「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか15)

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1日本@名無史さん
立場、主義主張を超えて真摯な議論をしましょう。
荒らしは徹底無視の基本方針でマタ〜リとお願いします。

過去スレ:
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか14)
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1093794804/
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか13)
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087799602/
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087882280/
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか12)
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1064621137/
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか11)
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1055945631/
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか10)
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1036881177/
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか9)
http://academy.2ch.net/history/kako/1031/10312/1031263845.html
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか8)
http://academy.2ch.net/history/kako/1026/10267/1026730130.html
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか7)
http://academy.2ch.net/history/kako/1022/10227/1022789816.html
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか6)
http://academy.2ch.net/history/kako/1002/10027/1002714692.html
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか5)
http://mentai.2ch.net/history/kako/994/994297399.html
「魏志倭人伝」を読む(邪馬台国はどこですか4)
http://mentai.2ch.net/history/kako/989/989770230.html
邪馬台国はどこですか2
http://mentai.2ch.net/history/kako/983/983026206.html
邪馬台国はどこですか?
http://mentai.2ch.net/history/kako/979/979141322.html
2日本@名無史さん:05/01/11 14:38:58
栄光の23get
3日本@名無史さん:05/01/11 15:41:36
スレ
重複してなーい?
4日本@名無史さん:05/01/11 20:56:13
5日本@名無史さん:05/01/15 00:20:48
やっぱ
このスレ動いてない。

>>1
このスレどうして立てたの?
6日本@名無史さん:05/01/15 11:17:23
>>5

上げてどうするつもりなんだ?
あと、少しでDat落ちだったのに・・・・お前が責任取れ!
7日本@名無史さん:05/01/15 11:23:17
そうだそうだ。責任=削除依頼。

よろしく。
8日本@名無史さん:05/01/15 21:25:39
えれー迷惑かけたなー。

それよっか
あんまし陰湿な待ち方すんなよなー
9日本@名無史さん:05/01/17 11:37:28
・・・・・
10日本@名無史さん:05/01/17 19:37:05 ,
このスレ誰も利用しないんなら
藻れ、勝手に使わせてもらおうかな。

意義ある人、手挙げて
11日本@名無史さん:05/01/17 21:41:50
反対!
放置してDat落ちを狙うべし。
>10に何か展望があれば新スレ建てれ。
12日本@名無史さん:05/01/17 21:49:27
>>11

なぜそこまで
こだわるの?

出されたものは、残さず食べる。
2chの基本だろう

それよっか
スレ主出て来て説明しろよ
13日本@名無史さん:05/01/17 21:56:12
>12
ここは、「重複」スレ。
駄スレ、放置スレの再利用とはわけが違うでしょう。
削除依頼するか、放置でDat落ちは鉄則だよ。
14日本@名無史さん:05/01/17 23:46:59
>>13

解ったよ!

そうすると、スレ主のウッカリか?それとも悪戯か?
15日本@名無史さん:05/01/18 00:13:26
>14
   >8が>1みたいだよ。
16日本@名無史さん:05/01/20 11:46:33
・・・・
17日本@名無史さん:05/01/25 09:56:13
はて?
18日本@名無史さん:05/01/27 11:06:17
閑散・・・・
19日本@名無史さん:05/01/31 09:38:10
>1
20日本@名無史さん:05/02/03 12:11:26
21日本@名無史さん:05/02/04 10:31:14
邪馬台国珍論争ここでやるかー。
22日本@名無史さん:05/02/08 10:51:41
>>21
やるーーーー
23日本@名無史さん:05/02/21 11:01:15
sage
24日本@名無史さん:05/02/28 16:38:39
25日本@名無史さん:05/03/09 10:26:44
26クマソタケル:05/03/09 12:32:20
金印の「那国」はナコクと読まれているが
国(コク)は漢読みなので
当然ヤマトでは違う発音がされていたと推測されるわけだけど
ヤマトで国を指す言葉として使われていたのはおそらく"ら"
いまでも日本語では地域や場所を指す言葉として"ら"が使われているからだ。

こち"ら" そち"ら" あち"ら" おそこ"ら" む"ら" そ"ら" どち"ら"

つまり奈良ができるずっと以前から那国(ナラ)は存在していたってことになる。
27クマソタケル:05/03/09 12:40:12
金印の「那国」は
魏志倭人伝の中では邪馬台国と対立しているクナ国(クナラ)だろう。
クは、お"く" "く"ねる のクで
奥にあるもの、つまり古いとか旧という意味で
クナ国(クナラ)は旧ナラという意味で
邪馬台国が新ナラということだ。
28クマソタケル:05/03/09 12:47:13
クナがなまってクマになったのだろう。
クマは熊、つまり現在の熊本のあるところあたりにクナラはあったことになる。
魏志倭人伝ではクナラは邪馬台国の南にあることになっているから
邪馬台国は現在の熊本の北あたりにあったことになる。
ここは日本の中で大陸と最も交流しやすい地域で
地域的にも邪馬台国があったところと考えるのは自然だろう。
29クマソタケル:05/03/09 12:51:40
那国(ナラ)=クナラ=熊
が天皇発祥の地だろうな。
だから、熊という字のつく場所は天皇とゆかりの深いところが多いんだと思う。
30クマソタケル:05/03/09 12:59:45
日本の神話にもあるだろう。
「クマソタケルを殺した皇子がクマソタケルから名前を譲り受けて
ヤマトタケルになった」という話が。
隆盛をほこっていた大国クマソを倒したヤマトが
天皇制をクマソから受け継いだんだよ。

だから、神社などを調べると
熊という字のつく場所や人はヤマトの神と対立してることが多いのに
天皇とゆかりが深いという混乱した現象があるんだな。
31:05/03/09 13:03:45
「過起観音院」
32クマソタケル:05/03/09 13:08:45
ちなみに日本語の"そ"には一代前という意味がある.
"そ"ふ "そ"ぼ
クマソというのはクマはヤマトの一代前の国って意味なのだろう。
神話に隠された意味がこれで明らかになったw
33日本@名無史さん:05/03/09 16:25:25
>クマソタケル氏
水を指して申し訳ないが
その解釈のしかたは
『ナ国』として、日本において『国』という文字が『ナ』の後に付いたとき初めて成立する解釈と思うが
35日本@名無史さん:2005/03/22(火) 00:54:52
「始知更有扶桑東」(劉長卿「同崔載華贈日本聘使」)

「郷樹扶桑外 主人孤島中」(王維「送秘書晁監還日本国并序」)

「絶国将無外 扶桑更東有」(徐凝「送日本使還」)

「扶桑已在渺茫中 家在扶桑東更東」(韋荘「送日本国僧敬竜帰」)

36日本@名無史さん:2005/03/22(火) 07:24:55
↑スレ違いでしょう。
37日巫女:2005/03/22(火) 07:39:07



名前: 日巫女
E-mail:
内容:
前スレへの返事ですが・・・
>>953
地名は重要だけど
水行10日・陸行1月なんて言葉を信じないでという意味。
距離を電話帳で引こうと云う発想は笑止ですが・・・

>>954
「東征」の言葉は神武記・応神記の時に(国史である)日本書紀に出てくるよ。

>>958
その後出雲は大和に国譲りをするということなら軍事力は
大和>出雲>邪馬台国だったのでしょうか?
38日本@名無史さん:2005/03/22(火) 12:38:26
>>37さん

>水増し請求が有るからしんじるな
と、いうことですね。

>>そうかなー?
水行十日、陸行一月
水増し有れば陳寿だって編纂の時気がつくんじゃないの
倭人の条の最初に
『倭人在帯方東南大海之中依山島為国邑』
そうゆうふうに記載しておいて 九州から又水行十日、陸行一月かかる場所
普通記載しないで、距離のみでいいんじゃないの?

基点と解釈のとりかただと思うし、あるていどは信用おける数字じゃないの
39太国:2005/03/22(火) 15:20:22
橿原一派どの
3/21の論の内容では貴殿は台と壱の違いはあれど、最初の考えからして
九州説だとなれば、いささか俺と類似の考えなのに、何で俺を迷惑だとか
言い出すんだ?それが後で九州から勢力とやらが東遊記となったので、
西遊記好きの俺が気に入らないわけなのか?
まるで、貴殿の考えは昼だか夜だかはっきりしない、鳥か獣かが判明しない
蝙蝠理論でどっちへ転んでも孫をしないようになっていて、
砂糖もたっぷり塩もたっぷりの料理のようではないか?これではおれの
隠し味のおいしい料理が百回たべても舌の麻痺が抜けない百舌の美味腹でない
胃袋となり、俺の料理を無味乾燥などと文句をいっているようだ。
俺の批判より、自分の論の検討でもしておけ。
40日本@名無史さん:2005/03/22(火) 15:37:19
橿原一派氏説は、要するに邪馬台国=九州説

つまり、なんちゃって畿内説
41日本@名無史さん:2005/03/22(火) 18:36:24
>39
橿原一派は、お互いの検証過程を公開しあって、意見交換を楽しみたい、と書いてんだよ。
アンタと便所の落書きをし合うのは、御免蒙りたいってわけだ。
ところで、2chで「便所の落書き」と呼ばれるのは、アンタが垂れ流すような一方的な書き捨てレスのことだ。
コミュニケーションの場では、こういった一方通行な意思表示は不快極まりない行為で迷惑だ。
考えを改めて欲しい。
42太国:2005/03/22(火) 18:42:17
俺の邪馬壹国九州説に勝てそうもなく煙ったいんだろう。
43日本@名無史さん:2005/03/22(火) 18:45:12
>なんちゃって畿内説
こういうことを言うから畿内は馬鹿にされるんだよな
本人はイケてるとでも思ってるんだろな
44日本@名無史さん:2005/03/22(火) 19:05:59
山一国
45日本@名無史さん:2005/03/22(火) 19:14:37
なんで何時もこうなっちゃうんだ?
考え方の違いは初めから理解していることだろう
相手に、自分の理論を押し付けるからなのか、多少の事はお互い仕方ないこと
もう少し穏やかに行こうぜ
なあ!
46狗邪:2005/03/22(火) 19:30:28
>>43
太国氏に訪ねたいのですが
>邪馬壹国=阿蘇
と、しているがカルデラ内に有ったのですか?

後の火の君一族にも関係があるのですか?

いきなりの質問失礼します。
47狗邪:2005/03/22(火) 19:35:30
>>46訂正

43 ×
>>42
48太国:2005/03/22(火) 19:46:09
>>47
そこまでは狭小化できるほど、それは固まっていない。そこまで分かれば
しめたものだがな?言えることは、あの付近だと思う。
これはまだ多分に推定的だから、押し付けるものではない。
どうやら、という意味なのだ。
49橿原一派:2005/03/22(火) 20:16:52
>>39
畿内説であろうと九州説であろうと、九州王朝説であろうと書き込みにはルールがあると思っています。
>何で俺を迷惑だとか言い出すんだ?

問われても自説の根拠を述べず、結論の羅列や連呼は何説に限らず迷惑です。
また、あなたの個人的な人格については興味ありません。板違いと考えます。


50橿原一派:2005/03/22(火) 20:22:57
連レス失礼します。

>>40
最近、転向しました。
>>41
補足ありがとうございます。同意です。
>>45
>相手に、自分の理論を押し付けるからなのか
それがこういう掲示板では一番マズいでしょうね。
51狗邪:2005/03/22(火) 20:32:26
いまだ試行錯誤中と、いう所ですか。
阿蘇のカルデラは考古学が手薄な頃は人が住めない場所と思われていた地
しかし、近年の調査で人跡がかなり太古までさかのぼれる事が解り、これからの発掘調査には大変興味深いですね

これは私見ですが
邪馬壹国は三世紀に輝いた国、そんな国が再び火の君一族として輝く事は、歴史のサイクル上余り期待出来ない繋がりだと自分は考えます。
あくまでも一個人の他愛もない考えですが
52日本@名無史さん:2005/03/22(火) 21:10:54
太は、いろんなスレに同じようなことを書き流しにくるが、
とてもアレなので相手にされず、自分で虚しくなって自然と消える。
あと、10レスくらいの辛抱だ。
53太国:2005/03/22(火) 21:34:14
うあっはっはっは!
>>49 記紀に女王国の記述が0と言ってよいのに、ま〜だ橿原あたりの近隣に
 卑弥呼が大和朝廷と無関係で暮らしていたと思ってるのか?
 橿原のどこに外界から隔絶した前人未到の南米的ジャングルがあるのか?
 あきらめろ。
54狗邪:2005/03/22(火) 23:19:34
『倭人』とは、 金海―対馬―壱岐―博多
このラインを抑えることが出来た国を指すと思うが
55橿原一派:2005/03/22(火) 23:27:31
>>53
>うあっはっはっは!
>>49 記紀に女王国の記述が0と言ってよいのに、ま〜だ橿原あたりの近隣に
>卑弥呼が大和朝廷と無関係で暮らしていたと思ってるのか?
卑弥呼は九州の王だから橿原ではない。卑弥呼が大和朝廷と無関係というのは同意。


>橿原のどこに外界から隔絶した前人未到の南米的ジャングルがあるのか?
ないと思う。

>あきらめろ。
何を?

56太国:2005/03/23(水) 00:07:48
残りの、関係があるらしい邪馬台国のその者らは、東遊して畿内にどんな『京殿』を
求めに行ったのか?それは首尾よく見つかったのか?
57日本@名無史さん:2005/03/23(水) 00:16:39
>>56
誤爆か?
58日本@名無史さん:2005/03/23(水) 00:31:10
日本書紀なんて、其の時代から千年も前のこと書いてあるのに、
そんなものが信憑性があるのか?今の日本人が千年前のことをどれくらいわかるか、
紙などが残っていても実際は微々たるものだろう。それが紙もなにも無い時代。
口伝えで伝わっていった話。しかも千年。そんなものが信じられるか?
500年でも無理だろ。自分の地元のローカルな地域の500年前のことをくわしく知ってるか?
100年前さえほとんど知らんだろ?写真が残っててある程度つかめるくらいだが、昔は写真もない。
絵画もそれほど発達してない。
59日本@名無史さん:2005/03/23(水) 00:37:55
口承は繰り返し復唱されるので、よく後世にまで伝わるのが常識だが。
60日本@名無史さん:2005/03/23(水) 00:40:31
>58
言いたいことはわかるが、
もっと世界史の方を勉強してみような
61本田:2005/03/23(水) 05:16:03
>>58
> 口伝えで伝わっていった話。しかも千年。そんなものが信じられるか?

口伝は焚書の影響を受けないので、正史より正確な場合あり。
62日本@名無史さん:2005/03/23(水) 10:24:40
邪馬台国のあった場所は畿内説では卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳のある辺りがかなり有力。
63太国:2005/03/23(水) 10:39:15
>>41
何〜だ?俺が三清観のニセ三尊像のやったことをここらのスレでやっていると
いうのかぁ〜? オッホン!
64日本@名無史さん:2005/03/23(水) 12:40:43
口伝えで伝えられるのは断片的な情報だけだろ。
旧約聖書の記録をすべて口伝えで伝えられるか?
65日本@名無史さん:2005/03/23(水) 13:27:01
>>64
ヒエダノアレ知ってる?
アイヌの口承文学知ってる?
66日本@名無史さん:2005/03/23(水) 13:33:17
口承で多くの物が伝えられるのなら1000年前のかに座星雲の超新星爆発の記録が中国と日本にしかないなんてことはおこらないだろう。
世界の何処でも見れたものなのに。
口伝えのただのうわさが信じられるのは、それを信じたい奴が多いからだ。
信じないと歴史が失われるわけだから
67日本@名無史さん:2005/03/23(水) 14:46:36
縄文期の出雲王国の口承が今も伝わっているのにね〜
68狗邪:2005/03/23(水) 17:15:14
>>67
文献の存在が確認されない口承に、時代を付けるのは可笑しいと思うよ。

>縄文期とする時代考証はどのようにしたの?
69本田:2005/03/23(水) 20:37:46
>>66
>口承で多くの物が伝えられるのなら1000年前のかに座星雲の超新星爆発の記録が
>中国と日本にしかないなんてことはおこらないだろう。
>世界の何処でも見れたものなのに。

シナや日本が夜なら地球の裏は昼なので見えない、
また夜の地域でも月が明るかったり曇っていては見にくい。
70日本@名無史さん:2005/03/23(水) 22:37:57
>69
記録では、昼間でも見えたんだって。
それぐらい、凄い超新星爆発だったらしい。
欧州天文学界では「その年の欧州は、長雨だったんだろう」って、冗談半分に申しております。
71日本@名無史さん:2005/03/24(木) 00:10:24
このスレは「陳寿」を語るスレなのに「稗田阿礼」語ってどうするの。
スレ違いもいいところ

「紀記」については別スレで議論してくれ
迷惑してる人もいるんだよ
72日本@名無史さん:2005/03/24(木) 00:22:13
>>68
出雲は縄文国家
73本田:2005/03/24(木) 00:32:17
>>70
どうも有難うございます。
74狗邪:2005/03/24(木) 00:32:19
>>72
縄文遺跡は出雲だけではないだろう、日本中にあるが
75日本@名無史さん:2005/03/24(木) 01:10:56
>>74
遺跡の話って何のこと?
76狗邪:2005/03/24(木) 15:58:57
>>75

じゃ、縄文国家の『縄文』って何?
77日本@名無史さん:2005/03/24(木) 17:08:32
「縄文」と「国家」が、すでに語彙矛盾
78狗邪:2005/03/25(金) 12:45:22
東夷伝倭人は、その大半が魏略からのものであろう。
その時記載された『倭人』又は『倭』とは、本当に列島だけの事だろうか?
79サガミハラハラ:2005/03/25(金) 23:00:53
魏の倭人伝も魏略も共通の資料をみた可能性もあります。私はその方が確率は高いとおもいます。
80日本@名無史さん:2005/03/26(土) 17:18:28
>>58
あんた歴史は5代151年で作られるという法則しらないの?
口承では自分の祖父がその祖父の時代を語るのが限界ってこった。
81日本@名無史さん:2005/03/26(土) 17:25:37
>>78
意味不明だな。
出雲は縄文時代だから出雲の伝承とは縄文の伝承だと言っているのに
ここで唐突に遺跡の話が出てくる理由は何?
82日本@名無史さん:2005/03/27(日) 14:29:23
東北弁と出雲地方の方言は良く似ている
これは松本清張の「砂の器」でも有名な話だが
東北弁は縄文語の名残があるらしい

弥生時代に渡来系の人間の言葉と縄文語が混じった言葉が現代の日本語の基礎
になった

出雲地方で縄文語が色濃く残っている事を考えると渡来系国家とは考えにくい
83日本@名無史さん:2005/03/27(日) 15:24:00
ここで八幡平。
84日本@名無史さん:2005/03/27(日) 22:18:57
>>82
>東北弁は縄文語の名残があるらしい
ない。いわゆるズーズー弁の成立時期は、早くて鎌倉中期と考えられている。
よしんばそれ以上遡ることが可能だったとしても、縄文期は論理を飛躍させすぎ。
出雲弁は諏訪(こちらもズーズー弁)と同じく、室町中期か江戸初期に成立したもの。

よって最終行の結論は成り立たない。
金田一春彦の著書を読みなさい。清張も氏の論文を基に執筆しているので。
85日本@名無史さん:2005/03/28(月) 07:26:58
>>80

>歴史は5代151年でつくられる。

>>俺も知らなかった。
その数字何処から出て来たの?
152年ではいけないの?
86日本@名無史さん:2005/03/28(月) 09:44:06
つまりヲシテ文字は実在したと云う事だよ!!!!!>>58
87日本@名無史さん:2005/03/28(月) 09:47:48
な、なんだってーー!!?
88日本@名無史さん:2005/03/30(水) 13:14:43
それは本当かキバヤシ!!!
89日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/03(日) 00:49:58
・伝説によると「熊曾タケルを倒した皇子が、熊曾タケルから名前を譲り受け大和タケルになった」のだよ。
「曾」という字には一代前という意味がある。
つまり熊は大和の一代前の国ということ。

ちなみに伝説によると大和という国名は
熊曾との違いを明確にするためにつけられた名前。


・ヤマトを単純に「山」「戸」と解釈してみる。
「山」「戸」の反対は「平地」だろう。

"な"には、なだらか、おだやか、という意味がある。
"な"だらか  "な"ぐ  "な"ごやか  "な"らす
"な"み(ナミはもともと、なだらかな水面、を指す言葉。水面が荒れたら高波・津波)
"な"く("な"だらかな顔が"く"ねる、という意味の動詞)
90日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/03(日) 00:52:34
金印の「奴国」はナコクと読まれているが
国(コク)は漢読みなので
当然ヤマトでは違う発音がされていたと推測されるわけだけど
ヤマトで国を指す言葉として使われていたのはおそらく"ら"
いまでも日本語では地域や場所を指す言葉として"ら"が使われているからだ。

こち"ら" そち"ら" あち"ら" おそこ"ら" む"ら" そ"ら" どち"ら"


・"な""ら"で
穏やかな場所、なだらかな土地
つまり平地という意味になる。

大きな国や都は平地にできるから
国や都をナラと呼ぶようになったのだろう。


・ヤマト(山、戸)の反対をナ(なだらか)とする。

クマソの"マ"は"ナ"が訛ったものとしてみる。
すると クマソ=クナソ、になるが、
クナという言葉は魏志倭人伝にでてくる。
邪馬台国の南にありと邪馬台国と対立している狗奴(クナ)である。
91日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/03(日) 00:57:27
これで「熊曾タケルを倒した皇子が、熊曾タケルから名前を譲り受け大和タケルになった」という伝説を
邪馬台国が狗奴を倒した話として読むことができるようになると思う。


ヤマト(山)とクナ(平地)という名前から容易に推測されることであるが、
クナ(平地)が本流で
ヤマト(山)がクーデター側だったのだろう。
「熊曾タケルから名前を譲り受け大和タケルになった」というのは
ヤマト(山)がクナ(平地)から天皇制を譲り受けたことを意味しているのだろう。

この解釈で熊野信仰に代表される
いまでも大きな謎とされている
熊という字がつく土地や人は天皇とゆかりが深いのに
なぜか熊という字がつく土地や人は天皇と対立していることが多いという
おかしなねじれ現象も説明できる。
熊を倒した大和が、熊から天皇制を奪い取ったと考えれば
天皇と対立している熊が、天皇とゆかりが深いのは当然と言えるからだ。
92サガミハラハラ:2005/04/03(日) 07:55:35
魏志倭人伝等での「奴」という字は「ナ」と発音するのが正しいのです。
よって狗奴国はクト国とよむのが正しく、現在宇土半島や熊本城の宇土櫓にその名残をとどめています。
93サガミハラハラ:2005/04/03(日) 08:13:46
>92
の『「奴」という字は「ナ」と発音するのが正しいのです』は『「奴」という字は「ト」と
発音するのが正しいのです』のまちがいです。まだ寝ぼけていてすみませんでした。
94サガミハラハラ:2005/04/03(日) 10:08:53
卑弥呼の墓のある佐賀県小城町の小城公園桜ヶ岡の桜が咲き始めました。佐賀へお立ちよりのさいは、ぜひおより下さい。
尚邪馬台国小城説を説明してある「倭国歴訪ー明窓出版」を、小城町役場の受けつけで無料にて配布しているそうです。
町民対象だそうですが、他の人でも貰えるそうです。但し、この本の件については、業務に支障がでるとこまるということ
で、電話、Fax、手紙等による問い合わせは絶対にしないで下さいとのことでした。直接受付に行って(役場の休日は
不可)話してくださいとのことでした。       
95角川の漢和辞典の件はどうした?:2005/04/03(日) 10:39:25
>92-93

 思わず哂ってしまった。
96日本@名無史さん:2005/04/03(日) 12:42:42
>>94
合併により、小城「市」になったらしい
http://www.walkerplus.com/hanami/kyushu/saga/S4108.html
97日本@名無史さん:2005/04/03(日) 13:09:02
【旬を読む X氏の一冊】日本古代史学者・安本美典
謎解き日本建国史』富田徹郎著
統一理論への新展開
邪馬台国=畿内説の立場からの、考古学者の発言が、マスコミなどにしばしば登場する。
しかし、その発言の内容はほとんど信用できない。根本資料である「魏志倭人伝」の記述をまったく無視して、
邪馬台国は畿内にあったと、はじめから決めてかかって議論しているからである。
新聞社をはじめとするマスコミも、歴史関係の人材を記者として採用する場合に、とかく考古学専攻の人をとりがちである。
すると、考古学の分野での多数意見にしたがって記事を書くことになりやすい。
旧石器捏造(ねつぞう)事件で、すこしこりてもらわないと困る。
たとえば、「魏志倭人伝」は、伊都国が、女王国の北にあったと、三度にわたって記している。
伊都国は、現在の糸島半島の地とみられるから、その南の女王国を、畿内にもって行けるわけがない。
九州の範囲をでない。

http://www.sankei.co.jp/news/050403/boo006.htm

畿内説を粉砕!
98佐賀県佐賀市十七歳 ◆ypURG809QA :2005/04/03(日) 14:29:42
>>92-94
井沢元彦氏に教えてあげてくださいな。
「逆説の日本史」では『宇佐と邪馬台国は何らかの関係がある』としか言及していないけれど、
小説「魔鏡の女王」では『卑弥呼の墓は佐賀平野のどこかにある』と
書いてますから。

井沢先生、気前のいい人ですから、サイン本もらえますよ。
99日本@名無史さん:2005/04/03(日) 15:57:52
金印は偽物
金で印を作るわけないだろう
100日本@名無史さん:2005/04/03(日) 16:42:20
>>99
同意
2000年も前の金印がずっと畑の中に埋もれた状態で
あんなに光ってるはずがない
101日本@名無史さん:2005/04/03(日) 18:01:20
>>99-100
「し〜っ」
夢を壊すような事、言わないの。
不思議に思う人は君達だけじゃ無いんだから。
102日本@名無史さん:2005/04/03(日) 18:09:54
昔プ〇ムヤシが、

>金印は、黒田家の捏造だと言って散々叩かれたの知らないのか。
「言わぬが仏」と、言うだろう。
103日本@名無史さん:2005/04/03(日) 18:24:30
>>99-102
金印の謎は無かった事にしまつ
104サガミハラハラ:2005/04/03(日) 19:09:01
>95
「ウソも百篇いうと本当になる」という諺をあげて説明したと思いますが。他のスレでしたっけか。
日本の古代史学者、考古学者が「奴」は「ナ」と発音すると言い続けた結果、辞書の編者がだまさ
れたのですよ。私もついひっかかってしまった。
105日本@名無史さん:2005/04/03(日) 19:17:29
金印
偶然畑から出てくるのもおかしいし
金の印がなんで畑に埋まっていたのかもおかしい。
106日本@名無史さん:2005/04/03(日) 19:18:45
>>98
これ佐賀県
この「サガミハラハラ」なる阿呆を調伏いたせ。
107日本@名無史さん:2005/04/03(日) 21:27:34
>>104
お手持ちの「古代史学者に騙されなかった」角川の漢和辞典を早く披露しろよ(w
108& ◆FC4h7F/wV6 :2005/04/03(日) 22:43:44
>>91
> これで「熊曾タケルを倒した皇子が、熊曾タケルから名前を譲り受け大和タケルになった」という伝説を
>邪馬台国が狗奴を倒した話として読むことができるようになると思う。
109本田:2005/04/03(日) 22:47:20
>>108
書き損ね、すいません。

>>91
> これで「熊曾タケルを倒した皇子が、熊曾タケルから名前を譲り受け大和タケルになった」という伝説を
>邪馬台国が狗奴を倒した話として読むことができるようになると思う。

歴史と神話を混同してはこまるよ。
ここは歴史について書く場所だよ。
110狗邪:2005/04/03(日) 23:18:05
現在の古代史研究に『記紀』を見直し、謎に迫ろうとする流れが見られる。
2ちゃんねるのスレを見ても、神話に独自の調味料を加え文章を面白く解りやすい構成で組み立てる方法が主流をしめるようになった(危険)なことである。
『記紀』を参考にすることは、過ちではないが
神話の世界を扱うことになると、そこには必ず『想像』と『こじつけ』が必ず同居し、否定も肯定も出来ない世界に入り込んでしまう。
111本田:2005/04/03(日) 23:26:01
>>99
> 金印は偽物
>金で印を作るわけないだろう

根拠は?

>メコン圏と日本(地域・人)との繋がりを辿る
>ー メコン圏と日本に見られる共通事物 −
>倭と雲南に与えられた蛇鈕の金印
http://www.mekong.ne.jp/linkage/kinin.htm
112元祖プラム:2005/04/04(月) 00:33:50
『佐賀県小城(おぎ)』

【肥前風土記】に「小城郡」で初見
水辺の植物である「をぎ(荻)」に由来する。
113日本@名無史さん:2005/04/04(月) 00:55:47
876 名前:サガミハラハラ[] 投稿日:05/03/19 08:13:18

「奴」をト又はドと発音することについては、かなり昔から漢音ではそう発音すると学んでました。(近頃は違うのですか)
角川の中漢和辞典にも漢音ト、呉音ヌとでています。
114サガミハラハラ:2005/04/04(月) 07:31:53
小城は大昔はオキと呼ばれていました。砦と言う意味だそうですが、本来は不彌国のフミの
訛化であるとおもいます。不はオと発音していたようです。
彌はミ(キと訛化したところもある?)と発音したようです。
卑弥呼はヒミカと発音するのが正しいので、呼はカで不はオなので不呼国はオカ国と発音し
岡田や遠賀川のあたりのくにです。
115サガミハラハラ:2005/04/04(月) 07:46:27
ついでに、妄想とも思われるかもしれないが、かのイザナギノ命の墓のあるオウミのタがの地はここ不彌国の高田(須賀神社近く)ではないかと考えています。
滋賀県の近江では唐突すぎますからね。
116日本@名無史さん:2005/04/04(月) 08:21:57
淡路の多賀でしょう。
古事記には淡路とする本と淡海とする本があり
淡海の多賀はたぶん誤写。
117日本@名無史さん:2005/04/04(月) 10:03:59
『記・紀』に、淡路島が出てくる辺り
ローカルっぽくていいよね
もっとグローバルな視点で書けなかったのかな?
まだまだ国史とゆうより
地方書籍なんだろうね。
118元祖プラム:2005/04/04(月) 12:26:26
>>114 サガミ氏

>小城は大昔(おき)と呼ばれてて、砦の意

>>大昔とは何時の頃?
砦の意とは何処で調べればわかるの?
119日本@名無史さん:2005/04/04(月) 12:56:11
>>114

>不はオと発音していたようです。

ソースは?

まさか某漢和辞典じゃないでしょーね?w
120サガミハラハラ:2005/04/04(月) 13:11:27
肥前国風土記
小城(おき)郡 郷は七所
昔者、此の村に土蜘蛛あり、保(下に土がつきます)(をき)を造りて隠り、皇命にわざりき。日本武尊、巡り幸しし日、皆悉に誅ひたまひき。因りて小城(をき)の郡となづく。
保(下に土がつきます)とは、小城の意にあたる語。土石で造った防禦のための城塞と注にあります。
121サガミハラハラ:2005/04/04(月) 13:31:53
訂正
小城(おき)郡は小城(をき)の誤り。皇命にわざりきは、皇命に従はざりきの誤りです。


不はオと発音のソースは魏志倭人伝です。
魏志倭人伝によれば不彌国は小城市小城庁舎のあたりとなります。
オギの語源はこの不彌国の不彌ですから、不はオと倭人が発音したものに当てた字と考えられます。
またもう一つの不を使っている国に不呼国があります。傍国の位置関係から、不呼国は岡田や遠賀川のあたりと考えられます。
とすると不呼はオカと倭人が発音した言葉に当てた字であり、やはり不はオと発音していいわけです。
122日本@名無史さん:2005/04/04(月) 14:51:40
なんか言っていることがトンデモっぽいぞ>サガミハラハラ
123サガミハラハラ:2005/04/04(月) 18:31:19
適切な例えではないですが、事実は小説よりも奇なりともいいます。
124日本@名無史さん:2005/04/04(月) 18:47:48
>>123
えーと、反切って言葉はご存知ですか?
125元祖プラム:2005/04/04(月) 18:58:36
>>120サガミ氏

『堡』は、
(漢音)ホウ・ハウ
(呉音)ホ
(訓) とりで

「をき」とは読めないが
どうすれば「をき」と読めるのか?
126元祖プラム:2005/04/04(月) 19:40:32
『不彌』
(漢音)フウ ビ
(呉音)フ ミ
127日本@名無史さん:2005/04/04(月) 19:43:35
サガミハラハラ氏は、当代随一の漢字博士だな。
こんな低レベルな裏ぶれスレには、もったいな御方だ。
ここの住人ごときでは、氏の高尚な理論も理解しがたい。
そこで、我ら浅学の徒は、ご意見をただ拝聴するのみとし、
氏には、唯一人真理の高みに登り詰めていただこうではないか。
128名無し象の鼻はウナギだ!:2005/04/04(月) 19:59:35
>>127
禿げしく胴衣。
129& ◆R1IxBOPGBo :2005/04/04(月) 21:20:49
何いっても聞かない。
わが道を行くわけで・・・

すべて自分の都合よいように漢字を読む・・・

すごいねー

勝手に行っちゃってもらいましょう。
130サガミハラハラ:2005/04/04(月) 22:54:47
>124
反切とは聞いたことはありますが、意味はわかりません。
>125
風土記を書いた人に聞いてみないと。
>127
別に私は当代随一の漢字博士ではありません。
私の倭人伝における漢字の音は、国名と現在地名を照らしあわせることにより、当時どのような音であったかを決定するものです。
言語学者さん達の上古音も差mん生にしますが、どちらかといえば、上記のごとくで矛盾なく理解できるほうをとります。
131日本@名無史さん:2005/04/04(月) 23:05:58
頭のおかしい人にはつきあうだけ無駄。
132サガミハラハラ:2005/04/04(月) 23:31:31
古代の音韻の考証において大事なことを忘れていました。古代の音韻についてを調べる時に大事なことは、対象の音にその字がいつの時代に当てられたのかということです。例えば不呼国とはいつの時代からこの漢字で表されるようになったのかということです。
まさか魏朝ということはないと思いますよ。
わたしは少なくともBC108年の武帝、朝鮮を滅ぼしてよりだと思います。ひょっとすると、箕子朝鮮に遡るかもしれません。
133日本@名無史さん:2005/04/05(火) 02:30:12
>>129>>131
まあまあ、そういわずに。
電波を楽しむのもまた一興。
134日本@名無史さん:2005/04/05(火) 03:22:52
音韻を語るに反切を知らないとは・・・・愕然とした。
さすがです。
135サガミハラハラ:2005/04/05(火) 08:06:05
マァー、マァー、マァー、マァーとか聞いたことがありますけど、難しいなと思いました。
音韻と書かずに音と書いたほうがいいのでしょうか。文字で記録された言葉では音の抑揚等はわかりにくと思いますので。
132の音韻は音に訂正します。

130の差mん生は参照の誤りです。
136日本@名無史さん:2005/04/05(火) 10:05:40
137日本@名無史さん:2005/04/05(火) 12:51:27
>>136 あ!間違えた
訂正。
こちらだ(反切)


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E5%88%87
138日本@名無史さん:2005/04/05(火) 13:10:57
>>135
>マァー、マァー、マァー、マァーとか聞いたことがありますけど、難しいなと思いました。

発音が難しいといっていながら漢字の発音について解釈されるとは・・・

すばらしい。実にすばらしい!尊敬いたします!
139日本@名無史さん:2005/04/05(火) 14:24:40
俺も音韻記号でなく、カタカナなのが素晴らしいとオモタ。
140おやおや:2005/04/05(火) 15:08:58
> マァー、マァー、マァー、マァーとか聞いたことがありますけど、難しいなと思いました。

反切と声調を誤解してるなこりゃ・・・

いよいよ語るに足りない人物と見た。
141日本@名無史さん:2005/04/05(火) 16:06:31
130 :サガミハラハラ :2005/04/04(月) 22:54:47
>風土記を書いた人に聞いてみないと。

へえ〜、サガミハラハラ氏は風土記を書いた人に直接会えるんですか〜
すごいですね〜
サガミハラハラ氏の年齢はおいくつなんですか?
142日本@名無史さん:2005/04/05(火) 16:55:59
>>138-141
オマエらいいかげんにしろ
アゲアシとって非難の連発、見苦しいぞ
相手にミスがある場合は、正しい答えを提供してやれよ。
非難する器量があるならばサガミハラハラ氏の十倍の正論で潰せばいいだろう
オマエらのスレは、ただのからかいだ
もう 止せ。
143日本@名無史さん:2005/04/05(火) 20:43:17
さて、
明日から公立校も新学期

このスレも『魏志倭人伝』邪馬壹國に、戻りますか!
144日本@名無史さん:2005/04/05(火) 21:29:24
では、邪馬台国は宇佐。
145日本@名無史さん:2005/04/05(火) 21:36:16
>142
相手は、ウソツキで卑怯者で恥知らずなんだから、正論なんかもったいない。
いじくってカラカって蔑んで哀れむくらいの対象としてしか使い様がないだろう。
146日本@名無史さん:2005/04/05(火) 21:43:21
>>145
それなら
完全スルーすればいいじゃないか
147マンセー名無しさん:2005/04/05(火) 21:56:07
>>146
スルーするなんてもったいない。
ハングル板ならばともかく、日本史板では希少な存在なんだからさ。
どんな発言するか楽しめるぐらいの余裕をもたねば。


148日本@名無史さん:2005/04/05(火) 22:25:39
>>147
そういう楽しみ方もあるんだ。
サガミ氏のカキコがトンデモなら 真実は何?
御披露願いたい。
149マンセー名無しさん:2005/04/05(火) 22:44:28
>>148
少なくとも周代から魏の時代にかけて
「不」がオ(ヲ)
「奴」がト
などという発音ではない、と言う事。
150日本@名無史さん:2005/04/05(火) 22:50:00
そんなこた少し勉強すれば明白なことなんだが
でもサガミハラは頑なに信じ込んでるみたいよ。
151マンセー名無しさん:2005/04/05(火) 22:55:58
だから「発言」を楽しみなさいと(ry
152日本@名無史さん:2005/04/05(火) 23:56:08
>150
自分自身だって「信じて」無いだろうよ。
ただ、その場の思い付きを書き捨ててるだけだ。
奴のレスからは、ものごとの在り様を分析したり、論理を推敲したような形跡は無い。
ようするに、ここで電波飛ばし続けていれば、周りとのコミュニケーションは望むべくもないが、
少なくとも、自分関連のネタで盛り上がってくれる。
どんなに情けないものであれ、自分の存在が多少なりとも認知される。
それが、奴の望む世間との接点なんだよ。
2chって、こんな奴が多いんだよ・・・・・
153日本@名無史さん:2005/04/06(水) 07:26:38
>>152

>2chって、こんな奴が多いんだよね…

>>って、そういいながらここでカキコしているあんたは、一体なんなんだよ。そんな連中の、親玉か?
154サガミハラハラ:2005/04/06(水) 07:28:29
なんでも鑑定団という番組をみていたら、鑑定士の先生が掛け軸を見て、「いいものですね何と書いているか読めませんが(観客の笑い声)いえ、読めなくても鑑定はできますよ。」といってました。
マァー、マァー、マァー、マァーって声調というんですか。有難うございます。
反切と声調については聞いたことはあるが、魏志倭人伝の国名等の研究には関係ないなと感じ、聞き流しました。
というわけで、トンチンカンな言動となったわけです。
反切とやらは、国名等の解釈には関係ないでしょう。「このスレもーーー戻りますか」とあるところをみると、この方も半切は関係ないと考えているようです。
正論などもったいないと述べているかたも、関係のない課題であるとお考えのようです。

「をき」については、そもそも「をき国のをき」には砦という意味はありません。
風土記の著者が「をき」に砦をイメージをして、砦をあらわす保(下に土の漢字)を使ったのです。
宝塚に宙組とあってソラ組と読むごとしです。日本の地名や人名にはいっぱいありますよ。
>141 ちょっと(     )くすぎませんか。と書きたいところですが、ヤO−O示Oのよう
なののしりあいになりかねないが、そんな無駄なことをしたくないので書かないでおきます。
155日本@名無史さん:2005/04/06(水) 07:45:48
この掲示板にとって一番厄介なカキコは「サガミ氏」のようなカキコではない。
気に入らなければ「スルー」すればいいのだ
一番の悪レスは、>>152のような正論を上段から振りかざし‘いい子’役を演じるヤシだ
必ず集会の中に一人ぐらいは要る『困ったちゃん』だな
156& ◆.cOAkw9pa. :2005/04/06(水) 14:37:32
>154

要するに、唐代初めにさかのぼる韻書や、詩の押韻関係、漢字の声符、中国各地の方言からの比較言語学的考察、シナチベット語族からの比較言語学的考察、各時代の経典などの音訳などから、おおまかに中古音、上古音という古漢字音が推定されている。
まずそのことを受け入れることだ。
その上で反論があるなら、ちゃんと勉強して反論すればよい。
ほとんどの専門書は中国語か英語ででている。
あなたはそういう漢字音研究があること自体を否定するのでおかしくなる。

まるで倭人伝が漢字音の研究の材料のように言うが、倭人伝のような評価の難しい資料はあまり材料にならない。

ついでに、日本漢字音の漢音は唐の、呉音は六朝の漢字音に近いだろうとされている。
むずかしい事をいわないなら、呉音が「比較的」三世紀音に近い。

さらについでに奴は

上古音:na 前漢
前期中古音:no 後漢ー六朝ー唐初
後期中古音:ndo 唐代長安

と推定されている。
儺の津とは関係ない。
157元祖プラム:2005/04/06(水) 21:06:37
それではこんな所から。

【漢書地理志・第八下】
楽浪海中有倭人分為百餘國以歳時来献見云

【魏志東夷伝倭人】
倭人在帯方東南大海之中依山島為國邑旧百餘國漢時有朝見者今使訳所通三十國

【後漢書列伝・東夷・倭】倭在韓東南大海中依山島為居凡百餘國自武帝滅朝鮮使駅(訳)通於漢者三十許國國皆称王世世伝統其大倭王居邪馬壹國

(備考)
建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也光武賜以印綬

安帝永初元年倭国王(使?)帥升等献生口百六十人願請見
158日本@名無史さん:2005/04/06(水) 21:11:54
>>157
>【漢書地理志・第八下】
>楽浪海中有倭人分為百餘國以歳時来献見云

夫はつけなくていいんでつか?
って言うか、夫はどう処理するのが正解?

いや、他意はなく、ただ昔から気になってた単純な疑問なんですが。
159元祖プラム:2005/04/06(水) 21:23:38
>>158
『夫 ?』
何処に付けるの?
160日本@名無史さん:2005/04/06(水) 21:34:56
>159
「夫楽浪海中有倭人分為百餘國」
それ、楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国をなす。
161日本@名無史さん:2005/04/06(水) 21:39:26
「夫(それ)」は言い起こしの語気詞だからあってもなくてもどうでもいいんじゃネーノ?
162元祖プラム:2005/04/06(水) 21:57:49
>>160
っーか

「夫楽浪海中」じゃなくて「…有以也夫。
楽浪海中…」じゃないの?
163日本@名無史さん:2005/04/06(水) 22:02:56
>>161
>>162
って言う二説がある(あった)みたいで、なにがどうなって今はどういう結論なのかな・・・・と。
164元祖プラム:2005/04/06(水) 22:13:25
然東夷天性柔順異於三方之外故孔子悼 道不行設浮於海欲居九夷有以也夫 楽浪海中有倭人…

(然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行わざるを悼みもし海に浮かばば、九夷に居らんと欲す、ゆえ有るかな。
楽浪の海中に倭人あり、…)
>162
そう読む人も多いよ。
中国人なら、大半が宋読むかも。
でも、どちらにしても文意に影響は無さそうなんだよね。
166元祖プラム:2005/04/06(水) 22:40:23
『二十四史百納本』
に、収録されている木版本では(有以也。夫楽浪)
「顔師古」が文の切れ目をこのように理解した
教科書や史料集では『夫(それ)楽浪海中』と、読んでいる。

『中華書局発行標点本』では(有以也夫。楽浪大海)であり、このほうが意味がハッキリする。
167日本@名無史さん:2005/04/07(木) 00:11:56
う〜ん。結局どういうことだろう。

意味から考えると、(有以也夫。楽浪大海)が有力だけれども、
全体の解釈に影響がない部分だけに、放置プレイ中であり、
(中高の?)教科書や史料集は(有以也。夫楽浪)のままになっている・・・・

ってことかな?
168日本@名無史さん:2005/04/07(木) 03:12:25
邪馬台国は西都原!
169日本@名無史さん:2005/04/07(木) 03:44:13
倭人が作った邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされて部落民になりますた
170日本@名無史さん:2005/04/07(木) 03:51:59
邪馬台(ヤマト)国→大和(ヤマト)朝廷

そのまんま。同じものだろ。
171日本@名無史さん:2005/04/07(木) 10:29:43
バカがいるな

ヤマトの音に幻惑されて「邪馬台国」を読んだだけ。
172元祖プラム:2005/04/07(木) 12:49:37
>>170
『邪馬台国』とはどのような書物に記載有るのかな?
【魏志】 邪馬壹國
【後漢書】 邪馬臺國
【梁書】 邪馬臺國
【隋書】 邪馬臺者
邪摩堆
【北史】 ( 同上 )

邪馬台国は一度も登場しない。
173日本@名無史さん:2005/04/07(木) 15:34:00
邪馬台は上古音でヤマト。問題ない。
174元祖プラム:2005/04/07(木) 15:53:52
>>173

おかしいなぁ?
上古音で「ヤマト」と発音するものに『邪馬台』とゆう文字を当て嵌めたのか?
じゃあ、倭人の条に出てくる『邪馬壹』は何なんだ
「ヤマト」とは、発音しないだろう。
175日本@名無史さん:2005/04/07(木) 16:07:09
邪馬台国でいいんだよ。古田武彦のは電波。
176日本@名無史さん:2005/04/07(木) 16:13:03
中国の史書をみて、ヤマタイと勘違いしてヤマトとつけた可能性もある
177日本@名無史さん:2005/04/07(木) 17:15:10
>>175
いいわけねえだろう。

>古田は電波
>>では、オマエはウンコか。
178日本@名無史さん:2005/04/07(木) 18:28:26
委奴国をどうやってヤマトと読むのか
邪馬壱国をどうやってヤマトと読むのか
イ妥国をどうやってヤマトと読むのか

呆れてものも言えん
179日本@名無史さん:2005/04/07(木) 21:48:29
>174
おかしいなぁ?
キミは、「邪馬臺」説の内容について、過去にいろんな人から懇切丁寧な説明を受け、
理由は承知してるはずじゃないか。

>178
そんなことを言ってる人はいないでしょう。
誣いて言えば「アナタ」だけですよ。
つでにアナタの「邪馬壱国」と言う標記に違和感を覚えます。
版本の標記は「壹」(数字の一です)です。
現代文で引用する場合に簡略形の「一」を使用する時も有りますが、
「壱」を使う人はいません。
なぜなら「壱」は、本来は数字ではなく、別の意味を持つ字だからです。
180元祖プラム:2005/04/07(木) 22:26:31
>>179

承知しているよ
『邪馬臺』ならば、別に意見を挟むつもりはないが
『邪馬台』ではスルーできない。
固有名詞はいじれ無いだろう
例え誤字の可能性があっても100%でないかぎり
181元祖プラム:2005/04/07(木) 22:50:51
『後漢書』『梁書』『隋書』等を見た日本の人は最初(邪馬臺)の文字を
漢音「シャ バ タイ」
呉音「ジャメ タイ」
の、どちらかの音で読んだと思うが
182日本@名無史さん:2005/04/07(木) 22:55:06
台って臺の略字って話じゃなかったのか?
183日本@名無史さん:2005/04/07(木) 22:57:49
大体日本列島の地名

漢字で再定義化してる中国の史書の意味ってどうよ
184日本@名無史さん:2005/04/07(木) 23:02:50
>>179
批判はいいから、自説を言えよ。
185元祖プラム:2005/04/07(木) 23:08:25
臺と台の関係は、略字というよりも
音が同じところから臺の意味で用いるようになったのではないかい。

間違ってたらスマソ

単なる略字感覚と捉らえていなかったので
こだわってみた。
186日本@名無史さん:2005/04/07(木) 23:13:57
古代中国の歴史書を見れる日本人って何世紀から登場するんだよ
187日本@名無史さん:2005/04/07(木) 23:18:41
>>186
すくなくとも八世紀には見ていたのではないか
『記・紀』に『倭伝』を引用した形跡が見られる
188日本@名無史さん:2005/04/08(金) 00:21:44
神功皇后の宮は北九州にあった。

つまり、日本書紀編者も、卑弥呼の宮は北九州にあったと
考えたのだろう。
189日本@名無史さん:2005/04/08(金) 01:28:23
新羅征圧の根拠地だろ

九州大本営
190日本@名無史さん:2005/04/08(金) 01:45:52
神功皇后は九州王朝下で幽閉されていたかも(半島戦へ強要させられた)
191日本@名無史さん:2005/04/08(金) 02:07:04
もう歴史好きの素人のO72はヤメレ
で、畿内なの?北九州なの?仙台なの?エジプトなの?

192日本@名無史さん:2005/04/08(金) 02:13:38
邪馬壹國は九州、邪馬臺國は畿内
193日本@名無史さん:2005/04/08(金) 02:29:48
イ妥国は阿蘇山の九州
194日本@名無史さん:2005/04/08(金) 04:28:21
>>180
おまえは途方もないバカだな。
「臺」は旧字体。これの新字体が「台」。
もれは戦後の人間なので「邪馬台国」と書いただけ。

くだらないつっこみでスレを無駄使いさせんじゃねーぞ。

話を>>169-170あたりに巻き戻せ。
195元祖プラム:2005/04/08(金) 07:44:57
>>194
↑このスレは無かったことにしておくから、早く自分で削除しておけ

恥さらすの嫌だろう。
今ならまだ間に合うよ

急げ ! 急げ! 急げ!
皆が起きるまえに

急げ

そして、図書館へ走れ。
196元祖プラム:2005/04/08(金) 10:33:03
『臺』
この字は、(隷属)を意味する。
『台』
この字は、(宰相、三公)等を意味する。

意味が違ってくるので、特に固有名詞に使うときには注意が必要。

『芸』や『弁』の字も同様
197日本@名無史さん:2005/04/08(金) 10:51:22
↑そんなことは国語審議会にでもいってやったらどうだ?
198日本@名無史さん:2005/04/08(金) 10:55:12
字通

[会意]旧字は臺に作り、高の省形+至。

藤堂

【臺】旧字

別に目くじら建てるほどのことでもないと思うけど。
区別したい人はすればいいけど、ひとに強要するものでもないでしょ。

もちろん字体の比較ならば話は別だけど。
199日本@名無史さん:2005/04/08(金) 11:39:20
>>197逃げるな
参加するなら最後までかみつけ。
お茶濁す真似が一番の荒らし行為だ
200元祖プラム:2005/04/08(金) 12:24:01
201サガミハラハラ:2005/04/08(金) 13:28:33
お尋ねします。「邪」「台(旧字の)」はそれぞれ上古音、中古音、後期中古音ではなんとよむのでしょうか。
202日本@名無史さん:2005/04/08(金) 14:30:41
>>201
ちったあ自分でしらべんかい。
203日本@名無史さん:2005/04/08(金) 17:00:38
>>201
邪馬台=ヤマト
204元祖プラム:2005/04/08(金) 17:25:22
>>201
これ参考になれば
後 (^-^)/

http://www.dai3gen.net/gishi01.htm
205日本@名無史さん:2005/04/08(金) 17:33:48
不親切な奴だな。

>台d∂g d∂it'ai t'ai うてな

これが臺の新字体。邪馬台国で意味があるのはこっち。



>台t'∂g t'∂it'ai t'ai 三台星・三公・敬語
>台di∂g yieii iわれ(代名詞)

でもってこっちがもともとの台。邪馬台国と無関係。
206元祖プラム:2005/04/08(金) 18:44:51
不親切で悪かったね!
207日本@名無史さん:2005/04/08(金) 18:51:35
>>201
(台)の上古音調べてどうするの?
(東夷伝倭人)には、関係ないだろう。
208日本@名無史さん:2005/04/08(金) 19:06:30
>202 だからこのスレで聞いて調べているではないか。
209日本@名無史さん:2005/04/08(金) 19:19:10
とすると、台はトとは読まないということですか。
210日本@名無史さん:2005/04/08(金) 20:09:35
台をトと発音しようがしまいが関係ない。
そんなことは、「言語板」にでも行ってやってこい。
トンデモねぇスレ違いだ
とっとと止めろ。
211日本@名無史さん:2005/04/08(金) 23:02:37
>>208
お前にだけは、絶対教えたくない。
212日本@名無史さん:2005/04/08(金) 23:55:20
激しく同意。もれも書くのやめよっと。
213日本@名無史さん:2005/04/09(土) 02:25:42
邪馬台国のスレでは
たびたび「学会の定説は畿内説」という書きこみがありますが
(たぶん同一人物)これを書いた人に質問します
その主張の基となっている研究書・論文を教えてください

F田のような狂人ではなく
まともな歴史学者(東大卒)が最近出版された一般向けの本を読むと
「学会の畿内説が定説」であるとは思えません
現在でも学会の状況は畿内説と九州説の並存のようです

その著者は九州説をとっており
その本は常識的な内容で
F田他のように自説をただひたすら述べるのではなく
先行研究をきちんと展望し
それをふまえた上で結論をだしています
214日本@名無史さん:2005/04/09(土) 02:35:19
「学会の畿内説は弱まっているという定説」の誤り
215サガミハラハラ:2005/04/09(土) 07:34:56
>210〜212 なにかまずいことでも?
台をトとよまないとなれば、邪馬台をヤマトとよむことは成立しないのですね。
216日本@名無史さん:2005/04/09(土) 10:00:36
>>213
『まともな歴史学者』の名前を出せないとろが哀れだな。
217元祖プラム:2005/04/09(土) 12:21:39
>>215サガミ氏
元々『邪馬台』などとゆう国は存在しないのでは!

邪馬臺≠邪馬台だよ。
218日本@名無史さん:2005/04/09(土) 13:27:53
魏志倭人伝って日本が妖怪大百科か民明書房ばりに書かれてるんだよね。
ヨーロッパ人がウラル山脈から東をタルタロス(魔界)と想像したのと変わらない・・・

日本側がもう少し早く文字を取り入れて記録を残せていればと思うと残念です。
219日本@名無史さん:2005/04/09(土) 16:20:41
>>217
少し頭冷やしたらどうだ?戦後の新字体での表記だろうが。
220元祖プラム:2005/04/09(土) 18:49:52
>>219
心配御無用
いたって冷静だよ。

サガミ氏は『邪馬台』の上古音又は中古音で「ヤマト」と発音するかどうか聞いてるのだろう。

当時の『臺』と『台』は別物何だから、発音もおのずと違ってくるだろう。
それを現代は『臺=台』だからとして『台』の文字を使用したら区別がつかない。
それとも、当時の『邪馬台』を聞いているのか?
でもご存知の通、当時『邪馬台』等と言う固有名詞はない。
固有名詞なら『邪馬台』(新字体使用)としなければいけないだろう、発音の問題なのだから。
でも、このスレは魏志倭人伝なので『邪馬壹』だ
221日本@名無史さん:2005/04/09(土) 18:51:20
ちょっと質問なんですが、あの金印は本物ということで確定ですか?
222元祖プラム:2005/04/09(土) 19:02:05
たった一文字
それも、新と旧の違い
でも、そんなささいなことを疎かにしてはいけない

それを教えてくれたのは、ここの住人達だぞ
確かに、もっともな事だと自分なりに心がけてるつもり。
間違っているか?
223日本@名無史さん:2005/04/09(土) 20:23:19
邪馬台の方が漢字変換が楽なんだけどなぁ・・・
224元祖プラム:2005/04/09(土) 21:10:39
>>223
普通に使うぶんには構わないのでは
しかし「台」のが楽だから必要な時「臺」や「壹」のじが使えなくなるよ。
だから藻れは、発音も「ヤマタイ」と言わずに
漢音の(シャバイツ)とか呉音の(ジャメイチ)としている。
225日本@名無史さん:2005/04/09(土) 21:29:43
三世紀の漢字地名に八世紀や十世紀の音をわざわざ当ててみても
それは、現代音を当てることと五十歩百歩。
226日本@名無史さん:2005/04/09(土) 21:39:46
>>225
そうかもしれない。

でも、どの辺が五十歩百歩なのか?
詳しく教えてほしい。
227日本@名無史さん:2005/04/09(土) 21:56:17
何を教えてほしいの? 
言葉の意味が解っているのかな?

 ttp://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%B8%DE%BD%BD%CA%E2%C9%B4%CA%E2&kind=&mode=0&jn.x=21&jn.y=9
228元祖プラム:2005/04/09(土) 22:44:24
>>227
詳しく『五十歩百歩』の意味を教えてくれてありがとう。
大変勉強になりました。
国語は難しいナー

御礼に、↓
http://aiueo.schoolbus.jp/
君も一生懸命勉強してくれ
229日本@名無史さん:2005/04/09(土) 23:11:26
そうか、毎日そのスレで日本語の勉強をしてたんだね・・・
そういえば、以前の「プラム」より「てにをは」はしっかりしてきているようだ。
だけど、ものごとの考え方は、相変わらずだね。
何で、キミのレスは、煽りやおちょくりの対象になりやすいのか・・・
どんな表現のレスでも、実は「思い込み」や「考え違い」を指摘してくれている、と思いたまえ。
230日本@名無史さん:2005/04/09(土) 23:18:24
ちょっと待て。元祖プラム=プラムなのか?
231元祖プラム:2005/04/09(土) 23:31:35
>>230
その質問は難しいな。

ピカチュウも、進化するとライチュウになるからね
232日本@名無史さん:2005/04/09(土) 23:42:25
進化って言うより、単に携帯ユーザからパソコン利用になっただけでそ。
233日本@名無史さん:2005/04/10(日) 00:04:13
天皇家は本当のこと知ってるのかな?
教えて、関係者。
234日本@名無史さん@飛び入り参加:2005/04/10(日) 00:39:59
日本列島の勢力図が東西に分かれていたんじゃなくて、むしろ南北方向だったとしたら?
瀬戸内ライン・・・吉備や奴を従えた、大和の勢力範囲
日本海ライン・・・出雲を中心に、一時期は丹波あたりまで支配下に
南国系ライン・・・後の薩摩や肥後、土佐に一部東海方面までおさえていた熊野衆の国

邪馬台=倭人の自称「やまと」というクニを「やまて」だか「じゃばと」だか何でもいいが、漢人が当て字した。
狗奴=倭人の自称「くまの」というクニを「くな」だか「くの」だかなんでもいいが、漢人が当て字した。
235日本@名無史さん:2005/04/10(日) 01:15:56
>>231
ということは、やっぱり元祖プラム=プラムってことか。

元祖っていうから、昔にもう一人同一コテハンの別人がいたのかとおもたよ。
236日本@名無史さん:2005/04/10(日) 01:54:54
元祖プラムさん好感age
237日本@名無史さん:2005/04/10(日) 02:28:55
宇宙戦艦邪馬台国
238日本@名無史さん:2005/04/10(日) 11:06:07
>>235
そうだよねー
でも、日本語苦手なプラムのやることだから大目にみてやろうよ。
239本田:2005/04/10(日) 13:13:07
>>201
>お尋ねします。
>「邪」「台(旧字の)」はそれぞれ上古音、中古音、後期中古音ではなんとよむのでしょうか。
判りません。

ところで、東夷伝倭人条はシナ人が書いたものだし、
卑弥呼は公孫氏つまりシナ人だから、
倭人条を日本の古語でどう発音するのかなんて考えてみても不毛だと思う。
シナあるいは東夷や東胡の古語でどう発音するか調べたほうがよい。
240日本@名無史さん:2005/04/10(日) 14:33:51
またまた、ぴんとの外れた、しかも遅レスをぶっぱなす人ですね。
はなっから中国出の発音がどうかという話をしてるんじゃないの。
241日本@名無史さん:2005/04/10(日) 14:45:28
その前にもっとすごいツッコミどころが・・・・
242日本@名無史さん:2005/04/10(日) 16:11:39
>卑弥呼は公孫氏つまりシナ人だから、

ここか!
243日本@名無史さん:2005/04/10(日) 18:55:24
そこに反応しちゃだめだよ。
どうせ、鹿島電波本の宣伝まがいのネタに持ち込もうって算段だろうから。
244日本@名無史さん:2005/04/10(日) 21:52:23
卑弥呼=公孫氏よりも
成吉思汗=源 義経の方がはるかに確率大だよ
245ついでだから貼っとくか:2005/04/10(日) 21:54:12
卑弥呼公孫氏説の元ネタはコレ、正史の一つ「晉書」
既知の諸氏は多いと思うが、プラム氏他の方々のために提示しよう。

基本的には魏志のコピー、掲載文の下三行、卑弥呼共立譚の一部『 』で括った部分だけを
抜き出すと『名を卑弥呼と言い、宣帝の平らげた公孫氏なり』と読めると言う訳。

もっとも、先行する魏志東夷伝序にあるとおり、後続の「其の女王遣使・・・」と併せて
「名を卑弥呼と言う、宣帝が公孫氏を平らげるや、其の女王帶方に至り遣使朝見す」と読む人が
ほとんどですが。

四夷傳東夷倭人条 【唐  房玄齡 撰】
倭人在帶方東南大海中、依山島爲國、地多山林、無良田、食海物。
舊有百餘小國相接、至魏時、有三十國通好。戸有七萬。男子無大小、悉黥面文身。
自謂太伯之後。又言上古使詣中國、皆自稱大夫。
昔夏少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害、今倭人好沈沒取魚、亦文身以厭水禽。
計其道里、當會稽東冶之東。

其男子衣以横幅、但結束相連、略無縫綴。
婦人衣如單被、穿其中央以貫頭、而皆被髮徒跣。
其地温暖、俗種禾稻紵麻而蠶桑織績。土無牛馬、有刀楯弓箭、以鐵爲鏃。
有屋宇、父母兄弟臥息異處。食飮用俎豆。嫁娶不持錢帛、以衣迎之。
死有棺無椁、封土爲冢。初喪、哭泣、不食肉。已葬、舉家入水澡浴自潔、以除不祥。
其舉大事、輒灼骨以占吉凶。不知正歳四節、但計秋收之時以爲年紀。人多壽百年、或八九十。
國多婦女、不淫不妬。無爭訟、犯輕罪者沒其妻孥、重者族滅其家。

舊以男子爲主。漢末、倭人亂、攻伐不定。
乃立女子爲王、『名曰卑彌呼。 宣帝之平公孫氏也、』其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。
及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢。

246日本@名無史さん:2005/04/10(日) 23:04:19
和人は呉から来たと自称している、 っての無かったっけ
247元祖プラム:2005/04/10(日) 23:08:32
>>245
資料提供感謝。

確か『晉書』には、こんな文もあった
「自謂太伯之後」

呉の滅亡とともに、領域とされていた山東省・江蘇省安徽省の倭族たちが朝鮮半島中・南部へ亡命し、その一部が日本に渡来「自ら呉太伯の後なり」とてえた。
『梁書』『北史』にも太伯のことが記載されている
248元祖プラム:2005/04/10(日) 23:30:51
参考までに、
『梁書』では
(倭者自云太伯之後)

『北史』では
(自云太伯之後)

後、『太平御覧』倭の項にも(魏志に曰く)として引用
249本田:2005/04/10(日) 23:50:30
250日本@名無史さん:2005/04/10(日) 23:59:06
↑「大論争」主宰者Alex氏の懐かしのサイトだね。
で、アナタは、何が言いたいのかね?
251日本@名無史さん:2005/04/11(月) 00:09:04
>>247-248
晋書・梁書・北史の元ネタは魏略。
呉太伯の後という説であって、呉王夫差の子孫という説ではない。
春秋戦国の呉は太伯の弟の仲雍の子孫。
したがって夫差も太伯の子孫ではない。

もし呉が滅亡した後に倭人になったということの反映ならば
太伯の後とはいわず夫差の後というだろう。
252本田:2005/04/11(月) 00:17:23
卑弥呼は、倭人ではない。
卑弥呼は古代の日本語を話していた証拠は無い。
だぶん古代のシナ語を話していたはず。
253日本@名無史さん:2005/04/11(月) 00:21:13
卑弥呼=公孫氏とする文献は 誤訳が原因でそう解釈されています
254本田& ◆xOS3wf.pJg :2005/04/11(月) 00:27:28
卑弥呼は公孫氏ではないとする文献は 誤訳が原因でそう解釈されています。
255史記 呉太伯伝:2005/04/11(月) 00:42:53
魏志の記述は、下記文中の「文身斷髮」あたりをイメージした潤色と言う感が強い。
潤色を施したのが誰なのかは、いろいろと考えられるところでしょう。

1、朝貢に際し、倭人若しくは倭側に属す亡命漢人が箔付けのために詐称した。
2、倭人朝貢を取り付けた帯方太守が、自らの功績を高めるため脚色をした。
3、編纂時に政治的な意図から創作された。
4、もともと倭人自らに伝承されていた話。

上記いずれの場合もありえそうですね。

呉太伯太伯弟仲雍皆周太王之子而王季歴之兄也
季歴賢而有聖子昌太王欲立季歴以及昌
於是太佰仲雍二人乃奔荊蠻文身斷髮示不可用以避季歴
季歴果立是爲王季而昌爲文王
太伯之奔荊蠻自號句呉 荊蠻義之從而歸之千餘家立爲呉太伯

呉の太伯、弟仲雍は皆周の太王の子にして王季歴の兄也。
季歴、賢にして聖子昌有り。太王、季歴を立て、以って昌に及ぶを欲す。
是に於て太佰仲雍の二人は乃ち荊蠻に奔り、文身斷髮により用うべからざるを示し、以って季歴を避く。
季歴果たして立ち、是を王季と爲し、昌を文王と爲す。
太伯、荊蠻に奔るや、自ら句呉と號す。荊蠻之を義とし、從歸するや千餘家。立て呉太伯と爲。
256日本@名無史さん:2005/04/11(月) 00:47:33
>253-254
どちらが「誤訳」かは、>245の原文を訳して見れば一目瞭然ですねw
257日本@名無史さん:2005/04/11(月) 07:38:04
呉太伯伝説を拡大解釈して、BC473年に呉が滅亡しているが、そこで呉人が
日本にきて倭人になったとかいう説もあるが、こじつけである。
それなら呉王夫差の後とこそいうべきであり、呉太伯の後などといういわれはない。
そもそも呉は、呉太伯の弟の仲雍の子孫であって太伯の系統ではない。
呉の滅亡の後に倭が発生したのならBC473年以後のことになるが
呉太伯の後というのなら前12世紀ということになり、話はまったく変わってくる。
周の成王の時すでに倭がいたことから呉の滅亡に関連づけるのは、中国人の
歴史観からいって自然ではない。また戦国時代までは山東半島の南の付け根に
倭がいたが、ここは地理的に呉に近いといえる。(続く)
258257:2005/04/11(月) 07:38:38
呉太伯伝説は中国人側の解釈・推理。

現地人の主張であるかのように前置きするのは実は中国人側の推理。
本当に現地情報ならそんな前置きなどせず普通に書く。
そういう言い回しは中国の正史には多く、三国志だけでも
東夷伝序、高句麗伝、穢伝、辰韓伝にあり、夫餘伝には2回も出てくる。
(旧唐書日本伝の倭国改名記事もこの例)

呉太伯は儒教の聖人の一人でありかつ南蛮の習俗(刺青)を身につけた人であり、
「その風俗、淫ならず」という倭人のモラルの高さと刺青の野蛮な習俗という
一見して矛盾する特徴をうまく説明するのに呉太伯はもってこいだった。(続く)
259258:2005/04/11(月) 07:39:21
また倭人の習俗を記した部分には重複説明が多いが元大名誉教授の水野佑の説
によれば、前半の「男子は大小と無く、皆黥面文身す」から「有無する所、タン耳・朱崖
と同じ」までは、狗奴国(または狗奴国を中心とする地方)の記述。
後半の「倭の地は温暖にして、冬・夏生菜を食す」から「対応の声を噫という、比す
るに然諾の如し」までは倭国全体(もしくは邪馬台国を中心とする地方)の記述。
したがって呉太伯伝説は邪馬台国とは無関係で、狗奴国に関するものということになる。
狗奴国が球磨郡あたりとすると火須勢理命の子孫と称した隼人の領域に隣接した地方であって、
中国人が海幸彦・山幸彦の神話を伝え聞いた可能性もある。
「兄弟のうち兄が隼人(または狗奴国)の祖先になった」と中国人がきいて
ますます呉太伯伝説(太伯・仲雍・季歴の三兄弟のうち兄二人は荊蛮に去り
末弟の季歴が周の祖になったという物語)のことにちがいないと考えたのだろう。(続く)
260259:2005/04/11(月) 07:40:02
ところで「海幸彦・山幸彦の神話」は太平洋の島々や東南アジアに広がる南方系
の神話で、当然、呉にも似たような神話が伝わっていたと思われる。
呉の初期の君主「太伯・仲雍・季簡・叔達」は、楚の四兄弟「伯霜・仲雪・叔堪・季徇」
と後半二人の発音が類似しており、楚の話が元ネタだったのだろう。
BC822年に楚の熊霜(伯霜)の死後、三弟が争い、仲雪が死に、叔堪が出奔して
「濮」の開祖となり、季徇が楚の君主を継いだという話。「濮」は呉の近くにもいたので
これをこじつけて呉の建国物語としたのである(だから呉の系図では呉は叔達の
子孫ということになっている)。さらに後になって周王朝の建国説話(太伯・仲雍・季歴
の三兄弟のうち兄二人は荊蛮に去り末弟の季歴が周の祖になった)にもこじつけたため
兄二人の名前は周のそれにさしかえられ、楚の兄弟と別になったもの。
(以上「古代王権の誕生1東アジア編」(角川書店)より」
しかし本来の呉には、もっと素朴な(原始的な)王権起源神話があった可能性もある。
太平洋の島々や東南アジアに広がる南方系の「海幸彦・山幸彦型の神話」が元にあり
「兄弟争い(または兄弟互譲)の結果、兄が蛮族(や海人)の祖になり、末弟が王位を
継ぐ」という物語が基礎となっているのだろう。
261本田:2005/04/11(月) 18:00:51
>>245
> 卑弥呼公孫氏説の元ネタはコレ、正史の一つ「晉書」
>既知の諸氏は多いと思うが、プラム氏他の方々のために提示しよう。
>
>基本的には魏志のコピー、掲載文の下三行、卑弥呼共立譚の一部『 』で括った部分だけを
>抜き出すと『名を卑弥呼と言い、宣帝の平らげた公孫氏なり』と読めると言う訳。

これが正解。
シナの古代史に明るい人(もちろん日本よりシナ、台湾に多い)はこう読むはず。

>
>もっとも、先行する魏志東夷伝序にあるとおり、後続の「其の女王遣使・・・」と併せて
>「名を卑弥呼と言う、宣帝が公孫氏を平らげるや、其の女王帶方に至り遣使朝見す」と読む人が
>ほとんどですが。

これは誤訳。
こんな読み方するのは、日本史オタクに多いと思う。
まさか「晉書」の作者が日本史オタクにしか読めない暗号めいた文は書くまい。

> 舊以男子爲主。漢末、倭人亂、攻伐不定。
>乃立女子爲王、『名曰卑彌呼。 宣帝之平公孫氏也、』其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。
>及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢。
262245:2005/04/11(月) 19:15:38
>261
そうだよ。
晉書の作者は、電波ヲタクにしか読めないような文章は書いていないよ。
だから、ここは中華書局版の読み方どおり、“名曰卑弥呼”で区切るのが正当なんですよ。
アナタの読み方に同意するシナの人がいるのかどうかは知りませんが、
私は、魏史の記述とも整合する中華書局の読み方を支持します。
263日本@名無史さん:2005/04/11(月) 20:02:04
今夜は、本田が公開れいーぷされる予感・・・
264日本@名無史さん:2005/04/11(月) 21:03:37
句点と読点の意味がわかってるかどうか、疑問だ。

名曰卑彌呼【。】 宣帝之平公孫氏也、
265日本@名無史さん:2005/04/11(月) 21:20:49
>264 原文に句読点が無(ry
266日本@名無史さん:2005/04/11(月) 21:42:19
標点本にはあるんだよ。中国の中華書局が編集したヤツに。
267日本@名無史さん:2005/04/11(月) 21:47:42
俺 電波ヲタク
268日本@名無史さん:2005/04/11(月) 22:24:33
シナの古代史に明るい人(もちろん日本よりシナ、台湾に多い)はこう読むはず。
シナの古代史に明るい人(もちろん日本よりシナ、台湾に多い)はこう読むはず。
シナの古代史に明るい人(もちろん日本よりシナ、台湾に多い)はこう読むはず。
シナの古代史に明るい人(もちろん日本よりシナ、台湾に多い)はこう読むはず。
シナの古代史に明るい人(もちろん日本よりシナ、台湾に多い)はこう読むはず。
シナの古代史に明るい人(もちろん日本よりシナ、台湾に多い)はこう読むはず。
シナの古代史に明るい人(もちろん日本よりシナ、台湾に多い)はこう読むはず。
シナの古代史に明るい人(もちろん日本よりシナ、台湾に多い)はこう読むはず。
シナの古代史に明るい人(もちろん日本よりシナ、台湾に多い)はこう読むはず。
シナの古代史に明るい人(もちろん日本よりシナ、台湾に多い)はこう読むはず。
シナの古代史に明るい人(もちろん日本よりシナ、台湾に多い)はこう読むはず。
シナの古代史に明るい人(もちろん日本よりシナ、台湾に多い)はこう読むはず。
269日本@名無史さん:2005/04/11(月) 23:12:52
>>268
やめてくれ。腹の皮よじれるw それより早く本田でてこないかなー
270日本@名無史さん:2005/04/12(火) 00:38:31
太平洋戦争はなかった!!
271日本@名無史さん:2005/04/12(火) 00:43:03
>>270
それ、そうとう前の世にも奇妙な物語で見た。
原作は小松左京だったかな。
272日本@名無史さん:2005/04/12(火) 00:45:21
あ否

邪馬台国はなかった!!

のノリで・・・
273元祖プラム:2005/04/13(水) 21:19:57
『後漢書』
建武中元二年(倭)奴国奉貢朝賀

この(倭)は、日本のことなのか?

『山海経』
蓋國在鉅燕南(倭)北(倭)屬燕

ここに出てくる(倭)とはどうみても日本ではないぞ
274日本@名無史さん:2005/04/13(水) 22:43:30
>273 

レスの意味がよくわからん。

【 後漢書東夷伝 】
建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬
安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見

「倭」が「奴國」の冠称として使われているか、と言う意味だろうか?
「倭」の「奴」なのか、「倭奴」なのかは、過去レスにもあるように定かではないよな。
ネタとして振るならそれなりの新たな「考え」を提示してくれないと燃料にはならないな。

【 山海經 海内北經 】

蓋國在鉅燕南倭北倭屬燕

これは、その次の部分も続けて書けば文脈がはっきりするよ。

朝鮮在列陽東海北山南列陽屬燕

蓋國は、鉅燕の南、倭の北に在り、倭は、燕に屬す。
朝鮮は、列陽の東に在り、北は海、南は山。列陽は、燕に屬す。

こう読めれば、「普通」だよ。
275元祖プラム:2005/04/14(木) 00:07:50
>>274
ご指摘ごもっとも、
『後漢書』

建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫(倭)国之極南海也光武賜以印綬

ここに出てくる(倭)とは本当に日本の事かな?

これが訂正文です。
「急いでレスしたとはいえ申し訳ない」
276日本@名無史さん:2005/04/14(木) 00:17:52
それは後漢書でも東夷伝倭条にあるわけだが。

後漢書東夷伝倭条は日本のことではないとでも言うつもり?
277日本@名無史さん:2005/04/14(木) 00:34:24
日本国が出来たのは7世紀末でしょう。後漢時代にUSAも日本もないと思うが。
278元祖プラム:2005/04/14(木) 00:40:47
先ほど>>273でレスした『山海経』の「蓋國」)とは漢書地理志(第八上)の漢が置いた 泰山郡蓋県にあたり、山東省ギ水県の西北にあった小国

「鉅燕」とは
「鉅」=大きいの意
大国燕の事でよいかな?
「燕」は河北省・遼寧省・朝鮮半島北部

これから見ると、あそこに出てくる(倭)とは日本には到底思えない。
漢の時代「倭」は日本に限らず他にも何箇所か存在していたのではないか?
すると、先ほど書いた(倭国の極南界)の(倭)も日本とは限らないのでは
279元祖プラム:2005/04/14(木) 00:48:12
>>276
『後漢書 東夷 倭』とは
東夷と呼ばれている地域の倭について書かれた文

このように解釈してはいけないだろうか?
280元祖プラム:2005/04/14(木) 01:22:53
ようするに
すくなくとも漢の時代『倭=日本列島』とゆうピンポイントではなく
列島の一部を含めた、結構広い範囲で『倭』と呼ばれた地域は点在していたのではないか?
281日本@名無史さん:2005/04/14(木) 02:29:50
倭は部族名か種族名。地名じゃないな。
282元祖プラム:2005/04/14(木) 07:23:41
>>281
部族や種族名ではないと思うが。
『魏志倭人』に
女王国東渡海千餘里復有国皆(倭種)

『倭』が種族名を表す意なら、あらためて倭種の文字を使う必要がないとおもう。
283日本@名無史さん:2005/04/14(木) 12:35:57
倭人征圧地域のアラユル地が「倭」だ

284日本@名無史さん:2005/04/14(木) 12:56:39
倭人伝はあるが倭国伝じゃないのは、種族名だから。
285日本@名無史さん:2005/04/14(木) 13:06:59
韓国南端はつまり倭人が住んでいただけで、領土は弁辰領だったのかな。
今でも韓国南はB型がすくない(他とくらべて)
辰韓も「倭人に近い」とかかれてたよね
286日本@名無史さん:2005/04/14(木) 14:10:39
>>279
『後漢書 東夷 倭』の冒頭は『倭在韓東南大海中』なのだが。

韓の東南で大海中にあって日本列島ではない場所とは、一体どこかね?
287日本@名無史さん:2005/04/14(木) 15:57:31
>>286
トミーうざい!お前は梁山泊でたかひろと戯れてろwww
288元祖プラム:2005/04/14(木) 18:10:33
>>286
@『漢書 地理志』
楽浪海中有(倭人)

A『魏志 東夷伝』
(倭人)在帯方東南大海之中

B『後漢書 東夷伝』
(倭)在韓東南大海中

C『山海経』
蓋國在鉅燕南(倭)北(倭)屬燕

BはAと@を引用したみたいだが BとAは(倭人)と(倭)の違いがあり
(倭人)とするところを過って(倭)としてしまった可能性がある。

(倭)の文字は『巻二八 漢書地理志 第八下』『魏書東夷伝倭人』には一度も登場せず 『巻 八五 後漢書 列伝東夷 倭』以降に登場する。
289日本@名無史さん:2005/04/14(木) 19:06:51
「倭」でも「倭人」でも意味的な違いは、さほどないと思う。
各書の編者自身も、厳密に使い分けていないように感じる。
ただ、「倭」には、民族名以外に地名としても(宋書以降は国名)使われる
場合もあったろうが、「倭人」は、民族名以外には使わないでしょう。
290日本@名無史さん:2005/04/14(木) 19:13:22
>>288
わけわかめ
どのみち、『韓の東南で大海中』にあることに変わりはなかろうに。

>>287
トミーって誰?梁山泊ってどこ?
291日本@名無史さん:2005/04/14(木) 20:01:39
>290
今時、「www」なんて使うヤツは相手にしてもしゃーないやろ。
292元祖プラム:2005/04/14(木) 20:35:06
陳寿は明らかに『倭』と『倭人』の使い分けをして『(東夷伝)を書いた痕跡がある。
倭人在帯方東南… と、始まり その後「位置」「地形」「過去の出来事」「現在」などの 明らかに土地を表す題材を記載している
ここに出てくる『倭人』とは(人や民族)を表す表現ではなく 土地を表す表現方法だ
293日本@名無史さん:2005/04/14(木) 21:06:39
>プラムサン
位置や地形を表記した時の対象は、「倭」なんだろう。
ニンベンの字にご丁寧にも「人」までつけてるんだよ。
倭だけでも足りるものにわざわざ一文字付け加えて地名を作るかね?

そんなことより、あなたが「倭人」を地名にしたい理由のほうに興味があるな。
294元祖プラム:2005/04/14(木) 22:09:28
>>293さん
別に『倭人』を地名にしたい理由なんかないよ

ただ、陳寿が書いた「韓伝」には
韓在帯方之南東西以西海為限南(倭)接方可四千里
[東西は海を限りとし、南は倭と接してる]

其[シ賣]盧國與(倭)接界

明らかに韓は南の境を海ではなく、陸続きの(倭)としている。
(倭人)ではない(倭)だ陳寿は、きちんと土地の認識として(倭人)を使用してるのでは!
295本田:2005/04/14(木) 22:18:47
>>273
> 『山海経』
>蓋國在鉅燕南(倭)北(倭)屬燕

2つ訳し方があるらしい。
>「蓋國は鉅燕の南,倭の北に在り。倭は燕に屬す。」
> (蓋國,鉅燕:ともに国名)

>「蓋國は鉅燕に在り。南倭・北倭は燕に屬す。」
>(南倭,北倭:ともに国名)
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/shosai/netu-menu.html
296日本@名無史さん:2005/04/14(木) 22:48:37
土地を言いたいなら「倭地」であって「倭人」じゃないと思うが。
297元祖プラム:2005/04/14(木) 22:51:57
本田氏

どちらの訳し方をしても
ここに出てくる(倭)は、日本列島とは違うようだが本田氏のご意見は?
298元祖プラム:2005/04/14(木) 23:11:16
自分は余りよく知らないのだが
当時、中華の認識の中に
〇〇人とする色分けが存在したのか?
299日本@名無史さん:2005/04/14(木) 23:23:58
>>296
參問倭地とあるしな。
つーか、もう相手できるレベルを越えてるわけだが。つきあいきれね−
300日本@名無史さん:2005/04/14(木) 23:57:25
みんなよくがんばったと思うよ。
301日本@名無史さん:2005/04/15(金) 00:54:06
>294

「明らかに韓は南の境を海ではなく、陸続きの(倭)としている。」

これは、中国語の「接」と言う字の用法を誤解している考え方だよ。
現代日本語でもそうだが、「接する」とは、会い触れ合うような関係を示す場合が多い。
しかし、必ずしもくっ付いている必要はない。
何らかの関係があって通行が有れば「接して」いるんだよ。
海を隔てて何百キロも離れた国同士が「接して」いる例もあるし・・・

例えば、唐会要と言う書では、百済と倭は「接して」いることになっている。
ちなみに、その倭伝は、基本的には隋書のコピー(ちゃんと日本伝もあるw)だが、
「変な」読み方をするとなかなか「楽しい」向きもある本だ。
興味があるなら探してみるといいよ。

302日本@名無史さん:2005/04/15(金) 01:02:38
>>294
明らかに韓は南の境を海ではなく、陸続きの(倭)としている。
(倭人)ではない(倭)だ陳寿は、きちんと土地の認識として(倭人)を使用してるのでは!
                                     ↑
                    だから、土地の認識として(倭)を使用してるんだと思うが?
303日本@名無史さん:2005/04/15(金) 01:09:47
>298

例えば、魏志韓伝を読んで見れ!
秦人、馬韓人、辰韓人・・・・いぱーい出てくるなあ。
304元祖プラム:2005/04/15(金) 07:45:07
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/1/yayoi_3.htm#V、3、魏志における倭と倭人の使い分け
305日本@名無史さん:2005/04/15(金) 11:53:17
クルド人が参考になると思うが
http://www1.odn.ne.jp/~cbq97680/introduction.htm

かつて倭人はいたが、倭人国ないし倭国は成立していなかった。
半島にも列島にも(たぶん揚子江河口あたりにも)倭人がいた。
倭人という種族ないし民族のなかで、部族のまとまりが出来ていき
やがては国となって、委奴国がリードしたこともあり、一支国も強かった。
あるとき女王国を最高位の国とすることになった。
306日本@名無史さん:2005/04/15(金) 14:08:13
百済の下に実際倭の領地があったのでは?
307日本@名無史さん:2005/04/15(金) 17:44:05
プラムよ。
君が、このスレの波長に自分をどうしても合わせることのできない理由を教えてあげよう。

簡単に言えば「史学」と言う学問に対する考え方だ。

例えば文献史学で、史書を扱う場合、先ずは並行資料などとの対比を行い、
記載事項の検証をする。
三国志などのように著名なものであれば、この作業は、ほぼ先人の手に染まっており、
新たな資料でも登場しない限り、大概は先学の事績の再検証に終わる。
次には、並行資料や他分野の業績との間に矛盾や粗誤があれば、
それが生じた歴史的背景などに思いを馳せる。
そんな感じの学問なんだな。

しかし、プラムの考え方は、初期バージョンに較べれば、それなりに「進歩」しているが、
私の考える「学問」とは異なる。
何かパズルやゲームに勤しんでいるかのようだ。
偽書やデムパが大好きな本田にも言えることだが、
漢文法を無視したジグソーパズルを楽しいと思うのは勝手だが、
そんな相手にまともなレスを付けるヤツはいないよ。
308元祖プラム:2005/04/15(金) 20:38:39
成る程。
しごくもっとも

>>307さんへ
309本田& ◆xOS3wf.pJg :2005/04/15(金) 21:39:15
>>297

>「蓋國は鉅燕に在り。南倭・北倭は燕に屬す。」
>(南倭,北倭:ともに国名)

蓋國は外夷(東夷)の1国で燕の同盟国。
鉅燕は巨大化した公孫氏が支配する燕とその周辺地域。
北倭は満州や朝鮮半島北部の倭人。
南倭は朝鮮半島南部や九州の倭人。


公孫氏の卑弥呼は、燕の植民地である邪馬壹国の女王。
植民地だから邪馬壹国と書いて、邪馬台国とは書かない。

>三国志魏書 東夷伝
>夫餘

>夫餘はもと玄菟に属す。
>漢末、公孫度海東に雄を張り、外夷威服し、夫餘王尉仇台さらに遼東に属す。
>句麗・鮮卑強なる時、夫餘二慮の間にあるを以って、度、宗女を以って妻となす。
>尉仇台死し、簡位居立つ。嫡子無く、[薛/子]子(妾腹の子)麻余あり。位居死し、諸加麻余を共立す。
>牛加兄子、名を位宮というを大使となし、財軽くし善きを施し、國人これに附く。
>歳歳使を遣わし京都(洛陽)に詣(いた)り獻を貢ず。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/gisi-toi.html
310日本@名無史さん:2005/04/15(金) 22:00:26
>>294
狗邪韓国のことだろ?>半島の倭
311元祖プラム:2005/04/16(土) 00:33:47
>>310
狗邪韓国というよりも
>>305の、クルド人的感覚 が、どうもシックリくるよ

正直、半島南部海岸沿いに(倭)の国がきちんと存在して欲しいのが偽る心情だが
それを証明出来るだけの物証がないのも事実。
何か資料でもあればいいのだが
312元祖プラム:2005/04/16(土) 00:47:12
本田氏

蓋国とは、>>278でカキコした(泰山郡 蓋県)のことじゃないの?
そうなると朝鮮半島は関係なくなるが
313本田:2005/04/16(土) 01:02:33
>>311
> 正直、半島南部海岸沿いに(倭)の国がきちんと存在して欲しいのが偽る心情だが
>それを証明出来るだけの物証がないのも事実。
>何か資料でもあればいいのだが



>後ちに新羅に併呑される加羅(伽耶)であるが、ここは統一領土国家ではなく、
>都市国家連合的な「連邦」を成した。
>これは「倭人」が「韓」による統合を拒んだためと思われる。
>特に、「任那日本府」があったとされる南岸の金官加羅は、
>中華に「狗邪韓国」とも呼ばれていたように、「韓」と「倭」の二重国家であった。
>すなわち、韓の加羅連合の一国であると同時に、
>倭の一国でもあった。この状態は新羅成立前ごろまで続いた。
>(実はこのあたりに、わが倭国王権の秘密が隠されているのだが、これは別論として述べたい。)
http://www.kcn.ne.jp/~tkia/mjf/mjf-52.html
314本田:2005/04/16(土) 01:12:14
>>311
> 正直、半島南部海岸沿いに(倭)の国がきちんと存在して欲しいのが偽る心情だが
>それを証明出来るだけの物証がないのも事実。
>何か資料でもあればいいのだが


>「半島の倭国構成国と卑弥呼」
>同様に半島の歴史書「新羅本紀」にも、「倭・倭人」という言葉が出てきますが、
>この倭人たちは半島南部に居た人達と推定されています。
>−【倭人しばしば領内に侵入するので、国境地帯に二城を築く】−(新羅本紀)
>という記事が出てきますが、
>この記事が半島から見て海の向こうの倭国をさしている訳ではありません。
>国境地帯という言葉に表されるように半島南部に倭国構成国が存在したのでした。
>そこで「倭国とは九州と半島南部の国々が連合して作った国」だと考えています。
>すでに半島南部に倭人が存在したということは、今日では常識化されています。
>お隣の韓国では週刊誌に半島南部の倭が取り上げられる時代。
http://www2.odn.ne.jp/~cbm51320/sub12.htm
315本田:2005/04/16(土) 11:20:35
>>312
私には、判りません。
でもこんな説の人も居る。

>『山海経(せんがいきょう)』という中国周の時代の末期に当たる戦国時代の本があります。
>日本で言えば縄文晩期に当たります。
>その中に今の平壌(ピョンアン)あたりに蓋国(ガイコク)という国があった。
>その南側は倭である。こういうことが書いてある。
>つまり倭人が居た。
>日本では縄文時代晩期に当たる。
>事実、韓国の光州の博物館には日本の縄文土器とそっくりの土器が展示してある。
>韓国の学芸員に確認したが、九州の轟(とどろき)・曽畑式土器であるとはっきり答えられた。
>この土器がどっちからどっちに行ったかは別にして、
>韓国光州と九州熊本付近に同じ土器が存在することは疑いがない。
>山海経の記録には倭と書いてある。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/wikuyi.html
316本田:2005/04/16(土) 11:43:13
歴史学なんてどんなアプローチをしても大差はないと思います。
ようはタイムマシンが発明されて、過去の真実が判明するまでは、
大昔のことは詳しくは判らないとゆうことです。
317& ◆FC4h7F/wV6 :2005/04/16(土) 11:45:06
316は書き損ねです。
すいません。


>>307
> 簡単に言えば「史学」と言う学問に対する考え方だ。

> 私の考える「学問」とは異なる。
>何かパズルやゲームに勤しんでいるかのようだ。
>偽書やデムパが大好きな本田にも言えることだが、
>漢文法を無視したジグソーパズルを楽しいと思うのは勝手だが、
>そんな相手にまともなレスを付けるヤツはいないよ。

歴史学なんてどんなアプローチをしても大差はないと思います。
ようはタイムマシンが発明されて、過去の真実が判明するまでは、
大昔のことは詳しくは判らないとゆうことです。
318日本@名無史さん:2005/04/16(土) 15:34:17
>>315
平壌じゃ山海経の記述とあわないな。
319本田:2005/04/16(土) 23:24:11
>>315

>金海貝塚
>前期加耶の中心地だった洛東江下流の海岸地帯には、
>多くの貝塚遺跡と土壙墓が発見されている。
>これらの地域では、
>日本との交流を明らかに示す縄文土器が見つかっているとのことであるが、
>ここは一見貝塚とはみえない高い場所にある。
>地形の変化によるものだろうか。
>どのように古い時代のさまざまな変化を読み取るのか、
>考古学の最も難しいところであろう。
http://www.oct.zaq.ne.jp/kashiko_yushikai/reikai/reikai0307korea1.htm
320日本@名無史さん:2005/04/18(月) 12:40:12
半島からの鉄の入手経路って直接or間接?
321日本@名無史さん:2005/04/18(月) 13:17:49
322日本@名無史さん:2005/04/20(水) 19:33:48
>320
魏史韓伝を読んでみそ。
直接入手の場合もあったようなことが書いてある。
323元祖プラム:2005/04/20(水) 21:38:15
>>322

國出鐵韓[シ歳]倭皆從取之諸市買皆用鐵如中國用錢又以供給二郡
の、ことか?
国より鉄を出でる。韓、シ歳、倭皆従いてこれを取る。
諸市においてものを買に皆鉄を用いること、中国の銭を用いるが如し、また以って二郡に供給す。
325本田& ◆xOS3wf.pJg :2005/04/21(木) 19:23:38
>>324
> 国より鉄を出でる。韓、シ歳、倭皆従いてこれを取る。

この倭は朝鮮半島の倭人を指すように思う。

326本田:2005/04/22(金) 19:04:35
>>325
の根拠は、
>>302
です。
327日本@名無史さん:2005/04/22(金) 22:44:33
列島の倭と半島の倭とわける意味はないだろ。同じ倭なんだからさ。
もし別の勢力なら陳寿がそう書いたろうよ。
328本田:2005/04/26(火) 06:41:59
>>327

どこの倭人が鉄を入手し易かったかとゆう情報は、
どこの倭人の勢力が強かったかを考えるヒントになると思う。
329日本@名無史さん:2005/04/26(火) 08:04:17
倭は弁韓の鉄を輸入していた。終わり。

・・・・何か問題でも?
330本田& ◆xOS3wf.pJg :2005/04/26(火) 20:08:00
>>329
> 倭は弁韓の鉄を輸入していた。終わり。

弁韓の鉄がいったいどこに輸出されたんだよ?

弁韓の鉄は、朝鮮半島の倭人が使っていた可能性は高いと思うけど、
いったいどの地域まで流通していたのかは不明だ。
331元祖プラム:2005/04/26(火) 20:24:55
329
>弁韓の鉄?????

>>辰韓の鉄じゃないかい。
332圭角:2005/04/27(水) 08:25:35
プラムさんは、こちらにも、いらっしゃるとは知りませんでした。
応援してもいいですか。
それから、いま、邪馬台国は大和朝廷になったのか、のスレが閉ざされているのは
どうしなのでしょう。ご存知ならば、教えてください。
333圭角:2005/04/27(水) 11:02:41
邪馬台国当時の鉄器の鉄器出土分布に基づけば、邪馬台国は八女とするのは
有力な意見かと。弥生時代後期後半にかけて九州では、熊本と大分に鉄鏃の
増加が目立つ考古学事実あり。福岡熊本県境の山間部に多い。
耕地に恵まれているとはいえない山間部のムラに、鉄鏃を集中させるような
軍事的緊張が続いていた証拠。
狗奴国の位置の考察が、重要。
里程記事に信憑性はまったく無し。
334元祖プラム:2005/04/27(水) 12:34:19
>>332
圭角さん こんにちはです
大和のスレは正常に動いてますよ!

私の主な活動スレはココがメインです。
335圭角:2005/04/27(水) 13:24:52
プラムさん、こちらこそ、こんにちわ。私も当分こちらに引っ越します。邪馬台国
は大和朝廷になったのかのスレは、記紀や神話の話を相手にもするので、焦点が、
絞り辛い感想を持っていたのです。
プラムさんの288ですが、よく勉強されていると感心します。
その倭人と倭のことです。これに関して、最初に起論された方は松本清張氏だったと
記憶しますが、あまり氏の説はよく理解できませんでした。
倭人、と陳寿が倭人伝の冒頭に記した理由は、漢書地理誌の楽浪海中有倭人の倭人を
単に受けたものに過ぎないのではあるまいか、と自分は思うのですが、プラムさんは
いかがお考えでしょうか。
例のスレにても話題になったことですが、対馬海峡や東シナ海つまり沖縄奄美周辺も
含めた海域が楽浪海中という気がするのです。古来、中国は水に近寄らぬ文明文化と
いえます。台湾を中国の領土として完全統治した時代は、ずっとずっと時代が下って
からというのが、その根拠のひとつです。
ちなみに、エーゲ海域のトルコとギリシャの国境線はほとんど海洋民族のギリシャの
領土ということからもそういえるのでは。
336日本@名無史さん:2005/04/27(水) 13:47:50
前漢の時の「楽浪海中」とはかつての真番郡の跡地つまり今の半島南部のことでしょう。
337圭角:2005/04/27(水) 16:02:11
前漢の時の楽浪海中を真蕃郡のあった半島南部とばかりに、あえて、狭く限定する
必要もないと思います。その根拠理由は、海中と記している点がひとつです。
さらに、真蕃郡が置かれてから、中国商人は瀬戸内海の奥深くまで交易活動したことは
貨泉の出土からして、客観視できると思いますが、いかがでしょうか。
前漢武帝の五珠銭の出土も参考になると思います。いかがでしょうか。 
338圭角:2005/04/27(水) 16:28:18
再び倭人と倭について
あくまで私見ですが、ご案内のとおり、中国最初の正史は史記ですね。二番目の正史が
前漢書ですよね。そして、三番目が陳寿の三国志ですね。
史記には倭の記事はないですね。
前漢書に、楽浪海中倭人有り云々と記してありますね。
そこで、陳寿は、前漢書の倭人という記事を意識して、あえて、
倭人帯方東南有大海と記したものと、私は推論したいですね。
漢の時の帯方郡と魏の時代の帯方郡とではちがいますよね。機会あれば書きますが。
ちなみに、井上秀雄氏の正史東夷伝の注に
この部分は、漢書地理誌の倭人の記事に、魏時代の知識を付加して書いたものである
との解説があります。
339元祖プラム:2005/04/27(水) 18:51:53
楽浪(海中)有倭人

倭人在帯方東南(大海)之中

この二つの文でイチバン厄介な単語(海中と大海)と思われます。
この(海中と大海)とはいったい何処の海なのか?
この海を想像以外で特定出来るものなのか

以前、関連スレにて(想像はあくまで想像、その域を出ず)と 散々言われた。
340圭角:2005/04/27(水) 19:31:28
プラムさんへ。
海中と大海がどこの海かというお話は、少々の驚きを感じます。新鮮というか
なんというか、という感じです。素直に受け止めるなら、やはり、渤海湾や、
黄海、対馬海域、さらには東シナ海と思いますが。
それらを、包含している意味だからこそ、あえて漢書では海中、三国志では
大海という形容をしたのではないでしょうか。よくわかりませんが。
338にて書きましたとおり、陳寿は漢書の著者のハンヨウをかなりかなり
必要以上に意識過剰にて書いているフシもあると思います。
前の正史に海中と記してあれば、仮に私とても海中とは記すことはせずに、
たとえば大海と記して当然かと思います。
この点については、プラムさんのいうとおり、想像の域を出ずして当然だと
考えますが。
341圭角:2005/04/27(水) 19:39:51
わたしには、大海と海中の差異の意義や分析や考究が、本スレの魏志倭人伝
邪馬台国はどこ、という問題に何故にかかわるものなのかが、不明不思議で
正直驚いています。倭人伝の読み方という範疇において、その海中もしくは
大海の領域が、なにゆえに、魏志倭人伝を読む、邪馬台国はどこ、という
命題にいかなる影響があるものか、むしろ教えて欲しいくらいです。

342元祖プラム:2005/04/27(水) 20:04:29
圭角さん

日本側から見た(海中や大海)は、対馬海流が通る海と解釈するでしょう(私もそう解釈します。)
しかし、倭人という文字を省いて考えてみるとどうなりますか?
漢書の
『楽浪海中』
さぁどこでしょう?

現在の私達は、色々の情報により『倭』=『日本』と認識していますが
漢書の(楽浪海中有倭人)の文が書かれた時は、魏略も魏書も後漢書も存在しない『倭人』なのです。
343元祖プラム:2005/04/27(水) 20:53:42
私の場合先が読めなくなった時、必ずこの『楽浪海中有倭人…』に戻り
考え直します。
今の私達には『漢書』から数えても2000年分の情報が有り、情報過多と捉らえても決して過言ではないでしょう。
漢書以降の正史の倭人伝や倭伝については『楽浪海中有倭人…』が、基本となって作られているので
この漢書の解釈を間違えると 以降の倭人伝の解釈も微妙に違って来ると考えるからです。
344日本@名無史さん:2005/04/27(水) 20:58:23
>>332-432
「海中」というのは「海外」ともいい中華文明の光がとどかない「くらいところ・異民族の地」
という意味。いわゆる「うみ」の意味ではない。
足利義満が明に送った国書に「海内虞れなし」とある「海内」は「海」に囲まれた中で
中華文明の光がとどく世界のこと。
漢籍には「朝鮮は海中にあり」「欧越は海中にあり」などの表現もあるが、
朝鮮も殴越(呉のあたり)も中国とはちゃんと陸でつながってる。
「うみ」ならば、漢文では「海上」という言い方がちゃんとある。
「海中」の海を無理に「うみ」の意味にとると海底のような印象になってしまう。

「楽浪海中、倭人あり」というのは、半島南部はかつて真番郡があった(中華文明が及んだ)のに、
いまは先住民のものになっているという史実を踏まえた表現でもある。「でも」そこにいる倭人は
定期的に楽浪郡に朝貢している(だからいずれ漢の徳化を再び及ぼすこともあるだろうという含み)。



345元祖プラム:2005/04/27(水) 21:26:59
>>344さん
説明感謝します。

足利義光時代の資料が登場する場面は????ですが他の部分は大変参考になり知識がまた一つ増えました。
でも、ここでもまだ(倭=日本)を証明することは出来ません。
漢書をリアルタイムで見ることが出来たら、まだそこには足利義光はまだ存在していませんので
346本田:2005/04/27(水) 22:00:34
>>344
> 漢籍には「朝鮮は海中にあり」「欧越は海中にあり」などの表現もあるが、
>朝鮮も殴越(呉のあたり)も中国とはちゃんと陸でつながってる。

これは半島は三方を海に囲まれていると表現しているとも解釈できる。
原文見てないので断言できないけど、
べつに海を中華文明と解釈する必然は無いと思う。
347日本@名無史さん:2005/04/28(木) 07:52:12
では欧越はどうする?三方が陸なんだけど。
348圭角:2005/04/28(木) 07:59:30
344さんのご説明、私も大変勉強になりました。
蛇足で恐縮ですが、海内とは天下、国内の意ですから、よけいなるほどと思います。
349日本@名無史さん:2005/04/28(木) 08:02:09
焦れったい進行なので、かってに解説しよう。
プラムは、陳壽が認識した『倭』を半島南端から列島にまたがる地域としたいらしい。
しかし、陳壽は『倭人』は大海の中に在る{島国だと)と言っているので甚だ都合が悪い。
そこで迷手として、『倭人』とは『倭』の内の九州島部分を指す名称だと考えることにした(私の想像)
そうすれば辻褄が合うと思っているらしい。
350日本@名無史さん:2005/04/28(木) 08:29:01
陳寿の中では国としての倭は列島、韓は半島に分かれてると思うけど・・・。
ただ、倭人が半島にいないという意味ではないけど。そんなことも書いてない。
351元祖プラム:2005/04/28(木) 12:35:35
どうして何時も>>349は、そのようにしか物事を見ることしか出来ないのかね。別に『倭』が
北海道やアメリカにあろうとも、自分にとって不利益を被る事はない
ただただ真実は無理としても、限りなく真実に近い事を知りたいだけだよ!
自分だけじゃなく他の住人諸氏もそうだと思うけど

違うかい?
352圭角:2005/04/28(木) 15:10:12
半島南岸に倭人居留地があったことの証拠にはなり得ぬものでしょうが、推定又は
推論するには、次の見方はいかがでしょうか。
それは、狗奴韓国に官と副の名前が記してないことです。
つまり、狗奴韓国から邪馬台国の九国において官の名前が記して無いのは狗奴韓国
及び末櫨国です。二つの国にはさらに共通した記述が有ります。
それは他の国に用いられている、至る、ではなくて、到ると記してあることが興味
深いところです。
さて、言いたいことは狗奴国から邪馬台国までが九国。その余の傍国が二十一国。
併せて、使役通ずる所三十国となり、計算が合うから、狗奴韓国は倭の一国であり
倭人居留地であったことになる。
この場合、狗奴国は郡に使役通ずる国ではなかったということになりますが、私は
別の理由にて、そのように考えています。
353圭角:2005/04/28(木) 15:16:00
352は書き損ないの部分の訂正をします。
もちろん、狗奴韓国から邪馬台国まてで九国です。
貴重なスレを浪費してご迷惑の段、ご容赦くださいませ。
354圭角:2005/04/28(木) 16:04:23
プラムさん。狗奴韓国はまちがいなく倭人居留地だったといえます。
世界史の教科書を持ち出して恐縮ですが、ご参照ください。
フェニキアもギリシャもその居留地殖民市を多数保有したいわば黄海通商の
民でありました。トルコのアナトリア半島の陸地の近辺までのエーゲ海域の
ほとんどがギリシャの国境線の内側にあります。それは、トルコが遊牧民族
であったのに対してギリシャが通称海洋民族であった証でもあります。一方
稲の来た道として江南ルートが有力です。紀元前に滅んだ越は航海の民として
著名です。稲を渡来させた彼らの子孫が倭人の先祖の一部であることは否定
し得ません。かくなる歴史背景を勘考するならば、むしろ、半島南岸が倭の
居留地でなかったというほうが、よほど困難な推論であります。
まして、半島において高句麗の騎馬民族文化を強調は、ここでは、半島南岸に
倭人居留地の存在の必然となります。世界史観もたまには必要では。
355日本@名無史さん:2005/04/28(木) 16:54:06
又有州胡在馬韓之西海中大島上
其人差短小 言語不與韓同
皆[冠髟脚兀]頭如鮮卑 但衣韋 好養牛及豬
其衣有上無下 略如裸勢乘船往來 市買韓中

韓の西の海中の大島に州故がある。

この「海中」は海の中の意味ではないの?チェジュ島ではない?
356日本@名無史さん:2005/04/28(木) 17:04:59
半島というぐらいだから、一種の海中なワケだが
357日本@名無史さん:2005/04/28(木) 17:10:31
>>344これの意味とくらべてよ
358元祖プラム:2005/04/28(木) 18:48:24
>>352
圭角さん
(到)という文字は末盧國ではなく伊都國だと思いますよ。
(到)の文字の自分なりの解釈は、今年の一月頃に『このスレ』か『終止符スレ』にカキコしましたので ひまーな時にでも見て戴けると幸いです。
359圭角:2005/04/28(木) 19:24:07
プラムさん、手元に資料を置かず記憶のみにて書いたので、失礼致したかと
恐縮に存じます。今から、しっかりと座右に致します。
354に対してのご見解はいかがでしょうか。よろしかったら、お聞かせく
ださい。プラムさんが以前に別のスレでご指摘のとおり、南北市糴つまり、
糴とは米を買い入れる意にて、壱岐対馬さらには九州の半島との交易は、
明らかと述べておられました。そのことからしても、フェニキアやギリシャ
を想えば、倭人居留地ができるのは必定と思うのですが。
360元祖プラム:2005/04/28(木) 19:49:14
圭角さん

国という認識も現在とは全く違っていたと思います。特に、半島南部⇔九州は古くからかなりの交易があったでしょうからお互いに雑居地が沢山存在していたはず
と、いう事は
時間の経過と共に文化や生活週間も必然的に、似てくるもの
行政・軍事統治『国』ではなく
人種・生活文化圏が出来上がるはずです。
他所の国の人がその様子を見たとき 同じ国と捉らえても全然ふじぎではないでしょう。
361元祖プラム:2005/04/28(木) 20:07:02
圭角さん
(今から書くカキコは妄想だから)

お互い交易年数に厚みが増すと、お互いの国の中に自分達の居留地が自然と出来ると思うんだ。

仮に、貿易港である金海の町の中に(對馬・壱岐・末盧・伊都…etc…)の商人居留地があってもいいんじゃないかな
362元祖プラム:2005/04/28(木) 20:34:58
そんな雑居居留地にも円滑に交易を遂行するために自然と自治が必要となる
その自治の自治会長が伊都国ではなかったろうか?

その伊都国自治会長の発展形が伊都国が統治する『一大率』ではないか

以上がプラムお得意の『トンデモ妄想』のほんの一部です
363元祖プラム:2005/04/28(木) 21:27:25
圭角さん、世界史の講義大変ためになりましたよ
感謝!!
世界史の知識なんか小学生に毛が生えた程度ですのでま、日本史にしたって中学生レベルですから

しかし、こんな低能アンポンタンにも一つだけ解ったことがある。
『歴史は政治家や権力者が作り出すものでなく、好奇心旺盛で貪欲な商人達が必ずその下地を創る』
364日本@名無史さん:2005/04/28(木) 22:02:58
>351
プラム、君の使う『倭人』と言う用語は『九州島』とほぼ同義だろう。
ところが、他のスレ住人にとっては、『倭の地に棲む奴ら』くらいの認識しかない。
そこらの基本的な用語の定義があいまいなまま、
それが、原因でスレが空転しているから、
古参であり、多少なりとも君の論理を承知している私が、止むを得ず解説したまでだ。
空転の初期段階で、発言者である君が説明責任を果たしていれば、
いらぬ口出しなどするつもりはないわ!
他人のレスの『見方』がおかしいのは、君のほうだろう。
違うか?
365元祖プラム:2005/04/28(木) 22:33:20
>>364
そうかもしれない。
言い出しっぺの責任は大きいかも
何とかしなければねー
でも、俺で何とかなるかナー?
366元祖プラム:2005/04/28(木) 23:04:27
>>364さん
>倭人は倭の九州島の部分
>>陳壽はなんのこだわりをも持たずに 漢書の『楽浪海中有倭人』の倭人を用いたのかもしれない
変なこだわりは、とりこし苦労かも?
真実は陳壽にしかわからない。
弁辰狗邪と狗邪韓国もそうだけど
367圭角:2005/04/29(金) 08:11:12
プラムさん、おはようございます。ご返信有難うございました。
歴史は商人がつくる、政治ではない、というご発言はまことに正鵠を射ています。
歴史は経済が先行し、政治はそのうしろにできるという認識は大変大切なものです。
361のカキコは、正しいですよ。
壱岐の原の辻の史料館にプラムさんが行かれて見ると、ご自身の説が妄想などでなく
真実だったと、確信できますよ。
船着場は、大陸系の土木技術で造られています。半島系の土器はもちろん、楽浪郡系
の土器さえ用いられていたことが解ります。衛氏朝鮮が滅亡して武帝が郡を設置した
のは、前108年のことですから、邪馬台国卑弥呼の時代まで三百年以上の歳月が、
流れています。壱岐出土の楽浪系の土器などは、要するに人の交流、つまりは楽浪と
壱岐の人の交流というより、人の交配の証です。三百年以上の年月を通しての人の、
交配交流があれば、もっと解りやすく言うなら、力のある男ならば、壱岐の本妻の外
にも半島南岸の地にも、さらに楽浪郡においてさえも、現地妻が居て当然です。無論
その逆も有ったろうことは必然です。倭人居留地や郡や半島の居留地が対馬海峡の南
北になければ不自然です。倭人伝でいうなら南北市糴の記事がその証左です。
368圭角:2005/04/29(金) 08:29:27
むろん、プラムさんの半ば冗談の一大卒自治会長説には賛同しませんよ。
ところで、別のスレにて経済史観が重要有要と重ねて主張したのですが、
みなさん、政治や記紀が優先先行するという意見が多数でしたね。
鉄器を取り上げた所以は、そこに政治に先行する経済や文化があり、その
ひとつの象徴ともいうべきモノが鉄器という私の認識なのでした。
鉄器を巡る商人や人々の活動などが歴史を創った鍵になると言いたいのです。
この時代、抽象的な政治観念の影響など微々たるものです。古代ローマでは
ないのですから。それに、政治を皆さんが歴史で語る場合、軍事というものの
認識が欠落しているから、リアリティーが無いのです。
369圭角:2005/04/29(金) 12:31:01
勉強熱心なプラムさんへ。やっと本棚の奥から、倭と倭人、についての松本清張の
論説を見つけました。謹んでお知らせします。以下、清張氏の原文です。
陳寿は南朝鮮の倭と日本列島の倭とをその混同から区別するために、倭と倭人と、
表記をかえたのだが、そのためにかえって後世の日本の史家に混乱をおこさせたのは
皮肉である。
弁辰の涜櫨国が倭と界を接す、というのも、辰韓の男女は倭に近い、というのも
韓、ワイ、倭がいっしょになって辰韓の鉄を得たというのも、南朝鮮に倭種の
住民地域があったからである。
清張通史、邪馬台国、講談社文庫、1986年3月初版
370日本@名無史さん:2005/04/29(金) 14:19:08
魏志の言う『倭』が、島国かどうか、具体的に検証しよう。
先ずは、冒頭の

 『倭人』在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。

 意訳すると、『倭人は 帶方東南の海にある国で、昔は100余国、今は30カ国と通ず』であり、
『島国』であることと、この中の『30カ国』と通好があることが解る。

次いで、路程部の

 從郡至『倭』、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里、始度一海、千餘里至對馬國。
                     〜  中略 〜
 到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。

 ここでは、目的地を『倭』としているが、具体的には『郡使往來常所駐』である伊都國までの行程に
女王國他までの路程を付加した内容となっており、ややピントの外れた文章、ここで言う『倭』が何を指すかと
言う点について異論が生じる原因となっている。

地理説明の最後が

 參問『倭地』、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。

 ここで再び、海によって隔てられた島国であることが説明されている。

つまり、倭人伝での地理感を言えば、ピンボケ気味に『從郡至倭』を除けば、『倭人』も『倭地』も洋上に存在させている。
371日本@名無史さん:2005/04/29(金) 16:52:02
対馬の古い音はトゥィスマだっけ。
対馬の人は今でもトゥシマみたいな発音?
372サガミハラハラ:2005/04/29(金) 18:01:55
古代の倭国では、国土をいくつかに分け、間(マ)とよびました。現代の家屋の客間、
板の間、土間、居間の間です。そしてそれぞれに名をつけ、中心にあたる所を屋間、現
熊本県を狗間、宮崎県と鹿児島県東部を遠間、鹿児島県西部を薩間、大分県を安間、遠
賀川流域を嘉間、福岡県の糸島の辺りを斯間、長崎県対馬を対間、半島南部を御間と
称し、中国人は間を馬という字であらわし、それぞれを屋間を邪馬、狗間を狗馬
遠間を投馬、斯間を斯馬、対間を対馬、(御間は後世任那となる)と記録したのです。
よって対馬の馬はスマやシマとは発音しません。ツシマとは津(の多い)島という意味でしょう。
373日本@名無史さん:2005/04/29(金) 18:31:41
372よ、何が言いたいんじゃ。ヨウワカラヘンで。
370も、ワカラヘンガな。
も一度、書き直してえな。頼むさかかいに。アンジョウ頼むワ。
374日本@名無史さん:2005/04/29(金) 18:46:01
だいたいやな、省略されるような文章は書かんときい。
375元祖プラム:2005/04/29(金) 18:51:15
圭角さんこんばんは
清張の本は、遅ればせながら最近購入し拝見致しました。
>>370さんのいう
『大海中の島』とは

せいぜい、對馬・壱岐辺りを指しているように感じる。
列島や九州を島として認識するには一周するか 当時の華人達が既に列島の地理的環境(せめて太平洋・日本海・東シナ海)を知っていたことになる。
>それは無いだろう。
376日本@名無史さん:2005/04/29(金) 18:54:01
サガミハラハラさんよ。
だから、いったい何なのか。
サガミハラハラ君の372の意見が当該スレの命題を解くことに、いかなる
関係があるのか。ハラハラ君、応え給えかし。
377圭角:2005/04/29(金) 18:58:52
プラムさん、こんばんわ。
少しでもお役に立てたのであれば、光栄です。わざわざのご返信有難うございます。
378370:2005/04/29(金) 19:28:21
>>375

 >せいぜい、對馬・壱岐辺りを指しているように感じる。

オイオイ・・・・
 『倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、・・・・』
 これが対馬や壱岐の説明か?

 >当時の華人達が既に列島の地理的環境(せめて太平洋・日本海・東シナ海)を知っていたことになる。

知ってたかどうかは、ともかく
 『參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。』って書いてあるだろう。

 基本資料の文意・文脈を無視して、「ように感じる」「それは無いだろう」などと
見当違いの感想だけを書くくらいなら、いっそのこと、スルーしてくれ。
379元祖プラム:2005/04/29(金) 20:00:47
>>378
別にわざわざ指摘されなくても その文は承知しているよ。
380サガミハラハラ:2005/04/29(金) 20:05:33
372は37さんへの返答です。
374さんへ
省略せずに書きこんでいきますと。とても長くなるので手短に記述しました。
376さんへ
当該スレは「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか15)ですので、倭人伝
中にある国名の馬がどのような意味をもつのかを論ずるのは、当該スレの命題を解く
上でとても重要なことであると考えます。
381日本@名無史さん:2005/04/29(金) 20:56:21
鴨禰宜、サガミハラ、プラム・・・

日本史板もずいぶんレベルが低くなったな。
過去ログと比べてみろよ、あまりの落差に涙が出るぜ。
382日本@名無史さん:2005/04/29(金) 21:02:52
『旧唐書』日本国伝

日本國者倭國之別種也以其國在日邊故以日本爲名或曰倭國自惡其名不雅改爲日本
(日本国は倭国の別種なり。その国日辺に有るをもって日本国を名とす。或いは曰う。倭国自ら、その名雅ならざるを悪み、改めて日本と為す。)

ここからが大事で、

或云日本舊小國併倭国之地
(或いは云う。日本は元小国。倭国の地を併せたり。)


 要するに倭国と日本国は別の国だと、はっきり疑う余地無くそう言っている。
しかも日本国はもともと小さな国だった。(近畿)天皇家が日本国。ところが
倭国のほうが本来の母の国だった。その倭国を併合した。当然白村江の戦いの
後です。
白村江の戦いは六二二・六二三年ですが。それから三十九年経って、
その戦いで負けた倭国を併合した。

ttp://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kouen2/j2kouen5.html
383元祖プラム:2005/04/29(金) 21:15:07
『魏書倭人』
陳壽(233〜297)編纂、ハイショウシが補注し429年に成る
女王国東渡海…参問倭地…周旋可五千餘里
この文はあくまで陳壽又はハイショウシの推測だろう。
(私見)
この文に出てくる「侏儒國・裸國・黒歯國・拘奴國(後漢書)」これら四ケ国は、先に記載された二十一国とは違い
(山海経)に見えるものをとりあげた想像国に近い

そのような疑念を持たれる文を用いて九州や列島を島国と認定できない。
384日本@名無史さん:2005/04/29(金) 21:15:34
結論ですか?
385サガミハラハラ:2005/04/29(金) 21:16:57
>381
私の書きこみがレベルが低いですって?ご冗談を。
日本上古史研究の最先端を行くものだと自負しておりますが。
386日本@名無史さん:2005/04/29(金) 21:21:48
誰か>>382へ反論してみて!
387元祖プラム:2005/04/29(金) 21:41:48
【楽浪系・韓式土器】
對馬、壱岐、北部九州に分布
【貨泉〈中国銭貨〉の分布】
北部九州>瀬戸内海沿岸・鳥取〈極貧〉
【鉄器】
北部九州>中国地方

南九州等は殆ど出土例が無い(あっても極極貧)
ようするに
貪欲な半島商人や国内商人が交易した形跡が無く
半島や北部九州の人から見れば南九州は未開の地的認識が伺える。
そのような認識状態で九州・列島倭地を島国とは記載出来ないのでは
(よって)
漢書や魏書の『海中(大海)倭人』は、對馬や壱岐辺りまで
388本田:2005/04/29(金) 21:48:11
>385 名前:サガミハラハラ :2005/04/29(金) 21:16:57
> >381
> 私の書きこみがレベルが低いですって?ご冗談を。
> 日本上古史研究の最先端を行くものだと自負しておりますが。

でも、東夷伝倭人条はシナ人がシナ語で書いているのに、
古代の日本語で解釈しようとする姿勢には疑問を感じる。
389元祖プラム:2005/04/29(金) 21:49:43
>>386


>>382だから
『邪馬台国は大和朝廷になったか?』
答えは(NO)なんだ
390本田:2005/04/29(金) 22:02:28
>>382

>「三国史記〜新羅本紀」文武王10(670)年、倭国、あらためて日本と号する。
>自ら言う。
>日出る処に近い、以て名とする。

>以後(統一新羅は)、倭を「日本」と表記した。

http://homepage3.nifty.com/kiya/sehachi/kiya342.htm
391元祖プラム:2005/04/29(金) 22:05:41
>>381

>あまりの落差に涙がでるよ

>>やっと人を感動させるカキコが出来る様になったかぁ
これからも頑張ろう
>>381
これからも応援してくださいよ!
392370:2005/04/29(金) 22:07:15
>>387

あのなぁー、対馬や壱岐が100余国に分かれているのか?
「島国とは記載出来ない」って実際に「記載」されてること否定してどうする?
単純な事実も認められないってのは、尋常な心理状態じゃなさそうだね・・・クワバラクバラ。
393サガミハラハラ:2005/04/29(金) 22:24:22
少なくとも九州は島であることは、知られていたと思います。
ついでながら、対馬は対海国(南島)と対蘇国(北島)とがありました。
対の間の意味は北島と南島の2島が対になっているようにみえるからです。
394日本@名無史さん:2005/04/29(金) 22:29:38
==[仮説]==「旧唐書」「新唐書」「三国史記〜新羅本紀」によれば、
「倭」という名は「日本」という名に改められたという。中国歴史書と
日本歴史書を合わせ読みすれば、倭の中心国である邪馬台国は「やまたいこく」と
いわれ、神武東遷の大和は「やまと」と読まれるから、「倭=邪馬台国」と
「大和」の概念は対立しない。「桓檀古記〜大震国本紀」によれば、日本は古くは
伊國といい伊勢(元伊勢か?)であって、「日本」を韓国朝鮮語の漢字読みで{일본}
irbonイルボンと発音し、また、日本を単に「日{일}irイル」と表記し、
(元)出雲いずも=(元)伊勢いせ=伊国イグ=(元)日本イルボンと推定できる。
ここで元出雲というのは、穂日系の出雲ではなく、大国主の出雲をいう。
親新羅である「出雲」は、「いずも」と読まれるが、「倭」は、中国政権に
対しては朝貢する存在であり、親百済・親呉人であるが、倭人は、新羅に
侵入する存在である。従って、古代において、「倭(わ)≧大和(やまと)と
日本=伊国=出雲=いずも」の二大勢力が形成されたが、やがて統一されて、
大倭=日本=やまとが成立したとすることができる。この場合、「旧唐書」の
最後の説は、元の日本イルボンではなく、日本(やまと)が倭国の地を併せたと
考える。==[木屋清八]==2003.4.1

http://homepage3.nifty.com/kiya/sehachi/kiya342.htm


395元祖プラム:2005/04/29(金) 22:32:02
あのなー
半島南部から北部九州付近を見れば誰でも
それだけで島国と思うだろう。
『別れて百餘国』
それは半島南部から九州北部のことだよ
何も、百ケ国あるわけじゃなく『沢山な村』があるんじゃない
396本田:2005/04/29(金) 22:32:24
>>382

>★「桓檀古記〜大震国本紀」translation ver.2(2003.4.1)
> 日本には、舊くは伊國が有り、亦、伊勢と曰い倭を與える(構成する)。
> 同じく(倭を構成する)隣の伊都國は筑紫に在り、亦、即ち日向國である。
> したがって、ここから東は倭に属す。
>  ・・・・・・伊都国に至る。乃ち磐余の古邑である。
>
>★「隋書」
> 竹斯国より以東、皆倭に附庸す。
>
http://homepage3.nifty.com/kiya/sehachi/kiya342.htm
397サガミハラハラ:2005/04/29(金) 22:42:16
分れて百余国と倭人伝の時代はかなりちがいます。
百余国は名古屋から西にあった国の数で、三十国は中国に貢献していた倭人の国々です。
九州以外の70国は九州と対立関係にあったらしく、中国に貢献できなかったようです。
当時の倭の正当な国は九州にあったのです。
398元祖プラム:2005/04/29(金) 22:54:09
>>387
余り馬鹿につっかかるなよバカが移るぞ。
399日本@名無史さん:2005/04/29(金) 22:55:38
いやー、
皆様、思いのたけを存分に書きなぐって、充実した連休をお過ごしですなあ。
400元祖プラム:2005/04/29(金) 22:58:38
>>387>>392に訂正

スマソ
401元祖プラム:2005/04/29(金) 23:43:27
『漢書』
楽浪海中有倭人分為百餘國以歳時来獻見云

倭人伝の基本文はこれだよ
これだけで『日本列島』のカキコとわかるのか?
402日本@名無史さん:2005/04/29(金) 23:54:21
我輩の分析よるとやはり九州説だな。

九州説だと日数を訂正、畿内説だ方角を訂正しなければならなくなる。

このうち方角については意図的に捏造する理由が見当たらない。 魏にとっては南だろうが東だろうがどっちでもいいはずで、そのまま南と書いたのではないか。

しかし、日数については魏の友好国である倭を大きく見せるために捏造する動機がありうる。

あと倭人が呉の末裔と名乗ったとあるが、これも捏造だろう。魏としては自分達と近い存在と書くと都合がいいわけだからな。

よく細かく分析しながらこの部分だけ、無批判的に信用して倭人がさも中国人であるような説を唱えるものがいるが、まさにこういうのは工作の一種だろう。
403日本@名無史さん:2005/04/30(土) 00:52:03
すいません、長い長い論争の経緯とかそんなの一切わからずに
ド素人の正直な疑問で考えると、邪馬台国が九州だったとして
それが後に大和朝廷になったっていう説では、なんで何百キロ
も都を移動しなければならなかったんですか?
404日本@名無史さん:2005/04/30(土) 00:58:34
新羅の存在がうざかったから
405日本@名無史さん:2005/04/30(土) 01:06:36
>>404
でも、そういう理由なら広島あたりまで移動するだけで十分じゃないかと
406日本@名無史さん:2005/04/30(土) 03:24:15
>>403
別に一切移動などしていないが何か?
407本田& ◆xOS3wf.pJg :2005/04/30(土) 04:58:02
>>403
大宰府に本拠を置く日本(旧、倭国)が、
近畿地方に本拠を置く伊国(別名、秦王国、伊勢国)と合併して、
難波の宮を本拠としたんだよ。

奈良の寺院は、大宰府付近から移築された物もあるそうです。
>法隆寺は観世音寺から移設されたとは?著者へ質問状
http://www.bigai.ne.jp/~miwa/powder/kanzeonisetu.html
408日本@名無史さん:2005/04/30(土) 06:49:48
歴史って思想でも宗教でも無くて、「調査・分析・検証」が全てだと思う。
だから、「調査・分析・検証」されているものについては「正史」としていいけど、
「調査・分析・検証」が未完であるものは「〜との説もあるが、未検証である」とすべき。
(未検証であるものを検証済であるかのようにとらえて賛美したり批判したりするのは問題外だし、
無知を曝け出している様なもの。)

現在2chで議論されているものは、「調査・分析・検証」が未完であるものが大半だと思うから、
まず「〜との説もあるが、未検証である」との前提を共有したうえで、
各々の「調査・分析」結果を提示して「相互検証」するプロセスを経ないと信頼に値する結論は出ない。

ただ、ここで問題になる事は、各々が「調査・分析」する対象の情報ソースに漏れが生じる
(又は、自説を裏付けるソースばかりを探して自説に不利となるソースを無視する)可能性が高く、
不充分な「調査・分析」結果に基づき、誤った「検証結果」を導き出しかねない事である。

不特定多数の匿名書き込みを許可している2chでは、この問題点による弊害が顕著である。
409圭角:2005/04/30(土) 08:35:02
当該スレは魏志倭人伝等を読む邪馬台国は何処ですよね。魏志倭人伝等ですから
陳寿の東夷伝さらには三国志の記述全体を読んで、邪馬台国はどこかを討論する
スレだと再認識したいと提言したいですね。
プラムさんはじめ、皆さんに申し上げたいことは、中国つまり魏や呉は日本の地理
さえ詳しく知っていました。なぜ、私がかく断定して申し上げるかの理由を書くと
呉の孫権は遼東の公孫淵にも、高句麗の位宮にもしばしば親書を送り、外交活動し
公孫淵も位宮も答礼に、呉に使節を派遣したと、陳寿が魏書にても呉書にても記述
している事実があるから、そのように言うのです。朝鮮半島の南の倭のみが、その
地理位置が中国において不明だったとは、ありえないことです。前108年に武帝
が半島南岸に真蕃郡を設置してから卑弥呼の時代までの歳月は実に350年です。
その間、倭の地理位置のみが政治的にも経済的にも、中国に知られてはいなかった
とする説は客観性を欠く見方と断ずるほかありません。
この問題に関しては、皆さんは文献記録に拘り過ぎの感じがします。
もっとも、折角ですから、この件に関して次に私の文献からの考察を述べます。

410圭角:2005/04/30(土) 08:54:57
前漢の武帝の楼船将軍が渤海湾黄海を渡り衛氏朝鮮を討滅したという記録が
ありますね。魏が公孫氏政権を倒したときの戦略も同じだったと、陳寿は
東夷伝や魏書の帝紀に記述しておりますね。その折、皆さんご承知のとおり
楽浪郡帯方郡の太守に命じられたセンウシらが、遼東の公孫淵の本拠地を
攻撃する前に船で海を渡り公孫氏の南への逃亡を予め防ぐ戦術をとっています。
その後日の様子を呉の孫権はヨウドウなるものを、半島近辺海域まで派遣して
確認偵察をさせたという陳寿の記述が呉書にもあります。呉の船団は、半島の
周辺海域航行を頻繁に行ったという記述が呉書にある訳ですよ。
しからば、倭に呉よりも至近の魏においてをや、ということになるのです。
411本田:2005/04/30(土) 09:08:49
>>408 名前:日本@名無史さん :2005/04/30(土) 06:49:48
> 歴史って思想でも宗教でも無くて、「調査・分析・検証」が全てだと思う。
> だから、「調査・分析・検証」されているものについては「正史」としていいけど、
> 「調査・分析・検証」が未完であるものは「〜との説もあるが、未検証である」とすべき。

この意見は「正史」の意味を理解していないと思います。
正史とは時の権力者が焚書などを用いて押し付けた歴史解釈で、
正しいから正史になったわけではない。

だから正史に対になる言葉は卑史であり、偽史じゃない。
412日本@名無史さん:2005/04/30(土) 09:14:09
>>410
話の途中なら申し訳ないが、
要するに三国志で記述される『倭』というものは、対馬から先のことでよいわけでしょう。
『倭』は、絶海の地にあり、半島南端部(狗邪韓国)は、『倭』の領域に含められていない。
倭人伝は、そう言う地理観の元に記述されていることは、認めていただいてわけだ。
413鹿島昇:2005/04/30(土) 09:25:43
>>411
あなたが好きなのは「偽書」でしょう。
それは、正史に「抹殺」された敗者の歴史(卑史・秘史)でもなんでもない、
遥か後世の人が、自己の思想的、政治的、経済的な満足を得るために捏造した「歴史」、
限りなく、フィクションやファンタジーに近いもので、記述対象の時代検証に使えるものではない。
414本田:2005/04/30(土) 10:30:52
>>413
偽書についての私の見解。
以前のスレッドで書いた物をまたのせます。

> 偽書とは、その出自(成立時期や著者)を偽っているものでしょう。
>その事実をもって明確に線は引けます。

> ただし、偽書がその出自を偽るのは、多くの場合、
>正当性を欠く記述内容の権威付けが目的です。
>つまり、その作者にとって都合の悪い先行資料が存在し、
>それを否定する手段として対立する資料を作る。

「魏志倭人伝」は偽書。
「三国志 魏書 東夷伝 倭人条」が先行資料。

「日本書紀」は偽書。
舎人親王が養老4年(720年)に作った「日本記」が先行資料。
415圭角:2005/04/30(土) 10:41:07
412さん。倭人伝の文言表現形容にとらわれ過ぎだと思います。恐縮です。
質問に応えます。狗邪韓国は倭の領域です。
このことについては、わたしがプラムさんとの昨日一昨日のスレをご覧下さい。
その上でなおかつ、とおっしゃるのであれば、再々度説明しましょう。
恐縮とは存じますが、スレの浪費はしたくないし、直近のスレですから。
416鹿島昇:2005/04/30(土) 10:42:00
>>414

 もう少し、踏み込んだ見解を述べていただかないと何を主張したいのかわかりませんね。
417412:2005/04/30(土) 10:56:05
>415
私が主張しているのは中国側が「狗邪韓国」を「倭」の領域として認識・記述していたか否かです。
レスのやり取りを見ると、倭人の居留地があっただろうと言う、お二人の感想はあっても
絶海の地と形容される倭地に半島南端部の狗邪韓国が含まれていてかまわない理由は述べられて
いないと思います。
418:2005/04/30(土) 11:22:36
>>414
その先行資料というのは偽書でないのか、あるのか?
419本田:2005/04/30(土) 11:41:41
>>417
「到」を到着する。
「至」を経由する。
と読んでください。
>魏志倭人伝
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
420本田& ◆xOS3wf.pJg :2005/04/30(土) 11:53:23
>>418
「三国志 魏書 東夷伝 倭人条」と「日本記」には、
更なる先行資料らしき資料はないので偽書じゃないと思います。

だだ内容が正確か否かは不明です。
421417:2005/04/30(土) 12:16:07
>419
今は、あなたに確認を求めているわけじゃないが、>419は何を言いたいのかわからない。

ついでに、言うが
>420等であなたの言う「先行資料」の意味もわからない・・・
422:2005/04/30(土) 12:58:53
>>420
「内容が不正確の書」と「偽書」とは全然別物か?
423圭角 :2005/04/30(土) 13:31:10
412さんのご質問にお応えしたいと存じます。少し長くなるかもしれませんが。
むろん、眼光紙背を徹すという倭人伝の読み方はよいことです。倭人伝の一言一句
を厳格に厳密に読み込むという姿勢を高く評価し、尊重敬服するものであります。
しかし、歴史背景に注意を払うという姿勢も大切ですよね。つまり、倭人伝の東夷伝
における位置付け、さらには魏書三十巻の最終条としての位置付けを、いかに捉える
かという問題が浮上します。
さて、絶海という文言でありますが、よく似た言葉として東夷伝の序文に絶域という
文言が見えます。倭人伝には絶海の外にも絶在なる文言があります。さらには明帝の
詔勅文においても、汝がある所はるかに遠きも、と陳寿は記しています。
陳寿が絶域、絶海、絶在、汝あるところ遥かに遠きと記した理由を考えてください。
答えは言うまでもなく明らかと存じ上げます。
424圭角:2005/04/30(土) 13:45:34
412さん、これでは答えになっていないと思われるかもしれませんので
陳寿の東夷伝の序文を追加しておきます。
東夷諸国は、司馬イの公孫氏討伐の後、魏に服属するようになったと記して
います。ここに三国志の真意があります。ちなみに、三国志には司馬イは、
たびたび登場しますが、彼から殺された公孫淵伝はありますが司馬イ伝は
ありません。陳寿が三国志を著したのは無論その後です。
なぞなぞの答えみたいで恐縮ですが、あとは企業秘密にさせてください。
425412:2005/04/30(土) 14:27:05
>423-424
倭人伝の記述において、狗邪韓国は単なる経由地として扱われて、
けっして倭の領域には含まれていないことは、認めていただけたものと理解します。
426本田:2005/04/30(土) 14:27:44
>>422 名前:太 :2005/04/30(土) 12:58:53
> >>420
> 「内容が不正確の書」と「偽書」とは全然別物か?

タイムマシンが発明されるまでは、
現代人は古代の正確な知識は得ることは出来ないのだから、
正確か否かの議論は決着はつかないのだから、
決着がつきそうな基準で議論した方がいいと思う。
427本田:2005/04/30(土) 14:38:11
>>421 :417:2005/04/30(土) 12:16:07
> >419
> 今は、あなたに確認を求めているわけじゃないが、>419は何を言いたいのかわからない。

ああそうですか。

>
> ついでに、言うが
> >420等であなたの言う「先行資料」の意味もわからない・・・

>>414
も読んでください、
414は前のスレッドか前の前のスレッドに書き込んだ内容の一部だから、
そのスレッドを読んだほうが理解し易いかも。
428417:2005/04/30(土) 15:19:10
>>427
 「420等」と書いてるのだから、当然ながら>>414も含めての話だ。
 ついでに言うと>>414であなたが引用しているのは私のレスだよ。
 だから、前スレの状況も承知してるさ。

 あなたが「偽書」という「倭人伝」と「三国志の倭人条」がどう違うのか?
 皆目見当がつきませんね。
429本田:2005/04/30(土) 15:28:00
>>428
タイトルが違います。
ポイントは東夷とゆう言葉が入っているか否かです。
430圭角:2005/04/30(土) 15:28:30
412さんが勝手にそう理解されるのはまったくご自由で当方の関知する所
ではありませんが、狗邪韓国が倭の領域であることは、すでに重ねてカキコ
しましたので、あえて述べることはありませんが、412さん、ネームを
用いられませんか。スレを読むにも書くにも答えるにも便利ですよ。
431日本@名無史さん:2005/04/30(土) 15:29:45
東夷伝 弁辰

弁辰は辰韓と雜居し、また城郭あり。衣服・居處辰韓と同じ。
言語・法俗相似る、鬼神を祠祭するに異あり、
竃を施(もう)けるに皆戸西(家の西)にあり。その[シ賣]廬國倭と界を接す。
十二國また王あり、その人形皆大。衣服は潔清にして、髮長し。
また広幅細布を作る。法俗特に嚴峻。

弁辰のトクロ国が倭と(地上で)国境を接する。
しかしこれでは句邪韓国が倭の地であると読めないのでは?
432日本@名無史さん:2005/04/30(土) 15:32:48
弁辰彌烏邪馬國が倭の領土では?
433日本@名無史さん:2005/04/30(土) 15:33:37
じゃなかった。弁辰の南にあった倭人地域では?
434本田:2005/04/30(土) 15:40:26
>>431
私は、句邪韓国は九州北岸と、おそらく朝鮮半島南岸にまたがった国だと考えてます。
435日本@名無史さん:2005/04/30(土) 15:44:27
もし弁辰彌烏邪馬国が倭人の地域だとしたら、
倭人の地なのに弁辰という国名?をつけている。
辰韓と弁辰は習俗風習はほぼおなじ。言語も似ている。
しかし宗教的な理由で分かれてしまった。その分かれた地に倭人もはいる。
ということは倭人もその宗教(法がきびしい)を信仰していた?
だったら本土倭人もその宗教を信仰していて、殺人を犯したら一家を滅ぼすってのも弁辰の宗教かも。
神道が弁辰の宗教かもね
436412:2005/04/30(土) 15:49:52
>>430
・・・お聞きしてるのは、あなたが狗邪韓国を倭の領域と認める根拠じゃないんでよ。
倭人伝では、陳壽は、狗邪韓国を倭の領域として認識していると、あなたが読むのか否かと言うことです。
あなたの説明では、それがイエスなのかノーなのか全く解らないのですよ。
それもイエスと言うことであるなら、漢文読解の議論になりますが、興味が無いなら引き下がります。
ただ、狗邪韓国の帰属は、30ヶ国問題に影響する話なので、多少拘ってみました。
現時点では、お答えいただけない事項なのだと理解しました。
437圭角:2005/04/30(土) 15:52:14
陳寿は弁辰涜櫨国に接した倭種の居住地域を倭とし、日本列島を倭人と題名
して、両者の混同を避け、区別を明瞭にした。そして、倭人の名が、陳寿の
尊敬する漢書から転用された。
と、あえてもう一度だけ書きました。これ、学術論文では通説なんですけど、
皆さんのご議論に意外な発見もあるかもしれないと期待して見ています。
438412:2005/04/30(土) 16:45:36
>437
 「陳寿は弁辰涜櫨国に接した倭種の居住地域を倭とし」

たびたび絡んで申し訳ないですが(w
あなたの言う「倭」は、「弁辰涜櫨国に接した倭種の居住地域」だけですか?
つまり、半島の南端部だけの地域?それとも九州島他の地も合わせた名称ですか?
レスの流れから判断するに後者を意味すると思いますので、その理解で話を進めます。

 あなたの主張に従って一部を記号化して倭人伝を読むとこうなります。
 A=倭(狗邪+九州島他)
 AのB=倭人(九州島他)
 C=帶方郡
 D=邪馬壹(女王)國

 AのBは、Cの東南の大海の中に在り、山島に依って國邑を為す。
 当時百餘國、漢の時朝見する者有り、今使譯の通ずる所は三十國である。
 CよりAに至るには、海岸に従い水行し、韓國を経て、或は南或は東し七千餘里、其の北岸狗邪韓國に到る。

 Dの東、海を渡って千餘里、復國有り、皆A種。
 又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。
 參問A地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。

文の書き出しは、倭の一部の記載で、後は全体の標記で統一されていて、冒頭部の不自然さが顕著ですね。
「倭人」を「AのB」などとしなければ、もっとすっきりした文章になるのですよ。
これは、陳壽の認識する「倭」が、対馬以遠だからではないのでしょうかね?
439元祖プラム:2005/04/30(土) 17:10:14
>>438
そもそも、そんなにハッキリと区別しなければならないのか?
当時、半島南部から九州にかけての地域に境界線なんかハッキリと区別されていたの?
440417:2005/04/30(土) 17:53:51
>429
もう少し、はっきりと表現していただかないとわかりませんよ。
特に説明がなければ、「倭人伝」とは、「三国志魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳」の
「倭人在帶方東南大海之中」で始まる一文の通称です。
あなたが説明しなければならないことは、それとは違う解釈なんでしょう?
その説明が無いから「わからない」わけですよ。
441日本@名無史さん:2005/04/30(土) 18:37:51
>439
さてと、どうでしょうかねー。
丁度、海が有るから、そこを境に区分してんじゃないんでしょうか?
442元祖プラム:2005/04/30(土) 19:33:06
地勢的に倭の境界を示した文は漢伝の『トクロと倭の接界』だけで、それ以降倭人伝に入っても
地勢的境界を示す文は記載されない。

すくなくとも陳壽の認識としての『倭』は
半島南部の『トクロ国と接界』から對馬→壱岐→列島と、断定してもよさそう。『倭人』とは
あくまで漢書の流れ
443412:2005/04/30(土) 21:20:59
>442
地勢的に倭の境界を表した文は、倭人伝にもありますよね。
何度も説明しているのでご理解くださいな。
で、あなたの言う地勢説明ですが・・・

『界』と言う文字は、元々は見てのとおり田の境を表すものでしたが、
仕切りや国境を表すのにも用いられるようになりました。

つまり、「トクロと倭の接界」とは、国境を接すると言う意味です。
あなたは、国境と言うと陸上の線しか思い浮かばないようですが、
世界には多様な国境があります。
山でも川でも国境になりますが、海や砂漠も国境になります。
トクロと倭の間には国境としての海があり、トクロの倭への出航地であるなら、
界を接すると言うことは、別に特別な表現ではありませんよ。
444元祖プラム:2005/04/30(土) 21:26:33
圭角さん
自分なりに半島南部から始まる『倭領域』の経済的境界線を引いてみました。

倭A経済地域(半島南部〜對馬)

倭B経済地域(壱岐〜九州北部)
あえて對馬と壱岐の間にボーダーラインを引いてみました。
いかがでしょう。
理由は後ほど
445日本@名無史さん:2005/04/30(土) 21:41:55
>>443
韓伝
「韓は東西を海をもって限りとなし、南は倭と接する」

つまり馬・辰韓は東西は海にはさまれてるが、南は海をもっていない。
つまり陸で国境を接するということ。
そうでなければ、「韓は東西南を海をもって限りとなす」となるはず
446日本@名無史さん:2005/04/30(土) 21:43:56
447元祖プラム:2005/04/30(土) 21:45:30
韓と倭の境界線は当時も今も変わらず朝鮮海峡に有りと>>443は、言いたいんだね。
それって(政治・軍事的)?それとも 単なる地勢的?文中引用?
448日本@名無史さん:2005/04/30(土) 21:57:12
倭の半島の領土ってのは狗邪韓国で確実なのか?
もしくはそれひとつだけなのか?
狗邪国の邪は邪馬O国のイニシャルをつけたもの?
弁辰安邪國。彌烏邪馬國はちがうの?
449412:2005/04/30(土) 22:21:46
>>447
韓の東西を隔てる海には、他の国へ向かうべく航路が無いんですよ。
だから、海を持って限りを為す、しかし、南には航路が開けているのです。
東南アジアや西域では、海や砂漠を通して各国は接していることになります。
ちなみに、舊唐書の南蠻傳にはこんな例もあります。

 訶陵國(ジャワ)は、南方海中の洲に在り、東を婆利(バリ)、西を墮婆登(スマトラ)、
 北を眞臘(カンボジア)接し,南は大海に臨む。

中国語では、南シナ海航路を通じてジャワとカンボジアは接しているわけです。
そして、その南のインド洋には航路が無いので海を臨むしかないのです。
450元祖プラム:2005/04/30(土) 22:22:43
>>444理由
半島〜北部九州にかけて(鉄・楽浪土器・漢鏡・貨銭…)等は、線引き出来ないほど満遍なく流通しています。
しかし、唯一食糧だけは両島共に半島や九州と違い食糧を求め『乗船南北市糴』しています。
対馬は北の半島へ糧を求め壱岐は南の九州へ糧を求めそれぞれ食を満たしています。
對馬は南、壱岐は北へ糧を求めても、お互い余裕なき島
対馬は半島、壱岐は九州と交易断絶無きように努力したと考えられます。
451412:2005/04/30(土) 22:33:20
>>443 >>447
念のために申し上げるが、
私は、半島南端部に倭人の勢力が全く無いなどと言っているわけではない。
単に、当時の中国側の地理観が、どうであったのかと言う話をしている。
疑念・反論があるのなら、その点を明確にしていただきたい。
452412:2005/04/30(土) 23:03:30
>>448
「狗邪韓國」には、ご親切にも「韓」と言う文字がついてるね。
弁辰安邪國、彌烏邪馬國なんかは、韓伝に出てくる国名なんだけど話が飛躍しすぎてないかい?
字面が「倭風」であることは、注目するべき点だろうけどな。
453元祖プラム:2005/04/30(土) 23:11:19
陳壽も、倭人伝文中に

對馬と一支の間に『瀚海』という言葉を入れ、両国を分けようとする思惑が見える。
朝鮮海峡・対馬海峡・(一支⇔末盧)皆水行千餘里なのに何故、対馬海峡だけ『瀚海』の文字が?

生活文化圏の境界線ともとれる一文だ
454元祖プラム:2005/04/30(土) 23:17:02
>>452
では何故
韓伝の時陳壽は『弁辰狗邪』を使用し、倭人伝には『狗邪韓国』を使用したのかご説明下さい。
455元祖プラム:2005/04/30(土) 23:36:16
>>450の補足
時代が下がって16世紀後半秀吉が朝鮮出兵の時、対馬の宗氏を先方に使い
それ以降しばらくの間半島との交易が途絶えたことがあり 当時も自活出来ない対馬では半島から食糧を供給出来ずにかなりの餓死者を出しと記録に残っている内容を
どこかの資料で見たことがある
456412:2005/04/30(土) 23:46:45
>>454
倭人伝では、韓人國であることを、韓伝では弁辰系であることを強調してるんでしょう。
他に理由がありますか?

ところで、あなた・・・
>>442で「すくなくとも陳壽の認識としての『倭』は半島南部の『トクロ国と接界』から
對馬→壱岐→列島と、断定してもよさそう。
とか言ってますが、

>>383では、「女王国東渡海…参問倭地…周旋可五千餘里」
この文はあくまで陳壽又はハイショウシの推測だろう。
と言ってますね。
刊本での裴松之注は、明確に識別されるのでこの部分は正しく陳壽の推量です。

「絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」と陳壽が推量していることを認めた数時間後に
陳壽の認識としての『倭』は半島南部の『トクロ国と接界』から對馬→壱岐→列島と、断定してもよさそうと、
何の矛盾も無く主張するのは、余りにも無神経の極みですね。
457元祖プラム:2005/05/01(日) 05:33:02
>>456
貴方にとっては数時間かもしれないけど
私にとっては何ヶ月

ピンポイントで捉らえると数時間と思われてもしかたがないけれども…
ハイショウシについてカキコしたのはまったくの初めて。
トクロ接界は私のモチベーション
458元祖プラム:2005/05/01(日) 05:50:38
まぁ
それにしても時々みかけるが、『…は、底抜けのバカ』『究極の…』『…の極み』『狂ってる』とか
よくもまぁ 平気でそのような言葉使えるよ
どうせ十代か二十代のアンちゃんだろうが
学校で何教えてもらったんだろう。
つい最近の異常な犯罪見ても、どうしてこのような犯罪起きるのか理解出来そうだ
459本田:2005/05/01(日) 10:05:24
>>440 :417:2005/04/30(土) 17:53:51
> >429
> もう少し、はっきりと表現していただかないとわかりませんよ。
> 特に説明がなければ、「倭人伝」とは、「三国志魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳」の
> 「倭人在帶方東南大海之中」で始まる一文の通称です。
> あなたが説明しなければならないことは、それとは違う解釈なんでしょう?
> その説明が無いから「わからない」わけですよ。

文章の解釈は、ほとんど関係ありません、ほとんどタイトルだけの問題です。
東夷とか南蛮とゆう言葉は元々、中華思想を信じる人が使う差別用語ですから。
とはいえ南蛮は料理用語にもなってるけど。

知らなかったんですか?
そういえば私が東夷の意味を知ったのは、
高校の世界史の授業だったような気きがする。
私は高校生の時には日本史は選択しなかった。
日本史の授業ではでは差別用語は教えてもらえないのかな?
そういえば士農工商エ▲非■も教えてもらえないな。
460440:2005/05/01(日) 10:35:41
>>459
おいおい、
その理屈だと古典資料を通称名で呼ぶだけで、「先行資料」と「偽書」に別かれちまうってことかい?
いや、特殊な御見解ですな。
しかし、一般人には想像もつかない「先行資料」と「偽書」の用法ですなあ。
あなたが、今後、他人と簡便かつ正確なコミュニケーションを持ちたいと考えるときは、
もう少し丹念な説明をした方がいいでしょうね。
461圭角:2005/05/01(日) 10:51:48
プラムさんの最近の論調は良いですね。経済歴史観アプローチは正解と思います。
ところで、最近の皆さんのスレは、語弊があるかもしれませぬが、倭人伝の本質から
遠いと思い眺めさせていただいています。はなはだご無礼とは存じます。
と、申しますのは、東夷伝も帝紀にも多数、御伽噺や寓話の類はたくさん記してある
からです。無論、皆さんの真剣な一字一句の解析を無視するものではないですが。
462圭角:2005/05/01(日) 11:09:23
それを、あらためて確認する意味で書かせてください。
まず、東夷伝の序文に
老人の話では不思議な顔つきの人種が東の太陽が昇る所の近くにいる。
東沃ソ伝
老人が言った。この国の者が船に乗っていて東方の島に漂着した。
そこは、女ばかりで男のいない国だった。うなじの横にもうひとつ顔があり
ふたつの顔が首のうえにある人もいる国だった。
こんな御伽噺を陳寿は東夷伝に記しています。小生の申すところを信じ難い
と思われる方は、確認の意味で読み直してください。
みなさんが、いま、こだわって討論なされている倭人伝は、かくなる記事も
ある東夷伝の一節であるというご認識に立ってのことでありましょうか。
プラムさんに限らず、その点におけるご見解を賜りたく、述べた次第です。
463圭角:2005/05/01(日) 11:21:57
そもそも、倭人伝自体におきましても、矛盾点はたくさん有ります。
たとえば、陳寿が
今、使訳通ずる所三十国、と記していますね。その一方では
その余の傍国は遠絶にして得て詳らかにすべからず、と記しています。
このように並記していることは、事実としては両立しません。
その理由は、帯方郡庁にてその余の傍国の使者と接見応接した役人が、その
余の傍国の使者通訳を通じて、それぞれの傍国の戸数や里程を、尋ねなかった
はずもありませんでしょう。
464圭角:2005/05/01(日) 11:26:58
みなさんは、かくなる東夷伝、かくなる倭人伝というご認識のもとにあって
倭人伝の字句文言のご解釈を、なされているものとは存じますが、念のため
一度はみなさんにお尋ねしてみたかったのです。エラソウナ知ったかぶりして
まことにスミマセン。拝。
465本田:2005/05/01(日) 11:29:47
>>460 名前:440 :2005/05/01(日) 10:35:41
> >>459
> おいおい、
> その理屈だと古典資料を通称名で呼ぶだけで、
> 「先行資料」と「偽書」に別かれちまうってことかい?

そこまで一般的には考えてません。
だた中華思想においては、東夷が在るか無いかは重要です。
東夷が無いと作者が中華思想の持ち主だとゆう情報が欠落すると思います。
466456:2005/05/01(日) 11:39:57
>>457-458
学校で何を教えてもらったのか解らないのはあなたのようですが。
その場、その場で都合よく○を×といったり△といったり・・・
その言い訳が「私にとっては何ヶ月」などと意味不明なつぶやきでしょう。
その挙句に相手をガキ呼ばわりですか・・・・言葉が無いですなあ。

まあ、これだけだと罵倒合戦に成り下がりますので、少しは身のある話を。

あなたが、倭人の領域を半島南端部にまで広げて考えることは、さほど大胆な意見ではないです。
私もあなたほどでは無いですが、倭人の根拠地は有ったと思いますよ。
しかし、何度も言いますが、ただ、それをもって漢文の読み方を変えてしまうのは如何かと思います。
三国志は、中国人が書いた文章、中国人の史観・地理観で成り立っています。
これは、これで立派な資料ですので尊重していただきたいのです。

陳壽が狗邪韓國を倭に属すと考えるなら、倭地を称して絶海の地などと書かないでしょう。
地理説明部を何ヶ月かかって書き上げたかは知りようもありませんが、
わずかに十数行前に書いた「狗邪」を倭だと認識していれば、段落末に到ってそれを忘却したような
ことは書きません、陳壽は2Chネラーとは違うのですよ。

「倭人」の解釈についても同じです。
冒頭部で大まかな位地説明として帯方東南の大海の中を示したまま、次のセンテンスでそれをも包括
するような地域の詳細説明に入ると言う読み方は、読者である当時の中国人にも不可能でしょう。

よって、私は狗邪韓國は陳壽の言う倭に含まれず、中国の考える倭の地は対馬以南の島嶼部のみと考えます。
しからば、倭人伝の狗邪韓國は、弁辰伝の弁辰狗邪だと考えるのが妥当でしょう。
その地で、倭人がどういう立場にあったかとについては意見がわかれるところでしょうが、弁辰伝によれば諸国に
は王が居たことになっています。
馬韓伝では、諸国には魏の率善邑君、歸義侯、中郎將、都尉、伯長等の官に任じられたものがおり、辰韓は辰王
の影響下にあったことと比べると若干は独立性の高い地域だったとは言えます。
467日本@名無史さん:2005/05/01(日) 12:36:52
「弁辰狗邪国=狗邪韓国」なわけで、ここは種族としては弁韓の一国
であることは明白なわけで、倭じゃないだろ、どうしたって。

ただ、韓の諸国に倭が影響力を行使していたことを否定するものではない。
それは百済が馬韓に、帯方郡や楽浪郡が三韓に影響力を行使したのと同じ。
だからって百済一国=馬韓すべてではないし、まして諸韓国=中国でもないわけで。
狗邪国をむりやり倭だと言い張る論理的な必要性はない。
468日本@名無史さん:2005/05/01(日) 12:57:47
伽耶はどうなるの?
伽耶=任那は倭人地だよね
469日本@名無史さん:2005/05/01(日) 13:03:19
>468
伽耶=倭人地って、どうやって検証したの?
470日本@名無史さん:2005/05/01(日) 13:20:10
伽耶諸国=弁韓諸国じゃん。
倭の勢力圏ではあっても、すんでるのは倭人より韓人の方が多いだろ。
471本田:2005/05/01(日) 13:22:42
>>462
私は、その御伽噺は知りませんでした。

でも、どうせ古代のことはタイムマシンが発明されるまでは、
正確なことは不明だと思っているので、
今までも無知を省みず気楽に書き込みをしてました。
472日本@名無史さん:2005/05/01(日) 13:26:38
好太王碑文と七支刀銘文くらい読んだことないの。レベル低いですよ。
それからさあ。純粋な学問討論のみにしてよ。
さっきから見てるとさ、なんかイデオロギーとアレルギー感じるな。
倭人もしくは倭の領域の内か外かという狗邪韓国の話見てそう思う。
邪馬台国はどこ、てスレ。ここは。
まして、魏志倭人伝の読み方でもない。
等を読んで、邪馬台国はどこ、てのがこのスレ。
も、飽きたよ。狗邪韓国の倭のウチソトの議論。
みんな、自説ばかりの強調の繰り返しでさ。ヘキエキしてゲップ出そう。
473日本@名無史さん:2005/05/01(日) 13:39:01
在日が歴史捏造をやれば当然それに対する反撃がある。古代朝鮮を日本が支配していたのは明白だからな。自業自得だ。

それが嫌なら捏造カキコを自粛することだな。
474圭角:2005/05/01(日) 13:44:05
本田さんのさっそくのご返信、有難うございます。
昔から倭人伝といえば、かつての古田武彦氏を代表として、倭人伝は一言一句全て
正しいと、喧喧諤諤イノチガケで言う人々がたくさん居たものでした。私は以前
読んだ本に、倭人伝は東夷伝の諸条と鋭く比較照準して読むべし、とありましたので
倭人伝は、あくまで東夷伝の一部、東夷伝は魏書の巻末最終伝という見地こそ大切と
思いながら読むことを基本姿勢にしております。
そうすると、それまでと違うものも見えてくるような光を思います。
大げさな言い回しで、申し訳ないです。恐縮です。
475圭角:2005/05/01(日) 13:53:53
本田さんへ。
私だって、勿論、無知な古代史が単に好きだという者に過ぎません。
下手の横好き、とは私のためにあるような言葉です。
しかし、こうして皆さんとお話していると、共鳴同感できる方々も幾人も
いらっしゃいますので、それを楽しみに参加させてもらっている者です。
476日本@名無史さん:2005/05/01(日) 14:38:25
>倭人伝は東夷伝の諸条と鋭く比較照準して読むべし、とありましたので
>倭人伝は、あくまで東夷伝の一部、東夷伝は魏書の巻末最終伝という見地こそ大切

それは古田武彦もいってたよ。まぁもれは九州王朝派ではないし古田には懐疑的だが
時々いいこともいっているし、部分的には当たってることもいっているね。
大枠の歴史観や史料の扱いがダメだが、細かいことでは関心することもたまにある。
477412:2005/05/01(日) 14:56:25
>>462
私も三国志の記述が全て正しいなどとは思っていません。
伝世過程での誤写もありますし、もともとが、陳壽なり晋朝なりの史観に基ずく以上、
そこに書かれていることと、他の資料が矛盾することは当然でしょう。
しかし、その資料的価値をあいまいにするためなのか、どうかは知りませんが、
夷人の古老から伝聞と明確に理のある民俗伝承の紹介記事をもちだして、
文章読解、漢文法の話とすり替えるような態度を見せられるのは至極残念なことであります。
478日本@名無史さん:2005/05/01(日) 16:12:56
海峡間交易の話が出ているので、少しだけネタ振り。

弥生期を通しての交易拠点なら、第一は壱岐の原の辻遺跡でしょう。
ここに、楽浪系・三韓系・北九州系に加えて畿内や出雲系の土器類が集まっていたことから
かなりの規模の交易センターがあったことを示しています。

現在のところ、対馬では壱岐に匹敵するような遺跡は発見されていません。
これは、倭人伝での人口規模(千戸と三千戸)にも見られるように、大きな勢力は存在しなかった
からかもしれません。

ちなみの、同時代の半島側では勒島というところに大きな拠点があったことわかっています。
しかし、どちらの拠点も三世紀中は隆盛を終え、代わって倭国側では福岡・西新や河内・久宝寺に
大きな交易拠点が登場します。
479圭角:2005/05/01(日) 16:34:46
陳寿なりの史観、晋朝なりの史観というものは次のようなものと私は解しています。
晋王朝の成立過程は歴代王朝のうちでも暗く陰険悪辣なものでした。
前漢、後漢、魏の過去三大王朝は動乱を武力で平定することで天下の支配権を握った
が、晋の場合は、司馬イより子の師へ、師より弟の昭へ、昭より炎へと、自己の
反対勢力を駆逐排除しつつ権力掌握して炎が帝位につきました。
陳寿はその晋朝にあって、政権簒奪の状況を書いたものです。事実をすべてありのまま
書くことは不可能なことは言うまでもありません。
かくなる状況下においての陳寿の記述の文章の読解である、というのが私の主張したい
本来のことです。一字一句を判じ物をするかのような文章読解には、自分があまり
馴染めないからかもしれません。ただ、それは普遍性のある話では勿論ありません。
小生をして、文章読解及び漢文法の話とすりかえるような態度とおっしゃったので
書いたまでです。
ところで、お尋ねしたいですが、漢文には漢文法というものがあるのですか。
漢文においては、文法なる概念はきわめて希薄であると聞き及んでおりますが。
ご教示賜りますならば幸甚の次第です。

480圭角:2005/05/01(日) 16:51:25
倭人の謎といえば、邪馬台国への里程記事が通り相場ですが、私には別の
巨大な謎があります。
それは、親魏倭王の称号賜与記事が、倭人伝に陳寿が記している理由です。
称号賜与記事は詔勅記事ですから、本来は帝紀に記すべきものです。
親魏大月氏王波調の称号賜与記事は当然に帝紀に陳寿は記しています。
小生が申し上げたいことは、読み解く、ということにおいてならば
ナントカ国の所在地の位置論も無論けっこうですが、御伽噺を交えた東夷伝
においてをや、というのが正直な自分の感想だと述べているに過ぎません。
以上、476さんと477さんへ。冒頭に忘れました。恐縮です。
481日本@名無史さん:2005/05/01(日) 20:07:18
このハゲ親父。
いろいろ御託を並べ立てているが、
早い話が、私は漢文が読めませんって
認めたくないだけだな。
海中の意味も知らんかったからなあ。
482元祖プラム:2005/05/01(日) 20:45:02
>>466さん
別に私としても『罵りあい』をするつもりはありません。
前スレで非礼な発言があったことは失言とし、
訂正並びにお詫びと致します。
漢文の正確な読み方も、逸脱してしまうことも多々あると思います。
そのような時は、これからもご指摘されることを
望みます。
483日本@名無史さん:2005/05/01(日) 21:07:00
あのさあ。
お伽噺そのものがまるで史実であるかのように書いたあったら
そりゃ三国志もこんなもんかって思うだろうけど、実際はそうじゃないぞ。
三国志がいってるのは
「○○の地には『・・・・』というお話が伝わってるよ」
ってことだから、むしろ学問的じゃん。民俗学的な記録ともいえるわけだろ。
484日本@名無史さん:2005/05/01(日) 22:32:41
夏休みや春休み、そしてこの時期、
1700年もの間、誰も読み解くことのできなかった倭人伝の謎を
解明しちまう奴が多いんだよなあ。
まあ、いつものことだけどね。
485本田& ◆xOS3wf.pJg :2005/05/01(日) 23:44:23
>>474
いえ、こちらこそ、よろしくお願いします。
486本田:2005/05/01(日) 23:51:58
>>478
> ちなみの、 同時代の半島側では勒島というところに大きな拠点があったことわかっています。
>しかし、どちらの拠点も三世紀中は隆盛を終え、
>代わって倭国側では福岡・西新や河内・久宝寺に大きな交易拠点が登場します。

倭の大乱の影響なのかな?
朝鮮半島ー>九州ー>近畿と、倭人の玉突き現象が起こった。
487日本@名無史さん:2005/05/01(日) 23:59:50
句邪がカヤで安邪が安羅国?
488本田& ◆xOS3wf.pJg :2005/05/02(月) 00:04:15
>>479

> ところで、お尋ねしたいですが、漢文には漢文法というものがあるのですか。
>漢文においては、文法なる概念はきわめて希薄であると聞き及んでおりますが。
>ご教示賜りますならば幸甚の次第です。

ついでに、もし仮に漢文法があったとしても、
科挙に合格したような教養のある人が書いた、
正史の読解には役立つかもしれないけど、
はたして卑史の読解には役立つのかな?
489元祖プラム:2005/05/02(月) 01:01:00
>>478さんの壱岐原の辻遺跡について私なりに検証してみたい。

正にこのことが、前回カキコした壱岐は九州と南北に市糴した証拠
食糧不足を補う為九州から穀物類を輸入した、その時の器類が(出雲式・畿内式・九州式各土器)ではなかったか?
ただ、出雲や畿内式を使用していたからといって、出雲や畿内と直接交易があった話とは全く別問題
(前にもカキコしたが、鉄と違い土器は国益に直接関与なきフリーマーケット状態品物)
490元祖プラム:2005/05/02(月) 01:21:22
>>489 続き
では、それら輸入品に対して九州側に支払われた対価は何か?
それが北の対馬より運ばれてきた半島から伝わりし珍品ではなかったか?
(鉄・青銅・その他)
半島系土器に入っていた物品等も

楽浪系土器が北部九州辺りにしか余り広がりを見せないのも、対価商品価値としての品物では無く単なる器的価値と壱岐の輸入相手が北部九州だけで、こと足りた証拠

原の辻遺跡が特別な交易センターという訳では無く、地理的要因が成し得た特殊な環境。

間違いがありましたら、どなたか補足並びに訂正願います。
491元祖プラム:2005/05/02(月) 01:40:13
對馬と壱岐の遺跡の大きさの違いは何か?

半島は對馬(九州側)から何を輸入したいのか?
これは、どうしても輸入したい物品はあまり無い
しかし九州側は、北(半島)より輸入したい物が多々ある。
その違いでしょう

需要と供給の必要絶対量が對馬→半島が少し細くなった事による現象かと考えます。
492日本@名無史さん:2005/05/02(月) 08:02:35
原の辻の性格ですが、正しく交易センターと呼ぶのが的確かと。
壱岐自体には、これと言った輸出商品がありません。
単に地理的特性から、南北双方から商人が集まり、著名な市場として成長したのでしょう。
地理的特性と言うのを検証するのは、難しいのですが・・・
思いつくところでは、準構造船しか持たない倭側からすれば、
(北側でも韓人商人なら同じですが)対馬海流を越えなくともよい場所、
山陰、北陸、西九州、琉球方面からのアクセスも良い、
玄海の盟主伊都に近く、安全保障上有利。などでしょうか。
南から北への交易品は、真珠や貝製装飾品、翡翠などの貴石類、
あとは、やはり「人」でしょうかね、持たざるものの唯一の商品、
悲しいことですが、これは、昔も今も変わらぬ現実でしょう。
493圭角::2005/05/02(月) 08:39:37
プラムさんの、土器はフリーマーケット状態品物というご発言は活目に値する貴重
重要なものとして評価します。マキムク遺跡の最大の特徴は土器とされています。
マキムクには多方面からの土器が集合して出土していますので、大和政権の所在を
示す考古学証拠という説者は多数います。
しかし、土器というものは、その時代時代を移す文化の所産として捉えるべきです。
特定の土器を、政治的なものに直結させ、その使用流行が政治勢力の支配服属関係に
直結させるという考え方は、間違っていると常々から思っておりました。
494元祖プラム:2005/05/02(月) 08:41:57
少し話は飛びますが
九州北部の没落、それに代わり(瀬戸内海・畿内)の進出を、交易面で見ていくと
【旧ルート】
半島⇔對馬⇔壱岐⇔九州北部(フィルター)→各地

【新ルート】
半島⇔(對馬・壱岐)⇔(瀬戸内海・畿内)

ようするに、造船技術・航海技術の進歩による従来の旧ルートを通らず新ルート(バイパス)の開通
今も昔もやってることに大差なく(バイパスが出来れば旧道沿いの商店街は寂れる現象)
その一点が基本になり、自然と九州衰退<瀬戸・畿内の活性化の形が出来上がる。
半島・国内の政治・軍事事情は二の次
495元祖プラム:2005/05/02(月) 08:56:05
圭角さん。
おはようございます。
早朝より嬉しいカキコ感謝します。

以前より『プラムの考古学音痴・考古学無視』と、蔑まれしことへの
十分なホローになりました。
以前より土器の取扱について
年代測定に関してプラスと考えていましたが
それを、政治の前面に押し立てての歴史考証はきわめて危険な行為と考えていましたので
いざスレの流れが考古学優先になるとROMりを、決め込んでました。
496圭角:2005/05/02(月) 09:03:50
倭人伝等を読むというこのスレにおきましては、プラムさんも以前、魏書の
三少帝紀における卑弥呼の初見初出記事を掲示しておられましたことに関し
発言します。
みなさんのご承知のとおり、卑弥呼も倭も、魏書三十巻のいわば冒頭とも、
いうべき第四巻に陳寿はすでに記しております。
つまり、陳寿は魏書の最終巻の最終条に倭人伝を立てていますので、日本の
現代の読者においては、勘違いさせかねない構成となっていることに、注意
すべきだと思います。
つまり、正史の中の正史ともいうべき帝紀に卑弥呼も倭も、陳寿が記している
ということは、魏においては、倭も卑弥呼も相当に当時の読書人階級において
周知されていたものだと強調したいのです。
497圭角:2005/05/02(月) 09:07:07
プラムさんの新ルートに関しまして。
私は、この点につき宗像に非常に注目しています。
498元祖プラム:2005/05/02(月) 09:28:17
圭角さんの>>496の内容については、自分的に改めて視点を変え検証しなくてはいけませんね。
>>497の宗像については
以前から自分も注目(別の意味で)していた場所なので興味深いです。
@半島⇔對馬⇔(沖の島)⇔宗像
A半島⇔對馬⇔宗像
B半島⇔對馬⇔壱岐⇔宗像
このような新バイパスが考えられますがいかがでしょう。
499圭角:2005/05/02(月) 09:35:09
宗像は、地図を開くと明らかですが、多少半島状になり玄海灘に突き出て
います。よく知られている半島への古代航路の基点です。よく知られている
と申しますのは、海の正倉院という形容や宗像三姫神や宗像海人という意です。
当地は関門海峡にも近傍しています。つまり、関門を宗像が封鎖すれば、
瀬戸内の船は半島への経路を絶たれますし、壱岐対馬の船が瀬戸内へ入るのも
困難になります。
そしてまた、地図をよく見ると壱岐から半島への距離と宗像から半島までの
距離はほとんど差異はありません。地理位置で宗像は優位しています。
宗像の後背地は稲作好適といってよく、先行した壱岐対馬を宗像が追いつき
凌駕駆逐した推論も考古学事実から論証できます。
記憶に頼って書き恐縮ですが、壱岐の環濠集落遺跡は四世紀半ば頃から衰退
している一方で、宗像や関門に近い所では割と規模の大きい古墳が作造される
時期と重なっている故に、よけいにそう思えるのです。いかがでしょうか。
500圭角:2005/05/02(月) 09:43:51
プラムさんへ。
私も地図を開いて今あらためて見ております。
直接、宗像から半島へというのは、いかがでしょうか。
記紀に詳しい方からイイトコドリだと批判されそうですが、神話の上でも
アマテラスの子が宗像の姫神とされているのも、示唆するものを感じます。
501元祖プラム:2005/05/02(月) 14:11:42
圭角さん
半島⇔宗像(神湊)直接航路となると、かなり航海技術の進歩を前提に置かなければなりませんが?

所で、倭人伝に記載ある各国間の里程ですがすべて同じ時系列の元に作成された内容でしょうかね。
前からかなり気になっていたことなので
502圭角:2005/05/02(月) 14:53:05
実は自分もそのことが気になりましたので、古代日本の航海術、という本を
読み返しておりました。その本に拠ると、当時は計測器がないので陸地を、
見ながらの航行であったけれど、視達距離というのだそうですが、壱岐対馬
の山であれば、100キロメートル離れていても見えるのだそうです。
ちなみに近視の小生ですが、友人の船から、海にあってはかなり遠くのものが
見えることに驚いたことがあります。
もっとも、プラムさんの言うとおり対馬海流の横押しを勘案すれば、一度は
対馬の西岸へと経由したとするが自然とは思います。
ところで、その著者によると古代の航海術は一般に考えられている水準より
私には高く映りました。ちなみに、終戦を知らずにフィリピンから脱出して
屋久島へとカヌーで帰還した日本兵軍曹が実在していると読みました。
503圭角:2005/05/02(月) 15:14:26
プラムさんの里程の話ですが、これに言及すると紙幅の不足は明らかです。
諸説他説の比較論及はスレにては困難と思いますが、あえてプラムさんには
申しますと、自分は里程誇張説を支持しています。理由は陳寿の正史三国志
を通しての記述姿勢です。その記述姿勢とは、司馬イのことを陳寿が記す時
魏書では勿論、呉書、蜀書においても司馬イに対しては、司馬宣王もしくは
大宣王もしくは宣王と尊称していることです。司馬イは三国志に幾度となく
重ねて繰り返し頻繁に登場します。一度それを全部調べたことがあります。
例外は魏書に二回、蜀書に二回あるのみです。さらに、司馬イは晋帝室の祖
でありながら、在ってもよさそうな司馬イ伝を陳寿は立てていません。
これは、邪馬台国の里程並びにその余の傍国及び狗奴国の里程に関しての
私見の根拠です。プラムさんからご意見をいただいてから又返信します。
504元祖プラム:2005/05/02(月) 15:34:30
成る程。
やはり誇張アリキという前提にたち読み進めた方がよいみたいですね。
ただ、方位に関しては手心加えて云々…と、したところで意味がありませんので記載を尊重したい所です。
航海のことですが
半島から日本に行くには、多少未熟さがあっても海流の関係上、日本の何処かには辿り着けますが
日本から半島に向かうには並大抵な航海技術では辿り着けないと思います。
505元祖プラム:2005/05/02(月) 16:24:04
新ルートの表玄関を宗像とした場合
入船はそれで構わないけれども、出船に関してはまだ直接半島に向かう訳にはいきません。
秀吉の朝鮮出兵のときも名護屋に前線基地を設け
効率よく進めています
当時としたら尚更、宗像を出港し最初出来るかぎり海流の影響を受けない沿岸を西に進み
呼子辺りから壱岐→對馬→半島と、するルートではないでしょうか?
ただし、宗像→呼子と沿岸を進む為
宗像〜呼子の沿岸を同一国又はかなり親密な同盟国としなければこのルートも地図の上での夢物語になってしまいます。
大変重要事項と考えます。
506日本@名無史さん:2005/05/02(月) 17:41:33
「石田光成倭人伝」
507圭角:2005/05/02(月) 20:00:46
プラムさんへ。
宗像呼子の沿岸を同一国又は親密な同盟国としなければ、というご意見に対し私の
卑見偏見を述べさせてくださいませ。宗像は、本来は胸肩という語源らしくあります。
陳寿の記事の韓伝におきましての胸肩の文身を想起致す次第です。さてプラムさんは
何処にお住まいか存じませんが、一度宗像大社を見て見られるのは面白いと思います。
高宮という社いや場所があり、そこには、いっさい社殿というものは無いのです。
大神神社と共通するものを感じます。さて、宗像大社社務所は、アマテラスの三柱の
姫神を筑紫の国に降らせた折のことを、次のとおり訳し書いています。
汝三神、宜しく道中に降り居まして、天孫、歴代天皇を助け奉るとともに、歴代天皇から
厚いお祭りを受けられよ。そして、その道中とは、宗像地方より朝鮮半島に向かう
海路と明記しています。記紀を読む場合の姿勢が批判的であるべきとは存じますが、
天孫の天津神が最初に降臨して国津神になったという点と、天武天皇の後宮にその
一族の娘が入ったり、宗像に降嫁した皇族がいたという記録伝承が、ますます興味を
引き付けるのです。しかも、宗像は関門を押さえる要衝の地なのです。つまり、私は
大和の方から先に宗像に媚びたと解釈しています。長々と恐縮でした。これこそを
申し上げたかったのです。
508元祖プラム:2005/05/02(月) 23:27:56
以前、壱岐から九州上陸にさいし
倭人伝の記載に末盧に至に方角指定が無く距離のみについて 目的は宗像、
ただし交易に関しては、いくつかのルートがあるためにあえて方位指定がされないのであるとカキコして散々罵倒されました。
宗像という土地柄じたい神の領域であったのでしょうか?
509圭角:2005/05/03(火) 07:27:32
宗像大社は現在交通の神様として崇められていますが、もともとは、朝鮮半島への
海路の要衝を掌握していた国もしくは勢力地であっただろうと思います。
卑弥呼の死後は、壱岐対馬が以前にまして交易活動に活躍したと思われますが、
大和はそうそういつまでも壱岐対馬の利権を放置するはずもなく、次第に宗像に
その地位役割が移っていたと私は考えています。
プラムさんのおっしゃるとおり、交易ルートなどは本来特定して考えるべき性質の
ものでないことは、イネの渡来ルートや、人の交流渡来ルートがさまざまであった
ことと同じく考えてよいのではないでしょうか。倭人伝の郡から伊都国への里程や
経路においても、春夏秋冬、風向きは異なるわけですから、陳寿が記している経路
のみに限定するのは、不自然だし、不合理と考える次第です。
私の友人は船と海に詳しいのですが、季節によって、今でも多少の航路変更はある
と言っております。私が文献忠実でないのかもしれませんが、常に郡使の倭への
航行経路が一定不変と考えるべきではないと思います。
510元祖プラム:2005/05/03(火) 08:37:15
圭角さん、おはようございます。
半島⇔九州間の交易はその目的によりさまざまなルートがあるでしょう
済州島を経由し壱岐や對馬に向かうルートも考えられ(倭人伝)のルートのみを重視する必要性は無いと思われます。
(半島南岸の全ての港)⇔〈済州島・對馬・壱岐・沖の島経由〉⇔九州北部の全ての港)
これが正式な交易ルートでしょう

そんなふうに倭人伝を見ていくと、余り逸脱せず違った風景を白いキャンパスに描く事も可能かと思います。
圭角さんが先日(帝紀云々)の見解も、やはり白いキャンパスに新しい絵を描く材料かと
511圭角:2005/05/03(火) 08:43:15
そもそも特に現代現在の日本人は魏志倭人伝をまるで聖典を読むかのような
姿勢の人が多いのも、問題ですよ。陳寿は、晋帝室の祖の司馬イ顕彰をその
基調としている訳です。この視点視座をもっと重要視すべきと考えます。
そうすれば、そこから見えてくるものは多々あると思います。三国志の一節
にしか過ぎないという倭人伝の読み方の姿勢こそが、もっと論議されてしかる
べきかと考えます。たとえば、三国志も正史ですから魏を正統して陳寿は記し
ていますから、魏の曹操が大敗した赤壁の戦いなんか、たったの一行です。
さすれば、倭人伝にしたところで同じ政治的配慮は相当に大量になされている
として当然の見方かと考えます。陳寿の死亡年次は297年。陳寿が三国志の
著述開始が280年頃とされています。八王の乱なんて勿論書けない。晋の
史官ですから当然です。卑弥呼朝貢は司馬イの武功と当時の読書人は一様に
知っています。晋帝室と当時の読書人を対象とした三国志であり倭人伝です。
さすれば作為誇張等などがなければ、むしろ不自然です。私は、その意味で
倭人伝の些末な疑問点を倭人伝の謎という風潮が不思議なのです。
ご反論ご反問は謹んでお受けします。いかがでしょうか。
512圭角:2005/05/03(火) 09:01:33
プラムさん、おはようございます。プラムさんのおっしゃるとおりで、
少なくとも、少なくとも、半島南岸の全ての港と九州北部の全ての港と考えて
自然であり当然であると思いますし、かつまたそうかんがえなくてはならぬと
思います。
私自身はもっと敷衍してもよいと思っています。少なくとも、西日本の日本海
瀬戸内海に面したクニもしくは人々であれば、鉄器その他を求めて壱岐対馬、
さらには半島へ渡海したとても全く無理はないですよ。吉野カ里を初めとして
当時の集落遺跡はそのほとんどが、川沿いに船着き場が有ります。倭人とは、
陳寿も記すとおり漁労海洋民族の色彩が濃いです。海の道、というものに対し
もっと巨きく見る視点は大切です。当時は海だと強調したいですね。
513元祖プラム:2005/05/03(火) 09:02:21
成る程
政治的な作為アリキで作られた可能性は濃いですね。
私もそろそろ『魏書』を????…を、付けながら見ていく時期がきたようです。
しかし、交易という商人レベル感覚から歴史を捉らえて行くと、色々な政治的な思惑に振り回されずに 真実に近づけそうなのでしばらくは、この姿勢を通して行きたいと思います。
(PS)
私は、茨城に住んでいます
514本田:2005/05/03(火) 09:26:45
515圭角:2005/05/03(火) 09:43:56
本田さんアドレス有難うございました。プラムさんが茨城であればなおのこと
本田さんの情報提供は有益有用ですよ。ぜひともますごらんになることを勧め
ます。プラムさんは茨城ですか。石原道博先生のお膝元ですね。私は九州です。
狗奴国に住んでいます。博多に仕事とかで行きます折は、古代史に関心をもち
はじめてからというもの、地形や地勢や風景に目を凝らすようになりました。
おふたりについでで恐縮ながら申し上げます。
県境にある筑肥山地はさほど高い山地ではないですが、厚い山塊と形容できます。
それから、大牟田ので筑肥山地が連続している実感を抱きます。地図帳で見る
感じと実際はずいぶんと違うことをお知らせしたく思いまして。

516日本@名無史さん:2005/05/03(火) 18:07:06
やっとサーバ
正常になったみたい
517元祖プラム:2005/05/03(火) 19:23:48
やっと正常化し、ホッとしています。
何時もながら本田氏の資料提供感謝します。

沖の島ですが(倭人伝)行程においては完全に無視状態。
祭祀遺物が四世紀ということで新ルートとして重要視されています。
しかし、遺物が四世紀ということは少なくてもそれより一〜二世紀ぐらいは遡れるでしょう
かなり古くから注目アリキ島であるからこそ、絶海の孤島に神を奉ったのではないでしょうか?
司祭を始めたのが四世紀であり、船の臨時待避地としての役割はかなり古くから存在していたとしても、けして妄想ではないでしょう。
518圭角:2005/05/04(水) 13:08:56
プラムさん。
魏書の明帝紀にいわゆる交易に関する記事がありますので、ご参考までに。
当時、明帝は公孫淵討伐に腐心していたときの記事です。明帝の言だと記憶します。
孫権の配下の周賀という者が百艘の船を連ねて、遼水という川の渡し場に滞留して
公孫氏の領民と交易をしていたので、明帝が憤激したという陳寿の記述です。
魏と呉と遼東と高句麗の通交記事を読みますと、いとも容易にスイスイと行き来している
様子が見てとれます。ならば、楽浪郡帯方郡の郡使の船は頻繁に倭に来航していますし
邪馬台国や諸国の船も頻繁に郡に使いしたと記してありますから、仮に中国の航海術が
倭より優れていたなら、倭人は習得し、郡の人々も教示したことと考えます。
519元祖プラム:2005/05/04(水) 14:45:09
圭角さん関東は雲一つ無いいい天気ですよ。

先ほど貴方のカキコを見て少し視点を変えて考えて見ようと思いました。
航海技術はともかく、造船技術は大陸側に少し遅れをとっていたでしょう。
理由は、地勢的に日常長距離航行を必要としない倭ではやはり遅れをとるのはやむおえないことかと
520元祖プラム:2005/05/04(水) 14:55:06
ここで一つ考えなければならない事は
半島又は大陸の人達に航海技術や造船技術を習得したからといって
それが即、列島諸国の航海・造船技術の発展には繋がらなかったとしなければならないでしょう。
航海・造船技術は、鉄と同様 国益に直接結び付くもの
この先は一商人交易に留まらず軍事に関わる トップシークレットだからです。
521日本@名無史さん:2005/05/04(水) 16:30:00
>520
船舶技術がトップシークレットだったかどうかは別にして
総合判断では 中国 > 韓・倭 の状態だったでしょう。

ただし、古代中国では「南船北馬」と言いますが、
主要な運搬手段を華北平原では馬、長江流域では船に頼っていました。
魏やその前の漢は、馬文化圏の国なんですね。
ですから、最新技術を輸入したくても、相手方にも事情があったのでしょう。

過去スレ等で、「何度も」結論がでていますが、
当時の倭人が主力として利用した船は、準構造船(丸木舟に補強材を張り合わせたもの)
ヴィジュアル的には下のようなものです。

 ttp://www.bell.jp/pancho/travel/oumi/images/history-20.jpg  弥生後期の象形埴輪
 ttp://www004.upp.so-net.ne.jp/dhistory/qs_09_23.jpg     池上・曽根遺跡高殿壁面

弥生初期の遺跡でも、実際に遺物が相当数発掘されています。
米作文化を担った人々は、このような船ではるばる韓國や長江流域からやってきたわけです。
この後も技術的には、さほど変化も無く、白村江の時代でも一艘当り30人くらいの輸送能力しか
無かったようです。

ですので、海峡間交易といっても、専門の商船団を有するような集団がいたわけでは無く、
沿岸の漁労民が操る船を利用して、定期的に産物を持ち寄る私貿易や「海賊」が中心です。
これと異なる国と国同士の通好の場合は、倭人伝に書かれているとおりの大イベントだったのでしょう。

ちなみに、中国側の船は、構造船もあり、それなりの輸送力もあるのですが、
これは、未だ平底船で、船足は鈍く、操作性も悪いため、外洋航海では風任せ的な船です。
沿岸航路ならともかく、対馬海流を横断するには、かなりの時間を要するもので、
主力は、やはり人力中心の準構造船だったのかもしれません。

 ttp://www.antiques-oota.com/photo/c01-kodai/ck-034.jpg  後漢代の舟形陶器
522元祖プラム:2005/05/04(水) 16:37:32
半島や大陸の人達が九州北部の人達に、航海・造船技術を伝えたとするならば、それはすなわち、余程の間柄と捉らえても何の不思議はないでしょう。

好奇心旺盛で新し物好きな国内諸国、そんな人々に『鉄器・船』が 徐々に広まりを見せる背景には
旧ソ連が崩壊し
その混乱に情事 軍関係者や武器商人達が、(中東諸国・アフリカその他)へ旧ソ連軍事品を横流ししたことへ
時代背景をダブらせる事は私の勝手な妄想でしょうか?
523元祖プラム:2005/05/04(水) 17:00:44
少しオーバーな表現でカキコしましたが、今の所大筋的に>>521さんのスレに異義はありません。

先に圭角さんが言われた 大陸の人達は海を嫌い内陸にその帝都を造る習性があるみたいです
そんな人達が、海の中に住む倭の国と関係を持つとき航海技術を持つ郡にその交渉を一任したとする考えは間違いでしょうか?
524シ賣盧國:2005/05/05(木) 03:09:07
韓伝で「倭」に接す、と書かれているシ賣盧(トクロ)の比定について。
倭人伝と異なり、各国の相対的位置情報の記載が無い韓伝の中で唯一の例外がこの国です。
韓国では大きく分けて二説に別れます。

第一が「巨済(コジェ)島」説、韓国南岸諸島最大の島です。
古くからチョン・ヤギョン等が主張する説で、その南端は位置的に対馬にもっとも近い処です。
考古資料はこれと言ったものがありませんが、文献では近世でも島の別名として「シ賣盧」が
用いられているものがあるそうです。
島を横から見た形状が韓国女性が着用する「裳」に似ており、その現地方言(トロギ)を音写した
ものではないかと思われるのだそうです。

次が「東莱(トンネ)」説、洛東江東岸の釜山付近です。
イ・ピョンドや日本の那珂通世が唱えた説です。
考古的には、巨済島よりは、倭系遺物の出土も多いのですが、沿岸にある「多大浦」の音借では
ないか、と言うことが主たる論拠らしいです。
ここを「シ賣盧」だとすると、洛東江西岸の金海を「狗邪韓國」とする「狗邪韓倭人国」説の方には、
たいへん魅力的な説でもあります。

考古的にもっとも倭系遺物の出土が多いのは、洛東江よりもっと西の泗川市付近の遺跡群です。
洛東には少ない楽浪土器も多く、沿岸交通の主要拠点でもあります。
また、海峡横断航路の出発地としては、対馬海流の存在を考えれば、適地なのではないでしょうか。
帯方郡使の渡海ルートとしてもこの辺りから巨済島南端をかすめ、対馬西岸に至る経路が地図上
では、合理的に思えます。金海から洛東江の離岸流に乗るのも有効なのかもしれませんが・・・
525本田:2005/05/05(木) 06:18:04
>■ 「西都原式の準構造船」見つかる 全国初
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/200411/news1103.html
>5>古代船再現へ苦闘 04.04.29
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/daiou/daiou/daiou01/daiou040429.htm
526圭角 :2005/05/05(木) 11:35:26
当時の倭の船が準構造船であるという通説に、わたしはあえて疑問を抱いています。
あくまでも私の推論で恐縮ですが、57年の倭奴国、107年の倭国王師升の漢への
朝貢の歴史を振り返った時、三世紀の船が準構造船でなくてはならない必然はないと
思うのです。まして師升の朝貢のときには多数の生口を伴ったとあります。
師升の朝貢が漢のお膳立てによるものとしても、卑弥呼の時代は頻繁に郡と往来しています。
その折に倭人が郡の造船技術を学び持ち帰らぬはずはなかろう、と思うのです。
プラムさんの御説のとおり、造船技術がトップシークレットとするならば、よけいに
倭人たちはその技術を盗み見る欲望に駆られなかった、とは考え難いのです。
幕末のことを持ち出して真に恐縮ですが、ペリーの黒船を伝聞でしか知らぬ宇和島藩と
薩摩藩の大工の棟梁が大村益次郎らとともに建造して海に浮かべた事実があります。
そのようなモノ作りの血が日本人倭人に流れているとするなら、構造船の建造は困難
ではなかったかもしれないと推測します。
527日本@名無史さん:2005/05/05(木) 14:11:55
>>526
中国の船舶技術は、外洋航海に長けたフェニキア、アラビアやバイキング等と違い、
長江流域の河川地帯で発達しています。
船底は、平底で河川運行に向いた、いわゆるジャンク船です。
鋭角的な竜骨構造をもつ外洋型とは堅牢さに違いがあります。
海峡横断に使うにはリスクが高く、大型船が乗り入れられる河川も無い倭地には、
もともと不向きな船だったので輸入されなかったのでしょう。
運送量で劣る準構造船ですが、幸い倭には良質な杉材が古代より豊富にあり、
比較的に大きな準構造船が安価に作れる環境でもありました。
日本で竜骨構造の外洋船が作られるのは8世紀以降でしょうか。
528元祖プラム:2005/05/05(木) 14:21:12
>>521さんの申される通り九州北部の多くの一般船は主に準構造船であったと考えます。
しかし圭角さんの申される通り最新造船技術を取り入れた船も用意され、朝貢等の特別な時に使用し倭の見栄張用として使用したのではないでしょうか?
郡では抜目ない倭に対し
以前より驚異を覚えたことが後の空白の150年(最新技術の漏洩防止)のきっかけになったと考えるのは少し
飛躍しすぎでしょうか?
529元祖プラム:2005/05/05(木) 14:40:10
>>527さん
物作りとは
ある一定レベルの基本的作業をクリアーすると その先の技術は手本がなくても作り手の想像力次第で無限大に応用技術が進歩することは
物作りに携わる我が身の実体験として一言申し上げる次第です。
学問としては根拠なき説であるため戯言として聞き流してください。
530日本@名無史さん:2005/05/05(木) 14:49:57
>>528 「驚異を覚えたことが後の空白の150年」

いや、倭人の脅威を覚える前に、313年には晋は北方系諸族の乱入で華北・楽浪から追い出されてしまう。
倭のと通好が再開されるのは、華北平定の目安がついた、100年後のこと。

その間、中国による冊封体制が崩れた朝鮮半島では、鉄の安定供給等を目指して、
高句麗・百済・新羅を中心に緊迫した情勢が続く。
広開土王碑文などで、倭が朝鮮半島に進出したといわれる時期でもある。
531日本@名無史さん:2005/05/06(金) 00:10:17
>。529
平底の中国船なんか、外洋じゃ危険だし、瀬戸内航路でも利用価値は無いね。
大きな船で風待ちに何週間もかけるより、小船で漕いでいった方が経済的だ。
どんなに技術的に優れていても需要が無ければ話にならんだろう。
532圭角:2005/05/06(金) 08:47:02
引き続き船につきまして。
陳寿の明帝が遼東半島の公孫淵を討つとき、黄海を渡海させて、二人の新太守に命じて
まずは、本拠地の襄平を攻める前に、楽浪郡と帯方郡に上陸させ接収平定したと、
記しています。そのことは、東夷伝の記事ですからご承知のことと思います。
さて、そのとき明帝は、その戦略を実行する前の段階で、幽洲ほか四州にて、
大々的に海船を建造せよと詔勅を下したと、陳寿は明帝紀に記述しております。
したがって、恐縮ですが531さんの平底の外洋では危険な中国船というイメージとは
異なる私大なのです。繰り返して恐縮ですが、陳寿は、単に船という記述ではなく
あえて海船と形容記述しています。軍事戦略遂行においての船が、しかも、大々的に
建造せよとの詔勅を受けて建造されたと、帝紀に明記してある船が、外洋において
危険なものだとは考え難いのです。プラムさんの謂う所の交易商人経済と同様に
軍事においての考察方法は、リアルな点において大切と考える次第です。
533圭角:2005/05/06(金) 09:05:03
引き続き船につきまして
漢の武帝が渡海して朝鮮を討った史実がありますね。
そのときは、楼船将軍揚僕将軍を渡海させて朝鮮を討ったと記録されています。
さて、注意を払うべきは、楼船という言葉です。広辞苑には
楼船とは楼のある船、とあります。
楼とは、高く構えた二階建ての意とされていのす。するとこのような船が
すでに、前漢の時代にあったということになります。
さすれば、それから三百年以上も時代の下ったのが、この時代です。
あくまで、私見ですが、いかがでしょうか。



534圭角:2005/05/06(金) 15:23:54
プラムさん、最近は、大和朝廷になったのかスレにご出張なさっているようですね。
引き続き船の話で恐縮です。このスレの皆様にもかく存じ上げる次第です。
呉書の陳寿の記事で当時の船に関して注目に値すると思われる記事があります。
もし、呉書がお手元にあれば幸いですが、232年の記事です。公孫淵が遼東から
呉の孫権に豹馬を献ず、という記事がありますね。これに対して孫権は、将兵万人を
して還らしめ、金銀財貨などを、海に乗じて公孫淵に授けしむ、と記しています。
更にその翌年、周賀らを遣わし、海に乗じて遼東に之かしむ、と記しています。
この記事から、馬や多数の兵士らが呉と遼東半島をスイスイホイホイ往来している
様子と当時の船の規模性能が推定され得ると思うのですが、いかがでしょう。
535元祖プラム:2005/05/06(金) 17:20:15
圭角さん。こんにちは
今日から会社出勤だったためにスレに参加できませんでした。
夜、落ち着いた時
圭角さんや住人さんのレスを拝読し、時間が許せば又参加したいと思っています。
又、目先の視点を変える意味で、時々よそのスレにお邪魔しています。
すると自分の考えの幼さに改めて気が付く事が多々あります。
536元祖プラム:2005/05/06(金) 21:45:57
大陸及び半島から輸入される品々は主に北部九州に集中しており その他の地域では九州(フィルター)を通しての流入が伺え
莫大な利益が北部九州に転がりこんだと読み取れます。でーもー????
一方畿内では国内相手の薄利交易
しかし母体集落が弱小集落を経済的に吸収し、小規模⇒中期模⇒大規模共同体へとその規模を着実に拡大し常に国内マーケティングの中心になり着実に利鞘を稼いできた
537元祖プラム:2005/05/06(金) 22:15:28
時間的ズレはあるもののお互い利鞘を稼いだ
東西(九州北部・畿内)二大商業文化圏 しかしその後の両者は、北部九州は衰退し、畿内は大和王権が確立され繁栄を見せる。
なぜか?????

この二大経済文化圏の経済動向を探る事が
古代史を知る基礎的な第一歩だと考えます。
538元祖プラム:2005/05/06(金) 23:59:16
何故九州北部が衰退し畿内が繁栄したかは
端的に言うと

九州北部地域に内部環境リスクがあったにせよ、殿様商売と堅実商売の違いじゃないかな?

圭角さんが(東征又は東遷)や半島からの渡来人支配を、どのように扱うかは知るよしもないけど
私はこう考えます。

東征や遷は記紀の中だけのお話で 渡来人も実権を握るまでには至らず
539圭角:2005/05/07(土) 13:26:19
プラムさん、こんにちわ。プラムさんがマーケティングという言葉を使われるとは
意外でしたが嬉しいです。いわゆる経済観というものが現在までの古代史考察には
決定的に不足していると、自分は見ております。古代史の嫌いな友人にその理由を
尋ねてみますと、リアリティーが無いからというのが大半です。リアリティー主義
と言って過言でない司馬遼太郎氏の著作に、卑弥呼や邪馬台国や記紀を題材にした
ものが皆無であることも同じ理由によるものかと思います。
学部で申しますと、文学部日本史古代史学科から一番遠いと解されている学部が、
経済学部や商学部的思考の考察ではなかろうかと、私は思っておる次第です。
かつまた、史学科出身の方には政治、文化論に偏りがちな傾向があります。むしろ
換言するなら古代史にマーケティングを持ち出すなどと聞いただけで、まちがいなく
彼らは驚愕仰天することでしょうね。私が鉄器を重視する所以は、古代史にリアルを
以って論じたいからなのです。商品学、経済学等などの側面からの視界から照射する
古代史を私は期待しています。
540日本@名無史さん:2005/05/07(土) 13:27:15
鉄をかいして物々交換してたのにマーケティング?
541圭角:2005/05/07(土) 13:37:32
マーケティングの意は、市場活動ですから、物々交換も立派なマーケティングと、
どこの大学においても、昔から講義されておりますよ。むろん、商品の販売や
サービスの促進活動という意味でも用いますが、市場活動はマーケティングの
学問範疇に該当することは言うのでもありません。したがって
540さんの、鉄を介してのバーターも勿論、マーケティングであります。
542圭角:2005/05/07(土) 13:48:41
さて、プラムさん。古代史にもうひとつのリアリティーを与える視座が軍事
だと思います。記紀重視論者や騎馬民族説論者の各所説においてリアリティーが
乏しいとの感想を抱く理由でもあります。
音読するにも舌がもつれそうなミコトやヒメの名前を、大量に羅列併記しても
説得力は感じられないのです。騎馬民族説を立証するのであれば、軍事上での
半島から日本列島への、いわゆる兵站の説明なしにはリアルのかけらもすら
生まれては来ません。無論少なくとも私にはということですが。
543圭角:2005/05/07(土) 14:00:53
プラムさんへ。
私は、東征説及び東遷説はとりません。
東遷説をとるなら、壱与らの多数大量の人々の北部九州から畿内への移動が
前提となりますから、当然に、まとまった人々の移動はモノの大量の移動を
ともなっているはずです。
ところが、三世紀の中葉、半ば過ぎにおいての畿内は相変わらず、
鉄においては飢餓状態であるという考古学事実から東遷説は支持し得ないと
私は思料している次第です。
交易の他にこの時代には重要な視点の存在を思いますが、いずれ後日と
楽しみにさせていただいております。これからもよろしく。
544日本@名無史さん:2005/05/07(土) 14:31:11
きっと、ジャックのことだね。
545元祖プラム:2005/05/07(土) 17:59:01
圭角さんこんにちは

軍事については今勉強途中でカキコ出来るほどの知識がありませんので、レスを拝読し頷くことしか出来ません。

日本史を学ぶときは経済学を十分理解しなければいけないと自負しております。
546元祖プラム:2005/05/07(土) 18:17:22
>>540さんが、マーケットについて???と、疑問を持たれているので

1730年大阪堂島において米の先物取引が始まるまで、日本(世界?)では物々交換しか存在しませんでした(非近代マーケット)
一対一で全ての需要と供給が満たされるのであればそこにはマーケットは存在しませんが
多種多様又は大量な物品が取引されるとき必ずそこにマーケットが自然に生まれます。
しかし、1730年以降摩訶不思議な取引により、物品を扱う事なく利鞘を得る
近代マーケットが誕生します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E5%93%81%E5%85%88%E7%89%A9
547圭角:2005/05/07(土) 18:42:28
プラムさん、こんばんわ。
大和朝廷になったのか、のスレを見た感想と自らの見方を書きます。
東征説、東遷説、渡来人征服説の三つが主流のようですね。         
この2ちゃんねるには、畿内説の方は少なく、情熱的な九州説者が圧倒的に
多いんだなーとあらためて感心しています。無論、自分も九州説ですが。
その九州説にとっての弱点痛点は、記紀がヤマトを起源と伝承していること、
前方後円墳における畿内の優位性にあると存じます。
そこで、九州説者の論拠が、東遷説や渡来人征服説にならざるを得なくなる
ものと私は解釈しております。畿内説者から前方後円墳を持ち出されると、
明確な反論根拠を持たぬ限り、そしてまた、五世紀の畿内政権を想起する限り、
その反論はいきおい東遷説、渡来人征服説に向かわなければ、考古学史料とも
記紀の伝承とも不整合性を調整修正するがための論法としか、私には映らぬ次第
です。つまり、それらの説者論者にも本当は疑義が有るというのが正直なところと
思い眺めています。
548圭角:2005/05/07(土) 18:56:15
なれどそのような、つまり無理な東遷説渡来人征服説などを持ち出さずとも
九州説の基に、三世紀後半以降の畿内ヤマトの隆盛と狗奴国を含めた九州の
衰退を論証すれば、足りるものと考えますが、いかがでしょうか。
まずは、本来は自説を展開して他説を批判非難すべくとは存じますが、小生も
このチャンネルの雰囲気に少し馴染んだせいか、不本意ながら、まずは、
他説の批判から先述致します。

549元祖プラム:2005/05/07(土) 19:14:31
圭角さんその通りだと思います。
私も九州説ですが、今の所比定地問題よりも当時の経済事情の方に興味が向いてます。
考古学にしろ文献資料にせよ未だ半ば途中の状態で堂々巡りを繰り返しているのが、各掲示板を見ているとよく解ります。
だからあえて、史学の片鱗に位置する経済から、少ない智恵を絞り出し挑んでみたくなりした。(新しい発見があるかも?)

間違ったカキコがありましたら
鋭い指摘をしていただく事を、心よりお待ちしております。
550圭角:2005/05/07(土) 19:22:23
史上名高きノルマンコンクエストが渡来人征服説の反論根拠になろうかと、
思料します。つまり、ロロがノルマンディー公国を建てたのは911年です。
ウイリアムがイングランドを征服したのは1066年です。
その間、兵力兵站の充実には一世紀半もかかっているということになります。
このように申しますと、必ず決まって反論があります。スペインのピサロや
コルテスがメキシコやインカを滅ぼした歴史があるではないか、というものです。
しかし、そこには銃砲火機保有を無視論外視する差異の存在を認めなくてはなりません。
また、渡来人征服説もしくは騎馬民族説というのは、考古学的史料裏付けの無い
仮説に過ぎません。にもかかわらず、推説臆説を単にただ延々と記紀のミコトや
ヒメを材料に並べ立てているに過ぎません。
よって、渡来人征服説は根拠を有しません。したがって邪馬台国九州説の前提のもとに
邪馬台国滅亡と畿内勃興隆盛大和政権成立を導くことこそが、九州説の本来の意義と
存じます。スミマセン、後は明日にします。宜しくお願いします。




コルテスがメキシコやインカを
551元祖プラム:2005/05/07(土) 19:36:21
圭角さんも他説批判を試みますか!
ガンバって下さい。
結構手強いですよ!

(東遷・東征)説を唱える方は
(……は、畿内へ東征し…)と、簡単に数行で済ませてしまいますが
仮に、九州から畿内へ(征・遷)があったとして
その時消費される財の裏付け 畿内へ移動してからの生活基盤 空白になった九州の様子 他集団が移り来た時の土着民の困惑…が全く書かれません。
騎馬民族渡来説も、しかりです。
何故畿内なのか?も、ですね
552元祖プラム:2005/05/07(土) 20:05:31
もう少しカキコ
『記紀』にある神武東征のモデルとなった事実があったとするなら
それは、神武=交易商人ではないでしょうか?
情報通であり時代をいち早く見通す事が出来る商人達が、半島混乱による交易衰退、九州の緊迫状態 畿内の経済成長等をいち早く察知し先行きを見通し
畿内への移動となったのではないでしょうか?

農民達は大切な田畑がありますのでそう簡単に移住など出来ませんし、権力者達もそう簡単に自らの権力を捨て
どうなるか解らない新天地等へは移らないでしょう。
553元祖プラム:2005/05/07(土) 20:19:20
神武東征とは
時代をいち早く先取りした交易商人達の移動ではないでしょうか
だからこそ、元九州基盤の交易商人達を得た 大和の権力者達は遠く離れた半島へ資源を求め野心を抱きだしたのではないでしょうか
554本田:2005/05/08(日) 06:13:58
>>552
> 農民達は大切な田畑がありますのでそう簡単に移住など出来ませんし、
> 権力者達もそう簡単に自らの権力を捨てどうなるか解らない新天地等へは移らないでしょう。

弥生時代が始まるきっかけは、たぶん春秋戦国時代。
古墳時代が始まるきっかけは、たぶん倭の大乱。
555圭角:2005/05/08(日) 08:32:23
神武東征は交易商人東遷説というプラムさんの観点は興味深いですね。いずれにしろ
記紀の伝承が原形をとどめ得ないほどに改変されてしまっているとする井上秀雄氏の
見解もあるくらいですから、十分に拝聴に値するものと思います。
さて、他のスレなどにて見かける多数派説は昨日申し上げたとおりですが、わたしは
当時の状況については、水野祐氏の説を支持しています。
つまり、九州には邪馬台国連合と狗奴国、中国地方には吉備国や出雲国、そして近畿には
原大和国などが分立していたとするものです。その支持理由は、大和政権の登場統一までは
そのような各国が各地域に分立していたとして自然妥当な解釈と考えるからです。
水野氏に同意するのは、実はここまでです。彼は、狗奴国が北上し邪馬台国を滅ぼして
大和東遷説をとられているからです。つまり、碩学の氏としても四世紀初頭の急速な
大和の勢力伸長拡大との整合性の見地から、それまでの北部九州の順調連続した弥生文化の
突然の衰退という考古学事実との関連の説明が、それほどまでに困難だという所以かなと
考えます。
556圭角:2005/05/08(日) 08:52:22
三世紀後半からの鉄器東漸の敬意考察に注目しています。繰り返しかも知れませぬが
248年に卑弥呼が死んで誰がどこの国が一番喜んだかというと、壱岐対馬です。
倭人伝の記事の市においての大倭の監督も一大卒の権威も、その後の争乱の影響で
低下失墜すれば、壱岐対馬の交易活動も規制緩和が進んだと考えて自然です。
つまり、卑弥呼の死とその後の争乱は、壱岐対馬に自由な交易とより広範な活動を
提供したということになります。いわゆる南北市糴から瀬戸内近畿に至る東西市糴へ
発展したとして無理はないと思います。
壱岐対馬の東西市糴が、吉備国や大和国へ鉄器や養蚕絹や鏡他を、瀬戸内経由で
東遷させたと解します。その契機となったのが卑弥呼の死とその後の争乱です。
557圭角:2005/05/08(日) 09:09:45
倭人伝の記事に、男王を立てしも国中服さず相殺し千人余が死んだ、とあります。
これは、外交記事の一部ですから信憑性は高いとしてよいと思います。
なんとなれば、難民の発生と移動は必然です。私が必然というのには理由が
あります。陳寿の倭人伝の前に記している東夷伝諸国の、戦乱と難民の記事です。
話が逸れますが、ベトナム難民の一番の流出先国は米国でした。難民が豊かな国を
志向するのは古今東西同じです。
鉄器も鏡を副葬する北部九州の風習もこのときに東へ遷移したと、私は解します。
難民つまりは人と鉄器の東への遷移が、半世紀後の大和政権の発展興隆の主因と
私は考えますが、いかがでありましょうか。
鉄器の移動は、交易とまとまった人々の移動により行われたものと思います。
558圭角:2005/05/08(日) 09:22:35
文化文物といえども、所詮はモノです。モノの移動にはまず交易が挙げられます。
しかしながら、モノが移動する場合は、その量と速度においては、人々のまとまった
移動においての方が優位すると思います。
その例をひとつ出します。パンです。日本人の食卓にパンが上がるようになるには
百年を要しています。つまり、パンが今の日本人の米と変わらぬ食物となるのには
現代社会においてすら相当長期の期間時間を要します。
まして、もっとも変化し難いものとされる埋葬様式、ここでいう鏡の副葬風習が、
北部九州から東へ遷移したことは、まとまった人々の移動が前提かと思うのです。
559圭角:2005/05/08(日) 09:38:31
まとまった多数の人々の移動を前提とすれば、モノの移動という観点において
少数の騎馬民族の渡来によるモノの移動は不自然となります。
米と稲作に代表される弥生文化においても、パン食普及期間からすれば、
稲作の民の大量長期の来住を想起した方が、自然な解釈となります。かくいえば
本質は渡来人征服説に与するかととられるかと危惧しますが、違います。
わたしの時代論点の時点は、三世紀後半から四世紀初頭であること、念の為。
残る論点は、畿内の食料生産力と思います。プラムさんは関東在住との由。
ここ毎年数個の台風直撃に瀕しています九州からは羨ましいかぎりです。
吉野ヶ里でもよほど堅固な建物でない限り、容易に吹っ飛んでしまいますよ。
昔も今も同じだと思います。ご意見ご批判を期待しています。
560圭角:2005/05/08(日) 10:18:14
少しまとめさせてください。恐縮です。
私は、東遷の本質を、より経済的に言うならば、要するに当時の経済力の中心地が
より経済的要因を主因として、畿内に遷移したのだという見方です。
このような世界史においてなら、一般的な史学見地が、なにゆえに
日本の古代史において欠落しているのか不思議です。大変不思議です。
オリエントの歴史考察においてすら、経済史観は用いられているのです。
世界史の教科書すら、そうですね。やはり、記紀伝承の呪縛ははるか戦後の
今も亡霊となって、浮遊しているとしか思えません。大和中心主義なるものに
新聞会社さえも毒されているとしか思えません。
561元祖プラム:2005/05/08(日) 22:33:14
圭角さん、こんばんわ

まさにその通りだと思います。
特に最後のまとめレスなどはまさに同感です。

商人達は自由気まま、より商売になる所があれば
なりふり構わずその地に移り 時の権力者を利用し富を得る
商人の集まりし所はよりはってんのスピードを加速する
562圭角:2005/05/09(月) 11:16:24
プラムさんこんにちわ。大和朝廷になったのかのスレはずいぶんと混乱してるようで
すね。交易商人が集まる所が経済力のある所とは、正しいご見解と存じます。
貧窮した地域や国に彼らが集まるはずもありませんから。話が逸れまして恐縮ですが
japan as ナンバーワンと言われた時期に世界中の大物アーチストの来日が
続いていたが、昨今は韓流のみですね。竹内宏氏の路地裏経済学みたいな見方でよい
と私は思います。また、交易商人のみならず人も民も、その点は同じでしょう。
陳寿の記事にても公孫氏が帯方郡を復活設置し離散した民が戻ってきたという記事が
ありましたから。
563圭角:2005/05/09(月) 11:26:11
台風のこと再度書きます。九州人は台風にこの数年ビクビクしています。
台風の進路に神経質になっています。台風の目の東側は特に強風域でして
西側だったらまあいいや、というのがこの数年です。
北部九州に卑弥呼の死後の争乱と台風直撃被害のダブルパンチが、経済力の
中心地が畿内へ遷移した要因である可能性を考えます。
畿内の地勢は食料経済力において優位していたとの説は、たしか元祖プラム
さんではなかったでしょうか。ご高説を承りたく存じます。
564日本@名無史さん:2005/05/09(月) 13:43:53
>558
>もっとも変化し難いものとされる埋葬様式、ここでいう鏡の副葬風習が、
北部九州から東へ遷移したことは、まとまった人々の移動が前提かと思うのです。

埋葬様式で九州的な要素があるのは、鏡の副葬ぐらいしかないと言った方がいいのでは?

前方後円墳に九州的な要素は皆無だし、それまでとは全く別の埋葬様式に変わっている状況で
とてもじゃないけど「もっとも変化し難いものとされる」なんていえないとおもうけど。

それに鏡の副葬とといっても、
主流の鏡種も違えば、
破鏡・破砕鏡・完鏡などの違い、
棺の周りに埋葬される状況
などいろいろ違う部分も多そうだけど・・・。

東遷の根拠としては、弱いと思うんだけどね。


棲み分けは大事だし、とやかく書くのは野暮だったかな。
ま、頑張って下さい。
565元祖プラム:2005/05/10(火) 17:05:25
圭角さんの>>555レスに見える
> 卑弥呼の死後(壱岐・対馬)の交易ブローカーが規制緩和により 南北市糴に加え東西市糴にも手を出して来た。
の、レスについて一言。

@規制が解ける前から東の地域との交易を望んでた。A規制が解けると、東の諸国が壱岐や対馬を訪れるようになり、半島交易の案内並びにブローカーをするようになった。

この二つが考えられますが
566元祖プラム:2005/05/10(火) 17:21:02
でも、
私の考えでは Aのパターンはかなり後の話かと思われます。
卑弥呼の死後、壹与が朝貢の使節を出していますのでまだ多少なりとも壱岐、対馬には権威を見せていたように見えます。
東との交易の形跡が伺えるとするならば
それは 壱岐又は対馬の単独判断で東との交易に出向いたのではないでしょうか?
東の諸国が直接出向く様になったのは
壹与の権威衰退以降のことかと

(追伸)
この頃、2ちゃんねるへのアクセスが非常に悪くなった 鯖の活きが悪くなったか?
567日本@名無史さん:2005/05/10(火) 17:28:05
神代の神の名に多い「武、建、猛」の文字はいずれもチクシと読むことから、
神代の歴史は筑紫の歴史であったという説もある。
例えば、武甕雷神、武内宿禰、武渟川別命、武御名方神、武三熊大人、武埴安彦命、建葉槌神、建甕槌神、建磐龍命、
建速須佐之男命(記)、五十猛命、日本武尊(倭建命)、ノ ノなど。
568元祖プラム:2005/05/10(火) 17:40:26
このところ
ずっと交易商人中心で時代の斜め読みをしてきたかいがあり
少し 明かりが見えて着たように感じられます。
ソロソロ
次スレ辺りから
少し見えて来た『明かり』でもカキコしたいと思います。
569日本@名無史さん:2005/05/10(火) 17:42:46
神代の神の名に多い「神」の文字でカムと読むのは漢(カン)に通じ
神代の歴史は漢の歴史であったという説もある。
例えば、神産巣日神、神直毘神、神大市比売命、神屋楯比売命
神阿多都比売、神倭伊波礼毘古命、神沼河耳命、神八井耳命ノ ノなど。
570日本@名無史さん:2005/05/10(火) 18:21:05
ソロモン諸島か
ハワイ諸島
571日本@名無史さん:2005/05/11(水) 00:52:09
漢人は日本人であるという説もある。神代の神の名に多い「神」の文字でカムと読むのは漢(カン)に通じるからな。
572元祖プラム:2005/05/11(水) 07:54:43
>>569>>571
の、「カム」=「カン」が成立しても
それって 8世紀頃の人がそのように考えていたと
そう解釈せざるおえない。「神」が記録に登場するのは『記紀』が、最初だろうから。
573日本@名無史さん:2005/05/11(水) 11:05:06
>>567,>>569
そんなアホな説どこの誰が唱えてるんだ?
574日本@名無史さん:2005/05/11(水) 12:14:53
>>571
漢はハンでは?
575日本@名無史さん:2005/05/11(水) 13:28:36
淡海三船は中国(漢)=神(カム)から承認された天皇に特別に神という字を与えた

後漢が初めて承認した倭王→ 57年 神武 漢(カム)委(ヤマト)奴(ノ)国王(スメラミコト)
魏 が初めて承認した倭王→239年 崇神
南朝が初めて承認した倭王→413年 応神

「漢」は中古音・上古音ともに[han]
語頭の h は漢字音導入時にはカ行音で写されている
語尾の n は m になる場合がある
例「簡(中古音[k∧n]上古音[ ka~n])」をカミ、
「蝉」をセミ、「文」をフミとして中国語から借用し日本語化させた
576日本@名無史さん:2005/05/11(水) 13:46:09
>>575
神武、応神はともかく、
>魏が初めて承認した倭王→239年、崇神
これは絶対にないだろ。
577日本@名無史さん:2005/05/11(水) 13:54:10
>>576
祭 卑弥呼 倭迹迹日百襲姫
政 男弟  崇神
578日本@名無史さん:2005/05/11(水) 14:29:14
淡海三船が徳という字を与えた二人の天皇も中国と関わり深い

107年 倭国王帥升 懿徳(おおやまとひこ『スキ』とも)

421年 讃 宋に朝献し、安東将軍倭国王の除綬の詔うけるた 仁徳
579日本@名無史さん:2005/05/11(水) 17:27:06
淡海三船が徳という字を与えた二人の天皇も中国と関わり深い

懿徳天皇 107年 倭国王帥升 (おおやまとひこ『スキ』とも)
初めて倭国王に任命される

仁徳天皇 421年 倭国王讃 宋に朝献し安東将軍倭国王の除綬の詔うけた
初めて安東将軍倭国王に任命される

聖徳太子 600年 遣隋使を送る 阿毎多利思比孤
初めて隋に遣使した
580日本@名無史さん:2005/05/11(水) 20:22:59
諡号には漢文上のちゃんとしたルールがあるんだよ
現代人の思いつきやこじつけで適当につけられるもんじゃないの。
581:2005/05/11(水) 20:27:24
>>579
かなりの間違い。
582日本@名無史さん:2005/05/11(水) 20:45:46
>>580
>ちゃんとしたルール
詳しく

>>581
>かなりの間違い。
具体的に
583:2005/05/11(水) 21:10:33
例えば、中段なんぞは允恭天皇の世だ。大雀命はとうに崩御だ。
さらに、倭の五王は天皇ではな〜い。
584日本@名無史さん:2005/05/12(木) 14:33:10
>>583
讃は応神仁徳履中が有力

淡海三船は中国(漢)=神(カム)から承認された天皇に特別に神という字を与えた
徳という字を与えた3人も中国と関わり深い
語頭にスイの音を与えた3人もか?

神武天皇 57年 漢(カム)委(ヤマト)奴(ノ)国王(スメラミコト)
後漢に初めて朝献した

崇神天皇 239年 卑弥呼が親魏倭王に
魏に初めて朝献した

応神天皇 413年 
南朝に初めて朝献した

懿徳天皇 107年 倭国王帥升等『スキ(ト)』 (おおやまとひこ『スキ(ト)』も)
初めて倭国王に任命される

仁徳天皇 421年 倭国王讃 宋に朝献し安東将軍倭国王の除綬の詔うけた
初めて安東将軍倭国王に任命される

聖徳太子 600年 遣隋使を送る 阿毎多利思比孤
初めて隋に遣使し、倭王に任命される

綏靖天皇  すいぜい 神武の子
垂仁天皇  すいにん 崇神の子 266年 西晋に朝貢し女王台与と共に爵命を受ける
推古天皇  すいこ  摂政は聖徳太子
585日本@名無史さん:2005/05/12(木) 17:22:17
五王の話は他でやってくれ。
586圭角:2005/05/12(木) 18:48:54
プラムさんの565に関しまして
わたしは、卑弥呼の死と死後の混乱が、壱岐対馬の東西市糴つまり東西交易の契機に
なったという考え方をしています。壱与の晋への266年の遣使は晋の統一の恭賀と
思われますから、その時点で、帯方郡や壱与邪馬台国の統制影響が失墜していないと
のお考えはそのとおりだと存じます。
しかし、流通というものは一度でもある程度のパイプが生じれば、その流通量も速度も
格段の差異を生じるのは、現在のマーケティングの実例が実証しているものでは、
ないでしょうか。以前、どなたかが壱岐は交易センターだというご見解でしたが、
それらを契機として、壱岐に鉄器や文物を求めに来航した瀬戸内や吉備や近畿の船は、
数を増したであろうと、推測する次第です。このことにより、鉄器その他の文物等が
東に遷移する経緯の契機となり、その後の近畿の経済発展に寄与したと考えます。
587元祖プラム:2005/05/12(木) 19:27:07
圭角さん お久しぶりです。
圭角さんが言わんとすることはよく理解できます。
でも、一つだけ気になることが ……海流です
当時の畿内、瀬戸沿岸の造船及び航海技術で玄界灘を東から西に、直接壱岐又は対馬に行くことが出来たかどうか?
邪馬壹國の権勢が及ぶうちは、九州北部沿岸を通ることはしごく難しいかと。
588元祖プラム:2005/05/12(木) 19:46:56
流れについてもう一つ

洛東江の水先です。
現在の洛東江は堰穏やかに流れていますが、河口に堰が無い時代には
川の早い流れが海のかなり先まで影響を及ぼし、人力では容易に逆らうこと(横断も)が困難と(実験船報告)
半島⇔対馬航路には、巨済島より西に出着するほうが利便性ありかと
現に、巨済島より西の地に弥生の遺跡が点在します。
589日本@名無史さん:2005/05/12(木) 19:57:55
本気で、近畿や北九州とおっしゃっておられる方々へ、お・ま・え・は・あ・ほ・か・合掌。
(いやいや、ごめ〜んね!)

邪馬台国は、現在の宮崎!!!!


と、サノノミコトがおっしゃっておられます?!
590日本@名無史さん:2005/05/12(木) 20:11:49
宮崎は「筑紫の日向」じゃないな。失格。
591元祖プラム:2005/05/12(木) 20:28:35
>>589
『サノノミコト』だって
本気じゃないよな
冗談だろう。

どう遡っても、『ミコト』という文字が文献に登場するのは 8世紀だ
592日本@名無史さん:2005/05/12(木) 20:40:03
宮崎は「神々の国」と呼ばれ、確かに由緒ある場所や古墳も多い。
593元祖プラム:2005/05/13(金) 12:38:36
『慶尚南道 南岸』
洛東江河口付近から南海島にかけ 多数の縄文、弥生の遺跡が存在し さまざまな倭の文化出土品がみられ半島の南岸に『倭』の存在を確認できる。
これら出土品は、対馬、壱岐、九州玄界灘沿岸地域の遺跡出土品と共通しており(閑麗水道〜玄界灘沿岸)文化圏と見られ
文献に見られる
『倭は海中(大海)の中』に、ピタリと当て嵌まる

しかし、『倭』を筑紫平野まで南下させるのには、まだ少し抵抗感を覚える。
『漢書』の中に登場する『倭』とは、
閑麗水道多島から玄界灘各島及び沿岸のことではないか?
594:2005/05/13(金) 13:46:15
>>584
ほぼ、目茶苦茶!
595圭角:2005/05/13(金) 19:06:22
プラムさんへ
海流の件に関しましては、茂在寅男氏著 古代日本の航海術 小学館ライブラリーが
参考になるのではと、存じます。
この本に拠ると、朝鮮海峡も対馬海峡も30海里56キロメートルであり
対馬の矢立山は694メートルあるので、100キロメートル以上の視達距離から
見えるそうです。つまり、晴天でありさえすれば目標を失わずに航海できると
書いてありました。
船に乗りて南北に市糴す、という壱岐対馬の倭人の記事を実感します。
596あも:2005/05/13(金) 19:16:33
そもそも存在してなかったという説が…というか1500年くらい前の文章を真面目に検討するのも。
597圭角:2005/05/13(金) 19:21:27
洛東江とは、いい目の付け所と感心しました。
洛東江の最大の特徴は、その傾斜度の緩やかさにあります。場所により、
淀川の十七分の一から四分の一だそうですね。この傾斜度の緩やかさが
排水を遅らせ、その河岸が近代まで農耕地として利用できなかった理由
のようですね。弁韓辰韓の小国は、ために、かなり上流まで洛東江を避け
その水位より10メートルも高い所に位置しているとか。
洛東江が超緩傾斜のため、雨水停滞して沖積平野が農地として利用し得ずに
この点が日本の古代農業ひいては古代国家と大差を生じた理由と言われて
います。
598圭角:2005/05/13(金) 19:38:02
ところで、学会での、四世紀後半、任那日本府がこの地方にできたため
六世紀になっても弁韓地域が小国分立状態が続いたという説は失当でしょう。
その理由の一番は、山脈による分断と洛東江の超緩傾斜に拠ると思われます。
河川の水系をたどって、国家形成が進展する限界は、その水を農業用水として
利用される場合に限られるとの見解があり、私も同意します。
つまり、一見類似した古代の洛東江と淀川は、国家形成の視座からその役割は
はなはだ相違があります。淀川は促進し、洛東江は阻害しました。
洛東江は、個々の小国を分断するのみならず、その西岸と東岸を弁韓と辰韓に
分けるほどの厳しい地形条件となっていたと考えられます。
さてさて、ところで畿内大和の川と北部九州の川とは多大な相違点を思います。
プラムさん、この点いかがでしょうか。
599元祖プラム:2005/05/13(金) 21:04:01
こんばんわ、圭角さん
まず、半島南岸と九州北部の共通点は平野部が少なく海岸の近くに島が多く、山が海の側まで来ている

平野部が少ないのは、日本海側の共通点で、
@冬に北西の季節風が波の後押しをし、河川の堆積を妨げる
(半島南部)
洛東江の大河が土砂を堆積させるが
対馬海流の早い流れによりその土砂の堆積を阻んでいる為広い平野部が出来にくい
600元祖プラム:2005/05/13(金) 21:16:10
一方(奈良、大阪)では、恵まれた(深い入江)地形により一度堆積が始まると広範囲に堆積し、広大な肥沃の土地を造る。
奈良盆地は元湖であるが故に、日本の盆地としては特異で、かなり広い範囲が平坦である
601元祖プラム:2005/05/13(金) 21:38:52
奈良盆地は四方山に囲まれ(谷あいではない)奈良盆地全体が天然の要塞のような地形になっており
四方の山の壁が外敵を防ぐような形になっている

そのような好条件にめぐまれ農作物の大規模生産が発展した
山に囲まれていても、南を除けば比較的低い山(山越可能)であり、大阪方面には河川を使える。
(大阪、奈良)は農産物などの大規模マーケットの中心となるべき条件がかなり整っている地勢です。
602日本@名無史さん:2005/05/14(土) 04:10:10
〜魏志倭人伝〜

米食(個人的に米の生産高が力を示すとも考えられる)。
温暖で冬でも生野菜を食べれる。
男は刺青をしている。
酒が好き。
男は上半身裸。女は布に穴をあけ着た姿。
海に潜って魚を捕る。
一夫多妻制。


603日本@名無史さん:2005/05/14(土) 08:31:06
一夫多妻ってことは、♂の数が少なかったんだな。
戦争のやりすぎで成人男性の戦死者や生口にされた人数が極端に多かった社会が想像される。
604圭角:2005/05/14(土) 09:06:45
プラムさん、おはようございます。
北部九州の集落遺跡の分布と近畿畿内の集落遺跡の分布を比較すると興味深いことが
発見できますよ。
吉野ヶ里もそうですが、九州の環濠集落は、それぞれに自らの河川を有しています。
ところが、近畿は違います。
大和川や淀川に沿って、集落遺跡は存在しています。
つまり、一本の川を農業用水としての集落の有無という事実差異が、大変に大きな
経済力の差異を生み出す必然を思う次第です。
605圭角:2005/05/14(土) 13:08:38
邪馬台国連合が 緩い連合である理由は、夫々の国が夫々の川を有していることでしょう。
つまり、農業用水の確保において、夫々別々であったことが大きな理由と思います。
古来、中国では治世とは治水を言うとされていますが、北部九州の国々は夫々に別々に
通運や農耕水利としての河川を有しているという地勢が、統一強権を醸成するには
不向きだったろうと推測します。吉野ヶ里はご承知のとおり背振山地の南のいわば
山裾から平野になった地点ですが、背振山地から有明海に南流する幾本もの川に沿い
規模様様な集落遺跡が存しています。その背振山地の北側が伊都国や奴国ですね。
ところが、その面する海は玄海灘です。つまり、海も川も北部九州の国々においては
異なります。淀川や大和川が西流して同じ大阪湾の海へと流れることと較べたら
大きな違いです。つまり、水系を異にする地域にては、農業利水灌漑もそれぞれに
とどまると思えますから、農業生産力のさらなる発展においても、飛躍的向上は望み
得ないことだったと推測しています。
606日本@名無史さん:2005/05/14(土) 13:20:38
温暖で冬でも生野菜がとれるのは九州だろうよ
あと酒好きなのも

でも、日本は今より昔は温暖で平安時代には
熱帯にしか伝染しないマラリアがあって、貴族に恐れられていたとか
いうしな。。うーん
607日本@名無史さん:2005/05/14(土) 13:33:03
>>605
「邪馬台国連合」ねえ。
 魏志倭人伝では、邪馬台国は女王の都を置くところとある。
 邪馬台国は、倭国の首都があった場所に過ぎないことが明記されている。
 魏志倭人伝をどう読んでも、「緩い連合」という社会には描かれていない。
 「邪馬台国連合」は、根拠のない俗説である。
608圭角:2005/05/14(土) 16:29:21
陳寿の帝紀にも、倭の女王卑弥呼と記してありますよ。
倭人伝の記事はご承知でしょうから省略します。
俗説は、学説もしくは通説の書き誤りと、ちがいますか。
609元祖プラム:2005/05/14(土) 18:13:13
圭角さんこんにちわ
>>605の一河川に一集落。これはまったく気が付きませんでした。

生まれながら関東平野に暮らしていると、どうもその辺の感覚が鈍くなるみたいです。
東西南北何処に行ってもなだらかな土地が広がり、いたるところに比較的大きな河川もありますので
一つの河川の治水権を独占する感覚がありません
どちらかというと(大阪平野、奈良盆地)=関東平野ですかね
610元祖プラム:2005/05/14(土) 18:33:27
そう言われてみれば、現在でも中国地方の人の集まる場所は
山と山の間に川があり土砂が堆積し、なだらかになった場所に人口が集中し、都市が形成されているようです。
隣の町に行くには、山越えが当たり前の世界のようで、私にはそのような生活感覚が足りないみたいです。
611日本@名無史さん:2005/05/14(土) 20:35:49
「水行十日、陸行1月」「7万戸」「冬でも雪降らない」「南に敵国」「周り山々」
一部の人が言うように、宮崎である可能性も高い。
7万戸となるとかなりの人口、となるとかなりの量の米が作れないといけない。
当時の地理的にもだが、大規模な平野があり二毛作も可能な宮崎平野が有望である。
また、南方向には独自路線を行く戦いの戦士である熊襲がいた。
南方外れに高千穂連峰があり、この麓に神武天皇を祭る神社があり、地名も高原と言う。
西都原古墳群には、九州最大の前方後円墳がある。
宮崎の地は、ひむかと言われていた。
東には青島という島が現存するが、昔にはよりいくつかの島が存在していたとすれば、
より可能性は高まると考える(あの辺りは日向灘地震多発地帯である)。
余談だが、百済崩壊の際、百済の人々は朝廷のもとに来ているが、百済王家は宮崎に
逃げるようにたどり着き、後に、禎嘉王は追っ手に暗殺されている。

612元祖プラム:2005/05/14(土) 20:37:09
極論になりますが
弥生期の九州北部には川の数だけ集落(国?)が存在し
それらの集落は各々独自の生活を営んでおり、共同という認識を持たず、農地拡大となると『共に助け合う』ではなく『奪い取る』
という行為に
これが常に緊張しあう九州北部の環境ではないか

そのような、常に緊張しあう状況が武器の最新に繋がり、いち早く『鉄』の利便性に目を付けた。
613日本@名無史さん:2005/05/14(土) 20:44:02
>>608
 卑弥呼は倭国の女王であって、邪馬台国の女王ではない。
 邪馬台国は、倭国内にあった数十カ国の一つにしか過ぎない。
 卑弥呼はそこに都を置いただけ。
 「邪馬台国連合」という想定自体が資料に基づかないもので、誤り。
 従って「俗説」と称することは正しい。
 しかしこんな俗説を、著名な研究者たちが使うのは困ったことである。
614日本@名無史さん:2005/05/14(土) 20:49:59
>>607
緩いか緩くないかは微妙だと思われ・・・
倭人の社会そのものは大人・下戸の緊張した関係や奴婢・生口制度など
強度な権力の存在が認められるが、各『国』の関係については、
玄海諸国にあってこそ官名の類似性等からある程度の一体化が認められるものの
残る投馬、邪馬台は違うし、文物伝送の叙述から女王が外交関係を掌握していた
以上のことは読み取れないんじゃないかな。
615元祖プラム:2005/05/14(土) 21:02:45
>>611さん

>大勢の食料を確保するのに、温暖かつ広大な宮崎平野は最適。
米の二期作も可能なので

>>確かに、温暖かつ広大な宮崎平野は作物栽培には最適な環境ですが
米の二期作や二毛作は、いけません。
当時の温暖な気候なら可能ですが、そのような無理をすると化学肥料の無い時代では、田や畑の著しい痩せ細り現象が直ぐ現れ
作物も病気にかかり、結果的に最悪の状況を作り出します。
冬の休耕も、大事な作物作りなのです。
邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。

1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
 類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
 西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
 (日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
  尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
  9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
  邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
  これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
  人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。

朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。




617日本@名無史さん:2005/05/14(土) 21:30:23
宮内庁、西都原を囲うな!!!
618日本@名無史さん:2005/05/14(土) 22:16:44
西都は当て字だから根拠がないね。
筑紫の日向じゃないし。
619日本@名無史さん:2005/05/14(土) 23:31:03
>>616

   1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
     類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
     西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
     
   伊「都」も・・・
620日本@名無史さん:2005/05/14(土) 23:41:49
九州を西州と名付けるということは、その名付けた主体は九州より東にいるということであり、
その東のほうでつけられた名前を九州の人・国がそのまま使っているということは、
九州がその東のほうの傘下にいたことを示しているに他ならないわけだが・・・・

まあ、言うだけ無駄か。
621圭角:2005/05/15(日) 08:00:10
宮崎の西都原が邪馬台国である可能性は、きわめてきわめて大変大変低いと思います。
根拠理由は、宮崎の僅少というより皆無に等しい鉄器出土数です。
宮崎は、弥生時代から古墳時代初めまでの間、鹿児島とともに、九州各県のうちでも
目を見張るほどに、鉄器出土数がほぼ皆無に近い県です。とにかく極端に少ない。
全国的に見てすらも、宮崎は極端に極端に僅少過ぎます。皆無と言ったが適切です。
福岡熊本大分佐賀長崎は、宮崎に較べ、弥生時代を通して圧倒的な出土数です。
この考古学事実を前提にして、宮崎との論証は無理不可能です。
622圭角:2005/05/15(日) 08:11:50
卑弥呼は倭の女王です。邪馬台国の女王とは、陳寿は帝紀にも東夷伝にも
記していません。
倭の女王と邪馬台国の女王の差異は、女王卑弥呼の統治領域に関わるものです。
郡に使訳通じる国が三十国で親魏倭王卑弥呼という記述からして、
邪馬台国連合というのは自然な解釈ですよ。
それを、根拠明示せずに、俗説俗説との主張は、単なる御説、自説に過ぎません。
623圭角:2005/05/15(日) 08:25:51
宮崎説を採るならば、相攻撃していた狗奴国はどこになるんですか。
倭人伝の記事は、当時の主要な武器は弓矢であると記していますね。
さすれば、鉄鏃も多数大量に宮崎から出土しないと不自然となりますよ。
卑弥呼の死後も邪馬台国は争乱したと、陳寿は記していますね。
そのような戦乱が打ち続いた邪馬台国にあって、鏃などの鉄器の出土がほぼ皆無
という考古学事実を無視するのは、何故なのか大変不可解に存じます。
624日本@名無史さん:2005/05/15(日) 08:38:20
おい、もまえら。たいへんでつよ。

日本国存亡の危機です!!犯罪者集団が大挙して押し寄せてきます。
放置して置くと大変なことになります。みなさんご協力下ちい
世論で最低減日韓首脳会談での表明は回避してもらいまそう

↓現行スレ
【日韓】韓国人観光ビザ、免除恒久化へ 関係修復狙い/治安対策カギ★2[05/15]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1116107629/
【日韓】韓国人観光ビザ、免除恒久化へ 関係修復狙い/治安対策カギ[05/15]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1116094191/

政府は十四日、愛知万博開催期間限定で実施している韓国人観光客の査証(ビザ)免除措置
を万博終了後も継続恒久化する方針を固めた。
六月に韓国で行われる日韓首脳会談で、小泉純一郎首相が盧武鉉大統領に表明する。
625日本@名無史さん:2005/05/15(日) 09:37:04
どうも魏志倭人伝を100%鵜呑みにするのは
出口を狭めるようで…
いくらこの時期の日本に対する史料がこれしかない
といっても、あまりにおおざっぱすぎです。
邪馬台国は連合王国にすぎないと思うんですが?
626日本@名無史さん:2005/05/15(日) 10:00:53
だから、邪馬台国は倭王圏の中の一地名だってば・・・
627日本@名無史さん:2005/05/15(日) 11:17:56
魏志倭人伝の内容からかけ離れて、そういうことが全く書かれていない「連合王国」を想像するのは、小説と同じでしょう。
小説レベルの研究者が多いのは事実ですが。
628日本@名無史さん:2005/05/15(日) 11:54:26
>>625-627
「連合王国」の定義がよくわからんのだが。
それぞれイメージするものが異なっていて、
すれ違いのまま、無駄にレス数が消費されていくように思うのは俺だけか?
>>608なんて、一つ前の>>607のレスを全く正反対に理解して熱くなってるようだし・・・
629日本@名無史さん:2005/05/15(日) 13:10:33
真実を知る為には、カラクリ世界のオブラ-トを剥がさなければならない。

他のどの古墳を調査しようが確信は得られない。
西都原古墳が全てのカギである!
630圭角:2005/05/15(日) 14:44:25
東夷伝の弁韓、馬韓、辰韓の記事を倭人伝と比較参照すると、陳寿は統治組織が
非常に末整備だと記しています。之に対し、倭人伝はご案内のとおりです。さらに
卑弥呼の初見は魏志倭人伝ではありませんね。
卑弥呼の初出は正史三国志魏書第四巻三少帝紀の次の記事です。
 正始四年冬十二月、倭国の女王卑弥呼が使者を派遣して奉げ物を献上した

私が邪馬台国が緩い連合体であったと推定する理由は、倭人伝の次の記事です。
 倭国乱相攻伐歴年、乃共立一女子、為王名曰卑弥呼
つまり、共立された女王卑弥呼に専制権力はなかったとするのが常識的解釈判断だと
思料する次第です。小説だと言われる前に読み直して見てくださいませ。
631日本@名無史さん:2005/05/15(日) 14:56:03
読み直さなきゃならんのは他人のレスだと思うが・・・
632日本@名無史さん:2005/05/15(日) 14:58:15
魏志倭人伝の倭国って本当に今の日本のことなんですか?
どこか南方の島のことじゃないのですか?
沖縄とか台湾とかフィリピンとかインドネシアとか。
なんでみんな無条件に日本のことだって決め付けるんですか?
って昔からずっと疑問だったんですが。
633日本@名無史さん:2005/05/15(日) 17:47:30
>>614
そうじゃないだろ。倭国で王がいるのは邪馬台国にいる卑弥呼・狗奴国の卑弥弓呼・伊都国王の3人だけで
伊都国王は一大率の指揮下にある女王の属国にすぎないから、虚位を世襲してるだけでもはや国王の実質はない。
狗奴国の卑弥弓呼の勢力は不明だが、邪馬台国の支配下にある三十余国にかんしていえば、王は卑弥呼しか
いない(伊都国王は除外)。その三十余国の中で単なる国名以外の説明のある十余国には「大官」と「副官」
しかなく王も侯もいないだろ。「官」ってのは王が派遣したものじゃん。在地の世襲首長なら「稗王」「小王」
もしくは「侯」と表現するはず。「官」とはいわないだろ。この場合、これらの官を派遣した者は邪馬台国王
しか該当するものがない。

>>630
そうじゃない。「共立」は漢文の決まり文句みたいなもので「自立」の対語。
異民族の王位継承を書く時の正史のパターンで、通常は「立」か「次立」でつなげる。
で、通常の継承が行われなかった場合のみ「共立」か「自立」かで区別しているだけ。
その国々の特有の事情や背後関係に深く立ち入ったものではない。
634圭角:2005/05/15(日) 18:50:49
633さんへ。共立のご講義は拝見致しました。自立共立決まり文句とか。拝。
ついでに、633さんのご博識にて次なる東夷伝の記述解釈解説をお願いしたい。
その国の特有の事情背後関係に深く立ち入ったものではない、との断言に乞う期待。
扶余伝  位居死、諸加共立麻余
高句麗伝 国人便共立伊夷摸為王
自分は、上の各伝にてはその国特有の事情と背後関係があったればこそ、共立という
文言を、陳寿が用いた理由を知って居りますが、
そうじゃない、と633さんが言われる理由を後学のためお聞かせください。
 楽しみにしておりまする。
635614:2005/05/15(日) 19:09:36
>>633
実際のところ、貴方の考えるように「緩くない連合」だったのかも知れないが、
玄海諸国と投馬じゃ官名が違うのは事実だろう。
邪馬台国のそれは、個人名のようにも思われるが、いずれにしろこれも体系を異にする。
伊都には、例え従たる存在とは言え、「王」が居る。
後は、一大率の存在をどう考えるかだが、これを女王とは別の権力(帯方郡とか)による
設置とすれば、「緩い」と言えなくも無い。
ただし、邪馬台国以下30カ国が大きく纏まった政治機構の中に居たことは読み取れるでしょう。

636日本@名無史さん:2005/05/15(日) 19:27:52
これを言っちゃおしまいだが、陳寿も500年後の国家下においての編集者だしな。

お茶の間話だが、高千穂連峰の韓国岳(からくにだけ)から半島が見えるそうな。
それと、神武天皇が高千穂連峰の麓で育ってたとして、なぜ平野から離れたあんな所で?
とは思う。
637日本@名無史さん:2005/05/15(日) 20:09:35
(;゜ ゜ )ナン!( ;゜ ゜)デス!!( ; )゜ ゜トー!!!
638元祖プラム:2005/05/15(日) 20:22:44
『共立』『連合』の前に、何故
『共立』『連合』をしなければならなかったか、考えるべきではないか
639日本@名無史さん:2005/05/15(日) 21:17:46
>>635
>一大率の存在をどう考えるかだが、これを女王とは別の権力(帯方郡とか)による
設置とすれば、>

 これはビックリ!勝手な想像で史料を読むと、こうなるのか?
 
640日本@名無史さん:2005/05/15(日) 21:42:27
>>639
じゃ、女王が置いたと読める根拠は?
641元祖プラム:2005/05/15(日) 22:13:47
『其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王』

(その国は本も亦男子を以って王となし、とどまること七、八十年なり。倭国乱れ相攻伐して年を歴る。乃ち共に一女子を立てて王となす。
>どうして国が乱れたか?>その国=倭国か?
>共にとは、誰とだれ
642ななみちゃん:2005/05/15(日) 23:47:21
>>641
>どうして国が乱れたか?

前王朝が権威を失い崩壊した為、乱が起こったのではないでしょうか。

例えば、室町幕府崩壊→応仁の乱、江戸幕府崩壊→戊辰の役というように、
王権や幕府の衰退崩壊の後には、決まって乱が起こりますから。

>その国=倭国か?

倭でしょう。

>共にとは、誰とだれ

主に、邪馬台国、伊都国、狗奴国、などの王の居る国でしょう。
投馬國は、王は居ないが人口も多いし、官名も他と異なることから、
それと同等の扱いで共立に関与したかも知れない。
643日本@名無史さん:2005/05/15(日) 23:59:45
韓国南部が日本によって支配されてたと考えるのが自然だな。中国、朝鮮、日本の歴史資料を忠実に読めばそうなる。
644日本@名無史さん:2005/05/16(月) 00:44:59
魏志東夷伝倭人条の記述は鵜呑みに出来ない。
倭奴国の情報と混同も考えられる。万二千余里は倭奴国までの距離だろう。フミ国から邪馬台国迄は正確な里数は分かっていない。
官と人名の混同、誤解もあるだろう。クコチヒクは官名でなく人名だろう。
人口も弥生後期にしては多すぎる。少なくとも九州に収まる数ではない。
まだまだありそう‥‥
645日本@名無史さん:2005/05/16(月) 00:59:51
どうでもいいじゃないの?
何の役に立つの?
そんなこと、わかったところでクソの足しにもなりゃしない。
646日本@名無史さん:2005/05/16(月) 01:21:58
>>634
>扶余伝  位居死、諸加共立麻余
>高句麗伝 国人便共立伊夷摸為王

それは私が引用しようと思ってめんどくさくなってやめたものです。
それが「共立」の例ですよ。

>>635
邪馬台国の場合は、中央官制ということになるので仮に個人名だったとしても
倭三十国体制についての大きな問題は生じない。(もれは個人名だとは
思えないが)
また投馬が官名ちがうというが、だから何のだ?
鎮守府将軍だろうが太宰帥だろうがヒラ国守だろうが
本質的に「官」にはちがいないわけだが。
(一大率が帯方郡の派遣官だとかの説は
あまりにアレなのでスルーさせてもらいます)
647サガミハラハラ:2005/05/16(月) 12:50:02
邪馬台国は扶余系ではないかとおもっています。東北アジアでは首長をクリルタイで
選出(共立)したといいます。うまく共立できなかった時、内乱がおこったとおもわ
れます。男王居る事7-80年にして倭国大乱があり、卑弥呼死後も乱がありました。
648元祖プラム:2005/05/16(月) 12:56:16
>>642さん
元々一つの国だったのに、まとまりがなかったため『女王』を『共立』した
と、解釈するのはどうでしょう
まとまりがなくなった原因は、『王権』の弱体だけでしょうか?
このままバラバラではいけないと思った各首長が『女王』を『共立』するのですが、元々狗奴国は同一国だったのか、それとも敵国だったのか?
敵国ならば何故、バラバラの相手国の隙をついて一気にせめなかったのでしょう
649元祖プラム:2005/05/16(月) 19:25:02
一大率の疑問?
@一カ所だけなのか?
>>別に一カ所だけと限定する記載はない。

そうなると

日常諸国を監視する為に各国ごとに『一大率』を置き、その総監視役を伊都国にまかせた。
郡より使者が来た時や王の使者が半島や大陸に向かう時などは、諸国に配属されてる『一大率』が倭の港に集まり(出迎え、見送り)をした。
650圭角:2005/05/16(月) 19:50:12
まず、646へ返信します。
高句麗伝及び扶余伝の共立記事の全文並びに前文を読んで下さいませ。
その上で、倭人伝の卑弥呼共立記事との比較相違点にお気づきあそばされましたら、
再度、雄書き込みください。さすれば、ご返答申し上げますので。
  
651圭角:2005/05/16(月) 20:11:43
プラムさん、こんばんわ。
卑弥呼共立において、注目すべきは、倭人伝のみが、共立の主語を記していません。
扶余伝では諸加、高句麗伝では国人という共立の主語を陳寿は明記しています。
卑弥呼共立の主語が見当たらぬは、後漢書も同じです。
ともかく、卑弥呼を共立したのは、この時代のことですから、国家などという
抽象概念ではなく、人もしくは権力もしくは外圧たとえば公孫氏政権かも、
しれません。
御伽噺ではありませんから、幼稚園のようなお話し合いやご相談にて、卑弥呼が
共立されるはずもないでしょうね。
卑弥呼の鬼道カリスマをもってのこととは、無論、考え難いものです。
それは、天草四郎の擁立を顧みれば、理解は容易です。
四郎の擁立領域の狭小を知ればよいことです。天草下島は殆ど加担していません。
卑弥呼はカリスマをもって共立されたのではない、というのが又、ロマンに
なる次第です。
652本田:2005/05/16(月) 21:04:48
>>623 :圭角:2005/05/15(日) 08:25:51
> 宮崎説を採るならば、相攻撃していた狗奴国はどこになるんですか。

「其の北岸」とあるから狗奴韓国は「九州北岸」にあった。
九州北岸と朝鮮半島南岸にまたがっているとゆう説も否定しません。


> 倭人伝の記事は、当時の主要な武器は弓矢であると記していますね。
> さすれば、鉄鏃も多数大量に宮崎から出土しないと不自然となりますよ。
> 卑弥呼の死後も邪馬台国は争乱したと、陳寿は記していますね。
> そのような戦乱が打ち続いた邪馬台国にあって、鏃などの鉄器の出土がほぼ皆無
> という考古学事実を無視するのは、何故なのか大変不可解に存じます。

卑弥呼は公孫氏説をふまえて考えると、
1.鉄が普及していない地域は、公孫氏が侵略しやすかった。
2.卑弥呼が統治していた時期は短かった。
3.朝鮮半島では普段は平地に住んでいて、
戦争になると山城にこもって戦争するそうです。
だから平地に鉄製の武器がなくても不自然ではない。
653日本@名無史さん:2005/05/16(月) 21:10:40
確定!乙葉、公称24歳は真っ赤なウソだった!
http://www.tanteifile.com/geinou/scoop_2005/05/16_01/index.html
654日本@名無史さん:2005/05/16(月) 21:27:06
>>650
これは典型的な逃げですね。
655元祖プラム:2005/05/16(月) 22:01:16
こんばんわ圭角さん

『倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王』
普通に考えれば
(国乱れた為に共立し女王をたてた)
でも、外圧が加わった女王となると
(女王をたてた為に国が乱れた)
そのほうが自然だと思うんですが
656日本@名無史さん:2005/05/16(月) 22:15:42
>649
一大率ってーのは、一つの大率と言う意味だと思うよ。
一は固有名詞の一部じゃなくて数詞だ。
もともと倭語では無く、漢語だと思われるので、そう読むほうが普通。
657日本@名無史さん:2005/05/16(月) 22:24:02
>654
あなたの一大率に対する扱いも逃げと言えなくもない・・・
658日本@名無史さん:2005/05/16(月) 23:01:06
一大率はイワレと読むのだよ。人名だ。
659日本@名無史さん:2005/05/17(火) 06:32:03
だめだこりゃ
6604人目の電波登場:2005/05/17(火) 11:58:09
卑弥呼の死と死後の混乱が、ヤマタイコクを通じて大陸の先進文化に触れた
南九州在住の天皇家の遠祖を日向から畿内に東征(実際は難民だが)させた。
というのはどうよ?隼人や熊襲が蔑まれるのは、この大和における天皇家の始祖が
記紀が書かれた当時の土豪連合国家たる大和政権の反主流に成り下がっていたため
ではないの?
もちろん、難民は山口県・広島県・岡山県・近畿圏に散在していったんだが。
もうひとつ言わせていただくと、出雲族は、出雲大社を見る限り三内丸山の
流れを継ぐ古代の日本海側+中部地方をネットワークで結んでいた、縄文以来
の巨木崇拝民であるだろうね。
諏訪の御柱も出雲族の信仰の名残でしょう(鉄の製法も大まかに分けると大陸
中南部経由のものと大陸北部経由のものに大別されるという)、巨木崇拝民の
勢力も侮り難しといったところだよね。
661日本@名無史さん:2005/05/17(火) 12:23:52
ハヤトが蔑まれる?

態度がでかいんだよ。阿多などの連中が。
662圭角:2005/05/17(火) 13:22:14
プラムさん、こんにちわ。プラムさん提唱の交易重視の視点について少々書きます。
16世紀の世界史で商業革命というのがありますね。新大陸発見の経済的影響で、
地中海沿岸から大西洋沿岸に商圏が移動して、覇権盛衰の契機になった事などや、
交易品の種類、量などが増大したことを、一般には商業革命と呼称していますね。
 さて、近畿が食料生産において北部九州を、三世紀後半から四世紀にかけて
凌駕したとすると、その意義は甚大と思料します。朝鮮海峡と対馬海峡、つまりは、
見解灘と朝鮮海峡という商圏がから、近畿瀬戸内へと商圏経済活動の大きな舞台が
移動したことになります。16世紀のイタリア等が商業革命で衰退しスペイン英国が
興隆しています。その商業革命を近畿の経済面での北部九州の凌駕という視点で
捉えてみるのはいかがでしょうか。食料生産力で近畿が九州を凌駕したとするなら
けして軽視すべきではないことだと思います。
663圭角:2005/05/17(火) 13:34:21
ついでに連投して恐縮です。みなさん、スミマセン。
日本の古代史は、ややもすれば、ナントカ天皇がとかナントカミコトがとか
言及する傾向が強いなとの感想を抱きます。
しかるところ、歴史というものが一個の人物で動き展開するものではないと
私は思っています。つまりたとえば、ナポレオンはコナレオンでもよかった、
つまりは、人はその時代時代が要求欲して登場したに過ぎないと思っています。
卑弥呼も然りと思います。経済背景への論及をプラムさんに期待します。
664圭角:2005/05/17(火) 14:17:55
654さんへ返信します。重ねての連投ですがヒマな時間帯のようですからご容赦。
卑弥呼共立記事の扶余伝高句麗伝との比較について、あえて、お応えします。
諸加国人との主語を以って共立した、高句麗の伊夷摸も、扶余の麻余も、ともに
諸加国人が伊夷摸、麻余共立すという記事の前に、ともにその名が記されているのが
相違点だということですよ。
 倭国乱相攻伐歴年、乃共立一女子、為王名曰卑弥呼
 簡位居立、無嫡子、有子麻余、位居死、諸加共立麻余
 伯固死有二子、長子抜奇、少子伊夷摸、抜奇不肖、国人便共立伊夷摸為王
つまりー、同じ共立でもー、高句麗扶余にはれっきとした後継者が居たと記して
いる訳なんですねー。卑弥呼の場合とは異なるでしょー。
貴殿が、お忙しいと存じてあえて書きました。よくお読みあそばされませな。
それから、貴殿に申し上げる。我輩を逃亡呼ばわりするくらいなら、名を名乗れ、
と要求する。反論するに当方不便。貴殿のカキコに格別に注目できもする。
665むらさぎ:2005/05/17(火) 16:34:17
>>664

もれは654ではないし逃亡よばわりなどした覚えもないが、
「共立がどうの」ってネタはどこかのスレに書いた覚えがあるので
おれのことか? 仮コテつけたよ。

さて、卑弥呼共立の主語がないというが、漢文は簡潔を尊ぶので
多少わかりにくくなっても意味が通るなら省略することもあるでしょう。

倭国乱相攻伐歴年、乃共立一女子

この文章でいうと主語は「倭国」になる。つまり「倭国」という主語は
「乱相攻伐歴年」と「共立一女子」の両方にかかっている。
「乃」と「共立」の間に意味上は主語が入っているはずだが、
その語が前の文の主語「倭国」と同じかほとんど似たような語句だったから
省略されることはありうる。おそらく「国人」とか「倭大人」とかだろう。

それと後継者がどうのというのは、どういうことかな?
卑弥呼という後継者がいたということで問題ないと思うが?
べつに男王の子孫が絶えたとはどこにも書いてないでそ。
666 圭角:2005/05/17(火) 19:19:41
主語が倭国というのは不自然かつ不合理だと存じます。
理由は、国民国家が成立したのは18世紀のことですよ。
その、はるか1600年以上も前に、卑弥呼共立の主語主体を倭国などという概念に
求めることは、理不尽の極みです。
逆に質問させて下さいませ。
倭人伝には、国人という記述はありません。共立主語を倭大人とする推定記事もまた
ありません。さらに、また
其国、本亦以男子為王という記事に対する、むらさぎさんのご見解が当方には不明です。
よろしく、ご教示くださりませ。
667圭角:2005/05/17(火) 20:20:55
まあ、いわゆる、チャットですから、その意味でのお尋ねでございますが、
むらさぎさんの、べつに男王の子孫が絶えたとはどこにも書いてない、という
書き込みも不可解の一語ですねー。
むろん、私の浅学ゆえかもしれませぬが、ここのスレ住人様方へも客観的に
なにとぞ、よろしくご説明の段を、お願いしたく存じ上げます次第です。
668圭角:2005/05/17(火) 20:23:57
むらさぎさんへ。
とかだろう、というご貴殿の常套用語無しで、お願いできれば、幸甚です。
669圭角:2005/05/17(火) 20:33:28
むらさぎさんへ。
ついでに、漢文は簡潔を尊ぶという例示のご教示をも宜しくお願いします。
漢文漢字の碩学大家の白川静先生も、そのようにおっしゃっているのですか。
それとも、根拠のない受け売りですか。
英文、仏文、独文、伊文、露文、漢文などなどのうち、漢文が簡潔を尊ぶという
格別なことをご存知の如き、カキコのむらさぎ様に対し奉り、お尋ねしたい。
670むらさぎ:2005/05/17(火) 21:23:15
>>666
なぜいきなり国民国家がでてくるのか訳がわかりませんね。
倭国の王族または大人層を間接的に「倭国」と表現することは
理不尽でもなんでもない。

>其国、本亦以男子為王という記事に対する、むらさぎさんのご見解

「其国」とは倭国でしょう。「倭国本以男子為王」の意味。
国民国家が成立してないからどうした、というのは何をいってるのか正直理解できないです。

>>667-669
わるいけど馬鹿馬鹿しいのでスルーさせてもらいます。

漢文にかんしては古文漢文板できいてください。2chはいろんな板があるので
適材適所で効率的に使いましょう。
671元祖プラム:2005/05/17(火) 21:51:32
>>662圭角さんこんばんわ
半島交易に無縁であり比較的平穏な畿内では
米作りをするうえで最適な環境です。
この時代まだ試行錯誤を繰り返しながらの米栽培、毎年安定的生産ならびに増産を試みるには、軍事的な不必要な気配り無しで米栽培を行える
畿内は最適な環境と、言えないでしょうか?
半島交易の無い畿内には農産物というカードしかありません。
そのことが(災い転じて福となる)
672元祖プラム:2005/05/17(火) 22:19:36
大和川を共同で利用してきた奈良、大阪地方では
独占するという概念が薄く初期段階、小さな集落が多数ちりばって各々の生活を営んで来たが
共有理念の中、小集落⇒小規模共同体⇒中規模共同体⇒そして大規模共同体(大和朝廷の基礎)へと
規模の増大に伴いマーケットも拡大し、やがて古代経済の中心になる
そうなると、物も人も自然と集まり都市の基礎が出来、政治、経済、文化…etc…が育つ

いかがでしょう?
圭角さん。
673圭角:2005/05/18(水) 15:02:07
プラムさんの言うとおり、稲作生産力で近畿が他の地域を凌駕圧倒したという仮説は
軽視すべきでなく、非常に重大視すべきものだと考えます。
私はそもそも歴史は経済背景を主たる視座とすべきというのが持論です。特に、
歴史が大きく転換するときは、必ずと言ってよいほど、経済が大変動している事実は
世界史においては、十分に重視されているところです。
学生の頃に経済史なる科目を、経済関係学部であれば、通常一般には、どの大学のしろ
履修科目としてあります。つまり、世界史を経済面から高校では学習知見しなかった
範囲を経済の側面から眺め直すと言う意味だったと記憶する次第です。ですから、
プラムさんの仮説を前提にして、日本の古代史を経済的視点角度から、考察する姿勢を
私は高く評価したいと思っています。
674圭角:2005/05/18(水) 15:21:35
プラムさんの視点視座からする近畿大和が古代経済の中心となったという仮説は
大変重大なことですよ。以前も書きましたが、新大陸発見により、それまで
繁栄していた地中海交易が以前より衰退し覇権も移っています。
 ここで肝心なことは、新大陸航路発見ということが及ぼした経済変化変動の
経緯理由に目を向けることかと存じます。
 つまり、16世紀は経済史からすると、いわゆる商業革命、価格革命が起こって
います。商業価格革命という観点を三世紀後半から四世紀初頭の倭国に照射したら
面白い仮説も生じます。
それは、交易は豊かな国を相手にするという特質があり、現在でも途上国の産品は
先進国へと輸出されています。理由は簡単です。途上国に安く売るより先進国に
売る方が高く売れて利益が出ます。
ならば、九州から近畿への鉄器や文物の東漸は当然自然な経済現象となります。
プラムさんの古代経済の中心が近畿大和になったことを立証すれば、もはや、
神話の神武天皇東征や無理の多い騎馬民族説を持ち出す必要が失われます。
プラムさん、いっしょに、これからも勉強させて下さい。
675圭角:2005/05/18(水) 16:01:59
プラムさん、、ひとつカキ忘れがありましたので追加します。
歴史は、普通一般においては、政治、軍事、経済、文化、そして人物で語られます。
ところが、日本古代史は、記紀論者はその殆どが人物になりがちです。
考古学者は古墳や土器のいわゆる文化ですね。
私が従来、古代史において鉄器を重視する理由は、鉄器こそが、政治軍事経済文化の
全てに、深いつながりと結びつきを持つ最有力の史料であると考えるからです。
鉄器は武器、農具、工具となり田畑の開墾にも土木建築にも古墳の作造にも土器を焼く
窯をつくるにももっとも広範に用いられます。
つまりは、政治軍事経済文化の全ての面で作用影響する考古学史料として重視する所以
なのです。鉄器と軍事経済文化は切り離せません。ならば、当然に鉄器は人とも政治とも
結合していくモノという認識でおります。
676元祖プラム:2005/05/18(水) 17:40:01
こんにちわ圭角さん。

圭角さんの援護射撃は大変頼もしい限りです。
学の無い私にとって 何よりの励みです。
経済に関しても学問ではなく、実体験を基にカキコしていますので 多々間違いがあるかと思います。

水は『高き所から低き所』に流れますが
富は『より高き所に吸い上げ』られます。
間違っても低い所には流れません
悲しい話しですが、自由経済とは『貧しい者はより貧しく、富る者は一段と加速する』 これが現実です。
677元祖プラム:2005/05/18(水) 17:55:00
『鉄』は、
圭角さんの申される通り
古代史研究にとって必要不可欠
現在においても、『鉄』は産業の要です。

畿内の経済発展は即ち、九州北部地域の衰退に繋がることは
経済の法則
この流れは、どんな一級文献資料があろうとも、どんな考古学資料があろうとも
けして否定出来るものではありません。
678本田:2005/05/18(水) 21:47:29
>>670 :むらさぎ :2005/05/17(火) 21:23:15
> >>666
> なぜいきなり国民国家がでてくるのか訳がわかりませんね。
> 倭国の王族または大人層を間接的に「倭国」と表現することは
> 理不尽でもなんでもない。

はたしてこの時代に「倭国」は存在したのか?
倭人の国は存在したと思うけど。
存在しないものを前提にするのは、ただの空想だと思う。
そんざいした狗奴韓国、伊都国、鬼国、etcを、
よりどころにしたほうが建設的だと思うけど。
679日本@名無史さん:2005/05/19(木) 02:36:38
九州最大の古墳である「西都原古墳群」で、国内最大級の前方後円墳が発見された。
築造は3世紀中ごろとのこと。

西都原が邪馬台国と確信ある発表がされるのは、政治的にも色々あるし、ずっと先やろな〜。
680日本@名無史さん:2005/05/19(木) 03:01:44
↑これは、本当ですか?
681日本@名無史さん:2005/05/19(木) 03:04:13
<西都原古墳群>国内最古級の前方後円墳の可能性 宮崎
宮崎県西都市の国特別史跡「西都原古墳群」にある81号墳が、
3世紀中ごろに築造されたと見られる国内最古級の前方後円墳の
可能性が高いことが宮崎大の調査で確認された。
奈良盆地とほぼ同時期の前方後円墳の発見により、
南九州までが古墳文化の成立にかかわった可能性が出てきた。
682日本@名無史さん:2005/05/19(木) 03:10:08
これで九州説が完全に有利になりましたね。
683日本@名無史さん:2005/05/19(木) 03:17:50
で、箸墓とどっちがデカイの?
684日本@名無史さん:2005/05/19(木) 03:22:14
箸墓。
685日本@名無史さん:2005/05/19(木) 03:47:51
>><西都原古墳群>国内最古級の前方後円墳の可能性

西都厨が捲土重来して来そうだな。
686日本@名無史さん:2005/05/19(木) 06:11:22
西都論者は、北九州派や畿内派とは違い割かし大人しく見守っています。
687日本@名無史さん:2005/05/19(木) 07:25:19
>685
西都厨なんて世界中でみても二人くらいしかいないぞ。
しかし、宮崎大の年代比定が妥当なら、投馬國の有力比定地が増えたことにはなる。
688元祖プラム:2005/05/19(木) 07:43:38
宮崎平野は温暖かつ広い平野があり
米栽培に適した風土
三方山に囲まれ 近隣諸国と『侵さず侵されず』の関係を保のに最適
豊かな経済に支えられ かなり古くから独自な生活を営んで着たことが想像できる。
だからと言って
古墳一つで『歴史』が変わるとは到底思えない。
宮崎の地は、大和朝廷の政治的影響を受けるまで 独自の生活カテゴリーを営んで来た土地柄だろう。
その根拠として
今度の調査により、幅広い年代に渡り一定の土地に大規模古墳群を形成してきたことが、勢力の侵入、移動が無かった動かしようの無い証明だ。
689日本@名無史さん:2005/05/19(木) 08:59:22
>>678
倭国は存在したろ。倭国というひとつの政治的まとまりとして魏志倭人伝にでている。
690日本@名無史さん:2005/05/19(木) 19:08:09
邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。

1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
 類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
 西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
 (日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
  尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
  9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
  邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
 これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった邪馬台国(大国)の
 所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇および天皇制)による政府の
 組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
  人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。

朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。
691日本@名無史さん:2005/05/19(木) 20:34:34
>>690
まいどまいど
同じ内容のカキコミご苦労さん
ところで
毎回
>早期の発掘調査実施を宮内庁に要請したい。
等と書いているが、何か行動起こしたの?

ただの愚痴ならば
もう止しなよ
692日本@名無史さん:2005/05/19(木) 23:29:23
あれ?西都厨ひさしぶりに精神病院から出てきたんんだね。
693日本@名無史さん:2005/05/20(金) 02:21:31
西都厨とは違う人がコピペで
貼り付けてんじゃないのか?
694日本@名無史さん:2005/05/20(金) 07:36:44
そうだね。
かって猛威をふるった『西都くん』とは、別人のような気がする。
コピペの内容も多少いじってあるが、全体的に粘度に乏しく、
かってのような狂気のオーラは感じられない。
正常人の悪戯だろう。
695圭角:2005/05/20(金) 19:24:45
宮崎でも、前方後円墳の出現期初期のものが存在発見されたということは、実は
実際は、畿内説者にも東遷説者にとってては、実のところは、痛し痒しというより、
悩みの種が増えたに過ぎないことです。なぜならば、
マキムク型前方後円墳は、マキムクつまりは畿内大和が起源発祥であり、大和政権の
拡大伸長とともに、全国に普及したという、いわゆる前方後円墳体制論が崩壊する
端緒となりかねなくなります。
一方、邪馬台国宮崎説の場合は、宮崎説を信奉する人にとっては、神武東征その他に
根拠理由を追加するものだと、お喜びのご様子ですが、事はそれほど単純では勿論
ないのであります。
696圭角:2005/05/20(金) 19:43:18
前方後円墳の初期出現期のものが宮崎にあるとしても、わたしは
弥生時代の方形周溝墓を、その反証に掲げたいと存じます。
前方後円墳にしても、方形集溝墓にしても、墓制に違いはありません。
方形周溝墓の遺跡数の分布は、ほぼ全国に渡っています。
つまり、方形周溝墓の分布を以って、弥生時代の政治権力の統一を説くことは
無意味無根拠です。おそらく、今から先、あちこちで出現期のマキムク型の
前方後円墳が発見されるでありましょう。
そのとき、古代史を前方後円墳に特化する説は、消失するものと予測します。
私のキーワードはマキムク型の初期出現期の前方後円墳が、北部九州にも、
宮崎にも存するということです。
白石博士や石野博士らは、おそらく、眠れぬ日々を送っていることでしょう。
前方後円墳体制論が、まさしく、崩壊しようとしているのですから。
697元祖プラム:2005/05/20(金) 21:05:24
圭角さん こんばんわ

古墳群内の被葬者とは
その土地に生まれ育った地元民で構成されているはずです。
現在に至っても、田舎の墓地は、本家を中心に一族が周りをぐるりと取り囲み
その周りには隣近所の家の墓で墓地が構成されています。
今度のマキムク型古墳が、古墳群とは別な場所にポツンと造られていたのなら
これはちょっと注目に値しましたが
698日本@名無史さん:2005/05/20(金) 21:27:00
文字が無いだけでこんなになやむんだもんな。
文字は偉大だな。古墳作ってるひまがあったら文字つくってりゃよかったんだよな
699日本@名無史さん:2005/05/20(金) 23:13:45
西都原で国内最古級の前方後円墳が発見されましたので
前方後円墳体制論は完全に崩壊しますた。
これで西都原が邪馬台国であった事はほぼ間違いありません。
畿内連厨、御愁傷様です。w)
700日本@名無史さん:2005/05/20(金) 23:45:40
西都原81号墳の築年代についての宮崎大の見解は「3世紀後半」なんだが・・・
701日本@名無史さん:2005/05/21(土) 01:30:58
↑んなもん全然あてにならんよ。
もっとじっくり時間を掛けて良く調べれば、
3世紀半ばに作られた事が分かる筈だw)
702日本@名無史さん:2005/05/21(土) 01:33:49
ちょうど一週間前の今時間に、友達4人で男狭穂塚に登って(侵入・・w)
てっぺん辺りで30分ほど雑談。来た道を戻ろうとしたら、奥の暗闇から
「あい!あい!あい!」(確かにそう聞こえ)と言いながら乞食の様な
格好で2人の男(幽霊!)が5.6m前を駆け抜けて行った・・・
それを一緒に見た仲間一人の「うぎゃぁぁぁ!」という喚き声で
逃げの速攻・・・思い出すだけでも( ;゜Д゜)))ガクブル〜
703日本@名無史さん:2005/05/21(土) 03:03:49
>>702
それは、幽霊などではない。
おそらく熊襲の末裔の野人である。
704700:2005/05/21(土) 09:28:16
>>701
「三世紀半ば」でも構わないが、それだと何か、君にとって都合のよいことがあるのか?
日本列島各地の埋葬様式の画一化が早まれば早まるほど、古代王権の統一時期が早まるだけだぞ(w
705日本@名無史さん:2005/05/21(土) 12:05:08
>>704
巻向は日向の植民地
初代総督は神武
706日本@名無史さん:2005/05/21(土) 12:18:55
しかし、この板には日本語の通じない奴が多いなあ・・・
707圭角 :2005/05/21(土) 13:03:51
今般の西都原の前方後円墳の他にも、出現期の纏向型古墳としては、津古生掛古墳や
久里双水古墳が福岡佐賀に存在している。今後もこれらの古墳が発見発掘される
可能性は高いといってよい。
だから、宮崎が邪馬台国ということに結びつくものではない。記紀の天孫降臨を
科学性があるとか、神武の実在を信じて疑わないとかいう論者は、
宗教もしくは神話のスレに引っ越すべし。
宮崎邪馬台国説を唱えるなら、宮崎は弥生時代を通してもっとも鉄器出土僅少さらには
皆無に等しいという考古学事実を無視し、素通りすることは、不合理を通り越して
卑怯と言って過言に非ず。ご反論あるべし。
708日本@名無史さん:2005/05/21(土) 14:53:06
>記紀の天孫降臨を
科学性があるとか、神武の実在を信じて疑わないとかいう論者

過去のことについてはわからないというのが科学的態度だ。したがって、天孫降臨や神武を事実ではないと否定するのは科学的とは言えない。「わからない」というのが正しい態度だ。

つまり、天孫降臨や神武は実在したかもしれないし、実在しなかったかもしれない。

その真相はわからない。それを天孫降臨や神武は実在しなかったと決め付けてしまうのはまさにオカルト。そういうオカルト論者は宗教もしくは神話のスレに引っ越すべし。
709日本@名無史さん:2005/05/22(日) 01:46:50
神話学ってのもあるのさ。
現実が神話化していくさまを探っていくことは可能なことがある。
なんでもわからないと言っているだけなら、学問など不要。
710日本@名無史さん:2005/05/22(日) 08:18:03
「なんでもわかる」なんていってるやつも
「なんにもわからない」といってるやつも学問じゃなくてオカルトだろ。
でも>>708は「わからないこともある」っていってんだからマトモじゃん。
>>709は「なんでもわかる派」かw
711本田& ◆xOS3wf.pJg :2005/05/22(日) 13:48:11
>>689 :日本@名無史さん :2005/05/19(木) 08:59:22
> >>678
> 倭国は存在したろ。倭国というひとつの政治的まとまりとして魏志倭人伝にでている。

いったい東夷伝倭人条のどこに?
712本田:2005/05/22(日) 13:52:40
>>708
> つまり、天孫降臨や神武は実在したかもしれないし、実在しなかったかもしれない。

神話スレッドでどうぞ。
713曲学の徒:2005/05/22(日) 14:58:26
この人が卑弥呼

 日本三景の一つとして知られる宮津市天の橋立の近くに、籠(この)神社と呼ばれる古い神社がある。この神社に古い系図が伝わる。国宝に指定される『勘注系図』である。

『勘注系図』は初代彦火明から数えて七代目に、六世孫として、次の名を持つ女性を記す。
宇那比姫命、天造日女命、大倭姫、竹野姫、大海靈姫命、日女命である。何れも一人の女性の別名である。
先ず注目されるのは大倭姫である。
地方豪族の姫の名としては不思議な名である。

宇那比姫というのは、幼名または本名であろう。
天造日女命は天下を造った姫という意味であろうか。
竹野姫はこの一族が『竹』あるいは『建』とよばれることによる。
大海靈姫命の『大海』はこの一族の名字である。
興味深いのは靈(ひるめ)である。巫女(みこ)の意味を持つ。
ご存知のように『魏志倭人伝』は卑弥呼が『鬼道を事とし』とする。巫女の要素を連想させる。この名もまた靈姫すなわち巫女姫なのである。
最後は日女命である。読みは『ひめみこと』であろうが異国の人がこの音を『卑弥呼』と書き表しても不思議はない。
天造日女命、大倭姫、大海靈姫命、日女命とくれば、まさに『魏志倭人伝』が伝える卑弥呼である。
あなたはこの『勘注系図』を信じますか、それとも真っ赤な偽系図?。

ここを読んで
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/6-7himiko.htm

ここに反論を書いてくれ。
http://www.progoo.com/rental/tree_bbs/bbs.php?pid=21922
714鴨禰宜:2005/05/22(日) 15:27:12
わー、これは天下の大先生。こんなところにお出ましになるとは。サインしていただきたいところですが
ファンといたしまして、先生の作品に絶大なる賛辞を呈し奉ります。
715:2005/05/22(日) 15:30:02
鬼神道はOKだとして、名前が共通点あるから、類似してるから卑弥呼だというのは早計。
孝安の世じゃぁ時代が合わんよ。
716本田& ◆xOS3wf.pJg :2005/05/22(日) 16:20:39
>>713 名前:曲学の徒 :2005/05/22(日) 14:58:26
> この人が卑弥呼
>
>日本三景の一つとして知られる宮津市天の橋立の近くに、籠(この)神社と呼ばれる古い神社がある。
>この神社に古い系図が伝わる。
>国宝に指定される『勘注系図』である。

近くには卑弥呼の墓と比定される古墳は無いし、
神社の鏡は漢の時代のもので魏の時代の鏡じゃないし、
卑弥呼だとゆう可能性はとても低いと思う。
http://www.motoise.jp/
717鴨禰宜:2005/05/22(日) 17:19:04
この鏡、内行花文鏡、は佐賀県、つまり、ハヤヒワケ国との分有が特徴。
つまりオキツ、ヘツ鏡として渡来したのは安曇族、いわゆる、河内タケルガミネ
に降臨したとされるのはこの地点から上陸し、播磨を南下したものではないか。
結果的には後発のニニギ・ホホデミ神武に天下を取られるというのはアンチ出雲勢力
のクーデターかなー。
718本田:2005/05/22(日) 18:14:48
>>717
神話スレッドでどうぞ。
719鴨禰宜:2005/05/22(日) 18:25:17
記紀の神話と人代を厳密に区別することには意味はないが、記紀を論議せずに
古代史は語れない。つまりじゃ、神代の話を怖がるのは学校だけにして2chでは
自由闊達に論議すべきと言うのが漏れの思想だ。どうじゃ。
720鴨禰宜:2005/05/22(日) 18:45:29
>>717
この元ねたは京大樋口名誉教授のデータであり、籠神社の社務所で売ってるよ。
「元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図」っていうんだ。
721鴨禰宜:2005/05/22(日) 18:49:39
元伊勢には阿蘇の海があったり、近所には竹野があったり、ハヤヒワケ(肥前・肥後)
とは重なる。虹ノ松原と天橋立も偶然の一致ではない。漏れは海人族の移動はあった
と確信している。
722日本@名無史さん:2005/05/22(日) 18:57:38
海人ってのは、もともと移動いまくるもんだってさ。
723鴨禰宜:2005/05/22(日) 19:12:02
>>713 曲学の徒さん
卑弥呼、かぐや姫なんてのはビューティー・コンテストみたいに7人の
ショートリストを選び、カゴメカゴメ式に決めたんじゃないんでしょうか。
神武記にもそんなのがありますね。当時はまだ豪族のパワーもたいしたことは
なかったんじゃないかな。
724鴨禰宜:2005/05/22(日) 19:15:26
>>722 振り飛車論ですね。一理ある。
725日本@名無史さん:2005/05/22(日) 19:26:44
どうでもよいけど
ここは(魏志倭人伝)スレだろう。
何で(記紀)が主役はってんだ?
726日本@名無史さん:2005/05/22(日) 19:31:05
>>711
国語から勉強した方がいいよ
727元祖プラム:2005/05/22(日) 19:37:05
>>721鴨禰宜氏

>虹ノ松原
>>弥生末期の海岸線で虹ノ松原の存在を確認出来ますか?
私は以前、地質学の本を見た時虹ノ松原はまだ海の底だと記憶してますが
私の記憶違いでしょうか?
728本田& ◆xOS3wf.pJg :2005/05/22(日) 20:00:17
>>726 名前:日本@名無史さん :2005/05/22(日) 19:31:05
> >>711
> 国語から勉強した方がいいよ

東夷伝倭人条は、いくら国語を勉強しても正しく読めない。
古代シナ語を勉強しなくちゃ。
729鴨禰宜:2005/05/22(日) 20:05:24
ウワー、うかつなことはいえんなー。あれが海のそこ。志賀島はやばいってことになる。
すると金印は海中か。するってーと糸島半島はまるで笠沙の岬。出雲と似ていたって
事か。・・・元祖プラムさん、負けました。
730本田:2005/05/22(日) 20:11:08
>>721 名前:鴨禰宜 :2005/05/22(日) 18:49:39
>元伊勢には阿蘇の海があったり、近所には竹野があったり、
>ハヤヒワケ(肥前・肥後)とは重なる。
>虹ノ松原と天橋立も偶然の一致ではない。
>漏れは海人族の移動はあったと確信している。

倭の大乱で九州の倭人が近畿にはじき飛ばされたんだろう。
九州は公孫氏や扶余系の勢力が侵略した。
731鴨禰宜:2005/05/22(日) 20:22:23
>>730
元寇を考えればわかることだが、九州と北方系が戦うとすれば戦場は釜山、金海
の海岸となることはあっても、連中がが対馬に上陸することすら難しいと思う。
ケチョンケチョンだな。
732日本@名無史さん:2005/05/22(日) 20:35:30
↑元寇は対馬、壱岐を制圧したし。
元寇が神風(台風)の直撃を食らわなかったら
九州勢は負けていただろう。
733鴨禰宜:2005/05/22(日) 20:36:54
>>730
海人族の東遷の理由は不明だが吉備、河内、大和に水田耕作可能な農地が
出現し、マンパワー等に大きな需要が生じた、渦の中心のようなものが発生した
としか考えられない。
734鴨禰宜:2005/05/22(日) 20:47:21
>>732
時代、内容が違う。元は世界帝国、ベトナム、香港辺りの海上生活者の船舶も
動員できる。それは脅威であったかもしれない。しかし、単なる北方民族なってのは
チョロイと思う。いずれにせよ馬を船で運ぶと言うのは作戦上の誤りだ。あれは座れ
ないし、水とえさが大変だ。史上最大の失敗だろうな。
735日本@名無史さん:2005/05/22(日) 20:49:17
>>728
国語能力のないやつが英語ならっても無駄なのと同じ
736日本@名無史さん:2005/05/22(日) 21:05:39
>>732
歴史にて『たら、れば』は、禁句では
737本田& ◆xOS3wf.pJg :2005/05/22(日) 21:13:27
>>733
>海人族の東遷の理由は不明だが

「倭の大乱」だよ。
738日本@名無史さん:2005/05/22(日) 21:13:31
『たら、れば』を言わせてもらうけど釜山も一日で陥落するんじゃなくて
城から打って出て、水際で野戦に応じて、1、2ヶ月も戦えれば豊臣軍を水上で台風とかで撃破
できたと思うよ。
739日本@名無史さん:2005/05/22(日) 21:19:46
その時の台風が偶然そっち方面へ行っていればね。
740日本@名無史さん:2005/05/22(日) 21:31:27
すくなくとも真水は尽きるよ。
釜山どころか首都まで陥落されている防衛力では夢のまた夢だが。
741元祖プラム:2005/05/25(水) 23:28:50
現在に至るまで水田経営に水争いはつきもので
弥生の九州北部では一層深刻化していった。
玄界灘沿岸に沖積平野は少なく弥生農業(低湿地対象)を営むうえで好条件地が、増え続ける人口に対処出来なくなり『水争い+耕地争い+掠奪』
が頻繁化し、お互い集落同士のいざこざがエスカレートし、やがて大規模共同体同士の戦へと発展
『倭の大乱』に結び付く
742日本@名無史さん:2005/05/25(水) 23:41:13
>>741
橋口達也の論文と松木武彦の著作でも読んだのかい。
今のところそれらを裏付ける充分な証拠は無いよ。
水争いはあっただろうがそれは一つの局面に過ぎない。
戦争によって集落の再編成がなされ、クニの誕生に繋がったという考えは面白いけど
それに対する批判も多いよ。
743元祖プラム:2005/05/26(木) 00:01:58
(玄界灘)に流れ込む川と筑後川支流それぞれ一本一本に小さな集落が南北に余り干渉地域を設けずひしめき存在しています。
自然と上流の集落が下流部の集落を併合する形をとり一本の川を主体にした小規模共同体が出来上がります。
北部九州は、川と川の間隔が比較的狭く隣の共同体と、やはり干渉地域を設けず背中合わせのような形に東西に並ぶように
共同体が出来上がります。そうなると 隣の共同体とは別の水系を使用しているため余り共同意識が無く
いざ、人口増加に対する耕地拡大に、隣の共同体と土地争いの元になる要素十分です。
744元祖プラム:2005/05/26(木) 00:19:44
いいえ>>742さん、まだ拝読しておりません。

北部九州とは対象的に瀬戸内海沿岸地域では、程よく河川と河川の間に
森林や山が存在します。
やはり、河川にそう形で集落が存在しその沖積平野そのものが一つの共同体になってるようで
程よい干渉地帯が共同体毎の争いを遮断しているようで、まだ瀬戸内海沿岸で大きな戦乱跡は発見されていないようです。

(高地性集落には触れませんでした。)
745元祖プラム:2005/05/26(木) 00:44:55
確かに、>>742さんの申される通り
確たる証拠はありません。
>>741でカキコした(大規模共同体)になるまでには>>743の事情により
小規模共同体同士の小競り合いを何度も繰り返せねばならないこともあり
その設定年代もかなり遡らなければならないかも知れません。
ましてや、北部九州においては半島や大陸からの異質なイデオロギーが介在しますので
余計複雑な環境になります。
746日本@名無史さん:2005/05/26(木) 01:12:06
吉野ヶ里ってメインの大規模集落とは別にかなりの広範囲(見た感じ北部平野一帯)で
集落が点在していて、それらは吉野ヶ里を共同体(クニ)として形成していたんだよね。
確かに背振山からの筑後川や有明海に流れる小さな支流はいっぱい存るし
あの辺に限っては土地争いはあっても水争いは無かったように思える。
747日本@名無史さん:2005/05/26(木) 02:07:58
>「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか15)
そんな国は魏志倭人伝に出てきません

「魏志倭人伝」等を読む邪馬壹国はどこですか?
が正解。
やめいこく やばいこく どう読んだかは知らん。
748日本@名無史さん:2005/05/26(木) 02:50:59
↑いまだにこの様な機知外がいるんですねw)
749日本@名無史さん:2005/05/26(木) 02:56:26
無能でバカそうだから>>748は氏んでいいよw
750日本@名無史さん:2005/05/26(木) 03:13:35
>>749
ザコがぁ
751日本@名無史さん:2005/05/26(木) 03:15:00
無能でバカそうだから>>749は氏んでいいよw
752日本@名無史さん:2005/05/26(木) 03:15:47
無能でバカそうだから>>747>>749は氏んでいいよw
753日本@名無史さん:2005/05/26(木) 04:02:33
必死すぎて痛々しい香具師がいるスレはココですか?wwwwww
754圭角:2005/05/26(木) 07:17:38
プラムさん、おはようございます。
おっしゃるように、中国地方は内陸部というか山地に入っても、九州四国のように
険しくはなく、必ず平地がある印象を受けますね。無論、全て踏破した訳ではない
のですが、特徴としてはそのようにいってもよいかと存じます。ところで、
ナイル川の治水には住民の共同労働と、彼らを統率する強い指導者が必要であった
ため、しだいに統合への歩みとその支配機構がととのうことになった、というのは
世界史教科書の記述ですが、ナイル川を大和川に置き換えて読んでも
自然かと思います。弥生時代の集落遺跡の分布が北部九州と大和では、北部九州は
一河川にそれぞれ一つのクニ、に対して、大和川水系にはいくつもの集落遺跡が
あることから、統合支配機構が醸成される条件は地勢的に揃っていたと思います。
私とプラムさんが、土器をフリマ商品と形容してるので反発がありますが、
鉄器にしても本来そうです。ただ、フリマ商品といえどもいわゆる経済力が無いと
流通取得はできないものだという認識理解が欠けておられるのだと存じます。
755元祖プラム:2005/05/26(木) 08:01:49
>>746さん
そして圭角さんおはようございます。
>>746さん
吉野ヶ里の大集落は水争いが無かったのではなく、数々の小競り合いの結果
あのような大きな集落へとまとまったのでは無いでしょうか
ついニ十年程前までは家の近所のたんぼでも、水引合戦はありました。
(ま、武器は持ちませんけど)
756日本@名無史さん:2005/05/26(木) 10:28:04
無能でバカそうだから>>747>>749>>753は氏んでいいよw
757日本@名無史さん:2005/05/26(木) 11:07:58
無能でバカでアホでカスでクサそうだから>>749は即氏んでいいよw
758日本@名無史さん:2005/05/26(木) 16:12:14
馬鹿はスルーでよろ
759圭角:2005/05/26(木) 18:56:44
プラムさん、こんばんわ。
すでにご承知のことと存じますが、吉野ヶ里は佐賀平野の北端の背振山地から南流
する川沿いにあります。私も数回足を運びました。そもそも、当該山地から幾本もの
川が南へと有明海に注いでいますが、高速道が背振山地の南端を東西に走り建設された
ために、吉野ヶ里他の集落遺跡も発見発掘されているという経緯です。
ところで、現在は吉野ヶ里のすぐ横に流れる川の水量は多くはありません。
しかし、それは現代のような水田耕作水利のせいであって、当時は豊かな水量があって
水運水行に多大な貢献をしていた川と推定できます。よって、現在の大和川の支流にも
同じことは、当然に言えます。
スケールの差異こそありますが、支流が多くかつ水系を同じくする地域にて、灌漑や
その他の経済的要求が政治機構を生み出したとする順序思考で可と思います。
つまり、後発の大和が北部九州を凌駕した背景を以上推察するものです。
760圭角:2005/05/26(木) 19:16:55
連投でスミマセン。
土器には、庄内式とか布留式とか、細微に渡り名称があります。
私は不思議でなりません。鉄器には、かくなる細分名詞が無いのです。
たとえば、ナントカ式鉄鏃という名称はありません。
鉄器は重視すべき考古学史料に非ず、と、書込みされた方も多々居られますが、 
学会においても、案外そうなのかもしれませんね。
鉄器と異なり、土器や古墳は、実に実に詳細かつ緻密な分類定義をしますね。
しかし、鉄器においてはそうではありません。
かくなる理由は、その背景に、大和中心主義といういわばイデオロギーが有り
畿内説もしくは大和中心主義に不都合、という理由ゆえと思われます。
地方の、考古学資料館の展示物や学芸員の研究対象にも、鉄器は希薄との印象を
受けます。幾人かの学芸員担当者若しくは研究者は、殆どが土器や古墳を
重視しており、鉄器はそうでもない次第との感想を持ちました。
もっと、フランクにオープンにと望む次第ですが、キリンラガービールと
一緒でしょう。つまり、オレの人生ナンだったのか、ということでしょうから。
761日本@名無史さん:2005/05/26(木) 20:13:42
>>759
>しかし、それは現代のような水田耕作水利のせいであって、当時は豊かな水量があって 
>水運水行に多大な貢献をしていた川と推定できます。よって、現在の大和川の支流にも 
>同じことは、当然に言えます。

こう主張するからには過去の水位についてのなんらかの記録が無いとダメだと思うのだが。
吉野ヶ里集落があった時代の記録が無くても、古代、中世、近世のさ。
せめて工業化が始まる前の記録じゃないと水田稲作が河川の水位に及ぼす影響が分からない。
歴史史料がないなら地質学的な根拠が見出せるとかな。
水田耕作開始以前、開始以降、江戸後期、1945年以降の時点で。
762元祖プラム:2005/05/26(木) 21:32:04
>>761さん
参考にならないかも知れませんが(その1)
当時の気象記録が無いと何とも言えませんので、年間降水量差を(0)と考えます。
稲作伝来以前、川に流失されるべき推量はほぼ100%でした。
そこに小さいながらも水田が出来ると、水田に必要な水を川から引き込みます
すると水田の上流部と下流部では下流部側で水が減少します(蒸発+浸透面積の拡大+保水)
ようするに
水田無し(100)初期水田出現(90)

これが当時の川の水量値(90)です。
763761:2005/05/26(木) 21:50:55
>>762
あぁ残念ながらそれでは全く根拠に成り得ないなぁ。
常に井堰を開放して水を流しこんでいたわけではないし。
気象記録が無くても河岸の地層の状態などから水位が推定可能であり
それが船の運航に適した状態から不適なほどに水量が減ったと実証できないと。
歴史的記録が無いならせめて自然科学で多少なりとも痕跡が無いとね。
というか、もし水運が行われていたのなら中世、少なくとも近世(それも江戸期)に何らかの記録が有るんじゃないの?
郷土史なんかにさ。
764元祖プラム:2005/05/26(木) 22:00:51
(その2)
当時の河川水量を90としました。

1960年日本の水田耕作面積は370万fで当時と比べ減少したとは言えないでしょうし、
この数値は稲作伝来以降最大値ではないでしょうか?
もう一つの原因として、山の植林に原因があるのでは無いでしょうか?
古代の山には雑木が生い茂り、山の保水効果は絶大で常に一定量の水を河川に提供出来ます。
現在の山には、伐採後針葉樹を植林し山の保水効果を激減させ、河川の推量の乱高下を生んでいます。
山に降った雨水が短時間で海に流失し、乾期が続くと河川の水が直ぐ減少します現在は 30位でしょう
765日本史@名蕪しさん:2005/05/26(木) 23:42:36
>>763-764

 三世紀の明確な資料は提示できないが、大和川には立派な水運があった。
 下のウェブページは、田原本付近に幕末近くまで存続した「港」の紹介がある。
 ついでに、大和川水系が現状のようになったのは、累々と続いた河川改修により堆積が進んだためとの説明あるよ。

  ttp://www.pref.nara.jp/kasen/make/yamato_site/furu-asuka/b_keniki/main-b-2.html
766圭角:2005/05/27(金) 07:19:46
当時の 河川の水量が現代より多かったのは常識内のこととだと思います。
現に、自分が子供の頃に比べても工業団地や造成その他で森林が伐採され、保水量
流量ともに、九州の田舎の河川でも減少していることは明らかです。九州の鉄器が
発掘された遺跡の資料館に勤務する学芸員に、其の遺跡の横の河川の昔の水量について
尋ねたところ、水田も当時は僅少かつ保水森林も多かったことから、古代の河川の
水量は多かったのは当然です、という会話をしたことがあります。
江田船山古墳は、ご存知でしょう。この古墳は菊池川の下流域にありますが、遺跡は
川の岸辺に在ります。周辺は山がちな地形ですから、通運が河川に依存していたこと
明白です。現在の大和川の支流を詠んだ万葉集の歌にしても、当時は現在より水量は
豊かであったということの十分な証です。
大和川の特徴は支流細流の多さです。それは地図の上でも歴然としています。私は
現地にいったことがないのでしりませんが、実際はもっと多いのでしょう。細流が多
ということは、極めて稲作好適地ということです。まして湧水が多ければ最適です。
767圭角:2005/05/27(金) 09:48:36
プラムさん、以前プラムさんが大和は北部九州と異なり戦乱もなく、安穏とした
農業生産生活にいそしんでいたと書かれていましたね。それそれ。ものすごく、
良い着眼点だと、今になって、いまさらに、感心します。
プラムさんの着想から、大和纏向の出現期古墳の代表格の箸墓古墳の規模の大きさも
おのずと自然に、理解が容易となりますね。当時、西日本一帯に流行していた出現期
の前方後円墳のうちで箸墓古墳が大きい理由は、奈良盆地の農業生産力の他に、実は
邪馬台国があり戦乱が打ち続いていた北部九州と違って、安穏安定平和だったからこそ、
大規模な築造も可能だったのではないでしょうか。
なんとなれば、畿内説者には皮肉なことになりますが、箸墓古墳の巨大さは、逆に
戦乱が続いたと記す倭人伝からして、畿内説を否定することになります。
いかがでしょうか。ご返信を期待します。
768日本@名無史さん:2005/05/27(金) 10:52:23
無能でバカでアホでカスでクサそうだから>>749は即氏んでいいよw
769日本@名無史さん:2005/05/27(金) 12:29:29
山田宗睦氏の『魏志倭人伝の世界』を呼んだんだけど。
1.里数は短里(約72mほど)を採用。→まあ、対馬海峡の幅を考えると納得。
2.年齢は2倍年暦を採用。→魏志倭人伝や、日本書紀(前半部分)の登場
人物の寿命が長すぎるので、あり得なくもない。別の本で読んだが、太平洋
赤道直下の地域では季節が判別できないため、最近まで風の吹き方で暦を
カウントしており、それが半年単位だったそうだ。また、旧約聖書の登場人物
が、前半部分で以上に長寿(百年単位!)なのは月暦や半月暦を採用してい
たから、というのもどこかで読んだ。
3.名称は「邪馬壹国」を採用。→原本を知らないので良く分からない。原本
で「壹」になっているなら、氏の言うように「壹」から「台」への改変は不当。
4.邪馬壹(台)国=北部九州説を採用。→距離などからすると納得。

 まあ、大体納得できるんだけど、散々「畿内説」の学者を論理的に追い詰め
ていながら、一点だけ自身が嫌っているはずの あからさま「改変」を行ってい
る。それは、「東南に陸行すること五百里、伊都国に至る。」の解釈。
 氏は陸行の経路を無理やり唐津湾沿いに捻じ曲げて、伊都国を現在の
糸島半島だと主張する。でも、松浦から見ると糸島半島は東の方向にある。
それに対する氏の説明は「松浦を出発したときは東南の方向に進んでいた
から、その後で左に曲がったとしても問題は無い」というもの。
 おいおい・・・あんたが姑息な改変をしてどうする?
素直に文を読めば、松浦から東南の方向に500里(約36km)、松浦川→厳木川
の流域伝いを進めば有明湾岸一帯に出る。
770元祖プラム:2005/05/27(金) 12:31:10
圭角さんこんにちわ

確かにその通りではないでしょうか
巨大古墳造成というのは、その集落にとっての一大イベント
近郷集落並びにその他大勢の協力無くして成し遂げられません。
常に緊張感漂う土地柄だとすると、長期の土木事業などする暇などありません
せいぜい砦の増改築ぐらいがいいとこでしょう。

大和並びに河内の巨大古墳造成とは、一種の『古墳博覧会』ではないでしょうか
ただ、今の半年博覧会とは違い、かなり期間が長いようですが
771日本@名無史さん:2005/05/27(金) 13:03:46
>里数は短里(約72bほど)
>はぁ?72b?
どこが『約』なの?
もっと正確に数値化したかったの?
>そのオッサン頭変だよ
>その本 『たま出版』か?
>そのオッサンまだ言ってねぇーか
『1999年7月に、空から…』って
772日本@名無史さん:2005/05/27(金) 14:10:17
↑お願いだからバカは死んでくださいw
773サガミハラハラ:2005/05/27(金) 19:24:40
1里は67.5mです。周の単位がそのまま残っていたのです。
774日本@名無史さん:2005/05/28(土) 17:44:04
倭人伝、正始四年朝貢記事中の”掖邪狗等『壹』拜率善中郎將印綬”
この『壹』を『臺』に変えると『臺拜』、『臺に拜して』と読めないか。
『壹拜して』と書くよりもすんなりした文章だと思うのだが。
775鴨禰宜:2005/05/28(土) 18:28:05
佐伯は、『壹拜率善中郎將印綬』を『壹(みな)、率善中郎將の印綬を拜す』
と訓じている。[2]確かに壹には“皆”という意味があり、なるほど、という気はする。
・・・一様にって感じがするね。
776圭角:2005/05/28(土) 19:17:57
カモネギさん、またお会いしましたね。こんばんわ。
 ここは、魏志倭人伝等を読む、というスレですよね。
この、等、というのが、なかなか意味深長でいいですね。
このスレは、タイトルからして、文献史学的に邪馬台国の所在地比定が
主題のスレと心得ます。
 ところで、カモネギさんの邪馬台国はどこですか。答えてください。
貴殿とのちのち論議する上で便利であり、大事なことだと思いますゆえに。
むろん、小生もその比定地を先に言うのが礼儀と存じますので、書きます。
 小生は八女と推定しています。ご討論、楽しみに待っておりまする。
777鴨禰宜:2005/05/28(土) 20:27:27
邪馬台国は纒向ですね。魏志は投馬国の丹後イネ辺りに到着若狭近江山城と
投馬国を南下、邪馬台国、大和の国に入ったのでしょう。帰路は大和川を下り
瀬戸内海を関門に向かい、伊都国、壱岐、対馬経由釜山、海路ピョンヤンの方
に向かうと思います。これは魏の建国以来辺りからのことでして、後漢時代の
邪馬台国はやはり甘木朝倉の付近だと思います。八女はヤマイ国と言う独立
した国でいわゆるヤイミミが統治していたものでしょう。これは後の肥後、熊本
県となるのだろうと思います。
778鴨禰宜:2005/05/28(土) 20:32:02
しからば北九州の八幡は邪馬台国とは違うのかと言われるとちと困るのですが、
九州の邪馬台国も九州内部での東遷があったと考えてもいいのかなーなんて
考えているんですが。
779鴨禰宜:2005/05/28(土) 20:52:33
鉄器なんかの分布状態から見るとヤマイ国が独自の外交・貿易を展開、これって、
五島列島・済州島のコースもありますから、このデータが中国側乃至は帯方郡に
残っており、魏の大和地方への渡航記録作成の際丹後から大和への南下の距離と
ヤマイ国の位置とを一緒にしたと言うこともありえるのかなー。
780元祖プラム:2005/05/28(土) 21:37:17
鴨禰宜さんこんばんわ

今更
邪馬壹國は九州北部にあったなどと言っても
『釈迦に説法』でしょうから 比定地論争は避けたいと思います。

一つ質問よろしいでしょうか?

>何らかの事情で九州から大和に移転した邪馬台国
後にマキムクに王都を築き後に大和朝廷

>>なんかあまりにも出来過ぎじゃありませんか?
邪馬壹國は『魏書』に登場する地名、その他の地名は『記紀』に登場すると見受けられ
ただ、都合の良いように点と点を繋いでいるように感じられるのは
私だけでしょうか?
781日本@名無史さん:2005/05/28(土) 21:54:40
邪馬台国の卑弥呼を祭ったのが九州にあるんだよな。
で、大和に天照を祭ったとされるのは、ただ移転したに過ぎないモノ。
元々は九州なんだから、やはり邪馬台国は九州じゃない?普通に。
782日本@名無史さん:2005/05/28(土) 22:05:40
>>781
>邪馬台国の卑弥呼を祭ったのが九州にあるんだよな。
なんのことだ?
783769:2005/05/28(土) 22:21:57
>>776
 経済を支配するなら、久留米付近に市(いち)を置いて南側の高台から
睨みをきかせるのが一番美味しそうだね。
784日本@名無史さん:2005/05/29(日) 00:44:09
>>782

たぶん、宇佐神宮の比売大神の事だろ。
785鴨禰宜:2005/05/29(日) 08:31:50
>>780 元祖プラムさん、おはようございます。

私は纒向時代はにある程度の記紀と共通する名称を求めるとするとヤマタイ
とか、ニキとかですね。ニキ、シマコ、ヘツコ、一大卒辺りがその前の時代の
状況をかすかにとどめ、また、東へ行くと、百里で不彌国につく。官は“多模”、
副は“卑奴母離”である。千余家がある。 と言うのもあまりにも詳しすぎる。
この辺には前の時代の歴史が残っていて当然だと言う感じですね。
その他の地方については投馬国の人口が多すぎるという点も不思議です。
私は邪馬台国には九州の神話は纒向時代には伝えられられず、主として
出雲神話が伝えられ、九州神話が伝わったのは仲哀の死後辺りかなって
思っているんですけど。

786圭角:2005/05/29(日) 09:06:56
マキムクが邪馬台国ではなかったという明白な証拠がある。
それは、箸墓古墳造営の以前にも石塚古墳他五つの百メートル規模の古墳を
造営築造していたことだ。
 こう書くと、意外なことと受け止めるだろうが、簡単明瞭だ。
 陳寿の記事を読み返すとよろしい。
卑弥呼共立以前の記事。狗奴国との交戦の記事。男王更立後の争乱記事。だ。
邪馬台国がマキムクならば、常に軍事的緊張継続のさなかに、
みんな集まってエーンヤコーラと、のんびり安穏に築造作業にいそしめるはすが
ないことは、明らかに明らか過ぎることである。
787日本@名無史さん:2005/05/29(日) 09:10:40
>>786
無茶苦茶言っとるな。
自分の都合のいいように解釈しているだけではないか。
788鴨禰宜:2005/05/29(日) 09:30:01
纒向建設に集結した各地首長は完成帰国後領民に対し、「わが命は大和のオロチ
を退治」、「大和を制圧し、神の女と交わられ」とか、「不遜な隼人の王を切り殺して
王となり」とか、要するに、自国首長が天下の王となったと言う話を聞かせたのでしょう。
三角縁神獣鏡の家元制によるありがたい配布が始まり、大和タケル、四道将軍
による宣伝活動の効もあり、多少神話の共通化ということもあったが、日向、上越、
出雲などの僻地では頑固に自国の自慢話を維持したところがあり、5世紀ごろになると
そうした話が実話でないかと考えられ改めて朝廷に採用されたと言うのが実際だと
思います。
789元祖プラム:2005/05/29(日) 09:51:23
鴨禰宜さんレスありがとうございます。

早速ですが
>>788
>マキムク建設に各地の首長が集まり

>>ちょっと待って下さい各地の首長が自国を留守に出張するのは
中央集権の確立された証拠になります 箸墓が三世紀と言われますので、それ以前に中央集権が存在した事となりますが
まずそれは無いでしょう
790鴨禰宜:2005/05/29(日) 09:56:35
その通り。箸墓以前に中央政権はありません。私の間違いは各地首長といったこと
にあります。ちょっと陳寿かぶれをして中国的、中華的な馬鹿の壁をしました。各地の
酋長程度に訂正いたします。
791鴨禰宜:2005/05/29(日) 10:00:34
4-5世紀に朝廷軍はクマソ討伐のため日向に入り、高千穂の岩戸神社で
神楽を聞きながら酒宴の接待を受ける。そのときにアマテラス、神武の話が
語られたとき、それは現代人であっても同様でイチコロで神々の存在を信じたと
思います。
792鴨禰宜:2005/05/29(日) 10:09:08
そこで語られたかもしれない筑紫のヒムカの国、オノゴロ島、笠沙の岬とは
多分前原付近、平原遺跡付近の光景のことであったはずです。
793元祖プラム:2005/05/29(日) 10:13:15
いえいえ鴨禰宜さん

規模の問題だけで
あながち否定出来ない所も多々あるかとおもいます。
その中央集権の範囲を大和川流域と集約すれば
かなり現実実を増すことかと
奈良盆地という
特殊な土地で行われて来た中央集権に向けての
プロローグとお考え戴ければ

でも、なにぶん『チラシの裏』から
出世なき住人の意見ですので お聞き流しを。
794鴨禰宜:2005/05/29(日) 10:24:27
すっかりイエスマンになりますが、池上曽根遺跡、鬼虎川遺跡、唐古・鍵遺跡
等の基盤の上に庄内土器が生まれ、弥生が終わると言う大筋の流れと、倭国乱
的な北方投馬国の影響の下に纒向が生まれる大きな力が生じたと思います。
795元祖プラム:2005/05/29(日) 10:50:15
私がどうしても理解出来ないのが
『魏書』と『記紀』の合成なのです
『記紀』については
その信憑性はともかく(神話にしろ事実にしろ)古代日本の様子を書いた書物ということは理解できますが
『魏書倭人』に関しては、正確に言うと、まだ邪馬壹國の比定地すら解らないのが現実です。
ま、文献検証を行う場合二つの文献の整合性を見る事が筋でしょうが
796鴨禰宜:2005/05/29(日) 11:40:14
魏志倭人伝は日本古代史の極めて重要な部分のスナップショット。
記紀は総合的な神話、伝承の集合体。これらの整合するところこそ
万人が探しているところだと思います。私も自分なりに解読をしていますが::
帥升、一大卒、襲津彦、権の帥、
ニギ、ニギハヤヒ、ニニギ
島子、ヘツコ・・・玄界灘防衛指揮官
サイシウエツ、壱岐のサシフツ神社
ナシベ、生部(銅精製業者)
トシゴリ、十市の鋳型業者
ヤヤコ、弥彦
クガチヒコ、久我(山城)の長
卑弥呼、ヤマトトトビモモソヒメ
ミマカキ、ミマキイリヒコ
ミマシ、御座
ナカテ、中津彦
イキマ、イクメイリ彦
投馬国、丹波国
こういった線で考えているところです。
本来九州にあったと考えられる鏡つくり、豊前等も通過しているようだが、
これが倭人伝当時は吉備(ナシベというのは吉備に残る)、大和に移動している
感じがする。これは工人の移住を伴うものであったと思われる。鏡は既に
伊都国においても王権を意味していたようなのでその生産地には王権があった
ことを物語ると思います。
797圭角:2005/05/29(日) 13:39:09
横合いから割り込みまして失礼します。
 王権と政権は別々のものだと思料しますが、他のスレでも混同して用いられて
混乱しているようですね。
 それから、仮説の意味の取り違えが多くて困惑するときが多々です。
そもそも、現時点では日本古代史はいまだに仮説の段階です。むろん、仮説といえども
根拠史料に基づき、説得力と合理性は非常に重要です。
 ですから、ある仮説に反論する場合も同じくそれらが求められます。
そうでないと、つまらないものになりますね。
798元祖プラム:2005/05/29(日) 13:53:39
鴨禰宜さんの研究には頭の下がる思いです。
でも、
そのレスに対して、反論も同意も出来ない閉鎖的なものです。
『記紀』の内容には
例え話が多く含まれ
取り扱う人によって、千差万別です
『紀』に登場するマキムクは もはや別物で
今は考古学上のマキムクです
そのように、すべて変化してくれればよろしいのですが 今の所何ともはや

肯定したり否定したりしながら意見交換をしたいのですが
799圭角:2005/05/29(日) 14:05:02
寺沢氏は、卑弥呼の死後の争乱は早期に終結し極めて小規模限定的な争乱で
あっただろう、と記しています。
 そのように氏が記す所以は
戦乱や軍事的緊張が連続していれば、巨大な箸墓古墳の築造は困難不自然不合理
となるからですよ。
 ついでで失礼ですが、カモネギさんにもプラムさんにもご見解を承りたいです。
800鴨禰宜:2005/05/29(日) 15:04:56
この2chでやれることは思考実験、論理的矛盾の追及、黙視される事柄の
引き出しなどです。例えば、神話に銅鐸が出てこない理由としては、神話の
舞台が銅鐸圏ではない、九州であったことまたは銅鐸時代の後のことであること
を意味します。神話で鏡を作る話が出てきますがそれは近畿だとすれば邪馬台国
時代、九州だとすれば平原遺跡の直前の2世紀末ということになりましょう。崇神の
代に鏡の試作品を作っていますから、工人の移動の終了したのもその頃と推定
できます。

崇神は短命に終わったことが示唆されています。あまりは早く死なれると古墳が追
いつかなくて困ります。同僚イクメイリ彦が天皇代行をやったりしたのかもしれません。
801本田& ◆xOS3wf.pJg :2005/05/29(日) 17:44:38
>>796
> 魏志倭人伝は日本古代史の極めて重要な部分のスナップショット。
> 記紀は総合的な神話、伝承の集合体。これらの整合するところこそ
>万人が探しているところだと思います。私も自分なりに解読をしていますが::

記紀について書くときには、どうぞ、神話に登場した人物を、
歴史上の人物に比定しから、書いてください。
802高校生:2005/05/29(日) 18:05:04
ここら辺の人たち頭よすぎ&色々知りすぎです。
みなさん何者?ただ歴史が好きな一般人には見受けられないのですか・・・
803元祖プラム:2005/05/29(日) 18:28:48
>>802高校生さん
いらっしゃい

私は『厨房』で『チラシの裏』認定のプラムです。
ここの住人さん達は私を除き皆さん博識の方達ですので
色んな疑問点ぶつけてみては如何でしょう。
804圭角:2005/05/29(日) 18:38:19
本田さんへ。
 わたしも同感です。同意します。
私は、井上秀雄氏の次の説を支持しておりますので、記紀偏重に違和感を
禁じ得ません。氏の記述を記します。
 日本の古代史研究者の中にも、記紀の神話をとりあげて、日本の原始社会を
解明できるとする者がいるが、神話はあくまで記紀編纂当時の思想信仰を示す
ものとしなければならない。仮にその記述の中に前代の政治状態や社会組織に
関するものがあったとしても、それはその時代の理想や現実によって改変され
付け加えられ、原形をとどめないまでに変えなければ、長い間、伝えられる
ことはできなかっただろう。
805本田:2005/05/29(日) 18:56:57
>>799
>戦乱や軍事的緊張が連続していれば、
>巨大な箸墓古墳の築造は困難不自然不合理となるからですよ。

巨大な古墳でもピラミッドと違い、
古墳に近い自然の地形を利用できれば、
そんなに労力はかからないんじゃないのかな。
806本田:2005/05/29(日) 19:03:23
>>800
つまり記紀の神話の成立は古墳時代以降で、
弥生時代以前にはさかのぼらないとゆうことですね。
807元祖プラム:2005/05/29(日) 19:09:21
>>805本田氏こんばんわ
しかし
マキムクの古墳群は
自然の地形をうまく利用したようには見られませんが
箸墓等は特に
808本田:2005/05/29(日) 19:35:58
>>807

>U.調査の概要
> 調査地一帯は6世紀代の旧巻向川の氾濫によって大きく削り取られていましたが、
> 茸石を伴った渡り堤、周濠、外堤状の高まりなどが確認されています。
http://www2.begin.or.jp/sakura/hasihaka1.htm
809元祖プラム:2005/05/29(日) 19:57:23
本田氏
いつもながら、資料提供感謝します。
後日ゆっくり腰を据えて考えてみます。

私は、
寺沢薫氏の『王権誕生』253ページのイラストをソースにしました。
結構参考になりますよ
810本田& ◆xOS3wf.pJg :2005/05/29(日) 20:01:34
>>799
>戦乱や軍事的緊張が連続していれば、
>巨大な箸墓古墳の築造は困難不自然不合理となるからですよ。

また、近畿は九州と比べて後進地帯だと思うので、
まだ焼畑農業が主流で定住は難しく、
領地争いはナンセンスに近かったと思う。
811鴨禰宜:2005/05/29(日) 20:10:03
>>806
ホウ製鏡製造神話は古墳時代直前、つまり平原遺跡建造の頃より早くはなく、
その場所も平原遺跡周辺を舞台とするものと考えられ、神話の当事者を平原遺跡
被葬者に関係付けるとすれば、平原遺跡において巨大な柱を礼拝していた女王は
タカミムスビをまつるアマテラスと考えるのが自然。するとスサノオがスキャンダルを
起こした機織工房などもこの遺跡から遠からぬ場所にあったのではないかといえま
すね。
812鴨禰宜:2005/05/29(日) 20:25:52
岩戸神話はストリップショーなども入った盛大なショーですが、演出はオモイカネの
命とされています。天然の人間の入れない磐の割れ目と鏡、矛を使い割れ目の彼方に
潜む太陽の神から鏡に太陽光をいただき、地上に日光を取り戻す。であるからその
おかげを受けるものは神にお賽銭と言うか、税金というか、を支払う義務がある。
実に合理的で見事な儀式ですね。これがオモイカネノミコトの発案とされ、伊勢神宮
にもアマテラスと一所に祭られている。ドクター中松どころじゃない。ところがこのオモ
イカネノミコトは根っからの技術屋さんであり、晩年は岐阜県のほうで祭られるようです。
土光さんのようですね。
813鴨禰宜:2005/05/29(日) 20:39:42
太陽の死とは日食でしょうが、人間である平原の女王の死であったのでしょう。
女王の亡き後そのカリスマをどのように発展さすかで、先ずはその神格化、
伊勢神宮的な宗教活動がありますが、その鏡の破片を分配すると言うアイディア
から鏡分配による国家の運営構想が生まれたのでしょう。もちろん、銅鐸原料の
積みオキガあるなどと言う秘密情報も握っていたことでしょう。それらを利用し
鏡分配国家建設のアイディアをもってオモイカネの命の集団は東に向かったのだと
思います。
814鴨禰宜:2005/05/29(日) 20:50:23
出雲、河内などの銅鐸原料備蓄部族は鏡によるシステムには徹底して抗戦する
構えを見せインゴットは呪いをかけて剣に鋳造し秘匿したのでしょう。崇神はこれを
摘発しようとして暗殺された可能性がありますね。
815太国:2005/05/29(日) 20:51:06
>>812
古文献のどこに、岩戸開きの時に税金とかを払う義務が記述されているのか?
816鴨禰宜:2005/05/29(日) 20:54:31
調読みの命、調神社は何のためにあるかを考えてみよ。
817鴨禰宜:2005/05/29(日) 20:56:13
記述よりも自分の頭で考えるのが大事なんだ。
818日本@名無史さん:2005/05/29(日) 21:02:00
でたぁ…
せっかく荒れないでレス進行していたのに
これで 壇君登場したらどうしよう。
819太国:2005/05/29(日) 21:06:46
10年位前に、古書探しのついでに埼玉県の調神社あたりに来たので参拝させてもらった。
いい神社だ。崇神、仁徳の世は徴収はあっただろうが、岩戸の時はそういう事は有ったのかい??
820元祖プラム:2005/05/29(日) 22:53:02
鴨禰宜さん

鴨禰宜さんのレスによく登場する『アマテラス』さん!
この人誰なんですか?
実在の人物でしょうか?
いつの時代?

想像無しで説明願いたいのですが
そろそろ考古学的な観点を交えて『アマテラス』の説明お願いします。
反論レスも入れられず、会話にならないのです
821鴨禰宜:2005/05/30(月) 06:22:59
アマテルは対馬から出雲の神々の集会に赴き、君臨したと言うのが対馬アマテル社
の伝承。場所的に細烏女伝承に近く、息長大姫大目尊との関連が深そう。これは香春
にまつられているため、細烏女はアカルヒメ同様弁韓進出倭国集団のシャーマンと考
える。細烏女は北部九州を治めたもの、アカルヒメは河内・葛城方面の部族出身。
アマテルはそれが過渡的に対馬にあった状態であり、出雲経由倭国全体、つーか、
裏日本安曇海人族全体に君臨したもの(もちろん海人族の守護神としてだろうけど)
と見るのが妥当かな。神々の足跡を考古学で追求と言うのはそうした宗教活動の
足跡を見るということで重要なことだと思います。漏れは神奈備さんの情報に多くを頼る
ものですが、寺沢さんの出雲荒神谷青銅器に刻まれるX印の意味とかの考察も
深い興味を持っています。ちょっと脱線しましたが、後漢が楽浪海中の広域海洋勢力と
してその中心に金印を授けた頃が倭国女王の最盛期だと考えています。この頃、新羅
脱解王も丹波からスカウトされていますからね。スサノオとの腐れ縁は採鉄事業で
現地雇用していた月支系の人間かなーって感じ。
こうして自由奔放に推理を進めると、倭国乱、纒向東遷の謎の一つは銅鐸用の青銅器
資源を鏡製造に転用し国家建設に利用しようとするものと、これに対する抵抗と言う
対立軸で天孫と地祇、出雲と九州の対立が生じたと言う一つの仮説に到達します。
さて、この仮説は石上神社を発掘すれば銅剣が1000本出土するであろうと言う予測
を生みます。当たっているかな。
822鴨禰宜:2005/05/30(月) 06:42:17
しからば、アマテル時代から平原女王時代まで一人の女性が連投したのかなんて
こともありましょうが、この女系時代と言うのは綿々と藤原時代とか平安時代まで
続きますかrね。
823鴨禰宜:2005/05/30(月) 06:44:55
>>819
たとえ話だ。アマテラス、天皇が田植えをなさる。かれ、汝臣民は舎利がはめるんじゃ。
824鴨禰宜:2005/05/30(月) 06:46:49
仕切る、島などという古い言葉がアングラ世界に残る。正月の前には盛り場で
商売する。これっていうのも不思議とは思わんか。
825鴨禰宜:2005/05/30(月) 06:53:52
伊勢神宮でアマテラスが一人じゃ寂しいとおっしゃられ、トヨウケという神が勧進される
が、この辺の改革意識と言うのはたいしたものだと思う。アマテラスを拝むだけでは
理由がよくわからない人間のために天の恵みで食料が得られる、そのことに対して
朝廷に義務をおっているんだぞということを明示する意図だろう。
826鴨禰宜:2005/05/30(月) 07:13:41
ちょっとうろ覚えになるんですが、宇佐神宮と言うのは本来あった神様が神功 、
タケシウチにすりかえられているとのことだが、これってひょっとして伊勢に行ったの
かな。伊勢は丹後から来たってことにはなっているが。
827鴨禰宜:2005/05/30(月) 07:56:32
アマテルにタラシが付区とてアマタラシとなる。タラシには帯の意味があるが
印綬と言うのが帯だ。
http://www.tabiken.com/history/doc/B/B190C200.HTM
アマテルは印綬を受けておらず、印綬を受けて後でアマタラシとなったとすれば
それはAD57年のこととなる。
http://museum.city.fukuoka.jp/jb/jb_fr3_02.html
828鴨禰宜:2005/05/30(月) 08:00:49
平原女王が没するのはAD200年の頃、アマタラシから150年ほど後のこと。女性は
長生きしたとしてもアマテラスは3-4人はいた計算となる。
829鴨禰宜:2005/05/30(月) 08:02:28
というと平原女王は単なる女王であり、既に神となったアマテラスを祭っていたとする
のが順当かな。
830鴨禰宜:2005/05/30(月) 08:08:32
養蚕というのは冬場の高温を必要とするのだが、熊本地方に石で部屋をあっためる
と言った伝承があり、アマテラス、細烏女などと言うのは吉野ヶ里、熊本あたりに
工房があったとするのが自然。
831鴨禰宜:2005/05/30(月) 09:05:29
天帯大姫神(アマタラシオウヒメカミ)と言うのが楽浪東方海域の大王の御名であり、
オウヒメにおかれては親しく辛国のフツタタラ(ホトタタラ製鉄産業)を監督遊ばされ
たが、その宝に限りあることを見極められ、あまたの工人をしたがえて、筑紫の香春
に降臨された・・・こういうのが原型であったのではなかろうか。
832鴨禰宜:2005/05/30(月) 09:14:27
当時の朝鮮族は楽浪の隷属下にあり、倭国大王領内に逃亡してくるものもあったであろ
うが、寒村程度のものでしかなかったと思う。倭国とは渤海湾の東部以東を専管海域と
する海人族で、その拠点が伊都国にあったと考えるのもよかろう。
833鴨禰宜:2005/05/30(月) 09:20:11
捕まれば楽浪郡に殺されるから倭人に化けたり、倭人の振りをする朝鮮族も
多かったのではなかろうか。
834鴨禰宜:2005/05/30(月) 09:30:54
ジャー、アマテラスがチョンのなりすましではないことを考古学的に証明しろと言われ
ると、それができれば2chではなく本にして売れるよと言いたいところではあるが、こんな
ことは推測の話であり、マー皆さん気楽にマターリ。
835鴨禰宜:2005/05/30(月) 09:53:05
あまりにもの連投でコッパズカシくなったので、倭国女王と製鉄に付き、河岸を変え
三輪山のスレに移行します。
836元祖プラム:2005/05/30(月) 12:36:30
鴨禰宜さんごくろうさん

>>825のレスに一言
>天からの恵みに感謝

>>この『感謝の気持ち』(他力本願)が確立されたのは
浄土真宗の開祖 親鸞上人じゃなかったっけ?
間違っていたら スマソ

もし正しかったら
いくらなんでも『アマテラス』に結び付けないでよ

余計解らなくなるから
837鴨禰宜:2005/05/30(月) 13:28:46
>>836 元祖プラム さん、おはようございます。

朝廷への納税義務意識を徹底さすためアマテラス一柱では馬鹿な人は意味が
解からないんじゃなかろうか、トヨウケというのをおくと多少は馬鹿でも解かるんじゃ
なかろうかといった大和朝廷内部の論議があったのかなー、頭の悪い人用につけ
たのかなってな感じ。

838鴨禰宜:2005/05/30(月) 13:34:13
それとも宇佐神宮で豊の女神の能書きを聞きこんだ暴れん坊天皇が、おい、これを
伊勢に移動して、ここには俺のご先祖を置いてご由緒は一切ご先祖に付け替えちま
えとおっしゃられたのか。
839鴨禰宜:2005/05/30(月) 13:42:53
当時は神話は九州にあり、天皇の素養なんていうのは河内のおっさん、奈良の
おっさんであり、九州なんかへ出てゆくといわれるがままに全てを吸収したんじゃ
なかろうか。
840圭角:2005/05/30(月) 16:21:03
五百年の時空を越えた記紀による、邪馬台国や卑弥呼の考察は無理ですよ。
仮説というより、臆説もしくは、あてずっぽう、もしくは判じ物の世界ですね。
今から四百年前に生きた宮本武蔵にしたって、たくさんの謎がありますよ。
徒労という言葉が思わずよぎる次第です。
いつかも書きましたが、歩み寄られませんか。
待っていますよ。
841元祖プラム:2005/05/30(月) 17:37:02
圭角さんこんにちわ
鴨禰宜さん、返レスありがとうございます

>>837-839のレスは
今までのどのレスよりインパクトありましたよ。
内容の真偽はともかく、歴史何て案外そんな一面も有るんでしょうね

学問板だから『襟を正して』と しなければいけないところでしょうが
私は大好きですよ
鴨禰宜さんみたいな考え方や表現方法。

>>840圭角さん
如何でしょうか?
842鴨禰宜:2005/05/30(月) 18:09:11
>>840 >>841
圭角さん、プラムさん
ありがとうございます。他のスレでもまとめるようにとの要請があり、ちょっと、
三輪山スレに行ってきます。ではまた。
843元祖プラム:2005/05/31(火) 01:08:24
『混一疆理歴代国都之図』1402年李氏朝鮮で作製
李 沢民の「声教広被図」と僧清の「混一疆理図」を合わせ そこに朝鮮と日本を描き加えたもの

畿内説のソースのひとつだよね
844日本@名無史さん:2005/05/31(火) 12:53:56
そんなものは、本光寺本の発見でとうの昔にゴミ箱行き。
持ち出してくるのは、時代に取り残された九州説の連中ばかり。
845元祖プラム:2005/05/31(火) 13:01:35
『魏』は『呉』に対する軍事的牽制の意味合いを込めて 倭人の位置を
『呉』の東とし、郡より南12000里(極限)とした。
しかし、当時は日本の全体像など知るよしもないので『呉』から見ての倭人の奥行きを持たせる意味で
女王国の東千里の所にまた国が有るとしたのではないか?
846鴨禰宜:2005/05/31(火) 13:16:36
>>820 元祖プラム さん

>鴨禰宜さんのレスによく登場する『アマテラス』さん! この人誰なんですか?
>実在の人物でしょうか? いつの時代? 想像無しで説明願いたいのですが
>そろそろ考古学的な観点を交えて『アマテラス』の説明お願いします。
>反論レスも入れられず、会話にならないのです

考古学的にアマテラスを発見、これはきついなー。私が15年ほど前になりますか、
某所で
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-Higo.html#anchor677475
このの御神像に出てくる御仁とカウンター越しに座り、愚かにも「原節子さんじゃ
ありませんか?」と申したところやさしげな微笑が帰ってくるのみでした。今思えば
あれはアマテラスであられたんですね。さて、スサノオですが、
http://www.inetmie.or.jp/~jin/TATETU.html
多分このようなお顔でお二方共にアレクサンダー大王の部隊の末裔であったのか
なーと思考しています。馬韓・月支国から新羅に移動されたのではないでしょうか。
847鴨禰宜:2005/05/31(火) 13:24:22
なに、もっとブスでもいいから日本人じゃないとだめだ?神様とは選べるもんじゃない
ですよ。こっちが選ばれるもんでして。さもなきゃあの時「原節子」さんと・・・
848鴨禰宜:2005/05/31(火) 13:37:57
アマテラス、細烏女、息長大姫大目尊、アカルヒメ、鬼のウラ、天日槍、ツヌガアラヒト
スサノオ、天日照命等等無数の日神信仰の話のでどこは辰韓秦族日官が日食の
原因を細烏女、延烏郎の帰国にありとしたところにあります。倭国乱の原因となった
であろう銅鐸から鏡への移行の、そのまた原因というのはこうしたところにあるのかも
しれません。
849鴨禰宜:2005/05/31(火) 13:54:10
>>847
当時朝鮮族は楽浪・帯方の奴隷、倭国は楽浪海中の金印保持国ですから三韓では
クラウンカントリーですね。ですから倭人に帰化したものかもしれません。
850元祖プラム:2005/05/31(火) 18:08:11
>>849
こんにちわ鴨禰宜さん
『原 節子』さんですか
普通ぽくて綺麗な方ですよね

>当時朝鮮族は奴隷
奴隷は、あんまりですよ

それよりも 当時三韓は倭の金印下賜を知っていたのでしょうか?

知っていたとするなら やはりゴールドメダリストとして倭を丁重に扱うでしょうね

『前畑ガンバレ、前畑ガンバレ もう少しだ… 前畑ヤッタ ヤッタ ヤッタ 金メダルです。』海人族の末裔か?
さすがにベルリン五輪は
しりませんが
アベベが東京の町中をさっそうと… は ウッスラ記憶の中にあるかないか
851鴨禰宜:2005/05/31(火) 18:23:50
原節子さんってのはあの神像のような上下の長い顔ではなく顎とおつむの距離が
理想的までに圧縮された欧米にもあまり見られない、コーカサス的特長の持ち主。
852元祖プラム:2005/05/31(火) 21:31:06
『混一疆…図』を作成するにあたり
日本の形はある程度把握した。
しかし、どのような配置にしたらいいか解らない
緯度もなければ経度も無いこれは一大事と思った制作者は
魏書における日本の位置を参考にし、会稽東治の東に来るように 南北縦長な日本図が出来上がった。

寺沢氏の『当時の地理的認識観は三世紀の頃から変わらず』
形は知れども位置関係が解らない だから
こんな地図になったのだ
853日本@名無史さん:2005/06/01(水) 01:24:01
原節子よりも栗島すみ子のほうがいいな。
http://www1.odn.ne.jp/~ccf10780/new_page_43.htm
854元祖プラム:2005/06/01(水) 02:10:25
地図作成時における日本への地理観は
寺沢氏の言う(『魏書』の頃から日本に対する地理観が変わらない)
そうではなく
よく解らないので 『魏書』を参考に作成した。
しかし、その『魏書倭人』も『呉』に対する牽制の思惑の基に作られていることも知らずに
そのまま引用してしまったので 南北に長い日本地図が出来上がった
855がいやまん:2005/06/01(水) 08:03:11
>>850
真ん中の、口元が原節子に似てる。が、ブスだなー。
856圭角:2005/06/01(水) 09:41:14
陳寿の魏書や呉書には、呉や公孫氏の船もしくは船団が、
 きわめて、すいすいホイホイ航行していますね。
漢書地理誌にしても、当時の航海人には有ったでしょうし、軍事地理というのは
人文地理の比ではないほどに昔から高水準として可と思われます。
 陳寿が絶域として東夷を放置したからと記していても、いわば、魏の勢力が当初
倭に及ばず、光武帝のときの倭の朝貢も、魏の当初はなかったことを斟酌すべきかと。
すいすいホイホイの朝鮮半島西岸南岸に精通しているはずの呉や魏の軍船が
倭の軍事地理位置のみ、周知していなかったとは、私には、考え難い次第です。
 





倭のみを
857元祖プラム:2005/06/01(水) 11:12:05
圭角さんこんにちわ
今日は 風邪を拗らせ夕べから床の中でぼーっとしています。

所で 圭角さんは当時の大陸の海軍さん達は『倭』の地理観をかなり把握していたと
『倭』の範囲にもよりますが
九州島やその周りの土地の範囲でしたら
今の所自分の頭の中も許容範囲内です。
でも、それ以外の出雲、吉備、四国、畿内以東と範囲拡大になると許容範囲外と
それに、当時の『倭』は
途中海を挟むものの半島の延長線感覚ではないでしょうか
858圭角:2005/06/01(水) 14:44:21
プラムさん、夏風邪は長引くと申しますのでご自愛ください。
出雲はともかく、吉備、河内の瀬戸内は相当程度まで中国商人に熟知されていたと
考えて良いと思います。貨泉の近畿での大量出土が根拠になると存じます。
楽浪郡他四郡の設置は前108年から卑弥呼朝貢まででも三百年間という歳月が
流れています。新の王莽の貨泉の紀元直後から数えても二百年を越える歴史時空です。
いわゆる政治の卑弥呼朝貢の以前に、商人や一般人の経済交易が先行したとして
当然であり、魏の郡との通交が卑弥呼をもって開始したとは私は考えません。
そもそも、シルクロードは漢とローマという国のレベルでなく民間交易交流が先と
思うからです。
859圭角:2005/06/01(水) 14:54:15
民は国に地理知識を教え、国は民もしくは交易商人から地理知識を購うという
図式がもっとも、自然と思います。コロンブスは例外でしょうが
司馬遼太郎氏の菜の花の沖の高田屋嘉平にしても、シベリアに毛皮を求めた
商人も好例です。その地理知識を利用したのが、江戸幕府でありロマノフ王朝
だったという次第です。むろん、コロンブスにしろガマにしてみても政治的な
ものより物欲経済的要求充足がその動機です。経済は政治に先行する、です。
860元祖プラム:2005/06/01(水) 14:58:17
圭角さん
ありがとうございます

華人は昔から商売になるところなら何処までも(シルクロードに始まりチャイナタウン)的 気質があるようですね
少し認識を拡げなければならないです。

瀬戸内海沿岸に広がる高地性集落なども、華人や半島系商人の影響ありや
と、考えるのは飛躍のしすぎでしょうか?
861圭角:2005/06/01(水) 15:02:51
中国商人にとって、倭はシルクロードに比較したなら、目と鼻でしょう。
黄河や揚子江の川幅を想えば、瀬戸内を近畿に達するくらいは、彼らにとり
瀬戸内海は、河と同じに感覚したのではありますまいか。
その地理知識を狡猾な彼らが、漢や魏呉に売りつけなかったとも考え難く、
軍事地理知識として地理は有用有効ですから、魏も呉も高い銭で購ったと
考えて自然かと思います。経済そして軍事そして政治という順位認識で可と
存じます。
862圭角:2005/06/01(水) 15:15:33
プラムさんのおっしゃるとおり、中国商人と呼称するよりもむしろ華僑と
換言した方がより本質に迫るリアルを感じます。
独断偏見は私のいつものことですが、瀬戸内の海賊というのは相当に古い
のかもしれませんね。藤原純友よろしく沿岸諸国の米穀を略奪して回れば
普通は海岸から遠く見通しと監視可能な地域に集落を造って自然かと。
小さなクニの段階ではおそらくそうだったが、国と呼称し得る段階になると
瀬戸内の海賊勢力は次第に縮小する経緯を辿り高地性集落も姿を消した。
 プラムさん、風邪なんだから、おとなしくしないと奥さんに叱られますぞ。
863元祖プラム:2005/06/01(水) 16:17:07
いえいえ 家内は仕事に出てますので OKです

華僑や半島商人達が瀬戸内や九州西岸の様子を見たら『山島依りて國邑をなす』と表現したでしょうね
それに瀬戸内海に行くには沿岸航海にしろ、玄界灘や響灘を越えなければなりません
恐るべき航海術です
とても『当時の倭』では極少数でしょうから
864日本@名無史さん:2005/06/03(金) 05:48:30
女神天照、男神天照
女神神話は後から作られた
865圭角:2005/06/03(金) 18:30:24
近頃、このスレは人影がありませんね。
それもそのはずです。魏志倭人伝を読んで邪馬台国はどこですか、というならば
記述内容からして、北部九州しかありえませんものね。
南を東と読み替えたところで、女王国以北の北を西と読み替えずばならず、
女王国の東、海を渡る千里を、海は琵琶湖だったとかの、無理な解釈は不可能です。
倭人伝記事からは、九州説確定だからこそ、このスレが不人気と思います。
ま、私的な伝言版研究版とすれば、有用とも存じます。
866日本@名無史さん:2005/06/03(金) 18:56:29
>>865
そういうことは確かな考古資料が出てから言うべきだと思うよ。
記述の正確さを確かめられない文献一つで語るのは早計というものだ。
867日本@名無史さん:2005/06/03(金) 22:52:39
邪馬台国は八幡平でしょ。
あの説が一番矛盾が少ないよ。
868日本@名無史さん:2005/06/03(金) 23:04:43
だな
869ウマミミ:2005/06/03(金) 23:08:59
>>866
陳壽の考え、倭人伝の編者としての考えを問えば「九州説」の範疇に入るだろうさ。
ただ、その九州島は巨大な韓半島にぶら下がるかなり変形したものだ。
基本的には、漢代からよく知られていたの九州島の北部に対する知識をベースに
魏代に入ってからの新規知見と東夷伝全体に見える編集方針でアレンジしたものでしょうね。
870日本@名無史さん:2005/06/04(土) 20:34:14
某研究会にいってきました。なにか近頃、私の周りでは邪馬台国南九州説が盛んです.
871日本@名無史さん:2005/06/04(土) 20:37:21
>>870
それは例の『西都原』からだろう
872圭角:2005/06/04(土) 20:39:06
ウマミミさん、こんばんわ。
私見ながら恐縮ですが、倭のことは、とにかく魏志倭人伝を優先して文献史料とする
世間の一般普通の受け止め方に偏重在り、と私は存じます。
中国の王金林氏の著には、春秋戦国、秦、漢さらには魏の時代に至り、一般の理解より
進んだ中国の造船技術、航海術、海戦術が陳述されている次第です。
かくある状況下を基礎背景視座としなくては、いかんと考えます。
魏志倭人伝は、象徴的に言うならば、司馬イすなわち司馬仲達の伝が無い理由と意義を
認識理解した上で評釈することこそ、基礎かつ基本であります。
ご意見賜れば、ご説明に応じますが、ウマミミさんも正史三国志を通読されたことと
存じますので、かく言う小生の存念はご理解いただけるものと拝察致しております。
                                   不一。
873サガミハラハラ:2005/06/05(日) 19:38:05
女王国の東に国があるというのに、宮崎県では国がないですよね。
874がいやまん:2005/06/07(火) 09:26:08
女王国の先が狗奴国とすると狗奴国が纒向ということはあるね。女王国としては、
投馬国、これを丹波の方と考えると、それから大和に入った奈良市辺り、そして、
纒向を中心として狗奴国がある。女王国の遺跡は平城京建設時にきれいに整理
されたと考えられる。唯一残るのが椿井大塚山古墳辺りじゃないかな。
875がいやまん:2005/06/07(火) 09:55:38
倭人伝のショッキングであることは県に首(オビト)が配置されていることであるが
これは成務4年2月1日の行政改革以降に来日したということであろう。魏使は卑弥呼
に拝謁も適っていないし、卑弥呼の死因についても情報不足であるが、纒向狗奴国
勢力を伊勢湾方面に追い詰め戦闘中であったということもある。政務の時代の情報が
崇神辺りに取られているのかもしれない。卑弥呼が倭姫なのかどうかは不明であるが
その鬼道とは兵主思想などの古代中国色を駆逐した倭人独自の宗教の開始につながる
ものであったのかもしれない。八咫鏡ではないかとされる内行花文鏡から縄文的な
三角縁神獣鏡への感覚の逆転は倭人が本来の姿に目覚める現象のようだ。
876がいやまん:2005/06/07(火) 10:09:44
纒向古墳は若干の例外を除き主要なものは兵主宗教の中心夕月嶽に向う。ところが
柳本など纒向から北に離れるほど古墳は北向きになる。これはつまり率川乃至は
佐紀楯並の方向に新しい宗教的中心、つまり、邪馬台国卑弥呼の鬼道が発生したこと
を意味しているのではないか。
877日本@名無史さん:2005/06/07(火) 10:24:37
そんなことどうでもいいだろう?
わかったところで糞の足しにもならん。

なんの生産性もないことはやめてしまえ!!!
878がいやまん:2005/06/07(火) 10:39:00
日本の歴史が科学的で明白なものになると迷惑を受けるような国が周辺にあるのは
困るんだなー。日本人ははっきりしないことは嫌いでね。
879がいやまん:2005/06/07(火) 10:47:05
日本の歴史というのは古くはないが際立って正しいものだ。それに引き換え周辺国は
重なる破壊のために多くのものを失っている。勢い日本は歴史のリーダーとならざるを
えないが、これが歴史を持って政治に利用するというデンパ諸国には非常に困る。
880がいやまん:2005/06/07(火) 10:50:37
漏れはやめてしまえではなく2chでとことんやるべき問題だと思うんだ。少なくとも
周辺国みたいなトンでもデンパとか、史観が出ないようにな。ああ夕国では政府が
スパイになって書き込みするらしいからね。
881がいやまん:2005/06/07(火) 15:28:07
しかし、卑弥呼没年を布留1式とすると古墳の中心が佐紀楯並に移行するのはそれより
50年ほど後のこととなろう。すると邪馬台国はまた纒向に戻し、狗奴国はどこか琵琶湖
南東辺りに持っていかなくてはならなくなる。そして、箸墓被葬者はが誰なのかという
問題になる。箸墓が女人禁制に作られているということは卑弥呼の死後男王がこれを
祀るという設計思想であったとすれば、卑弥呼の墓でおかしくはない。倭人伝とも合う。
この辺はほんとにややこしいね。
882日本@名無史さん:2005/06/07(火) 15:59:09
勝手にややこしくしてるのは
自分でしょ
大和をいくら探しても
卑弥呼の「ひ」の字も出てきやしないさ

ごくろうさん
しょせん「がいや」な訳さ
883日本@名無史さん:2005/06/07(火) 16:04:32
魏晋朝は道教を鬼道と呼び、軽蔑していた。
その証拠に魏晋朝の都洛陽からは三角縁神獣鏡はおろか、画文帯なども神獣鏡的なものは一切出ていない。
魏の領域でも洛陽から遠くはなれた周辺青州、幽州あたりからは出ているらしいが。
晋では道教を弾圧した事さえあるそうだ。
三角縁神獣鏡が多く発見される場所は邪馬台国候補としてはかなり不利じゃないか?
884日本@名無史さん:2005/06/07(火) 23:20:41
>>883

じゃあ、景初・正始のような魏の年号がある三角縁はどうなるんでしょ?
885日本@名無史さん:2005/06/07(火) 23:24:49
>>884
年号は年号だろ、かなりとんがった共産主義者や右翼でも
平成使うぞ。
886ウマミミ:2005/06/07(火) 23:41:50
>>883
「魏の領域でも洛陽から遠くはなれた周辺青州、幽州あたりからは出ているらしいが。」

 倭の朝貢先帯方郡やその隣の楽浪郡は幽州所属だろう。
 そこで鋳造されたという説(楽浪特鋳説)や、楽浪出身の職人が渡来して作ったってっ説(国産説の主流)があるからね。
887日本@名無史さん:2005/06/08(水) 00:15:02
>>883
卑弥呼が貰った鏡の可能性が高いとされる方格規矩四神鏡にしても、
道教の影響が強いと思うのだが。
888日本@名無史さん:2005/06/08(水) 01:11:14
>>883
魏晋は言うほど辺境への統治能力があったわけじゃないしね。
ただ、外野のたわごとをきく限りにおいても、大和に邪馬台国があったともおもえないねえ。
889日本@名無史さん:2005/06/08(水) 07:16:14
>>888
でも、九州にあったとは、なおさら思えないのだが。
やっぱ、沖縄か?
890がいやまん:2005/06/08(水) 08:32:33
>>888
当時のGNP/GDP的マクロ経済指数、つまり、民力が高いウェートを占めている指数
としてはやはり古墳をおいてなく、纒向箸墓を持って邪馬台国とする線は微動もしない。
しかしその邪馬台国も古墳と共に変遷する。奈良県東南から西北への移動に当っては
古墳方向が夕月嶽中心主義から率川方向中心主義に変わったのではないかという説を
述べたが誤解のないよう。この中心点の変更は兵主神社信仰からの脱却を物語るの
ではないか。兵主神社の内容と分布↓は初期古墳建設がどのような地方のバックアップ
http://www.biwa.ne.jp/~hyouzu/zenkoku2.htm
で行われたのかをある程度物語る。
特に穴師坐大兵主(あなしにますたいひょうず)神仕に祀られる著御魂神こそ箸墓との
関係を物語る。全般的に言えることは箸墓建設したのは渡来秦系であり、出雲族の
支配下にあったということだ。狗奴国とはこの出雲勢力に対する天孫族の最初の
攻撃とも読めるのだが。神武を頭から否定すると罰が当るぞ。
891日本@名無史さん:2005/06/08(水) 09:33:25
>890
銅鐸文明の邪馬台国が畿内奈良にあって、銅剣文明の南九州日向
の狗奴国が北部九州勢力の支援を得て、邪馬台国に侵攻。
邪馬台国は滅ぼされたといいたいの?
892がいやまん:2005/06/08(水) 09:38:06
歴史の結果から言うとこの天孫とは琵琶湖方面の息長族であった可能性が強い。
卑弥呼時代には狗奴国として琵琶湖から伊勢湾にかけて勢力を持っていたもので、
後に河内政権になると九州・大陸に乗り出し、更には日向との関係も持ったのでは
ないか。
893がいやまん:2005/06/08(水) 09:50:55
日向は最初3世紀のはじめの邪馬台国建設前に神武軍を編成、紀州南部で
狗奴国と交戦した可能性がある。このとき神武軍に入った八咫烏はその後
賀茂族においては信仰の形跡がないことから、熊野に残る徐福伝説同様
その伝承を持つ豊前の秦族が神武軍に入っていたと考えると説明が付く。
本宮にのこる飛鳥神社とは扶与系の布陣形式によるものと考える。
894日本@名無史さん:2005/06/08(水) 11:21:16
>>893「がいやまん」氏
ぜんぜん説明がつかない
たんに、「倭人伝」と「記紀」を繋ぎ合わせたとしか
自分だけでしょうか?
>出雲族系の秦氏

何か根拠とか物証でもあるの
>神武東征
一行レスで終わり?
895がいやまん:2005/06/08(水) 12:15:08
神武の子、タギシ(隼人)ミミは綏靖に殺される。綏靖は大国主の通ったヌナカワ
姫の系統だろう。秦氏というのはイラクなんかでも活躍するが外人部隊、当時倭国には
正規軍はなかったんじゃないか。外人部隊は他にも久米族なんてのもいたようだな。
896がいやまん:2005/06/08(水) 12:30:28
↓大国主とヌナカワ姫の出会っていた証拠ではないかな。
http://kokoro.sytes.net/area04/keta-t.html
897日本@名無史さん:2005/06/08(水) 13:06:10
これじゃ人が寄ってこんわい・・・
898日本@名無史さん:2005/06/08(水) 14:07:17
 そもそも古墳年代上げ過ぎ。箸墓は4世紀後半だし、三角縁は5世紀の鏡。
ホケノ山より古い阿波の萩原一号墳から画文帯が出ているが、平壌の4世紀中葉の古墳からこれの親鏡が出ている。
萩原の鏡は踏み返しだから平壌の鏡より当然遅い鏡だ。
となれば萩原一号墳は四世紀中後半、ホケノ山も4世紀後半、箸墓は4世紀末くらいが妥当だ。
三角縁は画文帯より遅くなるから5世紀だろう。

年号なんて単なる吉祥文の一部。
 
899がいやまん:2005/06/08(水) 15:12:19
>年号なんて単なる吉祥文の一部。
当然のことなんだろうが、それは倣製鏡に限ってのことだろう?
900日本@名無史さん:2005/06/08(水) 17:16:23
>>898
平壌の鏡の踏み返しが日本にあるということは、やっぱり日本人はチョウセンから来たのか?
901がいやまん:2005/06/08(水) 18:54:54
同笵鏡という話は聞いてるが、踏み返しは国際的には無理と違うか?
902日本@名無史さん:2005/06/08(水) 20:08:06
>>898
>ホケノ山より古い阿波の萩原一号墳から画文帯が出ているが、平壌の4世紀中葉の
>古墳からこれの親鏡が出ている。
>萩原の鏡は踏み返しだから平壌の鏡より当然遅い鏡だ。

この「4世紀中葉」というのは信用できるのかね。
903ウマミミ:2005/06/08(水) 22:24:21
>>901
踏み返しの踏み返しなら有りだと思う。
904日本@名無史さん:2005/06/09(木) 06:10:38
平壌の画文帯も150年伝世したとすれば問題ない。
905日本@名無史さん:2005/06/09(木) 16:04:07
>>900
その通り、日本で祭られている天津神は朝鮮人と考えて差し支えない
国津神も時代が上ったら大陸朝鮮に行き着く
倭人の素は説明する必要もない。

906がいやまん:2005/06/09(木) 16:22:40
半島は倭人だけということでは韓国の国民感情を逆なでするんじゃないか。
あまり国際問題は口にしない方が。
907日本@名無史さん:2005/06/09(木) 16:22:56
>>887
道教へ卑弥呼が影響を与えた可能性に付いて考察してない。
908がいやまん:2005/06/09(木) 16:24:43
漏れは半島には朝鮮族も、もちろん、かんの植民地ということではあったが
相当活躍していたんじゃないかとは思う。
909がいやまん:2005/06/09(木) 16:30:10
三韓の国名には日本語で解釈できないのがある。そのうち朝鮮語とかツングース
ごとかで解釈できるのもあるとは思うんだがこの辺がはっきりしない。
910日本@名無史さん:2005/06/10(金) 05:41:47
>>907
卑弥呼が、道教に?
辺境の一蛮族が、世界に冠たる歴史を持つ中華の宗教に?
それはちょっとないんじゃないか。あまりに贔屓の引き倒しでは。
911日本@名無史さん:2005/06/11(土) 13:23:18
>>909
解釈できる部分も多少はあるよ。でもほとんどが意味不明だけど。
912日本@名無史さん:2005/06/12(日) 09:17:47
当時の朝鮮語に関する研究が進んでいないのだからしょうがない。
政治的にはやむなしとはいえ、奴ら自分たちの文化をほとんど捨てたからな。
913がいやまん:2005/06/12(日) 12:44:14
王化政策で言えば戦前の日本語教育のよなもので、大事なことは民族としての
パラダイムが変化する。「主体」依存、他力本願みたくなる。アメリカのの間でも
出てきたようで心配だなー。日本のわれわれの後は怖いけどね。貴乃花のような。
914日本@名無史さん:2005/06/14(火) 01:42:45
age
915日本@名無史さん:2005/06/16(木) 09:28:13
大阪府岸和田市に山直(やまだい)というところがあります。
916がいやまん:2005/06/16(木) 09:53:44
古墳チェーンの始発駅は暦博較正グラフで2世紀前半となる布留1式時代の
箸墓なので動かせないがもんだいだな。
917日本@名無史さん:2005/06/16(木) 11:44:55
>915
邪馬台国は「ヤマタイ」「ヤマダイ」と当時から読んでいたわけではない。
「ヤマド」か「ヤマト」だ。
と言ってみるテスツ。
918日本@名無史さん:2005/06/16(木) 15:29:34
魏志倭人伝 漢音に近いと考える

末盧→→→→バツロ
伊都→→→→イト
奴→→→→→ドゥ
不彌→→→→フゥビ
投馬→→→→トウバ
邪馬壹→→→ヤバイ  帯方郡使が表記したのは「壹」
邪馬臺→→→ヤバタイ 神功皇后の使者から資料を得た東晋の文献では「臺」
狗奴→→→→コゥドゥ
卑彌呼→→→ヒビコ
狗古智卑狗→コゥコチヒコ

倭に赴いた帯方郡使のヒアリング力はいかに?
919日本@名無史さん:2005/06/16(木) 17:40:53
ヒアリングってw
でも、彼らからすりゃ蛮族語を習い覚えるんじゃなくて
適当に聞こえた言葉を漢語としてよめばいいだけだからなあ。
それこそ「てんぷら」「かすてら」「いえじしまりあ」みたいなもんだ。
920サガミハラハラ:2005/06/17(金) 07:56:13
なぜ邪馬台国がみつからないのか。
昨日の毎日新聞朝刊余禄に、<ウェゲナーの大陸移動説が提唱されたころ「そんな考え方が許されるのなら、われわれの過去数十年の研究はどうなるのか」と反対した大物地質学者の話も紹介している。>
とあります。
邪馬台国の場所が見つからない、または見つかっているのに認められないのは、ひとつには上のような考えがあるからでしょう。
だれもが、自分のこれまでの成果は無駄であったとは考えたくはないですからね。
みんなそれぞれ私の城下町ならぬ私の邪馬台国を胸の中に大事に抱えていたい心境はありますからね。

921日本@名無史さん:2005/06/17(金) 11:45:39
>>918

とんでもない素人ですね。

お願いだからもっと勉強してからカキコしてね。
922がいやまん:2005/06/17(金) 12:33:30
纒向に最初の都が建設された年代は布留1式土器の前あたりですが、
これに卑弥呼時代AD240-250年が重なるかどうかは暦博較正グラフ
によるしかありません。それを見る限り重なっています。

但しこの較正グラフは現在のところ自民党の独裁政権のようなもので
一人舞台なんだね。また機械も高価であるし、仮に10台、100台揃えても
出土する適切な炭素のくっついたサンプルの絶対数が少ないのではわびしい。

しかし、漏れなんかが何を主張したもこの暦博方式より科学的なものは日本に
ないんだから今のところこれに頼るっきりない。鏡などの研究をやっていると
伝世年数の推定というとんでもない誤差を入れることになるのでこれは排除、
劣後しなくてはならない。

漏れとしては実年代に拘泥した議論ばかりでは何の役にも立たないと思う。
言い換えれば邪馬台国はどこですかギャーギャーわめくんじゃなくではなく、
邪馬台国を考えるといったスレタイでないと意味がないってこったよ。
君たち、なんかある?
923日本@名無史さん:2005/06/17(金) 12:52:14
>>921
ヒアリング力、との喩えは確かに間違ったものかと思います、が
具体的に何処を批判されておられるのでしょう?ご指摘いただけますか?
帯方郡使は>>919さんが言っておられるように倭人の言葉を聞いたまま
漢語なりで表記したと私も思っております。
924がいやまん:2005/06/17(金) 12:52:34
>>920
商売の常識として商品の売り上げ減少を防止するような世論対策は必要。
先生方だって国が給料を払ってくれるわけじゃないから身を守らざるを獲ないが
特に怖いのは「村八分」、「破門」だろうな。漏れが見てると白石さんなんてのは
プロだな。いつでも次のものが出版できるような書き方をしている。芸能人にせよ
何にせよ金を残すのはこういうタイプだよな。それにしては線香花火のような先生
のなんと多いことか。学者は商売には向かないのだよな。だが消費者としては
そういう先生の本が面白いんだな。
925日本@名無史さん:2005/06/17(金) 18:38:52
>暦博較正グラフ

暦博の行った炭素年代によると古墳時代開始はAD1世紀になるそうだが?
926がいやまん:2005/06/17(金) 20:06:51
それはそんなに揺らいでいるってことさ。だけど漏れの言ってるのは箸墓
建設時代に出てくる布留1式がいくら遅く揺らいでもAD250年より遅くには
ならないということなんだ。ところがこれは較正曲線に基づくのだがその
根本となるデータにそんなに信頼性はないんじゃないのって言うのが
反対派の先生の論拠なんだろう。まー、しかし、議論しても終わりがないよなー。
全ての先生は正しい、その本は読まなくっちゃなんない。漏れは最近
邪馬台国の本は図書館で借りている。
927日本@名無史さん:2005/06/17(金) 21:20:02
炭素年代は測定値から17%引いて考えると一致する。
3000年前なら2490年前、2000年前なら1660年前。
古墳時代開始は4世紀第二四半期。
928日本@名無史さん:2005/06/17(金) 21:42:14
>>920

><ウェゲナーの大陸移動説が提唱されたころ「そんな考え方が許されるのなら、
>われわれの過去数十年の研究はどうなるのか」と反対した大物地質学者の話も
>紹介している。>
>とあります。
>邪馬台国の場所が見つからない、
>または見つかっているのに認められないのは、
>ひとつには上のような考えがあるからでしょう。
>だれもが、自分のこれまでの成果は無駄であったとは考えたくはないですからね。
>みんなそれぞれ私の城下町ならぬ私の邪馬台国を胸の中に大事に抱えていたい心境はありますからね。

ずいぶんご立派な態度でございますね。
そんなに他人を見下して面白いですか?

「反切」すら知らないお方が偉そうなことを言うんじゃありませんよ。
あなたみたいなお方を「増上慢」って言うんですよ。

さっさと佐賀県へお帰りあそばせ。シッシッ!!
929がいやまん:2005/06/17(金) 23:10:28
>>927
おいおい、そこの !
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/0725/index.html#05
↑こういうのちゃんと読んどるのか?
930サガミハラハラ:2005/06/19(日) 09:40:39
>>928
ときたまいますね。何か一つ人よりいいとおもわれるものを知ると、熱にうなされたように、うわごとの如くずっと言い何時豆続ける人が。
「反切」が魏志倭人伝の解明にもちだされないのは、役に立たないと皆さん思っているからじゃないですか。
佐賀県とでていますが、私の住居は神奈川県は相模原市(サガミハラ市)ですよ。
サガミハラハラは相模原市歌のサガミハラハラ ハラリトサイサイからとりました。
931日本@名無史さん:2005/06/19(日) 23:16:29
私も相模原市民だが、佐賀県なら元祖プラム氏のことだろう。
932日本@名無史さん:2005/06/20(月) 00:13:59
>>928

>930の「サガミハラハラ」と言うネーミングが相模原市歌からなら、
以前別スレにいた同ハンドル名の無知で、嘘つきで、恥知らずで、
日本漢字の呉音と中国上古音の違いが判らないと言う不思議な角川の漢和辞典の持ち主で
反切と言う言葉を聞いたことも無かったヤツとは別人かもしれんぞ。
きっと、ハンドル名が同じなのは偶然なんだろう(w
933元祖プラム:2005/06/20(月) 06:56:13
>>931
私は佐賀県じゃありません茨城県ですよ
934日本@名無史さん:2005/06/20(月) 10:57:31
>>929
それが間違っているのではないかと言う議論なのだろう。
ホケノ山からでた棺の木片(炭)を測定した結果、平均でAD100年くらいになったんじゃないか?
確か、五つの木片の中には紀元前のデータもあった。
名古屋大学で出した愛知県の古墳からでた、どう見ても4世紀以降の土器でもAD50年の値がでた。

取り合えず、炭素年代はまだ実用領域に入っていないと言うことだよ。
そして、どうやらススとか炭化したものは古い値が出やすい傾向がある事が読み取れる。

スス・炭での年代測定値は1、2割引いて考えた方が正しい値になりそうだと言う事がわかる。
935サガミハラハラ:2005/06/20(月) 12:18:09
訂正
相模原市歌とありましたが、相模原音頭のまちがいでした。
なお相模原市歌というのはなく相模原市民の歌(植村栄輔 作詞)があります。
相模原市民の歌
1 芝胡の原の昔より  希望輝く相模原  代代の恵み地にうけて  幸あるわれら寄るところ
2 実りの波は野に山に  夢も燃え立つ相模原  光が招く明日が呼ぶ
3 ながれは清くゆうゆうと  絵巻はひらく相模原  季節のいろをちりばめて  文化の花の咲くところ
  われらがまちに栄えあれ   

相模原音頭はまたの機会に
936がいやまん:2005/06/20(月) 15:55:12
>>934
それがBPでいくらと出て、較正ソフトで、確率何パーセントごとにこうなるという
展開をして実年代を示してもらわないと伝聞みたいな話では衆を惑わすことになる。
もっと発言においては責任感を持ってもらいたい。
937がいやまん:2005/06/20(月) 16:03:18
てなこといっちゃったが、ホケノ山については藁にもすがる思いで情報を待っている。
AD50年というと韓国の石積木槨墳との乖離が200年も出てきて困る。漏れとしては
倭人伝の卑弥呼の都を纒向と置き、ホケノ山はAD210年(年輪で出ている)頃でまと
めてほしい。
938がいやまん:2005/06/20(月) 16:13:44
中韓の国力では100年河清を待たざるを得ないだろうが、その間、内内でもしっかりした
体系は確保したいもんだね。
939日本@名無史さん:2005/06/20(月) 16:42:18
>>930
>ときたまいますね。何か一つ人よりいいとおもわれるものを知ると、
>熱にうなされたように、うわごとの如くずっと言い何時豆続ける人が。

あんた本人のことじゃんw
てか「ずっと言い何時豆続ける人」ってどういう意味?

>「反切」が魏志倭人伝の解明にもちだされないのは、
>役に立たないと皆さん思っているからじゃないですか。

というか、まだ反切についてまだ知らんのか?

みんなだけじゃなくって
織田信長にも思いっきり笑われるぞ。
940日本@名無史さん:2005/06/20(月) 16:53:26
年輪が出たのは勝山だろ。

ありゃあ捏造くさい。
たった100本程度の年輪で年代出すのは無理。これ年輪年代の常識。
400本くらいあれば測定可能だが。

おそらくAD200年前後と検討をつけた上で210年に近似の年輪を見つけただけだろう。

【ヒノキの暦年標準パターングラフ(下線)と板材の年輪パターングラフ(上線)】
http://www2.begin.or.jp/sakura/maka02.htm
これ見て年輪が標準パターンと一致しているように見えるか?
光谷氏が一致している、と神の手で御宣託しただけだ。

100年くらい後の年代パターンならもっと合う可能性だってある。
畿内説の人間が年輪年代教の教祖様の御宣託に縋りたい気持ちになるのは解らんでもないがね。
941日本@名無史さん:2005/06/20(月) 17:17:24
樋口清之 逆・日本史3より
卑弥呼は、特定の個人を指す固有名詞でななく「ヒメミコ」を意味する普通名詞
なのである。
942日本@名無史さん:2005/06/20(月) 18:50:01
>>がいやまん

>実年代を示してもらわないと伝聞みたいな話では衆を惑わすことになる

あんたが普段やってることだよ藁
943がいやまん:2005/06/20(月) 21:28:31
意見の問題だな。
944日本@名無史さん:2005/06/21(火) 03:41:26
>がいや
結局まず>>937の結論ありきじゃん。お前さんの場合。
だから胡散臭いのさ。
945がいやまん:2005/06/21(火) 04:47:55
漏れの場合はそうだよ。ゴッドハンド的というと悪いが、最も情報通の先生の
ご意見にすがる・・・ド素人がC14だのなんだのいったところで意味はないと
考える。漏れは編年問題については暦博の意見が基準になるべきだと思うがね。
ド素人は先生のご意見には逆らわず2chでは思考実験、論理実験に徹すべきだ。
胡散臭いんじゃなく、ド素人は自分の立場をわきまえろってなもんだ。
946日本@名無史さん:2005/06/21(火) 16:55:52
ど素人が諸説の中で、それも少数の説を是とし
そのために思考実験に名を借りて妄想三昧。
自分の妄想を書き連ねるだけでどこが「自分の立場をわきまえる」んだかね。
947がいやまん:2005/06/21(火) 18:52:32
歴史、邪馬台国なんてのはだなー、少数の説が面白いんだぜ。わかんねーかなー。
948日本@名無史さん:2005/06/21(火) 19:10:32
邪馬台国はどこですか?
見つけにくいものですか?
カバンの中も机の中も探したけれど見つからないのに
949太国:2005/06/21(火) 19:40:39
だから、九州にあったの。
950がいやまん:2005/06/21(火) 19:42:16
AD240-250年、日本の古墳、銅鏡の中心は九州か、畿内か、どっちなんだ???
畿内であって、九州ではない。ところが、倭人伝の叙述は現代の文献と同様
科学的論理的であると無理に考えて邪馬台国を自分勝手な地方に持っていく。
これが邪馬台国どこそこ論だ。空想の遊びなんだよね。だけどこれも面白いんだね。
歴史の勉強になる。
951太国:2005/06/21(火) 19:42:25
ただし、邪馬壹國だよ。
952日本@名無史さん:2005/06/21(火) 20:18:30
>>948
お元気ですかぁー

学校に忘れたんじゃないの
953日本@名無史さん:2005/06/21(火) 22:18:36
普通に考えれば九州で決まりなんだが、畿内でないと困る学者が多いから、未だに決着付かないだけ。
954太国:2005/06/21(火) 22:43:36
>>953
だから面子が潰れるのが困るから、そっちの維持ほうが彼らは大事なのさ。
学会だから、その道で日本で一番だと自負せねばならぬ連中だから、改めるのは
職をクビにさせてもしようとせず、憚るんさ。
ま〜だ邪馬○国のほうは、多少は対抗説の学者がかなりいるから、まだ逆転しやすいものの、
これと似たので、神代文字無しというのを、面子にかけて確信的に専横させようという
のが、学会の主流だろうよ。それも現在より数十年前の勢いが凄かったのではないだろうか?
だから、現在はそれをひっくり返されたくなく、意地でも維持しようと蟻なるを認容しない
わけだよ。神代から8字を書いてるはずの蜂以下の人物が数万年、数十万年も文字
無しでいたと学説とかいう美名でもって蟻を葬るのが彼らのやり口だから、
今後も神代文字らしきものが出てもとたんに何か理由ちけて否定派に回るわけさ。
学会で真に無しと信じている学者は、もしかしたら、その学会の他の連中のマインド・
コントロールで無しと確信してしまうお陀仏もいるんだろうなぁ?w
955本田:2005/06/21(火) 23:33:58
-----------------------------------------
>>954
>山口県下関市の彦島を中心にシュメール文字に酷似した文様が刻まれた石が多数存在しています。
>私が確認したのは山口県の彦島・角島・川棚と熊本の押戸石山の四ヶ所です。
http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/hikojima.htm

>神代文字総覧
http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/sinmoji.htm
956日本@名無史さん:2005/06/22(水) 00:21:58
神代文字のような眉唾はさておいても
学会も地位も利権も意地もある、現実社会にろくに出たことのない常識バカの集まりであるわけで。
そんなところなんだから我田引水に情報操作も当たり前のことだろう。
彼らは別にチャリティーで歴史研究をしてるわけじゃないからな。
彼らは自分の食い扶持のためにやってるだけ。
957日本@名無史さん:2005/06/22(水) 12:48:38
九州なら、あの小さい島が朝鮮半島+高句麗より人口多いことになるな
しかも九州南部のクナ国が含まれてないのに
958日本@名無史さん:2005/06/22(水) 15:50:40
人口密度が低い朝鮮半島+高句麗より
九州の人口が多くて当然。
959曰本@名無史さん:2005/06/25(土) 18:24:27
玄界灘諸国(3万戸)+投馬国(5万戸)+邪馬台国(7万戸)だけで15万戸。
1戸5人として計算すると、これだけで75万人。
傍国21カ国を除いてもこの数字ですからね。
江戸時代の石高換算で75万石。
筑前、筑後、肥前、豊前、壱岐、対馬6ヶ国の総石高は270万石。
三世紀においても、九州説ではもの凄い食料生産力があったことになるわけです。

人口推計では、小山方式で弥生時代の豊他も含めた九州は10万人強。
奈良時代でも60万人弱、江戸当初では約250万人。
現代でさえ、福岡・佐賀・長崎3県の合計定住者は約760万人。

人口問題は、九州説には重荷ですな。
まあ、これも「誇張」とか「倭人による虚偽申告」とか言う理由で、簡単に原文改定しちまうわけですが・・・
960日本@名無史さん:2005/06/26(日) 09:39:47
原文改定してるのは畿内派だろ。
鉄・絹なんかでてこないじゃないか。倭人伝と食い違う。
方角の読み替えとか何でもあり。

961曰本@名無史さん:2005/06/26(日) 10:35:11
九州説もし捲くり。
962日本@名無史さん:2005/06/26(日) 16:56:11
弥生後期、日本全体の推定人口は高く見積もっても100万以下
それを考えると九州の人口密度は異常だw
玄界灘諸国家の、つまり北部九州の人口密度は当時も高かったはずだが
てか、大陸との繋がり、重要性を考慮すれば
寧ろ、現在よりもはるかに人口密度の割合は北部九州で高かっただろう。
さー この異常さを何と説明するか?w
まぁ普通に考えれば、九州だけでカバーしきれる数字でないのは明白だが。
963日本@名無史さん:2005/06/26(日) 18:35:11
そこをすこし広げて中国地方まで含ませるのが通の考え方
964日本@名無史さん:2005/06/26(日) 20:08:07
>>963
四国まで広げるべきかもしれんが、
そうすりゃそうなったでまたバカが騒ぐし・・・
965日本@名無史さん:2005/06/26(日) 23:12:33
「1戸5人として計算すると」

誰が決めたんだよ>>959
966曰本@名無史さん:2005/06/26(日) 23:59:34
>>965

よくわからないから、控えめな数値を使ったんだよ。
1戸10人で計算した方がよかったのかい?
967日本@名無史さん:2005/06/27(月) 01:02:30
慣海民は一人複数戸あったりするからな。
1戸0.1戸で同大?
968曰本@名無史さん:2005/06/27(月) 01:38:31
>>967

なかなかの潔い敗北宣言だなw
969とうりすがり:2005/06/27(月) 03:11:23
邪馬台国が近畿一帯だったとすれば、
それと同じ位の面積である、
現在の東京、神奈川、埼玉、千葉、茨城、群馬、栃木の
合計人口は、4100万人で
日本の総人口は約1億2770万人ですから
現在の首都周辺には、日本の総人口の約3.1分の1
の人がすんでいる事になります。
3世紀にも首都周辺には今と同じ位の割合で人が居たかも
知れませんのでこれと同じ様に計算すると、
当時の日本の人口が100万人ですと首都周辺には、
100万÷3.1=322581人くらいの人が居た事になります。
322581÷70000=4.6ですから、
>>959の言う様に1戸当たり、5人くらいが妥当と思います。
970日本@名無史さん:2005/06/27(月) 03:25:41
まあ間違ってるが

>邪馬台国が近畿一帯だったとすれば
971日本@名無史さん:2005/06/27(月) 10:46:18
いいえ、妥当ではないと思います。
当時の平均寿命は30いくつ、おまけに子供は一定年齢で独立するのが普通であった、と思われるからです。
972日本@名無史さん:2005/06/27(月) 11:56:22
>>971

じゃぁおまえは1戸に何人住んでたというんだ。
1人か2人しか住んでいなかったとでもいうんかい(w
973日本@名無史さん:2005/06/27(月) 12:36:52
ヘルスに勤める×1ヤンママが子供と二人暮し
有りだよね
974日本@名無史さん:2005/06/27(月) 14:23:23
邪馬台国は、倭国大乱で男が殆ど死んでしまい
母と子の2人暮らしが9割を占めていましたとさ。
975日本@名無史さん:2005/06/27(月) 14:28:43
古代社会は多産であったことは確かだが
同時に幼時に死亡する子供が多数を占め、かつ女性の出産率も高いものではなく
老人と呼べるまで年齢を数える人間はほぼ皆無、三世代同居は実質的に無理。
男は戦乱で死ぬ可能性も高いので
庶民に一戸5人〜10人と言うのはありえないものである、と推測される。
時代は下った江戸時代の水呑百姓でさえ、一戸の平均的人口は3〜4人、夫婦の片方が死亡、という家も多かった。
とすると、一戸平均5人という換算はちょっと多数に過ぎるのではないだろうか。
976日本@名無史さん:2005/06/27(月) 18:48:00
一戸二人居住と換算したとしよう、文献に出てくる戸数約15万戸×2人=
30万。これだけで日本の総人口の約半数。
邪馬台国が北部九州にあったと仮定し7万戸×2人=14万
玄界灘諸国3万戸×2人=6万人(投馬国は九州外とする)
計20万、当時の感覚では、この人口密度は異常。
やはり九州の人口は小山方式で出す10万前後が妥当だと思う。
まぁ私的には1戸に2〜3人(2.5人)が居住していたんだろう。
977日本@名無史さん:2005/06/27(月) 19:15:29
おみゃーら、小山を知らずに語ってるなw
978日本@名無史さん:2005/06/27(月) 19:54:07
東京→上野→(小山)→宇都宮→那須塩原
979日本@名無史さん:2005/06/27(月) 19:55:57
大宮の住人スマソ
980本田& ◆xOS3wf.pJg :2005/06/27(月) 20:58:31
>>956 :日本@名無史さん :2005/06/22(水) 00:21:58
> 神代文字のような眉唾はさておいても

シュメール文字には眉唾さは無いよ。
981太国:2005/06/27(月) 21:31:18
マヤ神代文字はマユ神代文字ではない。
982本田:2005/06/27(月) 22:08:44
>>959 :曰本@名無史さん :2005/06/25(土) 18:24:27
> 玄界灘諸国(3万戸)+投馬国(5万戸)+邪馬台国(7万戸)だけで15万戸。

九州北岸には狗那韓国もあるよ。
投馬国(つまこく)は薩摩のことだと思う。

> 1戸5人として計算すると、これだけで75万人。



> 人口推計では、小山方式で弥生時代の豊他も含めた九州は10万人強。

> 奈良時代でも60万人弱、江戸当初では約250万人。

古代の戸籍は、年貢を納めた人だけをカウントしていると思うので、
焼畑農業をして定住しない人は、カウント漏れしていると思う。


> 人口問題は、九州説には重荷ですな。

貿易が発達していれば、あまり問題にはならないと思う。
983日本@名無史さん:2005/06/27(月) 22:26:57
文献の戸数自体にすら信頼性が・・・。
まあ信用するしか現状ないわけだが。
984本田& ◆xOS3wf.pJg :2005/06/27(月) 22:27:56
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか15)
の次のスレッドは
「三国志魏書東夷伝倭人条」等を読む(邪馬壹国はどこですか16)
がいいな、日本史じゃなくて世界史スレッドの方がふさわしいと思う。
985日本@名無史さん:2005/06/27(月) 22:44:37
古文・漢文板にしとけ。
986日本@名無史さん:2005/06/27(月) 22:57:00
弥生時代から奈良時代までそれほど激しい人口の変化はないと思われているが。
ちなみに、奈良時代に人口600万ぐらいとすると、2、3世紀で人口400万ぐらい。
987日本@名無史さん:2005/06/28(火) 00:23:36
>弥生時代から奈良時代までそれほど激しい人口の変化はないと思われているが。

あれ?そうだっけ?
どこに書いてあった?
988日本@名無史さん:2005/06/28(火) 02:21:08
 戸数  ×  居住人数  =   人口
 ↑       ↑        ↑
信頼出来る?  2〜10人(適当か?   はて?  

筑紫よりも投馬、投馬より邪馬台、にイパーイ人がいたんだろうなあ〜
くらいしか、今のことろ推測出来ないのでは?
989日本@名無史さん
糞スレ埋め