【シベリア抑留】ソ連軍による拉致強制労働 part3
●スターリンの罪はいくら告発しても告発しきれない。悪質かつ最大の戦争犯罪人は
スターリンである。
●許せぬ日本人墓地破壊命令
●ソ連による抑留日本人105万人、虐殺40万人の衝撃
●満州で無法の限りを尽くしたソ連軍
●在満法人を襲った生き地獄
●アルハンゲリスキーの解明
・マリクがモロトフに宛てた文書では、「1946年12月4日付け政府決定に従い、ソ連から
の日本人の本国帰還が緒に就いた。本国帰還該当者105万2,467人のうち既に
10万 1,075人が送還された」
・1947年3月5日付けの対日理事会でビジョン米代表が、日本捕虜帰国の現状に言及し、
ソ連領内にまだ105万301人の日本人が残留していると述べたところ、1947年3月27
日付けのマリクからモロトフ宛ての書簡では、ビジョンに反論するため「1947年3月5日
現在ソ連内にいた軍人及び民間人の日本人は総計約70万人」としたのである。折りしも
東西冷戦が本格化した時期で、以後、鉄のカーテンに阻まれ、抑留者の数、死者の数と
も曖昧にされていく。
なぜ、こんな隠蔽工作をしたのかといえば、1945年から1947年にかけて大量の日本人
がシベリアの地で死亡したからだ。とくに1945年から46年にかけての冬、シベリア全土
を異常な寒気が襲い、日本人抑留者の命を次々と奪った。防寒服も防寒用の靴もなく、
布テントに収容され、しかも食料も十分に与えられなかった日本人捕虜たちはひとたまり
もなくシベリアの冬将軍の餌食をなった。
●アルハンゲリスキー著 「シベリアの原爆」 邦題「プリンス近衛殺人事件」
・シベリアでのソ連の犯罪を告発したもの。
・ヒトラーの悪行さえかすんでしまう、スターリンの悪行を白日の下に晒すことになった。
・日本人捕虜の大量死亡を隠し、国際世論をかわすためにクレムリンが日本人の埋葬地
さえ後に破壊したという聞くに絶えない事実が明らかにされた。
●アルハンゲリスキー氏とは
・1929年生れ、70年代には政府機関紙「イズべスチャ」の副編集長に就任した花形ジャ
ーナリストで、ソ連ジャーナリスト同盟議長、ソ日協会副会長などの要職も務めた輝かし
経歴の持ち主。この経歴を見てもわかる通り、アルハンゲリスキー氏はソ連政府・ソ連
共産党からの信任も厚く、現役記者時代にはクレムリンの奥深くまで取材を自由に許さ
れ、ブレジネフやフルシチョフの謦咳に接する機会を何度も持っていた。いうなれば、ソ
連体制内で功なり名を遂げた人物。この老ジャーナリストが、なぜ、故国の恥部を晒し、
日本人も及ばないほど激しく追求し、弾劾・告発するに至ったか。その答えは、彼の少
年時代に遡る。アルハンゲリスキー氏は、少年時代からソビエトの共産主義体制や
共産党の教義に内心で疑問を抱いていた。ソ連の現体制に懐疑的な考えを抱きながら、
アルハンゲリスキー氏が少年兵として独ソ戦に加わったのは13歳の時だった。・・・・
独ソ戦は彼の家族も奪った。父親、兄弟のほとんど全員を失い、遺骨はおろか、消息
までも一切わからない。記憶を取り戻したアルハンゲリスキー氏が親兄弟の行方を知
りたい一心で、国防省関係の文書保管所に入ったのが、そもそもの始まりである。
肉親の消息は杳として知れなかったが、数々の機密文書に触れるうちに、ソ連の圧制に
苛まれ、圧殺された近衛文隆氏に関する機密文書に遭遇し、日本兵のシベリア抑留問
題に横たわる暗部に触れた。
抑留者名簿をHPで公開へ
厚労省、4万人分
第二次大戦後に旧ソ連やモンゴルに抑留されたまま死亡した軍人・軍属ら約4万2千人の
名簿について、厚生労働省は21日までに、同省ホームページ(HP)で公開する作業に入った。
年度内にも実現する見通し。
名簿は1991年から同省や各都道府県で閲覧できるようになっているが、自治体によっては
個人情報保護法や条例を理由に「遺族以外の閲覧は認めない」と拒んだり、名簿を倉庫に
保管して窓口対応ができないなどのケースがある。
(日経06・06・21夕刊)
6万人を超える犠牲者
◆ ソ連の東洋アカデミーのキリチェンコ研究員は、シベリア抑留について「64万人を抑留
し、そのうち6万4000人が死亡した」と述べている。
一方、昭和30年6月17日の外務省発表は、終戦当時に満州、北朝鮮、千島、南樺太に
居住していた軍民合わせて272万6000人のうち57万5000人がソ連軍によってシベリア、
外蒙古、中央アジアに移送されたとしている。
これとは別に留守業務部の資料では54万1500人が移送されたとなっていて、正確な
抑留者の人数は今もって分からない。
◆ しかし、昭和21年12月19日に締結された「日本人引揚に関する米ソ協定」によって
開始された抑留者の送還は、昭和25年4月22日にソ連側から47万1000人の送還を
もって完了したと発表された。
実際には昭和29年3月までに1231人、昭和30年4月に88人、そして昭和31年12月26
日に最後の引揚者1025人が帰国したので引揚者の総数は47万3000人余りとなった。
◆ 外務省発表を根拠にすれば、未帰還者は10万2000人、留守業務部の資料を根拠に
すれば未帰還者は6万8500人になる。この数字は現地からの逃亡・行方不明、戦犯と
して中国に引き渡された数を含んでいるから、抑留中に死亡した数は6万人を下らないと
判断するのが妥当と思われる。
スターリンらは、忠臣蔵のイメージなのか、日本人というのは復讐心に富んだ民族であり、
大戦時の不法行為への復讐を復興後やるに違いないと偏見を持っており、
日本軍人を大量に捕虜にして強制労働させ、衰弱死させて、その力を決定的に割こうと
いう国際法にも人道にも反する野蛮な計画を立てていた。だから、米よ、お前等もなぜ
そうしないのか?という見当違いのソ連の疑問につながっている。
この田舎者・鬼畜民族の発想は常軌を逸しているね。ドイツや満州での鬼畜強姦作戦も
同じ発想に基づくサディスティックな衝動だった。
“スターリンが対日参戦を決意した日”
―ソ連の戦後対日政策はここから始まった
日露関係疎遠の遠因・スターリンの歪んだ日本観は、三冊の本から形作られた
横手慎二 『中央公論』03・10月号
http://www.chuko.co.jp/koron/back/200310.html
【ロシア】日本人5268人、北朝鮮に残留=大半が死亡か-シベリア抑留新資料[08/27]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1156633286/ 【モスクワ26日時事】第二次世界大戦後の旧ソ連による日本軍将兵のシベリア抑留で、ソ連領
連行後、病気などを理由に朝鮮半島北部に移送された日本人のうち5268人が北朝鮮領内にその
まま残留したとみられることが、ロシア国防省中央公文書館に保管されている機密資料で明らか
になった。シベリア抑留者のうち北朝鮮移送者の実態はこれまで謎だった。
ロシア政府は昨年、1946年5~7月にソ連から朝鮮北部に送られた日本人2万7671人の名簿を
厚生労働省に提供。死亡者名簿や帰還者リストは見つかっていなかったが、このうち2万2403人
が日本に送還されたことが沿海地方軍管区や内務省の資料で判明した。
沿海地方軍管区のフォミン捕虜送還部長は47年6月23日付文書で、「46年11月から47年4月に
かけて、旧日本軍将校400人、下級将校・兵士2万2003人を朝鮮北部から日本に送還した」とし、
北朝鮮からの民間人を含めた送還作業終了を報告した。
残留した5268人の多くは傷病者で、病気などで死亡したとみられる。北朝鮮移送者は
沿海地方ハサン地区のポシェットから元山に送られ、元山の第4、第5収容所に収容されていた。
ソ連のスターリンは46年4月、シベリア抑留者のうち、「労働力」とみなされない抑留者を日本に
帰還させるとの内務省の提案を承認。3万人以上がポシェットに送られたが、到着までに2700人が
死亡したといわれる。
【シベリア抑留】 元ウクライナ人捕虜から入手した日本人捕虜についての情報
「チェルニフチ市のヴァシリ・ミハイロヴィチ・ザクレフスキー氏の証言」
私たちはここから鉄道建設のために作業大隊で強制的に連れて行かれた。ここでは一日に
2~3人の捕虜がまるで野ウサギのように射殺されていた。死体は頭を金槌で割られ、
埋める前に掘った穴の中でもう一度機関銃で撃たれた。そして墓地は有刺鉄線で囲まれて
おり、見張り台でソ連兵が監視していた。
「チェルニフチ市のウィポブィ氏の証言」
2~3日後、同じ所に20~25人の日本人捕虜が輸送されてきた。日本人を見たのはこれが
初めてだった。彼らはほとんど皆、金歯があった。この日からものすごい苦痛の叫び声を毎晩
聞くようになった。ソ連兵たちが日本人を殴りつけた上、金に換えるために金歯を折って取り
出していたのだということが後になって分かった。この行為は暗闇の中で行われた。金歯を
抜き取った後にソ連兵は電気を点灯した。赤い共産党サディストの拷問を受けた血だらけの
日本人が私たちの目に入った。そこから私たちは貨車でドゥディンカ経由ノリリスク収容所へ
連行された。その時日本人は一緒に連行されなかった。
『異国の丘』とソ連・日本共産党(1)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/siberia.htm
劇団四季 ステージガイド 異国の丘
http://www.shiki.gr.jp/applause/ikoku/siberia.html ・・・終戦の6日前、ソ連は日ソ中立条約を破って侵攻を始め、9月3日の停戦までに、
無抵抗の関東軍を武装解除し、市民たちを蹂躙(じゅうりん)し、捕虜としたあげく、
貨物列車に乗せてシベリアに移送してしまった。そして「抑留」と称して、厳しい強制労働
を課したのである。その数は60万人とも65万人とも、あるいはそれ以上とも言われている。
ソ連は、当初から戦後の経済復興のために、日本軍兵士を労働力として使う計画だった
という。満州国に莫大な資本を投下して築き上げた重工業プラントや機械設備を解体して
持ち去り、それを抑留兵士の無償の強制労働で建設したのである。森林を伐採し、鉄道を
敷設し、病院や公共施設を建造する工事にもかり出された。・・・
抑留兵士たちは、ソ連から「すみやかな帰還」を約束されていると信じていた。シベリアへ
移送される列車の中でも、ダモイ(帰国)の船が出るナホトカへ向かっていると思い込む者
が多かったが、実際は逆向きの奥地へ、北や西へと移動していたのであった。
シベリアは冬はマイナス60度にもなり、反対に夏は38度の熱暑という寒暖の差が激しい
気候。ラーゲリ(収容所)のほとんどは暖房設備も行き届かず、連行された夏服のまま
防寒着も不足していた。不潔な環境で様々な病気が流行したが、医療設備も不完全で、
十分な治療を受けることはできなかった。
最初の冬が越せず、6万人が死亡したといわれるのも当然であった。続出する死亡者を
埋葬するための作業隊が作られ、遺体は白樺の根元に埋められた。
まず、兵士たちの振る舞いからしてソ連軍はおよそ解放軍とは似ても似つかないものでした。
「占領軍として北朝鮮に乗りこんできたソ連の評判はかんばしくなかった。かれらは、
みさかいない略奪や強姦をほしいままにした。旧日本軍が朝鮮のいたるところにつくった
防空壕の中から女の悲鳴が聞こえ、朝鮮人たちは『ああ、またか』と耳をおおってその場を
足早に立ち去るというのが日常茶飯事であった。助けに駆けつけて射殺された者もいた」
(萩原『朝鮮戦争――金日成とマッカーサーの謀略』、文芸春秋社、五九頁)。
また、ソ連は旧日本工場の機械類などを大量にソ連に運び去りました。
「清津では、日本製鉄所その他の工場の設備機械等の一部を運び去り、日本高周波城津工場
では、工場運営に必要な程度を残して、工作機械や部分品、製品を運び、佐川日鉄鉱業所から
倉庫にあった機械器具、事業用品を運んだ。日本高周波城津工場で撤去をおこなうとき、
気概のある工場長(双浦人民委員会長・金采俊氏)は、『これ以上運ぶなら私を殺してからやって
くれ』とソ連兵の前に立ちふさがり、その搬出をくいとめたと伝えられている」
(森田芳夫『朝鮮終戦の記録』、同前より重引、六一頁)、等々。
しかし何より深刻な結果をもたらしたのは、ソ連軍による二十万トンのコメの供出命令でした。
二十万トンというのは、当時の北朝鮮の年間産米高の四分の一に相当する莫大な量です。
しかも、「当時ソ連軍が何人駐留していたか、公式の統計はない。十三万人という説も二十万人
という説もある。しかし仮に最大二十万人いたとしても、一人一日七百グラム(当時の朝鮮人の
配給量、三合)食うとして、二十万人ではせいぜい年間五万一千トンの消費である。その四倍もの
二十万トンも取り上げた目的は明白である。本国への搬出である。ソ連国民に食わせるために
朝鮮人を犠牲にしたのである。ソ連軍は解放の恩人どころか、ただの略奪者にすぎなかった」
(同前、六四頁)。
http://www.workers-net.org/wk80item.html
民主運動とは
さて、昭和22年になると収容所内で「民主運動」というものが台頭してきた。民主運動は
当初、旧軍隊組織に対する反発から始まり、次第に反動闘争(共産主義ソ連一辺倒)と
いう大きなうねりとなっていった。
民主運動を主導したのはソ連政治部将校で、その手段として「日本新聞」が大きな役割を
果たした。日本新聞とは、ハバロフスクで発行されていた日本語新聞で、”ソ連軍が日本人
捕虜に与える新聞”(第一面に記載)という性格をもっていた。
民主運動の目的
ソ連当局にとって民主運動のねらいは、1)日本人捕虜に共産主義の考え方を叩き込む
こと、2)前職者の告発、そして、3)捕虜を労働にかりたてること、にあったと思われる。
ここで前職者とは、参謀、特に情報参謀、特務機関、憲兵隊、警察などの職を一度でも
経験した者のことをいうそうである。”反動”すなわち軍国主義、ファシズム思想をもつ者
という意味であろうか。
アクチーブが中心になって反動を批判攻撃するために、しばしば激しい”吊し上げ”が全員
参加で行われた。ここで反動とは、前職者、軍国主義者に限らず、共産主義ソ連の反対者
全般と言うことになるが、反動がほとんどいなくなった後では、アクチーブ自身の地位安泰
のために、ささいな言いがかりをつけて反動を無理やり作り出すといった状況が見られた。
反動は永久に帰国させない、というおどしをかけられ、事実帰国を遅らされる者が相次いだ。
こうして多くの者は、次々と自己批判をして”ダモイ(帰国)用民主主義者”となっていった。
反動から民主主義者へ転向した証しを示すには積極的な活動をする必要があった。まだ
残る反動を吊し上げて罵詈雑言を浴びせること、あるいは前職者の密告、そしてでっち上
げまで行われた。
シベリア抑留(団塊の世代一代記)
http://www.akimasa21.net/itidaiki/sibir.htm
◆ 満州から送られた抑留者は千人規模の部隊編成で収容所に着き、収容所の人員は
千五百人規模が基準になっている。
やがて本格的な冬がやってきた。イルクーツクはソ連全土のなかでも屈指の寒冷地で、
一月の平均気温は零下二〇度まで下がる。厳寒の冬期には零下三〇度から四〇度近く
まで下がることもあった。ほとんどの兵士は夏の軍服を着用していたので、シベリアの寒
さが身にしみて堪えた。
◆ 寒さと飢えに苦しみながら、千五百人の日本人捕虜は重労働を課せられた。イルクー
ツク第一収容所だけで、九十七人が栄養失調で死亡している。遺体はゴザに乗せられて、
丘の向こうの凍土に掘られた共同墓地に埋められた。シベリア全土の収容所で、このよ
うな悲劇が繰り広げられていた。栄養失調は、エネルギーの収支が赤字になるとそれを
補うために身体の成分を消費して、体重が減少し、やがて全身の脱力感が現れ、末期に
は昏睡状態になって死亡する。身長の高い者ほどエネルギーの消費が多いので、死亡率
が高かった。望郷の思いを抱きながら、シベリアの土となった人たちを思うと言葉も発する
ことも出来ない。
◆ 捕虜たちを苦しめたのは、寒さと飢えだけでない。ソ連全土の収容所に吹き荒れた
「シベリア民主運動」という思想教育の嵐があった。この運動に日本人捕虜の一部が加担
し、同胞の上に権力を振るうことになる。ソ連政治将校と一緒に収容所を回る日本人オルグ
は、最初は予備士官学校出の幹部候補生が多かったと言う。
一般の兵士には、初めて聞く社会主義の理論は、難解で取り付き難かったのであろう。
もとっも幹部候補生たちの社会主義の理解度は、兵士たちと五十歩百歩で、やがて兵士
の中から筋金入りのマルクス主義者が生まれるに従って淘汰されていく。
19 :
18:2006/10/03(火) 18:18:55
『雪原にひとり囚われて―シベリア抑留10年の記録』
坂間文子 講談社
http://www.fukkan.com/vote.php3?no=34561 日本兵のシベリア抑留体験記は数多いが、民間人でしかも女性の抑留体験記は非常に珍しい。
これは、旧満州・大連のソ連領事館で日本語を教えていたことから終戦後にスパイ嫌疑をかけられて
シベリアに連行され、ラーゲリと流刑地で10年抑留された日本人女性・坂間文子さんが著した体験記である。
ソ連の恐怖の収容所生活が赤裸々に描かれている。
厳冬のシベリアの地。不当なスパイ容疑で囚われた病弱な女性が、一切の弁明も許されず
無法・理不尽な裁判を受けた。坂間さんは決して無実の罪を認めなかったため、ラーゲリから流刑地へと、
10年抑留されることとなる。
いつ帰国できるのかもわからない絶望の中、坂間さんは苛烈な虐待に耐え、たくましく生き延びた。
厳しい生活の中でも、囚人たちとの交流、ロシア語の勉強、趣味の刺繍を流刑地での生活の糧にしたこと等、
つらい境遇の中に喜びを見出そうとした記述もあり、読んでいて救われる。
帰国がかなったのはスターリンの死後であった。
この本は著者が帰国して20年後の昭和50年に出版されたが、現在絶版。
その後同じ著者により「生きながらえて夢」(日本図書刊行会)が1997年に出版されているが、
これは帰国後の人生を中心に書かれており、シベリア抑留体験の描写は簡単なものにとどまっている。
元のこの本の方が、壮絶な抑留体験が迫力をもって詳細に書かれているので、おすすめである。
坂間文子著 『雪原にひとり囚われて―シベリア抑留10年の記録』
http://f3.aaa.livedoor.jp/~asapy/siberia.htm この本は、シベリアに抑留された日本人女性・坂間文子さんの体験記です。男性のシベリア抑留者は
万単位でいましたが、女性の抑留体験者は非常に珍しいといえます(全部で30数人だったそうです)。
坂間さんが体験した、ソ連の収容所生活の様子が赤裸々に描かれています。
著者の坂間文子(旧姓・赤羽)さんは、明治42(1909)年、旧満州(現在の中国東北部)の大連に生まれ、
大連神明高等女学校・大連語学校英文科を卒業。病弱なため独身のまま、英語の個人教授をして
家計を助けていました。
昭和18(1943)年、大連のソ連領事館の日本語教師となったのですが、昭和20(1945)年の終戦に
よって運命が一転します。領事館の日本語教師という経歴がスパイ嫌疑につながり、進駐してきた
ソ連軍に国事犯容疑で逮捕されてしまったのです。
未決監獄で取り調べを受けたものの、身に覚えのない容疑を認めるわけにはいきませんでした。
145センチ30キロそこそこの小柄な坂間さんは、ふるえながら大男の検事の尋問に抵抗し続けました。
しかし同年12月、貨車に詰め込まれてシベリアに送られました。
そして翌21年6月、裁判もないまま「五年の刑」を言い渡されました。当時36歳。なすすべもなく、
カザフ共和国北部のラーゲリに護送されました。シベリアの寒さに倒れ、ラーゲリ内の病院に
二年入院。ろくな治療も受けられず、高熱で左耳の聴力を失いました。そうしてどうにか釈放の
年・昭和25年を迎えました。
ところが、次に坂間さんを待ち受けていたのは、流刑でした。監獄には入らなくてよいものの、
シベリアの寒村にしばりつけられ、厳しいノルマを果たさなければなりませんでした。虚弱体質
だった坂間さんに、木材の伐採などの肉体労働ができるはずもなく、日々の糧を求め、こじき
同然の姿で村の公共便所の掃除婦もしました。
坂間さんが帰国できたのはスターリン死去後の昭和30年4月、46歳の時でした。
坂間さんは帰国後、商社の兼松でロシア語通訳をしておられました。縁あって、50歳で結婚
されました。1997年時点で88歳で東京都国分寺市にお住まいであったことまでは判明して
いますが、その後の消息が分かりません。
25 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 18:38:48
26 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 19:45:13
糞共産ソ連シネ
27 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 12:11:00
28 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 13:20:07
29 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 15:50:18
まあ今も人権が無い国だからいたし方あるまい。
:::::::::::::::::::::::::ヽ
/:::::::::::::::::::::::::::::::::::\
/ ::::::::: /| ||:::::::::::::::::::::::ヽ 恋も二度目なら すこしは器用に
((((((( | ||(((::::::::::::::::::::i 甘いささやきに こたえたい...
)::/  ̄ 、  ̄` \:::::::::::::::l 前髪をすこし なおすフリをして
|::|´ ゚̄./  ゚̄` |::::::::::::::| うつむくだけなんてぇ... 歩道にのびた
|::l ´´ ( _ .、`` .|:::::::::::::::\ 貴方の影を 動かぬように止めたい
.丿:ヽ :─- 丿::::::::::::::::::|
彡:::::::\ ` _ 彡:::::::::::::::::::::/ 抱きあげてぇ 時間ごと からだごと
ヽ::::::::::: ̄ i__l彡:::::::::::::ノ わたしを さらって欲しぃ.... ♪
 ̄ /|/!ヽ/ |\ ̄ 切なさが クロスするさよならに....
/>.| /。| ̄ \ 追いかけられるの..... イヤょ...
/| \|//.__ l⌒i
| | | | | | | メグミ
32 :
日本@名無史さん:2006/10/18(水) 12:45:27
「侵攻してきたソ連軍は一兵卒にいたるまで、出逢った日本軍人にこういった。
『日本人ヤポンスキーと独乙(ママ)人ゲルマンスキーとウラルで握手して、ソ同盟を半分コにしようとしたんだろう』そう教育され、固く信じ込んでいた彼ら」
(三田和夫著『迎えにきたジープ 奪われた平和』(二十世紀社、昭和30年)p.19)
シベリア抑留 風化させるな
体験画家、東京で作品展
「極寒の埋葬」など88点 日経06・10・18 夕刊
シベリアに抑留された経験を描く東京都在住の画家の作品展が20日まで都内で開かれている。
戦友の遺体を埋葬するなど過酷な体験を表現した油彩画を紹介し、同じ抑留体験者が生死の
境界線を生きた状況を説明している。19日で日ソ共同宣言から50年。関係者は「歴史の節目に
もう一度戦争の悲惨さと向き合ってほしい」と話す。
東京都大田区の勇崎作衛さん(83)。1943年に徴兵され、旧満州(中国東北部)陸軍病院に
衛生兵として勤務。終戦後、バイカル湖近くのウランデ収容所などで3年間の過酷な抑留生活を
経験したという。
51年から記憶を頼りにスケッチや油絵を描き始め、65歳から本格的な創作をスタート。93年に
初画集を出版した。絵画展は凍土に戦友を埋める様子を描いた「極寒の埋葬」など88点を展示。
ソ連兵に射殺される戦友の姿や極寒の地での労働状況が描かれた作品が並ぶ。
全身が衰弱し、病室で寝たきりの生活を送るが、「シベリアの体験を多くの人に伝えたいと絵筆
を取ったが、まだ描き切れていない。健康が回復したらまた絵を描きたい」と話す。
会場には同じ抑留体験者の平塚光雄さん(79)らが語り部となり、当時を“再現”。
(略
主催する「千代田・人権ネットワーク」代表の有光健さん(55)は「シベリア抑留は大規模な人権侵害
にもかかわらず、国内の認識は低い。日ソ共同宣言から50年を機会にもう一度、戦争の実態を
考えてもらいたいと話している。
絵画展「日ソ共同宣言50年・シベリア抑留絵画展-勇崎作衛のシベリア抑留体験」は千代田区立
九段社会教育会館・九段ギャラリーで。入場無料。
34 :
日本@名無史さん:2006/10/20(金) 01:20:03
35 :
日本@名無史さん:2006/10/20(金) 09:13:18
>>32 ロシア語で日本人をヤポンスキーとは言わないし、
同様にドイツ人をゲルマンスキーと言わない件について
36 :
日本@名無史さん:2006/10/20(金) 16:48:02
つ 酷使様のオナニー
37 :
日本@名無史さん:2006/10/20(金) 17:54:55
>>35 著者の三田和夫氏には、おそらくそう聞こえたか、通訳が未熟だったのでは?
そういう風に振り仮名が書いてあることは確か。
38 :
日本@名無史さん:2006/10/26(木) 12:45:46
うちのおじいちゃん抑留されたんだけど、これって珍しいの?
39 :
日本@名無史さん:2006/10/29(日) 22:41:38
40 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 00:19:43
露助視ね。
41 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 08:22:11
うちの祖父は軍属で樺太に派遣され、8月14日に引き上げたそうだ
終戦の混乱で帰宅が遅れ、家族が心配していたところある日の真夜中に帰ってきたらしい
祖母は深夜に目覚めたら枕元に祖父が立っていたので、死んで夢枕に立ったのかと思ったそうだ
祖父は帰宅まで8月16日のソ連侵攻を知らず、その後シベリア抑留があったことを知ったときには
正直肝が冷えたと言っていた
42 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 01:26:15
良スレage
43 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 05:30:06
気になったけど結構身近に経験者が居たりするもんなのか?
44 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 21:07:49
俺が東京で一人暮らしをしていた時に住んでいたアパートの向かいにあった酒屋のじーさんがシベリア抑留経験者だった。
そこには8年位住んでいたから、じーさんともすっかり仲良くなって、
俺の部屋が雨漏りして如何しようも無い時に、じーさんが泊めてくれた。(じーさんは一人暮らし)
それでその時にシベリアでの話を聞いた。
じーさんは記憶力が良いらしく、何年何月何日何時にロシア軍が来たとかすべて覚えていた。
俺が聞いて覚えてる範囲だと、
・じーさんが所属していた部隊は1500人位で、全員連れて行かれたが、半年で半分以上が栄養失調で死んだ。
・食事は1回にパン1個とジャガイモ1個だけ。
・朝起きると、隣で寝ていたヤツが死んでるというのは当たり前のようにあった。
・それで、看守に死んだやつのことを死んだとは言わずに、「こいつは調子悪いから休ませくれ」と言うと
その人(死んだ人)は作業は休みとなるが、その人の分の食事はでたそうで、
その死んだ人の分の食事を分けて食べてなんとか飢えをしのいだ。
・凄い寒いから、死体がなかなか腐敗しないからこの手は結構使えたってじーさんは言っていた。
・じーさん曰く「だから俺の命は運命もあると思うが、あのときの仲間に分けてもらったとも思っている」
俺は2年位前に引越しをして実家に戻ったのだが、この話を聞いたのは3年位前で、
じーさんは大正14年生まれだったかな。
ちなみにそのじーさんは身長は180センチ近くあって、腰も曲がってなく、
ひとりで酒屋を切り盛りしていて、朝早くに市場に仕入れに行き、ビール瓶のケースとかも軽々と運んでいた。
もし、戦争が無くて、こういう人がスポーツか何かやっていたら凄い選手になったのかな、とも思う。
45 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 01:07:11
age
46 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 01:28:35
ソ連兵から言わせたら、祖国に攻め込んだナチスがやった事を
「そのまま」やり返してやった位の認識だった。
まぁ実際、攻め込んだ街で住人を皆殺しにしたりとかしていたからねぇ。
そりゃ、復讐に燃えるわな。
逆に、五木寛之は平壌で終戦を迎え、ソ連軍の統治下で
難民生活したそうだが、子供達に同情したソ連軍の兵隊や
朝鮮人が、餅や黒パン・芋をくれたそうな。
それを 日 本 人 の 大 人 が 奪 い 取 っ て い っ た と。
飢えた大人程恐ろしい者はない事を、幼い頃の五木は思い知ったそうな。
先に乱暴を働いておいて、統治になり、心に余裕があるときには、ソ連軍の兵隊や朝鮮人が子供たちにものをめぐんだ。
そういう人もいるのだ、と受け取っておくかw
48 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 07:28:05
保守
49 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 18:19:45
良スレage
50 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 18:26:09
物に余裕があると無いの差ということなのだろうな…
豊かとか飢えというのは心のありかたまで変えるのだな
51 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 12:59:26
52 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 10:27:22
ヒドイ話だよね!!
みんなはどう思う?
53 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 22:34:08
瀬島龍三の罪はいかに??
54 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 03:35:49
55 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 08:20:23
シベリア抑留の賠償請求権は、鳩山が放棄したし、国内で日本政府に対す
る賠償請求には、自民党政府は一切耳を傾けてこなかった
やっとなんかしたかと思えば、平和祈念事業特別基金っていう外郭団体作っ
て、抑留者には10万円と銀杯やるだけ。19人中14人が天下りで、その退職
金は役員一人1300万円w
まあ、なんでも利権になる国ですねw
以下参考
小池晃君
資料を配付いたしましたが、退職金出ているのは常勤の理事長と理事
だけです。その常勤者で見ると、十名中九名が天下りであります。官庁を辞
めるときに退職金を受け、基金を退職するときにまた退職金を受ける。総額は
一億二千二百二十八万円、平均して千三百万円だと。
一方で、平和祈念事業で抑留者に対して行われたのは書状、銀杯に
加えて十万円の慰労金のみです。で、今それを半分崩して記念品配るという
話になっていて、抑留者の皆さんからばかにするなという声が上がっているんで
すね。一方では十万円の支給で決着済みで、正にこの事業を食い物にする
かのように天下りの役人がこれだけ入って、一人千三百万円の退職金出てい
る。こんな組織に費やすお金があるんだったら、すべてシベリア抑留者に回せと
いう声が当事者の皆さんから出ている。私、これ当然の声だというふうに思うん
ですよ。
http://www.a-koike.gr.jp/hilight/2005/gijiroku/2005_03_22.html
56 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 11:44:46
シベリア抑留者:補償また絶望的 特別給付の野党案否決
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/kokkai/news/20061208k0000m040097000c.html 旧ソ連のシベリアなどに戦後抑留され強制労働させられた旧日本兵たちが求めていた未払い賃金は、
補償されないことがほぼ確実になった。7日の衆院総務委員会で、
抑留期間に応じ特別給付金を支給するとした野党3党提出の法案が否決されたためだ。
「国のために戦ったのに、見捨てられたまま死んでいくのか」。抑留経験者らからは落胆の声が上がった。
民主、共産、社民の野党案は、1人当たり30万~200万円を支給する内容だった。
一方、補償はせず、10万円の旅行券の支給を想定した慰労品贈呈の与党案は、
この日の委員会で可決され、今国会で成立する公算が大きくなった。
傍聴席には関東各地から約30人が詰めかけた。東京都板橋区の野口富久三さん(83)は
抑留中に病気になり、46年にソ連支配下の朝鮮北部に送られた経験を持つだけに
「国に何度も捨てられた」との強い思いがある。「むなしい。国になおざなりにされていいのか」と唇をかんだ。
抑留経験者への補償は56年の日ソ共同宣言でソ連への請求権が放棄されたうえ、
ソ連側から労働証明書が発行されないため、日本政府からも補償されなかった。
(中略)
しかし、基金が官僚の天下り先になっているとの批判から、自民・公明の与党両党が
基金を廃止する法案を昨年提出。与党は、法案成立を前提に取り崩した基金の
出資金400億円の約半額を原資として、抑留者に10万円相当の旅行券を支給することで合意していた。
57 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 23:05:32
ttp://www.tokyo-np.co.jp/00/sya/20061208/mng_____sya_____009.shtml 『シベリア抑留基金』廃止 衆院委、法案可決
シベリア抑留者らに慰労事業をしている独立行政法人「平和祈念事業特別基金」(東京・西新宿)を解散する法案が
七日、衆院総務委員会で可決された。今後は、資本金四百億円の半分程度を取り崩し、生存者に慰労品を贈呈する事業が実施される。
法案を提出した自民党の宮路和明議員は「今回の事業で戦後処理問題は最終決着したい」と明言、
戦後補償問題の幕引きを図る与党の姿勢を鮮明にした。
与党側は、抑留経験者に十万円、恩給の受給資格のない元軍人らに五万円相当の慰労品、
中国などからの引き揚げ者には銀杯を同基金から贈呈する方針を明らかにした。
来年四月から二年間申請を受けつけ、二〇一〇年九月までに基金は解散する。
慰労品は旅行券が有力視されてきたが、「八十歳を超えた年寄りにどこへ行けというのか」という批判が多く、
与党側は食事券なども選択肢に入れる考えも示した。
民主、共産、社民の野党三党も基金を廃止、四百億円を国庫に返納した上で、
元抑留者(約十万人)に三十万円から二百万円の特別給付金を支給する法案を提出していたが否決された。
同基金は一九八八年に発足。軍人恩給の受給資格がない抑留者約十八万人に十万円の国債と銀杯、
それ以外の抑留者には銀杯と総理大臣の感謝状などを贈ってきた。
新宿の高層ビルにある事務所の家賃が月一千万円近く、
常勤役員が「天下り」ポストになっている-などの批判もあり廃止論が高まっていた。
基金が運営する「平和祈念展示資料館」の資料の保管などの事業は一般会計から支出して続けていくという。
59 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 09:38:19
世間からはすっかり忘れ去られ、
自民党には見事に見捨てられて
そもそも寿命のほうもほぼ尽きてしまった抑留者の皆様
60 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 00:56:58
61 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 01:37:16
579 :海の人 ◆STEELmK8LQ :2006/12/08(金) 08:43:27 桜 ID:??? ?2BP(1076)
全抑協って、もともと斎藤派と言う名前で、創始者がKGBのカヴァから色々な資料や資金の
提供をうけて作った組織だから、そのへんも割り引いて考えるべきなのでは。
あと全抑協が81年に起こした同様の趣旨の訴訟は、最高裁まで争って棄却されてるから
そもそも公の措置として金を出したりする根拠が全くない、というのも。
ttp://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-09-19/0919_faq.html 最終的には、この辺り↑を読むと、結局日共が推し進めてきた
ソヴェトの負債を、日本につけかえる
式の、いつもの活動の一環ということが見えてくるかと。
62 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 15:26:10
シベリア抑留、引き揚げ船「興安丸」帰港から半世紀
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061224i302.htm 戦後、旧ソ連によってシベリアに抑留されていた日本人のうち、最後まで残された人たち計1025人
を乗せた引き揚げ船「興安丸(こうあんまる)」が京都・舞鶴港に着いてから、26日でちょうど半世紀。
舞鶴市では同日、抑留体験者や抑留中に亡くなった人の遺族らが集まり、記念集会が開かれる。
(略
記念集会は、抑留体験者でつくる全国抑留者補償協議会(東京)などが主催し、海上追悼式や
フォーラムなどが行われる。
(略
63 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:40:56
阿含宗桐山教祖の逮捕歴
昭和二十七年八月十六日 詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署
十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署
二十八年八月 酒税法違反 私文書偽造容疑 逮捕
警視庁防犯課
二十九年 三月酒税法違反 私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
65 :
日本@名無史さん:2007/01/30(火) 02:04:40
65
66 :
日本@名無史さん:2007/02/01(木) 11:06:35
良スレage
67 :
日本@名無史さん:2007/02/01(木) 15:01:51
近衛文隆も労働に従事したのかな
それとも士官であることを盾に拒否し続けたのかな
68 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 22:38:29
皆殺しにしてくれれば後腐れなくてよかったのに。
ドイツ兵と日本兵なんて生きて帰しても
有害なだけ。
69 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 21:15:40
>>67 V・A・アルハンゲリスキーの『プリンス近衛殺人事件』を見る限りでは、そういうことはしてないようですね。
記録に書かれていないだけで、実際させらたのかもしれませんが。
70 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 21:17:10
>>67 V・A・アルハンゲリスキーの『プリンス近衛殺人事件』を見る限りでは、そういうことはしてないようですね。
記録に書かれていないだけで、実際させらたのかもしれませんが。
72 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 01:42:52
あげ
いた違い
74 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 16:59:30
家の爺ちゃんも抑留されてた…待遇は辛い仕事をうまくかわしたせいか良かったらしい…
75 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 17:43:58
うちの爺さんがシベリア抑留経験者だが、シベリアでのことは一度たりとも
話そうとしなかった。
しかしそのつながりで他の人の手記やらを見てると、やっぱゲルマンスキーという言葉は
よく出てくる。ロシア人が使ってなくても抑留された日本人側が使っていたぽい。
ドイツ人の抑留所と一緒だった場合も多いらしく、反目したり、
仲良くやってたり色々だったようだが、それほどコミュニケーションの機会は
多くなかったらしい。
抑留者の体験、としては
>>32は信用にたると思う。
76 :
匿名:2007/03/04(日) 10:09:12
77 :
匿名:2007/03/04(日) 10:11:55
コテタン処理スレッド
http://bubble5.2ch.net/test/read.cgi/mukashi/1172642983/142 (↓1024byteちょうど)
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78 :
匿名:2007/03/04(日) 10:13:15
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79 :
匿名:2007/03/04(日) 10:19:31
コテタン処理スレッド
http://bubble5.2ch.net/test/read.cgi/mukashi/1172642983/145 (↓1024byteちょうど)
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80 :
匿名:2007/03/04(日) 10:20:42
ルーマニア フィンランド ハンガリー 日本
ドイツに味方した国は潰してしまえ
志村英盛の意見 Hidemori Shimura
http://www.page.sannet.ne.jp/mhvmhv/iken.htm ソ連収容所における日本人捕虜の生と死
http://www.page.sannet.ne.jp/mhvmhv/shiiborutohoukoku.html 1981年、日本政府は国会答弁で、なんらの資料調査も、
現地における実態調査も行わずに、
当時まで認識されていたシベリア抑留者数を70万人から
57万5000人に修正した。
12万5000人も減らしたのである。
筆者は、この修正は日本政府が
実際の死亡者数を隠蔽する目的で行った修正であると考えている。
(後記 参考資料7 参照)
参考事項:
厚生省引揚援護局総務課記録係編で、厚生省が昭和30年(1955年)
3月に発行した『続・引揚援護の記録』は第23頁~第24頁(クレス版)で
「ソ連軍は、満州、北朝鮮、樺太・千島占領した。各地の軍民同胞は、
占領後、9か月の間に、ポツダム宣言第9項の規定を無視して、
約107万人以上がシベリアに移送され、さらに遠くは外蒙、ヨーロッパ・
ロシアにまでわたって1200以上の収容所に分散配置された」と
述べている。107万人が70万人に変わった経緯は現在調査中である
(後記 参考資料13 参照)
以後、日本政府は、2006年6月20日付の首相名の政府答弁書
第70号に見られる通り、スターリン時代のソ連政府と同じく、
【シベリア抑留問題】についての具体的な数字情報の提供、及び
地図情報の提供を一切拒否している。
日本政府は、2006年8月末時点で、【シベリア抑留問題】について
積極的に資料調査と実態調査を行うとの意思は一切表明していない。
他人事のように、「ロシア政府に資料請求します」といっているのみである。
日ソ戦争 地図・ソ連の歴史教科書
ソ連の対日宣戦布告正文
http://www.page.sannet.ne.jp/mhvmhv/JapanSovietWar.html ソ連軍は【男狩り】といわれる【奴隷狩り】を行った。
【奴隷狩り】で逮捕した民間人と日本軍軍人捕虜合わせて
70万人以上をポツダム宣言にも国際法にも違反して、
シベリアに拉致移送して、
奴隷として強制重労働をさせた。
拉致移送途中の死亡者を含め20万人以上を死亡させた。
ソ連のこれらの行為は国際裁判で裁かれるべき
明白な国家による犯罪であり、【人道に反する罪】である。
ソ連軍は、間髪をいれず満州にあった金塊・宝石類・産業施設・運輸施設・
資材・衣料・食糧、はては机・椅子にいたるまで、【金目の品は全て】略奪して、
昼夜兼行でソ連領内に移送した。
ヒロシマ・ナガサキ・シベリア
-原爆の惨禍とスターリンの惨禍
http://www.page.sannet.ne.jp/mhvmhv/Hiroshima.html 日ソ戦争の惨禍は、戦後、さらに大きく広がった。現在の犯罪軍事
国家・北朝鮮の独裁者・金正日同様、非人道的軍事国家・ソ連の
独裁者であった極悪非道なスターリンの指令によって、日本軍軍人
及び日本人民間人がシベリアへ拉致移送され、奴隷労働を強制
されるという【スターリンの惨禍】に拡大した。
日本人民間人は、満州(中国東北部)における、人道に反する
ソ連軍の男狩り=奴隷狩りによって逮捕されたのである。
拉致移送された70万人以上の日本人捕虜(軍人・民間人)の
シベリアにおける悲惨な奴隷労働による死亡者は16万人以上
という【スターリンの惨禍】に拡大したのである。
84 :
83:2007/03/08(木) 01:58:41
さらには、満州において関東軍に【見棄てられた】日本人民間人が
24万人以上死亡という【スターリンの惨禍】に拡大した。
極悪非道なスターリンのソ連軍は、1946年4月に満州より
撤退するまで日本人民間人の日本への帰国を認めなかった。
ソ連軍は北朝鮮占領後、満州(中国東北部)と北朝鮮との
国境の町・丹東市から韓国のソウルまでの鉄道の利用を
日本人民間人に認めなかった。
ソ連軍は日本人民間人の保護は徹頭徹尾行わなかった。
逆に日本人民間人に対してほしいままにレイプ(強姦)、殺戮、
奴隷狩り、暴行、略奪を行った。この極悪非道なスターリンの
ソ連軍の【人道に反する】行為が、戦闘中及び戦闘終結後の
満州において、1945年~1946年に、生活手段・生活環境を失った
日本人民間人が24万人以上死亡した原因である。
筆者は上記以外にシベリアへの拉致移送途中や、シベリア・
北朝鮮・中央アジアなどの収容所間移動途中に死亡した日本人
捕虜(軍人・民間人)は4万人以上であったと推定している。
【スターリンの惨禍】による死亡者数は52万人以上である。
【スターリンの惨禍】の悲惨さと犠牲者の厖大さに慄然とする。
【スターリンの惨禍】は【原爆の惨禍】に
比肩する悲惨な歴史事実である。
スターリンの惨禍 映像資料
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Stalin.html
85 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 23:27:44
7月8日、ハバロフスク地方ハバロフスク市で「シベリア抑留犠牲者供養神仏両界大柴燈護摩供」が厳修されます
86 :
age:2007/03/16(金) 09:58:09
良スレage
>>85 阿含宗桐山教祖の逮捕歴
昭和二十七年八月十六日 詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署
十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署
二十八年八月 酒税法違反 私文書偽造容疑 逮捕
警視庁防犯課
二十九年 三月酒税法違反 私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
88 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 12:39:59
|┃三 , -.―――--.、
|┃三 ,イ,,i、リ,,リ,,ノノ,,;;;;;;;;ヽ
|┃ .i;}' "ミ;;;;:}
|┃ |} ,,..、_、 , _,,,..、 |;;;:|
|┃ ≡ |} ,_tュ,〈 ヒ''tュ_ i;;;;|
|┃ | ー' | ` - ト'{
|┃ .「| イ_i _ >、 }〉} _________
|┃三 `{| _;;iill|||;|||llii;;,>、 .!-' /
|┃ | ='" | < 話は全部聞かせて貰ったぞ!
|┃ i゙ 、_ ゙,,, ,, ' { \ お前ら全員シベリア送りだ!
|┃ 丿\  ̄ ̄ _,,-"ヽ \
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|┃ ヽ、oヽ/ \ /o/ | ガラッ
89 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 13:49:11
日本軍捕虜を県別に面検査した連中だからな、あんまり突くとやばいぞw
戦犯への懲罰、百叩きの刑みたいなもの。
寒くひもじい思いをして初めてアジアへの贖罪意識が生まれた
91 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 18:16:31
良スレage
良スレage
93 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 21:42:22
ロスケもチョンも潰しましょう。
94 :
日本@名無史さん:
953 :名無しさん@七周年:2006/10/22(日) 01:40:56 ID:JLYMmTW00
俺の祖父は シベリア抑留から帰って来た人間だけど、
日本軍は上層部が酷かったって言う事だ。
さらに言うと、ロシアとの国境地帯の戦場は食べ物の取り合いで、
戦車は役に立たず、それを言うと非国民扱いされ、投稿せざるを得なかった。
シベリアでは、強制労働で皆倒れて、凍死して行ったそうだ。
爺さん泣いてたな。
その爺さんは党に亡くなったが、それでも日本政府に賠償金を求めようとはしなかったがな。