3 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 21:51:14
☆☆☆ニートウニョウニョ時間にレスしていると狙われるよ!☆☆☆
ニートウニョウニョ時間=ニートばかり活躍する時間(暫定)
毎日24:00〜日の出
平日9:00〜12:00
平日13:00〜17:00
4 :
九州ですが:2006/10/31(火) 22:05:15
あのね、誰か九州説が馬鹿にされてると言ってたけど。
あっちこそこちらの質問に何一つ答えてないんだから。
倭人伝の記述では邪馬台国では埋葬するとき
有棺無槨 棺あって槨無し これに該当するのは北部九州であり
木槨木棺墓の畿内は該当しない。
この答えをまだ貰ってないんですが?
5 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 22:08:16
>>4 >邪馬台国では埋葬するとき
>>何処に邪馬台国とカキコしてあるのかな?
6 :
九州ですが:2006/10/31(火) 22:12:08
7 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 22:14:19
北部九州の習俗を書いただけ。以上。
8 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 22:17:15
>>6 書かれていることが全て邪馬台国と思い込んでるところがイタイ
9 :
九州ですが:2006/10/31(火) 22:21:27
倭国全体の風習と?
以前の西日本新聞の記事より引用した。専門家の話が
載っているが、同時代北部九州と畿内では違いがあった。
畿内の風習を知らず、地元の事を見たか聞いたかしたようだ。
切り抜きスクラップしてるから探してみるが。
10 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 22:38:59
>>9 >以前の西日本新聞の記事より引用した。専門家の話が
載っているが、同時代北部九州と畿内では違いがあった。
畿内の風習を知らず、地元の事を見たか聞いたかしたようだ。
>>まさに『講釈師、見てきたような‥』だな
>>それを引用しようとしている
>>9も、裏を取っているんだろうな?
11 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 22:58:32
古代史の報道は、アフォ学者の捏造を馬鹿記者が意味もわからず載せてる。
九分九厘そんなパターン。
古代史の議論は、アフォ学者モドキの捏造を馬鹿読者が意味もわからずコピペしてる。
九分九厘そんなパターン。
13 :
九州ですが:2006/10/31(火) 23:17:13
>>10 産能大学教授、安本美典
ホケノ山古墳に疑問あり
神獣鏡は中国南方系 木かくの中に木棺
魏志倭人伝に合わず 築造時期にも異説
畿内の場合、木かく木棺墓も、四世紀代の古墳に多く見られる竪穴式石室墓も、
さらには五世紀以後の古墳に見られる横穴式石室墓も、一貫して棺あってかく無しに
合わない、、、文。
2000年 平成12年 4月6日 西日本新聞
詳しくは新聞社へ
995 :九州ですが :2006/10/31(火) 21:37:02
>>984倭人伝を信じないで何を信用しろと?
一人一説というくらい色んな説があるのが邪馬台国論争だ。
自説を持つのは悪い事ではない。どうやら誤解があるようだ。
今自分としては、倭人伝を忠実に検証しようとしているところだから。
別に、推理小説の犯人当てをしてるんじゃないんだし、物証を探そうよ。
「倭人伝で全てが分かる」みたいな訳の分からない妄想、パラノイアは、
君が思いついたのか、誰かの本で読んだのか。
15 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 23:30:43
実は、畿内説も魏志倭人伝に完全に依存している。
卑弥呼の存在した時期も倭人伝が教えているものだし、
畿内説の土器の絶対編年もこれが根拠になっている。
また、「銅鏡百枚」も倭人伝に書かれていることから来ている。
うっかりすれば見落としそうなこの言葉から三角縁神獣鏡などが出てきた。
完全に依存しながら、都合の悪いところは無視する。これが畿内説。
16 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 23:37:09
>>904 吉野ヶ里遺跡には、3度行っているが、あそこからはいろんな地域の土器が
出土している。熊本の方保田東原遺跡からも各地の土器が出ている。
弥生時代はいろんな地域が交流していたらしい。
各地の土器が出土するのは畿内の専売特許ではない。
吉野ヶ里遺跡の発掘責任者である高島忠平氏は、庄内式の始まりを
300年頃と考える人である。つまり、吉野ヶ里遺跡が終わるのは
庄内式の始まる頃ということになる。
畿内説の人の中には、庄内式を200年頃始まると考える人もいる。
つまり、実年代では誤解が生じるが、吉野ヶ里が終わる頃、
畿内では庄内式が始まることになる。
17 :
九州ですが:2006/10/31(火) 23:37:53
>>15お見事。
>>14の詭弁を見事打ち破ったね。
あースッキリして気持ちよくねむれそうだ。
18 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 23:39:14
>>14 >物証を探そうよ。
>>ものさし か?
>>14 >>邪馬台国と表現しただけで依存症
19 :
九州ですが:2006/10/31(火) 23:43:01
ここの畿内説論者は倭人伝がどうもけむたいらしい。
20 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 23:44:46
>>19 >ここの畿内説論者は倭人伝がどうもけむたいらしい。
>>煙たい以前に読めない
>>15 いやもう、倭人伝のみで論争するのは何十年も前に終わったから。
未だに続けてるのは、一部の倭人伝原理主義者のみ。
原理主義でもないんだな、これが。
都合の悪いところはなかったことにしてるし。戸数とか日数とか。
23 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 00:03:12
>>21 邪馬台国論争にとって魏志倭人伝は基本中の基本。
そこから逃げようとするのは畿内説の終わりかな。
倭人伝はおかしい、記紀もおかしいではなく、畿内説がおかしいのだよ。
>>23 だから、邪馬台国所在論争自体、決着つかずでファイナルアンサー。
何故なら、倭人伝は間違い及び言葉足らずで、邪馬台国の場所がどこか
皆目分からないから。
根拠の無い不毛な論争が長年続き、袋小路になっている。
事実、九州説は候補地を未だにひとつに絞り込めていない。
逆に、考古学の進歩でヤマト王権成立のプロセスは解明されつつある。
最早「邪馬台国所在地論争」自体が過去の遺物となった。
倭人伝無しで、日本の古代が解明されつつある。
それを認めたがらないのが九州説という訳。
しかし、このスレの九州説は、考古学音痴ばかりで特に酷い。
もう少し、考古学も勉強してから発言すべきだな。
まあ、勉強すれば九州説は捨てざるを得ないのだが。
畿内説の捏造とかさー、読んでて痛々しいよ。
「倭人伝」なしで日本古代史ーヤマト王権成立のプロセスが解明されつつある
てのは、小気味よすぎる云い方では?
記紀なしで日本古代史ーヤマト王権成立のプロセス解明ってのなら
小気味よくても支持したい
倭人倭人うるさいなw
中国はなぜ倭人呼ばわりで煽ってこんのだ?w
半島が馬鹿なのは解るが。
27 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 00:56:04
>>24 考古学は文献の助けがないとかなり無力に近い。
歴史的なことはほとんど判らないといって良い。
たとえば、戦国時代の遺跡を発掘しても、最も重要な人物である織田信長は
全く出てこないだろう。
また、継体天皇陵について、宮内庁は太田茶臼山といっているが、今城塚で
あると考えるのが通説になっている。これも文献によってわかったこと。
恐らく、詳しい発掘調査をしても、どちらが継体天皇陵かは
わからないだろうと思う。
つまり、考古学は歴史的なことがわからず、解釈の介入する余地が
非常に大きい。つまり、考古学のような漠然としかわからないものであれば
畿内説も成り立ちうると考えるのが妥当だと思う。
>>27 だから、古代ではその文献が当てにならないから、
考古学重視になると何度言えば分かるのか。
>>27氏は、
考古学のみでは歴史をつむぐことがかなわぬだろう
程度のことをいっているにすぎないのでは?
30 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 02:36:05
たとえば、詳しい発掘調査のされた黒塚古墳を見てみればいい。
古墳が出来た年代にも諸説ある。葬られた人物の名前はおろか、
どのような身分の人物かも良くわからない。その人物が歴史的にどのような
役割を果たしたかもわからない。
棺の外から三角縁神獣鏡がたくさん出てきた。頭の近くに画文帯神獣鏡が一面。
そのほかに副葬品がいくつかあった。これから何がわかるのか?
要するに考古学的な遺物から歴史を語るには、推測に推測を重ねるしかない。
何に注目するかによって識者により意見も異なってくる。
つまり、考古学で歴史を語ることは推測に重きを置くことになる。
以前、騎馬民族征服説なるものがあった。古墳から馬具が見つかったから
騎馬民族が日本にやってきて征服したのだろうというわけである。
推測だけだったらどんな歴史を作ることも可能になる。
畿内説はそういうなんでもありの考古学に救いを求めているわけである。
歴史をつかむのはむつかしいけど
考古学のほうが見通し明るいんでは?
文献の人は苦しいのではないかね?
32 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 07:20:11
>文献の人は苦しい
>>全然
邪馬台国問題は文献からの産物だし、地中考古学は
当時の文化・生活様式を探る学問
考古学から王権のプロセスが判る訳ないだろう
33 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 07:40:35
>>32 >考古学から王権のプロセスが判る訳ないだろう
では、文献から何がわかるわけ?
魏志倭人伝は、神武東征など一言も出てこない。
少なくとも、邪馬台国が東遷したなどという根拠は何も無いはずだが?
34 :
太国:2006/11/01(水) 08:11:52
>>24 この者も王より飛車(考古学)を可愛がっている。否クイーンより飛車を可愛
がるだな。飛車の威力を過信しすぎた結果がこのような言説にいたる。
昨日のニュースを見たら、保険会社の非違である不払いが報道されていた。お客
はそれらの会社を信じて安心していただろうが、いざとなって会社側に裏切られ
た結果になった。このように信頼していて逆の結果をもらったのがお客で
あるわけで、考古学という科学一点張りの名前に安住してもしやを考えずいると、
こういう保険会社の二の舞になるのだ。
>>27 >考古学・・・解釈の介入する余地が非常に大きい。
まったく同意だな。
>>30 >考古学で歴史を語ることは推測に重きを置くことになる。
文献からかなり明白に近い推測(例の記紀の無記述とかの意味すること)で
結論が出ている。考古学からの推測だと、文献なしではおそらく女王国の
ジョの字も分からんだろうな? 解釈の介入の余地が拡大の嫌いがあろう?
>>33 魏志倭人伝は外国の書物であるから神武東征など一言も出てこなくてもおかしく
ない。女王国の東遷はない。自国の記紀に女王国の明確な記述が一言も出て
こないほうがおかしい。あさっての遠い外国の書に女王国の文が詳細にあるの
だからなおさら記紀に0の状態に疑念が出るのは当然だ。
つまり外国に近い所の九州に女王国があったのは理にかなっている。
35 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 08:32:00
なんか、取り違えたレスが多いな。
要は、倭人伝を完全に無視してるんじゃなくて、
その限界性を考えず、聖典のように扱うのは非科学的、オカルトだと批判してるんだよ。
後世に至ってもまだ、中国人の倭国伝はいい加減なことを書いてるし、
何故「魏志倭人伝だけは一字一句間違いがない」と言い張るのか?
結局のところ、同時代に書かれた史料が倭人伝の他に無くて、
倭人伝の正誤について検証が不可能なこと。
これを分かって書いてるのか?文献解釈は普通、複数の史料を比較検討して行うものなんだし。
36 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 09:59:38
>>33 魏志倭人伝に神武東征のカキコなど書かれていないので 解る訳無いが
37 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 10:01:27
>>35 どの辺が好い加減なのか、カキコしなければダメだよ
38 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 10:04:06
39 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 10:26:44
西尾幹二氏の「国民の歴史」によると、中国歴代王朝の所謂「正史」にある記述は実にいい加減である。
魏志倭人伝は如何に出鱈目であるかを示すため、明史(みんし)日本伝の以下のような記事を紹介している。
日本にはもと王があって、その臣下では関白というのが一番えらかった。
当時、関白だったのは山城守の信長であって、ある日、猟に出たところが木の下に寝ているやつがある。
びっくりして飛び起きたところをつかまえて問いただすと、自分は平秀吉といって、薩摩の国の人の下男だという。
すばしっこくて口がうまいので、信長に気に入られて馬飼いになり、木下という名をつけてもらった。
--------------中略-------------
信長の参謀の阿奇支(あけち)というのが落度があったので、信長は秀吉に命じて軍隊をひきいて攻めさせた。
ところが突然、信長は家来の明智に殺された。
秀吉はちょうど阿奇支を攻め滅ぼしたばかりだったが、変事を聞いて武将の行長らとともに、
勝ったいきおいで軍隊をひきいて帰り、明智をほろぼした。
(岡田英弘 「日本史の誕生」より)
---明史日本伝抜粋紹介終わり---
ttp://seki.webmasters.gr.jp/eishiro/final/kurigoto/010609.htm
40 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/01(水) 10:35:25
なぜ帯方郡→邪馬台国を12000里(短里として960km)と計算できたのか?
当時は天文学が非常に発達してたのは知られてる。
高松塚古墳にも天空図が書かれていたという、今じゃグチャグチャにされたが。
ポリネシアの人はハワイまで海を旅するのに、星を利用して位置を知り行かれた。
以外と位置の確認は易しいもので六分儀みたいなもので、北極星の角度を測れば
90度から引けば緯度が出る。
太陽が出るときの故郷の恒星の角度との差がわかれば、故郷からの経度がわかる。
北極星の角度に、帯方郡と7度の差があったとしたら1度が111kmだから南北
に約800km離れてる事になる。
経度の差が5度あったとしたら、1度が100kmとして(経度は少し小さくなる)
東西に500kmはなれてることになる。
帯方郡と邪馬台国の直線距離は√800二乗+500二乗=990km
結論::邪馬台国は宮崎県西都市と推定できる。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
季節が春分の時の真昼に、赤道上にいる時と、北極にいる時を考えましょう。
赤道上では、太陽は真上にあり、水平線からの角度は90度です。北極では、太陽は水平線
に半分隠れています。(細かい誤差は無視!) 赤道上では緯度は 0度、北極では緯度90度です。
http://homepage2.nifty.com/Tetsutaro/Book/sextant.htm
41 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 10:43:29
>>40 高松塚古墳は、邪馬台国時代のものだったのか。
じゃ、畿内説で決まりだな。
42 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 11:10:12
>>35 文献比較は誤った学問だ
古代の漢人達は、比較等しなくとも解釈出来たのだから
それに、誤字、誤版の議論はしない
結局、正解の無い不毛な議論が続くだけだから
43 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 11:11:34
44 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 11:32:32
45 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 12:09:35
>>39 全ての中国の文献がいい加減かどうかは別としても、この文章からでも
大体のことは良くわかる。歴史の大筋はとらえている。
いい加減な中国文献の代表として取り上げた明史でさえも、考古学より
はるかに多くの的確な情報を与えてくれる。完璧ではないというだけのことだろう。
46 :
サガミハラハラ:2006/11/01(水) 13:58:52
阿奇支とは安芸氏,即ち毛利氏のことです。
明史の秀吉についての素性であるが、これは明使が秀吉の側近から聞いたことをそのまま記述したと考えられます。秀吉は下級の出自なのを気にしており、かように粉飾させた話をさせたのであろう。
明史は正史であるから、宣教師のような裏話ではなく、日本側がこうです、と答えたものをそのとおり載せたものと考えられます。
47 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 19:25:47
>>42 複数の文献を比較検討しないと、文献そのものの信用度が測れない
、っていう意味で書いたのだが。ちゃんと分かって書いてる?
48 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 19:31:06
>>47 古代漢文では編纂者の技法が如実に現れ、一概に比較検証が正しいと言うわけではないと思うが
49 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 19:33:45
>>39 使者が直接見聞きした内容(魏志)と使者が伝聞で聞いた内容(明史)とを同列に扱って、
後者がいい加減だから前者も同じという理屈は成り立たない。というか、ただの詭弁。
但し、魏志でも外国人が説明を受けた内容は独自のフィルターを通しているし、それを簡潔に
まとめて書面に書く段階で、さらに省略による誤りも生じるであろうし、単純な誤記もあるとは
思うが、明史とは同列にはできない。
ところで、>>1 乙!
50 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 19:37:50
倭人伝の史料価値はあるだろ。
外国人とはいえ、少なくとも同時代の人間の伝聞を書いてるわけだから。
しかし方角や数字が適当など、いい加減な部分も多い。
お客さん扱いの魏の使節団が、何の道具も持たずに、
言われるがまま引率されたとすれば、方角などもかなりいい加減に書いたのではないか。
51 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 19:45:12
>>50 >しかし方角や数字が適当など、いい加減な部分も多い。
>>何処がいいかげんなのかを提示願う
52 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 19:52:41
数字については、かなり大まか。七万戸とか。
倭人自身が、正確な数値を把握してなかったからだろうけど。
53 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 20:04:59
方角も、唐津→前原を南東と90度間違えている。何度も書いてるだろうが。
54 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 20:09:32
>>51 距離と方角がいい加減でなければ、邪馬台国の場所は確定してるよ。
55 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 20:31:34
畿内説にしろ九州説しろ、倭国全体を大幅に南方に持っていこうという
意思が感じられる。対呉戦略というのは、当たっているのではないか。
邪馬台国を実際より大国に、南方にすることで、司馬懿の功績を実際以上に高める
ことが、魏の使節団には要求されたのかもしれない。
50年後その報告書を呼んだ陳寿が真に受けて、倭人伝に記述。
公式文書として信用され、九州の南に本州があるような日本地図が描かれた。
56 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 20:34:59
>>55 というように、倭人伝解釈は議論百出するんだよね。
そして誰も、どの説も否定出来ない。倭人伝解釈では。
57 :
太国:2006/11/01(水) 20:40:55
どの説もだって? まさか〜? ムー大陸じゃぁないだろうが?
その地図は現存するのか?
58 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/01(水) 20:51:02
59 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 20:54:12
>>52 >数字については、かなり大まか。七万戸とか
>>では、貴方の掴んでいる正確な数値を教えてくれ。
60 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 20:56:15
三角縁は卑弥呼の鏡の可能性が高いよ。
景初四年も、同時代だから起きた混乱。
後世の人は、景初四年という年号が無かったことを知っているから、
そんな風には間違えない。
61 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 21:04:59
>>53 >方角も、唐津→前原を南東と90度間違えている。何度も書いてるだろうが
>>東南陸行五百里到伊都國 のことか?
しっかり読んでくれよ。
最初に進むべき方角は東南であり、前原が東南などと何処にも書いていないぞ。
それに、この記載は伊都國を示すのではなく、起点となるマツロの港の位置確定
文だろう。
62 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 21:07:43
>>55 >畿内説にしろ九州説しろ、倭国全体を大幅に南方に持っていこうという
意思が感じられる。
>>なぜそんな事する必要があるんだ?
63 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 21:09:59
>>55 >九州の南に本州があるような日本地図が描かれた。
>>何時の時代の話をしているの?
64 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/01(水) 21:13:13
>>44 >移動中に可能な測量では無い
不思議な事を言われる。
ポリネシア人は船で移動中に、現在地を確かめながらハワイに着いてたんだけど・・・
これは移動中と言わないのかい?
西洋人が正確な現在地を知る為の六分儀をつくって、世界を制覇したけど彼らは船で移動し
ながら現在地を把握してたのじゃないかな???
65 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 21:13:58
>>60 >三角縁は卑弥呼の鏡の可能性が高いよ。
景初四年も、同時代だから起きた混乱。
後世の人は、景初四年という年号が無かったことを知っているから、
そんな風には間違えない。
>>景初四年の存在は、今や常識かと
66 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 21:17:38
>>64 >ポリネシア人は船で移動中に、現在地を確かめながらハワイに着いてたんだけど・・・
>>三世紀のポリネシア人にでも確かめたのか
>>65 > >>景初四年の存在は、今や常識かと
何の話?
ところで、地の文に>>を使うのは止めてくれんか?
読みにくいし、上みたいに引用したときわけわかめ
68 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/01(水) 21:26:12
>>50 >しかし方角や数字が適当など、いい加減な部分も多い。
非常に正確な記述だよ。
ただし、誤差が大きいけどね。
帯方郡から狗邪韓国にしても、7000里だが誤差を考えたら6500里(短里520km)〜
7500里(600km)というべきだろう
実際には直線で600kmの距離だ。
69 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 21:31:03
70 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/01(水) 21:39:16
>>54 >距離と方角がいい加減でなければ、邪馬台国の場所は確定してるよ。
いい加減というのは、いわゆる現代人の傲慢さの現れ。
その当時は世界最先端の科学技術で、誇りを持って書いた役人の公文書だよ。
失われた科学をバカにするもんじゃない。
四国88ヶ所徒歩遍路を2回やったが、お寺の上の方で、巨石をお城の石垣のようにりっぱに
組み込んだ神社があった。
現代科学でユンボやクレーンを使って組むとしても一苦労するような峻険な山ノ上だ。
どう考えても失われた技術が存在したとしか考えられぬ。
現代人の傲慢さで、イニシエの技術を見下してるように思える。
距離や方角は誤差はあるが正確だと思うぜ!
71 :
太国:2006/11/01(水) 21:46:38
>>70 たまにはいいことを言う。考古学をお荷物にする連中は、全部じゃないが、
わりかしそういう傲慢さを持ちやすいか?
72 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 21:49:12
ならば、九州のどこだ?
73 :
太国:2006/11/01(水) 21:54:09
誰に聞いてるんだろう? それがしは阿蘇あたりかと思う。
74 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/01(水) 21:59:28
>>55 >50年後その報告書を呼んだ陳寿が真に受けて、倭人伝に記述。
それは少し遅すぎる。
陳寿は233年に生まれ297年に65歳で亡くなっています 。
卑弥呼が朝貢したのは239年で死んだのが247年以降、その後13歳の台与が後継者となり
張政が感謝されながら台与によって、魏に送り返されてる。
魏志倭人伝が完成したのは、285年頃で陳寿が53才ころの話。
魏の役人の日記や報告書がまとめられたのが255年頃としたら、30年後に陳寿が読み纏めた
というべきで、今から30年前といえばベトナム戦争の頃だろう。
ベトナムやアメリカの当事者ではない、日本の役人がまとめたベトナム戦争戦記というべき。
それも魏から晋に平和的に禅譲された政府の役人が、陳寿なんだよ。
政府の書類も戦火に焼かれずに残っていたろうし、役人だから自由に公文書を調べれたろうしね。
俺は信頼できると思う。
75 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/01(水) 22:15:53
>>60 >景初四年も、同時代だから起きた混乱。
日本にスカウトされた呉の職人の作品というべき。
景初4年を全く知らず、情報の来なくなった日本の片田舎でのんびりマガイモノを作ってた
鏡職人がいたというべき。
それもブランド物の卑弥呼の貰った鏡だという、嘘をついて高く売ってた連中の仲間だと思う。
魏の鏡は手鏡用の小さなものだけど、それも知らずに葬祭用の迫力のある大鏡を作るほどの倣岸さ
同時代なら本物の卑弥呼の鏡が手に入るはずだが、手に入らなかったのをみると時代的には
100年くらいは後だよ。どんな鏡だったのかさえ判らない時代のコピー商品の最低クラス!
ーーーーー(引用開始)−−−−−
左はルィ・ヴィトンのコピー商品で、モノグラム柄のブルゾンです。
ルィ・ヴィトンのバックと同じ素材で作られているのですが、
本家ヴィトンではこんなブルゾンはあるはずがないので、
コピー素材を使った韓国オリジナル商品ですね。
右はメッシュのベストなのですが、 前に3箇所と背中にあるポケットが、ルィ・ヴィトンのバックと同じ素材で作られています。
これも本家には無いのでコピーというより韓国オリジナル商品ですね。
http://www.bekkoame.ne.jp/~itaewon/copey.html
76 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/01(水) 22:31:08
77 :
九州ですが:2006/11/01(水) 22:37:36
唐津か、呼子か近いところで、どこに上陸したかなど、くだらない、
何の得るところも無い議論に振り回されてしまった。
興味が薄くなっていたら、見覚えあるメンバーが入って来てるじゃない。
ひと握りの人は会話してほんとに学ぶ事が多いんだよね。
九州内において方向が多少「90度間違っているという者もいたが」
間違ってるなどという議論は、畿内説も、九州説もおおよその範囲で当たっていれば
よしとしているというくらいの認識だったが両説に詳しい人、どうですか?
マツラ国から伊都国への方向に異論を挟む九州説、畿内説の学者は居るんですか?
それにこのスレ、畿内説の人不在のクマクマスレかと思っちゃった。
>>68 >
>>50 >>しかし方角や数字が適当など、いい加減な部分も多い。
>非常に正確な記述だよ。
恵也の説ならね。
79 :
九州ですが:2006/11/01(水) 22:52:43
>>78 NHKの邪馬台国特集も今まで少なからず見たけどマツラ国も伊都国も
大体この辺にあった。とう推定ですもんね。
80 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/01(水) 22:56:09
>>72 >ならば、九州のどこだ?
恵也説では西都市。
リニューアルして再度 魏志倭人伝の前提
●対馬中心→壱岐中心間の距離80kmが1000里となってるので1里=0.08kmとする
●水行する距離に関して、数百人の人間が移動するには、漁師や運搬船を総動員しないと無理。
本隊が着く前に先遣隊が大金を使って段取りしても、4日間くらいのタイムラグがあるとする。
風を待つという待機もあるし、酒宴もあるし、船もピストン輸送とし段取りでマイナス4日も
しくは2日とし 1日平均5km進むとする。
●陸行する距離は、段取りでマイナス4日とし1日4kmとする。
江戸時代の朝鮮通信使は12回も、江戸まで往復6ヶ月もかけて旅行してたという。
下関から東京まで900kmを90日間かけたとしたら、1日に10km。
日本との親善が目的なんだから魏志倭人伝とよく似てる。交通網の発達や初めての旅行を
考え1日4kmでも良いだろ
●船を乗り換えてるので、漁業者のテリトリーが変化したものとし宇土を投馬国とす(宇土は当時島?)
韓国80km南→対馬80km南→壱岐(一大国)80?km→唐津(末盧國)40km東南
→小城町(伊都国)8km東南→佐賀市(奴国)8km東→吉野ヶ里千代田町(不弥国)80
km南→三角港(投馬国)40km南→芦北に上陸100km→西都市(宮崎県)・・「ここが邪馬台国」
−−−−−(引用開始)−−−−−
魏志倭人伝に出来るだけ忠実に、原文どおり和訳してみました
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
81 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 23:02:27
>使者ゃ通訳
>>通訳か? (>_<)の一言。トンデモ和訳だな
使譯が通訳なら譯使は一体なんなんだ?
82 :
九州ですが:2006/11/01(水) 23:06:10
>>80 この恵也説も捨て難いよね。なんせ、高千穂も古代史に大きな役割を果たしていると
確信しているから。
83 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 23:07:53
>>80 疑問1
どうして、現在の西都市に「邪馬台国」を匂わす地名が無いのか?
疑問2
おまえは、東遷説だったはずだが、
畿内に「西都原」を匂わす地名が無いのは何故だ?
84 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/01(水) 23:14:29
>>77 >唐津か、呼子か近いところで、どこに上陸したかなど、くだらない、
使節団を最短距離で案内するとしたら唐津。
せっかく船で来てるのに、わざわざ歩かせて使節団にエライ目にあわせるとは考えにくい。
近くだし同じ末盧國の勢力圏だったと思うが、たとえ違ってたとしても、呼子の連中も
邪馬台国の同盟国として唐津に集まって歓迎会をやったのでは・・・・・
85 :
九州ですが:2006/11/01(水) 23:20:12
>>83そこが謎でしょう。大分の宇佐神宮に聞いたら、やはり比売大神「ヒメオオカミ」
が祀られていた。それも4拍手で。卑弥呼か?何を意味するか解るでしょう。
東遷説を取るとして、大分は宮崎から北上した所にある。大分には
耶馬という地名もあるが倭人伝のヤマ国か、それとも?
86 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 23:23:14
>>85 謎もクソも無い。
西都原は邪馬台国だという根拠が全く無い。
宇佐が邪馬台国だという証拠は確かにいろいろあるな。
87 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 23:29:37
宇佐が邪馬台国である根拠。
女王国よろしく、九州で女王を祭ってるのは宇佐だけ。
天皇は宇佐を崇めていた。
「豊国」という地名は「台与」に通じる。
これだけ挙げれば、否定する方が難しい。
88 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 23:32:54
914 名前: 恵也 ◆o4NEPA8feA 投稿日: 2006/10/31(火) 17:17:48 へぼ恵也 ◆o4NEPA8feAが必死すぎてテラワロスw
915 名前: 恵也 ◆o4NEPA8feA 投稿日: 2006/10/31(火) 17:18:29 へぼ恵也 ◆o4NEPA8feAが必死すぎてテラワロスw
916 名前: 恵也 ◆o4NEPA8feA 投稿日: 2006/10/31(火) 17:19:21 へぼ恵也 ◆o4NEPA8feAが必死すぎてテラワロスw
917 名前: 恵也 ◆o4NEPA8feA 投稿日: 2006/10/31(火) 17:20:34 へぼ恵也 ◆o4NEPA8feAが必死すぎてテラワロスw
918 名前: 恵也 ◆o4NEPA8feA 投稿日: 2006/10/31(火) 17:21:32 へぼ恵也 ◆o4NEPA8feAが必死すぎてテラワロスw
919 名前: 恵也 ◆o4NEPA8feA 投稿日: 2006/10/31(火) 17:23:01 へぼ恵也 ◆o4NEPA8feAが必死すぎてテラワロスw
920 名前: 恵也 ◆o4NEPA8feA 投稿日: 2006/10/31(火) 17:23:56 へぼ恵也 ◆o4NEPA8feAが必死すぎてテラワロスw
921 名前: 恵也 ◆o4NEPA8feA 投稿日: 2006/10/31(火) 17:25:03 へぼ恵也 ◆o4NEPA8feAが必死すぎてテラワロスw
922 名前: 恵也 ◆o4NEPA8feA 投稿日: 2006/10/31(火) 17:25:42 へぼ恵也 ◆o4NEPA8feAが必死すぎてテラワロスw
923 名前: 恵也 ◆o4NEPA8feA 投稿日: 2006/10/31(火) 17:26:29 へぼ恵也 ◆o4NEPA8feAが必死すぎてテラワロスw
89 :
九州ですが:2006/11/01(水) 23:33:22
>>84 これはおたくに言った言葉ではなく、その事だけに終始して、話が一向に進まなかった為。
その相手に言った言葉。女王国の位置の検証に重きを置いているから。
げんにこの近い場所のどちらかでもマツラだったと思っているし、
歓迎会もおたくの言うとおりだったかもしれない。自分も又、憶測を言ってるだけ。
90 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 23:34:02
つまり、宇佐が邪馬台国であり高天原であるということ。
卑弥呼である天照大神は、日向に子孫を天孫降臨させた。
なぜかと言えば、理由は簡単。
西都原がクナ国であり、クナ国を討伐&占領軍としてニニギが送られたのだ。
そして、薩摩隼人を恭順させて軍隊を組織し、神武が畿内を攻め入ったということ。
こんなにわかりやすい話なのに、なぜ皆は理解できないのか?
>唐津か、呼子か近いところで、どこに上陸したかなど、くだらない
負け犬の遠吠えにしか見えない。
倭人伝は、実際に行った使節団の行程記事を載せてるんだろ。
都合の悪い部分は「くだらない」ですか。
92 :
太国:2006/11/01(水) 23:36:22
>>87 肥の国にも「豊」の字がつくよ。→ 建日向日豊久士比泥別
ヒフミのヒは一を意味するから、この国も捨てたもんじゃないなぁ?
邪馬壹国だからな。
94 :
太国:2006/11/01(水) 23:39:30
>>90 結論をくっつけすぎ。卑弥呼は日神にあらず。
また明日zzzzz・・・・・
日本に土人しかいなかった頃、あの壮大な三国志が繰り広げられてたなんて悔しい。
96 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 23:40:56
>>92 なるほど、それなら、卑弥呼は肥国(邪馬台国)の女王で、
後を継いだ台与は豊国に遷都して女王になったのかもな。
なんにせよ、西都原は無関係。恵也は天邪鬼のバカなんだよ。
「邪馬台国はあったよ。
中国の書物に記録があるんだから。」
虚しい
98 :
九州ですが:2006/11/01(水) 23:48:21
>>87 なるほど、おたくの説も説得力ありますな。トヨの国ねぇ。
卑弥呼は没248だったか、皆既日食の年その責任を取らされて殺された。
という説があるんですよ。宇佐には怨霊として祀られてるわけで一致している。
神主さんの話では宇佐あたりの人だったそうです。
その出所の神社は崩壊寸前だが、宮内庁に封印されていて謎めいている。
今でも宇佐に参りに来る人が「卑弥呼ですか」と聞くそうです。
99 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 23:48:55
宇佐神宮にも行った事があるんだけど、祀られているのは壱の殿が応神天皇
弐の殿が比売大神。参の殿が神功皇后。つまり、主神は応神天皇だけど、
どう見ても弐の殿の方が真ん中にあり、立派に作られ、主役になっている。
しかし、説明書きの看板には、「神代に三神の比売大神がご降臨になった
この宇佐の地に…」と書いてある。三神の比売大神というとどうしても
宗像の三女神が浮かんでくる。果たしてこれが何を意味するのか。
宇佐神宮の由緒書きによると、571年に応神天皇が八幡大神として
現れ、725年に鎮座されたらしい。731年に比売大神が祀られ、
823年に神宮皇后が祀られた。
ただ、宇佐神宮がでかくなったのは、720年頃の隼人の乱の鎮圧が大きい。
このとき、たくさんの隼人を殺害したことにより、宇佐地方ではいろんな
災いが起きた。その隼人の霊を慰めるために宇佐神宮が整備されたらしい。
100 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/01(水) 23:51:09
>>83 >どうして、現在の西都市に「邪馬台国」を匂わす地名が無いのか?
国家が潰れたソビエト連邦にソビエト連邦の地名を匂わす土地があるかな?
卑弥呼が皆既日食の頃惨殺されたというけど、嫌な思い出の名前は付けたがらないのじゃないか。
死んだ後、男王になって国家が乱れ、13歳の台与に実権が移るまで西都市ではグチャグチャになり
無傷の宇佐神宮の側の国家が霊能者台与を立てて、邪馬台国を再生したと考える。
宇佐神宮の側にはヤバケイ(耶馬渓)という土地があり、匂いはあると思うが。
神武天皇は日向から宇佐神宮を経由して北九州に向ってます。
神武天皇が遠征軍の軍勢を集めたのが、邪馬台国の一員である北九州の連中。
その為に多勢の連中の間で、近畿植民地に勝手に名前を付けだしたもの。
トップの皇族がイチイチ名付けるわけじゃなかろう。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
孝謙天皇が道鏡に譲位しようとした際、
皇祖への伺いをたてようとして使者を派遣したのは
伊勢神宮ではなく、九州の応神を祭る宇佐八幡でした。
このことから、天皇家の本当の氏神は
伊勢神宮ではなく宇佐八幡だという説がありますね。
みなさんはどう思われますか?
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/988978101/181-281
またアホな右左折が出てきたか。
何度もゾンビのように甦るな。
井沢本を読んだばかりの素人が書き込んでるのか?
102 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/02(木) 00:07:52
103 :
九州ですが:2006/11/02(木) 00:11:10
>>99 の人、興味深い話だ。八女には八女津媛、というのが居るし、
宗像も神域とされる何とかという島に、弥生時代の供物がゴロゴロ
転がっているのに、宮内庁に封印されてるんですよね。
天皇家の先祖に不敬だからと言う理由で封印する事は聞きますが、
天皇家の出生の秘密や、日本神話が覆るような事実を宮内庁が隠してる
様な印象を番組から持ったけどね。
104 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 00:17:13
105 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 00:17:25
248年に日食なんか無かった。
これ安本も承知のこと。
耶馬渓の地名が何時付けられたのかも解らない様な
℃素人がなに言ってるんだか疲れるよ。
106 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/02(木) 00:29:09
107 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/02(木) 00:37:38
>>105 >耶馬渓の地名が何時付けられたのかも解らない様な
頼山陽とかの話を信じてるのかい?
俺はその有名人にあやかったソース自体をあまり信用してない。
108 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 00:39:04
>>106 >後世に権力者が適当に変えてるみたいで・・・・
それは言えるかも知れない。
神社の由緒書きで面白いのは、
宮崎県高原町に狭野神社というのがある。
狭野というのは狭野命つまり、神武天皇のことで、
その由緒書きによると、
第五代孝昭天皇の御世に神武天皇ご生誕の地に社殿が創建されたとある。
近くに皇子原というのがあり、そこで神武天皇は誕生したらしい。
本当かどうかは定かでない。
神武天皇を祀った神社というのは、ここと宮崎神宮くらいかな。
宮崎神宮には昭和天皇は6度参拝されているらしい。
109 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/02(木) 00:46:38
110 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/02(木) 00:57:49
111 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/02(木) 01:02:06
>>99 >宇佐神宮の由緒書きによると
宮司って、A級戦犯を合祀した松平って方は職業軍人で自衛隊上がり。
しかもたった3ヶ月の見習い宮司の身で、昭和天皇の意思を無視して
勝手に合祀したツワモノ。
神功の由緒書きをかいた責任者の宮司さん、信頼できるのかね・・・・
112 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 01:59:14
↑失せろや
113 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 02:19:48
恵也=サガミ以上の奇知外
114 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 07:19:23
裏付けがないカキコは、ただの雑談
115 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 08:42:44
京都の宮津にある籠神社に海部氏勘注系図という物があって、そこに日女命と書かれているのが卑弥呼らしいと、
昨日読んだ本に書いてあった。
その本には、狗奴国は桑名だと書いてあった。
116 :
サガミハラハラ:2006/11/02(木) 08:49:21
昔、邪馬台国を探していたときに、ある町で蛭子町という標識を見つけ、ヒルコ町と読み、卑弥呼のことではないかと思ったことがありました。
けどこれ、エビス町と読むのだそうです。
117 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 09:01:55
日女命 またの名をヤマトトトヒモモソヒメ。
二代後にも日女命の名があり、それが台与だろうと書いてあった。
118 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 11:29:20
119 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 11:44:26
↑
だから なに?
120 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 11:56:45
「海部氏系図」で検索を。
121 :
粗忽者:2006/11/02(木) 12:25:35
>>118うっかりひらいちゃったけど、有料サイトなんですね。
あとで請求がどっとくるかな。
122 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/02(木) 13:02:26
>>99 >宇佐神宮がでかくなったのは、720年頃の隼人の乱の鎮圧が大きい。
俺はもっと古い伝統があると見てる。
720年じゃ記紀が作られた時期で、天皇家に対する影響力を考えると新し過ぎる。
弓削道鏡に天皇の位を渡そうとした時の、宇佐神宮の神託事件は新興集団とは思えん。
長い伝統の中でこそ神託事件は起こる必要条件が出来る。
道鏡も権力者の裏取引で、針小棒大な騒がれ方をして極悪人にされた可能性もある。
社民党の辻元清美氏をダブらせてしまうな。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
何事にも常に動じることなく、唐からの僧とも対等に談笑をし、悠然と構えては弟子に
仏法を諭し、女帝には宇宙自然界を語る道鏡の、求道者としての知性あふれる言葉の
数々は、女帝にとってみれば鮮烈であり、迷い事にも冷静沈着な態度で答えてくれる
道鏡はまさに人生の師ではなかったかと思われる。
世襲制の恩恵だけで官職の座にあり、威張っている藤原一族の言葉など馬鹿らしくて耳
を貸せなかったのではないか。
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/ishii/doukyou.htm
123 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/02(木) 13:12:56
>>115 >卑弥呼らしいと、昨日読んだ本に書いてあった。
書いてあったと言うだけじゃ、屁みたいなもの。
洗脳の一種だろう、内容の記憶がほとんど残らないものじゃ品格が知れてる。
少なくとも言葉遊びじゃなく、安本説や恵也説みたいに数学的基礎や魏志倭人伝、記紀、遺跡
などの重要なものから外れないようにしないと、偏見の迷路に迷うのがオチ。
世界一のお墓を持ってる第16代仁徳天皇の死亡期日西暦427年を、事実だとしたら神武天皇
や天照大神はいつ頃死んだのか。
天皇の平均在位期間を10年としたら第X代天皇の死亡年月日は次の式で得られる。
427−(16−X)*10=西暦死亡年
427−(16−1)*10=277年・・・第1代 神武天皇
427−(16+3)*10=237年・・・皇祖 天照大神
247年・・・魏志倭人伝で卑弥呼死す
まあ、10年の差くらいなら十分に同一人物だった可能性はある。
それに当時の天皇は先頭に立って、反対派を征伐していた天皇としては危険な任務の時代。
19人の天皇で10年間の在位期間が短縮したのなら、むしろピッタリと言うべき。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
第31代の用明天皇は、2年ほど在位し、586年には活躍していたことが確実な天皇である。
用明天皇の活躍年代586年を起点として、一代10年づつ古代にさかのぼれば、各天皇の
大略の活躍年代がえられる。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/nendai.htm
124 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/02(木) 13:17:16
>>121 >あとで請求がどっとくるかな。
こんなのは払わなければ、屁みたいなもの。
払ったら絶対に戻ってこないし、次の被害者を作る資金になる。
被害者責任というものを考えるように!
125 :
太国:2006/11/02(木) 14:48:50
>>123 前スレで言ったが、3の数字は日向3代の意味か?
古史古伝によるとウガヤフキアヘズ朝70数代の記述がある。こっちが真だと
その数字は合わないことになるし、10年なんかは単純計算の内容であんまり
あてにはならない。だいたい先帝の世も即位からでも60余年もあるんだし、
当時もあったかも知れない。結論も早く吟味検討があまり見られない。
結局は失敗の数式ということになる。君のやることは滅茶苦茶の時系列。w
126 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 15:01:51
恵也。サイトばかり眺めてないで和漢籍や中国漢籍でも読みなさい
その数式でいくと、1792470余年は、どう処理される?
127 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/02(木) 15:38:18
>>125 >だいたい先帝の世も即位からでも60余年もあるんだし、
今の世は衛生観念も格段に進歩したし、西洋医学で伝染病や切り取れば治るような
病気はダイタイ克服した世界になってる。
平均寿命も世界一になったんじゃないの?
しかし卑弥呼の時代にはそんな知識はなく、平均寿命も短いし戦乱や暗殺で
天皇の在位期間は短かったと思う。
昭和天皇は天皇の在位期間じゃ、例外的長さだし安本氏は古代や中世、近世など
平均寿命の変化にも対応できる計算法を行ってる。
それから3の字が理解できないようだけど、神武天皇を第1代天皇と計算してるから
その上のアマツヒダカ命が0代、山幸彦が−1代、ニニギノ命が−2代、天照大神が
ー3代として計算してある。
128 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 15:42:19
海部氏系図は国宝だけど、品格はどうかな?
129 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/02(木) 15:45:29
なぜ距離を里で表したり、日数で書いたりしたのか?
帯方郡→狗邪韓国や帯方郡→邪馬台国の長距離は、六分儀みたいなもので星を見て
計算したが、その途中で水行20日とかいうのは天気のせいで位置が出せなかった為。
また星を見ての位置計算では誤差が大きく、1000里(80km)以上じゃないと適用できない
陸行1ヶ月とあるのは、九州横断の為、峻険なグニャグニャ道を方向もわからず案内人の言う
ままに小さな村々で歓迎されながらも、難行して旅行し出発点の位置も分からなくなった為。
九州山脈の中では、数万戸単位の大きな都市はなかったので、長期滞在もなく記録しなかったもの。
邪馬台国に着いて、改めて星を調べて帯方郡→邪馬台国間の直線距離を12000里(960km)
と記録できたと考えれる。
130 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/02(木) 16:20:44
131 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 17:20:44
↑相変わらず気違いだなw
132 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 17:22:20
恵也は遂にマルチポストを初めたな
133 :
太国:2006/11/02(木) 18:57:31
>>127 >>130 いいかい、神武以前は遡り式に格段の長年月が経過していることになるんだ。
なぜなら、たった3の数字くらいで天照大御神に到達するなら、その手前の者は
イザナギ、イザナミ命になってしまう。そうなるとこの二人は国産みに関わって
来る。だからあんたのいう卑弥呼=アマテラスの数十年前に日本国の誕生が
あった計算になり、日本国の明石原人の生息や超古代生物の生存が卑弥呼から
たった百年ばかり前だという計算になる。そんな馬鹿なことは、君はどうだか知ら
んが、他の誰も肯定などしてはくれないよ。w
つまりだ、神武以前はどうなっていたか、資料不足で年数計算は極めて困難で
あり、だれも年を決めるのは、エベレスト、須弥山を登るより正確は帰し難い
のだ。10年が相当即位年月などは単純の嫌いが多すぎ、この論は許容できない。
134 :
九州ですが:2006/11/02(木) 20:08:04
>>129 戻って悪いが、
以前、マツラから伊都まで25キロほどもあるのに、魏の使いをそんなに
歩かせるわけが無い。と誰か言ってたが、まして九州山地の先まで果たして歩かせるかな。
135 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 20:53:54
どっちにせよ、邪馬台国の時代の畿内の古墳から、中国と交流した遺物
が
出てくる。つまり、当時の畿内は中国と繋がっていた勢力が存在した。
そして、魏志倭人伝には、九州にはヒナモリが置かれていたと書いてある。
つまりは、鄙守り。田舎を守る役所。都から遠く離れてるという意では?
136 :
太国:2006/11/02(木) 21:11:12
そんじゃぁ、「肥奴守」にもなるぞ?w
「肥の国」と「奴の国」を守るのか?
137 :
九州ですが:2006/11/02(木) 21:14:26
>>135 それって不弥国の副長官の名前でしょ。
和訳:東へ百里行くと不弥国に着く。官を多模(たも)といい、副官を卑奴母離(ひなもり)という。
138 :
九州ですが:2006/11/02(木) 21:19:41
>>129 >>133 僕は、二人の説とは違ってて、ヤマトタケルが、遠征の時、無駄に血を流さない為に、
敵地に着くとまず、水飴を相手に食べさせて懐柔したように、
我々の仲間になれば、貴方達の先祖や、信奉している神も、我々の神として崇めよう。
と、約束していったんでは? 王は神社を建ててやって、神主にしたり。
その結果、八百万の神といって、膨大な数になってしまい、後に
日本書紀などで 系統だてられ、神々の系譜が出来上がった。
故に 正確さに欠けるのではないか?
勿論、大和朝廷の神は格上に位置づけして征服した地に徹底しただろうが、
自分達の先祖を神として祀られる安心感があっただろうし、さもなくば
全滅するまで戦ったことだろう。
139 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 21:24:29
>>135 >当時の畿内は中国と繋がっていた勢力が存在した。
だからと言って、邪馬台国との関連性には結びつかない。
当時魏王朝は、列島より(二つの勢力からの)挨拶を受けたと記録されているので
本州から後漢朝や、魏朝の遺物が出土しても、なんら不思議ではない。
140 :
太国:2006/11/02(木) 21:28:23
>>138 恵也氏との論は、神武の世より卑弥呼はそれ以前か以後かということです。
彼は神武以前で卑弥呼=アマテラスの等式を肯定しているので、それがしは
違うぞと言っているわけです。すると例の数式を持ち出してだいたい合うとか
言ってますので、単純計算だし吟味も検討もなく、結論が早計だと突いて
いるわけです。
141 :
九州ですが:2006/11/02(木) 21:35:46
畿内が魏と親交があったのなら、なおさら魏の使者が海行、又陸行で、
古代から勢力のあった、吉備や、出雲を通ったであろうにも関わらず、
倭人伝に一向それらしき地名が見えない。これが私が畿内説に対して
払拭し難い、疑問を抱いている理由の一つ。
142 :
太国:2006/11/02(木) 21:44:24
143 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 21:54:00
144 :
九州ですが:2006/11/02(木) 21:55:04
>>140うーん。それは難しい。神武天皇は、皇室のご先祖になってる訳でしょ。
卑弥呼はというと、皇室の直接の先祖としては、認められていない訳でしょ。
それが証拠に戦前の歴史教育では、国が、というより軍部が、
万世一系を、否定するものとして邪馬台国と、壬申の乱は絶対に教えなかった。
天皇を現人神と崇める時代、卑弥呼が天皇家と関わりがあるかどうか、
天皇家に纏わる古文書など徹底的に調べて決定した事だと思う。
だから、別の系統ではないか。
天照=卑弥呼、は、シンクレティズムでは?
145 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 22:07:13
>>141 >畿内が魏と親交があったのなら、なおさら魏の使者が海行、又陸行で、
古代から勢力のあった、吉備や、出雲を通ったであろうにも関わらず、
倭人伝に一向それらしき地名が見えない。これが私が畿内説に対して
払拭し難い、疑問を抱いている理由の一つ。
倭人伝に書かれている魏王朝交際国は正式な交易関係国(邪馬台国)であるから
一方的に訪れお土産だけを持ち帰る国の記録ない
ようするに、魏王朝から見れば
向こうからは挨拶にくるが、こちらから訪ねたことはない
146 :
九州ですが:2006/11/02(木) 22:19:28
>>144の続き
解りやすく言うと、旧約聖書みたいに、あっちこっちであった出来事を集大成して
神様の歴史を作り上げて、神の子孫が我々だ{大和朝廷}とした方が権威が上がり、
反感も抑えられる。神罰が下るぞ。と脅してね。クーデターなどを警戒したのでは。
どっかで聞いた、女王というより、どっかのおばさんくらいの認識の卑弥呼の話を、
「そりゃ面白い。その話頂き」ってな具合だったかも。ちょっと言いすぎかな。
147 :
太国:2006/11/02(木) 22:50:55
>>144 >>146 卑弥呼は九州王朝の一時期の女王です。女王国は九州王朝の氷山の一角であり、
その前後にも九州王朝があったのです。アマテラスは神武以前の悠久の神代に
実際生存していた超ミスコン優勝者級の美女で、あの美人の白田さんには似て
いません。朝廷が神功皇后の世に、九州某所に君臨していたのが卑弥呼です。
148 :
九州ですが:2006/11/02(木) 23:06:39
確かに九州各地には女王がいるよね。でも卑弥呼っておばさんじゃなかったっけ。
日食の責任を取らされて殺された。と、NHKのTV特番であったとき
べつに同情しなかったもん。
149 :
太国:2006/11/02(木) 23:17:19
>>148 年齢が行けばおばさんになります。日食と卑弥呼が関係あるか否かはいまの
ところなんとも?です。NHKのは見てないので分かりませんが、見たかった
です。天照大御神はちょっと瓜実顔を想う柳腰の小柄な美姫でして、安藤美姫
さんには似ていませんし荒川静香さんにも似てないですよ。卑弥呼はまぁ少し
太った感じの神功皇后ともなんとなく似ているところがあるかな? アンテナ針
の天辺についた日像鏡が全面にある冠をかぶっていますが、アマテラスのほうは
アンテナ様のもののない八角形の鏡のある冠をかぶっていますね。zzzzzz・・・
150 :
九州ですが:2006/11/02(木) 23:31:22
>>149の人ーってありゃ寝ちゃったみたい。
でも畿内説でも万一、正しかった日にゃ 卑弥呼は大阪のおばちゃんタイプ?
最悪のパターンだわなこりゃ。
151 :
太国:2006/11/03(金) 07:59:47
女王国は畿内にはないです。先のとおり、誰でも歳とれば女性はおばさんに
なります。卑弥呼は大阪人ではないです。
152 :
九州ですが:2006/11/03(金) 10:35:07
>>151 ぜひそう願いたいものだ。
ところでご貴殿は女王国はどの辺にあったとお考えか?
153 :
太国:2006/11/03(金) 10:51:19
154 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 12:01:43
「大風呂南遺跡」で検索したら、大陸との直接の交易を信じられるよ。
155 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 12:39:37
九州説による記紀や倭人伝の都合のいい解釈を繰り返し聞かされても無駄なので
古代史や考古学の議論の成果を定期的にまとめてくれる人はスレにいないのかな?
156 :
九州ですが:2006/11/03(金) 13:02:52
>>155 都合が良いも悪いもこの答えを畿内説からワタシャずーッとまっとるだに、
いまだに返事が来ん。答えを出してからにしんしゃい。
157 :
九州ですが:2006/11/03(金) 13:08:55
>>155 失礼。何の答えか書くのを忘れた。下文。
産能大学教授、安本美典
ホケノ山古墳に疑問あり
神獣鏡は中国南方系 木かくの中に木棺
魏志倭人伝に合わず 築造時期にも異説
畿内の場合、木かく木棺墓も、四世紀代の古墳に多く見られる竪穴式石室墓も、
さらには五世紀以後の古墳に見られる横穴式石室墓も、一貫して棺あってかく無しに
合わない、、、文。
2000年 平成12年 4月6日 西日本新聞
詳しくは新聞社へ
158 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 13:26:38
邪馬台国、ドンと来い!!
159 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/03(金) 15:00:05
>>133 >そうなるとこの二人は国産みに関わって来る。だからあんたのいう卑弥呼=アマテラスの
>数十年前に日本国の誕生があった計算になり、
あんた正気かい?
イザナギが日本列島(オノゴロ島)を作ったなんて信じてるのかな。
神話なんて、手加減して読まないとな!
ただの天照大神の前の権力者を、イザナギと名付けただけの話だろう。
下のHPは別の解釈のようだけど・・・
チョッとエッチな神話だね。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
そこで、イザナギノミコトとイザナミノミコトは、天からつながっている浮桟橋(うきさんばし)
までやって来て、矛を降ろして、下界の海水をゴロゴロと掻き回してから、引き上げてみました。
その時に、矛の先からしたたる海水が重なってできたのがオノゴロ島(大阪湾内の島?)です。
http://www15.plala.or.jp/kojiki/izanagi_izanami_02.html
160 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 15:11:23
倭人伝原理主義者が巣食うこのスレに、まともな人は書き込みをしないよ。
161 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/03(金) 15:22:34
>>134 >まして九州山地の先まで果たして歩かせるかな。
実際に陸行1ヶ月と書いてあるだろう。
邪馬台国までの安全にしかも最短距離を選べば、その道しかなかったというべき。
狗奴国が、それだけ危険な存在だったというべき。
邪馬台国が今の上海の東だと書いてるのも、天体観測から邪馬台国の現在地を調べる技術が
あったからこそ 書くことが出来たもの。
今の上海は北緯31度くらいで、西都市は北緯32度の位置くらいだ。誤差が100kmかな。
その間が直線距離1000kmもあるんだから、ピッタリというべきでしょう。
(注::会稽というのは上海と書いてあったが、東治の位置は分からん)
ーーーーー(引用開始)−−−−−
この国はどのあたりにあるかというと、まさに、会稽の東治の東にあたる。
162 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/03(金) 15:45:23
>>138 >我々の仲間になれば、貴方達の先祖や、信奉している神も、我々の神として崇めよう。
>と、約束していったんでは? 王は神社を建ててやって、神主にしたり。
むしろ俺は井沢元彦氏の考えだが、殺した相手の祟りを恐れて神社として祀ったと思う。
出雲大社の大国主命みたいにね。
出雲地方が大和政権に占領される前の神は、銅鐸を使った神だったんじゃないかな。
諏訪神社も大国主命の子供で、大和政権に徹底抵抗し長野まで逃げ出した神さんだし
結局大和政権に殺されたから祟りを恐れ、神様に格上げされたんじゃないかな。
殺さなければタタリを恐れないから・・・
もちろん指導者は殺しても、一般人は国力の源。
逆に前の指導者よりも大切にして、一般人の信頼を得て治安確保に成功したんだろう。
銅鐸がまとめて埋めてあったり、突然一時期に消えたのを見ると信仰の自由はなかったと思う。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
建御名方命は大国主命の子で、出雲での国譲りのときに武甕槌命に敗れ、諏訪湖に逃れました。
http://www.tohyamago.com/03-jiten/10-sizen/16-chuoh/chuoh02.html
163 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/03(金) 15:51:40
>>140 >単純計算だし吟味も検討もなく、結論が早計だと突いているわけです。
真実とは一般的に「単純で美しい形」のもんだよ。
吟味や検討は赤の他人がやるべきこと。
俺は俺なりの「吟味も検討」もして得た結論。
それを他人に判るように詳しく、全部ばらすような事をするのは不可能。
まあ、俺の考えで不都合な矛盾点が出てきたら、また結論を変えるのは当たり前だがね。
164 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 16:00:07
ヤバン(八幡)=マレー語で日本・・・ヤバ・・・邪馬
165 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/03(金) 16:20:06
>>144 >卑弥呼はというと、皇室の直接の先祖としては、認められていない訳でしょ。
天照大神と神武天皇も直接の先祖とは思えない。
スサノオとの誓約で勾玉や矛から、お互いの子孫が生まれたなんて怪しすぎる。
むしろ政治権力の移動で、血族的に信頼できるのは神武天皇からでしょう。
卑弥呼も独身だったというし・・・
ーーーーー(引用開始)−−−−−
古事記では、アマテラスとスサノオとの誓約の際、スサノオがアマテラスの勾玉を譲り
受けて生まれた五皇子
http://dxf4444.blog66.fc2.com/blog-entry-61.html
166 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/03(金) 16:29:25
>>145 >魏王朝から見れば 向こうからは挨拶にくるが、こちらから訪ねたことはない
使節団が一方的に訪ねて行ったのじゃないの?
よその国を通り過ぎるのに、挨拶もしないで行ってたらどんなトラブルが生じるか判らんかね。
邪馬台国の同盟国だとしても、それなりの手続はするだろう。
末盧国から投馬国まで、ずいぶんいろんな国の名前が出てるけどね。
その国の責任者の役職名から家の戸数まで書いてあるんだぜ。
これらは責任者に会いに行って、宴会をして情報を取り使節団員が書いたものでしょう。
167 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 16:33:50
海部氏勘注系図には、ミマキイリヒコの名前もある。
読んだ本では取り上げてなかったが、箸墓に埋葬されたと言うモモソヒメとスサノウの投げ込んだ生皮に驚いたワカヒルメは同じ死に方をしている。
ワカヒルメはアマテラス自身と言う説もある。アマテラスの別名はオオヒルメムチ。
168 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/03(金) 16:41:52
>>154 >「大風呂南遺跡」で検索したら、大陸との直接の交易を信じられるよ。
日本列島のアチコチと大陸との交易を否定してる人は居ないのじゃないかね。
しかし魏志倭人伝に書かれた邪馬台国が、どこだったかという事だ。
青森の丸山遺跡を初め、縄文時代から人が村を作ってあらゆる所と交易し、
日本中で生活したのは事実なんだから。
169 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 16:44:51
北九州の関与が無いと言ってるんだよ。
170 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/03(金) 16:57:20
>>169 >北九州の関与が無いと言ってるんだよ。
国語力不足で、意味不明。
もう一度中学校で国語を勉強しなおしなさい。
171 :
太国:2006/11/03(金) 17:19:43
>>159 それはこっちの言う(正気かい?)セリフなんだよ。w
信じているのはお前さんではないか?ww
だから10年、3年云々を聴いてるわけだよ。
なんでイザナギが不採用でアマテラスは採用の計算に入るんだ?
172 :
太国:2006/11/03(金) 17:27:33
>>163 真実で泥臭いのはいくらでもある。必ずしも美しいとは云えない。
赤の他人に依存してるのなら、その他人の説を無防備に回収してるわけだから、
出鱈目王になること必定だ。お前さんも吟味、検討を草葉の陰でやってるのなら
ば、どのようにそれをしたのか説明がないんじゃぁ、誰も聴く耳を持ってはくれ
ない。まぁ機密物があるんじゃやむを得んが、お前さんじゃぁありっこないなぁ?
173 :
:日本@名無史さん :2006/11/03(金) 17:31:02
九州説は厳しすぎる。ヤマトタケルを渡来系にしたがるからそういう誤解になるん
じゃない?土着かもっと遥か前に渡来した大陸人と思えばいいんじゃない?
174 :
:日本@名無史さん :2006/11/03(金) 17:34:05
蘇我の蝦夷が彼らの親戚だから、多分土着だろう。
175 :
太国:2006/11/03(金) 17:35:22
>>173 じゃぁ何で、チョンタケルとかカンタケルとかシナタケルの名にしなかったの?
176 :
:日本@名無史さん :2006/11/03(金) 17:38:34
>>175 そうだよね。土着縄文人だからじゃない?名前からしてアイヌっぽいよね。
177 :
太国:2006/11/03(金) 17:40:52
>>176 渡来ならシナワタル否シナワタレルの名のほうがピッタリとか・・・?
178 :
:日本@名無史さん :2006/11/03(金) 17:45:54
言語や発音も民俗特定に大事。既にシナと異なる言語成り立ってるじゃない。
そもそも大陸も統一される前は小さい部族や民族いっぱい居たしね。
179 :
:日本@名無史さん :2006/11/03(金) 17:51:02
一番問題なのはね、春秋戦国だか秦王朝の頃の移民とかっていう後付け妄想じゃない?
180 :
:日本@名無史さん :2006/11/03(金) 18:26:06
もう一つ、ついでに書くとこの頃の日本語ってハワイの言語とそっくりだね。
この頃の日本語なんてどうやってわかるんだよ。それ以上に、三世紀のハワイの言語を汁粉との方が難しいだろうが。
ハワイじゃなくて羽合の言語なら間違いなく日本語と同じだが。
182 :
:日本@名無史さん :2006/11/03(金) 19:16:46
183 :
太国:2006/11/03(金) 19:31:04
合羽? 合羽橋〜。この字だっけ?
184 :
九州ですが:2006/11/03(金) 20:20:11
>>161 自分の考えとしては、陸行一月は、今までの経路をもう一度形を変えて述べた部分、と捉えないとあまりにアバウトすぎる
信じられない。実際にインド、中国などの古代の文章は、まとめとしてもう一度繰り返す事例も多い。
それに、もし、九州を南下するくらいなら日向灘沿いに舟で悔行したほうが安全ではないか?
当時の九州山地の横断など、よほど登山覚悟で行かないと、遭難するのがオチでは?現在でも遭難するのに。
それに神話、伝説は関係ない出来事をくっつける事も多いから、信憑性に欠けるのでは?
重きを置かないようにはしているが。
185 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 20:35:07
>>157 倭人伝の木槨無しの記述は北九州を含めた倭の地の風習であり
大王クラスの墓には木槨も使われはじめていたのではないかと
返事をもらってなかったかな?
現代でも普通の日本人と天皇の墓は違うが、
それをもって作られた時代が違うなどとは言わないだろう。
むしろ木槨の存在は、半島や大陸と高度な外交が行える
国際感覚に溢れた王朝が存在していた事の裏付けになるとも思うのだが。
186 :
九州ですが:2006/11/03(金) 20:53:13
>>185 違います。機内は一貫して埋葬の記述が魏志倭人伝と一致するところはありません。
北部九州だけが一貫して記述に符号してるのです。
漢人の埋葬への関心は高かったと見え、色んな書物に埋葬の記述は
詳しく正確に述べられており、記述が間違っているとは考えられません。
187 :
九州ですが:2006/11/03(金) 20:57:13
188 :
:日本@名無史さん :2006/11/03(金) 20:58:05
そうか、そういうことか!卑弥呼から蘇我蝦夷までが縄文人だったのか!
曽我氏の没落以降に京を乗っ取った朝鮮人が沢山入ってきて縄文人は東に
追いやられる蝦夷という存在になったのか?ということは・・・
189 :
:日本@名無史さん :2006/11/03(金) 21:12:54
どうりで、北の果てにアイヌという肌黒な日焼け人種がイルカと思いきや、
南の最果ての沖縄にそっくりさんがいるわけだ。分断地点はやはり奈良か!?
190 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 21:21:13
>>186 一貫してるかどうかではなく、
一般的だったかが問題ではないのかな?
そして卑弥呼の墓は大王クラスに作られる
例外的なものであるから別個に記述されたのでは。
191 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 21:31:47
>>180 日本語もハワイ語も
母音のはっきりしている原始語
だから比較的似通っているのでは?
192 :
太国:2006/11/03(金) 21:34:44
派倭意??
193 :
九州ですが:2006/11/03(金) 21:55:39
>>190 畿内の場合、木槨木棺墓も、四世紀古墳に多く見られる竪穴式石室墓も、さらには五世紀以後の古墳に見られる
横穴式石室墓も、一貫して「棺あって槨なし」に合わない。
北九州で多量に発見される甕棺墓や、箱式石棺墓なども「棺あって槨無し」の記述に一貫して合致する。
西日本新聞 ホケノ山古墳に疑問あり 安本美典 記事より抜粋。
194 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/03(金) 22:07:16
>>184 >当時の九州山地の横断など、よほど登山覚悟で行かないと、遭難するのがオチでは?
>現在でも遭難するのに。
どうもあなたの話は裏づけが少ない!
九州横断といっても、阿蘇山や霧島の頂上まで登るのじゃなく麓の道を曲がりくねっての道。
麓で遭難したとかいう話は聞いたことがない。
日向灘沿いを南下といっても、日向灘に出るまでに中国や四国の敵対勢力の襲撃の心配がある。
それに同じ邪馬台国同盟国といっても本当に安心できる国かどうかは別。
俺は西都市から、伊都国までの安全で信頼できる最短のルートを卑弥呼は選んだと見てる。
九州横断も卑弥呼の時代には、最も安心できる邪馬台国からの交易ルートというべき。
今の時代みたいに正確な地図もないし、それまでの実績から選ばれたルートだろう。
それに水行10日、陸行1ヶ月じゃ旅行する時間比率からいったら全く逆になるはず。
投馬国に行くだけでも不弥国から水行20日となってるんだぜ。
あなたの話は、全く計算以前の話。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
南へ水行二十日程で、投馬国に着く。官を弥弥(みみ)という。副官を弥弥那利(みみなり)
という。五万戸余りある。
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
195 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/03(金) 22:17:02
>>185 >倭人伝の木槨無しの記述は北九州を含めた倭の地の風習であり
>大王クラスの墓には木槨も使われはじめていたのではないかと
怪しげな妄想だ。
卑弥呼の死んだ247年頃に墓室なんてある古墳が、日本にあったのかい?
魏志倭人伝に明記された記事はむしろ、卑弥呼の墓を見て書いた文章。
ワザワザ外交使節に来る連中が、お墓の構造を調べに赤の他人の葬儀に参加するとは思えん。
邪馬台国の最高指導者の葬儀だから、お墓を見るチャンスも出来、その構造を調べて書いて
残したと見るべき。
日本に来てる現在の外国大使にしても、赤の他人の葬儀に参加するはずがない。
お墓に興味を持つ特別な外国人学者ならともかくね。
結論::卑弥呼の葬儀を見て邪馬台国では墓室がないのに気がついた。
196 :
九州ですが:2006/11/03(金) 22:20:44
>>194 倭人伝には平地でさえ葦などが生い茂り、前に行く人が見えないくらいだ。とか、
獣道しかないところがあったりするのに、落ち武者でさえ難儀するあの秘境を
麓の道など誰が整備などするでしょうか。今とは違い、植林された綺麗な
山ではなく、全部といっていいほど、原始林、また原始林の世界ですよ。
197 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 22:22:17
198 :
九州ですが:2006/11/03(金) 22:35:32
>>195 三国志の筆者は葬制には関心を持っていた。
韓伝、夫余伝では「棺あって槨無し」高句麗伝では「石を積みて封となす」
東沃祖伝では大木の槨を作る、長さ十余丈」などといちいち書き分けている。
魏の使いも埋葬を見た可能性がある。
199 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 22:38:24
考古学上、三世紀初頭に筑紫全体を統治する九州政権は見当たらない。
むしろ奴国に那珂八幡古墳や庄内土器が導入されるなど、大和の影響が見られる。
考古学的に敗北した九州説の一部残党が、倭人伝原理主義を唱え、オカルト論を展開中。
200 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/03(金) 22:41:41
>>186 >北部九州だけが一貫して記述に符号してるのです。
卑弥呼が死んだ247年以降の古墳では、墓室が存在してるのじゃないの?
こういったことは流行する作り方と思うけど・・・
玄室とは、お棺を入れる墓室:槨のことだろう。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
前室は奥行き2.35m 幅2.5 m 前室前の板石に白色の山文様がで描かれ、
その下に黄色の両手を開いた人物像が描かれています。
後室は奥行き3.6 m 幅3.18m
高さは3.7m
阿蘇溶岩製の横口 石屋形
玄室は周壁の3方を一枚石で製作。
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/suruga/kohunn.htm
201 :
太国:2006/11/03(金) 22:57:11
>>199 >三世紀初頭に筑紫全体を統治する九州政権は見当たらない。
このことは正解の可能性あり。しかし・・・
女王国は九州全体を統治していたかどうかは疑問が残るが、もっと狭い目での
九州のある地域を統治していたことは否めない。
考古学に九州説が敗北などというのは滑稽である。畿内説が勝手に考古学を
寅の威を借りる狐の如く使用してるだけ。これは
ヤマタイ→ヤマト→大和
との迷探偵の単純思い込みの推理から、今度は
ヤマタイ→ヤマト→大和→考古学+畿内説
と付加、決め付けた、大誤りのトンデモの行く先に因る。
畿内に女王国があるなら天皇と卑弥呼の謁見様なこととか交流の詳細が記紀に
載る。それがないのは九州にあって女王国の情報が取りにくいため、記紀に
殆ど記述されなかったということ。畿内になんかありっこな〜い。
九州ならば、倭人伝の書かれた大陸に近いんだから、当然九州の情報は畿内
より大陸に伝達されやすい。だから記紀にはその記載がなく倭人伝のほうに
記載が残存したわけであ〜る。
202 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/03(金) 22:57:35
>>196 >倭人伝には平地でさえ葦などが生い茂り、前に行く人が見えないくらいだ。
これは末盧国の事じゃないの。
どこだって手入れをしなければ簡単に、雑草だらけになります。
日本本土に最初に上陸した地点で、邪馬台国側の歓迎用の手入れが行われなかった為と見るべき
俺は四国88ヶ所徒歩遍路をしたけど、その時は雑草の手入れが小道では非常に必要な仕事だとは
気がつかなかった。
今は四万十市の田舎に暮らしてるけど、どんな小道でもほって置いたら雑草だらけだ。
遍路道も常に近所の方が手入れをしてるんだぜ。
当時の九州横断道路は、邪馬台国にとっては交易の為のメイン道路だったのじゃないかね。
卑弥呼の威光で、交易の為にご近所の方の奉仕で草取りが沢山行われてたと見るけど・・・・
203 :
九州ですが:2006/11/03(金) 22:58:50
>>200 違います。木の枠で囲った部屋に棺を入れるのです
前原市の平原遺跡は墓穴の中に割竹形木棺があった。
「木の枠で囲った部屋などは無く」「魏志倭人伝」の記述に合っている。
204 :
九州ですが:2006/11/03(金) 23:02:57
>>202当時の九州横断道路は、邪馬台国にとっては交易の為のメイン道路だったのじゃないかね
だれかそういう説を立てる学者がいるの?貴方の九州縦断説は
あまり聞かないけど。
205 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/03(金) 23:12:09
>>199 >考古学上、三世紀初頭に筑紫全体を統治する九州政権は見当たらない。
一世紀に北九州の奴国が漢に朝貢して、金印を貰ってるのに、三世紀に政権が見当たらない
とはどうして言えるんだい?
魏志倭人伝には壱岐や対馬にも、邪馬台国の友好国が存在してたと書いてあるんだろう。
北九州は3世紀には非常に経済発展していたというのは常識だと思うけど・・・
それに考古学で、統治する政権なんて見えるはずがないだろう。
見えるのは遺跡から考えて、その当時経済的に発達してたかどうかだ。
北九州はそのずっと前から発達してます。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
主に紀元前2・3世紀から紀元前3世紀頃までが弥生時代である。集落は、外濠、中濠、内濠、の
三重以上の環濠に囲まれ、南北約850メートル、東西約350メートルのだ円形をした大規模な
環濠集落である。その中からおびただしい遺物が出土している。
http://www.rakuten.ne.jp/gold/iki/history.html
206 :
九州ですが:2006/11/03(金) 23:22:09
>>194 日向灘沿いを南下といっても、日向灘に出るまでに中国や四国の敵対勢力の襲撃の心配がある。
それに同じ邪馬台国同盟国といっても本当に安心できる国かどうかは別。
俺は西都市から、伊都国までの安全で信頼できる最短のルートを卑弥呼は選んだと見てる。
とさっき言ったけど、南の熊本県菊池、山鹿一帯は全国有数の古墳密集地域。
古くから何かしらの勢力のあった地域を通っていくとは考え難いんじゃないの?
207 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/03(金) 23:22:49
208 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/03(金) 23:36:20
>>206 >古くから何かしらの勢力のあった地域を通っていくとは考え難いんじゃないの?
むしろ逆に、卑弥呼として非常に信頼が出来る政権が菊池、山鹿に存在してたと考えてます。
今の日本が天皇陛下をイギリスやフランスには安心して旅行してもらえるように、これが
中国を旅行となったら心配で仕方ないだろう。
卑弥呼と何らかのつながりがあったと見る。
朝鮮の公孫氏から流れて、卑弥呼は邪馬台国に住み着いたという話を読んだ事がある。
その旅の間に多くの、信頼できる友人が出来たんじゃないかな。
一国の指導者になった卑弥呼に、世間の荒波を潜り抜けてきた歴史を感じる。
後継者の台与の場合は、13歳だしそのバックに豪族の存在を感じるけど、卑弥呼には
それらしいバックは見当たらない感じだ。
世間の甘さも辛さも知った上で、霊能力を使ってたんだろう。
209 :
九州ですが:2006/11/03(金) 23:48:39
>>207 ここで言ってる有棺無槨はあくまで木槨のことだと考え無いと
甕棺墓が最盛期を迎えていた北部九州がやはり当てはまってしまいますよ。
それも一般民のお墓が。魏の使者はやはりある程度地位のある人の墓について
記述したんじゃないの?墓室を木枠で囲む畿内の埋葬のやり方は、
どっちにしても、記述に符合しない事だけははっきり言えるわけだから。
210 :
九州ですが:2006/11/03(金) 23:59:50
>>208 それこそ物凄い想像の産物だと思うけど。当時のクニは大乱の後で
連合以外は食うか食われるかでしょ。緩やかな和合を持つくらいなら
連合に入るんでは?それらしい地名も無いし。ちなみに阿蘇も古くから
なにがしかの勢力があった。
211 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 00:33:12
212 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 00:34:25
213 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 02:23:56
>>199 畿内説は、奴国を過小に見過ぎ。
金印をもらった国はほんのわずか。もらえたのは相応の権力があったから。
環濠集落が作られ始めたのは、戦争があったからである。これは当たり前。
九州で前3C頃から戦争が続いていたことは、甕棺の死体から十分に裏付けられる。
さんざん戦争をして、勝者がいなくて九州を「分割統治」というのは、不自然。
むしろ、奴国が勝者となり、九州全体に勢力を及ぼしていたと考えられる。
少なくとも北部九州は手中にしていた。
その後の帥升の時代には、確実に九州全体に権力が及んでいる。
平原王の時代(200年頃)には、出雲、吉備にも及んでいたと考えた方が良い。
少なくとも、「提携」は考古学的に裏付けられる。
畿内説がいくら年代遡上に狂奔しても、平原でアウト。これが現実。
214 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 03:40:04
奴国と委奴国を同一と考えてる低脳馬鹿
ナ国とヰナ国が同じなわけ無いだろボケカスがぁ
215 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 03:58:40
帥升の献上した生口160人は当時の人口から考えると多いですね。
自分の国の人間をこれだけ無駄にすることは出来ないから、たぶんよその
国の人間でしょう。戦争で勝った国が負けた国の人間を奴隷にするのは
世の常ですから。
ということは、帥升はかなり大規模な戦争の勝者ということになります。
後漢書に倭国王と書いてあるのもうなずけるような気がします。
これが邪馬台国の始まりで、倭人伝に書いてあるように70年か
80年たって跡継ぎがいなくなり、混乱の中から卑弥呼が生まれたと
考えているわけですが。
問題はどうして帥升が後漢に朝貢したのか。また、いわゆる奴国の王に
金印をやったくらい気前のいい後漢が帥升にどんなものをくれた
のかにも興味があります。
216 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 04:01:15
,、
//
///) 英語版wikipediaを見たことがあるのか!
/,.=゙''"/ _,r'三 ̄`ヽ、 竹島は韓国人によってdokdo(独島)に書き換えられたのだぞ
i f ,.r='"-‐'つ /ヘ/" ゙̄\,ミ\ Liancourt Rocksという名前があるにも関わらず!
/ _,.-‐'゙~ ,! 、!r r。-r ミ i
,i ,二ニー; ドツ ヽ ̄ fハ, il 奴らは「ラスク書簡」を無視し、一方的な
ノ il゙ ̄ ̄ l ー-_゙ ,、/ / 李承晩ライン以降、竹島を占拠している。
,イ「ト、 ,!,! ゙! )二」゙ ,!i Y
/ iトヾヽ_/ィ"___. ヽ.t _/,! i 韓国人は英語版wikipediaで都合のいい意見を書き続け
r; !\ヽi._jl/゙_ブ,フヽヾーtー:、__ ,トf-≦-=、_,L 英語圏の人々はそれを信じ始めている。
∧l \゙7'゙ .j!/ / /\jr=ニ:ー-゙┴、 ゙ミ三ヽi]l「/l _____
./ i ! \.// /./ ./ \ ┌‐ヽミ≦‐十'"! r",.-、, \ ハングル板でwikiスレを検索しろ!
/ i゙i /  ̄ ̄ ̄ i .l ッー-、\_ミ「彡゙'ー=‐ (_.人 ヽ._ ヽ 全てが分かる!
ノ ヾ、 / i! ! \_ ̄i i l r‐へ.__ ゝ. \ /
/ ゙''y' l .i 、 l !.j .l l 「,> ( \ 人
217 :
九州ですが:2006/11/04(土) 08:28:54
>>199はちょっと大仰かもしれないけども、畿内説がなんと言おうとも一つだけ
倭人伝に明記された地名が確認されているのは、志賀島出土の金印の奴国のみ。
極端な言い方をすれば畿内説の地名の物証は皆無と言ってよく、
たとえ当代随一の大学者足りといえども、全てが憶測にすぎない。
にも拘らず、九州説を卑下するような書き込みがあるのはまさに心外であり、
竹島問題と同じく、盗人猛々しいとしか言いようが無い。
奴国を頂く九州説に敬意を表するのが 卑しくも邪馬台国を語る者としての道であり、
これから九州説に物言うときは「僭越ではございますが」と前置きした上で、恐る恐る口上してもらいたい。
218 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 09:08:13
僭越でございますが、奈具岡遺跡を検索してみろ。
219 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 09:24:02
後、日吉ヶ丘遺跡も検索してみろ。
220 :
九州ですが:2006/11/04(土) 09:57:35
>>218 渡来人か何かの工房遺跡じゃないのこれは?
吉野ヶ里の楼観、など倭人伝の記述と完全に合致してないみたいよ。
吉野ヶ里だけが完全に一致をみる遺跡。
それに、ここは倭人伝の中の何というクニに当たるわけ?
奴国の金印のような倭人伝の地名を物証で示すような出土品の存在は?
ぜひとも教えて下さい。無知で存じ上げませんものですから。
221 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 10:39:38
吉野ヶ里って
三世紀頃には、殆ど廃墟同前なんだろう。
222 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/04(土) 11:05:11
>>210 >当時のクニは大乱の後で 連合以外は食うか食われるかでしょ。
大乱の後というのは、逆に避難民で諸国はごった返していたというべき。
人間の往来も激しく、一般人への情報の伝達も早かったというべきで食うか食われるかという
時期は過ぎたんじゃないかね。
狗奴国は相変わらず元気で、狗奴国や四国、中国地方に逃げ出した方も多かった事だろう。
今のスーダンみたいな状態じゃないか。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
略奪に遭い家を追われた人々のうち国境を越えチャドへ入り難民となることができなかった人
たちは、国内避難民としてスーダン国内に留まっています。彼らは、再び襲撃にあうことを
恐れ家に帰ることもできず避難民キャンプで飢えと闘っています。
http://www.jawfp.org/donate_campaign1.html
223 :
九州ですが:2006/11/04(土) 11:09:33
>>221 どっからそんな間違った認識が生まれるのやら
◎弥生時代前期(紀元前3〜前2世紀)
吉野ケ里の丘陵一帯に分散的に「ムラ」が誕生しました。
やがて南側の一画には環壕をもった集落が出現し、「ムラ」から「クニ」へと発展する兆しが見えてきます。
◎弥生時代中期(紀元前2〜紀元1世紀)
丘陵を一周する大きな外環壕が掘られます。
首長を葬る「墳丘墓」やたくさんの「かめ棺墓地」も見られます。
集落の発展とともに、その防御も厳重になってきていることから
「争い」が激しくなってきたことがうかがえます。
◎弥生時代後期(紀元1〜3世紀)
国内最大級の環壕集落へと発展し、
大規模な∨字形の外環壕によって囲まれ、さらに特別な空間である2つの内郭(北内郭
・南内郭)をもつようになります。
特に北内郭では大型の建物が登場し、吉野ケ里の最盛期にあたります。
『吉野ヶ里遺跡』 吉野ヶ里歴史公園
http://www2.begin.or.jp/sakura/yosinogari.htm
224 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 11:35:24
>>223 おいおいちょっと待てよ。
>弥生時代後期(紀元1〜3C)
この場合、
・弥生時代後期(紀元1〜3C)を信用するのか?
・それとも
弥生時代後期を信用するのか?
・それとも(紀元1〜3C)を信用するのか?
225 :
九州ですが:2006/11/04(土) 11:35:55
>>222 弥生時代当時の人口は200万人くらいでしょ。
スーダンは一億超えてたんじゃなかったけ。
クニといっても今でいうムラ。ちなみにムラは朝鮮語のマウルから来ている。
戦争で負けたら成人男子は皆殺し。女子供は連れ去られたんじゃない?
226 :
九州ですが:2006/11/04(土) 11:39:54
>>224 恥ずかしい勘違いをなさらぬよう。
紀元の後をよくご覧あそばせ。
227 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 11:54:24
228 :
九州ですが:2006/11/04(土) 12:04:59
>>227 よく意味が解らないけど、弥生時代後期=(紀元1〜3C)の意味合いで
書いてるけど。
229 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 12:16:27
>>228 単純に、裏付けもとらず引用してしまうのか?
ここに書いてある(紀元1〜3C)は、時間の流れであり、環境の影響等関係なく全世界共通するもの
一方、弥生時代後期とは、生活環境 地域差により、その訪れる時期がバラバラであり、統一出来ない。
ここに書いてある
弥生後期の時期は、佐賀県北東部に於ける時期なのか?或は、畿内で訪れた弥生後期を、
そのまま佐賀にスライドさせたのかを
聞いているのだが?
230 :
九州ですが:2006/11/04(土) 12:48:14
>>229 >>221 吉野ヶ里って 三世紀頃には、殆ど廃墟同前なんだろう。
この真偽を、今確かめてるわけですよね。 吉野ヶ里は3世紀にクニとしての
最盛期を迎えました。ということであって、おたくの論調で良くと
例えば、A国は2世紀でも、B国は3世紀なんて事が起こりうる、とう事ですか?
そんなことは言ってません。あくまで3世紀の話をしてるんだから。
231 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 13:11:10
>>230 詰まり三世紀当時、吉野ヶ里近辺は弥生時代後期という事ですね
政権の入れ代わりによる時代の切り替わりとは違い
古墳が誕生してしまえば
古墳時代ですから
232 :
九州ですが:2006/11/04(土) 13:26:08
古墳時代がいつ始まるかなどは、学説に基づいて決められた年代に
従うしかないでしょうね。
233 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 13:33:10
>>232 何気なく使用している(紀元1〜3C)
これって、年数にしたら最長約300年間あり、徳川政権がスッポリおさまってしまう年数
234 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 13:45:11
弥生後期後半には、吉野ケ里は衰退してるだろ。
235 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/04(土) 13:47:49
>>225 >戦争で負けたら成人男子は皆殺し。女子供は連れ去られたんじゃない?
そらあまりに単純すぎる。
戦争に勝った方は、国力を増す為に成人男子を皆殺しなんてよほどの事がないとしません。
指導者連中は皆殺しにされるかも知れんけど、一般人は残す事で税金を取り勝者の富の源泉に
なります。
殺してたら荒地ばかり増えて、雑草だらけの値打ちのない土地が広がるばかり。
その土地を守るべき兵隊さえ不足する。
一般人を生き残らせて部下にする事で、その人間が2人分の食料を生産する事が出来れば1人は
遊んで暮らせ、武術をやって強い兵隊を作れるし、勝者は余暇を使って文化芸術も発達します。
だからこそ弥生時代は戦争が多くなり、環濠集落を作って防衛する必要が出来たの。
その点、縄文時代は戦争は非常に少なかったという。
生産性が低くて、槍や矢の大きさも人間相手じゃなく小動物相手の殺傷力も小さかった。
考えたら生産性が高くなるのも考えもんだ、人間を残酷にしてしまう。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
また日本では縄文時代1万年もの間、戦争を知らずに過ごした実績があり、これが日本の平和
な歴史の貴重な原点です。
戦争という現象が日本で見られるのは、約2500年前の弥生時代からだ
http://homepage2.nifty.com/kobatetu/heiwa/010.htm
236 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 13:49:47
考古学上の性質により、五年や十年の誤差は無いにも等しいと、いう感覚
しかし、
文献はそうはいきません。たった一日の誤差も許されないシビアな世界
それを平行に扱うのは……?
237 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/04(土) 13:52:43
>>225 >スーダンは一億超えてたんじゃなかったけ。
スーダンの全人口は3500万人で、内戦状態になってるのは
チャド国境近くの田舎地方。
人種の違い、宗教の違いからゲリラ戦になり、行き過ぎてこんな状態になったんだろう。
238 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 14:16:58
大坂藤井寺の国府遺跡は、旧石器から縄文、弥生と人が住み続けてるな。
戦争をせずに新たな人や文化を受け入れていったんだろうか?
239 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/04(土) 15:50:49
沖縄の海底遺跡や、鹿児島の水迫遺跡の1万年以上昔から人間が集まって生活していた
痕跡を見ると沖縄から南九州にかけて、相当な文明社会が存在していたようだ。
弥生時代になってからは、中国文明の影響で北九州が栄えてたようだけど南九州にも
多数の人が住み中国や沖縄との交易やって、文化をやり取りしたのじゃないかな。
しかし海底遺跡に東西南北との一致があったのには驚いた。
船の航行から、天文学も発達してたんだろう。
地殻変動で水没したんだろう・・・
ーーーーー(引用開始)−−−−−
水深25mほどにあり一部分海面上に有る。自然で出来た構造物に人の手を加えられてる事
が多々あり、以前は陸上に有ったものだと周辺地形等から確認され、今から約1万年前、
海面上昇により水没したとものと言う事が最近はっきりしてきた
http://www.yonaguni.jp/pointo-chizu.htm
吉野ヶ里がどうこう逝ってるヤシは、図書館で読むか、あるいは最悪立ち読みでもいいから
学生社から2000年にでた倭人伝の国々をちょっと見たほうがいいよ。まあ、じつに困ったことだが。
241 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/04(土) 16:18:32
>>238 >戦争をせずに新たな人や文化を受け入れていったんだろうか?
全く戦争がなかったわけじゃないだろう。
しかし縄文時代の人骨からは、弥生時代の人骨ほどの意識的な損傷が少ない。
現在よりはるかに平和的な人間が、縄文時代には多かったという事だ。
縄文時代の損傷遺骨も出てきてますが、珍しい遺骨です。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
調査の結果人骨は少なくとも9人以上のもので、この付近で殺された後解体投棄されようです。
このような多数の殺傷事例は縄文時代では知られておらず、初めてことだそうです。
http://www4.ocn.ne.jp/~g-papa/kochi.html
242 :
九州ですが:2006/11/04(土) 17:17:04
>>235 ドイツ騎士団、エンデ十字軍だっけ、バルト海沿岸国プロイセンの成人男子を
殺しまくった結果、働き手がいなくなり、プロイセンの経済が立ち行かなくなって、
ドイツに編入されたことを考えると、そこまで倭人が知恵を働かせて
戦っていたとは思えない。まさに殺すか、殺されるかで、必死でしょう。
縄文人は穏やかに暮らしていたイメージだけど、鉄器が大陸から入ってきた
弥生時代は、米の収穫高もぐんと伸びて、富をめぐっての争いが始まった。
243 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 18:21:03
>◎弥生時代後期(紀元1〜3世紀)
国内最大級の環壕集落へと発展し、
大規模な∨字形の外環壕によって囲まれ、さらに特別な空間である2つの内郭(北内郭
・南内郭)をもつようになります。
特に北内郭では大型の建物が登場し、吉野ケ里の最盛期にあたります。
国内最大級の環壕集落へと発展したのは、紀元1〜3Cのどのあたりなんだ?
244 :
九州ですが:2006/11/04(土) 18:44:20
>>243 紀元一世紀から三世紀にかけて徐々に発展していったんでしょう。
200年間の出来事とはいえ、縄文時代のペースに比べると物凄くハイピッチで、
時代が動き始めている。競合する相手がいる事が発展に繋がる事になったのでしょう。
三世紀{紀元400年}くらいまでは発展し続けたことが調査でわかっているのでしょうが
衰退していく過程は確認していません。その後、そのような事実があったという
研究がなされているのならば、教えて頂けませんか?
245 :
九州ですが:2006/11/04(土) 18:50:41
>>244記述間違い 三世紀{AD300年}でした。
246 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 18:55:20
>>244 >200年間
最大約300年間でしょう
>強敵
どこ?
247 :
九州ですが:2006/11/04(土) 19:22:23
>>246 縄文人は穏やかに暮らしていたイメージだけど、鉄器が大陸から入ってきた
弥生時代は、米の収穫高もぐんと伸びて、富をめぐっての争いが始まった。
と言ったと思うが、そういう意味での競合の相手の事。
248 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 19:45:46
>>247 三世紀に入り食料関連での国どうしの争いの記録はないけど
249 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 20:01:56
弥生期に於いて
東の勢力が西へ進行したとする、考古学的痕跡は確認されるのかな?
250 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 20:12:22
考古学上、筑紫の東遷は否定されている。
で、隋書倭国伝では、畿内大和政権を邪馬台国の後継と捉えている。
邪馬台=大和だろうな、やっぱり。
251 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 20:17:48
卑弥呼はアマテラス。スサノオは弟。魏志倭人伝には弟が政治を行っていた
とされる。
ただし、神武東征は卑弥呼の前の話し。卑弥呼を神格化するため、順序を
変えている。
252 :
太国:2006/11/04(土) 20:19:21
迷探偵の単純な推理は ヤマタイ→ヤマト→大和→畿内説+考古学 ww
253 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 20:20:17
つまり、種明かしをすると、アマテラス=卑弥呼=ヤマトトヒモモソヒメ。
ヤマトトヒモモソヒメの時代に、アマテラス神話の出来事が起こった。
254 :
太国:2006/11/04(土) 20:24:25
アマテラス=卑弥呼 とか アマテラス=男神 とか
卑弥呼=神功 とか、こういうイコールは失策。
255 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 20:31:40
>253
甘いな、その程度のことは誰でも考え付く事
モモぴぃ〜とヒミたんは別人だよ 先輩後輩だけどな
256 :
九州ですが:2006/11/04(土) 20:34:51
>>248 だから先程から何度も申し上げてるじゃありませんか。戦乱の殆ど無かった
縄文時代に比べて環濠が発達し、楼観などを配し、外敵の侵入に備えるために
知恵を尽くしていくところに発展はあった。三世紀に例え、一時期納まったにしても
不測の事態に常に備えていたはず。卑弥呼が死ぬと、再び争いが再燃したとあるが
火種を抱えていた証拠。
257 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 20:39:34
しかし、
ここのニートが複数だとしても、馬鹿過ぎて区別がつかない。・・・馬鹿を見る目を養わないと・・・大変だな・・・・・・
258 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 20:41:48
>>256 >卑弥呼が死ぬと、再び争いが再燃したとあるが
火種を抱えていた証拠。
再び争いってどんな争い? 国どおしの争いなんて何処にも見当たらないけど?
259 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 20:51:51
>>250 >邪馬台=大和だろうな、やっぱり。
それはムリムリだな
大和【ヤマト】は【ヤマタホ】が転(言化)したのであり、ヤマタイからヤマトにはならない。
260 :
九州ですが:2006/11/04(土) 20:57:55
ヤマタイ=ヤマトだったとしても、畿内説の根拠にはならない。
ケルト系のブリトン人を、アングル人、サクソン人が席巻したが
現在も自分達をブリティッシュという。
ローマに滅ぼされたエトルリアの名をとって、今、イタリアという。
ヤマタイの名だけ残り、後世にヤマトとして受け継がれても
何ら不思議は無い。
261 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 20:59:45
>>251 >神武東征は卑弥呼の前の話し
え〜っ 本当に?
262 :
太国:2006/11/04(土) 21:00:39
263 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 21:05:54
>>260 >ヤマタイの名だけ残り、後世にヤマトとして受け継がれても
何ら不思議は無い。
不思議いっぱいだよ
ヤマタイ⇒ヤマトは、言語学上ムリがあるのでは? ヤマタホからでしょ
(イキがヒキからのように)
264 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 21:10:09
>>262 >卑弥呼より神武のほうが古いな。
え〜っ ホントに〜?
265 :
九州ですが:2006/11/04(土) 21:14:07
>>257 私も地域によって弥生時代だったり、古墳期に入ったところは、古墳時代だ
という主張を聞いて、おたくは、少し頭がおかしいのかと思いました。
266 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 21:14:50
>>262 最近ピリッとしたレスを見かけないと思いませんか?
267 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/04(土) 21:16:40
>>242 >働き手がいなくなり、プロイセンの経済が立ち行かなくなって、ドイツに編入されたこと
>を考えると、そこまで倭人が知恵を働かせて戦っていたとは思えない
あんたね、働き手のことを考えないで戦争をするバカがいるかい?
そんな外国の事実かどうか確認も出来ない歴史を、素直に信じるのかね。
あなたの読んだ歴史とやらは、どこかの単細胞作家の作った小説じゃないの?
倭人でも今の日本人とは、論理的思考力じゃタイシテ変わりないと思うぞ。
ただ今の人間が傲慢で見下してるだけの差。
思考力じゃかえって退化してるのじゃないかね。
268 :
太国:2006/11/04(土) 21:17:37
>>264 だから卑弥呼は仲哀〜神功の世あたりの九州の姫で、神武は仲哀より古いから
当然卑弥呼より古いのよ。
269 :
太国:2006/11/04(土) 21:18:48
270 :
九州ですが:2006/11/04(土) 21:19:08
>>258 卑弥呼が死んで男子が王になると再び殺し合いを始めた。
トヨを女王と立てると争いは治まったんだったでしょ。思い出した?
271 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 21:21:19
>>256 >私も地域によって弥生時代だったり、古墳期に入ったところは、古墳時代だ
という主張を聞いて、おたくは、少し頭がおかしいのかと思いました。
統一性のない時代に、ものさしを持たせる事のほうが変だと思わないのか?
列島中同時に時代が変わったとでも考えてるのか?
272 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/04(土) 21:23:19
>>250 >考古学上、筑紫の東遷は否定されている。
バカ!
考古学も知らない知ったかぶり人間。
全く中身のない風船みたいな奴だ。
言葉の装飾しか出来てない。
もっと中身を作りなさい!
東遷なんて考古学で証明をどうやったら出来んだい?
273 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 21:25:50
>>270 >卑弥呼が死んで男子が王になると再び殺し合いを始めた。
トヨを女王と立てると争いは治まったんだったでしょ。思い出した?
卑弥呼が死んで殺し合いを始めたの?
274 :
九州ですが:2006/11/04(土) 21:28:07
>>263 邪馬台は、帯方郡の魏の人が音写したもので古代中国の発音で、やまどぅ
と言います。似てるでしょ。ヤマタイが大和の語源だったとしても
九州説は揺るがないから安心を。
275 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 21:28:39
>>268 >卑弥呼は仲哀〜神功の世あたりの九州の姫
これ根拠無いじゃん
276 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/04(土) 21:33:19
>>256 >三世紀に例え、一時期納まったにしても 不測の事態に常に備えていたはず。
たしかに日本が核戦争の危険性に怯え、核をまた落とされるのではと不測の事態に
備えようとしても、招いてしまう愚かさを感じる言葉だ。
今でも火種は持ってるからね。
何とか火種を失くせばいいのに、火種を大きくしたがるバカが多すぎる。
卑弥呼の死亡を、アメリカの崩壊と考えたら歴史は繰り返すというべきかな。
277 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 21:33:58
>>268 晋安帝時、有倭王賛。賛死、立弟彌。彌死、立子濟。濟死、立子興。興死、立弟武。
‥梁書倭国‥
これでも
>だから卑弥呼は仲哀〜神功の世あたりの九州の姫で、神武は仲哀より古いから
当然卑弥呼より古いのよ。
なの?
278 :
太国:2006/11/04(土) 21:35:31
>>275 神功39年の条。記紀に卑弥呼の記述は殆どないが、まぁこれのみは肯定的。
ここの倭の女王は神功にあらず。他はなさそうだな?
正確を期すれば神功の世あたりが最も近いようだ。
279 :
太国:2006/11/04(土) 21:38:01
>>277 な〜ぜ倭の五王を持ってくるんか?
卑弥呼の王朝じゃぁないよ。
280 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 21:38:55
>>274 >邪馬台は、帯方郡の魏の人が音写したもので古代中国の発音で、やまどぅ
と言います。
この認識はよしたほうがいい
いったん漢字に置き換えてしまったものは『音』ではなく『字意』優先だよ
281 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 21:41:13
>>278 神功皇后についてはそのころ活躍した実在の人物だと言っている人居るの?
架空の人物説と400年頃の実在人物説(中国・朝鮮の史書との比較より)しか
ないと思うが?
282 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 21:41:15
283 :
九州ですが:2006/11/04(土) 21:43:57
>>267 おたく、そのくらいの知識も無かったとは・・・。私は世界史詳しいんですよ。
そんな事言ったら笑われますよ。と言うほど、世界的に認められた
見解なんです。私は昔から世界史を読んで知ってましたが、
教育TVでも何年か前市民大学であっていたし、
最近のTV世界遺産でも詳しくあってました。
もう一度言います。男達が国から居なくなるほど殺したのです。
その後プロイセンはドイツに編入され、ドイツのことをプロイセン=プロシャ
と呼ぶようになったのです。作り話などではなく、歴史の事実ですよ。
284 :
太国:2006/11/04(土) 21:47:15
>>281 そんじゃぁ、君は神武が実在で神功が架空だと云うのか?w
だって、さっきので双方の時系列を疑問を持ってるんだろう?
285 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 21:48:29
>>279 これならどうかな?
讃死、弟珍立、遣使貢獻。
‥宋書倭国‥
晋安帝時、有倭王賛。賛死、立弟彌。彌死、立子濟。濟死、立子興。興死、立弟武。
‥梁書倭国‥
判ったかな?
286 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 21:50:49
>>284 漏れは400年頃の実在説を支持している。
それ以外の学説としては架空の人物説があるといっているだけ
どちらをとっても卑弥呼が生きた時代に神功皇后は存在していない
287 :
九州ですが:2006/11/04(土) 21:52:48
>>280いったん漢字に置き換えてしまったものは『音』ではなく『字意』優先だよ
中国人が倭国と言う外国の地名をなんで 字意で捉える必要があるのか。
何と呼ばれているかをそのまま表現するのが当たり前。
現に、壱岐、対馬、マツラ、伊都 奴、の各国は全部音写されている。
288 :
太国:2006/11/04(土) 21:54:10
>>285 なんだかわからんね? 想わせぶりでは誤解を招く。
逆にそういうことをやれば君も「わからん」と混乱するぞ。
とにかく倭の五王朝は卑弥呼の時代より時系列が一寸後であり、
女王国の後継ぎの王朝じゃぁないから、卑弥呼とは直接関係はない。
289 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 21:56:11
>>286 >漏れは400年頃の実在説を支持している
同意
290 :
太国:2006/11/04(土) 21:57:48
>>286 その件、双方が同一の時代ではない可能性はあるが、
>>288のように近接
で時代が少しズレていることはありうる。しかし双方の女性は神武と
とはもっともっと時代が離れているんだよ。
291 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 22:01:28
>>287 >中国人が倭国と言う外国の地名をなんで 字意で捉える必要があるのか。
中国史書は、漢人が漢人に伝承した記録だから
表音は二の次 表意優先
292 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 22:07:27
>>290 それは言い切れない
神武は神功皇后の14代前だが、兄弟相続等を考慮すれば250年より後と考えることは可能
また、畿内のにおいて山稜に古墳が作られていた時代でなければならないため、卑弥呼よりも
極端に古くなることはない
293 :
ひ・ふ・み:2006/11/04(土) 22:08:27
>>288 >なんだかわからんね? 想わせぶりでは誤解を招く。
逆にそういうことをやれば君も「わからん」と混乱するぞ。
とにかく倭の五王朝は卑弥呼の時代より時系列が一寸後であり、
女王国の後継ぎの王朝じゃぁないから、卑弥呼とは直接関係はない。
そうですか
では
倭王は五王ではなく、卑弥呼の流れを継承する政権だ と だけ今は言っておきましょうか
294 :
九州ですが:2006/11/04(土) 22:10:05
>>291 中国史書は、漢人が漢人に伝承した記録だから
表音は二の次 表意優先
ではそれで明記された邪馬台国の地名はどこか。またその表すところの
意を述べてみなさい。
295 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/04(土) 22:14:32
>>283 >世界的に認められた見解なんです。私は昔から世界史を読んで知ってましたが、
>教育TVでも何年か前市民大学であっていたし、
あったあったといってもね。
ドイツ騎士団て、日本でいったら黒沢明の「7人の侍」の成れの果てみたいなもんだろう。
こいつらは戦闘のプロではあっても、百姓のプロじゃない。
こいつらは百姓があって初めて食っていける連中。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
「ドイツ騎士団」はポーランド・リトアニア両国の同盟軍から反撃を受け、惨敗を喫し、
「ドイツ騎士団」の主力は粉砕された。騎士団長ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲン以下
200名の騎士が戦死した
http://inri.client.jp/hexagon/floorB1F_hss/b1fha350.html
296 :
ひ・ふ・み:2006/11/04(土) 22:14:49
>>287 もう少し詳しく言えば、
對海國・一支國・一大國などは『漢語表記』
対馬・壱岐は『倭語表記』
297 :
九州ですが:2006/11/04(土) 22:22:50
>>267 あんたね、働き手のことを考えないで戦争をするバカがいるかい?
そんな外国の事実かどうか確認も出来ない歴史を、素直に信じるのかね。
あなたの読んだ歴史とやらは、どこかの単細胞作家の作った小説じゃないの?
と言うから、働き手が居なくなるほど殺したというのは事実ですよ。と
答えてるだけで、戦闘のプロとか、百姓のプロとか関係無い。
どこかの単細胞作家の作った小説呼ばわりは失礼でしょう
298 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 22:27:58
そんなこと言ったら中央アジアから中近東にかけて殺しまくって
無人の荒野にしてしまったモンゴルは馬鹿ですか?
・・・まあ馬鹿なんだがw
日本やアジアの場合は常に人口が過剰だから皆殺しも常態化して
きたのも一面の歴史的事実です。
つうかえらい遅レスですね。お二人はライバルですか?
299 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 22:32:11
>>294 邪馬壹國(ヤマヒ)とは、
そこを治める統治者達が自称した名前であり
正確な倭・国名は 「日/ヒ」国です。
邪馬壹の字意は
(でっかいヒ)であり
それを中華では卑しんで、壹(ちっぽけな)と 当て字しました。
場所ですが
邪馬臺国(三十国体制)の範囲は、対馬・壱岐を含む九州全域と四国です。
因みに
邪馬臺(ヤマタイ)とは
(でっかいヒの地)の事です
300 :
太国:2006/11/04(土) 22:36:53
>>292 兄弟相続などはな〜い。そうなるのは後代のイザホワケ尊の時からだよ。
畿内の古墳云々は、どっちが古いかの主語がないので応答できない。
卑弥呼と神武か ?卑弥呼と神功か?
301 :
太国:2006/11/04(土) 22:39:47
>>293 女王国の王朝と倭の五王朝は別物。卑弥呼の流れの王朝はそっちでないの。
302 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/04(土) 22:39:52
>>288 >女王国の後継ぎの王朝じゃぁないから、卑弥呼とは直接関係はない。
理由もなしに妄想の中で断言するバカタレ。
卑弥呼の死後200年も経って、宋書や梁書に少しだけ書かれた文字を拡大解釈して
断言するとはどんな脳細胞を持ってるのだろうね。
現代でいえば200年前の江戸時代のことを書いた文章から直接関係ないとか、勝手
にホザイテルのだが、こいつは根拠という言葉さえ理解できんのじゃないかな・・
303 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 22:42:59
>>300 兄弟相続については花王製を要っているだけで証拠はないし正しいと主張するつもりもない
古墳の時代を比較しているのではなく、神武の時代は山稜に古墳が築かれていた時代であって
縄文時代や弥生時代前期ではないということ
書き忘れたが、記紀が銅鐸について書いてないため、神武天皇の治世には畿内から
銅鐸が消えていなければならない
したがって弥生時代末期以降であって卑弥呼よりずっと前と言うことはない
304 :
太国:2006/11/04(土) 22:45:40
>>302 ププッ、ww
「邪馬壹国」が卑弥呼の女王国の名。
「邪馬臺国」が倭の五王朝の名なんだよ。
お前は古代史の妄想、否〜盲象。
305 :
九州ですが:2006/11/04(土) 22:46:54
>>302 っていうか恵也さんて今日ちょっと変じゃない。
何かイライラすることでもあったのかな?
306 :
太国:2006/11/04(土) 22:54:42
>>303 当然記紀が文証だよ。古史古伝も兄弟継承は履中からで同じだろうが?
神功39年の条に倭の女王として編者が書きこんでいるから、神武以前と
なるくらいの間違いはしでかしてはいないよ。
神武以前に女王国があったというなら、ウガヤフキアヘズ朝を考察したとき
これにも女王国の卑弥呼の名はないと思うがね?それともあるのかい?
皇統と銅鐸は別にしたほうがいいぞ。一緒なら三種の神器に含まれるはずだ。
307 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/04(土) 23:14:44
>>298 >無人の荒野にしてしまったモンゴルは馬鹿ですか?
無人の荒野の筈がないだろ。
チンギスハンの商人が、殺されたりして見せしめの為、町を復讐の殺戮を行ったのは事実
と思うが無人の荒野にしたなんては針小棒大なデマというべき。
そんな事を常にやってたら、少ない民族の蒙古の軍勢は兵隊の補給が出来ん。
征服した土地の若者がチンギスハンの元に馳せ参じたからこそ、世界を征服できた。
彼はカリスマだったの。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
彼は、氏族的組織を破壊すると、これを千戸制と呼ばれる軍事的・行政的組織に再編成した。
千戸とは、千人の戦士を提供できる部落の単位であり、千戸長のもとに百戸長をおき、百戸
長のもとに十戸長をおき、千戸長が全体を統括した
http://members.jcom.home.ne.jp/spu/020.htm
308 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 00:16:01
>>306 >神功39年の条に倭の女王として編者が書きこんでいるから
単に日本書紀の年代と中国の史書による年代を比較しているだけだろ
この時代はまだ日本にまともな暦はないから、日本書紀の年代は信用できない
>ウガヤフキアヘズ朝
フキアエズはほとんど記紀に記述がないのにどう考察しろと?
>皇統と銅鐸は別にしたほうがいいぞ。一緒なら三種の神器に含まれるはずだ
意味がわからないのだが
三種の神器どころか記紀に銅鐸が載っていないことから
神武天皇の即位は銅鐸消滅時またはそれ以降であるといっている
309 :
:日本@名無史さん :2006/11/05(日) 00:49:01
ねえ、おじちゃんところでヒミコは何系の民族なの?
310 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 01:57:34
議論がコテさんで煮詰まってるので、テコ入れ。
最近出た『三角縁神獣鏡・邪馬台国・倭国』(新泉社)はどう?
石野博信、水野正好、西川寿勝、岡本健一、野崎清孝:著
特に、水野の部分は「面白かった」よ。
1、▲は、100枚だけでなく2〜3000枚くらいはもらって来ているはずだ。
2、▲は、当初は「王の蔵」で保管されて、290年ころに「蔵出し」されて、分配された。
3、▲は、軽く扱われているわけではない。「賻物」(ふもつ)として、参列者が見やすいように
棺の周りに並べられたのであって、丁重に扱われている。
4、奈良県で貨泉の発見例がないのは、発掘調査が少ないから。じきに発見されるはず。
・・・・・モノは考えようだとつくづく思った。
中国では王朝が変わると国名も変わったよね
倭から日本に変わったのには詮索の余地はないの?
312 :
九州ですが:2006/11/05(日) 03:08:01
>>298 確かにモンゴルは相当な殺戮をしてますね。徹底的に破壊された町も多い。
しかし元からトルキスタンにかけて統一されたので広大な領土をパスポートが
あれば自由に行き来出来るようになった。盗賊に悩まされていたころより
よりキャラバンなどは安全に領内を旅したようですよ。ついでに答えます。
>>309 弥生時代、大陸から人が渡来したウェーブが時を異にしてあっている。
大和朝廷は鉄器を携えた強い武力集団として何回目かのウェーブで渡来したと
学校では習ったが、卑弥呼はその何代か前のウェーブで渡来したか、もしくは
土着のいずれか。
>>310くだらん。畿内説の弱みを何とか隠そうとの裏工作にしか思えん。
313 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 03:36:19
>>306 古事記の記録を参考に各天皇の没年を比定すると次のようになるらしい。
15代応神、甲午(394年)
16代仁徳、丁卯(427年)
17代履中、壬申(432年)
18代反正、丁丑(437年)
19代允恭、甲午(454年)
21代雄略、己巳(489年)
倭の五王の記録からもこれは妥当なところだと思う。
神功皇后は14代仲哀天皇の皇后だから、常識的に考えて、
存在した時期は300年代後半。一方で卑弥呼は250年頃には亡く
なっている。だから、神功皇后の時期と卑弥呼の時期は全く異なる。
150年以上の開きがある。
日本書紀の記録は、神武天皇が即位したのを紀元前660年かそこらの
かなり古い時代としていて、そこから起算している。
そういう計算の仕方だから、卑弥呼の時代に重なることになる。
日本書紀は、卑弥呼の時代に合わせて神功皇后を創作したとする説も
あるらしい。
314 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 07:26:01
倭の五王とどこがどう対応しているのかと
315 :
サガミハラハラ:2006/11/05(日) 09:20:27
古事記天皇崩年干支は2倍年暦で記されています。
そうすると、倭の五王と見事に対応します。(倭王武の502年の件は、死んでいるのに、中国側が知らずにおこなったもの。)
316 :
太国:2006/11/05(日) 10:42:33
>>303 余の計算だと、神武即位は紀元元年を算出した。これだと綏靖即位は同30年で
1世紀の三分半でのほぼ前半ということになる。このころは銅鐸はあっただろう
が、まだ少ない時代のころではないのか? さらに銅鐸は1世紀末ころに大きい
やつを製造するようになり、以後増産もあっただろうが、3世紀で製造停止と
なっているとのことである。これだと、余の計算で1世紀末は安寧〜孝昭の時代
に当たり、3世紀に入りかけの時代が開化の世に相当し、3世紀半ばが崇神の世
になるから、2世紀などは欠史八代の時代に相当することになる。
これだとここの8代間は文字通り殆ど史実がないので銅鐸の記載など記紀に
なくてもこれはおかしくはない。崇神の世は3世紀となると記紀の一般記述も増
えて行くが、製造中止となれば欠史八代の後だから、反比例を考えれば、当然
記紀に銅鐸の記述が無でもおかしくはない。
317 :
太国:2006/11/05(日) 10:53:56
>>308 意味がわからないって?
だって神社に銅鐸は無関係の状態だろうが?古神道、当時の皇道には銅鐸は
どうやら関わりあいが薄かったと考える。
最下段
神武以降の欠史八代の間あたりなら、記紀に銅鐸が無記述でもおかしくはない。
その間は即位、立太子崩御等くらいしか書いてない。
>>316
318 :
太国:2006/11/05(日) 11:00:01
>>313 倭の五王を当時あたりの各天皇と観ているのか? 五王は天皇ではない。
万歩譲って卑弥呼の年と重なったとしても、卑弥呼はアマテラスにはなるとは
言えない。創作の件だが、皮肉にもそれは、それを言い出した奴の勝手な創作。
319 :
太国:2006/11/05(日) 11:15:33
>>313 余の計算だと、貴殿の言うとおり、神功皇后は300年後半でこの点は合致して
いる。 神功皇后摂政皇太后 353年 を算出した。 同崩御 375年
320 :
太国:2006/11/05(日) 13:11:41
>>308 >この時代は、日本にまともな暦がないから、
どうして、まともな暦がないと決めることが出来たのか?
期待されて生まれて ニートとして死ぬのか・・・
322 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 18:57:49
>>313 没年干支は、天皇1代30年とかしていた昔の学説に比べると信憑性がある。
けど、これでも後の時代に比べて天皇の在位期間が長いし、異伝の一つに過ぎないと
いう点で、今ひとつ信用性が足りない。
あと、没年干支に従うと神功皇后の朝鮮征伐関係の記事が、三国史記の記載や
広開土王碑文よりも古くなるので、神功皇后は390年ころからで、応神天皇の没年を
410年ころにした方が整合する。
仁徳以下は、だいたい没年干支くらいで合っていると思う。
323 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 20:04:52
明日から平日だよ
☆☆☆ニートウニョウニョ時間にレスしていると狙われるよ!☆☆☆
ニートウニョウニョ時間=ニートばかり活躍する時間(暫定)
毎日24:00〜日の出
平日9:00〜12:00
平日13:00〜17:00
324 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 21:46:35
>>320 魏志倭人伝の記述、天皇の寿命が異常に長いこと、暦の伝来の時期(6世紀)よりもかなり前であること
神武天皇から安康天皇までの日本書紀の記述がまだ中国でも成立していない儀鳳歴によっていること
の4点から
>>317 >神社に銅鐸は無関係の状態だろうが?
そのとおりだって、
だからこそ欠史八代の時代といえども銅鐸は作られておらず、神武天皇の即位は銅鐸消滅後
と考える方が妥当
銅鐸がまだ作られていない時代には畿内には古墳もまだ無いため、ここに神武天皇の即位を
持ってくることも無理がある
325 :
太国:2006/11/05(日) 21:52:05
>>324 「古田史学の再検討」のスレ
>>938 >>939に今書きこんでおいたが、
この神武〜開化の表の日数は月前半だ。全部といって過言でない。
これをどう説明するんだ?
326 :
太国:2006/11/05(日) 22:25:57
>>324 無関係だとかで、造られていないに直結はしない。皇道での重要なのは三種
の神器のほうで、銅鐸は重視してはいない。神社にないのは重視されてない為。
つまり皇道とは別の未発達的土着信仰の産物で、神武以降の当時あったと思って
るが、記紀の八代にて銅鐸が書かれるほどすごいものではない。八代間は即位、
崩御、立太子、葬儀等とかだけであって、ここに三種の神器が書かれてないのに、
銅鐸があったと記述されるわけはない。それを造られてないという、まるで神武
以前での銅鐸神器化で君は考えるから神武の即位を銅鐸消滅後だとか間違いの
結論急ぎをやってしまってるんだよ。
327 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 22:44:05
>>325 2倍歴の話?
2倍歴は否定しないし、むしろ支持する。後世の暦と大きく異なるという点で
まともな暦ではないと書いた。
ただしここは邪馬台国の位置について議論するスレだし、
邪馬台国の位置を論ずるに当たって重要な、神武天皇と卑弥呼の年代関係について
論じていると思っている。
太国氏は日本書紀の紀年を基本的にすべて信用し、その上で年数をほぼ半分にすれば
元の年代が復元できると考えているのか?
この考えが成り立つためには
1.2倍歴は、年齢を数えるだけのものではなく、歴史の記録に耐えられるしっかりとした暦である。
2.神武以来の歴史(事件のおこた年月日)は2倍歴に則って記憶され、正確に後世に伝わっている
この2つの仮定が正しい必要があり他の証拠がなければ信用できない。
日数が月前半である意味は判断できないが、少なくとも現在のところ
このことが神武天皇の年代解明に結びつくことはない。
328 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 22:54:13
>>326 記紀の記述から考えられる大和朝廷は銅鐸については軽視や無視ではなく、全くの無知である
でなければ後世、銅鐸が発掘されたときに驚いたりはしない。
銅鐸以前の神武即位では古墳の時代と合わないから不可
329 :
太国:2006/11/05(日) 23:11:26
>>328 神功世以前は朝廷は古神道一式だ。三種の神器と関わり無い土着信仰的銅鐸は
あろうがなかろうが、記紀に書かれる性質のものではない。程度が違う。
それが影響力大きい女王国が畿内にあればだ、これは事が重要のため記紀に
記述がされる。というわけで、神武以降に銅鐸があっても(いまのところ余も
神武〜開化あたりはあったと思う)可笑しくはな〜い。
330 :
太国:2006/11/05(日) 23:26:59
>>327 2倍暦だけじゃぁおかしな不合理がある程度あります。たとえばタケウチキネス
は5代の天皇世にまたがって生存しており、そのままだと285歳ばかりの長寿に
なるので、そんな歳はまず不可能だとして2倍暦を考えるわけですが、これ
でさえも142歳余でまだ長すぎないか? との疑問がそれがしだけでなく、
日本史板の某人からも指摘がありまして、3倍暦でやってた時期があったんでは
ないのか? と再考するようになりました。3倍だと95歳で許容範囲内の歳に
おさまります。すると1年が120日余でそんなやり方をやるのか? の再疑問
が飛び出てくるのは自然なんでしょう?変則暦はマヤのツォルキン暦(260日暦)
もありますから可能性としてはありえますが、いったい120日なんて採用は
あったのか?と深考する次第であります。言えることは、例の讖緯説なんかも
60年とか120年とかをさかんに許容して論を張ってますので、120日の選択も
捨てきれなくなるわけです。
331 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 00:13:56
>>329 銅鐸を無視しただけであったなら、銅鐸出土の時、正体がわからないというのは不自然
また、銅鐸消滅と共に矛の出土が増加しており、大和政権の誕生と関係が想定される
>>330 2倍歴を使った年代の復元は試みる価値はあると思うが、日本書紀に記された紀年および系図の信頼性
や330にかかれた内容を含めそのように不確定要素が非常に大きく、誤差が大きい。
別の証拠から神武天皇の即位年代を絞り込んだ上で考察した方がよいと思う。
332 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 05:06:12
>>313 普通に見りゃ、即位は数年単位も多いんだから15代遡っても
100年あるかどうかwww
紀元前600年からあるなんて鵜呑みするのは基地外だよ。
天皇の起源は紀元前まで遡るわけない。せいぜい2世紀ごろだろ。
333 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 05:13:45
古墳時代の人間の寿命はせいぜい30歳とか40歳ぐらいだろう。
少しはまともに頭つかってみろ。
334 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 08:25:56
335 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 10:01:06
336 :
太国:2006/11/06(月) 10:44:03
>>331 銅鐸が衰退して造作されなくなった理由は何かね?
元々畿内にあった銅鐸を何かに使う土着信仰があって、神武が畿内に来て、
天皇のやる古神道、皇道が発展強固になったので、それで全滅したのではないか
と考えたほうがいいんではないの? 闇雲的に 記述がない=神武以前の物
とかを決め付けるのは、考古学は結構でも、まことに結論が尚早で、間違いに至
る判断を気付かずにしちゃう考古学至上論者の陥りやすい墓穴的行為。
1世紀初頭、神武が即位した時はまだ銅鐸があって、脆弱な銅鐸信仰側は古神道
に押されぎみとなり、負けてはならぬと1世紀終わり頃の安寧、懿徳世あたりに
大型の銅鐸を造って対抗的にやったが、結局国家権力的朝廷の古神道に勝てぬ
まま以後の2世紀の欠史八代間〜崇神世の始めまでは何とか銅鐸派は持ちこたえ
たが、二次的ハツクニシラスの崇神世の時代進行により、完全にダウンを奪われ
銅鐸製造は壊滅し、神道一本の時代となった。
とくに欠史八代間は即位、立太子、立后、崩御等の記事位しかなく、銅鐸だけ
でなく他の何らかの事件等の記述がほぼないのだから、書かれなかった事件等も
神武以前だと君らの決め付けをしなければ、君らの論は破綻だということになる。
そんなはずはない。
八代間あたりに銅鐸の記事を載せるのならば、それよりも天下の鏡、勾玉、
剣の神器の記事が先に載るはずだ。〜が、それが無い。銅鐸の記事の有無で神武
以前以後を判断するのは、完全に早計なる危険な判断である。
337 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 11:00:12
妄想長文御苦労参
338 :
太国:2006/11/06(月) 11:48:09
>>337 じゃあ、猛象でない自信満々のお前の論を聞いてやるから、書きこめ。
だいたい、欠史八代の記述にポツンと銅鐸の記述があれば、なおさら不自然で
ある。なぜ神器を記述せずそれ以下の銅鐸を書いたのかということがだ。
339 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 12:09:15
ブチ切れ御苦労参
340 :
日本@名無史さん :2006/11/06(月) 12:47:03
古事記・日本書記が作られたのが、8世紀初頭で、天武以降
なのに、何故、天孫降臨が九州の筑紫の日向のクシフルヤマ
なのか?
大和の三輪山や伊吹山など名だたる名峰が近畿に多数あるのに
なぜか?
九州が天皇の祖先の居住地(発祥の地)であることは、当時でも
否定できない事実であったからこその記述だとおもわれる。
341 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 12:54:03
大和王権の支配領域が広がり、新たな支配地域の豪族・民衆を慰撫するために、
自分たちも彼らと同族であることにした。
342 :
日本@名無史さん :2006/11/06(月) 13:08:29
天武以前の大和地方は、天孫系や葛城系、出雲系、河内系、さらに
尾張系の豪族が跋扈しており、天武は伊勢から尾張系の豪族の協力
を得て、政権を掌握しており、何も九州の天孫系を慰撫する理由は
存在しないと思われる。
伊勢神宮(天照)は天武以降に天皇家に重用されている理由は伊勢
の豪族の協力から、理由はわかる。
343 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 17:25:18
>>340 応神天皇は日向の出身だろ
仁徳の嫁も日向の人だし
神武東遷は応神天皇の侵略をさかのぼって記述したもんなんじゃないか。
だから神武と祟神の名前が一致するんだよ
元々祟神が日本国最初の王となった
何代か後、応神が日向より大和に攻め入り王朝交代が行なわれた
そして万世一系を保つためと日向起源の正当化のために
神功皇后や神武天皇が創造されたんだ
344 :
日本@名無史さん :2006/11/06(月) 17:47:28
日向の出身とおおざっぱに言われても・・・
筑紫の日向と日向は同一地域なのか?
神功皇后は宗像から朝鮮征伐に行っており、
筑紫の宗像で筋は通るが、神武東遷は宮崎の日向
から船に乗って、いったんは筑紫に立ち寄っている。
筑紫州に特別の意味があるとしか思えないが。
345 :
太国:2006/11/06(月) 18:20:34
>>343 これか〜?w
神武=崇神=應神
ついでに 平成天皇=平城天皇 などど言い出すのか〜?ww
346 :
サガミハラハラ:2006/11/06(月) 18:40:40
神武の東征出発地(出身地)は福岡氏西部の日向(ひなた)の山門です。
そこから筑紫・宇佐(福岡市内か?)・岡田とみれば、不思議でもなんでもなく自然である。
347 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 18:42:45
日本書紀をストレートに解釈出来るのは、天智以降から 下手に小細工したら笑い者
348 :
太国:2006/11/06(月) 19:06:53
>>347 根拠がないだろう?君の頭の捏造だろう?w
神武以降はおおむね信用できる。古史古伝とだいぶ一致する
349 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/06(月) 20:55:59
>>346 >福岡氏西部の日向(ひなた)の山門です。
福岡県に山門郡はあっても日向なんて地名はないがな?
勝手に名前を付けたのかい?
350 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/06(月) 20:57:47
>>312 >卑弥呼はその何代か前のウェーブで渡来したか、もしくは土着のいずれか。
朝鮮の公孫氏からの渡来人でしょう。
その当時、たとえ権力者といえども中国の現状を考えて朝貢をするのは相当の情報通
じゃなければ行いはしない。
朝貢を魏に送るだけでも莫大な費用がかかり、それでそれ以上の効果があるという
確実な情報がなければ、そんなイチカバチカの冒険はしない。
土着の世間知らずのお婆さん巫女じゃ、それだけの決断能力はないよ。
公孫氏は邪馬台国が朝貢する238年の前の年、魏との戦争に敗れてます。
卑弥呼は公孫氏の強さを知ってたから、魏の強さを実感し朝貢するきになったんだよ。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
滅亡の翌年、邪馬台国から魏に使者が送られた。
http://homepage1.nifty.com/history/history/gi.htm
351 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 21:33:30
>>349 知ったかぶりしない方がいいよ
見苦しい
352 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 21:42:47
太国にヒントをあげよう
推古までに在位が60年の天皇が3人もいる
他に在位が同じ天皇は1組も無い。
これはまぎれもなく干支の繰上げ
3人は即位していない可能性が高いのだよ
353 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 21:43:06
>>350 西部に日向峠ってある。
ヘボ恵也 ◆o4NEPA8feA はいい加減で恥さらしがやめておけょ。
354 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 21:49:03
>>343 継体天皇は越前の出身だけども、皇室の発祥の地が越前になったわけではない。
応神天皇が九州の出身だから皇室の発祥の地を九州にしたというのは
独りよがりの考えではないか?
355 :
太国:2006/11/06(月) 21:53:36
>>352 なんのためのヒントなんだ? ピッタリ三つとも60年丁度か?
356 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 21:57:08
タケウチの件のヒントだよ
無論、繰上げだけでは解決しないがな
357 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 22:00:46
個人的な意見ではあるけど、神武天皇と崇神天皇は同一人物だと思う。
記紀の神武天皇の記述は橿原で即位した時点で終わっている。
そのあとが崇神天皇だと思う。
したがって、綏靖天皇から開花天皇までの八代は架空。
その理由として、崇神天皇の四道将軍派遣がある。
北陸、東海、西海(吉備)、丹波の四道に将軍を派遣したわけだが、
こんな近隣の地域を神武天皇も手をつけず、そのあとの八代の天皇も
全く関わりあわなかったとは考えられないからである。
358 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/06(月) 22:04:28
>>344 >筑紫州に特別の意味があるとしか思えないが。
邪馬台国の一員である北九州(筑紫州)で軍勢を集めたんだろう。
神武天皇の地元である日向では、人望が集まらず宇佐→北九州と人と資金を集めるのに
苦労したんじゃないかな。
資金と人が集められなければ、植民地獲得なんてタダのバカの夢に過ぎない。
南アメリカを占領した連中も、資金集めと人を集めるのには苦労してるぞ。
チョッと酷い事をやった連中だけど、黄色人種が鉄砲と鉄と馬、牛、車輪を知らず、白い
肌の神様が復讐にやって来るという伝説でマトモに戦えさえ出来なかったようだ。
その点、卑弥呼さんは科学技術を進んでとられたみたいで、祖先は滅ぼされずにすんだ。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
フランシスコ・ピサロとパナマ司教代理エルナンド・ルーケと盟約を結び、ルーケの奔走で資金
を調達して、探検調査を行いました。まずピサロが1524年末に出港し、数ヵ月後アルマグロ
も出港しました。
彼はコロンビアのブエナベントーラ港近くまで南下後に戻ってきました。その後ガスパル・ド・エ
スピノーサから資金の提供を得て、1526年に再び船を用意して二手に分かれて調査しました。
アルマグロが先に戻りましたが、ピサロは難渋しながらもインカ帝国の町トゥンペスに行き着い
ていました。その後、ピサロはスペインに帰り、国王からインカ征服の認可を貰ってきました。
ピサロが国王の許可を独り占めにしたとアルマグロは怒りましたが、一応協力関係を保ちました。
http://www.k5.dion.ne.jp/~a-web/Gv-inka.htm
359 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 22:07:03
八代は架空じゃないyo!
確実な伝承が無かっただけ
360 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 22:09:39
359
四道将軍は体よく根子家と足家を地方に封じるのが目的
361 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/06(月) 22:26:17
>>353 >西部に日向峠ってある。
日向峠があったからというだけで、そこから出発したというのかい?
いつ頃の記録なんだいそれは。
江戸時代の記録じゃ1000年以上の差があるんだろ。
むしろコジツケノ可能性がはるかに大きい。
大きな地方の名前でさえ、コロコロ変わるのにタカガ峠を根拠にするとは・・・・・
たしか薩摩と大隈をあわせて鹿児島なんて読んだりしたんじゃないかね。
日向を宮崎と呼ばせたりしたのは、政権交代があったからだろう。
峠の名前なんて小さなもんが1000年も変わらんなんて、信用できん!
ーーーーー(引用開始)−−−−−
神岡町側の峠の所在地は「大字巣山字赤坂」であるので、その地名に由来して、赤坂峠
とも巣山峠とも云う。現在は「巣山林道」と呼ばれている。
http://www.takayama-nh.go.jp/touge/touge/028/index.htm
362 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 22:31:49
日向の地名は誰がつけた?
363 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 22:34:42
364 :
九州ですが:2006/11/06(月) 22:39:11
>>350 公孫が、寧ろ滅びたからこそ邪馬台国との友好の道が開けたと考えられない?
何かそう聞いたような。僕が以前TVで見た記憶によると、魏は仇敵、呉を
挟み撃ちにする為、邪馬台国と友好関係を結ぼうとしたのではないかと、
言ってたような気が。記憶違いだったらゴメンなんしょ。
恵也もうやめろや。馬鹿っぷりを晒すのは。
宮崎には日向地名はわずか2例、筑紫には多数。それだけでも答えは出ているだろう。
自分でそれぐらい勉強しろ。
>>364 そういう説もありますね。それまで公孫に朝貢してたのが、行ってみると滅んでたの
で、しょうがなしに魏まで行ったっていう話もある。
三国に揺さぶられて、結局魏についたって事でしょう。呉も奴隷狩りで沖縄か九州ま
で来たのかは不明だが、脅威だっただろうし。
吉野ヶ里が海からの攻撃に備えた形状なのもその議論の根拠の一つになっています。
魏も帯方郡まで迫ってきていたし、それははるばる海を越えてくる呉よりは脅威の度
合いも大かったでしょう。、三国のパワーバランスでも魏が最強なのは少しでも大陸
情勢を掴んでいればすぐわかる話だっただろうしね。
366 :
九州ですが:2006/11/06(月) 23:00:55
>>365 おたく詳しいですね。勉強になります。
恵也さんも色んなヒントを与えてくれるんですが、僕とは意見の
くい違うところも多少あるようです。
367 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 23:10:14
だよなあ。平原女王墓みても、日向峠がそんな後代のこじつけなんかで
あるわけないの明らかなのにね。恵也って相当低学歴っぽいw
>峠の名前なんて小さなもんが1000年も変わらんなんて、信用できん!
これだけでも相当低脳なのはわかるよ。
368 :
太国:2006/11/06(月) 23:30:12
>>357 また出たよ。w
神武=崇神=應神 〜の論がねぇ。w
そのうち、また
平成天皇=平城天皇
だ、などと言う奴が、千年、二千年と経過するうちに出てくる。プッ!w
↓ こういうことも彼は言い出すかも知れないぞ?w
天照=卑弥呼=神功
まぁ、こりないねぇ〜?ww
>>367 >平原女王墓みても、日向峠がそんな後代のこじつけなんかで
>あるわけないの明らかなのにね
この訳の分からない理屈は、どこから捻り出したのか?
370 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 23:31:56
僕は、日向は宮崎だと思いますよ。
皇室もそう思っていたと思います。宮崎神宮は明治時代に官幣大社に
昇格した際、明治天皇が御内帑金を下賜され、それを契機に全国から
寄付金が寄せられたそうです。大正天皇も昭和天皇も参拝されています。
宮崎には、邇邇芸命にまつわる逸話もたくさん残っています。
本居宣長の古事記伝なんかでも、日向が宮崎なのは当たり前で、
問題は二つある高千穂の候補のどちらが本当かということになっています。
ちなみに、高千穂の二つの候補は、北部にある高千穂町と南にある
高千穂の峰です。
つまり、九州の西側は高天原に比定するのが妥当で、宮崎の日向との
整合性があると考えるわけです。
邇邇芸命が高天原から日向にやってくるときは、陸づたいにやってきて
います。同じく、天神の子である饒速日命が大和にやってきたときは、
天磐船に乗ってやってきています。これは船だろうと考えられます。
つまり、九州の西側から邇邇芸命は山を越えてやってきたと
考えられるわけです。
371 :
太国:2006/11/06(月) 23:34:05
372 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 23:42:04
>>368 一応答えておくと、
神武天皇=崇神天皇はたぶんそうじゃないかと言う程度。
皆さんどう思いますかという程度。
=応神天皇は全く考えていない。
天照大神=卑弥呼(+壱与)は、自分の邪馬台国論の根本なので譲れない。
また、=神功皇后はありえない。
お望みなら、天照大神=卑弥呼について書いてもいい。
いくらでも書けるから。
天孫降臨神話を事実と考えるのが、果たして学問的と言えるのか。
そもそも、自説に都合の良い部分の神話は史実で、都合の悪い部分は創作という
恣意的な取捨選択をしている時点で、完全に妄想の域にあると言って良いだろう。
こんな都合のいい取捨選択をしてしまえば、何百通りもの仮説が提示できてしまうよ。
つまり、九州にあった(思い込み)邪馬台国が、東遷して大和政権になった
(思い込み)という妄想を、根拠無く前提にしているということ。
374 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 00:14:38
>>373 邪馬台国九州説といえば、以前は北九州説だった。
南九州の事を考える人はいなかった。古墳という観点からすると、
九州では宮崎が一番密度が濃いにもかかわらず。
このような中で、記紀だけが宮崎(日向)に光を当てていた。
今一度、記紀を見直してもいいのではないか、また、そういう記紀重視の
意見があっても良いのではないかと思う。
ちなみに、勝手に選択収拾しているわけではなく、可能な限り記紀に忠実に
をモットーにしているわけだけども。
当然、畿内説には受け入れられない考えだろうが。
375 :
367:2006/11/07(火) 00:19:54
>>369 こんなスレにカキコする御仁なのに、そんな基本的なことも
ご存じないんですかねえwww(´ー`)
>>375 原田の誇大妄想信じてる時点でどうかと思うが。
記紀を都合よく利用してる九州説(ていうか安本)は、
まず「邪馬台国東遷が絶対に正しい」という狂信があり、
それに符合しそうな記紀の記述を抜き書きしてるだけ。
記紀の中で「史実か、史実でないか」の判別基準は、
あくまで邪馬台国東遷説に都合がいいかどうか。
そんな都合のいい文献解釈があるか。
倭人伝原理主義者よりタチが悪い。
378 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 02:29:57
>>377 逆も成り立つ。
畿内説の長老には「神武東征を認めるのは皇国史観の軍国主義だ。」と言う人が結構いる。
戦後の畿内説は、北部九州が鉄器で優位にあったのを1960年ころから無視し続けてきた。
これに対して、金属考古学から厳しい批判が続いていたのを黙殺し続けた。
今でもこの歴史に言及する畿内説論者は皆無。
荒神谷の銅鐸、稲荷山の鉄剣碑文、ヒスイの出雲経由(畿内素通り)、平原遺跡とか色々と
都合が悪くなって、年代遡上に狂奔し出した80年代後半からの畿内説も異常だよ。
いまだに三角縁が舶載鏡とかの寝言を言っているのもイデオロギーなしには理解不能。
鉛の同位体比は今でも完全無視。
左翼イデオロギーに脳を汚染された人達の行動には、哀れみを禁じえない。
ある学説にとって
都合のいい考古学的事実とおなじくらい
地中にまだ見ぬ都合悪い事実が埋まっているのではあるまいか?
上のほうの人の意見には謙虚さがたりないとおもう
「考古学者は明日なき稼業」とか故佐原先生とか大塚初重先生とか
よく聞く言葉で、ひとつの発掘でこれまでの自己の研究成果が無になってしまう
ことの痛みの表現であると思う。先達は何度も何度も手痛い発掘に合い
その度に自説を何度も完全撤回してきたのではなかったか。
自説撤回の勇気。
近年の考古学発掘成果に
安本氏はどのくらい勇気もって自説を曲げてきたのか?
考古学成果を自説に都合のいいところだけとりいれている
のみのようにもおもえる
381 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 04:33:47
普通に宇佐だろ。もういい加減にしろや
382 :
九州ですが:2006/11/07(火) 05:12:16
>>378 の人にほぼ同意見です。自分としても、ちゃんと学校では、鉄器で武装した勢力が
全国を席巻していった、と教科書で習ったにも拘らず、
>>378の方のおっしゃるように、畿内説はだいぶ無理のある屁理屈で
巻き返しを図ったという違和感が拭え切れず、自分が九州説に傾いていったと言う経緯があります。
>>378 イデオロギーを持ち込まない方がいい。
それに畿内説の中核は今は左翼ではないし、むしろ反対だよ。
384 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 07:35:31
>>364 >公孫が、寧ろ滅びたからこそ邪馬台国との友好の道が開けたと考えられない?
むしろその可能性が大きい。
公孫から卑弥呼は亡命したか、何かしたにしても公孫の内容を知り、軍事力を知り
それ以上に強い魏の力に引かれたのだろう。
呉の方も公孫と手を結ぼうとしたり、もちろん倭とも手を結ぼうとしてたと思うぜ。
国力増強の為にも、軍事バランスの為にも味方は多いほうが良い。
卑弥呼も少しでも強い国家と手を結んで、国家の安全を追求してたんだろう。
この後、魏の禅譲国の晋が中国を統一したのだから、先見の明はあったというべき。
385 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 07:40:04
公孫氏と卑弥呼の関係はない
386 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 07:44:35
>>365 >宮崎には日向地名はわずか2例、筑紫には多数。それだけでも答えは出ているだろう。
あんた自分で調べながら書いてるのかね??
バカ学者が書いた文を読んで、洗脳されて信者になってるだけに思えるけどね。
すべて自分で確かめる癖をつけなさい!
俺は北九州に日向の名前を確認できなかったけど、宮崎県なら日向市、日向灘沿岸北部
広域農道、南日向駅、日向市駅、日向グリーンパーク、日向街道など今地図を見るだけでも
これだけの地名がある。
勉強とは自分で確かめて行う事で、バカ学者の書物で洗脳を受ける事じゃない。
387 :
サガミハラハラ:2006/11/07(火) 07:53:15
>>日向峠
今から三十数年前、古田武彦という一世を風靡した古代史研究家がいました。
現在は「東日流三郡誌」というトンデモ本にひっかかり醜態を演じていますが、彼の初期の「「邪馬台国」はなかった」「失われた九州王朝」「盗まれた神話」の三部作は必見の価値があります。
勿論内容がすべて正しいわけではありませんが、その中には考慮すべき論説が多々あります。
日向北九州説もその中に出てきます。
しかし、時はすぎさるものとはいえ、彼のことを知らない年代も相当あらわれてきているようです。
388 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 07:56:01
その前に、何故宮崎辺りが日向と言われるようになったか、考えた方がいいんじゃないの?
389 :
サガミハラハラ:2006/11/07(火) 08:06:48
国全体が南東の方を向いていて、日当たりがよいからですよ。
390 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 08:10:01
391 :
サガミハラハラ:2006/11/07(火) 08:24:40
たしかに西日があたっていても、日当たりはいいですが。
季節によって日の出る方向は違うし、しかし、日向ぼこなどは、朝早くからではなく昼近くから午後二時ごろまでだし、そのときの太陽は東南から南南西の位置ですし、夕方ヒナタボコというのはあまり聞いたことがないし、
やはり感覚的にひなたというのは、南東方向をさすのではと思います。
日向の地名も感覚的なことから名がついたと思います。
392 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 08:25:55
>>365 >魏も帯方郡まで迫ってきていたし、それははるばる海を越えてくる呉よりは脅威の度
>合いも大かったでしょう。、
あんたロクに地図を見てないのじゃないの。
公孫氏が帯方郡を支配していて、魏から潰されたから、卑弥呼は魏に朝貢をしたんだよ。
迫ってたんじゃなく占領されたからなんだけどね。
それに卑弥呼にとっては、魏にしても呉にしても海のかなたなんだぜ。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
238年公孫氏は魏に滅ぼされ、楽浪・帯方の二郡は再び中国の支配下に置かれた。
卑弥呼が、魏の成立と同時に(公孫氏滅亡の翌年:239年)魏に使者を送ったのも又有名
http://inoues.net/study/rakuroh3.html
393 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 08:34:53
394 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 08:36:41
「畿内説が遡上に狂奔」とか、訳の分からないことを。
近年の考古学の成果に、背を向けてるだけだろ。
あと、マキムク以降も鉄の技術で言えば、大和<筑紫。
マキムク前に東遷とかは無かったと言えるだろう。
今まで、鉄が過大評価されていただけで、鉄=国力という訳じゃない。
このあたりの偏見も、昨今漸く薄れつつあるが。
村上も、鉄を政治変動と結びつけて考えるべきではない、と言っている。
395 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 08:38:40
>>391 では、その日向の地名は誰が名付け親?
日向峠等はどう解釈します?
396 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 08:50:10
>>373 >そもそも、自説に都合の良い部分の神話は史実で、都合の悪い部分は創作という
当たり前の話。
どんな記録でも、史実の部分と創作の部分は入ってるものだ。
史実ばかりの伝説なんて、信用できん。
あんたは頭が単純すぎる。
世の中は、白と黒だけで出来てんじゃないんだよ。
ネズミ色もあれば、ピンクもブルーもある。
その中から史実らしいものを見つけ出すのが、大人の頭というもの。
あんたはまだ幼児並みの脳みそ!
公安委員会の報告書にしても、警察を守ろうとしたらボカして書くものだ。
民主主義の世として、田中康夫知事もずいぶん抵抗したらしいが、警察には負けたよう。
君主主義の大和朝廷を守ろうとしたら、創作をいれ神話もボカして書くのは世の常識というべき。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
長野県知事 田中康夫
ご質問を、私どもがすることはできないんでございますか?
牧内正夫委員長
そのつもりでは来ておりません。
長野県知事 田中康夫
それは、問答無用ということでございまして…、
牧内正夫委員長
読んでいただきたいというふうに思いますので。
長野県知事 田中康夫
いや、それはやはり、私どもとしてもお聞きしたいことが…。どうぞお座りくださいませ。
http://www.pref.nagano.jp/keiei/seisakut/kouan/hatsugen.htm
397 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 08:56:13
>>377 >記紀を都合よく利用してる九州説(ていうか安本)は、
>まず「邪馬台国東遷が絶対に正しい」という狂信があり、
俺の説、恵也説では「魏志倭人伝が絶対に正しい」という前提で素直に現在の地図で
たどって行ったら邪馬台国が西都市になったんだけど・・・・
●1里は何kmと計算すべきか?
倭人伝では韓国から壱岐まで2000里となってる。
釜山から壱岐まで160kmとして、1里=0.08km
●水行する距離に関して、数百人の人間が移動するには、漁師や運搬船を総動員しないと無理。
本隊が着く前に先遣隊が大金を使って段取りしても、4日間くらいのタイムラグがあるとする。
風を待つという待機もあるし、酒宴もあるし、船もピストン輸送とし段取りでマイナス4日も
しくは2日とし 1日平均5km進むとする。
●陸行する距離は、段取りでマイナス4日とし1日4kmとする。
江戸時代の朝鮮通信使は12回も、江戸まで往復6ヶ月もかけて旅行してたという。
下関から東京まで900kmを90日間かけたとしたら、1日に10km。
日本との親善が目的なんだから魏志倭人伝とよく似てる。交通網の発達や初めての見せびらかし
旅行と、地元との宴会・意見交換を考えると1日4kmでも良いだろ
●船を乗り換えてるので、漁業者のテリトリーが変化したものとし三角港を投馬国とす(熊本平野
八代平野も領土とする)
韓国80km南→対馬80km南→壱岐(一大国)80?km→唐津(末盧國)40km東南
→小城町(伊都国)8km東南→佐賀市(奴国)8km東→千代田町(不弥国)80km南→
三角港(投馬国)40km南→芦北に上陸100km→西都市(宮崎県)・・「ここが邪馬台国
398 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 09:02:09
>>380 >考古学成果を自説に都合のいいところだけとりいれている
>のみのようにもおもえる
安本氏は俺は素晴らしい方だと思うよ。
俺の説とは少し違うけどね。
あなたもこれだけの悪口を断言して言うのなら、具体的事実を書くのが常識だろう。
安本氏はその点、具体的事実をたくさん羅列して論拠としてる。
あなたの文章は「具体的事実」がゼロだ!
399 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 09:12:54
>>387 >「盗まれた神話」の三部作は必見の価値があります。
あなたがそのバカ学者に洗脳されたと言うことを、自白してるようなもの。
なぜ「必見の価値」があると考えたのか、ただ感動したというだけのもん。
本当に価値があれば、あなたの思想の骨肉になりここで、その内容を文章に書けるはず。
文章にかけない程度じゃ、あなたが本当に納得できた書物ではない。
”洗脳”と”本物の勉強”の差はここに出て来るんだよ。
北朝鮮の方々が、決まりきったスローガンしかいえず、聞かれて困ると「金正日の本を読め」
とノタマワって居られるのと同じ現象。
誰かの本を読んだだけで、自分が偉くなってるように誤解してしまう凡人!
400 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 09:21:36
401 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 09:31:58
>>394 >今まで、鉄が過大評価されていただけで、鉄=国力という訳じゃない。
国力にはずいぶん影響する。
武器はともかく、鋼を鋤やクワ、ノコギリ、カンナ、包丁などに使って生活するのと
青銅の軟らかい物で、作業してる国家では1人の作業能率は雲泥の差がある。
それと俺は、馬や牛の使用もずいぶん国力に影響してると思う。
馬なんて昭和時代まで、天皇の御領場では馬が飼われて騎兵が大切にされてた。
軍事力では抜群の働きがあったんだろうな。
402 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 10:00:20
>青銅の軟らかい物で、作業してる国家では1人の作業能率は雲泥の差がある。
なにを根拠にそんなアホ言ってるんだ?
「雲泥の差」など無いぞ。
403 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 10:01:01
道具として明らかな能力差が有ったのは斧ぐらいで、農具などは木製でも十分に役立っていたんだろうな。
神武東征は、明らかに応神をモデルに書いてあると思うな。
吉備までは納得できる行動だが、それ以後の展開が不自然だ。
播磨に日岡という土地があるけど、ここが日向かも?w
404 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 10:03:51
>>400 困ったお人ですねぇ
もう少し思考を働かせる事をお勧めします。
日向(日に向かう)
日に向かうのは、日向と呼ばれた地より西に居る人達、その地の人達が、陽の昇る方を日向と
名付けたのではないですか?
405 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 10:18:08
>>403 >道具として明らかな能力差が有ったのは斧ぐらいで、農具などは木製でも十分に役立っていたんだろうな。
能力差に、雲泥の差があったから今では全く、作られなくなったんじゃないの。
俺は農具の刃先に、青銅製の刃先を使ってるものなんて見たことがない。
青銅製の刃先でも、俺は役に立たないとは言ってないが・・・・
能率、値段、切れ味、長持ちの面でも雲泥の差があったというべき。
国力にはモロに影響してくる。
邪馬台国じゃ弓矢の鏃に使ってたんだからね。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
木弓は、上が長く、下は短く、鉄の矢じりを使う。(海南島の)耳や朱崖などの都と同じである。
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
406 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 10:23:34
>>404 >陽の昇る方を日向と 名付けたのではないですか?
一つの可能性に過ぎん。
太陽の方をいつも花が向くから、ヒマワリを向日葵と書いたように
太陽を神聖視した地方だから日向と呼んだともいえるし、いろんな無数の可能性がある。
407 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 10:24:43
↑
奇知外は失せろ
408 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 10:27:21
>>404 >陽の昇る方を日向と 名付けたのではないですか?
そんな理論なら、日本全国に日向が存在するはず。
よって落第!
409 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 10:41:02
青銅製の刃先は俺も見たことが無い。
俺が見たのは鉄製の斧と100%木製の鋤・鍬・スコップ。
これは同じ遺跡から発掘されてる。
410 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 10:47:04
>>406 349 名前: 恵也 ◆o4NEPA8feA 投稿日: 2006/11/06(月) 20:55:59
>>346 >福岡氏西部の日向(ひなた)の山門です。
福岡県に山門郡はあっても日向なんて地名はないがな?
勝手に名前を付けたのかい?
353 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2006/11/06(月) 21:43:06
>>350 西部に日向峠ってある。
ヘボ恵也 ◆o4NEPA8feA はいい加減で恥さらしがやめておけょ。
へぼ恵也 ◆o4NEPA8feA:そんな地名ないだろ
名なし:西部に日向峠ってある。
地名があるかないかの会話だけで
361 名前: 恵也 ◆o4NEPA8feA 投稿日: 2006/11/06(月) 22:26:17
>>353 >西部に日向峠ってある。
日向峠があったからというだけで、そこから出発したというのかい?
いつ頃の記録なんだいそれは。
と言い出す始末w
411 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 11:41:43
412 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 11:44:10
>>408 >陽の昇る方を日向と 名付けたのではないですか?
そんな理論なら、日本全国に日向が存在するはず。
よって落第!
浅はかな思考だな
413 :
サガミハラハラ:2006/11/07(火) 12:04:16
陽の昇る方は日向じゃなくて日の出ではないでしょうか?
414 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 12:41:42
>>410 >と言い出す始末w
当たり前だろう。
俺の地図には日向峠なんて場所は見当たらん。
現在の地図にあるのなら、どのそこの側に日向峠があるとか、江戸時代の
何とかという地図に記録されてるとか書くのが常識。
あなたは、その何もせずに西部に「アル」といって断定するだけのバカに過ぎん。
415 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 12:49:37
>>411 >ヒマワリの花が何時も太陽のほうを向くだって?うわべだけの検索はよしなよ
正確に言えば向日葵の中の日輪草が、朝日が出る方向に顔を向けて花を咲かせるという意味だろう。
まあ、俗的にはいつも太陽の方を向くというけどね。
あなたは同じ方向だけ向いた日輪草を見たことがないのかな?
416 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 12:57:02
>>413 >陽の昇る方は日向じゃなくて日の出ではないでしょうか?
横浜には日の出町という場所があるけど、昔は日の出が素晴らしい場所だったのかも知れん。
今じゃ海も見えんし、コンクリートジャングルになってる。
しかし言葉の語源を探っても、断定なんて出来るものじゃない。
ほとんどの語源は「かも知れん」で終わるものだ。
417 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 12:59:40
↑
だからお前はウザ過ぎるから失せろって
418 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 13:07:09
419 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 13:08:39
>>416 >だからお前はウザ過ぎるから失せろって
反論も出来ない負け犬はひっこんでろ!
420 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 13:10:41
お前のクソレスに反論などする価値無し。
421 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 13:13:34
歴代キチガイ度ランキング
1位 恵也
2位 太国
3位 サガミ
4位 プラム
422 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 13:18:45
423 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 13:21:35
385 名前: 恵也 ◆o4NEPA8feA 投稿日: 2006/11/07(火) 10:07:29 ID:/MAujJa+
>>377 >鬼畜米英日軍戦没者 3072
イラン人の死亡者が60万人を超えてるという話があったけど
まあ、概略で米英軍戦死者の200倍のイラン人が死んでるということだろう。
でも今後はシーア派とスンニ派の殺し合いが酷くなったから、この数字は
もっと大きくなりそうだ。
ブッシュも酷い事をイランにやってしまったものだ・・・・
387 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2006/11/07(火) 10:11:33 ID:???
>>385 素でイランとイラクを間違えてるのは、いかがなものか?
398 名前: 恵也 ◆o4NEPA8feA 投稿日: 2006/11/07(火) 13:12:21 ID:mwGWzV11
>>387 >素でイランとイラクを間違えてるのは、いかがなものか?
悪い、間違えた。
どうもすぐ、イラクとイランと混同してしまう。
激ワロスw
425 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 13:35:33
>>422 >どの地図見てんの? ニートさん
前原市から福岡市に行く道の峠なんだね、有難うよ。
でも15万分の1の地図には載らない程度の、小さな峠なんだね。
こんな小さな峠を、神武天皇が行かれたとでも言うのかな。
宮崎の日向灘や日向市の大きな場所ならともかく、こんな小さな
峠を日本書紀なんかに書くものかね????
なんかチマチマした、小さな盆栽みたいな脳みそだ!
426 :
天狗舞:2006/11/07(火) 15:37:37
>>425 現在の峠の大きさで当時を語るとは、恵也君も大人気ないな。
その当時は博多湾の海岸線が迫っており、その峠はマツロの国と
イヨ・イトを結ぶ重要な峠道であった事も想像が付く。
神武が辿ったか否かは問わないが、当時の重要な海路・陸路程度は
大小の古墳・遺跡の有無や港や海流の有無程度考えて欲しいものだ。
427 :
サガミハラハラ:2006/11/07(火) 16:15:25
日向峠は日向というところにある峠ということです。
福岡市山門の室見川中流の西側に日向というところがあり、神武一族はそこに居を構えていたらしい。
奈良県に移動してから、故郷を偲んで新天地をヤマトと名づけた。
428 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 16:22:24
>>427 >奈良県に移動してから、故郷を偲んで新天地をヤマトと名づけた。
どうして、奈良に日向の地名をつけなかったの?
429 :
サガミハラハラ:2006/11/07(火) 16:33:36
日向とは山門の西の一画なのです。
つまり、相模原市下九沢の私が、シモクザワでなくサガミハラの方をとったのとおなじでしょうか。
430 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 16:37:20
>>425 ヘボ恵也 ◆o4NEPA8feAが地図にないというから教えてやったんだよ童貞君。
小さな峠とか日本書紀なんかおれには関係ないんだよ童貞君。
話をはぐらかすなよ童貞君。
地図もまともに見れないのかね?童貞君。
今夜は世界地図でイラクとイランの違いを勉強してさっさと寝なさい童貞君。
398 名前: 恵也 ◆o4NEPA8feA 投稿日: 2006/11/07(火) 13:12:21 ID:mwGWzV11
>>387 >素でイランとイラクを間違えてるのは、いかがなものか?
悪い、間違えた。
どうもすぐ、イラクとイランと混同してしまう。
398 名前: 恵也 ◆o4NEPA8feA 投稿日: 2006/11/07(火) 13:12:21 ID:mwGWzV11
>>387 >素でイランとイラクを間違えてるのは、いかがなものか?
悪い、間違えた。
どうもすぐ、イラクとイランと混同してしまう。
398 名前: 恵也 ◆o4NEPA8feA 投稿日: 2006/11/07(火) 13:12:21 ID:mwGWzV11
>>387 >素でイランとイラクを間違えてるのは、いかがなものか?
悪い、間違えた。
どうもすぐ、イラクとイランと混同してしまう。
431 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 16:41:31
>>429 「筑紫の日向」と謳われるほどなのに、
「筑紫」も「日向」も、畿内の地名に無いのは何故?
432 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 16:48:41
>>429 1、日本書記には、「日向国」で妃を娶ったことが明記されてる。一角とは思えませんが?
2、ヤマトという地名は、神武が畿内に着くまで出てこない。
433 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 16:59:39
記紀神話をどうひっくり返して読んでも、
神武が住んでいた地を「ヤマト」と特定することは出来ません。
文献を重視するなら、きちんと文献の内容を尊重してください。
魏志倭人伝の邪馬台国と、記紀神話の神武東征を自分勝手な解釈で組み合わせないように。
434 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 17:11:41
日本書紀の神武東征のくだりをきちんと読みましょう。
神武は、東征に先立ち「日向国吾田邑」で吾平津媛を娶っています。
「日向」「吾田」という地名は、日本全国で宮崎県しかありません。
基本中の基本をどうして外して議論してるのですか?
435 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 17:17:08
436 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 17:20:04
でも〜 良く覚えていたね。遥か何百年前のか
当時、何処の馬の骨かわからぬ奴の素姓が?
後世有名になったからいいものを、嫁を娶った当時は、この先何処で野垂れ死にするか判らん 輩
そんな奴の記録が、良く残り語り継がれたものだ
437 :
343:2006/11/07(火) 17:28:37
なんか取り違えている人がいるからカキコするけど
俺は祟神が真の日本国初の王でニギハヤヒの系統だと思ってるよ
神武と応神は同一人物で日向(宮崎・ニニギ系)の神話を持ち、
ニギハヤヒの神話を持つ大和(物部系)王朝との融合で
日本書紀や古事記が作られたと想像している
神武東征は時系列でいけば祟神より後の時代だというのが俺の考えだ
実際大和で最も古い遺跡群は巻向(祟神)遺跡郡だしな
もちろん邪馬台国=祟神・垂仁朝な
438 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 17:33:03
>>436 君、良いこと言うね。
はるか何百年前の記録がよくのこってたものだ。
記録が残りそうなのは、やはり知識人の多い文化の中枢地だろう。
たとえば北九州なら伊都国のあたりだろう。
しかし、日本書記の伝える神武が立ち寄った記録は、岡水門(福岡県遠賀郡芦屋町)であり、
伊都国と考えられている地域とは、だいぶ離れている。
どうして、神武は伊都国に滞在しなかったのか?
それとも、岡水門(福岡県遠賀郡芦屋町)が伊都国だったのか?
439 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 17:41:15
>>437 俺は、神武東征のモデルはあったと思うよ。
ただし、紀元前頃の話。
日向に、「日向から畿内に東征した王がいた」という伝承と、
大和に、「九州から王の祖先がやってきた」という伝承があれば、
それが、カムヤマトイハレヒコという同一人物に結びつけられたのだろう。
440 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 17:47:17
神武東征神話が、伊都国に残らなかったことを、もっと重要視したほうがいい。
1、伊都国で語り継がれるほどではない規模の東征だった
2、東征と呼べるほどの民族移動は無かった
3、東征そのものが無かった
4、伊都国では忘れ去られてしまうほどに過去の出来事だった
5、なんらかの都合で記録が消された
東征があったとしても、紀元前頃と考えたほうが辻褄があう。
441 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 18:06:00
442 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 18:38:59
宮崎県には、狭野神社、宮崎神宮があることからも、
神武東征神話の発信源は宮崎県の日向であることは間違いない。
日向の狭野尊が東征したという伝承と、
大和の磐余彦尊が九州からきたという伝承の組み合わせが、
神武東征神話のなりたちだろう。
日向の神武がどこから来たか?という問題解決のために、
高千穂の天孫降臨神話を創作したのだろう。
さて、この話と、邪馬台国の所在地とは、まったく別の問題であることも事実。
ごっちゃに考えるヤツはバカ。
443 :
サガミハラハラ:2006/11/07(火) 18:39:10
宮崎県に記紀神話に出てくる地名や神社があるのは、記紀ができてからそれにあわせて地名をつけたり、神社を建てたりしたからです。はい。
444 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 18:50:22
445 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 18:54:13
>>405 >能力差に、雲泥の差があったから今では全く、作られなくなったんじゃないの。
詭弁だな。
今は鉄が安く手に入るから鉄器をつかってるだけ。
もし鉄がなくても石器で十分。
「石器」と「鉄器」に「能力差に、雲泥の差」などない。
石器で1週間で耕作できる土地が、鉄器で1時間で耕作できるというならべつだがね?
君の言う、「雲泥の差」とは、どういう意味なんだろうね?
446 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 18:54:43
>>443 同意
現在奉られている記紀神の殆どは、封印を目的に
記紀編纂の後、各地に割り振られたものです
447 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 18:56:29
>>446 じゃ、神武東征も創作だったということで、いいね?
448 :
サガミハラハラ:2006/11/07(火) 18:57:34
近畿地方を中心とした渡来人とみられる体質は、飛鳥時代や百済が滅んだ時とかの亡命者によるものだと、安本美典氏はいっておりました。
私もそうおもいます。
449 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 19:01:06
それに、神武東征は五世紀末迄(二百年間)掛かり
神武は、最後のページに名を残した迄に過ぎない。
たかだか二三十年ぐらいで成し遂げられる業績ではない。
数代、何百年の歳月を費やし達成出来るもの
450 :
サガミハラハラ:2006/11/07(火) 19:01:12
神武東征の宮崎県出発は創作です。日向の国といわれていたので間違って、そこ出発のルートにしてしまったのです。
451 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 19:04:56
>>336 >銅鐸が衰退して造作されなくなった理由は何かね?
これも詭弁だな。
ならば、銅矛はどうして衰退した?
銅矛にかわって、鉄矛が神器になってもいいだろう?
どうして、鉄矛が神器になってない?
答えられるかね?
452 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 19:08:27
神武の領地は豊後
カムヤマトイワレヒコではなく、
カムヤマトイワレビコ
453 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 19:11:45
>>451 銅鐸は現在でも形を変え、神社に残っているよ
454 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 19:22:34
455 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 19:26:06
倭の五王達が次々と、帝国から将軍職を下賜されるのが何よりの証拠
これにて大義名分のもと、東征が出来るだろう。
456 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 19:35:43
>>455 意味わかんね。
大和が東北に東征したって言うならその通りだろう。
九州王朝が大和に東征したって言うなら、そんな証拠はますます無い。
457 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 19:36:56
>>454 !(^^)!
後世、全く影も形も残らず消え去るなんて有り得ない。
458 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 19:49:42
>>456 中国史書と記紀に史料として残っているだろう。
第二次東征は、
壹與に始まり神武迄約二百年間掛けての大仕事
459 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 19:57:12
>>457 銅製品というと、青銅のことであり、青銅とは「あかがね(銅)」と「すず(錫)」の合金。
「かね」も「すず」も、どちらも「鐘・鈴」=銅鐸と同じ鳴り物を指すコトバなんだよね。
銅鐸は消えてもコトバは消えないんだよね。
460 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 20:02:29
>>459 その土地の支配者は代わっても、民百姓までそっくり入れ代わる事はないからね。必ずその痕跡は残るもんだよ
彼等は文字を知らない
だから一番可能性があるのが言葉だよ
世界は君が生まれた時に生じて、君が死んだ時に終わる。
……歴史なんてものに意味を求めるのは、臆病者の証明にすぎない。
462 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 20:05:17
>>461 何
独りで陶酔しているの?
君はまだ独身かな?
463 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 20:08:04
>>460 鐘=鳴り物=なりもの=成るもの=実が成る=実り
これらのコトバは関係があると思う。
銅鐸を地中に埋めて豊作を祈るという古代の風習が、コトバに残ってるんだろう。
464 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 20:41:47
>>463 鐘→鳴る
これがちょっと厄介かな?
豊作祈願は、鐘がなければ成立しない事になるが?
465 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 21:22:48
>>464 いや、「音が鳴る(なる)」と「実が生る(なる)」の「なる」は、
もともと同じ語義だったんじゃないかと思うわけよ。
鐘を叩いて音をさせる=なる=「鳴る」=なりもの=鳴り物=鐘
田畑を耕して実らせる=なる=「生る」=なりもの=生り物=実
音と作物で、共通の言葉で「でる」とも言う。
「音が出る」とも「芽が出る」とも言うでしょ。
語彙が少なかった頃の古代人には、音と実には共通の概念があったんじゃなかろか。
つまり、豊作祈願には、音を出す祭祀をしていたのではないかと。
466 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 21:27:16
社会にとって、ニートは要らない物なんだね。
掃いて捨てても、何も困らないんだね。
467 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 21:28:03
「音」は、「ね」とも言う。
「ね」も、「根」に通じるコトバで、銅鐸を地中に埋める意味付けになる。
ちょっと偶然とは思えないんだよなあ。
468 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 21:28:52
しかしこのスレニートウニョウニョ時間に大量にレスしているんだな・・・
ニートしか住んで居ないんだな・・・
469 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 21:29:41
期待されて生まれ
ニートとして死ぬ
470 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 21:30:45
☆☆☆ニートウニョウニョ時間にレスしていると狙われるよ!☆☆☆
ニートウニョウニョ時間=ニートばかり活躍する時間(暫定)
毎日24:00〜日の出
平日9:00〜12:00
平日13:00〜17:00
471 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 21:36:06
「足を踏み鳴らす」という言葉があるでしょ?
「踏み鳴らす」という行為は、地面を「均す(平らにする)」と同じ行為。
「ならす」は、奈良の語源とも言われてる。
ここでも、「ならす」は、「音」と、「作物を育てる土地」と、両方の意味付けがされてるわけですよ。
472 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 21:37:39
>>432 >ヤマトという地名は、神武が畿内に着くまで出てこない
いや、魏志倭人伝で西暦239年にヤマトコク(邪馬台国)として出てます。
473 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 21:37:38
>>467 凄くいい発想だと思うよ
「ナ」は
(成る)であり 形成を意味し、
「ナナ」とは
(成る)が重なり(沢山)と言う意味で 豊作を意味するのでは
474 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 21:37:55
期待されて生まれ
ニートとして死ぬ
475 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 21:40:56
やはり、そう考えると、奈良という土地は、
稲が育つように土地を「均す」「馴らす」「生らす」という、
農地開拓を目的として開かれた土地というふうに思えてくるんだよね。
476 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 21:42:55
>>472 邪馬台国(ヤマタイ)は、間違っても(ヤマト)には転訛しない
477 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 21:44:02
478 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 21:46:14
>>471 「鳴らす」と「均す」は
ちと 違うぞ
「鳴らす」は(ナ・らす)であり
「均す」は(ナラ・す)
479 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 21:48:25
今日は太国なにしてんの?
やっと勉強する気になったのか?
とぼけてコテ無しなのか?
480 :
:日本@名無史さん :2006/11/07(火) 21:48:35
何言っちょるでごわす!邪馬台国は九州の佐賀にありもうした。
勉強せいっ!馬鹿どもが!!
481 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 21:53:15
>>475 そうなると
奈良の土地は、言葉に残すほど、作物を作るのに難儀した土地で有ることが判る。
482 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 21:53:43
>>478 「均す(ならす)」も、「鳴る・生る(なる)」から派生した言葉じゃないかなあ?
「踏み鳴らす」=「踏み均す」の行為が似てるという根拠しか無いけど。
483 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 21:56:53
>>481 弥生時代中期までは、ただの湿地だったでしょう。
神武に東征をそそのかした塩土翁は、「東方の良い土地」と言ってるけどね。
前期には唐古はすでに集落でしたが何か?
485 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 22:11:43
>>484 その唐古を開拓したのがニギハヤヒでしょう。
奈良盆地の唐古の北西側は、まだ湿地じゃありませんでしたか?
野生の稲なら栽培できただろうと思うけど。
486 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 22:12:14
>>484 そりゃあ どんな場所でも 一カ所や二カ所ぐらい、人の住める場所はあるもんだよ。
そうではなく
全体的な様子が言葉として残っているんじゃないかな
>>485 奈良盆地の地形図見てから書いたら?
唐古の西北で唐古より低い場所が奈良盆地のどのくらいの面積をしめるか。
488 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 22:19:54
>>485 そこになんの根拠もなく、ニギハヤヒを組み込もうとするから 話がややこしくなるんじゃないか?
489 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 22:26:38
>>479 夕べ散々凹まされたようだから、暫く復帰困難かと
490 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 22:29:57
>>472 お前何百年前の地図見てんだボケ。
そりゃ日向峠は載ってないわな。
492 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 22:43:46
>>440 >神武東征神話が、伊都国に残らなかったことを、もっと重要視したほうがいい。
京都で朝廷を監視し、諸国のモメゴトを担当した六波羅探題が110年ほどで滅亡してる。
滅亡した原因は北条政権から、足利政権に変わったため。
伊都国が活躍していたのは西暦240年頃。卑弥呼が死んだのが247年。
神武天皇が死んだのを277年としても30年間の差がある。
卑弥呼が死んで男王になり、内乱が起き、台与がついでやっと安定した。
この2度の政権交代が起こって、伊都国の機能が無くなったと思われる。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
(1333年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こり、令旨に応じた足利高氏(尊氏)
や佐々木道誉、赤松円心らに京都を攻められ、北条仲時らは京を追われて滅亡する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%B3%A2%E7%BE%85%E6%8E%A2%E9%A1%8C
>>490 出典である『おおやまとを探る』に出ているもとの図にはその網掛け部分の説明として
>標高50m(網目地域)以下の地域は網流地域と考えて、
>厳密に水支配の境界が策定できないという判断で示していない。
と書いてある。それがいつの間にか盆地湖か湿地帯に化けてしまうところが烏賊にも安本。
494 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 22:56:52
>>492 >神武天皇が死んだのを277年としても30年間の差がある。
277年という数字の根拠は何だ?
495 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 23:08:13
496 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 23:13:18
>>476 >邪馬台国(ヤマタイ)は、間違っても(ヤマト)には転訛しない
台与をトヨと読ませてるんだけど・・・・・
497 :
太国:2006/11/07(火) 23:13:32
>>437 ま〜た
>>345 に言った失敗をやる奴がいるな。w
>>451 草薙剣があるではないか。似た者同士だ。片方でいいよ。
これは衰退したって、片方があるから間に合うだろう。
498 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 23:14:41
>>495 西暦250年〜300年頃の短期間に、
朝鮮からの難民が、九州に留まらずに、わざわざ山陰〜近畿〜東海にまで移動するほど、
山陰〜近畿〜東海の広域の人々は、一斉に朝鮮人難民を受け入れようという要請があったのかね?
で、九州の人は、技術を持った朝鮮人の受け入れをどうして拒んだのですか?
499 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 23:16:11
>>494 >277年という数字の根拠は何だ?
世界一のお墓を持ってる第16代仁徳天皇の死亡期日西暦427年を、事実だとしたら神武天皇
や天照大神はいつ頃死んだのか。
天皇の平均在位期間を10年としたら第X代天皇の死亡年月日は次の式で得られる。
427−(16−X)*10=西暦死亡年
427−(16−1)*10=277年・・・第1代 神武天皇
427−(16+3)*10=237年・・・皇祖 天照大神
247年・・・ 卑弥呼死す
まあ、10年の差くらいなら十分に同一人物だった可能性はある。
それに当時の天皇は先頭に立って、反対派を征伐していた天皇としては危険な任務の時代。
19人の天皇で10年間の在位期間が短縮したのなら、むしろピッタリと言うべき。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
第31代の用明天皇は、2年ほど在位し、586年には活躍していたことが確実な天皇である。
用明天皇の活躍年代586年を起点として、一代10年づつ古代にさかのぼれば、各天皇の
大略の活躍年代がえられる。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/nendai.htm
500 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 23:17:33
501 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 23:19:48
>>499 >天皇の平均在位期間を10年としたら第X代天皇の死亡年月日は次の式で得られる。
その式が正しいという根拠は何?
502 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 23:20:22
>>498 >山陰〜近畿〜東海の広域の人々は、一斉に朝鮮人難民を受け入れようという要請があったのかね?
神武天皇が東征して、植民地を拡大した為に労働力が早急に必要になったため。
まあ、アメリカの西部開拓史みたいな現象が生じたんだろう。
新天地がたくさん出来て、ブームになったの!
503 :
太国:2006/11/07(火) 23:21:19
>>500 それは同じとは言っていないよ。まず字からして違うぞ。
>>499 するとイザナギは227年あたりか?ww
504 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 23:24:39
>>502 すると、神武東征のすぐ後に、朝鮮人がいっぱい入植してきたという結論でいいわけだね?
山陰〜畿内〜東海は、技術指導で入植してきた朝鮮人の文化をそのまま受け継いでいると、
そういうことで良いわけだね?
505 :
九州ですが:2006/11/07(火) 23:37:48
>>459 興味深い見解ですね。確かに古代中国には銅鐸そっくりの鐘を小さいのから大きいのまで
吊り下げて鳴らす楽器がありますよね。倭国にあれが入ってきたとき、珍しくもあり、
大変有難がって祭祀に用いたんでしょうけれども、そのうち鐘本来の使用目的に近づいていったんでしょう。
寺で坊主の叩く鈴{リン}や、つりがね、神社の鈴、{スズというんですか?}
に変化していったと考えれば、なぜ銅鐸が消えたか、の理由として納得がいきますね。
506 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 23:58:54
>>503 草薙剣が、銅剣だったってことは、知ってる?
>>502 それくらい真剣に就職活動したらどうだね
508 :
:日本@名無史さん :2006/11/08(水) 00:22:33
おぬしらに聞きたいんだけどさ、どうして伝聞がその後長期間途絶えてると思う?
例えばさ、中国みたいに史書記す太史がいる、または文字がある国家だったら連綿
と歴史が記されているはずだよな。
マルコポーロの当方見聞録みたいに、土産持参してチラッとやってきたり短期間滞在
した外人が土着人の都(デカイ村)で聴き慣れない発音の名前とか言葉一生懸命漢字
に変換して書くとあんな感じじゃない?。だから民族総入れ替えしなくても、混在と
滞在レベルでも記録は残せるんだよ。記録年代と民族移動ごっちゃにしない方が良くない?
ジンムが東征して三輪山の麓で即位、とかなら、まだその存在を信じてやっても
いいがなw
いい年した大人が、いつまでも神武の亡霊に振り回されるな。
笑われるよ。
510 :
:日本@名無史さん :2006/11/08(水) 00:33:21
まずさ、大前提として海渡るような軍隊動かすのがメチャクチャ大変な時代な。
そしたら有るのか無いのかもはっきりしない土地にいきなり軍は動かさないよな。
まずは市場調査するためにスパイか調査員送るよ。調査員は仕事だから事細かに
外国の国力とか王様とかの状況記すよ。でもそれが終わって大体解ったら、とり
あえず国に帰るよねw。
511 :
:日本@名無史さん :2006/11/08(水) 00:38:53
そのうち帰らないで居座るような輩も出てきて、いろんなこと知ってるもん
だから土地の権力者に高い身分で優遇されるのが当然ちゃあ当然。
最初はいい関係でもその内、曽我ちゃんみたいに乗っ取られたかも知れんよ。
512 :
:日本@名無史さん :2006/11/08(水) 00:49:02
ちなみにさ、中国でも滅ぼした敵国・民族の文化や文字、国家体制なんて史書
残したりしたっけ?焼き尽くしたりしてない?
513 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 08:09:07
>>512 恵也が引用付きで教えてくれるよ。
ああ、楽しみだなあ。
514 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 08:39:06
原田大六が平原王墓を発掘して「アマテラスの墓だ!」とかいきなり言い出して、
近くに記紀に載ってる地名がないかを探した、ということ。
平原が大和政権に繋がらないことが判明した現在では、笑い話だ。
素直に信じてる奴もどうかと思うが。
人間って、シンプルで分かり易い答えに飛び付いてしまう習性があるからね。
宗教とかオカルトもそう。
515 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 09:14:23
伊都国の話題がでてきてたみたいだけど
日本書紀の都怒我阿羅斯等伝説で
都怒我阿羅斯等が最初伊都国にたどり着いて
そこの王伊都々比古に「我こそ倭国王」と言われたけど疑って
さんざん道に迷った末大和にたどり着き垂仁に会うというやつあるの知ってる?
これ読んだ時やっぱり邪馬台国は大和だとオモタよ
俺は都怒我阿羅斯等こそ魏の使節団だと確信している
516 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 09:33:39
>>515 俺も同意。
伊都国王は、絶対自分が倭王だと言い張るだろう。
わざわざ遠くの畿内のクニに、自分より偉い王がいるなどと言うわけ無い。
517 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/08(水) 10:55:02
>>510 >そしたら有るのか無いのかもはっきりしない土地にいきなり軍は動かさないよな。
遺跡の出土品を見ても、弥生時代や古墳時代には貿易が盛んでした。
貿易が盛んだから、財宝がたくさんあって防備が弱い都市が襲われたんでしょう。
その経験から見張り台を作り、周りに堀をめぐらし平和的な人間しか入れなかったんだよ。
ところが神武天皇みたいに最初から、その都市を占領支配をしようと大軍でこられたら吉野ヶ里
遺跡みたいなとこでも無理な防備でしょう。
俺は神武天皇は、奈良の地理、経済状況などすべてわかってて侵略し、植民地化したと思うよ。
さもないと皇族の同意も得れないし、軍隊も集めれないし、資金も集めれない。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
環濠にしても、物見櫓にしても、やはり集落を「守る」ためのもの、全体的に吉野ヶ里遺跡は、
単に住む場所だけではなく、戦闘的性格を持った「城塞」「砦」である、という感を強くしました。
http://www.shochian.com/yoshinogari.htm
518 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 11:14:56
↑うぜえ野郎だ
519 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 12:00:00
地理が解ってたら和歌山周りなんて馬鹿な事はしないだろう。
実際に神武東征が有ったとしたら、東征なんて威勢の良い物ではなく、
貴種流離譚といった物だと思う。
520 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/08(水) 12:34:54
>>512 >焼き尽くしたりしてない?
魏志倭人伝の原本は、1800年間の戦争の混乱で失われたんでしょう。
戦争の混乱の中で焼かれるのは多かったが、意識的に燃やしたのは始皇帝やヒットラーが
記録に残ってる。
日本でも当然、その必要性があると判断された時にはやってるでしょう。
記紀の編集の前後や、南京大虐殺のマギーフィルムも5巻ほど作られて、日本にも1巻送
られてるが行方不明だ。
権力者に都合の悪い書物や公文書は残りにくい。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
学者どもが相変わらず古をたたえ当代をけなしているのは、人民をまどわすものと言うべきです。
このような輩を放置しておいては、やがて陛下の権威を汚すにいたりましょう。
かれら学者が拠り所としている書物をいっさい焼き払うべきです
http://www1.ttcn.ne.jp/~hisho/history/china/proverb/01/funsho.htm
521 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/08(水) 12:39:05
>>514 >人間って、シンプルで分かり易い答えに飛び付いてしまう習性があるからね。
真実というものもシンプルで美しいよ。
これはアインシュタインの言葉だったけど、俺もそう思ってる。
デマもシンプルだけどね。
522 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 12:39:56
↑あんた精神病院いったほうがいいよw
523 :
九州ですが:2006/11/08(水) 12:47:06
そのころは伊都国王も、魏の使者から尊敬と親愛の情を込めて、倭王と呼ばれてたんじゃないか?
卑弥呼以外も、それぞれ魏と何らかの通商などがあって、各国の王もまた倭王と呼ばれていた可能性も否定できない。
だからこそそれが統一される過程で 倭、だったものが 大倭=大和だいわ、となった。
それをヤマトと読むのは当て字で、ヤマトは別物であった、と考えると、
ヤマトというのもヤマタイが縮んで出来た言葉であり、ヤマタイの消息は、
九州で途切れ、大和朝廷が畿内で立ち上がった事との関連が薄くなる。
大陸ではヤマタイの名の方が知れ渡っており、その名を大和朝廷が名乗った。
大和朝廷はより殺傷能力の優れた鉄の武器を携えた渡来系で、先祖が大陸に帰す。それを補う為、
倭国各地の伝承などをかき集め、八百万の神々といった膨大な神話を作って自分達の権威付けに利用した。
だから私は神代時代から人王にかけての古代の記述を殆ど天皇家に繋がる系譜とは見ていない。
というのがずっと以前からの、私の考えではありました。
神武の東征が仮にあったとするならば、ヤマタイの消息が、九州で途切れた後、何かがあったのでしょう。
謎ですが。
>>523 いいや 窓口は卑弥呼だよ 魏朝からすれば、来る者は仕方ないけど
『倭の窓口は卑弥呼だけ』だから(親魏倭王)なんだよ。
525 :
九州ですが:2006/11/08(水) 13:01:30
>>524 魏の使者は必ず伊都国の一大率に来る。と倭人伝にあるが、そこで伊都国王にも
見えたのでは?
526 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 13:12:40
恵也みたいな嫌われ者見たことがない。
実社会からドロップアウトでひきこもり。
>>525 >伊都国にいる一大率
かなり誤読してないかな?一大率など伊都国にいるなどと書いていなよ。
529 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 14:11:21
>>499 安本の統計手法は基本的には、正しいと思う。
ただ、統計でありながらサンプルが少なすぎる。統計なら千や万のサンプルが必要。
在位期間の長い天皇により生じた誤差を別の天皇の在位で修正して平均に戻すのに
長期間を要するという問題もある。
実際にも、幼少で即位した応神天皇とか、仁徳、雄略とか在位期間が長いことが
想定される天皇が数人、近い時期に存在する。
そういう「修正要素」を加味すると、神武東征は250〜260年頃になる。
この考えだと、狗奴国の王(ヒコミコ)が神武で、邪馬台国の王位の禅譲を受けて、そのまま
畿内に遷都したという線も生じる。
実際、「ヒコ」も「ミコ」も神武の名に残っているんだよね。
530 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 15:28:46
1世紀とかならまだしも、
3世紀に東遷なんて無かった。
これ常識中の常識ね。
531 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 15:45:52
532 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/08(水) 16:45:07
>>529 >そういう「修正要素」を加味すると、神武東征は250〜260年頃になる。
修正要素を入れたら、結論はどうしても恣意的にならざるを得ない。
人によって修正の程度が全く違う。
修正要素をいれずに、誤差の範囲で考えるべき。
533 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/08(水) 17:03:50
>>530 >3世紀に東遷なんて無かった。
>これ常識中の常識ね。
常識がコロコロ変わるのが歴史の常識。
神武も、大義名分がなけりゃただの侵略
『神武侵略』だな
535 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 17:11:28
>>532 天皇の平均在位期間を10年とする根拠が、そもそも無い。
536 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 17:23:59
>>533 邪馬台国九州説は、江戸時代からの常識だって知ってる?
537 :
九州ですが:2006/11/08(水) 18:24:55
>>527-528 邪馬台国スレ6で、伊都国に滞在する以上は、一大率にも立ち寄ったであろう事を
前提にして会話してたので、先走った書き込みになってしまった。
倭人伝の記述は無いが、立ち寄ったと見るのが自然ではないか。
それはともかくとして、ここで云々してるのは 『倭の窓口は卑弥呼だけ』
という貴方のご意見の真偽。
伊都国王が魏の使節に会わなかったなど考え難い。寧ろ歓待されたであろう感謝の
気持ちも手伝って、倭国王と呼称し、持ち上げられていたとしたら
どなたかの前述の、「我は倭国王なり」と伊都国王が吹聴するに至る経緯が推察出来る。想像ですが。
ともあれ、魏と接触があったのはけして卑弥呼だけではなかったと思いますよ。
538 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/08(水) 19:02:08
>>537 魏との接触と、利害関係は別問題
魏朝より『親魏倭王』を下賜されたのは卑弥呼、これに勝ものはないよ。
>伊都国王
伊都国の王なのか?
伊都国に居る王か?
>我は倭国王なり
そう自称しなければ、存在感がないのか?
一大率の問題は、簡単に片付けてはいけない内容ですよ 伊都に置かれたなど書かれてないモノを想定するんですから。
539 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/08(水) 19:08:58
>>537 そもそも『一大率』とは漢語であり『一大』+『率』
『(一大)を(率)した』と、解釈します。
540 :
:日本@名無史さん :2006/11/08(水) 19:14:46
人類は温暖な土地への南下が好きな動物である。現在の日本列島の概念が推測を邪魔
するが、今も西日本に残る朝鮮式城郭の存在を考えると古代に朝鮮半島南部の対馬周
辺に朝鮮人国家の延長が無かったと考えるのも不自然だろう。
魏志倭人伝は魏と邪馬台国(&その他の村)の仲介者のような存在によって記されて
いる。言うなればプランテーションの現地監督のような存在によって。駐在する彼ら
は現地の反乱を鎮圧するだけの軍事力も備えていたようだ。果たして彼らは中国から
直接やってきた役人だろうか・・・?
541 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 19:46:28
大和の古墳から、銅鏡が出てくるが、国産説という説もある。しかし、銅鏡
を制作する技術があるなら、中国との関係はより密接だったはず。
しかも、中国の文字である、漢字が記載してある。もし、国産であるなら、
漢字を読み書きできる人が、大和に存在した事になる。
よって、邪馬台国は大和。
542 :
サガミハラハラ:2006/11/08(水) 19:54:47
鏡が古墳に埋納されたのは卑弥呼の死のずーっとあとの古墳時代です。
だから邪馬台国東遷説が生じたのです。
ですから、あなたの説では、東遷した邪馬台国となります。
卑弥呼の邪馬台国は九州です。
私の考えでは佐賀県小城市であり、東遷はないとみます。
543 :
太国:2006/11/08(水) 20:11:18
女王国の東遷は無いです。
544 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 20:40:57
東遷は無いな。
545 :
:日本@名無史さん :2006/11/08(水) 20:46:10
>>542 九州に邪馬台国が有ったのではなく福岡から広島あたりに畿内邪馬台国と魏の国交
を仲介斡旋する朝鮮人の国が有ったのではないか?そしてその国はその後の畿内政
権の拡大によって滅んだ。
546 :
九州ですが:2006/11/08(水) 20:49:51
>>538 >>515の人の問いかけに続いてるんだから、そこまで話を戻すと、話の本筋を離れて、こんがらがるだけ。
>>524 『倭の窓口は卑弥呼だけ』と言うから違うんじゃないのと言ってるだけで。
窓口というけど、卑弥呼は女王になった後は、人前に姿を見せないんだったでしょ。よほど大事なお伺い以外は外国の、
実質の窓口は、伊都国で、卑弥呼への貢物の管理や入国管理等をしてたんだと思いますよ。
おたく曰く 「一大率の問題は、簡単に片付けてはいけない内容ですよ。 伊都に置かれたなど書かれてないモノを想定する
んですから。」云々。この発言はどこに真意が?
女王国より北にあるクニには一大卒を置くんだったでしょ。その他の部分は意味がよく解らないけど。
547 :
:日本@名無史さん :2006/11/08(水) 20:52:29
そのために出土する人骨などが朝鮮人のものと一致する。最近の発掘調査は福岡県と
山口県のみで行われているらしいが、関東で発掘される縄文人のものとは明らかに異なる。
548 :
:日本@名無史さん :2006/11/08(水) 21:07:37
>>540 解りやすい例でいうと秀吉の朝鮮遠征の際、日本軍が朝鮮半島にいくつも
城を築いている。それを知らない韓国人が城跡だけ見て自国の人間が残した
遺跡だと勘違いするかもしれない。
549 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 21:14:16
550 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/08(水) 21:16:48
>>535 おい君、マトモじゃないやつからいわれてるぞ。
552 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 21:24:26
>>515 その話こそ九州王家の存在を意味する記述だろ。
なにもないのにわざわざそんな記事必要ない。
根拠があったからこそ、周知の事柄をあえて否定しているっていう
ことに意味があったわけで。
553 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 21:25:12
>>551 面白いからちょっと相手してみるよ。
>>550 そのサイトに
>図1をみれば、平均在位年数は、上代にさかのぽるにつれて、短くなっていることがわかる。
と、あるわけだが、
「天皇の寿命が上代になるほど長い」という点についてはどう考えてるのかね?
555 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/08(水) 21:45:52
>>546 この場合、女王国より北にある国とは、何処と解釈しているの?
出来れば原文提示願いないかい?
556 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 21:52:45
ここのレスって、妄想(下痢糞)っばかりで、すっごく臭い!
557 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/08(水) 22:08:18
558 :
九州ですが:2006/11/08(水) 22:17:31
>>555おたくがまず読まないと。はいどうぞ。
自女王國以北特置一大率儉察諸國諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史王遣使詣
京都帯方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津捜露傅送文書賜遣之物詣女王不得差錯
和訳:女王国より北には、一大率という指令官を置いて、諸国を監視させている。
諸国は指令館を大変恐れけむたがっている。一大率は伊都国にいるが、
国中に監視員を派遣していろいろ報告させている。王の使いが魏の都、洛陽や帯方郡や韓国から帰還した時、
また、郡の使節が倭国へ行く時はみな津で文書とか送り物とかを点検し、
不足や食い違いがないようにしてから女王のもとに運ばせる。
この文から伊都国の南に女王国があったというのは自明だが、邪馬台国連合の、
女王国より北にあるクニ、とだけ記述があって、伊都国だけははっきりと
一大卒を置く。と、明記している。そのほかのクニについては記述が無い。
559 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 22:18:47
>>557 古代人は腹の中に一年四ヵ月いたことになるのか?
…二倍暦…
560 :
プラム:2006/11/08(水) 22:27:20
>>558 >自女王國以北特置一大率儉察諸國諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史王遣使詣
京都帯方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津捜露傅送文書賜遣之物詣女王不得差錯
和訳:女王国より北には、一大率という指令官を置いて、諸国を監視させている。
諸国は指令館を大変恐れけむたがっている。一大率は伊都国にいるが、
国中に監視員を派遣していろいろ報告させている。王の使いが魏の都、洛陽や帯方郡や韓国から帰還した時、
また、郡の使節が倭国へ行く時はみな津で文書とか送り物とかを点検し、
不足や食い違いがないようにしてから女王のもとに運ばせる。
この文から伊都国の南に女王国があったというのは自明だが、邪馬台国連合の、
女王国より北にあるクニ、とだけ記述があって、伊都国だけははっきりと
一大卒を置く。と、明記している。そのほかのクニについては記述が無い。
これ どこからかの引用?それともおたくの?
561 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 22:33:14
魏志倭人伝に、倭人は「二倍暦」を使ってたという記述は無いな。
魏の使いは、常に伊都国に滞在し、その他の商人やら外国人も常に往来していただろう。
そうしたなかで、倭人が「二倍暦」を使ってたら、特殊な習慣として記録されたはず。
魏志倭人伝は、倭人が長寿だとも書いてるが、それが「二倍暦」に由来するものなら、
外国人が数年間往来すれば、事実はすぐに判明するだろう。
「二倍暦」なんて、誰が言い出したんだ?
>>559 まず、文節の切り方が間違っている
正確には
『大倭監之自女王國以北……』
大倭監之の『之』は接続詞で、後の文に掛かる
『大倭監』は、後の文の目的です。
563 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 22:44:05
国産と言われる三角縁神獣鏡は、「景初」という魏の年号を使用している。
倭人は、魏の暦を知りながら、国内では「二倍暦」を使い続けていたのだろうか?
そのような不合理な考え方は成り立つまい。
外国と交易をする際にも、暦が統一されているほうが便利だからだ。
564 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/08(水) 22:47:18
>>559 >自女王國以北
(女王国より北)
国域は面であり、決して(〜より)という起点にはなりえないよ。
この場合前文にて、『女王之所都』と書かれているだろう。
詰まり『自女王國以北』とは、女王の都を起点に緯度的に北側 そして
この『自』は、先に書かれている『自女王國以北…』と、同じ様に『次有斯馬國……』に、掛かり
諸国20国の事です。
>>563 二倍暦を支持するわけじゃないけど、
今の日本も国際的なやりとりには西暦を使うけど国内的には昭和とか平成とか使ってるじゃない。
旧暦なんてものもあるし。だから別に不思議はないよ。
566 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/08(水) 22:52:17
567 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 22:54:34
>>565 外国でも西暦を使ってない国は結構ある。
しかし、「二倍暦」なんてものは無い。
1年で歳をとるのは1歳だけ。
外国にも例が無いのに、どうして倭人だけ1年に2歳も歳をとる暦を採用するに至ったのか、
合理的に説明できない。
とにかく魏志倭人伝に記載が無いのは不思議。
568 :
九州ですが:2006/11/08(水) 22:57:12
お好きなように考えられていいんじゃないんですか。
漢文の解釈が、違うと言われるなら、それ以上の事は私にも解りません。
ご自分で確かめる方法はいくらでもあると思いますよ。
今まで邪馬台国に関する、NHK,などの番組も、少なからず見ましたが、
その部分は、私が提示した通りの解釈で、統一されてましたけど。
あまりその部分に異論のある人を知りませんが、私が知らないだけかも知れないですね。
570 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/08(水) 23:12:13
>>568 そう言う事でしたら、私も深く追究致しません。
571 :
九州ですが:2006/11/08(水) 23:19:10
>>564国域は面であり、決して(〜より)という起点にはなりえないよ。
それは屁理屈でしょう。言わんとする観点が何か伝わりさえすればいいのであって。
それに倭人伝では、女王国と、女王の都とするところ、という具合にきちんと
書き分けられている。それに、都というのも点ではなく面。
それに面である地方、例えば、「本州より北では雪になるでしょう」など
普通に使う。面に、より、という表現は使わないなどという事は無い。
詭弁をならべるだけで、まともな会話を混乱させるようなら、真剣な
考察とは言えない。
572 :
征東大将軍:2006/11/08(水) 23:21:41
日本書紀のn倍暦は、日本書紀執筆段階で発生したのであって
当代の記録を忠実に残したゆえに発生した訳じゃないでしょう、勿論
573 :
太国:2006/11/08(水) 23:38:39
>>567 ある程度の説明はありましょう。国の大祓いは半年ごとです。大祓祝詞に
あります。これは天皇、朝廷が重視した行事です。重視してるならば、半年が
当時の1年ということは充分言えることです。
外国には半端な古代マヤの変則的260日暦がありますから、こういう暦はあって
もおかしくはありませんです。
574 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 23:49:42
>>573 半年を1年と計算するなら理解できるが、
半年を12ヶ月と計算するのは無理がある。
もし記紀神話の古代の暦が1〜6月までしかなければ、
2倍暦の可能性はあったろう。
そもそも「一ヶ月」という概念はどこの国でも月の満ち欠けの1周期で計算する。
日本に月齢に基づく暦が入ってきたときに、月の満ち欠けの1周期を2ヶ月と計算する理由を考えるのは難しい。
575 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 01:01:38
あっという間に、
>>529でのカキコが流されたけど、
>>532では、反論にならない。
>>550の引用先にある安本説の弱点は、統計の弱さそのもの。
仮に、1代10年が後の天皇の在位や諸外国との比較で認められたとしても、30年在位の天皇が
一人出現すれば、平均値に収束していくためには、2、30世代位が必要になる。
統計手法は、1000代続いた天皇のうちの557代目はいつごろかという問いに対しては有効。
けど、10世代、20世代という狭いスパンの中で検討するには、長期在位、短期在位が2代続く
だけで、1世代分かそれ以上の数値のずれが生じる可能性がある。
それが平均値への収束ために要する年代が「統計では」10世代を超えるはず。
要するに、安本説の基本的正しさを認めるけど、誤差が大きいという弱点もあるということ。
応神天皇などは幼少で即位するという特異な伝承となっており、在位期間も長く、墳墓もでかい。
仁徳や雄略の在位も平均(10年)をかなり上回る可能性がある。
そういう修正要素が現実にあるなら、それを反映させた方がいいというのが、
>>529での考え。
576 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 06:18:22
私も同意です。統計処理に不可欠な、母集団の均一性の点でも課題満載でw
国や地方によって、発達段階というのがあり、また相対的安定期と不安定期、混乱期、
諸王乱立期など、或いは気候その他自然条件の影響等々。それらの処理を、
実際にはわかっていない古代のことについてさまざまな推論の元に数的処理にまで
こぎ着けたとしても、依然母集団の小ささという致命的欠点がある。世界中の王家
のデータを集めても、事情は余り変わらない。
安本氏の論拠は、未来科学と言っていい斬新な方法論ではありますが、現状では
難しいと言わざるを得ません。
私的には、伝承原理主義とも言える古田氏の二倍年歴論の方がまだ取り付きやす
いです。それでも長すぎると思える天皇もいますが、基本的に王家の伝承をやた
らと粉飾する事は、如何に記紀の編集方針上の捏造があったとはいえ、そうやす
やすと変更できるものではないと思われるわけで。実際一年を二年に数えた痕跡
についての実証は説得力があると思います。顔回が40才で若死にとか、孔子の
50にして立つは、平均年齢的に既に死んでいる年、だとかw 欠史八代の天皇
の年齢の問題に評価を与えるならギリシャ哲人や世界中の古代人の異様な長寿に
も同様の方法論を当てはめないといけないわけで。
577 :
太国:2006/11/09(木) 07:14:17
>>574 江戸時代などは一刻が2時間だった。十二支というやつで十二刻としていたわけ
だから、1ヶ月が現行の2月分だったということは相当の可能性がある。
十五夜お月さんまでの満月までで一ヶ月、満月を過ぎ新月までで1ヶ月という
やり方があったとすると、古代天皇の長寿の秘密が矛盾なしに次第に氷解に向か
って行く。
バニイ(兎) → ニバイ(二倍) w
つまり1ヶ月は15日だったわけだ。が、しかしこれの修正として、1ヶ月が
14日間だったことも否めない。とりわけ、神武〜開化の九代間を観察すると、
即位、立太子、崩御、同葬、立后など、全部と言っていいくらい、その日数記述
が1日〜14日までに収っているのである。これは何を意味しているものなのか?
知れたこととなってくる。この九代間は、1ヶ月が15日かも知れぬが14日間の
2週間で行っていたんだろうとなって来る。ただこれのみでは少し矛盾が出て
くる個所があるのだ。3倍暦をやってないとおかしいところがあることが見え
てくるのだ。1年があ4ヶ月間で終わるなど、現代的には首肯できないだろうが、
現代では新幹線があっても当時はこれが無い。大昔は1年が現今の1日分で
やっていたんではなかろうか? と、ふっと想ってしまうのだ。
そんな、3倍暦をやってた理由があったのか?これは古神道的にはありうる。
古神道は当時の天皇、朝廷にとって不可欠のものであり、大祓いが半年、つまり
今の1年分で、さらにコヨミ(古黄泉、戸黄泉)の語は記紀記述の黄泉戸の離婚
の岐美二尊の言い合いに拠る。千の絞殺と千五百の産室の宣言により、比例で
2倍と3倍の割合で現今の1年を分割し、4ヶ月を3回年で現今の一年とした。
2倍3倍→2倍暦3倍暦。黄泉は4×3(ヨミ)の数字に因っているのだろう。
578 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/09(木) 07:16:11
>>571 たかだか一二時間程度の付け焼きの反論でいいのか?
>本州より北…
その発想はモロ日本的な限定された表現だろう。それも日本語原文だ
それを『自洲島以北』の原文を(本州より北に…)と、読み上げているのかな?
では、君の考察でこれを訳してみたら?
『自女王國以北…』
これは 紹煕本だよね
では 紹興本の方の
『自女三國以北…』
これを、君の考えで訳せるかな?
その場しのぎの考察は、直ぐに崩れるよ。
『女王國東渡海千餘里…』これは、どう訳す?
ここには『自』が無いよ。
579 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 07:16:42
歴代天皇の中でも有名どころといえば、天智天皇、天武天皇、桓武天皇
あたりだと思うけど、在位期間はそれぞれ3年、13年、25年。
平均すれば、13年から14年。
大きな業績を残した天皇にしてもこんな具合だから、やはり初期の天皇の
在位期間はかなり短かったと考えるべきでは?
結果的に、安本説は妥当な気がするけども。
それにしても、記録の確かな時代になると、兄弟継承、夫婦継承が
多くなるけど、記録の不確かな時代はだいたい親子継承。これもちょっと
首を傾げたくなる。
580 :
太国:2006/11/09(木) 07:23:38
>>577 大祓い祝詞では、「高山の伊穂理、短山の五百理を書きわけて・・・・・」と
あり、農作の収穫も図は、線グラフの最大値部分(高山の伊穂理)と、同極大値
部分(短山の五百理)を書いて千と千五百の差の五百を強調し、2倍と3倍の
割合の差を示唆している。稲葉の白兎か〜?w
581 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 08:31:29
>>579 ヤマト政権の最初の方は、有力豪族の連合政権であって、大王位の持ち回り。
現大王が前大王との親子関係を擬制したと見るべきでしょう。
おそらくは、大王家血縁の女性を娶ることで、養子として迎え入れられた。
582 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 08:50:02
安本説と、二倍暦の矛盾点
1、天皇の在位期間、享年は創作と断定しながら、
月の日数が前半までなのは創作ではないと決め付けていること。
2、天皇がすべて実在し、空席もなく、記録から忘れられた天皇もいないと決め付けていること。
「日本書紀」は弘文天皇が即位したとは記録していないが、明治になって歴代天皇に加えられた。
皇族の中でも抗争があれば、その即位の歴史は消されたりする。
その後も、南北朝といった時代もあり、こうした古代の事情を無視し、万世一系を盲信している。
3、仮に、神武が邪馬台国時代に実在した王だとしても、
卑弥呼が天照大神のモデルだという証拠にはならない。
卑弥呼の子孫が神武だという証拠にもならない。
4、仮に、神武が九州出身で、女王の子孫だとしても、九州には女王が幾人もいた。
卑弥呼が、神武の祖先の女王だったという証拠は無い。
記録にも、八女津姫、田油津姫と、それらしい女王の名が登場している。
女性を埋葬した墳墓もある。
5、卑弥呼=天照大神(仮説A)と、二倍暦(仮説B)は、
それぞれ単独で仮説としては成り立つと思うが、
それを証明するために、他方の仮説を持ち出しても説得力は無い。
583 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 09:12:14
4世紀から5世紀にかけては、畿内、吉備、宮崎県西都市の付近が最も、経済的に栄えて
いたように思う。
この当時、前方後円墳が巨大化して、大きければ良いと言う流行があったようだ。
しかし、経済力もなしに大きなお墓を作れないから、この3箇所に巨大古墳が存在する
というのは、経済的に栄えていた証拠といえる。
普通考えるとここに、北九州が入ってないのが不思議だが人口が多すぎて広大な場所が
お墓としては取れなかったのかね。
まあ、卑弥呼の時代から西都市が先進都市だったといえる根拠にはなる。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
両塚とも畿内及び吉備地方以外には存在しない日本最大の古墳、5世紀前半に築造された
日向大国の大首長墓と思われる。
http://www.gurunet-miyazaki.com/kankouti/saitobarumain/saitobarumain.ht_
584 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 09:23:08
>>583 >普通考えるとここに、北九州が入ってないのが不思議だが
庄内式土器が、畿内から北九州に拡散してる事実を無視するからだ。
585 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 09:26:50
>>561 >魏の使いは、常に伊都国に滞在し、その他の商人やら外国人も常に往来していただろう。
魏に使いは伊都国に長期間、滞在したとは思えない。
武官である張政が邪馬台国に長い間、滞在してた可能性は大きいけどね。
こちらは狗奴国との戦争の調停や、卑弥呼の葬儀、後継者の台与の擁立などに活躍したから
短時間には出来ない。
伊都国に役人を長期間滞在させていても、魏としては税金の無駄使いだろう。
張政は2倍暦に気がついたと思うけど、最初の使節団の連中は気がつかなかったのじゃないかね。
でも武官だから、そういった類の日記は残さずに陳寿の目には触れなかったんだよ。
張政はお礼の贈り物をたくさん貰って帰ったようだぜ。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
倭人たちはまた、卑弥呼の一族の娘で十三歳の台与(とよ)を王に立てた。
国中はようやく、定まった。張政は前の回状を使って、台与を励ました。
台与は、倭の大夫で率善中郎将の掖邪狗(ややこ)ら二十人を派遣し、張政らを帰国を送らせた。
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
586 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 09:31:09
>>585 倭人の王家が二倍暦を使ってたなら、
国産と言われる三角縁神獣鏡には、どうして魏の年号(暦)が採用されてるのだ?
答えてみ。
587 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 09:36:41
>>563 >倭人は、魏の暦を知りながら、国内では「二倍暦」を使い続けていたのだろうか?
当然使ってるでしょう。
魏の暦と2倍暦が並存した状態は長く続いたんじゃないかね。
俺は暖かい地方の宮崎だから、お米の2期作ができ2倍暦が使われていたと見る。
だから80歳以上の人がたくさんいるという、倭人伝の記述が出来たもの。
日本でも尺貫法からメートル法に変わるまでは、ずいぶん長い間併用してます。
併用の後で強制的に、法律を作り尺貫法の使用を禁止しました。
でも三角縁神獣鏡を作成したという、呉の鏡職人たちは2倍暦は使わないでしょう。
588 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 09:40:37
>>587 >でも三角縁神獣鏡を作成したという、呉の鏡職人たちは2倍暦は使わないでしょう。
すると、三角縁神獣鏡は、「二倍暦」を使っていた大王に献上するものではなく、
魏の年号を使っていた渡来人・帰化人向けに作ったというわけだね?
589 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 09:58:03
>>564 >国域は面であり、決して(〜より)という起点にはなりえないよ。
カナダはアメリカの北にありというと思うけど・・・
訳は「女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ」が直訳だろう。
大倭監之も「大倭(身分の高い倭人)が之を監督す」という訳が素直だと思うけど。
鎌倉幕府が京都の朝廷を監督したときにも、六波羅探題には幕府にエリートが監視して
その人は、幕府の次期最高責任者として、活躍してます。
本当に力と才能のある人間じゃないと、こんな仕事は勤まりません。
590 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 10:15:58
>>589 あっちこっち思いつきでレスしてるから、
突っ込まれると答えに窮するんだよ。
>>589 >大倭(身分が高い)
あまりにも安易すぎないか?
身分が高いと表現するには、必ず何処かに、普通の身分や卑しい身分をカキコし、その対象として(高い身分)を表現する事が、文章表現の鉄則だよ。
高い山とカキコしても、読み手が同条件下にいないかぎり、判断つかないはず
『大作冢』も、いい例だよ(大きな冢)と訳しても、それと比較する冢をカキコしない限り、無意味な表現になる。
カナダやアメリカのを題材にした表現は結構だが、モロ日本語のところが(>_<)よ。
せめて、古代漢文になおし、それから和訳し提示してくれ
592 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 10:32:25
>>575 >30年在位の天皇が一人出現すれば、平均値に収束していくためには、2、30世代位が必要
間違い。
平均値だから、当然30年在位も居られたと思うが極短時間で死なれた天皇もいるはず。
俺はサンプルが10世代くらいでも、ダイタイ平均値に近くなると思ってる。
医療水準や、治安、衛生思想、食料、体操などへの気配りで、平均寿命は決まるもの。
安本氏は心理学の専門家でそれに統計学を加えて、卒論に出してるほどの方だが、、邪馬台国
論争は趣味でやってるようなもの。
サンプルが少ないなんていうあなたは統計学をどの程度研究したんだい。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
昭和34年に、心理学を専攻として、大学を卒業した。卒業論文は、現代作家百氏の文章の
文体を、統計的にしらべ、その結果を因子分析し、百人の作家の文章を、八つのグループに
わけ、さらに、作家の性格とその文体との関係を考えるというものであった。
http://yamatai.cside.com/yasumoto/watasi.htm
593 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 10:36:36
>>592 >安本氏は心理学の専門家で
他人をその気にさせて、うまく騙すテクニックに長けてるという意味でもある。
594 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 10:47:32
>>575 >応神天皇などは幼少で即位するという特異な伝承となっており、在位期間も長く、墳墓もでかい。
在位期間が長かろうが、墳墓がデカかろうが全く関係はない!
むしろ伝承での、その在位期間に疑問があるんだから、在位期間を出す為にはまったく捨てた方が良い。
墳墓はその当時の権力者の流行で大きくなったのだし、権力者の経済力と比例はしても在位期間には
比例して大きくなるとは思えん。
こんな昔の衛生思想で、ダイタイ130歳で死んだというのからして怪しげ過ぎる。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
神功皇后の三韓征伐の帰途に宇瀰(うみ、福岡県糟屋郡宇美町)で生まれたとされる。
神功4年(204年)に立太子。応神天皇元年(270年)に71歳で即位、同41年(310年)に
111歳で崩御。『古事記』に130歳。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
595 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 10:53:25
>>576 >古代のことについてさまざまな推論の元に数的処理にまで こぎ着けたとしても、
一応やってるようだぜ。
でも俺には、逆にこれじゃ信用性がなくなり、推論で恣意的なものが入らざるを得ない。
下のHPはあまり信用できない。
真実は単純明快で、美しいものだ!
(アインシュタインの言葉?)
ーーーーー(引用開始)−−−−−
在位年数が長く、事蹟も多い天皇は、『古事記』『日本書紀』などに記されている記事の
量も多くなるであろう。そこで、『古事記』『日本書紀』に記されている記事の量に比例
させて、一代の平均在位年数に、増減を加える
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/nendai.htm
596 :
太国:2006/11/09(木) 11:14:04
>>582 >1 創作ならばイカサマだから、分からないように1日〜30日の日数に於て
ランダムに日数を全域に配置して目を散らすようにしなければバレる。
ただ14日までに日を寄らせれば、おかしいと逆に疑念を持たれるから、
月の前半に数字が寄ってるのは創作とは言い難い。
>2 弘文天皇は伊賀であるから、忍び関係である。当然記紀に霧隠れの無記術
があっておかしくはない。一部の天皇が非実在と疑惑を持っているようだが、
記紀双方の記述に於て弘文以外は双方が一致しており、古史古伝も
変わりはないようで記述がそろっているから、古代を記載する文はほぼ
全部天皇の存在を支持している文証ということになるからおかしくはない。
>3 神武は卑弥呼と同時代でないから、当然イコールは間違いである。
同時代とする奴は時系列を勝手に転地しているもので認容できない
>4 同じ九州と関わり在ろうと、神武卑弥呼の双方は別系統の人間である。
同系とするのは、滅多やたらにイコール、同等としてしまう連中の妄想。
>5 卑弥呼と日神とは2倍暦に於て無関係ではないが、とりわけくっつくる
必要もない。
597 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 11:17:50
ライフスペースの高橋代表は
ミイラにシャクティーパッドを施し
「この人はまだ生きている」といったので、
信者たちはそれを信じて疑わなかったという。
古代の天皇もすでに死んでたのに、
生きてる事にされてたんじゃねーの。
598 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 11:22:54
>>584 >庄内式土器が、畿内から北九州に拡散してる事実を無視するからだ。
なんで畿内からと断言できるんだろう??
ただ両方だたくさん見つかっているというだけの事だろうに。
宮崎からももちろん見つかってるよ。
でもお役人様が不熱心だから、真面目に発掘作業が行われてないようだけど・・・・
まあ、あまりにもたくさん古墳が出てきたんで保護するのも社会発展の邪魔になるのかね。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
笠置山墳丘墓周辺から数多く見つかった庄内式土器や瓶の破片から、出土物は2世紀後半から
3世紀中ごろの物である可能性が出てきたのだ。
一般的に、前方後円墳が作られ始めたのは、4世紀だとされている。最新の研究では、畿内の
箸墓古墳などは、3世紀の半ば頃まで遡れるかも知れないとされている。だとすると笠置山
墳丘墓は、史上最古級・最大級の前方後円墳である可能性がでてきたのだ。
http://www.kitombo.com/gon/1017.html
599 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 11:33:01
>>586 >国産と言われる三角縁神獣鏡には、どうして魏の年号(暦)が採用されてるのだ?
偽ブランド品て知らないかい?
この当時は、国産品というより科学の発展してた魏で作られた鏡という事にして
売った方が高く売れたからなんだよ。
いつの世界にも泥棒がなくならないように、偽ブランド品を売る商人もなくならん。
昔は情報音痴が多かったろうし、現在でさえ情報音痴は掃いて捨てるほどいる。
買うほうがバカなのか、売るほうが賢いのか・・・・
ーーーーー(引用開始)−−−−−
●法律上の問題:『偽物だと知らずに売った場合には罪にはならない』
●売る側の問題:売る側の能力不足・・・偽者か本物かチェックが出来ない
●買う側の問題:買う側の知識不足・・・買う前も、買った後も偽物だという事に中々気付かない
http://www.1st-import.com/nisemono/index.htm
600 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 11:35:25
>>590 >突っ込まれると答えに窮するんだよ。
俺はまともに答えてるつもりだが・・・・
俺だって、時間もないし答える値打ち、必要のない奴には答えん!
601 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 11:41:57
>>591 >その対象として(高い身分)を表現する事が、文章表現の鉄則だよ。
あんたね鉄則なんていえるほど、大昔の中国語に通じてるわけじゃあるまいに。
そこまで言うのなら、大昔の中国語を日本語にドンドン直してからカキコしな。
言葉というのには多くの意味がある。
それを単純に一つの意味にしてしまう点からして、あんたは素人。
大::大きい、多いい、優れるの意味がある。
602 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 11:49:01
>>592 自分でサイコロでも振って、確認したら。
6が2回続いたときに、平均値に戻るのにどれくらい回数が必要か。
統計においては、「部分での偏り」は当然ある。
それを平均化するのか、統計値。
603 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/09(木) 11:55:06
>>601 >言葉というのには、多くの意味がある。
言葉ではなく漢字
漢字は『一字一意』
漢字一字に、沢山の意味を持たせているのは、後世の日本人。
基本的原意は、一意
だから、(いたる)と訓読された文字も、『至と到』の二種類存在するだろう
使われ方が違うから、二種類存在するんだよ
ゴッチャにしているのは、日本人なの。
>素人
君はプロかい?俺は素人だよ
604 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 12:00:01
605 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 12:07:50
>>597 >古代の天皇もすでに死んでたのに、
>生きてる事にされてたんじゃねーの。
いや、すんなりあの世に行ってもらって、少しでもいい生活をさせるために作らせたもの。
中途半端にこの世におられたら、どんな祟りをするか怖いのもあったんじゃないかね。
俺は81番札所では、崇徳上皇にはお参りしたぜ。
何といっても祟るほどの超能力があられた方、俺の祈りも聞いてくださるだろう。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
中世に怨霊としての姿が定着した崇徳上皇は、近世になっても恐怖の対象とされ、雨月物語
では西行に怨みを語る場面がある。
幕末にいたっても、その恐怖は現実のものとしてとらえられ、1868年、朝廷は崇徳上皇
の神霊を京都に迎え、官幣大社として白峯神宮を創建する。これは、戊辰戦争において上皇が
幕府軍に味方することを恐れてのことといわれる
http://www.pandaemonium.net/menu/devil/sutoku.html 二年後、歌の道を通じて上皇と親しかった西行法師がここを訪れ、御陵の前で一首の和歌を詠
んだところ、亡くなって亡霊になったといわれる悲運の上皇の御陵は雷のように鳴りひびいた
といいます
http://www.iyotetsu.co.jp/kankou/88/sanuki/81.html
606 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 12:20:52
>>602 >6が2回続いたときに、平均値に戻るのにどれくらい回数が必要か。
あんたね、統計学の基礎は習ったようだけど、肝心の知恵が足らん!
サイコロの場合と在位期間の場合じゃ、まったく内容が違うし適用は出来ん。
この当時の天皇とは、激務に耐える健康で頭脳明晰な、勢力のある親族が選ばれてるはず。
そして寿命があってどの道死んじゃうのだから、在位期間も限界がある。
サイコロ統計学とは内容がずいぶん違うのが判らんのかね?
607 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 12:35:14
>>603 >だから、(いたる)と訓読された文字も、『至と到』の二種類存在するだろう
どこかのバカ学者が言い出したホラ話だろう。
俺はたんに、至は到の省略形に過ぎんと思ってる。
他にもいろいろ説はあるが、大昔の事を断定できるようなものじゃない。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
また、漢文では「至」は目的語を取らず、「到」は目的語を取る、という文法的な観点から
解説する辞書もあります。「至」が目的語を取らないのは、「いたる」という行為そのもの
に重点を置いているからだし、「到」の方は、「いたる」という行為の結果に重点を置いて
いるから目的語を取るのだ、というのです。
http://www.taishukan.co.jp/kanji/qa08.html
608 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/09(木) 12:49:49
>>607 今まで提示し続けた、引用HPは全て把握してからの提示なのかい?
>至は到の略字
すると、到の文字が出来てから、至の文字が出来たのだね?
その裏付けは?
609 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 12:51:39
>>603 >漢字は『一字一意』
あんたね、いい加減な事を断定なんてするもんじゃない!
一字一句を転用したようだけど、そんな話は聞いたことがない。
漢字も言葉も、イメージを伝える非常に不完全な道具に過ぎない。
だから時代によって、場所によって、世代によってさえ常に変化していくもの。
それを一つの意味が永久に続くなんて、バカとしか言えん。
変化しない言葉や漢字があるなんて、あんたの妄想に過ぎない。
目に見える川というものでさえ、ひとつだけの意味じゃない。
山奥のせせらぎのウナギや蟹のすむ清流も川だし、都会の用水路みたいなドブ川
も同じ川と表現する。
育った場所によって、受け取る人間のイメージは全く違う。
それを大昔の到と至のイメージの違いなんて、今の人間が区分けしても証明なんて無理。
第一目に見えないし、使う人間がそんな微妙な違いとやらを意識して使ったとは思えん。
言葉は常に変化してる事くらい覚えておきなさい!
610 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 12:56:20
日神=太陽暦 2倍暦
月読=太陰暦 1年暦
にしたら?
611 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/09(木) 13:01:22
>>609 >思えん
貴方の感想を聞いてる訳じゃないので、そこのところヨロシク。
612 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/09(木) 13:17:06
>>609 私の発言を否定することは、大いに結構だが(これからの発展の為にも是非そうしてもらいたい。)、その否定が
個人的な「思います。」発言は、チョットまずいんじゃないかい?
613 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 13:43:39
>>612 >個人的な「思います。」発言は、チョットまずいんじゃないかい?
あんただって個人的に「思ってます」というだけだろ。
正直な人間にはそれ以上の、断言なんてあんまり出来るもんじゃない。
他人に厳しく、自分に甘くならないようにしな!
614 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 14:12:56
>>599 >偽ブランド品て知らないかい?
>この当時は、国産品というより科学の発展してた魏で作られた鏡という事にして
>売った方が高く売れたからなんだよ。
ということは、
大和に「魏の鏡(のニセモノ)」を売りにきた商人が、半島と畿内を通行してたということだな。
ニセモノといえども、高価な鏡を大量に買ってくれる勢力が畿内にいたわけだ。
そこまでは認めるわけだな?
615 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/09(木) 14:20:11
>>613 発言に困るとそのような作戦に出るの?
君が否定した「一字一意」否定した以上、主観的ではなく、理論的に否定してほしい。
それが、否定した相手に対する礼儀ではないかな?
616 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 14:45:49
>>614 >大和に「魏の鏡(のニセモノ)」を売りにきた商人が、半島と畿内を通行してたということだな。
むしろ「魏の鏡(のニセモノ)」は畿内で作られたものだろう。
そのほうが畿内で数多く三角縁神獣鏡が出てきた理由にはなる。
需要のあるところでなければ、いくら商人でも作って売る気にはならないもの。
たくさん畿内で出てきたのは、それを欲しがるお金持ちがたくさん居たということ。
その情報は畿内の商人でなければ判らん。
判った上で財力のある商人が、呉の鏡職人をスカウトし、お金を出し設備を整えて作らせたもの。
九州で少し発掘したのは、そのおこぼれが流れていったものだろう。
でもこれで大儲けしたろうね!
617 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 14:50:09
>>615 >君が否定した「一字一意」否定した以上、
あんたが先に、そのトンチンカンな主張をしてるんだろう。
俺はそれを信じれないバカ定義だといってるの。
客観的に主張したければ、あなたが苦労して証明するもんだろうに。
何で俺がありもしないものを、無いと証明せんといかんのだ?
中国人でもないのに、むかしの漢文をよくそんな定義をして断言できるものだ!
恵也?逃げ出したくなったか?お得意のホムペがないぞ?
619 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 15:03:46
>>616 >むしろ「魏の鏡(のニセモノ)」は畿内で作られたものだろう。
その鏡をつくった職人は、どうして畿内に住み着いたんだ?
九州には鏡職人は居なかったのかね?
九州は、畿内より貧乏だったと認めるわけだな?
620 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/09(木) 15:06:06
>>617 主観的に否定されても応えようがないんだよ
理論的に有り得ない説明でも提示してくれれば説明のしようがあるけど
結局、自分の領域外だから、自分としては受け入れられないと言う 話なんだな?
621 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 15:47:36
>>619 >その鏡をつくった職人は、どうして畿内に住み着いたんだ?
畿内が巨大古墳を見ても分かるように、経済的実力を北九州よりははるかに
凌駕してもちだした時期に、呉の職人をスカウトしてきたんだよ。
イギリスからアメリカが独立して、急速に経済発展しヨーロッパから人々が
大移動を始めたのと同じ現象。
あれだけの巨大古墳を作るとなったら、一般人には仕事に困るような事はないだろう。
それだけの富の集中が始まったというべき。
今の中国でも富の集中が始まってるようだが、田舎の方から都会に人が移動してるよ。
仕事があるとなったら、若い元気な連中は新天地に行くのが常識。
622 :
太国:2006/11/09(木) 15:59:47
623 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 16:04:33
>>620 >結局、自分の領域外だから、自分としては受け入れられないと言う 話なんだな?
むかしの中国語じゃあんたの領域でもないだろう。
現在に中国語でさえ、日本語の漢字とは全くニュアンスが変わってきてる。
「迷惑」という言葉も中国語では、スカートに水がかかって「失礼しました」という程度の言葉
それを「戦争でたくさん殺して迷惑をかけました」を四角四面に翻訳しいったら、侮辱された
みたいに相手の中国人は感じる
どちらの言葉が変化したのかは分からんけど、言葉は常に変化するもの。
そんなに日本語とは違いがあるのに、大昔の中国語を「一字一意」なんてトンチンカンな断言してもね。
624 :
太国:2006/11/09(木) 16:13:32
>>597 太安万侶と舎人親王らは高橋ではない。一緒にするな。
早死にしただと? w これは定説にはならんぞ。ww
625 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 16:23:54
大倭=大和
626 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 16:25:22
>>621 >畿内が巨大古墳を見ても分かるように、経済的実力を北九州よりははるかに
>凌駕してもちだした時期に、呉の職人をスカウトしてきたんだよ。
三角縁は古墳時代に作った鏡ということですね?
では、古墳時代は「景初」からすでに始まってたと認めるわけですね?
627 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 16:30:17
>>626 >では、古墳時代は「景初」からすでに始まってたと認めるわけですね?
意味がよく分からん。
卑弥呼が直径100歩(30mくらい)の円墳を作ってもらって埋葬した頃から
日本の古墳時代は始まったというべきでしょう。
西暦250年ころから始まったと思うけど・・・
628 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 16:53:59
>>627 >意味がよく分からん。
いや、大丈夫。君は間違ってない。
畿内の経済的実力が北九州よりははるかに凌駕した古墳時代、
金持ちが多く需要の多い畿内に、三角縁神獣鏡の偽ブランド品を売る商人が現れ、
呉の職人をスカウトしてきて、「魏の鏡(のニセモノ)」を畿内で作ったと。
その時代は、魏の「景初」の時代であり、もちろん、卑弥呼の時代。
>西暦250年ころから始まったと思うけど・・・
君の言うとおりだ。間違ってないよ。
629 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 17:08:10
>>628 >その時代は、魏の「景初」の時代であり、もちろん、卑弥呼の時代。
間違い!
三角縁神獣鏡は、250年頃の古墳からは発見されてません。
50年以上過ぎた4世紀以降の古墳です。
偽ブランド鏡を作った連中は、景初年間に中国の魏で作った品物だと騙したかったんでしょう。
そのほうが伝統がありそうだし高く売れたからだよ。
景初の文字は全く当てにならんし、タダの偽物作り集団の作品に過ぎない。
ダイタイ詩の作り方さえ、まったく知らない無学な連中の作品。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
「景初三年」銘の三角縁神獣鏡が下賜されたと、魏鏡論者は主張する。
魏の詩人がこの三角縁神獣鏡の銘文を見れぱ、押韻の意識すら持たない拙劣さをあざ笑うだろう。
「朕はアホなり」と言うに等しい銘文である。
親魏倭王のみならず、皇帝自身の権威にも傷がつく。こんな銘文をもつ鏡を特鋳して賜わるはず
がない。 三角縁神獣鏡魏朝特鋳説は幻想だ。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/innritu.htm
630 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 17:12:00
>>629 >偽ブランド鏡を作った連中は、景初年間に中国の魏で作った品物だと騙したかったんでしょう。
では、どうして実在しない年号を鏡に刻みましたか?
631 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 17:17:02
ーーーーー(引用開始)−−−−−
19.以上の状況を踏まえて漢末から三国に黄河流域で流行していた前述の各種の銅
鏡と、日本出土の三角縁神獣鏡とを比べてみると、両者の間にはなんら共通点が無
いことに直ちに気がつく。このことから三角縁神獣鏡は中国の魏鏡ではない、と断言
できるのである。
20.一方、長江流域で出土した呉鏡と三角縁神獣鏡とを比較すると、類似するところ
が少なからずある。
http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page029.html
632 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 17:18:48
>>629 馬鹿な奴ほど、簡単に実年代を持ち出す。
お前の信じてる実年代観は二十年以上前のもの。
633 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 17:21:41
>>630 >では、どうして実在しない年号を鏡に刻みましたか?
中国の情報も分からない、日本の畿内の山奥で日本人に鏡を作らされてたから。
中国に住んでる知識人なら分かると思うけど、中国語もロクに理解できない程度の
偽物作り集団じゃ仕方ないだろう。
まあ、中国とは離れてるし情報の伝達も遅いし、言葉も違うから仕方ないけど・・・
634 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 17:24:36
>>632 >お前の信じてる実年代観は二十年以上前のもの。
あなたの信じてるのは、京都の50年以上前、化石並みの学者の年代観。
635 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 17:31:25
>>633 >中国の情報も分からない、日本の畿内の山奥で日本人に鏡を作らされてたから。
それは間違い!
>>628 >呉の職人をスカウトしてきて、「魏の鏡(のニセモノ)」を畿内で作ったと。
>>629 >三角縁神獣鏡は、250年頃の古墳からは発見されてません。
>50年以上過ぎた4世紀以降の古墳です。
日本にきた呉の鏡職人は、魏が滅んだ年号くらいは知ってたはず。
なにせ、敵国ですからね!
636 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 17:44:52
637 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 18:11:23
どのコテもゆるゆる○んこだな
638 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 18:56:59
639 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/09(木) 18:58:10
640 :
九州ですが:2006/11/09(木) 19:27:44
>>578 おたく人の提示した資料にケチばかり付けてないで、この文をどのように約するのか
示してみたら?今までそれが全く成されていない。まず、和訳をして貰おう。
自女王國以北特置一大率儉察諸國諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史王遣使詣
京都帯方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津捜露傅送文書賜遣之物詣女王不得差錯
641 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/09(木) 19:56:06
>>640 めんどくさいから途中まででいいかい?
それに、
『自女王國以北…』では訳せないから
『大倭監之自女王國…』から行くけどいいかな?
642 :
九州ですが:2006/11/09(木) 20:02:14
>>641『自女王國以北…』では訳せないから ってそこが焦点でしょうが。
それをどう捉えているか、
それと一大卒についてどう捉えているか、それだけでいい。
643 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/09(木) 20:15:27
先ずは手始めに
>>640 【大倭監之自女王國以北特置一大率検察諸國諸國畏憚之常置伊都國於國中有如刺史】
『大倭監之』
・大倭を監視するため
『自女王國以北』
・諸国20國
『特置一大率』
・とりわけ(特別)に置かれた先鋭部隊が均一に配備され
『検察諸國諸國畏憚之』
・20國は厳戒体制で
『常治伊都國』
・常に伊都国にて指示
『於國中有如刺史』
・邪馬台国(三十国体制)に於いては、帝国でいう刺史のような見張りが置かれていた。
●質問受付中
644 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/09(木) 20:36:15
>>642 >どうして『自女王國以北…』からでは訳せないか?
前文の『之』は接続詞であるから
『一大率』
本当は、『一大』+『率』※(率)は(一大)の一部ではなく文節上で効果する文字。
(ソツ)の言意は“沿って就く”
645 :
九州ですが:2006/11/09(木) 20:42:36
>>643 何これ?和訳でも何でも無いじゃない。
あんたの想像文を書けと言ってんじゃないんだから。書き下し文に、と言ってんだから。
それに一大卒は先鋭部隊ではありません。一大卒と言う官職の事です。
全体的に幼稚な発想の想像文。僕はまた、千年以上前の漢文は、春秋の筆法、など
必ずしも、解釈が一致しない面もあるが、それを言ってるのかと思いきや。
その程度の空想物語を書くようでは、それもまた無理というもの。
646 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 20:49:53
>>638 リンク先には年代遡上派が揃い踏み。
伐採年と使用年の隔たりを無視して年輪年代にすがる哀れな人たち。
コウヤマキなら伐採と使用との間に50〜150年の期間を見た方がいい。
あと、魏鏡というのは、魏からは1枚も出ていない三角縁とか、画文帯同向式のことか?
伊都国はもとより北部九州から1枚も出ていない画文帯がでている時点で、ホケノはアウト!
邪馬台国時代に外国から来たなら、伊都国からも出ていないとダメ!
要するに、画文帯は260年以降が確定している。
その後に出始めた三角縁は300年以降とすべし。
647 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/09(木) 20:52:37
>>642 忘れていたよ。
(一大)も説明しなければ判らんよね
・(一大)という表現は、“中国用語”であり、字意解釈は「一回で大きな効果“最小で最大”」
一大國も、同じ解釈だよ。
同じ意味の用例では『一大事』があるね。
詰まり『一大率』とは
※最小の人数で、最大の威力を発揮する部隊が、均一に配備された。
と、解釈できます。
648 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 20:53:02
[一大率]は、卑弥呼の王権によって任命された派遣官である。
倭国の官人である。その官名は城郭の四方を守る将軍である[大率]に由来する。
(道教の古典とされる『墨子』の「迎敵祠」条)
649 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 20:59:32
プラムも常連になって長いんだから、もう少し古典について勉強してくれないと。
650 :
九州ですが:2006/11/09(木) 21:02:23
>>648 さすが博識。一大卒といい、卑弥呼が女王になった後、民衆に姿を見せなくなった事といい、
吉野ヶ里遺跡がその入り口を真っ直ぐ東南の方向を向いていることなどから
道教つまり当時でいう黄巾の影響が強いとNHKなどで邪馬台国特集がある度に
言ってたのを思い出します。
651 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/09(木) 21:03:06
>>645 君も恵也君と同じだね
否定には、感想文ではなく、それなりの理論提示が必要だろう。
>一大率は官職
何処の官職なの?
>読み下し
そりゃあ和訳じゃないよ
それに古代漢文は日本人が綺麗に判りやすく読み下せる様には出来ていない。
>春秋の筆法
あははははぁ〜
この三年間、邪馬台国スレにてその事をカキコしたのはたぶん 君が二人目だよ
652 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 21:03:28
四方を守る将軍=[大率]であることから、
一大率とは、[四方を守る軍隊の一つが伊都国に配備された]という意味になる。
653 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 21:07:08
>>635 >日本にきた呉の鏡職人は、魏が滅んだ年号くらいは知ってたはず。
間違い!
魏の王様明帝は239年に死んでますが、子供の王子様が継いでます。
そして、その後26年間魏の王朝は続いてます。
他国である呉の人間が、魏の年号なんて知ってるはずがなかろうに。
ダイタイあなたは自国の旧暦さえ知らないのじゃないの?
旧暦で今日は何月だよ。
鏡職人にとっては他国の暦なんて、まったくの意識の外なのが分からんかね。
654 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 21:18:48
>>636 >国内で出土した最古の魏鏡が発掘された
何だこのHPは!
魏鏡といっても鏡の種類もないし、写真もない。
どうして魏の鏡と判断したのかさえ書いてないHP.
これじゃ落第、話にならん低脳児!
655 :
九州ですが:2006/11/09(木) 21:21:51
>>651 だから、一大卒に関しては、
>>648の人が言ってる通りです。
辞典を転載したような答え。ここに書いてある、
(道教の古典とされる『墨子』の「迎敵祠」条)
を調べたらいいと思うよ。
656 :
プラム:2006/11/09(木) 21:22:00
>>649 >プラムも常連になって長いんだから、もう少し古典について勉強してくれないと。
今(漢書)に嵌ってしまって古典まで手が回らないよ
657 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 21:27:17
>>653 畿内の鏡職人が、魏鏡のニセモノを造ったのが、300年以降ということだったよね?
>鏡職人にとっては他国の暦なんて、まったくの意識の外なのが分からんかね。
その鏡を畿内の王に届けるのは商人だろ?
仮に呉の鏡職人が、隔絶された環境におかれていたとしても、
大王や、大王に鏡を売り込むほどのやり手の商人は、
魏がとっくに滅び、普が中国を統一したことを知ってるはず。
だったら、普の鏡のニセモノを売ればいいのでは?
それなのに、わざわざ4世紀の畿内の王に対して、
すでに消滅した魏の鏡のニセモノを呉の鏡職人に作らせて献上する意味とは?
658 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 21:27:28
>>638 >年輪年代測定法で 明らかにされている。
棺の木棺の材木で判断したんだろ。
材木がお寺などの柱に使い回しされてるのを知らないのかね?
木棺に使うなら、中古の古い材木を使って作るのは常識。
大木は古ければ古いほど、乾燥が完全で割れが入りにくく加工材としては値打ちがある。
割れが入りやすいところは、完全に割れが成長してるのだからな。
木棺の年輪年代測定法で古墳の作成年度を出すのは落第生。
残念でした!
659 :
九州ですが:2006/11/09(木) 21:29:50
>>656 せっかく漢書を読むくらいの知識力があるんだから、
それに古代史が加われば凄い力が発揮できるんじゃないの?
漢書なんて誰でもすんなりと解る分野じゃ無いんだし。
660 :
プラム:2006/11/09(木) 21:32:23
>>648の >その官名は城郭の四方を守る将軍である[大率]に由来する
『一』がないね
これを提示されることは判っていたけど(これで三度目)
他に有りませんか?
>>646 >コウヤマキなら伐採と使用との間に50〜150年の期間を見た方がいい。
その年数に根拠なし。。。
663 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 21:37:37
>>643 >『大倭監之』 ・大倭を監視するため
俺の習った漢文の常識とはずいぶんズレてる。
俺なら「大倭之を監視す」と訳するけど、之を為になんて訳する漢文てあるのかい?
『自女王國以北』『特置一大率』 は女王國より以北には、特に一大率を置き
と訳するのが普通だろう。
あんたは異常な翻訳家かな???
664 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 21:38:42
>>644 >前文の『之』は接続詞であるから
間違い!
之は名詞です。
665 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 21:39:21
>>658 >材木がお寺などの柱に使い回しされてるのを知らないのかね?
「モノを使いまわす」というなら、鏡も伝世されたかもな。
おまえは、東遷論者だったはずだが、
九州の邪馬台国時代に魏からもらった鏡が伝世されて、
畿内の古墳に納められたという考え方はしないのか?
666 :
プラム:2006/11/09(木) 21:41:00
>>659 文を錯(たが)うるを以って義を見(あら)わす。一字を以って褒貶(ほうへん)を為す
懐かしいな〜 一年前かな?
>漢書をすんなり
とんでもない すんなりいかないから時間掛かっているの
でも、毎日少しずつ苦戦していると慣れてくる とくに『律暦志』は興味深い
667 :
プラム:2006/11/09(木) 21:45:59
>>663 >あんたは異常な翻訳家かな???
あんたの足元にも及ばない だから、あんたの位置は揺ぎ無いから安泰だ
668 :
九州ですが:2006/11/09(木) 21:46:30
>>663 そうでしょー。僕はまた古代中国の解釈は少し違いがあるのかと悩んだり。
学説も一致してるんでしょ。
669 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 21:48:09
670 :
プラム:2006/11/09(木) 21:49:11
>>662 >ちくまから全巻の訳が出てるよ
漢書も出てるの?
671 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 21:51:42
>>651 >それに古代漢文は日本人が綺麗に判りやすく読み下せる様には出来ていない。
それを翻訳というの。
ろくな翻訳が出来ないのなら止めときなさい。
あんたには分かりやすく翻訳する才能がない!
672 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 22:01:14
673 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 22:03:57
674 :
九州ですが:2006/11/09(木) 22:06:18
>>669 大卒が後の将軍の全身になったとして、倭人伝を読むと、
軍隊らしい記述が見当たらない。
>国中に監視員を派遣していろいろ報告させている、と。
監視員のボスみたいな役だったんじゃ。
675 :
プラム:2006/11/09(木) 22:08:23
>>664 >>前文の『之』は接続詞であるから
>間違い!
之は名詞です。
(之)を名詞と活用することは『姓』としてのみ
君が言ってるのは『代詞・これ』だろう?
(之/これ)代詞
この活用の場合、『之』の前には必ず名詞が来ます。『大倭監之』の『監』は名詞ですか?
少しは文法ぐらい勉強してね
676 :
プラム:2006/11/09(木) 22:23:10
>>664恵也君には活用用例が必要かな?
ほれ 代詞の活用
【公将鼓之】 荘公は太鼓をたたこうとした(左伝より)
【(リッシン偏に長)恨久之】長いこと残念に思った(史記より)
正確には、自動詞や形容詞または動詞用法の名詞の後に置きます
677 :
九州ですが:2006/11/09(木) 22:28:18
大倭之{の}監 と読もうが 大倭之{これ}を監す、と読もうが
ここではあまり意味は変わらない。大倭之{これ-の}監、であって、
名詞と接続詞がくっついたような。
678 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 22:47:38
>>657 >すでに消滅した魏の鏡のニセモノを呉の鏡職人に作らせて献上する意味とは?
畿内では、卑弥呼が魏から送られていた鏡を知ってる人間がいたから景初という年代がブランド品になったの。
魏志倭人伝か魏略という書物が日本内で存在していたというべきだろう。
日本も戦乱が続いたから残ってはいないと思うけど・・・・
今の日本でグッチといえば、女が飛びつきたがるのと同じ現象。
そういえばブランド品で存在しないブランド品を作って売ってる場合もあるんだね。
女のバカタレというか、流行かぶれの能無しというか・・・
679 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 22:55:38
>>675 >少しは文法ぐらい勉強してね
あなたの言う文法は、全く分かりやすく翻訳できない、役に立たない屁みたいな理論。
翻訳は人にわかりやすく出来なければ、翻訳家には成れんよ。
屁みたいな理論文法は止めときなさい。
犬も食わん!
680 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 22:55:41
漢和辞典を引くと、率というのは、将とほぼ同じと書いてある。
つまり、大率は大将とほぼ同じということになる。
くれぐれも「大卒」と書き間違わないように。
681 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/09(木) 22:57:50
>>664恵也君
【大倭監“之”自女王國以北】
「之」を挟み並列関係にあり、この場合「之」の品詞は“接続詞”となります。
活用用例
【皇子之二子死焉】皇子と二人の子供は、死んだ。
…左伝・文二より…
682 :
プラム:2006/11/09(木) 23:03:45
>>679 >あなたの言う文法は、全く分かりやすく翻訳できない、役に立たない屁みたいな理論。
翻訳は人にわかりやすく出来なければ、翻訳家には成れんよ。
屁みたいな理論文法は止めときなさい。
犬も食わん!
屁理屈捏ねてる暇があったら、最低限のこと位把握しておこうね
掲示板生活長いんでしょう。
683 :
プラム:2006/11/09(木) 23:14:37
>>680 >漢和辞典を引くと、率というのは、将とほぼ同じと書いてある。
つまり、大率は大将とほぼ同じということになる。
では、
【将軍身 率 益州之衆】の場合「率」は 大将かな? (三国志諸葛亮伝より)
684 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 23:16:51
>>683 それは文字通り「ひきいる」。
漢字の意味は一つではない。派生する意味がある。
685 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 23:23:03
プラムさんって邪馬台国何処説なの
686 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 23:26:04
>>684 >漢字の意味は一つではない。派生する意味がある。
プラム氏は一つの意味しかないと信じておられる。
子供並みの単細胞しか、頭の中にはお持ちじゃないようだ。
偏見であっても信じてしまうって事は凄いもんだ。
大人の脳みそを、子供並みの単細胞にしてしまう!!!!
>>684 >それは文字通り「ひきいる」。
ふぅ〜っ やっとまともな住人に巡り会ったような
>>865 >プラムさんって邪馬台国何処説なの
九州豊前説(宇佐ではない)だよ
689 :
九州ですが:2006/11/09(木) 23:41:51
ところで伝世鏡の話はどうなったん?僕は否定的だけど。
確かだいぶ前、畿内説の学者が、古墳時代の古墳から出土した鏡を
伝世鏡だと言って卑弥呼の時代に合わせようと躍起になっているような
TV番組の流れだったというくらいの認識しか無いが。
>>688 訂正 865ではなく
>>685でした
もう一つ
九州豊前は女王の都のある場所
邪馬台国の領域は、対馬・壱岐を含む九州と四国
691 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 23:53:42
豊前に女王が居るのに
伊都国に一大率を置いて諸国を検察させる役目を負わせるのか?
近すぎないだろうか?
伊都国に居る一大率が検察する諸国は何処から何処だろう?
692 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/09(木) 23:54:22
>>686恵也君
私が言っているのは「意味」ではなく「字意」ね
漢字が本来持っている『原意』の事ですよ
693 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/10(金) 00:01:07
>>691 何度も言ってるように、一大率なんて伊都国には置いてないし、原文にも書かれていないよ
一大率が置かれたのは、現在の福岡県北東地域の海岸沿いにあった 諸国20国
694 :
九州ですが:2006/11/10(金) 00:02:08
>>687「ふぅ〜っ やっとまともな住人に巡り会ったような」 って安心してる場合じゃないでしょ。
おたく
>>647 で、こう言ったでしょ。
「詰まり『一大率』とは、※最小の人数で、最大の威力を発揮する部隊が、均一に配備された」
という意味だと。てことはですよ、
>>684の人の真意は、
「 漢字の意味は一つではない。派生する意味がある」ところにあるんよ。
なので
>>686 :恵也 さんの「プラム氏は一つの意味しかないと信じておられる。
子供並みの単細胞しか」発言に繋がるんじゃないの?
695 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/10(金) 00:06:52
696 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/10(金) 00:15:54
>>684 あそこでの安堵感は、私の意図(漢文)を素早く見抜いてくれたので、安堵したわけ
あの住人さんがカキコした
最後の二行は関係ないし、意識にもなかった。
697 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/10(金) 00:19:48
明日も仕事あるから寝るよ
698 :
九州ですが:2006/11/10(金) 00:31:44
>>697 仕事、がんばってね。あ,そうそう僕も仕事だっけ。寝なくては。
699 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 00:32:19
仕事の無いやつが、約一名か。
仕事のないやつって
こういう分野の場合
悠々自適のじいさんだろ?
701 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 08:29:29
魏志を読んで、景初を有り難い年号と理解出来たのなら、
魏の明帝の没年も知っていた筈。
「景初四年」は、同時代に製作されたからこそ起こり得る混乱と考えた方がいい。
702 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/10(金) 10:41:33
>>689 >伝世鏡だと言って卑弥呼の時代に合わせようと躍起になっているような
この話は屁理屈が過ぎる。
何のための鏡だとか、なぜ鏡を遺体と一緒に埋めたのか、という事を全く考えない暴論。
鏡には霊験があると考えられ、病気になると出来るだけ霊験のありそうな大きな鏡を買い求めて
巫女や神主に来てもらい祈祷をしてもらい、それでも結局は死亡。
このため中国にない巨大な鏡に、日本では変化したんだよ。鏡信仰というべきもの。
死亡の時点で、死神に負けてしまった鏡じゃ役に立たないし、まだ霊験があるのならあの世での
故人への守りの力として期待し、遺体の側で鏡の中の霊力を全面解放する為に壊したもの。
伝世鏡は日常的に使う手鏡ならありえるけど、大切にしてたのなら普通は個人が死亡時点で
一緒に埋葬するし、埋葬する習慣がなければ家宝として子孫から子孫にそのまま残されるものだ。
途中で習慣が変わって埋葬なんて考えにくい。
703 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/10(金) 10:50:01
>>691 >伊都国に一大率を置いて諸国を検察させる役目を負わせるのか?
西都市が邪馬台国としたら、距離的にはちょうどいい。
当時の経済の中心地である北九州地方を検察するには、一大率を腐敗から守る為にも少し離れた
山の中に伊都国をおき権力を集中させて、役人の馴れ合いを防止したもの。
天皇家が都をチョクチョク移動したのも、権力の腐敗防止の意味もあったと思う。
どうしても大商人と役人は馴れ合いになりやすいからな。
今の世もそうだが・・・・
704 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/10(金) 11:00:39
>>701 >魏志を読んで、景初を有り難い年号と理解出来たのなら、魏の明帝の没年も知っていた筈。
偽ブランド製作集団が、そんなところまで勉強してるかね。
魏志倭人伝には明帝の死亡は書いてないし、ここの2ch連中と同じ関係するところしか
読まない良いとこ取りの、また聞き集団だったんだろう。
昭和天皇や大正天皇、明治天皇、孝明天皇の正確な死亡年を知ってるのかい、あなたは?
それも外国に行ったりしたら、どうやって調べるだろうね。
いい加減な記憶しか持ってなかったと思うぜ。
705 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/10(金) 11:10:50
>>690 >邪馬台国の領域は、対馬・壱岐を含む九州と四国
それじゃ狗奴国が南にいなくなってしまうよ。
魏の使節団が選んだコースを考えても、鹿児島県や中国、四国には邪馬台国の敵対国があった
と見るべき。
よって邪馬台国の同盟国は対馬・壱岐・九州の鹿児島以北。
北周りのコースも選べず、南回りのコースも危険で航行できなかったというべき。
これが後の神武天皇の東征によって、瀬戸内海までが完全に安全なコースになったもの。
その当時、航行が安全でなかったからこそ、東征が必要になったともいえる。
706 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 11:34:56
>>704 >偽ブランド製作集団が、そんなところまで勉強してるかね。
>いい加減な記憶しか持ってなかったと思うぜ。
鏡職人が知ってるかどうかではない。
鏡を売りつける商人、買う側の大王は、中国情勢を知らなかったとでも言うのか?
普の時代に、悪徳商人が魏時代のニセ鏡を大王に売ったというのがおまえの説だろ?
鏡職人が年号を知らなくても、大王や大王に謁見できる商人は、
中国情勢くらい知ってるだろう。
渡来系の外交官も、毎年数人召し抱えていただろうから、
中国情勢は逐一大王が耳にしていたと考えるべき。
存在しない年号の魏鏡などすぐにウソだとばれる。
707 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 12:02:45
>>705 >北周りのコースも選べず、南回りのコースも危険で航行できなかったというべき。
>これが後の神武天皇の東征によって、瀬戸内海までが完全に安全なコースになったもの。
>その当時、航行が安全でなかったからこそ、東征が必要になったともいえる。
1、瀬戸内海を航行するのに、危険な中国・四国の勢力とは、何人くらいの集団を想定してるのだ?
2、その地域に住む危険な集団を平定するために、神武の軍勢はどれくらいだ?
3、四国を平定するためには、当然舟が必要だが、その舟の数は何隻だ?
4、舟は何人乗りで、排水量はどれくらいだった?
5、神武が瀬戸内海を平定するのに要した期間は?
708 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 12:20:40
>>705 九州の邪馬台国は、畿内には用は無いはず。
そもそも、危険な瀬戸内海を平定する必要はなんだ?
魏志倭人伝にも「倭種」としか評されていないのだからな。
むしろ、朝鮮半島に勢力を伸ばした方が利益になるだろう。
朝鮮半島には鉄があるからな。
709 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 12:27:12
恵也=安本に騙されていることに気付かない哀れな狂信人間
710 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/10(金) 12:29:51
>>706 >鏡職人が年号を知らなくても、大王や大王に謁見できる商人は、
>中国情勢くらい知ってるだろう。
中国情勢と言う言葉で誤魔化してるけど、景初が何年までとか言う話は中国情勢に入らないよ。
あなたは大正時代が何年までだったのか、明治時代が何年までだったのか正確に覚えてるかい?
日本人全部が覚えてはいないでしょう。
セイゼイ「何年くらいじゃないかな」という感じで1年くらい上下しても昔のことに気を配らん。
日本人でさえそうなのに、中国人の商人が「どんなに日本情勢をよく知ってる奴」でも分からんよ。
特に50年昔の外国年号なんて、外国の商人にとっては屁みたいな知識。
自分を客観的に見るには他人の立場で考えなさい!
まあ、鏡職人のイタズラを誰もチェックできなかったというべきだろう。
711 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 12:32:07
>>710 >日本人全部が覚えてはいないでしょう。
詭弁はよせ。
大王に仕えてる外交官は、常識として知ってるはずだと言ってる。
712 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/10(金) 12:37:27
>>705 狗奴国は邪馬壹國(三十国体制)の一つで、現鹿児島。敵対国ではない
狗奴とは形容され史書に書かれし名称(言意は、倭種が営む社会)
その証明は、
官:狗古智卑狗の名称が表している。
三十国の官の中で、唯一女王に属さない官と、倭人伝内で紹介される。
>邪馬台国に敵対する国
洲島(本州)にある大倭(倭よりも広大な領域を保有)
713 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/10(金) 12:43:07
>>708 >九州の邪馬台国は、畿内には用は無いはず。
用はあるよ。
儲かるための貿易だよ。
この当時でも遺跡の遺物から見ると人の移動は激しく、むしろ13000年前の遺跡からとんでも
ない地域に石器に使うの黒曜石が発見されてます。
黒曜石は取れた土地によって材質が異なり、生産場所の特定が出来る。
ということは、日本の13000年以上前から継続的な貿易は存在していたというべき。
あなたのイメージ力の貧困が見えてくるね。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
1,3万年前、細石刃文化の頃の黒曜石利用を地図状に示してあります。和田峠・霧ケ峰・
男女倉・麦草峠などの信州系、神津島系、伊豆・箱根系などの黒曜石の動きがよくわかります。
http://www.avis.ne.jp/~tsutsumi/kokuyo/kokuyo.htm
714 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/10(金) 12:48:31
>>708 >朝鮮半島には鉄があるからな。
財宝がたくさんあるからといって、武力で負けちゃ大損だろ。
神武天皇の武力が、相手より強くて損害より利益が多いと計算できたので
奈良まで遠征して植民地にしたんだよ。
ヨーロッパが植民地拡大競争をしたときも、側の強い国とは争わず弱い
国の土地を植民地にしたんじゃないかね。
損害と利益のバランスを考えて、植民地を広げたの!
715 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/10(金) 12:59:59
>>712 >狗奴国は邪馬壹國(三十国体制)の一つで、現鹿児島。敵対国ではない
あんたマトモに魏志倭人伝を読んでないでしょう。
貧弱な漢文読解力を使い、我流で読むのじゃそこまで見てなくても仕方ないけどね。
あんたは、まず最初に漢文が得意な方の日本文を真面目に読みなさい!
前から仲が悪く、邪馬台国に属してないなら、敵対国と言う意味だろうに。
日本語さえ満足じゃないな!
ーーーーー(引用開始)−−−−−
倭の女王卑弥呼と、狗奴国の男王は卑弥弓呼とは前から仲が悪かった。
和国では、載斬(きし)、鳥越(うえつ)などを郡に派遣して、戦況を説明させた。
郡は、塞の曹幢史(そうえんし・国境警備の属官)の張政らを倭へ派遣して皇帝の
詔書と黄幢を難升米に与え、
中国が仲介にのりだしたことを、回状をつくらせて触れまわらせた。
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
716 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 13:01:24
相変わらず奇知外モード全開ですねw
717 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/10(金) 13:10:08
>>709 >恵也=安本に騙されていることに気付かない哀れな狂信人間
俺の説は安本説とは違うよ。
安本氏は邪馬台国の北九州説だが、恵也説は西都市説だ。
魏志倭人伝の解釈法も違うし、伊都国の位置も全く違う。
あんた、そのくらいも理解できない幼稚園児並みの知能かね。
もう一度幼稚園にでも行ってみたら?
718 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/10(金) 13:20:38
>>711 >大王に仕えてる外交官は、常識として知ってるはずだと言ってる。
外交官でもほとんど人が、外国の昔の年号が「何年までだったか」まで覚えてるはずない。
そんな重箱の隅を突くような知識より、もっと大切な勉強すべき知識は山ほどある。
アメリカ大統領だったケネディが何年から何年まで大統領だったかなんて、他国である
日本の外務省の外交官でも記憶してるのが何人いるかね。
ほとんどゼロだと思うぜ。
そんな知識は覚えてなくても、記録を調べれば簡単に分かる事だ。
記憶が1年くらいずれてたって、だれも文句は言わないしそれが常識。
大王の外交官より、今の日本の外交官の方がはるかに外国情勢は詳しいだろう。
それでも屁みたいな、むかしの外国の年号の記憶なんて、常識ではだれも重視はしない。
719 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 13:34:22
贋作作りは巧妙だよ。はっきり分かる間違いなんてしない。
ましてや、それなりの権力者にレガリアとして売りつけるんだから、
下手を打てば首が飛ぶ。
720 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/10(金) 13:37:52
>>715 …卑彌呼“與”狗奴國…
漢字読めないの?
721 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/10(金) 14:11:11
『與』の 活用用例
他に
●南“與”倭接
●朝鮮“與”燕界於bai
●分割辰韓八國以“與”樂浪
722 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 14:12:42
恵也って救いようの無い大馬鹿のようですねw
誰も説が同じなんて言ってないのにw
お前の様な大馬鹿野郎は母親の胎内に戻って
十分な胎教を受けたほうがいいじゃないのかw
723 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/10(金) 14:34:43
>>719 >贋作作りは巧妙だよ。はっきり分かる間違いなんてしない。
当時の日本じゃ、まず第一に外国の漢字を読める人間が何%いたんだろうね。
学校もないだろうし、たとえトップの指導者でも読めたのか疑問だよ。
もちろん偽ブランド鏡を作っても、刻印してある年号なんて気にもしないでしょう。
作ってる人間も、年号が同じ奴ばかりじゃ不自然だと考えすぎて、勝手に1年ズラシ
たんじゃないかね。
三角縁神獣鏡はヒット商品で大量に注文が来たから、鏡職人にもいろんな臨時工が
入って作り出したんだよ。
鏡を購入した権力者の一番の関心事は、魏で作ったかどうかよりも、霊験があるかどうか
なんだよ、生産地がどこであっても霊験さえあれば文句は言わん。
少しは霊験があると感じたからこそ、古墳時代にこの鏡がブームになったの。
それからこれは贋作じゃないぞ。
魏には「本物の三角縁神獣鏡」が存在しないのだから、日本で作ってる鏡が本物。
ただ模様と一緒に書いてある年号が存在しない数字だっただけの話。
普通の権力者にとっては、字を知らなければ数字も模様も同じように見えたんじゃないかね。
まずこんな事で人の首を取るような、トンチンカンな人間はいないよ。
724 :
サガミハラハラ:2006/11/10(金) 14:40:28
第一、お墓の中にいれてしまうのだから、偽作であろうが間違いがあろうがどうでもいいことでは。
↑
しっかり気にしてるじゃん。
726 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 15:13:03
727 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/10(金) 15:16:09
728 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/10(金) 15:18:36
>>724 >偽作であろうが間違いがあろうがどうでもいいことでは。
贋作とはいえないよ、本物がないんだから。
間違い字とは言えるけどね。
729 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/10(金) 15:54:24
>>727 結局最後は、言葉に詰まり、相手を罵倒し、自分の過ちを軽減させようとする作戦に出る。
君の過去レス皆そのパターンじゃん。
小学生も先生に怒られると、よく使用するね。
730 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/10(金) 16:02:36
>>727 >『と‥とは』というくらいの意味だろう。
なに?やっぱり
結局何も判ってないじゃん。
731 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 16:37:35
わざわざ魏鏡だと書いてるんだから、国産なら贋作だろ。
732 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 17:06:10
>>728 >贋作とはいえないよ、本物がないんだから。
お前の言う「偽ブランド品」は、「贋作」ではないという定義なのか?
邪馬台国が大和になったのなら、そのライバルである狗奴国も
国名が残っていてもよさそうなもんだ。
というわけで・・・江戸なんてどうかしら?
734 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 18:16:05
>>689 少し遅いレスだけど・・・私も伝世鏡には否定的です。
畿内説の難点は、九州以外では三角のほとんどが伝世鏡となる点にある。
畿内説は、前方後円墳以外の古墳を意図的に古く見たりして、ごまかしているが。
水野正好は、魏鏡を王の蔵で一括して相当期間保管した後に分配されたという説ですが、
逆に言うとそのように見ないといけないほど、伝世鏡の割合が多すぎるということ。
その伝世が畿内で極端に多く起きるということを正当化するのが、王の蔵での一括保管。
まあ、この考えでも、画文帯の伝世までは説明できませんがwww
735 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 18:22:50
>>734 >畿内説は、前方後円墳以外の古墳を意図的に古く見たりして、ごまかしているが。
そういう意図的な畿内説批判もあらためるべきだろうな。
3世紀には丹後も相応に栄えていたわけだし。
736 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 19:34:42
岡村秀典の『三角縁神獣鏡の時代』では、画文帯(180頃〜240頃)、三角縁は(240頃〜)
と主張して、都合の悪い箇所は意図的にごまかしてるね。
「漢鏡7期第二段階の画文帯神獣鏡は、楽浪地域では第1段階の鏡に比べて極端に減少している
のにたいして、九州以東では多数の出土がある。・・・・」(142頁)のあたりは、酷すぎる。
画文帯は楽浪では1枚しか発見されていない。その画文帯同行式も他は全て日本で出土している。
九州での出土も極端に少ない(4枚のみで北部九州からはゼロ)のに、「九州以東」というごまかし。
これで楽浪郡を通じて鏡が伝来したのは「まちがいない」とか書く神経は理解できん。
この本はこの手のごまかしが多すぎる。読んでいてムカムカする。
あと、平原の鏡や年代については、柳田が名指しで強く反論しているのに、回答していないはず。
737 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 19:44:15
そりゃ、九州は大和が直接支配してたんだから、九州に鏡は残らないよ。
それに、丹後に直接輸入されてたとも言える。
もっと多角的に眺めることだ。
738 :
九州ですが:2006/11/10(金) 19:48:26
>>734 に賛同かな。
今までにNHKの特集でも何度もあったが、番組では、伝世鏡には否定的で、
北部九州に邪馬台国があったと言う説を、あくまで正論として扱っていた。
伝世鏡の風習が日本各地に無かった事、全ての鏡にまた他の埋葬品を、
伝世物として捉えた場合、かなりの無理が生じ、考古学としての今までの
年代判断基準が全て成り立たなくなってしまう事、などから、
畿内の考古学者も心ある人は、北部九州説に賛成していた。
739 :
九州ですが:2006/11/10(金) 20:01:34
畿内説は三角縁神獣鏡が、卑弥呼の貰った銅鏡100枚説の分が悪くなると、
画文帯鏡は殆どが古墳時代の、墳墓から出土するにも拘わらず、画文帯鏡こそ卑弥呼の鏡だとの説を強め、
古墳の築造年代遡上に、血道を上げ始めたのは、その経過を逐一見てきた者として、実感がある。
740 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 20:45:52
三角縁神獣鏡を大量に作る事ができた地域が邪馬台国。台はトとも読める
から、邪馬台国=ヤマト国と読むのかもしれない。
741 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 21:00:44
いくら九州説派が泣き叫んでも、
古墳時代に繁栄を始めてるのは畿内。
北九州は古墳時代、もぬけのカラだったことは事実。
古墳時代が4世紀からでも同じこと。
王の地盤の国力がなければ古墳は作れないのだからな。
742 :
九州ですが:2006/11/10(金) 21:01:36
三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だと言う説、はほぼ崩れつつある。
743 :
九州ですが:2006/11/10(金) 21:07:42
>>741 だから、邪馬台国と畿内は別勢力だと考えた方が自然だ。
邪馬台国が東征して大和となったとの説もあるが、
それは神武天皇の東征と関連付けているようだ。
確かに天皇家の先祖が九州出身だというのは興味深い伝説だ。
744 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/10(金) 21:13:37
>>729 >言葉に詰まり、相手を罵倒し、自分の過ちを軽減させようとする作戦に出る。
言葉には詰まった覚えは全くないけど・・・・・
人間は自分の気が付いてない本質を指摘されると「感情が高ぶり罵倒」と感じて
相手に対して怒りを感じてしまう生き物。
逆に最初から自分の本質を認めていたら、感情は高ぶりはしない。
あなたには片意地を張って、人によく見られたいという感じがする。
本人の値打ち以上に、他人に見られたいわけだ。
これは相手からすると、からかいの対象にしたくなるし、見ていて醜い心に見える。
ある死なれた方から教えられたが、この世で非常に大切なものは「美しい心」という物だそうだ
自分のあるがままを他人にさらけ出しても、決して醜くは見えないと思うが隠すと醜い。
745 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 21:15:15
>>705 >北周りのコースも選べず、南回りのコースも危険で航行できなかったというべき。
>これが後の神武天皇の東征によって、瀬戸内海までが完全に安全なコースになったもの。
>その当時、航行が安全でなかったからこそ、東征が必要になったともいえる。
1、瀬戸内海を航行するのに、危険な中国・四国の勢力とは、何人くらいの集団を想定してるのだ?
2、その地域に住む危険な集団を平定するために、神武の軍勢はどれくらいだ?
3、四国を平定するためには、当然舟が必要だが、その舟の数は何隻だ?
4、舟は何人乗りで、排水量はどれくらいだった?
5、神武が瀬戸内海を平定するのに要した期間は?
746 :
九州ですが:2006/11/10(金) 21:22:27
でもこのプラムと言う人は、漢文の解釈はともかく、
趣味がとても高尚。ある意味で皆勉強になると思うよ。
説は説、人格とは別だから。
>>743から天皇家の先祖という文字が出たので たまには目先を変えた話題を
『雛飾りと卑弥呼』
卑弥呼共立前(AD170以前)まで、雛飾りの一番上の段には主無く 三十人の王達で邪馬台の国域を後漢王朝の後ろ盾のもと やり繰りしていた。
170年頃 属国の乱れを治める秘策として、宗首国である漢王朝が、雛飾りの上段を作り そこに、
今まで神と王達の仲介役で有った、一族の女性を座らせ金印を与え最高権力位
に据えた(公証、共立した)
これが “雛飾りの原点”
748 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 21:30:25
考古学的には、邪馬台国は畿内で決着。
あとは九州のどこかに未知の遺跡や古墳が発見されるしか、九州説
の復活はないだろう。
まあ、径百余歩の古墳が未だに見つかってないなんて考え難いが。
750 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 21:33:48
神武東征があっても3世紀ではない。
朝鮮半島情勢が悪化してるところを、東に軍を移したら九州が朝鮮人に乗っ取られる。
>>747を 倭人伝にのせ
この三十人の男王達、リーダーは存在したが 独裁と成ることはなく
そのリーダー期間も7〜8年 長くて10年 だった
そんなおり
リーダーが本州侵略の最中戦死 リーダーの居なくなった邪馬台国は、身内争いを繰り返し混乱をきたした。属国蛮夷の安泰を図る為、大帝国は女王共立と言う奇襲に出
女王に『漢委奴國王』の金印を下賜し 女王に絶対的権限を与え安泰工作をはかった。
これが後に
二代目卑弥呼が慌てて魏に金印の催促に行った理由に繋がる
詰まり
姉チャンの様に 金印効果が必要だった
752 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 21:41:03
>>749 短里説か?
アホらしい。
魏晋代に短里が使用されていたなんて言ってる中国の学者がいるか?
日本の一部の倭人伝原理主義者が主張してるだけ。
>>752 >短里説か?
誰も度量衡の話などしてないぞ
754 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 21:48:08
>>744 >言葉には詰まった覚えは全くないけど・・・・・
言葉に詰まってないなら、早く
>>745に答えてみろ。
755 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 21:51:59
>>753 じゃあさあ、ちゃんと質問してよ。
どの部分が疑問に思うかを素直に書けばいいんじゃない?
756 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 22:05:21
神武を未だに信じてる奴がいるんだな。
ジンムゆかりのカシハラもイワレの地にも、初期古墳が無い。
大和政権に繋がる王権は、突如三輪山山麓マキムクで発生。
で、マキムク型古墳は東瀬戸内の影響が強く見られ、九州の影響は殆んど無い。
むしろ、奴国に造られた那珂八幡は大和の影響を受けている。
古墳の発生自体が大和→筑紫の順であって、
これだけを見ても、九州東遷説は否定されてしまう。
757 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/10(金) 22:13:24
>>755 『大作冢徑百餘歩』
この解釈を、畿内説諸氏はどう解釈しているのか聞きたかったのよ。
度量衡の説明はいらないから。
758 :
九州ですが:2006/11/10(金) 22:18:15
>>748 だから、古墳時代の大型古墳が畿内でどれだけ見つかっていても何ら、
邪馬台国との関連は無い。邪馬台国の葬制は、有棺無槨。
木槨で囲んだ墓室に棺を納める畿内の埋葬は、倭人伝とは食い違っており、
畿内の文化とは明らかに別のものである。
759 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 22:19:07
760 :
太国:2006/11/10(金) 22:20:59
>>741 >>748 彼らは最初から先入観 ↓で 通常ひっかかる迷探偵の推理、w
ヤマタイ→ヤマト→大和→考古学+畿内説
から、思いこみが強力になり、ここに上図のとおり王より飛車(考古学)を
かわいがるで、畿内説が正しいと信じこんでしまう、お粗末な頭脳さま。w
いいかい、畿内に女王国があれば朝廷とは、地図上からは目と鼻の先に位置
するから、天皇と卑弥呼の交流が外様、外国の倭人伝以上に交流、風習、規模
朝貢等の記述が詳細に記紀に載る。それがないのは朝廷と女王国とが一定の遠い
距離で隔絶されていたという事を意味する。ということは、大陸への情報も容易
に届く遠隔九州に女王国があった事を意味している。日本の古文献に記述が無い
し、魏に近くなる九州にあったからこそ中国の古文献にその記述が残ったのだ。
だから女王国は九州にあったことは当然であ〜る。
神武以前に卑弥呼が生きていたなどと言う連中は、時系列の変動を平気で上下
させる滅茶苦茶論に終始する連中。w
761 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 22:21:00
762 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 22:24:35
>>760 女王国は伊勢だよ。
天照大神もいるし、倭姫もいる。
ちゃんと日本書紀に書いてある。
763 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 22:27:30
>>757 「径百余歩の墳墓を造った」でいいんじゃないの?
君が何にこだわってるか分からないが、何かツマラナイ事言い出しそうなのは分かる。
764 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 22:30:28
>>758 九州東遷説を否定してるんだからさ。
ちゃんと読みなよ。
九州説を否定してる訳じゃない。
765 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 22:31:42
伊勢神宮に祭られてる大和朝廷の神は「天照大神」と「豊受大神」。
邪馬台国の「卑弥呼」の世継ぎは「台与」。
偶然だと思うなら偶然だと思えばいい。
766 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/10(金) 22:32:37
>>759>>763 箸墓を作ったのはいいけど、一緒に作った他の墓はなに?
何時もその説明が無いんだよ?
だって『大作冢』って書いてあるのに無視しちゃう
767 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 22:36:22
>>766 お前のアホな読み下し文に、付き合わなければイカンのか、俺は。
768 :
九州ですが:2006/11/10(金) 22:39:03
>>756 [九州東遷説は否定] されない。卑弥呼の死後、出雲や、吉備、などの文化を吸収しながら、
神武天皇は大阪湾の方から上陸を試みたが、何とかの命とか言う強い豪族が居て、
仕方なく吉野の側に回って上陸した、と日本書紀にあるが、マキムクはその後の遺跡。
日本各地の様々な土器が出土する事から、各地から、色んな文化を持った
人々が集まった都のようなところだったのだろう。神武の東征も、各地の文化の集大成に
少なからず、貢献したのでは。とNHKの特集で以前に見た。
769 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 22:44:16
>>768 NHKで、神武東征の後でマキムクが作られたと言ってたのか?
そうなら、お前が病院で検査を受けたほうがいい。
770 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/10(金) 22:44:29
771 :
九州ですが:2006/11/10(金) 22:44:32
>>761 石だろうが木だろうが、槨無し だったのだ。
北部九州の葬制は、全くその通りで、穴を掘って棺を入れるだけ。
772 :
九州ですが:2006/11/10(金) 22:47:14
773 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 22:47:24
>>771 おまえ、東遷説を自分で否定してることに気がついてる?
774 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 22:49:34
>>768 だから、お前の大好きなジンムはマキムクで即位したのかよ?
いい加減、神武伝承に振り回されるのは止めておけ。
775 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/10(金) 22:54:32
何だよ
畿内説って、肝心な所で時間切れ作って『また来週作戦』かい?
全部説明出来るだろうに。
776 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/10(金) 22:58:19
>>768 時間的に無理があると思うよ。 一代で成し遂げられる業績ではない
かなりの年月掛けなけりゃあ出来ない代物だよ
神武一代では無理だわ
777 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/10(金) 23:04:46
777 戴き
778 :
九州ですが:2006/11/10(金) 23:05:00
>>769 少し説明が足りなかったか、もしくは、想像すれば容易に解る事。
「日本各地の様々な土器が出土する事から、各地から、色んな文化を持った
人々が集まった都のようなところだったのだろう」と言ってる様に、
マキムクの状況が、邪馬台国の東征の{ここでは神武と置き換えているが
東征があったとして}ちょうどその後頃から各地の土器が発見される、
都のようなところ・・・と続く。
まさか縄文期の貝塚あたりまで古さを遡ってんではないでしょうね。
779 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 23:13:11
どっちにせよ、鏡という中華文明が、3世紀の畿内で大量に発見されると
いう事は、3世紀の畿内は中華文明と密接な関係を持っていたという事を
証明している。
780 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 23:16:25
マキムクは東海系の土器がよく出土する。という事は卑弥呼は伊勢あたりの
出という事もありうる。
トヨというのは、名古屋あたりと関係があるのかな?
名古屋の近くにはトヨタもあるでよ
782 :
九州ですが:2006/11/10(金) 23:18:54
>>773 自分としては、東遷が仮にあったとして、の立場ではあるが、自語相違は無い。
邪馬台国の無槨の風習は遅れたもの。後に畿内文化に接し、古墳が発展する過程で、
葬制もより丁寧になり、木槨木棺墓に統一されていった、と見るのが普通でしょう。
>>779 >どっちにせよ、鏡という中華文明が、3世紀の畿内で大量に発見されると
いう事は、3世紀の畿内は中華文明と密接な関係を持っていたという事を
証明している。
はいよ
正始元年春正月、東倭重譯納貢、焉耆、危須諸國、弱水以南、鮮卑名王、皆遣使來獻。天子歸美宰輔、又増帝封邑。
(晋書 宣帝紀)
784 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 23:31:16
結局は・・・
歴史キモオタ童貞 プラム と 歴史キモオタ童貞ニートヘボ恵也 の言い争いか。
2ちゃんねる管理人も人がいいな。
785 :
九州ですが:2006/11/10(金) 23:32:11
>>774 僕の説はNHKであったのと同じく、神武というのは、
邪馬台国女王、卑弥呼死後の勢力の異名で擬人化されたか、
その後何代目にか最初に即位した王の事かは不明。どっちかは後者。
もし東遷があったとすれば、このようであったろう、という事。
778参照
>>736 >画文帯は楽浪では1枚しか発見されていない。
画文帯が公孫氏を通じて入ってきたと考えているからだろ。
確かに仮説に過ぎないが、ムカムカとかじゃなく理性的に反論すれば?
中国の鏡が朝鮮半島を通じて日本に入ってくるというのは、普通に考えれば
当たり前なんだけどね。
787 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 23:37:04
マキムクへの疑問
1、環濠がない。つまり、狗奴国との戦争終了後に建設開始か、狗奴国との戦争とは
無関係の場所に造られたかのどちらか。
→どっちにしても、畿内説には不利。
2、空白地域に突然作られてた。周辺地域と生活様式が全く違う。竪穴住居が皆無。
→外から来た集団が主体となって作ったことが明らか。
3、庄内式は畿内の特定地域からしか出ないが、北部九州は全域から出土。
→庄内式は九州から来て、畿内に行き渡る前に布留式に移行したとするのが合理的。
要するに、九州説の補強材料じゃないの。マキムクは。
>>785 マキムク以前の大和の中心勢力は唐古鍵。
唐古鍵は、弥生時代を通じて栄えた拠点集落、残念ながらね。
考古学の知識が無いから、こんな基本的なところで躓く。
789 :
九州ですが:2006/11/10(金) 23:39:41
>>それは敗北宣言と見ても差し支えないのかな?
所詮、倭人伝に記述の楼観などを伴った大環濠集落の姿は、
吉野ヶ里遺跡だけがその全てを満たしている。
畿内には、記述が全て当てはまっている遺跡が無い。見つかってから
反論して下さい。
790 :
九州ですが:2006/11/10(金) 23:41:11
791 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 23:44:21
>>786 腹が立つのは、「画文帯同向式は1枚が楽浪郡で見つかっただけで、あとは全部
日本で見つかっている。」ことを明確に書かずに、意図的にあいまいにしていること。
この手のごまかしが本当に多い。知識のない人は、別の事実と誤解する。
だから本当にムカムカする。
主張する内容が正しいとか言う以前に、議論の仕方がフェアでない。
>>787 庄内甕は北部九州発じゃないと、何度言えば分かるんだ。
いい加減にしろ。
2についてはそうかもしれない。
1は、卑弥呼を共立して争いが無くなったことが原因。
庄内初期に、広範囲の環濠集落の堀の埋め立てが一斉に起きている。
>→どっちにしても、畿内説には不利。
意味不明。
793 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 23:47:29
>>792 じゃあ、魏の使者が見た環濠はマボロシだったんですねww
>>791 画文帯同向式を国産だと言いたいわけ?
なかなか突飛な考え方だ。
自説に都合が悪いと、難癖をつけ始める。
当時の仿製鏡と見比べたことがあるのかね、君は?
795 :
九州ですが:2006/11/10(金) 23:55:10
>>788 唐古鍵?それは弥生時代の畿内の遺跡でしょう。それが何の関係が?
今いってるのはマキムクの事ですよ。
>>787の人が言ってるように、マキムクは他の遺跡とは形態が変わってるんです。
>>795 だからさ、誤魔化した書き方をせずに、
東遷勢力はどこに定住したと思うのさ。
798 :
九州ですが:2006/11/10(金) 23:58:57
>>792 卑弥呼を共立して争いが無くなったことが云々
どこにそんな証拠が?それこそいい加減な空想でしかない。
799 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 00:00:08
>>794 画文帯は、一括して画文帯神獣鏡とするのではなく、種類ごとに
分けて考えた方がいい。
同向式は、中国では1枚も出ていない。
日本では多数発見されている。他は楽浪郡の1枚のみ。
伊都国はもとより、北部九州からは未発見。
日本製と考えない人のほうが不思議。
日本製=粗悪。中国製=良質。という分け方は無理スジ。
江南からの渡来人を想定すれば解決する。
800 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 00:03:33
平原遺跡などのある前原市から北東に行くと福岡市がある。
さらに北東に行くと、北九州市。
面白いことに遠賀川の流域からは甕棺が全く出土しない。こんなに近いのに
違う文化圏か?
さらに、日本海側を北東にずっと行くと出雲がある。
銅剣が358本も見つかった荒神谷遺跡や銅鐸が31個も見つかった
加茂岩倉遺跡がある。
さらに、東に進み鳥取県に入ると、弥生時代後期に華やかに栄えた
妻木晩田遺跡がある。青谷上寺地遺跡もある。
そして、東に行って丹後がある。
記紀では出雲を重視しているが、邪馬台国論争では軽視されがちである。
もっと日本海側にも目を注ぐべきかも知れない。
801 :
九州ですが:2006/11/11(土) 00:03:58
>>796 環濠=堀、それくらい子供だって知ってます。
環濠とは別に堀をめぐらす馬鹿が居たらお目に掛かりたいものです。
802 :
九州ですが:2006/11/11(土) 00:12:48
>>797 だから先程から、何度も申し上げてるじゃありませんか。マキムクというNHKの
説をとってると。そして私は必ずしも東遷支持ではないと前にも言ってる筈。
どっちにしろ、邪馬台国畿内説ほど奇想天外ではない。あり得る、という
立場です。
>>799 >伊都国はもとより、北部九州からは未発見。
畿内王権が一括入手・分配したから。
「九州から出ないので国産」とか飛躍し過ぎ。
よくわからない思い込みがあるようで。
そもそも、国産であれほどの鏡が作れるなら(殆ど中国鏡と同じ)、
わざわざ中国へ鏡を貰いに行く必要はない。
古墳時代、三角縁が有り難がられたのは、貴重だったから。
レガリアが簡単に作れたら、レガリアとして機能しない。
当たり前の話だ。
804 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 00:20:33
>>803 伊都国には代々王がいて全ての文物は伊都国を経由していた
という前提だと、伊都国から出ないのはやっぱり不合理。
あと、中国から出ていない。
しかも、中国の画文帯出土地域は魏の領域とはズレがある。
>>801 だから、堀とか環濠って何処に書いてるの?
>>804 実際、伊都国は初期古墳も見当たらないし、ヒラバルとか特異な葬祭
儀礼を行なっている。
畿内王権と、それほど友好的であったとも思われない。
807 :
九州ですが:2006/11/11(土) 00:32:55
>>805 >>792庄内初期に、広範囲の環濠集落の堀の埋め立てが一斉に起きている。
の文に対して
>>793の人が
>>792 じゃあ、魏の使者が見た環濠はマボロシだったんですねww
と言って
796 :日本@名無史さん :2006/11/10(金) 23:55:39
>>793 環濠なんて書いてるか馬鹿 と続くのかな。
それに私が
801 :九州ですが :2006/11/11(土) 00:03:58
>>796 環濠=堀、それくらい子供だって知ってます。
環濠とは別に堀をめぐらす馬鹿が居たらお目に掛かりたいものです。
と。
伊都国を経由せず、奴国の西新町で半島人と交流するようになってるからな。
想像するに、伊都国は前倭国王として警戒され、奴国にその地位を奪われた。
畿内王権の厳しい監視下に置かれていたのだろう。
>>807 >魏の使者が見た環濠
について、どこに書いてるの?の聞いてるわけ。
ちゃんとレスつけて書いてるんだからね。
君が横から入るから話がややこしくなる。
810 :
九州ですが:2006/11/11(土) 00:48:01
812 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 01:01:57
邪馬台国鳥取説開始↓
813 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 01:05:04
7メートルって二階の天井ぐらいだね
814 :
九州ですが:2006/11/11(土) 01:13:43
>>809 口を挟むようですが、「魏の使者が見た環濠 」について倭人伝には書いてなくても、
魏の使者が見たであろう事に異論を挟む学者は居ないんじゃないですか?
当時のこの状況からしても。
宮殿には楼閣(たかどの)や、城柵などが厳重につくってあり、警備兵が常に武器を持ち守衛している。
815 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 01:30:34
箸墓を開ければ早いんだけどね
816 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/11(土) 08:01:03
●朝のワンポイント
『説“相”攻撃状』と『説攻撃状』
※攻撃しあう双方が同一範囲内関係である場合『相攻撃状』詰まり(内紛/クーデター)です。
※一般的な敵国どうしの戦闘の場合の表現は『攻撃状』
817 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/11(土) 11:59:21
卑弥呼の流れ
@景初二年六月
『倭女王』
まだこの時点で卑弥呼の名は無い。
↓
↓
A景初二年十二月
『親魏倭王卑弥呼』
初めて卑弥呼の(名+官位+称号)が書かれる。
↓
↓
B(死亡)
『卑弥呼』
下賜された官位が消え去り、女王の称号も無くなる。
818 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 12:34:38
AVで名を挙げた女王!
819 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/11(土) 12:43:16
【其八年太守王キ到官倭女王卑彌呼與狗奴國……】
>>817A→Bの流れから見ると、ここに書かれし『倭女王卑彌呼』は、おかしな文となる。
既に『親魏倭王』の官位を下賜されている者に対し、無官時代の呼称『倭女王』を付加する行為は、『親魏倭王』の冠を剥奪することで、大変おかしな状況になる。
この場合
簡略化してもせいぜい
『倭國王卑彌呼』或は『倭王卑彌呼』最低『女王卑彌呼』である
詰まりこの場合(倭女王卑弥呼)ではなく『女王卑弥呼』で一つと、すべきで、『倭』の文字は『到官倭』とし、
(赴任し、倭の調査)と、解釈
>口を挟むようですが、「魏の使者が見た環濠 」について倭人伝には書いてなくても、
>魏の使者が見たであろう事に異論を挟む学者は居ないんじゃないですか?
適当な思い込みを書くな。
752 :日本@名無史さん :2006/11/10(金) 21:41:03
>>749 短里説か?
アホらしい。
魏晋代に短里が使用されていたなんて言ってる中国の学者がいるか?
日本の一部の倭人伝原理主義者が主張してるだけ。
822 :
:日本@名無史さん :2006/11/11(土) 15:37:04
なあ、皆そろそろ気付くべきじゃないか?
邪馬台国九州説 (福岡県考古学研究団体)
大久保利通偉人説(薩摩)
牟田口中将有能説(佐賀県)
吉田松陰マンセー(山口チョン民)
山県有朋善人説 (山口県)
幕府叩き (薩長)
会津叩き (薩長)
まだまだ限がないほど糞スレはあるが・・・
全国広といえどもこれほど厚かましく板占領して選民思想前面に押し出してる
自己中は見た事がない。そろそろ自己の都合で歴史を捏造しようとしてるこい
つら叩かないか?他の県にこんな馬鹿な連中いるか?
823 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 16:04:33
邪馬台国九州説+東遷説といっても、所詮は天皇は朝鮮人だと主張したいだけだからなあ。
824 :
:日本@名無史さん :2006/11/11(土) 16:11:23
>>823 その通りだな。奴らのせいで最近歴史板が糞つまらなくされてる件。
825 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/11(土) 17:17:18
漢字の字意も判らず漢文読むは、
ひらがな判らず源氏物語読む行為に等しい。
826 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 17:30:21
>>823 >>824 自演乙
朝鮮での鏡の出土量は紀元前から日本の10分の1以下。
朝鮮の史書でさえも歴史の始まりから日本、中国の征伐を伝えている。
以後属国2000年。
つまり、朝鮮は権力の空白地帯。
827 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 17:34:40
>>826 >つまり、朝鮮は権力の空白地帯。
そりゃそうだろ。朝鮮王族、軍隊が北九州に降りてきたんだからな。
828 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 17:46:03
倭人伝には倭国は敵国の呉の子孫のような記述はあるが、半島から来た
との記述は無い。他の正史にも全く無い。隋書には「倭は大国、珍品多し、よって新羅これに朝貢す。」との記載がある
何故か、半島側はこの記事はマルムシだが。
勿論、半島史にも倭を制圧どころか、攻撃した記事も無い。反対は多数あるが。
先史より半島はずっと倭の植民地以下の扱いだったのは明らかである。
829 :
九州ですが:2006/11/11(土) 18:57:19
>>820適当な思い込みを書くな。
思い込みではなく、これは常識の範疇。魏の使いは奴国までの道程で、
吉野ヶ里の大環濠集落と同一文化圏を通過している。、内陸からと言うより寧ろ、
海からの攻撃に対し警戒したような防御態勢を持っており、、
伊都国も、奴国も同じような姿だったと考えられる。
適当と言うなら、そっちこそ、それが思い込みであると言う確たる証文を書きなさい。
コテの大半が見えないのでなんの事かわからないが、
原の辻の環濠って3世紀にはもう埋まってたのかな?
機能してたなら見たはずだよ。
831 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 20:02:25
>>827 朝鮮での国の成立は日本よりかなり遅れている。
4〜5Cでもクニを形成していなかった伽耶諸国は論外として、
百済、新羅も小国に分裂していたのが3〜4C頃にまとまってきた。
日本は、それ以前に国家形成を終えていた。
832 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 20:32:38
>>831 >日本は、それ以前に国家形成を終えていた。
たかが九州の中だけでも、邪馬台国とクナ国が分裂してたのに?
833 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 20:38:46
朝鮮半島を含めた地図をよく見とけ。
九州の邪馬台国は、百済・新羅より小さい。
倭国が国家形成を終えていたとは、片腹いたいわ。
834 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 21:46:23
>>829 >適当と言うなら、そっちこそ、それが思い込みであると言う確たる証文を書きなさい。
言ってることが無茶苦茶。
「魏の使者が見た環濠が無いから、環濠の無いマキムクは邪馬台国ではない」。
と言うから、倭人伝に「環濠があった」なんて記述はないが、と書いたところ、
「魏の使いは環濠を見た筈」と訳の分からない反論。
言ってることが支離滅裂。潔く非を認めて撤退しなさい。見苦しいよ。
>>752 >短里説か?
アホらしい。
魏晋代に短里が使用されていたなんて言ってる中国の学者がいるか?
日本の一部の倭人伝原理主義者が主張してるだけ。
これ長里で説明できるの? やって味噌
『漢書』第六巻 武帝紀
【文穎曰介山在河東皮氏県東南其山特立周七十里高三十里】
836 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 22:10:37
>>832 3世紀には畿内に中央集権があり
それ以前に山陰から山陽、北陸、近畿にかけて巨大連合王国があったことも
ほぼ確定していますが何か
837 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 22:24:11
>>836 それは無い。
狭い九州の中だけでも、邪馬台国は南のクナ国に手を焼いていた。
その邪馬台国は、正式に魏から承認された倭国の女王がいた。
畿内に巨大連合国なんぞあるわけないだろ。
国際的に承認されなければ、国とは呼べない。
838 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 22:34:55
>>837 はあ?
銅鐸も巻向遺跡も無視ですかwww
だから九州王朝信者は妄想狂だって言われるんだよ
839 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 22:58:06
西暦250年頃では、朝鮮半島から日本列島を見渡しても、
もっとも国家として繁栄し、魏から認められたのが「九州」。
その他の地域は竪穴住居に住んでる土蜘蛛だけだった。
840 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 23:03:45
>>839 西暦250年頃は、とっくにマキムクが造営されてるよ。
841 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 23:24:45
>>833 日本で発見された前漢鏡の量は、百済、新羅、伽耶の地域で発見された量の10倍以上。
他の威信財も圧倒的に日本の方が多く発見されている。
このように、古代から朝鮮南部より日本のほうが先進地域であった。その後も同じ。
三国史記によるとこの時期に倭族による朝鮮征伐が始まっている。
その後、4C以降、新羅、百済は日本の征伐を受けて属国になり、王子を人質に差出し、毎年
貢物を献上していた。中国も日本のこの地域への統治権を認めていた。
例えば、451年に中国は、倭王済を使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事
・安東将軍・倭国王に冊命。これらの地域が日本の支配領域として国際的に認められていた。
かろうじて百済が、日・中双方の属国としてバランスをとり、日本の影響力に対抗していただけ。
これが、中国の正式な歴史書に書かれている内容である。
・・・所詮、白村江の戦いまでのことだが。・・・その後の朝鮮は元、明、清の属国を経て、日韓併合。
842 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 23:57:07
>>833 AD107年の
委奴面土国王帥升は、
福岡、山陰、畿内その他を制圧した大国主だと思っているが。
843 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 00:37:41
>>842 因みに
委奴面土は宗像市須恵から500Mの所に「稲元」という所があり八幡宮がある。
つまり須恵こそ帥升の本拠地ではなかったのか・・・とも思う
844 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 00:46:59
>>843 帥升は九州の人でおkだと思うが
山陰畿内制圧はないだろ
銅鐸文化圏は山陰山陽近畿四国にまたがっているが
北九州の物とは種類が違うよ
845 :
九州ですが:2006/11/12(日) 01:47:27
>>834 「魏の使者が見た環濠が無いから、環濠の無いマキムクは邪馬台国ではない」。
九州ですが の私がいつこんな事言いましたか? 事の起こりは、
>>792のそっちの
「 庄内初期に、広範囲の環濠集落の堀の埋め立てが一斉に起きている」の謂い。
そしたら 「793 :日本@名無史さん :2006/11/10(金) 23:47:29
>>792 じゃあ、魏の使者が見た環濠はマボロシだったんですねww 」というのがいて、次に
「796 :日本@名無史さん :2006/11/10(金) 23:55:39
>>793 環濠なんて書いてるか馬鹿 」と、続いて、
「801 :九州ですが :2006/11/11(土) 00:03:58
>>796 環濠=堀、それくらい子供だって知ってます。」
と答えたら、そっちが 「 805 :日本@名無史さん :2006/11/11(土) 00:20:52
>>801 だから、
堀とか環濠って何処に書いてるの? 」と答えて、僕が、807 で答えたら、おたくが
「809 :日本@名無史さん :2006/11/11(土) 00:43:45
>>807 >魏の使者が見た環濠 について
どこに書いてるの?の聞いてるわけ。」って言うので 後は倭人伝の記述を言ってるんだと思って、僕が
「814 :九州ですが :2006/11/11(土) 01:13:43
>>809 口を挟むようですが、「魏の使者が見た環濠 」について倭人伝には書いてなくても、
魏の使者が見たであろう事に異論を挟む学者は居ないんじゃないですか?」と言ったら、おたくが
>> 820 適当な思い込みを書くな。と言うから、
>>829 に繋がるわけよ。確かに、マキムクをキーワード
にニアミスしてるようだが、例えそうとしても、ややこしいが、言葉を違えてはいません。あってます。
?
848 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 03:53:12
>>843 大国主ならやはり出雲でしょう。
銅鐸文化圏と銅矛文化圏を統合した
AD107年は出雲の最盛期と年代的にも合うのでは?
849 :
793:2006/11/12(日) 04:02:56
>>793 を勘違いで書き込んだ本人をそっちのけで面白ことになってるねww
魏志のいう卑弥呼の居城は環濠だろうけど、他に記載はないね。
ただ、戦争状態なのに堀も環濠も作ってないというのは、無理スジというのが、
>>787の本来の考え。
>>792 >庄内初期に、広範囲に環濠集落の堀の埋め立てが一斉に起きている。
は畿内の庄内初期を270〜300年と考えている人には無意味。
纏向って生活感がないんだよね。古墳建設労働者のアパート群という説も一理ある。
まあ、戦争やっている最中に人員を動員して大型古墳を次々と作ったとかはムリポ。
850 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 04:09:05
>>849 >畿内の庄内初期を270〜300年と考えている人には無意味。
こんなこと言ってるのは安本だけ。
851 :
九州ですが:2006/11/12(日) 04:29:23
>>834 「魏の使者が見た環濠」云々は、僕の言った言葉じゃ無いが、「見た環濠」は行き過ぎた発言としても、
倭国大乱の後、卑弥呼が女王になって邪馬台国連合は和平が保たれたとはいえ、南方のクナ国からの攻撃、
吉野ヶ里のように北方からの守りの形態からして、厳重な防御体制だった。
>>829参照。
邪馬台国連合の一つである伊都国とされる前原近辺にも環濠集落が見られる事からも
魏の使者が、環濠を見た可能性は極めて高いといわざるを得ない。マキムクは環濠を埋めたとき、土器なども
そのままの形で数多くその中から出土する事から、神武によって村々が滅ぼされ、土器が捨てられ、埋められ、
戦闘の必要の無い、社会情勢に入っていったと見る専門家もいる。
これで
>>834「言ってることが支離滅裂」ではない事は明らか。
852 :
九州ですが:2006/11/12(日) 04:57:40
>>834 つまりはこういう事。
「魏の使者が見た環濠が無いから、環濠の無いマキムクは邪馬台国ではない」。 その通りです。
倭人伝に「環濠があった」なんて記述はないが、 その通りです。
「魏の使いは環濠を見た筈」 その通りです。
が、答えであって、紋切り型に読むから、おたくには「言ってることが支離滅裂」と映るのかもしれません。が、
全体的視野に立って本件を眺めれば、自明の理なのです。
853 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/12(日) 05:41:17
>>706 >存在しない年号の魏鏡などすぐにウソだとばれる。
十分バレはしない。
あんただって明治時代が1年くらいズレて書いてあったからといって
この製品が偽物と断言できるかね。
渡来系外交官でも悪徳商人に憎まれて、生活し辛くなってやめていく
運命かも。
俺が外交官なら、そんなクダランことで職を失いたくないよ。
854 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 05:59:59
>>850 そんなこたぁない!
庄内の年代遡上は歴史が浅くて、畿内説のべテ、長老は追随していない。
未だ一部の熱狂的な支持者がいるというレベルを脱していない。
年代遡上の根拠の年輪も、ケヤキ、コウヤマキを伐採した直後に使用したとか無理杉。
年輪年代の基礎データーも公開されていないはず。その状況で結論のみ信じる方が異常。
公開して、多種多様な材料を検査しないとダメ。
椿井大塚山の三角縁も公開されるまで30年以上データーが隠蔽されていたけど、学会の
常識は世間の非常識。50年以上前から不利なデーターを無視する悪弊が続いている。
画文帯とか三角縁の紀年での庄内遡上とかも本末転倒。
C14は未だに正確性が認められていない。
てか、寝てろ。俺。
855 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/12(日) 06:12:04
>>756 >マキムク型古墳は東瀬戸内の影響が強く見られ、九州の影響は殆んど無い。
古墳のどこを見て影響といってるのか、意味が解からん
宮崎の古墳にはいろんなタイプが存在し、古墳の発展歴史が見れるぜ。
発展歴史がわかるほどの土地が、古墳時代の発祥の地で邪馬台国というべき。
ーーーーーー引用ーーーーーーーー
1号墳(墳長136m)は、古墳時代最古期(3世紀後半)の大王墓である
奈良県、箸墓(はしはか)古墳の半分の大きさに設計した相似形とされる。
http://www.pmiyazaki.com/ikime_kohun/
856 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/12(日) 06:32:34
857 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/12(日) 06:54:08
>>788 >唐古鍵は、弥生時代を通じて栄えた拠点集落、残念ながらね。
残念ながら唐古・鍵遺跡は神武天皇に善戦したが滅ぼされた銅鐸文明。
大和政権・邪馬台国の先祖なら「鏡文明」じゃないといかん。
これだけの文明を持ってたからこそ、善戦して一時は神武天皇を大阪
から追い返して、和歌山周りにコースを変更させたの。
ーーーーーーー引用ーーーーーーーー
青銅器生産(銅鐸鋳型等)や石器、木器にかかわる専業集団(生産の
分業化)、楼閣のような高層建築物の存在、糸魚川周辺で採取された
ヒスイ製勾玉(弥生時代最大級全長5・3p)や様々な地域の土器
http://www.begin.or.jp/sakura/karako.htm
858 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/12(日) 07:03:32
>>789 >倭人伝に記述の楼観などを伴った大環濠集落の姿は、
>吉野ヶ里遺跡だけがその全てを満たしている。
それは知識のなさ!
畿内の唐古・鍵遺跡でも環濠集落が完成してます。
環濠はそれだけ危険な状態に日本全体がなっていたというべき
北九州だけでなく、富の集積のある場所ではあったと見るべき
ーーーーーーー引用ーーーーーーー
唐古・鍵遺跡は、弥生時代前期に始まり、古墳時代前期まで600
年間以上継続しました。巨大な環濠に囲まれていた(環濠集落)
http://www.begin.or.jp/sakura/karako.htm
859 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/12(日) 07:22:30
>>821 >魏晋代に短里が使用されていたなんて言ってる中国の学者がいるか?
中国の学者に何の関係があるんだろう???
韓国から壱岐までの距離が2000里と、魏志倭人伝に書いてあるんだから
この文書では短里が使用されてるのは明確。
韓国から160kmが壱岐なんだから、自分で計算してみたらどう?
860 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/12(日) 07:35:00
>>836 >それ以前に山陰から山陽、北陸、近畿にかけて巨大連合王国があったことも
>ほぼ確定していますが何か
どこからそんな結論になるのかね?
確かに、発展していた国があったのは確かだけど連合国は
どこの記録からも証明されてないはず。
ただ貿易があったことは確かだと思うけど・・・
銅鐸が中国伝来で巨大化したのは間違いないでしょうね。
今後は、それがいつどのような経過を経て巨大化していったのかを明らかに
していかねばならないでしょう。
しかしながら、そのような実用性の乏しい巨大化文化と、中国先進文明の精
華を豊富に出土する弥生王墓とは相容れません。古墳も同様で、なぜあれだ
け巨大化する必要があったのかよくわからないが、それも畿内政権の安定期
に入る頃には普通に小さくなっていった。要するに単純な力の誇示という事
ではないでしょうか。
畿内説は、そのような実用性の低い巨大銅鐸文明の後裔=ヤマト政権とはっ
きり表明するべきでしょう。三角縁神獣鏡などという、畿内ですら棺の外に
適当に埋められている粗末な鏡などに頼るのも、結局純粋に考古学的見地か
ら邪馬台国の存在や筑紫神話との整合性を存在を明確にする自信がないんで
しょう。
文献学的な九州説の優位を否定しておいて、なぜ都合のいいところだけ剽窃
するのか。素人ながら科学者のすることかと見ていられませんね。馬鹿の壁
って奴ですかw
862 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 08:04:37
>>744 >言葉には詰まった覚えは全くないけど・・・・・
恵也よ、詰まってないなら、早く下の質問に答えてね。
>>705 >北周りのコースも選べず、南回りのコースも危険で航行できなかったというべき。
>これが後の神武天皇の東征によって、瀬戸内海までが完全に安全なコースになったもの。
>その当時、航行が安全でなかったからこそ、東征が必要になったともいえる。
1、瀬戸内海を航行するのに、危険な中国・四国の勢力とは、何人くらいの集団を想定してるのだ?
2、その地域に住む危険な集団を平定するために、神武の軍勢はどれくらいだ?
3、四国を平定するためには、当然舟が必要だが、その舟の数は何隻だ?
4、舟は何人乗りで、排水量はどれくらいだった?
5、神武が瀬戸内海を平定するのに要した期間は?
>>849 >纏向って生活感がないんだよね。
と
>古墳建設労働者のアパート群という説も一理ある。
生活感がないのに労働者のアパートって・・・・
こんな短い文で自己撞着してるやつはじめてみた。
>>854 >庄内の年代遡上は歴史が浅くて、畿内説のべテ、長老は追随していない。
具体的に名前を上げてごらんな。
このご時世に庄内開始が3世紀の終わりごろ(270〜300年)だっていう人の名前を。
865 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 08:40:09
>>857 唐子・鍵遺跡が見つかったとき、畿内説の人は喜んだ。
ここの人が纏向遺跡に移ったのだと。しかし、今はそんなことを言う人はいない。
唐子・鍵は、あまりにも貧弱すぎるし、鉄が出てこないことが致命的。
鉄、鉄、鉄はないかと一生懸命探したのだけど出てこなかった。
神武東征を考えた場合、唐子・鍵の人々は神武天皇の敵にならない。
日本書紀によると、神武天皇と戦った長髄彦は、饒速日命に仕えていたという。
饒速日命は、天神の子で天磐船に乗って天下ったとされる。
つまり、神武東征の前に、高天原から大和にやってきた人がいた。
個人的に意見になるが、壱与の時代の男王は優れた人物だった。
出雲を支配し、各地に将軍を派遣する。年代は、260年頃。
大和に派遣されたのが、饒速日命。これが庄内期の始まり。
宮崎に派遣されたのが、邇邇芸命。この子孫が神武天皇。
神武天皇はやがて大和に入り政権を打ち立てる。年代は4世紀に入ってからで
これが布留期の始まり。
そう思っている。
866 :
サガミハラハラ:2006/11/12(日) 09:08:58
私はニギハヤヒ命が、高天原(北部九州)から大和に来たのは、西暦40年代であるとかんがえます。
神武の東征は西暦125年頃だと考えますので、ニギハヤヒが90歳ぐらいまでいきたとすれば、大和で神武と遭遇することができます。
867 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 09:29:11
>>866 ということは、サガミハラハラさんは、九州王朝説に近い考えですね。
邪馬台国は大和政権とは関係ないということになりますね。
ただ、サガミさんの考えだと、これらは全部弥生時代ということになります。
弥生時代の特徴は、土器に地方性があることだといわれます。
交流が盛んになると、各地の土器に統一性が出てきます。
それが布留期で、庄内式はその過度期と言われます。
その意味からすると、弥生時代に饒速日命が大和に移動し、神武東征が
あると考えるのは早すぎるような気がします。
なお、サガミさんの考えだと、帥升と神武東征がかぶるようですが、
この辺はどうなりますか?
868 :
九州ですが:2006/11/12(日) 11:42:19
>>858畿内の唐古・鍵遺跡でも環濠集落が完成してます。
へえー唐古・鍵遺跡でも倭人伝記載の楼観の遺構が見つかってましたっけ?
倭人伝の記載と合致するのは、吉野ヶ里とは、吉野ヶ里遺跡で、説明をきいたんよ。
じゃあれは嘘? 自分がちょっと考えただけでも唐古・鍵遺跡は墓室を木枠で
囲むんじゃ無かったっけ?それがどうして倭人伝の記載に合致するわけ?
869 :
九州ですが:2006/11/12(日) 12:21:29
饒速日命が、九州から派遣されたと言う人が居るけどなんでそうなるの?
一応神様だから高天原って事になってるけど、東征してきた神武と戦うわけだから、
地元の人だったんじゃないんですか?後に、神武に随従して、地位を得、
物部氏のご先祖になった。と見るのが普通では?
870 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 12:24:20
>>852 倭人伝に環濠の記載があるかないかの議論であってね。
俺が言いたいのは、
「マキムクに環濠が無いことが、邪馬台国ではないという証拠にはならない」
ということ。
それに反論がないなら、いつまでも粘着するな。
871 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 12:33:14
>>865 ようするに、高天原は朝鮮だといいたいわけね。
872 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 12:35:11
神武東征とか、いまだに言ってる奴がいるんだな。
そいつに聞きたいが、
欠史八代、崇神垂仁、景行成務仲哀、神功応神とかの実年代をいつ頃に
考えているのか?説明できるのか?
九州東遷に都合の良い「神武」の部分だけは正しくて、他は捏造ですか。
そうですか。
873 :
九州ですが:2006/11/12(日) 12:38:03
>>870「マキムクに環濠が無いことが、邪馬台国ではないという証拠にはならない」
ということそれに反論がないなら、
これにどれだけ反論してきましたか?おたくよく読んでました?これがメインと言っていい。
人の記憶違いなどどうでもいい事。
874 :
九州ですが:2006/11/12(日) 12:52:04
>>872 神武が邪馬台国に関連してるかどうかで、特別に頻繁に話題とするところと
なってるが、それもあくまで日本書紀の記述に依存する。
想像として言っているのではなく、饒速日命と、東征してきた神武との
戦い、そして後に、神武に随従して、地位を得、 物部氏のご先祖になった。
と伝えられている事が一体何を意味するのかを探求しているとこるである。
875 :
サガミハラハラ:2006/11/12(日) 12:54:28
私は邪馬台国と大和政権はまったく関係がないとみます。
帥升は50〜60年代に生まれ、120年ごろに没したとみています。
神武は100年ごろ生まれ120年代に東征ですので、帥升と神武は同時代ですが東征時には帥升は没しています。私は帥升は金印奴国(後の邪馬台国)に滅ぼされ、
その争いの時にあおりを食って九州にいられなくなり、新天地を求め、東の奈良へと侵攻したとみます。
尚、二ギハヤヒは近畿にきてからほどなく九州とは没交渉(九州ではニギハヤヒの母国が衰退し倭面土国が覇者となっている)となったようです。
よって統一性はない状態だと思います。
876 :
九州ですが:2006/11/12(日) 13:04:58
>>875「金印奴国(後の邪馬台国)」ってどういう意味ですか?
奴国は邪馬台国連合の一員じゃないんですか?又、
「二ギハヤヒは近畿にきてからほどなく」とありますが、
九州出身だという文献はあるんですか?
>>873 横からで悪いんだが、
「マキムクに環濠が無いことが、邪馬台国ではないという証拠に」なる
という理由をちょっとまとめてくれんか?
ノイズが多すぎてどういう脈絡なのかよくわからない。
878 :
サガミハラハラ:2006/11/12(日) 13:16:44
奴国(魏志倭人伝の)が邪馬台国連合の一員だったのは、魏の時代です。
金印奴国とは、漢の委奴国王の委奴(イト)国のことです。
旧事記にニギハヤヒは高天原から来たとあります。高天原が九州だとすればそうなります。
ちなみに私は、高天原は背振山地であるとみています。
879 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 13:21:41
>>873 「マキムクに環濠が―」に反論がないなら別に構わない。
もう粘着しないでねw
880 :
太国:2006/11/12(日) 13:24:54
真紀無苦に環濠無いか〜? 記紀に記録がないか〜?
881 :
九州ですが:2006/11/12(日) 13:34:09
>>879マキムクに環濠が―」に反論がないなら別に構わない
反論ばかりしてきたでしょ。どこ読んでんの?
882 :
九州ですが:2006/11/12(日) 13:43:45
883 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 13:48:44
>>881 しつこいなー。
君は人の議論に横入りして、論点をぼやかせるという、
マナー違反をしてるんだよ。
それをまず理解すること。
その上で、倭人伝に書かれていないことを想像することは構わないが、
それを自明の事と書くのは、傲慢だと思うな。
あくまで可能性の問題だから。
私は倭人伝原理主義者じゃないし、倭人伝の記載に間違いはあると
思う。倭人伝のみで全てが解明できる、みたいなオカルトの信奉者
じゃないから。
884 :
九州ですが:2006/11/12(日) 14:00:54
>>878 委奴は、伊都と同じ音ですよね。同じ音を漢字で書き分けますかね?
奴はナと発音するんでしょ。どっちかというと、イナではないですか?
高天原から来た、とありますが、多くの神がみは、高天原出身。そんなに多くの
神がというより、人が、九州から派遣されますかね。土着の人も多く居ただろうし、
征服するとしても数多くの人員を動員して行って戦う必要があるのでは?
地元の人と見るのが自然ではないですか?
885 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 14:04:27
>>884 >奴はナと発音するんでしょ。
それは呉音。
886 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 14:08:48
漢や魏の時代は呉音を使ってたと思うが?
887 :
九州ですが:2006/11/12(日) 14:13:22
>>883 {人の議論に横入りして、論点をぼやかせる}って、
環濠が倭人伝の記述にあるかないか、自分で原文を確かめて、相手の
誤りを正せばすむ事。議論などという大げさなのもでも無く、
おたくが相手の間違いに、これ幸いにつけこんでるだけ。こちらもそれを離れて、
マキムクの事に焦点を移している。倭人伝の記載に従って検証を試みないと
まさかおたくの考えに依るわけいかないでしょうから。
888 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 14:13:24
だから委奴面土国=宗像市稲元
>>887 君もほんとにシツコイね。
畿内説に対する被害妄想もかなりある。
倭人伝原理主義者が、倭人伝に書かれていないことを主張するのも
なかなか。
倭人伝のみで古代を語る愚に気づいたかな。
890 :
九州ですが:2006/11/12(日) 14:17:38
>>886漢や魏の時代は呉音を使ってたと思うが?
そうですよね。仏経典などにも使われる古い発音です。
891 :
九州ですが:2006/11/12(日) 14:34:26
>>889 「畿内説に対する被害妄想もかなりある」云々。
畿内説はは、最初から捨ててます。あり得ない。
それなら九州南部説の方がまだ信憑性がある。
「倭人伝に書かれていないことを主張するのも」云々。
吉野ヶ里にあれほど環濠がめぐらされていて、伊都、前原にも環濠が見つかった。
その近辺を通過した魏の使者が環濠のないクニしか見なかったほうが不思議であり、
あり得ないと言ってるのであって。 畿内だって唐古鍵には環濠があるんじゃ
なかったですか?畿内の弥生中心地ともされるこの遺跡におたくの言う
邪馬台国畿内説では魏の使者は行かなかったんでしょうか?
>>891 庄内併行期、筑紫では須玖や吉野ヶ里、平塚川添などの弥生時代から続く
拠点集落の多くが衰退する。
大和での環濠集落の衰退は前に書いた。
卑弥呼はそれ以降の時代。
庄内併行期に全国規模で起きた、拠点集落の再編とか、まったく知らないんだな。
議論が噛み合わないのは、それが原因なんだろう。
哀れですらある。
893 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 14:46:11
邪馬台国の時代、大和での環濠集落は衰退した。
大和を中心に連合国が出来てたからだ。
894 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 14:48:46
環濠が無いまま、倉を建ててる無防備さ。
これは奈良盆地の周囲一帯が堅牢に守備されていたということ。
895 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 14:58:58
九州論者は、「環濠が無い」という無防備状態が、どういう状況を意味するか、
まったくわかっとらんな。
唐子では環濠があったものが、後に埋められ、マキムクの場合最初から環濠がない。
マキムクを作った人は、もうこの土地は外敵から攻められる不安が無い、という、
当時の社会情勢に確証があったからこそ、無駄な環濠を作らなかったのだ。
外敵とは東海はもちろん瀬戸内海から九州も含むだろう。
896 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 15:05:08
日本書記を読むと、神武は最初の戦で奈良の攻略に失敗し、
東から回り込んでいる。
神武がマキムク時代なら、マクムクは慌てて環濠を掘ったろう。
神武がマキムクを作った?そんな可能性はゼロ。
戦で勝った武将が、都に環濠を作らないわけはない。
織田信長や豊臣秀吉が城の堀を埋め戻したかね?
897 :
サガミハラハラ:2006/11/12(日) 15:09:00
大和での環濠集落の衰退は大和王権の伸張によるもので、連合国ができたからではない。
このころは孝霊・孝元・開化の時代にあたり、奈良在来勢力をほぼ制圧できたころとおもわれます。
898 :
九州ですが:2006/11/12(日) 15:43:24
>>892 それでは本末転倒。庄内がどうしたのこうしたのは倭人伝には一切関係が無い。
実際に魏の使者は邪馬台国まで到達している。北部九州も甕棺の最盛期に入っており
吉野ヶ里も弥生末期に最盛期を迎えているのは事実。
それは庄内期の年代を幅広くどこかに都合よく設定した邪論。
倭人伝の記述に従わず、庄内などおよそ無関係の年代を持ち出すところが、邪説の
本性。環濠は倭国大乱を示す大事な遺構。当時の学者が、邪馬台国かと
騒いだのも、邪馬台国自体が大乱に巻き込まれていたという倭人伝の
記述に注目したから。土器などの年代測定など、誤差があって当たり前。
庄内期の年代に固執している方が他に頼りとする文献も無い空っぽの空想。
899 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 15:49:07
>>897 >孝霊・孝元・開化の時代
それって何時の頃の話?
900 :
九州ですが:2006/11/12(日) 15:50:50
>>895「唐子では環濠があったものが、後に埋められ、マキムクの場合最初から環濠がない」
ありますよ。堀ぐらいマキムクにだって。埋められてるんですよ。
901 :
九州ですが:2006/11/12(日) 15:56:51
>>896 マキムクに周濠はありました。そこから沢山の原型をとどめた
土器が数多く出土することから、神武の攻めにあって降伏し、
故意に土器が捨てられ、周濠が埋められた、と言う専門かもいる。
>>898 >吉野ヶ里も弥生末期に最盛期を迎えているのは事実。
「弥生末期」じゃやなく「弥生後期」だろ。
庄内に入り衰退だから、末期が最盛なんてことはない。
いろいろ誤解、曲解してるんだな。訂正する方の身になってくれw
903 :
九州ですが:2006/11/12(日) 16:12:39
とにかく魏の使者は、北部九州のクニの位置関係から、人々の暮らし、風俗まで
事細かに見聞し、倭人伝に書き残している。実際に卑弥呼の女王国がある時代に
倭にやって来ている。邪馬台国連合があった時代であり、伊都国をはじめとして、
その一員であった。衰退などしてるわけがない。
904 :
九州ですが:2006/11/12(日) 16:15:52
>>901 >マキムクに周濠はありました。
古墳の周濠と集落の防御する機能の環濠を一種にしたらいかんわさ。
>神武の攻めにあって降伏し、
>故意に土器が捨てられ、周濠が埋められた、と言う専門かもいる。
その「専門か」の名前をよろしく。
906 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 16:24:58
風俗に関しては別の地域の物が混ざってると思う。
台湾か海南島か?
かなり緯度を南に考えているようだ。
卑弥呼の話は、確かに確定要素が少なく、畿内説で決定という訳じゃない。
真面目な考古学者は、実年代は語りたがらず、土器編年を用いる。
必然的に倭人伝の話は余りしたがらない。
しかし、倭人伝の記述を読む限り、「大きな墳墓を造った」「多くの鏡を欲した」
など、弥生後期末〜庄内頃の話だと分かる。
古墳の築造=首長霊祭祀が始まるのは、弥生後期末。
吉備、出雲、筑紫から始まり、少し遅れて大和。
伊都国は平原以降継続しない。庄内以降、奴国に玄海灘グループの盟主の座を
奪われている。
908 :
九州ですが:2006/11/12(日) 16:52:45
909 :
九州ですが:2006/11/12(日) 17:18:41
「マキムクは 日本各地の様々な土器が出土する事から、各地から、色んな文化を持った
人々が集まった都のようなところだったのだろう。神武の東征も、各地の文化の集大成に
少なからず、貢献したのではないか。とNHKの特集で以前に見た」
と、768 で僕が言ってるように 、テレビのこの考えに影響されているところが大だ。
学説を基にして、いい加減なことは言わないだろうという。逆に、
自分勝手に想像で立てた論に信憑性は少ないというのが自分の主義主張とするところだ。
910 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 18:01:21
>>909 そのテレビが言ったことを一字一句記憶していたとしても、
”神武東征が卑弥呼より後”だと、どこで解釈できるんだ?
九州ですが、がいい加減な知識でスレを混乱させている件について。
テレビを見て思った事とかを、適当に、さも根拠のあることのように
書かれると非常に迷惑。
一応学問板なんでね。
912 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 18:06:16
まったくだ。
「だって、テレビで言ってたもん!」
ではな。
小学生かよ。
913 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 18:09:50
テレビ番組が根拠になるなら、クレヨンしんちゃんのネタもOKね
『以前テレビで放送していた………』これを提示すれば、水戸光圀も平伏す威力
914 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 18:19:45
ホムペを絶対神の様に崇めるヤシもいれば、
NHKにでも就職したいのか?と胡麻するヤシも出現する。
イロイロだな。
915 :
サガミハラハラ:2006/11/12(日) 18:38:24
>>884 伊都は上古音ではヰタと発音していたようです。
よって委奴ヰトとは異なる国です。
昔、奴をヌと発音してノに変化したとか、ノがヌに変化したとかいっていましたが、倭人伝のほかの地名はすべて漢音で発音しています。
ところがヌは呉音なのです。よって現代ではヌといっている人はいません。古い本ではのこっていますが。
>>899 いわゆる邪馬台国時代といわれる230年代から260年代までです。
ちなみに卑弥呼の即位年は183年です。
NHKの特集も結構トンドモのときがあるからなぁ
今城塚の埴輪のやつもむりやりモンゴルと関係づけようとして妄想全開だったし
見てないから何ともいえないが神武と唐古を関係づけてしゃべってるのが本当だとしたら、
かなり怪しげな内容っぽいな。
917 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 18:41:30
「九州ですが」は、NHKの放送で、
「マキムクは神武東征が貢献」という言葉だけ真に受けて、
「邪馬台国の後にマキムクが出来た」と結論付けている。
ここで問題なのが、
NHKは、「卑弥呼の子孫が神武」だとは一言も語ってないことだろう。
それを、本人も自覚してるだろうから、逃げ道を作りながら書き込みしてるが、
なお強弁しようとする姿勢はガキとしか言いようが無い。
918 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 18:46:04
>>895 だから、狗奴国との戦争が終わった後じゃあないの。
ホケノ山とかは画文帯が出ている時点で260年以降が確定。
300〜330頃と考えた方が無難。
画文帯が260以降というのは、前に散々書いたが、反論できていないね。
>画文帯が260以降というのは、前に散々書いたが、反論できていないね。
紀年鏡は無視するの?
神功皇后が九州山門の女首長の卑弥呼を殺したんじゃないの?
921 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 18:58:40
>>918 画文帯が260以降というのは、前に散々書いたが、反論できていないね。
それが畿内説に何か影響するとでも思ってるのか?
922 :
九州ですが:2006/11/12(日) 19:10:09
>>色々言ってる割に、誹謗注中傷してるだけで、実のある回答が殆ど無い。
私はNHKの方を信じるね。どこの馬の骨か分からない、怪しい人間の
いう事を信じろという方に無理がある。学者でさえ年代には様々な
説があり、定説というものが無いのに、おかしな少数意見など
信じられるわけが無いと思いません?殆ど教育番組を信じますよ。
おたく達の なんですって?学説と同等とでも思っていらっしゃるのかは
存じませんが、信じろといわれましてもちょっとねえ。
” >>神武東征が卑弥呼より後”だと、どこで解釈できるんだ?
ですかぁ?一応聞きますが、前だ、という証明はありますか?
923 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 19:10:33
>>919 紀年だけを重視するのも無理。
畿内説の一部は紀年のある画文帯と三角は舶載鏡という。
その上で、画文帯(180頃〜240頃)、三角(240頃〜)と年代を決める。
出土状況との不一致については、「伝世鏡」で説明する。
けど、画文帯同向式は日本でほぼ全部(楽浪で1枚のみ)という出土状況。
その中に紀年があっても信用性が低い。
三角も多種類あるけど、ABCのみ出土、CDのみ出土、DEのみ出土とかで時期の
分類が出来る。三角の紀年はDEの鏡(後期の鏡)。
この分類を認めずに伝世状況の違いとするのは無理。伝世論は出土状況の無視。
>出土状況との不一致については、「伝世鏡」で説明する。
ここ意味分からない。本当に分かって書いてる?
925 :
九州ですが:2006/11/12(日) 19:21:22
>>915 委奴をイトと読む説は知ってますが、たしか、吉野ヶ里がイトで、邪馬台国
へは筑後川から有明海に出て、南下し、宮崎の方へ行く道程だったと
思いますが、その説とはどこか違うんですか?
926 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 19:23:46
>>922 >” >>神武東征が卑弥呼より後”だと、どこで解釈できるんだ?
>ですかぁ?一応聞きますが、前だ、という証明はありますか?
後だという証明をNHKがしたのか?
927 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 19:29:22
>>922 とりあえず、神武東征は卑弥呼より後あとだと思うなら、
>>862の問いにすべて回答してもらおうか。
1、瀬戸内海を航行するのに、危険な中国・四国の勢力とは、何人くらいの集団を想定してるのだ?
2、その地域に住む危険な集団を平定するために、神武の軍勢はどれくらいだ?
3、四国を平定するためには、当然舟が必要だが、その舟の数は何隻だ?
4、舟は何人乗りで、排水量はどれくらいだった?
5、神武が瀬戸内海を平定するのに要した期間は?
928 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 19:38:14
俺は神武は卑弥呼より後だと思っている。
しかし927に答える必要はない
なぜなら、ホホデミとイワレビコは別人だと思っているので、実際あんな無茶苦茶
な作戦はありえない
929 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 19:42:33
>>928 東征はあった、でも戦略はわかりません、か。
寝言は寝て言え。
930 :
九州ですが:2006/11/12(日) 20:03:25
>>927 今からTV見ないと・・・。わたしゃ学者じゃないから解らないが、
再三引き合いに出すようで悪いが、NHKでは、陸行だったみたいよ。
出雲のときは大国主命がクニを譲る代わりに大きな神殿を建ててもらって
神主に納まり、吉備を平定した時は、円筒はにわだったっけ、異文化を
統合しながら、九州、出雲、吉備など平定した地方の軍隊を集めて大連合軍となし、
畿内へと向かった、としていたけど。とにかく見た番組では海を行った話しは無かったが。
それがなにか。
931 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 20:14:29
>>930 >出雲のときは大国主命がクニを譲る代わりに大きな神殿を建ててもらって
それ、神武東征のエピソードじゃないじゃん。
なんで都合よく文献をねじまげて納得できるわけ?
>とにかく見た番組では海を行った話しは無かったが。
おまえが、陸行説なのはわかった。
932 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/12(日) 20:18:08
>>915サガミさん
委奴は国名ではありません。倭語「イナ」を漢字に置き換え字意を持たせたものです。
(ナを委ねる)
ナ=中心的に形成(言意)
933 :
九州ですが:2006/11/12(日) 20:28:02
>>931 こっちが知るわけ無いでしょうが。神武というのは邪馬台国の卑弥呼死後の
勢力の事。
>>931神武東征のエピソードじゃないじゃん。
こんな幼稚な考えは捨てようね。
神武と祟神のエピソードが似通ってるのはなぜですか?
むしろ神武と景行のエピソードのほうが似通ってるといえなくもない
936 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 21:09:21
にてね〜(ツッコミ)
937 :
サガミハラハラ:2006/11/12(日) 21:13:12
吉野ヶ里が委奴国であるのは同じですが、伊都国は佐賀県西部の多久市(唐津の南東です)
です。邪馬台国は同じく佐賀県の小城市甘木です。卑弥呼の墓は小城公園内の桜ヶ岡です。
神武と崇神のエピソード どこが似通っていますか。
938 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 21:27:25
>>924 >>923を読めば分かると思うが・・・
画文帯や三角の紀年鏡の紀年は古い年代が書かれている。
しかし、画文帯も三角もほとんどは古墳から出土する。
紀年のある鏡も、最古級の古墳からではない。 だから「伝世論」に行き着く。
ただし、最近は古墳時代を200年頃からに遡上させることで、伝世の
不都合を回避させようとする見解もある。
>>924はその意図か?
ただ、遡上させると伊都国の年代と整合しない。
伊都国重視の倭人伝の記載を説明できない。
平原遺跡の鏡とも共通性がない。
狗奴国との戦争中に大型古墳を多数築造とかは、無理。
古墳時代を280〜300年頃からにしたほうが、全体の整合が取れる。
伝世をほとんど認めず、画文帯(280〜330)、三角(330〜)位に考えた方が
説明し易い。 これだと畿内説に不利だが。
応神だったorz
>>938 >ただ、遡上させると伊都国の年代と整合しない。
>伊都国重視の倭人伝の記載を説明できない。
意味不明。伊都国の年代というのはどうやって決めた?
>狗奴国との戦争中に大型古墳を多数築造とかは、無理。
狗奴国とは卑弥呼と折り合いが悪いと書かれているから、
卑弥呼の死後はどうなったかわからない。
というより、わざわざ卑弥呼と和せずと書いていることからすると、
卑弥呼以後は仲直りしたと考える方に理があるだろう。
大型古墳が多数作られるようになるのは箸墓以後。
したがって、箸墓が卑弥呼の墓であれ、それより後の墓であれ、
大型古墳が多数作られるようになるのは卑弥呼死去の後。
よって問題ない。
>狗奴国との戦争中に大型古墳を多数築造とかは、無理。
大いに塚を作る。径百余歩。殉葬する者、奴婢百余人。
倭人伝にも書いてるだろ、大きな墓を造ったって。
倭人伝原理主義者なのに、倭人伝を否定するの?
>>937 >吉野ヶ里が委奴国であるのは同じですが、伊都国は佐賀県西部の多久市(唐津の南東です)
まったく根拠ありませんね
943 :
九州ですが:2006/11/12(日) 21:52:06
>>938 とても理論的で納得いきます。
伝世になるといつ埋めるかの決まりが無いので、古い神社とかに
沢山奉納されて残っていてもおかしくないと思ってました。テレビでも、
鏡は信仰であり、その人の死後の闇を照らすという意味で、
その死とともに一代で埋めること、
日本のどこにも伝世の風習が残っていない事などをあげて、
伝世鏡には否定的な内容になってました。
944 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 22:03:52
>>943 >日本のどこにも伝世の風習が残っていない事などをあげて、
デタラメを信じるなよ。
籠神社には、古い鏡が伝世されてる。
普通は秘伝だから、表に出ないだけ。
945 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 22:04:50
畿内説が伝世鏡っていつの話?
今はむしろ、九州説だろ、伝世鏡を言ってるのは。
946 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 22:10:38
伝世された鏡もあれば、伝世されていない鏡もある。ただそれだけの話。
畿内説批判のつもりで伝世鏡説を叩いてる奴は、もっと勉強するように。
947 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 22:11:53
>>940 >伊都国の年代というのはどうやって決めた?
伊都国通信によると(200頃〜250頃) これは柳田説。
http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/tusin/honbun/tusin3.html 平原の年代については、色々あったみたい。
庄内式も出ていたけど、畿内の学者は古墳築造後に捨てられたと認めない。
伊都国の年代が200年以降になると畿内説に不利なのは明らかだし。
しかし、現在は、柳田説に対して、正面から反論して論争を挑むものもいない。
柳田も200〜250のうちの200年頃と強調するように妥協した。
畿内説も平原は無視、軽視でなんとかやっている。 こんな感じに見える。
>大型古墳が多数作られるようになるのは箸墓以後。
ホケノとかのレベルでも十分大型だよ。戦争やっている最中に人員を
動員してこの規模の古墳を作ったとかはあり得ない。
むしろ、狗奴国との戦争後に余剰労働力を動員したと見た方がいい。
948 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 22:16:34
もっとも伝世されてるのが、天皇家にあるがな。
949 :
太国:2006/11/12(日) 22:17:37
三種の神器。
950 :
九州ですが:2006/11/12(日) 22:18:18
>>944 あのね神社に何枚か伝わってる鏡なんかを言ってんじゃないの。
日本中に伝世した鏡があったら、少なくとも、奈良、平安の文献に出てきても
おかしくないでしょう。それも半端な数じゃないはず。
何年後に埋めると決まってないんだから。
何より鏡の伝世なんて943で言ったようにない。
>>947 >伊都国通信によると(200頃〜250頃) これは柳田説。
それってさ、庄内併行期だけどいいの?
供伴関係があるからもはや畿内だけを動かすことはできないのよ。
畿内の庄内を三世紀末から4世紀に動かすと『(200頃〜250頃)』も同じように
三世紀末から4世紀になるよ。
柳田は250年ごろから布留だから。
>>947 >戦争やっている最中に人員を動員してこの規模の古墳を作ったとかはあり得ない。
それは主観でしかないね。
狗奴国との戦争が全面戦争であったとはどこにも書いてないし。
953 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 22:34:11
>>871 >ようするに、高天原は朝鮮だといいたいわけね。
言ってもいない朝鮮を持ち出すのは卑怯だと思うけど。
記紀を読むと、高天原と出雲と日向の記述が大部分を占めている。
出雲と日向がどこであるかは明らか。
そうなると、高天原は、九州の西側ということになる。
福岡・佐賀・長崎・熊本のあたりが古代重要な地域であったにも関わらず
記紀の神代には全く登場しない。
それは、このあたりが高天原だったからに他ならない。そう思う。
>>952 >狗奴国との戦争が全面戦争であったとはどこにも書いてないし。
その前に、狗奴国と戦争したなどとも書かれていない。
955 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 22:37:22
書き漏らしたけど、大分も高天原に含まれるかもしれない。
956 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 23:00:36
>>953 他人の妄想を鵜呑みにする超低能発見!!死ねよ
957 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 23:03:17
この板で議論を続ける限り、結論は永遠に出ないのでは?っていうか、
結論が出ないのを楽しんでるよね。
958 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 23:04:02
>>951 そうだね。柳田は畿内の土器については、畿内説に妥協しているね。
平原では庄内移行期を200〜250と曖昧にしているようにも見えるけど、
著書では、正面から畿内を論じずに表で畿内の庄内を(200〜)にしてる。
本当は、平原が200年だと畿内の遡上年代とは出土物の共通性がないから、遡上派とは
相容れないはずだけど。画文帯が出土しないとか。
・・・柳田は、そうやって遡上派の人とも上手く付き合っているという感じに見える。
学者って、結構政治的なことに敏感なんだよね。
>>958 うまく付き合うも何も、同じものが一緒に出てるんだから同じ年代にしないとしょうがないでしょ。
で、片方上げればもう一方もあがらざるをえないという状況下で、
どちらの年代感が正しいかという論争をしてたわけ。
柳田は年代繰り上げ派の急先鋒で、そんなに古くなるはずがないと
畿内の土器研究者が反対して意見が食い違っていたというのが以前の経緯。
今おこっている畿内の年代繰上というのは、畿内の研究者が柳田の考えを
認めざるをえなくなってきているってこと。
960 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 23:18:31
>>959 そういうお舞には何の考えも無いな。死ね、低能!!
961 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 23:21:45
>>958 >>959 貴様らみたいな糞バカを生んだ母親はさぞかし後悔しているだろう。
せいぜい親孝行しろよ。低能!!
962 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 23:27:35
>>953 いさぎよく、邪馬台国は朝鮮人が九州に渡来して作った国だと認めたらどうだ?
そうすれば九州説はもっと信憑性が増すものを。
邪馬台国が東遷して大和朝廷になったなら、
朝鮮人が九州に渡来して邪馬台国を作ったという事実も認めないと。
963 :
九州ですが:2006/11/12(日) 23:37:47
>>)958
>>959 これなんかどう思う?面白いよ。
ホケノ山古墳からは庄内式土器や画文帯神獣鏡が出土しており、
邪馬台国時代よりもあとの時代の古墳と考えられる。
ホケノ山古墳の木槨の存在が、『魏志倭人伝』の
「棺あって槨なし」の記述と違っていることも、この古墳が邪馬台国時代
のものでないことを示している。
さらに、ホケノ山古墳だけでなく纏向の古墳のかたちが、崇神天皇陵とそっくりであり、
これらの古墳群が崇神天皇の時代に近い頃の築造であることを思わせる。
■ 庄内式土器の分布
北九州ではかなり広い地域に分布しているのに対し、近畿地方では大阪と奈良のかぎられた地域にしか分布しない。
これは、庄内式土器が九州から近畿地方にもたらされたと考える方が自然である。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku238.htm 上記はここより抜粋。
964 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 23:51:01
>>962 それはありえない。
倭人伝には、卑弥呼が共立される7,80年前には男王がいたとある。
西暦57年には、倭奴国の王が漢に使いを送っている。
朝鮮からある種の勢力が海を渡ったというのはどこにもうかがえないし、
そんな勢力が未開の朝鮮にあるわけがない。
朝鮮の歴史書といわれる三国史記にもそのような記述はない。
また、海を渡って日本を攻めるのは容易ではない。あの大帝国の元でさえ
不可能だった。
九州説と朝鮮を結び付けようとするのは、悪あがきでみっともない。
965 :
九州ですが:2006/11/13(月) 00:07:21
>>964 そうそう。でも以前に「日本人はどこから来たか」という本を読んだら、
遺伝子が一番そっくりなのは朝鮮半島、と近畿地方だった。
九州は旧モンゴリアンの血が強かったみたい。弥生時代に、何波にも
亘って、大陸からも人々が渡ってきたみたい。古墳時代にもそれは続いたんではないか。
前に聞いた事だが、大阪の難波っていうのは朝鮮語の日の当たる場所とか言う
意味なんだってよ。
966 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 00:16:39
>>965 これはなかなか難しい。
何かで見たけど、シベリアの人と日本人の遺伝子は近いらしい。
同じく、朝鮮人も近いらしい。
これはシベリアから共通の人が日本と朝鮮にやってきたことを示して
いるらしい。でも、日本にはアイヌのような民族もいた。
東南アジアや中国南部から南西諸島伝いにやってきた人がいたことも
確からしい。
また、山口県の遺跡から出土した骨は、中国の東北部あたりの人と
共通するらしい。
らしいばかりだけど、要するに、いろんな交流の結果ということかな。
でも、これは有史以前と考えたほうがいいと思う。
967 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 00:46:34
台はトという当て字もある。よって、邪馬台国はヤマト国とも読める。
>>965 その、データには信ぴょう性がない。なぜなら、近畿地方は全国から集まった
都市民で、単一の集団などないから。昔ながらの農村の集落の人のデータなら
わかるけど、村によって由来が色々ある。
マキムクには運河や上水道などの設備もあり、まだ、全てが発掘された訳では
ない。箸墓古墳などが宮内庁管理で発掘や調査ができない為、九州説論者に都合の
いいように解釈されてしまうという欠点がある。
968 :
日本@名無史さん:
>>965 >大阪の難波っていうのは朝鮮語の日の当たる場所とか言う意味
初耳ですが、多分ウソでしょうね。ワッソとかナラとかと同じで。
そもそも古代朝鮮語の実体が不明。日本語との類似性も低すぎます。
私は、日本語は日本で発展した言語を主軸として、南方系とのクレオールと考えております。
朝鮮、モンゴルの影響はわずかでしょう。