:35:03
>>697 では先生はどんな解釈がお有りでしょうか。
ぜひご教授ください!!
>>690 家康の人望て、当時はそんなにないんじゃないのかな。
関ヶ原の時でさえ西国大名には大したブランドではなかったでしょ、自分と同格
以上の人がみんな死んだから一番になった感じだよね。
戦歴も小牧の恒興の無理な中入りを破ったのが喧伝されてる位じゃない、その他
は大軍を指揮したことも無いし、利家なんかとそう変わりないんじゃないの。
>>695 如水にはあまり恩賞がなかったようだが?
むしろ10万石ちょっとの石田三成があれだけの軍勢をそろえたことが異常だろ
むしろ人望が相当あったということじゃないのか
>>699 いや西国でもブランドが大きい
吉川なんか傾倒してるし
島津もね
もちろん他に大物がいないというのもあるがそんなもの
信長存命なら秀吉に人望なんかない
>>702 そうだな、その点は恐るべき才能だよ
人望は一部であったが、一方で嫌われもした
>>702 西軍は三成の名前で集まったんじゃなくて、豊臣と毛利の名前で
集まったように思うけどね。
三成は豊臣家というブランドを最大限に活用し、
安国寺との人脈を通じて西国の雄毛利を味方につけた。
人望というよりも卓越した政治手腕によるものではないかと思う。
707 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 15:26:02
>>672 秀次がいきていたら、いきていたで豊臣の内訌(つまり秀次VS秀秀頼派の対決に介入をはかってきたんでは。
関が原とはだいぶ状況代わりけど、かりにも関東300万の大大名だぜ。
絶対に介入してくる。つか、五大老の一員だし。
708 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 16:00:00
>>707 当然それもありますね。
その場合の常道は先ず秀頼に近づいて秀次を討つ(逆もあり)、お家騒動型だろうけど
どちらにしても史実ほど容易ではなかったでしょうね。
相手は関白で領地も120万石あり、同じ石高でも間接的(毛利)だった三成とは大違い。
それに秀次・秀頼側双方が離間策に乗らなかったらそれまで。
乗らないのに無理に事を起こす家康ではないし。
それと前後の状況からも秀次存命なら五大老は無かったような。
柱石がいないから他家に頼ったわけで(5すくみを狙った?)
もしあってももっと緩やかな権限だったかも。
秀吉生前の家康の地位は最近まで考えられてたより、大きかった説が出てます。
東国支配&関東管領=250万石。
その後を知っている現代人だから恩賞やり過ぎと思うけど、
これは秀吉の「人たらし」だから仕方ない面も。
本人の考えてた以上に褒美をやると感激して主家に尽くす。
それが秀吉流だし現に家康はそう振舞った。
しかし心のどこかで心配だった秀吉は会津に蒲生(上杉)、
東海道に子飼いを並べ、万一に備えた。
しかし秀吉は最後まで懸念(家康)を払拭(征伐)できなかった。
反対に家康は最晩年に懸念を払拭した・・・
>>701 関ヶ原にいたのは息子の長政だろ?如水が12万石になったのは
秀吉からで九州平定後。このとき佐々が54(後に加藤・小西で半分ずつ)とかと
比べると少ないということだろう。これは秀吉が如水を警戒したからと言われてる。
家康は長政を52万石に加増しまくってる。
710 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 16:03:45
秀頼がいなかったら内訌はおこらないよ
ただ豊臣政権の統率力が落ちるので有力大名の自立は進むだろう
関東管領みたいな幕府の役職を武家関白である秀吉が与えるわけ無いと思うが
712 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 16:40:19
>関東管領みたいな幕府の役職を
小者が秀吉の小鳥を逃がし切腹覚悟で報告したら、
「その鳥はどこまで逃げた国外か」「小鳥ゆえに国内かと」
国内ならどこへ逃げようが秀吉の物である、と逸話あるぐらいだから、
管領であろうがなんだろうが気にしなかったのでは。
たしか小田原征伐直前に東国は徳川殿に任す、的なこと言ってたんじゃないかな。
半ば失敗を期待してた節もあるけど。
それに自分は就かなかった左大将にしてるけど、
それって信長が義昭に対抗上、固執した右大将より上位でしょう。
色々考えると秀吉って家康を一体どう思ってたのかな。
なめてたのか、恐れる故に持ち上げてたのか。
713 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 16:46:46
>>678 秀吉ネタ
ある時、近習が美少年を秀吉の居室に侍らせた。
しばらくして美少年が戻って来て言った。
「そちに姉か妹はいるか?」と聞かれました。
714 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 17:06:57
恐かったんじゃない?
自分の方法論が通じない上に、明らかにじぶんより強固な地盤(家臣団など)を持っていたのは間違いないから。
人たらしが思うように効果をあげない空気は敏感に感じ取っていたはず。
715 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 17:22:35
>>714 秀吉が財宝(だったけ?)自慢した時に、家康が切返した家来自慢なんて、
実話なら相当嫌味だもんね。
その話のあとかな、石川数正の引抜きは。
>>715 その話が実話かどうかは知らんけど、
石川数正の引抜きは家康がまだ秀吉に頭を下げてない時期の出来事だよ。
717 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 18:38:46
>>716 そうなの、じゃあ実話なら辻褄合わないね。
重臣引き抜かれたあとでは言えないセリフだし・・
いや、石川数正の出奔は、大久保兄弟や本多忠勝など対豊臣強硬派との
主導権争いに敗れ、やむにやまれず……って感じだから、辻褄合わなくはないよ。
徳川が嫌になって出て行ったわけではないんでさ。
719 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 21:19:21
家康はタヌキだけど家来は律儀・忠義だね。
秀吉の1代天下と徳川15代の違いは結局家来の質の違いなのかな。
そう考えると仕方ないと思える。(ボク自身は豊臣派だけど)
>>709 だから息子だけというのはおかしいだろ
他大名と比べて、2倍になったなら、相応の恩賞と言うことになるが
>>712 同感
形式上は家康は家臣だろうが
秀吉は弟あるいは自分の次ぐらいの気持ちだったのでは
>>719 実子がいい次期にいるかどうかと
後、そのときの情勢だね
もちろん本人の才能もあるだろうが
信長存命なら秀吉に人望なんかない>信長に人望なんてあるのかな、カリスマ性と恐怖orz
>>719 家康の家臣団は若い頃の反乱と長安事件などもあるから言われるほどではないんじゃない。
長安事件など家康が死んでいれば豊臣の二の舞な気がするし。
酒井、鳥居などとも美談以外の話もあるから、三河家臣団の結束て言うのも怪しいよね。
725 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 00:20:51
>>724 家臣団の胸の奥は読めないよね。
でも真に恐ろしいのは、家康がそういう家臣共の心根を十分に知った上で行動してることじゃね?
さらに言えば、家臣も家康の恐さは知っていた、というところなんじゃないかな。
家臣のおよそ半分が敵方についた三河一向一揆
この鎮圧過程とその後の約束破りはかなりえげつない
かなわないなら二心はないと思われるほど過剰に仕えたのが三河武士
727 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 00:48:52
>>699 そもそも、海道1の弓取りとの異名も元々は義元の代名詞なんだよね。
桶狭間の戦いでぬっころされたから独立できたようなものだけど、
義元が生きて、予定通り織田を蹂躙していたら、今川の家臣団にくみいれられて
いく青年将校にすぎなかったろうし。
728 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 00:50:18
春日山に堀、上杉はどう思ったんだろ
730 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 00:59:31
>>727 仕えた相手:義元、信長、秀吉
殺されかけた相手:信玄
豊臣打倒の障害:秀長、氏郷、隆景、利家
みんな都合よくぬっころんだな。
殺生関白?、、、後継争い秀次の事件っていうのが大きいのかヤッパ
浅野も外されたし、東海だって秀次付きだったし
732 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 01:13:22
>>730 桶狭間も最近の研究では隠れるような地形ではなく、
信長は正面からいって義元をうちとったものらしいな
勝てば官軍といえ、相当な博打だったわけだし、
アレで失敗していたら織田は滅亡、今川は4カ国を
征する大大名になってた、
元康も地盤は三河の一部でしかなかったし、
寿命で義元が死んでも、独立はおそらく無理だったろう。
もともと無理しない性格だし、お家安泰傾向で
おわったんじゃね?
まあそうだろうね。
734 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 01:36:52
信長の偉大さは桶狭間で勝ったことではなく、桶狭間的博打を二度としないで済むようにしてきたことである
戦術的にいうならば、信長の戦術は力攻めによる押しつぶし作戦だった
735 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 01:49:05
まあ乾坤一擲の一撃には違いないが、義元を叩くとしたら
奇襲だろうが、正面から行こうか、雨あがりのあの時点で
休息していると情報つかんで攻勢かけたのは大正解だったな
あれほどの大身の大名を討ち取るのは至難の業だし
あれは家康にはとても真似のできない芸当だな・・・・
736 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 01:56:32
>>712 右に出るものはいないというように右大将の方が上なんじゃないの
つ【関ヶ原】
740 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 09:07:47
>>721 あーそうだわ、実際家康は秀吉の妹婿だった。
そうやってアメ(領地&官位)とムチ(包囲網)で懐柔しようとしたが、
自らの死後ことごとく覆されたのか。
>>732 敵方が物見を出して動静を探る事を判っているから、街道の要所に手勢を配置して
物見や伝令を討ち取るようにすれば、接近を秘匿可能。
早い時期でやれば不審に思われるから、本隊が善照寺砦に移動するまでは、放置
したと思われ。
清洲からの出陣を見られた可能性があるが、事前に小勢を繰り出してかく乱させてい
るから、急な出陣で小出しに兵が出て行っても、今川方は本隊の出陣とは見なかった
だろう。
「また小勢を繰り出したようだ」程度にしか思わない。
雨が降ったのは単なる偶然で、事前に用意周到準備して計画道理に今川本隊との遭遇
戦に及んだのだろう。
桶狭間で長く合戦に及んでいるのに今川所隊の救援が遅れていることから考えても、意
図的に情報封殺(物見や伝令の捕殺)があったとしか考えられない。
刈谷の水野信元には、義元を討ち取ったことを早く知らせ、妹於大の方を介して大高城の
松平元康に情報が伝わるように仕向けている。
その情報を得た保守的な元康(家康)は、欺瞞情報だと受け取って大高城を動かなかった。
そのため織田勢は、屈強な三河勢と野戦に及ぶことが無かった。
今川本隊との戦いで疲れたところを三河勢に攻められたら、いくら士気が上がっていよう
とも持ちこたえられたかは不明だ。
5千の本隊を殲滅したところで、2万の軍勢が居残っていたのだから、危険は以前残って
いたが、三河勢を大高城に釘付けにして難を逃れた。
他の今川所隊には、使いを出して義元の遺品でも見せ、「同じようなものを持った者が
武田・北条に向かった」と告げれば、同盟破棄となった場合の所領保全の懸念から、今川
の重臣たちは、帰国せざるを得ない。
今川勢が粛々と撤退したがために、大高城の元康も引き上げざるを得なくなった。
総大将を討ち取っても大軍の中に居る状態は変わらないから、今川方の仇討ち意識を消す
意図的な情報操作がないと、信長は敵討ちにあう恐れがあった。
流れでそのようにしたのではなく、はじめから意図してそのようにしたほうが自然だ。
計画的に実行できたから成功したのであって、博打で旨くいった訳じゃないと思う。
情報操作の手法は重要だから、「実は、こうやって勝った」などと記録に残すことは無いw
742 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 10:30:37
小早川秀秋の裏切りで三成が敗走したあと、吉川広家や毛利秀元ら南宮山の西軍が
背後から家康本隊を襲撃してきて、さらに池田ら南宮山方面の抑えだった東軍の諸隊が
家康を裏切って家康本隊の襲撃に加担してきたら、家康も敗走して
両軍の総大将が敗走する珍事が起きたかもしれないね?
743 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 11:29:36
三成が敗走したあとに、なぜ家康を背後から襲撃する理由があるのだ!?
744 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 11:52:54
日本人は「公正さ」に対し敏感だ。
日本人は、昔から勝ち方にも美学を持っているようなところがある。
「公正」を、英語で言えば「フェア」である。
欧米でも「アンフェア」で勝ち取ったような勝利はけっして誉められることではない。
あるサイトの文だが、なかなか的を得てると思う。
関ヶ原で家康は秀頼の代理として軍用金・米などを戴き、その勝利は秀頼のものであった。
しかるに論功において家康は没収地約500万石のうち150万石を得た。
不足した恩賞地は豊臣直轄領から150万余石を割譲した。
(最初から強奪する気だったのだろう)
自領を恩賞に与えた義家の故事はあるが、
本来恩賞は滅ぼした敵地をこれに充当するもので、
西軍没収地と東軍諸侯の石高は釣り合いが取れており、
家康が自身に150万石もの加増や身内に厚い加増をしなければ事足りた。
結城秀康松平忠吉2人で100万石加増、娘婿の池田輝政は3倍増の52万石。
直臣にも勿論加増している。
黒田福島など外様が倍増と喧伝されているが、目立たぬよう上手くやっている。
家康は総司令官として「豊臣家の敵」である石田らを打ち破ったわけだから、
その最大の功労者に対して豊臣家から最大の恩賞が下されるのはアンフェアではないのでは?
ま、あんたが言いたいことはわかるけどな。
政治ってなそういうもんだ。
フェアだとかアンフェアだとか、感情で語ってもしょうがない。
747 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 13:32:51
>>745 744は500万石のうち300万石を自分や身内に配分してるのを言ってるんじゃない?
経過はどうであれ結果的に豊臣の直轄地を奪ってるし。
前田の人質を私(わたくし)したり、上杉征伐の起こりも強引だし。
748 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 14:19:02
関が原の戦い=湾岸戦争 大阪夏の陣=イラク戦争 秀頼・淀殿自刃=フセイン氏処刑
ブッシュはいわば現代の徳川家康といえる。
749 :
745:2007/01/08(月) 14:22:45
だから、言いたいことはわかるんだよ。
関ヶ原の後の家康の行動がフェアかアンフェアかで言ったら
実質的にはアンフェアだが、形式的にはフェアなんだよね。
政治って普通そういうもんじゃない? どんな天下人にもウラとオモテがあるよ。
750 :
金吾秀秋:2007/01/08(月) 14:53:57
漏れ様も言いたいことはわかるよ(´・ω・`)
751 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 15:20:10
織田信長が西軍を率いても、東軍に勝つことは無理だったのではないか?
また信長とは・・・。
政治的状況もふくめて仮定しないとなんにもわからん。
753 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 15:25:56
>>752 信長が三成の立場だったら・・・
政治的状況は史実と同じ。
754 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 15:49:53
輝元が信長か元就なら西軍勝ったかもな
豊臣も簒奪されるだろうけど
〜が〜だったらっつーバカレス見飽きた
756 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 17:52:00
家康が西軍を率いて三成が東軍を率いても、やはり家康が勝ったと思う
757 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 18:41:15
真田幸村が西軍の総大将だったら絶対西軍の勝ちだろ。
758 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 19:25:45
三成が家康の屋敷に逃げ込んだのが切欠で、家康と三成が共闘関係が進み
家康と三成が同じ陣営で、関ヶ原の戦いになる展開はありえた話かな?
759 :
金吾秀秋:2007/01/08(月) 19:32:07
3人で大谷やっつけようね(´・ω・`)
760 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 20:45:04
関が原合戦で負けた最大の理由は挟撃にふみきらなかった景勝のヘタレにあるとおもうの
>>760 影「追え、追って出ろ」
直「背後の伊達が」
762 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 22:55:25
関が原合戦で負けた最大の理由は挟撃にふみきらなかった三成のヘタレにあるとおもうの
関が原合戦で負けた最大の理由は挟撃にふみきらなかった真田のヘタレにあるとおもうの
765 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 00:31:10
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766 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 14:29:44
政宗が西軍なら、政宗と景勝が関ヶ原に出陣する可能性がある
南宮山の西軍に対する抑えとして控えている東軍(池田、浅野ら兵力約1万4千)の
さらに背後に布陣することになるかな(中山道の大垣寄りの位置)
兵力は政宗8千、景勝1万6千、その他5千の合計2万9千くらいであり
東軍が西軍に包囲される状態になる
西軍の兵力は史実の8万4千に2万9千が加わり11万3千になる
東軍の兵力は8万9千だから、西軍が圧倒的に優勢である
しかも、この状態だと小早川の裏切りも無かったはず・・・
>>766 尾張清洲から東海道経由関東の下野まで全てが東軍
美濃岐阜から中山道経由上野までは信州上田のみ西軍
その伊達上杉軍はどこの米を食いながら関ヶ原まで進軍可能なのだろうか?
768 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 18:26:52
そもそも、伊達上杉軍が関東に進軍するなら関ヶ原はないよ。
769 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 18:28:10
>>767 東海道経由や中山道経由では進軍不可能だけど、北陸道経由なら進軍可能かもしれない
>>769 越後堀領は上杉旧領だから限りなく可能性は低いが突破できたとして
越中加賀越前をどうやって補給して進めるのだ?
北陸道進むくらいなら東海道ぶち抜きのほうが大軍の輸送に適してるし
海路からの補給を受け取れる可能性がある分まし
771 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 18:46:53
それ以前に徳川が江戸を空けられないよ
773 :
日本@名無史さん :2007/01/09(火) 18:58:29
>>767 現地調達
奥州から尾張まで進軍した北畠顕家みたく
774 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 19:05:16
>>773 現地調達は可能だけど、それで動員できる兵力は数百が限度だろうな
確実に伊達が裏切って会津占領する
776 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 19:51:28
>>774 そんなことはない。南北朝時代、何度も南朝の大軍が東国を打通している。
負け犬の南朝に出来たことが南北朝の勝者、上杉に出来ないわけがない。
伊達が西軍だったら徳川の後ろを突いて関東に進軍
するだけだろ。
関ケ原なんかまで行かなくても十分。
778 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 22:03:31
>>766 上杉と伊達がそれぞれ越後と奥州の領土のままであったら共存というか、
共闘も下等だったんだろうけど、秀吉が上杉を伊達の出口ふさぐ形で入れたから
共に食い合う形となったんだよな。
両方を牽制する&まとめ役になれるはずの蒲生もしんじゃっているし
秀吉の政策が裏目に出てるよ。
779 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 22:06:40
>>773 それが無理なんだよね。伊達は田村家のっとっているから、口ではどういったところで
直江が政宗なんか信用するわけが無い。
出口をふさいでいる以上、どうあっても上杉と伊達が雌雄をけっさないことには次の展開が
みえなかった。
そうこうしているうちに一日で関が原終了するとは両方ともよそうがつかなったんでわ。
780 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 22:10:31
>>774 それも難しい。どうやって関東を抜くんだ。
北条攻めぐらい難しいし、安堵されて庄屋としてはいった北条の遺臣たちも
そうそう謀反せんだろ。
かりに抜いたとして正則領になるわけだが正則以前は徳川の地盤。
今の主君も前の主君も徳川なれん注ばかりだ。そんなところの地侍が
戦力になるレベルで現地調達できるとはおもえない。
真田が東軍に着けば秀忠と真田も一気に関ヶ原に来ることが出来る
そうすれば吉川も当郡につくだろうし兵力的にも東軍が圧倒的で
半包囲できる
782 :
日本@名無史さん:2007/01/10(水) 01:42:57
民主党という政党は
古い自民党の腐敗体質+社会党の独善労組、左翼偏向日教組+韓国民団+在日反日組織+・・・・
即ち、腐った既存利益保護と売国労組と反日教育と左翼文化人と公務員、在日の特権保護と
中韓北朝鮮の利益の代弁、即ち、捏造自虐史観の押しつけと日本国の誹謗、疲弊を目的とした
最悪の売国奴の集団です。 こんな政党が数を増せば、我らの孫子に甚大なる被害が及びます。
こんなどこの国の政党かわからないような政党に 騙されないようにしましょう。
時計が数十年逆回りしますよ。 そしていつのまにか日本の主権はないがしろにされ、領土の一部は
中韓に実質占領、統治される事になります。即ち国益を大きく損ない、二度と元の日本には戻りません。
783 :
日本@名無史さん:2007/01/10(水) 04:50:09
>>780 単に通過するだけなので徳川領を征服する必要はない。
福島領は徳川の地盤ではない。
>>783 いや背後からやられる危険があるっしょ?
敵陣の真っ只中で城を何一つ攻略せずにとおりぬけられるのか?
福島領といっても東軍についているし地侍衆は元々徳川よりだろうし
モチベーション高いと思う。
北畠は背後など気にせず堂々と通り抜けたよ?
っていうか、地侍って何のこと?百姓?
786 :
日本@名無史さん:2007/01/10(水) 08:42:33
>>653 >関東の地侍は一部を除いて庄屋層の地位を安堵
>>780 >安堵されて庄屋としてはいった北条の遺臣
話の途中にアレだが、
毛利が備後から去った時に帰農した家臣が相当数いるが、
彼らも庄屋層を保証されたんかな?
正則が強訴した百姓を殺した逸話があるけど、
ひょっとしてその百姓って毛利の元家臣で一揆を未然に防ぐために殺したのかね。
地侍級の話って歴史の表にはあまり出ないけど、
たまに聞く逸話は生々しく人間臭くて、それでいて笑えて面白い。
最前線で槍持って刀振り回して実際に戦ったのは彼らなんだから。
「島左近の塩辛声が今でも耳から離れん」とか興味引かれる。
そういう逸話を集めて書いた本あります?
>>785 義経はどうだっけ?
普通は無理だよ
そんなことできるなら三成が江戸を落とせばいい
788 :
日本@名無史さん:2007/01/10(水) 12:19:38
秀忠が関ヶ原に到着していても、西軍が東軍を包囲している陣形が崩れない限りは
東軍が西軍に勝つことは困難だったと思う
789 :
日本@名無史さん:2007/01/10(水) 14:42:07
>>787 三成は目の前に家康がいるんだから無理だよ。
790 :
日本@名無史さん:2007/01/10(水) 21:52:22
小早川が家康本隊を側面から突撃していたら、それだけで西軍が勝ちでしょう・・・
論功行賞で小早川に多大な恩賞が下賜されたでしょうね
家康との約束を守り最後まで律儀に不戦を貫いた吉川は、その罪を問われて厳しい処罰を受けたでしょうね
三成(豊臣)発行の手形の信用度が伺える話ですね
自ら泥に塗れる事無く良い所取りしようとした輩の末路は哀れですね
792 :
金吾秀秋:2007/01/10(水) 23:09:47
まったく、自ら泥に塗れる事無く良い所取りしようとした輩の末路は哀れな
もんだぜ(´・ω・`)
真田が寝返れば西軍は包囲されて全滅する
796 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 16:29:55
>>741 信長マンセーな人は情報操作とかいうけど、今川も素人じゃないからなそんなにうまく逝く門でもない。
信長自身が出撃したのはいいが迷走した気配もあるし、今川の本隊と自覚してない可能性も大。
最近の説では今川の先手を叩こうとしたとの話もある。元康との話は出来過ぎ、そんなに早く気脈を通じてたと考える方が変
797 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 17:28:32
>>788 兵力が優位でも包囲されたら不利になるから、秀忠が関ヶ原に到着しても
西軍からの裏切りが無ければ、東軍に勝ち目は無かったであろうな
>>797 関ケ原の到着するって事は包囲されてないよ、大垣から中山道で来るんだろう?
799 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 18:11:07
>>798 秀忠が到着してから、両軍が関ヶ原に布陣した場合だよ
東軍に秀忠が加わっても、西軍に包囲されている陣形は変わらないだろ
800 :
岐阜中納言:2007/01/12(金) 00:53:51
鏡開きあげ。
801 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 14:11:28
西軍主力部隊を桃配山付近に誘い出したら、前半から東軍が優勢に展開できたであろうな
802 :
初心者:2007/01/12(金) 19:14:14
ブックマークしてた関ヶ原スレに行ったら
>このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
どうして?
日本史板からあらためて来たけど。
板移転があってアドレスが変わったから
秀忠がいれば西軍を包囲できるよ
あまり兵を密集させても意味ないし
>>805 気にするな
地図にある標高線をただの線としか認識できない人間はいつの時代にもいるものだ
807 :
日本@名無史さん:2007/01/13(土) 10:43:38
秀忠が関ヶ原に到着していても、小早川が家康本隊の側面を攻撃していれば西軍の勝ちだったと思うが・・・
>>807 でも石田三成が西軍の側面を攻撃してたら東軍の勝ちになったと思うぞ?
小早川の側面を藤堂が襲えば東軍の勝ちだ
810 :
日本@名無史さん:2007/01/13(土) 12:14:49
そもそも秀忠がどこに布陣するか、から考えないと話にならん。
仮に宇喜多の正面だとすると、福島正則は三成の方に回るかな。
すると、ただでさえ苦しかった三成はさらに苦しくなる。
史実で福島隊を圧倒する兵力でありながらとうとう福島隊を破れなかった宇喜多は、
徳川本隊の大軍相手に敗北必至。
薄っぺらい袋で硬いものを無理矢理くるもうとすると破れてしまうように、
少数で大軍を包囲してもあまり意味がないのでは。
結局、毛利がちゃんと機能しない限り、西軍の勝利はありえない。
家康が三成本隊の側面を攻撃すれば東軍の勝ちだ
柳生一門が南宮山を包囲すれば西軍は全滅する
西軍全員で家康一人と戦えば勝てる
814 :
日本@名無史さん:2007/01/13(土) 13:23:47
関ヶ原の狭い盆地に東軍の大兵力が密集しているから大渋滞を引き起こすぞ
毛利が全力で戦えば西軍にも勝ち目はあった
真田が東軍に着けば西軍の勝ち目はなかった
柳生が毛利を暗殺すれば西軍は全滅した
三成と七将が戦えば三成が死亡する
818 :
日本@名無史さん:2007/01/13(土) 13:42:34
>>815 秀忠が関ヶ原に到着しても、真田が西軍で参戦すれば
西軍の勝ち目もあった?
>>814 つか何が何でも密集しようとはしないだろ?
素人じゃないんだから
ちなみに三成は素人
820 :
日本@名無史さん:2007/01/13(土) 13:55:55
小早川が裏切ったあとに、吉川が家康本隊を背後から攻撃してきて
さらに池田・浅野らが裏切っていたら、それでも東軍が勝ったと思う?
821 :
日本@名無史さん:2007/01/13(土) 15:41:01
>>820 池田浅野が裏切れば、家康も裏切って藤堂に攻めかかるかも試練。
東軍が勝つのは不可能と思われ。
池田は家康の婿殿だからわかるのだが
そもそもなんで秀吉子飼いの福島、加藤、浅野、黒田辺りが家康に強力してんの?
>>822 秀頼子飼いだったからこそ謀反人三成を許せなかったんだろ。
三成の初期は普通に槍働きで活躍もしてるんだけどね。
ただ内政のほうが得意だからそっちにいったってだけで。
北条の時の水攻めだって秀吉のごり押しらしいぞ。
三成は素人じゃないぞ、小物なだけだ
あれだけの知行で実質西軍をまとめた三成が小物?
秀吉が見込んだぐらいだし隆景や兼続以上の器量だろ
小物は大大名の癖になにもできなかった輝元、景勝、利長だろう
831 :
金吾秀秋:2007/01/14(日) 03:15:28
まったく、三成の素人ぶりにはあきれたもんだぜ(´・ω・`)
>>829 朝鮮の役
それ以外でも兵站という目立たないが戦において最も重要な役割を見事にこなしている。
素人どころの話じゃあない。
無能でも素人でもないが小物
>>832 合戦の指揮は執ってないのではないか?
兵站に関しては日本一だ
それは認めよう
しかし戦は兵站だけではないのだよ
戦闘に関しては素人だし、ヘタに多少やっているだけに
オレは経験者だと言い出しかねないので質が悪い
ちなみに外交力も一流以上
いい官僚だったな
人望が欠如
>>834 賤ヶ岳の戦いでは部隊の指揮でも軍功を上げている。
人望人望って、普通社長の秘書だった月給20万円のやつと、元は別会社社長の副社長月給250万の奴と
争いになると思うか?
838 :
金吾秀秋:2007/01/14(日) 13:17:13
思うか(´・ω・`)?
三成が中央にいることにこだわらず250万石といわずとも100万石の加増受けてて、
徳川がなんだかんだ不手際があって20万石に減封されてたら
絶対三成に付く!
840 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 13:38:31
>>837 え?奉行が月給20万の社長秘書だって??
馬鹿すぎ。
堺屋太一は馬鹿ですか
社長直属の平取締役企画室室長と、元は吸収合併されるまでは別会社社長だった
常務取締役副社長くらいの差かな
>>827 ぜんぜんまとまってなくて烏合の衆だからまけたんだろ(笑
ヴァカか?
844 :
初心者:2007/01/14(日) 18:19:53
>>840 20万対250万は単に石高の比較だろう。
秘書室長出身で社長の信任厚い企画部長ってとこか。
>>843 同意。負けたのは求心力の差。
家康は勝ったら天下人だが、西軍は勝っても第2ラウンド(毛利対上杉)
第3ラウンド(勝者と三成)が待ってる。
仮にそうならなくても、なるのではないかと疑心暗鬼が起こる。
史実も結局その心理で空中分解した。(広家の言動を参照)
845 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 18:38:03
家康と三成の立場が反対だったら微妙だったな
家康なら三成の立場であっても個人的力量で補えたかな
性格が違うんだから、三成の立場には成らないよw
三成の居たポジションに入り込んだ場合に、関が原のような状況は作らない。
豊臣家内での同僚との付き合い方が違うだろうから、武闘派とも旨くやってる。
豊臣家を一枚岩に出来るだろうから、敵対勢力の台頭を許さない。
847 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 19:19:08
輝元が西軍を率いて決戦に出ていたら、家康も少しは苦戦したはず
>>836 そんなのあった?
誰と戦って、どれぐらいの軍功
野戦指揮?
>>847 その場合は秀忠を待つというオプションも出てくるが?
そうならないように隠密で急行したのだが?
850 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 19:54:35
>>849 それでも小早川が裏切らないだけ西軍は史実よりマシな展開になると思うが・・・?
輝元が西軍を率いて三成を討つ
853 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 20:31:36
>>851 輝元が出陣していたら、小早川は裏切るための大義名分が無いのだが・・・?
854 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 20:33:04
家康と三成が共闘して関ヶ原を戦うオプションはありえなかったのか?
855 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 20:37:06
じゃあ
856 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 20:48:24
関ヶ原にいる西軍は全部、東軍と向かい合うように配置してずらりと並べているとする
つまり、一隊でも離れた場所にいない。
立花宗茂率いる1万5千も到着しているとする。
東軍も西軍と向かい合い、前田隊、秀忠隊も到着しているとする。
それから、狼煙と同時に一斉に東軍全軍と西軍全軍が正面衝突した場合
どちらが勝つであろう? (裏切りなどの要素はナシと考えて)
857 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 21:07:51
西軍じゃないか?
おいらも西軍だお。
理由としては当時の徳川家のの直属の武士は10年以上もまともに戦ったことがないのに対し
西軍は島津、立花、毛利などの中心メンバーはみな朝鮮の役でガチンコ勝負している。
それに対し徳川の直属の部隊は城下町の整備とかでまともに戦っていない。
外様の福島、黒田あたりが突破されたらもちこたえられない。
毛利の10万が正面を突けば戦力的にも圧倒するはず・・・
ただし西軍の総大将の毛利輝元は名目だけのお飾りにししておくこと。
実際は養子の毛利秀元が総大将をすること。
石田三成は采配に口を挟まないこと。
参謀は立花宗茂にすること。
先鋒は宇喜多秀家がすること。
遊軍は島津義弘がすること。
859 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 21:52:00
>>853 大義名分?
では何の大義で裏切ったのか?
861 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 22:22:16
>>860 小早川秀明は平和を愛した武将だったんだよ。
戦国の世を終結させる為に徳川に付き西軍を攻めた。
でも、家康に裏切られ自衛隊と共に抹殺されたんだよ。
863 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 22:33:44
>>858 三成自身が島津を小ばかにして夜襲策を蹴ったから
島津がやる気なくしているだろ
家康も強引だけど、三成も反感食らうことばかり
して自分の首しめてる
864 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 22:39:46
>>776 打通太郎はそろそろ軍事板に帰れとまで読んだ
>>863 そこはな。三成ファンの自分としても、三顧の礼で島招いたんなら戦争はすっぱり任せろよと
思わんでもない。
866 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 22:55:56
三成が負けた理由は一言でいうと器量がないんだよね。
大谷に挙兵の密議を持ち掛けたときも散々忠告されて
才気にはしりすぎている点を諌められているのに
左近に一任しないわ、夜襲を蹴るわで、ある意味
項羽と同じように自分だけで戦争していると
勘違いしているんだよな。
あれではほろんどの人がついていかないだろうし
結果はしってのとおり
867 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 23:03:11
西軍の状態なら、開戦直後に殆どの部隊が敗走してもおかしくなかったはず
まず毛利一門が全軍をあげて西軍に参加(但し輝元や広家と秀秋はいらね)
兼続率いるの上杉の大軍が反対から挟み撃ち
西軍の総大将は昌幸
数万単位の先鋒や遊軍の将は幸村、宗茂、義弘が務める
これで秀忠本隊+前田全軍が加わっても余裕で勝てる
流れ弾が東軍全員に当たって完勝
870 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 00:39:01
>>868 何年か前のNHKで毛利は第3勢力だったんでないかとする説をうちだしていたのを見たことあるか?
考証的に正しいかはしらんけど、毛利はとどのつまり両軍が消耗したところで主導権を発揮し、
天下掌握に向かう戦略だったが、関が原がわずか一日で東側の勝利に終わり、戦後処理も
家康の主導で、大阪城から輝元も退去させられてどうにもならなくなったというのが真相だと
いう説なんだが見た人いる?
見てない
輝元にそれだけの器量はないだろ
二股戦略だった可能性はあるな
上杉にしろ真田にしろ全滅してまで徹底抗戦というわけではないし
まあ真田は全滅に近いが家名は残った
872 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 01:04:43
初心者なんすが、石田はなんであんなに勝負を焦る必要があったんでしょうかね?
堺、大阪を押さえていれば、持久戦やれば必ず勝てたんじゃ?
関東の農地を押さえていてもカネは調達できませんからね。
・三成の拠点は佐和山(滋賀県彦根市)
・堺は流通の一拠点に過ぎない
874 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 02:33:14
ただ野戦にする必要性はなかったとは思う。佐和山城で東軍を迎え撃てばよかったのに
875 :
金吾秀秋:2007/01/15(月) 04:01:47
じゃ漏れ様は松尾山城やめて、佐和山城本丸の守備についてやるからね(´・ω・`)
876 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 04:14:36
まあ真田は全滅に近いが家名は残った
昌幸はどうころんでも良いように自身は石田、長男は家康にと生き残り策を講じている。
家名がのこったのはあくまで幸村自身の戦働きによるもので、夏の陣の話だからな。
ただ、あれにはオチがあって幸村はほとんど実績がなかった。
豊臣や徳川が大阪の役前にそれぞれ招聘しようとしたのは昌幸の子だからという
名前先行していたからで、実績事態はない。
上田攻めや秀忠の足止めもあくまで昌幸の業績とみられているし、そういう意味では
幸村の器量自体はどんなものか戦前は疑問視されていた。
877 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 06:15:36
前田が西軍なら互角に近い勝負ができたと思う
878 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 12:32:22
>>873 いや、実質的に家康VS豊臣という構図だったんだから三成の拠点はどこでもできたんじゃ・・・?
あと、信長があれだけ力を伸ばせたのは堺、京都、大津といった流通拠点を「点で」押さえたからだろ?
防衛にかかる費用を少なくして最大の経済効果をあげたわけで。
経済力にモノを言わせた持久戦、戦略戦に持ち込めば、家康は厳しかっただろう。
伊達政宗もそう考えて、一揆を煽動したりしてたんでしょ。
まさか、三成がわざわざ短期決戦やってしまうとは思わんかったんやろね。
879 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 12:58:20
>>878 伊達について詳しい人、教えてくれ。
伊達じゃ一揆煽動して論功を反故にされてるが、
煽動は反徳川に立ってやったのか?
あくまで対上杉向けだったが家康得意の難癖なのか?
880 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 13:01:37
>>879 訂正、
伊達じゃ一揆煽動して論功を反故にされてるが
↓
伊達は一揆煽動を理由に論功を反故にされてるが
881 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 13:20:03
家康が朝鮮遠征の派兵を拒否したことを口実にして、徳川家を取り潰すことは可能だったのか?
882 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 14:05:45
>>881 それに拒否と言っても、そもそも徳川に渡海要請してないはず。
秀吉は大まじめで唐朝鮮を獲るつもりだったから、
その戦いで徳川に手柄立てられては困ると思ってたんじゃないか。
唐入りは後年徳川幕府が採った大名消耗策とは毛色が違う。
唐朝鮮で1000万石2000万石獲れば徳川の250万石など
微々たるものと誇大妄想の秀吉が考えた・・・
結果は裏目に出たが。
>>879 反徳川などとんでもない。この時期の徳川と伊達は蜜月関係にあった。
当初は、徳川本隊が白河口へ突入した際、信夫口から領土奪還するつもりでいたが、
家康が小山へ反転したため、一種の保険をかけたと思われる。
また南部俊直が戦争中に内乱を起こされるような大名として徳川に睨まれれば、好都合。
とりあえず伊達が鎮圧しておきましたと、家康に事後報告すれば以後の仕置きも有利に運ぶ。
そんな算段だろう。
>>878 三成の目的は豊臣家(の奉行である)自身主導で勝利する事、
自分の拠点が潰れると、以降の戦闘は借り物でしなきゃならない
つまり西軍内での立場は下がる。
流通は「点で」行なうわけではない、信長は関所関税の廃止による
「流れ」を上昇させ経済効果を得た、
戦争状態になり「流れ」が滞れば「点」を保持していても意味は無い
三成の所為というより、家康が外様勢力を掌握して行動するのが
早かった、
885 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 14:23:30
>>882 徳川に渡海要請していれば拒否を口実に徳川家を取り潰すこともできたのに・・・
>>885 うむ、でもって豊臣+渡海賛成派vs徳川+渡海反対派で
日本の支配権をかけて戦争だな。
887 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 14:54:35
>>886 結果的には、そのほうが良かったかも!?
888 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 15:31:46
>>884 信長がおさめてた頃も「戦国まっただ中」だったよ。
支配領域内の治安を確保することで流れを守れたわけだけど、戦争状態がおさまったときに流れの拠点が無いと簡単に流れを作り出せない。
逆に、点をとりあえず確保しておけば治安が回復したときにすぐに流通を回復できて利益が上がる。
あと、流通拠点から税金を納めさせて、これも利益になる。
点以外のところを多少占領されたり他の武将にやっても経済的に打撃はほとんどないが、点を確保されちゃうと経済力がガタオチになる。
だから信長も点の直轄にあれほどこだわったわけで。
三成も同様に、支配領域内の防衛と経営に専念できなかったのか?
経済政策は三成の得意分野だろ?実際秀吉もカネで猛者どもを手なずけてたわけで。
秀吉は戦争も強かったから、三成も「オレも!」と思ったんかもしれんが。
実際、裏切られた後も石田部隊はよく戦ってたみたいだが、将に将たれなかったのか。
889 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 15:42:05
家康と三成が武断派潰しで共闘する可能性もあっただが、その場合の関ヶ原は
東西どんな布陣が考えられる?
890 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 15:52:48
>>886 家康に渡海命令が出てたら前後の言動から推測して彼は拒否しなかったろう。
当時の秀吉は日本史上稀な独裁者だった。
関白秀次家虐殺は現在考えられているより遥かに衝撃的。
羽柴筑前の時代とは全く別人格。
渡海反対派だろうと家康だろうと命令出たら逆らえない。
つまり戦(いくさ)にはならない。
家康がいかにして渡海要請を忌避したか、詳しい資料ないかな。
事前に「殿下のご命令なら唐天竺も厭わないが今は関東経営に専念させてほしい」
みたいなこと言ってたらしいが、出典は知らない。
891 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 16:07:49
>>885 無理なんじゃね 朝鮮の役かかえている状態で取り潰しするとなると二正面作戦になる
講和も何もしていないのに渡海させている諸侯の軍を呼び戻すとなると明、朝鮮の追撃食らうぞ
はくそんこう→字でない以上の大敗北になる可能性すらあるのでは
892 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 16:09:53
まあ、秀吉は晩年おかしかったが、まともな頃のひでよしなら、徳川に
まず挑戦出兵を命じて軍監督は豊臣が仕切る
むろん渡海費は徳川もち そうすればどうころんでも豊臣の損にはならなかったのに
まともな頃なら出兵しないと思わないかい
秀吉が家康にそんなにびびってたとは思えないんだが
毛利や上杉の一族にも気前よく累計で200万石近い石高を与えてるし
徳川を躍起になって潰そうとするわけがない
毛利・・・小早川分離独立で目減り
上杉・・・海運の利のある越後から四面楚歌会津へ
897 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 20:55:15
>>889 【東軍】徳川家康(総大将)、石田三成、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継、本多忠勝・・・
【西軍】福島正則(総大将)、島津義弘、黒田長政、藤堂高虎、小早川秀秋、吉川広家、毛利秀元・・・
いっそのこと東西南北4チームに分けたらどうだろう
899 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 21:51:28
福島が秀頼をどうやってかつぐん? 大義名分は何?
秀頼様の意向を傘に好き放題している大老・奉行の君側の官を討つとかなんとか
酔っ払ってたとか
両手を脇の下に入れて高い高い〜してよっこいしょとかつぐ
秀吉は親も同然な市松兄さんが大事な弟とスキンシップという名分
904 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 23:28:36
マジな話市松が無事に育っていたらこんなことにはならなかった。
秀次は確実に存命していたろうし
一番やりしたにしても個人的な武功にはなるが
指揮能力の有無を示すものにはならない
906 :
岐阜中納言:2007/01/15(月) 23:54:02
安芸
907 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 06:16:29
市松は無事に成人して徳川政権下で安芸49万石の大名になったぞw
>>897 宇喜多は西軍じゃないかな
別に三成とつるむ理由はないし
高虎や広家なんかは武断派と文治派の対立の前に家康の力量を見込んでの東軍加担だろうし
909 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 07:16:45
>>908 広家は史実通りで、東軍に内通しているが
秀元を足止めするため、表向きは西軍で布陣するだろうな
910 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 13:08:58
市松じゃなくて幼くして死んだ豊臣の長男の事じゃないか
911 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 14:47:39
>>910 鶴松な。
これが生きてたら秀次は関白になってなかった→秀頼が生まれて殺されることもなかった
となるわけだが、歴史にIFを持ち込んでも虚しい。
912 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 15:36:20
>>909 そして、史実通り小早川の裏切りで東軍が勝つ
913 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 15:39:59
秀吉あれだけセックルシテ淀殿にしか生まれなかった事が
そもそもの不幸。
914 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 17:22:31
そもそも種無しの秀吉に子どもが出来たことが謎なんだがな
体外受精でもしたのか 淀君は
915 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 18:11:41
でも実際に2人生まれているから事実をみとめないと
秀吉が死ぬまでにしたセックルの回数と対象人数からすると
できたのは例外のほうになるんだよなぁ
まあ精子の数が少ないとかで子供が出来づらい体質だったのは間違いないんでないの>秀吉
体質って言うか、猿みたいに毎晩やるのと、しばらく間をおいてやるのじゃ後者が妊娠しやすいんだって。
>>905 一番槍を武将が一人で、
一番手で槍を持って突っ込んでいくことだとでも思っているの?
920 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 20:46:49
>>919 違うとでもいいたいのか?
お前戦国無双やったことないだろ。
921 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 20:53:08
戦国無双wwwwwwwwwwwww
そんな釣りに・・・
923 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 21:42:19
つりではない。無双は無双でもエンパイアーズの方だからね
924 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 23:12:47
直江!直江!
>>919 何が一番槍なんだ?
指揮した奴なのか?
926 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 23:42:31
井伊直政さん?
福島です
私に決まっていたはずです
可児も止めたと聞いています
928 :
金吾秀秋:2007/01/17(水) 02:19:40
正則すきだぜ(´・ω・`)
ホモ宣言がでますた。
930 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 01:30:23
>>915 実際は4人で側室・南殿との間に石松丸(長浜市の妙法寺に供養等あり)
がいたが、淀殿の鶴松の場合と同じく夭折している。
また、この南殿との間に長浜時代に女児をもうけているが、やはり夭折している。
養子なら羽柴秀勝(信長四男)や豪姫、宇喜田秀家、豊臣秀勝(甥)、
小早川秀秋(高台院の甥)、結城秀康(家康次男)、智仁親王(誠仁親王の第六王子)、
豊臣秀次らがいる。
931 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 04:37:45
ほんと昔は子供育たんよな
家康も結構夭折している子供いるし数うちゃ当たる世界だな
932 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 05:15:07
昔は16歳から35歳まで5人以上産んでいた
ただし不妊治療はないので子供を産めない女性も多かった
元気な子供を産んでいる未亡人は人気があり再婚は容易だった
名門だと出家しちゃうね
家康の若い側室かわいそ
別に生活は保障されてるし、幽閉される訳でもなし
派手にやらなきゃ張形やら男ハメてもOKだったんじゃね?
935 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 14:26:50
それは総てあなたの思い込みです
936 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 17:02:53
そもそも淀や南から生まれた子は秀吉の種なの?
しらんがな
南殿のことまで疑ったら
もう何でもありじゃね?
939 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 21:31:10
ずばり石田の子だよ
とはいえ、南殿の子供が居たはずの時期(1574年)に、生まれたばかりの豪姫を
人攫いのように前田家から連れ帰ってるしなぁ・・・・・。
当時、豪姫が「南殿の子」として城下の住民に紹介された可能性って無いんだろうか?
南殿なんて側室は居ないのに「豪は俺の子だー」「殿の子として、お腹様は誰すか」
「南の」「南殿てだれ?」「尾張にいる」とか、うそ八百ぶっこいた可能性は・・・・・・どうなんだろうか。
仮にも長浜城主がそんなことしないか?
しかし前田と秀吉、当時結構出世には差が出ていたとはいえさほど身分差があるわけではなし
側室の子とはいえ子供が生まれている家に、正室の緑子を養子に差し出すとも思いがたい。
南殿の子は高台院が育てていたみたいだし、となるとその子は日陰の存在じゃないしさ。
「南殿の一男一女」のうち女の子が豪姫なのかどうか、是非詳しい人に調べてもらいたいものだ。
女の子が豪姫だったら、男の子の方も同様の手口で攫ってきた可能性大。
詳しい人はそんな根拠もない推測に付き合ってる暇はないんでないの
942 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 12:20:53
>>938 そうだね、疑いだしたら家康の子供だって家康の種じゃないかもしれん。
DNA鑑定が昔からあれば別だが。
943 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 13:26:01
>>943 そのDNA鑑定だが、武将たちが戦の前に神社に出した誓文に
押した血判でDNAが判明するのか?
秀吉のは残ってる、秀頼は知らないが娘の天秀尼のが残ってるはず。
調べられんのかね。興味深いのに。
阿弥陀ヶ峰から秀吉と比定されるミイラが、
大坂城後から秀頼と比定される首がそれぞれ見つかってるから
その気になればDNA鑑定は出来るな
もちろん二つとも当人の遺骸だと確証が有るわけじゃないが、
万が一DNAが一致したら凄いな
実際に親子であったという証明と同時に、二つの遺骸が秀吉&秀頼親子のものだと断定できる
945 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 16:43:04
秀吉の側室No1の松の丸殿は名門京極氏の娘で
若狭の守護、武田の未亡人
戦国武将の血判から取り出したDNAを未受精卵の核と取り替えて、生まれた子供を
無人島へ。適当に兵卒としてasimoを付けてやって互いに戦わせるテーマパーク
『わくわく武将ランド』
949 :
金吾秀秋:2007/01/20(土) 05:15:00
今朝も寒いね(´・ω・`)
950 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 08:09:58
>>948 あと何年かして可能になればいいのにね。
光秀と天海とか、他にも誰か無い?
>取り出したDNAを未受精卵の核と取り替えて
それ可能なら歴史上の美女を所望〜
歴史上の美女って今の規準だとデブブスなのが多そうじゃね?
あるいはやせ
貧入が多いのは確か
幸い有名な女性は容姿が詳しく描写されてるのが多いから現代美人的なの探せばよかろ。
じゃぁ現代的な美人は昔だと余ってるのか
まったく関ヶ原に関係無いけど
955 :
金吾秀秋:2007/01/21(日) 06:29:51
漏れ様のDNAほしいだろ(´・ω・`)?
956 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 12:40:08
日本人は明治以前は貧相な体格、容姿が多かったが、朝鮮を併合すると従軍慰安婦や強制連行の過程で
朝鮮の血がはいったからね
そういう意味ではわたしたちはみな現代の将軍様の子だからな
957 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 12:50:21
>>956 戦国時代の日本人は幕末の日本人より大きいよ
食生活の変化だろう
明治後半生まれが昭和一桁生まれより大きいのと同じ
日本は古来から韓国系の渡来人が貴族層を占めていたため、上流階級は身長が高く、
倭人を中心とする被支配階級は身長が低かった。
しかし、伝統的な身分秩序が崩れた戦国時代から身長が低下しはじめ、鎖国によって韓国人の流入がほぼ止まった
江戸時代には、日本在住人の平均身長は世界でも稀なほど低いものとなった。
ウリナラ電波を受信してる人は楽しそうですな
960 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 18:52:28
>>959 日本人は韓国により支配されている現実をみとめないとね
961 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 18:55:35
>>960
政治・経済・文化・芸能界・暴力団組織などの面でですか?
962 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 18:58:14
支配してるなら竹島一つで大騒ぎしないと思うよw
963 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 19:08:41
日本が韓国に支配されてるというのは嘘だよな。
そんなことあるわけない。
パチンコ人口=朝鮮の支配下にある人
>>962 飼い犬が噛みついてきた。
まともなご主人様はきっちり叱り付けるものだよ。
966 :
金吾秀秋:2007/01/21(日) 23:04:36
杉原紀伊を叱ってやったさ(´・ω・`)
age
次スレからは岐阜攻防戦でお楽しみください
969 :
岐阜中納言:2007/01/23(火) 00:12:22
あげあげ。
970 :
日本@名無史さん :2007/01/23(火) 20:16:39
bounce with me
971 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 14:09:35
金後って百姓の女房をレイープしようとしたら、ダンナにキンタマ潰されて死んだらしいね。
十三で乗り換えてどこ行こう
973 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 22:41:17
>>971 単なるネタだよ。まあ、そんな話が流布されるとこに世間が彼をどう思っていたかが解るね。
974 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:10:02
本戦当時の赤坂から大垣周辺の東軍の布陣や兵力を教えて下さい
また津軽為信が大垣付近にいたと聞いたのですが
東北の大名が一人だけポツンとそんなところになぜいたのでしょう
不思議でなりません
975 :
金吾秀秋:2007/01/27(土) 02:57:51
まったく、為信は不思議なやつだぜ(´・ω・`)
976 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 03:02:10
津軽は南部の不倶戴天の敵 決して許さない 顔もみたくない
>>974 布陣はしらんが、津軽は徳川勢の一部に加わって大垣城を攻めてる
途中関ヶ原でケリが付いちゃったため力攻めから包囲戦に変わったんで
ポツ〜ン(大して戦功記録無し)になったんじゃまいか。
978 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 10:39:44
979 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 16:50:37
津軽大して戦功もないのに本領安堵されちゃったね
元々南部の物なのに豊臣の本領安堵を受けづいた形に
なった。だから青森で嫌われるんだよ津軽モノは
980 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 20:18:38
>>974 大垣城は、石田三成が当初の決戦場として想定していた場所。
大垣城内には中小大名が西軍として駐屯していた。
決戦が関ヶ原になったので、主戦場から離れてしまった。
981 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 20:36:44
南部右京亮=為信はとんでもない裏切り者
982 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 21:00:17
>>979 関が原の戦いの時の生き残る方法は、戦功うんぬんじゃなくて東軍についてたかどうかだろ。
実際戦功がなくても東軍にいれば大ない小なり加増されてる、ただ津軽の加増は少なかったな。
長男が秀頼の小姓だったとか、息子の誰かが三成の娘を嫁にもらったからだとかっていう理由が
あるかららしいけど、どうなんだろ?
政略結婚しまくってても、いざとなるとあっさり切っちゃうんだもんな。
それならいっそ恋愛結婚させてやれよと。
984 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 21:48:14
>ただ津軽の加増は少なかったな。
長男が関が原の時に大阪城に詰めていたから
両軍に保険をかけた形になったのをみぬかれて2000石の
加増に留まる
津軽為信の関ヶ原役での行動については、信頼に足りる記録が
残っていない為、確認できていません。
>>974 布陣図とかは分からないが大垣攻めの東軍兵力は、
大体以下ような感じだったらしいよ。
堀尾忠氏 5,100
中村一栄 4,350
水野勝成 900
西尾光教 600
松下重綱 300
一柳直盛 1,050
988 :
金吾秀秋:2007/01/28(日) 08:27:22
>>984 まったくひきょうなやつだぜ(´・ω・`)
とりあえず米原
彦根
長浜
992 :
金吾秀秋:2007/01/28(日) 21:59:46
ディズニーシー(´・ω・`)
そして神戸
泣いてどうなるのか
995
長崎は今日も
雨ぇぇぇぇぇ〜
だったぁ〜
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。