1 :
日本@名無史さん:
このスレは見たことも聞いたこともないような新スレとして登場した!
他のスレや今までのスレとはまったく関係ないですので!
真実の武田信玄公がこのスレにある!
近頃なんでもいいから定説を覆すようなことを書けば満足するようなヤシが多すぎる!
定説ならなんでも合っているわけではないが、このスレではきちんと論議できるヤシだけが集うスレです。きちんと論議することによりマナーも良くなり、まじめな研究者が集まりますので!良スレ化の後には壮大な計画がありますので!
このスレのルールを守り、あと3年あれば残したはずの信玄公の事績を称えあいましょう!
2 :
1の知人:2006/02/04(土) 15:12:44
漏れも1さんに賛同します。
話し合って決めたルールを紹介するのでそのとおりに書き込んでください。
3 :
1:2006/02/04(土) 15:14:20
1の知人さん、ともにいいスレにしていきましょう!
4 :
1:2006/02/04(土) 15:16:22
ルール1 100までは漏れと1の知人さんが、信玄公の事績を
最新の研究をまじえながら紹介していきます。
100になるころには良スレになるので
賛同する方が書き込みを始めてください。
ルール2 100までは漏れと1の知人さん以外は書き込まないでください。
100までいったら、批判的検討もまじえた書き込みをしてください。
批判的な意見も歓迎し、科学的に再検討を加えて書き込む漏れの公平性は明らかですので!
ルール3 E-mail:のところに「sage」と入れてください。入れないと発言後スレッドが上がってしまい、
ふざけたヤシが書き込みを始めてしまいます。必ず守ってください。間違えてageと入れると上がってしまいます。また間違えて名前:のところにsageと入れ、上げてしまう人がいるので気をつけてください!
5 :
1:2006/02/04(土) 15:17:03
ルール4 歴史的事実を覆すヤシは来ないでください。
特に騎馬軍団の存在自体を否定するわけのわからない意見が増えています。
甲斐の国は昔から名馬の産地で有名です。馬に乗りながら戦うのが得意なので武田兵は有名です。
ルール5 漏れと漏れの知人さんを騙ることは禁じます。
かつてかなりの被害を受けました。
特に知人さんを騙ったヤシは、ふざけたことをさらに他のヤシを騙って書き込もうとしてバレたため、
全てが嘘だったことにしたとんでもないヤシでした。
前スレでも急に現れ、知人さんの存在に難癖をつけました。
次に現れた時にはみなさんの団結力で追い払う必要があります!
また、名前のあとにへんな文字列を入れ、自分が本物だと言い張るヤシも出てきましたが、
マナーを守りやめるべきです!
6 :
1:2006/02/04(土) 15:17:45
ルール6 有意義な議論のために、科学的な意見を求めます。もしまちがいに気付いた場合は素直に認めるべきです。
また、人の間違いをいつまでもしつこく追及するヤシがいます。数を数え間違えるなど、日常的によくあることです。
漏れは寛大なのできちんと謝罪があればいつもこころよく許しています。
知人さんのミスにたいする処分も寛大なものでした。
ルール7 武田信玄大学については出版事業の見込みが立つまでは書き込まないこと。
遠大な計画の途上で妨害者が現れるため、うかつに書き込まないでください。
大学を建てるには多くの資金を必要としますので!基金を立ち上げる前に出版事業です。
7 :
1:2006/02/04(土) 15:34:15
ルール8 良スレになり、まじめな研究者が集うスレになれば、出版されることになります。
編集委員がふざけた書き込みは削除します。信玄公を科学的にきちんと称えれば、近い将来、編集委員に任命されます。
この出版事業は文藝春秋社が行うと思われがちですが、出版業界全体に門戸を開き、入札制度をとるため、
文藝春秋社と決めてかからないこと。良質な出版社が望まれます。
ルール9 ふざけた絵を描くことを禁じます。同じ絵を何度もコピーし迷惑をかけるヤシがいます。
2ちゃんねるの削除係に訴えたところすぐ削除されました。
無駄なスペースで不必要に早く1000になってしまいますので禁止します。
>>1の家臣でござる。
この度は殿がかように愚かしきスレを立ててしまい、家臣一同お詫びの言葉
もござりませぬ。
殿は先の戦での大敗以来、すっかりお心を病んでしまい、昼は村娘をかどわ
かし、 夜ごと酒を召しては家臣に斬りかかる毎日でござる。
奥方様は病で倒れ、折からの飢饉で民は飢え苦しみ、 近隣諸国の大名はこ
れ幸いとばかりにわが国との国境を侵し始めている次第 にござりまする。
家臣の中にも殿に翻意をいだく者が多く、このままではお家滅亡の一大事に
もなりかねませぬ。
しかし、ご安心下され。間もなく殿には出家していただく手はずにござる。
殿が寺に向かう途中に手練れの者をひそませ、殿のお命を頂戴する算段が出
来て おりまする。
その後は殿の甥にあたられる茂名守(もなのかみ)様を殿として迎え、 我ら
家臣一同忠勤を尽くす心づもりでござる。
皆様方には迷惑をおかけして、まことに申し訳ござりませぬが、 今しばらく
の辛抱でござる。
なにとぞなにとぞ殿の此度の所業をお許し下さいませ。
9 :
1:2006/02/04(土) 15:55:08
武田信玄公は大永元年(1521年)積翠寺にて生誕されました。
父親の信虎は戦は強くても領民を大切にせず怖がられていましたが、
このときはよろこび、勝利してきたばかりなので勝千代と名づけました。
信玄公は生まれたときから頭がよく、四書五経をよく学びました。
特に孟子の考え方をよく勉強しました。
君主は民のためにいるのであって、いくら君主でも悪いヤシで家来がいくら諫めても直らなければ
取り替えた方がよいと考えるようになりました。
10 :
1:2006/02/04(土) 15:57:00
武田信玄公は大永元年(1521年)積翠寺にて生誕されました。
父親の信虎は戦は強くても領民を大切にせず怖がられていましたが、
このときはよろこび、勝利してきたばかりなので勝千代と名づけました。
信玄公は生まれたときから頭がよく、四書五経をよく学びました。
特に孟子の考え方をよく勉強しました。
君主は民のためにいるのであって、いくら君主でも悪いヤシで家来がいくら諫めても直らなければ
取り替えた方がよいと考えるようになりました。
11 :
1の知人:2006/02/04(土) 15:59:58
>君主は民のためにいるのであって、いくら君主でも悪いヤシで家来がいくら諫めても直らなければ
>取り替えた方がよいと考えるようになりました。
なるほど、それで信玄公はあまりにもひどい君主だった父信虎を追放したんですね?
孟子を漏れも勉強したくなりました。1さんのおかげです。
信玄公を悪人よばわりするヤシが当時も今もいますがふざけてます!
やむをえない場合があることを認めるべきです。
12 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 16:02:46
位置の母ですが私の知らない間にこの糞スレ立てたなんて知りませんでした
位置は生まれつきの池沼なので注意してもわからないと思いますが
どうか位置を甘やかさないようにお願いいたします
私からも注意しておりますがまったく裕子と聞きません
みんなからも位置をいじめてやってください
それが位置のためなのです
後一がまた迷惑をかけたら注意してやってかまいません
私にも報告してくれるとありがたいです
後一を位置を発見しましたら
一意って由一意って由一意ってよっし
と言ってやると位置は消えますのでよろしくお願いします
13 :
1:2006/02/04(土) 16:04:01
武田信玄公は大永元年(1521年)積翠寺にて生誕されました。
父親の信虎は戦は強くても領民を大切にせず怖がられていましたが、
このときはよろこび、勝利してきたばかりなので勝千代と名づけました。
信玄公は生まれたときから頭がよく、四書五経をよく学びました。
特に孟子の考え方をよく勉強しました。
君主は民のためにいるのであって、いくら君主でも悪いヤシで家来がいくら諫めても直らなければ
取り替えた方がよいと考えるようになりました。
14 :
1:2006/02/04(土) 16:06:40
そうです!信玄公はたいへんつらい思いで父親を追放したのです。
詳しいことはあらためて説明しますがやむをえなかったことだけは誰にでもわかります。
心の中では泣いています。天下のためです。
15 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 16:08:42
16 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 16:25:28
17 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 21:32:33
なんか演じてる数増えてる。友達いないからってわざわざ名前変えないでも・・・・
つか、騎馬隊なんてないっての。
19 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 21:56:03
甲府の山ノ中で馬格の小さい騎馬に乗ってなんになる?
鎧武者が乗ったら動けない、音に怯えやすい。武器も振り回せない。
敵からすれば的が大きくなっただけ。
関連して騎馬民族征服説も大概だよなー。
21 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 22:15:50
22 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 22:22:42
馬は高価ですから、なるべく殺さずに分捕りたいのだよ。
23 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 22:51:27
栃尾刈谷田川の戦い ○謙信軍 対 ●反乱軍
謙信の初陣。病弱な兄、晴景に変わって出陣した。
実戦経験の無い謙信だったが、油断していた敵を畳掛け、初陣とは思えない華々しい勝利を飾った。
これによって家中の期待が高まり、上杉家は謙信が継ぐ事になった。
北条征伐 ○上杉軍 8万人 対 ●北条軍 9万
関東管領として、北条を征伐した戦。 関東豪族のほとんどが上杉謙信の側についた。
北条軍は撃破されまくり、殺されまくりで小田原城に追い詰められる。
北条軍は小田原城落城寸前まで追いやられるものの信玄が助けに入ったため助かる。
関東管領として始めての戦であった。
川中島の戦い ○上杉軍1万3千 対 ●武田軍2万
無敵の武田騎馬軍団も毘沙門天の化身上杉謙信には勝てるわけがなかった。
啄木鳥戦法も軍事の天才謙信には見破られ、武田軍は山本勘助や弟ら重臣を失う。
車がかりの陣で武田軍は追い詰められ、死者四千六百三十人、負傷者七千五百人を出す大被害を追った。
謙信は単騎特攻して信玄と一騎打ちするなど大活躍を見せた。
唐沢山城救援戦 ○上杉軍13 対 ●北条軍3万
上杉側の関東の豪族、佐野昌綱を救援するため、北条の大軍の中を数騎で特攻。
謙信の威勢に恐れをなした北条軍は怯えて近づく事が出来なかった。
手取川の戦い ○上杉軍2万 対 ●織田軍4万8千
最大勢力の織田も軍神上杉謙信の前では赤子同然だった。
能登畠山を軽々と滅ぼし、謙信に怯え逃げる織田軍を追撃。
織田軍は二千人近くの死傷者を出して、大敗する。
信長自身、近習ら数十騎とともに命からがら美濃へ逃げ帰ったという。
もし謙信が寿命で死んでいなかったら信長は滅んでいただろう。
松川の戦い ○上杉軍2千 対 ●伊達軍4万
この20倍にも及ぶ戦力差を本庄繁長の巧みな戦術で克服し、奇跡的な大勝利を得ている。
伊達軍は大量の死傷者を出して大敗、撤退する。
この戦いを捏造と言う伊達厨がいるが、もちろん負け惜しみから来る妄想なので注意が必要である。
日本の騎馬軍団は軍馬を装備していただけで、戦術上騎馬の特性を駆使した戦いはなされていないとのこと。世界ではあ
きらかにモンゴルや匈奴等のユーラシア系騎馬民族が最強。時代を考えると日本が最強なのは足軽鉄砲隊かなぁ?
>>23 752 :日本@名無史さん :2006/02/05(日) 02:17:15
>>751 >北条征伐 ○上杉軍 8万人 対 ●北条軍 9万
上杉政虎が小田原から撤退する時、北条勢の追撃を受けて命からがら越後に逃げ帰っているよ。
あと、成田長泰の離反を機に関東の大半の諸将は上杉から離れています。
>佐野昌綱を救援するため、北条の大軍の中を数騎で特攻。
それ、作り話なんだけど。
>信長自身、近習ら数十騎とともに命からがら美濃へ逃げ帰ったという。
信長は手取川合戦に参加してないんですが。
あと、知らないみたいだから教えてあげるが、
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
ここのスレ、真面目な所なんで変なレスはご遠慮願いたい。
いちいち間違いの訂正をするのも面倒くさい。
26 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 19:54:26
ネタにマジレスプッ
>>25 >それ、作り話なんだけど。
作り話という事ですが、この話を否定する史料は、どちらにあるのでしょうか。
よろしければ、お教え下さい。
28 :
25:2006/02/07(火) 20:19:57
29 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 14:12:47
武田の軍議て
峰岸徹、古谷一行、土屋嘉男みたいなエロス漂うオサーンたちが飲みながら
上杉攻めらざあそうするだあ
やってたんじゃねえかなあって気がする。
30 :
サリエリ ◆TSdh4Rk/5k :2006/02/08(水) 14:22:22
数年前、「武田晴信容疑者逮捕」のニュースを見たときは吹いたw
キャスト
中井貴一(武田信玄)、柴田恭平(上杉謙信)、西田敏行(山本勘助)
杉良太郎(北条氏康)、宇津井健(直江実綱)、若尾文子(大井夫人)
平幹二朗(武田信虎)、紺野美沙子(三条夫人)、南野陽子(おここ)
池上希美子(恵理)、大地真央(里美)、菅原文太(板垣信方)
篠田三郎(山県昌景)、堤信一(武田義信)、真木蔵人(諏訪勝頼)
本郷功次郎(甘利虎泰)、若松武(武田信繁)、美木良介(馬場信春)
村上弘明(高坂弾正)、橋爪功(真田幸隆)、宍戸錠(原虎胤)
小林克也(原昌俊)、岡村青太朗(原昌胤)、保阪尚輝(長野業盛)
石橋凌(織田信長)、佐藤慶(阿部勝宝)、小川真由美(八重)
結城美栄子(たき)、古村比呂(於津禰)、渡辺正行(平三)
佐々木すみ江(とら)、勝野洋(大熊朝秀)、ジョニー大倉(鎌田長門)
篠塚勝(武田信廉)、宮崎真純(おらん)、丹波義隆(石和甚三郎)
宍戸開(塩津弥兵衛)、田島令子(きぬ)、ひかる一平(勘市)
小宮孝泰(作造)、内藤武俊(岐秀)、矢崎滋(立木仙元)
浜村純(倉科三郎左衛門)、麻生祐未(濃姫)、河原崎健三(梁田政綱)
大門正明(市川大介)、御木本伸介(平手政秀)、岡田圭(柴田勝家)
33 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 16:00:47
中村勘九郎(今川義元)、岸田今日子(寿桂尼)、岩下浩(岡部美濃)
長谷川明夫(庵原忠胤)、神田雄次(今川氏真)、花柳錦之輔(北条氏政)
井上孝雄「松田憲秀)、北村総一郎(松田康郷)、岡田美里(阿弥)
石丸謙二郎(御宿監物)、財津一郎(大原雪斎)、板東八十助(諏訪頼重)
鈴木瑞穂(千野伊豆入道)、藤木悠(千野南明庵)、岡本舞(お梅)
新井康弘(小笠原長時)、三ツ木清隆(高遠頼継)、滝田裕介(足利義昭)
松橋昇(三条公兄)、西田健(細川藤孝)、上条恒彦(村上義清)
西岡徳馬(北条高広)、北村晃一(天野景貫)、中村橋之助(徳川家康)
中村新将(酒井忠次)、下塚誠(菅沼新八郎)、徳丸純子(雪姫)
渡洋行(龍宝)、金内吉男、轟二郎、山本紀彦、森田順平。(文中敬称略)。
34 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 09:32:31
そうそうたるめんめんだな
35 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 10:30:14
ジョニーは急病で格下げですか。
36 :
1:2006/02/09(木) 11:29:33
自演する時間が無くなったので、1の知人さんは以下、1とします。
37 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 11:46:12
一般兵士が騎馬に乗るわけないだろう。
名馬の産地だからみんな馬に乗るなんていいかげんなこと言うなよ。
38 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 11:46:52
騎馬に乗るって骨が骨折と同じだw
逝ってくる
39 :
1:2006/02/10(金) 19:54:37
また信玄公は子どもの頃からとても頭がよく、
ある時、貝殻がたくさんあったので貝殻の数を数えました。3700ありました。
その後、家臣達にこの貝殻がいくつあるかあてさせたところ、
どの家臣も10000とか全然違う多めの数を言ったので
「こんな風に実際より多く見るヤシばかりなので戦でも人数を間違えさせれば簡単に勝てる」
といいました。
家臣達はみな恐れ入ったということです。
40 :
1の知人:2006/02/10(金) 19:55:57
なるほど!
信玄公は幼少の頃から戦場にいるときのことを常に想定して
物事を見て、考えていたんですね。さすがです。
戦闘力の高さだけではなく知略で天下を取れたわけがわかります。
41 :
おのり:2006/02/10(金) 20:54:52
武田信玄
甲斐宰相 武田信繁
武田五人衆
山県昌景、内藤昌豊
馬場信春、高坂昌信
真田幸隆
総大将補佐
木曽義仲、明智光秀。
42 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 15:43:20
age
43 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 21:37:10
瀬沢の合戦での信濃連合軍の総数ってだいたいどのくらいだったんでしょうか?
44 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 06:17:02
日本馬は小型で、甲胄武者が騎乗するとスピードは出ない。騎馬軍団は妄想です。
遺臣の私が断言します。>1サンは勉強しましょう。
45 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 10:32:38
つーか日本人も当時は相当小さかったから、比率的には現代と変わらん。
46 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 10:37:01
日本人が小さくなったのは
江戸時代からでしょう。
たぶん。
47 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 12:17:57
日本人は伸び縮み自在なんだよ。
48 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 12:20:07
ゴムかよ
三戦板に帰れ
50 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 14:15:31
ゴムだよ
51 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 14:21:16
質問です
武田の重臣は「昌」がつく割合が非常に高いですが
これは何に由来するものですか?
52 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 22:58:00
世界最強?島国ひとつ征服出来ないのにw
武田ファンなら甲陽軍鑑ぐらい読め。騎馬隊なんて一言も出てこんぞ。
武田家が強かったことは否定しないが、他にも書かれてる通り、当時の日本にい
たのはポニーのような小型馬で、現代人がイメージするような馬、アラブ種やサ
ラブレッドなんてのが入ってきたのは明治以降のこと。
騎馬隊なんぞ後世の創作。
54 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 01:40:48
>1西部劇の見過ぎ?日本語も変だよ
55 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 09:24:43
>>53 元寇絵巻を始め昔の絵画に騎馬侍は散々描かれてるわけだが。
56 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 09:42:11
>>55 騎馬がゼロだとは言ってない。
甲陽軍鑑によれば、兵士1000人あたり7〜8人の騎馬兵はいた。しかし、数からいえばこれは上級将兵クラスだけだろう。
ついでにいえば、鎌倉時代と戦国時代では騎馬の運用も変わってる。
戦国の頃には、馬上から弓を射るようなのどかな戦術はとる余裕がない。
馬に乗ってた将兵クラスでも、戦場では馬から降りて槍を振るってた方が多い。
>>56 もちろん皆無ではなかったろうが、それが全国に広まったわけではあるまい。
明治政府が軍の近代化を図るため、外国から講師役を招いた時、日本人はポニーに乗ってると笑われた(ワケではなかったかもしれんが、ニュアンスまでは知らん)。
それで軍馬の生産に力を入れ始めたのが、日本の競馬の始まり。
59 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 12:45:17
まあ日本人自体チビッコだったからポニーで十分だったんじゃない?
騎馬隊の実在が否定されても、信玄の強さまで否定されたわけではあるまい。
>>1はそれじゃ不満なのか?
武田の騎馬隊だけじゃなく、信長の三段撃ちも最近ではなかったとされることが多いみたいだね。
ひとつには、そんなに有効な戦術ならその後も使われていいはずなのに、それらの記録はないこと。
次に、本当に騎馬隊と三段撃ちがぶつかったのなら、勝負はあっという間につくはずだが、長篠の戦いは6〜8時間ぐらい続いていたこと。
あと、当時信長が持ってた鉄砲は3000丁ではなく、実は1000丁ぐらいだったという説もあるみたい(出典は不明)。
もちろん、ある程度の数を固めておいて、敵が近付いてきた時に集中砲火を浴びせる、くらいの使い方はした可能性があるけど。
それでもこれまで広く信じられてきたのは、信長の革新的な性格を示すのに適当なエピソードだったからだろうし、たとえ三段撃ちがなくても信長の評価を変える必要はない。
義経のハ艘跳びだって、有名だけどかなり嘘くさい話でしょ?(そりゃ、1〜2隻くらい乗り移ったことはあったかもしれないけど)
まぁ歴史の定説なんてそんなもんじゃないかな?
実際に見たヤツがいるわけじゃないし、この先も研究が進めば覆るものは出てくるっしょ。
62 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 23:30:11
>>53 軽いポニーなどと比べても仕方ない
馬体は頑丈なんだから
それに日本馬が特別小さいわけでもない
63 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 00:05:28
戦国時代の日本の馬は、体格が貧弱で、鎧を着た武士が乗ると
立っているのが精一杯だった。
その姿を遠くから見ると、妙に背の高いやつがいるとしか、
見えなかった。
大河ドラマや、映画でえがかれた騎馬など、西部劇の世界からの
妄想で、実態とは、まるでかけ離れている。罪作りなことだ。
64 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 00:20:51
おりゃ〜っ 時速15キロで突進するのじゃ
なんせわが軍は天下無敵だからな
65 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 00:23:43
サラブレッドなんかとくらべると足の太さは倍くらいあるけどな
サラブレッドじゃ鎧武者の百キロ超える体重支えられないらしい
66 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 00:33:19
>>65 足が折れてサラブレッド哀れ食用だ罠
JRA
だね。だから軍馬はアラブ中心だったんじゃないかな?
競馬も昔はアラブが多かったけど、戦後は軍用の用途はなくなり
純粋に速さだけを追求するようになったから、より速いサラブレッド
に変わっていった。
68 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 02:56:57
\ / `气三ミ
思 必 無 ネ \ / へ ∧ _ミ
う 要 理 タ | / ri |\ ./::::::\/:::|! モミ
ん も し が | んハ , |!;::::::;r―一’::::|! ヾ
だ な て な | l:::::::::|:::::::_及_ノ:r┬ァ‐、;;:::|!
が い レ い | ト-ィメ::::::::::|!:::;;;;;`ー^‐'´::::::|!
: と ス ん | Kf牙 ー' l!:::::::::::::::::::::::::::|!
: を な. | |:::::/ レヘ::::::/ヽ:ノ
す ら | レ< ∨ '
る / | \_コ‐'
/ | ー
/ | l^ ,ニこー、_
________/ .i ムニr‐、_二ー
λ :::::::::::'''´
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r‐´ーフス刀勿双州憑 _ィr=介魁
武田勢はもともと優秀で強かったのは間違いないだろうけど、
徳川時代に実力以上に持ち上げられた可能性はあるかもね。
家康は信玄を恐れてたし、尊敬もしてた。
武田氏滅亡後はその遺臣を多く召し抱えたりもしてるくらいだし、
後に天下人になった家康が、「信玄公は強かった」と言えば、
その部下たちが実際以上にその言葉を受け止めても不思議じゃない。
でも、結局現実には甲斐、信濃の地方大名止まりだったんだよね。
そりゃ周りに上杉、北条、今川といった強敵が多かったということもあるけど、
それは彼らに対しても同じことが言えるわけで、その中で確実にアタマひとつ
抜け出せるほどの決定的な実力差はなかったという意地悪な見方もできる。
72 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 14:14:56
とりあえずその日本馬の画像貼ってみろや
「木曽馬」でぐぐれ
74 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 16:30:30
75 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 17:03:21
道産子は小さいけど、木曽馬はもう少し大きいよ。
76 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 17:06:31
去勢しないでよく使えたな 他の国では大抵去勢するんだよね
77 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 17:10:46
>>69 昌の名には確かなんかの意味があると思います。
どっかで読んだ記憶がありますが、思い出せない。
78 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 17:11:09
確か甲陽軍鑑によると武田領にいたうんまの数が5万頭
そのうち戦に使ったのが一万頭だからそれなりに選び抜いた
うんまを使ったのでは?
79 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 17:14:17
よしっ 時速12キロで突進するのじゃ
怒涛の武田信玄軍
80 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 20:52:06
81 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 23:27:09
なんか鉄砲を乱射される中、次ぎから次にと騎馬突撃なんて203高地なみの愚策だな
82 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 23:33:43
だいたい馬に乗りながら戦ったのかどうかも疑わしいわな。
83 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 05:36:01
おーい。
>>69 解かったぞ。
信玄の爺さん信昌の昌だ。
85 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 20:08:42
武田信玄の本当の凄さは外交と内政だと思われ
86 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 20:19:59
暗記科目=クソ科目
最低日本史クソ野郎
逝け
追激戦では騎馬武士が敵を追って
馬上槍で突き崩したかもしれない。
少なくとも日本史板に来る程度には歴史に関心があるヤツの中に、
いまだにこの手の話を信じているヤツがいたことの方が驚きw
騎馬隊の実在はおくとしても、信玄が秀れた武将だったことには異論はないだろうし、
もしもう少し長生きしてたら歴史はどう変わっていたのかを考えてみるのは面白いと思うけどね。
ただ3年では短い気がする。
仮に信長や家康あたりを倒したとしても、それですぐ天下統一ということにはならないし、
徳川のように二百年以上も続くような幕府の設立までには至らなかったんじゃないか?
15年ぐらいあれば分からんが…。
91 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 21:31:45
信玄って周囲の小家をまとめた程度の事しかやってないでしょ。
金山の金で謙信のように人を雇い人命を消費する戦いができる優位な点があるのに。
信玄のもとを離れる有力者が多かったのも人的魅力に欠けてたんだろう。
悪評高い親父は追放後人に囲まれ長生きしてるし。どうも信玄を持ち上げる為まわりの人間が悪人や愚か者にされてるみたいだ。
92 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 21:44:13
謙信がいなきゃもっと勢力拡大してたんだろうけどね。
93 :
まる:2006/02/18(土) 21:54:22
おぬし あまいな!
94 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 16:55:49
三国同盟がなければ甲斐から動けず周囲からの攻撃に耐えるだけで終わったかもしれない。
確かに乱世の一武将としては優れた部類だろうが、乱世を沈めて統一するというタイプではなさそう。
現実のイメージに引きずられてるだけかもしれないけど。
96 :
e:2006/02/19(日) 20:32:31
信玄公
●父信虎「悪政を理由に追放する」●弟信繁「作戦失敗で川中島討ち死にさせてしまう」
●息子義信「駿河攻略を反対したため自害させる」●義兄の諏訪頼重「助けるとみせかけて騙して自害させる」
●姪(諏訪頼重の娘で姉の娘)「妻に迎え」●息子の勝頼「家督を継がせないで孫の信勝に継がせようとし」
●今川家(息子の嫁の実家で娘の嫁入り先の親族)「攻めて滅亡させる」
●死後娘婿の二人に裏切られる
さすが信玄、ここまでやれるのは凄い!
百数十万石とるのは大変なことです。
●騎馬隊を率いて「甲斐信濃駿河上野飛騨遠江」に広く武勇を広めた功績はすばらしい。
97 :
e:2006/02/19(日) 20:44:59
>51
「昌」
元服時に元服親の一文字をいただくという風習があったからじゃないかな
確立的に同じ時が付く可能性が高くなる。
>94
ちなみに三国同盟は今川家の大原雪斎の提案じゃなかったっけ?
金山の開発により公害病を引き起こす
信濃の民を搾取する
よって悪人
99 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 19:10:22
>>97 太原雪斎って意外な大物ぽいけど小説なんかでは取り上げられないせいであまりにもしられてない。
100 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 19:28:18
信玄=晴信の一字拝領をした重臣は、穴山信君みたいに「信○」になるの?
101 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 19:30:33
山岡家康で有名じゃん
それにしても昌率が高すぎるぞ
主君も昌つかないし
全員一族と言うわけでもない
偶然にしても多すぎる
なんか1が痛々しいスレだなw
104 :
e:2006/02/21(火) 04:32:28
>102
推測なんだけど誰が昌が付く人がよく元服親やってたんでしょう。笑
戦国後期以前は父親ならともかくそれ以外だと
誰が元服親やってたかかかれてないのが多いから正確にわからん。
あんまり気にすることでもないような気がするが、、、
>100
穴山信君は父親から信をもらったんでないかい?
とりあえず、結構「信」多いから...
確かに昌は多いのは事実だな
105 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 17:54:58
主君の名前に字を貰うのは恩賞の意味がある。
106 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 18:32:19
山県昌景の場合、初め飯富源四郎といい、飯富虎昌の弟だったから、
単に兄貴の一字をもらったんだろう。
兄貴の虎昌は言うまでもなく、信虎の一字だな。
107 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 18:48:33
信虎の時に至り、初て下の字を臣下に賜り、虎の字に改しごとく、諸士多く
虎の字を称す。
然るに高坂には、信の字、虎の字なく、昌信とあるはいかゞと思ひしに、
昌の字を名乗に付たる士叉多し。
此昌の字恐くは信の字の誤写なるべきか。信と昌と粗々にたる。
是も彼の軍鑑にうつし誤りしより、諸家にてうつしとり、寛永系御改の時、
悉昌の字になせしか。
武田三代記等のごときも、はるか後年の上木なれば、かれに準拠すとしらる。
108 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 19:05:00
誤字でみんな信が昌になったって事?
109 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 17:38:28
書き込みのはやきこと風の如く
他人と会話せざること林の如く
ネットで煽ること火の如く
部屋から動かざる事山の如し
,ィ __
,. / |´ ̄`ヽー- 、 ト、 , -‐、/./.- 、
/ | | ヽ l l ( 火◇風 ノ
/o ̄`ハ._.ゝ===┴=く.ノ- 、 ノ ◇ ◇ (
/o O / l´ ノ ヽ lo ',ヽ ( 山◇ 林 }
\___/. ト、 ● ● ハ ∧ `⌒/7へ‐´
/ ,イ レ_ ( _●_) ミl~T--‐彡 /./
/ ̄ ̄l. 彡、 |∪| ノ'l l::::::::::彡ー7⌒つ、
彡:::::::::::l ト、___ヽノ /| l::::::::::::ミ {,_.イニノ
彡ソ/ノハ ト、 \ / ,イ 川ハ ヾー‐'^┴
110 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 17:40:39
ゴマちゃんかわい
111 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 17:57:56
久々に見にきたんだけど
相変わらず1と1の知人かwww
武田信玄を語るのは勝手にどうぞっ
でも、武田信玄の祖先の事も知らなきゃだめだぞ>1
武田信玄よりも有能だった(と思われる)祖先がいるんだから
112 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 00:00:11
正直、ここで信玄スゴイと語ってる人は
謙信がいなかったりとかあと少し寿命があったら
天下を取ったり、天下を揺るがすような事ができてたと本気で思ってるんだろか?
114 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 22:01:46
115 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 22:30:35
説楽原での激闘
ttp://www2.ttcn.ne.jp/~history/collaborate/nagashino/07.htm 二番に正用軒、入替、かゝればのき、退ば引付、御下知のごとく鉄炮にて過半人数うたれては其時引入るなり。
三番に西上野小幡一党、赤武者にて入替り懸り来る。
関東衆馬上の功者にて、是又馬入るべき行にて、推太鼓を打つて懸り来る。
人数を備へ候身がくしをして、鉄炮にて待請けうたせられ候へば、過半打倒され無人になつて引退く。
四番に典厩一党黒武者にて懸り来り候。
かくのごとく、御敵入替へ侯へども、御人数一首も御出しなく、鉄炮ばかりを相加へ、
足軽にて会釈、ねり倒され、人数をうたせ引入るなり。
(『信長公記』)
ルイスフロイスが言う
「日本人は戦になると馬を下りて戦う」
という部分
西日本の戦いを意識してるとも思われ(藤本正行)
武田、北条、上杉などの合戦形態を全て表現したものともいえない。
116 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 22:35:00
>「関東衆馬上の巧者にて、是又馬入るべき行(てだて)にて」
騎馬の集団による戦闘を否定しているわけではありませんが、
この文面では、騎馬隊の立証としては少々苦しいです。
117 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 22:42:48
>>116 訂正
>鉄炮にて待請けうたせられ候へば、過半打倒され無人になつて引退く。
これは有力。
118 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 22:43:31
>>116 騎馬隊の立証しようなどとは全く思ってませんよ。
『是又馬入るべき行にて』
ケースバイケースで馬上戦闘も存在したと言ってるのです。
騎馬全否定ではなくてね。
119 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 00:36:34
追撃戦は馬上らしいよ 結構
120 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 20:53:21
飯富昌景のことオブちゃんって呼ぼうよ
発音はエビちゃんと同じで
世界最強の騎馬軍団は、
アジア全域を制覇した蒙古の騎馬集団だろ。
日本の中だけで同じ民族同士で戦ってたぐらいで最強とか言われても
122 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 11:03:33
武田が最強なのは捏造された甲陽軍艦での世界だけの話しだよ
123 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 21:21:34
信玄は戦術、心理を読む事が優れた武将だったのでは?
124 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:13:26
戦術はともかく人心掌握術は凄まじいよな
125 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 01:26:34
【神】武田家の輝かしい戦歴【不敗】
1541年5月 信玄、武田信虎、村上義清に従い海野棟綱を攻める
6月 オヤジ狩り開始。武田信虎追放。
7月 諏訪頼重との同盟を一方的に破棄、名門諏訪家を攻め滅ぼす。
12歳の幼女である姪の諏訪御料人を愛人に迎える。
1548年2月 上田原の大敗 村上5000を上回る7000もの大軍で戦に挑むも先陣を包囲され殲滅。
重臣板垣、速攻で討ち死に。さらに中央突破を受け歴戦の重臣甘利、才間、
初鹿野を討ち取られ、さらに信玄自身も足軽に切り付けられ2箇所に重傷を負う。
将兵700も討ち取られる大敗。村上の被害は300程度。
この戦によって反武田勢力が力を盛り返し窮地の陥る。
平定に二年も費やし逆らう者を皆殺しにし、無駄に時間と軍費を費やす。
後の長篠大敗の後の信濃大離反の火種を作成する。
1550年10月 戸石崩れの大敗 原虎胤のみならず信玄自身も偵察に赴き、万全の体勢を築き上げ、
かつ、村上義清が高梨と交戦中の絶好の留守の機会に奇襲をするも、つい先程まで高梨軍と
死闘を繰り広げ疲弊していた村上軍が急遽来襲。圧倒的に有利でありながらまたも大敗。
将兵1000を失い、追撃を受け、信玄がその才能に期待していた未来の有望株であった
横田高松が討ち死に。信玄は後年まで酒を飲むとこの者を失った悲しみを周りの者に語った。
1551年10月 小岩岳城に奇襲をかけるも失敗。後年、その恨みか落城の際には降伏さえ許さず城兵500を
皆殺しにし、かつ、老人、女、子供に至るまでを奴隷として売りさばく(妙法寺記より抜粋)
そのため現在でも落城の8月12日では慰霊祭が行われている。1000人を皆殺しにし、奴隷として
売りさばき、黒川金山に連行した志賀城と双璧を成す大虐殺である。
126 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 01:28:49
1553年4月 布施の対陣 更級郡八幡で戦うも長尾軍の猛攻により一時撤退。高坂、村上義清にボロボロにやられる。
後に甲陽軍艦において見事なまでの捏造で挽回をする。
8月 軍を建て直し川中島で戦うも越軍の連夜の夜襲に悩まされる。
9月 謙信に敗れ、筑摩、埴科郡に侵入され、荒砥城を落とされる。
信玄塩田城に怯えて篭る。謙信暴れるだけ暴れて帰還。そのまま即座に上洛。
信玄イジメの味を覚える
1554年7月 伊奈郡神之峰城主 知久頼元、座光寺氏が謀反。国内が乱れる。
1555年7月 大塚の対陣 再び越軍の夜襲に毎夜被害を出す。信玄対抗して1000の別働隊を善光寺方面より
向かわせ夜襲をかける。が、見破られ手痛い被害を出す。ウサ晴らしに善光寺より本尊を強奪。
兵糧が底を尽き始める。今川に頼み旭山城を撤去する譲歩でなんとか和睦。
1557年1月 村上義清の守る飯山城を攻略。失敗
謙信まで出陣してくる事となり上田西方坂城、岩鼻付近の武田軍を撃破される。
信玄出陣するも決着付かず。
1558年4月 信玄自ら武田軍二万を率い上州に侵攻。業政が吾妻に出陣している留守を狙うも、
業政は間道を使って直ちに帰還。業政に蹴散らされ、翌日には食糧を焼かれ弾薬を爆発され
軍を維持できなくなり即座に撤退。
1559年9月 飯富虎昌に安中城を攻撃させ、信玄は和田城の攻略に当たる。業政は援軍として駆けつけ
奇襲を行い信玄の陣を混乱に陥れる。反撃とばかりに雉郷城を取り囲むも空城。
長野業政は鷹留城の部下に策を与えて箕輪城に帰還。信玄は追撃しようと鷹留城を攻めるも
反撃を受け撤退。撤退中に伏兵を受け惨敗。兵五百を失う甚大な被害を出し撤退
1560年1月 再度箕輪城を取り囲んだが、飢えと寒さに苦しむ中、さらに安中忠政に
糧道を断たれ、長野業政の総攻撃を受け、たまらず撤退。
11月 勝沼信元謀反の疑いで処刑。
127 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 01:30:32
1561年9月 川中島の戦い。上杉12000、武田二万弱、上杉は数ヶ月前まで関東に遠征をし、
疲弊をしている圧倒的優位な戦。
啄木鳥戦法にて奇襲を行うも簡単に奇襲を読まれ、信繁、諸角、室住昌清、勘助討ち死に。
信玄自身も本陣にまで切り込んできた荒川に切りつけられる。
死者では上杉の1,5倍、負傷者では二倍近い損害を出す。
1565年9月 義信、飯富虎昌、謀反を起こそうとしたため処刑。国を傾けた大いなる要因となる。
1568年7月 謙信と同盟を結んでいた本庄と共謀し、大軍を率いて越後を攻める。
が、しかし越後以前の北信濃、村上義清の守る少数の小城である飯山城でさえ落とせず。
仕方なく撤退。駿河に侵攻。
1569年4月 合戦に敗れたため、駿河を放棄して帰還
1571年1月 駿河興国寺に奇襲をかけるが見破られ敗退。深沢城攻略も失敗。全軍撤退
1573年4月 信玄没。死後娘婿の二人に裏切られる。奥平信昌、長篠城ごと徳川に寝返る
8月 武田信廉、山県昌景、穴山信君、北遠江へ侵攻。徳川の伏兵にあい敗北
1575年5月 長篠の戦い
死者7000、山県昌景、内藤昌秀、馬場信春、甘利信康、五味高重、安中景繁
真田信綱、昌輝、原昌胤、望月義勝、香坂昌澄、土屋昌続、川窪信実、和田業繁、
三枝守友、名和宗安、横田綱松、祢津是広、討ち死に
11月 秋山信友、大嶋長利、座光寺貞房、討ち死に
128 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 01:31:47
1582年1月 木曽義昌、武田に謀反、織田に寝返る。
2月 武田勝頼二万の兵を率いて出陣。木曽義昌に鳥居峠で大敗。17日、平谷陥落。
18日、保科、飯田城を捨て逃走、信廉、大島城を捨て逃走。20日、田中城落城
3月 仁科盛信、小山田昌行、今福昌和、原貞胤、武田竜宝、武田信綱、武田信堯、
一条信就、山県昌満、朝比奈信直、諏方頼豊、一条信竜、討ち死に。
勝頼、盛信、信勝、跡部勝資、土屋昌恒、安部宗貞、小宮山友晴、滝川一益に討ち取られる。
武田信豊、小山田信茂、長坂光堅、処刑
4月 織田軍による武田残党狩り開始。恵林寺ごと焼き殺される
武田家唯一の生き残り武田信清、武田家滅亡時にその縁故を頼り、上杉氏に仕える。
江戸時代まで代々、上杉家の下層家臣として飼われる。
129 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 23:10:57
戦国のカリスマ信玄、 信長が最も恐れた男、 家康も学び、師と仰いだ男
130 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 02:32:24
黒沢明の「影武者」のおかげで、ドイツでは武田信玄が大人気らしいぞ!!
「武田信玄はドイツに渡来して生きていた。」って言う熱狂的なドイツ人がテレビに出てたぞ。
ちなみにそいつは自分のことを「ヤマガタマサカゲ」って言ってた。
131 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 07:52:01
>>129 一向宗をもっとも恐れていましたがなにか?
家康は旧武田家臣に気を使ってそう言っていましたがなにか?
門松は、松(浜松)で竹(武田)の首を取るために作られましたがなにか?
>>130 鎧来て町を練り歩く変人達だろ?地元民には相手にされてないんだよね。
騒いでるのは日本人だけといった悲しい現実
132 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 08:17:32
そんな事ないよ、旧武田家臣から信玄の兵法や考え、国作りなど、多く学び、その後の戦で生かされ、実際小牧長久手の合戦では、秀吉も手がだせず、家康の実力を知った!
武田信玄 公の言葉、
「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり。」
この「仇」は読むんですか?
かたき?あだ?
教えて頂きとうございます。
134 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 19:32:12
信玄は男前
信玄公が泣いておられる
137 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 00:34:39
┏━━┓
┃掠疾┃
┃如如┃
┃火風┃
┃不静┃
┃動如┃
┃如林┃
┃山侵┃
┗━━┫
┃ ∧_∧
┃( ・∀・)
┃( ∪ ∪
と_)_)
138 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 01:25:22
俺は謙信ファンだが信玄もいいね〜
なにかって〜と『信長、秀吉、家康』の話が大きな比重を占める戦国もので
『上杉、武田、北条』の三者の試合巧者の物語の方が『運だけド素人愛知三人衆』より面白いんじゃ!
謙信ほどじゃないが信玄好き。
>>133 「あだ」だよ。
でも、信玄はそんなこと言ってないかんね、実際。
国内に敵を侵入させず、防備のための城を持たなかった郷土の英雄の
心境はこうであっただろう、という後世の創作。
140 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 03:53:01
>138運だけで天下を奪れるとでも? ww
141 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 05:04:53
>>141 よし、俺も釣られるぜ。
ずばり武田は田舎のおじゃる大名に過ぎません。
信長が包囲網をしかれ満足に動けなかった状態だったにも関わらず
信玄は三河すら抜く事が出来なかったのです。
ましてや織田領美濃など抜けるはずがなかったのです。
優位に立っていても勝てなかったのですから、
その後、圧倒的な織田勢に抗す術も無く滅ぼされたのは当然と言えましょう。
ずばり上杉は戦趣味のオナニー野郎に過ぎません。
武田の息子に泣きつかれて織田と戦ってみたは良いものの、
織田の一方面軍すら抜けずに雪の中とぼとぼ帰ってます。
神の威光を盾に戦っても結局この程度です。
まさに戦禍です。迷惑なだけです。
息子は秀吉にあっさり降ってますし。
143 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 21:11:27
>>142馬鹿だな〜
信玄と謙信がもっと健康なら織田、その他なんてデカい面できないんだ。
あいつら合戦弱いし。
織田どもは運だけだよ。
>>143 だからさ、
>信長が包囲網をしかれ満足に動けなかった状態だったにも関わらず
>信玄は三河すら抜く事が出来なかったのです。
>武田の息子に泣きつかれて織田と戦ってみたは良いものの、
>織田の一方面軍すら抜けずに雪の中とぼとぼ帰ってます。
二人ともこの程度の実力なの。織田には勝てなかったの。
運が良いと言えば、信玄謙信こそ幸運だよな。
いい時に死んだ。
自分の代で滅ぼされてる訳じゃないから、
>>143みたいなのが勝手に神格化して最強に仕立て上げてくれる。
145 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 01:30:19
>138,>143武田(義信殺害→家臣に人望ナイ諏訪勝頼擁立)、
上杉(二人の養子のどちらが嗣ぐか決めず→御館の乱)
は後継を誤り、信長につけこまれた。
自分の死後を予想出来ないのは三流大名。
146 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 01:50:25
>>145あんたの論法なら信長なんて突如謀反をおこされ、自分の死も予測できなかったし、死後も秀吉に乗っ取られて予測できなかったわけだが…。
つまり謙信、信玄が三流なら信長は十流ってわけだな。
たまたま連続してついてただけ。
運バブル大名だな。
147 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 01:51:22
>>144 その武田信玄、上杉謙信から逃げていた織田信長の事実。
プッ
>>144 武田信玄、上杉謙信に勝利も出来ず敗戦して逃げ惑う織田軍ですが、何か?
148 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 01:56:06
上杉謙信です。
三方ヶ原の戦いで信玄に大敗し逃げ惑う織田・徳川軍が可哀そうです。
>>146 十流って小学生かよ。
その運バブル大名をどうにもできなかったのが上杉武田。
>>147 ループがお好みか?
その織田信長を倒せなかった武田信玄、上杉謙信の事実。
プッ
信長は包囲網突破に忙しくて田舎大名一人にかかりきりになっていられなかったの。
そんな優位な状況でも織田領侵攻を果たせなかったのが上杉武田。
無理だよね。おじゃるとオナニストじゃ。
150 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 02:55:33
信玄、謙信存命中に信長はこの二人にビクビクしてた。
つけ加えると織田軍は両家に合戦で惨敗。
二人がもう少しでも長生きしたらな、織田とその金魚の糞など武田軍か上杉軍の馬蹄に踏みにじられた事は確実。
信玄公(スレ主氏に遠慮しつつ謙信公も)偉大なり。
151 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 03:39:28
>146信忠まで死んだのは誤算。
しかし信玄と謙信は、自ら後継者を誤り、武田にいたってはそのせいで自爆。義信ならば家臣の離反もなかったろう。
152 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 05:00:55
信玄は家臣団の不満に付け込んで父親から家督を奪ったような男だから
外交方針の違いから義信の下に家臣が集うのを嫌ったんだろう
信玄は極度に暗殺を恐れていたところといい(家中の者に命を狙われていたのかも)、
虐殺しまくったところといい、猜疑心の強いところといい、再評価が必要だなと思う
153 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 08:30:33
>>151誤算どころではない!織田、武田、上杉の二代目レースはやはり信忠が一番間抜け!
勝頼は死ぬその時まで、織田、徳川に対して敢然と戦い、『武士かくあるべし!』の気概をしめした。
景勝は徳川家康の恫喝に屈せず堂々と戦いを挑み華々しくやぶれた。
(二人とも美しい敗者と言えよう)
それに比べて信忠は…
『寝込みおそわれ自刃』(間抜けすぎ…)
織田さ〜んカッコわるいっすよwww
でこのスレは信玄公を讃えるスレなので。
信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長
なのは良識ある日本人の常識である。
154 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 10:06:54
>>150 信長が両名を気にしていたとすれば、
一向宗と戦っている背後から襲いかかりかねないハイエナ野郎としてだ。
ハイエナ野郎が数年長生きしたところで天下人をどうこうできる訳無いだろう。
両名とも信長と戦い出してから何年も存命してるくせに、どこを侵すこともできなかったんだぜ。
>>153 勝頼は家臣に次々裏切られた挙句孤独な敗死(その時の織田方総大将は信忠)。
景勝は秀吉にあっさり屈してる。
その後家康にいいようにおちょくられた挙句、関が原の引金となり豊臣の衰退の原因となってる。
そのくせみっともなく存続してる。
因みに信忠は謀反勢と最後まで戦った挙句の自刃だけどな。
・・・スレ趣旨に沿ってないのは正直スマンかった。
155 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 10:41:55
>>154謙信と信長に関して言うなら信長の方が背後を襲ったハイエナだ。
七尾城を攻めあぐねてる上杉軍の背後を襲うべく出陣した勝家指揮下の織田軍は(事前に勝家と秀吉が喧嘩、秀吉戦線離脱。
この事は織田軍が単なる烏合の衆であることの証明)
手取川を越えた所で直前に七尾城を落城させた謙信軍の来襲を知る。
この場合の勝家の取りうる戦術はともかく決戦すべきはずなのに、突撃してくる敵を前にして何と『退却!!!』
数日来の豪雨によって増水した手取川と上杉軍の猛撃に挟まれた織田軍は大敗。背後を襲って大敗した織田軍は(しかも兵力は上杉軍より多かったのに)やはり戦の弱い弱軍であろう。
上杉謙信と武田信玄が互角の好勝負を演じた史実を素直に受け入れるならば、武田信玄より織田信長は『相当弱い』と言える。
織田厨は歴史的事実に疎いし合戦の分析能力が低い。
156 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 11:19:11
手取り川は捏造wwwwwwwwwww
上杉厨乙!
157 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 11:33:51
156=頭の悪い織田厨の、そのまた下の方。
158 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 13:00:13
上洛戦で秋山伯耆守信友が美濃岩村城を落としたのは信長には衝撃だったはず。一方で三方ケ原では惨敗。さらに甲斐、信濃には予備兵力が豊富にあったから信長も絶望的だったはず。
クオリテイが低いな
秋山とさらっと言えない辺りにオタ根性を感じるな。
オレの知識を誉めてくれよ、って感じが痛い。
そのくせ衝撃だった「はず」ときたもんだ。
161 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 13:24:13
まー自己満足に浸ってんのよ
162 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 13:38:15
あーセンゴクちょうどその辺りだもんなー。
163 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 13:39:23
160=無知の妬みの大絶叫。
164 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 13:45:02
小瀬ほあんの与太話が好きならそっとしといてあげよう。
>>155 分析能力どうこう言う割には、戦術レベルの背後討ちと
戦略レベルの背後討ちの区別も付けられないんだな。
大体城の救援を背後討ちなんて言い出す所が既に逝ってる。
大敗とか言い出す割には織田武将討ち取れなかったしな。
事実や合戦の分析を少しは学んでみたらどうだ。
その前に国語力・理解力を鍛えた方が良いか。
166 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 13:56:06
当時有力者の殆どが京都に上洛して天下統一するなんて考えて無かったのよ。そんなん信長一派だけ。
>>163 なんだ?
無駄知識を認めてもらえなかった事がそんなにむかついたか。
さすが、それしか拠るところがない奴は違うな。
168 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 14:14:06
>>165勝家がアッサリ退却したのは『背後から襲う利点がなくなった』から。
救援なんてのは負けた側の『負け惜しみ的プロパガンダ』であって、数のみで兵の質が低い織田軍は背後から襲う時のみにしか勝機がなかった。
そんな勝家の企図と両軍の状況をも読めないから織田厨は合戦の理解が低いのだ。
大将首をあげられなかった理由は織田家の大将どもが戦って勝利を追求することよりも、わずかな不利を拡大解釈しすぐに戦意を失い退却だけはやたら上手い『酒と女に溺れた弱将揃い』ということで、
これは上杉家と武田家には考えられない『退嬰的精神』である。
実態は背後からの奇襲を狙っていた勝家の作戦を『救援だ』と歴史の表面的な記述を鵜呑みにする『貧困な想像力、読解力のなさ』は救い難い。
国語力云々の雑言はそっくりお返しする。
織田家は戦が下手だ。
169 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 14:19:51
>>166その辺にいた連中が弱すぎただけ。武田家がそこに存在したなら、
信長の間抜けな死に様が歴史に記録された。
170 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 14:50:11
信長は桶狭間勝利後、取り放題になった駿河には目もくれず
家康に東を抑えさせるとひたすら京を目指して西進した。
信玄も信濃や上野等に執着せず、さっさと西へと進攻すべきであった。
そうすれば謙信とぶつかることもなく、まだ小勢力だった信長を駆逐
出来たかも知れない。
この点が天下を取ると言う明確な目標を設定し忠実に実行できたか
どうかの両者の違いと言える。
いつの時代もしっかりとした目標設定を持った者は強い。
>>168 「歴史の表面的な記述」に敗者のプロパガンダが載るんだ。君の脳内では。
退却が上手いと酒と女に溺れてるなんてそんな想像力(妄想ともいう)など、
高める必要一切無し。
盟を結んだ相手が包囲網で四苦八苦してる最中に、
ちょっとライバルの息子に泣きつかれたら似非武士道精神発揮して襲いかかる。
こういう戦略的な背後討ちの事をハイエナ野郎といったのに、
戦場で敵の背後を突く事を同列にして持ち出す理解力。
とにかく言い返す事だけが優先されて、何を言ったら良いのかは後回しなんだな。
情緒が理性に優先しすぎ。
やはり「国語力もっとがんばりましょう」の称号をお前さんからお返し頂くのはもったいない。
>>168 そういえば、
>この場合の勝家の取りうる戦術はともかく決戦すべきはずなのに、突撃してくる敵を前にして何と『退却!!!』
>勝家がアッサリ退却したのは『背後から襲う利点がなくなった』から。
ともかく決戦すべきと書いておいて、その後で利点が無いから退却ってまともな理由を説明してるんだけど。
もう何を言ってるのか自分で判らなくなってるだろ。
この際別人宣言しても別に良いけどさ。
173 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 15:21:30
>>171??
まぁなんでもいいけど『国語も歴史も』一から勉強し直しなさい。
理解力のない(頭の弱い)君には酷な話だがな。
せいぜい励みたまえ。
174 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 15:36:52
>>172??
別人宣言なんかしないよ。
172のように『曲解』するのはそれはそちらの自由だよ。
お好きなようにww
176 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 15:46:08
>>176 いや、だって
低レベルの人間をわざわざ高尚な言葉で表現する趣味は無いよ。
178 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 16:55:51
君達、楽しそうだな
180 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 21:02:57
>>149 徳川家康が生涯大敗しる唯一の大名と言えば武田信玄ですが、何か?
>>149 事実、経済力で有利なものの織田軍きっての柴田ですら上杉謙信相手には敗退
して逃げ惑うかわいそうな織田軍ですが、何か?
181 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 21:04:13
武田勝頼です。
上杉謙信軍相手に武器をも捨てて逃げ惑う織田軍がかわいそうです。
ここは上杉の誇大広告に簡単に騙される良い子達が集まるスレッドですか?
183 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 22:07:38
>>182いや違います。
>>1に上杉がどうのなんて書いてありませんが??
あなた日本語が不得手なんですか?それとも頭が悪いの?
頭が悪くて日本語が不得手なんだね。
納得ww
184 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 22:18:48
>>149 歴史上では間違いなく織田or織田・徳川連合に勝利しる武田信玄に上杉謙信であり
この両名には勝利しる事など有り得なかった織田信長ですが、何か?
>>149 事実、信玄や謙信に武器をも捨てて逃げ惑う織田軍ですが、何か?
185 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 22:20:02
北条氏康です。
信玄・謙信相手に一度も勝てず武器をも捨てて逃げ惑う織田軍がかわいそうです。
186 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 23:47:17
上杉厨が手取り川があったと断言する資料とやらは何ですか?wwwww
その質問はタブーです
188 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 00:12:49
そうです。
『織田軍檄弱』の真実暴露の危険があるためタブーです。
189 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 00:33:03
日本の戦国時代の騎馬隊というのは、足軽と騎馬が
混じっていたものだから、騎馬隊とはいわず、
混成軍というべき。
世界史上、騎馬隊というのはナポレオン〜ロシアのコサック
部隊が騎馬隊、もしくは騎兵と呼ばれている純騎馬兵のみの
軍としてできあがっていた。
それに、もしも武田騎馬隊が混成軍としてではなかったとしても
騎馬隊の役目としては諜報、偵察、奇襲が基本であり
大きな打撃力を持つに至っていない。
武田騎馬隊というのは奇襲や素早い攻撃によって混乱を招き
足軽によって敵を討ち取る戦法であったと推察する。
馬に乗りながら重甲冑を纏った相手に大きな打撃が与えられるとは
思えないのが理由
190 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 09:41:43
>1真実も何も、スレタイからして嘘じゃんww
191 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 12:45:39
192 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 18:46:23
>>183 皮肉という言葉を知らないあなたも日本語が不得手といえますね。
>>184 他人を貶める事で信玄公を持ち上げるという手法はやめてください。
信玄公はあなたのような人物をどう評価するでしょうか?
太陽暦に直すと4月3日は武田家滅亡の日。
勝頼公の命日。
合掌
196 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 04:56:54
>195そうなの?3人はいるべ?
197 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 07:06:17
>>195 178だけど他は知らないよ。
信玄公万歳!
198 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 23:34:19
199 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 01:13:21
>>180 それは、生涯の大部分を武田家との戦闘にあけくれているから当たり前。
ちなみに、家康は武田の天野とかいういう武将にも大敗している。
家康のような凡将に勝ってるからといって、すぐれた武将とは言えない。
200 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 01:16:02
来年大河だなぁ
201 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 02:01:51
こないだ武田の子孫と上杉の子孫が川中島で
オセロで白黒勝負つけるって企画やってたけど
武田さん弱すぎてワロタよ
もっとも上杉さんは本当は吉良の子孫だけど
202 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 02:07:31
武田は滅亡したんじゃなかったんだっけ?と思ったが
信玄の弟かなんかが信長に投降したような…
203 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 03:17:19
信玄は尊敬しないけど、面白いしある意味魅力的とは思う。
戦国大名ではなく、破滅型のギャンブラーとして。
204 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 14:17:50
自分がやったみたいに、追放されると妄想して息子を殺してしまったのが、
やはり滅亡の原因だな。
(家康の信玄をまねて、信長のせいにして信康を殺したわけだが)
205 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 19:37:57
>>202 武田信清が上杉の家臣となって生き残ってるよ。
つまりこの前のオセロは下克上って事か
>>198 取厨さま!!チンパン人が住む県の隣に在住・・つまり取厨様のお膝元
取手にすんでる暗○麺でっすよ!!奇遇ですね!!こんな僻地板で会うなんて!!
本物かしら・・・・?
209 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 23:12:29
>>207 秘密ですが、何か?
事実、最強イバスレに出没しる
>>207の暗黒麺なのだと思いますが、何か?
210 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 23:17:37
>>209 親愛なる取厨さま!!ばらさないでくださいよ!!
では、武田信玄公について続けてくださいませ。
失礼しますた。
211 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 00:50:15
島流し(大久保長安に連座?)になっていた信玄次男の武田竜宝の子(了顕)?か孫?が柳沢に呼び戻してもらい江戸幕府高家として召し抱えられ武田本家を名乗っています。
信玄八男?武田(安田)信清は武田家滅亡時に姉?妹?の嫁ぎ先の上杉家を頼り越後へ逃げました。
212 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 15:54:11
武田の騎馬隊は凄かった。
下っ端の一般兵まで馬に乗っていた。
馬が傷付けば、馬を乗り換えて戦っていた。
武田信玄公は戦場に20頭の馬を連れて行ったという。
また、一般兵も最低でも5頭の馬を戦場に連れて行ったという。
つまり、武田軍には兵の5倍以上の馬が存在したことになる。
これが騎馬隊の定義だ!!
つーか、モンゴルならともかく日本で騎馬隊なんか組織できるわけないだろ!
ちなみに上の説明は世界共通の騎馬隊の定義です。
213 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 16:22:22
煽らないでよ〜。
214 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 16:46:13
そりゃ、モンゴルは男はみな戦士。
全員が騎馬兵士だからな。
武田のショボ軍団がかなうはずがない。
215 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 16:46:28
>>212 武田軍には1万の兵に対して、5万頭の馬が存在したことになる(笑)
さすが信濃の国だな。
馬が多いや。
216 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 16:56:48
俺さ長野県の木曾に日本古来の馬みにいったんだよね。本当にポニーより小さかった。ありゃー役にたちまへんわ!でも可愛かったから俺は好きだけど(笑)
侍槍だけの部隊を編成すりゃいいじゃん。
長柄の足軽隊だってそのように編成されたんだし。
騎馬軍団なかった説は、鎌倉時代の部隊編成から抜け出ていない。
218 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 17:12:14
当時の日本に軍団つくれる程の数馬はいませんて。馬上は不利だから必ず下馬して戦う事が徹底されてたんだな。
でも、甲斐には古代から牧がたくさんあるけど
220 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 19:07:08
そんなん無いやろ〜。
221 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 19:33:10
>>216 ポニーより小さいってw
木曽馬はポニーだろ
222 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 20:18:46
>>216 俺は神戸の六甲山牧場で木曽馬を見たがポニーよりは大きかったよ。
六甲山牧場には木曽馬もポニーもいたから比較できた。
>>216は二つを並べて見たのか?
俺は並べたのも見たぞ。
確実に木曽馬の方がデカイ!!
断言できます。
223 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 20:48:50
現在の和種は改良種。
明治になってから乗馬もできるようにと改良された。
また日本の馬は荷駄馬なので瞬発力はない。
224 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 21:08:13
225 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 22:20:49
ポニーとは普通147センチ以下の馬の事、普通は木曽馬もポニーです。
アメリカのクォーターホースもポニーと言われています。
ちなみにクォーターホースは時速88.5キロ出した記録もあります。
400メートルぐらいまでならサラブレッドより速いス!
226 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 22:29:42
ポニーだか何だか、、騎馬軍団なんていなくてもスゲー練兵された甲斐歩兵軍団が長篠で野戦築城戦法に敗れた。それは宣教師から聞いた当時欧州で無敵の防御陣だったと。これこそロマンだと!
227 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 22:30:35
>>225 だから現代風に言えばモンゴル馬もポニー
ポニー軍団モンゴル強いよ
228 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 22:39:20
だからポニーじゃね!ロバに近いって誰か言えや!動物園で見てりゃ解んべ!
馬がなくとも歩兵で十分なんだけどな。
日本の武士の移動速度はナポレオンの時代と同速度の行軍速度だったしな。
もっとも当時の世界は女子供連れて戦う異常な軍隊だったんだが
230 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 01:07:25
武田の中でもやっぱり信州上田の真田軍団が一番強かった
231 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 07:04:50
信玄の耳はポニーの耳???
232 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 16:31:06
>1は世界最強の根拠を示せ!!
233 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 17:12:58
>>229 ただ武器・食料は馬に運んでもらった方が楽だと思うよ
大将が逃げる時には馬は有効だと思う、三方ヶ原の時家康、関が原の島津
なんかは何頭もの馬を乗り継いで逃げたと思うけど?
234 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 18:00:19
信玄が目指していた理想的な軍隊とは進め・止まれ・分散・集合など末端の兵まで手足のように動く集団だと。そんなの当たり前と思うなかれ!当時の兵士はなかなかに厄介な連中だったのさ。今の軍隊みたいな練度。それが武田軍団。
235 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 18:34:56
236 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 19:47:19
まず歩兵同士が槍を合わせた後、逃げる敵兵を追いかけるために馬を
使ったんじゃねーの?
237 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 19:55:02
>>236 槍で戦う前に「石を投げ合っていた」て書いてあった本もあるよ
238 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 20:11:53
当時の戦は遠距離戦がメイン。弓・鉄砲をかましてから重傷の兵を刀・長槍で突くという感じ。刀じゃ甲冑は切れないからね。相手が敗走状態になったら指揮官クラスは騎乗して追い撃ちをかけると。とにかく死にたくなかったのよ。
239 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 20:18:34
映画の風林火山の騎馬戦はキレイだったぽ
240 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 20:23:50
史実通りに描いたら面白くも何ともねーべ!だからさ。
241 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 20:27:29
鉄砲が登場する前の戦はお互いに槍をもって30分以上
「ウリャ〜 ゴルァ〜 アイャ〜」などとお互いに罵りあうだけで
なかなか戦いが始まらなかったそうな
一番槍はどう考えても怖いよな〜
武田が最強なら、
病気で死ぬまで生涯、武田の侵攻を全て撃退した長野業正こそ最強になるな
243 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 22:27:24
農民が居なくなると困るから、戦は程々が一番だべ。
244 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 22:35:01
合戦は日が暮れたら中断。夜が明けたら再開。のんびりやるべぇ
245 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 22:38:31
>>243 ご尤も!
武田軍が強かったと言われるのは逃げる事が出来ない農民武士
金で雇われた足軽は少しでも不利になると・・・・・
246 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 22:47:28
それはちょっと弱いなー。も少し捻ろうやー。
247 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 23:07:02
>>246 それでは!
武田騎馬隊、坂本竜馬、真田幸村、戦艦大和に来る初心者を虐めては
いけませぬ!!
スレが過疎かするべさ!
248 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 23:32:28
武田信玄はショタだった。少年にラブレターを書いている。
249 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 23:58:35
恋文を頂いた若人は森蘭丸&前田利家か?
250 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 01:25:39
>249馬鹿かお前?
春日源助ちゃんだろが。有名だぞ。
>>250 釣り師だろ
田中マルクス釣男だよ
こんなん間違える訳ねぇ
252 :
249だよ:2006/04/12(水) 11:12:43
ふざけて書いたに決まってるべ!
返事が返って来るとは思わなかったズラ!
253 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 11:42:59
武田信玄公が目指していた理想的な軍隊とは、
進め・止まれ・分散・集合・回れ右・7時起床など末端の兵まで、信玄公の手足となって動く集団だ。
軍隊ならそんなの当たり前じゃんと思ったのか?
そう思ったキミは甘いよ。
当時の兵士は思うように動かない厄介な連中だったのさ。
その中でも武田信玄軍だけが別格だったのだ。
武田軍だけが手足のように動いた。
信玄公の思いのままさ。
例えるなら、今の自衛隊みたいな練度!
それが風林火山の武田軍団だ〜!!
どうだ、まいったか???
254 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 11:57:31
しかし、それでは運動会のように見えてしまう〜
255 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 12:15:06
>>254 武田信玄公が目指していた理想的な軍隊とは、運動会とは違う。
では、キミに質問するが、
キミは進め・止まれ・分散・集合・回れ右・7時起床など、信玄公の手足となって動くことはできるのか?
特に日頃7時起床は出来ているのか?
早起きは3文の得。
早起きは健康の秘訣だぞ。
256 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 12:28:39
最近は6時に起きとるわい!7時起床なんて遅いわい!戦場なら6時前に起きて顔を洗って準備運動をせいや!
257 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 12:29:59
7時起床で早起きは3文の得か〜。
さすがに信玄は良いこと言うね。
でもな、仕事から帰って来ると、12時過ぎてるワケ。
信玄は何時に寝てたの?
戦国時代は電気もないし、夜はやることなかったから早く寝てたんじゃないの?
そう考えると、現代人は戦国時代の日本人よりもタフだよな。
258 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 12:35:38
まあ、戦国時代の日本人は命のやり取りをしてたからな。
そういった点では、戦国時代の方がタフだったよな。
現代人は仕事に失敗しても殺されることはない。
平均寿命も戦国時代は「人生50年」だが、
少子高齢化の平成では「人生90年」に辿りつきそうな勢いだ。
ある意味、現代人は過労死という命をやり取りをしているが・・・。
259 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 12:43:15
赤ん坊の生存率が低かったから強いが生き残って、やっぱ現代人よりタフだわな
260 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 18:05:55
信玄は何時に寝てたか知らないけど、
北条早雲は9時には寝て、朝の5時には起きていたらしいよ。
あと、文字を忘れないように、仮名を書いた紙を懐に忍ばせて、見直していたらしい。
戦国時代の人は早寝早起だったらしいよ。
261 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 18:23:42
甲府盆地に兵を集めて錬兵するの?
適した場所ほかにある?
館の庭では無理だよ。
コンサートなんかで1万人集まるとものすごい場所をとるんだけど。
262 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 18:51:26
>あと、文字を忘れないように
ただの馬鹿じゃないのか?
263 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 19:11:23
武田の錬兵は騎馬での錬兵らしいから100人でも大変だ
264 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 19:41:10
武将は小さな大名みたいなもので普段は領国にいる。
戦などで召集がかかるとその時兵を引き連れ大名のもとに行く。
武田の武将は山地移動が多いから荷駄馬が多くなる。
大名のもと集めてみれば他の大名のとこよりも荷駄馬が多い。
それをそのまま戦場に移動させるから「武田は荷駄馬がおおいな〜」となる。
錬兵も大名が農民兵を召集してやれるわけがない。兵農分離で職業兵を創ったのは確か織田だったんじゃないかな。
265 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 21:49:47
「武田は荷駄馬がおおいな〜」
↓
「武田は荷駄の軍団だな〜〜」
↓
「武田は騎馬の軍団だな〜〜」
↓
武田騎馬軍団誕生
266 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 22:32:59
所が兵農分離の傭兵はやる気無くて弱かったと。理想が必ずしも現実的に機能するわけじゃーない。だから数集めて兵数で圧倒するの。ノブナガは常にそれを守って戦にのぞんだ。
267 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 22:53:22
山梨も長野もたかが10万人位があつまれる場所いくらでもあるよ(笑)。兵士は格領地で上の命令道りに練兵するの。徳川幕府は武田流槍術を取り入れていたらしく勝海しゅうがそれ見て流石に凄いと言ったらしいよ。馬は無し!
>>267 江戸時代の武士は困窮してたから、馬自体を個人で養えない。
都市生活者だから飼葉も買わなきゃだしね。
269 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 23:40:52
ようするにこの時代の馬は
ズングリムックリのポニーよポニー
270 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 23:51:46
馬も牛ダイジな家畜として可愛がってたんだぞ!
272 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 08:42:13
キャスト
中井貴一(武田信玄)、柴田恭平(上杉謙信)、西田敏行(山本勘助)
杉良太郎(北条氏康)、宇津井健(直江実綱)、若尾文子(大井夫人)
平幹二朗(武田信虎)、紺野美沙子(三条夫人)、南野陽子(おここ)
池上希美子(恵理)、大地真央(里美)、菅原文太(板垣信方)
篠田三郎(山県昌景)、堤信一(武田義信)、真木蔵人(諏訪勝頼)
本郷功次郎(甘利虎泰)、若松武(武田信繁)、美木良介(馬場信春)
村上弘明(高坂弾正)、橋爪功(真田幸隆)、宍戸錠(原虎胤)
小林克也(原昌俊)、岡村青太朗(原昌胤)、保阪尚輝(長野業盛)
石橋凌(織田信長)、佐藤慶(阿部勝宝)、小川真由美(八重)
結城美栄子(たき)、古村比呂(於津禰)、渡辺正行(平三)
佐々木すみ江(とら)、勝野洋(大熊朝秀)、ジョニー大倉(鎌田長門)
篠塚勝(武田信廉)、宮崎真純(おらん)、丹波義隆(石和甚三郎)
宍戸開(塩津弥兵衛)、田島令子(きぬ)、ひかる一平(勘市)
小宮孝泰(作造)、内藤武俊(岐秀)、矢崎滋(立木仙元)
浜村純(倉科三郎左衛門)、麻生祐未(濃姫)、河原崎健三(梁田政綱)
大門正明(市川大介)、御木本伸介(平手政秀)、岡田圭(柴田勝家)
275 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 10:37:57
中村勘九郎(今川義元)、岸田今日子(寿桂尼)、岩下浩(岡部美濃)
長谷川明夫(庵原忠胤)、神田雄次(今川氏真)、花柳錦之輔(北条氏政)
井上孝雄「松田憲秀)、北村総一郎(松田康郷)、岡田美里(阿弥)
石丸謙二郎(御宿監物)、財津一郎(大原雪斎)、板東八十助(諏訪頼重)
鈴木瑞穂(千野伊豆入道)、藤木悠(千野南明庵)、岡本舞(お梅)
新井康弘(小笠原長時)、三ツ木清隆(高遠頼継)、滝田裕介(足利義昭)
松橋昇(三条公兄)、西田健(細川藤孝)、上条恒彦(村上義清)
西岡徳馬(北条高広)、北村晃一(天野景貫)、中村橋之助(徳川家康)
中村新将(酒井忠次)、下塚誠(菅沼新八郎)、徳丸純子(雪姫)
渡洋行(龍宝)、金内吉男、轟二郎、山本紀彦、森田順平。(文中敬称略)。
276 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 11:01:14
岸田今日子が寿桂尼。コワイ
277 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 11:11:30
武田騎馬隊が戦国最強といわれるようになるまでには騎馬隊により数々の輝かしい勝ち戦をしてきたはずですが
戦国最強と信長や家康達を恐れさせた具体的合戦名やそのときの戦術ってなんですか?
278 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 11:54:13
武田騎馬隊っていうけどさ、武田信玄が馬に乗っていたイメージはないんだけど。
どっちかいうと、上杉謙信が馬に乗っていて、信玄は陣地で軍配を持って指揮しているってイメージ。
279 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 12:03:27
村上相手に負け続けた信玄は家康が天下人になって脱糞の理由付けが必要とならなければ評価は愚将だったかも
280 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 12:52:31
村上が雑魚扱いされてる件について
日本馬をポニー並だ云々といっているバカは鈴木厨だろうw
282 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 18:18:08
>>277 信長は別に恐れてないよ。
浅井朝倉で忙しく武田('A`)マンドクセなだけ
信玄も謙信も簡単に騙されていたからな
>>281 モンゴルの馬が巨大だとか勘違いしてる輩も居そう
284 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 18:30:31
信玄って三方ヶ原の勝利も数で徳川を圧倒したからだし
戦上手とやらを証明できる実績がないな
武田の騎馬隊が活躍するのも昭和になってからドラマのなかで活躍するだけで
事実の世界ではなにもしてないんじゃないのか
286 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 22:48:08
あのね〜 馬鹿にするけどロバもポニーも100キロ以上の荷物を平気で運ぶんだよ
食料にしても一日一キロ食べるとして30日なら30キロ
鎧、兜、刀、槍、弓で20キロぐらい?
風林火山の旗一式・雨具・本陣セット一式・ご飯をたく釜と茶碗&箸
一番大切な水←これがかなり重い!
馬は神様です!
その馬を維持するための飼い葉代も考慮しないと。
道端の草を食わせりゃいい!じゃ、行軍速度がえらく遅くなっちまう。
288 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 18:56:06
謙信の振り下ろす刀を軍配で受けとめるって完全なフィクション?
なんらかのそれに近いエピソードがあるの?
289 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 19:34:42
>>287 飼い葉代?そりゃあ町中で馬を飼ったらお金がかかると思うけど武田の馬の話だよね?
馬は米も食べるし大豆に大根なんでも食べるよ冬場なんか笹のはだけでも大丈夫!
イギリス沿岸部の野生のポニーなんか昆布食べてるよ!
当時でも栄養価の高いクローバーぐらいあったと思うけど?
290 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 21:14:07
>>289 おいおい、大豆に大根ってどれだけ必要か分かってるのか?
1日じゃないぞ?それに何百、何千頭もだぞ?
それと当時は蹄鉄が使用されておらず、馬は草履を履かせる事によって蹄を
保護していた。1つの戦場で2つないし3つは消費していた。
これもかなりの負担だったと思うけどな
291 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 22:08:54
>>290 おいおい勘違いしないでくれよ!
大豆なんかほんの一握りたまにやればいい!やり過ぎると爪が悪くなる!
米も同じ少しヤルだけで良い!ちなみに大豆油、菜種油も飼い葉に混ぜると
よく食べます!それだけでかなりのカロリー?
草履については、あんなにちっこい蹄なら一本10分もあれば作れる?
特別爪の弱い馬、尖った石が多いところなら別だけどそれほど新品の草鞋は必要ない?
しかも草鞋なんて軽いよね!
「3つは消費していた。」×4本の蹄=12個=2キロも無いと思うけど?
292 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 22:15:10
>>291 荷として置く場所と管理と経費を考えれば馬鹿にできないだろう。
大豆一握りってそんなにローカロリーで生きる燃費のいい動物じゃないよ・・・・・
293 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 22:26:10
そんだけ燃費いいならサラブレットより便利かもね。サラブレットて気が小さいから、大きい音をたてるだけで行軍が崩せそうだし
サラブレット:起伏の多い地形日本じゃ何の役にも立たないだろうデカ馬
サラブレット:か弱い俊足
295 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 22:33:52
ハイペリオンの母馬はポニーと同じ大きさだったけどね、
296 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 23:47:41
確かに欧州の馬と比べると日本のは省エネと言えそうだが、しかし
騎馬軍団を編成するとなれば何か農作物とかの生産に特徴的な傾向が
現われるような気もするんだけど。あと馬の蹄は水に弱いから、
草履はけっこう要ったんじゃないかな。
297 :
日本史@名無史さん:2006/04/15(土) 00:27:21
武田騎馬軍団の存在自体が議論されているから、組織に関することを議論するには
もう少し研究者の解析が増えてからで。
やっぱり信玄強いですねえw 彼の軍団で一番好きなのは山県三郎右衛門尉昌景です!
三方原で家康の本陣に突撃して、後世「さても山県といふ者、恐ろしき武将ぞ。」
と言わしたぐらい!最強軍団の赤備えを率いる!!
高坂弾正忠昌信もいいですねえw
ていうか、昔の人がホモだったことを変態だとかいう人たちは当時の常識も
考慮に入れて議論しない、もとより戦国時代のファンには程遠い存在ですぞ!!!
298 :
日本史@名無史さん:2006/04/15(土) 00:29:28
↑を書いたの私です・・・。
最後の2行は各々方へのことではないので!!
299 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 06:16:34
テレビ番組でモンゴルの馬(サラブレッドの三分の二くらい?)が朝昇竜を乗せて
疾走してたよ。
騎馬隊も実在したんじゃないかなぁ?と思いたい
300 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 09:52:28
サラブレッドでも調教してない馬は殻つきのエンバク一日1キロぐらいしか
やらないよ!干草と青草だけでもぶくぶく太るよ!
昔の小さい馬でも二表も乗せて歩いてたそうだから
馬一頭で二表120キロ・人30キロ×4人=120キロ・人20キロなら6人分
物を運ぶには馬の方が良いと思うけどな〜
人に30キロも持たせた方が燃費が悪そうだよ
301 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 10:19:38
モンゴルの兵は、一人数頭は持ってて馬が疲れたら乗り換えてたらしいね。だから機動力が凄いす
302 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 10:31:43
馬の力とか餌の量とかよりも大事な事があるような、、当時の日本馬は小さかった。前にポニーて書いたらまだポニーポニー言ってるんだもんなー。大小の馬力の差とか単純には決められないわな。ヒントは蹄鉄!
303 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 10:40:30
>>300 1日1キロとなると五百騎動員したとして、予備も含めると千騎となると1日1tだろ?
戦が最低10日かかるとしても一回の戦で100t必要?調達する軍費だけでもかなりな額になるんじゃないか?
それに馬に水をやるとなるとかなりの量の水源が必要となる。当然桶も大量に必要になる。
後、大量に湧く糞の始末も考えないと疫病が発生する原因にもなるよな。
人糞はそれぞれ処理できるが、馬は好き勝手にするからな〜。
>>301 モンゴル兵は予備の馬も2〜3頭併走させて疲れたら走りながら乗り換える。
壊れて付いてこれない場合や故障した場合は乗り潰した。
この異常な機動力にヨーロッパは全く対処できず連戦連敗をした。
304 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 11:35:50
305 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 13:38:57
>>303 1日1キロはサラブレッドの話だよ木曽馬はそんなにあげなくても良いよ
金で雇われた用兵なら別だけど自分と馬の食料ぐらい自分で用意するでしょ
手柄をたてれば褒美があるわけだし
馬糞なんて殆ど繊維質だよ野良馬がイッパイいる所でも疫病が発生スルなんて
聞いたこと無いよ〜
でも何で馬に荷物運んでもらうのが嫌なの?
306 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 16:01:50
>>305 荷物を運ぶのが嫌とかじゃなく、馬を使用した場合における費用と占領地から
得られる収入が釣りあうのかなと。考えれば考える程にマイナス面ばかりが大きい。
あと、戦場で馬が死ねばその損失は自分で補わないといけない。
と、なると 功績=馬の費用+功績
じゃないと、馬の損失を恐れて誰も先陣切らなくなる。命掛けてマイナスになったら誰も
馬なんて使わないよね。そうなると他家よりも功績への払う代価も大きくなる。
戦場で馬を使用しても意味あるのかな?と
307 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 17:24:53
・・・木曽馬くんのひとり言・・・
「みんなモンゴルの馬は褒めるのに同じぐらいの体格の僕を馬鹿にするんだよ!
僕はね〜荷物を運んだり人を乗せる事だけが仕事ではないんだよ!
いくさで身も心もボロボロになった武田軍の人達を
僕のツブラナ瞳で癒してあげる事が一番大切な仕事なんだよ〜」
308 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 17:36:57
馬産地の高禄武士ならば
選び抜かれた優秀な馬に騎乗
309 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 16:30:03
武田信玄
竹田信玄
猛田神現
どれが強そう???
310 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 17:09:40
311 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 17:59:17
猛田重ならある。
312 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 12:26:05
「猛田神現」は強そうや!
313 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 14:54:13
木曽馬って道産子みたいなもんだろ?木曽馬でググてみたらでてくるからわかる。
サラブレッドではない・・
314 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 17:40:35
>>313 (木曽馬=サラブレッド)何て思ってる人いるわけ無いだろ!
315 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 18:51:58
カワイー馬だよ!大人しいしチョット頭デカイのがまたカーイー^^
316 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 21:15:36
信玄は能力的には村上に劣り家康に勝る程度なのか
317 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 21:19:10
村上戦→まだそれほど実力がなかった
家康戦→実力満点!!
318 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 21:21:20
わけわけわけわかんない
319 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 21:29:42
わけわけわけのきよまろ
320 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 21:36:42
木曽馬は足太いからな
321 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 21:38:22
322 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 21:44:22
(´・ω・`)<サラブレットなんて食肉用
323 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 22:41:28
>>313 木曽馬でググたら道産子もググレ〜 北海道和種馬でググればイロイロわかるよ!
ちなみに南部一族が甲斐の国の牧監を務める家柄だった事から南部馬の血統は今でいう
木曽馬と合流している可能性もあります。
南部の馬は戦国時代、大型の馬を生産する事で有名で背丈150センチを超える馬も多数つくられました。
南部藩38代利済の栗毛馬(国一)は、背丈157.5センチもあって殿様のお国自慢の種でした。
ただ徳川時代になりますと、背の高い馬は荷を乗せるに不便なうえに気性が荒く扱いずらい大型馬は
だんだん需要がなくなり、おとなしくて小型の馬がたくさん生産されるようになりました。
ただ、木曽馬の事については分からない事が多いので分かりやすく短めに教えてね!
これはみんな知らないだろう? て事、何かない?
在来馬の管理の手間ってどんなもん?
325 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 21:55:23
>>324 答えのナイ質問です。
犬や猫て飼うのにどのくらいお金がかかるの?
コンテストなどに出すなら、かなりのお金と手間が・・・
在来馬にいくらお金と手間をかけても競馬にも勝てないうえに乗馬でも点数は
貰えないでしょう。
日本の各地で野良馬がいるように草だけでも生きて行けます!
しかし、大切に育てるとなるときりがありません。
今、日本の在来馬は危機に瀕しています!
何卒、皆様方・在来馬を応援して貰えませぬか!
武士の情けで在来馬をいろいろググてモラエマセヌカ!
木曾馬や北海道和種は現代では改良され馴致もやりやすくなりましたが
明治以前は気性のために乗馬にできるのは極僅かだったそうです。
また非常に怯えやすく狼などが出ると立ちつくし人を置いて逃げてしまうなど荷駄場としても扱いづらいらしいです。
その為夜間には馬の移動はしなかったそうです。
あと冬季は山地では食料がないため野良ならば川や沼などの水場に近い草原地でなければ生きていけないはずです。
327 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 20:22:38
馬がさ、夜行性でなく夜目が利かないとしたらさ
武田の騎馬隊は夜襲をする時には松明を煌々と焚いて遠目に判るほど周囲を照らして奇襲したのだろうか
さすがは名将信玄さね
今週の大河は長篠だった。
見た人いる?
330 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 22:25:08
>>328 想像どうりの武田の騎馬隊が信長の鉄砲にやられる!
映像では鉄砲の3段撃ちに見えたけど、3段撃ちという言葉は出てこなかった?
見逃したかもしれないけど
331 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 22:38:24
3段撃ちかもよ?って感じの映像だったな〜。で、騎乗してる兵が撃ち落とされてる隣で馬が草をのほほんと食んでたような…
332 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 22:43:54
長篠の合戦で、織田の鉄砲三段打ちは架空のお話、史実ではない。
武田の騎馬隊も存在しない、空想の産物。
鈴木眞哉『鉄砲隊と騎馬軍団-新説・長篠合戦-』(洋泉社、2003年)
鈴木眞哉かよ・・・
334 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 22:59:03
>>1 世界最強と言えるのはモンゴルの騎馬軍団だろう。
そこにマジレスかよ・・・
336 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 00:01:38
>>326 当たり前な事なんだけど気性の激しい馬もいればおとなしい馬も!
サラブレッドでも癒し系の馬もいるしね!
犬でもセントバーナードなどの大型犬より小型犬の方がワンワンほえて
うるさい!(あくまでも一般論デス)
337 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 00:06:51
鈴木真哉に対するリアクション悪いーな。何でだろ?
338 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 00:24:12
>>337 武田信玄公を称えるスレだから?
武田信玄公をたたくスレなら褒めたたえられるでしょう!!
339 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 00:39:20
340 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 00:40:09
俺は鈴木眞哉の本は全部読んでるが、
鈴木眞哉説だけを鵜呑みにするのはどうかな?
批判的に読んでみてはどうでしょう。
341 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 01:22:18
おー、コオバしいじゃない?鈴木を越えた先にどんな事があるか吠えてみー!
342 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 01:39:26
>>340 そこなんですよ!(鵜呑みにする人が多い)
甲斐躑躅ヶ崎館で発掘された馬の骨は120センチしかない!
だから昔の馬は小柄である!(大きい馬もいただろう?)
現在の木曽馬に鎧兜を装備した人間が乗って走らせたらスグばてた!
(どのぐらい調教した馬なのか?)
ちなみに鈴木先生を非難しているわけではありません。
(戦う時には馬から降りて戦った!)そうだと思います。
343 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 01:45:07
軍隊全員が赤に統一したユニフォームを身に着けてチーム意識を高めるってのを考案したのが画期的。
戦意が高まるよな
相手に威圧感も与えるし
これはなかなか近代的な考え方だ
サラブレットは足が長くて体高は高いが、華奢な体型で、木曽馬と並ぶとそれほど大きくない。
それに対し、木曽馬は幅があり体高は低い割には、意外と大きい。
345 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 07:47:15
>>341 鈴木を超えると、藤本正行が待っている。
346 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 08:32:13
しかし馬は戦以外じゃ使い物にならない邪魔な存在だよな。
力あるって言っても牛に比べたら全然だし、手入れも大変で病気にもかかりやすいそうだしな。
親父の村では昔牛飼ってたんだけど、そう言ってた。馬は100軒あるうち1頭しかいなかったと。
使い物にならんだって。馬車より牛車のが使いやすかったそうだしね。
347 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 08:58:29
あー、家のおやじも全く同じような事言ってたなー。牛くんだって。
馬借を知らんのか
知らないらしいw
350 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 12:30:08
馬も小柄だが
当時の人の平均身長も150と小柄
力は現代人よりあるだろうね
351 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 14:15:16
さっきセンゴク立ち読みしてきた。騎馬軍団なんかないってさ。こりゅあ長篠あたりが面白いんじゃね?
352 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 18:03:23
>>346 当時の武将にとって良い馬に乗るてことが最大の名誉だったのでは?
うし君ではイマイチ・・・(うし君ごめんな)
現代でも目的地に早く行けるわけでもないのに高価な外車に乗るのと同じ?
>>346 一般的に
西日本=農耕牛
東日本=農耕馬
百姓の馬は大切に飼われていた。
今でも古い農家だと名残があるでしょ。玄関に隣接した南側。
354 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 19:44:08
誰か信玄称えろよ
気の利いたお世辞は社会を生きる大人のたしなみよん
355 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 20:03:35
温泉の発見が得意だった!すごい!
356 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 20:22:43
日本刀を木製の軍配で受けとめた!すごい!
357 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 21:24:47
プライベートな恋文が歴史の資料にされてしまった信玄!すごい!
358 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 21:48:35
清朝を建てたヌルハチは、
10数騎、または数10騎で明を攻めて清朝を建てた。
武田信玄はヌルハチよりも強い。
たかが、10数騎の騎馬隊でも、その突撃は脅威の突破力を誇る。
武田騎馬隊は伊達じゃない。
359 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 21:59:05
10数騎の騎馬隊が突撃してきました
あなたならどうする?
@弓で集中攻撃
A礫で集中攻撃
B槍襖で阻止
C温かく見守る
360 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 22:11:51
ウマ‐ヽ(^д^)ノ欲しい!
弓はマズイかな〜?
361 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 22:21:34
今思った。
騎馬隊が突撃してきたらわざわざ面倒な鉄砲三段打ちしなくても
飛び道具ならなんでもいいじゃん。ってか弓や石のほうが連射しやすいんじゃないのか?
362 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 00:58:30
でも威力(貫通力)と、馬を驚かすという意味では鉄砲が上だろう。
ヨーロッパの槍騎兵のように、訓練されていたら別かもしねんが。
363 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 07:26:55
火縄で敵を倒したかったら、射程50M以内くらい? 銃なんてそんなに練習させてくれないだろうし、下手なのもいただろうなー
364 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 10:59:53
しかし長篠合戦て、映画やテレビでは信長軍の鉄砲隊に武田軍が無茶苦茶突撃する!
ていうのが多いけど(騎馬隊があったとか無かったとかは別として)
いくらなんでも鉄砲バンバン撃ってきたら盾などで防ぎながら進むと思うけどなあ?
木製の盾をぶち抜く威力が当時の火縄銃にあったのか?
365 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 11:39:33
威力はあったんだろうけど火縄銃の弱点は
湿気に弱い
不発あり
発射に時間がかかる
命中率悪し
射程距離短い
白兵戦には使えず
火薬に使う硝石は輸入するしかない
・・・・みたいな?
楯とか、柵は周り込むとか二回目からなら対策出来たかも、なんだけど壊滅しちゃったからなー
366 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 12:12:34
バンバン撃ってきてる中に何回か突撃し駄目だったら取りあえず離れて対策考えるだろ?相手はあくまでも防御体制で攻めて来ないんだし。元々鉄砲は走って攻め込みながら使うような武器じなかったと。
>>364 竹の棒を何本も束ねたモノを弾除けに使ってた、と聞いたことがあるが・・
確かに騎乗したまま突っ込むのは無茶すぎる罠(´・ω・`)
火縄は戦の序盤用、しかも弓か投石の補助が必要だったし。火縄が主役になるなんて考えなかったんかも。…しかし無茶だわな
369 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 17:22:11
武田の玉避け竹束は中心に粘土と石を混ぜた真がありその周りに竹を束ねたアイディア品!竹だけじゃ流石に貫通します。騎馬よりもそういった細かい所が最強の由縁じゃね?
370 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 18:19:39
合戦は8時間位で、数は織田方が3倍くらい? ドラマほど無茶無謀だったわけじゃないのかな
無茶無謀には変わりないけどね
372 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 18:47:14
朝早くから始まって昼過ぎくらいから武田が敗走し始めたみたい。織田の別動隊が背後に回って混乱が生じたんだろ。
373 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 19:06:56
>>369 その大事なアイディア品・玉避け竹束も
武田勝頼を裏切り織田に寝返った木曽義昌などが織田方に教えたかも?
374 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 19:11:28
竹束は室町前期から普通に使われてる代物だよ。
銃相手じゃ紙も同然。つか、鎧でさえ貫通して無意味だから軽量化と機動性が重視されて
改良されまくったんだが。
大鎧が消えたのもその結果。文禄慶長で日本軍が異常な進軍速度を保てたのもその結果。
弓相手なら重装備で発展したんだろうけどね。和弓は射程が短いから
375 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 19:14:54
鞍乗が弾よけしても馬は無防備じゃん
弓や石で騎馬突撃ができない原因は馬が倒れるからだろ
377 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 19:35:59
馬は捕獲して自軍の物資に充てるために極力狙わなかったらしいよ。
あくまで極力だけどね。
それほどまでに騎馬は重要視されていたらしいね。
378 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 20:06:56
347
お前ズレてるわ。
379 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 20:12:26
西洋の甲冑が軽量化したのも火器が発達したからだしな
それまでは槍だって突き合うというより、バンバン叩き合ってたらしいし。クレヨンしんちゃんはその辺の描写も火縄発射手順も正確らすい
380 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 20:24:54
347ではなく374の間違い!失礼。
381 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 21:05:55
信玄の騎馬隊は歴史上活躍することなく史上最強と言われたのか?ふしぎ〜
382 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 22:08:14
不思議な事なんて何もないんだよ^^デタラメに惑わされただけの事。
383 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 23:24:55
鉄砲の爆音で馬が驚いて暴れるから
それだけ撃退に十分らしい。
当時の火縄銃の音は
凄かったらしいし。
384 :
sage:2006/04/25(火) 23:39:31
なぜこのスレが上がる?
このスレなんで適当な事ばっかり言ってるの?
386 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 00:52:33
もうすぐ愛知県新城市、当時長篠で鉄砲祭あるから一度行きなさい。黒色火薬の爆音と煙!ヒドイから。自分から煙幕張るようなもん。
387 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 03:04:12
そうだ!!
武田信玄公は鉄砲の玉避けのために竹束を組み合わせた盾を作ったんだ。
だから、織田軍の鉄砲3段撃ちも武田の騎馬隊には効かないんだ!!
武田の騎馬隊は伊達じゃない!!
388 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 09:08:33
>>385 必死な武田厨には何を言っても無駄だから
389 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 11:38:02
武田騎馬隊は織田軍の鉄砲3段撃ちを無効化できる。
まるで魔法みたいだな(笑)
野戦の鉄砲はたかが竹束でかなり無効化しちゃうからな
この辺が織田家に鉄砲の少なかった要因か?
391 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 16:33:33
織田に勝てた魔法のアイテム=竹束
392 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 16:40:47
>>386 関が原の時なんか戦が始まったら鉄砲の煙で前が見えないぐらいだった
て話もあったなあ〜
竹束でどうやって馬を守るの?
394 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 19:04:54
空想の世界の物語なんだから細かい設定ミスへの突っ込みはヤボ
小説やドラマが活躍の場の武田の騎馬隊なんだから
歴史の事実の上には活躍の場がないんだから
実際は長篠で織田の火縄銃は竹束によって無効化されていたよ
竹束すげー!流石武田軍の発明だ!
時代は竹束を必要としている
398 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 19:20:44
日本の発明品として
信玄印の竹束を防弾用品として売りにだしたら要人警護の場で大活躍かも
>>395 鉄砲を無効化した騎馬隊が織田軍を蹂躙して戦国最強と言われるようになったんだね
400 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 19:57:00
騎馬兵が竹持つんじゃなくて歩兵だろ。
401 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 20:08:51
通常の火縄銃?に対しては有効だった竹束も
いぬき玉と呼ばれる大筒には・・・・
火縄銃も凄いのがあるし、竹束もさらに何枚も重ねれば・・・
402 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 20:18:12
ゴメン!
いぬき玉と大筒は別物です!
403 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 21:26:12
騎馬の機動力を殺さないように馬の速度に合わせて竹束を持って走る歩兵。
ファンタジーでいいな〜
404 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 21:59:33
騎馬は無くて歩兵だけが竹筒持って進攻だね^^
405 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 00:25:55
違う違う。武田の馬鎧は竹束でできていたんだよ。
火縄銃を跳ね返し突撃をする武田騎馬軍団
406 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 08:09:49
(´・ω・ )旦~~ 大筒か…信玄の頃は相撲の一騎打ちで領土を決めた事もあったのに・・・・時代は代わりましたな
407 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 10:49:44
408 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 12:19:19
その騎馬軍団に蹴散らされた天下人
409 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 12:26:06
うんこ家康
410 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 14:09:37
竹束だけじゃないぜ!!
もちろん鎧も着てたし、これだけ重装備して騎兵を鉄砲で殺すのは不可能。
大砲くらいもってこないと無理だろうな。
411 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 15:23:53
馬なんて鉄砲どころか弓矢がかすっただけで暴れて使いもんにならなくなんだよね。馬上の人狙わなくてもデカイ馬を的にすれば簡単に足止めできちゃう!だから馬になんて乗らね。
412 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 15:34:28
将を射んとせば先ず馬を射よ・・・・・・?
でも!馬を傷つけて帰ったら、カミさんに怒られるから気を使うのさ。劣勢になったら馬を担いで逃げるのだ
413 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 15:57:38
>>410 だよな!馬は皮膚が硬い上にさらに竹束の鎧まで着てるんだぜ?
しかもだ!武将は厚い鎧で身を固めているんだ!知ってるか?アメリカ兵はフィリピン制圧時に
原住民との戦いで厚い筋肉には拳銃では即死させる事ができず苦戦したんだ。
鉄砲なんて目じゃないぜ!!武田最強!ウヒョー!
414 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 16:01:34
武田騎馬隊相手ならアメリカ軍でさえ全滅していたのか・・・・・・恐るべし武田騎馬軍団
415 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 16:02:27
竹束の防弾チョッキを使えば日本もアメリカに勝てただろうに
416 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 16:28:32
竹の事書いた冥利に尽きるね〜^^感謝しろよな!
417 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 16:47:59
ドイツだったか?武田信玄が好きな外国人たちが集まって
自分達で鎧兜を作って風林火山の旗もってパレードしてたぞ!
影武者観てファンになったて言ってたな
外国でも人気者武田信玄恐るべし!
418 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 17:02:41
自作か〜。風林大山とか書いてありそうだな
419 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 19:59:16
鉄砲の弾を跳ね返す強靭な筋肉の武田の騎馬
粘土入りの竹束と鎧兜のオッサンの超重量を背中に乗せ戦場を駆ける武田の騎馬
爆音にもびくともせず夜目も利き少量の水と餌で何日でも戦える武田の騎馬
アメリカ軍を蹴散らし長篠で鉄砲を無効化し自軍を勝利に敵を脱糞に導く武田の騎馬
でも村上には勝てなかった
420 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 20:52:26
ここで新しい問題です!
西洋やモンゴルの馬の扱いと当時の日本で二つ決定的な違いがあります。それはな〜んだ?
421 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 21:14:45
>>420 西洋やモンゴルは馬は食料!日本は隠れて食べる!
早く答え出せよ!!
信玄に馬と鹿の区別がつけられたのか疑問だ
馬場信房を鹿場と呼んだり山中鹿之助を馬之助と呼ぶような人だったかもね
423 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:18:26
>>422 それは凄い!
武田信玄と長島監督はやはり偉大だ!
424 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:21:43
しょーもない事は置いといて^^答えは何でしょー?
425 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:27:26
三戦板のアンチ武田馬鹿が流れ込んでるな
426 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:27:32
勝頼を戦場に忘れて来たり派手なジェスチャーで奇襲の合図をだしたり
427 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:33:24
答は確実に有る!解んないからって逃げんなよー。
428 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:59:32
ちなみに検索ごときじゃー出てこんぞ〜^^
429 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 23:12:34
>>423 高坂に送る詫び状を間違えて将軍様に送ったんだよな。
それで織田包囲網ができたんだよな。天然のようで信玄公は天才だぜ!
430 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 23:15:41
所詮2チャンなのか?オメーラのちょっと良いとこ観てみたい!
431 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 23:59:32
長篠では織田軍の鉄砲より馬防柵が効果があったらしい
当時の火縄銃は発射したあとの硝煙がすごく、千人が一度に撃ったらとても前なんて見える状態じゃなかったといわれている
それに、そのころの武田家臣団は勝頼のことを見限っていて、勝頼の命令も聞かず特攻していったことも敗因の一つといわれている
432 :
日本@名無史さん:2006/04/29(土) 05:43:17
山梨県民にとっては英雄だろうが……
鉄砲は竹束があれば余裕、馬防柵?そんなのも騎馬軍団で押しつぶせばいいじゃん
問題は大砲、あれが厄介、さすがに竹束で大砲は防げないだろうからなぁ
おまえら、なんか知恵出せ!
デカい竹を使えばいい。
435 :
日本@名無史さん:2006/04/29(土) 11:33:14
馬防柵は屈強なる武田兵の体当たりで瞬時に崩壊していたよ。
長篠の大敗は織田厨の捏造。武田は敗れてなぞいない。
ただ砦を落とされて一時的に引いただけ
名立たる武将が死にまくっているが?
437 :
日本@名無史さん:2006/04/29(土) 16:53:53
>>434 戦国合戦大全(上巻)によると孟宗竹は無かったらしい
孟宗竹で調べたら鎌倉時代に僧侶が外国から種を持ち帰ったらしいけど
一般的にはあまり太い竹は無かったみたい
その本によると戦国時代一般的な火縄(15.5_)で28.8b離れて竹束を撃った
ところ一発目は4本、二発目は6本の竹を貫通した次に鉛弾径(18.4_)に変えて
同じ距離から撃ったところ6本の竹を貫通した。(実験では長さ1b直径4aの真竹31本を束ねる)
実験では16間(28.8b)では竹束は鉄砲よけにはならなかったが、50b以上離れるか竹を
よく乾燥させる!竹束を二重にスルなどすれば十分に効果ありらしい!
438 :
日本@名無史さん:2006/04/29(土) 17:32:16
大河ドラマ一豊の武田赤騎馬武者
あれは上州小幡衆の設定です
NHKからお知らせ
439 :
日本@名無史さん:2006/04/29(土) 18:41:34
みんな武田の騎馬隊を木曾馬のような和種だと思っているようだが違うようだ
ある資料によると武田の騎馬は巨大でラオウといわれる人の乗っていた馬などは人間を軽く踏み潰したそうだ
440 :
日本@名無史さん:2006/04/29(土) 20:01:54
当時の馬の〜二つの秘密〜!検索ナンゾじゃ出てこない〜^^
441 :
日本@名無史さん:2006/04/29(土) 21:36:02
ラオウは信玄の末裔ですがなにか?
442 :
日本@名無史さん:2006/04/29(土) 21:49:20
北斗信玄?
443 :
日本@名無史さん:2006/04/29(土) 22:49:24
鉄砲玉を跳ね返し、馬防柵は踏み潰す
そんな無敵の騎馬軍団が天下を取れなかったのは、戦国最大のミステリー
武田軍なんて新選組がいたら即全滅できる
445 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 11:55:27
からだは半分の大きさでもな
走りなら負けねえ
ディープインパクトの千倍は速えぇよ
446 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 11:59:48
>>444 日本史板では他板のように成り済ましで痛い発言をしても見破られるよ。
例えば貴方。アンチ新撰組でしょ。
低レベルな叩き合いは不毛。論理と事実の検証で行きましょう。イデオロギーも近寄りたくない。
447 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 12:09:05
サラブレット=トラック短距離
日本馬=トライアスロン
武田の騎馬軍団は存在しなかったって宝島の本で読んだんだけど、本当?
なんかどれが本当でどれが嘘か分からん。
無知な僕に教えて下さい
449 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 12:32:44
武田には騎馬隊のほかにも影武者隊・くのいち隊・真田十勇士などファンタジーの宝庫
イソップ童話やグリム童話と同じ目線で武田物語を楽しもうじゃないか
450 :
448:2006/04/30(日) 12:48:24
>>449そういう趣旨のスレだったのか。じゃあ、僕も武田ファンタジーを楽しむとするよ。
(て事は存在しなかったってのは本当なのか…まぁいいや)
452 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 16:27:40
存在しませんでした^^
南京城攻略の折、降伏した中国兵数千人を城壁の傍らに立たせておき銃剣にて全員を刺殺した時の司令官は
昭和天皇の叔父で天皇に顔がそっくりの朝香の宮と言う奴だ。
南京大虐殺は天皇家の命令で行われたことは明らかだね。
そうやって在日である天皇家は、日本の名誉を著しく傷付けるような指導を日本国民に対してして来た訳だ。
そんな天皇制にしがみ付いている奴はバカか狂人かのどっちかだね。
あるリベラルな知識人が二十年ほど前に、先の戦争は国民にも責任があると言ったことをヒントに、
天皇には責任が無いみたいなズレたことを言い出した右翼がいるが、
国民主権国家となってから、その天皇制を廃棄しないでいたことは今度は本当に国民の責任である。
454 :
撤退:2006/04/30(日) 18:06:53
武田軍に設楽ヶ原(いわゆる長篠の戦いの主戦場)で出した死傷者は驚くほど少ない。
部隊長クラスだと土屋昌次くらいか。では武田軍はどこで90%近くの損害を被ったのか。
それは撤退に入ってからである。追撃に移った織田・徳川連合軍によって多くの武田兵たちが狩り立てられたのだ。
特に勝頼の撤退が完了した後は武田家の宿老クラスの武将達が自殺同然の突撃を連発している。
これによって山県昌景、馬場信房、内藤昌豊、真田信綱、真田昌輝といった武田軍団の要とも言うべき逸材達がここで死んでいる。
455 :
騎馬保有率:2006/04/30(日) 18:13:37
単純に武田家の騎馬保有率を見てみると他の戦国大名家と数%しか違わないのだ。
またその騎馬武者も各家臣がそれぞれの知行に応じて「◯◯◯は騎馬武者△騎、槍足軽□人……」という具合に集められるのである。
なのでそれぞれの家臣の騎馬武者同士が連係して集団戦法で戦うなどという事は不可能だったのである。
456 :
イメージ:2006/04/30(日) 18:17:01
何故武田軍=騎馬隊というイメージが作られたのか?信玄の若い頃の戦で、電撃戦を使ったことがあった。
敵の領内まで十日で行けるとしたら八日分の行程を二十日かけて進軍する。敵が油断したところで騎馬武者を有効に使って残り二日分の行程を一日で進み、敵を急襲するやり方である。
この戦法はよほど周りの大名達にインパクトを与えたのか、そのイメージが強く残ったのではないだろうか。また武田側でも疾風怒濤の武田隊のイメージを植え付けるために大きく喧伝したのだろう。
また西国の武者達に比べて東国の武者達は騎馬の扱いが抜群に上手かった。それを見た西国の兵達(当時は尾張、美濃も西国だ)は驚き、恐れて書物などに書き記したのであった。
457 :
下馬して突撃:2006/04/30(日) 18:18:03
長篠の戦いで武田軍はその騎馬を使用した電撃的な突撃を行ったのだろうか?『甲陽軍鑑』は信憑性の低い部分が多いのだが、小幡勘兵衛が記していない部分はかなり信頼が置ける書物であるとされる(信玄の側近中の側近である高坂昌信が記したと言われる)。
その『甲陽軍鑑』によると「長篠合戦で武田軍の各部隊の大将や目付と七、八人の部隊長のみが乗馬し、他の者は騎馬を後に残し、徒歩で槍を取って戦った」と記されている。
また、宣教師のルイス・フロイスは「騎馬武者は西洋では騎乗したまま戦うが、日本では騎馬から降りて戦う」と記している。つまりほとんどの武田軍将兵は下馬して突撃を行っていたのであった。
458 :
オーソドックスな白兵戦:2006/04/30(日) 18:22:23
長篠の戦いが実は八時間に及ぶ激闘だった事も重要なポイントである。
例えば、八時間の戦いの内の半分の四時間射撃をしていたとして弾丸の数と火薬の量はいったいどれほどになるのだろう。
1分で一発発射したとして四時間で240発。火薬の量も半端ではないだろう。それだけの弾丸を鉄砲足軽ひとりひとりが持っていたとは考えづらいのではないだろうか。
しかも銃身そのものも、当時の鉄砲の銃身がそれだけの長時間射撃に耐えられたとは思えない。そう考えると鉄砲はピンポイントで使用されただけであって、戦いそのものはオーソドックスな白兵戦が行われていたのではないだろうか。
つまり戦いの経緯は『長篠合戦図屏風』で描かれている通り、槍兵が馬防柵の前で武田軍と一定の戦いを行い柵の近くに誘い込んだ後鉄砲隊が射撃を行い武田軍が退却、というのが延々と八時間繰り返されたのではないだろうか。
このような消耗戦的な戦いを繰り返していれば、どうしても兵力の多寡がモノを言ったはずだ。
459 :
単純に兵力差:2006/04/30(日) 18:25:40
武田軍は負けるべくして負けたという事実である。
単純に兵力差を見てもらいたい。織田軍三万、徳川軍八千の連合軍に対する武田軍は一万二千。
もっとも最近では両軍ともこの数字の半分〜三分の二程度だったのではと言われているが、
それでも武田軍が織田・徳川連合軍の三分の一の寡兵で戦ったという事は教科書などで無視されている重要なポイントであると思う。
460 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 21:10:31
おいおい^^チェックメイトさすなや!オレの伏線どうしてくれんのよ?ガキのスレだと思って安心してワメきやがって!
信長公記では、織田軍の接近に対応して武田軍が陣地を移したことが最大の敗因に挙げられている。
陣地を移さなければ、織田・徳川軍が攻めあぐねている間に長篠城を陥せたのに、と織田の武将達が噂していたという。
でも長篠合戦の大敗で信玄が重用した老臣たちが討ち死にしたおかげで勝頼は権力を強化することができた。
徳川とはその後も互角に戦っているし、上野では真田家の家督を継いだ昌幸がほぼ独力で経略を進めている。
信玄が育てた勝頼と同年代の側近達を長篠合戦後に方々の城に分散させたのは痛手だったが、勝頼は戦略で致命的な失策はしていない。
上杉家の家督争いへの介入も、北条・上杉連合の結成阻止のために必要なことだった。
結局、織田家の成長についていけなかったことが滅亡の原因で、勝頼が家督を継いだときは手遅れだった。
信玄はそれを理解していたから、結核を患う身で上洛作戦(実際は織田家の分解が目的)を強行したのだろう。
三年の間死を隠せ、という遺言が本当だとすれば、その意味は、
信玄個人に心酔する重臣と、信玄が育てた勝頼の側近達の間の世代交代が進むのを待つための期間だと思われる。
やっぱ、長篠の損害は甚大だよ。
あの後は、ずるずると掛川方面から駿河の拠点を侵食され、孤立した
高天神は見殺しアボン。以後は将棋倒しに崩壊。数的に劣勢な徳川に
対し、一度も決戦戦略を挑めずに崩壊に至る。
家康と比べると、人身掌握の点で、勝頼の器量は見劣りする。守勢に
立ったときに脆すぎる。彼の器量不足は、武田滅亡において大きな
要因と断じざるを得ないと思うね。
長篠での決勝点は、明らかに酒井隊の鳶の巣への迂回攻撃。
これが決まった段階で、後背に拠点を作られ、長篠の包囲を解囲され、
武田の全面敗退はすでに確定。本体への突撃は「絶望的な悪足掻き」。
不用意な戦場で、数的優勢な敵との決戦で、数多くの将兵を失った
総大将の責任は重いね。未来永劫、粗忽者の烙印を押されても仕方が無い。
464 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 23:42:09
信玄の病気は胃潰瘍!結核でウダウダ十年も生きてられんよな!
465 :
ウミネコ:2006/05/01(月) 00:09:12
へん、所詮あぼーんする半年前まで海を見たことのないような甲斐の山猿に、
天下等とれるわけないわい。
466 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 00:15:15
勝頼の母は、諏訪頼重の娘で、高遠城城主であった。家臣の間では、よそ者扱いだったはず、信勝は信玄の後継者として家臣にみとめられてたとなにかの本で読んだことがあるよ。
軋轢が生じたのも、分かるな。義信が生きてたら滅亡はなかったかもしれないし。ようは、義信が死んだから、勝頼に後を次がしたみたいな・・
ここで信玄の失敗がある。初めから、義信と勝頼を後継者として競わしていたら、違ったかも。
467 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 00:20:30
それ先日図書館で読んだ本に書いてあったよ。庶民的なレベルでも充分に当時の事を把握できるよな!後の連中はやらなさ過ぎだー。
今の武田家って龍宝の子孫?
469 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 09:51:03
>>468 先日トリビアの泉で上杉謙信の子孫と川中島でオセロしてた人の事か?
470 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 14:36:43
>>469 ごめんトリビア見てないから分からない。 武田が滅亡する時、信玄の息子で目の見えない龍宝とその家族だけ助命されたと何かの本で読んだ気がしたから。
471 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 14:53:14
龍宝と信たつの一族だけが生き残ったのでは?たしか・・
472 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 15:04:29
473 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 16:01:32
たしか信玄の子が上杉に逃れてそのまま仕官したはず
474 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 16:04:42
謙信の子孫なんかいね〜。過去レス嫁
475 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 18:00:32
>>474 よく考えたら上杉謙信の子孫?だよな!!あれはダレだ?
すまんがアノ番組見てた人、上杉何某の子孫だったか教えてくれ!
476 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 18:20:18
武田家当主
→信玄次男 龍宝子孫
江戸幕府高家
上杉家当主
→謙信養子 景勝子孫
甥(姉の子)
(途中、江戸幕府高家、吉良家子孫・女系では継続)
上杉家家臣
武田(安田)家当主
信玄庶子 信清子孫
武田家滅亡時、姉の嫁ぎ先の上杉家を頼り逃亡
477 :
勝頼=暗愚説:2006/05/01(月) 21:01:19
勝ち目がない戦は、御法度である。ましてや、敵の半分に満たない兵力で、守りを固めている敵に攻撃を仕掛けることは、自殺行為でしかない。事実、戦国最強を誇った武田軍団は敗北し、歴戦の現場指揮官の大半を失った。
最高指揮官は、信玄の跡を継いだ勝頼である。勝頼=暗愚説は、この「動かし難い歴史的事実」の上に成り立っている。
純戦術的に見た場合、勝頼が会戦を回避すべきであったことに疑問の余地はない。
勝頼が決戦踏み切ったのは5月19日である。が、これに先立つ15日には、長篠城は本丸と二の丸、野牛郭を残すのみで、与えられた条件からすれば、19日までに落とすことは十分に可能だった。
もしこれが信玄ならば、まずは長篠城を取り、寒狭川を挟んだ内線に陣を敷き、連合軍を迎え打つ策戦を採用しただろう。それが、のちに「武田流軍学」と呼ばれることになる信玄の兵略の神髄だからだ。
478 :
武田の軍団は善戦:2006/05/01(月) 21:04:37
事実の問題としていえば、基幹をなす穴山と武田信豊がサボータージュしたにもかかわらず、武田の軍団は善戦している。いわれているように、銃がすべてを決めたのではなく、
善戦して一カ所を突破しても、そこを突き抜けるだけの後続部隊を投入できなかったことが、「勝てなかったこと」の最大の原因なのだ。
このように考えた場合、敗因は、騎兵とは名ばかりの「騎馬軍団」を過大に評価したこと、ぎゃくに、信長軍団の革命性を過小評価したことにある。
素人を兵に仕立てるさいの弱点を量と組織力によって補うだけでなく、敵を上回る大軍を擁しながらも守りの陣を敷いた信長の己を知る強さを、軍団総体が見抜けなかったのだ。このことを勝頼ひとりの責めとするのは、酷である。
479 :
10年:2006/05/01(月) 21:05:36
勝頼は、信玄の死の直後の家康とのせめぎ合いで失地を回復した。信玄が落とせなかった高天神城も落とした。長篠での敗北後も家康との対峙では互角以上に戦い、支配圏を拡大している。いかに部下が優れていたとしても、暗愚の殿様ではこうはいかない。
勝頼は、信玄死後の10年間、その遺産を守った。10年しか守れなかったと見るか、10年維持したと見るかは、意見の分かれるところだろうが、時代背景を考えた場合、この一事だけとってみても、彼が凡庸な指揮官ではなかったといえる。
480 :
時間との闘い:2006/05/01(月) 21:06:53
総じていえば、勝頼の闘いは、時間との闘いであった。信玄や信長に許された体制を固めるに足る時間が、勝頼には許されていなかったのである。
信玄の保守性と勝頼の革新性は、信玄亡き後に家臣団との間でぶつかり合い、この軋轢が頼みとする一門衆の裏切りとなって表れるのは、必然だった。穴山信君の寝返りは、そのことを証明している。穴山家は、小山田家と並んで武田の外戚の位置を占め、
その興亡は武田とともにあるはずのものと思われていただけに、家臣団の結束に動揺が走ったのは当然である。このように見てくると、武田の滅亡は、すべての原因が信玄にあることが見えてくる。
発想の面から見れば、信長の後継者は家康ではなく、勝頼に後継者の片鱗を見ることができる。この面を見るかぎり、信玄の後継者は家康であったというほうが正しい。このことが、勝頼を悲劇の将軍にしてしまった最大の原因である。
481 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 21:29:40
信玄って数でごり押ししないと勝てない凡将じゃん
信玄だから勝ったっていわれる戦が無い
482 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 22:24:33
まったく、織田厨が暴れて困りますね
結局は武田が世界最強という事実は変わらないんですよ
483 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 22:50:03
>>457 >宣教師のルイス・フロイスは「騎馬武者は西洋では騎乗したまま戦うが、日本では騎馬から降りて戦う」と記している。
つまりほとんどの武田軍将兵は下馬して突撃を行っていたのであった。
ルイス・フロイスは西国流の戦しか知らない。
484 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 00:10:55
失礼しました、信たつではなく、信実でした。竜宝と信実の一族は残った正確には、信実の子供は主家が滅亡後家康につかえた
485 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 00:15:29
勝頼が悪いのではなく、信玄が悪いんだって。勝頼にちゃんと教育してないし、部下にも、認めさせてないし。
諏訪氏を謀殺したから、諏訪氏の遺臣たちの恨みをなくすために勝頼に諏訪を継がせて、その後義信が幽閉されたあとに武田宗家の跡継ぎにした・・
勝頼は、凡将じゃなく、かなり優秀な武将だったとされてるはず・・
486 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 00:16:14
武田が強かったのって、棒道をしいたからだろ?機動力が他のやつらより高かったから・・
487 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 08:37:58
>>483 西洋は重装備で重いから下馬すると再騎乗できなかったからね。
その点、武田騎馬軍団は精強にて最強なる騎馬軍団なので素肌にふんどし一丁で槍で突撃していたからな。
鎧で身を固めている腰抜けどもと一緒にするな!
衆道趣味が多かった戦国時代のことだ、褌一丁で突撃されたら
どれほど勇猛果敢な敵でも、ウットリして戦意を失ってしまうだろう
さすがは世界に誇る武田の騎馬軍団よ!敵をも魅了するとは天晴れなり!
武田の出城はとにかく攻撃的らしい。
兵農分離が不十分なので最前線の兵力は少ないから、門に殺到する敵を側面から襲えるように必ず迂回ルートを用意していた。
武田の強さを語るなら、騎馬軍団よりも、この守るだけでなく敵に大損害を与えて攻めに転じるに役立った築城技術と職能集団の育成を評価すべき。
最前線の兵力は少ないが、
でした。
491 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 12:50:20
>>489 甲州流の城は稚拙と思われがちだが、今川の流れを上手く組んでいるからな。
確かにショボイような城ばかりであるが、それは「人は石垣人は城」の理念からきているから仕方がない。
それに、そもそも武田の城は人でできていたからな。
ふんどし一丁の屈強な男衆が肩を組み合い門となり城となり、敵を寄せ付けなかったそうだしな。
むやみに攻めると魅了され、寝返りが続出したらしいからな
492 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 13:53:14
敵軍の死者の大半は捏造らしく魅了され寝返る者が大半だったそうだね。
凄いぜ!武田軍!
493 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 13:56:23
疑問なのだが、よく信長の野望で名馬ってでくるよね。あそこに出てくる名馬もポニーみたいな体格だったの?
松風とか・・実際にいたの?
494 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 18:30:30
松風はサラブレッドよりもデカイ
参考資料 少年ジャ○プ 花の○次
でも信玄の時代って石垣作りは一般的じゃなかったよね。
496 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 23:44:47
信玄公は未来を予測していたのだよ
497 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 23:48:11
松風もポニー^^てか信長の野望は、、キッズかな?
関東は石垣の城ないよ
戦国末から近世初期に石垣ラッシュ
だから、近世初期の墓石は少ない。
499 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 02:23:49
だから安土城のイメージで全ての城を想像しちまってる訳だ?
武田の騎馬はクチから火炎放射してたそうだ
501 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 14:19:39
さらにポニー飛行試験型まで開発してた。
502 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 15:29:32
長篠は、信玄存命で、三方が原の兵力だったら勝つのは?
武田の兵力 三方が原(大将信玄)2万7千。 長篠(大将勝頼)1万5千。
503 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 15:31:13
戦国時代の騎馬は移動手段であって
騎馬にのって闘うのは
命令をかける大将くらいで後は皆
騎馬から降りて闘うぞ。
武田の騎馬が無敵言われたのは
武田の機動力が最高なだけで
騎馬武者の武力が無敵なのではない
おまえら普通に考えろ
ウマ乗ってる奴がきたら槍を前にだせば
簡単だろ?
馬に乗って闘うと思ってる奴は武道を知らない奴
504 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 15:49:36
長篠では、教科書などでは兵力差はまず書いてないし、テレビでは
ただ馬で突っ込んで来て、鉄砲で撃たれてるというだけの物。
もう少し詳しくして欲しいね。織田・徳川も6千人位は討ち取られた。
後、事もあろうに、「長篠は、織田信長が武田信玄を鉄砲隊で破った戦場」
などと言う不届きな資料があったり、テレビで平気で言ったりする時がある。
信玄がいつ信長に負けた?って感じだな。
505 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 16:25:17
「信長公記」に書いてあることを訳すると、
桶狭間の戦いの際、義元の本陣まで馬で移動した信長は、“馬から降りて戦った。”
戦国時代は大将でも、“馬から降りて戦う”ことが常識だったらしい。
馬から降りて戦うだぁ??
だから、信長は本能寺で殺されるんだよ。コノヤロー!!
武田信玄公は他の戦国武将とは違うぜ!!!
信長や家康が馬から降りて戦っていた時に、武田信玄公の武田騎馬隊は全員、騎乗位だった!!
その数、3万頭とも4万頭とも言われている。
総数4万の武田騎馬隊が騎乗位で攻めてきたら、どうする???
そりゃ、怖いだろ!!
506 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 16:27:29
3万頭・4万頭の馬が戦国時代にいるわけないじゃん。
武田騎馬隊なんて、後世が作り出した創作だったつーの。
507 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 16:51:00
武田騎馬隊は桃太郎や一寸法師と同じ世界に存在するよ
508 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 17:12:09
(騎馬武者が馬から降りて戦った訳)
騎馬武者の中には自軍が不利になると一目散に逃げ出すやつが一部にいたらしい
逃げ出さないために馬を人質(馬質?)として取り上げて逃げれなくした!
関が原の戦いの時には「馬から降りて戦え!」という命令を無視していつでも
逃げれるように馬に乗ったまま戦った?人もいたそうな!
どこまで本当の話かワカラナイけど一理ある?
509 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 18:16:26
510 :
上杉謙信・女性説:2006/05/03(水) 22:00:15
一. 謙信の死因は脳卒中でなく大虫である。(現在では婦人病にあたる)
二. 毎月10日前後に腹痛をおこし合戦を取りやめている。
三. 謙信の武勇を称えた当時の唄に謙信を女性扱いしたものがある。
四. スペイン国王宛ての日本についての報告書に謙信は女性との記述。
五. 筆跡が女性的。
六. 松平記にも謙信の女性的描写がある。(「まこと、うるわしきご様子にて・・・」)
七. 敵兵が戦場で謙信に見とれた。
八. 一生涯妻を娶らなかった。
武田軍の強さは、信玄が登用したり教育した低級武士や外様の子弟達の優秀さにある。
百人の足軽の中央で騎乗した彼らが采配を振るえば、最強軍団に早変わり。
人材の登用・育成は群雄の条件。
512 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 22:05:07
騎馬隊の強さなら元のチンギス・ハーンの方が上のように思う。
513 :
鉄砲は女性用:2006/05/03(水) 22:13:48
弓矢は男性用品、鉄砲は女性用と区別が在ったせいとも考えられる。現在の人には理解しにくいだろうが、女性軽視の中国の儒教が輸入される迄の日本は、男女同権どころか女性優位で、戦国時代も女武者や女武将が多かったのである。
秀吉の時代でも女城主は珍しくなく
「桃山城普請割当表」や「朝鮮征伐名護屋御陣着例表」等にも女大名の名は散見している。
514 :
侍女をもって鉄砲隊を編成:2006/05/03(水) 22:15:33
鉄砲が日本に輸入されると「これはよい、これならば女ごの身に誂えむきじゃ」と、それに着目したのが、九州筑前立花城主戸次鑑連(べっきあきつら・入道後は立花道雪)の一人娘げんであった。
女城主として年下の婿を迎え立花宗茂と名のらせたが、げんは九州が輸入火薬の入手が容易だったから、侍女をもって鉄砲隊を編成した。
しかし一発ずつ装薬を作っていてはまだるっこしいと、高良山合戦から、細竹の寸を詰めて輪切りにし、藤蔓で繋いで襷とした。
現在の雷管と弾頭のようなものを竹に前もって作っておき、ガンベルトを肩に掛けさせたのである。
515 :
女鉄砲隊:2006/05/03(水) 22:16:55
女鉄砲隊をもって九州を席巻し「旧柳川藩志」にも「関ヶ原役にて西軍破れ立花宗茂は柳川の正北方一里半の鉢院に鍋島勢を防ぐも敗退す。
この時立花げん女、紫おどしの鎧をつけ、侍女二百の女軍をもつて宗茂を庇う。
為に鍋島勢進めず。援軍として加藤清正きたる。清正もげん女の軍勢に辟易し瀬高よりは別路をとって白鳥へゆく」と出ている。
516 :
立花早撃ち女ご:2006/05/03(水) 22:18:08
清正でさえ怖れをなしたのは「緒戦(はな)は立花早撃ち女ご」と当時、この女武者の早撃ち隊は九州で有名だったからである。
これから女の勢揃いを「花はたちばな」と呼び、今は茶摘み唄に転化されている。ポルトガル語で硝煙のことはチャーと言うから♪♪♪「花はたちばな〜茶の香り」の歌は「緒戦は、げん女の銃撃で戦場は硝煙が立ちこめ手を焼いた」との意味にもとれる。
が、このため弓矢に比べ鉄砲はどうしても次第に軽んじられた傾きがないでもない。
517 :
弓矢の方が鉄砲より実戦向:2006/05/03(水) 22:19:36
慶長13年にもなってなぜまだ弓矢の方が鉄砲より実戦に向いていたかというと、訳がある。矢は弓につがえてヒョウと放てば前方へ飛んで行くが、当時の鉄砲はそうではなかった。何しろ「清正公記」等にも
亀山合戦のくだりで「加藤虎之助は秀吉の云いつけによって滝川左近將監の家老佐治新助の守る城の中へ入り込むと、佐治の鉄砲大将の近江新七というのが、ずらりと銃口を並べて撃ちまくっている。
ために秀吉の軍勢は前進を阻まれていた。見かねた虎之助は二間半(3m)の大槍でその銃口を叩き伏せ、返す穂先で近江新七の肩先を田楽刺しにし、そのよろめくところへ後から槍をつけた木村十三郎に
『最初に槍をつけたは拙者だが、突き倒されたは貴殿である』と手柄を譲った」という美談がでている。
518 :
不発が多かった:2006/05/03(水) 22:22:15
清正の個人的武勇伝というのは実際にはあまりなく、これが代表的なものだが、鉄砲隊のずらり並んだ銃口から飛び出す弾雨より、清正の槍の方が速く、
突き倒したというのはナンセンスに思えるが、火縄銃は元ごめではなく、銃口から入れる先ごめ装填で、うっかり下を向けると弾丸が転がり落ちたり、
それに何といっても硝石の不良による不発が多かったのである。
519 :
不発は命取りになる:2006/05/03(水) 22:26:58
鉄砲は狩猟の時なら不発でも獲物に逃げられてすむが、合戦ではそうはいかない。不発は命取りになる。だから長篠合戦で信長が柵を作ったのも、三段階に分けて射撃させた理由も、
この不発の多いことを気遣っての用心であった。
姉川合戦の初まる前にも当時横山城にいた羽柴秀吉から、堺の硝石輸入業者に対し「よき煙硝の樽を送られたし」と但書づきの注文伝表さえ残っている。矢には不発がないので当時としては極めて安全な武器として重宝されたのだろう。
520 :
本多平八郎忠勝が書き残した物:2006/05/03(水) 22:39:54
「わしが若い頃には未だ戦国時代の名残があって、女ごが豪い様で男に一々下知をされた。言うことを聞かぬ者には罰として、食物を渡さぬから、
男は言いなりになって槍や刀を持って出かけたものだ。
勿論いざというときは、女子も己の顔はやさしく見えてはいかんと、眉を落とし、鍋墨で書き眉を大きく付け、口にかねを含んで鬼のように歯を染め、ワアッと敵陣へ攻め込んだものだ。
だからその名残で今でも武家の女房は眉をすり落とし、口にはお歯黒をつけとるがさて近頃は、男並に弱くなったのではあるまいかと思われる」
521 :
政宗の妻:2006/05/03(水) 22:41:49
三春から嫁に来た政宗の妻が政宗の身代わりで戦場を駆け回り、
奥州に伊達政宗在り、とおおいに名を売ったとあります
522 :
朝鮮征伐名護屋渡海乗船衆:2006/05/03(水) 22:47:36
<<文禄二年。朝鮮征伐名護屋渡海乗船衆>>の名簿には「三万七千石、堀田が女房。女武者>と記載があります。
夫は堀田権兵衛といい、秀吉が近江長浜五万貫に出世した時、権兵衛も二百貫に出世する。
523 :
女兵:2006/05/03(水) 23:00:12
「長篠合戦屏風」の鉄砲隊の中には髪をまるめて女兵と判るのが、射撃手として加わ っている絵姿がある
524 :
鉄砲:2006/05/03(水) 23:10:52
長篠合戦において、織田信長は人ごとに柵木一本縄一把を携行させ、
これで馬塞ぎの柵をゆわえさせ、武田勝頼三万の大軍を鉄砲によって撃退させた」と、
近代戦のさきがけがおこなわれたとする。
そしてこの合戦で、武田方の山県昌景、真田信綱、土屋昌統、甘利信康、内藤昌豊、
馬場信景ら信玄の頃からの名将をはじめ名の通った武者一万余が弾丸に倒れたそうだ
が、「川藤展久(シージャック)を射った加川巌巡査部長」
といった具合には一人も、勇ましくその名までは発表されていない。
普通なら武田方の有名武将ゆえ、一人仕止めれば何百貫もの加増になるべき大手柄
なのに、誰一人として殊勲者が明らかにされていないのは、なんのためであろうかと
いった疑問もここに生じてくる。
525 :
鉄砲:2006/05/03(水) 23:12:42
それからこの三十四年後。フィリッピン長官ドン・ロドリゴが日本近海で難破し、
江戸城の徳川英忠を訪れた際の見聞記にも、
「一の釣橋(のちの大手橋)には長銃手小銃手がいた。しかし第二門(のちの二重橋)
の内側は長槍短槍の四百人の軍勢。第三門の将軍の親衛隊は、アラバルダに似た薙刀
をもった三百人の屈強な武士だった。スペインならば王の警備隊は銃をもつのに、何
故この国では銃手は王の側近におかれないのか」と不思議がって書き残している。
526 :
槍一筋の家柄:2006/05/03(水) 23:13:30
そういえば日本では、「槍一筋の家柄」と武門の程を誇らしげにいうが、
「鉄砲一挺の家柄」といえばそれは猟師である。
ふつうこの解釈を、鉄砲は鉄砲足軽といって身分の卑しい者がもち、ひとかどの武
士は自分では持たなかったからだと説明される。
527 :
鉄砲は兵隊のもの:2006/05/03(水) 23:15:08
だからして前の大戦でもアメちゃんは准将クラスの閣下でも、野戦服に自動小銃を
かかえバリバリ撃ってくるのに、日本軍たるや曹長以上は、切れもせぬ昭和刀をふり
廻し、「鉄砲は兵隊のもの」と軽蔑してかかり、切羽詰ると自分らに合わさせて、兵にもゴ
ボウ剣で斬り込みをかけさせ玉砕させてしまった。
528 :
肘鉄砲:2006/05/03(水) 23:16:17
人口が僅かな昔は女性も戦にでたが、槍や刀の接近戦には向かぬし、弓をひくには
ボインが邪魔なので日本女性は舶来した鉄砲を用い、為に男は鉄砲を無視したり嫌っ
たものであるらしい。
女が男をふるのを「肘鉄砲」というのもこのためだと
529 :
女鉄砲隊:2006/05/03(水) 23:31:06
「伊達文書」には、三春御前率いる女鉄砲隊が、政宗の父輝宗
を誘拐した二本松義継の一行を一斉射撃で皆殺しにした
と言う記述が残っている。
さらに「当代記」に登場している池田せん女は、
二百人に及ぶ女鉄砲隊を従えていたと言う。
530 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 23:42:58
それら記録はね〜、当時の人間ではない後世の人がこうだったら面白れ〜て書いた与田話まからな!本気にしないの^^
531 :
信長記:2006/05/03(水) 23:54:49
『信長記』について「誤りが多い」と筆誅を加えた者がいる。
江戸初期の旗本 大久保彦左衛門忠教である。信長とほぼ同時代を生きた彼は、その著『三河物語』の中で
「『信長記』を見るとうそが多い。三分の一はあったことだ。三分の一は似たことがあった。
三分の一は全くなかったことだ。(中略)いろいろこう書くのは、考えてみれば自分が目をかけた人びとのことを
形もないことを書くと見える。それなら書く者は知恵があってないようなものだ。それで『信長記』にはうそが多いと評判になった。」
と、論破している。
このことから見て、江戸初期においては『信長記』は内容についてあまり信用されていなかったようだ。
532 :
桶狭間役:2006/05/03(水) 23:56:10
今日我々が描いている信長像を作り上げたのは
明治35年当時の陸軍参謀本部が作成した『日本戦史 桶狭間役』によるところが大である。
この『桶狭間役』では、信長が奇襲攻撃によって今川義元を破ったと記述している。
ところが、『信長公記』では、真っ向からぶつかったとされている。
陸軍参謀本部にとって桶狭間の戦いを奇襲攻撃とした方が、軍事の指導書として好都合であったからだ。
では何故、真っ向からぶつかった説を採用しなかったのか・・・
それは、戦力分析をした場合、つじつまが合わなくなり、戦史として参考にならなかったからだと思う。
あるいは、『桶狭間の戦い=だまし討ち』となってしまうことを恐れたのかも知れない。
実は桶狭間の戦いの真相は「信長が今川義元に降伏するともちかけて、桶狭間におびき寄せ、いきなり義元を襲った。」
のではないかという説もあるのだ。
533 :
過大評価をされている:2006/05/04(木) 00:02:59
<天正記>というのは、信長の次の国家主権者の秀吉政権の御用作家が書いたもの。
<当代記>は、筆者が、松平忠明などともいわれているが、次の徳川政権の資料。
<信長公記>と<太閤記>はリライトされ焼き直しをされ、なんともいいようもない
ものだが、今日では誤解され過大評価をされている。
534 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 01:00:49
>>532 >実は桶狭間の戦いの真相は「信長が今川義元に降伏するともちかけて、桶狭間におびき寄せ、いきなり義元を襲った。」
のではないかという説もあるのだ。
戦国時代における奇襲が、時期的・場所的なものより、
詐術によるものがおおいということからすると、
「だまし討ち」というのが妥当性が高いと思う。
中島砦(だったかな?)に集結中の織田軍を攻撃しなかったのも
「だまし討ち」ならば説明できるし。
535 :
根岸直利の『四戦紀聞』:2006/05/04(木) 10:11:34
根岸直利の『四戦紀聞』によれば、信長が桶狭間でしたのは裏切りです。和
平交渉が進んでいるのに裏切ったんだから、この時の生き証人は佐脇甚八、山口飛騨
守らの側近の四人だが全部、第一線にもってゆき棄て殺しにしようとしているのに、
彼ら四人は気づき、家康のところへ逃げ込んだ。信長には弱みのある家康は、いざと
いう時の生き証人として彼らを庇護したわけです。ですから、高天神城合戦の時など
は、信長はいくら求められても援兵を出さずゆえ、この四人を仕方なく家康は第一線
へ出して殺してしまって、はじめて信長は生き証人の四人が死んだのを確認してから、
ようやく本腰を入れて長篠の合戦で、武田方を三段構えの鉄砲隊で信長は討ちとり、
家康の味方をして勝ってのけたのである。
536 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 10:20:02
このスレで武田騎馬隊が嘘っていっている連中はおそらくチョンだな
当時の武田騎馬隊は信長すら恐れた世界最強の部隊
オスマンイニチェリに匹敵する強さだったことは明らか
チ ョ ン 必 死 す ぎ
537 :
参謀本部「桶狭間役」:2006/05/04(木) 11:02:39
参謀本部「桶狭間役」によれば清洲を出発した信長は熱田を通って前線の善照寺という砦につくと、放っておいたスパイから「今川義元の軍勢は桶狭間で休息中」という報告をうける。
そこで信長は敵の目から行動を秘匿するため大きく迂回し、義元本陣を見下ろす太子ヶ根に到着。そこから一気に義元本陣に切り込んだという。
なにしろ、参謀本部という戦争のプロが、正確な地図を元に詳細に分析したものであるから、これ以上ない説得力をもっていた。したがって明治以来この説は定着し今日にいたっている。
しかし、この迂回奇襲説には史料的な根拠が実はない。そもそも陸軍が古戦史を研究する目的は歴史的事実を明らかにするよりも、そこからどのような戦訓を引き出せるかである。
この当時、陸軍の関心事は満州方面(現在の中国東北部)に終結しつつある仮想敵国ロシアの大軍とどのように対抗していくかであった。
ロシアの大軍とまともにぶつかって勝ち目はない。そこで巧妙な戦略、戦術を駆使して勝利を得る着意が必要であり、そのための教育訓練が必要であった。
その要請に立った場合、まさに桶狭間の合戦は格好の題材であった。
538 :
参謀本部「桶狭間役」:2006/05/04(木) 11:05:08
端的に言えば、桶狭間の合戦で実際に迂回が行われたかどうかは2次的な問題で、重要なのは実際に迂回を行うとすればどのように決断し、どのように行動するかが明治の軍隊にとって重大な関心事であったのである。
だいたい、義元が休憩していた桶狭間から、信長がいた善照寺の砦まで迂回路で約6キロ離れているが、スパイが報告に戻るまで約1時間。信長が軍勢を動かすのに早くても2時間。あわせて3時間はかかる。その間、義元が休憩しているという保証はない。
また、途中、見晴らしのいい場所を通るが、ここを敵に発見されずにどうして通れたのか。
従来の迂回作戦には疑問符が多い。
539 :
陸軍参謀本部:2006/05/04(木) 11:23:43
我々が想像する「騎馬隊」とは、18世紀から19世紀中頃まで欧米の軍隊で必須の戦力と位置づけられていた「重騎兵」のことです。騎馬兵と馬が鎧を着け、槍を抱えて、密集した横隊の形で敵に突撃するものです。
これは、
1) 後込めの銃が実用化される前で、歩兵の発射速度が遅い。
2) ライフル銃が実用化される前で、小銃の射程が短い。
段階では、今の戦車のような働きをしました。ナポレオン戦争の頃は、重騎兵の突撃を歩兵で撃退することは容易でありませんでした。クリミア戦争では、砲兵の陣地が敵騎兵の突撃で蹂躙されるような戦例もあったはずです。
重騎兵による突撃は、アメリカの南北戦争の頃を境に、歩兵の射撃に対抗できなくなりました。後込め・ライフル銃の普及によるものです。
よって、19世紀後半に発足した日本陸軍の場合、重騎兵はそもそも存在せず、偵察や奇襲を任務とした軽騎兵のみが整備されました。昭和10年ごろには、騎兵部隊は戦車部隊・自動車部隊に移行しました。
540 :
陸軍参謀本部:2006/05/04(木) 11:26:09
武田軍が、19世紀の西洋の騎兵のような騎馬軍団であったとか、戦国時代の合戦が
* 両軍の接触、鉄砲と弓による戦闘
* 長い槍を持った足軽同士による戦闘
* 刀や槍を持った騎馬隊による戦闘
と推移する、といったことは、明治時代以降に言われるようになったことのようです。
その出典は、明治時代以降に陸軍の参謀本部が戦史を各種編纂した際に、上記のようなことが「歴史常識」として定着したようです。
例えば、戦国時代から大阪の陣までの合戦を描いた屏風がたくさん残っています。いずれも、「指揮官が馬に乗り、他の者は徒歩で戦う」様子が描かれています。
多数の騎馬武者が密集して敵に突撃する、なんていう合戦屏風は見たことがないですし、軍記ものの記述でも見たことがありません。
541 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 12:26:21
コテだらけだなw
542 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 13:09:39
戦わずして勝つのが名将だから信長が騙し討ちで義元を討ったのならすごいじゃん。
小競り合いで国力を消耗させるのは愚の極み。
民は疲弊し国を失う。
それを誘き出し討ち果たしたのなら正に名将。
でも正面衝突は事実でも騙し討ち説は聞いた事が無いのでソースを下さい。
543 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 14:26:10
よく正々堂々とか真正面から男らしく戦うとか賛美する人がいるけど
そんなの将の自己満足にすぎず兵や民衆にとっては迷惑千万
いかに人的被害を抑えて勝つか、このテーマを実践できる将が名将
総動員兵力が一万の国で突撃肉弾戦を行ない五千の戦死者をだして勝っても
その国は日和見してた隣国に飲みこまれる
兵=農民(生産者)では兵が死なないように戦うことが求められるだろう
謀略や調略に長けた将は突撃肉弾戦の将に遥かに勝る
時には大局に立ち自らの悪名と引き替えに以後の憂いを絶つぐらいの気も必要
騎馬突撃とか人を石垣にするような兵士を使い捨てる将は阿呆
544 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 15:45:51
武田騎馬軍団がいれば、イスカンダルの助けを借りなくても、ガミラスを撃退できた。
545 :
桶狭間合戦:2006/05/04(木) 15:52:37
桶狭間合戦というのは、元々が今川義元が上洛のための通
行だけの話で、その前日まではのんびりしきっていた。だから重臣達も、まさか折り
からのにわか雨で、
「今川の鉄砲も濡れていては火縄に点火もできまい。ただの棒っきれではないか」
と咄嗟に心変わりし、決意した信長が、ぞろぞろ集まってついてきた野次馬を動員、
逆さ落しに雨宿りの今川義元の本陣を襲って大勝利を得たとは、清洲へ戻ってくるま
で知らなかった者が多かった。つまり先代信秀の頃からの譜代の武者で、桶狭間合戦
に加わったものは殆どいないのである。
「三万五千石の今川義元が無事に尾張領を通過して上洛するを妨げぬ保障」
にと、信長が長子の奇妙丸を人質に入れ、尾張領の安堵状を貰ってくるものとばかり
重臣は思っていた。だから話によっては今川勢の先手となって上洛するのだろうと、
その準備をするために己の所領へ戻っていた重臣がほとんどだった。
ところが乾坤一擲の博奕というか、信長のだまし討ちが見事に成功してしまったの
だから、不参加の重臣達と信長の間は、それからはどうも溝ができてしまい気まずく
なっている。
546 :
桶狭間合戦:2006/05/04(木) 15:54:45
従来の説では今川方から先制攻撃をされて、鷲津、丸根の砦が落され、全員玉砕し
たのを信長は宮の浜(熱田)から望見し、ここで決死の覚悟をつけた信長が善通寺砦
から桶狭間へ奇襲をかけた事になっている。
ところが、世にも不思議な事に、その九年後の永禄十二年八月二十日に伊勢に出陣
した時、信長が武辺の者を選んで母衣衆二十名を選抜したが、その赤布をはらませて
背へつける赤母衣十人衆の中に「飯尾隠岐守定宗」が入っているのが、確定史料の
「当代記」にみられる。
鷲津砦が玉砕したものなら、そこを守っていた飯尾近江守の跡目が生き残れるはず
がないし、またその従弟にあたる遠州引馬城主の飯尾連達にしても、今川義元の伜の
氏真に、
「信長を手引きして父義元を殺した大逆謀叛人」とはっきり云われて、駿府へ来てい
るところを狙われて殺されたのは「駿府小路の戦い」というが、飯尾の妻が薙刀に白
粉をはたいて血滑りを防ぎ、十数人を叩き斬った話も、戦時中の「軍国日本女性の精
華」の本には出ていた。
547 :
桶狭間合戦:2006/05/04(木) 15:56:09
つまり桶狭間合戦の真相は、人質を伴って降参に行った筈の信長の裏切りなので、
表向きは「先に攻撃され、やむなく」と取り繕っている。
だから、丸根砦で討死した筈の佐久間大学が、天正八年に信長から追放されて高野
山へ追われた佐久間信盛と同一人であるという説もある。
というのは信盛というのは老臣とはなっているものの、桶狭間合戦から十年たった
元龜元年の長光寺合戦までどこにも名が出てこない。なのに突如二年後の三方ヶ原合
戦には堂々と信長の名代で徳川の加勢に出される程の旧臣だから、従来の桶狭間合戦
の話はきわめて疑わしい。
548 :
コピペ祭り:2006/05/04(木) 16:00:12
549 :
コピペ祭りU:2006/05/04(木) 16:15:53
説楽原での激闘
ttp://www2.ttcn.ne.jp/~history/collaborate/nagashino/07.htm 二番に正用軒、入替、かゝればのき、退ば引付、御下知のごとく鉄炮にて過半人数うたれては其時引入るなり。
三番に西上野小幡一党、赤武者にて入替り懸り来る。
関東衆馬上の功者にて、是又馬入るべき行にて、推太鼓を打つて懸り来る。
人数を備へ候身がくしをして、鉄炮にて待請けうたせられ候へば、過半打倒され無人になつて引退く。
四番に典厩一党黒武者にて懸り来り候。
かくのごとく、御敵入替へ侯へども、御人数一首も御出しなく、鉄炮ばかりを相加へ、
足軽にて会釈、ねり倒され、人数をうたせ引入るなり。
(『信長公記』)
ルイスフロイスが言う
「日本人は戦になると馬を下りて戦う」
という部分
西日本の戦いを意識してるとも思われ(藤本正行)
武田、北条、上杉などの合戦形態を全て表現したものともいえない。
550 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 17:12:01
>>548 状況に応じて使い分けただけだろ。何故単純に考えようとするのか。
命がけなんだから柔軟に対応するのは当たり前。君のような、それが全てだ!なんて考え方はおかしい。
551 :
コピペ祭りV:2006/05/04(木) 17:22:16
>>550 騎馬隊の存在を立証しようなどとは全く思ってませんよ。
『是又馬入るべき行にて』
ケースバイケースで馬上戦闘も存在したと言ってるのです。
騎馬全否定ではなくてね。
552 :
大変な負担:2006/05/04(木) 18:09:43
いつの時代でも馬を常備するのはかなり大変な負担です。
それにモンゴルや近代騎兵部隊のイメージから想像しがちですが、そのような騎馬隊は戦国時代存在しなかったと見るのが妥当だとおもいます。
馬は高価で相当な身分でないと常備できないし、部隊編成上その数も限られていました。
ただ武田家では乗馬歩兵として機動力を利用するシステムは存在していたのではないかと思います。
上杉氏との戦いで敵の侵攻を狼煙により伝達し動員令を待たずに直ちに北に向かい集結するシステムなどは当時の軍編成に時間がかかった事を思えば画期的だったと思います。
モンゴル兵の場合は、各人数頭の乗り換え馬を従え、馬糧の豊富な草原を移動するし、生まれたときから乗馬に鍛錬していたのと、
馬上戦が得意でしたから高速で移動し攻撃できましたが都市や城塞を攻撃する場合は歩兵として戦いました。 また征服した土地の住民を歩兵として使用したのです。
騎兵の主任務は敵の側背を急襲、包囲するか敵陣を乱すものでそれにより勝利を誘引する事で、主戦力は歩兵にあります。
日本の戦国時代このような用兵は見あたりません。
日本馬は体格も貧弱で積載重量も少ないので機動戦には不向きでした。
騎兵突撃の衝撃力を期待出来ず、馬の防具も考えていませんでしたから、敵が長槍で防御陣を作れば乗馬突撃は自殺行為でした。
有名な伊達の騎馬鉄砲隊も敵前で停止、銃撃すると後退するもので突撃はしなかったのです。
馬の大きさは
当時の屏風や絵でわかる
それほど小さくなかったよーな。
けど当時の平均身長が150ぐらいなら
サラブレッドみたいな馬じゃなくても
普通に乗れたんで無いの?
554 :
”騎馬隊”のイメージ:2006/05/04(木) 18:13:32
簡単にいうと、武田家にも騎馬隊は存在しますが
多くの人が想像していた”騎馬隊”のイメージが間違っていたということです。
モンゴル軍だって全員が騎乗兵というわけではなく
その時々で比率に違いはありますが
だいたいどこのどの時代の軍隊でも徒歩の兵隊のほうが
人数は多いのです。一般には1:4以上はあるべきとされます。
馬はデリケートな生き物で、繁殖もそれほど簡単ではありませんし
日々の世話も労力的にも金銭的にも大変ですから
全軍の兵士に馬を与えるなんていう財力はとうていありません。
数千でもきついところですが、万を越えるとほとんど不可能に近いです。
世界の古今の戦史をみても、(片方に)二万以上の騎馬が参加した
戦いはひじょーに少ない。
何しろそれを実現するには飼い葉が物凄い量必要で
しかも軍の移動とともにそれを運搬しなければなりませんし
世話をする非戦闘員も何千名も同行させねばならないわけですから。
それだけで戦闘よりも大事業です。
これは戦史を研究する立場の人にすれば常識だったのですが
騎馬隊という言葉のイメージが先行した結果
騎乗兵だけの部隊という誤解が生じたわけです。
555 :
”騎馬隊”のイメージ:2006/05/04(木) 18:16:25
中世の軍隊はどこの国でもたいていそうですが
領地と領民の支配体制と軍事編成は密接な関連があります。
だから騎馬兵が上級武士なわけですから
下級の農民足軽が徒歩になるのは当然です。
それを変えるには常備軍化が必要で
近代的な軍隊でないと、いわゆる騎兵は登場しないわけです。
ただし戦場では馬と人間では戦うスペースが違うので
ごちゃまぜだと戦いづらいので
中世の軍隊も動員された時と、戦場での編成は違います。
軽格の武将の小さい部隊ばかりだと統制もとりにくいので
幾つか有力武将を頭とする士隊と足軽隊にわけます。
そのピースが組み合わせて陣立てをするわけですが
陣形や地形、方針などによって、
ある程度の兵力をもった歩騎混合の隊とするか
それぞれのパーツを直接総大将が動かすかにわかれます。
武田信玄の場合は三方ヶ原の戦いとか見ていると後者のようなので
騎乗兵だけの小部隊もあるということです。
556 :
”騎馬隊”のイメージ:2006/05/04(木) 18:17:07
もちろんここでも武田軍が騎馬軍団だというわけではなくて
歩兵と騎兵の混合の武田軍の中の騎兵隊(士隊)ということです。
下馬戦闘については、当然、長槍に正面から
騎馬で突進できるわけがないので、
そういう状況下では下馬するでしょうが
常に下馬していたわけではないでしょう。
川中島にしろ姉川にしろ、騎兵の機動力を用いたと思われる戦いが
いくつもありますし、機動力を活かせる状況下で
下馬する必要性がありません。
アレクサンダー大王の時代から敵の歩兵の
背側面を突くのが騎兵の役割ですから。
日本馬は背丈が低いですが、気が荒く闘争心が強く戦闘向きで
一般的に胴長短足の馬はスピードはないが持久力はあるとされます。
騎馬兵の存在をことさら軽視するのは、
勝手なイメージに騙された反動としても
やや行き過ぎです。
日本の騎乗文化は西洋馬術の普及で断たれてしまいましたが
しっかりしたものがあったのですから。
557 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 18:53:42
長篠の古戦場へ行ったが、盆地で小川を挟んで段差がある丘陵地帯
だった。何で騎馬隊を持つ武田がこんな場所で戦ったのか?
長篠城攻めで時間を取られていたものの、平地で戦うことは
考えなかったのか?
信長に誘きだされて騎馬戦力も半減だ。
558 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 19:25:50
前に何度か書いたけどさ、モンゴルや欧州と当時の日本では馬の運用に対する技術に決定的な違いが二つ有るのね?まだ一度も指摘した人いないなー。早い者勝ち^^
ナポレオン戦争の頃の騎馬隊どうしの戦いは馬と馬とをぶつけ合って、騎乗した兵士が吹っ飛ばされるような戦い方だったんだってね。
560 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 19:27:32
去勢のこと??
561 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 19:31:05
後一つ〜^^
562 :
身分差を表すものです:2006/05/04(木) 20:30:45
騎馬隊というと、やりを構えた騎乗の武者がひとかたまりの集団になって突っ込み、一気に敵陣を蹂躙(じゅうりん)する、といったイメージがある。
ところが、この時代、こうした騎兵隊のような組織など武田に限らずどこの大名家にもなかったというのだ。
「騎馬武者とは兵種(戦闘部隊の種類)ではなく、身分差を表すものです。訓練をつんだ騎馬兵が隊伍(たいご)を組んで行動するようになるのは、ヨーロッパでも1557年のドイツの傭兵隊が最初。
563 :
蹄鉄はまだなく:2006/05/04(木) 20:32:15
当時の馬の大きさも問題だ。武田家の本拠、躑躅(つつじ)ケ崎館から出土した馬は肩までの高さが1・2メートルしかなかった。サラブレッドは約1・6メートルだ。そのうえ蹄鉄(ていてつ)はまだなく、履いていたのはわら靴。
走るのが遅く、去勢の習慣もなかったから、小型の割に扱いにくかったと思われる。
重装備の騎馬武者を乗せて整然と突進する姿は想像しにくい。
鉄砲の射程距離の100メートルを馬なら数秒で駆け抜けるから、1回撃たせてしまえば次の弾を込めるまでに敵陣に到達できる――などという、サラブレッドの速度から算出したような現代のもっともらしい想定がいかにばかげたものであるかがわかる。
564 :
馬は何に使われてのだろうか。:2006/05/04(木) 20:37:44
それは「追撃戦」である。歩兵中心の部隊(と数人の騎馬武者)が両軍入り交じって戦う。そろそろ山が見えたというときに騎馬兵で突撃をかける(実際は歩兵も混じっていたらしい)。
というのが実態だったらしい。『三州長篠合戦記』*5によれば武田勢は馬上の達者、戦いなかばに馬を入れ、敵陣を馳せて破ると聞いているので・・・・ とある。上の「馬を入れ」というのは馬を突撃させることである。
「戦いなかば」というのは戦いの途中で、の意である。以上より、馬は敵を追撃するときにつかわれたと考えられる。ちなみに我が国で近代的な「騎兵隊」がはじめて編成されたのが1862年頃である。
565 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 20:51:13
>>563 サラブレッドみたいなデカイだけで壊れやすい馬など、戦の役には立たん。
比較してどうするw
566 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 21:20:43
去勢と蹄鉄!この二つは馬を騎馬として運用するのに絶対必要な条件だよ。まずその点から議論すべきであって武田騎馬隊がどうたらなんて的外れも良いところだ^^
567 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 21:22:48
連載回数 6 連載開始日時 2004/04/01( ... あらすじ 鷹山と青木昭吾。 己の内にある神性は狂気へと変貌する。 全ての無垢なる儀式は、流血に沈む宿命 ...
568 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 21:23:53
>>566 あほか
古代からの騎兵の存在すら否定するのか。
569 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 21:30:41
屏風絵とかで描かれてる騎馬武者の姿は何?
あれは当時の画家の妄想かね?
本当に役に立つ軍馬は背丈は低くても体格が良くて体力のある馬。
道産子は人によって北海道に連れてこられるまで西日本の馬だった。
554〜556で結論でてるんじゃないの?
572 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 21:56:10
>>566 蹄鉄はけば速く走れると思ってるのか??
当時外国でも合金スパイク鉄なんかあるわけ無いだろ!
当時の外国にあった蹄鉄は重いただの鉄!
あくまでも蹄の保護!
デープインパクトが裸足で、未勝利馬が日本では禁止されている(スパイク蹄鉄)
はいても競馬で勝てるわけ無い!デープのつめがボロボロになるけどね!
大体日本史の住民で当時の馬が去勢セズ、蹄鉄履いてない、ぐらいの事知らない人
いないだろ?
本当にそんな事ミンナ知らないと思ったのか?
573 :
騎兵科は伝統名:2006/05/04(木) 22:04:11
第2次大戦初期にドイツ機甲部隊が、精強で鳴らしたポーランド騎兵をあっという間に蹴散らして以降、
どこの国でも騎兵科は伝統名のみの歩兵部隊となりました。
もっとも現代では機械化部隊やヘリコプター強襲部隊を「騎兵」と呼ぶ事も多いですが。
574 :
騎兵突撃:2006/05/04(木) 22:06:57
実際にいくつかのポーランド軍騎兵部隊はドイツの装甲部隊に対して騎兵突撃を敢行した。
ほとんどは戦車の機銃になぎ倒されて一方的に虐殺されたが、
機銃になぎ倒されつつも突撃してくる人馬の群になにか言い知れない恐怖を感じた戦車兵がパニックに陥って戦車を捨てて逃亡してしまった、という例も多少あった。
575 :
騎兵突撃:2006/05/04(木) 22:08:33
戦車に向って騎兵で突撃、というのは無謀のようだが、第2次大戦前の武装が機銃だけで無線機を搭載していない為,各車の連携が取れず、
また外部視察装置が貧弱なので廻りがよく見えない・・・という戦車に対しては、馬の脚の早さを生かして死角から戦車に肉薄、対戦車手榴弾を投げつけて撃破、という戦術もあながち無茶とは言えないものがあった。
576 :
騎兵突撃:2006/05/04(木) 22:13:03
ドイツ軍はモスクワ前面の戦闘でも,コサック騎兵に上記の戦術でかなりの戦車をやられたりしている(コサック騎兵側の被害も甚大だったが)。
また,2次大戦初期の戦車には機銃しか武装が無く、照準装置も機銃付属の照準器を覗く穴がついてるだけ・・・というのが結構あったので、
(騎兵がそういう戦術を採ってたかはともかく)対戦車ライフルで機銃の射程外から攻撃する、というのも不可能なことではない。
577 :
ポーランド軍の軍事思想:2006/05/04(木) 22:14:33
ポーランド軍の軍事思想は時代遅れで、軍の編制も旧式であった。
機甲師団、自動車化歩兵師団を持たず、対戦車砲、高射砲もきわめて不足していた。
その上さらに、軍指導部は依然として騎兵の価値を信じ、騎兵の大部隊による突撃の可能性を悲壮に信じ込んでいた。
578 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 22:20:39
面白いろいな、二チャン。
580 :
カンネーの会戦:2006/05/04(木) 22:33:01
前216年ローマは軍団数を13個軍団に増強、さらにハンニバルに決戦を挑む4個軍団は、1個軍団の規模そのものが増員されて、歩兵8万・騎兵7千あまりの大兵カになった。
ハンニバルの軍は歩兵4万・騎兵1万であり、彼は優越する騎兵戦カを活用できるようにローマ軍をカンネの平原に誘い出した。ローマ軍は1万の兵カを背後の小陣営に待機させ、残りで圧倒的な数の歩兵による中央突破を狙った陣形を組む。
ハンニバルは歩兵を中央のふくらんだ弓形の陣形にし、騎兵は左翼に集中して配置した。戦闘が開始されると、ハンニバル軍右翼騎兵とローマ軍左翼騎兵は兵力に差がないため混戦に陥ったが、ハンニバル軍左翼はローマ軍右翼の騎兵を瞬時に粉砕、
歩兵隊が中央のへこんだ弓形に陣形を変えつつローマ重装歩兵の攻撃に耐えている間に右翼の支援にまわった。そして、ローマ左翼を共同で打ち破つた騎兵はローマ歩兵隊の背後に襲いかかり、ハンニバル軍はローマ軍を完全に包囲、殲滅していった。
この戦いでローマは死者7万、小陣営で待機していた1万も捕虜となり、集まってきた敗残兵は1万に達しなかった。
581 :
トラシメヌス湖畔の戦い:2006/05/04(木) 22:48:30
紀元前217年6月24日(日付は諸説ある)早朝、フラミニウス率いるローマ軍はトラシメヌス湖畔に差し掛かった。この日は濃霧のために視界が悪く、ローマ軍は接触までカルタゴ軍の存在に気が付かなかった。
ローマ軍先鋒とカルタゴ軍重装歩兵の戦闘が始まると、直ちにカルタゴ軍騎兵がローマ軍の後方へ回りこみ、退路を断つと同時にローマ軍を前方へ押し込んだ。この時点でローマ軍は大混乱に陥っていたが、丘陵の陰から軽装歩兵とガリア兵が出現すると混乱は頂点に達した。
側面奇襲に成功したカルタゴ軍は、長く伸びたローマ軍隊列を分断し、またたくまにこれを壊滅させた。ローマ軍の前衛がカルタゴ軍重装歩兵の戦列を突破したが、逃亡出来たのは6,000名に過ぎなかった。戦闘は三時間で終了した。
この戦いにおけるローマ軍の死者は15,000名を超え、指揮官のフラミニウスも戦死した。一度は逃亡に成功したものたちも、カルタゴ軍の追撃によって大半が降伏に追い込まれた。一方のカルタゴ軍の損害は1,500名から2,000名程度であった。
582 :
古代:2006/05/04(木) 22:51:59
古代ギリシアでは騎乗も始まったが、歩兵による密集戦術が主流で、馬は指揮官が使う補助的な役割でしかなかった。
鐙(あぶみ)が発明されるまで乗馬は高度な技術を取得することが必要で、幼いころより馬に慣れ親しむ環境にある者しか乗りこなすことは出来なかった。
遊牧民以外では馬は非常に高価であり、これを所有することの出来るのは貴族や有力者に限られ、騎兵自体が貴族階級からなる軍隊であった。(この伝統は近代まで続き馬術競技は上流階級の子弟の娯楽として発達した)。
ローマ帝国は度々騎兵を効率的に運用する敵との戦いで手痛い敗北を経験し、常に騎兵の強化が議論されたが、結果的に帝政期になってもその短所は克服することは出来なかった。そのため騎兵はヌミディア騎兵、 ガリア騎兵など遊牧民の友好国に頼るほかなかった。
583 :
古代:2006/05/04(木) 22:52:39
一方、匈奴、フン等の遊牧民族は、騎馬を活かした広い行動範囲と強力な攻撃力で、しばしばヨーロッパや中国の農耕地隊を脅かした。
中国では、戦国時代までは戦車を使っていた。品種改良により大型馬が利用できるようになり、戦場が平野に限られなくなる戦国時代に入ると騎乗を始めるようになったが、やはり歩兵が主力で騎馬は補助的な役割だった。
584 :
中世:2006/05/04(木) 22:56:48
中央アジアで鐙が発明され、それが東ヨーロッパに伝わると、騎兵は馬と鎧を纏った自身の体重を手に持った槍の矛先力を集中させ攻撃することが可能となり騎兵は機動力に増して強大な攻撃力を期待できるようになった。
これに対し防御力を得るために頑強な寸分の隙なく全身を覆う鎧が発明されるようになった。攻撃力と防御力の強化が結果的に重量化に向かうことになり、本来の騎兵の最大長所であった機動力を殺ぐ結果なっていき戦術的な騎兵の用法はほとんどなされなくなった。
ヨーロッパでは重騎兵である騎士が戦争の花形となったが、長弓、弩弓、槍で武装した歩兵の重要度が高まると共に、騎士の重要度は減少した。
585 :
中世:2006/05/04(木) 22:57:27
中国でも騎馬の重要性は高まったが、やはり歩兵が主力だった。北東アジアでも騎兵の装甲化は進んだがヨーロッパにおけるような過度の重装化には至らず機動力が失われることはなかった。
この重装化は軽装に留まったイスラム諸国との戦いにおいて有利な条件を生み出していった。
遊牧民族の騎馬軍団は、この時代最強であり、強力な指導者が誕生すると突厥、ウイグル、モンゴルのように、しばしば大帝国を築いた。
11世紀ごろのインドでは、騎兵が最も栄え、イスラム系民族が戦闘での重要な任務を与えるようになった事により戦場の主力となり、
その時代は騎兵の時代とも言われる。 また、アジアゾウの生息地域では、象を調教して騎乗する類似兵種も存在した。
586 :
映像の世紀:2006/05/04(木) 23:08:22
映像の世紀だと、機関銃の登場までは騎兵突撃で勝敗を決するのが戦場のパターンだと言ってるよ。
中世以降、戦術面で面白いとされる戦いをピックアップすると、騎兵が負け役なのが多いが、それは騎兵が本来
恐れられているからこそだと思う。
また重要なのは、騎兵を防ぐ方法は多彩でも、逃げる騎兵を追ってとどめを刺す方法は無い事で、
攻撃の選択権はつねに騎兵側にあるという点。
だから国は自由勝手に攻め入る騎馬民族に対して必死に長城を築いたり、河を防衛線として死守しなくてはならない。
つねに受身を強いられるというのが騎兵の恐ろしい所だ。
長城や河川、海、山脈などの隔たりがない地域の多くは騎馬民族が席巻してるし、
歩兵中心の軍は広野に引き出されると苦戦する。(アレキサンダーは騎兵の扱いに長けていることで有名)
中世の騎士はやはり諸侯に権力が分散して、軍として集まってきても統率がなく
戦術が退化してるのが問題ですな。 おのおのが敵の王めがけて何も考えずつっこんだりする。
時代ごとの軍制にもよるけど、サポートの歩兵も傭兵なので分が悪いと見るや苦戦する騎兵を見捨ててとっとと逃げたりするし。
587 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 23:32:09
映像の世紀と大河ドラマはセットでア〜ア〜^^
588 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 00:12:53
騎馬隊があったかどうかは、わからんが、それだけで図るのはどうかと・・
甲斐信濃って山に囲まれて動きにくいだろ?だから、棒道っていう道を信玄は引いたんだよ。それで、移動力が格段に早くなった。
昔から信濃は騎馬の産地で騎馬の扱いが手馴れてた・・ての多きのでは?
騎馬隊があったとするのなら、モンゴル軍がいい例かと
589 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 00:23:45
スレ全部調べー。その程度の話しは大分前に済んでるよ。
590 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 00:35:58
権僧正だった信玄。
高僧。
591 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 00:40:50
武田には、騎兵隊はありません。騎馬武者が他より多くて強かっただけです。
592 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 00:52:07
ちげーよ^^歩兵の練兵が先進的で強かったの〜! スレを全部よめめめ、、、メハ〜
593 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 01:25:07
>>557 そりゃー、三方が原で家康がおびき出されたのと同じで、長篠では勝頼がおびき出された。
当時の、家康も勝頼も若かったし相手は、信玄や信長。その後の違いは家康は信玄が死に、
信長という強力な後ろ盾が居て、勝頼は信長が健在で信玄がすでに居なかった。
確かに勝頼は不運で時間がもっとあれば、また違った結果になったと思うけど、
信玄だったら、あの状況で長篠まで引きずり出される事は無かったと思う。
594 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 11:47:13
信玄が戦上手だと知らしめる合戦て何?
事実として三方ヶ原や小笠原相手に数で勝つ以外には村上とかには負けてる。
一生田舎大名から抜け出せなかったのは事実。
強敵に囲まれてる状況から才覚でのし上がる他の大名に及ばない。
信玄が神算鬼謀で勝利した事実はないの?
騎馬隊で勝利した事実はどこにあるの?
信州制圧
596 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 12:56:01
>>594 徳川治世において徳川が負けた相手はカスだったじゃかっこ悪い、だから強敵にしたてる。
メディアの発達した現代でさえ60年前の戦争さえ正しく伝わらない
イラク戦争だってアメリカ発表が事実とされる
参戦したものは美談を語りたがるし戦場の失敗も戦略だったと言いくるめる
江戸中期に赤・青本や黄表紙で物語が語られた。
それらは太平記と同じで歴史事実をネタにした小説に過ぎないのにそれらを歴史資料と言う人が勘違いを広める
日本刀で切り合ったとか馬で突っ込んだとか自慢話をもとにした小説
実際に合戦場で戦死する武将は極めて少ない
ほとんどが捕まって処断されたり落ち武者狩りで狩られたり戦闘外での戦死だから
合戦なんて勝てば良いし大抵は攻めて来た相手を追い返せばいいのだから殺し合う必要も無い
小説の世界と現実が違うのは当然と考えて武田信玄も小説の世界のヒーローと思えば良い
事実の世界では大抵の事柄はつまらないものだ
それを膨らませて遊ぶのは空想の世界の楽しさ、楽しいからこそみんなが空想の歴史に興味を持つ
なんか極端な言い方だあね。
>>597 だな。
強引に持論を押し付ける学者にもいるタイプ。
599 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 13:17:24
「中興源記」
信玄陣法、訓練、装備、戦技に至るもよく心得候わば、
甲州兵並ぶや、陣列おのずから剛強に候へ。武田軍法さすがに候
家康も見ただけでビビルくらいの迫力が武田の陣法にあったようだ
600 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 13:41:06
歴史事実として信玄が数でごり押ししないで勝った戦はないの?
騎馬隊は何て戦で最強といわれる戦果をだしたの?
601 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 13:42:37
武田軍や上杉軍も朝鮮征伐に出したい
602 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 13:43:40
あっ、上杉軍は朝鮮征伐に参加したんだった
603 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 14:13:58
武田は騎馬隊だけが注目されているが、長槍隊も強烈
どこだったかの神社の儀式に残っているらしいが
足軽が長槍の穂先をそろえて、リズム感よく、ゆったりと動く
いかなる豪傑も狙われたら勝てないというような抜群の技術のようだ
錬度が高い軍隊というのが武田軍の強さの秘密だろう
604 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 14:14:13
信玄がその当時の家臣団をそっくりそのまま朝鮮出兵に連れて行っても
参加武将中最低の戦果しかだせない可能性は高い。
他の武将達は曲がりなりにも戦国を勝ちぬいた有能な武将達だから
信玄のように甲斐の引き篭もりとは違う。
605 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 14:20:06
信玄って数で勝つしかできない凡将じゃん
606 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 14:26:59
戦国時代・安土桃山時代で日本全土の軍隊を集めたとして、
当時のヨーロッパを支配可能ですか?
607 :
両軍甲冑をフル装備:2006/05/05(金) 16:19:33
時代劇では両軍甲冑をフル装備して戦っているが、実際には鎧が買えたのは指揮官
ぐらいで、大多数の兵、足軽は木や竹あるいは紙布で鎧のようなものを作って戦闘して
いた。だから、下級クラスの鎧は現存していない。大体何10キロもある鎧を着て
食料その他の物資を運んで移動するというのは人力では無理、甲州馬といっても
大半は荷物はこび役だったと考える。
608 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 16:30:14
609 :
白兵戦の歴史 :2006/05/05(金) 16:35:10
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%85%B5%E6%88%A6 白兵戦の歴史
ユーラシア大陸各地では遠戦を戦闘の主体とする地域が多かったが、
ヨーロッパは例外的に白兵戦を重んじる文化が発達した。
これはまた騎士同士の戦いは多分に儀式化され、
かつ完全に相手の鑓や剣からの攻撃から身体を防備できる甲冑が発達したため、
手加減の出来る(飛道具では不可)白兵戦が発達したと考えられる。
しかしながら異教徒との戦いにおいては容赦ない殺戮が行われた。
日本における白兵戦の歴史
日本では中世、近世を通じて戦いの主流は常に遠戦であり、
日本刀を用いての白兵戦が行われる機会は少なかったとされる(*1)。
その理由として日本においては中世においては歩兵は農閑期の農民から徴集され
(短期間の訓練しか受けていない)ているため、
決戦を彼らの白兵戦に期待することは出来なかったことも一つに上げられよう。
610 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 16:44:37
>>609 武田信玄公の戦術・騎馬の扱い方は、そのような「日本における白兵戦の歴史」に当てはめられるものではない。
白兵戦の常識を超えている。
611 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 16:46:27
>>607 当時足軽その他大勢は移動の時、野宿だったらしが指揮官クラスの武将は
プレハブ小屋みたいなのに寝泊りしていたようだしそんな物人力で運ぶのは
大変だよな!
うま達もさぞ迷惑だったに違いない!
612 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 16:48:38
>607鎧が買えたのは指揮官ぐらい
マジですか!!?
613 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 16:57:08
>>606 安土なら圧倒的な銃の数で物を言わせれるが、戦国だと難しいかな。
ただ進軍速度は倍以上に早いから戦略的には圧倒できるかも。
>>607 大名自身でも武器、弾薬、鎧、戦闘に関わる雑貨類を日頃から大量に保持し、
配下の豪族達にも献上させ軍記帳に記しどのぐらい動員できるか把握したり、
配下の者はまた別に、武器、弾薬を各自で保有し、個々に軍役張に記載していたりする(軍の規模を把握するためにね)
武器は基本的に財産でもあり豪族から兵に貸し与えるレンタル品だよ。
その考えは中国での話し。
>下級クラスの鎧は現存していない
小さい地元の博物館とか行った事ないの?陣笠や鎧なんてそこら中になるよ。
残っていないのは珍しくなくて処分したのと戦中の鉄供給でなくなったからだよ。
それと輸送はそれ専門の人夫を雇うもの。文禄慶長、日清戦争では雇ったはいいものの、
そのまま荷を持って逃げたりする者が跡を断たず、結局戦に赴く人間自体が輸送を担当し疲弊していたりする。
614 :
食うための戦争:2006/05/05(金) 17:13:17
「食う(生きる)ための戦争」の実例が、上杉謙信の軍勢である。謙信軍の場合、関東出兵は、晩秋に出掛けて年末に帰る冬型(短期年内型)と、晩秋に出掛けて年を越し、春か夏に帰る冬春型(長期越冬型)が多い。
一方、北信濃や北陸への出兵は、特に決まった傾向がない。謙信の本拠である春日山城からの距離は、関東の方が北信濃や北陸よりもずっと遠く、また後者は前者と比較して領国化が進展していたようである。
だから、関東への出兵は容易ではなかった筈だが、そこに一定の傾向が認められるのは偶然ではない。
615 :
口減らし:2006/05/05(金) 17:14:23
その理由は何かというと、「口減らし」である。当時二毛作のできなかった越後では、年が明けて春になると、畠の作物が獲れる夏までは、端境期といって深刻な食糧不足に悩まされた。
端境期は越後だけの問題ではなく、中世を通じての問題でもあり、端境期の死亡率は高かった。
お貸し具足ってあるじゃん
617 :
出稼ぎの場:2006/05/05(金) 17:15:22
戦場は、端境期の飢えを凌ぐための出稼ぎの場でもあった。上杉軍の兵が人身売買を行なっていたことは史料に見えるが、
人身売買や作物も含めての物品の略奪により、戦国時代の人々は飢えを凌いでいたのである。そうすると、兵農分離も、単に武士の側からの問題ではなく、百姓の側からの問題としても考えねばならない。
618 :
暴力的に再分配:2006/05/05(金) 17:18:49
社会の底辺に生きていた雑兵たちにとって、戦場は明らかに生命維持装置の役割を果たしていた。
戦国時代の戦争は、相次ぐ凶作と飢饉と疫病によって地域的な偏りを生じた中世社会の富を、暴力的に再分配するための装置であった。
619 :
雑兵たちの視点:2006/05/05(金) 17:21:27
戦国時代の戦闘についての意味は、「英雄史観」だけでは甚だ不充分である。
雑兵たちの視点に立った時、新たな戦争の意味、そして戦国時代の様相も見えてくるのではなかろうか。
620 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 17:38:30
朝日の丸写し乙w
621 :
求人広告:2006/05/05(金) 18:14:26
戦国大名は、この足軽を募集する時に、できるだけ良い条件を出して募集したようだ。例えば次のような“求人広告”とも言えるような募集内容もあった。
一、戦に出れば、戦後に扶持(ふち=米二十から三十俵)を与える。
一、百姓であれば中間(ちゅうげん=侍の下人)に取り立て、中間ならば悴者(かせもの=侍のはしくれ)に出世させる。
一、手柄を立てれば、耕作や年貢を免除する。
一、更に活躍次第で何でも望みをかなえよう。
622 :
最重要案件である兵站:2006/05/05(金) 18:30:12
戦争で一番地味な部分にして、最重要案件である兵站は、中世〜戦国期も
苦労したようですね。
いかに軍を集め、いかに紛争地域に送り込むか、食料、武器をどうするか、等。
中世〜戦国期は相次ぐ飢饉で恒常的に食料不足(要するに兵糧不足)であり、
兵糧の確保が難しかったようです。
戦国大名が軍隊を送る場合、食料の確保の方法としては、
1、各自持参、兵糧自弁
2、本拠地から送る(領域内での収穫物、買い付けた物、借米、等)
3、現地調達(現地で買い付ける、掠奪する)
4、前線基地(支城、及び同盟関係にある在地領主の城)の備蓄を使う
大きく分けてこれら4つの形態が、相互に補完しつつ行われると考えられます。
しかも、こられはまたそれぞれ規模の大小というものも含んでいます。
上級武士が自分の配下の下級武士・侍・雑兵の分を全て賄う形での“自弁”も、
侍や雑兵が自分で用意する“自弁”もあるし、買い付けにしても個人や武士とその
郎党レベルでの買い付けと、軍団としての大量の兵糧米の買い付け等が混在してたと
みるべきでしょう。
そのような中で、馬借や廻船業者などの商人がかなり力を持っていたようです。
623 :
足軽はみな裸身:2006/05/05(金) 18:59:31
京城の韓国士官学校講堂に掲げられてあるところの、
「日軍来襲の図」は、悪鬼羅刹さながらの朝鮮征伐の際の日本兵を描いたものだが、
先頭の足軽はみな裸身で二刀を両手で手にもちあげ、飛来する矢をそれで叩き切って
進撃している。
624 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 19:02:54
朝鮮は資料として三級。相手にする価値もなし
信玄の真価は、戦場の采配ではなく、人材養成にあると思われる。
局地戦で無類の強さを発揮したから>武田軍
626 :
武田信玄公の合戦と勝敗:2006/05/05(金) 21:37:29
武田信玄公の合戦と勝敗
通算72戦49勝3敗20分け
勝率:6割8分
負率:0割4分1厘
627 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 22:35:29
信玄って過大評価されすぎじゃない?
ひとかどの群雄ではあると思うが、能力値ダントツナンバー1ほどでもないでしょ
信玄が華々しく勝利や成功を収めた逸話って意外と聞いた事無いし。
グダグダグダグダ逆境になんとか立ち向かいながら必死に領土チマチマ広げていって、
120万そこらになって寿命のタイムリミット。これは規定路線だったと思うしもっと長生きしても天下は難しかったと思うなあ。
何も無理に戦国最強の大名なんて持ち上げなくとも「強敵に囲まれながらもそこそこがんばった武将」でいいんじゃない?
島津や伊達の拡大ぶりの方がよっぽど劇的ではある。
628 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 23:19:05
島津はてっぽーだな
629 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 02:31:40
>627そうだよね。「世界最強・武田」w と、それ と互角の上杉、本願寺、毛利等に囲まれながら屈服しなかった信長のが凄いよね。
630 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 08:01:38
>>625 その優秀な人材とやらは長篠で総大将の命令を無視して無残に殲滅されてるが?
631 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 12:48:00
632 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 12:59:50
>>630 作戦無視なんてしてないし
年寄り集と勝頼との確執が実際どの程度あったかどうかは不明だが
長篠の戦いは山縣や馬場の撤退案を勝頼がしりぞけ
織田徳川連合3万相手に不利な戦を一万五千で仕掛けただけだよ
山縣は先手大将として死に
馬場は殿軍つとめて死んでる
633 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 13:05:59
信玄公の強さの秘密は諜報能力だろうな
あらゆる分野の情報を集めていた 消化する能力もあった
信長も大量の貢物をして、ご機嫌を取るだけのものを持っていた
勝頼の代になって情報、諜報部隊が弱体化した
だから長篠の戦でも負けてしまった
634 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 13:13:45
先手大将の山縣も殿軍の馬場も、設楽原からずいぶん離れたところで
死んでるんだな。
635 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 17:19:06
信玄は結果を出していない。だから名将じゃない。
636 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 17:28:11
治水工事をしてくれたんだから、地元の人は有難いと思ってたよ。たぶん
637 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 19:07:17
信玄が苦心して結局落とせなかった城を
真田のジイサンぐらいの人があっさり落としたらしい
事実かどうか知らんが太閤立志伝というゲームで見た気がする
そんな俺はゲームでは武田家を使う
なぜなら事実はどうでもいいからだ
638 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 21:29:00
武田のすごさがいまいちわからない
上杉は派手さがあるから信者が熱狂するのもまあわかるが
639 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 21:40:20
武田は孫子の兵法で勝ちすぎるのは良くない、一勝一敗くらいがいい
くらいの感じじゃない?
家康を三方が原で破った戦いなどに武田の戦い方がよく出ている
家康の性格、家来の性格などをよく分析した上での攻撃方法だな
家康軍に石をぶつけて挑発するなど中々面白い挑発方法だね
640 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 22:10:54
>>632 遊軍8000の穴山は命令無視で動かなかった。ピンチになったら即座に撤退。
圧倒的に不利な状況でも勝頼公は穴山隊を大切に扱ったのですね。
>遊軍8000の穴山は命令無視で動かなかった。
武田の軍編成も知らないようだ‥
戸石城だな
643 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 23:01:47
穴山軍は8万だよ。間違えんなボケ!!
644 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 00:50:11
信玄が孫子を学んで、戦でも、8分の勝ちでいいってことを心情にしてたのでは?
信玄が強かったのは、諜報戦と金だろう 金を敵将にばら撒いて内部分裂させたりしてるんだろ?勝頼のときはもう金はなかったけどね。
勝頼が負けたのは、信玄に仕えてた旧家臣とのコミュニケーション不足だったのでは?勝頼は諏訪四朗として高遠城を守ってた武将だしね。
いわば、諏訪の押さえみたいなもんだよ。
信玄が諏訪頼重を謀殺して、諏訪衆に恨まれてたことが原因・・ 武田家滅亡の遠因を作ったのは信玄であるといえるね
あと信繁が生きてたら武田家は存続してたと思うよ。
>>644 >孫子を学んで、戦でも、8分の勝ちでいいってことを心情にしてたのでは?
>勝頼のときはもう金はなかったけどね
>勝頼は諏訪四朗として高遠城を守ってた武将だしね
>信玄が諏訪頼重を謀殺して、諏訪衆に恨まれてたことが原因
悲しくなるほどに無知な方だ・・・
あなたはまず、信長の野望でもプレイして勉強するのがよろしいかと
646 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 09:32:07
>>642 戸石城(上田原の合戦)なんて知らなかったよ。
ウイキぺディアで調べて初めて知った。
このスレでたまに出る村上に負けたって戦がこれなんだと勉強になった。
関連項目の上田原の合戦が未記入だったので誰か詳しい人書いてあげてくださいな。
647 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 09:37:35
小岩岳城、志賀城についても調べると面白い。
648 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 09:52:10
武田八洲満の「信虎」「信玄」「勝頼」くらいはここに来る
住人はみんな読んでいるものと思ってたが…
ドラマ仕立てのフィクションだが、川中島でキツツキの戦法とか
大将同士の一騎打ちがあったと信じてるような人にはいい入門書
だと思うぞ。とくに上田原と戸石崩れが同じような敗戦でありながら
信玄にとって全く意味の違うものになっている時勢の流れなんかが
よく分かるし。
ウィキペディアって詳しいものは詳しいけど、いい加減なものは
信じられないくらいデタラメな解説が平然と並んでるからなあ。
649 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 10:31:24
晴信殿の若気の至りでは片づけられない志賀城攻城戦
650 :
柳沢吉保:2006/05/07(日) 12:39:47
柳沢弥太郎吉保の祖先は武田信玄から勝頼に仕えていた。本能寺の変後、徳川家康の家臣平岩親吉が甲府城に入り、武田の旧臣を集めた。 この時弥太郎の三代前に当たる柳沢兵部らも寄騎となった。
天正十二年には甲州の黒駒を連ねて信濃勝馬砦に狩り出される。ついで長久手合戦の際には尾張一宮城を柳沢兵部らは防衛した。だから徳 川創業記録の<武徳編年集成>に、平岩親吉配下として「百三十石、柳沢兵部丞信俊」と明記されている。
さて徳川家康は彼の第九子の五郎太を甲府城主にした。が、慶長十二年になると名古屋城を築き、五郎太を死去した第四子忠吉の跡釜に城主とし た。
後の徳川義直で御三家尾州候の先祖である。そのため、元和元年になって徳川秀忠が己が子の国松を甲斐国主に任ずるまでの十年間、「柳沢三 佐衛門、山高孫兵衛、馬場民部・・・・」らの十二名が選ばれ、二人一組で十日交替で空城の城番をする役目となった。
651 :
旧武田の遺臣団:2006/05/07(日) 12:41:18
さて徳川家康は彼の第九子の五郎太を甲府城主にした。が、慶長十二年になると名古屋城を築き、五郎太を死去した第四子忠吉の跡釜に城主とし た。
後の徳川義直で御三家尾州候の先祖である。そのため、元和元年になって徳川秀忠が己が子の国松を甲斐国主に任ずるまでの十年間、「柳沢三 佐衛門、山高孫兵衛、馬場民部・・・・」らの十二名が選ばれ、二人一組で十日交替で空城の城番をする役目となった。
これを「武川十二騎の城番」といい、二十五万石の城を守るのだから旧武田の遺臣団でも重視されていた。さて、後の駿河大納言忠長の国松が十一歳で国主になると、柳沢家も昔からの本領百六十石の他に四十石加増されそのまま新城主についた。
652 :
三十年に及ぶ柳沢体制:2006/05/07(日) 12:42:45
所が二代将軍秀忠が他界すると、すぐ春日局と老中土井勘三郎は忠長に謀叛の罪をかぶせ、自刀と言う形で、始末してのけた。このため忠長に奉公していた武川十二騎の面々も失業し浪人となってしまった。
その後「江戸城の警備体制の強化」と由井正雪の事件であわてた慶安元年には大幅な増員があったので、弥太郎の父の柳沢安忠も返り咲けて「千代田城三の丸御広敷番組頭」の仕事にありつけた。後に算勘が出来たので将軍家綱の弟で上州館林十万石の綱吉の元へ転勤になる。
弥太郎も八歳から御坊主として切米十人扶持で勤めることになった。そして綱吉が上州館林十万石の身分から、五代将軍として千代田城へ迎えられると、
側近の小納戸役となり弥太郎も五百石取りに出世する。この後、弥太郎は側用人からどんどん出世の階段を登り、大老にまでなるのだが、三十年に及ぶ柳沢体制の中で彼は次々と凄腕を発揮する。
653 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 13:50:06
>>646 信濃戸石城の話をしだすと(真田幸隆を称えるスレ)になってしまうよ
だから皆この話に触れなかったと思うけど?
654 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 14:56:48
志賀城攻めについては「板垣信方が直接指揮を採った戦場では
虐殺行為が必ず起こる」というのが定説になっている。
上田原で信方が首実検の最中に敵に包囲されて討ち取られるのも、
一部学者のいうように「死に場所を求めていた」なんていう
ロマンチックな話ではなく、味方に見放され、もしくは罠にかけられ
敵の中に置き去りにされたという説まである。それくらい甲斐の家臣
団の中でも嫌悪されていた(実質的な)暴君だったという話だ。
跡部・信虎に次いで信方も身内から粛清されたという、甲斐の伝統的
暴君排除のやり方だったと考えても結構自然だと思っている。
655 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 15:23:46
656 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 15:32:16
信長の野望では、完全に勝つことしかできないじゃん(w
657 :
新羅三郎:2006/05/07(日) 15:56:12
甲斐武田氏の清和天皇の流れをくむ源義光を始祖としている。
源義光とは別名「新羅三郎」(しんらさぶろう)。
新羅とは朝鮮半島三国「百済」「新羅」「高句麗」の新羅が由来であり、「虎」と称せられることこそ朝鮮半島ルーツの証であろう。
また、最強の騎馬軍団を擁していたことから騎馬民族を思い起こさせる。
倭国に騎馬文化をもたらしたのはツングース系の高句麗であることは現在の定説。
と言うことは武田騎馬軍団は高句麗系と考えられる。
つまり、
甲斐武田氏=新羅
騎馬軍団=高句麗
そもそも源氏は清和天皇を祖としているが、天皇そのものが朝鮮半島を起源としている。
さらに、天皇が朝鮮起源なら桓武天皇を祖とする平氏である上杉謙信も朝鮮半島がルーツである。
本当か?
658 :
新羅三郎:2006/05/07(日) 16:51:08
興味深い話があります。それはサムライの語源が古代朝鮮語にあるという説です。この説では、サム・レンイという古代朝鮮語が日本語のサムライになったといいます。
サムは戦い、レンイは何々する者という意味だそうです。つまりサムライは戦士ということになります。日本語の侍の本来の意味が戦士だったとしたら、またこのサムライが後に武士と呼ばれるようになった存在だとしたら、この説は傾聴に値します。
日本の三郎という名もサムレンイという言葉から生まれたと見ています。この名前は単に三男の意味で付けられたのではなく、昔は勇者というような意味合いの言葉として名前に用いられたというのでしょう。
源頼義の息子には新羅三郎義光という武将がいます。この三郎もそうした意味を持っていたのでしょうか。
ところでこの新羅三郎という名前は、この説によれば「新羅の戦士」を意味します。このことから、源氏は新羅系渡来人の後裔だったのではないかとまでこの説では見ています。
源氏が朝鮮系だったことは十分にありえると私は考えます。なぜなら源氏は関東で起こった武士集団だからです。朝鮮半島からの渡来人が後の武士になったと考えるのなら、武士の棟梁となる源氏もまた渡来人の後裔だったと考えて無理はありません。
いずれにしても、関東を中心とする地域に朝鮮からの渡来人が大量に住み着いたことは歴史的事実です。
659 :
新羅三郎義光の末裔:2006/05/07(日) 17:02:37
武田氏は八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光の末裔で、義光が甲斐守として甲斐に来て以来、義光−逸見冠者義清(義光次男)−清光−信義(清光次男)。この信義が武田の地に住み、武田姓を名乗った。
信義は源平の時代、頼朝を助けて甲斐源氏の頭領格となり、以後武田氏は徐々に甲斐国を領して、代々守護職をつとめた。
信義から14代の信虎は親族との抗争に勝ち抜き、甲斐統一を果して戦国大名へと成長し、武田氏はまさに隆盛期を向かえた。ちなみに守護大名から戦国大名に脱皮した大名は他に、今川氏、島津氏、大友氏があげられ、これらと並んで大変な名家とも言える。
660 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 18:04:00
戸石城の話は竹中反米の稲葉山よりイケテルじゃん
661 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 19:00:59
信玄が負け戦になったのって上田原の合戦と戸石崩れだけですか?
662 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 19:14:30
>>661 信玄に限らず大名の戦はほとんどが弓合わせも無い小競り合い。
存亡を賭けた有名な合戦なんて一生のなかでそう何度も何度もあるわけじゃない。
スレの上のほうで信玄の戦績とか偽って信玄が生涯で100戦してるかのように書いてるのがあったが無理。
小競り合いの勝敗で言えば北条は我が方の勝利と言うし上杉も今川も言う。
信玄と戦った側の資料で言えば信玄はほとんど負けばかり。
有名合戦以外はそんな駆け引きだけで終わる戦ばかり。
信長の様に他家と存亡を賭けた戦ばかりしてる大名の方が例外。
663 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 19:38:53
>>645 エセ情報から何を学べと?
電波が増殖されるだけw
664 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 19:43:55
信虎追放以後、信玄は基本的に「国人に選出された町内会長」
「委託を受けた議長」の役どころを全うする立場。
したがって動員される何千かの農兵も、自分とほぼ同格の
国人から「お預かりした」戦力、言ってみればよその社から
救援に来てもらったお客様のようなもので、間違っても
「俺の命令の元に死ね」なんてことを言える相手じゃない。
なにせ兵が死ぬ数だけ農民が減ってその国人の土地の収穫
=財力が落ちるんだから。
だからそういう傷をつけるわけには行かない戦力で、しかし
「勝つ」ためには圧倒的戦力を見せ付けて戦わずして敵が
降伏してくるのを待つのが一番。孫子を引っ張って
「勝ちは八分がよい」などと言ってるけど現実は立場が
弱くてそうせざるを得なかっただけの事。
例の川中島四回戦も、霧の中でたまたま不期遭遇しただけで
あんな激戦にするつもりは双方ともなかったわけで、
しかも講談で語られているほど死者が多かったわけじゃないし。
伝統というと何でも良いものだと勘違いしている者が時々居るが、大きな間違いだ。
悪しき伝統、悪弊と言うものも有る。
天皇制は正にそれに当る。
天皇制が出来てからと言うもの、日本人は長い間、重税や徴用に苦しめられて来た。
自民党と公明党は教育基本法を改定して子供達に「伝統を重んずる国を愛する心」を押し付けようとしている。
伝統に固執した時、進歩は止まる。
インカやアステカの様になると言うことだ。
男尊女卑、封建的上下意識、天皇万歳、談合、天下り、癒着、町内会。
みんな伝統だ。
悪しき伝統、悪弊を断つ改革なくして、進歩は無い。
その進歩に必要な心を子供達から摘み取る積もりらしい。
国の行く末は子供達がどんな教育をされたかによって決まる。
間違った教育を受けた場合、もう、自力では元へ戻すことが出来なくなるのだ。
それが教育の恐ろしいところだ。
またバカをやって外国の軍隊に進駐してもらって正してもらうしかないだろう。
まぁそれまで、国民は散々苦しむだろうな。
666 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 21:10:10
>>665 武田信玄公と関係あるのか?
ひとり言ですか?
667 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 21:37:53
>>電波三郎
/i /{/'⌒'} }}Y/ / ,r-、ヽ, /
ノ、|、ヾ_,,ノ ノ ノ{ ヾ {^')) }フ/ / _/
\ヽ、 彡'`、、 'ー' ノ //",,゙ """ / ヽ
ヽ-、ミ‐-、、 、,r=‐'¬ー=、、,-‐'_ ヽ、 /ノ / 『味』 ウ・ こ
ミ/ ~  ̄ノ /\ /彡 "" |/ だ ソ・ の
/ ,' u ∪ ! ヽ | i、゙ー''"彡 /| ぜ を・ 味
、、∪ / ノ / _,,,...-‐‐ニ=,ノ,,/ ヽ、,,_ \ ,イ / | : つ・ は
ニ、=!, l_. レr=-ニ二、,,,.-'" ー、==-ヽ'"/ / ヽ : い・
、(・,)>ノ⌒ ∠,(・,)_く ゙` ヽ゚ノ`ー=、_ /// ∠ : て・
 ̄/""゙ ヽ ̄ ̄ \ヽ  ̄ ̄ // ノ る・
u 〈 、 u (ヽ //  ̄ノ
ヽ -' lj >、 // /  ̄ヽ、
/ヽー‐ 、 /'"´ 'i // / ∨ヽ/
^゙"⌒ヾ、 ,i| ,"__} // / /
ー- - ヽ_人`'′ // / /
/ i'゙' /-─‐‐''/_/_
、 _/-‐ヽ、___,,,, -‐‐  ̄
ー-、、,,__,-‐'//ノゝノ ノ ヽ\
668 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 21:57:44
>>666 選挙前とかによく湧く与党の下部組織の工作員だ。
山口県出身者の自慢話だと思って聞き流してやれ。
しかし「歴史と旅」とか正史を語っているつもりの書籍
雑誌には「信長の野望」ガイドブックよりレベルの低い
記載がてんこ盛りなのがまだまだ現実。
史学がとっくに先に行っていても、一般的には戦前の
レベルの認識がまかり通っているのはまあ仕方ない。
結構ドラマや漫画の方が世の認識を簡単にひっくり
返してくれるものだったりする。
(だからなんで今どき「風林火山」なのかと…)
669 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 22:44:10
武田信玄って謙信にストーカーされてほとんど負けてた婦女子?
670 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 22:47:51
それより>1と>1の知人はどこいったんだ?w
親方様
ニッポン人が好きな100人の偉人の43位に選ばれました。
これは大変名誉な事です。
672 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 09:22:40
>>665 天皇は昔も今もただのお飾り。別に偉くもない。でも日本のまとめ役の大切なお方。
まとめ役がいなけりゃ、元町金融で政教分離の基本的法律を無視し、自民に寄生するとある
政党を牛耳る変な宗教家に国を乗っ取られたり、赤に国を滅ぼされたりする危険性が高くなる。
君のような人間は地上の楽園とやらに永久移住して下さい。
673 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 09:25:57
>>657 新羅三郎は新羅神社に御参りしてそう名乗っただけ。新羅とは全然関係ない。
それと百済は日本の勢力化であり新羅はその属国。
貢物も献上されていて世継ぎも人質として日本に送られている現実。
武田軍団の強さって、個々の部隊の長が強かったって話しだよね。
騎馬軍団が有名だけど、実際ほとんどが足軽隊だった。
ただ、その少数の騎馬武者が鬼のように強かったのと、きちんと統制された足軽。
これが強さの秘密だね。
当時の馬は小さくて足遅いし、実際は騎乗攻撃じゃなくて降りて戦ってたんだろう。
しかし、優秀な家臣団を作り上げた信玄はさすが
フロイスが「馬を降りて戦った」と、報告したは
武田勢によるジャンピングアタックの事だよ
676 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 19:01:27
武田軍の強さの秘密
甲斐は山国だから武田軍は10〜20人ぐらいで組を作り山道に潜む。
そこを通る他国人を襲撃、荷を奪い女をかっさらう。これで一勝カウント。
でも実際忍者とか忍びの里って普段は山賊村だったらしいし1%の真実はあるかもよ。
677 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 19:29:21
疾きこと風のような足軽
隠れて襲うこと林の中から
風呂を沸かすにはやはり火がよいな
動かざる事、山道?まぁのんびり行くべ〜
お花畑チョンがあらゆる所に妄想をふりまいてるなw
680 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 22:38:09
>>679 頼むから日本史板に差別やイデオロギーを持ちこむなよ
天皇についても歴史的に検証してるだけで、だから廃止だなんて言わないんだからさ
無関係だとは思いたくないらしいな
682 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 23:04:52
>>676 北条の忍びなんかがそうだね。モロ山賊と盗賊で構成されている。なので情報収集力は低い。
忍者ってより戦国時代の忍びは『草』と呼ぶほうが的確だと思われる。
683 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 23:48:40
武田の家臣は、確かに強かったよね、。しかし、独立心がつよかったのも事実で信玄はそれを押さえ込むのに苦労したみたいだね。
それはプロテインだね
685 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 00:38:17
>>683 だから偉大な信玄公は体を家臣達に提供する事によって和を成したんだよ!
愛の軍団武田騎馬軍団
小山田
穴山
木曽
こいつらはさっさと氏ね
687 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 01:23:58
>686譜代家臣ではなく、従属的同盟者だからな。本体が滅びるのに、殉ずる必要はないだろ。
己を知らず、敵を知らない(知ってたら織田に臣従するだろ)椰子を後継にした信玄が悪い。本当に孫子を読んでたのかよ???
穴山は譜代だろうが、この春日
もっと勉強しなさい
689 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 08:57:25
奈良時代の古墳からは馬の鎧が発掘されるが、馬の鎧は日本では何故なくなったのだろうか。
弩(横弓)や両刃の剣もそうだが大陸では主流だったのに日本ではいつの頃からか使われていない。
小山田って投石隊が有名なあの武将ですかね?
穴山と起訴は俺も好かんw
691 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 11:50:37
>>689 両刃は直刀として飛鳥時代かな?までは使われてたよ。廃れたのは脆さ、これにつきた。
力学的にも曲がっていれば力を受け流し強度を増やせるからね。トンネルとか、あんな感じ。
平安になって今の曲刀が主流になりさらに洗練されていった。しかし鎌倉が絶頂期でそれからは
刀自体の長さが問題となり、大太刀→野太刀→薙刀→槍と変遷していったんだよ。
戦国期には首を狩る道具程度にしか使われていないね。
曲刀の強さには倭寇で明が悩まされ続け、中国の武器が劇的に進化を遂げた一面もある。
いいものは進化して悪い物は廃れる。そんなとこでしょ
692 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 13:27:41
>688穴山家は、武田家から半独立だろ。
甲斐源氏穴山家は巨摩郡穴山郷に居た。鎌倉時代後期に、南部家が奥州に下向したあと、下山領(現,南部・身延・早川・鰍沢・市川三郷町)を継承。
戦国時代には江尻(現,静岡市清水区)も領有。穴山領宛の武田家の発給文書も殆んど無い。武田家は縁威を結び、関係強化に努めた。
他の譜代とは違うだろ。
693 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 13:48:22
木曾は1500で二万の勝頼を退けたり、穴山、小山田も意外と名将なんだが
武田を裏切ったってだけで嫌われるんだよな。奥平は・・・・・・スルーされるが
>>692 それが半独立なら柴田勝家も半独立だが。
695 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 14:15:46
穴山が裏切ったら他の武将もいっせいに裏切ったのだから
それなりに人望があったのじゃない?穴山は
むしろ穴山がオーナーで勝頼が雇われマダムみたいなことだったのかな?
696 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 14:54:30
>694統治方法を文書で指示されるのが半独立なわけねぇだろ。
>>696 不慣れな柴田君へ統治方法を教えてあげただけ
698 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 16:17:38
モンゴルでは馬糞を乾燥さして燃料にしていたそうな
武田軍の人たちも馬糞で風呂沸かしてたかもなあ〜
雨の多い日本では無理っぽいけど
夏場なら何とか風呂沸かせるかも?
699 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 16:26:19
695
裏切り所を図ってたところに穴山君が先鞭をつけたと
いうところだと思うけど。
織田、徳川に北条が敵になっても武田に忠誠を尽くすのは
当時の感覚からすればありえないんじゃないかな。
真田も最期は北条に勝頼を売ったと思う。
>>698 馬糞を固めて投げる投糞部隊を知らんのか?
701 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 18:02:59
>>700 臭いてきには馬糞より人糞の方がはるかに破壊力がありそう!
703 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 18:46:09
>>699 そうか?
御館の乱では西は柴田、東は北条、南は武田で、しかも内部にも影虎
という敵がいて、勝頼が侵攻してきたのに武田崩れは起きなかった。
新発田が謀反したけどな
その頃信長が死んだというのもあるし
705 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 19:28:13
このスレみて思った。信玄スゲ―!
鉄砲の弾をはね返し口から火を吐く世界最強の騎馬隊
真田幸隆はじめ信玄と絡まない時に輝く優秀な家臣団
奴隷商人に棒道に山賊に影武者と勝つための要素が満載
さすが生涯で2度しか負けてないだけのことはある
それだけのものを持っていながら田舎でチマチマ領土争いしていたなんて
常勝なのに天下統一どころか家督を得てから死ぬまで田舎の地方領主どまりなんて
その無欲さもスゲ―!
706 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 20:29:36
>>701 う○こは意外と恐ろしい。槍に塗れば立派な毒となる。矢でも刀でもおk
ベトコンは片足落ちるぐらいの落とし穴を作りそこに、う○こを塗りたくった串を刺していた。
これが意外と実用的で傷口から壊疽を起こし、切断しなければならない者、死に至る者も大勢出たそうな。
707 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 22:17:42
>>706 島原の乱の時、原城では外堀を肥だめにしたため幕府軍が苦労した?
て言う恐ろしい話もあるよなぁ〜
知らない人は自分でググってクレ!スグに見つかると思うよ。
708 :
707デス:2006/05/09(火) 22:52:19
すいません!スグには見つからんと思う!
(天草騒動 目次 32 島原城最初の合戦の事、ならびに・・・・)
でお願いします!
709 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 08:46:48
三方ヶ原の戦いで家康は鶴翼の陣を
とったらしいけど信玄はどうやって破ったの?
武力w
711 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 09:28:52
なるほど
712 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 12:55:00
>>706 武田信玄公率いる武田騎馬隊は、槍や刀にうんこを塗りまくり、立派な毒として使っていた。
上杉謙信との川中島の合戦では片足落ちるぐらいの落とし穴を作りそこに、う○こを塗りたくった串を刺していた。
うんこ穴に落ちた上杉兵は傷口から壊疽を起こし、切断しなければならない者、死に至る者も大勢出たそうだ。
あの有名な宇佐美定満も、武田騎馬隊が作ったうんこ穴に落ち、傷口から炎症を起し、絶命したそうだ。
713 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 12:58:19
東京・町田市某町在住です。
この町には今でも城のような石垣の家に住む有力者がいます。
その有力者の先祖は信玄公の家臣だったそうです。
信玄公マンセー!!
三方ヶ原の戦いでは、家康は戦うつもりは全く無かったんだけど、三河勢が信玄の挑発に乗って勝手に仕掛けたんですよね?
715 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 18:52:48
>>714 そうそう!そして、槍や刀にうんこを塗りまくりの武田軍に殺され
うんこ穴に落ちた徳川兵は傷口から壊疽を起こし、切断しなければならない者、死に至る者も大勢出たそうだ
716 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 19:04:36
714 その通り。そして当時の戦で孫子の鶴翼やら魚燐みたいな陣形組んで戦ってなかったんだよ^^
717 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 19:12:34
しばらくみないうちに
このスレも最初のころと比べ格調高いスレに成長したな
たいしてかわらん
719 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 19:58:03
でしょー?鉄砲の三段構えとか騎馬隊とかデタラメ与太話が消え去ったよん!まあセンゴクとか言う漫画でまで否定され始めたから当たり前か^^
720 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 20:03:56
鉄砲三段撃ちは嘘
こんな事は生まれる前の精子ですら知っている
正しくは鉄砲六段撃ち
三段撃ちより布陣範囲は半分に減るが突っ込んでくる相手には密集のがよい
721 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 20:42:48
鉄砲六段撃ちも嘘
そんな事は受精する前の卵子でさえ知っている
本当は人間ピラミッドを3段つくって鉄砲を撃った!
722 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 23:56:15
>>721 人間ピラミッドどころじゃない。
エジプトのピラミッドも信玄公が作ったんだぜ!!
誰も突っ込んでないからあえて言うけど、貝を並べてそれを敵の数に例えて家臣を試したのは信玄ではないよな。1はどこで勘違いしたのかな?
そうそう、貝の数で家臣を試したのは武田晴信という人だよね
作り話を信じるアホ
鉄砲の三段構えとか騎馬隊はロマンだよロマン
それは単なる江戸期の作り話
728 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 14:04:13
武田が持ってた鉄砲は小田原あたりで作った鋳物製で低性能
だから鉄砲なんて大したことは無いと武田は思っていたが
信長が持ち込んだのは堺や国友製の鍛造の高性能鉄砲、予想外の威力で
バタバタとやられてしまった 技術力、経済力の差だな
だから、鉄砲による戦いじゃないっての
730 :
三方ヶ原の戦いの真実:2006/05/11(木) 14:59:59
>>728 武田信玄公にとって、鉄砲なんてたいした武器じゃない。
信玄公率いる武田騎馬隊は、槍や刀にうんこを塗りまくり、立派な毒として使っていた。
徳川家康との三方ヶ原の戦いでは片足落ちるぐらいの落とし穴を作りそこに、う○こを塗りたくった串を刺していた。
うんこ穴に落ちた徳川兵は傷口から壊疽を起こし、切断しなければならない者、死に至る者も大勢出たそうだ。
あの有名な家康が脱糞した話も、家康が武田騎馬隊のうんこ槍に刺され、そのうんこが家康の尻についた。
武田騎馬隊のうんこ槍の恐怖を忘れないように、絵にして残したという話は余りにも有名である。
731 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 16:01:28
中国の戦争なんて伝染病患者の死体を城内に投げ込んで
伝染病を流行らせて敵兵をやっつけたというのだから
それに比べて、うんこ槍くらいはまだ可愛いもんだ
鉄砲の産地といえば根来と堺だね。
733 :
真実はどっち??:2006/05/11(木) 16:36:38
真実はどっち??
1、「武田騎馬隊」VS「武田ウンコ槍」
2、「鉄砲3段打」VS「武田ウンコ槍」
734 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 16:49:33
>>728 国友鉄砲資料館の人が当時の鉄砲は何発か撃つと使い物にならなかったが
「国友鉄砲は大丈夫だった!」という自慢話を聞いた事がある。
前から武田軍の鉄砲はどこから手に入れたのか疑問だったが
小田原あたりで作ったモノだったんだ!
735 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 17:30:24
武田も鉄砲を重要視してたと思うよ。事実長篠城の城壁は武田鉄砲隊の射撃で穴だらけになった。当時の鉄砲の性能に大差はないはずです。生産とその扱いに長けていたのは根来・雑賀・堺だよね。
736 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 17:39:22
>>733 雲粉三段投げVS武田棄馬糞載
俺の歴史の師匠 法螺吹き源さんが言ってたから正しい
737 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 17:48:17
>>733 武田騎馬隊も鉄砲3段打も存在しなかったと断言できる。
江戸時代に創作された作り話だ。
しかし、うんこ槍はなかった・・・と断言できない?できる?
ゲリラ戦はどの戦国大名もやっていたと思うしな。
738 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 17:55:09
うんこ名人楠木正成
739 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 18:05:18
名のある武将がうんこ槍のような恥ずかしい武器で戦ったとはとても
思えないよ〜
百姓一揆ならうんこ塗りたくった竹やり攻撃はありえる!
740 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 18:31:59
>>735 (当時の鉄砲の性能に大差はないはずです。)
それは無茶苦茶な話だよ、ほとんど手造りだから鉄砲職人の腕の差はかなり
あるとオモワレ、堺筒 ・国友筒・南蛮筒は見た目も重さ長さゼンゼン違うし
口径だってバラバラなんですけど?
741 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 18:46:41
鉄砲:西高東低
馬:東高西低
>>740 手造りなのは高級品だけだが‥
普及品は型に流し込んで製造するから、当時の鉄砲の性能に大差は無い
(多少あるだろうが)設備の関係で製造量には差があったそうだが。
743 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 19:23:27
740 マンガの読みすぎ。顔洗って出直しだな^^
744 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 19:37:00
織田の人糞三段投げvs武田の馬糞拾い投げ
設楽が原でうんこの投げ合い
人糞が馬糞に勝り織田の勝利を決めた。
人糞を投げる前に臭いと円が著により士気が低下!
馬糞拾い投げは快適!よって武田郵政!
746 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 19:54:13
>>742 おいおい、当時は鋳型製造じゃなく手作りだぞ?
鉄の棒に芯となる鉄を巻きつけてそこの上に溶かした鉄をくっつける。
技術の差はもろ出るよ。
木製の鉄砲もあったらしいぜ。
748 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 20:51:42
鉄砲自体の出来うんぬんよりも使用するさいの危険性が問題じゃねーの?現在の銃とは比べらんない程扱い難い代物だよ。火繩銃て!特に暴発の危険性。どんな丁寧に作っても根本は変わらん。
749 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 21:05:28
暴発!コワいなぁ。ただでさえ首を取らないと恩賞がもらえないのに、それじゃやりたくないわ
750 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 21:28:10
特に雑賀や根来が築き上げた四人一組の鉄砲打ち! 三人が三丁の鉄砲に玉ゴメして一人の名手にロータリーで手渡す連続打ち。長篠でも大々的に取り入れたわけだが暴発の危険性は免れなかったんだよな!
751 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 21:49:32
>>742 普及品は堺筒も国友筒も同じなのか?
型に流し込んで製造しても差はあると思うけどな
競艇のエンジンなんか同じエンジンでも全然スピードが違う!
>>748 一生雑な仕事してろ!
752 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 21:57:18
あ〜、競艇云々だけは例えにして欲しくなかった、、わかるだろ?^^
753 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 22:09:25
武田信玄に関して言えば、坂本竜馬と同じように、これからは人気は下り坂だよな。
武田騎馬隊も鉄砲3段打も存在しなかったと言っても、当たり前だという雰囲気になってきたというのは進歩だと思うよ。
10年くらい前まで、武田騎馬隊だの鉄砲3段打だの、おとぎ話を信じていた人間が多数だったからね。
754 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 22:47:23
>>752 F1でも同じチームは同じエンジン!でも速さは違う!これでOK?
普及品は堺筒も国友筒も同じですか?
長さ・重さ・口径も同じですか?
堺、国友以外の鉄砲も同じですか?
当時の鉄砲は大差がない!なんてナゼ言い切れるのか?
>>754 戦国時代に実際に使用された鉄炮は、ほとんど実存していないと言う罠
756 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 07:33:30
投石の話でもしようや
757 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 07:49:51
逃げたかw
小山田隊の話題に切り替えた模様ですw
>>754 どのみち、堺や根来や高野山の坊主・商人が全国行商しているから
戦場で使用する物には大差がない!
760 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 11:21:27
・・鉄砲の値段・・
・・時代・・・鉄砲の種類・・・一挺の値段・・一挺の値段換算
種子島時・・・・・・・・・・・1000金・・・1155万円
永禄年間(信長)・・・・・・・・・・・・・・・5〜60万円
秀吉・・・・・・6匁銃・・・・・・・9石・・・・・54万円
秀吉・・・・・30匁銃・・・・・・40石・・・・240万円
湯次行幸:著(国友鉄砲の歴史)等による
この値段の信憑性はともかく信長時代は一挺の金額がかなり違うけど?
投石の話は面白そうだからだれか語ってくれ!
761 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 13:23:42
長篠の勝敗は、兵数と士気の差が大部分だろう。
762 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 13:27:02
投石って飛距離200m位でしょ?
挟み撃ちで壊滅した武田軍
764 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 15:12:50
馬っていくらしたんだ?
765 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 15:15:50
ワゴンRくらいか?
シルビアぐらいじゃね?
>>762 スゲー 鉄炮より有効射程長いじゃないか
と言うか、オリンピックにも出場できる身体能力だな
768 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 17:55:49
遠投でそのくらいか今のピチャーより肩がいいな
769 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 18:16:14
武田兵は常日頃から、円盤投げの練習をしてたからな
みんな強肩だよ
770 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 19:26:42
そうだ。そして石には、うんこが塗られていた。
徳川家康との三方ヶ原の戦いでは(ry
771 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 19:32:40
>>769 円盤投げは遊びでヤッテタだけだけだよぉ〜
武田兵がやってたのは槍投げ!
一番遠くに飛ばした人は信玄様から褒美として・・・・
772 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 19:33:50
投石機もヨーロッパのやつほど飛ばなかったらしいから敵が驚けば、おK。て事でンコが塗られて・・
つ ⌒・。:゚。゚
773 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 20:06:46
ハンマー投げの室伏親子も先祖が武田の兵隊でいつもハンマー投げの
練習してたから、子孫にハンマー投げ名人が出た 日本の常識だよ
すべて信玄公のおかげだ
774 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 20:31:15
ハンマー投げはマリオにまで登場していたな。あれって武田軍がモデルらしいぜ?
775 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 20:47:46
現在に武田軍が現れて、オリンピックに出場したら、メダル総取りは確実だな。
>>767-768 確かスリング風の袋へ入れて加速させながら投擲してたはず
つーか素投げで飛距離200mはありえんだろw
袋みたいのに入れてブンブン振り回しながら投げたらしいよ
778 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 23:41:52
それが無数に飛んできたら、おっかねえよなぁ。
ところで、長篠の時は、その飛礫隊や竹束の鉄砲よけは使ったのかな?
779 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 23:44:27
もちろん。うんこ防備の竹束をまとい、ふんどし一丁でうんこ槍で突撃する武田騎馬軍団に
魅了された徳川兵は傷口から壊疽を起こし、切断しなければならない者、死に至る者も大勢出たそうだ。
鉄砲よけは山縣隊が使ったんじゃない?
小山田は戦ったのかな、親族衆は放棄して帰ったらすぃけど。
781 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 00:15:57
山県はちっこいので弾に当たりません
信玄の小男の出たりと恐怖しける
一条くらいだろ
最後まで戦場にいたの
784 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 01:28:01
>>779 何と!それが織田・徳川の死者6千人の原因と申すか(笑)!
>>780 参戦しなかった親類衆は、高坂が勝頼に成敗するように言ったらしいね。
甲陽軍艦だな
信豊と穴山を成敗しろってのは
786 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 18:30:24
さすがの信玄公も後世2ちゃんねるのような場で糞まみれになり評価を落とそうとは予想だにできなかったろう
787 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 18:49:22
日本でユニフォームをはじめて採用したのは、かの信玄だ!!!
788 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 19:00:35
アンダーシャツに初めて襟をつけたのも信玄だ
789 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 21:48:12
噂に名高い井伊の赤備え。
これは山県の赤備えを模倣したものだ。
それまでは鎧の色を統一するなんて考えは誰もしなかった。
信玄公は鎧の色を統一して士気を高めるという方法を思いついたのだ!!
従って、日本でユニフォームをはじめて採用したのは信玄公だと言えるだろう!!!
790 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 21:54:03
望月に命じて、くのいち忍者部隊を組織して、売春婦として街中に放し
市中のウワサ話、敵軍の情報なども集めていたのが信玄公
みよ、このすさまじい情報収集能力 時には放出の瞬間にカンザシで後頭部を、、
791 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 21:54:05
近所の奥さん連中に噂に襟付きアンダーシャツ。
これも武田信玄公が考え付いたものだ。
それまではアンダーシャツに襟を付けるなんて考えは誰もしなかった。
信玄公はアンダーシャツに襟を付けてプロ野球に人気を回復するという方法を思いついたのだ!!
従って、日本で初めて襟付きアンダーシャツを採用したのは信玄公だと言えるだろう!!!
792 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 21:58:57
マジで???
信玄ってスゴイ!!!
日本の将来を予測してるじゃん!!!
793 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 23:00:49
どうでも良いけど!
>787・789・791・792同じ人ですか?
794 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 23:48:14
なあ、そろそろ騎馬軍団説はやめねぇ?
武田は強かった理由は兵器(馬)のおかげじゃなくて
将と兵の強さだと思うわけよ。
古くから甲斐駒は有名だったけど
騎馬突撃が有効な野戦なんてちょっとしかないでしょ。
次から
「世界最強武田武士を率いた云々」でいいからさー
ならばその話題をそなたがせよ!信玄公が待ち望んでおるぞ!!!!!
796 :
クォーターホースです:2006/05/14(日) 00:38:28
>>794 OKですよ〜
別にこのスレを荒らすつもりで書いたのでは無いので!
では「世界最強武田武士を率いた・・・・」を語ってくだされ!
797 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 10:42:48
鎌倉の頼朝にも恐れられ、徳川にも恐れられた武田と甲州武士。
2度の世界大戦もノモンハンも甲府連隊をきちんと用兵していれば必勝していた。
これほど長い間出身が起因して名実ともに強くあるのは、欧州ではスイス兵ぐらいなもん。
798 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 10:47:17
やべっ!信玄公を称えるの忘れてたわ
799 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 14:06:50
民主主義も元々は信玄公が考え出したものだ
民主主義の恩恵を受けている現代日本人は朝夕、信玄公を拝むべきだ!
信玄公は、民主主義よりも遥かに優れた「優れた君主による中央集権制」の確立を目指し、志半ばで斃れた悲劇の名将です。
801 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 14:59:35
騎馬隊の機動力は合戦で十分活用されたと思うけどね。
逃げる相手を馬を駆って馬上からなんていかにも効率的だし。
一度の合戦で相手を撃滅できる割合は高かったんじゃないかな。
802 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 15:31:54
「信長公記」に書いてあることを訳すると、
桶狭間の戦いの際、義元の本陣まで馬で移動した信長は、“馬から降りて戦った。”
戦国時代は大将でも、“馬から降りて戦う”ことが常識だったらしい。
馬から降りて戦うだぁ??
だから、信長は本能寺で殺されるんだよ。コノヤロー!!
武田信玄公は他の戦国武将とは違うぜ!!!
信長や家康が馬から降りて戦っていた時に、武田信玄公の武田騎馬隊は全員、騎乗位だった!!
その数、3万頭とも4万頭とも言われている。
4万人の人間が騎乗位で攻めてきたら、どうする???
そりゃ、怖いだろ!!
四万人もの大の大人がポニーに乗ってとことこと疾走してくる絵は怖いな、確かに
804 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 16:35:26
武田信玄公のすごいところ?
愚問だね。
日本で初めて騎乗位を発明したのは武田信玄公だった。
確か、あれは1555年の早春だった。
しかし、信玄公は梅毒という存在をしらなかった。
戦国時代はゲイであることは一般的だったが、高坂昌信に梅毒を感染させる可能性は高かった。
805 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 16:37:09
信長も、日本馬に乗ってたのか?
806 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 16:48:56
日本最強上州騎馬武者を率いた武田信玄公を称えるスレ
807 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 17:00:34
>>803 昔の馬のセリ市では「トコトコ」「ヨチヨチ」歩く馬は高く売れないので
お尻の穴に唐辛子を塗りこんで馬に気合を入れてた!て話もあるよ
ポニーといえども多めに唐辛子を塗り込めばぶっ飛んでいくかも?
まあそうなると乗りこなすのが・・・・
808 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 17:55:37
802 信長公記に桶狭間という地名は出てこないよ。その地名は創作。牛一は「あるみ原」と書いてる。今川が陣取った小高い丘の事。上まで一本道の圧倒的有利な地形だよ。
809 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 18:35:45
信長と家康はホモ達だろ?そう考えると歴史がわかりやすくなる
810 :
金本位体制:2006/05/14(日) 18:56:49
信長殺しにしても本当の原因は、マカオ貿易のため金本位体制に変えようとした為
811 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 19:19:34
812 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 20:03:50
あー、それが現実との距離だなー^^
813 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 21:12:58
武田軍の強さの秘密は4万人の強者が騎乗位で攻めることにあった。
武田軍は下っ端の一般兵にいたるまで、騎乗位であった。
そのおぞましい戦闘力に、正常位しかしらない織田・徳川連合軍は恐怖したものだ。
しかし、4万人騎乗位の武田軍に対して、互角の戦いをした者がいる。
その名は“上杉謙信”
謙信は武田軍の騎乗位に対して、「座位」で対抗したのだ。
「座位」は別名“仏の姿勢”と呼ばれ、毘沙門天を信仰している謙信にとっては至極当然の姿勢であった。
最近、夜中の本能寺に忍び込んで、騎乗位でやったという話を聞いたが、
信玄公も京都まで騎乗位で攻めたかっただろうと、志半ばで倒れさぞかし無念であっただろうに・・・。
814 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 21:48:56
815 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 22:22:54
エロに走る奴は思春期
816 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 01:25:23
817 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 02:07:16
おい!まむこが臭い椰子との対面座位は地獄だぞ!
そんな体位でおっぱいを優雅に下から眺め、
且つ自由に弄ぶ事の出来る騎乗位に対抗しようなんて片腹痛い。
信玄公自慢の1寸の大太刀で一捻りだな。
819 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 19:52:37
武田は騎馬軍団もスゴイが、武将から兵士まで馬なみの巨根を誇る
豪傑ぞろいだぞ 信玄公が正座したとこなんか、ヒザが3本もあったくらいだ
そうだそうだ!それに武田騎馬軍団の騎乗位はただの騎乗位ではない!
乗られている人間の下にも人がいて、その者がさらに下から突いているのだぞ!
チンコとかエロい話はどうでもいい。
5人くらいのくのいちに寝込みを襲われて色々な事をされたりひどい事をされるのが俺の夢です。
あ、称えるの忘れてた。→信玄サイコー!
822 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 20:30:27
誰か信玄公が5人くらいのくのいちに寝込みを襲われた時、
見事に信玄公自慢の1寸の大太刀で一捻りした話を聞かせてくれないか?
823 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 20:36:15
もう完全にネタスレになったな
武田マンセーや騎馬隊マンセーが消えた
武田はつえぇぜ!とか騎馬隊は鉄砲玉を跳ね返すって意見の人達よ
是非とも貴重な意見を聞かせてください
824 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 20:38:52
>>822 一寸?
信玄公を愚弄するのもいい加減にしろ!
一尺が信玄公の大砲のサイズです。
825 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 21:13:21
>>822 信玄公が強敵・謙信からの刺客のくのいち5人組に寝込みを襲われた時は、さすがの信玄公も苦戦した。
いつもの騎乗位戦法で1人ずつ昇天させていくには、人数が多すぎたのだ!
信玄公自慢の一尺の大太刀も5回連続使用となると、歯こぼれが起きる可能性がある。
さすがの信玄公もピンチに陥った。
そこで、信玄公がとっさに思いついたのが日本で初めての技“背面騎乗位”だ!
それまで日本では“背面騎乗位”の使い手はいなかった。
“背面騎乗位”をくらった相手はひとたまりもない。
謙信の資格のくのいちは次々と連続昇天して行った。
信玄公の勝利である。
これが世に名高い「裏・川中島の戦い」である。
しかし、この戦いが歴史の表舞台に出ることはないだろう。
826 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 21:26:18
『世界最強“騎馬位”軍団を率いた武田信玄公を称えるスレT 』
827 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 21:54:38
ぬぅー、「裏・川中島の戦い」の戦い恐るべし!!
世界最強“騎馬位”軍団を率いた武田信玄公の真髄を見た気がします!!
828 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 21:56:31
家臣団を馬にして棒道を突き進む信玄
家臣団に馬にされるのを拒んだ勝頼は射撃の的にされ逝った
日の丸は、朝廷に貢献した大名などに下賜して有り難がらせて
またバカをやらすことに使われたもので、
いわば天皇家の象徴。
その朝廷は日本を征服支配した朝鮮人が作ったもの。
つまり、日の丸は、朝鮮人による日本支配の象徴なのである。
830 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 22:08:10
831 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 22:39:44
>>826 同じスレ(乗馬・馬術)の板にもあるんだけど人がイナイんだよなぁ〜
まあ、乗馬やってる人自体少数派だし、さらに「歴史が好きな人」
となると・・・
子供の頃から馬に乗ってるので、今の馬の事なら多少は答えられると思う
ので仲間に入れてくれ!
832 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 22:48:46
>>831 今、このスレはすごいエロくなっているんですが、それでも大丈夫ですか?
信玄など江戸時代の戦国武将が乗っていた“木曽馬”はポニーくらいの大きさって本当ですか?
それと、馬は大きな音に敏感って聞いたんですけど、
もし、馬の耳元で火薬が爆発したら、馬はどんな行動をとりますか?
833 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 22:51:16
>>289 では何故、朝廷に貢献した平家が赤旗で源氏が日の丸?なの?
834 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 22:51:28
日本史板にて一際輝く三戦住民による信玄スレ
コテ信玄かわいいよコテ信玄
835 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 23:43:49
>>832 エロは元々嫌いでは無いのでOKです。
当時の馬の事については皆と同じように本やネットで調べた知識しかありません。
鎌倉時代の遺跡から発掘された馬の体高は本によってマチマチで、
120a〜130aとか120a〜140aなんて本によってバラバラ!
ナゼ?学者さんが調べた体高にばらつきがあるのかと?
日本ではなじみが薄いですが馬車のレースでは耳栓にひもをつけて勝負所ではずし
馬に気合を入れて走らせているみたいですよ
今でも音に敏感な馬は競馬でメンコ(覆面みたいなの)してるし
(耳に綿をつめる)ことグライは昔からやってたと思うけど?
836 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 06:46:04
耳に綿!なるほど〜
837 :
「名無しわざとか?」とかイヤミを言われた:2006/05/16(火) 11:27:09
信玄が家督相続の際に欲しがった馬は147cmじゃなかった?
838 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 12:50:21
信玄公は毎夜、風呂場で金冷法で豪刀を鍛え上げていた歴史的事実を
知る者は少ない 人知れず努力を重ねる中々の努力家なのだ 信玄公は
見よ!ソソリ立つ、天壌無窮の名刀を! 恐れ入ったか?
839 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 13:57:40
>>837 ぬぅー、そなた!信玄が欲したが147cmじゃと?
信玄公を愚弄するのもいい加減にせよ!
信玄公が乗りこなした馬は、軽く一尺を超える大砲サイズじゃ!!!
842 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 20:00:14
武田の家臣団は担いだ御輿を簡単に放り投げる
信玄が死んだのも家臣団に粛正されたからかもしれない
運良く城を出た家康に勝ったから調子に乗り
「このまま上洛だ」なんて言ったため
844 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 21:14:29
845 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 21:47:52
インゲン豆を開発したのも、信玄公。
846 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 21:53:57
>>844 お返事有難うございます。そのスレも時々見ております!
(騎馬民族国家・江上波夫)(騎馬民族は来なかった・佐原真)
(騎馬民族は来た? 来ない? 江上VS佐原)なども読ませてもらいましたが
悲しくも地方の住民である私にはそれ以上の知識を・・・・
近くに大きな図書館がある人は羨ましいです。
847 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 23:57:53
ところでさ、もし、信繁が死ななかったらどうなってたと思う? てか、義信が一人でつっぱしらなければ、信繁や甘利などは、死ななかったように思うのだが・・
848 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 06:16:46
勝頼が戦に強すぎたんだよ。
>>847 信繁が死ななかったら義信が柿崎に討ち取られただけの話し。
下手すりゃ全軍総崩れだろ
850 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 10:33:08
>>839 成る程、しからば信玄公は一寸の御太刀を以って
一尺の巨根・・・、ではなく巨馬を乗りこなしていたのだな?
挿入の前に勝負は決まっているという事か。
いやはや流石は天下の名将。
851 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 20:18:18
あのさぁ〜
信玄のおやじは「妊婦の腹裂いて子供を取り出した」とか、部下は「女子供を捕まえて売り払った」ナド
チムコがナエてしまいそうな話が多いんだけど
信玄公にまつわる、ほのぼの/いい話て何かないの?
852 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 20:58:54
>>850 そうでござる。
かの有名な「川中島の戦い」で“謙信の一太刀”を受け止めたのは、軍配ではなく、
信玄公のそそり立ったイチモツが鉄よりも硬くなり謙信の凶刃を受け止めたのが真実でござる。
853 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 21:02:05
何を隠そう、信玄公は
「ほのぼのレイプ」
の達人でござった。
854 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 21:02:26
あ〜、その言い伝えな。女子供を張り付けにして鉄砲で撃ち殺したってのもあるの。でもオヤジの時代に鉄砲伝来してないから。デタラメ。教育テレビの高校歴史でそのようにいってたよー^^
855 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 21:22:20
856 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 22:27:05
長篠の戦の屏風見ると、馬でどどどどーって攻めてきてるけど、あれ全部、徒歩だたんかね?
後三年の役絵詞とか見ると、流鏑馬みたいに弓騎兵が戦ってるけどあれも嘘だったんかね?
竹崎季長とか元寇の変でも馬乗って突撃してるけど、あれも嘘だったんかね?
屏風や絵詞は全部嘘なんかね???
857 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 22:31:48
嘘だよ^^
誰なんだろうね?
日本の馬は戦いに適さないとか言った教授って?北大あたり?
確かに、江戸時代から明治の間に軍馬は廃れたけど、
それ以前は屏風や絵詞みれば、馬がどんな感じだったか馬鹿でも分かる。
膨大な数の屏風や絵詞が残ってるぞwwww
それみて当時の馬の大きさ推測できないのかねwwwwww
頭悪すぎw
859 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 23:32:46
>>856、
>>858 馬鹿っぽい書き方だが正論だな。
絵画はデフォルメされるが、描かれた当時でも違和感を感じさせない様式や手法をとっている。
=様式を明らかにすることと錯覚手法を明らかにすることで正確な寸法は容易に分かる。
>>859 あたりまえじゃーーー
偏差値70越の漏れ様が言ってるんだから、まちがえねーべさwwww
房総の大坪流馬術をなめんなYOOOOOOOOOO
おやすみなさい。
861 :
日本@名無史さん:2006/05/18(木) 00:05:10
偏差値は母集団に依存するからな。
862 :
日本@名無史さん:2006/05/18(木) 14:39:19
妊婦の腹を割いたのは陽成天皇だろう、清和の先代の
清和源氏というより、本当は陽成源氏なんだろうが、悪評が高くて
清和源氏にしたのだろう
信玄餅サイコ〜
864 :
日本@名無史さん:2006/05/18(木) 22:18:34
>>851 敵将の妻を妾にしようとして、断られたから殺した
865 :
日本@名無史さん:2006/05/18(木) 22:47:53
妊婦のはらを裂いた、とか人肉を食った、とかいう類の話は、
中国の話をモチーフにした作り話。封神演義とか殷の帝辛とか
いっぱいある。
これ以上残虐なのは昔の日本人には思いつかなかった使ったんだろ。
866 :
日本@名無史さん:2006/05/18(木) 22:53:08
>>864 全然ほのぼのしてないすょ〜
ドンナ話か語ってくだされ!
867 :
日本@名無史さん:2006/05/18(木) 23:01:00
ネタがべた過ぎだねー^^話題変えよーか!
そう言えば信玄は12歳の幼女をレイプした事はあるな。
868の趣向感覚だと、小学生同士の関係はレイプになるそうでw
870 :
日本@名無史さん:2006/05/19(金) 12:56:58
12歳という年齢にのみ反応した俺が来ましたよ。
871 :
日本@名無史さん:2006/05/19(金) 12:57:52
869の趣向感覚だと信玄は永久に小学生なんだねw
872 :
日本@名無史さん:2006/05/19(金) 13:53:08
>>869 がんばれ!応援してるぞ!
信玄マンセーがボコボコに叩かれてダウンしっぱなしだったから
あなたはKO寸前で立ち上がったボクサーのようだ。
信玄の強さと騎馬隊の大活躍を熱く語ってくれ!
>>871 狩りはみんなで楽しむもの。
一人で獲物を倒してはいけない。
>>872 嫌信玄の狂気っぷりに、皆が引いてるだけだと思われw
874 :
日本@名無史さん:2006/05/19(金) 16:04:55
>865
妊婦腹裂き事件は中国の専売特許ではなく、日本でもけっこうあるよ
戦後でも10人強姦連続殺人犯の小平義雄事件なんてのもある
中国に出兵して中国人の家に押し入り、娘を強姦して妊婦の腹を
裂いたと裁判で供述している
そのときのレイプの味が忘れられず、復員してからも日本の娘や
買出しの奥さん連中を食料をエサにつり出し、強姦、殺人している
裁判でも、中国でのレイプの味が忘れられなかったと供述している
875 :
日本@名無史さん:2006/05/19(金) 21:07:21
>>874 まずはじめに、そんな時期の証言が信用できるかあほ。
だいたい娘=妊婦なのかよw日本人が生活した中国地域は母系社会なのか?
876 :
日本@名無史さん:2006/05/20(土) 16:16:34
>875
ゴチャゴチャいわずに「小平義雄」で検索かけてみろよ
無知蒙昧の輩を相手にするのは、疲れるな
ここ信玄スレでしょ?なにその朝鮮人
例のごとく証言だけで証拠はない有罪事件だろ?
バカはほっとけ。
そんなことより信玄公の肉棒についてかたらないか
879 :
日本@名無史さん:2006/05/20(土) 17:51:11
>>876 日本の歴史に批判される点があったら個人的に嫌だと自己中のヤツが日本人は残虐行為をしないと言い張ってる。
コイツの主張なんて日本史板で肯く人はいないから無視すればいい。
以下スレ違いだけど日本人は残虐ではないとあちこちで主張するのをみて。
権力の力を前に無抵抗の人間にたいして残虐になれるのは国や時代を問わず人間に共通。
現代人の我々だって戦国武将の手柄話を面白がる。手柄、それは生きた人間の首を狩る行為なのに。
戦場の勇敢さは日本人同士の合戦では誇らしく語るのに相手が外国人の合戦(戦争)だと日本人は道徳的だと言う。
人を人と思わず、殺戮してもヒャホーイと言える倫理観の喪失が勇敢な軍の条件。
日本軍が強くある為には殺す相手を人間と思わない教育、そして殺戮に対する耐性が必要。
だから何人殺しても笑って手柄話にできるように捕虜の断首を新兵にやらせたり略奪暴行を黙認する。
こんな事は世界中で共通。倫理観を飛ばさないと兵は人を殺せない。それは弱い軍隊であり戦争の最大の目的を果たせない。
相手の命を奪うという究極の略奪暴行が称えられ勇気の証とされる中で強姦や放火はしませんなんてのは軍隊をなんだと思ってるのだろうか。
手柄争いは勇敢さの比べ合いとなり残虐性を競い合うようになる。
現代でも半端な悪が自分の悪逆さを自慢げに語る。
880 :
日本@名無史さん:2006/05/20(土) 18:34:45
>877,878
その他大勢の妄想的日本人ではないのは事実だ
事実重視派、現実直視派の日本人だ
現実を直視するのは勇気がいるぞ 妄想に逃げ込むのは弱虫の性だな
881 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 01:40:31
なんかほのぼの感がなくなったな。
むむー、荒れておるな。ここは一発、
「御旗楯無ご照覧あれ!」
883 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 08:32:50
日本人の間でも虐殺、残虐事件があったのは紛れもない事実だし認めなければならない。
そうじゃないと、何十回と虐殺を繰り返し、毎月のように猟奇殺人が起きている隣国と同じになってしまう。
信玄公率いる世界最強騎馬軍団の突撃は敵にとってはまさに残虐だな!
ガンダムとか戦争を格好良く描く作品の影響かも。
戦闘は相手を殺すのが目的なわけで
やられたモビルスーツの中のパイロットは悲惨なハズ
生きたまま焼かれたり肉片になって散らばったり目や脳を撒き散らして苦しみぬいて死んだりもするだろうに。
セリフを決めて華々しく散るなんて現実ではほとんど無いんじゃないか。
ドラマやアニメの世界の虚構を頭に思い浮かべて歴史事実の戦争を語ってるのかも。
他スレであったけど切腹で腹を切ってもドラマのように即死せずに内臓が飛び出したままもがき苦しむそうだ。
合戦でも敵の首を取る時(大抵怪我で動けなくて逃げ遅れた敵)
多くのパターンでは生きたまま抵抗できない敵を小刀でゴリゴリやるそうだ。
最初はやめてくれと懇願されあとは悲鳴と絶叫の中ゴリゴリ。
絶叫があるほうが討ち取ったアピールになるし拾い首と言われないように首取りは目立たせる必要があり
むしろ叫ばせる為にじわじわやるらしい。
やっぱり兵隊は残酷が仕事。世界中の兵隊は人を殺すためのものだから日本人だけ例外のほうがおかしい。
まとまりのある文章にならないけどそんなこと考えた。
886 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 12:06:27
>>885 かも、ハズ、らしい、そうだ、そんなこと考えた
これが本場の毒電波って奴ですか。
日本人に成りすますなら、句読点の使い方ぐらい覚えれば?
887 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 12:42:32
>>886 意味不明
885は日本人批判しているのではなく「世界中の軍隊は残酷なものであり日本人だけ例外ではない」
が文意
これを日本人批判している外国人と読むのは試験では×
888 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 12:58:04
>>886 >>887のついでにもう一つ
句読点にいちゃモンつける為自分のカキコは気を付けたんだろうが
貴方のカキコの三行目の句読点なんて普通は入れない
武田信玄が残虐行為をしたかどうかの歴史的検証はまだ良いとして、
日本人にも諸外国と同様に殺戮などの残虐行為を是とする考えがあるかという国民性の検証については全く以てスレ違い。
わざわざこんなスレで論点を変えてまでそんな話題を持ち出す事の意味が分からない。
また、
>>879の一文
>日本の歴史に批判される点があったら個人的に嫌だと自己中のヤツが日本人は残虐行為をしないと言い張ってる。
や
>>880の
>その他大勢の妄想的日本人ではないのは事実だ
といった文章は明らかに不自然。
句読点や文法といった事以前に日本語として不可解。
日常日本語を使い慣れている人間が書いたとはとても思えない。
>>885がガンダムを例に取っている事に関しても疑問を感じる。
ガンダムはそれ以前のSFアニメと異なり、単純な勧善懲悪の物語ではない。
敵も同じ人間であり、どちらかに一方的な善悪がある訳ではないという事。
敵を倒すという事は人を殺すという事であり、殺される側の悲惨さや殺す側の苦悩などを
この物語を構成する重要なメッセージの内の一つとして
SFアニメという限定された表現方法の中で可能な限り伝えているアニメである。
このアニメを、
"ガンダムとか戦争を格好良く描く作品の影響かも”
こう書くのはガンダムを全く理解していない。
文章としては特に不自然ではないので、
>>879や
>>880のように"日本人ではない可能性が極めて高い”とまでは言わないが、
日本人=アニメ=ガンダムといった考えが根底にある外国人の発言と想像する事も十分に理解できる。
まぁ、長文でスマンかったが俺にとっては
信玄公の大太刀が一寸だったのか一尺だったのかの方が重要な問題。
890 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 16:20:44
ツマンネ
てか、一人いる馬鹿は山梨県人か?それともどっかの工作員か?
こいつのために山梨賢人ならだれもがあがめる「御旗楯無」が無視されたわけだ。
こいつだけは何があっても緩しちゃおけねぇ。
892 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 20:37:47
まともな漢字も使えない馬鹿に許してもらおうとは思いませんがなにか?
893 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 20:57:05
>>889 だからこそ、ガンダムは問題なんじゃないの?
中途半端に戦争を表現しているから、それを歴史的なリアルさだと
真に受ける奴がでてくるってことでしょ。
894 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 20:57:24
よい子のお約束!
その1 誹謗、中傷はやめましょう。
その2 たくさんの人が見ています、楽しく面白い事を書きましょう。
その3 喧嘩両成敗、辛抱した者を是と・・・
895 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 23:39:19
せんせー!894くんがその2をやぶっていますー!
896 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 23:44:19
>>883 いや、俺はガンダムでの戦争に対する表現自体の是非を言ってるんじゃない。
単純な“敵を倒す=格好良い”という事を表現する作品の例に
ガンダムを挙げる事が不自然だと考えてもおかしくないって言ってるんだよ。
>>886がこの流れを見て“こういう事を書き込んでるのは日本人じゃない”って思ったとしても決して間違いじゃないと思う。
人間が本来持っている残虐性自体を否定するつもりは更々無いし、もちろん日本人も例外じゃない。
だけど、こんなスレで殊更にそんな事を主張する意図が理解出来ないんだよね。
近代的な騎馬隊自体は存在しなかったかもしれないけど、
馬の扱いに慣れたな関東の騎馬武者自体が他国から恐れられていた可能性は十分ある。
こういう事を史料から想像したり論じたりする事は楽しい事だけど、
執拗に残虐な話題を挙げる事を不愉快に思っている人は少なくないと思うよ。
898 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 08:13:27
自分の意見が絶対だと思ってる自治厨もウザイがな
899 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 09:42:33
>>895 確かに捻りがイマイチ足りなくて面白味に欠けてしまった!
「懺悔」したので赦してクリ
900 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 13:01:50
織田信長が弱くてダサい。
信玄最高
901 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 13:42:24
武田謙信こそ、史上最狂!
902 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 14:04:37
903 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 19:46:33
あの風林火山の旗って一枚一枚書くの? 達筆だよねー
904 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 19:57:41
905 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 20:18:10
風林火山の旗は大道具さんか業者がつくるんだろ
ドラマの世界での旗だから
ホントみんなが持つ信玄ってドラマのイメージしかないんだな
生涯でマトモな勝ち戦がない信玄
三方ヶ原でさえも徳川は立てなおし天下人になれる程度の痛手しか受けてない
家臣が領土を奪ってくれて家臣が領土を守ってくれる
信玄が出ると負ける
だから信玄は家臣団に暗殺された可能性がある
信玄の生涯で信玄が絡んで三方ヶ原で勝ち戦
有頂天になり「織田と決戦やる」とか言い出したため家臣団が粛正したとも考えられる
906 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 20:54:55
それじゃ〜家臣団の誰がゴルゴに狙撃を頼んだんだ?
907 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 00:06:45
ほとんどネタスレになっている。
信玄も落ちるとこまで落ちたな。
908 :
世良酒蔵(仮) ◆j.J.FeP6ec :2006/05/23(火) 00:27:20
909 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 01:39:36
怖くて踏めません。
誰か勇気のある方、上のリンクを踏んでください。お願いします。
910 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 02:19:25
愛がある
信玄餅に信玄堤 信長は信長ラーメンくらいしかないから
信玄公がより偉大であると言えよう
913 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 18:03:16
>>912 信長ラーメンってサークルkとシャトレーゼ交差点をちょっと行ったとこでしょ
914 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 18:19:21
916 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 20:04:29
信長ラーメンうまいんだけど
ラーメンの器を金箔で塗ったしゃれこうべのレプリカとかにして欲しい
917 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 20:38:22
>>915 913君では無いけど滋賀のびわこ放送では信長書店のCMよくやってるよ!
918 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 20:43:50
ごめん↑です。913君ではなく912君ね!
919 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 23:02:16
すいません・・
>>908には一体何があるのでしょうか???
920 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 00:19:30
武田信玄とか上杉謙信の、よく観光地にある顔の部分が切り抜かれてて
自分の顔をその穴に入れて写真取る事が出来る奴
921 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 00:25:56
ああ!本当だ(笑)。
>>920さま、ありがとうございました。
922 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 00:27:33
>世良酒蔵(仮) ◆j.J.FeP6ec
信用度0コテ
923 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 00:52:40
どっかに武田の隠し財産とか埋まってないかね〜
924 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 01:24:32
某神社にある信玄手植えの桜の木や本殿付近がかなり怪しいと思われる。
925 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 11:03:53
>>924 信玄手植えの桜の木??樹齢400年以上もある桜の木ならスゴイ財産だな!
926 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 12:05:44
927 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 13:13:36
929 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 18:31:30
信玄が桜を手植えした神社って2社しかない。
さくらを手植えしたこと自体が珍しいし。
片方は武田討伐時にも焼き討ちされず未だに当時の社殿が残っている。
信玄自身、ここの桜には歌を残している。(自分が植えたやつかは不明)
もう片方は、武田にくだることに徹底的に対抗しながらも結局は下ったと
いう経緯があるのに信玄の太刀や勝頼の鎧をずっと大事に保管していたり
事情はよくわかっていないが、手植えをした木自体がアボーンしてしまっても
2代目として同じ場所に植えて大事にされている。
おもしろいことに、信玄だけでなく諏訪の血を引く勝頼も諏訪大社よりこっちの神社を
とても崇敬していたんだよね。
930 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 20:26:08
天然記念物が普通に見られるよ
932 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 21:10:46
富士山本宮浅間神社本殿の横に伝信玄手植えの枝垂桜があるよ。今のは2代か3代目だそうです。
冨士御室浅間神社の桜もきれいだよ〜。
武田八幡神社や金桜神社の桜もおすすめ。武田神社はまあそれなりにww。
933 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 21:18:17
裏富士住民はすっこんでろ!
934 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 21:34:33
浅間大社といえば信玄率いる世界最強騎馬軍団を2回も門前払いにした
勇者信忠君がいた神社ですね。懲りずに攻撃しに行った3回目も信忠君が
いつものごとくでほぼ門前払いに近い状態をくらい、結局氏真を脅して
やっとこさ我が物にできたとか・・・。最強騎馬軍団を誇る割には情けね〜
935 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 21:35:27
富士御室浅間神社は江戸初期慶長17年(1612)年に建造された本殿がりっぱだね。
富士山本宮浅間神社も慶長9年(1604)に家康が造ったんだってさ。
やっぱ家康は信玄を尊敬したんだね。
936 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 21:38:23
>>933 馬鹿ww
甲州側が裏富士だよww
信玄に引っ込めってかww
ほう〜富士山本宮浅間神社は家康が造ったのかw
そんなに歴史が浅いから、山梨の浅間神社がこっちが本流と
わめいたのも無理ない話だな
938 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 21:47:53
ここで坂上田村麻呂と源頼朝が一言
↓
939 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 21:56:07
勝頼も富士山みたいな立派な山があるんだから、山城を造って信長軍を樹海に誘い込み
山の上から石やウンコでも投げつけてやればよかったのに!
940 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 21:56:34
ぴろぴろぴろぴろ〜
ケンちゃんラーメンってまだ売ってるんですか?
942 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 22:00:26
上記二社の桜の下か本殿付近を掘ればお宝がでるということだな。糸井さん出番ですよ〜。
坂上「はて?わしが山宮から下ろし里宮を造ったのは確か甲斐側ではなく
駿河側の麓だったと思うが記憶違いだったのかのう」
頼朝「蒔狩りの時に流鏑馬を奉納した社は大宮だったはずだが…。」
944 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 22:05:56
くやしー!!
せっかく名前を伏せて「俺は知ってるんだぜー」って意地悪して悦に入ってたのに。名前ばらすなよ!
945 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 22:13:07
でも、信玄がお宝隠すなら今川や徳川に近い富士近辺より、金桜神社のほうとかにするんじゃない?
松本清張の小説で身延山だか七面山だかに武田の隠し金山があるみたいなのがあったな。
946 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 22:18:43
見つかりにくさで考えるならむしろ今川や徳川に近いほうがいいような
普通、敵方近くに隠すなんて発想はしないだろ?
敵方だって、まさか自分の領地近くに埋まっているなんて考えないだろ?
947 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 22:25:58
>>943 「蒔狩り」→「巻狩り」
旦那、カッカせずに落ち着いてw
948 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 22:30:45
さすが落馬して死んだだけあるな。頼朝、字も間違うし間抜けすぎw
949 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 22:34:45
あげ足取ったつもりが自分が落馬かw。
人生わからんもんだな。
950 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 23:01:21
昔、中学のマラソン大会で、塩山あたりから日川沿いを田野→片手切り→天目山というコースを走ったな。
当時は知らなかったが、今思うとあれは勝頼逃亡コースだったわけか。
富士宮の由来って怪しすぎw
952 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 00:03:58
三島の由来の方がもっと怪しすぎw
浅間大社も三嶋大社も全然怪しくないって。
一番怪しいのは富士吉田の北口本宮だって。
954 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 00:22:02
北口本宮って徐福や富士文書が絡んでいるとこだっけ?
怪しすぎて一宮浅間や御室だけでなく同じ市内の小室にすら
疎まれているんだろ?
955 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 00:30:12
やっと(ほのぼの)した話になって来たな!
聞いた話だから真偽は不明だが、小室が北口を疎んじている理由は、
昔から社の秘宝として大事にしてきた富士文書を北口が勝手に持ち出し
担ぎ上げた上に世間に出してしまったかららしい。
さらに、昔からの浅間大社大宮司家の富士氏が幕末の混乱時に若い神職や
氏子を巻き込み死者が多く出たことを自責し退任。その跡目を巡って
揉めた時の経緯や、富士文書や諸々の理由で北口がこっちこそ本宮だと
浅間大社に喧嘩を売ったことで一宮や御室も北口を疎んじ始めたと
いう話もある。どこまで本当かはわからないけど、北口本宮と富士山本宮は
未だ和解していない。だから本宮が二つある。
957 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 00:56:32
このスレにしては偉く高尚な話なんでageておこう
958 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 01:31:34
>>956 一部の吉田住人がバカなだけ
甲斐一宮をさしおいて本宮だなんて名乗ること自体愚の骨頂
959 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 02:42:23
>>958 吉田住人は確かにお馬鹿が多い。堀内の遊園地で遊んでろ。
っていうか、小山田領内のつまらん話だ。武田とは関係ない。
960 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 03:12:21
小山田はいちよ武田家臣です。
立派な武田家臣と申せ
962 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 17:06:52
小山田は最期が最期だからな…立派な家臣だったのは信玄存命中だけだな
立派な信玄家臣でした。
964 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 18:06:48
来年の大河ドラマの主役は山本勘助だけど、この人はどんな人物か
ほとんど分かってないのだろう。実際はどんな奴だったか知ってる人
教えて下さい。
来年の大河を見る参考になるとおもう。
965 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 18:08:42
武田信玄は、今川義元のやった政策をそっくりマネして、義元の読む
軍法書をマネして読み、義元が戦うときは進んで兵を出した。信玄は、
義元が上洛しなければ裏切りを働かなかった。信玄に言われて裏切りを
働いて義元を死に追いやる姿もしっかりと描いてくれるんだろうな?
966 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 18:10:21
>>965 へえ〜義元が死んだ原因(桶狭間勃発の理由)って
勘助の裏切りなんだ。そりゃ凄い。
そんじゃ信長は大恩を仇で返しちゃったんだな
本能寺が起きたのも無理ないか・・・
967 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 18:11:34
来年の大河ドラマの主役は山本勘助だけど、信玄は誰がするの?
968 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 18:38:50
>>966 本能寺は勘助の愛弟子であった光秀が起こしたものだよ
山本勘助は実在するかどうかもわかんないぐらいに
歴史的資料がすくないらしいからね。
伝えられているほとんどが創作だと思った方が・・・
970 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 18:51:15
風林火山は原作が短いからな〜。勝頼が死ぬまでやるのかな
郡内騒動もあるし、国中やそのほかの地域から見れば
旧小山田領内は御し辛いよな。国中以上にはねっかえりが多い。
972 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 19:33:13
勘助は架空人だし当時桶狭間なんて地名は有りません。後世の創作だよ^^
974 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 20:42:25
969君のカキコは正論だと思います!
972君のカキコは凄く感じ悪く思います!
975 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 20:46:41
>>972 当時「桶狭間」では、なく「田楽狭間」じゃなかったけ?
976 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 21:02:44
違うよ^^あるみはら! 小高い丘の上に今川軍が陣取ったのー。万全の陣取り!ノブナガは何故だか昼の2時過ぎに前線の砦に到着^^後は自分で調べろ
977 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 21:04:24
978 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 21:10:29
表現の仕方で侮ってるとヤバイ事になるかも、、
979 :
竜之介 ◆87xY9YGmUQ :2006/05/25(木) 21:17:35
武田信玄の能力の適正値
政治31
戦闘66
智謀43
采配52
野望97
980 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 21:23:58
>>975 どうやら972・976はタイムマシーンでも持ってるみたいだな!
それ程資料が無い当時の事を「本当の話は・・・だった!」なんて言い切るんだから!
981 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 21:36:01
↑確定!やっぱ2ちゃんはキッズの与太話で成り立ってるねん^↑
鈴木真哉学の弊害。
適当な論拠なのに言い切っちゃう。
信玄は暴君
妙法寺記には「信虎と変わらない」という嘆きが記録されている
棟別銭も北条50文・伊達100文に対して武田は200文
戦争続きのために新設された税は数え切れないほど
984 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 21:46:03
太田牛一の信長公記読め。学会でも今の所これ以上の根拠ある資料は無い。
『この役の勝敗を決したる地は田楽狭間にして桶狭間に非ず。然れども桶狭間の名、既に膾炙す。故にこれに従う』
(「日本戦役」)
桶狭間は田楽狭間から一キロ以上離れた場所のこと。だけど世間では桶狭間と広まったと
ただしこれは江戸期の甫庵信長記という創作臭いのを根拠としたもの
信長公記(一級史料。池田本は太田牛一直筆のものと言われる)では「おけはざま山」とある
天才・信長が歴史の表舞台に出た大戦
織田軍二千対今川軍四万
例え信玄謙信だろうと覆せぬ戦力差
信長は雑談ばかりで家臣達は諦めムード
しかし!その一方で梁田・蜂須賀らを使い今川軍の動きを完全に探知
夜間に不意をついて飛び出したのは内通者を欺くためか
熱田神宮で兵を揃えた信長は、敵中央を突破するという大胆な機動により目を眩ませ、おけはざま山で楽勝ムードの今川本陣を直撃する!
この時織田軍に有利な方向へと豪雨が降ったのを熱田の神の加護ともいい、長篠でタイミング良く雨が止んだこととあわせて「梅雨将軍」の異名をとることに
義元を首を討ち取った信長は、以後歴史の主役を演じることになる・・・
988 :
日本@名無史さん:2006/05/26(金) 13:36:51
なんで頭の悪い人は信長や信玄が好きなんだろう?
カッコイイから
>>983 甲州法度によれば、棟別銭は百文で場合により五十文や二百文
北条も棟別銭は百文
991 :
日本@名無史さん:2006/05/26(金) 14:27:47
>>989 頭が悪い人間と良い人間をどう区別するのかが問題だね。
まぁ、自分で直接見た訳でも無いのに歴史上の出来事をさも事実のように言う奴や
統計取った訳でもないのに自分の主観のみで「こういう人間は頭が良い」とか「頭が悪い」
とかって言ってる奴は頭が悪いってのは間違いないと思う。
クラスに1人はいるよな、知りもしないことを断言する奴ってw
梅
次スレは立てなくていいからな
994 :
日本@名無史さん:2006/05/26(金) 15:58:26
もうゴール寸前じゃねーの。下らないスレだったけど暇潰しくらいにはなったぜー。でもこれっきりにしよーな!絶対チョーシこくだろうけどー^^
世界最強騎馬軍団を率いた武田信玄公、京まであと少しのところへやってきました
・
・
ここで、一旦CMで〜す
・
>>1 次スレは世界最強の足軽部隊を率いた武田信玄公を称えるスレでよろしくお願いします
997 :
日本@名無史さん:2006/05/26(金) 16:48:39
叩きまく〜れ♪叩きまく〜れ♪我等がモグモグ風林火山〜♪
998 :
日本@名無史さん:2006/05/26(金) 16:52:33
江戸時代に大ヒットした小説「武田騎馬隊」
その発行部数は1000万部を超えたという大ヒットだった。
現在に比較すると司馬遼太郎の「竜馬が行く」と同じくらいのヒットである。
しかし、現代人はそれを小説とは思わずに、史実と勘違いしたのであった。
400年もの長い間、小説「武田騎馬隊」を書いて日本人を騙し続けた男の名前は・・・。
999 :
日本@名無史さん:2006/05/26(金) 16:53:14
その男の名前は・・・???
1000 :
日本@名無史さん:2006/05/26(金) 16:54:26
春日源助
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。