1 :
日本@名無史さん:
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1153802162/1-100 と名前が似ていますね。先に謝っておきます。
築山殿瀬名姫といえば、家康の正室で、勝気でプライドが高く、信長の娘、五徳姫を苛めて、
その五徳が信長にチクッたたね殺されたという悪女と名高いお方です。
しかし、五徳をいじめていたというのも最近は間違っているのではと取り沙汰され、
さらに信長の命で殺されたのではなく、なんらかの理由で家康は築山殿とその息子、信康が邪魔になって殺し、
信長が死んだ後自分の行為を正当化するため信長に命令されたと嘘をついたという説まであります。
ここで築山殿について再評価してみたいなと思います。
2 :
日本@名無史さん:2006/08/28(月) 18:00:00
3 :
日本@名無史さん:2006/08/28(月) 21:59:55
地元の資料では、
若き日の家康が瀬名姫との結婚を望んだとある。才色兼備の美女だったとのこと。
徳川家の資料だと、年上で売れ残り女の瀬名姫を無理やり押し付けたとあるが、どっちが本当なのかわからん。
4 :
日本@名無史さん:2006/08/29(火) 00:44:27
静岡市葵区瀬名出身の俺が来ましたよ
家康絡みの事を議論する時には、所謂「神君」史観を排除する必要があるね。
いくら待遇が良くても、人質しょ?無理矢理押し付けるってのは有りあのかな?
築山殿は桶狭間以降、家康に遠ざけられたみたいだけど、
それなのに、なぜわざわざ人質交換までして岡崎に連れてきたんだ?
>瀬名
なぜ誰もつっこまない。
10 :
日本@名無史さん:2006/08/29(火) 13:27:48
息子だけ連れてくればいいのに…
家康の母親も祖母も子供置いて離婚してるし
11 :
日本@名無史さん:2006/08/29(火) 16:40:55
>>8
瀬名にどう突っ込めと。
>1
わざわざ単独スレたてること無いんじゃないかね。
戦国女性の他スレでも充分な話題じゃん。
あの悪妻ぶりなどは、ただの伝承だし、小説の創作だし
史実としてどこをどう再評価しろと?
諸田玲子の小説では良く書かれてるよ、としか言えん罠w
13 :
日本@名無史さん:2006/08/29(火) 20:17:49
旭姫の菩提を弔い、寺まで建ててるのに
築山殿の墓すら作らない家康って・・・
14 :
日本@名無しさん:2006/08/30(水) 07:58:25
家康は所詮傾きかけてた三河の小大名の嫡男に過ぎなかったんだし、
ましてや人質の分際で義元の姪を望むなんて馬鹿なことすはずないと思うが
・・・。
たとえ押し付けられたとしても結婚当初はいろんな意味で
有り難かったのでは?
桶狭間以降は瀬名は用なし。
どんなに温和な人物でも家康の仕打ちに暴発することがあったのでは?
それを大げさに伝えられたとか・・・所詮駿河女に過ぎなかったんだろうなぁ。
15 :
日本@名無史さん:2006/08/30(水) 10:00:10
16 :
日本@名無史さん:2006/08/30(水) 12:24:11
17 :
日本@名無史さん:2006/08/30(水) 13:20:03
この人に関する確実な記録って、残ってないんだよね。
今川サイドの資料にも残ってないのかな?
18 :
日本@名無史さん:2006/08/30(水) 13:59:01
>13
築山殿の墓なら浜松にありますよ
19 :
日本@名無史さん:2006/08/30(水) 16:08:34
>>16 信康は頭がよくて、家康は跡継ぎにしたら自分のいうことを聞かなくなると危ぶみ、
信康+邪魔だった築山殿を殺し、おとなしかった秀忠を跡継ぎにしたという説があるらしいが。
20 :
日本@名無史さん:2006/08/30(水) 17:07:10
信康が死んだとき秀忠は赤ん坊だったのでは?
築山殿って本当に悪女だったんだろうか?
マンガの「徳川家康」を読んだ時にちょっと築山殿に同情してしまった
>>18 浜松にある築山殿の墓は明治になってから、つくられたやつだよ。
実家の子孫の人が供養してるらしい。
23 :
日本@名無史さん:2006/08/31(木) 01:59:18
>>19 秀忠の母親は家康の遠縁だし、
秀忠母の親族が信康の処刑に関わっているんだよね。
24 :
日本@名無史さん:2006/08/31(木) 05:24:03
減敬だか滅敬だかいう医者と密通していたのは事実なの?
25 :
日本@名無史さん:2006/08/31(木) 08:22:11
>23
秀忠の母さんは金谷の人じゃなかったけ?
>>1 小説やドラマでの性格設定を信じるような馬鹿はほっとけってw
27 :
日本@名無史さん:2006/08/31(木) 11:18:52
>>17 徳川家によって消されたんじゃないの?
公開されてない資料だってあるだろうし
28 :
日本@名無史さん:2006/08/31(木) 13:54:55
>>24 事実かどうかは分からないんだけど、当時の武家の女性は
簡単に密通とか出来る環境に住んでたわけじゃないから、多分うそだと思う。
29 :
日本@名無史さん:2006/08/31(木) 22:17:48
30 :
日本@名無史さん:2006/08/31(木) 22:45:21
アイルトン瀬名
31 :
YAP?:2006/08/31(木) 23:06:05
築山殿の名前が「瀬名」というのは、確かな史料がありますか?
「瀬名」というと、今川一門の瀬名氏(確か堀越氏と同様、了俊の
子孫だったと思うが)が思い浮かびますが、築山殿は、関口氏の
はずだし、確かその母は、今川家(本家)の出だったのでは?
32 :
日本@名無史さん:2006/09/01(金) 00:14:12
>>31 瀬名姫の「瀬名」は確か地名だったかと。
築山殿の母親は、今川家の養女で義元とは血縁者ではないみたいです。
hoー・・・・
34 :
日本@名無史さん:2006/09/02(土) 00:02:22
今川氏真とはどうだったのだろう
35 :
日本@名無史さん:2006/09/02(土) 01:04:21
築山殿は被害者だと思ってる。
信康も冤罪くさい。
本願寺との長期戦でイラついてた中、浅井長政や荒木村重などに裏切られて人間不信に陥ってた信長が試したんじゃないだろうか?
家康は信長が怖かったし織田との同盟無くして家が保てないと考えていたので、信長に忠誠をつくしたんだと思う
36 :
日本@名無史さん:2006/09/02(土) 05:41:39
違うな。信康切腹はあくまで家康の発議だよ。
信康は家康とわずか16歳しか違わない。これでは親子というより、競争相手になりかねない。
過酷な乱世においては親子兄弟といえども容易に敵対関係になりえた。
名門今川氏の血が流れる信康としては織田氏と同盟する気になれない。むしろ同じ名門武田氏とともに織田と戦うのを希望する。
家康はまた、信康の日頃の乱行に手を焼いた酒井忠次、大久保忠世から報告を受け、織田氏との同盟関係維持の為には信康を殺すしかないと判断したのであろう。
酒井が安土に赴いたのは信長から信康殺害を命じられたのではなく、信康殺害の承諾を求める為ではあるまいか。いくら乱行な息子でも、
信長は信康の舅である。舅に断らずに倅を処分するわけにはいかないであろう。
37 :
日本@名無史さん:2006/09/02(土) 06:10:53
>>36 その後の行動見ると、
武田と通じてたのは家康側のような気がする。
信康はもちろん、築山殿にとっても
今川なんて既に過去のことだろうよ。
38 :
日本@名無史さん:2006/09/03(日) 17:42:12
信康はアレだったけど、亀姫はまあまあ幸せだったと思ふ
39 :
日本@名無史さん:2006/09/03(日) 21:20:10
信康切腹は徳川家のお家騒動なのは事実でしょう。
神君が子殺しをしちゃまずいから信長の命で殺したことにしちゃったんじゃないかね
40 :
日本@名無史さん:2006/09/04(月) 01:33:02
信長の息子は、信康に比べて出来が悪かった、ということも考えられるのでは?
酒井などは、信康と肌が合わず反感をもってたのかも?
信康は、家康と違って苦労知らずのお坊っちゃま育ちだから、家臣へのおもいやりなどがあまり無く尊大で我儘な面があったのかもしれない
41 :
日本@名無史さん:2006/09/04(月) 11:31:06
>>40 * 織田信忠 *
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1156156397/ >35 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 Mail: sage 投稿日: 2006/08/29(火) 23:58:33 ID: PAuX+Q/C
>信康の件は伝わってる流れを見れば、家康の意思で処刑したのがわかる。
>当然やるはずの助命嘆願をやっていない、家康が軍勢を率いて岡崎城に入り、信康とかなり激しい口論を行ってから岡崎から追い出した、
>岡崎城で譜代の武田内通があり信康がからんでいた疑いがある、これだけじゃないけど、信康は謀反を企んでいた疑いが濃厚。
>
>さらに獲物が獲れないと僧侶の首に縄をかけて引きずり殺したり、妾にばかり溺れる信康へ忠告した五徳の侍女が、口に手を入れられ引き裂かれて殺されただの
>人間的に欠陥があった可能性もあり。たとえ嘘でもまともな人間がこんな逸話のこさないよなあ。
>>40 >信長の息子は、信康に比べて出来が悪かったという事も
あのさー、そんなこと大昔からさんざん言われてて
山のように書かれてることじゃん。今さらねー
(真実は歴史の闇の中だけど)
瀬名の名が何だかんだと、戦国女性史の本見りゃ
普通に当然に書いてあることばかりじゃん、
ここ、レベル低すぎだよ。
信康の父ちゃんは桶狭間で死んでるんだよ
44 :
日本@名無史さん:2006/09/04(月) 20:02:53
>>39 徳川にお家騒動があったとしても、
家康は信長ほど簡単に人は殺さないな
家康にとって信康は邪魔だから殺すはずだというのは信長信者の発想
簡単には殺さなくても、信康の件も築山の件も後になって家臣にネチネチネチネチ……臣下はたまらんわ
46 :
日本@名無史さん:2006/09/04(月) 20:27:41
酒井なんか殺されるより愚痴、ぼやきを聞かされるほうがまだましだろ
47 :
日本@名無史さん:2006/09/04(月) 21:11:57
松平家忠の日記には、
信康が岡崎城から出されただけで、処刑されたとは書いてない。
築山殿に関しては記述すらない。
48 :
日本@名無史さん:2006/09/04(月) 21:58:41
当時の徳川家は、岡崎派の石川氏と、浜松派の酒井氏に
分かれていたんだよな。
信康が自害した二俣城の城主は、浜松派の大久保忠世だが、
後年、信康の命日に割腹自殺したとも言われている。
49 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 15:10:24
信長に他家の正室や嫡男を殺す権限なんてあるのかよ
そんなことしたら即刻同盟破棄だろ
築山殿の首塚は岡崎だよね?家康は隠居後、築山殿を弔う気がないから駿府に?
51 :
日本@名無史さん:2006/09/06(水) 23:16:49
築山殿の父親は切腹したらしいけど、他に身内はいなかったのかな?
自分で調べれば?
53 :
日本@名無史さん:2006/09/07(木) 18:08:42
築山殿の兄弟もいたし、父母の兄弟もいたよ。
54 :
日本@名無史さん:2006/09/07(木) 19:17:10
家康が武田とも裏で手を組もうとしていて、その仲介者が築山殿だったのでは。
wwwここ、何人いるのかな?
56 :
日本@名無史さん:2006/09/08(金) 12:41:40
age
57 :
日本@名無史さん:2006/09/08(金) 17:06:49
信康は西三河衆と東三河衆の抗争に巻き込まれた、とも言われてるよね。
信康の後見は西三河衆を率いた石川数正、
信長に信康の内通疑惑について追及されたとき弁護しきれなかった(しなかった?)のが東三河衆の旗頭、酒井忠次。
そして信康が死んだ後に突如として羽柴秀吉のもとに出奔した石川数正…
まぁみんなご存知でしょうけどね。
58 :
日本@名無史さん:2006/09/08(金) 17:38:51
世間には信長の命令ということにしたが、実際は家康の意思で殺した
59 :
日本@名無史さん:2006/09/08(金) 20:03:04
信長は信康の内通疑惑を酒井忠次らに詰問したうえで『家康には「如何様にもしなさい」と伝えよ』と言って、判断を一任したらしい。
まぁ家康にしたら無言の圧力だな
家康は自分の天下になっても五徳に化粧料を払い続け、信康と築山には冷たい態度。二人を忘れたかったんだろ
61 :
日本@名無史さん:2006/09/08(金) 22:46:18
家康と築山殿は離婚していたという説もあるみたい
62 :
日本@名無史さん:2006/09/09(土) 10:55:14
築山殿は、げんけいという坊主と一緒に逃げれていれば死なずに済んだろうに...
63 :
日本@名無史さん:2006/09/09(土) 11:50:04
墓が無いって事は、逆に、このとき死んでなくって、
別の人間として生きていたかもって事は無いかな。
男は直政しか残っていなくて、亡びる寸前だった
井伊家を、外様のなのに、やけに厚遇している。
築山殿と井伊直政は従兄弟という説もあるし。
徳川家の記録に、
晩年の家康が駿府で今川時代を知る老人に会ってる話があったよ。
互いに顔を伏せたまま、会話してたとか…
65 :
日本@名無史さん:2006/09/09(土) 13:00:09
それが築山殿だったら、話の内容に興味がわくな。
死期間近の家康と、4,50年ぶりの再会とか。
66 :
瀬名姫:2006/09/09(土) 21:14:06
67 :
日本@名無史さん:2006/09/09(土) 21:14:50
>>40 >信長の息子は、信康に比べて出来が悪かった、ということも考えられるのでは?
有名な俗説。
実際は信忠は若くして政務をまかされ何度も文書を発行していたのにかかわらず
信康にはそんな権限はまるで与えられなかった。
どう見ても信忠の方が出来がいいだろう。
>>44 「信者」とかで相手の意見を封殺しにかかるのはしくない。
ちゃんと論議したり史料提示したりしよう。
ちなみに家康も若い頃はあまり子供の活用法に慣れてなかっと見え
秀康を家臣に預けたまま一度も顔を合わさず冷遇したり、
実子説濃厚の土井利勝を筑山殿らはばかって認知しなかったりしてる。
秀康を秀吉に養子に出したときに
彼が殺されるといううわさが広まっても「秀吉が子殺しになるだけ」と
平然としてたという逸話もあるし。
70 :
日本@名無史さん:2006/09/09(土) 22:05:57
>>69 信康>信忠説は大正頃の有名な学者だか作家の私見が元なんだよな。
信康が文書を発行した形跡がないってことは、家康から見てまだ未熟と思われてたのかも。
ところで戦国大名の嫡子が自分名義で文書を発行するのって何歳くらいが普通なのかな?
>>67 信長が信康の処分を「どうにでもしろ」と言ったのは妄想なのか?
『松平記』には家康が信康生害を信長に相談した時信長は「いかようにも存分次第」と返答した、とあるらしいけど…。
>>71 「家康に対する無言の圧力だな」とかいう部分ね。
別に信長は信康切腹を要求はしてないだろう。
>>69 信忠が有能だったとしたら、本能寺の変で謀反人が光秀だと聞いてすぐあきらめてしまわないで
何とか生き延びる努力をしていてもよかった
>>63 それこそ、諸田玲子の小説「月を吐く」なんだよ。
実は殺されていなかった築山殿って結末。
75 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 03:07:43
織田は足利義昭、浅井、朝倉、本願寺、三好、松永らの鎮圧に手を焼き、織田滅亡も有り得ると読み、家康は武田勝頼ともひそかに密約を結んだほうがいいと考えた
↓
徳川ー武田のチャンネルとして信康ー築山殿ー減敬ー武田というルートを開拓したはよかったが、武田の瓦解、織田の天下が見えてきたので、徳川武田の密約は不要になった
↓
信康と築山殿の口封じが必要になり、殺害を決意した。
↓
しかし信長に真相を語るわけにはいかないので、信康の暴虐ぶりと、築山の淫奔ぶりを捏造し、殺害の承諾とその報告のために酒井を安土に派遣した
これが真相では?
築山殿事件の頃は、
井伊直政もいたし、今川氏真だって家康に保護されてたのに、あっさり殺されてたり
築山殿の侍女だった、お万が岡崎城ではなく浜松城にいたりとか、
結構不審な点が多い。
>>73 信忠の唯一の落ち度ね。
たとえ無様な最後の可能性があってもあきらめずに東に逃げるべきだったね。
もっとも家康も絶望のあまり、
このまま度民の手にかかって無残な最期を迎えるよりも
明智に敵わぬまでもせめて一太刀浴びせて腹を切ろうと発言したのを
家臣が諌めて伊賀越えを決意したという話しもある。
あと、例え信康切腹が家康の決断にあったにせよ、
のちに公開して、それを酒井と信長に責任転嫁して
彼らを憎んだという可能性はあるね。
79 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 13:45:26
>>69 >「信者」とかで相手の意見を封殺しにかかるのはしくない。
そう思うのはお前が信長信者だからだろw
基本的に2chでは言論を封殺されたほうが負け
そもそもこの問題はスタンスの違いで最初からとる説が決まっていて、
理由は後から取り繕いのために付けられるようなもの
最近の信長人気の興隆とともに家康主導説が広まってきたことがそのへんの事情を表す
相手のスタンスを指摘するのは必ずしも悪いことではない
80 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 14:20:08
アホ
信者と書くと封殺気分を味わえる 単純でいいなネット中毒者は
>>79 それは君が無知なだけ。
相手を信者扱いするのではなく
論とか史料提示で対抗してもらいたい。
君だって「信長主導説は単なる家康信者の願望」とかで
斬り捨てられたらたまったもんじゃないだろう。
83 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 19:37:07
まあ確かに家康主導説を認めたがらない奴って小説厨とかゲーム厨が多いんだよね。
例えば関が原での家康と近習のやり取りの
「こんな時にせがれが居ったら」
「そうですな。秀忠殿の軍勢が到着してくれましたら」
「あいつではないわ信康のことよ!!」
というやりとりは名場面だが、これが司馬の創作だという事も知らない奴が多い。
ただ、隆慶一郎など多くの歴史作家が流用してるので、史実だと思ってる奴が多いだけなんだけどね。
なんにせよ信康切腹の家康主導説は多くのそれを下敷きに書かれた歴史小説などの
ロマンが否定されてしまうものなのでそれが嫌って事なんだろうね。
それでその論者を「信長信者」とかいってアタマごなしに叩いて論争すらしようとしない。
なんてお気楽な連中なんだろうと呆れるばかりだ。
84 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 19:40:43
築山殿は、家康ではなくて氏真と結ばれたほうが幸せだったのかもしれない...
女性一人も幸せにできない家康って最悪。
85 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 19:51:52
普通に考えたら信長の命令だよね あいつはそういうやつ
86 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 20:20:15
>>83 司馬ってやけに影響力あるんだな
中公新書「徳川家康」(北島正元著)にも載ってたぞ
何らかの形で、信長が関わっていたとしても
最終的に決断くだしたのは家康だろ?
妻子の供養もろくにしてないし。
そもそも信康切腹が家康主導という説は信長信者の発案とかいうのが
家康信者のイタサなんだよね。
信長をカバーするために家康のせいにしているとい言いたいらしいが、
はっきり言って信長好きな人はそんな事気にしてない。
別に信長が誰を殺そうがどんな残虐なふるまいをしようが「さもありなん」だ。
なんせ叡山の虐殺が小規模なものだったという新研究にガッカリするくらいだしさ。
イメージ的には「信康は信長の命令で殺された」は良い落しどころなんだが、
歴史学の世界はそんなイメージとか願望で決めていいものではない。
司馬は出典も明かさずに
当たり前のようにものを言うので
騙される人は多いね。
90 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 21:01:30
ちなみに中公新書「徳川家康」は、S38年発行ね
>>90の話しが本当なら
>>83の「関が原の逸話は司馬の創作」は間違いになるね。
でも関が原の逸話は少なくとも後世の創作ではあるらしいよ。
それと仮に事実だったとしても、
信康切腹をのちに後悔したというだけの話しで証拠にはならない。
92 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 21:38:12
信康の墓所は二俣城跡の近くにある清滝寺にある。
しかしその墓は小さな塚を建ててその上に五輪塔を築くという質素なものである。
おまけに、家康は改葬すらしていない。
信長存命中なら信康の遺体を改葬することは不可能だったろうが、
信長が天正10年に死去した後ならば、改葬もできたはずである。
多くの史書では「家康は智勇兼備の嫡男であった信康を愛していた」としているが、
これが本当に愛する我が子に対する処置であろうか。
築山殿の墓所は現在、浜松市の西来院にあるが、
これは明治時代に築山殿の実家である関口氏の子孫に当たる
静岡県令・関口隆吉によって改葬されたものであり、それまでは浜名湖畔の原野に
みすぼらしい墓を立てて弔われているだけだったのである。
さらに家康は、信康切腹の一因をなした徳姫に対して尾張岩倉に2000石という化粧料を終身、与えているのである。
家康は後に信康の死を深く悲しんだと言われ、
多くの逸話が残っているが、これらの逸話はできすぎたものも多すぎるため、後年の創作ではないかとさえ言われている。
近年ではこの事件の背景には信康と伊奈忠次をはじめとする
信康側近組による「家康追放計画」があったとする説も浮上している。
この問題の真相も不明のままである。
93 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 22:03:32
「鹿の立物の兜をつけたる織田信忠の働き目ざまし」とは、
この時代の戦記にみな出てくる点で一致し、奇妙丸から菅九郎に名のりをかえた
十四歳の永禄十一年の池田城攻めの時から、二十一歳の時の岩村城攻めでも、
いつも信長の長男は、先登になって突撃している。
凡愚であった岡崎信康などとはまったく比べものにはならない。
信康が死んだとき、その伴をしたのはわずか近習二名であったが、
信忠が天正十年六月二日、宿舎の妙覚寺から二条御所へ移って討死したときは、
その伴をした村井貞勝父子、団平八、みな一城の主ばかり五百人が、
これに殉じ、脱走したのは「家康の生母於大につながると俗称される三河苅屋城主水野宗兵衛と、
織田有楽」のわずか二名という格差でもはっきりと優劣は大きく引き離されている。
これから考えても俗説のように、その娘をスパイに使ってまで信長が岡崎信康の偉丈夫ぶりを
おそれ、将来わが長子信忠の敵となるのを心配し、家康に殺させたという
俗説はどうもおかしくなる。
しかし「近江右衛門義綱」の筆名をつかった、近江の百姓の伜の沢田源内という元
禄時代の本つくりがつくった贋本の『三河後風土記』や、それを史料と間違えて下敷
きにした『岩淵夜話』になると、岡崎三郎信康を天晴れな若武者に仕立てあげたのも
残っている。しかし信康に関してはっきりいえる事は、彼についていた岡崎衆を率い
て「東三河衆筆頭」だった石川数正が、浜松や静岡衆を率いていた「西三河衆筆頭酒
井忠次」と同格であったが、信康の死後は冷遇されていたたまれなくなり、信康の娘
を貰った連中と共に逃亡して、秀吉の家来になってしまった事実ぐらいだろう。
浅井・明智に対してノーマークであり松永に対してさえ事後対応の信長が
事前に信康を恐れることなど考えられないので家康主導は明らかだろう
ただ信忠は武将としては有能だったがすぐに死を選んでしまうのは大将として駄目である
大将たるもの生に執着して意地でも逃げる覚悟が必要だからだ
だから信康も信忠も所詮どっちもどっちの次元で優劣などない
確か関が原の家康の弁も
岩淵夜話が転居じゃなかったかな?
かなり信用性のない書物ではあるが。
信康が優秀かどうかはあまり関係ないんじゃないの?
家康もたいした仕事させなかったみたいだし、
何らかの業績があったとしても、意図的に消されてるかもしれないし。
>>96 業績を消す必要はないような気が・・・・
それなのにご乱行話しはしっかり残ってるのは不思議。
>>97 信康の乱行、築山殿の悪妻説は
家康の妻子殺害を正当化させるため。
悪役設定になってる人は大体このパターンで貶められてる。
>>98 乱行はウソ
神君伝説は本当
と都合のいい話しばかり取り上げるのはね・・・
信康の乱行について言うと確かにあんまりバカバカしい話しは嘘らしいけど、
どうやら一部には本当の話もあるらしいよ。
100 :
日本@名無史さん:2006/09/11(月) 07:18:27
今川氏真、井伊直政、西郡局、信康の妻子、亀姫一家…
築山殿と信康の縁者はみんな優遇されてる。
再評価してどうなるものでも・・・・
水野信元事件で信元を殺害した、もしくは自害に追い込んだとされる石川数正と平岩親吉を股肱と頼む信康と、
その水野信元の妹で家康の母・於大の方。
もし於大が自分の兄であり水野家当主の信元を手にかけたとする石川平岩を敵視していたとしたら、「マザコン」だったと言われる家康と信康の間に不穏な空気があったとしてもおかしくはないのかな。
104 :
日本@名無史さん:2006/09/11(月) 19:09:45
水野信元事件も、信長の命令だったとか言われてるね。
築山殿事件と経緯が似てるんだが。
106 :
日本@名無史さん:2006/09/11(月) 22:49:32
まあいろんな見方をする人がいるもので、
消された後継者の典厩五郎なんかだと、何考えてるかわからん、てことになる
107 :
日本@名無史さん:2006/09/12(火) 02:31:04
瀬名姫の功績
F1ドライバーのセナが出てきた時
日本にも似たような名前の人物がいたと親近感を湧かせた
>>103 マザコンというより、
母方の縁が強い気がする
109 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 15:42:21
岡崎城主の生母という肩書きのみで生かされてた状態だったから、
息子が死んだら、もう用済みだったんだろう
110 :
日本@名無史さん:2006/09/16(土) 19:00:44
信康、亀姫を産ませた後は 家康は瀬名姫を抱かなかったのか?
女盛りの20代、30代を悶々と過ごした瀬名姫が哀れだな
111 :
YAP?:2006/09/17(日) 00:53:26
しかし、築山殿の母が、井伊氏から義元に献上された側室で、それを妹として、一門席口氏に
下賜したちうのは、いくらなんでもトンデモのような気がする。
大体、義元は、異母兄と戦って家督相続したぐらいだから、一門の機嫌を損ねるようなことは、
できるはずがない。
確か、リアルタイムの資料には築山殿っていう名前は出てこなかったんじゃなかった?
113 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 16:00:05
死にたくなければ、このレスをコピーして他のスレに □
□10回貼り付けて下さい。1時間以内にです!もし無視■
■した場合は、今日寝ている間に富子さんがやってきて□
□貴方の首を絞めに来ます。富子さんは太平洋戦争の■
■時に16歳という若さで亡くなった女の子で、未だに成□
□仏していないそうです。信じる信じないは貴方次第。 ■
■今年になってからこのレスを無視した人で、“呪われ□
□て死亡した人"が続出しています。これは富子さんの■
■呪い。呪われて死んでもいいのならこれを無視するこ□
□とでしょうね。 ■
■――貴方がこうしているうちに富子さんが後ろから見□
□ていますよ…。 ■■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
114 :
YAP?:2006/09/18(月) 00:30:21
もう一度、確認するが築山殿が、「瀬名」という名前だったと言う
確実な「史料」ああるのかね?
誰か、小説家がつけたものではなんだろうな?
「湖衣ひめ」とか「由布姫」などといった・・・。
築山殿が、同じ今川一門でも「瀬名氏」の
出自だったりすれば、荘呼ばれた可能性はあるのだが、
勝頼の母、諏訪御料人の実名は定かではなく、
井上靖の「風林火山」では由布姫、
新田次郎の「武田信玄」では湖衣姫と名づけられ、
美貌の悲劇のヒロインとして著名になりました。
などと書いてみるw
普通に土地名から言い始めたんでないのー。
118 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 19:26:31
10歳年上だったとか無茶苦茶な説があるな
>>118 そういうのは(年上婆を押し付けられて可哀想な家康君)路線のネタだろう
121 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 18:44:20
しかし、なんで邪魔者扱いしなくちゃいけない女を
わざわざ岡崎に連れてくるかねー?
きっぱりと縁を切ればよかったのに、
家康の自業自得じゃね?
122 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 20:09:57
家康と築山殿が、駿府で結婚した当日、駿府で火事があり
百軒以上焼失する大火事があったと思う。
二人の将来を暗示する様な…
毎日のように火事があったという江戸の華を暗示・・・・かも…
124 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 01:51:27
築山殿の侍女だった於万が、なぜ浜松城にいたのか不思議だ
お万は結局出自不詳なんじゃないのか?
奉公のきっかけとかも不明なんだから、
色んな巷説があっても不思議はないのでは。
126 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 16:33:10
家康の浜松移住の際に転勤になったとか
127 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 23:20:51
「月を吐く」はよかったぞ
「月を吐く」、作者の諸田さんは静岡出身。
129 :
日本@名無史さん:2006/10/20(金) 13:25:09
130 :
日本@名無史さん:2006/10/24(火) 19:40:20
この人は意図的に情報操作されてるな
131 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 16:25:03
現存している肖像画は近代のものらしい
>>131 そんなん、画風と様式見ただけでわかる事さw
133 :
家康:2006/11/17(金) 23:08:46
昔は可愛いかったんだよ…
昔はね
彼女が変わったとして
それは家康さんにも責任のあることでは?
135 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 15:58:51
石川数正はどう思ってたんだろう
136 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 17:08:23
137 :
瀬名:2006/11/27(月) 18:21:48
大賀弥四郎とやってたのかな?
139 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 20:37:17
hoshu
140 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 07:44:11
三河物語の初版本には石川数正が、
信康と亀姫を岡崎に連れてきたとあるが家康夫人が同行したとは書いていない
信康切腹が信長の命令によるということが
家康が本能寺の変の黒幕に挙げられる理由の一つに
なってるから、真実がどちらかは重要だな。
互いに信長信者とか家康信者とかでレッテル張りすべきでない。
家康黒幕説の理由には他に春日局を取り立てたこともあるが。
信康の切腹が、家康主導で
単純に三河の名門出身の西郷局が男子を上げたんで信康が要らんなった場合でも
家康が本能寺の黒幕にはなりえるんだが。
信長の女婿を武田に通じたとでっちあげて殺したら、同盟破棄の上、決戦だがな。
(信長は「許す」とは言ってるが、それは信康が武田に通じていると思われていたからだし)
武田攻め後に信康の身の潔白が証明されて
本能寺の時点では、家康と信長の開戦が秒読み段階だった可能性もある。
家康は大名らしく肉親に対する情はあまり厚く無いし
築山殿や信康が殺されたことは本能寺の黒幕の理由にはなりえないと思うんだよね。
(墓も粗末なまま放ってあるし)
家康が本能寺の黒幕だったとしたら
信康達が無実で、家康主導で殺したほうがしっくり来る。
144 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 04:47:30
築山殿&信康
信長&徳姫
二組の親子に無実の罪をきせた
145 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 14:31:23
死人に口無しですから
家康主犯で描いたドラマとかないのかな。
147 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 01:18:39
148 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 03:42:04
>>31-32 築山殿の父親は、その瀬名氏の出身で関口氏を継いだ人物ではないのか?
母親は、今川義元の姉妹で間違いないが。
149 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 04:01:28
150 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 14:17:16
>>111 その説ってソースはなんなの?
井伊氏って、もともとは守護の勢力からは独立した御家人で今川氏に服属する
ようになるのは氏親以降だよね。
いはば今川家中における井伊氏は、武田家中における小山田氏に立場が近い。
そういう背景を持つ井伊氏が娘を側室として献上なんてあり得るのかな?
151 :
YAP?:2007/03/19(月) 22:53:50
150氏へ
小和田哲男氏の『今川義元』(ミネルヴァ書房)からの孫引きですが、
その第2章に、氏親のkが、男子6人、女子七人とあり、女子については、
その七人全員が、実際に氏親の実施かは不明であるとされています。
特に、関口氏広(瀬名姫の父とされる)室について、検討しており、
「井伊年譜」「井伊直平公御一代記」(『引佐町史料』第一集)によれば、
前期のような「拝領妻説」が載っているとの事です。
つまり、遠ヱの国人領主井伊直平の娘が、今川義元の側室となり、のち、
自分の妹という形にして、関口氏広に嫁がせたというわけです。
しかし、前にも述べたように、花蔵の乱で、異母兄との戦いをした義元が、
そんなことをする可能性は少ないと思えるのですが。
もし、遭ったとすれば、ものすごい美人だったので、関口が、熱望したので、
下げ渡したとでもかんがえるしかない・・・。
152 :
日本@名無史さん:2007/03/20(火) 03:01:00
築山殿と入れ代わるように井伊直政が徳川家に引き取られている…
153 :
日本@名無史さん:2007/03/20(火) 20:37:27
築山殿にとって、井伊直政は再従兄弟なのか。
154 :
日本@名無史さん:2007/03/21(水) 02:27:12
>>151 関口氏広の実兄である瀬名氏俊の妻も今川氏親の娘と系図上はなっていますが、
こちらの信憑性はどうなんでしょうか?
兄弟揃って氏親の娘を娶っててスゲーと勝手に感動していたんですが。
155 :
日本@名無史さん:2007/03/21(水) 13:18:00
>>154 氏親の娘全員が実の子かどうかわからないわけだから、
実子か養女かもわからないのでは?
今川家の研究ってあまり進んでないんだよね。
156 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 01:37:55
>>155 今川氏の研究って進んでないの?
この辺りをやってる友人の話だと、戦国期の今川氏に関連する研究論文って、
マイナーなものまで丁寧に拾えば500本はあるらしいけど。
執筆者の8割方が小和田教授だったりしてww
158 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 02:40:22
>>157 てか今川や後北条の研究者っていうと、すぐ小和田さんを挙げるレスが
結構あるけど、小和田さんって元々この辺の大名の研究の第一人者では
ないんじゃないの?
小和田氏さんの場合、今川・後北条関連の研究は、静岡大の教授になってから
副業的に始めたって感じだし、やっぱり本来的には戦国期の浅井氏が専門の
研究者ってイメージが強いと思う。
それに今川・後北条関連なら、他にもっとインパクトの強い研究をしている人が
何人もいるじゃん。
159 :
日本@名無史さん:2007/03/24(土) 03:01:25
今川家みたいな古い家ほど、プライベートなことや女性に関する資料が残っていないイメージがある
160 :
日本@名無史さん:2007/03/24(土) 04:34:01
ちなみに、氏広の孫関口氏心は、関口心新流柔術の創始者であります!
あの猫が屋根から落ちる所、くるりと反転したのをみて、受身をあみだした人であります!
161 :
日本@名無史さん:2007/03/24(土) 13:24:06
>>159 今川は単に大名家として滅亡した際に、家伝文書等の大半を消失しているからだろ。
ただこの点では武田も大差ない。
在地の文書とかはむしろ後北条が残りすぎなイメージがある。
162 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 15:10:30
YAP?氏が大騒ぎしていた瀬名姫の呼称問題は解決したの?
163 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 15:51:52
>>159 ではたくさん残っている家を挙げなさい。
164 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 21:30:47
瀬名姫呼称問題age
165 :
YAP?:2007/04/09(月) 22:40:28
上げを兼ねての書き込みということで。
引用した小和田氏の『今川義元』から、
氏親の男子6人、女子7人の件だが、小和田氏は『今川記』に、男子3人、女子3人
とあるのは、正室中御門氏(寿桂尼)の所生のこの数であろうと推測している。
次男の彦五郎=氏豊とし、また、四男とされる象耳泉奘を除いても、明らかに、
4人はいたのだから、これは、小和田氏の言うとおり、中御門氏n生んだ子女の数だろう。
男子3人は、嫡男氏輝、次男彦五郎、5男義元で決まりだが、女子7人のうち、
どの3人が正室の子だったのかは問題だ。
中御門宣綱室
北条氏康室
瀬名氏俊室
関口氏広室
小笠原春茂室
牟礼郷右衛門室
鵜殿長持室
の7にんだ。
このうち、北条氏康室の瑞渓院は、その子の北条氏規が、今川氏の人質になったとき、
祖母の寿桂尼に大変かわいがられたとされており、まず、実の娘であることは間違いない。
また、実家である中御門家の宣綱(寿桂尼の甥)もかのうせいがたかい。
問題は3人目だが、まあ、牟礼や小笠原では無さそうだ。
背中席g地だろうが、この絽家の、今川氏内の「家格」の差が問題だろが、
ン瀬名氏竣のようなきがするが・・・。全く証拠は無い。
ところで、「瀬名姫」刃、やっぱり「作家の命名」と考えて良いのだろうな?
166 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 00:15:47
瀬名氏俊の子の氏詮って、確か武田信玄が駿河に侵攻した際に、
「氏詮を今川の家督にする」
っていう条件を出されて寝返ったって話があったよね。
そう考えると瀬名氏俊室が寿桂尼腹の可能性が高いかもな。
なんか武田滅亡時における穴山梅雪にイメージが重なる。
山岡荘八の家康読むと、築山萌えになること間違いなし
サカリのついた中年女(しかもツンデレ姫)最高!
168 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 13:22:54
信康は瀬名に似ていたのだろうか…
亀姫は親父似のような気がするが
昔の話だが聞いてくれ。
信長の野望をプレイしてたら、今川義元の姫の欄に「瀬名姫」とあった。
地元民の俺は「三保姫、美和姫、由比姫、西奈姫はいねぇのかよ?」と呆れ気味に笑った。
しかし「瀬名姫」は実在の人物だった。
すんごく恥ずかしくなった。
以上
まあ瀬名出身でよかったよな
もし小鹿出身なら「小鹿姫」、油山出身なら「油山姫」って呼ばれていたんだろうか
171 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 19:02:13
>>169 「瀬名」と「西奈」って同じ場所を指すんじゃないの?
172 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 21:54:23
西奈を、今は「にしな」と呼ぶけど、昔は「せな」と呼んでいたらしい。
173 :
衣笠宮:2007/04/16(月) 23:45:33
一般的には築山殿と呼ばれていますよね。
瀬名姫と言うのは初めて聞きました。
瀬名姫でも間違いじゃないんだろうけど
今さら瀬名姫って言われてもねえ
って感じはありますよね。
>>173 >瀬名姫と言うのは初めて聞きました
その呼称の真偽はどうあれ、
普通に世間に周知されてる名だと思っていたが。
175 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 01:07:38
鶴姫とかいうのはどこからきたの?
176 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 00:22:09
とく姫ってのは?
>>170 (´・ω・`)バンビ…
観山姫だとレディースかw
って出身地ではなくて名字が由来なのかな?
>>171-172 ごめん、瀬名と国吉田の間の辺りを西奈かと思ってたよ。
清水人だから
>>127の説は知らなかったけど、持舟や家尻の例からも有り得るね。
上土の曾祖母に聞いてみよっと。
ってか上土って地名も微妙だなw
178 :
177:2007/04/26(木) 01:04:47
179 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 11:43:06
家康が信長になんの断りもなく、
嫡男を廃嫡にして殺してしまうというのはどうかな?
仮に家康主導であったとしても、
信長に何らかの報告をしておかなければ、後味悪い。
嫡男信康の正室は信長の長女五徳、
五徳は夫の切腹により信長のもとに帰っているのだから。
意味もなく娘婿を斬られたら、信長だって心象悪い。
信康の切腹によって、織田ー松平(のち徳川)の親戚関係は切れてしまった。
180 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 11:44:31
築山殿でチンポ勃たないヤツは男としてどうかと思うよ
181 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 16:12:26
182 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 21:41:25
瀬名はホンモノ家康の奥さんだったのか
まっとうな歴史好きはwikiを鵜呑みになんかしませんよ。
184 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 00:13:08
改正されていない『三河後風土記』によると、築山殿は、義元生前中の歌会で
優れた歌を詠み、義元より禁裏へ捧げた所、叡感をえたと書かれていたらしい。
幕府公認の改正版では削られたけど。
185 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 08:31:57
なんで、徳川幕府は築山殿の記事を削ったんだろう?
秀忠が築山殿腹ではないから、悪女のイメージを植え付けさせたかったのかな?
家康正室が悪女だったって、あんまりイメージよくないが。
186 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 13:27:27
>>185 家康の妻子殺害を正当化するためではないの?
殺されても仕方ない悪人という設定にして、加害者は織田父娘ということにしておけば権現様は無罪と…
187 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 13:38:45
>>186 その割に、家康は築山殿腹の長女亀姫はかわいがっていたようで、
亀姫の息子に孫娘の千姫をやっているし、よくわからないんだよなあ。
亀姫は、父親のことどう思っていたんだろう?
母親と実兄を殺されてるんだよ?
殷紂の昔から続く伝統の技法やね
暴君伝説もテンプレ通りとしか言いようの無いのばっかり。忠直とかな。
189 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 19:33:24
>187
おいおい、亀姫じゃねぇだろ?亀姫が嫁いだのは奥平だ。
豊臣家滅亡後、千姫が再嫁したのは本多忠勝家の忠刻だろ?
忠刻の母親は岡崎三郎信康の娘だよ。以上訂正しておきます。
190 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 01:09:03
>>187 亀姫は事件に関係ないしな。
悪く言う必要もなかったんだろう。
亀姫の息子が家康の養子になって、松平姓を名乗ってるね。
192 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 02:53:00
家康長女は北条氏直室では?
家康の長女は築山殿が生んだ亀姫だよ。
北条氏直室→池田輝政室の良正院は次女
194 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 22:10:16
長女は?
195 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 23:04:58
信康公の墓は江尻の江浄寺にあるようだが、瀬名姫の墓も一緒にあるのかな?
今度行こうかと思ってるんだが。
196 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 06:46:48
築山殿と信康の真実を知らせる書物って本当に残ってないみたいね。
信康について確かに残ってるのは、幼い弟(秀康)を嫌がって逃げ回る
父家康に引き合わせ親子の名乗りをさせたこと。かなりよくできた若者
だと思うが。そして残されたのは築山殿の悪女伝説。信康はさすがに
息子だから(徳川家の沽券にもかかわるし)泣く泣く死なせたという
形にしたのか。ここから伺い知れるのは…本当の話を後世に伝えるの
は家康にかなり具合の悪いことだったいうこと。
ひょっとしたら息子の方に人望や能力があったので(上でどなたかがおっ
しゃってたように年も近いし)己の立場を脅かすと考えて息子を溺愛する
母ともども消したのかも。後継者に選んだ秀忠は勤勉だけど凡庸だし。
信康に嫉妬したのは信長ではなく、家康でうまくすりかえて話を作った
ように思う。
>>195 信康の墓所は浜松市(旧天竜市)の清瀧寺。築山殿の墓所は浜松市の西来院。
あと信康の首塚が岡崎市の若宮八幡宮、築山殿の首塚が岡崎市の八柱神社にある。
月曜から浜松に出張だったのでついでに市内を観光して2人の墓参をしてきた。
清瀧寺は凄い所にあった。二俣城のすぐそばだが、とにかく山の中。
プチ登山ぐらいの感じで登り下りして到着。境内に人気はなし。
信康廟は残念ながら外門が閉じられていて中の様子は窺えなかったので
外から手を合わせてきた。1本逃すと1時間次が来ない天竜浜名湖鉄道に乗って
遠州鉄道に乗り換え、浜松市街へ。西来院へ向かうが結構道に迷った。
地元の人に聞きながら何とか到着。住宅街の真ん中だが境内が広い。
しばらくいると住職らしい人が出てきて、少し話を聞けた。
ついでに寺が発行している小冊子を頒けてもらった。多謝。
ゴミや吸い殻のポイ捨てに悩まされているそうで、境内が林になっている
部分が多いので火災が怖いとおっしゃっていた。罰当たりな事である。
長文失礼。
>>197 d
浜松にあるのは知ってたが、江尻のはどうなんだろう?
自転車で通る度に「松平元康墓所」の看板が気になるんだが…
歩いて数分だから行きゃあいいんだが、檀家じゃないし気が引けるなぁ。
199 :
198:2007/06/01(金) 09:21:13
×元康
○信康
どうやら遺髪が納めてあり、瀬名姫とは無関係のようだ。
201 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 04:45:24
単に息子と妻が邪魔だから殺したと考えると、その割に妻への仕打ちがかなり
残酷だよね。今川の血をひく誇り高い妻の首を城下にさらすなんて…。
行きがかり上身内を手にかけた大名の話は聞くけれど、そんな話は聞いたこと
がない。怨恨?それともよほど妻が怖かったのか?
202 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 02:01:12
でも徳川家康は、氏真をはじめ今川の一族や家臣だった家にさほど酷い仕打ちはしていない。
桶狭間から20年近くたってるのに、
家康も築山殿も今川なんて過去のことだろうよ。
不仲の割りには子供3人くらいいないか? いい女だったんぢゃないのか?
205 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 17:58:17
>>204 子供は二人だよ。
ちゃんと結婚生活していたのは今川にいた数年間だけ。
206 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 18:18:15
家康は晩年、女に相当だらしなかったようだけれども(孫のような女に手を出したり)、
築山殿存命中は、割とまともだったんじゃないか?
出生を疑い、なかなか実子だと認めなかった結城秀康の母を除けば、
築山殿存命中の側室は西郷局くらいだし、
別段、正室を粗略にしていた様子も見受けられない。
最後が最後だから、築山殿との不仲説があるのかもしれないが、
家康は築山殿腹の亀姫には甘い父親だったようだし、
築山殿が家柄を鼻にかける誇り高い女だった確証もないのだが。
松平忠明 こいつ、身分的にどうだったの? 亀姫の息子だけどさ。
208 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 20:55:15
>>206 築山殿が生きていた頃の家康は、まだそれほど仕事の幅がなかったからじゃないか?
忙しかった時期みたいだし、女性と知り合う機会も少なかったと思う。
209 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 23:29:34
↑
知り合う機会ってw
分かっていると思うが、今の時代とは大違いだよ。
結婚、子づくり自体が政治であり仕事そのもの。
今川の監視が強力で子孫もろくに作れなかったのだろう。
家康は子は多いが、兄弟は少ない。
弱点補強を許される環境になれば、どんどん子供をつくるよ。
210 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 23:35:55
>>209 今川の監視?
岡崎に帰ってからは関係ないと思うが
211 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 09:18:27
>>209 今川の勢力など、すぐに衰えた。
正室存命中は、家康はそれなりに正室を大事にし、重んじていたと思うよ。
逆に、築山殿が殺害された家康38歳以降、
家康の奥を取りしまる正室の存在がなくなって、かなり女癖が悪くなったのだと思う。
家康は45歳のとき朝日姫という後妻を迎えたが、朝日姫は1年ほどで亡くなったしね。
築山殿存命中、家康に側室が少なかったのは、知り合う機会がなかったからでも、
今川の監視のせいでもなくて、正室というよりどころがあったため。
家康に寵愛されたという西郷局ですら、家康の奥の重しにはなりえなかった。
家康に兄弟が少なかったのは、父が早死にだったこと、
母が家康2歳のときに生家が松平家と不和になって実家へ帰されたことが大きい。
母親のお大の方は、家康の父と別れてから別の男に嫁ぎ、その結果、家康には異父弟が何人かいたはず。
戦国期の正室の力は、江戸以降とは全く違うからな。
当主夫婦本人達だけではなく、周囲の認識も含めて。
正室は奥では当主以上の統率力を持つからな。
213 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 11:15:31
214 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 11:58:55
215 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 12:12:41
築山殿が正室として奥を取り仕切っていたとは思えない。
桶狭間以降は離婚状態で、ずっと別居していたわけだし。
家康の妻ではなく、岡崎城主の母として松平家に居候していただけなんじゃないのか?
216 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 12:35:18
築山殿の父は、娘婿の家康が今川を裏切って織田についた際、自害している。
築山殿が幽閉されていたというのならば、なぜ築山殿腹の長男を廃嫡にしなかったのだろう?
光仁天皇の皇后井上内親王は幽閉されて廃后となったが、
築山殿は正室の地位も失わなかったし、長男も家康の嫡子のままだった。
信長が自分の娘を嫁がせていることからも、
家康の正室が今川家恩顧の出であることなど問題にしてなかったと思うのだが。
本当にお大の命令で別居を強いられていたんだろうか。
家康のいる岡崎城は、目と鼻の先なのに。
>>215 取り仕切っていたかどうかは問題じゃないんだよ。
正室という存在がいたという事が大きいということ。
どれほど寵愛されようと、側室は側室。
正室という立場にはなれない。
たとえ別居状態であったとしても、戦国期の正室は
正式に離縁されて実家に戻される、城から出されて放逐されるなど
ない限り、正室としての認識を周囲から持たれるということ。
桶狭間後は針のむしろのようなイメージがあるんだが
実際はどうなんだろう。
桶狭間から2年後に岡崎の築山御殿に移り住み、
家康の浜松移住、信康の岡崎城主就任を期に岡崎城入り?
寺に幽閉されてたとも言われてるけど
実際どこで何してたのかわからんね。
220 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 15:23:26
家康が人質交換までして妻の築山殿を取り返している点、
粗略にされてたとも思えんがな。
自分の御殿を建ててもらっていたからって、
幽閉されてたとか、別居してたとかいうことにはならんだろ。
岡崎へ戻った家康は一国一城の主であり、
ほかの戦国大名にも、母親などの自分の身内にも、
家康の意思を無視してまで意見されんだろうに。
221 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 00:11:32
築山殿が桶狭間後に子供を産んでいないことが、
余計に離婚や別居や不仲のイメージを作ってるのかも。
222 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 01:06:09
築山殿って今川了俊の男系子孫だよな。
今川了俊って、あの南北朝時代に九州を震撼させた猛将?
>>211 >>213 異父弟の3人は有名。康元、康俊、定勝。いわゆる久松松平の人々。
ちなみにNHKの松平定知アナは定勝の子孫と称している。真偽は不明だが。
あと異母兄弟も2人ほどいて、こちらは早死にしたり、出家したりで
あまり語られる事がないようだ。
225 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 15:28:57
御殿を建ててもらったなんて記述もないだろう。
築山殿に関する史料に難があるからといっても、
今までと真逆の人物像を描くのもどうかと思う。
お大の方の策略云々も俗説に過ぎず、信憑性に欠けるしな
築山殿はともかく、嫡男の信康と長女の亀姫は
父家康の手元にあったんだろう?
異母弟の結城秀康を見つけ出して、
父家康に実子と認めるように願ったほどの信康ならば、
自分の母のことを見殺しにはしなかっただろうし、
亀姫も同様。
築山殿にまつわる史料は、後世に書き直されたものも多いだろうし、
信憑性がかけるものが多いよ。
227 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 17:52:59
築山殿の史料の誤りだと思われる部分て何?
人物像については、そういう見方もあるかな程度でしょ。
信康と五徳をめぐる逸話だって本当のところは分からない。
それから、医師と密通しただの
武田氏に書状を送ったってのは、
家康の武田氏に対する政策の一部だった可能性もあるわけで。
結局、小督局に対する嫉妬云々てのしか
誤りらしい誤りがない、でいいの?
228 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 18:08:31
>227
桶狭間後の築山殿の待遇については、しっかりした史料がないように思う。
五徳が父親の信長に宛てた手紙、どこまでが真実だと思ってる?
229 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 18:46:03
岡崎に住んでたこと自体が不自然な気がする
230 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 19:09:17
>>228 信康が城主となってから、築山殿は岡崎城に迎えられたわけだよね。
で、築山殿と五徳の不仲を取り持とうと家康が浜松からわざわざ出向いてる。
これらのソースは何?
とりあえず五徳の書状は後世に作られたものかもしれないが、今の段階ではそうだと言い切れないと思う。
五徳が婉曲的なやり方で、家康と武田の結び付きを訴えたという風に取れなくもないしね。
231 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 19:20:51
>>229 信長から武田との内通を指摘された家康が、知らないと言い張り、
嫡男と正室に罪を押し付けて殺した、ってことでいいのかな?
五徳と築山殿の不仲は手紙を読む限りそうなのだろうけれど、
こういう手紙が後世まで伝わっている例も少ないような。
大名家では、嫁姑問題って一般的だったのかな?
家忠日記かな?
信長が心配してきた事も書いてあるな。
233 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 19:21:31
家康「武田さんとお友達になったことが織田の兄貴にバレそーだ!どうしょう…そうだ、奥さんと息子のせいにしちゃおっと」
徳姫「お義父さま、何てことを!」
家康「悪いけど実家に帰ってくれないかな。あ、これ少ないけど取っといて」
234 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 20:01:34
家康って謎の多い香具師だよなw
235 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 01:41:52
>>223 今川貞世(了俊)−貞臣−貞相−範将−貞延−瀬名一秀−氏貞−関口氏広−築山殿
236 :
229:2007/06/16(土) 03:06:54
>>231 信長としても家臣でもない家康の処分を求めることは出来ず、かといって同盟相手を手放したくもない。
家康としても自分の関与をうやむやにしたい。
そこで築山殿の処分を。ってのもあり得る。
家康が嫡男である信康、その庇護者である築山殿を殺害した理由は、
信長の命令説がこれまでのもので、
家康が信康の存在を危惧していたという説が最近の説、
お大の方の陰謀説や武田氏関連が一部の歴史家が唱える説って感じなのかな。
戦国期の大名家では、必要なら身内を切り捨てることはよくあったんじゃないかな。
237 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 09:18:31
あるいは、信長は、暗に、家康の切腹を求めていたのかもしれないね・・・
信康は信長の娘婿だし、同盟関係を維持したいなら、家康よりもむしろ扱いやすい。
娘の五徳はまだ二十代だったし、これから信康の男子を産む可能性も有る、
五徳に男子が誕生すれば、早々と信康を隠居させて孫を松平家当主とすることも可能だったからね。
家康が信康と築山殿を殺害、信忠を新しい家督相続者に立てると、
信長はすぐさま自分の娘と婚約させている。
夫婦仲、嫁姑仲が悪いため、五徳が信長のもとへ帰りたい、というだけだったら、
病気かなんかを理由に帰ってくることもできたはず。
釈然としない事件だな。
238 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 10:48:13
<237訂正。
信忠→秀忠
239 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 12:56:48
>>234 だね
打算で行動しないから下衆の勘繰りが横行する
凡人が評価下すには大人物すぎだろ
240 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 13:34:26
241 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 15:15:37
>>239 そんなお前が日本史板にいることが間違い
242 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 20:54:19
築山殿事件に織田家が関与しているとしたら、
もっと違った動きがあってもよさそうだけどな。
243 :
日本@名無史さん:2007/06/24(日) 09:12:14
織田サイドの資料には何も書かれてないんだっけ?
245 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 12:06:38
「家康は信長をどう思っていたのか」スレで
ちょっと前に築山殿の話題が結構続いてたね。
何で家康は信康だけじゃなく築山殿まで殺したのかって
レスもあったけど、ほんとなんでなんだろう。
>>245 信長の命令と考えれば何の不思議もないが
信長が命令する理由がわからん。
250 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 00:19:34
築山殿は可愛くて純粋で誰からも好かれる魅力的な子だな
しかも処女の可能性が限りなく100%だから好感もてるな
何故に処女?
252 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 22:43:13
昭和58年放送の大河ドラマ徳川家康で、築山御前が無理やり自害させられる場面があったけど築山御前の霊はこのシーンをどう思っているのだろうか?
だけど、なんで家康は築山殿を殺害しなくてはいけなかったんだろ。
信康の件にしても、築山殿が加わっていたと思われてしまったんだろうか。
同じ息子を死へ追いやった信玄でさえ、三条夫人には手をかけてないのに。
なんか他に殺したい理由が、家康の側にあったんだろうか。
だから信長の命令で仕方なく殺したんだろ
信忠は優秀で、信長はそんな卑劣な人間ではないと思い込んでいる人には
何を言っても無駄かもしれないが
>>247>>254 だから、信長の命令だという史料的根拠は?
「三河物語」や「松平記」など、徳川の息のかかった
3等史料しかないだろ?
一方新説は「松平家忠日記」や「当代記」など同時代か
それに近いものがある。
信忠が優秀じゃないって?織田家の家督を既に譲られ
濃尾両国を領し、父に代わって数々の戦いの総大将を務め、
武田氏まで滅ぼしている信忠のどこが優秀でないと?
これに対して信康はせいぜい岡崎城を任されてるだけ。
これだけ言っても
>>254の下2行で退けるつもりなんだろうが。
三等史料というのは反徳川史観による決め付けだろ
当代記は同時代ではないし、
松平家忠日記に信長の命令でないとは書いてないと思うが
「徳川の息のかかった」については否定しないわけだ?
「反徳川史観」なんて言葉も安易に使わない方がいいぞ。
自分が「徳川史観」だと告白してるんだからな。
「家忠日記」には確かに信長の命令でないとは書かれていない。
だがその記述からは家康と信康の間に険悪なものがあったことが
窺える。
通説では家康と信康の間には何の問題もなかったところに、信長が
武田と内通したという疑いをかけて信康に死を命じたということに
なってるから、これだけで通説の怪しさが分かる。
もう一つ聞きたいが「三河物語」には家康が今川の人質時代
主従ともども今川に散々いじめられたということが切々と
書かれている。
ところが最近の研究ではこれはとんでもないいいがかりと
されている。そのわけは恩義を忘れ今川領の遠江を奪い取った
家康を弁護するため。
通説論者はこれも信じるのか答えてくれ。
もう一つ質問。
信長の命令と軽々と言うが、家康がそれに従うという
保証は?
通説では武田への内通など信じなかったが泣く泣く
信康を自害させたという家康だが、なら確たる根拠もなしに
嫡男を殺せというのに簡単に従うかね?
家康の離反という事態も十分に予測できる。ならば信長は
それに対して尾張に大軍を集結させておかなければならない。
がそんな形跡はまったくない。
これに対しての説明は?
信忠が優秀でないって、高柳光寿の亡霊に
取りつかれてるんじゃないのか?
あるいは高柳本人の亡霊か?
高柳は戦国史の泰斗と言われるがこの件に
ついては見当外れと言うべきだろう。
260 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 21:20:54
信忠の手柄話なんて親の七光りと考えないのはさすがだ
そんなに優秀なら自力で本能寺の変を生き延びてみろ
主君への叛乱がどんなに不確定要素を伴うかわかってないし、
光秀の名前を聞いてあきらめるのは水鳥の羽音に恐れをなした平家以下
261 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 22:45:03
すまんが本能寺を生きのびろの意味がわからんのだが。明智軍が殺到する前に逃亡しろというのは後世の我々だから言えるこだし、二条御所にこもった3、400の兵でどうやって1万3千の明智軍に勝てというのか。
>>253 義信事件の要因に三条夫人の暗躍や関連など
無かったのだから、三条を消す必要なてないよw
263 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 02:22:21
>>244 北畠信雄の娘お小姫だよ。信長の孫娘だな。
信雄が秀吉の逆鱗に触れて婚約破棄になったけど。
>>260 なんかもう、読んでいるほうが恥ずかしくなる‥‥
おまえよく言われるだろ、バカだって。
それ事実だから、謙虚に受け止めたほうがいいよ。
>>264 高柳光寿の亡霊に取り憑かれているんだろ。
放っていてやれ。
信忠が本能寺の時逃亡を早々と諦め玉砕の道を選んだことを
ある研究者は判断ミスと評している。
だからと言って信忠のそれまでの実績が消えるわけでは
あるまい。特に武田氏討伐戦などは信長が自分でやりたいと
思っていたのに先鋒の信忠軍が先に終わらせてしまった。
これでも親の七光なんて言うとすれば事実の故意の捻じ曲げであろう。
267 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 21:57:57
話をぶった切ってすまん。
静岡県内の主要駅には歴史探訪という
静岡県の史跡等を紹介するパンフが置いてあって、
このパンフでは家康と築山殿のことも
書かれているんだが彼女について
一般的に知れ渡っているような悪妻話は
一切書かれてない。驚いた事に
家康を正当化するためなのか
彼女を悪妻に仕立て上げる逸話が
たくさん作られたと断言しているし
むしろおっとりした女性だったともとか
三河衆の確執に巻き込まれたとも…とか
書かれていて読みながらニヤニヤしてしまった自分。
こうやって地元で再評価されて紹介されるって
凄い嬉しいぞ。
268 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 23:59:22
>>267 今度見てみよう。
地元の昔話の本を見たんだが、それには「築山御前」の幼名は「おふく」
その後「瀬名姫」と呼ばれたとあり、義元からは「お瀬名」「鶴姫」
と呼ばれていたと書いてあった。
>>131 それは西来院蔵のこと?
信康事件にせよ人質時代の今川の家康いじめの話にせよ
目的は家康の正当化。
戦国の最終的な勝者である家康はいいように歴史を書ける
(本能寺後甲斐にいた河尻秀隆の死なんかもそう)から
歪曲された可能性を旧説論者は考えないかね?
徳川家のお家騒動だったが、家康が権現様になると
妻子殺しなど言えないから信長に責任転嫁したということだ。
何しろ信長の子孫は細々と生き残ってるだけだし信長が悪い
ということにしてもどこからも文句は出ない。
信康事件も、根拠はこれだけではないがそれの可能性が
ある。
270 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 14:04:50
271 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 15:27:05
「この三河の小倅(こせがれ)めが!」って散々いじめられたらしいね。あいつだけは許せないと家康ほどの人物でもそういう存在が居たんだな。まあ誰でも思い当たるふしはあるんじゃないか。俺も分からんじゃないw
272 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 15:43:45
家康が感情的な処分をしたのは、孕石の例と、最晩年に手療治をやめるように忠告した侍医を流罪にしたことぐらいじゃないか。この侍医もやめたほうがいいとは思っていたが家康に遠慮して黙っていた。
秀忠が心配して自己流の治療はやめるように言ってくれと、促されたので、それで言上したんだけどね。家康はワナワナ震えながら真っ青になって怒ったそうだね。その場で即、流罪。だいぶ耄碌してたんだね。
273 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 15:47:41
家康ほどのといっても小さい頃に
自分を叱った相手を何十年も経った後に
処刑したような人間なんだがなw
274 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 17:12:12
俺も出来るなら今でもやりたい奴はいるぞw
>>271 ヲイヲイ、三河物語の記述をそのまま
信じてるんじゃないだろうな。
ある程度のいじめはあったかも知れないが
今川義元によるそれはない。
少なくとも家康がそれを恨みに思って、後年
今川家を裏切るようないじめはなかったというのが
近年の見方。
>>275 その「近年の見方」ってのは、どうやって導き出された定説なの?
277 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 22:07:12
>>267 へぇ。それは初耳。
いままでだと静岡県って全般的に家康マンセーで
今川時代の歴史を抹殺したい的な雰囲気が強いと思ったが。
278 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 22:13:05
俺も権力を手に入れたら、殺したい奴はいる。
家康の気持ちはよく分かる。
>>276 別に定説とは言ってないが・・・
今川に家康主従がさんざんいたぶられたというのが
とんでもない言いがかりだというのは
谷口克広著「目からウロコの戦国時代」(PHP研究所刊)
という本にある。
一読をお勧めする。
280 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 22:26:42
>>278 しかし感情に任せてやりすぎるのも戦略上まずい。
孕石の場合は、今川を裏切って武田についた経歴があるのだろうから、
その辺を大義名分にして殺すのもアリかも知れないが。
281 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 22:28:35
>>275 個人的例外の話をしてるんだよ。
今川家の人質時代には、それなりの礼遇と教育を受けてる。
トラウマになるほどヒドイ記憶しかないなら、晩年駿府に隠居しないだろう。
282 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 23:01:53
>277
今川を消しさりたい風潮があったのは
否定しないがそれは県全体というより
静岡市とその周辺の一部に特化。
東部や西部の人間は何でもかんでもみかんにまで
家康ってバカだらと実は思っている。
>>275>>279 家康と家臣では立場が違うし、感じ方も違っていた。
家臣は戦のときにいつも先鋒に立たされ危機に曝されたことを恨みに思っていたが、
家康はむしろ心意気に感じていた。
三河物語は家臣の立場で書かれたもの。
284 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 02:54:01
>>282 県西部でも明らかに家康マンセー傾向はあると思うぞ。
以前に浜松で入手した地元作成の観光パンフでは、浜松城が家康の居城だった
こととか三方が原合戦の話ばかりで、今川の「い」の字も出てこなかった。
一方どういう文脈かは忘れたが、「織田」とか「豊臣」という文字はあったと
記憶する。
あと県東部の場合は、北条早雲に関連する逸話や史跡が結構あるから、
家康マンセー度が県内他地域に比べて低いといっても、だからといって今川への
人気が高いというわけでもなく、むしろ後北条に対する萌え度が高いといった
ほうのが正確だろう。
285 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 06:31:49
東部は戦国時代より頼朝萌えだろうなぁ
286 :
日本@名無史さん:2007/07/19(木) 19:28:54
287 :
日本@名無史さん:2007/07/19(木) 21:40:11
>>285 頼朝萌えなのは鎌倉を中心とした神奈川県東部。
神奈川県西部から静岡県東部では後北条萌えのほうが有力。
288 :
日本@名無史さん:2007/07/19(木) 22:00:24
の割には東部での北条縁の祭りって
山中城址ぐらいだねw
289 :
日本@名無史さん:2007/07/20(金) 00:50:07
>>283 相当の武士が髪をわらで結び、顔を隠して泥田を耕す、道で今川方の武士に逢うと、挨拶するのが辛さに、わざわざこれを避けてあるいていた。これが当時の松平党だからな。
或る老臣の家で、女子の初児が産まれ、これに産衣を一枚新調して祝おうということなったが、新しい布子が調えられたときには、すでに八歳になっていた、という話もある。
義元は家康に対しては厚かったと思うよ。あえて他のは抜きにして考えるが、家康握ってれば松平党をおさえられるから。
だが「三河物語」はそれだけでなく
家康もみじめな生活を送っていたと書いてるからな。
だからこの本を主な根拠とする信康切腹は信長の命と
いうのにも異論が出てるわけで。
人質時代の苦労が多少オーバーに書いてあるくらいで
それをもって信長の命令も嘘だと断じるためには
この本に対してよほどバイアスかかった見方しないといけないだろうな
293 :
日本@名無史さん:2007/07/20(金) 21:12:03
>289
東部出身の俺から言わせると
北条萌えはいたとしても三島と沼津の
一部ぐらいだな。だがその三島もかなり頼朝寄りだし
富士や宮あたりになると土地柄もあって武田萌えか
同じく頼朝や曽我兄弟寄りだな。
このあたりはあのまま富士氏が
北条と手を組んでれば また違ってただろうが…
294 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 01:51:23
>>293 御殿場や裾野などの駿東地域は全般的に後北条への引力がある。
また東伊豆は思考回路が小田原辺りとほとんど変わらない。
あとこれは東部に限らず伊豆を除く静岡県全般にいえると思うが、
武田に関しては、萌えの対象として見るか、侵略者として見るか、2つに分かれる。
これは、人によって、また地区によっても異なると思う。
だったら最初から駿東から東伊豆にかけてと
書けばよかったじゃん
頼朝の場合は東は伊豆から西は宮だから
東部とまとめても異論はないだろうけど
296 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 18:40:40
西伊豆だって普通に後北条萌え強いだろ。韮山辺りとか。
てゆうか戦国期の大名で、どこにシンパシーを感じるかの話なのに、どうして頼朝が出てくるのか意味不明。
頼朝に関しては、ぶっちゃけ南関東から東海地方にかけての地域では全般的に萌えると思うけど。
298 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 21:55:04
そもそも東部の一地域の話をさも知ったか
よろしくで東部全体のような書き方をしたから
同じ東部他地域の人間が異議ありと
現状踏まえて発言してるだけに見えるが…。
なんだかんだ言っても東部はまず頼朝ありきで
次が戦国だからね。でも戦国にはそんなに
重きはおいていないけど。多分複雑すぎる
歴史的背景諸々の事情でこういう風潮に
なったんだろうなと思われ。
299 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 02:31:19
>>298 お前バカだな。
戦国より源平時代に萌えるなんていうのは歴史ヲタだけの発想。
歴史にそんな詳しくない普通の人は頼朝みたいな大昔のことはイメージ
沸かないし、年配の人とかから断片的に聞いたりして、なんとなく戦国時代の
北条氏は凄かったみたいなイメージを持ってる。
あと静岡県東部の中心は沼津・三島地域だから、「東部では○○」といったら
普通はこの地域の住民の認識を指す。
山奥の隔離部落に住む土人の考えなんて聞いてない。
300 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 02:37:34
あと静岡県西部の中心は浜松地域だから、「西部では○○」といったら
普通はこの地域の住民の認識を指す。
山奥の隔離部落に住む土人の考えなんて聞いてない。
東部の中心が沼津あたりなのは否定しませんが
その沼津と三島の住民代表である市長同士が
まずあそこまで対立しているのに
東部の認識となるとはとても思えないんですが?
沼津は市民の大半は早雲は知っていても
かつては城下町で早雲が関係してたなんて
知らないですし三島も北条といえば
だいたいが伊豆北条で後北条は小田原と
思っている人の方が多いように思います。
なにせ以前早雲を大河にという運動があった時も
盛り上がったのはほんの一部。この運動で
初めて北条と関わってた土地と
知った人も少なくありませんでした。
本当にあなたのいう通り東部が北条萌えならば
この運動にしてもお祭りにしても
本来ならもう少し盛り上がったり
北条が取り上げられもいいのではないでしょうか?そういう実績が
ないにも関わらず東部は北条の一点張りなので
いろいろと噛みつかれたのだと思います。
302 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 00:02:59
沼猪や三豚の認識が東部の認識だなんて伊豆はもちろん
三島なんて相手じゃねの【長泉】や約束は守れよ沼津の【清水】
両市のいがみあいに巻き込まれるなんてもううんざりだの
【裾野・御殿場・小山金持ちグループ】
こっちには関係ねー話と全く相手にせず独自路線を突き進む
【富士・富士宮・芝川富士山グループ】の住民にとっては
えらく迷惑なご意見この上ないだろうなw
基地外がまだやってるよ・・・。
もういい加減に飽きてこない?
特に
>>301は長いし、ムダに改行しすぎ。
せめてもう少し要点まとめて簡潔に書けや。あと適度に読点を打てよ。
徳姫ってどんな人柄の女性だったんだろう。
実際信康との仲はあんまりうまくいってなかったんだよね?
信康も家康の子殺しを擁護するためか?残忍さが強調されてるけど
癇癪持ちではあったんだろうか。
家康と秀康との仲をとりもったり結構いい感じなんだが。
305 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 18:49:15
age
306 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 15:53:56
月を吐く
↑その本買った。
忙しかったからまだ読んでないけど。
来週から夏休みだから読むつもり。
>>306 この本の瀬名姫可愛いよ
この作者に淀殿とか義姫みたいな一般的に悪女、烈女って言われてる人物の小説書いて貰いたい
>>308 書いて貰いたいも何も、
諸田玲子はそういうスタンスを時代小説に持ち続けてるけど?
最近では、幕末の「村山たか女」をヒロインにした
タイトルも「姦婦にあらず」って作品を新聞連載してました。
310 :
308:2007/08/07(火) 10:38:04
>>309 そうなんですか!
この人をよく知らなかったんで…無知ですみません;
戦国〜江戸位の人物で他に誰か書いてますか?
311 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 17:21:34
結構沢山書いてるからなぁ…
具体例は挙げないけど、江戸の話はかなり有ると思うよ
最近お江の話書いてなかった?
313 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 23:05:10
美女いくさというタイトルで連載中@読売夕刊。
先週あたりはお江が家臣の男とできていたw
>>310 諸田玲子の時代小説の守備範囲は広いことで有名で
平安王朝〜江戸市井もの、幕末まで書くという珍しい作家だよ。
どんな作品があるかは検索してみたら。
於大がウザい<月を吐く
>於大がうざい
普通は大権現様の母堂ということで評価の高い於大を
ああいう意地悪姑にすることが話の骨格になる小説だから。
家康・広親がウザい
>>310 家康関連で言えば、家康最後の側室であるお六を主人公にした「仇花」がある
お六が自意識過剰なクソガキみたいに書かれてたけど。
319 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 02:04:23
瀬名姫様…薄幸美女萌えv
320 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 23:17:10
「仇花」では英勝院がとても良い人に書かれている。
321 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 12:18:30
家康には祟らなかったのはなぜ?
322 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 03:52:39
今川義元が松平元康を虐待していたように言うな!!
姪にあたる築山殿と娶わせたということは、外様に対する厚遇ではないか!!
323 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 04:54:22
>>322 そうだ!そうだ!
義元公を中傷するな!
324 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 05:46:39
松平元康は義元が討死したあと、今川家の名跡を乗っ取って
「今川元康」になる道もあったのではないか?
325 :
YAP?:2007/08/23(木) 23:55:05
今川氏真がを、松平元康が追放したりせず、捨扶持を与え、やおら、息子の信康あたりを、氏真の
養子にするのが、みんなが納得する方法だろう。
ただし、信長や信玄が、大反対するかもしれないが。
於大嫌い
小説に限らず
はいはい。
瀬名姫さま嫌い
…嘘です
329 :
日本@名無史さん:2007/08/25(土) 10:55:04
梓沢要著「女(おなご)にこそあれ次郎法師」でも良いように書かれているよ。
>>329 良いようにって…普通に良い感じに書かれてるってことだよね?
作者が(良いようにっ)好き勝手書いてるって事じゃなくて
……調べてみよう
331 :
日本@名無史さん:2007/08/28(火) 11:29:24
今川は明治に破産して養子も取れず完全消滅
332 :
日本@名無史さん:2007/08/29(水) 04:19:25
今川氏真は瀬名姫をレイプ
>>329 歴史読本に連載してたやつだよね。読んでたよ
334 :
日本@名無史さん:2007/09/01(土) 21:49:42
関口宏が末裔?
335 :
日本@名無史さん:2007/09/02(日) 07:38:40
>>332 山岡荘八か。あの作品では築山御前は悪い人っていうより
可哀想な人っていう書かれ方だった。諸々の辛いことが重なって
精神的にだんだん参ってしまい、悲劇へと突き進んでしまう感じ。
それに付け込んだのが山岡家康の作中全登場人物ナンバーワンの悪党・
大賀弥四郎……てな図式。
山岡荘八の小説って気持ち悪い。
山岡荘八の「徳川家康」、家康マンセーがスゴイ。まあ、家康だけでなく
母親の於大マンセーもヒドイ。
今川家に行く筈の竹千代が、織田家にさらわれてしまい
その後竹千代に面会を求めに信長の下に訪れた於大に
信長が「俺はこの内儀を見初めた」と言わせる場面や、
家康の所に使いへいった滝川一益が、家康に心を奪われそうになるシーンとか。
石川数正が家康の元を去ったのも家康ことを思ってのため・・とか。
スゴイマンセーしすぎ。
あれ読むと家康嫌いな人は嫌悪感を感じるんじゃないか。
保守
341 :
日本@名無史さん:2007/09/17(月) 00:49:26
山岡荘八は濃姫も中々のマンセー
山岡氏は人気高いよね。
話が面白いし。
確かに家康寄りかなあ〜と思う内容ではあったけど。
>>341 山岡さんは自他ともに認める家康びいきだからな。
344 :
日本@名無史さん:2007/09/18(火) 17:30:51
小説は歴史的事実を書くものではないのだから、
おもしろければそれでおk。
日本史板で小説の話をしてもしょうがないのだが・・・
築山殿は再評価するほどの貢献はしてないと思うな。
ただ伝わるほど悪人ではなかったろう、という推測はできる。
築山殿の正しい検証をきちんとしてあげなければ
いつまでも成仏できないだろうな。
築山殿切腹は織田徳川連合軍による共犯
多分信長が指令出したんだろう(武田の宿敵は信長だから)が家康は喜んで黙認したであろう
家康は将軍になったら今川家の旧臣何人か切腹してるし
信長より家康のほうが今川の血を憎んでいたであろう
347 :
日本@名無史さん:2007/10/05(金) 00:54:36
日本語でおK
348 :
日本@名無史さん:2007/10/15(月) 16:05:53
349 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 16:24:57
>>334 今川一族の関口氏(築山殿の実家)かい?
350 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 16:25:07
桶狭間以降のハッキリしたことがわかってないんだよねぇ
351 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 17:45:52
小説や劇画じゃ氏真の愛人だったことになってるけど、ホントのところはどうなの?
>>348 また、徳川の捏造説を必死になって主張してやがる!!
信長様はそんな人間でないのにw
家康のせいで江戸時代の信長の評判が下がったのは事実。
許せん。しかも、現代にまでも信長様を悪く言う馬鹿な連中が後を絶たない。
悲しすぎる〜
353 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 12:32:51
本物の家康は桶狭間で死んだんだよ。
瀬名と信康を殺したのはニセ家康。
354 :
日本@名無史さん:2007/12/27(木) 16:18:01
しかし、築山殿まで殺したのは理不尽だよな。
家康が嫡子信康を切腹させる12年前、
家康が信奉した武田信玄が嫡子義信を切腹させているが、
このとき義信母で信玄正室の三条の方は処分されることなく、
三条の方は3年後に病死している。
息子殺しのみならず、妻殺しが家康に暗い影を落としているな。
>>354 ことの真相やからくりはともかく、
築山殿自身が不義密通・・・した?嫌疑を
(真偽はともかく)もかけられてしまったんだから、
果ては殺戮までいったんだろうよ。
彼女の実家も抹殺したかったのだろう。
お家騒動の傍観者であり公家出の三条夫人とは背景が異なる。
比較にならない。
356 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 11:30:03
築山殿密通は「三河後風土記」徳姫が父信長に宛てた
密書にあるのだけれども、同じ文章中に
築山殿が小山田という侍の妻になることを承諾していることを記すなど
不可解な内容が多く、徳川幕府が改ざんした可能性が高い。
当時の一次史料には出てこない。
357 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 17:04:20
>>355 >彼女の実家も抹殺したかったのだろう。
瀬名氏も関口氏も旗本として幕末まで残るのに抹殺?
理由や真相は闇の中でも、築山殿は家康にとって不要な存在、
消したい存在だったということは言えるんじゃないの。
359 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 09:22:07
瀬名姫を評価せな
山岡荘八はつまらんし嫌い
歴史人物とイデオロギーを結びつけて無理やりマンセーする
下品なやり方に虫唾が走る
361 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 12:28:16
殺したところであまり意味がない人のような気が
362 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 19:49:19
今川に従属していた過去の象徴を消し去りたかったのかな
363 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 22:24:24
以前に誰かがこのスレで書いてたが、
築山殿は武田氏と内通していたのではなく、武田氏との交渉役だったのでは?
不要になったから切り捨てられたのはその通りだろうけど。
築山って名字たまに見るけど関わりあるの?
365 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 09:31:01
日テレで今夜7:58から築山殿が取り上げられるね
366 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 20:32:27
悪は徳川家康だね。
とんでもないワル
367 :
日本@名無史さん:2008/09/08(月) 23:08:41
信康に男児が生まれていたらどうなってたかな?
信康と一緒に消されるか、結城秀康のような立場になるか。
368 :
日本@名無史さん:2008/09/09(火) 21:25:33
>>363 正室だろうが武家の女性にそんな権限はなかっただろう
だいたい交渉役なんて下っ端の仕事
なんで家康夫人が諜報みたいな汚れ役を買って出るんだ
>>368 毛利家の史料など読んでると、交渉役を元就長男正室が行なったと
捉えられるような書状がでてきたりするよ。
370 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 22:12:27
戦国時代は、今川義元の母(寿慶尼だっけ?)とか、細川政元の姉とか、相当な権力を持った女性もいっぱいいるしね。
371 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 22:18:54
瀬名氏は、今川一族の中でも武田氏と近かったらしいよね。
372 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 22:21:25
瀬名氏って何?
築山殿は関口氏だろ
しかも親兄弟縁者は夫の家康が今川を裏切った際に
皆殺しにされていて築山殿の親類はこの世になかった
373 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 23:32:43
wikiでは瀬名姫は救出後に於大の方に幽閉されたって書いてたけど
どの文献に書いてたんだろう?
375 :
日本@名無史さん:2008/10/27(月) 14:16:25
於大の方⇔築山殿やら築山殿⇔徳姫やら嫁姑争いが激しそうだ
於大の方⇔徳姫も仲が良いとは思えないしな
377 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 03:40:40
真偽のほどは分からないが中公新書「徳川家康」に
>家康は「女のことだから処置のしようあったろうに、考えもなく討ち取ったのか」と嘆息したという。
という記述がある
家臣の独断か、それもありえるかな
379 :
日本@名無史さん:2008/10/31(金) 22:37:22
>>378 命じている?んだけども意を察してくれみたいな話
さすがに信康はそうもいかんだろ
380 :
日本@名無史さん:2008/11/01(土) 01:28:09
築山殿の事でしょ
381 :
日本@名無史さん:2008/11/01(土) 21:47:25
>>377 家康は妻である築山殿を殺害した家臣を処罰してないしね
さすがにそれは後世の作り話でしょ
382 :
日本@名無史さん:2008/11/02(日) 00:13:31
>>381 377=379です
作り話とまで言えるかどうか分からんが一応東大国史学科卒(戦前)北島正元という人の著書なんで書き込んだ次第
>>381>>382 たぶん「築山殿処分の事、その方どもに任す」
みたいな曖昧な命令だったと思われ。
家康本人としては、出家させるとか、
どこかの城か寺に軟禁するとか、
そういう意味の「処分」だったのが
家臣の方で言外の意図を察して殺してしまった。
ただ、そういう曖昧な命令を出したのが家康本人なら
家臣の処罰なんて出来っこないだろう。
>>356 > 築山殿が小山田という侍の妻になることを承諾していることを記すなど
> 不可解な内容が多く、徳川幕府が改ざんした可能性が高い。
小山田の妻になることを承諾していると不可解ということでもないかと。
築山殿は徳川から出たかった。そういう細かい実態まで知らない
織田から見ると内通と受取られたということであれば自然な流れ。
12ヵ条そのものが本当に存在していたらね。
>>385 >>356は密書の内容を根拠に密書の存在を疑ってるのだから、
密書の内容ではなくて存在そのものを疑うのであれば、
>>356とはもう関係ない。
387 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 05:16:58
家康による信康(切腹)、築山殿の殺害は事実だが
どうしてこんな事になったかよく分からない
通説(?)は置くとして
信長と結ぶことへの家臣団内部の対立が有ったとしても
事件後大きな粛清があった様子もない(信玄、義信の場合と違う)
むしろ信長がそれを口実にして家康を潰しにかかったのを
体を交わしたというのが案外真相ではなかったんじゃないか?
>>387 それが一番古臭い通説なんだが・・・・
信長がくまだ武田家すら滅んでない状態で
徳川を潰しにかかるなんてありえんね。
>>384 小山田・・・つったら小山田信茂だな。年代的に。
武田勝頼の家臣で天目山の戦いの時に主君勝頼の首を討ち取り
織田に寝返ったが妻子もろとも処刑された。
>>389 小山田の一族なんてゴロゴロいただろう。
信茂とは限らん。
391 :
日本@名無史さん:2008/12/10(水) 18:06:03 BE:489396285-2BP(0)
幽閉されてた上に正室じゃなくなっていたみたいだからなあ。
仮に反逆ができたとしても、信康を唆すくらいしかできなかったと思う。
392 :
日本@名無史さん:2008/12/31(水) 06:05:39
>>388 形容詞付けてまで決め付けたり
「ありえんね」と書いたり・・・
貴方の考えてる通説を具体的に書いて欲しいが?
393 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 17:57:32
上杉謙信の没により起こった上杉家の家督相続にまつわる騒乱に
武田勝頼がかかわったことで織田信長は初めて信濃が取れるかもしれないと思い
信長の最もの関心事は武田のことだったろうね。
朝倉戦で最も危険な先陣を切らせるなど当時の家康はまさに信長の犬。
最も危険な箇所に自軍の尾張兵ではなく家康の三河兵を当ててきた信長にとって、
娘婿でもある信康は最も織田の犬となるに好都合な人物であり、これを失うことは最も嫌っただろう。
信長がこの時点で徳川を滅ぼす利点が見当たらない。
家康が信長に反抗しようとしたという明確な史料があるなら別だが、
こののちも織田ー徳川同盟は継続しているし、
家康ー信康親子ならば信長のどんな無理難題をも断れず、働いただろうから。
>>391 築山殿は嫡男信康と自由に手紙のやりとりができていたし、
「幽閉」というのも違うだろうね。
築山に屋敷があり、ここに住んでいた時期があることは事実だろうけど。
築山殿の存命中に家康には次男、三男(秀忠)が生まれている。
しかし、次男、三男が嫡男とされず、築山殿の産んだ信康が嫡男とされて
信長の息女と結婚している辺り、築山殿が正室ではなかったとは考え難い。
里が滅んでも正室の地位にとどまった女性は多く(将軍秀忠の正室お江与・
前田利家の正室まつなど)実家が滅んだからと言って
築山殿が正室の地位をはく奪される積極的理由にならないし。
395 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 20:02:15 BE:293638638-2BP(0)
最近の説だと武田家や築山殿関係無しに、
信康自らの意思で信長と家康を軽んじてたみたいなんだよなあ。
>>394 家忠日記では正室〜様ではなくて、信康母様と呼称されていたから
正室ほどの権限は既に無かったんじゃないかな
397 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 08:27:20
家康の妻ではなく、信康の母親という肩書きで岡崎に住んでたということか。
事実上の離婚状態だったのは間違いないと思うが…
398 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 22:18:00
築山殿の生前には、家康に継室はいないし形式上は正室のままだろう。
形式上はね
家臣達の大半にはそう思われてなかったようだけど
400 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 08:07:28
アイルトン
401 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 15:02:40
対外的には正室、内部的には単に信康生母ってことね
402 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 19:56:25
築山殿を差し置いて正室待遇された側室もいないけど
通説では秀忠・忠吉生母が側室の中では最も愛されてた事になってるけど
実際はどうだったのかな
子供って目に見える存在がいるから閨をともにしたのが分かるし、
次代の将軍の生母だから脚色するだろう。
だからといって、家康が特別に何かしたって訳でもないから
話半分以下って感じだろうなぁ。
405 :
日本@名無史さん:2009/08/15(土) 19:01:22
保守
406 :
日本@名無史さん:2009/08/15(土) 19:05:50
評価する点がない
評価よりも検証が必要な人だよな
秀忠吉の母は三河でも名族の出身だからでしょ
なるほどね
410 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 19:43:31
age
再評価
412 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 22:32:41
鈴木一蔵生母のことは知ってたのかな
413 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 22:03:49
ところで、築山殿って今川義元の血縁者らしいけど、どういう関係があるの?
414 :
日本@名無史さん:2010/03/12(金) 21:33:23
>>413 築山殿の母は今川義元の妹。
つまり、義元は築山殿の伯父に当たる。
415 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 17:42:32
とある一説
信長にとって信忠より優秀な信康が目障りだった。
そこで口実を設けて信康抹殺を謀った。
築山殿謀殺はその布石。
信長公記に記載がないのは同盟者の妻子の謀殺したなんて外聞が悪いから。
徳川実記等で信康母子の評価が低いのは、
仮にも「神君」家康公が信長の脅威に屈して己の妻子を殺したとあっては甚だ都合が悪いから。
帰れ
417 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 21:01:36
>>415 一説・・と言うか、今時築山殿の姦通やら徳姫の書状やらを信じてる人なんかもはや少ないんじゃないかな。
徳姫の書状に関しては松平記も記述はあるから信頼してもよいかと
松平記そのものは信頼とまではいかないレベルだぞ
420 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 23:12:42
松平記……どう考えても徳川に都合のよいことしか書いてないんでないかい?
五徳の書状自体後世の作と言われてるんだよ。
421 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 23:14:03
たしか松平記は軍記物で著者不明の上に江戸初期のいつ成立したものか解ってないんだよな
>>420 三河物語にも書状があるとされていながらも内容については触れられてないんだよな
>>422 松平記は慶長初期と言われている
内容的には家康が切腹を決断したとか、重臣と信康の不和がしっかり書かれている
そういう自家に不都合なことをはっきり書いているから、そういう意味では捨てきれないかと
家康の決断はまだしも、不和を起こしたのが岡崎城外の重臣だったらあまり他の徳川関連資料と大差はないような
信長に会ったのは酒井忠次と大久保忠世となっている>松平記
それに家臣と不和になったとあるのは安土日記やそれを基にしたと思われる当代記
あれ奥平信昌は?
いない
いたとしてもこの話には関係ないから外された可能性はある
信康は大久保忠世もしくは忠教以外の大久保一派との仲も悪かったって書かれてなかったっけ?
何に?
松平記
自分が読んだ松平記にはそういう記述は無かった
432 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 16:58:35
築山殿の母は今川義元の側室井伊氏を養妹にしてから関口氏に嫁がせたって説あるよね。
関口氏も、父の実家の瀬名氏も双方とも今川の庶流だから、築山殿が今川氏の血筋であることは確かだけど。
433 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 18:07:17
築山殿って築山御前のことでいいの?
俺は御前谷に住んでるから、浜松での不思議な話を書いておきます。
『その1』
浜松市広沢3丁目にある西来院という寺院に築山御前の廟があります。
現在は立派な廟がありますが、以前はボロボロで土塀も大半が崩れていて
まるで化け物屋敷のようでした。どのようにして新しい廟が建てられたかを話します。
ある日、西来院の先代の住職を尋ねて九州から一人の老婦人が来ました。
老婦人が先代住職に話すには、毎晩、老婦人の夢枕に戦国時代のお姫様が出てきて
自分の墓が荒れ放題になっているから修復して貰いたいと言うのだそうです。
お姫様は、自分の墓は浜松にある、と言うので老婦人が貴方は誰か?と聞くと
徳川家康の婦人だと言うのだそうです。老婦人は大金持ちで、イロイロ調べた結果
浜松の西来院に築山御前の墓があることを突き止め、九州から来たのだそうです。
先代住職が老婦人を築山御前の廟に案内したところ、
夢に出るお姫様が言うとおりになっているので老婦人は驚いたのだそうです。
早速、老婦人は大金を寺に寄付し新しい廟を建てたのです。
西来院にある築山御前の廟に関する不思議な話です。
434 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 18:17:20
433です。
静岡県でも、静岡市と浜松市では徳川家康の印象がかなり違います。
静岡市の徳川家康は大御所様として尊敬されています。
一方、浜松市の徳川家康の印象は、静岡市とだいぶ違います。
徳川勢が三河から遠州に攻め込んだ時の大虐殺の様子(獄門縄手)、
三方原の敗北、築山御前の暗殺、信康を切腹させた、などなど
若い家康の暗部の多くは浜松で行われました。
浜松で語られるのは、築山御前の呪い、であります。
『その2』として、浜松城に建てた徳川家康の銅像についての
因縁話を書きます。
435 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 18:27:00
434の続きです。
『その2』
浜松城に建っている徳川家康の銅像建設にまつわる因縁話を書きます。
当初、浜松城公園には徳川家康の銅像は無かったため、
浜松の経済界等の有志が協力し銅像を建てることになりました。
代表者5人を決め、銅像を建設したのです。
すると代表者5人に次々と不幸が起こり、
短期間のうちに5人は死亡してしまいました。
偶然といえども奇妙な出来事だと言われ、
やはり浜松には雪山御前の怨念が立ち込めているのだと
噂になったことがありました。
436 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 18:32:28
435の続きです。
俺の住んでいる御前谷は現在住宅地になっています。
築山御前を船に乗せて連れてきた佐鳴湖は御前谷の直ぐ近く。
御前谷の中央には、現在、浜松医療センターがあり、
センターの向かいの駐車場の横に築山御前の首をはねた刀を洗った
太刀洗いの池の跡があります。駐車場の南側に川がありますから
あのあたりは湿地帯だったのですね。
437 :
日本@名無史さん:2010/05/31(月) 23:15:00
信康以外に築山殿の子はいたの?
438 :
日本@名無史さん:2010/06/01(火) 14:48:14
浜松は築山御前に呪われた土地ってことですね。
亀姫、少し昔に日光江戸村女優さん主役でドラマにもなった女だぞ!