1 :
また〜り:
アホの「25歳♂投馬国王の子孫」が逃げ出したので立てました。
熱くなりすぎず、多少のループも楽しみながら行きましょう。
にげつ
3 :
日本@名無史さん:05/01/07 00:13:20
もう論争じゃなくて投票でいいだろう。
俺は九州に100票
4 :
日本@名無史さん:05/01/07 00:14:21
エジプトに5000票(BYキムタカ)
つーことで、終止符。
7 :
日本@名無史さん:05/01/07 11:10:56
やっぱり邪馬台国は
筑前〜筑後〜肥前〜肥後を移転してるとおもう
参加してもいいですか?
9 :
日本@名無史さん:05/01/07 20:44:18
別に遠慮せず、参加すればいいだろう もともとたん壷といわれてた
2CHなんだから
最近なんだか、ptAのママさんみたいな連中やノミキンみたいな連中が
増えて困っている
10 :
日本@名無史さん:05/01/07 21:38:30
>>8 待ってました、プラムさん。どうぞごゆっくり。
11 :
プラム:05/01/07 22:36:53
皆さんありがとう。
近々、私もこのスレ復活します。
よろしく!
>>9 少なくとも昔の日本史板はタン壺などとは言われてなかったよ。
君たちがゴミをまき散らかした結果、今はゴミタメになってしまったけどね。
13 :
日本@名無史さん:05/01/08 00:09:26
いや〜、日本史板は前から嵐の出やすい板の上位5位には入るでしょう。
アズマが暴れ出した頃からならな。
その前は極めて健全だったよ。とくに南朝板はな。
15 :
日本@名無史さん:05/01/08 02:22:19
16 :
プラム:05/01/08 12:45:01
壱岐から千余里(対馬→壱岐と同じぐらいの距離)の、海を渡って着いた『末盧国』って、何処なんでしょう?
ここで頼れるのは距離だけ、方角も書いてない
※ 距離 千余里
※ 環境 海に面してる
従来通りの、(呼子・唐津)では余りにも距離が短すぎる。
どうしても、距離を考えると、博多湾より東の方になる
畿内説スレに大型新人コテハンが降臨されました。
ぜひ、このスレにも呼んであげて下さい。
彼の活動履歴は↓こんな感じです(w
【邪馬台国は大和朝廷になったのか?16にいきなり登場】
105 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/06 10:39:18
106 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/06 10:51:42
107 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/06 12:39:00
【畿内王権の謎を解くスレに移動】
286 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/06 19:10:11
287 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/06 19:24:51
288 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/06 19:52:53
【夕食タイム】
290 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/06 20:55:07
295 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/06 22:23:53
【起床、二日目開始】
299 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 07:12:32
300 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 07:21:16
301 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 07:34:26
【朝食タイム】
303 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 08:25:39
304 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 08:40:25
305 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 08:44:13
306 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 09:09:30
307 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 09:25:15
308 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 09:36:28
309 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 10:12:30
310 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 10:29:40
311 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 10:32:19
312 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 11:05:20
313 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 11:12:30
314 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 11:24:59
316 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 11:28:45
319 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 11:46:29
320 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 11:49:26
322 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 11:56:03
324 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 12:01:58
325 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 12:05:55
【昼食タイム】
327 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 15:36:08
330 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 18:43:47
331 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 19:04:48
332 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/07 19:41:56
【起床、三日目開始】
353 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/08 08:33:31
354 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/08 09:05:26
355 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/08 09:10:48
356 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/08 09:20:37
357 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/08 09:28:06
358 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/08 10:09:26
360 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/08 10:13:35
363 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/08 11:00:58
364 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/08 11:05:46
365 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/08 11:12:17
367 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/08 11:26:05
369 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/08 11:36:28
370 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/08 11:39:41
372 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/08 11:49:14
374 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/08 12:21:37
375 名前:しばらく[] 投稿日:05/01/08 12:40:11
【現在、昼食タイムと思われる】
ひたすら自説を垂れ流すだけで、議論には応じないみたいだな
出始めの頃のレスを見たのか、奴に絡んでくるものも少ないし。
(それっていわゆるデムパ?)
21 :
プラム:05/01/08 18:26:14
自分が『しばらく』さんのこと言うのも、筋違いだけど(その前にレベル違い過ぎ)
彼を、静かにさせる一番の近道は、やっぱり一日も早く畿内説の道を断ち切ることに限る!
22 :
プラム:05/01/08 20:20:34
『しばらく』さんのスレ、一通り読んでみたけど
内容はともかく、比較的解りやすかった。
いいんじゃないの
私も地図見てて一つ見つけた。
伊万里市って地名の由来よく知らないんだけど
『伊都国は、郡から萬里のとこにある。』
こんなんだったらいいなー
23 :
日本@名無史さん:05/01/08 22:14:32
>>21 えらい度胸だな、プラムよ。
藻前あれだけ考古学の本を紹介してもらいながら
ただの一冊も読んでないだろう。
挙句の果てには「断ち切る」か…藻前何様のつもり?
まったく、その恩を仇で返す態度が反感を買ってることにそろそろ気づけよ。
24 :
プラム:05/01/08 22:39:29
>>23 いいかげん、言葉尻捕らえるのよせよ!
一言一言チェックされたらたまんねぇー
ま、いろいろ言われるのは、慣れてるから構わないけど。
推測だけで、人格や行動批判するのよしな
自分自身、昨年の暮れからずーと開いた時間利用して『邪馬臺国』一色だよ!(ネット検索、2ch、本)
今、『韓伝』にも挑戦してる(チンプンカンだけど) 今の俺のスレ 前とは多少違ってると思うけど
25 :
プラム:05/01/08 23:02:48
>>23さん。
まぁ言葉遣いに誤りがあったことは確かだ!
考古学関連は今、ネット検索中心にちゃんと目通してますよ。(まだ初歩だけど)
だからこの前も、疑問に感じた『絹』のことスレに乗せといた。
ちょうどいい機会だから、考古学について質問していいかい?
26 :
プラム:05/01/08 23:25:32
何んかめんどくさくなったなー
コテハン付けてるのがいけないのかなー
27 :
日本@名無史さん:05/01/08 23:29:27
パート2くらいスレタイに入れろよ・・
28 :
日本@名無史さん:05/01/09 01:07:29
>>17 彼は、以前からの住人だよ。神武天皇スレで改名宣言した後、
他スレに登場。
コテハン叩きはなんだが、ちょっと暴走しすぎとは思う。
776 :寛恕不如意背反網倫理 :05/01/06 09:56:04
コテハン「寛恕不如意背反網倫理」は長すぎる。夕べ、二代目市川団十郎というNHKを見ていたら「しばらく」という言葉があった。
これからはコテハンを「しばらく」にしようと思う。それから固定観念に囚われることを防ぐために毎日、史観、人生観を変えてゆきたい。
先生といわれる人間ほどの阿呆にはなりたくないし、先生になれるはずもない。じゃーね。しばらく
NGワード登録したしたし、どうでもいい。
30 :
日本@名無史さん:05/01/09 01:41:00
別にいいんじゃないの?しばらく氏の書き込みが多いだけで、
意思疎通もあって、荒らしじゃないし、無視するのも、自由。
プラムさん、ゆっくり行きましょう。2chのために必死になるほどの
必要もありませんから。謎解きの魅力が最優先ってことで・・・
謎解きだと思うのがそもそもの間違いの大元なんだよなぁ。
っていう論議も楽しいなあ
33 :
日本@名無史さん:05/01/09 20:10:53
「畿内説」専用スレは「閉鎖病棟」専用スレに改名しろや
難破船よろしく、「老教授」の救助を懇願するスレになりました。
35 :
日本@名無史さん:05/01/09 22:21:35
老教授の話って、出来るだけ専門用語を廃して
素人にもわかりやすい内容だったからずいぶん勉強になった。
畿内説の考古的根拠もさることながら、同じ畿内説内での各論まで紹介してくれてたし
何より九州説を頭から否定するのではなく
有用な助言までしてくれていたのだから、かなりの人格者だったよな。
漏れは九州・畿内関係なくもう一度老教授の講義が聞きたいな。
リアルで授業持ってる立場の人だったら、その授業を受けている学生が羨ましい。
36 :
日本@名無史さん:05/01/09 23:37:22
>35
村上恭通の本すらまともに読んでいない老教授とやらは単なる素人だよ。
まともにとっちゃいかんよ。
風土が違うから、重複してませんて。ここは枯れてるの。
邪馬台国関連スレなんてたくさんありますが、みんなそれぞれでしょ。
畿内王権・神武天皇・九州王朝・大和朝廷・魏志倭人伝などなど・・・
このスレが重複してる
あっそう。
結局
排他的な人は残れないんですよ、邪馬台国論争は。
じゃあ、九州説死亡だね。
金印を否定しちゃった妄想畿内説って、
単 な る 信 仰 でしょ
保身的なせまい学閥って嫌ですね。
畿内説専用スレ荒れてるね
45 :
日本@名無史さん:05/01/11 23:34:06
うん。そうだね
今までかなり無理したみたいだから、反動出てるんじゃない。
神様かってにいじくり回したから
46 :
日本@名無史さん:05/01/11 23:35:18
>1
終止符うたれてるじゃん。
学者で畿内説じゃない人なんか今時いないし。
>>46 ん?迷子ちゃんかい?
ここは日本史板だよ
48 :
日本@名無史さん:05/01/11 23:53:45
提案があるんですが。
『邪馬台国』は、もう畿内説の方に譲りませんか?
倭人伝の中で、一回こっきり登場する国ですし。
これから、畿内説以外の方は、『卑弥呼の統治する国』を、探しましょう。
そうすれば少なくとも、九州 VS 畿内
だけは無くなりますから
譲れんよ。畿内にあるなら、何故日本の記紀に記述が無いのだ?
日本にあった女王国の記述が皮肉にも逆に外国の魏志倭人伝にあるのはおかしいと思わんか?
邪馬壹国は九州にあったんだよ。畿内ならば、何故伝にタラシナカツかワカタラシの王の
名が記述されてないんだ?当たり前だよ。九州にあったからさ。
発掘で「邪馬台国」の文字は見出せないから
漢籍を無視しちゃった邪馬台国探求は虚しい。
特にマキムク考古学オンリーの畿内説は笑止千万。
>>49さん
ごもっともな、ご意見です。
>>48の、提案は廃案と致します。
お騒がせしました!
だからね。当時卑弥呼と神功皇后とは、おのおの九州と畿内に両立していたのだ。
ちょうど、イギリスの女王とフランスのサッチャー女性首相が共在していた時があったようにだ。
>>49さんにお尋ねしたいのですが。
当時(三国志が編纂された時期)の、大陸の高官達の認識として、九州島以外の所の認識レベル(注目度)は、どの程度だと思われますか?
ちなみに、私などは 九州島 80 その他 19 畿内 1その程度じゃ無かったかなと考えてます。
まあ大体その辺だと余も思うよ。しかしなんで畿内説に譲れというんだ?
眠いのう、明日以降に話をしよう。
55 :
日本@名無史さん:05/01/12 00:44:37
邪馬台国 は ヤマト を 中国人が勝手に訛って呼んだに決まってる。
そんなものは大和朝廷の前身とは別に存在したわけではない。
従って 邪馬台国 が 大和になったのではなくて 最初から大和だったのです。
ただし、大和が日本の別名であれば卑弥呼が勝手に「日本国代表」を名乗ったのだという本居宣長や黒岩重吾の説も捨てがたいものがありますなぁ。
56 :
日本@名無史さん:05/01/12 00:50:40
ついでに言えば 卑弥呼 は ヒメミコ に漢字を当てはめたに決まってる。
記紀に「邪馬台国」って単語が出てこないことが、何で九州説の証明になるんだか・・・
58 :
日本@名無史さん:05/01/12 01:06:30
だから 邪馬台国 は中国での 大和の呼び名であって、日本が当時政治統一されていなくて
どこかが中国皇帝に対して勝手に「私がヤマトの代表でございます」と名乗ったのなら
どこにあったって不思議は無いわけでしゅ。それだけのことです。当時畿内にはマキムク王朝も成立していたことでしょう。
59 :
日本@名無史さん:05/01/12 01:07:36
証明にはならんがそういうことなら九州じゃなかろうかということだと・・・
60 :
日本@名無史さん:05/01/12 01:14:29
中国では日本のことを 倭 と呼んでいた。それに対して日本では自分達の列島を ヤマトと呼んでいた。
邪馬台は ヤマト に漢字を当てはめただけ。記紀に邪馬台などという言葉が出てくるわけないですぅ。
記紀に邪馬台国が伝えられていないのは、大和朝廷が採用した歴史観に削ぐわないからでしょう。
もし、邪馬台国の後継などと称したら、せっかく築きあげた対等外交主義が崩壊しちまう。
「卑屈な朝貢外交に頼った卑弥呼なんてーのは、神功皇后の名を騙った九州の一女酋に過ぎない。」
これが、大和朝廷の建前だからね、本邦初の邪馬台国九州説は、「日本書紀」なのさ。
紀の編者は、倭人伝は知っていたのに
宋書を知らなかったのはどういうわけなのかな?
知ってたかどうかは判らんが、南北朝以前の対中外交は、全て朝貢路線。
書けないだろう。
>>61 >大和朝廷が採用した歴史観に削ぐわないからでしょう。
嘘嘘。唐書には日本国が倭国を併合したと主張した旨が書かれてる。
>64
ウソつきは、モマエの方だろう。
旧唐書に書かれているのは、倭人の説明が、併合、改名、革命(ちょっと意味が違うか)の三つの内、何れなのだかわからず、甚だ疑わしいと言う中国側の感想だ。
つまり、前代までの朝貢関係を認めず、日本国は、漢代以前に二ニギが高天ヶ原から九州に天下り、神武が東征して作った国です、といきなり宣たまっちまったわけだ。
まあ、当時の大和朝廷も大嘘つきだな(W
66 :
日本@名無史さん :05/01/12 07:59:09
邪馬台国はヤマト国
卑弥呼は姫姑
福井県と福島県が別物のようにだ、京都と東京は別物なのだよ。
邪馬壹国と大和とは別物なのさ。
>>55の「決まっている「」は即断だ。
九州と畿内に二者が両立していたのが真なのだ。
畿内に無いから記紀に記述がないわけだ。
エジプトのピラミッド内にエジプト文字が書かれてはいても中南米の馬耶文字
が無いのは何故か?両者の交流がなく双方が別物だったからだよ。
九州と畿内も殆ど交流が無く、おのおのが別物なのさ。
>>67 殆ど交流がなかったってのはちょっと…
確かにその例えのように古代エジプトとマヤ文明は場所だけでなく
時代も異なるから交流がない。
しかし邪馬台国と記紀を編纂した頃の畿内とは時代は異なるが、
場所はやや近くにある。だから神功皇后のところで少し触れただけ。
3世紀前半では、畿内と邪馬台国とにはいろんな意味で交流はあったと思うよ
(交易、敵対とか)
その他太氏の、九州にあった邪馬台国についての情報が足りないから記紀に
書けなかった、という考えには同意。
仮に畿内に邪馬台国があったとしたら、すべての情報を削除する理由がない。
ご意見有難う御座います。
邪馬壹国と大和とは当時東京の山手線と京浜東北線とが一定区間並行してレールが
あるように、二本の線路的感じで九州、畿内に存在していたわけです。
一本目が邪馬壹国で、二本目が大和国であります。
それゆえ、邪馬壹国の国名に「壹」の数文字があるんですよ。分かりましたか?
>>69さん。
これは小学生的発想ですが。
韓伝や倭人伝に登場する国名の文字数が、
一文字…希少
二文字…多数
三文字…希少
何かランク分けがあったのでしょうか?
中国の国名はほとんど一文字。
文字数にランクがあったとは考えていません。
通常はあちらは一文字が多いようですな。名前では例外的に諸葛孔明、欧陽○○など
があり、現今の俳優で六小齢童が有名でしょう。
余の言っていることは
邪馬壹国が1番線、大和朝廷が2番線のレールを走る歴史の意味での電車だという事です。
太さん。
文字数は、いけませんか!
山手線と京浜東北線の理論は、同感です。
ただ、少しだけ『韓伝や倭人伝』に、記載される国名漢字に興味を持ってます。数種類の漢字を多様してるんです。
ま、また検討違いかも知れませんが。
三世紀頃の国々は、半世紀 しないうちにコロコロ名前や勢力範囲が変わっていると、自分は考えてますが
間違いでしょうか?
>69
判るわきゃねーだろがw
74 :
日本@名無史さん:05/01/12 23:24:23
紀記には邪馬台国がちゃんと出て来てますよーだ。天照大神は卑弥呼を神格化したものなんだなこれが。
75 :
日本@名無史さん:05/01/12 23:26:32
というより紀記に書かれていることは邪馬台国の歴史そのものなんだな。
76 :
日本@名無史さん:05/01/12 23:57:43
何故三角縁神獣鏡が畿内であんなに多く出てくるかと言えば、中にはレプリカも多くあって、要はライバル達を押し退けて政権の座に付くために「私どもは中国皇帝から倭の王である」と公認されておりますということを大いに宣伝するためだったのです。
77 :
日本@名無史さん:05/01/13 00:29:26
三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説
三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説
三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説
三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説
三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説
三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説
三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説
三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説
三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説
三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説
三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説
三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説
三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説
三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説
三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説
三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説
三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説
三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説
司馬遷がどんなに偉大な史家でも、自分の死後300年も経った時代のことまでは捏造できんだろうな。
>>72 日本の仏寺の死者への戒名は文字数にランク付けがあるはずですが、
中国の各時代の国名にもそういうことがあったか無かったかということは
余は覚知していません。一字と二字とでは違いがあるのか?ということは
頭の中で微かによぎったことがありましたが、進展したことは無いです。
この件は不明です。貴下の今後の研究を期待します。
もう邪馬台国は岩手ってことでいいじゃん
83 :
日本@名無史さん:05/01/14 20:09:21
鬼の手形と鬼道? いくら何でもこれとは別々でしょう。
84 :
日本@名無史さん:05/01/14 22:03:55
鬼道なら どうだん躑躅(つつじ)の紋章だが 16弁菊の紋章のオリジンはエルサレムのソロモン宮殿だ。
つまり朝鮮半島経由で渡来したユダヤ系スキタイ族が大和朝廷の起源ということになってこれは例の騎馬民族渡来説となる。
85 :
日本@名無史さん:05/01/14 22:10:37
>>82 そうだよな、魏志倭人伝の記述では方角は違ってるが距離的にはそのへんだよ。
三内丸山なんかいいんじゃないか?
86 :
日本@名無史さん:05/01/14 22:14:32
>>84 逆もありうるじゃあないか?つまりだ。大和朝廷から朝鮮にわたり
あちらへ渡来したということだ。結論が早い。
87 :
原田大六:05/01/15 21:23:45
馬鹿っ!卑弥呼の墓は箸墓に決まっとるけん!!
88 :
原田田色区:05/01/16 21:31:09
卑弥呼の墓は、あんなに大きくないと思うが。
金印が九州なのに、何で卑弥呼は畿内か。
89 :
日本@名無史さん:05/01/16 22:08:05
邪馬台国論争。
90 :
日本@名無史さん:05/01/16 23:46:42
邪馬台国論争.
陳寿「論争してるみなさん・・・そのう・・・」
ヲタ「なんだ?」
陳寿「今みんなで話しあったんですが・・・どうも そのう・・・
わしらは勘違いをしてたんじゃねえかな・・・」
ヲタ「勘違い?」
陳寿「その・・・魏志倭人伝の邪馬台国のことで・・・どうもありゃ勘違いで・・・
あの国はなかったことにしてくれんかの・・・」
ヲタ「ばかをいうな!もう100年以上も論争が続いているというのに・・・!
そんなことができるか!」
陳寿「じゃけんどワシらも東の海の中の国ことなどよく知らんじゃし
論争が決着しそうな気配もないし・・・」
中国人B「そうじゃ、はるかかなたの海の中にそんな国があることの方がおかしいがな」
ヲタ「じゃあ俺たちが続けてきた論争は何だったんだ!?」
陳寿「あの日はずいぶん暑かったで・・・やっぱりのう・・・みんな頭が・・・」
陳寿
「ワシは内陸部の国、蜀の家臣だったが、蜀は魏に滅ぼされ
その魏も魏の家臣に乗っ取られて、今じゃその晋の国民になってしまった。
だからワシの周囲には敵が多い。この間など、ひどく馬鹿にされてしまった。
倭国の位置をなるべく正確に書いていたら・・・内陸部出身のお前は
ぜんぜん土地勘がないな、倭国は会稽東冶の東にあるんだぜ、
呉の出身者なら誰でも知ってるぞ・・・と笑われてしまった。
呉に来ていた南九州の倭人と、邪馬台国の連中は、ちょっと場所が
違うようなんだが、あんまり攻撃されるもんだから、泣く泣く
「会稽東冶の東」って書いてしまったよ、とほほ。」
93 :
日本@名無史さん:05/01/18 02:00:37
孝元天皇妃、鬱色謎が女王壱与という説もあるね。
狗奴国の男王・卑弥弓呼(ひみくこ)こそ孝元天皇(彦国牽)その人。
94 :
前スレ主1様:05/01/18 09:38:54
みなさんお久しぶりです。
前スレの1です。
PART2までMYスレを愛用してくださり謝謝です。
私の考えでは邪馬台国は九州にあり、
畿内王朝と婚姻関係を結び徐々に同族化していき
最終的に畿内に権力がまとまったというのが
自然な流れのような気がしてなりません。
95 :
日本@名無史さん:05/01/19 12:52:32
>>94 たぶんそうなんでしょうが、マキムク厨がウンと言わないんです。
96 :
原田大六:05/01/19 13:43:58
早く目を覚ませ 馬鹿もん 箸墓を掘れ!!
97 :
日本@名無史さん:05/01/19 21:27:19
どうせ箸墓は個人墓じゃ無いことが判明して、原田説は逝く。
>>94 魏志東夷伝の中に登場し、それ以降幻の如く消え去ってしまう邪馬台国
未だに場所の比定もされないこの国が、何故に畿内へ東征
そして、後日大和朝廷へ? (以前は、私もそのように考えていたが)
魏にとっては、国交がある比較的知られた国でも、日本国内から見れば
近隣諸国以外は余り知り得ないマイナー国かも?
本当の邪馬台国の姿は、以外と…。
臺与が死んだ後は、徐々に国力が衰退し滅ぶか 又は近隣国に吸収され自然消滅する
と、ゆうシナリオも考えられないだろうか
99 :
日本@名無史さん:05/01/20 00:22:47
臺与=豊受大神
卑弥呼は於万戸に箸を突き立てて自殺したことになっていて、そこから箸墓がその墓だとうことになったらしいが信憑性が薄い。
100 :
日本@名無史さん:05/01/20 00:27:32
>>98 ですから、邪馬台 は ヤマト に漢字をあてはめただけなんです。
したがって記紀には特定の国としての記述がみあたらんのは当然です。
だって、記紀は邪馬台国のことを主体に書いてあるんだから。
101 :
日本@名無史さん:05/01/20 00:31:50
卑弥呼は自分の国をヤマトと呼んでいた筈なのだ。
102 :
日本@名無史さん:05/01/20 00:36:28
卑弥呼も固有名詞だと思ったら大きな間違いで、 ヒメミコ にその音から漢字を当て嵌めたに過ぎませんよーだ。
103 :
日本@名無史さん:05/01/20 00:37:45
何度言ったらわかってもれえるんでしょーかねぇー。
104 :
日本@名無史さん:05/01/20 00:40:22
邪馬台国はヤマトを漢字で表したもの。卑弥呼も固有名詞ではなくヒメミコを漢字であらわしたものです。
105 :
日本@名無史さん:05/01/20 00:41:33
つまり、邪馬台国も卑弥呼もそれ自体では存在していないのです。
106 :
日本@名無史さん:05/01/20 00:52:19
>>98 現れて忽然と消えたなどということはあり得ません。
中国のほうで「あの昔使者をよこした倭の国はどうなったんだろう」と情報が途絶えただけです。
107 :
日本@名無史さん:05/01/20 00:55:16
日本のほうで該当者を探すとなればそれはみなさんよくご存知のヤマト以外に探しても無駄なことです。
108 :
日本@名無史さん:05/01/20 02:48:46
三国時代に列島側に「ヤマト」なんて地名・国名があったという証拠はまったくないな
むちゃくちゃだ
>>100-101
>>100-101 貴方の理屈ならば、京都が東京都ということとなる。愛媛県は愛知県だという主張だ。
若ノ花は貴ノ花だと言っているのと同然ではないか?
邪馬台国なんぞは無かったんだよ。邪馬壹国が正解なのだ。
みあたらんのが当然なら、ワカタラシヒコやタラシナカツヒコやホムダのスメラギの
名が記紀にあっても然りではないか?それらのスメラギの御名が無いということは
大和朝廷が邪馬台国ではないということになるのだ。
現在でも
東京ディズニーランドが東京に有ると思ってるヤシいるし、
新東京国際空港なんて成田だもんなー
ましてや、現在の東京から江戸を連想するのはタイヘンだー
地名や個人名から過去を判断すると、落とし穴が口を空けて待っているね!
ましてや文字の無い三世紀の時代じゃ尚更だ。
111 :
日本@名無史さん:05/01/20 22:16:28
邪馬壹国ね・・・
古田さんも罪作りだなあ
九州と東北に大量のデムパを発生させちまった罪は重いぞ。
>>91 遅レスだがモロ☆はやっぱりいいね!
小説のほうもおすすめだよ
113 :
91:05/01/21 00:26:13
ううう・・・やっとわかってくれた・・・・
うれしいよぉぉぉ
>>113 なぜ誰も突っ込まないのか不思議に思ってたので、あえてレスしたんだけど
まさか邪馬台国ヲタのくせに最近の香具師はモロ☆も知らないのだろうか?
それにしても冬はオリオンが綺麗だ・・・
うん。どうも最近若い人ばかりみたいで。
投稿から受ける印象からすると、どうも高校生ぐらいみたい。
余裕がないっていうか、“あそび”がないから読んでてもおもしろくない。
>>114 松下見林なら知ってるが、モロ☆など知らん。誰それ?
117 :
日本@名無史さん:05/01/23 08:59:53
考古学的に邪馬台国を発見するのは無理だな。
邪馬台国と書いた看板でも見つかれば別だが。
>>116 こういうレスがつくから、今の邪馬台国スレは読む気にならないんだよな。
分からないなら普通に聞けばいいのに、なんの関係もない松下見林なんて持ち出してくる。
なぜかって言えば、ただ聞くのは悔しいから、俺は何でも知ってるんだぞ、っていうデモンストレーション。
要は、議論がしたいんじゃなくてただ単に知識をひけらかしたいだけってのが透けて見えちゃうんだよね。
本人がそこに気付いているかどうかはともかくとして。
それも本当にレアな事ならいいんだけど、
書いてる話が誰でも知ってる事だからなおさら萎える・・・
そういうのは突っ込むのがお約束だよ。
まあ、知らなきゃしかたないが。
・・とまあ
>>120がいくら自己弁護を試みたところで無駄なわけだw
オームが怒りで我を忘れている・・・・
じゃなかった。121が怒りのあまり誰が誰やらわからなくなってる・・・
まあ、餅つけ。
わかってる香具師は
>>119でモロ☆を“ひけらかしてる”って書いた時点で
飲みかけた茶を吹き出したに違いないんだから。
まじな話、モロ☆を知らないからってどうということはないから安心しろ。
特にお前のような香具師には無縁のものだ。気にするな。
ネタをネタと見抜けないやつは(ry
だから、モロ☆って誰だよ?知らないよ。
124 :
日本@名無史さん:05/01/27 22:34:17
いくら掘っても、邪馬台国は、畿内からは出てこない。
「邪馬台国」の文字は漢籍由来だから、文献無視の
マキムク厨は電波。
125 :
老教授 ◆DaLsTNW7DE :05/01/29 22:34:02
>>123 「モロ☆」でググってみたところ
「... 人気順モロ女優・・・笠木忍etc」がトップにありました(笑)
忍ちゃんファンの私が思わずクリックしたのは言うまでもありません。
ちなみに「諸星」でググれば2番目に該当サイトが発見できますので、ご参考までに。
91さん「黒石島殺人事件」のパロ、お見事です。
126 :
日本@名無史さん:05/01/30 01:47:05
老教授は「下半身が若教授」・・・
>>125 すんません m(__)m
『「黒石島殺人事件」のパロ』のパロです。
モトネタはシャア板。
諸星大二郎だろ。
129 :
日本@名無史さん:05/02/02 21:33:54
笠木忍、黒石島殺人事件、諸星大二郎・・・
板ちがいなカキコばかりだな。
あ! スレが動きだした。
老教授が降臨したからね。
エ老教授あげ
・・・「... 人気順モロ女優・・・笠木忍etc」
今からここは、笠木忍スレになります
コスプレにSMですか?
135 :
日本@名無史さん:05/02/05 00:49:22
ヤマタイ国が九州にあったということは 七枝剣 の伝承がそれを如実に物語る。
136 :
日本@名無史さん:05/02/06 23:04:30
中国の史書にも良く出てくる、倭族というのは長江あたりにいっぱいいた流浪の民です。
それが南鮮で同じくツングース系の流浪の民、扶余族と一緒に何派にもわたって海を渡ってきたのが弥生人です。
137 :
日本@名無史さん:05/02/06 23:06:49
ヤマトタケルの白鳥伝説は扶余族のものです。
卑弥呼の鬼道とは古代道教のことです。
138 :
日本@名無史さん:05/02/06 23:08:45
数は少ないが扶余は国をまとめる能力において数段倭族より優れていました。
139 :
日本@名無史さん:05/02/06 23:10:50
>>135 そうね七枝刀は由来が非常にはっきりしてるね。
九州から畿内に大和朝廷の中枢と一緒にやってきたということが。
140 :
日本@名無史さん:05/02/06 23:48:38
邪馬台国=おれんち
141 :
日本@名無史さん:05/02/06 23:52:44
それだけはヤメタイコク
142 :
日本@名無史さん:05/02/06 23:55:50
オレンヂ 台々
ななさやのつるぎはレプリカが神像として福岡県山門郡瀬高町に残ってるからなあ
144 :
日本@名無史さん:05/02/07 10:53:34
邪馬台国は旧約聖書に出てくるヨシュアの一族が建てた国
>>136 長江あたりに倭がいたという証拠はないよ。よくそういうこという奴いるけど。
それと夫餘はツングースという証拠もない。それは昔の古い説。
>>137 古代道教なんてものはない。道教の源流のひとつではあっても道教そのものではない。
この時代まだ道教は未成立。
146 :
前スレ主1様:05/02/13 08:51:25
邪馬台国は宇佐を中心とした北九州にありましたね。
すでに卑弥呼の時代に大和朝廷と交流があったようですし
おそらく王族同士が婚姻関係を結ぶようになり
平和的に合併。同族化していきました。つまり大和朝廷が
徳川将軍家で邪馬台国・出雲・吉備あたりが徳川御三家みたいな
感じでしょう。そして4世紀後半に仲哀天皇が熊襲征伐に
九州にきているときに、邪馬台国側がひそかに仲哀を暗殺。
そして畿内へ東征して大和朝廷をのっとります。
これが応神王朝で、ゆえに宇佐神宮に応神天皇・神功皇后が
比売大神(卑弥呼)と一緒に祭られているのです。
>>146さん お久しです。
いきなりなんですが、
以前私自身、宇佐説を主張していたので宇佐の魅力は十分承知しております。
でも、宇佐の地理的環境にしっくりこないものがありもう一度、検証のやり直しを重ねてきました。
その結果、『陳寿』の書いた女王の都は(邪馬台国含め)九州北部(玄海灘沿岸)にあったのではないかと今、自分なりに仮説しております。
148 :
日本@名無史さん:05/02/14 00:21:17
プラム!
泣くな、お前には、まだこのスレがあるじゃないか。
ここで、もう少し文筆の勉強をして、大きくなって、
いつか、畿内スレの連中を見返してやれ。
>>148さん
ありがたいねー
あったかいねー
あいよ!
150 :
前スレ主1様:05/02/14 08:12:07
他スレは専門的過ぎますね。
あそこまで極めたくもないので
ここにマターリ書き込む程度にします。
151 :
日本@名無史さん:05/02/14 12:17:17
152 :
日本@名無史さん:05/02/14 17:34:37
>>151 >8世紀に編纂された日本書紀には、
>「神功皇后(ジングウコウゴウ)がヤマトから北部九州を攻め、
>山門郡(ヤマトグン)の女首長を倒した。」とあります。
>この記事は、重大な意味を持っているのです。
うん。ちゃんと書かれてますな。
神功紀九年三月二十五日、山門県の土蜘蛛・田油津媛を殺したと。
田油津媛には兵を従えた兄がいたが、敗走したとある。
その2週間後には、北方の肥前国松浦県に行って玉島里の小川で釣りを楽しんだ。
文献から考えても、邪馬台国は九州・松浦の南方2週間以内の距離にあり、
畿内の大和朝廷に滅ぼされたわけだ。
そんなことは大昔から知られていたこと。
これ以上何を議論すると言うのだろうね?
153 :
日本@名無史さん:05/02/14 17:35:39
>>152 おっと間違い
×神功紀九年
○仲哀紀九年
154 :
日本@名無史さん:05/02/14 17:53:41
ちなみに、仲哀紀九年は西暦200年頃とされてる。
魏志倭人伝で、卑弥呼が死んだのが247年頃だから、日本書紀の年号が不正確か、
魏志倭人伝の記録が、卑弥呼が死んで47年後に、魏の使者が来訪した時の記録をしたものだろう。
「以って死す」だからね。
魏の使者が来訪した時、卑弥呼はすでに死んできて、
男の王を立てたが、何十年か、国は乱れていたわけだ。
トヨが即位して、魏の後ろ盾で、山門(邪馬台国)を再興しようとした。
しかし、魏が滅んだことで、山門(邪馬台国)も、畿内邪馬台国によって完全に滅ぼされたんだ。
これが真相だな。間違いない。
155 :
日本@名無史さん:05/02/14 17:54:31
>>154 おっと間違い
×畿内邪馬台国
○畿内大和朝廷
だからどうしてもずっと奈良でないと気が済まない連中が沢山いるんだよ。
なんで筑紫神話なのか、とか祝詞の「筑紫の日向の高天原・・・」とか、三国史記で
1世紀から営々と倭の侵略を受けていたこととか全部スルーだからね。神社の起源
も知っててスルーだし、古代学者の汚さは目を覆うものがある。
157 :
日本@名無史さん:05/02/14 18:28:53
>>156 すると何か?
筑紫で生まれた応神天皇が、実は九州邪馬台国の末裔で、
東遷し、畿内王権を乗っ取り、大和朝廷をうち立て西日本統一したというのかね?
それは、三文小説・ファンタジーの世界だろう。
158 :
日本@名無史さん:05/02/14 19:07:51
じゃあ三文小説やファンタジーでない、みんなをすげー!!ってうならせる説を
提示してくれ。
とりあえず祝詞は全国津々浦々であげられるし、神社も厳としてある。記紀の神
武までは筑紫や出雲は出てくるが、奈良なんて出てこない。
奈良に遙か朝鮮半島まで兵を出すほどの大王なんていない頃からずっと派兵し
続けていることも説明してくれ。
そうでなければ煽りはスルーだな。
(つうか何処かに応神だの東遷だの書いたっけ・・・?( ´_ゝ`) )
161 :
日本@名無史さん:05/02/14 19:44:42
邪馬台国は、九州山門群にありました。
朝鮮半島と絡んでたのは九州山門。
その後、畿内の新興勢力大和朝廷によって滅ぼされました。
何か?
あくまで私見だが、極端な考えを避けると以下のようになるのだが。
一世紀:委奴国(九州)
↓
二世紀:桓霊の頃、倭国(九州)大乱。その際、一部が東(吉備,畿内)へ遷移。
これが大和朝廷の祖となり銅鐸の文化から古墳の文化へ発達していく刺激となる。
記紀では神武朝か。
↓
三世紀:邪馬台国に代表される倭国(九州)。畿内勢力は発達をつづける。
記紀では崇神朝か。
↓
四世紀:倭国(九州)朝鮮半島で戦(好太王碑)。畿内勢力は極大期(巨大古墳)。
↓
五世紀:倭の五王(九州と畿内の勢力が拮抗のためどちらの王か不明)。
↓
六世紀:イワイ(九州)対オオド(畿内)で畿内の勝ち。
↓
七世紀:日処出天子(これもどちらの王か微妙?)。白村江(これは畿内勢力の戦だよな)。
↓
八世紀以降、日本(畿内)は倭(九州)の別種。太宰府に遠の御門としての記憶が残る。
銅鐸文化の記憶は残らず、銅矛の記憶は記紀に残る。
それでよろしいかと。
ただ、継体の勝ちといっても屯倉一つ得たって記事しかないから、決定的な力関係の
転換には至らなかったのでないか。
164 :
日本@名無史さん:05/02/14 22:00:07
宇佐神宮のヒメ大神は、ただの土着の神だろう。
卑弥呼と結びつける根拠は何も無い。
パズルが解けそうだからと言って、それが真実とは言えない。
ワーィ
やっと規制が解除された。
>>153 神功皇后紀でいいみたいだよ
そしてその後は関裕二氏の説がうまく説明できそう
(なぜかあちらのスレでは関氏が畿内説になってる)
神功皇后(=台与)が日田に拠点を置いて邪馬台国を攻略し、
卑弥呼殺害後は自らが邪馬台国を乗っ取った。
しかし、大和朝廷の裏切りにあい、南九州へ落ちたが、その子孫が
神武天皇となって東征を開始した。
問題点は時期的な整合性かな
ププププッ!
168 :
前スレ主1様:05/02/15 18:52:58
私の意見と同じ意見の人がいてうれしいかぎりです
関は資料批判なさ過ぎ
みんな同一人物にしたらいかんだろw
八幡平を掘れー!
171 :
日本@名無史さん:05/02/17 15:45:13
金印と阿蘇山はどこのものかを考えることだ。
173 :
日本@名無史さん:05/02/25 00:17:33
遺伝子をベースにした最近の学説では縄文人がポリネシア人の祖先であることがはっきりしてきた。
魏志倭人伝の位置関係の記述を忠実にたどって、邪馬台国はポリネシアのどこかにあったとするのが妥当だろう。
174 :
日本@名無史さん:05/02/25 00:21:35
>>173 バカかそんなこと言い出すんなら来るな。ここは「終止符を打つスレだぞ」
175 :
日本@名無史さん:05/02/25 00:22:39
176 :
ひで:05/02/25 20:05:12
関氏の説では、北九州勢力(=邪馬台国連合)が瀬戸内海沿岸部への
鉄の流通を止めたが、出雲経由の鉄の流通路が確保されヤマト勢力(
畿内+出雲+吉備+東海)が更に隆盛した、とのこと。
海上封鎖できるとは思えないので、韓半島で生産される鉄の出荷を制
したということかな?
日田に拠点を置いて邪馬台国を攻略し・・・、というのも、そんな遠距離
の兵站を維持できる機動力(出雲⇔九州)が当時あったと思えない。
日田周辺を狭い範囲で眺めると、西方向への防御力が高そうに思えるが、
海岸線を辿れば東に回りこめる訳で、地勢的に言えば北九州勢力が有利。
それでも北九州勢力が劣勢であったとすれば、日田の南及び東方向の広
い範囲がヤマト勢力圏となります。これでは邪馬台国が小さな地方勢力
になってしまい、如何に魏がのんきでも倭人の代表と見なさないでしょう。
従って、私は北九州に邪馬台国があったとする関氏の意見を否定します。
否定すべきは、日田に比定したことでしょう。
べつに九州に邪馬台国があったことの否定にはなりません。
178 :
ひで:05/02/28 13:00:37
3世紀初頭の日田に軍事拠点があり、畿内ヤマト勢力の遺物が出土した。というのは
虚構なのですか?関氏は、それを事実と捉えて「邪馬台国=北九州」の推論を展開し
ておられると認識しておりますが・・・。
なにか誤解がありますか?もう少し詳しくご指摘下さると幸いです。
179 :
日本@名無史さん:05/02/28 13:56:58
邪馬台国って韓国にあったらしい
>>179 知ってたの?
そお
金海付近(伊都)、対馬、壱岐、前原付近が
邪馬壹國だよな
そして、女王の都が前原付近なんだ
紀年論に次ぐ古代史の難問は邪馬台国論であるが、これは皇国史観
がつくりだした難問であった。
「邪馬台国」は倭の女王卑弥呼が都する所として「魏志倭人伝」に初め
て登場してくる。このとき、「魏志倭人伝」を編纂した陳寿の表現に少な
からぬ混乱があったために邪馬台国の位置があいまいになってしまう
のだが、七世紀に成った『隋書』倭国伝には「(倭国は)邪摩堆(やまと
=邪馬台)に都す、則ち魏志のいわゆる邪馬台なる者なり」と明示され
ているのである。おそらく大和に赴いた裴世清の報告によって確認され
たのであろう。『日本書紀』も「邪馬台国=大和説」に立って「卑弥呼=
神功皇后説」を採っていた。神功皇后摂政期間を一二〇年余り古く考
えたために皇后を卑弥呼に比定したのは誤りであったが、その位置に
ついては中国においても日本においても何ら問題がなかったのである。
ところが、神ながらの皇国(日本)が漢土(中国)に朝貢などするはず
がないと考える本居宣長が「熊襲偽僣説」を打ち出し、景初三年(二三
九)の卑弥呼の遣使を「皇后の盛名を偽って熊襲の類が私にした使い
である」として以来、「邪馬台国=九州説」が一人歩きを始めたのである。
http://www.h2.dion.ne.jp/~taki99/kodaisi01.htm
アイヌ語で「シャモ」って日本人のことなんだけど、
「東(から来た)人」って意味なんだって。南だよね。
邪馬台国までの道程って「東に船で○里…」とか。
関係ないな。ごめんなさい。
183 :
日本@名無史さん:05/02/28 17:41:10
>>183は津田左右吉の信者です。死ぬまでそっとしてあげてください。
185 :
鴨禰宜:05/03/01 16:03:24
「日本史」の中の古代史関連スレが「(邪馬台国)・・地域」説で論争をしている。
悪循環の無限地獄にある。
反面、地域、現在の国境を超えた観点による古代史総合スレはない。
また、神社由緒、伝承、史書以外の文献、考古学、歴史、宗教、神話等を統合した
スレもない。
日本の教育制度がこうした総合的なアプローチではなく個別の学問のセクショナリ
ズムに分かれる風潮を助長している。
しかしながら、現実社会はホリスティックである。物理学であっても相対論と量子論
を同時に用いなければ正しい現実認識は得られない。
産業界においては、業際、ニッチ産業への進出が重要である。
学問の世界だけセクショナリズムに閉じこもっていては社会から遠ざかる。
・・前置きが長くなったが2CHの長所はこうしたセクショナリズムを破る自由闊達な
意見交換の場であることにあるのではないか。
ネチケットに違反する慣例は厳に慎むべきことではあるものの、日本史に関連するあり
とあらゆる事柄が自由闊達に討議される場がのぞまtれる。
こういう見地からするとこのスレタイは時宜に適ったものといえるんじゃないですか。
186 :
鴨禰宜:05/03/01 17:05:47
古代史でもっとも不思議なのは九州北部で開花した弥生の村落連合が突如纒向で
飛び出してくることである。これは地名の類似から見て遠賀川流域から吉備を経由して
大和川流域に向かう移住があったのか、あるいは、三韓からこの両地方への移住があ
ったのか、あるいは、その両方であったのかということが考えられる。移住したと思われる
のは農民ではなく物部といわれる祭祀集団であった。農民の移住なら土地の所有権問題
もあり大変な騒動、戦闘があったであろう。
187 :
鴨禰宜:05/03/01 17:20:04
これは弁辰から辛国息長大姫が筑紫に引き上げる際に現地で共同して祭祀活動を
行っていた秦王の末裔と名乗る功満王(オシクマ)、融通王(ウツ、ウズヒコ)を担ぐ
楽浪からの流民であったのだろう。この流民集団は分裂して天孫、地祇の2つの
対立する陣営に成長するのではなかろうか。つまり九州の東部、東南部の土着
勢力と結託した天孫、裏日本を島根、鳥取方面から南下する地祇族だ。
188 :
鴨禰宜:05/03/01 17:25:46
流民集団は楯築、箸墓に象徴されるインフラ建設を行い、銅鐸から銅鏡への製造技術の
変化などももたらすが最終的には出石に封じ込められる。一部は更に北に進んだものも
あったようだ。
189 :
鴨禰宜:05/03/01 17:31:27
何百年か事実関係が錯綜するが色々の事情があり記紀が脚色されていると考えると
先ずは絶対年代を考えず論理的順序で物事を考えその後に修正を行えばいいことだ。
190 :
鴨禰宜:05/03/01 17:51:46
そもそも古墳、神社などのインフラ建設は天文学的測量によって宇宙とリンク
さす必要があり、宗教も絡んでくる。箸墓と兵主神社、山東省の蚩尤神、楯築と
モンゴルの「磐境」的古墳、韃靼族の中円双方墳、神体石のモンゴル族の神像との
類似、銅鐸、特殊器台のモンゴルの馬乳缶との類似等に目を向けててもしかるべきだ。
また、古墳建設にはある大きな地域がシステム的に必要であり、ある地域に共通する
宗教感覚が根付いたときに初めて成立するものだと思われる。
191 :
鴨禰宜:05/03/01 19:56:50
私は↓のジュラクさんのHPの大フアンなんだけどが、
http://www9.plala.or.jp/juraku/csoki1_3.html ↑ここで面白いのは「昔契約を交わした際、アマテラスは天を、天皇は国を、我
(X)は地祇を治める」ってことだった。これは批准された。しかし崇神は神を祭るとは
言うものの、詳細に至ってその根源を知らず、大雑把に末葉ばかりをなぞるに
とどまった。このために天皇は短命に終わった。であるから、汝、天皇は先の天皇の
及ばざるところを悔いて慎み祭られれば、汝、天皇も長生きができ、天下泰平であろ
うぞ。」これは大水口宿禰が神がかって述べた言葉。私はこのMr.Xは出雲神賀詞
同様大国主と見るのだが、ジュラクさんは
「文脈からすれば契約した大王は神武である。そして神武とのあいだで交わしたこの
契約が、後の大倭氏市磯長尾市にとって祖たる人物の時代にあったというのだから、
契約した氏族の首長は椎根津彦にほかならない。」と見ておられる。しかしこれは
シベリヤ抑留兵のごとく厳しい労役でこき使われ楯築、箸墓で夜昼となく奴隷のように
使われた渡来人集団の恨みという危険なダイナマイトのことではあるまいか。
192 :
ひで:05/03/02 13:33:00
2世紀の日本に大陸から流入した人々が多数いたとして、その流入の
形態はどう考えていますか?
まさか、数千人単位で組織された遠征軍、と考えてはいませんね?
自然に考えると、家族単位で組織された難民が何らかの取引を現地の
支配層と取り交わし、その好意で移住を認められ、その後、何世代も
かけて同化していった・・・のだと思います。
ですから、国の支配層はあくまで土着民で構成され、少なくとも数世
代の血の交わりを経る以前の帰化人ではない、と思います。
過去に何々の移民の血を受け継いだ、という伝承は保存されるはずな
ので、それに振り回されると勘違いが生じるのでは?と心配します。
193 :
鴨禰宜:05/03/02 14:12:18
↑大体夕月の君の渡来、ツヌガアラシト、アメノヒボコの渡来伝説、スサノオの
牧畜、農耕への馬の使用に対するアマテラスの禁忌と僻地への追放等を考えると
相当の渡来人問題があったようです。但し、任那を初め対馬、壱岐のシーレーン、
一大卒のようなものの前身による完全な倭国の管理下に置かれていたのでしょう。
邪馬台国は岩手にあるっつってんだろ
誰か掘れ
196 :
ひで:05/03/02 20:02:13
天日槍が新羅の王族であったとしても、亡命者(少し高級な難民)として
扱われたにすぎなかったのでは?
いきなり支配者として渡来したのではない、と言いたいだけであり、渡来人
が少なかったとは思っていません。私は、ゆったりと浸潤して行ったイメージ
を描いています。
197 :
鴨禰宜:05/03/02 20:24:12
新羅の王族であっても吉備、奈良盆地等ではやや高級な難民でしょうか。ただ、
仲哀記では伊都国ではウルサン出身が県主レベルにまで成功しているようですね。
延烏女の烏郎なんか哀れなもんですね。相当差別されている感じ。天日槍、ツヌガアラヒト
にせよ祭祀器具を携行するシャーマンといったもので、銅鐸時代であれば収穫の祭礼に
神事を行いお賽銭を貰うっていった感じのものでしょうか。ただ、楯築、特に、箸墓などの
天体観測、設計、施工等は相当のノウハウを持っていたものと思われます。末期の銅鐸
の流水紋であったか、急にレベルが上がったという話がありました。やはり遼寧方面からの
中国人技術屋も来たんでしょうか。吉備なんかでは首を釜茹でにされたり、播磨でも
いじめられたような話があります。苦労も多かったが「常世の国」のお方ということで
歓迎する地方もあったのかなーと思います。ま、弥生というのは一所懸命の精神、土地
神話の原点ですから、領地を安堵してもらうまでは大変であったことは察しが着きますね。
198 :
鴨禰宜:05/03/02 20:31:50
現在の人身取引同様安曇海人族の出先機関が任那辺りにあり、船とか、水先案内
料などは先の取られていたのかもしれません。大国主が因幡で白ウサギを助けた
時のワニというのが海人族の本性でしょう。
199 :
鴨禰宜:05/03/02 20:49:45
神武、モモソヒメなどにも鳥夷の傾向があるようですが、神武のはトンビであり、
古めかしい。モモソヒメのトトビとはなんだかよくわかりませんが、神武の系列のもので
渡来系とは違い、九州の熊本から延岡方面に出てきた古い支石墓、甕棺文化の末裔
かなと思っているんですが。
天日槍は、例外的に難民ではない。王族の帰化。
201 :
鴨禰宜:05/03/03 11:40:32
向こうにはそんな記録はないが倭国では王族で通ったと言うことでしょうか。
倭国の人間も王族なんてよくわかっていなかったんだろうな。
202 :
日本@名無史さん:05/03/03 14:11:48
トビ=鳶
”日本の鳶の桃姫”くらいの意味だろ。
203 :
鴨禰宜:05/03/03 14:19:16
広辞苑では↓
もも‐しき【百磯城・百敷】
(枕詞「ももしきの」から転じて) 禁中。禁庭。禁裏。内裏。皇居。
古今雑「山川の音にのみきく―を身をはやながら見るよしもがな」
ももしき‐の【百磯城の・百敷の】
〓枕〓(多くの石や木で造った意、または、多くの石で造った城の意)
「おほみや(大宮)」「内」などにかかる。記下「―大宮人は」
204 :
鴨禰宜:05/03/03 14:47:11
トトビは鳥形木製品を使用する祭祀の中心的存在であったのかなとも
思われますね。
205 :
鴨禰宜:05/03/03 15:16:40
トトビが天、モモソが皇居となると欠史8代中天皇の呼称を持つのはモモソヒメ
のみとなりますね。卑弥呼かな。
箸墓は、『日本書紀』に記されているとおり、倭迹迹日百襲姫の墓
であり、倭迹迹日百襲姫は、祟神天皇の時代の人である。
『古事記』記載の祟神天皇の没年干支(戊寅の年)をもとに、祟神
天皇の没年を258年であるとする。卑弥呼が没したのは、248年
ごろと考えられるので、祟神天皇の時代は、ほぼ、卑弥呼の時代
である。
よって、卑弥呼の時代と、倭迹迹日百襲姫の時代とは重なりあう。
したがって、この二人は、同一人物で、倭迹迹日百襲姫の箸墓は、
卑弥呼の墓である。
クスッ!ww
208 :
鴨禰宜:05/03/03 16:16:30
崇神は短命だった。お前も短命で死にたいかといって垂仁が脅かされ、狗奴国に
倭姫行幸を行ったのだろう。卑弥呼、崇神は毒殺ではないか。
あっはっはっは!ww
どうして、御真木の天皇が活目の皇子を脅迫したと考える推論となったのか?
210 :
日本@名無史さん:05/03/03 16:33:15
鴨禰宜<この名前、どういう意味なの?
211 :
鴨禰宜:05/03/03 17:08:21
>>191 >>209 ↑にも書いてあるんだけど、脅迫したのは神がかった人物で、その神は謎。
漏れの推測では大国主、ウズヒコ(これは多分渡来人だな)の系統、狗奴国の残党
なんかがぐるになってるんじゃないかと。
>>210 鴨ネギ->鴨がネギをしょってきたので鴨鍋に便利がいいという意味。
212 :
日本@名無史さん:05/03/03 21:24:21
どうせなら、「賀茂禰宜」か「鴨葱」でも良かったかと・・・
213 :
鴨禰宜:05/03/03 21:54:48
やや浅いところであったナー。恥ずかしい。
214 :
日本@名無史さん:05/03/04 12:42:00
賀茂って?
215 :
鴨禰宜:05/03/04 14:02:29
216 :
日本@名無史さん:05/03/04 14:27:48
賀茂神社が邪馬台国と関係あるの?
217 :
鴨禰宜:05/03/04 15:36:06
勉強不足でわかりません。
218 :
名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/04 18:04:53
鴨南蛮を食う会か。
つまらん。
219 :
日本@名無史さん:05/03/04 18:17:08
>>215 >御祭神,御神徳,由緒,百人一首
これ、どういう神?
賀茂神社オリジナルなの?
220 :
日本@名無史さん:2005/03/21(月) 12:54:52
そう
221 :
ひで:2005/03/23(水) 18:37:36
学研M文庫・倉橋日出夫著「古代出雲と大和朝廷の謎」を読みました。
丹後の籠神社に伝わる「海部氏勘注系図」が紹介されており、この中に
登場する「日女命」が卑弥呼である。と述べられています。
これについて、皆さんはどう評価されていますか?
>>221 どういう理由で卑弥呼だというのかによるだろ。
個人的には卑弥呼だという根拠がありそうにも思えないが。
「卑弥呼」の文字を使っているなら、後世中国史書を見てから結び付けられた可能性が有るな
224 :
ひで:2005/03/23(水) 20:02:07
系図では、「日女命」が、"中津姫命","神大市姫命","千々速日女命",
"倭迹迹日百襲姫","日神"と称されており、更に兄に「乙彦命」を持ち、
その2代後に再び「日女命」が現れる。後の「日女命」は"稚日女命",
"玉依姫命"と称されたとのこと。
以上は、倭人伝の卑弥呼・男弟・台与の発音と似ている。
また、卑弥呼の墳墓と推定できる箸墓が公式に「倭迹迹日百襲姫の大市墓」
とされており、この名称と一致する。・・・と言うのが理由のようです。
225 :
日本@名無史さん:2005/03/23(水) 20:30:50
残念ながら、「海部氏勘注系図」は、江戸時代に写本されたもので、
古代の史実をそのまま伝えているとはいえない。
著者の倉橋日出夫は、そういう事実を隠してミスリードしてませんか?
ヒメ・オトヒコなんて組合せはたくさんあるだろう
227 :
ひで:2005/03/24(木) 16:42:10
写本だと史料価値がない。ということですか?
それに、倉橋日出夫氏は写本であることを隠していませんよ。
もう少し面白い反応を期待していましたが・・・。がっかりです。
228 :
日本@名無史さん:2005/03/24(木) 17:31:41
>>227 >>224 >系図では、「日女命」が、"中津姫命","神大市姫命","千々速日女命",
>"倭迹迹日百襲姫","日神"と称されており、更に兄に「乙彦命」を持ち、
>その2代後に再び「日女命」が現れる。後の「日女命」は"稚日女命",
>"玉依姫命"と称されたとのこと。
「海部氏本系図」は、歴史も古く価値があるとはいっても、
記紀成立後の公式家系図であり、秘伝でもなんでもない。
「海部氏勘注系図」は、注釈なんだから、後からいくらでも都合よく書き足せるだろ。
それを真に受けて、誰と誰は同一人物だとか、誰それの正体は誰それだとか、
そういう解釈を始めたら、大国主を卑弥呼だと言うこともできる。
君の様な読者が食いつきそうなネタで、
エセ歴史家はメシを食べてるんだ。
ジョークとしては面白いが、真に受けちゃだめだ。
229 :
日本@名無史さん:2005/03/24(木) 17:36:42
海部氏や、尾張氏が、歴史上にどう現れてきたか、
古墳時代に、前方後円墳や前方後方墳、四隅突出墳が、どう現れてきたか、
丹後がどのように朝鮮半島と関わってきたことを調べれば、
邪馬台国がどこにあったかなんて議論は吹き飛ぶね。
230 :
ひで:2005/03/24(木) 17:49:49
この注釈は「都合の良い内容」に書き換えられていますか?
少なくとも、記紀の記述とは矛盾していますね。
この矛盾が丹波一ノ宮に伝えられてきたことに興味を感じます。
都合が良いとすれば、近年の考古学的調査結果に対してである、と
推測できます。すると、その改竄が21世紀に行なわれたという意見
をお持ちだと邪推してしまいますが・・・。
231 :
日本@名無史さん:2005/03/24(木) 17:59:43
>>230 倭迹迹日百襲姫が、「海部氏本系図」に記載されてるとは初耳だが?
本ではどのように載ってるんだい?
232 :
日本@名無史さん:2005/03/24(木) 18:12:45
ああ、「海部氏勘注系図」に書いてあるという意味か。
それは、記紀が成立してからの追記だろうね。
233 :
日本@名無史さん:2005/03/24(木) 20:42:55
「海部氏勘注系図」では、海部氏の祖の彦火明がヒコホホデミとされている。
つまり、記紀で、ニニギが筑紫の日向に降臨した記述と反している。
これで、双方の記述の信憑性が相殺されたことになる。
考古学的に、神武東征はありえないので、
信憑性で言えば「海部氏勘注系図」の方が有利とはいえる。
234 :
日本@名無史さん:2005/03/24(木) 20:47:20
いずれにしても、「天孫降臨神話」を除けば、
九州に王権があったという記述はどこにもない。
つまり、「邪馬台国は九州には無かった」ということ。
235 :
日本@名無史さん:2005/03/24(木) 21:00:57
237 :
日本@名無史さん:2005/03/24(木) 23:27:30
たま出版か。こりゃいいわ。
238 :
日本@名無史さん:2005/03/24(木) 23:54:41
239 :
ひで:2005/03/25(金) 12:07:38
海部氏は丹波に降臨した彦火明を祖とする天孫族(饒速日)の家系
であると記述されており、日向に降臨したニニギを祖とする天孫
族(天皇家)とは別の家系になっています。
その「海部氏勘注系図」に「日女命」またの名「倭迹迹日百襲姫」
が登場。確か記紀では「倭迹迹日百襲姫」が祟神の大叔母と位置
付けられていたようですが・・・。
ちなみに「海部氏本系図」「海部氏勘注系図」ともに国宝ですね。
240 :
日本@名無史さん:2005/03/25(金) 15:45:50
海部氏系図でいえることは、大和の天皇家と、同等かそれ以上の勢力が、
丹波〜近江〜尾張を中心に、弥生末期からすでに存在したということ。
神武東征は、瀬戸内海勢力と大和の攻防を投影した作り話。
鉄資源ルート確保で吉備と連合した大和が、北九州を抑えて優位に立ち、
古代海部氏とも連合を深めて畿内王権を樹立した。
文献上でも考古学上でも立証できること。
一方、九州はどうかと言うと、
記紀も海部氏系図も、神武以降の九州の様子については何も語ってない。
九州はカラっぽだったか、九州と畿内が断絶していたか、どちらか。
畿内に鏡が大量に流入していることから、断絶はありえない。
つまり、九州はカラっぽ=邪馬台国は畿内大和。
241 :
鴨禰宜:2005/03/25(金) 16:08:12
銅鏡配布の独占体制が伊都国、奴国から邪馬台国へ移行した。伊都国は
中継地ではあったが、邪馬台国の一大卒が銅鏡輸入ルートは抑えていた。
神社伝承、記紀から判断するに鏡の独占権を伴う岩戸儀式はおそらく
平原の女王の死去と共に筑後川流域下流から和歌山経由で纒向に入った
のであろう。これとは別に裏日本経由近畿に南下し、途中投馬国を建国
した出雲系もあり、この2元対立もあったのだろう。
242 :
ひで:2005/03/25(金) 19:27:38
丹波・丹後・但馬に分割される前の古代丹波は、日本海交易だけでなく
弥生後期から3世紀における鉄・ガラス生産の中心地であったことが
考古学的調査によって判明したとのこと。
これによって、若狭湾を表玄関とし琵琶湖・木津川経由で首都・纒向へ
の至る物流が邪馬台国の基礎となっていたのではないか、と推測でき
ませんか?
又、祟神へ権力が移行した後に丹波は衰退しますが、邪馬台国時代の
記紀で抹消された系譜が、ゆかりの深い丹波一ノ宮に伝承された、と
筆者は考えている様です。
243 :
日本@名無史さん:2005/03/25(金) 20:18:32
海部氏の分家の尾張氏は、近江の東から東海を支配している。
中央との確執は、壬申の乱に至るまで続き、
大海人皇子は、東国(美濃・尾張)を味方をして勝利し、天武天皇になる。
大海人皇子は、海部系であることを示す贈り名であることは言うまでも無い。
244 :
日本@名無史さん:2005/03/25(金) 20:24:18
昔から、尾張氏は、大和とは仲が悪かった。
これは、大和が邪馬台国で、尾張がクナ国だった頃からの確執で、
関が原合戦まで尾を引いている。
245 :
ひで:2005/03/25(金) 21:49:04
丹波一ノ宮:籠神社の宮司は代々海部家。
246 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 00:53:12
出雲大社の宮司は千家(せんけ)で、漢音だから、渡来系なのは間違いないな。
>大海人皇子は、海部系であることを示す贈り名で
オイオイ、大海人は諡(贈り名)じゃないでしょ。
248 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 02:57:58
大海人皇子の乳母は河内の凡海氏だろ。
250 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 21:12:06
【凡海氏】は【大海氏】とも表記される。
251 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 21:31:46
252 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 21:50:45
古代の吉備〜畿内〜丹波〜東海の広域は、
すでに海部氏・尾張氏=ニギハヤヒの領有であった。
壬申の乱が、海部氏の・尾張氏の勝利に終わったように、
在地勢力の結束は強かった。
九州から神武が攻めてきて、大和政権を興したと記紀は伝えているが、
スムーズに政権運営できたかどうか怪しい。
記紀でも、祟神までの歴史は何も残されて無い。
このように、畿内に強い結束力を持った海部氏の勢力があったことを考えれば、
邪馬台国が九州にあったとか、東遷したとかいう考えは、
空想にすぎないと理解できるだろう。
253 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 21:58:46
>>252 何で?
>邪馬台国が九州にあったとか、東遷したとかいう考えは、
>空想にすぎないと理解できるだろう。
東遷の後に、
それまでの畿内の銅鐸文化は、
滅ぼされてるからな〜
255 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 22:11:10
>>255 銅矛文化も同時に消えてることもお忘れなく。
九州勢力が畿内を飲み込んだなら、銅矛を捨てる必要がない。
”九州勢力を主体としない形式”で、新しい王政に移行したんだよ。
256 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 22:23:51
卑弥呼が死んだときに、塚(古墳)をつくったというが、
それは、どういうタイプの古墳なのか?
九州には、円墳か、前方後円墳しかない。
一方、畿内周辺には、前方後円墳・四隅突出墳墓・前方後方墳と、
多様な形式の古墳を築く王権が存在した。
仮に邪馬台国が九州にあったとしても、畿内に比べて非常に小さなものだったし、
畿内勢力に飲み込まれたとしか考えられないね。
257 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 22:28:16
邪馬台国内で負け組みになった神武軍が、鉄器の少ない畿内に侵入して、
鉄器で暴れて、わずかな土地を得ただけの事件が「神武東侵」。
しかしあまりの人数の少なさに、畿内土着勢力に飲み込まれていった。
伝承としての王統だけを残して。
258 :
太:2005/03/26(土) 22:31:55
神武の代に邪馬○国は無し。
259 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 22:38:40
平成4年に、「海部氏系図」が世に出てから、
史学においても、邪馬台国九州説は破綻したんだよ。
いいかげん、目を覚ませ。
海部氏=ニギハヤヒの研究をしたほうが面白いぞ。
260 :
太:2005/03/26(土) 22:43:24
>>259 畿内のどこに、外界から隔絶した前人未到の地があったというのか?
記紀に記述がないのは、畿内近隣に女王国がなかったことを意味するものだ。
261 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 22:48:11
畿内説論者は思い込みが激しいから、説得は無理っぽい。
262 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 22:56:14
>>260 邪馬台国=大和=女王国だろ。
卑弥呼は、ヤマトトトヒモモソヒメ、塚は箸墓で問題なし。
九州のどこに卑弥呼の墓があるというのか?
263 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 23:00:24
畿内には、卑弥呼の墓など無いが。
264 :
太:2005/03/26(土) 23:01:59
大和ならば、女王国と朝廷との交流が詳細に記紀に記録され、女王の行動、国の風習等が
魏志倭人伝よりも多量に書かれている。それが全くといってよいほど記録が載っていない。
だから、前人未到の秘境等がないかぎり、女王国は畿内にはあるわけがないのだ。
265 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 23:05:32
女王国は、邪馬台国=大和のこと。
記紀には神に仕えた巫女の記録がいっぱい残されてる。
ちゃんと記紀を読んでごらん。
266 :
太:2005/03/26(土) 23:09:24
>>265 もう幾度もよんでいる。東京都は京都ではない。
宮城県は宮崎県ではない。愛媛県は愛知県ではない。
だから、邪馬台国は大和であるとは言い難い。
巫女の記録が邪馬台国のものとは即断すべきでない。
267 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 23:09:40
ちゃんと記紀読むと、畿内じゃないって書いてあるんだが。
268 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 23:13:09
>>266 じゃ、次は海部氏系図や、旧事本記を読んで、古代の豪族の系統をたどってごらん。
九州出身の豪族が驚くほど存在しないことに気がつくだろう。
どう説明する?
ちゃんと読んでも、ナナメに読んでも何も書いてないのは一目瞭然だが・・・
270 :
太:2005/03/26(土) 23:16:53
なおさら余の論が正なるを意味するではないか。
女王国の記述がないと九州出身の豪族が存在(記述)しない。
当然だよ。九州の情報が畿内に得られ難いからだ。
271 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 23:26:57
>>270 じゃ、邪馬台国東遷説は否定するんだね?
九州の地方豪族のクニのことを魏が間違って大国として記載した可能性はあるわな。
272 :
太:2005/03/26(土) 23:34:54
もともと邪馬台国などという国はない。あったのは邪馬壹国である。
東遷すれば大和朝廷と邪馬壹国との交戦があったろうが、そんな記録があるのかいな?
京都の明治天皇が江戸に移ったが、女王国が畿内東遷したことは疑問である。
273 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 23:38:36
遷都も国家移転も首都移転も無かったな。
神武軍の「東侵」があっただけ。
274 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 23:43:36
275 :
日本@名無史さん:2005/03/27(日) 00:27:17
俺は、福岡出身なので、邪馬台国は九州にあってほしい。
みろ、300年ぶりに大地震があっただろう。
あれは、邪馬台国九州説が認められないことに対する
卑弥呼の怒りだ!
卑弥呼の時代って、西暦200年頃としても、
ローマ帝国のカエサルの時代を紀元前100年頃として、
中国の秦の始皇帝の時代を紀元前200年頃として、
中国から遅れて400年、ローマから遅れて300もたって幕開けとなる
日本の文明の祖の情報がこんなに少なくて、
いまだに全く真相が闇の中だなんて、どういうことなんだろな。
中国やローマの歴史の方が、文献が多く残ってて遙かに解明も進んでるのは、
古来から日本人が極力、記録を残したくない、
歴史の真相は闇の中に葬りたい意識が強いのかな
277 :
日本@名無史さん:2005/03/27(日) 01:30:44
記録が残っていないだけだが。
じゃあ古代の日本人は、
中国やローマに比べて、歴史の記録を子々孫々に
きちんと残していく能力に欠けてたのかな
279 :
日本@名無史さん:2005/03/27(日) 02:21:58
天武が燃やしちゃったでしょ、九州王朝関連の木簡竹簡は。
280 :
ひで:2005/03/27(日) 17:57:32
日本で文字が使われるのは邪馬台国よりずっと後。
当時の日本人の「ヤマト」という発音を漢人が「当て字」しただけ
ですから。「当て字」がいい加減なのは、現代で使っている外来語
のカタカナ「当て字」を見ればわかりますよね。漢字の用語に拘る
のはナンセンスであり、邪馬台国でも邪馬壹国でもOK。
ところで、弥生中期以降は九州勢力が地盤沈下をおこし、畿内勢力に圧倒
された様子が考古学的調査で証明されているとのこと。
この理由はなぜでしょう?
農業生産活動は維持できていたのでしょう?
ただ交易による物流が減退して副葬品が貧弱になっただけ?
281 :
日本@名無史さん:2005/03/27(日) 18:39:41
ええと弥生時代は紀元前500年ごろからだから、
弥生中期の地盤沈下って、紀元前250年ごろだね。
全然地盤沈下しているとは思えないが。
282 :
ひで:2005/03/27(日) 18:43:32
「弥生中期以降→弥生中期後半以降」に訂正します。
ですから、紀元元年頃とお考え下さい。
283 :
281:2005/03/27(日) 19:03:31
>>282了解しました。
私にも記憶違いがあったので、ちょっとコピペ
*********以下引用**********
■弥生時代の年代について
▽従来の説・・・歴史の教科書によると「紀元前400年ごろ〜紀元後3世紀ごろ」
※(研究者によって若干のずれはあります。)
▽科学的測定によって出された年代・・・「紀元前1000年〜紀元後3世紀ごろ」
※(今回は始まりが500年遡りました。終わりに関しては従来と同じです。)
284 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 21:28:58
285 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 23:01:47
九州王朝があったとすれば、百済の傀儡政権であったことは間違いないわけで。
286 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 02:52:19
百済の方が、九州王朝依存政権でしょ。
287 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 13:27:30
百済が九州に依存してたなら、
九州は畿内に依存してたはずだな。
288 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 14:17:03
>>286 確かに百済も高句麗も、特に最後の頃は
日本(倭国)に頼りっぱなしだったね。。。
何度も救援依頼しただけでなく、最期は
集団亡命を受け容れてもらったし〜。
でも良かったですよ〜。
百済も高句麗も滅亡した国だし、大陸・半島では、
ご先祖様の系図とか、建造物とか、全て壊され修正されて、
跡形もなくなっていたと思う。
自分達が誰の末裔なのか、何者なのか、
まったく分からなく、なっていただろう。
列島の人々の異文化に対する寛大さのおかげで、千年以上も前の
ご先祖様の足跡をたどる事が出来る。それなのに、
倭人を蔑視する大陸半島の差別意識が、日本人に対する
素直な評価と感謝の気持ちの発露を
さまたげているのですよ。
ひどい話だね。
289 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 20:43:06
>>288 基地害か?
日本が百済亡命を受け入れたからって、朝鮮人が日本に感謝するわけないだろ。
朝鮮人ってのは新羅の子孫だろ。
大昔から百済(&倭)とは仇敵じゃんかよw
291 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 21:06:31
半島の連中は国をあげて、日本の国連常任理事国入を阻止しようとしている。
竹島問題と歴史認識の不足が理由だって
先々、北と軍事同盟を結び日米とやり合うみたい。
数年前IMFに助けてもらったことも忘れたみたい。日本もそろそろ半島の連中と絶縁するべきだね
大使館も引き揚げて、在日韓国人も総て国に引き揚げてもらおう
292 :
鴨禰宜:慶長410/04/01(金) 21:32:49
新羅にも入ったらしいが「[シ歳]伝 [シ歳](わい)は北は高句驪・沃沮、
南は辰韓と接し、東は大海を果てとし、西は楽浪郡に通じている。
[シ歳]及び沃沮・句驪は本は皆朝鮮の地であった。」というから本来
北朝鮮、沿海州の日本海側、トラの出る方、じゃないだろうか。
293 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 22:46:27
>>290 百済だけじゃなくて、高句麗も、
新羅(現在の韓国)と唐(中国)に国を滅ぼされて、
遺臣が和国(日本)に救出されました。日本は恩国です。
和国に亡命してきた百済や高句麗の人々は、
イスラエルを追い出されたユダヤ人みたいに、国を失った流浪の民。
ディアスポラですね。
亡命者を受け容れた日本側に、統一新羅(半島)に対する
忸怩たる思いが感染したのも、自然の成り行きだったでしょう。
294 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/03(日) 00:19:32
>>279 聖徳太子と蘇我馬子が完成させたと謂われる
『天皇記』と『国記』には、本当の事が書いてあったように思うよ
295 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/03(日) 00:22:24
なぜ、統一新羅〜朝鮮は、その後の唐や元や清に併合されなかったのだろう?
独立させておくメリットが何かあったのか?
296 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/03(日) 01:26:53
唐が新羅を属国化しようとしたところ、逆襲されて新羅に勝てず、
新羅が半島を統一してしまった以上、それ以後はちょっと手を出すのが厄介だったから。
297 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/03(日) 01:40:37
でも、蒙古に支配されてなかった?
298 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 19:04:44
完全支配じゃなかったね
渤海国ができちゃったから新羅遠征はむりだろ。
300 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 02:28:09
邪馬台国のスレでは
たびたび「学会の定説は畿内説」という書きこみがありますが
(たぶん同一人物)これを書いた人に質問します
その主張の基となっている研究書・論文を教えてください
F田のような狂人ではなく
まともな歴史学者(東大卒)が最近出版された一般向けの本を読むと
「学会の畿内説が定説」であるとは思えません
現在でも学会の状況は畿内説と九州説の並存のようです
その著者は九州説をとっており
その本は常識的な内容で
F田他のように自説をただひたすら述べるのではなく
先行研究をきちんと展望し
それをふまえた上で結論をだしています
301 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 02:33:31
脳内定説だから教えることは不可能
302 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 08:25:00
良く当たる占いみたいな事している人「毛利様」が
吉野ヶ里遺跡に行ったとき色んな霊を見てその中に
卑弥呼と名乗る女が出てきた。...とナンカの本に書いてあった。
303 :
HREO:2005/04/09(土) 08:37:13
世界の癌・塵・嫌われ者・臭い・汚い・能無し・知能0・ボケナス・
うんこ・負け豚・アホ・馬鹿な日本人は絶滅した方が良い。
強い者には媚を売るし下僕のようにするくせに弱い者には
ひたすら苛めまくる腰抜け日本人は本当に絶滅させたい
304 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 11:39:28
崇仏派に本当の歴史なんか書けないよ
305 :
ひで:2005/04/11(月) 17:54:37
箸墓古墳を学術調査できたら何が出てくると思いますか?
306 :
日本@名無史さん:2005/04/15(金) 00:35:30
土。
307 :
サガミハラハラ:2005/04/15(金) 12:54:21
出てこないものをあげるのも一興かと思います。
親魏倭王の金印
308 :
ひで:2005/04/15(金) 14:13:49
クダラナイ回答は不要。ご遠慮ください!
309 :
サガミハラハラ:2005/04/15(金) 19:29:01
最大の関心は三角縁神獣鏡がでてくるかどうかでしょう。
箸が突き刺さった女性の御遺体。
311 :
サガミハラハラ:2005/04/17(日) 08:07:36
>302
私、卑弥呼は一時吉野ヶ里に居たと考えています。その後小城に引っ越したとみています。
ですから、「毛利様」は霊をみたのでしょうか。霊視が本当にあるとするならばですが。
312 :
サガミハラハラ:2005/04/17(日) 08:17:25
倭人伝に棺ありてカクなしとあります。箸墓にはホケノヤマのような木カクがでてくるでしょうか?
木片が出て年代がわかるとしたら、私はその木片の年代は280年代であると思います。
女性用の装身具はでてくるでしょうが、ヤマトトトヒモモソヒメと特定できるものはでないでしょう。
313 :
日本@名無史さん:2005/04/17(日) 08:52:04
俺だったら、その「毛利様」に卑弥呼の霊じゃなく
卑弥呼の母親の霊を霊視してもらいたいな。
『私は卑弥呼の母じゃ』と、出てくるかな
『私は卑弥呼の祖母じゃ』『私は卑弥呼の叔母じゃ』『私は卑弥呼の従姉妹じゃ』
『私は卑弥呼の親戚じゃ』『私は卑弥呼の遠縁の者じゃ』
倭人伝がマイナーな、ごく一部の専門家しか知らない文献だったら
『毛利様』も卑弥呼の霊を見ずにすんだのに。
霊視する人もそれなりの資料がないと辛いよな
314 :
日本@名無史さん:2005/04/17(日) 12:21:13
315 :
日本@名無史さん:2005/04/25(月) 20:38:36
要するに邪馬台国は
博多〜菊池〜大宰府と移転した国
316 :
サガミハラハラ:2005/04/29(金) 20:24:27
多久〜惣座〜吉野ヶ里〜小城と移転したと思います。
多久〜惣座はもうちょと検討の必要がありますが。
317 :
日本@名無史さん:2005/04/29(金) 21:01:52
『旧唐書』日本国伝
日本國者倭國之別種也以其國在日邊故以日本爲名或曰倭國自惡其名不雅改爲日本
(日本国は倭国の別種なり。その国日辺に有るをもって日本国を名とす。或いは曰う。倭国自ら、その名雅ならざるを悪み、改めて日本と為す。)
ここからが大事で、
或云日本舊小國併倭国之地
(或いは云う。日本は元小国。倭国の地を併せたり。)
要するに倭国と日本国は別の国だと、はっきり疑う余地無くそう言っている。
しかも日本国はもともと小さな国だった。(近畿)天皇家が日本国。ところが
倭国のほうが本来の母の国だった。その倭国を併合した。当然白村江の戦いの
後です。
白村江の戦いは六二二・六二三年ですが。それから三十九年経って、
その戦いで負けた倭国を併合した。
ttp://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kouen2/j2kouen5.html
318 :
日本@名無史さん:2005/04/30(土) 00:26:24
日本が古代朝鮮を支配していたのは歴史的事実である。
日本側の資料だけでなく中国や朝鮮側の資料でもそれは裏付けられており、動かしがたい事実だ。
要するに古来から朝鮮は日本固有の領土であった。
だから第二次世界大戦の時に日本が朝鮮を併合したのも、もともと日本固有の領土であった朝鮮を日本が取り戻しただけであり、道義的にも法的にも何の問題もない。
朝鮮民族は日本人に支配されて当然なのだ。
320 :
日本@名無史さん:2005/04/30(土) 21:34:34
逆でしょ。
分家=日本国=近畿天皇家
本家=倭国=九州王朝
それは古田電波
322 :
日本@名無史さん:2005/05/01(日) 08:53:29
321は、皇国史観馬鹿
323 :
日本@名無史さん:2005/05/01(日) 09:02:24
崇神王朝までは近畿大和朝廷・九州邪馬台国が
同盟関係にあり、婚姻関係を結びつつ融合化。
しかし応神王朝からは邪馬台国の血筋が強い王朝。
324 :
日本@名無史さん:2005/05/01(日) 11:09:51
古田の全てを肯定するのは基地外
全てを否定するのは低脳
ほとんどすべて否定されてると思うが、まだ何が残ってるの?
326 :
日本@名無史さん:2005/05/01(日) 23:49:11
何で古田の話になるのか?
どうしても否定できないから、怯えちゃってるんだろうな。
否定されてないといえば、高知の縄文灯台か。
あれは相手にされてないからな。否定すらされてない。
そんなのあったねぇ〜(遠い目
あれだって否定されてるだろ。
330 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 14:58:59
age
331 :
ひで:2005/05/19(木) 13:26:22
宮崎県の「西都原古墳群」に3世紀中頃・国内最古級の前方後円墳が発見されたと
報道されていましたね。
これは、「南九州が大和政権に協力して、北九州に対し包囲網を構成していた」との
推論を補強するものではないでしょうか?
332 :
鴨禰宜:2005/05/19(木) 13:35:35
宮崎県の「西都原古墳群」ですが、肥後、熊襲、北部九州、出雲とのつながりは
どうなっているのでしょうか?特に、熊本とか、鹿児島県西部とのつながりが興味
あります。
333 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:42:00
121 倭人が東部へ侵入
123 倭国と講和
158 倭人が訪問
173 倭の女王卑弥呼の使者来訪
193 倭が大飢饉となり避難民到来
208 倭人が侵入
232 倭人が侵入し金城を包囲
233 倭軍が東部へ侵入、倭の船を焼く
249 倭人が于老を殺害
287 倭人が侵入
292 倭人が侵入
294 倭人が侵入
295 倭人討伐を議するも水上戦闘不慣れにより中止
300 倭国と国使を交換
312 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず
344 倭国が花嫁を求めたが辞退
345 倭王が国書を送り国交断絶
346 倭軍が金城を攻撃
364 倭兵が大挙して侵入
393 倭軍が侵入 籠城戦を行う
402 倭国と国交を結び奈忽王の子の未斯欣ミシキンを人質に送る
新羅本紀で倭が半島に頻繁に侵入していたことを勘案すれば 倭=邪馬台国=九州連合
とするほうが地理的にもしっくりくる
ちなみに隼人族と結び南九州に基盤おいて、九州統一を成し遂げたのはおそらく神武。
334 :
鴨禰宜:2005/05/19(木) 14:49:15
関東軍の暴走ってパターンじゃないかな。つまり、邪馬台国は対馬から松浦あたりの
海賊行為を取り締まる能力を失っていたんじゃなかろうか。
335 :
鴨禰宜:2005/05/19(木) 15:04:22
>312 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず
>344 倭国が花嫁を求めたが辞退
これは倭国において後宮を有する男王の君臨が二代にわたり、即位に辺り貢物としての
女を要求したとも読める。記紀にそんな強力な王朝の記載は全くない。抜けちゃったのかな。
336 :
鴨禰宜:2005/05/19(木) 15:11:11
天皇クラスの古墳で記紀に被葬者の記録のないのは桜井茶臼山、メスリ山
古墳があるが、この辺は景行あたりと一所にされたのかな。
337 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 15:12:34
倭国争乱など混乱期もあったろうし
もともと朝鮮半島南部に侵入していた倭の集団を倭人としたのかもしれないね
338 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 15:19:57
大和朝廷が編纂した記紀に九州への天孫降臨と神武東進がでてくる。
だから九州勢力が畿内へ移動したのは間違いない。
となると九州にあった邪馬台国が畿内へ移動したことになる。
つまり、邪馬台国はある時期、九州にあったし、次の時期には畿内にあったとことになる。
こう考えれば九州説、畿内説ともに正しいことになる。時期が違うだけだ。
339 :
鴨禰宜:2005/05/19(木) 15:32:34
戦争のパターンとしては子供の喧嘩に親が出るケース、第一次世界大戦は
サラエボであったか、ちょっとした事件がきっかけとなる。王子に新羅の嫁を取る
等と言うのはウルサン出身の伊都国県主家などのやりそうなこと。この辺で
新羅の背後の高句麗が引き合いに出されたりしてやがては邪馬台国を引きずり込む
大戦へと発展してゆく。敵の倭奴に嵌ったのかも。
340 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 15:35:59
年代復元で孝昭の即位はおよそAD100強、107に倭国王師升が後漢に朝貢していますが就任挨拶としてピッタンコ。
しかしこの頃から寒冷化が始まる。
農耕によって人口が激増した九州、その農耕が不振となれば飢饉であり、争乱の源に。
これが倭国争乱。
そして卑弥呼が登場。新羅本紀173に卑弥呼の使者来訪記事のあることに注目。
魏志倭人伝で卑弥呼を女帝のごとくいうのは父系社会からみた母系社会のありようの表現であって、政策などへの指示を出す巫女を女帝とみなしたもだろう。
軍事など実務を行うのは男王であり、あるいは北九州など中国文化の濃い地域でも男王が主導権を握っていただろう。
それが孝霊、孝元、開化ではないかと思います。記紀では記載が少ないですが大彦もそのひとり。
倭国から近畿ヤマトに軍事侵攻したのが開化。おそらくは卑弥呼のお膝元からの出陣。
(これが神武東征説話に名を変えて移されたとみる)
おそらくは日本海側でも同様の軍事侵攻がおこなわれ、これが大彦か。
戦った相手は出雲です。
続いて崇神が近畿に入城して出雲勢力への支配を確立していった。
九州では続く寒冷化で倭国本家が衰退し、
農耕にゆとりのある近畿の分家が勢力を増して垂仁時代には主従が逆転してしまう。
341 :
ひで:2005/05/19(木) 17:15:38
倭国争乱(隣国同士の国境紛争)はあったと思います。
でも、神武東遷の実在がイメージできません。
戦国時代の様な軍事作戦が古代期に可能だったのでしょうか?
軍事的には国境を徐々に侵食していくのが常態であり、隣国の都市攻略が
やっとこさ、ではないかと思います。国力の伸張は、主に外交的な手法に
よる同盟締結を用いたのではないでしょうか。
後世、人口の希薄な東北攻略に何年かかりましたか?
342 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 17:40:21
>>341 >>333の
193 倭が大飢饉となり避難民到来
208 倭人が侵入
232 倭人が侵入し金城を包囲
233 倭軍が東部へ侵入、倭の船を焼く
249 倭人が于老を殺害
287 倭人が侵入
292 倭人が侵入
294 倭人が侵入
でちょっと思ったんだけど
この時期ってズバリ神武東遷時と重なるんじゃね?
つまりは、人口が激増した九州は外に食い扶ちを求めるしかなかった・・
とまぁ朝鮮半島南部も少なからずその影響を受けたと考えてしまったが
343 :
ひで:2005/05/19(木) 19:19:08
食料の乏しい国が他国を侵略できますか?
軍事作戦成功の要諦は、兵糧確保にあるはずです。
戦国期の武田軍が遠征できず、織田軍が全国を飛び跳ねたのは圧倒的
に豊かな経済力に支えられた兵站思想があったからと思います。
尚、新羅本紀で「倭人」の侵略に触れられていますが、海賊的な攻撃と
神武東遷の様な国を侵略する軍事行動(記紀では軍事色が薄いですが)
とはレベルが違うはずです。
345 :
342:2005/05/20(金) 00:45:12
>>343 中国は13億の人民を食わせるために東シナ海でちょこまかとやっとるよね
あれって中国が乏しいから触手をのばしてるんかね?
つまりは、中国は乏しい国ってことになるのかね?
仮に乏しくとも、核保有国で陸軍だけでも200万人の中国は
すくなくとも日本にとっては脅威だと思うがね。例えになるか知らんけどw
それから兵糧確保も軍事力でどうにでもなったと考えるのもアリだと思う。
例えば略奪や友好的勢力からの調達(武力を背景にした)など幾らでも可能だったと思う。
つか、東征説が武力メインであった思った一番のポイントは
AD300年くらいを境に近畿から銅鐸文化が消滅したこと、本当はこれだけなんだけどねw
346 :
ひで:2005/05/23(月) 16:18:23
銅鐸文化が消滅したことは事実ですね。
でも、これを神武東征に結びつけるのは無理スジでは?
宗教に根ざした大衆文化(この場合、銅鐸を用いた祭祀)の変更を、他国が武力を
もって強要した場合、最も苛烈な武力衝突が起きますね。
唯一の超大国である米軍でさえ、そんな戦略は遂行不可能です。
従って、銅鐸文化の消滅は「より魅力的な文化の流入か創造」が原因としか考え
られません。一般的に、それは「銅鏡文化」である、と考えられていますよね。
>ひでさん、そこをごり押ししてしまうのが(邪馬台国スレ)一部住人の魔法なんです。
神話の神様が登場すると、『あ〜ら不思議』
てな 具合に
348 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 16:18:52
邪馬台国は君の中にある あげ
349 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 00:34:36
age
350 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 14:52:30
邪馬台国は畿内だけど、その後、九州王朝ってことで結論。
351 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 15:07:06
>>340 >年代復元で孝昭の即位はおよそAD100強、
年代復元ってどうやるの?
352 :
ひで:2005/06/13(月) 16:05:20
このスレでは九州王朝が時々登場しますね。
九州王朝って何ですか?
王朝と呼ばれるには幾つかの条件を兼ね備える必要があると思いますが、
その条件を説明くださいますか?
353 :
名無シンパ:2005/06/13(月) 16:15:27
九州王朝なんかあるわけねえ、そもそもヤマタイ国は妖術女を共立した連合
体なのに、何が王朝だよ。
354 :
山下 ◆lVYV51sTNk :2005/06/13(月) 16:35:35
355 :
山下 ◆3QdSvfZVPU :2005/06/13(月) 16:35:58
356 :
山下 ◆3QdSvfZVPU :2005/06/13(月) 16:36:13
酒井
357 :
山下 ◆yPvEDjfc22 :2005/06/13(月) 16:36:35
土井
358 :
山下 ◆6FU7wN69pY :2005/06/13(月) 16:36:56
359 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 01:12:59
晒しアゲ
360 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 12:15:14
>>340 >年代復元で孝昭の即位はおよそAD100強、
だから、年代復元ってどうやるんだって聞いてるんだよボケが!
早く答えろや!
361 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 12:27:39
>>340 >年代復元で孝昭の即位はおよそAD100強、
>107に倭国王師升が後漢に朝貢していますが
>就任挨拶としてピッタンコ。
アホか107年は後漢安帝(劉祐)が即位したために朝貢したんだよ。
孝昭天皇が即位した挨拶の為では無い。
362 :
がいやまん:2005/06/14(火) 12:37:21
九州王朝とは電波、トンでもでないものを考えると、寺沢さんの王権誕生に出現する
伊都国、奴国などの王中の王のシステム、これを破壊したのではないかと考えられる
安本さんの説に出現する甘木朝倉付近の二つのものがあろうかと思う。陳寿邪馬台国
は最近の弥生500年繰上げを基準に布留1式をAD250年以前とすると纒向となる。
安本さんとかは自説を発表する前に土器編年が変わるとこの説は有効でないという
条件をつけて発表していないのがビジネスマン的感覚に欠けるところ。漏れなんかは
初めから何も条件を言っていないのでくりくり変えるがね。
363 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 22:44:37
>>340 >年代復元で孝昭の即位はおよそAD100強、
だから、年代復元ってどうやるんだって聞いてるんだよボケが!
早く答えろや!
364 :
日本@名無史さん:2005/06/15(水) 00:21:02
>>340 >年代復元で孝昭の即位はおよそAD100強、
だから、年代復元ってどうやるんだって聞いてるんだよボケが!
早く答えろや!
古代においては、より強い神の出現になびくこともあり得るのでは。
そうした事柄は世界中にある。現代の思想や価値観、情報量のある世とは違う。
366 :
日本@名無史さん:2005/06/15(水) 02:33:56
>>340 >年代復元で孝昭の即位はおよそAD100強、
だから、年代復元ってどうやるんだって聞いてるんだよボケが!
早く答えろや!
367 :
日本@名無史さん:2005/06/15(水) 09:49:33
>>340 >年代復元で孝昭の即位はおよそAD100強、
だから、年代復元ってどうやるんだって聞いてるんだよボケが!
早く答えろや!
368 :
日本@名無史さん:2005/06/15(水) 12:46:10
絶対年代はともかく、北は会津から東九州まで一斉に前方後円墳や前方後方墳が同時期に作られている。
これが本当に畿内王朝の覇権が成立した証拠なのか?
むしろ渡来人が全国に広がって、これ等の墓を広めたと考えた方がいいのではないか?
「大陸の方ではこういう墓が流行しているんですよ。」とか言って。
369 :
日本@名無史さん:2005/06/15(水) 14:53:16
>>340 >年代復元で孝昭の即位はおよそAD100強、
だから、年代復元ってどうやるんだって聞いてるんだよボケが!
早く答えろや!
370 :
日本@名無史さん:2005/06/16(木) 01:09:15
>>340 >年代復元で孝昭の即位はおよそAD100強、
だから、年代復元ってどうやるんだって聞いてるんだよボケが!
早く答えろや!
年代復元なんて出来るわけないだろボケ!
アホ、カス、氏ね!
371 :
日本@名無史さん:2005/06/16(木) 02:08:22
一世紀:委奴国(九州)
↓
二世紀:桓霊の頃、倭国(九州)大乱。その際、一部が東(吉備,畿内)へ遷移。
これが大和朝廷の祖となり銅鐸の文化から古墳の文化へ発達していく刺激となる。
記紀では神武朝か。
↓
三世紀:邪馬台国に代表される倭国(九州)。畿内勢力は発達をつづける。
記紀では崇神朝か。
↓
四世紀:倭国(九州)朝鮮半島で戦(好太王碑)。畿内勢力は極大期(巨大古墳)。
↓
五世紀:倭の五王(九州と畿内の勢力が拮抗のためどちらの王か不明)。
↓
六世紀:イワイ(九州)対オオド(畿内)で畿内の勝ち。
↓
七世紀:日処出天子(これもどちらの王か微妙?)。白村江(これは畿内勢力の戦だよな)。
↓
八世紀以降、日本(畿内)は倭(九州)の別種。太宰府に遠の御門としての記憶が残る。
銅鐸文化の記憶は残らず、銅矛の記憶は記紀に残る。
372 :
ひで:2005/06/17(金) 17:13:37
6世紀まで日本には統一国家がなく、倭国(九州)と日本国(畿内勢力)に
分かれたままであった・・・という推理が存在したのですね。
その推理には、とても賛同できそうにありません。
例えば、日本国(大和朝廷)は、百済との親密な関係を持っていましたが、
百済と倭国との関係はどうなっていたと考えますか?
また、倭国(九州)の都は何処でしょうか?日本国との外交がどのように
行なわれたのでしょう?
理解できないことが山のようにあります。
373 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 18:44:55
>日本国
が出来たのは8世紀だろが。
その前は「倭(ゐ)」と言う国しかなかったんだよ。
旧唐書嫁。
374 :
ひで:2005/06/17(金) 21:03:05
日本国の名称使用の件、ご指摘の通りと思います。
「九州と畿内勢力が別に存在する」との推理に関する質問において
便宜上、使用しただけです。
この推理を主張する方々が使用していた様に記憶していますが・・・
375 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 21:43:57
>>374 畿内には扶桑国という立派な国があったんさ。
376 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 22:15:44
377 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 11:31:35
なんか本家と元祖で言い争ってるラーメン屋みたいにお萌えてきて。。。
378 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 17:47:19
どうやら畿内に邪馬台国が無かった事は確定したようだね。
終止符はうたれた。
379 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 18:16:19
2年ほど前のアンケートで
邪馬台国の近畿説と九州説、あなたはどちらを支持しますか?
てのがあって7対3くらいで、言わずもか近畿だった。
その時すでに終止符はうたれていたのかもね。
380 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 19:23:21
修学旅行で奈良に行って箸墓見学で、これが卑弥呼の墓らしいと言う説明を聞いた時の後遺症から抜けられない人間が多いのだろう。
修学旅行が吉野ヶ里になれば状況は変る。
381 :
元祖プラム:2005/06/18(土) 21:43:51
久しぷりに単純な疑問。
伊都国の北西五百里の所には陸地があるのだが
誰かこの謎解ける人いませんでしょうか
382 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 22:18:52
末盧國だろ。
383 :
元祖プラム:2005/06/18(土) 22:41:44
384 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 23:49:47
↑当方近畿説ですので、
北西は、西〜西南に修正
東南は、東〜東北に修正して
末盧國が松浦郡辺りだとすれば、
伊都国は、福岡市〜大宰府市辺りだろ。
385 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 01:43:13
畿内説は寄り道が多いようですね。
何で末盧国から不弥国まで歩いて、又、船に乗るんですか?
大宰府なんか山奥まで歩いて行って、また海岸の不弥まで歩いて船に乗る?
荷物はどうしたんでしょう。
銅鏡100枚100kgにもなるものを遠回り経路、無駄に歩いたんですか?
自分で言ってる事おかしいと感じないのでしょうか?
386 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 01:58:24
ふつう、おかしいよね。
387 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 02:45:18
>>385 それ九州説でも説明できないんだよ
一応の定説は、末盧国ルートと伊都国ルートが並立していた
メインは伊都国ルート、末盧国の記述は3世紀の現状とはかけ離れている
ほんでもって邪馬台国には実際行っていない。せいぜい不弥国まで。
つまり九州から外に出てない。
これ邪馬台国をどこに考えるにしても、定説ですな
なぜそうなるのかは、ちゃんとした学術書を読めばわかる。
388 :
サガミハラハラ:2005/06/19(日) 07:28:06
>>383 伊都国は唐津から東南30数キロの所の多久市南多久です。
倭人伝を読むとこれは自明の理なのであるが、何故だれも見とめたくないのか?
389 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 09:09:14
やれやれ、このおじさん表の掲示板で相手にされず、行き着く先は2チャンかよw
伊都国の記述内容に見合う遺跡が多久にはないだろ。
伊都は三雲や平原のある前原だろ。
方位が多少合わないがそこは冷静に総合的に考えないと。
大体、倭人伝を全て信用したら邪馬台国は南の海の中になるが?
390 :
サガミハラハラ:2005/06/19(日) 09:24:57
伊都国の戸数は千戸ですよ。見合うってどのくらい?
遺跡は未発掘という弱点があります。
多久と前原が、方位が多少あわないとは。あなたの地理感覚はその程度ですか。
小学生の地図帳で充分ですから、確かめてみてください。
391 :
サガミハラハラ:2005/06/19(日) 09:49:42
>>389 それから「行き着く先は2チャンかよw」てありますけど、ここは場末のチャンネルだったのですか。
表の提示版にも通って見たいので、どこかいい提示版を教えてください。
田舎者より
392 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 10:20:43
>>387 >一応の定説は、末盧国ルートと伊都国ルートが並立していた
そんな定説聞いたことはありませんが?
では末盧国はその余の傍国でいいじゃないですか?
唐津から前原を通らずにいきなり邪馬台国に行く道もあった?
唐津へ行く理由など考えられません。
畿内に行くルートで一番参考になるのは朝鮮通信使のルートでしょう。
唐津も前原も通りませんよ。
前原に一大卒がいてどうしても表敬訪問しなければならない、みたいな理由があって、伊都国が前原だったら立ち寄る理由にはなります。
しかし、末盧国は官名さえ記載されない、いわばどうでも良い国のように書いてあります。
末盧国に立ち寄った理由は末盧国が伊都、又は邪馬台国に行く為には避けて通れない国であったのではないでしょうか?
むしろ前原は末盧国だった可能性は無いでしょうか?
とすると伊都国は大宰府が適当で、邪馬台国は甘木が最有力になります。
東アジアに戻ったらw
あと、ぎ略だと万余戸だが。
また、郡使の往来=楽浪土器の大量出土だろ。
多久だって調査がないわけじゃないが、この時期の大きな集落は無さそうだし、楽浪土器のカケラも無い。
無知はコワイね。地図上だけで遊んでてください。
まあそういうのを机上の空論といいますが。
394 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 11:14:46
人口規模が同じ自治体での、日米のコスト比較です
●レイクウッド市 人口7万5000人
市職員 180人+300人の非常勤職員委託費
(アウトソーシング)を含めた歳出総額(99年度)で3000万ドル(約33億円)
●大阪府交野市 人口7万2000人
職員は非常勤を除く市職員630人歳出 240億円
世界的に見ていかに日本の公務員の人件費が高いかがわかります。
人数の問題というよりも一人あたりの費用が問題。
米国の約4倍ですね。米国公務員の4倍も仕事をしているのか?
特殊教育諸学校 校長 :年収1260万円
高等学校 校長 :年収1200万円
小中学校 校長 :年収1150万円
特殊教育諸学校 教頭 :年収1120万円
高等学校 教頭 :年収1100万円
小中学校 教頭 :年収1060万円
特殊教育諸学校 教諭45歳:年収 960万円
高等学校 教諭45歳:年収 920万円
小中学校 教諭45歳:年収 900万円
特殊教育諸学校 教諭35歳:年収 800万円
高等学校 教諭35歳:年収 760万円
小中学校 教諭35歳:年収 760万円
教職員平均年収:850万円
教師夫婦平均年収:1700万円
教師夫婦30歳前半にて6000万円以上の
住居購入率70%以上
教師夫婦定年退職時平均貯蓄額=2億4000万円
http://www.2log.net/home/zk1/archives/blog36.html
395 :
元祖プラム:2005/06/19(日) 14:30:35
でも、凄いですね
『倭人伝』の一節でこれだけ多くの意見が飛び交うのですから
伊都国は不動の比定地として前原地区が定説になっている事は万人の知る所ですしかし、伊都の北西五百里の所には陸がないのです。先ほどどなたかが
>私は畿内説だから 方位を訂正する
なかなか素晴らしい見解です 感服致しました。
では、女王国の北(いえいえこの場合西デスネ)に『一大率』ですね
>郡の使者は邪馬壹國には行ってない
張政が郡の使者として卑弥呼に告論してます
郡の統制下にある倭の地理観がこんなにもいいかげんだったのでしょか?
396 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 19:55:10
伊都国≒前原、は確定だろう。平原遺跡に加えこれといった王墳がない
のに銅剣、銅戈、銅矛が大量出土している吉武遺跡など近辺には目ぼしい遺跡群
が点在しておる。前原平原から早良区の吉武まで直線距離で約10km
唐津市鏡から前原平原まで直線距離で約30km、末盧国には官がいなかった
ことからも、この範囲を伊都国と想定しても良いのでは?
使者が行政機関のある伊都国には必ず立ち寄ることを考えれば、
船の停泊に不向きな今津や、奴国や不弥国の港を経由しいったん引き返すよりも
一つ手前の良港であった伊都国管轄の唐津に船を着け、陸路や小船で前原を
目指したほうが良いにきまってる。これで態々末盧も立ち寄る謎も解ける。
397 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 21:31:41
>>396 >伊都国≒前原、は確定だろう。平原遺跡に加えこれといった王墳がない
伊都国は「世有王」代々王がいた。
王墓は小さかったのでしょう。
平原遺跡に葬られたのが伊都国王かどうかは解りませんが。
398 :
サガミハラハラ:2005/06/19(日) 21:38:08
>>393 魏略は逸文で、注の時の誤写が考えられる。
郡使の往来=楽浪土器の大量出土?郡使はそんなに大量の土器を持ってきたのですか?なんで?
で持ってきたのを大量に割っていったのですか。
楽浪土器かどうか調べていませんが、多久の東の小城には朝鮮式の土器が大量に出ていますよ.
多久の伊都国の宮殿は庄集落の延寿寺です。その辺りはまったくの未発掘です.
東アジアの提示版ですが、新しい提示版に変ったら何か違和感があっていまは書きこんでいません。
旧提示版の記録は全て抹消されてしまったのですが、これは古代史研究にとって大きな損失であると思います。
というわけで他の提示版はないでしょうか。
399 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 21:38:20
>>396 >謎が解ける
それはいいことだが
方角の問題点はどうするんだい
それに前原一帯の遺跡群のピークは1〜2世紀だろう
卑弥呼ないし壹与の頃は三世紀代 その頃伊都の役割は外交の表玄関
この二つの矛盾の謎はどうするの
400 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 22:50:54
401 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 00:52:32
>>397 「これといった王墳がない
のに銅剣、銅戈、銅矛が大量出土している吉武遺跡」
じゃないの?つまり吉武には王墳が無い、読んでいてそう思ったけど
違う?
伊都国には王がいた、というのは万人の知る所ですしね
平原の王、つまり伊都国王はいてると、王墳もそこらにアルと
そう思うのは常識の範囲でしょう。
402 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 01:08:01
伊都国=多久にはワロタ
403 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 01:58:04
>>399 >二つの矛盾の謎はどうするの?
イト国の所在地とどういう因果関係がある?
1〜2世紀には、イト国にも首長がいただろう
3世紀にも王がいたと紀されている
前原一帯がイト国だったというのは揺ぎ無いと思うが。
404 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 02:37:15
末盧國が唐津市付近で伊都国が前原市付近だとすれば
やはり魏志の東南は東〜東北に修正する必要がある。
405 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 03:04:44
>>398 それを言ったら現存三国志の最古は12世紀の写本だが。
残念ながら小城のはもっと古い韓国系無文土器。また、言われる場所に遺跡があるかどうかはあなたの妄想だけが根拠。仮に遺跡があっても3世紀の伊都国の都と言える考古学上の根拠なんてありはしない。事実としてね。そんな妄説は誰も信用する訳がないですね。
406 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 03:12:05
407 :
元祖プラム:2005/06/20(月) 07:52:29
>>405 >伊都の都と言える考古学上の根拠
その根拠とはどのようなもの?
確実に、伊都だけにしか王が存在していないのならば
理解できる部分もあるが
まぁ、比定地と真実がイコールと言ってる訳ではないので余り深入りはしないほうが無難なのかな
408 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 11:04:07
伊都国は吉野ヶ里だろ。
409 :
サガミハラハラ:2005/06/20(月) 11:44:27
「伊都国には王がいた、というのは万人の知るところです。」
倭国乱の前にはどの国のも王がいたとおもいますよ。それとも三雲やスク岡本のような豪勢な王墓がないといなかったとでも。
「伊都国=多久にはワロタ」
まだご存知なかったのですか。これも私の宣伝不足です。深く反省し対策を考えます。
多久の考古学上の根拠ですか。けどそれを言ったら、前原や三雲の遺跡だって、伊都国であるという遺物はないですよね。
伊都国の銘を刻んだ石碑でも発掘されているんですか。
410 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 13:44:19
このトンデモ親父には何言っても無駄みたいだなw
何故トンデモかっていうのも理解できないらしい。
まあ2チャンにはそういうのが多い訳だが。一応言っておくと、サガミハラさんがいかに努力しても、かえって逆に周りは退くと思います。
それぐらいズレています。
先に倭人伝と地図だけで脳内妄想してしまい、修正つかないようです。
これまでの研究の歴史なぞ無視してますから。
まあ研究の歴史も振り返らない者に歴史は解けないでしょうねw
伊都国にしても考古学はもちろん、長い学史があり、総合的に根拠があるのですが。
碑文とかなかなかないものをねだってもねぇ?それを言うなら多久にも無いでしょう?
いまある考古学的事実と文献から積み上げて、前原説が最善な訳づす。
サガミさんのは反論になっておらず、対案も無茶苦茶なので誰も信用しない訳です。
ワカル?
411 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 13:54:40
それで、反論にならない議論のスリカエはやめて、多久が伊都国だという考古学的根拠をあげてみい。
あげられなかったら前原説には全く及ばないということだな。
一応言うが、もしあげられても、その考古学的根拠が正しいあげ方か審査するけどな。
412 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 16:02:29
前原糸島地区
多久にイトがつく地名はあるか?
413 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 16:04:38
漏れは九州説なんだが
>>409 は近畿説者の確信犯じゃないの?いい迷惑だ。
414 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 16:05:44
前原が伊都国という根拠は8世紀の日本書紀に記された「怡土」と言う地名だろう。
しかし、同書に昔の名前は「伊蘇」だったとも書いてある。
であれば昔は「いと」でなかった証拠であろう。
「伊都」は「いつ」と読んだはずだし、前原が伊都国である根拠は乏しい。
415 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 16:15:38
「いつ」が「いと」に変音しただけ。
松浦(まつうら)は昔から「まつうら」だった?
これで根拠が乏しいと決め付けるのはいかがかと。
すくなくとも多久より可能性大なのは間違いないようだ。
416 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 17:47:03
明治維新で江戸は無くなり東京になった。
江戸の地名は江戸から離れた江戸川に残ったのみ。
もし、伊都国がどこか別の国に滅ぼされて支配されたなら名前は変ったかもしれない。
文献上から推測すれば唐津の東南に伊都を求めた方がいい。
倭人伝は邪馬台国へ行くもっとも近いルートを示したものだろう。
伊都国が前原なら唐津に立ち寄る理由は皆無だ。
417 :
☆ななみちゃん☆ ◆jvBtlIEUc6 :2005/06/20(月) 18:20:28
>>416 >伊都国が前原なら唐津に立ち寄る理由は皆無だ。
唐津に上陸してから前原に行かなければならないって言う
面倒臭いシキタリが有ったのかも知れないよ。
418 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 18:26:01
419 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 18:33:15
伊都国は吉野ヶ里だろ
伊都国は吉野ヶ里だろ
伊都国は吉野ヶ里だろ
伊都国は吉野ヶ里だろ
伊都国は吉野ヶ里だろ
伊都国は吉野ヶ里だろ
伊都国は吉野ヶ里だろ
そうかも知れんなw
420 :
元祖プラム:2005/06/20(月) 18:52:07
>>417ななみちゃん
>シキタリ
それはないんじゃないかな郡は格上 統治する国の言い分なんか聞いてられないでしょう
421 :
サガミハラハラ:2005/06/20(月) 19:32:59
伊都国の所在地の最大の資料は魏志倭人伝です。
前原説には伊都国であるという資料は考古資料でもないはずですよ。立派な墓等があるからといって伊都国という証明にはなりません。伊都国王墓の墓誌でもでてれば別ですが。
伊都は当時イタであったようです。好古都が現在ハカタとなっていることから都はタであるといえます。
タはtagらしいので、伊都はイタgでイがとれてタクとなったのではと思っています。
なお延寿寺が伊都国の宮処であることは、魏志倭人伝の伊都国までの記述の他に次の奴国や不彌国の位置、寺が古くからのその地方の政治的な中心地であったことから確定しました。
あちこちの遺跡をみて歩いた結果、奈良時代辺りまでのその地方の中心地はそれ以前から中心地であることが多いことからです。
422 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 20:44:47
もと相知人だが多久が伊都なんてアリエネ〜しシラネ〜
吉野ヶ里の方がまだ比定地としては相応しいし、説得力もあると思うよ。
423 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 21:23:50
都=タは中古音
イタイねサガミさんw
歩いたからって3世紀の遺跡を見つけた訳じゃないでしょ?
考古資料としては前原には王の存在証明(王墓)、都(三雲)、楽浪との往来(楽浪土器)があります。
墓誌がなくても十分。
だいたい、人には墓誌を出せと言って、自分の所は歩いただけかよ?w
何の根拠にもなってないね。
要するに考古学的根拠は無いということだねww
これじゃ誰も認めんだろ、そりゃw
「イ」を勝手に取るなんて、サガミの方が倭人伝に基づいてないじゃないの
425 :
サガミハラハラ:2005/06/20(月) 22:15:08
だから、王墓、三雲、楽浪土器だけでは前原=伊都国が成り立つには、不足なのですよ。
426 :
☆ななみちゃん☆ ◆jvBtlIEUc6 :2005/06/20(月) 22:22:25
>>420 >それはないんじゃないかな郡は格上
郡は一貫して「候」もしくは「公」であり「倭王」より各下ですよん。
427 :
元祖プラム:2005/06/20(月) 23:02:24
>ななみちゃん
では何故 郡の長官が変わったときに 倭に対して挨拶がないの
それどころか、わざわざ郡に挨拶に行ってる始末
先に挨拶に行く格上があるのか?
徳川将軍家ですら先に天皇に挨拶しに行ってるぞ
428 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 23:10:08
伊都国では常に荷物の検査をしてるんでしょ
だったら糸島水道に面した周船寺しかないと思うがね
千余戸だから大規模な遺跡も必要ない
429 :
元祖プラム:2005/06/20(月) 23:25:08
>>428 >千戸程度なら
その数値がどのような範囲を表した数だか想像できないが
一つの集落に千戸だったら竪穴式住居跡で5000〜10000ヵ所の住居跡を確認出来る大規模遺跡だ
だからその千戸も 広範囲か水増し記載だろうな
430 :
☆ななみちゃん☆ ◆jvBtlIEUc6 :2005/06/20(月) 23:38:27
>>427 >では何故 郡の長官が変わったときに 倭に対して挨拶がないの
ただ文献に書いてないだけで有ったかもしれないでしょ。
>>426で言った様に、郡より倭の方が各上なのは明白な事実です。
431 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 00:19:17
邪馬台国は近畿、というのは万人の認めるところです。
終止符はうたれますた〆
432 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 00:22:49
宇佐でFA
433 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 00:37:10
一つの集落に千戸だったら竪穴式住居跡で5000〜10000ヵ所の住居跡を確認出来る大規模遺跡だ
↑ ↑ ↑
意味不明でFA
434 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 00:37:23
少なくとも根拠がサガミの脳内妄想だけの多久説よりは百倍ましなのは確かだなw
まあこれで不足なら多久説なんかは全く根拠無い訳だがW
大体、論点スリカエるなって。アンタも倭人伝をいじってるじゃん。
ほら考古学的根拠はどうした?
435 :
元祖プラム:2005/06/21(火) 06:59:32
>>433 5000〜10000というのは少しオーバーかもしれないが竪穴式住居の寿命は二十年程度 百年も続けば計算上五回は引越だよ
ま、あくまでも計算上の話だけどね
だから住居跡が百ヵ所確認された集落跡は当時三〜四十軒程度の規模と推測出来るのさ
意味不明がいくらか解消出来たかな
>>433 これって 考古学の最初の一歩だよ 勉強 勉強 勉強
ガンバレ ガンバレー
436 :
元祖プラム:2005/06/21(火) 07:25:12
>>430 それはあくまで皇帝の前に昇殿した時の席順が郡の長官よりも上になる程度
実質上倭は郡の管理下 自国が乱れると泣き付くのさ
437 :
サガミハラハラ:2005/06/21(火) 07:57:31
邪馬台国の地理的問題は、魏志倭人伝と言う文献が第一義なのです。
ですから私が魏志倭人伝に記されていることを元に伊都国を比定することができるわけです。
倭人伝に記されているとおりに、方角を変えずに進むと多久に到着するわけです。
対して、前原説はこの文献上の記述をクリアしておりません。それでも、倭人伝の記述と違えても前原が伊都国であるとするならば、
それそうとうの証拠をだしていただかねばなりません。
たしかに、今までの考古学上の研究は優れて膨大なものですが、証拠としてはまだ不充分なものです。
438 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 14:20:58
読んだまま分析しないままでの比定地選定は馬鹿げている。
又南渡一海千余里 名日瀚海 至一大国 官亦日卑狗 副日卑奴母離
倭人伝を、そのままの解釈で見るとしよう、対馬国から南だと平戸辺りに着くけど?
南渡一海千余里 名日瀚海 至一大国 官亦日卑狗 副日卑奴母離
それから南に一海渡ると・・・陸地どころか海ばっかりなんだけど?
なお、該当地域にそって方向修正すると、いずれも南ではなく東南。
東南陸行五百里 到伊都国 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚
有千余戸 世有王 皆統属女王国 郡使往来常所駐
(末盧国)から東南にいくと伊都国にいたる。だが上で方向修正したので
ここでも適応する、すると本来は東に進んだとなる。
若干のズレはあるものの前原辺りを指す。
ちなみに志倭人伝に記されていることを元に邪馬台国を割り出すと
そこには大海が広がるばかりであるw
439 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 14:27:18
>>438 南渡一海千余里 名日瀚海 至一大国 官亦日卑狗 副日卑奴母離
それから南に一海渡ると・・・陸地どころか海ばっかりなんだけど
訂正省略
440 :
元祖プラム:2005/06/21(火) 17:22:13
>>438 君は対馬から南へ 平戸に着いたんだろう
それでいいじゃないかい
君が見つけた一大国じゃないか
それをワザワザ修正までして壱岐島に行きたいの?
それに、その先の末廬へのコースには方角指定はない、平戸からは君の行きたい場所に千餘里水行するだけ末廬から伊都へも方角修正してぇ
じゃあ 倭人在帯方東南…も修正して 倭人在帯方(東)…に、東南至奴国も修正して (東)至奴国… 、東行至不彌国… も (北東)行至不彌国…
ま、そんな具合にキリないよ
441 :
元祖プラム:2005/06/21(火) 17:30:33
>>438 対馬国から一大国に向かう行程には大事な事がちゃんと記載されており
陳壽の配慮が実によく見えるよ
南方にあった西日本と東日本がドッキングして今の日本になったんだよ。
443 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 18:18:24
>>440 一大国が壱岐に在った可能性までも
いよいよ否定してるのだから話にならんね。
前提が壱岐を一大国の比定地とした場合、方向修正は当然だと思うが?
なにか間違ってる?
逆に漏れが、まっさらさらで倭人伝の記述どおりに、方向修正をおこなわない、
平戸近辺が末廬国として相応しいと思ったんなら、わざわざ方向修正する必要性もないだろ。
君はそう思わなかったか?w 理解できる?
>>437は単純に文献どうりの解釈で
末廬の東南に伊都国を持ってきたんだろう、その結果多久を
比定地とした。また逆なのかいなかは、本人のみ知るところ。
>その先の末廬へのコースには方角指定はない
こまかいねぇ
>>439で省略してるだろ
444 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 18:21:03
445 :
元祖プラム:2005/06/21(火) 18:45:05
446 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 18:50:40
たった一文字、指し示す方角を書き間違えただけで九州説を初めとする
人生を棒に振った考古学者がたくさん存在すると思うと心底泣けてくる。
大体、なんで例の方角の時点から
いきなりゆっくり行進記述に変化するんだよwww
447 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 20:18:50
邪馬台国は近畿、というのは万人の認めるところです。
九州説な人は、人生の終止符をうってください
おながいしまそ。
448 :
太国:2005/06/21(火) 21:03:47
>>447 あきらめな!邪馬台国という国はなかったの。あったのは邪馬壹国。
それは九州にあったの。
449 :
元祖プラム:2005/06/21(火) 21:19:41
>>444 >配慮ってなにさ
遅レスすいません
配慮=瀚海(広大)です
地図を見ても解るように、朝鮮・対馬・壱岐海峡それぞれ大差のない海峡です
しかし、対馬海峡だけが(瀚海)という表現を使い、その他の水行と区別しています
その前後の表現は(始度一海)(又一海)となり、共に方角指定もありません。でも、瀚海を渡る時にはきちんと『南』と指定し他の海峡と区別しています
何故か
それは 対馬海峡だけが他の海峡と違い目標物を目視出来ないからじゃないでしょうか。
郡から出発し、初めて目標物を目視出来なくなる海を『瀚海』として
450 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 21:30:03
畿内教信者ハケーン
理屈はともあれ邪馬台国は近畿にあった。
地球は平らだったし、天が回っている。
人間は神が創ったので、サルから進化したのではない。
天皇は神様で天から天下った。
日本人は天地創造のときから日本にいたのだ。中国や半島から渡ってきたのではない。
と信じているのだろうな。
451 :
元祖プラム:2005/06/21(火) 21:33:09
>>444 『瀚海』とし、方角も添えて陳壽は配慮したと思います。
そこで方角の問題ですが
何故、東南を南としたか?
さきほども書いたように、目標物を目視出来ない条件で八分割の『東南』としたところでどんな意味もありません
それなら四分割の『南』を使い 船を南に導いたほうがより正確性が増すというものです。
南に向かった船はやがて、沖合で対馬海流の影響を受け、自然と東南あるいは東に流され、やがて壱岐島が目視出来るようになります。
実に親切な配慮ですね
452 :
太国:2005/06/21(火) 21:33:54
だから邪馬台国という国はなかったの。
453 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 22:00:34
「南渡一海千餘里」だが厳原からならほぼ東南だが、韓崎からなら南でいいだろう。
対馬の真ん中辺りからなら南南東といったところだ。
南でいいんで無いの?
454 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 00:30:42
対馬全体を対馬国とするなら壱岐は、南というより南東だよ
地図開いて見てみ
455 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 00:31:38
>>451てか、そんなもん陳壽本人に聞いてみない限り、解からん罠
456 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 00:43:41
>>435 プラム大先生
肝心カナメの目安値を5倍〜10倍と誇張したらダメでしょう
後になって2倍から3倍程度だもん、意味不明といわれても仕方ないでFA〜
ついでに
住居そのものの建替は、柱など基礎部の老朽化や自然災害での損壊以外では、あまり
やらなかったと考える(災害などによる全壊以外、修復できるところは部分的におこなった)
一から立て替えるにしても、地掘りの手間を考えれば、既存地に建てた方が効率的。
そのうえ、屋根の葺き替え作業はもっと短いスパンでやっていたことはあきらか
それは、収穫した材料を有効活用した古代人たちのすばらしい知恵といえる。
屋根の葺き替え頻度を考えれば、古代人は常に新しい竪穴式住居に住んでいた
ことになり、さぞ、ご満悦だったろう。
最後に質問だけど、人口増減は差年は考慮してる?
20〜100年もあれば流動人口もそうとう数だと思うけど。
457 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 01:28:17
屋根に特徴のある住居と言ったくらいだから、ある意味そうかもしれない。
458 :
元祖プラム:2005/06/22(水) 02:16:53
↑
確かに自分でも余りの誇張さを認めたから訂正したの
それに、
人口増減に対する編数を考慮するような内容じゃなかったはず
459 :
元祖プラム:2005/06/22(水) 02:32:51
>>455 君の言ってる事は正論だよ確かに陳壽さんに聞いてみなけりゃわからんわ
そうなると
これもありだな
『東夷伝倭人』?
『そんなの俺書いたっけ』『???』
『あ〜ぁ あれね』
『フィクションだよ』
てな
具合になっちゃうから
そんな考えかたはしないの
460 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 19:25:02
邪馬台国は近畿で決まりだな!
邪馬台国という国はなかったの!
でお馴染みの逝かれキチガイの出現を期待して
終止符はうたれますた〆
461 :
太国:2005/06/22(水) 19:54:23
そうだ!無かったんだよ。あれば記紀にもっともっと記述がある。
九州が遠隔のため、邪馬壹國の情報が届かず、記紀に書き込めなかったわけさ。
462 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 02:44:10
俺は、邪馬台国論争は、1990年頃には実質的には終わってたと
考えてたんだけど。
考古学的には、邪馬台国時代の遺物の出土量は、10〜100倍位で
北九州に有利だし。
最近出した論文で畿内説を打ち出しているのは白石さんだけなんだけど、
遺物の統計のことには一切触れないし。
畿内説の他の有力学者は、もう撤退完了だし。
1990年頃の直木さんの論文には、「自分は文献史学者だから、考古学的な
考察はせずに、文献史学の観点から論じた。」と書いて、以後は撤退だし。
2ちゃんは右だと言われてるけど、考古学だけは違うんだね。
畿内説の学者は、左ばっかじゃないの。現実無視の。
463 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 07:05:36
>>462 まあ、そこまで嘘八百を並べ立ててしまうと
逆にウヨが怒るかもしれないぞ。
君の最近って、1990年? 今は21世紀だよ。
それとまともな本も読もうね。
そんな嘘ばっかり言ってると、しまいに友達いなくなりますよw
464 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 15:15:37
九州にでかい前方後円墳がたくさんあれば話は別だが、
そうじゃない以上現状では畿内説のほうが圧倒的優位なんだよなあ。
痕跡も残さない有力王朝なんてありえないだろ
465 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 15:20:28
倭の代表国は九州内でときどき遷都してるようだな。
福岡〜佐賀〜熊本〜福岡って感じかな。
戦乱のあとに残った建築も法隆寺のように畿内に移築しちゃったし。
痕跡が残ってる方がおかしいと思うぞ。
466 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 17:31:44
でかい前方後円墳が沢山あるからこそ畿内は邪馬台国でなかったのだ。
倭人の墓は「封土作冢」前方後円墳は「積石爲封」。
「封土作冢」は弥生時代の墓表している。
地面を均して棺を置いて、その上に土を被せる。
あるいは地面に竪穴を掘って棺を安置してから土を被せる。
といった形式の墓だ。
それに対して前方後円墳は土を高く盛り、周囲を石で封じている。
倭人伝に従えば畿内は邪馬台国ではない。
467 :
ひで:2005/06/23(木) 17:49:13
卑弥呼の墓と推定されている箸墓古墳が最初の「でかい前方後円墳」ですよね。
ということは、邪馬台国の時代は埋葬様式の変動期だったのではないですか?
陳壽さんが直に陵墓建設に立ち会ったはずはないので、倭人から聞き取り調査
する以外になかったと思いますが、その倭人はどの様式を伝えるべきか迷った
と思います。
邪馬台国畿内説に拠ると支配地域は東海〜九州の広範囲に及ぶので、どの地方
について述べても良いわけですしね。
ですから「でかい前方後円墳が沢山あるからこそ畿内は邪馬台国でなかった」
とは言えないはず。
468 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 17:54:02
469 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 19:37:30
三国時代は中国でも大きい墓はなかった。
径10mもあれば大きい方だった。
かの有名な孔明の墓も径20mだった。
魏では墓は目立たないように質素に作れという命令が出ていた。
だから魏の皇帝の墓は見つかっていない。
その魏から冊封されていた邪馬台国が魏の皇帝より立派な墓作るわけが無いだろう。
径百歩というのは墓の領域を示したので、大きく高い墳墓を示していない。
おそらく1〜2m程度の高さの円墳だったろう。
魏の皇帝の墓が見つかっていないように卑弥呼の墓も見つかっていないのだ。
470 :
サガミハラハラ:2005/06/23(木) 22:43:37
しかし近畿説は盛んですね。絶対そんなことはありえないのにね。
近畿説の近畿の学者さんだって、近畿が邪馬台国だと真剣に思ってないんじゃないですか。
近畿地方を掘り起こして、発見などしたら、それを邪馬台国をからめては発表すると
マスコミうけもいいし、世間も注目してくれる、というので近畿邪馬台国論なのではないでしょうか。
471 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 23:00:50
>>469 魏の皇帝の陵墓は見つかっていまっせ。
玉冊とかの副葬品が盗掘されてしまって
どの皇帝だか判断できない状態ですわ。
おまけに北周が北斉を滅ぼしたさいのとばっちりをうけて
神道碑まで持っていかれちゃったせいもありますから。
そんななかで唯一はっきりしているのは
曹操の養祖父の曹騰の陵墓ぐらいですかいな。
472 :
サガミハラハラ:2005/06/25(土) 07:46:33
>>魏の皇帝より立派な墓
卑弥呼が魏に初めて貢献したのは239年です。
卑弥呼は247年頃なくなっています。
その短い間に墓の作り方が倭国にも伝令されたのでしょうか。疑問です。
473 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 10:26:43
>魏の皇帝の陵墓は見つかっていまっせ。
>どの皇帝だか判断できない状態ですわ。
魏では皇帝の墓を偽装したと言う話だ。
10位、偽の墓を作ってどれか判らなくした。
見つかったのは全部偽物。
>>472 2世紀末には、もう楯築みたいな大型墳丘墓が存在しますが?
475 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 04:35:29
>>473 卑弥呼の墓も見つかりにくいように作られていると言いたいのかにゃ?
476 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 05:08:21
>>470 君って本当に考古学に無知なんだね。
はっきり言って、君には邪馬台国は荷が重過ぎるよ。
君の言ってることは、これと同じ。
「野球選手って馬鹿だな。なぜ打ったら三塁に走らないんだろうね」
477 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 06:31:48
>>474 だから大型墳丘墓がない九州こそ邪馬台国のあった所だ。
>>476 君の言ってることは
「打っても走る必要ないじゃん。だってホームベース(畿内)に戻ってくるんだから。」
と言っているのと同じ。
ホームランだってピッチャーゴロになる。
478 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 06:37:38
九州はとてもこの国の首都としてはもう無理だった。
そこで畿内に東遷した。嗚呼哀哉、捨てられし九州。
479 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 06:47:24
>>476 今まで一塁や三塁に向かって走塁しても邪馬台国は闇のなか
だったら思い切って
直接二塁に走塁しかないな
480 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 16:02:54
邪馬台国論争に終止符をうとうとする行いに終止符をうとうではないか
ということで邪馬台国は近畿で決まり。
481 :
ホロン部参上:2005/06/26(日) 19:59:12
482 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 23:10:54
邪馬壱国は九州だな。
邪馬台国は九州だな。
イ妥国も九州だな。
で、
日本国は畿内だな。
483 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 00:09:22
意外と九州説房って必死なんだなw
ってことで邪馬台国は畿内だな。
484 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 01:00:28
古墳があれば邪馬台国だって?
幼稚だな(プゲラ
485 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 10:24:34
・・・九州論者ってもしかしてゴッドハンドの弟子かなにかかなwww
486 :
サガミハラハラ:2005/06/27(月) 11:41:23
>>476さんへ
そうじゃないですよ。
ルールブックに一塁に走れとかいてあるのに、何故みんな三塁に走るんだろう。
ですよ。
お答えが遅れてすみません。
487 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 01:36:04
右翼でハゲなのは九州説だと思います
色々な意見ありますね。勉強になるっす。決して、煽りじゃないですが近畿説
は、倭人伝の中の東を南に変えないと成立しないですよね?その辺はどの様に
解釈しているのですか?教えていただけますか?
>>488 東を南じゃなく南を東にだろう。
ただし、理由を聞くのは(タブー)だから以後注意するように。
490 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 21:22:16
>>488 ほとんどの説(もちろん九州説も含む)は方角や距離、戸数、地名などに
修正を加えているんですよ。
たとえば一月は一日の間違いだとか。
それと
>>438が指摘しているように、狗邪韓国→対馬国→一支国は
倭人伝には「南」とあるのに、実際は東南方向。
末廬国→伊都国→奴国もそれぞれ反時計回りに30〜45度方向がずれている。
逆に方角は法則性にのっとって読み替えねばならないのさ。
491 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 21:43:59
悪い、訂正。
(×)反時計回りに30〜45度
(○)反時計回りに35〜60度
492 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 22:19:18
邪馬台国に古墳群なんてないな。
畿内じゃないな。
493 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 01:32:29
邪馬台国が近畿だって?臭いからあっち行ってくださいよ!w
いくらキムチの匂いが好きだからってその言い方はないだろ
九州厨房君www
495 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 13:44:52
邪馬台国は宇佐にありました。
比売大神=卑弥呼であり、
卑弥呼の墓は宇佐神宮の境内下にある古墳です。
496 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 14:17:55
↑基地外也
497 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 15:04:11
と、高木氏 の著書
「邪馬台国の秘密」に書いてあります。
498 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 15:22:50
と、井沢元彦氏 の著書
「逆説の日本史」にも書いてあります。
499 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 16:08:55
邪馬台国の風習は南方的な古い風習が残っているようだから
おそらく九州でしょう。
畿内大和政権は古墳と北方種の馬、胡服を日本にもたらした出雲政権の後裔だと
思う。
山陰に渡来した騎馬民族(匈奴系?)が広島・岡山から畿内に
入ったと思うよ。
彼らは日本海をルートで東北にも影響をもたらしたと考えられる。
東北の馬
500 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 16:11:43
あるいは、東北に渡来した騎馬民族が畿内に入ったとも
考えられる。ハニワについては大和政権にあった殉死が
置き換えられた大和の独自の文化だろう。
501 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 16:22:44
かなり軍事力としては弱小な北部九州の邪馬台国が
倭国を統制できたのは卑弥呼の不思議な力。
しかし、これが弥生文化の最後、畿内で大発展した
騎馬民族的戦闘集団が日本全土を支配し、半島にも触手を伸ばす。
502 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 16:29:43
東夷伝の方位を変える手法はそれはそれで合理的ではあるけど
どうしても当時の畿内の北方騎馬民族的文化と邪馬台国の南洋文化に整合性がない。
ここが九州説の決め手になってるね
503 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 16:36:52
>>405 電波はやめてもらえますか?邪馬台国は徳島だったというのが地元の意見ですけど。
504 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 16:46:25
>>499 500 501 502
騎馬民族説スレが終了したとたんこれだもん
新スレ建ててそこでやれよ。
505 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 16:54:57
>>504 騎馬民族は間違いなく中国地方から畿内に影響をもたらしています。
506 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 16:55:37
ハニワなんか明らかに北方騎馬民族でしょう
507 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 17:18:27
最初の弥生人がどこから来たか、おそらく、江南か東南アジア方面でしょう。
しかし、日本人種の形成にもっとも影響を与えたのは出雲政権の後裔
北方騎馬民族政権。東北もほぼこの北方騎馬民族集団に入れ替わった。
508 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 17:36:32
倭の五王は畿内の天皇ですね。
遅れた九州人を制圧して半島攻略に利用したのでしょう。
そこで、祝いの乱ですよ
509 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 20:35:57
高句麗と戦争ばかりしていたのに高句麗の使いを「高句麗神子」の使いと言ったのは何故でしょう?
倭と日本は違う国でしょ。
510 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 01:39:24
511 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 02:24:57
>>509 結局のところ、中国側の認識は倭国と日本国は同一国だから。別もんとは言い切れまい。
中国の册封をうけた過去を持つ倭国を日本国とは別の國であるとすることによって
日本の天皇家が中国に臣従していた過去を否定しようとする主張、それが
日本による倭国否定なのさ。
時代を遡ってこれと関連付けえる香具師をよく見かけるけど、群雄割拠は別に
戦国時代だけではありませんから、ザンネン。
512 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 02:38:51
高句麗の文化は出雲文化と関係が深く
胡服をきた古墳文化も高句麗のものを一部受け継いだのでは?
513 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 03:35:56
>>512 部族・民族の分類ではなく派閥的のものでしょう。
米国重視、アジア重視、相異ガチンコやるのは
それらに影響されているから、と言えないでもないですよね?
大陸から全てを吸収していた時代なのだから、文化や人間を
受け入れるのも「あたり前」だったのではないでしょうか?
514 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 04:08:42
派閥だったとしても北方の馬やあれだけ大規模な古墳が中国地方から
近畿一体に広がったのはなんらかの大規模な人種的な変化が
起こったとみるのが自然だと思うな・
九州の弥生とは一線を画した騎馬民族系の人種が中国・近畿
あるいは東北に混入したと考えてもなんらおかしくはない。
515 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 04:25:55
南方種の馬は稲作と同時に江南、付近から九州に伝わった、
弥生人はこの江南人。古墳時代に出雲を起点とした
騎馬民族勢力が中国四国・近畿・東北に進出した
古墳人は高句麗あたりの騎馬民族。彼らは半島南部に日本府を作り
北の高句麗に睨みを利かせた
高句麗と大和政権が執拗に戦ったのはいわば内紛みたいなもの。
九州の勢力は先進的な近畿の大和政権に服属することになった。
516 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 04:32:56
>>514のダウト
>あれだけ大規模な古墳が中国地方から近畿一体に広がった
発生は確かに纏向だが、定型は南九州から関東にかけて同時多発で造られている。
>九州の弥生とは一線を画した騎馬民族系の人種が中国・近畿
>あるいは東北に混入した
渡来系の群落はとっくの昔に判明している。
第一どうやったらそんな大量の人間が一気にやってこれるんだ?
1千年近くかけて徐々にやって来た、つまりすでに混血化していたというので結論は出ている。
517 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 05:38:46
>>516 んー・・
古墳というかあの戦闘服と北方種の馬がポイントだと思うんだよね。
あれは、近畿・中国地方で発展したんじゃないの?
あれだけのの物資を輸送する力と軍事力で一気に本州を制圧したん
ではないだろうか?古墳とともに。
そう、あれは別の民族なんだよ、たぶん
518 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 06:21:13
>>517氏は何世紀くらいを想定しているのかな?
古墳が前方後円墳を指しているのなら
少なくとも4世紀初頭までの話だと思うんだけど・・・。
その時代に馬の骨はまったく発掘されていないし、人員の大量輸送も無理ですよ。
それと短期間での制圧が可能な軍事力は、当時の半島にも大陸にもないんです。
519 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 06:42:01
>その時代に馬の骨はまったく発掘されていないし
そうなんですか?では
4世紀初頭古墳文化の初期は古墳だけが漢民族から伝わり
その少し後に中国地方に上陸した北方騎馬民族がその文化を受け継ぎながら
拡大していったという仮説も成り立つんじゃないかな・・?
これだと、結構しっくりいく気がする。
520 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 06:51:32
そして神道の由来は北方騎馬民族のいた高句麗ではなかろうか?
北方騎馬民族は出雲を拠点に稲作や古墳文化を受容しながら
中国・近畿に支配を拡大していった。
521 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 07:12:35
まだ言いたいことがあった・
弥生式土器を持った人は稲作を持ってきていないのでは?
(稲作は縄文後期に南方種の馬と同様江南、東南アジア方面から伝わった。)
その証拠に東北各地はすでに弥生式土器が広まっているにも
関わらず、稲作、南方種の馬は広がってはいない。
(気候的に向いていない可能性はあるにせよ)
・弥生式土器の特徴は南九州から東北までほぼ共通している。
・弥生人はすでに弥生中期には九州から東北まで広がっている。(発掘データ)
・稲作は九州で発展した。(通説)
522 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 07:38:41
東南アジアの勢力が九州に稲作・南方馬、高床式倉庫をもたらし、
その後三東、リャオトンあたりから渡来した
徐福一行が日本全土(本州一体)に移住し
彼らが本格的な弥生人となった。
その後、出雲に北方騎馬民族が渡来し畿内で大和政権を立てたのでは・・
そして複雑なことにこの北方騎馬民族は扶余の後裔でもあり
弥生人と似た言葉、風習も持っていたのです。
(高句麗の文書、遺跡、魏志倭人伝等の記述から察するに・・)
523 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 07:44:07
漏れが仕入れた史料、遺跡データと持てる限りの知識知恵を
総動員して出した仮説です。
524 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 07:54:32
言い方と変えれば初期の弥生人は漢民族や北方騎馬民族とは無縁の
東南アジア系に近い人々です、彼らは黒潮に乗り九州に稲作・南方種の馬、
高床式倉庫を伝えたように半島にも同じ文化を伝えたのです、その
流れを汲むのが九州の弥生人であり半島の扶余です。
扶余の後裔は古墳時代に騎馬民族の文化を受け継ぎ日本の中国地方から畿内に
進入したのです。
525 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 10:27:45
漢民族と言うが基本的には西胡とか、北狄出身。
漢民族の黄河文明に対し中国南部の長江文明があったのは常識。
楚とか呉、越の文明だ。
黄河文明側は騎馬の戦いを得意とし、長江文明は船を得意にしていた。
最終的に黄河文明側が勝利して商殷周が勢力を伸ばした。
西胡、北狄が農民化して漢民族となって中国南部を支配し、南を南蛮と言って軽蔑した。
呉や越は南蛮だった。
呉越は馬が不得意な民族で日本に馬をもたらした事は考えにくい。
倭人は中国に対し、呉の末裔と自称している。中国南部から来て水田稲作をもたらしたのは間違いないだろうが、
弥生時代に日本に馬が居たなどは妄想に過ぎない。
呉は三国時代に高句麗から馬を送ってもらった位だから、馬は不足していただろう。
倭と関係の深かった馬韓は馬に騎乗しなかった。
526 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 11:10:56
527 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 11:41:39
↑見れないじゃん。
528 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 11:42:25
ページを表示できません。
検索中のページは現在、利用できません。Web サイトに技術的な問題が発生しているか、ブラウザの設定を調整する必要があります。
だって
529 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 11:47:02
オペラではみれるけどな・・
こういうことが書かれているよ。
ちなみに漏れの世界大百科事典には南方からもたらされたと書いてある。
日本で縄文時代以降に属する古代の馬の遺骨や歯は、北海道から沖縄にかけて貝塚その他から発見されている。
これらのことから、縄文時代以前から日本に野生馬がいて、
狩猟の対象とされていたと考えられている。馬の歯や骨を出土する遺跡
の大部分から縄文式土器が出てくることは、これを証明している。
おそらく日本本土がアジア大陸と陸続きであった時代に、
イヌやオオカミと同じように大陸から渡ってきて、本土が大陸と離れてしまった後でも野生馬として残ったものであろう。
しかし、日本の家畜化された馬がみな、これら野生馬の子孫であることかというと、そうではなく、後で大陸から輸入された家馬も相当数あって、これらは新しく渡来した民族に連れられてきたものである。
日本の馬が確実に家畜化されていたのは、雄略天皇の時代(5世紀)であるとされる。そして馬の埴輪も日本の各地から187個も報告されているが、これらは馬具をつけている。
いっぽう、馬が外国から輸入された記憶としては、応神天皇の時代(4世紀)に百済から良馬2頭が入ってきたとある。その後持統天皇の時代(686〜697)や、文武天皇の時代(697〜707)にも新羅から馬が贈られている。
530 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 13:00:11
徐福が神武だった可能性もあるな〜。
朝鮮や日本は家系図つける風習無かったが
この風習をもたらしたのは中国人の徐福だったのかもしれない。
531 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 13:16:07
↑基地外登場!!
532 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 14:00:36
>530
可能性なんか0.1%もありませんよ(w
しらけるから、あんまりくだらないこと書き込まないでね(w
533 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 14:53:19
在来馬の起源は
>>529からも推察できるように4世紀あたりかもね。
で、それ以前に別種の野生馬が列島にいた可能性は極めて高いんだよね。
それから、半島、岬、島などがあって、海岸線が入りくんだ地形で
しかも険しい山地が多く平野が狭くて、地形上の制約が大きいこの日本列島で
馬重視派が思っているほど、馬に重要性があったとはとても思えない。
銅矛、銅剣、銅鐸などの青銅器と同じで権力者
の権威を示すモノとして馬が使用されたに過ぎん。これが真実。
534 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 15:12:33
だな、馬を活用できたから列島を制圧できたんだ!みたいな勢いだもんw
日本列島に限っていえば海上戦略の方が有効的だな。もちろん物資輸送も
断然馬より船だな。
535 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 15:13:46
甲斐か信濃辺りの山には、4世紀頃に
北方騎馬民族が造った古墳群があります。
536 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 15:16:11
へ〜そうなんだ、で北方騎馬民族と判断した材料はなんだ?
537 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 15:18:57
↑この時、彼らが持ち込んだ馬たちの後裔は
戦国時代に武田氏の騎馬軍団に用いられた事
は言うまでも無い。
538 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 15:22:31
w はいはい、なんとなく判ったよ、新スレはやく建てようね。
そこでやればいいじゃないか?なあ江上信者さんよw
539 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 15:24:53
大体スレから内容がそれすぎなんだよ、漏れのチ○コくらいにねw
540 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 15:35:32
ほんなら江上スレ立てておきましょうか?
どうします?
542 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 15:37:41
ここでいいです、古代史総合って感じで
543 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 15:40:06
徐福は紀元前200年前の人間ですので
神武と時代が違いすぎます。
544 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 15:46:55
古墳の形状と馬具の出土などから、
北方騎馬民族による築造と考えられてます。
545 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 15:54:17
藻まえらスレ立てて帰れよ
546 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 16:01:06
547 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 16:21:46
>>543 徐福の時代は特定されているが神武の時代は信頼性低い。
>>544 出雲族だと思う、畿内の大和族と出雲族が合流して
東国経営に携わった。馬の使いに慣れた騎馬民族系の出雲人は
東国で大活躍した。
ちょっと朝鮮訛りの日本語など共通点は多い
548 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 16:28:15
出雲の古墳とは形状が違う。
549 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 16:43:45
出雲人は漢と騎馬民族と独自の文化
を融合した民族で漢に押されるような形で半島から出雲に降り立ったのさ
東北の弥生人も彼らの系統かもしれない・・
550 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 16:43:59
神武の時代は、紀元100年前後と思われ
紀元前200年までは遡れないだろう。
551 :
ハラリトサイサイ:2005/07/01(金) 19:08:16
大和朝廷は朝鮮での戦闘に馬が必要であることから、半島から馬を扱う人々をスカウトしてきて、
信濃や日向で牧場を経営させたそうです。
552 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 21:19:23
神武は応神の投影だから5世紀だね。
日本書紀をそのまま解釈するヤシは厨房。
崇神天皇が初代天皇で三世紀末か4世紀初め。
崇神朝を倒したのが応神(神功)。五世紀初めだろう。
問題は応神が何処から来たかだね。
http://www.e-tamaya.com/hatiman.html 「 鹿児島神宮の社伝「大隅正八幡本縁起」によると、震旦の陳大王の娘・大比留女(オオヒルメ)は
七歳にして解任、いぶかった父王が問いただすと、夢で朝日の光が胸にあたったために懐胎したのだ
という。驚き畏れた王は大比留女をやがて生まれた王子とともにうつぼ舟にのせて大海へと流したと
され、この舟は九州の大隅(八幡岬)へと流れつき、大隅国に留まった王子は正八幡と称えられ、幼く
して隼人を平定したという記述があり、この王子が後の応神天皇という説もある。」
「震旦」と言うのは中国と言う説がもっぱらだが「辰」国、つまり辰韓から来た可能性もある。
「大比留女」は天照大神の別名だから、天照大神も辰韓出身と言う事になる。
隋書にある秦王国の「秦」も震旦の「震」も辰韓の「辰」もおそらく同じ国を指している。
つまりこれ等の情報を繋いで考えれば、大和朝廷は7世紀まで秦王国であり、5世紀に新羅か伽耶からやってきて畿内を征服したのだ。
553 :
太国:2005/07/01(金) 21:40:58
>>552 PuPuPuPu! 投影映画はなぜなのか?その出所はいずれか?www
554 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 21:45:36
応神・仁徳が4・5世紀の交、数代前の崇神が3世紀初頭くらい、
とすると神武は1世紀だな。もしかしたらAD1年かな。
555 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 21:57:13
平気でデムパはいけないと思います。
556 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 23:02:59
「神宮」という神社の呼び名は新羅の赫居世を祀った神社に由来している。
557 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 23:18:44
>1
学会では九州説は滅亡してるんだgからとっくに終止符が打たれてるジャン。
558 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 23:22:29
畿内説じゃないと飯が食えないと言うか、京都学派が歴史方面で力があるから逆らえない。
九州大学だって京都大学出身者が教授になっている。
559 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 01:44:44
畿内派考古学だけ、まだ戦前。
皇国史観の亡霊追って幸せ甲斐?
560 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 01:49:43
>>559 焼却炉に、ごあんなぁーい(w
超高温で焼かれて焼滅しちゃって下さい(w
561 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 02:23:57
>九州大学だって京都大学出身者が教授になっている。
考古学? 歴史学は坂上筆頭に燈台植民地だよ、九大は。
562 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 03:00:27
竹内理三の昔からね。もっと前からかな。
563 :
最近デリヘル三昧:2005/07/02(土) 03:00:45
564 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 04:56:35
奴国は那賀川あたり、不弥国が巨大で吉野ヶ里付近から小郡、久留米、大牟田
投馬国が薩摩、長崎南部、熊本、邪馬台国はちょうど耶馬溪あたりの日向国全体だと思う。
対馬、壱岐、末廬国(まつろこく)=松浦、伊都国=前原
不弥国は伊都国から東100里、奴国が東南100里
奴国から不弥国が東へ100里、不弥国の有明海の港から船で20日、
伊都国の玄界灘の港から長崎を迂回して南に20日が投馬国(薩摩)です。
ここから、陸路1ヶ月、薩摩・大隈半島を陸伝いに船で10日(南10日
は誤認)で邪馬台国(日向国)につく。
結構自身ある
神武は邪馬台国女王、台与の息子かなんかではないか?
565 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 05:12:59
中国地方の出雲国は当初漢とは全く通交がなく、九州の倭国とも一切通交が無かった。
出雲人はまさに北方騎馬民族を起源とする神道を信仰する民族だったのです。
しかし、出雲国政権が古墳を作り始めた頃に倭の勢力と合体して畿内に
大和政権を作った。
566 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 05:23:29
出雲国だけれど、これは本州全体の弥生人の祖になっていると思う。
彼らはさほど農業に熱心ではない北方系の騎馬民族だったのです。
その後九州の倭に近い場所から稲作に適した地域について開拓を
進めていった。
567 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 05:50:14
だから、早く帰れよよ
騎馬オタク
宝塚記念も終わったことだし早く放牧に出せよ
568 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 07:16:11
邪馬台国が日向から豊国(耶馬溪)一体だったという可能性。
今の糟屋郡から東は人跡未踏の未開の地だった、そこで
投馬(薩摩)から回っていくルートしか知られていなかったのだろう。
南に二十日は大きな勘違いだと思う。
彼らは本州島、四国島の存在すら知らなかった。
569 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 07:22:01
本州は出雲を中心には高句麗勢力と縁が深かった。
570 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 07:56:33
出雲人が邪馬台国の中津(倭と出雲の中)に侵攻しだしたときから
出雲(中国地方の騎馬民族勢力)と倭(九州)の勢力の
西日本全体の支配権争いが始まる。倭の勢力は近畿の勢力と同盟を結び
出雲(中国地方)を併合することに成功した。西日本の統一がなされた後
百済侵攻、高句麗との戦争、宋への朝貢(倭の五王)
と繋がる。
571 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 08:53:55
磐井の乱の時、継体天皇は物部麁鹿火に「長門より東は私が治めよう。筑紫より西はお前が統治し、賞罰も思いのままに行え。」と言った。
鎮圧後、大和朝廷側は粕屋屯倉を手に入れただけだ。
つまり大和朝廷側は磐井の乱以前は山口県すら支配下に無く、磐井の乱以後も九州全土を押さえたともいえない事がわかる。
6世紀に山口県すら支配していなかった大和朝廷が3世紀に九州を支配していたなどと考えているヤシは頭がどうかしている。
572 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 10:27:25
>>564 キチガイ登場!
なにが、
>結構自身ある
だよ、アホか(w
邪馬台国が、日向なわけないだろw
573 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 10:29:09
>>571 >大和朝廷が3世紀に九州を支配していたなどと
>考えているヤシは頭がどうかしている。
頭がどうかしているのは、お前だよw
574 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 10:40:43
狗奴国は日向の原始勢力だな邪馬台国は耶馬溪豊国から
日向一体を支配していたが狗奴が反乱起した。
575 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 11:31:17
↑邪馬台国と耶馬溪は名前は似ているが、まったく無関係です。
邪馬台国が北部九州で、狗奴国が日向だったら
狗奴国は反乱なんか起こさないだろうね。
国力に歴然たる差があり戦っても負けるのは目に見えてるからね。
576 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 11:32:10
577 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 11:35:11
>>574 焼却炉に、ごあんなぁーい(w
超高温で焼かれて焼滅しちゃって下さい(w
578 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 12:15:05
邪馬台国は豊国(耶馬溪)だろう。日向の領有権を
邪馬台国と筑後(不弥)が争っていたのかもしれない?
筑後の支援を受けていたのが狗奴国。(今でも筑後は日向とは深い
つながりがある)そこで邪馬台国(豊国)は日向を諦め、
伊都国はじめ玄界灘周辺諸国と統一の動きを始める。
すると今度は、中国出雲族が中津方面から九州北部に進出し始めた。
そこで北九州勢力は海運で力をつけていた宗像族の力を
借り畿内の勢力と同盟締結、出雲族を包囲、西日本統一へと向かう。
筑後の勢力は大和政権とは直接的には関係がないと思う。
579 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 12:41:45
>578
はいはい(w
もの凄い妄想ですね(w
感服致しますた(w
大爆笑!!!!!!!!(w
580 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 12:50:59
カモネギ がいやまん
最近見ないね?
あいつね、機内・九州をコロコロいったりきたりの優柔不断で
だれにも相手されないから、頭おかしくなったんだよw
581 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 12:56:25
出雲神話で(あしはらのなかつくに)の支配を巡って争うが
これは具体的には豊前中津平野のこと。
582 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 13:02:20
本州は一切漢に使者を出していないんだよ、本州の出雲は
高句麗系だったのさ、いきなり出てくる神道もあれも高句麗系の遺物
583 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 13:12:14
つまり狗奴国は日向に本拠地を移し、その首長は隼人族を傘下に治めた神武であり
徐福の末裔であるニニギの祖は辰韓王であった。
584 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 13:14:23
>これは具体的には豊前中津平野
具体的な根拠を示せよ。
585 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 13:15:11
高句麗人のニギハヤヒは騎馬戦術を駆使して破竹の勢いで西日本を
制圧したのさ、ちなみに祖のスサノオは馬韓にいた高句麗人。
586 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 13:15:28
>583
はいはい(w
もの凄い妄想ですね(w
感服致しますた(w
大爆笑!!!!!!!!(w
587 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 13:17:05
大国主も騎馬民族 大きいおなかの大国様のもでる、体を太らせるのは
北方冷間地帯の風俗。
588 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 13:26:12
↑
妄想の垂れ流しはやめれ
589 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 13:28:16
不覚にも哂ろたw
590 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 14:11:55
倭(九州)と出雲国との統一はおそらく九州倭女王台与のすぐ後
畿内の崇神天皇だろう。
このとき全国に将軍を派遣し天照大神と倭大王魂の
二神を祭るのをやめた、これはまさに倭人(九州)と出雲人(中国)と
その傀儡畿内王朝の統一を意味する。
ちなみに崇神天皇の前も関西には別の王はいたと思う、おそらく出雲系だろう。
この頃から渡来人が増え始め、胡服を着たハニワ、古墳が全国に広がる。
591 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 14:15:18
畿内政権に神武はいたかもしれないが当時九州の統治には関与していないと思う。
あの部分は後に付け足したものだろう。
しかし、渡来人第一波を象徴的に示した可能性はある。
592 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 14:16:08
オオタタネコは何人だ出雲か?
593 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 14:25:06
物部と同じく出雲系だと思うね。
崇神天皇のとき
倭(九州)、出雲(本州)が統一されて以降
筑紫国出身、吉備国、越後出身の天皇など出目が具体的記述になってくる。
594 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 14:45:50
「異人が大勢やってきて、国内は安らかとなった」
畿内を制圧した崇神は平定を確実なものとする為
海外勢力に応援を求たらしんだけど、それって、やはり百済なのかな?
595 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 14:49:42
神武は徐福神話が関西で形を変えたものかもしれない。
弥生人=徐福勢力で全国に広がった可能性はある。
しかし出雲人はそれとは違う高句麗系の民族でおそらく
北方騎馬民族の文化を引き継ぐ扶余族、神道はこの扶余族の風習
596 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 15:13:47
多婆那国(丹後地方)の出身者が新羅王になったり
本州出雲は新羅・高句麗と通交があったが
一方倭は中国との通交が中心でした。
597 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 15:25:19
中国人はおそらく本州、四国の存在を知らなかったと思うね。
新羅・高句麗が通交のある本州の情報を隠していたり、
九州人が本州を意識して
いなかったからかも知れない。
598 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 15:35:21
>>597 >中国人はおそらく本州、四国の存在を知らなかったと思うね。
これは、紀元前1000年くらい前の話ですか?
本州も四国も知っていただろう。
599 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 15:59:51
>>596 丹後国風土記逸文に浦島太郎伝説のモデルになった「浦島子」
の説話があるから、おそらく海人メインの地域だっと思うな。
大和朝廷の征伐対象の土地であったし、鬼退治の話もあるし。
彦坐王は海人から王として迎え入れられるけど、約束を破り
大和に寝返ったんだよ、つまり玉手箱ね。
中央集権国家が成立する以前で、丹波が大和朝廷に近づいたのは、
おそらくこの時だけ。
関係ないことゴチャゴチャ言ったけど、推察するに新羅王は倭人だね。
600 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 16:16:58
いや多婆那国は対馬だよ。
601 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 16:33:04
奴国の対馬=タバナ国
あるいは
テマ=タマ=対馬には玉調郷も存在していた。
脱解の出身地は対馬。
602 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 17:56:47
九州島(倭)は邪馬台国に代表される原始的南洋的な習俗で漢と親密
本州島(大和・出雲)は胡服を身をまとい、青銅を
用いた貨幣経済が浸透していて新羅・高句麗と親密
出雲(宗像)神道は高句麗由来?
でいいかな?
603 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 18:12:04
邪馬台国(耶馬溪)はいずれにしても宗像と中津を支配していて、
本州の出雲勢力とすんなり統一したと思うね。
604 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 18:17:12
お願いだからキチガイ妄想の書き込みは止めてねw
605 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 18:20:04
かなり、信憑性あるよ、ぐぐってみ
606 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 18:20:07
>603
かなりアタマが逝かれちゃってますね(w
607 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 18:22:48
邪馬台国は、絶対に耶馬溪だ!
と、僕も中学生頃はマジで思ってましたw
608 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 18:29:46
そして出雲・宗像族は高句麗系の渡来人だろう。
百済の末裔と自称していた多々良(大内)は実はタタールの末裔
すなわち、モンゴル人。
609 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 18:31:24
くどいよ。
610 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 18:39:32
弥生人は江南の安曇族だから、高句麗系(出雲)が強い本州の勢力とは
仲はよくなかっただろうな。
611 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 18:56:27
613 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 20:37:54
388 :名無しさん@京都板じゃないよ :2005/06/03(金) 23:22:59
出雲大社は新羅からの渡来人によって建造された。
朝鮮半島の新羅の東海岸から船を出すと海流に乗り島根半島付近に到着する。
イナサの浜の流れついた新羅人は、この地に航海の目印となる高くそびえる塔を建造した。
これが古代出雲大社と思われる。
この記述は韓国の旅行パンフレットの出雲大社の説明文の一部抜粋です
614 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 21:08:00
615 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 21:59:45
そうすると、出雲は東胡、烏桓{うがん}、鮮卑{せんぴ}、契丹{きつたん}
の後裔か・・
>>52 名前:太[sage] 投稿日:05/01/12 00:21:40
だからね。当時卑弥呼と神功皇后とは、おのおの九州と畿内に両立していたのだ。
ちょうど、イギリスの女王とフランスのサッチャー女性首相が共在していた時があったようにだ。
>>77 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:05/01/13 00:29:26
三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説
三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説
三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説
>>125 名前:老教授 ◆DaLsTNW7DE [] 投稿日:05/01/29 22:34:02
>>123 「モロ☆」でググってみたところ
「... 人気順モロ女優・・・笠木忍etc」がトップにありました(笑)
忍ちゃんファンの私が思わずクリックしたのは言うまでもありません。
>>150 名前:前スレ主1様[] 投稿日:05/02/14 08:12:07
他スレは専門的過ぎますね。
あそこまで極めたくもないので
ここにマターリ書き込む程度にします。
617 :
太:2005/07/02(土) 22:25:50
サンクス
618 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 00:16:15
ものすごい妄想のオンパレードですね。これじゃ百年たっても終止符はうてませんね。
620 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 01:40:23
卑弥呼はトトヒモモソヒメで決まり、邪馬台国は機内に決定しますた〆
621 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 05:53:39
3cに貨幣経済があったり、エリザベスとサッチャーが別の国の
元首だったり、何かここスゴイですね。キティ専用の部屋ですか?
622 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 06:23:47
>>621 貨幣経済と似たものがあったということだよ、例の出雲の鏡がそう。
九州(倭)と出雲(本州)の経済はかなり違っていたようです。
623 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 09:00:58
>>578 この推論をもとに、日本、中国の史記をもういちど読み返してみましょう。
確信に変わるでしょう。
624 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 11:16:06
邪馬日田英彦山、耶馬渓、深邪馬、本耶麻、耶麻国
全部豊国にある地名。
625 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 14:58:57
豊=台与だろう、英彦山で卑弥呼が
九州全土を支配していたのだろうと思われる。
今でも九州では英彦山に詣る風習が残っている。
ほぼ、英彦(卑弥呼)山、耶馬渓、耶麻国、豊葦原中津国で間違いないと思う。
626 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 15:06:25
福岡県田川郡添田{そえだ}町英彦山に鎮座。主神として正哉吾勝々速日天忍穂耳尊
{まさやあかちかちはやひあめのおしほみみのみこと}を祀{まつ}る。一名を彦山権現
{ひこさんごんげん}ともいう。天忍穂耳尊は天照大御神{あまてらすおおみかみ}の御子で、
英彦山に降臨されたことから、日子山{ひこさん}と称する。神武{じんむ}天皇東征に際し、
天村雲命{あめのむらくものみこと}を派遣して天忍穂耳尊を鎮祭し、崇神{すじん}天皇41年、
英彦山頂に社殿が創建されたと伝える。奈良時代に至り役行者{えんのぎょうじゃ}が来山して
修験道{しゅげんどう}の道場をおこし、やがて彦山修験道が形成された。
627 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 15:20:19
628 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 15:28:34
崇神{すじん}天皇41年、倭と出雲の統一の時期と一致する。
629 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 16:27:55
>>626、だからそれと「邪馬台国論争に終止符をうつスレ」と、どう関係するの
630 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 16:32:18
日子山(英彦山)は卑弥呼が倭を治めていた場所だと思うんだよ。
631 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 16:34:53
>>627>>628 藻まえらも同様 スレに帰れ。
(出雲)の死んでるスレがあるだろう
ここは、君達の住める場所では無いぞ
632 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 16:40:14
633 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 16:48:14
暗記科目=クソ科目
634 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 16:51:03
考古学の世界だぞ。頭フル回転して考えろ
>>632 >繋がりを説明
無理だね
繋がりが無いものに説明は無い。
それより、繋がりを説明してもらいたいものだ
それも神話の世界ぬきで
636 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 17:26:24
吉野ヶ里から出た銅鐸の鋳型は出雲の銅鐸と一致した。
九州が出雲付近まで交流していた事が確認できる。
しかし、纏向には九州の物がない。
庄内式土器が九州から出ているがこれは鉄を手に入れる為の交換用で、その後畿内から来た人間が福岡に住み着いた者が居ただけだろう。
纏向は九州から鉄を恵んでもらう立場に過ぎない。
4世紀末位になってようやく自前の半島交流ルート(沖ノ島―宗像)を開発して九州と対等になった。
しかし、九州を完全に凌駕するようになるのは自前で鉄が作られるようになった6世紀だ。
畿内に邪馬台国があったはずは無いし、倭王武も畿内の王ではない。
637 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 17:38:13
>>635 魏志倭人伝、宋書から嫁、まだ、ここに書き込む資格はない。
638 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 17:44:46
>倭王武も畿内の王ではない。
武=武烈天皇だよとっくに畿内に王朝は移ってる。
倭と出雲と畿内の安曇勢力が統一したのは崇神天皇の時(3世紀末)
639 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 17:55:41
倭(九州)が安曇族(呉の末裔)の名残で漢外交一辺倒であったのに対し
当時半島に入ってきた騎馬スキタイ文化を受け入れた新羅と通交していた
出雲国の方が東国を経営するのにより価値があったのだろう。
物部、伴氏など出雲系が軍事に携わることになる。
640 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 18:23:21
「宋書」
本紀十巻・志三十巻・列伝六十巻の合計百巻からなる「梁」の沈約が撰した。
南斉に入った487年に沈約が修史を命ぜられ503年に完成した。
台与の時代から二百年後の書物ですが
それがなにか?
641 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 18:40:08
新羅、百済と半島に騎馬民族の脅威が迫り来るとき
晋(漢)への朝貢外交や原始的な祭祀での統治は時代遅れになっていたの
だと思う。倭と出雲の畿内王朝(古事記・日本書記)
から騎馬による東国支配、半島への恫喝外交が始まった。
642 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 18:52:33
>>638 >武=武烈天皇だよとっくに畿内に王朝は移ってる。
武烈天皇は架空の天皇。年代が合わないだろ?
雄略天皇のあと清寧天皇まではいたかも知れないが、畿内王朝は直系の血筋が一旦絶えてしまった。
雄略天皇に殺された皇子の子供がどこかに隠れていたのを探してきて天皇にしたなど創作臭い。
継体天皇のエピソードのコピーだ。
643 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 18:57:42
>>642年代は間違っている、しかし崇神天皇から後は
倭・出雲・大和統一大王は実在していたと思う。その前の天皇は
畿内地方の王としては実在していたかもしれない。
そう考えるとあらゆる史記の辻褄があう。
644 :
プラム:2005/07/03(日) 19:34:03
>>637の言いたい「宋書」文とは
(九十七巻)の
『済死世子興遣使貢献世祖大明六年詔日(倭王世子興奕世載忠作藩外海稟化寧境恭修貢職新嗣辺業宣授爵号可安東将軍倭国王)』
だろう。
ようするに
倭王の世子が(倭の五王)の一人の(興)
だから 台与⇒(後)⇒天皇だと
では、旧唐書の
『日本国者倭国之別種也』は、どうする
ただし
外交上の理由云々の事情により… は、確定したことでないので
645 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:44:17
台与は九州の女王、興は西日本全体の王
646 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:45:37
顕宗天皇、仁賢天皇など実績が何も無いし、武烈天皇も悪行ばかり書いてある。
武烈天皇は雄略天皇のコピー。
王朝が終わる時は最後の皇帝は悪行をし、そのために国が乱れ、滅ぶ。
次に新しい仁智に優れた皇帝が現れて臣民を救う。と言う史記や儒教の感覚を持ち込んだ日本書紀作者の創作だ。
だから武烈天皇も架空だ。
欠史八代に継ぐ欠史三代だな。
647 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:47:35
>だから武烈天皇も架空だ。
・・じゃあ、宋書はでたらめを書いてると?
せめて、そこの説明はしてくれ・・
そういうことをいうなら・・
疲れる・・
648 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:59:03
578 :日本@名無史さん :2005/07/02(土) 12:15:05
邪馬台国は豊国(耶馬溪)だろう。日向の領有権を
邪馬台国と筑後(不弥)が争っていたのかもしれない?
筑後の支援を受けていたのが狗奴国。(今でも筑後は日向とは深い
つながりがある)そこで邪馬台国(豊国)は日向を諦め、
伊都国はじめ玄界灘周辺諸国と統一の動きを始める。
すると今度は、中国出雲族が中津方面から九州北部に進出し始めた。
そこで北九州勢力は海運で力をつけていた宗像族の力を
借り畿内の勢力と同盟締結、出雲族を包囲、西日本統一へと向かう。
筑後の勢力は大和政権とは直接的には関係がないと思う。
だいたいこんな感じ、日子山(英彦山)は卑弥呼が祭祀をしてた山。
耶麻国、耶麻川、耶馬渓、日田(日子)耶麻山系
ほぼ確定。
649 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 20:34:33
>>647 >・・じゃあ、宋書はでたらめを書いてると?
宋書に武烈天皇の事が書いてあるか?
「治世2年秋9月、天皇は妊婦の腹を割いてその胎児を見た。」
「治世3年冬10月、人の生爪を剥いで、山芋を掘らせた。」
「治世4年夏4月、人の頭の髪を抜いて木の頂上に登らせ、木の本を切り倒して、登った者を落殺して面白がった。」
「治世5年夏6月、人を池の堤の樋の中に入れて、外に流れ出るのを三つ刃の矛で刺殺して喜んだ。」
「治世7年春2月、人を木に登らせて、弓で射落として笑った。」
「治世8年3月、女達を裸にして平板の上に座らせ、馬を引き出してきて面前で馬に交尾させた。女の陰部を調べ、潤っている者は殺し、そうでない者は、官婢として召し上げた。」
これが武烈天皇の治績の主なものだ。
こんな治績が倭王武の人間像として書かれているか?
倭王武は国内で縦横無尽に戦争し、半島に渡っても戦い続けた。
武烈が倭王武だなどと言うのは「愚劣」だ。
650 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 20:36:41
ここは宋書ヲタの集いみたい 『倭の五王』スレは死んでるのかな
ホームレス集団の大量移民だねこりゃあ
幕末スレにでも飛んでくれ、頼むよ
651 :
キリスト:2005/07/03(日) 20:50:01
あいかわらず、無限ループゲームか
ぜんぜん進歩してないな
652 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 21:02:45
希望的な観測は排除しよう
653 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 21:07:00
武烈の話は古事記には書かれてないからな・
あの部分は作り話としてしまえば別に問題はない。
ただ、何故あのような記述がなされているかは考える必要があるな・・
654 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 21:13:23
いい加減にしろ
荒 ら す な
655 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 21:17:12
>>654 あんたの希望に関係なく歴史はあるw
ねつ造すんな
656 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 21:19:32
>>653 > ただ、何故あのような記述がなされているかは考える必要があるな・・
理由は
>>646 で言われている。
657 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 21:21:55
>>565 古事記も架空ですか?
(この程度の疑問は想定できてるはずだけど・・・)
658 :
太国:2005/07/03(日) 21:38:27
659 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 21:47:23
畿内房は頭スカスカのちゃらんぽろん、脳味噌溶けちゃってますからね。
660 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 21:51:24
武はだれ?
661 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 21:53:26
ひ弱なジヨッキー
662 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 21:58:16
だめだな、考古学はねつ造されるから、全部嘘っぱち
大本営みたいなもんだ
663 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:34:07
銅鏡って通信手段だったという可能性はないですか?
卑弥呼が日子山で銅鏡使って九州各地に通信をしてた可能性
664 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:42:02
665 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 00:24:25
666 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 00:46:21
>>648 頼むから君は書き込むの止めてくれないかな。
ウザくてたまんねーよ。
667 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 01:32:30
まったくだw
668 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 02:26:24
>>648 そう言えば折れもまだ邪馬台国に関する知識が
少なかった頃は同じ様な事考えてたなー。
キミももっと勉強すれば今自分の言ってる事が
間違いである事に気付くはずだ。がんばれよ。
669 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 02:27:26
670 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 03:09:03
ありがと どうも期待されているみたいだから もういっちょいっときますね!
578 :日本@名無史さん :2005/07/02(土) 12:15:05
邪馬台国は豊国(耶馬溪)だろう。日向の領有権を
邪馬台国と筑後(不弥)が争っていたのかもしれない?
筑後の支援を受けていたのが狗奴国。(今でも筑後は日向とは深い
つながりがある)そこで邪馬台国(豊国)は日向を諦め、
伊都国はじめ玄界灘周辺諸国と統一の動きを始める。
すると今度は、中国出雲族が中津方面から九州北部に進出し始めた。
そこで北九州勢力は海運で力をつけていた宗像族の力を
借り畿内の勢力と同盟締結、出雲族を包囲、西日本統一へと向かう。
筑後の勢力は大和政権とは直接的には関係がないと思う。
だいたいこんな感じ、日子山(英彦山)は卑弥呼が祭祀をしてた山。
耶麻国、耶麻川、耶馬渓、日田(日子)耶麻山系
ほぼ確定。
671 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 03:26:28
↑
こういうタチの悪い奴は、焼却炉より
どっかの噴火口にでもブチ込んでやろうか
672 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 06:56:34
なぜ、そう嫌うだか・・・
反論してから排除しましょう。
673 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 07:32:08
ぱっと見豊国説が一番説得力ある、これ以上に説得力のある候補はあるの?
674 :
サガミハラハラ:2005/07/04(月) 08:03:24
耶馬溪一帯は、その余の旁国の一つの邪馬国です。
675 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 10:21:09
>>672 へずげだ幼稚な説さ、いずいず反論なんがすてらいねでば。
676 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 13:57:57
677 :
サガミハラハラ:2005/07/04(月) 19:01:19
>>676 ははは、けど邪馬国は山国川流域なのは確かですよ。
次に出てくる身弓臣国は山国川を遡って玖珠盆地にありました。
玖珠盆地から筑後側をくだると原鶴にでます。ここが巴利国です。
間違いない。
678 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 19:07:56
筑紫野に針摺(はりすり)という地名があります、これは
巴利国とは関係ないかな・・
679 :
サガミハラハラ:2005/07/04(月) 19:17:36
同じ地名似た地名は数多くあります。
それで私は、倭人伝のその余の旁国の並び方に法則性があるととらえました。つまり国名はアトランダムに
記されているのではないと。
その結果玖珠のとなりの原鶴が巴利であるとしました。
680 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 20:13:02
『好古都』は博多だろうね。
681 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 20:36:14
豊葦原中津国は中津で確定だと思う。
出雲・畿内から瀬戸内海路で九州目指すとまず中津が見えてくる。
九州を中津という風に呼んでいたと思われ
(葦原は筑紫平野全体を指しているかもしれない。)
出雲の最後の平定地は九州。
682 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 21:37:19
>>681 >出雲・畿内から瀬戸内海路
どんなコース設定だ?
683 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 21:43:29
近江(黄泉)コース
出雲は辺境な地
二十年ほどまえに テレ朝の川口浩探検隊により初めて、そのベールが明らかになった場所
現在、藤岡弘探検隊が再度アタックを試みてるとのこと
近日中に新な情報を入手する予定
685 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 21:52:24
>>677 >間違いない。
と、思っているのはお前だけ。
686 :
太:2005/07/04(月) 21:54:20
>>646 記紀の各ひとつの天皇紀に、だいたい何行以下での記述になると架空であることになるのか?www
687 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 01:08:58
688 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 04:51:57
>>681 ヴァカに学問的解答をしてあげるとね、
ナカツクニのツは助辞、現代語の「ノ」
中津の津は文字通り港湾の意
よって無関係
689 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 05:23:18
>>688 おまえこそ、代替地をあげてからいえ。
つまらん、奴だな・・
690 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 06:08:08
叩かれるの前提で書く
天照大神は騎馬民族的な太陽信仰の現れ(出雲=神道)。
倭(九州)は山・磐信仰の強い地域(倭(山人)大王魂)。
出雲は黄泉(近江=近畿)平定後、葦原中津国(九州全土の総称)の
”豊”葦原中津国(豊国)耶麻国の西にある天高原(邪馬台国)にて
太陽信仰(出雲勢力=神道)をもってこの国(筑紫)を治めようとする。
当初は上手く行ったが、また直ぐに国が乱れ始める、そこで
出雲は新羅から導入した騎馬でもって二度侵攻した後平定。
倭大王の魂
691 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 06:14:33
そうすると、邪馬台国(天高原)は
どうも筑豊の盆地である可能性。
692 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 06:23:40
筑豊(天高原)は昔から山信仰の強い倭勢力(筑紫)と出雲(豊国、太陽信仰、神道)
勢力の対立の最前線であった。邪馬台国は田川の付近、狗奴国は
筑紫の支援を受けた飯塚より南の勢力
693 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 06:31:06
一度目の戦いに破れた出雲勢力は宗像族の力を借り新羅に逃れる(援軍?)。
二度目の侵攻は宗像市ルートより筑紫に侵入
葦原中津国(筑紫の総称)を平定す
694 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 06:42:24
>>691 高天原は高句麗だよ。
スサノオが高天原(高句麗)を追われて、新羅へ天下って、次に出雲に来る。
順番としてそうなる。
日本を追われて新羅に渡り、又、日本に来ると言うよりずっと理解し易い。
日本書紀では高句麗の使いを神の子の使いと言っているからな。
695 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 06:54:34
>>694 日本統一の経過について考え方と聞かせて。
696 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 07:01:04
神道勢力(出雲)が新羅信仰が強いのは新羅の騎馬技術で
倭を平定したことに尽きるように思う・・
697 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 07:58:22
【降臨】というのは【渡来】という意味だ。
ニギハヤヒの降臨もニニギの降臨も全て外国から来た事を表している。
明治の学者、内藤湖南によれば「ふる」というのは「沸流」の事で百済の始祖「温祚」の兄である。
半島では扶余の東明(鄒牟・朱蒙・都慕)から分かれて百済では「温祚」、新羅では「赫居世」となる。
赫居世(弗矩内)の「弗」は「ふる」と読む。
日本でも「布留御霊(=饒速日)」のように「ふる」となるし、天照の別名「オオヒルメムチ」の「ヒル」
は「ふる」に相当する。
また彼によれば近畿地方の神社は全て外国の神様を祀っているんだそうな。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/2251_4351.html
698 :
サガミハラハラ:2005/07/05(火) 10:29:28
武烈天皇の武烈というなは8C後半に淡海三船が考案したといわれており、宋書(4C後半)の武とは関係ないです。
尚倭王武は雄略天皇です。
699 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 10:40:20
邪馬台国は古代史ファンの心の中に永遠に存在し続けます
701 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 13:21:47
>694
高句麗、高天原
確かに「高」の字が両方にあるよな。
共通点は「高」の字だけな。こういうこじつけで
比定地を求める日本古代史は単なる言葉遊びになってるな
703 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 14:06:08
江上波夫は鴨緑江の辺(高句麗のあった所)で前方後円型の積石塚を見ている。
紀元前後の頃の物だ。
これにそっくりなものが阿波とか讃岐にある。
畿内にある前方後円墳は阿波がルーツである事は今は定説になりつつある。
阿波の石が畿内の前方後円墳に使われているから。
「高」の字だけではない事はこれで解るだろう。
また言語的にも朝鮮語より高句麗語の方が日本語に近い事が解っている。
高句麗語はよくわかっていないのだが、三国史記の高句麗本記に残された地名などから
高句麗語が発掘されていて、日本語とかなり強い近似がある。
発掘された数詞の四つとも日本語の数詞と一致している事は有名だ。
三 みっつ 密
七 ななつ 難隠
など
兎 うさぎ 烏斯含
谷 たに 呑、旦 tan
など
704 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 14:16:51
705 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 14:20:57
やばいぞ、やばいぞ、マジで日本本土人の出目がばれつつある。
出雲人(高句麗系)の末裔だ・・
706 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 14:38:59
>>704 倭奴国王は呉越の末裔を名乗ってるからスサノオではないだろう。
出雲の勢力とはおそらく違う、奴の勢力は瀬戸内を渡り近畿に入った
勢力だろう。
707 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 15:03:08
>倭奴国王は呉越の末裔を名乗ってるからスサノオではないだろう。
だから畿内王権と九州の倭奴国王は関係ないのだ。
708 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 15:12:29
日本書紀史観とでも言うか日本の学者も曇った目でしか日本史を見れないでいるね。
709 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 15:26:23
おそらく筑紫の勢力少なくとも筑後の勢力の東進はないと思う。
この地域には一つの村に三つの国があったという言い伝えがあるほど
バラバラだったらしい。
奴国以降纏まった勢力は殆ど無かったのでは
710 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 16:28:25
>>705 そんなちっさい事でブルブル震えてないで、日本人のルーツを
もっと勉強しろよ。
711 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 16:56:03
辰韓(新羅ってのは秦の避難民らが開拓していった土地であり
先住の倭人らに吸収されちゃった可能性大。
血は薄れてしまうが文化的享受はちゃっかり行ったと
対馬から王を迎え入れたくらいだからその裏付けとも言える。
でそいつ等が出雲人の起源なら、これまた先住者の倭人と融合。
712 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 16:58:08
713 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 17:01:26
僕は日本神話が創作と史実に基づき作られたものとするなら
日本各地に伝わる「徐福伝説」が盛り込まれなかったとは思えません。
そして彼が本当に日本に来たのなら先住の民族と平和的な形で
合流し日本民族の形成に大いに貢献したことでしょう。
714 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 17:08:44
>>711 おそらく彼らを倭人とはいわないでしょう、韓と示す通り既に韓人という
民族区別がなされています。更にその向かい入れた倭人は
北陸人だという説が有力です。
南朝鮮人の韓人を倭人とは言いません。
715 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 17:09:29
鮮人と倭人は従兄弟で新羅人と出雲人と倭人は兄弟くらいのもんだろう
別種といっても素は同じだ。
716 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 17:14:44
>>715 少なくとも起源前には倭人、韓人の区別はなされていたと思われます。
その後韓人には倭人には無い民族が混じり、言語も変わりますので
全く異なる民族となります。
717 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 17:17:57
だから従兄弟だと言ってんのよ、で半島南部で倭と思しき存在は認めるの?
718 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 17:19:06
おれ工作員は嫌いだから。バイバイ
719 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 17:28:38
>>717 ハッキリとは分からない、半島にも縄文人はいたしその後裔と思われる人も
いたでしょう。(北朝鮮の扶余も縄文人の後裔である可能性がある)
しかし、海を越え向こうの人を同じ民族とみなすのは感覚的に
無理がある。言葉も方言以上の開きがあったと思われる。
720 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 17:35:59
言語は5000年以前、縄文時代に分かれた。(By安本)
721 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 17:36:34
>>719 >海を越え向こうの人を同じ民族とみなすのは感覚的に 無理がある。
同感だけど
出雲と新羅って同族なんでしょ?
自身の発言と矛盾しないか?
722 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 17:51:34
>>721 出雲人も本来土着民でもあるが新羅・高句麗の騎馬系と密接な繋がりがあり
そのおかげで国力がつき、北陸、畿内、北九州を平定できたのだから
新羅を神と崇めるのは自然だと思う。
723 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 17:59:03
遺伝的血統的な繋がりよりも文化的繋がりが強かったてわけね。
それなら納得しないでもないが、最近ことさらに高句麗人=出雲人
を強調する香具師がいるもんでね。
724 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 18:10:45
その後熊蘇、東国、蝦夷経営に騎馬が重宝されるからね、
そこで又、軍神(句麗神、新羅神)の重要性が増したと思うよ。
725 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 18:43:33
>そこで又、軍神(句麗神、新羅神)の重要性が増したと思うよ。
それが韓神ど園神になったのかな?
どっちみち、日本の文明が弥生時代に花開いたとして、
中国の文明に遅れること、うん百年?うん千年?、
朝鮮人に限らず、大陸から海を渡ってやってきた移住者らによって
先住民の縄文人を追いやり、日本の文明が築かれてきたことは確実なんだから。
朝鮮半島の人間・文化も元をたどれば、
モンゴルやシベリア、中国から移ってきた移住者達によって築かれただろうな。
ずばり朝鮮人こそが日本文明のルーツだと得意げに言いたそうな人をよくみかけるが、
結局は、人間の流れが大陸から東アジアの中央部周辺?から、
長い年月をかけて東に向かって朝鮮半島を通って日本まで伸びる
人の移動の歴史のラインが見えてくるんだから、
我こそがルーツだと言わんばかりの意見はナンセンスってこと
727 :
太:2005/07/05(火) 19:20:35
728 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 19:26:24
>>726 そんなのは無視しろ、それより日本の歴史家が代々国民を
欺いていることに憤りを感じる。
729 :
太国玉:2005/07/05(火) 19:32:05
>>726 どういうわけで確実なのかい?ベクトルは逆向きもあ〜る。
さらにだ。マヤ(真矢)はヤマト(矢的)を射るのだ。
730 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 20:05:28
>そんなのは無視しろ、それより日本の歴史家が代々国民を
>欺いていることに憤りを感じる。
欺くつもりはないだろう。
ただ希望的観測でしか歴史を見れないなさけない歴史家が多い事は確かだな。
こういう連中は裁判では冤罪を作り、科学では進化論を否定するのだ。
731 :
名無し:2005/07/10(日) 17:09:47
西尾がなかたとか言ってるが
732 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 12:39:13
これから邪馬台国論争に終止符をうちます。
邪馬台国=大和
おわり
733 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 14:11:42
これにて終止符はうたれますた。
734 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 16:06:56
まったくです。
735 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 16:12:22
考古学も文献学も全て無視してヤマトに決定w
736 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 19:15:39
大胆なご意見ありがとうございます。
737 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 19:33:46
皇国史観で大和に決定w
738 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 20:44:22
ウソも100回いえば本当になるって、どえらいS学会の会長さんの
教えらしいが、その教えが日本人全体によく浸透してるようだな
嘘でも九州論か、旧習を急襲せよ
740 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 04:00:26
ウヨの畿内説で皇国史観と帝国主義の復活。
なんで学問に思想が入ってくるの?
>>740 アフォ!
皇国史観によれば九州説しか有り得ないだろうが。
ウヨは畿内説。大日本帝国万歳!街宣車で暴れまくるぞ!
>>743 じゃ、皇国史観だと何で畿内説になるのか説明してごらんw
脳みそ融けちゃってるから、ムリかなあ〜〜www
>>744 無理だよ
今、皇国史観論者は靖国参拝で頭の中がいっぱいだから
思考停止が共通項だね、畿内説と皇国史観。
>>745-746 >743-744のレスをよく読め。
思考が停止しちゃってるのはオマエ等だろう。
>>748 私「淋しいの」って・・・・
そ、そんな・・・こんなところでコクられても、♂か♀かもわからんアンタに返事はでけんぞ。
ちなみに、当方はノンケの♂だ。
>>749勘違いかと
別に
>>748はコクってるわけではないでしょう。
「淋しいの」に?マーク付けると
「淋しいの?」に、なる
要するに
>>748は、
>>747に「淋しいの?」って聞いてるのではないか
え?淋しい病気っていうと・・・・・
あ〜ぁ
ティンティンがいたぁ〜いティンティンが
ティンティンが
ティンティンが痛〜ぃ
邪馬台国は福岡県でした。終わり。
754 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/23(土) 20:31:09
邪馬台国小城説宣伝強化期間
もうじき邪馬台国に到達してから、14年目の夏がこようとしています。
ところが、このことはあまり知られていません。
これも宣伝がたりないからだと考え、これから到達日の8月12日まで宣伝をつづけます
末ロ国(唐津市)から記述どおりに東南に五百里(33.7km)進み、伊都国(多久市南多久延寿寺)に到着、
そこから東へ百里(6.75km)で不彌国(小城市不二町)に到着、邪馬台国はその南にせっしてありました。
卑弥呼の墓は、小城公園内の桜ヶ岡です。
755 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 23:54:19
>>746 おいおい!畿内説は、サヨクだろ!
古事記・日本書紀では邪馬台国は東遷してるけど、記紀は、
「天皇賛美で後世の捏造・脚色」というのが、畿内説の踏絵だろ。
天皇制批判が強く、そのため「欠史八代」も踏絵にしてるし。
考古学的には、邪馬台国時代の出土物は、北九州を奈良では、
10倍以上の格差があるのに、未だに畿内説か?
今、畿内説は、4〜5世紀の出土物を3世紀後半とこじつけるのが
流行ってるけど、まさか本気でそれを信じているのか!
756 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 23:59:34
神武東進とか明らかに征服王朝として粘着してる奴が多い。
これら基本的に左翼。天孫系が先住民族っていう奴も
もちろん左翼。先住民族は国津神、
天津神は征服者。
757 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 21:17:59
>>756 なんで「天孫系が先住民族」だと左翼なの?
758 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 22:08:50
「サヨ」でも「ウヨ」でもいいけど
学問板に思想は持ち込まないように、頼みます。
759 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 22:16:15
760 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 08:54:13
では終止符をうちます
邪馬台国=大和国
761 :
太:2005/07/29(金) 09:34:41
>>760 単純だな。京都が東京都か。宮崎県が宮城県か。愛知県が愛媛県か。福井県が福島県か〜。
よくよく考えな。
762 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 09:49:11
九州が邪馬台国ならわざわざ伊都国に
外交権を預ける必要性がないわけです。
自国が担当すればよい
763 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 09:54:20
一番自然なのは邪馬台国はヒムカ、トヨ、イヨ国で
畿内政権の傀儡というのが正しい。
764 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 10:09:46
邪馬台国女王卑弥呼の名で魏に朝貢してるしそれはないw
765 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 10:14:44
当時魏と通交あったのは倭国(九州)のみなので
766 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 10:18:57
魏の鏡が近畿から大量に出土しれるわけでw
767 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 10:30:19
それに反論はできるが、話が複雑になるのでやめとく。
狗奴国について考えれば畿内が否定される。
768 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 10:38:14
邪馬台国が畿内と深い関係にあったことは間違いないと思う
そこが後世誤解を招く種となっている。
769 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 10:40:19
狗奴国がまずどこか特定されないかぎり
話が進まないわけでw
仮に熊襲だとしても畿内〜北九州にいたる
邪馬台国連合と熊襲との争いとみてもいいわけで。
実際後の時代に大和朝廷が熊襲征伐に出向いてるしね。
770 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 10:44:29
やるなーw
771 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 10:51:53
他スレでも書き込みましたが
倭国大乱が九州限定ではないわけで。
つまり倭国大乱から卑弥呼共立により
西日本連合体制が構築されたわけで
つまり西日本連合の中心部が邪馬台国なわけで
その中心部がどこかという問いに対しては
やはり畿内なわけで。九州の統治のために
一大率を伊都国に派遣してるわけであります。
772 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 10:56:03
中心地が畿内であることは否定しない、
しかし卑弥呼のゆかりの地は
ヒムカ、トヨ、イヨ。宇佐神宮、中津
773 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 11:03:27
なぜそこらへんが卑弥呼に縁のある地?
大和朝廷内でも巫女による太陽信仰があったし
ヤマトトトヒモモソヒメもそれ系統の人だったらしいし
卑弥呼は普通に大和朝廷の巫女でいいんじゃない?
宇佐神宮に祭られてる人など全く関係ないと思うw
774 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 11:08:18
記紀で九州がクローズアップされたり
和気清麻呂が宇佐神宮に神託を聞きにいったりしたのは
応神にゆかりのあるところだからだよ。
応神はたしかに九州の人だと思う。
崇神大和朝廷を倒して皇位を簒奪した大王。
記紀が書かれた大和朝廷は応神の流れを汲んでるから
九州がクローズアップされてるんだよ。
継体天皇も応神5世を名乗ってるしね。
実際は血のつながりはなかったっぽいけどw
でもそう名乗ってるんだし大和朝廷の始祖は実質応神なんだよ。
卑弥呼や崇神の王朝は前代の王朝として認知されてる。
775 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 11:13:38
280年代に朝鮮に出兵してますし、
九州邪馬台国が出兵したとすると
自国の兵力を他国に向けることになり
自国の防衛力が低下。畿内勢力に
つけいる隙を与えるだけです。
また畿内政権が出兵したとしても
九州近辺は邪馬台国の勢力下なので
これも考えにくい。つまり邪馬台国は畿内ですw
776 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 11:21:28
高天原の場所がどこかから考えよう。
777 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 11:23:28
磐井の乱
778 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 11:23:54
伊都国が糸島で邪馬台国が豊前だとすると
伊都国へいかずにそのまま南下したほうが早いわけです。
つまり伊都国へいくのは無駄足。
実際は伊都国から海上ルートで瀬戸内から
畿内邪馬台国へ進んでいたのでしょう。ですから
伊都国は重要だった。
779 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 11:31:33
八幡区、トキワ
780 :
太:2005/07/29(金) 11:31:49
どう考えても16歳氏は16歳に思えんなぁ?
781 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 11:37:08
1989年6月29日生まれの16歳ですが・・
こないだまで15歳でした・・
歴史や神話が大好きな一風変わった16歳なので
たしかに周りには溶け込めずひきってますw
それはさておき、隋の書物にも
遣隋使はかつて卑弥呼が使者を送った国の人
みたいなことが書いてあったはずですよ。
782 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 11:53:14
783 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 11:58:47
騎馬民族が日本に攻め入って征服したとは考えにくいですね。
理由として、元寇のときを思い出せばわかるように
馬はデリケートな生き物なので海上輸送が難しいこと。
また日本に大量の馬を養えるだけの草地もないこと。
まだ古代では街道の整備もなっていなかったでしょうし
馬による移動は困難であったであろうことなどがあげられます。
あとそもそも騎馬民族のような騎兵意識というのは
義経の時代になって始めて馬を機動力として
戦争で使うという概念が生じたものであり、
それまでは単なる移動のための乗り物でしかなかったのです。
ましてや古代に騎馬民族が日本を征服したなど
想像できないですね。
784 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 12:00:55
そうです、大衆、馬鹿受け狙いかしらんが幼稚な説を
流布する馬鹿学者には反吐がでる。
785 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 12:04:20
16歳の僕でもわかることですし
偉い学者様で騎馬民族征服説なんて
言ってる人がいるのですか?
言ってるのはおそらく金儲けのために
珍説を出して本を書いてる2流3流の
素人作家なんじゃないのでしょうか?w
786 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 12:08:31
一般人は馬鹿だからな、テレビの内容みればわかること。
安直な説じゃないと本は売れない、あと皇国史観も重要。
787 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 12:22:44
博多を制圧したことで畿内全国政権の下地ができたのだろう、
しかし西南九州一帯に火だねは残った。
邪馬台国が基本的に畿内の政権であることは間違いない。
ただ、魏の使節が邪馬台国の中心が畿内であると認識していたかどうか疑問。
788 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 12:34:43
魏の使者が実際邪馬台国にきているかは疑問ですね。
伊都国どまりであとは伝聞で聞いたのかもしれません。
そこで念のため中国が攻めてくる可能性も考慮して
わざと適当なこといったのかもしれませんw
789 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 13:23:53
有史以降の日本の権力争いと基本は変わりないのかも
天下り官僚が土着化し朝廷に刃向かう、それを朝廷が
成敗する。この繰り返し。邪馬台国あたりは畿内朝の走り。
それまでは出雲がその朝廷だったように思う。(怖い)
畿内ほどの実権は無かったみたいだが・・
790 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 14:07:12
791 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 15:47:51
■ハングル板基本用語解説■其の14
(理由2) <<白丁(ペクチョン)>> 日韓併合されるまで朝鮮に存在していた被差別階級。在日=白丁とされる韓国では
現在でも在日は差別される。実際は全ての在日が白丁な訳ではないがその多くは朝鮮社会での被差別階級だった。朝鮮の身
分階級は大別して「良人(両班、中人等)」「賤人=奴隷」とあり、「賤人」のうち個人所有=民婢、公有=官婢と称した。
国家的奴隷制、贈り物・相続・売買され、殺生しても罪に問われなかった(←部落との違い)「白丁」は、これの更に下層
に奴隷以下の被差別民として位置づけられた。李朝時代に身分として固定され、柳細工の製造販売や屠畜などに従事、衣服
も指定され、居住地も制限され、目印として平壌笠と呼ばれる笠をかぶらねばならなかった。(コピペ)
(理由3) <<済州島出身者>> 白丁よりも済州島が多い。ソウル>地方>全羅道>白丁>済州島 済州島に対する差別
は酷く、完全な野蛮人扱い。済州島出身者との結婚となると、在日の間でさえ「血が汚れる」と一族が猛反対。
1948年、南朝鮮の単独選挙に反対する南朝鮮労働党が組織した済州島四・三蜂起が発生し、朝鮮戦争後の1950年代
半ばまで、弾圧とテロ、山岳ゲリラ活動が続き、のべ8万人の島民が殺されたとされている。今日でも、済州島は反中央の
気風と結びつけて語られることが多く、半島には済州島出身者への差別意識が残っていると論じられることも多い。
済州島は、民族的に陸(半島)と著しく異なり、倭人に近い。昔は独立国だったが、いつの頃か朝鮮に侵略されて現在に至
る。ただ、完全な支配となると意外と新しく、三別抄の乱後、元寇以後になるんじゃないかな。日本では、神功皇后が済州
島を征伐し、その時百済に与えたと伝えられてる。 (コピペ)
――戦後の補償と謝罪―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
戦後の補償と謝罪に関するデータ
http://tenpura_c.tripod.co.jp/ 360 :日本@名無史さん :2005/07/29(金) 15:41:29
早い話満州人が倭人(縄文)をB扱いして差別・排除してきただけだね。
半島も日本も構造は同じじゃん。
792 :
太:2005/07/29(金) 22:32:04
>>781 う〜ん。元年生まれかねえ。感心しちゃう。
邪馬台国というのは、そんなのは無いんだよ。あったのは、九州の邪馬壹國だ。
793 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 23:42:27
>>792 邪馬台国か邪馬壹國かという論争があったが、どちらも二重母音を含むと
いう点では間違いではないか?肝心の国名にまだ決着がついていないようだ。
794 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 01:59:02
795 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/30(土) 09:02:04
>>792 それはもしや古田何とかという人の
「邪馬台国はなかった」という本を
読んだのではありませんか?w
僕も読みましたが例え邪馬台国ではなく
邪馬壱国だとしても畿内にあったと思います。
796 :
太:2005/07/30(土) 19:45:43
それは、あなたの願望だよ。邪馬壹國は九州だ。
797 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/30(土) 19:58:13
イヨちゃんとHしたい
798 :
太:2005/07/30(土) 20:08:33
君はそんな言い草聴いていると、16歳じゃぁないんじゃあないの?
799 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 20:22:27
>>794 yamatai?の tai、 yama-iti?のa-i 万葉時代の日本語には
こういう二重母音は無かったとされている。
そのため邪馬台はヤマトと読まれているが、邪馬壹では何と読むのか
分からない。(ヤメチ?ヤメ?)
800 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/30(土) 20:38:51
邪馬台国(yamatai)にしろ邪馬壱国(yamaiti)にしろ、この国名は、他の倭の諸国とくらべると異常なのです。
つまりこの国名は邪馬と台がくっついている、邪馬と壱がくっついている国名となっているようです。
とするとまず邪馬壱国から説明すると、これは邪馬の壱国のことであるとみられます。
つまり、もともと壱(イ)の国であったのが、斯馬の地域に壱国ができたことから、区別するために、邪馬をつけて邪馬の壱国としたのです。
中国語では助詞がないので邪馬壱国と表記されます。
邪馬台国はその壱国が魏から金印をもらい、偉大な国であるとして、大いなる壱の国であるとして、
大壱国、邪馬の大壱国で中国語で邪馬台国と表現したのです。
吉野ヶ里に都し、後に小城に遷都しました。
邪馬台国小城説宣伝強化期間
邪馬台国は佐賀県小城市甘木地区です。卑弥呼の墓は小城公園内桜ヶ岡です。
801 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 21:10:11
はじめまして。
2chはすごいすね。ここが日本史の最前線ぽいですね。
勉強させてもらいます〜
802 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 21:23:00
>>800 邪馬台国の台は楼観または卑弥呼の宮殿を表現したものではないかという
気がします。
壱はイという地名は日本語としては思い当りがなく不自然だと感じます。
中国にもそんな地名や国名は無いのでは?
>>796太氏
「16歳中卒ヒッキー」君にも、どうやら偽者が現れたようですね。
思い過ごしでしょうか?
804 :
太:2005/07/30(土) 21:29:07
しょうがない。w 邪馬台国など無かったんだから、解釈する意味がない。
数歩譲って、強いて『壹』と『臺』を対応させた国名といえるならば、
台地じゃあない、一直線上の平地に国があったか卑弥呼の墓があったか
ということになるか?ww
805 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/30(土) 21:31:39
トリップつけます。
ちなみに僕は再三申し上げてるとおり
16歳です。こういうとこにいるので
じじくさく感じるかもしれませんけど。
まあどうでもいいことですね。
大検とって大学いって将来は世界史か日本史の
高校教師にでもなろうかと考えています。
あわよくばもっといい職に・・w
806 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/30(土) 22:08:38
>>802 以前にもレスしたのですが
「臺」は隷属の意味があり、「台」は、宰相や三公の意味があり普段余り使用されないみたいです。
「臺」は「台」の旧字とされていますが
本来の意味は全く正反対の意味のようです。
807 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 22:16:36
邪馬台国の所在地論争がなぜ決着がつかないか?
まず九州説の学者であれ、畿内説の学者であれ、中国の魏志倭人伝
隋書、旧唐書、宋書などの中国の古史の原文のうち、自説に都合の
いい部分だけを拾い出して論理を組み立てていること、また解釈を
自説に都合のいいように捻じ曲げていること
それらの捻じ曲げられた書物などを元にいくら議論しても真実は
わからない 原文の写真版くらいを見て判断するようにしないと
捏造学者の捏造、曲解理論をいくら読んでも頭が混乱するだけ
歴史学者の捏造ぶりは日本、韓国、中国ともすさまじいものがある
日本の邪馬台国関係の本は捏造学者の捏造の受け売り、拡大解釈
妄想解釈がほとんどで、原文に当たっている本は皆無、原文に
当たっているかのごとく書いている本もあるが、都合の悪いところは
カットして紹介している高名な学者の本も多い
実に嘆かわしい現状である
808 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 22:21:02
NHKの韓国の人ののど自慢みましたか?
なんだか心打たれました
809 :
801:2005/07/30(土) 22:40:18
>>803 (;゜д゜)俺でしょうか?
出方悪かったですか・・・?ロム専に徹しますorz
>>188 198 341
とても新鮮で大いに参考になりました!Thxでつ!
810 :
太:2005/07/30(土) 22:43:39
余も二回の名を語られて困ったことがある。止律符まではやらんがね。
>>806 『臺』に三公(→3公)の意味があるなら、分かりがいい。
魏志倭人伝の『邪馬国』は[邪馬 国]の示唆であり、陳寿さんの謎かけか?w
すなわち空白を入れ、[邪馬 国]とは[邪馬0国]の秘密を隠したとすれば、
『邪馬壹國』は当然[邪馬一国]すなわち[邪馬1国]であり、
『邪馬臺國』とは三公からして[邪馬3国]という事が考えられる。wすると
四国 0
九州 1
大和 3 となって 2となっていないのが難点だな。(〜深考)
台(タイ)はタイ記録などで対馬のように2の対等ペアーを意味する。しかも
ム(無)もロ(空白字マーク)6が(または無の意味合い)が2つ連なって
いるところをみると台(臺)に2の意味を含有秘匿すると思えるがね?w これで
四国 0
九州 1
大和 2
平ら 一はマット(馬臺)運動、邪馬臺は跳馬、跳び箱か・・・?w
地形の秘密を陳寿は隠したのかな・・・?www
811 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/30(土) 22:48:23
たとえばこういう可能性もあるわけです。
魏の使者に邪馬台国の正確な位置を把握されないように
わざと適当なルートで邪馬台国へ案内したとか
もしくは邪馬台国まではいかず伊都で適当なこといったか。
正確な位置を把握されると万が一攻め込まれたとき
大変ですからね。卑弥呼は魏に朝貢して狗奴国との戦いを
有利にするという外交センスももってますしそれくらいのことは
考えていたようなきがしないでもないです。
なので倭人伝という中国からの記述を鵜呑みにして
ああだこうだというのもどうかと。
812 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 22:52:11
中国に煙台とか狼夜台とかいう地名があったが邪馬台国と関係ないか?
813 :
太:2005/07/30(土) 22:55:09
五台山か・・・?
814 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/30(土) 22:59:46
東征して畿内を制圧できるほどの力があるとは思えない・・
815 :
太:2005/07/30(土) 23:03:33
六小齢童主演 西遊記 「遇仙孔雀台」
816 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/30(土) 23:06:12
817 :
太:2005/07/30(土) 23:09:25
>>816 再説 感謝
従属だからNo.1にはなり難い。すなわちNo.2
818 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/30(土) 23:11:36
武田信玄を思い出してください。
甲斐の騎馬軍団は農民です。
ですから稲作の収穫期には活動できません。
そして甲斐から京までは遠すぎたし
兵力も3万程度でしたので結局天下はとれませんでした。
邪馬台国にもこれが当てはまる気がします。
九州から畿内までの距離の壁。当時は稲作中心の生活でしたろうし
短期間で大規模な兵力を遠方に送るのは相当困難で
あったと思います。また海上での大量な兵糧輸送の難しさ、
これもその当時可能だったかどうか・・畿内を制圧するくらいだから
相当な兵力がなければ無理でしょうしそれを食わせるだけの
輸送は困難を極めたと思います。陸路で東征したとしても
街道の整備もまだちゃんとできていないしジャングルの中
大軍の長距離移動・物資の輸送など考えにくいです
819 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/30(土) 23:12:18
>>811 では、邪馬壹國の論争から撤退すれば!
鵜呑みにしてはいけない倭人伝に「邪馬壹國」が、顔を出すのだよ
820 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/30(土) 23:19:14
つまり倭国大乱のときのように数百人規模の
小競り合いを何十年も西日本全域で展開する程度なら
できたと思いますが、天下分け目の万単位での九州。畿内決戦など
当時の状況では無理だったのではないかと思うわけです。
821 :
太:2005/07/30(土) 23:21:50
『臺』の字には「士」と「土」そして「ム」と「ロ」がある。
「ロ」と「土」とで『吐』の字になるな。似たのが2個ずつだ。
2を逆さにした字に『乙』がある。甲乙の乙で2番目を意味するな。
乙はローマ字の『Z』(舌吐)に似るよ。
822 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/30(土) 23:26:02
邪馬台国の台の字の話などあまり・・
後世の模写で違うものになったかもしれないし
そこはつっこむところじゃないでしょう。
823 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/30(土) 23:34:53
偉い学者様も邪馬台国は大和だと
言ってる方が圧倒的に多いようですし
やはり大和では?歴史で飯を食べてる
プロフェッショナルがそういってますし
素人が九州だといっても説得力に欠けます。
824 :
太:2005/07/30(土) 23:45:48
これで『台』に2の意味がありそうだということが理解できたか〜。
今宵はこれで最後。
さてオリンピック等、競技会の1位〜3位まではこの『台』に『登』る。
1位の『壹』と『臺』(台)を考察すれば、女王国の秘密がうっすらと見えてくるか・・・?
大和が2位と考察したのは既述のとおり。
ということは1位が二つあったということなんだよ。そうすると競技では2位がなくなり
1位が二人で3位が一人だが、古代史の秘密では3をいったん考慮せず、今は除外して、
いったん外に置いて大局を観るようであるよ。
1が二つあったんだよ。フフフフ・・・・・。
3無で □ の空白。 3位の繰上げ2位が大和→邪馬臺 さらに邪馬壹が1位。
もう一つの1位は何か・・・?それこそ古代史の真の秘密なんだよ。w
知っているのは余だけさ・・・。寝る。Zzzzzzz・・・・・・・
825 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 00:28:13
>>818 応神天皇は海路で敦賀から上陸してますよね。ヤマトタケルの
東北遠征も日立から仙台まで船ですし。古代の軍事行動に船は
けっこう出てきますよ。
ソースhtm無い(福井県史からです)。流してもらていいです。
826 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/31(日) 09:50:12
>>823 そのレスの内容は………?
競馬の予想屋は、どんな結末になっているかな
調教・パドック・その他諸々のレース前解説は、流石プロの予想屋ならではの緻密な解説を流暢に語ってくれる
しかし、レースが終わると……
あー悲し
素人が高額馬券取り扱い窓口で札束と交換しているよ
827 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/31(日) 09:55:03
競馬と学問は違うでしょうw
競馬の予想屋なんて井崎さん?みたいな
ちゃらんぽらんな人とかもいますし
馬の本番での体調のことなど正確に把握できないし
レースの流れも本番でどうとでも変わってしまいます。
その例えは間違いですね。
828 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/31(日) 10:53:08
>>827 ま、競馬と学問を一緒のテーブルに乗せての内容が相応しい事でないなら
この辺で この話は解散します。
貴方が言われるプロの諸先生方が、畿内説でほぼ統一れているのに
素人である貴方が、何故この掲示板に投稿されるのでしょうか?
貴方だって、プロの先生方と同じ畿内説をとられていても、何処かパットしない疑問点があるからではないでしょうか
「プロの先生方がこう言っているので、これで終結」それは、無いでしょう。
それこそ閉鎖的な学問ですよ
829 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 10:58:09
邪馬台国とは山の上で土人が太鼓を打ち鳴らしていたのを見た魏の使いが
あれは何だと倭人に聞いたところ、山太鼓だと返事をしたのを国名と勘違い
して記録に残したという・・・歴史のIF話でした。
830 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/31(日) 11:10:50
プロの先生方の書かれている著書や、学会等での発言レポート
これは全てプロである以上公の出来事です。
でも、彼等の研究は発表されたものが全てでは無いはずですよ!
彼らは「プロ」ですよ
生活がかかっているし、養わなければならない家族が有るんです。
失業すれば明日から路頭に迷うんです。
解りますか「16歳ヒッキー君」
831 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 11:12:55
832 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/31(日) 11:13:03
プロですが国立大学教授という地位と権威で
たとえ首になってもどうとでもなるようなきが・・w
コネで研究所とか3流私大の講師に再就職など簡単にできるでしょう。
>>832 確かに、再就職先はあるでしょうね
しかし、毎日都内の何処かで電車が遅れているのも事実です。
834 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/31(日) 11:24:45
飛び込む自殺ですか?w
まだ若輩の僕にはよくわかりませんが
やはり歴史で飯を食うのは難しいんですかね?
できれば博物館の研究員とかになりたいと
思ってますが難しそうですね・・
835 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/31(日) 11:35:40
>>834 多くの職種の人達は、大なり小なり
自分の職業、生活、生き方に「プライド」を持って行動しているんだよ。
ましてや、一度その頂点付近に椅子を置いたことのある人は…
やめよう。
これ以上続けると、スレ違いも甚だしくなるので
「16歳ヒッキー君」
絡んで申し訳ない。
スレに、戻ろう
836 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/31(日) 17:12:08
それから、書き忘れましたが、邪馬台国の台という字は、単なる当て字で字義はまったく関係ありません。
邪馬台国小城説宣伝強化期間
邪馬台国は佐賀県小城市甘木地区です。卑弥呼に墓は小城公園内の桜ヶ岡です。
837 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 22:58:29
↑
と、思っているのはお前だけ(w
838 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/01(月) 08:01:12
かように知らない人がおおいので、一生懸命宣伝しているわけです。
1度小城を訪ねて見てください.
町の北の須賀神社から町をみおろすと、町のなかに巨大なヒミコの墓がみえるのは圧巻です。
尚、小城市の小城分庁舎では、邪馬台国小城説を紹介している拙著「倭国歴訪」を無料で提供しています。
分庁舎が休みの日は不可です。
839 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/01(月) 10:31:52
九州邪馬台国が東遷後
鏡を量産して古墳に埋めたなんて言わないでくださいよw
840 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/01(月) 13:03:46
相模原?神奈川?
結局どこなのよ
842 :
日本@名無史さん:2005/08/04(木) 04:58:17
俺も小城な気がしてきた。
843 :
日本@名無史さん:2005/08/04(木) 20:42:26
845 :
私は:2005/08/04(木) 21:15:25
鵜野森1丁目なんですけど、どこで売ってますか?
ただの自然地形をヒミコの墓とする基地外が独りいるなw
847 :
日本@名無史さん:2005/08/04(木) 22:04:16
まあ、富士山が自然地形であることを証明するのも結構難しいな。
ダイダラボッチがつくったかもしれないしw
不二山ピラミッド説ってやつ?
いや、あれ近代までの数回の噴火でああなったのは証明されてるんじゃあ・・・・
その前に<3世紀の>墓とする根拠がない。
相模原に何言っても無駄だがw
851 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/05(金) 08:06:18
拙著「倭国歴訪」の入手方法ですが、すでに絶版になっており、おそらくどこの本屋さんにもないと思います。
売れ残った大部分を小城市に寄付をいたしまして、市では希望者に無料でくばっているそうですので、近くにお立ちよりの際は、
小城分庁舎できいてみてください。この件については、業務にさしつかえますので絶対に問いあわせや、市への注文はしないで
くださいとのことです。
尚、拙宅にも数十冊ストックがありますので、注文なさる方は、こちらに
おねがいいたします。
既にこの本は無料で配布しておりますので、送料として切手310円を同封の上、下記までご郵送ください。
もう既にご購入のかた申し訳ございません。
〒229-1134
神奈川県相模原市下九沢1668-19
後藤幸彦
852 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/05(金) 08:12:40
卑弥呼の墓である桜ヶ岡は、拙書にもかいておりますが、自然地形をフンキュウのように形を整えたものです。
地山を利用することは珍しいことではなく、大和地方の前方後円墳などもかなりあるらしいです。
かの仁徳天皇陵も地山を利用しているとの説があります。
853 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 12:34:07
例えば測量図などで、どこがどのように墳丘に加工整形されているか論証されないと駄目。ただの印象では不可。
宇佐の亀山が古墳などと言う戯言と同じで、原田大六が「卑弥呼の墓」で批判する素人丸出しの妄想で科学的根拠は全くない。
さらに墳丘であることが論証されても、時代についてはまた別の論証が必要だが、それもない。
また古代の王の墓との証拠もない。
854 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 12:39:02
↑
そんなもん有ったら、もうとっくに飛び付いてるだろう。
855 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 12:47:52
ないんだから証拠がないと言うこと。
大和の前期古墳とただの自然地形を一緒にされてはたまらんワロス
856 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/06(土) 07:09:10
私が桜ヶ岡が卑弥呼の墓であるといっている根拠は、魏志倭人伝の記述により、
あそこが邪馬台国の都であり、そこに記述されたと同じおおきさの丘があるからそのように断定したわけです。
あの岡は平野の中の独立丘であり、いくつかの丘の一つではないのです。
更に、傍証として、昔多くの人骨が発見されて、娑婆岡とよばれていたということが、やはり、倭人伝の奴婢百人をジュン氏させたという事象とあてはまるのです。
人骨が残っていないのが残念です。
?その人骨がぬひ百人という証拠はないだろ。だいたい、伝承で本当に出たかどうかも分からない。
仮にあったとしても、三世紀の遺跡である証拠は全くない。王の墓との証拠は全くない。
いい加減にしろw
858 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/06(土) 11:41:22
結局発掘していないので、倭人伝をもとに話しがすすむわけです。しかし、骨はすっかり溶けているだろうし、
丘自体も、後世さまざまな造築物により変化しているので(頂上部に後世の前方後円墳があり、稲荷神社や、さまざまな記念碑や鐘突き堂や東屋まである。)
なかなか難しいとかんがえます。
859 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 11:44:35
サガミハラハラがんばれ!
夕べのナイトスクープで見た贋作入れ込み親父をふと想い出した・・・・
ああいう人たちって、根拠などまったくないのに偽者を本物と信じて疑わないんだよね。
鑑定団にもよく出てくるけど。
全く理解出来ない精神構造だけど、まあ、見てると楽しい。
四世紀の古墳が残ってるのなら、顕著な後世の地形改変はないということ。
言い訳が見苦しいな相模君ワロス
862 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 17:04:58
自ら何らかの行動や発見もせず、ただ単に批判の連呼、人としてクズだな
>>859-860 相模さんの小城説が正であろうが非であろうが、その研究態度には頭の下がる思いだ。
反対・反論意見は、大いに歓迎だが
いくら2ちゃんねるだからと言っても、ここは(学問板)だ
少し、紳士的態度が必要ではないか!!!
16 :日本@名無史さん :04/11/11 01:01:59
>>12 >中国の史書の厳格さを考えるとやはり
明史日本伝
日本にはもと王があって、その臣下では関白というのが
一番えらかった。当時、関白だったのは山城の守の信長で
あって、ある日、猟に出たところが木の下に寝ている奴が
ある。びっくりして飛び起きたところをつかまえて問いた
だすと、自分は平秀吉といって、薩摩の国の人の下男だと
いう。すばしっこくて口がうまいので、信長に気に入られ
馬飼いになり、木下という名前をつけてもらった。
信長の参謀の阿奇支(あけち)というなが落ち度があっ
たので、信長は秀吉に命じて軍隊をひきいて攻めさせた。
ところが突然、信長は家来の明智に殺された。秀吉はちょ
うど阿奇支を攻め滅ぼしたばかりだったが、変事を聞いて
武将の行長らとともに、勝ったいきおいで軍隊をひきいて
帰り、明智を滅ぼした。
21 :日本@名無史さん :04/11/11 10:25:02
邪馬台国論争って、明史に基づいて「阿奇支」が誰なのか
必死に考えてるようなモンかも知れんな。
>>859は応援してるだけのようですよ? アンカーの付け間違いですよね^^;
>>862 同感です
サガミハラハラさんの説にしろ、他の説にしろ、証拠が無い点についてはまったく同じですもんね。
その中でより論理矛盾が少ない考え方を探していこうとする姿勢がいい。
はじめに全部否定や、全部肯定では宗教になってしまうから…
サガミハラの研究態度に頭が下がるって、どうかしてるよ。
自分の思いつきを盲信し、学史を無視し、考古学の無知を恥じず、人には高度の論証を求めるが自説の矛盾には蓋をする。どうして頭が下がるのか。
倭人伝に自分だけが忠実とうそぶくが、対馬から壱岐は実際は東南なのに「南」だし、投馬国は都合悪いのでルートから外し、不弥国の南に邪馬台国が接するなどという無理な読み方をし(投馬国と水行陸行は何処へ)、
膨大な考古学的物証を無視して伊都国を多久などと言い張り(津に臨んでないのだが)、考古学的証拠を求めると、まだ掘ってないからと。
多久も小城もまだ調査は少ないが、遺跡分布はある程度判明しており、少なくとも、倭国の中心を占めた伊都国や邪馬台国のような強大な国があった可能性はまずないと言える。
だいたいサガミハラも、結局は付け焼き刃の考古学を引用して(地形を利用した古墳もあるとか)無理矢理自説に引き込むなら、都合悪くなるとまだ掘ってないとか邪馬台国は倭人伝の問題だとか言って逃げるなって。
倭人伝だけからは、いずれにしても、不十分、不正確な情報源なので、倭人伝のどこかを修正、解釈しなければならないが、これを結局サガミハラもやっている。
しかし倭人伝のみでは皆それぞれ都合よく解釈修正ができるので(だから論争が終わらない)、そこで考古学が必要となる。
倭人伝にある倭国の中心=邪馬台国や外交の中心の伊都国は考古学的物証で詰めることができるだろう。
結局のところ、まだあまり調べないうちに倭人伝と地図だけで脳内妄想で自説を組み立てこれを盲信し、循環論的に自説のみを根拠にして、他説を排除しているに過ぎない。
何を言われても、矛盾をつかれても、自説を絶対視し懐疑のかけらもない。こんなの学問とはほど遠いが。
とここまで書いて2チャン相手に熱くなってしまった自分がむなしいが。
860ですが、ただ独り言を言っただけですよ。
>>862さんは、サガミハラハラ 氏を贋作入れ込み親父だと思っているわけですね?
なんて失礼な人でしょう。反省なさい。
867 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/06(土) 19:08:58
>>860って近畿説のことですか?
>>861 後世に前方後円墳をつくったときに、ある程度の地形の改変があったと思われます。
>>863 阿奇支は安芸氏で毛利氏のことです。
この明史日本伝についていずれ一文かこうとおもっています。
>>862さん
サガミハラハラ氏が
>いくら2ちゃんねるだからと言っても、ここは(学問板)だ
>少し、紳士的態度が必要ではないか!!!
に該当する不適切な書き込みを
>>867でしています。
咎めてください。
>>867 古墳は丘陵のごく一部。古墳部分のみは古墳築造で地形改変されたが、古墳が残っているということは旧地形がそれほど変化してないということ。
地形が改変され、卑弥呼の墓であることが分からなくなっているなどと言っているが、それは当たらないということ。もしあれば残っているはずだし、掘れば分かるはず(駄目なことがw)
あの丘陵はあくまで自然地形であり、人工物との論証は全く無く、前期古墳部分の以外は全体が遺跡である証拠である証拠はなく、ましてや3世紀の墓がある証拠や王の墓の証拠は皆無だ。地形改変で無くなっているなどの言い訳もなしだ。残念ながら。
だいたい、卑弥呼のような記憶に残る大王の墓の上に百年足らずで(前期前方後円墳がある)別の墓を作るかよ。
>>860は普通にサガミハラハラのことだよなw
サガミハラハラは、自説が誤っているんじゃないかと懐疑、自省することはないんだろうか?
まあないんだろうけどw何言っても無駄というのはまさに
>>860ということ。
なぜ自説が受け入れられないかって、宣伝不足なのではなく(ネットでこれだけ書き荒らしているのでそれはない)、その主張、その結論のみならず過程、論証に全く妥当性が認められないからに過ぎない。
学史や考古学についてあまりに無知で、厚顔無恥。同じ主張を繰り返しても、読む方が恥ずかしく、辟易とする。
宣伝すればするほど辟易とするだけ。まあ、半ば馬鹿にして、面白がって見るやからも2チャンには多いだろうがねw
871 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 20:21:04
卑弥呼の墓と主張する方もこれといった決め手がなく無根拠。
それを断固として否定する側にも、根拠らしい根拠がない。
>>851って小城市役所も本を押し付けられていい迷惑ってことだろ、要するに。いい加減気づけよW
ホント、サガミハラハラの精神って理解できないよな。
873 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/06(土) 20:28:48
>>865 膨大な考古学的物証を無視してとおっしゃるが、といいますが、学問の成果はトラック何台分という問題ではないでしょう。
伊都国の問題にしても、膨大な遺物は発掘されたでしょうが、伊都国だという証拠の遺物はでていないはずですよ。
勝手に伊都国のだれだれとか何々とか妄想しているだけでしょう。
前原伊都国説は、残念ながら、考古学的物証では詰める事はできません。
また文献史学の上からもなりたちません。あと私の研究態度について様様とのべられておりますが、私の本を読んでくだされば
次ごうで研究しているのではないことがわかると思います。
>>871無根拠に対して無根拠であることを指摘しているに過ぎないことに、根拠がないなどと言うのは無意味な指摘。
こういうツッコミは議論を混乱させるだけ。
875 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/06(土) 20:35:41
>>868へどこが該当する不適切な書きこみでしょうか。
ご説明ねがいます。
サガミハラハラの本をいくら読んでも分からん。独善的なことだけはわかりましたが。
んで、結局、考古学からは逃げる訳ね。ソレじゃ誰も支持しないことに気づけよW
前原に中国との直接的結び付きを示す物証が最も多くあるのは事実で、これを無視して多久なんぞに伊都国とは無理だって。倭人伝の伊都の描写からは中国の使節が常にいる状況なので前原がまさにそれ、多久は無理。津にも臨んでないし。
結局、自分の独善解釈しか根拠になってない。いい加減気づけよw
877 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/06(土) 20:44:23
小城市役所様、本当に有難うございます.感謝しております。
小城説が一刻も早くひろまるように、日夜がんばっております。
サガミハラハラは柳田康雄「伊都国を掘る」、平野邦雄編「古代を考える 邪馬台国」、高倉洋彰「金印国家群の時代」あたりを読んでから再考するように。
あまりにも無知で目もあてられない。前原伊都国説が適当な妄想だなどと言っているが、あまりに先学に対し失礼だ。あまりにもひどすぎる。
>>877 だから迷惑なんだってw
このジジイどうかしてるよw
880 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 21:31:49
>>878 その言い方は余りにも失礼だろう。
貴方がどれほどの博識者かは存ぜぬが、相模さんに説明してあげなよ 何故前原が伊都国なのか
あれだけのレス書いたんだ、逃げずに、相模さんに説明してあげなよ
ふむ…どこかに卑弥呼に比定できるような女王伝説が残っている地はないものか…
記紀にも記載がないもんな〜 神功皇后じゃ説得力に欠けるし…
更迭ジーグに滅ぼされたハニワ幻人のスレはここですか?
そういえば、16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc さんは最近いないのかな?
いろんな可能性を指摘してて毎回楽しみに読んでいたんだけど
>>884 彼、今度社会復帰するらしいよ、それでまず手始めに今バイトしてるらしいよ
だから2ちゃんねるに、参加する時間ないみたい
彼は、自由な時間が沢山取れる、公務員を目指すみたい 結局の所まだ一般社会から逃げた考え方は変わってないけどね
>>885 教えていただいて、ありがとうございます^^
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc さん、学芸員or歴史教師になること期待してますよ〜^^
>>880 別に失礼とは思いませんが。
学史を無視し、現在の通説の根拠を知らず、それらを妄想と決めつけるサガミハラハラの方がよほど失礼だ。
ネット上で常識的な基本知識をいちいち一から説明するほど暇はない。
だから文献は示したのであとは読んでくれと言っている(何も示さなかったら失礼かもしれないが)。
いずれにしても何も知らな過ぎの方がイタイ。880さんは公平さを装うとしているかもしれないが、サガミハラハラ氏の言動や態度を問題としないのは筋違いではないですか。
888 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/06(土) 23:44:31
>>887 前原辺りが伊都では無く《女王国》ではまずいのかい?
どうしても伊都じゃなければいけないのかい。
889 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/07(日) 00:21:15
現在の(前原・今津湾岸・博多南部)この辺りが、後漢書に記載ある「倭奴国」であり
伊都も奴も不彌も邪馬壹も全て収まり、魏書に記載ある「女王国」だろう
890 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/07(日) 09:48:10
僕はまだいますよ。
みなさん詳しい方々ばかりですね・・
大学の教授かなんかでしょうか?
もしくは作家?
素人の僕の意見としては倭人伝に載っている
黒歯国、これがもし外国だとしたら
その国の文献を探れば邪馬台国の手がかりが
えられるのではないかと思うのですが・・
その当時その国にも文字が存在していたらの話ですが・・
もっともどこか特定されなければなりませんが・・
東南アジアあたりでしょうかね・・
あ、いた^^ 私も素人ですw
邪馬台国論争終結祈念上げ
893 :
892:2005/08/07(日) 11:37:29
アカン・・・上げ損なった(鬱
894 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 12:00:54
他板から覗きに来ましたが、凄いね。
ここで書き込んでる皆さんは学者とか、歴史教師の人?
こういう板もあるんだなorz
>>890-891 2ちゃんねるの掲示板は、全て平等だよ
素人もプロも無いのさ
中卒・高卒・大卒そんな区別も一切無くカキコできる。ただ一つだけ
レベルの差は、確実に存在する
学歴だったら私のが上だけど なんせ「高卒」だから…ワッハハハハー
ま、レベルは君のが上だから気楽に参加すればいいんじゃないかい!
896 :
先生 ◆gDQNDdQm3A :2005/08/07(日) 13:52:31
私が、後を引き受けた!
897 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 14:10:22
898 :
先生 ◆gDQNDdQm3A :2005/08/07(日) 17:50:56
籠神社伝承の海部氏系図には、
「日女命」「弟彦命」「乎止与」という記載があります。
これが、魏志倭人伝の「卑弥呼」「男弟」「台与」と言われております。
海部氏系図は、始祖を天火明命としており、ニギハヤヒのことであります。
つまり、丹波のニギハヤヒ王権の系図というわけです。
邪馬台国が、丹波にあったことが判るわけです。
考古学的にも一致します。
近江には、最古の前方後円墳が見つかっています。
ちなみに、神武天皇は九州出身ではなく、イハレヒコというように、奈良の磐余の出身です。
奈良の畿内王権が、丹波王権を吸収合併・連合した歴史が、
ニギハヤヒが神武天皇に国を譲った神話となり、
籠神社の伝承になったというわけです。
考古学的にも一致します。
奈良と丹波は、古くから連合していました。
899 :
先生 ◆gDQNDdQm3A :2005/08/07(日) 18:03:00
邪馬台国が、丹波にあったとすれば、クナ国はどこでしょうか?
実は、クナ国こそが、奈良の畿内王権(イハレヒコ=神武天皇の国)だったのです。
位置関係もぴったりですね。
ニギハヤヒは、1世紀頃の丹波の王だったでしょう。
ニギハヤヒの死後、ニギハヤヒは丹波王権の神のような存在となり、
巫女(卑弥呼)が祭っていたことでしょう。
そして、卑弥呼から台与(乎止与)政権になったのが、3世紀末です。
その後、邪馬台国(丹波王権)は、クナ国(畿内王権)の侵略を受け、連合し、
大和朝廷が誕生したのです。
わかりましたね?
900 :
先生 ◆gDQNDdQm3A :2005/08/07(日) 18:08:46
奈良には、「クナ」という地名はありませんが、
実はこの「クナ」という言葉が「国(くに)」という言葉になったと言われております。
今、私たちが国(くに)と呼んでいたもともとの意味は、
奈良に存在した古代王権「クナ」のことだったわけです。
901 :
先生 ◆gDQNDdQm3A :2005/08/07(日) 18:16:46
では、投馬国はどこでしょうか?
「投馬」は、「トマ」と読みますが、
これは、「タマ=玉」の古代語です。
「玉造」という地名が現代まで残っています。そこは「島根」です。
古代より、玉造工房として栄え、最古の温泉地としても知られています。
902 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 19:31:18
>>901 先生、しつもんです。
なんで、トリップがDQNなんですか
903 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 20:21:59
邪馬台国論争が終結したら、邪馬台国で飯を食ってる学者、作家
雑文家、考古学者、博物館関係者、出版社、メディア、、、、
などの生活はどうなる? だから彼らがグルになって生活防衛のため
絶対終結しないように裏で手を握ってるんだよ
だから、絶対終結はしない というシナリオ
904 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 20:32:05
コテハン「先生」
内容からして、小中学校の歴史好きな人と見たがいかに。
内容は、六月頃盛り上がった話題の繰り返しだが
>>898 >「日女命」「弟彦命」「乎止与」という記載があります。
>これが、魏志倭人伝の「卑弥呼」「男弟」「台与」と言われております。
無視できないだろうね。これは。
シンポでも、よく話題に出るよ。
ttp://www.kamnavi.jp/mn/kinki/uenotakakura.htm 倭得玉彦命は卑弥呼の父親との見方がある。邪馬台国建国の謎を解きうる神社の可能性がある。 倭得玉彦命の子に日女命と弟彦命がおり、日女命の孫に乎止与命がいる尾張氏の系図が存在する。卑弥呼と男弟、また台与にピッタリ当てはまる。
大和の東の都祁から近江の南の柘植へ出るルート沿いにこの上野市があり、当神社はこの平野の北西に鎮座する。伊賀は縄文、弥生遺跡が多く、銅鐸も発見されている。
907 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/08(月) 08:08:42
まさに嵐のようなレスの集中でした。答えるまもなく話しがどんどんすすんでしまいました。
いまさらこたえるのも話題からはずれてしまうのですが、おいおい答えてまいります。
908 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/08(月) 09:02:36
「日女命」「弟彦命」「乎止与」は、魏志倭人伝の記事をもとにした
後世の創作であると思われます。
邪馬台国小城説宣伝強化期間
邪馬台国は佐賀県小城市甘木地区です。卑弥呼の墓は、小城公園内桜ヶ岡です。
909 :
日本@名無史さん:2005/08/08(月) 09:51:51
↑
キチガイが珍しくマトモなこと言ってやがる。
910 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/08(月) 09:56:51
1番考えられるのは
4世紀後半までは畿内土着の政権があり、
それを神武=応神が東征により奪ったという可能性。
神武東征神話は応神東征を正当化するための
でっちあげ。2代目から崇神王朝までの系譜は
畿内土着の連合国家体制の系譜。
そして九州邪馬台国勢力の応神がそれをのっとった。
卑弥呼の時代は畿内・九州それぞれ同盟関係にあった。
九州邪馬台国勢力の応神東征だってさ。
マンガの読みすぎ。
912 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/08(月) 13:28:53
913 :
太:2005/08/08(月) 15:11:44
そう思う。w
914 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/08(月) 20:22:13
学史を無視といいますが、邪馬台国研究に関する学史は、間違った学説を長期間引きずってきているのです。
戦後、それ以前の学説をすっかり忘れて、白紙から始めて行けば邪馬台国はもっとはやくみつかっていたでしょう。
先学を重んずるのもよろしいかと思いますが、そのまま鵜呑みにするのは、いかがなものでしょうか。
現在の通説の根拠はわかっていますが、認めるわけにはまいりません。
正しい説の根拠は魏志倭人伝であり、その行程路上にあるのが伊都国であり、邪馬台国なのであります。
けっして遺蹟や遺物の多寡によるものではありません。従来の行程は間違っております
伊都国等固有の名称を論ずるなら、伊都国の名を刻んだ石碑が発掘されたとか、
官名をかいた木簡とか竹簡、王の墓碑とかでたのでしょうか。
その点では、私の桜ヶ岡とどっこいどっこいではないでしょうか。
通説が正しいかどうか検討したのでしょうか。昔から、とか、偉い古代史の学者がいってるとか、
みんながそういっているからとで信じていませんでしょうか。
倭人伝のどこに伊都国は港に面しているなどと記してあるのでしょうか。
「津に臨んで」は「港において」の意味であり、伊都国に治する一大率は「港にでかけていって」検分するのである。
わざわざこう記しているのは、伊都国は港に面していないことをあらわしているのです。(伊都国が港に面しているかどうかとは、関係ない)
既存の説を鵜呑みにせず、検討してみることが大事かと思います。
915 :
太:2005/08/08(月) 20:48:13
う〜ん。評価あり。
916 :
日本@名無史さん:2005/08/08(月) 20:51:32
3世紀の遺跡かどうかがそもそも怪しい小城の桜が丘と、前原伊都国説がどっこいどっこいってどういう神経だ(藁)
なぜサガミハラハラの説が受け入れられないかって、何言っても分からないだろうな。
ここまでの電波ってなかなかいないよ。西都厨といい勝負だなw
科学的な思考を持たず、自分だけが正しいというトンデモの典型。
917 :
太:2005/08/08(月) 20:57:07
貴下のお説を是非・・・!
918 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/08(月) 21:02:26
いや、何故私の説が受け入れられないのか、私も不思議に思っているのですよ。
極めて、科学的な思考でもって考証しているのにね。
919 :
太:2005/08/08(月) 21:06:14
余は小城説が正かどうかは一寸疑問だが、畿内説よりは正に近い。
920 :
日本@名無史さん:2005/08/08(月) 21:22:47
魏志倭人伝だけ読んでもダメだな 隋書 宋書 旧唐書、、、、
なども読まないとわからない 魏志倭人伝の一字一句にこだわっても
意味は無い 宋書の原文を読むと日本にサイがいたり、水牛がいたり
象がいるとか書いてある 聞き書きで書いたものだろうが 魏志倭人伝も
概略のことが書いてあるだけで、すべて正しいと考えて読んでも意味はない
適当に解釈すべきだろう
921 :
日本@名無史さん:2005/08/08(月) 21:25:14
考古学的証拠を確証でないと言って捨てさるのがどこが科学的というのか。
今までの論者も、方位の相違なども認識しているがサガミハラハラのような解釈をとらなかったのは相応の理由があるのだ。
だから学史を分かってないと言っている。
922 :
太:2005/08/08(月) 21:26:12
どこの国にもだいたい動物園はあるし、他国産の動物をいれているな?
昔もけっこう、そんなことがあったのかなぁ〜?
何故受け入れられないのか(簡単な答え)だな
伊都を認めないからだよ
邪馬台国論争をするうえで、関所的役割を果たしているからだ
彼にとって邪馬台国が畿内であろうが、九州であろうが関係ない
とにかく何処へ行こうが伊都国記念館を通らないと気が済まないのだよ
内容なんかどうでもいい、とにかく郵政民営化法案を可決させたい「小泉純一郎」みたいなもんだ
彼も、どうして前原=伊都なのか解らないのでは
気がついたら(伊都国命)になっていた
思想も目的も解らずに、ただ街宣車で怒鳴ってるウヨの若者だね
924 :
宋書:2005/08/08(月) 21:33:00
>>920 >宋書の原文を読むと日本にサイがいたり、水牛がいたり
>象がいるとか書いてある
オイオイ・・・・
倭者、自云太伯之後。俗皆文身。去帯方萬二千餘里、大抵在會稽之東、相去絶遠。
從帯方至倭、循海水行、歴韓國、乍東乍南、七千餘里始度一海。海闊千餘里、名瀚海、至一支國。
又度一海千餘里、名未盧國、又東南陸行五百里、至伊都國。又東南行百里、至奴國。
又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月日、至祁馬臺國、即倭王所居。
其官有伊支馬、次曰彌馬獲支、次曰奴往tei[革是]。民種禾稻紵麻、蠶桑織績。
有薑、桂、橘、椒、蘇。出黒雉、眞珠、青玉、有獸如牛、名山鼠。
又有大蛇呑此獸、蛇皮堅不可斫、其上有孔、乍開乍閉、時或有光、射之中、蛇則死矣。
物産略與イ澹耳、朱崖同。地温暖、風俗不淫。
男女皆露糸介、富貴者以錦繍雜采爲帽、似中國胡公頭。食飲用ヘン豆。
其死、有棺無槨、封土作冢。人性皆嗜酒、俗不知正歳、多壽考、多至八九十、或重百歳。
共俗女多男少、貴者至四五妻、賤者猶兩三妻。婦人無婬妬。無盗竊、少諍訟、若犯法、軽者没其妻子、重則滅其宗族。
漢霊帝光和中、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子卑彌呼爲王。
彌呼無夫壻、挾鬼道、能惑衆、故國人立之。有男弟佐治國。自爲王、少有見者、以婢千人自侍、唯使一男子出入傳教令。
所處宮室、常有兵守衡。至魏景初三年、公孫淵誅後、卑彌呼始遺使朝貢、魏以爲親魏王、假金印紫綬。
始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命。
晋安帝時、有倭王賛。賛死、立弟彌。彌死、立子濟。濟死、立子興。
死、立弟武。齊建元中、除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎭東大將軍。高祖即位、進武號征東(大)將軍。
925 :
日本@名無史さん:2005/08/08(月) 21:46:26
>>923 ただの煽りだろうが何言ってんだかw
伊都前原説は、ここでもいろんな人が書いているし、定説として様々な本、論文に根拠が書かれている。
ちょっと調べれば分かることさ。近年の発掘はそれを年々補強している。
多久説なんて、これを覆すような対案としての根拠はない
伊都国命とかじゃなくって、肝心要のこの国の位置を誤ったら九州にせよ、近畿にせよ邪馬台国には永遠に到着しない。海図のない航路を行くがごとく。
他の歴史書や地名、考古学資料など総合的情報で補う必要があるのが当然で、それが歴史学。
倭人伝と地図だけでやろうとするのは誤りだ。
だいたい、不正確な地図しかないような時代の記録に、一字一句誤りはないなどとして、逆に結果的に無理な解釈する方がおかしい。
だいたい、無責任な
>>923は、サガミを支持するつもりかい?
926 :
太:2005/08/08(月) 21:50:19
支持だなんて大袈裟な
藻れは単に「小泉」に票を入れないだけ
ストレートに、公益法人改革をせず、お題目にこだわりあげくのはてに解散
所詮は金融族
郵貯の解体だけが、主目的であったことを見透かされた 間抜けな小泉総理
928 :
日本@名無史さん:2005/08/08(月) 22:24:23
流石元福田総理の秘書、郵政民営化やJHにメス、経政会潰しに躍起だな
現代版「角福戦争」だな
郵政は、元郵政大臣の角栄が築いた郵政族
JHは、角栄のスローガン「日本列島改造論」
靖国参拝で中国とのきれつは、角栄と「あの〜」おじさんが友好条約を
角栄の功績潰し
福田一門の怨念だな
工作員が必死だな。
小泉がんばれ!
何を言われようと改革断行が出来るのは小泉だけだ!
930 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/09(火) 08:18:32
残念ながら倭人伝から察するに邪馬台国は
九州ですね。どうしても倭人伝からは
畿内にもっていくことは不可能だと悟りました。
しかし鏡が畿内から多く出てますし邪馬台国と
畿内政権はかなり密接な関わりがあったことが
伺えます。おそらく王族間の婚姻等による
ゆるやかな融合がすでに3世紀後半あたりから
あったのでしょうね。なので鏡が大量に
畿内からも出る。
931 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/09(火) 10:05:03
そして神功ー応神というのは
邪馬台国系の血筋が濃く、父親は
仲哀天皇ではなく他の誰かではなかったのかと
考えられます。おそらく崇神王朝内で
いざこざがあり、崇神王朝の
血統を廃して他の王を建てようとする動きが
あったものと思われます。そこで応神が祭り上げられたと。
応神という名からも分かるように神(天皇)になることを
「応じた」ということからも伺えます。
のちの継体と同じです。武烈天皇のあまりのひどさに
たまりかねた豪族が継体をひっぱりだして
天皇に祭り上げたように。ようはこの国にとって
天皇とは共立体制のシンボルであり
万世一系というのは後の世に作られた建前ではないでしょうか?
932 :
太:2005/08/09(火) 10:10:33
Pupupu!ww
933 :
太:2005/08/10(水) 19:49:39
934 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 20:27:19
>924
それって、宋書の要約版でない?
ほかの古書でもいえることだが、一番大事な部分、肝心かなめの部分を
わざと省略して紹介してることが多いよ
原文の写真版くらいでないと信用できないよ
935 :
924:2005/08/10(水) 22:06:20
>>934 924でコピペしたのは梁書倭國伝だろうが・・・
オマエ、梁書、宋書の倭伝の内容も諳んじられんで、そんな大口敲いてんのか?
>>936 そんなことして楽しいかい?
プラムは名無しじゃないぞ今や、プラムのコテハンは一人や二人じゃ無いようだし
>>323がプラムなら
>>328-329も、文体が似ているのでプラムじゃないか?
ま、別にかまわないけどね
938 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/12(金) 15:47:44
今日で邪馬台国発見14周年です。
邪馬台国小城説宣伝強化期間として小城説を喧伝してまいりましたが、ご賛同はともかく小城説の存在はおわかりいただけましたでしょうか。
来年のN周年にはできたら大きなイベントをと考えていますのでよろしくお願い致します。
939 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 17:10:05
>>919 邪馬台国の分所は各所にあると考えるのが自然、
だから倭国(九州)を制圧した邪馬台国が肥前、筑紫に
邪馬台国出張所をつくっていた蓋然性は極めて高いのです。
それが甘木、小城だった可能性は十分ある。
940 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 18:12:38
そして邪馬台国卑弥呼は全国に巨大古墳を残した勢力そのもの
強大な勢力の一地方の有力者だと思うわけです。
941 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 18:16:24
>>631 よっぽどの裏付けがないとそんな細かなことまで分からないと思う。
もっと大まかな流れが確定しないと無理じゃないか?
942 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/13(土) 09:08:11
しかし小城?とかいうところで
7万戸も養えるのですか?
943 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/13(土) 09:30:09
七万戸というのは、国全体の戸数で、一都市の戸数ではありません。
944 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/13(土) 09:52:41
張政は実際邪馬台国へきているっぽいですね
サガミハラハラさん、ありがとうございました。御本届きましたですよ〜^^
お手数をおかけして申し訳ありませんでしたm( _ _ )m
例のごとく斜め読みでざっと拝見いたしました(失礼^^;)
奴国・伊都国のしがらみがないので好古都=博多としているのがすっきりしていていいですね。
アイヌ語・朝鮮語の単語構成を参考にした人名・地名の意味付けや、○馬(マ)⇒広域地名(間) ○奴⇒○国 ト⇒入り口の国 という解釈は興味深く思いました。
946 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/14(日) 09:11:20
いやいやこちらこそ、御購入ありがとうございました。
947 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/14(日) 09:29:10
一大率が大倭(畿内政権)からのものだとすると
北九州はすでに実質上は畿内政権の勢力下にありますね。
つまり邪馬台国の存在価値というのは
@北九州諸国をまとめる(そのために卑弥呼共立)
A狗奴国と畿内政権との防波堤
この2つがメインとしてあげられますね。
畿内政権としては北九州を統治するために
邪馬台国・卑弥呼を最大限利用したほうが
都合がいいわけです。さらに狗奴国(熊襲)とも
勝手に戦ってくれますしw自分らが兵を出す必要性がない。
だから畿内政権も邪馬台国を支援していたのだと思います。
しかし壱与の死後、徐々にその利用価値がなくなり
邪馬台国は使い捨てられ、大和朝廷が北九州を直接統治するようになったと
いったとこでしょうか?
>>947 >北九州はすでに実質上は畿内政権の勢力下にありますね。
>邪馬台国は使い捨てられ、大和朝廷が北九州を直接統治するようになったと
根拠は?
949 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/14(日) 10:09:56
>>948 国々には市が立っている。
色々な物を交易しており、大倭という役人(役所?)がこれを監督している。女王國より北の地方は、
特別に一大率(いちだいそつ)を置いて、諸国を検察させている。諸国では、これを畏れている。
と魏志倭人伝に書かれてますし大倭というのは大和朝廷でしょう。
あと景行天皇の皇子のヤマトタケルの時代に(架空の人物かもしれませんが)
熊襲征伐の話もありますし、266年に壱与が晋に朝貢してるので
これまでは邪馬台国は存在していましたがヤマトタケルの時代、
おおよそ300年代前半ころにはすでに邪馬台国はなかったものと
思われます。ちょうど壱与が死ぬ時期や中国が争乱に入る時期と重なりますね。
950 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 14:13:41
菊地さんは、狗古智卑狗の末裔
女王国の南にあった狗奴国
狗奴国は、九州に決まりなので、女王国も九州だな。
日本書紀にも、九州の王は女と書いてあるし、女王と見られる骨も出土してる。
952 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/14(日) 17:44:16
そもそも記紀に神功皇后が卑弥呼とかいう
とんちんかんな記述があるくらいですし
つまり記紀を編纂した人も卑弥呼が何者なのか
わかってなかったわけですよ。つまり大和朝廷の
人間ではなかったというわけです。あと邪馬台国というのは
倭国30国の中の首都ということですし
ほとんどの国が九州にありますし邪馬台国も九州と
みるべきでしょうね。
953 :
太:2005/08/15(月) 21:30:23
記紀のどこに
神功皇后=卑弥呼
の記述があるのか?
954 :
日本@名無史さん:2005/08/15(月) 21:41:36
しかし、あれだよな
南京大虐殺があったかなかったかで論議されるのだから
邪馬台国の真実も本当に確固たる証拠が出ない限り
世間一般が認める事実とまでは絶対にならないのかもしれない。
正直、南京のことはあまり知らないが、邪馬台国については
だいたいわかる。
955 :
太:2005/08/15(月) 21:54:18
だいたい?じゃあ女王国はいつごろどこにあったのか?
956 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/16(火) 18:32:22
957 :
日本@名無史さん: