【江上】騎馬民族説は今。。。vol.5【波夫】

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952日本@名無史さん:2006/05/22(月) 19:58:41
>>948
>高句麗とは別の扶余なんだろ。

別の扶余ではない。高句麗と百済を作った分家が出ていった後の本家だ。
扶余の墓について全てを通して言えるのは「一定のきまりはない」と
言うことだけだ。
木郭墓を保存した場合にのみ、墓によって証明できるのだ。
953日本@名無史さん:2006/05/22(月) 20:21:56
>>949
「よべ」が同じ皮革系の「あまべ」に転化したのだろうと言ったんだ。
京都の渡来系皮革民「あまべ」の事だよ。
よく読め。
で、君はこの渡来系皮革民「よべ」や「あまべ」を誰だと思うんだ?
これも前から聞いてるんだが。
954日本@名無史さん:2006/05/22(月) 22:50:37
>>949
>そんなことを言う前に、天皇家の出自自体が謎だ。
>三輪、河内の地から地名でもいいし、遺跡でもいいし、天皇家
>の出自を示すものを見つけだして見ろ。がんばれ。

一応、文献史学的には日向となってる。

扶余なんて全く出てこない。
これについてはどう思う?
955日本@名無史さん:2006/05/23(火) 00:05:07
>>950

>「鉄は楽浪郡の管理下にあった」ということである。
>つまり韓、ワイ、倭は楽浪郡の認可を受けて鉄を取っていた

オマエの脳内妄想の5世紀の話か?
相手にしてられないな。
自分の都合のいい情報だけを捏造しすぎ。
956日本@名無史さん:2006/05/23(火) 10:01:19
>>953
>「よべ」が同じ皮革系の「あまべ」に転化したのだろうと言ったんだ。

「よべ」が「あまるべ」に変わったことが証明できる例が一つでもあれば
そのような音から訓への転化の、少なくとも傍証になる。
もう一度聞くが、「よべ」から「あまるべ」に変わったと証明できる例が、
たった一つでも良いが、あるのか?

>>954
>一応、文献史学的には日向となってる。

日向に「天降った」のだ。天下りの出発地はどこかは書いてない。
「高天原だ」なんて言うなよ。

>>955
楽浪郡は5世紀か?
957日本@名無史さん:2006/05/23(火) 10:26:58
>>956
牛皮なめしという同じ文化を持つ余部「よべ」「あまべ」なら、
同じ部民と見ていいだろう?
漢部「あやべ」が「「かんべ」になり、綾部「あやべ」になったように。

渡来系というなら、当然、身近な半島を見るべきだろう。
じゃ、この余部は何だ?
扶余だよね?
どう思う?
958日本@名無史さん:2006/05/23(火) 12:13:21
南河内の余部(あまべ)は鋳物師の集落だった。
959日本@名無史さん:2006/05/23(火) 13:57:02
>>956
天下りの出発点なんてものは、そもそも無い
支配の正当性を確立するため「神」なるものが
天空神界からから舞い降りたのだ、と伝え聞かせたに過ぎない
例え出自が明確であっても高天原を頂点とする世界は
造られたはずだ、日向と明記されていても造られた。

神話や昔話を紐解こうとする徒労な輩がいるが
そもそも神話は神話であり歴史的根拠を問いただすだけの材料にはならない。
960日本@名無史さん:2006/05/23(火) 14:17:16
>>959

同意!
961日本@名無史さん:2006/05/23(火) 15:05:34
>>959
えらい!
あんたはどこの人だい?`

騎馬民族説、高天原鵜呑みにするヤシはどうしようもならん
左翼。
50台以上多い。
962日本@名無史さん:2006/05/23(火) 19:27:14
>>959
では聞くが、畿内にいた「にぎはやひ」が神武と同じ「天つ神」だというのは
どう解釈するのか?
敵方に「支配の正統性」もあるまい。

>神話や昔話を紐解こうとする徒労な輩がいるが
>そもそも神話は神話であり歴史的根拠を問いただすだけの材料にはならない。

神話を持ち出したのは君だ。
だから神話ではなく君も言うように、地名や遺跡で天皇家の出自がわかるのか?
と聞いている。
963日本@名無史さん:2006/05/23(火) 20:12:39
959じゃないが
こういう思想、概念を持ち出すものは左翼思想で
社会権力を常に悪と決めつけそれに対抗するものが
善であるという強烈な偏見と固定概念に取り憑かれた
馬鹿・悪魔が多いということを漏れは常に前提において
議論にも挑んでいる。
ただ科学的に分析することについては厭わない。
答えにはなってないが
駄文失礼しました
964日本@名無史さん:2006/05/23(火) 20:28:40
「天津神」だけれども起源がどこにあるか考えたことあるか?

多くの学者含めた愚民は「天津神」が神武当時から存在し
先住民のリーダー「国津神」から政権を暴力的に奪取し
その民衆を暴力的に征服したと多かれ少なかれ考えとる。

これがそもそも偏見と先入観、固定概念に凝り固まり!
その強烈な固定概念とは
左翼的な権力絶対悪、弥生・縄文絶対二元論みたいなものです。
そんなもん、遺跡のデータもなにもないただ記紀のみにそれっぽい
こと書いてあるだけの話、そんなヨタバナシ鵜呑みにするな!
またそういうヨタを頭の悪い、疑う事を知らない愚民に
吹聴する学者がまた許せない。
半島の「黒い山葡萄原人」みたいなものだろ、極端な話すると

無知、無神経は馬鹿の始まり。
965日本@名無史さん:2006/05/23(火) 20:35:45
しまいには何一つ信頼できるデータがない、断片的な
データを好きなように解釈し結論をだしているだけ。
それが信頼におけないデータであるという判断さえできない。

しかもそれと反するようなデータ、遺跡がでたら
またいい加減な仮説を立て言い逃れをする。

そもそも最初から有る”べき”結論は彼らには決まってるのであり
それを揺るがすようなデータは必ずいい加減な仮説で
反論しようとする。

966日本@名無史さん:2006/05/23(火) 20:48:47
>>957
>漢部「あやべ」が「かんべ」になり、

それ見ろ。訓読みのほうが先だった、と自分で言っているではないか。

もう一度聞く。「よべ」の方が先にあって、それが「あまるべ」に
変わったという例があるのか?
967日本@名無史さん:2006/05/23(火) 20:58:45
ちょとまてそういう話してると堂々巡りにならないか?
大局的に考えよう
なぜ筑豊には扶余を示す地名が見あたらないのですか?
968日本@名無史さん:2006/05/23(火) 21:03:03
天津神の象徴的存在がなぜ菅原道真なのですか?
969日本@名無史さん:2006/05/23(火) 21:56:32
神話は歴史ではないが、歴史を元に生み出された可能性は高い。

神話を信じるなだの信じろだのと、一体どっちなんだろうな?

の割には、最後は古事記にたどり着くのであった。
970日本@名無史さん:2006/05/23(火) 22:07:36
日本国の思想は
九州戦力とそれと対抗する
出雲大和を中心とした本州勢力いずれも
中国的宇宙観、世界観を
その各地域なりの解釈で
独自に発展したものだと思う。

だから各地の鏡の形状から宇宙観、世界観が微妙に違う
ことが伺える。

九州勢力に関しては
倭の思想は古墳記以降は概ね中国からの受け売りである。
近代的な概念による騎馬民族なる影響は
殆どうけてはない。
そしてそれは征服という形ではなく、渡来人の受け入れ
交易などを通じ基本的には在地勢力が主導権を
握っていたものと解釈できる。

しかし、出雲大和政権は
出雲神話始め記紀で半島高麗人の影響を
殊更強調しているのをみると
半島民族を経由し「中国的価値観」を受け入れていたと思わざるえない。
出雲大和政権に関しては中国ではなく高麗人の影響が極めて大きいものと
思われる。これは魏志倭人伝でも出雲大和が直接
中国と交易してない、にも関わらず中国的物産がすでに出雲大和にあります。
これはまさに、出雲大和政権が高麗と密接に関係していたことが伺える
一つ重要な証拠です。

971日本@名無史さん:2006/05/23(火) 22:17:35
>>966
小集落「あまるべ」は関係ないので、この際、無視しよう。
そんなの全国にあるし。

俺が言ってるのは、
牛皮なめしという同じ文化を持つ姫路の「よべ」と京都の「あまべ」だ。
同じ文化を持ってて、音読みであるか訓読みであるかは関係ないだろう?
この人達は渡来系だ。
じゃぁ誰だ?
972日本@名無史さん:2006/05/23(火) 22:20:37
>>967
>なぜ筑豊には扶余を示す地名が見あたらないのですか?

地名が全部、部民に由来してはいないからです。
日本の牛革なめし発祥の地である播州に「余部(よべ)」があります。
これは牛革なめしの文化が扶余である証拠だと思います。
973白馬青牛:2006/05/23(火) 23:24:36
忙しい間にだいぶ進んどるわい。
新羅のスキタイ系積石式木槨が扶余系とは云い難い。
高句麗や百済よりも新羅の文物は、北方的、遊牧民的文化が流入して
おるので。
あらゆる学問から検討すべきものを、神話学を否定してどうするんか。
神話は、各民族、文化の比較研究や、我が国、我が民族の魂でもある。
学習院大教授であった吉田敦彦氏の指摘される日本民族の行動様式も
現しておると思う。自己の狭い思想判断で特定の学問分野を先入観や
固定観念で根絶してはならんよ。
974日本@名無史さん:2006/05/23(火) 23:29:09
>>966
どちらが先でも、余部が扶余に関係していないと見るのは無理だわな。
何故なら百済王族が余氏と下賜されているから。寧ろ余部の土地名の由来は何とお考えで
975日本@名無史さん:2006/05/24(水) 04:52:29
>>972
●律令時代に生じた「余部(あまりべ)」がもともと差別につながりやすい制度
であった。
●皮なめしが被差別民の仕事であった。
この二つが結びついただけのことだ。

扶余に結びつけるなら律令時代に「よべ」と読む「余部」があったこと
をまず証明しなければ無理。
976日本@名無史さん:2006/05/24(水) 07:33:56
渡来系技術である牛革なめしが共通してるという意味で、
播州「よべ」と京都「あまべ」は同じ大陸系の部民であろう。
これは間違いないだろう。
>>974
「あまるべ」と「よべ」「あまべ」を分けて考えるべきだと思う。
「よべ」「あまべ」が差別に関わると言っても、
もっと後(中世)にそうなっただけだろう。

>>975
>律令時代に「よべ」と読む「余部」があったこと
>をまず証明しなければ無理

現時点では正直言って無理。
まぁ誰かが見つけてくれるかもしれんが。
しかし、極めて扶余に近い事は事実だ。
これを何故スルーしたがるのか。
反面、何も証拠がない扶余・河内王朝簒奪説を言いたがるのか。
君は大変偏った思想の持ち主だな。
977976:2006/05/24(水) 07:36:25
あぁ、すまん。
974氏は「関係していないと見るのは無理」と言ってるんだね。
勘違いでした、すいません。
978日本@名無史さん:2006/05/24(水) 07:43:28
それと言い忘れた。
今、江戸時代から続く「よべ」という地名がある。
これが律令時代の「あまるべ」であると、君が証明するほうが先だ。
979日本@名無史さん:2006/05/24(水) 07:46:23
蜀の王族の「舟形木棺」って具体的には何かご存知の方いますか?
日本との関連は全くありませんよね…?
980日本@名無史さん:2006/05/24(水) 15:33:49
>>976
>播州「よべ」と京都「あまべ」は同じ大陸系の部民であろう。

京都の「あまべ」は何故わざわざ訓読みになったかが説明できない。
それに京都の「あまべ」は平安時代の古地図で「余戸」と書いてある
という資料があるが、それでもいいのかな?
君は「−戸」は対象外だと言っていたような気がするので。
981日本@名無史さん:2006/05/24(水) 15:54:42
「三国志魏書〜烏丸鮮卑東夷伝」286年、子依罹(イリ)立つ。
再び慕容廆に敗れ衆数千を率いて海を越え倭人を定めて王となる。
982日本@名無史さん:2006/05/24(水) 16:02:55
神日本磐「余」彦
ミマキ「イリ」彦
983日本@名無史さん:2006/05/24(水) 17:00:27
>>980
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/yanagin/tenji2-k1.html
中世の京都に「あまべ」と言われる渡来系皮革民がいた。
音読み、訓読みの話だが、
例えば、秦氏ゆかりの寺で太秦寺「たいしんじ」というのがあっても、
誰も不思議に思わない。
君は何故そんなにこだわるのかな?
984日本@名無史さん:2006/05/24(水) 17:25:46
崇神はすでに下地のあった大和の小さな豪族の元に
身を寄せたのだろうか?そして高麗・扶余にとって
縁起の良い数、四道に将軍を派遣した。
一躍、崇神は倭全土の王のなった。
そういうことだろうか。
出雲も高麗の流れをくむので4は縁起の良い数字
985日本@名無史さん:2006/05/24(水) 17:31:29
崇神、景行、仲哀、神功、応神
この辺は極めて重要だな。
986日本@名無史さん:2006/05/24(水) 17:37:45
倭は九州奴国を中心とした勢力と
出雲を中心とした二つの勢力があった。

そこに崇神(刀伊)がやってきて、畿内に居座った。
本州全土、四道に将軍を派遣し支配しようとした
だが九州では抵抗が大きく成功しなかった。
奴国から伊都に首都を移したが争いは絶えなかった。
四道将軍により統一された本州から
九州には幾度と無く軍隊が派遣された。
987日本@名無史さん:2006/05/24(水) 18:17:20
>>984-986
纒向遺跡に韓式土器がわずかに出てる程度じゃ無理ですね、その小説は。
988日本@名無史さん:2006/05/24(水) 18:36:26
>>987
しかし、四道将軍が派遣されたことについては否定はしてないな
989日本@名無史さん:2006/05/24(水) 18:43:27
>>988
東海勢力が主体になって、半島まで支配力を高めたという意味ではね。
990日本@名無史さん:2006/05/24(水) 18:51:43
おい、ここキーポイント。
崇神は大和を巨大政権にした、それは半島南部にまで及んだ。
991日本@名無史さん:2006/05/24(水) 19:00:53
魏志倭人伝によると倭は村を国と呼ぶ(小国分立の顕れ)
大倭を恐れる(大倭とは成立間もない崇神畿内政権)
崇神の支配地任那は倭人伝当時すでにある。

結論、崇神政権は倭人伝の前である。
結論、崇神政権は倭人伝の前である。
結論、崇神政権は倭人伝の前である。
992日本@名無史さん:2006/05/24(水) 19:11:24
なぜ、倭は高句麗くんだりまで軍を派遣しライバル意識を燃やしたか?
なぜ、畿内大和は百済支配層を受け入れたか?
なぜ、秦氏、辛島氏は一緒になり出身地新羅を攻めたか?

秦氏は新羅出身だが新羅には愛着はなかった。
そして、やはり崇神は百済系扶余なのではないか。
993日本@名無史さん:2006/05/24(水) 19:22:12
>>983
その京都の「あまべ」が、現在のところ一番古いと思われる表記で「余戸」と
書いた。「余部」ではない。
君は「戸」がつく「余戸」は除外する、「部」がつく「余部」が部民だと言って
いたのではないか?
994日本@名無史さん:2006/05/24(水) 19:23:43
>>992
だから纒向遺跡の東海系土器の多さを説明しろって。
韓式土器は、ごくわずかなんだから。
倭が半島も勢力下に入れたのだろうが。

何が扶余なんだw
995日本@名無史さん:2006/05/24(水) 19:26:10
>>993
だから、彼らは昔から京都にいたのではない。
まずは革なめしに適切な水を求めて播州に定着したのだろう。
そこから各地に派遣されたのだろう。
京都では中世だろうな。
996日本@名無史さん:2006/05/24(水) 19:35:54
はあ?
大倭だぞ、扶余崇神は任那を畿内大和に割譲し
移住したんだぞ、そんなよそ者が地元民に
韓式土器使えなんて指図できる立場か??
997日本@名無史さん:2006/05/24(水) 19:42:36
>>996
意味わからない。
崇神が扶余なんてどこの文献に書いてるんだ?
考古学的に考えろ。
998日本@名無史さん:2006/05/24(水) 19:45:05
東海系土器の胎土は伊勢だ。
だから皇室の祖先を祭る神宮が伊勢にあるんだ。
それだけ!
999日本@名無史さん:2006/05/24(水) 19:45:51
どっちにしても土器程度で崇神が扶余じゃないという
証拠には全くならん。
1000日本@名無史さん:2006/05/24(水) 19:47:13
>>999
馬鹿かおまえは!
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