【中国】中国北部、4千年前の“小麦”伝来がきっかけで農業が発展 中華文明の形成に影響

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158名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 11:59:26 ID:pPSdjENc0
>栄養があっても水がないから、
>ローム層の台地は戦後の住宅開発まで
>ほとんど雑木林だったわけだが。
>まいまい井戸とか掘っても高が知れてるし。

川沿いで稲作自体はやってたけどね。
うちのあたりも郷土史を紐解くと奈良時代からずっと記録が残っていて
水争いや飢饉、年貢取り立てや検地の話がきちんとある。

集落ごとに日照量や水利の関係で基礎的な生産高の差から経済力の差があって、
戦前でも○○集落の子は学校に麦飯の弁当を持って来ていたが
××集落の子はふかし芋が普通だった、みたいな生々しい記録まである。
もちろん戦争が開始して食糧事情が逼迫する以前の話な。

今では一面住宅街だが、そうなる前は川の周囲に田畑があって
それ以外は全部雑木林の里山だったよ。
159名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 11:59:42 ID:puInCEV50
お隣=中華というこのスレでの扱いにワロタ
あそこにぶら下がってるのはへその緒か盲腸か
160名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 12:01:07 ID:45Ud2iWOO
もともと麦飯って米を浮かすためじゃなかったのか?
161名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 12:02:02 ID:ZHFCdRsL0
中国からの伝わった文明で日本が起こったってのはわかるが
韓国にそんな事言われてももね・・・・せいぜい中継だろ
162名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 12:03:10 ID:pPSdjENc0
で、江戸に幕府ができて水需要が逼迫したことで幾つかの用水路が作られるわけだけど、
そこまでやってようやく武蔵野台地の上でも農耕が軌道に乗り始めるわけだ。

それ以前は武蔵野崖線の下はそこそこ水があった(台地に降った雨が全部そこから出てきた)が
台地の上にろくな水源は無かった。
まいまいず井戸なんて20mも掘り下げてようやく飲み水にありつける有り様で。

こういうとこ調べはじめると、本当に人間の社会や文明なんて地球の地形に完全に依存している上に
農業生産高に完全に依存した、吹けば飛ぶような営みなんだよなーと痛感するね…。
163名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 12:05:44 ID:l3Seyjby0
>>1

ふーん。だから?
164名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 12:07:08 ID:seDUMFm10
>>153
政治力学が無関係ならば輸入してでも世界中米食になると?

>長野山梨以北では麦食文化がベースで、
だからそれが積極的な理由なのか消極的な理由なのかどっちなんだ?

讃岐は輸入してまで白いうどんを作るけど
武蔵野うどんは褐色がかった色がスタンダード
165名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 12:07:22 ID:pPSdjENc0
>もともと麦飯って米を浮かすためじゃなかったのか?

そうだよ。
粟飯も黍飯もサツマイモご飯も豆ゴハンも、
「おしん」に出てきた「大根飯腹いっぱい喰いてえっス」の大根飯だって、
米が足りないから嵩を稼ぐために混ぜ物して喰ってただけの話。

しかもその混ぜる量ってのが「米主体に+α」とかじゃなくて、
むしろ「何かの間に米が混じってる」ってな壮絶なものさえ主体だった。

白米食えるだけの米があるなら、わざわざ味の良い米に何か混ぜて食わんだろ普通。



…いや、俺、麦飯好きだけどさ。豆ゴハンもな。
166名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 12:09:23 ID:pPSdjENc0
>政治力学が無関係ならば輸入してでも世界中米食になると?

どこからそんな問いがでてくるわけ?


>だからそれが積極的な理由なのか消極的な理由なのかどっちなんだ?

米が作れず、主食にするには麦(や蕎麦)までが限界だったというだけの話。
167名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 12:11:42 ID:5XeWmfPs0
そして中華まんが発明された。

しかし、饅頭ってのは人肉食の文化を下敷きに生まれたものとしか思えないよな。
中国人はやっぱり北京原人の子孫なんだな。
168名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 12:12:22 ID:CtCeYazM0
>>162
農業というレベルではそうだが、
関東の場合漁業が盛んだった
というか良く取れた
それは関東平野の土壌の豊かさと無縁ではない
169名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 12:17:22 ID:seDUMFm10
>>166
旨いから米>麦なんだろ?
パン食文化圏も、米のほうが旨いから本当は米を喰いたいに違いない、
でも稲作に適さない国が主食を輸入に頼るわけにいかないから
しょうがなくパン食ってる、なんてことを言いたいのか、と。

>米が作れず、
自家消費分まで作れず、ってことだろ?年貢で精一杯で。
生産能力が高くて技術力のある(土地に恵まれた)農家は
米を食っていたの?
170名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 12:17:32 ID:su+0zfD2O
中華文明の形成と共に、
地球環境の破壊が始まった
171名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 12:18:03 ID:pPSdjENc0
>関東の場合漁業が盛んだった
>というか良く取れた
>それは関東平野の土壌の豊かさと無縁ではない

それは多摩川や坂東太郎(旧利根川)のお陰だねえ。
特に利根川の広大な流域から流れ混む有機物が全部東京湾に注ぎ込んでいたからな。
湾内ならば稚拙な船舶でも漁労は可能だった。

もちろん当時の漁労なんざ現在のように機械化された設備でシステマティックに
根こそぎ漁って来られるような代物ではないから、マンパワーに対する漁獲量なんざ
屁のつっぱりにもならないという点は十分に理解しておく必要があるがな。
172名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 12:27:30 ID:pPSdjENc0
>旨いから米>麦なんだろ?

日本(の関東以南)では、米も麦も両方作れるからな。
選択可能な常態でより旨い米を嗜好しただけの話だな。

ある意味では、食糧の量的確保よりも嗜好を優先するあたりが
日本人の凄すぎる(危機感のなさすぎる)所かもしれない。

>パン食文化圏も、米のほうが旨いから本当は米を喰いたいに違いない、
>でも稲作に適さない国が主食を輸入に頼るわけにいかないから
>しょうがなくパン食ってる、なんてことを言いたいのか、と。

誰がそんな話をした?
お前の自論を勝手に俺が代弁したかのような書き方をされても迷惑だ。

>自家消費分まで作れず、ってことだろ?年貢で精一杯で。
>生産能力が高くて技術力のある(土地に恵まれた)農家は
>米を食っていたの?

機械化もできず化学肥料もなしで、ほとんど人力(と一部家畜)に頼って
開墾から灌漑用水の確保まで全部やって、人一人あたりに割り当てられる収量が
どれだけあったか考えられないなら、妄想垂れ流すのは迷惑だからやめた方が良い。

うちの父方の本家は三重県の半農半林の庄屋の家系だが、面積あたりの収量は高くとも
とても三食銀舎利なんて無理だったという記録が残ってるそうだよ。
田舎とはいえ、富裕層ですらこういう現実。小作人たちの食い物なんざ推して知るべし。

逆に、副食は豊富だったようだけどね。まあこのへんは農村の強みだな。

むしろ江戸時代に限って言えば、江戸や大阪の庶民の方がまだ
一人あたりで消費していた米の総量は多かったようだという分析まであるらしい。
それでも銀舎利どころか麦飯すら事欠くというのが現実のようだが。
173名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 12:28:17 ID:rxTptLqw0
中国東北部で稲作ってできたの?
だとすると日本への稲の伝来が
麦がメインで稲作不毛地帯の東北部経由しての朝鮮からの伝来な無い
ってのはウソ??
174名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 12:31:39 ID:pPSdjENc0
>中国東北部で稲作ってできたの?

陸稲は条件次第では可能。水稲は無理。
緯度が高すぎて気温が低い以前に、大陸内部は乾燥していて利用可能な水源も降水量も無い。

>だとすると日本への稲の伝来が
>麦がメインで稲作不毛地帯の東北部経由しての朝鮮からの伝来な無い
>ってのはウソ??

日本語でok
175名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 12:34:43 ID:pPSdjENc0
>167

八仙飯店之人肉饅頭ってネタを振ったつもりなのだろうか…
176名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 12:39:14 ID:seDUMFm10
>>172
>誰がそんな話をした?

米>麦の価値観があるのは、旨いからだけの理由によるというから
ならば理由無く麦食ってる連中は味覚音痴なのかと聞いたまでだ。

「仮にそのような農家があったなら」という話だよ。
米か麦かを選択できる状態にあったなら、どっちを喰うかという話だ。
誰もが無条件に米を選ぶとは思わない。
米が麦より上等だとは思わない。
177名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 12:45:25 ID:v1n5kz3bO
小麦はウリナラ起源ニダ
178名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 12:49:01 ID:AhYY8A+90
このスレの結論:日本人は滅びるべきだ
179名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 12:53:24 ID:seDUMFm10
うどんは百姓の喰うもので江戸っ子は蕎麦、とかの
深い理由も知りたいところだが、残念ながら外出落ち。
180名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 13:03:08 ID:H/Zw2v0k0
西日本の人間が東日本(特に関東人)に比べて
体が小さく丸みを帯びているのも
西日本の土壌が貧しかったから
特にミネラル不足

アメリカの白人がヨーロッパの白人に比べて背がちっこいのも
大体においてアメリカの水の硬度が低いから
といっても日本よりは高いが
181名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 13:12:33 ID:pPSdjENc0
>米>麦の価値観があるのは、旨いからだけの理由によるというから

ここから

>ならば理由無く麦食ってる連中は味覚音痴なのかと聞いたまでだ。

なんでこんな斜め上の発想が出てきて、それに俺が付き合わされなければならんのかね?

>「仮にそのような農家があったなら」という話だよ。

その前提が書いてないし。
お前の妄想いきなりぶつけられても「日本語でおながいします」としか言えん罠

>米か麦かを選択できる状態にあったなら、どっちを喰うかという話だ。
>誰もが無条件に米を選ぶとは思わない。
>米が麦より上等だとは思わない。

お前の感想なんざ、どうでもいい。
182名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 13:21:18 ID:pPSdjENc0
>うどんは百姓の喰うもので江戸っ子は蕎麦、とかの
>深い理由も知りたいところだが、残念ながら外出落ち。

うどんというか、切り麦全般が既に存在していたのに江戸っ子は蕎麦切りを嗜好した
というのは面白い話だと思うけどね。

元々香りの強い関東風の醤油が出てきたことで、その香りに負けない蕎麦が好まれたとか、
蕎麦屋の風俗面における存在意義が大きかったとか諸説あるようだけど、
定説と言えるほどのものは果たしてあるのだろうか…。

それと、蕎麦切り(細長い麺の形をした蕎麦)というと江戸と短絡的に想像しがちだけど、
蕎麦切りが成立したのは16世紀頃の長野周辺らしい。
で、これが甲州街道沿いに江戸に入ってブレイクしたのが主流ということになっているけど、
北陸の街道沿いに京都まで行って、京都でも定着してるんだよね。
確かに鰊蕎麦とか有名だけど、京野菜と蕎麦の組み合わせってのも中々味わい深くて面白い。

一方で関東や東北はうどんを食わないかというとそんなことも全然ないわけで、
一時の讃岐うどん信仰みたいなのはちょっとなあとか思ったりもした。
183名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 13:23:34 ID:AhYY8A+90
>>148
縄文時代にそんなにばっかんばっかん狩猟できねーよ
縄文期は気候が温暖になり植物が繁茂し
夏場は草かき分けて進むのが大変で狩りなんかできない有様

縄文前期に動物層が急変したのは気候変化の所為だ
氷期が終わり南から落葉樹の森が広がり始め、
縄文時代は土器などの開発によりドングリや栗などの穀類中心の食生活にうつった時代で狩猟に頼らなくても生きていけた
狩猟は主に冬場の草が枯れて動きやすく、なおかつ新鮮な食料が乏しくなった時期の生業で
動きが俊敏で森の中に多くいる猪や鹿を捕らえるために弓矢(石鏃)が発達した
鹿や猪を放っておくとどのくらい増えるかは知ってるか?毎年猟友会が駆除を行なっているよな
偉そうなこと言う前に基本的なことくらい学んでおけ

っていうか魚とか植物とかの話がそっくり抜け落ちた話をしている時点で……

>>159
あそこにぶら下がってるんだからペニスだろ
184名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 13:30:42 ID:mvbOJODd0
面白いことに、現在の新疆ウイグル自治区タクラマカン砂漠のオアシス地帯では、灌漑用水(カレーズからの豊富な雪解け水)を利用して水田耕作が行われています。
近年になってからはじまったらしい。南方出身の人民解放軍の開拓兵団が、大量に入植して水田耕作農法を持ち込んだとか。
んで土地争い水争いで(何せ膨大な水を消費し、土地を分断する)遊牧や伝統農法中心のウイグル人と対立しつつある。
なんか日本の北海道屯田兵や満蒙開拓団みたいだよな。
彼ら人民解放軍系の入植者がどちらの運命を辿るのかはわからないが。
日本人に限らず、水田で米作ってる農民ってのは、世界のどこに行っても条件さえ整えば水田を作りたくなるものらしい。

仮説だが、日本にやってきていきなり水田を作り始めたのも、そんな南方出身の中国人農民なのかもな。
北海道屯田兵地区や新疆ウイグル自治区開拓地区での例を教訓にすると、水田耕作というのは、かなり短い期間で形になり、かつ何箇所かで同時にはじまったと考えるのが自然かも。
185名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 14:04:01 ID:pPSdjENc0
>縄文前期に動物層が急変したのは気候変化の所為だ

気候変動の前に大型哺乳類だけ姿を消してるんだよね。

>氷期が終わり南から落葉樹の森が広がり始め、
>縄文時代は土器などの開発によりドングリや栗などの穀類中心の食生活にうつった時代で狩猟に頼らなくても生きていけた

で、それらの喰いでのある得物に頼ることができなくなったので、定住して原始的な農耕と狩猟採集のハイブリッドになったわけだ。

>狩猟は主に冬場の草が枯れて動きやすく、なおかつ新鮮な食料が乏しくなった時期の生業で

こんなのは現在でも変わらんよ。常識を偉そうに語る時点で程度が知れるな

>動きが俊敏で森の中に多くいる猪や鹿を捕らえるために弓矢(石鏃)が発達した

弓矢で猪なんか捕れねえっつーの。罠仕掛けて追い込むんだよ。

>鹿や猪を放っておくとどのくらい増えるかは知ってるか?毎年猟友会が駆除を行なっているよな

近県では丹沢なんか今は鹿が凄いことになってますなぁ。
で、冬場に角つけた雄鹿のいる群れに弓矢で挑むって、それなんてデスマーチ?
雄鹿の怖さも猪の牙の怖さも知らないヒキコモリの分際で何を妄想垂れ流してるんだか(嘲

まあ、ここまで野放しに増えるのは天敵の狼が居なくなってからの話なわけで、
縄文時代や江戸時代を現在のペースで語ろうとするあたりで破綻しているわけだが。

>偉そうなこと言う前に基本的なことくらい学んでおけ

低学歴ヒキコモリファンタジーはほどほどにしておけ。
186名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 14:07:19 ID:pPSdjENc0
で、そもそも捕って殺してしまったらそれきりの鹿一匹、猪一匹を養うために
必要な面積を全く理解していない低学歴妄想ファンタジーってのも勘弁してもらいたいところですなぁ。

187名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 14:39:23 ID:1siQWBm20
ID:pPSdjENc0の学歴キボン
188名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 15:35:57 ID:4x/Ub4Oe0
>>184

×南方出身の中国人農民
○呉人,越人、ないし東夷

そんな昔に「中華」の概念が、あったとしても大して広くない。
189名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 18:59:11 ID:Sb+KYd1j0
>>130
なんだ。自分のことをよく分かってるじゃないか。その調子で中学校からやり直しては?
なお、二毛作というのは別のものを作る事だから、イネを2回作る時は二期作だね。
沖縄のコメの自給率は・・低いよ。
190名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 19:07:31 ID:JgbFsiWF0
>>184
>仮説だが、日本にやってきていきなり水田を作り始めたのも、そんな南方出身の中国人農民なのかもな。
>北海道屯田兵地区や新疆ウイグル自治区開拓地区での例を教訓にすると、水田耕作というのは、かなり短い期間で形になり、かつ何箇所かで同時にはじまったと考えるのが自然かも。

稲作が簡単に定着するとは考えにくい。
水を引き、田面を水平にしたりと、農業土木の技術も必要になってくる。
当時の稲作は湿原に種を蒔くだけの原始的なものだったかもしれないが、
種まきから収穫、貯蔵と、システム的に行わないと収穫量は激減する。
それに、収穫までの食料は確保しなくてはいけない。(一番重要だと思う)

縄文人との交流がもともとあったか、縄文人がシステムごと持ち帰った。
と、考えられない?
縄文人の行動範囲はかなり広かったみたいだし。
191名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 21:54:55 ID:86qWYKEE0
http://www.geocities.jp/furai007/  ←←←←←←←なんかみつけた
講読の部屋
(略)
・「環境史年表−明治・大正編」(下川耿史編/河出書房新社/2003年11月刊)
明治元年(1868)
・徳島県の山村の食事。主食はヒエ、キビ、甘藷で、米はほんの少し。副食は大根葉、
 味噌、しょいの味(醤油を汲み取った後の残り)、食べられる野草(ワラビ、ゼンマイ
 など乾燥させて冬用に保管した)。食事の回数は一日4回、農繁期は6回。
 岡山県では、麦飯(米3、麦7)を主にし、山村はアワ、キビ、ヒエを混ぜて炊く。
(略)
・「箱根の坂」(司馬遼太郎、講談社文庫、上中下三巻)
[二毛作、三毛作]
 この時代、日本の土地利用は、アジアでもっとも先進的であったといえるであろう。
 周辺の朝鮮や中国がまだ古代的段階にあるのに対し、鎌倉・室町の世は、一枚の田
 畑を折り紙のようにさまざまに細工し、農業生産があがるように工夫されはじめた。
  これについての観察記が、回礼使として李氏朝鮮国から派遣された宋希ケイに
 よって書かれている。
  宋希ケイは全羅道の新平の人である。字は正夫、老松堂と号し、その紀行詩は
 『老松堂日本行録』と名づけられている。宋希ケイが日本に来たのは1420年で、
 早雲の生まれる12年前のことである。
  かれは右の年の六月に、阿麻沙只(尼崎)にとまって、日本の田園を観察した。
    日本の農家は、秋に耕して大麦か小麦をうえ翌年の夏、これを収穫する。
    すぐさま稲の苗を植えて秋に収穫する。
 とし、米と麦を組み合わせた二毛作がおこなわれていることを指摘し、その上、
 田のわきに大豆をうえ、一枚の水田で三毛作もやっていることにおどろいている。
 具体的な利用法としては、一枚の地面が、川をせき止めて水を湛えることで水田
 になり、水を抜くことによって畑となる、といかにも珍奇なように書いている
 ことから見て、朝鮮ではこの方法がいなかったことを知ることが出来る。
  この種の農業技術は近畿が先進圏であったために、早雲も駿河においてさまざま
 助言することができた。
192名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 21:58:21 ID:BmuhiwkQ0
>>127
いや、麦に含まれるグルテン量が、パンとうどんとの境目だし。
日本のうどん粉では、蒸しパンが精々よ。
193名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 22:22:30 ID:pPSdjENc0
>日本のうどん粉では、蒸しパンが精々よ。

「おやき」でぐぐってこい。
類似の食品は日本中にあるがな。
194112:2006/09/26(火) 22:30:31 ID:vR4lP3Ty0
>>113
>そちらのお馬鹿なのは、人口は食糧で制限されると言ってる口の端から
>人口の9割が十分な食糧を得られなかったという事を言いながら、その
>矛盾に気付かないというその内容の幼稚さが原因であって

 そんなこと私は言ってないけど。もしかして、XW0hbbTo0氏と俺を混同してないか。

>江戸時代の日本を語りたいなら最低でも慶応生まれのお婆ちゃんを
>連れて来てもらわないとハナシになりませんなあ。

 戦前ですら、この有様なんだから江戸時代ならもっとひどいだろう、くらいの連想は働かないかい。
そう思えば、わざわざ、慶応生まれの人間を持ち出す必要など感じないだろうに。
もしもあなたの中で、江戸時代の食糧事情>昭和(戦前)の食糧事情 と考えられる根拠があったら教えて欲しい。
195名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 22:46:09 ID:86qWYKEE0
江戸中期>江戸末期=明治 ではあるみたいだな;


http://www.j-milk.jp/white/feature/8d863s000003ce80.html
縄文人より小さかった江戸人
  有史以来、私たち日本人の身長はゆるやかに伸び続けてきた−−それがごく一般的
 な認識ではないでしょうか。しかし縄文から現代にいたる数々の骨の計測データは、
 日本人の身長が常に上昇カーブを描いてきたわけではないことを示しています。
 「明治頃までで見ると、日本人の身長が最も高かったのは、実は弥生から古墳時代に
 かけてなんです。この時代の人々は大陸から渡来したいわゆる北方アジア系で、成人
 男性の平均身長はおよそ163cm、女性は152cmほどありました。逆ノ最も小さかった
 のが江戸末期から明治初頭にかけての人々です。男性の平均身長は155cm、女性は
 143cm程度でしたから、縄文人の平均身長よりも小さかったことが分かります」
196名無しさん@6周年:2006/09/26(火) 23:02:29 ID:iuQWl7d+0
一瞬スレタイが「中森明菜の形成に影響」に見えた
197名無しさん@6周年:2006/09/27(水) 02:27:39 ID:AGB0/IOL0
>>194
>そんなこと私は言ってないけど。もしかして、XW0hbbTo0氏と俺を混同してないか。
それは失礼しました。誰が誰やら分かりませんが・・・

> 戦前ですら、この有様なんだから江戸時代ならもっとひどいだろう、くらいの連想は働かないかい。
>そう思えば、わざわざ、慶応生まれの人間を持ち出す必要など感じないだろうに。
>もしもあなたの中で、江戸時代の食糧事情>昭和(戦前)の食糧事情 と考えられる根拠があったら教えて欲しい。

「食糧事情」の中味の「銀シャリの美味さ」という事がアタマから離れない限り
語ってもムダだと言っているだけです。

「銀シャリ」という言葉の「舎利」が元々「白骨」を意味する事からして、いかにもマズそうだ、と
いう連想ははたらいてます。<白米食>が世間に一般化したのは第二次大戦中ぐらいからの
事じゃないかな。なぜ「銀シャリ」がそんなに美味いというのかが、よく分かりませんね。
「コシヒカリ」や「ヒトメボレ」の美味さ、「タイ米」や「シナ米」の不味さを知らないんですか?とか、
江戸時代や明治時代にそんな現代の常識による連想が通用しないという事は重々承知のつもりです。

日本も、日清戦争以前はコメを輸出してたみたいですから、無理にでも余らせてたんじゃないかな。
余力はあった、という事でしょう。明治大正時代には牛鍋屋・洋食屋のイメージもあります。
戦前は配給制も滞りがちなほど余力を失ってませんでしたか?肥料も使えなかったんじゃないかと。

なお、天保の飢饉、安政の飢饉、打ちこわし、昭和恐慌時に米価が約半額に暴落した
事ぐらいの知識はあります。江戸期の貧困と比べてみても明治以降の寄生地主や
昭和恐慌後の農村荒廃は十分ヒドイものがあります。それでも、水呑み百姓の食糧事情と
女工哀史の食糧事情を比べることには意味を見出せません。美味いものが食えたかどうか
などという個人的な嗜好を単純に比較してみても仕様がないくらい悲惨な時代は悲惨だからです。
198184:2006/09/27(水) 04:35:27 ID:tWKV4Kc80
>>188
>>○呉人,越人、ないし東夷
まあ確かにそうなんですけど、稲作伝播以前の日本列島の住民に「日本人」意識があったかどうかも疑問なわけでw
スタンダードは統一したいところです。

>>190
>>縄文人との交流がもともとあったか、縄文人がシステムごと持ち帰った。
>>と、考えられない?
>>縄文人の行動範囲はかなり広かったみたいだし。

うーん。どうでしょう。
再び新疆ウイグル自治区を例に挙げると、近代以前のウイグル人(東方トルコ人)の行動範囲は縄文人と較べてもとんでもなく広かった。
何せ遊牧民で、かつ商業民族。モンゴル帝国やシルクロードの東西交易を牛耳っていたほどだし、イスタンブールのトルコ人や中央アジアのトルコ系民族と普通に言葉が通じるレベル。
そのウイグル人ですら、水田耕作のシステムは採用していない。
ウイグル人は小麦だけでなく米も結構食べるのに(トルコ風ピラフみたいな伝統料理がある)、乾田耕作はしたり購入したりはしても自分たちでは水田は作らない。
新疆ウイグル自治区で水田耕作をはじめたのは、南方出身の人民解放軍開拓兵団。

何年か前ウルムチからホータンにかけて旅行したんですが、その時見た水田の風景が忘れられないんですよ。
連隊規模の開拓兵団、千人程度の中国人が現地のオアシスに住み着き、10年かそこら開拓に従事するだけでいきなり水田耕作がはじまり、莫大な米を生産しはじめたという現実。
水田耕作というのがこれほど簡単に、かつ迅速にはじまるというのはほんと衝撃でした。
水田耕作伝播期の日本もこんなんだったんじゃないかという衝撃なんです。

日本列島の元からの住人の場合、その水田耕作のシステムを自分達も大規模に採用したわけなんですが。
それまでの過渡期として、「自分では水田耕作をしないが、交易で獲得した米は食う」段階なんかもあったんでしょうね。今のウイグル人がそうであるように。
縄文人が結構大規模な交易を行っていたのは近年の常識ですから。そして米ほど貨幣代わりになり得る穀物は存在しません。
199名無しさん@6周年:2006/09/27(水) 12:56:24 ID:KbhIzg7k0
>「銀シャリ」という言葉の「舎利」が元々「白骨」を意味する事からして、いかにもマズそうだ、と
>いう連想ははたらいてます。

お前の連想なんぞ、屁ほどの価値もない。

ここで言う「舎利」とはお釈迦様の遺骨のことだ。
白飯を銀舎利と俗称するのは、そのくらい在り難い代物だということだよ。

><白米食>が世間に一般化したのは第二次大戦中ぐらいからの
>事じゃないかな。

無謀な日中戦争が始まって労働力を根こそぎ動員し始めてから
食糧生産が滞り食料事情が日に日に悪化していった時期に
「<白米食>が世間に一般化」するってのは、素晴らしい低学歴ファンタジーだね(苦笑)

白米食自体はハレの日のメニューとして古くから存在し、また支配階級では常食していた。
これが一般庶民でもしばしば口にできるようになるのは江戸から明治にかけて。
兵役に出ると駐屯地であてがわれる食事は白米だったことから、農家の次男三男は挙って志願したとも言われるし、
軍隊へ行くと白米ばかり食って怠け者になるなんて流言飛語さえ飛び交ってたのがその頃。
日清日露〜日中戦争とどんどん泥沼化して行くと、そんな余裕もなくなって行ったわけだが。

>なぜ「銀シャリ」がそんなに美味いというのかが、よく分かりませんね。

麦や粟、稗なんか混ぜて喰ってみれば一発でわかる話なのだが。
…ああ、もちろん米9割に粟1割とか、米8割に麦2割とかいう状態の話してるんじゃねえぞ?
麦6米4とか、米2麦4粟4とか、それで炊いた粥や雑炊とかいう壮絶な食い物の話をしているわけだ。

>「コシヒカリ」や「ヒトメボレ」の美味さ、「タイ米」や「シナ米」の不味さを知らないんですか?とか、

タイ米=まずいってのもタイ米騒動の悪影響だよな。タイの米なんざ世界的には高級品だ。
香り米なんて最高級の魚沼産コシヒカリより高価なもんまであるくらいだ。
ま、無知を曝け出すのは勝手にすれば良いが、日本人として恥を晒すのは迷惑だから止めてくれ。
200名無しさん@6周年:2006/09/27(水) 17:36:02 ID:MzvAaeeh0
低学歴ファンタジー
201名無しさん@6周年:2006/09/27(水) 17:42:31 ID:h9HSz5mC0
北海道で国道を北上していたら、いつしか稲作の北限を超えてソバ、そして牧草地帯に移り変わる
光景を目にすることができるよ。
202名無しさん@6周年:2006/09/27(水) 17:52:44 ID:ueXMhXCF0
全ての動植物の起源は東アジアの某地域にあるんです!!!

……という連中の反応まだ?
203名無しさん@6周年:2006/09/27(水) 19:09:40 ID:og9AOiYc0
大麦は米のようにもみすりで精麦?して
粒を出せるが、
コムギでこれをやると粉になってしまう

どっかでコムギで強引に粒を出して
米のように炊いて食っていた。非常に旨いらしい

しかし大量にフスマとコムギが混ざったものが出来てしまい
無駄が多いのだと
204名無しさん@6周年:2006/09/27(水) 19:44:55 ID:5SeKE95f0
>中国人が現地のオアシスに住み着き、10年かそこら開拓に従事するだけで
>いきなり水田耕作がはじまり、莫大な米を生産しはじめたという現実。
>水田耕作というのがこれほど簡単に、かつ迅速にはじまるというのはほんと衝撃でした。
>水田耕作伝播期の日本もこんなんだったんじゃないかという衝撃なんです。

水田だけタロイモ(サトイモ)栽培用で先に普及し、後から稲作が持ち込まれた線は?

 http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/gakugei/news/20060122ddm015070044000c.html
 今週の本棚:藤森照信・評 『稲作の起源−
 ...イネ学者としての水田稲作起源論を述べる。アジア南方にまず
 サトイモの水田栽培があって、この水田の中に稲が入り込んできた、と。


>「自分では水田耕作をしないが、交易で獲得した米は食う」段階なんかも
>あったんでしょうね。今のウイグル人がそうであるように。
>縄文人が結構大規模な交易を行っていたのは近年の常識ですから。
>そして米ほど貨幣代わりになり得る穀物は存在しません。

いや、稲作はするが交易に廻してあまり喰わない、てのが弥生村落の一般て説も。
米ほど貨幣代わりになり得る農林水産物もあまりないから。
発掘遺構の推定人口と水田跡面積から、米を主食に出来たハズがないらしい、
沿岸交易路の発達に対し交易品を確保するのが目的で稲作が本格化したんだとか。
205名無しさん@6周年:2006/09/27(水) 19:46:01 ID:25cBPh+D0
>>203
へえ、食べてみたい。精麦して炊いたの。
206名無しさん@6周年:2006/09/27(水) 20:41:24 ID:5a95AaXo0
小麦の起源は韓(略
207名無しさん@6周年
>>199 高学歴志向のキミへ
河合塾の先生が書いてるサイトを見つけたので、この辺で勉強してみてください。
ttp://blog.sasakitoru.com/200607/article_7.html

簡単に要約しますと、「白米食は食糧管理法によって一般化した」、と言いたいらしいです。

いや、もちろんそれ以前から食ってる人はいたんですよ。鰻丼、酢メシ、オムライス、
カレーライスや味噌汁ぶっかけ御飯とか。雑穀が混ざらないご飯が珍しかったという
意味ではありません。あくまで「一般化」した、というのがそのキモです。世の中の
「一般」をどこら辺に持ってくるかという問題なんですが、その中心を支配者に合わせる
必要も貧民に合わせる必要もないということですね。

もしかして理系の高学歴の人なのかな。
いちおう高校レベルなので難しいかも知れませんが、迷信に惑わされないよう、よく勉強してね。