「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか20)
1 :
陳壽:
スレ主さん 乙です。
また御厄介になります。
3 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 17:55:34
鎮守(ちんじゅ)乙
4 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 19:09:18
4だったら畿内確定
5 :
ヤマトモモソヒメ:2006/01/14(土) 19:10:15
5だったら九州説は捏造
関西説の皆、騙されるな
このスレは魏志倭人伝を聖書としている九州宗教のすれだ
彼らは倭人伝絶対主義で考古学的矛盾は妄想で塗り固めようとしている
俺らが何を言っても「倭人伝絶対主義者」には学術には耳を貸さない宗教者
7 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/14(土) 19:42:52
>>6 他所のスレ主さん
『邪馬台国』の名称を、何処で仕入れてきましたか?
それに、畿内・九州と、言う前に
基本的な事が間違っていますよ!
自分のスレの
>>1を、読み直して見て……今なら未だ削除出来ますよ
最後に・・・
>>7
『邪馬台国』の名称を、何処で仕入れてきましたか?
ヤマト国の事ですか?
小学生の頃から常識として仕入れてますけど?
大和国の中国語読みを中国語で書いてるんだから
日本人ならヤマト国はどこですか?と言うべき
タイムマシンがあるなら著者に聞き間違いを伝えたいぐらいだよ
おまいはその聞き間違いを聖書として信望してるんだろ、まさに宗教
大和国なら当然奈良となるな
そこにマキムクという決定打があるぞ
最後に・・・
重複失礼
しかし
ヤマト国(古代中国語書き邪馬台国)はどこですか?
にするべき
ここの糞
>>1の情報操作が気に入らんかった
「写本の心で。」と言いつつ自説に誘導しているスレタイトル
10 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/14(土) 20:02:27
>>8 大和国は奈良ですよ!
邪馬臺國(中華表示)も、畿内(三世紀現在)ですよ
畿内⇒正式には、畿内を中心とする地域(本州と一部四国含む)
12 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 20:07:04
まあ、まともな人なら九州説は採らないだろうなあ…。
>>10 馬鹿みたいに字に拘ってるが外国人が音を又聞きで功後世字にかえてるんだよ、それ(w
わかりまちゅか?
ちなみにその「臺」って言う字意は「マキムクの祭壇」を現してるんだよ
小学生の君にはわからないだろうがね
メシ食う、つわもの九州論者ってもしかして全滅したのか?
14 :
太国:2006/01/14(土) 20:26:06
>>12 記紀には殆ど女王国の記述が見当たらない。
畿内にあるなら女王国と大和朝廷とは目と鼻の先だ。
ならば、日本を知りにくい外国の魏志倭人伝よりもっと詳細にもっと多大に
天皇と卑弥呼の交流、貿易、朝貢、戦争、卑弥呼の性格等が、日本を知りやすい
本国たる記紀に記述なされるはずだ。なのにそれらの記述が火が消えたように
殆どな〜い。これは何を意味しているのだろうか?
知れたことよ。朝廷と遠隔のために九州の情報が僅かしか大和に流入して来ない。
だから中国から貿易に便利な中国の倭人伝にかなり詳細に記述が出来たのであり、
本国であるわが日本の大和朝廷の記紀に記述がなされなかったのだ。
邪馬壹国は当然九州にあったのだ。これで矛盾がスーっと解消される。権威とかの
考古学は考古術という言い方をしないと、王より飛車を可愛がり失敗するのだ。
15 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/14(土) 20:29:40
別スレ スレ主さん
ついでに貴方の大好きマキムクパワーで
『1792470餘歳』の謎を解いて下さいな!
16 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 20:32:05
邪馬台国が畿内までは最低含めた地域だとしても
卑弥呼が畿内を治めてたというのはどうだろ?
卑弥呼って九州の地方知事みたいなものだろ?
18 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/14(土) 20:37:31
巻向が邪馬台国なら狗奴国はどこですか?
東海地方くらいですか?魏に援軍の要請
してる間に国が滅んでしまいますよ。
畿内と中国じゃ往復で半年くらいかかるんじゃないんですか?
19 :
太国:2006/01/14(土) 20:38:59
>>17 大和朝廷に卑弥呼はいな〜い。
神功皇后は卑弥呼でな〜い。皇后が卑弥呼なら魏志倭人伝に前後の天皇の
活動記録と系譜が載り、それらの名前が殆ど一致する記述が伝に載る筈だ。
そういう記述にはなっていな〜い。卑弥呼と皇后は別人であるからだ。
21 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/14(土) 20:39:58
>>16 それなら倭人伝にもう少し
詳しい畿内の情報が描写されています。
22 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 20:40:28
狗奴国は筑後地域から隈本でしょ。
前方後円墳は関東東北にまで広がります。これは大和の象徴。
前方後方墳もその亜流。
23 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/14(土) 20:45:27
記紀で邪馬台国の存在を隠蔽していることが
重要なポイントでしょう。おそらく万世一系の建前を
守るためか、あるいわ、中国に朝貢していた事実を
隠すために隠蔽したのでしょう。逆にいえば
天皇家は記紀が完成された時点で万世一系ではなく
邪馬台国も大和朝廷となんらかの関わりはあるということです
24 :
太国:2006/01/14(土) 20:50:59
>>23 隠蔽してたという主張はおかしい。
武烈天皇の評判の悪い処も載っている。だから隠蔽したという主張は×。
25 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 20:53:00
とにかく、鏡の件にしてもそうだけど、
宇佐八幡にいたであろう卑弥呼、トヨの行動が不可解。
近畿的であり西九州的であり、どういう立場だったのか
よくわからない。
26 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/14(土) 20:56:52
>>24 武烈天皇の場合とはまたわけが違いますよ。
万世一系という建前を守るために邪馬台国の
存在は隠蔽されたのでしょう。武烈が悪い人だったか
知りませんが、そのようなことは別に書いても
さほど不都合はありません。しかし邪馬台国が
九州から東遷し大和朝廷をのっとったという
事実を書いてしまえば現王朝は征服王朝ということに
なってしまうので隠蔽したのでしょう。
なぜならこの国は和の国ですから。共立王を立てることで
争いを避けるほど争いを好みません。
ゆえに万世一系の建前を崩すわけにはいかなかったのです
27 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/14(土) 20:56:53
ヒッキー君
>纏向が邪馬台国なら狗奴国は?
★南九州でしょう
>記紀による女王国の隠蔽理由
★出自そのものでは
なんせ、『1792470餘歳』ですから
28 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 20:58:56
漏れの妄想では宇佐八幡神宮の三つ巴にあるように
宇佐は三つの勢力の仲介役みたいな立場にあったのではないかと
倭(九州)、
秦王国、
畿内(本州?)出雲
の三つの勢力
29 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/14(土) 21:00:23
宇佐に卑弥呼や壱与がいたことなど
もう前前から僕が言ってるとおり
すでに常識ですが、宇佐という地理的にみて
近畿と西九州〜朝鮮、両方と交流がしやすい
最適の位置にあるので近畿とも多少の交流はあったのでしょう。
なかったら、もっと大陸側に都をおいたほうが
大陸との交流がしやすいはずですしね。
30 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 21:02:33
>>26 豊国、本州の石棺墓人
が甕棺人を征服したと考えずしてどう考える?
卑弥呼即位と同時に甕棺が消えてるんだぞ
>>14 記紀を必要以上に妄信するな、都合が悪ければいくらでも書き換えられた物だ
歴史書である以上に王統の正当性を伝える政治書だと言うことを忘れるべからず
まあ現在の皇統問題も同根であるが男系天皇の正統を立証するために
卑弥呼は歴史から消されたのかもな、または男神になってたり、
都合の悪い部分を歪曲して神功皇后
にしてしまったり、推論だがな。本からは推論が限度で結論は出ないぞ大国
>>18 往復で機内でも九州でもどちらでもオケーだ
魏の首都から九州までの距離も着ないまでの距離も些細な違いでしかない
当時倭統治の動脈「瀬戸内海」ここは今で言う東海道新幹線だ
出先機関が今の糸島にあったのは両説同じ
狗奴国は熊本県付近、鳥取県付近、東海地方、関東地方(蝦夷勢力)
答えを一つにしろと言われても材料(史跡的決定打)が無い
32 :
太国:2006/01/14(土) 21:07:01
>>26 いいかい、近代史的に考えてみな。大東亜戦争で日本が負けたということを
都合が悪いからと政府が隠蔽しているかい?してはいない。
ちゃ〜んと、日本敗北を内外に認めているはずだ。
隠し通せないだろう?w 日本国中負けたことは周知されている。隠し通せない。
畿内と女王国が近隣ならば、そこら辺の住民が卑弥呼の存在を熟知している。
隠すことができず、その外周までも卑弥呼の存在が知れてしまう。
隠せっこないんだよ。w 記紀に記載ないのは隠したんでなく遠隔だからさ。w
33 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/14(土) 21:07:48
なぜ巻向が邪馬台国だなんていう
説が定説化してるんですか?
邪馬台国は宇佐ですよ。みなさん
目を覚ましてください
34 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 21:10:46
>>21 キミがいう衛生国家福岡も時代が過ぎれば盛り返す
宇佐も一時福岡の勢力圏に入ってる。
おそらく伊都国人も邪馬台国を全て受け入れていたわけではないので
反乱分子が反旗翻し南の勢力(狗奴国)と結託してた時期もある。
なぜなら元々甕棺文化は三郡山地の西側一帯
筑前、筑後、肥前、肥後、薩摩、大隅に広がってる勢力だからな
35 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/14(土) 21:13:00
>>32 何をおっしゃってるんですかw
邪馬台国は3世紀、古事記日本書紀ができたのは
何世紀でしたっけ?w8世紀くらいだったかな。
いったい何百年の差があると思ってるんですか?
ゆうに500年以上はあるでしょうに。今から500年前など
室町時代ですよ。しかも大昔など文字もない時代です。
500年前に何があったかなど知ってる人などいやしませんよ。
おそらく邪馬台国が大和朝廷をのっとったんでしょうが
そのような事実はおそらくよほどの高官の間でしか伝承されて
いなかった事実だろうと思います。
36 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 21:13:50
観察者、記述者がどう捉えたかと実際の勢力は違う。
倭国大乱後
なにかよく分からない国が宇佐、八幡地方にあった。
37 :
太国:2006/01/14(土) 21:18:00
>>31 記紀を必要以上に疑惑を持つな。
記紀の他、種々の古史古伝も神武以降皇統の記述は大差ない。ということは
どの書も合っているということだ。君の話は君の孤思孤傳だぞ。w
記紀にも、古史古伝が偽書だと主張しても、故意の消書ではないが、それらの
どれにも女王国の記述が消滅、ないことは一致している。
つまり、女王国は九州の人の交流の少ない土地にあったんだよ。
38 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/14(土) 21:20:51
だいたい女王国の東の海を渡ること1000里で国有りとかいう
文章で常識的に考えれば宇佐で決着でしょうに。とどめで
宇佐神宮もありますし、香春から鏡を奉納する行事もあるようですし、
ここまでいってもなぜ邪馬台国が宇佐だとわからないんですか?w
39 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 21:21:11
記紀の元になる書物は豊の国にあるよな。
40 :
太国:2006/01/14(土) 21:24:31
>>35 それじゃ君は五指山下の孫悟空ではないが、
500年も経過すると、公の伝では日本はアメさんに負けたことを隠すため
アメリカという国を記述せず、無視隠蔽された歴史書が日本の史書となると
主張するのか?ww 米国の無い書か〜?笑われるぞ。ww
41 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 21:24:34
>>38 宇佐地域だけで西九州の大勢力に対抗できないし、
直ぐ後に近畿と密接な交流があった事を示す遺物が沢山でるから。
宇佐の政権がどういう性質のものだったか
漏れ達の想像を超えたものだったのかもしれない。
ほとんどのコテがNGワード行きになっている件について
43 :
1:2006/01/14(土) 21:28:13
>>40 大昔の500年と現代の500年とじゃ
時間の感覚が違うでしょうに・・
情報化社会の現代を基準に考えないでくださいよ。
それに神武東征という形で邪馬台国の東征は
記述されていますよ。
44 :
太国:2006/01/14(土) 21:30:32
>>43 記紀に邪馬台国の記述はない。君の付加だろうが?w
時間の設定、感覚、間隔をどのようにすると釣り合うのか?w
神武の世に女王国はまだないぞ。ww
45 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 21:31:10
>>43 邪馬台国の東征って、3世紀の巨大な畿内勢力に九州の
弱小国が征服できるとでも????
記紀原理主義者ですか????
東征とは単に
伊都国から大和への首都移転を象徴的に顕したものかもしれないでしょ
46 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/14(土) 21:37:23
何をおっしゃられてるのか。
応神東征が邪馬台国東征であり神武東征なんですよ。
常識でしょう。16歳の僕でも知ってますよ。
鉄器の分布等から九州のほうが先進的だったことは
事実ですし、畿内王朝に戦闘で勝てたものと思われます。
47 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 21:39:52
>>43 太国の言うとおり記紀に邪馬台国が東征したたんて一言もないw
宮崎の神武が東征したとかいてあるだけだ、
記紀にも忠実ではない、考古学にも忠実ではない・・
なんなんだよ。
半島のES細胞信者みたい
48 :
太国:2006/01/14(土) 21:43:25
>>46 ヒッキーさんは
應神東征 = 神武東征 かい?w じゃぁ
應神 = 神武 なのかい?ww
そのうち
應神 = 崇神 = 神武 = 神功 か〜?ww
飛鳥さん説〜〜??ww
49 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/14(土) 21:48:00
神武のモデルが応神だったことなど常識でしょうに。
宇佐神宮に応神が祀られてるのは宇佐と応神に
関わりがあるからです。すなわち邪馬台国は宇佐で
応神は邪馬台国の末裔です
50 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 21:50:23
漏れは応神の東征はあったと思う。
これは後の秦王国の東征だろ。
神武の東征はよくわからないが、応神の東征は
秦王国の東征とみることができる。
明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。
又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也。又經十餘國、
達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。倭王遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。
51 :
太国:2006/01/14(土) 21:51:08
>>49 常識にあらず、異端説。應神は女王国の末裔にあらず。
記紀はファッション・モデルではない。
52 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/14(土) 21:54:32
卑弥呼の鬼道は道教ですし
卑弥呼も渡来系の人ですよ。
当時渡来人は宇佐に最も多く集中してましたし
秦王国が邪馬台国で宇佐にあったことなど
常識でしょう。
53 :
太国:2006/01/14(土) 21:57:21
>>52 卑弥呼は三清を拝んでいたのか〜?
孫悟空が何と想うかな〜?w
えらくスレ違いで盛り上がっているな!
『記・紀』以前に元ネタに成る (旧辞・帝紀)が存在し(記・紀)編纂後、破棄された
そう考えた方が自然。
55 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/14(土) 22:04:22
僕がここまで力説してもわかってくれないんですか・・
やはりこんなとこに書き込むのは不毛だな。
56 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 22:06:09
辛スゴさんも秦氏の末裔だろ。
邪馬台国から磐井の乱まで
倭(西九州一帯)と秦王国(邪馬台国?)
と近畿出雲は三つ巴になってると思う。
国境線も常々変わってただろう。
三世紀時列島内には、旧渡来系民族と、新渡来系民族それに先住民族がいた。
渡来系民族は、それぞれ分化を齎した。
58 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/14(土) 22:12:37
まるで皆さん歴史ヲタじゃありませんか、気持ち悪いわ
59 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 22:12:41
邪馬台国は邪馬壱国に滅ぼされる。
イヨの時代に始まり、長い年月をかけ
>>52 いや、鬼道とは占星術だったと思いますよ。
61 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 22:49:44
応神一族が畿内を暴れ回ったというような考古学的な証拠はありますか?
応神の畿内での評価はどうなのでしょうか?
62 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 22:56:48
応神一族(仲哀、神功)
の記述は万葉集にも事細かに書いてるとこ、畿内で
暴れ回ってないとこをみると畿内政権が送り込んだと
考えるがベストかと
前スレ終盤の空気で実証主義的流れが定着すると思ったのに残念だね。
やはり「所在地論争」やりたい人達とは、別のスレを建てないとだめか。
「論争に決着をつける」って言うスレも有るのに何でそっちでやらんのかな。
64 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/15(日) 06:08:54
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc さん
神武は糸島出身の小勢力で、河内湾日下の上陸作戦に破れ、
敗退中に南方水道で追手の攻撃で兄を失った。
そして再度奈良盆地の南側から再侵入し、
正面作戦を避け、敵をだまし討ちにしてやっと勝てた。
その様な神武が応神ではありえない。
65 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/01/15(日) 08:57:32
応神天皇は、近畿に襲来するや、明石で忍熊王軍を破り、逢坂の戦いで滋賀宮軍を殲滅
しています。この程度では、畿内で暴れまわったことにならないのでしょうか。
明石や逢坂と、日下や熊野では違いすぎる。
>>63 どんなスレ立てようが無駄な事は、このスレにて実証済みスレのテーマなんか気にしちゃいない
邪馬台国の文字さえ有れば何処へでも行く。
「記・紀」ヲタ連が行き場を探してさ迷って要るからな
別スレ立てるなら「記・紀」ヲタ救済スレだろうな。
68 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/01/15(日) 09:52:20
>>66さんへ
ちょっと意味がとれません。もう少しくわしいご説明をおねがいいたします。
スレ違いの記紀論やるなら、神代から検証するのがスジだろう。
中途半端な所から
ご都合主義に走るから、何時まで経っても纏まりも、結論も出ない
70 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 10:01:46
途中からやってもかまわないと思いますけど.
>>68 神武は畿内で戦闘しているが、応神は幾外で戦闘している。
明石も逢坂も畿内ではない。
72 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/01/15(日) 10:15:18
ずいぶん細かく正確にきますね。
逢坂の戦いはまず、宇治川の北、逢坂の西(山城の国)で始まります。敗走する滋賀宮軍を追って、逢坂を超え
今の大津市で殲滅します。忍熊王は勢田で入水します。
山城の国は畿内でしたっけか。そこだけでは畿内を荒しまわったといえないということでしょうか。
>>67 こいつら、昔から居るコテばかりジャン。
それも嫌われもんばかり
流れがまともな方に行かないように意図的に荒らしてるとしか思えない。
>>73 ただ単に、自分の説を証明するためにねじ曲げた解釈をしてるだけだよな。たまに、参考になる解釈もあるけど、スレタイもまるで無視のキチガイだと思う。
オナニースレッドじゃないんだよな、ここは。
75 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 14:35:07
すると応神は筑紫と畿内の外の近畿で暴れ回ったって事?
76 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 14:38:17
前スレの流れは確か安曇さんが伊都国の人は
漢字を知ってたかもしれませんね、という流れです。
77 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 15:12:36
露西亜皇帝ニコライはまず長崎に上陸した、
東京に直接こないことに腹を立てた津田三蔵巡査は
ニコライ暗殺を決意。
78 :
まほろば:2006/01/15(日) 15:34:11
>>76 じゃ、スレの流れを戻して、漢字の話。
倭人伝では「皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯」
(皆べて港に臨み検閲し、文書・賜物を女王に伝送し、交わることはない)
とありますので、「文書」は存在します。
ただ、それを「読む」ことが出来るものがどのくらい居たかは不詳です。
それ以前にも「金印」や「銘鏡・銘刀」、「貨泉」などで漢字自体は目にしていても
それを読めたかどうかはわかりません。
それでも意味だけは通詞等により伝えられることは可能でしょう。
次に書けたかどうか。
「倭王因使上表答謝恩詔」
(倭王、使者に因りて上表し、答謝恩詔す)
これが、倭王武の時のような「上表文」なのか口頭によるものなのかがわかりません。
私は「口頭」のような気もしますが、「口頭」による上表が可能かどうかは存じません。
考古的には三重・大城遺跡や福岡・三雲遺跡から出土の漢字らしき刻書土器も
2〜3世紀には、倭地でも「文字」が書かれていたことがわかります。
いずれにしても「今使譯所通」は三十國であるので、渡来系以外でも郡吏と話すことが
可能な倭人は相当数いたでしょう。
卑字を嫌い「伊都」の標記を考え出した倭人がいても不思議ではないように思います。
79 :
本田:2006/01/15(日) 18:45:13
>>36 > 観察者、記述者がどう捉えたかと実際の勢力は違う。
> 倭国大乱後
> なにかよく分からない国が宇佐、八幡地方にあった。
それは狗奴韓国。
狗奴国は、琉球諸島。
80 :
本田:2006/01/15(日) 18:55:20
>>62 > 応神一族(仲哀、神功)
> の記述は万葉集にも事細かに書いてるとこ、畿内で
> 暴れ回ってないとこをみると畿内政権が送り込んだと
> 考えるがベストかと
いや、神功皇后のモデルである公孫卑弥呼の三韓征伐って、
遼東半島から九州に入る前に、
馬韓、弁韓、辰韓を通って来たとゆうことだと思う。
決して倭から韓に侵略したのでは無いと思う。
81 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 19:21:14
まともな人たちが書いてくれなくなるのも無理ないわな。
考古学データは一切無視。
漢籍学や文献史学を標榜するくせに、最新の論文は全く知らない。
狭く浅い知識での暗号解読ゲーム。
自分だけが真実に到達したとの根拠なき思い上がり。
そのくせ結論の「邪馬台国の場所」を発掘しようとも
また関係自治体に働きかけようとも決してしない。
おまいらが妄想を語るのは自由だが、現実は厳しいぞ。
先に開催された考古学学会では、各界の研究者の賛同も得て
今後は「邪馬台国」を「ヤマト国」と読み、纏向遺跡を正式に
初期ヤマト連合=邪馬台国連合の首都だと認定するとの議題が提出され
次回開催時に正式認定される見通しだ。
これにより弥生終末期から古墳初期、つまり纏向遺跡建設から廃棄までを
「邪馬台黎明持代」と呼称する可能性が極めて高くなった。
おまいらが九州説や東遷説、また王朝説を本気で主張する気ならば
2ちゃんやヤフーでぐだぐだ書いてる暇なんかないのだぞ。
きちんとした論文なり発掘成果なりを提出して、正式に反論してみろ。
もう残された時間は僅かだ。
82 :
本田:2006/01/15(日) 19:47:23
>>82 >2000年 持病のために退職
心の病ですか?サガミハラハラさん
84 :
本田:2006/01/15(日) 20:13:41
>>81 > 先に開催された考古学学会では、各界の研究者の賛同も得て
> 今後は「邪馬台国」を「ヤマト国」と読み、纏向遺跡を正式に
> 初期ヤマト連合=邪馬台国連合の首都だと認定するとの議題が提出され
> 次回開催時に正式認定される見通しだ。
考古学者って文献読まないの?
>九州説の主張
>遺物
>「棺ありて槨なし」の埋葬形式は、北部九州に多い箱式石棺の形式に一致する。
>奈良盆地での埋葬形式は、ホケノ山古墳のように「木槨」が出土しており、
>倭人伝の「槨なし」の記述とは異なる形式である。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/ky-naiyou.htm
85 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 20:14:05
三雲の古墳時代初めの大カメ土器に「鏡」という字の略体字がある。
86 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 20:19:10
>>81 漏れはヤマトでいいと思うが、その学会というのも何か怪しいな?
どこの何の何時の学会だよw
>>86 失礼、ソース書くのを忘れてた。
1月11日から開催された大阪歴史博物館での世界考古学会議での提案です。
>>84 >「棺ありて槨なし」の埋葬形式
今頃マジで言ってるのですか?
佐伯有清(勿論文献史学の大家)の一連の著書か
石野博信の「大和・纏向遺跡」における対談を一度読んでみそ。
88 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/01/15(日) 20:55:11
邪馬台国畿内説は世界に対するにほん考古学会の恥である。
89 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 21:00:28
>>87 狗奴国とはではどこになるのですか?
そしてその後の神功皇后のクマソ征伐の史跡などを
どう捉えますか?
90 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 21:03:43
その会議、大丈夫か?近畿の考古学連中しかいなかっただろ?
漏れは考古学から畿内説だけど文献史学では九州説はまだ有力だ。
正直やや偏っているのではと思うが。
しかもマキムクはまだ分からないことが多いし、肝心の3世紀前半は大きい集落だが巨大とは言えない。
箸墓の年代にしても3世紀中頃にできるかまだ微妙。今はトヨの墓でもいい。
いずれにしても先走りした感があるが。
91 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 21:05:50
一応聞くが、誰が提案して誰達が賛同したんだよ?
92 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 21:08:39
その会議の内容を詳しくよろしく
>>89 昔のメインルートは日本海であり、瀬戸内海で無かった事を忘れないように。
日本の表玄関は伊根や敦賀や三国なのだ。
94 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 21:16:46
>>93 そんなことはわかってます。
質問に答えてないよ。
95 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 21:19:35
伊根ってどこ?
>>90 いやあ、俺も実はあなたとほぼ同意見。
要するに反論があるならネットでうろうろやってる場合じゃないぞって事を言いたかったの。
ほら早速サガミなんかが火病起こしてるでしょw
もうそんな時間ないんだってば。
自説証明の為には現実の世界で事を進めないと駄目だってw
>>91 これはウチの教授から聞いた話だから(俺はそんな大層な学会に出席できるタマじゃないw)
どうやら石野さんか例の「オオヤマト古墳群保存会」あたりが提議して
主に関東の大学の史学関係が同意しているらしい。
橿原や奈良でも現場の人間は慎重説が多い筈なんだけどねw
>>89 狗奴国は伊勢湾沿岸もしくは天竜川以東の濃尾平野が有力説じゃない?
どちらをとるかによって初期ヤマト連合との関わりはだいぶ異なるが。
東海関係はこの1年で随分纏まった論文が発表されているから
そのあたりを読んでみてはいかがですか?
97 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 21:24:30
出雲勢力圏(濃尾、旧畿内、関東、東北南部)
と新畿内・豊国連合
それと
筑紫・肥前肥後連合(本州にも支配領域あり)
この程度の区分けが確実にあったはず。
98 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 21:28:36
>>96 A氏の言ってることって大丈夫か?
ハサマ等の年代(伴う土器や平行関係)とか恣意的な感じがするが?
99 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 21:28:38
違うよ。東海以東には大和と違う勢力があったが
魏の使節はその事については一切しらない。
倭人伝よめば明らかだろ。
大和は邪馬台国総本部としても、魏の使節がみたのは
宇佐の邪馬台国で間違いないしそれと対峙してるのは
中九州の狗奴国で間違いないのである。
100 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 21:34:33
宇佐とする根拠は?
ただ熊本北部の菊池郡あたりの弥生終末から古墳初めの遺跡は大規模で(方保田東原など)、鉄器も豊富だしクナ国があってもいいかもね。
畿内説でクナ国熊本説って整合するのかな。
101 :
81:2006/01/15(日) 21:41:11
>>81 >>87 >>96 が俺です。
ややこしいので以降81で発言します。
>>93 弥生後期から古墳前期の段階で日本海側にメインルートがあったというのは
現時点ではどうですかね?
四隅ぐらいしか共通項はないし
むしろ瀬戸内とは別の流通圏がゆるやかだがあったと見たほうが良いのでは?
>>97 濃尾以東はほとんど出雲の影響を受けていませんよ。
それどころか大和とも輸出はしているが輸入はほとんどありません。
また豊国(宇佐あたりですか?)と新畿内(これ播磨とか山城ですか?もしくは紀伊?)
が相互に影響しているとの痕跡は全くないです。
だいたいおっしゃってるのはいつごろの話なのですか?
俺はだいたい弥生終末期を念頭に置いてますが。
古墳初期には筑紫、肥前は大和や播磨それに吉備の影響を大きく受けていますよ。
あと畿内の影響が大きいのが日向や土佐。
102 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 21:47:40
濃尾以東は出雲の影響を頭の先からつま先まで受けてます。
104 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 21:51:02
四隅墓は新しい弥生人ですが、
石棺墓は
出雲初期の人ですよ。
豊国以東の土井が浜、古浦タイプの弥生人はこの石棺墓人です。
105 :
81:2006/01/15(日) 21:51:59
>>98 赤塚さん?w
うーんあのひとは「飛ばし」が多いからw
でも朝日遺跡なんかの詳細な報告書を読むと
その後に東海に発生した勢力は、どうやら初期ヤマト連合と並び立つくらいの
巨大かつ王権志向が強いものだったとの可能性が高いよね。
>>100 そうそう。菊池郡なんかはどうやら北部の玄界灘湾岸諸国とは違う文化圏及び通称ルートを形成していた可能性がある。
ただ3世紀前半が弱いんだよね、あそこは。
むしろ前方後円墳が各地に出来始めたあたりで、その抵抗勢力的な大同小異の団結っぽい。
祭祀形態なんかが全然纏まってないしね。
106 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 21:55:02
確かに畿内説の方が有力だと思う。
ただ問題は記紀なんだよね。
大和朝廷=邪馬台国だと記紀に
記載しても良さそうなんだよね。これについては意見はいかに?
もちろん宇佐の九州説にしても同様どう説明できますか?
107 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 21:58:42
>>105 熊本は甕棺初期から甕棺暮地域ですよ。
鹿児島まで広がってる。東は日田が限度だよ。
熊本弁と筑後弁に違いがあると思いますか?
熊本、筑肥は一心同体ですよ。
108 :
81:2006/01/15(日) 21:59:25
>>102-103 根拠を書こうよw
学問板なんだからさw
その根拠によってはそれも立派な説ですよ。
>>104 うーん、それにしては土井ヶ浜出土の人骨と形質が一致しないような。
これも中期から後期にかけての西から東への文化的変遷で説明したほうがいいと思います。
途中の安芸、吉備、美作、播磨や伊予、阿波それに出雲、丹後なんかが
それぞれ連続して影響を受けてますからね。
109 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:00:28
>>106 邪馬台国の前の東征の話でしょ。
神武は
>>108 根拠もなにも、諏訪氏、笠原氏ともに、出雲の子孫を称しているだろ。
111 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:04:31
112 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:12:27
邪馬台国を語る以上、せめて前後300年位の状況と附合させねば
ならないわけで倭人伝のみで語ろうとするとどうしても
間違った結論になりがちだと思います。
だから、稲作スレ、弥生人スレ等ご参照ください。
113 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:14:19
>>105 いやいや、3世紀前後の集落遺跡が凄いんだって。
弥生終末までは鉄器の量や鍛冶技術が北部九州に匹敵してる(村上氏)
114 :
81:2006/01/15(日) 22:14:46
>>106 記紀は専門じゃないからこれは受け売りだけど
崇神から成務あたりの記述が纏向期の初期連合の記憶だとの説が
東洋史や文献史学の間では有力ですね。
考古学は通常あまりそのあたりの時代については
人物を当てはめたりしないので何とも言えませんが
傍証となるべき(記述に一致した)出土物がわんさか出ていることは事実です。
>>105 ですからそれは弥生中期から後期にかけての話で
ここで言う終末期から後は北部九州は石棺に移行していますよね。
でもちょっと安心したのは、お話にならないコテハンに比べて
名無しさん達のほうが良く勉強していますね。
興味がありましたらまた今度、論文の入手方法なんかを書きますよ。
一緒にがんばって勉強しましょう。
それでは今宵はここまでにしとう御座いますw
115 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:17:55
狗奴国の北限は久留米神代(くましろ)だろ
玉垂命というナゾの神を祀ってるのは
熊本、福岡、長崎、佐賀の有明海沿岸地域のみ
116 :
81:2006/01/15(日) 22:18:15
おまけ
>>113 勿論知ってます。村上論文は衝撃でしたから。
それを踏まえて北部九州と結託した存在では無かったと考えているのですが
同じ考えではないのですか?
117 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:18:16
後世の氏族分布がを根拠にされてもねえ
それに氏族の同祖伝承ってどこまで信用できる?少なくとも3世紀の話には使えないな
118 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:20:47
北部九州として一括して語るのはやめれって・・
三郡の東と西では全く文化がちがってたんだぞ。
そして卑弥呼即位の時に西も石棺になる。
卑弥呼の勅令だよ。
119 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:20:52
>>107 カメ棺がそこまで広がったのは紀元前1世紀
3世紀の考古資料よろしく
120 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:28:11
>>119 三世紀は、むしろ
福岡南部、熊本あたりで細々と甕棺後期のものが
やられていた。
卑弥呼支配がなくても
甕棺自体に興味を無くしたのかもしれない。
121 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:31:06
>>116 北部九州、玄界灘沿岸は弥生後期以来からの勢力地に初期古墳が作られるが、熊本北部から中部の大規模集落の勢力地には初期古墳が無い。
熊本の前期古墳の中心は宇土で弥生終末まではあまり有力でない。
女王国側に破れたか、古墳初頭までは大規模集落があるから古墳同盟に入らず干されて衰退したかと考えてみたらどうか(思いつき)
122 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:32:31
そもそも伊都国などの三郡の西、旧甕棺地域は
邪馬台国や卑弥呼を手放しで受け入れたわけではないぞ。
正直いうと邪馬台国は嫌いだったと考えるのが自然。
123 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:34:19
旧甕棺地域は円墳だよ。
124 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:36:00
伊都国では古墳初頭まではなぜかカメ棺があるんだが
ただしある時期からは木棺や石棺の方がステイタスが高いかも。平原は木棺だし。
125 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:37:05
香春、宇佐、八幡、戸畑、鞍手、宗像、佐伯、臼杵
これらの地域は旧石棺暮、豊国響灘沿岸地域。
出雲・大和の影響を相互に受けてる。
甕棺地域は大和政権とは殆ど連合関係にはない
126 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:37:34
127 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:38:21
128 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:39:40
>>125 それも根拠を述べよ
考古資料の使い方がイタいな
129 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:40:12
>>126 三郡の東と西は紀元前から21世紀の今に至まで別文化圏だからだよ
130 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:43:03
だから伊都国ではカメ棺がかなり残るんたが
あとは筑後や肥前佐賀平野唐津へ、甘木あたり点々にある。福岡平野あたりは稀にあるが希少。
131 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:44:29
文化圏が不変って証明不能のイタい説
132 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:48:13
133 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:50:21
130は弥生後期後半から古墳初頭の話ね
あと石棺は卑弥呼以前にも筑肥に出てきているが
弥生後期前半のカメ棺衰退に変わる墓の一つとしてすでにあるよ
134 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:53:26
甕棺が日田、三郡山から東に一切伝わらないのが凄い。
鹿児島にまで広がってるのに・・
135 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:54:09
熊本の初期のは縄文晩期の土器棺
玄界灘沿岸で成立の弥生カメ棺とは別系
あと安元は編年や年代観がでたらめだから、もういいよw
136 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:57:30
>>135 土器棺から甕棺に発展したと考えられてますよ。
ところで、誰か「発掘五〇年 - 近藤 義郎」買った?
どうもただの回顧録みたいで中身見ずにはちょっと買う気にはならんのだが・・・・
買ったほうがいい?
138 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/15(日) 23:16:40
>>101 出雲への日本海ルートは、きちんと陳壽が倭人伝にカキコしていますよ!
139 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 23:26:41
>>136 そうなのだが弥生カメ棺の成立は熊本の土器棺とは別系
弥生カメ棺は「壺」から、縄文土器棺は「深鉢=カメ」
140 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 23:29:17
最近マシになったプラムさん、それは投馬国?
141 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 23:47:47
>>139
漏れが見た限り基本的に同じにみえたけどなw
142 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 01:04:09
熊本の初期のってのは何時だ?縄文晩期なら136の言うように別のもの。
弥生のは壺形からの変化で縄文の深鉢形と違う。そんで板付1から伯玄式の分布は玄界灘沿岸からせいぜい佐賀まで。
弥生型のかめ棺が熊本に分布するのは前期末からだったと思う。
もし壺形と深鉢が区別できないなら考古学資料を扱う資格なし。
143 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 02:00:15
弥生型のかめ棺が熊本に分布するのは前期末からだったと思う。
弥生型のかめ棺が熊本に分布するのは前期末からだったと思う。
弥生型のかめ棺が熊本に分布するのは前期末からだったと思う。
144 :
本田:2006/01/16(月) 02:51:05
>>87 >
>>84 > >「棺ありて槨なし」の埋葬形式
> 今頃マジで言ってるのですか?
>ホケノ山古墳の年代について
>今回の発掘は、疑問点があまりにも多い。
>まず、「木槨木棺墓がみつかった」「木の枠で囲った部屋があり、その中心に、木棺があった」という。
>この事実じたいが、ホケノ山古墳の築造年代が、「邪馬台国時代に相当する三世紀中頃」という判断を疑わせる。
>「魏志倭人伝」には、倭人の葬式は、
> 「棺あって槨なし。」
>と、明記しているのだ。木槨のなかに木棺があったのでは、「魏志倭人伝」の記述に合っていない。
>「三国志」の著者は、葬式には、関心をもっていた。 たとえば、
> * 「韓伝」「夫余伝」では、それぞれ、「槨あって棺なし」、
> * 「高句麗伝」では、「石を積みて封となす」、
> * 「東沃沮伝」では、「大木の槨を作る、長さ十余丈」
>などと、いちいち書きわけている。
>畿内の「木槨木棺墓」も「竪穴式石室墓」も、「棺あって槨なし」にあわない。邪馬台国が、かりに大和にあったとすれば、魏の使は、それらの葬式を見ききせずに記したのであろうか。
>木槨木棺墓」や「竪穴式石室墓」、さらには「横穴式石室」は、時代の下った「隋書倭国伝」の、
> 「死者を斂めるに棺槨をもってする」
>という記事と、ぴたり一致する。中国人の観察、弁別記述は鋭い。
>北九州で多量に発見される甕棺墓や箱式石棺墓なども、「棺あって槨なし」の記述に合致するといえよう。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/hokenoyama.htm
145 :
本田:2006/01/16(月) 02:59:01
>>81 >ホケノ山古墳の年代について
>
>画文帯神獣鏡がでたことなどは、古墳の築造年代をきめる上で、なんの参考にもならない。
>画文帯神獣鏡は、全国で、およそ150面出土しているが、ほとんどは、四世紀代の古墳から出土している。
>なかには、埼玉県の稲荷山古墳や、熊本県の江田船山古墳のように、五世紀末の、雄略天皇時代のものとみられる古墳からも出土している。
>そして、「神獣鏡」は、長江下流域の中国南方系の鏡である。
>中国北方の魏と交際のあった邪馬台国の鏡として、ふさわしくない。
>平原古墳の39面の鏡などは、すべて、中国北方系の鏡である。
>卑弥呼が、魏からもらった鏡はすでに中国の代表的考古学者、王仲殊氏、徐苹芳氏などが強くのべているように、方格規矩鏡、内行花紋鏡、獣首鏡、き鳳鏡、盤竜鏡、双頭竜鳳紋鏡などであり、三角縁神獣鏡や、画文帯神獣鏡は、はいらない、とみるべきである。
>三角縁神獣鏡も、画紋帯神獣鏡も、卑弥呼が魏からもらった鏡とすると、総数で我が国から600面以上すでに出土していることになる。卑弥呼がもらった100面の鏡としては、数が多すぎる。
>画紋帯神獣鏡も、三角縁神獣鏡とおなじく同型鏡が、数多く出土している。今、出土しているものは、ほとんどが、我が国でつくられたものであろう。いわゆる踏み返し鏡といわれるコピー鏡であろう。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/hokenoyama.htm
>>140 >最近マシになった
★はい、ありがとう
投馬國ではありません。
地理志風俗欄にカキコされているはず!
貴方なりにジックリ読んで下さい。
私は出雲と、解釈しています。
147 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 03:01:05
邪馬台国総本部が畿内にあったとしても
魏の使節はそれをみてはいない。仮に畿内にあっても
邪馬台国の卑弥呼は九州にいるということであろう。
>>144-145 データが古いな。画文帯は3世紀前半から中葉くらいが全盛期だぞ。
本田氏に悪気は無いかもしれないが、あえて言う。
安 本 は 信 用 す る な
古田論破の業績は認めても良いが、その後がいかん。
例の「邪馬台国畿内説を撃破する」で寺沢や石野の論文から
恣意的な引用をしたとして正式に抗議されているじゃないか。
少なくともそれはすでに学者の態度ではない。
>>147 えらく後退した九州説だなw
>>148 >恣意的な引用をしたとして正式に抗議されているじゃないか。
くわしく
150 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 04:10:48
151 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 06:40:06
152 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 06:43:25
古 田 史 学の取り巻きの人で
邪馬台国を宇佐と言ってる人も
いる。
古田史学は層が厚いので情報量が凄い。
>>152 そうか?
「九州王朝の論理」や「総ての国民に捧ぐ」を読むと
まるっきり烏合の衆にしか見えないぞ
第一「東日流外三郡誌」の捏造すら見抜けなかったジャン
アマチュア古代史家の評判はこうだよ
「あそこはたまに面白いことを言うが、層の薄さが致命傷」
古田さんは初期の論文こそ考古成果との整合性を常に念頭に置いていたのだが
いつ頃からか全くかけ離れたことを言い出したな。
東日流外が悪いのか、それともミネルバ書房の方針か?
155 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 07:55:02
古田さんのとこ全てをみてるわけでも信じるわけでもないけど
使えるとこは沢山あるよ。
狗奴国は久留米以南にあったこれは間違いない。
この狗奴国はクマソであり大和政権と対立していた。
一時期相当盛り返し
九州全土を支配域においていた。
ほぼ確実。
156 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/16(月) 07:57:03
何時になっても
>>153-154のレスは付き纏うわけね!
古田氏=捏造は
聞き飽きました。
157 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 07:59:13
漏れは邪馬台国は宇佐説に同意してるから古田説ではない。
ただ、九州についての研究はかなりなされているので
狗奴国の実態がよくわかる。
狗奴国は相当な規模の国であったろうと考えられる。
多利思北孤は狗奴国側に与した人である。
158 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 08:02:19
狗奴国は南北朝時代の南朝になるわけだけど
狗奴国の存在はもっと研究されるべき。
159 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 08:11:43
狗奴国という国名は邪馬台国側からの呼び名で
熊襲は邪馬台国=大和側からの賤称でしょう。
久留米以南の南朝も
自らを倭王と称している。
160 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 08:40:52
ということは神籠石は狗奴国の遺跡か?
161 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 08:49:29
隋書は狗奴国の主観で書かれてて
筑紫国がある、東に秦王国がある中国人そっくりである。
がしかし彼らも私たち筑紫国(倭)が支配してる。
神聖な山、阿蘇山にお詣りしよう。。
そう書いてあるように思う。。
実は二つの主権国家(狗奴国、大和朝廷=秦王国?)が存在していた・・・
162 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 09:22:51
高句麗の碑文にあるように実際
大和朝廷の神功は新羅、百済を服従させたのだろう。
大和=邪馬台国の支配にされていたから
新羅は本来は仲の悪い狗奴国とも
同盟関係を結べたのではないか(磐井の乱)
163 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/16(月) 09:40:13
《狗奴》
外見は
身体が比較的小柄で多毛種、まるで子犬のような人々(狗)で、構成される(奴)国
そのような印象で当て字された国
…狗奴國…
邪馬壹國メンバーの一国
164 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 10:25:04
自女王國東度海千余里 至狗奴國 雖皆倭種而不屬女王
後漢書の方に記述されている東の狗奴国
は濃尾か出雲、あるいは明石、滋賀の勢力だと考えている。
これは、魏志の頃の久留米以南の
女王国敵対勢力狗奴国が女王国の傘下入ったか、脅威が薄らいだ為
「後漢書」編纂当時は狗奴国の解釈で混乱し
東の敵対勢力を狗奴国と解釈したのではないか・・・?
それは方墳系の古墳を築造する勢力かもしれない・・・
二つの狗奴国が存在する・・
これは中国の編纂者に生じた誤解によるもので
二つの別々の女王国敵対勢力を
それぞれの時代(魏志、後漢書)
で記述したものではないか?
165 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 10:30:51
女王国(邪馬台国)の敵対勢力は本州、九州にモザイク状に存在する。
国内にも不満分子はいる。
魏志、後漢書、南と東の二つの狗奴国の解釈
狗奴国とは女王国敵対勢力を象徴した存在として解釈すべきではないか
中国人はこの複雑な分裂国家状態を理解出来なかったのであろう
>>165 女王国の敵がモザイク的に存在したり、狗奴国がその中心的な存在だったり
その様になった背景や起因要因を説明していただかないと、単なる妄想物語に成ってしまいます。
歴史は、流れです。
女王国が出来た背景、或は邪馬台国の誕生等とも関係すると思いますので
詳しい説明が欲しいところです。
南と東に有る狗奴国
魏時と漢時と言う、時間の開きが有るので
決して不自然では有りません
漢時、東に有った狗奴国の勢力が、魏時には縮小したに過ぎないのでは?
>>167訂正
東に………×
東にも……〇
失礼しました。
169 :
たまご:2006/01/16(月) 13:35:22
古事記には、
イザナギノミコトが
左目を洗った時に天照大神が生まれた
右目を洗った時に月読命が生まれた
鼻を洗った時に須佐之男が生まれた
と、書かれている。
天照大神=卑弥呼
月読命=伊都国王
須佐之男=狗奴国王
として、
この、左目、右目、鼻、がもし地理を表しているとすれば、
右目は伊都国(筑紫)、鼻は狗奴国(出雲)、左目は邪馬台国(大和)
と考えられるのでは無いか。
天照大神=鏡
月読命=勾玉
素戔嗚尊=剣
171 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 14:25:18
毎日毎日すごいなここの
172 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 14:46:22
邪馬台国は四国です。間違い無い。
狗奴国は畿内です。間違い無い。
173 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 15:10:32
↑
知ってる地名それだけですか
174 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 15:23:11
大国主
大きい国の主だよな
175 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 15:52:38
↑
いつの時代のこと言ってんの?
176 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 15:54:21
周旋五千余里は四国以外に無しw四国で決まりですねw
177 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 15:55:12
↑
平成
天照大神=左の金玉
月読命=右の金玉
素戔嗚尊=ペニス
179 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 16:33:50
↑和露歌
180 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 16:39:16
道元のチムポは黒人並みの超弩級だったそうな
181 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 16:43:41
↑
肛門に咥えてみたい
182 :
16さい中卒ヒッキー:2006/01/16(月) 16:44:37
僕の意見がファイナルアンサーでよろしいでしょうか?
183 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/01/16(月) 17:29:09
新スレ乙です。
>>6時代錯誤だけど一言。巻向遺跡は邪馬台国とはつながりませんよ。
184 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 17:35:44
根拠を述べて下さい。
185 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/16(月) 17:39:38
安曇さん
纏向は、邪馬台国と繋がります。
186 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/01/16(月) 17:42:07
>>184 その前に「大和説=卑弥呼の墓は箸墓だ!!」なんでしょうか?
187 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/16(月) 17:44:48
>>182 >僕の意見がファイナルアンサーでよろしいでしょうか?
ファイナルアンサーにしたければその様にして下さい。
でも、ブーで、正解ではありません。
残念!賞金0円です。
188 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/16(月) 17:52:54
安曇さん
邪馬台国とは(大倭)と中華で称され、列島を支配していました。半島からの渡来民であり、彼等が列島に弥生文化の基礎を築いたのでしょう。
応答ナシ。では始めます。
まず、「古墳時代引き上げ論」が「巻向が邪馬台国につながる」という
ことの根拠だと想定しています。で、古墳時代の引き上げに有力かと思
われる遺物が、「勝山古墳出土の木材」ですね。橿原考古学研究所によ
ると伐採の時期は199年なんですね。
190 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 17:59:25
南と東の二つの狗奴国に関係してたかどうかまでは分からないが
後漢書時代、久留米以南の勢力は阿蘇山を神聖な山と仰ぎ隋書にまで記述させて
います。彼らは狗奴国の末裔であり邪馬台国の末裔でもある。
鏡を宇佐香春から奪い、保有し三種の神器を主張し隋に邪馬台国の末裔で
あることを暗に主張したのであろうか・・
これらは神功の時代の後応神期の話です。
神功応神一族を九州から追い出したのかもしれない。
(大和地方と甘木朝倉地方の地名の一致はこの影響か・・・?)
神功は山門郡の土蜘蛛田油津媛を討ったが征服まではできなかった、
おの後、熊本の勢力が盛り返し久留米三潴近辺まで奪還したのであろうか。
また、神功は層増岐野(ソソキノ)で大豪族熊鷹を討ち
この地を安(夜須)となずけた
神功の時代この地に宇佐邪馬台国勢力の何らかの拠点(軍事拠点)があったのであろう。
太宰府を含めて一つの都だったのかもしれない。
いずれにしても邪馬台国も宇佐を拠点にしたものと
大和近畿を拠点にしたものと二つありこれらは卑弥呼時代、
応神時代と終始同盟関係にあり、それぞれ周辺国と対立していた。
一つは久留米以南の狗奴国、もう一つは大和周辺の兵庫の熊王や
滋賀県の勢力。
これらは偽書、後漢書でそれぞれ二つの狗奴国として記述された。
そして更に複雑なことに南の狗奴国(久留米以南)は自分たちも
邪馬台国の末裔だとばかりに偽装して隋と外交関係を持とうと
した・・・
>>166 専門家ではないので、証拠までハッキリと示すことはできませんが・・
狗奴国は二つあったことは確かだと思います。
続き
しかし、共に出土した土器の形式が「布留0式」だったんですね。普通
その形式の土器は3世紀後半に比定されます。また、他に有力な証拠が
見つかっていませんし、その木材の利用がいつごろかということも、
はっきりしません。そこが私見のポイントですね。だから、「邪馬台国
弥生時代説」を保守します。
192 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/16(月) 18:03:21
しかし、何度も繰り返しますが
漢の時代(自武帝滅朝鮮)頃、九州に変化が起こります。(天孫降臨:新渡来民の進出)
これが後の邪馬壹國(九州天照一族の誕生)です。
邪馬台国は九州支配から撤退です。
だれか、古墳時代=邪馬台国時代の有力な証拠持ってる人がいましたら
カキコ気盆
>>192 ちなみに邪馬台国の風俗と古墳時代の風俗は違います。詳しいことは
武光さんの「邪馬台国と大和朝廷」に書いてあります。
195 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 18:16:34
ヤマトタケルの熊襲征伐、
神功の土蜘蛛は南豊前、豊後、
肥前、筑後に集中していた、そして大規模です。
これは魏志倭人伝時代の邪馬台国の100年ほど後の時代のこと。
征伐が行われなかった地域は筑前、北豊前である。
邪馬台国宇佐も元々は北豊前の行橋の方に拠点があった可能性が
高いらしい、なぜなら八幡神社は元々行橋の八幡神社が最初とか
ソースらしきものは失念しました、関係ありそうなもの↓
http://www7.plala.or.jp/timei/new_page_15.htm
196 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/01/16(月) 18:19:17
ヒッキーさん、宇佐の有力な遺跡知ってますか?ご教授気盆
197 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 18:21:07
前方後円墳はおそらく方墳と円墳の合体。
198 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/16(月) 18:42:09
>>194 安曇さん
それは、邪馬台国と邪馬壹国を混同しているからです
199 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/01/16(月) 18:45:29
>>198 それは時代が違うということでしょうか?
200 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 18:48:43
どっちにしても女王国敵対勢力が列島に幾つかあったことは確実なので
中国人がそれを把握できずに混乱したまま記述したという
風に考えるとすんなり
201 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/01/16(月) 18:50:12
202 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 18:50:33
古墳のスタートは畿内でしょ。
203 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 18:51:30
×古墳のスタートは畿内でしょ。
○前方後円墳のスタートは畿内でしょ?
204 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/01/16(月) 18:53:01
>>202 2005年5月18日の朝日に
「南九州に最古級の古墳 畿内主導説へ一石」とあります。
205 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/01/16(月) 18:54:07
206 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 19:02:38
水城は国境線です。
住吉大神は旧甕棺地域の豊前邪馬台国迎合勢力
筑前の信仰です。
207 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 19:11:38
初期前方後円墳、前方後方墳地域は応神の東征以前から
何らかの政治的な繋がりがあったと考えるべきでは
神功、応神の強権恐怖政治は周囲の反感を買い、一見征服のように
東征のように映るが実際はその前から緩い同盟関係があった。
208 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/16(月) 19:14:19
>>199 それは違います。
>>200 女王国の敵?は、取り敢えず大倭(邪馬台国)です。107年に帥升が、漢朝に生口160人を土産に請願してますが、
これは、邪馬壹国との和睦仲介と読みます。
しかし、事成就せず漢朝は知らんぷり
209 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 19:21:44
>>206もう少し詳しくお願いします。
大倭(邪馬台国)はどこにあり、邪馬壹国はどこにあったのですか?
それらの関係なども詳しく
210 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/16(月) 19:37:15
>>209 内容からして、私への質問かと思いますので
大倭は最初、列島全体支配でした
魏時の頃は、九州と四国の一部以外(本州中心)体制と その時期の中心地は現大阪府では?
211 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/16(月) 19:40:28
212 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 19:48:35
>>211 レス潘間違えました、失礼します。
内容は判りました、少し検討してみますね。
213 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 20:07:11
神功の恐怖政治の原因は一つは新羅のせいかもしれない。
この当時しばしば新羅が玄界灘沿岸を攻めてきてたらしい、
(土井が浜・古浦弥生人だろうか)
これに業を煮やした神功は筑後・肥前、北豊前、豊後の民に
徴兵、増税などを課した。しかしこれら内陸部の者にとって
は新羅の脅威は現実的なものではなく、
むしろ政府が課した負担だけに
に不満が募った。
214 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/16(月) 20:09:16
漢籍は一文字一文字意味を考えて行くうちに、今まで見えなかった全体像が
見えてきます。
以前、『一文字にこだわり過ぎずに大局を』と、言われましたが
私は逆と、考えます。
一文字や何気ない文章に、注意を払う事により大局が見えるのです。
漢文は中国人が中国人に読めるように書いたもの。
中国人に読めず、日本人にだけ読める漢文なんて在り得ないw
216 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/16(月) 20:49:27
>>215 そんな難しく考えない事です。
もしかしたら
216GET
217 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 21:04:52
>>214 しかし、遺跡や他の史書とも附合させねばいけませんし・・
>>216 簡単なことを小難しくしたいのはあなたでしょうw
どどうしたら、そう言うセリフが出てくるのやら・・・
219 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/01/16(月) 21:33:03
220 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 22:10:38
堀衛門危し
221 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/16(月) 22:25:31
>>217 それは必要不可欠でしょう
安曇さん
邪馬台国と邪馬壹国とは、時空的に重なり合うもの
同時代に、違う場所に存在する地域
邪馬台国(系統)が先に出来、邪馬壹国(系統)が最後に残る
222 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 22:29:22
>>221 ぜひ、それで少し長めの物語書いて下さいよ。
それだけはなんとも
223 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/16(月) 22:32:10
>>218 貴方が考える簡単な事
それが一番難しい事かもね
224 :
サガミハラハラ ◆dOL2PLFNfk :2006/01/16(月) 22:34:10
株さがりそうですね。プラムさんの予想があたったかな?
225 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/16(月) 22:39:51
>>222さん
まだまだ事始め状態ですのであらすじぐらいしか公表出来ません。
壹與の本州侵略行動〜武王の完全制覇迄が未だ殆ど手付かずですし、
226 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/16(月) 22:48:26
>>224サガミさん
下がったとはいえ、ほんの気持ちです。
これから暫くは膠着状態
暫くは手仕舞って、(-。-)y-゚゚゚も一案かと
決算も近いですし、消費税引き上げ・ゼロ金利解除の思惑がチラツキ初めていますので
227 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 22:54:02
ヤマトタケル、景行天皇は実在の人物だと思う。
まぜなら、漏れがそれに関係した血筋だから。
丁度、台与の前後の頃になるんではないかと、
当時も乱れたらしいのでこの時に畿内から派遣されたのではないかな。。
というわけで応神がどうしても先代大王だとは思えないわけ
かならずその前にも畿内に大王はいたと思う。
当時から畿内と豊国は同盟関係にありました。
228 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 22:56:45
株されてるかた、何故円高になると株が下がるんでしょね。
偶然かな?どうも最近そういう流れがあるように思う。
本来は逆なんだけどな
229 :
16さい中卒ヒッキー:2006/01/16(月) 23:03:26
みなさん情報量が多過ぎるためかえって迷路にはまってる気がします。単純に応神王朝からGNPが倍増してるのでこのとき畿内大和と九州邪馬台国との融合があったわけです
230 :
太国:2006/01/16(月) 23:04:44
融合の記事は記紀に無いよ。w
231 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/16(月) 23:05:37
九州邪馬壹國と本州邪馬臺國は、魏時政治的軍事的な睨み合いが続きますが
出雲は、両地域にとって
聖地の様です(宗教的意味合いか)?
倭人伝の記事にも
その様子が書かれています。
(委細は後日)
日本史じゃないが小室直樹の中国原論は一読の価値あり。
日中関係の危うい今こそ中国を分析的に知る必要がある。
>>228 それは迷信!
バブルが弾けてから兜町を操っているのは外人さん
彼等は円安になると、少ない資金で日本の株を買うことが出来
円高になり株を売り『円』現金化し、そして少ない円で大量の自国通貨に、変えることが出来る
だから円高になると株が下がる
輸出入企業の業績云々は建前 企業は為替予約をしているため、為替変動の影響は軽微です。
>>228さん
ついでに、
一月下旬は外人動向に要注意!
新年に入り外国人ファンドマネーが新に設定されるから
彼等は決して株高では動きません。
自分達で買いやすい値段迄平気で売り叩き、青く成って慌てて売ってくる国内ファンドの安値の株を買いあさります。
これが決算時期を利用した時間差攻撃です。
235 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 23:44:14
>>233 素晴らしい分析です、驚きました。
マスコミでもそういう分析は聞いたことはありません。
経済学の本にも載っていないのでなぜなのか疑問でした。
なるほど、そういうメカニズムだと納得できます。
いえいえ!
お役にたてて光栄です。
ここでも株トレーダーの方々がかなりおられるようですね。
ついに雑談スレに成り果てたか・・・
>>227 建部氏?
日本武尊というのは、皇族出身の大将軍というような称号だと思うが。
そして建部というのは職業部で、兵士だと思う。
240 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 02:47:42
邪馬台国は諏訪ですよ。
陸行1月って書いて有るだろう。
1ヶ月も歩かなきゃ行けない所なんて
よほどの内陸部だろうから
諏訪しか考えられない。
241 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 04:20:10
242 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 05:14:17
243 :
太国:2006/01/17(火) 09:35:20
諏訪だったら、魏志倭人伝に九州から諏訪までの道程の途中に、畿内政権の場が
ある旨の記述がなければおかしい。それとも道程の途中どこかわき道で素抜きを
して諏訪まで行ったとか、伝の記述の女王国以外の某国がそれ(大和政権の国)に
当たってるとか言うのかね?w まあ外れだな。
244 :
白木人 :2006/01/17(火) 09:42:33
海岸沿いの道しか進めないのかも、内陸は熊がいてて歩くのが怖いとかで
245 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/17(火) 09:49:13
株では儲からないでしょうに。
株で儲かればみんなやってますよ。
一部の儲けてる人をみて自分も儲かると思い
株に手を出すのは正直愚かのような気がしますが。
そういう人が多額の借金抱えてミリオネアにでも
でるんでしょうw
246 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/17(火) 09:51:41
だいたい畿内が邪馬台国なわけないでしょ。
水行10日陸行1月もかかるとしたら
どの途中にいくつもの国があったはずなのに
それが全く書かれてないじゃないですか。
九州の伊都国くらいまでは刻銘に記されてるのに。
こんなこと16歳の僕でもわかりますよ。
学者や畿内説支持のみなさんの頭の中はいったい
どうなっているのか。
247 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 10:03:01
九州王朝説の人たちは関西にもいるな〜
みてたら影響受けそうでこわい。。。
いつ頃まで日本に二つの国があったのだろうか。。。
蝦夷も一つの国だった可能性強いな、
やっぱり南朝方がそうなのかな
248 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 10:06:53
いずれにしても言えること記紀は殆どねつ造。
遺跡、外国の書物から探るしかない。
九州の王朝は封印されたこれは事実だろう。
いくつか、燃やされた寺跡がいくつかあるし、太宰府も純友の乱以前に
も何度か燃えてる。
>>246 そもそも
認識の違いです。
貴方が主張すべきは『邪馬台国』に非ず『邪馬壹国』です。
もういい加減“目覚めなさい”
250 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/17(火) 10:16:51
邪馬台国と邪馬壹国って違うんですか?
プラムさん、毎日こんなことしてるから
洗脳されたか頭どうかしちゃったんじゃないですか?
だからそろそろ辞めたほうがいいって言ったのに。
不毛すぎますよ。このような作業は。
251 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 10:32:43
邪馬臺國=邪馬壹国
「壹」は「臺」の写し間違い。
これ不動の定説。間違い無い。
252 :
太国:2006/01/17(火) 10:46:28
>>246 そうだろう?w ヒッキーさん。
今日は合理的で good だな。w 同意見。
253 :
太国:2006/01/17(火) 10:51:55
>>248 古史古伝も神武以降、根幹は合っている。捏造ならどの記録が真なのだ?
それとも根幹が真の記録、文献は0か?ww
理由なしでそれを主張するなら、それは貴方の妄想だぞ。
捏造と、封印する合理的利害係る理由と何なのか?w
254 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/17(火) 11:00:46
天皇の神聖化をはかるべく、万世一系の建前が
貫かれているので、記紀では応神や継体が別の王朝の
人であっても血のつながりがあるかのように捏造していると思いますよ。
本当はうざいので隠したかったんでしょうが
古墳等があるので隠すにも隠しようがなくしぶしぶ捏造したんでしょう。
翻訳しても一つとして同じ物が無い状況下に於いての誤写説、どんなもんでしょうか?
紹興本が出て九世紀
その間、沢山の学者さんが『臺・壹』『三国・王国』…etc…
を訂正せず時が経ち
ここ数十年で『誤写』などと定説化するのは如何かと…
私は、たとえ定説化されてようとまずは、原文を基本とします。
256 :
太国:2006/01/17(火) 11:09:54
>>254 ww
雄略、武烈の不評判は隠さなくてかまわなかったのか?w
257 :
たまご:2006/01/17(火) 11:09:57
前王朝の臣団を手っ取り早く従わせる為には、
滅ぼした前王朝の血筋を今の王朝に残す事。
恐らく、数回に渡り王朝交代はあっただろうが、
血筋は途切れてないんじゃないか。
258 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/17(火) 11:15:03
>>256 不評判程度はかまわないでしょう。
かえって全部の天皇が名君だと書くほうが
明らかに捏造っぽく真実味に欠けてしまいますよ。
259 :
たまご:2006/01/17(火) 11:19:39
「卑彌呼」=「俾彌呼」
「俾」は「卑」の誤りでしょう。
誤りで無いとすれば、
「卑彌呼」と「俾彌呼」は、
別人になってしまう。
260 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 11:27:56
いつもながら思うのだがこのスレは
「他人とのかかわりを拒み、妄想を得意げに語るコテハン」と
「ソース、参考文献を挙げて議論を試みる名無し」という
他とは真逆の傾向にあるな。
これがいわゆる「邪馬台国に取り憑かれた悲喜劇」って奴なのか。
そもそも
邪馬臺國=邪馬壹國で考えるから
畿内・九州 不毛論争が成立してるんだろう
初めから分けて考えれば、そんな問題は起こらないはず
そろそろ目覚めなさい!
262 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/17(火) 11:35:14
いい年した大人のみなさんが何をしてるんですかw
あげく邪馬台国と邪馬壹国が別物だの邪馬台国は
小城とかいうところだの突拍子もないことまで言い出すし
まだみなsなんからみればガキの僕でさえ失笑してしまいますよ。
あげく株などに手を染めてるのですか。ライブドアのように
失敗するのがおちだと思いますけどね。素人が手を出して
勝てるほど甘くはないでしょう。
263 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/17(火) 11:56:06
>>262 ヒッキー君
(16歳と仮定し)
いい大人だから許されるんです。
ヒッキー君は、やってはいけませんよ!
君なら解りますよね
君には未だ自己責任がとれない事ぐらい
265 :
たまご:2006/01/17(火) 12:25:11
僕は、「卑彌呼」を人名(固有名詞)とは考えていません。
恐らく「卑彌」は「姫」で、「呼」は王号じゃあいかと
考えています。
>>265たまごさん
卑彌呼とは(人名・職業)の選択枠が存在する
それが、今の所の答えではないでしょうか?
私も、人名ではないと考えます。
267 :
サガミハラハラ ◆dOL2PLFNfk :2006/01/17(火) 13:23:38
邪馬壱国が卑弥呼の時代に邪馬台国と国名を変更したのです。
そのいきさつは、拙書「倭国歴訪 明窓出版刊 絶版」にかかれています。
何故、小城が突拍子もないのでしょうね。
他の説では、ヒミコの墓をあげているのはほとんどないが、小城では桜ケ丘が卑弥呼の墓です。
ところで、かく邪馬台国論の卑弥呼の墓はどこと比定しているのでしょう。
具体的にあげてみてはいかがでしょう。
畿内説=箸墓と言う具合に
サガミさん
>卑弥呼の時代邪馬台国と国名を変更
★卑弥呼は「倭王」
邪馬台国にいるのは「大倭王」
それに、邪馬台国は国名ではなく地域範囲名です。
269 :
太国:2006/01/17(火) 14:42:01
>>258 不評判とは聞こえよく言ったまでで、そんな手ぬるくはないぞ。
強姦犯人には聞こえ悪いので、新聞等は婦女暴行という言い方をするのだ。w
かまわなくは無い。ならば編纂時、全天皇に架空なる悪態を記述しておけば
なお自然に見えて捏造に見えなくなるではないかのう?中途半端ではないか?
自己の説の不利を自己の頭脳で弁解案を想い起いてこれを主張し、論の正当化を
為すのはいくらでも自論が表見的には繕って通っているようだが、
そんなのは全く他人を納得はさせられないぞ。w
270 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 14:47:36
某コテハンはついに電波に成りはてたw
271 :
太国:2006/01/17(火) 15:12:15
ヒッキーさんよ。ああ言えばこう言う式、口は重宝とはよく云ったものだ。
自己説の不利を逆に有利だに口でみせかけて、「かまわん」と言っているだけで
あり、黒を、「いや白でしょう」と口で言っているだけ。論が進展しているよう
に見せかけてるだけで、不利を覆す正論にはなっちゃぁいないよ。。w
272 :
サガミハラハラ ◆dOL2PLFNfk :2006/01/17(火) 16:16:58
邪馬が地域範囲名で台や壱が国名です。
邪馬の台国、邪馬の壱国と言う具合に.
ちなみに、壱はイと発音し、漢委奴国の委とおなじで、台は大壱または大委です。
ようするに、
委奴国も邪馬壱国も邪馬台国も同じ国で時代により国名がかわったのです。
変わった時期もわかります。邪馬壱国へは120年代、倭面土国滅亡後、邪馬台国へは魏から親魏倭王の
金印を貰ってからです。
みなさんの説を見ていると、だんだん「魏志」の内容から離れていって
るような気がします。あくまで、仮説は文献で確定である範囲から立て
て欲しいです。これじゃあただの「珍説」ですよ。
274 :
サガミハラハラ ◆dOL2PLFNfk :2006/01/17(火) 16:55:02
私のは「魏志」からはなれていません。正統派の論議です。
275 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/01/17(火) 17:06:43
サガミさん
范曄の書「後漢書」には、列島の事情がカキコされてます。
しかし、サガミさんの説には「自武帝滅朝鮮」の説明が有りません
その辺りはいかに、
278 :
248:2006/01/17(火) 18:01:59
>>253 記紀全てねつ造かの言い方は言い過ぎました。
しかし、記紀は他の史書にくらべ
かなりねつ造の部分が多くあります。
たしかに仰るように何を信じればいいんだという問題はあります。
でも、そこは他の史記や遺跡等と附合させながら
それぞれの人の経験則などを屈指して解読していくしかないの
だと思いました。
単なる誤記、意図的ねつ造、錯誤等々
書いた彼らの意思を酌み取りながら解読していくしかないのだと思います。
279 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 18:10:01
プラムさん、株式市場の分析は感心いたしました。
ぜひ、その説の納得のいく根拠もいつかみんなに
判るように公開してくださいね。
280 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 18:22:18
サガミハラハラさんは
吉野ヶ里発見以来のこの道のベテランで、
遺跡のことについても書物についても大変詳しいと思います。
しかし、仰る説と他の資料等との附合が常に弱い気がします。
せめて2,3つ程度他方面からの傍証をしてほしいものです。
281 :
太国:2006/01/17(火) 18:26:46
>>278 確かに記紀にも間違いはある。古史古伝とくらべウガヤフキアヘズ朝のあるなしに
問題があ残る。それはまあいいとして、記紀双方で大きな違いは歴代天皇の宝算が
著しく違うのだ。これはどうしたらどう考えたらよいのかだれでも戸惑うだろう。
紀のほうは記より8年遅れて成立した歴史書であることを深考すると、紀の作者が
記の内容を翻して宝算を立てていることになる。この事は舎人親王とそのとりまき
の編者がさらに当時の古書をかき集めて考え記の数字を書き換えたことになるから、
よっぽど自信があったに違いないということなのである。すなわち記の数字は公に
間違いがあったんだということを表明したことになって来る。
だから紀の記述の立太子即位等によって決まる各年月日の記述は確かだということ
を思い知らされる意味となるのだ。ところが、常識から考えて天皇の宝算寿命は
著しく長すぎて信用があるのか?という疑問に陥るのを否めない。
それも2倍暦を考察すればおかしくなくなる。
ということで、記紀に間違いはあるものの厳しい数字の是正主張からして、一致
している個所は古史古伝をも含めて考察するところ、まず問題視する必要は薄い
と観るべきである。記紀にだ、
捏造あるなら、大きな違いの個所が古史古伝にしっかりと記述されてしかるべき
だ。ということで、神武以後の皇統の記述に殆ど誤謬などない。
282 :
サガミハラハラ ◆dOL2PLFNfk :2006/01/17(火) 18:45:14
272の根拠は、魏志倭人伝後漢書東夷伝漢委奴国王印や日本及び半島の地名倭面土国についての書物
を、照らし合わせながら考証し、つなぎあわせるとかような結果がでます。
特に魏志倭人伝が重要です。
283 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 18:46:12
>それも2倍暦を考察すればおかしくなくなる。
そんな2倍しただけで解明できますか?たとえば
中国の歴史書倭の五王と記紀の天皇の即位殆ど一致しないでしょ
284 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 18:48:50
>>282 わかりました、プラムさんの言ってることと基本的に似てますね。
面白い仮説だと思います。検討してみます。
何故仁徳天皇と履中天皇の間で、突然年数が大きく変わるのか不思議だ。
古墳なんか変わらないのに。
286 :
サガミハラハラ ◆dOL2PLFNfk :2006/01/17(火) 18:58:27
276 これはBC108の話ですよね。今のところそこまで研究していませんが。
287 :
サガミハラハラ ◆dOL2PLFNfk :2006/01/17(火) 19:03:35
283 そんなことはありません。2倍年暦(仁徳天皇のところは水増しがある)できれいにあいますよ。
水増しのために年数が大きくかわります。
何故水増しといえるのかというと、中国資料を絶対年代として考察するからです。
サガミさん
倭面土国ですが、史書毎にその名称が変わりますが
その辺りどうとらえますか?
私は全て正解
編纂者の表現方法の違いとみます。
BC108の件は了解です。
289 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 19:20:28
コテの人達はある程度共通の説を持ってるのかな〜
漏れ達ような初心者が理解し難いことも知ってるような。。
コテだけの専用スレをつくるべきかもしれない。
プラムさん、サガミさん、太国さん
専用スレ作ってください。
初心者に理解できない部分があります。
決して嫌みではありませんよw
290 :
サガミハラハラ ◆dOL2PLFNfk :2006/01/17(火) 19:28:55
倭面土国の正しい名は、倭前の国であったとかんがえます。{倭国歴訪の説明とはことなります。研究のけっか、変更いたしました。)
くわしくは、拙書「卑弥呼の登場」をご覧下さい。どのスレかにただ読みで載せていました。
倭の前(中国や半島に向って)の国といういみです。
土は奴と同じ意味です。記録された時代が異なるのです。
倭面上国等は誤写や編纂者の思い違いであるとかんがえます。
291 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 20:23:52
よくわかんないけど素人ながらに大和政権は九州倭国から追い出された勢力が作って
その事実を東征とか言ってカモフラージュしたらしいみたいな事だけは理解できた。
>>289 それはそれはスイマセン
以後注意しながらレスします。
確かにそうですね
私も去年の今頃は……
>>291 それはチト違う!
邪馬台国は列島の殆どを支配していた。(大倭)
そこに紀元前二世紀後半頃九州に、邪馬壹地域(三十国集合体:旧邪馬台地域九州三十国引き継ぎ)と言う新政権が誕生し
邪馬台地域(大倭)は、本州を中心とする地域支配に縮小した。
(後漢書倭傳)
【倭在韓……邪馬臺國】
(魏志 倭人伝)
【倭人在……通三十國】
を、照らし合わせて下さい
294 :
太国:2006/01/17(火) 21:36:29
>>283 当たり前ではないか。w
倭の五王と当時の各天皇とは別人だからだ。即位等が別人なら違うのが当然だ。
委=倭=ゐ と解釈してみる
296 :
三角@名無史さん:2006/01/17(火) 22:24:52
記紀捏造説いいですね。卑弥呼天皇がいない。五王の系図があわない。
さらに推古天皇のとき隋書では男の天皇。すべてでたらめと言える。
いままでは、中国が間違えたとしてた。これからもそうかも知れない。
でも真実は中国があってて日本が間違えたとするほうが、説明つく。
今の日本では真実はいえないのでしょうけど。専門家も食べないと
いけないし、家族があるから、、、
297 :
太国:2006/01/17(火) 22:37:43
>>296 卑弥呼は天皇にあらず。さらに五王は各天皇にあらず、合わぬのが当然だ。
おかしくはな〜い。推古の前はすべて男の天皇だ。だから中国側が誤解することは
ありえることだ。だからこれもおかしくはない。日本でなくあちらの間違いだ。w
憑山負海、鎮馬臺以建都。
分職命官、統女王而列部。
卑彌娥惑翻叶群情、臺與幼齒方諧衆望。
文身點面、猶稱太伯之苗。
阿輩奚隹弥、自表天兒之稱。
因禮義而標ネ失、即智信以命官。
邪届伊都、傍連斯馬。
中元之際、紫綬之榮。
景初之辰、恭文錦之獻。
山に憑き海を負い、馬臺を鎮め以て都を建つる。
職を分け官を命じ、女王を継ぎて部を並ぶる。
卑弥娥は惑翻し群情に叶い、臺與は幼歯にて衆望さる。
文身黥面し、なお太伯の苗と称す。
阿輩奚隹弥は、自ら天児と称を表す。
礼儀により秩を標し、即ち智信もって官を命ず。
邪は伊都に届き、傍ら斯馬に連ぬる。
中元の際に紫綬の栄誉。
景初の時、恭しく文錦の獻。
卑弥呼の墓
既に発掘され調査済
そんなキガス
【徑百餘歩】
規模から想像しても、平原一号墳辺りが有力か?
…立証出来ないけどね…
もしも、平城京建設の際に邪魔になって消滅させられたいくつかの古墳の中に、卑弥呼の墓があった場合
を思うとガクブル。
滋賀県の大津市に倭神社という小さな神社がある。少し盛り上がった土地の上にあり、(丘という程の大きさ
ではない)古墳と思われているので、赤塚古墳と名付けられている。被葬者は倭姫(仲天皇)、と想定されている。
今では古墳としての遺構は存在していない。
302 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/18(水) 10:52:02
博物館の研究員とやらになるのは難しいんでしょうか?
↑
コネ
304 :
日本@名無史さん:2006/01/18(水) 11:35:28
10世紀の釈日本紀に「北倭」「南倭」があり
今の王朝は北倭と書いてあるのですよ。北倭とは本州の倭です。
>>298 それは7世紀の書物ですね、魏志倭人伝では天孫を名乗ってませんよw
真実は暴かれないと思います。なぜなら日本の根幹に関わることだからです。
北倭は九州人を土蜘蛛、熊襲として殺戮しまくったのですから
この熊襲、土蜘蛛の遺跡が出ないのはなぜだかわかりますか?
そして土蜘蛛、熊襲征伐と倭国大乱がいつ頃行われたか知ってますか?
305 :
日本@名無史さん:2006/01/18(水) 11:41:16
蓋國在鉅燕南倭北倭屬燕
蓋國は鉅燕の南,倭の北に在り。倭は燕に屬す。
306 :
日本@名無史さん:2006/01/18(水) 11:58:40
(基礎)
縄文末期列島に、半島から渡来民がやって来て、最先端技術(列島に新しい文化)を元に列島を支配した。彼等は自分達の支配する地域を
『邪馬臺』(ヤマタイ:大きな範囲)[中華認識:大倭]と自称していた。
『邪馬臺』には、漢時“百餘國”(沢山な国)が有り、その中の九州を中心とする三十国程の国が
漢朝の属国体制下となり、漢人達がその範囲内で自由に活動出来た。
308 :
日本@名無史さん:2006/01/18(水) 12:29:49
魏志倭人伝のだいぶ前から近畿に王が居て東北まで自らの子を
将軍として派遣し支配をしていました。
豊国に軍事拠点を置き、
景行、大屋田子命が伊都国、奴国に入ったとき
倭国大乱として魏志に書かれることになった。
魏志の時代にはまだ須恵器等は出ない
>>308さんから『倭国大乱』の文字がでたので、その起因を少し
後漢書 倭伝に
朝見記録が二回カキコされています。
別に、漢時二回だけの朝見の筈はなく、何十回かの朝見行為の中で、この対比する二回の記録をカキコすることにより范曄は、倭国大乱の起因を説明しているのです。
>>304 >10世紀の釈日本紀に「北倭」「南倭」があり
書いてあるのは事実。
ただし、問答のなかでこの説をどう思うかと問われて、
それは根拠がないと、ばっさり切られている。
>今の王朝は北倭と書いてあるのですよ。
うそ。
311 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/18(水) 23:29:55
スレが停止状態なので!
BC108年以降、大倭支配九州属国地域(三十国)は、新渡来民にその地域を脅かされ
AD57年に至っては、倭奴国男王(大夫)を代表とし漢朝・朝見に成功、大倭から属国体制をも奪い取り
実質的に、『九州邪馬壹属国政権』を確立した
正式に漢朝の属国体制を大倭から奪いとった邪馬壹政権は、それだけに留まらず大倭(邪馬臺)領域である本州にも、しばしば触手を延ばした。
『これが倭国大乱の序曲です。』
この事は、瀬戸内地域に点在する“高地性集落遺跡”が、裏付けます。
312 :
日本@名無史さん:2006/01/18(水) 23:50:52
>>311 高地性集落遺跡だけでは
何処の集団がそうさせたか判りません。
なぜ甕棺が日田より東に伝わらないか、
景行天皇などの土蜘蛛征伐の伝承等々
否定する材料はいくつもあります。
313 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/18(水) 23:57:48
>>312 高地性集落については、まだまだ統一された見解が出ていないし、その
起因もはっきりとは解っていない
私の出した結び付きも、あくまで仮説です。
しかし、話が旨く繋がるんですよ
>>310 これか?
釈日本紀
「問、倭國之中有南北二倭。其意如何。」
「答、師説。延喜説云、北倭可爲此國。南倭女國云々。此説已無證據。」
>問、倭国の中に南北二倭有り、その意は如何に
>答、師説く、延喜説に云う。北倭はこの国と為り、南倭は女国云々。この説、証拠無きぞ
いまどき、超初級のデムパ本でも扱わないようなネタを振っちまった
>>304は
恥ずかしくてクビでも吊りたくなっただろうな。
住所教えてくれyたらロープくらい送ってやるぞw
315 :
たまご:2006/01/19(木) 01:03:05
恐らく「女國」は「女王國」では無いだろう。
「南倭女國」の元ネタは、「梁書」の「扶桑東千餘里有女國」だと思う。
男子の顔が「犬の如し」と書いてる事から、毛むくじゃらの縄文系種族
東国蝦夷か薩摩隼人じゃ無いかな。
316 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/19(木) 08:02:38
57年と、107年の朝見記録が同一性地域とは考えがたいし、単なる朝見記事とも思えない。
57年の朝見は、印綬を下賜されその目的を達成
一方107年は、異例とも言える“生口160人”のお土産付き“願請見”だ
『帥升』の文字と『倭國王』の文字に……
早い話し、この請願は『倭国王』と言う称号だけの失敗請願、本来なら門前払いの扱いを受けるのだが
古い時代の“かつての属国”と異例の土産物、邪険にも出来ず『倭国王』の称号だけで配った事が、読みとれる
317 :
俺等05772:2006/01/19(木) 08:11:28
>>296 宋書の系譜と記・紀の系譜とは一致しない。しかし「讃死して弟の珍立つ」の元の形が「先王
死して弟の珍立つ」だったとすれば、宋書の系譜はB:のように修正でき、記・紀の系譜とは
矛盾しないような結果が得られる。
A:宋書の系譜 B:宋書系譜の修正 C:記・紀の系譜
┏讃 ┏□ ┏履中
┃ ┃ ┃
┗珍 讃 ┗珍 仁徳╋反正
┏興 ┏興 ┃ ┏安康
済┫ 済┫ ┗允恭┫
┗武 ┗武 ┗雄略
318 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 08:14:18
319 :
俺等05772:2006/01/19(木) 08:38:11
>>296 聖徳太子 厩戸天豐聡耳足彦(ウマヤドノアメノトヨトミミタラシヒコ)
天足彦=アメノタラシヒコ
聖徳太子を外国に紹介する時には、「倭王」を名乗っていました。
320 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 09:23:53
上宮厠戸豐聡耳天帯彦
帥升『スイシオ〔ホ〕』
大きな州を率〔統率する)いる
(本州代表者)
どぉやら人名では無いようです。
『魏志 倭人傳』と『後漢書 倭傳』とを照らし合わせて見ると、色々見えてくる。
簡単な所では
『陳儒は』
(帯方郡 ⇔女王国)を12000里
『范曄は』
(楽浪郡 ⇔女王国)を12000里
と、違う地域からの距離を同じとしたという事は
楽浪郡も帯方郡も、使用港は同じと、二つの書から読みとれる。
323 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/19(木) 11:17:49
高木氏の不弥国から邪馬台国までの距離が実質0だから
水行10日陸行1月というふうに帯方郡から邪馬台国への
日程を書いたという説ですが非常に説得力があると思うのですが
いかがでしょうか?実質距離が0ならそれ以上書くことがないので
最後に最初から最後まではこれくらいの日程でいけると書いたんだと思います。
また里数の計算も正確ではないため、大雑把に余里という表現を多用しているため
最終的に不弥国までで10500里程度ですが、水増しして12000里くらいだと
書いたという説もそのとおりのようなきがしてならないんですが。
>>323 高木氏の提示した(餘里説)
一見、理にかなった説に見えますが
史書の中に書き記された500や1000と言う数字の中に、誤差は含んで有りますので また駄目押し的に“餘里”を分けて考える必要性は無いと考えます。
史書の中で“餘里”を使用しているのは海上距離であり、陸地にては使用していません。
概ねな数字に対し、重ねての“餘里”の別計算
かなりな矛盾を感じます。
>>323 ヒッキー君
後漢書倭傳の中に
【去其國萬二千哩】
(郡⇔女王国12000里)
その直ぐ後に
【去其西北界拘(狗)邪韓国七千餘哩】
(郡⇔女王国14000里)
と
一見矛盾と思える様なカキコを見ることが出来ます。
この文章は、
魏志 倭人傳の中にカキコしてある
【乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千餘哩】
を参照し、
范曄独自の補助を付け加えたと、とらえる事が出来ます。
どうして范曄は、一見矛盾ととらえ兼ねない文章を、付け加えたのでしょうか?
ヒッキー君の頭脳なら理解出来ると思い、敢えて問題提示しました。
326 :
三角@名無史さん:2006/01/19(木) 14:05:46
系図があわないと、修正するとあう。なるほどね」。天才では。
あと武王が雄略の根拠がないけど、どのように説明されるのかな?
聖徳太子は、外国では天皇といってたのに、なぜ日本ではいえないの
ですか?
327 :
俺等05772:2006/01/19(木) 18:17:12
>>326 >武王が雄略の根拠は
武王が雄略の根拠は2つ、1つは時系列の一致。もう1つは業績の一致です。
日本書紀の中で呉(宋)との交渉を描いているのは雄略天皇のみ。一方、宋書伝で最も
詳しい記述が倭王武です。したがって、雄略天皇=倭王武 と推定出来ます。あと、学
者の通説となった根拠を自分で調べればよいでしょう。時系列の一致については後で。
>>326 >聖徳太子は、外国では天皇といってたのに、なぜ日本ではいえないの?
質問の意味が理解できません。天皇で無いから天皇といえない。それだけの話です。
逆の質問の方が質問としての態をなしています。何故天皇で無いのに、隋に天皇と称
したのか? それは隋と対等に渡り合うためでしょう。祭祀は天皇、政治は聖徳太子
で分担していたから、外国に対し天皇を称しても、何の問題も無い。
逆に質問ですが、武王が雄略でないと思う根拠は何ですか?
時系列の一致を述べる前に、江戸時代、曜日が京都と江戸で異なっていた話をします。
江戸時代、京都の日曜が江戸の水曜になっていたが、貞享暦の時から正しい京都の曜日に
統一されたました。7曜は空海が日本にもたらしたと云われており、藤原道長の日記にも
記録されていますが、今の曜日と連続しています。詳しくは、内田正男氏の著書「こよみ
と天文・今昔」を見て下さい。 内田氏は「日本暦日原典」の編著者です。
同様な考えをすれば、中国の北部と南部で年の干支がずれていたと考えても、おかしくな
いはずで、魏から宋(西晋)へ朝貢先が変わった時点で、朝貢国の干支に不連続が生じた。
切り替えの時期には混乱が生じたため、記では干支の使われない「干支の空白期間」が
ある。と仮定し「干支のずれ」を六年と計算し、各天皇の在位期間に当てはめました。
328 :
俺等05772:2006/01/19(木) 18:22:22
代 天皇 干支 西暦→ 修正
10 崇神 戊寅 318→ 324
11 垂仁 −− −−
12 景行 −− −−
13 成務 乙卯 355→ 361
14 仲哀 壬戌 362→ 368
15 応神 甲午 394→ 400
421 倭讃、万里貢を修む 425 讃、司馬曹達を遣わし方物を献ず
16 仁徳 丁卯 427→ 433 430 正月 倭国王、使を遣わし方物を献ず
17 履中 壬申 432→ 438
18 反正 丁丑 437→ 443 (讃死して)弟珍立つ
19 允恭 甲午 454→ 460 443 倭国王済、使を遣わし、奉献す
460 十二月 倭国、使を遣わし方物を献ず
20 安康 −− − → (477) 462 三月 倭国王世子興を以って、安東将軍となす
477 十一月 倭国、使を遣わし方物を献ず
21 雄略 己巳 489→ 495 478 五月 倭国王武、使を遣わし方物を献ず
─────────────
22 清寧 −− −− ↑
23 顕宗 −− −− 干
24 仁賢 −− −− 支
25 武烈 −− −− 空
26 継体 丁未 527 白
27 安閑 乙卯 535 期
28 宣化 −− −− 間
29 欽明 −− −− ↓
─────────────
30 敏達 甲辰 584→ 584
31 用明 丁未 587→ 587
32 崇峻 壬子 592→ 592
33 推古 戊子 628→ 628
329 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 18:23:09
330 :
俺等05772:2006/01/19(木) 18:35:24
>>328 改行エラーが出たので、文章を削った結果、説明不足になりました。
表の干支は、古事記に記載されている「天皇の没年干支」です。
331 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/01/19(木) 18:50:52
高木氏の日程説は実は古田武彦氏の説なのです。
この件に関して、古田氏は無断盗用だとして激怒し、随分もめて衆人の関心を集めたこともありました。
つまり、木氏は小説家で、古田氏をはじめ諸説を集めて小説をかいたのです。
332 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 20:35:16
斎宮・斎院と卑弥呼が似ている気がする。
大和朝廷=邪馬台国だとするなら、巫女派と実務派が抗争して、
巫女派が敗れ政界の主導権を失ったとも考えられる。
333 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 22:43:31
http://www.dai3gen.net/ems.htm 記紀に熊県というのがあるが
これは福岡県の隈地方。
直入県は福岡県直方地方か、禰疑野
三萩野という地名は今でも確かあったと思う。
襲国はどこだ?蘇奴国というのがあったな、これか?
筑紫国の兄夷守、弟夷守、これは
魏志に副官で卑奴毋離(ひなもり)
というのが沢山いる。
高来県とは高良山近辺では?久留米の事か?
阿蘇国は今の熊本県
熊襲国は取石鹿文等、鹿のついた名称が多いので
熊本県山鹿地方(菊地地方)か肥前国の鹿島のことか?
毛人、蝦夷とは獣の皮の服を着てるのでそう呼ばれたらしい
決して毛が沢山生えてる民族ではない。
いずれにしても邪馬台国のヒントは時代を同じくする
景行、ヤマトタケルの記述にヒントがある!
真面目に邪馬台国を探したいならここあたって下さい!
334 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/19(木) 22:57:23
>>333 >邪馬台国のヒントは時代を同じくする…
★邪馬台国と同じ時代とは何時の時代でしょうか?
335 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 23:32:10
小狭田彦(香月)というのがいます、かれは八幡を治めています。
記紀にもアマテラスの章に天狭田というのがあります。
長田という地名もあります。
高天原、邪馬台国は八幡、青海原は畿内。
葦原中津国は甕棺墓地域、あるいはそのまま中津か?
景行、ヤマトタケル期は実はアマテラスの前の時代で畿内、出雲人が
本州全域を治めていた頃を記述しています。
彼らが九州に入るのは1,2世紀頃だと思う。
四道将軍は実在してるし、邪馬台国の前の出雲(大和)朝は存在している。
336 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 00:16:48
高皇産霊尊の孫瓊瓊杵尊は
磐井の乱の後に葦原中津国(筑後地方)に
派遣された
物部麁鹿火だと思う。
久留米の高良山の由来だろう高来(高木)とはニニギ(高)が来たことを
意味してると思う。
この山は元々水神(御井神)を祀っていて、玉垂命という
訳の分からない神がいるが、これは征伐された土蜘蛛に
垂という名前がみえるのでおそらく土蜘蛛、熊襲の
頭領を祀ってるのであろう。
>>317 「梁書」
晋安帝時、有倭王賛。
賛死、立弟彌。彌死、立子濟。濟死、立子興。興死、立弟武。
「南史」
晉安帝時、有倭王讚、遣使朝貢。讚死弟珍立、
二十年、倭國王濟遣使奉獻、復以爲安東將軍倭國王。
濟死、世子興遣使貢獻。興死弟武立、
「通典」
宋武帝永初二年、倭王讚脩貢職、至曽孫武、順帝昇明二年、遣使上表
338 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 01:02:05
トーテムも大変重要です、鳥、白、天、日は
魏志倭人伝、東夷伝当時
高句麗、扶余の風習であったと考えられます。
四隅墓の分布、甕棺、石棺の分布も照らし合わせてください。
魏の使節は常に熊襲、土蜘蛛の側と交渉しているのです。
それぞれの傍国の長官、副官の名前が土蜘蛛、熊襲の
名前と一致します。
思う思う思う思う思う思う思う思う思う思う思う思う思う思う思う
だろうだろうだろうだろうだろうだろうだろうだろうだろうだろう
全て妄想ですか全て妄想ですか全て妄想ですか全て妄想ですか全て妄想ですか全て妄想ですか全て妄想ですか全て妄想ですか
340 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/01/20(金) 07:42:10
>>331補足 木氏の小説の中で、神湊上陸説はかれのオリジナルのようです。
341 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 08:05:23
342 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 08:08:56
九州はどこも
水、水沼、水神、隈、熊、赤、鹿の地名ばかりで
筑前の一部以外は先住民色が強いことが判る。
八幡・宇佐が邪馬台国
343 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 08:13:23
ただし、鹿については白、鳥よりは先住民色があるが
鹿も元々は渡来であるかもしれない。
344 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 09:02:32
小城郡[おきのこおり]
佐賀県多久市から小城郡。昔、この村に土蜘蛛
(朝廷に従わない土着民)がいて、小城(城壁)
を造って隠れ、天皇の命令に従わなかった。
日本武尊が巡行なさった時、ことごとく誅罰した。
そこで小城郡という。
スレタイを見直そう
346 :
16さい中卒ヒッキー:2006/01/20(金) 13:30:57
距離も戸数も大月氏にあわせたものと考えたほうが妥当かもしれませんね。逆にいえば邪馬台国は比較的近場にあったので遠くにみせる必要があったということか。携帯からなので書き込みにくい(-o-;)
347 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 15:25:54
348 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 17:50:41
>要するに、後漢書倭伝は魏志倭人伝をコピーしてちょっと直しただけ、というのは間違い、という話だった
>来年あたりに出る古希記念論文集に活字論文としてのせるらしい
なんだよ。何がどう違うの
じいさんみたい
范曄『後漢書・倭傳』が地理志をカキコしなかったのは、陳壽のカキコした地理志で十二分であった為、それに
漢時代の地理も魏時と(規模・位置)変わりがない事を示した。
351 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 18:41:40
>>350 ああ、そうかい、じゃあみんなアンタの書き込み
黙殺して終わりだよw
別に漏れは関係ないけどねw
>>351 『魏志 倭人伝』で、未解決部分?
【…到其北岸狗邪韓国…】の『其』の位置が
『後漢書 倭伝』
【去西北界拘(狗)邪韓国七千餘哩】のカキコにより
特定することが出来る。
>>351 『後漢書・倭伝』に、カキコしてある二つの朝見記録は、倭国大乱の起因を説明している
それより何より、初めて『邪馬臺國』の存在を知ることが出来
その存在は漢時に遡れ、そこに大倭王が居していたことも確認出来る。
354 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 19:09:53
そ、すると畿内あたりか
>>351 ついでにもう一つ
漢時には
【自女王國東度海千餘哩拘(狗】奴國…】
狗奴国がその場所に存在した事を確認出来るが
魏時には
【女王國東度海千餘哩復有國…】
と、狗奴国の確認が出来ない 即ち、魏時に狗奴の支配地域が縮小した事が
読みとれる
>>354 畿内に限定するのでは無く本州(一部四国を含む)とみたい
ただ、本拠地は大阪だと思うが
358 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 19:47:18
魏時には
此女王境界所盡。其南有狗奴國
です。
また、後漢書は後漢の時代を記述していますが、
実際書かれたのは魏志の後です。
これだけで縮小したと言えるのでしょうか?
>>358 確かに、後漢書編纂は五世紀ですが
五世紀当時の事情を混同させ漢時の編纂をしたとは思えませんし、范曄は
陳壽の完璧な編纂書を参照したでしょうからなおさらです。
時代誤認するような学者では、到底編纂事業に携わる事等できないでしょう。
領域縮小の件ですが
今の所私見ですので、その地域で漢時から魏時にかけて何らかの変化があったと、いうことです。
360 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 20:51:08
編纂者の能力を推し量るのは難しいですが、
狗奴国が漢時と魏時で異なるのは同意。
しかし、基本的に記紀の土蜘蛛、熊襲征伐と照らし合わせ
中部九州から南部九州にあると考えます。
記紀では終始、
高天原、出雲の人は九州の人と
戦争に明け暮れていることが書かれています。
葦原中津国も九州です。
其南有狗奴國
361 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/20(金) 21:15:22
>>360 狗奴国の位置について同意
その狗奴国ですが
私見で察するに、先住民族ではないかと考えます。
同じ列島内で有りながら
貴方の申されるように、土蜘蛛や熊襲等
明らかに蔑んだ名称、とても祖を同じくする民族とは思えないカキコです。
『記・紀』ですが
書かれている内容をそのまま現代訳し、時代考証するだけで宜しいのでしょうか?
とてもストレートに扱うことの出来ない“神代記”それを平然と文頭にする正史????
『隠書』と言う二文字が、頭の中を過ぎります。
362 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 21:40:54
>私見で察するに、先住民族ではないかと考えます。
YAP+の存在、征伐された大和政権以外の人の
名前をみますと、
大王系と土蜘蛛・熊襲、蝦夷等は
程度の差はあれどちらもそれぞれ少なからず渡来種と
混血しているものと考えています。
大和=渡来人、それ以外=先住民という
単純な構造はないと考えます。
茨城で征伐された佐伯の名が鳥日子です。
これは魏時の高句麗や新羅の人の風習に一致したトーテム名です。
魏志東夷伝、倭人伝当時それぞれの
国、民族がどういう風習をもっているかよくわかります。
これと記紀の神代を読みますと、出雲に海の彼方から
少彦名、高皇産霊尊が集団で渡来し、高皇産霊尊が
計略を練り自らの子孫である天孫ニニギを
葦原中津国の日向に降臨させます。イザナギの子である
アマテラスは実質的には天孫の降臨にはほとんど手を貸していません。
これは神代に起こったものではないことが、魏志倭人伝の
倭人の風俗から読み取れます。
この天孫降臨は比較的新しい時代、1,2世紀の事なのです。
そして、その前にも天孫とは名乗らない大王が本州にいたのです。
この仮説は出雲の高麗系遺跡と一致します。
記紀の神代といえども妄想を書いてあるのではなく随所に
史実が折り込まれています。
363 :
三角@名無史さん:2006/01/20(金) 22:28:16
武王 サキタマの鉄剣のお名前に武という字がない。別人と見るのが
普通では。名前が違うから、同じ人という考えが理解できない。
武王の記述みて日本書紀を捏造したとみるのが文献屋の結論ですが。
>>362 乙です。
私見ですが
列島に影響を及ぼす(新しい文化の混入)渡来民の流入は、紀元までに大ざっぱに分けて二度と認識しまてます。
本州を領域とする(三世紀現在)大国主一族
九州を領域とする(三世紀現在)天照一族
民族学は全くのド素人
根拠等有りませんので、アシカラズ
365 :
三角@名無史さん:2006/01/20(金) 22:32:27
亀レス 日本海ルートってなんですか?どこいくのですか?対馬どかして
朝鮮半島は、まずいでしょうし、魏もまずい。とすると、呉ですか?
日本海ルートより、太平洋ルートがいいと思うが。
>>365 意図は何でしょうか?
全く読めません。
367 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/01/21(土) 11:46:36
みなさん、大和説と九州説の両方の立場に立って考察してみてはいかがでしょうや?
369 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/21(土) 12:13:10
>>368 安曇さん
そもそも
九州説・畿内説って何でしょうね?
370 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 12:17:11
愚民欺く国家プロジェクトなんじゃないですか?w
>>369 「南」を信用するか「東」にするかの分かれ目ですね。それだけです。しかし
日程記事等も考えると、さらにわけわかめになってしまいます。そして、
「三角縁神獣鏡」が邪馬台国につなげられて、さらにわかんなくなった。
こうなったら喜田貞吉説も想定しないといけません。
372 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/21(土) 12:33:33
魏志 倭人伝に記述されているのは、邪馬壹國
後漢書 倭伝に記述されているのは、邪馬臺國
今まで『壹は臺の誤りだ』とした訂正版でも出ましたか?
あの“ハイショウイ”すら、現状維持ですし、後世の史書編纂者もノーコメントです。
身近な時代の范曄は
当然、卑弥呼が『親魏倭王』の位を下賜されたことは知っていたはず
『壹』の誤りを知って『臺』と、手直ししたのなら
【其大倭王居邪馬臺國】などと書かずに
【其倭王居邪馬臺國】と、カキコしたはずです。
373 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 12:40:21
天神信仰も近畿が起源みたいですよ。
374 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/21(土) 12:48:14
>>371 安曇さん
『方位問題』ですか?
当時の認識が反時計回りに90度ズレていたとか、南へ進んだら海の中
認識問題
裏返せば、当時かなり正確に方位を測定することが可能だったと言う
矛盾に、ぶち当たりますよ『90度ズレて正確に測定出来た』と
『梁書』等複数の資料から判断し、唐以前の三国志の写本の標記は『邪馬臺』が真。
倭人伝の該当文字数の多さから、写本時に『東』を『南』と誤記した可能性は無い。
倭人伝の距離記載に『短里』なる概念は存在しない。
当時の中国での倭地に対する地理感は『会稽の東』『タンジ、朱崖と同じ風土』
『一大卒』では無く『一大率』。
三世紀前半の先端技術土器『庄内式』は、大和、河内、播磨、豊前及び筑前地域に普及。
三世紀前半に遡る古墳時代型集落は、『纏向』『那珂』などだけ。
同時代の有明海沿岸、筑後内陸、豊前地域に該当遺跡は発見されていない。
『箸墓(箸中山)』の築造は早くとも三世紀後半なので直接議論の対象ではない。
『三角縁神獣鏡』の埋納が見られるのは四世紀以降なので議論の対象とする専門家はいない。
376 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 13:18:17
もうわかったんだもん。
だって漏れの祖先が
八幡で邪馬台国の中枢にいたんだもん。
天孫思想も近畿起源なんだもん。
377 :
俺等05772:2006/01/21(土) 13:25:00
>>375 >倭人伝の距離記載に『短里』なる概念は存在しない。
距離の問題については、文献を捏ね繰り回すより、実際に測って比較した方が楽なので、
ディバイダー(コンパス)を使って測ってみました。半島や島にぶつからない事を考慮に
入れて、可能な限り直線距離で測ります。
・仁川から半島南西部の海岸までは 400km, そこから金海までは 300km, 合計 700km。
したがって、七千里= 700km → 一里= 100m or 1km=十里。
・金海から唐津までは直線距離で 約 200km。従って「一海を渡ること千余里」は不正確。
「渡海千余里」の距離は、郡使が体験から出した主観的距離と思われる。
三千里= 200km → 一里= 66.7 m or 1km=15里。
・海路で、志賀島〜難波までが 500km、したがって、海路で仁川〜難波までは 1400km。
仁川〜難波を、海路のみの距離とすると、萬二千里= 1400km。→ 一里= 117m。
金海〜難波を、海路のみで行くなら、五千里= 700km。→ 一里= 140m。
・郡使は金海で乗り込んだ倭人の水先案内人に、狗邪韓國〜邪馬台国の距離を聞き、水先案
内人は金海〜難波の距離を五千余里と答え、編者は合計して萬二千余里にしたと思われる。
・北九州の主要部分は、夜須を中心にして、ほぼ 60km =六百里の円内に納まる。
したがって、末盧から邪馬台国まで二千余里では、北九州域内には納まらない。
>>375 一つだけ
★『邪馬臺』に初めから『真や偽』等は無い
列島は、『日本』と言う名称が出来るまでずっと『邪馬臺』とよんでいた。
【偽】 列島は、『日本』と言う名称が出来るまでずっと『邪馬臺』と呼んでいた。
【真】 列島は、『日本』と言う名称が出来るまでずっと『倭』と呼んでいた。
>>377 俺等さん
誤りが有ります。
この文章を行程記事ととらえた時、郡より出航し乍南乍東し、そして
【到其北岸狗邪韓国七千餘哩】
いいですか!
郡港を起点にした場合、七千余里の着点は『狗邪韓国』では無く『其』なんです。
この事は、私も何度かレスしましたし、范曄もちゃんとカキコしています。
【要確認を】
>>379 『倭』は、元々中華認識から出来た名称でしょう
>>380 『范曄もちゃんとカキコしてい』ないので、論拠となる部分を提示して説明すべし。
ちなみに『其』は指示代名詞ではあるが、呈示文の場合は『到る』の主語でも客語でもない。
単に『北岸』を修飾しているだけ。
『七千余里の着点は狗邪韓国では無く』などと言い放つ根拠とは成り得ない。
後漢書
『大倭王居邪馬臺國樂浪郡徼去其國萬二千里去其西北界拘邪韓國七千餘里』
『范曄のカキコ』とやらが、上の文章のことなら、ここで何度も晒されてるから今更言う事もないだろう。
ついでに言っとくと、この文章の場合も、魏志の場合も地理観はほぼ同じだね。
>>375 おおむね同意だが、豊前に庄内甕の普及は無いと思います。
「古墳時代型」集落の定義も不明ですが、環濠を持たない市場中心的巨大集落ということでしょうか?
それなら纒向、那珂(=比恵)の他に、中河内の中田・東郷、備中の津寺・足守川などがありますね。
三角縁も少なくとも製作は239年には開始されていますし、箸墓が3世紀後半としても同時期前後から埋納は始まると思いますが(4世紀にも埋納は続きますが)
>>377 >距離の問題については、文献を捏ね繰り回すより、実際に測って比較した方が楽なので、
>ディバイダー(コンパス)を使って測ってみました。
できたら、その作業を東夷伝や三国志全体で行ってください。
きっと、距離記述の傾向が見えてきますよ。
>>382 貴方の言われる事が正しいので有れば、何故『其北岸』と言う
表現が、ここで必要になるのでしょう?
それに、
『其北岸』とは何?
ご説明いただきたい。
>>383 確かに『豊前に庄内甕の普及』は言い過ぎですね。
宇佐の赤塚古墳で出土して例があるので、一応含めてみただけです。
三角縁の埋納開始。
『箸墓が3世紀後半としても同時期前後から埋納は始まると思いますが』
ホケノでも出てないですし、大和では未確認でしょう。
一番早そうなのは早良の藤崎遺跡出土鏡でしょうか。
>>385 >『ここで必要になるのでしょう?』
『必要』な理由は『其』が目的地だからと言いたいのですか?
『其』は『邪馬臺國』だか、もう一つの国だと、そう言いたいのですか?
もう少し、意味の通じるようにはっきりと書いてください。
>『其北岸』とは何?
『其』が既知の事物を示す指示代名詞なんだから
それ以前に出てくる『帶方東南大海』か『倭』の北岸しか無いでしょう。
私は、『狗邪韓國』を倭に含めませんので『大海』説ですね。
つまり『帶方東南大海の北岸』です。
で、『范曄のカキコ』はどうなったのですか?
ちゃんと説明してくださいよ。
庄内甕の普及は、河内でも中河内のみ、大和でも奈良盆地東南部のみ、播磨では一部のポイント的な遺跡のみ、筑前は福岡平野の中央のみ。
赤塚の壺は少し下るもので畿内系土器が広く普及しはじめた時期のもの。
三角は土器が小片だが安満宮山は鏡のセットと主体部構造からは箸墓併行でもいいんじゃないの?
また三角と関係の深い工人集団とされほぼ同時期製作の方格規矩鏡が、太田南(安満宮山と同型鏡)、津古生掛から出ており、これらは布留0式平行では?
>>387 私は一度も『其』のポイントを“陸地”等と言ってません。『其北岸』の“其”とは、北岸に対する南側です
そう!貴方の言われる様に『大海』そのもの
着点『其』とは、半島より南或は東南にある、対馬海流に乗れる地点の事です。
范曄は、その事を
女王国⇔拘邪韓国7000里としてカキコしています。
女王国⇔郡は12000里ですよね!
陳壽は、郡⇔狗邪韓国を7000里とカキコし、范曄はその文章を黙認しました。
もう解りますよね
プラム氏
ハイショウイって誰w
ハイショウシでなくて?
>>390さん
ご指摘ありがとう
何時になっても“ハイショウシ”が、カキコすと“ハイショウイ”になってしまいます。
前にも指摘された事がありました。
女王国と狗邪韓国の間が7000里というのは理解できない。
また邪馬「台」国と邪馬「壹」国が別と言うのもクレイジーだよ、それ。
>>392 女王国⇒拘邪韓国7000里が理解出来ないと言われても【…去其國萬二千哩去其西北界拘邪韓國七千餘哩】
と、カキコしてあるので…
……後漢書 倭傳……
>クレイジー
★何故その様に感じるのか?
福岡と福島は同じでしょうか?
クレイジーじゃない解説を要望します。
>>392 【去其國萬二千哩】とは『魏志倭人伝』の【自郡至女王國萬二千餘哩】と、同じ意味で
范曄は、漢時(樂浪郡)も魏時(帯方郡)も使用港が同じだと言っています。
同じ情報を記録しない事が編纂鉄則ですが
范曄は、同じ様な内容記事をカキコする事で、重要事項を後世に伝えたのです。
【到其北岸狗邪韓國七千餘哩】と
【去其西北界拘邪韓國七千餘哩】
まるで違う文章です。
足し算すると幾つに成りますか?
395 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 20:05:13
帯方郡を去ること女王国まで12000里、同じく帯方郡を去ること倭国の北岸の狗邪韓国まで7000里だろ?
文脈的にそうだろが?
邪馬台国と邪馬壹国はどちらが正しいか別にして、前後の記事や他の史書からも同一で(女王=大倭王)、単にどちらかの記述間違いだろうが。
福岡と福島とか、そんなのは議論のスリカエと言う。
だめだこりゃw
まだマトモじゃないな、プラムよ
396 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 20:08:19
>>同じ情報を記録しない事が編纂鉄則ですが
いろんな史書間で同じ情報を転載しまくってますが、何か?
>>389 >>394 小出しにしないで要点だけ書いてくれ。あなたにしか通用しない表現も止めたほうが善い。
世間一般が認めていない貴方独自の認識を理由とするときは
面倒でもその度に説明をつけてくれ。わかりにくい文章がますます理解不能になる。
先ずは >『其北岸』の“其”とは、北岸に対する南側です
全く意味が解らない。
私の>387に対する反論のつもりならそれを否定する理由を書きなさいな。
私達の理解と異なる『其』の用法があるなら類例を示してください。
感情的に「納得しがたい」と言うならそう書きなさいな。
>范曄は、その事を女王国⇔拘邪韓国7000里としてカキコしています。
そのようなことは「カキコ」していないはずだ。
『其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼、去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里』を
読み下してくれ。そうしてくれないと、あなたが何を考えているのか全く解らない。
>范曄はその文章を黙認しました、もう解りますよね
あなたが走考えるのは勝手だが、他人に同意を求めるには、その理由を書くべきだ。
感想じゃない、理由をだよ。
>使用港が同じだと言っています。
そんな細かなことまで言ってないだろうw
>同じ情報を記録しない事が編纂鉄則ですが
そんな鉄則も無い。
>重要事項を後世に伝えたのです。
さして重要なことでもないと思うが・・・
>足し算すると幾つに成りますか?
だから、そういうまどろっこしい書き方はするな!
398 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 20:38:00
↑プラムにまともな議論を求めること自体が無理w
サガミといいプラムと言い、コテハンにはロクなヤシがいないなw
(
>>397は珍しくマトモすぎるコテハンだが)
>>397 解りずらい文章でスマソです
>其北岸
★“北岸”即ち基準地から見て北側に有る岸の事ですよね!すると基準地は“北岸”と言われる所の南側(違いますか?)
その南にある基準地が、海の中にある港からの着点『其』であります。
>感情的
★見えない相手に感情表現しても仕方ないこと
>使用港以下
★個人の主観ですので
いくら説明しても噛み合わないこと必至、コメントを控えます。
>>397 >【其大倭王居邪馬臺國……(省略)…拘(狗)邪韓國七千餘哩】
★その大倭王は邪馬臺と言う地域におり、大倭王の居る国を去こと12000里で楽浪郡の港(港は勝手訳)。大倭王の居る国の西北界の港を去り狗邪韓国に、距離七千余里
>>399 >“北岸”即ち基準地から見て北側に有る岸の事・・・
相変わらず何を言いたいのか解らないが、少し事例を変えて説明しなおそう。
話を簡単にすると地球の一番北は北極だ。
『其』が地球だとすると『北岸』が北極、
『地球に着いた』と『地球の北極に着いた』では意味が全然違う。
それとあなた風の『其』の用例と後漢書の読み下し、
『噛み合わないこと必至』なんて言ってないで、ちゃんと提示してくださいね。
>>398 >コテハンにはロクなヤシがいない
★まともなヤシとは貴方の事ですか?
コテハン外して名無しにした方が宜しいでしょうか?お望みならそうしますけど
名無しの方が風当たりも弱いし、色々便利そうですしそれもいい方法かもね
>>397 貴方の言わんとしている事は、
『郡から7000里、大海の北岸狗邪韓国に着く』(おおざっぱに)でしょう。
でもそれだけの意味ならば『其北岸』等と入れず
【到狗邪韓國七千餘哩】で十分
それなのに、敢えて三文字も増やし【到其北岸…】と…?
>>397さん
長々とお付き合い感謝です。
出来れば
【到狗邪韓國七千餘哩】と【到其北岸狗邪韓国七千餘哩】の違いを御教授願います。
>>400 失礼、更新忘れていて行き違いになってましたね。
やっと解りました。
つまり、こういうことですね。
1. a樂浪郡徼・b去・c其國・d萬二千里
c大倭王の居る国をb去ことd12000里でa楽浪郡
2. b去・c其西北界・a拘邪韓國・d七千餘里
c大倭王の居る国の西北界の港をb去りa狗邪韓国にd七千余里
でも、あなた風の読み方だと距離(d)の両端(aとb)の位置関係がメチャクチャになりますね。
2.の文章を(樂浪郡徼)・b去・c其西北界拘邪韓國・d七千餘里と読めば
1・2の文章は並置的なすっきりとした文章になりますよ。
どうしても納得いかないなら、また漢文板に質してみたら如何ですか?
魏志も後漢書も中国人が中国人に読ませる為に書いた文章です。
あなただけにしか「読めない」文章では史書の役目は果たせません。
陳壽や范曄が未来に出現するあなたの為に残した『暗号』なら別ですけどw
>>404 『到其北岸狗邪韓国』は続く『始度一海』への前振りですよ。
いよいよ倭の地へ渡航開始する臨場感を表現してるのじゃないですか(感想)
>>405 私の解釈は文法的におかしい事は承知しています。
それなのに敢えて異質(一般認識からズレた)な解釈を
試みるのは、
>>404の疑問が常に付き纏うからです。
しかし、邪馬壹國=邪馬臺國は否定しつづけます。
邪馬壹國は邪馬臺國の中に出来た抜け駆けの国
その認識は不動です。
>>406 解説感謝です。
『始度一海』…『初』じゃなくて『始』何ですよね?
他のヤシは全て解決済みでカキコしてるのだろうか?
>>407 要するに全てあなたが『そう思う』ってことだけでしょう。
だったら『范曄が認めた』とか『過去レスで説明(立証)した』とか言う表現は控えるべき。
ましてや、『想像』を根拠に他説の論者を揶揄するような文章は書くべきではない。
それを棚に上げて他人のレスにとやかく言うのも反感買うだけですよ。
410 :
俺等05772:2006/01/21(土) 23:25:11
>>387 >『其北岸』とは何?
魏志倭人伝だけなら色々な解釈が出来るでしょう。しかし、他の文献も入れると、
『其北岸』とは『倭の北岸』しかあり得ない。
『後漢書』 東夷傳 韓
韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西、有五十四國。其北與樂浪、南與倭接。
辰韓在東、十有二國、其北與wai[扁水旁歳]貊接。弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。
凡七十八國、伯濟是其一國焉。大者萬餘戸、小者數千家、各在山海間。地合方四千餘里、東西
以海爲限。皆古之辰國也。馬韓最大、共立其種爲辰王、都目支國。盡王三韓之地。其諸國王先
皆是馬韓種人焉。
馬韓在西、南與倭接。弁辰在辰韓之南、其南亦與倭接。と書かれており、馬韓も
弁辰も倭に接しています。これは陸続きで接していることを表しています。
一方、辰韓にはそのような言い方は無い。海の南に倭があるだけの表現なら、
辰韓についても、其南亦與倭接。と書かれるはずです。接は隣接の意味です。
素人ですが・・・。
魏志倭人伝を読んで(原文は読めませんので訳文しかしりません)、
受ける印象は九州地方のどこかにあるのだろうなと漠然と思ってました。
考古学的には卑弥呼時代大和のほうが先進地域だったみたいですが、
魏志倭人伝は当時の倭の九州地方のことを記載しただけで、
大和については単に知らなかっただけなのではないかと。
また、九州にあった邪馬台国は東遷せず、
最終的には大和地方の勢力に敗れたのではないかと思っています。
邪馬台国が九州にあって大和地方を武力で征圧したとしても、
首都(こういう言い方正しくないですね)を移転しないのでは?
もし東遷したのであれば、逆に九州にあった邪馬台国は大和地方の勢力下
にあり、首都を奪い取ったと考えるほうが自然なのではないかと思います。
大和朝廷は邪馬台国が起源ではないと思います。
このスレが面白かったのでつい自分でもカキコしたくなってしまいました。
根拠は何もない素人の戯言で邪魔し失礼しました。
412 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:28:15
>邪馬壹國は邪馬臺國の中に出来た抜け駆けの国
>その認識は不動です。
電波乙!
>>410 『弁辰在辰韓之南』
辰韓の南には、もう弁辰が挟まってんで倭と接する余裕が無いんですよ、きっと。
>>400 大倭王というのは、范曄が5世紀当時の大和朝廷の実態から考え出した称号で
すね。彼は邪馬台国と大和朝廷が同一だと考えています。「案今之名邪馬と
(?)之訛也」と書いてあります。
>>411 別に遠慮せず参加すればいい事です。
私も一年前は、魏志倭人伝すら知らなかった
一年もすれば、それなりの知識はつきます。
>>412 そのレス内容が電波なら
私は電波を極めたい!
417 :
太国:2006/01/21(土) 23:54:46
>>411 全部ではないが、なかなかいい線行っていますな。
418 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:57:27
もう十分極めていると思うがww
>>418 こんなもんで“極め”ているのですか?
まだまだ“ひよっこ”です。
貴方も何か極めませんか?
420 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 00:09:43
確かにサガミや古田教、古代韓国植民地史観(その逆も)に比べればマシかもねww
程度の問題だが
>>415 >>417 ありがとうございます。
古代史は私のような素人でも気ままに想像できる
余地が残されているので面白いですね。
このスレの皆さんの知識には舌を巻く思いです。
素人の戯言としてもうひとつカキコしたいことが・・・。
渡来人の集団が倭に移住し、大和地方で基盤を作って
大和朝廷の原型を作り上げ、神武の祖先(ニニギ?)が
日向に軍事派遣され征圧し、神武の代に大和朝廷の長になるべく、
東征を開始したのではないかと思っています。
なんとなく戦国時代的な発想ですかね?
これも何の根拠もない素人の妄想です。
「妄想」でも何か一応、根拠があれば、仮説としては成り立つ。また他の説よりもその説の方がより妥当だという根拠も必要。
>>375の『梁書』等複数の資料から判断し、唐以前の三国志の写本の標記は『邪馬臺』が真。
の補足として『臺』の文字の使用例を提示。全て唐代以前に成立した史書。
いずれも魏志の『無牛馬虎豹羊鵲』等と同じような地理説明も伴い、同系列の資料に基づくと思われる。
後漢書【宋 范曄】倭在韓東南大海中〜中略〜其大倭王居『邪馬臺國』
通 典【唐 杜佑】其王理『邪馬臺國』去遼東萬二千里在百濟、新羅東南〜
北 史【唐 李延壽】倭國在百濟新羅東南〜則魏志所謂邪馬臺者〜水行十日陸行一月至『邪馬臺國』
梁 書【唐 姚思廉】倭者〜又南水行十日陸行一月日至『祁馬臺國』即倭王所居其官有伊支馬〜
>>423 『臺』は初めから真ですよ!
少なくとも漢時には、列島の名称は『邪馬臺』です。
>>424 北史 『魏志所謂邪馬臺者也』 「魏志」に言うところの「邪馬臺」也。
>>424 >漢時には、列島の名称は『邪馬臺』です
それだけじゃ、全くもって意味がわかりません。
そんな書き方で他の誰かに自分の考えが理解してもらえると思ってるのですか?
先ほどのようにまどろっこしいレスのやり取りをしないためにも
自分の感想とか願望だけではなく、論拠となる事例を添えて意見を開陳してください。
427 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:40:36
>共通認識さん
まどろっこしいでしょうね。これがプラムのやり口なんです。
過去にもあなたのようにまともな論者が何人もあきれかえっては去っていきました。
彼は知らないことを素直に知らないと言えないし
間違いを指摘されると、話題をそらして逃げるのです。
おそらくは他人に理解してほしいとすら考えていないのでしょう。
もしくは自説と反するものはすべて荒らしだと考えているかです。
428 :
427:2006/01/22(日) 03:48:05
私も何度かそれを諌めたことがあります。
覚えているはずですよ、プラムさんは。
しかしまったく改める兆しが見受けられませんね。
これはもう彼そのものが「無自覚な荒らし」だとしか言いようがありません。
ちなみに名無しで書き込むのは卑怯ですか?プラムさん。
番号コテであなたに忠告したこともありましたが
それでも効果がないのですから、こちらはコテにする気が失せてしまったのです。
最後の忠告です。
「まず考えを纏めてからうpしなさい。ここはあなたの為のみにある訳ではありません」
掲示板のもどかしさっていうか、どうしても
文字数も限られるし、人それぞれの基礎知識も違う。
他の方が言ったことに一々反論してたりしても
正直、疲れるだけですよwなんの進展もありません。
なにせ、共通認識さんのいうように書いてる人に
共通認識がないのが辛いですね〜w
みなさん、もっとネット検索を使いこなして下さいよ。
タブブラウザ(operaなど)は必須ですよ。
常に何枚も資料開いて、ぐぐりまくれば大きく間違えた
事を言うことは少なくなると思います。
430 :
427:2006/01/22(日) 04:02:00
>>429 仰るとおりですね。
基本的に「共通認識」とすべき定説があって
それに反する意見があるのなら具体的に
「このような理由で異を唱える、ソースはこれである」というように
展開しないと、いつまでたっても議論になりはしないのですが
邪馬台国関連のコテはすべからく、この作業が出来ないのですよ。
たぶん感情的な理由で「定説」や「学者」が嫌いなのでしょう。
学問板は妄想発表の場ではないと何度も諌めたのですが、未だ効果はありません。
いい加減疲れています。
それでも
3世紀当時、畿内は統一され、四道将軍も実在し
とっくに本州の大部分が近畿の政権によって掌握されていた
であろうことが確認されただけでも、大きな一歩になったと思いますよ。
我々は世論操作能力のある、学者やマスコミ勢力の間違った
方向性を正すべきでここで揉めるのは控えるべきです。
432 :
427:2006/01/22(日) 04:07:23
>>431 ちょっと待ってくださいよ。
>3世紀当時、畿内は統一され、四道将軍も実在し
これはまだ確認なんてされていませんよ。
3世紀の畿内に統一の兆しはありません。5世紀にやっとそれらしき兆候が確認されるだけです。
ましてや四道将軍?オオヒコのことですか?
鉄剣銘文だけでは実在の証明にはなりませんよ。
433 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 04:14:44
>>1-432 そもそもオマエら
邪馬台国とヤマト政権と大和朝廷の違いがわかってるのか?
わかりました、確認されていないのですか。
それでは、そういうことで今後話ますので
中国読みと日本読み
よーし。ここで議論する限り一通り目を通さねばならない
文献をまずあげてみませんか?
次スレにテンプレに貼るリンク先も。
あと、争点を整理したいのでその辺も。
自分もリンク先などを整理してみます。
とにかく、このままでは全く進展がない。
烏合の衆と化してる。
439 :
427:2006/01/22(日) 04:46:33
この「どこですか」スレは従来どおり主に文献史学の立場から
邪馬台国論争をしたほうがいいと思いますね、私は。
考古資料中心に弥生終末期を考察するのは別に「なったのか」スレが
ありますし、住み分けして荒れるのを回避したほうがいいでしょう。
考古資料を基にすると、もうほとんど畿内説で決まりになりますので
それを容認できない、もしくはしたくないとの立場の方が
史料を中心に語るというのが、このスレの役割ですから。
441 :
大彦命:2006/01/22(日) 05:27:58
>>439 あれ?畿内は統一されているに否定してませんでした?
(四道将軍の実在はともかく)
邪馬台国は畿内にあるが、
畿内は統一されていないということですか?
442 :
427:2006/01/22(日) 05:39:55
>>441 そうです。3世紀の状況に限っていえば
大和東南部と北部は別の文化圏を形成しています。
というか東南部(弥生後期の唐古・鍵も含めて)がやや特殊なんです。
纏向などはその最たる存在で、その為に
過去のどの弥生遺跡とも違う「新設都市」との位置づけがなされています。
443 :
427:2006/01/22(日) 05:45:30
同様に、近江湖南部もかなりあと(4世紀中頃くらい)までは
いわゆるヤマト連合には属していなかったのではないかと見られています。
これは畿内に限らず、九州もそうでして
玄界灘湾岸と有明海、それにいわゆる宇佐などは
各々に独立した勢力だった可能性が高いですね。
宇佐は瀬戸内文化圏に属すると見たほうがいいですし
有明海は中西部との連携が強い。
444 :
大彦命(四道将軍)です:2006/01/22(日) 06:08:45
まあ、何を持って統一というかわかりませんし
地域文化許容してただけかもしれないですよ。
九州の銅剣祭器(実用性ゼロ)は
この地域が外敵の脅威に晒されてた
ことから発展ように思うし。地域の特性を繁栄してる。
自分としては、
戦前の民俗学や古代史研究家が、銅剣銅矛もった九州天孫民族に
本州人は侵略されたというように国民を洗脳してしまい、
さらにその説を
是が非でも立証しようと発掘調査続けてきたもんだから、
今更引き返せないだけのように思う。
元々、九州は水神を祀ってる文化圏で天神とか八幡は
中世になって祀られてるケースが殆どなんですけどね
こういう話はスレ違いかもしれないな〜
しかし、文献といえども他の資料もあたって欲しいな。
445 :
427:2006/01/22(日) 06:25:47
ほえ?
>その説を是が非でも立証しようと発掘調査続けてきた
そういう変わったっつーか天孫族征服史観を唱える考古学者は
いないと思いますが、具体的には誰を指しているのですか?
誤解無きように言っておきますが
いまや考古学の世界は学閥どころか、先輩や師匠の説を否定しまくりで
5年前の論文すら古いといわれる時代ですよ。
このスレなんかで一部の者がたまに喚いているような
既存説や既成勢力に逆らえないなんてまったく無いです。
そのあたりの実態は図書館あたりで「季刊 考古学」のバックナンバーでも
参照にしてください。
もう大家の過去の説を否定しまくってますし
それらの論文を受けて、ほとんどの方が自説を修正しています。
かたくなに鉄器簒奪に拘ってるのは、白石さんくらいかなあ。
446 :
大彦命(四道将軍)なんです:2006/01/22(日) 06:30:01
そうですか、門外漢の妄言でしたw
今後の考古学の進展に是非期待したいものです。
447 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 06:49:59
>>426-427 プラムの弁護ではないが、>まともな方達
と、位置付けられている住人が、邪馬台国スレより消えたのは、決してプラム一人の責任では無いし
その根源をコテで有るプラム一人に全て押し付け、問題解決を図るのは筋違いも甚だしい
『今、スレの現状を見てご覧』
比較的スレタイから、ズレずにレス付けしている住人は、君らが呆れてる彼だよ
よくも懲りずに、毎日連レスだがなww
449 :
太国:2006/01/22(日) 07:32:09
>>439 だから、考古は「考古学」などと言わずに「考古術」と言ったほうがいいんです。
古文献は目的地が画かれている(不完全なるも)地図、ナビであり、
考古術は目的地に徒歩で行くのが面倒なので便利とする(未改良個所ある)自動車
なわけですねぇ。w だから、車幅より細い道、超でこぼこ道は通行不能か
適していないこととなる。駄目な場合がこれにもあるんですよ。
しゃにむに地図等を無視軽視し、自分の頭脳で推理し勝手にあそこだろうとやって
いるのが考古学を万能視している方々だよ。それで失敗してるんですよ。w
450 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 08:09:15
>卑弥呼の墓 既に発掘され調査済 そんなキガス
>【徑百餘歩】
>規模から想像しても、平原一号墳辺りが有力か?
<徇葬者奴婢百餘人>
多量の人骨は出ましたか?
451 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/22(日) 08:24:24
おはようです。
昨夜は、私の批判で盛り上がった様で……
『列島は邪馬臺である』
邪馬臺〔ヤマタ〕=〔ヤマト〕
意味は、大な地域
(ヤマト…) と付く言葉には共通して“大きく・最大・…etc…)
ヤマトとは〔ヤマタホ〕が転訛と、認識
〔ほ〕は 「火」であり
(地面から天に向かって真っ直ぐのびる)と言う意味が有ります。
よって
『邪馬臺』⇒〔ヤマタ・ヤマト〕⇒〔ヤマタホ〕
意味は(大きな火の地域)=列島その物を表す言葉です。
簡単で解りずらいかもしれないけど
そういう認識から
邪馬臺= 列島
となります。
452 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/22(日) 09:11:31
>>450 平原一号墓の環濠に十六体の遺骨?
今、手元に資料がなく記憶範囲内なので、誤りがあればスマソ
>殉葬者奴婢百餘人
私の認識で(百)とは“沢山”と、とらえていますので数字的には解りませんし、その殉葬者が埋葬された位置等も特定出来ないのが現状です。
少なくとも『箸墓説』よりもマトモと考えてます。
453 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 09:21:36
考古術ってなんだよw
邪馬台国しか頭にないがから、都合の悪い結論を出す考古学を軽視、貶めたいのだろうが、検討違いも甚だしいなw
考古学は邪馬台国だけを相手にしてるんじゃないよ。
旧石器時代から近代まで、文字以前も以後も、人類がいた世界各地が研究対象だ。体系的な学問として確立されているが。
>>451の続きとして
邪馬臺⇒(大きな火の地域)から、大国一族を連想したい
大国〔オオクニ・オホクニ〕⇒(大きな火の国)
★大きな火の地域(邪馬臺)を支配するのは、出雲を神聖な場所とする
大きな火の国(大国)一族である
出雲大社の天にそびえる御柱 由縁である『ホ』だと思う。
455 :
太国:2006/01/22(日) 10:07:39
>>453 その「考古学」派とやらが、女王国が九州にあったというのに、古文献を軽視
して女王国の所在さえ間違って主張しているから俺様にそう云われるんだよ。w
考古術というのはそれのみでは間違える事があるのに、電化の宝塔のようにまるで
将棋の飛車のように、大上段にこうだ!とか結論付けるからそう呼んで謙遜すべき
だと、余が抜かしているわけさ。ww
それとも、女王(クイーン)より飛車を可愛がるのかえ〜?ww
456 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 10:24:52
文献が玉だと決めている方が間違い。
また考古学以前から畿内説も有力な一応説だったから文献なら九州と決めつけるのも間違い。
玉を歴史の真実として、飛車角その他の駒が考古学であり文献史学かと。
457 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 10:26:28
まあ考古学に無知な者の戯れ言なので、あまり相手にする気はないですがw
458 :
太国:2006/01/22(日) 11:10:51
記紀に女王国の記述が0に近いのに、畿内なんかにあるわけがな〜い。
先だっても言ったとおり、畿内近隣に女王国があればだ、天皇と卑弥呼の
交流、貿易、朝貢、戦争等が具体的に記紀に記述されるはずだ。
それが「女王国を秘匿した」とか、近隣の住民に筒抜けで卑弥呼の所在が外部に
簡単にもれる状態なのにそんな推理小説のようなことを言って自説を弁護する。
遠方のしかも日本でなく外国の魏志倭人伝に女王国の詳細が載っているのならば、
ごく近隣の、さらに本国にいる女王国が記紀にもっともっと伝以上詳細多岐に渡り
その内容が書かれてよいはずなのにそれがな〜い。
ならば女王国が考古術でいう畿内にあるはずなどなく、九州にあったことは
疑う必要はな〜い。ww
ははぁそれとも、女王は神功皇后だというのか?w
ならば伝に当時の天皇の系譜かそれに近いことが記述されるよ。
女王以外合わないじゃないか?ww
459 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 11:41:43
畿内説側が言ってもいないことを非難されてもねえw
それに記紀とは別の「九州文献」が存在してそれと倭人伝が合致している、というわけじゃないんだから、批判は的外れ。
倭人伝そのものからは九州説も畿内説も成り立つし、それぞれ弱点もあるが、考古学で補った場合は畿内説がより妥当ということ。
まあ認めたくないだろうが。
460 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/22(日) 11:57:18
高木氏の神湊上陸説も宇佐説も、昨日読み返してみましたが
方向がずれてるんじゃないかと思いました。最初読んだときは
おおっと思ったのですがね。。あと卑弥呼の支配力が及ぶ30の国々は
山口や高知や広島とかも含み、その中心が宇佐なので邪馬台国の
場所としてはちょうどいいというものでしたが、ここで僕は
「女王国の東海渡ること1000里国有り」という文章と矛盾が
生じていると思うのです。女王国=邪馬台国だとしたら、なぜ
海渡ること1000里国有りといったようなあたかも邪馬台国圏とは
違う国のような書き方がされているのでしょうか?またその南に
しゅじゅ国?とかいう国もあるようですしね。この点で僕は
高木あき光氏の説も完璧とは言いがたいと思います。
461 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/22(日) 13:03:13
可能性としては神武なる人物と、邪馬台国の王家が
同族であり、応神の代に合体したと考えることもできないことはないですが・・
そう考えると神武の橿原宮より応神の宇佐神宮のほうが
格式が高いのもうなずけます。
462 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 13:07:43
きみら判ってない、なぜ女王国なのか。
万世一系打破だったんだよ。
九州人の知恵だったのさ。
463 :
御前等:2006/01/22(日) 13:21:52
神功皇后の三韓征伐なんて創作なのは確か。白江村の戦いで中国と交戦状態
の日本が中国に朝貢した事実なんて記載したくないだろ。だから卑弥呼の存
在は隠された。それよりおまえら籠神社に伝わる系譜知ってるだろな?おま
えらあの系譜はどう説明するんだ?見解求む。
464 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/22(日) 13:27:42
古代列島には、先住民族・稲作伝承民族・稲作活用民族(勝手に命名)
の三タイプに分類することが出来るでしょう。
その中でも、伝承民族(畿内中心)と活用民族(出雲中心)は、後の列島文明に大きく影響を及ぼす。
(後に統合)
現在、その様子は身近な神社で見ることが出来ます。
465 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 13:35:25
国津神、島津神は東日本にしかいなかったんですよ。
実は彼らも高皇産霊の子孫なんです。
西は土着の人と渡来の人が一緒になり
自分たちで開拓してた。
だから血の偏りがおきなかった、天孫以外の氏姓も沢山いた。
しかし、知ってるでしょうが宇都宮氏など
東の天孫系が中世以降西の支配者になるんです。
なぜなら西は天孫系の支配者があまり居なかったからです。
466 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 13:40:24
出雲の神も反対したのかもしれない。天孫が最初に入った場所だけれど・・
比良、平(ヒラ)って中国地方の方言で縁、端の意味なんですって。
そしてアイヌ語もビラは崖という意味なんです。
じつはこのヒラってアイヌ語、縄文語だったみたいです。
どうりで南九州、沖縄におおい訳だ・・
467 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/22(日) 13:46:55
言い忘れました
神社の他に、現在私たちが使用している言語の中にも存在します。
数詞表示「八」は
何故最大なのか?…etc…
『記・紀』を解釈するうえで基本となる事ですから
468 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 13:54:42
基本的に倭人伝だけでは解けないんですよね。
邪馬台国の比定なんてそもそもナンセンスな話で
総合的にみないと
469 :
太国:2006/01/22(日) 15:19:18
>>459 畿内説が成り立つなら、伝ある外国より著しく近い本国の記紀により以上の記述
があってよいはずだろうが?w
外国のが詳細書いてあって、本国のには殆ど0に近いほど書かれていな〜い。
しっかりしてくれよ。考古術じゃぁこんな程度で畿内にあったか?ww
470 :
太国:2006/01/22(日) 15:22:01
471 :
太国:2006/01/22(日) 15:25:50
>>463 大東亜戦争で日本の敗戦を政府筋が隠すのか?
隠しとおせまいが。それと同様、貴殿の創作説はおかしい。
ネガティブ、雄略、武烈の不評判も記載したくないではなく、記載されている。
472 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 15:43:07
閑話休題
卑弥呼の時代、王城を平野部や港に築くものなのでしょうか?
岡田英弘によると当時大きな河口の平野部などは
マラリアが瘴気を極めていて、とても人が住むようなところじゃなかったとか。
それに四方から攻められやすいし。
中国の渭水盆地のような内陸の盆地に築くのじゃなかろうか?
魏志倭人伝でも「水行十日陸行一月」だから
沿海に沿って船で行き、どこかの港に寄港して
内陸の盆地まで行ったかんじですけど。
そんなところ九州にはないよね。
473 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 15:45:42
倭人伝はほぼ同時代資料でかつ世界有数の歴史記録国による史料
記紀は400年以上後でかつ伝承をまとめた史料。不正確きわまりない。
太国の言ってることは見当違いも甚だしいなw
474 :
太国:2006/01/22(日) 15:46:38
内陸の盆地は可能性大。
九州をくまなく全部周ったのかいな?w
475 :
太国:2006/01/22(日) 15:49:42
>>473 ま〜だ畿内説の夢を捨てきれぬようだな?ww
古史古伝も神武以降は根幹はほぼ同一に近い。ということは、君の考えのほうが
よっぽど不正確きわまりないんじゃないのかい?ww
476 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/22(日) 16:11:02
>>475 太国氏にお尋ねしたく
『記・紀』ではどうして数詞表示〔イチ・ニ・サン…〕を使用せず〔ヒィ・フゥ・ミィ〕を使用するのでしょうか?
もし、ご存知ならば
お教え願いたいのですが!
私見では、〔ヒィ・フゥ・ミィ…〕は貴人 〔イチ・ニ・サン…〕は、庶民だから?
477 :
太国:2006/01/22(日) 16:21:07
記紀のどこへんにその使用のことが書かれてあるんだろう?
註があるからね?
478 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 16:29:51
戦国武将の系譜みてみなって。
女王国がどこにあったかわかるから
479 :
太国:2006/01/22(日) 16:41:49
まあ、8は八咫の鏡、八百万神、八尋殿等は「ヤ」と読むからねぇ。
>476 後者、そのとおりだろうなぁ。w
古神道では「ヒフミ・・・・・」ですねぇ。確かに読み方を重要視して
いますな。言霊となりますよ。その各音意味があるということです。
そういうことからなのですが、ここは学術板がメインなので、言霊とかいう
のは神学的になり、ここでは止めざるを得ませんな。w
太国さん
〔例〕
一百七十九萬二千四百七十餘
【ももよろづ とせあまりななそよろぞ とせあまりここのよろず とせあまりふたち とせあまり よほとせあまり ななそとせあまり】
十種神宝【とぐさのかみたから】
八岐大蛇【やまたのおろち】
八坂【やさか】
その他数々です。
481 :
名無しさん@Linuxザウルス:2006/01/22(日) 16:46:14
岩波新書から、新刊が出ましたね。
佐伯有清著 「邪馬台国論争」
脱稿は2004年12月。その後佐伯先生はなくなられたので、
校正は別の方がされています。
買ってきただけでまだ読んでませんが、必読本でしょう。
482 :
太国:2006/01/22(日) 16:56:04
>>480 >479 のとおりです。その数詞に神秘性があるということで、古神道神道
で論じられているもので、貴下はご存知ではないですかな?
祝詞関係でもそうです。厳格に「ヒフミ・・・」でないと
神々との感応同交にはひっかからないのかもしれませんな?
先述どおり、言霊各音に深長な意味があるとしてこれを重視して
いる派があるようです。
しかし、学術的には平行線的ものでこれ以上は論を遠慮しないと電波
扱いが待ってますので、止めにします。w
>>479太国さん
言霊で板違いですか
でも、『記・紀』を扱う時避けては通れないポイントだと思いますし
基本原点かと
『記・紀』の一部を抜粋しアーでもない コーでもないと、論じるより…
如何でしょうか?
484 :
太国:2006/01/22(日) 17:06:16
>>483 いや〜、本音を言えば古代史の秘密はそれでこそ知ることが出来るんですよ。
しかし、それは大半経験からのことであり、学術板では避けては通れないとはいう
ものの、地についた論とすべきですからここではやらんのですよ。
避けられないとおっしゃるならば、貴方ご本人で内々でやられたほうがいいと
私は思うんですがねぇ。w
イチ、ニイ、サンは漢字一、二、三の音読、ひー、ふー、みーは和語で訓読。
記は序以外は大和ことば、一方の紀は和風漢文で書かれているわけだが、何が問題なのだろうか?
太国さん
そのような事情が有ったとは全くしりませんでした。そうですね
第三者を巻き込んで迄は、私も本意ではありませんし、
しかし
そこに真実を探るヒントが隠されているのならば
敢えて限界まで探ってみます
都合のいいことに
私は“リッパな電波”だそうです
どうせ電波なら、いっぱい飛ばして“放送局”にでもなりますか!!
ワッハハ
為になる情報感謝です。
487 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 17:26:43
>>485 わたしもそう思った。
ちなみに補足しておくと、記は変体漢文などと言われる文体で書か
れていて、中国語と日本語の混合的な表記で、部分的に日本語っぽい
ところ、中国語っぽいところとある。
紀は一応、純漢文などと呼ばれていて、記のように意識的に和文と漢文
を混在させているわけではないが、非漢人執筆の部分には、間違いも
多い。
『柱』
【ひとはしら・ふたはしら・みはしら・よはしら・むはしら・やはしら】
これは、柱数を数える時の読み方ですし、神様を数える時もそう数えます。
この柱数=御柱の数え言葉なのです。
【ひとはしら】=一本だけ(この世にたった一つの太陽を意味するみたいです。)太陽神〔日の神〕
この数詞語〔ヒとつ〕が、数詞言葉の基礎となる数字です。
>>488続き
【ふたはしら・みはしら・よはしら・むはしら・やはしら】
この柱数は、建物を作るとき必要な柱数
複数の人が共通の作業を行うときには、共通認識が必要に成る
そこで生まれたのが、数詞言葉です。
しかし、ここには「いつ・な・ここの」が有りません
建物を作るとき「五本・七本・九本柱」は、基本的になかったからです。
そう言う観念から生まれた最初の数詞言葉が
【ひ・ふ・み・よ・む・や】と、いうことです。
【いつ・な・ここの】の数詞言葉は、後から出来た数詞言葉だと考えます。
だから「や=八」が最大と言う事です
でも
実は【ここのつ】柱もあります。
出雲大社の九つ柱です。
この出雲大社の【ここのつ】柱が 邪馬臺國と邪馬壹國の?をひもとく
ヒントだと考えます。
491 :
御前等:2006/01/22(日) 19:07:01
別に否定するわけではないが、池上曽根の高殿は26本柱だな。
はたちあまりむはしらかあ・・・あっ!気にせずに続きを願います。
>>491-492 ぜんぜん気にしません
色んな意見を聞かせて下さい。
あくまで危険をはらんだ仮説ですから
壊せる時は、遠慮なく“ぶち壊して”ください
『出雲大社』の【ここのつ】御柱ですが 3×3の配列で、真ん中に一本そして周りを囲む様に八本の形です。
【ここのつ】と言う数詞言葉は、この中心に有る柱から出来た様で
『中心の柱⇒心柱』⇒ココロの柱⇒ここのつ
と、なった
【ここのつ】と言う数詞言葉は、元々数〔カズ9〕的意味合いと、言うよりも『中心』と言う意味がありそうです。
『中心』概念は、お隣り中国にも有ったような?
>>491さんが提示してくれた資料ですが
〔八〕の用例が沢山ありましたが
なぜ、〔八〕が 幸運や最大になるかの語源がカキコしてありませんでした。
そして
古代の数え方が、現代の様に十進法や順番に(1・2・3…)並んでいるとは限らない と、付け足しておきます。
そして、数詞言葉【ひとつ〜やっつ】の中には、倍数が三通り含まれている事を……
495 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 21:03:04
>>447 himiko57jp
は博士号を持っています。
496 :
本田:2006/01/22(日) 21:20:18
>>463 > 神功皇后の三韓征伐なんて創作なのは確か。
公孫卑弥呼が遼東半島から馬韓、弁韓、辰韓を通過して、
九州に上陸したことをさすと思う。
497 :
太国:2006/01/22(日) 21:23:20
>>493 プラムさん。よろしければ友清歓真(神道天行居)の
『天行林』『霊学筌蹄』を読んだらどうですか?
いずれかだったか?どちらもだったか?忘れましたが元数盤の解説が載って
いました。内々で参考的に読むといいですよ。
ヒフミを知りたければ多少どちらも得るところあるでしょう。
八幡から出ていると思いますが?w
>>497太国さん
これはこれは感謝です。
この手の分野は初めてで
どっから手を付けてよいやら?
全くもって八方塞がりでした。
太国さん!!
かなり深い所ご存じですね! ククッ
私もこれからは、カキコしても良い部分と、そうでない部分を区分けしながら進んでみます。
もし、間違いを見つけましたら指摘して下さい。
499 :
御前等:2006/01/22(日) 21:54:12
>>496 それなら三韓征伐を記載する必要ないだろ。
ただそれ以降、朝鮮半島との外交情勢が記載されることになる。
500 :
太国:2006/01/22(日) 22:09:48
>>498 プラムさん、どうも・・・。w
その2冊は若干高価本なので、安く略式解説でよいならば、学研の『古神道の本』
の中に友清大人のその件が載っているはずです。
こんなことを深く考察して私は邪馬壹國の『壹』の数の秘密を解いたんです。
おやすみなさい。zzzzz・・・
501 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 23:04:49
「臺」の誤りw秘密など何も無いw
>>501 >臺は誤り
★昨夜もその問題扱ったんだけど 実際の所どうなのよ?
昨夜の結果でも(100%誤り)とはならなかった
仮にも中国正史の版本だよ、世に出る前に校訂ぐらいするだろう。
日本人が【臺と壹】を間違える事は有ると思う。
しかし、漢字だけの中国人が間違えますかねぇ?
その辺の本屋に出回る本じゃあるまえし
〇●100%じゃなければいけない内容ですよ!w
太国さん!はい、おやすみです
>>502 100%誤りです。
>中国正史の版本だよ、世に出る前に校訂ぐらいする
校訂し切れないから色んな写本や刊本が出回ってるんだろう。
全て国立印刷所や王立写本所みたいなところが写刻や筆写をしてるわけじゃないんだよ。
現在、流通しているものは、そのほとんどが、戦乱記に散逸してしまった書物を
個人が所有していた私家版などから再編したもの。
さらに、三国志自体、その編纂は国家事業じゃない、陳壽の個人名で世に出されたものだ。
「正史」と呼ばれるようになったのは清朝のこと。
そう言った基本的事実を無視し(何度も指摘されているはず)た発言だねw
出雲でいいんじゃない
>>503 >現在、流通しているものは、そのほとんどが、戦乱記に散逸してしまった書物を
>個人が所有していた私家版などから再編したもの。
本当に、どこから出てきたもんなんだろうね。
一つぐらい素性が明らかなものはあるんだろうか?
残巻だと敦煌文書とか分かるやつもあるんだけど。
三国志だと、現在、裴註が付いてないものはなさげだから、
どうあがいても劉宋以前には遡れないんだよね。
506 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 02:27:32
507 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 02:30:04
508 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 02:55:45
日子(彦)が渡来とするなら、
もしやミコは
土着の風習なのでは?
どっちが渡来か、否かわからない。
アイヌ語にでもヒントはないものか
509 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 03:24:09
>>503 >そういった基本的事実を無視して
★好きですね!その台詞
では何故100%誤りな事がわかっているのに
改訂版を出さないのでしょうかね?
もしかしたら100%はあなた判断では?
それだったら
ほぼ100%に近い確率で、じゃ無いのでしょうか?
もうこれ以上【臺と壹】の正否を争っても無意味と判断します。
そんな事より
現在見掛ける神社の形態が、二つの大きな勢力(宗教的?)の合体を裏付ける材料の一部になるでしょう。纏向造営時には、少なくともその様子を伺えない。
513 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 08:22:30
平氏(赤旗=先住民の色)はどこに拠点があった?
源氏(白旗=朝鮮人の色)はどこに拠点があった?
南朝はどこに拠点があった?北朝はどこに拠点があった?
水神と共に祀られる平氏、水神といえば西日本だよね。
平氏も貴族だから朝鮮の血は濃いよ、しかし先住民の
反乱だったんだ。あれは単なる権力闘争じゃないんだよ。
南朝しかりだ。よーく考えよう。
記紀、倭人伝、東夷伝、風土記をよーく読もう。
先住民はいま朝鮮人(源氏=東日本人)により根絶やしに
されようとしているのである。
515 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/01/23(月) 08:54:44
大倭とは、ダイと読みます。市場をも管理する人のようです。
当時の市場は、あちこちから人があつまってきて、交換とかするのですが、
そのとき場所のとりあい等のトラブルが発生したりしないように市場を管理
するわけです。
こういうことは、つい最近までテキヤの親分さんがやっており、その方々を
代貸(ダイガシ)といい、その家紋を代紋(ダイモン)といいます。
このダイは魏志倭人伝にでてくる大倭(ダイ)のことです。
つまり、その筋の起源は邪馬台国時代まで遡ることができます。
516 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/23(月) 09:47:16
サガミさんの言われている箇所は
【収租賦有邸閣國國有市交易有無大倭監之自女王國以北特置一大率検察諸國】
でしょうか?
この時文節を
【…大倭監之。…】で切るか【…交易有無。…】で切るかにより
内容が変わって来ると思います。
私は、後者【…交易有無。】です。
サガミさんは、前者と思いますが?
後、ここで出てくる
『國國』と『諸國』の違い等教えていただければ、幸です。
517 :
太国:2006/01/23(月) 15:23:47
>>501 女王国の国名は、魏志倭人伝の中で他の国々と区分けするのに必要な最重要部分だ。
作者が大事な部分を間違えるほどいい加減ではないんだよ。ww
すなわち「邪馬壹國」は九州にあったのだ。
518 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 15:34:13
おまいらが此処でピーピーほざいても
壹が臺の誤りであるとする不動の定説は
永久に変わる事は無いのだよw
残念だったなw
519 :
太国:2006/01/23(月) 15:36:40
Pu! 誤りなら他の国々も誤りか〜?ww
最重要部分を間違えるほど作者は間抜けではないいんだよ。ww
520 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 15:39:25
不動の定説は
永久に変わる事は無いのだよw
残念だったなw
521 :
太国:2006/01/23(月) 15:50:21
それを俺が粉砕してやるのさ。ww
ふっふ!!
「京都」を「東京都」と間違えるのは君くらいか?ww
いいかいw
宮崎県は宮城県じゃあないんだよ。
愛媛県は愛知県じゃあないんだよ。
福井県は福島県じゃあないんだよ。
山口県は山形県じゃあないんだよ。wwwww
鹿島神宮は鹿児島神宮ではないんだよ。
同様にだ、邪馬壹國は邪馬臺國ではないんだよ。〜ないんだよ〜。ww
お前さまは目が乱視か〜?よく倭人伝の女王国の国名を目を皿のように
あけてしっかり見ろ。邪馬臺國とは書いてないぞ。
522 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 16:26:08
ピーピーうるさいねw
不動の定説は
永久に変わる事は無いのだよw
残念だったなw
523 :
太国:2006/01/23(月) 16:29:03
お前様、もう重症だな。ww
haha! 乱視どころか「乱思」だなぁ?治療の見込みがないな〜?ww
524 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 16:32:05
↑
重症なのはお前だろw
大爆笑!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
525 :
太国:2006/01/23(月) 16:40:10
ピーピーなどと言っているところを観ると、ははぁ追い詰められているな?ww
『手負いの死紙』だ〜。www
悔しかったら、論で来い。待ってるぜ〜〜。wwwww
珍寿は今生きてれば言うだろう。
「俺はそんな国名を書いちゃあいないよ。ちゃんと『邪馬壹國』と書いただろう。
おれが主題の国名を間違って書くわけ無いだろう。俺は字の教養があるんだ。
『壹』と『臺』の違いくらい知ってるぜ。何言ってるんだい。w」とな。ww
526 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 16:40:39
527 :
太国:2006/01/23(月) 16:43:09
哀れだねぇ〜まだ眼が覚めないんだから。ww
528 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 17:13:50
哀れなのは
お前だろ
低脳
太国くん
529 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 17:18:16
>それを俺が粉砕してやるのさ。ww
出来もしないくせに、大ボラ吹いてんじゃねーよ。
530 :
太国:2006/01/23(月) 17:24:06
論で来い。
531 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 17:49:19
太国よ、
残念だったなw
>論で来い。
そうだ。
論で行く可きだ。
言っても無理だろうw
あいつのカラーだから
533 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 18:18:18
太国よ、
残念だったなw
534 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 18:21:22
>>534 すごーい
パチパチパチパチパチ
あんな事出来るんだぁー
でも“ヲタ”さんですか?
536 :
太国:2006/01/23(月) 19:30:40
何だろう?残念って?
537 :
太国:2006/01/23(月) 21:42:17
ヲタ君かも知れぬな。ここのスレ
お互いは論説攻撃で叩きあっている。多いに結構だ。がしかし、論説でなくて〜
片や論説無能で人身攻撃で叩いてくるわけだ。何も脳に持っていないんだろう?w
>>537 同意
『君の説は、これこれこお言う意味で間違っているから 改めよ!』
なら
納得がいくし、再検討の材料にもなる!
しかし、その後には必ずオヒレの付いた別レスが飛び込む
実に不愉快だ
そのオヒレは決まって『名無しさん』
仮にコテ付けても、捨てコテ
そのコテにて常駐する訳ではなし 無記名掲示板だからと言われれば、それまでだけど!
……グチッても仕方ないけど……
(PS)
先日、別スレにて
コテ付けるのは100年早いと、言われたけど
学問版なら、普通名前書くだろう。
名前の無いレポートや、答案用紙は、どんなに内容が満点でも実質零点だ!
違うかい?
540 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 22:25:17
それがいやならなんで2ちゃんに書き込むの?
今月の標語。コテ叩きはやめよう!
542 :
太国:2006/01/23(月) 23:21:53
あの漫画を出したくて賀茂禰宜を探してたんでないの?
まあ同一人での話だが?〜?
543 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/23(月) 23:23:36
ところで
『倭』〔ワ〕
この言葉は、古代列島人自ら話した言葉ではなく
中国の『王』〔ワン〕から来た来た言葉
545 :
太国:2006/01/23(月) 23:58:59
英語で1 one は、ワンと言うよ。
>>530 >論で来い。
では、太さん、論で行きましょう。
まず、あなたの問いに対する回答。
>珍寿は今生きてれば言うだろう。
>「俺はそんな国名を書いちゃあいないよ。ちゃんと『邪馬壹國』と書いただろう。
はい、陳壽は間違えたりしていません。
ちゃんと『邪馬臺國』と書きました。
陳壽が『臺』を『壹』と書き間違えたなどと主張する人はどこにもいません。
そんな架空の説を否定しても何の意味もありませんよ。
『臺』から『壹』への誤写、誤刻は陳壽の手を放れたのち、
裴注本を代表とする700年間の写本時代、その後の刊本時代を経て、
現存の紹興本、慶元本刊行までの刊に起こったのです。
わずか数十年の時を隔てただけの2刊の相違はもとより、
既に5世紀の敦煌本の段階で現刊本とは異なる標記が確認されています。
それでもあなたは誤写・誤刻は在り得ないと思いますか?(第一の命題)
また、
>>423に提示があるものの他『太平御覧』搭載魏志等、
唐朝以前に成立した同系統本、引用本の全てが
『邪馬臺國』の標記なのは何故ですか?(第二の命題)
さあ、今度はあなたがこの二つの命題について矛盾なき答えを出してください。
『論』でお願いしますよw
>>546 最低限さん
横レス失礼
太国氏の前に一言!
『其大倭王居邪馬臺國』
後漢書の一文ですが
卑弥呼が下賜されたのは『親魏倭王』です。
すると、『其倭王居邪馬臺國』と、記載すべきでは?范曄の誤認ですか?
>>547 はて?
あなたは「臺」の問題については議論を放棄されたのでは?
さて、王と大倭王に何か重大な意味の違いがあるのですか。
後漢書のスタンスでは倭にはたくさんの王がいますね。
ここで言う「王」は、単なる美称、册封下の正式な称号ではありません。
また、漢代の倭を語るのに次の魏朝の与えた外臣王号は使えませんよね。
そこで、他の小国王との差別化を図るため
大倭王と言う美称が用いられたのだと思いますが、
臺の字問題には関係の無い話ですね。
この問題でご意見があるなら、まずは「北史」の引用文などについても
見解を願いたいですな。
549 :
太国:2006/01/24(火) 08:33:41
最低限、これぐらいは共通認識しろ殿
>>520 >>520 は貴下だったのか?まずそれを聞きたい。話はそれからだ。次〜
で、女王国は畿内にあったと主張するのかい?
まさか前人未到の、伊賀甲賀あたりか知らぬが?w秘境の奥地にあったとは
いわんだろうが?それとも、まさか神功皇后が卑弥呼だとでもいうのかい。
『臺』にえらい自身があるようだねぇ?続きは後でな。w
>>548最低限さん
ご意見ありがとございます。
以前より気になっていた箇所だったので
この機会にお聞きしたまでです。
『臺・壹』問題は、
それなりの確信が持てるまで、流して行こうと思います。
>>549 普通に読んでいても共通認識としろさんではないと思うよ
文脈が全然違うよ。 >論でこい もただ引用しただけでしょ
彼の説明能力は高いし文章の構成が理論的で非常にわかりやすい。
自分にしか見えないものを自分にしか分からない文章で書き
それが他人に理解されなければ他人を否定する輩はうちの会社にもいる
自分にしか見えない貴重なものがあるなら他人にも理解できる
言葉で書けばいいと思う。
552 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/01/24(火) 10:16:07
>>516 私は、「大倭監之」できります。そうでないと、大倭と一大率の権力が複雑になると思います。
「国国」と「諸国」は大体同じであるとおもいます。
553 :
太国:2006/01/24(火) 10:22:16
>>551 まあ、別人だと思います。>論で来い はその無コテハンさんに言いたかったまで
ですよ。最低限殿がそれを取り上げるのは然りですが、気分的にその無コテハン
さんの持ち駒になって余に論を持ってきているように感じますから、
別件だよと明確に言ってもらい、一線を入れぬぐい去って欲しかったからですわ。
気分の問題ですよ、当人から違うと言ってもらえば気が楽ですな。w
逆に >論で来い が畿内派さんに重圧感をあたえたようで、> に応答してくる
のはもっともですが、それで設問をいやでもして来たんでしょうが?w
> はあの無コテハン者に対してのみの抗弁の語ですよ。
>>548最低限さん
>話をはぐらかす
と、横槍レスが入っても困りますので『北史』に対する私の見解を!
★私も『北史』ならびに『隋書』に記載している
【居〔都:隋書〕於邪摩堆則魏志所謂邪馬臺者也】の文章は、知っていました。しかし、この文章を
上手く理解できない為、敢えて触れなかったのが真実です。
私なりに、現代風に解釈してみれば
『東京に住む天皇は、日本書紀で言う所の、日本人である』
何故そんな事をわざわざ?
それに、『邪摩堆』と言う新しい名称の出現に対する『邪馬臺者』と言う、説明でしょうから
…続く…
>>554続き
例え、『魏志』と言う文字が使われていても
ストレートに引用出来なかった次第です。
以前未解決の為、申し訳ありませんが
見解を、きちんと述べる事が出来ません。
>>552サガミさん
レスありがとうございます。
『國國』と『諸國』ですが、あまりにも近い所での使用ですので、かなり意味合いも違った使用と考えます。
私見ですが
『國國』=範囲を限定しない
『諸國』=範囲を限定する
『國國』とは、列島内はおろか半島や大陸との交易を意味し
『諸国』とは、女王国〔三十国体制〕内
では無いでしょうか?
★女王国以北に置かれた『一大率』は、体制内の治安と、大倭に対する牽制を目的とした。
余談ですが
『一大率』とは、
〔一〕=最小
〔大〕=大きな規模・最強〔率〕=率いる・役所名称?
557 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 14:17:36
133 :日本@名無史さん :2006/01/24(火) 13:35:53
新羅は出雲人の国
http://makimo.to/2ch/mentai_whis/980/980828553.html 134 :日本@名無史さん :2006/01/24(火) 14:00:44
新羅人は出雲・丹波・但馬人(銅鐸=鈴、五十猛)かもしれないが。
出雲系が純粋な倭系とは思えない。
彼らは少なからずその前に高句麗の影響を受けている。
だから出雲系(出雲人、初期近畿人、関東東北人)は
当初は高句麗との混血であり、更に新羅からの渡来人と
混血したと考えられる。
だからあそこまで高句麗、新羅文化に拘りがあるのです。
>>548最低限さん
>小国王との差別化を計る為の大倭王
★帝紀に記事が有る『倭國王帥升』これも差別化でしょうか?
そうなると、後漢書の中で“倭奴國王”を除き
小国王<倭王<大倭王
と、規模によっての差別化がなされていると
そう言う事ですね?
それと『魏志 倭人伝』の中に登場する“大倭”は、後漢書に登場する『大倭』と、どの様な関係になるのでしょうか?
疑問を持ったのでレスしました。
559 :
金印紫綬:2006/01/24(火) 17:02:38
>>558 おそらく後漢書の大倭王は、五世紀当時の「倭の五王」の遣使の際、倭国の
様子が伝えられた。そこから考え出されたものだろう。
>>559金印さん
その可能性は薄いとおもいますよ!
それでは『後漢書』の意味が有りませんし、
漢当時の参考資料がなければ、無理に書く必要もないでしょう
つづき
范曄が倭王武の上表文を知っていたかどうかは知らないが、その前の遣使の時
から「大和朝廷」がいかに力を持っているかというのは劉宋の皇帝に伝えてい
たと思われる。これは根拠の無い話だが、讃が「表を奉り方物を献ず」と「宋
書」にあるのだから、その表に当時の倭国の状況が書かれていたとしてもおか
しくはないと思う。また、「帥升」は、おそらく九州を統一した王である可能
性が強い。だから倭国の王という風に記録されたのだろう。
562 :
太国:2006/01/24(火) 17:32:48
九州統一!帥升かどうかまだ何ともだが?その頃の王だ。よって真か真に近し。
563 :
金印紫綬:2006/01/24(火) 17:34:16
>>560 そもそも「後漢書」は、別に「魏志」の時のように「邪馬台国は東の
強国」というイメージを作り上げる必要は無かったのだから、「大倭
」なんて言葉をわざわざ書く必要は無い。
>漢当時の参考資料
とあるが、後漢の時そこまで重要視されていない「倭国」の記録が、
三国・南北朝の戦乱の中でちゃんと残るのかな?
話が飛んだが、まあ率直に言って九州説が成り立つ可能性は30%。「放射式」
をもってしても無理!地図帳見ればわかることだが、仮に「連続読み」をして
も、不彌国と思われる穂波あたりから「水行」できるのは、遠賀川を下るしか
無い。そうなると邪馬台国は東九州に求めなければならないが、東九州に奴国
と思われる須玖遺跡群を超えるような遺跡の存在はまだ聞いたことが無い。や
はり地名と遺跡が一致しなければ邪馬台国を九州に求めることは無理に近い。
また、古墳時代前期は河内平野は湖だった。よって、大和に邪馬台国を
求めるならば、日本海航路しかないと思われる。
566 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 18:31:11
河内平野全体が湖だった訳じゃない。
むしろ弥生終末から古墳前期には河内潟または湖にの沿岸にいくつかの大拠点集落が出来て、外来系土器も多く出て交通の大要衝となる。
旧大和川を通じた奈良盆地=初期大和政権への港としてノゲ大集落群が成立するよ。中田・東郷・小阪合遺跡群や加美・久宝寺遺跡群等がそうだ。
これらの成立により、弥生後期までの日本海ルートに対抗する交易ルートが確立した。
567 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/24(火) 18:33:14
>>561金印さん
『帥升』は、名前ではなく
朝見に訪れた人物の背景を表現した当て字と考えます。(理由は以前レスしたので省きます)
朝見の特長として
・倭国王
・生口160人
・願請見
帥升は、何をお願いしたんでしょうね!生口160人も連れて?
九州には、既に冊封体制下の『倭奴國』が有ります。
上に書いたけど、投馬国は出雲かなとも思うが。むしろ日本海側の交易ルートを牛耳る第三の大国なと。
河内に大きな遺跡がないかのようなカキコには反応してしまいました。
『卑弥呼に下賜された、魏の金印』
妄想してみました。
【魏委奴國王】
…完璧でしょう…
ニタッ!っとする人が、若干名いたりして。
>>549 私は>520氏とは別人。
私のレスのベースは
>>375ですよ。
特に『臺』の字問題については、
>>423 >>546でも補足しましたが、
世間的(古田氏を除けば)には決着のついた問題でしょう。
フリー参加の掲示板ですから、同言うご意見をお持ちでもかまいませんが、
堂々巡りをやめ、議論が散漫化するのを防ぐには、最低限の共通認識が必要だと思いますよ。
反論があるのなら「陳壽が間違えるはずがない」「正史が間違えるはずが無い」等の
一方的なコピーでは無く、『邪馬臺國』説の主張を踏まえたものにしてください。
>>570最低限さん
>一方的なコピーでは無く『邪馬臺國』説主張を踏まえたものにして下さい。
議論する時代範囲も重要かと思います。
スレタイを重視するなら
『魏』の時代を限界とする議論が望ましいかと、私は考えます。
>>558 >小国王<倭王<大倭王
>と、規模によっての差別化がなされていると
>そう言う事ですね?
いえいえ、全く「そう言う事」ではありません。
時系列も違う倭國王帥升を同列で考えてもしょうがないでしょう。
後漢書『使驛通於漢者三十許國國皆稱王』
これが私が便宜的に呼んだ「小国王」です。
この前後の文章は基本的に魏志からの引用です。
これを受けて范曄は魏代では倭を代表することとなる卑弥呼と同等に
「小国王」の上に立つものの存在が必要と考え、
それを便宜上「大倭王」なる美称で呼んだだけだと私は思うと言っているのです。
外交記録に基づく帝紀からの引用部に登場する王達とは「称号」の意義が違うのです。
573 :
太国:2006/01/24(火) 21:27:43
誰かさんが残念とは言っていたがw倭人伝に於ては残念ながら『邪馬壹国』が正解。
よ〜く研究してますなあ、立派です。そういう文献のほうは余は貴下の足元にも
及びませんな。かまととはしませんから。w
以下のとおり、魏志倭人伝のほうは『邪馬壹国』が真であり『邪馬臺国』の書き
間違いではありません。貴下と余とは研究方法が違っていますので、とりわけ
中国の文献を使用してませんし、それが無くても足ります。
現今の教科書等での時代区分は人類発生から縄文弥生等のやり方になっています
がそれはよいとして、太古の古神道関係の区分方法はそんなんではないんですよ。
数で時代の区分をしているんですよ。説明しだすと辞書より厚くなりますので
簡単に説明するしかやりようがありません。いずれ関係書出版の時はなぜなのか
驚異して明確に理解されるでしょうが・・・。
誰が何を言おうと 神武以前は 1 の数字の時代なんですよ。但しアマテラス
の誕生以前は 0 の時代として設定されるものなのです。人類発生から日神の
誕生までですよ。その時代が 0 の時なのですよ。
そして、神武以降は 2 の時代に入るのです。0と1の時代はべらぼうに永い
時間が経過しているものです。(現代は 3 の時代です。)
ところがこの 1 の時代に消化できなかった人類の系統が、ある理由で残存して
しまうのであり、これを 2 の時代に消化せざるを得ない日本の一部民族の系譜
が団を為してあったということなんですよ。これが古代史の秘密なんです。
その残存民族の国が女王国であるのです。
だから 2 の時代の民族ではないよ。 過去の 1 の時代の民族なのですよと
いう意味を示すためにこの 1 を貴重として『邪馬壹国』というのです。
女王国は『邪馬臺国』ではありません。鬼道は特殊神道と解しています。
当時の日本は九州に女王国、畿内に大和朝廷が両者並行に存続していたんですよ。
畿内から遠方の九州の情勢は得られにくい為記紀に殆ど記述できなかったんです。
女王国が畿内にあれば外国の倭人伝より豊富に卑弥呼らの情報が記紀に載ります。
574 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 21:40:34
>>573 北史には魏志に謂う邪馬臺となっている。後漢書、晋書なども邪馬臺国。
少なくとも邪馬壹国とどちらかが書き誤り。
>>中国の文献を使用してませんし、それが無くても足ります。
はぁ?
邪馬台国(邪馬壹国でも)は中国の文献にある話しなのだがw
>>569 ふつうに「親魏倭王」だろ?西域の「親魏大月氏王」と同様の称号?
少なくとも魏志には「魏委奴国王」なんて書いていない。後漢書には「倭奴国王」(=委奴国王)とあるが。
ニタッとするのはあなたの自己満足に過ぎないw
>>571 意味が判りませんが・・・
魏志の記述を重視しろと言うことですか?
では、次の文章は如何ですか?
これは趙宋の奉勅類書『太平御覧』に納められている『魏志倭人伝』です。
まあ、これも現存する倭人伝の異本の一つといえるでしょう。
12世紀末の『蜀刻本』と言うものが残っており近世の刊本とは違います。
倭國在帶方東南大海中、依山島爲舊國百餘小國。
漢時有朝見者、今令使譯所通其三十國。
從帶方至倭、循海岸水行歴韓國、從乍南乍東、到其北岸拘邪韓國七千餘里、
至對馬國、戸千餘里、大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方四百餘里。
地多山林、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。
又南渡一海一千里、名曰瀚海、至一大國、置官與對馬同。
地方三百里、多竹木叢林、有三千許家。亦有田地、耕田猶不足食、方行市糴。
又渡海、千餘里至未盧國、有四千、濱山海居。善捕魚鰒、水無深淺、皆能)沒取之。
東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、曰副泄謨觚、柄渠觚。
有千餘戸、世有王、皆統屬女王。帶方使往來常止住。
又東南至奴國百里。置官曰先ジ馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
又東行百里至不彌國。戸千餘、官多模、副曰卑奴母離。
又南水行二十日至投馬國、戸五萬、置官曰彌彌、副曰彌彌那利。
又南水行十日陸行一月至邪馬臺國、戸七萬、女王之所都。
其置官曰伊支馬、次曰彌馬叔、次曰彌馬獲支、次曰奴佳革是。
576 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 21:45:12
>>女王国が畿内にあれば外国の倭人伝より豊富に卑弥呼らの情報が記紀に載ります。
記紀成立の500年近く前の、暦法さえ定かでない(年数の経過が曖昧な)時代の口承伝承がそのままの形で記紀に伝わるわけないだろw
魏志倭人伝は魏の外交使節による公式記録をベースにした同時代史料。同じ遡上に乗せる自体が間違い。
別に九州の王朝の文献があるわけではないし。
577 :
太国:2006/01/24(火) 21:48:28
>>574さん すみません。言葉足らずで。w
倭人伝以外のことです。いやぁ、ある程度読んでいるのはありますが。w
>>573 はあ、そうですか。
まあ、長文ご苦労様です。
要は議論の余地はないということですね。
議論にならないのであれば、今後は、この問題に関してコピペのような
書き捨てレスはお控えいただけるようお願いします。
579 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 21:52:23
>>576 あと最古の写本の瀚苑(9〜10世紀の写本現存)の魏志倭人伝からの引用文には「馬臺」となっていますよね。
「邪」が抜け落ちているのですが。もとは「邪馬臺国」であった有力な証拠ですね。
>>574みたいになると、文献史学的には反論できないという白旗を上げたとしか見えませんね。後は何の説明にもなってないしw
ただ根拠も無くそう思い込んでるだけでしょ。「1」の時代だから「壹」だって??なんじゃそりゃw
580 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 21:55:50
いやいや、今は日本国ではなく「邪馬参国」らしいな。
「3」の時代だからなw
581 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 21:57:49
チトワロタ
582 :
太国:2006/01/24(火) 22:06:53
各時代に関し、各々首都圏、場があるんですよ。
0 四国
1 九州
2 畿内
3 東京
4 青森
5 函館
6 外国
いずれ、数千年経過すると首都は青森に移ります。それから長年月後には函館
あるいは札幌に・・・・・。
九州は 1 の場なんですよ。それを秘めて女王国を『邪馬壹国』と1の数を
国名に入れてる理由なんですよ。卑弥呼は 1 の時代の区分を知っていたんで
しょうな。しかし九州は「竺紫」とも云います。『竺』には 二 の数字があり
ますな。これは 2 時代の倭の五王朝が 九州に存在したためこの漢字が付い
ていると観ております。
>>575最低限さん
その文章も存じ上げています。
私はそんな事言ってるのでは有りません
魏志 倭人伝のスレなんだから、
後の『倭の五王』の議論等には飛ばずに、魏の時代までの議論を重点的に、したらどうかと
提案しているのです。
584 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 22:18:23
妄想も過ぎるなW
「0」の時代からその後を全て決めていたと謂うのか????
数千年後に青森というのもぶっ飛んでるな。
もう誰もあなたについて来ないと思うよ。さすがにNGワードに指定しよW
585 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 22:21:36
後漢書(5世紀に成立)の記述が出来た背景に、「倭の五王」時代の倭国の状況が反映している可能性があるのは想定されるべき範囲内であろう。
プラムは意図的に議論をスリカエている。
586 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 22:23:51
>>574 >自己満足
★だから妄想と、カキコしてあるでしょう!
>倭奴國王=委奴國王
★違いますね
漢倭奴國王の金印なら、後世の捏造品でしょう。
…返レス不要…
588 :
太国:2006/01/24(火) 22:27:47
>>586 当然名称は判明していません。
プラムさんの主張の
九州 邪馬壹国
畿内 邪馬臺国
の並立は真である可能性がありますな。
>>571 >私はそんな事言ってるのでは有りません
>魏志 倭人伝のスレなんだから、
>後の『倭の五王』の議論等には飛ばずに
はあ?
だとしたら>571であなたが振ったアンカーの意味がわかりませんが?
何故、あの部分を引用する必要があったのですか?
まあ、当然ですが、中国王朝で言えば『魏・晋』でしょう。
ただ、関連があり、本線(邪馬台国)を外さなければ宋でも隋・唐でもかまいませんよ。
同様に記紀や考古も議論の対象になりうるわけですが・・・
590 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 22:40:03
>>漢倭奴國王の金印なら、後世の捏造品でしょう。
>>…返レス不要…
印制度史的にも、考古学的にも、「広陵王」印との比較などからも真印ですが。
全く根拠のない思いつきを平気で書くな!
返レス不用とか謂うなら書くな!
>>588 各史料の比較からは、各史料は相互を参照引用しており、前後の文脈から同一国であることは明らか。
二者の表記のどちらが正しいかは別にして。
>>589最低限さん
それはそうでしょう。
後は貴方のお好きな様に!
>>590 アッハハハハハアー
こうしたプラムは人を喰ったような議論を続けるのであった、、、、、
アホラシw
>>590さんよ!
>全く根拠のない思いつきを平気でかくな
★何故そんなに早く反応するの?
『全く根拠無いのか、そうではない』かぐらいの、勉強をする気は無いのかね!
だから『返レス不要』と書いたのだがなぁー
いや実際、根拠は全くないだろ?
勉強は十分してるつもりですし、、、、、
>>594 そうですか
それは失礼しました。
では、
『ももよろづ とせあまり ななそよろづ とせあまり ここのよろづ とせあまり ふたち とせあまり よほとせあまり ななとせあまり』
これが根拠@です。
これ以上書くと『臺・壹』論になりますので
596 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 23:44:15
意味不明というか議論の流れに関係無し
598 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 00:12:54
今の学生達は、遠回りをしようと竹刀
目の前に人参をぶら下げ、尚且つテーブルの上には、フルコース
その事を特別と竹刀で、当然の状況と判断する。
599 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 03:24:49
邪馬台国は北部九州(宇佐八幡を中心か?)とした本州政権に対する
クーデター政権かもしれない。
元々伊都国、奴国、など筑前、豊前は本州政権の支配下にあったが
その臣民は南の狗奴国的な人達が多く、本州政権に対する
不満が高かった。そんな中、邪馬台国(宇佐?あるいは近畿の一部)
が主導的な立場に立ちこの地域を中心としたクーデター政権を
たてた、それが女王国邪馬台国ではないか?
そうすると、女王連合国家の首都は小城であっても、近畿であっても
小城の土蜘蛛征伐等の関係で否定材料とまでは言えないかもしれない。
(ちょっとわかりにくい文書いてしまった〜)
狗奴国とはその女王国とも本州政権とも連合を組まない
熊襲、熊民、隈民、蘇民、土民だったのである。
狗奴国の人達は頑なに火、水信仰(玉垂命)をもっていた。
600 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 10:41:57
狗奴国は東海が有力
601 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 10:44:23
ぼけ、んなわけあるか↑
602 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 11:05:23
漏れは、方墳を築造する、山陰北陸の連合国と考える。
603 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 11:12:22
方墳は確かに近畿と異質だが、大彦に征伐されて以降は
表だった抵抗は聞かないよ。
それに元々は出雲と近畿は銅鐸族で近縁だよ。
氏族でみても近畿と出雲北陸東海はそう大きな違いはない。
604 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 11:23:45
大彦?
時代が違うだろ。
605 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 11:37:29
おそらく同族同士の争いだろう。
606 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 11:38:32
銅鐸鋳潰して銅矛作ったんだろうw
銅矛連中が銅鐸連中を支配した証明
607 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/25(水) 12:31:39
師升の死後、九州は乱れ、各国同士で小競り合いが起こり
九州の国力が低下します。そこで大陸への交通路確保を
狙う畿内政権が九州を制圧しにきたので、九州では卑弥呼を
中心にまとまってこれに対抗しようということになったのでは?
さらに狗奴国の存在があったので畿内政権とはさみうちに
あうことを避けるため、畿内政権とは同盟関係を結びます。
畿内と交流がしやすいように九州の中心である邪馬台国は宇佐に
おきます。これは畿内が九州にきたとき、税関や防波堤の役割を
果たしていたのでは?宇佐でチェックすれば九州は守られるのです。
なので邪馬台国に最大人口がいたと。そして大陸との外交や北九州各国の治安は
伊都国に一大卒をおき任せているのです。
608 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 12:34:27
三世紀後半〈日族〉は岡山を征し〈備〉を造った。そして出雲を征圧、〈火〉国最後の拠点大阪は、直接なかなか侵攻出来ず、播磨に足止めされた。
609 :
日族:2006/01/25(水) 13:02:16
>プラムさん
プラムさんは太国さんの0の時代1の時代についてはどう思われますか?
>>610 太国さんの言われる、0・1・2・3…時代はコメント出来ないけど
言わんとしていることは
何となく解ります。
『万物は、定められたレール(周期)の上を進んでおり、それに逆らうことは出来ない。』かな?
>>610さんも
一度(ひ ふ み)の世界を見て来たら如何かな!
普通『記・紀』は(ひ・ふ・み…)で読むでしょ
それを敢えて(イチ・ニ・サン…)で読んで見ると
今まで知らなかった裏の世界が、見えるかもね?
612 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 15:58:53
トンデモ。
613 :
太国:2006/01/25(水) 16:03:31
臥海の云う事をストレートに信じていたら、真の古代史の秘密を知ることは
ま〜ず無理だよ。w 古神道を舐めないでね。w
太国は神道をむやみに邪馬台国問題に持ち込み杉。<歴史>を考えるなら、他
の人にわかってもらえるような話を書きなw
615 :
太国:2006/01/25(水) 16:15:45
余は神道をどうのこうのということは殆ど語っていないはずだがね?
古神道だよ。
ただはっきり云っていることは、鬼道が特殊神道だっていうことは主張した。
それに神功以前は儒佛等は日本史では論じる必要がまあ無く、神道に限る
から、出してもやむをえんじゃぁないのかね?w
>>615 <鬼道>が<古神道>だと?だったら古神道がどういうものだったか長文でい
いから解説してみなw
太国は邪馬壱国だと思っているらしいが、一回自分で「魏志東夷伝倭人
の条」を書写してみなw誤写・誤脱なんて常識みたいなもんよw
618 :
太国:2006/01/25(水) 16:36:22
すまん、
>>615 の弁は竜頭蛇尾だったな。w
神功以前は古神道と神道の二つだというのが正だな。
それで、鬼道は神道の方で古神道ではないので、その解説は無〜しです。
以上訂正まで。w
619 :
太国:2006/01/25(水) 16:41:27
>>617 じゃぁ、貴殿が「臺」のほうだと思っていればよいんじゃないの?w
貴殿の脳内まで強制は出来んのでねぇ?
それだけ臥海のお仲間でいたいのぅ〜?w
だがそれじゃぁ、日本史論のオナニーを続けていくだけだよ。ww
621 :
太国:2006/01/25(水) 16:45:25
>>620 だから、神道は神武以降ですよ。古神道は神武以前ですな。
これは私論の時なので、他説も認容できますね。
622 :
金印紫綬:2006/01/25(水) 16:49:40
じゃあ漏れは鬼道は神道じゃなく神仙思想の影響をうけた一種の道教だ
と言っておこう。
623 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/25(水) 16:53:46
>>612 >トンデモ
★たった四文字で、全て片付けて仕舞うことは簡単ですが
どうして『トンデモ』なんだか説明して下さい。
>>金印さん
★太国さんに、長文で説明してもらったとして、理解出来る自信が有りますか?もし、そうで無ければ
貴方が否定意見述べられた方が
多くの住人さんも理解できると思いますよ!
624 :
太国:2006/01/25(水) 16:54:11
なんだかヒッキーさんの論と同調してますなあ。w
コーヒー(古秘=古神道)でなく
カカオ(花果王)孫悟空は日本誕生論かな?ww
それともチョコレート(猪口霊唐)ですかね?ww
625 :
金印紫綬:2006/01/25(水) 17:07:32
>>623 じゃあお言葉に甘えて。
三国志の中に、五斗米道の事を「鬼道」と書いてある。ということは陳寿が
卑弥呼の鬼道と張魯の鬼道を同一視していたことがわかる。普通五斗米道は
道教の元みたいに言われているので、おのずと
>>622のような結論が出ると
思う。また、後に三角縁神獣鏡が古墳に埋葬されるようになるのも、卑弥呼
時代の伝統を受け継いでいるからだと漏れは思う。また画文帯神獣鏡の埋葬
も同様の理由からだと思われる。
626 :
太国:2006/01/25(水) 17:11:56
そう〜? 何と言っても「魏」の漢字自体が『委』と『鬼』だからねぇ〜。w
627 :
金印紫綬:2006/01/25(水) 17:37:47
628 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/25(水) 17:45:01
>>625金印さん
>卑弥呼時代の伝統を受け継いでいる
★伝統を受け継いでと言うより『鏡』は、卑弥呼そのものでは無いでしょうか?『鏡』は太陽であり
鏡を持つと言うことは、何時も卑弥呼が側におり、太陽の子供に成った事を、意味するのではないだろうか?
卑弥呼とは、『太陽(日)の使い』であり
鏡は、その代用的象徴では?
629 :
金印紫綬:2006/01/25(水) 17:55:32
>>628 いや、三角縁神獣鏡の信仰=卑弥呼にしたい訳じゃない。卑弥呼から
台与、台与からその後の王へ・・・という流れだと考えている。
631 :
金印紫綬:2006/01/25(水) 18:35:47
また、黒塚古墳の出土の仕方を見ると、画文帯神獣鏡の方が重んじられ
いるかのようだった。そう考えると、三角より重要なのは画文かとも思
われる。
>>628漏れは鏡=太陽とかより、裏の文様の方に重点を置いて
たと思っている。
632 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/25(水) 19:40:45
>>631 なるほど!
『デザインに、意味が有る!』ですか
ありえますね
そのデザインが何を意味しているかは解りませんが
重要ポイントで、有ることは間違いないでしょう
三角縁でも画紋帯でも、どちらも内区の文様は神獣図で神仙思想がモチーフ。
ただ、三角縁は出土数がとても多いことと、外区の鋸歯紋が倭風と言えなくもないことが特徴。
634 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 22:24:33
三国志の他の箇所に『臺』を『壹』と記述した例はあるの?
636 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 22:41:18
「臺與」を「壹與」
>>635 漢書ならある。
江充伝の「太壹宮」<>「犬臺宮」
顔師古もちゃんとコメントをつけている。
『起動修正』
紀元前二世紀後半、半島より対馬⇒壱岐を通り、九州に侵攻して築いた国域(三十国体制)を『邪馬臺國』と、言う
以前は『邪馬壹國』でしたが訂正いたします。
>>639 あ! 本当だ
全く気が付かなかった
無意識に変換するからこうなるんですね!
ありがとうです。
641 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/26(木) 00:05:23
藤原氏の先祖が宇佐と関連があるのが気になる。
ここらへんに記紀で邪馬台国が隠蔽されてる理由があるのではと
思ってしまう。
643 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 01:17:46
軌道修正して、少しずつマトモになっていく。とても良い事だ。
644 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 01:56:22
邪馬臺國女王之所都=畿内大和
645 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 05:08:08
五十猛はそもそも出雲人のルーツでもあるわけで、
辛島は辰韓で出雲人と同じルーツをもってる可能性があるな。
646 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 05:09:49
647 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/26(木) 07:58:41
邪馬臺國〔ヤマタヒ〕
詰まり、後の(やまとの国)へのプロローグだわな!邪馬は、国名では無い
648 :
太国:2006/01/26(木) 08:02:57
>>627 どうですかねぇ〜?『鬼』字があるのがいやに目立ちますんで〜?
貴殿はどう思うか聞きたかったんですが?w
649 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 08:17:56
吉備の鬼退治は鬼国と関係あるかも、
名前に鬼がつく人いるよね。
縄文系の末裔か。鬼がつくひと古モンゴロイド顔多し。
650 :
太国:2006/01/26(木) 08:50:13
文献のあるねぇ〜。w
『九鬼文献』。ただ「鬼」字の上の点がないそうだったね。
>>649 『桃太郎』の鬼退治は、
どちらかと言うと
【以朱丹塗身体如中國用粉也】
では?
…魏志 倭人伝…
日本の昔話に登場する鬼のモデルの大部分は、
ここから来ているキガス。
652 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/26(木) 10:47:50
九州と畿内に地名の一致が随所にあるようですね。
物部東遷があったことは事実でしょう。
653 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 10:51:46
店員 「 弁当は温めますか? 」
俺 「 お弁当っていいなよ 」
店員 「 あっ させん(すいませんの意味だろうけど) 」
俺 「 なんだその謝り方は 」
店員 「 はぁ? 」
しばらく言い争いしてたら店長がマンションから降りてきて1000円の商品券くれた
でもまだ納得いかないよ
654 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/26(木) 11:11:26
物部氏が畿内を統治していたときに
婿入りした男が欠史8代等の天皇なのです。
昔は母系社会でした。今は父系なので錯覚してしまっているのです。
655 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 11:37:27
九州に、畿内大和の地名を、コピペしただけ。
【以朱丹塗其身体如中國用粉也】…魏志 倭人伝…
ここに出てくる“中國“とは、いったい何処なんでしょうかね?
“中國”の文字は、倭人伝に三箇所出てきますが
どおせ『魏に、決まっているだろう』と、言われそうですが
657 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/26(木) 11:53:33
ああプラムさん。まだそんなことやってるんですかw
そのような細部の言葉のあやなどわかるわけないでしょ。
古代人が現代の言葉などわからないのと同様で推理するだけ無駄です。
大局的な視点で論じましょう。とりあえず3世紀に邪馬台国は
九州にあり、5世紀には畿内大和政権を中心に国がまとまっているのですから
邪馬台国東遷か大和政権による邪馬台国の吸収の2択でしょう。
658 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/26(木) 11:54:06
狗奴国により滅ぼされた可能性もありましたねw
659 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/26(木) 12:32:48
>>659 『軌道修正』
>大局
★では、
五世紀までは、九州邪馬臺(三十国体制)〔ヤマタヒ〕地域と本州帥升〔スイシホ〕地域の争いが続き、五世紀になってやっと〔ヤマタヒ〕が〔スイシホ〕を征圧し、大和の地に
その、五世紀最後の様子が『記・紀』に見える
…神武東征…
ま、
紀元前二世紀から続く、因縁の争い!
五百年経ってやっとエンディング
邪馬臺國⇒(やまとの国)⇒(日成国〈日本〉)へと
661 :
金印紫綬:2006/01/26(木) 12:59:18
>>659 五世紀にそんな大規模な戦いがあった証拠は?
662 :
大局プラム:2006/01/26(木) 13:05:56
>>661金印さん
別に大戦をしなくとも
そんなの何とか成るでしょう。
664 :
大局プラム:2006/01/26(木) 13:34:19
>>663金印さん
確かにごもっとも、
ヒッキー君に、大局と言われたので
自分成りの筋道をカキコしたまでで、それに対する根拠や物証等ありません。
これから肉付けして行くのです。
概ねこの流れで間違っていないと自負してます。
太国さん
ちゃんと『壹國』も有りますので!
というかまず太国は、「魏志」の記述を元にした邪馬台国の位置を書くべき。
九州のどこにあったかをはっきりさせて欲しい。
>>657ヒッキー君
私の
>>656のレスを見て
それだけしか感じませんでしたか?
正しい答えは二の次として私は、
幼稚園生の文章の様に感じました。
身近に子供でも居れば感じる最初の疑問です。
私達は専門家では有りませんから 正確な答えを見つけ出すことは、至極の技です。
でも、その前段階の『疑問』を数多く見付けることは出来るでしょう。
素人が、疑問を持てなくなくなったら
『即座に古代から現代に戻る可き』です。
これは、神津恭介と松下研三の言葉!
>>667 じゃあ自分はどういう意見なんだ?まずそれをカキコしないと、他の人は話に
乗りません。
あ!
大事な事を書くのを忘れました。
『疑問に感じたこと』
中国人が自国を『中国』と書くでしょうか?
小さな子供が、自分の意見を主張する時
「私は、………。」と言わず「〇〇ちゃんはね!…」と、自分の名前を主語とする光景を見掛けます。
まあ「以朱丹塗其身体如中國用粉也」の中国は、勿論魏・後漢の頃の話
だろう。また、朱丹を使うのは、専ら道教の信仰だと言われている。
そんな中で卑弥呼の「鬼道」の影響があった当時の日本では水銀朱も用
いられていたと考えられる。
>>669 「中華思想」というのを知っていますか?いまの「中華人民共和国」というの
は誰がつけた名称ですか?
>>672 >中華思想
★おおよそ概略位は
>誰が
★知りません
『日本』の国名すら誰が名付け親なのか知りませんので
知っていたら教えて下さい。
「中華人民共和国」というのは中国人がつけた名前だろ。(個人名は知りませ
ん・・・orz)
>>672金印さん
私は貴方の“コテ”を見ているだけで疑問を考えてしまうのです。
『假綬』と『假授』は、どう違うんだろう?と
677 :
豚まん:2006/01/26(木) 16:27:00
>>プラムさんへ
「中国」は、元々周王朝の王都を囲む一体を指す言葉
それを、別の地域を特別に見なす国家が
用いている国家ごとに「中国」が指す地域が異なっている
現代では中華人民共和国の略称
歴史的には、漢族の居住地を指す言葉と理解されている
>>677豚まんさん
(腹減った!)
ありがとうございました。
>歴史的には、漢族の居住地を指す言葉と理解されている
★理解された時期が問題ですね!
要するに
・晋時には、既に『自国』を書物に書く時は、必ず『中国』と、書かなければ成らない決め事があったのか?
ルールが決められていたのなら、疑問の余地も有りませんが
『中国』の意味は、
“豚まん”さんが紹介してくれた以外には
存在しないのでしょうか?『中国』=『CHINA』とすることは何時でも出来ますので、もう少し掘り下げてみますか!
豚まんさんが提示してくれた
>元々周王朝の王都を囲む一体を指す言葉
>それを別の地域を特別に見なす国家が用いる国家事に「中国」が指す地域が異なっている。
★この文章には、大変重要な事がカキコされていると思います。
周時代にはまだ『國』と言う一文字だけで、まだ『国』と言う新字は無かったかと
『國』=『口+或(域)』『国』=『口+王+、』
であり
『國』は、(囲い内の範囲)と(王が治める範囲)の両方の意味があると思います。
そして、『中国ではなく中國』ですが
●対象と成る地域の、中心的(地理的に)な場所
とは?
>>679の続き
とは、想定出来ないでしょうか?
沢山のご意見をお待ちしています。
>>677豚まんさんのレスには、『國(国』の字意がカキコされていた。
一つは、新字『国』のモデル?となる(王の治める範囲)もう一つは、(地域範囲)である
『魏志 倭人伝』にカキコされている『中国』を『CHINA』と解釈するまえに、
《自国を記載するときの縛りが無いなぎり》
@CHINAと訳す
A対象と成る(倭〔列島〕)地域の中央部(地理的)と
この二つの選択を翻訳前にしなければならないと、考えます。
それに、中国人が自国の事をカキコする場合 『中国』と書かずに『自』とカキコする 選択幅も有ったのではないでしょうか?
682 :
豚まん:2006/01/26(木) 21:09:03
「國」は西周時代には「或(域)」になっている
この「或」にくにがまえがつくと「國」になり、
つちへんがつくと「域」になる
都市から外に広がる一定の地域を「域」と表現していたのが
都市を統治する領域国家の時代になって、その「域」すら
囲まれる存在になったため「國(国)」という文字が生まれた
「中国」という言葉が主流になったのは前漢末の王モウの時
儒教の典籍にある説明を使って天下に等しくなった「中国」」という特別地域と、
その外に広がる野蛮人の地域との関係を儒教の倫理で説明できるようになったため
あまり書くとスレタイから外れてしまうので
>>682豚まんさん
もっと聞きたいです。
多少のスレ外れは、常ですから『気にしない、気にしない』
684 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/27(金) 09:57:28
誉田真若東遷
685 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/27(金) 10:00:39
天孫降臨は大分の中津に降臨。
686 :
日族:2006/01/27(金) 10:18:08
天孫降臨は最初、対馬に降臨
687 :
豚まん:2006/01/27(金) 11:40:12
>>プラムさんへ
西周時代以来都市を「邦」といい
「邦」を囲む一定の領域を「或(域)」といった
「国」には意味的に「域」起源のものと、「邦」起源のものがある
西周金文では王都コウ京の近辺を「中或(域)」と称し
「或」にくにがまえが加わって「國(略字は国)」
という字になった
>>682 で叙述
「尚書」禹貢に「中邦」と呼ばれる地域がある
「中邦」とは、本来その魏(戦国時代)の都を指すのだろうが
魏の領域全体を特別地域の中の畿内と見なすということであろう
漢の高祖の名は劉邦であり、漢王朝では「邦」を使用禁止にし
意味の似た「国」に言い換えた
688 :
日族:2006/01/27(金) 11:40:49
対馬に降臨した日一族はやがて、対馬海峡を南下
火一族が支配する九州の地に食い込んだ。
九州に入った日一族は、徐々にその影響力を広め
一族を拡散配備し、邪馬台国が誕生した。
その数三十国
この時より『日一族VS火一族』の、長い戦いが始まる
689 :
白木人 :2006/01/27(金) 12:07:30
NHKテレビでやってた古代の地図で百済の小さいこと、どうなってるのかな。
690 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/27(金) 12:45:52
>>687豚まんさん
詳しいご説明感謝いたします。
所で!
魏志 倭人伝文中にある『中國』を(CHINA)と解釈した場合
【其行来渡海詣中國…】
この文章に、不自然さを覚えます。
倭人伝には『郡と京都』の文字が見え、敢えて『中國』と言う文字を加えずとも、『郡或は京都』の文字で十分事足りるはずです。
倭の使者が直接行ける範囲は『郡』だけだろうし
691 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 14:16:12
漏れは対馬は火の流れだとおもう、
壱岐が日の流れだとおもう。
壱岐は常に近畿と深い関係があった。
五十系もたしか壱岐に入ってる。京の影響も強い。
692 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 14:20:56
天孫の降臨は日向が最初でしょ、なぜ日向か・・
それは葦原中津国九州の南方から攻めを弱いとこから北上する
戦略。
元はといえば、但馬の豪族が最初に日向降臨させてるから
高天原は近江・但馬・丹波あたりだね。
693 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 15:54:06
694 :
金印紫綬:2006/01/27(金) 16:58:19
>>690 中国っていうのは、「当時の王朝が掌握していた土地」っていう解釈
にすれば、わかる。一応公孫が帯方郡を支配していたが、元々朝鮮は
前漢の武帝の時に制圧されたから、王朝が掌握していた、とれないこ
ともなかろう。
695 :
太国:2006/01/27(金) 17:19:25
だから、 火の国〜阿蘇〜豊の国 そのへんだよ。w
金印さんは何説なんだろう?
>>695 漏れは大和説も、九州説もどちらも成り立つ要素があるので、現段階では、ま
だ決められないと思う。
697 :
太国:2006/01/27(金) 17:28:20
優柔不断だねえ。w
698 :
金印紫綬:2006/01/27(金) 17:30:33
699 :
金印紫綬:2006/01/27(金) 17:31:54
700 :
金印紫綬:2006/01/27(金) 17:58:52
701 :
日族:2006/01/27(金) 18:43:50
取り敢えず九州を手に入れた日一族は、57年漢朝に倭奴(列島の中心的)大夫として朝見し印綬を下賜され、実質漢王朝の属国となった。
属国と成った邪馬台(日一族三十国)は、漢王朝を後楯とし、(本州)火一族に対し挑発行為(本州浸出)を繰り返した。
火一族は何度も日一族に対し、和睦を試みたが成功せず、最後の手段として
107年に日一族の宗主国である漢王朝に直接、生口160人を土産に、火一族を代表して帥升王を派遣し、和睦の仲裁を請願した。
702 :
金印紫綬:2006/01/27(金) 18:46:03
703 :
日族:2006/01/27(金) 19:01:38
しかし属国邪馬台の宗主国である漢王朝は、この請願を受け入れる事は出来ず、かと言って異例の生口を献上した火一族を玄関先で、追い払う訳にもいかない漢朝は、火一族の王に対し、『倭国王帥升』(列島本州王)の称号だけを御礼とし、列島に帰した。
和睦に失敗した『日一族VS火一族』の、戦闘は続いた。
704 :
金印紫綬:2006/01/27(金) 19:03:27
>>703 称号は「倭国王」であって「倭国王帥升」ではない。
705 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 19:04:40
日→白、鳥→天
が渡来アイテムの変遷。
日の始まりは日向だから九州が日と呼ばれたのは日向に由来する。
その後もっとも遅く征服された筑紫が白日別と名付けられた。
しかし土民はこれらのアイテムを嫌っていたようで
名前には殆ど使用していない。
706 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 19:05:57
>>703 あなた何処の人?
なぜ九州が日族と言い切れるの?
707 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 19:09:27
稗田とか日枝とかどうみても
九州人の名前ではない。
九州が日族というのは考えにくいな。
708 :
日族:2006/01/27(金) 19:11:28
>>702 魏志倭人伝に、馬はいないと書いてある
>>704 どちらであっても、その称号の効力等無いのだから
とにかく、請願した相手のスジョウが解れば良い。
『倭国王』より『帥升』という名称の記録が大事なんだ
709 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 19:12:38
久留米大善寺の玉垂は藁に火を付け火を祀っている。
御井神は水の神だ。
この玉垂命は水と火の神であることは間違いない。
710 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 19:23:49
>>708 征伐された蝦夷佐伯の名が鳥日子。
すると、蝦夷は九州の日族の末裔?
711 :
太国:2006/01/27(金) 19:25:17
712 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 19:25:30
>>708 こら、下手な工作するなチョン鮮人w
ソースくらいだしてみろw
713 :
日族:2006/01/27(金) 20:04:29
714 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 20:21:03
>>713 魏志より後に書かれた後漢書は知ってるけど、信憑性がな〜
それだけではヒボコの但馬移住、但馬豪族の脱解の新良貴移住
のインパクトに及ばない。
そもそも日本平とかって地名は東海の方だし。
715 :
日族:2006/01/27(金) 20:22:03
>>706 >あなた何処のひと
こてこての日本人
日族=天照一族(太陽信仰)
その支配する地域を〔ヤマタ(ヒ)〕という
716 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 20:24:18
717 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 20:28:47
>>715 北朝、源氏が日、白族、天孫族系であるのは間違いなし。
系図辿ると日、天系の苗字にほぼ行き当たる。
その反対、南朝、平氏は火族、水神系だよ。
ただ彼らも、貴族なのでかなり混じってるが・・
あとは血の濃さ、思想の問題か
718 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 20:38:11
>>715 >こてこての日本人
日という時点で渡来系朝鮮人なわけだが?
日野
719 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 20:46:47
>>715 近畿には元々火の神はいないんじゃないの?
居たのは木の神(五十猛、スサノオ)。
720 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 21:03:14
721 :
金印紫綬:2006/01/27(金) 21:13:44
>>708 「魏志」に馬がいないと書いてあっても、果たして本当に日本に馬がいなかっ
たのかな?縄文時代の貝塚などからも野生の馬の骨が見つかっている。貴公
に意見しておく。
722 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/27(金) 21:17:21
>>712 日族を半島からの渡来民とするのは
文献より推察すると
【自謂太伯之後】
…晋書 倭人伝…
要するに、太伯の裔であるかないかは、この際関係ない。
すくなくとも、元々からの列島先住民族では無い(渡来民)と言っている
渡来民が列島に入る場合、地理的にまず九州に渡来するのが常識だろう。
直接
本州や四国に入る可能性は薄い
723 :
太国:2006/01/27(金) 21:22:14
天の斑駒を剥ぎて、殿の甍を穿ちて投げ納れき。
この時に天照大神、驚動かして、梭以ちて身を傷ましめたまい云々・・・・。
と紀にはあるな。
724 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 21:25:52
たしかにそう学校で教えられてきたが、それと違う
事がいくつもあり、どうも違うように思う。
関門海峡が繋がってない以上、日本海方面にそのまま入る方が
効率的でもある。
元々、九州と本州はかなり違う文化を持ってたように思う。
725 :
金印紫綬:2006/01/27(金) 21:31:10
>>722 いや、その話した人達は少なくとも「純血の」渡来人ではないでしょ。
726 :
日族:2006/01/27(金) 21:39:41
『日一族VS火一族』は因縁の戦闘を繰り返し牽制しあっていた
そんな戦闘の最中
邪馬台の代表王が突然の戦死、この時を境に邪馬台(倭国)は主を失い主導権争い(内乱)が勃発する《倭国大乱更相攻伐》
漢王朝は乱れた属国の体制を正常化するため
〔ヤマヒ〕国の卑弥呼を〔ヤマタヒ〕三十国体制の主に据えた
ここに、〔ヤマヒ三十体制〕が女王の元に誕生する。
以上が『後漢書倭伝』をベースにした概略である。
では、さようなら
727 :
金印紫綬:2006/01/27(金) 21:42:26
>>722 つーか「太伯」の名前知ってる倭人が本当に日本にいたのか?
728 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/27(金) 21:43:03
>>725 そうかも知れない
でも、それを探ることは不可能だ!
729 :
金印紫綬:2006/01/27(金) 21:50:25
>>728 いやいや、もし「純血渡来人」が倭国の支配層だったら、「卑奴母離」
や「彌彌」なんて名前じゃなくて、「劉備」とか「曹操」とか、ちゃ
んと姓と名が分かれているように記録される。
要するに
天照一族〔ヤマタ〕〔ヒ〕(日族)
大国一族〔スイシ〕〔ホ〕(火族)
ですね
731 :
金印紫綬:2006/01/27(金) 22:00:10
>>730 だから、そんな電波説、だれが納得すんの?悪いが、帥升と邪馬台国
の王が対立してたなんて伝承や、それをにおわせる物がどこにあんの?
神話・伝承・正式な記録明示キボン。
>>729 渡来民が漢人とは限らない半島に住んでいた
韓民族かも知れないし、倭人+韓民族かも知れない
稲作をより高率良く栽培したり、金属を使用した民族の渡来でしょう
縄文晩期に渡来した民族は、列島に稲作や器文化を齎した。
733 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 22:07:32
734 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 22:09:59
あっ俺が真実知ってるよ。邪馬台国は
心の中にある
>>731 『後漢書 倭伝』
電波と判断し否定するのは簡単、その内容を検証し判断することが『学問』では?
後漢書倭伝と数詞言語の材料を提示しました。
その内容を検討し、その内容が不適せつであると判断した後の『電波』扱いなら容認します。
あと、少しだけ『記・紀』を
ま、
『チラシの裏認定』の私の言葉ですので…
>>734 アッハッハアハアハアー
ザンネン!
そのネタ
去年の今頃 私が使いました。
737 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 22:59:59
ヤフーの『邪馬台国論争が好きな人集まれ!!』
に頻繁に出没している「himiko57jp」とは何者なの?
〜だぜ、〜だぜ との書き込みが妙に不愉快だぜ!
738 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 23:24:36
↑
不愉快なら見るなよぅ
739 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/28(土) 00:21:26
思い込みはよくある事
『卑弥呼を一人と特定したり一大率が一カ所とする考え』
誰が決めたの そんな事
ヤフーの掲示板もNGワード機能あるよ。IDがいるけど。
電波でも何でもかまわん。
ただ結論を連呼するだけではなく論拠も書こう。
根拠なり、考察の過程なりが示されなければ議論にならない。
言いっぱなし、書きっぱなしでは罵倒合戦になるだけ。
だが、心配のしすぎではないか
743 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/28(土) 07:48:12
先日、『臺と壹』について“最低限さん”より、他の文献と比較しての“紹興本”の特異性を説明いただいた。
あれはあれで十分理解しやすい説明であった事を、ここで述べます。
では、内容はどうなのか?まだ課題を残したままで有る。
歴史の事実に対し、全く虚像と言われる『邪馬壹國』を存在させてしまえば
必ず歪みが生じ、後世の歴史が変わってしまうことになる。
もし、邪馬壹國を存在させても、歴史内容に変化を伴わない場合
壹國の存在を容認出来るのでは無いか!
そんな所を、今後議論の対象にしていただきたい。
744 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 10:04:04
各神社に奉られてる神様、この神様
結構後付けで奉られてるらしいし、その神様の割り振りも、決められた法則に従っての配置と
どこかの本で読んだ覚えが有る
遠い昔の記憶で確かめがたい
どなたかご存知の方がいらしたら、情報希望します。
746 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 12:11:44
各地の伝承とかと照らし合わせないと確かなことはわからないでしょうね。
その意味で風土記、神社の奉納されている書物、その土地に住む人の
ルーツ探り等が有効でしょうね。
その地に何の伝承もなくポッとあるようなケースはほぼ後付けでしょう。
>>746 そうすると
より確かな郷土史が要求されますね!
>>709 弥生時代後期になると西日本全般に龍をモチーフとした水神信仰が広まります。
原の辻では中期ごろには龍を描いたものと思われる絵画土器が現れるので、
倭人が「龍」を知ったのは干支の導入よりも早かったと思われます。
1世紀には池上や唐古でも井戸やその周辺で龍刻土器の破砕祭祀が行われて
いたことが確認されています。
銅鐸の流水紋などもそうだとは思われますが、稲作民にとって「水」信仰は「日」信仰
と並ぶ重要な思想なのでしょう。
749 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/28(土) 21:23:27
今日は土曜なのに、レスの付きが悪いですね
では、私も少しお勉強を!
では、しばし
750 :
御前等:2006/01/29(日) 00:00:11
tanaka takaaki
の本読んだ人いる?タミール語から古代日本を解明するやつ。
あれどう思う?
田中?知らんなあ・・・
タミル語説なら、一昔前は大野晋だったな。
農耕文化系の単語は確かに関連がありそうだと思ったが、
身体語等の基本語彙は全く影響を受けていない。
江南経由で稲作文化を受容したときに持ち込まれたものだけだろう。
752 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 08:41:09
両説3勝3敗1分で迷宮入り
◇女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有朱儒國 … 九州説有利
◇女王四千餘里又有裸國黒歯國復在其東南船行一年 … 九州説有利
◇南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月 … 両説引き分け
◇七萬餘戸 … 畿内説有利
◇女王國以北其戸数道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳 … 畿内説有利
◇其死有棺無槨封土作冢 … 九州説有利
◇使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國畏 … 畿内説有利
753 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/29(日) 11:42:32
>>752の
【自女王(紹興本:女三)國以北其戸數道哩可得略載。其餘旁國遠絶】
〈女王としての翻訳〉
★女王国の北側にある諸国の規模や戸数の記載は省略する。
更にその先にも国(大倭)があるが、国交が無い為情報は不明
『略』…省く
【此女王境界所盡】
★諸国20国の(盡)が、女王の支配領域の境界である
『盡』…地が途切れる
>>752 > ◇女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有朱儒國 … 九州説有利
誤解。
畿内説は特に困らないが、九州説の場合、邪馬台国の比定地によって不利になるものがある。
というか、九州島東海岸のどこかに比定するもの以外の九州説は不利。
> ◇女王四千餘里又有裸國黒歯國復在其東南船行一年 … 九州説有利
誤解。畿内説、九州説ともに別段困らない。
つうか・・・・
◇女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
◇又有朱儒國女王四千餘里又有裸國黒歯國復在其東南船行一年
だろ。
>◇其死有棺無槨封土作冢 … 九州説有利
中国史料における槨の意味を知らないことによる誤解。
どちらに有利ということもない。
対九州島東海岸九州説の場合、畿内説の3勝0敗4分で畿内説
それ以外九州説の場合、畿内説の4勝0敗3分で畿内説
伊勢神宮に奉納されている三種宝物の一つ『八咫鏡』
大きさやデザイン等解る方がいましたら、教えて下さい。
大変重要な事なのでヨロシクです。
756 :
倭種:2006/01/29(日) 13:31:26
>>754 >女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
>九州島東海岸のどこかに比定するもの以外の九州説は不利
畿内説が特に困らないと言う判定なら、内陸九州説でも「同じ」理由で特に困ることは無いでしょうよ。
やはり、九州島の東にも倭人の島があると言うイメージが濃厚なので、どちらかと言えば九州優位。
>又有裸國黒歯國
これは、あなたの判定に同意。
>其死有棺無槨封土作冢
>どちらに有利ということもない
これは、「封土作冢」の部分が九州説の不利に当ると思うが・・・
ちなみに、次の三点についても、私はとりわけて、どちらかに有利だとは思えない。
>七萬餘戸
どう見ても虚数、当時の畿内の食料生産力が吉備や北部九州に比べて優位だった確証は無い。
>女王國以北其戸数道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
玄海諸国と邪馬台国の間の有力国が投馬だけだったと言うこと、大勢に影響なし。
>使大倭監之自女王國以北特置一大率
これも>752が何故畿内説有利の判定をしたのか理解に苦しむ。
都合、1勝1敗5分けですかね。
760 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/29(日) 15:16:53
>>758 資料提供感謝です。
大きさは50p前後と推定出来そうですね
柳井⇒平原⇒伊勢
又は
平原⇒柳井⇒伊勢
761 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/29(日) 15:46:08
>>759 スレ違い申し訳有りません
二人の卑弥呼を調べているもので
>>759 古代史に関係があるのでいいのかと思った^^; まだ理解してないかもしれないが、失礼した。
ちなみに
>>760 『内宮の御神体を容れる樋代の内径は1尺6寸3分。これは唐尺で、今の約49cm。』より、直径約49cm以下
『【咫】周代の小尺における長さの単位。一咫は大尺で約八寸、今の約18cm。八咫で円周144cm。直径約46cm。』
『伊勢神宮の八咫鏡は福岡県前原市にある平原遺跡(平原1号墓)から出土した径46.5cmの八葉座の超大型内行花文鏡と同じものだと言う。』
上の仮説が正しいとすると、直径約46cm前後。
763 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/29(日) 18:13:01
>>762狗奴さん
50p級の大型鏡は、もう一カ所山口県柳井市にある茶臼山古墳から出土している。こっちは、四世紀〜五世紀と、言われるけど
どんなもねかねぇー?
この三箇所の鏡が、どっかで繋がっているかもね
……クックックックッ……
764 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 18:40:39
◇其死有棺無槨封土作冢 … 九州説有利
中国史料における槨の意味を知らないことによる誤解。
どちらに有利ということもない。
↑
解説を求む
765 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/29(日) 19:53:45
『文章で示す(邪馬台)地図』
@対馬⇒壱岐⇒末盧⇒伊都…奴A
A奴A⇒(不彌 ・ 投馬)⇒女王の都⇒斯馬(その他傍国)⇒奴A
Aは、奴A⇒⇒⇒奴Aまで、グルッと一周したんだよ!解りますか?
>>763 プラムさんググッてみました。これのことですね。
山口県柳井市『茶臼山古墳』(4世紀末)出土
⇒単頭双胴怪獣鏡(直径44.8cm:古墳時代に造られたものとしては日本最大の鏡)
内行花文鏡だと『平原遺跡』以外にこんなのがありました。
奈良県『下池山古墳』(4世紀前半〜中頃)出土
⇒四つ葉座の大型内行花文鏡(直径37.6cm)
767 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/29(日) 21:01:32
下池山の鏡は40p弱と、やや小ぶりですが 無関係とは片付けられないでしょう。
伊勢の鏡(推定)・茶臼山・平原と45p級の、大型鏡天照一族の流れを探る
重要な手掛かりとなり得るのではと、考えます。
茶臼山の時期にしても……?
まだまだ事半ば、多くを語った所で根拠がある訳で無し
郡から女王国まで12000里 郡から伊都国まで10500里 (よって)
@伊都国から女王国まで1500里
A伊都国から女王国まで
水行三十日 陸行一月
+(伊都⇔不彌)
この整合を探せばよい
別に、1500里の距離を(水行三十日+陸行一月)かけたわけではない
>>756 >畿内説が特に困らないと言う判定なら、内陸九州説でも「同じ」理由で特に困ることは無いでしょうよ。
と
>>七萬餘戸
>どう見ても虚数、当時の畿内の食料生産力が吉備や北部九州に比べて優位だった確証は無い。
は、今の畿内説と九州説の違いを知らないからこんなことを言う。
畿内説では、七万戸をある程度実情を反映したものと見る。そして、
>>756が言うように、
単位面積あたりの生産力にさほど差がないのだから、そのテリトリーは広域にわたるととららえ、
畿内邪馬台は東の港として伊勢あたりまでを包含するとの立場を取る。
現実に、大和と伊勢の交流は考古遺物が証明している。
したがって女王国=邪馬台の東には海がある。
また、自分は賛成はしないが、人によっては方位のずれにより東の海は北の海とし琵琶湖を当てる。
この場合も琵琶湖南岸まは邪馬台の領域に含めているので特に困らない。
(規制のため以下につづく)
くそ〜。いつの間にか連投規制まであるのか・・・・
>>756 ところが、九州説では倭人伝の30国を九州島内に納めなければならないので(絶対ないとは言わないが、これが主流)、
どうしても邪馬台のテリトリーは狭くなる。地勢からしても、九州島の東半分にある山地は非常にけわしく、
文化的にもほぼ絶縁状態と見られており、山を越えて東まで邪馬台を広げている内陸九州説というのは寡聞にして聞かない。
魑魅魍魎のすまう九州説だけに絶対ないとはいえないが、大多数はそうではないだろう。
だから、上の二つは畿内説に有利に働く。
ただし、上の方は九州島東海岸のどこかに比定する九州説を除く。
そもそも、
>どう見ても虚数、
と都合の悪いことは見なかったことにしてる時点で、九州説に不利でしょ。
(規制のため以下につづく)
>>756 >これは、「封土作冢」の部分が九州説の不利に当ると思うが・・・
これが実は難しいところなのだが、甕棺墓にも実は封土があったという事をいう人もいる。
だいぶ前にどこかで見た話なのでソースは示すことができないが。
また、弥生後期後半以降の九州の墓制自体があまりはっきりしないので、
自分としては、九州の墓に封土がなかったとは言えない。
誰かが、「九州の墓に封土がない」事を示すしっかりとした証拠をあげてくれれば、
それに従うことはやぶさかではない。
>玄海諸国と邪馬台国の間の有力国が投馬だけだったと言うこと、大勢に影響なし。
それはご都合過ぎますねぇ
情報が簡単には入らないほど遠方にあるといういうのが記述に沿った解釈でしょう。
ということで、やっぱり
>対九州島東海岸九州説の場合、畿内説の3勝0敗4分で畿内説
>それ以外九州説の場合、畿内説の4勝0敗3分で畿内説
ですな。
773 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 23:11:11
>>764 大雑把に言えば、後の合葬が可能なほどの広さを持ったものを「槨」と定義している。
当時の日本列島には、それに該当する墓室はない。
よって、どの説にも有利にならないというのが正解。
>>773 >大雑把に言えば、後の合葬が可能なほどの広さを持ったものを「槨」と定義している。
誰が?
775 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/29(日) 23:41:41
陳壽は
伊都から女王国まで1500里としている
この事実をクリアーしない限り 、例え0勝99敗となっても畿内に非ず
三世紀現在女王国は、九州ですよ!
776 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 23:57:31
>>775 そうだね、少なくとも陳寿がそう思ったのは間違いないだろう。
しかし実際に邪馬台国はおろか投馬国にも郡使は行ってない。
それは日数表記に切り替わっていることからも明白なので
そこに誤謬があっても彼を責めるのは酷だろう。
しかし後の中国史書の編纂者も日程、里程記事には疑問を抱いたようで
どの史料にもそのくだりは引用されていない。
そんなこと誰もがとっくにご存知だと思うが、知らないふりして強弁するのはイクナイ。
>>776 そうかなぁ?
郡から女王国12000里の記事は、後世にも使用されている
陳壽が示した 文章地図も
>>765で
概略を書いといたので、参照されたし
奴国から奴国まで
グルッと回って5000里ですよ!
きちんと魏時に調査された結果
日数表示と後世に引用されていないことだけで、使者が女王の都に行っていない事を示す材料には成らない。
これは、スレ違いの余談になるが
他所の国の使者が女王に直接会って要るのに、
魏の使者は伊都だけで済ましてしまうのも変だよ
万葉集の話しなので、この辺で止めときます。
宗主国は特別か?
779 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 00:43:59
ぐるっと廻って5000里が妥当な島は沖縄しかあるまい。
>>776 漢書は漢時 魏書は魏時 晋書は晋時 隋書は隋時
の記録をカキコすればいい
他の時代の様子を引用する時は、より簡略しカキコすべき 事細かに書く必要はない
細かく書きすぎればスレ違いか?
>>776 倭人伝の記載には当然正使一行の見聞も加味されているだろうが、
実は、それ以前に詳細な報告が為されていなければならいはず。
魏は一回目の朝貢で気前良くも卑弥呼に「親魏倭王」を与えている。
どこの馬の骨だかわからない蛮夷の女酋に与えるには過分な称号であろう。
倭人の国の情報は、帯方郡には公孫氏支配時代からの通交を含め
通商や韓人・倭人との接触でそれなりに伝えらいたと思われる。
その情報が、京都への最初に送られたのは何時であろうか?
それは、当然難升米等の朝貢の時でなくてはならない。
>景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、
>求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。
既に、この時点で倭人の国の公式イメージは決定したのでしょう。
呉の東方に位置し、戦略拠点となる東夷の大国、
蛮夷なれど性格温厚で社会秩序も伴った国。
女王の支配する奇異なる国。
司馬懿の功績を最大限に生かすに都合のよい国。
そして、その朝貢を取り付けた太守劉夏の功績も・・・
景初二年の報告はこのようなものでなければ
一見さんに「親魏倭王」は与えられものではないでしょう。
これは、この後の魏・晋朝においても踏襲された認識だったと思われます。
782 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/30(月) 07:47:25
魏志倭人伝で、女王国迄の行程をキッチリ書き記している
伊都国から女王国迄1500里の距離があり、その行程は
奴国から烏奴国を通り⇒〇⇒〇…(略)……〇⇒斯馬国の隣が女王の都がある国ですよ!と
そして、その国々の里数や戸数は省略しますと、迄断りを入れてある。
こんなにハッキリ書いてあるのに、郡使は都に行かなかったとかの議論は
ナンセンスである
783 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/30(月) 08:01:15
水行三十日 陸行三十日の数字は、別動隊が九州島を南経由で調査した報告文、
本隊と落ち合う場所は
女王の都
>>776 >そうだね、少なくとも陳寿がそう思ったのは間違いないだろう。
どこからこんな結論が出てくるの?
たいむましんでももってるのかなぁ
785 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/30(月) 11:14:34
要するに
魏の調査隊は、ニカ月の月日を経て、本隊とは別に、属国と成った邪馬臺三十国を調査した。
魏王朝は宗主国として、属国と成った国域を調査することは、ごく自然の行為
786 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 15:34:09
久しぶりに来てみたが、相変わらず妄想の垂れ流しだなw
>>786 >相変わらず妄想の垂れ流し
★どの辺が?
>>787 569 名前:プラム ◆RvhHf7kqyY メェル:sage 投稿日:2006/01/24(火) 18:43:00
『卑弥呼に下賜された、魏の金印』
妄想してみました。
587 名前:プラム ◆RvhHf7kqyY メェル:sage 投稿日:2006/01/24(火) 22:25:30
>>574 >自己満足
★だから妄想と、カキコしてあるでしょう!
790 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/30(月) 20:39:34
>>776さん
未だ覗いてますか?
>どの史料にもそのくだりは引用されていない
★梁書や北史を、御覧になられましたか?
それとも、私の見ている史料が間違っているのかな?
『臺と壹』問題は解決しました!
結論は
邪馬臺國=邪馬壹國です。
貴方の提示された『隋書』【魏志所謂邪馬臺者也】
わざわざ
魏徴さんは“魏志”にこだわってくれた!
別に“梁書や後漢書”でもよかったのに、魏徴さんは“魏志”の異様さに気付き理解したんでしょう。
そして、邪馬臺も邪馬壹も同義だと
“紹興本”は『誤写・認』したのではなく、原文をそのまま写しただけ “紹煕本”は親切に訂正した
よって
邪馬臺=邪馬壹なんです。陳壽は、何らかの理由から(壹)の文字を選び使用した。
私の、
邪馬臺≠邪馬壹は、取り消します
792 :
太国:2006/01/30(月) 21:50:45
??ww
793 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 22:04:46
逝かれまくってるねぇ
>>793 >逝かれまくってるねぇ
★逝ってますよぉー
逝かれまくってますよ!
見えてきました。
平原の蜜柑畑で吠えてます
太国さん
陳壽はどうして『邪馬壹』の文字を当用したんでしょうか?
本州島には別の国域!
795 :
太国:2006/01/30(月) 23:08:25
眠いんで寝ま〜す。
あれ、この前説明したはずですが・・・?
それとも「壹」の前字の「邪馬〜」ですかな?
796 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/30(月) 23:36:35
>>795 太国さん お休みです。
>邪馬
★意味は『大きい』です。そして『邪馬臺(壹)』は国ではありません(地域)でーす。
邪馬臺〔ヤマタ ヒ〕
邪馬壹〔ヤマ ヒ〕
共に(おおきな太陽の地域)です。
797 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/30(月) 23:40:38
>>796訂正
大きな太陽の地域…×
太陽の支配する大きな地域……〇
798 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 03:11:36
太国もプラムも、同じ尻穴の寄生虫だなw
>>798 何を言われても意地になって荒らしまくるだけみたいだから、
もう、あきらめてスルーしなさいな。
800 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/01/31(火) 08:24:04
魏の調査隊が実地調査をしたのなら、その余の旁国も略載したでしょう。
邪馬台国の馬は家の間と同じような意味で、邪は屋根や屋敷の屋とおなじような意味をもちます。
よって屋間は、諸国の中心又はもとになる地域だとおもいます。
801 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/31(火) 21:28:27
>>800サガミさん
何度もカキコしますが
邪馬臺者は、自分達が住んでる列島を〔ヤマタ〕と言っていた。
そして漢人は〔ヤマタ〕の音に対し『邪馬臺』の文字を当て、それを書に残した。〔ヤマタ〕の意味は、
後の倭人の人が物語るように、『大』和そのものであります。
意義のある人は、どんどんカキコヨロシク!
>>799 スルーは、個人の自由
したければスルーすればいい。
【使驛通於漢者三十許國】【漢時有朝見者今使譯所通三十國】
漢時も魏時も変わりなく、属国三十国と書いてあります。それなりに行き来自由だよ!
802 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/31(火) 22:32:07
>>800 >魏の調査隊が実地調査をしたのなら、その余の旁国も略載したでしょう
★サガミさん
私が歴史を自由に出来るならそうしても構いませんが史実は、それを許しません。
【自女王國以北其戸數道哩可得略載】
※女王国の北側に位置する諸国の規模や戸数の記載は省略する
どんな理由か知らないけれど、カキコしなかった。
それが史実ですよ!
理由なんかどうでもいい事
宗主国が属国の国情を知らなくてどうしますか?
伊都で邪馬臺者の自己申告を信じて『はい、そうですか!ではでは』
変ですよ!
803 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 05:12:55
卑弥呼時代=九州
台与時代=大和に吸収合併=崇神天皇代
804 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 16:18:57
↑根拠を書けよ。
805 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 17:05:14
↑無理だよ
806 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 17:32:00
なんの根拠も無い妄想なんだからw
807 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 23:45:49
なんだこのスレ。
ふむ。珍しく番号が飛んでないな。いいことだ。
崇神(イリ系)は、2世紀には土着化していた大和豪族でしょう。
父祖の東遷伝承を持つ応神(ワケ系)とは別系統。
810 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 09:01:15
↑根拠要望
811 :
圭角:2006/02/02(木) 09:30:52
魏志の帝紀の明帝紀と三少帝紀と東夷伝をあらためて読み直してみた感想を書きます。
三国志は魏を正統とする三国時代の魏呉蜀の史書と解される傾向にありますが、実際は
晋帝室の正史であり晋の史官の陳寿がその同時代に現代史として記したことは、すでに
皆さんのご案内の通りであります。
また、三国志が晋の正史である限り歴史は常に勝者側から語られることもご案内の通り
です。倭人伝のみならず帝紀におきましても、陳寿の筆の作為の跡は随所に見受けられ
ます。明帝崩御に際し司馬仲達が早馬で間一髪でその永訣に間に合い、明帝はその日に
その当日に崩御した、などという記事は誰が読んでも不自然の極みであります。
かく陳寿が記した理由は、明帝が発病して床についてから二十日ほどで急死している事
に関して晋の始祖の仲達に対して読者が明帝の死因を司馬氏による毒殺ではないかと
いう疑念を払拭したいが為に陳寿が腐心したことは明らかです。
私が申し上げたいことは、三国志においては不整合不合理と受け止められる記事は
山ほど多いということなのです。しかし、陳寿の記述姿勢の基本姿勢は司馬氏の顕彰で
一貫しています。明帝が公孫淵討伐に当たり大々的に海船を造らせたという記事や
公孫淵の遼東を攻撃する前に楽浪帯方郡と韓を予め接収平定したという記事に着目すれば
その軍事戦略においてその当時すでに倭人とも倭国とも軍事的接触は当然あったと
いうことになります。なんとなれば郡使が卑弥呼の邪馬台国へ行ったか否かという
議論は失当でありましょう。
812 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/02(木) 10:03:46
>>811圭角さんお久しぶり! お元気でなにより
成る程、そのような事情が
ところで
現在も燻り続ける(景初二年・三年)問題
私と致しましては、両方正しいと判断いたします。
景初二年に難升米が朝見と言うより、軍事重視で郡に赴き(後に、下賜される率善校将から推測)尚且つ、朝見の為の下準備
公孫政権が倒れるや、直ぐさま“牛利”が景初三年に、正式に土産を携えて朝見と
成ったと判断します。
813 :
圭角:2006/02/02(木) 10:51:14
プラムさんお久しぶりです。
明帝紀と東夷伝を合わせ読みますと魏の公孫淵討伐の過程がかなり鮮明になります。
魏書の公孫淵伝には司馬仲達が遼東に到着したのは景初二年六月と記されています。
一方卑弥呼の使いが帯方郡に到達したのが倭人伝に景初二年六月と記されています。
巷間において景初二年を誤りとする見解は他の写本に三年とあるものもあるし、
そもそも戦火の中に使節を送ることは無理だなどとする見方もありますが、
陳寿は潜に兵を船で渡し二つの郡を接収したと記しており、韓の有力者に対しては
位号を授け韓の諸国を懐柔していたと記してあります。
さすれば、かくなる軍事戦略政略を用いた魏が倭に対して何らの政治工作を
しなかったとする方がむしろ不自然といえます。
さて司馬仲達が公孫淵討伐に洛陽を進発したのは明帝紀に景初二年春正月と記して
あります。つまり遼東に達するまでに実に半年もの月日をかけています。
そので理由の一つは、公孫淵の退路を絶つ為に先に二つの郡の接収平定にありました。
そしてもう一つの理由は、倭の使いが帯方郡に到達するのを待っていたのです。
けして偶然の符合ではありません。重ねて書きますが、卑弥呼の使いが帯方郡に着いた
時は、遼東の外はすでに魏の平定下にあったのです。
814 :
圭角:2006/02/02(木) 11:03:30
では、何故に司馬仲達が倭の使いが帯方郡に到着するのを待っていたのかと
いう理由について書きます。
その一つは、韓の南の海を隔てた倭が魏に朝貢するのを韓の諸国が伝聞すれば
韓の諸国や二つの郡の人心が安定し魏の統治に有利に作用します。さらに、
倭国朝貢の噂は公孫淵の遼東へも届き、遼東の兵も民も動揺し戦局は魏に有利
となるからであります。
つまり後漢末の師升と同じく魏の費用負担と手回しにより景初二年の朝貢と
なったものと考えます。
815 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/02(木) 11:19:08
>>813圭角さん
その解釈に異義ありません
『牛利』
漢人達は、実に的を得た文字を、当用しています。
『牛』
人を乗せるのでは無く、荷を運ぶ道具(動物)
『利』
利益・利ザヤ
『牛利の意味解釈は』
粗末な品物を運送し、大きな利を得る
倭の使者
如何でしょうか?
『難升米』につきましては後日
816 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/02(木) 11:22:53
>>815圭角さん
しかし、
『帥升』の解釈には、異を唱えます。
817 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 12:18:20
ムーブックから出てる、飛鳥昭雄・三神たけるの
『邪馬台国の謎と逆転日本列島』では
3世紀に急激な大陸移動があったらしい。
魏志倭人伝を参考にすると、今の沖縄付近の位置にあったらしい!
場所は今の畿内だそうですよ!
818 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 13:37:22
それは、トンデモです。
819 :
圭角:2006/02/02(木) 13:49:40
プラムさん、久しぶりにお相手していただき嬉しい次第です。師升の解釈に
ついてですが、私は次のように考えているのです。
西域で活躍した班超が死んだ後、西域諸国はことごとく叛き後漢は西域都護
をすら廃止する事態となりました。宦官勢力に対抗したケ皇太后の改革も
失敗します。この折に数少なくなったかつての金印紫綬の漢委奴国王に対し
働きかけての政治ショーと、私は見ています。今も昔も中国が外国からの
表敬訪問を喜び好むことは変わらぬことだと思うのです。ここまでですが。
さて、陳寿の帝紀を読みますと、随所各所に裏の真実は殆ど隠されていて
読む度ごとに必ず何かあるのだと思うようになりました。たとえば、明帝が
崩御して斉王が継主となりますが、三少帝のうちこの斉王のみ出自が不明で
実の父親さえも判らないと記しています。
私は司馬氏の政敵だった曹爽が実の父親だったと推理しておりますが、
帝紀にしてみても謎だらけということを申し上げたかったのであります。
820 :
圭角:2006/02/02(木) 14:09:50
話が戻りますが、魏の公孫淵討伐においては、事前に、鮮卑の輠比能を暗殺し
高句麗を凋落し、韓の諸国を懐柔し、公孫淵が叛旗を翻さざるを得ない詔勅を
遼東に送達し、秘密裏に兵を二郡に渡海させ接収平定し、韓の諸国の有力者を
懐柔したと陳寿は記しています。
しかしながら、倭の卑弥呼の朝貢も司馬氏の手回しによるものだったとは、
立場上から記すことはできません。それでは司馬氏顕彰の記述姿勢に反する
どころか、陳寿自らの死を記すも同じであることはいうまでもありません。
かくなる三国志のさらなる倭人伝、まことに興味は尽きません。
いずれまた。よろしくお願いします。
821 :
圭角:2006/02/02(木) 14:55:22
たまの投稿ですので連投ご容赦くださりませ。また、たまの投稿ゆえにスレ違いと
思われた向きには恐縮でございます。
魏志倭人伝等を読んで邪馬台国はどこかというスレタイトルに戻って一言。
明帝紀には洛陽から遼東まで四千里と明記してあります。
その一方で倭人伝には、郡より倭に至るには韓国を経てその北岸狗奴韓国に到る
七千余里と記してあります。
地図帳であらためて確認するのが一番ですが、里程数は誇張です。
誇張の理由は司馬氏顕彰です。
重視すべきは前方後円墳の遺跡ではなく、遺物の鉄器と重ねて申します。
邪馬台国は北部九州デス。北部九州の何処といえないのが九州説の良いところデス。
822 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 17:11:28
邪馬台はヤマトと読み畿内大和のことです。
と、もうじき教科書に記載されます。
>>822 どうして
邪馬台が『ヤマト』と読むのかな?
『ヤマタイ』ではないのかな?
>>821圭角さん
【半島の西海岸を南下した船は、そのまま済州島或はその東海域迄行き
そのまま対馬海流に乗り、北東方向にある対馬島に向かう(流される)】
西海岸を南下した舟の場合一番効率よく対馬島に
渡る方法です。
824 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/02(木) 19:15:57
台(旧字)は、タと発音しません。タイ、またはダイ、またはトイです。
タであれば、都という字をあてたはずです。
825 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/02(木) 19:47:52
>>824サガミさん
『ヒ』の神を信仰する『ヤマタ』地域
で
『ヤマタ・ヒ』
この音を漢人が『邪馬臺』と書に記した訳です。
826 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/02(木) 19:52:37
この『ヒ』信仰の象徴が、鏡です。
827 :
太国:2006/02/02(木) 20:21:36
日の神ですか?火の神ですか?w
828 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/02(木) 20:45:07
>>827太国さん
日の神です。
邪馬臺〔ヤマタ・ヒ〕も邪馬壹〔ヤマ・ヒ〕も、同じ『日』信仰の九州三十国体制で
同意語と考えるしだいです。
829 :
太国:2006/02/02(木) 20:47:57
しかし、九州には火の国がありますよ。w
830 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/02(木) 21:34:54
太国さん
朝鮮滅以前(紀元前二世紀後半)以前の列島を支配していたのは『火族⇒ホ』ですから
例え『日族⇒ヒ』の世になろうとも『火族』は、各地に残ると考えます。
831 :
太国:2006/02/02(木) 21:50:06
>>825 >>830 考え過ぎ over じゃぁありませんかな?w プラムさんらしくないねぇ〜?w
お休みなさい〜zzzzz。
832 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/02(木) 22:14:41
太国さん
今日は、メッポウ早いお休みで!
少し位、スケールでっかく行きましょう。
何時も虫眼鏡で蟻んこ探していたら疲れちゃいます。
>考え過ぎ
何時も、周りから“脳無し”と言われていますので
たまには。
では!お休みです。Zzzz…
833 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/02(木) 22:30:36
古代日本に日=太陽信仰はありませんよ。
天照大神は日の神とはかかれているが、(記木の編纂頃らしい)天照大神が高天原で信仰の対象になった事はありません。
834 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/02(木) 23:23:31
>>833サガミさん
>古代日本に日=太陽信仰はありませんよ
★それは間違い無い発言でしょうか?
その発言は、私の考えの根底を覆す発言なので、推測だけでは認めかねます。
太陽信仰の象徴が、後に神社の社奥深く中央に鎮座する『鏡』であり、
【平原 ・柳井 ・伊勢】
この三箇所の鏡が
古代史の鍵を握る『鏡』と考えています。
835 :
太国:2006/02/03(金) 08:03:19
>>833 高天原で信仰の対象となった日神以外の神とは誰ですか?
それとも無しですか?
836 :
圭角:2006/02/03(金) 08:42:58
プラムさん、おはようございます。823にご返事します。当時の航海方法について。
一口に言うと当時の航海方法は陸岸を見ながらの航海でした。目標とする島なり山なりが
現実に見えている状況において船を進めました。そしてなんらの気象知識もなしに、
気長く風待ちをして時を過ごし、順風が吹き出したときに目標地に向かい船を進めました。
風待ちと言えば帆となりますが、中国における帆の使用はきわめて古くからありましたので
中国と交流のあった当時の倭人が帆の使用方法を知らずに、過ごしていたはずはありません。
。
837 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/03(金) 09:05:22
神社の鏡は魂をうつしだすものであって、太陽を反射させるものでも太陽を象徴するものではありません。
838 :
圭角:2006/02/03(金) 09:15:26
陸を見ながらの航海というのは要するに目標を見失わずに目標地に達することです。
よって、視達距離、つまり標高Hメートルの物標を眼高hメートルから認められる
最大距離が問題となります。一例として、眼高四メートル、目標の山の標高が九百
メートルとした場合、これはどれだけの距離から見えるかというと、123kmと
なります。
対馬の矢立山は六四九メートルあるので、眼高が四メートルあれば100km以上
の距離からもこれを十分認めることができます。壱岐の山は低くて213メートル
しかありませんが、これも50km以上の距離から見えます。
したがって、朝鮮海峡も対馬海峡も55km前後の幅しかないので、晴天であり
さえすれば目標を見失うことなく航行できました。これらのことが古より倭と朝鮮
半島の往復を容易にさせた理由です。
つまり、逆風の日でさえなければ、帆走に最適な日和でなくても、早朝に船出するなら
五五km前後の幅しかない対馬海峡と朝鮮海峡は、櫓で漕ぐのみでも、十分に
夕刻までに渡り切ったとして自然です。
と、元東京商船大学教授で航海士の人も言っています。さらにまた
両海峡は船を漕ぎ出してみたものの海上において陸地が水平線から没してしまう
という海峡ではないのです。
その人は、対馬から壱岐は見えないと書いてなかったかえ?
だから瀚海なのだと。
840 :
圭角:2006/02/03(金) 10:29:25
839さんへ。
倭人伝の文言に拘泥するよりも対馬に行かれて壱岐が見えることを
確認されることを勧めます。自分で見てみなさい。正常な視力の持ち主ならば。
貴君には倭人伝をもう少し正確に読まれることも勧めときます。
さらにもう一言。翰海とは対馬海峡すなわち玄海灘だ。
壱岐から九州が見えるか、九州から壱岐が見えるかという質問なら、まだしもわかるが。
君は初心者さんだろうけれど、ここは学問版だろう。
人にものを尋ねるならば言葉遣いも注意したまえ。
841 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/03(金) 10:32:13
>>838圭角さん
基本は陸地を見ながらの沿岸航海でしょうが、
呉が公孫氏を抱き込もうとしたときや、魏が遼東攻略の前に郡を奪取した時には、陸地から離れ、夜間航海もあったのでは?
倭の航海術はともかく
華人達の航海術は、私らが想像している以上に、発達していたのではと
思うこの頃です。
郡から倭地に赴く時、郡を出港した船は、対馬或は壱岐に到着するまで
ノンストップではとも、考えるこの頃です。
842 :
圭角:2006/02/03(金) 10:55:38
プラムさんへ。次の三国志の記事が参考になると存じますが。
魏の太和六年、呉の孫権は周賀と裴潜を使者として、海上から遼東へ赴かせ
公孫淵から馬を求める。十一月、魏の田豫は、成山においてその帰途を襲い
周賀を斬る。
843 :
圭角:2006/02/03(金) 10:57:40
プラムさんへ。次の三国志の記事が参考になると存じますが。
魏の太和六年、呉の孫権は周賀と裴潜を使者として、海上から遼東へ赴かせ
公孫淵から馬を求める。十一月、魏の田豫は、成山においてその帰途を襲い
周賀を斬る。
844 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/03(金) 11:27:32
圭角さん
参考史料ありがとうございます。
自分なりの考えを述べたまでですので
聞き流して下さい。
>>837サガミさん
>魂をうつす
★さてさてこれは難解です。私見ですが
サガミさんが言われるような、考えに成ったのは
比較的新しい時代ではないでしょうか?(根拠無し)サガミさん
・鏡は、どうして丸いんでしょうか?
・何故『日出国:日本』なんでしょうか?
・何故『ヤマタイ』なんでしょうか?
・何故、平原一号墳の主は頭を日向峠に向けているのでしょうか?
・何故、1792470餘歳?
疑問は尽きません。
>>840 対馬から見えても意味がない。海の上から見えないと。
あいにくと対馬まで足を運んでる時間的余裕はないのだが、
実際にその行路を移動した人の体験談として壱岐は見えないとかいてあるのだがね。
たしか、計算もしていたような気がするが、今手元のないので、確認できない。
>>840 >翰海とは対馬海峡すなわち玄海灘だ。
>壱岐から九州が見えるか、九州から壱岐が見えるかという質問なら、まだしもわかるが。
危うく読み飛ばすとこだったが、どう読んだらそうなるのかえ?
もういちど、倭人伝を見直した方がよいぞよ。人を罵倒する前に。
847 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 15:04:31
狗奴国は、首長の座を追われた奴国王の一族が新たに建てた国だと思う。
再び父祖の地に戻って来ることを願って金印を隠し、復権を狙って抵抗
運動を続けた。
卑弥呼の鬼道って、キリスト教が他の宗教を邪教と呼ぶ様な事では?
ヤマイチだと、熊本の山の中に有る。
おいおいみんな。
せめてヤマタイカくらい読もうぜw
>>846 キミが相手にしてる奴とは、あまり議論にならんと思うよ。
このスレ常駐の厨達よりは、多少レベルは上であろう。
しかし、自分の意見と言うか主張みたいなものは有るようなのだが、脈絡が無く明確な説明もしない。
いろいろと資料を引用するのだが、原文を提示することは無く、ツマミ食いや都合のよい「解釈」が多い。
相手の意見に対する応答は、キミも経験したように、すり替えや相手の言質を勝手に改変したりして、
「都合のよい」反論で「論破」したつもりになっている。
思うに意見交換の場としてここに来たわけではなく、
単にこの低レベルスレで言い争いに勝って、自分を高みに置いたような気になって喜びたいだけの人。
そう言う悲しい人だと思う。
過去にもそう言う態度が反感を買い、些細なことから集中攻撃を受けて退場したこともある。
他人に不快感を与え、しっぺ返しで自分自身も嫌な思いをしただろうに、
反省も無く、またまた同じ行動を繰り返す気のようだ・・・
>>849 余計な横槍だぜ
オープンな掲示板、参加するもしないも個人の判断だろう。
君のしている行為も、立派な押し売り行為
個人の感覚を他人に無理矢理、押し付けているだけ、解るかい。
レス内容の判断くらい、各住人達が勝手に決める
>>849 アンタ確か、プラムのレスにもいちゃもん付けてたけど、何か狙いとか目的があるのかい。
>つまみ食いや都合のよい「解釈」が多い
総てのレスに言える事、取り立てて珍しくも無いし、大袈裟に言い触らす事でも無い。
それとも何かい
時給で雇われ、オープン掲示板から住人を追い出し、スラム化させる事を目的にしてるのかい。
852 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/03(金) 23:52:37
古代の人は魂とは丸いものだとかんがえたのですよ。ヒトダマって丸い(のに尻尾がついている)でしょ。
けど鏡は中国からきたのですが、丸いほうが扱いやすいからでしょうね。
中国からみて東の日が出てくるほうにあるからです。じゃ、西の穂にあったら日の沈む国日本となるかというと、縁起でもないので言いません。
日本は言霊のくになのです。
邪馬台は邪馬(屋間)の大いなる委の国の意味です。卑弥呼が金印を貰ってから、邪馬壱国(ヤマイ国)からあらためました。
平原の主の奉公は偶然だと思います.
この大きな数字は、中国のオカルト的な数字をそのままのせているもので、何の意味もありません。
853 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 01:09:03
邪馬台の台は台与のト
854 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 02:33:59
スッゲー低脳だねw
855 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 03:09:04
タイだと言い張るクソ厨房よりはましだがな
856 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 03:49:51
>>850-851 名無しでレスして他人を装うのは辞めなさいと、何度も言われているでしょうが。。。
857 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/04(土) 07:33:15
>>852サガミさんおはようございます。
>古代魂は丸い形と認識
★?
勾玉の方が、形的に…
魂=〔玉〕ではないのかな? 例… 大国魂神社
昨日は節分
日族に反抗する沢山の倭種を追い出しましたか?
858 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/04(土) 11:46:07
>>852サガミさん
『鏡』という字はどうして〔カガミ〕という音で読むのでしょう。
(私見ですが)
『鏡』の文字に〔カガミ〕と言う音を付けたのは、
『鏡』を〔カガミ〕という使い方をしたため、〔カガミ〕の音を付けたと、考えます。
〔カガミ〕の意味解釈は
★天にあり世の中を照らす神
ふーむ。まあいいけど。いきなり居丈高にきたから変な人だとは思ったけど。
実際対馬海峡を渡ってる暇はないんだけど、Google Earthで釜山あたりから九州まで対馬海峡横断の
低空飛行のシミュレートやると確かにみえるんだよね。対馬は南の方が。
でも、壱岐は見えない。
実際見えるかどうかの証明にはならないんだけど、壱岐がものすごく見難いっていうのは確か。
861 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 13:54:49
邪馬台国は沖縄です。間違い無い。
862 :
本田:2006/02/04(土) 14:00:02
>>861 > 邪馬台国は沖縄です。間違い無い。
沖縄は狗奴国では?
>>860 まあ、件の御仁自身も対馬⇒壱岐に関しては視認し難い距離であることは承知してるだろう。
だから「絶対に見える」と言う表現は微妙な言い回しで避けていると言うか、
態々伏せておいた都合の悪い処を突かれてしまったので「逆切れ」したんだろうな。
でも、出発点と到着点の間が直接見渡せなくても、ある程度確定した航路であれば、
海流に気を配りながら、勘を頼りにある程度の位置(中間点あたり)まで行けば、
視認することは可能でしょう。記録には無いが、交易の中継点として成り立つ壱岐には、
後世の「烽火(とぶひ」「狼煙(のろし)」「火立(ほたて)」のような施設も有って、
航法の補助は出来たろうし、実際当時の技術で50キロの距離を渡たったわけだから
>838のような法螺交じりの薀蓄垂れて「見えたか」「見えなかった」に拘るような問題では無いと思うw
864 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 18:56:33
「邪馬臺」に音を与えれば「ヤマドゥ」
「卑弥呼」は「ピミホ」、「狗奴」は「コヌ」。
865 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/04(土) 20:30:17
>>864 邪馬臺⇒〔ヤマタ・ヒ〕
奴 ⇒〔ナ〕
卑 ⇒〔ヒ〕
866 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 20:43:58
>>865 いや、「臺」⇔「ドゥ」は中国音(上古音)の話。
貴説には、何の関係も無いことです。
867 :
太国:2006/02/04(土) 23:35:41
畿内説は古代史のオナニー。
868 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 07:32:27
『女王の都する所』英秀和著を読んでみると良い。
投馬国5万戸、邪馬台国7万戸を検証するくだりは圧巻ですらある。
一読に値する。
倭人伝
直進説ー>奄美大島&沖縄本島
直進&南東説ー>大和&丹羽
放射&南東&総里説ー>宇佐
放射&総里説ー>山門
天津国
女王 アマテラス
弟王 スサノオ
邪馬(一)国
女王 いち(市)
弟王 なしめ
邪馬(台)国
女王 とよ(台与)
弟王 ゆみひこ
870 :
太国:2006/02/05(日) 11:33:33
畿内説は、当体を記紀に隠しているとか、推理小説式にして成立をもっともらしく
説明しているオナニー論だな。w
>>863 たどりつけるとか、なんとかよりも、対馬−壱岐間を“翰海”(文字どおりの意味なら広大な海)と
呼んだ理由が理由が素直に説明できるということが大事なのですよ。
距離からいったら朝鮮半島から対馬の方がやや広いくらいなのに、
なぜ、対馬−壱岐間をわざわざ“翰海”というのか。
大概の人は最初は疑問に思うはずなんですが、
各島の最高点と地球の丸さを考慮するとすんなりと理解できる。
最初にこの話を読んだときには、目から鱗が落ちるとはこの事か、と思ったもんです。
ちなみに計算式:
地球の半径: R(=6378.1km)
地球の大円に沿った2点間の距離: X[km]
標高: H[m]
H = R (1/cos[X/R]-1) * 1000
大円に沿って地点A、BがX[km]離れているとき、
A点からB点が見えるためにはBの標高がH[m]以上である必要がある。
ただし、A地点では海に浮かんだ丸木舟の上にいるとし、海抜0mとする。
壱岐島の最高点は岳の辻の213mだが、この山は壱岐の南端の近くにあるので、
航路によっては北側にある男岳153mの方が先にみえるかもしれない。
逆に、標高H[m]の場所が見えなくなる距離X[km]を計算するなら、
X = R acos[1/(1+H/1000/R)] (acosはcosの逆関数)
H=213mならX=52.1km、H=156mならX=44.6km。
対馬−岳の辻間は一番近いところでも60km近く離れているので、海上の丸木舟からは見えない。
872 :
863:2006/02/05(日) 12:34:57
>>871 まあ、そう言うことですね。
私のレスでもふれた天智紀の「烽火」でさえも、
対馬>壱岐間をどのように機能させたのか、
論議があるところですから。
873 :
16さい中卒ヒッキー:2006/02/05(日) 15:32:09
親が癌で死にそうで鬱です(>_<)邪馬台国どころじゃなくなりました
ヒッキー君
かなり末期なのかい?
私も、昨年三月に母親亡くしているからなぁー
君の親だと未だ私位の年齢かな
875 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/06(月) 10:23:58
すでに再発して肺に転移しました・・
年齢は48です。もうだめ。これから
親の死を受け入れなければならないので
鬱です。どっと疲れます。
876 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 11:14:37
航路には意味があると思うが、距離は自分はこんなに大変な航海をしたと、
自分の仕事を大きく見せようとしてオーバーに言っていると思う。
邪馬台国の首都には行ってないみたいだが、邪馬台国の時代にも鴻蘆館の
様な所があったのだろうか?
877 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/06(月) 11:51:17
>>876 >邪馬台国の首都には行って無いみたいだが
★昨日今日始まった(帝国⇔列島)訳でも無い朝貢儀礼、それを全て玄関先だけで完結させてしまうほど
簡単なものではないはず
帝国の面子をかけた使者、その数も数百を下る事はないだろう。
邪馬台国は属国、そのことを忘れずに再検討を希望する。
878 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 11:57:31
邪馬→八女
879 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 12:17:28
もうじき教科書に邪馬台国は畿内大和と記載されます。
九州説の皆さん、ご愁傷様です(w
880 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/06(月) 12:27:00
>>878 >邪馬=八女
★そんなピンポイントで解決する問題ではないよ!
邪馬臺は[ヤマタ・ヒ]で⇒(大きな日の地域)
広い地域を表す言葉だ!
後に「大和」の基礎に成る・邪馬臺[ヤマタ]ヒ
・邪馬壹[ヤマ ]ヒ
・邪摩堆[ヤマタ]ヒ
・邪摩惟[ヤマ ]ヒ
全て漢字を変えただけの同意語です。
881 :
太国:2006/02/06(月) 12:39:29
記載されたって九州説は不動だ。w 臥海の足枷を自ら外す算段をしな。w
畿内説は空想小説とすると成立だ。PuPUPu!ww
882 :
太国:2006/02/06(月) 12:52:59
考古学っていうのが、古代史・史容疑の使い物になるにはなるが飛車駒であり、
臥海はこの威力を信じすぎ大冗談にかまえて、さも科学的と言わんばかり権威
を滅相にも粘着取り付けて「考古学では××××ですから女王国は畿内説の立場
をとっています。云々」とかで記紀、古史古伝の文献を舐め、空想小説を
奏でている。まあ、皇より飛車を可愛がるで、その上教科書を狂化書にしてしまう
という暴挙を考えているのか?と、
>>879を読むとあきれている。ww
だから冷静にだ、考古術として、権威付けを回避させてこそ、真の古代史が
眼前に現れるのである。古代史史容疑を羽生さん清水さんのように見本とさせて
頂いて、史容疑をささないと臥海はあとで大恥をかくことになる。
883 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 13:29:54
884 :
太国:2006/02/06(月) 13:34:00
『1』か〜?w
くやしかったら小手版で来い。九州の女王国は『邪馬壹國』というんだよ〜。
陳寿は字を間違えるほど間抜けじゃあないんだよ〜。ww
885 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 14:02:25
>太国さん
すでに共通認識さんが確たる証拠を提示して反論されてますが
それと「陳寿は字を間違え」たと主張する畿内説など無いことも
繰り返し何人もの参加者によって指摘されていますよね。
あなたはそれらについてまったく答えられなかったじゃありませんか。
宗教的立場から考古学を批判されるのは、あなた個人の信条によるものであって
一般には決して受け入れられないことを御存知の上での書き込みでしょうが
それにしてもヒステリックと言うか、追い詰められていると言うか・・・
それともそういう文体と誤変換は、芸風ですか?
本気で自説を流布したいのなら、その手の手法は控えたほうがよいですよ。
886 :
太国:2006/02/06(月) 14:06:35
間違えてなければなおいいじゃな〜い?
じゃぁ『邪馬壹國』でokだな?わかったわかった。
こんどは『邪馬台国』などと言い出すなよ。w
887 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/06(月) 14:26:01
>>885さん
>確たる証拠の提示
★それは違うでしょう!
他の文献との照らし合わせで、確率的に高いと言う意味ではないでしょうか?
では、私が先ほどレスした
>>880の
邪馬臺・邪馬壹・邪摩堆・邪摩惟
等は、どう説明されますか?
私のレスがきっかけなので横槍を入れさせてもらいました。
888 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 14:28:08
>大国さん
そんな自分の世界に逃げ込んじゃ駄目ですよ。
3世紀の日本列島に存在したのは『邪馬臺國』であって
略字および一般通名として『邪馬台国』を使用しているだけです。
これまた散々繰り返されてきたお話ですね。
九州に『邪馬壹國』なる女王国が存在した可能性は、ほぼゼロに等しいと
考古学のみならず文献史学、東洋史学も含めた共通認識なのはご存知でしょう?
大国さんが個人の宗教観からお認めになりたくないのは判りますが
いくら匿名掲示板だからと言って、根拠なき誹謗中傷を繰り返すのは
あなた自身の為にもなりませんよ。
889 :
太国:2006/02/06(月) 14:37:59
誤変換は2chの日常茶飯事。何で余だけを責めるんだい?
貴殿も考古学を電化の宝塔、飛車駒にしがみついているんだな?
十分注意したほうがいいですよ?考古学の畿内説は権威でもって確定している
んだよ。失敗は眼に見えているんだぜ。w
なお古神道は宗教じゃぁないんだよ。協議のないのに「教」の字をつかわんで
ほしい。『宗』の一字だよ。
考古に虎の威を借りる狐の威勢を持参して、古神道を舐めているとために
なりませんよ。
じゃぁ、考古で記紀に女王国の記述のほぼないことをどう説明するのだい?w
ついでに、それだけ考古から大きな口をたたくなら、古手版を使えばどうだ?
それとも、勝てないから責められるのがいやなのかい?w
890 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 14:41:37
>プラムさん
確率的との表現はいかがなものですかね。
そんなフィフティフィフティどころか
90%程度の確率で定説化しているのでは決してありませんよ。
詳細はあえてここで書かずとも、十分御存知の筈ですから割愛いたしますが
言葉のやり取りで話題をそらそうとするのは感心しませんね。
同様に
>>880でお書きになられている内容は、あなたの想像に過ぎず
逆にどのような根拠を以ってして述べられておられるのか
こちらがお聞きしたいくらいです。
しかもあなたのレスがきっかけどころか、まったく無関係の話題ですよ。
後世の史書(私本)に誤字脱字が発生するのは、当たり前と言うか仕方の無いことです。
この辺りは、例えば江戸期や室町期などの古文書の写しや
中国どころかローマ、ギリシャの金石文などを一通り学ばれれば、一目瞭然です。
文献史学とは原典を盲信する学問ではありません。むしろ疑うことこそ出発点です。
891 :
太国:2006/02/06(月) 14:43:03
小切手うを使えば不正防止に 一万円 とせず 壹萬圓 とかで書いた
んだよ。それほど倭人伝では『壹』字は重要なんだよ。
『臺』じゃあないんだよ。w
貴殿の説は絶対相容れぬのだよ。余が孤塁を死守しても正解を防護する。
でたらめな字をもってくるな。
892 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 14:44:24
893 :
太国:2006/02/06(月) 14:52:45
「京都」は「東京都」じゃないんだよ。同様に『邪馬壹國』であって『邪馬臺國』
じゃあないんだよ。
>文献史学、東洋史学を云々
また始まったね。仮称権威者権威団体の名を連ねたって駄目だよ。
ここは数字の『壹』なんだよ。
894 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 15:03:18
>大国さん
2chの誤変換は、それが「笑える」からこそ成立するものであって
あなたの使われ方は的を外してますよ。それに責めてもいません。
コテにしないのは、確定事項から目を背けてまで強弁する流れに
ほとほと呆れ返っているためです。
これはあなただけでなく、へんてこな畿内説を唱える一部の参加者もそうですね。
また2chでの邪馬台国関連の話題は、あの老教授さんをはじめとする
「現代の畿内説」にて事実上終止符を打たれたわけですから
今更それを繰り返すことも無いと考えるが故でもあります。
大国さんは別スレの「書記記年法」ではきちんと論拠を立てて参加されておられるではありませんか。
仮説の信憑性よりも、参加者の自制と良識が一番の問題点でしょう。
一部のコテハンによる名無しでの自作自演や、自著の宣伝、学問以外の理由による強弁等を自重されるのであれば
いつでもコテにて参加させていただきたく思います。
>>894 「書記記年法」じゃなくて、「書紀紀年法」では?
896 :
太国:2006/02/06(月) 15:18:09
>>892さんの要望に沿って解説したいが論の量が多大になるからねぇ。
卑弥呼は鬼道をやっていたから考古がどうのこうのたかで「鬼道」の言わんこと
とは何かを外すことはできないよ。
神功以前は仏教も基督教もなく、神道の国だったんだからこれ無しで論をしろと
言ったって、江戸時代戦国の世を刀無しで論じろと言うのと同様にそれは無理かつ
でたらめ江戸時代等研究ということになる。
それは銃刀法違反だから現代人は刀をさしては歩けない。違法だから江戸時代も
無刀で話をしろと言ったってそれはめちゃくっちゃということになる。
同様にだ。神道古神道なしに当時の古代史を考古が信仰だから受け付けないと
言ったってそのころは神道古神道で国を運営してたんだから、江戸を無刀で説明
しろと言う如く、同じく鬼道神道古神道無しでやれと言う考古は時代錯誤の
笑い話ということとなる。w それだけ連中は古神道等を舐めているわけだ。w
897 :
太国:2006/02/06(月) 15:19:25
誤 どうのこうのたか 正 どうのこうのとか
899 :
太国:2006/02/06(月) 15:33:49
数字な関することはここの若い数字の所で解説してますから、よんでください。
古神道と関わりあります。
貴殿には考古が受付ないから刀無しに江戸時代の映画を作れというようなこと
をどう思うか聞きたいもんだよ。w
900 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/06(月) 15:48:15
>太国さんに質問!
日本書紀にあって古事記に無いものって“干支”ですよね!
その真相は、何だと思われますか?
スレ違いな質問でスマソです。
解る方ならどなたでもOKですからレスヨロシクです。
902 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/06(月) 17:06:33
>>901安曇さん
どの辺りですか?
見逃していたのかも知れないので 指摘してください。
今まで時間表示は、日本書紀だけと認識していたので、お手数ですがヨロシク!
>>902 戌寅年十二月崩(崇神記) 乙卯年三月十五日崩(成務記)
壬戌年六月十一日崩(仲哀記) 甲午年九月九日崩(応神記)
丁卯年八月十五日崩(仁徳記) 壬申年正月三日崩(履中記)
丁丑年七月崩(反正記) 甲午年正月十五日崩(允恭記)
己巳年八月九日崩(雄略記) 丁未年四月九日崩(継体記)
乙卯年三月十三日崩(安閑記) 甲辰年四月六日崩(敏達記)
丁未年四月十五日崩(用明記) 壬子年十一月十三日崩(崇峻記)
戊子年三月十五日癸丑日崩(推古記)・・・おそらくこんな物です。
誤り等あれば、ご教授気盆。
904 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/06(月) 17:33:41
一つ言えるのは、おそらく古事記の年代は「崩年記事」に限られている
ということですね。
905 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/06(月) 18:24:53
>>904安曇さん
お手数かけました。
すると、基本的に古事記には、「時間表示が」無いでいいですね!
太安万侶の指揮のもとに編纂され、二年後に「紀」の企画が始まり
「紀」の編纂にも太安万侶が関与した。
「記紀」を比較すると、「紀」には干支が記載されている 史記の時間表示です。
「紀」の目的の一つとして、史記録の『時間調整』ではないかと考えます。
906 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/06(月) 18:47:01
古事記の干支は、分註として後にかきくわえられたものともいわれます。
古事記分註天皇崩年干支といわれ、もともと日本書紀編纂の際にまとめられたものですたが、
書紀には不採用となったのを、古事記の中に分註としてわりこませたものです。
ですから、書紀の年代にピタリと合うのです.
よって、基本的に古事記には「時間表示」がないのです。
>>906サガミさん
ありがとうございます。
ところで
古代日本の天皇は、最高権力者では無かった!
こんな仮設成立すると思いますか?
908 :
太国:2006/02/06(月) 19:51:40
>>900 プラムさん、干支に関しては必要なことは当然なんですが、余のテリトリーのもの
ではありません。従いまして余より各位のほうが数枚上手のはずです。
なにしろ古事記は2冊持っているのですが、書籍が多大で家のどこかに行って
しまったのです、やむなく今はググって古事記の内容を見ることにしています。
また買おうか?とも考えています。
ただ立太子即位とかの数字の研究は発表してませんが、年表がボロボロになって
使用にたえられないくらい齧っていますが〜。すみません。
本日はだいぶ言いすぎたようで、皆様にはだいぶ迷惑をかけたようです。
実は風邪の最中で、書き込みで紛らわしていたんです。
反論はこちらも体調最悪で返答するにはつらかったです。
909 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/06(月) 20:07:47
>>908いえいえ太国さん
風邪ですか?
早く良くなって下さい。
>今日は言い過ぎた
トンデモない!調度良い湯加減ですよ
私なんか毎日が戦争です。
ところで
紀に、記載されている数字(在位期間・その他のトンデモ数字)が、単なるトンデモやいい加減な数字ではなく、何らかの意図のもとに作成された数字だと考えます。
今は、例題等を上げる段階ではない為、レスしませんが
もし、公表する機会があった時は、総評をお願いします。
910 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 20:16:41
877さん、はるか東の国の蛮族にそこまでの礼を示すだろうか?
魏の役人と鏡を運ぶための人間が、邪馬台国の一行の帰国に付き
添って来ただけだと思うが?
>>910 うる覚えで申し訳ないが!
何処かの国への返礼に、総勢数千の人数を編成したとか
>蛮夷のどうでもいい国?
★魏朝時代迄に数百年という長い、朝貢慣例があるのです。
その間に、列島(特に属国地域)の地理調査等、事細かく行われたと考えるのが普通でしょう。
特に魏朝時代、倭の朝見には特別な意味がありました。(何度も過去レスにてカキコしてあるので委細略)
912 :
たまご:2006/02/06(月) 22:28:50
>>909 >紀に、記載されている数字(在位期間・その他のトンデモ数字)が、
>単なるトンデモやいい加減な数字ではな
>何らかの意図のもとに作成された数字だと考えます。
※「東アジアの古代文化」第120号 2004年夏/特集 『古事記』と日本神話
の倉西裕子氏の
「『紀』・『記』間における歴代天皇の宝算の年差をめぐる一考察」
を読まれると良いと思います。
>>912 資料提供スイマセン!
図書館に行った際覗いてみます。
その著書には
『百七十九萬二千四百七十餘歳』の解釈等詳しく解説していたか解りませんでしょうか?
914 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 01:58:42
915 :
たまご:2006/02/07(火) 02:58:41
>>913 百七十九萬二千四百七十餘歳の解釈、解説は一切ありませんでした。
記と紀の天皇の在位年数と、年差の数字についてのみだったと思います。
欠史八代と巻末の八人の天皇の年差が一致する可能性があるとか、
なにかの数字に、天皇の在位年数を足すと、天智末年になるとか、
そんな様な事が書いてあったと思います。
916 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/07(火) 07:54:25
>>915たまご さん
御協力ありがとうございます。
私は、このトンデモ数字を数詞文字ではなく、他の文字(暗号?)として読めないか
真剣に考えてます。
トンデモな数字なら『百八十萬餘歳』で、事足りてるはず
前途多難です。
917 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 18:04:00
秋篠宮頑張りましたね
918 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/07(火) 20:31:40
「卑弥呼の金印を探せ!〜国東半島に眠る巨大ストーンサークルの謎〜」
こんなテレビ番組があったのですか?
919 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 11:39:47
一を壱としていたから重要?意味不明ってかバカ?
一でも二でもそれを用いないのは簡単に改ざんできてしまうだけ。
壱って漢字が重要なのではない。
なんか話の方向がずれてるような気がします・・・。
921 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 03:03:17
邪馬台国=四国
狗奴国=畿内
間違い無いでしょ!
純粋な間違い。
923 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/10(金) 10:25:26
邪馬台国は宇佐で東遷して
大和朝廷に絡んでくるのは間違いないんだけど、
卑弥呼は天照なのかな・・?
そのへんはわからない
924 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/10(金) 12:37:39
>>923ヒッキーくん
親御さんの方は大丈夫なのかい?
>卑弥呼は天照なの?
★天照一族
そして、東征したのは二回第一次に確保した領域は、『記・記』の最初にカキコしてある。
そして第二次が
有名な神武(武王)の東征
一次で確保した領域は、卑弥呼共立前に失い、九州限定地域に縮小するけどね
理解出来るかな?
今は理解できなくても、君なら何時かは理解してもらえそう。
925 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 12:48:46
私は九州出身だが
邪馬台国=近畿
でしょ!
926 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 14:45:37
安本美典氏の東遷説が最も矛盾なく無理なく説明出来ると思うのですが
何か穴あるんですか?
927 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 15:30:44
穴ポコだらけだろうが
具体的にお願いします
でも「邪馬台国東征説」の具体的な論拠はどこにあるんですか?
私は別に東遷説を主張して論破しようとしているわけではなく、
安本氏の説に説得力があり、かなり影響されてしまったので、
もし穴があれば真摯に聞きたいと思ってるだけです。
931 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 18:13:56
ほがの人の本もいっぺぇ読めばわがるでぇ
まんず、がんばれなぁっす
932 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 18:25:30
知識が薄いと、騙されている事に気が付かない訳です。
933 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 18:38:27
つうか京大閥対東大閥のイデオロギー戦争だろ?
決着なんてつかないよ
戦争でもしない限り
934 :
◆E.u7YvCRsk :2006/02/10(金) 20:17:24
しね
漢風天皇名に「神」がつくひとは
みな大和に侵入した初代。
ニギハヤヒ(古出雲)>イワレ(日向耳族)>ミマキ(天孫傍系)>ホムダ(新羅)
ニギハヤヒはスサノオの出向命令。
イワレは天孫の九州統一で追い出される。
ミマキは間八代が開拓した土地に侵入。
ホムダは息長(天日矛系)が母国から招いた。
936 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/11(土) 10:18:30
香春から宇佐神宮に鏡を奉納する
方丈絵?とかいうイベントは
魏の使者が鏡をもってきたのに由来してるに決まってます。
邪馬台国は宇佐で決まりです。
937 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/11(土) 10:45:35
宇佐の近隣伊美郷の『伊美別宮社』
千百数十年前、八幡分霊の時、近隣にあり八幡総本家である宇佐八幡宮からの分霊ではなく
遠く離れた山城国岩清水八幡宮からの分霊奉持、
この事は、一体何を意味しているのだろうか?
938 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/11(土) 11:29:30
陳壽は『水行・船行・陸行』に、分類した。
『陸行』
【東南陸行五百哩到伊都國】
結論から言えば
敢えて『陸行』の文字を表記したのは、次の目的地が『水行』可能な地域だから(何等かの事情により)敢えて『陸行』としたのです。
あともう一つ、『陸行』の次に『水行』と言う別な行程を設定してあるが為の、記載です。
『水行』も、同じような理由からです。
陸地を歩くから『陸行』ではないのです。
陸地を『水行』する人はいません。それなのに『陸行』表示は、それなりの意図が有るからです。
939 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/11(土) 12:34:22
>>938の状況から
『陸行』と書かれた着点は、決して内陸地ではなく
海岸沿いに在る土地です。
九州北岸(末盧)に到着した次の目的地(伊都)は、同じ九州北岸地域に在ると言う証明です。
>>938 「何らかの事情」をカキコしないと議論になりませんよ。
941 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/11(土) 12:52:14
>>940 安曇さん
では、(何等かの事情により)を削除します。
別に今の所、意味が無い文章ですので
942 :
本田:2006/02/11(土) 19:19:45
>>935 > 漢風天皇名に「神」がつくひとは
> みな大和に侵入した初代。
九州の山門の間違いでは?
943 :
本田:2006/02/11(土) 22:00:22
944 :
本田:2006/02/12(日) 10:36:03
「世界ふしぎ発見」によると、
鹿児島大学の新田先生の説では、
瓶棺のルーツは、南インドらしい。
「東征説」を唱える人は何で「大和」なのかをはっきりさせてください。
946 :
本田:2006/02/12(日) 10:37:28
947 :
本田:2006/02/12(日) 10:40:59
>>945 > 「東征説」を唱える人は何で「大和」なのかをはっきりさせてください。
公孫卑弥呼は、遼東半島から九州に東征した。
949 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/13(月) 10:02:49
神湊に上陸し宇佐に行くルートでなんら問題ないでしょうに。
宇佐八幡が重視されてるのは応神の故郷だからでしょう。
応神東遷は宇佐にあった邪馬台国の東遷でしょう。
皆さんなぜこのようなこともわからないのか・・
950 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 10:28:31
時代が違うだろう
951 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/13(月) 10:51:07
>>949 >皆さんなぜこのようなこともわからないのか・・
★その説が正しくないから
二世紀後半〜四世紀の時代、最高位権力者は天皇ではなく『“キミ”(神功)(斎)』です。
952 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 11:28:09
「オホキミ」だろ。
「キミ」は妃。
>>949 「応神東遷」?生まれたのが九州だっただけなんじゃないんですか?
954 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/13(月) 20:17:28
昨日とある古代史の研究会にいってきました。そこでふとあることに気づきました。
倭人伝においては倭の大夫難升米が活躍しておりますが、
卑弥呼の死後壱与が立ってから、政等檄を以って壱与を告諭したのち、壱与は政等の還るを送らせた時に、難升米の名がありません。
その理由を考えてみましょう。
わたしは、卑弥呼死後の誅殺の時に殺害されたとおもいます。
955 :
↑:2006/02/13(月) 21:37:41
センセ、もっと実証的に願います。
956 :
太国:2006/02/13(月) 21:51:25
畿内説の弱点は記紀に女王国の記述がないことさ。もうこれで決定的!!ww
957 :
太国:2006/02/13(月) 21:56:34
そして、それを助けるためには、名探偵明智小五郎を招請せねばならない。w
これで南事件は解決か?www
958 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 22:01:48
それと俺等氏もご自分でも言っておられますが
伊都国=博多と不彌国=宇美があまりにも苦しいですね。
ここは安曇連浜子氏のいうように定説どおりで良いのではないでしょうか。
3世紀の北部九州における出土物については、柳田邦雄氏の著作(伊都国を掘る)
宇佐の状況は長嶺正秀氏(筑紫政権からヤマト政権へ)などで詳しく述べられています。
共に一般書店や図書館で手に入りやすいものですので、目を通されてはいかがでしょうか。
959 :
太国:2006/02/13(月) 22:02:12
そして宝玉類を九州へ持っていかれぬ為に筑紫怪人四面相を警戒せねばならない。
明智小五郎もあきれて事件解決から手を引くか?ww
960 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 22:06:05
ごめんなさい、なぜか誤爆した。
>>949 たぶん忍熊王あたりの記述にこじつけたのでしょうね。
4,5世紀の畿内の出土物などからとっくの昔に消えた説ですけどね。
>>956 神功紀で引用されていますよ。
961 :
太国:2006/02/13(月) 22:08:32
>>960 気難しい人だねえ。殆どということだよ。w
962 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 22:13:26
太国氏は現実世界に不満かストレスでもあるのかな?
根拠なき罵詈雑言があまりにも多いから、ちょっと心配ですね。
「論で来い」と挑発しながら論で行くと逃げるし・・・。
963 :
太国:2006/02/13(月) 22:17:57
怪人四面相は逐一宝玉類を九州へ搬送し、大陸へその一部をウッパラバンナー
して大陸との駆け引きをねらっている。ww
しかし、畿内氏はこれを阻まんとして、大陸から六耳の猿を応援として呼びよせ、
前人未到の大和の秘境から人知れずに宝玉類を直接偽キント雲に乗せ、
密かに大陸との交渉を狙っている。w
これを知った明智小五郎は呆れ果てて救いようのない輩との断を下したのである。w
難升米=ナガスネ(伊都国王でスサノオの外戚の末裔)
都市牛利=ウマシマジ
卑弥呼=大乱の折擁立される
官の伊支馬=イクメイリヒコ(垂仁)
副官の弥馬獲支=ミマキイリヒコ(崇神)
狗奴の卑弥弓呼=イワレヒコ(日向のミケヒコ)
狗奴国北侵=神武東遷
実は九州の話。
追加
倭国王はスサノオ〜五十猛(長男)の血筋
タケルを代々名乗る
オウス(ヤマトタケル)が暗殺したクマソタケルはこの血筋
966 :
筋違い:2006/02/13(月) 22:46:17
難升米は、倭人伝での登場場面等をみると、政等の帰国の際には、倭国にいなかったのではないだろうか。
帯方郡治に倭の大使館か領事館のようなものがあって、そこに詰めていたのではないだろうか?
967 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 02:26:47
>>964 トンデモですねw
かなり笑えるよw( ',_ゝ`)プッ
968 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/14(火) 10:40:27
>>966筋違いさん
「魏志 倭人伝」にカキコされている四度の朝見記録
これが魏時に行われた全ての記録では無い。
その他の史書にも共通して言える事ですが、必要な記録だけ抜粋してカキコした。 その目的の一つが「倭人伝」冒頭に記述されている
【今使譯通三十國】の説明。
しかし、四度の朝見で使者に選ばれた人数は、ダブリを省けば29人で 一人足りないワケ!
それが【不属女王】であり、女王と犬猿関係にある「狗奴国男王」
だから陳壽は【不属女王国】と書かなかったのです。難升米の登場回数が少ないのも、別に意図はないよ!
969 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/14(火) 11:25:35
以前よりカキコしているが、別に狗奴国が敵対国だったわけではない。
以前(漢時)狗奴国の王も使者として朝見の為、大陸に渡っている
だから「後漢書」に
【使驛通於漢者三十許國】と、カキコされた。
三十国最高位に、卑弥呼(女王)を共立することに反対だったんではないかな?あくまで最高位は、男王と言う立場を取り
女王に反目した。
しかし、漢時も魏時も三十国体制から、外れる事はなかった事を
「魏志倭人伝」「後漢書」が、証明している。
魏志倭人伝の一文だけを取り上げて 狗奴国を敵対国に仕立て上げる行為は、トンデモない事です
970 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 14:24:11
971 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 14:24:48
972 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 23:12:32
朝鮮半島にあったって説はスルー?
(・_・)r鹵~<巛巛巛
ジャワ島にあったって説はスルー?
975 :
16さい中卒ヒッキー:2006/02/15(水) 11:45:54
高木説が今まで読んだ中で一番説得力があった
976 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 12:39:49
宇佐なんかド田舎だぞ。大倭王が居る訳ないだろ。
宇佐に居るのは 「時枝正昭」氏である
いわゆる邪馬台国は、何度も遷都してるだろう
福岡県北部
佐賀県有明湾岸
熊本県菊池地方・・・あたり
979 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/15(水) 14:53:42
>>938 あえて「陸行」と記したわけは、「水行」してはいけないからですよ。
「東南行五百里」としたら、そのまま船でイト国へいってしまうからですよ。
つまり、マツロに着いて次ぎは伊都国だとして、東にイト国があるじゃないか、東南は東の間違いだろうとして、前原にしまうかも知れないからです。
>>979サガミさん
そうすると『水行』も、あやまっての「陸行」を防ぐ為、『船行』は、あやまっての「空行」を防ぐ為ですか?
『陸行』がでてくるのは、ここの場面だけじゃありませんよ!
それに陳壽は、晋の時代にカキコしたのであり
使者の為のガイドブックとして『魏志 倭人伝』をカキコした訳ではありません。
★先生しっかりして下さい。
981 :
16さい中卒ヒッキー:2006/02/15(水) 19:23:04
伊都へ東南の方向にいくのが神湊上陸説の信憑性を裏付けていますね
982 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/15(水) 19:42:54
ヒッキー君の凄い所は、
女王の都⇒斯馬国⇒…(省略)…⇒烏奴国⇒奴国
というコースを考えついたこと。
(ヒッキー説)
この説は、完璧です!
この(ヒッキー説)がなかったら、未だ闇の中でした。
『女王の都』は、
福岡県東部・周防灘に面した地でしょう。
そして、
『女王自国』は、
豊前・豊後・日向七万餘戸
九州山地を越えた西側に『投馬国』、
日向と肥後の南に『狗奴国』です。
983 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 21:44:43
また狂いはじめたぞ
984 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/15(水) 21:51:11
>>983 下らない一行レスしないで何処がどのように
狂っているのか 説明キボン
無駄を承知でカキコ。
985 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 21:54:05
考古学者は本気で邪馬台国を探しているのか?
いいかげん何かでてこないかなぁ。
986 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 22:21:49
もう心の中ってことにすればいいと思う
987 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 23:44:55
>>982 だからそこにどんな遺跡があって、何が出土してるか
それをちゃんと考えてないから、電波扱いされるの。
>>987 >遺跡?
そんなもの将来出てくるよ! 黙って考古学の先生方の結果を待てばいいの
>電波?
ありがとう。
チラシの裏よりましだな!
原田の爺さんが
伊都国王の墓だ何て言い出すから 未だに謎だらけ
でも、あの大きな鏡を復元したことには 頭が下がる。
取り敢えず、あんたの『水行・陸行』の解説でも聞こうか?
989 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/16(木) 00:11:55
プラムさん、そのヒッキー説とやらも
適当に言っただけですよ。ってか指摘されるまで
自分がそんなこと言ったことすら忘れてましたよw
文献面からは神湊上陸で宇佐にいくのがほぼ正しいでしょうね。
これ以上の解釈はありません。あと応神と邪馬台国を
絡めれば日本の古代史の全体像が浮かび上がってくるはずです。
あとは考古学から実証するしかないですね。さっさと
宮内庁も天皇陵発掘許可を出してほしい。お世継ぎ問題など
よりそっち方面の議論をしてほしいw
990 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/16(木) 00:18:49
>>987さん よ
考古学も大変大事な研究だけど こればっかりは素人にはどうする事も出来ないよ!
しかし、素人にも出来る生きた考古学がある訳
それが『口伝承』
この中には、地下から掘り出される出土品と同じくらい(いや、それ以上)の価値があるよ!
それは、機会があればおいおいジックリと公表しますよ
それまでは、電波で結構
991 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/16(木) 00:27:18
ヒッキーくん
そんな事ないよ!大変重要なヒントありがとう。
>邪馬台国と応神
今、別のスレ(記紀関係)にて検討中。
何時までも、記紀を無視する訳にいかないからね!
992 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/16(木) 00:33:28
男王=難升米じゃなかろうかとふと思いましたw
993 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :
>>992 それは永久の謎
しかし、三十国体制の何処かの国の王ですよ!