1 :
日本@名無史さん:
たとえば小身の旗本や御家人の家にも仕えていた若党。
士分の扱いを受けるというもののその給金は1年に2両程度とか・・・。
そんな彼らがどんな暮らしを送っていたのかとても気になります。
おとな侍や足軽などの暮らしぶりについてもどうかご教授下さい。
2 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 04:58:31
2げっちゅう
3 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 09:56:52
若党
四両1人扶持age
4 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 22:05:35
あまり記録が残っていないらしいよ。
5 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 00:56:50
お使いのご褒美15文なり
新見吉治著『旗本』,吉川弘文館
旗本3000石、池田家家中(明治3年)
石河家、長沢家の家計
7 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 00:02:38
御小遣い召しage旗本殿様age
8 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 22:46:13
あげ
9 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 23:57:36
age
10 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 00:04:37
11 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 02:14:19
若党あげ
12 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 18:53:26
>>1「御教示ください」の間違い。教示されて、はじめて「御教授いただいた」となる。
13 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 18:55:32
国会図書館で「武家奉公人」で検索すれば、いろんな論文がひっかかるだろ。
それ読みなよ。
>>「御教示ください」の間違い。教示されて、はじめて「御教授いただいた」となる。
同感、同感。目ざわりで仕方がなかった
15 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 14:18:22
揚げ足はとっても知識は授けないんだね
16 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 14:52:46
旗本秋山氏における領内地士取り立て
ホシュ
19 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 12:28:27
江戸時代を通じて代々中間の家系、とかって存在するの?
家族を養っていけるだけの収入があったとは思えないんだが。
>>15,17
オマエモナー(久々w)
自分の無知を誇らしげにひけらかすのも如何なものかw
>>19 めぼしい史料がないだけでふつうに存在したと思うが・・
・・そんなに生活できなければ、恒常的に中間不足となり
中間階級そのものが無くなってしまう筈
22 :
17:2006/04/30(日) 18:25:52
>>19 旗本の家臣には世襲もあった。
中間は口入屋から仕入れるようになったし、世襲は無いと思うよ。
>>20 過疎スレ荒らしかw
23 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 15:23:48
>>21 農家の次・三男とかが一代限りでやっていて、次世代は他家の次・三男が
そこに労働力として補填されていく、というイメージじゃないかと
思うんだが?
24 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 23:59:49
25 :
日本@名無史さん:2006/06/14(水) 22:55:25
若党も中間も口入れ屋から雇った。(若党は一応、武士待遇)
若党は侍の格好をしたい農民が応募したり、商人の次男、三男とかがなったりもした。
若党の仕事は門番と屋敷の見廻り(警備)、その他雑務をやったらしい。
刀は一本のみを許された。仕事内容を見ると、今で言う守衛かもしれん。
若党は結婚もできず、一生若党で終える人が多かった。
26 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 22:03:11
悲惨だな
27 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 00:08:45
そういう人達のために岡場所がある
下屋敷で賭場を開帳
29 :
日本@名無史さん:2006/07/08(土) 09:11:24
ホントにそんなことやってたの?
30 :
日本@名無史さん:2006/07/16(日) 01:30:03
うん
31 :
日本@名無史さん:2006/07/16(日) 01:43:47
清水次郎長
1)ということは、田舎の、特に小藩においては
郷士は半農半武であったといってもよいのでしょうか?
国替えが頻繁な上に、小藩で、同族本家は戦国大名の主家に
仕えて土地を出て行ってしまったが、一部の郎党が
所領の各所に残ってまだ勢力を保っているような場合、
特に限定すれば上田城主(上田藩)の場合などです。
土佐藩では郷士が困窮したのは知ってるんですが、
信濃のように小藩の土地が入り組んで、しかも元の主家が
近隣にいる場合など、郷士への圧迫ができないどころか、
一定の利権を保たせないといけないような気がするんですが・・・・
2)こういう場合、維新後は士族だったんでしょうか?
(壬申戸籍を見ることができれば一発解決なんでしょうが・・・)
何かヒントを是非いただけませんでしょうか
33 :
日本@名無史さん:2006/07/17(月) 16:23:26
>>32 大名は独立領主であり、個々に職制は違う。
過去の郷士スレッドにもあったけど、一概にいえない。
34 :
日本@名無史さん:2006/08/09(水) 13:03:13
郷士じゃなく藩士でも下級だと実質半農だったりしたところも多いよ。
36 :
日本@名無史さん:2006/08/21(月) 21:00:47
37 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 20:56:51
38 :
日本@名無史さん:2006/09/01(金) 22:46:00
若党の仕事内容は
>>25で大体間違い無いと思う。屋敷によって給人と兼務だったり、用人
が兼ねていた場合もあるらしい。
若党は、刀は打刀一本のみ許されていたので、脇差は帯びる事が出来なかった。藩によって
武士の最底辺だったり、中間と武士の間に位置したり様々であったそうだ。殆ど一人扶持だった
から、自分一人生活するのでやっとだったそうだ。口入れ屋を通して、中間と同じ様に雇ったそうだ。
39 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 19:04:59
兄弟スレage
40 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 21:24:31
保守
41 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 20:15:11
奉公人の中では用人さんが一番上。
序列 用人・給人・中小姓・徒・若党・中間かな。(左から順に)
42 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 14:56:11
中級以下の武家じゃ、その家に使われている者のほうが経済的に余裕があったらしいよ。
給金だけが所得じゃなくて、用事ごとにいくばくか貰ったり、衣料なのど現物支給があったりで。
一方、武家は交際費の支出がたいへんだったらしい。
女中好きの殿様は、家来よりもお末を多く雇う。
44 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 23:40:26
大身旗本なら中小姓でも二人扶持貰ってるな。
46 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 23:58:18
大名の家臣の中小姓なら100石もらってたやつもいるよ。
若党の仕事は現在の受付玄関番。
48 :
日本@名無史さん:2007/02/18(日) 18:51:58
>>43 それって気に入ったのがいれば手を付けるため?
女性の方が給料も安いし食い扶持が少なくてすむ。
さらに言えば行儀見習いということで逆に親元から届け物があったりする。
だから男をリストラしても女性を残した場合が多いそうだ。
軍役のことを考えれば本末転倒だが。
50 :
日本@名無史さん:2007/02/18(日) 19:06:47
>>42 小金を貯めて主人に貸し付けていた連中もいたそうだ。
51 :
日本@名無史さん:2007/02/18(日) 19:32:18
ツルゲーネフの小説を読むとロシアでも似たような話がある。
農奴の中には商売をやって金を貯め込んでるのがいた。
自分で自分を買って自由民になることもできるのだが、
窮迫した主人が自由になれと促してもイヤだと断ったりして。
52 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 11:34:11
用人・給人・中小姓・徒・若党・中間
足軽はど身分をいうのかな。
仙台伊達家の千六百石級の家臣でも陪臣に家老以下四十近い格があったらしい。
まあ多分定めてあるだけで全部の格に実人員がいたわけじゃないだろうが。
54 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 11:56:16
用人は執事長。
給人・中小姓はれっきとした侍。
徒は歩卒。
若党・中間は下男。
ということでいいのかな。徒か若党が足軽に相当?
55 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 12:41:15
足軽も武士ということですね。
将軍家でいうと同心クラスは足軽にはいるのですね。
56 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 13:21:45
直臣の中小姓や徒士と陪臣(家老家なんかの)用人とかだったら
どっちが身分が上?
57 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 14:04:19
直臣が上のようなきがするが。
58 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 16:53:42
ただ、旗本の家臣の場合、農民とか町人とかあやしげな出自の連中が容易に
入り込みやすいから、大名家の家臣と同じ武士といっていいのか・・・
領主である旗本に金を貸してる豪農が、貸した金を確実に返済させるため、
用人になって家政を取り仕切ってる例があったりする。
また、幕府の公用旅行で供が大勢必要なとき、領地の農民たちを期間限定で
足軽にしたりする。
59 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 18:17:49
渡り用人なんてのは、ある意味、家政差配のプロだな。
こいつらも浪人とか農民とか、素性の怪しげな連中が多いし。
藩直属の足軽も必ずしも譜代の武士とは限らない、
藩によってパートタイムや派遣みたいなのもいたそうだ。
徒も幕初はそういう傾向があったが、だんだん譜代化するらしい。
また世襲を認める場合も身長に条件が付いたりしていた場合もある。
弟でも体格優先、子供が全員ちびなら世襲を認めないってかんじで。
一方上級武士はどうしようもない馬鹿か、極端な病弱でない限り跡を継げた。
61 :
日本@名無史さん:2007/03/18(日) 16:14:03
彼らは今で言う職業だと何に該当するかな?
藩の足軽の場合、名実ともに臨時勤務の場合もあるが、譜代筋と言うことになっていても、
実は本当は世襲ではなく人が入れ替わっていたりすることも普通にあったらしい。
つまり労働力を確保できればそれで良いやという藩当局の判断らしい。
セコム社員かな
65 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 21:10:43
傭兵
66 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 14:16:34
大名、旗本に仕える家臣で中間が最下層か?
将軍家にも中間はいたのか?
68 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 11:25:34
若党って、半纏姿のいわゆる「奴さん」スタイル?
それとも袴に両刀の士装?
空脛の二本差しスタイルじゃないの。
70 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 19:51:52
そうね
中間より小者・小人の方が下。
もともと中間は小者と侍の中間と言う意味だったという説を見たことがある(真偽不明)。
幕府にも中間は居たが、あれは下級だけど一応武士。
ほぼ同格の小人や小人目付も武士だし。
同心より給与的にはやや下級、譜代かもしれないから身分は上かも?
幕府の最下級奉公人は牢屋下男かな、これは明らかに武士じゃない。
どうでも良いけどちゃんとした歴史用語なのに「こびと」で変換しないのはおかしい。
渡り中間って今で言うフリーターだよなぁ
若党が士分のわけがないだろ。中間級待遇がせいぜい。
足軽級の「準武士」というのも無理。
足軽でも武士とはいえないはずなのにな。世襲の傾向があったから「準武士」かな。
足軽より下の中間は、どんな意味でも武士とはいえないだろ。
若党と中間は違うだろ
77 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 03:31:29
とある親藩の譜代藩士だった家系だが、うちの藩ではお城に登れない
人間は武士じゃないというのが実質の見解だったようだ。
要するに馬に乗れない人間は武士じゃないと。
78 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 15:33:51
>要するに馬に乗れない人間は武士じゃないと。
義元様を愚弄する奴は許さんぞおおおおおおおおおおおおおお
79 :
日本@名無史さん:2007/07/28(土) 11:12:48
徒士は武士だろ。
80 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 22:27:57
81 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 10:25:09
>用人・給人・中小姓・徒・若党・中間
旗本が加増されて1万石になれば用人は家老、給人・中小姓は上士、
徒・若党は下士、中間は足軽か?
82 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 18:06:00
いや、徒士層からも登用するだろう。下士足軽の大半は新規取り立だな。
田沼主殿頭家が万石以上の大名に列した時は家老も用人も新規に召し抱えたのばかりだった。
83 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 01:33:29
三浦庄次は旗本田沼家の用人から武鑑にも載ってるように大名家の用人になってるね。意次失脚後に暇を賜って市井の人になったみたいだが。
旗本大岡出雲守忠光の家来供も武蔵岩槻藩の藩士になった。
84 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 10:45:04
幕臣である旗本のうち、相当数の家臣団を抱える大身旗本の場合は、
次男・三男などの庶子のうち、他家に養子に行きそびれた者の直系子孫は、
その旗本家の家臣取り扱いとなり、中小姓となることが多かった。
同様の場合、諸大名にあっては、給人格(給人席)となることはあっても、
中小姓となることは、まずなかった。
85 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 18:46:22
86 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 20:43:20
家中に使える人間は、昭和初期まで意外と多かった。
明治以後は、執事とか使用人だな。ただ当主が家人をクビにするとかは
普通はしない。
西園寺家とかでは、首相になった公望の例では、一切家中のことに口を
出さなかったそうだ。ただ、料理人とかは遠回しにチェンジさせることが出来る。
気に入らないと一切家で食べなくなるのだそうだ。当主は。クビにしろとかは言わない。
が普通は察して暇乞いをする。そういう婉曲な意思表示なのだな。
逆に女中頭とかは、当主がどう接してようがクビに出来ない。それは側にいる女性の
権限で江戸以降の家中では、一切関与しない。その極端なのは大奥だな。
江戸以来の家内制度に執事長や秘書官が苦労する話が史料として結構残っている。
プライベートな慣習には家長であっても干渉しない:できない。
87 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 21:10:33
少しすれ違いでごめんね
用人とか、こういう人、農家からの奉公人とか多いでしょ。
ちょうど、明治維新のタイミングで、士族になったりしたのも結構いたんだろうか。
やっぱ、大方は、平民だったんだろうか。
士族になると、それは兄や弟が平民なのに自分だけ士族になってしまうよね。
88 :
日本@名無史さん:2007/09/24(月) 12:43:02
旗本の家臣は、主家である旗本自身が士族なのだから、平民だろう。
旗本ですら、朝臣や静岡藩士にならずに帰農した家は平民だったんだから。
ただし朝臣(中下大夫や上士)になった旗本の家臣なら、公家侍と同じように
三代以上続いた家は士族になれたようだ。
89 :
日本@名無史さん:2007/09/29(土) 07:24:22
馬琴の家みたいに、大名の分家旗本に用人として付けられた藩士の分家でも、
維新後は平民になったんでしょうか。
90 :
日本@名無史さん:2007/09/29(土) 08:23:10
本藩に帰参しなければ大概平民だろうね
91 :
日本@名無史さん:2007/10/13(土) 23:35:10
主家が朝臣になってて、付けられて3代たってれば士族になれる。
92 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 21:52:02
反日本親朝鮮の記事捏造アサヒる新聞は日本から出て行け。
93 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 23:12:27
小者・中間・若党ってこれらは今で言うアルバイトか派遣社員だな。
今の職業で言うとどんな感じかな。
同じバイト・派遣でも、背広をきて東京本社に勤める派遣と
地方工場の流れ作業をする派遣とでは、格が違うな
96 :
日本@名無史さん:2008/04/20(日) 16:45:15
ほほー
97 :
日本@名無史さん:2008/04/20(日) 16:49:06
大企業のホワイトカラーの派遣と
零細企業ブルーカラーの正社員は
どちらが上なのですか?
99 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 18:09:41
大名に仕える世襲の徒士は・・・れっきとした武士と言えるのかなぁ。
見た目は2本差しで羽織袴で歩いてるし。
大身旗本の家臣には概ね譜代と渡り者があったらしい。
主人が特に役方(文官)に付いた場合は、家臣も行政マンとして事務処理
しなければならなかった。
渡り者は一種の行政マン特有の特技者として重宝がられたとか・・・
>>53 加賀前田の家臣の本多家(加賀八家)なんかは諸太夫の陪臣で5万石
おそらくその家老職は1000石として、その陪々臣の家老職も50石程度は
あったかも、その陪々々臣にも、譜代の臣はいないにしても、小人
程度はいてたかも
若党・中間・小者あたりは肉体労務だろうな。
102 :
日本@名無史さん:2008/05/22(木) 20:59:04
>>100 大名の家老職の禄高をみていると、大藩では比率も高く、小藩になるほど
比率も低下する傾向にある。
岡山藩池田家などは3万石の家老なので、藩の禄高の約10%
本多家(加賀八家)関係で陪々々々臣くらいはいただろう
100万石(前田候)→本多家(加賀八家)→本多家家老→同家家老職→同家用人→同家小者
103 :
日本@名無史さん:2008/06/16(月) 19:32:37
刀の2本差しができたのは足軽まで?
テレビで中間が腰の後ろに差してるのは脇差?
104 :
日本@名無史さん:2008/06/16(月) 19:53:48
>>103 木刀です
まあ脇差でもオッケーなわけですが
105 :
日本@名無史さん:2008/06/16(月) 20:10:56
106 :
日本@名無史さん:2008/06/16(月) 21:15:53
>>104 『幕末百話』に江戸城門外での大喧嘩の話が載ってる
何人も切り殺されて血の海
本物の木刀を持たせていた藩も多かったが
中には「真鍮の木刀」を持たせた藩もあった
107 :
日本@名無史さん:2008/06/16(月) 21:21:29
足軽は一本差し
108 :
日本@名無史さん:2008/06/17(火) 13:27:20
一本差しは脇差?
また長いのを1本だけ?
109 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 13:16:20
二本
武士の場合の一本差しは今のノーネクタイくらいの感覚らしい。
111 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 20:35:36
寛政年間の旗本石河氏(2.700石)の家中
御用人(4名)35両2分63俵
御給人(2名)14両1分18俵
御近習(2名)11両9俵
御中小姓(2名)8両2分9俵
御勝手方(2名)10両1分18俵
御足軽(3名)8両3分13俵2斗
御厩(1名)2両4俵2斗
御局(1名)3両4分2斗
御中臈(1名)
御次格(6名)
御腰元(3名)
御乳母(1名)
御茶之間格(2名)
御末(1名)
112 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 22:38:30
>>111 この中で世襲で仕えるのは小姓クラスまでかな?
男手は16人か、1万石の大名だとこの4倍の人数じゃすまないし、
やっぱり旗本の方が気楽か。
江戸中期以降だと、なまじ格が上がる下限あたりの家は内心では先祖を恨んだりしてそう。
小禄の旗本なんかは特に。
それと仲間とか下男とかそれに相当するのは御厩以外見えないみたいだけど、
居ないのか、本当に臨時雇いみたいなので別枠?
114 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 23:02:03
中間小者は整理されて必要な時々で臨時に雇ったと思われる
旗本の中間部屋での賭場はなかったのか。
116 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 03:09:57
賭場なら大名の下屋敷のイメージがつよい
117 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 14:39:17
>>111 これ、面白いな。
2700石の旗本ならば5公5民で手取り1350石・・・お金に換算して1350両前後ってこと?
家臣トップの御用人でさえ35両+25石だから、意外と余裕のある財政状態に思える。
このクラスの上級旗本の生活はかなり裕福だったのだろうか?
1万石クラスの小大名だったら、この10倍くらいの所帯は必要だろうし、家臣の格も高い
だろうから相当厳しい財政になるんだろうね。
118 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 17:22:44
入れ込みといって複数の家に同時に召し抱えられるような者もいた。いずれにせよ小者中間の風儀は悪く、江戸城下馬札前で奏者番井上河内など、大名家当主を罵倒する輩もいた
119 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 19:58:09
>>120 4人分合わせて「35両+25石」じゃないよね?
上級旗本の執事役の俸禄としては少なすぎる気がするし・・・
4人×(35両+25石) なんじゃないだろうか?
>>108 口入屋から派遣された渡り者の若党の場合、刀一本のみを許されていた。
もっともこれは江戸における扱いで、地方では若干、違いがあったと思う。
中小姓からは大小両刀帯びる事が出来た。
足軽は江戸では同心級なので、刀は2本差し。その下に足軽もいるが、これは
武家奉公人扱い。(にわか侍で中小姓の下の身分)
123 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 14:09:08
何かネタは無いか・・・?
125 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 01:25:39
ほほー
126 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 15:30:32
少ないね
127 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 23:59:53
そうかね
128 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 22:58:52
うほ
129 :
日本@名無史さん:2009/08/16(日) 18:27:41
そんなので食えるの?
七日市前田藩 1万石
家老1名、御用人6名、御番頭6名、御給人18名
無足之分18名、御中小姓25名、御徒士17名
小役人26名、御坊主27名、御出入扶持5名
計139名(時期により人数変動)
家老は170石+30石(斎藤善兵衛)
御用人は150石
御番頭は80石
御給人は100石
無足之分は7両2人扶持
御中小姓は6両3人扶持
御徒士は4両3人扶持
小役人は3両2分2人扶持
御坊主は2両2人扶持、
御出入扶持は2人扶持
足軽その他の人数と扶持は不明
>御中小姓は6両3人扶持
中級旗本の用人クラスか
田舎の下級武士はかなり自給自足
今月発売の『大名行列を解剖する』(吉川弘文館)は
武家奉公人達の生々しい姿が描かれてて面白かったよ
134 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 19:40:36
読んでみよう
135 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 22:12:53
武家奉公人から旗本御家人になった人けっこういるんだね
ねずみ講に近い給与体系だな〜
戦力の本音(戦時)と建て前(平時)が有るから仕方ないけど
実石高からの分配だから汲々とせざるおえないし
藩が負債の独占して実石高以上の貸付や資金力を手に入れるのは
簡単だろうが規範が許さないか
貨幣経済への過渡期だから面白い罠
個人的には商人の大黒帳を読むのが好き
奉公してくれ
138 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 23:38:01
飛び地への勤務って藩士にとってはリストラ的屈辱?
それとも、のんびりと勤務出来てメシウマ?
139 :
日本@名無史さん:2010/02/21(日) 02:08:55
実を取るか名を取るかだな。
出世コースからははずれることになったろうね
141 :
日本@名無史さん:2010/02/21(日) 09:56:23
幕末の桑名藩の場合、日本海に面した越後柏崎に飛び地をもらってるが、
北前船の寄港地として交通の要衝であった湊町を管理するために派遣された藩士は、
窓際とかリストラではないだろう。
結局、場所にもよるな。
そもそも「出世コース」って意識があったかどうかも疑わしい
幕末ならともかく、平穏な時だと出世しても知れてるし、
ヘマさえしなければ怠けてても家格は下がらないし。
そういう状況では、人はあまり「出世」しようとは思わない気がする
幕末はともかく、家格の定まった中期以降において出世なんてもんが藩士の頭にあったか疑問。
実入りが良かったり、失敗する可能性の低い職のほうが嬉しいくらいじゃないか?
144 :
143:2010/02/21(日) 11:01:29
こんな過疎スレで被るとは思わなかったw
出世コースはあったよ。
同等の家柄でも実権や実入りのいい職に就く者と、そうでない者がいた。
たとえば、江戸城に集まる大名たちの詰の間(控え室)をみると武家社会の構造がわかる。
大名は登城したさい、家格ごとに分けられた控え室に通される。
そのさい、家格だけでなく現在就いている職、前についていた職等が考慮され部屋を分けられる。
もちろん、家ごとに到達できる職は決まっているのだが、有能な人物が昇進を重ね、自らの家格を上昇させることもままあった。
外様大名は実権の伴う職に就くことはできなかったが、官位や石高といった基準での家格上昇を狙っていた。
大名ですら、こうなのだから下の階級はもっと流動的だった。例は長くなるので出せないが。
幕末の特殊な環境が下級武士の活躍を生んだと言うのは間違いだと思う。
下級武士が実務家として活躍する時代が、志士たちの活躍のベースになっている。
>>145の続き
家格というのは、現代の学歴に近いのではないかな?
入社した時点で、将来到達できる役職がほぼ決まっていて、まれにそれを乗り越える切れ者が現れる。
家門を人材輩出機関とみなすこともできる。
良い人材を生み出す家風もあったし、特殊な技能を修得を売りとする家門もあった。
そりゃ幕末以外でも異常な昇進をする者がいないわけじゃなかったけど
そういうのは藩史に残るほどのほんの一部。
ほとんどの藩士は家格の定めの範囲で多少出世したりできなかったり。
そんな空気の中では朝日文左衛門のように毎日を楽しく平穏に過ごす人が圧倒的に多いんでは?
それも金が無ければ平穏とも言ってられないけどw
なんかの勢いでちょっと出世すると嬉しいなあって程度の話。
148 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 12:13:03
そういうもんかね
149 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 12:44:14
現代人だって、みんながみんな社長や役員めざしてるわけじゃないし、
人並みに食っていけて、平穏に生活できたら十分って思ってる人が大半だろ。
150 :
日本@名無史さん:2010/04/30(金) 10:45:06
そうだろうか?
151 :
日本@名無史さん: