■弥生人中国説にダマされる前に読むスレ■

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1日本@名無史さん
江南説にしろ華北説にしろ、弥生人が本当に中国から来たのなら、

何で印文陶や灰釉陶を含めた中国灰陶の技術が全く伝わっていないのかね?

何で中国青銅器に見られる篆書などの原始漢字の金文が一字も
伝わっていないのかね?

何で中国青銅器に見られる饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文などの
文様の一つさえ伝わっていないのかね?

何で中国土器や中国青銅器を代表する鼎や鬲などの三足器形さえ
伝わっていないのかね?

渡海すると短期間で記憶喪失になって故郷の文化を全て忘れてしまうのかね?

何で弥生文化は紅陶無文土器の技術の弥生土器と支石墓文化なのかね?

これらは当時の満州から朝鮮にかけての文化ですよ。
2日本@名無史さん:2006/07/09(日) 16:37:47
約6500年前には既に灰陶時代に入り、約4200年前には既に施釉陶時代に入る。



黄河中・上流域ではB.C.4500年に老官台文化(陝西省)が誕生し、
北首嶺遺跡などからは灰陶が出土している。

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm



中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm
3日本@名無史さん:2006/07/09(日) 16:38:54
BC20C頃の二里頭文化では、すでに建築技術は壁、軒などをもつ現代の物と
さほど変わらず、原始磁器(灰釉陶)が焼かれていた。



BC1900頃

鄭州市付近に二里頭文化。宮殿とされる大きな遺跡があるが盗掘されたようである。
(殷墟は鄭州市の150キロほどの北にある)
青銅器の本格的な使用が始まっている。
出土物から四川省や甘粛省などとも広く交流している。
宮殿は壁、軒などをもつ現代の物とさほど変わらない物になっているようである。
土器は高温で焼成され、当地では原始磁器と呼んでいる。後期には登り窯が発見
されており最古とされる。

http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kodai_old/kks-koga.htm
4日本@名無史さん:2006/07/09(日) 16:39:39
灰釉陶は中国全土で焼成されつづけるが西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、
福建省などの中国東南部では印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋
時代(B.C.770年〜476年)華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。戦国時代
(B.C.476年〜B.C.221年)に入ると灰陶が主流になるが、目を見張る立派な黒陶も出土して
いる。鉛釉陶の走りもこの頃から見られるようになる。

http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

原始磁器は,揚子江下流地域に源流があるといわれる。殷代中期の二里崗文化には,灰白色の
胎土でつくられ,器の内外に光沢のある薄い釉がかかり,硬度が高く鋭い音色を出し,水の
しみこまない原始磁器が出土している。殷代後期から西周時代には,浙江・江蘇・江西・安徽・
山東・河南・河北・陝西などの各省の遺跡から,原始磁器が出土する。器形には,尊・壺・豆・
鼎・杯などがある。春秋戦国時代には,揚子江以南で多くつくられ,改良が加えられていく。
土灰釉による褐・緑色の原始磁器は,その後しだいに発達して,後漢時代に青磁となる。

http://www.tabiken.com/history/doc/F/F303L100.HTM
5日本@名無史さん:2006/07/09(日) 16:40:32
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
型押の幾何学文様(印文)の一つさえも伝わっていないっ!


●印文土器 いんもんどき アジア 中華人民共和国 AD 

中国の東南没岸地帯地において新石器時代から漢代にかけて盛行した土器。
中国では印文陶と呼ばれる。焼成火度の差によって,軟陶と硬阿の二種類に
分けられるが,軟陶は前期,硬陶は後期のものになる。また,文様は型押の
印文が最も多く,20種以上の複雑な幾何学文様が器全体に施されるため,
幾何印文土器と通称される。製法には型製・手製・轆轤製のものがあるが,
轆轤製のものは少ない。器形は壺・甕の類が多い。色調は,軟陶では紅・灰・
灰白・黄白色で,硬陶ではほとんどが灰褐色で中に帯釉しているものがある。
印文土器が最も盛行するのは春秋戦国時代においてであるが,出土地域が
広範なため,この土器の文化的位置付けはむずかしい。

http://www.tabiken.com/history/doc/B/B263C100.HTM
6日本@名無史さん:2006/07/09(日) 16:41:08
西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、福建省などの中国東南部では
印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋時代(B.C.770年〜476年)
華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。
http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
7日本@名無史さん:2006/07/09(日) 17:21:48
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
最も代表的な器形である鬲、鼎などの三足土器さえ伝わっていないっ!


●三足器 さんそくき 

中国における3本の足をもつ土器・青銅器の総称。三足器には,食物を煮るまたは
盛る鼎(てい),中空の袋状三足に水を入れて煮沸し,その上の「甑(そう)」
(こしき)にのせた穀物を蒸す鬲(れき),鬲と甑が結合して一体となったゲン
※注1※,酒器のカ※注2※,燗酒をつくるキ※注3※・カ※注4※・爵(しゃく)
などがある。しかし新石器時代の原始的土器には,水や酒を入れる壺(こ)や,
食物を盛る豆(とう)などにも三足のついたものがあり,器形も未分化・不定形
であった。たとえば,磁山・斐李崗(はいりこう)文化の三足つき壺・鉢形鼎,
仰韶(ぎょうしょう)文化の種々の形鼎,大ブン※注5※)口文化の三足つき
釜形鼎・鉢年鼎・觚(こ)形器,取手・三足つき鉢形細柄豆など種々ある。
また大ブン※注5※口文化において三足土器が,実足から空足,さらに袋状と変化
し,同時に器身も注ぎ口なども変化し,中空三足・注ぎ口・取手つきの大型キ
※注3※が成長した例もある。良渚(しょ)文化や典型竜山文化には,種々の
三足土器が多くなり,河南や陝西の竜山文化にも種々の三足土器が現れ,しだい
に器形がととのっていく。殷代には三足土器もつくられたが,これらの器形を
模した青銅器が鋳造され,また新しい器形の三足青銅器もつくられて,重要な
祭器となり,豪壮な造形と華麗な文様の芸術品に発展し,周代に継承されていく。
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H176R200.HTM
8日本@名無史さん:2006/07/09(日) 17:23:37
1. 華南地域では農業の発達が遅かったため、土器の種類は多くありません。
2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。
3. 黄河流域では、約1万年前から粟やひえの栽培が始まり、約7000年前以降には平底、
丸底、三足の土器が出現。 約5000年前から土器が一変し、中流域では灰色土器、
下流域では黒色土器が現れます。
4. 北方地域西北地方では、約6000年前以前の土器は発見されませんが、彩文土器が
発達したことが大きな特色です。
5. 北方地域東北地方では、約6000年〜5000年前に窯を使用し、彩文土器が出現しました。

 これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域
で形や種類、技法、文様などがかなり異なります。 また、農業の発達によって土器
づくりの技術も発達し、約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な
土器の一つとなりました。土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連
したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.html
9日本@名無史さん:2006/07/09(日) 17:24:43
10日本@名無史さん:2006/07/09(日) 17:25:43
篆書などの原始漢字の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅鐸に流水文・袈裟襷文・横帯文などの文様があるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html

鐸身全体は,横帯文や流水文で水平に分割するか,袈裟襷文で縦横に分割し4乃至6個の左
右対称の小区画を作り出すもので,横帯文系・流水文系・袈裟襷文系の三つの系統に大別され
る(図4)(図3)(図5)。横帯文系の横帯には,斜格子文のほかに綾杉文・鋸歯文・連続
渦文など各種の幾何学文が充?される。
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf#search='
11日本@名無史さん:2006/07/09(日) 17:26:35
饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html

殷の時代に生み出された灰釉陶は、西周時代から春秋戦国時代(B.C770〜 221)にかけて
熟成の時代を迎えることになるが、なお中国工芸の中心は依然として青銅器であった。
祭器としての青銅器から日常生活具としての青銅器へ変化する過程で、文様も饕餮文
(とうてつもん)・〓龍文(きりゅうもん)・〓鳳文(きほうもん)などの神秘的・
宗教的・観念的なもから動物や植物がリアルに写される写実的な文様へ変化していった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
12日本@名無史さん:2006/07/09(日) 18:02:53
篆書など原始漢字の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅剣・銅戈・銅鉾・銅鐸・銅鏡・銅鏃などがあるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。銅鏡は除魔や権威の象徴として用いられた。一般に、西日本
中心の銅剣・銅戈・銅鉾文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏に大別されるが、福岡県の岡本
遺跡や佐賀県の安永田 遺跡から銅鐸が出土したり、出雲族の文化圏を連想させる島根県
の荒神谷遺跡[こうじんだにいせき]が発掘 されたため、疑問視されている。

http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html
13日本@名無史さん:2006/07/09(日) 18:03:32
鼎、爵などの三足器、尊などの酒器など、中国の青銅器の器形が全く伝わっていないっ!


青銅器はその用途により、食器、酒器、水器、楽器のほぼ4種類に分けることが
できる。各種類ごとにそれぞれ品目も複雑で数多く、形も非常に変化に富んでいて、
中国人の豊かな想像力と創作力を反映している。たとえば、黍稷(モチキビ)を
盛っておく「簒」。これは現代のご飯茶碗に相当する。その形は非常に変化に富み、
円脚に丸い胴のものもあれば、円脚の下にさらに四角い台座を加えて重しとしている
ものもあり、四角と円形との対象が美しい。また炊事用として使う「鼎」は、縁に
一対の耳を付け、下げるのに便利なようにしてある。丸い胴の下には三つの脚が
つけられ、獣の肉を煮込む火が燃えやすいようになっている。ほかには「爵」や
「尊」なとがある。「爵」は酒を飲んだり温めたりする食器で、縁の形は酒が口の
方へ流れやすいようになっており、脇に持ちやすいように把手がある。胴の部分の
下には酒を温めるため3本の脚がついている。「尊」は大事な酒器で、丸い形の
ものや四角形、および四角い脚に丸い口をしたものなどがある。このように、
青銅器の基本的な形は、バランスの取れた対称形がほとんどで、荘厳で落ち着いた
雰囲気が特色である。
http://www.roc-taiwan.or.jp/culture/culture19.html
14日本@名無史さん:2006/07/09(日) 18:04:09
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形がさーっぱり伝わっていない。
その代表である三足器形さえも伝わっていない。



◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html



15日本@名無史さん:2006/07/09(日) 18:05:08
BC11C頃の華中の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


呉城文化 B1400?〜B1000?

 江西地方の文化はB3000年〜B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万uで、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。

http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
16日本@名無史さん:2006/07/09(日) 18:06:19
>豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土
>符号を刻した土器や鋳型も発見
>青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、商文化を凌ぐ鋳造技術




印文陶、釉陶、原始磁器、鼎、尊・・・

BC11C頃の華中の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡で
出土しないものばーっかり(嘲笑



17日本@名無史さん:2006/07/09(日) 18:16:07
吉野ヶ里墳丘墓のルーツはどこなのか。中国・長江下流域の江南に多く見かけられる
土?墓(どとんぼ)(B.C.800〜500)ではないかといわれている。(中略)
同じく「土?墓が墳丘墓の源流ではないか」という樋口隆康氏(参考文献5)が江南の
土?墓について書いている。少し長いが紹介したい。[江南の土?墓とは盛土墳で、
地上に埋葬したものである。中原の殷・周時代の墳墓は地下深く抗を掘って埋葬してあり、
墳丘を持たないのが通例である。墳丘は秦代以降に出現したとされるので、江南の土?墓
は中国における墳丘初現の例になるかもしれない]。「この土?墓は長江下流、特に
江蘇省南部の太湖周辺から浙江省杭州や安徽省屯渓までに分布している。すなわち呉越の地
である。丘陵から平野にかけて径15〜30m、高さ2〜3mほどの大小の塚が群在している」。
「この土?墓の盛土は版築ではなく一つの土?墓の中に数個の埋葬がなされている。それらは
地面に礫石を敷いたり、紅焼土を詰めたりして棺床としている。石を遺体のまわりに並べて
囲ったり、あるいは石室を築いたりしている。その石室も竪穴式と横穴式のタイプがある。
これらの土?墓はだいたい西周時代から春秋時代にかけてのものである」。「この墓から出土
する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは
異なった図文をもっており、銅剣は身柄一鋳のものである」。
http://www2.saganet.ne.jp/niesu/zyofuku/dotonbo.htm
18日本@名無史さん:2006/07/09(日) 18:16:42
>この墓から出土する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、




印文硬陶と原始施釉陶が伝わっていない事には一切触れない低脳学者のすっとぼけぶり(嘲笑)




19日本@名無史さん:2006/07/09(日) 18:17:12

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060209-00000148-kyodo-ent
20日本@名無史さん:2006/07/09(日) 18:17:58
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった




原始青磁が伝わってない事には一切触れない南京博物院のすっとぼけぶり(嘲笑




21日本@名無史さん:2006/07/09(日) 18:18:36
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。

「チャイナネット」2003年3月31日

http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
22日本@名無史さん:2006/07/09(日) 18:32:27
>圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、
>砂の入った灰色陶器、上薬のついた陶器、硬質陶器など




BC16Cの華南の出土物さえ日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり(嘲笑)




23日本@名無史さん:2006/07/09(日) 18:34:24
商の都のあった河南省鄭州市で商代の原始青磁が確認されたことから、
この地区から研究はスタートした。その後、長江中・下流域で商代から
戦国期に亘って連綿と原始青磁が、古墓や城跡を中心に相次ぎ発見された。
その生産と消費の中心地が華南地域であることは、ほぼ動かしがたい状況となっている。

釉色は青緑色、青黄色を呈し、器の内面は全て施釉し、外面は底部近くには施釉
していない。大部分の器物の底部にはヘラ書き符号が認められると言う。
時代としては、春秋時代早期に比定されている。こうしたヘラ書き符号を有した
印紋陶器や原始青磁は、広東地区の春秋戦国時代の古墓からもよく発見されると言う。

福建省でも同地特有の原始青磁が確認されているが、その窯跡の確認は未だ
されていない。しかし西周時代にはすでに現地生産がされ出していたと予測されている。

今までに窯跡本体の確認された原始青磁を焼成した窯は、華南地域に限られている。
商代でも浙江省上虞市百官鎮2号窯跡の例の様に明らかな龍窯が確認されている。
http://www.sg-r.co.jp/web/kouko/genshi_seiji.html
24日本@名無史さん:2006/07/09(日) 18:35:10
4000年以上前の東南アジア周辺の遺跡でも三足土器が一般的。


新石器時代:約4,000年以前
出土した土器は、26種の様式をもっていたが、その中でもっとも目立ったものは
三足の鼎であって、先史時代の中国の『鬲(れき)』に似ており、年代を調べた
ところ、これらは約4,000年以前に作られたことが判明した。
カオサムルナム洞窟でも、バン・カオ遺跡出土の土器と似ている同年代の物が出土した。

http://www.toros8.com/ban/his1.html
25日本@名無史さん:2006/07/09(日) 18:37:28
周に入る頃には既に一般的な建材だった瓦さえ伝わっていないっ!


瓦の歴史はきわめて古く、中国では紀元前2000頃にはすでに瓦が登場している。
中国4000年の歴史とよく言われるが、瓦も4000年の歴史を持っている。中国語の
瓦という字は、粘土を焼いたものの総称である。

http://www8.ocn.ne.jp/~kawarak/hana.html

瓦の歴史はとても古く、メソポタミア、インドなどの諸説がありますが、
すでに紀元前2000年前の中国に瓦が存在していたと言われています。

http://www2.odn.ne.jp/sugimotokawara/KAWARA2.htm
26日本@名無史さん:2006/07/09(日) 18:38:09


「水田稲作技術は中国大陸から入っているが 水田稲作に関する
中国大陸の言葉は伝わっていない」

http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/mousou.html


金関  縄文から弥生を土器の移り変わりで見ても、大陸から入ってきたと
考えざるを得ない。ただ同時期の中国土器や金属器はない。
このため日本列島へは朝鮮半島経由だろう。

http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/001.htm

27日本@名無史さん:2006/07/09(日) 18:47:59
 中国・朝鮮・日本の水田跡や出土した農耕具にみられる個性、共通性から
稲作伝播の様子を解明したのが愛媛大学の田崎博之教授でした。

 田崎教授は、中国・長江流域(馬家浜文化後期・紀元前約四〇〇〇年前)、
朝鮮半島(無文土器前期・紀元前七〇〇年前後)、日本(縄文晩期終末=
弥生早期・紀元前五〇〇年ころ)の水田跡の形、水利施設の有無、水田が
造られた地形、土壌などを比較しました。

 また、掘り棒やクワ(鍬)、スキ(鋤)などの農耕具の共通性と個性を検討。
弥生時代の農耕具の主役であるクワが、長江中・下流域にはなく、クワの系譜が
山東半島―朝鮮半島―九州であることを調べました。

 「農耕具の流れ・系譜からみて稲作伝播は北回りルートしか考えられません。
そうでないと、日本でのクワの成立はありえません」と同教授はいいます。

http://www.nouminren.ne.jp/dat/200205/2002050621.htm
28日本@名無史さん:2006/07/09(日) 18:56:57
BC35C頃に高床式住居、甕棺墓(土器棺墓)が日本に出現するが・・・・・


高床式倉庫群、竪穴式住居群、千五百年の営みを積み重ねて来た遺跡、
建物跡ひとつをとっても同じ場所に何度も建て替えられている。
三内丸山に集落があったのは縄文時代前期半ばから中期末までの一五〇〇年間
も古い前期半ばは紀元前三五〇〇年頃、いまからおよそ五五〇〇年前だ。
http://www.d1.dion.ne.jp/~zpmasasi/sannai.html

青森県内の縄文時代早期から中期後葉の墓を集成し、埋葬方法の種類と
移り変わり、配置についての基礎的な分析を行った。青森県内の埋葬方法は、
早期後半に大半が出そろい、前期中葉に土器棺墓、前期末葉にフラスコ形
土坑が出現して副葬品の量にも差が生まれる。
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/special/koubo_sha.html
29日本@名無史さん:2006/07/09(日) 18:57:43
BC50C頃の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の鋤、黒陶や彩陶、
釜・甑・鉢などの器形が縄文時代に全く伝わっていないっ!


浙江省余姚(よう)県河姆渡遺跡を標準とする新石器時代の文化をいう。主に寧紹平原の
東部地区に分布している。河姆渡遺跡には四つの文化層があり,第1層は良渚文化早期と
類似しており,第2層は馬家浜文化の要素がある。第3・4層は河姆渡文化層で,上の両層
よりも古く,注目すべき出土器物がある。土器は原始的な手づくりの,あらい厚手の不整形で,
低温で焼かれた夾炭黒陶が最も多く,混ぜられた植物の茎葉砕片やもみ殻が焼けて炭化し,
土器を黒色にしている。夾炭黒陶は第4層では最大量を占めるが,第1層に至るほど漸減し,
第1・2層では焼成温度の高い砂混じりの夾砂紅陶・灰陶が優勢となる。第4層の土器の主な
ものに,釜・罐(かん)・鉢・盤・器台がある。釜が四つの層を通して出土し,形態と
装飾が最も多様なところから,釜を南方地区新石器文化の特徴とする見解がある。第3層
出土の甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器で,のちに朝鮮・日本などに伝わり,
東アジアに特徴的な穀物を蒸して食べる調理法を普及させたものである。また紡錘のほか,
濃茶の文様を施した数個の彩陶片も発見されている。遺跡層が地下水面下にあったため,
多くの木器が保存され,耜(し。すき)・碗・盆・かい・杵・矛・紡・紡錘などのほか,
組み合わせ部品用と思われる大小の棒が発見されている。
http://www.tabiken.com/history/doc/D/D276R100.HTM
30日本@名無史さん:2006/07/09(日) 18:58:16
見よ!

BC50C頃の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の鋤、黒陶や彩陶、
釜・甑・鉢などの器形が縄文時代にさーっぱり伝わっていない。



◎河姆渡遺跡

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
http://homepage3.nifty.com/sugar-tr/joumonG.html



31日本@名無史さん:2006/07/09(日) 19:01:21
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


渡来系弥生人は大陸のどこからやって来たのでしょうか。最近の調査により、
水稲耕作の発祥の地ともいわれている中国南部が有力視されています。
黄河下流と長江下流に挟まれた地域の漢代の遺跡から、渡来系弥生人に
よく似た人骨があいついで見つかっています。この時代の中国は、政治的に
動乱の時代であり、いろいろな民族が入り乱れて戦いました。日本にやって
来た渡来民は、このような動乱から逃れてきた人々だったのでしょうか。

http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-14.html
32日本@名無史さん:2006/07/09(日) 19:08:03
朝鮮と山東省の骨だけで中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


「土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、
細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系
「新モンゴロイド」の特徴がありました。
彼らのルーツを求めて朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、
中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の
人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極め
てよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国
だったのです。」

http://sakezo.com/shumi/rekisi/keta1.html
33日本@名無史さん:2006/07/09(日) 19:09:26
北方アジアは一切抜きの偏向調査で作為的に中国・朝鮮に誘致していた
スットボケ遺伝学者(嘲笑)


宝来センセイによると、韓国や中国にはそれぞれドミナントなミトコンドリアDNAがあるのに、
日本本土では、とくにドミナントなものがない。つまり系統的にさまざまな人たちから成り立って
いるのである。また、これまで、大陸から渡来した弥生人によって分断され、北に追いやられたのが
アイヌ、南に追いやられたのが琉球人といわれてきた。しかし、アイヌと琉球は少なくとも1万2000年
以上まえに分岐しており、紀元前3世紀以降に渡来してきた弥生人によって分断されたんではないという。
1万2000年前にそれぞれ日本に住み着いたアイヌと琉球人。そこへ紀元前3世紀以降になって渡来し、
稲作をはじめた中国・朝鮮系の人びと。こうした人たちの子孫がわたしたちなのだ。
それにしても紀元前3世紀以降の大陸からの渡来って、それ、秦の始皇帝のころの、徐福たちじゃない?
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm
34日本@名無史さん:2006/07/09(日) 19:12:40
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋と低脳遺伝学者の
偏向調査のコラボレーション。いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


一九九四年一月二六日ニュース報道。山口県豊北町の土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアムの松下孝幸館長(形質人類学)らが、
山東省文物考古研究所を訪問。同省の遺跡から出土した前漢時代の古人骨約七十体について、顔の長さ、幅などを計測し、
北部九州や山口県で発掘された渡来系弥生人骨と比較したところ、八割以上で顔の長さ、ほお骨の厚さなど主要な値が一致。
骨から推定した平均身長も渡来系弥生人(男性一六三センチ、女性一五〇センチ)とほぼ一致した。
 一九九六年一〇月一九日、日本人類学会・日本民族学会連合大会発表。東大理学部の植田信太郎助教授(人類学)らは、
約二千年前の中国・山東省臨錙の遺跡から出土した人骨と、同時期の詫田西分遺跡から出土した人骨のDNAを分析し、
遺伝子の配列が特定の部分で同じ人がいることを確認した。
 一九九九年三月一九日ニュース報道。江南人骨日中共同調査団(山口敏・東京国立科学博物館名誉研究員が団長)は、
江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、
歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較。
結果、春秋戦国時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の
人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致した。
http://www.asahi-net.or.jp/~CY1N-STU/kodaishi/yayoi.htm
35日本@名無史さん:2006/07/09(日) 19:27:49
>>34
>いつも必ず北方アジアは抜き
YAP+が無い北方人種なんか検討する以前の問題。

雲南や四川に残る中国先住民と弥生人の
DNA調査が待たれるところだ。
36日本@名無史さん:2006/07/09(日) 19:45:01
YAP+は古モンゴロイド縄文人のものだろ。

馬鹿チャンコロは書き込むなヴォケ!
37日本@名無史さん:2006/07/09(日) 19:56:11
雲南や四川の山岳高地に住む、
少数民族10数種族は日本人や
アイヌ人並にYAP+を持つぞ。
タイやベトナムの北部山地に
住む少数民族、ブータン人や
チベット人も同じだ。

広西チワン族自治区(面積236,300平方キロ、人口約5千万人)を
中心に2千万人が南中国に暮らすチワン族もYAP+を2桁持つ民族だ。
自治区だけで北朝鮮と韓国を足した面積よりも広大だ。
日本人と先祖を共にする仲間がそこに住む。
38日本@名無史さん:2006/07/09(日) 19:56:21
>>35
同意するけど、相手しちゃ駄目だって、何度言ったら分かる?
下手に相手すると、ここのスレ主付け上がるだけアル。
39日本@名無史さん:2006/07/09(日) 20:18:50
そうそう、チャンコロはこのスレに永久に書き込むなよ。

そしてチャンコロランドに帰るなり、他国に移るなり、

早く日本から消えてくれ。

外国人は日本人のルーツ工作をやらかすようになった時点で
害国人に変わる。
40日本@名無史さん:2006/07/09(日) 23:09:05
あのよ、大和民族に餌やる場合、法則があるそれは、決まって半島方向からなのよw
41日本@名無史さん:2006/07/10(月) 07:17:47
>>40
それは釣り餌という意味か?
42日本@名無史さん:2006/07/10(月) 14:30:01
>>39
>外国人は日本人のルーツ工作をやらかすようになった時点で
>害国人に変わる。
コリアンたちのことだろ
チャンコロとか南方人とか叫びまくる
43日本@名無史さん:2006/07/10(月) 15:19:02
↑チャンコロ丸出しw
44日本@名無史さん:2006/07/10(月) 15:21:04
約6500年前には既に灰陶時代に入り、約4200年前には既に施釉陶時代に入る。


黄河中・上流域ではB.C.4500年に老官台文化(陝西省)が誕生し、
北首嶺遺跡などからは灰陶が出土している。

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm


中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm
45日本@名無史さん:2006/07/10(月) 15:21:48
BC20C頃の二里頭文化では、すでに建築技術は壁、軒などをもつ現代の物と
さほど変わらず、原始磁器(灰釉陶)が焼かれていた。



BC1900頃

鄭州市付近に二里頭文化。宮殿とされる大きな遺跡があるが盗掘されたようである。
(殷墟は鄭州市の150キロほどの北にある)
青銅器の本格的な使用が始まっている。
出土物から四川省や甘粛省などとも広く交流している。
宮殿は壁、軒などをもつ現代の物とさほど変わらない物になっているようである。
土器は高温で焼成され、当地では原始磁器と呼んでいる。後期には登り窯が発見
されており最古とされる。

http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kodai_old/kks-koga.htm
46日本@名無史さん:2006/07/10(月) 15:22:57
灰釉陶は中国全土で焼成されつづけるが西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、
福建省などの中国東南部では印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋
時代(B.C.770年〜476年)華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。戦国時代
(B.C.476年〜B.C.221年)に入ると灰陶が主流になるが、目を見張る立派な黒陶も出土して
いる。鉛釉陶の走りもこの頃から見られるようになる。

http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

原始磁器は,揚子江下流地域に源流があるといわれる。殷代中期の二里崗文化には,灰白色の
胎土でつくられ,器の内外に光沢のある薄い釉がかかり,硬度が高く鋭い音色を出し,水の
しみこまない原始磁器が出土している。殷代後期から西周時代には,浙江・江蘇・江西・安徽・
山東・河南・河北・陝西などの各省の遺跡から,原始磁器が出土する。器形には,尊・壺・豆・
鼎・杯などがある。春秋戦国時代には,揚子江以南で多くつくられ,改良が加えられていく。
土灰釉による褐・緑色の原始磁器は,その後しだいに発達して,後漢時代に青磁となる。

http://www.tabiken.com/history/doc/F/F303L100.HTM
47日本@名無史さん:2006/07/10(月) 16:17:56
>>40
スレ主、この椰子の不穏当な発言に対しては何も抗議しないの?
48日本@名無史さん:2006/07/11(火) 12:38:16
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
型押の幾何学文様(印文)の一つさえも伝わっていないっ!


●印文土器 いんもんどき アジア 中華人民共和国 AD 

中国の東南没岸地帯地において新石器時代から漢代にかけて盛行した土器。
中国では印文陶と呼ばれる。焼成火度の差によって,軟陶と硬阿の二種類に
分けられるが,軟陶は前期,硬陶は後期のものになる。また,文様は型押の
印文が最も多く,20種以上の複雑な幾何学文様が器全体に施されるため,
幾何印文土器と通称される。製法には型製・手製・轆轤製のものがあるが,
轆轤製のものは少ない。器形は壺・甕の類が多い。色調は,軟陶では紅・灰・
灰白・黄白色で,硬陶ではほとんどが灰褐色で中に帯釉しているものがある。
印文土器が最も盛行するのは春秋戦国時代においてであるが,出土地域が
広範なため,この土器の文化的位置付けはむずかしい。

http://www.tabiken.com/history/doc/B/B263C100.HTM
49日本@名無史さん:2006/07/11(火) 12:38:47
西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、福建省などの中国東南部では
印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋時代(B.C.770年〜476年)
華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。
http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
50日本@名無史さん:2006/07/11(火) 13:46:18
>>1 そりゃ弥生人がシナ大陸から来たとしても、漢民族と違う種族で文化も
違っていたのだろう。異民族にとっては漢字は意味の無い模様に過ぎなかった。

 今もシナに残っているようなシナ文化に染まっていない少数民族の一派が
日本へ来たと考えれば、矛盾は無い。

51日本@名無史さん:2006/07/11(火) 14:32:48
>>50
俺もあなたの意見に同意します。
52日本@名無史さん:2006/07/11(火) 16:03:15
また苗族妄想か。

まず水田稲作に関する中国大陸の言葉がさっぱり伝わっていない。

弥生時代の農耕具の主役であるクワが当時の長江流域にない。

新石器時代から漢代にかけて、江蘇から広東に至る、
華中から華南にかけての沿岸部は印紋陶のメッカだが、
灰陶も幾何印紋もさっぱり伝わっていない。

たかだか紋様さえ伝わっていないのだよ。

渡来物証が一切無い透明人間集団だよ。
53日本@名無史さん:2006/07/11(火) 16:28:38
>>52 たしか日本のイネが江南種と同じ遺伝子をもち、朝鮮米とは違うという
話があったな。

 稲作用語はシナには共通語が見当たらず、タミル語などにあるようだ。

 クワという単語は朝鮮語や満州語と共通なのか?
54日本@名無史さん:2006/07/11(火) 16:49:52
佐藤の朝鮮には無い江南の遺伝子を持つ稲だろ。

そのトリックももう分かってるんだよ。

ただ単純に中世以降の日中貿易で入ってきただけの話。
55日本@名無史さん:2006/07/11(火) 18:01:25
いずれにせよ、縄文時代から日中貿易が盛んであったというのは、興味深いことである。
56日本@名無史さん:2006/07/11(火) 18:17:39
>>52
石包丁とかは伝わってるんじゃないか?
57日本@名無史さん:2006/07/11(火) 20:01:12
満州南部からな。


龍山文化(紀元前30世紀−前20世紀)の特徴的な半月形石刀が、
吉林、永吉、宁安、珲春、通化、桓仁などで出土。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus-tsusi/tungus-tsusi-1-gaiyou.htm

58日本@名無史さん:2006/07/11(火) 20:18:47
BC20C頃の満州は既に稲作をしている。


4000年前の中国東北部の稲作を示す文家屯(ぶんかとん)遺跡
の石器や玉器

http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/data22.html

稲は、日本では、今では北海道でも立派なお米ができますし、中国の東北部
(旧満州地方)でも盛んに米作りが行われています。冬には零下30から
40℃まで下がるような地方でも、お米が作られる夏の稲作期間に気温が
稲の生育に適する程度まで上がるからです。稲の生育期間は100から
120日も必要ですが、寒い地方でも、内陸性の気候で夏期には20から
30℃まで気温が上がる場合があり、このような土地ではお米が作れるのです。

http://www.afftis.or.jp/QandA/box/mon/mon69.htm
59日本@名無史さん:2006/07/11(火) 20:58:19
あぼ〜ん あぼ〜ん あぼ〜ん あぼ〜ん あぼ〜ん あぼ〜ん あぼ〜ん
60日本@名無史さん:2006/07/11(火) 21:13:26
作れます。今だから。

でも古来から大陸や列島・半島にある固有在来種では、そうはいきません。
それらは、数千年かけて人間が稲を改良した成果であり、天然物ではない
のです。
61日本@名無史さん:2006/07/11(火) 21:29:01
>>60
ガンバレ!
62日本@名無史さん:2006/07/11(火) 21:50:25
>>58

クソ寒いと古代のイネは育ちにくいらしいぞ。

http://toron.pepper.jp/jp/kodai/ine/kounan.html
63日本@名無史さん:2006/07/11(火) 23:53:51
2000年程度前に稲作が半島から伝来したのなら、稲作用語が日韓で類似している
はずだろう。日本に稲作が無かったのなら用語も無かったはずだから。

 しかし、イネ、タネ、ナエ、タ、アゼ、モミ、スキ、クワ、ワラ、などが類似
しているという話は聞いたことがないな。
64日本@名無史さん:2006/07/12(水) 00:25:52
初期の水田から出土する土器や農耕具や石器など、
物証の系譜が朝鮮半島南部と一致している。

土器は中国に存在する器形が無いところまで一致している。
65日本@名無史さん:2006/07/12(水) 00:34:27
それに中国から来たのなら弥生時代開始から青銅器が伝わってないと
おかしい。

ところが、青銅器が伝わったのが弥生時代開始から300年ほど経って
からなのである。

しかも中国に存在する青銅器の器形や文様が全く伝わってないのである。
66日本@名無史さん:2006/07/12(水) 01:04:21
>>65 だから中国の少数民族だったら漢族との交流も少なかったのでシナ
文化を摂取しないまま日本へ来たということだろう。

 異民族同士でコミュニケーションできないのだから当然だ。青銅器を
もった漢族に追い出されたと考える方が自然なことだ。敵国の器形や文様
を使わないのも当り前だろう。


67日本@名無史さん:2006/07/12(水) 06:52:37
>>65
縄文時代のイネの方はどう?
日中の交流の中で入ってきたとして、縄文時代と江南の遺物は一致度が高いよ。
移住じゃなくて、交流という事を考えたら、土器が入ってこなくてもありえるん
じゃないのー?漆器とか高床式とかだけどな。
68日本@名無史さん:2006/07/12(水) 10:50:40
印紋陶は黄河文明じゃないぜチミ。

漢代まで横行したチミの大好きな長江周辺から東南アジアにかけての
文化だぜ。

三足器形にしてもBC20C頃までには東南アジアまで一般的な器形となり
漢代まで横行した。

当時、ミャオだけが特別で無関係だなんてありえないのだよ。

それにミャオや南方の少数民族の民族衣装の紋様を知ってるか?

幾何印紋そのものだよ。

彼らは印紋陶が廃れていく中で、その幾何紋様を服飾や繊維の中に取り込み、
残していったのである。
69日本@名無史さん:2006/07/12(水) 12:19:43
残念ながら縄文時代に中国との交流なんて一切無いね。

約7000年前の中国に既にある、鋤、黒陶・彩陶、釜・甑・鉢などの器形
が縄文時代を通して一切伝わっていない。

やや遅れて登場する、水田、石包丁、鬲・鼎などの三足器形も縄文時代を
通して一切伝わっていない。

つまり稲も甕棺墓も高床式建築も朝鮮半島経由で伝来しただけ。

ただし、日本における高床式の伝播は東部から西部に向かって広がっていく
ので、樺太経由の可能性も高いがね。
70日本@名無史さん:2006/07/12(水) 15:22:31
>>69
自分でそう言ったんじゃなかったのか?
71日本@名無史さん:2006/07/12(水) 15:24:22
>>54で、日中貿易によって稲が入ってきたと自らのたまっているが?
72日本@名無史さん:2006/07/12(水) 15:42:52
>>71
ここでは中世になっているが、別の板では縄文人が仕入れたと力説
していたような気がするのは気のせいか?
73日本@名無史さん:2006/07/12(水) 16:22:11
縄文人が仕入れたのは水田土器技術農耕具支石墓などの弥生文化
プラス縄文期の稲甕棺墓高床式でそれは朝鮮半島南部からだとは
言っているが。

弥生晩期から中世にかけての訪中や貿易で入ってきたのは
朝鮮には無い中国遺伝子の稲だと言っているだけなんだが。
74日本@名無史さん:2006/07/12(水) 17:55:17
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
型押の幾何学文様(印文)の一つさえも伝わっていないっ!


●印文土器 いんもんどき アジア 中華人民共和国 AD 

中国の東南没岸地帯地において新石器時代から漢代にかけて盛行した土器。
中国では印文陶と呼ばれる。焼成火度の差によって,軟陶と硬阿の二種類に
分けられるが,軟陶は前期,硬陶は後期のものになる。また,文様は型押の
印文が最も多く,20種以上の複雑な幾何学文様が器全体に施されるため,
幾何印文土器と通称される。製法には型製・手製・轆轤製のものがあるが,
轆轤製のものは少ない。器形は壺・甕の類が多い。色調は,軟陶では紅・灰・
灰白・黄白色で,硬陶ではほとんどが灰褐色で中に帯釉しているものがある。
印文土器が最も盛行するのは春秋戦国時代においてであるが,出土地域が
広範なため,この土器の文化的位置付けはむずかしい。

http://www.tabiken.com/history/doc/B/B263C100.HTM
75日本@名無史さん:2006/07/12(水) 17:56:48
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
最も代表的な器形である鬲、鼎などの三足土器さえ伝わっていないっ!


●三足器 さんそくき 

中国における3本の足をもつ土器・青銅器の総称。三足器には,食物を煮るまたは
盛る鼎(てい),中空の袋状三足に水を入れて煮沸し,その上の「甑(そう)」
(こしき)にのせた穀物を蒸す鬲(れき),鬲と甑が結合して一体となったゲン
※注1※,酒器のカ※注2※,燗酒をつくるキ※注3※・カ※注4※・爵(しゃく)
などがある。しかし新石器時代の原始的土器には,水や酒を入れる壺(こ)や,
食物を盛る豆(とう)などにも三足のついたものがあり,器形も未分化・不定形
であった。たとえば,磁山・斐李崗(はいりこう)文化の三足つき壺・鉢形鼎,
仰韶(ぎょうしょう)文化の種々の形鼎,大ブン※注5※)口文化の三足つき
釜形鼎・鉢年鼎・觚(こ)形器,取手・三足つき鉢形細柄豆など種々ある。
また大ブン※注5※口文化において三足土器が,実足から空足,さらに袋状と変化
し,同時に器身も注ぎ口なども変化し,中空三足・注ぎ口・取手つきの大型キ
※注3※が成長した例もある。良渚(しょ)文化や典型竜山文化には,種々の
三足土器が多くなり,河南や陝西の竜山文化にも種々の三足土器が現れ,しだい
に器形がととのっていく。殷代には三足土器もつくられたが,これらの器形を
模した青銅器が鋳造され,また新しい器形の三足青銅器もつくられて,重要な
祭器となり,豪壮な造形と華麗な文様の芸術品に発展し,周代に継承されていく。
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H176R200.HTM
76日本@名無史さん:2006/07/12(水) 17:58:06
1. 華南地域では農業の発達が遅かったため、土器の種類は多くありません。
2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。
3. 黄河流域では、約1万年前から粟やひえの栽培が始まり、約7000年前以降には平底、
丸底、三足の土器が出現。 約5000年前から土器が一変し、中流域では灰色土器、
下流域では黒色土器が現れます。
4. 北方地域西北地方では、約6000年前以前の土器は発見されませんが、彩文土器が
発達したことが大きな特色です。
5. 北方地域東北地方では、約6000年〜5000年前に窯を使用し、彩文土器が出現しました。

 これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域
で形や種類、技法、文様などがかなり異なります。 また、農業の発達によって土器
づくりの技術も発達し、約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な
土器の一つとなりました。土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連
したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.html
77日本@名無史さん:2006/07/12(水) 17:58:36
78日本@名無史さん:2006/07/12(水) 22:18:31
>>73
発言内容が二転三転しているような気がするが、何も見なかったことにしよう・・・

>>54
>ただ単純に中世の日中貿易で入ってきただけの話。

そもそも、そいう話でしたっけ?

「河娒渡遺跡展」
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
>日本最古と言われる岡山県朝寝鼻遺跡のプラントオパールは、水田稲とも
陸稲とも区別が付かない「河娒渡」型の稲であり、

それから、晩生→早生という稲の変化とは逆に、早生→晩生(いわゆる先祖返り)
という変化は古代にありえる?

>>73
>高床式

「桜町遺跡のページ」
http://w2332.nsk.ne.jp/~masato.s/iseki.htm

桜町遺跡の高床式は、縄文中期(約4000年前)と非常に古いよ。
縄文人が発明したのか、どこからか学んできたのか知らないが、
それまで竪穴式一辺倒だった縄文時代に高度な建築技術が現れる
為には、高度な建築技術を有する人物の渡来があった可能性も考え
られるんじゃないの?

日本列島に比べ、半島南部の高床式はささやかなものでしたかない
ように思えるんだけど、どちらがメインなの?
79日本@名無史さん:2006/07/12(水) 22:19:37
※ 必ずしも江南説を支持しているわけではありませんので、
  念のため。
80日本@名無史さん:2006/07/13(木) 11:59:08
「河娒渡」型の稲というのは単に熱帯ジャポニカの事じゃないかな。

北上して気候が低くなれば早生→晩生になるのは自然な事だろう。

熱帯ジャポニカが遼東経由で朝鮮半島に入り、日本に伝えられたのが
朝寝鼻遺跡の熱帯ジャポニカで5〜6000年ほど前の事だろう。

なぜ朝寝鼻遺跡の日本最古の熱帯ジャポニカが朝鮮半島からかと言うと、
日本で最初に拡散していった東北や琉球の僻地の稲ほど、例の朝鮮半島に
無い江南遺伝子稲が無いからである。

その後、遼東あたりで温帯ジャポニカに進化した稲が朝鮮半島に入って拡散し、
弥生時代開始とともに日本にも入ってきて拡散していく。

弥生時代も後期に入り、倭人も訪中し始めて、例の朝鮮半島に無い江南遺伝子稲
持ち帰り、徐々に中央から拡散していった。
81日本@名無史さん:2006/07/13(木) 12:49:12
高床式はBC20Cより古いだろう。

北日本から広がっていくのが気がかりな点で樺太経由の可能性もある。

高床式に関しては>>28-30を参照。

縄文稲作が中国からではないもう一つの根拠でもある。
82日本@名無史さん:2006/07/13(木) 14:45:02
>>80
逆じゃないのかな?

暑い地域(晩生)←昔の九州など
寒い地域(早生)

早く刈り入れなきゃ厳しい冬が来てしまう。
品種改良のパターンとしては、晩生→早生では。
83日本@名無史さん:2006/07/13(木) 15:59:06
早稲なんかが出てきたのは実はずっと後世になってからじゃないかな?


>>53
>クワという単語は朝鮮語や満州語と共通なのか?


昨日、図書館で調べたら、クワは朝鮮語でクウェンイと言うそうだ。


84日本@名無史さん:2006/07/13(木) 16:47:31
>>83 クワとクウェンイなら共通かもしれませんね。

 あとハタケとpatがあるがこれは稲作ではなく焼畑のことなのだろう。
85日本@名無史さん:2006/07/13(木) 17:18:38
朝鮮と山東省の骨だけで中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


「土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、
細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系
「新モンゴロイド」の特徴がありました。
彼らのルーツを求めて朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、
中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の
人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極め
てよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国
だったのです。」

http://sakezo.com/shumi/rekisi/keta1.html
86日本@名無史さん:2006/07/13(木) 17:19:11
饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html

殷の時代に生み出された灰釉陶は、西周時代から春秋戦国時代(B.C770〜 221)にかけて
熟成の時代を迎えることになるが、なお中国工芸の中心は依然として青銅器であった。
祭器としての青銅器から日常生活具としての青銅器へ変化する過程で、文様も饕餮文
(とうてつもん)・〓龍文(きりゅうもん)・〓鳳文(きほうもん)などの神秘的・
宗教的・観念的なもから動物や植物がリアルに写される写実的な文様へ変化していった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
87日本@名無史さん:2006/07/13(木) 17:21:12
篆書などの原始漢字の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅鐸に流水文・袈裟襷文・横帯文などの文様があるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html

鐸身全体は,横帯文や流水文で水平に分割するか,袈裟襷文で縦横に分割し4乃至6個の左
右対称の小区画を作り出すもので,横帯文系・流水文系・袈裟襷文系の三つの系統に大別され
る(図4)(図3)(図5)。横帯文系の横帯には,斜格子文のほかに綾杉文・鋸歯文・連続
渦文など各種の幾何学文が充?される。
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf#search='
88日本@名無史さん:2006/07/13(木) 17:22:16
篆書などの原始漢字の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅鐸に流水文・袈裟襷文・横帯文などの文様があるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html

鐸身全体は,横帯文や流水文で水平に分割するか,袈裟襷文で縦横に分割し4乃至6個の左
右対称の小区画を作り出すもので,横帯文系・流水文系・袈裟襷文系の三つの系統に大別され
る(図4)(図3)(図5)。横帯文系の横帯には,斜格子文のほかに綾杉文・鋸歯文・連続
渦文など各種の幾何学文が充?される。
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf#search='
89日本@名無史さん:2006/07/13(木) 17:22:57
篆書などの原始漢字の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅鐸に流水文・袈裟襷文・横帯文などの文様があるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html

鐸身全体は,横帯文や流水文で水平に分割するか,袈裟襷文で縦横に分割し4乃至6個の左
右対称の小区画を作り出すもので,横帯文系・流水文系・袈裟襷文系の三つの系統に大別され
る(図4)(図3)(図5)。横帯文系の横帯には,斜格子文のほかに綾杉文・鋸歯文・連続
渦文など各種の幾何学文が充?される。
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf#search='
90日本@名無史さん:2006/07/13(木) 17:46:01
饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html

殷の時代に生み出された灰釉陶は、西周時代から春秋戦国時代(B.C770〜 221)にかけて
熟成の時代を迎えることになるが、なお中国工芸の中心は依然として青銅器であった。
祭器としての青銅器から日常生活具としての青銅器へ変化する過程で、文様も饕餮文
(とうてつもん)・〓龍文(きりゅうもん)・〓鳳文(きほうもん)などの神秘的・
宗教的・観念的なもから動物や植物がリアルに写される写実的な文様へ変化していった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
91あぼーん:あぼーん
あぼーん
92あぼーん:あぼーん
あぼーん
93日本@名無史さん:2006/07/13(木) 18:41:49
>>81
桜町遺跡は富山県で、しかも縄文中期だから、
樺太関係ないんじゃないですか?

巻向や吉野ヶ里の高床式と、豪雪対応の高床式は
全然タイプが違うと思うんだが。
94日本@名無史さん:2006/07/13(木) 21:16:15
>>93
大分の横尾遺跡は6500年ぐらい前だから、北よりも南の方が古いかも。
95日本@名無史さん:2006/07/14(金) 11:14:58
>>93
三内丸山遺跡は青森県で、しかも縄文時代前期半ばだから
樺太が浮上するんだよ。

大分の横尾遺跡は縄文時代早期後半だが単に最古の角材が出たというだけで、
それが高床式建築の材料とも言われているが、まだ決まったわけじゃないので
まだ何とも言えないんだな。
96日本@名無史さん:2006/07/14(金) 13:23:13
三内丸山遺跡の高床式住居というのには千木は付いているのだろうか?

 千木があれば南方系ではないか。
97日本@名無史さん:2006/07/14(金) 15:21:56
篆書など原始漢字の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅剣・銅戈・銅鉾・銅鐸・銅鏡・銅鏃などがあるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。銅鏡は除魔や権威の象徴として用いられた。一般に、西日本
中心の銅剣・銅戈・銅鉾文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏に大別されるが、福岡県の岡本
遺跡や佐賀県の安永田 遺跡から銅鐸が出土したり、出雲族の文化圏を連想させる島根県
の荒神谷遺跡[こうじんだにいせき]が発掘 されたため、疑問視されている。

http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html
98日本@名無史さん:2006/07/14(金) 15:23:45
鼎、爵などの三足器、尊などの酒器など、中国の青銅器の器形が全く伝わっていないっ!


青銅器はその用途により、食器、酒器、水器、楽器のほぼ4種類に分けることが
できる。各種類ごとにそれぞれ品目も複雑で数多く、形も非常に変化に富んでいて、
中国人の豊かな想像力と創作力を反映している。たとえば、黍稷(モチキビ)を
盛っておく「簒」。これは現代のご飯茶碗に相当する。その形は非常に変化に富み、
円脚に丸い胴のものもあれば、円脚の下にさらに四角い台座を加えて重しとしている
ものもあり、四角と円形との対象が美しい。また炊事用として使う「鼎」は、縁に
一対の耳を付け、下げるのに便利なようにしてある。丸い胴の下には三つの脚が
つけられ、獣の肉を煮込む火が燃えやすいようになっている。ほかには「爵」や
「尊」なとがある。「爵」は酒を飲んだり温めたりする食器で、縁の形は酒が口の
方へ流れやすいようになっており、脇に持ちやすいように把手がある。胴の部分の
下には酒を温めるため3本の脚がついている。「尊」は大事な酒器で、丸い形の
ものや四角形、および四角い脚に丸い口をしたものなどがある。このように、
青銅器の基本的な形は、バランスの取れた対称形がほとんどで、荘厳で落ち着いた
雰囲気が特色である。
http://www.roc-taiwan.or.jp/culture/culture19.html
99日本@名無史さん:2006/07/14(金) 15:24:32
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形がさーっぱり伝わっていない。
その代表である三足器形さえも伝わっていない。



◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html



100日本@名無史さん:2006/07/14(金) 16:18:58
>>95
北から伝播したとしたら、タイムラグがあり過ぎな上に、
それぞれ建築技術がまるで違うんじゃないのか?
九州の横尾遺跡は、角材だけじゃなくて「ほぞ」や「ほぞ穴」、
その他「目途穴」まで確認されているから、ほぼ間違い
ないんちゃうやろか?

まあどうでもいいが、縄文の高床式は全然メジャーじゃないよ。
あくまでも竪穴が主流。
101日本@名無史さん:2006/07/14(金) 19:05:09
船で移動する海洋民にとって、焼き物は揺れると転がり割れるので関心がありません
それに重いものは基本的に浮力が命の船では邪魔です(武器、水、食料)以外
よって日本では木の椀、食器、が発達しました、金属の食器など、もってのほか
日本の様な湿地帯、藪の多い地形では車輪など使い物になりません弥生頃は
船さえ有れば何処へでも行けます、馬より早く楽に
焼き物や鋳物を作る職人は村抜けを、するとその場で殺されます、秘密保持の為
102日本@名無史さん:2006/07/15(土) 16:44:57
>>101
中国系渡来人はみーんな数日間の渡海で記憶喪失になってしまい、
故郷の物的文化を全て忘れてしまったんだろ?ww
103日本@名無史さん:2006/07/15(土) 16:58:50

俺まいにち茶碗使ってるけど、よう作らないよ

豆腐まいにち食べてるけど、よう作らないよ

服まいにち着てるけど、よう作らないよ
104日本@名無史さん:2006/07/15(土) 17:14:09

俺まいにち茶碗使ってるけど、形くらいは注文できるがw

俺まいにち鍋を使ってるけど、形くらいは注文できるがw

105日本@名無史さん:2006/07/15(土) 17:25:11

日本人は中華に青磁、白磁、唐三彩(正倉院に有り)、が有る事は

奈良時代から知ってるよ、でも作らなかった?(地震ですぐ壊れる?)

作れなかった?戦国時代に入るまで作れなかった(陶器は)500年間

技術、職人、技能、2日や3日では身に付かないよ、がんばりなさい


106日本@名無史さん:2006/07/15(土) 17:36:38

日本人は中華に青磁、白磁、唐三彩(正倉院に有り)、が有る事は

遣唐使のおかげで奈良時代から知ってるが、唐三彩だけは作ってるよ。

7Cの半島帰化人から緑釉陶の技術が伝わっていたからね。

じゃあ何で弥生期に灰陶も鼎も伝わってないってか?

ただ単純に中国から脳を抜き取られた無脳人間が来たからなんだよw
107日本@名無史さん:2006/07/15(土) 17:55:03
ほとんどが敗残兵だからな、おかげで戦闘能力は抜群。 すまん
108日本@名無史さん:2006/07/15(土) 18:24:04
青銅戟や青銅刀すら伝えていないところから見ても、
その敗残兵は戦闘力のさらさら無い腑抜け兵だろうw

原始漢字は一字も知らんわ、灰陶は知らんわ、三足器形は知らんわ、
幾何印文も知らんわ、雷文も知らんわ、

腑抜け兵の上に頭もすこぶる悪いときているw

しかも酒器も伝えないところから酒も飲めないときた。

さっぱり生きてる価値のさらさら無い、死んだ方がよっぽど世のためになる
ボケカス集団w
109日本@名無史さん:2006/07/15(土) 18:45:16

余り勉強ばかり、しすぎたらポーに成るよ!

さあ〜釣り行って来、雨かな?今日はクジラでも釣ろうか!ジャーネ
110日本@名無史さん:2006/07/15(土) 18:47:14
BC11C頃の華中の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


呉城文化 B1400?〜B1000?

 江西地方の文化はB3000年〜B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万uで、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。

http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
111日本@名無史さん:2006/07/15(土) 18:48:17
>豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土
>符号を刻した土器や鋳型も発見
>青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、商文化を凌ぐ鋳造技術




印文陶、釉陶、原始磁器、鼎、尊・・・

BC11C頃の華中の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡で
出土しないものばーっかり(嘲笑



112100:2006/07/15(土) 23:22:14
とりあえず、高床式の件は解らないからスルーしたと
判断してよろしい訳ね?

もともと期待はしていなかったが、とりあえず、
コピペ、頑張ってくれ。(棒読み)
113日本@名無史さん:2006/07/16(日) 16:55:15
吉野ヶ里墳丘墓のルーツはどこなのか。中国・長江下流域の江南に多く見かけられる
土?墓(どとんぼ)(B.C.800〜500)ではないかといわれている。(中略)
同じく「土?墓が墳丘墓の源流ではないか」という樋口隆康氏(参考文献5)が江南の
土?墓について書いている。少し長いが紹介したい。[江南の土?墓とは盛土墳で、
地上に埋葬したものである。中原の殷・周時代の墳墓は地下深く抗を掘って埋葬してあり、
墳丘を持たないのが通例である。墳丘は秦代以降に出現したとされるので、江南の土?墓
は中国における墳丘初現の例になるかもしれない]。「この土?墓は長江下流、特に
江蘇省南部の太湖周辺から浙江省杭州や安徽省屯渓までに分布している。すなわち呉越の地
である。丘陵から平野にかけて径15〜30m、高さ2〜3mほどの大小の塚が群在している」。
「この土?墓の盛土は版築ではなく一つの土?墓の中に数個の埋葬がなされている。それらは
地面に礫石を敷いたり、紅焼土を詰めたりして棺床としている。石を遺体のまわりに並べて
囲ったり、あるいは石室を築いたりしている。その石室も竪穴式と横穴式のタイプがある。
これらの土?墓はだいたい西周時代から春秋時代にかけてのものである」。「この墓から出土
する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは
異なった図文をもっており、銅剣は身柄一鋳のものである」。
http://www2.saganet.ne.jp/niesu/zyofuku/dotonbo.htm
114日本@名無史さん:2006/07/16(日) 16:56:34
>この墓から出土する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、





印文硬陶と原始施釉陶が伝わっていない事には一切触れない低脳学者のすっとぼけぶり(嘲笑)




115あぼーん:あぼーん
あぼーん
116日本@名無史さん:2006/07/17(月) 13:37:01
>>115
>朝鮮族の母体はエベンキ系
何となく、納得できる話だね

続報に期待だ
117日本@名無史さん:2006/07/17(月) 18:32:23

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060209-00000148-kyodo-ent
118日本@名無史さん:2006/07/17(月) 18:33:13
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった




原始青磁が伝わってない事には一切触れない南京博物院のすっとぼけぶり(嘲笑)





119日本@名無史さん:2006/07/17(月) 19:09:48
>>117
>日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土
そうだったのか… 知見が広まった ありがとう
120日本@名無史さん:2006/07/18(火) 12:05:53
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。

「チャイナネット」2003年3月31日
http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
121日本@名無史さん:2006/07/18(火) 12:07:00
>圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、
>砂の入った灰色陶器、上薬のついた陶器、硬質陶器など





BC16Cの華南の出土物さえ日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり(嘲笑)





122日本@名無史さん:2006/07/18(火) 14:35:57
>>1はバカでのろまなチョン工作員
123日本@名無史さん:2006/07/19(水) 15:33:37
商の都のあった河南省鄭州市で商代の原始青磁が確認されたことから、
この地区から研究はスタートした。その後、長江中・下流域で商代から
戦国期に亘って連綿と原始青磁が、古墓や城跡を中心に相次ぎ発見された。
その生産と消費の中心地が華南地域であることは、ほぼ動かしがたい状況となっている。

釉色は青緑色、青黄色を呈し、器の内面は全て施釉し、外面は底部近くには施釉
していない。大部分の器物の底部にはヘラ書き符号が認められると言う。
時代としては、春秋時代早期に比定されている。こうしたヘラ書き符号を有した
印紋陶器や原始青磁は、広東地区の春秋戦国時代の古墓からもよく発見されると言う。

福建省でも同地特有の原始青磁が確認されているが、その窯跡の確認は未だ
されていない。しかし西周時代にはすでに現地生産がされ出していたと予測されている。

今までに窯跡本体の確認された原始青磁を焼成した窯は、華南地域に限られている。
商代でも浙江省上虞市百官鎮2号窯跡の例の様に明らかな龍窯が確認されている。
http://www.sg-r.co.jp/web/kouko/genshi_seiji.html
124日本@名無史さん:2006/07/19(水) 15:34:39
4000年以上前の東南アジア周辺の遺跡でも三足土器が一般的。


新石器時代:約4,000年以前
出土した土器は、26種の様式をもっていたが、その中でもっとも目立ったものは
三足の鼎であって、先史時代の中国の『鬲(れき)』に似ており、年代を調べた
ところ、これらは約4,000年以前に作られたことが判明した。
カオサムルナム洞窟でも、バン・カオ遺跡出土の土器と似ている同年代の物が出土した。

http://www.toros8.com/ban/his1.html
125日本@名無史さん:2006/07/19(水) 18:09:54

*奈良時代に唐三彩(正倉院に有)、白磁、青磁、が有る事を知りながら作れなかった
作ろうとしなかった700年〜800年も、(唐三彩は製作した様だが)。どうして?
【答え=必要なかった】鋳造技術が有ったので温度管理は出来る、縄文土器も有るしね。

*鉄砲は1543年、種子島に入り数年足らずで境、雑賀、根来、国友衆に広まった
1600年には30万丁、世界最大の保有数だった様で有る。どうして?
【答え=必要だったから】

*古代弥生人、倭人達は船が主要交通手段、焼き物は重いし転がり割れるし沈む財産パー
地震でも割れる。*木竹製品はその点、軽いし転がっても割れないし沈まず浮くので便利
日本には縄文時代より漆器類や樽、桶などの木製品が無数に有り竹製品のザル類なども。
126日本@名無史さん:2006/07/19(水) 18:12:09

*奈良時代に唐三彩(正倉院に有)、白磁、青磁、が有る事を知りながら作れなかった
作ろうとしなかった700年〜800年も、(唐三彩は製作した様だが)。どうして?
【答え=必要なかった】鋳造技術が有ったので温度管理は出来る、縄文土器も有るしね。

*鉄砲は1543年、種子島に入り数年足らずで境、雑賀、根来、国友衆に広まった
1600年には30万丁、世界最大の保有数だった様で有る。どうして?
【答え=必要だったから】

*古代弥生人、倭人達は船が主要交通手段、焼き物は重いし転がり割れるし沈む財産パー
地震でも割れる。*木竹製品はその点、軽いし転がっても割れないし沈まず浮くので便利
日本には縄文時代より漆器類や樽、桶などの木製品が無数に有り竹製品のザル類なども。
127日本@名無史さん:2006/07/19(水) 18:27:06
そういえば china が陶磁器で japan が漆器だったな。
128日本@名無史さん:2006/07/20(木) 12:22:06
>>125-126
無駄な足掻きだな。


*奈良時代に唐三彩(正倉院に有)、白磁、青磁、が有る事を知りながら作れなかった
作ろうとしなかった700年〜800年も、(唐三彩は製作した様だが)。どうして?

【正解=奈良時代の青磁・白磁は単なる輸入舶来品であり、中国から人間集団の
渡来があった訳ではないので焼成技術は伝わっていないが、鉛釉陶の焼成技術が
7Cに半島帰化人を通して伝わっていたので唐三彩を模した奈良三彩を焼成する事が
できたのである。】
129日本@名無史さん:2006/07/20(木) 16:31:18

ふ〜ん中国から渡来人が来なかったんで、白磁、青磁が出来なかったんか
奈良三彩は半島帰化人のお陰で出来た、と言う事は戦国時代に大量の
鉄砲が出来たのはヨーロッパ人の渡来、移民が有ったからか何千、何万と
じゃ今の日本人は相当、混血してるな!
130日本@名無史さん:2006/07/20(木) 16:47:40
事実、南蛮人の集団渡来、および長期滞在などがありましたが何か?
131日本@名無史さん:2006/07/20(木) 17:39:38
周に入る頃には既に一般的な建材だった瓦さえ伝わっていないっ!


瓦の歴史はきわめて古く、中国では紀元前2000頃にはすでに瓦が登場している。
中国4000年の歴史とよく言われるが、瓦も4000年の歴史を持っている。中国語の
瓦という字は、粘土を焼いたものの総称である。

http://www8.ocn.ne.jp/~kawarak/hana.html

瓦の歴史はとても古く、メソポタミア、インドなどの諸説がありますが、
すでに紀元前2000年前の中国に瓦が存在していたと言われています。

http://www2.odn.ne.jp/sugimotokawara/KAWARA2.htm
132日本@名無史さん:2006/07/20(木) 17:40:59


「水田稲作技術は中国大陸から入っているが 水田稲作に関する
中国大陸の言葉は伝わっていない」

http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/mousou.html


金関  縄文から弥生を土器の移り変わりで見ても、大陸から入ってきたと
考えざるを得ない。ただ同時期の中国土器や金属器はない。
このため日本列島へは朝鮮半島経由だろう。

http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/001.htm

133あぼーん:あぼーん
あぼーん
134あぼーん:あぼーん
あぼーん
135クソスレ上げんなよ!:2006/07/20(木) 18:42:38
>>129
ここのスレ主は、質問に答えられないと火病を起こして
コピペの大量投下を試みるだけから、相手しちゃだめアル!

周代の民衆は、皆瓦屋根の豪邸に住んでいたアルか?とか、
縄文・弥生時代の文化・遺物をつぶさに見るに、間違いなく
江南との類似点が少なくないのだが?とか、真面目に質問
しても意味無いですから。最初に結論ありきなんで。
どうしても質問する場合には、面倒でもソースを引っ張って
きた方がいいよ。それこそ、仰山〜仰山ありますんで!
136日本@名無史さん:2006/07/21(金) 15:14:47
BC35C頃に高床式住居、甕棺墓(土器棺墓)が日本に出現するが・・・・・


高床式倉庫群、竪穴式住居群、千五百年の営みを積み重ねて来た遺跡、
建物跡ひとつをとっても同じ場所に何度も建て替えられている。
三内丸山に集落があったのは縄文時代前期半ばから中期末までの一五〇〇年間
も古い前期半ばは紀元前三五〇〇年頃、いまからおよそ五五〇〇年前だ。
http://www.d1.dion.ne.jp/~zpmasasi/sannai.html

青森県内の縄文時代早期から中期後葉の墓を集成し、埋葬方法の種類と
移り変わり、配置についての基礎的な分析を行った。青森県内の埋葬方法は、
早期後半に大半が出そろい、前期中葉に土器棺墓、前期末葉にフラスコ形
土坑が出現して副葬品の量にも差が生まれる。
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/special/koubo_sha.html
137日本@名無史さん:2006/07/21(金) 15:15:19
BC50C頃の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の鋤、黒陶や彩陶、
釜・甑・鉢などの器形が縄文時代に全く伝わっていないっ!


浙江省余姚(よう)県河姆渡遺跡を標準とする新石器時代の文化をいう。主に寧紹平原の
東部地区に分布している。河姆渡遺跡には四つの文化層があり,第1層は良渚文化早期と
類似しており,第2層は馬家浜文化の要素がある。第3・4層は河姆渡文化層で,上の両層
よりも古く,注目すべき出土器物がある。土器は原始的な手づくりの,あらい厚手の不整形で,
低温で焼かれた夾炭黒陶が最も多く,混ぜられた植物の茎葉砕片やもみ殻が焼けて炭化し,
土器を黒色にしている。夾炭黒陶は第4層では最大量を占めるが,第1層に至るほど漸減し,
第1・2層では焼成温度の高い砂混じりの夾砂紅陶・灰陶が優勢となる。第4層の土器の主な
ものに,釜・罐(かん)・鉢・盤・器台がある。釜が四つの層を通して出土し,形態と
装飾が最も多様なところから,釜を南方地区新石器文化の特徴とする見解がある。第3層
出土の甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器で,のちに朝鮮・日本などに伝わり,
東アジアに特徴的な穀物を蒸して食べる調理法を普及させたものである。また紡錘のほか,
濃茶の文様を施した数個の彩陶片も発見されている。遺跡層が地下水面下にあったため,
多くの木器が保存され,耜(し。すき)・碗・盆・かい・杵・矛・紡・紡錘などのほか,
組み合わせ部品用と思われる大小の棒が発見されている。
http://www.tabiken.com/history/doc/D/D276R100.HTM
138日本@名無史さん:2006/07/21(金) 15:16:07
見よ!

BC50C頃の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の鋤、黒陶や彩陶、
釜・甑・鉢などの器形が縄文時代にさーっぱり伝わっていない。



◎河姆渡遺跡

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
http://homepage3.nifty.com/sugar-tr/joumonG.html



139日本@名無史さん:2006/07/21(金) 22:45:52
亜人間であるチュン・チョンと、
人類である日本人は根本から違う。
140日本@名無史さん:2006/07/22(土) 13:25:39
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


渡来系弥生人は大陸のどこからやって来たのでしょうか。最近の調査により、
水稲耕作の発祥の地ともいわれている中国南部が有力視されています。
黄河下流と長江下流に挟まれた地域の漢代の遺跡から、渡来系弥生人に
よく似た人骨があいついで見つかっています。この時代の中国は、政治的に
動乱の時代であり、いろいろな民族が入り乱れて戦いました。日本にやって
来た渡来民は、このような動乱から逃れてきた人々だったのでしょうか。

http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-14.html
141日本@名無史さん:2006/07/22(土) 13:26:47
朝鮮と山東省の骨だけで中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


「土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、
細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系
「新モンゴロイド」の特徴がありました。
彼らのルーツを求めて朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、
中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の
人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極め
てよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国
だったのです。」

http://sakezo.com/shumi/rekisi/keta1.html
142日本@名無史さん:2006/07/22(土) 13:53:56
最近,精液の量が少なくて,顔射してもつまんないです。
もっと,ドバッと,17歳くらいの若い女の顔にかけたいな・
143日本@名無史さん:2006/07/22(土) 16:44:42
吉野ヶ里墳丘墓のルーツはどこなのか。中国・長江下流域の江南に多く見かけられる
土トン墓(どとんぼ)(B.C.800〜500)ではないかといわれている。(中略)
同じく「土トン墓が墳丘墓の源流ではないか」という樋口隆康氏(参考文献5)が江南の
土トン墓について書いている。少し長いが紹介したい。[江南の土トン墓とは盛土墳で、
地上に埋葬したものである。中原の殷・周時代の墳墓は地下深く抗を掘って埋葬してあり、
墳丘を持たないのが通例である。墳丘は秦代以降に出現したとされるので、江南の土?墓
は中国における墳丘初現の例になるかもしれない]。「この土トン墓は長江下流、特に
江蘇省南部の太湖周辺から浙江省杭州や安徽省屯渓までに分布している。すなわち呉越の地
である。丘陵から平野にかけて径15〜30m、高さ2〜3mほどの大小の塚が群在している」。
「この土トン墓の盛土は版築ではなく一つの土トン墓の中に数個の埋葬がなされている。それらは
地面に礫石を敷いたり、紅焼土を詰めたりして棺床としている。石を遺体のまわりに並べて
囲ったり、あるいは石室を築いたりしている。その石室も竪穴式と横穴式のタイプがある。
これらの土トン墓はだいたい西周時代から春秋時代にかけてのものである」。「この墓から出土
する遺物は、埴輪と銅鏡が大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは
異なった図文をもっており、銅剣は身柄一鋳のものである」。
144日本@名無史さん:2006/07/22(土) 16:46:15

>この墓から出土する遺物は、埴輪と銅鏡が大半であり、





埴輪と銅鏡が伝わっている事には一切触れない有脳学者のうっかりぶり
145日本@名無史さん:2006/07/23(日) 01:27:58
長江河口付近から日本への人々の移住

 中国の周代の後半(東周時代:春秋戦国時代=BC771〜BC256)には中国各地に
封ぜられた周王室の王や各地の豪族が独立し、互いに争いを繰り返し次々に淘汰
されていきました。負けた国の王やその一族は、殺されたり奴隷にされたり、あるい
は新天地を求めて韓半島さらには日本まで渡ってきたと言われております。そのよう
な中、春秋時代の末期に長江河口付近では呉と越が争い、越に滅ぼされた呉王夫
差の親類縁者は海に逃げて日本に漂着したと伝えられます。紀元前473年のことで
す。晋書などに「倭人自ら(我々は周の王族で呉国の創始者である)太伯の後(子
孫)であると謂う」とありますが、倭人の伝承を書きとめたものと考えられます。「資治
通鑑」(1084年成立)という中国の史書には、「周の元王3年(BC473)、越は呉を亡ぼ
し、その庶(親族)共に海に入りて倭となる」という記載があるようです。また日本側に
も「新撰姓氏録」の記載など呉から日本への移住を裏づける文献も豊富です。以上
から北部九州の甕棺文化は長江河口地域を追われた呉の人々によってもたらされ
たと考えれば、すんなり理解できるように思います。
146日本@名無史さん:2006/07/23(日) 01:45:44

魏志倭人伝には「邪馬台国の住民は全身に刺青をして抜歯をしたり歯を黒くしていた。」
と記述があります。

刺青・抜歯・歯を黒くする風習は中国の長江周辺の呉や越にみられます。
朝鮮半島には「刺青・抜歯・歯を黒くする文化」はありません。

また日本と長江周辺には夜這いの文化はありますが、朝鮮半島にはありません。
一部の文物の一致点が無いからと言って、これらを無視することは出来ないでしょう。
147日本@名無史さん:2006/07/23(日) 23:13:12
北方アジアは一切抜きの偏向調査で作為的に中国・朝鮮に誘致していた
スットボケ遺伝学者(嘲笑)


宝来センセイによると、韓国や中国にはそれぞれドミナントなミトコンドリアDNAがあるのに、
日本本土では、とくにドミナントなものがない。つまり系統的にさまざまな人たちから成り立って
いるのである。また、これまで、大陸から渡来した弥生人によって分断され、北に追いやられたのが
アイヌ、南に追いやられたのが琉球人といわれてきた。しかし、アイヌと琉球は少なくとも1万2000年
以上まえに分岐しており、紀元前3世紀以降に渡来してきた弥生人によって分断されたんではないという。
1万2000年前にそれぞれ日本に住み着いたアイヌと琉球人。そこへ紀元前3世紀以降になって渡来し、
稲作をはじめた中国・朝鮮系の人びと。こうした人たちの子孫がわたしたちなのだ。
それにしても紀元前3世紀以降の大陸からの渡来って、それ、秦の始皇帝のころの、徐福たちじゃない?
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm
148日本@名無史さん:2006/07/23(日) 23:14:15
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋と低脳遺伝学者の
偏向調査のコラボレーション。いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


一九九四年一月二六日ニュース報道。山口県豊北町の土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアムの松下孝幸館長(形質人類学)らが、
山東省文物考古研究所を訪問。同省の遺跡から出土した前漢時代の古人骨約七十体について、顔の長さ、幅などを計測し、
北部九州や山口県で発掘された渡来系弥生人骨と比較したところ、八割以上で顔の長さ、ほお骨の厚さなど主要な値が一致。
骨から推定した平均身長も渡来系弥生人(男性一六三センチ、女性一五〇センチ)とほぼ一致した。
 一九九六年一〇月一九日、日本人類学会・日本民族学会連合大会発表。東大理学部の植田信太郎助教授(人類学)らは、
約二千年前の中国・山東省臨錙の遺跡から出土した人骨と、同時期の詫田西分遺跡から出土した人骨のDNAを分析し、
遺伝子の配列が特定の部分で同じ人がいることを確認した。
 一九九九年三月一九日ニュース報道。江南人骨日中共同調査団(山口敏・東京国立科学博物館名誉研究員が団長)は、
江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、
歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較。
結果、春秋戦国時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の
人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致した。
http://www.asahi-net.or.jp/~CY1N-STU/kodaishi/yayoi.htm
149日本@名無史さん:2006/07/24(月) 04:04:30
>>147 稲作をはじめた中国・朝鮮系の人びと。こうした人たちの子孫がわたしたち
なのだ。それにしても紀元前3世紀以降の大陸からの渡来って、それ、秦の始皇帝
のころの、徐福たちじゃない?

・・・それなら日本人は何故、シナ語や朝鮮語をしゃべらず、日本語を喋っている
のだ?

 そして徐福たちが来たのなら紀元前から漢字を使っていて、その記録も残って
いたはずだろう。


150日本@名無史さん:2006/07/24(月) 12:42:41
約6500年前には既に灰陶時代に入り、約4200年前には既に施釉陶時代に入る。



黄河中・上流域ではB.C.4500年に老官台文化(陝西省)が誕生し、
北首嶺遺跡などからは灰陶が出土している。

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm



中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm
151日本@名無史さん:2006/07/24(月) 12:46:20
●灰陶 かいとう

中国の新石器時代の黄河流域では、仰韶(ヤンシャオ)文化期に紅陶が多く灰陶は少なかったが、
晩期には灰陶が多くなる。山東地域を中心とするダイブンコウ※注2※文化期でも同様に,
晩期には灰陶が多くなり、ロクロが用いられた。両文化を継承した竜山文化期では、灰陶が
多く質も向上していく。江漢平原の屈家嶺文化期では,中期に灰陶が主流を占めてくる。
殷代になると土器製作の技術が進み,窯中の還元焔が制御されて,後期には,器質・色調の
優れた細泥灰陶が土器の大部分を占めるようになる。灰陶は周・漢・六朝でもつくられ,
加彩灰陶も現れる。http://www.tabiken.com/history/doc/D/D056R100.HTM

灰陶(かいとう)

中国、殷代以前に始まる陶質土器。
焼成の最終段階で、空気をあまり送らず窯の中を還元状態にするため灰青色を呈する。
殷・周代を中心に漢・唐の頃まで日常の容器として広く使われた。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/195.html
152日本@名無史さん:2006/07/24(月) 12:48:54
●原始磁器 げんしじき(=灰釉陶、原始青磁)

中国古代の釉(うわぐすり)をかけた硬陶。3%以下の鉄分を含む胎土でつくられ,その上に
土灰釉(どかいゆう)を意識的にかけ,セ氏1,200度前後で焼成されたもので,灰釉陶,釉陶
ともいわれ,日本では灰釉と呼ばれている。3%以上の鉄分を含む胎土でつくられ,釉薬を
かけないで焼成された吸水率の高い灰陶とは異なる。また,焼成過程で降灰が器面でとけて
ガラス状になった自然釉とも区別される。原始磁器は,揚子江下流地域に源流があるといわれる。
殷代中期の二里崗文化には,灰白色の胎土でつくられ,器の内外に光沢のある薄い釉がかかり,
硬度が高く鋭い音色を出し,水のしみこまない原始磁器が出土している。殷代後期から西周時代には,
浙江・江蘇・江西・安徽・山東・河南・河北・陝西などの各省の遺跡から,原始磁器が出土する。
器形には,尊・壺・豆・鼎・杯などがある。春秋戦国時代には,揚子江以南で多くつくられ,
改良が加えられていく。土灰釉による褐・緑色の原始磁器は,その後しだいに発達して,
後漢時代に青磁となる。http://www.tabiken.com/history/doc/F/F303L100.HTM

灰釉陶は中国全土で焼成されつづけるが西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、
福建省などの中国東南部では印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋
時代(B.C.770年〜476年)華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。戦国時代
(B.C.476年〜B.C.221年)に入ると灰陶が主流になるが、目を見張る立派な黒陶も出土して
いる。鉛釉陶の走りもこの頃から見られるようになる。
http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html
153日本@名無史さん:2006/07/24(月) 13:46:46
>>147 紀元前3世紀にシナ人は居たが、朝鮮人という民族はまだ形成されて
いなかった。高句麗、百済、新羅の前身になる種族がばんきょしていて、
3世紀頃には倭人も半島南部にいたのだが、この倭人が日本人の先祖で、
シナ人、朝鮮人が先祖なのではない。
154日本@名無史さん:2006/07/24(月) 22:24:54
弥生人のDNAは古代中国人
さて、その絹織物と養蚕技術の伝来ルートとしては、従来の定説では、華北〜朝鮮半島経由だと
されてきた。ところが吉野ヶ里遺跡から発見された四片の絹織物を鑑定したところ、江南地方で
ある「華中」に特有の蚕である太い「四眠蚕」であることが分かった。このことから大陸文化の
(=弥生文化)の伝来は、長江流域の江南からの直接ルートが強く推測される。
 そして、最近、日中の「江南人骨日中共同調査団」の調査結果(1999年3月)が、その直接
ルート説をさらに補強した。これは、江南地方の紀元前5〜8世紀の人骨と、福岡県筑紫野市出
土の人骨(紀元前後)について、「ミトコンドリアDNA分析」という方法で、塩基配列を比較
したところ完全に一致したというものである。
 以上のような事実をつなぎ合わせると、大陸の華中(江南地方)から直接、吉野ヶ里など北部
九州へ渡来人がやって来た可能性が強くなり、大陸文化の伝来についても、華北〜朝鮮半島経由
以外に江南からの直接ルートの存在を強く示唆される。
 これまで、大陸との交流というと、魏と邪馬台国というように、魏(華北)の地域との関係が
どうしてもクローズアップされがちだった。しかし、吉野ヶ里遺跡の絹片や人骨の分析により、
呉(華中=江南)地域との交流の存在が実証されたというわけである。
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=65883
155日本@名無史さん:2006/07/24(月) 23:52:00
>>154
>弥生人のDNAは古代中国人
まあそうだろうね
とうとう決定的な事実か…
コリアンが「北方伝来ニダ〜」
「古代も現代もウリたちが住む国ニダー!」って
騒ぐんだろうけど、哀れなり。
156日本@名無史さん:2006/07/25(火) 00:08:12
>>155  これはどうよ!
北部九州(弥生前期〜中期前半)の蚕は朝鮮には、いない四眠蚕である

楽浪系統の絹は20世紀に入り、平壌市楽浪区域を中心に多数発見された。
これらを鑑してみると、中国・漢の「経綿」とは異なる、
朝鮮固有の三眼蚕から採ったで織り上げた絹布であることが分かった。
日本蚕学界でい「朝鮮三眼」「韓三眼」「古来三眼」と言われる蚕が
まさしくそれである。朝鮮には四眠蚕は無い
 カイコの品種には三眠のものと、四眠のものとがある、
大陸で調べると、中国の華中が四眠、朝鮮半島では三眠という分布
をしている。・・(布目順郎さんが)実際に、測定してみると、
弥 生時代前期から中期前半までの遺跡(福岡県の有田、吉武高木、
比 恵遺跡、甘木市の栗山遺跡)から出土した絹は、すべて四眠蚕の
ものと判定された。これらの繊維を生産したカイコは中国の華中地方
からもたらされたのもである可能性が高い。
※ 脱皮の回数が違う、糸の太さが違う、偏平率が違う、といった
違いがあるらしい。吉野ヶ里から発見された絹は四眠蚕で有る。
157日本@名無史さん:2006/07/25(火) 00:15:08
中国では蚕の持ち出しは厳罰、倭人と言うか越人はエライな。
158日本@名無史さん:2006/07/25(火) 15:10:00
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
型押の幾何学文様(印文)の一つさえも伝わっていないっ!


●印文土器 いんもんどき アジア 中華人民共和国 AD 

中国の東南没岸地帯地において新石器時代から漢代にかけて盛行した土器。
中国では印文陶と呼ばれる。焼成火度の差によって,軟陶と硬阿の二種類に
分けられるが,軟陶は前期,硬陶は後期のものになる。また,文様は型押の
印文が最も多く,20種以上の複雑な幾何学文様が器全体に施されるため,
幾何印文土器と通称される。製法には型製・手製・轆轤製のものがあるが,
轆轤製のものは少ない。器形は壺・甕の類が多い。色調は,軟陶では紅・灰・
灰白・黄白色で,硬陶ではほとんどが灰褐色で中に帯釉しているものがある。
印文土器が最も盛行するのは春秋戦国時代においてであるが,出土地域が
広範なため,この土器の文化的位置付けはむずかしい。
http://www.tabiken.com/history/doc/B/B263C100.HTM
159日本@名無史さん:2006/07/25(火) 15:10:37
西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、福建省などの中国東南部では
印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋時代(B.C.770年〜476年)
華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。
http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
160日本@名無史さん:2006/07/25(火) 15:23:47
>>157
蚕の持ち出しが禁止されていたのは、唐代じゃないか?
その禁を犯して、西にもたらされた繭もあったらしい。

ザ・シルクロード。
161日本@名無史さん:2006/07/25(火) 16:01:24
前漢もご法度のようだ。もっとも、持ち出す馬鹿者が多い故に周辺地域に養蚕が
拡散するわけだが。
162日本@名無史さん:2006/07/25(火) 16:15:47
弥生人が華中から来てないとすると、四眠蚕は空を飛んで来たのか?
まるでモスラだな、 朝鮮半島は三眠蚕う〜んどうゆう事
蚕は宮中でも飼育してるほど、大事だからな、衣類のみなもと。
163日本@名無史さん:2006/07/25(火) 17:28:43
単に朝鮮半島の四眠蚕は三眠蚕に品種改良されただけだろ。

あほらし。

もっとサプライズ持って来いよ。

菜畑遺跡で灰陶や印紋陶が出まくりだとかさw
164日本@名無史さん:2006/07/25(火) 18:13:00
広い中国が等質な文化圏であったと錯覚している大馬鹿ものが一人いるようですね。
>>1
165日本@名無史さん:2006/07/25(火) 18:57:44

越人にしても百越と言われるぐらい、いろんな種族がいたんだろ
>>1 は単一民族、文化、史観に囚われてるな。
ひょっとして朝の国の人、間違いないな!
166日本@名無史さん:2006/07/25(火) 21:44:57
スレ主、ちょっとこれ読んでください。↓

http://www.china-news.co.jp/culture/2004/07/cul04072903.htm

ともかく、感想よろしくお願いします。


追)ちなみに、オレはこの件に関しては中立です。
167日本@名無史さん:2006/07/25(火) 22:15:40
>>166
内モンゴル興隆窪文化遺跡からは100点余りの玉器が出土しており、
これらの玉器は「中国」最古の玉器である。

これらの玉器は「モンゴル」最古の玉器である・・・だろう。

 相変わらず、シナは他民族の歴史をシナに取り込もうとしているな。


168日本@名無史さん:2006/07/25(火) 22:56:15
>>167
どうでもいいが、「興隆窪文化」は、内モンゴルじゃなくて遼寧省でしょう。
別の地図で見たら、ぜんぜん内モンゴルじゃなくて、海に近い方でしたが。
169168:2006/07/25(火) 23:01:34
ちなみにこれが別の地図。

http://www.tscc.tohoku-gakuin.ac.jp/~orc/sympo/20040201-r-2.htm

6番に注目。「興隆窪」と書かれている。
170169:2006/07/25(火) 23:14:48
失礼、遼寧省西部と内モンゴルだからいいのか。
図がかなりおかしい気がするのだが…。
171日本@名無史さん:2006/07/25(火) 23:28:04
世界地図を見ると北京の東北方で長城より北に興隆という地名があるので
内モンゴルに属している。東へ100〜200kmで山海関に出る。

 この辺りから北東にかけて○○旗という地名が集中していて、シナと満蒙
の衝突地帯だったようだ。
172日本@名無史さん:2006/07/26(水) 00:08:32
遼寧にも、縄文的な古モンゴロイドがいたという事か…
173日本@名無史さん:2006/07/26(水) 09:44:14
違う。中央モンゴロイド。

中央モンゴロイドは寒冷化対応していない新モンゴロイド。←重要!

で、今の中央モンゴロイドは既に北方モンゴロイドとの混成後の姿。
174日本@名無史さん:2006/07/26(水) 10:44:21
>>173
そーですね。

「蒙古襞」で検索してみると、吐き気がするほど大量の「美容整形外科」の資料がヒットする。
蒙古襞は、日本人、中国人、韓国人などに特徴的だと決まり文句のように書かれている。
しばしば中国の美容整形外科のサイトもヒットする。
目を大きくする為には、蒙古襞を切除しなければならないが、蒙古襞を切除するとどうなるか
と言うと・・・目頭が鋭く内側に切れ込んで、涙腺が完全に見えるような状態になる。どういう
目かと言うと、白目の端っこのピンク色の部分がはっきりと確認できるような目だ。具体的には、
ヨーロッパの白人や、アフリカ系の人々のような目である。
蒙古襞が強いとどうなるかと言うと、目頭は完全に丸くなり、黒目の方に覆い被さるようになる
為、目が小さく、かつ目と目がうんと離れた“間抜けな顔”になるらしい。
この蒙古襞は、東南アジア北部にもしばしば散見され、かなり中央アジアモンゴロイドが、
寒冷適応したモンゴロイドと混血した事を物語っていると思う。もちろん、瞼は腫れぼったい。
ちなみに、二重か一重かはあまり関係がないらしい。

詳しくは検索されたし。
175日本@名無史さん:2006/07/26(水) 11:04:59
ただ、華北の中央モンゴロイドは日本人より北方モンゴロイドの
影響が弱い。混成比率の問題だと考えられる。


c.シニ−デ(中央蒙古人種)

いわゆるシナ人種。やや高身、中頭で、頬骨突出や蒙古皺襞が弱く、
鼻が突出している。中国本土の大部分を占める。

d.パレモンゴリーデ(南蒙古人種)

茶黄色、低身短頭で、顔は丸くやや広鼻。中国南部から東南アジアに
広く分布。
176日本@名無史さん:2006/07/26(水) 14:25:20
>>171 訂正。地図をよく見ると内モンゴルでなく河北省に含まれていた。
177日本@名無史さん:2006/07/26(水) 15:52:17


朝鮮人 6割 > 日本人 4割 > 華北人 2割


これがだいたいの一重まぶたの割合。

一重まぶたの出現率は蒙古皺襞の強弱と関係があるが、
一重まぶたの割合だけ見ても中国から南は考えられない。
178日本@名無史さん:2006/07/26(水) 17:53:42
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
最も代表的な器形である、鬲、鼎などの三足土器さえ伝わっていないっ!


●三足器 さんそくき 

中国における3本の足をもつ土器・青銅器の総称。三足器には,食物を煮るまたは
盛る鼎(てい),中空の袋状三足に水を入れて煮沸し,その上の「甑(そう)」
(こしき)にのせた穀物を蒸す鬲(れき),鬲と甑が結合して一体となったゲン
※注1※,酒器のカ※注2※,燗酒をつくるキ※注3※・カ※注4※・爵(しゃく)
などがある。しかし新石器時代の原始的土器には,水や酒を入れる壺(こ)や,
食物を盛る豆(とう)などにも三足のついたものがあり,器形も未分化・不定形
であった。たとえば,磁山・斐李崗(はいりこう)文化の三足つき壺・鉢形鼎,
仰韶(ぎょうしょう)文化の種々の形鼎,大ブン※注5※)口文化の三足つき
釜形鼎・鉢年鼎・觚(こ)形器,取手・三足つき鉢形細柄豆など種々ある。
また大ブン※注5※口文化において三足土器が,実足から空足,さらに袋状と変化
し,同時に器身も注ぎ口なども変化し,中空三足・注ぎ口・取手つきの大型キ
※注3※が成長した例もある。良渚(しょ)文化や典型竜山文化には,種々の
三足土器が多くなり,河南や陝西の竜山文化にも種々の三足土器が現れ,しだい
に器形がととのっていく。殷代には三足土器もつくられたが,これらの器形を
模した青銅器が鋳造され,また新しい器形の三足青銅器もつくられて,重要な
祭器となり,豪壮な造形と華麗な文様の芸術品に発展し,周代に継承されていく。
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H176R200.HTM
179日本@名無史さん:2006/07/26(水) 17:54:14
1. 華南地域では農業の発達が遅かったため、土器の種類は多くありません。
2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。
3. 黄河流域では、約1万年前から粟やひえの栽培が始まり、約7000年前以降には平底、
丸底、三足の土器が出現。 約5000年前から土器が一変し、中流域では灰色土器、
下流域では黒色土器が現れます。
4. 北方地域西北地方では、約6000年前以前の土器は発見されませんが、彩文土器が
発達したことが大きな特色です。
5. 北方地域東北地方では、約6000年〜5000年前に窯を使用し、彩文土器が出現しました。

 これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域
で形や種類、技法、文様などがかなり異なります。 また、農業の発達によって土器
づくりの技術も発達し、約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な
土器の一つとなりました。土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連
したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.html
180日本@名無史さん:2006/07/26(水) 18:00:18
181日本@名無史さん:2006/07/26(水) 18:49:24
>>175
日本人の場合は、北方古モンゴロイド(縄文)との混血だから、赤が少ない。
割合は、およそ6:4。縄文は、目頭鋭いでしょう?
自分で鏡見て見れば解るが、日本人は、目頭結構鋭いはずだ。

それともなにかね?日本人の大部分は、目頭まんまるで目が離れたヒラメ
みたいな顔ばかりだと言いたいのかね?失礼な。
182日本@名無史さん:2006/07/26(水) 18:56:49
もし縄文(4割は混じっている)を無視して、大部分が北方とする場合、
北方だからそうも言えるが、新モンゴロイド6割、古モンゴロイド4割
と説明しなければいけない。知らない人に誤解を与える事になる。
183日本@名無史さん:2006/07/27(木) 10:02:12
>>181
それを言うならスレ的には、日本人の場合、北方新モンゴロイド(弥生)の
方も赤が少なかったから混成後も赤が少ないままだった。
だから中国ではないと言った方がより適当だろうね。
184日本@名無史さん:2006/07/27(木) 12:08:59
篆書などの原始漢字の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅鐸に流水文・袈裟襷文・横帯文などの文様があるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html

鐸身全体は,横帯文や流水文で水平に分割するか,袈裟襷文で縦横に分割し4乃至6個の左
右対称の小区画を作り出すもので,横帯文系・流水文系・袈裟襷文系の三つの系統に大別され
る(図4)(図3)(図5)。横帯文系の横帯には,斜格子文のほかに綾杉文・鋸歯文・連続
渦文など各種の幾何学文が充?される。
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf#search='
185日本@名無史さん:2006/07/27(木) 12:09:35
饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html

殷の時代に生み出された灰釉陶は、西周時代から春秋戦国時代(B.C770〜 221)にかけて
熟成の時代を迎えることになるが、なお中国工芸の中心は依然として青銅器であった。
祭器としての青銅器から日常生活具としての青銅器へ変化する過程で、文様も饕餮文
(とうてつもん)・〓龍文(きりゅうもん)・〓鳳文(きほうもん)などの神秘的・
宗教的・観念的なもから動物や植物がリアルに写される写実的な文様へ変化していった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
186日本@名無史さん:2006/07/27(木) 14:02:05
>>183
何か勘違いをしている。
東アジア一帯で最も“赤”が少ないのは、アイヌと琉球人だ。
北アジア人は、けっこう赤い。

アイヌは、近代以降和人との混血が激しく、純潔種は極めて少なく
なっているから、もともとは“赤”がゼロだったはずだ。
アイヌも琉球人も、縄文の血脈である。
日本人は、赤無しの縄文との混血が、総人口の4割にも達している。
187日本@名無史さん:2006/07/27(木) 22:38:15
>>186
>東アジア一帯で最も“赤”が少ないのは、アイヌと琉球人だ。
>北アジア人は、けっこう赤い。
賛同いたす。
188日本@名無史さん:2006/07/28(金) 17:46:21
篆書など原始漢字の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅剣・銅戈・銅鉾・銅鐸・銅鏡・銅鏃などがあるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。銅鏡は除魔や権威の象徴として用いられた。一般に、西日本
中心の銅剣・銅戈・銅鉾文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏に大別されるが、福岡県の岡本
遺跡や佐賀県の安永田 遺跡から銅鐸が出土したり、出雲族の文化圏を連想させる島根県
の荒神谷遺跡[こうじんだにいせき]が発掘 されたため、疑問視されている。

http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html
189日本@名無史さん:2006/07/28(金) 17:46:53
鼎、爵などの三足器、尊などの酒器など、中国の青銅器の器形が全く伝わっていないっ!


青銅器はその用途により、食器、酒器、水器、楽器のほぼ4種類に分けることが
できる。各種類ごとにそれぞれ品目も複雑で数多く、形も非常に変化に富んでいて、
中国人の豊かな想像力と創作力を反映している。たとえば、黍稷(モチキビ)を
盛っておく「簒」。これは現代のご飯茶碗に相当する。その形は非常に変化に富み、
円脚に丸い胴のものもあれば、円脚の下にさらに四角い台座を加えて重しとしている
ものもあり、四角と円形との対象が美しい。また炊事用として使う「鼎」は、縁に
一対の耳を付け、下げるのに便利なようにしてある。丸い胴の下には三つの脚が
つけられ、獣の肉を煮込む火が燃えやすいようになっている。ほかには「爵」や
「尊」なとがある。「爵」は酒を飲んだり温めたりする食器で、縁の形は酒が口の
方へ流れやすいようになっており、脇に持ちやすいように把手がある。胴の部分の
下には酒を温めるため3本の脚がついている。「尊」は大事な酒器で、丸い形の
ものや四角形、および四角い脚に丸い口をしたものなどがある。このように、
青銅器の基本的な形は、バランスの取れた対称形がほとんどで、荘厳で落ち着いた
雰囲気が特色である。
http://www.roc-taiwan.or.jp/culture/culture19.html
190日本@名無史さん:2006/07/28(金) 17:58:40
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形がさーっぱり伝わっていない。
その代表である三足器形さえも伝わっていない。



◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html



191日本@名無史さん:2006/07/28(金) 19:31:02

【黒色磨研土器】 縄文後期(BC11C〜13C)

 縄文土器のうち、表面をヘラなどでみがきあげた土器を磨研土器といいます。この種の
土器ははじめ赤褐色であったが、後期ごろから黒色化する傾向をしめし、ことに九州を
中心に後期後半ごろから、器面が黒色の光沢をもちロクロを使用したと思われる、
黒色磨研土器が普及します。この土器は、縄文文化独自の形成とみるべきではなく、
江南の各遺跡から多量に出土している黒陶の関係をかんがえなければなりません。
****鴨緑江流域一帯の積石塚からは褐色磨研土器、黒色磨土器、灰色土器などの土器類と
環頭大刀、合口、槍、鉄斧などの鉄製武器、銅鐸、透彫り文装飾、小釘打ち薄銅版の青銅器と
装飾品が出土し、褐色磨研土器と黒色磨土器は紀元前3世紀の遺物として認められている
http://www.himawari.ed.jp/nuki_e/nukigawaiseki.htm
http://www.e-obs.com/rekisi/kodai/sousetu/sousetu1-1.htm
http://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/category/hakubutsu/kouko2.html
http://www.vill.tsumagoi.gunma.jp/siryoukan/kannai.htm
192日本@名無史さん:2006/07/28(金) 19:35:06

【黒色磨研土器】 縄文後期(BC11C〜13C)

 縄文土器のうち、表面をヘラなどでみがきあげた土器を磨研土器といいます。この種の
土器ははじめ赤褐色であったが、後期ごろから黒色化する傾向をしめし、ことに九州を
中心に後期後半ごろから、器面が黒色の光沢をもちロクロを使用したと思われる、
黒色磨研土器が普及します。この土器は、縄文文化独自の形成とみるべきではなく、
江南の各遺跡から多量に出土している黒陶の関係をかんがえなければなりません。
**鴨緑江流域一帯の積石塚からは褐色磨研土器、黒色磨土器、灰色土器などの土器類と
環頭大刀、合口、槍、鉄斧などの鉄製武器、銅鐸、透彫り文装飾、小釘打ち薄銅版の青銅器
と装飾品が出土し、褐色磨研土器と黒色磨土器は紀元前3世紀の遺物として認められている
http://www.himawari.ed.jp/nuki_e/nukigawaiseki.htm
http://www.e-obs.com/rekisi/kodai/sousetu/sousetu1-1.htm
http://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/category/hakubutsu/kouko2.html
http://www.vill.tsumagoi.gunma.jp/siryoukan/kannai.htm
193日本@名無史さん:2006/07/28(金) 20:20:52
ちょっと縄文土器とは思えんな。黒陶か!
194日本@名無史さん:2006/07/28(金) 21:58:05
これ>>192と比べて見てよ、よそに有ったコピーだけど黒陶だな

17番の「陶釜」なんて雰囲気がよく似ているんではないかい?
他にも色々あったが、面倒なので一個だけにする。



http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
195日本@名無史さん:2006/07/29(土) 11:51:26
>>1 スレ主さん、これどう思います。ニセモノ?ホンモノだったら大変だこりゃ。
196日本@名無史さん:2006/07/29(土) 13:02:44
縄文後期中頃に伝わった遼東・朝鮮経由の黒陶擬似の黒色磨研土器ね。

朝鮮半島の無文土器の遺跡では黒色磨研土器や丹塗磨研土器もよく出土する。

なぜ朝鮮経由なのかと言うと、黒色磨研土器が伝わった縄文後期中頃(BC15C前後)
の中国では既に原始磁器時代に入り、主流が灰陶であったのと、
やはり中国土器の代表器形である三足器形が無いからである。

それに甑や豆などの器形も無い。

また縄文後期(BC20C)と河姆渡文化時代(BC50C)では時代が5000年ほど
違う事もお忘れなく。
197日本@名無史さん:2006/07/29(土) 14:10:10
BC11C頃の華中の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


呉城文化 B1400?〜B1000?

 江西地方の文化はB3000年〜B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万uで、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。

http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
198日本@名無史さん:2006/07/29(土) 14:11:02
>豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土
>符号を刻した土器や鋳型も発見
>青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、商文化を凌ぐ鋳造技術




印文陶、釉陶、原始磁器、鼎、尊・・・

BC11C頃の華中の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡で
出土しないものばーっかり(嘲笑)



199日本@名無史さん:2006/07/29(土) 15:44:18
朝鮮半島にも出土するけど時代が新しすぎないか?BC3Cと上に有るけど
200日本@名無史さん:2006/07/29(土) 16:07:06
ロクロも定説(AD4C)より古いな、BC11〜13Cとは、学会大変だな
201日本@名無史さん:2006/07/29(土) 16:21:26
>>1
中国に有るもので何ひとつ欠けず完璧に存在しなければ、渡来は無かった?
そりゃ神わざだな、方法教えてよ。
202日本@名無史さん:2006/07/29(土) 16:49:02
>>1 なかなか忙しいそう。工作活動も大変そうだな。暑いけどがんばれ!
203日本@名無史さん:2006/07/30(日) 01:10:53

【黒色磨研土器】 縄文後期(BC11C〜13C)

 縄文土器のうち、表面をヘラなどでみがきあげた土器を磨研土器といいます。この種の
土器ははじめ赤褐色であったが、後期ごろから黒色化する傾向をしめし、ことに九州を
中心に後期後半ごろから、器面が黒色の光沢をもちロクロを使用したと思われる、
黒色磨研土器が普及します。この土器は、縄文文化独自の形成とみるべきではなく、
江南の各遺跡から多量に出土している黒陶の関係をかんがえなければなりません。

**鴨緑江流域一帯の積石塚からは褐色磨研土器、黒色磨土器、灰色土器などの土器類と
環頭大刀、合口、槍、鉄斧などの鉄製武器、銅鐸、透彫り文装飾、小釘打ち薄銅版の青銅器
と装飾品が出土し、褐色磨研土器と黒色磨土器は紀元前3世紀の遺物として認められている
http://www.himawari.ed.jp/nuki_e/nukigawaiseki.htm
http://www.e-obs.com/rekisi/kodai/sousetu/sousetu1-1.htm
http://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/category/hakubutsu/kouko2.html
http://www.vill.tsumagoi.gunma.jp/siryoukan/kannai.htm
204日本@名無史さん:2006/07/30(日) 01:12:37

17番の「陶釜」なんて雰囲気がよく似ているんではないかい?

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
205日本@名無史さん:2006/07/30(日) 01:19:15
な〜んだ朝鮮半島の土器って、1000年も新しいんだ須恵器も縄文土器かもな。
206日本@名無史さん:2006/07/30(日) 21:56:20
吉野ヶ里墳丘墓のルーツはどこなのか。中国・長江下流域の江南に多く見かけられる
土?墓(どとんぼ)(B.C.800〜500)ではないかといわれている。(中略)
同じく「土?墓が墳丘墓の源流ではないか」という樋口隆康氏(参考文献5)が江南の
土?墓について書いている。少し長いが紹介したい。[江南の土?墓とは盛土墳で、
地上に埋葬したものである。中原の殷・周時代の墳墓は地下深く抗を掘って埋葬してあり、
墳丘を持たないのが通例である。墳丘は秦代以降に出現したとされるので、江南の土?墓
は中国における墳丘初現の例になるかもしれない]。「この土?墓は長江下流、特に
江蘇省南部の太湖周辺から浙江省杭州や安徽省屯渓までに分布している。すなわち呉越の地
である。丘陵から平野にかけて径15〜30m、高さ2〜3mほどの大小の塚が群在している」。
「この土?墓の盛土は版築ではなく一つの土?墓の中に数個の埋葬がなされている。それらは
地面に礫石を敷いたり、紅焼土を詰めたりして棺床としている。石を遺体のまわりに並べて
囲ったり、あるいは石室を築いたりしている。その石室も竪穴式と横穴式のタイプがある。
これらの土?墓はだいたい西周時代から春秋時代にかけてのものである」。「この墓から出土
する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは
異なった図文をもっており、銅剣は身柄一鋳のものである」。
http://www2.saganet.ne.jp/niesu/zyofuku/dotonbo.htm
207日本@名無史さん:2006/07/30(日) 21:57:00
>この墓から出土する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、





印文硬陶と原始施釉陶が伝わっていない事には一切触れない低脳学者のすっとぼけぶり(嘲笑)




208日本@名無史さん:2006/07/30(日) 22:12:42

あっ 鬼さんみ〜つけたあ〜

黒陶灰陶工作員は何者かな、もしかして PU それとも がいやまん ?
あちこちでコピペしてるな、毎日毎日ごくろうさんです、暑いけどがんばれ。
一日50ヶ所位コピペしてるん、儲け過ぎだよ少し回してくれよ!
209日本@名無史さん:2006/07/31(月) 12:15:12
商の都のあった河南省鄭州市で商代の原始青磁が確認されたことから、
この地区から研究はスタートした。その後、長江中・下流域で商代から
戦国期に亘って連綿と原始青磁が、古墓や城跡を中心に相次ぎ発見された。
その生産と消費の中心地が華南地域であることは、ほぼ動かしがたい状況となっている。

釉色は青緑色、青黄色を呈し、器の内面は全て施釉し、外面は底部近くには施釉
していない。大部分の器物の底部にはヘラ書き符号が認められると言う。
時代としては、春秋時代早期に比定されている。こうしたヘラ書き符号を有した
印紋陶器や原始青磁は、広東地区の春秋戦国時代の古墓からもよく発見されると言う。

福建省でも同地特有の原始青磁が確認されているが、その窯跡の確認は未だ
されていない。しかし西周時代にはすでに現地生産がされ出していたと予測されている。

今までに窯跡本体の確認された原始青磁を焼成した窯は、華南地域に限られている。
商代でも浙江省上虞市百官鎮2号窯跡の例の様に明らかな龍窯が確認されている。
http://www.sg-r.co.jp/web/kouko/genshi_seiji.html
210日本@名無史さん:2006/07/31(月) 12:16:12
4000年以上前の東南アジア周辺の遺跡でも三足土器が一般的。


新石器時代:約4,000年以前
出土した土器は、26種の様式をもっていたが、その中でもっとも目立ったものは
三足の鼎であって、先史時代の中国の『鬲(れき)』に似ており、年代を調べた
ところ、これらは約4,000年以前に作られたことが判明した。
カオサムルナム洞窟でも、バン・カオ遺跡出土の土器と似ている同年代の物が出土した。

http://www.toros8.com/ban/his1.html
211日本@名無史さん:2006/08/01(火) 15:32:20
周に入る頃には既に一般的な建材だった瓦さえ伝わっていないっ!


瓦の歴史はきわめて古く、中国では紀元前2000頃にはすでに瓦が登場している。
中国4000年の歴史とよく言われるが、瓦も4000年の歴史を持っている。中国語の
瓦という字は、粘土を焼いたものの総称である。

http://www8.ocn.ne.jp/~kawarak/hana.html

瓦の歴史はとても古く、メソポタミア、インドなどの諸説がありますが、
すでに紀元前2000年前の中国に瓦が存在していたと言われています。

http://www2.odn.ne.jp/sugimotokawara/KAWARA2.htm
212日本@名無史さん:2006/08/01(火) 15:33:22


「水田稲作技術は中国大陸から入っているが 水田稲作に関する
中国大陸の言葉は伝わっていない」

http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/mousou.html


金関  縄文から弥生を土器の移り変わりで見ても、大陸から入ってきたと
考えざるを得ない。ただ同時期の中国土器や金属器はない。
このため日本列島へは朝鮮半島経由だろう。

http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/001.htm

213日本@名無史さん:2006/08/01(火) 19:42:37
>>212 朝鮮半島経由としても楽浪郡経由ということも考えられるな。

 山東半島>遼東半島>朝鮮半島西海岸>南岸経由だろう。
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264日本@名無史さん:2006/08/02(水) 10:29:03
>>214-263
なんだその江南語は?

はよ南方人チャンコロランドに帰れよw
265日本@名無史さん:2006/08/02(水) 12:19:30
羯諦は梵語で go の過去形か過去分詞らしいな。
266日本@名無史さん:2006/08/02(水) 17:42:17
BC35C頃に高床式住居、甕棺墓(土器棺墓)が日本に出現するが・・・・・


高床式倉庫群、竪穴式住居群、千五百年の営みを積み重ねて来た遺跡、
建物跡ひとつをとっても同じ場所に何度も建て替えられている。
三内丸山に集落があったのは縄文時代前期半ばから中期末までの一五〇〇年間
も古い前期半ばは紀元前三五〇〇年頃、いまからおよそ五五〇〇年前だ。
http://www.d1.dion.ne.jp/~zpmasasi/sannai.html

青森県内の縄文時代早期から中期後葉の墓を集成し、埋葬方法の種類と
移り変わり、配置についての基礎的な分析を行った。青森県内の埋葬方法は、
早期後半に大半が出そろい、前期中葉に土器棺墓、前期末葉にフラスコ形
土坑が出現して副葬品の量にも差が生まれる。
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/special/koubo_sha.html
267日本@名無史さん:2006/08/02(水) 17:43:02
BC50C頃の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の鋤、黒陶や彩陶、
釜・甑・鉢などの器形が縄文時代に全く伝わっていないっ!


浙江省余姚(よう)県河姆渡遺跡を標準とする新石器時代の文化をいう。主に寧紹平原の
東部地区に分布している。河姆渡遺跡には四つの文化層があり,第1層は良渚文化早期と
類似しており,第2層は馬家浜文化の要素がある。第3・4層は河姆渡文化層で,上の両層
よりも古く,注目すべき出土器物がある。土器は原始的な手づくりの,あらい厚手の不整形で,
低温で焼かれた夾炭黒陶が最も多く,混ぜられた植物の茎葉砕片やもみ殻が焼けて炭化し,
土器を黒色にしている。夾炭黒陶は第4層では最大量を占めるが,第1層に至るほど漸減し,
第1・2層では焼成温度の高い砂混じりの夾砂紅陶・灰陶が優勢となる。第4層の土器の主な
ものに,釜・罐(かん)・鉢・盤・器台がある。釜が四つの層を通して出土し,形態と
装飾が最も多様なところから,釜を南方地区新石器文化の特徴とする見解がある。第3層
出土の甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器で,のちに朝鮮・日本などに伝わり,
東アジアに特徴的な穀物を蒸して食べる調理法を普及させたものである。また紡錘のほか,
濃茶の文様を施した数個の彩陶片も発見されている。遺跡層が地下水面下にあったため,
多くの木器が保存され,耜(し。すき)・碗・盆・かい・杵・矛・紡・紡錘などのほか,
組み合わせ部品用と思われる大小の棒が発見されている。
http://www.tabiken.com/history/doc/D/D276R100.HTM
268日本@名無史さん:2006/08/02(水) 18:02:44
見よ!

BC50C頃の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の鋤、黒陶や彩陶、
釜・甑・鉢などの器形が縄文時代にさーっぱり伝わっていない。



◎河姆渡遺跡

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
http://homepage3.nifty.com/sugar-tr/joumonG.html


269日本@名無史さん:2006/08/02(水) 21:53:19
>>263 インド仏教のシナ語訳か。日本人には分からんはずだな。
270日本@名無史さん:2006/08/03(木) 12:08:18
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


渡来系弥生人は大陸のどこからやって来たのでしょうか。最近の調査により、
水稲耕作の発祥の地ともいわれている中国南部が有力視されています。
黄河下流と長江下流に挟まれた地域の漢代の遺跡から、渡来系弥生人に
よく似た人骨があいついで見つかっています。この時代の中国は、政治的に
動乱の時代であり、いろいろな民族が入り乱れて戦いました。日本にやって
来た渡来民は、このような動乱から逃れてきた人々だったのでしょうか。

http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-14.html
271日本@名無史さん:2006/08/03(木) 12:08:44
朝鮮と山東省の骨だけで中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


「土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、
細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系
「新モンゴロイド」の特徴がありました。
彼らのルーツを求めて朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、
中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の
人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極め
てよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国
だったのです。」

http://sakezo.com/shumi/rekisi/keta1.html
272日本@名無史さん:2006/08/03(木) 12:15:36
心配せんでもそこ等辺に落ち着くからよ、安心して長生きして見届けろ。
273日本@名無史さん:2006/08/03(木) 23:55:56
長生きしなくちゃ見届けられんの?
274日本@名無史さん:2006/08/04(金) 00:02:39
でかくて、立体的な顔をした俺の先祖ははどこから来たのか・・・
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276日本@名無史さん:2006/08/04(金) 00:14:06
俺は色白で小柄で小顔、鼻が高くて出っ歯気味。
眉毛が太くて、目は二重。やや毛深い。髪は直毛に近いクセゲ。

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284日本@名無史さん:2006/08/04(金) 14:51:57
↑もはや荒らす事しかできなくなった江南チャンコロ(超ウルトラ嘲笑)
285日本@名無史さん:2006/08/04(金) 15:08:50
北方アジアは一切抜きの偏向調査で作為的に中国・朝鮮に誘致していた
スットボケ遺伝学者(嘲笑)


宝来センセイによると、韓国や中国にはそれぞれドミナントなミトコンドリアDNAがあるのに、
日本本土では、とくにドミナントなものがない。つまり系統的にさまざまな人たちから成り立って
いるのである。また、これまで、大陸から渡来した弥生人によって分断され、北に追いやられたのが
アイヌ、南に追いやられたのが琉球人といわれてきた。しかし、アイヌと琉球は少なくとも1万2000年
以上まえに分岐しており、紀元前3世紀以降に渡来してきた弥生人によって分断されたんではないという。
1万2000年前にそれぞれ日本に住み着いたアイヌと琉球人。そこへ紀元前3世紀以降になって渡来し、
稲作をはじめた中国・朝鮮系の人びと。こうした人たちの子孫がわたしたちなのだ。
それにしても紀元前3世紀以降の大陸からの渡来って、それ、秦の始皇帝のころの、徐福たちじゃない?
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm
286日本@名無史さん:2006/08/04(金) 15:10:25
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋と低脳遺伝学者の
偏向調査のコラボレーション。いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


一九九四年一月二六日ニュース報道。山口県豊北町の土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアムの松下孝幸館長(形質人類学)らが、
山東省文物考古研究所を訪問。同省の遺跡から出土した前漢時代の古人骨約七十体について、顔の長さ、幅などを計測し、
北部九州や山口県で発掘された渡来系弥生人骨と比較したところ、八割以上で顔の長さ、ほお骨の厚さなど主要な値が一致。
骨から推定した平均身長も渡来系弥生人(男性一六三センチ、女性一五〇センチ)とほぼ一致した。
 一九九六年一〇月一九日、日本人類学会・日本民族学会連合大会発表。東大理学部の植田信太郎助教授(人類学)らは、
約二千年前の中国・山東省臨錙の遺跡から出土した人骨と、同時期の詫田西分遺跡から出土した人骨のDNAを分析し、
遺伝子の配列が特定の部分で同じ人がいることを確認した。
 一九九九年三月一九日ニュース報道。江南人骨日中共同調査団(山口敏・東京国立科学博物館名誉研究員が団長)は、
江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、
歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較。
結果、春秋戦国時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の
人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致した。
http://www.asahi-net.or.jp/~CY1N-STU/kodaishi/yayoi.htm
287日本@名無史さん:2006/08/04(金) 15:26:01
>>283
ああ、それと、


次回荒らしたら、日本史板中に俺のコピペが飛び散るので
そのつもりで。

ま、覚悟してやれや。



アハハハハハハ


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296日本@名無史さん:2006/08/04(金) 23:25:55
>>287
おーい、どうでもいいがこのお経厨は、いつもの南方人じゃなくてただの基地外かも知れんぞ。


お経厨もとなえるの止めやー!
297日本@名無史さん:2006/08/05(土) 18:06:24
>>296
いや、呉がどうだとか、呉越の落ち武者だとか江南誘致洗脳やらかす
いつもの横浜中華街の台湾系南方人だろ。

江南や長江周辺の遺跡の遺物ソースが出てくるときは
必ず荒らしに来るからねw

お経の前に尊(酒器)くらい伝えたらどうなんだろうね。

呉越の落ち武者は酒も飲めない男未満の集団だったらしいw(超爆)
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303日本@名無史さん:2006/08/05(土) 21:41:58
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


渡来系弥生人は大陸のどこからやって来たのでしょうか。最近の調査により、
水稲耕作の発祥の地ともいわれている中国南部が有力視されています。
黄河下流と長江下流に挟まれた地域の漢代の遺跡から、渡来系弥生人に
よく似た人骨があいついで見つかっています。この時代の中国は、政治的に
動乱の時代であり、いろいろな民族が入り乱れて戦いました。日本にやって
来た渡来民は、このような動乱から逃れてきた人々だったのでしょうか。

http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-14.html
304日本@名無史さん:2006/08/05(土) 21:42:54
朝鮮と山東省の骨だけで中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


「土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、
細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系
「新モンゴロイド」の特徴がありました。
彼らのルーツを求めて朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、
中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の
人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極め
てよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国
だったのです。」

http://sakezo.com/shumi/rekisi/keta1.html
305日本@名無史さん:2006/08/05(土) 21:43:24
北方アジアは一切抜きの偏向調査で作為的に中国・朝鮮に誘致していた
スットボケ遺伝学者(嘲笑)


宝来センセイによると、韓国や中国にはそれぞれドミナントなミトコンドリアDNAがあるのに、
日本本土では、とくにドミナントなものがない。つまり系統的にさまざまな人たちから成り立って
いるのである。また、これまで、大陸から渡来した弥生人によって分断され、北に追いやられたのが
アイヌ、南に追いやられたのが琉球人といわれてきた。しかし、アイヌと琉球は少なくとも1万2000年
以上まえに分岐しており、紀元前3世紀以降に渡来してきた弥生人によって分断されたんではないという。
1万2000年前にそれぞれ日本に住み着いたアイヌと琉球人。そこへ紀元前3世紀以降になって渡来し、
稲作をはじめた中国・朝鮮系の人びと。こうした人たちの子孫がわたしたちなのだ。
それにしても紀元前3世紀以降の大陸からの渡来って、それ、秦の始皇帝のころの、徐福たちじゃない?
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm
306日本@名無史さん:2006/08/05(土) 21:43:55
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋と低脳遺伝学者の
偏向調査のコラボレーション。いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


一九九四年一月二六日ニュース報道。山口県豊北町の土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアムの松下孝幸館長(形質人類学)らが、
山東省文物考古研究所を訪問。同省の遺跡から出土した前漢時代の古人骨約七十体について、顔の長さ、幅などを計測し、
北部九州や山口県で発掘された渡来系弥生人骨と比較したところ、八割以上で顔の長さ、ほお骨の厚さなど主要な値が一致。
骨から推定した平均身長も渡来系弥生人(男性一六三センチ、女性一五〇センチ)とほぼ一致した。
 一九九六年一〇月一九日、日本人類学会・日本民族学会連合大会発表。東大理学部の植田信太郎助教授(人類学)らは、
約二千年前の中国・山東省臨錙の遺跡から出土した人骨と、同時期の詫田西分遺跡から出土した人骨のDNAを分析し、
遺伝子の配列が特定の部分で同じ人がいることを確認した。
 一九九九年三月一九日ニュース報道。江南人骨日中共同調査団(山口敏・東京国立科学博物館名誉研究員が団長)は、
江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、
歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較。
結果、春秋戦国時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の
人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致した。
http://www.asahi-net.or.jp/~CY1N-STU/kodaishi/yayoi.htm
307あぼーん:あぼーん
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308あぼーん:あぼーん
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309日本@名無史さん:2006/08/06(日) 19:03:24
約6500年前には既に灰陶時代に入り、約4200年前には既に施釉陶時代に入る。



黄河中・上流域ではB.C.4500年に老官台文化(陝西省)が誕生し、
北首嶺遺跡などからは灰陶が出土している。

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm



中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm
310日本@名無史さん:2006/08/06(日) 19:09:06
●灰陶 かいとう

還元焔で焼かれた灰色の肌の土器。中国の新石器時代の黄河流域では、仰韶(ヤンシャオ)文化
期に紅陶が多く灰陶は少なかったが、晩期には灰陶が多くなる。山東地域を中心とするダイブン
コウ※注2※文化期でも同様に,晩期には灰陶が多くなり、ロクロが用いられた。両文化を継承した
竜山文化期では、灰陶が多く質も向上していく。江漢平原の屈家嶺文化期では,中期に灰陶が主流
を占めてくる。殷代になると土器製作の技術が進み,窯中の還元焔が制御されて,後期には,器質・
色調の優れた細泥灰陶が土器の大部分を占めるようになる。灰陶は周・漢・六朝でもつくられ,
加彩灰陶も現れる。http://www.tabiken.com/history/doc/D/D056R100.HTM

灰陶(かいとう)

中国、殷代以前に始まる陶質土器。焼成の最終段階で、空気をあまり送らず窯の中を還元状態に
するため灰青色を呈する。殷・周代を中心に漢・唐の頃まで日常の容器として広く使われた。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/195.html
311日本@名無史さん:2006/08/06(日) 19:11:19
●原始磁器 げんしじき(=灰釉陶、原始青磁)

中国古代の釉(うわぐすり)をかけた硬陶。3%以下の鉄分を含む胎土でつくられ,その上に
土灰釉(どかいゆう)を意識的にかけ,セ氏1,200度前後で焼成されたもので,灰釉陶,釉陶
ともいわれ,日本では灰釉と呼ばれている。3%以上の鉄分を含む胎土でつくられ,釉薬を
かけないで焼成された吸水率の高い灰陶とは異なる。また,焼成過程で降灰が器面でとけて
ガラス状になった自然釉とも区別される。原始磁器は,揚子江下流地域に源流があるといわれる。
殷代中期の二里崗文化には,灰白色の胎土でつくられ,器の内外に光沢のある薄い釉がかかり,
硬度が高く鋭い音色を出し,水のしみこまない原始磁器が出土している。殷代後期から西周時代には,
浙江・江蘇・江西・安徽・山東・河南・河北・陝西などの各省の遺跡から,原始磁器が出土する。
器形には,尊・壺・豆・鼎・杯などがある。春秋戦国時代には,揚子江以南で多くつくられ,
改良が加えられていく。土灰釉による褐・緑色の原始磁器は,その後しだいに発達して,
後漢時代に青磁となる。http://www.tabiken.com/history/doc/F/F303L100.HTM

灰釉陶は中国全土で焼成されつづけるが西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、
福建省などの中国東南部では印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋
時代(B.C.770年〜476年)華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。戦国時代
(B.C.476年〜B.C.221年)に入ると灰陶が主流になるが、目を見張る立派な黒陶も出土して
いる。鉛釉陶の走りもこの頃から見られるようになる。
http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html
312日本@名無史さん:2006/08/07(月) 17:48:26
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
型押の幾何学文様(印文)の一つさえも伝わっていないっ!


●印文土器 いんもんどき アジア 中華人民共和国 AD 

中国の東南没岸地帯地において新石器時代から漢代にかけて盛行した土器。
中国では印文陶と呼ばれる。焼成火度の差によって,軟陶と硬阿の二種類に
分けられるが,軟陶は前期,硬陶は後期のものになる。また,文様は型押の
印文が最も多く,20種以上の複雑な幾何学文様が器全体に施されるため,
幾何印文土器と通称される。製法には型製・手製・轆轤製のものがあるが,
轆轤製のものは少ない。器形は壺・甕の類が多い。色調は,軟陶では紅・灰・
灰白・黄白色で,硬陶ではほとんどが灰褐色で中に帯釉しているものがある。
印文土器が最も盛行するのは春秋戦国時代においてであるが,出土地域が
広範なため,この土器の文化的位置付けはむずかしい。
http://www.tabiken.com/history/doc/B/B263C100.HTM
313日本@名無史さん:2006/08/07(月) 18:00:12
西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、福建省などの中国東南部では
印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋時代(B.C.770年〜476年)
華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。
http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
314日本@名無史さん:2006/08/08(火) 10:34:40
>>1

高句麗の帰属問題で日本人と連携したいだけの野師の仕業としか思えないスレだな。
「満州」大好きみたいだしな。
315日本@名無史さん:2006/08/08(火) 15:15:57
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
最も代表的な器形である、鬲、鼎などの三足土器さえ伝わっていないっ!


●三足器 さんそくき 

中国における3本の足をもつ土器・青銅器の総称。三足器には,食物を煮るまたは
盛る鼎(てい),中空の袋状三足に水を入れて煮沸し,その上の「甑(そう)」
(こしき)にのせた穀物を蒸す鬲(れき),鬲と甑が結合して一体となったゲン
※注1※,酒器のカ※注2※,燗酒をつくるキ※注3※・カ※注4※・爵(しゃく)
などがある。しかし新石器時代の原始的土器には,水や酒を入れる壺(こ)や,
食物を盛る豆(とう)などにも三足のついたものがあり,器形も未分化・不定形
であった。たとえば,磁山・斐李崗(はいりこう)文化の三足つき壺・鉢形鼎,
仰韶(ぎょうしょう)文化の種々の形鼎,大ブン※注5※)口文化の三足つき
釜形鼎・鉢年鼎・觚(こ)形器,取手・三足つき鉢形細柄豆など種々ある。
また大ブン※注5※口文化において三足土器が,実足から空足,さらに袋状と変化
し,同時に器身も注ぎ口なども変化し,中空三足・注ぎ口・取手つきの大型キ
※注3※が成長した例もある。良渚(しょ)文化や典型竜山文化には,種々の
三足土器が多くなり,河南や陝西の竜山文化にも種々の三足土器が現れ,しだい
に器形がととのっていく。殷代には三足土器もつくられたが,これらの器形を
模した青銅器が鋳造され,また新しい器形の三足青銅器もつくられて,重要な
祭器となり,豪壮な造形と華麗な文様の芸術品に発展し,周代に継承されていく。
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H176R200.HTM
316日本@名無史さん:2006/08/08(火) 15:16:36
1. 華南地域では農業の発達が遅かったため、土器の種類は多くありません。
2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。
3. 黄河流域では、約1万年前から粟やひえの栽培が始まり、約7000年前以降には平底、
丸底、三足の土器が出現。 約5000年前から土器が一変し、中流域では灰色土器、
下流域では黒色土器が現れます。
4. 北方地域西北地方では、約6000年前以前の土器は発見されませんが、彩文土器が
発達したことが大きな特色です。
5. 北方地域東北地方では、約6000年〜5000年前に窯を使用し、彩文土器が出現しました。

 これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域
で形や種類、技法、文様などがかなり異なります。 また、農業の発達によって土器
づくりの技術も発達し、約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な
土器の一つとなりました。土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連
したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.html
317日本@名無史さん:2006/08/08(火) 15:17:11
318あぼーん:あぼーん
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319あぼーん:あぼーん
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320あぼーん:あぼーん
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321がいやまん:2006/08/08(火) 20:43:45
No5:弥生人の話(2)



さて帯方郡から狗邪韓国まで七千余里を陸行したのか水行したのかという問題で
すが、韓地を陸行して狗邪韓国に至ったのであれば、弁辰涜廬(とくろ)国と狗邪韓
国が界を接していることはすぐに分かりますが、全行程を水行したとすれば狗邪韓
国が倭の北岸であることは分かっても、弁辰涜廬国と界を接しているところまで分か
ったか、ということにつきましては疑問とせざるを得ません。
322がいやまん:2006/08/08(火) 20:45:04
甕棺で見える韓半島西南部及び南部の状況

実は韓伝では半島の中央部及び東南部については今まで見てきましたようにかな
り詳しい記述があるのですが、西南部については見るべき記述がありません。その
一帯を含めて馬韓であると思われるかも知れませんが、馬韓は半島の西側中央部
付近にあったと考えられており、南に下がってくるのは後の百済の時代に高句麗に
圧迫されるようになってからであります。当時はまだ西南部までは勢力は及んでいな
かったと考えられます。
323がいやまん:2006/08/08(火) 20:46:14
では西南部はどうなっていたかということですが、倭人が居たと考えるのがすんな
りと説明できるように思います。根拠の一つは甕(かめ)棺墓です。ご承知のように甕
棺墓は日本では弥生時代の北部九州を中心に発達した独特の墓制で(他の地域で
は見られない)、素焼きの大型の甕棺に死者を葬るものです。同じような甕棺墓が韓
半島西南部を流れて木浦にそそぐ栄山江の流域を初めとして韓半島の西南部及び
南部一帯から沢山発掘されています
324がいやまん:2006/08/08(火) 20:48:03
甕棺の源流は中国に見られます。中国では甕棺に子供を葬る風習が全土に広ま
りましたがその年代は放射性炭素(「はじめに」参照)による測定の結果紀元前4000
年ごろと考えられます。同2500年ごろには子供だけでなく、成人も甕棺に葬るところ
もでてきました。このころのものは形(合わせ甕棺)が北部九州のものとそっくりのも
のもあります。大きさは子供用のものは全長80センチほど、成人用のものは180セン
チくらいのもあります。中国全土ではその後、この風習は消滅するようです。その理
由としては時代と共に北方系の木槨・石槨・石室等の墓制が浸透したことによる影
響だと考えられます。これまでにわかっている限りでは、最後まで(戦国時代終わり
ごろまで)甕棺の風習が残っていたのは長江河口地域です。
325がいやまん:2006/08/08(火) 20:49:01
長江河口地域での甕棺の風習が見られなくなる頃から北部九州で甕棺の風習が
始まったと考えられます。それから遅れて韓半島南部でも甕棺の風習が始まること
を発掘結果は示しております。残念なことに現段階では日本と同様に韓国でも土器
編年が主流で放射性炭素による年代測定は殆んど行われておりませんので甕棺の
風習がはじまる正確な年代はわかっておりません。一応、北部九州では紀元前2世
紀末ごろ、韓半島南部では4世紀ないし5世紀とされておりますが正確な測定が行
われれば今少し古いことが明確になると考えられます。(一部ですがそれを裏付ける
データも得られております)
326がいやまん:2006/08/08(火) 20:50:06
韓半島の北部からは甕棺墓は全く見つかっておりません。このことから考えて韓
半島南部の甕棺の風習が、古代中国から韓半島の北部を経由して伝わった風習が
時間を経て残ったものである、とは考えにくいようです。また、長江河口地域から直
接伝わった可能性も考えなければなりませんが、北部九州に比べて時間的にかなり
差があることからそれも考えにくいようです(長江河口地域で風習がなくなって何百
年も後に伝わるとは考えにくい)。尤も、北部九州と韓半島南西部及び南部の甕棺
は多少形が異なっていますがこれは甕棺の作り手の違いとして理解できる範囲だと
考えられます。以上のことから甕棺墓は長江河口地域→北部九州→韓半島南部へ
と伝わったと考えるのが一番理解し易いのではないでしょうか。
327がいやまん:2006/08/08(火) 20:51:17
従来、東アジアの文化伝播ルートとしては、中国→韓半島→日本、或は、中国→
日本というような線は考えられても、日本→韓半島という線はあまり考えられてこな
かったようです。少なくとも甕棺に関しては日本→韓半島という流れを考える必要が
あるように思います。



ここで少し考えて頂きたいことは、墓制というものがそれだけで単独に伝わるもの
なのか、ということです。ごくわずかの例外もないとまでは申しませんが、墓制を守る
人々の移住に伴って伝わるものであると言うことに異論は挟みにくいのではないでし
ょうか。しかも長江河口地域と北部九州との間には広い海が横たわっています。そ
の海を隔てて単に墓制だけが伝わったとは考えられません。必ず人の移住があった
はずです。そうだとすれば、長江河口地域から北部九州へ甕棺文化を伝えた人々の
移住の痕跡があるはずです。
328がいやまん:2006/08/08(火) 20:52:36
長江河口付近から日本への人々の移住

 中国の周代の後半(東周時代:春秋戦国時代=BC771〜BC256)には中国各地に
封ぜられた周王室の王や各地の豪族が独立し、互いに争いを繰り返し次々に淘汰
されていきました。負けた国の王やその一族は、殺されたり奴隷にされたり、あるい
は新天地を求めて韓半島さらには日本まで渡ってきたと言われております。そのよう
な中、春秋時代の末期に長江河口付近では呉と越が争い、越に滅ぼされた呉王夫
差の親類縁者は海に逃げて日本に漂着したと伝えられます。紀元前473年のことで
す。晋書などに「倭人自ら(我々は周の王族で呉国の創始者である)太伯の後(子
孫)であると謂う」とありますが、倭人の伝承を書きとめたものと考えられます。「資治
通鑑」(1084年成立)という中国の史書には、「周の元王3年(BC473)、越は呉を亡ぼ
し、その庶(親族)共に海に入りて倭となる」という記載があるようです。また日本側に
も「新撰姓氏録」の記載など呉から日本への移住を裏づける文献も豊富です。以上
から北部九州の甕棺文化は長江河口地域を追われた呉の人々によってもたらされ
たと考えれば、すんなり理解できるように思います。
329がいやまん:2006/08/08(火) 20:55:12
同様に、韓半島南西部及び南部の甕棺墓は彼の地に進出した(或は元からいた)
倭人の葬祭様式であると考えざるを得ないように思われます。が、残念ながら北部
九州から韓半島南部一帯への倭人の移住は、史料も乏しく呉から北部九州への
人々の移住ほど明確ではありません。その理由としては二つのことが考えられると
思います。一つは元々対馬海峡を挟んで両側に倭人が居たので特に移住の史料等
はないというもので、今ひとつは移住の史料はあったが長い年月のうちに失われてし
まった、というものです。いずれにせよ、当時、半島の西南部や南部に倭人が居たこ
とは以下の二つの史料からも窺うことが出来ます。
330日本@名無史さん:2006/08/08(火) 21:39:43
>>318>>319

お前あちこちに書き込んでる、PUの追っかけだろ?!
331あぼーん:あぼーん
あぼーん
332日本@名無史さん:2006/08/09(水) 12:01:50
>ご承知のように甕棺墓は日本では弥生時代の北部九州を中心に発達した
>独特の墓制で(他の地域では見られない)


日本の甕棺墓

日本では縄文時代以降、甕棺墓が見られる。縄文後期・晩期の遺跡からは、
日本各地(東北〜近畿〜九州)で甕棺墓の風習があったことが判っている。
その後、弥生時代前期〜中期の北部九州において最盛期を迎える。
弥生時代の甕棺墓の特徴は、成人専用の甕棺が作られた点、銅剣や銅鏡などの
副葬品が見られる点にある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%95%E6%A3%BA%E5%A2%93
333日本@名無史さん:2006/08/09(水) 12:11:54
>最後まで(戦国時代終わりごろまで)甕棺の風習が残っていたのは
>長江河口地域です。


<三道濠西漢村落遺址>(さんどうごうせいかんそんらくいし)

遼陽市の北郊の三道濠村、太子河西岸の沖積平野にある。1955年に中国で
はじめて大規模な発掘調査が行われた前漢代の村落遺跡。発掘されたのは
1万u余りで、住居址が6つ、窯跡が7つ、井戸が11本、穴蔵などが発見され、
付近から前漢の棺槨墓群と童甕棺墓地も1か所ずつ発見され、さまざまな
形式の鉄製農具・車馬具・陶器・貨幣など1万点余りが出土。2段に石を
敷き詰め、轍の跡がある幅約7mの大通りも発掘。遼陽は前漢代には嚢平と
いい、東北の政治・経済・文化の中心地であった。2000年まえの前漢代に
おける農村の生産・生活・墓制などを研究するのにきわめて重要な遺跡である。
http://www.pacificresorts.com/china/info/point/shenyang/

前漢の棺槨墓群と童甕棺墓地も1か所ずつ発見され
前漢の棺槨墓群と童甕棺墓地も1か所ずつ発見され
前漢の棺槨墓群と童甕棺墓地も1か所ずつ発見され
前漢の棺槨墓群と童甕棺墓地も1か所ずつ発見され
334日本@名無史さん:2006/08/09(水) 12:44:51
●金文

金文(きんぶん)とは青銅器の表面に鋳込まれた、あるいは刻まれた文字の
こと(「金」はこの場合青銅の意味)。中国の殷・周のものが有名。年代的
には甲骨文字の後にあたる。殷は青銅器文化が非常に発達した時代であり、
この文字を器の表面に鋳込む技術は門外不出となっていた。

金文は『史記』のような後世になって書かれた資料とは違い、完全な同時代
資料であるためこの時代を研究する上で非常に貴重な資料となっている。
しかし殷代の青銅器は古美術としてもきわめて高い価値があるため収集家など
がこれを所持することで一貫した研究が出来ないと言うことも起きている。

なお石などに刻まれた文章は石文と呼ばれ、一緒にして金石文と呼ばれる。
またこれらの研究者は金石家と呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%96%87
335日本@名無史さん:2006/08/09(水) 12:45:53
篆書などの原始漢字の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅鐸に流水文・袈裟襷文・横帯文などの文様があるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html

鐸身全体は,横帯文や流水文で水平に分割するか,袈裟襷文で縦横に分割し4乃至6個の左
右対称の小区画を作り出すもので,横帯文系・流水文系・袈裟襷文系の三つの系統に大別され
る(図4)(図3)(図5)。横帯文系の横帯には,斜格子文のほかに綾杉文・鋸歯文・連続
渦文など各種の幾何学文が充?される。
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf#search='
336日本@名無史さん:2006/08/09(水) 12:46:55
饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html

殷の時代に生み出された灰釉陶は、西周時代から春秋戦国時代(B.C770〜 221)にかけて
熟成の時代を迎えることになるが、なお中国工芸の中心は依然として青銅器であった。
祭器としての青銅器から日常生活具としての青銅器へ変化する過程で、文様も饕餮文
(とうてつもん)・〓龍文(きりゅうもん)・〓鳳文(きほうもん)などの神秘的・
宗教的・観念的なもから動物や植物がリアルに写される写実的な文様へ変化していった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
337日本@名無史さん:2006/08/09(水) 13:01:12
弥生人は、殷ですよ、殷。
338:2006/08/09(水) 13:55:18
ひょっとしてそれは、『字統』を著した漢文学者白川静先生の説とかいうやつか?
リアル殷人じゃなくて、その周辺にいてかすかに影響を受けた異民族という事だろう。
339日本@名無史さん:2006/08/10(木) 17:53:44
篆書など原始漢字の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅剣・銅戈・銅鉾・銅鐸・銅鏡・銅鏃などがあるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。銅鏡は除魔や権威の象徴として用いられた。一般に、西日本
中心の銅剣・銅戈・銅鉾文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏に大別されるが、福岡県の岡本
遺跡や佐賀県の安永田 遺跡から銅鐸が出土したり、出雲族の文化圏を連想させる島根県
の荒神谷遺跡[こうじんだにいせき]が発掘 されたため、疑問視されている。

http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html
340日本@名無史さん:2006/08/10(木) 17:54:16
鼎、爵などの三足器、尊などの酒器など、中国の青銅器の器形が全く伝わっていないっ!


青銅器はその用途により、食器、酒器、水器、楽器のほぼ4種類に分けることが
できる。各種類ごとにそれぞれ品目も複雑で数多く、形も非常に変化に富んでいて、
中国人の豊かな想像力と創作力を反映している。たとえば、黍稷(モチキビ)を
盛っておく「簒」。これは現代のご飯茶碗に相当する。その形は非常に変化に富み、
円脚に丸い胴のものもあれば、円脚の下にさらに四角い台座を加えて重しとしている
ものもあり、四角と円形との対象が美しい。また炊事用として使う「鼎」は、縁に
一対の耳を付け、下げるのに便利なようにしてある。丸い胴の下には三つの脚が
つけられ、獣の肉を煮込む火が燃えやすいようになっている。ほかには「爵」や
「尊」なとがある。「爵」は酒を飲んだり温めたりする食器で、縁の形は酒が口の
方へ流れやすいようになっており、脇に持ちやすいように把手がある。胴の部分の
下には酒を温めるため3本の脚がついている。「尊」は大事な酒器で、丸い形の
ものや四角形、および四角い脚に丸い口をしたものなどがある。このように、
青銅器の基本的な形は、バランスの取れた対称形がほとんどで、荘厳で落ち着いた
雰囲気が特色である。
http://www.roc-taiwan.or.jp/culture/culture19.html
341日本@名無史さん:2006/08/10(木) 18:02:00
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形がさーっぱり伝わっていない。
その代表である三足器形さえも伝わっていない。



◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html



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370日本@名無史さん:2006/08/11(金) 12:58:21
BC11C頃の華中の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


呉城文化 B1400?〜B1000?

 江西地方の文化はB3000年〜B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万uで、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。

http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
371日本@名無史さん:2006/08/11(金) 12:59:11
>豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土
>符号を刻した土器や鋳型も発見
>青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、商文化を凌ぐ鋳造技術




印文陶、釉陶、原始磁器、鼎、尊・・・

BC11C頃の華中の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡で
出土しないものばーっかり(嘲笑)



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392日本@名無史さん:2006/08/12(土) 21:10:15
吉野ヶ里墳丘墓のルーツはどこなのか。中国・長江下流域の江南に多く見かけられる
土?墓(どとんぼ)(B.C.800〜500)ではないかといわれている。(中略)
同じく「土?墓が墳丘墓の源流ではないか」という樋口隆康氏(参考文献5)が江南の
土?墓について書いている。少し長いが紹介したい。[江南の土?墓とは盛土墳で、
地上に埋葬したものである。中原の殷・周時代の墳墓は地下深く抗を掘って埋葬してあり、
墳丘を持たないのが通例である。墳丘は秦代以降に出現したとされるので、江南の土?墓
は中国における墳丘初現の例になるかもしれない]。「この土?墓は長江下流、特に
江蘇省南部の太湖周辺から浙江省杭州や安徽省屯渓までに分布している。すなわち呉越の地
である。丘陵から平野にかけて径15〜30m、高さ2〜3mほどの大小の塚が群在している」。
「この土?墓の盛土は版築ではなく一つの土?墓の中に数個の埋葬がなされている。それらは
地面に礫石を敷いたり、紅焼土を詰めたりして棺床としている。石を遺体のまわりに並べて
囲ったり、あるいは石室を築いたりしている。その石室も竪穴式と横穴式のタイプがある。
これらの土?墓はだいたい西周時代から春秋時代にかけてのものである」。「この墓から出土
する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは
異なった図文をもっており、銅剣は身柄一鋳のものである」。
http://www2.saganet.ne.jp/niesu/zyofuku/dotonbo.htm
393日本@名無史さん:2006/08/12(土) 21:10:50
>この墓から出土する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、





印文硬陶と原始施釉陶が伝わっていない事には一切触れない低脳学者のすっとぼけぶり(嘲笑)




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399日本@名無史さん:2006/08/12(土) 21:46:22

9cmのチョン半島
400日本@名無史さん:2006/08/12(土) 22:45:37
 ↑
このチンポ貼りはいつもの江南誘致の変態南方土人(超ウルトラ嘲笑)
401日本@名無史さん:2006/08/12(土) 22:47:26
チンポ貼り江南w
402日本@名無史さん:2006/08/12(土) 22:53:21
【DNA】西日本は中国系で東日本は半島系か2
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1122557343/
 渡 来 系 は 数 種 存 在 し た 
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1133544342/
帰化人か渡来人か
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1033255236/


火病・火病・火病


自演スレ! 暑厨 夏い
403日本@名無史さん:2006/08/12(土) 22:55:22
↑チンポ貼り江南wwww
404日本@名無史さん:2006/08/13(日) 15:33:40

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060209-00000148-kyodo-ent
405日本@名無史さん:2006/08/13(日) 15:34:18
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった




原始青磁が伝わってない事には一切触れない南京博物院のすっとぼけぶり(嘲笑



406日本@名無史さん:2006/08/13(日) 17:15:40

日 本 人 の 祖 先 は 江 南 か ら 来 ま し た 

朝 鮮 人 が 幾 ら 吠 え よ う が

真 実 は 変 わ り ま せ ん ザ ン ネ ン

407日本@名無史さん:2006/08/13(日) 17:17:35
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった

 銅鐸の日本語サナキと南島語 chanang の類似もあるな。
408日本@名無史さん:2006/08/13(日) 17:24:59
↑チンポ貼り江南wwww


私は生粋の日本人だがなw
409日本@名無史さん:2006/08/13(日) 18:03:28
↑生活保護でニートな毎日の在日チョン、しかも9cmw
410c192235.ppp.asahi-net.or.jp:2006/08/13(日) 21:36:40
history:日本史[レス削除]
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku/1116682470/238

238 名前:芳山和子[] 投稿日:06/08/12 20:24 HOST:c192235.ppp.asahi-net.or.jp
削除対象アドレス:
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1152430591/301-302
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1152430591/307-308
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1152430591/318-320
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1152430591/331
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1152430591/342-369
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1152430591/372-391
削除理由・詳細・その他:
5. 掲示板・スレッドの趣旨とは違う投稿



よろしくお願いします。

411日本@名無史さん:2006/08/13(日) 22:23:41
なんだなんだ?削除依頼出したのか?

ち●ぽ貼りは、邪馬台国スレでおなじみのPUのおっかけ厨の仕業じゃなかったの?
スレ主は何をムッキーになってるのかって思っていたが。
412日本@名無史さん:2006/08/14(月) 11:27:37
この糞ジジイは、まったく懲りていないねぇ
自演で色んなスレ荒らしまわっている己にはお咎めなしかい?
チョンたる所以だなwww
413日本@名無史さん:2006/08/14(月) 11:38:41
銅鐸って、ほんものなら相当の価値があるらしいな。
もう埋まってないかな・・・
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あぼーん
417日本@名無史さん:2006/08/14(月) 23:37:35
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。

「チャイナネット」2003年3月31日
http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
418日本@名無史さん:2006/08/14(月) 23:40:18
>圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、
>砂の入った灰色陶器、上薬のついた陶器、硬質陶器など




BC16Cの華南の出土物さえ日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり(嘲笑)




419あぼーん:あぼーん
あぼーん
420日本@名無史さん:2006/08/15(火) 21:43:34
商の都のあった河南省鄭州市で商代の原始青磁が確認されたことから、
この地区から研究はスタートした。その後、長江中・下流域で商代から
戦国期に亘って連綿と原始青磁が、古墓や城跡を中心に相次ぎ発見された。
その生産と消費の中心地が華南地域であることは、ほぼ動かしがたい状況となっている。

釉色は青緑色、青黄色を呈し、器の内面は全て施釉し、外面は底部近くには施釉
していない。大部分の器物の底部にはヘラ書き符号が認められると言う。
時代としては、春秋時代早期に比定されている。こうしたヘラ書き符号を有した
印紋陶器や原始青磁は、広東地区の春秋戦国時代の古墓からもよく発見されると言う。

福建省でも同地特有の原始青磁が確認されているが、その窯跡の確認は未だ
されていない。しかし西周時代にはすでに現地生産がされ出していたと予測されている。

今までに窯跡本体の確認された原始青磁を焼成した窯は、華南地域に限られている。
商代でも浙江省上虞市百官鎮2号窯跡の例の様に明らかな龍窯が確認されている。
http://www.sg-r.co.jp/web/kouko/genshi_seiji.html
421日本@名無史さん:2006/08/15(火) 21:44:48
4000年以上前の東南アジア周辺の遺跡でも三足土器が一般的。


新石器時代:約4,000年以前
出土した土器は、26種の様式をもっていたが、その中でもっとも目立ったものは
三足の鼎であって、先史時代の中国の『鬲(れき)』に似ており、年代を調べた
ところ、これらは約4,000年以前に作られたことが判明した。
カオサムルナム洞窟でも、バン・カオ遺跡出土の土器と似ている同年代の物が出土した。

http://www.toros8.com/ban/his1.html
422あぼーん:あぼーん
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424日本@名無史さん:2006/08/15(火) 22:52:04
>腕を曲げると、関節の部分より前腕部内側3、4センチのところにの所に横シワが現れる人
 あなたには漢民族(中国)の血が流れている

南九州を除く西日本の人間のほとんどがそうだけどね
425あぼーん:あぼーん
あぼーん
426あぼーん:あぼーん
あぼーん
427日本@名無史さん:2006/08/15(火) 23:31:36
触れられると困る書き込みでもあったのか?
428日本@名無史さん:2006/08/15(火) 23:49:19
まーたいつもの中国産の南方人が暴れとるのかワロス
429あぼーん:あぼーん
あぼーん
430日本@名無史さん:2006/08/16(水) 17:58:14
周に入る頃には既に一般的な建材だった瓦さえ伝わっていないっ!


瓦の歴史はきわめて古く、中国では紀元前2000頃にはすでに瓦が登場している。
中国4000年の歴史とよく言われるが、瓦も4000年の歴史を持っている。中国語の
瓦という字は、粘土を焼いたものの総称である。

http://www8.ocn.ne.jp/~kawarak/hana.html

瓦の歴史はとても古く、メソポタミア、インドなどの諸説がありますが、
すでに紀元前2000年前の中国に瓦が存在していたと言われています。

http://www2.odn.ne.jp/sugimotokawara/KAWARA2.htm
431日本@名無史さん:2006/08/16(水) 18:00:25


「水田稲作技術は中国大陸から入っているが 水田稲作に関する
中国大陸の言葉は伝わっていない」

http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/mousou.html


金関  縄文から弥生を土器の移り変わりで見ても、大陸から入ってきたと
考えざるを得ない。ただ同時期の中国土器や金属器はない。
このため日本列島へは朝鮮半島経由だろう。

http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/001.htm

432日本@名無史さん:2006/08/17(木) 10:50:33
>>1
楼主、您是不是満族人?

[満網]満族的世界

http://www.qiren.cn/

!!! Well come !!!
433日本@名無史さん:2006/08/17(木) 15:10:34
BC35C頃に高床式住居、甕棺墓(土器棺墓)が日本に出現するが・・・・・


高床式倉庫群、竪穴式住居群、千五百年の営みを積み重ねて来た遺跡、
建物跡ひとつをとっても同じ場所に何度も建て替えられている。
三内丸山に集落があったのは縄文時代前期半ばから中期末までの一五〇〇年間
も古い前期半ばは紀元前三五〇〇年頃、いまからおよそ五五〇〇年前だ。
http://www.d1.dion.ne.jp/~zpmasasi/sannai.html

青森県内の縄文時代早期から中期後葉の墓を集成し、埋葬方法の種類と
移り変わり、配置についての基礎的な分析を行った。青森県内の埋葬方法は、
早期後半に大半が出そろい、前期中葉に土器棺墓、前期末葉にフラスコ形
土坑が出現して副葬品の量にも差が生まれる。
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/special/koubo_sha.html
434日本@名無史さん:2006/08/17(木) 15:11:14
BC50C頃の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の鋤、黒陶や彩陶、
釜・甑・鉢などの器形が縄文時代に全く伝わっていないっ!


浙江省余姚(よう)県河姆渡遺跡を標準とする新石器時代の文化をいう。主に寧紹平原の
東部地区に分布している。河姆渡遺跡には四つの文化層があり,第1層は良渚文化早期と
類似しており,第2層は馬家浜文化の要素がある。第3・4層は河姆渡文化層で,上の両層
よりも古く,注目すべき出土器物がある。土器は原始的な手づくりの,あらい厚手の不整形で,
低温で焼かれた夾炭黒陶が最も多く,混ぜられた植物の茎葉砕片やもみ殻が焼けて炭化し,
土器を黒色にしている。夾炭黒陶は第4層では最大量を占めるが,第1層に至るほど漸減し,
第1・2層では焼成温度の高い砂混じりの夾砂紅陶・灰陶が優勢となる。第4層の土器の主な
ものに,釜・罐(かん)・鉢・盤・器台がある。釜が四つの層を通して出土し,形態と
装飾が最も多様なところから,釜を南方地区新石器文化の特徴とする見解がある。第3層
出土の甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器で,のちに朝鮮・日本などに伝わり,
東アジアに特徴的な穀物を蒸して食べる調理法を普及させたものである。また紡錘のほか,
濃茶の文様を施した数個の彩陶片も発見されている。遺跡層が地下水面下にあったため,
多くの木器が保存され,耜(し。すき)・碗・盆・かい・杵・矛・紡・紡錘などのほか,
組み合わせ部品用と思われる大小の棒が発見されている。
http://www.tabiken.com/history/doc/D/D276R100.HTM
435日本@名無史さん:2006/08/17(木) 15:12:06
見よ!

BC50C頃の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の鋤、黒陶や彩陶、
釜・甑・鉢などの器形が縄文時代にさーっぱり伝わっていない。



◎河姆渡遺跡

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
http://homepage3.nifty.com/sugar-tr/joumonG.html


436日本@名無史さん:2006/08/17(木) 21:38:54
もう中国ネタ秋田から、世界史板かハングル板でやってくれんか、ここは日本史板

もう中国ネタ秋田から、世界史板かハングル板でやってくれんか、ここは日本史板

もう中国ネタ秋田から、世界史板かハングル板でやってくれんか、ここは日本史板

もう中国ネタ秋田から、世界史板かハングル板でやってくれんか、ここは日本史板
437日本@名無史さん:2006/08/18(金) 12:04:13
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


渡来系弥生人は大陸のどこからやって来たのでしょうか。最近の調査により、
水稲耕作の発祥の地ともいわれている中国南部が有力視されています。
黄河下流と長江下流に挟まれた地域の漢代の遺跡から、渡来系弥生人に
よく似た人骨があいついで見つかっています。この時代の中国は、政治的に
動乱の時代であり、いろいろな民族が入り乱れて戦いました。日本にやって
来た渡来民は、このような動乱から逃れてきた人々だったのでしょうか。

http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-14.html
438日本@名無史さん:2006/08/18(金) 12:05:07
朝鮮と山東省の骨だけで中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


「土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、
細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系
「新モンゴロイド」の特徴がありました。
彼らのルーツを求めて朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、
中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の
人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極め
てよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国
だったのです。」

http://sakezo.com/shumi/rekisi/keta1.html
439日本@名無史さん:2006/08/18(金) 21:46:39
>>436
なぜ、ハングルが出てくる?
440日本@名無史さん:2006/08/18(金) 23:04:17
>>439 スレ主の故郷だから

もう朝鮮ネタ秋田から、世界史板かハングル板でやってくれんか、ここは日本史板

もう朝鮮ネタ秋田から、世界史板かハングル板でやってくれんか、ここは日本史板

もう朝鮮ネタ秋田から、世界史板かハングル板でやってくれんか、ここは日本史板

もう朝鮮ネタ秋田から、世界史板かハングル板でやってくれんか、ここは日本史板
441日本@名無史さん:2006/08/20(日) 00:14:49
北方アジアは一切抜きの偏向調査で作為的に中国・朝鮮に誘致していた
スットボケ遺伝学者(嘲笑)


宝来センセイによると、韓国や中国にはそれぞれドミナントなミトコンドリアDNAがあるのに、
日本本土では、とくにドミナントなものがない。つまり系統的にさまざまな人たちから成り立って
いるのである。また、これまで、大陸から渡来した弥生人によって分断され、北に追いやられたのが
アイヌ、南に追いやられたのが琉球人といわれてきた。しかし、アイヌと琉球は少なくとも1万2000年
以上まえに分岐しており、紀元前3世紀以降に渡来してきた弥生人によって分断されたんではないという。
1万2000年前にそれぞれ日本に住み着いたアイヌと琉球人。そこへ紀元前3世紀以降になって渡来し、
稲作をはじめた中国・朝鮮系の人びと。こうした人たちの子孫がわたしたちなのだ。
それにしても紀元前3世紀以降の大陸からの渡来って、それ、秦の始皇帝のころの、徐福たちじゃない?
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm
442日本@名無史さん:2006/08/20(日) 00:15:19
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋と低脳遺伝子屋の
偏向調査のコラボレーション。やはり必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


一九九四年一月二六日ニュース報道。山口県豊北町の土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアムの松下孝幸館長(形質人類学)らが、
山東省文物考古研究所を訪問。同省の遺跡から出土した前漢時代の古人骨約七十体について、顔の長さ、幅などを計測し、
北部九州や山口県で発掘された渡来系弥生人骨と比較したところ、八割以上で顔の長さ、ほお骨の厚さなど主要な値が一致。
骨から推定した平均身長も渡来系弥生人(男性一六三センチ、女性一五〇センチ)とほぼ一致した。
 一九九六年一〇月一九日、日本人類学会・日本民族学会連合大会発表。東大理学部の植田信太郎助教授(人類学)らは、
約二千年前の中国・山東省臨錙の遺跡から出土した人骨と、同時期の詫田西分遺跡から出土した人骨のDNAを分析し、
遺伝子の配列が特定の部分で同じ人がいることを確認した。
 一九九九年三月一九日ニュース報道。江南人骨日中共同調査団(山口敏・東京国立科学博物館名誉研究員が団長)は、
江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、
歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較。
結果、春秋戦国時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の
人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致した。
http://www.asahi-net.or.jp/~CY1N-STU/kodaishi/yayoi.htm
443日本@名無史さん:2006/08/20(日) 21:54:01
約6500年前には既に灰陶時代に入り、約4200年前には既に施釉陶時代に入る。



黄河中・上流域ではB.C.4500年に老官台文化(陝西省)が誕生し、
北首嶺遺跡などからは灰陶が出土している。

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm



中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm
444日本@名無史さん:2006/08/20(日) 21:55:05
●灰陶 かいとう

還元焔で焼かれた灰色の肌の土器。中国の新石器時代の黄河流域では、仰韶(ヤンシャオ)文化
期に紅陶が多く灰陶は少なかったが、晩期には灰陶が多くなる。山東地域を中心とするダイブン
コウ※注2※文化期でも同様に,晩期には灰陶が多くなり、ロクロが用いられた。両文化を継承した
竜山文化期では、灰陶が多く質も向上していく。江漢平原の屈家嶺文化期では,中期に灰陶が主流
を占めてくる。殷代になると土器製作の技術が進み,窯中の還元焔が制御されて,後期には,器質・
色調の優れた細泥灰陶が土器の大部分を占めるようになる。灰陶は周・漢・六朝でもつくられ,
加彩灰陶も現れる。http://www.tabiken.com/history/doc/D/D056R100.HTM

◇灰陶(かいとう)

中国、殷代以前に始まる陶質土器。焼成の最終段階で、空気をあまり送らず窯の中を還元状態に
するため灰青色を呈する。殷・周代を中心に漢・唐の頃まで日常の容器として広く使われた。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/195.html
445日本@名無史さん:2006/08/20(日) 21:55:45
●原始磁器 げんしじき(=灰釉陶、原始青磁)

中国古代の釉(うわぐすり)をかけた硬陶。3%以下の鉄分を含む胎土でつくられ,その上に
土灰釉(どかいゆう)を意識的にかけ,セ氏1,200度前後で焼成されたもので,灰釉陶,釉陶
ともいわれ,日本では灰釉と呼ばれている。3%以上の鉄分を含む胎土でつくられ,釉薬を
かけないで焼成された吸水率の高い灰陶とは異なる。また,焼成過程で降灰が器面でとけて
ガラス状になった自然釉とも区別される。原始磁器は,揚子江下流地域に源流があるといわれる。
殷代中期の二里崗文化には,灰白色の胎土でつくられ,器の内外に光沢のある薄い釉がかかり,
硬度が高く鋭い音色を出し,水のしみこまない原始磁器が出土している。殷代後期から西周時代には,
浙江・江蘇・江西・安徽・山東・河南・河北・陝西などの各省の遺跡から,原始磁器が出土する。
器形には,尊・壺・豆・鼎・杯などがある。春秋戦国時代には,揚子江以南で多くつくられ,
改良が加えられていく。土灰釉による褐・緑色の原始磁器は,その後しだいに発達して,
後漢時代に青磁となる。http://www.tabiken.com/history/doc/F/F303L100.HTM

灰釉陶は中国全土で焼成されつづけるが西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、
福建省などの中国東南部では印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋
時代(B.C.770年〜476年)華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。戦国時代
(B.C.476年〜B.C.221年)に入ると灰陶が主流になるが、目を見張る立派な黒陶も出土して
いる。鉛釉陶の走りもこの頃から見られるようになる。
http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html
446日本@名無史さん:2006/08/21(月) 21:50:52
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
型押の幾何学文様(印文)の一つさえも伝わっていないっ!


●印文土器 いんもんどき アジア 中華人民共和国 AD 

中国の東南没岸地帯地において新石器時代から漢代にかけて盛行した土器。
中国では印文陶と呼ばれる。焼成火度の差によって,軟陶と硬阿の二種類に
分けられるが,軟陶は前期,硬陶は後期のものになる。また,文様は型押の
印文が最も多く,20種以上の複雑な幾何学文様が器全体に施されるため,
幾何印文土器と通称される。製法には型製・手製・轆轤製のものがあるが,
轆轤製のものは少ない。器形は壺・甕の類が多い。色調は,軟陶では紅・灰・
灰白・黄白色で,硬陶ではほとんどが灰褐色で中に帯釉しているものがある。
印文土器が最も盛行するのは春秋戦国時代においてであるが,出土地域が
広範なため,この土器の文化的位置付けはむずかしい。
http://www.tabiken.com/history/doc/B/B263C100.HTM
447日本@名無史さん:2006/08/21(月) 21:51:36
西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、福建省などの中国東南部では
印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋時代(B.C.770年〜476年)
華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。
http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
448日本@名無史さん:2006/08/22(火) 17:46:12
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
最も代表的な器形である、鬲、鼎などの三足土器さえ伝わっていないっ!


●三足器 さんそくき 

中国における3本の足をもつ土器・青銅器の総称。三足器には,食物を煮るまたは
盛る鼎(てい),中空の袋状三足に水を入れて煮沸し,その上の「甑(そう)」
(こしき)にのせた穀物を蒸す鬲(れき),鬲と甑が結合して一体となったゲン
※注1※,酒器のカ※注2※,燗酒をつくるキ※注3※・カ※注4※・爵(しゃく)
などがある。しかし新石器時代の原始的土器には,水や酒を入れる壺(こ)や,
食物を盛る豆(とう)などにも三足のついたものがあり,器形も未分化・不定形
であった。たとえば,磁山・斐李崗(はいりこう)文化の三足つき壺・鉢形鼎,
仰韶(ぎょうしょう)文化の種々の形鼎,大ブン※注5※)口文化の三足つき
釜形鼎・鉢年鼎・觚(こ)形器,取手・三足つき鉢形細柄豆など種々ある。
また大ブン※注5※口文化において三足土器が,実足から空足,さらに袋状と変化
し,同時に器身も注ぎ口なども変化し,中空三足・注ぎ口・取手つきの大型キ
※注3※が成長した例もある。良渚(しょ)文化や典型竜山文化には,種々の
三足土器が多くなり,河南や陝西の竜山文化にも種々の三足土器が現れ,しだい
に器形がととのっていく。殷代には三足土器もつくられたが,これらの器形を
模した青銅器が鋳造され,また新しい器形の三足青銅器もつくられて,重要な
祭器となり,豪壮な造形と華麗な文様の芸術品に発展し,周代に継承されていく。
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H176R200.HTM
449日本@名無史さん:2006/08/22(火) 17:46:55
1. 華南地域では農業の発達が遅かったため、土器の種類は多くありません。
2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。
3. 黄河流域では、約1万年前から粟やひえの栽培が始まり、約7000年前以降には平底、
丸底、三足の土器が出現。 約5000年前から土器が一変し、中流域では灰色土器、
下流域では黒色土器が現れます。
4. 北方地域西北地方では、約6000年前以前の土器は発見されませんが、彩文土器が
発達したことが大きな特色です。
5. 北方地域東北地方では、約6000年〜5000年前に窯を使用し、彩文土器が出現しました。

 これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域
で形や種類、技法、文様などがかなり異なります。 また、農業の発達によって土器
づくりの技術も発達し、約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な
土器の一つとなりました。土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連
したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.html
450日本@名無史さん:2006/08/22(火) 17:47:57
451日本@名無史さん:2006/08/22(火) 17:52:56
売国奴が日本人に中国産の猛毒食品を食べさせようとしています、抗議しましょう!

【中国】日本政府、中国食品の残留農薬に規制緩和協議[08/22]

http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1156199433/
452日本@名無史さん:2006/08/22(火) 18:08:59
>1
別にいいじゃん?
逆に渡来系が全部半島経由じゃなかったって事実に感謝してるよ俺は

渡来系は半島系統以外にどんなに少なくとも3種類は考えられるでしょ?

華南=現在の広東省・華中=現在の福建省・
北方ツングース系騎馬民族=現在のウラジオストク
453日本@名無史さん:2006/08/22(火) 19:22:22
『日韓同祖論』という妄説がある。
学問的な根拠がまったくない、まさに妄説であり、狂説である。
日本人と韓国人が、何の関係もない別種の民族であることは、
両民族の言語を分析すれば すぐに理解できる。

【日本語】 【韓国語】        【現代北京語】
空(そら)→ ハヌル          コン
稲(いね)→ ビョ           タオ

白(しろ) → ヒンセク        パイ
白い(シロい)→ ヒダ         パイティー(白的)
頭(あたま)→ モリ          トウ
目(め)――→ ヌン          ムー
手(て)――→ ソン(またはパル)   ショウ
足(あし)―→ ダリ          足(ツー)、脚(チアオ)

犬(いぬ)―→ ゲ           犬(チュアン)、狗(コウ)
猫(ねこ)―→ ゴヤンイ        マオ
虎(とら)―→ ホランイ(またはボム) フー

刀(かたな)→ カル          タオ
弓(ゆみ)―→ ファル         コン
槍(やり)―→ チャン         チアン

比較してみれば、まるで違う言語であることが分かるであろう。
『日韓同祖論』がいかに馬鹿げた説か、理解できますね。
454日本@名無史さん:2006/08/23(水) 10:46:46
>>452
別にいいじゃん?
逆に渡来系が全部半島に定着しなかった北方アジア人だった事実に
感謝してるよ俺は。

渡来系はもう北方系統以外 考えられないでしょ?

渡来人骨は朝鮮半島の古代人骨と形質が一致しないし、
中国とは主要な物証がさーっぱり一致しないし。

広東省も福建省も華南だし、ツングース系は半猟半農だし、
ウラジオストクで騎馬民族なんて初耳だし、
渡来人骨は朝鮮半島の古代人骨と形質が一致しないと何度も言ってやって
いるのに日韓同祖論を出してくるところが馬鹿というか、お門違いというか、
まあ、それが南方土人チャンコロの最大限の知能レヴェルなんだろうがなw
455日本@名無史さん:2006/08/23(水) 15:14:49
●金文

金文(きんぶん)とは青銅器の表面に鋳込まれた、あるいは刻まれた文字の
こと(「金」はこの場合青銅の意味)。中国の殷・周のものが有名。年代的
には甲骨文字の後にあたる。殷は青銅器文化が非常に発達した時代であり、
この文字を器の表面に鋳込む技術は門外不出となっていた。

金文は『史記』のような後世になって書かれた資料とは違い、完全な同時代
資料であるためこの時代を研究する上で非常に貴重な資料となっている。
しかし殷代の青銅器は古美術としてもきわめて高い価値があるため収集家など
がこれを所持することで一貫した研究が出来ないと言うことも起きている。

なお石などに刻まれた文章は石文と呼ばれ、一緒にして金石文と呼ばれる。
またこれらの研究者は金石家と呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%96%87
456日本@名無史さん:2006/08/23(水) 15:16:28
篆書などの原始漢字の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅鐸に流水文・袈裟襷文・横帯文などの文様があるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html

鐸身全体は,横帯文や流水文で水平に分割するか,袈裟襷文で縦横に分割し4乃至6個の左
右対称の小区画を作り出すもので,横帯文系・流水文系・袈裟襷文系の三つの系統に大別され
る(図4)(図3)(図5)。横帯文系の横帯には,斜格子文のほかに綾杉文・鋸歯文・連続
渦文など各種の幾何学文が充?される。
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf#search='
457日本@名無史さん:2006/08/23(水) 15:17:09
饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html

殷の時代に生み出された灰釉陶は、西周時代から春秋戦国時代(B.C770〜 221)にかけて
熟成の時代を迎えることになるが、なお中国工芸の中心は依然として青銅器であった。
祭器としての青銅器から日常生活具としての青銅器へ変化する過程で、文様も饕餮文
(とうてつもん)・〓龍文(きりゅうもん)・〓鳳文(きほうもん)などの神秘的・
宗教的・観念的なもから動物や植物がリアルに写される写実的な文様へ変化していった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
458日本@名無史さん:2006/08/23(水) 16:42:05
『日韓同祖論』という妄説がある。
学問的な根拠がまったくない、まさに妄説であり、狂説である。
日本人と韓国人が、何の関係もない別種の民族であることは、
両民族の言語を分析すれば すぐに理解できる。

【日本語】 【韓国語】        【現代北京語】
空(そら)→ ハヌル          コン
稲(いね)→ ビョ           タオ

白(しろ) → ヒンセク        パイ
白い(シロい)→ ヒダ         パイティー(白的)
頭(あたま)→ モリ          トウ
目(め)――→ ヌン          ムー
手(て)――→ ソン(またはパル)   ショウ
足(あし)―→ ダリ          足(ツー)、脚(チアオ)

犬(いぬ)―→ ゲ           犬(チュアン)、狗(コウ)
猫(ねこ)―→ ゴヤンイ        マオ
虎(とら)―→ ホランイ(またはボム) フー

刀(かたな)→ カル          タオ
弓(ゆみ)―→ ファル         コン
槍(やり)―→ チャン         チアン

比較してみれば、まるで違う言語であることが分かるであろう。
『日韓同祖論』がいかに馬鹿げた説か、理解できますね。
459日本@名無史さん:2006/08/23(水) 16:43:24
『日韓同祖論』という妄説がある。
学問的な根拠がまったくない、まさに妄説であり、狂説である。
日本人と韓国人が、何の関係もない別種の民族であることは、
両民族の言語を分析すれば すぐに理解できる。

【日本語】 【韓国語】        【現代北京語】
空(そら)→ ハヌル          コン
稲(いね)→ ビョ           タオ

白(しろ) → ヒンセク        パイ
白い(シロい)→ ヒダ         パイティー(白的)
頭(あたま)→ モリ          トウ
目(め)――→ ヌン          ムー
手(て)――→ ソン(またはパル)   ショウ
足(あし)―→ ダリ          足(ツー)、脚(チアオ)

犬(いぬ)―→ ゲ           犬(チュアン)、狗(コウ)
猫(ねこ)―→ ゴヤンイ        マオ
虎(とら)―→ ホランイ(またはボム) フー

刀(かたな)→ カル          タオ
弓(ゆみ)―→ ファル         コン
槍(やり)―→ チャン         チアン

比較してみれば、まるで違う言語であることが分かるであろう。
『日韓同祖論』がいかに馬鹿げた説か、理解できますね。
460あぼーん:あぼーん
あぼーん
461あぼーん:あぼーん
あぼーん
462あぼーん:あぼーん
あぼーん
463日本@名無史さん:2006/08/23(水) 18:01:56
韓国がベトナム戦争に参戦した影響が現在も残っている。韓国軍による虐殺や、
韓国軍兵士による現地ベトナム人女性への買春やレイプで生まれた子供が、
現在1万人以上存在しているが、韓国より謝罪や補償が全くされていないため、
両国間で問題になっている(韓越混血児問題)。また、ベトナム戦争について、
韓国の国定教科書では1行程度しかふれられていないため、韓国が戦争に参加
した歴史を知らない若者は多い。その記述内容は「共産侵略を受けている
ベトナムを支援するために国軍を派兵した」というものである。
464日本@名無史さん:2006/08/24(木) 17:46:04
篆書など原始漢字の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅剣・銅戈・銅鉾・銅鐸・銅鏡・銅鏃などがあるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。銅鏡は除魔や権威の象徴として用いられた。一般に、西日本
中心の銅剣・銅戈・銅鉾文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏に大別されるが、福岡県の岡本
遺跡や佐賀県の安永田 遺跡から銅鐸が出土したり、出雲族の文化圏を連想させる島根県
の荒神谷遺跡[こうじんだにいせき]が発掘 されたため、疑問視されている。

http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html
465日本@名無史さん:2006/08/24(木) 17:46:38
鼎、爵などの三足器、尊などの酒器など、中国の青銅器の器形が全く伝わっていないっ!


青銅器はその用途により、食器、酒器、水器、楽器のほぼ4種類に分けることが
できる。各種類ごとにそれぞれ品目も複雑で数多く、形も非常に変化に富んでいて、
中国人の豊かな想像力と創作力を反映している。たとえば、黍稷(モチキビ)を
盛っておく「簒」。これは現代のご飯茶碗に相当する。その形は非常に変化に富み、
円脚に丸い胴のものもあれば、円脚の下にさらに四角い台座を加えて重しとしている
ものもあり、四角と円形との対象が美しい。また炊事用として使う「鼎」は、縁に
一対の耳を付け、下げるのに便利なようにしてある。丸い胴の下には三つの脚が
つけられ、獣の肉を煮込む火が燃えやすいようになっている。ほかには「爵」や
「尊」なとがある。「爵」は酒を飲んだり温めたりする食器で、縁の形は酒が口の
方へ流れやすいようになっており、脇に持ちやすいように把手がある。胴の部分の
下には酒を温めるため3本の脚がついている。「尊」は大事な酒器で、丸い形の
ものや四角形、および四角い脚に丸い口をしたものなどがある。このように、
青銅器の基本的な形は、バランスの取れた対称形がほとんどで、荘厳で落ち着いた
雰囲気が特色である。
http://www.roc-taiwan.or.jp/culture/culture19.html
466日本@名無史さん:2006/08/24(木) 17:47:31
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形がさーっぱり伝わっていない。
その代表である三足器形さえも伝わっていない。



◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html


467日本@名無史さん:2006/08/25(金) 03:17:14
創価は教祖が北朝鮮人だし統一教会の手先の日本転覆カルト教団。
オウムの幹部の多くは創価の人間。
まだ知らない人間が多いが、いざという時 朝鮮総連の工作員とともに日本国で騒乱を起こす集団だよ。
麻原の口封じの為 あらゆる立場の人間を使って薬漬けにして廃人にして証拠の隠滅、真実の暴露を
必死で防ぐ超売国カルト キチガイ集団 朝鮮の手先・・・・それが創価学会

創価学会は北朝鮮宗教である
http://Www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/sokakitacho.htm
http://Www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/yudatesaki.htm

創価が単なる気持ち悪い宗教団体だったらいいのだけど現実は
日本を破壊するためのカルト。オウムを育てたのも創価だし
皇室典範から人権擁護法案と言う名の日本人逆差別法案まで
何から何まで反日的宗教。SGIは統一教会と共に韓国では反日
活動をしている。狙うは極東アジアの政情の不安定化
468日本@名無史さん:2006/08/25(金) 20:57:33
BC11C頃の華中の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


呉城文化 B1400?〜B1000?

 江西地方の文化はB3000年〜B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万uで、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。

http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
469日本@名無史さん:2006/08/25(金) 20:58:51
>豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土
>符号を刻した土器や鋳型も発見
>青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、商文化を凌ぐ鋳造技術




印文陶、釉陶、原始磁器、鼎、尊・・・

BC11C頃の華中の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡で
出土しないものばーっかり(嘲笑)



470日本@名無史さん:2006/08/26(土) 22:35:24
吉野ヶ里墳丘墓のルーツはどこなのか。中国・長江下流域の江南に多く見かけられる
土?墓(どとんぼ)(B.C.800〜500)ではないかといわれている。(中略)
同じく「土?墓が墳丘墓の源流ではないか」という樋口隆康氏(参考文献5)が江南の
土?墓について書いている。少し長いが紹介したい。[江南の土?墓とは盛土墳で、
地上に埋葬したものである。中原の殷・周時代の墳墓は地下深く抗を掘って埋葬してあり、
墳丘を持たないのが通例である。墳丘は秦代以降に出現したとされるので、江南の土?墓
は中国における墳丘初現の例になるかもしれない]。「この土?墓は長江下流、特に
江蘇省南部の太湖周辺から浙江省杭州や安徽省屯渓までに分布している。すなわち呉越の地
である。丘陵から平野にかけて径15〜30m、高さ2〜3mほどの大小の塚が群在している」。
「この土?墓の盛土は版築ではなく一つの土?墓の中に数個の埋葬がなされている。それらは
地面に礫石を敷いたり、紅焼土を詰めたりして棺床としている。石を遺体のまわりに並べて
囲ったり、あるいは石室を築いたりしている。その石室も竪穴式と横穴式のタイプがある。
これらの土?墓はだいたい西周時代から春秋時代にかけてのものである」。「この墓から出土
する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは
異なった図文をもっており、銅剣は身柄一鋳のものである」。
http://www2.saganet.ne.jp/niesu/zyofuku/dotonbo.htm
471日本@名無史さん:2006/08/26(土) 22:36:31
>この墓から出土する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、





印文硬陶と原始施釉陶が伝わっていない事には一切触れない低脳学者のすっとぼけぶり(嘲笑)




472日本@名無史さん:2006/08/27(日) 20:26:37
●越族 えつぞく

中国の長江中下流以南に広く分布していた民族。粤(えつ)とも書かれる。地域によって,於越(于越),
甌越(越東海,東甌),ビンエツ※注1※(東越),揚越,山越,南越,西甌(甌),駱越(駱)などが
あり,総称して百越(百粤)と呼ばれた。於越は春秋戦国時代に浙江省北半部を本拠に越という国を
建てた。甌越は浙江省南部の甌江流域により,ビンエツ※注1※は福建省ビンコウ※注2※流域を中心
とした。揚越は揚州にいた越で,西甌,駱越は広西壮族自治区,あるいは北ヴェトナムにまでひろがって
いたとみられている。秦代末期の混乱に乗じて,趙佗(ちょうた)が番禺(ばんぐう,広東省広州市)を
都に南越(南粤)国を建て,5代97年のあいだつづいたが,漢の武帝の前111年(元鼎6),漢に滅ぼされた。
越族の習俗については,入墨・断髪などが知られ,文化については,新石器時代から春秋戦国時代まで
盛んにつくられた幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている。
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C080C100.HTM
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
473日本@名無史さん:2006/08/27(日) 20:41:49
日本が邪馬台国だった時代
三国志時代の大陸において天皇家の祖先は何をしてたんだろう
歴史に登場しないような家柄だった可能性が高い
それともあくまでもアマテラスの子孫と言い張るのかな
474日本@名無史さん:2006/08/28(月) 17:50:39

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060209-00000148-kyodo-ent
475日本@名無史さん:2006/08/28(月) 17:51:48
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった




原始青磁が伝わってない事には一切触れない南京博物院のすっとぼけぶり(嘲笑



476日本@名無史さん:2006/08/29(火) 17:51:37
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。

「チャイナネット」2003年3月31日
http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
477日本@名無史さん:2006/08/29(火) 18:00:09
>圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、
>砂の入った灰色陶器、上薬のついた陶器、硬質陶器など




BC16Cの華南の出土物さえ日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり(嘲笑)




478日本@名無史さん:2006/08/30(水) 12:16:32
商の都のあった河南省鄭州市で商代の原始青磁が確認されたことから、
この地区から研究はスタートした。その後、長江中・下流域で商代から
戦国期に亘って連綿と原始青磁が、古墓や城跡を中心に相次ぎ発見された。
その生産と消費の中心地が華南地域であることは、ほぼ動かしがたい状況となっている。

釉色は青緑色、青黄色を呈し、器の内面は全て施釉し、外面は底部近くには施釉
していない。大部分の器物の底部にはヘラ書き符号が認められると言う。
時代としては、春秋時代早期に比定されている。こうしたヘラ書き符号を有した
印紋陶器や原始青磁は、広東地区の春秋戦国時代の古墓からもよく発見されると言う。

福建省でも同地特有の原始青磁が確認されているが、その窯跡の確認は未だ
されていない。しかし西周時代にはすでに現地生産がされ出していたと予測されている。

今までに窯跡本体の確認された原始青磁を焼成した窯は、華南地域に限られている。
商代でも浙江省上虞市百官鎮2号窯跡の例の様に明らかな龍窯が確認されている。
http://www.sg-r.co.jp/web/kouko/genshi_seiji.html
479日本@名無史さん:2006/08/30(水) 12:17:32
4000年以上前の東南アジア周辺の遺跡でも三足土器が一般的。


新石器時代:約4,000年以前
出土した土器は、26種の様式をもっていたが、その中でもっとも目立ったものは
三足の鼎であって、先史時代の中国の『鬲(れき)』に似ており、年代を調べた
ところ、これらは約4,000年以前に作られたことが判明した。
カオサムルナム洞窟でも、バン・カオ遺跡出土の土器と似ている同年代の物が出土した。

http://www.toros8.com/ban/his1.html
480日本@名無史さん:2006/08/31(木) 23:57:59
周に入る頃には既に一般的な建材だった瓦さえ伝わっていないっ!


瓦の歴史はきわめて古く、中国では紀元前2000頃にはすでに瓦が登場している。
中国4000年の歴史とよく言われるが、瓦も4000年の歴史を持っている。中国語の
瓦という字は、粘土を焼いたものの総称である。

http://www8.ocn.ne.jp/~kawarak/hana.html

瓦の歴史はとても古く、メソポタミア、インドなどの諸説がありますが、
すでに紀元前2000年前の中国に瓦が存在していたと言われています。

http://www2.odn.ne.jp/sugimotokawara/KAWARA2.htm
481日本@名無史さん:2006/08/31(木) 23:59:38


「水田稲作技術は中国大陸から入っているが 水田稲作に関する
中国大陸の言葉は伝わっていない」

http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/mousou.html


金関  縄文から弥生を土器の移り変わりで見ても、大陸から入ってきたと
考えざるを得ない。ただ同時期の中国土器や金属器はない。
このため日本列島へは朝鮮半島経由だろう。

http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/001.htm

482日本@名無史さん:2006/09/01(金) 00:04:11
>>481 「水田稲作技術は中国大陸から入っているが 水田稲作に関する
中国大陸および朝鮮半島の言葉は伝わっていない」
483日本@名無史さん:2006/09/01(金) 20:43:00
BC35C頃に高床式住居、甕棺墓(土器棺墓)が日本に出現するが・・・・・


高床式倉庫群、竪穴式住居群、千五百年の営みを積み重ねて来た遺跡、
建物跡ひとつをとっても同じ場所に何度も建て替えられている。
三内丸山に集落があったのは縄文時代前期半ばから中期末までの一五〇〇年間
も古い前期半ばは紀元前三五〇〇年頃、いまからおよそ五五〇〇年前だ。
http://www.d1.dion.ne.jp/~zpmasasi/sannai.html

青森県内の縄文時代早期から中期後葉の墓を集成し、埋葬方法の種類と
移り変わり、配置についての基礎的な分析を行った。青森県内の埋葬方法は、
早期後半に大半が出そろい、前期中葉に土器棺墓、前期末葉にフラスコ形
土坑が出現して副葬品の量にも差が生まれる。
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/special/koubo_sha.html
484日本@名無史さん:2006/09/01(金) 20:44:03
BC50C頃の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の鋤、黒陶や彩陶、
釜・甑・鉢などの器形が縄文時代に全く伝わっていないっ!


浙江省余姚(よう)県河姆渡遺跡を標準とする新石器時代の文化をいう。主に寧紹平原の
東部地区に分布している。河姆渡遺跡には四つの文化層があり,第1層は良渚文化早期と
類似しており,第2層は馬家浜文化の要素がある。第3・4層は河姆渡文化層で,上の両層
よりも古く,注目すべき出土器物がある。土器は原始的な手づくりの,あらい厚手の不整形で,
低温で焼かれた夾炭黒陶が最も多く,混ぜられた植物の茎葉砕片やもみ殻が焼けて炭化し,
土器を黒色にしている。夾炭黒陶は第4層では最大量を占めるが,第1層に至るほど漸減し,
第1・2層では焼成温度の高い砂混じりの夾砂紅陶・灰陶が優勢となる。第4層の土器の主な
ものに,釜・罐(かん)・鉢・盤・器台がある。釜が四つの層を通して出土し,形態と
装飾が最も多様なところから,釜を南方地区新石器文化の特徴とする見解がある。第3層
出土の甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器で,のちに朝鮮・日本などに伝わり,
東アジアに特徴的な穀物を蒸して食べる調理法を普及させたものである。また紡錘のほか,
濃茶の文様を施した数個の彩陶片も発見されている。遺跡層が地下水面下にあったため,
多くの木器が保存され,耜(し。すき)・碗・盆・かい・杵・矛・紡・紡錘などのほか,
組み合わせ部品用と思われる大小の棒が発見されている。
http://www.tabiken.com/history/doc/D/D276R100.HTM
485日本@名無史さん:2006/09/01(金) 20:45:03
見よ!

BC50C頃の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の鋤、黒陶や彩陶、
釜・甑・鉢などの器形が縄文時代にさーっぱり伝わっていない。



◎河姆渡遺跡

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
http://homepage3.nifty.com/sugar-tr/joumonG.html



486日本@名無史さん:2006/09/01(金) 22:15:49
エベンキ族がまた何か言ってるのか。 懲りない奴らだ。
487日本@名無史さん:2006/09/02(土) 20:27:13
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


渡来系弥生人は大陸のどこからやって来たのでしょうか。最近の調査により、
水稲耕作の発祥の地ともいわれている中国南部が有力視されています。
黄河下流と長江下流に挟まれた地域の漢代の遺跡から、渡来系弥生人に
よく似た人骨があいついで見つかっています。この時代の中国は、政治的に
動乱の時代であり、いろいろな民族が入り乱れて戦いました。日本にやって
来た渡来民は、このような動乱から逃れてきた人々だったのでしょうか。

http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-14.html
488日本@名無史さん:2006/09/02(土) 20:28:48
朝鮮と山東省の骨だけで中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


「土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、
細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系
「新モンゴロイド」の特徴がありました。
彼らのルーツを求めて朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、
中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の
人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極め
てよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国
だったのです。」

http://sakezo.com/shumi/rekisi/keta1.html
489日本@名無史さん:2006/09/03(日) 23:01:32
北方アジアは一切抜きの偏向調査で作為的に中国・朝鮮に誘致していた
スットボケ遺伝学者(嘲笑)


宝来センセイによると、韓国や中国にはそれぞれドミナントなミトコンドリアDNAがあるのに、
日本本土では、とくにドミナントなものがない。つまり系統的にさまざまな人たちから成り立って
いるのである。また、これまで、大陸から渡来した弥生人によって分断され、北に追いやられたのが
アイヌ、南に追いやられたのが琉球人といわれてきた。しかし、アイヌと琉球は少なくとも1万2000年
以上まえに分岐しており、紀元前3世紀以降に渡来してきた弥生人によって分断されたんではないという。
1万2000年前にそれぞれ日本に住み着いたアイヌと琉球人。そこへ紀元前3世紀以降になって渡来し、
稲作をはじめた中国・朝鮮系の人びと。こうした人たちの子孫がわたしたちなのだ。
それにしても紀元前3世紀以降の大陸からの渡来って、それ、秦の始皇帝のころの、徐福たちじゃない?
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm
490日本@名無史さん:2006/09/03(日) 23:02:11
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋とミトコンドリ屋の
偏向調査のコラボレーション。やはり必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


一九九四年一月二六日ニュース報道。山口県豊北町の土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアムの松下孝幸館長(形質人類学)らが、
山東省文物考古研究所を訪問。同省の遺跡から出土した前漢時代の古人骨約七十体について、顔の長さ、幅などを計測し、
北部九州や山口県で発掘された渡来系弥生人骨と比較したところ、八割以上で顔の長さ、ほお骨の厚さなど主要な値が一致。
骨から推定した平均身長も渡来系弥生人(男性一六三センチ、女性一五〇センチ)とほぼ一致した。
 一九九六年一〇月一九日、日本人類学会・日本民族学会連合大会発表。東大理学部の植田信太郎助教授(人類学)らは、
約二千年前の中国・山東省臨錙の遺跡から出土した人骨と、同時期の詫田西分遺跡から出土した人骨のDNAを分析し、
遺伝子の配列が特定の部分で同じ人がいることを確認した。
 一九九九年三月一九日ニュース報道。江南人骨日中共同調査団(山口敏・東京国立科学博物館名誉研究員が団長)は、
江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、
歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較。
結果、春秋戦国時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の
人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致した。
http://www.asahi-net.or.jp/~CY1N-STU/kodaishi/yayoi.htm
491日本@名無史さん:2006/09/04(月) 18:00:35
弥生時代の山東省の出土物はこんな有り様(嘲笑)


◎西周時代の陶器発見 山東省済南市

山東省済南市歴城区孫村鎮盧家寨村でこのほど、西周時代(紀元前11世紀ごろ〜紀元前771年)
のものと見られる陶器が見つかった。現在までに陶製の鬲(れき、古代中国で使われた三足
の器)が約50点出土しており、発掘作業はまだ続いている。専門家の説明によると、この遺跡
が発見され、珍しい西周時代の陶器が大量に出土したことは、西周時代の人々の生活や陶器
製作技術を研究する上で、極めて重要な価値がある。

http://www.china.org.cn/japanese/201551.htm
陶製の鬲(れき、古代中国で使われた三足の器)が約50点出土しており
陶製の鬲(れき、古代中国で使われた三足の器)が約50点出土しており
陶製の鬲(れき、古代中国で使われた三足の器)が約50点出土しており
陶製の鬲(れき、古代中国で使われた三足の器)が約50点出土しており
492日本@名無史さん:2006/09/05(火) 00:01:53
何このコピペスレッド
493日本@名無史さん:2006/09/05(火) 06:53:28
騙されて来たが、とんだキチガイスレだな。
494日本@名無史さん:2006/09/05(火) 20:40:28
弥生時代の山東省の遺物は弥生遺物に伝わっていないどころか
まるで宇宙人の創造物のようだ(嘲笑)


◆弥生時代の山東省のさまざまな出土物

銅簋 春秋 仙人台遺跡
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww42.htm
銅簠 春秋 仙人台遺跡
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww43.htm
銅鼎 春秋 仙人台遺跡
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww51.htm
原始漢字の金文 春秋 仙人台遺跡
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww52.htm
銅鳥座 春秋 仙人台6号墓
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww71.htm
495日本@名無史さん:2006/09/05(火) 20:49:04
まだまだあるのよ(嘲笑)


龍文銅方壺 春秋 仙人台遺跡
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww81.htm
銅盂 春秋 嘴子前遺跡
http://db.museum.or.jp/im/Search/jsMuseumEventDetail_jp.jsp?event_no=28679


山東省章丘市の漢代の墓から大量の青銅の鼎やら、編鐘、編磬、
ロ于、鉦、鐸など、青銅の楽器やらが出土してもう大変↓(嘲笑)

http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhuanwen/200107-2.htm
496日本@名無史さん:2006/09/06(水) 15:15:58
弥生時代の江蘇省の出土物はこんな有り様(嘲笑)


◎江蘇省句容市と金壇市にまたがる周代の土トン墓

2005年、南京博物院考古研究所は、江蘇省の句容市と金壇市で、土を盛った墓である
土トン墓群の大規模な発掘を行った。あわせて40の土トン墓を発掘し、233の墓葬と
14の墓葬建築遺跡を整理した。幾何学模様の陶器、原始的な青磁器を主とした、江南
地方の特色がある各種の文物3800件余りが出土した。
http://peopleschina.com/maindoc/html/200605/20zhuanwen62.htm
幾何学模様の陶器、原始的な青磁器を主とした、江南地方の特色がある各種の文物3800件
幾何学模様の陶器、原始的な青磁器を主とした、江南地方の特色がある各種の文物3800件
幾何学模様の陶器、原始的な青磁器を主とした、江南地方の特色がある各種の文物3800件
幾何学模様の陶器、原始的な青磁器を主とした、江南地方の特色がある各種の文物3800件
497日本@名無史さん:2006/09/07(木) 13:44:22
【江蘇】徐州市で周代の器物を修復、2800年前の生活が明らかに

江蘇省徐州市にある周代の遺跡から出土した器物が半年かけて修復され、2800年前の
生活の様子が明らかになった。今回の修復は当時のこの一帯の製陶業や栽培業、建築の
発展状況を知るうえで大きな意義があり、同省での周代の遺物の収蔵・研究の空白を
埋めるものとして注目されている。徐州市賈汪鎮泉東村で去年初めて、完全な形で残る
周代のものとみられる家屋跡を発見。発掘を通して、考古学者は一家族の住まいである
ことを確認した。徐州博物館考古学部の耿軍建主任によると、家屋はほぼ南北2列に並び、
北側には4〜5室、南側には3室あった。部屋の大小や機能はそれぞれ異なり、東側から
陶鬲(とうれき・陶製の鼎に似たもの)などの炊事用具が見つかったことから厨房、
西側では陶罐や陶甕(とうおう・陶製のかめ)など大型の容器が出土したため、貯蔵部屋
だったのではないかと考えられている。部屋は木の柱を骨組みにして草を混ぜた泥で覆った
構造。壁はほぼ長方形になっているが、手で塗ったせいか厚みにばらつきがある。出土した
20点余りの陶鬲や陶甕から、考古学者は西州時代の家屋跡だと推断している。 家屋の前に
ある坑からは、大量のからす貝の殻や食べ残した豚、鹿、犬の骨のほか、鹿の角で作った
鋤、骨を彫った錐や剣、貝殻で作った鎌、泥を焼いた鉢など生産・生活用具が見つかった。
ここから当時、農水牧畜業や狩猟が比較的発達していたことが窺われ、周囲には広大な
森林や沢、草地、農地があり、居住環境はかなり良かったのではと思われる。徐州市博物館
は現在、遺跡から出土し修復された陶鬲や陶罐、鉢など20点余りの器物を展示しており、
大小は様々だが、文様や色彩ははっきりしている。最も完全な姿をみせているのが大型の
陶鬲で、直径42センチ、高さ38センチ。考古学者によると、周代の遺物はもともと数少なく、
とくに江蘇省でこれほど多くの器物が発見されたのは今回が初めてだという。2800年の時
を経て修復された器物に周代の人々の生活風景が想像できる。
http://j.people.com.cn/2003/06/13/jp20030613_29739.html
498日本@名無史さん:2006/09/07(木) 13:52:50
>陶鬲(とうれき・陶製の鼎に似たもの)などの炊事用具が見つかったことから厨房、
>西側では陶罐や陶甕(とうおう・陶製のかめ)など大型の容器が出土したため、




鬲?????罐?????

弥生時代の江蘇省からは弥生遺物でさーっぱり見た事がない
摩訶不思議な器種が出るんですねえ(嘲笑)



499日本@名無史さん:2006/09/08(金) 23:41:14

◎北方アジア抜きの偏向調査で中国に誘致し国民をダマした容疑者リスト


 宝 来 聰 (国立遺伝学研究所助教授、総合研究大学院大学助教授)


 松 下 孝 幸 (土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム館長)


 植 田 信 太 郎 (東大理学部助教授)


 山 口 敏 (東京国立科学博物館名誉研究員)

500日本@名無史さん:2006/09/09(土) 00:23:12
たまにはお客さん来てる、暇そうだね焼き物興味なくなったからな。
501日本@名無史さん:2006/09/09(土) 01:17:42
チャンコロは人ではないので議論をする必要もない。
502日本@名無史さん:2006/09/09(土) 02:01:59
そんな事いっちゃダメよ、もっと愛想よくしないとお客さん来ないわよ。
ジャーネー今日の勘定つけといてね!
503日本@名無史さん:2006/09/09(土) 23:09:19
約6500年前には既に灰陶時代に入り、約4200年前には既に施釉陶時代に入る。



黄河中・上流域ではB.C.4500年に老官台文化(陝西省)が誕生し、
北首嶺遺跡などからは灰陶が出土している。

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm



中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm
504日本@名無史さん:2006/09/09(土) 23:09:50
●灰陶 かいとう

還元焔で焼かれた灰色の肌の土器。中国の新石器時代の黄河流域では、仰韶(ヤンシャオ)文化
期に紅陶が多く灰陶は少なかったが、晩期には灰陶が多くなる。山東地域を中心とするダイブン
コウ※注2※文化期でも同様に,晩期には灰陶が多くなり、ロクロが用いられた。両文化を継承した
竜山文化期では、灰陶が多く質も向上していく。江漢平原の屈家嶺文化期では,中期に灰陶が主流
を占めてくる。殷代になると土器製作の技術が進み,窯中の還元焔が制御されて,後期には,器質・
色調の優れた細泥灰陶が土器の大部分を占めるようになる。灰陶は周・漢・六朝でもつくられ,
加彩灰陶も現れる。http://www.tabiken.com/history/doc/D/D056R100.HTM

◇灰陶(かいとう)

中国、殷代以前に始まる陶質土器。焼成の最終段階で、空気をあまり送らず窯の中を還元状態に
するため灰青色を呈する。殷・周代を中心に漢・唐の頃まで日常の容器として広く使われた。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/195.html
505日本@名無史さん:2006/09/09(土) 23:10:53
●原始磁器 げんしじき(=灰釉陶、原始青磁)

中国古代の釉(うわぐすり)をかけた硬陶。3%以下の鉄分を含む胎土でつくられ,その上に
土灰釉(どかいゆう)を意識的にかけ,セ氏1,200度前後で焼成されたもので,灰釉陶,釉陶
ともいわれ,日本では灰釉と呼ばれている。3%以上の鉄分を含む胎土でつくられ,釉薬を
かけないで焼成された吸水率の高い灰陶とは異なる。また,焼成過程で降灰が器面でとけて
ガラス状になった自然釉とも区別される。原始磁器は,揚子江下流地域に源流があるといわれる。
殷代中期の二里崗文化には,灰白色の胎土でつくられ,器の内外に光沢のある薄い釉がかかり,
硬度が高く鋭い音色を出し,水のしみこまない原始磁器が出土している。殷代後期から西周時代には,
浙江・江蘇・江西・安徽・山東・河南・河北・陝西などの各省の遺跡から,原始磁器が出土する。
器形には,尊・壺・豆・鼎・杯などがある。春秋戦国時代には,揚子江以南で多くつくられ,
改良が加えられていく。土灰釉による褐・緑色の原始磁器は,その後しだいに発達して,
後漢時代に青磁となる。http://www.tabiken.com/history/doc/F/F303L100.HTM

灰釉陶は中国全土で焼成されつづけるが西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、
福建省などの中国東南部では印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋
時代(B.C.770年〜476年)華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。戦国時代
(B.C.476年〜B.C.221年)に入ると灰陶が主流になるが、目を見張る立派な黒陶も出土して
いる。鉛釉陶の走りもこの頃から見られるようになる。
http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html
506グリーン中山:2006/09/10(日) 17:07:16
『最近の台湾の教科書について』

慰安婦の記述

近隣諸国(主に韓国・中国など)と日本で、歴史認識の違いで議論になる事柄のひとつに、
慰安婦などに関する事柄があると思われますが、
 日本では、慰安婦について、職業婦人だとか業者が行なったことだとか
いろいろに論じられていますが、 最近の、台湾の教科書でも、
2社3種類の教科書に慰安婦についての 記載がされています。

   「いわゆるA級戦犯」小林よしのり 2006年6月30日 幻冬舎 
   のp70〜71にも NHK番組改変問題で同じみになった、
   女性国際戦犯法廷に関連して、慰安婦についての記述があるようですが
   ( 各国検事団は、中国、台湾、韓国、北朝鮮など9カ国から参加、
     主催者には、台湾から 台北市婦女救援社会福利事業基金会
     http://www.twrf.org.tw/chinese/directors.asp  
     なども参加 )

以下に國中(9年一貫の7,8,9學年)の検定教科書の 内容を紹介しています。
 翻訳は大体ですので、原文の画像もご参考ください。
 (  http://bbs.com.nifty.com/mes/cf_wrent/FREKISHI_B031
     Bar HISTORIA(フリートーク)   2005年10月26日           )

以下もご参考に
 http://www2.ezbbs.net/36/underbranch/
  歴史問題掲示板 4月9日 17時56分 「百人斬り」
             4月9日 18時16分  清代勢力図
             2月18日        南京の記述
507日本@名無史さん:2006/09/10(日) 22:01:00
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
型押の幾何学文様(印文)の一つさえも伝わっていないっ!


●印文土器 いんもんどき アジア 中華人民共和国 AD 

中国の東南没岸地帯地において新石器時代から漢代にかけて盛行した土器。
中国では印文陶と呼ばれる。焼成火度の差によって,軟陶と硬阿の二種類に
分けられるが,軟陶は前期,硬陶は後期のものになる。また,文様は型押の
印文が最も多く,20種以上の複雑な幾何学文様が器全体に施されるため,
幾何印文土器と通称される。製法には型製・手製・轆轤製のものがあるが,
轆轤製のものは少ない。器形は壺・甕の類が多い。色調は,軟陶では紅・灰・
灰白・黄白色で,硬陶ではほとんどが灰褐色で中に帯釉しているものがある。
印文土器が最も盛行するのは春秋戦国時代においてであるが,出土地域が
広範なため,この土器の文化的位置付けはむずかしい。
http://www.tabiken.com/history/doc/B/B263C100.HTM
508日本@名無史さん:2006/09/10(日) 22:01:53
西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、福建省などの中国東南部では
印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋時代(B.C.770年〜476年)
華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。
http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
509日本@名無史さん:2006/09/11(月) 17:50:11
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
最も代表的な器形である、鬲、鼎などの三足土器さえ伝わっていないっ!


●三足器 さんそくき 

中国における3本の足をもつ土器・青銅器の総称。三足器には,食物を煮るまたは
盛る鼎(てい),中空の袋状三足に水を入れて煮沸し,その上の「甑(そう)」
(こしき)にのせた穀物を蒸す鬲(れき),鬲と甑が結合して一体となったゲン
※注1※,酒器のカ※注2※,燗酒をつくるキ※注3※・カ※注4※・爵(しゃく)
などがある。しかし新石器時代の原始的土器には,水や酒を入れる壺(こ)や,
食物を盛る豆(とう)などにも三足のついたものがあり,器形も未分化・不定形
であった。たとえば,磁山・斐李崗(はいりこう)文化の三足つき壺・鉢形鼎,
仰韶(ぎょうしょう)文化の種々の形鼎,大ブン※注5※)口文化の三足つき
釜形鼎・鉢年鼎・觚(こ)形器,取手・三足つき鉢形細柄豆など種々ある。
また大ブン※注5※口文化において三足土器が,実足から空足,さらに袋状と変化
し,同時に器身も注ぎ口なども変化し,中空三足・注ぎ口・取手つきの大型キ
※注3※が成長した例もある。良渚(しょ)文化や典型竜山文化には,種々の
三足土器が多くなり,河南や陝西の竜山文化にも種々の三足土器が現れ,しだい
に器形がととのっていく。殷代には三足土器もつくられたが,これらの器形を
模した青銅器が鋳造され,また新しい器形の三足青銅器もつくられて,重要な
祭器となり,豪壮な造形と華麗な文様の芸術品に発展し,周代に継承されていく。
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H176R200.HTM
510日本@名無史さん:2006/09/11(月) 17:50:43
1. 華南地域では農業の発達が遅かったため、土器の種類は多くありません。
2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。
3. 黄河流域では、約1万年前から粟やひえの栽培が始まり、約7000年前以降には平底、
丸底、三足の土器が出現。 約5000年前から土器が一変し、中流域では灰色土器、
下流域では黒色土器が現れます。
4. 北方地域西北地方では、約6000年前以前の土器は発見されませんが、彩文土器が
発達したことが大きな特色です。
5. 北方地域東北地方では、約6000年〜5000年前に窯を使用し、彩文土器が出現しました。

 これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域
で形や種類、技法、文様などがかなり異なります。 また、農業の発達によって土器
づくりの技術も発達し、約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な
土器の一つとなりました。土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連
したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.html
511日本@名無史さん:2006/09/11(月) 18:02:33
512日本@名無史さん:2006/09/12(火) 15:14:50
●金文

金文(きんぶん)とは青銅器の表面に鋳込まれた、あるいは刻まれた文字の
こと(「金」はこの場合青銅の意味)。中国の殷・周のものが有名。年代的
には甲骨文字の後にあたる。殷は青銅器文化が非常に発達した時代であり、
この文字を器の表面に鋳込む技術は門外不出となっていた。

金文は『史記』のような後世になって書かれた資料とは違い、完全な同時代
資料であるためこの時代を研究する上で非常に貴重な資料となっている。
しかし殷代の青銅器は古美術としてもきわめて高い価値があるため収集家など
がこれを所持することで一貫した研究が出来ないと言うことも起きている。

なお石などに刻まれた文章は石文と呼ばれ、一緒にして金石文と呼ばれる。
またこれらの研究者は金石家と呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%96%87
513日本@名無史さん:2006/09/12(火) 15:15:58
篆書などの原始漢字の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅鐸に流水文・袈裟襷文・横帯文などの文様があるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html

鐸身全体は,横帯文や流水文で水平に分割するか,袈裟襷文で縦横に分割し4乃至6個の左
右対称の小区画を作り出すもので,横帯文系・流水文系・袈裟襷文系の三つの系統に大別され
る(図4)(図3)(図5)。横帯文系の横帯には,斜格子文のほかに綾杉文・鋸歯文・連続
渦文など各種の幾何学文が充?される。
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf#search='
514日本@名無史さん:2006/09/12(火) 15:16:39
饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html

殷の時代に生み出された灰釉陶は、西周時代から春秋戦国時代(B.C770〜 221)にかけて
熟成の時代を迎えることになるが、なお中国工芸の中心は依然として青銅器であった。
祭器としての青銅器から日常生活具としての青銅器へ変化する過程で、文様も饕餮文
(とうてつもん)・〓龍文(きりゅうもん)・〓鳳文(きほうもん)などの神秘的・
宗教的・観念的なもから動物や植物がリアルに写される写実的な文様へ変化していった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
515日本@名無史さん:2006/09/14(木) 00:27:38
篆書など原始漢字の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅剣・銅戈・銅鉾・銅鐸・銅鏡・銅鏃などがあるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。銅鏡は除魔や権威の象徴として用いられた。一般に、西日本
中心の銅剣・銅戈・銅鉾文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏に大別されるが、福岡県の岡本
遺跡や佐賀県の安永田 遺跡から銅鐸が出土したり、出雲族の文化圏を連想させる島根県
の荒神谷遺跡[こうじんだにいせき]が発掘 されたため、疑問視されている。

http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html
516日本@名無史さん:2006/09/14(木) 00:28:10
鼎、爵などの三足器、尊などの酒器など、中国の青銅器の器形が全く伝わっていないっ!


青銅器はその用途により、食器、酒器、水器、楽器のほぼ4種類に分けることが
できる。各種類ごとにそれぞれ品目も複雑で数多く、形も非常に変化に富んでいて、
中国人の豊かな想像力と創作力を反映している。たとえば、黍稷(モチキビ)を
盛っておく「簒」。これは現代のご飯茶碗に相当する。その形は非常に変化に富み、
円脚に丸い胴のものもあれば、円脚の下にさらに四角い台座を加えて重しとしている
ものもあり、四角と円形との対象が美しい。また炊事用として使う「鼎」は、縁に
一対の耳を付け、下げるのに便利なようにしてある。丸い胴の下には三つの脚が
つけられ、獣の肉を煮込む火が燃えやすいようになっている。ほかには「爵」や
「尊」なとがある。「爵」は酒を飲んだり温めたりする食器で、縁の形は酒が口の
方へ流れやすいようになっており、脇に持ちやすいように把手がある。胴の部分の
下には酒を温めるため3本の脚がついている。「尊」は大事な酒器で、丸い形の
ものや四角形、および四角い脚に丸い口をしたものなどがある。このように、
青銅器の基本的な形は、バランスの取れた対称形がほとんどで、荘厳で落ち着いた
雰囲気が特色である。
http://www.roc-taiwan.or.jp/culture/culture19.html
517日本@名無史さん:2006/09/14(木) 00:28:49
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形がさーっぱり伝わっていない。
その代表である三足器形さえも伝わっていない。



◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html




518日本@名無史さん:2006/09/14(木) 00:29:55
弥生時代開始頃の華中の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


呉城文化 B1400?〜B1000?

 江西地方の文化はB3000年〜B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万uで、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。
http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
519日本@名無史さん:2006/09/14(木) 00:31:34
>豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土
>符号を刻した土器や鋳型も発見
>青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、商文化を凌ぐ鋳造技術




印文陶、釉陶、原始磁器、鼎、尊・・・

BC11C頃の華中の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡で
出土しないものばーっかり(嘲笑)



520日本@名無史さん:2006/09/14(木) 00:33:30
吉野ヶ里墳丘墓のルーツはどこなのか。中国・長江下流域の江南に多く見かけられる
土?墓(どとんぼ)(B.C.800〜500)ではないかといわれている。(中略)
同じく「土?墓が墳丘墓の源流ではないか」という樋口隆康氏(参考文献5)が江南の
土?墓について書いている。少し長いが紹介したい。[江南の土?墓とは盛土墳で、
地上に埋葬したものである。中原の殷・周時代の墳墓は地下深く抗を掘って埋葬してあり、
墳丘を持たないのが通例である。墳丘は秦代以降に出現したとされるので、江南の土?墓
は中国における墳丘初現の例になるかもしれない]。「この土?墓は長江下流、特に
江蘇省南部の太湖周辺から浙江省杭州や安徽省屯渓までに分布している。すなわち呉越の地
である。丘陵から平野にかけて径15〜30m、高さ2〜3mほどの大小の塚が群在している」。
「この土?墓の盛土は版築ではなく一つの土?墓の中に数個の埋葬がなされている。それらは
地面に礫石を敷いたり、紅焼土を詰めたりして棺床としている。石を遺体のまわりに並べて
囲ったり、あるいは石室を築いたりしている。その石室も竪穴式と横穴式のタイプがある。
これらの土?墓はだいたい西周時代から春秋時代にかけてのものである」。「この墓から出土
する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは
異なった図文をもっており、銅剣は身柄一鋳のものである」。
http://www2.saganet.ne.jp/niesu/zyofuku/dotonbo.htm
521日本@名無史さん:2006/09/14(木) 00:34:36
>この墓から出土する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、





印文硬陶と原始施釉陶が伝わっていない事には一切触れない低脳学者のすっとぼけぶり(嘲笑)







522日本@名無史さん:2006/09/14(木) 00:35:47
●越族 えつぞく

中国の長江中下流以南に広く分布していた民族。粤(えつ)とも書かれる。地域によって,於越(于越),
甌越(越東海,東甌),ビンエツ※注1※(東越),揚越,山越,南越,西甌(甌),駱越(駱)などが
あり,総称して百越(百粤)と呼ばれた。於越は春秋戦国時代に浙江省北半部を本拠に越という国を
建てた。甌越は浙江省南部の甌江流域により,ビンエツ※注1※は福建省ビンコウ※注2※流域を中心
とした。揚越は揚州にいた越で,西甌,駱越は広西壮族自治区,あるいは北ヴェトナムにまでひろがって
いたとみられている。秦代末期の混乱に乗じて,趙佗(ちょうた)が番禺(ばんぐう,広東省広州市)を
都に南越(南粤)国を建て,5代97年のあいだつづいたが,漢の武帝の前111年(元鼎6),漢に滅ぼされた。
越族の習俗については,入墨・断髪などが知られ,文化については,新石器時代から春秋戦国時代まで
盛んにつくられた幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている。
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C080C100.HTM
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
523日本@名無史さん:2006/09/14(木) 00:41:44
こんな長いコピペ、誰が読むかよ?

よく考えろよ、低能!
524日本@名無史さん:2006/09/14(木) 01:52:07
>>1
スレ主、日韓同祖と卑弥呼朝鮮あんたのスレか灰陶アキタ!!
525日本@名無史さん:2006/09/14(木) 21:10:51

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060209-00000148-kyodo-ent
526日本@名無史さん:2006/09/14(木) 21:11:30
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった




原始青磁が伝わってない事には一切触れない南京博物院のすっとぼけぶり(嘲笑



527日本@名無史さん:2006/09/14(木) 21:13:38
その当時、ある地域にあったすべての文物が
一様に日本に運ばれるとは限らないのでは?


528日本@名無史さん:2006/09/14(木) 21:13:47
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。
http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
529日本@名無史さん:2006/09/14(木) 21:14:18
>圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、
>砂の入った灰色陶器、上薬のついた陶器、硬質陶器など




BC16Cの華南の出土物さえ日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり(嘲笑)




530日本@名無史さん:2006/09/14(木) 21:26:51
>>527
運ばれていないんじゃなくて「伝わっていない」の。

日常品であるはずの土器や公共の祭祀時に宝器として使われた
青銅器などにおいて中国全土で一般的な三足器形や酒器や文様の
一つさえ一切伝わってないの。

開頭されて脳みそを抜き取られた人間が渡ってきたとしか
考えられないの。
531日本@名無史さん:2006/09/14(木) 21:34:49
渡来人骨が出土し始めるのは弥生時代開始時ではない。

BC10C頃の弥生開始時から300年くらい後のBC7C頃の弥生前期の中頃以降の
弥生遺構から青銅器の出現とともに渡来人骨は出土し始める。

彼らのもたらした青銅器には、同時期の中国青銅器に見られる三足器形や
酒器が一切無く、文様も全く異なり、原始漢字の金文なども一切見られない。

弥生時代開始時に登場する弥生土器も、同時期の中国土器の大部分を占める
灰陶が一切無く、印文と呼ばれる器面に施された幾何学文様のスタンプも
一切見られず、中国全土から普遍的に出土する鬲や鼎などの三足器形も一切無い。

つまり、当時の中国から人類集団が渡ってきたならば必然的に伝わるはずの
物証的な要素が、最も身近な日常品である土器や、武器や、祭祀時の宝器と
して使われた青銅器などに一切伝わっていないのである。
532日本@名無史さん:2006/09/15(金) 21:44:27
BC35C頃に高床式住居、甕棺墓(土器棺墓)が日本に出現するが・・・・・


高床式倉庫群、竪穴式住居群、千五百年の営みを積み重ねて来た遺跡、
建物跡ひとつをとっても同じ場所に何度も建て替えられている。
三内丸山に集落があったのは縄文時代前期半ばから中期末までの一五〇〇年間
も古い前期半ばは紀元前三五〇〇年頃、いまからおよそ五五〇〇年前だ。
http://www.d1.dion.ne.jp/~zpmasasi/sannai.html

青森県内の縄文時代早期から中期後葉の墓を集成し、埋葬方法の種類と
移り変わり、配置についての基礎的な分析を行った。青森県内の埋葬方法は、
早期後半に大半が出そろい、前期中葉に土器棺墓、前期末葉にフラスコ形
土坑が出現して副葬品の量にも差が生まれる。
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/special/koubo_sha.html
533日本@名無史さん:2006/09/15(金) 21:45:42
BC50C頃の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の鋤、黒陶や彩陶、
釜・甑・鉢などの器形が縄文時代に全く伝わっていないっ!


浙江省余姚(よう)県河姆渡遺跡を標準とする新石器時代の文化をいう。主に寧紹平原の
東部地区に分布している。河姆渡遺跡には四つの文化層があり,第1層は良渚文化早期と
類似しており,第2層は馬家浜文化の要素がある。第3・4層は河姆渡文化層で,上の両層
よりも古く,注目すべき出土器物がある。土器は原始的な手づくりの,あらい厚手の不整形で,
低温で焼かれた夾炭黒陶が最も多く,混ぜられた植物の茎葉砕片やもみ殻が焼けて炭化し,
土器を黒色にしている。夾炭黒陶は第4層では最大量を占めるが,第1層に至るほど漸減し,
第1・2層では焼成温度の高い砂混じりの夾砂紅陶・灰陶が優勢となる。第4層の土器の主な
ものに,釜・罐(かん)・鉢・盤・器台がある。釜が四つの層を通して出土し,形態と
装飾が最も多様なところから,釜を南方地区新石器文化の特徴とする見解がある。第3層
出土の甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器で,のちに朝鮮・日本などに伝わり,
東アジアに特徴的な穀物を蒸して食べる調理法を普及させたものである。また紡錘のほか,
濃茶の文様を施した数個の彩陶片も発見されている。遺跡層が地下水面下にあったため,
多くの木器が保存され,耜(し。すき)・碗・盆・かい・杵・矛・紡・紡錘などのほか,
組み合わせ部品用と思われる大小の棒が発見されている。
http://www.tabiken.com/history/doc/D/D276R100.HTM
534日本@名無史さん:2006/09/15(金) 21:46:52
見よ!

BC50C頃の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の鋤、黒陶や彩陶、
釜・甑・鉢などの器形が縄文時代にさーっぱり伝わっていない。



◎河姆渡遺跡

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
http://homepage3.nifty.com/sugar-tr/joumonG.html



535日本@名無史さん:2006/09/15(金) 21:47:36
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


渡来系弥生人は大陸のどこからやって来たのでしょうか。最近の調査により、
水稲耕作の発祥の地ともいわれている中国南部が有力視されています。
黄河下流と長江下流に挟まれた地域の漢代の遺跡から、渡来系弥生人に
よく似た人骨があいついで見つかっています。この時代の中国は、政治的に
動乱の時代であり、いろいろな民族が入り乱れて戦いました。日本にやって
来た渡来民は、このような動乱から逃れてきた人々だったのでしょうか。

http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-14.html
536日本@名無史さん:2006/09/15(金) 21:48:56
朝鮮と山東省の骨だけで中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


「土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、
細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系
「新モンゴロイド」の特徴がありました。
彼らのルーツを求めて朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、
中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の
人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極め
てよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国
だったのです。」

http://sakezo.com/shumi/rekisi/keta1.html
537日本@名無史さん:2006/09/16(土) 16:47:46
北方アジアは一切抜きの偏向調査で作為的に中国・朝鮮に誘致していた
スットボケ遺伝学者(嘲笑)


宝来センセイによると、韓国や中国にはそれぞれドミナントなミトコンドリアDNAがあるのに、
日本本土では、とくにドミナントなものがない。つまり系統的にさまざまな人たちから成り立って
いるのである。また、これまで、大陸から渡来した弥生人によって分断され、北に追いやられたのが
アイヌ、南に追いやられたのが琉球人といわれてきた。しかし、アイヌと琉球は少なくとも1万2000年
以上まえに分岐しており、紀元前3世紀以降に渡来してきた弥生人によって分断されたんではないという。
1万2000年前にそれぞれ日本に住み着いたアイヌと琉球人。そこへ紀元前3世紀以降になって渡来し、
稲作をはじめた中国・朝鮮系の人びと。こうした人たちの子孫がわたしたちなのだ。
それにしても紀元前3世紀以降の大陸からの渡来って、それ、秦の始皇帝のころの、徐福たちじゃない?
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm
538日本@名無史さん:2006/09/16(土) 16:49:09
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋とミトコンドリ屋の
偏向調査のコラボレーション。やはり必ず北方アジアは一切抜き(嘲笑)


一九九四年一月二六日ニュース報道。山口県豊北町の土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアムの松下孝幸館長(形質人類学)らが、
山東省文物考古研究所を訪問。同省の遺跡から出土した前漢時代の古人骨約七十体について、顔の長さ、幅などを計測し、
北部九州や山口県で発掘された渡来系弥生人骨と比較したところ、八割以上で顔の長さ、ほお骨の厚さなど主要な値が一致。
骨から推定した平均身長も渡来系弥生人(男性一六三センチ、女性一五〇センチ)とほぼ一致した。
 一九九六年一〇月一九日、日本人類学会・日本民族学会連合大会発表。東大理学部の植田信太郎助教授(人類学)らは、
約二千年前の中国・山東省臨錙の遺跡から出土した人骨と、同時期の詫田西分遺跡から出土した人骨のDNAを分析し、
遺伝子の配列が特定の部分で同じ人がいることを確認した。
 一九九九年三月一九日ニュース報道。江南人骨日中共同調査団(山口敏・東京国立科学博物館名誉研究員が団長)は、
江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、
歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較。
結果、春秋戦国時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の
人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致した。
539日本@名無史さん:2006/09/17(日) 23:23:42
山東省の弥生時代の出土物はこんな有り様(嘲笑)


◎西周時代の陶器発見 山東省済南市

山東省済南市歴城区孫村鎮盧家寨村でこのほど、西周時代(紀元前11世紀ごろ〜紀元前771年)
のものと見られる陶器が見つかった。現在までに陶製の鬲(れき、古代中国で使われた三足
の器)が約50点出土しており、発掘作業はまだ続いている。専門家の説明によると、この遺跡
が発見され、珍しい西周時代の陶器が大量に出土したことは、西周時代の人々の生活や陶器
製作技術を研究する上で、極めて重要な価値がある。

http://www.china.org.cn/japanese/201551.htm
陶製の鬲(れき、古代中国で使われた三足の器)が約50点出土しており
陶製の鬲(れき、古代中国で使われた三足の器)が約50点出土しており
陶製の鬲(れき、古代中国で使われた三足の器)が約50点出土しており
陶製の鬲(れき、古代中国で使われた三足の器)が約50点出土しており
540日本@名無史さん:2006/09/18(月) 16:41:01
山東省の弥生時代の遺物は弥生遺物でさーっぱり伝わっていないどころか、
まるで宇宙人の創造物のようだ(嘲笑)


◆山東省の弥生時代のさまざまな出土物

銅? 春秋 仙人台遺跡
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww42.htm
銅? 春秋 仙人台遺跡
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww43.htm
銅鼎 春秋 仙人台遺跡
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww51.htm
原始漢字の金文 春秋 仙人台遺跡
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww52.htm
銅鳥座 春秋 仙人台6号墓
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww71.htm
541日本@名無史さん:2006/09/18(月) 22:10:18
お?
コピペ馬鹿の本拠地か?

同一人物のコピペばっかりでできてるスレだなw
見てる奴いるのか?
542日本@名無史さん:2006/09/19(火) 22:24:21
まだまだあるのよ(嘲笑)


龍文銅方壺 春秋 仙人台遺跡
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww81.htm
銅盂 春秋 嘴子前遺跡
http://db.museum.or.jp/im/Search/jsMuseumEventDetail_jp.jsp?event_no=28679



山東省章丘市の漢代の墓から大量の青銅器の鼎やら、編鐘、編磬、
ロ于、鉦、鐸などの青銅器の楽器やらが、もう出土しまくり↓(嘲笑)

http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhuanwen/200107-2.htm

543日本@名無史さん:2006/09/20(水) 16:52:24
江蘇省の弥生時代の出土物はこんな有り様(嘲笑)


◎江蘇省句容市と金壇市にまたがる周代の土トン墓

2005年、南京博物院考古研究所は、江蘇省の句容市と金壇市で、土を盛った墓である
土トン墓群の大規模な発掘を行った。あわせて40の土トン墓を発掘し、233の墓葬と
14の墓葬建築遺跡を整理した。幾何学模様の陶器、原始的な青磁器を主とした、江南
地方の特色がある各種の文物3800件余りが出土した。
http://peopleschina.com/maindoc/html/200605/20zhuanwen62.htm
幾何学模様の陶器、原始的な青磁器を主とした、江南地方の特色がある各種の文物3800件
幾何学模様の陶器、原始的な青磁器を主とした、江南地方の特色がある各種の文物3800件
幾何学模様の陶器、原始的な青磁器を主とした、江南地方の特色がある各種の文物3800件
幾何学模様の陶器、原始的な青磁器を主とした、江南地方の特色がある各種の文物3800件
544日本@名無史さん:2006/09/21(木) 18:09:38
【江蘇】徐州市で周代の器物を修復、2800年前の生活が明らかに

江蘇省徐州市にある周代の遺跡から出土した器物が半年かけて修復され、2800年前の
生活の様子が明らかになった。今回の修復は当時のこの一帯の製陶業や栽培業、建築の
発展状況を知るうえで大きな意義があり、同省での周代の遺物の収蔵・研究の空白を
埋めるものとして注目されている。徐州市賈汪鎮泉東村で去年初めて、完全な形で残る
周代のものとみられる家屋跡を発見。発掘を通して、考古学者は一家族の住まいである
ことを確認した。徐州博物館考古学部の耿軍建主任によると、家屋はほぼ南北2列に並び、
北側には4〜5室、南側には3室あった。部屋の大小や機能はそれぞれ異なり、東側から
陶鬲(とうれき・陶製の鼎に似たもの)などの炊事用具が見つかったことから厨房、
西側では陶罐や陶甕(とうおう・陶製のかめ)など大型の容器が出土したため、貯蔵部屋
だったのではないかと考えられている。部屋は木の柱を骨組みにして草を混ぜた泥で覆った
構造。壁はほぼ長方形になっているが、手で塗ったせいか厚みにばらつきがある。出土した
20点余りの陶鬲や陶甕から、考古学者は西州時代の家屋跡だと推断している。 家屋の前に
ある坑からは、大量のからす貝の殻や食べ残した豚、鹿、犬の骨のほか、鹿の角で作った
鋤、骨を彫った錐や剣、貝殻で作った鎌、泥を焼いた鉢など生産・生活用具が見つかった。
ここから当時、農水牧畜業や狩猟が比較的発達していたことが窺われ、周囲には広大な
森林や沢、草地、農地があり、居住環境はかなり良かったのではと思われる。徐州市博物館
は現在、遺跡から出土し修復された陶鬲や陶罐、鉢など20点余りの器物を展示しており、
大小は様々だが、文様や色彩ははっきりしている。最も完全な姿をみせているのが大型の
陶鬲で、直径42センチ、高さ38センチ。考古学者によると、周代の遺物はもともと数少なく、
とくに江蘇省でこれほど多くの器物が発見されたのは今回が初めてだという。2800年の時
を経て修復された器物に周代の人々の生活風景が想像できる。
http://j.people.com.cn/2003/06/13/jp20030613_29739.html
545日本@名無史さん:2006/09/21(木) 18:10:34
>陶鬲(とうれき・陶製の鼎に似たもの)などの炊事用具が見つかったことから厨房、
>西側では陶罐や陶甕(とうおう・陶製のかめ)など大型の容器が出土したため、




鬲?????罐?????

江蘇省の弥生時代の遺跡からは弥生遺物でさーっぱり見た事がない
摩訶不思議な器種が出るんですねえ(嘲笑)



546日本@名無史さん:2006/09/22(金) 23:34:12
江蘇省の江南の無錫で、戦国時代の土トン墓から、編鐘などの青銅楽器やら、
罐、壇、鼎などの土器やら、原始磁器やら、色んな紋様の印紋硬陶やら、
もう出まくり↓(嘲笑)
http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/www.js.xinhua.org/htm4/2041622.htm

同じく江南の無錫で、春秋戦国時代の土トン墓から、楽器やら、玉器やら、
鼎、罐、盆やら、酒器やら、原始磁器やら、印紋硬陶やら、聞いた事も
ない器物まで、もう、ありとあらゆるものが出まくり↓(嘲笑)
http://www.ccrnews.com.cn/tbscms/module_wb/readnews.asp?articleid=15172
http://www.cuhk.edu.hk/ics/ccaa/talk9.htm

江蘇省の江南の句容と金壇にある西周から春秋戦国時代の土トン墓から、
原始青磁やら、豆、碗、盞、?、罐、鼎などが出まくり↓(嘲笑)
http://www.epochtimes.com/b5/5/12/30/n1171849.htm
547日本@名無史さん:2006/09/23(土) 00:36:19
つか、人類の先祖が豚のわけないじゃんw
548日本@名無史さん:2006/09/23(土) 04:41:31
【中国】中国北部、4千年前の“小麦”伝来がきっかけで農業が発展 中華文明の形成に影響
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1158952870/l50
中国の学者たちは「中華文明のルーツを探るプロジェクト」の第一段階の研究活動で、「西ア
ジアを起源とする小麦が4500年前に中国の中央部地域に伝来したたことは、中国の北部で
根本的な農業革命を引き起こすきっかけとなり、この地域がそれ以後の長い間に中国の政治、
文化ひいては経済の中心となるための確固たる基盤を打ち固めた」という結論を引き出した。

陶寺、新砦、二里頭、王城崗など4ヵ所の遺跡から発掘された数万粒の炭化したさまざまな
種類の植物のタネなど貴重な植物遺物に対する測定や数量化分析を通じて、「紀元前2500
年から紀元前1500年にかけての時期に、この地域の農耕生産はアワを主な農作物としてい
た」ことが明らかになった。つまり、中国北部では伝統的な畑作農業が行われていたというこ
とである。

紀元前2500年から紀元前2000年までの竜山時代に、この地域においてはアワの栽培だけで
なく、イネもは重要な農産物となっている。二里頭時代に、イネの作付け規模や人々の生活に
おける地位はこれまでなく重要なものとなっていた。また、西アジアを起源とする小麦がこの
地域に伝来し、中国の商代(紀元前16世紀−紀元前1066年)の初期の二里崗期において、
イネの地位はいくらか低下し、小麦の作付け規模が急きょ大幅に向上した。この地域の農業
生産における小麦の台頭は、中国北部の畑作農業の作付け制度の根本的な変革を告げる
ものと言える。
549日本@名無史さん:2006/09/23(土) 21:12:11

◎北方アジア抜きの偏向調査で中国に誘致し国民をダマした容疑者リスト



 宝 来 聰 (国立遺伝学研究所助教授、総合研究大学院大学助教授)


 松 下 孝 幸 (土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム館長)


 植 田 信 太 郎 (東大理学部助教授)


 山 口 敏 (東京国立科学博物館名誉研究員)
550日本@名無史さん:2006/09/24(日) 22:18:54
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


渡来系弥生人は大陸のどこからやって来たのでしょうか。最近の調査により、
水稲耕作の発祥の地ともいわれている中国南部が有力視されています。
黄河下流と長江下流に挟まれた地域の漢代の遺跡から、渡来系弥生人に
よく似た人骨があいついで見つかっています。この時代の中国は、政治的に
動乱の時代であり、いろいろな民族が入り乱れて戦いました。日本にやって
来た渡来民は、このような動乱から逃れてきた人々だったのでしょうか。

http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-14.html
551日本@名無史さん:2006/09/24(日) 22:20:49
朝鮮と山東省の骨だけで中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


「土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、
細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系
「新モンゴロイド」の特徴がありました。
彼らのルーツを求めて朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、
中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の
人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極め
てよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国
だったのです。」

http://sakezo.com/shumi/rekisi/keta1.html
552hhirosshima:2006/09/24(日) 23:38:49
veshi mahis magbor memrrigbobro meiboais o sameormob irfmo
553日本@名無史さん:2006/09/25(月) 21:51:42
北方アジアは一切抜きの偏向調査で作為的に中国・朝鮮に誘致していた
スットボケ遺伝学者(嘲笑)


宝来センセイによると、韓国や中国にはそれぞれドミナントなミトコンドリアDNAがあるのに、
日本本土では、とくにドミナントなものがない。つまり系統的にさまざまな人たちから成り立って
いるのである。また、これまで、大陸から渡来した弥生人によって分断され、北に追いやられたのが
アイヌ、南に追いやられたのが琉球人といわれてきた。しかし、アイヌと琉球は少なくとも1万2000年
以上まえに分岐しており、紀元前3世紀以降に渡来してきた弥生人によって分断されたんではないという。
1万2000年前にそれぞれ日本に住み着いたアイヌと琉球人。そこへ紀元前3世紀以降になって渡来し、
稲作をはじめた中国・朝鮮系の人びと。こうした人たちの子孫がわたしたちなのだ。
それにしても紀元前3世紀以降の大陸からの渡来って、それ、秦の始皇帝のころの、徐福たちじゃない?
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm
http://youtube.com/watch?v=iRD3k2j9BeA
554日本@名無史さん:2006/09/25(月) 21:54:57
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋とミトコンドリ屋の
偏向調査のコラボレーション。やはり必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


一九九四年一月二六日ニュース報道。山口県豊北町の土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアムの松下孝幸館長(形質人類学)らが、
山東省文物考古研究所を訪問。同省の遺跡から出土した前漢時代の古人骨約七十体について、顔の長さ、幅などを計測し、
北部九州や山口県で発掘された渡来系弥生人骨と比較したところ、八割以上で顔の長さ、ほお骨の厚さなど主要な値が一致。
骨から推定した平均身長も渡来系弥生人(男性一六三センチ、女性一五〇センチ)とほぼ一致した。
 一九九六年一〇月一九日、日本人類学会・日本民族学会連合大会発表。東大理学部の植田信太郎助教授(人類学)らは、
約二千年前の中国・山東省臨錙の遺跡から出土した人骨と、同時期の詫田西分遺跡から出土した人骨のDNAを分析し、
遺伝子の配列が特定の部分で同じ人がいることを確認した。
 一九九九年三月一九日ニュース報道。江南人骨日中共同調査団(山口敏・東京国立科学博物館名誉研究員が団長)は、
江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、
歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較。
結果、春秋戦国時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の
人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致した。
http://www.asahi-net.or.jp/~CY1N-STU/kodaishi/yayoi.htm
555日本@名無史さん:2006/09/26(火) 18:23:56
山東省の弥生時代の出土物はこんな有り様(嘲笑)


◎西周時代の陶器発見 山東省済南市

山東省済南市歴城区孫村鎮盧家寨村でこのほど、西周時代(紀元前11世紀ごろ〜紀元前771年)
のものと見られる陶器が見つかった。現在までに陶製の鬲(れき、古代中国で使われた三足
の器)が約50点出土しており、発掘作業はまだ続いている。専門家の説明によると、この遺跡
が発見され、珍しい西周時代の陶器が大量に出土したことは、西周時代の人々の生活や陶器
製作技術を研究する上で、極めて重要な価値がある。

http://www.china.org.cn/japanese/201551.htm
陶製の鬲(れき、古代中国で使われた三足の器)が約50点出土しており
陶製の鬲(れき、古代中国で使われた三足の器)が約50点出土しており
陶製の鬲(れき、古代中国で使われた三足の器)が約50点出土しており
陶製の鬲(れき、古代中国で使われた三足の器)が約50点出土しており
556日本@名無史さん:2006/09/27(水) 23:15:51
山東省の弥生時代の遺物は弥生遺物でさーっぱり伝わっていないどころか、
まるで宇宙人の創造物のようだ(嘲笑)


◆山東省の弥生時代のさまざまな出土物

銅? 春秋 仙人台遺跡
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww42.htm
銅? 春秋 仙人台遺跡
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww43.htm
銅鼎 春秋 仙人台遺跡
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww51.htm
原始漢字の金文 春秋 仙人台遺跡
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww52.htm
銅鳥座 春秋 仙人台6号墓
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww71.htm
557日本@名無史さん:2006/09/27(水) 23:17:25
まだまだあるのよ(嘲笑)


龍文銅方壺 春秋 仙人台遺跡
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww81.htm
銅盂 春秋 嘴子前遺跡
http://db.museum.or.jp/im/Search/jsMuseumEventDetail_jp.jsp?event_no=28679



山東省章丘市の漢代の墓から大量の青銅器の鼎やら、編鐘、編磬、
ロ于、鉦、鐸などの青銅器の楽器やらが、もう出土しまくり↓(嘲笑)

http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhuanwen/200107-2.htm
558日本@名無史さん:2006/09/28(木) 18:27:22
江蘇省の弥生時代の出土物はこんな有り様(嘲笑)


◎江蘇省句容市と金壇市にまたがる周代の土トン墓

2005年、南京博物院考古研究所は、江蘇省の句容市と金壇市で、土を盛った墓である
土トン墓群の大規模な発掘を行った。あわせて40の土トン墓を発掘し、233の墓葬と
14の墓葬建築遺跡を整理した。幾何学模様の陶器、原始的な青磁器を主とした、江南
地方の特色がある各種の文物3800件余りが出土した。
http://peopleschina.com/maindoc/html/200605/20zhuanwen62.htm
幾何学模様の陶器、原始的な青磁器を主とした、江南地方の特色がある各種の文物3800件
幾何学模様の陶器、原始的な青磁器を主とした、江南地方の特色がある各種の文物3800件
幾何学模様の陶器、原始的な青磁器を主とした、江南地方の特色がある各種の文物3800件
幾何学模様の陶器、原始的な青磁器を主とした、江南地方の特色がある各種の文物3800件
559日本@名無史さん:2006/09/28(木) 20:51:54
古代日本列島に亀の甲を焼いて出たヒビで吉凶を占う呪術政治が盛んだったが、
古代支那でも漢字の元になったのは同じような占い方法で出たヒビだという。
これって何か関係ありますか?
560日本@名無史さん:2006/09/29(金) 23:09:17
日本がルーツなんじゃない?
561日本@名無史さん:2006/09/30(土) 00:26:23
太占(ふとまに)だろ。

亀卜、つまり亀の甲羅を使うようになったのは古墳時代からだよ。
亀卜は中国系半島人の帰化人秦氏が持ち込んだと言われている。

弥生時代までは鹿などの獣骨を使っていた。
骨占は古代の北方アジアの諸民族の習俗で、「占い」の語源は
ツングース語のトナカイを意味する「Ula」であり、
つまり日本では鹿を意味したと言う。

卑弥呼が骨占である事からも、弥生晩期にはまだ亀卜が無かった
事が分かる。
562日本@名無史さん:2006/09/30(土) 00:31:10
【江蘇】徐州市で周代の器物を修復、2800年前の生活が明らかに

江蘇省徐州市にある周代の遺跡から出土した器物が半年かけて修復され、2800年前の
生活の様子が明らかになった。今回の修復は当時のこの一帯の製陶業や栽培業、建築の
発展状況を知るうえで大きな意義があり、同省での周代の遺物の収蔵・研究の空白を
埋めるものとして注目されている。徐州市賈汪鎮泉東村で去年初めて、完全な形で残る
周代のものとみられる家屋跡を発見。発掘を通して、考古学者は一家族の住まいである
ことを確認した。徐州博物館考古学部の耿軍建主任によると、家屋はほぼ南北2列に並び、
北側には4〜5室、南側には3室あった。部屋の大小や機能はそれぞれ異なり、東側から
陶鬲(とうれき・陶製の鼎に似たもの)などの炊事用具が見つかったことから厨房、
西側では陶罐や陶甕(とうおう・陶製のかめ)など大型の容器が出土したため、貯蔵部屋
だったのではないかと考えられている。部屋は木の柱を骨組みにして草を混ぜた泥で覆った
構造。壁はほぼ長方形になっているが、手で塗ったせいか厚みにばらつきがある。出土した
20点余りの陶鬲や陶甕から、考古学者は西州時代の家屋跡だと推断している。 家屋の前に
ある坑からは、大量のからす貝の殻や食べ残した豚、鹿、犬の骨のほか、鹿の角で作った
鋤、骨を彫った錐や剣、貝殻で作った鎌、泥を焼いた鉢など生産・生活用具が見つかった。
ここから当時、農水牧畜業や狩猟が比較的発達していたことが窺われ、周囲には広大な
森林や沢、草地、農地があり、居住環境はかなり良かったのではと思われる。徐州市博物館
は現在、遺跡から出土し修復された陶鬲や陶罐、鉢など20点余りの器物を展示しており、
大小は様々だが、文様や色彩ははっきりしている。最も完全な姿をみせているのが大型の
陶鬲で、直径42センチ、高さ38センチ。考古学者によると、周代の遺物はもともと数少なく、
とくに江蘇省でこれほど多くの器物が発見されたのは今回が初めてだという。2800年の時
を経て修復された器物に周代の人々の生活風景が想像できる。
http://j.people.com.cn/2003/06/13/jp20030613_29739.html
563日本@名無史さん:2006/09/30(土) 00:31:48
>陶鬲(とうれき・陶製の鼎に似たもの)などの炊事用具が見つかったことから厨房、
>西側では陶罐や陶甕(とうおう・陶製のかめ)など大型の容器が出土したため、




鬲?????罐?????

江蘇省の弥生時代の遺跡からは弥生遺物でさーっぱり見た事がない
摩訶不思議な器種が出るんですねえ(嘲笑)



564日本@名無史さん:2006/09/30(土) 18:07:01
江蘇省の江南の無錫で、戦国時代の土トン墓から、編鐘などの青銅楽器やら、
罐、壇、鼎などの土器やら、原始磁器やら、色んな紋様の印紋硬陶やら、
もう出まくり↓(嘲笑)
http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/www.js.xinhua.org/htm4/2041622.htm

同じく江南の無錫で、春秋戦国時代の土トン墓から、楽器やら、玉器やら、
鼎、罐、盆やら、酒器やら、原始磁器やら、印紋硬陶やら、聞いた事も
ない器物まで、もう、ありとあらゆるものが出まくり↓(嘲笑)
http://www.ccrnews.com.cn/tbscms/module_wb/readnews.asp?articleid=15172
http://www.cuhk.edu.hk/ics/ccaa/talk9.htm

江蘇省の江南の句容と金壇にある西周から春秋戦国時代の土トン墓から、
原始青磁やら、豆、碗、盞、?、罐、鼎などが出まくり↓(嘲笑)
http://www.epochtimes.com/b5/5/12/30/n1171849.htm
565日本@名無史さん:2006/10/01(日) 21:17:33

◎北方アジア抜きの偏向調査で中国に誘致し国民をダマした容疑者リスト



 宝 来 聰 (国立遺伝学研究所助教授、総合研究大学院大学助教授)


 松 下 孝 幸 (土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム館長)


 植 田 信 太 郎 (東大理学部助教授)


 山 口 敏 (東京国立科学博物館名誉研究員)
566日本@名無史さん:2006/11/02(木) 18:03:26
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


渡来系弥生人は大陸のどこからやって来たのでしょうか。最近の調査により、
水稲耕作の発祥の地ともいわれている中国南部が有力視されています。
黄河下流と長江下流に挟まれた地域の漢代の遺跡から、渡来系弥生人に
よく似た人骨があいついで見つかっています。この時代の中国は、政治的に
動乱の時代であり、いろいろな民族が入り乱れて戦いました。日本にやって
来た渡来民は、このような動乱から逃れてきた人々だったのでしょうか。

http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-14.html
567日本@名無史さん:2006/11/02(木) 18:04:29
朝鮮と山東省の骨だけで中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


「土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、
細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系
「新モンゴロイド」の特徴がありました。
彼らのルーツを求めて朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、
中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の
人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極め
てよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国
だったのです。」

http://sakezo.com/shumi/rekisi/keta1.html
568日本@名無史さん:2006/11/02(木) 18:10:53
朝鮮と山東省の骨だけで中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


「土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、
細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系
「新モンゴロイド」の特徴がありました。
彼らのルーツを求めて朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、
中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の
人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極め
てよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国
だったのです。」

http://sakezo.com/shumi/rekisi/keta1.html
569日本@名無史さん:2006/11/04(土) 19:28:42
北方アジアは一切抜きの偏向調査で作為的に中国・朝鮮に誘致していた
スットボケ遺伝学者(嘲笑)


宝来センセイによると、韓国や中国にはそれぞれドミナントなミトコンドリアDNAがあるのに、
日本本土では、とくにドミナントなものがない。つまり系統的にさまざまな人たちから成り立って
いるのである。また、これまで、大陸から渡来した弥生人によって分断され、北に追いやられたのが
アイヌ、南に追いやられたのが琉球人といわれてきた。しかし、アイヌと琉球は少なくとも1万2000年
以上まえに分岐しており、紀元前3世紀以降に渡来してきた弥生人によって分断されたんではないという。
1万2000年前にそれぞれ日本に住み着いたアイヌと琉球人。そこへ紀元前3世紀以降になって渡来し、
稲作をはじめた中国・朝鮮系の人びと。こうした人たちの子孫がわたしたちなのだ。
それにしても紀元前3世紀以降の大陸からの渡来って、それ、秦の始皇帝のころの、徐福たちじゃない?
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm
http://youtube.com/watch?v=iRD3k2j9BeA
570日本@名無史さん:2006/11/04(土) 19:29:29
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋とミトコンドリ屋の
偏向調査のコラボレーション。やはり必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


一九九四年一月二六日ニュース報道。山口県豊北町の土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアムの松下孝幸館長(形質人類学)らが、
山東省文物考古研究所を訪問。同省の遺跡から出土した前漢時代の古人骨約七十体について、顔の長さ、幅などを計測し、
北部九州や山口県で発掘された渡来系弥生人骨と比較したところ、八割以上で顔の長さ、ほお骨の厚さなど主要な値が一致。
骨から推定した平均身長も渡来系弥生人(男性一六三センチ、女性一五〇センチ)とほぼ一致した。
 一九九六年一〇月一九日、日本人類学会・日本民族学会連合大会発表。東大理学部の植田信太郎助教授(人類学)らは、
約二千年前の中国・山東省臨錙の遺跡から出土した人骨と、同時期の詫田西分遺跡から出土した人骨のDNAを分析し、
遺伝子の配列が特定の部分で同じ人がいることを確認した。
 一九九九年三月一九日ニュース報道。江南人骨日中共同調査団(山口敏・東京国立科学博物館名誉研究員が団長)は、
江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、
歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較。
結果、春秋戦国時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の
人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致した。
http://www.asahi-net.or.jp/~CY1N-STU/kodaishi/yayoi.htm
571:日本@名無史さん :2006/11/04(土) 19:33:27
>>570
山口県ってとこがミソだよな。在日の宝庫じゃんw
416 :世界@名無史さん :2006/10/13(金) 22:25:35 0
■弥生人中国説にダマされる前に読むスレ■
1 :日本@名無史さん :2006/07/09(日) 16:36:31
江南説にしろ華北説にしろ、弥生人が本当に中国から来たのなら、

何で印文陶や灰釉陶を含めた中国灰陶の技術が全く伝わっていないのかね?

何で中国青銅器に見られる篆書などの原始漢字の金文が一字も
伝わっていないのかね?

何で中国青銅器に見られる饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文などの
文様の一つさえ伝わっていないのかね?

何で中国土器や中国青銅器を代表する鼎や鬲などの三足器形さえ
伝わっていないのかね?

何で酒器も玉器も龍信仰も亀卜も全く伝わっていないのかね?

渡海すると記憶喪失になって故郷の文化は全て忘れてしまうのかね?

何で弥生文化は朝鮮無文土器が影響した弥生土器と遼寧式(満州式)青銅器と
支石墓文化なのかね?

これらは当時の満州から朝鮮にかけての文化ですよ。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1152430591
573日本@名無史さん:2006/11/05(日) 17:13:16
山東省の弥生時代の出土物はこんな有り様(嘲笑)


◎西周時代の陶器発見 山東省済南市

山東省済南市歴城区孫村鎮盧家寨村でこのほど、西周時代(紀元前11世紀ごろ〜紀元前771年)
のものと見られる陶器が見つかった。現在までに陶製の鬲(れき、古代中国で使われた三足
の器)が約50点出土しており、発掘作業はまだ続いている。専門家の説明によると、この遺跡
が発見され、珍しい西周時代の陶器が大量に出土したことは、西周時代の人々の生活や陶器
製作技術を研究する上で、極めて重要な価値がある。

http://www.china.org.cn/japanese/201551.htm
陶製の鬲(れき、古代中国で使われた三足の器)が約50点出土しており
陶製の鬲(れき、古代中国で使われた三足の器)が約50点出土しており
陶製の鬲(れき、古代中国で使われた三足の器)が約50点出土しており
陶製の鬲(れき、古代中国で使われた三足の器)が約50点出土しており
574日本@名無史さん:2006/11/05(日) 17:14:05
山東省の弥生時代の遺物は弥生遺物でさーっぱり伝わっていないどころか、
まるで宇宙人の創造物のようだ(嘲笑)


◆山東省の弥生時代のさまざまな出土物

銅? 春秋 仙人台遺跡
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww42.htm
銅? 春秋 仙人台遺跡
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww43.htm
銅鼎 春秋 仙人台遺跡
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww51.htm
原始漢字の金文 春秋 仙人台遺跡
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww52.htm
銅鳥座 春秋 仙人台6号墓
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww71.htm
575日本@名無史さん:2006/11/05(日) 17:15:18
まだまだあるのよ(嘲笑)


龍文銅方壺 春秋 仙人台遺跡
http://www.sdu.edu.cn/csdu/ww81.htm
銅盂 春秋 嘴子前遺跡
http://db.museum.or.jp/im/Search/jsMuseumEventDetail_jp.jsp?event_no=28679



山東省章丘市の漢代の墓から大量の青銅器の鼎やら、編鐘、編磬、
ロ于、鉦、鐸などの青銅器の楽器やらが、もう出土しまくり↓(嘲笑)

http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhuanwen/200107-2.htm
576日本@名無史さん:2006/11/06(月) 14:04:15
江蘇省の弥生時代の出土物はこんな有り様(嘲笑)


◎江蘇省句容市と金壇市にまたがる周代の土トン墓

2005年、南京博物院考古研究所は、江蘇省の句容市と金壇市で、土を盛った墓である
土トン墓群の大規模な発掘を行った。あわせて40の土トン墓を発掘し、233の墓葬と
14の墓葬建築遺跡を整理した。幾何学模様の陶器、原始的な青磁器を主とした、江南
地方の特色がある各種の文物3800件余りが出土した。
http://peopleschina.com/maindoc/html/200605/20zhuanwen62.htm
幾何学模様の陶器、原始的な青磁器を主とした、江南地方の特色がある各種の文物3800件
幾何学模様の陶器、原始的な青磁器を主とした、江南地方の特色がある各種の文物3800件
幾何学模様の陶器、原始的な青磁器を主とした、江南地方の特色がある各種の文物3800件
幾何学模様の陶器、原始的な青磁器を主とした、江南地方の特色がある各種の文物3800件
577日本@名無史さん:2006/11/06(月) 14:04:57
【江蘇】徐州市で周代の器物を修復、2800年前の生活が明らかに

江蘇省徐州市にある周代の遺跡から出土した器物が半年かけて修復され、2800年前の
生活の様子が明らかになった。今回の修復は当時のこの一帯の製陶業や栽培業、建築の
発展状況を知るうえで大きな意義があり、同省での周代の遺物の収蔵・研究の空白を
埋めるものとして注目されている。徐州市賈汪鎮泉東村で去年初めて、完全な形で残る
周代のものとみられる家屋跡を発見。発掘を通して、考古学者は一家族の住まいである
ことを確認した。徐州博物館考古学部の耿軍建主任によると、家屋はほぼ南北2列に並び、
北側には4〜5室、南側には3室あった。部屋の大小や機能はそれぞれ異なり、東側から
陶鬲(とうれき・陶製の鼎に似たもの)などの炊事用具が見つかったことから厨房、
西側では陶罐や陶甕(とうおう・陶製のかめ)など大型の容器が出土したため、貯蔵部屋
だったのではないかと考えられている。部屋は木の柱を骨組みにして草を混ぜた泥で覆った
構造。壁はほぼ長方形になっているが、手で塗ったせいか厚みにばらつきがある。出土した
20点余りの陶鬲や陶甕から、考古学者は西州時代の家屋跡だと推断している。 家屋の前に
ある坑からは、大量のからす貝の殻や食べ残した豚、鹿、犬の骨のほか、鹿の角で作った
鋤、骨を彫った錐や剣、貝殻で作った鎌、泥を焼いた鉢など生産・生活用具が見つかった。
ここから当時、農水牧畜業や狩猟が比較的発達していたことが窺われ、周囲には広大な
森林や沢、草地、農地があり、居住環境はかなり良かったのではと思われる。徐州市博物館
は現在、遺跡から出土し修復された陶鬲や陶罐、鉢など20点余りの器物を展示しており、
大小は様々だが、文様や色彩ははっきりしている。最も完全な姿をみせているのが大型の
陶鬲で、直径42センチ、高さ38センチ。考古学者によると、周代の遺物はもともと数少なく、
とくに江蘇省でこれほど多くの器物が発見されたのは今回が初めてだという。2800年の時
を経て修復された器物に周代の人々の生活風景が想像できる。
http://j.people.com.cn/2003/06/13/jp20030613_29739.html
578日本@名無史さん:2006/11/06(月) 14:05:32
>陶鬲(とうれき・陶製の鼎に似たもの)などの炊事用具が見つかったことから厨房、
>西側では陶罐や陶甕(とうおう・陶製のかめ)など大型の容器が出土したため、




鬲?????罐?????

江蘇省の弥生時代の遺跡からは弥生遺物でさーっぱり見た事がない
摩訶不思議な器種が出るんですねえ(嘲笑)




579日本@名無史さん:2006/11/06(月) 15:18:24
>>1

>弥生人が本当に中国から来たのなら

つ〜か、稲作文化と一緒にジワジワと日本に入って来たんだろ?
日本が数十年の間で一気に米主食(主食ではないが)と変化した訳ではない。
まあ、その米と一緒に文化・生活形態・軍略的な事等々を伝播したのだから
その間に日本的な慣習文化に併合されている面も多々あるだろし・・
私は弥生時代の始まりをまだ古くしても(2〜500年ほど)しても良いと
思っているけど・・・
580日本@名無史さん:2006/11/06(月) 15:50:08
弥生開始時から弥生晩期まで、当時の中国の食文化に関する重要な器物が
一切伝わってませんし、稲作や食文化に関する中国系の言葉さえも一切
伝わっておりませんよ。

渡来人は中国系なんかではありません。

残念でした(嘲笑)
581日本@名無史さん:2006/11/06(月) 23:25:48
三っ目人が日本人の先祖。
582日本@名無史さん:2006/11/08(水) 16:01:34
江蘇省の江南の無錫で、戦国時代の土トン墓から、編鐘などの青銅楽器やら、
罐、壇、鼎などの土器やら、原始磁器やら、色んな紋様の印紋硬陶やら、
もう出まくり↓(嘲笑)
http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/www.js.xinhua.org/htm4/2041622.htm

同じく江南の無錫で、春秋戦国時代の土トン墓から、楽器やら、玉器やら、
鼎、罐、盆やら、酒器やら、原始磁器やら、印紋硬陶やら、聞いた事も
ない器物まで、もう、ありとあらゆるものが出まくり↓(嘲笑)
http://www.cuhk.edu.hk/ics/ccaa/talk9.htm
http://www.ccrnews.com.cn/tbscms/module_wb/readnews.asp?articleid=15172
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江蘇省の江南の句容と金壇にある西周から春秋戦国時代の土トン墓から、
原始青磁やら、豆、碗、盞、?、罐、鼎などが出まくり↓(嘲笑)
http://www.epochtimes.com/b5/5/12/30/n1171849.htm
583日本@名無史さん:2006/11/09(木) 20:04:40

◎北方アジア抜きの偏向調査で中国に誘致し国民をダマした容疑者リスト



 宝 来 聰 (国立遺伝学研究所助教授、総合研究大学院大学助教授)


 松 下 孝 幸 (土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム館長)


 植 田 信 太 郎 (東大理学部助教授)


 山 口 敏 (東京国立科学博物館名誉研究員)
584日本@名無史さん:2006/11/17(金) 17:30:20






★☆★☆★☆★☆★☆ 長 江 ・ 江 南 特 集 ★☆★☆★☆★☆★☆




585日本@名無史さん:2006/11/17(金) 17:31:20
長江流域では約5300年前には既に灰陶時代に、約3400年前には施釉陶時代に入る。


良渚(りょうしょ)文化【浙江省】(紀元前3300?〜紀元前2200?)
1936年、浙江省余杭市良渚鎮で400近い遺跡が発見されました。
馬家浜文化を継承して発展し、高水準の玉器が特色です。
絹織や麻織、竹編物、ろくろによる黒陶・灰陶製造が行われていました。
http://www.allchinainfo.com/history/period/changjiang.html


◎呉城文化

江西省樟樹市呉城鎮。紀元前1400年?〜紀元前1000年?黄河文明とは異質な
青銅器を特徴とし、原始的な磁器なども出土している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B1%9F%E6%96%87%E6%98%8E
586日本@名無史さん:2006/11/17(金) 17:32:21
●灰陶(かいとう)

中国、殷代以前に始まる陶質土器。焼成の最終段階で、空気をあまり送らず
窯の中を還元状態にするため灰青色を呈する。殷・周代を中心に漢・唐の
頃まで日常の容器として広く使われた。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/195.html

かい‐とう【灰陶】
中国、新石器時代から殷(いん)代に盛行した灰青色の土器。多くは表面に
櫛目文(くしめもん)や縄蓆文(じょうせきもん)をもつ。日常の容器として
唐・宋のころまで使用された。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?stype=2&dtype=2&p=%B3%A5%C6%AB
587日本@名無史さん:2006/11/17(金) 17:33:33
●原始磁器 げんしじき アジア 中華人民共和国 AD

中国古代の釉(うわぐすり)をかけた硬陶。
http://mobile.goo.ne.jp/search.jsp?MT=%BC%A7%B4%EF&FM=keyword


●灰釉陶 (原始磁器、原始青磁)

紀元前1600年に印文硬陶の流れの中で、1200度以上の高音焼成と上薬を
使用した陶器が発生する。その上薬(釉)が、灰・カオリナイト
(カオリナイトを含む白色化粧粘土)・石灰などを調合した灰釉である。
表面は灰色から灰緑色を呈する焼物である。日本ではまだ縄文文化の
解体も始まってはいない。
http://www4.ocn.ne.jp/~napland/yakimono/chire.html
588日本@名無史さん:2006/11/18(土) 19:40:54
長江流域では約6000年前に既に印文土器(印文陶)が登場している。


◎大渓文化( B.C.3990±260年〜B.C.3380±145年)

主要な文様には印文・水平周回文・篦描き文・貼付文・透し彫・彩絵があり、
縄文は見あたりません。このうち、印文は大渓文化の最も特徴的な文様で、
円形・半円形・三日月形・三角形・長方形・方形・工字形などの各種様式の
「小型スタンプ」を器表に深々と押印しています。
http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/kaisetu/14-1taikei.htm

●印文土器

中国南東部で新石器時代から漢代に使われた土器。
幾何学文様のあるスタンプを打った灰色の壺などで、軟陶と硬陶の別がある。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/75.html
589日本@名無史さん:2006/11/18(土) 19:41:45
雷文・方格文・条痕文・S字文などの型押の幾何学文様(印文)が
全く伝わっていないっ!


「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
590日本@名無史さん:2006/11/18(土) 19:42:22
見よ!

灰陶・原始磁器が伝わっていないだけではない。
印文土器の型押の幾何学文様(印文)の一つさえも伝わっていないっ!



印文土器(印紋土器、印文陶、印紋陶、幾何印紋陶)
http://www.dnes.mlc.edu.tw/~lisa/vessel.jpg
http://www.gg-art.com/c/c22c04vc.jpg
http://individual.utoronto.ca/timzhao/tea/teapot/pic/054.jpg
http://www.yhwt.com/upfiles/2004717175633.jpg


591日本@名無史さん:2006/11/19(日) 16:39:00
●三足土器(さんそくどき)

三本の足をもつ土器。各地の先史・原史時代の遺跡から出土。
特に、中国の竜山文化時代に盛行した鬲(れき)・鼎(てい)など。
後に青銅器製となる。

http://makurada.com/modules/pukiwiki/341.html
592日本@名無史さん:2006/11/19(日) 16:39:59
長江流域では約6000年前に三足土器の鼎が登場し、漢代まで代表的な器形であった。


2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。

 これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域
で形や種類、技法、文様などがかなり異なります。 また、農業の発達によって土器
づくりの技術も発達し、約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な
土器の一つとなりました。土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連
したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.ht
593日本@名無史さん:2006/11/19(日) 16:41:32
594日本@名無史さん:2006/11/20(月) 16:36:55
>>593長江流域の代表的な器形である鼎などの三足土器さえ伝わっていないっ!

土器を作る職人もごまんといる。
でも三足土器を作る職人や技術が来ていなければそれは当然ないわな。

「何が無いか」ではなく「何があるか」で判断すべき。
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/p_nihonsi/episodo/001_050/epi007_02.htm
銅鐸の原型は確かに中国から伝わってきている。
595日本@名無史さん:2006/11/20(月) 18:32:59
↑説得力ゼロ(嘲笑)

正解:


海を越えても器形くらい覚えているし、注文できる。

596日本@名無史さん:2006/11/20(月) 18:34:17
●中国青銅器について
----------------------------------------------------------------------------
古代中国では紀元前21世紀頃から青銅器文明は存在し、その後鉄器と入れ替わる戦国まで
の数百年間に渡って、それぞれの時代背景を基に形・文様・銘文に特色を残していきました。
中国青銅器は他を圧倒するほど強くその存在を示し、祭器・礼器としての役割を十分に果たして
いたと容易に想像させられます。プリミティブな造形と繊細なまでの技巧がうまく調和し、
数千年もの歳月を経て、人間がつくった最高の美術品として確立していきまいした。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html
597日本@名無史さん:2006/11/20(月) 18:35:08
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形がさーっぱり伝わっていない。
長江流域の代表的な器形である鼎などの三足器形さえも伝わっていない。



◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html



598日本@名無史さん:2006/11/20(月) 18:36:05
●越式鼎


江南名物「越式鼎」(エツシキテイ)。中原の漢式鼎よりも足が長い。
陶製と青銅製がある。



越式鼎
http://www.npm.gov.tw/english/exhbition/han9909/handynisty/live/pictures/art16.gif
http://images.search.yahoo.co.jp/bin/query?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=UTF-8&search_x=1



599日本@名無史さん:2006/11/20(月) 22:33:36
>>594
人の先祖が豚なわけ無いじゃんw
600日本@名無史さん:2006/11/21(火) 17:56:39
●中国青銅器の文様


饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html
601日本@名無史さん:2006/11/21(火) 17:57:26
602日本@名無史さん:2006/11/21(火) 23:21:15
最後までコピペで埋めるのか?
603日本@名無史さん:2006/11/22(水) 19:52:34
●金文

金文(きんぶん)とは青銅器の表面に鋳込まれた、あるいは刻まれた文字の
こと(「金」はこの場合青銅の意味)。中国の殷・周のものが有名。年代的
には甲骨文字の後にあたる。殷は青銅器文化が非常に発達した時代であり、
この文字を器の表面に鋳込む技術は門外不出となっていた。

金文は『史記』のような後世になって書かれた資料とは違い、完全な同時代
資料であるためこの時代を研究する上で非常に貴重な資料となっている。
しかし殷代の青銅器は古美術としてもきわめて高い価値があるため収集家など
がこれを所持することで一貫した研究が出来ないと言うことも起きている。

なお石などに刻まれた文章は石文と呼ばれ、一緒にして金石文と呼ばれる。
またこれらの研究者は金石家と呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%96%87
604日本@名無史さん:2006/11/22(水) 19:54:30
●鳥書

春秋時代の中期から後期にかけて、東方列国の金文には地方色が強く
あらわれてくる。特に注目すべきのは、南方の越、楚などの地方の
主として武器において、非常に装飾的な文字を扱ったものが現れる。
この地域で用いられた書体には、筆画が非常に複雑で、曲線が多い
もので、各文字のところどころに鳥の頭を図案化したような形がある
から、このような書体は「鳥書」(ちょうしょ)、あるいは「鳥篆」
と呼ぶ。
http://yupeihsu.at.infoseek.co.jp/syouten/kinbun.html
605日本@名無史さん:2006/11/22(水) 19:56:58
606日本@名無史さん:2006/11/22(水) 21:06:17
>>594 「何が無いか」と「何があるか」の両面で判断すべき。
鵜飼の風習は、中国南方との共通性がある。朝鮮にはない。
言語的には、語彙は南方系、文法・音韻はウラルアルタイ(北方)。

確かに>>1さんの言う、中国起源の否定は基本的に正しいと思うけど、
じゃあ、それでどういう結論になるの?とは思う。

あと、コピベは止めて、自分で考えたことだけを書き足した方がいい。
607日本@名無史さん:2006/11/23(木) 03:19:24
弥生人は大陸から渡ってきた人々からレイプされて生まれた可哀想な子供たちである。
608日本@名無史さん:2006/11/23(木) 16:17:16
●古代中国の楽器


秦の統一以前の頃の楽器は史料に記載されているものが約70種もある。
『詩経』だけでも29種にふれており、打楽器には太鼓、鐘、鉦(しょう、
古代銅製の打楽器で、行軍の際に打ち鳴らしたもの)、磬(けい、銅製の
椀形の仏具と楽器)、缶(ふ、甕のようなもの)、鈴など21種があり、
吹奏楽器には簫(しょう、タテにして吹く長い笛)、管(さまざまな管楽器の
こと)、塤(けん、土笛)、笙(しょう、いろいろな長さの十数本の竹の管で
作った吹奏楽器)など6種があり、弦楽器には琴、瑟(しつ)など2種のものが
あった。楽器の品種が多く増えたため、周(約前11世紀−前256年)の
時期には楽器を作る素材によって、金属、石、土、皮革、弦、木、匏
(ほう、瓢たんの実)、竹という8種類に分けられ、「8音」分類法と称された。
http://www.china.org.cn/japanese/144930.htm
609日本@名無史さん:2006/11/23(木) 16:19:45
●骨哨

河姆渡住処から160個骨哨が出土されて,今まで7000年の歴史があります。こんな骨笛は鳥類の
骨で作られ,骨管に1−3個の孔を磨き突いたから,鳥が鳴るような曲調を吹く事ができます。
同時の原始人は木下に隠れて,網を設置してから骨笛を吹くと,鳥らはこの音響を聞いてここへ
飛んでくるんです。これは道具でもあるし,簡単な楽器でもありますから,今までも一部分の
中国少数民族の狩り道具になっています。こんな原始道具はやはり今の竹笛になりました。
http://www.topqd.com/wj/chinayqs.htm

●磬

磬(けい)とは、中国で最も古い楽器である。石製の打楽器である。サヌカイトを叩くと金属音が
する。この石の長さ・厚みを変えて音階を奏でることができる。これを楽器として仕立てたのが
「磬」である。これを単独で使用することは希で、通常は音階順に8個、あるいはそれを2段並べて
16個台に懸けた「編磬」として用いたようである。殷代から楽器として使用されている。
http://www.page.sannet.ne.jp/to-okamo/guwanmi/kosen/kosen.htm
610日本@名無史さん:2006/11/23(木) 16:23:07
見よ!

古代中国のさまざまな楽器がさーっぱり伝わっていないっ!
7000年前の河姆渡遺跡からある簫(タテ笛)の原型である骨哨さえ伝わっていない。


上から順に、簫、磬(編磬)、鐘(編鐘)、鐃、ロ于、鉦
http://www.szzwch.com/IMAGES/xiao.JPG
http://storage.kanshin.com/free/img_28/284331/k741978051.jpg
http://www.toray.co.jp/event/music/images/mus_b045.jpg
http://www.miho.or.jp/booth/html/imgbig/00001190.htm
http://big5.huaxia.com/wh/whgb/wwdg/images/1639_0.jpg
http://www.kepco.co.jp/ICSFiles/artimage/2004/06/08/c_kpc891/kane_1.jpg

7000年前の河姆渡遺跡の骨哨
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_24_15.jpg
611日本@名無史さん:2006/11/24(金) 13:45:13
●越族 えつぞく

中国の長江中下流以南に広く分布していた民族。粤(えつ)とも書かれる。地域によって,於越(于越),
甌越(越東海,東甌),ビンエツ※注1※(東越),揚越,山越,南越,西甌(甌),駱越(駱)などが
あり,総称して百越(百粤)と呼ばれた。於越は春秋戦国時代に浙江省北半部を本拠に越という国を
建てた。甌越は浙江省南部の甌江流域により,ビンエツ※注1※は福建省ビンコウ※注2※流域を中心
とした。揚越は揚州にいた越で,西甌,駱越は広西壮族自治区,あるいは北ヴェトナムにまでひろがって
いたとみられている。秦代末期の混乱に乗じて,趙佗(ちょうた)が番禺(ばんぐう,広東省広州市)を
都に南越(南粤)国を建て,5代97年のあいだつづいたが,漢の武帝の前111年(元鼎6),漢に滅ぼされた。
越族の習俗については,入墨・断髪などが知られ,文化については,新石器時代から春秋戦国時代まで
盛んにつくられた幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている。
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C080C100.HTM
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
612日本@名無史さん:2006/11/24(金) 13:45:54
鉦は主に湖南省、江蘇省、浙江省などの長江流域一帯で出土し、
江南の百越(越族)の間で甚だ流行したそうですよ。


鉦 打?樂器,形體似鐃,但比鐃高大和厚重,主要出土於湖南、江、浙一帶。
?都是春秋時代的樂器,在南方百越諸地則甚流行。
http://www.hawh.cn:82/gate/big5/www.hawh.cn/html/20060420/256406.html


日本の弥生遺構で印紋土器、越式鼎、鉦なんて出土しましたっけ?(嘲笑)

●印文土器
http://www.gg-art.com/c/c22c04vc.jpg
●越式鼎
http://www.npm.gov.tw/english/exhbition/han9909/handynisty/live/pictures/art16.gif
●鉦
http://www.kepco.co.jp/ICSFiles/artimage/2004/06/08/c_kpc891/kane_1.jpg
613日本@名無史さん:2006/11/25(土) 18:10:15
弥生時代開始頃の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


呉城文化 B1400?〜B1000?

 江西地方の文化はB3000年〜B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万uで、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。
http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
614日本@名無史さん:2006/11/25(土) 18:12:31
>豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土
>符号を刻した土器や鋳型も発見
>青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、商文化を凌ぐ鋳造技術




印文陶????釉陶????原始磁器????鼎????尊????

弥生時代開始時の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡で
出土しない摩訶不思議なものばーっかり(嘲笑)



615日本@名無史さん:2006/11/26(日) 20:05:14
弥生時代開始頃の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


▲ 新干大洋洲商墓

1989年出土の、呉城文化第二期の大規模な墓。華北文化では商代後期にあたる。
両面神人頭像や大鐃に代表される多数の青銅器や玉器を含む2000点近い副葬品が出土。
青銅品486点のうち武器類は252点に達し、また礼器49点の殆どが実生活での使用痕を
遺し、ゲンと呼ばれる甑や一号方鼎など同時代最大級のものが含まれる。また造形美の
点では絶品とすら評される伏鳥双尾虎や、従来西周時代に鐘が変化して出現したとされ
てきた楽器の[金專]の出土など、独特の造形や装飾によって、青銅器文化時代における
江西省の独自性と重要性が再認識された。出土した青銅器は商式・融合式・土着式・
先周式に大別され、当時の中原のみならず渭水流域とも交流があったことを窺わせる。
また玉器の加工水準は石家河文化や良渚文化に比肩する。近年、近郊で多数の商代の
遺物を伴う61万uに達する都城址が発見され、王都址の可能性が期待されている。
http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
616日本@名無史さん:2006/11/26(日) 20:08:43
>両面神人頭像や大鐃に代表される多数の青銅器や玉器
>ゲンと呼ばれる甑や一号方鼎など同時代最大級
>伏鳥双尾虎や、従来西周時代に鐘が変化して出現したとされてきた
>楽器の[金專]



両面神人頭像?????鐃?????玉器?????ゲン?????鼎?????
伏鳥双尾虎?????[金專]?????


弥生時代開始頃の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡から出土しない
摩訶不思議なものばかり出土するんですねえ(嘲笑)


617日本@名無史さん:2006/11/27(月) 15:39:38
周代の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


江蘇句容・金壇周代土トン(土+敦)(盛り土、小山)墓群:考古学者たちは、
土トン墓の埋蔵の特色に合わせ、一層ずつ剥がしていく整理方法を採用し、
青銅器時代の江南の土トン墓造営の全過程を明らかにした。計40の土トンを
発掘し、233基の墓、229組の祭祀器物群、14カ所の墓葬建築遺物を整理、
幾何印紋陶(幾何学模様を施した陶器)、原始青磁器を中心に、江南地方の
特色をもつ各種文物3800点余りが出土した。
http://www.china-news.co.jp/culture/2006/05/cul06051302.htm

618日本@名無史さん:2006/11/27(月) 15:41:26
>幾何印紋陶(幾何学模様を施した陶器)、原始青磁器を中心



印紋陶?????原始青磁?????

弥生時代開始頃の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡から出土しない
摩訶不思議なものばかり出土するんですねえ(嘲笑)


619日本@名無史さん:2006/11/28(火) 15:55:55
●河姆渡文化 かぼとぶんか

浙江省余姚(よう)県河姆渡遺跡を標準とする新石器時代の文化をいう。主に寧紹平原の
東部地区に分布している。河姆渡遺跡には四つの文化層があり,第1層は良渚文化早期と
類似しており,第2層は馬家浜文化の要素がある。第3・4層は河姆渡文化層で,上の両層
よりも古く,注目すべき出土器物がある。土器は原始的な手づくりの,あらい厚手の不整形で,
低温で焼かれた夾炭黒陶が最も多く,混ぜられた植物の茎葉砕片やもみ殻が焼けて炭化し,
土器を黒色にしている。夾炭黒陶は第4層では最大量を占めるが,第1層に至るほど漸減し,
第1・2層では焼成温度の高い砂混じりの夾砂紅陶・灰陶が優勢となる。第4層の土器の主な
ものに,釜・罐(かん)・鉢・盤・器台がある。釜が四つの層を通して出土し,形態と
装飾が最も多様なところから,釜を南方地区新石器文化の特徴とする見解がある。第3層
出土の甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器で,のちに朝鮮・日本などに伝わり,
東アジアに特徴的な穀物を蒸して食べる調理法を普及させたものである。また紡錘のほか,
濃茶の文様を施した数個の彩陶片も発見されている。遺跡層が地下水面下にあったため,
多くの木器が保存され,耜(し。すき)・碗・盆・かい・杵・矛・紡・紡錘などのほか,
組み合わせ部品用と思われる大小の棒が発見されている。
620日本@名無史さん:2006/11/28(火) 15:57:33
第4層には骨器が非常に多く,石器は少ないが,第1層に至るほど,石器が漸増して
骨器が漸減し,河姆渡文化では骨器の比重が大きかったことが知られる。骨器には
鏃・針・管状針・梭形器・笛などあるが,大型哺乳動物(水牛?)の肩胛骨を加工
した多くの耜が注目をあびた。石器は小型のあらい磨製で,斧・手斧・のみ・紡錘
などがある。第4層の住居址に,多くの稲の穀粒・茎葉の堆積が発見された。栽培稲
のセン(注1)は、亜種晩稲型水稲と鑑定され,紀元前約 5000年のもので,現在の
ところ,東アジアにおける水稲の最古の実物標本といわれている。また,とち・ひし・
桃の実,ヘちま・はとむぎや,なつめの一種なども出土している。家畜には犬と豚が
おり,水牛もいたようである。土器面に豚,または豚と稲穂の刻まれたものがあり,
小型の陶豚もある。ほかに,多種類の獣・鳥・魚などの骨も出土している。当時の
河姆渡地域では,すでに骨耜・木耜などによる稲作農耕が行われ,家畜を飼育し,
狩猟・漁労や採集もかなりの比重を,占め,種々の生産・生活の器具を作り,紡織も
行われていたのである。住居は大きな材木で構築された高床式で,柱をくりぬいて
はりや板をはめこむなど,やや高い技術が用いられている。
621日本@名無史さん:2006/11/28(火) 15:59:05
素朴な芸術品も多く,木彫の魚,骨彫の匙・こうがい,陶製の魚・人頭像,象牙彫の鳥
などのほか,玉製の管・珠・ケツ・コウの装飾具がある。また朱紅色の漆器の木碗もあり,
生漆と鑑定され,中国で最古のものといわれる。出土した50余種属の動物の生態および
植物遺存と花粉分析が明らかにした植生の状態から推測すると,当時この一帯は,現在
よりも温暖多湿で,現在の広東・広西等の地区に近く,山麓に接した大小の湖沼が散在する
草原灌木地帯であったようである。河姆渡文化の年代は,ほぼ紀元前5000年ごろにあたる
といわれ,揚子江下流域における最古の新石器文化であり,黄河中流域や山東地域の文化と
並んで,中国の早期新石期文化の一つの中心である。 
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
622日本@名無史さん:2006/11/28(火) 16:02:35
>>>夾炭黒陶は第4層では最大量を占める>>>釜・罐(かん)・鉢・盤・器台
>>>甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器
>>>濃茶の文様を施した数個の彩陶片>>>笛などある>>>土器面に豚
>>>小型の陶豚もある>>>骨耜・木耜などによる稲作農耕>>>陶製の魚・人頭像



黒陶??釜??罐??鉢??盤??器台??甑??彩陶??笛??
土器面に豚??陶豚??骨耜??木耜??陶魚??人頭像??


7000年前の長江流域の出土物は日本の縄文遺跡から出土しない
摩訶不思議なものばかり出土するんですねえ(嘲笑)


623日本@名無史さん:2006/11/28(火) 16:04:37
見よ!

7000年前の長江流域の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の耜(鋤)、黒陶や彩陶、
釜・罐・鉢・盤・器台・甑・灶などの器形、骨哨(骨製のタテ笛)、猪文様など、
縄文時代を通してさーっぱり伝わっていない。



◎河姆渡遺跡

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
http://homepage3.nifty.com/sugar-tr/joumonG.html


624日本@名無史さん:2006/11/29(水) 18:41:54
吉野ヶ里墳丘墓のルーツはどこなのか。中国・長江下流域の江南に多く見かけられる
土?墓(どとんぼ)(B.C.800〜500)ではないかといわれている。(中略)
同じく「土?墓が墳丘墓の源流ではないか」という樋口隆康氏(参考文献5)が江南の
土?墓について書いている。少し長いが紹介したい。[江南の土?墓とは盛土墳で、
地上に埋葬したものである。中原の殷・周時代の墳墓は地下深く抗を掘って埋葬してあり、
墳丘を持たないのが通例である。墳丘は秦代以降に出現したとされるので、江南の土?墓
は中国における墳丘初現の例になるかもしれない]。「この土?墓は長江下流、特に
江蘇省南部の太湖周辺から浙江省杭州や安徽省屯渓までに分布している。すなわち呉越の地
である。丘陵から平野にかけて径15〜30m、高さ2〜3mほどの大小の塚が群在している」。
「この土?墓の盛土は版築ではなく一つの土?墓の中に数個の埋葬がなされている。それらは
地面に礫石を敷いたり、紅焼土を詰めたりして棺床としている。石を遺体のまわりに並べて
囲ったり、あるいは石室を築いたりしている。その石室も竪穴式と横穴式のタイプがある。
これらの土?墓はだいたい西周時代から春秋時代にかけてのものである」。「この墓から出土
する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは
異なった図文をもっており、銅剣は身柄一鋳のものである」。
http://www2.saganet.ne.jp/niesu/zyofuku/dotonbo.htm
625日本@名無史さん:2006/11/29(水) 18:43:45
>これらの土?墓はだいたい西周時代から春秋時代にかけてのものである」。
>「この墓から出土する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、





印文硬陶と原始施釉陶が伝わっていない事には一切触れない低脳学者のすっとぼけぶり(嘲笑)



626日本@名無史さん:2006/11/30(木) 14:38:33

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://blog.kaisetsu.org/?cid=14234
627日本@名無史さん:2006/11/30(木) 14:40:04
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった





原始青磁はもちろん、灰陶さえ伝わってない事実には一切触れない
スットボケ南京博物院(嘲笑)



628日本@名無史さん:2006/12/01(金) 14:33:47
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。
http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
629日本@名無史さん:2006/12/01(金) 14:34:23
>圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、
>砂の入った灰色陶器、上薬のついた陶器、硬質陶器など



圏足器?????環足杯?????灰色陶器?????
上薬のついた陶器?????硬質陶器?????


BC16Cの華南の出土物さえ日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり(嘲笑)


630日本@名無史さん:2006/12/02(土) 17:36:22

◎戰國時代陶質編鐘在?文化發源地無錫出土


新華網江蘇頻道南京4月16日電 (高幼元) 日前,在無錫市錫山區泰伯文化
藝術節上,一批最近出土的戰國時代陶質編鐘等古樂器向中外遊客展示。
這批距今2000多年?青銅器的樂器中,最令人驚嘆的是,經修復後最大的編鐘,
高30多公分,造型十分精致。

展示會上,錫山區文管會同志介紹?,這裏是?文化發源地。這批新出土的文物,
除編鐘、鐃、磬等樂器類陶器30餘件外,還有經修復的缸、罐、壇、鼎等各種
陶器共五十多件。這些原始瓷或印紋硬釉陶器,紋飾繁多。有乳釘紋、水波紋、
方格紋、圓圈紋等。經考古專家初?鑒定,數量之多,品種之全,工藝之精,
在全國罕見。
631日本@名無史さん:2006/12/02(土) 17:37:05
這批珍貴的出土文物是當地村民發現的。今年2月19日,錫山區後宅鎮天仙
塘萬安橋村村民鄒曉峰和鄒春鋒,帶著20多件陶器,向區文管會報告,村裏
一個大土?上發現了“古董”。工作人員認出是極有價?的陶制編鐘。第二
天即?到現場。這個大土?是五年前,鎮上築新路取土用的,當時就有部分
古陶器被?出,村民見是陶土做的,沒在意。而這次錫山區考古人員卻十分
在意,“掘地三尺”,出土的陶片、陶器用1噸半?車裝了滿滿一車。隨後,
他們邊向上級部門報告,邊請專家來修復,並對來報告的兩村民給予了獎勵。

後宅鎮往南數公里的鴻聲鎮,正在發掘的彭祖?文化遺址,已有一大批距今
6000年至7000年的新石器時代文物初露真容。據南京博物院考古學家介紹,
彭祖?是長江三角洲文化層次堆積最厚、包含物最多、保存最好的一處?史文化
遺址,是當代研究太湖流域人類文明發展史最好的?史資料。該鎮的鴻山南麓有
一座被譽為“開發江南先祖”泰伯之墓,距今已有3196年?史。現在,後宅鎮又
新出土的2000年前的古編鐘,作為陶樂器隨葬品,非一般人可用,是墓主人身?
顯赫?還是當時這塊地主是個文化“繁榮”勝地?這還需專家來解謎。
http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/www.js.xinhua.org/htm4/2041622.htm
632日本@名無史さん:2006/12/02(土) 17:37:37
>陶質編鐘等古樂器向中外遊客展示
>鐃、磬等樂器類陶器30餘件外,還有經修復的缸、罐、壇、鼎等
>各種陶器共五十多件。這些原始瓷或印紋硬釉陶器,紋飾繁多。
>有乳釘紋、水波紋、方格紋、圓圈紋等。



編鐘?????鐃?????磬?????缸?????罐?????
壇?????鼎?????原始瓷?????印紋硬釉陶?????
有乳釘紋?????水波紋?????方格紋?????圓圈紋?????


いやあ、弥生時代の江南の江蘇省無錫からは日本の弥生遺構では
さーっぱり見た事がない摩訶不思議な物や文様が出るんですねえ(嘲笑)

633日本@名無史さん:2006/12/03(日) 17:27:30
◎无??山越国?族墓考古?果累累

●?掘了?57米的“中”字形越国特大型?族墓,首次?示越国?族墓地的埋葬制度
和等?制度●?????全的?大的越国地下?器?,?深入探索越文化提供了?富的?物?
料和全新的研究方向本?? ?山越国?族墓地位于江?省无?市?山区?山??部,?一地区
?保存着大小?模的土?近百座,分布于?西?6、南北?4公里的范?中。?国家文物局
批准,自2003年3月?去年12月,南京博物院考古研究所和?山区文物管理委
?会?成?合考古?,??山???区范?内的土??行?救性考古?掘。

本次?掘?完整地?示了越国?族墓葬在同一墓地中的分布?律,并将墓葬分?小型、中型、
大型和特大型墓,代表了越国?族的5个等?;7座墓葬共?出土了2000余件随葬器物,
其中丘承?越墓??次于浙江??印山越王墓的越国第二大墓,出土的1100余件器物中,
?大多数?精美??的成?成套的青瓷礼器、?器和玉器,?江浙一?已?掘的越国?族墓葬中等
?最高的随葬器物。
634日本@名無史さん:2006/12/03(日) 17:28:11
小型墓2座:老??、?家? 其中?家?,土?外形???形?首状,近?西向,?34.5、
?23.5米,??高出周?平地1.5米。墓葬?平地起封,分?3?:第一??耕土?;
第二??灰褐封土,?密?硬,墓坑中填土与之同;第三??黄土,内?灰?土,?稍硬,
?堆筑墓坑的堆土。墓葬位于土?近中部,?四周堆土筑成熟土坑,方向115°,
?3.88、?2.34、深0.35米。随葬器物近50件,主要置于墓坑西部,
原始青瓷器有盂、?、器盖;硬陶器有?、?、?、器盖;?砂陶器有甑和鼎足;
泥?陶器有鼎、罐、盆、器盖、璧、??;玉器有管、?、?、?形佩和?形佩;青?器有?等。

中型墓2座:曹家?、杜家? 其中曹家?,土?外形??方形覆斗状,保存完好,土?
近?西向,?35、?26.9米,高出周?平地2.9米。墓葬?平地起封,分?3?:
第一??耕土?;第二??墓葬封土,灰褐色,?密?硬,墓坑中填土与之同;第三??黄土,
?有灰?土,?稍硬,?堆筑墓坑的堆土。墓葬位于土?近中部,方向110°,?8.75、
?2.25、深1.95米。随葬品主要置于墓坑西部,近100件,原始青瓷器有器盖;
硬陶器有?、碗、?、器盖、??;泥?陶器有盆、羊角形器、璧;玉器有璧等。
635日本@名無史さん:2006/12/03(日) 17:29:22
大型墓2座:万家?、老虎? 其中万家?,?方形覆斗状土?,近?西向,?47.4、
?38.8米,高出周?平地3.8米。墓葬?平地起封,分?2?:第一??耕土?;第二??
黄褐土封土,?密?硬,直接覆盖墓葬随葬品。墓葬位于土?近中部,直接在表土上??
木料而?筑,?木先??3条?西向?木,在?木上再南北向横?60余根稍有加工的木料,
?16.68、?5.07米,方向107°。?墓在封土完成后通?人工?洞在墓葬上方
?封土?行焚?,使墓室上方形成了3米厚的??土。随葬器物500余件,主要置于墓葬的
?部和西部,釉陶器有?炉?和?形器;硬陶?器有于、丁?、句、?、甬?、磬、?
形器和座等,硬陶礼器有?、?、三足?、炙炉等,生活用品有?、罐、碗、?、器盖等;
泥?陶器有鼎、盆、璧、羊角形器、??等。
636日本@名無史さん:2006/12/03(日) 17:30:20
特大型墓1座:丘承? 土?外形??方形覆斗状,近?西向,原封土?68.2、?40.6米,
从墓底?高3.95米。墓葬位于土?近中部,?穴深坑,方向110°,平面?“中”字形,
通?57米,分?墓道、主室、后室3部分,主室?用木板隔成南北?室。墓道?21.2、?
3.65米;主室?23.6、?6.3米;后室?11.9、?3.2、深3米;墓道南壁近底部
有??形壁?,底部稍深于墓道,??3.4、?0.9、高0.5米;墓道和后室的前后?有排水?。
?墓早年被盗,主室、后室、壁?均受??。随葬器物1100余件,玉器?40件,其中葬玉有覆面
和??,佩玉有?形佩、双?佩、??佩、?首?、璧形佩、?形、?、?、?形管、管和?物造型的??、
奔兔等,以及琉璃珠、管和?形?等,??有格和首,此外?有玉削、玉等;青瓷器中,?器100余件,
有三足缶、于、丁?、??、句、?、甬?、磬、?形器、座等,其中缶、?、座?首次??的
越国?器;礼器200余件,有盖鼎、鼎、盖豆、盒、?、扁腹?、?、?、三足?、、?、盆、甑、
炉?、温酒器、虎子、璧、羊角形器等,生活用品有杯、?、碗、?、筒形?、?、器盖等;硬陶器有鼎、
?、罐、器盖等;泥?陶器有盆、璧、羊角形器、??等;?有4件琉璃釉?蛇玲?球形器。青瓷?器主要
出于壁?中,玉器和青瓷重器主要出于主室?部,羊角形器和璧主要出于主室中部,而?大多数随葬品集
中出于后室。
637日本@名無史さん:2006/12/03(日) 17:34:37
丘承?出土的?多精美器物尤其是?多高等?青瓷礼器、?器和玉器的首次??和??,并以蛇?
主要装?而?成的独特?格,展示了越国最高等?随葬品的?采。

玉???5.8、?3.6、厚1厘米,青白玉、局部受黄褐色沁,正面4条?蛇,蛇身????,穿?中心的
??并??四周,?作蛇首状,??形?和??,?以谷?和斜方格?,背面光?,有一?扣。整个器物?
用了?雕、透雕、高浮雕、浅浮雕、微雕、?刻、?地等各?工?,??未?使用痕迹,?罕?的越国?族葬玉。

玉覆面?7.8、?5.8、厚0.2厘米,青白玉,大部分白化,?有花斑,整体??形,?耳略外凸,
各有2穿,正面以条?分?4区,各雕一浅浮雕??,周??以云?、斜??和?方格?,背面光?内弧,
雕刻手法有?地、浅浮雕、?刻、?孔等。??玉覆面?明墓主的身?与?侯相当或略低于?侯。琉璃釉
?蛇玲?球形器,底径6.5、高6.3厘米,泥?陶,低温琉璃釉,以8条蛇?成?圈状,一蛇口??
一蛇尾部而?成玲?球形,并以点状的?色琉璃釉?成蛇?和蛇身的??。玲?球是首次??的最高?格的
越国随葬器物,其用途当?象征王?或神?的神器。
638日本@名無史さん:2006/12/03(日) 17:44:07
青瓷三足缶3件,与其他?器同出土于壁?中,?首次??的?器,亦?明?池会上?相如?秦王??
王?缶,?有此??器。口径40、通高24.2厘米,缶作深腹盆形,内外施青黄色釉,口沿和上
腹部??蟠??,??首状?耳,???有一?称的蜥蜴匍匐在口沿,蜥蜴的?前肢攀在沿上,而口?
缶沿,造型夸?生?。

青瓷座也是首次??的越国青瓷?器,因同?出土4件,并与?、、?、于、丁?、句共出,
故将其定?座。孔径9、座底径41、通高18厘米,座身?覆?形,中有管状插孔,施青色釉,
座以数道凸弦?分隔,?蟠??,下部有4个??的?首,上部有6条堆塑的蛇,蛇身???,弯曲
作游?状,?向上昂,?尾相交。

青瓷温酒器2件,亦?首次??的越国礼器,?口径31.8、通高9.5厘米,温酒器口径26.4、
通高9.5厘米,施青色釉,下?承?,三蹄足,四?首附耳,口及?的上部?蟠??,内可置炭;
温酒器下有三足,置?内,?面有4个?首??,上?蟠??及13个?孔,内可盛水,上可置酒杯温酒。
?山越国?族墓地的5个等? 根据墓葬的封土?模、墓葬??和随葬器物的??、?地、?合?系,
7座墓葬可以分?5个等?:
639日本@名無史さん:2006/12/03(日) 17:45:24
第一???丘承?,?墓封土??方形覆斗状,?模宏大,且?墓地中唯一的深坑墓,墓坑平面?“中”字形,并有壁?;
随葬器物中青瓷礼器数量?多,气?恢弘,器??全;青瓷?器既有中原式的?、甬?、磬,亦有越式的于、丁?、
?、句、?形器、座,?有以往从未??的缶,?器的数量和品?可与曾侯乙墓相?美;玉器中,既有葬玉、??,亦有佩玉,
而成双成?的?形佩、双?佩、??佩、?首?、?形等?成的佩玉,当?春秋?国?期最高等?的佩?;此外?随葬琉璃釉?蛇玲?
球形器等象征特殊意?的器物;第二???老虎?,?墓封土亦?模宏大,且??方形覆斗状,埋葬方式?平地?木,随葬器物
中除生活用品外,?包括成?的原始青瓷?器和硬陶礼器、?器;第三???万家?,与老虎?的封土?模和平地?木的
葬制相同,然随葬品中?有成?的硬陶礼器、?器而不?原始青瓷?器;第四???曹家?、杜家?;第五???老??、?家?。
?4座墓葬均无成??器随葬,从封土?模和墓葬大小看,曹家?和杜家?均??方形覆斗状封土,老??和?家?????形?首状
封土;曹家?和杜家?的墓葬也大于老??和?家?,随葬器物的数量??老??和?家?的一倍,然中型墓和小型墓在随葬
器物的?富程度上?差?不太明?。
640日本@名無史さん:2006/12/03(日) 17:47:17
?山?族墓葬的特征与价? ?山?族墓葬的特征大致可???以下几点:1、?方形覆斗状或??形封土;
2、除特大型墓葬?深坑墓外,皆?平地起封;3、除特大型墓葬?“中”字形外,其余皆??条形墓葬,
大型的?有?木或分室用的木板等用于?筑墓室;4、随葬器物主要?原始青瓷器和硬陶器;5、特大型
墓葬的随葬品中有?玉;6、随葬器物中常?原始青瓷或硬陶的句、于、丁?、?、羊角器、璧、
?形器以及越式鼎、筒形?、?、器盖等;7、高等?的器物??中常?蛇。?些特征中多?越国墓葬独有,
其中墓葬形制和随葬品的?地、器形、器?与浙江??印山越王墓、以及安吉、海?、??等地的越国
?族墓葬相同,尤其明?的是均随葬陶、瓷礼器和?器,如于、丁?、句、?、甬?、磬、?形器、
缶、座、羊角器、璧以及越式鼎、筒形?、?、器盖等;而以蛇?器物??也是越人??崇拜的体?。
可??山?族墓地与春秋?期和?国早期的越墓相同,具有明?的越国特征。根据墓葬的?模、形制和在
墓地中的位置,以及随葬器物的数量、??和等?推?,?山?族墓地中丘承?墓主的等????次于
越王的越国大夫,此墓主室和后室???次于??印山越王墓,?高于其他中小型越国?族墓,而出土的
随葬器物?是目前已?掘的越国墓葬中等?最高、?地最好且器?最??全的。
641日本@名無史さん:2006/12/03(日) 17:49:18
?山越国?族墓地7座墓葬的随葬品中,皆有完全相同器物,如?、?、碗、?、器盖等,其年代?相同;
而大型或中型墓葬中?有造型相同的?、、磬、?形器、璧、羊角形器等,其年代亦?相同;而从印?
硬陶和原始青瓷基本生活用品的形?、??麻布?和米字?等??以及器物的?合?系,根据?江下游
土?墓的分期,其年代???国早期;出土玉器中,尽管有少量??保留春秋?期特征,而?大多数
玉器的造型和??都呈??国早期的特征。因此?山越国?族墓地的年代可定??国早期,即越国
最?盛的越王勾践?期。

?山越国?族墓地中,丘承?位于墓地的西北角,而其他大、中、小型墓葬???在丘承?的?南呈
扇形分布,墓葬与墓葬之?既有一定的分布?律,又存在着?格的等?差?,是本次考古?掘最重要的
收?之一;丘承?墓?目前?次于??印山越王墓的越国第二大墓,而丘承?出土的大批精美??成
套成?的玉器、青瓷礼器和?器,??迄今?止江浙一?所??的最高等?的越国随葬器物,也同?
是本次考古?掘最重要的收?之一。其墓地的完整性和礼器、?器?合的完整性,尤其是越国的礼?
文化中将中原系?和?地融入越系?中,?越国史的研究和解决一系列春秋?国?期的重要学???
提供了一批??珍?的?物?料,?于越文化乃至百越民族史的研究和越国考古学的研究将起着??的
推?作用。
http://www.gzww.net/w%5Fstudy/display.asp?id=185
642日本@名無史さん:2006/12/03(日) 17:50:00




いやあ、弥生時代の江南の江蘇省無錫の土トン墓からは、楽器やら、
玉器やら、鼎やら、盆やら、盂やら、?やら、?やら、酒器やら、
龍形やら、亀形やら、虎子やら、羊角形器やら、磬やら、鈴形器やら、
鱗紋やら、蛇紋やら、龍紋やら、原始青磁やら、印紋硬陶やら、
もう、さーっぱり見た事も聞いた事もないシロモノまで、
ありとあらゆる摩訶不思議な物や文様が出るんですねえ(嘲笑)

何でこんなイイモン日本の弥生遺構から出んのやろ?(嘲笑)


643日本@名無史さん:2006/12/05(火) 19:56:55

●鴻山越國貴族墓地發掘情況介紹

鴻山越國貴族墓地位江蘇無錫鴻山鎮東部,該區保存大小規模土墩近百座。南京博物院考古研究所及
錫山區文物管理委員會組成聯合考古隊,於2003年4月至2004年12月期間,對該範圍內土墩進行搶救性
發掘。

是次發掘7座墓葬,出土共計2000餘件隨葬器物,其中丘承墩就出土1100餘件精美成套的青瓷禮器、
樂器和玉器。 根據墓葬的封土規模、墓葬結構和隨葬器物的種類、質地、組合關係,7座墓葬可以
分為5個等級:
644日本@名無史さん:2006/12/05(火) 19:58:56
第一級別為丘承墩,該墓封土為長方形覆斗狀,是墓地中唯一的深坑墓,墓坑平面為「中」字形,
並有壁龕;隨葬品中青瓷禮器數量眾多,器類齊全;青瓷樂器既有中原式的鈕、甬鍾、磬,
亦有越式的ロ于、丁寧、鐸、勾、鈴形器、具座,還有以往從未確認的缶;玉器中,既有葬玉、
劍飾,亦有佩玉,而成雙成對的龍形佩、雙龍佩、龍鳳佩、龍首珩、龍形珩等組成的佩玉,
當為春秋戰國時期最高等級的佩飾;此外還隨葬琉璃釉盤蛇玲瓏球形器等象徵特殊意義的器物;
第二級別為老虎墩,該墓封土亦為長方形覆斗狀,埋葬方式為平地鋪木,隨葬器物中除生活用品外,
還包括成組的原始青瓷樂器和硬陶禮器、樂器;第三級別為萬家墳,與老虎墩的封土規模和平地
鋪木的葬制相同,然隨葬品中僅有成組的硬陶禮器、樂器而不見原始青瓷樂器;第四級別為曹家墳、
杜家墳,為長方形覆斗狀封土;第五級別為老墳墩、鄒家墩。這4座墓葬均無成組樂器隨葬,為長圓形
饅首狀封土。
645日本@名無史さん:2006/12/05(火) 20:00:35
鴻山貴族墓葬的特徵大致可歸納為以下幾點:
1. 長方形覆斗狀或長圓形封土;
2. 除特大型墓葬為深坑墓外,皆為平地起封;
3. 除特大型墓葬為「中」字形外,其餘皆為長條形墓葬,大型的還有墊木或分室用的木板等用於
構築墓室;
4. 隨葬器物主要為原始青瓷器和硬陶器;
5. 特大型墓葬的隨葬品中有組玉;
6. 隨葬器物中常見原始青瓷或硬陶的勾、ロ于、丁寧、鐸、羊角器、璧、鈴形器以及越式鼎、
筒形、盅、器蓋等;
7. 高等級的器物紋樣中常見蛇。而以蛇為器物紋樣也是越人圖騰崇拜的體現。
646日本@名無史さん:2006/12/05(火) 20:01:25
這些特徵中多為越國墓葬獨有,其中墓葬形制和隨葬品的質地、器形、器類與浙江紹興印山越王墓
以及安吉、海鹽、長興等地的越國貴族墓葬相同,尤其明顯的是均隨葬陶、瓷禮器和樂器,如ロ于、
丁寧、勾、鎛、甬鍾、磬、鈴形器、缶、具座、羊角器、璧以及越式鼎、筒形、盅、器蓋等;
根據墓葬的規模、形制和在墓地中的位置,以及隨葬器物的數量、種類和等級推測,鴻山貴族墓地
中丘承墩墓主的等級應為僅次於越王的越國大夫,此墓主室和後室總長僅次於紹興印山越王墓,
遠高於其他中小型越國貴族墓,而出土的隨葬器物則是目前已發掘的越國墓葬中等級最高、
質地最好且器類最為齊全的。

7座墓葬的隨葬品中,皆有完全相同器物,如壇、、碗、盅、器蓋等,其年代應相同;而大型或
中型墓葬中則有造型相同的鍾、鎛、磬、鈴形器、璧、羊角形器等,其年代亦應相同;而從印紋硬陶
和原始青瓷基本生活用品的形態、僅見麻布紋和米字紋等紋飾以及器物的組合關係,根據長江下游
土墩墓的分期,其年代應為戰國早期;出土玉器中,儘管有少量紋飾保留春秋晚期特徵,而絕大多數玉器
的造型和紋飾都呈現戰國早期的特徵。因此鴻山越國貴族墓地的年代可定為戰國早期,即越國最強盛的
越王勾踐時期。
647日本@名無史さん:2006/12/05(火) 20:03:35
鴻山越國貴族墓地中,丘承墩位於墓地的西北角,而其他大、中、小型墓葬則圍繞在丘承墩的東南呈
扇形分布,墓葬與墓葬之間既有一定的分布規律,又存在著嚴格的等級差別,為是次考古發掘最重要的
收穫之一;丘承墩墓為目前僅次於紹興印山越王墓的越國第二大墓,而丘承墩出土的大批精美成套的玉器、
青瓷禮器和樂器,應為迄今為止江浙一帶所發現的最高等級的越國隨葬器物,同樣為是次考古發掘最重要的
收穫之一。其墓地的完整性和禮器、樂器組合的完整性,尤其是越國的禮樂文化中將中原系統和諧地融入
越系統中,為越國史的研究和解決一系列春秋戰國時期的重要學術課題提供了一批極為珍貴的實物資料,
對於越文化乃至百越民族史的研究和越國考古學的研究將起著積極的推動作用。
http://www.cuhk.edu.hk/ics/ccaa/talk9.htm
648日本@名無史さん:2006/12/05(火) 20:32:21





いやあ、弥生時代の江南の江蘇省無錫の土トン墓からは、楽器やら、
玉器やら、越式鼎やら、酒器やら、原始青磁やら、印紋硬陶やら、
甬鍾やら、磬やら、ロ于やら、丁寧やら、勾やら、鈴形器やら、
龍形やら、龍鳳佩やら、具座やら、羊角器やら、越式鼎やら、筒形やら、
羊角器やら、もう、さーっぱり見た事も聞いた事もない代物まで、
ありとあらゆる摩訶不思議な物や文様が、出るわ、出るわ、出るわ、出るわ・・・

何でこんなイイモン、日本の弥生遺構から出んのやろ?(嘲笑)


649日本@名無史さん:2006/12/06(水) 01:37:22
使えるなら普及する
使えないもんは普及しない

中国人が来ようが来まいが
使えないものは普及しない
650日本@名無史さん:2006/12/06(水) 01:45:32
>>649
中国人じゃないよ中国豚だよ。
651日本@名無史さん:2006/12/06(水) 18:49:29

●考古發現一罐鴨蛋醃了2500年


在句容、金壇乃至整個江南,有一種獨具特色的土墩墓,這些墓聳立在山巒崗地、平原叢林中,
遠遠看上去,就像是一個隆起的大土墩。它們代表著西周至春秋戰國時期江南特有的土著文化。
目前經初步探查,在鎮江周邊約有5000多座土墩墓。

江蘇省8支考古隊120多位考古專家,從今年4月起對相關公路沿線的土墩墓進行了搶救性發掘,
先後發現了46座西周到春秋時期的土墩墓,出土文物4000多件。昨天,來自全國各地的10多位
考古專家不僅實地勘查了考古現場,還商討如何保護土墩墓的發掘成果。
652日本@名無史さん:2006/12/06(水) 18:53:04
一罐鴨蛋完好無損

豆、碗、盞、盅、罐、鼎,所有文物按照不同的古墓,從大到小一字排開,4000多件文物,
把句容博物館的兩層樓裝得滿滿的。最讓專家們意外的是,句容天王寨花頭的2號墩裡出土的
文物,雖然也是罐、豆等陶器,但其中一個小罐子裡面居然還盛著滿滿一罐鴨蛋!順著罐口
往裡看,白白的蛋比現在的鴨蛋小。記者還特地俯身聞了聞,可以嗅到一股鹹味。南京博物院
考古研究所副所長林留根說,出土時陶罐上還有一個蓋子,推測是2500年前這戶人家醃製的鴨蛋。

南京博物院研究員鄒厚本告訴記者,目前整個江蘇僅有三罐這樣的古老蛋,一罐在南農大的
博物館裡,一罐在鎮江博物館裡,這是考古發現的第三罐。早在上世紀70年代,發現第一罐蛋
的時候,他們就把這些蛋送給相關專家做研究,不過專家們也說不出個所以然。因此,古人
如何醃製鴨蛋,到現在還是個謎。至於保存,雖然古墓經常有雨水滲透,但罐子有罐蓋,
能擋住雨水,而且罐子裡面有封泥,這些封泥起到了很好的保護作用。細看罐中鴨蛋,除了
蛋殼是完好外,蛋青蛋黃怎樣?考古專家說,現在只能先保護,然後再研究。
653日本@名無史さん:2006/12/06(水) 18:55:21
古怪青瓷用途是謎

擺放文物的現場,好像是古代46戶人家家庭用具的一次集中展覽。從這些器物可以看出,當時人
們用特別大的缸來盛糧食,用鼎來燒飯,用青瓷碗來裝飯。不過,在句容天王寨出土的一個
青瓷器,卻令專家們無法辨別它的用途。

這件青瓷有一個圓圓的底座,以前從來未見過。此外,一個羽狀紋大瓷罐,也讓專家們好奇。
在西周至春秋時期,瓷罐上一般都只是直線條的花紋,而這個瓷罐上的花紋看上去像孔雀
尾巴上的羽毛,特別漂亮。這種花紋是怎麼製作出來的?這也是一個謎。
654日本@名無史さん:2006/12/06(水) 18:57:06
保護土墩墓刻不容緩

雖然盜墓賊看不上這些土墩墓,因為從墓葬出來的都是不太值錢的陶器殘片,但由於修路、
修水利等原因,每年都有成百座土墩墓被破壞了。這次寧常、鎮溧高速公路沿線有6座
土墩墓還未發掘就被摧毀,與此同時,金壇境內為建高爾夫球場平整40多座土墩,句容
境內25座土墩因工程建設被毀,句容郭莊鎮厚達7米的文化遺址被寧杭高速公路施工毀壞,
金壇一大型商代遺址被鎮政府推平……

蘊涵大量珍貴文物的古遺址、古墓葬卻毀在推土機下,實在令人心痛。專家們呼籲,
將江蘇土墩墓納入大遺址保護體系,與各市縣鄉鎮的經濟發展和社會發展規劃相融合,
防止建設性破壞,同時在對土墩墓群進行調查的基礎上,選擇幾個典型土墩墓進行解剖,
並修建遺址博物館,以帶動周圍土墩墓群的整體保護。
http://www.epochtimes.com/b5/5/12/30/n1171849.h
655日本@名無史さん:2006/12/06(水) 18:58:52




盞?????盅?????鼎?????青瓷?????花紋?????


いやあ、弥生時代開始頃の江南の出土物は日本の弥生遺跡から全く
出土しない摩訶不思議な物や文様ばかり出土するんですねえ(嘲笑)



656灰陶ルンペン :2006/12/06(水) 19:14:41
江南説にしろ華北説にしろ、弥生人が本当に中国から来たのなら、

何で印文陶や灰釉陶を含めた中国灰陶の技術が全く伝わっていないのかね?

何で中国青銅器に見られる篆書などの原始漢字の金文が一字も
伝わっていないのかね?

何で中国青銅器に見られる饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文などの
文様の一つさえ伝わっていないのかね?

何で中国土器や中国青銅器を代表する鼎や鬲などの三足器形さえ
伝わっていないのかね?

渡海すると短期間で記憶喪失になって故郷の文化を全て忘れてしまうのかね?

何で弥生文化は紅陶無文土器の技術の弥生土器と支石墓文化なのかね?

これらは当時の満州から朝鮮にかけての文化ですよ。
657灰陶ルンペン :2006/12/06(水) 19:15:39
鴻山越國貴族墓地中,丘承墩位於墓地的西北角,而其他大、中、小型墓葬則圍繞在丘承墩的東南呈
扇形分布,墓葬與墓葬之間既有一定的分布規律,又存在著嚴格的等級差別,為是次考古發掘最重要的
收穫之一;丘承墩墓為目前僅次於紹興印山越王墓的越國第二大墓,而丘承墩出土的大批精美成套的玉器、
青瓷禮器和樂器,應為迄今為止江浙一帶所發現的最高等級的越國隨葬器物,同樣為是次考古發掘最重要的
收穫之一。其墓地的完整性和禮器、樂器組合的完整性,尤其是越國的禮樂文化中將中原系統和諧地融入
越系統中,為越國史的研究和解決一系列春秋戰國時期的重要學術課題提供了一批極為珍貴的實物資料,
對於越文化乃至百越民族史的研究和越國考古學的研究將起著積極的推動作用。
http://www.cuhk.edu.hk/ics/ccaa/talk9.htm
658灰陶ルンペン :2006/12/06(水) 19:16:43

●考古發現一罐鴨蛋醃了2500年


在句容、金壇乃至整個江南,有一種獨具特色的土墩墓,這些墓聳立在山巒崗地、平原叢林中,
遠遠看上去,就像是一個隆起的大土墩。它們代表著西周至春秋戰國時期江南特有的土著文化。
目前經初步探查,在鎮江周邊約有5000多座土墩墓。

江蘇省8支考古隊120多位考古專家,從今年4月起對相關公路沿線的土墩墓進行了搶救性發掘,
先後發現了46座西周到春秋時期的土墩墓,出土文物4000多件。昨天,來自全國各地的10多位
考古專家不僅實地勘查了考古現場,還商討如何保護土墩墓的發掘成果。
659日本@名無史さん:2006/12/19(火) 22:28:28
まず、中国から渡来人がやって来て水田稲作を最初に伝えたならば、
日本の水田稲作に中国大陸の言葉が伝わっているはずなのだが、
水田稲作に関する中国大陸の言葉は一切伝わっていない。
もうそこから話がおかしいのである。

しかも稲作を伝えておいて、その米を炊飯するための調理具である
鬲や鼎、おかずにする肉や魚を煮るための調理具である鼎、それらを
盛り付ける様々な食器類や酒器類などが一切伝わっていない時点で、
さらに話がおかしくなってくる。

中国から渡来人がやって来て最初に縄文人たちの調理具や食器類を
見たとき、まず灰色の土器が無い事に気が付くだろう。
続いて、鬲や鼎などの三足器形が無い事に気が付くだろう。
長江からやって来たならば更に幾何印文が無い事に気が付くだろう。
660日本@名無史さん:2006/12/19(火) 22:30:08
海を越えたところで毎日飽きるほど見てきた器形や文様など忘れる事
なんてありえないし、そんなものは焼き手にいくらでも注文すれば
良いだけの話で、三足土器や印文陶の擬似物くらいはすぐにできる。

問題は灰陶なのだが、技術者がいなくても、そのうち渡来人同士で
故郷にあった灰色の土器について話し合うだろう。
そしてそれが無い原因が故郷にあった登り窯にある事に突き当たり、
やがて彼らは登り窯を作り始めるだろう。

登り窯が一切伝わっていない事自体もおかしな訳だが、登り窯を
作ったらあとは焼くだけ。

原始的な粗製灰陶のできあがり。
661日本@名無史さん:2007/01/10(水) 20:18:32
高床式倉庫はシベリアやアムールにも見られる。


◎ケート Ket

中央シベリア、エニセイ川中流で伝統的漁撈・狩猟生活を送るケートと、
押し寄せる近代文明の点描。

自然環境(森、川、川岸の村)、川岸のチュム骨組に樹皮布を掛ける
(煙突は真上に出る)、製作中丸木舟に穴を開ける(火おこしの形を
した錐)、川に漕ぎ出す、魚(トナカイ肉?)を干す、日常生活
(洗濯物、子供のブランコ、食事、墓)、呪いの杭にトナカイの頭蓋骨
が掛かっている、★高床式蔵小屋★、素晴らしいアクセサリーの着いた
シャマンの枠太鼓、

http://tokyocinema.net/centralsiberialist.htm
662日本@名無史さん:2007/01/10(水) 20:19:49

ハントィ:自然環境、家屋等に関すること(家の飾り・トナカイ頭蓋骨、
デコイ、★高床式の狩猟用倉庫・鼠返し★、季節物衣料の取出し)

コミ:自然環境、家屋(木造家屋、隙間を苔で埋める)、狩猟(移動に
スキー、犬、鳥を餌に罠を仕掛ける、狩人寝床の用意、毛皮を剥ぐ)、
★小型高床式倉庫(狩猟用荷物、獲物を仕舞う、鼠返し)★、歌

マンシ:自然環境、家屋(丸太小屋、東側の外壁についた呪いの
ような物)、★高床式倉庫★、漁猟舟の櫂類、創生期に関する昔話、

http://tokyocinema.net/westsiberialist.htm
663日本@名無史さん:2007/01/10(水) 20:22:05
これは銛を使ってクジラを捕っている線画だが、アム−ル川下流域と
サハリン北部のニブフもまた、板をつなぎ合わせた板船に5-6人で
乗り込み、アザラシやサケなどの捕獲を生業にしていた。
地吹雪のなかを訪問した北方民族館には、このニブフに代表される
北海の海辺と河川の民の風俗や生活用品の数々が陳列されていた。
彼らは、冬には保温性の高い竪穴式住居に住み、夏には魚干し棚や
貯蔵庫のある高床式住居で暮らし、衣装には木綿や魚皮で作った布を
用い、白樺皮製の帽子をかぶり、アザラシ皮や魚皮の靴を履いていた
ようである。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7754/liuhiyounoshiluet.htm

夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
664日本@名無史さん:2007/01/10(水) 20:25:05
ウリチ人とニブフ人は一年中定住村の住居と作業場兼用の建物に住んで
おり、ナナイ人、ネギダル人、オロク人、オロチ人、ウデゲ人は、冬は
森の中の定住村に住み、夏は魚の採れる川岸の季節村に移りました。
定住村も季節村も川岸に沿って細長く展開し、それぞれの住居は互いに
離れており、そばには高床式の納屋がついていました。
http://www.npec.or.jp/northeast_asia/cultural/index.html

そばには高床式の納屋がついていました
そばには高床式の納屋がついていました
そばには高床式の納屋がついていました
そばには高床式の納屋がついていました
665日本@名無史さん:2007/01/10(水) 20:27:01
ナナイ人は、現在400人程度いてハバロフスク市内から約1時間15分
ぐらいのアムール川の近くに集落があります。東洋系の顔でなぜか親しみを
感じました。生活は国から、援護を受けていて仕事はしなく、川で釣り
ばかりしているそうです。家は、小さくてみすぼらしく、貧しさが感じられ
ました。村長は特別扱いみたいで、家も立派で学校より大きく丘の上にあり
権威の象徴を感じました。

http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/wwwnikki.cgi?view=kako20050807.html

ナナイ人の高床式食糧倉庫
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/graph/20050807-1123390934.jpg
666日本@名無史さん:2007/01/11(木) 19:21:29
高床式建物を、

主に住居として利用しているのが南方系の高床式建物文化。
主に倉庫として利用しているのが北方系の高床式建物文化。

日本の弥生人たちが利用していた高床式建物文化は、
住居、倉庫、さてどっち?

ちなみに江南の河姆渡遺跡の高床式建物は住居の方である。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%B2%CF%D5%A8%C5%CF%B0%E4%C0%D7%A1%A1%B9%E2%BE%B2%BC%B0&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1
667日本@名無史さん:2007/01/12(金) 15:16:02
鳥居の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
668日本@名無史さん:2007/01/12(金) 18:30:03
弥生中国人、2ちゃん閉鎖だって失業だな!気が済むまでコピペしとけ!!!
669日本@名無史さん:2007/01/13(土) 21:30:11
抜歯は世界中の原始社会で見られ、日本では先土器時代から行われ、
風習としての抜歯は約四千年前頃に東北地方の仙台湾周辺ではじまる。


抜歯の儀式は、世界の狩猟採集民族のなかでは、比較的あたりまえに
行われていて、それほど奇習というわけでもないのです。現在でも
アフリカ、東南アジア、オーストラリアの一部の民族に残っています。
http://www.city.fujiidera.osaka.jp/rekishitanbou/kodai/kodai-64.html

原始・古代の世界中に、抜歯風習はあったという。ことに長く続いたのが、アフリカ、
中国、日本だとされてますね。中でも目立ったのが、縄文・弥生の日本列島。
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub12..html

歯を抜いたり、歯を削り歯を飾る風習は、日本だけでなく中国、台湾、
アジア、オーストラリア、アフリカにもみられた。
http://www.dent-kng.or.jp/chishiki/museum/hakubutukan/wa_bassi/index.htm
670日本@名無史さん:2007/01/13(土) 21:31:03
佐倉市にある国立歴史民俗資料館の春成秀爾氏によると、抜歯そのものは
縄文時代以前の先土器時代にもあるが、風習としての抜歯は約四千年前頃に
東北地方の仙台湾周辺ではじまり、それ以後に関東地方をはじめ全国に
広がったという。国立歴史民俗資料館前館長の佐原真氏によると、こうした
抜歯は現在でも世界のいくつかの民族の間に風習として残っており、
子どもから大人になるための儀礼(成人儀礼)としての事例、近親者が
亡くなると歯を抜く事例、勝利の明かしに捕虜から歯を抜く事例などが
あって、このうちも最も多いのは成人儀礼にともなう抜歯であるという。
http://www.jona.or.jp/~ichiyomi/rekisi/index4.html
671日本@名無史さん:2007/01/14(日) 20:03:26
刺青はBC50Cには既に登場している。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として
記録されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。

http://www.ta2.com/tattoohistory.html
672日本@名無史さん:2007/01/15(月) 20:54:20
半月型石包丁は満州南部を経由している。




龍山文化(紀元前30世紀−前20世紀)の特徴的な半月形石刀が、
吉林、永吉、?安、?春、通化、桓仁などで出土。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus-tsusi/tungus-tsusi-1-gaiyou.htm


673日本@名無史さん:2007/01/16(火) 21:22:40
鵜飼は満州南部を経由している。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
http://www.jiyuu-shikan.org/store/video/206.html

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
http://www.han.org/a/half-moon/hm080.html
674日本@名無史さん:2007/01/17(水) 20:44:42
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代エジプトから見られ、今も世界中で見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
http://style.beauty.yahoo.co.jp/fashion/dictionary/232_4.html

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
http://homepage1.nifty.com/mottoi/kokusai8.htm

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
http://www.h6.dion.ne.jp/~fu35/minzokuHP/ajia/indonesia.htm
675日本@名無史さん:2007/01/17(水) 20:45:42
西洋(エジプト文明、ギリシア文明、ローマ)では、もともとの
衣服は男女とも布を体に巻き付ける形式か、貫頭衣(大きな布に穴を
開け、そこから頭を出して着る)の形式でした。スカートみたいに
下が空いている服が、先にあったわけです。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=884804&rev=1

古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
http://home.att.ne.jp/red/senseofwondr/mou2.htm

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
http://www.lcv.ne.jp/~yokota/contents/mumble/ykt/970410.htm

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
http://www.psats.or.jp/psats.or.jp/column/nakamura027column.html
676日本@名無史さん:2007/01/17(水) 20:47:00
モロッコ;マラケシュ以来久々に見つけたインターネット屋に入ると、
国民服とでも言うべき水色のゆったりとした貫頭衣と黒いターバンを
目だけ出して口元まで巻いたサハラ地方独特のスタイル
http://world-reader.ne.jp/travel/e-yamada-000414.html
<マッキノウズ>
元来は北米原住民が着ていた貫頭衣式のブランケット式の外着。
http://www.geocities.jp/fashionarekore/aparrelma.htm
マヤ文明が栄えたグアテマラ周辺の女性が着用するウィピルと
呼ばれる貫頭衣をイメージ。
http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20060703/dol.htm?ref=rss
アラブの男性の衣服と言えば、寸胴の貫頭衣に袖をつけた程度の簡単な作り
のワンピースである。サナアでは一般的にはザンナと呼ばれている。
ソウブ・衣服ともいう。エジプトではガラベーヤ、サウジアラビアでは
ディッシュダーシャと言われている。
http://forum.nifty.com/fworld/pictures/yemen0212/05.htm
677日本@名無史さん:2007/01/18(木) 21:17:35
歌垣は8C頃の筑波あたりで始まる。


日本の古代の歌垣の場として知られている場所には,摂津の国「歌垣山」,
大和の石榴(つば)市・軽市,肥前杵島岳,などがあるが,筑波山は,
その歌垣の場の最も古く,最も著名な場のひとつであった。

その起源は,『常陸国風土記』によれば,神祖の尊が新嘗祭の夜に子供
である富士山を訪ね一夜の宿を請うたが断られ,別の子である筑波山に
宿を請うたところ,心良く招き入れられ,歓待を受けた。神祖の尊は,これを
いたく喜ばれ,「愛しき子の坐す宮は,高くそびえ,日々とともに,人々が集まり
ことほぎ,飲食(みけ)豊かに,代々絶えること無く,日に日に弥栄え,
千代万歳に,遊楽は尽きることがないであろう」と詠われた。これより後,
富士山は常に雪に覆われて登れず,筑波山には人々が行き集い,歌や舞が供され,
宴が繰り広げられるようになった・・・とされている。
http://tamagaki.hp.infoseek.co.jp/kume1.htm
678日本@名無史さん:2007/01/18(木) 21:20:42
常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年
(和銅6年)に編纂された、常陸国(現在の茨城県の大部分)の
地誌である。

元明天皇の詔によって編纂が命じられた。編纂者は詳しくは不明だが、
藤原宇合や高橋虫麻呂らが関与してると言われている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
679日本@名無史さん:2007/01/21(日) 18:50:54
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。



http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/1/yayoi_2.htm
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/wa/wa.pdf


680日本@名無史さん:2007/01/21(日) 19:41:16
age
681日本@名無史さん:2007/01/22(月) 19:24:34
高床式倉庫はシベリアやアムールにも見られる。


◎ケート Ket

中央シベリア、エニセイ川中流で伝統的漁撈・狩猟生活を送るケートと、
押し寄せる近代文明の点描。

自然環境(森、川、川岸の村)、川岸のチュム骨組に樹皮布を掛ける
(煙突は真上に出る)、製作中丸木舟に穴を開ける(火おこしの形を
した錐)、川に漕ぎ出す、魚(トナカイ肉?)を干す、日常生活
(洗濯物、子供のブランコ、食事、墓)、呪いの杭にトナカイの頭蓋骨
が掛かっている、★高床式蔵小屋★、素晴らしいアクセサリーの着いた
シャマンの枠太鼓、

http://tokyocinema.net/centralsiberialist.htm
682日本@名無史さん:2007/01/22(月) 19:26:47

ハントィ:自然環境、家屋等に関すること(家の飾り・トナカイ頭蓋骨、
デコイ、★高床式の狩猟用倉庫・鼠返し★、季節物衣料の取出し)

コミ:自然環境、家屋(木造家屋、隙間を苔で埋める)、狩猟(移動に
スキー、犬、鳥を餌に罠を仕掛ける、狩人寝床の用意、毛皮を剥ぐ)、
★小型高床式倉庫(狩猟用荷物、獲物を仕舞う、鼠返し)★、歌

マンシ:自然環境、家屋(丸太小屋、東側の外壁についた呪いの
ような物)、★高床式倉庫★、漁猟舟の櫂類、創生期に関する昔話、

http://tokyocinema.net/westsiberialist.htm
683日本@名無史さん:2007/01/22(月) 19:30:02
これは銛を使ってクジラを捕っている線画だが、アム−ル川下流域と
サハリン北部のニブフもまた、板をつなぎ合わせた板船に5-6人で
乗り込み、アザラシやサケなどの捕獲を生業にしていた。
地吹雪のなかを訪問した北方民族館には、このニブフに代表される
北海の海辺と河川の民の風俗や生活用品の数々が陳列されていた。
彼らは、冬には保温性の高い竪穴式住居に住み、夏には魚干し棚や
貯蔵庫のある高床式住居で暮らし、衣装には木綿や魚皮で作った布を
用い、白樺皮製の帽子をかぶり、アザラシ皮や魚皮の靴を履いていた
ようである。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7754/liuhiyounoshiluet.htm

夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし
684日本@名無史さん:2007/01/22(月) 19:32:04
ウリチ人とニブフ人は一年中定住村の住居と作業場兼用の建物に住んで
おり、ナナイ人、ネギダル人、オロク人、オロチ人、ウデゲ人は、冬は
森の中の定住村に住み、夏は魚の採れる川岸の季節村に移りました。
定住村も季節村も川岸に沿って細長く展開し、それぞれの住居は互いに
離れており、そばには高床式の納屋がついていました。
http://www.npec.or.jp/northeast_asia/cultural/index.html

そばには高床式の納屋がついていました
そばには高床式の納屋がついていました
そばには高床式の納屋がついていました
そばには高床式の納屋がついていました
685日本@名無史さん:2007/01/22(月) 19:34:04
ナナイ人は、現在400人程度いてハバロフスク市内から約1時間15分
ぐらいのアムール川の近くに集落があります。東洋系の顔でなぜか親しみを
感じました。生活は国から、援護を受けていて仕事はしなく、川で釣り
ばかりしているそうです。家は、小さくてみすぼらしく、貧しさが感じられ
ました。村長は特別扱いみたいで、家も立派で学校より大きく丘の上にあり
権威の象徴を感じました。

http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/wwwnikki.cgi?view=kako20050807.html

ナナイ人の高床式食糧倉庫
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/graph/20050807-1123390934.jp
686日本@名無史さん :2007/01/22(月) 21:19:30
この642のような質問者は中身がしょっちゅう入れ替わる中国の実態を全く理解してない。
中国という国こそが多民族国家であり、また江南には同化せずに少数民族として
独自の文化で暮らす民族が未だに沢山いる。つまりそういった下層民や国家を滅ぼ
されて支配王権と同化せずにいた民族こそが大移動を強いられて日本にまでやって
くる動機を持っているのだ。
687日本@名無史さん :2007/01/22(月) 21:30:51
南詔から江水河口にいたるまでの内陸地域に初期の日本と稲作のルーツがあると
考えるのは自然だ。そして文化の媒介となった民族は混血して血が薄くなったか
圧倒的少数派になったか絶滅した可能性だってある。異民族の征夷によって。
688日本@名無史さん:2007/01/23(火) 17:28:57
高床式建物を、

主に住居として利用しているのが南方系の高床式建物文化。
主に倉庫として利用しているのが北方系の高床式建物文化。

日本の弥生人たちが利用していた高床式建物文化は、
住居、倉庫、さてどっち?

ちなみに江南の河姆渡遺跡の高床式建物は住居である。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%B2%CF%D5%A8%C5%CF%B0%E4%C0%D7%A1%A1%B9%E2%BE%B2%BC%B0&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1
689日本@名無史さん:2007/01/24(水) 19:12:24
鳥居の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
690日本@名無史さん:2007/01/25(木) 10:27:57
抜歯は世界中の原始社会で見られ、日本では先土器時代から行われ、
風習としての抜歯は約四千年前頃に東北地方の仙台湾周辺ではじまる。


抜歯の儀式は、世界の狩猟採集民族のなかでは、比較的あたりまえに
行われていて、それほど奇習というわけでもないのです。現在でも
アフリカ、東南アジア、オーストラリアの一部の民族に残っています。
http://www.city.fujiidera.osaka.jp/rekishitanbou/kodai/kodai-64.html

原始・古代の世界中に、抜歯風習はあったという。ことに長く続いたのが、アフリカ、
中国、日本だとされてますね。中でも目立ったのが、縄文・弥生の日本列島。
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub12..html

歯を抜いたり、歯を削り歯を飾る風習は、日本だけでなく中国、台湾、
アジア、オーストラリア、アフリカにもみられた。
http://www.dent-kng.or.jp/chishiki/museum/hakubutukan/wa_bassi/index.htm
691日本@名無史さん:2007/01/25(木) 12:45:43
主に近畿地方に新モンゴロイドの遺伝的特徴を有する人が多く、周辺に行くに従い旧モンゴロイドの特徴が強くなり、北海道と沖縄諸島にてもっとも強くなる。
ttp://wpedia.search.goo.ne.jp/search/265501/%B5%EC%A5%E2%A5%F3%A5%B4%A5%ED%A5%A4%A5%C9/detail.html?mode=0

現在の日本人は二つに分類できる。それは第一はATLウイルス・キャリア群であり、
第二はノンキャリア群である。前者は先住民であり、おそらく古モンゴロイドであろう。
後者はあとで大陸から渡来した新モンゴロイドが主で、これが大和に本拠をおいた大和人(和人)である。
これが北へ南へ進んで勢力を拡大し、最終的には現在、日本人の主流を形成するようになったのであろう。
ここでいうキャリア群は縄文人を指し、ウイルスを持っていないノンキャリア群は主として弥生時代以降に渡来した人々を指している。
ttp://www.dai3gen.net/ainujomo.htm
692日本@名無史さん:2007/01/25(木) 12:49:03
>>689


46 :池上遺跡 :2006/11/17(金) 21:00:54 ID:3LK6kuOW0
この「社頭の古木」というのは、百済地方の古い習俗である「ソッテ」のことにちがいない。
ソッテというのは、村の入口に立てられるもので、長い木の棒の先端に鳥形の木製品をとり
つけたものである。
このソッテを立てる習俗は早く日本に伝来しており、大阪の池上●遺跡や四ツ池遺跡をはじめ
弥生時代の中期から後期にかけての各地の遺跡から、数多くの鳥形木製品が発見されており、
棒の先端に装着されたことを示すものも多くある。
http://www.geocities.jp/tamatorijisi/kumanoharajinjyaengi.html


693日本@名無史さん:2007/01/25(木) 16:15:42
佐倉市にある国立歴史民俗資料館の春成秀爾氏によると、抜歯そのものは
縄文時代以前の先土器時代にもあるが、風習としての抜歯は約四千年前頃に
東北地方の仙台湾周辺ではじまり、それ以後に関東地方をはじめ全国に
広がったという。国立歴史民俗資料館前館長の佐原真氏によると、こうした
抜歯は現在でも世界のいくつかの民族の間に風習として残っており、
子どもから大人になるための儀礼(成人儀礼)としての事例、近親者が
亡くなると歯を抜く事例、勝利の明かしに捕虜から歯を抜く事例などが
あって、このうちも最も多いのは成人儀礼にともなう抜歯であるという。
http://www.jona.or.jp/~ichiyomi/rekisi/index4.html
694日本@名無史さん:2007/01/26(金) 15:19:15
刺青はBC50Cには既に登場している。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として
記録されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。

http://www.ta2.com/tattoohistory.html
695日本@名無史さん:2007/01/27(土) 19:36:46
半月型石包丁は満州南部を経由している。




龍山文化(紀元前30世紀−前20世紀)の特徴的な半月形石刀が、
吉林、永吉、?安、?春、通化、桓仁などで出土。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus-tsusi/tungus-tsusi-1-gaiyou.htm



696日本@名無史さん:2007/01/28(日) 20:11:26
鵜飼は満州南部を経由している。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
http://www.jiyuu-shikan.org/store/video/206.html

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
http://www.han.org/a/half-moon/hm080.html
697日本@名無史さん:2007/02/05(月) 19:31:10
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中で見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
http://style.beauty.yahoo.co.jp/fashion/dictionary/232_4.html

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
http://homepage1.nifty.com/mottoi/kokusai8.htm

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
http://www.h6.dion.ne.jp/~fu35/minzokuHP/ajia/indonesia.htm
698日本@名無史さん:2007/02/05(月) 19:34:30
西洋(エジプト文明、ギリシア文明、ローマ)では、もともとの
衣服は男女とも布を体に巻き付ける形式か、貫頭衣(大きな布に穴を
開け、そこから頭を出して着る)の形式でした。スカートみたいに
下が空いている服が、先にあったわけです。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=884804&rev=1

古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
http://home.att.ne.jp/red/senseofwondr/mou2.htm

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
http://www.lcv.ne.jp/~yokota/contents/mumble/ykt/970410.htm

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
http://www.psats.or.jp/psats.or.jp/column/nakamura027column.html
699日本@名無史さん:2007/02/05(月) 19:37:38
モロッコ;マラケシュ以来久々に見つけたインターネット屋に入ると、
国民服とでも言うべき水色のゆったりとした貫頭衣と黒いターバンを
目だけ出して口元まで巻いたサハラ地方独特のスタイル
http://world-reader.ne.jp/travel/e-yamada-000414.html
<マッキノウズ>
元来は北米原住民が着ていた貫頭衣式のブランケット式の外着。
http://www.geocities.jp/fashionarekore/aparrelma.htm
マヤ文明が栄えたグアテマラ周辺の女性が着用するウィピルと
呼ばれる貫頭衣をイメージ。
http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20060703/dol.htm?ref=rss
アラブの男性の衣服と言えば、寸胴の貫頭衣に袖をつけた程度の簡単な作り
のワンピースである。サナアでは一般的にはザンナと呼ばれている。
ソウブ・衣服ともいう。エジプトではガラベーヤ、サウジアラビアでは
ディッシュダーシャと言われている。
http://forum.nifty.com/fworld/pictures/yemen0212/05.htm
700日本@名無史さん:2007/02/24(土) 19:08:11
歌垣は8C頃の筑波あたりで始まる。


日本の古代の歌垣の場として知られている場所には,摂津の国「歌垣山」,
大和の石榴(つば)市・軽市,肥前杵島岳,などがあるが,筑波山は,
その歌垣の場の最も古く,最も著名な場のひとつであった。

その起源は,『常陸国風土記』によれば,神祖の尊が新嘗祭の夜に子供
である富士山を訪ね一夜の宿を請うたが断られ,別の子である筑波山に
宿を請うたところ,心良く招き入れられ,歓待を受けた。神祖の尊は,これを
いたく喜ばれ,「愛しき子の坐す宮は,高くそびえ,日々とともに,人々が集まり
ことほぎ,飲食(みけ)豊かに,代々絶えること無く,日に日に弥栄え,
千代万歳に,遊楽は尽きることがないであろう」と詠われた。これより後,
富士山は常に雪に覆われて登れず,筑波山には人々が行き集い,歌や舞が供され,
宴が繰り広げられるようになった・・・とされている。
http://tamagaki.hp.infoseek.co.jp/kume1.htm
701日本@名無史さん:2007/02/24(土) 19:12:49
常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年
(和銅6年)に編纂された、常陸国(現在の茨城県の大部分)の
地誌である。

元明天皇の詔によって編纂が命じられた。編纂者は詳しくは不明だが、
藤原宇合や高橋虫麻呂らが関与してると言われている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
702日本@名無史さん:2007/02/25(日) 19:22:45
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたとなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/1/yayoi_2.htm
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/wa/wa.pdf



703日本@名無史さん:2007/03/02(金) 09:45:36
隔週刊誌「SAPIO」の先週発売号 (何故か2/28号) の「ネットに蠢く反日団体一覧」特集のうち、
YouTubeとウィキペディアでの反日プロパガンダに関する記事です。

目次と内容
ttp://skygarden.shogakukan.co.jp/skygarden/owa/solrenew_magcode?sha=1&neoc=2300402107&keitai=0

YouTube
ttp://img264.imageshack.us/img264/8255/sapio20070228youtube001ag7.gif
ttp://img507.imageshack.us/img507/6997/sapio20070228youtube002so2.gif
ttp://img530.imageshack.us/img530/3659/sapio20070228youtube003ca2.gif

Wikipedia
ttp://img137.imageshack.us/img137/29/sapio20070228wikipedia1hh1.gif
ttp://img136.imageshack.us/img136/5580/sapio20070228wikipedia2xw9.gif
上では読めなくなっている囲みの分
ttp://img413.imageshack.us/img413/8692/sapio20070228wikipediactu9.gif

ウィキペディアに関してなんとかしたいと思ったらこちらへどうぞ。
朝鮮人のWikipedia(ウィキペディア)捏造に対抗せよ 16
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/korea/1168560731/l50
704日本@名無史さん:2007/03/03(土) 23:44:09
糸引き納豆の登場は室町時代頃で、なれずしは3C頃。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86

なれずしの歴史は古くて、紀元前には中国で食べられていたらしいんだ。
それが三世紀頃に日本にも伝わって、奈良時代には文献にも登場する。
http://www.kouryu.or.jp/asobi/2003syoku/d/3.htm
705日本@名無史さん:2007/03/10(土) 20:51:07

◎ケート Ket

中央シベリア、エニセイ川中流で伝統的漁撈・狩猟生活を送るケートと、
押し寄せる近代文明の点描。

自然環境(森、川、川岸の村)、川岸のチュム骨組に樹皮布を掛ける
(煙突は真上に出る)、製作中丸木舟に穴を開ける(火おこしの形を
した錐)、川に漕ぎ出す、魚(トナカイ肉?)を干す、日常生活
(洗濯物、子供のブランコ、食事、墓)、呪いの杭にトナカイの頭蓋骨
が掛かっている、★高床式蔵小屋★、素晴らしいアクセサリーの着いた
シャマンの枠太鼓、

http://tokyocinema.net/centralsiberialist.htm
706日本@名無史さん:2007/03/11(日) 17:03:22

ハントィ:自然環境、家屋等に関すること(家の飾り・トナカイ頭蓋骨、
デコイ、★高床式の狩猟用倉庫・鼠返し★、季節物衣料の取出し)

コミ:自然環境、家屋(木造家屋、隙間を苔で埋める)、狩猟(移動に
スキー、犬、鳥を餌に罠を仕掛ける、狩人寝床の用意、毛皮を剥ぐ)、
★小型高床式倉庫(狩猟用荷物、獲物を仕舞う、鼠返し)★、歌

マンシ:自然環境、家屋(丸太小屋、東側の外壁についた呪いの
ような物)、★高床式倉庫★、漁猟舟の櫂類、創生期に関する昔話、

http://tokyocinema.net/westsiberialist.htm
707日本@名無史さん:2007/03/12(月) 15:53:21

◎ナナイ人(ホジェン)の高床式倉庫(模型)

http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/nanai181.jpg.jpg

その他に、水がめ、料理するためのもの、魚皮なめし具、臼、織物を
する道具、糸まき、肉や魚を料理する時に使う道具、はし、食べ物を
保存するためにつくられた★高床式の倉庫★の模型、木の枝と泥でつくられる
家の模型、漁や交易に使う船(実物ならば700キロも載せられる)の模型、
鹿や魚を捕る為の道具などがありました。

http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/1eastnanaipink.htm
708日本@名無史さん:2007/03/13(火) 17:13:22

これは銛を使ってクジラを捕っている線画だが、アム−ル川下流域と
サハリン北部のニブフもまた、板をつなぎ合わせた板船に5-6人で
乗り込み、アザラシやサケなどの捕獲を生業にしていた。
地吹雪のなかを訪問した北方民族館には、このニブフに代表される
北海の海辺と河川の民の風俗や生活用品の数々が陳列されていた。
彼らは、冬には保温性の高い竪穴式住居に住み、夏には魚干し棚や
★貯蔵庫のある高床式住居★で暮らし、衣装には木綿や魚皮で作った
布を用い、白樺皮製の帽子をかぶり、アザラシ皮や魚皮の靴を
履いていたようである。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7754/liuhiyounoshiluet.htm
709日本@名無史さん:2007/03/13(火) 18:08:07
古代のあの鉄アレイを両耳に飾るのは何?
どこの文化?
710日本@名無史さん:2007/03/14(水) 17:19:14

ウリチ人とニブフ人は一年中定住村の住居と作業場兼用の建物に住んでおり、
ナナイ人、ネギダル人、オロク人、オロチ人、ウデゲ人は、冬は森の中の
定住村に住み、夏は魚の採れる川岸の季節村に移りました。定住村も季節村も
川岸に沿って細長く展開し、それぞれの住居は互いに離れており、そばには
★高床式の納屋★がついていました。

http://www.npec.or.jp/northeast_asia/cultural/index.html
711日本@名無史さん:2007/03/15(木) 13:05:33

ナナイ人は、現在400人程度いてハバロフスク市内から約1時間15分
ぐらいのアムール川の近くに集落があります。東洋系の顔でなぜか親しみを
感じました。生活は国から、援護を受けていて仕事はしなく、川で釣り
ばかりしているそうです。家は、小さくてみすぼらしく、貧しさが感じられ
ました。村長は特別扱いみたいで、家も立派で学校より大きく丘の上にあり
権威の象徴を感じました。

http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/wwwnikki.cgi?view=kako20050807.html

ナナイ人の高床式食糧倉庫
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/graph/20050807-1123390934.jpg
712日本@名無史さん:2007/03/17(土) 19:11:35
高床式建物を、

主に住居として利用しているのが南方系の高床式建物文化。
主に倉庫として利用しているのが北方系の高床式建物文化。

日本の弥生人たちが利用していた高床式建物文化は、
住居、倉庫、さてどっち?

ちなみに江南の河姆渡遺跡の高床式建物は住居の方である。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%B2%CF%D5%A8%C5%CF%B0%E4%C0%D7%A1%A1%B9%E2%BE%B2%BC%B0&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1
713日本@名無史さん:2007/03/18(日) 20:05:42
鳥居の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
714日本@名無史さん:2007/03/19(月) 19:37:10
抜歯は世界中の原始社会で見られ、日本では先土器時代から行われ、
風習としての抜歯は約四千年前頃に東北地方の仙台湾周辺ではじまる。


抜歯の儀式は、世界の狩猟採集民族のなかでは、比較的あたりまえに
行われていて、それほど奇習というわけでもないのです。現在でも
アフリカ、東南アジア、オーストラリアの一部の民族に残っています。
http://www.city.fujiidera.osaka.jp/rekishitanbou/kodai/kodai-64.html

原始・古代の世界中に、抜歯風習はあったという。ことに長く続いたのが、アフリカ、
中国、日本だとされてますね。中でも目立ったのが、縄文・弥生の日本列島。
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub12..html

歯を抜いたり、歯を削り歯を飾る風習は、日本だけでなく中国、台湾、
アジア、オーストラリア、アフリカにもみられた。
http://www.dent-kng.or.jp/chishiki/museum/hakubutukan/wa_bassi/index.htm
715日本@名無史さん:2007/03/19(月) 19:41:56
佐倉市にある国立歴史民俗資料館の春成秀爾氏によると、抜歯そのものは
縄文時代以前の先土器時代にもあるが、風習としての抜歯は約四千年前頃に
東北地方の仙台湾周辺ではじまり、それ以後に関東地方をはじめ全国に
広がったという。国立歴史民俗資料館前館長の佐原真氏によると、こうした
抜歯は現在でも世界のいくつかの民族の間に風習として残っており、
子どもから大人になるための儀礼(成人儀礼)としての事例、近親者が
亡くなると歯を抜く事例、勝利の明かしに捕虜から歯を抜く事例などが
あって、このうちも最も多いのは成人儀礼にともなう抜歯であるという。
http://www.jona.or.jp/~ichiyomi/rekisi/index4.html
716日本@名無史さん:2007/03/20(火) 22:08:06
刺青はBC50Cには既に登場している。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として
記録されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。

http://www.ta2.com/tattoohistory.html
717日本@名無史さん:2007/03/21(水) 21:25:48
半月型石包丁は満州南部を経由している。




龍山文化(紀元前30世紀−前20世紀)の特徴的な半月形石刀が、
吉林、永吉、?安、?春、通化、桓仁などで出土。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus-tsusi/tungus-tsusi-1-gaiyou.htm



718日本@名無史さん:2007/03/23(金) 23:11:48
鵜飼は満州南部を経由している。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
http://www.jiyuu-shikan.org/store/video/206.html

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
http://www.han.org/a/half-moon/hm080.html
719日本@名無史さん:2007/03/24(土) 19:08:39
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中で見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
http://style.beauty.yahoo.co.jp/fashion/dictionary/232_4.html

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
http://homepage1.nifty.com/mottoi/kokusai8.htm

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
http://www.h6.dion.ne.jp/~fu35/minzokuHP/ajia/indonesia.htm
720日本@名無史さん:2007/03/24(土) 19:12:36
西洋(エジプト文明、ギリシア文明、ローマ)では、もともとの
衣服は男女とも布を体に巻き付ける形式か、貫頭衣(大きな布に穴を
開け、そこから頭を出して着る)の形式でした。スカートみたいに
下が空いている服が、先にあったわけです。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=884804&rev=1

古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
http://home.att.ne.jp/red/senseofwondr/mou2.htm

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
http://www.lcv.ne.jp/~yokota/contents/mumble/ykt/970410.htm

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
http://www.psats.or.jp/psats.or.jp/column/nakamura027column.html
721日本@名無史さん:2007/03/24(土) 19:16:05
モロッコ;マラケシュ以来久々に見つけたインターネット屋に入ると、
国民服とでも言うべき水色のゆったりとした貫頭衣と黒いターバンを
目だけ出して口元まで巻いたサハラ地方独特のスタイル
http://world-reader.ne.jp/travel/e-yamada-000414.html
<マッキノウズ>
元来は北米原住民が着ていた貫頭衣式のブランケット式の外着。
http://www.geocities.jp/fashionarekore/aparrelma.htm
マヤ文明が栄えたグアテマラ周辺の女性が着用するウィピルと
呼ばれる貫頭衣をイメージ。
http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20060703/dol.htm?ref=rss
アラブの男性の衣服と言えば、寸胴の貫頭衣に袖をつけた程度の簡単な作り
のワンピースである。サナアでは一般的にはザンナと呼ばれている。
ソウブ・衣服ともいう。エジプトではガラベーヤ、サウジアラビアでは
ディッシュダーシャと言われている。
http://forum.nifty.com/fworld/pictures/yemen0212/05.htm
722日本@名無史さん:2007/03/25(日) 20:26:32
歌垣は8C頃に筑波あたりで始まる。


日本の古代の歌垣の場として知られている場所には,摂津の国「歌垣山」,
大和の石榴(つば)市・軽市,肥前杵島岳,などがあるが,筑波山は,
その歌垣の場の最も古く,最も著名な場のひとつであった。

その起源は,『常陸国風土記』によれば,神祖の尊が新嘗祭の夜に子供
である富士山を訪ね一夜の宿を請うたが断られ,別の子である筑波山に
宿を請うたところ,心良く招き入れられ,歓待を受けた。神祖の尊は,これを
いたく喜ばれ,「愛しき子の坐す宮は,高くそびえ,日々とともに,人々が集まり
ことほぎ,飲食(みけ)豊かに,代々絶えること無く,日に日に弥栄え,
千代万歳に,遊楽は尽きることがないであろう」と詠われた。これより後,
富士山は常に雪に覆われて登れず,筑波山には人々が行き集い,歌や舞が供され,
宴が繰り広げられるようになった・・・とされている。
http://tamagaki.hp.infoseek.co.jp/kume1.htm
723日本@名無史さん:2007/03/25(日) 20:28:49
常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年
(和銅6年)に編纂された、常陸国(現在の茨城県の大部分)の
地誌である。

元明天皇の詔によって編纂が命じられた。編纂者は詳しくは不明だが、
藤原宇合や高橋虫麻呂らが関与してると言われている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
724日本@名無史さん:2007/03/26(月) 13:09:35
気持ち悪いからもういいよ。
ご高説有難うございました。
725日本@名無史さん:2007/03/26(月) 17:23:45
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたとなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/1/yayoi_2.htm
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/wa/wa.pdf




726日本@名無史さん:2007/03/27(火) 13:17:17
糸引き納豆の登場は室町時代頃で、なれずしは3C頃。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86

なれずしの歴史は古くて、紀元前には中国で食べられていたらしいんだ。
それが三世紀頃に日本にも伝わって、奈良時代には文献にも登場する。
http://www.kouryu.or.jp/asobi/2003syoku/d/3.htm
727日本@名無史さん:2007/03/28(水) 16:20:18
高床式倉庫はシベリアやアムールにも見られる。


◎ケート Ket

中央シベリア、エニセイ川中流で伝統的漁撈・狩猟生活を送るケートと、
押し寄せる近代文明の点描。

自然環境(森、川、川岸の村)、川岸のチュム骨組に樹皮布を掛ける
(煙突は真上に出る)、製作中丸木舟に穴を開ける(火おこしの形を
した錐)、川に漕ぎ出す、魚(トナカイ肉?)を干す、日常生活
(洗濯物、子供のブランコ、食事、墓)、呪いの杭にトナカイの頭蓋骨
が掛かっている、★高床式蔵小屋★、素晴らしいアクセサリーの着いた
シャマンの枠太鼓、
http://tokyocinema.net/centralsiberialist.htm
728日本@名無史さん:2007/03/28(水) 16:27:54

ハントィ:自然環境、家屋等に関すること(家の飾り・トナカイ頭蓋骨、
デコイ、★高床式の狩猟用倉庫・鼠返し★、季節物衣料の取出し)

コミ:自然環境、家屋(木造家屋、隙間を苔で埋める)、狩猟(移動に
スキー、犬、鳥を餌に罠を仕掛ける、狩人寝床の用意、毛皮を剥ぐ)、
★小型高床式倉庫(狩猟用荷物、獲物を仕舞う、鼠返し)★、歌

マンシ:自然環境、家屋(丸太小屋、東側の外壁についた呪いの
ような物)、★高床式倉庫★、漁猟舟の櫂類、創生期に関する昔話、
http://tokyocinema.net/westsiberialist.htm
729日本@名無史さん:2007/03/29(木) 17:16:10

◎ナナイ人(ホジェン)の高床式倉庫(模型)
http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/nanai181.jpg.jpg
その他に、水がめ、料理するためのもの、魚皮なめし具、臼、織物を
する道具、糸まき、肉や魚を料理する時に使う道具、はし、食べ物を
保存するためにつくられた★高床式の倉庫★の模型、木の枝と泥でつくられる
家の模型、漁や交易に使う船(実物ならば700キロも載せられる)の模型、
鹿や魚を捕る為の道具などがありました。
http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/1eastnanaipink.htm

ウリチ人とニブフ人は一年中定住村の住居と作業場兼用の建物に住んでおり、
ナナイ人、ネギダル人、オロク人、オロチ人、ウデゲ人は、冬は森の中の
定住村に住み、夏は魚の採れる川岸の季節村に移りました。定住村も季節村も
川岸に沿って細長く展開し、それぞれの住居は互いに離れており、そばには
★高床式の納屋★がついていました。
http://www.npec.or.jp/northeast_asia/cultural/index.html
730日本@名無史さん:2007/03/29(木) 17:21:15

これは銛を使ってクジラを捕っている線画だが、アム−ル川下流域と
サハリン北部のニブフもまた、板をつなぎ合わせた板船に5-6人で
乗り込み、アザラシやサケなどの捕獲を生業にしていた。
地吹雪のなかを訪問した北方民族館には、このニブフに代表される
北海の海辺と河川の民の風俗や生活用品の数々が陳列されていた。
彼らは、冬には保温性の高い竪穴式住居に住み、夏には魚干し棚や
★貯蔵庫のある高床式住居★で暮らし、衣装には木綿や魚皮で作った
布を用い、白樺皮製の帽子をかぶり、アザラシ皮や魚皮の靴を
履いていたようである。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7754/liuhiyounoshiluet.htm
731日本@名無史さん:2007/03/30(金) 13:04:38

ナナイ人は、現在400人程度いてハバロフスク市内から約1時間15分
ぐらいのアムール川の近くに集落があります。東洋系の顔でなぜか親しみを
感じました。生活は国から、援護を受けていて仕事はしなく、川で釣り
ばかりしているそうです。家は、小さくてみすぼらしく、貧しさが感じられ
ました。村長は特別扱いみたいで、家も立派で学校より大きく丘の上にあり
権威の象徴を感じました。
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/wwwnikki.cgi?view=kako20050807.html

ナナイ人の高床式食糧倉庫
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/graph/20050807-1123390934.jpg
732日本@名無史さん:2007/03/30(金) 13:12:22
高床式建物を、

主に住居として利用しているのが南方系の高床式建物文化。
主に倉庫として利用しているのが北方系の高床式建物文化。

日本の弥生人たちが利用していた高床式建物文化は、
住居、倉庫、さてどっち?

ちなみに江南の河姆渡遺跡の高床式建物は住居の方である。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%B2%CF%D5%A8%C5%CF%B0%E4%C0%D7%A1%A1%B9%E2%BE%B2%BC%B0&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1
733日本@名無史さん:2007/03/31(土) 18:31:50
鳥居の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
734日本@名無史さん:2007/04/01(日) 18:58:35
抜歯は世界中の原始社会で見られ、日本では先土器時代から行われ、
風習としての抜歯は約四千年前頃に東北地方の仙台湾周辺ではじまる。


抜歯の儀式は、世界の狩猟採集民族のなかでは、比較的あたりまえに
行われていて、それほど奇習というわけでもないのです。現在でも
アフリカ、東南アジア、オーストラリアの一部の民族に残っています。
http://www.city.fujiidera.osaka.jp/rekishitanbou/kodai/kodai-64.html

原始・古代の世界中に、抜歯風習はあったという。ことに長く続いたのが、アフリカ、
中国、日本だとされてますね。中でも目立ったのが、縄文・弥生の日本列島。
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub12..html

歯を抜いたり、歯を削り歯を飾る風習は、日本だけでなく中国、台湾、
アジア、オーストラリア、アフリカにもみられた。
http://www.dent-kng.or.jp/chishiki/museum/hakubutukan/wa_bassi/index.htm
735日本@名無史さん:2007/04/01(日) 19:01:04
佐倉市にある国立歴史民俗資料館の春成秀爾氏によると、抜歯そのものは
縄文時代以前の先土器時代にもあるが、風習としての抜歯は約四千年前頃に
東北地方の仙台湾周辺ではじまり、それ以後に関東地方をはじめ全国に
広がったという。国立歴史民俗資料館前館長の佐原真氏によると、こうした
抜歯は現在でも世界のいくつかの民族の間に風習として残っており、
子どもから大人になるための儀礼(成人儀礼)としての事例、近親者が
亡くなると歯を抜く事例、勝利の明かしに捕虜から歯を抜く事例などが
あって、このうちも最も多いのは成人儀礼にともなう抜歯であるという。
http://www.jona.or.jp/~ichiyomi/rekisi/index4.html
736日本@名無史さん:2007/04/02(月) 16:41:38
刺青はBC50Cには既に登場している。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として
記録されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。

http://www.ta2.com/tattoohistory.html
737日本@名無史さん:2007/04/03(火) 17:23:20
半月型石包丁は満州南部を経由している。




龍山文化(紀元前30世紀−前20世紀)の特徴的な半月形石刀が、
吉林、永吉、?安、?春、通化、桓仁などで出土。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus-tsusi/tungus-tsusi-1-gaiyou.htm




738日本@名無史さん:2007/04/04(水) 14:51:44
鵜飼は満州や朝鮮半島にも見られる。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの
日中に行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で
船にすくいあげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
http://www.jiyuu-shikan.org/store/video/206.html

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
http://www.han.org/a/half-moon/hm080.html
739日本@名無史さん:2007/04/05(木) 18:58:42
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
http://style.beauty.yahoo.co.jp/fashion/dictionary/232_4.html

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
http://homepage1.nifty.com/mottoi/kokusai8.htm

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
http://www.h6.dion.ne.jp/~fu35/minzokuHP/ajia/indonesia.htm
740日本@名無史さん:2007/04/05(木) 19:00:53
西洋(エジプト文明、ギリシア文明、ローマ)では、もともとの
衣服は男女とも布を体に巻き付ける形式か、貫頭衣(大きな布に穴を
開け、そこから頭を出して着る)の形式でした。スカートみたいに
下が空いている服が、先にあったわけです。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=884804&rev=1

古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
http://home.att.ne.jp/red/senseofwondr/mou2.htm

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
http://www.lcv.ne.jp/~yokota/contents/mumble/ykt/970410.htm

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
http://www.psats.or.jp/psats.or.jp/column/nakamura027column.html
741日本@名無史さん:2007/04/05(木) 19:03:44
モロッコ;マラケシュ以来久々に見つけたインターネット屋に入ると、
国民服とでも言うべき水色のゆったりとした貫頭衣と黒いターバンを
目だけ出して口元まで巻いたサハラ地方独特のスタイル
http://world-reader.ne.jp/travel/e-yamada-000414.html
<マッキノウズ>
元来は北米原住民が着ていた貫頭衣式のブランケット式の外着。
http://www.geocities.jp/fashionarekore/aparrelma.htm
マヤ文明が栄えたグアテマラ周辺の女性が着用するウィピルと
呼ばれる貫頭衣をイメージ。
http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20060703/dol.htm?ref=rss
アラブの男性の衣服と言えば、寸胴の貫頭衣に袖をつけた程度の簡単な作り
のワンピースである。サナアでは一般的にはザンナと呼ばれている。
ソウブ・衣服ともいう。エジプトではガラベーヤ、サウジアラビアでは
ディッシュダーシャと言われている。
http://forum.nifty.com/fworld/pictures/yemen0212/05.htm
742日本@名無史さん:2007/04/06(金) 16:48:35
歌垣は8C頃に筑波あたりで始まる。


日本の古代の歌垣の場として知られている場所には,摂津の国「歌垣山」,
大和の石榴(つば)市・軽市,肥前杵島岳,などがあるが,筑波山は,
その歌垣の場の最も古く,最も著名な場のひとつであった。

その起源は,『常陸国風土記』によれば,神祖の尊が新嘗祭の夜に子供
である富士山を訪ね一夜の宿を請うたが断られ,別の子である筑波山に
宿を請うたところ,心良く招き入れられ,歓待を受けた。神祖の尊は,これを
いたく喜ばれ,「愛しき子の坐す宮は,高くそびえ,日々とともに,人々が集まり
ことほぎ,飲食(みけ)豊かに,代々絶えること無く,日に日に弥栄え,
千代万歳に,遊楽は尽きることがないであろう」と詠われた。これより後,
富士山は常に雪に覆われて登れず,筑波山には人々が行き集い,歌や舞が供され,
宴が繰り広げられるようになった・・・とされている。
http://tamagaki.hp.infoseek.co.jp/kume1.htm
743日本@名無史さん:2007/04/06(金) 16:50:37
常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年
(和銅6年)に編纂された、常陸国(現在の茨城県の大部分)の
地誌である。

元明天皇の詔によって編纂が命じられた。編纂者は詳しくは不明だが、
藤原宇合や高橋虫麻呂らが関与してると言われている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
744日本@名無史さん:2007/04/07(土) 22:55:45
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/1/yayoi_2.htm
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/wa/wa.pdf




745日本@名無史さん:2007/04/08(日) 21:24:20
糸引き納豆の登場は室町時代頃で、なれずしは3C頃。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86

なれずしの歴史は古くて、紀元前には中国で食べられていたらしいんだ。
それが三世紀頃に日本にも伝わって、奈良時代には文献にも登場する。
http://www.kouryu.or.jp/asobi/2003syoku/d/3.htm
746日本@名無史さん:2007/04/09(月) 20:17:55
高床式倉庫はシベリアやアムールにも見られる。


◎ケート Ket

中央シベリア、エニセイ川中流で伝統的漁撈・狩猟生活を送るケートと、
押し寄せる近代文明の点描。

自然環境(森、川、川岸の村)、川岸のチュム骨組に樹皮布を掛ける
(煙突は真上に出る)、製作中丸木舟に穴を開ける(火おこしの形を
した錐)、川に漕ぎ出す、魚(トナカイ肉?)を干す、日常生活
(洗濯物、子供のブランコ、食事、墓)、呪いの杭にトナカイの頭蓋骨
が掛かっている、★高床式蔵小屋★、素晴らしいアクセサリーの着いた
シャマンの枠太鼓、
http://tokyocinema.net/centralsiberialist.htm
747日本@名無史さん:2007/04/09(月) 20:21:01

ハントィ:自然環境、家屋等に関すること(家の飾り・トナカイ頭蓋骨、
デコイ、★高床式の狩猟用倉庫・鼠返し★、季節物衣料の取出し)

コミ:自然環境、家屋(木造家屋、隙間を苔で埋める)、狩猟(移動に
スキー、犬、鳥を餌に罠を仕掛ける、狩人寝床の用意、毛皮を剥ぐ)、
★小型高床式倉庫(狩猟用荷物、獲物を仕舞う、鼠返し)★、歌

マンシ:自然環境、家屋(丸太小屋、東側の外壁についた呪いの
ような物)、★高床式倉庫★、漁猟舟の櫂類、創生期に関する昔話、
http://tokyocinema.net/westsiberialist.htm
748日本@名無史さん:2007/04/10(火) 15:38:04
ウリチ人とニブフ人は一年中定住村の住居と作業場兼用の建物に住んでおり、
ナナイ人、ネギダル人、オロク人、オロチ人、ウデゲ人は、冬は森の中の
定住村に住み、夏は魚の採れる川岸の季節村に移りました。定住村も季節村も
川岸に沿って細長く展開し、それぞれの住居は互いに離れており、そばには
★高床式の納屋★がついていました。
http://www.npec.or.jp/northeast_asia/cultural/index.html

その他に、水がめ、料理するためのもの、魚皮なめし具、臼、織物を
する道具、糸まき、肉や魚を料理する時に使う道具、はし、食べ物を
保存するためにつくられた★高床式の倉庫★の模型、木の枝と泥でつくられる
家の模型、漁や交易に使う船(実物ならば700キロも載せられる)の模型、
鹿や魚を捕る為の道具などがありました。
http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/1eastnanaipink.htm
ナナイ人(ホジェン)の高床式倉庫(模型)
http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/nanai181.jpg.jpg
749日本@名無史さん:2007/04/10(火) 15:42:43

これは銛を使ってクジラを捕っている線画だが、アム−ル川下流域と
サハリン北部のニブフもまた、板をつなぎ合わせた板船に5-6人で
乗り込み、アザラシやサケなどの捕獲を生業にしていた。
地吹雪のなかを訪問した北方民族館には、このニブフに代表される
北海の海辺と河川の民の風俗や生活用品の数々が陳列されていた。
彼らは、冬には保温性の高い竪穴式住居に住み、夏には魚干し棚や
★貯蔵庫のある高床式住居★で暮らし、衣装には木綿や魚皮で作った
布を用い、白樺皮製の帽子をかぶり、アザラシ皮や魚皮の靴を
履いていたようである。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7754/liuhiyounoshiluet.htm
750日本@名無史さん:2007/04/11(水) 16:49:59

ナナイ人は、現在400人程度いてハバロフスク市内から約1時間15分
ぐらいのアムール川の近くに集落があります。東洋系の顔でなぜか親しみを
感じました。生活は国から、援護を受けていて仕事はしなく、川で釣り
ばかりしているそうです。家は、小さくてみすぼらしく、貧しさが感じられ
ました。村長は特別扱いみたいで、家も立派で学校より大きく丘の上にあり
権威の象徴を感じました。
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/wwwnikki.cgi?view=kako20050807.html

ナナイ人の高床式食糧倉庫
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/graph/20050807-1123390934.jpg
751日本@名無史さん:2007/04/11(水) 16:53:46
高床式建物を、

主に住居として利用しているのが南方系の高床式建物文化。
主に倉庫として利用しているのが北方系の高床式建物文化。

日本の弥生人たちが利用していた高床式建物文化は、
住居、倉庫、さてどっち?

ちなみに江南の河姆渡遺跡の高床式建物は住居の方である。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%B2%CF%D5%A8%C5%CF%B0%E4%C0%D7%A1%A1%B9%E2%BE%B2%BC%B0&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1
752日本@名無史さん:2007/04/12(木) 17:33:47
鳥居の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
753日本@名無史さん:2007/04/13(金) 12:44:36
抜歯は世界中の原始社会で見られ、日本では先土器時代から行われ、
風習としての抜歯は約四千年前頃に東北地方の仙台湾周辺ではじまる。


抜歯の儀式は、世界の狩猟採集民族のなかでは、比較的あたりまえに
行われていて、それほど奇習というわけでもないのです。現在でも
アフリカ、東南アジア、オーストラリアの一部の民族に残っています。
http://www.city.fujiidera.osaka.jp/rekishitanbou/kodai/kodai-64.html

原始・古代の世界中に、抜歯風習はあったという。ことに長く続いたのが、アフリカ、
中国、日本だとされてますね。中でも目立ったのが、縄文・弥生の日本列島。
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub12..html

歯を抜いたり、歯を削り歯を飾る風習は、日本だけでなく中国、台湾、
アジア、オーストラリア、アフリカにもみられた。
http://www.dent-kng.or.jp/chishiki/museum/hakubutukan/wa_bassi/index.htm
754日本@名無史さん:2007/04/13(金) 17:02:34
佐倉市にある国立歴史民俗資料館の春成秀爾氏によると、抜歯そのものは
縄文時代以前の先土器時代にもあるが、風習としての抜歯は約四千年前頃に
東北地方の仙台湾周辺ではじまり、それ以後に関東地方をはじめ全国に
広がったという。国立歴史民俗資料館前館長の佐原真氏によると、こうした
抜歯は現在でも世界のいくつかの民族の間に風習として残っており、
子どもから大人になるための儀礼(成人儀礼)としての事例、近親者が
亡くなると歯を抜く事例、勝利の明かしに捕虜から歯を抜く事例などが
あって、このうちも最も多いのは成人儀礼にともなう抜歯であるという。
http://www.jona.or.jp/~ichiyomi/rekisi/index4.html
755日本@名無史さん:2007/04/14(土) 20:55:05
刺青はBC50Cには既に登場している。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として
記録されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
http://www.ta2.com/tattoohistory.html
756日本@名無史さん:2007/04/15(日) 19:04:33
半月型石包丁は満州南部を経由している。




龍山文化(紀元前30世紀−前20世紀)の特徴的な半月形石刀が、
吉林、永吉、?安、?春、通化、桓仁などで出土。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus-tsusi/tungus-tsusi-1-gaiyou.htm




757日本@名無史さん:2007/04/16(月) 14:43:57
鵜飼は満州や朝鮮半島にも見られる。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
http://www.jiyuu-shikan.org/store/video/206.html

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
http://www.han.org/a/half-moon/hm080.html
758日本@名無史さん:2007/04/17(火) 15:48:48
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
http://style.beauty.yahoo.co.jp/fashion/dictionary/232_4.html

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
http://homepage1.nifty.com/mottoi/kokusai8.htm

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
http://www.h6.dion.ne.jp/~fu35/minzokuHP/ajia/indonesia.htm
759弥生の拳:2007/04/17(火) 16:49:24
西洋(エジプト文明、ギリシア文明、ローマ)では、もともとの
衣服は男女とも布を体に巻き付ける形式か、貫頭衣(大きな布に穴を
開け、そこから頭を出して着る)の形式でした。スカートみたいに
下が空いている服が、先にあったわけです。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=884804&rev=1

古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
http://home.att.ne.jp/red/senseofwondr/mou2.htm

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
http://www.lcv.ne.jp/~yokota/contents/mumble/ykt/970410.htm

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
http://www.psats.or.jp/psats.or.jp/column/nakamura027column.html
760日本@名無史さん:2007/04/17(火) 16:52:43
モロッコ;マラケシュ以来久々に見つけたインターネット屋に入ると、
国民服とでも言うべき水色のゆったりとした貫頭衣と黒いターバンを
目だけ出して口元まで巻いたサハラ地方独特のスタイル
http://world-reader.ne.jp/travel/e-yamada-000414.html
<マッキノウズ>
元来は北米原住民が着ていた貫頭衣式のブランケット式の外着。
http://www.geocities.jp/fashionarekore/aparrelma.htm
マヤ文明が栄えたグアテマラ周辺の女性が着用するウィピルと
呼ばれる貫頭衣をイメージ。
http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20060703/dol.htm?ref=rss
アラブの男性の衣服と言えば、寸胴の貫頭衣に袖をつけた程度の簡単な作り
のワンピースである。サナアでは一般的にはザンナと呼ばれている。
ソウブ・衣服ともいう。エジプトではガラベーヤ、サウジアラビアでは
ディッシュダーシャと言われている。
http://forum.nifty.com/fworld/pictures/yemen0212/05.htm
761日本@名無史さん:2007/04/18(水) 15:23:35
歌垣は8C頃に筑波あたりで始まる。


日本の古代の歌垣の場として知られている場所には,摂津の国「歌垣山」,
大和の石榴(つば)市・軽市,肥前杵島岳,などがあるが,筑波山は,
その歌垣の場の最も古く,最も著名な場のひとつであった。

その起源は,『常陸国風土記』によれば,神祖の尊が新嘗祭の夜に子供
である富士山を訪ね一夜の宿を請うたが断られ,別の子である筑波山に
宿を請うたところ,心良く招き入れられ,歓待を受けた。神祖の尊は,これを
いたく喜ばれ,「愛しき子の坐す宮は,高くそびえ,日々とともに,人々が集まり
ことほぎ,飲食(みけ)豊かに,代々絶えること無く,日に日に弥栄え,
千代万歳に,遊楽は尽きることがないであろう」と詠われた。これより後,
富士山は常に雪に覆われて登れず,筑波山には人々が行き集い,歌や舞が供され,
宴が繰り広げられるようになった・・・とされている。
http://tamagaki.hp.infoseek.co.jp/kume1.htm
762日本@名無史さん:2007/04/18(水) 15:28:31
常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年
(和銅6年)に編纂された、常陸国(現在の茨城県の大部分)の
地誌である。

元明天皇の詔によって編纂が命じられた。編纂者は詳しくは不明だが、
藤原宇合や高橋虫麻呂らが関与してると言われている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
763日本@名無史さん:2007/04/19(木) 13:10:45
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/1/yayoi_2.htm
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/wa/wa.pdf




764日本@名無史さん:2007/04/20(金) 12:38:47
糸引き納豆の登場は室町時代頃で、なれずしは3C頃。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86

なれずしの歴史は古くて、紀元前には中国で食べられていたらしいんだ。
それが三世紀頃に日本にも伝わって、奈良時代には文献にも登場する。
http://www.kouryu.or.jp/asobi/2003syoku/d/3.htm
765日本@名無史さん:2007/04/21(土) 20:54:51
高床式倉庫はシベリアやアムールにも見られる。


◎ケート Ket

中央シベリア、エニセイ川中流で伝統的漁撈・狩猟生活を送るケートと、
押し寄せる近代文明の点描。

自然環境(森、川、川岸の村)、川岸のチュム骨組に樹皮布を掛ける
(煙突は真上に出る)、製作中丸木舟に穴を開ける(火おこしの形を
した錐)、川に漕ぎ出す、魚(トナカイ肉?)を干す、日常生活
(洗濯物、子供のブランコ、食事、墓)、呪いの杭にトナカイの頭蓋骨
が掛かっている、★高床式蔵小屋★、素晴らしいアクセサリーの着いた
シャマンの枠太鼓、
http://tokyocinema.net/centralsiberialist.htm
766日本@名無史さん:2007/04/21(土) 21:00:31

ハントィ:自然環境、家屋等に関すること(家の飾り・トナカイ頭蓋骨、
デコイ、★高床式の狩猟用倉庫・鼠返し★、季節物衣料の取出し)

コミ:自然環境、家屋(木造家屋、隙間を苔で埋める)、狩猟(移動に
スキー、犬、鳥を餌に罠を仕掛ける、狩人寝床の用意、毛皮を剥ぐ)、
★小型高床式倉庫(狩猟用荷物、獲物を仕舞う、鼠返し)★、歌

マンシ:自然環境、家屋(丸太小屋、東側の外壁についた呪いの
ような物)、★高床式倉庫★、漁猟舟の櫂類、創生期に関する昔話、
http://tokyocinema.net/westsiberialist.htm
767日本@名無史さん:2007/04/22(日) 20:10:19

これは銛を使ってクジラを捕っている線画だが、アム−ル川下流域と
サハリン北部のニブフもまた、板をつなぎ合わせた板船に5-6人で
乗り込み、アザラシやサケなどの捕獲を生業にしていた。
地吹雪のなかを訪問した北方民族館には、このニブフに代表される
北海の海辺と河川の民の風俗や生活用品の数々が陳列されていた。
彼らは、冬には保温性の高い竪穴式住居に住み、夏には魚干し棚や
★貯蔵庫のある高床式住居★で暮らし、衣装には木綿や魚皮で作った
布を用い、白樺皮製の帽子をかぶり、アザラシ皮や魚皮の靴を
履いていたようである。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7754/liuhiyounoshiluet.htm
768日本@名無史さん:2007/04/22(日) 20:15:00
ウリチ人とニブフ人は一年中定住村の住居と作業場兼用の建物に住んでおり、
ナナイ人、ネギダル人、オロク人、オロチ人、ウデゲ人は、冬は森の中の
定住村に住み、夏は魚の採れる川岸の季節村に移りました。定住村も季節村も
川岸に沿って細長く展開し、それぞれの住居は互いに離れており、そばには
★高床式の納屋★がついていました。
http://www.npec.or.jp/northeast_asia/cultural/index.html

その他に、水がめ、料理するためのもの、魚皮なめし具、臼、織物を
する道具、糸まき、肉や魚を料理する時に使う道具、はし、食べ物を
保存するためにつくられた★高床式の倉庫★の模型、木の枝と泥でつくられる
家の模型、漁や交易に使う船(実物ならば700キロも載せられる)の模型、
鹿や魚を捕る為の道具などがありました。
http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/1eastnanaipink.htm
ナナイ人(ホジェン)の高床式倉庫(模型)
http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/nanai181.jpg.jpg
769日本@名無史さん:2007/04/23(月) 00:56:32
稲作農耕民族→長江文明→後の日本人やら台湾人の一部やらetc...

畑作牧畜民族→黄河文明→龍がシンボルの漢民族(中国)

というのが大雑把な認識なんですが何か違うんですか?
770日本@名無史さん:2007/04/23(月) 01:51:34
黄河文明て北方系かな?
なんか胡散臭くて中国信用できねぇw
771日本@名無史さん:2007/04/23(月) 06:16:48
黄河文明は鉄を畑作牧畜民で鉄を精製する能力があった漢民族でしょ。
それが南下してきて長江文明を蹂躙したんでしょ?
で、長江文明はかなり高い文明を誇っていたが
稲作とや魚を取って生活していたので、鉄を精製する能力が無く、太刀打ちできなかったと。
そして日本に来たのが弥生人。
772日本@名無史さん:2007/04/23(月) 10:37:17
↑恥というものを知らない在日台湾人w
773日本@名無史さん:2007/04/23(月) 17:07:17

ナナイ人は、現在400人程度いてハバロフスク市内から約1時間15分
ぐらいのアムール川の近くに集落があります。東洋系の顔でなぜか親しみを
感じました。生活は国から、援護を受けていて仕事はしなく、川で釣り
ばかりしているそうです。家は、小さくてみすぼらしく、貧しさが感じられ
ました。村長は特別扱いみたいで、家も立派で学校より大きく丘の上にあり
権威の象徴を感じました。
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/wwwnikki.cgi?view=kako20050807.html

ナナイ人の高床式食糧倉庫
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/graph/20050807-1123390934.jpg
774日本@名無史さん:2007/04/23(月) 17:09:27
高床式建物を、

主に住居として利用しているのが南方系の高床式建物文化。
主に倉庫として利用しているのが北方系の高床式建物文化。

日本の弥生人たちが利用していた高床式建物文化は、
住居、倉庫、さてどっち?

ちなみに江南の河姆渡遺跡の高床式建物は住居の方である。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%B2%CF%D5%A8%C5%CF%B0%E4%C0%D7%A1%A1%B9%E2%BE%B2%BC%B0&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1
775日本@名無史さん:2007/04/24(火) 15:19:09
鳥居の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
776日本@名無史さん:2007/04/25(水) 15:49:17
抜歯は世界中の原始社会で見られるが、日本では先土器時代から行われ、
風習としては4000年前頃に仙台湾周辺で始まる。


抜歯の儀式は、世界の狩猟採集民族のなかでは、比較的あたりまえに
行われていて、それほど奇習というわけでもないのです。現在でも
アフリカ、東南アジア、オーストラリアの一部の民族に残っています。
http://www.city.fujiidera.osaka.jp/rekishitanbou/kodai/kodai-64.html

原始・古代の世界中に、抜歯風習はあったという。ことに長く続いたのが、アフリカ、
中国、日本だとされてますね。中でも目立ったのが、縄文・弥生の日本列島。
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub12..html

歯を抜いたり、歯を削り歯を飾る風習は、日本だけでなく中国、台湾、
アジア、オーストラリア、アフリカにもみられた。
http://www.dent-kng.or.jp/chishiki/museum/hakubutukan/wa_bassi/index.htm
777日本@名無史さん:2007/04/25(水) 15:53:08
佐倉市にある国立歴史民俗資料館の春成秀爾氏によると、抜歯そのものは
縄文時代以前の先土器時代にもあるが、風習としての抜歯は約四千年前頃に
東北地方の仙台湾周辺ではじまり、それ以後に関東地方をはじめ全国に
広がったという。国立歴史民俗資料館前館長の佐原真氏によると、こうした
抜歯は現在でも世界のいくつかの民族の間に風習として残っており、
子どもから大人になるための儀礼(成人儀礼)としての事例、近親者が
亡くなると歯を抜く事例、勝利の明かしに捕虜から歯を抜く事例などが
あって、このうちも最も多いのは成人儀礼にともなう抜歯であるという。
http://www.jona.or.jp/~ichiyomi/rekisi/index4.html
778日本@名無史さん:2007/04/26(木) 16:54:35
刺青はBC50Cには既に登場している。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として
記録されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
http://www.ta2.com/tattoohistory.html
779日本@名無史さん:2007/04/27(金) 13:01:02
半月型石包丁は満州南部を経由している。




龍山文化(紀元前30世紀−前20世紀)の特徴的な半月形石刀が、
吉林、永吉、?安、?春、通化、桓仁などで出土。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus-tsusi/tungus-tsusi-1-gaiyou.htm




780日本@名無史さん:2007/04/28(土) 20:54:38
鵜飼は満州や朝鮮半島にも見られる。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
http://www.jiyuu-shikan.org/store/video/206.html

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
http://www.han.org/a/half-moon/hm080.html
781日本@名無史さん:2007/04/29(日) 22:19:37
丸木弓は弓矢が普及する中石器時代の代表的な遺品として北欧から出土している。


弓矢が普及するのは、中石器時代(→石器時代の「中石器時代」)以降と考えられている。
矢は、旧石器時代の槍(やり)や投げ槍にくらべて携帯に便利であり、動物相の変化に
より小型獣を狩猟対象とするようになった当時においては格段に効率的な狩猟具であった。
なお中石器時代に属するマグレモーゼ文化期(前8000〜前5600年)の弓として、
ホルメゴール遺跡(デンマーク)からイチイガシ(→ カシ)製丸木弓が全形で出土しており、
当時の代表的な遺品とされている。

http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1421501287/content.html
782日本@名無史さん:2007/04/30(月) 23:01:45
日本刀が完成するのは平安時代後期頃で、それまでは鉄剣や鉄刀であった。


古墳時代には武器の鉄製化も進んだ。刀剣では、それまでの銅剣に代わって
鉄剣が作られた。一般的に、両刃を剣とし、片刃の刀と区別している。
なお、古墳時代の刀剣は、のちの日本刀に見られるような反りはない。
刀に反りができるのは、平安後期以後である。
http://www.yurihama.jp/town_history/2hen/1syo/04040400.htm

平安時代後期、特に武家勢力が活発になった前九年の役や後三年の役あたりから
武家の勢力が増大し、これに伴い太刀が発達し、通常これ以降の物を日本刀とする。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%80
783日本@名無史さん:2007/05/01(火) 22:33:59
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
http://style.beauty.yahoo.co.jp/fashion/dictionary/232_4.html

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
http://homepage1.nifty.com/mottoi/kokusai8.htm

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
http://www.h6.dion.ne.jp/~fu35/minzokuHP/ajia/indonesia.htm
784日本@名無史さん:2007/05/01(火) 22:38:21
西洋(エジプト文明、ギリシア文明、ローマ)では、もともとの
衣服は男女とも布を体に巻き付ける形式か、貫頭衣(大きな布に穴を
開け、そこから頭を出して着る)の形式でした。スカートみたいに
下が空いている服が、先にあったわけです。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=884804&rev=1

古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
http://home.att.ne.jp/red/senseofwondr/mou2.htm

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
http://www.lcv.ne.jp/~yokota/contents/mumble/ykt/970410.htm

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
http://www.psats.or.jp/psats.or.jp/column/nakamura027column.html
785日本@名無史さん:2007/05/01(火) 22:42:21
モロッコ;マラケシュ以来久々に見つけたインターネット屋に入ると、
国民服とでも言うべき水色のゆったりとした貫頭衣と黒いターバンを
目だけ出して口元まで巻いたサハラ地方独特のスタイル
http://world-reader.ne.jp/travel/e-yamada-000414.html
<マッキノウズ>
元来は北米原住民が着ていた貫頭衣式のブランケット式の外着。
http://www.geocities.jp/fashionarekore/aparrelma.htm
マヤ文明が栄えたグアテマラ周辺の女性が着用するウィピルと
呼ばれる貫頭衣をイメージ。
http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20060703/dol.htm?ref=rss
アラブの男性の衣服と言えば、寸胴の貫頭衣に袖をつけた程度の簡単な作り
のワンピースである。サナアでは一般的にはザンナと呼ばれている。
ソウブ・衣服ともいう。エジプトではガラベーヤ、サウジアラビアでは
ディッシュダーシャと言われている。
http://forum.nifty.com/fworld/pictures/yemen0212/05.htm
786日本@名無史さん:2007/05/02(水) 17:20:26
歌垣は8C頃に筑波あたりで始まる。


日本の古代の歌垣の場として知られている場所には,摂津の国「歌垣山」,
大和の石榴(つば)市・軽市,肥前杵島岳,などがあるが,筑波山は,
その歌垣の場の最も古く,最も著名な場のひとつであった。

その起源は,『常陸国風土記』によれば,神祖の尊が新嘗祭の夜に子供
である富士山を訪ね一夜の宿を請うたが断られ,別の子である筑波山に
宿を請うたところ,心良く招き入れられ,歓待を受けた。神祖の尊は,これを
いたく喜ばれ,「愛しき子の坐す宮は,高くそびえ,日々とともに,人々が集まり
ことほぎ,飲食(みけ)豊かに,代々絶えること無く,日に日に弥栄え,
千代万歳に,遊楽は尽きることがないであろう」と詠われた。これより後,
富士山は常に雪に覆われて登れず,筑波山には人々が行き集い,歌や舞が供され,
宴が繰り広げられるようになった・・・とされている。
http://tamagaki.hp.infoseek.co.jp/kume1.htm
787日本@名無史さん:2007/05/02(水) 17:23:17
常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年
(和銅6年)に編纂された、常陸国(現在の茨城県の大部分)の
地誌である。

元明天皇の詔によって編纂が命じられた。編纂者は詳しくは不明だが、
藤原宇合や高橋虫麻呂らが関与してると言われている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
788日本@名無史さん:2007/05/03(木) 17:21:07
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




男子皆露紒 以木緜招頭

http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/1/yayoi_2.htm
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/wa/wa.pdf



789日本@名無史さん:2007/05/04(金) 14:02:19
糸引き納豆の登場は室町時代頃で、なれずしは3C頃。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86

なれずしの歴史は古くて、紀元前には中国で食べられていたらしいんだ。
それが三世紀頃に日本にも伝わって、奈良時代には文献にも登場する。
http://www.kouryu.or.jp/asobi/2003syoku/d/3.htm
790日本@名無史さん:2007/05/05(土) 16:07:13
長江流域では約5300年前には灰陶時代、約3400年前には既に施釉陶時代に入っている。


良渚(りょうしょ)文化【浙江省】(紀元前3300?〜紀元前2200?)
1936年、浙江省余杭市良渚鎮で400近い遺跡が発見されました。
馬家浜文化を継承して発展し、高水準の玉器が特色です。
絹織や麻織、竹編物、ろくろによる黒陶・灰陶製造が行われていました。
http://www.allchinainfo.com/history/period/changjiang.html


◎呉城文化

江西省樟樹市呉城鎮。紀元前1400年?〜紀元前1000年?黄河文明とは異質な
青銅器を特徴とし、原始的な磁器なども出土している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B1%9F%E6%96%87%E6%98%8E
791日本@名無史さん:2007/05/05(土) 16:11:45
●灰陶(かいとう)

中国、殷代以前に始まる陶質土器。焼成の最終段階で、空気をあまり送らず
窯の中を還元状態にするため灰青色を呈する。殷・周代を中心に漢・唐の
頃まで日常の容器として広く使われた。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/195.html

かい‐とう【灰陶】
中国、新石器時代から殷(いん)代に盛行した灰青色の土器。多くは表面に
櫛目文(くしめもん)や縄蓆文(じょうせきもん)をもつ。日常の容器として
唐・宋のころまで使用された。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?stype=2&dtype=2&p=%B3%A5%C6%AB
792日本@名無史さん:2007/05/05(土) 16:14:26
●原始磁器 げんしじき アジア 中華人民共和国 AD

中国古代の釉(うわぐすり)をかけた硬陶。
http://mobile.goo.ne.jp/search.jsp?MT=%BC%A7%B4%EF&FM=keyword


●灰釉陶 (原始磁器、原始青磁)

紀元前1600年に印文硬陶の流れの中で、1200度以上の高音焼成と上薬を
使用した陶器が発生する。その上薬(釉)が、灰・カオリナイト
(カオリナイトを含む白色化粧粘土)・石灰などを調合した灰釉である。
表面は灰色から灰緑色を呈する焼物である。日本ではまだ縄文文化の
解体も始まってはいない。
http://www4.ocn.ne.jp/~napland/yakimono/chire.html
793日本@名無史さん:2007/05/05(土) 16:23:36
794日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:51:17
長江流域では約6000年前に既に印文土器(印文陶)が登場している。


◎大渓文化( B.C.3990±260年〜B.C.3380±145年)

主要な文様には印文・水平周回文・篦描き文・貼付文・透し彫・彩絵があり、
縄文は見あたりません。このうち、印文は大渓文化の最も特徴的な文様で、
円形・半円形・三日月形・三角形・長方形・方形・工字形などの各種様式の
「小型スタンプ」を器表に深々と押印しています。
http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/kaisetu/14-1taikei.htm

●印文土器

中国南東部で新石器時代から漢代に使われた土器。
幾何学文様のあるスタンプを打った灰色の壺などで、軟陶と硬陶の別がある。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/75.html
795日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:58:47
雷文・方格文・条痕文・S字文など、印文土器にスタンプされた
幾何学文様(印文)が全く伝わっていない。


「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
796日本@名無史さん:2007/05/06(日) 20:19:38
ここのスレ主はいつまでも何がしたいの?
本でも出したらw
797日本@名無史さん:2007/05/06(日) 20:23:34
798日本@名無史さん:2007/05/06(日) 20:28:47
同じことしか書けないんだね。
みんな気持ち悪がって基地外としか思わないよ
799日本@名無史さん:2007/05/07(月) 21:56:33
●三足土器(さんそくどき)

三本の足をもつ土器。各地の先史・原史時代の遺跡から出土。
特に、中国の竜山文化時代に盛行した鬲(れき)・鼎(てい)など。
後に青銅器製となる。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/341.html

古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
800日本@名無史さん:2007/05/07(月) 22:07:37
長江流域では約6000年前に三足土器の鼎が登場し、漢代まで代表的な器形であった。


2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。

 これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域
で形や種類、技法、文様などがかなり異なります。 また、農業の発達によって土器
づくりの技術も発達し、約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な
土器の一つとなりました。土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連
したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.html
801日本@名無史さん:2007/05/07(月) 22:12:31
802日本@名無史さん:2007/05/08(火) 17:22:27
●中国青銅器について
----------------------------------------------------------------------------
古代中国では紀元前21世紀頃から青銅器文明は存在し、その後鉄器と入れ替わる戦国まで
の数百年間に渡って、それぞれの時代背景を基に形・文様・銘文に特色を残していきました。
中国青銅器は他を圧倒するほど強くその存在を示し、祭器・礼器としての役割を十分に果たして
いたと容易に想像させられます。プリミティブな造形と繊細なまでの技巧がうまく調和し、
数千年もの歳月を経て、人間がつくった最高の美術品として確立していきまいした。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html
803日本@名無史さん:2007/05/08(火) 17:26:25
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形が全く伝わっていない。




◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html



804日本@名無史さん:2007/05/08(火) 17:29:37
●越式鼎


江南名物「越式鼎」(エツシキテイ)。中原の漢式鼎よりも足が長い。
陶製と青銅製がある。



越式鼎
http://www.npm.gov.tw/english/exhbition/han9909/handynisty/live/pictures/art16.gif


805日本@名無史さん:2007/05/09(水) 14:49:05
ついに三内丸山遺跡の謎が解明された!

     驚愕の日本史の真実
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/?blog_id=2098137
806日本@名無史さん:2007/05/09(水) 16:49:53
●中国青銅器の文様


饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html
807日本@名無史さん:2007/05/09(水) 16:56:51
808日本@名無史さん:2007/05/10(木) 16:57:40
●金文

金文(きんぶん)とは青銅器の表面に鋳込まれた、あるいは刻まれた文字の
こと(「金」はこの場合青銅の意味)。中国の殷・周のものが有名。年代的
には甲骨文字の後にあたる。殷は青銅器文化が非常に発達した時代であり、
この文字を器の表面に鋳込む技術は門外不出となっていた。

金文は『史記』のような後世になって書かれた資料とは違い、完全な同時代
資料であるためこの時代を研究する上で非常に貴重な資料となっている。
しかし殷代の青銅器は古美術としてもきわめて高い価値があるため収集家など
がこれを所持することで一貫した研究が出来ないと言うことも起きている。

なお石などに刻まれた文章は石文と呼ばれ、一緒にして金石文と呼ばれる。
またこれらの研究者は金石家と呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%96%87
809日本@名無史さん:2007/05/10(木) 17:00:55
●鳥書

春秋時代の中期から後期にかけて、東方列国の金文には地方色が強く
あらわれてくる。特に注目すべきのは、南方の越、楚などの地方の
主として武器において、非常に装飾的な文字を扱ったものが現れる。
この地域で用いられた書体には、筆画が非常に複雑で、曲線が多い
もので、各文字のところどころに鳥の頭を図案化したような形がある
から、このような書体は「鳥書」(ちょうしょ)、あるいは「鳥篆」
と呼ぶ。
http://yupeihsu.at.infoseek.co.jp/syouten/kinbun.html
810日本@名無史さん:2007/05/10(木) 17:08:23
811日本@名無史さん:2007/05/11(金) 21:41:19
●古代中国の楽器


秦の統一以前の頃の楽器は史料に記載されているものが約70種もある。
『詩経』だけでも29種にふれており、打楽器には太鼓、鐘、鉦(しょう、
古代銅製の打楽器で、行軍の際に打ち鳴らしたもの)、磬(けい、銅製の
椀形の仏具と楽器)、缶(ふ、甕のようなもの)、鈴など21種があり、
吹奏楽器には簫(しょう、タテにして吹く長い笛)、管(さまざまな管楽器の
こと)、?(けん、土笛)、笙(しょう、いろいろな長さの十数本の竹の管で
作った吹奏楽器)など6種があり、弦楽器には琴、瑟(しつ)など2種のものが
あった。楽器の品種が多く増えたため、周(約前11世紀−前256年)の
時期には楽器を作る素材によって、金属、石、土、皮革、弦、木、匏
(ほう、瓢たんの実)、竹という8種類に分けられ、「8音」分類法と称された。
http://www.china.org.cn/japanese/144930.htm
812日本@名無史さん:2007/05/11(金) 21:46:41
●骨哨

河姆渡住処から160個骨哨が出土されて,今まで7000年の歴史があります。こんな骨笛は鳥類の
骨で作られ,骨管に1−3個の孔を磨き突いたから,鳥が鳴るような曲調を吹く事ができます。
同時の原始人は木下に隠れて,網を設置してから骨笛を吹くと,鳥らはこの音響を聞いてここへ
飛んでくるんです。これは道具でもあるし,簡単な楽器でもありますから,今までも一部分の
中国少数民族の狩り道具になっています。こんな原始道具はやはり今の竹笛になりました。
http://www.topqd.com/wj/chinayqs.htm

●磬

磬(けい)とは、中国で最も古い楽器である。石製の打楽器である。サヌカイトを叩くと金属音が
する。この石の長さ・厚みを変えて音階を奏でることができる。これを楽器として仕立てたのが
「磬」である。これを単独で使用することは希で、通常は音階順に8個、あるいはそれを2段並べて
16個台に懸けた「編磬」として用いたようである。殷代から楽器として使用されている。
http://www.page.sannet.ne.jp/to-okamo/guwanmi/kosen/kosen.htm
813日本@名無史さん:2007/05/11(金) 21:54:55
見よ!

古代中国のさまざまな楽器がさっぱり伝わっていない。
7000年前の河姆渡遺跡からある簫(タテ笛)の原型である骨哨に注目。


上から順に、簫、磬(編磬)、鐘(編鐘)、鐃、ロ于、鉦
http://www.szzwch.com/IMAGES/xiao.JPG
http://storage.kanshin.com/free/img_28/284331/k741978051.jpg
http://japanese.cri.cn/chinaabc/chapter20/images/bianzhong.jpg
http://www.miho.or.jp/booth/html/imgbig/00001190.htm
http://big5.huaxia.com/wh/whgb/wwdg/images/1639_0.jpg
http://www.kepco.co.jp/ICSFiles/artimage/2004/06/08/c_kpc891/kane_1.jpg

7000年前の河姆渡遺跡の骨哨
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_24_15.jpg
814日本@名無史さん:2007/05/12(土) 18:34:18
●越族 えつぞく

中国の長江中下流以南に広く分布していた民族。粤(えつ)とも書かれる。地域によって,於越(于越),
甌越(越東海,東甌),ビンエツ※注1※(東越),揚越,山越,南越,西甌(甌),駱越(駱)などが
あり,総称して百越(百粤)と呼ばれた。於越は春秋戦国時代に浙江省北半部を本拠に越という国を
建てた。甌越は浙江省南部の甌江流域により,ビンエツ※注1※は福建省ビンコウ※注2※流域を中心
とした。揚越は揚州にいた越で,西甌,駱越は広西壮族自治区,あるいは北ヴェトナムにまでひろがって
いたとみられている。秦代末期の混乱に乗じて,趙佗(ちょうた)が番禺(ばんぐう,広東省広州市)を
都に南越(南粤)国を建て,5代97年のあいだつづいたが,漢の武帝の前111年(元鼎6),漢に滅ぼされた。
越族の習俗については,入墨・断髪などが知られ,文化については,新石器時代から春秋戦国時代まで
盛んにつくられた幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている。
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C080C100.HTM
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
815日本@名無史さん:2007/05/12(土) 18:42:41
鉦は主に湖南省、江蘇省、浙江省などの長江流域一帯で出土し、
江南の百越(越族)の間で甚だ流行している。


鉦 打?樂器,形體似鐃,但比鐃高大和厚重,主要出土於湖南、江、浙一帶。
?都是春秋時代的樂器,在南方百越諸地則甚流行。
http://www.hawh.cn:82/gate/big5/www.hawh.cn/html/20060420/256406.html


弥生時代に印文土器、越式鼎、鉦なんて一切伝わっていない。

●印文土器
http://www.china-ikuta.jp/shohin/photo/zoom04.jpg
●越式鼎
http://www.npm.gov.tw/english/exhbition/han9909/handynisty/live/pictures/art16.gif
●鉦
http://www.kepco.co.jp/ICSFiles/artimage/2004/06/08/c_kpc891/kane_1.jpg
816日本@名無史さん:2007/05/12(土) 19:19:10
>>弥生人の心配するより半島人の心配したら!

韓国は病んでる韓国は壊れてる異常なる韓国、韓国人が一番わかってるようだ。
【朝鮮人を一番嫌ってるのは朝鮮人、若者の88%が祖国から逃げたいとは驚き!】

韓国の20〜30代の72%「韓国とは別の国に移民を希望」
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2003/09/17/20030917000013.html
韓国の20〜30代の会社員88%「移民して別の国で生活したい」
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2001/11/04/20011104000003.html
北朝鮮から韓国に逃げてきた者の69%「韓国とは別の第3国に移民したい」
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/09/16/20040916000004.html
韓国の高麗大学生の51%「韓国が嫌い」
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2001/11/05/20011105000031.html
名門梨花女子大の学生の62%「生まれ変わったら韓国以外に生まれたい」
http://kuki1.stoo.com/news/html/000/412/263.html
817日本@名無史さん:2007/05/13(日) 19:44:02
弥生時代開始頃の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


呉城文化 B1400?〜B1000?

 江西地方の文化はB3000年〜B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万uで、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。
http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
818日本@名無史さん:2007/05/13(日) 19:47:55
>豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土
>符号を刻した土器や鋳型も発見
>青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、商文化を凌ぐ鋳造技術




印文陶????釉陶????原始磁器????鼎????尊????

弥生時代開始頃の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡で
出土しない摩訶不思議なものばーっかり(嘲笑)



819日本@名無史さん:2007/05/14(月) 20:10:36
弥生時代開始頃の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


▲ 新干大洋洲商墓

1989年出土の、呉城文化第二期の大規模な墓。華北文化では商代後期にあたる。
両面神人頭像や大鐃に代表される多数の青銅器や玉器を含む2000点近い副葬品が出土。
青銅品486点のうち武器類は252点に達し、また礼器49点の殆どが実生活での使用痕を
遺し、ゲンと呼ばれる甑や一号方鼎など同時代最大級のものが含まれる。また造形美の
点では絶品とすら評される伏鳥双尾虎や、従来西周時代に鐘が変化して出現したとされ
てきた楽器の[金專]の出土など、独特の造形や装飾によって、青銅器文化時代における
江西省の独自性と重要性が再認識された。出土した青銅器は商式・融合式・土着式・
先周式に大別され、当時の中原のみならず渭水流域とも交流があったことを窺わせる。
また玉器の加工水準は石家河文化や良渚文化に比肩する。近年、近郊で多数の商代の
遺物を伴う61万uに達する都城址が発見され、王都址の可能性が期待されている。
http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
820日本@名無史さん:2007/05/14(月) 20:14:24
>両面神人頭像や大鐃に代表される多数の青銅器や玉器
>ゲンと呼ばれる甑や一号方鼎など同時代最大級
>伏鳥双尾虎や、従来西周時代に鐘が変化して出現したとされてきた
>楽器の[金專]



両面神人頭像?????鐃?????玉器?????ゲン?????
鼎?????伏鳥双尾虎?????[金專]?????

弥生時代開始頃の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡から出土しない
摩訶不思議なものばかり出土するんですねえ(嘲笑)


821日本@名無史さん:2007/05/15(火) 16:42:47
周代の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


江蘇句容・金壇周代土トン(土+敦)(盛り土、小山)墓群:考古学者たちは、
土トン墓の埋蔵の特色に合わせ、一層ずつ剥がしていく整理方法を採用し、
青銅器時代の江南の土トン墓造営の全過程を明らかにした。計40の土トンを
発掘し、233基の墓、229組の祭祀器物群、14カ所の墓葬建築遺物を整理、
幾何印紋陶(幾何学模様を施した陶器)、原始青磁器を中心に、江南地方の
特色をもつ各種文物3800点余りが出土した。
http://www.china-news.co.jp/culture/2006/05/cul06051302.htm

822日本@名無史さん:2007/05/15(火) 16:56:33
>幾何印紋陶(幾何学模様を施した陶器)、原始青磁器を中心



印紋陶?????原始青磁?????

弥生時代開始頃の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡から出土しない
摩訶不思議なものばかり出土するんですねえ(嘲笑)


823日本@名無史さん:2007/05/17(木) 16:47:36
●河姆渡文化 かぼとぶんか

浙江省余姚(よう)県河姆渡遺跡を標準とする新石器時代の文化をいう。主に寧紹平原の
東部地区に分布している。河姆渡遺跡には四つの文化層があり,第1層は良渚文化早期と
類似しており,第2層は馬家浜文化の要素がある。第3・4層は河姆渡文化層で,上の両層
よりも古く,注目すべき出土器物がある。土器は原始的な手づくりの,あらい厚手の不整形で,
低温で焼かれた夾炭黒陶が最も多く,混ぜられた植物の茎葉砕片やもみ殻が焼けて炭化し,
土器を黒色にしている。夾炭黒陶は第4層では最大量を占めるが,第1層に至るほど漸減し,
第1・2層では焼成温度の高い砂混じりの夾砂紅陶・灰陶が優勢となる。第4層の土器の主な
ものに,釜・罐(かん)・鉢・盤・器台がある。釜が四つの層を通して出土し,形態と
装飾が最も多様なところから,釜を南方地区新石器文化の特徴とする見解がある。第3層
出土の甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器で,のちに朝鮮・日本などに伝わり,
東アジアに特徴的な穀物を蒸して食べる調理法を普及させたものである。また紡錘のほか,
濃茶の文様を施した数個の彩陶片も発見されている。遺跡層が地下水面下にあったため,
多くの木器が保存され,耜(し。すき)・碗・盆・かい・杵・矛・紡・紡錘などのほか,
組み合わせ部品用と思われる大小の棒が発見されている。
824日本@名無史さん:2007/05/17(木) 16:53:27
第4層には骨器が非常に多く,石器は少ないが,第1層に至るほど,石器が漸増して
骨器が漸減し,河姆渡文化では骨器の比重が大きかったことが知られる。骨器には
鏃・針・管状針・梭形器・笛などあるが,大型哺乳動物(水牛?)の肩胛骨を加工
した多くの耜が注目をあびた。石器は小型のあらい磨製で,斧・手斧・のみ・紡錘
などがある。第4層の住居址に,多くの稲の穀粒・茎葉の堆積が発見された。栽培稲
のセン(注1)は、亜種晩稲型水稲と鑑定され,紀元前約 5000年のもので,現在の
ところ,東アジアにおける水稲の最古の実物標本といわれている。また,とち・ひし・
桃の実,ヘちま・はとむぎや,なつめの一種なども出土している。家畜には犬と豚が
おり,水牛もいたようである。土器面に豚,または豚と稲穂の刻まれたものがあり,
小型の陶豚もある。ほかに,多種類の獣・鳥・魚などの骨も出土している。当時の
河姆渡地域では,すでに骨耜・木耜などによる稲作農耕が行われ,家畜を飼育し,
狩猟・漁労や採集もかなりの比重を,占め,種々の生産・生活の器具を作り,紡織も
行われていたのである。住居は大きな材木で構築された高床式で,柱をくりぬいて
はりや板をはめこむなど,やや高い技術が用いられている。
825日本@名無史さん:2007/05/17(木) 16:56:55
素朴な芸術品も多く,木彫の魚,骨彫の匙・こうがい,陶製の魚・人頭像,象牙彫の鳥
などのほか,玉製の管・珠・ケツ・コウの装飾具がある。また朱紅色の漆器の木碗もあり,
生漆と鑑定され,中国で最古のものといわれる。出土した50余種属の動物の生態および
植物遺存と花粉分析が明らかにした植生の状態から推測すると,当時この一帯は,現在
よりも温暖多湿で,現在の広東・広西等の地区に近く,山麓に接した大小の湖沼が散在する
草原灌木地帯であったようである。河姆渡文化の年代は,ほぼ紀元前5000年ごろにあたる
といわれ,揚子江下流域における最古の新石器文化であり,黄河中流域や山東地域の文化と
並んで,中国の早期新石期文化の一つの中心である。 
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
826日本@名無史さん:2007/05/17(木) 17:00:37
>>>夾炭黒陶は第4層では最大量を占める>>>釜・罐(かん)・鉢・盤・器台
>>>甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器
>>>濃茶の文様を施した数個の彩陶片>>>笛などある>>>土器面に豚
>>>小型の陶豚もある>>>骨耜・木耜などによる稲作農耕>>>陶製の魚・人頭像


黒陶?????釜?????罐?????鉢?????盤?????
器台?????甑?????彩陶?????笛?????
土器面に豚?????陶豚?????骨耜?????木耜?????
陶魚?????人頭像?????


7000年前の長江流域の出土物は日本の縄文遺跡から全く出土しない
摩訶不思議なものばかり出土するんですねえ(嘲笑)

827日本@名無史さん:2007/05/18(金) 12:38:56
見よ!

7000年前の長江流域の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の耜(鋤)、黒陶や彩陶、
釜・罐・鉢・盤・器台・甑・灶などの器形、骨哨(骨製のタテ笛)、猪文様など、
縄文時代を通してさーっぱり伝わっていない。



◎河姆渡遺跡

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
http://homepage3.nifty.com/sugar-tr/joumonG.html


828日本@名無史さん:2007/05/19(土) 19:35:03

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://www.asyura2.com/0510/bd42/msg/948.html
829日本@名無史さん:2007/05/19(土) 19:45:53
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった





原始青磁はもちろん、灰陶さえ伝わってない事実には一切触れない
スットボケ南京博物院(嘲笑)



830日本@名無史さん:2007/05/20(日) 21:10:48
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。
http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
831日本@名無史さん:2007/05/20(日) 21:17:50
>圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、
>砂の入った灰色陶器、上薬のついた陶器、硬質陶器など



圏足器?????環足杯?????灰色陶器?????
上薬のついた陶器?????硬質陶器?????


BC16Cの華南の出土物さえ日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり(嘲笑)


832日本@名無史さん:2007/05/21(月) 15:34:51

◎戰國時代陶質編鐘在?文化發源地無錫出土


新華網江蘇頻道南京4月16日電 (高幼元) 日前,在無錫市錫山區泰伯文化
藝術節上,一批最近出土的戰國時代陶質編鐘等古樂器向中外遊客展示。
這批距今2000多年?青銅器的樂器中,最令人驚嘆的是,經修復後最大的編鐘,
高30多公分,造型十分精致。

展示會上,錫山區文管會同志介紹?,這裏是?文化發源地。這批新出土的文物,
除編鐘、鐃、磬等樂器類陶器30餘件外,還有經修復的缸、罐、壇、鼎等各種
陶器共五十多件。這些原始瓷或印紋硬釉陶器,紋飾繁多。有乳釘紋、水波紋、
方格紋、圓圈紋等。經考古專家初?鑒定,數量之多,品種之全,工藝之精,
在全國罕見。
833日本@名無史さん:2007/05/21(月) 15:36:11
這批珍貴的出土文物是當地村民發現的。今年2月19日,錫山區後宅鎮天仙
塘萬安橋村村民鄒曉峰和鄒春鋒,帶著20多件陶器,向區文管會報告,村裏
一個大土?上發現了“古董”。工作人員認出是極有價?的陶制編鐘。第二
天即?到現場。這個大土?是五年前,鎮上築新路取土用的,當時就有部分
古陶器被?出,村民見是陶土做的,沒在意。而這次錫山區考古人員卻十分
在意,“掘地三尺”,出土的陶片、陶器用1噸半?車裝了滿滿一車。隨後,
他們邊向上級部門報告,邊請專家來修復,並對來報告的兩村民給予了獎勵。

後宅鎮往南數公里的鴻聲鎮,正在發掘的彭祖?文化遺址,已有一大批距今
6000年至7000年的新石器時代文物初露真容。據南京博物院考古學家介紹,
彭祖?是長江三角洲文化層次堆積最厚、包含物最多、保存最好的一處?史文化
遺址,是當代研究太湖流域人類文明發展史最好的?史資料。該鎮的鴻山南麓有
一座被譽為“開發江南先祖”泰伯之墓,距今已有3196年?史。現在,後宅鎮又
新出土的2000年前的古編鐘,作為陶樂器隨葬品,非一般人可用,是墓主人身?
顯赫?還是當時這塊地主是個文化“繁榮”勝地?這還需專家來解謎。
http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/www.js.xinhua.org/htm4/2041622.htm
834日本@名無史さん:2007/05/21(月) 15:38:46
>陶質編鐘等古樂器向中外遊客展示
>鐃、磬等樂器類陶器30餘件外,還有經修復的缸、罐、壇、鼎等
>各種陶器共五十多件。這些原始瓷或印紋硬釉陶器,紋飾繁多。
>有乳釘紋、水波紋、方格紋、圓圈紋等。


編鐘?????鐃?????磬?????缸?????罐?????
壇?????鼎?????原始瓷?????印紋硬釉陶?????
有乳釘紋?????水波紋?????方格紋?????圓圈紋?????


いやあ、弥生時代の江南の江蘇省無錫からは日本の弥生遺構では
さーっぱり見た事がない摩訶不思議な物や文様が出るんですねえ(嘲笑)

835日本@名無史さん:2007/05/22(火) 06:51:53
ある民族が生み出した領土拡大ノウハウ

1 史書をいじって他所の土地に印綬をそっと埋めておく
2 頃合を見計らって「君達の祖先は・・・」と口説いたり、攻め込む口実にしたりする
836日本@名無史さん:2007/05/22(火) 17:05:50

●考古發現一罐鴨蛋醃了2500年


在句容、金壇乃至整個江南,有一種獨具特色的土墩墓,這些墓聳立在山巒崗地、平原叢林中,
遠遠看上去,就像是一個隆起的大土墩。它們代表著西周至春秋戰國時期江南特有的土著文化。
目前經初步探查,在鎮江周邊約有5000多座土墩墓。

江蘇省8支考古隊120多位考古專家,從今年4月起對相關公路沿線的土墩墓進行了搶救性發掘,
先後發現了46座西周到春秋時期的土墩墓,出土文物4000多件。昨天,來自全國各地的10多位
考古專家不僅實地勘查了考古現場,還商討如何保護土墩墓的發掘成果
837日本@名無史さん:2007/05/22(火) 17:08:15
一罐鴨蛋完好無損

豆、碗、盞、盅、罐、鼎,所有文物按照不同的古墓,從大到小一字排開,4000多件文物,
把句容博物館的兩層樓裝得滿滿的。最讓專家們意外的是,句容天王寨花頭的2號墩裡出土的
文物,雖然也是罐、豆等陶器,但其中一個小罐子裡面居然還盛著滿滿一罐鴨蛋!順著罐口
往裡看,白白的蛋比現在的鴨蛋小。記者還特地俯身聞了聞,可以嗅到一股鹹味。南京博物院
考古研究所副所長林留根說,出土時陶罐上還有一個蓋子,推測是2500年前這戶人家醃製的鴨蛋。

南京博物院研究員鄒厚本告訴記者,目前整個江蘇僅有三罐這樣的古老蛋,一罐在南農大的
博物館裡,一罐在鎮江博物館裡,這是考古發現的第三罐。早在上世紀70年代,發現第一罐蛋
的時候,他們就把這些蛋送給相關專家做研究,不過專家們也說不出個所以然。因此,古人
如何醃製鴨蛋,到現在還是個謎。至於保存,雖然古墓經常有雨水滲透,但罐子有罐蓋,
能擋住雨水,而且罐子裡面有封泥,這些封泥起到了很好的保護作用。細看罐中鴨蛋,除了
蛋殼是完好外,蛋青蛋黃怎樣?考古專家說,現在只能先保護,然後再研究。
838日本@名無史さん:2007/05/22(火) 17:09:37
古怪青瓷用途是謎

擺放文物的現場,好像是古代46戶人家家庭用具的一次集中展覽。從這些器物可以看出,當時人
們用特別大的缸來盛糧食,用鼎來燒飯,用青瓷碗來裝飯。不過,在句容天王寨出土的一個
青瓷器,卻令專家們無法辨別它的用途。

這件青瓷有一個圓圓的底座,以前從來未見過。此外,一個羽狀紋大瓷罐,也讓專家們好奇。
在西周至春秋時期,瓷罐上一般都只是直線條的花紋,而這個瓷罐上的花紋看上去像孔雀
尾巴上的羽毛,特別漂亮。這種花紋是怎麼製作出來的?這也是一個謎。
839日本@名無史さん:2007/05/22(火) 17:12:35
保護土墩墓刻不容緩

雖然盜墓賊看不上這些土墩墓,因為從墓葬出來的都是不太值錢的陶器殘片,但由於修路、
修水利等原因,每年都有成百座土墩墓被破壞了。這次寧常、鎮溧高速公路沿線有6座
土墩墓還未發掘就被摧毀,與此同時,金壇境內為建高爾夫球場平整40多座土墩,句容
境內25座土墩因工程建設被毀,句容郭莊鎮厚達7米的文化遺址被寧杭高速公路施工毀壞,
金壇一大型商代遺址被鎮政府推平……

蘊涵大量珍貴文物的古遺址、古墓葬卻毀在推土機下,實在令人心痛。專家們呼籲,
將江蘇土墩墓納入大遺址保護體系,與各市縣鄉鎮的經濟發展和社會發展規劃相融合,
防止建設性破壞,同時在對土墩墓群進行調查的基礎上,選擇幾個典型土墩墓進行解剖,
並修建遺址博物館,以帶動周圍土墩墓群的整體保護。
http://www.epochtimes.com/b5/5/12/30/n1171849.h
840日本@名無史さん:2007/05/22(火) 17:13:53




盞?????盅?????鼎?????青瓷?????花紋?????


いやあ、弥生時代開始頃の江南の出土物は日本の弥生遺跡から全く
出土しない摩訶不思議な物や文様ばかり出土するんですねえ(嘲笑)


841日本@名無史さん:2007/05/22(火) 18:08:32
日本人と韓国人の決定的なルーツの違い

中国から日本へ稲作が直接伝播した裏づけとなるRM1-b遺伝子
日本と中国は一致するが、朝鮮半島の古来種には存在しない
ttp://photoimg.enjoyjapan.naver.com/view/enjoybbs/viewphoto/phistory/81000/20070415117662321912060700.gif

アジア人のY染色体タイプ別
D型は日本人とチベット人に固有。
チベットからの大集団の移動があったことを示す。
ttp://photoimg.enjoyjapan.naver.com/view/enjoybbs/viewphoto/phistory/81000/20070415117662323578573500.jpg

現代韓国人はほとんど漢族と同じ南方系O型
ttp://photoimg.enjoyjapan.naver.com/view/enjoybbs/viewphoto/phistory/81000/20070415117662324960437000.gif

東アジア人のY染色体のYAP保有率
Y染色体は父親から息子にのみ伝わる遺伝子
東アジアでは日本人に固有のY染色体DE-YAPの分布
ttp://photoimg.enjoyjapan.naver.com/view/enjoybbs/viewphoto/phistory/81000/20070415117662324124927600.png

日本の本州に住む男性の43%がYAP+を保有
アイヌ人男性の98%がYAP+を保有
韓国人のYAPは1%しか存在しない
ttp://photoimg.enjoyjapan.naver.com/view/enjoybbs/viewphoto/phistory/81000/20070415117662324592654200.gif

ユーラシア大陸のYAP分布
YAPは縄文人固有の遺伝子ではなく中東から発祥したものと分かる
死海の東からシルクロードを通り抜けて集団の全てが日本へ大移住したことを示している。
ttp://photoimg.enjoyjapan.naver.com/view/enjoybbs/viewphoto/phistory/81000/20070415117662333055430800.jpg

東アジアの民族の遺伝子の近似値
日本人は特殊なタイプなことがわかる。韓国人のほうが漢族に近い。
ttp://photoimg.enjoyjapan.naver.com/view/enjoybbs/viewphoto/phistory/81000/20070415117662325260329400.gif
842日本@名無史さん:2007/05/23(水) 15:20:54

●鴻山越國貴族墓地發掘情況介紹

鴻山越國貴族墓地位江蘇無錫鴻山鎮東部,該區保存大小規模土墩近百座。南京博物院考古研究所及
錫山區文物管理委員會組成聯合考古隊,於2003年4月至2004年12月期間,對該範圍內土墩進行搶救性
發掘。

是次發掘7座墓葬,出土共計2000餘件隨葬器物,其中丘承墩就出土1100餘件精美成套的青瓷禮器、
樂器和玉器。 根據墓葬的封土規模、墓葬結構和隨葬器物的種類、質地、組合關係,7座墓葬可以
分為5個等級:
843日本@名無史さん:2007/05/23(水) 15:22:48
第一級別為丘承墩,該墓封土為長方形覆斗狀,是墓地中唯一的深坑墓,墓坑平面為「中」字形,
並有壁龕;隨葬品中青瓷禮器數量眾多,器類齊全;青瓷樂器既有中原式的鈕、甬鍾、磬,
亦有越式的ロ于、丁寧、鐸、勾、鈴形器、具座,還有以往從未確認的缶;玉器中,既有葬玉、
劍飾,亦有佩玉,而成雙成對的龍形佩、雙龍佩、龍鳳佩、龍首珩、龍形珩等組成的佩玉,
當為春秋戰國時期最高等級的佩飾;此外還隨葬琉璃釉盤蛇玲瓏球形器等象徵特殊意義的器物;
第二級別為老虎墩,該墓封土亦為長方形覆斗狀,埋葬方式為平地鋪木,隨葬器物中除生活用品外,
還包括成組的原始青瓷樂器和硬陶禮器、樂器;第三級別為萬家墳,與老虎墩的封土規模和平地
鋪木的葬制相同,然隨葬品中僅有成組的硬陶禮器、樂器而不見原始青瓷樂器;第四級別為曹家墳、
杜家墳,為長方形覆斗狀封土;第五級別為老墳墩、鄒家墩。這4座墓葬均無成組樂器隨葬,為長圓形
饅首狀封土。
844日本@名無史さん:2007/05/23(水) 15:24:48
鴻山貴族墓葬的特徵大致可歸納為以下幾點:
1. 長方形覆斗狀或長圓形封土;
2. 除特大型墓葬為深坑墓外,皆為平地起封;
3. 除特大型墓葬為「中」字形外,其餘皆為長條形墓葬,大型的還有墊木或分室用的木板等用於
構築墓室;
4. 隨葬器物主要為原始青瓷器和硬陶器;
5. 特大型墓葬的隨葬品中有組玉;
6. 隨葬器物中常見原始青瓷或硬陶的勾、ロ于、丁寧、鐸、羊角器、璧、鈴形器以及越式鼎、
筒形、盅、器蓋等;
7. 高等級的器物紋樣中常見蛇。而以蛇為器物紋樣也是越人圖騰崇拜的體現。
845日本@名無史さん:2007/05/23(水) 15:25:31
這些特徵中多為越國墓葬獨有,其中墓葬形制和隨葬品的質地、器形、器類與浙江紹興印山越王墓
以及安吉、海鹽、長興等地的越國貴族墓葬相同,尤其明顯的是均隨葬陶、瓷禮器和樂器,如ロ于、
丁寧、勾、鎛、甬鍾、磬、鈴形器、缶、具座、羊角器、璧以及越式鼎、筒形、盅、器蓋等;
根據墓葬的規模、形制和在墓地中的位置,以及隨葬器物的數量、種類和等級推測,鴻山貴族墓地
中丘承墩墓主的等級應為僅次於越王的越國大夫,此墓主室和後室總長僅次於紹興印山越王墓,
遠高於其他中小型越國貴族墓,而出土的隨葬器物則是目前已發掘的越國墓葬中等級最高、
質地最好且器類最為齊全的。

7座墓葬的隨葬品中,皆有完全相同器物,如壇、、碗、盅、器蓋等,其年代應相同;而大型或
中型墓葬中則有造型相同的鍾、鎛、磬、鈴形器、璧、羊角形器等,其年代亦應相同;而從印紋硬陶
和原始青瓷基本生活用品的形態、僅見麻布紋和米字紋等紋飾以及器物的組合關係,根據長江下游
土墩墓的分期,其年代應為戰國早期;出土玉器中,儘管有少量紋飾保留春秋晚期特徵,而絕大多數玉器
的造型和紋飾都呈現戰國早期的特徵。因此鴻山越國貴族墓地的年代可定為戰國早期,即越國最強盛的
越王勾踐時期。
846日本@名無史さん:2007/05/23(水) 15:26:38
鴻山越國貴族墓地中,丘承墩位於墓地的西北角,而其他大、中、小型墓葬則圍繞在丘承墩的東南呈
扇形分布,墓葬與墓葬之間既有一定的分布規律,又存在著嚴格的等級差別,為是次考古發掘最重要的
收穫之一;丘承墩墓為目前僅次於紹興印山越王墓的越國第二大墓,而丘承墩出土的大批精美成套的玉器、
青瓷禮器和樂器,應為迄今為止江浙一帶所發現的最高等級的越國隨葬器物,同樣為是次考古發掘最重要的
收穫之一。其墓地的完整性和禮器、樂器組合的完整性,尤其是越國的禮樂文化中將中原系統和諧地融入
越系統中,為越國史的研究和解決一系列春秋戰國時期的重要學術課題提供了一批極為珍貴的實物資料,
對於越文化乃至百越民族史的研究和越國考古學的研究將起著積極的推動作用。
http://www.cuhk.edu.hk/ics/ccaa/talk9.htm
847日本@名無史さん:2007/05/23(水) 16:57:55



いやあ、弥生時代の江南の江蘇省無錫の土トン墓からは、楽器やら、
玉器やら、越式鼎やら、酒器やら、原始青磁やら、印紋硬陶やら、
甬鍾やら、磬やら、ロ于やら、丁寧やら、勾やら、鈴形器やら、
龍形やら、龍鳳佩やら、具座やら、羊角器やら、越式鼎やら、筒形やら、
羊角器やら、もう、さーっぱり見た事も聞いた事もない代物まで、
ありとあらゆる摩訶不思議な物や文様が、出るわ、出るわ、出るわ、出るわ・・・

何でこんなイイモン、日本の弥生遺構から出んのやろ?(嘲笑)

848日本@名無史さん:2007/05/26(土) 19:12:36

●福建浦城管九土墩墓群发掘取得重要成果


本报讯 去年1—12月,在浦南(浦城—南平)高速公路的工程建设中,福建博物院
与福建闽越王城博物馆联合组成考古队,对位于浦城县管九村的土墩墓群进行了发掘,
获得了一批重要资料和成果。

此次发掘清理了社公岗由北向南延伸的长条形山脊上的6座土墩(浦社D1—D6);
洋山岗顶自东面的山坡地上的10座土墩(浦洋D1—D10);麻地尾U形岗脊和坡地上的
12座土墩(浦麻D1—D12);另在大王塝和社公岗的北侧晒谷坪山岗上也各清理了
一座土墩(浦晒D1)。
849日本@名無史さん:2007/05/26(土) 19:15:56
土墩地表隆起大多数比较明显,平面形状为椭圆形、方圆形和圆形。现存土墩高度约2、
个别约1米。社公岗、洋山的土墩封土多由红黄粘土堆筑而成,麻地尾多由质地较松散的
含砂黄灰土堆筑而成,无明显的夯筑迹象,从土墩周边的一些迹象分析其封土基本取自
土墩周围附近,封土中包含有陶片和石器等,陶片多以印纹硬陶和素面硬陶以及K衣陶
为主,也见有一些夹砂陶和陶纺轮,石器有镞、锛、砺石等。

此次已发掘的30余座土墩墓中一墩二墓的有4座,其余的皆为一墩一墓。从墓葬的形制又
可分为长方形浅坑、带墓道竖穴土(岩)坑和平地掩埋。墓葬均没有发现骨架及葬具等痕迹。
其营建过程是将上岗地面或清至风化岩山体,略作平整,有的局部垫以红褐土,有的以原山
修坡地,挖成长方形墓坑。共出土随葬器物230余件,主要器形有豆、罐、尊、瓮、盂、
碟和印纹硬陶罐、簋、豆、尊、盅以及青铜短剑、矛、戈、匕首、箭镞和锛、刮刀等组合。
850日本@名無史さん:2007/05/26(土) 19:18:23
一、社公岗墓葬区,发掘6座

PSD1M1土墩平面略呈方形,东西长18、南北宽16、中心高2米。出土随葬器物5件,
有青铜短剑、矛、箭镞、刮刀和原始青瓷三系尊。
PSD2M1土墩平面呈方形圆角,东西长22、南北宽20、外形高2—3米。为长方形墓坑,
出土随葬器物15件,有陶尊、原始瓷豆及青铜戈、矛、锛、镞和石枕等。
在M1的外围清理出开口于不同层面的早期墓葬共8座,多为无墓圹平地掩埋和无规则
浅坑形制,出土随葬陶器29件,均为K衣陶和印纹陶,成组和一线摆放。
PSD4M1土墩平面呈椭圆形,东西长22、南北宽19、高1.9—3.5米,带墓道竖穴土
(岩)坑墓,出土随葬器物9件,分布在墓室西北角和南到东部。
PSD5M1土墩平面略呈方圆形,直径约17、中心高1.6米。出土随葬器物3件,
为原始瓷器,有三系尊、罐和陶罐。
PSD6M1土墩平面略呈方圆形,直径约17、中心高1.8米。底面中部为长方形
卵石床墓,仅出土1件青铜器残片。
851日本@名無史さん:2007/05/26(土) 19:20:52
二、洋山墓葬区,发掘11座

PYD1M1土墩平面呈方圆形,南北长18、宽16、中心高1.8米。长方形墓坑,墓坑底满铺卵石,
墓坑北壁沟槽上发现残存较整齐的木炭立柱11根,转向西壁4根,立柱被烧毁程度不一,
高低不齐。出土随葬器物14件。从木炭柱的排列及烧毁的情况看,墓葬是有椁室的木椁墓,
墓室内曾经起火,未烧的椁板立柱腐朽无存。
PYD3M1土墩平面呈不规则方圆形,东西长15、宽13、中心高1.8米。长方形浅坑墓,出土
随葬器物8件,分布在墓室的东北面及西南角。
PYD4土墩平面呈不规则方圆形,直径14—15、中心高2.1米。发掘清理了PYD4M1和PYD4M2。
M1下压M2墓口,呈长方形浅坑,出土随葬器物8件,均为印纹陶,多为桶形罐。M2坑口呈
长方形,被M1所压,底部满铺较均遠I卵石。出土随葬器物3件。
852日本@名無史さん:2007/05/26(土) 19:26:40
三、麻地尾墓葬区

PMD2M1土墩平面呈椭圆形,直径16—18、中心高1.6米,长方形墓坑,出土随葬器物11件,原始瓷为豆、
罐,印纹陶为罐,纹饰为席纹,还出有纺轮和青铜矛、剑、戈等。
PMD3土墩平面呈方圆形,向上逐渐圆收成馒头状,直径约12、中心高约1.7米;发掘清理了叠压墓
PMD3M1和PMD3M2。PMD3M1长方形浅坑墓,出土随葬器物5件,分布在墓底南侧东部。有罐、豆和杯。
PMD3M2为带墓道竖穴石坑墓。坑口平面呈“凸”字形,墓室坑口南部东壁被M1打破。墓道为平底,
底面铺一层厚约15厘米的粗砂石。墓坑口平面呈圆角长方形,底部为较平整的风化岩石面,北沟西部
及西沟沟底面靠坑壁清出3处斜向墓坑外的圆洞遗存迹象,应是起排水的作用。出土随葬器物19件,
器物有罐、盆、尊、豆、簋、壶、杯、纺轮等。印纹硬陶多为罐,纹饰为拍印席纹。墓坑后壁(北壁)
中部和东壁中部各清出壁龛一个,北龛为半圆形。在龛上口部出土一组陶器4件,均为不同形体罐,
纹饰为拍印勾连雷纹,纹大双线棱格内饰星加鼓点,棱格间为锯齿纹。东龛为近圆形,未发现遗物。
PMD4土墩平面呈圆形,向上逐渐圆收成馒头状,直径13、中心高1.4米。在土墩的中部发掘清理了东北
—西南并排的墓坑PMD4M1和PMD4M2。PMD4M1为长方形浅坑墓,出土随葬器物3件,有原始瓷罐和陶罐,
纹饰为弦纹与戳点纹组合、席纹等。PMD4M2为带墓道浅石坑墓,坑口平面呈“凸”字形,长方形墓坑,
出土随葬器物3件。
853日本@名無史さん:2007/05/26(土) 19:48:02
四、晒谷坪墓葬区,发掘1座

晒谷坪1号墩(PSD1M1)在社公岗的北侧,为相连的小山岗,土墩略凸显呈不规则圆形,
直径9—11米。带斜坡墓道竖穴土(岩)坑墓,出土陶罐3件和青铜短剑1把。
管九土墩墓的发掘清理,填补了中国南方地区土墩墓分布区域的空白。我国先秦土墩墓
主要分布在长江以南的浙江、苏南、皖南(江西近年来也有一些发现)地区,福建以往没
有发现,此次浦城仙阳镇管九发现的30余座土墩墓,填补了这一空白。此次发掘出土了
一大批相对完整的青铜器、原始青瓷器、印纹陶器组合,年代约在西周—春秋阶段,填补了
福建地区该阶段考古学研究的许多缺环。出土的40多件青铜器,是福建地区一次性出土
青铜器最多的考古发现;7件造型精美的越式青铜剑,在全国首屈一指。这批西周—春秋的
土墩墓以平地掩埋发展至浅坑并向深坑过渡,反映了西周—春秋土墩墓的发展演变脉络。
它们都打破或叠压在夏商时期的墓葬之上,对研究土墩墓的发展演变有着重要意义。
http://www.ccrnews.com.cn/tbscms/module_wb/readnews.asp?articleid=25748
854日本@名無史さん:2007/05/26(土) 20:01:45




尊?????瓮?????盂?????簋?????盅?????
盆?????簋?????原始青瓷?????印纹陶?????
雷纹?????


弥生時代の華南の福建省の土トン墓さえもこの有り様(嘲笑)



855日本@名無史さん:2007/05/27(日) 18:14:25
高床式倉庫はシベリアやアムールにも見られる。


◎ケート Ket

中央シベリア、エニセイ川中流で伝統的漁撈・狩猟生活を送るケートと、
押し寄せる近代文明の点描。

自然環境(森、川、川岸の村)、川岸のチュム骨組に樹皮布を掛ける
(煙突は真上に出る)、製作中丸木舟に穴を開ける(火おこしの形を
した錐)、川に漕ぎ出す、魚(トナカイ肉?)を干す、日常生活
(洗濯物、子供のブランコ、食事、墓)、呪いの杭にトナカイの頭蓋骨
が掛かっている、★高床式蔵小屋★、素晴らしいアクセサリーの着いた
シャマンの枠太鼓、
http://tokyocinema.net/centralsiberialist.htm
856日本@名無史さん:2007/05/27(日) 18:27:10

ハントィ:自然環境、家屋等に関すること(家の飾り・トナカイ頭蓋骨、
デコイ、★高床式の狩猟用倉庫・鼠返し★、季節物衣料の取出し)

コミ:自然環境、家屋(木造家屋、隙間を苔で埋める)、狩猟(移動に
スキー、犬、鳥を餌に罠を仕掛ける、狩人寝床の用意、毛皮を剥ぐ)、
★小型高床式倉庫(狩猟用荷物、獲物を仕舞う、鼠返し)★、歌

マンシ:自然環境、家屋(丸太小屋、東側の外壁についた呪いの
ような物)、★高床式倉庫★、漁猟舟の櫂類、創生期に関する昔話、
http://tokyocinema.net/westsiberialist.htm
857日本@名無史さん:2007/05/27(日) 18:31:09

これは銛を使ってクジラを捕っている線画だが、アム−ル川下流域と
サハリン北部のニブフもまた、板をつなぎ合わせた板船に5-6人で
乗り込み、アザラシやサケなどの捕獲を生業にしていた。
地吹雪のなかを訪問した北方民族館には、このニブフに代表される
北海の海辺と河川の民の風俗や生活用品の数々が陳列されていた。
彼らは、冬には保温性の高い竪穴式住居に住み、夏には魚干し棚や
★貯蔵庫のある高床式住居★で暮らし、衣装には木綿や魚皮で作った
布を用い、白樺皮製の帽子をかぶり、アザラシ皮や魚皮の靴を
履いていたようである。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7754/liuhiyounoshiluet.htm
858日本@名無史さん:2007/05/28(月) 15:24:43
ウリチ人とニブフ人は一年中定住村の住居と作業場兼用の建物に住んでおり、
ナナイ人、ネギダル人、オロク人、オロチ人、ウデゲ人は、冬は森の中の
定住村に住み、夏は魚の採れる川岸の季節村に移りました。定住村も季節村も
川岸に沿って細長く展開し、それぞれの住居は互いに離れており、そばには
★高床式の納屋★がついていました。
http://www.npec.or.jp/northeast_asia/cultural/index.html

その他に、水がめ、料理するためのもの、魚皮なめし具、臼、織物を
する道具、糸まき、肉や魚を料理する時に使う道具、はし、食べ物を
保存するためにつくられた★高床式の倉庫★の模型、木の枝と泥でつくられる
家の模型、漁や交易に使う船(実物ならば700キロも載せられる)の模型、
鹿や魚を捕る為の道具などがありました。
http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/1eastnanaipink.htm
ナナイ人(ホジェン)の高床式倉庫(模型)
http://members-ftp.jcom.home.ne.jp/pinkorai/nanai181.jpg.jpg
859日本@名無史さん:2007/05/28(月) 15:27:59

ナナイ人は、現在400人程度いてハバロフスク市内から約1時間15分
ぐらいのアムール川の近くに集落があります。東洋系の顔でなぜか親しみを
感じました。生活は国から、援護を受けていて仕事はしなく、川で釣り
ばかりしているそうです。家は、小さくてみすぼらしく、貧しさが感じられ
ました。村長は特別扱いみたいで、家も立派で学校より大きく丘の上にあり
権威の象徴を感じました。
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/wwwnikki.cgi?view=kako20050807.html

ナナイ人の高床式食糧倉庫
http://www.toya-kohei.jp/cgi-bin/diary/graph/20050807-1123390934.jpg
860日本@名無史さん:2007/05/28(月) 15:32:28
高床式建物を、

主に住居として利用しているのが南方系の高床式建物文化。
主に倉庫として利用しているのが北方系の高床式建物文化。

日本の弥生人たちが利用していた高床式建物文化は、
住居、倉庫、さてどっち?

ちなみに江南の河姆渡遺跡の高床式建物は住居の方である。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%B2%CF%D5%A8%C5%CF%B0%E4%C0%D7%A1%A1%B9%E2%BE%B2%BC%B0&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1
861日本@名無史さん:2007/05/29(火) 17:09:32
鳥居の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
862日本@名無史さん:2007/05/30(水) 15:22:14
抜歯は世界中の原始社会で見られるが、日本では先土器時代から行われ、
風習としては4000年前頃に仙台湾周辺で始まる。


抜歯の儀式は、世界の狩猟採集民族のなかでは、比較的あたりまえに
行われていて、それほど奇習というわけでもないのです。現在でも
アフリカ、東南アジア、オーストラリアの一部の民族に残っています。
http://www.city.fujiidera.osaka.jp/rekishitanbou/kodai/kodai-64.html

原始・古代の世界中に、抜歯風習はあったという。ことに長く続いたのが、アフリカ、
中国、日本だとされてますね。中でも目立ったのが、縄文・弥生の日本列島。
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub12..html

歯を抜いたり、歯を削り歯を飾る風習は、日本だけでなく中国、台湾、
アジア、オーストラリア、アフリカにもみられた。
http://www.dent-kng.or.jp/chishiki/museum/hakubutukan/wa_bassi/index.htm
863日本@名無史さん:2007/05/30(水) 15:25:45
佐倉市にある国立歴史民俗資料館の春成秀爾氏によると、抜歯そのものは
縄文時代以前の先土器時代にもあるが、風習としての抜歯は約四千年前頃に
東北地方の仙台湾周辺ではじまり、それ以後に関東地方をはじめ全国に
広がったという。国立歴史民俗資料館前館長の佐原真氏によると、こうした
抜歯は現在でも世界のいくつかの民族の間に風習として残っており、
子どもから大人になるための儀礼(成人儀礼)としての事例、近親者が
亡くなると歯を抜く事例、勝利の明かしに捕虜から歯を抜く事例などが
あって、このうちも最も多いのは成人儀礼にともなう抜歯であるという。
http://www.jona.or.jp/~ichiyomi/rekisi/index4.html
864日本@名無史さん:2007/05/31(木) 16:59:46
刺青はBC50Cには既に登場している。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として
記録されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
http://www.ta2.com/tattoohistory.html
865日本@名無史さん:2007/06/01(金) 12:38:11
半月型石包丁は遼寧・満州南部を経由している。




龍山文化(紀元前30世紀−前20世紀)の特徴的な半月形石刀が、
吉林、永吉、?安、?春、通化、桓仁などで出土。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus-tsusi/tungus-tsusi-1-gaiyou.htm



866日本@名無史さん:2007/06/02(土) 18:55:50
鵜飼は満州や朝鮮半島にも見られる。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
http://www.jiyuu-shikan.org/store/video/206.html

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
http://www.han.org/a/half-moon/hm080.html
867日本@名無史さん:2007/06/03(日) 18:51:25
丸木弓は弓矢が普及する中石器時代の北欧の遺跡から出土している。


弓矢が普及するのは、中石器時代(→石器時代の「中石器時代」)以降と考えられている。
矢は、旧石器時代の槍(やり)や投げ槍にくらべて携帯に便利であり、動物相の変化に
より小型獣を狩猟対象とするようになった当時においては格段に効率的な狩猟具であった。
なお中石器時代に属するマグレモーゼ文化期(前8000〜前5600年)の弓として、
ホルメゴール遺跡(デンマーク)からイチイガシ(→ カシ)製丸木弓が全形で出土しており、
当時の代表的な遺品とされている。

http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1421501287/content.html
868日本@名無史さん:2007/06/04(月) 16:45:13
日本刀が完成するのは平安時代後期頃で、それまでは鉄剣や鉄刀であった。


古墳時代には武器の鉄製化も進んだ。刀剣では、それまでの銅剣に代わって
鉄剣が作られた。一般的に、両刃を剣とし、片刃の刀と区別している。
なお、古墳時代の刀剣は、のちの日本刀に見られるような反りはない。
刀に反りができるのは、平安後期以後である。

http://www.yurihama.jp/town_history/2hen/1syo/04040400.htm
869日本@名無史さん:2007/06/05(火) 15:41:26
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
http://style.beauty.yahoo.co.jp/fashion/dictionary/232_4.html

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
http://homepage1.nifty.com/mottoi/kokusai8.htm

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
http://www.h6.dion.ne.jp/~fu35/minzokuHP/ajia/indonesia.htm
870日本@名無史さん:2007/06/05(火) 15:44:19
西洋(エジプト文明、ギリシア文明、ローマ)では、もともとの
衣服は男女とも布を体に巻き付ける形式か、貫頭衣(大きな布に穴を
開け、そこから頭を出して着る)の形式でした。スカートみたいに
下が空いている服が、先にあったわけです。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=884804&rev=1

古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
http://home.att.ne.jp/red/senseofwondr/mou2.htm

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
http://www.lcv.ne.jp/~yokota/contents/mumble/ykt/970410.htm

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
http://www.psats.or.jp/psats.or.jp/column/nakamura027column.html
871日本@名無史さん:2007/06/05(火) 15:47:51
モロッコ;マラケシュ以来久々に見つけたインターネット屋に入ると、
国民服とでも言うべき水色のゆったりとした貫頭衣と黒いターバンを
目だけ出して口元まで巻いたサハラ地方独特のスタイル
http://world-reader.ne.jp/travel/e-yamada-000414.html
<マッキノウズ>
元来は北米原住民が着ていた貫頭衣式のブランケット式の外着。
http://www.geocities.jp/fashionarekore/aparrelma.htm
マヤ文明が栄えたグアテマラ周辺の女性が着用するウィピルと
呼ばれる貫頭衣をイメージ。
http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20060703/dol.htm?ref=rss
アラブの男性の衣服と言えば、寸胴の貫頭衣に袖をつけた程度の簡単な作り
のワンピースである。サナアでは一般的にはザンナと呼ばれている。
ソウブ・衣服ともいう。エジプトではガラベーヤ、サウジアラビアでは
ディッシュダーシャと言われている。
http://forum.nifty.com/fworld/pictures/yemen0212/05.htm
872日本@名無史さん:2007/06/06(水) 04:27:07
神武天皇=徐福でしょ。
江南辺りから数千人規模の大船団を率いて日本列島を目指し、
日本列島の南岸に沿って熊野まで来た辺りで上陸し大和に入って
原住民ナガスネヒコや土蜘蛛を征服して大和に国を建てた。
大和の新王国は新技術の水稲耕作による経済力をバックにして
次第に支配範囲を拡げていった。
873日本@名無史さん:2007/06/06(水) 06:03:10
かんべんしろや、ひげ自慢の古代中国人も今じゃ、髭も生えない新モンゴロイド
中国も糞もない。
874日本@名無史さん:2007/06/06(水) 12:01:45
考古学をかじったばかりの中学生が書き込んだみたいですねw

徐福が神武なら、弥生中期末頃の弥生遺物からは秦のシンボルだった
青銅鼎が出現しただろう。篆書の金文が刻まれて。

弥生土器には炊飯器の鬲などの三足土器が登場し、蓋付きの鉢や尊などの
ラッパ型の酒器や盃なんかも登場しただろう。

龍信仰が伝わり、色んな遺物から龍や篆書の刻印などが散見できただろう。

簫や磬や編鐘などの様々な楽器も登場していた事だろう。

中学生は二度と書き込んじゃダメだよw
875日本@名無史さん:2007/06/06(水) 12:32:41
徐福渡来伝説は古くから日本各地にあるし、
それを神武天皇に結びつける説も、
自分のオリジナルってわけでもないんだけどね。
876日本@名無史さん:2007/06/06(水) 17:00:34
歌垣は8C頃に筑波あたりで始まる。


日本の古代の歌垣の場として知られている場所には,摂津の国「歌垣山」,
大和の石榴(つば)市・軽市,肥前杵島岳,などがあるが,筑波山は,
その歌垣の場の最も古く,最も著名な場のひとつであった。

その起源は,『常陸国風土記』によれば,神祖の尊が新嘗祭の夜に子供
である富士山を訪ね一夜の宿を請うたが断られ,別の子である筑波山に
宿を請うたところ,心良く招き入れられ,歓待を受けた。神祖の尊は,これを
いたく喜ばれ,「愛しき子の坐す宮は,高くそびえ,日々とともに,人々が集まり
ことほぎ,飲食(みけ)豊かに,代々絶えること無く,日に日に弥栄え,
千代万歳に,遊楽は尽きることがないであろう」と詠われた。これより後,
富士山は常に雪に覆われて登れず,筑波山には人々が行き集い,歌や舞が供され,
宴が繰り広げられるようになった・・・とされている。
http://tamagaki.hp.infoseek.co.jp/kume1.htm
877日本@名無史さん:2007/06/06(水) 17:09:29
常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年
(和銅6年)に編纂された、常陸国(現在の茨城県の大部分)の
地誌である。

元明天皇の詔によって編纂が命じられた。編纂者は詳しくは不明だが、
藤原宇合や高橋虫麻呂らが関与してると言われている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
878日本@名無史さん:2007/06/07(木) 04:08:54
徐福=神武天皇に率いられて日本に上陸した江南の倭人は、
海兵隊+屯田兵のような連中で文字の読み書きができる者はほとんどいなかった。
江南の倭人は漢民族とは風習が違うので、漢民族のような祭器は用いなかった。
日本に土着化する過程でもともと異文化である漢民族の文化を継承しようと
する必要もなくなった。
879日本@名無史さん:2007/06/07(木) 13:26:06
また子供が何やら妄想を書き込んでますね。

徐福が神武なら、秦王朝のシンボルである青銅鼎が伝わり、そこに徐福自身の
原始漢字(篆書)の金文がにしっかり刻まれ、そのコピーが周辺に出回る。

BC3C頃の江南の文物は基本的に中原とほとんど同じ。

ただし、江南は鬲よりも鼎が圧倒的に多く、印文陶や原始青磁が多い。
炊飯には三足器以外に釜も使っている。

とにかく何も当時の華北や江南の特徴的な文物は伝わっていない。

大人のスレに子供は書き込まないように。
880日本@名無史さん:2007/06/07(木) 13:47:29
弥生時代の日本人を弥生人という
人種など関係ない
881日本@名無史さん:2007/06/07(木) 14:30:24
すり変えてんだよな「人」にwあんま内向きなごまかしに
終始してると、超大国連中にトドメ刺されるぞ学者先生方。
882日本@名無史さん:2007/06/07(木) 17:09:16
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




男子皆露紒 以木緜招頭

http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/1/yayoi_2.htm
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/wa/wa.pdf



883日本@名無史さん:2007/06/07(木) 17:13:09
日本列島内で旧石器人→縄文人→弥生人と進化したわけではないのだから、
縄文人も弥生人もどこかから来たのは間違いない。
縄文人は措くとして、弥生人がどこから来れば満足だというのかね?
884日本@名無史さん:2007/06/07(木) 20:05:58
そもそも弥生時代に中国南部の沿岸に住んでいた民族は漢民族じゃないんだが・・・w
中国古代史やったのか?
何でもかんでも半島経由にしたがる朝鮮人よ、中国にいって中国古代史を
勉強して来い
885日本@名無史さん:2007/06/08(金) 17:07:06
糸引き納豆の登場は室町時代頃で、なれずしは3C頃。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86

なれずしの歴史は古くて、紀元前には中国で食べられていたらしいんだ。
それが三世紀頃に日本にも伝わって、奈良時代には文献にも登場する。
http://www.kouryu.or.jp/asobi/2003syoku/d/3.htm
886日本@名無史さん:2007/06/09(土) 20:47:45
約6500年前には既に灰陶時代に入り、約4200年前には既に施釉陶時代に入る。



黄河中・上流域ではB.C.4500年に老官台文化(陝西省)が誕生し、
北首嶺遺跡などからは灰陶が出土している。

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm



中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm
887日本@名無史さん:2007/06/09(土) 20:52:59
●灰陶(かいとう)

中国、殷代以前に始まる陶質土器。焼成の最終段階で、空気をあまり送らず
窯の中を還元状態にするため灰青色を呈する。殷・周代を中心に漢・唐の
頃まで日常の容器として広く使われた。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/195.html

かい‐とう【灰陶】
中国、新石器時代から殷(いん)代に盛行した灰青色の土器。多くは表面に
櫛目文(くしめもん)や縄蓆文(じょうせきもん)をもつ。日常の容器として
唐・宋のころまで使用された。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?stype=2&dtype=2&p=%B3%A5%C6%AB
888日本@名無史さん:2007/06/09(土) 20:57:39
●原始磁器 げんしじき アジア 中華人民共和国 AD

中国古代の釉(うわぐすり)をかけた硬陶。
http://mobile.goo.ne.jp/search.jsp?MT=%BC%A7%B4%EF&FM=keyword


●灰釉陶 (原始磁器、原始青磁)

紀元前1600年に印文硬陶の流れの中で、1200度以上の高音焼成と上薬を
使用した陶器が発生する。その上薬(釉)が、灰・カオリナイト
(カオリナイトを含む白色化粧粘土)・石灰などを調合した灰釉である。
表面は灰色から灰緑色を呈する焼物である。日本ではまだ縄文文化の
解体も始まってはいない。
http://www4.ocn.ne.jp/~napland/yakimono/chire.html
889日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:28:00
890日本@名無史さん:2007/06/10(日) 10:48:16
で、結局弥生人はどこから来たの?
モンゴル?でもモンゴルじゃ水稲耕作はしないよね。
モンゴルから南下してきた弥生人の祖先の民族が朝鮮半島南部にしばらく滞留して、
しかし先住民とは血が交わることなく稲作技術だけを習得した後、
日本に渡って弥生人となった、ってことかいな?
891日本@名無史さん:2007/06/10(日) 17:31:17
長江流域では約6000年前に既に印文土器(印文陶)が登場している。


◎大渓文化( B.C.3990±260年〜B.C.3380±145年)

主要な文様には印文・水平周回文・篦描き文・貼付文・透し彫・彩絵があり、
縄文は見あたりません。このうち、印文は大渓文化の最も特徴的な文様で、
円形・半円形・三日月形・三角形・長方形・方形・工字形などの各種様式の
「小型スタンプ」を器表に深々と押印しています。
http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/kaisetu/14-1taikei.htm

●印文土器

中国南東部で新石器時代から漢代に使われた土器。
幾何学文様のあるスタンプを打った灰色の壺などで、軟陶と硬陶の別がある。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/75.html
892日本@名無史さん:2007/06/10(日) 17:36:15
雷文・方格文・条痕文・S字文など、印文土器にスタンプされた
幾何学文様(印文)が全く伝わっていない。


「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
893日本@名無史さん:2007/06/10(日) 17:42:53
894日本@名無史さん:2007/06/11(月) 00:23:44
ああむかつく、他人の説を否定するなら代替説のひとつで出しやがれよ腰抜けが!
895日本@名無史さん:2007/06/11(月) 20:06:28
●三足土器(さんそくどき)

三本の足をもつ土器。各地の先史・原史時代の遺跡から出土。
特に、中国の竜山文化時代に盛行した鬲(れき)・鼎(てい)など。
後に青銅器製となる。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/341.html

古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
896日本@名無史さん:2007/06/11(月) 20:12:23
1. 華南地域では農業の発達が遅かったため、土器の種類は多くありません。
2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。
3. 黄河流域では、約1万年前から粟やひえの栽培が始まり、約7000年前以降には平底、
丸底、三足の土器が出現。 約5000年前から土器が一変し、中流域では灰色土器、
下流域では黒色土器が現れます。
4. 北方地域西北地方では、約6000年前以前の土器は発見されませんが、彩文土器が
発達したことが大きな特色です。
5. 北方地域東北地方では、約6000年〜5000年前に窯を使用し、彩文土器が出現しました。

これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域で形や
種類、技法、文様などがかなり異なります。また、農業の発達によって土器づくりの技術も
発達し、約6000年前には三足土器が登場。中国の漢時代まで代表的な土器の一つとなりました。
土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.html
897日本@名無史さん:2007/06/11(月) 20:37:45
898日本@名無史さん:2007/06/11(月) 22:20:08
そんな前のこと、どっちでもいいよ
899日本@名無史さん:2007/06/12(火) 07:50:31
こう言うのは、超大国連中の国家戦略に絡むんだよw今更手遅れな部分もあるがな
やっとこさ気づいてどうでもいい竹かご売りに出した国もあるがな、その意図
は買う。半島はあせる必要も無いと思うがな。
900日本@名無史さん:2007/06/12(火) 19:54:47
●中国青銅器について
-------------------------------------------------------------
古代中国では紀元前21世紀頃から青銅器文明は存在し、その後鉄器と
入れ替わる戦国までの数百年間に渡って、それぞれの時代背景を基に
形・文様・銘文に特色を残していきました。中国青銅器は他を圧倒する
ほど強くその存在を示し、祭器・礼器としての役割を十分に果たしていた
と容易に想像させられます。プリミティブな造形と繊細なまでの技巧が
うまく調和し、数千年もの歳月を経て、人間がつくった最高の美術品として
確立していきまいした。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html
901日本@名無史さん:2007/06/12(火) 20:02:23
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形が全く伝わっていない。




◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html


902日本@名無史さん:2007/06/12(火) 20:08:24
●越式鼎


江南名物「越式鼎」(エツシキテイ)。中原の漢式鼎よりも足が長い。
陶製と青銅製がある。



越式鼎
http://www.npm.gov.tw/english/exhbition/han9909/handynisty/live/pictures/art16.gif


903日本@名無史さん:2007/06/13(水) 05:29:22
で、倭人は結局どこから来たの?
日本の大地から生えてきた?
904日本@名無史さん:2007/06/13(水) 19:51:36
●中国青銅器の文様

「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、
「龍文」「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が
編み出されていました。古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する
技巧の確かさが伝わってきます。

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html
905日本@名無史さん:2007/06/13(水) 19:59:03
906日本@名無史さん:2007/06/13(水) 20:00:31
>>903

アフリカかもなw
あ、朝鮮人は違うらしいね。
半島北部の熊から進化したってね。
907日本@名無史さん:2007/06/14(木) 20:20:17
●金文

金文(きんぶん)とは青銅器の表面に鋳込まれた、あるいは刻まれた文字の
こと(「金」はこの場合青銅の意味)。中国の殷・周のものが有名。年代的
には甲骨文字の後にあたる。殷は青銅器文化が非常に発達した時代であり、
この文字を器の表面に鋳込む技術は門外不出となっていた。

金文は『史記』のような後世になって書かれた資料とは違い、完全な同時代
資料であるためこの時代を研究する上で非常に貴重な資料となっている。
しかし殷代の青銅器は古美術としてもきわめて高い価値があるため収集家など
がこれを所持することで一貫した研究が出来ないと言うことも起きている。

なお石などに刻まれた文章は石文と呼ばれ、一緒にして金石文と呼ばれる。
またこれらの研究者は金石家と呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%96%87
908日本@名無史さん:2007/06/14(木) 20:26:26
●鳥書

春秋時代の中期から後期にかけて、東方列国の金文には地方色が
強くあらわれてくる。特に注目すべきのは、南方の越、楚などの
地方の主として武器において、非常に装飾的な文字を扱ったものが
現れる。この地域で用いられた書体には、筆画が非常に複雑で、
曲線が多いもので、各文字のところどころに鳥の頭を図案化した
ような形があるから、このような書体は「鳥書」(ちょうしょ)、
あるいは「鳥篆」と呼ぶ。
http://yupeihsu.at.infoseek.co.jp/syouten/kinbun.html
909日本@名無史さん:2007/06/14(木) 20:28:14
倭人はシナ南部の少数民族だったのだろう。現在でもシナの少数民族は
シナ文化を身につけていないだろう。

 広西壮族とかロロ族、ナシ族などが印文陶や灰釉陶を含めた中国灰陶の
技術を使っているのかね?

 中国青銅器に見られる篆書などの原始漢字の金文が一字でも伝わっている
のかね?
910日本@名無史さん:2007/06/14(木) 20:31:10
911日本@名無史さん:2007/06/15(金) 13:01:57
●古代中国の楽器


秦の統一以前の頃の楽器は史料に記載されているものが約70種もある。
『詩経』だけでも29種にふれており、打楽器には太鼓、鐘、鉦(しょう、
古代銅製の打楽器で、行軍の際に打ち鳴らしたもの)、磬(けい、銅製の
椀形の仏具と楽器)、缶(ふ、甕のようなもの)、鈴など21種があり、
吹奏楽器には簫(しょう、タテにして吹く長い笛)、管(さまざまな管楽器の
こと)、?(けん、土笛)、笙(しょう、いろいろな長さの十数本の竹の管で
作った吹奏楽器)など6種があり、弦楽器には琴、瑟(しつ)など2種のものが
あった。楽器の品種が多く増えたため、周(約前11世紀−前256年)の
時期には楽器を作る素材によって、金属、石、土、皮革、弦、木、匏
(ほう、瓢たんの実)、竹という8種類に分けられ、「8音」分類法と称された。
http://www.china.org.cn/japanese/144930.htm
912日本@名無史さん:2007/06/15(金) 13:07:35
●骨哨

河姆渡住処から160個骨哨が出土されて,今まで7000年の歴史があります。こんな骨笛は鳥類の
骨で作られ,骨管に1−3個の孔を磨き突いたから,鳥が鳴るような曲調を吹く事ができます。
同時の原始人は木下に隠れて,網を設置してから骨笛を吹くと,鳥らはこの音響を聞いてここへ
飛んでくるんです。これは道具でもあるし,簡単な楽器でもありますから,今までも一部分の
中国少数民族の狩り道具になっています。こんな原始道具はやはり今の竹笛になりました。
http://www.topqd.com/wj/chinayqs.htm

●磬

磬(けい)とは、中国で最も古い楽器である。石製の打楽器である。サヌカイトを叩くと金属音が
する。この石の長さ・厚みを変えて音階を奏でることができる。これを楽器として仕立てたのが
「磬」である。これを単独で使用することは希で、通常は音階順に8個、あるいはそれを2段並べて
16個台に懸けた「編磬」として用いたようである。殷代から楽器として使用されている。
http://www.page.sannet.ne.jp/to-okamo/guwanmi/kosen/kosen.htm
913日本@名無史さん:2007/06/15(金) 13:12:30
見よ!

古代中国のさまざまな楽器がさっぱり伝わっていない。
7000年前の河姆渡遺跡からある簫(タテ笛)の原型である骨哨に注目。


上から順に、簫、磬(編磬)、鐘(編鐘)、鐃、ロ于、鉦
http://www.szzwch.com/IMAGES/xiao.JPG
http://storage.kanshin.com/free/img_28/284331/k741978051.jpg
http://japanese.cri.cn/chinaabc/chapter20/images/bianzhong.jpg
http://www.miho.or.jp/booth/html/imgbig/00001190.htm
http://big5.huaxia.com/wh/whgb/wwdg/images/1639_0.jpg
http://www.kepco.co.jp/ICSFiles/artimage/2004/06/08/c_kpc891/kane_1.jpg

7000年前の河姆渡遺跡の骨哨
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_24_15.jpg
914日本@名無史さん:2007/06/15(金) 13:20:31
日本人の先祖は中国の南部でベトナム人と隣接して暮らしていたんだよ
容貌がそっくりだし
915日本@名無史さん
日本人の先祖はモンゴルの東部でモンゴル人と隣接して暮らしていたんだよ
容貌がそっくりだし