【モンゴル】 元寇 2 【高麗】〜神風は運?実力?〜
1 :
日本@名無史さん:
744 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/01/09(月) 06:05:15
だから第一回目の襲来を撃退したのは100%武士団の奮闘によるものだって何度も言わすな。
九州武士団との交戦で不利を悟り撤退を決定して引き上げる途中で嵐に遭遇したにすぎん。
洋上で防塁と睨み合いしてた所を嵐に丸ごとやられた第二回目なら天佑神助のおかげといえるが
それにしたところで嵐がくるまで敵を陸に上がらせなかった武士団の奮闘のほうをまず評価するべき。
朝青龍、18回目の優勝。まだ、まだ26才。
優勝回数記録、
大鵬32、千代の富士31、北の湖24、貴乃花22
さあ、偉大なる蒙古の末裔はどこまで記録を伸ばすのでしょうか
神風が吹いて記録を食い止めるのかな・・
神風は6分が天運、残り4分が人運。
旧宋で元が出陣準備に手間取り、越南進出に失敗。日本が迎撃準備を整える時間
を稼げたのが天運、水際戦で台風シーズンまで持ち堪えたのが人運。
越南進出云々は完全に弘安の役の後の出来事だろ
7 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 11:09:37
文永の役では、原因不明の撤退(『矢が尽きた』)の帰路で、大風で難破。
弘安の役では、上陸戦に失敗し一ヶ月以上海の上で身動きできずにいたところで
台風。難破。
どちらも、風雨は最後のおまけなわけだが。
文永の役にいたっては、蒙古軍が洋上で難破したことを日本人はかなり後になってから知っている。
やっぱりこの時代の船っていうのは、まだまだ未熟だったってことだね。
日本側の船もせいぜい10〜20人程度しか乗れないような小船だったろうし・・・
元や高麗側の船はどうだったのかは知らないが、風雨に強くて100人以上乗れるような
大型船はまだ作れなかったんじゃない?
だったら、数は少なくても陸地で陣地を築いて迎え撃つ側が有利だっただろう。
伊予河野水軍の活躍も忘れないでね
その当時は河野家当主もバリバリの海の侍だったの?
11 :
日本@名無史さん:2006/10/18(水) 20:57:46
仮に弘安の役で、
台風が来ず、江南の軍が合流して
元軍が九州に上陸していたらどうなっていたの?
上陸できない。
博多で撃退されて終わり。
そもそも、江南の軍が合流してから、1ヶ月近くも上陸できなかったから
台風が来たんだろ。
江南軍も長い海上生活で弱りきってるしなぁ。
司令官とか病死してなかったっけ?
数の上では優勢でも一度に上陸を行える訳もないし、
東路軍と同様に水際で防がれ、夜襲で打撃を受け、
食料も船も人間も腐って自滅するだけだと思う。
14 :
日本@名無史さん:2006/10/19(木) 17:05:53
>>12はそもそも台風が来なかったらの
仮定の議論に「1ヶ月近くも上陸できなかったから
台風が来たんだろ。 」は不適切な論理だな。
それはそれでいいとして。
たとえ上陸できても、現地の勢力に内通を持ちかけたりして
協力などの計略がなされていない状況では、
地の利も得ないので、大軍でも非常に不利な戦局なる。
また元軍側の使用する武器などの補給は現地では調達できないので、
半島からわざわざ持って来ざるを得ないが、そのコストが膨大。
何より、江南軍が九州に到着した時点で、
幕府からの3万の軍勢の増援が、すでに山口に到着しているので、
数の上でもそれなりに対抗できる。
15 :
12:2006/10/19(木) 17:38:23
>>14 台風が来たから上陸できなかったわけじゃないだろ。
現実にそれまで1ヶ月近くも上陸できなかったんだから。
仮に台風が来なくても上陸できないと考えるのが普通じゃん。
元寇は日本が実力で防いだ。元も高麗の口車に乗らなければ法則が発動しなかったのに。
17 :
日本@名無史さん:2006/10/19(木) 19:33:16
>現実にそれまで1ヶ月近くも上陸できなかったんだから。
>仮に台風が来なくても上陸できないと考えるのが普通じゃん。
クルクルパーでつか?
>>13 そうやろうとして帝国陸軍は大東亞戦争でやられたんだろ。
>>17 わかり易く説明してやるぞ。
上陸作戦で時間の経過と共に攻撃側に有利になる要素なんか無いだろ。
1ヵ月間上陸しようとしてできなかった部隊が、2ヶ月、3ヶ月と粘ったところで、
状況が好転して上陸可能になるなんてことは無いんだよ。
こいつ ∩_
最高にアホ {{{ ヽ
〈⊃ }
∩___∩ | |
|ノ ヽ| |
/ ● ● | /
| (_●_)ミ/
彡、 |∪| /
`/ __ ヽノ /
(___) /
モンゴルが仮に上陸出来たとしても風土病と数ヶ月に及ぶ海上戦での疲れから士気が維持出来ずに撤退だな。
22 :
日本@名無史さん:2006/10/26(木) 12:06:05
ベトナム戦争で、
敵を迎え撃つ側のベトナムは、
あのフランスも、そしてあの最強のアメリカも撃退したから
よって、ベトナムこそ真の世界最強だ
24 :
某研究者:2006/11/24(金) 14:52:03
http://tinyangel.jog.buttobi.net/Arm/Bow.html >グリップ位置 : 洋弓は弓の中心、和弓は下から約1/3のあたり。
>これにより和弓は自然と弓なりに矢が飛び、そのため射程が伸びます。
>実はロングボウも上向きに発射すれば射程は伸びるのですが、狙いと異なる的へ向けて発射することになるので、その分精度が落ちます。
>和弓は狙いをつけたまま射程を伸ばせるのですが、距離の調整は使用者の経験に左右されるため、命中させるのが難しくなります。
中遠距離の精度は日本の弓の方が上と言う
事かも知れぬが
狙撃が基本なら近距離から射撃をして居たと言う
事は無いのかだが
(モンゴル軍が負けたのは遠距離での弓の精度差と言う事も
有るのかも知れぬし
遠距離からの強化弓の矢なら大鎧でも止まる訳だろうか
モンゴル軍も揺れる船上からの射撃が
命中しなかった為にやられたと言う
意見も有るだろうが
船側の防弾装備と言うのも
有るかも知れぬし
上陸時に遮蔽物の無い侭可也弓で撃たれたのが
敗走の原因かも知れぬが)
>矢の放ち方 : 洋弓は、矢をセットする部分が窪んでいる、あるいは弓身に穴が空いており、矢は弓の中心を通るように設計されています。
此れは古いロングボウには
見た所無いし
モンゴルの弓にも無い様に見えるが
25 :
某研究者:2006/11/24(金) 14:54:09
26 :
某研究者:2006/11/24(金) 14:55:14
大鎧の場合はしころや袖の部分で
矢は止まっていたかも知れぬが
当世具足ではしころの部分で何とか止まると言う
程度かも知れぬが
此れが出て来たのは銃の時代であるから
矢に対する防御は捨てて
軽量化したと言う事だろうか
室町初期の胴丸なら
大型の袖が付いて居る物も多いし
此れは矢に対する防御力は
有ったと言う事だろうか
(槍や弓も横に構えて使用するので
横方向の防御力が必要である
訳だろうか)
http://bunkazai.ysn21.jp/sonota/meisyou/gusoku.htm 胴丸の袖は
大鎧の袖と大きさは
変わらない訳だろうか
27 :
某研究者:2006/11/24(金) 14:55:48
28 :
某研究者:2006/11/24(金) 14:58:24
29 :
某研究者:2006/11/24(金) 15:40:48
http://makimo.to/2ch/academy4_history/1060/1060607305.html モンゴルの矢は長射程だが軽い為に武士の鎧を容易に貫く事が出来なかった。
船の上からだと弓による狙撃はまず不可能で結果大量に消費する一斉射撃を
繰り返して弓矢の欠乏を招いたとか。
逆に日本の矢は短射程だが重量が有り、硬く鋭い矢じりは、射程内なら皮の鎧を
貫く事が出来た。上陸してくる敵を狙撃する事で効率よく殺せた事とか。
弓は日本のほうが射程も殺傷力も遥かに上
さらに、『弓馬の道』『海道一の弓取り』という言葉が示すように
武士の主戦兵器が弓であり、熟達していた
隊列を組んで整然と前進してくる元軍に対して
長大な射程を生かして後方の指揮官を弓で倒す
作戦を取っていた模様
日本側も射程を延ばす為に
モンゴルの矢と同様に軽い矢を
使用したと言う事かも知れぬし
弓の威力が足りなければ
モンゴルより軽い矢を使用したと言う
可能性も有るかも知れぬし
モンゴル兵の鎧は軟皮や綿なので
軽量な矢でも貫通したと言う
事かも知れぬが
30 :
某研究者:2006/11/24(金) 15:42:29
>一方、金や宋、中央アジアの城塞や都市国家を攻める際には
>長弓と呼ばれる大きな弓を使っていて
>こちらは城壁越しの攻撃が可能なように遠距離戦を
>得意としていた
>(蒙古騎兵の得意技『草原での待ち伏せ』にも使われた)
>蒙古騎兵は、騎射で短弓、歩射で長弓を使い分けていた
此れは軽い矢を使っても可也威力が有ったと言う事は
無いのかだろうし
船上から使用される弓はこのタイプだったと言う
事かも知れぬが
此れをアウトレンジする為に日本の弓が可也
軽い矢を使用したと言う事は無いのかだが
31 :
某研究者:2006/11/24(金) 16:41:38
>三十三間堂では仰角を制約される事も知らずに和弓の飛距離が短いなんてほざいてた奴がいたのか。
まあしかしモンゴル弓の外側の湾曲等を考えれば
短いからと言って飛距離が無いとするのは
どうなのかだろうし
角・腱と竹と言うのは何れが良い素材なのか
どうかだが
32 :
某研究者:2006/11/24(金) 17:11:10
朝青龍、今年を締めくくる形で
15戦全勝で19回目の優勝。おめでとー
あの独特な気迫、凄みは、
過去の横綱にはないタイプで、
文字ばかりの文献からは読み取れない偉大なるモンゴル帝国のリアルな
インスピレーションを与えてくれる。ああ素晴らしきかな
鬼のような火の朝青龍に、しなやかで大きな包容力の水の白鵬、
いろんな猛将のタイプがいたんだろな〜
そもそも、博多に拘る理由もなかったような。
たとえば、博多に上陸すると見せかけておいて、
熊本や鹿児島あたりに上陸してしまったら
九州はとんでもないことになっていた気がする。
元軍が博多に拘った理由は、そこに大宰府があるから。
当時の大宰府は日本の外交と国防の最前線機関。
フビライが何度日本に使者を送っても、大宰府で足止めされて京都や鎌倉に
国書を届けることができなかった。
そもそも、4万程度の元軍では最初から九州全土の征圧なんか不可能だし。
>>35 文永の役ではその理由も一応成り立つけど・・・・
弘安の役の場合、家財道具を満載していた南宋軍主体の
江南軍はなんだかんだで10万もいたんだから、距離の近い鹿児島当たりに
上陸、側面を東路軍が支援していたら、九州南部を勢力圏に納められた可能性
はあるかと。
こうなると九州の御家人たちは自分の領地が危うくなってしまい、
統制がとれなくなった可能性もある。
>>36 弘安の役については、「元史・日本伝」にはっきりと攻撃目標が大宰府だった
と書かれているよ。
それに、江南軍は数が多いだけで、戦闘力は東路軍に劣る。
あくまで東路軍が戦局を切り開いた後に支配体制を固めるための部隊だから。
暴風雨に遭った後、東路軍に鷹島に置き去りにされた江南軍10万は、日本軍の
たった3〜4日の攻撃で全滅してしまった。
38 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 23:31:24
そもそも防御する方が有利で
しかも海上からだから日本はかなり楽な戦いになるよね
>>37 わざわざ防衛拠点をついていくというのが、ちょっと不自然ではあるな。
ノルマンディー作戦じゃないが、トーチカの密集しているところは普通
避けると思うけど。
wikiによると、
>『元史』は、モンゴル色を中国から一刻も早く一掃したいという
初代皇帝・洪武帝の思惑によって、
実質編纂期間が数ヶ月と限られるなど杜撰極まりないものであり、
洪武帝の死後には早くも改訂論が現れる始末であった。
日本で語れる元寇って、
とてもモンゴルにとって公平でないような言い伝えばっかりのような気がして。
一度も聞いたことのないモンゴル側からの言い分を聞いてみたいものだ
41 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 04:32:56
神風は日蓮の神話に深く係わり合っているので、史実と違っても日蓮系狂信者は決して認めない。普通、日本の近海に何ヶ月もいれば、台風に限らず嵐に遭うのに彼らは神風が吹いたと信じている。そのこと理解して書きましょう。
>>40 『元史』は編纂期間が短いため少々荒削りな部分が多いが、その分原典の史料
をそのまま流用したりして、かえって研究に好都合な部分もある。
歴史史料の信憑性を考える時、その史料の同時代性って重要な基準だろ。
つまり、当時の生の記録では、元寇は元軍の完敗だったということ。
ベトナム・ジャワ含めて大元ウルスの海上侵攻は完敗
44 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 18:56:17
元軍の軍船ってどんな船だったん?
>史料の同時代性って重要な基準だろ
近すぎても冷静さの欠けたものになるよ。
例えば小泉政権の評価を大手メディアにしろ現時点で冷静に下してるだろうか。
一例としてwikiで「朝日新聞」を引くと、
中立的な観点で書けとあるのに、つばぜり合いは日常茶飯事で、
それぞれの立場に近い内容に書き換えようとする。
もうあれからウン十年たった第二次世界大戦の総括を、
日本は冷静に客観的に見つめる事ができてるだろうか。
日本はアジア各地を侵略した、いや侵略ではない解放だ!、
従軍慰安婦、731部隊、あった、嫌ない、だの論争は絶えない。
実際に起こった史実でも
こんな基本的なことですら表記に際してもまとまらないんだから。
少なくともその時代に共に生きた世代は
どうしても主観や思い込みが入るから
>>43 ベトナムでもジャワでも、モンゴル軍はその国の首都征服を達成している。
九州にまったく拠点を築けぬまま、水際で為す術もなく鎌倉軍に敗れ去った日本の場合とは比較にならない。
あと、樺太に海上侵攻したモンゴル軍は、アイヌを蹴散らして全土の制圧に成功している。
>>45 第二次世界大戦の冷静で客観的な総括なんて、これから何千年たってもできないよ。
歴史上の出来事の評価や意味付けなんて、永遠に議論が続いていくものだから。
元寇についても基本的に同じ。
ただ、従軍慰安婦、731部隊などについて、何が事実なのかを調べる際、最も重要なのは
やっぱり同時代資料なんだよね。
『元史』の杜撰さを改めるため、1919年に『新元史』が完成したんだけど、その記述が
どんなに完成度が高くても、13世紀末の元寇について『元史』より『新元史』の方が
歴史資料として参考になると考える研究者はいない。
それに、モンゴル軍の他の東アジア諸国への侵攻を調べる際、その中心になっている
資料は『元史』だろ。
例えば、モンゴルと南宋の戦いについては、『元史』+『宋史』だし、高麗侵攻については
『元史』+『高麗史』。
樺太のアイヌみたいに侵攻された国に十分な文献が存在しないため、『元史』の記述からしか
調べることができない場合だってある。
『元史』『高麗史』と日本側の資料である『鎌倉年代記』や『帝王編年記』をもとに元寇を
語るのは当然であって、日本の場合だけ『元史』に問題があるとか言い出すのは、逆に日本に
不公平なんじゃないの?
いちばん公平なのは、
日蒙それぞれのその道の第一人者が一堂に集まって
両者の解釈に齟齬がないか話を詰めてみることだな。
全然違う話だが、
日本のモンゴル帝国史研究で有名な杉山先生の本は野心的で面白いけど、
自分らに近いモンゴロイドを中心とした世界システム的発想は、
欧米の研究者から言わせれば間違いなく
ちょっと、ちょっとちょっと!だろ
>>48 その場合問題なのは日本側の立場を代弁する研究者がいないこと。
欧米の研究者から言わせれば「ちょっと、ちょっとちょっと!」な杉山先生から
見ても異様に感じる程、日本史の研究者たちは朝鮮よりに偏っているから。
>日本側の立場を代弁する研究者がいないこと
それを言ったらお終いでしょ。いろんな意味で
この場合、世界システム論や杉山御大の話だろ。
別に朝鮮よりとかは関係ないと思うが。
つーか、ここにまで朝鮮を持ち出すのか。呆れた。
その杉山が、元寇の際の高麗王朝の関わりについて、戦後の日本史研究者の説明に
不信感を持ってるんだよ。
曰く『蒙古襲来については、戦前・戦後の二重のタブーにさえぎられ、なにが、いつ、
いったいどうなったのか、筋みちの立った事実確認が定かになされていない』
曰く『日本が蒙古襲来という「巨大な外圧」を撃退できたのは、朝鮮半島・中国大陸・
東南アジア各地の諸民族・諸国民の「モンゴルの圧政」に対する抵抗・反乱・連帯が
あったからだという議論がなされる。ただし、実証や事実の検討となると、
どうしょうもなく危うい面が多い』
曰く『これまで無条件に善玉・英雄とされた高麗国の反モンゴル勢力の三別抄についても、
本当のところはモンゴルに直接臣従しようとする動きもあり、これまでいわれてきたように
一筋縄ではいかない』
曰く『遼東方面から朝鮮半島に展開する諸軍は、高麗王朝もふくめて、遠征の成功後は
自分たち権益を主張できる将来の新領土として日本列島を眺めていたこと、−これらは
モンゴル帝国の歴史を研究するものには「常識」といっていい』
朝鮮関係のタブーが戦後の日本史研究を歪めている一因であるのは確かだろ?
元寇は朝鮮が日本を侵略した出来事なんだから、タブーの最たるものじゃん。
三別抄を無条件に善玉にした議論なんて、日本史であっても少なくとも
最近では皆無に近いだろ。結果論として、三別抄の抵抗が日本に時間的
猶予を与えた、という記述は多く見られるけど、それはそれで事実だしな。
大体、三別抄の自壊については、内部分裂(具体的には裴仲孫の背信)が
きっかけで急速に勢力を弱めた、ってのはまさしく通説だ。
日本史の研究者である村井章介が『北条時宗と蒙古襲来』で引用してる
くらいだからね。全然タブーでも何でもない。あなたが知らないだけです。
もし、それが最近になって書かれたものなら、杉山氏お得意のチョンボだな。
だから、朝鮮よりもへったくれもないのです。
なんか面白いことになってきたな。
やっぱり歴史だけは自分とこの国だけで自己完結させるもんじゃないな
歴史なんて自己満足でオッケーなら別だけど。
象牙の塔にこもって、ひきこもる時代は終わりにして
周辺関係国の学者が軒並み集まって
けんけんがくがく議論しないといけない時代に入ったなこりゃ
>>53 三別抄のモンゴルに直接臣従しようとする動きを、あくまで裴仲孫の背信だったことにしようとする通説自体が、
まさに「三別抄を無条件に善玉・英雄とする議論」そのものじゃん・・・
そもそも、村井章介が朝鮮よりの暴論を展開し、日本史を歪めている一人だろ。
【北条時宗と蒙古襲来】P128
『したがって、日本との戦争を避けることが、李蔵用以来の高麗の基本方針であり、
外交交渉で正面から日本遠征中止を訴えるほか、使者を抱きこんで日本国使を
仕立てるなどの工作もいとわなかった。
もちろん高麗の一部には、対日戦に勝利して有利な地位を確保しようとする
思惑もあり、忠烈王が、一ニ七八年に「日本は一島夷のみ、・・・願わくば更に
船を造り穀を積み、罪を声らして討を致さん」と元にもとめたり、一二九二年に、
三度目の日本征伐への助力を元使に申し出る、といった行動をした背景には、
そうした動向があるかもしれない』
忠烈王は高麗国王で、李蔵用は高麗の一役人。
何で李蔵用が「高麗の基本方針」で、忠烈王が「高麗の一部」なんだよ?
常識的に考えれば、忠烈王が高麗国王として元に再三日本侵略を求めたんだから
それが「高麗の基本方針」で、李蔵用はあくまでも「高麗の一部」とするべきだろ。
>>53はこの文章を読んで何の疑問も抱かなかったのか?
朝鮮が絡むと、こういう滅茶苦茶な理屈も堂々とまかり通るのが、戦後の日本史研究の現状。
57 :
1:2006/12/12(火) 22:05:58
>>55 なぜ「あくまで」と付けるのかが不思議。
頭目の裴仲孫自身が身の安全を担保に、自分の地位をより有利な形で保持しようとした
ことが自壊のきっかけになったことは事実。
そして、そのことをしった三別抄の他の部隊から反発を買い、殺されたのも事実。
こんなことをやってる組織の話を書いて、何で三別抄本体は別で、「善玉」として
描いているんだと考えるの?論理的整合性がありません。
もしあなたの論理でいくならば、村井氏が
「でもでも三別抄本体は別で、正義の抵抗組織であった!レジスタンスばんじゃーい」
とか書いてないといけない。当たり前だが、そんな記事はない。他の著述でも知る限りない。
>>56 三別抄の話から外れまくってますな。(ニガワラ そんなに必死になんなくてもいいのに…
ま、いいけどね。ではちょっと詳しめに。
まず、あなたの意見の欠点の一つに、時間軸を考慮に入れていないことがある。
忠烈王は1273年に三別抄を鎮圧し、1274年に即位。その言葉は1278年。
対して李蔵用が猿芝居をうったのは1261年。
素直に見れば、三別抄の壊滅を受けて忠烈王が即位した後、高麗の外交姿勢に変化があったと
考えるのが自然だろう。
彼は皇太子時代に元で生活しており、さらに后も元からもらうなど、当時の高麗の最親元派だ。
彼の力の源泉は元以外にない。こういう人物がある時期に件の発言をしたからと言って、
それまでのいきさつをひっくるめた高麗全体の傾向に当てはめるべきものかどうなのか。
私は、否定的な立場を取らざるを得ない。
58 :
2:2006/12/12(火) 22:06:36
では、李蔵用に代表される戦争回避派についてだが、こちらが高麗外交の本筋だった
と言えるのだろうか?少なくとも、史料から見る限り、哀れをもよおすほどに何度も
「頼むから諦めてくれ」と懇願している様が書かれている。
1261年の李蔵用・黒的の猿芝居の上「貧しい国に過ぎぬので、攻めぬが吉」というような
報告書まで作成、1269年には同じメンバーが対馬島までで引き返し、
その後、女真人の趙良弼が交渉を引き継いだが、1271年に守護所の人間を「使者」に
仕立て上げるなどしている(勿論失敗)。これには恐らく、鎮西探題の協力があったものと
考えられるが、何度も「とにかく使者を送って欲しい」とのべつづけている高麗側の使者の
態度を勘案するならば、彼らも一枚かんでいた可能性が高い。
江戸幕府と朝鮮王朝との間に入った対馬藩の行動を思い起こせば、それほど奇異なことでも
あるまい。
よって、村井氏の言ってることは、間違っていない。事例からするならば、圧倒的に戦争を
回避しようとする行動が目立つからだ。
より正確に言うならば、忠烈王が実験を握るまで、また実際に戦闘状態にはいるまでは
特に戦争の回避を望んでいた、というべきではあるが、少なくともあなたが思っている
ようにメチャクチャな理屈ではない。
59 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 00:25:39
>>57-58 三別抄のモンゴルに直接臣従しようとする動きは裴仲孫の背信で、それが自壊のきっかけに
なったなんてことを「事実」「事実」と書いているが、そんなもの定説でも何でもないぞ。
あと、時間軸を考慮に入れれば、「李蔵用に代表される戦争回避派」なんてものは、1268年に
李蔵用がクビライから『朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ』と告げられた時点で終了だ。
李蔵用自身、1269年の元宗廃位事件にかかわり罷免されてるし。
時間軸を考慮に入れれば、「三別抄の壊滅を受けて忠烈王が即位した後、高麗の外交姿勢に変化があった」
というのも間違いだな。
忠烈王の皇太子時代、1272年の段階で既にクビライに対して日本侵略を進言している。
重ねて言うが、忠烈王は高麗国王で、李蔵用は高麗の一役人に過ぎない。
「皇太子時代に元で生活しており、さらに后も元からもらう」なんてことは、現実に忠烈王が
高麗国王として実権を握り、そのもとで 文永の役と弘安の役がおこなわれた以上どうでもいいこと。
日本との戦争を避けようとする行動なんか高麗のごく一部で、圧倒的に目立つのは対日戦に勝利して
有利な地位を確保しようとする行動じゃん。
村井章介は、まだまだ他にもおかしなことを書いてるぞ。
【北条時宗と蒙古襲来】P118
『先にあげた諸例のなかで、予定された戦争は「異国征伐(発向)」「高麗征伐(発向)」と
呼ばれている。攻撃目標は本源地であるモンゴルではなく、朝鮮半島だった。ここには、
戦役に疲れた高麗の弱みにつけこんだ冒険的侵略主義以外のものは認めがたい』
この文章の中で、「戦役」という言葉が指しているのは文永の役。
文永の役って、あきらかに日本が侵略戦争の被害者だよな・・・
対馬、壱岐、松浦、博多では何の罪もない日本人の多くが、侵攻してきた高麗と元の兵士に
よって殺されたんだぞ。
鎌倉幕府がそれに対して、報復を考えるのは当然だろーが。
何で日本の方が「侵略主義」のレッテル貼られて、批判されてるんだよ?
加害者の高麗が日本を侵略して疲れているから、被害者の日本が報復しようとするのは
「弱みにつけこんだ冒険的侵略主義」・・・
「朝鮮より」なんていう生半可なレベルじゃないぞ。
村井章介のやってることは、「歴史研究」とは名ばかりで、単なる朝鮮のプロパガンダじゃん。
62 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 16:51:03
文永の役に参加した劉復享の部隊は女真族だったて本当?
>>62 杉山は『モンゴル帝国の興亡』の中で「山東出身の女真武将で、それなりに
名の通った劉復享」って書いてるよ。
64 :
1:2006/12/17(日) 17:30:00
>>60 なんだ、まだ意味のない反論してるの?仕方ないなぁ・・・・
まず裴仲孫についてだが、これ高麗史に載ってることなんだから、定説
云々以前の問題でしょう。裴仲孫の名前が出てこないだけで、仲間割れから
力が弱まったなんてことは多くの概説書にも書かれていること。
大丈夫?
それと、時間軸についてだけど、
高麗国王がどうおもっていたかということと、高麗の臣下がどう思っていたか、
また時間の経過の仲でどのように変化していったかは全く別の事柄。
そこがあなたはわかっていませんね。それとあなた、ご自身で李蔵用の
元宗廃立事件から親元派忠烈王に至る権力の変遷を認めた発言しても、
反論になってませんよ。(苦笑
さらに「「皇太子時代に元で生活しており、〜文永の役と弘安の役がおこなわれた
以上どうでもいいこと。」と言っていますけど、これ全然どうでもいいことじゃ
ないですから。ていうかあなた、権力の変遷過程を上で述べてるんですから
この文章、自己矛盾ですね。
こういう矛盾が出てくるのは「高麗の忠烈王のある時点での判断が
歴史的な評価の全て」という、あなたの非常に特殊な観念(思考ではなく、
これはもう観念の部類)に起因してるんですね。
自分でも分かんなくなってきてしまっている。
(それにしても三別抄の話、どこに飛んだんですかね)
>>61 なるほど、あなたが村井章介が大嫌いと言うことはよ〜くわかりました。
しかもどうも「「歴史研究」とは名ばかりで、単なる朝鮮のプロパガンダじゃん。」
などという感想を抱いている当たり、政治的な反発心からでしたか。いやはや。
この当たりになってくると、コメントしていいかどうかも悩むんだが・・・
三別抄の話に関係ない上、今までの高麗の話とも関係がないからなぁ。
あなたの得意技は、話をずらしていくことですか?こういうのを得意技に
するひとって時々いますね。話を延々とずらしていって、相手が疲弊するのを待つってやり方。
ハッキリ言えば、あなたの深読みのしすぎです。
冒険的侵略主義というところが思想的にひっかかるのでしょうが、あなたが言うところの
「やられたからやり返してやる」という報復行為そのものが「冒険的」で思慮に欠けるもの
だ、と言っているにすぎません。その後、「攻撃と防御の両面から作戦遂行することは
無理があり、・・・防御を固める方向が選択されたのであろう。」と語っていますよね。
冒険的で無意味な侵略行為だからやめたっちゅーことです。
P119の海軍編成のところで村井氏も若干触れていますが、異国征伐用に
徴用した舟というのは、瀬戸内海などでの近海、内海での運用を主体としたもので、
外洋での運用は考慮の外にある。これを使って高麗に渡っていく、という事自体無理が
ある、つまり冒険的なわけですしね。
>>62 劉復享は女真かもしれんが
率いてた兵が女真だったかどうかはしらない
>49あたりからざっと読むと、
村井氏批判をしてる人は、この日本史板の邪馬台国論争でいうとこの
畿内説の人と同じ臭いがしてならない・・
大きな視点で客観的に読み取ろうとするより、主導権争いに近い、
最初から結論ありきで主観や思い入れが強すぎる
弘安の役は元軍を上陸させず征服を失敗させたので日本の勝ちでいいと思う
文永の役はどうなんだろ、偵察だという話もあるし
高麗あたりはかなりやる気があったらしいが
>>64 資料に裴仲孫の名前が出てこないのなら、裴仲孫が三別抄の他の部隊から反発を買い、
殺されたのも事実、と断定することはできないのでは?
>>69 概説書に具体的な人名が書かれてないだけ、ってことだと思われ。
71 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 14:22:37
72 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 17:17:42
文永11年及び弘安4年、日本大自衛戦争
>>70 裴仲孫がどういう運命となったかについては、それを記した文献が無いため、本当のことはわからない。
単純に
>>64がそのことを知らず、事実と思い込んでいただけ。
世界史板住人だが…
元史には仲間割れというか、裴仲孫が寝返ろうとしていたことは書かれていたな。
「本紀第七 世祖」のあたり。
その後どうなったかはともかく、仲間割れしていた可能性は高いだろう。
75 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 21:16:15
なんだかgehaみたいな展開。
煮詰まっているのなら別の視点で見るのはどう?
ここにいる人、つい先日に出たともいえる「パックスモンゴリカ」とか
読んだかいな。
あの本に書かれている日本侵攻の書き方は興味深かったよ
>>74 世祖本紀のは、単に裴仲孫が元に直接臣従したいと申し出たっていう記事だべ。
「裴仲孫が三別抄を裏切って元に臣従しようとした」と「裴仲孫が三別抄を率いて元に臣従しようとした」
ではまったく意味が違うから。
77 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 23:46:18
ちょい質問なんだが、蒙古襲来のとき御家人は
日本の危機として対処したのかな?
なんつーか、当時の武士に日本っていう国の意識があったのかなと。
幕府の危機として戦ったのか、日本の危機なのか…。
78 :
日本@名無史さん:2007/01/01(月) 18:15:13
>>77 御家人が奉公することを許されているのは鎌倉殿のみ。
元寇後の恩賞要求に対しても、幕府は「国のため」という論理で
否定したりはしていない。御恩と奉公の論理だけが貫徹している。
やっぱり幕府の危機、しかも全国政権としての意味ではなく、武門
の統率者の危機、と考えていたと思われる。
79 :
日本@名無史さん:2007/01/02(火) 21:16:12
あげ
80 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 14:30:57
>>78 あれ? 元寇では御家人以外の武士も参戦したし、その結果として御家人以外への幕府統制も強くなって言ったのでは?
第2次の日本遠征で元は宋から接収した海軍力をほとんど失ったため、海防の弛緩を招来し、
元王朝の命取りの一因にもなった
14世紀の初頭から、広州、泉州、慶元の市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、
沿海地域の防衛問題が深刻になりつつある証拠である
元朝は日本商戦の武装化および日本の復讐を恐れて初期の中日貿易奨励方針から、
しだいに消極的な閉関主義への軌道修正を余儀なくされる
中国の歴史12 第5章 王勇
82 :
日本@名無史さん:2007/01/13(土) 13:15:56
>>77 その遥か以前の白村江の戦いの頃に日本国・日本人という意識が芽生え始め、
蒙古襲来の頃はふたたび「日本軍」って意識を持ってたと読んだ事があるな。
まあ再びまったりした時代になり、次に日本を意識しだすのは幕末の頃だが。
83 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 15:35:56
日本側は弘安の役の時にはかなりの予備兵力があったしな。暴風雨がなくても勝利してたと思う
中国地方に3万京都に5万程度じゃなかったかな?九州南部にも予備兵力があったはず
以前元寇について軍事的考察をした本を読んだ気が・・・うろ覚え
朝青龍、20回目の優勝、強いな〜
日本人とは威圧感や気迫が違いすぎるな。
神風が吹かないとガチンコでは元寇も
こういう結果だったかもな〜
3度目の蒙古襲来はなかなか食い止められません。老いるのを待つか
世の中には武器という物があって、中には遠くの敵をやっつけれるのもある・・・
86 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 22:31:38
なぜか元寇スレに、しきりに朝青龍の話を持ち出す奴がいるが、
一体おまえは何がしたいのですか?
モンゴル行ってみろ。
あんなに太った奴はいねえよ。
おまえ、モンゴル人・遊牧民といえば毎日羊の肉をたらふく食って生きていると思っているだろ?
ガチの遊牧生活は時に一日乳だけを飲んで過ごす季節もある。
そりゃ過酷なものだ。
とりあえず俺はモンゴルは好きな国。
88 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 09:28:02
世界最強鎌倉騎馬軍団age
89 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 00:24:45
>>86 朝青龍の強さをモンゴル人の強さだと考えて日本兵との比較に使っているんジャマイカ。
でも兵士って高句麗がおおかったんだっけ。
90 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 01:37:49
モンゴル兵の方が多かったよ。
大体、日本兵の2.5倍位、高麗兵の3倍位いた。
91 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 06:42:05
>日本兵の2.5倍位、高麗兵の3倍位
それって旧南宋兵じゃ?
>>92 文永の役は普通にモンゴル兵が主力。
でも、文永の役が大失敗に終わり、南宋が滅びてその残存兵力も使えるようになると、
高麗が「高麗兵と旧南宋兵だけで日本を征服するから、モンゴル兵は要らない」
とか言い出した。
だから、弘安の役の兵力はほとんど高麗兵と旧南宋兵だけ。
94 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 17:10:19
俺蒙古だけど…鎌倉と京都どっちを落とせば ウチらの勝ち?
95 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 17:21:06
元寇の原因は高麗の売国奴がフビライに進言したかららしい
>>94 わざわざ京都や鎌倉まで行かなくても、九州の大宰府落とせば蒙古の勝ちだと認めてやるぞ。
97 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 01:55:36
単純に、大日本が神州だから、神州の神々が神州を汚そうとする元寇に
神風という名の天誅を下しただけの話。
これは実力や運など云々の話以前に「必然」だったってだけの話。
実に簡単な話だ。
98 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 11:41:52
蒙古にとっては幕府か朝廷が
「中華の正統は元であること」を公認すれば勝ちだろう
99 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 13:38:35
そんなので勝ちなのか?
随分と謙虚だな
100 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 13:49:05
結局、蒙古なんか何の成果も無く連敗した訳だから、勝利条件なんて低く設定しても
日本側には何の問題もないんだよな
101 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 20:16:02
>この戦争が高麗・モンゴル連合軍側の勝利で終わっていれば
モンゴル帝国史専門の杉山正明氏が左翼系の雑誌のインタビューで答えてたけど
「まあ上手くいっても大宰府を落とすぐらいがせいぜいじゃないですか」
103 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 13:16:41
高麗・モンゴル軍じゃなくて、モンゴル軍とその子分だな
モンゴルの腐るほどいる子分の内の一つ
そんなに誇らしいのだろうか
取り合えず文永の役は兵力が少なすぎるのでまず無理。
>>104 日本以外の国は、文永の役以下の兵力で簡単に征服されているんだよ
107 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 22:10:00
モンゴルが邪魔な高麗人と南宋人を海に捨てたという事件だな
うんこ
>>107 なろほど。
元寇=モンゴル人の生ゴミ不法投棄。
>>105 二万ほどの兵力で滅ぼされた国って例えばどこ
鎌倉幕府が本気で動員かければ20万以上の兵力は軽い。
>>110 前スレか類似スレに詳しく出ていたような気がする。
ヨーロッパとかせいぜい数千だったりしたような
ロバート・マーシャルの「図説モンゴル帝国の戦い」によると
バトゥのロシア・東欧侵攻のときのモンゴル軍は12万。
ちなみにバトゥ直属の部隊は4千人で、これが後のキプチャク汗国の中核になったらしい。
>>112でいってるのはそのことかな?
ロシアなんかその前のスベエディ率いる2万にだって歯が立たなかっただろ
オスプレイ社の「カルカ河の戦い」によると
ルーシ・キプチャク連合軍もまともな装備を持ち
訓練を受けた兵士は1万5千〜2万ほどだったらしい。
ディスカバでやってるね
118 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 09:42:22
大体、当時の高麗は完全にモンゴルの属国だったんだから、
「高麗・モンゴル連合軍」って言い方自体が捏造じゃないか。
119 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 12:54:15
日本国内に元への内通者がいればどうなっていたかわからないぞ
だからこそ時宗は時輔や名越一族を粛清したのだろう
120 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 18:59:20
その説は始めて聞いた
121 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 19:08:53
日本の武士は、天皇や皇族、幕府の命令書を錦の御旗として戦うのであるから、天皇や幕府が蒙古と内通?
しなければ武士単独で内通することはないであろう。
調略の気配すら無かったんだから、予測が強引過ぎる
時系列的にもおかしいし。時宗が予知能力でも持ってたのならともかく
123 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 20:52:28
124 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 14:21:10
元寇についての小説でお勧めなのがあったら教えて!
戦力的に元側が有利でも、日本を落とすのは難しいよ。
陸上戦力によって覇権を獲得したモンゴルが
島国相手に交戦する事は極めて難しい。
海上では陸上戦力の活躍が役に立たないし、
上陸した所を叩かれるからね。
126 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 19:39:55
韓冦
>125
なにもそれに限ったことではない、
近代のベトナム戦争でも、最強のアメリカでさえ
地の利を知り尽くした地元民のゲリラ戦法と執念の前には
心を折られて最後は敗北撤退させられるんだから
ベトナム側の戦死者は数百万
米軍の戦死者は数万
129 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 12:47:56
583 :世界@名無史さん :2007/02/27(火) 08:59:56 0
>>582 大宰府ってモンゴル・高麗連合軍が上陸した博多湾から10キロ程度しか離れていないんだよ。
2回も攻めて来たくせに、大宰府に指1本触れることが出来なかったモンゴル・高麗連合軍って一体何?
文禄の役で小西行長が1万8700の兵力で朝鮮に攻め込んだ時は、上陸地点の釜山城なんかその日の内に
攻略し、3週間後には首都・漢城も占領していたっていうのに・・・
594 :世界@名無史さん :2007/03/26(月) 07:57:51 0
>>590 一回目は威力偵察という説には裏付けが皆無。
実際には単純にモンゴル軍が日本軍との戦いでボロ負けしただけ。
二回目も防壁で戦闘が行なわれたことは一度も無い。
戦闘は防壁以外の場所で行なわれ、モンゴル軍は連戦連敗。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1147423539/l50
130 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 13:05:51
>>文禄の役で小西行長が1万8700の兵力で朝鮮に攻め込んだ時は、上陸地点の釜山城なんかその日の内に
>>攻略し、3週間後には首都・漢城も占領していたっていうのに・・・
文禄の役と唐入りじゃおよそ300年ぐらい開きがあるだろ
当時の鎌倉幕府に高麗占拠できるかよw
131 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 13:16:48
渡海作戦て補給が維持しにくくて難しいからな
上陸戦も難しい
132 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 13:23:06
秀吉の時には、朝鮮民衆(特に奴隷階層)が李朝に反乱起こしたのが日本軍に大変有利になった
しかし元寇ではそういった事はない
>>130 高麗は日本の正規軍ですらない倭寇相手にボロボロだったけどな
>>127 世界中の外野から非難されて
選挙に負けそうになったから撤退しただけ
北京に近い遼東に上陸したら?
もしくは生産力が高い江南
13世紀でしょ?
>>137 倭寇は高麗の首都を占領したりした?
略奪だけでなく都市を占領できた?
打撃を与えることは出来るだろうが
占領、維持をすることは難しい
応永の外寇で対馬一国相手にボロ負けしている半島の戦力では無理
>>139 都市を占領すること位はできたよ。
高麗史・伝057
「倭三百余騎、又た古阜・泰山等の県に寇し、官廨を焚く。
〔柳〕実、之を追撃し、副令の金玄伯、舎人の閔中行、戦いて死す。
実、退きて屯す。賊、夜に乗じて之を囲むや、士卒驚潰す。
実、僅かに脱身して走る。賊、遂に全州を陥る。
実、戦うも利あらず。賊、帰信寺に退屯す。実、之を撃ちて却かしむ。
賊、臨坡県を陥れ、橋を撤して自ら固む。実、潜かに士卒をして橋を作らしむ。
都指揮使の辺安烈、兵を率いて渡るを得、按廉の李士頴をして伏を橋の畔に設けしむ。
賊、望見して之を逆撃し我が軍敗る。」
1376年の出来事ね。
ちょ…たった三百の倭寇に負けてるのかよ!
>>139 で、どれぐらいの期間そこの都市にいたの?
というか幕府大陸に上陸となると
元が動くだろ。決戦は満州あたりか?
補給は略奪でなんとかなるか?
>>144 略奪をして、都市を占領できても
長く維持することは出来ないと言いたいの?
おいおい高麗は元を数回撃退したことがあるんだろ?
何で倭寇に負けてんの?
というか倭寇ってアイアムザパニーズも多いし
元は高麗を見捨てるだろう
前期倭寇って白丁だろ?
>>147 モンゴル軍と高麗の戦いは、
モンゴル軍が侵攻→半島全土をあっさりと制圧→江華島に逃げ込んだ高麗王朝が降伏→
モンゴル軍撤退→高麗王朝は降伏条件を部分的にしか実行せず→モンゴル軍が違約に怒り
再侵攻→半島全土をあっさりと制圧→高麗王朝が再度降伏→モンゴル軍撤退・・・
っていうパターンを30年間繰り返していただけだよ。
>>147 高麗が元軍を撃退したのは順帝の治世に一度。李成桂の指揮で。
その時日本人傭兵もいたらしいが詳しくは知らん。
153 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 14:05:24
半島占領はともかく、日本攻撃の策源地を焼き討ちするぐらいの限定攻撃なら出来そうだね
ただ、鎌倉幕府に海洋的武士を統制する力があったかどうか疑問だが
>>151 なんかそのパターン日本書紀の日本と新羅の関係と同じ。
半島の伝統か。
155 :
日本@名無史さん:2007/03/30(金) 03:59:02
つうかそんときはまともな集団戦法が確立してなくて
一騎打ちとか挑んでボッコボコにされたって歴史の教師が
言ってたが実際はどうだったん?
156 :
日本@名無史さん:2007/03/30(金) 08:35:56
>>155 半分正解で半分間違い
日本の武士は手柄を上げたことをはっきりさせるための一騎打ちを好んだことは確か
しかし、日本国内の内戦でさえ絵に書いたような一騎打ちは発生しなかった(そういう意味の和田義盛の発言が軍記物である平家物語にすら載っている)
相手にそれが通じないとなると日本側も矢戦の集団戦に切り替えて対応している
白石通泰勢なんかは集団で矢を射掛けている絵図があるし、射撃戦なら当然一騎打ち云々は自ずと無理になる
弘安の役になると日本側も様式なんてなくなって小船で乗り付けて夜襲したりとそれこそ何でもありの展開に
157 :
日本@名無史さん:2007/03/30(金) 13:00:12
なるほどサンクス
言うほど日本側も馬鹿じゃなかったのか
そもそも、武士がモンゴル軍に一騎打ちを挑んだという根拠がかなり疑わしい。
これって八幡愚童訓って文献に書かれていることなんだが、この史料は異本が
数多く存在し、八幡神の霊験を証明するために書かれたという性質から、後世の
ものになるに従い、誇張されてモンゴル軍が強くなっていく。
武士が一騎打ちを挑んだという箇所も、成立時期の古い八幡愚童訓では、武士が
「一命限り」戦おうと思ったと書かれているのに、後で書かれたものでは、
「一人迄」戦おうと思ったと書き換えられているんだよね。
ちなみに文永の役に関するもう一つの代表的な資料の蒙古襲来絵詞では、日本軍は
最初から集団戦法で戦う作戦だったと書かれている。
159 :
日本@名無史さん:2007/03/30(金) 16:37:48
国際世論を追い風にするホーチミンの策にアメリカは負けたんだよ。
戦争は殺した敵の数を競う為に行うものではなく、国益追求の為に敵と殺しあってでも目的の実現を図る事業だ。
アメリカはベトナム人を何百万人も殺害していながらとうとうベトナムの共産化を阻止する事を断念した。
アメリカは目的追求を断念してベトナムとの戦争に負けたのだ。
161 :
日本@名無史さん:2007/03/30(金) 19:30:52
誤爆じゃねーの?
162 :
日本@名無史さん:2007/03/30(金) 20:18:33
朝まで生テレビ テレビ朝日25:20〜
今月のテーマ:徹底討論!日中真の隣国への道
〜ドーする日中新時代(日中同時生中継)
司会: 田原 総一朗
進行: 渡辺宜嗣、長野智子、黄海波(フェニックスTVキャスター)
パネリスト: <日本側>
石井明(東京大学大学院教授<中国現代史>)
森本敏(拓殖大学海外事情研究所所長)
宮崎哲弥(評論家)
下村満子(ジャーナリスト、経済同友会副代表幹事)
<中国側>
劉江永(清華大学国際問題研究所教授)
湯重南(中国社会科学院教授・日中歴史共同研究メンバー)
邱震海(フェニックスTV解説委員)
石齊平(香港中文大学研究員)
※テレビ朝日 スタジオ
大学生約50名(留学生10名)
※北京
大学生約30名(予定)
実況はこちらで(テレ朝実況板)↓
http://live23.2ch.net/liveanb/
163 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 20:48:49
実際のところ、兵力差ってどれぐらいだったの?
164 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 21:34:03
馬の性能の差はどれくらいでしょうか?
昔の朝鮮や日本の馬ってマキバオーみたいなサイズだろうけど。
蒙古の馬はアラビア馬に近いのかな?
>蒙古の馬
ポニーだよ
遅らせばながら3月場所では白鵬が優勝しましたなあ。
強すぎるあまりにいちゃもんつけられる朝青龍が一歩後退しても
次に控えるのもタイプの違う蒙古の戦士、
日本の国技であり神事でもある相撲の東西両横綱がモンゴル人になれば、
こりゃ快挙ですなぁ 圧巻ですな〜
最強騎馬民族の戦闘力をまざまざと見せつけられます
どんな立派な言葉より文献よりこの現実の威光が最も説得力ある
>>166 プロボクシングのヘビー級では黒人が圧倒的に強いが、何でアフリカはヨーロッパの
植民地になったのさ?
また相撲厨か
このスレでどういう意味があるんだよ・・。
最強騎馬民族とか言っちゃって・・これだからドラゴンボール世代は使えねえ
>>164 蒙古馬も日本馬も同種なので、サイズはほぼ一緒。
なのに、蒙古馬は世界征服した凄い馬で、日本馬はポニー並みで駄馬扱い。
これが馬オンチのクオリティ
>>158 同意。
しかも、確か『八幡大菩薩愚童訓』自体にも、日本軍の集団戦を普通に記載していたはず。
同じ資料の一騎討ちの場面は採用し、もう一方は採用しないのはどういうわけなのか?
確かにそのほうが物語りとしては彼我の違いが際立って面白いけれども、歴史としては
安易な俗説ではないのか
>>166 力士なんてバーリトゥード出たらただのデブやん。
あくまでも個人プレーで統率取れて無かった(モンゴルに比べればの話だが)けど
従来の説で言われてるほどアホじゃなかっただろ>鎌倉武士
そういう意味でヨーロッパの騎士と似たような感じだったんじゃない?
172 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 12:14:59
当時の武士の軍制は、家単位での動員
家主一人しか武装できないような弱小の家は、手柄のために単身突っ込んだ
それを一騎打ちを挑んだと誤解されたんだよ
悲しい武士物語なのさ
そもそも文永の役で、『鎌倉武士がアホ見たく一騎打ちで討ち取られた』と言われる割には
蒙古軍が撤退しすぎているし、副将まで射抜かれるという失態までおまけがついている。
つーか、それ以前の国内戦でも夜襲や奇襲を頻繁にやっているし。
夜襲や奇襲で一騎打ちなぞ考えられん。
主人が戦ってる時に、郎党が指を咥えて見てるとは考えにくいな。
>>副将まで射抜かれるという失態までおまけがついている。
いや失態ではない御家人の善戦によるもの
177 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 08:31:57
>>173 蒙古軍は撤退したが、戦術的には日本側は本陣すら陥落させられてるじゃないか
劉復享だって追撃戦している時に矢に当たったわけで、負けて追い込まれたわけじゃないし
日本側は全く良い所無し。夜になるまで時間稼ぎするのが手一杯だった
だから弘安の役では滅茶苦茶防備を固めて兵力も20万という封建システムの限界に近いほど動員したんだよ
178 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 13:01:40
郎党なら一緒に戦えるかもしれない
しかし武器や兵糧運搬する従者以下は戦いたくても戦えないでしょ
「人夫さえ弓を持って討つ(愚菅抄)」東国武者方式が広まってたならともかく
>>177 劉復享が矢に当たった、というというとまるで偶発的に流れ矢に当たったかのようだが、
実際は少弐景資が狙い打ち、射倒した。
重要なのは少弐景資が狙い打ちできる距離にまで敵軍副将がせり出し、両軍が接近しているということではないか。
かなりの激戦だったと推測される。
>>178 院政末期に従者が武装するようになったというから、この頃にはすでに
騎馬武者と混合して徒歩による集団戦も広まっていたのではないかと。
蒙古襲来時にはその頃よりもかなりの時が経っているから、従者以下による集団戦は普通のことじゃないかな。
>>177 日本軍の本陣は大宰府だよ。
元軍は指1本触れることが出来ず。
赤坂で菊池勢に蹴散らされ、上陸地点まで追い込まれていたからな。
文永の役は普通に日本軍の圧勝。
>>179 実は、劉復享を射倒したのは少弐景資本人ではない。
部下の中から弓の得意なものを選んで狙い撃たせている。
史料の八幡愚童訓には異本が数多く存在し、劉復享を射倒した場面も、それぞれ記述が異なっている。
正応本(1289年成立)
「その時、景資か旗の、せみくちを、鳩かけりしかは、八幡大菩薩の御影向と、たのもしく思ひ、
究竟の馬廻に、弓の上手ありしかは、それに下知して、逸物の上馬にのせ、一鞭うちて、はせ出させたり、
かの奴原を見かへりて、よつひき、はなつ矢、一はんにかけたる大男の、直中を射つらぬき、逆にこそ、
おちたりけれ」
菊大路本(鎌倉末期成立)
「其時、景資ガ旗ノ上ニ、鳩翔リ舞シカバ、八幡大菩薩ノ御影向トゾ憑敷覚ケリ。
究竟ノ馬乗、弓ノ上手也シカバ、逸物ノ馬ニハ乗タリ、一鞭打テ馳延ビ
見帰テ放ツ矢ニ、一番ニ懸ケル大男ガ真中射テ、馬ヨリ逆様ニ
落シケリ」
史料に異本が存在する場合、通常は成立時期の古い方が優先だからな。
少弐景資は結構余裕のある状況だったんだよ。
182 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 08:37:37
>>180 まてまて。本陣を置いたのは箱崎八幡宮で間違いないぞ
おまけに赤坂で蹴散らされるどころか日本軍を大宰府への全軍退却に追い込んでるじゃないか
相手が後退を決意するまで消耗させた点では戦略的勝利でも、戦術的には大敗でしょ
「懸出ル程ノ者漏テ返ルハ無カリケリ」
(八幡愚童訓)
(日大将軍)総大将が殿軍務めて逃げなきゃならない状況が余裕……
なんか、ノモンハンは実は日本軍の勝ちとか好きそうな人がいますね
184 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 08:50:43
まぁ武装農民に追い回されて 脱糞した過去を持つ将軍もいるし 当時の農民と武士の違いって微妙じゃね?
>>184 いきなり数百年も時代をとばすなよと。
農民と武士の境界線が微妙なのはその通りだと思うけどな。
水城への兵糧備蓄については筑紫本にしか記述が存在しない
もし組織的兵站がすでに成立してたとしたら、武士の戦略戦術の研究がまったく覆ることになるな
187 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 13:25:51
弘安の役の勝因は疫病
戦の最中に三千人病死、というから元・高麗軍にとってはまさに疫病神
まとまった船団すら保持していなかった当時の日本軍には嫌がらせ攻撃はできても本格的に元の船団を打破する力はない
>>180 赤坂で元軍が蹴散らされて、上陸地点まで押し戻されていたのも事実。
>>187 疫病がおきたのは、一ヶ月もの間海上で『兵糧攻め』されたせい。
元軍もまとまった船団とはいえない
190 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 12:48:01
じゃあ勝ってたのに逃げ出して、本陣一帯まで焼かれたということになるが
鎌倉武士団を間接的に貶める誉め殺し作戦なのかねぇ?
元寇が起こったとき
源平合戦から既に長い年月が過ぎていた。
ちょうど、現在の日本が戦後、60年で平和ボケするのと同じ。
>>190 丁度反対の質問も言える。
なんで勝っていたはずの蒙古の大軍がわざわざ海上まで撤退するのかと。
かなりの激戦だったからとしか言えないだろう
>>181 ひとつ勉強になった。
元寇は時間が経つにつれて、むしろ強大なイメージが増大していったような。
蒙古は確かに難敵であり、珍しい戦ではあったけれども。
寺社による宣伝が大きく影響しているのではないかと。
強大な蒙古軍と劣勢の日本軍、その危機を救う寺社による神仏の力という物語やら
逸話やらが、戦から遠のくにつれて幾度も繰り返されるうちに、日本人のなかで
蒙古の存在はふくれあがり、日本軍の存在は矮小化された、と。
寺社は当時の知識層が集まる場でもあったわけだし
>>190 スターリングラードは廃墟と化したが、スターリングラードの戦いはソ連軍の勝ちだ。
戦場となった町が大損害を受けるのは当たり前。
博多や筥崎が焼かれたことなんか勝敗とは無関係だよ。
>>194 蒙古襲来のイメージは後世に作られたものが大きい。
>>177 日本軍の本陣は大宰府。 元軍は指1本触れることが出来ず。
クラウゼビッツや孫子などを勉強すればよい。
あと、自衛隊の軍事研究とか。
もともと、元寇は、蒙古にとって無理のある戦争だったわけで。
補給に関して、そうとう無理がある。
7世紀の白村江の戦い以降、中国が日本征服戦争をしなかったことからも分かる。
日本はわざわざ海に出て行って戦う必要など無い。
北九州周辺、山陰周辺の重要拠点を防御網を築いていたら
むこうが上陸したら、簡単に撃退できる。
197 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 08:48:11
>>189 元に纏まった船団が無いというのなら、彼らが乗ってきた船団は一体何?w
日本軍の斬りこみに対して石火矢や石弾で対応した記録があるように、船載兵器すら揃えてた
なぜ日本軍が苦戦したかは、当時の武功システムの問題だよ。
菊地次郎勢はしばしば日本軍が一騎打ちばかりに頼ってなかった証拠として出されるけど
彼らが揚々と引き上げてくる場面に出陣する竹崎季長が遭遇している
つまり、激戦で要地を争っていたはずの部隊が手柄立てたらさっさと持ち場捨てて後退していて、それを誰も抑制できない
武士達は個々が恩賞を得るのが目的で、侵略撃退は副次的目標に過ぎなかった
だから負けた部隊は勿論、それなりに有利だった部隊さえ適当に戦ったら逃げ出す
それが武藤景資の「ばらばらに戦っていては苦戦するだけだから、水城まで後退しよう」という判断に繋がる
そして、このいびつな恩賞システムが幕府自体をついに倒すことになる
>>198 武藤景資が「ばらばらに戦っていては苦戦するだけだから、水城まで後退しよう」と判断した、
などということが書かれた文献は存在しない。
文献には「少弐入道か子息、大将三郎左衛門尉景資、并、平四郎入道子、小太郎左衛門等を
始として、大矢野、竹崎、 白石等、更により合て、さんさんに戦ふ」と日本軍が武藤景資の
指揮の下に寄り集まって、組織的に戦っていたと書かれている。
>>199 つまり蒙古襲来絵巻の行き違う場面は捏造ということ?
それとも戦闘の時系列に対する新説?
201 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 09:34:00
勝っているのなら後退する必然性が無い
夜戦になれば地理を知っている地元が有利
わざわざ勝っている地域を捨てて退却したのなら、元軍の損害が許容範囲だった場合防衛そのものが崩壊しかねない大失策
対馬、壱岐の軍勢や松浦党が自己の所領を守るために個別に戦闘して全滅の目にあったように、そもそも文永の役ではまともな指揮統制システムがあったかも疑問
だいたい、無足の御家人の名前を挙げる一方で島津や菊地といった有力御家人の名が指揮下で戦った者に明記されていないあたり、かなりおかしい状態
202 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 09:37:35
当時の技術では防衛体制をひいている島を侵略するのは無理があった
太平洋戦争でも硫黄島や沖縄は米軍は苦戦している
そうだね、同じような悲劇(孤島に軍勢を置いて殲滅させられた挙句、民間人の被害防止策も取ってない)を弘安の役でも引き起こした
無反省っぷりは伝統
苦戦が嘘なら、武藤覚道の爺様が味方の劣勢に怒って老齢の身で突撃を敢行して衆を奮い立たせたって話も捏造?
>>200 合戦で先鋒を務めた部隊が、敵に損害を与えた後に、戦闘を後続に託して一旦退き、
後方で兵を休めることは、戦国時代でも行なわれていること。
文禄の役で日本軍が明・朝鮮連合軍に大勝した碧蹄館の戦いでも、立花隊が文永の役の
菊池隊と同様の役割を果たしている。
>>205 なんで時代を百年単位で飛ばすんだw
おかしいならおかしいと素直に認めろってば。
>>206 戦闘方法として、何らおかしな点が無いという事を、戦国時代の例を挙げて説明したんだろーが。
つまり、戦国時代と同様な組織的な戦闘が、元寇でも行なわれていたということ
蒙古襲来絵詞でも、武士同士が声を掛け合う場面はある
でもそれは「手柄を立てた証人になってくれ」というレベル
協同して戦えよ!という突っ込みが入るのは仕方無い
210 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 09:53:59
文永の役の戦術的失敗をあげるなら、御家人を統括する北条家の現場不在。
一騎打ちによる失敗は物語としては面白いが現実には大した影響はない。
弘安の役では北条家が来ているので御家人たちの統率がとれている。
211 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 09:54:22
菊地らが後続に戦闘を託した云々の部分は完全に空想の産物だからなー
要するにバラバラ。
数が多い一族は集団戦やったかもしれないが、無足御家人達は一騎で攻撃せざるを得なかった
隣り合う武士同士ですら協力して戦うという意識は薄い
八幡愚童訓にある「突撃したもので帰ってくるものは皆無」という苦戦の原因はそこらへんか
>>212 だから、史料には「少弐入道か子息、大将三郎左衛門尉景資、并、平四郎入道子、小太郎左衛門等を
始として、大矢野、竹崎、 白石等、更により合て、さんさんに戦ふ」と日本軍が武藤景資の
指揮の下に寄り集まって、組織的に戦っていたと書かれているといってるだろ。
鏑矢が大笑いで返された時点で、こいつら外国人だからオレラのやり方には乗らないぞってわからなかったんだろうか?
話は変るけど、弘安の役の勝利の原因の一つは情報収集能力だろう
幕府から大友氏宛に「元の再攻撃は4月頃」と予測する手紙が出されているが、ズレは1ヵ月ほど
当時の日本の海外情報収集がどうだったのかは史料が殆どないから不明だが、かなり確度が高い
自弁体制の武士を20万近く動員できたのは、時期を予期できたからだろう
>>213 どこらへんに「組織的」と書いてあるんだ
集まって戦った、ぐらいにしか読めんが
それで組織戦?じゃあ単独で突っ込んだ竹崎らは馬鹿の命令違反者ってこと?
大体、副都元帥の劉復享が100人程度の部隊の先頭に立って突進し、返り討ちに
遭ってしまうような元軍の戦い方が、日本軍よりも組織的だといえるのか?
そもそも三男である景資が、他の筋目の良い御家人は勿論兄や父を指揮統制できたか疑問
なんで地位や格式が低い武将が大将なのか。何かの間違いじゃないの?
>>216 敵を退却に追い込む程度には組織的だったんでしょ
その話は追撃戦のとき
少弐景資は総大将というのは記録違いで、一方面の指揮官に過ぎなかったんじゃないの?
それなら島津氏らが指揮下御家人として名が無いのも当然
219 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 10:46:58
銅鑼や太鼓を叩いての集団戦なら将門記にも普通に記載されている。
集団戦が日本軍になかったわけではない。
文永では御家人どうしの連携に問題があったかもしれないが、一騎打ちvs集団戦という図式は当てはまらない。
あったとしても戦局には影響ない程度の話。
>>218 だったら、日本軍も敵を退却に追い込む程度には組織的ということだろ。
現実に元軍はその夜退却しているんだから。
221 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 11:01:47
なんか話が噛みあってない
日本軍が一騎打ち一本槍だった、なんて言ってる奴はいないと思うが
御家人同士の連携が悪く、個々の手柄を目的に戦ってたから一騎か少数しかない御家人は各個撃破喰らった
一部の勢力の大きな御家人は集団戦をやったが、やっぱり手柄第一だったので全体のことを考えた進退はしかなった
だから当初景資が主戦場と想定した地域から押し込まれ、本陣の箱崎を焼かれて博多一帯も業火に。水城まで押し込まれてしまった
そういうことじゃないの?
>>222 元軍よりも圧倒的に寡兵の日本軍が、手柄第一で全体のことを考えずに戦ったら、
明け方から夕暮れまで戦線維持できないだろ
元の将帥の元皇帝への言上だと、倭軍の勇敢さを称えている
恩賞目当てという即物的な意欲のほうが却って戦意高揚には良かったのかもね
225 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 11:54:22
文永の役は威力偵察だったという説については皆さんどう思われますか?
結果的には威力偵察(文永)の後の本攻め(弘安)は、元軍にとってはより悲惨な戦闘になったわけだが・・。
>>225 威力偵察にしては、攻撃の時期が空きすぎているからなぁ
何しろ鎌倉幕府は攻撃の合間に防備をガチガチに固めて問題だった指揮系統も改善、敵の侵攻時期のおおよその予測まで立てている
相手に警戒させて、手強くしたわけで
むしろ示威じゃないの?「これだけ痛めつけてやれば良いだろう、さぁ今度こそ国書に返事寄越せ=元の体制下に入れ」って感じで
だから何回か使者が来たんじゃ?(処刑されたけど)
>>226 相手に勝ったと思わせて強気にさせる示威って一体何・・・
>>227 あくまでオレの予想だし主観の問題だからそこまでは知らんw
そもそも日本方が「当時」どう思っていたかなんて史料がロクにないし
229 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 12:49:50
少なくとも民衆にとっては勝った戦じゃなかったな。犠牲甚大で戯れ歌に乗せて武士を批判
武士らは恩賞闘争に必死
幕府は狂ったように石を積んで陣地を作り、九州の御家人だけじゃ負けると関東あたりからも大動員
神社の祈祷の霊験のお陰、というのが当時の常識だったんじゃないの?
関東あたりからの大動員は、日本側から元へと攻め込むための用意だから
蒙古弱し、というのが当時の常識
>>230 ありえねぇ
高麗攻撃の指示を受けたのは安芸守護武田氏と鎮西奉行少弐氏。しかも立ち消え
そして関東勢は北条家一門や縁戚筋である安達一族ら等、文永の役に参戦している
蒙古が弱いのなら、文永の役の防衛体制で十分と判断するはずじゃん。その恩賞騒動さえ対処に四苦八苦してるわけだし
安芸守護武田氏と鎮西奉行少弐氏に高麗攻撃の準備を指示すると同時に、
北条家一門や縁戚筋である安達一族ら等も現地に派遣。
普通に元を攻めるための大動員じゃん。
>>232 それは願望だろう
途中で何時の間にか無くなった異国征伐に対して、守護として着任した連中は石塁作りを開始している。こちらは何年にも渡って続いている
どちらが主だったかは一目瞭然
>>233 帝王編年記に北条一門の金沢実政について、「健治元年十一月、異国征伐のため
鎮西に下向す」と書いてあるんだよ。
北条一門の現地派遣が異国征伐のためだということは、資料的裏付けがあるの。
それに、異国征伐計画だって、何年にも渡って続いている 。
どうせ実施されなかった絵空事。
やったら負けは確実だし。
ただでさえ防塁作りと警護負担で大変な御家人達にそんな余力あるわけないべ。
236 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 14:00:58
士気高揚のポーズじゃないの?言うだけなら無料>異国征伐
本当にやってたら、その労力で防備が疎かになり弘安で日本大敗
歴史が変ったかもね
237 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 14:09:58
普通に勝ってたんじゃね?
大陸の奴等って基本的に弱いし。
>>236 現実に幕府によって、異国征伐のための兵糧米や艦船の差し押さえが、かなり
大規模に行なわれていたからポーズということは無い。
計画が頓挫したのは、指揮を執る予定だった金沢実時が病気になり、その年
の内に死んでしまったから。
239 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 14:20:38
直に戦ってた連中がやる気満々だということは「アウェイでも楽勝」という手応えがあったんだろうね。
薄氷の勝利なら進攻計画の話すら出てこないよ。
240 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 16:37:32
鎌倉武士の戦闘意欲には恐れ入るぜ。
弘安の役後の倭冦の暴れぶりはいわば私的な異国征伐だな。報復
241 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 16:41:52
実際に戦った連中からするとそれなりに手応えがあった。
だが戦っていない寺社にとってはまさに神頼みで勝てたという認識。
後世になるにつれて後者が強く押し出された格好だな。
日本文化チャンネル桜は、平成十九年三月三十一日をもってスカイパーフェクTV!Ch.767における
24時間放送を休止し、同Ch.241「ハッピー241」の夜の時間帯で放送を続けることになりました。
※「ハッピー241」での放送時間(4月1日?)は、以下のとおりです。スカイパーフェクTV!
の受信環境があれば、どなたでも無料でご覧になれます。
【月?金】18:30?21:30/23:00?24:00
【土・日】21:00?24:00
http://www.ch-sakura.jp/index.html
243 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 23:11:54
基本的に元軍は陸伝いの闘いには慣れているけど、海を渡る戦いには慣れてなかっただけかと。一聞しての感想。
うるせえな。
いまさらそんな初歩的な感想言うなボケ
245 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 08:11:13
そもそも当時の武士達が正確な国力地理を理解してたかわからない
秀吉の時代さえ、朝鮮は対馬の属国と思ってた奴もいたぐらい
そういう勘違いを元にしていれば、異国征伐なんていう大ホラを真面目に考えるのが出てもおかしくない
しかし安達泰盛ら、南宋亡命者とかと接触していたらしい幕府要職の人間の反対で何時の間にか消滅
きっと辞めます、というと士気が下がるからこっそり中断したんだろうね
「異国征伐に従う武士は石垣作りから免除」なんていう条文が実行されてたら防衛線に穴が空く
>>243 日本に攻めて来た元軍は、海を渡る戦いに慣れているだろ。
2度も海を渡って珍島と耽羅を攻撃し、三別抄の乱を鎮圧した武将たちが、そのまま
文永の役と弘安の役でも指揮を執っている。
これだけ大規模な渡海作戦の経験が豊富な軍は珍しいぞ。
ベトナムとかジャワにも遠征して負けてるしな
南宋を滅ぼしたあたりが軍事力の絶頂だけど、以後精彩を欠いて行く
軍事的な限界点を超え始めてたんだろう
つうか元って戦力分散しすぎ
いくら超大国だからって何を考えていたんだ
弘安の役の南宋武将は海戦の猛者なのだが
251 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 10:39:12
猛者?
最後まで元軍に激烈に抵抗した張世傑や蘇劉義は戦死ないし他国へ亡命
ハン文虎は早々に元に降伏した腰抜け
例えば崖山の戦いで南宋水軍を壊滅させた元の将帥クラスが一人でも参戦していたか?
所詮、支戦に過ぎなかったんだよ
海戦もできず、たかが支戦に何万人つぎ込んでんだよ。
やる気あんのか?
日本とやる気なら全力で来い!
254 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 10:52:01
バヤンやアジュといったモンゴル系直系は北ないし西担当
李恒のような旧西夏王族出身者は南担当(ベトナム攻めて大敗の末戦死)
比重は明白
なのに戦争し続ける理由はなんだったんだろうね
>>253 でも最後には勝ってるじゃん
最大の大国だった南宋滅亡時のような圧勝→征服完了はなかったんだよ
やはり弱体化
>>255 最後にはベトナムもジャワも元に朝貢してるんだが
257 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 11:03:15
元々フビライは、サポタージュの疑いを受けるほど慎重に南宋攻めを行っていた
漢式を取り入れた都市を策源地としてわざわざ作り上げているほど
だけど後年になるとかなーり逐次投入やってるね
南宋を撃破したから他に敵はいねぇ、とか思ってたのかも
258 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 11:10:07
無茶苦茶。
フビライ死後の(つまり撃退後の)関係回復期に朝貢したからって何で反論になるのさ?
日本マンセーのためなら詭弁も弄するおかしな人がずっと張り付いているの?
あんたの論のほうが詭弁じゃないのかと。
撃退した相手に朝貢するということは、再度の侵攻に対して抗戦するよりも
朝貢のメリットが上回ったからだろう。
別にフビライの死は関係がない。
むしろ日本との違いと考えるならば、首都を陥落されたことは大きい。
自国に深く引きずり込んで戦うというのは、時代を超えてベトナムの伝統的な戦術だが
被害も甚大であまり積極的には採用したく戦術だな。
結果論が問題なら、元寇の負担や恩賞騒動で鎌倉幕府滅亡してるしな
八幡蒙古ノ記には、西国警備のための流通途絶(しかも文永期のみで)で「蒙古がこなくても飢え死にする」という近畿方面の有様が描かれている
当時の日本の国力や体制からするととんでもない負担だったわけだ
>>258 ベトナムはフビライの在世中にも朝貢しているぞ
>>260 元も出征が遠因となって四分五裂となっているな。
そんなことよりも戦闘にかぎって語るべきだろ。
戦闘の問題なら、朝貢したというベトナムは五十万ともいう元軍を撃破、元帥クラスの武将を何人も討ち取るという戦果がクローズアップされるね
圧倒的過ぎる。バイバルスでもここまで勝ってない
>>263 決戦で勝利を収めるために必要な兵数と、一つの国を占領し続けるために必要な兵数は、まったく違うんだよ
>>264 さぁ、日本武士マンセー君の言うことがいよいよ日本語じゃなくなってまいりました
さあ、くだらない展開になってまいりました。
ベトナムが何度も元を撃退したのも事実だし、首都が陥落したのも事実。
戦後、朝貢したのも事実。
何がそんなに問題なのかさっぱり分からない。
貴方は何を脅えているの?
まるで迷子のきつねリスのよう
269 :
某研究者:2007/04/07(土) 19:13:23
270 :
某研究者:2007/04/07(土) 19:16:12
271 :
某研究者:2007/04/07(土) 19:59:22
272 :
某研究者:2007/04/07(土) 20:09:53
273 :
某研究者:2007/04/07(土) 20:13:56
くだらん言い合いしているから、最終兵器が来てしまった・・。
このスレは終わった
275 :
某研究者:2007/04/07(土) 20:52:19
モンゴル弓も
牛の角を1mも連続して
切り取れるとは思えぬし
切れ目が有るとすると反発力に問題は
出ないのかだが
竹は一応2mでも一体化した物が
貼り付けられる訳だろうか
276 :
某研究者:2007/04/07(土) 20:57:46
277 :
某研究者:2007/04/07(土) 23:09:51
腱を外側に貼って骨角を内側に貼るのは理由があってそうしてるんだが?
というか自分が引用したサイトに書いてあるだろうに。
279 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 11:49:36
日本には雑魚武将と雑軍しか向けてこなかった元軍
やっぱり当時の日本の国際的認識なんてその程度の重要性なんだね
それを一躍広めたのが倭寇っていうのはなんだかなー
280 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 13:53:39
それは某研究者への弾幕を張ったつもりなのか!?
281 :
某研究者:2007/04/08(日) 16:17:55
燻した竹があそこ迄曲がるのかだろうし
心材であるから厚みも有る訳だろうから
朝鮮弓の芯の竹は燻して居ないのか
どうかだが
モンゴル弓の場合は芯材の木は柔らかいものが使われて居ると言う
事なのだろうか
282 :
某研究者:2007/04/08(日) 16:19:47
283 :
某研究者:2007/04/08(日) 16:23:08
284 :
某研究者:2007/04/08(日) 16:34:22
285 :
某研究者:2007/04/08(日) 16:52:24
286 :
某研究者:2007/04/08(日) 19:11:48
287 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 19:40:06
モンゴルにとって日本侵攻が初の海戦という訳でもなく、すでに近年何度も体験済みなら「馴れてない」は弁解にならない。
そこまでノウハウを積む機会を持ちながら海に馴れてないならば、
それは弱かったという訳だ。
288 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 19:48:39
国際的な水準から見たら確かに高麗軍や南宋軍はモンゴルみたいな少数民族に太刀打ち出来ない雑魚だが、フビライにとっては主力に他ならない。
鎌倉武士と対等に張り合えるモンゴル族の精鋭は所詮指揮官程度の頭数だしな。
289 :
某研究者:2007/04/08(日) 21:09:12
ドラマ等だと鎌倉時代でも下馬した騎馬武者は
長巻を使っている例も多いが
蒙古襲来絵詞等を見ると刀のみを使っているから
此れは無いのかも知れぬが
290 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 02:08:29
元寇って真珠湾攻撃に似ていると思う。
実力だと言われればそーかなと思うが、運の側面も否定できない。
291 :
某研究者:2007/04/09(月) 02:33:35
モンゴルの馬も歩兵の盾で守られているが
騎馬弓兵は日本と違い袖は無いから
日本側の射撃で壊滅するだろうが
騎馬槍兵は盾は有るかも知れぬし
此れは突撃を掛けて来るかも知れぬが
シールドウォール等で阻止される可能性も有るだろうし
近接前に弓で撃退される可能性も有る訳だろうか
(盾は兎も角兜の部分や馬は矢は止まらない訳だろうか)
292 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 02:33:59
運じゃなく祈祷の力な
293 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 03:28:13
モンゴルを撃退できた事を誇る奴がいるけど、
モンゴル軍の得意な戦場は草原における合戦である事を忘れてはならない。
モンゴルが海戦を経験した訳ではないのだろうがそもそも得意分野ではないし、
騎馬戦を経験する事が多いモンゴルにとって、海戦なんて得意分野ですらないしな。
モンゴルの拡大の歴史の中では、当然、海戦より陸戦の方が多い。
地理的な立場上、ユーラシア大陸で見せたモンゴル騎馬軍を対日戦に使用する事はできないし、
モンゴル騎馬軍を舟にのせて日本に上陸させる訳にもいかないしな。
船の上では機動力も殺されて邪魔になるだけだし。
モンゴルと日本は騎馬戦で戦った訳でもないみたいだし、
日本は水際で戦う事になったのだから、
モンゴル軍の実力が本当の意味で発揮される事はない。
教科書で見る事がある黒馬にまたがった日本の武士がモンゴル兵に矢を撃たれている絵があるけど、
見るからに馬にのって戦っているわけではないしな。
地の利を得てモンゴルより騎馬戦が不得手の日本の方が断然、有利なんだな。
日本で騎馬戦が行われたわけでもないみたいだしな。
実力である事は否定できないが、
元寇の勝利自体、真珠湾攻撃みたいな棚ぼた餅勝利も否定できないんだよ。
あの時代、あの時にもし中国大陸でモンゴルと日本が衝突したら?
もしモンゴルの広大な草原で衝突したら?もし地の利がなかったら?
そう考えると、評価に難しくもあるんだな。
294 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 05:36:50
日本にとって非常に有利な状況であったのは事実だが、あくまでもそれは鎌倉武士に相当の実力があっての話。
騎兵どころか、モンゴル族がほとんど居なかった事も含めてそれが元側の勢一杯。
>>293 八幡愚童訓
「其中に、大宰少弐三郎左衛門尉景資殿を、日大将軍として待かけたるところ、
十月廿日未明より、蒙古陸地に、おしあかり、馬にのり、旗をあけて攻かかる」
モンゴル軍は普通に武士と騎馬戦やって負けてるじゃん。
296 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 08:51:24
戦争はスポーツじゃないからどちらかも同じ条件ということはないのであって。
必ず攻める側と攻められる側がある。
攻められる側からすれば、撃退を誇らずして何を誇るというのか?
ましてやあれだけの大軍が海を越えて来たのは世界史上初なのだし。
>あれだけの大軍が海を越えて来たのは世界史上初
ペルシャ戦争とかは?
298 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 12:57:13
第三次日本遠征がヴェトナムでの大敗で消えてよかった
299 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 13:24:30
あの調子では何度来ても無理でしょう。
日本側の分裂を誘う内応者を作らない限り防御優位。
弘安の役ですら東国の大軍はまだ未到着だし。
もちろん全てを知っている今だから言えることだが。
間接的に幕府を疲弊させることはあるとしても。
300 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 13:31:25
ベトナムには敬意を表するけど、ベトナム厨は少し気持ち悪い。
入れ込み過ぎ
問題は日本側内部
敵を撃退したはいいが、恩賞問題や経済流通の混乱が幕府を揺るがした
さらに御家人と御内人の対立が起こり、政争で元寇で活躍した武士達が互いに争って死んでいる
少弐景資は兄と戦って死に、菊地武房は冷遇されて後に一族が反幕府に走る
武士に報いる恩賞が土地しかない、という初歩的な構造問題は結局解決されなかったわけで
そもそも元が日本を攻めた目的が不明瞭。
第一次が南宋攻撃の最中だったから、宋と日本の連携を阻止したかったとも宋攻撃に日本の戦力を利用するつもりだったともいわれてるけど。
はっきりいって当時の日本の国力とシステムでは、外征なんて不可能。
宋を積極的に助けることも、逆に宋を攻撃しに大陸までいくのも無理。
303 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 14:11:30
とはいえ鎌倉幕府が崩壊するのは時宗から幾世代も後の話。
幕府崩壊は貨幣経済などの影響もあるから文永弘安の役はあくまで一因であるに過ぎないし。
元王朝が中国から追い出されるより早く滅亡してるんだな、幕府。
あくまで一因、とするとしてもかなり急加速がかかったことは否定できないんじゃ?
負担増加で土地喪失する御家人が続出して悪党出現、なんて元寇の影響無しじゃ考えられん
>>302 世界征服はチンギス・ハーン以来、モンゴル帝国の国是だから。
そこに国があれば、当然の如く侵略を行なう。
樺太にまで1万近い兵員を動員して侵攻しているし。
ましてや、当時の日本は莫大な黄金を宋に輸出していたから、狙われたこと自体は
不思議ではない。
306 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 14:32:47
役には幕府にとってマイナス面もあったが、得宗家による全国への専制強化という面もあった。
素直に朝貢しておけば、無駄な血が流れずにすんだ
幕府だって滅亡せずに済んだかもしれないのに
308 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 14:47:15
チンギス・ハーンの使節を殺害したために滅亡したホラズム
元の使者を殺害したために属国化された高麗
こういった事例を掴んでいれば、使者殺害なんていう非道は行わなかったはず
フビライが日本をなめてて弱将と雑多軍しか送りつけてこなかったから良かったものの……
外交音痴と情報不足は国を滅ぼしかねないね
>>307 普通断るだろ。
まともな感覚の国なら、武力で脅されて素直に朝貢なんて有り得ん。
ベトナムもビルマもジャワも、使者を処刑したり、顔に刺青入れて送り返したりして、断固拒否してるじゃん。
>>309 その結果莫大な血が流れてるわけだね
元に滅ぼされたパガン朝やホラズム、属国化した国々とそれらの国々の差は単なる幸運に過ぎない
ベトナムやジャワなんかは結局朝貢はすることになってるし
何が得か考えれば一目瞭然
国書の「兵を使うなんてことしたくないよ」という一節が武力で脅した、の根拠でしょ?
これって正確な解釈なの?
>>310 高麗は属国化した後も、莫大な血を流しているが・・・
占城や安南も朝貢を認めた後、エスカレートする一方の元からの要求に耐え切れず、
結局は反乱に追い込まれている。
使者殺害、なんて真似した国は滅ぼされるか属国になるか
良くて朝貢国として比較的緩やかに屈服がせいぜい
使者惨殺しまくったのに朝貢すら逃れた日本って確かに幸運だな
314 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 15:31:35
朝貢貿易は、属国側が儲かるもの。外交音痴の幕府が折角の貿易利権拡大のチャンスを逃すどころか外交礼儀も知らず使者を殺したせいでとんでもないことに…
幕府滅亡の原因になってるのは自業自得w
>>313 使者殺害しても、滅ぼされた国もあれば、属国になった国もあり、更には
朝貢国として比較的緩やかに屈服した国から、朝貢すら逃れた国もあるんだから、
結局のところ使者殺害と結果とは無関係なんじゃないのか?
良くて朝貢国に治まったのは莫大な犠牲を払って撃退した安南とか
その程度の地位を得るためさえ、甚大な被害を受けた
外交で回避できるならしたほうが良かった
少なくとも黙殺、使者殺しは乱暴すぎる
317 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 15:42:39
使者を斬首したのは文永の役の後。
前回の使者がスパイ活動を行っていたため、これを防ぐためではないかという説もある。
>>316 外交でモンゴル帝国から独立を守った国なんかあるの?
319 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 15:46:41
北条時宗のブレーンになったのは南宋の僧侶・蘭溪道隆や無学祖元ら
要するに祖国を元に攻められて、ついには滅ぼされた連中
連中からすれば、日本を唆して元と戦わせようと思っても不思議はない
(中華思想からすれば、いずれも蛮夷)
独自の外交ルート設置すらできてない幕府にタカ派が台頭するのも当たり前
元憎しの亡命人と、夜郎自大の武士じゃあ……
320 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 15:47:49
結果的には圧勝だったわけだが
モンゴル・元王朝って意外と自分から喧嘩吹っかけたこと少ないんだよなぁ
南宋は相手からの約束破りが発端だし、ホラズム高麗らは使節殺し
ルーシ諸国は蒙古の敵対者と組んで攻撃してきたからだし
東南アジア諸国は南宋に変る中華帝国と認めながら反乱
圧勝なんて言ってる専門家っているっけ?言われるほど苦戦ではない、程度ならともかく
323 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 15:55:57
あのそれは蒙古が報復という大儀名分をつくるためだから
モンゴルの戦の動機は復讐
>>314 フビライ時代の元は朝貢国から徹底的に搾取だよ
だから、占城や安南は反乱に追い込まれた
一方、日本と元との貿易は元寇の後、南宋時代を遥かに超える規模に拡大している
結果的に日本は、朝貢せずに貿易の果実だけを手に入れたわけ
325 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 16:27:08
交渉さえしないで使者は即斬首、北条時宗は強硬だな
北朝鮮が米の特使を処刑するようなものか
326 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 16:34:52
だから斬首は文永の役の後だと何度言えば・・。
少なくとも日本からすればバリバリの戦時体制中。
博多にて斬首
327 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 16:36:56
北朝鮮とか米国とか、現代を不用意に持ち出すと必ず荒れる
>>311 日本の隣国の高麗を武力で征服した挙句、
「王の君臣、またすでにこれを知らん。高麗は、朕の東藩なり」
なんて書いた国書を送って来たのだから、明らかに脅しでしょ。
対馬で国書を読んだ日本人の第一報は、
「二十五日戊申、高麗の牒状、到来す。蒙古国、高麗を打ち取る。また日本を打つべしとの由と云々」。
蒙古が高麗を侵略した国だという点を、日本人が重視していたことが分かる。
329 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 08:40:03
元に朝貢して、名目以外のデメリットってあるの?
戦争避けられる、地理的に日本が動員されそうな次の侵略国は見当たらない(強いていえば南宋だが、その攻撃には高麗すら動員されていない)
大陸の(中華だけではなくイスラム文明の)進んだ文化も摂取できる
結局、依怙地だっただけじゃあ……
330 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 09:01:15
ずいぶんと都合のいい設定だが、日本がつぎの侵略地への先兵とならない理由は何もない。
それこそベトナム攻撃に利用される可能性もある。
また朝貢国になっても戦が避けられる訳ではない。
過剰な搾取に耐えかねて反乱など数え上げれば枚挙に暇がない。
高麗なんか美女まで献上させられている。
メリットのほうが少ない
過剰な搾取が発生してから戦っても遅く無いじゃん。
マジャパヒト王朝のように徹底して元を利用してお帰りいただく、という立ち回りもあるわけで。
要するに奴隷か、玉砕かという両極端な発想が罷り通るのは昔っからの日本の悪い癖。
332 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 09:14:57
蒙古襲来が幕府疲弊の一因になったといわれているが、もし鎌倉幕府が朝貢を受け入れていたら朝廷はこれを不服として反鎌倉の御家人を扇動し幕府の崩壊は早まっていたのではないか?
日本に天皇、ミカドという存在がある限り、隣国との朝貢関係は日本にとって茨の道だ。
と思う
333 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 09:17:45
搾取されてから戦う意味が分からん。
ますます国力が疲弊するじゃないかと。
マゾか?
>>329 ナヤン・カダアンの乱などモンゴル帝国内の内乱で、日本が動員や兵站の負担を
求められる可能性は高いだろ。
特にカダアンの乱なんか、朝鮮半島が戦場になっているんだから。
一度属国になることを認め、国内にダルガチを配備したり、要人を人質に送ったり
すると、元の要求に不満があっても、国内情勢が筒抜けになっているため、
拒否するのが難しくなる。
安南なんか、南宋が滅亡した途端、足元を見られて負担増を求められているし。
元の国書が無礼だから受け取らなかった、という話を額面通りに信じるのなら当時の日本は明治維新後の某半島並
っていうのは冗談だけど、元を拒絶するのならするで南宋(当時はまだ滅亡してなかった)と連携は考えなかったのかね?
地理や水運力の問題はあるとしても、単独で迎撃する危険度の減少に手を全く打ってないんだが
ヴェトナムはチャンパやカンボジアからの攻撃を元軍に防いで貰ってるんだよ
だから一方的に負担増を言い立てるのは誤り
直接の原因はチャンパ攻撃に通路を貸せ、という要求
337 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 09:28:52
なんで撃退できる相手から搾取されなけりゃいけないんだよ?
古代でもそうだが大陸の国は日本を楕円形の、ちょうど台湾を大きくしたような島だという認識を持っている。
だが実際には日本列島はかなり奥行きが広い。
西の端から攻めて京都・鎌倉を陥落させるのは地勢には実は難しい。
補給線も延びる。
日本はベトナムと違って敵軍を自国領土深くに引きずり込んで戦った歴史が
幸いにもないからその利点に気付いていない。
338 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 09:36:11
そんなに日本に朝貢して欲しいなら、毎年美女三千人と金銀財宝を欠かさず持って来て、土下座しろよ。
そうしたら考えてやらなくもない。
鎌倉武士より
元と日本との間でも、経済や文化面での交流は活発に行なわれている。
朝貢を拒否して、メリットのみを主体的に享受できたのに、何が不満なんだ?
武士が意地張って戦った挙句、政権崩壊させるのは勝手だけど
巻き添え食らった壱岐・対馬・北九州の民衆は……
流通の混乱は畿内まで波及してるし
>>340 対馬の民衆は武士に感謝して小茂田浜神社を建立しているが
外交音痴が国を指導すると、いらん血が流れる。良い教訓なのに、むしろ神国思想という無茶苦茶な考えの萌芽になってしまった。
343 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 09:49:08
>>341 神社を建立したのは武士の宗経茂だろうに
>>342 鎌倉幕府のどこが外交音痴なんだよ?
当時、モンゴルから外交で独立を守った国なんか無いじゃん
鎌倉幕府の外交を批判している戦後の歴史研究者たちが、空想平和主義の外交音痴なんだろーが
武士にとっては戦争は大歓迎。恩賞もらえるチャンスだから
弘安の役なんかでは幕府が抜け駆け切込みを禁止したのに誰も聞かない
竹崎季長なんか身分を偽ってまで舟に乗ろうとしてるし
しかし土地を奪ったわけでもないし政争の煽りもあって恩賞は微々たるもの
結局軍役の負担から土地を手放す者が続出し、幕府壊滅に繋がっていく
(∩゚д゚)アーアーきこえなーい状態だから、音痴どころのレベルじゃない罠
当時、モンゴルと隣接した国は尽く戦争を行なっているが、そういう国は全部外交音痴なの?
朝廷なんて、この国書を討議する場で「その翻訳は雅じゃねーな」とか訳の巧みさを競ってるレベルなんだぜ。これでまともな外交戦が展開できたらそっちのほうが奇跡。
>>348 元寇に際して主体的な役割を果たしたのは、朝廷ではなく幕府だし。
そもそも、モンゴルは相手国の内情を探る目的で使者を派遣しているんだから、
賢い国は最初から外交に幻想を抱いたりしない。
モンゴルに対しては、日本とマムルーク朝が、最も上手に対応した国だろ。
350 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 10:31:08
朝貢関係、歩い冊封体制下になっても対馬や壱岐の住人は被害を受けることに変わりない。
朝貢による甘い汁が吸えるのは一部だけ。
国高麗の屈辱的立場を見ればああはなりたくないと考えるのが普通。
最後は抵抗力を削がれた状態で反乱をおこすことになる。
それが支配を受けるということ。
351 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 10:35:14
最初、朝廷は幕府以上に強硬な返書を送ろうとしていたからな。
むしろ幕府がまあまあとなだめるくらい。
最終的には無視することになったが
>>349 内情を探るっていうのが良く分からん
他国を見聞してくるのも外交使節の仕事でしょ
じゃあ日本も朝廷に中国の情勢を報告した遣隋使や遣唐使もスパイか
>>352 モンゴルの場合は最初から侵略する目的で、それを行なっているわけだろ
使者処刑という蛮行を正当化するためにそう後世予測しただけ
当時の史料さえ、スパイ目的だなんて言ってるものは無い
>>354 【元史本紀】
『十年六月戊申、使日本趙良弼、至太宰府而還。具以日本君臣爵号、州郡名数、風俗土宜来上』
【八幡ノ蒙古記】
『其牒使、夜々見めくりて、筑紫の地理、船津、運庭、足懸、逃路等に至るまてを、ことことく図し、
又、あひあふ人の、やうす想し、所のあないを、しるしなとして、諸事はかりすまして、返りけり』
356 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 10:52:54
最初から侵略してくる、スパイ目的と断じてたのなら最初の使者到着から処刑してただろ。
むしろ使者殺害は内外への示威だったんじゃないの?
少なくとも使者が向った国のことを本国に報告するのは当然。
現在と違って恒常的に情報が入ってくるわけでもなし。
357 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 10:54:43
少しは記録に基づいて発言してくれよ
要するに、最初の使者がスパイだったと気付いたがこれを帰らせちゃった。次に来たらスパイだと処刑した。
意味ないじゃん、却って使節殺害という修交不能の事態を招いただけ。
>>358 常識的に考えて、修交不能の事態を招いたのは、文永の役で元が侵略軍を送って来たことだと思うが・・・
常識的に考えれば、国書黙殺が一番の問題だろうに。シカトだよ、シカト
その後元は尚も使者を送って話し合いしようとしているのに日本側は無反応のまんま
361 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 11:13:08
でもなぁ、朝廷の返書なんか本当に出した日には、それこそ他の全てうっちゃって絶滅戦争になるまで攻めて来かねないほど非礼だぞ
天皇どころか将軍の名ですらなく、太政官名で「日本は神の国、知力でも武力でも争えるもんか」だもん
>>360 1268年5月という、日本に来た最初の使者が元に帰還する前の時期に、フビライが
高麗の李蔵用に発したお言葉。
「爾、爾が国に還り、速かに軍額を奏せよ。不らずんば、爾をして将に之を討たしめん。
爾等、軍を出して、将に何れの国を討たんとするか知らざらん。朕、宋と日本とを討たんと
欲するのみ。今、朕、爾が国の猶お一家のごときを視る。爾が国、若し難あれば、朕、
安んぞ敢えて救わざらんや。朕、不庭の国を征するに、爾が国の出師し助戦すること、
亦た其の分なり。爾、帰りて王に語り、戦艦一千艘、米三、四千石を載するべきを造れ」
日本の国書黙殺以前に、フビライは日本侵略の意図を明確にし、戦争準備を命じているのだが・・・
朝貢してれば良かったとかなんじゃそりゃ。
今ごろ日本って国が無かった可能性さえあるんじゃ?日本自治区とかな。
西洋東洋を問わず滅亡衰退した国・民族を考えてみろって。独立することの大変さも。
朝貢してれば助かるなんて心持ち国に反乱を起こすなんて夢また夢だろ。
極端な例だがお前は自分の娘を奴隷として朝貢出来るのか?
搾取された時に一番被害を被るのが民衆だと言う事も忘れてはならない。
『元史』高麗伝だと、「日本を攻めることを口実にして高麗を占領しちまえ」とかむしろ対高麗政策の一環という感じだな
365 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 11:27:59
極東の小島国・日本が外交の礼儀も知らず世界帝国に逆らった
海と台風と大陸各地での元の大敗で助かったけど、開戦したこと自体がとんでもない誤り
>>365 お前が今までそういう教育を受けて来たんだという事は分かってる
宋代でさえ、中国の生産力は米五億石に達していた
日本なんか問題にならない、という点では確かだが
全力を日本に継ぎ込める状況だったわけでもないでしょ
ただこれは結果論だけどね、助かったのとベクトルが違うだけで
368 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 11:43:33
日本軍が、旧南宋人の捕虜は殺害しなかった点を見過ごしてはいけない
鎌倉武士は南宋から亡命してきた禅僧に帰依していた者も多い
モンゴルに追われたホラズムの王を匿ったために攻撃を受けたり、王子が逃げた先だったためにやはり討たれた国々の例もある
潜在的に最初から決裂状態だったんだよ
369 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 12:17:07
作る会の影響が時間差で出てるのか、歴史ウヨが出没するようになったな
370 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 12:43:25
371 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 12:59:41
朝貢すればよかった?
なにその属国根性
なにそのNHK史観
372 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 13:11:09
資料に基づくほど蒙古の侵略の意図は明確
373 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 14:08:32
米をいくら沢山生産しても鎌倉武士との戦闘には余り関係ない。
374 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 14:30:46
食料は保存するにも限界があるから明らかに総人口の消費量を何倍も超える生産は徒労。
伝統的に大陸の野蛮人は数字に弱いから、せいぜい数千万石程度の実情を五億石とハッタリこいてるだけだろう。
朝鮮人がいつもやってるあの手口だよ。
375 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 15:33:08
今日はなんかいい風吹いてるよな。
パンチラ5件も目撃したぜ。
風神からの神風のプレゼントとしか思えねー
376 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 16:41:31
こんな過疎板なのに、なんでこんなにスレが伸びてるのかと
思いきや、「北条時宗」の製作スタッフの皆さんがいらっしゃったのですかw
だから大河の時宗は視聴率が超低空非行だったんだよ。
俺も最初は期待して見ていたが、あまりに馬鹿馬鹿しすぎて見るのやめた。
ところで、極東の小国というのが日本の代名詞のようになっているけれど、
実は日本の国土面積は世界の国で上から数えたほうが早いという事実。
379 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 20:18:55
高麗の忠烈王の番犬ぶりは凄いね。処女を500人差し出せと命令されたら婚姻を禁止する令まで出す。
これが朝貢国の姿。
380 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 20:32:02
領海まで含めたら もっと凄いぞ
381 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 20:45:12
領土は60位、経済水域含めると6位。
382 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 08:36:16
しかし当時の日本(幕府の支配範囲)を考えると九州四国本州以外は関係ないのでは?
まぁ日本より小さな国(現在のヴェトナムの半分くらいずつ)だった安南や占城も元を撃破してるからなぁ
元の主力がチンギス以来の十戸を最小小隊とする指揮系統のはっきりした組織から、属国被占領民族からの徴兵に変ったあたりが原因か
フビライも日本攻撃に際して「諸将の不和」を問題視しているし
兵備の点でいえば、釣り合い重りを使った大型投石機やイスラム式火砲すら多数保有していた元軍が世界レベルで見ても随一だが、騎兵同様地理に制約されるし
占城が元軍を撃破したって言うのはデマじゃないのか?
384 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 09:11:58
ジャワのマジャパヒト王朝のような例も撃破、になるからいいんじゃない?
やってきた元軍に「簒奪者を討ってくれ」と擦り寄って利用する
↓
いざ王権が成立したら「ありがと、帰ってね」と追い出す
でも、いくらなんでも国王が帰伏して、元軍が帰還したのを「撃破」というのは・・・
386 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 09:45:48
>>382 ベトナムと比べるのは難しいな
あそこは貧しくてもゲリラ戦が得意そう
ベトナムは陳興道という英雄がいたからな
388 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 10:55:11
安南と占城は同盟結んで元に対抗した
もっともこのときの同盟が領土問題の新たな火種になったりするんだが……
蒙古は南宋を攻めるとき、雲南まで軍を派遣して大理国を滅ぼし、大陸レベルで包囲かましたんだが
そんな大作戦がとれたのも、主軸が蒙古兵だったからかね?
雲南方面に展開していた蒙古兵って、かなり少ないよね
1257年に安南を屈服させたモンゴル軍は兵3千
1259年に安南経由で広西の南宋軍を撃破した時は騎兵3千と雲南のポ族1万
1268〜71年に占城を征服した部隊は兵3千と馬300
390 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 13:12:18
もともと遊牧民であるモンゴル人は農耕定着民に比べて人口が少ないのが常態なので。
391 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 14:17:45
モンゴル軍も肥大化するとかなり異民族が居る
392 :
某研究者:2007/04/12(木) 02:50:14
何発の矢がモンゴル側に命中し
何発の矢が日本側の大袖や吹き返し・盾・石垣で
止まったのかのかと言う事だが
モンゴル側は揺れる船上からの射撃が多かったから
狙撃が困難だったと言うが
集団戦では狙撃等必要なのかだが
盾に防御された様な敵に対しては狙撃が
必要と言う事かも知れぬが
大袖の上部は腕に密着するので
この部分は矢が貫通すると
問題かも知れぬし
兜前部も上手く矢が止まるのか
どうかだが
393 :
某研究者:2007/04/12(木) 02:54:35
とは言え揺れているモンゴル船の盾の間を
地上から上手く狙撃出来たのか
どうかだが
船上から大袖の上部や目部等を貫くよりは
簡単と言う事かも知れぬが
(馬は石垣或いは歩兵の盾で
防御されて居る訳だろうか)
大袖や兜の無い様な弓歩兵は
盾の間に居て撃たれたと言う事は無いのかだが
其の様な兵は長巻を持つ事が
多かったと言う事かも知れぬし
射撃戦時には後方に居たかも知れぬが
394 :
某研究者:2007/04/12(木) 02:57:39
遠距離からの盾を飛び越しての射撃は
縦深の深い陣では無いので余り当たらなかったと言う事は
無いのかだろうし
鎧兜が有ればダメージも少ないと言う事かも知れぬが
395 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 07:20:07
時代劇の影響か
矢を雨の様に降らすってのが日本の戦では想像出来ないんだけど 水平射撃みたいなイメ-ジが強いかな
>>395 近藤好和の「弓矢と刀剣」によれば、「飛ぶ矢雨の如し」と類似の表現は、
平家物語にはさかんに登場するということだが
>>371 足利幕府も形式的に明に朝貢しているし
鎌倉幕府も形式的に朝貢していれば
余計な紛争はおきなかったかも
>>397 モンゴルが形式的な朝貢で満足する国なら、高麗や安南や占城も、
余計な紛争をおこさなかったのにな
399 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 17:22:17
また朝貢フリークがいるようだな。
足利義満は朝廷をないがしろにし(明国は朝廷と幕府の関係なぞ知らない。形式的には足利義満は個人的に朝貢したことになる。つまり明国から利益を騙し取ったようなもの。)、自身を日本国王と称して朝貢による利益を得たが室町幕府は戦国の世に・・。
400 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 17:24:00
足利幕府ほど不安定な幕府はなかったのだが。
401 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 18:56:19
>>沖縄に追放されたモンゴル皇帝の末裔、その後の事だれか知りませんか!!
13世紀頃にユーラシア大陸を席巻した史上最大の帝国・モンゴル帝国のうち、クビライが建てた
大元ウルス(ウルスはモンゴル語で国)は1368年、明の朱元璋によって滅ぼされます。その時、
明は元朝皇帝の次男と妃・娘を生け捕りにしましたが、彼らが沖縄に追放された事実はあまり知ら
れていません。
元朝皇帝の次男の名前は「地保奴(ティポヌ)」。元朝17代天元帝(ウスハル・ハーン)の次男です。
捕らえられた地保奴らは当時の首都であった南京に送られます。明皇帝の太祖は元がかつて良い政治
も行ったことを考えて、その子孫である地保奴を殺すことは止めました。しかし国内においておくのも
どんなものだろうかということで、多くの資財を与えて琉球に送った、と明朝の記録『明実録』にあります。
『明実録』の記事は単なる伝承などではなく、当時の出来事を正確に記録したものですから、元朝皇帝
次男の琉球への追放はほぼまちがいない事実と考えられます。
琉球って台湾を指すこともあるとか?
403 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 23:44:46
* 琉球と明との関係は1372年、明の太祖の招諭を、時の中山王察度が応じて使者を派遣したのに始まる。
いわゆる冊封体制が成立した。こののち第一尚氏王朝はこれを引き継いだ。
上記に有る様に1350年頃から福州、江南地域とは交流が有り琉球と小琉球(台湾)の違いは認識してる。
中山王察度が1372年に明に行く前に、明からの使者が交渉に来てる、元が滅びたのは1368年だが
ティポヌが捕らえられたのは1388年だと言われてるので、この頃には琉球=現在の沖縄と認識してる。
404 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 01:17:48
高麗が元と共に攻めてきてから文禄慶長の役まで300年.それから現代まで400年.秀吉にとっては元寇は現代朝鮮人にとっての秀吉より身近な出来事であった.
405 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 03:09:56
元寇も倭寇も中の人はチョン
406 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 09:38:07
そんなに身近じゃねえだろ
対馬や壱岐の人ならまだしも
弘安の役って、高麗の忠烈王と旧南宋の范文虎の共同企画だろ。
実体は正に朝鮮と中国の日本侵略なんだよな。
408 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 10:59:10
確か明の朱元章も日本侵略を思いつき、書面を大宰府に送っていたよな。
大宰府の何とか親王(名前忘れた)が戦意満々の返書を送って挑発。
激怒した皇帝が日本侵略の兵をあげようとしたが側近にたしなめられて断念した。
このくだりを思い出したのだが今は調べる時間がない。
携帯だし
409 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 11:03:57
当時の日本人は元でも明でも、向こうからすればムカつくくらいに強硬姿勢、武断的姿勢なのが笑える。
足利義満が自身を日本国王と称して行った朝貢貿易も結局続かなかった
>>408 南朝の懐良親王ね。
洪武帝は当時の明の国力の限界等から日本、朝鮮、上下ヴェトナム、琉球など
15の周辺国を「不征国」に定めており、モンゴル以外との戦争には消極的だったと思われる。
でも永楽帝だったら多分やってたかもね。
411 :
某研究者:2007/04/13(金) 20:10:44
地上戦では騎馬武者が弓騎兵を弓で仕留めた後
突入して来た槍騎兵は馬を弓で貫通させるか
ヘースティングスの様に盾で止めて長巻で馬を叩くと言う様な方向だろうか
盾に隠れる敵歩兵は騎兵が撃退された後は士気が低下するかも知れぬし
敗走して蒙古襲来絵詞に描かれて居る様な弓の的に成ると言う可能性も有る訳だろうし
騎馬武者に追撃されて壊滅するかも知れぬが
412 :
某研究者:2007/04/13(金) 20:24:11
>突入して来た槍騎兵は馬を弓で貫通させるか
>ヘースティングスの様に盾で止めて長巻で馬を叩くと言う様な方向だろうか
>盾に隠れる敵歩兵は騎兵が撃退された後は士気が低下するかも知れぬし
シールドウォールを崩すのも問題かも知れぬし
騎馬武者が近距離で槍騎兵の盾で防御されて居ない部分を
貫くと言う方向も有る訳だろうか
騎兵壊滅後も歩兵が敗走しなかった場合は
シールドウォールから出て来たモンゴル槍歩兵を
騎馬武者が上から狙撃すると言う方向も有るだろうか
413 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 21:08:13
スレが伸びているのを見て、期待して中を見ると某研の仕業だったときはかなりがっかりする。
414 :
某研究者:2007/04/13(金) 21:31:07
シールドウォールの背後の敵を
フレイルで攻撃したと言う例が
何処かに有ったかも知れぬが
中国だっただろうか
415 :
某研究者:2007/04/13(金) 22:14:57
416 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 01:15:45
>>409 当時の日本人は元でも明でも、向こうからすればムカつくくらいに強硬姿勢、武断的姿勢なのが笑える。
確かに。
寧波の乱(1453年)では、
明の寧波で日本国王(勘合貿易の旨みがある)をめぐって細川氏と大内氏の使節団(両者500名ほど)が戦闘を展開。
細川勢に破れた大内は明の船を奪って海上に脱出。
それを追撃した明軍の袁キが海戦で戦死するなどやること滅茶苦茶。
日本国内ではただの守護大名に過ぎなくても、
一応名目は日本国王の使者(軍人)という肩書きなんだから明帝国軍返り討ちにしちゃ駄目だろうと。
当然、明は閉関絶貢(もう朝貢してこないでください)の処置。
明は日本の守護大名たちの宗主でいたつもりなのに、まったく敬意を払われていなかった。
417 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 04:10:54
寧波の乱は教科書レベルだから詳しく説明しなくてもいいけど
確かに当時の西日本の連中は、倭冦が暴れていたこともあって相当中国人をなめていたようだ
ただその認識で朝鮮へ攻めたものだから後で手痛いしっぺ返しにあうことになることも付け加えとく
「支那人は、たとえ我々が少数でも、武装をして討ち入れば
大方は闘わず四散し、たまに向かってくるものがいてもごく少数である
支那人は弱く、臆病であるという認識は我々多くが思っていたのだろうけれども
今回の戦い(朝鮮出兵のこと)で我々はその認識を改めなければ無くなった
支那人は正規の軍団としてみれば、勇敢で粘り強く、我々が聞いてきた支那人の実情とあまりにも
実態が離れていることを認識しなければならなくなった。」
418 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 04:14:26
↑
小西の日記ね
>>127 小西、おまえが言うなよっ!というセリフだな
結局強強いと言いたいのか弱いと言いたいのかわからん文章(訳)だな
四散して逃げるのか、粘り強いのか、どっちやねん
懐良親王はその後朝貢した、と明側の記録にあるけれども
どこまで本当なのか?
>>418 フロイスも似たようなこと書いてたが
小西から聞いたのかな?
元代には慶元府焼き討ち事件というのもあった。
日本の商人たちが交易上のトラブルで現地人と戦闘になり
慶元府を焼き払って逃げたらしい。
当時元にいた禅僧の雪村友梅が巻き添えで逮捕されてる。
>>420 懐良親王がその後朝貢した、という明側の記録って何?
423 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 09:55:16
日本人って何だかんだで結構DQNだったんだね
424 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 09:57:15
明を甘く見ていた所はあるんだなw
>>421 フロイスにとって、小西はキリシタン仲間だし、つながりがあった。
キリシタン弾圧が強まりつつあった時代なので、小西を通じて勢力を維持したいという目論み。
要はこの二者はべったり
おまえら、自分が中華王朝になったつもりで考えてみろ。
何かと言うと海の向こうから攻めてくる日本は厄介過ぎる。
ガチンコの武力衝突では蒙古でも適わないし、懐柔させるために
たまに朝貢させてやっても相手が日本の代表なのか一地方の大名なのか
見当がつかない。
かといって出入り禁止にすると、海賊が出てきて苦しめる。
頼むから俺に歯向かわないでおくれ。
もとい、歯向かわないでください。お願いします
427 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 11:46:32
>>419 正規軍は強いって言うことだろ。
今までは群衆や警備隊や州牧の兵は相手が多数でも
少数で突撃すればたちまち四散して楽勝だったけど、今回は中央軍が出てきて思うようには行かなくなったから
認識を改めなければならないって言っている。
>>427 その正規軍が弱いんだが・・
そりゃ朝鮮軍よりはまともな司令官がいたし、朝鮮軍と比べるのものも失礼な話だが
地続きにあれだけの大軍で攻めながら、なにやられているんだと。
430 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 13:22:44
基本的に大陸の軍隊は日本よりも弱い。
ネトウヨキター
432 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 14:01:47
反日勢力だらけの2ちゃんねるではそんなに珍しいかね。
ウヨでもサヨでもいいんだよ。
資料を突き合わせて話が出来るならば。
434 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 14:30:32
資料を見た結果、基本的に大陸の軍隊は日本よりも弱いと結論づけられる。
435 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 15:18:52
明軍の総司令官・李如松は緒戦の小競り合いでは日本に連敗していたけど、
平壌の戦いで小西行長の守る平壌を日本から奪還しているからこの時に、小西に中国強しの印象を与えたのでは?
その後、戦勝の勢いで南下したら小早川・立花連合軍に碧蹄館の戦いで敗北したから、
小早川や立花の将兵はまた違う印象を持っていたかもしれない。
>>435 平壌の戦いは、奇襲だった上に兵力にも差があるからな。
その後に与えた影響としては、日本軍が朝鮮の城はまったく当てにならないという印象を持ったこと。
朝鮮の城塞都市を支配する際にも、近くにわざわざ日本式の城を築いて、そこを拠点にするようになった。
437 :
435:2007/04/14(土) 15:29:33
なんか元寇とは関係ない事書き込んですまん。
いや、歓迎する
439 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 16:18:41
島津義弘も昔ながらの城の近所にわざわざ城を新築して明の大軍を返り討ち。
440 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 17:32:54
>>435 平壌の戦いは4万(明)対1万(小西)で確かに劣勢。
だけど小西は当初から少数の日本兵で多数の中国人を撃退できるという計算を抱いていたけど
明軍は少数の日本人相手に四散なんかせずに普通に戦闘を継続し続けたから、あれ?話違うなーぐらい感じたんじゃない?
441 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 18:39:49
まあ確かに平壌で均衡したのは事実だしな
当時の日本軍は倭冦の傍若無人ぶりをみるに「中国糞弱い」が常識で
朝鮮で止められるのはむしろ計算外だったんじゃないか
おれらからみれば快進撃に見えるけど
442 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 21:26:02
>>435 陳舜臣「中国の歴史」にあった記述だけど、
小西軍が平壌で負けたのは、明軍にヨーロッパ製大砲を持つ部隊がいたかららしいよ。
で、李如松は追撃に大砲部隊を連れて行かなかったからヘキテイカンで大敗した、と。
当時の明に火縄銃はなかったらしいし、大砲さえなけりゃ日本が当時のアジアで最強だったのは間違いないと思われ。
443 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 21:49:15
>>164 いい視点だね。そう、この戦いは馬がポイント。
そもそも、なんでモンゴル軍が強かったかというと、騎兵の機動力を最大限に活用した戦術だったから。
で、元寇ではほとんど馬を連れてきていない。てか、兵はともかく馬まで全部運ぶのは無理。
騎兵ひとりにつき、馬は4頭以上いるのが理想とされるから、2万の軍勢を騎兵として活用したいなら8万の馬が必要なわけ。
逆に日本側は、騎兵による戦術を展開できる立場だったから、モンゴル側は上陸してもろくに前進できないわけ。
仮に、モンゴル側が完全な騎兵で挑んできても、日本側に分があったと思われる。
理由は、地形。
騎兵の機動力を活かすにはただっぴろい草原が一番だけど、そんなものは日本にはない。
山がちで、小さな川も無数にあり、平地はぬかるむ田んぼがほとんど。
当時の武士の得意戦法である夜襲と組み合わせても、地の利がないモンゴル側がどれほどの戦果を
挙げられたのか、はかなり疑問。
444 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 21:56:37
>>443の補足。
実際、モンゴルは南宋を滅ぼす戦いでは、灌漑水路や運河の多い楊州方面を避けている。
楊州ではあまり進撃せず、主攻は四川や湖南方面だったし。
それと、元軍の船がもろかったのは、かなりの手抜き作業が行われていたから。
800隻を半年で作れ、なんて命令されてたようだし。
弘安の役の江南軍なんかもっと悲惨で、
元首脳部には、ほとんど無傷の旧南宋系軍団を海中に棄てる意図があったのでは、なんて言われてる。
445 :
虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/04/14(土) 22:04:27 BE:728521875-2BP(0)
446 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 22:25:03
航海中に耐用限度を超えて分解するような船にお前らを乗せる予定だから通常よりも手を抜いて作れなんて命令を出せる訳が無いよ。
目的を知らせずにボロ船を作らせる事が出来たとしても、モンゴル軍がわざわざボロ船を大量生産して艦隊を作った事実は知れ渡る。
軍勢をボロ船に乗せる時点で反乱になるだけだ。
高麗人は自分たちが命を預ける船を精一杯堅牢に建造したが、対馬海峡を越える航海に必要な強度には達していなかっただけだよ。
447 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 22:43:10
>>446 手抜き作業は命令でされたわけではなく、期限に間に合わせるために、
仕方なくされたこと。
だいたい、沈んだのは航海のせいではなく嵐のせいでしょ?
日本にまで渡る、という目的は果たせているじゃないか。
>>444に書いたのは、
>>442の本にあったことだから、それならそれで
「中国の歴史」の間違いを指摘してくれ。
448 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 22:50:13
一度の嵐で艦隊が全滅する程度の強度しか実現できなかった理由が故意ではない事には変わりない。
連中は一生懸命作って、あの程度の船しか用意出来なかった。
期限は弁解にならない。
いつ日本に侵攻するのかはモンゴルの勝手だからだ。
449 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 23:09:50
>>448 仕方なくされたものでも、手抜きは手抜き。
期限を設定したのも、モンゴル政権なんだけどね。
ところで、この程度の記述で高麗人の名誉に関わる、とでも思ってんの?
俺は別に彼らを貶めるつもりはないのだが。
ちなみにきくけど、「800隻を6ヶ月で」って、物理的に可能だと思う?
450 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 23:17:47
モンゴルが船を作れと命じた時にボロ船でお茶を濁して自滅したマヌケの名誉なんぞ知らんよ。
無理な注文には無理だと答えれば良かったものを、なまじカッコつけて自滅する悪い癖が昔からの民族性なんだろうな。
嫌韓厨はお呼びでないよ
452 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 23:38:58
反論に窮する度に嫌韓厨がどーのこーの喚くバカこそお呼びでない。
ボロ船を作る手間とマトモな船を作る手間にそれ程違いがあるとも思えないしな。
わざわざ手間暇かけなきゃ一度の航海で艦隊が全滅しるくらい貧弱な船を作り上げる事の方が難しいよ。
453 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 23:47:25
日本人
ボロ船を作る手間≒太陽系最高品質の船を作る手間
朝鮮人
ボロ船を作る手間≒朝鮮人の全力
>>442 >当時の明に火縄銃はなかった
あったよ。銃身が鋳銅で加熱しやすく連発には向いてなかったが。
455 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 02:23:28
>>454 それは知らなかったな。
それにしては、戦場で機能的な運用をした、という話は耳にしたことないのだが。
456 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 02:28:06
>>443 騎兵ひとりにつき、馬は4頭が必要なのは、陸上を長距離進行する場合だろ。
元寇でモンゴル軍は船で日本まで来たんだから、そんなに必要ないじゃん。
457 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 02:40:11
元軍に討ち取られた有力御家人っている?
458 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 03:36:59
>>456 戦闘で負傷した馬の代わりの馬、という意味もあるんだが。
>>444 高麗がフビライから建造を命じられた船は900艘だが、その全部に外洋航海能力が
必要なわけではない。
900艘の内の600艘は、上陸や汲水などの特殊な任務のための小型船で、外洋航海中は
残り300艘の大型船に収容されたり、曳航されたりしていても構わないもの。
1268年に高麗がフビライから建造を命じられた3〜4千石積載可能な大型船1000艘と
比較すれば、元寇の大型船300艘+小型船600艘なんか、かなり余裕の仕事だろ。
あと、元寇において高麗で建造された船が、一度の嵐で全滅したなどという事実は無い。
460 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 10:21:54
>>423 >>428 日本人がDQNっていうんなら世界でDQNじゃない国なんて数えるほどしか無いぞw
>>455 明軍の使用した鉄砲については
洞富雄「鉄砲伝来とその影響」
久芳崇「十六世紀末、日本式鉄砲の明朝への伝播」
が参考になる。
対モンゴル戦では大砲などと合わせて突撃粉砕射撃
のようなことをしていたらしい。
敵側に大量の、しかも性能の高い銃がある対日戦では
大砲を撃って挑発し敵の弾が尽きたところで攻撃する
といった消極的な戦術になっていったそうだ。
462 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 10:51:56
昔から日本と中国って仲が悪かったのね
日中が友好な時期が珍しいのかもしれん
>>455 日本でも導入期の鉄砲では、戦場では使い物にならず弓矢のほうが実用的だったからな・・。
その後の品質改良と効率的な運用方法の発達で日本は鉄砲大国となった。
粗悪な火縄銃だと全く実用には絶えられない
464 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 11:44:02
日本は推古朝以来、中華王朝に対しても独自のスタンスを取るのが建前(相手からすれば蛮族は礼儀を知らんな、程度の感覚だろうがby隋書)
元に出されるはずだった朝廷返書から見て取れるように、神国思想は昔っからだから
465 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 13:07:29
戦争と言うのは長い歴史でみれば常に一時的な期間に起こるもの。
日中戦争は15年近く続いたが、日中関係を2000年以上だと考えると
ほんの一瞬の期間に行われた出来事でしかない。
つまり戦争している時より平和的な関係を作っていた方が長いんだな。
日中戦争が最も最長の期間に渡って続けられた戦争だが、
元明清との戦争は連続して5年もしてないからね。
つまり日本と中国は戦争していた時期より戦争していない時期の方が長いんだよ。
466 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 13:13:51
日本と中国が同盟関係にあったことあるの?
戦争していない時期=拮抗していた時期。
その時期を平和と言うのか、友好関係というのか、戦争の合間と呼ぶのか。
歴史を振り返るなら、日中で適度に距離を置いていたほうが、
戦争がなく両者のためだということは言える。
日中友好は日本を滅ぼす
469 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 13:53:18
諸外国の一つとして見たほうが良さそうだな 歴史から学ぶと
470 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 15:08:34
古くから日本の思想では、日本(本朝)と他国(異朝)とは区別して考えているから、
他の王朝の皇帝と天皇は競合しないけど、
中国の思想では「天に2日なく、地に2王なし」が原則だから
他国に皇帝が存在している事が無礼になるんだよ。
日本相手でもイギリス相手でもそうだったよ。
(典礼問題でイギリスに朝貢を求めてもめている)
だからそういう典礼の形式は隠すか、議論の焦点にしなければ問題ないけど
「東の天子が西の皇帝に挨拶します。お元気ですか?」なんていう文章を送っちゃうと
「蛮夷の者に無礼なる書あり。」とか言って激怒したりするよ。
471 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 15:15:29
中華思想というのは夜郎自大の同義語だな。
幼稚園児がそのまま大人になったようなもんだ
ウヨはお呼びでないよ
473 :
某研究者:2007/04/16(月) 05:42:56
474 :
某研究者:2007/04/16(月) 05:58:22
475 :
某研究者:2007/04/16(月) 05:59:36
http://www.youtube.com/watch?v=15ppoxi3PM4 まあブリガンダインはおろか
プレートアーマーでも
ロングボウに対しては
(30ヤード(約27M))では
この有様だろうし
クロスボウやモンゴルの弓は
此れより強力である
訳だろうか
(現実には胴体でも
装甲は2mm等は無い訳だろうし
実戦では110ポンドでは無く
180ポンド(約81Kg)の
ロングボウが多用されていたと言う
情報も有る訳だろうか)
故に鎧では弓は防げず
大袖や吹き返し・盾で矢は止めるしか無い訳だろうか
(鉄の完全鎧を装備した様なモンゴル槍騎兵も
盾以外では矢は
止まらない訳だろうか)
476 :
某研究者:2007/04/16(月) 06:02:25
>の上から二段目の写真が
>モンゴルの鎧の内部だろうが
>西欧のブリガンダイン同様
>装甲が重なって隙間は上手く埋まって
>居る様に見えるし
>札も可也大きいだろうが
此れは日本刀で殴ってもダメージを与えられるのかだが
脇や脚の部分には隙間が有ったかも知れぬし
脛は只のブーツだっただろうし
しころの部分等は固定されて居ないから
打撃には脆い訳だろうか
(日本側も固定はされて居ないだろうが
吹き返しの部分は可也固いと言う事は
無いのかだが)
477 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 09:01:04
ウヨの代わりに某研が来たわけだが。
サヨよりもましかも知れぬと言うことかも知れぬが。
478 :
某研究者:2007/04/16(月) 09:28:55
嫌中ならウヨかい
480 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 13:09:11
繰り返し言われてきたことだが、資料に基づく態度ならばウヨでもサヨでもいい。
ウヨとかサヨとかいう言葉が、「反論したいけどできない、仕方無いから煽ってやれ!」という目的以上で使われた例を知らない
思想板じゃあ枕詞と化してるスレもあるがw
反論なんかする価値も無いけどね
483 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 15:19:09
じゃあわざわざ煽らずスルーすればいいだけじゃんw
荒しの自己弁護、みっともない
484 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 16:22:06
荒らしでもいい。
根拠があるなら
>>462 というか…
シナはそもそも周辺諸国と友好関係を結べる国だったというの?
「衝突するかしないか、朝貢するかそうでないか」だけの関係だったんじゃないの?
支那にとっての友好と 近隣諸国のソレとは大違い
487 :
某研究者:2007/04/16(月) 21:40:45
モンゴルの投げ槍でやられた騎馬武者や
徒士はどの程度居たのかだが
日本側が真似をして居ないと言う事は
余りやられなかったと言う事かも知れぬが
盾は貫通する代物である
訳だろうか
488 :
某研究者:2007/04/16(月) 22:00:07
バリスタや投石器は
持ち込めたのかだが
モンゴル船に投石器が装備されて居たと言う
記述も有るし
此れを地上に向けて打ち込んで来たと言う
可能性も有る訳だろうか
489 :
某研究者:2007/04/16(月) 22:57:57
手投げ弾は有効だったのか
毛利等が模倣していただろうが
船舶相手や密集隊形相手は兎も角
浅い陣形には余り有効では
無いかも知れぬが
(まあしかし3−4列程度の浅い陣形相手にも
西欧軍は手投げ弾を使用して
居ただろうが
此れは有効だったのかどうかだが
船舶や建物以外には余り
使用しなかったのかも知れぬが)
490 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 10:41:35
某研タイフーン
491 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 09:38:27
某研ストッパー
どんなに荒れても必ず止めるエース
492 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 00:16:28
1ヶ月ぶりにあげますね
493 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 07:58:28
1回目
日本の造化三神「平成の世になったら、神技である相撲の横綱をモンゴル人に
譲るから、今回は撤退してくれ。」
モンゴル最高神 「ならば、自然現象の風にやられたことにして手をひこう」
2回目
日本の造化三神 「東西の正横綱をモンゴルに譲るから、今回も撤退してくれ。」
モンゴル最高神 「まあ、いいだろう。だが、関取15人はモンゴル枠でな」
モンゴリアンチョップは武士も痛かっただろうなぁ
495 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 17:45:08
>>493 そんな小さな事で侵略諦めてくれた
モンゴルの神様の寛大さに感謝。
定期的に大相撲を持ち出す奴は死ね
497 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 16:38:12
まあまあ、お爺ちゃんの唯一の楽しみなんだから
大目に見てあげようよw
最近相撲は面白いが、このスレで相撲を持ち出す奴はくたばれ。
499 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 01:26:53
今時日本人で相撲やる奴なんて
能無しのピザぐらいなもんだろ
500 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 03:37:12
思うんだけど、なんで元軍は確実に対馬、壱岐らを制圧してそのまま前線基地化しかなったのかね。
対馬・壱岐を抑えておけば2度の役といわず定期的に侵攻できね?
>430
前線基地が存在するためには補給拠点が必要
補給拠点は適地にて確保する方が効率がよい
もって対馬壱岐は無力化させたうえで九州北部を占拠にかかったのでは?
>500
弘安の役の元軍は、博多湾内の戦闘で敗退した後、一旦は壱岐を拠点にしようとしたけど、
結局は日本軍の攻撃で追い出されている。
台風の後、九州付近の島に残っていた元軍10万も、日本軍の掃討戦で完全に全滅したし。
503 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 11:05:16
神風起こしたのは諏訪大明神だよ
遅ればせながら、
日本国の国技であり、
神事の一つである由緒正しき浄き場において、
東西両横綱がモンゴル人になったこの事実、
日本人問わずいろんな人々が様々な思惑で受け止める、
そして歴史にも思いを馳せてみる・・
長き長き800年の時を越えて実った一つの完成形
感無量である
505 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 18:56:40
はいはいお爺ちゃんさっさとお迎えが来るといいですねー。
二週間前の週刊日本の100人は北条時宗だったけど
相変わらず通説通りだったな
506 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 19:31:06
50前後にある村井という日本の学者。ひでえもんだな。
こんなのが権威としてのさばってきたのか。
学者というよりヘイコラぬかずく工作員のお先棒じゃねえか。
507 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 13:38:02
508 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 13:41:40
防御側は攻撃側より優位であると言うし
弘安の役は上陸を防ぐ石垣まであった
面白みがないといえばないが
防衛戦としてはこれ以上なというほど
うまくいった戦いだろう
510 :
武陽陰士:2007/06/10(日) 14:52:22
>>506 村井氏は良心的な学者だよ。
てめえのようなヒマ人のどうでもいい奴とはチゲーんだよ。
パーならだまってろ
ということで、元寇は防備を硬くして攻撃を防いだ
鎌倉幕府の実力での勝利と言うことで
(この当時の軍を日本軍とは呼ぶきにはなれない。
おそらく、この当時の列島の住民はは自分のことを
日本人だとは思っていなかったはず)
>>511 んなわけないだろ。
列島の住人は日本人だと思っていたし、異国が来たことも知っていた。
幕府の執権や御家人といった知識階級はともかく
百姓といった一般階級は日本人意識があったかどうか疑問
>>510 実際に書いてることは偏向しまくりじゃん
こんな匿名の掲示板で
村井先生みたいな良識人を攻撃してる人は
卑怯者の何者でもないな。哀れ
村井先生みたいな良識人が本に書いてること
56 :日本@名無史さん :2006/12/11(月) 17:38:49
そもそも、村井章介が朝鮮よりの暴論を展開し、日本史を歪めている一人だろ。
【北条時宗と蒙古襲来】P128
『したがって、日本との戦争を避けることが、李蔵用以来の高麗の基本方針であり、
外交交渉で正面から日本遠征中止を訴えるほか、使者を抱きこんで日本国使を
仕立てるなどの工作もいとわなかった。
もちろん高麗の一部には、対日戦に勝利して有利な地位を確保しようとする
思惑もあり、忠烈王が、一ニ七八年に「日本は一島夷のみ、・・・願わくば更に
船を造り穀を積み、罪を声らして討を致さん」と元にもとめたり、一二九二年に、
三度目の日本征伐への助力を元使に申し出る、といった行動をした背景には、
そうした動向があるかもしれない』
忠烈王は高麗国王で、李蔵用は高麗の一役人。
何で李蔵用が「高麗の基本方針」で、忠烈王が「高麗の一部」なんだよ?
常識的に考えれば、忠烈王が高麗国王として元に再三日本侵略を求めたんだから
それが「高麗の基本方針」で、李蔵用はあくまでも「高麗の一部」とするべきだろ。
>>53はこの文章を読んで何の疑問も抱かなかったのか?
朝鮮が絡むと、こういう滅茶苦茶な理屈も堂々とまかり通るのが、戦後の日本史研究の現状。
61 :日本@名無史さん :2006/12/15(金) 15:45:45
村井章介は、まだまだ他にもおかしなことを書いてるぞ。
【北条時宗と蒙古襲来】P118
『先にあげた諸例のなかで、予定された戦争は「異国征伐(発向)」「高麗征伐(発向)」と
呼ばれている。攻撃目標は本源地であるモンゴルではなく、朝鮮半島だった。ここには、
戦役に疲れた高麗の弱みにつけこんだ冒険的侵略主義以外のものは認めがたい』
この文章の中で、「戦役」という言葉が指しているのは文永の役。
文永の役って、あきらかに日本が侵略戦争の被害者だよな・・・
対馬、壱岐、松浦、博多では何の罪もない日本人の多くが、侵攻してきた高麗と元の兵士に
よって殺されたんだぞ。
鎌倉幕府がそれに対して、報復を考えるのは当然だろーが。
何で日本の方が「侵略主義」のレッテル貼られて、批判されてるんだよ?
加害者の高麗が日本を侵略して疲れているから、被害者の日本が報復しようとするのは
「弱みにつけこんだ冒険的侵略主義」・・・
「朝鮮より」なんていう生半可なレベルじゃないぞ。
村井章介のやってることは、「歴史研究」とは名ばかりで、単なる朝鮮のプロパガンダじゃん。
518 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 17:54:10
>>513 百姓や漁師なんかの類でも
中国や朝鮮、南蛮なんかの船が漂着すると
言葉の通じない異人が出たーって
官庁や役所に報告されちゃうんだけど。
で、武士や僧侶が出向いて筆談する。
同じ日本同士だと報告されないよ。
519 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 19:19:08
山川の『詳説日本史』は、入試問題はここから良く出るって事で
採用している高校も多いと思うが、これがとんでもないクソ教科書
親父の頃の教科書と比較してみると
任那が削除されていて、伽耶に書き換えられている
で、下の片隅に小さく、『日本書紀』では伽耶諸国を「任那」とよんでいる
などと日本側の史料を貶めていて、日本のみがそのような呼称をしなかったような記述だが
中国側の史料である『宋書』倭国伝の倭王武の上表文(それにはちゃんと任那が明記されてある)を掲載してるにもかかわらずである。
それと親父の頃の秀吉の朝鮮征伐は
『前後7年にわたる朝鮮出兵は、明と朝鮮の反感をかい、国内的にはぼう大な戦費と兵力をついやして』となってるが、今度のは
『前後7年におよぶ日本軍の朝鮮侵略は、朝鮮の人びとを戦火にまき込み、多くの被害をあたえた。また国内的には
ぼう大な戦費と兵力を無駄についやす』と、『侵略』を用いて、ことさら日本軍の残忍性を強調している。
それならば、元寇はどうかというと、親父の頃は
『南宋をほろぼした元は勢いに乗じてふたたび大軍をおくってわが国を侵略しようとし』とあるが、今度のは
『南宋を滅ぼした元は、ふたたび日本の征服をめざし』
と、なんと姑息にも『侵略』の文字を消し去ってしまっている。
これが日本の教科書なのである。
因みに巻末の執筆者一覧を見たが、これが阿保クソサヨで名高い売国奴ばっかりに代わってしまっている。
こいつらは多分在日チョンないし、帰化した連中でなかろうか?
でなければ、こんな全面的に改悪するなど出来ないはずだ
どこの国でも国史を良いように書くものである。それがこれほどにまで貶めてるのだから、もはや何をか言わんやである。
これだけ醜く歪めた教科書の存在は許しがたい
そう思われる方は、
[email protected] へ抗議のメールをどんどんしよう!
>>518 当時の日本人に日本人と言う意識が無いってのも、出所は司馬史観かな?
司馬史観の古代史になると、言語学無視して、
大きな声で話せば、倭人と韓人は意思疎通出来たみたいな。
オッスオラ薩摩人
522 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 02:17:25
> (この当時の軍を日本軍とは呼ぶきにはなれない。
> おそらく、この当時の列島の住民はは自分のことを
> 日本人だとは思っていなかったはず)
お前、洗脳されすぎwww
日本人ってよりどこどこの国人って感覚では
524 :
日本@名無史さん:2007/06/29(金) 22:46:07
元寇で捕虜になった蒙古人と高麗人は殺されて南宋人の捕虜は助けられたそうだけど
南宋人の捕虜はその後どうなったの?
河野氏の後ろ築地の話とか
敵船に乗り込む河野通有の話が好き
史実かは甚だ疑問だが
785 名前: 世界@名無史さん 04/09/27 23:19:59
俺の母方は口伝では弘安の役で捕まった蒙古兵らすぃ。でも蒙古とか中国とか高麗とかでは
ない隠し姓あり。イラン系?西域の方っぽかった。なんか長ったらしかったぞ。
そのせいか俺の目の色が薄い赤と灰色が混じったような色で初対面も人にはあれ?ッといわれる。
室町期になると普通に侍としてリーマン生活してたらしい。
んなことより、俺もキエフ攻略戦に参加してロシア少女とはぁはぁしてぇ、まじしてぇ
527 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 18:42:37
>>329 元の属国となった高麗の辿った道
「高麗は元と講和を結び開京(開城)へ還都したが、すぐ新しい試練にさらされた。
元は日本を征伐するため軍艦の建造、軍糧供給、軍使の動員を高麗に強要した。
そして二度にわたって麗・元連合軍の日本遠征が断行されたがすべて失敗した。
元は日本征伐のため高麗に征東行省という官庁を置いた。
征東行省は日本遠征が失敗した後は元と高麗との公的連絡機関として運営された」(韓国国定教科書)
元の高麗支配で
「高麗は官制や王室で使う用語も格を下げられ、
各種の名目で金、銀、穀物を要求され多くの苦痛を経験した」(韓国国定教科書)
「元の王室や貴族たちは後宮、宮女、侍女などにあてるため
しょっちゅう高麗の女性を連れていき、多くの高麗人が戦争捕虜として捕らえられていった。」(韓国国定教科書)
528 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 19:00:20
>征東行省は日本遠征が失敗した後は元と高麗との公的連絡機関として運営された」(韓国国定教科書)
征東行省に公的連絡機関という一見響きの良い言葉を使っているが、実質は元による高麗への上意下達機関。
529 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 18:08:23
>>329 >(強いていえば南宋だが、その攻撃には高麗すら動員されていない)
高麗は日本攻撃要員だったから南宋攻撃には動員されなかっただけだ。
>>340 蒙古・高麗が壱岐・対馬・北九州の民衆を虐殺したのは
戦った武士のせいって・・・
何だよその理屈
530 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 18:24:01
>>360 服属要求拒否を即答してたら侵略が無かったとでも?
アホですか? それこそ確実に攻めてくる。
先ず服属を要求して、従わなければ武力で征伐するのがモンゴルの原理原則だ。
多少なりとも時間稼ぎするためには国書黙殺は良い方法。
531 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 09:38:49
当時の禅僧・東厳は蒙古の服属要求に対し、「蒙古は日本の軍兵を諸国の征服に利用するつもりだ」
として断固拒否の意見書を提出している。
鎌倉時代の日本人の方が、戦後のアホ学者たちより遥かに国際感覚があった。
532 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 19:43:49
>>530 黙殺したのはあまりにも服属要求の国書を持ってきた使者の高麗人の態度がデカかったから。
ついでに高麗王の添え状がまた輪をかけて尊大だたので幕府どころか朝廷の貴族も激怒したらしいよ。
>>531 戦後のバカサヨ学者はもう終わってるw
歴史家が歴史を捏造するんだからプライド以前の問題。
だけど鎌倉武士よりも国際感覚があったのは飛鳥時代の朝廷じゃね?
文永の役で鎌倉武士が防衛拠点に選んだのは白村江の敗戦で作られた水城だからね。
本日、蒙古の末裔、朝青龍が21度目の優勝。
家康・秀吉・信長を生んだ愛知で、名古屋場所4連覇を達成。
武士の末裔達へ見せつけるな〜
534 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 22:24:00
モンゴロイドが生まれた地はモンゴル高原だといわれている。
生まれた場所にずっと立っている民族だ。
強いはずだ。
535 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 00:58:55
相撲が終わる度に書き込んでる奴って何?
PC覚えたての団塊オヤジ?
>>535 モンゴルに事大し、書き込んでいる時には、自分がモンゴル人だと錯覚している朝鮮人。
538 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 14:26:11
殆どの歴史地図では江南軍の来航ルートを、東シナ海を横断するルートを
取ってることになってて、これが一般化してるけど、これってちゃんとした
ソースがあるのか?
実は江南軍も沿岸を伝って朝鮮半島経由で来航したってことないか?
539 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 18:58:49
>>538 それなら東路軍と朝鮮で合流して出撃するよね?
当初の計画では壱岐島で合流するはずだったらしい。
東路軍は巨済島で江南軍出撃の情報を待っていたばっかりに半月の待ちぼうけを食らってる。
これは沿岸を伝って北上したわけじゃない証拠だよね。
だって沿岸伝いなら情報がもっと正確に入るはず。
東支那海を突っ切って北上したからなかなか情報が東路軍に伝わらなかったってわけでしょ。
それに最終的に江南軍が日本に到着した地は平戸だしね。
江南軍は壱岐対馬を襲ってないって事実も東シナ海北上ルートを裏付けてる。
>>538 東シナ海を横断してると何か辻褄の合わないことでも?
541 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 22:31:01
取り合えず、江南軍が東シナ海直行コースを取ったという記録はないようだな。
542 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 22:57:30
弘安の役の年に日本の船が支那に漂着し乗っていた日本人が元に捕らえられる事件があった。
地図とか色々書かせて情報を聞き出してみると博多湾の石垣建設とか文永の役の時にはなかった情報が出てきた。
そこで当初東路軍と壱岐で合流する予定だったが日本側の守備が手薄と見られる平戸で合流すると変更になった。
江南軍は司令官が倒れるアクシデントで出遅れ東路軍がかなり先に博多沖に到着してしまったわけで。
記録があるからこそ色々と詳細に事情がわかってるわけで。
江南軍が沿岸伝いの朝鮮半島経由なら東路軍が巨済島で待ちぼうけを食らったり先に博多沖や長門にまで姿を見せた説明がつかないよね。
平戸で合流しようと試みたからこそ東路軍は鎌倉武士団に手痛い反撃を食らってしまったんだよ。
洪茶丘が鎌倉武士団に包囲され九死に一生を得たりする状況だよ?
一旦壱岐まで後退したのものの追撃してきた松浦・河野水軍に手ひどくやられたのに高麗まで退却しなかったのは江南軍が朝鮮半島から南下してくるのではなく直接東シナ海を北上し平戸に来るからだ。
旧南宋の航海術はかなりのものだったわけだよね。
543 :
〜538〜:2007/07/23(月) 23:25:56
いや別に旧南宋の航海術を否定するつもりは無いけどね。
沿岸航海で事足りるならそれで済まそうとした可能性もあるわけだよ。
江南水軍は元々長江水系で戦う河川水軍の系譜を引く存在だろ。
指揮官の范文虎は南宋の河川水軍を指揮して元と戦ってたような人物だしな。
沿岸航路をとって侵攻するほうが、河川用の軍船技術や河川用軍船の操船に
慣れた人材がそのまま転用できる合理性があるんだよ。
東路軍は先鋒隊として、後続するはずの江南軍のために威力偵察や橋頭堡確保
をしてたのかもしれない。
あと、平戸で合流したというけど、それは断定できないよ。
江南軍が朝鮮の沿岸から対馬を経由して、壱岐で東路軍と合流して、共同で平戸に進出したと考えることも出来る。
544 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 23:44:00
合理性を考えても「七昼夜にして至る」と元史に書かれてるとおり東支那海北上ルートの方が早いんじゃないかな?
この時期の風は南風なので追い風に乗って素早く敵地に侵攻できれば兵の疲労度も軽減されるし。
あとこれは勝手な想像だけど大都近くに江南軍の船団が通過するのがフビライが嫌だったってのはあるかもね。
いくら江南軍の司令官がモンゴル人のアタハイだからと言っても実質は南宋の降将范文虎が指揮官だし10万人の兵の大半は南宋人。
当時天津から首都大都まで大運河がつながってて海から直接船が入れたわけで。
もし范文虎が逆心を起こして10万人の旧南宋兵を率いて日本ではなく元の首都大都に船団を進めたら大変だよね。
かなり勝手な妄想だけどw
でも苦労して力でハーンの座を奪い取ったフビライならそれくらい神経を使ったかも知れないよ。
545 :
〜538〜:2007/07/24(火) 00:30:05
>>544 山東半島の先端から黄海を横断して半島に至るコースならそれほど大都には近づかない。
546 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 00:56:06
弘安二年に対馬にたどり着いた范文虎の使者も江南地方から東支那海を北上してきたようだ。
意外とジャンクの能力なら東支那海を突っ切って日本にたどり着くのは簡単だったのかもね。
547 :
〜538〜 ◆y9synVxvE2 :2007/07/24(火) 01:35:53
当時の中国の外洋ジャンクは東シナ海を横断する航海技術はあった。しかし、
その外洋ジャンクを元寇に活用したとは限らない。
例えばヨーロッパに於ける1571年に起こった大海戦レパントの海戦のとき、ス
ペインは地球の裏側のフィリピンまで植民地にするだけの航海技術を有してい
た。しかしレパントの海戦ではそのような外洋船は主力ではなく、外洋航海能
力のないガレー船が海戦の主役だった。このように、外洋航海技術があるから
といって、必ずしも戦争の主役に据えるとは限らないのだ。
むしろ、東シナ海横断コース取ったすることに、疑念が生じる理由がある。
それは東シナ海を横断するにはあまりにも船が小さいといこと。
東路軍4万人は、船900隻に分乗 = 1隻平均44人
江南軍10万人は、船3500隻に分乗 = 1隻平均28人
といった具合に江南軍の船は、東路軍の高麗船に比べても明らかに小さい。
ここで比較のために歴史的な外洋船団の1隻平均の人員数を比較のために挙げ
てみると
1588年スペインからイギリス征服に向かったアルマダ海戦時のスペイン艦隊は艦船131隻、兵員約3万名
1隻平均229人
1405年明朝永楽帝の鄭和艦隊の船団は62隻、総乗組員は2万7800名
1隻平均448人
これらの歴史的な外洋船団と比較してみると、江南軍の1隻平均28人というのは
船の規模が極めて小さく、この小さな船では外洋航海となる東シナ海を横断しての征服活動は困難と思われる。
まず中国沿岸を北上し、山東半島先端から黄海を横断して朝鮮半島に至り、朝鮮半島の沿岸を伝って、
巨済島あたりの対馬に近いところから、対馬、壱岐と伝ってきた考えたほうが妥当ではないか。
548 :
〜538〜 ◆y9synVxvE2 :2007/07/24(火) 01:36:56
元々江南水軍は長江などの河川水軍だったという性質も考慮すべきだろう。
江南軍指揮官である范文虎自体が元々南宋の河川水軍の指揮官として、長江・漢江を遡って、
襄陽救援作戦を指揮していた出自を持つぐらい。
河川水軍の船は喫水が浅く外洋には向かない。江南軍はそういった系譜をもつ水軍ではなかったか。
この河川水軍である江南水軍の技術やノウハウを日本への遠征に転用したほうが合理的である。
外洋艦隊を新たに新設するとなると船の建造や人材の育成に多くのコストと時間を必要とすることとなる。
外洋向きの船は比較的荒れた海も想定に入れた設計となっており、喫水も深く、嵐に見舞われても簡単には沈まない。
ところが江南軍の船は暴風雨で簡単に壊滅した。
これは、江南軍の船が外洋向きではなかったからだと見るべきではないか。
こうした外洋向きではない船が大船団を組み、東シナ海を横断して日本まで直行したとは考えるのは困難だ。
蒲寿庚などの系統の船舶は?
>>547-548 レパントの海戦は地中海だから、外洋船ではなくガレー船を使うのは当然。
スペインは外洋と地中海で、外洋船とガレー船を使い分けていただけ。
それは江南軍も同じこと。
外洋では外洋ジャンクを使い、長江・漢江では河川水軍用の船を使う。
弘安の役の前の1279年に南宋艦隊と外洋で海戦をやってるだろ。
あと、高麗史に江南軍の船は高麗製の船よりも大型だったと書いてある。
基本的に、元軍の兵数を船の数で単純に割ることには意味がないんだよ。
元艦隊の3分の2は、吸水や上陸などで使用するための小型艇だから。
文永の役でも、900隻に4万人分乗で計算上は1隻平均44人だけど、実際には
志賀島に座礁した元船1隻に220人も乗り込んでいた。
小型艇は外洋航海時には、大型船に収容したり曳航したりしていたと考えられて
いるから、構造が外洋向きでなくても不思議はないし。
既出だけど、朝鮮半島沿岸ルートでは7昼夜で日本に到着するのは不可能だし、
東路軍との合流地点を壱岐や平戸に設定せずに最初から朝鮮で合流するだろ。
流れぶったぎってすまんが
岳飛とかの時代にあった外輪船は元代には使われてたの?
552 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 22:24:00
553 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 20:48:03
文永の役でたった1日の戦闘ごときで矢が尽きた元軍
舐めすぎだよね
「矢がつきた」というのは単なる言い訳。
モンゴルの史書では都合の悪い出来事をそういう言い訳でごまかす事が多々ある。
1257年にわずか1週間で南宋侵攻から逃げ帰った際も史書には「秋の長雨のため」とか適当なことを書いてるし。
文永の役は日本の史書にも高麗の史書にも、「元軍が戦って負けた」と明記してある。
日本でも「矢尽き、刀折れ」って表現があるけど通常は文字通りの意味じゃないよね。
556 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 17:59:23
薩摩の加治木一族の運命は?
557 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 20:16:31
島津なら活躍したみたいだけどね?
人によっては天候とかは関係なかったっていう人もいるよね。
559 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 22:11:27
文永の役に関しては双方痛み分けと思う。
そして不可解な元軍の撤退途中に冬の荒れる玄界灘で船隊が沈没し一万二千人の兵士が死んだ。
弘安の役に関しては鎌倉武士団の奮闘で上陸し拠点を築くことさえできず博多周辺の海をウロウロしてるうちに台風が来て大半の船が沈んだ。
これは日本側の勝利でしょうね。
基本的に10万人ちょっとの軍で日本を占領しようなどとかなり無謀な作戦だと思う。
戦争するために生まれたようなモンゴル人らしからぬ作戦だ。
フビライを甘言でそそのかした高麗人が原因か。
それとも高麗人や南宋人を海に捨てるのがフビライの真の目的か。
今後の研究が待たれる。
560 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 22:45:57
おそらく、蒙古は日本列島を台湾程度の島だと思っていたのではないかと。
日本は大陸から見ると、北東に異常に奥行きがある。これを認識できていればことは
そう用意ではないことに気付くはず。
大軍を送っても遊牧民が得意な迂回戦術&包囲ができない。
相手が大勢いても、細い路地に誘い込んで一人ずつ斬れ、といった昔の剣客の言うとおり、
日本は博多に上陸した蒙古を各個撃破してゆくのみ。京に着くまでには消耗しきっている。
561 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 23:57:25
>>559 文永の役は普通に日本の圧勝。
一体、どこから「双方痛み分け」なんて発想が出てくるんだよ?
もし、立場が逆だったら・・・仮に文禄の役で朝鮮半島にに上陸した小西行長が、
釜山を攻略できないまま1日で敗退していたら、「双方痛み分け」なんて絶対に
言わないだろ?
562 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 00:27:59
>>560 確かに日本列島の全体像を把握してなければさすがのモンゴル人もどの適度の兵が必要か計算できませんね。
>>561 それは弘安の役の間違いでは?
文永の役では九州の御家人の間にかなり悲壮感が漂っていたようですよ。
ただ日暮れ前までには鎌倉武士団も敵の戦法に即応していたようでかなりの打撃を敵に与えたようですね。
証拠に夜襲を警戒した元軍は船に引き揚げ挙句の果てに危険な夜の玄界灘に出帆してボロボロになったようですし。
やっぱり双方痛み分けが正しいんじゃないでしょうかね?
その小西行長の仮の話ですが戦いの内容によりますね。
小西行長が釜山を火の海にして人的被害も無く1日で引き揚げたなら圧勝ですが、波打ち際で撃退されて双方に損害があれば痛み分けといえますね。
563 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 00:37:27
モンゴル軍は事前に綿密に日本の国力を調査している。
「元高麗紀事」耽羅至元九年十一月十五日条に、「大宰府到達には2〜3万の兵力が必要」という
情報を得ていたという記録もある。
この時期のモンゴルって、たった3千の兵力で北ベトナムの首都を攻略したり、1万程度でエジプトに
攻め込もうとしたりしている国だよ。
それらを遥かに上回る規模の大兵力を投入しながら、海岸から10キロちょっとの大宰府にすら到達
できないなんて、思いっきり想定外だろ。
当時の日本がモンゴルの想定を上回る異様な強さだったということ。
>>562 文永の役の後の御家人に悲壮感なんかないよ。
逆に日本の方からモンゴルに攻め込もうとしていた。
異国征伐の計画では、侵攻予定の時期は文永の役から半年もたっていない翌年の3月。
モンゴルのこうげき!
モンゴルのきょうしゅうじょうりく!
こうかはいまひとつのようだ
>1万程度でエジプトに
>攻め込もうとしたりしている
それはしてない。
566 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 03:16:59
>>565 1260年にエジプトに攻め込もうとしたキト・ブカのモンゴル軍は1万程度じゃん
>>566 杉山正明の本なんかだとキトブカがまっすぐエジプトへ向けて進軍し
迎撃に北上したマムルーク軍とぶつかったかのように描かれているけど
実際はちょっと南下した後またダマスカスへ戻って、さらに北のバアルべク
へ行って、それからアイン・ジャールートよりさらに南のアジュルーンという
城を攻撃して、また北上し、マムルークが接近してるのを知ってから
南下してアイン・ジャールートの戦いになっている。
どっちかというとこれはシリアの平定。
おまけにキトブカはマムルーク軍が来たとき1万2千の兵をシリア各地に
分散させてしまっていて、あわてて集合させている(この辺の専門家の
アミタイ・プレイスって人の本ではこの部分の注で、お杉がよく引用する
ラシードアッディーンも含めて7つぐらいの史料をソースに挙げている)
キトブカがエジプトへ攻め込もうとしたってのは杉山正明がソースをろくに
確認せずに適当に書いたんじゃないかと思う。元が専門の人だし。
568 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 12:14:57
それエジプトに降伏勧告の使者を送った後の軍事作戦だろ
569 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 14:22:59
当時シリアはエジプト領。
従ってシリア平定自体がエジプト攻撃ということ。
570 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 14:27:56
>>563 >文永の役の後の御家人に悲壮感なんかないよ。
そんな事はないよ。
博多の街を火の海にされて余裕こいてたらそれこそ馬鹿だ。
鎌倉武士は冷静に状況を把握してた。
だから大宰府まで撤退して兵力を集結し翌朝決戦を挑もうとしていた。
いざとなったら水城を使って博多一円を水浸しにする手はずだった。
そりゃ中には「イィヤッホー!!!久々の戦だぜゴルァ!」って喜んで時に突っ込むイカレた武士も居ただろうけどw
異国征伐の計画は文永の役当日の悲壮感と何の関係も無い。
やられたらやりかえす。
それだけの話しだよ。
水城に博多一円を水浸しにするような機能はない。
当時の博多に戦略上の重要性なんかないし、元軍も武士もまったく問題にしていない。
572 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 18:40:23
初心者ですが、元寇は神風が無くても日本の圧勝であり、元の艦隊が嵐に巻き込まれたのは武士から逃げ回ってたせい。
そもそも軍の大部分が朝鮮人だったと言うのは本当ですか?
573 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 20:20:58
文永の役は撤退の帰路で大風にあい、難破。日本が難破を知ったのは数年後のこと。
弘安の役は、上陸できずに一ヶ月以上海で消耗、台風で難破。
それでも大量の残敵がいたが、南宋人以外はことごとく皆殺し。日本武士恐ろし!
かつて戦場だった地区には、首を切った蒙古塚と呼ばれる塚があちこちにある・・。
>>572 大部分が朝鮮人だったというのは嘘。
当時の高麗王朝に1万を超える動員力はない。
>>568 使者を斬ってエジプトを発ったマムルーク朝軍が、ガザにいたモンゴル軍の一部隊と遭遇して
その急報がキトブカに伝わってはじめて動き出してるんだが、使者が斬られたというニュースが
カイロから出発した軍隊より遅く届くことなどありえないのに、その時キトブカはダマスカスより
北のバアルベクくんだりにいたんだよ。
開戦の意思表示がなされたからエジプトに向かって南下したんじゃなくて
マムルーク朝軍がシリアに入ったからそれに対処するために動き出したんだろ。
仮にキトブカの頭にそんなプランがあったとしてもマムルーク朝軍が先にやって来たんだから
そういう歴史記述は間違ってるよ。
>>569 当時のシリアは、十字軍の占領地以外はアレッポとダマスカスのアル・ナーシル・ユースフ、
ハマのアル・マンスール・ムハンマド、カラクのアル・ムギース・ウマル等の独立勢力によって
割拠されていた。そうした連中はほとんどモンケ汗の時代にモンゴルに服属してる。
アル・ナーシルなんかはフレグに敵対の意思表示をしたため滅ぼされてるが。
576 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 17:01:27
578 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 21:02:44
579 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 21:44:53
>>577 兵士だけの数を言ってるのかな?
兵士だけなら確かに文永の役での高麗兵は八千人、弘安の役では一万人だけど。
高麗人の水夫や雑役夫を加えないと。
文永の役での水夫等は六千七百人、弘安の役では一万七千人をフビライから課されてる。
>>578 アレッポの領主だったナースィル・ユースフはアイユーブ朝の王族で、サラディンの曾孫にあたる人物。
ダマスクスはアイユーブ朝の第5代スルターン・カーミルやその息子サーリフの努力でエジプトを本拠
とするカーミルらの一族の支配下にあった。
マムルーク政権のアイバクの主人だったサーリフが病没した後、その息子トゥーラーン・シャーが
1250年に暗殺されたが、ダマスクスの統治はエジプト政権が引き続き保持していたらしく、
ナースィル・ユースフはこのトゥーラーン・シャーの暗殺を機に南下してダマスクスまで占領し、
余勢を駆ってエジプトのマムルーク政権を駆逐するつもりでいた。
しかし、スルタンになったばかりのマムルーク政権のアイバクはナースィル・ユースフの軍を撃退する
事に成功し、アッバース朝カリフ・ムスタアスィムからの調停もあって、ナースィルはガザやナーブルス
に至る海岸部をアイバク側に割譲せねばならくなった。
その後も基本的にナースィルや他のアイユーブ家の王族たちはマムルーク政権を認めてはいなかったので、
ナースィルなどは割譲地の返還を要求したり、カラクの領主でサーリフの甥ムーサ・アル=ムグリブは
バイバルスやカーラウーンなどエジプトから逃れて来たアミールたちの教唆でエジプト遠征計画を再度
練ったりしている。
そうこうしている内にフレグの遠征軍が北イラクまでやって来た。
>>580の続き
確かに『集史』などの書かれているモンゴル皇帝モンケやフレグの口ぶりからすると、フレグ率いる
モンゴル軍の攻略目標にエジプトも含まれていたらしいことは伺えるが、フレグはエジプトとは別に
ナースィル自身に降服勧告を出しており、そこでナースィルを「シャーム(シリア地方)の君主」と
呼んでいる。モンゴル側にエジプト征服の意図があるにしてもだからとはいえ、当時はシリアと
エジプトでは政権が別々なので、
>「エジプトの地方政権だったシリアの勢力をモンゴルに服属させたり
> 滅ぼしたりする行為こそエジプトに対する侵略行為。」
と断じるのは、モンゴル軍が侵攻して来た当時のシリアとエジプトの政治状況を誤認していることに
なる。両地域の政権の関係は1170年代前半のザンギー朝とアイユーブ朝の関係と似た感じだ。
580-581に追加すると、シリアに残ったアイユーブ朝系の諸政権は
モンゴル侵攻によってナーシルなど主だった連中が倒され、一部はマムルーク朝に
服従し、その後バイバルスの軍事活動によってカラクなども征服されたという流れだね。
ハマなんかには14世紀までアイユーブ家の君主がいたらしいけど。
シリアに居たのはアイユーブ朝エジプト国の連中ってことだ。
前政権系の残存勢力が残って割拠してるだけで、マムルーク朝の連中からしてもシリアは本来エジプト固有の領土ってこと。
そこにモンゴルの勢力が伸張してきたんだからそれはエジプトの固有領土に対する侵食を意味する。
>>583 あなたはマムルーク朝がアイユーブ朝からエジプトを乗っ取ったから
シリアの領土権も自動的に手に入れたとか思ってるらしいけど
そんなことを言うならアイユーブ朝はファーティマ朝の後継国だから
本来シリアに対する権利を持たないとか主張することも可能だぞ。
そもそもアイユーブ家の内紛の中でエジプトを取った者がそのリソースによって
優位に立つというのは地政学的な問題であって、実力があればシリアに
拠点を置く者がエジプトに侵攻することもあり得るというのは
>>580が書いてくれたとおり。
ところでシリアでさえダマスカスまではフレグの本隊が征服してることを考えると
シリア=エジプトと主張したところで「キトブカが1万程度でエジプトを征服しようとした」
というのは無理があるな。
>>583 もう諦めた方がいいんじゃないか。
傍から見ても知識に差がありすぎる。
>実力があればシリアに
>拠点を置く者がエジプトに侵攻することもあり得るというのは
>
>>580が書いてくれたとおり。
それはむしろシリア=エジプトという証
お前らシリアだのエジプトだのと日本史板ですんな。
588 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 19:55:36
まあ元寇は日本が経験した大きなグローバルな波だからね
そう固いこと言うな
>>586 どうしてかな。エジプトの領有が必ずしもシリアの支配権につながらないことになるが。
長々とシリア話しで申し訳ないが・・
>>583 > シリアに居たのはアイユーブ朝エジプト国の連中ってことだ。
> 前政権系の残存勢力が残って割拠してるだけで、マムルーク朝の連中からしても
> シリアは本来エジプト固有の領土ってこと。
> そこにモンゴルの勢力が伸張してきたんだからそれはエジプトの固有領土に対する侵食を意味する。
こう言っては何だが、その3点の認識も全て誤り。 アイユーブ朝の成立から話しをすると・・
アイユーブ朝は、実質的な始祖のサラディンもそうだが、もとはシリアのザンギー朝に仕えて
シリアに展開していたセルジューク朝系のイラン系アミールの一族。エジプトのファーティマ朝が
内紛と十字軍勢力からの干渉の鎮圧のため救援要請をだしたが、ザンギー朝の君主ヌールッディーンは
これに応えるため、サラディンと叔父のシールクーフの派遣を命じた。サラディンは幼少から育った
ダマスクスを離れてファーティマ朝のエジプトへ出向。成行きでファーティマ朝の宰相になったが
エジプトの処遇を巡って主君ヌールッディーンと不和になり、ヌールッディーンの死によって
ダマスクスを獲得した。
サラディンはじめ、アイユーブ朝の王族は殆どがダマスクスなどシリアの所有にこだわりが強いが、
エジプトは穀倉地帯として破格に重要だったため、こちらの確保も重要視していた。サラディンなどは
カイロよりも青少年時代を過ごしたダマスクスに愛着が強かったこともあってか、シリア南部を獲得
してからはダマスクスで過ごすことの方が多かった。無論、エルサレム王国など対十字軍戦争の
直接指揮を執り易いためという事情もあるが。
>>590の続き。
> シリアに居たのはアイユーブ朝エジプト国の連中ってことだ。
はむしろ逆。元はシリアにあった勢力がたまたまエジプトも勢力下に出来たというだけの話し。
「アイユーブ朝エジプト国」という言い方も初めて見るが。
> シリアは本来エジプト固有の領土ってこと。
当時もそのような地域的な帰属概念は存在しない。エジプトもシリアも別々の地域だが、たまたま
アイユーブ朝はサラディンの頃からシリア・エジプト両地域を支配していたから、その親族や
子孫たちは、その時々の当主が行う分封に従って領地の領有権を個人個人で主張していたに過ぎない。
「エジプトはアイユーブ家が占有すべき領土」とナースィル・ユースフらアイユーブ家の王族たちが
強く認識していた、というのならば話しはまだ分るが、当時の地理書関係や年代記の記述、人物の
発言をみても、「シリアがエジプト固有の領土」という認識は存在しない。
>>591 「世襲王権における領土の相続関係」とかいう問題になるだろうが、
> 前政権系の残存勢力が残って割拠してるだけで、マムルーク朝の連中からしても
> シリアは本来エジプト固有の領土ってこと。
イスラム法(シャーフィイー派でもそうだが)の相続理念から言えば、主人であるアイユーブ朝の君主
サーリフの家臣に過ぎないアイバクらマムルーク政権などよりは、アレッポにいたとは言え、初代の
サラディンの直系であるナースィルや、サーリフの甥であるカラクのムーサー・アル=ムグリブなどの
方が相続権が決定的に上位であるため、エジプトの領有権を主張できる立場だ。
どちらかといえば、アイユーブ朝はシリアとエジプトの二頭立ての政権で、首都はダマスクス、カイロの
両方だとも言える。その時々の君主の御座所が首都であって、サラディンや弟のアーディルはダマスクスに
いる時はそこからカイロの代官らにエジプトの統治について指示を出しているし、カーミルの場合は
それとは逆に父のアーディルから任されたエジプトを拠点としてダマスクスなどに指示を出している。
歴代のアイユーブ朝の君主たちは先代が没した時の自分の領地を拠点として当主に成るべく奮闘するが、
実際に政権を獲得できるのは穀倉地帯として有力なエジプトと、兵馬の育成に良好かつ穀倉地帯として
エジプトに次ぐダマスクス周辺が最も勢力があるため、これらの地域を領有していた王族に限られる。
アレッポのナースィル・ユースフの場合、トゥーラーン・シャーが暗殺された時、シリア中南部では
彼に匹敵する有力な王族が誰もいなかったため、エジプトの政権中枢の混乱をついてシリア全域の
制圧に成功している。
>>590-592の続き。
マムルーク朝は、アイン・ジャールートの戦いの勝利の後にシリア以北までモンゴル側から領土を
「奪還」しているが、これは「異教徒であるモンゴルorタタル」の侵攻から「イスラーム世界」を
防衛する「ジハード」であり、バイバルスによるキリキアの小アルメニア王国遠征などは、
異教徒であるモンゴルに組みする小アルメニアをイスラーム世界側に解放する「ガズワ」である
という「イスラーム政権」的な主張が軍事行動の大義名分として成り立つが、アイユーブ家や
シリアとエジプトの関係はこの時問題にされていない。
「アイユーブ家やシリアとエジプトの関係」で軍事行動を起こすとなると、上述の相続関係から分る
通り、マムルーク朝は逆に主君の一門であるナースィルらアイユーブ家の王族たちにエジプトなどの
領土を「返還」しなければならない立場にある。アイバクがナースィルからガザからナーブルスまでの
割譲地の返還を迫られて、部下からの強い反対があったにも関わらずこれに応じざるを得なかったのは、
手持ちのサーリフ配下のブルジー・マムルーク軍団はじめ軍事的な背景によって既成事実的にエジプトを
領有しているだけで、マムルーク政権側にはエジプトの支配正統性が無く、しかもナースィル・ユースフを
完全にシリアから駆逐できる程にはその軍事力も足りなかったからに他ならない。
そのため、モンゴル軍の活動によってシリアからアイユーブ家の王族の勢力が殆どなくなり、シリアから
そのアイユーブ家傘下だった残存勢力がエジプトで合流した段階で、ようやくシリア全域への軍事的な
アプローチが可能になった。
>>587-588 日本史板でシリアだのエジプトの政権の話しをするのは、やはりひどく気が引けるのだが(汗
元寇というか文永・弘安の役の話しが出ると、比較材料として必ずアイン・ジャールートの戦いが
引き合いに出されるが、正直両者の共通点をあげるとなると、
1)モンゴル政権麾下の軍団と現地のモンゴルと対立した政権の軍との戦闘
2)その戦闘がモンゴル側と現地側の両方で記録がある(これはある意味当然だけど)
3)モンゴル側と戦った現地の政権が軍事を専門とする集団に支えられた政権だった
(マムルーク政権と鎌倉幕府(執権)の武家政権との共通性ということなんだろうけど)
4)モンゴル側が撃退された。(多分ここが重要なのだろう)
というくらいで、実際のところそれほど特別に共通点が多い、という訳ではないと思う。
開戦に至る経過も全然似ていないし、投入された戦力も兵員の性質も両者では全然違う。
戦闘前後のモンゴル側や特にマムルーク朝の政治状況は激変している。
一緒にされてしまうのは、多分モンゴル側が撃退された=モンゴル軍が負けた!という印象が
強いことと、アイン・ジャールートの戦いというかこの時代のシリア・エジプトの状況について
日本では良く知られていないため、「負けた」ということだけしか注目されて無いからだろう。
実際のところ、自分もちょっと調べてみた限りでは、アイン・ジャールートの戦い前後だと
マムルーク政権側のそうだが、特にモンゴル遠征軍を率いたフレグ側の動向に不可解な点が
多すぎて「モンゴルが負けたぞマンセー」みたいな単純な話しにはなりそうにない。
モンゴル側とマムルーク朝側の戦闘前後のやり取りは、他の地域でのモンゴル軍との対応と
それほど違いが無くて、文永弘安の役での状況の方が、多分モンゴル帝国の対外遠征では結構
特殊な部類に入るように思う。東南アジア遠征については殆ど知らないので何ともだが。
>>575 マムルーク朝も使者を斬ったのか。
鎌倉幕府と同じだな。
ジャワに行った使者は顔にイレズミを彫られて送り返されたらしいぞ
ある意味死ぬよりキツイかも
>>590-594 あなたも圧倒的多数の元軍を平原でガチで破った鎌倉武士が世界最強だって認識はあるんだよね?
598 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 22:57:16
南宋も使者斬った
599 :
日本@名無史さん:2007/08/14(火) 00:55:39
324 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/29(日) 21:43:35
フメリニツキー反乱後の1667年にはタタール兵3万、コサック2万、イェニチェリ3千に24門の砲という大軍に
攻め込まれてるけど、ポーランド軍は2つの峡谷と森林、沼地に挟まれた場所(ウクライナのピドガイツェ)に
陣取っていたためタタール側は正面攻撃しかできず、結果9千しかいなかったポーランド軍に撃退されている。
真っ向からガチで戦ったらそんなもんです。
どこの誤爆だよ
602 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 13:24:40
>>599 17世紀といえばポーランドが一番輝いていた頃だな
603 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 13:32:09
604 :
日本@名無史さん:2007/08/19(日) 01:19:00
元寇は戦闘でも日本の完全な圧勝だと言うのは事実ですか?
605 :
日本@名無史さん:2007/08/19(日) 23:39:30
そういうことですね。
思うんですがやはり鎌倉武士の装備は伊達に派手なだけじゃなかったんですね。
日本列島の地形や風土で積み重ねられた戦争のノウハウに裏打ちされた武具だということですよ。
それプラス敵の戦法に素早く対応する鎌倉武士の柔軟性。
それが勝因だったと思います。
607 :
日本@名無史さん:2007/08/21(火) 13:33:27
鎌倉武士として西国薩摩の御家人加治木氏一族、吉原、木田、別府氏などが有名だよね。
日本人はモンゴロイド。
これに尽きる。これが一番大きい
609 :
>>604:2007/08/24(金) 14:13:33
対馬と壱岐は無残な敗北。
文永の役のときの博多近辺の戦闘は圧勝とまではいかないが優勢勝ち。
元軍3万に対し小弐、大友、菊池ら5千で多くの損害を元軍に与え元軍はたった1日の戦闘で戦意喪失して撤退開始。
撤退中玄界灘の嵐で多くの船が転覆。
その後の掃討戦では圧勝。
弘安の役でも対馬は簡単に占拠される。
しかし先に来た東路軍は海陸の局地戦では負け続き。とはいえ大きな損害は与えられず。
南路軍10万が合流して、日本軍と1度海戦が行われるが役千艘の船を焼いたり破損させる損害を与え元軍上陸できず。
(これは鎌倉武士軍大勝利)
台風直撃で転覆後、壱岐、鷹島での残存勢力掃討戦はほとんど一方的な虐殺というくらいの大勝利。
610 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 16:01:48
>>609 文永の役における鎌倉武士軍本体は水城に篭城準備のためにいて博多に出向いたのは時間稼ぎのための部隊。
少弐景資は少弐資能の三男で本来は長男の少弐経資が総大将で水城の篭城準備を指揮していた。
言ってみれば景資は前線司令官に過ぎなかったが前線の5千の軍に元軍が負けてしまったため景資の方が歴史に名を残すこととなった。
611 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 17:50:11
3万vs5千
映画出来そう
612 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 13:29:22
>>611 映画になるような劇的なものなどなにもないよ。
日本の大鎧はとにかく頑丈で分厚く元軍の矢を針鼠のようになるまで受けたって鎧を貫くことはほとんど無かった。
大体時代劇では刀や槍、薙刀をやたら振り回しての白兵戦が展開されるけど人間あんな重いものつけてそんなに動きまわれるもんじゃない。
(ボクシングの1Rが3分でしかないように身軽になったって人間が激しく動き回るにはこれが限界)
矢合戦中心の戦で一方鎌倉武士の弓は大鎧を射抜くことを前提に作られているから動物の皮で作った機動性重視の元軍の鎧は容易く貫けた。
特に元軍の艦隊転覆後は全く一方的虐殺。
単に鎌倉武士が元軍を散々に痛めつけるだけのストーリー。
とても映画にはならない。
>>612 大鎧は映画なんだからどうとでもなるでしょ。
そこで史実を追求する映画なんぞまずない。
西欧のフルアーマーで大立ち回りでもいいんだし。
後段の部分は、娯楽映画として提供するカタルシスの起承転結の「起」の部分(某属国の某将軍の所業)が描けないと、
鎌倉武士は単なる虐殺マニアにはなってしまうだろうな。
で、「起」の部分は諸般の事情で描けないと。
614 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 14:57:44
>>613 まあ元を正せば勝手に侵略してきた元と高麗が悪いんだから虐殺されたのも自業自得だけどね。
現実に日本が元に征服されなかったのは日本にそれだけの国力があったからで玄界灘の暴風雨や台風なしでも歴史は何も変わらなかっただろうよ。
615 :
日本@名無史さん:2007/08/29(水) 00:41:12
旧南宋兵は命を助けられたからOKじゃね?
文永・弘安の役以降にも来日したモンゴルの使者が帰りたくなくなって日本にいついてしまった事実もあるしね
虐殺マニアになる心配はないよ
616 :
日本@名無史さん:2007/08/29(水) 15:38:13
>>615 いやそういう意味じゃなくって元寇って実のところ鎌倉武士軍のそれくらい一方的な大勝利だったってこと。
教科書に書いてあることなんかほとんど嘘っぱちで。
弘安の役のときなんか前の文永の役で手柄たてた武士たちが恩賞もらったもんだから全国の武士たちがじゃあ今度は自分もってばかりに意欲満々で九州まで行って敵を見たらそれっとばかりに襲い掛かり散々にやっつけた戦い。
国を守るための悲壮な決意なんて全然ないよ。
何たって相手の矢は大鎧が守ってくれて刀振りかざせば切れ味抜群の日本刀。
元軍の刀も兜も真っ二つ。
NHKの大河ドラマの北条時宗なんか全然史実を伝えてないから。
せいぜい対馬の宋助国や壱岐の平景高くらいしかドラマの題材になりそうな悲壮感などないんだから。
でも対馬はたった80騎で3時間、壱岐では100騎で1日戦ってるんだから。
大宰府では文永の役のとき壱岐の状況知ってせいぜい5千騎程度だろうなんてタカくくってたくらいなんだから。
当初は少弐大友軍数千程度しか博多に向かわず、その後菊池軍などが救援に駆けつけてやっと5千。
それでも3万の元軍わずか1日の戦闘で戦意喪失。
617 :
日本@名無史さん:2007/08/29(水) 16:12:37
何で元の弓ってあんなに短いんだろうな
大陸には長弓って少ないのかねぇ
>>617 蒙古騎馬隊が使用する弓だから。
馬に乗っていれば、長い弓は邪魔になる。
騎兵銃が歩兵銃より短いのと同じ。
元の弓は日本のがオモチャに思えるほど
強力なものとか教わったような
ドッチが真実たい
620 :
日本@名無史さん:2007/08/29(水) 19:31:09
元史「官軍整わず、また矢尽き、ただ四境を虜掠して帰る」
学校で先生に教わったことは基本的にうそばかりと思った方がいいです。
日本の製鉄技術って実は平安時代から結構高かった。だから鎧も頑丈だった。
元の弓は日本の武士が力振り絞って矢を放つ間に何本も放てたとか学校じゃ教えているが
それだけ弱かったということ。鎌倉武士は体中がハリネズミのように矢を受けたけど鎧に守られていた。
いわゆる集団の毒矢戦法や鉄砲の最新兵器や戦術に散々やられっぱなしだったけど台風で勝てたなんて同時代の資料に一つも書いてない。
621 :
日本@名無史さん:2007/08/29(水) 20:46:11
>>616 なるほど。
考えてみたらすごいよな。
鎌倉時代の刀って江戸時代になっても武士が先を争って求めるほどの業物があるもんね。
支那では「倭刀」と呼ばれ「受けたら自分の刀が折れるから絶対に受けてはならない。」と言われてたとか。
事実江戸時代の主要な輸出品だったしね。
>>619 恐らく弓と弩を混同してるのかな?
若しくは教科書の記述が完全に捏造されてるか。
622 :
日本@名無史さん:2007/08/29(水) 21:08:45
>>621 室町時代の日明貿易で日本の主要な輸出品が日本刀と甲冑。
これを中国人たちが買って日本人になりすまし、やたらと悪さした。
所謂「偽倭」と言われる倭寇。
623 :
日本@名無史さん:2007/08/29(水) 22:36:32
>>619 日本の弓よりも元の弓の方が強力だという嘘が広まった元凶はこれ↓
黒田俊雄『日本の歴史8 蒙古襲来』中央公論社(1965年出版)
「ところが、元軍の矢は二町(220メートルぐらい)ほども射程があるので、(日本側の矢は
有効射程100メートル以内とみてよい)、味方にたちまち二人手負いが出た。景隆らは城
(といっても簡単な館だが)にたてこもって防戦したが、衆寡敵すべくもなくついに城の内で
自害した。」
日本の弓の「有効射程」と元軍の弓の「射程」を並べて、日本の方が劣っていたかのように
見せかける悪質な印象操作だよ。
>>623 日本の弓は上下を非対称形にすることで、長弓でも馬の上で使えるように工夫されている。
625 :
日本@名無史さん:2007/08/30(木) 01:21:39
元寇の時の恩賞はどこから出したのかな。
幕府の直轄地を配ったの?
626 :
日本@名無史さん:2007/08/30(木) 01:26:41
>>625 無いからこそ御家人の不満が高まったんだろ?
と教科書どおりの答えを出してみる。
627 :
日本@名無史さん:2007/08/30(木) 09:41:27
>>625 鎌倉幕府の恩賞奉行だった安達泰盛は一応手柄立てた武士たちにそれなりに土地をあげている。
承久の乱のとき後鳥羽上皇から取り上げた荘園3000箇所、幕府は御家人に大判振る舞いなどしてなくて新院後堀川院に謙譲してるが「幕府が必要なときはお返しして頂く」と同時に釘を刺している。
この辺にも泰盛は手をつけたのではないか。その後の朝廷の反幕府的動きを見ると。
ちなみに九州御家人は鎌倉幕府滅亡時、六波羅も鎌倉も陥落してからようやく挙兵して鎮西探題を攻めている。
最初に挙兵した菊池武時は九州で孤立無援で戦死したのに、当初幕府側だった御家人たちは鎌倉、京都の情勢知ったらあっというまに手のひら返した。
教科書的な不満などそれほどでもなかったろう。
しかし同時にこれを気に北条専制体制を作ろうとした内管領の平頼綱はこの安達泰盛の御家人優遇策によからぬ思いを持ったらしい。
北条も所詮は御家人であるから。
元寇の背後には朝廷と幕府、幕府内でも北条氏と御家人の利害関係などいろいろなものがあった。
628 :
日本@名無史さん:2007/08/30(木) 10:29:36
629 :
日本@名無史さん:2007/08/30(木) 17:13:19
>>鎌倉武士は体中がハリネズミのように矢を受けたけど鎧に守られていた。
どう見ても妄想なんですが。
>動物の皮で作った機動性重視の元軍の鎧は容易く貫けた。
>日本の大鎧はとにかく頑丈で分厚く元軍の矢を針鼠のようになるまで受けたって鎧を貫くことはほとんど無かった。
>人間あんな重いものつけてそんなに動きまわれるもんじゃない。
>何たって相手の矢は大鎧が守ってくれて刀振りかざせば切れ味抜群の日本刀。
>元軍の刀も兜も真っ二つ。
妄想が激しすぎます。
戦国無双のやりすぎだろ。
300のスパルタ兵かよ。
>元の弓は日本の武士が力振り絞って矢を放つ間に何本も放てたとか学校じゃ教えているが
>それだけ弱かったということ。
モンゴル弓の張力がどれ位か知ってて言ってるのか?
妄想もたいがいにしろ。
>日本の弓よりも元の弓の方が強力だという嘘が広まった元凶はこれ↓
それが有効と言う言葉を入れ忘れただけでない事、有効射程でもモンゴル弓が上回ってない事と嘘が広まった元凶だという事を証明しろ。
はっきり言ってやる。
お前は「学校の教科書」と全くの同レベルだ。
ベクトルが「日本最弱」から「日本最強」になっただけだ。
恥を知れ。
632 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 08:31:47
>>631 3万対5千。お前が言うことが真実なら鎌倉武士軍瞬時に壊滅で午前に始まった戦闘は日没まで続かないよ。
少し勉強してからものを言え。
633 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 08:49:42
ククク圧倒的じゃないか我が軍は
634 :
日本@名無史さん:2007/09/07(金) 12:04:54
日本素敵
635 :
日本@名無史さん:2007/09/07(金) 16:14:33
合成弓と普通の弓の差があるからなぁ。
基本的に合成弓は小さくとも張力は強い。和弓より強くてもぜんぜん変じゃない。
記録に残っているがオスマントルコの合成弓はなんと850メートル飛ばした記録がある。
日本の弓も異なる素材を複合して作られているんだが
637 :
日本@名無史さん:2007/09/07(金) 19:50:09
考えて見れば学校で教わったことってちょいと考えるとおかしなことばかり。
まずモンゴルの日本遠征失敗の原因だがモンゴルは遊牧民族で海の戦いはできなかったと教わったが
だったら多くの大河を越えてユーラシア大陸の大部分を支配下におくことなどできない。
実際、南宋は揚子江を越えて滅ぼしている。また高麗が抵抗してモンゴルは疲れ果てたと
いうがたかだか高麗の征服に疲れ果てるような国がどうして空前の大帝国を作れるのか?
また日本遠征の主体は漢民族や高麗人で自分たちを支配したモンゴルに抵抗する意味が
こめられていて日本との戦争はやる気がなかったとも教わったがやる気もなくのこのこ
戦場に出向いたら殺されるだけだろうに。何の恨みもない日本に殺されるならモンゴルに反乱した方がましなはず。
これではモンゴルって戦争に超無知な民族ってことになるがそんな民族がどうして空前の大帝国を作れたのか?
一方そんなモンゴルに輪をかけて馬鹿なのが鎌倉武士で集団戦法に対し一騎打ちを挑んで散々に負けたとか
モンゴルは集団の毒矢戦術や鉄砲という新兵器で日本の武器は随分劣っていたとか。
そんな馬鹿な鎌倉武士でも風が吹いたおかげでモンゴルは船が転覆して負けたとか。
鎌倉武士がそんなに弱くて馬鹿ならモンゴルは簡単に上陸して陸地の一部を占拠しそこに要塞でも作れば
台風が来ようが海で溺れ死んだりしなかったのに。
何でこんなへんてこなこと教わったの?
638 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 11:47:28
>日本の弓も異なる素材を複合して作られているんだが
おめーさんは合成弓の意味がわかってない。異なる素材だけで作ったって合成弓にはならないよ。
そりかえりがないと。
日本の弓もそりかえりがあるんだが
簡単な話、矢の飛距離は弓自体が持つ反発力で決まる。
つまり引き手の腕力次第ってこと。
連射や馬上での運用中心の元側の弓が立射を基本に造られた
日本の弓より飛距離があると云うのなら、元側射手の腕力が
日本側を圧倒していたことを証明しなくてはならない。
まあ、当時の両軍の弓の運用方法からみて、相対的に日本側の
弓の方が飛距離は出ただろうと思うがね。
>>637 とりあえず、落ち着きなされ。
文永の役と弘安の役では両方とも最終的に「軍船が転覆してモンゴル側が負けた」ということで
一緒くたにされ易いが、軍勢の規模や状況から考えて作戦目的も双方で違っていたと考えた方が
自然だと思う。
「モンゴル軍」で一括されちゃうが、『元史』や『高麗史』の記述を信じるなら、文永の役や
弘安の役で派遣された軍勢は、チンギス・カンの建国以来モンゴル帝国を支えた遊牧諸部族から
編成された騎馬軍団みたいなものはほとんど居なかったと見るべき。遠征軍司令官の忻都とか
阿塔海あたりに近侍したらしい4500だったらその可能性はあり得るけど。
前者の場合、主力の1万5千が女直軍と屯田軍からなる混成部隊に高麗駐留軍っぽい1万と
高麗軍の8千が実戦力だったそうだが(『元史』「世祖本紀」と「日本伝」だと軍船900艘に
士卒1万5千を載せただけっぽいような書き方をしていて、『高麗史』と微妙に違ったりする。
あと文永の役のとき風雨で戦艦が難破して1万3500余人が未帰還だったと書くのは
『高麗史』の「元宗世家」のみで『元史』ではそれらしい被害情報がそもそも一切無い)、
弘安の役に至っては江南軍10万に蒙古軍や高麗軍からなるに東路軍約4万(規模からしても
前回と同じような人員だったんじゃなかろうか)だったそうだから、両方の戦役は前後の状況から
考えるとほとんど歩兵が主体の軍だったと考えた方が良いように思う。
文永の役にしろ弘安の役にしろテュルク・モンゴル系の騎馬部隊が鎌倉武士と大会戦したとか
想像するのは誤り。『蒙古襲来絵詞』でもモンゴル軍側は槍や弓矢、盾を装備しているが、
描かれた人物の殆どが歩兵なのは注意しても良いと思う。
(歩兵に混じる騎馬の人物は歩兵部隊の隊長格とかだろうか)
>両軍の弓の運用方法
どんなんでしょう
643 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 23:12:29
軍事板からの転載だけど。
>というかおんなじ大きさだったらW字型の弓のほうが強いんだか。
W字の分の隙間が
>>747の公式の面積の追加されるわけ。合成弓ってのは、
別に素材を複数使うから強いわけじゃなくて、その複数の素材を作る過程で、
W字になって、直線的な和弓タイプよりはるかにしなるようになる。
和弓最高と思うのは勝手だが、君は少し逆反りの合成弓についてしったほうがいい。
上でだれかがあげていたが、逆反りの合成弓で、オスマントルコのセリム三世時代に、
遠矢競技で889メートルの飛距離をだしている。
普通の和弓をどれだけ大きくしても無理だろ。しかもこの弓は和弓よりはるかに小さかったんだぞ。
モンゴル弓はそちらのタイプのW字型の弓。だから半月タイプの和弓と比べても、
小型でも威力がでるわけだか。短弓、長弓なんて意味ないの。
短かくとも威力をあげれるのがW字タイプの合成弓なんだから。
コンポジットボウのほうが強いのは物理的には当たり前だな。
日本の弓の反り返りなんて知れてる。ただの弓だし。
>簡単な話、矢の飛距離は弓自体が持つ反発力で決まる。
>つまり引き手の腕力次第ってこと。
というのは大間違いだよ。軍事板の人がいっていたように数学的・物理的に弓の張力は計算できる。
644 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 23:14:17
>基本的に素材が同一ならば、弓ってのは、一本の線が弦を張っていない時に弓が描く線と、もうひとつの線は
>矢を射る位置まで弓を引いたときに弦が描く線。この二つの線で囲まれた面積が大きければ大きいほど、矢の速度、
>威力は上がる。これは物理的、数学的なお話。
軍板から転載。弓の張力の計算法らしい。
>>641 「モンゴル軍」ってのはチンギス・カンの時代から多民族の混成軍。
特に女直軍なんかは、かなり初期からチンギス・カンの騎馬軍団の一翼を担ってきた民族だろ。
それから、中東遠征や南宋征服、東南アジア侵攻の際の「モンゴル軍」も、元寇と同じく歩兵と騎兵の混成軍。
ようするに元寇の元軍は、典型的な「モンゴル軍」だったってことだ。
そうか。
日本の弓もW字になってるんだが
>>644 それは弓という武器自体が持つスペックの話であって、
弓の使い手、その弓の能力を引き出す人間側の作業が
考えられてない。
弾けない弓は武器として使えない。
649 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 01:27:52
モンゴル人が台風を予測できなかったのは仕方がないが、朝鮮人なら毎年の台風
シーズンがあることくらい予測できただろう。
それにもかかわらず、同じ失敗を二度したのは朝鮮人の自然観察がなっていなかっ
たということだ。
>>649 文永の役は11月末で台風シーズンではない。
だから元軍が台風に遭ったとは考えられていない。
日本側の鎌倉年代記や帝王編年記、敵側の元史や高麗史にも、普通に元軍が合戦で負けたと書いてあるしな。
弘安の役でも東路軍が日本に到着したのは、台風シーズンの前。
ところが志賀島の戦闘で日本軍に大敗し、2ヶ月近くも日本近海を逃げ回ることになったため台風に遭遇した。
651 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 07:35:29
>弓の使い手、その弓の能力を引き出す人間側の作業が
>考えられてない。
いいかげんにしろよ。論拠をもった論争をするならば、個人差が多すぎる個人の筋力なんて、
結論がでるわけが無いんだから、ひとまずおいておくべきだろう。
物理的、数学的に、数字で図れる弓のスペックを比較するのは当たり前だと思うんだが。
同じモンゴロイドでそこまで筋力の差はないだろうし、はかりようがない。
お前さんは日本人がアジア民族の中で知力・体力すべてにおいて圧倒していたとでもいうつもりか?
>日本の弓もW字になってるんだが
わずかにそう見えるレベルのものもあるが、遊牧民レベルのW字になっているものはない。
早い話、日本は逆反りの合成弓を必要としていなかったか、原理を理解していなかった。
その分大きさで補うことになった。
>>650 文永の役は元側の史料にも台風で負けたなんて書いてないですよね。おっしゃるとおり。
弘安の役は、「1000人のうちかえるの1.2人」とまで元側の資料に書かれています。
というか
>>649みたいななにがなにんでも「朝鮮人」が「劣っていたから」という馬鹿どこにでもいるんだな。
なら、まだ日本海に比べて穏やかな地中海で、ポエニ戦争時に何度も何度も主力艦隊が嵐で壊滅したローマ人はアホな固まりかよw
>>645 女直軍って金でないの?
初期だったらタタール(韃靼)のトルコ系でない?
それに次いで遼の遺民であるキタイ人(契丹人)。
>>651 > ポエニ戦争時に何度も何度も主力艦隊が嵐で壊滅したローマ人はアホな固まりかよw
ローマ人はそれだけじゃないんで。世界史の上で大きな役割を果たしたローマ人をアホ帝国と罵る人はおらん。
で、アジアでは朝鮮がローマ的役割を果たしたとでも言いたいので?w
んじゃ日本もアジア史の中で引きこもってただけじゃん。近代にちょろっとめだっだけで。
というか、民族全体を単なる蔑視感だけでさげすむのやめとけ。
君の言い方なら太平洋戦争で米国に片手でのされた日本民族はアメリカ人に劣るだめ民族になっちゃうよ。
>女直軍って金でないの?
そういうとこあいまいだからなぁ。ぶっちゃけ万里の長城より北の遊牧民はみんないっしょとまではいわんが、
同一性をもった民族だわな。彼ら自身区別がついていたとは思えんし。
656 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 11:53:12
日本も太平洋戦争では 米国相手は片手だたりするんだがね
陸軍は支那 海軍はアメリカ
ここは良くチョンが沸くスレですな
>>651 >物理的、数学的に、数字で図れる弓のスペックを比較するのは当たり前だと思うんだが。
>同じモンゴロイドでそこまで筋力の差はないだろうし、はかりようがない。
>お前さんは日本人がアジア民族の中で知力・体力すべてにおいて圧倒していたとでもいうつもりか?
議論の仕方があまり良くないと云っているだけです。
筋力には大差ないと云うことは、本来だったら両軍とも矢の平均的飛距離には大した差は
生まれてこない筈。
じゃあ、差が生まれる場合はどんな場合か?
それは兵器の運用環境です。
馬上で弓を射たり、城郭の上から連射したり、そんな運用環境の中で発達してきた弓と、
野戦・立射を主たる運用環境にして来た日本の弓とでは、当然、弓兵が使い勝手が良いと
感じる引き腕の筋力量には違いが生まれます。
つまり弓兵の使い勝手によって、弓の平均的張力や平均的飛距離は決まってくる訳です。
筋力には大差ないという前提が疑問。
例え資質は同じでも、弓に必要な筋力は訓練しだいで大きな差が出る。
そして、それは弓兵が育つ社会環境によって左右されるはず。
イングランド軍が長弓で成功したのは、弓兵を育てる社会システムがあったからだろ。
>イングランド軍が長弓で成功したのは、弓兵を育てる社会システムがあったからだろ。
「当時、両者にそんな弓兵を育てるシステムがあったのか?」
まあ、それが問題の焦点になっていくんでしょうかね。
弓に関して云えば、狩猟などにも使われていたでしょうし、軍務以外のことも
考慮する必要があるでしょうしね。
>>650 文永の役では、御家人側は海岸から一掃され、博多を占領されて大宰府に敗走している。
(元軍が帰ったのは矢が尽きたから)
弘安の役では、海岸線に硬い陣地をしいて上陸を許さず、台風の時期まで元軍を水上に留めることに成功している。
661 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 14:50:10
>>614 元を正せば、外交文章にまったく返事を出さず(無視した)
あろうことか使節団を虐殺した鎌倉幕府がわるいんだけどな
>>661 日本が使節団を処刑したのは、文永の役で元が理不尽にも日本を侵略しようとし、
対馬や壱岐で何の罪もない人々を虐殺した後。
使節処刑は当然の処置だろ。
だいたい当時の日本以外の国は、最初から元の使節を拘束したり、処刑したり、
顔に刺青入れて送り返したり、散々な対応だったぞ。
日本はまだ元の使節に紳士的な対応をした方。
文永の役が起こったのは幕府が使者の外交文書を無視し続けたからだろ
文永で攻められたから使者を殺したというのも理由にならない
殺したことが原因で元に攻める口実が出来た。
北条時宗は稚拙な外交で外敵に攻め込まれた馬鹿野郎だ
>>663 じゃあ、当時元に対して日本以上の外交的対応をした国を挙げてみろよ。
隣接した国が尽く侵略戦争に巻き込まれているのに、日本のみが外交で元の侵略を
回避できたなどと言うのは、空想平和主義以外の何物でもないな。
>>665 外交の使者を何ヶ月も待たせてあげくなんの
返事も出さずに追い返すなんて最悪にもほどがある
しかも2回もだ。本当に「紳士的な対応」をしていたら
もしかしたら元寇はなかったかもしれない
誠意を尽くした外交して攻められたのなら仕方ないが
元との付き合いでは幕府がどうみても悪い。攻められても仕方がない。
他の国は使者に何らかの返事を出している。(殺すこともある)
×他の国は使者に何らかの返事を出している。(殺すこともある)
元寇は、日本が元国をシカトしたために起こった。
クビライ(フビライ)・ハーンは元寇の前に、日本に対して親書を何度も送っている。
当時の鎌倉幕府はそれらの友好交渉を全て無視したために元寇(文永・弘安の役)は起こった。
元史日本伝、経世大典(序録・征伐・日本の条)に文面は記録されている。(東大寺にも写しが現存)
ちなみに「上天眷命」は書き出しの常套句であり、意は「書を奉る」。
締め括りの「不宣」は「これを臣とせざるを白す(申す)なり」の意味。
一般的に脅迫されていたという説は誤りで、実際は対等国或いは目上の国に対する極端な低姿勢を表す文面だった。
ちなみに、元寇に送り込まれたのは南宋の開拓農民が大多数を占めていた模様。
目的は日本占領ではなく、接収した南宋兵力の封鎖。つまり、飼い殺し。
無意味に一ヶ月以上も海上に滞在して嵐に巻き込まれ、勝手に海の藻屑と消えた、というのが実情らしい。
http://www.geocities.jp/asamayamanobore/toribia/251-300.html
>>666 他の国は使者に何らかの返事を出している国も結局侵略されたんだから意味無いだろ。
あと、ベトナムに送られた使節2人はいきなり投獄され、使節が戻らないことを不審に思った
モンゴル軍が攻め込んだところ、1人は獄死した状態で発見されたんだが。
>>670 返事を出して攻められたのなら仕方ないが
何の返事も出さずに無視し続けた日本は攻められても仕方ない。
鎌倉幕府は外交の初歩の初歩も出来なかった無能集団。
(使者を殺した国々も攻められてもしょうがないがな、ベトナムとか)
>>670 元寇は、日本が元国をシカトしたために起こった。
クビライ(フビライ)・ハーンは元寇の前に、日本に対して親書を何度も送っている。
当時の鎌倉幕府はそれらの友好交渉を全て無視したために元寇(文永・弘安の役)は起こった。
>何の返事も出さずに無視し続けた日本は攻められても仕方ない。
こんなストーカー犯罪みたいな理屈を平気で受け入れられるお前って何?
>>673 国同士の外交を個人のストーカーと同時に考えるお前って何?
今だって外交取引に何の返事を出さなければものすごく悪い印象もたれるぞ
>>673 国書を無視した日本
文永五年(1268年)国書は九州の太宰府にもたらされ幕府をとおして朝廷に届けられました.
当時の太宰府は中国・朝鮮をはじめとする,アジアに向けられた日本の玄関で,今で言うなら
「外務省」にあたるところです.朝廷では連日会議をかさねて「返事をしない」・・
つまり無視するという結論を出しました
返事を出さないと言うことは,とうぜん蒙古が「兵を送ってくる」ことを覚悟しなくてなりません.
676 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 15:55:37
元に攻められた国って みんな国書に返信してたの?
>>673 元寇は、日本が元国をシカトしたために起こった。
クビライ(フビライ)・ハーンは元寇の前に、日本に対して親書を何度も送っている。
当時の鎌倉幕府はそれらの友好交渉を全て無視したために元寇(文永・弘安の役)は起こった。
>>676 使者を殺すか、服従を拒む国は攻められた
679 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 15:59:31
無視されたり 投獄されたり 刺青彫られたり
元の使者って どんだけ無礼な中身を送ったんだよって感じだよな
680 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 16:06:18
自らを「大蒙古皇帝」とし一段低く「日本国王」などと日本を頭から見下しているような文書を親書などという基地外がいるんだね。
鎌倉幕府の無礼な国書を無視し断固とした決断を示した外交姿勢は全く持って見事。
>>673 言っておくが、日本はやることなすこと全てが正しい国でもなければ
神に選ばれた特別な国でもないんだぞ。
>>679 使者にそんな無礼なことをした国々は攻められてもしょうがない
>>680 元寇は、日本が元国をシカトしたために起こった。
クビライ(フビライ)・ハーンは元寇の前に、日本に対して親書を何度も送っている。
当時の鎌倉幕府はそれらの友好交渉を全て無視したために元寇(文永・弘安の役)は起こった。
元史日本伝、経世大典(序録・征伐・日本の条)に文面は記録されている。(東大寺にも写しが現存)
ちなみに「上天眷命」は書き出しの常套句であり、意は「書を奉る」。
締め括りの「不宣」は「これを臣とせざるを白す(申す)なり」の意味。
一般的に脅迫されていたという説は誤りで、実際は対等国或いは目上の国に対する極端な低姿勢を表す文面だった。
684 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 16:15:55
っで要約すると 元の国書には何て書いてあるの?
天皇でもない幕府に日本国王の親書を出したことを
見下しているなんて考える基地外がいるんだね。
たとえ無礼だと感じても、鎌倉幕府の使者に返事をださなかった
姿勢ははまったくもって無能極まる。
686 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 16:17:53
元に攻められた国っていっぱいあるんでしょ?
例えば南ベトナムの占城は元に比較的友好的な対応をした国。
ところが、それに気を良くしたフビライは占城を南方侵略の拠点にしようと考え、
直接支配のため大軍を送り込んだんだよ。
結局、どんな対応しても無駄なの。
689 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 16:21:26
>>688 南ベトナムはかわいそうだね、友好的な姿勢をしめしたのにね
だけど日本は使者になんの返事も出さずに手ぶらで返したり
使者を殺したりしたんだから攻められてもしょうがないね
691 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 16:29:39
神風を起こしたのは諏訪大明神
日本人なら覚えとけ
692 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 16:29:48
友好的な相手も攻める元って そうとう基地
無視されてもしょうがないね
>>689 天皇に送ったのなら無礼かもしれんが
幕府を国王と呼んだらいけない法律でもあるのか?
たとえ無礼だったとしても何らかの返事をださなければいけない
それが外交の最低の礼儀だ。無視しつづけるなぞ
これほど相手をこけにする扱いもない。
>>689 日本は別に神代より続く神国でもなければ特別な国ではないぞ
高麗も最初はモンゴルと兄弟の契りを結んだりしたんだよ。
でも、モンゴルはそれを理由に莫大な貢物を要求。
高麗が拒否すると言い掛かりをつけて国交断絶し、30年間に渡って侵略した。
こんな悪質な総会屋みたいな国は、外交を結ぶことなど考えず、最初から戦争に備えるしかない。
ベトナムを攻めたフビライは悪いかもしれんが
外交相手に無視し続けたという前代未聞の扱いをした鎌倉幕府は相当基地外
攻められてもしょうがないね
697 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 16:33:43
高麗、ベトナムは元の哀れな被害者だが
鎌倉幕府は外交相手をしかとし続けたので
被害者とはいえない。
>>696 北ベトナムの陳朝は使節をいきなり投獄したんだぞ。
日本の対応のどこが前代未聞なんだよ?
700 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 16:38:12
元の使者が失礼な国書を送ったんだろうな
刺青彫られたり 投獄されたり
>>697 王と皇帝は同格じゃないな、それで?
フビライは皇帝を称したが
幕府は皇帝を称したか?
ビルマのパガン朝や、エジプトのマムルーク朝も使者処刑してるしな
703 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 16:40:39
>>699 ああ、それは悪いな。北ベトナムや日本は攻められても仕方がない
>>700 いきなり使者にそんな仕打ちをするのは無礼をとおりこして野蛮
そんな国は攻められてもしょうがない。
日本は日本はといっているのがいるが
鎌倉時代の大多数の国民は自分のことを「日本人」とは思っていないだろ
そういう意識がいきわたるのは明治になってから
自国の隣国を侵略した国と友好的な外交関係を結べるはずがない。
最初から無駄な外交努力をせずに戦争に備えた日本は賢い国。
雲南の大理国もモンゴルの使者を処刑していたな。
709 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 16:50:17
結局5000人の侍に尻尾まいて逃げたしな
>>709 5000人の侍は海岸から敗走して
大宰府に引っ込んで博多を蹂躙されたな
>>710 当時の信頼できる文献には「元軍が戦って負けた」としか書いてないぞ
713 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 16:57:17
>>630 もともと日本の大鎧ってもんは機動性なんか全然なし、寧ろ防御を第一に考えて作られてるものです。
矢に当たっても貫かないように作られているんです。
>>711 ああ、日本側の文書にはそう書いてあるな
向こうでは「矢がつきた」
弘安の役では、御家人は戦って相手を海上に釘付けにしたので
戦ってかったとみてもいいがね。
716 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 17:01:57
>>712 鎌倉幕府が三別抄なんかと手を結ばず三別抄の同盟申し入れを無視したのは卓見であった。
伝統的に朝鮮人は節操がなく平気で裏切る人間だから。まあそうでなければ生き残れなかった悲しい民族でもあるんだね。
日本が戦争準備を始めたのは
元が高麗に大量の船を建造させてから
その前に元が何度も使者をだしていたが日本は無視した
かといってその頃から防備を固めていたかと言えば何もしていない
(ついでに三別抄からの援助の申し出も断っている、別にこれはいいが)
無視し続けた元は日本遠征を決定して高麗に船の建造と食料の供給を命じている
このころになってやっと幕府は九州の御家人に支持をだした
結局幕府は外交にしかとし続け、そうかといって戦争準備もせずに
無為無策でいたわけだ。こんな無能な幕府をもったことは日本の不幸だ。
2チャンネラーはどう思っているか知らないが
日本は世界最強の国でもなければ
いつでも正しいことをやっているわけでもない
神代から続く神国でもなければ特別な国でもないんだぞ
本当にわかっているか?
海岸線の防備を固めたのは文永の役の前なんだよね
720 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 17:18:28
>>718 ここは歴史板だから
思想語りたいなら他逝け
>>714 『高麗史』87巻
「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人」
向こうの文書にも戦って負けたと書いてあるな。
>>721 大宰府を占領できずに帰ったからな
だが戦闘で負けたからではなく
「緒戦で矢がつき、敵に兵力が増したため勝つ見込みがなくなったから」
戦闘で負けていなかったら海岸から敗走して博多を廃墟にされはしないよな
>>721 だからよ、日本は別に世界最強の国でもないんだよ
負けることもあるんだよ
724 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 17:37:54
>>722 だから緒戦で矢がつきた理由のひとつが日本の大鎧の防御力だったわけだ。
鎌倉武士軍は大宰府を守ることを第一にしていた。大宰府に九州各地から続々と援軍が来て取り合えず1日目の戦闘では
日没とともに前線の博多に出向いていた武士は大宰府に引き返し翌日再び援軍で数を増して攻撃しようとしたら敵はどこにもいなかった。
ただ残存勢力が一部残っているという情報を得たら手柄を立てたい連中はそれに襲い掛かった。
また、『高麗史』金方慶伝にいう、
倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、『蒙人雖習戦、何以加此。』
諸軍与戦、及暮乃解。方慶、謂忽敦茶丘曰、
『兵法千里懸軍、其鋒不可当。我師雖少、已入敵境。人自為戦、即孟明焚船、准陰背水。請復戦。』
忽敦曰、『兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏之兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍。』
欧亨(蒙古軍の副将)中流矢、先登舟、遂引兵還。
会夜大風雨、戦艦觸岩崖多敗」
日本軍は大敗し、その屍は麻の如く散らばっていた。
それを見た忻都は、「蒙古の人間は戦に慣れているとはいえ、日本もなかなかのものだ。彼らにこれ以上付け足すものは何もない」と言って感心した。
勇者への賛辞といったところか。額面通りに受け取ってもかまないが、忻都は一種の余裕も感じながら発言したのだろう。
倭兵は大敗したってよ
>>722 「海岸から敗走して博多を廃墟」の根拠になっている八幡愚童訓には、
「元軍も松原の陣を捨てて敗走した」と書いてあるんだが・・・
>>鎌倉武士軍は大宰府を守ることを第一にしていた
えっそうなの?「最初から大宰府防衛を目的」てどの文書に書いてある?
八幡愚童訓には、
「元軍も松原の陣を捨てて敗走した」と書いてあるんだが・・・
それは
>>715によると支離滅裂だってよ
>>725 日蓮書状で日本側が受けた被害として挙げているのは、対馬、壱岐、松浦党のみ。
それを踏まえた上で金方慶伝を読めば、書いてあるのは対馬、壱岐、松浦党に該当する記述のみ。
その後、御家人に全く歯が立たずに大敗し、巻87の結果になったということだろ。
>>728 勝てないとわかった元軍が撤退したんだから
そう書いていてもふしぎじゃない
あと、こんなのもあるな。
『元史』152巻列伝第39劉通伝
「十年、遷征東左副都元帥、統軍四萬、戰船九百、征日本、與倭兵十萬遇、戰敗之。還、招降淮南諸郡邑。」
>>718 「その逆もまた真」
まあ、日本の政権担当者にとって「柵封」なんて大陸政権の勝手な
言い草で、内心は馬鹿にしてたんだろうね。
利用価値があれば利用し、内政に手を突っ込んできたら拒否するって
とこでしょうか。(笑
>>730 御家人は博多での戦闘が不利となり、大宰府に退却した。
元軍も矢を使い尽くして退却せざるを得なかった。
目的を達成できずにもどるんことになったんだから巻87の表現になったんだろ
>>734 蒙古襲来絵詞には御家人から逃げ回る元軍しか描かれていないが
>>蒙古襲来絵詞には御家人から逃げ回る元軍しか描かれていないが
竹崎が書かせたものだから当たり前
>>まあ、日本の政権担当者にとって「柵封」なんて大陸政権の勝手な
>>言い草で、内心は馬鹿にしてたんだろうね。
それは、「そうであってほしい」というそちらの願望。
上陸した元軍の方が数が多く、
てつはうの音にも驚いたので
御家人は水城に引いたんだろう。
>>737 古今東西、どんな合戦でも最重要史料は、実際に戦闘に参加した兵士が残した史料。
八幡信仰布教のために書かれた八幡愚童訓より、蒙古襲来絵詞の方が信用度は遥かに高い。
>>740 蒙古襲来絵詞は竹崎が自身の戦功を描かせたもの
いってしまえば自己申告だ。
743 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 18:15:22
>>729 http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/genkou/ 「この絵は「蒙古襲来絵詞」(もうこしゅうらいえことば)とも「竹崎季長絵詞」
(たけざきすえながえことば)とも呼ばれている最も貴重な資料です.肥後(熊本)
の御家人「竹崎季長」は5人の郎党(家来)をつれて,元軍の中に突っ込んでいき,
たちまち弓矢でうたれ,あやうく一命を落とすところでしたが,仲間の御家人白石通泰
(しらいしみちやす)に助けられました.この絵は季長自身が自分の働きぶりを記録
に残すために絵師に描かせたものです.(宮内庁蔵)
最大のポイントは,一人で突っ込んでいったことです.
これは当時の武士が名乗りを上げて一騎ずつ戦う作法があったからなのです.
おそらく季長も名乗りを上げてから敵陣に突っ込んだのでしょう.とうじは「先懸」
(さきがけ)といって,真っ先に敵陣に入っていたものの手柄が第一だったからです.
この日季長は指揮官である守護「少弐景資」(しょうにかげすけ)の命令を無視して麁原
(そはら)方面に出向き,敵を見るなり先懸をおこなったのです.次の絵を見てください.
」
戦後の歴史教育の最大の欺瞞がここにあるね。世界的に価値が高い史料である「蒙古襲来絵詞」
を都合いいようにカットして教師が生徒に嘘教えるのに使われる手口。
竹崎季長は単騎で敵の中に突っ込んでなどいない。実はこの絵の右端の竹崎季長の
右には騎馬武者軍団が描かれていて竹崎季長はその先頭にいるだけ。
これは本当は騎馬軍団による集団戦術が描かれているのだ。
一方元軍は竹崎季長み弓を射る3人以外の左側の兵は矢が刺さり血が噴出していたり
鎌倉武士軍に背を向けて逃げていたり。弓を持つ3兵士の衣装だけ他と著しく違う。
実はこの3人は最近の研究で後世に加筆されたもの、価値が高い「蒙古襲来絵詞」
の中で最も資料的価値がないものなのだ。
鎌倉武士が集団で元軍を蹴散らすことが描かれている史料を一部のみをカットして歪曲して教える。
これが戦後の歴史学者の手口。この手の大学の史学など盲信しない方がいいよ。
>>744 「ご恩」もらえるように「自分に都合よく」絵巻を描かせた
という風に考えられるわけだ。
いずれにしろこの絵巻からわかることは
どんな鎧を着ていたかどんな武器を使ったかだけで
これをもって御家人が元に勝った証拠にはならない
竹崎季長はがんばったかもしれないね
本当に竹崎から逃げた敵もいたかもしれないね
局地的にはこういう場面もあったかもしれないね
だけど全体的にみれば海岸から大宰府から撤退して
水城に防衛線をしいたんだよね
>>742 カイサルの「ガリア戦記」だって、ウィリアム征服王の「バイユー・タぺストリー」だって、
ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥワンの「コンスタンチノープル征服記」だって、全部自己申告。
これらが重要視されているのは、当事者が残した史料だからだろ。
何で元寇だけ史料の評価基準が逆になるんだよ?
748 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 18:22:14
まぁ元が敗退したのは事実だがね
>>740 実は弘安の役のことを描かせましたという落ちではないの?
蒙古襲来絵詞て弘安の話?文永の話?
>>744-745 蒙古襲来絵詞が恩賞のため書かれたというのは嘘。
竹崎季長が恩賞を獲得したのは1275年で、絵巻作成はそれより後の1293年頃。
そもそも、恩賞交渉の一部始終は絵巻の真ん中辺に描かれている。
常識的に考えて自分に都合よく描いた可能性がある
(この場合敵が逃げたように描いてある)
とは何で考えないんだろう。
753 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 18:33:27
5000人の侍に 蹂躙される30000人の元
マジで弱過ぎ
何しにきたの?
>>753 5000人しかいなかったから博多を放棄して
水城に引っ込んだだよ。
元が負けたというのは嘘。
>>752 何故なら蒙古襲来絵詞は竹崎季長には都合よく描かれていないから
757 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 18:37:28
>>745 また学校教育、お馬鹿教師に洗脳されてるやつがいる。
文永の役当時たった5人の部下しかいなくて一族の所領争いに敗れて没落中だった
竹崎季長には絵師にこんな壮大な絵巻描かせる財力などなかったんだよ。
これは遥か後年に安達泰盛を追悼するために描かれたもの。
幕府の恩賞奉行だった安達泰盛に功を認められて竹崎季長も土地をもらい豊かになった。
しかし安達泰盛はその後いわゆる宝治合戦で謀反人として殺された。しかし安達泰盛を
殺して幕府の専権を奮った平頼綱も北条貞時に成敗され安達泰盛の名誉は回復された。
そのとき竹崎季長が安達泰盛の霊に奉げる目的で書かせたものだ。
これは竹崎が書いたものだから
>>755 その「博多を放棄して水城に引っ込んだ」の根拠になっている八幡愚童訓には、
「元軍も松原の陣を捨てて逃げた」と書かれている。
何で同じ文献に書いてあることなのに「元が負けたというのは嘘」なんだよ?
>>そのとき竹崎季長が安達泰盛の霊に奉げる目的で書かせたものだ。
竹崎季長が描かせたものは確かなんだな。
それじゃ竹崎が、自分は元軍に打ち勝った
という絵を描かせてもふしぎじゃないな
>>「元軍も松原の陣を捨てて逃げた」と書かれている。
だからこれは矢が尽きたので撤退したことを書いているんだろ。
数万の元軍と戦ったのは5000人たらず
勝てるわけがない。博多を棄てたというのもうなずける。
764 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 18:47:02
ここまで来ると
元は日本に来なかったんじゃないのかね
当時の資料は全部嘘なんだから
765 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 18:52:17
>>759 竹崎季長を先頭とする騎馬軍団に蹴散らされる元軍の装束などは中央アジアなどで発見されたモンゴル軍を描いた絵と一致している。
だから「蒙古襲来絵詞」は価値が高い。
それにモンゴルは世界帝国だったから世界中の歴史家がこの「蒙古襲来絵詞」の史料批判は行われているのだ。
その上で史料として価値が高いが竹崎季長に弓を射る3人だけは別という結論がなされたのだ。
もう少しいろんなことを勉強してからもの言ってください。
>>762 「夕過る比、白装束の人、三十人計、筥崎宮より出て、矢さきを、そろえて射ると見えしは、
神の降伏し給ひしなり、此降伏に、へきえきして、松原の陣をにけ、海に出るけるに、
あやしき火もめくり、船二艘、顕はれ出て、皆うたれ、たまたま沖に、にけたるは、
大風に吹しつけられにけり」
あきらかに、矢が尽きたので撤退ではないな。
767 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 19:02:34
矢が無いなら 刀を使えば良いのに
ここ数日なんでこんな異状にレス伸びてるの?
769 :
日本@名無史さん:2007/09/10(月) 05:38:57
>>767 日本の武士を最も苦しめたのが毒矢。
傷口から毒が体内を回るので、軽傷しか負わせられなくとも充分に敵の体力や戦闘力を奪えた。
ただ、毒矢という有効な武器がある段階でも、なかなか勝ててないのに、
火矢や毒矢が使用不能な状態で戦闘を継続するのはかなりの勇気が必要(苦戦するのは目に見えているから)
770 :
日本@名無史さん:2007/09/10(月) 10:16:18
日本人なら諏訪大明神に感謝しろ
771 :
日本@名無史さん:2007/09/10(月) 14:02:11
長崎くんち(?)も諏訪の神様の祭だったと思う
>>767 『高麗史』金方慶伝 第十一条によると文永の役の時、遠征軍は三郎浦(「三郎」は「早良」の
音写で、同郡沿岸、百道原〈モモヂバル〉の沿海地区らしい)に上陸した後、金方慶が指揮する
中軍が日本側に襲撃され「長劍交左右」ってぐらいに白兵戦になったそうだ。
そこで金方慶は一本のかぶら矢を放って激を飛ばし、「倭辟易而走」とあって日本側の攻勢を
撃退することに成功したんだそうだ。
> 日本の武士を最も苦しめたのが毒矢。
良く聞く話だけど、これって日本側の資料に実際に書かれてある話し?
文永の役について『元史』は「行って帰ってきた」程度しか書いて無いし、『高麗史』でも
特に合戦で火矢やら毒矢やらを使ったような書き方をしてはいないが。
> 日本人なら諏訪大明神に感謝しろ
>>762の『八幡大菩薩愚童訓』の書きぶりからすると、筥崎宮の八幡神が神宮から出現させた
化身やら神火や軍船でもって遠征軍を撃退したってことらしいけどw
773 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 00:12:57
一日で100レス以上とはこのスレじゃ珍しい。
ところで、モンゴル側の総勢3万余ってのは主に『高麗史』の記述がもとだろうけど、
文永の役の時の九州の鎌倉武士団5000人ってどこの資料からの情報だろうか?
775 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 00:50:23
>>774 異国警固番役プラスαと考えて五千〜一万と考えられてるんじゃないかな?
確かに資料はなさそうだね。
劉復亨は倭兵10万と戦ってこれを破りましたとかフビライに報告してるらしいけどw
筑後川の洪水で橋が壊れて軍が渡れなかったって記録はあるらしいね。
とにかく九州各地の御家人が集合する前に戦いが終わったってのは事実だね。
>>775 だから、それは逆だろ。
劉復亨は倭兵10万と戦って負けましたと報告した。
元史にそう書いてある。
上の弓矢談義の疑問。
弓矢の飛距離と貫通力(殺傷力)ってイコールになるの?
素人考えでも鏃の質や矢の質量による所もあると思うのだが。
それはそうと、八幡太郎や鎮西八郎の逸話を検証した物ってないんかな?
778 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 08:12:36
(博多西部) 麁原・赤坂地区:一千三百騎(『蒙古襲来絵詞』より推察)
(博多中心部)博多地区 :三千騎
(博多東部) 箱崎地区 :一千騎
対馬からの急報が大宰府に届いたのは十八日である。
わずか数日のうちに、十万もの大軍が集結すると言うことはあり得ない。
「菊池次郎思切テ百騎バカリヲ二手ニ分ケ押寄テ散々懸ケ散ラシ上ニナリ下ニナリ押シ重ネテ勝負ヲス」
肥後の菊池氏ほどの豪族でも急を聞いて100騎ほどでとりあえず駆けつけた。
ただ残敵掃討戦では九州各地から続々と集まりかけてきたので大軍に膨れ上がったのかも。
しかし所詮は防衛戦
勝手の武士が欲しがる土地を得たわけではない
恩賞の不満が幕府崩壊の原因の一つに
このあたり、内戦システムのまま外戦をやっちゃった不合理がもろに出ている
普通なら、外国の侵略を撃破した政権は英雄扱いで求心力があがるもんなのに
780 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 10:52:41
一度目に攻めて来たときに
今度は日本から大陸に攻める案があったが九州の御家人がやる気が無くて辞めたそうだ
洗濯機改造してタイムマシン作れば良い
>>775-776 劉復亨が10万人を〜って話は『元史』の劉通伝 劉復亨条に書かれていたのか。
> 『元史』巻一百五十二 列伝第三十九 劉通
「(至元)十年、遷征東左副都元帥、統軍四萬、戰船九百、
征日本、與倭兵十萬遇、戰敗之。還、招降淮南諸郡邑。」
「之を敗る」ではなくて「之に戰敗す」と読むのが正しいってことだね?
しかし、『元史』の本紀とかははたいてい「日本」と呼んでいるけど、ここでは
『高麗史』と同様「倭」なのか。ここの記述の情報元は政府の実録とかじゃなくて
やっぱり彼の墓碑銘とかからになるんだろうか。
あと、クビライに報告したって話はどこにあるんだろう。
784 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 19:50:34
>>776 いやいや逆でしょ。
「戦って之を敗る」でしょ。
弘安の役の時は敗戦の報告を聞いてフビライは高麗沿岸から上海まで沿岸部に軍を派遣して鎌倉武士団の報復に備えた。
でも文永の役ではそんな記録は無い。
それにのこのこ使者を派遣してるしね。
司令官も素直に「負けました」と報告するとは思えない。
785 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 20:42:13
今から洗濯機に入って見て来るよ
みんなお土産何が良い?
むしろこちらが冥土の土産を渡さねば(r
>>784 「戦って之を敗る」じゃあ、その後の「還、招降淮南諸郡邑」とのつながりが不自然だよ。
何で勝ったのに、降格しないといけないの?
「戰敗」は「戦って負けた」という熟語だろ。
789 :
日本@名無史さん:2007/09/12(水) 08:37:26
>>788 それは降伏の『降』ではなくて
〜を降伏させるための役職、という意味では?
〜討元帥、とかの職と一緒で
790 :
789:2007/09/12(水) 08:38:16
×降伏の『降』
○降格の『降』
「招降」も「降伏を招く」という熟語だな
ここも軍版も、ネタ、煽り、が山盛りで。
794 :
日本@名無史さん:2007/09/14(金) 11:47:21
文永の役は、勝ちと責任者が糊塗できる程度
弘安の役は、さすがにそれもムリポ
だからフビライが怒って第三次を計画したって流れ?
だとすると、三回目はいよいよ属国と服従民の雑軍ではなくモンゴル直系軍が面子にかけて襲来していたのかな?
三回目があっても良く似た構成だろ。
「戰敗」には「戦って負けた」という意味しかないぞ。
文永の役は日本側の鎌倉年代記や帝王編年記、敵側の元史や高麗史に
「元軍が戦って負けた」と明記してあると言うこと。
これは元が目的を達成できなかったので2度の敗戦となるだろう
三回目があったとしたら、同じ「属国と服従民」の軍でも、二回目のように
江南軍合流を待って博多沖で待機なんて悠長なこと言わないで、数に任せて
高麗→博多周辺部制圧の部隊と江南→五島列島、長崎、熊本方面への制圧部隊を
振り分けたりとか、チンギス・カンの時の華北遠征や中央アジア遠征みたいな
2〜4経路侵攻作戦みたいなやり方だったらより現実的な作戦だったかもしれない。
というか、二回目の弘安の役の時に何故五島列島からそのまま長崎方面へ上陸して
肥前全土を制圧するような方針をとらなかったのか謎だけど。
> 日本側の鎌倉年代記や帝王編年記
何だか見なれない表現だが、現在の鎌倉時代とか中世史研究ではこういう言い方の用語って
使われているんだろうか?
> 「戰って之を敗る」/「之に戰敗す」
漢籍に疎いんで何とも判断がつかないんが、元朝時代の前と後では中国語の文法が
かなり変化しているとか聞くんだけど、 『元史』劉復亨伝の内容は古典的な漢文と比べると
>>783の文は特に変わっている訳ではないようにも思えるけど、実際はどうなんだろうか?
あと「還、招降淮南諸郡邑」は「還りて、招いて淮南諸郡邑に降す」と読んで、「(遠征から)
帰還したあと、招致して淮南諸郡邑に投下された(派遣された)」、とも読めそうなんだが、
その問題も含めて当時の漢文の文法からして一連の文章はどう読めば良いんだろうか?
鎌倉時代の日本側の資料は置くとして、『高麗史』は元朝滅亡の後に明朝の立場を配慮しつつ
高麗とモンゴル帝国さらにはクビライ王家の元朝との関係も述べた歴史書だから、そこら辺の
「高麗とモンゴルのやりとり」の微妙な部分はある程度注意が必要だとか、元朝時代の高麗史を
やってる高橋先生あたりが何かの論文に書いていたような覚えが・・
「日本伝」「劉復亨伝」みたいな列伝は良いとしても、『元史』のメインとも言える帝王本紀の
部分(ここでは「世祖本紀」)に後の弘安の役とは違い、文永の役での作戦経過が全然載って
いないってのは元朝側の日本遠征での対応とか認識を知る上で一応注意すべき「相違」だと思う。
『元史』以外に文永の役について掛れた元朝側の漢文資料があれば良いけど。
(弘安の役については当時のいくつか文学作品で触れられているらしいが)
ちなみに
>>783の「還、招降淮南諸郡邑。」のあとは、
「(至元)十二年、授昭信路總管。十四年、遷黄州宣慰使。十五年、改太平路總管、
俄授鎮國上將軍、為淮西道宣慰使都元帥。二十年、加奉國上將軍。三月、卒。」
と続く。> 『元史』巻一百五十二 列伝第三十九 劉通
文永の役のすぐ翌々年に黄州とか太平路とかの鎮撫を任されているけど、これらは
湖広等行尚書省、現在で言えば湖北省のあたりの土地。つまり南宋作戦の最前線地区を
任されて「鎮國上將軍」とか「淮西道宣慰使都元帥」なっていることを考えると、
徐々に徐々に昇進しているわけで、文永の役から帰還した後の「招降淮南諸郡邑」の
「招降」は「降格」とはやはり違うように思うのだけど。
そもそも当時「淮南」は元朝と言うかモンゴル帝国領と南宋との前線に近い地域だから
それとも関係していそう。
>>800 元軍は至元十一年には長江の南に侵出しているから、至元十二年の淮南のあたりは、
すでに対南宋の最前線地区じゃないよ。
あと一応、文永の役以前の劉復亨の経歴↓
「子複亨、襲為行軍千戸、從嚴實略安豐、通、泰、淮、濠、泗、?、黄、安慶諸州。
憲宗西征、複亨攝萬戸、統東平軍馬攻釣魚山苦竹寨、有功、師還、兼コ州軍民總管。
中統元年、奉旨戍和林、還、授虎符、進武衛軍副都指揮使。李壇叛、遣使招複亨、
複亨立斬之。時遣兵討賊、集濟南、乏食、複亨盡出其私蓄以濟師、世祖嘉之、
賜白金五千兩、複亨固辭。至元二年、進左翼侍衛親軍都指揮使。四年、遷右翼。
九年、加昭勇大將軍、鳳州等處經略使。」
劉復亨が最前線地区を任されていたと言えるのは、釣魚城攻囲→李壇の乱→文永の役まで。
その後は後方勤務。
802 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 12:12:38
元の将帥に求められるのは、多民族軍を纏める力量
フビライは南宋攻撃にバヤンを起用する際
「モンゴル人だけならアジュ(祖父の代からの将軍の家系)を大将にするが、この局面ではバヤンだ」というようなことをいっている
元軍は消極的な中国系と、積極的な高麗系の方針対立でまず混乱していた
これを克服できるほどの良将はいるのか?
803 :
日本@名無史さん:2007/09/20(木) 02:35:58
いやー、モンゴル弱すぎでしょww
武士最強過ぎ、マジで!
捕虜になって奴隷にされた南宋の兵って
日本でその後どうなったんだろうな。
805 :
日本@名無史さん:2007/09/20(木) 20:05:44
>>804 博多で居住区を作ったんだろ?
福岡市中央区の唐人町で
同化したみたいだね
806 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 16:13:00
>>713 そうでしょうね。
鎧が軽量化されるのは、戦国時代からだったような。。。
騎馬武者も腹巻着用が主流になった南北朝時代からでは
南北朝は中途半端な時期でまだまだ大鎧に近い重量だと思う
むしろ足などはさらに装甲が増えてるし臆病板とかの発明もこの頃だったよね?
ただ重量はあっても動きやすさでは段違いによくなったはずなので着ているほうとしては軽く感じていたかもしれない
809 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 01:18:07
ディスカバリチャンネルで元寇のことを取り上げたときに、日本の勝因は、やはり上陸
されても橋頭堡を築かせなかったこと、長大な弓を使ったので、射程ギリギリでは
日本の弓の方が威力があったこと(劉復享が小弐景資に射倒されたのは、日本軍の
弓の射程外と思っていたらそうでなかった)、接近戦では刀剣の扱いに巧みな鎌倉
武士の方が強かったこと、そして急に船を揃える為に喫水の浅い内陸河川用の船
を多数徴用したので、台風にはひとたまりもなかったとかなり客観的に分析してる。
再現ビデオの日本軍の時代考証は滅茶苦茶だったが。
アメリカが無理に日本びいきにする必要もないわけで、勝てる要因があったから
勝てたというきわめて当たり前の分析だったよ。
別のアメリカの歴史番組をアメリカにいる時に見たときには、皮や布製の元軍、高麗軍
の鎧は、騎射や槍を構えての突撃には身動きが容易で向いていたが、鉄の鎧を貫通
する日本の弓矢と斬撃に向いていた日本刀に対しては有効な防御にはなってなかった
と言ってたな。実際中国の鎧を矢(和弓の代わりにロングボウだったが)で打ち抜いたり
日本刀でばっさり切り裂いて見せていた。
コピペ?
元軍の船は嵐で壊滅した。
武士は嵐の後、船に乗って出撃し、残った元軍の掃討戦を展開した。
↓↓↓
元軍の船=嵐で沈む
日本の船=嵐で沈まない。
↓↓↓
日本の船>>>>超えられない壁>>>>元軍の船
812 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 17:23:35
最初に非道くヤラれるが途中から最後まで勝ちに勝って
カタルシス全開な映画が観たい
>>812 「最初に非道くヤラれる」→高麗人金方慶の対馬での所業が、
今の日本(日本映画界)では、諸所からの圧力、
並びに今の映画界の上層を占めるであろう、あの世代の反対があるだろうから、
たぶん無理。
「最初に非道くヤラれる」の部分を削除、金方慶をモンゴルの圧力に晒されながらも、
日本民衆の為を思うヒューマニスト(新大久保パターン)とすれば角川あたりで可能か?
814 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 18:00:50
NHKの北条時宗も金之助の日蓮と蒙古襲来も観たけど
全然燃えないんだもん
スリーハンドレットみたいなのが観たい
恋人を高慢ちきな蒙古人とゲスな高麗人に連れ去られて
挙句虐殺された海賊なお侍さんと鎌倉からやって来た
坂東武者君のスーパータッグが大暴れするみたいなのが好い
>>814 ソレナラ ギリシャ人に帰化して スリーハンドレッド をみてればいいんじゃないだろうか。
>>815 >
>>814 ソレナラ ギリシャ人に帰化して
ギリシャ人に帰化するって何だよ。帰化って国家に対して行うことだぞ。
>>816 んじゃそう読み替えてくれ。
ハリウッド映画は俺も好きだけど、ナショナリズム煽る映画は嫌いだのぅ。
スパイダーマン1とかは特にそういう感じが強かった。
818 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 21:16:12
>>814 純粋に文永の役と弘安の役の戦闘場面をふんだんに取り入れた映画が見たいよね。
文永の役のときは、蒙古・高麗側も実数は、2万5千くらいで、迎え撃つ鎌倉武士側も
3千位だったらしいから、案外エキストラ集めには苦労がないかも。
それと、接近戦で漢人兵や高麗兵の綿甲冑になぎなたを振り下ろしてばっさりやる場
面や、槍の穂先をたちで切り払う場面とか入れて欲しいな。
考えてみるとハリウッド映画並にドラマチックな展開だよね
ちなみにナショナリズムって言うけどローマを舞台にしようとギリシャを舞台にしようと現代アメリカでもしょうがないんじゃない?普通に最後宇宙人に惨めに負けるインディペンデンスデーなんて誰も見ないよ
>>819 日本、中国、韓国が互いにナショナリズムについて牽制しあう関係を踏まえれば、
蒙古襲来は極めて危険な題材であることは確かですね。
実際の問題として、チンギスカン物が大コケしてますんで、資金を出すところはないでしょうけども。
そいと、自国が惨めに負ける映画を好む国ってのはありますよ。
821 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 22:42:30
>>809 なるほど
倭刀の様な切れ味の刀を想定してなければ装備は軽装になるわな
鎌倉軍は鉄砲や集団戦に最初は驚かされたけどすぐに修正対応できた
が、装備の上で想定外のハンデを背負った元軍は修正したくてもできないよね
822 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 23:31:14
>>821 モンゴル兵も漢人兵も高麗兵も鎧だけで防御できないから、盾を使っていた。
盾で、太刀の切り込みはかわせても、長刀の脛はらいを喰らったら、とっさには
かわせないだろう。脛払いで転ばされたところに遠心力で勢いをつけた長刀を
打ち込まれたら、皮製の兵士の兜は、西瓜のようにかち割られただろうな。
それから、足軽以前に源平合戦の時から、騎乗の武士以外に徒歩武者も居たし、
歩射はもっぱらそういった徒歩武者の役割だったわけだから、置き盾に隠れなが
ら、遠距離から矢を射込んで来る徒歩武者はやっかいな連中だっただろう。
歩兵の集団で歩射の徒歩武者の陣地に突っ込んでも彼らは接近戦も得意だか
ら、弓兵は弓兵としか機能しない大陸の兵士と違って、太刀や長刀で逆襲された
から、モンゴル・高麗兵もびくりしたことだろう。しかも、鎧の上からばっさりやられ
たり、槍か矛と思った長柄の武器を突き出すんじゃなくて振りかぶってくるなんて
想像もつかんだろ。
823 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 01:12:28
>>822 うわ〜なんか元軍が気の毒だねw
考えたら悲惨な状況だ
「大草原だったら!ここが大草原だったらこんな奴ら!」とかきっと思っただろうねw
騎兵運用のできない日本のしかも海岸沿いの地形では世界を征服した蒙古騎兵も使えない
やはり長い年月日本に住みその地の戦いで培ったノウハウによって装備された武装が一番強いわけだね
ベトナムで負けたのもそんな感じだったのかな
824 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 02:50:50
>>821 軽装ではないだろう。騎兵や長柄歩兵としての身動きのしやすさを考えると、
大陸の短弓による矢を防げれば、柔軟性のある鎧の方がいいというだけで、
綿甲冑だって鋲を裏打ちしているから結構重いぞ。
ただ、日本刀のようなもので切りつけれたら、鋲や金属板の間の布は、切れ
てしまうから鎌倉武士としては、胴丸着た徒歩武者の鎧の隙間を突いたり、
切ったりするより楽だっただろう。
柔軟と言うことは、勢いをつけた斬撃にはその勢いを鎧が止めることが出来
ないから、まして、それが切ることを主体に考えた日本刀なら、すぱっとは
行かなくてもざくりとは切れて、当然鎧の下の体も切れてしまうだろう。
825 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 03:09:09
>>823 > 「大草原だったら!ここが大草原だったらこんな奴ら!」とかきっと思っただろうねw
騎乗の鎌倉武士は、馬の機動力に差があるが、蒙古騎兵と同じ弓騎兵だから、平原での会戦でも
リーグニッツの戦いのドイツ・ポーランド騎士団よりは、粘ったんじゃないだろうか。激しい弓射の中
にランすアタックを掛けるのは自殺行為だが、弓騎兵対弓騎兵では鎧袖一触で勝敗が決まることも
ないだろう。
実際鎌倉武士は会戦からしばらくは激しい弓射を繰り返したから、短弓にしては射程の長い蒙古弓
と長弓なりに射程のある和弓でお互いに激しい矢戦になったのではないかな。
鎌倉武士にせよ蒙古騎兵にせよ敵陣が乱れたところで騎兵が突撃したから、戦い手順は似たもの
だと思う。違いは敵陣突撃を集団でやるか一騎打ちでやるかだろう。
>>825 鎌倉武士だって敵陣突撃は集団でやるぞ。
当時の史料にだって集団でモンゴル軍に突撃する武士の様子が描かれている。
武士が一騎打ちで戦っていたなんて書いた信頼できる史料は存在しない。
828 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 21:08:25
>>827 学校の教科書では一番右の騎馬集団をカットして先頭の騎馬武者一人だけ。
そして左側の逃げる蒙古兵や矢が刺さって血が噴出している蒙古兵もカット。
弓を構えた2人と槍を構えてる1人の3人だけで左側をカットし、蒙古の
集団戦術に一騎打ちを挑んで散々にやられたって教えてるんだよね。
最悪の歴史教育。
ちなみにこの絵の資料的価値は世界的にも相当高い。中央アジアで発見された蒙古兵を描いた絵と装束が一致してるから。
日本だけでなく世界の歴史学者たちが資料批判している。
そして教科書に描かれている3人だけは全く資料としての価値なしと判定されている。
この3人の装束は他と異なり後世の加筆であると最近判明した。
世界各国の歴史学者の研究で最も資料として価値が高い部分をカットし、全く価値がない
部分のみで変な教育受けさせられた。
俺が教わった歴史教育って最低。
829 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 21:14:50
>>828 ホントだ!
教科書に載ってる元軍の3人だけ他の元軍と装備がぜんぜん違うよ!
特に兜が日本チックだよねwww
ホント日本の教科書製作会社ってヒドイよね
830 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 21:34:48
つまり、鎌倉武士は準備が悪くて多く見積もっても5千くらいで、蒙古騎兵は
少ないとは言えども、少なく見積もっても2万程度は居たであろう蒙古・高麗
連合軍に対して、防衛線を後退させながらも丸一日持ちこたえたのは、同時代
の他国と比べても驚異的に善戦していると思う。ポーランド・ドイツ騎士連合
は、蒙古軍より数で勝っていたのに数時間で壊滅的な負け方をしたのと比べれ
ば、段違いの奮戦振りと思う。
こりゃ、弘安の役で台風が来なくても、鎌倉からの増援部隊が合流していれ
ば職業軍人とは言えども練度の低い旧南宋の軍人が10万増えても、一人一人の
練度の高い関東の武士には、思い切り返り討ちにあっただろうね。
> 中央アジアで発見された蒙古兵を描いた絵と装束が一致してるから。
これのソースって具体的にどういうもの?
>>831 集史の挿絵だと思う
集史ってのはイル・ハン国で編纂されたモンゴル帝国の歴史書。
833 :
日本@名無史さん:2007/10/02(火) 09:30:12
>>829 鎌倉武士の集団騎馬攻撃にやられて逃げる蒙古兵を描いた絵が。
こんな風に工作されて正反対のことを教えられるんだから。
ひどいもんだよ。
でも別の絵の船に乗ってる蒙古兵に似たような身なりの人がいるよ?
船に乗っているのは江南兵でしょ
文永の役の場面で描かれていてはいけない兵士
837 :
おじゃま蟲:2007/10/03(水) 18:55:30
初めて読みましたが、おもしろ!!
自分的には、鎌倉武士は源平いらい合戦ばっかやっていたので対モンゴルの
ほかの国より、格段に兵の連度が上だったんじゃないかと思う。日本みたいに
国内で戦争やってる国はないんじゃないの。平和な時だって、武装はしているし。
戦争・・・・ちょっとお休み・・・戦争・・・休み こんな感じ
838 :
日本@名無史さん:2007/10/03(水) 20:27:12
>>825 リーグニッツは酷すぎるよね
バトゥ&スブタイの本隊じゃなく長子軍の分隊にボロ負けしたんだから
長子軍本隊とモヒで戦い大敗したハンガリー軍の方がまだマシだよね
スブタイが到着するまでは押してたんだから
>>837 面白いよね〜
こんな面白いのに教科書は嘘だけどチョロっと書いてあとはスルーなんだもんね
839 :
日本@名無史さん:2007/10/03(水) 21:07:25
朝鮮人の天気予報、台風の進路予測が全然役立たずなのは、元寇の時代から
だな。
840 :
日本@名無史さん:2007/10/03(水) 21:27:50
>>837 日頃から武芸で鍛えていたが戦争なんてほとんどないよ。
むしろ日本って平和な歴史だよ。
大体、日本の戦国時代でさえヨーロッパから来た宣教師が本国に宛てた手紙に
「日本ほど平和な国は世界にない」と書いているくらいだから。
実際、役百年の戦国時代に日本は人口が2倍に増えてる。
一方中国では後漢末の内乱から三国時代にかけて1/8くらいに人口が激減している。
日本には城壁都市がないから戦争は簡単に終わる。篭城何年なんて戦争はない。
一方、大陸の城壁都市では城の外に住む農民なんかも戦争では城壁の中に篭り落城の暁は
皆殺しなんてこといくらでもある。
天下分け目の関が原の戦いだってたった1日で終わったし、それも近所の農民がお弁当持って
丘の上で見物してたなんて大陸の戦争ではありえない。
841 :
日本@名無史さん:2007/10/03(水) 21:35:54
鎌倉時代は教科書で教えないだけで小さな紛争は多かったんじゃないの?
北条家でさえ小競り合いや毒殺なんかがあったくらいだし
猫の額ほどの土地を一所懸命とか言いながら守ってた武士団が大人しくしてるとは思えないな・・・
承久の乱以降の戦いも調べてみる価値ありそうだね
842 :
日本@名無史さん:2007/10/03(水) 21:54:13
>>841 例えば保元平治の乱なんて戦争というより軍事クーデターみたいなもん。
新バビロニアのネブカドネザル大王がテュロスを14年に渡り包囲して落城させるような戦争なんて
日本にはない。まあちょっとした小競り合い程度なら鎌倉時代は割りとあったけど。
そもそもモンゴルは1260年にモンケハーンの南宋大遠征を開始し1279年の滅亡まで戦争続きだった。
襄陽なんか5年も包囲戦をしてたくらいだから。
弘安の役はその南宋の兵だって入っていたよ。南宋だってモンゴルとの戦争前は平和だってわけではない。
モンゴルと同盟して金を攻め滅ぼしている。モンゴルが一旦北上した後、どさくさまぎれで旧金領を掠め取って
モンゴルが怒り今度はモンゴルと戦争。一旦は破ったがその後がモンケの親征となる。
いずれにせよ北条時宗の父、時頼と三浦氏の戦いなんかこの大陸の戦争と比べると小競り合いに過ぎない程度。
鎌倉幕府の覇権争いでもこんなもん。
843 :
日本@名無史さん:2007/10/03(水) 22:44:14
それで勝つんだから大したもんじゃねえか
844 :
日本@名無史さん:2007/10/04(木) 00:52:32
>>840 日本の武士の場合は、首をとるために組討の訓練していたから、接近戦は同じ時代の
他のアジアの民族の軍隊よりも強かったのでは?中国朝鮮の兵士など、間合いを取れる
槍ばっか使っていて、穂先をかい潜って懐に飛び込まれたら、分厚いキルティングコート
の様な綿甲冑の上からばっさりやずぶりとやられてしまったのではないかな。
日本の戦争の場合
基本的に戦うのは武士対武士
その他の人間は多少の略奪の被害はあろうが基本蚊帳の外で平和なもの
したがって武士同士で熾烈な殺し合いの続く中でも他の階層の民は平和なもの
戦争だらけでも経済やら流通やら生産やらは平和なもの
逆に言えば「大陸の戦争と比べると小競り合いに過ぎない程度」とはいっても単に戦争に参加した人数の規模の問題でそれは戦争でつかわれた戦略やテクノロジーの高低とはあまり関係がない
新聞紙丸めた棒切れで武装したケンカが弱いオタク同士が1000人で戦うのとケンカ十段のDQN100人がなんでもありで戦うのを比べるようなもの
規模の差で一気に飲み込めば前者が勝てる可能性もでてくるが分断され100対100の局地戦を10回繰り返されたらあっという間に前者は駆逐される
846 :
日本@名無史さん:2007/10/04(木) 12:31:27
戦国時代は農民も兵士だったし乱捕りと呼ばれる略奪もあった
上杉謙信なんぞも農民兵を動員してたので関東で略奪を許可し女子供を拉致して人身売買で兵士たちの手当てにしてた
だから関東から撤退する時はいつも農民ゲリラに攻撃され危険な場面が何度もあったわけで
それにたとえ10倍の兵力でもとことん練度が低ければ各個撃破じゃなくても壊滅させることはできると思う
別に武勇伝ではないが地元の後輩が仔ヤンキー10数人に囲まれて絡まれてる場面に遭遇してしまい助けを求められた事があったが内心半泣きになりながらその集団に勢い良く突っ込んでいったら原付バイクを放置して蜘蛛の子を散らすように逃げていった
その時の事を思い起こすとその集団の中の弱そうな奴がまず逃げたらリーダーらしき仔ヤンキーが「相手は1人だろ!」といくら督戦しても後は勝手に集団は崩壊していった
サルフの戦いは各個撃破で有名だがアブダリ・フチャの戦いだけに限っていえばいくら数に勝っていても朝鮮兵のようなすぐ降伏する弱い部分を抱えているとあっというまに集団は崩壊してしまう
こたえがみつかった!
なぜに電気工学?
850 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 20:54:18
少なくても、いくら防御側とは言え、元側の占領を
許さなかったのは、同時代の他国よりは相対的に
強かったといえると思う。
851 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 21:19:32
>>840 ヨーロッパの戦争なんて長いだけで、兵力の動員可能数では圧倒的に日本の方が上。
弘安の役のときなんて、関東から進軍してきている途中の兵力を加えると物凄い数。
戦国期でも、総人口だけをみても日本に匹敵するヨーロッパの国なんてないし。
852 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 21:35:22
スペイン艦隊なんか、シャムで日本の浪人集団に二度までも殲滅させられている始末。
産業革命を経ていないヨーロッパの戦争なんて、数的にも戦術的にも大したことは無い。
ただ日本に比べて長じている点は航海技術と艦船に積んだ大砲。
853 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 22:10:14
>>852 日本の場合、歩兵はあくまで歩兵、騎兵は例外を除いてあくまで騎兵、弓兵はあくまで弓兵だった
欧州やアジアの大多数の農耕民族の国家と違い、弓騎兵、刀槍騎兵、刀槍歩兵、弓歩兵と各兵種
を一通りこなす者が多かった武士という戦士階級を要する日本は、榴弾や散弾を発射する大量殺戮
の火器が発達するまでは、世界最強クラスであるような気がする。
しっかりした兵站によるサポートがあるという条件さえあれば、華北の平原で源平合戦の源氏側の
様に騎馬武者・徒歩武者とも弓矢を装備した鎌倉武士の最精鋭の関東武士団の軍10万と蒙古の
異民族を含まない騎兵10万がガチでぶつかってもいい勝負をしたと思う。戦国時代以前の武芸が
弓馬の道といった様に、騎射がもっとも一般的な戦い方だったし、長大な合成弓の和弓ならば、モン
ゴルの皮革鎧やチェーンメイルなど、大鎧よりも遠距離で貫通しただろうし、蒙古の重装騎兵の突撃
だって、鎧武者を馬上から叩き落す技に慣れた徒歩武者には、遠心力で勢いをつけた長刀の横払い
で大鎧よりは明らかに惨撃に弱いモンゴルの皮鎧は、ぱっくり切れただろうし、チェーンメイルでも
内臓破裂くらいの衝撃与えただろう。特に騎馬武者と常に徒歩で長刀で戦った比叡山の僧兵集団
も加えたら、刀槍突撃の蒙古の重装騎兵も死体の山を築いたのではないだろうか。
>>837 そうでもないぜ。
ローマが滅亡してからのヨーロッパは絶対王政の時代に入るまでは
割と日本の室町幕府みたいな脆弱な政治基盤の王朝が多かった。
諸侯が君主に反乱を起こしたり、互いに領土争いする頻度はむしろ日本より高かったかもしれんよ。
しかも日本と違って他の国とも陸続きだからその内部抗争に漬け込まれることもあるし。
ただ向こうと日本の最大の違いは、日本の場合は大将首の取り合いだけど
あっちはむしろ敵将を捕らえて身代金取るのが常識だったから、敵を捕らえたりなんかせず
相手の身分関係なく問答無用で虐殺するモンゴル軍は文字通り「タルタロス(地獄)の使者」と映ったのかもね。
尤もヨーロッパ勢も十字軍みたいに、異教徒相手の時は平気で残虐非道な事してるけどw
855 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 00:46:34
>>853 関東の武士と比叡山僧兵の合同軍なら、恐ろしく強そうだな。
少なくても、高麗兵や漢人兵は敵ではないだろうな。
856 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 02:38:23
モンゴル敗退は必然だったということでFA?
857 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 07:41:33
○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○
このレスをみたあなたは・・・3日から7日に
ラッキーなことが起きるでしょう。片思いの人と両思いになったり
成績や順位が上ったりetc...でもこのレスをコピペして別々のスレに
5個貼り付けてください。貼り付けなかったら今あなたが1番起きて
ほしくないことが起きてしまうでしょう。
コピペするかしないかはあなた次第...
○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○
>>855 高麗兵はともかく漢人兵や江南兵など、この時代の中国の兵士たちの戦闘力はかなり
高かったはず。
1235年にモンゴルは軍を2分し、一方は東欧へ、もう一方は南宋へ侵攻。
その結果、東欧へ侵攻したモンゴル軍がロシアを征服し、リーグニッツやサヨ河で
大勝したのに対し、南宋へ侵攻したモンゴル軍は何の戦果もないまま撃退されている。
モンケの時代にもイスラムと南宋に同時侵攻してるけど、結果は同じくフレグが
ペルシアを征服したのに対し、南宋征服は失敗している。
この時代はヨーロッパやイスラムより、東アジアの方が軍事力は遥かに強力だった。
859 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 23:51:46
>>858 金の支配下の漢人はそれなりに戦闘力あったかもしれんが江南兵はどちらかと言うと圧倒的な人数で
昔ながらの人海戦術で圧倒する戦術のような気がする。敵より戦死者が4倍多くても5倍の人数ならば
最後には勝つ。アケメネス朝ペルシアの不死部隊だって、人海戦術で圧倒する戦い方だったから、
テルモピュライではスパルタ兵を全滅できても、兵力差が3倍程度の差しかないプラタイアでは、司令官
までが戦死するボロ負け振り。
元寇だって日本側は人口も少なく輸送力もないから兵力的には終止劣勢だったが、九州本土には橋頭堡
を築かせなかったから、この時代では半端じゃない強さだったと思う。
860 :
日本@名無史さん:2007/10/11(木) 17:46:27
>>858 あれだけ隙間なく覆った鎧を着てても結局最初しか勝てないんだよねヨーロッパは
戦争では防御力より機動力が物を言うんだな
いや、いわゆるプレートメイルとかが発達したのは銃火器が出回るようになってから
当時の西洋軍隊は諸勢力の寄せ集め
リーグニッツでも戦う前に修道院系と世俗諸侯が揉めてるし
むしろ統制不足が原因のような
だから中世盛期の騎士は鎖帷子しか着てないと何度言ったら(ry
斬撃には強いけど弓矢相手には頗る弱いよね>チェーンメイル
打撃にも弱そうだから4尺クラスの太刀でぶん殴ってもよさげだね
865 :
日本@名無史さん:2007/10/14(日) 18:24:41
長巻や長刀で遠心力つけて振り下ろされたらざっくり切れるだろうね。
鉄板をつなぎ合わせた日本の甲冑でも打ち込み方によっては、鎧ごとばっさりも出来る
そうだから。
>>863 13世紀半ばの「べネヴェントの戦い」なんかを見れば分かるが
メイル・ホウバークは剣でも刺せば貫くことは可能だったようだ。
しかしこの戦いでドイツ側の騎士はその上にコート・オブ・プレーツ
を着ていたため、フランス側は「剣を振り上げた瞬間に脇の下
(メイルでのみ防御されている)を刺す」という方法でしか
ドイツの騎士を負傷させられなかった。
この頃は鎧はもう鎖帷子のみではない。
そういやカルピニはモンゴルの矢について「胴鎧を二重にすれば
防げる」と書いてるけど、コート・オブ・プレーツ等のことなのか
十字軍の騎士などがやってたように鎖帷子を二重に着ればいいのか
よく分からん。
結局元軍が文永の役で撤退した理由ってなんなんだ?
弘安の役についての資料は結構あるのに文永の役についてはどうも曖昧でわからないんだ
文永の役で元軍が撤退した理由は、戦いで負けたからだよ。
日本、元、高麗の資料にそう書いてある。
869 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 09:11:21
日本軍が最後に拠った水城って天智天皇時代の遺跡じゃん
そこで武士達は翌朝の全滅を覚悟し、陰鬱な一夜を過ごしたが
いざ朝になると日本では考えられないほどの大軍船団が消えていた
これは神助だ、と涙を流して武士達は喜んだ
>>869 いや、
武士たちは水城で「蒙古の一方の大将を討ち取った」って大喜びで一夜を過ごしたんだよ。
だから、元軍の撤退についても、当然自分たちが追い返したんだと認識している。
>>870 そんな敵情武士達が掴んでいたなんて史料はない
ついでに副将討取れてないし
>>871 史料はあるよ。
捕虜にした蒙古兵を尋問して、射落した武将が劉復享であることを聞き出してる。
873 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 15:07:16
>>872 史料名は?
言葉も通じない同士なのにどうやって尋問したんだろ
捕虜が中国人か朝鮮人なら漢文通じるかな?
>>873 八幡愚童訓。
漢文じゃないと思う。
名前が当て字だから。
で、どうして生きていた武将が死んだと鎌倉武士は思い込んで喜んでたと書いてあるわけ?
矢が命中して落馬したんだから、討ち取ったと認識しても不思議じゃないだろ
877 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 21:47:32
一回目は威力偵察みたいなもんだったんだろうな。
これは侮り難いってことであっさり撤退したんじゃないかと思う。
焼き討ちによる威嚇じゃないの
日本国内でも良く行われてた手
お前らの支配者はお前らを守る力ないぞ、と思い知らせる
実際、庶民からは武士の弱腰が狂歌で揶揄されるほど
元、高麗、日本という関係国全ての史書に「元軍が戦って負けた」と書いてあるんだが。
武士たちは文永の役の直後から、異国征伐で自分たちの方が元に攻め込む準備を開始してるし。
文永の役で元軍があっけなく敗退したせいで、威嚇どころか日本側に「元軍は弱い」と認識されてる。
威力偵察説、聞くたびに思うんだが再侵攻に7年も間あけてちゃ無意味だろ、と。
881 :
日本@名無史さん:2007/10/19(金) 21:22:38
文永の役の時は元軍の主力は南宋攻略中だった。
元・高麗としては日本全土を征服するよりも威嚇し屈服させて
南宋との戦争のために日本兵、食糧、女を調達しようとしたのが
本当の目的ではないかと思う。
882 :
日本@名無史さん:2007/10/19(金) 22:34:30
↑定説をそのまま書いているだけじゃないか。
>元、高麗、日本という関係国全ての史書に「元軍が戦って負けた」と書いてあるんだが。
元の史書は後世の明の時代に書かれたもんだ。元が残した記録じゃない。
おまけに漢民族である明の皇帝の差し金でいーかげんに纏められたせいで
信用度に問題がある
高麗史も明の歴史観の影響下にある李氏朝鮮時代に編纂されたものだ。
日本も元に侵略を受けた側が残した記録だからそこらへん割り引いて考えないと。
そして文永の元軍は撤退はしたし太宰府攻略は果たせなかったから
遠征は失敗に終わったと言えるが戦いそのものでは決して負けちゃいねーぞ。
一部は騎兵に敗走させられた上分かれて上陸した各軍は日本軍の妨害で
ついに合流を果たせなかった。人数差の割にはえらい苦戦のしかただ。
しかし一方野戦で決定的な大損害は出してないし海岸堡は終日維持していた。
戦況の点で見りゃこの時点じゃまだ五分だ。
元の指揮官、ヒンドゥの言い分を見てみると「負けたから撤退しよう」
じゃなく「負ける前に撤退しよう」て感じだから
日本軍の戦闘力に脅威を感じて引いたのは間違いないけど
経過を見ての自主的な撤退となし崩しの敗走は全然違うぞ。
>文永の役で元軍があっけなく敗退したせいで、
というより「あっけなく撤退したせいで」と言う方が捉え方としては正しいと思う
884 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 00:04:35
>>883 じゃ君はどういう史料を参考にしたの?
元側の史料に拠ったのなら当然、負け惜しみを割り引いて考えないと
だめなんじゃないの?
>一方野戦で決定的な大損害は出してないし海岸堡は終日維持していた。
海岸堡を終日維持していたのに元軍は夜間船に退避しなければならなかったことの不思議
なんつーか…個人的な思い込みだけで妄想を膨らます香具師って必ず自爆するんだよなw
とりあえず参考にしたのは手許にある歴史群像シリーズの本といくつかのサイト
ttp://blogs.yahoo.co.jp/sa341gazelle/MYBLOG/yblog.html 『忽敦、曰く「兵法に「小敵の堅は、大敵の檎なり」と。疲乏の兵を策して、
日ごとに滋すの衆に敵するは、完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」と。
〔劉〕復亨、流矢に中(あた)る。先に舟に登り、遂に兵を引いて還る。
会々(たまたま)、夜、大いに風雨す。』
(『高麗史日本伝』 武田幸男・編訳 岩波書店)
『冬十月、その国(日本)に入りこれを敗らんとするも、官軍整わず、
また矢尽き、ただ四境を虜掠して帰る』
(『元史日本伝』)
うーん。改めて調べるとこれも高麗側、及び元史を出自とした資料だな。
人の資料を批判する前に自分が使ってる資料の出自も確認すべきだった・・・
書いた側が立脚してる立場の点で
元史や高麗史に信用しにくい部分があんのは確かだけども
本当に元の側の言い分を書いた資料てなあ無いのかね。
ともあれこれらの資料からも元軍の苦戦は伺えるけれども
「戦って負けた」とは書いてないのよ。
あと自分が上記の資料を怪しいと見たのは
第二次遠征の弘安の役における戦力と侵略計画、人事に関して。
まず指揮官の人事が第一次遠征時と同じ
ヒンドゥ、洪茶丘、金方慶をそのまま用いてる点。
次に二派に分かれてきた第二次遠征軍のうち主に日本軍と交戦した
東路軍の戦力が第一次遠征時の内実とほとんど変わっていない点。
第三に文永以降使者の殺害により日本の防衛状況に関する情報が
入らなくなっていたという点を割り引いても
第二次の侵攻計画がかなり杜撰な点。
第一次と同じ博多を上陸地点として選んだ上、
撃退されると大兵力の上陸と運用には向かない志賀島に上陸し直すなど、
明らかに後手で泥縄式の対応が目立つ。
これは上に示した資料の第一次遠征時のヒンドゥの弱気な言動
(積極的すぎる高麗軍指令、金方慶を説得するためか?)とは異なり
元軍側が日本軍の戦闘力を過小評価していたのではないか?という事と
後世の高麗や明の人間の文永の役に対する評価とは異なり、
元自身は第一次の遠征を失敗とは見てないのでは?という点で
見解が異なるのです
(これが単なる現状の軽視や元側の負け惜しみだった、
という見方も含む。真に客観的な資料というのは存在しないから
各陣営の残した異なる言い分の資料を比較検討するしかない。だが
元軍に関しては外側から見た資料は豊富にあるけど内側からの
資料は少ないしそれ故元側の立場に立脚した物言いも少ない。)
>海岸堡を終日維持していたのに元軍は夜間船に退避しなければならなかったことの不思議
退避じゃねえだろ。。
正式に撤退が決まったのは船内での軍儀の結果でだし
それ言うなら日本軍も日没後太宰府まで引いてるじゃないか。
単に日没後お互いの軍がそれぞれの拠点に引き返しただけで
船に退避して云々てのは直接戦況とは関係ないことだと思うぞ。
>>888 >単に日没後お互いの軍がそれぞれの拠点に引き返しただけで
>船に退避して云々てのは直接戦況とは関係ないことだと思うぞ
A.橋頭堡を維持できているのに何故あえて船中に引きかえさねばならないのか?
Q.日本軍の夜襲を恐れたため→上陸地での夜営に堪える強固な橋頭堡なんぞ存在しなかった
君の拙い軍事知識で反論してみてくれ
↓はついで
指揮官の人事が第一次遠征時と同じでは何故不都合なのか?交代できる要員とは誰か?
第二次遠征軍のうち主に日本軍と交戦した東路軍の戦力を第一次遠征時とどのように換えるべきなのか?
使者でなければ得られない防衛状況に関する情報とは何か?
博多いがいの上陸最適地とはどこか?
>>889 船上というが、それは沖合いだったのか、それとも泊地に碇を下ろして停泊している船だったのか、
まずはその考察が必要です。
指揮官人事については元軍に水軍、海軍を指揮できる者がどの程度いるか次第でしょう。
上陸適地については街道と都市に軍は多かれ少なかれ依存しますから、博多が良いのでは
ないか。
使者でなければ得られぬ防衛状況に関する情報とは、各地の豪族の戦意と戦力です。館や寺社に
宿泊して鎌倉なり京まで東上していったんではないかと。
で、撤退決まってなけりゃあ翌朝のこのこボートで再上陸?
前日の戦闘で味方は損耗、対して敵は増援を受けて兵を増してるかもしれない。奇襲の利もすでに失われてるのに?
正直自殺行為にしか思えん。
逆に日本側は本体が到着するまでの持久を考えれば兵の温存こそ大事。下手に土地にこだわるより防御適地に後退はむしろ合理的では?
或いは全軍を船上に引き上げた時点でもう撤退の決定はなされていて
元軍側には継戦の意志がなかったって事なのか?
橋頭堡までも撤収したということは
>日本軍の夜襲を恐れたため
という以上の理由は考えられないだろうな・・・
しかし文永の時は弘安のような執拗な夜襲や襲撃は行われなかったし、
射撃戦と騎兵による追撃戦が中心で橋頭堡の維持に困難を来すほどの
人的損害は出さなかった筈だ。
となると人的損害よりは将兵の士気の損害の方がでかかったのと、
弓矢の不足、というのも要素に加えて判断したのか。
どちらにしろ
>単に日没後お互いの軍がそれぞれの拠点に引き返しただけで
船に退避して云々てのは直接戦況とは関係ないことだと思うぞ。
というのは撤回しなくてはならないな。すみません。
893 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 02:40:58
事前に使者を派遣してある程度の日本に関する情報は
得ているんだろうから、四万程度の軍勢で鎌倉まで落とせるとは
さすがに考えていなかったと思う。
太宰府制圧あたりが目的と考えたら再び博多に上陸したのは不思議でも
なんでもないと思うけどな。
>>891 泊地を得ていた場合は指揮官は兵の耳目を避けて一堂に会せるところまで下がるのはありそうな
ことです。
大体、一夕にして上陸部隊全員が船に乗る、或いは一朝にして降りるってあたりがそもそも議論として
どうなんでしょうね。
>指揮官の人事が第一次遠征時と同じでは何故不都合なのか?
交代できる要員とは誰か?
第一次侵攻の結果が失敗と看做されたなら
少なくともその指揮官は何らかの罰則及び配置転換は免れないのでは?と考えた
ヒンドゥは朝鮮の島嶼部で執拗に抵抗した三別抄撃破の功ゆえに
日本遠征の指揮官に抜擢されたけどそれ以前に三別抄と戦い
渡洋作戦を失敗させた指揮官アハイは更迭されていた。
これに交代できる要員は・・・
思い付くのは第二次遠征時に江南軍の指揮をしてたアラクハンくらいか。
>>894 元軍は艦隊の泊地まで戻っただけで
船にまで戻ったわけではない、てぇ事かな?
確かに。高麗軍指揮官の金方慶はヒンドゥに
「船焼いて不退転の決意で戦えば勝てるかも」とまで言ってたから
船に戻ったのは指揮官たちだけで
正式に撤退が決定されるまでは軍団主力は地上に留まってた
と考える方が自然ではあるなあ。
>使者でなければ得られない防衛状況に関する情報とは何か?
『其牒使、夜々見めくりて、筑紫の地理、船津、運庭、足懸、逃路等に至るまてを、
ことことく図し、又、あひあふ人の、やうす想し、所のあないを、しるしなとして、
諸事はかりすまして、返りけり』
『八幡愚童訓』
使者が思いっきりスパイ活動してたようです。
こらあ文永の後は処刑されてもしょうがないよなあ。
文永の役と弘安の役の指揮官の人事は同じじゃないぞ。
まず、文永の役で副司令官だった劉復亨が切られてる。
それから、総司令官のヒンドゥについても疑問がある。
文永の役の総司令官は元史日本伝では「忻都」、高麗史では「忽敦」で、これが
同一人物の「ヒンドゥ」ってことになってるんだけど、高麗史を読むとあきらかに
「忻都」と「忽敦」は別人なんだよね。
ちなみに弘安の役では、元史日本伝も高麗史も総司令官は「忻都」で一緒。
もし、「忻都」と「忽敦」が別人だとすれば、弘安の役では文永の役の時のナンバー1と
ナンバー2が更迭されていたことになる。
あと、元軍の司令官たちが乗船したのは撤退が決まった後だよ。
劉復亨が切られたのは文永での負傷によるものじゃないかと
思ってたんだけどね・・・
あと「忻都」→「忽敦」の件は初めて知った。
あと人種の異なる将軍同士の間で
指揮や方針の面で対立があった、てのも聞いたことがある。
(高麗軍の指令が積極的すぎる件とか)
第一次遠征ですでにそれが問題になってたんなら
第二次遠征じゃ是正されてしかるべきだと思ったんだけど。
それができない制限か何かがあったんだろか。
901 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 11:43:16
発想の相違と思われる
元側は、大都市を焼き討ちしたことで満足な戦果を挙げて、以後は無理押しせずとも外交でどうにでもなると思った
実際その後の弘安の役までの間に使者を改めて送ってきている
ところが日本側には「都市や領民を守ってこその為政者」なんていう考えはなかった
町を焼かれようが何しようが、庶民が批判しようが痛痒に感じてない
902 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 12:12:17
文永の役における元軍の撤退は明らかに異常。
この時期の玄界灘って夜は大荒れのことも珍しくなく
江戸時代の朝鮮通信使だって晴れた日の日中の南風を利用して
帰路についていた。天候の良い日を1ヶ月も待つことさえあった。
鎌倉時代だって高麗の人間の行き来はあったから、この気象情報
に元軍が全く無知であったとは考えられない。
天候だって戦の勝敗を決定す要因になることがある。世界帝国を
建設した元軍がそんなに軍事音痴であったわけがない。
少なくとも夜間に冬の玄界灘を引き上げるなどということは秩序
正しく悠々と撤退したわけではないだろう。
なんかの文献に博多の筥崎宮から白装束集団が出てきて矢を射掛けたら
元軍は慌てふためいて逃げたとあるが、これはさすがに史実ではない
だろうが、これに近いこと、例えば大宰府に撤退後も抜け駆けの功を
焦った一部の武士団が夜襲でもかけて元軍は慌てて船に逃げ込んだ、
そして急ぎ帰ろうとしたら嵐に遭って遭難した。
ということは考えられないか?
でも、夜襲って言うのは簡単だけど、今の世の中で夜、角のコンビニに煙草を買いに行くって調子では
いかないでしょ?
第一暗い。浜だと思わぬところに水があって足元をとられる。下手すると馬ごと沈んじゃうでしょ。
んで、敵と味方の区別がつかない。だから整然とした攻撃とか後退とかたぶん無理。
そんなわけで元軍だって夜はあんまし動かないと思うんだよねぇ。
まだ南宋と激闘していた時期だから
日本と南宋の連携を警戒しての処置という説もあるね
(現実にはその可能性は能力・意志ともに日本にはなかったわけだが)
905 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 14:14:11
>>901 意味不明。
教科書編纂している学者たちにずいぶんと洗脳されちゃってるねえ。
いや、教科書にはそれこそ博多焼いたから良し説とか
当時の武士の支配者としての意識とかには言及してないがw
彼我の戦略思想の差、価値観の違いというのは重要かもね
大陸の戦いは、それこそ城壁で囲まれた都市を奪い合うもの
都市制圧ないし壊滅が日本のそれより上位と思われても不思議はない
907 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 15:56:34
>>901>>906 >ところが日本側には「都市や領民を守ってこその為政者」なんていう考えはなかった
町を焼かれようが何しようが、庶民が批判しようが痛痒に感じてない
少なくとも鎌倉幕府は蒙古の脅迫同様の国書に屈し、高麗の王のように処女500人献上して
我が身の安泰を保つなどと考える施政者はいなかった。
それに当時の九州の重要な都市は大宰府で博多は単なる商人の町。
確かに対応が遅かった文永の役では庶民に犠牲者が多く出たが次の弘安の役では庶民を守るように
石塁だって築いている。
そもそも鎌倉武士というのは江戸時代の武士と違い農場主みたいなもの。
平安貴族たちと比べるとずっと領民を大切にした政権。
教科書に洗脳されてないなら唯物史観に洗脳されすぎちゃったのかな?
元軍は文永の役の前に丹念に大宰府について情報収集した上で攻めて来たのに、
その大宰府にまったく手付かずのまま撤退に追い込まれているんだから、明確に
敗北なんだよ。
文永の役は、大宰府を完璧に守りきった日本軍の完封勝利。
いや、文永の役の場合、仮に太宰府を落としたとしても、元朝軍側としてはそれに似合うだけの
メリットがあまり無いように思う。
威力偵察説の根拠のひとつが人員の少なさ(純戦闘要員が3万前後というのはインドやイランなど
モンゴル帝国の境域地域に派遣され、周辺諸勢力の領域にたびたび侵攻して掠奪遠征などをくり返した
駐留軍の規模とほぼ同じ)にあるが、周囲の勢力の掃討も完了出来ない内にその程度の人員で敵地の
真ん中で城塞の攻略戦など長丁場かかる戦闘は、逆に周囲の勢力から包囲されかねない。
筑前全域の農村落や御家人たちの居館の劫略などを完了してからとかで無いと、太宰府などの城塞への
攻撃とかは難しいだろう。博多以外の御家人たちの拠点が襲撃されたような話は記録にあるんだろうか?
朝鮮半島から援軍の増派が得られる状況にあったかは『元史』や『高麗史』の書き振りからはやや怪しい。
仮に強襲偵察を目的とした派遣軍の目標のひとつに太宰府の陥落があったとしても、すぐ撤退しなければ
ならないし、撤退後に当然太宰府あとは放棄しなければならない。陥落に成功しても失敗しても、その
間に九州各地や四国からの援軍で逆に包囲される危険性が高いから、それだったら寡勢であたるよりも
もう2、3倍の軍勢が派遣された時に包囲戦を行い確実に落とせばより効率的だ。
>>909 文永の役で元朝軍側が行った博多上陸の「元朝側としての」意味はいったい何か。多分、一つ目には
再三の国書黙殺をほぼ敵対行為とみなしそれに対する「最後通牒」の意味合いがあったんだろう。
(周辺部への劫略によって威力を見せつけ、降服を促していたことは他の地域での戦闘で見られる)
ただし、これは複数回繰りかえさないと効果が薄い。事実、華北やイラン、その他の地域でも
大軍勢が派遣される前は中小規模の遠征が行われ、地域勢力の帰順を引き出している。
二つ目としては「数千〜万単位での兵員」を実際に「海を渡らせ」、「上陸させて」「部隊を展開させる」
という一連の作戦行動を実行させるという、実験的な意味合いがあったのかもしれない。
軍勢を河川であれ海峡であれ渡らせる作戦は史上どの政権の軍隊でもこれが成功するか失敗するかで
その後の明暗が別れる。
そういえば、『シリーズ戦争の日本史7 蒙古襲来』で文永の役が実は一日ではなくて一ヶ月近く続いた
って説があるってはなしが載ってたような記憶があるが、本当にそんなことが書いてある資料があるんだろうか。
元としては大宰府を落とす作戦だったのは確かで、しかし結果的には大宰府までの到達を諦めている。
つまり軍の作戦としては中途半端な達成率に終わりながらも、博多襲撃のみで「対外的な目的」は十分達成できた。そして撤退した。と見てもおかしくないんじゃなかろうか。
912 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 01:56:39
>>911 水際で撃退された挙げ句に大打撃を受けて達成された対外的な目的ってのが
さっぱりわからない。威嚇の効果どころか逆に蒙古恐れるに足らずくらいの
印象を日本側に与えたんじゃないかとさえ思う。
日本側が「蒙古恐れるに足らず」という認識に
達したのは文永の役のしばらく後なんじゃないかと思う。
日本側は最初、元軍が何故撤退したか分からなかった。
敵の兵力や戦法に関する情報をろくに持たないまま戦ってたので
戦況を客観的に把握することができなかったのだ。
しかし浅瀬で座礁して取り残されてしまっていた元軍の船が
発見され、乗り込んでいた将兵を捕縛、尋問。
そこから得た総兵力、元側から見た戦況の推移、撤退にいたった理由などの
情報が御家人レベルまで広がることにより
「元軍おそるるに足らず」という認識に至る。
>>912 しつこく主張するけど元軍が最も深刻な打撃を被ったのは海上での事よ。
「撃退された=兵力に大打撃」という図式は必ずしも成り立たないですだ。
個人的には「ナメてかかった相手に逆にボコられて軍の士気結束崩壊」てのが
撤退の理由で、兵力そのものにはあまりでかい損害はなかったんじゃないかと
考えてる。
撤退前に町焼いたり奴隷確保したりしたのは
フビライに「おまえらそれ敵前逃亡やんけ」て言われた時の言い訳用だったりしてw
実際「敵にボコられた」という部分は抜かして
「大兵力を上陸させた」「町焼いた」「奴隷得た」という点だけ報告すれば
一見この遠征は上手くいったようみせかけることができるん・・・
じゃ・・・ないか・・・・・・
文永の役直後の元の使者が、わざわざ長門に上陸したのは、大宰府攻略が失敗したからじゃないの?
>>913 >日本側は最初、元軍が何故撤退したか分からなかった。
>敵の兵力や戦法に関する情報をろくに持たないまま戦ってたので
>戦況を客観的に把握することができなかったのだ。
これって八幡愚童訓がソースの話なんだけど、この八幡愚童訓って文献は
基本的に武士視点では書かれていない。
元軍を避けるため山奥に避難した一般民間人の視点から書かれてるんだよ。
だから、元軍が何故撤退したか分からないのも、敵の兵力や戦法に関する
情報をろくに持たないのも、戦況を客観的に把握することができないのも、
当たり前の話なの。
大抵の元寇関連の本では、この点がごちゃ混ぜになってるけどね。
真面目に史料を読んでいないのか、意図的に情報操作しようとしてるのかは
知らんが・・・
916 :
911:2007/10/21(日) 10:11:56
言葉足らずだったかも。
「対外的目的」とわざわざ書いたのは、戦略的目標が大宰府攻略にあったとしても日本側はしらないんだから、政治的には必ずしもそれを達成する必要は無いかもしれないってこと。
もしも事前に「おめーら生意気だから一つ大宰府灰にしてやんよ」なんて書簡送りつけてたなら何が何でも大宰府攻略しようとしただろう。
917 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 10:16:08
大都市に加えて宗教的シンボル、さらに多数の領民を守れなかった軍
他の国なら為政者が頼りないってことで問題になっただろうな
だが、支配者は庶民を守ることなんか考えもしないのが日本人
少なくとも元軍をなめてたって事は見受けられないな
だったら関東勢を含めた大軍の九州配備や、執権一門他の現地派遣による指揮系統改善
土塁のような防御施設作成といった当時の日本としては異例の対策の数々はじゃあ何のためにという話に
919 :
913:2007/10/21(日) 16:03:22
>元軍を避けるため山奥に避難した一般民間人の視点から書かれてるんだよ。
なるほど・・・
自分がどんだけ資料を読み込んでないのかよーく分かる
レスでしたorz
ということは迎え撃った武士たちがどんだけ元軍に関して
情報を得ていたか、てのは資料からだけでは分かってない、てことか?
920 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 21:07:49
>>918 なめてなかったら使者を二度にわたって斬首したりするかよw
なめてたかどうかは知らんがw、幕府は戦う気満々だったことは事実だな。
文永の後は使者はすべて博多で皆殺しだからな。
闘志に火が付いちまった
>>918 関東勢を含めた大軍の九州配備や、執権一門他の現地派遣による指揮系統改善は、
強気になった鎌倉幕府が元に攻め込む準備としてやったことだろ。
文永後の使者皆殺しは
使者に防衛状況知られないようにするためだろ。
それに元に攻め込む云々て話は
御家人が負担増加をいやがったせいでけっこう早期に
立ち消えになった筈
924 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 13:59:26
>>923 使者を斬るなんてことは、喧嘩上等いつでもかかってこいって意思表明だろ。
和議の道を多少なりとも考えていたらそんなことは絶対にしないはず。
一応、日本側も文永の役の後、朝鮮半島南岸に小規模な威力偵察をおこなってる
926 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 20:18:59
927 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 09:00:40
当時の武士は、民衆の支持で成り立ってたわけじゃないからな
大陸で見られたように、敵を追い払えず被害を出すだけの為政者を民衆が都市から追い出すような光景は日本史上見られない
空威張りして使者を切り、その一方で過酷な労役を課して防御施設作り
実に日本人らしいじゃないかw
928 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 09:01:00
>>917 >大都市に加えて宗教的シンボル、さらに多数の領民を守れなかった軍
他の国なら為政者が頼りないってことで問題になっただろうな
他の国は片っ端から滅ぼされたよ。www
城壁破って侵入したモンゴル軍、住民を虐殺。
あるいは高麗のように番犬になるか。
929 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 09:16:25
当時の鎌倉武士はあまり国家意識を持ってないからね。お国のためになんて
感覚は無かったでしょう。蒙古軍の博多上陸の時点でも出撃を渋る御家人も
いた訳だから。彼らにとって重要だったのは自身の所領。隣の奴と相争って
る場合は蒙古軍よりそっちが優先。蒙古と戦ってる間に土地取られちゃう可
能性もあるからね。だから幕府に自身の領地の安堵を確約させてようやく出
陣した人もいる。蒙古軍との戦いに馳せ参じたのも、恩賞目当てだった訳や
し。
930 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 09:23:15
>>929 同時代のどの国にそのような国家意識があったんですか?
皮肉で聞いてるわけでなく質問です。
931 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 09:34:46
>930
「そのような国家意識」というのは領主らが全体の危機よりも自身の所領に
執着する国という意味ですかね?
「国」というのは外国ですか?それとも日本国内の国の事かな?
932 :
930:2007/10/23(火) 09:54:18
>「そのような国家意識」というのは領主らが全体の危機よりも自身の所領に
執着する国という意味ですかね?
そういう意味です。例えば当時のイングランドにフランスが攻めてきた場合
貴族は私怨を捨ててでも一致団結して国防を最優先させたのですか?
欧州国家同士の戦いは外国戦とは比べられないんじゃ?
ありゃあ遠い血筋で繋がってて他国の継承権一応持ってたりする王同士の戦いだったりするし
相手方につくにもそれなりの理がある
むしろ古代ギリシャやローマなんじゃないかね
内部でぎゃんぎゃんやりつつも結局はペルシャやカルタゴ相手に徹底して戦った
>>927 実際モンゴル軍に圧勝してるんだから空威張りじゃないじゃん
ああ、都市を焼かれようが民衆をいくら殺されようが寺社焼かれようが
武士の価値観から見れば損害に値しないんだなw
936 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 12:30:44
むしろそれだと、そんないい加減な政治基盤と意識で
モンゴル撃退できた鎌倉武士TUEEEEEEEEwwwwwってことになるな。
似たような状況のポーランドやロシアは言い訳出来ないぐらいにモンゴルにフルボッコにされてるし。
ポーランドやロシアと戦ってたのは日本にやってきた奴らよりも
本来のモンゴル軍に近い編成だったからなあ・・・
初見で奴らに野戦で勝てるほど質の高い軍隊はそう多くは存在しない。
何年も耐えたり撃退した国の場合は気候や地理的要因も大きいし
日本の場合は相手が質に劣る兵も多く含み精鋭でなかったてのもある。
他のモンゴルにやられた国とくらべりゃ日本は
撃退のための条件がかなり良かったんだ・・・
使者斬ったのは情報漏えいの防止のためじゃあないか?
本当に使者もその家来もほとんど皆殺しにしちゃったからフビライが
使者がどうなったか知るのに何年もかかったりしてる。
(その結果文永と弘安の間に7年も期間が空いたそうだ)
あと文永〜弘安における戦いの中で日本の国家意識がある程度
形成された、て話も聞いたな。外敵を前に国が一つにまとまる、て感じで。
938 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 13:32:12
寺社仏閣なんかは統一国家としての意識は持っていたようです。律令体制下
では地方行政を担う国司は中央から派遣されていたために、比較的中央集権
的な体制が維持できたのに対して、院政期よりこっちは地方の国主には基本
的に在地の豪族が任命されるようになったりして、だんだん中央への帰属意
識が低くなっていったというのはあるそうです。
939 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 13:44:16
>937
確かに、海戦なんかは圧倒的に日本軍が有利だったようですね。蒙古兵
の多くは船酔いに苦しまされ、伊万里の方でも夜戦は日本軍が終始優勢
だったそうですし・・・。
ガチの騎馬戦でモンゴル倒したマムルークが最強
>>937 ポーランドやロシアと戦ってたのは、大半が直前にモンゴル軍に吸収された連中。
日本の場合の方が遥かに精鋭部隊だよ。
副司令官の劉復亨だって、過去にはモンケ・ハーン直属の武将として南宋侵攻に
参加し、手柄を立てた経歴の持ち主。
方やモンゴル軍が最も扱いの上手い騎兵を
ほとんど連れてきてない上に
朝鮮人を大量に含んでる3万人と
方やモンゴル軍本体の騎兵部隊5万に
トルコ系歩兵7万+服属した国の兵士3万の計15万人で
上の3万人の方が精鋭だと申すか
国家は近代以降に生まれたもの。だから鎌倉武士が国家意識を持っているはずが無い。
だが、国家意識なくとも共同体意識はあるに決まっている。
言葉も風習も違う相手の集団を、自分達と異なる共同体と見なすことは至極当然。
>>942 >方やモンゴル軍本体の騎兵部隊5万に
>トルコ系歩兵7万+服属した国の兵士3万の計15万人で
この数字に資料の裏付けなんかあるの?
945 :
942:2007/10/23(火) 21:39:33
>>944 とりあえず自分が参考にしたんは
東洋書林の「モンゴル帝国の戦い」と
新紀元社の「戦場の覇者」て本だ。
当事者の記録でなきゃ信じられんと言うなら
自分はもう何もいわん
その後のキプチャク・ハン国とイル・ハン国のライバル関係を考えたら計15万は
あきらかに多すぎると思うけどね。
あと、元軍が日本に騎兵をほとんど連れてきてないっていうのの根拠は?
東洋書林はともかく…
新紀元社ってオイw
948 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 23:24:50
>946
「蒙古襲来絵詞」なんかでも、蒙古兵は歩兵が主体だし、海ノ中道での戦い
でも蒙古兵は歩兵が殆どだったって聞いたけど・・・。
モンゴル人は馬を連れて来ずに、ダニ(チョン)を連れて来てしまったんだな!
まあ騎兵集団で攻めたとしても、日本では馬による機動戦は無理だ。
海ノ中道は砂浜だし元々騎馬では戦いにくかろうて。
蒙古襲来絵詞は高麗兵相手の見聞だからどうかな。
蒙漢軍主体の博多方面では多少なりと使われた可能性があると思う。
ただし、その方面で劉将軍がやられた時、引き連れた配下は騎兵15と歩兵80の混成に「見えた」ようだ。
中途半端手ですまんが、これぐらいしか記録が無いのよ・・・
あ、間違えた。
「戦場の覇者」じゃなくて「覇者の戦術」ね
劉復亨が騎兵で戦ってたから全くいないて訳じゃなかったと思うけど
渡洋侵攻作戦で上陸直後の戦闘も想定されるのにそんな
大量の騎兵を伴って行くのは技術的に困難だと思う。
あ、あと一つ思い出した。蒙漢軍が本土で集結予定にめっちゃ遅れてたと思う。
モンゴル式の騎馬部隊ならさすがに遅れないのではないかと妄想。
せいぜい混成で一部騎兵部隊もいた程度だと思う。
この時期のモンゴル軍が歩騎混成なのは普通で元寇だけというわけではない。
仮に劉復亨の部隊(女真部隊の可能性が高いと思うが)の比率をそのまま当てはめても
全体で5000〜6000の騎兵が参加していたことになる。
それに、集結予定に遅れたのは女真部隊。
蒙漢軍の半数近くは予め朝鮮半島に屯田していたし、その部隊のために高麗が馬料を
供給していた記録もある。
神風wで難破して打ち上げられた高麗人や漢人
は殺されたが南人は奴隷にされて売られていった
らしいけどそんな違いなんてわかったのかな?
言葉とか服装で判断したんかな?
中国語にも方言とかあっただろうし
劉復亨はよく間違えられるが女真じゃなくて漢人。だから漢人部隊じゃないの?
前もこんな流れになったが、最小の戦術単位での歩騎混成部隊がいたのは確かで、誰も異論は無いと思う。
>>926 高麗史 家〇九五
「忠烈王六年 倭賊、固城の漆浦に入り、漁者を虜えて去る。大将軍の
韓希愈を遣わし、海道を防守せしむ。又た忽赤・巡馬・諸領府等の
二百人を選び、慶尚・全羅道を分守せしむ。倭賊、又た合浦に寇し、
漁者二人を虜え、以て帰る。」
馬匹なんていう輸送に手間かかるものを運ぶのは大変だろう
それに日本の地形をあらかじめ調べていたのなら、蒙古兵の騎馬戦術に適さないことぐらい知ってただろう
歩兵が主体、あと騎馬は幹部が少々ぐらいじゃ?
一日で弓が不足するあたり、投射兵器も軽視してたかも
959 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 10:13:51
>>945 >新紀元者「覇者の戦術」
ここ笑うとこ?
>>958 馬匹の輸送なんて別に大変じゃない。
大昔から普通に行なわれてる。
元軍は日本の地形をあらかじめ調べていたから、福岡平野では蒙古兵の騎馬戦術が効果的だと知っていたはず。
961 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 10:29:46
馬だけ運んでもモンゴル騎兵の能力は十分発揮できない。
羊が必要。食料にもなる上、弓の材料にもなる。おまけに自分の足でついてくるので
陸続きなら輸送の手間も省ける。
モンゴル兵一人に馬3から4頭、それに羊となるとかなりの大所帯。
それを考えたら騎馬軍団の投入はかなり難しいと思う。
>>961 その点も無問題。
船舶で兵糧をはじめとする大量の物資を輸送できるから、羊なんか必要ない。
元軍の船団は四次元ポケットでも装備してると思い込んでるんですか?w
>>963 元軍の大型船1艘が200トン積載可能で、300艘だと計6万トンの物資が輸送可能なんだけど
>>963 前近代の社会では陸上よりも水上の方が輸送効率がいいのは基本
966 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 14:13:51
相手をなめてたのは鎌倉側じゃなくて元側だったと
モンゴル軍は3千の兵力でベトナムの首都を占領したりしてるからな。
4万程度の軍で中東全域を征服するための遠征に出発したのに比べれば、
海岸から10キロちょっと内陸に入っただけの大宰府の攻略に兵3万も
つぎ込んだのは、かなり謙虚な作戦だったと思うのだが。
鎌倉武士が当時の世界では規格外の強さだったということだ。
968 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 20:36:37
元側は相手の矢のを再利用を考えていたところが、日本で和弓でしか使えないような長大な矢を使っているなんて想像も出来なかったんだろう。
969 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 21:09:23
少なくとも個人の武芸が合戦の勝敗を分けていた時代だからこそ、きっと
鎌倉武士は武器の扱いに長けてたんやろうね。ところで疑問なんやが、弘
安の役の際に江南軍として日本に来た10万の南宋の降兵はみんな元々兵
士だった人なの?それとも徴兵された人達だったの?
>>969 江南軍は旧南宋軍の降兵から参加希望者を募って編成されたんだよ。
旧南宋からはその他に、様々な技術者なんかも参加していたみたいだけど。
希望という名の徴用な。
だよな。職にあふれた人間の処分法でしかなかったとおも。
「抜擢殺し」とも言えるか
是は俺の全くの想像だが、恐らく当時の蒙古(元)は日本の領土を今の台湾の位置とサイズと考えていたのではないかと。
戦国期の西欧の世界地図でも日本の位置と形は現実とは遠い。
14世紀では尚更日本の正確な位置と領土を知るのは困難ではないかと。
もし日本が東西に長く、人口が膨大であることを知っていたならば、
九州の端から攻めてゆくような真似はしなかったのではないか。
博多から京都、京都から鎌倉まで陸上で攻め上るのは無理というもの。
実際、弘安の役では戦闘がほぼ終了した時点でも、まだ関東から兵が続々と進軍中だった。
蒙古(元)は日本の奥深さを知らなかった。
>>972 「職にあぶれた」以前に、
「ちゃんと組織化され、徹底抗戦を戦いつつも、余力を残して降伏した元・南宋軍団」
なんて、ヤバイ分子以外のなにものでもない。
とっとと処分したいだろこんなもの。
おまけに日本(鎌倉)とはお友達&モンゴルを挟んで「敵の敵は味方」だし。
975 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 23:53:39
>>973 今の日本人ですら、日本は世界でもかなり小さい国と思ってる人多いからなあ・・・
実際には日本列島ってかなりデカい
>>973 一応日本の大きさなどについては、使者として来日した趙良弼が調べて報告した
ことになってる。
元は耽羅人からの情報で「大宰府に攻め込むためには2〜3万の兵力が必要」と
言われたから、その通りの兵力を投入したのであって、最初から京都や鎌倉まで
陸上を攻め上ろうなんて考えていないだろ。
>>976 大宰府を攻めて何をしたかったんだ?
趙良弼はあほなのか?
>>977 それまでの元との外交は大宰府が全部やってたんだよ。
元が使者を送っても全員大宰府で足止めされて、京や鎌倉と直接交渉することはできなかった。
だから武力侵攻になったんじゃん。
980 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 08:44:03
>977
とりあえず太宰府を陥落させて、日本を威嚇するつもりだったんじゃない?
あるいは小手調べというか威力偵察だったのかも。太宰府を落とした時点で
第二波の遠征軍を送り込んでくるとか・・・。
当時はまだ南宋戦など、もっと重要な戦域が激戦だったからな
限定作戦で(恐らく元側などの価値観からみれば日本人が見るよりずっと重要な)博多一帯の破壊ないし制圧
この程度だろう
元々高麗式船は中国式に比べて積載量が小さく、それ以上の作戦を要求するだけの船腹は無い
(本当は中国式を揃えたかったが、時間かかりすぎるっていうんで簡易な高麗式の船を作らせたと元側資料にある)