流浪の難民救済のため、990以降は次スレへ誘導されるまで徐行で!
くれぐれも全部使い果たす事のない様に!
では、マタ〜リいきましょう!
乙。04/10/12 17:17:44〜04/10/13 10:56:17まで間隙がありました。
4 :
寛恕不如意背反網倫理:04/10/13 13:05:01
九州と近畿に共通するものが多い。東遷といった痕跡はない。全方角的浸透のようだ。
熊本の健磐竜命は鉄器を使用して石材を加工する集団であり、阿蘇のピンク石、磐井
関連の石製遺跡と関係するのであろうが、吉備楯築、大和飛鳥等にも石造文化がある。
この技術の移動は単純なものではなく多くの地方を経由したと思う。又、大和を越えて
長野県から関東にまで影響している。日本固有の酸性土壌で鉄器は酸化し後を留めて
いないが石造、木工、建築の土台には鉄器文化があったはずだ。半島の辰王がいたという
月支とはフン族を意味する。これとか、中央アジア古代民族はヒッタイト及び同系語族
トカラ族からアナトリアの製鉄技術をインド・中国南部及びモンゴリア草原・新疆経由
朝鮮半島南部まで伝えた可能性がある。河姆渡系の鳥・太陽神話を基にする部族に
隠れてこの石神(石上)文化の到来が基底にあるのではないか。アマテラスに逆セク
ハラされたのではないかと思う。
吉野ケ理遺跡が邪馬台国跡だと思ってた少年時代が懐かしい( ´Д`)y──┛~
6 :
日本@名無史さん:04/10/13 14:34:27
7 :
日本@名無史さん:04/10/13 14:53:53
日本人は、本来「梅・桜」を愛する民族なのだが、
大和朝廷はなぜか「菊」を家紋にした。
「菊」は外来種である。
大和朝廷は、「菊」と一緒に日本に持ち込まれたのである。
8 :
日本@名無史さん:04/10/13 15:05:17
邪馬壱国は福岡県太宰府市にあります。(旧唐書)
卑弥呼は(いみか)と発音し委甕(いみか)天皇が正式です。
邪馬台国は奈良県の橿原市にあります。
元首は富長洲根彦です。
風土記筑紫国伝では「甕依姫(ミカ・ヨリ・ヒメ)」ってのが居る。
筑紫神社の巫女。
い・みか=卑弥呼
9 :
日本@名無史さん:04/10/13 15:30:52
10 :
日本@名無史さん:04/10/13 16:03:24
ゼハァ((´・| ゼハァハァ((´・ω| ヤットPART12ハケーン((`・ω・´|
11 :
日本@名無史さん:04/10/13 16:34:17
12 :
日本@名無史さん:04/10/13 17:32:25
「みか」うんぬんは古田氏の説だろうが、
最近「あまつみかぼし」という神様と物部氏との関係を書いた本がでていた。
まだ買っていないのだが。
天ミカ星の神は、以前から「産鉄・鬼・差別」関連の本でもよく言及されている、
王権に逆らった神だ。以前からなんか匂うなぁと思っていた。
13 :
日本@名無史さん:04/10/13 18:24:32
>あまつみかぼし
「天津」なのに、なんで逆らうのだろう?
14 :
日本@名無史さん:04/10/13 19:11:51
古田の説をおつまみですか
15 :
日本@名無史さん:04/10/13 19:19:10
16 :
日本@名無史さん:04/10/13 19:58:21
>>12 >消された物部氏「天津甕星」の謎
これ?
17 :
日本@名無史さん:04/10/13 21:01:06
>>7 >「菊」は外来種である。
これは事実。
>大和朝廷は、「菊」と一緒に日本に持ち込まれたのである。
7〜8世紀ごろに、薬用植物として日本にもたらされ、
平安時代に入ると宮中でも栽培されるようになった。
後鳥羽天皇が「菊の文様」を愛好した事から、
12世紀後半に「皇室の文様」として定着したもの。
奈良県桜井市の穴師坐兵主神社は興味深いっすよね。
兵主=蚩尤が本当だとすれば、漢民族に故郷を追われた石器人・苗族の
日本渡来の可能性もあるのでしょうか?
正座やあやとり、竹馬など、日本古来の文化とも共通しますし。
穴師=足痛=鉱山労働者とか、どうなんでしょう?
宇佐には天津という場所もあり。
20 :
日本@名無史さん :04/10/14 01:43:14
●福本誠・『筑前誌』・1903国光社(昭和49年に臨川書店から復刻)
●末永茂世編・『筑前旧志略』・明治20年刊行
●沢田吾一・『奈良朝時代民族経済の数的研究』・昭和2年富書房
●古屋芳雄・『日本民族混成誌』・1944日新書院
こういう本は読みたいけど国会図書館にもなさそう・・・
21 :
日本@名無史さん:04/10/14 08:36:53
>>20 > ●沢田吾一・『奈良朝時代民族経済の数的研究』・昭和2年富書房
研究の概要はしばしば引用されていたりします。
茨城県で常陸国の人口を書いた漆紙文書が出土して
推定の妥当性が確認されました。
22 :
日本@名無史さん:04/10/14 10:22:40
九州の邪馬台国ゆかりの勢力が、近畿の勢力を征服した。
しかし、元々民族的にはほぼ同じだったので、融合した。
これが正解。
それって九州説そのままじゃん。
そもそも征服した後は、普通融合するものでしょう。
男に限っては、中国などで稀に、全て虐殺してしまうことも
あるようだが。
宇佐神宮の歴史自体は、記録上、比較的新しいため邪馬台国との関連を
ありえないとする人もいますが、既にこの時代、宇佐は九州各地の広範囲
に荘園を持っており(九州最大で北部九州のみならず南は鹿児島まで)、
建立されて間もない神社が、権威という理由のみで、当時一朝一夕に
このような領土を獲得したとは考えにくく、前時代、つまり邪馬台国
より領土を引き継いできたと考えるのが妥当ではないでしょうか。
25 :
日本@名無史さん:04/10/14 13:56:46
>>24 >宇佐は九州各地の広範囲に荘園を持っており(九州最大で北部九州のみならず南は鹿児島まで)
九州の国造りは宇佐ひとつだけみたいな言い草だな。
26 :
日本@名無史さん:04/10/14 14:10:15
ちなみに、磐井の乱の首謀者は、筑紫国造。
宇佐、国前、大分、比多などの国造は朝廷側で、反乱に加担しませんでした。
卑弥呼、台与の後、東征にて分家の大和朝廷がつくられたが、本家の邪馬台国
豊前は国が乱れ、勢力を拡大した筑紫の磐井らに圧倒された。
そこで、大和朝廷が本家豊前を奪還するために磐井と戦争を起こしたので
あろう。
なお、磐井は中津付近で敗れたらしい。
>>25 >九州の国造りは宇佐ひとつだけみたいな言い草だな。
別にそうは言わないが、宇佐を中心とした連合勢力が日向を拠点に
熊襲(狗奴)を滅ぼし、鹿児島まで勢力を拡大したのであろう。
後に鹿児島の大隅八幡の隼人が反乱を起こし、宇佐と大和朝廷の
連合軍がこれを鎮圧している。
29 :
日本@名無史さん:04/10/14 15:42:19
だから〜
根拠無しに宇佐を超大国扱いするなよ。
宇佐八幡があるだけで、なぜそこまで想像(妄想)の翼を拡げるのか?
32 :
日本@名無史さん:04/10/14 22:43:54
地名の一致
九州(甘木)
笠置山→春日→三笠山→住吉神社→平群→池田→三井→小田→三輪→雲提(うなで)→筑前高田
→長谷山→加美→朝倉→久留米→三猪(みずま)→香山(高山)→鷹取山→天瀬(あまがせ)
→玖珠(くす)→鳥屋山→上山田→山田市→田原→笠置山
近畿(大和)
笠置山→春日→三笠山→住吉神社→平群→池田→三井→織田→三輪→雲梯(うなで)→大和高田
→長谷山→賀美→朝倉→久米→水間→天の香山→高取山→天ヶ瀬
→国樔(くず)→鳥見山→上山田→山田→田原→笠置山
http://kodaiyujin.fc2web.com/kodaisi_roman_12.html
もちろん邪馬台国時代も筑紫は、連合国家を構成する一大勢力であり
むしろ、軍としては主力だったであろう。
経済の中心は筑紫、政治の中心は豊前というように。
東征の際、日向を出発した連合軍は、宇佐、筑紫で合流しており、
大和に筑紫の地名が多いのもそのためであろう。
邪馬台国や記紀神話そのものに関連した名前は、豊前に多いのである。
>>30 >根拠無しに宇佐を超大国扱いするなよ。
ちゃんと宇佐の歴史を調べたらよい。
少なくとも大和時代は、九州一円に荘園をもち、大勢力を
誇っていた。
35 :
日本@名無史さん:04/10/14 23:21:42
>>35 本御荘十八箇所
また、8世紀、隼人の大隅八幡が正八幡を名乗り、宇佐に攻められるが
これは配下の大隅八幡の反乱だと思われる。
大隅八幡も神武天皇が創建に関与しているといわれ、また、
天津日高彦穂々出見尊、豊玉比売尊であり、その昔、神官を宇佐と
関わりの深い秦氏辛嶋一族が勤めていたことも、興味深い。
おそらくは、邪馬台国時代、宇佐から派遣され、日向を拠点に熊襲
(狗奴)征伐を行っていた神武らが、ここで熊襲を破り、その勢力が
神宮のもとになったのではないだろうか。
そして、そこから神武らの東征が始まったのであろう。
神宮のもとになったのではないだろうか。
>大隅八幡のこと。
この1行レスで終わっている
31 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:04/10/14 22:21:53
>>24 記紀に宇佐神宮の記述が無い時点でOUT
39 :
日本@名無史さん:04/10/15 15:10:51
“宇佐”は、元々は、福岡県宗像市あたりにあったのかも。
それが、いつの時期にか、いまの位置に移ったと考えれば、
理解しやすいことが多いと思われる。
40 :
日本@名無史さん:04/10/15 16:27:19
宇佐神宮に行く途中にUSAと縦に書かれた大きな看板があって、
アメリカのことじゃなくて、宇佐神社のことだと気がつくまで
少し、時間がかかった。
内地には赤く塗られた神社が無いので、奇妙な感じだったのを覚えてるよ。
41 :
日本@名無史さん:04/10/15 17:19:16
42 :
日本@名無史さん:04/10/15 17:49:54
『日本書紀』「神武紀」
其の年の冬十月の丁巳の朔辛酉に、天皇、親ら諸の皇子・舟師を帥ゐて東を征ちたまふ。
速吸之門に至ります。−(中略)−行きて筑紫国の菟狭(うさ)に至ります。
時に菟狭国造の祖有り。号けて菟狭津彦・菟狭津媛と曰ふ。−(中略)−
十有一月の丙戌の朔甲午に、天皇、筑紫国の岡水門に至りたまふ。
天孫降臨の地から東へ進軍し菟狭(うさ)に至り、更に進んで岡水門に至っている。
岡水門が、遠賀川のほとりであることは、異論は無いようだ。
すると、天孫降臨の地は、福岡市西の「日向峠」と考えるべきだろう。近くには、くしふる岳も存在する。
菟狭(うさ)は、元々は、この日向峠と岡水門の間のどこかの土地をさしていたと思われる。
宮崎から東に行ったら、海で溺れちゃいますよ。
43 :
日本@名無史さん:04/10/15 17:59:00
天孫が降臨したのは、「筑紫の日向」(『日本書紀』)です。
44 :
日本@名無史さん:04/10/15 18:16:59
九州に天孫したのは除福。
これ定説。
45 :
日本@名無史さん:04/10/15 18:47:29
除福は、天孫降臨よりも、だいぶ前の時代の人でしょうね。
天孫降臨は、案外、新しい時代のことのようだ。
>>45 三貴神が生まれたより新しいだろうな、当然。
47 :
日本@名無史さん:04/10/15 22:34:06
まだこれやってんのか。
とっくに学会では九州説は滅亡したぞ。
48 :
日本@名無史さん:04/10/15 22:56:24
天照大御神の孫がニニギの命で、
彼が筑紫の日向に降臨した(まさに、天孫降臨)。
ニニギの命の孫の子供が、神武天皇である。
49 :
日本@名無史さん:04/10/15 23:00:22
>>47 学会といっても、当てにならないことが多い。
考古学の捏造もあったし、マルクス主義学者の妄想もあった。
50 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :04/10/15 23:04:56
51 :
日本@名無史さん:04/10/15 23:07:03
>>50 はぁ? 戦前の東大では九州説が多かったそうだが
辻褄が合わなくなってフェードアウトしただけ。
52 :
日本@名無史さん:04/10/15 23:20:36
>>51 辻褄が合わないのは「東征」説。
九州説は、東征を捨てないかぎり学会では相手にされない。
しかし、畿内に邪馬台国があったという積極的な証拠も無い。
資料に忠実になれば、九州に邪馬台国があったが3世紀終わりまでに没落して、
畿内の大和朝廷が日本の政権を握ったと見るべき。
53 :
日本@名無史さん:04/10/16 00:05:01
>>52 卑弥呼以前に東遷したと言う考えなら無問題
54 :
日本@名無史さん:04/10/16 00:11:40
>>53 はぁ?
卑弥呼=女王国=邪馬台国は九州でしかありえないだろ。
魏志倭人伝ちゃんと読んでるのか?
55 :
日本@名無史さん:04/10/16 00:32:38
>>54 基地外は基地外板へ逝け
過去ログを読め。
56 :
日本@名無史さん:04/10/16 00:40:42
>
>>47 >学会といっても、当てにならないことが多い。
>考古学の捏造もあったし、マルクス主義学者の妄想もあった。
関係なし。左翼、右翼関係なく、学会では異論を唱える奴はいないの。
これは、すでに終わった問題。
57 :
日本@名無史さん:04/10/16 00:45:10
>>55 どっちが基地害だ?
邪馬台国=大和朝廷とする証拠はなにもない。
58 :
日本@名無史さん:04/10/16 02:30:26
59 :
日本@名無史さん:04/10/16 02:56:02
60 :
日本@名無史さん:04/10/16 03:26:51
天照大御神が生まれたのが、
福岡市の東(「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」)。
住んだのが、今の甘木市(=邪馬台国)。
天孫(天照の孫の瓊瓊杵(ニニギ)の尊)が降臨したのが、
福岡市の西(「筑紫の日向の高千穂のクジ触の峯」)。
そして、ニニギの尊の孫の子供の
神倭伊波礼毘古命(=神武天皇)が、東征を行った。
高千穂から九州南部を連想する人も多いと思うが、
日向風土記逸文は、信用度が低い。江戸時代に書かれたものでは?
「高千穂」は、固有名詞と受け取らない方が良いであろうと思う。
大量の稲穂が高く積み上げられている様子を形容したものであろう。
「日向」も、稲が良く生育する日当たりの良い土地であると言っているのであろう。
要するに、「日向の高千穂」は、そこが素晴らしい土地だという形容である。
五瀬命が日向から出発したという文章は、どう説明するの?
五瀬といえば、普通は宮崎と思うが。
九州説が考古学会で否定されているとしたら、九州説=甘木説を
前提にしているためではないの?
他説での検討は、十分になされていない気がする。
最近までずっと九州説が主流だったよね。
それがちょっと近畿に傾くと狂ったように騒ぎ立てる素人九州組。
窮鼠じゃないんだからもっと堂々としなさい。
>>42 確かに日本書紀では「筑紫国の菟狭」と書かれているが、
古事記では、「豊の国の宇佐」と書かれている。
古事記の方が古いこと、宇佐、日向、高千穂、五瀬など現存する名が
残っていることを考えると、甘木説の人には申し訳ないが、やはり、
全てを筑紫とするのは不自然。
日本書紀を書いたのは大和の人だし、宇佐の場所を勘違いしたのであろう。
よって、東征の出発点は、やはり日向(宮崎)であろう。
速吸之門は、大分・佐賀関当たりか。
今でも、この辺は、速吸の瀬戸と呼ばれている。
>>63 考古学者も、畿内説に決定というところではなく、本音は九州っぽいと
思っているんだろう。
ところが、AMS法とかいう文系の考古学者にとっては訳の分からんものを、
持ち出され、困惑しているのが実情でしょう。
AMS法もまだ、万能ではないのだが。
>>42 >天皇、親ら諸の皇子・舟師を帥ゐて東を征ちたまふ。
は、これから東征の記述を行う、という前書きで、直後の文章だけ
ではなく、それ以下の記述全体にかかると見るべきでしょう。
まあ、2000年の悠久の歴史からすれば、1970年代なんて最近だよな。
69 :
日本@名無史さん:04/10/16 11:50:01
皇位: 皇位に就くための儀式、「大嘗祭」には「歌」が歌われる。
「昔は大嘗祭の時には、ゆき・すき二國からして、風俗歌が奉られた。
平安朝の頃は、其國の古歌を用ゐて居た。後には、其國から出た、
古い歌人の歌を用ゐる事になつた。後には、郡の歌人が代表して歌を
作る様になつた」(折口信夫『大嘗祭の本義』)。
平成二年(一九九○)の「大嘗祭」でも「風俗歌」即ち「国振り(国風)
の歌」が歌われた。悠紀の国(秋田)、主基の国(大分)の〃名所〃が
歌われた。その地を〃名〃をもって讃めることで、地霊と〃天皇〃は交感
するのである。天皇と地霊との関係は「巡幸」に見られた。天皇は地方に
行って、その国を讃めた。即ち「国見の歌」、国讃めである。地霊とは、
穀霊のみを言うのではない。その地のすべての神、山の神、川の神、
海の神を言うのである。
大嘗祭は、民族の西から東への移動を意味するらしい。
悠紀(往き)主基(退き)で、戻る地が大分なのは意味深い。
地霊には卑弥呼の意味もあるのでは?
>>66 俺は畿内説だが、倭人伝単独の解釈なら九州説の方が優勢だと思うよ。
ていうか、考古学などの進歩・成果が無ければ今でも九州説優位だったと思う。
72 :
日本@名無史さん:04/10/16 12:41:05
>>70 ということは、もう一度、考古学会というか考古学研究会の結論が
本当に信頼の足るものかを検討する必要があるとは思わないかい?
73 :
日本@名無史さん:04/10/16 12:43:31
邪馬台国が畿内にありそのまま大和朝廷に発展したとすると、
邪馬台国=天皇家の源流であると見ることができるが
記紀に繰り返し語られる「東遷」のイメージ、
神話の舞台がほとんど九州にあること(高天原=九州のイメージ)、
スサノオ、オホクニヌシ、ニギハヤヒ、ナガスネヒコとは誰を投影したものだったのか?
神武天皇、崇神天皇、応神天皇の3人になぜハツクニシラスの称号が与えられているのか?
とくに崇神には、なぜ縁起の悪い「崇」の字が与えられているのか?
景行天皇が九州を蛮地としてしか認識していなかったのはなぜか?
74 :
日本@名無史さん:04/10/16 12:48:10
神武=崇神であり邪馬台国王でもある。
東遷してオオク二ヌシ=ニギハヤヒから
国を譲ってもらった。景行天皇が九州を
蛮地だと思っていたのは狗奴国=熊襲の
存在があったため。
これでフィニッシュです。
75 :
日本@名無史さん:04/10/16 12:53:41
>神武=崇神であり邪馬台国王でもある。
東征というモチーフのつながりで神武=応神、ならわかるが
神武=崇神というのは無理がある。何を理由に?
「景行天皇が九州を蛮地としてしか認識していなかったのはなぜか?」
これは言葉足らずだったか。
景行天皇が九州遠征の際、神武天皇や天孫降臨について
思いを馳せるとか感慨深げになったなどというそぶりが全くないということ。
76 :
日本@名無史さん:04/10/16 12:54:34
>>73 >景行天皇が九州を蛮地としてしか認識していなかったのはなぜか?
それは語弊があるのでは?
九州でも熊襲を敵としていただけでしょ。
77 :
日本@名無史さん:04/10/16 12:59:42
>>75 倭の5王の讃は応神だと推定される。
となると413年に応神が存在していたことになる。
しかし、大和を中心に日本が統一されたのは
どうみても3世紀後半から4世紀前半。
とすると年代的にみて崇神が大和朝廷の始祖と
いうことになる。決死8代は邪馬台国東遷前に
大和を支配していた王たちのこと。
78 :
日本@名無史さん:04/10/16 13:10:35
>>75 74ではないが
神武=応神の方が無理があると思う。
応神天皇は、記紀の内容から四世紀後半以降の人と考えられる。
しかも、朝鮮の出兵したことも考えると、とてもではないが、
神武が東征した直後にそこまで大和をまとめることが可能で
あったとは考えにくい。
しかも、神武の即位後と崇神の即位前が不明であることも
神武=崇神の可能性を示していると思う。
79 :
日本@名無史さん:04/10/16 13:42:39
>>73 卑弥呼以前に東遷が行われたのなら無問題。
「崇」と「祟」を間違うなよ。基本的なことだ。
あがま・う あがまふ 【▽崇ふ】 (動ハ下二)
尊敬する。あがめる。
「今迄様にさまを付け―・へた娘ごに/浄瑠璃・曾根崎心中」
たた・る 0 2 【▼祟る】 (動ラ五[四])
(1)神仏・怨霊・物の怪(け)などが災いをする。
「悪霊が―・る」「ふりにし恋の神さびて―・るに/古今(雑体)」
(2)ある行為が原因となって悪い結果をもたらす。
「無理が―・って病む」
オレは神武と崇神は対立した天皇だと思うな。
「神武紀」で神武側は天の香具山の土を盗んでるし、
「崇神紀」で崇神側は天の香具山の土を武埴安彦に盗まれている。
・・・結末は違うけど、神武の東征と崇神の武埴安叛乱は同じ事件を
双方から記録したものだと思うんだけど。
81 :
日本@名無史さん:04/10/16 14:02:09
>>80 斬新で面白いが、
だとすると、古い神武が武埴側で、新しい崇神系が吉備津彦らを遣わせて
これらを破ったとすべきと思うが、崇神が武埴の敵だとすると矛盾しない
だろうか?
欠史8代=葛城王朝とし、神武・崇神系に滅ぼされたとすると、崇神が
欠史8代=葛城王朝の子孫武埴を破って大和朝廷を開いたと考えると
矛盾しないと思うが。
82 :
日本@名無史さん:04/10/16 14:07:51
もちろんここでの葛城王朝は、邪馬台国とは関係ない畿内の土着勢力で
銅鐸文化の担い手であり、東征した邪馬台国系の神武=崇神らとは
別系統かあっても薄い血縁だったのであろう。
83 :
日本@名無史さん:04/10/16 14:14:18
>>81 >崇神が武埴の敵だとすると矛盾しないだろうか?
スマソ。これは矛盾しないね。
>>81 神武の前半のモデルは崇神支配下の畿内に侵入して破れた人物(武埴安)で、
後半のモデルは熊野から出て近江朝を倒した人物(天武)だと考えているのですよ。
敗退した武埴安は熊野に逃れ、その一族から天武が出て近江朝を滅ぼした、
というあまり自信のない妄想ですが・・・。
85 :
日本@名無史さん:04/10/16 14:31:25
『日本書紀』の「景行紀」には、次のようにある。
一七年の春三月の戊戌の朔己酉に、子湯県に幸して、丹裳小野に遊びたまふ。
時に東を望して、左右に謂りて曰はく、「是の国は直く日の出づる方に向けり」
とのたまう。故、其の国を号けて日向と曰ふ。
この時、宮崎県西都市周辺を「日向」と名付けたということだから、
これ以前の日向は、筑紫の日向、あるいは、
枕詞みたいなもので、固有名詞では無かったのかもしれない。
86 :
日本@名無史さん:04/10/16 15:15:22
>>85 記紀が書かれたのが、景行の後であるから、本来別名であったか、名が
なかったその地を、分かりやすい記紀当時の地名で呼んだのではないか?
便宜上、昔は違う名の場所を現代の地名で書に記すことは、今でも
よくあること。
神武の東征では、日向>速吸之門(大分・佐賀関)>宇佐>遠賀川
と順番どおりで矛盾はないし、五瀬、高千穂も宮崎に現存する。
同じ宇佐のくだりを、古事記では「豊の国のうさ」とし日本書紀では
「筑紫のうさ」としていることから、記紀の時代、大和の人々は九州の
ことはよく分からず、九州=筑紫と混乱して用いていたのではないか?
筑紫の日向という表現も、九州の日向というつもりで書いたのだと思う。
87 :
日本@名無史さん:04/10/16 15:24:12
例えば、博多は現在、福岡市博多区であるが、通常の会話では
博多区以外でも、福岡=博多みたいな感覚で、博多に行く、
みたいな会話をする。
88 :
日本@名無史さん:04/10/16 15:30:54
>>84 神武は、記紀から明らかに九州出身だと思うが、武埴は畿内葛城
の有力者だと思われるから、その説には賛同できないなあ。
89 :
日本@名無史さん:04/10/16 19:03:20
武埴安彦のくだりは、史実ではなく、
奈良の地名の語源が朝鮮語の「なら」なのを隠すために、
官軍が踏みならした土地だから奈良になったなどと、
でっちあげるために創作されたものだ。
90 :
日本@名無史さん:04/10/16 19:20:04
91 :
日本@名無史さん:04/10/16 20:35:34
武埴安彦と官軍が向かい合った「輪韓河」は、「倭+韓+河」で、
地元の倭国軍と、渡来軍が戦い、渡来人(崇神)が勝ったということを意味している。
92 :
日本@名無史さん:04/10/16 21:03:03
93 :
日本@名無史さん:04/10/16 21:29:04
>>89 問題はいつから奈良と呼んでるかでしょ?
昔は大和と呼んでたんだから。
94 :
日本@名無史さん:04/10/16 22:21:48
おそらく、これ↓が正解だろう。
西日本一帯では山間小平地を表現する方言にナル・ナロ(平)があり、
全国的に分布するナラはやや広い平坦地を示すようだ。東日本に多い
ナリタのナリも、これらと類似の地形用語と見てよいのではないか。
http://www.asahi-net.or.jp/~hh2s-fjmt/jsm/972/rchimei.htm 大和=山門(ヤマト)や邪馬台(ヤマタイ?)山田(ヤマダ)は、
当初、低地や下流域ではなく、水はけの良い山間部に近いところで
稲作が行われていた所からできた名前だろう
近畿の大和は平坦地だったから、ナラと呼ぶように変わっていったのかも。
あるいは、平地・低湿地で稲作がうまくできるように土木技術が進歩したからかも?
95 :
日本@名無史さん:04/10/16 22:30:14
邪馬台国には海があり、甘木や大和などの山間部ではない。
96 :
日本@名無史さん:04/10/16 22:46:00
大和の香具山からは、海が見えましたよ?
97 :
日本@名無史さん:04/10/16 22:48:42
1万年前ってことでしょう?
邪馬台国の時代、3世紀に、ここが海だったとしたら、今ある
古墳や陵墓はいつ出来たと説明する?
99 :
日本@名無史さん:04/10/16 23:01:23
海だった場所に遺跡はないよ。
101 :
日本@名無史さん:04/10/16 23:14:28
102 :
日本@名無史さん:04/10/16 23:16:43
>>101 だったら、九州に「香具山」があるはずだろ?
103 :
日本@名無史さん:04/10/16 23:22:27
筑後川流域には、大和や山門といった地名が、多くあります。
104 :
日本@名無史さん:04/10/16 23:23:09
奈良盆地は、3世紀まで海に近い湿潤地であった。
大和民族は、もともとその周辺に住んで、漁をして暮らしていた。
すなわち、邪馬台国である。
その後、水が干上がり、現在のような盆地になったが、
大和人は住み続けたために、内陸に奈良の都が出来た。
105 :
日本@名無史さん:04/10/16 23:24:39
>73 :日本@名無史さん :04/10/16 12:43:31
>とくに崇神には、なぜ縁起の悪い「崇」の字が与えられているのか?
>79 :日本@名無史さん :04/10/16 13:42:39
>
>>73 >「崇」と「祟」を間違うなよ。基本的なことだ。
>
>あがま・う あがまふ 【▽崇ふ】 (動ハ下二)
>尊敬する。あがめる。
>「今迄様にさまを付け―・へた娘ごに/浄瑠璃・曾根崎心中」
>たた・る 0 2 【▼祟る】 (動ラ五[四])
>(1)神仏・怨霊・物の怪(け)などが災いをする。
>「悪霊が―・る」「ふりにし恋の神さびて―・るに/古今(雑体)」
>(2)ある行為が原因となって悪い結果をもたらす。
>「無理が―・って病む」
ありゃありゃ、基本的な思い違いをしている奴だなw
「祟」はいいとして
「崇」が不遇の天皇におくられた字として有名なの、知らないのかな・・・
106 :
日本@名無史さん:04/10/16 23:27:37
これで、魏志倭人伝をよりどころにしてた九州説は滅びたな。
方角は「南→東」の間違いというだけで、
他の記述はすべて、3世紀の海だった頃の畿内の様子をうまく説明している。
107 :
日本@名無史さん:04/10/16 23:32:30
魏志倭人伝からだけでは答えは出ないよ。解釈のしようでいくらでも変わるし
九州説論者が読めば九州有利になるし、畿内説論者が読めば畿内有利になる。
108 :
日本@名無史さん:04/10/16 23:35:41
>>102 香具山=香山=高山 です。
香具山は 畝傍雄々しと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし(『万葉集』巻一、一三)
の原文は、
高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古
甘木の志波村には「高山」があり、しかも、昔は、「香山」と書いていたそうです。
109 :
日本@名無史さん:04/10/16 23:37:47
そのサイトにはこう書いてある
>奈良盆地の標高45メートル線以下には、奈良時代以前の住居跡や遺物は発見されておらず、
>それ以下の低地は大和盆地湖の名残りで、湖水や湿潤地であった、と樋口氏はいいます。
標高45m以下のところといえば、盆地を流れる川が大和川に合流する
法隆寺と近鉄石見駅のあいだの一帯だけ。
それがいつのまにか
>奈良盆地は、3世紀まで海に近い湿潤地であった。
に化ける。いと不思議なり。
ちなみに、唐古は石見駅の南1kmほどのところに位置し、
弥生前期の早い時期から立派に集落が営まれている。
111 :
日本@名無史さん:04/10/16 23:43:21
>>108 その、「香山」から海が見えるのか?
見えそうもないけどな。
112 :
日本@名無史さん:04/10/16 23:45:58
>>111 当然、有明海が見えると思われますが、
それが何か?
113 :
日本@名無史さん:04/10/16 23:49:19
有明海が見える高山って、どこの高山だよ?
114 :
112:04/10/16 23:58:42
失礼。地図を見たら、見えそうにないです。
でも、それが何か問題?
115 :
日本@名無史さん:04/10/17 00:09:25
>>114 理解力ないのか?
3世紀の奈良盆地は、海のような湿地帯だった。
だから、魏志倭人伝の記述も畿内を表現していたと考えて問題ない。
>>106 >これで、魏志倭人伝をよりどころにしてた九州説は滅びたな。
1万年前の地形を持ち出されてもね。
邪馬台国の時代から、たった100年足らずで地殻変動が一挙に
畿内だけで進むのも無理すぎるし、海とされるところに弥生の
遺跡もあるのではね。
甘木説も矛盾。邪馬台国を中心に構成される連合国家「倭」の
主要国ではあったのであろうが、それだけでしょう。
海のような湿地帯って・・・・そもそも日本語になってないんじゃない。
118 :
日本@名無史さん:04/10/17 00:22:28
119 :
112:04/10/17 00:32:40
古田さんのを読んでみると、頷けるところもあるけど、
全体的には、電波系って感じがする。
120 :
日本@名無史さん:04/10/17 00:33:06
まだこれやってんのか。
とっくに学会では九州説は滅亡したぞ。
121 :
日本@名無史さん:04/10/17 00:41:07
やっぱ古田じゃダメか。
122 :
日本@名無史さん:04/10/17 00:59:56
いまどき九州説なんて詐欺師古田だけじゃんm。
123 :
日本@名無史さん:04/10/17 01:17:05
南を東にすれば畿内説だと強弁してるが
実際、距離も12000里と書いてあるし
畿内であるはずがないのだが・・w
倭人伝によって邪馬台国の存在がなりたっている以上
倭人伝を否定することは邪馬台国の存在を
否定するのと同義だぞ。
124 :
日本@名無史さん:04/10/17 01:27:26
>123
文句あるなら考古学雑誌に投稿しろよ・
125 :
日本@名無史さん:04/10/17 03:48:29
ウミ・ウナ=淡水であろうが湿地であろうが、広い水面が広がっている場所
ハタ=普通の海 自分が船で航行しているなど現実空間としての海
アマ=海上はるか水平線の彼方 感覚的な空間
126 :
日本@名無史さん:04/10/17 04:50:05
また<雑誌投稿しろよ厨>が現れたよ・・・・
大体、考古学てまだ、学会ではなく研究会だろ?
128 :
日本@名無史さん:04/10/17 07:24:27
その古田説とは、どこを邪馬台国と比定してるのか?
エジプト
130 :
日本@名無史さん:04/10/17 15:28:56
魏志倭人伝でも、頭や体に布を巻いて着物としてるから、
アラビア風の衣装ではある。
言語学的にはインド・タミール地方というのが妥当。
131 :
日本@名無史さん:04/10/17 16:43:41
史書によれば、邪馬台国では蚕を飼ってた
邪馬台国は、やはり北九州。
『魏志倭人伝』には、倭人は蚕を飼い、まゆを集めて絹織物をしていたことが記述されているが、
弥生遺跡からの絹織物の出土は北九州に限られている。4世紀の古墳時代に入り畿内からも出土する
ようになるが、倭人伝の書かれた3世紀の絹の産地と使用していた人々は北九州の邪馬台国周辺のみ
である。畿内にはその後絹織物が東伝伝播したと考えるのが最も合理的であり、このことも九州勢力
の畿内進出を物語る状況証拠のひとつである。
http://kodaiyujin.fc2web.com/kodaisi_roman_12.html
>>125 湿地に広い水面はないだろ
しっち 【湿地】
水けの多い、じめじめとした【土地】。
三省堂提供「大辞林 第二版」より
133 :
日本@名無史さん:04/10/17 17:54:54
134 :
日本@名無史さん:04/10/17 18:41:02
NHKによると弥生人は、春秋戦国時代の戦から逃れてきた中国人らしい。
縄文人は、四角顔で二重、弥生人は面長で一重らしい。
近畿・東海地方は弥生人による稲作が広がり、関東以北は縄文人による
狩猟をしていたらしい。
混血が進み人口が増えた近畿で邪馬台国や大和朝廷が生まれたと思われる。
135 :
日本@名無史さん:04/10/17 18:57:35
豊前は、古来より渡来人である秦氏が住み着いている。
秦氏は秦の末裔であるともいわれており、小野妹子が遣隋使
として中国に出向いた時、中国人の使いに日本にも、中国人の
国があると豊前を紹介しているらしい。一説では、豊前の半数
以上が秦氏一族であったとも言われている。
突然、秦氏が大量に流れ込んだというよりは、弥生時代より中国
から縁故をたどり、徐々にこの地に根を下ろしてきたのであろう。
邪馬台国が成立する土壌は十分にこの地にあったと考えられる。
>>133 >卑弥呼の時代は博多湾沿岸。
ということは、彼は都が転々と動いたと考えているのでしょうか?
137 :
日本@名無史さん:04/10/17 19:59:32
>>135 その泰氏の始祖は除福だって言ってるだろう。
鹿島昇著「倭と王朝」より
坂田武彦(九大)は、国東半島で製鉄移籍から前695年+−40の木炭を発掘し、縄文時代に
おける鉄分かの存在を立証し、考古学界の定説をくつがえした。
上野鉄雄は、「この遺跡の年代は下層に縄文後期の遺跡があり、1・2mの厚さを400年と見
れば前10〜11世紀となる。ここで出土しいた鉄剣は木と鉄の二重の鞘に納まり、荒布で巻き、
二ケ所にメクギがあり、鉄分は鍛鉄であった。」
>>137 なるほど。
で、除福だとしても、問題はなかろう。
>>137 ああ、
>秦氏は秦の末裔
という言葉に反応したのかな?
秦の末裔といっても、始皇帝の末裔とは考えてないよ。
正統後継者は滅亡しているしね。
秦が統一したときに、秦人は中国全土に広がっているし、秦が
つぶれたときに、その人たちは殺されたり逃げたりした訳だから
そういう人達だと思っている。
除福は、詳しくないので分からんが、まんざらありえないことでも
ないかもね。ただ、旅行中、秦の崩壊時、国が荒れて、盗賊にあっけなく
襲われてしまったかもしれないが。
141 :
日本@名無史さん:04/10/17 21:14:51
>>140 除福が日本に渡ったことは歴史上の事実だと中国の学会でも正式に認められてる。
「秦氏は秦の末裔」などという出典も曖昧な俗説よりよほど信頼できる。
142 :
日本@名無史さん:04/10/17 21:32:33
>>136 そう、7世紀まであるからね。
動いたというより、博多湾沿岸という狭い領域に
固定しては捉えていないという感じ。
ほかにも比定した場所があったと思うが覚えてない。
詳しいことは著書に当たってくれ。
>>141 除福=秦の末裔
で問題なかろう。何がそんなに気に入らないのか?
ただ、除福が秦氏を構成していたとしても、その前後にも
北部九州と大陸との往来はあり、秦氏自体混血が進んで
いったであろう。
そもそも、除福が日本を目指したとすれば、日本を知る
中国人がいたからであろうし、既に日本にも、チャイナ
タウンみたいな集落があり、除福はそこを頼ったかも
しれないな。
あと、秦の崩壊による秦人の難民は、除福の数どころではなく
万単位の膨大な数だったに違いない。
(秦の崩壊時、各城下で秦の役人(といってもかなり財力が
あった)達に対する反乱がおきているし、項羽は秦の降伏兵を
20万人生き埋めにした)
だとすると、除福も否定はしないが、逃げ場を失った秦人の難民が
除福の比でなく、大量に九州に逃げてきた可能性も、簡単に切り
捨てるわけにはいくまい。
146 :
日本@名無史さん:04/10/17 22:52:24
秦氏は韓国の任那あたりの氏族だよ。
正確には、万里の長城を作っていた労働者が韓国に南下して国を作った
らしい
147 :
日本@名無史さん:04/10/17 22:58:46
>>145 >万単位の膨大な数だったに違いない。
何万人ものチャイナタウンは、九州にはつくれないから、
中国人は、畿内大和に移住し、大和朝廷を築いたというわけか。
これなら、天孫降臨、神武東征もすべて説明つくな。
>秦氏は韓国の任那あたりの氏族だよ。
勿論そういう話も知っている。
>万里の長城を作っていた労働者
だからもとは秦から来たと書いたわけ。
ただ、その労働者は秦に働かされていた魏、楚などの他国人であり
敵である秦を名乗るはずはないと思うので、秦の難民の説を書いた。
149 :
日本@名無史さん:04/10/17 23:03:56
>>148 だから、除福一族だと何度言ったら。
お前の「説」と、歴史的「事実」とどっちが重みがあると思うんだ?
除福について何も知らないくせに、思いつきで語ってるんじゃねえよ。
>>147 >万単位の膨大な数だったに違いない。
は中国内での話で、勿論全てが九州に来たわけではないだろう。
天孫降臨はいろいろな意味を含めているかもしれないが、
自分は、邪馬台国(豊前・天・豊葦原中国)から日向に進出した
歴史だと思っている。
>>149 大人気ないな。
だから除福も否定してないだろう。
だいたい本論から外れているし、どっちでもスレの
流れでは変わるまい。
なぜそこまでこだわる?
そんな攻撃な態度をとらずに、除福について分かりやすいような
説明するなり、サイトを紹介するなりすればよかろう。
152 :
日本@名無史さん:04/10/17 23:16:56
>>151 >だいたい本論から外れているし
外れてないよ。
いつ誰がどのように文明を日本に伝えたか?という検証は、
邪馬台国がどこにあったか多いに影響する話だ。
朝鮮半島経由か大陸から直接黒潮に乗ってきたかでも、
漂着地点が大きく異なる。
自分自身の見識不足を棚に上げて大人気ないもないものだ。
>>152 >漂着地点が大きく異なる。
どこに漂着しようとも、秦氏が当時最も集中していたのは
豊前であるのだが。
>>135
154 :
日本@名無史さん:04/10/18 00:46:45
新羅語で海は「パタ」だから、秦氏は新羅出身ということでいいだろう。
ワタツミも新羅系の神だし、海を治めたスサノヲも新羅出身。
宇佐・出雲・吉備は新羅人のコミュニティだったんだな。
155 :
日本@名無史さん:04/10/18 01:06:18
項羽と虞美人の子供がひそかに
生き延びて一族をひきつれ日本に渡り、それが
弥生人になっていったんだよ。
156 :
日本@名無史さん:04/10/18 01:21:35
項羽は楚人でしょ?
虞美人は秦人なのか?
ただの釣り?
157 :
日本@名無史さん:04/10/18 01:36:22
話を蒸し返して悪いのだが、1万年前に奈良盆地が海だったというのはうそだろ?
縄文海進は5000年前ぐらいが最大で、それでもせいぜい5mの海面上昇。
1万年前というとちょうど海進が始まる時期で、むしろ海面はマイナスじゃないのか?
159 :
日本@名無史さん:04/10/18 02:08:53
>>158 海面は関係ない。
奈良盆地が隆起したのだから。
>>158 BC100ごろ大阪には河内湖が、奈良盆地には湖があったはず
163 :
日本@名無史さん:04/10/18 02:38:59
九州論者は、地質学も理解できないのか。
164 :
日本@名無史さん:04/10/18 02:46:44
古田がいい例だが、九州論者は、科学的な資料には目もくれず、
地名だの神社だの文献だの類似した語句ばかりを集めることに終止して、
都合のいい語呂合わせに満足してるだけ。
畿内説が提示した科学的な証拠は捏造扱い。
科学的に示された遺物の年代や組成や分布の数字の分析を理解するだけの能力がないからだ。
相対性理論が理解できないコンノケンイチと同レベルなんだよな。
ミャオ族の流れを汲む葛城王朝とは、太陽・銅鐸祭祀を執り行う呪術王朝
であった。各地に神の依代・銅鐸を配り、その霊威は畿内周辺にまで及んだ。
しかし、淀川水系豪族に担がれた三輪王・開化に王位を簒奪されてしまう。
三輪王朝は東海・北陸・吉備・丹波の王族たちと大同団結し、
大ヤマト連合を成立させる(マキムク出土土器から類推)。
北九州の倭国王の座、鉄ルート奪取のためであった。
しかし、ヤマト連合も内部に火種を抱えていた。
諸国王はそれぞれに前王朝の正統なる後継者を自称し(記紀の四道将軍の
記述。事実、各々は長年の交易を通じて血縁関係はあったのではないかと
思われるが)、倭国は大いに乱れた。
三輪王朝・崇神は、前王朝最後の大王・孝元の忘れ形見・トトヒモモソ媛を
女王として共立することで連合の結束を図った。
トトヒモモソ媛はヤマトの神南備・三輪山神の妻となり、
父王譲りの霊能力で衆を能く惑わしたと倭人伝には記されている。
>>164 最近の考古学的成果から目をそむける九州説は、悪あがきにしか見えない。
捏造だって? そんな事言い出せば「何でもあり」になるな。
まず、神功皇后と卑弥呼が別人だということを、しっかりと認識することだ。
それで、邪馬台国とやらが畿内にあるというならば、記紀とりわけ日本書紀に
すごく多大に卑弥呼とその邪馬台国の記事が載るはずではないか?
それが殆どと言っていい位、記事が無い〜ということは、大和に邪馬台国が無かった
ということだよ。邪馬壱国は九州に存在したのが正なんだよ。
169 :
日本@名無史さん:04/10/18 10:50:29
邪馬台国では、蚕を育て絹織物を作っていた。
よって、北九州に決定。
170 :
日本@名無史さん:04/10/18 10:56:36
171 :
日本@名無史さん:04/10/18 15:11:42
いままでなんとなく九州に邪馬台国があったのかなあって思ってたけど、
ようやく目が覚めました。
やっぱり畿内を中心に発展していったと考えた方が納得いきます。
昔の考えが素朴な夢のように思えました。
邪馬台国とやらが畿内にあるというならば、朝廷と邪馬台国とは近い位置にあるわけ
だから、当然両者は親交があったか戦争のようなことが大なり小なり起きていたこと
になる。それならば、日本書紀に親交または戦争のような記述が可也なければなるまい。
それが0にちかい状態で紀に記述がないのは考えられない。相当の紙面があるはずだろう。
ということは、邪馬台国が畿内に無かったから記事がまず無いわけであり、畿内から
九州の遠方に同国があったとすれば、記事が0に近いという理由が判然とする。
邪馬壱国は九州にあったのだよ。
多く、日本書紀に邪馬台国の記事があり三国志の記事に邪馬台国の記事が載っていないならば
邪馬台国は大和にあったことになる。しかし現実はこの逆である。
邪馬壱国が九州にあったから、中国の文献にその記事があり、大和畿内にないから日本書紀に
その記事が無いわけということだ。魏志倭人伝が日本書紀のなかの一部を構成する文ならば
畿内説が正しいことになるが、倭人伝は中国側の文献内にある事実とは、それが畿内ではなく
邪馬壱国は九州にあったことを裏付けている。
174 :
日本@名無史さん:04/10/18 17:49:47
>>172-173 何が言いたいのか良く分からない。
記紀が書かれた当時は、倭人伝の時代から数百年経っており、卑弥呼が誰のことなのか
よく分からなくなっていた。だから神功皇后に当て嵌めた、でいいのでは?
>>175 ならば記紀の卑弥呼以前の記述もさらに「よく分からなくなっていた」ということ
になる。記紀にはかなり卑弥呼の時代以前のことが詳しく載っている所が多々ある。
だから、記紀に同時代以前のよりも卑弥呼の記述がそれと同じ位あってもよさそう
ではないか。それじゃ無記述なのはどう説明するの?
魏志倭人伝の作者が神功皇后に当てはめたと貴殿は解釈するのかい?
映画や推理小説のようにひとり二役をやるとま〜ず外れ。ただ稀には例外あり。
177 :
日本@名無史さん:04/10/18 20:54:17
記紀の内容は、昔の人の民話を寄せ集めたり創作したものばかり。
資料的価値は無い。
>>177 じゃぁ、どの文献だと神代〜神武〜推古〜文武の世の資料的価値があって信じられるの?
まさか「無い」とは言わんよね?
179 :
日本@名無史さん:04/10/18 22:08:37
なんで九州説信者って考古学雑誌に論文ださないの?
もしかしてレベルが低すぎて受け付けてくれないんですか?
180 :
日本@名無史さん:04/10/18 22:09:51
181 :
日本@名無史さん:04/10/18 22:55:42
182 :
日本@名無史さん:04/10/18 23:27:29
>177
なことはない。
詐欺師の妄想を寄せ集めた和田家文書は、まったく価値がないが。
183 :
日本@名無史さん:04/10/18 23:40:43
記紀に書かれてある事は主に倭の五王の頃からだと思う。
卑弥呼はアマテラスだと思うよ。
天の岩戸が倭の大乱
184 :
日本@名無史さん:04/10/18 23:46:05
神功皇后がなぜ仲哀天皇以外の子を産んだ暗示が
記紀において成されているのか・・・
185 :
日本@名無史さん:04/10/18 23:54:41
「記紀が書かれた当時、卑弥呼のことが誰かわからなくなっていた」
なんてバカなこと言ってる奴まだいるの?
>>184 俺は崇神から仲哀までの歴史を、
非応神系の旧畿内王権の歴史が映しこまれたものと見ている。
応神天皇が実際は九州出身で、
仲哀天皇にクーデターを仕掛けた人間だとすれば
神功皇后の「出産を遅らせた」の記事は、仲哀〜応神の時代に起こった
王朝断絶を暗示しているのでは?
186 :
日本@名無史さん:04/10/19 05:54:50
>>185 稲荷山古墳鉄剣銘文まではそんなこともいったけど。
銘文にはヲワケの直系系図かあり、八代前の祖はオ
オヒコとある。オオヒコといえば崇神の四道将軍の一
人大彦とだれでも思う。
一方ヲワケの使える雄略天皇は崇神から数えて9世
代目と偶然ではありえない一致。すなわち天皇系図
の信憑性まで高めているということ。
さらに「世々為杖刀人首奉事」とヲワケの祖先が代々
天皇に使えていたことが記されている。
187 :
日本@名無史さん:04/10/19 07:53:27
辛亥年七月中記乎獲居臣・・・・・辛亥年(471年)七月中ヲワケ臣記す
上祖名意冨比[土へん+危]・・・上祖名オオヒコ
其児多加利足尼・・・・・・・・・其児タカリスクネ
其児名弖巳加利獲居・・・・・・・其児名テミカリワケ
其児名多加披次獲居・・・・・・・其児名タカヒジワケ
其児名多沙鬼獲居・・・・・・・・其児名タサキワケ
其児名半弖比・・・・・・・・・・其児名ハテヒ
其児名加差披余・・・・・・・・・其児名カサヒヨ
其児名乎獲居臣・・・・・・・・・其児名ヲワケ臣
世々為杖刀人首奉事・・・・・・・世々杖刀人の首(おびと)として奉事を為す
来至今獲加多支鹵大王寺・・・・・今に至りてワカタケル大王寺に来たる
在斯鬼宮・・・・・・・・・・・・斯鬼(シキ)宮にあり
時吾左治天下令・・・・・・・・・吾天下の令を左治し時
作此百練利刀・・・・・・・・・・此の百練利刀を作る
記吾奉根原也・・・・・・・・・・吾が奉る根原を記す也
* 大王寺にある寺は役所とか、政務を取る所の意
188 :
日本@名無史さん:04/10/19 09:36:50
>>185 >「記紀が書かれた当時、卑弥呼のことが誰かわからなくなっていた」
>なんてバカなこと言ってる奴まだいるの?
書いた人は、よく知らなかった可能性があるかもね。
『日本書紀』を書いたのは、唐人1世2人(続守言と薩弘恪)と山田史御方ともう1人。
内容からして、邪馬台国や卑弥呼のことは、あまり知らなかったと思われる。
189 :
全くしらんが:04/10/19 09:41:36
宇佐から山の方に入ると耶馬渓ってあるけど、関係ないの?。
教えてエロい人
190 :
日本@名無史さん:04/10/19 10:42:20
倭人伝自体が与太話て可能性はないの?
191 :
日本@名無史さん:04/10/19 10:45:45
192 :
日本@名無史さん:04/10/19 10:51:43
>>153 日本書紀、古事記では吉備の葉田(はだ・秦)に妃をおって応神、仁徳が来る。
神武はここの高島宮から2.11に大和に向かう表記となってる
吉備秦の高梁川たたい堰工事、3世紀最大規模の双方円墳墓(これが発展して
奈良のまきむく遺跡の吉備方式に繋がる、埴輪の元の特殊筒、30キロ相当の異常水銀
使用)、4世紀最大の造山古墳(国内4位)の存在から初期大和連合主導者は吉備が有力
>>154 パタ(海)説は語呂合わせでしょう、ハダというのであり、一族伝承でも新羅は経由地。
書紀では頑固に「始皇帝6世弓月王後継」を申告している、半島系のほうが朝廷では優位
なのだから秦に固執する理由が一族にはある。古老によれば、どうも吉備には紀元前から
古い一族は居住していたらしい。となると華僑植民都市説もあり得る、徐福伝承もある。
秦氏は何度も渡来の波があるらしい、うちは呉と交易していたらすい。太子・河勝時代の
秦廃寺の瓦とか祭祀グッズとかは畑を掘ればザクザク出てくる、寺礎石とかもでかい。
193 :
日本@名無史さん:04/10/19 11:14:16
ヨン様が百済王の末裔らしい。
天皇家と遠い親戚だよ。
百済から来た弓月君が「百済から120県の民を率いて来たが新羅人が邪魔をしているので皆
伽羅国に留まっています。」と言ったので葛城襲津彦を遣わした。(応神紀14年条)
弓月君が襲津彦と共に帰って来た。(応神紀16年条)
秦氏の首長と見られる京都市左京区太秦の古墳は横穴式石室墳を持つ百済系のもの。
秦氏は百済系。何で新羅系なんだ?当時の大和政権にとって新羅は敵国。
現在の北朝鮮みたいなもの。その国から大量にやってきて政府の中枢で大王達と
共に政治を動かすわけないだろ?大王が暗殺されるかもしれないし国が乗っ取られるかも
しれない。現在の政府で北朝鮮の高官が3000人位部下・親族を連れてやってきて内閣官房
長官だの大蔵大臣だの要職に就けるのか?自分の住んでる隣に千人位の北朝鮮人集落が
出来たら抵抗なく普通に受け入れること出来るのか?大量移民を受け入れられるのは当時の
同盟国百済以外にありえるか!後の白村江の戦いは百済系の2世・3世にとって自分達の父や祖父の
出身国である百済が本当に滅びるという現実に居ても立ってもいられなかったという感情的
なものも大きかったはずだ。
195 :
日本@名無史さん:04/10/19 14:38:43
新羅が日本を乗っ取って天皇になったんだろ。
196 :
日本@名無史さん:04/10/19 14:44:49
>>195 その逆だ。朝鮮正史「三国史記」の新羅第四代王・脱解尼師今の記述に、
倭人が海を渡って新羅王になったことを書いている。
「昔、倭国の東北千里にある多婆那国の王が、女国の王女をめとって妻とし、生まれた
大卵を不詳なことと言い、捨てるように言ったが、妻は忍びず箱に入れて海に流した。
その箱は初め金官加羅国(任那)に着いたが、再び流されて辰韓(後の新羅)
に着いた。その箱を開いて出てきたので脱解と名付けられた。」(要約してます)
多婆那を弥生時代末〜古墳時代初期に栄えた丹波と見る説がある。
197 :
日本@名無史さん:04/10/19 15:07:43
>>196 箱詰めされた赤ん坊が海を渡って拾われた国の王になったなどと信じてるのか?
この基地害。
198 :
日本@名無史さん:04/10/19 15:09:11
>>195 > 新羅が日本を乗っ取って天皇になったんだろ。
pu
三国史記・新羅本記読んでみろよ。
いったい何度倭の侵攻受けている?
しかも紀元前から。
その逆はただの一度もない。
199 :
日本@名無史さん:04/10/19 15:16:06
>>197 朝鮮正史「三国史記」には大まじめに書いているのだ。
修飾を除くと倭人が新羅王になった背景が見えてくるだろう。
200 :
日本@名無史さん:04/10/19 15:18:50
>>197 > 箱詰めされた赤ん坊が海を渡って拾われた国の王になったなどと信じてるのか?
はっきりとは書けない事情があったのでしょう。
倭人が王となっては都合が悪いだろうしね。
重臣瓢公については倭人とはっきり記載があるな。
倭人王脱解の下、倭人である重臣瓢公に発見されたのが
新羅金氏の祖金閼智。
新羅ってもともと倭人の国ではなかったのか?
201 :
日本@名無史さん:04/10/19 15:50:45
このスレッドとの関連で言えば三国史記にも卑弥呼は
出てる。
>>165 神懸り的に言って、大体それに近い。
請合うよ。
太陽・銅鐸祭祀はインド系で、葛城といわず、
弥生時代の日本に広がっていた民藁だと思うけど。
そのルートを伝って後から入って来たのが、皇尊を頂くいわゆる天皇家。
これも太陽信仰で、皇族巫女による神託政治で畿内の銅鐸系を凌駕する。
東方移住の途上で従った、氏族(技術集団)を多数連れていた。
卑弥呼は高千穂の峰に馬を飼っていた天孫族の巫女。
天皇家と親戚の和邇(ゥワイ)氏お抱えの巫女となり、皇尊の政治を占う最高位の巫女となった。
布留遺跡が代々天皇家の本拠であり、大ヤマトの都でもあった。
天皇家の従えていた東南アジア系氏族、それ以前より盆地南部に割拠していた
磯城族の影響があり、魏志倭人伝に語られている様な南方系・海洋系風俗が強かった。
203 :
日本@名無史さん:04/10/19 23:22:25
>「記紀が書かれた当時、卑弥呼のことが誰かわからなくなっていた」
>なんてバカなこと言ってる奴まだいるの?
お前さ〜。バカとか書くなら根拠を示せよ。
肖古王の120年繰り上げのことを言ってるのか?
205 :
日本@名無史さん:04/10/20 00:18:40
>>194 大量移民を受け入れられるのは当時の同盟国百済以外にありえるか!
どうかな、一般的に蘇我は百済利権、秦氏は新羅、高句麗利権
東国には日本海岸や越のほうから直接、高句麗系渡来が大量に植民してませんか?
吉備は星川王子反乱前後、任那守護に飛ばされた本家筋の王が新羅と連携し、大和に
反乱しようとする直前、吉備内部の大和系宮廷クーデターで返り討ちに会っている。
星川は雄略あたりが吉備の黒姫を本家から略奪し生ませた皇子。
後に吉備新羅連合反乱の第二弾として、皇后黒姫が星川皇子にクラを占拠させ実権を
握ろうと吉備から船団まで呼ぶが、これも失敗し分国処分を受けている。
当時の朝廷は連合政権で、百済、新羅、高句麗、その本家筋の鮮卑系トルコ系軍閥(後の隋)
などから軍事顧問団が送り込まれていたらしいし、製鉄所は大陸の前線に送る武器などの
管理を直接大陸系武器商人、軍閥がやっていた。百済一辺倒とか、そんな単純じゃyない。
206 :
日本@名無史さん:04/10/20 00:27:29
吉備は9世紀頃迄大和と連合しつつまだ独立を維持していた、うちの一族は
天智の時に白村江に 一大水軍を派遣した。吉備の地元には、秦氏の吉備軍が結集した二万(ニマ)
という地名が今も残る。敗北し2000名の唐の GHQ もどきが進駐して捕虜返還になった時
に相当数が戻って来ている。勝利軍の唐/新羅連合が早くも瓦解し、唐側が
同盟をもとめてきたからだ。(先の大戦戦後状況と似てる)
その後、吉備は当時最先端の巨大山城、鬼の城を建設するがこれは日本書紀には出てこない。
2つの定点、前660年の神武即位と239年の卑弥呼の魏への遣使に
基づいて紀は書かれている。
昔から王朝に伝わる帝紀には、卑弥呼のことは一切書かれていなかった。
対中国を意識して書かれた紀だから、倭人伝の記述を無視は出来ない。
数百年前の卑弥呼が一体誰なのかは分からないにしても、史書としての
信憑性を増すため、体裁を整えるためには、卑弥呼の記述は是が非でも必要であった。
神功紀はそういった必要性にかられて、創作されたものではないかと思う。
モデルは斉明天皇か?
209 :
完全理論武装論者:04/10/20 00:37:14
>>202 ごめん。
折角ですが、君の話と私の話とでは、かなりの食い違いがあると思うのだが。
211 :
日本@名無史さん :04/10/20 01:41:30
212 :
日本@名無史さん:04/10/20 07:23:45
185 :日本@名無史さん :04/10/18 23:54:41
俺は崇神から仲哀までの歴史を、
非応神系の旧畿内王権の歴史が映しこまれたものと見ている。
応神天皇が実際は九州出身で、
仲哀天皇にクーデターを仕掛けた人間だとすれば
神功皇后の「出産を遅らせた」の記事は、仲哀〜応神の時代に起こった
王朝断絶を暗示しているのでは?
186 :日本@名無史さん :04/10/19 05:54:50
>>185 稲荷山古墳鉄剣銘文まではそんなこともいったけど。
銘文にはヲワケの直系系図かあり、八代前の祖はオ
オヒコとある。オオヒコといえば崇神の四道将軍の一
人大彦とだれでも思う。
一方ヲワケの使える雄略天皇は崇神から数えて9世
代目と偶然ではありえない一致。すなわち天皇系図
の信憑性まで高めているということ。
さらに「世々為杖刀人首奉事」とヲワケの祖先が代々
天皇に使えていたことが記されている。
213 :
日本@名無史さん:04/10/20 07:39:00
>>185 >>186 上の方のレスで、崇神天皇の「崇」に注目してた人がいるけど、
「神様の祭り方を間違えて早死に」したから「崇」がつけられた、
という今までの説明は安直すぎる気がするし、
応神天皇以降の人たちは、
崇神天皇(のモデル。旧畿内王権の創始者。スサノオ?)の怨霊化を恐れて「崇」、
旧畿内王権の創始者を称えるために、「神」をおくったのではなかろうか?
214 :
日本@名無史さん:04/10/20 10:18:43
県立橿原考古学研究所は、"卑弥呼の墓,,とも呼ばれている大型前方後円墳
「箸墓古墳」ーー中略ーー出土した土器の形式から、築造時期を260-280年ごろと推定。
被葬者について、248年ごろに死んだ女王卑弥呼や続いて即位した女王壹与ではなく、
その次に擁立された男王だった可能性を示した
ふーん、そうなると、時期的には吉備のたてつき墳墓が規模、時期、内容からみて
卑弥呼墓地ということか、鬼道、朱好きと倭人伝にあるし、水銀40キロ使用、呪縛イワクラ
埴輪の源流の特殊器、三輪の巫女集団の存在というアイテムも魅力的でそそる。
文献学はどうか知らないが、考古学的状況証拠からは他にあの時期、中央集権的墳墓
はないと思うが、専門家的にはどうなんだろう?
215 :
日本@名無史さん:04/10/20 12:58:50
>>205、206
おおかたそんなとこなんだろうけど、小林デンパとか言われちゃうかもね。
長野の古墳はほとんど高句麗系積石塚。越ルートだろう。
秦氏をパトロンとした聖徳太子は新羅仏教で、先生は高句麗の僧。
百済仏教の蘇我氏とはちょっとちがったらしい。
216 :
日本@名無史さん:04/10/20 13:06:38
>>205-206 >当時の朝廷は連合政権で、百済、新羅、高句麗、その本家筋の鮮卑系トルコ系軍閥(後の隋)
>などから軍事顧問団が送り込まれていたらしいし、製鉄所は大陸の前線に送る武器などの
>管理を直接大陸系武器商人、軍閥がやっていた。
>吉備は9世紀頃迄大和と連合しつつまだ独立を維持していた、
禿しく電波を発信しているな。
217 :
日本@名無史さん:04/10/20 13:08:49
>>215 > 長野の古墳はほとんど高句麗系積石塚。越ルートだろう。
捏造するな糞チョン。長野にある雑魚・群集墳のことだな。
大規模な古墳は前方後円墳だ。
218 :
日本@名無史さん:04/10/20 15:10:59
最近は電波が強すぎてツッコミが入れ難い。
219 :
日本@名無史さん:04/10/20 21:36:48
大塚先生のお話
つまり積石塚は問題の墓制であって、例えば大室の五〇〇基の積石塚が
すべて渡来系集団のものと考えるのは無理だろうと思っていますが、
しかし大室古墳群のスタートである合掌型石室に葬られた人たちは明らかに渡来系の人たちだと、
私は思います。(中略)
文献史学の上では、朝鮮半島から、百済や新羅や高句麗系の人が、
例えば武蔵の国に千何百人も移住してきて新しく高麗郡を作ったということは事実です。
そういうことがあったけれども、もっと早く五世紀に朝鮮半島から技術を持った集団が日本列島にやってきて、
日本各地に住み、新しい技術を駆使して生産に従事したということが、考古学的に言えると私は思っています。
220 :
日本@名無史さん:04/10/20 21:58:17
うるせえ馬鹿
221 :
日本@名無史さん:04/10/21 09:04:03
大塚って誰よ
222 :
日本@名無史さん:04/10/21 09:16:49
邪馬台国は西遷して九州王朝になった。
223 :
日本@名無史さん:04/10/21 10:08:24
>>216、218
電波というほどでもないだろ
8割の真実に2割の想像
224 :
日本@名無史さん:04/10/21 11:23:11
225 :
日本@名無史さん:04/10/21 11:41:25
>>223 電波に共振している香具師には分からないらしい。
226 :
日本@名無史さん:04/10/21 12:02:00
「旧唐書」には、
【或云日本舊小國、併倭國之地。】
とある。
したがって、6世紀初め頃、倭国(=邪馬台国後継の磐井王朝)を
新興の日本(=新興大和王朝)が併呑したのであろう。
227 :
日本@名無史さん:04/10/21 12:23:21
>>226 一部だけを引用するなよ。3説を併記している。
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。
或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。
或云日本舊小國、併倭國之地。」
228 :
日本@名無史さん:04/10/21 13:20:25
@【日本國者、倭國之別種也】
「倭国の別れた種」つまり、倭国王の一族が分家して、日本国を建てた。
A【或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本】
B【或云日本舊小國、併倭國之地】
AとBは矛盾する。しかし、@を考えると、
九州の倭国の王の一族が、近畿に進出して日本国を建て、
その後、九州の倭国も併呑したと考えるのが、
最も妥当であろう。
229 :
日本@名無史さん:04/10/21 13:37:03
次のは、妥当な見解だと思う。
旧唐書の有名な「日本国は倭国の別種なり」だが、これは、よく言われているような「日本国は倭
国と別の国、別の種類の国」というような意味よりも深い。ここで述べられていることをあえて強調
すれば、「日本国は、倭国と同一の父祖から発生し、系統が別れた国だ」ということになる。同一血
統から別の血統になった。それゆえ、旧唐書が倭国と日本国を分離して記載しているのは当然すぎる
ことなのである。なお、類似の表現として百済について「扶餘の別種」とある。注目すべきは、新羅
について「弁韓の苗裔」としている点で、中国史書では、種(血統)の連続性を描き分けている。
「日本国は倭国の別種なり」の中の他の言葉も注目しておこう。まず、「国」だ。
「国」という言葉は、当然ながら、古代中国では、現代のような「国家」を意味しない。そもそも
旧字の「國」は「或」を「口」で囲んでいるが、意味は囲いを示す形象の「口(い)」と音価の「ワ
ク」にある。「ワク」の音価の意味は境界である。そこで、「国」の意味をそのままとれば、フラン
スのパリのように境界をもった都市になる。パリは囲まれた城壁都市なので、古代中国の語感で言え
ば「巴里国」である。冗談だが、「西夷剛都人条巴里国」といったふうにもなる。
天然の囲いを利用する日本の盆地都市文化から「国」の意味をとらえると、むしろ、白川郷のよう
な「郷」と理解したほうがいいかもしれない。もちろん、海上交易で利潤を上げていた区域も多く、
すべての郷が盆地にあったというわけではない。川や海で隔てられる都市もある。
いずれにせよ、古代ではこうした郷が現在の日本諸島のなかに多数存在した。隋の使者は、瀬戸内
の地域で「秦王国」という華夏人の郷の存在を報告している。しかもこの郷では倭族と異なる言語が
使われていた。生息している人種も倭人ではない。「別種」である。
くどいようだが、この「秦王国」は国家ではない。同じように「日本国」もこの時代、国家を意味
していない。日本諸島内のある都市にすぎない。
http://www.asahi-net.or.jp/~CY1N-STU/kodaishi/kokumei.html
230 :
日本@名無史さん:04/10/21 14:33:26
隋書「倭国伝」の裴世清による紀行文を見てみると、
(原文)
明年(608年)、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望身冉羅(タムラ:済州島)國、
經都斯麻(対馬)國、迥在大海中。又東至一支(壱岐)國、又至竹斯(筑紫)國、又東至秦王國、其人
同於華夏、以爲夷州、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。倭王遣小徳阿
輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多毘、従二百余騎郊勞。既至彼都、其王與
清相見、大悦、・・・
(訳)
・・・筑紫国があり、秦王国があり、さらに十餘国があって、筑紫国より東の国は全て倭国の支配圏(
「皆附庸於倭」)であり、倭王が(小徳:第2等級の廷臣)阿輩臺という人物(と従者数百人)を遣っ
て(行列・楽隊つきで)出迎えさせ、それから10日して、今度は(大禮:第7等級の廷臣)哥多毘とい
う人物(と従者2百人)を遣わして都の近く(「郊」は国都の城外の意味)でねぎらった。それから、
倭国の都に到着して倭王と会った。・・・
これによれば、7世紀初め、奈良に倭国があったが、
その領域はさほど広くはなく、他にも多くの国があったようだ。
231 :
日本@名無史さん:04/10/21 15:25:34
232 :
日本@名無史さん:04/10/21 17:38:41
233 :
日本@名無史さん:04/10/21 18:23:59
チョンうざい
234 :
日本@名無史さん:04/10/21 18:26:51
軍閥・・・・
なんちゅう感覚で古代史を見ているんだ。
235 :
日本@名無史さん:04/10/21 18:29:05
城壁都市は日本には無いですよ。
すべて城下町です。
236 :
日本@名無史さん:04/10/21 19:08:28
>>234 じゃああの頃、国民軍でもあったのか
王直属軍なんて、半島から日本にかけて存在しないと思うのだけど
蘇我も物部も軍閥じゃなければなんだ?大王家から傭兵したのか藁
アメノヒボコなんて典型的亡命軍か半島軍閥だろ
237 :
日本@名無史さん:04/10/21 19:14:57
応神大王は金官加羅からやってきた傭兵隊長
238 :
軍閥:04/10/21 19:26:56
軍閥(ぐんばつ)とは、軍事力を中核にして一地方もしくは、一行政区分を力で治め、
中央政府とは独自な行政システムを作る、もしくは、中央政府に抵抗する組織の事。
軍閥は古くからあり、その出身には二つある。
ひとつは政府が弱体化した時に政府の軍の一部が独自の行動を取り地方に割拠した物。
もうひとつは政府に抵抗するため集まった独立の軍隊。
後者には強盗や山賊集団から始まった物もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
239 :
日本@名無史さん:04/10/21 19:30:34
邪馬台国東遷王朝である崇神王朝を
朝鮮からやってきた、応神がのっとった。
鎌倉幕府を作ったのが源氏で、それを
のっとったのが北条氏。これと似たようなもん。
240 :
日本@名無史さん:04/10/21 19:48:09
蘇我氏、物部氏
軍閥ねぇ
あはははははははは
241 :
日本@名無史さん:04/10/21 19:51:25
とりあえず、謝罪しとけ
242 :
日本@名無史さん:04/10/21 19:52:10
243 :
日本@名無史さん:04/10/21 20:03:08
大陸系武器商人
これもすごいな。
244 :
日本@名無史さん:04/10/21 20:26:24
軍事顧問団
また、高度な概念を
245 :
日本@名無史さん:04/10/21 20:46:35
軍閥
笑って悪かった。
正しいんだけど軍閥の源氏とか
日本人はあまり使わない。
246 :
完全理論武装論者:04/10/22 01:20:00
私は小さい頃からシャーロックホームズの本を何十冊も読みあさった
シャーロックホームズの難事件で犯人を特定する推理はすばらしかった
現場に残された証拠はもちろんのこと、ほんの小さな現場の変化でも見逃しはしなかった
また、事件の関係者全員のささいな言動や細かい仕草などや、服装から履いている靴、さらには
靴についている泥や洋服に付着している花粉、ありとあらゆる面から推理して犯人を特定していった
私はシャーロックホームズの本を読めば読むほどはまっていった。
物証や証拠がなくても現場の変わった様子や変化、関係者の言動や態度などの心理で
犯人を特定することができるのだと、私は多くのことをシャーロックホームズの本で学んだ
あなたたちも一度シャーロックホームズの本を読みあさってはどうだろうか?
史料だけで歴史を判断することはきっとなくなりますよ
247 :
完全理論武装論者:04/10/22 01:25:28
歴史や軍事を史料でしか語れない人が多いな
もっと心理学や深層心理を勉強した方がいいよ
名探偵コナンやシャーロックホームズを見たまえ
現場に残された証拠だけで犯人を探し出したりはしない、被害者の置かれた状況や心理
加害者と思われる人物の状況や心理など、ありとあらゆる面から推理して犯人を捕まえる
日本人に欠けているのは物証(文書史料・発掘史料)でしか、推理できないチャチな脳みそだ
いいかげん史料だけで推理するのはやめたまえ
名探偵コナンやシャーロックホームズたちに笑われるよ
248 :
日本@名無史さん:04/10/22 09:20:13
隋書「倭国伝」を虚心に読めば、
日本国家の形成が、ふつう思われているよりもかなり遅いことがわかる。
日本書紀でだいぶ誤魔化したが、
その日本書紀ですら、大方を中国人に書いてもらった。
(原文)
明年(608年)、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望身冉羅(タムラ:済州島)國、
經都斯麻(対馬)國、迥在大海中。又東至一支(壱岐)國、又至竹斯(筑紫)國、又東至秦王國、其人
同於華夏、以爲夷州、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。倭王遣小徳阿
輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多毘、従二百余騎郊勞。既至彼都、其王與
清相見、大悦、・・・
(訳)
・・・筑紫国があり、秦王国があり、さらに十餘国があって、筑紫国より東の国は全て倭国の支配圏(
「皆附庸於倭」)であり、倭王が(小徳:第2等級の廷臣)阿輩臺という人物(と従者数百人)を遣っ
て(行列・楽隊つきで)出迎えさせ、それから10日して、今度は(大禮:第7等級の廷臣)哥多毘とい
う人物(と従者2百人)を遣わして都の近く(「郊」は国都の城外の意味)でねぎらった。それから、
倭国の都に到着して倭王と会った。・・・
249 :
日本@名無史さん:04/10/22 09:47:07
ホームズ読んだけどつまんねーw
250 :
日本@名無史さん:04/10/22 10:17:34
名探偵コナンやシャーロックホームズは、創作話だよ(ゲラゲラ
妄想の世界で楽しめるように、わざと作者が面白く書いている。
娯楽なんだよ。
妄想と学問の混同を推奨するとは、阿Qの国の人ですか?
娯楽に感動して史実まで物証や資料無しで
解釈・正当化しようとるするチャチな脳みそは、
現代学問では、いりません。
251 :
日本@名無史さん:04/10/22 10:30:14
資料や物的証拠の事実検証も無しに、多数の人々が
妄想を信じて行動すると、
噂話で何万人もの人々が暴動を起こした、昨日の
中国・重慶のような事件がおきます。
日本はすでに、そのような過程を通り過ぎたのです。
日本では歴史の反省もあって、事実検証なしに
多数の人々が妄想を信じるようなことは、
学問として認められません。あしからず。
252 :
日本@名無史さん:04/10/22 12:26:41
>>248 >行至竹島
ここも訳してほしいな。
あははははははははは
253 :
日本@名無史さん:04/10/22 12:30:19
>>248 > 日本国家の形成が、ふつう思われているよりもかなり遅いことがわかる。
具体的にどこを指すのよ。
254 :
日本@名無史さん:04/10/22 12:33:54
どうでもいいが半島はよほど送れていたということなんだろうな
「新羅百濟皆以爲大國多珎物並敬仰之恒通使往來」
(隋書倭国伝)
255 :
日本@名無史さん:04/10/22 14:34:35
>>248 >阿輩臺という人物
>哥多毘という人物
これ、何て読むの?
256 :
日本@名無史さん:04/10/22 15:13:42
>>255 粟田と額田部が通説です。
「日本書記」には額田部連比羅夫が出迎えたとあるので確実でしょう。
粟田については隋に関連する記述はありませんが
3年後の推古19(611)年5月5日条に、額田部連比羅夫とペアで記されている
粟田細目臣と見る説が有力です。
257 :
日本@名無史さん:04/10/22 17:43:19
「あわた」?
「かたべ」?
258 :
日本@名無史さん:04/10/22 18:42:13
ぬかたべ
259 :
日本@名無史さん:04/10/22 20:02:17
邪馬臺国は、「やまた」であって「やまと」ではないことが証明されたな。
260 :
日本@名無史さん:04/10/22 23:29:49
もしかして、ヤマタのおろちって、大和のおろちじゃ?
大和と出雲が戦ったという
261 :
日本@名無史さん:04/10/22 23:46:55
ブツクサ言うより タイムマシンの開発に専念すべきだな
262 :
日本@名無史さん:04/10/22 23:49:20
>>260 それはおかしい。
記紀神話にヤマタのおろちが掲載されてるのに、
出雲風土記には掲載されてないからな。
ヤマタのおろち=大和朝廷ではないだろ。
263 :
日本@名無史さん:04/10/23 00:48:07
だから、2千年前は土木技術が未発達だったから、
稲作は、低湿地よりも山手の土地で行われていたのだろ。
山田(=山の中の田んぼ)、山門(=邪馬台)などが、
大和(やまと)の語源だよ。
264 :
日本@名無史さん:04/10/23 03:05:02
>>260 出雲の元の国名はヤマタ
スサノヲがヤマタ国のオロチを倒し建国したのが出雲
天孫降臨神話は高天原(ヤマタ)が滅んだため僻地の日向に移ったことを現している
高天原は前ヤマタ国
神武が建国した大和朝廷は後ヤマタ国
265 :
日本@名無史さん:04/10/23 06:42:04
俺、山田健次郎
>>264 ヤマタは八幡(ヤワタ、バハン、ハチマン)となにか関係ありますか?
>>266 いえ、どちらかと言うと千葉県の八街の方が関係が深いといえます。
268 :
日本@名無史さん:04/10/23 17:14:46
「近畿地方の銅鐸文明の滅亡」
「近畿大和朝廷に銅鐸文明の記憶なし、日本神話に銅鐸は全く出現せず」
「近畿弥生文化と古墳文化の断絶」
「九州の弥生文化と近畿古墳文化の連続」
「九州の鏡・剣・玉が天皇家の三種の神器となった」
269 :
日本@名無史さん:04/10/23 17:15:25
大和〜平安の頃の朝廷は
勤務は午前中だけだからね。
だからこそ「朝廷(ちょうてい)」なわけ。
そこから天子が政治を行う所という意味になった。
270 :
日本@名無史さん:04/10/23 17:55:49
271 :
日本@名無史さん:04/10/23 21:27:45
>>270 >269って当らずとも遠からずではないか?
俺も昔から朝に朝廷の意があるのが不思議で仕方なかった。
今漢和辞典を見てもやっぱり269を想起させるような書方をしている。
第一の意は太陽のでてくるとき、で次に天子に向うこととなっている。
なんか第2の意ってとってつけたようでやっぱり269が納得できるな。
272 :
日本@名無史さん:04/10/23 21:45:24
>>268 すっきりして、かつ意味深な、いいまとめだねw
しかし、大和朝廷の起源が九州なのは記紀からも明らかなこと。
結局九州から大和への遷移がいつかというのが問題だね。
弥生の終わりに九州から大和へ遷移という証明ができるか。
273 :
日本@名無史さん:04/10/23 22:49:45
>>271 アフォか、朝廷は「史記」にも出ている中国の用語だ。
秦二世皇帝に趙高曰く
「五帝・三王樂各殊名,示不相襲.上自朝廷,下至人民,得以接歡喜,……
>>272 東遷(九州→大和)の根拠のいい加減さは、前スレで散々言われていたのだが。
275 :
日本@名無史さん:04/10/23 23:17:07
今昔物語では「朝」=「日本国」の意味で使われているよな。
276 :
日本@名無史さん:04/10/23 23:27:00
>>274 実際に東遷があったかどうかよりも、
神話はなぜ九州中心の記述なのか
なぜ東遷というモチーフが繰り返されているか
その理由が欲しいね。畿内説の人は特に。
278 :
日本@名無史さん:04/10/24 00:11:14
畿内にある王朝がルーツを九州とだとわざわざ捏造しないといけない理由は無いよな。
>>276 記紀神話の中心が九州って、日向三代のことを言ってるのか?
九州勢力の旗頭・筑紫の神話は残念ながら書かれていないぞ。
もっとも、大和の神話も書かれていないのだが。
>>276 記紀神話に大和神話が無いことから、大王家の祖先は大和在地勢力ではない
と主張するなら、
全く同じロジックで、
記紀神話に筑紫神話が無いことから、大王家の祖先は北九州勢力ではない
ということになる。
宮崎・西都原説の人ですか?
まったく、東遷説の連中は、殆ど根拠も無く適当に自説を唱えるから…。
江上氏の騎馬民族説と一緒で、壮大でロマンがあるから、飛び付きたくなる
気持ちは分かるけど。
282 :
日本@名無史さん:04/10/24 01:32:45
畿内説の人は、地名の一致をどう考えるのかな?
地名の一致(これだけにとどまらない)
九州(甘木)
笠置山→春日→三笠山→住吉神社→平群→池田→三井→小田→三輪→雲提(うなで)→筑前高田
→長谷山→加美→朝倉→久留米→三猪(みずま)→香山(高山)→鷹取山→天瀬(あまがせ)
→玖珠(くす)→鳥屋山→上山田→山田市→田原→笠置山
近畿(大和)
笠置山→春日→三笠山→住吉神社→平群→池田→三井→織田→三輪→雲梯(うなで)→大和高田
→長谷山→賀美→朝倉→久米→水間→天の香山→高取山→天ヶ瀬
→国樔(くず)→鳥見山→上山田→山田→田原→笠置山
>>280 九州と言っても広いのだから、別に筑紫にだけ限定されるわけじゃないだろう。
大王家が元から畿内にいたんじゃなく、外から遠征してきたと書いてあるからには、
それにはそう書かざるを得ない理由があるのだろう?
邪馬台国は北九州にあった。
大和朝廷の起源も九州だが、北九州ではなく、邪馬台国とは別の国。
こういう事ではダメなの?
邪馬台国自体が国ごと畿内に移る必然性が無いだろう。
九州ではうだつが上がらなかった地方の勢力が、新天地を目指したという方が自然だと思う。
285 :
日本@名無史さん:04/10/24 05:09:01
仮に宮崎の日向から大和を征服したとしても、
邪馬台国から宮崎に天下った子孫だろう。
元をたどれば邪馬台国。
仮に邪馬台国から宮崎に天下った子孫が大和を征服したとしても、
朝鮮半島から九州に天下った子孫だろう。
元をたどれば朝鮮人。
287 :
日本@名無史さん:04/10/24 06:55:02
>>286 そういうプロパガンダに使われる「朝鮮人」の定義自体が恣意的で
明確な合意がない(だからこそ政治的プロパガンダに使われるんだけど)。
朝鮮はその起源からして中国東北部族やモンゴル人の侵略支配を受けていたり、
もともと倭人の居住区だったりした場所なのだから。
288 :
日本@名無史さん:04/10/24 07:26:34
統一新羅統一後に朝鮮民族が成立したように思う。
それまでは南部は倭人が数多くいたわけだしな。
政治的に半島が統一されて長い年月を経て
新たな民族が形成されたんじゃないのかな。
289 :
日本@名無史さん:04/10/24 08:07:50
>>286 >元をたどれば朝鮮人。
漢籍によれば、倭人は呉の太伯の子孫である。
つまり、揚子江下流域から北上してきたのである。
文身(入れ墨)をするなど、習慣も類似している。
【晋書倭国伝】
倭人在帶方東南大海中、依山島爲國、地多山林、無良田、食海物。
舊有百餘小國相接、至魏時、有三十國通好。戸有七萬。
男子無大小、悉黥面文身。自謂太伯之後。・・・
朝鮮人の定義が問題だが、倭人が朝鮮半島南部にも居たことから、
朝鮮半島を経由して日本列島に渡ったということは、あり得るだろう。
290 :
日本@名無史さん:04/10/24 08:27:30
モンゴル人に似ているけど
やっぱり元の時代にかなり混血したんだろうか?
そこまで混血するものなんだろうか?
国王はほとんどモンゴル人だったと言うけど。
291 :
日本@名無史さん:04/10/24 11:05:58
畿内説の定義は卑弥呼の邪馬台国が大和朝廷であるということです。
したがって、卑弥呼朝貢以前の東征により大和朝廷が
形成されたことを否定していません。
したがって、例えば九州と畿内に地名類似があることを認めたとしても、
畿内説と矛盾しません。なんどいえば...
>>291 その通り。
それに、九州説は「水行10日陸行1月」と明らかに矛盾するんだから、
早く取り下げて、もっと建設的な方に行けばいいのにね。
だから、倭人伝による邪馬台国所在地論争から一旦距離を置いて、
北九州勢力の大和侵攻があったのかどうか、を語った方がいい。
俺は畿内説だが、別に邪馬台国は九州だったとしてもいいと思ってる。
畿内在地勢力(→初期ヤマト政権)の支配が、倭人伝の頃にはまだ北九州
には及んでいなかったということ。
ただ東遷説は有り得ねー、と思う。
まともな根拠も提示出来ていない空想。
>>282 安本氏の甘木周辺の地名類似を初めて読んで知った時は、正直凄いと思った。
しかし冷静に考えてみれば、地名の移動は、畿内→九州であっても良い訳で、
倭人伝に記述されている地名の殆どが失われていることを考慮すると、
同時期である筈の甘木周辺の地名だけが残り過ぎているのは疑問。
肝心のヤマトの地名も無いし。
つまり、ずっと後世、斉明の頃や大宰府に来た大和朝廷の役人などが、畿内の地名
を甘木市周辺に名付けたと考えるのが妥当なんだよな。
根拠の無い「東遷説」を抜きにして考えれば、
倭人伝の邪馬台国所在地論争は、
3世紀の初めに畿内がすでに北九州を支配していたのかどうかの問題になる。
>根拠の無い「東遷説」を抜きにして考えれば、
根拠は天皇家の出自。
すくなくとも九州から来たことは認められるでしょ。
>>296 失礼、こちらがメインですね。
>倭人伝の邪馬台国所在地論争は、
>3世紀の初めに畿内がすでに北九州を支配していたのかどうかの問題になる。
これはその通りだと思う。
>>297 天皇家は、古を辿れば九州出身になるのだろう。
大陸から渡来して最初に定着したのが九州というのは尤もな話。
それから数世紀をかけて、畿内に移住していった。
しかしそれと、「2〜3世紀における大規模な東遷があったかどうか」とは全く別の話。
もっと慎重に語るべきだな。
>>288に追加
>畿内がすでに北九州を支配していたのかどうかの問題
これはその通りなんだけど、「支配」していたことの証明や証拠を
見つけることは難しいですよね。
しかも、文字が倭国でほとんど使われていない時代だから尚更。
やはり、巻向をもっと掘って、その全貌を調査する方が期待できるかも。
301 :
日本@名無史さん:04/10/24 12:53:33
302 :
日本@名無史さん:04/10/24 13:26:46
>>301 自竹斯國以東、皆附庸於倭
ですから筑紫も倭の配下です。
303 :
日本@名無史さん:04/10/24 13:30:33
>>301 池沼は平気で捏造するな。
「隋書」には筑紫以東は倭に属すると書いているだろ。
「自竹斯國以東、皆附庸於倭」
304 :
日本@名無史さん:04/10/24 13:51:29
竹斯國が含まれる証拠はないのではないか。
竹斯國より東の国からでは?
305 :
日本@名無史さん:04/10/24 13:57:36
以上、以下、以東、以西
いずれも基準点を含みます。
反例を挙げられますか。
| 丶 _ .,! ヽ
> ``‐.`ヽ、 .|、 |
゙'. ,ト `i、 `i、 .、″
| .,.:/"" ゙‐,. ` /
` .,-''ヽ"` ヽ,,,、 !
、,、‐'゙l‐、 .丿 : ':、
、/ヽヽ‐ヽ、;,,,,,,,,,-.ッ:''` .,"-、
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,.イ:、ヽ/ー`-、-ヽヽヽ、−´ .l゙`-、
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307 :
日本@名無史さん:04/10/24 14:21:20
竹斯國は、磐井の乱とかあって、畿内に支配されたかもしれん。
しかし、7世紀になっても、それより西は独立していたことは重要である。
308 :
日本@名無史さん:04/10/24 15:12:21
>>307 上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、
南望身冉羅(タムラ:済州島)國・・・
だから、
国名を挙げた国々はすべて倭国。
筑紫以東で国名の挙がっていない国も倭国。
そうか、
隋書によると済州島も日本の一部なんだ。
>>305 自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史
310 :
日本@名無史さん:04/10/24 15:20:46
>>308 国名を挙げたからみんな倭国だなんて、小学生並みですね。
隋書倭国伝によれば、倭国は畿内のみ。これは、はっきりしている。
ただ、竹斯國より以東は倭国に服属していた、
それより西の伊都国や斯馬国は、独立していた。
311 :
日本@名無史さん:04/10/24 15:22:37
>>304 漢文読解力のない池沼はすっこんでいろよ
312 :
日本@名無史さん:04/10/24 15:25:41
>>310 × それより西の伊都国や斯馬国は、独立していた。
○ それより西の一支国や都斯麻国は、独立していた。
>>311 哀"rt蟹几luy&_r9/st牌se
314 :
日本@名無史さん:04/10/24 16:07:21
>>310 韓伝で国名が挙がっていれば、
韓に属すると理解されますし、
倭人伝で国名が挙がっていれば、
倭に属する理解されます。
中国史書の伝統的、一般的な書き方で、
隋書も例外ではありません。
間違いなく隋書は百済以下、倭の領地であると
主張しています。
315 :
日本@名無史さん:04/10/24 16:27:47
316 :
日本@名無史さん:04/10/24 16:54:15
317 :
日本@名無史さん:04/10/24 17:36:32
畿内から筑紫までを含む大国から、
伊都国や対馬が独立していたと言うのですか。
それは無理というものです。
318 :
日本@名無史さん:04/10/24 17:56:16
じゃあ、台湾は?
319 :
日本@名無史さん:04/10/24 18:20:30
古代には大陸系武器商人などいません。
鉄製の武器を買ったとして、支払いは何でしたんですか。
軍事顧問団もいません。戦国時代まで下ったとしても
作戦参謀は軍師という個人です。
現代の複雑な国際情勢の中にある台湾は
古代史の反例にはなりません。
それこそ小学生でもわかりますよね。
漢文を勉強して、たくさんの史書を読んでください。
そうすればわかるでしょう。
ついでに佐藤なんたらは電波です。それもごく程度の低い
伊都国より先の記述が不正確で曖昧な事から、魏志倭人伝の記事のソースになった人物は伊都国までしか
行っていない可能性が高い。
だからこそ邪馬台国の位置論争が起きるが、伊都国より前国々の記述の正確さやそれぞれがどこの地名
に当たるかに関しては、ほぼ異論は出ていない。
だがそもそも邪馬台国が北九州にあったのなら、伊都国から距離は大して離れていない。
それなのに何故旅行者は邪馬台国に行かなかったのか?
この点はどう考えるのだろう?
322 :
日本@名無史さん:04/10/24 19:00:42
>>320 一大率は女王國を含んで檢察していたということでしょう。
323 :
日本@名無史さん:04/10/24 19:25:36
邪馬台国は新潟。
今回の地震で地層が崩れで
埋もれていた卑弥呼の墓がでてくる。かもw
九州王朝説の人は別にして、
少なくとも4世紀末には、北九州〜東海に至る大倭国連合(初期ヤマト政権)が
成立していたというのは、ある程度のコンセンサスがあるのでは?
対高句麗戦の遂行は、北九州勢力だけでは対応出来ないだろ。
古墳時代以降、畿内から鉄が大量出土することから、畿内勢力が半島情勢と無縁
というのは無理があるし。
>>322 と、言うことは
邪馬台国を含む北部地域には、「一大率」が特置され、
それは伊都國に常治して、邪馬台国を含む北部諸国を刺史の如く檢察していた。
邪馬台国を含む北部諸國は、これを畏憚していた。
こう言うことだね。
それだと 一大率>邪馬台国 と言う力関係になるが、それでいいのかな?
326 :
日本@名無史さん:04/10/24 20:25:33
いや、檢察の中身が問題だが、警備するという意味なら、
自国を含んで検察していても不思議ではない。
一大率は刺史の如くと記されている。
では、刺史とは・・・は元々漢代に設置された州の監察官である。
本来、州の長官は「牧」であったが、次第に何故か刺史が長官の任を行うようになってくる。
特に曹操治下においては原則として刺史が州の長官を務めるようになる。
魏王朝成立後にもそれは踏襲され、晋代には州牧は姿を消してしまう。
つまり、一大率とは地方行政官だ。
邪馬台国をも所管し、邪馬台国自体も畏怖させるような地方行政官が伊都に居ちゃまずかろう。
328 :
日本@名無史さん:04/10/24 21:02:56
>>327 >邪馬台国をも所管し、邪馬台国自体も畏怖させるような地方行政官が伊都に居ちゃまずかろう。
単なる屁理屈だよ。
いかようにでも解釈できる例で〜以北の用例を
検証するには適当でない例を持ち出しただけ。
もう少し安定した例はないの。
これをもって〜以北にその場所を含まない確実な用例であるとする
する意見には同意しかねる。
329 :
日本@名無史さん:04/10/24 21:10:55
既に全国を統一する大和朝廷はほぼ出来上がっていて
大陸に最も近い北九州に外務大臣として卑弥呼を置いたとは考えられませんか?
330 :
日本@名無史さん:04/10/24 21:15:41
卑弥呼の孫の孫の子供が、神武天皇のはず。
331 :
日本@名無史さん:04/10/24 21:23:11
越の始祖王も最高神の孫の孫の子
332 :
日本@名無史さん:04/10/24 21:46:02
>>329 似たような説に熊襲偽僭説というのがあります。
九州の支配者が大和朝廷に隠れて、魏に朝貢したという説です。
江戸時代の説です。今言い出すと...です。
ふ〜ん。
>>328 「いかようにでも解釈できる例」
「刺史」が本国を「檢察」できると解釈しちまう訳ね!
じゃ、同じく三国志から
文帝初,北狄彊盛,侵擾邊塞,乃使豫持節護烏丸校尉,牽招、解 并護鮮卑。
自高柳以東,シ歳貊以西,鮮卑數十部,比能、彌加、素利割地統御,各有分界;乃共要誓,皆不得以馬與中國市。
335 :
日本@名無史さん:04/10/24 23:17:43
>>332 可能性はあるだろ?
どうして否定されるんだ?
貿易の中心は、大阪湾じゃなくて博多だろ。
336 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :04/10/24 23:59:07
邪馬台国の落伍者が大和朝廷の石鎚となった。
神武伝@
神武は邪馬台国を構成していた九州糸島の部族の出身。
九州筑紫の邪馬台国は3世紀末台与以降まとまりのない部族化になっていった。
その空白地に勢力を伸ばしてきたのは、熊本菊池族であった。
4世紀末には、九州西海岸と筑紫を支配する有力勢力とその勢力を伸ばしてきた。
かつての九州の宗主国であった伊都国を構成する有力部族である神武一族は、
菊池族の台頭に郷里糸島を追われ新天地を求めて放浪の旅に出ざるを得なくなった。
漁撈と海上交易を生業とする彼らは、小船の船団を組み、
糸島を後にまだ菊池勢力の及ばない新天地を求めて移動を開始するのであった。
天皇家発祥の地であるが記紀には日向国とある。これに異論を唱える説、
大和説、卑弥呼の末裔説、朝鮮説等があるが。当時の物の考え方からすると
朝鮮であれば堂々と書けた時代である。何も嘘をつく必要など何もない。
では日向国の何処か?高千穂の峰の麓に広大な盆地の中心に位置する都城
である。都という字を「みやこ」と読むのは奈良の都と京の都とこの都城だけで
ある。当時この地は都島(みやこのしま)と呼ばれていた。これは「みやこ」ある
地域即ち都城盆地全体を指す意味で島と言っている。例えは悪いがヤクザの
いうシマと同じである。 言い換えればこの名は「みやこ」のある場所という意味
である。これは何を意味するかといえばここが天皇の拠点であるということである。
土地の名前の決定権は権力者だけに許された特権事項である。
ましてや「みやこ」である。 これは天皇の専権事項で天皇の拠点である地域にし
か許されない呼び名である。それは都が京に移った後は奈良の都は単に奈良と
呼ばれていることからも推察できる。このことは天皇が権力を失う摂関政治が始ま
るまで続く。 もう一つ日向国の名前は古事記が編纂される前まで国の名前が
なかったのである。古事記を編纂するから急遽、名前をつけたと言っても過言で
はない、それはなぜか?ひとは自分の家を言うのに固有名詞を使わない。
私の家とかじぶんちとか普通名詞で言う。例えば中村さんが自分の家のことをいう
時に「中村の家」とは決して言わない。 これと同じでじぶんちである日向の国に
特に名前を付ける必要がなかったのである。
都城5代の天皇
のお墓はこの宮崎の地にある。みんながよく知っている前方後円墳は飛鳥時代初
期まで天皇家と皇族にしか許されない墓の形式であった。ここまで言えばお分か
りと思う。宮崎の古墳のほとんどが前方後円墳である。日向の国には地方豪族は
いなかったのです。いるのは天皇の一族ばかりです。そしてこの前方後円墳は重
要なもののを象徴したものなのです。それは三種の神器のひとつにまつわるもの
なのです。
もうひとつ日向の国が天皇家の家であることを裏付けることがある。宇佐神
宮である。そうです称徳天皇が弓削の道鏡を天皇にしていいかどうかの託宣を貰い
に行かせた神社である。なぜ伊勢神宮ではなく宇佐神宮なのか。それは天照大神
が天皇家と直接の繋がりがない神と分かっていて、しかも、宇佐神宮が大和政権の
礎を築いた直接の先祖である応神天皇を祀っている神社であって当時最高位に位置
する神社であったからである。その宇佐神宮の領地の9割が日向にあって、それが日
向の全荘園の4分の一を占めていた。宇佐神宮が豊後の国にあるのにもかかわらず、
なぜそうなったか、宇佐神宮が天皇家のために天皇家を守るために建立された神社
であるからだ。
そのため天皇家は天皇家の土地、日向の荘園を神宮に寄進したのだ。
339 :
日本@名無史さん:04/10/25 00:37:21
筑紫の磐井の墓も前方後円墳です。
やはり、元祖皇族だったのだろう。
>>336 >邪馬台国の落伍者が大和朝廷の石鎚となった
こんな事を言う奴は多いのだが、具体的にその東遷勢力が造った国が
何処なのかという話になると、途端に曖昧になる。
マキムクが初期大和朝廷の都であったのは恐らく間違いがなく、
東遷勢力がヤマト朝廷を樹立、マキムクを建設したとすれば、少なくとも
その時期は3世紀末を下ることはないだろう。
畿内勢力が北九州の亡命王族に征服されたとか、言ってる奴。
唐古・鍵や池上・曽根遺跡とかを知らないのか?
北九州勢力の大攻勢なら兎も角、弥生時代すでに畿内には数々の王国が
あって、少数の軍隊で征服なんかできないよ。
342 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :04/10/25 00:47:53
>>337 九州の京都(みやこ)をどのように捉えましょうか?
特に福岡苅田町南部の狭い地域を「みやこ」と限定されるのは何故でしょうか?
343 :
日本@名無史さん:04/10/25 00:54:36
>>338 > みんながよく知っている前方後円墳は飛鳥時代初
> 期まで天皇家と皇族にしか許されない墓の形式であった。
池沼か、前方後円墳は日本中にあるぞ
344 :
日本@名無史さん:04/10/25 01:00:08
345 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :04/10/25 01:29:07
邪馬台国の敗残者が大和朝廷の歴史を始めた。
神武伝A
糸島を後に新天地を求めて放浪の旅に出た神武少年の部族は、
未だ菊池族の勢力の及ばない九州東北部に進んだ。
彼らは海に臨む低湿地を求めて(漁撈と水田耕作が可能な地)、
遠賀川河口から、洞海湾、九州東海岸を南下し、
日向北部までその足を伸ばすが、彼らが定着すべき地は無かった。
彼らは空しく東北部九州洞海湾まで戻ったが、そこで新情報を得た。
以前、東北部九州から東方の新天地を求めて出て行った部族がおり、
彼らは成功しその地に留まり繁栄していると。
346 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :04/10/25 01:41:30
邪馬台国を追われた者が大和朝廷の祖となるとは。
神武伝B
彼らは新天地を求めて東方に進むことにした。
適切な判断であった。
その後九州東北部・東部・南部は、
菊池族の前君と呼ばれる人物により菊池の支配下になり統合されるのでであった。
その人物は後に九州王朝の弟王となり倭讃と自称した。
神武一族には九州に安住の地は無かったのである。
神武達は瀬戸内海を東へ進んだ。
かって遠賀川河口にいた物部族の分派一族が東方で繁栄しているとのニュースを唯一の支えとして。
都(博多湾)を東西に挟んだ(糸島・遠賀川河口)自分達と同じ境遇の物部族の先達に光明を聞き。
347 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :04/10/25 02:22:01
邪馬台国の食いはぐれが大和朝廷の開祖になった。
神武伝C
次に見つけた地は児島湾。
吉井川旭川の流れ込む広大な湾、湾の入り口には小島が浮かぶ、糸島に匹敵するロケーション、
神武達はこの地に定住したくとも、巨大勢力のいるこの地に割り込むことは出来なかった。
神武一族は、この地に暫らく留まり、この地の東の畿内勢力と敵対する吉備勢力の助けを借り、
東方侵攻の方法についての情報を集めることにした。
神武達はどの程度の人数の集団だったのだろうか?
戦闘人員は数十人から百人まで。部族総員百人〜二百人。幾つかの小集団に分かれて移動した。
漁撈による食料調達には小集団化をせざるを得なかった。海賊と変身する時は全員集合。
(物部族の東方移動の時は、物部は吉備との衝突を避け四国側を通過していることから、
神武の部族は物部に比べると弱小で、吉備に何の脅威をも与えない弱小集団であった事が窺える。)
281 :日本@名無史さん :04/10/24 01:01:24
まったく、東遷説の連中は、殆ど根拠も無く適当に自説を唱えるから…。
江上氏の騎馬民族説と一緒で、壮大でロマンがあるから、飛び付きたくなる
気持ちは分かるけど。
応神が朝鮮人なんてヨタ話も同列だと思うが、こういうのを根拠無く書き込む奴が
いても別に叩かれないな。
要はアンチコリアとアンチ皇室が多いという事か。
350 :
日本@名無史さん:04/10/25 19:39:20
>>299 天皇家は、古を辿れば九州出身になるのだろう。
それも安易な言い方だ。先行する出雲王朝があったわけだし。
神武が近畿に行った時にも、すでに吉野や葛城を支配している支配者がいたし。
351 :
日本@名無史さん:04/10/25 19:44:14
応神は金官加羅から来た傭兵隊長、これ定説。
>>350 安易というか、慎重な言い方だと思うが。
記紀の神武東征神話に、一体どこまでの信頼をおけるのかは、甚だ疑問。
神武以降の欠史八代の記述は切り捨てておきながら、神武のみは積極的に実在性を
主張する。
恣意的に記紀を利用するのは止めろ。
353 :
日本@名無史さん:04/10/25 22:40:03
魏志倭人伝の「水行十日」も、
九州から日本海を北上して舞鶴市あたりに上陸したという意味だろう。
そこから山と盆地まで「陸行一月」で問題ない。
こういうと、「日本海より瀬戸内海のほうが安全」という反論があるが、
航海術を知らない人間の意見だな。
瀬戸内海のほうが、暗礁があったり、海賊がいたりして危険である。
354 :
日本@名無史さん:04/10/26 00:23:11
邪馬台国は小千谷市で確定です。
卑弥呼の祟りで地震がきたのが
何よりの証拠です。
355 :
完全理論武装論者:04/10/26 02:32:47
九州王朝大好きさんの大和朝廷誕生のいきさつはほぼ正しいですが
でもその説だと鹿児島県や宮崎県南部に天皇家の墳墓があることは説明つきません。
大和朝廷を開いた天皇家開祖の出身地は高千穂伝説などから宮崎県南部と断定できます。
しかし、天皇家代々の顔立ちや風習、しきたりや田植えの儀式などから判断して、
宮崎県南部に移住(正確には移住ではなく邪馬台国支配者からの命令による転封)してくる
前は、朝鮮半島の現在の韓国中部地方出身(古代の百済地方出身)でしょう。
そして邪馬台国崩壊へとつながる九州北部の権力闘争のごたごたに、天皇家の一族も巻き込まれて
天皇家の王自らが率いて九州北部へ兵士を派遣するものの、結局敗れて邪馬台国は崩壊消滅。
邪馬台国の主家は金印を志賀島に埋めて船で祖国朝鮮半島に逃た。
一方天皇家の王は戦死して残った兵士たちも宮崎県南部の領地には戻れず、現在の大分県宇佐地方に
一時的に避難する。
続く
356 :
完全理論武装論者:04/10/26 02:33:48
続き
また宮崎県南部の領地は邪馬台国崩壊によって反乱と、邪馬台国を崩壊させた部族の
兵士たちが熊本県側から攻め寄せてきたために、わずかに残った守備兵と共に天皇家の一族は
逃れるために国を捨てて九州東岸を船団で北上していった。
その時の船団のリーダーが天皇家の王の妻であったのは日本書紀を読めば推測できるでしょう。
そしてなんとか宇佐の地にたどり着いて、戦いに生き残った兵士たちと合流
今後の方針を宇佐の地で話し合った。
その時に邪馬台国本国ゆかりの王の一人(女王卑弥呼の一族の中の誰か?)が、
戦争の際のケガが元で死去したので宇佐の地に埋めた。(それが宇佐神宮の由来か?)
そして天皇家一族の出した結論は、このまま下関の海峡を通り敵一族の占領している
九州北部沿岸部を船団でつたって祖国朝鮮半島へ戻るのは船団壊滅の危険が多い。
かといって領地であった宮崎県南部地方を残った兵士たちで奪い返すのも無理で、
このまま宇佐の地にとどまっても、ここにもいずれ敵一族が攻めてくる。
瀬戸内海を船団で東へと逃れよう、東には我々と同じ半島祖先の一族がすでに
新天地(奈良県明日香地方)で領地を開拓しているので、その一族に世話に
なろうという結論が出た。
こうして天皇家一族はわずかの兵士とその家族(総勢千人余りか?)と共に
宇佐の地を後にして船団で東上していった。
357 :
完全理論武装論者:04/10/26 03:03:04
続き
船団で東上した天皇家の一族は、邪馬台国を滅亡させた敵一族に、協力的な他部族に
瀬戸内海の各地で襲われたり迫害を受けながらも何とか河内までたどり着いた。
ここで船を捨てて陸路、奈良県明日香地方までようやくたどり着いたが(四、五百人程度?)
同じ半島一族の血を持つ同士である、明日香地方の豪族たちの態度は冷たかった。
なぜなら邪馬台国につながる天皇家一族を受け入れれば、今度は自分たちが
九州地方をほぼ制圧した邪馬台国を滅ぼした一族から、攻められる恐れがあるのと
新しく開拓したばかりの奈良県南部や明日香地方だけでは天皇家一族全員数百人を
一度に養っていくだけの領地の余力がなかったからで、やむをえず天皇家一族の
本家たち(三百人程度?)だけが明日香地方に領地を貰ってとどまることを許され、
その他の分家の一族たちは自分達を受け入れてくれる新天地を求めてさらに
東上(二百人程度?)していった。
三重県松坂地方に天皇家ゆかりの伊勢神宮があるのも、この地に天皇家の一族が
新天地を求めて移住して開拓した名残りだと言える。
また最初に上陸した河内地方にも百人程度がとどまったらしい
これらは船頭や船のこぎ手の一族ばかりで、捨てていった船団の警護と
船団を使っての輸送仕事を新しく新天地で開拓したため
358 :
日本@名無史さん:04/10/26 03:52:47
チョンの妄想うざい。
天皇家が朝鮮半島出身という証拠は何も無い。
359 :
完全理論武装論者:04/10/26 04:11:35
>>342 他民族、共和国制邪馬台国(多民族国家を宗教で取りまとめる女王は中国大陸南部に、
邪馬台国の経済と軍事を取りまとめる代表国は九州博多の地にあった)が邪馬台国
国内をとりまとめる女王が死去すると、邪馬台国の経済と軍事を取りまとめる代表国の
男王が、女王の後継者として名乗り出てためにそれに反対する邪馬台国内他部族との
内戦に発展した。
邪馬台国内の内戦によって女王の後継者として名乗り出た、九州北部の男王が倒されて
新たな女王を立てることで邪馬台国内の各部族はまとまり内戦は集結した。
しかし数十年後、また女王が死去すると、その間また軍事力を蓄えてきた九州北部の
男王の子孫が邪馬台国の後継者へと名乗り出た。
そこでまたその男王に従わない他部族との内戦が勃発、男王の邪馬台国後継に
反対する他部族の方が勢力に勝って、九州北部の男王の領地を取り囲むまでの激戦になった。
(邪馬台国の後継者は宗教を司る巫女が王だと支持する部族の部隊を女王軍と呼ぶ)
(一方邪馬台国の後継者は邪馬台国内の重要拠点で軍事経済を司る、九州北部の国の男王が
ふさわしいと支持する国たちの部隊を男王軍と呼ぶ)
女王軍の主力は中国大陸から琉球列島を島伝いに、九州南部と西部に移住してきた民族と
九州に古くから住み着いている土着民族(縄文人)たちの国
男王軍の主力は朝鮮半島から開拓目的の渡来によって、九州北部に住み着いた民族たちの
国で、この女王軍と男王軍の民族たちは邪馬台国ができる以前から領土の拡大争いで
戦争を繰り返してきた。
集落人口と兵士の数で見れば女王軍が圧倒的優勢だが、男王軍は集落人口と数の上では
劣勢だが最新の武器(馬)と装備(盾と鉾)で装備して力はほぼ互角だった。
馬を使える平地では機動力に勝る男王軍が優勢で、馬の使えない湿地帯や山間部の
ゲリラ戦では女王軍が優勢だった。
360 :
日本@名無史さん:04/10/26 04:36:22
証拠は無くても何が何でも古代の天皇は朝鮮半島から
来たことにしたい人がいるんだよね。
戦前は意図的にそういうことをにおわせたんだっけ?
朝鮮半島支配の正当化のために。
今は朝鮮人の子孫に支配されている日本人ということにして
自己満足を得たい方たちがその説を主張していると。
仮にそうだとしても昔の半島に住んでいた人たちと今の人たちとじゃ
混血があったりして民族が異なっていると思うんだけれどなあ。
361 :
完全理論武装論者:04/10/26 04:43:10
>>342 女王の死去と後継者に名乗り出た男王によって、邪馬台国二度目の大規模な内戦が勃発した。
最初は馬と盾と鉾で装備した男王軍優勢だったが、数の力で圧倒するのと山間部のゲリラ戦を
得意とする女王軍の前に、男王軍は次第に領地内への戦いに追い詰められていった。
筑後川流域南側地域の山すそに点在する女籠石の石塁跡は、女王軍が男王軍を攻める際に
砦として築いた跡である。(その地域にやたらと女と名のつく地名が多いのもそのせい)
やがて女王軍は各地で男王軍を撃破して、筑後川を越えて男王軍の同盟国領地内へと
なだれ込んでいった。
天皇家の一族は邪馬台国内での内戦が勃発すると、同じ半島地域出身一族で主家である
男王軍の側についた。
天皇家の一族は半島から九州北部に渡来した後、九州北部を支配する男王の先祖王から
宮崎県南部の開拓を命ぜられて、宮崎県南部に住み着いた。
この地域(都井岬に今でも野生馬の放牧地がある)に、朝鮮半島からの野生馬(馬は当時最新の兵器)を
持ち込んだのも天皇一族の先祖たち。
男王の命令で天皇一族の王自らが兵士を率いて、内戦の激戦地である筑後川流域に赴いた。
(推測だが兵士は千人程度で、馬は百頭前後かと)
しかし次第に戦局は男王軍に不利になっていき、女王軍は筑後川を越えて男王軍の同盟軍の
領地内まで侵攻してきた。
ついに男王軍の中心部落のある博多の地にまで女王軍は押し寄せてきた。
最後の決戦にも敗れた男王軍は敗走、男王と男王軍主力部隊と家族の一部は
船で、博多湾から志賀島経由で朝鮮半島の祖国地域へと逃れていった。
(この時、国が消滅して持つ必要がなくなった金印は、再び兵士たちを率いて
博多の地に戻って国を再建する時のために志賀島に埋めた)
362 :
完全理論武装論者:04/10/26 05:19:59
>>342 一方数少ない船に乗れず取り残された男王軍の残存部隊と家族たちは、まだ女王軍に
支配されていない東の地域(昔の豊前国で筑豊地域の遠賀川流域も含む)へと
逃れていって、そこでまた態勢を立て直して女王軍と戦った。
豊前国行橋地域の山中にも女籠石の石塁跡があり、そこにも女王軍が国の中心部落へと
包囲して攻め込む際に砦として築いたのだろう。
天皇一族もまた豊前へと逃げながら女王軍と戦った。(いつどこで天皇一族の王が戦死したかは不明)
行橋の少し北に「みやこ」という知名があるが、ここに男王軍が新たに都を移して本陣を構えたのでは?
行橋平野の部落は豊前の国の王の中心であったために、それより少し北側に敗走した男王軍が集落を構えたのでは?
一方天皇一族は豊前国宇佐地方の防衛を任されてそこに着任したのでは?
一方男王軍の中心の国が女王軍によって陥落したという知らせは、宮崎県南部の天皇一族の支配する
領地の国にも届いた。
その知らせによって天皇一族の国でも女王軍に味方しようと、反乱を起こす先住民族たちもいて
そらには熊本県球磨地方からも女王軍の勢力が宮崎県南部へと攻め込んできた。
天皇一族は裏切らなかったわずかな兵士と家族たちを乗せた、小型船の船団で国を脱出して
沿岸づたいに北上していって、天皇一族の主力部隊のいる宇佐地方へと向かった。
宇佐地方に天皇一族がたどり着いた後はもう述べたので省略して、その宇佐神宮には
誰が死去して祭られたかといえば、やはり男王の一族で男王軍の中の有力王だろう。
その王は沿い五の防衛拠点であった行橋の北の「みやこ」と、行橋中心集落が陥落したので
宇佐まで逃れてきて、そこで戦争のケガか何かが原因で死去して宇佐神宮に祭られたのでは?
だから天皇家と直接縁のある伊勢神宮(天皇家一族の分家が死去して祭られた?)とは違い、
直接的に宇佐神宮と天皇家とは縁がないのに、なぜか宇佐神宮を特別視した古代の天皇家。
やはり宇佐神宮には古代天皇家の主家の一族が葬られていると考えられるが、当時は邪馬台国内で
女王軍と男王軍の内戦中であったために、豪勢な墳墓を作る余裕もなく埋められたのだと推測する。
363 :
完全理論武装論者:04/10/26 05:49:48
では女王軍が勝利したのになぜ邪馬台国は消滅したのかは
元々邪馬台国というのは男王を中心とした半島勢力と、中国大陸南部から渡ってきた
民族と、九州に古来から土着している民族(縄文人)の三大勢力が、九州のでの
領地拡大と領地死守を巡っての長年に渡る争いをやめて、平和的に解決する手段として
九州以外の地に住む巫女を、女王に立てることで九州内の各民族の国が納得して
共和国制の邪馬台国が誕生したのである。
九州以外の地に住む巫女を女王にした邪馬台国は、九州での各国の領地争いを平和的に
解決する手段としては最も効果があったが、女王が年老いて死去すると後継者問題で
共和国内は紛糾した。
なぜかといえば新しい巫女を女王に立ててもよいが、先代の女王と血がつながって
いないことや巫女としての能力に疑問があったからで、これをきっかけに九州内の各国は
邪馬台国後継者への主導権争いの内戦が勃発した。
しかし度重なる内戦によって九州から土地を失った難民や、平和を求めて瀬戸内海地方や
畿内へと九州を脱出していく住民が激増して内戦をしている各国勢力は弱まっていった。
そこで再び新しい女王を立てて、平和的に治めようとする動きが強くなって二代目女王が誕生した。
そして二代目女王の死去によって三代目の女王を立てようとする女王軍と男王が治めようとする
男王軍の内戦が勃発、男王軍の国家が滅亡して女王軍の勝利に終わった。
364 :
完全理論武装論者:04/10/26 06:02:02
邪馬台国内で女王軍が勝利したのに三代目の女王が立てられなかったのは、
もう女王を立てる必要がなくなったということで、元々邪馬台国内では
半島渡来勢力と土着民勢力と中国大陸移民勢力の、三大勢力の領地争いが
激しかったために平和的に解決する手段として、外部の女王を立てて
邪馬台国が生まれた。
しかしその三大勢力のうちの半島勢力が敗北して消滅したら、九州内に
領地拡大の争いをする片方の勢力が消えたということで、九州内で
領地を巡って大規模に戦争する国も民族もいなくなった。
こうなればもう外部の巫女を女王にする必要がなくなったわけで、共和国制の
邪馬台国は自然に消滅していって、女王軍の中心で指揮して戦った熊襲族の
国の王が自動的に共和国制の九州王へと昇格した。
だから邪馬台国は滅んだのではなく時代の流れの中で必要がなくなって
住民の記憶から消えていったというわけ
365 :
日本@名無史さん:04/10/26 08:51:44
>>360 「魏略」逸文には、呉の太伯の末裔と自称したことが書かれているから
江南から黒潮ルートで南九州に移住してきた可能性が考えられる。
一方、チョン説は何の根拠もないチョンの妄想。
366 :
日本@名無史さん:04/10/26 09:31:01
>>338 >宇佐神宮が大和政権の礎を築いた直接の先祖である応神天皇
>を祀っている神社
それはそうなんだが、中心に奉られているのは、女性の比売大神で
応神天皇は、その脇を固めているし、社門も比売大神の方が遥かに
大きい。
>その宇佐神宮の領地の9割が日向にあって、それが日
>向の全荘園の4分の一を占めていた。
この辺の情報をもっといただけないでしょうか?
>宇佐神宮が豊後の国にある
厳密に言うと豊前です。
>そのため天皇家は天皇家の土地、日向の荘園を神宮に寄進したのだ。
むしろ、宇佐一族(皇族)が熊襲征伐により獲得した土地だと思われます。
そして、その伝説が天孫降臨に反映されているのではないかと。
鹿児島の大隅八幡もこの頃にその基礎はできたのでしょう。
記紀神話やその後の隼人反乱も説明がつきます。
367 :
日本@名無史さん:04/10/26 09:40:01
>>355 >でもその説だと鹿児島県や宮崎県南部に天皇家の墳墓があることは説明つきません。
西都原の古墳群は4世紀初め。
一方、九州最古の宇佐・赤塚古墳、苅田・石塚古墳は、3世紀後半の
建築物となります。
3世紀半ばの卑弥呼の墓(宇佐神宮)>3世紀後半の赤塚・石塚古墳>
4世紀前半の西都原古墳群
と勢力の流れが見えます。
つまり、天孫降臨=熊襲征伐として豊前から日向に勢力の拡大した
ことが読み取れます。
前述のように、宇佐の主神は女性です。
368 :
367:04/10/26 09:43:33
>九州最古の古墳 >>> 九州最古の前方後円墳
369 :
日本@名無史さん:04/10/26 10:08:32
稲作も最近の研究だと黒潮に乗ってやって来た可能性が高いんだっけ。
たしかに華南から華北、さらに寒冷な半島経由を陸路でやって来るよりは
華南からストレートに九州に来た方が自然な気がする。
370 :
日本@名無史さん:04/10/26 10:15:47
>>367 神武から欠史8代の陵墓指定地域にはめぼしい古墳はない。
弥生墳丘墓だったと思われる。
畿内の邪馬台国が瀬戸内海を通じて最初に九州に踏み入れたのが
「宇佐・赤塚古墳、苅田・石塚古墳」なわけだ。
371 :
日本@名無史さん:04/10/26 10:58:47
魏志倭人伝には、邪馬台国では養蚕が行われたことが書かれている。
弥生時代の養蚕の証拠は、北九州ばかりですね。
372 :
日本@名無史さん:04/10/26 11:33:03
373 :
日本@名無史さん:04/10/26 12:05:18
>>355 完全理論武装論者さん、理論武装というからにはあなたの説の
根拠となるものも一緒に提示してください。
記紀、史跡、何でもいいが、今のままではただの妄想にしか見えません。
374 :
日本@名無史さん:04/10/26 12:12:16
>>370 その流れから、なぜ畿内⇒九州と飛躍するのかわからん。
弥生墳丘墓は滅ぼされた畿内銅鐸文明の祖先の可能性だってあるのに。
九州⇒畿内でも説明つくわけだ。
375 :
日本@名無史さん:04/10/26 12:13:53
>>372 >卑弥呼は古墳時代だから的外れ
弥生後期-古墳初期というべきであろう。
倭人伝に記されており、的外れでもあるまい。
376 :
日本@名無史さん:04/10/26 12:35:49
教えてくれ。
弥生墳丘墓と古墳(円墳)は何で区別するんだ。
同じものではないのか。
377 :
日本@名無史さん:04/10/26 13:19:59
あの弥生墳丘墓って、見た目が墓らしいってことだけで、骨さえ発見
されていないんではなかったっけ?
378 :
日本@名無史さん:04/10/26 13:41:57
>>372 卑弥呼が死去したのは、西暦248年ですから、
活躍したのは3世紀前半です。
明らかに弥生時代ですね。
379 :
日本@名無史さん:04/10/26 14:15:56
完全理論武装論者さんは、ご自分のHPを作るか、本を出されるかして
世に問うてみてはどうですか?もう出来ているならそこ教えてください。
380 :
日本@名無史さん:04/10/26 14:20:45
>>378 年輪年代では纒向石塚古墳は200年頃の築造だから
卑弥呼は古墳時代
381 :
日本@名無史さん:04/10/26 14:50:35
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
ついに完成!!!!!!!!!!!!!!!
http://syenronjp.hp.infoseek.co.jp/ シェンロンのHP!!!!!!!
この書き込みを他10箇所にコピペしろ
しないと3日以内にお前はドブに落ちる。
それと絶対嵐は来んじゃねぇ!!!!!!!!!!!!!!
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
382 :
日本@名無史さん:04/10/26 18:23:57
九州から来たとか半島から来たとか大袈裟な話にせず、ただ単に
畿内の地に群雄割拠してた豪族の中で、天皇家の祖先の豪族が
勝って他を従えた、それで徐々に支配地域を広げて全国を統一、
というのが自然だと思うのだけど、それでは何か説明できない事があるの?
面白味に欠ける(w
385 :
日本@名無史さん:04/10/26 20:32:02
386 :
完全理論武装論者:04/10/26 21:12:06
>>383 まったくそのとおり。
3〜4世紀の倭国を語る時、安易に東遷とか東征とか語る人間が多すぎる。
>>385 352 :299 :04/10/25 21:28:19
>>350 安易というか、慎重な言い方だと思うが。
記紀の神武東征神話に、一体どこまでの信頼をおけるのかは、甚だ疑問。
神武以降の欠史八代の記述は切り捨てておきながら、神武のみは積極的に実在性を
主張する。
恣意的に記紀を利用するのは止めろ。
388 :
日本@名無史さん:04/10/26 23:44:59
>>387 わからないかなぁ・・・。
東征神話にどこまで信頼がおけるのかとか、
神武の実在性がどうこうという話じゃないんだよ。
記紀において、「東征」「東遷」のモチーフが繰り返されているのか、
なぜ九州と出雲が神話の中心になっていて畿内はそうではないのか、
その合理的な理由が欲しいんだよ。とくに畿内説の人にはね。
地名の移動の件もそうだし。
389 :
日本@名無史さん:04/10/26 23:58:24
邪馬台国が卑弥呼の時代以前に東遷してきた、っていう
畿内説の人もいるけどね。魏志倭人伝のころはすでに東遷後だったと。
なら神話にふんだんに東遷のイメージがあってもおかしくは無いね。
まぁ、何が何でも神話的記述を根底から
否定したくてしょうがない、思想がかった畿内説の人間もいるけどねw
>>388 >記紀において、「東征」「東遷」のモチーフが繰り返されているのか
東遷のモチーフが繰り返されているって、神武と応神のこと?
応神については、新王朝の創始者かどうかは別にして、記紀に書かれているような
事実はあったんではないかと思う。
後代、継体の時のような政権的混乱→政権交替のようなものが。
高句麗南下に伴う半島情勢の激変で、北九州の豪族たちが発言力を持ち始め、
彼らに擁立されたのが応神。
半島よりあくまで熊襲征伐に拘った仲哀が、神意を聞き入れなかったとして急逝
しているのも意味深。
少なくとも神武のファンタジーな東征伝承と一緒には出来ないと思うよ。
神武東征とは恐らく、
「九州出身の男が三輪山神の娘を娶り、大和盆地を平定した」
みたいな、葛城王朝の始祖王伝承だったと思う。
日向から畿内に至るまでが、瀬戸内海航路の寄港地を順次記すだけという、
非現実的なものであるのに対し、大和盆地制圧箇所はかなり詳細に記載
されていることから。
続く、欠史八代とも整合性があるし。
>>388 いや、邪馬台国の頃に北九州⇒畿内への侵攻があったということを主張する
のに、記紀の記述を根拠にするのは弱いと言ってるんだよ。
違う根拠を示して欲しい。
>>390 >記紀において、「東征」「東遷」のモチーフが繰り返されているのか
記紀に「東征」の記述が繰り返されていることは、
別に、2〜3世紀、北九州勢力による畿内征服があった根拠にはならんだろ。
応神は少なくとも4世紀末の実在性の高い人物だし、
>>390が言うように
実際そのような東征があったのかもしれん。
応神=神武。
神武東征伝承は、応神東征の焼き直し。
始祖王には、始祖王らしい華々しい事績が必要で、神武東征伝承は創作
された。
また、ヤマト朝廷の領域拡大に伴い、今までの大和盆地の神話ではなく、
倭国全体を包摂する広域の神話が必要とされた。
出雲、日向神話はそのために記紀に取り込まれたと思われる。
395 :
完全理論武装論者:04/10/27 06:09:48
>中国南部から渡来人なんか来てやしない。
いいえ中国南部から渡来人(というか南下してきた漢人に土地を奪われて難民として)は
九州に船で渡ってきたのですよ
かってベトナム戦争の時、ベトナム人が戦火を逃れて難民として小船で東シナ海をさまよいました
その難民船の中には黒潮海流に乗って日本近海まで流されて、日本の漁船に救助される場面が
数多くありました。
ベトナムからでも黒潮海流に乗れば、エンジンも帆もない小船で日本にたどりつけるのですよ
中国大陸南部から土地を奪われて戦火を逃れた民族が小船で九州にたどり着いてもおかしくないです。
これは紅海方位の法則でも証明できます。
かって日本人が台湾を植民地にした時、台湾人や台湾の原住民と争いごとを起こさなかったのも
元々日本人と同じ祖先でつながっているから、すぐに同化したのです。
また南京大虐殺が起きたのもこの古代時代からの因縁です。
南京に住んでいる漢人の祖先たちが遠い昔、この地に住んでいた日本人の祖先たちを
武力で虐殺したり大陸の南の地へ追い払ったりしたために、その因縁の血が騒いで
今度は日本人が遠い昔の故郷南京の地で漢人たちを虐殺したのです。
396 :
完全理論武装論者:04/10/27 06:10:48
>半島勢力って何??楽浪の事か?
そんなに広範囲の地域でなく古代の百済のあたりです。
私は元々直観力に優れているタイプで、ほんの少しの文章や言葉だけで
すぐに全体の流れをつかめてしまう能力を持っています。
ですから高句麗から攻められて滅亡寸前の百済に、大和朝廷が大軍を率いて
救援に向かい結局大敗北を喫した書物を読んだ時にピーン!きたのです。
戦ごとでは、普通勝ち戦の時は書物などにはでに記して後世に
語り継がせようとしますが、大敗北を喫した負け戦などは書物に載せないか
軽く記述しただけで済まします。
ところが大和朝廷の百済救援のために大軍を率いたが、結局大敗北を喫したにも
関わらず書物にはこの戦の模様を事細かに記しています。
これはこの両国には切っても切れない大きな関係があると直感で感じたのです。
そこで百済と大和朝廷との切っても切れない関係とは何か?を考えたら
現在でもそうだが、昔は家柄、主家、従家、本家、分家といった一族の中で
生まれた家によってその人の身分が決まります。
一族は家の身分を大事にするのです。
当然大和朝廷内にも百済国内にもそれぞれ家の身分があり、主家や本家の命令には
従家、分家は絶対に従わないといけません。
なぜ大和朝廷が半島のはるか遠い地にまで、大軍を率いて救援に向かったかという理由は
1,百済が大和朝廷の従属国家だった。2,百済と同盟関係を結んでいた。
3,百済の王が大和朝廷の王より主家であり本家であった。
の3つの理由しか考えられません。
そこで私は3の説を取ったわけです。
397 :
日本@名無史さん:04/10/27 10:52:49
>記紀において、「東征」「東遷」のモチーフが繰り返されているのか。
記紀に応神が東征したという記事はありません。
東征記事があるのは神武だけです。
398 :
日本@名無史さん:04/10/27 12:51:17
属国だった百済が唐に滅ぼされたら利権を失うじゃん。
百済の救援要請が来たし人質として百済の王子がいたから
百済を救援する正当な理由があったから利権を守るために出兵したんだろ。
399 :
日本@名無史さん:04/10/27 16:50:36
>>396 ということは、卑弥呼も渡来人なんだな?
400 :
日本@名無史さん:04/10/27 17:44:47
だいたい、百済と大和朝廷の関係を本家分家と考えるなら、
「百済と邪馬台国の関係」
「邪馬台国と大和朝廷の関係」
上記の関係にも答えを出すべきだ。
どれほどの理論武装を見せてくれるのかな?
完全理論武装論者は多分ネタだろスルーしようぜ
>私は元々直観力に優れているタイプで、ほんの少しの文章や言葉だけで
>すぐに全体の流れをつかめてしまう能力を持っています。
こんなのがバックボーンになってて、
完全理論武装論も何もねえってさ
402 :
日本@名無史さん:04/10/27 18:42:52
>>400 百済は、邪馬台国時代には存在していなかったのだが・・・
403 :
日本@名無史さん:04/10/27 18:54:39
ネタか電波だよな?
本家が百済で分家が倭だと言って
本家の百済の命令に倭は従わなければならなかったと言っている。
属国にわざわざ王子を人質に出すのかい?
百済が滅亡して国王が捕われたのに命令に従わなければならない
強制力はあるのか?
404 :
日本@名無史さん:04/10/27 19:20:35
舒明とか天智は百済人だったそうだが。
405 :
日本@名無史さん:04/10/27 19:25:20
邪馬台国と大和朝廷では統治体制の性格が大きく違う。
前者はシャーマンのカリスマに依存して呪術的だが、後者は呪術支配
を脱して各種の制度を整備した国家になっている。
両者が同一あるいは何か関連があるというなら、150年ほどで全く
性質が変わった経緯を説明できないといけないだろう。
それも根拠不明の脳内ストーリーじゃなく、ちゃんと根拠を示した上で。
406 :
日本@名無史さん:04/10/27 19:32:17
>>405 魏志倭人伝に書かれた邪馬台国=卑弥呼と前期古墳とは調和的だろ。
鏡など呪術的な副葬品が多いし、140m余りの直径と規模も合う。
武具などの副葬が多くなるのは中期古墳だ。
407 :
日本@名無史さん:04/10/27 20:37:17
>>406 >魏志倭人伝に書かれた邪馬台国=卑弥呼と前期古墳とは調和的だろ。
前方後円墳(前期古墳)と、弥生式墳墓(円墳)の区別をつけて言っているのか?
魏志倭人伝書かれた卑弥呼の墓は、円墳だろ。
鏡、勾玉、剣の3点セットの前方後円墳は畿内中心だが、
邪馬台国発祥の埋葬形式という証拠は何も無い。
卑弥呼の墓に鏡を埋葬したことは不明。
しかし、お供に多人数が生き埋めになった記録はある。
多数の人骨が発見された墳墓は、いっさい発掘されてない。
生身の人間から、埴輪の習慣になったからだ。
よって、卑弥呼の墓は古墳時代のものではない。
408 :
日本@名無史さん:04/10/27 20:58:56
>>407 > 魏志倭人伝書かれた卑弥呼の墓は、円墳だろ。
魏志倭人伝は直径で記述している。
箸墓は円墳に高さの低い突起が付いた初期タイプだ。
> 生身の人間から、埴輪の習慣になったからだ。
それは形象埴輪のこと。特殊器台を棺桶に使う例は多い。
409 :
完全理論武装論者:04/10/27 21:27:08
>>402 >>361で書いたように博多から祖国の半島に逃れた男王(奴国)の本家が
百済の国を興した
一方博多から宇佐へそして東方へ逃れた分家が大和盆地で大和朝廷を興した
記紀で繰り返し描かれる東遷伝承は有力な勢力が畿内で成長していったことを
象徴的に描いているんだと思うんだけどなあ・・・古くは北九州が先進地域で
強い勢力であったのが徐々にオーバーパワーされていったとか。
411 :
日本@名無史さん:04/10/27 21:36:41
412 :
日本@名無史さん:04/10/27 21:36:46
記紀にある神話は各地の豪族がそれぞれ保持視していた神話を
大和朝廷の神話に取り込んで作られてるのだから、東征もそれの一つではないの?
413 :
日本@名無史さん:04/10/27 21:53:15
記紀神話は中国南方大陸起源。
稲作と一緒に、九州南部に伝わりました。
414 :
日本@名無史さん:04/10/27 22:02:24
>>408 箸墓?
最古の古墳はマキムクだってこと知らんのか?
415 :
日本@名無史さん:04/10/27 22:25:32
416 :
日本@名無史さん:04/10/27 22:27:49
オオクニヌシの国譲りのエピソード、神武東征、応神東遷の3つが
「東遷のモチーフ」と言えるものだと思う。
記紀および、古代のその他の記録・伝承や、天皇家の神事に
北部九州の事跡や地名、風俗などと似かよったものが多いから、
高天原はほぼ九州そのものか、九州のどこかだと思う。
(朝鮮や大陸の可能性も捨てがたいが)
また、オオクニヌシが国譲りの前までに得たとされる最大領土は、
今の学界が考えている畿内王権の勢力範囲とまさにぴったりくる。
(さらに、四道将軍の記事により推定される、
崇神天皇在位時のヤマトの勢力範囲もこれに近い)
と考えると、国譲りのエピソードも東遷のモチーフと言える。
417 :
日本@名無史さん:04/10/27 22:34:01
240年頃作られたホケノ山古墳からは、
石囲木槨(いしがこいもっかく)という埋葬施設が発見され、復元設置されている。
これは朝鮮半島南部で見られる形式で、このことから、
畿内王権が朝鮮半島とつながっていたことがわかる。
邪馬台国がどこにあろうと、畿内にあった王権は朝鮮半島系で、
その埋葬儀礼(前方後円墳)は大和朝廷に受け継がれているという
考古学的事実は曲げられない。
418 :
日本@名無史さん:04/10/27 22:34:31
さらに九州から畿内へおびただしい数の地名の移動がみられること、
魏志倭人伝の「女王国の東、海を渡りて・・」という記述、
記紀における九州偏重および仲哀天皇、神功皇后、応神天皇あたりの記述、
・・・から、邪馬台国は九州にあったか、
または仮に畿内にあったとしても卑弥呼の時代以前に
東遷をしていたかのどちらかと考えるしかないのではと思う。
419 :
日本@名無史さん:04/10/27 22:45:13
>>417 畿内王権もその始祖は東遷してきたのかも知れない。
畿内王権=邪馬台国だとすると、
畿内王権が朝鮮半島系なのは卑弥呼以前に東遷してきたからか、
あるいはすでに九州を制圧していたからか
それとも九州を介さない畿内〜越の国〜日本海〜朝鮮というつながりがあったからか
畿内を邪馬台国に比定すると、考古学的にはいちおう筋が通るものの、
かなり文献的解釈に無理がくるんだよね。
畿内説の課題は、さまざまな文献に頻出する
畿内説に不利な点をいかにして説明するかなんだな。
421 :
日本@名無史さん:04/10/27 23:08:37
文献ってどれ?
神話という作り話を真に受けてるやつがいるだけだろ。
北九州一帯が渡来人とそれに伴う技術の流入で早い時期に先進していた
ことは疑いがないと思う。ただし技術は伝播していくものだ。東遷あるいは
東征伝承はそのへんの事情を反映したものだと思う。
記紀についてはヤマト政権の後裔である天武朝が伝承を万世一系の糸で
つなぎ合わせてそのすきまを創作した、みたいなかんじ。
原ヤマト朝廷は(崇神あたり)そのものが九州から早く分派したのものかもしれないけど。
邪馬台国そのものとヤマト朝廷には直線的な結びつきはないと思うんだけどね。
423 :
日本@名無史さん:04/10/27 23:29:47
邪馬台国は畿内にあって、そこから後世の大宰府みたいに九州に派遣
された王族がニニギ(に相当する人物)
そして畿内の本家が乱世に陥った時王位継承権を持って乗り込んできたのが
神武というのはどうなんだろう?
>>421 神話は根も葉もある作り話。バカにしてはいけない。
というより、真の学問的態度ではないのでは。
425 :
日本@名無史さん:04/10/27 23:48:50
1.邪馬台国は卑弥呼の時代以前の大昔に
九州から畿内に東遷してきた部族が建てた国で
魏志倭人伝の記述は主に九州での伝聞による。
2.邪馬台国は九州にあって、女王が治めていた。
当時の畿内王権(これが狗奴国?)の勢力拡大をおそれて
大陸へ救援を求める形で、魏に朝貢。対外的には日本列島の最有力な勢力と偽装。
426 :
日本@名無史さん:04/10/27 23:58:46
>>424 >神話は根も葉もある作り話。バカにしてはいけない。
馬鹿にはしないけどさ、どれが根でどれが葉かわからないだろ。
427 :
日本@名無史さん:04/10/28 00:10:13
428 :
日本@名無史さん:04/10/28 00:12:05
>>425 俺は2だね。
邪馬台国と大和朝廷とは結びつかんよ。
卑弥呼の儀式は南方系であり、日本神道の始祖とは思えない。
429 :
日本@名無史さん:04/10/28 00:15:26
畿内には、250年頃から、統一国家ができてる。
邪馬台国は卑弥呼亡き後、混乱して朝貢も出来なくなっている。
倭の五王が朝貢するころには、国名もかわっている。
九州の邪馬台国が戦乱で弱体し、
畿内の大和朝廷が隆盛したと考えるほうが、一番スジが通る。
何か?
430 :
完全理論武装論者:04/10/28 00:20:22
邪馬台国畿内説を唱える人は当然女王卑弥呼は奈良盆地の明日香地方に
いたはずでしょうね?
でないと邪馬台国から→大和朝廷(飛鳥文化)につながらないですからね
なぜ畿内でも有数の僻地の飛鳥地方から文明や王朝が栄えるのか説明してください。
文明や王朝が栄えるのには必ず貿易に適した場所か、流通の弁の良い所に栄えます。
つまり交通の要所が文明や王朝が栄えやすいのですね
畿内において明日香地方というのは交通の要所ですか?
現在でも僻地で過疎地の明日香地方が、古代は交通の要所とか能書き言えますか?
なぜそんな僻地に天皇一族が住み着いたのかよーく考えればわかるでしょうが
平安の末期、武士に敗れて京の都を追われた平家の落ち武者一族たちは、どこに逃れて
住み着きましたか?
敗者となった一族が逃避行の果てに、住み着く場所は決まっているのですよ
交通の不便な場所で今も昔も僻地と呼ばれる過疎地こそが敗者の行き着く先ですよ
天皇一族もまた邪馬台国での内戦で敗者となり、逃避行の果てに僻地の明日香地方に
居場所を見つけたわけです。
もし天皇一族が勝者だとしたらわざわざ僻地の明日香地方に居場所を求めません。
敗者だからこそ過疎地で再興の機会をうかがってたのです。
431 :
日本@名無史さん:04/10/28 00:22:19
>『隋書』倭国伝には「倭国…邪靡堆(やまと)に都す。則ち魏志の謂うところの邪馬台なり」とあり
432 :
完全理論武装論者:04/10/28 00:26:31
そしてそのチャンスが訪れたのが本家が半島で国家(百済)を興したという知らせです。
本家が国家を興してくれれば、分家である天皇一族に大きな後ろ盾ができます。
そうです、天皇一族もまたクーデーター(大化の改新)によって国を興そうとしたのです。
仮にクーデーターに失敗しても、百済(本家)という大きな後ろ盾があるので
いつでも半島に逃げて百済(本家)の世話になることができます。
クーデーターに失敗しても逃げ道(一族の生存できる道)があるというのは心強いです。
だからこそ世話になっている主君豪族を裏切って大化の改新を起こせたのです。
倭国各地の神話を整合したのが記紀神話であって、
国譲り以前に出雲が倭国全体を支配していたことも、日向への天孫降臨→
大和への神武東征もなかったと思う。
神代と人代を、記紀は意識してハッキリと書き分けている。
大事なのは、人代の最初に初代天皇神武が大和で即位したという事。
434 :
日本@名無史さん:04/10/28 00:31:07
畿内物部王国と九州邪馬台国が3世紀後半に
合併しただけだと何回言えばわかるんですか?w
435 :
日本@名無史さん:04/10/28 00:37:34
大和朝廷が元から畿内にあったのなら、記紀の神話に銅鐸が全く出て来ない事、
だいぶ後になってから銅鐸が発掘された時、それが何か分からなかったというのはどう説明するの?
何故、蝦夷や熊襲と戦う話はあるのに、筑紫を攻める話はないの?
記紀で「東遷」というモチーフが繰り返されているとか言うけど、
結局、神武だけ。応神は4世紀後半の実在性の高い人物。
その頃に東遷があったと言うなら分かるけど、4世紀後半にはすでに、畿内を中心とした
前方後円墳祭祀の初期大和朝廷は成立して大分経っている訳だし。
北九州→畿内侵攻、初期大和朝廷成立の時期としては時代を下り過ぎている。
記紀神話で九州偏重とか言うけど、日向神話だから。これが筑紫神話なら
考えてもいいけどな。
2〜3世紀、九州勢力の畿内侵攻があったとしても、その中心は筑紫が中心でないと
おかしいだろ?
別に説明する必要もないでしょ。
400年〜500年時代が違うわけだし。
438 :
完全理論武装論者:04/10/28 00:50:06
考古学者や歴史学者、歴史に興味のある者は、どうして流れというものを
無視する傾向にあるのだろうか?
人が動くには理由があり流れがある
国が移りゆくには理由があり流れがある
邪馬台国から大和朝廷へと政権が変わりゆくにも理由があり流れがある
どうして九州を無視していきなり畿内に文化が栄えるのか?説明してもらいたい
畿内に栄えた文化は流れてきたものではなく、畿内でのオリジナル文化というのなら
話はわかるが、邪馬台国も大和朝廷も畿内で発生したオリジナル文化だろうか?
畿内から九州、そして半島へと流れていったのか?
どう考えても違うだろそれは、半島から九州、そして畿内へと文化が流れていったのが
一番納得できるだろ?
いいかげん天皇中心説はやめてほしい、バカ丸出しの発想だよそれは
すべての文化の源は畿内の天皇から発生して、他へ流れていったという都合のよい解釈
はもう捨てるべきだろが
>何故、蝦夷や熊襲と戦う話はあるのに、筑紫を攻める話はないの?
景行紀は読みましたか?
>記紀の神話に銅鐸が全く出て来ない事
銅鐸は前方後円墳祭祀が創始された時に遺棄された。
精霊→首長霊祭祀への移行として説明されている。
>銅鐸は前方後円墳祭祀が創始された時に遺棄された。
紀元前後に渡ってあれだけ長期間栄えていた文化が、放棄されたからといって簡単に記憶が消失するか?
またもしそんな祭祀の形態の大転換があったとすれば、その経緯自体が神話に何かの痕跡を残すはずだ。
441 :
完全理論武装論者:04/10/28 00:57:18
>>434 畿内には魏志倭人伝に記されたような大規模な内戦の跡は発掘されましたか?
明日香地方から古代の砦や柵や空堀の跡が発掘されましたか?
巨大な古墳を作れるということは、その地方が長い間平和だったという証明ですよ
畿内に大きな古墳が多いということは、畿内は戦乱の時代がなかったということです。
よって畿内には内戦状態だった邪馬台国の領地はありませんでした。
内戦で混乱している地方には古墳など作ってる余裕はありませんので
古墳を作るぐらいなら砦や柵や空堀を作っていますよ
442 :
日本@名無史さん:04/10/28 00:58:56
444 :
日本@名無史さん:04/10/28 01:03:45
ようは文献的にみれば九州優位で
考古学的にみれば畿内優位ということでしょ。
この2つをうまく矛盾なく説明できる説が
最も信憑性に高い説だな。
つまり倭人伝の記述、1万2千里から察するに
まず九州に邪馬台国があったと思って間違いなく、
それから畿内から鏡がでてくることから察して
邪馬台国が3世紀後半に畿内に移動した。
こう考えるのが最も信憑性が高いだろ。
>>440 >紀元前後に渡ってあれだけ長期間栄えていた文化が、放棄されたからといって簡単に記憶が消失するか?
>またもしそんな祭祀の形態の大転換があったとすれば、その経緯自体が神話に何かの痕跡を残すはずだ。
まあ、数百年経っているから。
大転換っていうか、精霊→首長霊崇拝への移行は王権確立の自然な流れだろ。
出雲や吉備などでもパラレルに起きていることだし。いわゆる古墳時代の幕開け。
だからね、文献で九州説有利なんてのは、ただの幻想なんだって。
447 :
完全理論武装論者:04/10/28 01:13:35
発掘したものでさえきちんと分析もできない輩が何をほざく
邪馬台国畿内説を唱える者ほどバカな輩はいない
戦乱の最中、巨大な古墳を造営できると信じているのだからバカにもほどがある
畿内に巨大な古墳が多いから、ここに邪馬台国があったと短絡的に考えるバカ
古墳というのは平和の象徴だということさえ知らないバカ
遺跡を発掘しても自分たちの考えに都合のよいように解釈するバカ
考古学の人間はバカばっかり
そしてそのバカたちがいまだに考古学会で権威をふるう
まあ書物の上では天皇家が畿内で生まれて、一切移動していないとはどうやっても読み取れないんだよな。
そして編纂者の意図を考えると畿内の政権が畿内で生まれて畿内で発展してるのなら、それをそのまま書かず
わざわざ他から攻めてきたなんて話をデッチ上げる必然性が無い。
449 :
完全理論武装論者:04/10/28 01:19:25
>>444 その説だったらなぜ邪馬台国を名乗らずにわざわざ大和朝廷にする必要がある?
国の名前というのはよほどのことがない限り(滅亡・消滅)変えることはしない
邪馬台国の名前で人々や大陸にまで広く浸透しているのに、その邪馬台国の名前を
捨ててまで大和朝廷にする重大な意味があるのかな?
あなたの言い分では国名変更の道理で無理がありすぎますね
考えてみよう。
例えばイングランドの王様が実は対岸から攻めてきた征服者なのに、それを隠蔽して
「先祖代々イングランドに君臨してきたのだ。」と言い張ったとして、これは分かる。
統治の正当性を主張するのはもっともな話だ。
だが元々イングランドにいたのに、わざわざ「いや私の先祖はイングランド人じゃないのだ。
他所から攻めてきてここを乗っ取ったのだ。」などと嘘を言う必要があるだろうか?
>>449 「大和朝廷」という名称がその時代からあったと思ってんの?
452 :
完全理論武装論者:04/10/28 01:29:52
今現在日本国という国名を使っている。
この日本国という国名になってから1000年以上の歴史がある。
国名というのはめったなことでは変更しないし、破棄もしない
邪馬台国という国名は遠く大陸にまで知れ渡った倭人たちの国名
しかも数百年以上使い続けた国名でもある
その歴史あり由緒正しき国名、邪馬台国が突如消え去り大和朝廷という
わけのわからない国名になってしまった。
大和朝廷というのは邪馬台国の領土をそのまま引き継いでできた新国名なのか?
いいや違う、邪馬台国の領土をそのまま引き継いだのなら国名は変えないはず
邪馬台国以外の領土で生まれた政権だから国名が違うのだ
大和朝廷というのは最初は小さな国家だというのが国名でよくわかる。
453 :
完全理論武装論者:04/10/28 01:31:28
>>451 大和朝廷が国名でないのなら
では畿内の王朝は国名をなんと名乗っていたのかな?邪馬台国?
454 :
完全理論武装論者:04/10/28 01:40:38
大和朝廷が正式な国名でないのなら
正式な国名すら持たない明日香地方出身の天皇一族の支配する畿内国家
こんな名前もない畿内勢力が西は九州から東は中部地方まで
広く統治していたとは考えられない
統治していたのではなく吸収合併したのだろう
455 :
日本@名無史さん:04/10/28 01:47:08
百済花苑―大化改新異聞
宇田 伸夫 (著)
出版社: 近代文芸社
内容(「BOOK」データベースより)
入鹿虐殺の謎を追って。『日本書紀』に隠されていた『古代朝鮮語』と『蘇我百済王朝』の世界。
入鹿の虐殺…その謎を追う。中大兄皇子を正式に皇太子の地位から廃する理由の一つは公用語である百済語も満足に話せぬことだった。「日本書紀」に隠されていた古代朝鮮語と蘇我百済王朝の世界。
この本の韓国語版が韓国でベストセラーになり、
日本人は昔、朝鮮語を話していた、という話や、
日本は百済王朝の末裔だという話が韓国人の間で信じられているそうです。
>>416 オオクニヌシの国譲りのエピソード、神武東征、応神東遷、本能寺の変の4つが
「東遷のモチーフ」と言えるものだと思う。
記紀および、古代のその他の記録・伝承や、天皇家の神事に
北部九州の事跡や地名、風俗などと似かよったものが多いから、
高天原はほぼ九州そのものか、九州のどこかだと思う。
(朝鮮や大陸の可能性も捨てがたいが)
また、本能寺の変の前までに信長が得たとされる最大領土は、
今の学界が考えている畿内王権の勢力範囲とまさにぴったりくる。
(さらに、四道将軍の記事により推定される、
崇神天皇在位時のヤマトの勢力範囲もこれに近い)
と考えると、本能寺の変も東遷のモチーフと言える。
>>416 記紀は16世紀以降に成立
祟神は信長の焼き写しで四道将軍は
北陸:柴田=大彦
山陰:明智=丹波道主
山陽:秀吉=吉備津彦
東海:滝川=武淳川別なのは明らか
柴田→鬼柴田→おにひこ(いろはで、「に」の次は「ほ」)→おほひこ→大彦
明智→ミンチ(音読み)→ミチ→道+明智といえば丹波→丹波道主
秀吉→サル→桃太郎のサル(前田→犬千代→イヌ、丹羽→にわ鳥→キジ?)→吉備津彦
滝川→たきがわ→たけかわ(武川)→たけぬなかわ→武淳川別
徳川家康→建埴安彦
徳:TOKU
母音を一つずらす(A→I→U→E→O→A)
健:TAKE
建=徳川
『いへ』やす=《はに》やす
『い』ろ《はに》ほ『へ』 『いへ』→《はに》
埴安=家康
本能寺の変=建埴安彦の乱
本能寺の変の首謀者は徳川家康であることも分かる
偽書を書いた動機は、本能寺の変の首謀者が誰なのかを後世に伝えたかったから
ずばり偽書の製作者は近衛前久父子であることが分かる
>>448 まあ確かに、「記紀に何故神武東征伝承が記載されているのか」は興味のあるところ。
ただ、神武の記載から2〜3世紀に北九州勢力の東遷を主張するのは、根拠薄弱、飛躍が
あり過ぎるよ。
459 :
日本@名無史さん:04/10/28 02:20:39
>>455 >日本は百済王朝の末裔だという話が韓国人の間で信じられているそうです。
韓国人は百済にどういう感情をもってるんだろう?
日本人は、テメエラが滅ぼした国の末裔ってことだよね?
460 :
日本@名無史さん:04/10/28 05:42:48
中国王朝に使者が来る。
倭人「山手の国がこの近辺を支配しています。」
中国人「山手国(=邪馬台国)が支配だな。ふむふむ、そう記録しとこう」
かくして、この倭人の国は、邪馬台国と漢籍に書かれた。
461 :
日本@名無史さん:04/10/28 05:43:40
訂正:中国王朝に→中国王朝の
462 :
日本@名無史さん:04/10/28 05:55:13
>>452 日本のもとの国名は、“倭国”。
倭国の中の多くの国の中の一つが“邪馬台国”。
463 :
日本@名無史さん:04/10/28 06:03:52
464 :
日本@名無史さん:04/10/28 06:22:21
戦乱のことを書いている人がいるが、戦乱って領土全体に起きるとは限らないね。
畿内の勢力が現在の近畿地方の枠線あたりまで直轄していたのだから、戦地はそ
の枠線に近いところだろう。
現代の例で行こうか?
隣の半島で本家争いしている人達の国も、戦後まもなくのあの1回きりしか首都
での戦争をしていませんね?どうですか。
よって倭国大乱の時、必ずしも河内平野や大和盆地が戦場になったとは文献上で
も言えないわけなんだが。
465 :
日本@名無史さん:04/10/28 06:26:46
よって、大規模古墳を造営しつつ、戦をすることは可能。
もう1度例えるなら、現在の米国のようなもの。
466 :
日本@名無史さん:04/10/28 06:41:51
あと、外部からの征服王朝説を唱える人(小説家も含め)がいるけれど、
ワシからすれば最大の疑問が浮かぶ。
外部出身なら、どうして、姓を名乗らないの?
征服王朝って、自分達のしきたりを押し付けるものなのよ。なのに、ど
うして「劉」とか「金」とか自ら名乗らないわけ?あるいは、家来にな
った者達にそれを強要しないわけ?
百歩譲って、姓を導入する前の半島からやってきたという主張を許すに
しても、それでもおかしい。
当時の半島の人間の名前等を記録しているチャイニーズの方をみても、
現代日本語はおろか、およそ古墳時代の日本語ともかけはなれている人名
がほとんど。
よって、倭国で外部出身者が活躍したといっても、それは家来レベルの
話であって、王はみな、倭国大乱の各勢力も含め、全員が倭人。
467 :
日本@名無史さん:04/10/28 11:10:26
>>449 邪馬台国=ヤマト国=大倭国=大和国。
名前も変わってないじゃんw
468 :
日本@名無史さん:04/10/28 13:10:44
469 :
日本@名無史さん:04/10/28 13:43:21
いつになったら結論がでるの?
最新の説では畿内と九州のどちらが有力?
470 :
日本@名無史さん:04/10/28 17:24:02
>>459 室町時代に大内氏が百済国王の末裔と称して朝鮮と貿易していた、
そのことが何かと混同されたからじゃないの?
一介の地方政権(それも、独立国ではない)である大内氏を、
長い伝承の過程で天皇家か幕府か何かと混同したとか。
471 :
日本@名無史さん:04/10/28 18:49:49
デムパが来たのでトンデモ本のさわりでも書いてみる。
古代人が名前に呪力があると信じていたのは少し歴史を学んでる人ならば、当然の知識である。
ある人間の「真の名」は”忌み名”と呼ばれ、それを知る者はその人間を支配できると思われていた。
故に忌み名はごく親しい者以外にはけして明かされず、ほとんどは通称のようなものを名乗っていた。
しかしながら忌み名という考えは何も人間にだけ適用されるわけではなく、あらゆる事物に忌み名は
存在するものと信じられていた。
もちろん国の名もまた同じなのである。
我が国を呼ぶ名前は実に数多い、「倭国」「日本」「日ノ本」「秋津州」「葦原の瑞穂の国」「大八州」
「敷島の大和国」「扶桑国」、数をあげればきりが無い。
しかしこれらはどれもこの国の本当の名前、即ち忌み名では無いのである。
我が国の忌み名はそれを知る者に我が国の支配権を与える事になる。
それ故最大のタブーとして古代以来我が国の忌み名は秘められてきたのだ。
472 :
日本@名無史さん:04/10/28 18:50:16
ではそれは最早誰も知りえない永遠の謎なのであろうか?
いや、違う。
今も我が国の忌み名は伝わっているのである。
どこにか?
それは天皇家に他ならない。
天皇家が実権を失って久しいにも関わらず、時の権力者に廃されることが無かった事。
古代以来誰人も代わる事のできない権威が天皇に存在する事。
これは日本史の大きな謎であるが、皇室が我が国の忌み名を保持しているとすれば、その理由は明らかである。
例え政治的実権を握っているものがいたとしても、忌み名によってこの国を霊的に支配してきたのは
天皇家に他ならないのだ。
そして我が国の忌み名は、我が国の創設期の秘密、天皇家発祥の秘密にも関わっているのだ。
それが明らかになれば未だに論争の尽きない古代史も大きく解明される事だろう。
何故なら我が国の忌み名は歴史を語るものなら誰もが知っているであろう、ある固有名詞の
変化したものなのだから。
絶対のタブーあるはずの我が国の忌み名を、筆者はいかにして知りえたのか?
事の発端は意外な所にあったのである。
473 :
日本@名無史さん:04/10/28 19:06:11
474 :
日本@名無史さん:04/10/28 19:48:14
韓国人は「天皇家はもともと朝鮮人で、
日本を征服してあたらしい国を作った」という話を信じている。
476 :
日本@名無史さん:04/10/28 20:01:03
477 :
日本@名無史さん:04/10/28 21:28:21
まだこんなくだらないスレあるのか。
邪魔大国と大和朝廷を一緒にすんな!
やまたのおろちも忘れないで下さい
479 :
日本@名無史さん:04/10/28 23:55:01
「やまたのおろち」って、畿内の原住民のことじゃないのか
スサノオがオロチを退治した話って、始祖王のエピソードのように思えるんだが。
480 :
日本@名無史さん:04/10/29 00:08:59
九州説の論拠のひとつとして「九州を攻める話が記紀に無い」というのがあって、
で、その反論として畿内説論者が「景行紀」の存在を挙げるわけだが
景行天皇って、九州に進出する際に、天孫降臨や神武東征のことについて
感慨深げになったり思いをはせたなどの記述が無いのが不自然すぎる。
もしかすると景行天皇は「神武東征」よりも前の人間なのかも・・・
スサノオ=崇神=畿内に王権を打ち立てた始祖王
オオクニヌシ=景行、仲哀=畿内王権を拡大して九州にまで攻め込んだ英雄王
アマテラス=卑弥呼=畿内の侵略を恐れ魏に救援を求めた九州の弱小国の女王
481 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :04/10/29 00:22:49
大和朝廷天皇家の「姓」はあった。
だが九州王朝を隠蔽する為には名乗れなかった。
天皇姓は「ゐ(倭・委・壱)」である。
倭は「やまと」と読まない、「ゐ」と読む。
初期歴代天皇は「倭・・・」又は「大倭・・・」と名乗っている。
神武天皇は北九州糸島出身の倭(ゐ)族の分派であるからである。
九州にあった政権は元々は金印に見られるように「委(ゐ)」である。
「委」→「倭」→「イ妥」
「ゐ」の変遷
「委(ゐ)」→「倭(ゐ)」→「山大倭(やまたぃゐ)=山大壱(やまたぃゐ)=邪馬台(やまたい)」・・・九州海岸部政権の邪馬台は国名
一方、「海倭(うみゐ)=壱岐」・・・海峡部の九州上陸前の旧政権である壱岐国を区別する為
「倭(ゐ)」→「大倭(たぃゐ)」→「イ妥(たゐ)」
>>480 だから、応神=神武なんだよ。
神功=アマテラス、武内スクネ=高木神
483 :
日本@名無史さん:04/10/29 00:54:58
応神は金官加羅からやって来た傭兵隊長
484 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :04/10/29 01:06:57
神武の東方移住は4世紀末。
九州北部を熊本菊池が制圧したので、神武は九州東北部東部海岸部方面に脱出。
その後、景行記に出てくる前君の九州東北部東部南部の征服。
(景行記征服地は@東北部九州からA山口B東部九州C南部九州で、熊本は既領土(戦勝の歓迎を受けている地)、帰着地は福岡浮羽。)
(出発地の記述はないが@の東北部九州に行ける隣接地であるから、出発地は筑紫。)
5世紀初頭に全九州及び半島沿岸部を征服していたのは倭の五王「讃」。
讃は前君本人かその一代又は二代後の人物。
景行記九州征服部分は九州王朝史書からのコピー。
485 :
日本@名無史さん:04/10/29 01:15:15
486 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :04/10/29 01:23:00
>>485 「バーカw」しか言えない脳なし。
自説を木っ端微塵に砕かれて狂いました。
神武東征伝承は、「昔、九州から偉大な大王がやって来て、畿内を征服した」
という古老の記憶がベースになっていると思う。
つまり、4世紀後半、高句麗南下に伴う半島情勢の激化、政治的混乱に乗じ、
大王位を簒奪したのが応神=神武。
南九州に縁がある大王で、日向神話が加わったのもその頃だろう。
488 :
日本@名無史さん:04/10/29 01:30:53
>>486 おまえも、もっと具体的な根拠を示せよ。
記紀の解釈と想像だけだったら、天皇=宇宙人説だって成り立つぞ。
神話の神々は宇宙人だったとか書いてた本があったなぁ
讃=応神なのか。ホムダワケ(誉田別)って名前だし。
誉→讃。
491 :
日本@名無史さん:04/10/30 02:30:44
魏志倭人伝の倭人の名前は、日本語のルールの中にある。
倭の五王の名前は、中国・朝鮮半島風。
倭の五王の時代に、日本は朝鮮(百済)から王を招きいれ、大和政権ができた。
492 :
日本@名無史さん:04/10/30 03:33:10
「神」のついた天皇数えて。その中で最近は?香田君に合掌してからはぢめよう
493 :
日本@名無史さん:04/10/30 03:57:14
香田君は悪くは無い。彼は旅行者だ。悪いのはテロリストである。
しかし、日本では、悪いのは香田君のようないわれようだ。
日本人は、「さわらぬ神に祟り無し」という思想があるから、
どうしても神域に入ったやつが悪いという感覚なんだろう。
日本人は滑稽なことに、テロリストを神と同じ感覚で畏れているのだ。
だが、忘れてはならない。
はるか昔、香田君のような気骨ある人が、危険な海を渡り日本列島までやってきて、
我々の祖先になったという事実を。
邪馬台国っていうのはやまとの当て字でしょ、だから
邪馬台国=大和国。
まだ日本全体を指す名前が決まってなかったから奈良県の地名
を国の名前として出したんじゃないかと思う、現代人がUKを
イギリスと呼ぶような感覚で。
495 :
日本@名無史さん:04/10/30 08:17:08
イギリスはポルトガル語
>>494 やまとは日本中にあるわけですよ
もちろん九州にもあるわけですよ
>495 ありがとう、オランダと思ってたよ。494で言ったのはイングランド(が訛ってイギリス)のことね、
グレートブリテン=倭=日本列島
イングランド=邪馬台国=大和 のような感じで
〉496 九州と奈良に地名の共通点があるっていうのは俺も読んだことあるよ。
また後でいろいろ書きこみますね。
498 :
日本@名無史さん:04/10/30 21:03:44
>>496 九州にあったら「ヤマト」である必要がなく、「ヤマタイ」でいいのでは?
倭の大乱とアマテラスの神話は共通する面もある。ちなみに、天孫降臨の
神話は、記紀を制作した人が渡来系の人の為
499 :
日本@名無史さん:04/10/30 21:16:40
台風に地震、おまけに人質事件が発生してるっていうのに
のんきに邪馬台国はどこにあったかだの議論してるやつの
神経を疑うな。所詮は他人様の不幸で自分には関係なしか。
500 :
日本@名無史さん:04/10/30 21:30:07
>>499 ここを読んでコメントしているお前も同じ穴の狢。
地震は大事件だけど、イラクの人質はマスゴミが騒いでいるだけの小事
501 :
日本@名無史さん:04/10/30 22:11:29
元伊勢伝説について書いてある神道五部書の一つ、倭姫命世記には
大和国と別に倭国と書いてあるよ 天武天皇のころに作った伝記だ
伊勢外宮の度会神道が後世に伝えたものだ
伊勢に伊勢神宮を作る前に日本の適地を探してあちこちに行った伝記だが
古事記では崇神天皇の条に動座のいきさつについて書いてあるよ
俺は邪馬台国と大和朝廷は別モノだと整理している。
邪馬台国は弥生時代に北九州(現在の佐賀県)にあったが
3世紀末に半島南部から侵入してきた伽羅人集団によって滅ぼされたって
考えている。後に成立した大和朝廷が中国に対して王朝が入れ換わったのを隠す
為に名前を拝借しただけだと思っている。
503 :
日本@名無史さん:04/10/31 00:13:03
邪馬台国がどこにあろうと、大和朝廷と結びつく証拠は無い。
真面目な学会の中でも、邪馬台国が大和朝廷になったなどという議論があるが、
むかつく。学会の中で主観と妄想を語るなと。
証拠が証拠に見えない症候群
505 :
日本@名無史さん:04/10/31 00:50:40
宇佐神宮は、応神=秦氏=渡来人をまつったもの。
卑弥呼を祭ったものではない。
506 :
日本@名無史さん:04/10/31 00:55:18
天皇が宇佐にお参りにいってたのは、
当時、国東には秦王国という、知見に長けた渡来系技能集団があったから。
政治の参謀として助言を求めていたにすぎない。
507 :
日本@名無史さん:04/10/31 01:02:02
>>506 他の事のアドバイスならともかく、道鏡を皇位につける是非なんて重大事を
ただの参謀に聞きに行ったりするわけないだろ。
508 :
日本@名無史さん:04/10/31 01:09:52
>>507 天皇が、宇佐まできて、すぐ近くの秦王国の存在を無視して、
実際の政治を神託に頼ると思ってるのか?
というより、そもそも宇佐の神官は秦氏の権力者だろう。
よく考えて見れ。
邪馬台国というキーワードを抜きにして考えれば、
畿内勢力が吉備、東海、越勢力と語らい、3世紀〜4世紀頃に当時先進の北九州勢力を
を屈服させ、半島・大陸との交渉権を持つ倭国王の座を奪い取った、と。
この辺りはコンセンサスが得られるのでは?
倭人伝の邪馬台国の時、3世紀半ば頃、畿内による北九州支配があったのかどうか?
あった⇒邪馬台国は畿内
なかった⇒邪馬台国は九州
>>509 それでコンセンサスが取れる香具師を集めたら、ほとんど畿内説だろ。
この御時世、そこまで認めて九州説って絶滅危惧種だと思うぞ。
511 :
日本@名無史さん:04/10/31 02:28:24
素朴な疑問なんだけど
古事記とか日本書紀ってそれを
暗記していた人の口述とかで作ったんでしょ?
でも卑弥呼の時代に中国に使いとか出していたり
してるんだから文字とか書ける人はそこそこいたんじゃ
ないかと思う。
そういう人たちが歴史とか書きとめてなかったんだろうか。
512 :
日本@名無史さん:04/10/31 03:03:06
バカだなあ。
邪馬台国=大和朝廷=畿内だとしたら、
卑弥呼の死後、100年も朝貢が途絶えるのはなぜだ?
ずっと、安定政権を保てたはずだろ。
畿内の大和が、九州の邪馬台国を滅ぼし、
その勢いで、朝鮮まで出兵したのが4世紀のこと。
朝鮮出兵までしてるのだから、
中国の後ろ盾は不可欠にも関わらず、朝貢しなかったのは何故か?
畿内の大和は、5世紀まで、朝貢の習慣をしらなかったということ。
513 :
日本@名無史さん:04/10/31 03:17:36
>>502 では、何のために隠すのでしょうか?隠すメリットを教えて下され。
>>505-508 じゃあ、どうして秦河勝はあれ以上に出世できないんですかね?
朝廷が秦氏の操り人形というなら、なぜ秦氏の官位が低いわけ?
514 :
日本@名無史さん:04/10/31 04:26:06
日本は伝統的に真の権力者は表に立たない。
>>514 晋が滅んで宋が台頭するまでの間、中国がどうなってたか知らないような人は(ry
516 :
日本@名無史さん:04/10/31 06:35:18
わたしもいたいです
わたしはまいこちゃん
わたしはわるいこまいこちゃん
わたしはおしおきされてころされて
いすにすわったまいこちゃん
あけたのせなかにおににふす
くてくにくさってただれてる
いおなあとにうしろをふりむくと
ふかいいどのしにんがうつる
あ
さ
ん
お母さんに殺されたまいこちゃんの言葉です
これを読むと、三日以内にまいこちゃんが肩を叩くそうです
それでその時振り向くと、背中の皮膚を剥がされて殺されるって
517 :
日本@名無史さん:04/10/31 07:41:45
>>514 真の権力者は表に立たない、とおっしゃいましたが、そのことと
私が尋ねていることは、どうも話の角度が違うので、もう少し詳
しく教えて下さい。
518 :
日本@名無史さん:04/10/31 08:17:53
>>515 魏が滅んだ後、すぐ普に朝貢しましたよ?
>>518 はいはい。ともかく、中国史(魏晋南北朝史)勉強しる。
520 :
日本@名無史さん:04/10/31 10:48:25
イヨが266年に晋に朝貢して以来、
413年の讃まで中国の史書に日本が
朝貢したという記述はない。邪馬台国と
大和朝廷が同一のものでしかも3世紀の
時点ですでに成立していたとしたら、
この空白期間はありえん。崇神王朝の時代、
なぜ朝貢しなかったのか?
明史日本伝
日本にはもと王があって、その臣下では関白というのが
一番えらかった。当時、関白だったのは山城の守の信長で
あって、ある日、猟に出たところが木の下に寝ている奴が
ある。びっくりして飛び起きたところをつかまえて問いた
だすと、自分は平秀吉といって、薩摩の国の人の下男だと
いう。すばしっこくて口がうまいので、信長に気に入られ
馬飼いになり、木下という名前をつけてもらった。
信長の参謀の阿奇支(あけち)というなが落ち度があっ
たので、信長は秀吉に命じて軍隊をひきいて攻めさせた。
ところが突然、信長は家来の明智に殺された。秀吉はちょ
うど阿奇支を攻め滅ぼしたばかりだったが、変事を聞いて
武将の行長らとともに、勝ったいきおいで軍隊をひきいて
帰り、明智を滅ぼした。
明でこれだから魏はそれ以下だと思った方がいいとさ。
>>520 中国がぐちゃぐちゃだったから。
ごねる前に愚愚るぐらいのことはしろよ。
523 :
日本@名無史さん:04/10/31 11:15:34
>>522 ぐちゃぐちゃだったのは北部のみでしょ。
東晋はちゃんと存在してましたよ。
>>520 280年 中国では、武帝(西晋)が、漸く呉を滅ぼし統一王朝が復活する。
316年 しかし、その西晋は、匈奴劉聡により、たった4代で滅んでしまう。
この後に続く約100年間を中国史では、何と呼んでいるかしっていますか?
貴方が当時の倭王だったら何と言う王朝に朝貢しますか?
525 :
日本@名無史さん:04/10/31 11:31:28
>>524 413年の朝貢という記録があるだろボケ。
>>510 九州説は、「北九州の邪馬台国が、4世紀頃畿内の大和朝廷に滅ぼされた」って
考えている人の方が主流だろう。
邪馬台国東遷→初期大和朝廷って考えている奴は、神武東征【神話】を根拠にして、
「なんとなく東遷したと思う」って言ってるだけだし。
まあ、俺は畿内説なんだが。
九州王朝が朝貢した記録はさぞかしたくさん残ってるんだろうなぁ・・・「ぼけ」とまで言うからには。
出してみ?ほれ。どうした?
528 :
日本@名無史さん:04/10/31 11:47:47
逆ギレかよw
相手相応の対応してるだけだよ。
266年 - 倭女王、晋に朝貢
280年 - 晋、呉を滅ぼして天下統一
291年 - 晋で八王の乱
304年 - 前趙が建国
313年 - 高句麗が楽浪郡を滅ぼす
316年 - 前趙、晋朝を滅ぼす、元帝が東晋を建国
329年 - 前趙滅亡
337年 - 前燕が建国
342年 - 前燕、高句麗を攻略
346年 - 百済が建国
356年 - 新羅が建国
357年 - 高句麗再起
370年 - 前燕滅亡
386年 - 鮮卑の拓跋珪、北魏を建国
391年 - 倭、百済・新羅を破る(広開土王碑)
398年 - 南燕が建国
400年 - 高句麗、倭軍を撃退(広開土王碑)
410年 - 東晋、南燕を滅ぼす
413年 - 倭国、東晋に朝貢
420年 - 東晋滅亡
421年 - 倭王の讃、宋に朝貢
>>525 ボケ?
西晋滅亡後の話をしているところに、いきなり五世紀ネタですかあ?
ボケって誰にいってるのかなあ・・・
532 :
日本@名無史さん:04/10/31 14:02:05
前473年 - 呉が、越に攻められ滅亡
前465年 - 越が、山東半島の琅邪(ろうや)に都をうつす
前334年 - 越が、楚軍の侵略により滅亡
・・・
(江南の民が、多く日本列島へ流入?)
・・・
266年 - 倭女王、晋に朝貢
280年 - 晋、三国の呉を滅ぼして天下統一
・・・
533 :
日本@名無史さん:04/10/31 18:16:35
というわけで、大和朝廷は呉の末裔ということでOKですね?
534 :
日本@名無史さん:04/10/31 19:21:55
535 :
日本@名無史さん:04/10/31 21:11:10
宇佐神宮の件ですが、筑紫のいわいの反乱のあと、宇佐神宮の神主が宇佐氏から
大和の大神神社の神主をしていた大神氏に変えられていますね
そこで祭神も変えられ八幡宮信仰になり神宮皇后、応神天皇、姫大神などに祭神が
変えられています
大神神社の祭神は大物主なのになぜ大物主ではなく八幡なのか?ちょっと疑問です
この件はたしか別府大学の教授が詳しく研究していたと思います
ですから宇佐神宮の祭神はあとになって大和朝廷によって神宮皇后などに
変えられた、それまでの祭神とは違うということです
八幡宮信仰の勢力拡大と大和朝廷の勢力拡大が正比例しているように思えます
宇佐神宮信仰も原始宇佐信仰から八幡信仰、八幡大菩薩信仰、武神信仰と
変わっているようです
536 :
日本@名無史さん:04/10/31 23:16:54
>>532 その年表のソースはどうした?
結局、それはおまえの創作なのか?w
古代日本 年表
でググると面白いサイトがいくつか出てきた
敢えてリンクは貼らないけど
538 :
日本@名無史さん:04/11/01 01:45:52
卑弥呼=天照大神(神としての)
伊支馬=崇神
弥馬獲支=垂仁
後は誰か考えて。
ごめん、逆だった。
伊支馬=垂仁
弥馬獲支=崇神
541 :
日本@名無史さん:04/11/01 10:42:52
巫女って結婚できないんじゃなかったっけ?
となると、卑弥呼の弟の子孫が天皇家の先祖に
あたるのかな?
542 :
日本@名無史さん:04/11/01 10:55:39
544 :
日本@名無史さん:04/11/02 09:08:45
>>541 結婚できなくてもセックスはしてもよかったと
思う。
545 :
日本@名無史さん:04/11/02 09:11:51
卑弥呼と天皇家が繋がる証拠は無いって言ってるだろ。
546 :
日本@名無史さん:04/11/02 09:13:54
確実に存在したことがわかってる
天皇って何天皇からなの?
547 :
日本@名無史さん:04/11/02 09:39:38
天照大御神も卑弥呼、ともに弟が大きな役割を果たしているね。
天照大御神の弟 = 須佐之男
卑弥呼の弟 = 佐治國
名前の字も、一つ同じだ。
548 :
日本@名無史さん:04/11/02 09:41:17
訂正:天照大御神も卑弥呼 → 天照大御神と卑弥呼
>>546 >何天皇からなの?
↑この文章がよく分からん
「どこから確実に継続しているか」なのか
「一番古いのは」なのか
しかも天皇の称号は…もうスレ違いだ
550 :
日本@名無史さん:04/11/02 10:12:58
551 :
日本@名無史さん:04/11/02 10:41:13
佐治国は「佐けて国を治める」
553 :
日本@名無史さん:04/11/02 17:51:47
>>549 おまえはバカか?
「実在の人物は?」という意味にしか聞こえないだろ。
実在の人物は、応神からで、その前は空想。
>>553 いつの時代の話だ?
崇神までは認められてる
555 :
日本@名無史さん:04/11/02 18:54:22
>>554 崇神が実在したという物的証拠でもあるのか?
556 :
日本@名無史さん:04/11/02 19:11:56
ない
557 :
日本@名無史さん:04/11/02 19:37:40
須佐之男は「須く佐けるの男」
>>541は「・・・かな?」と言っているだけ(つまり決め付けではなく、連想
のひとこま)なのに、
>>545は「・・・ないと言ってるだろ」と頑固な態度で
反応。何をそんなに焦っているのか。自説に自信がないのか?
また、
>>549の解釈がおかしいのは事実だけれど、それに対して「お前はバカ
か?」と反応する
>>553。ネットってさ、おたがいの顔が見えないんだから、
もっと穏やかな書き方ができないものか。あなただって、変な表現をしている
のだから。
これ↓
〜「実在の人物は?」という意味にしか”聞こえない”だろ。〜
字は聞こえません。あしからず。
559 :
日本@名無史さん:04/11/02 20:21:57
証拠の無いカキコされても、妄想オナニーとしか読めません。
具体的な証拠を出して語ってください。
証拠があれば、その証拠の検証作業という議論が出来るが、
証拠の無い妄想に対して、「バカ」といわれても仕方ないだろ。
>>559 だから〜、ネットにはいろんな人が来るし、言い方に気をつけたほうが、
と言っているだけなのよ。
彼らの書き込みは確かに「バカ」と言われても仕方のない状況かもしれない。
でも、そのままストレートを、いつの場合でもスレッドに書いていいのかど
うか。
場合によっては相手によって言い方を変えるのも一つの手ではないかと。
>>555 キリストが実在したという物的証拠もありませんが?
>561
あなたはキリストの大きな愛を自ら感じる事はないのですか?
それが証拠です
563 :
日本@名無史さん:04/11/02 21:01:40
キリストの愛と考古学とどういう関係が?
>>563 考古学?
スレ違いとは言わないが、ここは日本史板ですよ
565 :
日本@名無史さん:04/11/02 22:13:28
日本史なら、妄想を語ってもOKなのか?
俺は、おまえの妄想なんか読みたくないんだよ。
自分で日記帳作って書いとけばいいだろ。
人に聞かせる前に、証拠を揃とけ。
566 :
日本@名無史さん:04/11/02 23:28:14
久々に覗いたら、激しくレベルが後退している・・・
ソース云々の質問に答えるのなら、例えば
「寺沢説をベースにしている」とか「柳田説の補強です」などと
答えればここの住人なら、いちいちソースを出さずとも判るんだよ。
それすら出来ないのは、よほど自説に自信がないのか
怪しげなオカルト考古学もどきが出典のどちらかなのだろうと
判断されても文句も言えないよ。
たとえ根拠が安本でも古田でも(w いいじゃんか
粉砕されたらされたで、再構築して出直せばいい。
学会じゃないんだから、変な自意識は捨てて論争そのものを楽しめよな。
>>565 どれが妄想なんだ?証拠つけて示してくれ
但し2ちゃんねるの書込みは信憑性に欠けるから、
過去ログは証拠として認めません
568 :
日本@名無史さん:04/11/02 23:47:43
>>567 根拠も無く、「こうだ」と決め付けてるから。
ソースを示してないから。
569 :
日本@名無史さん:04/11/02 23:49:30
>>567 君の主張がどれなのかさっぱり判らん。
「証拠つけて」とまで見得を切るのなら、番号コテにするなりして
「この説に対しての反論を願います。」と書くのが筋だろう。
それと・・・
>但し2ちゃんねるの書込みは信憑性に欠けるから・・・
って、どれが嘘か本当か判断できない程度のレベルじゃ
もともと論争なんて無理。それくらい邪馬台国問題は難しいのだよ。
ウェブの情報より先に、まず専門書を読みましょう。
570 :
日本@名無史さん:04/11/03 00:24:53
571 :
日本@名無史さん:04/11/03 00:30:31
なんかすげえなここは
マジレスの嵐だよ
上の人達
まあもちつきたまえ(AA略
572 :
日本@名無史さん:04/11/03 00:42:27
>>570 あえて釣られてみるよ
>また、はやし言葉についても、「ヨイショ」は「ヨー・イシェオ(ヤハウェが助けてくださる。)」
「ヤーレン・ソーラン」は「ヤーン・レ・ソーラン(ヤハウェが私に答えてくださった。見てください。)」
「アーリャ・サ」は「アハレリ・サー(私は主権者をたたえます。)」
「エンヤラヤー」は「エァニ・エハレル・ヤー(私はヤハウェを賛美します。)」じゃろうと言っておる。
と学会が物笑いの種にしてから、もう10年近く経つぞ、そのネタ。
573 :
日本@名無史さん:04/11/03 00:45:16
574 :
日本@名無史さん:04/11/03 00:48:25
耶蘇はキモイ
575 :
日本@名無史さん:04/11/03 01:01:29
>>573 >秦氏が景教を持ち込んでいたのは事実
これにはまだ異論も多いよ。
例の太秦の三角鳥居も「影響ありか?」くらいに留めておいた方が良い。
むしろ東南アジア系の民間伝承の影響が、神話エピソードからも見て取れる。
但し大陸や半島経由で景教(もしくはそのエピソードの元ネタ)が輸入された
可能性も捨てきれないのだけど。
要するに、まだまだ確定的なことは言えないというのが現状ですよ。
576 :
日本@名無史さん:04/11/03 01:18:39
記紀神話から、外国由来のエピソードを排除していけば、
日本由来の伝承がわかるはずなんだけど。
そういう研究をまとめたサイトない?
577 :
日本@名無史さん:04/11/03 01:29:57
>>576 それもまた難しいハナシでして
例えばイザナギの黄泉からの脱出にしても、似たような話が
世界中にあって、どこが発信源なのかまったく特定できないのです。
仁徳天皇のかまどの煙やら、武列天皇の妊婦の腹裂きもまた然り。
これらの検証作業は、民俗学や神話学畑の連中もずいぶん前に匙を投げています。
むしろ「これがルーツだ!」とばかりに断定してる書籍やサイトは怪しいと思ったほうが無難です。
微妙にスレ違いなので、本題に戻ってください。
578 :
日本@名無史さん:04/11/03 01:31:52
>世界中にあって、どこが発信源なのかまったく特定できないのです。
こういうのむしろユングだろ。
579 :
日本@名無史さん:04/11/03 01:34:01
580 :
日本@名無史さん:04/11/03 01:39:21
>>578 シンクロニシティを持ち出さずとも
人間が考えだすストーリーのパターンそのものに限りがあると言った所でしょうか
特に王家の歴史というテーマの縛りがあるだけに、似通ったものになるのは必然かと思います。
581 :
日本@名無史さん:04/11/03 01:45:13
>>580 王家の歴史かどうか知らないが、人間の精神にはある雛型があると
する説(集合的無意識・原型論)は納得できるな。とすれば格別どこ
が起源とかいう話でもなくなるわけ。
こういった内なる形式論じみた話はチョムスキーにもつながっている
んだとおもう。
>>573 こじつけだな。
似ている部分だけ取り出すのは、電波がよくやるテクニック。
583 :
日本@名無史さん:04/11/03 10:08:06
むしろ、日本の神話はギリシャ・ローマ神話とよく似ているというのは、よく知られた事実。
584 :
日本@名無史さん:04/11/03 10:12:13
>>555 >崇神が実在したという物的証拠でもあるのか?
これは感心できない誘導尋問ですな。
天皇陵が発掘できないのはよく知られていると思いますが。
素人引っ掛けの質問だと思う。
文献的にも、〜天皇が架空とか実在とか、そういう確定的証拠はない。
586 :
日本@名無史さん:04/11/03 10:35:36
>>555 私は逆に、「崇神が実在しないという証拠は?」と訊き返したいですな。
最新の考古学の成果からみると、古墳の築造は2世紀後半ぐらいまで遡ると思われる。
もし、応神天皇以前が架空だとすると、2世紀後半から5世紀初ぐらいまでの伝承が一切
伝わらなかったのはなぜかということをきちんと論証してほしい。
588 :
日本@名無史さん:04/11/03 11:23:58
なんで日本の古墳には墓誌がないの?
589 :
日本@名無史さん:04/11/03 11:35:06
卑弥呼=天照
神武=崇神
と考えるのがもっともつじつまが合う解釈。
こう考えれば天皇家の源流が邪馬台国にあり、
3世紀後半に東遷したことがわかる。
「わかる」という日本語の意味がわからんやつがいるようだな。
「わかる」って単語には、自分の妄想を惹けらかすって意味も有るんだな。
崇神天皇がいつごろの人なのかってことを確定しないと。
>>588 日本古来からの慣習だからというのと、日本が墓に墓誌を入れる民族に征服されなかったから。
594 :
日本@名無史さん:04/11/03 17:00:20
神武以後の天皇(倭王)は、実在した人物であろう。
非実在説の根拠は、薄弱である。
595 :
日本@名無史さん:04/11/03 17:10:08
理系にいけなかった落ちこぼれの文系のスレはここでつか?
596 :
日本@名無史さん:04/11/03 17:14:29
係長手前にまでなって、理系だとか文系だとか、いまさらどうでもいいヨ。
>>592 だな
誰か、今考えられるパターンを挙げてくれないかな
>>597 崇神は、記紀の伝承から、三輪山山麓に宮をもうけた最初の大王だと思われる。
崇神の在位期間は、マキムク建設時期の、3世紀初頭〜後半が妥当ではないか?
599 :
日本@名無史さん:04/11/03 19:40:35
>>589 天皇家の源流を邪馬台国に求めるには、
卑弥呼=天照
神武=崇神
にすると、つじつまが合う
これを、論理の循環とかなんとか言うんだろ?
なんの証明にもならん。
>>598 崇神天皇が実在だとしても、生存年代を推定するのはむりだよ。
稲荷山鉄剣のような大発見よもう一度、ですな。
602 :
日本@名無史さん:04/11/03 23:02:20
>>598 在位が50年以上とは、あまりにも長すぎると思われる。
最も、寿命120年との記述を信ずるとすれば別だが・・・
なぜ、開化は前王の妃である伊香色謎を自分の妃としたのか?
このあたりに謎が隠されている気がする。
伊香色謎が崇神を産む。武内スクネも伊香色謎の後裔であるのは意味深。
>>602 ごめん、書き方が悪かった。
「崇神はマキムク建設時期に在位していた大王で、
マキムク建設時期は3世紀初頭〜後半と推定される。」
と書きたかった。
崇神は早死にしたみたいな伝承もあるし、在位期間50年ってことはなさそう。
紀年論から言えば、崇神天皇は、古事記分注崩年干支を根拠にして、3世紀前半ぐらいとなる。
定説(那珂説):崇神の崩年 258年
>>604 纒向の大王といえば、垂仁天皇。
纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)にましまして…
>>606 景行天皇も
纒向日代宮 まきむくのひしろのみや
608 :
日本@名無史さん:04/11/03 23:31:47
卑弥呼の時代の邪馬台国は北九州にあって
イヨの時代の邪馬台国は畿内にあったとすると
箸墓=イヨの墓、となりすべてつじつまがあうな。
609 :
日本@名無史さん:04/11/03 23:44:41
纒向遺跡3世紀初〜4世紀前半ぐらいで急速に衰退した人工都市と言われてます。
これは、崇神、垂仁、景行天皇の治世とほぼ一致すると考えられます。
崇神が4世紀前半とする説もありますが、それだと、垂仁、景行天皇は衰退した
纒向に都したこととなり、考古学的に見ておかしいと思います。
これから、崇神天皇は3世紀前半つまり、卑弥呼と同時代の人ではないかというのが
私の説です。
610 :
日本@名無史さん:04/11/03 23:46:52
卑弥呼が死んだとき再び国が乱れたとある。
このとき実質的に邪馬台国の権力を握っていた
卑弥呼の弟が東国へ逃れてそれが三輪王朝の
崇神になったと考えると
>>605の年代ともほぼ
一致する。
>>603 つまり、初期ヤマト政権では女系の血筋が優先されたということ。
大王家への入り婿(有力豪族による大王位の持ち回り)、もしくは女王体制だったのではないか
とさえ思える。
男系優先に転換したのは、九州系の応神東征以降。
怪しい父子相続(本来血縁関係の無い大王たちを父子に擬制した?)から、
リアルな兄弟相続になっているし。
612 :
日本@名無史さん:04/11/04 00:05:10
>>611 > 男系優先に転換したのは、九州系の応神東征以降
それ以前から男系優先。どこにも女系などとは書いていない。
613 :
日本@名無史さん:04/11/04 00:10:45
神武以降決死8代までは、畿内土着勢力の権力者たちを
無理やり一元化したもの。神武は崇神と同一人物であり、
3世紀に九州から東遷してきたと思われる。この神武=崇神の
正体は実は倭人伝に書かれていると思う。同時代に存在した
最大の権力者。
「倭では女王の死後男王を立てたが、国中が服従せず、互いに殺し合い、このとき千余人が殺されたという。」
この男王こそ神武=崇神だったのではあるまいか?
そしてこの人物は卑弥呼の弟の可能性が高い。
>>612 それは、記紀が書かれた時代、すでに父権的な立場が優位になっていたから。
頭の固い人だなあ。
神武=崇神はいいとして、さらにその人物は
台与の末裔というのはダメ?
616 :
日本@名無史さん:04/11/04 00:18:14
>>615 卑弥呼に子供がいなかったこと。
台与は養女だったことから考えて
巫女はやはり結婚禁止、セックス禁止
だったのではあるまいか?
>>613 私は、東遷勢力による畿内征服⇒マキムク建設には否定的です。
仮にそういうことがあったとしても、九州系王族の婿入り程度のものでしょう。
マキムクは唐古・鍵遺跡に連なる畿内在地勢力が、初期ヤマト政権の中枢になった
と思います。
618 :
日本@名無史さん:04/11/04 00:20:05
>>605 崇神の崩年を258年とすると、
11代垂仁〜30代敏達の20代が、258年〜585年になるから、
平均在位年数は、16.4年。
一方、31代用明〜50代桓武の20代が、585年〜806年で、
平均在位年数は、11.1年。
10代崇神天皇の年代は、もっと後だろう。
そうでないと、古代の天皇の在位年数が長くなりすぎる。
619 :
日本@名無史さん:04/11/04 00:21:46
>>614 女性が王権として埋葬された例がありますか?
>>616 だから、台与が卑弥呼を滅ぼして(または死後に邪馬台国を継いで)から
ヤマトに追われて日向に落ちて、末裔が神武になった。
日田のHPにそんな仮説があった。
621 :
日本@名無史さん:04/11/04 00:24:27
>>618 世代数が数えると矛盾はない。
そしてその平均は28年弱。
622 :
621:04/11/04 00:25:31
>世代数が数えると矛盾はない。
世代数「で」数えると矛盾はない。
623 :
日本@名無史さん:04/11/04 00:29:50
>>620 イヨの末裔とするのは無理がある。
イヨはおそらく280年前後には死去してるし、
神武が4世紀の人となると、すでに400年前後に
応神天皇が大和で即位してるんで年代的に無理がある。
応神天皇がイヨの末裔の可能性はあるかもしれない。
>>613 >神武以降決死8代までは、畿内土着勢力の権力者たちを 無理やり一元化したもの
なぜ東遷勢力が、征服した筈の畿内土着勢力との血筋を僭称しなければならなかった
のかを考えてみろ。
東遷があったのは、筑紫から関東・北陸まで、大倭国連合=初期ヤマト政権
=前方後円墳体制が確立してから。
つまり、4世紀後半の応神東征、大王位簒奪の時期なんだよ。
627 :
日本@名無史さん:04/11/04 00:39:21
つまり第一次東遷が邪馬台国の時代よりも前にあり、
神武も欠史8代も実在の人物であり、崇神の三輪王朝も
邪馬台国と同時代に畿内に存在しており、4世紀後半に
台与の末裔である応神が第二次東遷を行い河内に王朝を
成立させたと。問題なのはなぜ神武崇神と応神に
血のつながりがあるかのようにしなければならなかったのか?
>>623 神武が4世紀の人で、応神が400年前後なら全然無理ではなさそうだけど
>>627 もしかして、出雲(物部)が絡んでくる?
630 :
日本@名無史さん:04/11/04 00:48:44
>>629 神武東遷のとき絡んできますね。
とりあえず神武と応神は元は
同じ一族だったということでいいでしょう。
>>627 どうしても神武東征が現実にあったと思いたいらしい。
畿内在地勢力⇒初期ヤマト政権。4世紀末に北九州勢力による大王位簒奪があった
ではダメか?
「応神=神武」と解釈するのが一番しっくりくるのだが。
継体が応神後裔を僭称したのも、応神が事実上の始祖王だったから。
それ以前は、大和川水系やら淀川水系豪族たちの大王位持ち回りだった。
632 :
日本@名無史さん:04/11/04 02:30:48
>>621 神武から仁徳までの父子継承率の93.8%は、
用明以後の父子継承律が45.9%と照らして不自然である。
仁徳以前の父子継承の記述は、真実でないものが多いであろう。
633 :
日本@名無史さん:04/11/04 02:36:52
神武〜仁徳の間の皇子の数70人・皇女の数28人は、不自然である。
履中〜推古の間の皇子の数49人、皇女の数49人のように、
男女の割合は半分くらいずつになるのが自然だ。
やはり、弟や甥や叔父や他人が継承した場合も、
父子継承であるとされた場合があると思われる。
634 :
日本@名無史さん:04/11/04 10:26:33
鏡が畿内から出土していることをお忘れなく。
応神が邪馬台国の末裔では考古学的見地からみて
つじつまが合わなくなる。畿内に邪馬台国があって
それが大和朝廷となり、それを九州の豪族の応神が
奪ったと考えるしかなくなる。しかし畿内に邪馬台国が
あったとは思えないけどw
635 :
日本@名無史さん:04/11/04 10:41:08
隋書に倭国は古の邪馬台国なりとかいう記述があるんじゃないの?
だったら大和朝廷は邪馬台国の後身であるっていうふうには
簡単に結論づけられないの?
636 :
日本@名無史さん:04/11/04 11:14:55
>>635 本部邪馬台国は畿内にありました。
九州支部邪馬台国は北九州にありました。
卑弥呼は大乱を鎮めるために本部から
派遣された巫女です。
こう考えるのがもっともつじつまが合う考えです。
倭人伝の記述とも矛盾が生じないし、3世紀の
鏡が畿内から出てくるのも九州から畿内に送られた
ものだと考えることができるからです。
637 :
日本@名無史さん:04/11/04 11:21:46
神武〜仲哀までは、畿内土着勢力の王朝の系譜であり、
応神のとき九州勢力の東遷がありました。
本部邪馬台国を九州支部邪馬台国が破ったのです。
つまり4世紀前半ころになると九州は内乱が終わり
安定期に入り、関心が外に向いたことがあげられます。
638 :
日本@名無史さん:04/11/04 11:25:05
↑ 共産党
639 :
日本@名無史さん:04/11/04 12:56:26
宇佐神宮に比売大神=卑弥呼を筆頭に
応神天皇、神功皇后が祭られてることから
卑弥呼の子孫の九州勢力が応神の時代に
東遷して大和朝廷になったことがわかるだろ。
道鏡の事件の際に宇佐神宮にいったのも
これで納得できるでしょ?
640 :
日本@名無史さん:04/11/04 13:57:03
じゃあ考古学的に東征を否定しましょうか。
2世紀末から3世紀中期にかけて北九州製の土器が
奈良盆地からほとんど発掘されないのはなぜですか?
その手前の河内でさえも庄内式が圧倒的多数ですし。
まさか食料も持たずに軍隊組んだ訳でもないでしょうに。
それと、北九州=軍事国家説には致命傷になることがもうひとつ。
当時の鉄器では、人体への殺傷能力があまりに低いため、戦力差が発生しません。
理由は第一に、生物を殺傷できるほどの強度と切れ味がない事。
第二に槍の形状(「かえし」がついているなど)からして、対人殺傷武器ではなく
むしろ漁業具や狩猟具であった可能性が高いこと。
第三に、貴重な鉄資源を対人戦闘などで無駄遣いしたとは考えにくいこと。
竹やりや木製の槍のほうが殺傷力も高く、かつ廉価です。
第四に、剣術などの格闘術の存在を匂わせる資料が全く無いこと。どう考えても不自然です。
641 :
日本@名無史さん:04/11/04 14:39:37
仮に、11代垂仁〜30代敏達の20代の平均在位年数を12年とすると、
崇神天皇の没年は、345年頃になる。
平均在位年数を13年とすると325年頃に、11年とすると365年頃になる。
つまり、卑弥呼より、約100年後の4世紀の人物だということになる
643 :
日本@名無史さん:04/11/04 18:38:04
>>640 おまえ、九州と畿内の断絶を意味してるということは、
邪馬台国は九州にあったということになるわけだが?
畿内に統一国家があるなら、むしろ九州の産物が畿内で多く発掘されるべきだろ。
644 :
日本@名無史さん:04/11/04 18:38:33
倭人伝の方角は曲解できても
距離の12000里までは曲解できない。
邪馬台国が北九州にあったのはほぼ間違いないとして
その後、どうなったかを議論していこう。
倭人伝がポンチ記事だった可能性はないの?
世界史的に見れば3,4世紀のことなんて、そんなに昔のことじゃないだろ?
ギリシャだのエジプトだのっていろんなことが解かってるじゃないか。
はっきりすっきりしなくちゃおかしいんだよ。レベル低いのか?考える頭がないのか?
日本人には。高性能な車は造れても3,4世紀の事は解決出来ないのか?
他国の紀元前の暦史は調べがつくのに自国の3,4世紀の歴史は調べがつかないのか?
日本はなんでこんなにいろんな事が明らかになってないんだ?
超古代の事のように感じるけど、中国史とかと比較すりゃとりたてて大昔
のことでもないだろ。知能が足りないのか?そうじゃないだろ。
こんなにもめるのは明らかになってほしくないと考える連中がいるからなんじゃないか?
648 :
日本@名無史さん:04/11/04 20:38:51
3世紀まで、畿内で発掘される土器は、
「九州を除く」畿内・吉備・関東周辺のもの。
この頃、畿内中心に統一国家があったのは確か。
しかし、九州とは関係をもっていない。
一方、北九州は大陸、半島と交易を密にしている。
このことから、考古学的にみても、畿内に大和朝廷が興り、
九州に、畿内大和とは別の邪馬台国があったことは明らか。
東征は無く、九州邪馬台国は、畿内大和に滅ぼされたのである。
九州を勢力下においた畿内大和が、正統な王権だと国内外に示すために、
九州発祥の天孫神話を捏造したのだ。
650 :
日本@名無史さん:04/11/04 22:13:29
>>648 君の言う畿内中心の統一国家が、前方後円墳体制の初期ヤマト政権を指すなら、
北九州に那珂八幡などの出現期の前方後円墳があることから、比較的早くから、
北九州勢力は大倭国連合に参加していると考えるのが妥当。
3世紀半ば〜後半の倭人伝の邪馬台国の時期には、すでに北九州〜東海・関東に至る
ヤマト政権が成立していた。
つまり、邪馬台国はヤマト国のこと。
652 :
日本@名無史さん:04/11/05 00:11:09
>>640 土器を作る職人なんて最下層の人間だろ?
東遷したのが上層部の人間ならありうるじゃん。
九州に庄内式が普及したのも、畿内の土器職人を奴隷として
連れて行ったのかもしれない。
653 :
日本@名無史さん:04/11/05 00:38:39
>>651 那珂八幡は、4世紀だろ。
3世紀の古墳は九州には無いね。
654 :
日本@名無史さん:04/11/05 00:40:31
655 :
日本@名無史さん:04/11/05 00:42:01
656 :
日本@名無史さん:04/11/05 00:51:35
欠史八代は有力豪族を犠牲的な親族とするため
実際の人物をモデルにして縦に繋げた
神武天皇=崇神天皇で神武東征はなく
近畿の大和朝廷が北九州の邪馬台国を滅ぼした
なわけないか
657 :
日本@名無史さん:04/11/05 00:55:41
実際、南九州の古墳は未調査のものが多く(!)
適当に4世紀以降とされたものもあり、研究が進んでいない。
一種の考古学的皇国史観だな。
659 :
日本@名無史さん:04/11/05 02:18:42
660 :
日本@名無史さん:04/11/05 07:58:12
>>656 神武天皇=崇神天皇というのはありえないと思う。
文献的根拠(しかも「延喜式」)しかないし。
661 :
日本@名無史さん:04/11/05 08:08:40
「延喜式」は平安中期に編纂されたものであり、そのころには
神武天皇と崇神天皇が混同されていたという証拠だとは思うが
これをもって、神武天皇=崇神天皇というのは,無理がある。
662 :
日本@名無史さん:04/11/05 08:19:10
誤解されると困るが、神武天皇実在を強く主張する訳ではない。
考古学的根拠はないし、実質的に初代の大王は崇神天皇であり、
神武天皇が実在かどうかはあまり意味がないと思う。
663 :
日本@名無史さん:04/11/05 09:13:48
>>653 宇佐の赤塚古墳や苅田の石塚古墳は、3世紀の九州最古の前方後円墳だが。
664 :
日本@名無史さん:04/11/05 09:20:02
出現期の最大規模の前方後円墳は、奈良盆地東南部の三輪山の麓に位置する箸墓古墳(奈良県桜井市、墳丘長約二八〇メートル)であり、
次が椿井大塚山古墳(京都府山城町、約一九〇メートル)である。
このほかでは、浦間茶臼山古墳(岡山市、約一四〇メートル)、石塚山古墳(福岡県苅田町、約一二〇メートル)が大きい方である。
前方後方墳では、元稲荷古墳(京都府向日市、約九四メートル)が最大規模である。
当時、大陸からの新しい文物の受け入れ口である玄海灘沿岸地域には、那珂八幡古墳(福岡市、約七五メートル)が所在するのみである。
これらの事実から、前方後円(方)墳の創出は、畿内と瀬戸内海沿岸地域の有力首長が大陸の鉄をはじめとする新しい文物を安定的に手に入れるために連合し、
九州北部を制圧する必要性を契機になされたと考えられている。この連合政権をヤマト政権と考古学者はよんでいるのである。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2・3-01-01-01-02.htm
665 :
日本@名無史さん:04/11/05 09:27:24
>>660 考古学的根拠がないからといって即座に否定するのはどうかと思うが。
中国の殷王朝も文献や言い伝えのみで長い間信じられていなかったが
2000年以上も後にようやく遺跡が発見され、はじめて実在したと認められた。
文献や言い伝えも我々の想像以上に歴史を正確に伝えている可能性があり
馬鹿にはできない。
666 :
日本@名無史さん:04/11/05 09:32:36
>>664 玄界灘に絞るからで、九州では那珂八幡よりも豊前の古墳の方がふるい。
邪馬台国豊前説を裏付ける十分な根拠となる。
箸墓などの古墳の古さも断定して書くことはまだできない。
667 :
日本@名無史さん:04/11/05 09:35:04
わが国において「墓の大きさ」と「王権の中心」が比例したことはない。
668 :
日本@名無史さん:04/11/05 09:44:57
>>667 その通りだし、むしろ大きな墓は政権が安定期に入ってからできたもの
とも考えられる。
669 :
日本@名無史さん:04/11/05 09:47:05
670 :
日本@名無史さん:04/11/05 09:51:15
>>669 前方後円墳では赤塚古墳や石塚山古墳。
またそれ以外では宇佐神宮亀山。亀のように円墳にちょっと首が
あるようで前方後円墳の原型かもしれない。
671 :
日本@名無史さん:04/11/05 09:54:11
>>666 意味不明。箸墓が古いことは出土土器からも確実だ。
672 :
日本@名無史さん:04/11/05 09:55:55
>>671 土器を根拠にしている時点で確実とはいえまい。
673 :
日本@名無史さん:04/11/05 09:56:24
>>670 前方後円墳では纒向石塚古墳が古い。
九州のはそこまで古くないはず
674 :
日本@名無史さん:04/11/05 09:57:34
>>672 土器による相対編年も理解できないようでは、どうしようもないな。
675 :
日本@名無史さん:04/11/05 09:58:48
纒向古墳は石棺も発掘されておらず、そもそも古墳かどうかもはっきりしてない。
古さも確定はしてない。
676 :
640:04/11/05 10:01:49
>>642 東遷があったのならば、こういった交流断絶は発生しにくいと思われます。
>>643 僕自身は畿内説ですが、
>>648氏の提唱する形での九州説は
十分に有り得ると考えています。
ただ、強力な王権を発揮するのは少なくとも4〜5世紀以降かと。
3世紀のいわゆる邪馬台国時代においては、北九州、吉備、出雲、畿内、越、東海などの
有力首長たちが大同小異して対等連合した程度の、合衆国的な存在かもしくは
経済及び防衛連合体といった体裁であったのではないかと考えます。
そのサミット会場として建設されたのが纏向であり、連合の意思決定機関にとっての
シンクタンクとして卑弥呼らの巫女集団が常駐したのではないでしょうか。
また巫女達は、各首長の血縁者から選ばれたのかもしれません。
それと彼女らには神託以外にも、首長たちの子を宿すといった仕事もあったのでは?
血縁関係を結ぶことで連合の基盤を確立していったのでしょう。
677 :
日本@名無史さん:04/11/05 10:05:55
>>676 古代ファンタジーとかの読みすぎとちがうの?
678 :
日本@名無史さん:04/11/05 10:06:29
>>672 その土器は石室から発掘されましたか?
古い遺跡の上に新たな遺跡が築かれるのは珍しくない。
土器による相対編年も木材の伐採年代と木材が使われた年代が同じとは
限らず断定して書くことはまだできない。
679 :
日本@名無史さん:04/11/05 10:09:39
>>675 「古墳かどうかもはっきりしてない」とか嘘八百を言わないように。
戦時中に高射砲の台座として使うために削平されたので石室が残っていない。
周濠から出土した木製品の年輪年代は約200年(177+α)
680 :
日本@名無史さん:04/11/05 10:14:22
>679
「石室が残っていない」と曖昧だが、ちゃんと石室があったとの証拠が
残っているのですか?
木製品は石室から見つかったのですか?
681 :
640:04/11/05 10:15:46
>>677 あはは、ファンタジーならば東征とか騎馬民族とかを声高に主張しますよ。
そういった派手な戦乱の跡が確認されず、なおかつ7万戸もの大遺跡が
今後発見される可能性が極めて少ないことから、現実的な落とし所として
畿内説を支持しているのです。
682 :
日本@名無史さん:04/11/05 10:20:56
>>680 陵墓参考地は発掘できないという事を知っての質問なら、ちょっとズルいなぁ。
ちなみに石室の有無はトレンチ測量の際に確認済み。
木製品や土器は側溝跡からの出土。
683 :
日本@名無史さん:04/11/05 10:21:32
>>681 では畿内ではあれほど栄えた銅鐸文明が忽然と消え去り、九州で盛んであった銅剣銅鉾銅鏡文明
にいれかわり、しかも記紀の神話に銅鐸が少しも登場しない事をどう説明するのか?
しかも銅鐸はかなり大量にまとめて破壊されて出土している。
九州勢力に滅ぼされたと考える方が自然と思うが。
邪馬台国の位置にしても距離、方位とも九州が妥当。
684 :
日本@名無史さん:04/11/05 10:22:53
>>682 だからまだ、古墳の古さの断定はできないと言っているのです。
685 :
日本@名無史さん:04/11/05 10:29:00
壱与が266年に中国に朝貢して、
次に朝貢するのは讃の413年。
これが何を意味しているのか考えれば
空白の5世紀の謎がおのずとわかる。
つまり中国に朝貢するという外交センスが
あったのは邪馬台国の一族であり、畿内土着勢力には
なかったということ。讃は応神天皇であり
九州から東遷してきた勢力。隋書に邪馬台国と大和朝廷が
同じものだといってるのもこれで説明がつく。
686 :
日本@名無史さん:04/11/05 10:29:06
>>683 銅鐸が使われたのはもっと前のことだから
卑弥呼以前に神武東遷を考えればいいことだ。
687 :
日本@名無史さん:04/11/05 10:32:33
>>681 たぶん過去ログの繰り返しになりますが。
銅鐸は小部族単位での祭祀から首長祭祀に移る過程で、自然に放棄されたものと
考えられます。これは文化交流の結果であり、侵略などではありません。
同様に池上曽根遺跡や唐古・鍵遺跡における巨木建造物も自然に廃れたと思われます。
それと距離、方位ともに九州が有利な訳ではないですよ。
倭人伝をそのまま読めば、邪馬台国は海の中かフィリピンです。
688 :
日本@名無史さん:04/11/05 10:33:02
だから、銅鐸も古墳と同様にその古さは確定していない。
よってまだ卑弥呼以前とはいいきれない。
689 :
日本@名無史さん:04/11/05 10:35:09
とよが大和朝廷の始祖てことでいいんじゃないの。
690 :
日本@名無史さん:04/11/05 10:36:31
>>687 「そのまま読めば」というのも里を現代に当てはめた場合だけ。
帯方郡から邪馬台国まで一万二千余里。
帯方郡から末盧国(唐津)まで約一万里。
つまり、末盧国(唐津)から邪馬台国まで二千里。
そのまま読んでも北部九州が妥当でしょう。
691 :
日本@名無史さん:04/11/05 10:41:05
>>689 天照の子孫が神武で大和朝廷の始祖とされているのだから
トヨの時代もまだ大和朝廷ではない。
邪馬台国が大和朝廷のもととなった事は示唆しているが。
692 :
日本@名無史さん:04/11/05 10:41:45
失礼、
>>687は
>>683への返信です。
>>685 畿内説において畿内土着勢力が邪馬台国を建国したと考えているのは
かなり少数派ですよ。例えば白石説などがそう。
寺沢説は吉備主導だし、柳田説は九州主導、石野説に至っては
瀬戸内(東部四国)主導説です。
但し諸説一致しているのが、侵略による劇的な変化ではなく
文化及び経済交流、また血縁関係の発生といった事が要因であるということです。
693 :
日本@名無史さん:04/11/05 10:49:09
神武は応神の東遷を美化するために作られた
でっちあげの天皇。史実はおそらく、畿内の
諸勢力が連立して王を擁立していく体制で
あったと思われる。崇神のときから世襲制に
なったものと思われる。そして応神のとき
王族が入れ替わった。継体天皇も応神の子孫を
名乗ってるし、応神が始祖だということがわかる。
694 :
日本@名無史さん:04/11/05 10:52:06
>>688 こういう例えをご存知ですか?
「UFOの95%は見間違いか自然現象だ。しかし残りの5%は不明なので
宇宙人の乗り物である可能性は否定できない。」
「うむ、その通りだが、同様にぶんぶく茶釜が唐傘を持って飛んでいる
可能性も否定できないし、ガメラが飛んでいる可能性もまた否定できないよな。」
言い切れないとか断定できないという否定論法は議論を千日手に貶める
危険性を持っていますので、よほどの根拠が無い限り禁じ手なのです。
695 :
日本@名無史さん:04/11/05 10:58:09
宇佐神宮がすべてを物語ってるよ。
比売大神は卑弥呼かイヨだし、
それと応神と神功が祭られてることから
これら皆同一の一族だということがわかるでしょ。
696 :
日本@名無史さん:04/11/05 11:03:00
>>691 これは
>>1に明記されている通り
>倭人伝の信憑性や如何に? 記紀はどこまで真実を伝えているのか??
まさしく記載記事の信憑性についての検証作業ですね。
しかし比較検討する資料が悲しいかな存在しないので
>最新の発掘状況と最新の資料解釈を元に
古代王権の正体を探っている訳です。
もし倭人伝記事と発掘結果に矛盾が生じたら、私は迷わず発掘結果を支持します。
697 :
日本@名無史さん:04/11/05 11:04:29
>>694 それは論点のすり替えでしょう。
もともと畿内の古墳のほうが九州のものより古いと断定して書かれていた。
だから断定はできないと書いたまで。
この断定はUFOとは次元が違う。
698 :
日本@名無史さん:04/11/05 11:05:19
倭人伝の信憑性を否定するのでしたら
邪馬台国はそもそもなかったという結論に
達しますね。畿内政権がただ単に領土を
どんどん拡大していって大和朝廷になったという
単純な結論でフィニッシュです。
九州説では、トヨ(イヨ)は誰ってことになってるんですか?
700 :
日本@名無史さん:04/11/05 11:11:24
>>695 その論法で行くと大阪の住吉大社も底、中、表の筒男神と
それと応神と神功が祭られてることから同族だと言う事になってしまう。
神道は長い年月の間に、様々な要因によって変化しているので
(しかもその変化は各地域や神社によって千差万別)
縁起書をそのまま鵜呑みには出来ない 。
民俗学や神話学の連中は、だからこそ苦労している。
701 :
日本@名無史さん:04/11/05 11:11:39
天照大神=卑弥呼+イヨ。
702 :
日本@名無史さん:04/11/05 11:13:06
邪馬台国も応神も宇佐に縁ありとみた。
703 :
日本@名無史さん:04/11/05 11:16:11
>>696 発掘結果も公正な目で透明性の高い状態で、慎重に検証を行はねば
発掘者の都合のよいように解釈されうる事は、神の手の捏造事件
でも明らかです。
とくに最近の学会での検証を得ずに、先にマスコミを通して発表する
のは戦前の大本営発表的でどうかと思います。
発掘調査も大事ですが、そういう可能性がある事も念頭に置きつつ
文献との整合性とも慎重に照らし合わせていき、それでも文献が信用
できないなら解釈をかえるといった慎重な態度も大切だと思います。
704 :
日本@名無史さん:04/11/05 11:27:33
>>698 実はその可能性もあるのですよ。
畿内説というより学会の大まかな流れは、まさにそれなのです。
もし倭人伝の記載にある邪馬台国がフェイクならば、そう考えざるを得ません。
しかし、フェイクだとの確証がないため
@正体は畿内纏向を中心とした勢力だったのだろう。
A畿内以外の独立勢力(九州でもどこでも可)で後に滅びた。
との考え方を導き出しているのです。
更に七万戸とまではいかなくとも、連続した朝貢が可能な経済力と
通商能力や航行技術を有した集団が「単独で」九州島から発見される
可能性を鑑みた結果、九州から東海にまで及ぶ緩やかな連合体であろうとの
説を打ち出しているのが現在の畿内説なのです。
結局、九州説は、記紀は捏造書で、考古学的研究成果は無視して、
唯一のより所である魏志倭人伝も修正的に解釈して
やっと成り立つ代物ってことでファイナルアンサーだね。
何でこんなの本気で主張してる人がいるんだろう?
706 :
日本@名無史さん:04/11/05 11:37:27
畿内説なんて信じて九州説をけなしてるやつは
中世で天動説を信じて地動説を迫害してる輩と同じだなw
権威に踊らされて真実を見る目を失っている。
707 :
日本@名無史さん:04/11/05 11:38:50
>>704 しかし、Aでは「隋書に邪馬台国と大和朝廷が同じものだ」といってるのも
否定する事になりますね。
なぜ畿内説ではそうまでして文献を否定しようとするのでしょうか?
結局は畿内に邪馬台国がなかったため、どうしても文献的矛盾が生じる
ため否定せざるを得ないという印象がしてなりません。
「連続した朝貢が可能な経済力と通商能力や航行技術を有した集団」
も古来九州に渡来人が多く渡っていた事や、弥生時代には既に吉野ヶ里の
ような大規模集落が成立していた事を考えると、九州単独では不可能とする
にも説得力がないと思います。
708 :
日本@名無史さん:04/11/05 11:51:01
>>705 九州説は別に記紀を捏造書にしてないが。
記紀そのものをそのままで解釈すれば成立しないのは九州説も畿内説も同じはず。
魏志倭人伝は九州説ではほとんど修正せず説明可能。
考古学的研究成果も無視してはいない。むしろ近年までの成果では九州説に優位だった。
新しい成果については否定はしないが、まだ確定ともいいがたい。ただあまりにも
短絡的な結論の結びつけ方に疑問を感じているだけ。そもそもこの近年の成果以外では
畿内説は矛盾だらけである。ならばここの検証を慎重にしっかり行うのは当然だと思う。
709 :
日本@名無史さん:04/11/05 12:09:41
>>704 なるほど、学会はそういう考え方なのか。
しかし九州から東海と言うとかなり広い範囲だと思うんだが・・・
多少、ずるい見解という気もしないでもないけど。
しかし、纏向中心と言うなら、卑弥呼は畿内勢力範囲の
どこかに眠っているはずなのですね?
>>708 記紀をそのまま解釈というのが、どの程度のレベルか分からんけど、
卑弥呼を神武東征後とすれば、畿内説は記紀とも大体調和しますよ。
倭人伝については、投馬国7万戸とか水行10日陸行1月とか結構無理ありそうだけど?
考古学に対しても「九州でも発掘される可能性がある」
「九州になかった証拠はない」
「だから3世紀の畿内に巨大な王権があったとしても直ちに邪馬台国につながるものではない」
みたいな非科学的な反論ばっかりじゃないですか?
711 :
日本@名無史さん:04/11/05 12:30:55
>>710 >卑弥呼を神武東征後とすれば、
神武は天照大神の5代子孫である事がはっきりと書かれています。
倭人伝については、隋書の「東西五月行」(九州西端から中部までを
5月とする)で説明がつきます。
「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、みな倭種」を畿内説では
到底説明できません。裸国・黒歯国も然りです。
考古学については、吉野ヶ里を始め、筑紫・豊前・日向にかけていわず
もがなの史跡が数多くある。
むしろ、今まで目をそらされてきたが、原点に戻ると、吉野ヶ里のような
大規模集落が畿内に見つからない事は、「連続した朝貢が可能な経済力と
通商能力や航行技術を有した」古代国家の成立を考える上で致命的では
ないでしょうか?
712 :
日本@名無史さん:04/11/05 12:32:28
>>707 いえ別に無理矢理近畿に持っていこうとする気なぞありません。本当です。
もし九州で金印でも発見されたならば、一部の頑迷なセンセ方を除けば
研究者はこぞって万歳三唱するでしょう。
要するに文献資料があまりに少なすぎるため、検証作業が事実上不可能であると
いうことから、物的証拠である地下モノに重きを置かざるを得ないというだけです。
713 :
日本@名無史さん:04/11/05 12:45:30
>>711 >吉野ヶ里のような大規模集落が畿内に見つからない
いえいえ、そんなことはないですよ、纏向などは調査が全体の1%程度しか
完了していないだけで、規模は吉野ヶ里よりはるかに大きいです。
しかし吉野ヶ里も纏向もそうですが、それ単体で朝貢が可能だったかどうか
を考えてみてください。またメリットを考えてみても朝貢を望んでいたのは
おそらくは吉備、近畿、東海の勢力でしょう。北九州にそれほどのメリットは
ありません。
私は、北九州の通称ノウハウ、吉備や瀬戸内の航行技術、近畿の生産力、
東海の人的資源すべてが合体したからこそ、半島進出の足掛かりとして
朝貢に踏み切ったのではと考えます。
714 :
日本@名無史さん:04/11/05 13:02:43
>>713 もちろん吉野ヶ里は時代もかなり遡りますし、倭人伝の記述からも
邪馬台国であったとは思いません。
ただし、この地域(筑紫)が後に邪馬台国を中心とした連合国倭を構成
した有力国であり、むしろ経済的には邪馬台国をも凌いでいたのでは
ないかとも思っています。
邪馬台国は、それまでの男王と武力、経済力を背景にした国家(おそらくは
筑紫地方)にかわる呪術的・女性的な能力で倭を統一したため必ずしも
ナンバー1の経済力であった必要性はなく、倭人伝や記紀の記載から
宇佐・中津を中心とした豊前が有力であると考えています。
そして邪馬台国を中心とした連合国家は筑紫から豊前にかけての広範囲に
渡ったと考えます。
朝貢を必要としたのは、南九州を支配する狗奴(熊襲)に対抗するためだった
と思います。
715 :
日本@名無史さん:04/11/05 13:07:19
それと卑弥呼の正体にしても、ざっと考えて
各首長の利害対立の調整機関が必要となったので・・・
@畿内土着のよく当たると評判のシャーマン集団に委託
A歴史ある土地(宇佐など)からの畿内へスカウトした
B有力首長の身内の異能力者に一任
C各首長や地域の巫女を一箇所に集結させた
などなどまさに百花繚乱状態です。
最近ではCの説が注目を集めています。
716 :
日本@名無史さん:04/11/05 13:25:02
>>714 いわゆる象徴としての女王ですね。その可能性は否定しません。
ただ文献的にも埋文的にも疑問が生じるのは
倭人伝記事が果たして九州島内部だけの状況なのだろうかということです。
当時というか1〜2世紀には確実に北九州は出雲や吉備、近畿とかなり大きな
貿易を行っていたことが明らかになっています。この場合の通商や文化性優位は
明らかに北九州にあるのですが、貿易が可能なほどの財力もまた、各地方にもあったのです。
また3世紀に入ると、北九州経由ではない大陸との交易や技術輸入を展開する地域も増えてきました。
これらの大国が、「また国あり、みな倭種」やら「裸国・黒歯国」などと
記載されているということになりますが、不自然ではないでしょうか。
邪馬台国が隠蔽したとの説明はいただけません。魏はそれほど馬鹿ではないと思います。
半島との交易状態から考えて、列島内にも大きな交易先がいくつもあると
考えるのが自然でしょう。これらについて詳細な記載がない点が不可思議であり
倭人伝記事が九州島のみの記述だとは考えにくい理由でもあります。
717 :
日本@名無史さん:04/11/05 13:26:25
>>715 かなりこの方面に見識のある方とお見受けしましたが、
>>711の
>「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、みな倭種」を畿内説では
>到底説明できません。裸国・黒歯国も然りです
をどのように解釈されますか。
豊前は倭人伝の位置にほとんど矛盾しないと思いますし、
宇佐は場所柄、あえて卑弥呼を作り上げる必要性もありません。
その主神は比売大神という女神です。
応神天皇や神功皇后を両脇に従えるほどの神であり、道鏡の神託事件で
皇室とのつながりも深いと思われます。
宇佐の亀山は石棺も目撃された古墳ですし、奴婢百余人を彷彿させる
百体神社もあります。
なぜ、それでも考古学者は目を背けようとするのですか?
718 :
日本@名無史さん:04/11/05 13:39:21
漢籍によれば、
邪馬台国には、馬はおらず、養蚕が盛んであった。
やはり、近畿説は不利だ。
719 :
日本@名無史さん:04/11/05 13:43:24
>>716 前後してしまったようですね。
「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、みな倭種」は、距離的にも
方角的にも四国で問題ない気がします。そもそも豊前の東は国東で
この東に四国は位置します。
「裸国・黒歯国」も同様に薩南・琉球諸島で問題ないのではないでしょうか?
>これらの大国が、「また国あり、みな倭種」やら「裸国・黒歯国」などと
>記載されているということになりますが、不自然ではないでしょうか。
交易はあったにせよ邪馬台国と比べれば大国には値しなかったのでは
ないでしょうか? 考え過ぎのような気がしますし、さらに邪馬台国を
大きくとらえると「女王国の東」「裸国・黒歯国」をどこに比定するかと
なりますし、出雲や吉備は投馬であったとも考えられます。
720 :
日本@名無史さん:04/11/05 13:48:18
>>717 これは逃げでなく、日本列島の形状を魏も晋も(もちろん陳寿も)把握して
いなかったという説明しか、今のところできません。
それと御主張なされる宇佐説は
富来隆氏の説と同内容だと解釈させて頂いた上での反論ですが
確かに宗教施設としての宇佐は非常に魅力的です。
しかし基盤となる経済力が決定的に欠けるのです。
ここをクリアすれば(例えば北九州連合と本州連合の調整役を担っていたなど)
宇佐説の説得力に大きなプラスになるはずです。
>道鏡の神託事件
これも含めて、九州が神々の舞台になることが多い理由として、北九州への
敬意(決して慰撫ではなく)の表れか、もしくヤマト連合内で最終的に強大な
政治力を握ったのが九州出身の首長一族(これが現在の天皇家の祖かも)だった
かのいずれかではないかと考えます。
721 :
日本@名無史さん:04/11/05 13:56:16
>>718 「牛馬なし」は当時の列島すべてに当てはまりますよ。
そして養蚕についてですが、北九州で発見される絹製品は実は
甕棺墓という、非常に保存性の高い独特の墓制と大いに関係があります。
その他の地域の石棺や木棺では保存が利かないのですよ。
事実、北九州で出土する絹製品は甕棺墓から石棺に移行したとたんに
激減します。これが養蚕が衰退した為ではないことはお解かり戴けると思います。
>「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、みな倭種」
畿内説なら、南を東に修正してるんだから、東は北に修正して越の国々でしょ。
>裸国・黒歯国
これは、九州説でも難しいんじゃないか?侏儒も含めて日本列島周辺に実際に
いたかどうかも分からないし、倭人伝の他に何の根拠も手がかりもなしに
倭人伝の距離と方位の記載だけでどこかに比定しても、ほとんど意味ないし。
723 :
宇佐説の論客様へ:04/11/05 14:06:13
申し訳ない、現場に出る時間ですので落ちます。
有意義なやり取りをさせて頂き、深く感謝します。
できれば皆様も、氏のようにマターリでありながら鋭い論戦をされる事を切に望みます。
九州説は、
卑弥呼+イヨ=天照大神
神武=応神or崇神
という、記紀その他の日本の文献に全く現れない事実関係を根拠にしないと
成立しないということですか?
725 :
日本@名無史さん:04/11/05 14:16:24
>>720 すみません。勉強不足で富来隆氏の説はよく知らず、かなり自説です。
>しかし基盤となる経済力が決定的に欠けるのです。
これはまだ調査不足なのではないでしょうか?
この地には、古くから多くの渡来人が住み着いたと思われます。
ご存じかもしれませんが、宇佐神宮の前進といわれる社が中津に
あります。薦神社といいますが、この御神体は社前の三角池(恐らくは
御澄池?)であり、この池はこの地に住み着いた渡来人による潅漑用
溜池といわれています。
この池の真薦で宇佐八幡の御枕をつくったといういわれがあり,
豊葦原の中つ国を彷彿させます。
成立年代は分かりませんがかなり古いと思います。
そして、中津平野には他にもこのような溜池が沢山あったものと思われます。
つまり、古にそれだけの土木工事を行う経済基盤があったものと思われます。
この地域を考古学的に本格的な調査を進めれば、新たな発見があるものと
期待してます。
726 :
日本@名無史さん:04/11/05 14:35:34
>>723 こちらこそ大変勉強になりました。
また、是非いろいろとご教示ください。
727 :
日本@名無史さん:04/11/05 15:13:13
>>720 追加です。
私は邪馬台国は、宇佐・中津のみでなく豊前全体、すなわち少なくとも
北九州から国東にかけての広範囲だったと思っています。
経済力の基盤もこの範囲をもとに考えています。
豊津あたりにも国分寺以外に縄文期やそれ以前の遺跡があります。
728 :
日本@名無史さん:04/11/05 18:26:11
>>720 >しかし基盤となる経済力が決定的に欠けるのです。
当時の経済が、どういうものかも語らずに断定するのはどうかと。
海産物なら豊富に取れただろ。輸出していたこともありえる。
729 :
日本@名無史さん:04/11/05 18:30:05
朝貢するのにそんなに経済力っているのかな。
いっぱいお土産もらえるんでしょ。?
それに自力で船仕立てて行けばそれなりに元手
はいるだろうけど、向こうの船に便乗させてもらった
可能性もあるんじゃないの?
まあ生口は留学生って話もあるらしいから、それなりに
経済力はあったとはおもうけど。
730 :
日本@名無史さん:04/11/05 18:33:36
>>714 >朝貢を必要としたのは、南九州を支配する狗奴(熊襲)に対抗するためだった
邪馬台国がすでに畿内中心に日本を支配できていて、魏に朝貢もしておきながら、
それでも邪馬台国に屈しない狗奴(熊襲)は、
北九州以上に貧しいシラス台地に住みながら、どのようにして軍事力を保てたのか?
それこそ、経済力の源を知りたい。
>>717 だから〜。宇佐神宮を根拠に、天皇家は宇佐出身と主張するなら、
なぜ天皇家の由来・正統性を主張した記紀に肝心の宇佐神宮の記載が無いのよ。
宇佐神宮が天皇家からの尊崇をあつめるようになったのは、記紀が記述されて以降。
8世紀から。
732 :
日本@名無史さん:04/11/05 18:42:51
733 :
日本@名無史さん:04/11/05 18:45:17
>>681 >そういった派手な戦乱の跡が確認されず、
武具は大量に発見されてますが、
いったい、どの程度の遺跡が発見されれば、
「派手な戦乱の跡」と、認識されるのか?
主観的・抽象的な考えを押し付けられても困る。
734 :
日本@名無史さん:04/11/05 19:22:53
邪馬台国が畿内なわけがないw
2世紀の時点で倭国大乱で
大混乱だったのに、どうしたら
3世紀に畿内を中心とした統一国家が
できあがってると思うんだ?w
九州ならできるという根拠を教えてくれ。
736 :
日本@名無史さん:04/11/05 20:27:46
宇佐神宮の神主はイワイの反乱の後、大和の大神神社の神主の大神氏に
変えられてるよ それまでの神主の宇佐国造氏はリストラ
禰宜の辛島氏はかろうじて首がつながった 昔の祭祀担当で
ついでに祭神も神宮皇后などに変えられた 八幡宮に変えられた
というわけで、大和に押さえられたというのが歴史的事実
大神氏に変わってから、大和にゴマスリ1本になったようだ
737 :
日本@名無史さん:04/11/05 21:11:38
>>735 九州だって、南はまとまってないだろ。あほか。
738 :
日本@名無史さん:04/11/05 21:19:36
>>736 道鏡事件はその後だから、
道鏡を拒んだのは大神氏=物部氏ということだね。
投馬国はアズマつまり、関東を指すんじゃないのか?
水行二十日ならば、相当遠くへ行けたと思う。
五万余戸という多大な人口の容量を持つのは、関東ぐらいしか
考えられない。
>>732 言っている意味が分からない。
>なぜ天皇家の由来・正統性を主張した記紀に肝心の宇佐神宮の記載が無いのよ。
に答えてみろよ。
741 :
日本@名無史さん:04/11/05 22:28:20
山台国=仙台
>>740 うさうさ言ってる人は、大分県出身の郷土愛に溢れた人だからw
743 :
日本@名無史さん:04/11/05 23:05:50
邪馬台国が畿内なら2世紀の倭国大乱というのは
西日本全域に渡って戦争が行われたことを示しています。
実際この時代、広範囲にわたって覇権争いがあったという
考古学上の物証はあるのでしょうか?なかったら
邪馬台国は九州で決まりです。
>なぜ天皇家の由来・正統性を主張した記紀に肝心の宇佐神宮の記載が無いのよ。
逆に記紀に記載がない宇佐神宮が歴史的に古いというのは何故かが気になる。
745 :
日本@名無史さん:04/11/05 23:10:32
>>743 東征の証拠が無いように、西日本で大乱があったという証拠も無い。
ということは、邪馬台国=九州。
考えられるのは、次の二つ。
1、畿内の大和が九州の邪馬台国を飲み込んだ
2、平和的に権力を畿内に移した
746 :
日本@名無史さん:04/11/05 23:12:44
>>744 7世紀より古いという証拠は?
記紀に記載がなくても、由緒の古い神社は多い。ほとんど捏造。
747 :
日本@名無史さん:04/11/05 23:27:52
九州説では、狗奴国=熊襲(南九州)で決まりなのかな?
俺は狗奴国=畿内王権だと思うんだけど。
748 :
日本@名無史さん:04/11/05 23:55:18
>>747 九州の狗奴国が邪馬台国を破って、畿内に東征して大和朝廷になったという説か?
749 :
日本@名無史さん:04/11/05 23:58:21
>>745 4世紀に邪馬台国王の応神が東征して畿内政権を
のっとったという結論でいいじゃないですか。
3世紀後半から4世紀の前半は、邪馬台国は九州内の制圧。
畿内政権は、本州の制圧に忙しくそれが終了した
4世紀後半に、九州の応神と、畿内の崇神王朝とで
天下分け目の衝突がおこったんですよ。
750 :
日本@名無史さん:04/11/06 00:16:57
>>747 狗奴国は邪馬台国の南。
熊襲でいいと思う。
畿内説信者みたいに方向も距離も
でたらめでもいいなら
狗奴国は畿内王権だと強弁してくださいw
751 :
日本@名無史さん:04/11/06 00:30:01
>>750 それなら、畿内政権が九州の邪馬台国を制圧したと考えるほうが自然では?
北九州で巫女さんを崇拝してた南方系部族が、
吉備・畿内連合に勝てるとは思えませんが。
752 :
日本@名無史さん:04/11/06 00:34:05
俺は畿内説だが、狗奴国=東海地方は成り立たないと思うね。
纒向遺跡を見れば、東海地方の影響は明らか。
けっして敵対勢力でなかったと思う。
制圧なのかなあ。乗っ取りという線はないの?
754 :
日本@名無史さん:04/11/06 00:36:07
>>750 魏志倭人伝を読めば、「狗奴国は奴国の南」と書いてあるように読めるが。
756 :
日本@名無史さん:04/11/06 00:39:59
757 :
日本@名無史さん:04/11/06 00:41:23
>>740 記紀に記載がないというが、それなら邪馬台国や卑弥呼もないだろう?
記紀にないからこれらもなかったというのか?
そもそも宇佐神宮が8世紀成立というのはあくまで神社としての形態での
話であり、この時期には政治的機構が完全に畿内に移っていたため
神社という形態にしたのであろう。いわば現在の京都みたいなもの。
宇佐そのものの名は、神武記で既にみられるのは周知の事実。
天皇家の由来・正統性を主張したかったからこそ、邪馬台国も卑弥呼も
宇佐も書けなかった。
大和朝廷は中国と対等な国であると主張したかったが、それでは
中国に朝貢していた邪馬台国と同一だとばれると困るため、
敢えて伏せたと考えられる。
熊襲は九州山地が自然の要塞となり国を保てたであろうし、
それこそ海産物もおおく採れたであろう。
758 :
日本@名無史さん:04/11/06 00:45:49
>>749 応神の時期は既に国としての基盤が出来上がり、朝鮮への出兵や
朝貢もしており、東征・東遷のごたごたの直後とは考えられないし
時代も下がると考えられる。
崇神の可能性の方が高いだろう。
759 :
日本@名無史さん:04/11/06 00:46:52
記紀では神功皇后=卑弥呼となってるが
これは何を意味しているのか?
つまり卑弥呼の血筋にあたるものが
のちの応神となったことを暗示してるのでは
なかろうか?
760 :
日本@名無史さん:04/11/06 00:51:52
>>758 崇神王朝により本州の基盤はできあがり、
邪馬台国によって九州の基盤はできあがっていた。
それが応神VS崇神王朝の戦いで合体しただけです。
関が原の戦いで、すでに豊臣によって出来上がっていた
天下の基盤を家康が奪ったのと同じことです。
761 :
日本@名無史さん:04/11/06 01:13:28
>>759 もし、大和朝廷が邪馬台国と同一だとばれても、神功皇后を卑弥呼と
見せかけることにより、大和朝廷の歴史はもっと古く、かつ疑に朝貢
したのは、国家のトップの天皇ではなく、あくまでも皇后であったと
見せかけるための予防線だったと考えられる。
モデルとなる人物はいたのかもしれないが、女帝卑弥呼とは明らかに
別人であろう。
ただし、応神とともに卑弥呼、そして天皇家とは深いつながりがあった
であろう。
>>760 あいかわらず断定的ですね。
分かりやすく説明してください。
762 :
日本@名無史さん:04/11/06 02:23:12
住吉の浜に神は黄色い船に乗ってやって来たそうです。そこが住吉大社。
そして川をどんどんさかのぼって京都の貴船神社まで到着しました。
トヨの後九州王朝が中国への朝貢をを止めたのはなぜだろう。
>>757 >記紀に記載がないというが、それなら邪馬台国や卑弥呼もないだろう?
紀は「卑弥呼=神功」という前提で書かれてます。事実かどうかは別にして。
>宇佐そのものの名は、神武記で既にみられるのは周知の事実。
恐らく当初、地方神である宇佐津彦・宇佐津姫を祀っていたが、記紀の成立後、
8世紀に大神比義により神功伝承が取り入れられ、皇祖を祀る神宮として成り上がった。
宇佐地方は古来、畿内ヤマト政権の九州支配の足掛かりだった。九州で最も早く前方後円墳
体制に参加し、古くから畿内と親密な地域だったとは思う。
畿内が北九州を屈服させ、支配領域が九州〜東海・関東に至るヤマト朝廷が
成立した。
倭人伝を抜きにして考えれば、非常にシンプルな話だ。
邪馬台国所在地論争は、畿内の九州併呑が3世紀のいつ頃の話か、というだけで。
近年の考古学の成果で古墳時代の始まりが繰り上がり、邪馬台国九州説は
成り立たなくなっているけど。
765 :
日本@名無史さん:04/11/06 03:54:53
>>764 >近年の考古学の成果で古墳時代の始まりが繰り上がり、邪馬台国九州説は
>成り立たなくなっているけど。
ただの詭弁。
なぜ、成り立たないのか、論証してみ。
766 :
日本@名無史さん:04/11/06 07:22:13
>>763 >紀は「卑弥呼=神功」という前提で書かれてます。
そういう書き方はおかしいでしょう。卑弥呼そのものの名が出てこないのは
宇佐が出てこないのと同じです(厳密には宇佐は出てきますが)。
すなわち「宇佐・中津=邪馬台国・豊葦原の中つ国・高天原」と書くのと
同じことです。(もちろん豊葦原の中つ国・高天原は広義では日本全国を
示していたり、あるいは出雲を示していることもあるのは承知の上です)
>恐らく当初、地方神である宇佐津彦・宇佐津姫を祀っていたが、
比売大神がもとからここの地方神だったとされています。
>宇佐地方は古来、畿内ヤマト政権の九州支配の足掛かりだった。
磐井の反乱を言っているのかもしれませんが、これは筑紫で反乱を
起こした別勢力で、九州を制圧しようとし、大和朝廷の故郷である
宇佐を攻め、大和と宇佐の連合軍に破れ、中津付近で戦死したと
考えています。
767 :
日本@名無史さん:04/11/06 07:28:19
>>764 >倭人伝を抜きにして考えれば、非常にシンプルな話だ。
そこが強引。
倭人伝をすれば抜きにすれば、邪馬台国も卑弥呼も抜きにすることになる。
根本的に畿内説は矛盾を抱えている。
>>766 お前はちゃんと日本書紀を読んだことがあるのか?
神功のところに、倭人伝の記載が思わせぶりに書かれているだろ。
だから、
>天皇家の由来・正統性を主張したかったからこそ、邪馬台国も卑弥呼も
>宇佐も書けなかった。
>大和朝廷は中国と対等な国であると主張したかったが、それでは
>中国に朝貢していた邪馬台国と同一だとばれると困るため、
>敢えて伏せたと考えられる。
と主張するのは無理がある。
というより、中国など対外的に見せることを意識して編纂された記紀は、積極的に
邪馬台国の後裔であることを主張し、そのため神功皇后を捏造したとさえ言える
かもしれない。
769 :
日本@名無史さん:04/11/06 10:01:34
>>736 >宇佐神宮の神主はイワイの反乱の後、大和の大神神社の神主の大神氏に
>変えられてるよ
一説を断定して書くべきではなかろう。
豊後大神氏は秦一族とも考えられる。
そもそも三輪山で三ツ鳥居を祀ること自体、宇佐の御許山の
3つの巨石を祀ることに由来しているとも考えられ、
豊後大神氏の方こそ元祖の可能性もある。
770 :
日本@名無史さん:04/11/06 10:04:01
>>768 思慮が浅い。
そもそも、それまでの文脈もわかってなかろう。
>>768 邪馬台国の名があっても、宇佐の名が出てないから、おかしいと言って
おきながら、卑弥呼の名がでてなくとも神功皇后の名が出てるから問題
ないと言うのは、矛盾だろ。
両者とも説であり、片方のみを同一視することのほうがよっぽど
おかしい。
>中国など対外的に見せることを意識して編纂された記紀は、積極的に
>邪馬台国の後裔であることを主張し、そのため神功皇后を捏造したとさえ言える
>かもしれない。
では、なぜ邪馬台国は邪馬台国、卑弥呼は卑弥呼とストレートに書かれて
いないのか説明せよ。
772 :
日本@名無史さん:04/11/06 10:21:33
古事記も日本書紀も、藤原氏が中心となり編さんしたもの。
都合の悪い部分はどんどん修正して書かれています。
773 :
日本@名無史さん:04/11/06 10:32:56
邪馬台国は邪馬台国、卑弥呼は卑弥呼とストレートに書くことが
どうして藤原氏や皇族に不利なのか?
>>757 >>761以外に考えられる理由を書いてくれ。
774 :
日本@名無史さん:04/11/06 10:37:45
>>768 >と主張するのは無理がある。
ならば理由も延べよ。
理由も書けないのに否定だけするな。
775 :
日本@名無史さん:04/11/06 10:50:32
>>773 天孫降臨を強調するほうが藤原氏や皇族に
とっては権威づけの上でも都合がよかったんでしょ。
まさか皇族の先祖が九州の邪馬台国で
4世紀に畿内王朝をのっとっただなんて正直には書ける
わけがない。そんなこと書いてしまったら
皇族の権威が弱まるし、藤原氏にとっても皇族の
権威を利用して、外戚となり権力をふるえなくなる。
>>774 >中国に朝貢していた邪馬台国と同一だとばれると困るため、
>敢えて伏せたと考えられる
というお前の説で、神功紀に倭人伝の記述を載せていることをどう説明するんだ?
777 :
日本@名無史さん:04/11/06 10:59:55
>>776 自分は説明せずか?
出来ないからか?
こちらは既に説明済み。
神功皇后を卑弥呼と匂わせることにより、大和朝廷の歴史は
更に卑弥呼の時代より古く、かつ魏に朝貢したのは、
国家のトップの天皇ではなく、あくまでも皇后であったと
見せかけるための予防線だったから。
778 :
日本@名無史さん:04/11/06 11:02:45
>>776 話をそらすな。
自分の文脈の矛盾には気づいたか?
少なくとも、宇佐説の人が言うように、宇佐神宮が記紀編纂以前から天皇家から
皇祖神として大事にされていれば、記紀に宇佐神宮の記載がないのはおかしい。
なんでこんな簡単な理屈が分からないのか?
敢えて記載しなかったという理由も、「邪馬台国と同一だとばれると困るため」
って、ちゃんと神功紀を読んでいるのか?と疑いたくなるような意見。
もっと違う理由を挙げてみてよ。
だから、記紀編纂以降に天皇家から尊崇された宇佐神宮だけを根拠に、
「邪馬台国は宇佐にあり、東遷して大和朝廷になった」とかは妄想の域を出ていない
ということ。
宇佐説の人は、もっと違う根拠を提示した方がいいよ。
781 :
日本@名無史さん:04/11/06 11:18:31
>>779 「お前」などと失礼な言い方をしながら、今度は第3者のふりか?
簡単な理屈が分からないのはそっちだろ。
宇佐神宮の記載がないのがおかしいと思い、邪馬台国や卑弥呼の
直接的な表現がないのはおかしいと思わないのか?
782 :
日本@名無史さん:04/11/06 11:22:58
>>780 また第3者のふり?
>宇佐神宮だけを根拠に
宇佐神宮だけではないでしょ?
倭人伝の位置の検証、地名の検証、記紀の検証。
一方、そちらはどれだけ矛盾なく検証した?
783 :
日本@名無史さん:04/11/06 11:30:13
>>780 >中国など対外的に見せることを意識して編纂された記紀は、積極的に
>邪馬台国の後裔であることを主張し、そのため神功皇后を捏造したとさえ言える
>かもしれない。
のに
>邪馬台国は邪馬台国、卑弥呼は卑弥呼とストレートに書かれて
>いないのか説明せよ。
の答えは?
>>天皇家の由来・正統性を主張したかったからこそ、邪馬台国も卑弥呼も
>>宇佐も書けなかった。
>>大和朝廷は中国と対等な国であると主張したかったが、それでは
>>中国に朝貢していた邪馬台国と同一だとばれると困るため、
>>敢えて伏せたと考えられる。
>と主張するのは無理がある。
のは、どこにどう無理があるのか?
784 :
日本@名無史さん:04/11/06 11:44:16
>>779 >記紀に宇佐神宮の記載がないのはおかしい。
そのとおり、おかしい。
そして、そのおかしいのは、邪馬台国や卑弥呼が直接的に書かれてない
のがおかしいのと同様の理由だからではないかと論証している。
>>781 失礼はお互いさま。
>>783 いや、だから〜
神功紀にストレートではないにせよ、倭人伝の記述が載せられているだろ。
紀編纂者は神功=卑弥呼と認識しているわけ。
邪馬台国と同一とばれるといけないとすれば、なぜこんなこと書いたんだよ。
何度、同じ事を書かせればいいんだ。
>>782 記紀や倭人伝などの文献は恣意的解釈に陥り易い。邪馬台国にしろ、宇佐で決定という確証なんて
ない。あくまで、「そうとも読める」というだけ。宇佐=邪馬台国という結論ありきの
解釈だろ、どうせ。
考古学的に見ても、宇佐説は脆弱。大和朝廷の発祥の地とする程の遺跡が
出てこない。まだ見つかってないと言われればそれまでだが。
結局、唯一の根拠は宇佐神宮のみとなる。
そしてその宇佐神宮は… →
>>779
786 :
日本@名無史さん:04/11/06 12:49:03
>>785 >邪馬台国にしろ、宇佐で決定という確証なんてない。
>宇佐=邪馬台国という結論ありきの解釈だろ、どうせ。
だから、ここでは一つの説として考えを述べている。
断定して書いたおぽえはない。そして解釈は当然一つの説を前提にする。
自分は、様々な根拠をもとに信じるようになったため、今度は反対に
その根拠を述べているのみ。
そういうあなたは、端から否定してかかっているでしょ。
>紀編纂者は神功=卑弥呼と認識しているわけ。
それはあなたが思っていることであり、断定はできないこと。
私の解釈は、編者が「認識している」わけではなく「認識させている」
ってこと。もちろん、これも1説にすぎない。
しかし、あなたのようにこれも断定すれば、そこでその枝葉に分かれる
可能性は閉じられるのです。
787 :
日本@名無史さん:04/11/06 12:52:29
>結局、唯一の根拠は宇佐神宮のみとなる。
わかってないようですね。
豊前と言う位置の検証には、宇佐神宮は全くいれていない。
反対に、あなたのいう畿内説では全くなりたたない。
そして、宇佐神宮のみと言うが、その宇佐神宮についても
それがただあるという理由ではなく、数多くの根拠に基づいて
唱えているわけです。
他にも、記紀由来の地名の多くに一致性があること。
そして、もちろん解釈の一つには過ぎないが、天孫降臨や神武東征
といった記紀との整合性、周囲の史跡とも矛盾なく説明可能である。
こういった一致性を持つ土地が、その陵墓とともに比定できる地が
他にありますか。少なくとも私は知りません。
もしあるなら、論証してください。
私だって真実を知りたいのですから、矛盾しないなら喜んで耳を傾けます。
>そしてその宇佐神宮は… →
>>779 繰り返しますが、では、なぜここまで名実ともに実力のある宇佐が
記紀で無視されるとお考えです?
少なくとも、その成立についてもっと具体的な記述があっても
よいものでしょう。
繰り返しますが、邪馬台国・卑弥呼がストレートに書かれていないのを
どうお考えですか?
私は1説には過ぎないが述べました。
あなたはまだ、一つも述べていません。
788 :
日本@名無史さん:04/11/06 12:58:31
宇佐について記紀に書かれてないって?
神武東征も宇佐に立ち寄ってるし、
道鏡事件のときも宇佐が絡んでくるぞ。
重要な場面で絡みまくるじゃん。
789 :
日本@名無史さん:04/11/06 13:03:12
>>788 787について?
ならば舌足らずで申し訳ない。
よく読んでもらえば分かると思うが、成り立ちが具体的に
書かれていないと言うことについてという意味。
そして、あなたのいうように、宇佐は重要な場面では
絡みまくるのです。
790 :
日本@名無史さん:04/11/06 13:06:00
791 :
日本@名無史さん:04/11/06 13:07:22
>>789 成り立ちが具体的にかかれていないのが
意味不明だって??あたりまえじゃんw
九州に天孫降臨したと神話の中に投影したほうが
権威づけになるってもんだろ。馬鹿正直に
宇佐から東遷したなんて本当のこと書いたら
天皇なんてなんのありがたみもなくなる。
その土人、名は宇沙都比古、宇沙都比売の二人、
足一騰宮を作りて、大御饗献りき。
793 :
日本@名無史さん:04/11/06 13:13:51
神功皇后は、藤原氏がでっちあげた架空の人物。
仲哀と応神とにさも血のつながりがあるかのように
見せかけて万世一系の建前を守ろうとした苦肉の策。
794 :
日本@名無史さん:04/11/06 13:15:50
あのう、宇佐についてなんですが
確かに宗教的には面白い土地です。
しかしそれらの面白い様々なエピソードの起源を
3世紀まで遡る事が出来るかどうかは、また別の話ですよ。
仮説としては、矛盾なく大変よく出来ていると思いますが
いかんせん考古学的裏付けに乏しいのではないでしょうか。
邪馬台国候補地の必要十分条件は
@「3世紀の集落跡および墳墓が存在すること」
が最もプライオリティが高く、その次に
A「倭人伝記事との整合性があること」や
B「伝承、記紀神話との関連性があること」が挙げられます。
AやBの条件を満たす候補地は、それこそ山のように在りますよ。
まず、@を証明することです。文献関係はそれからでも遅くありません。
795 :
日本@名無史さん:04/11/06 13:16:49
>>793 いやむしろ、神功皇后=卑弥呼を主張するために紀年を120年
繰り上げたんじゃないの?
つまり、記紀成立以前に神功皇后の伝説はあったと思う。
796 :
日本@名無史さん:04/11/06 13:17:41
宇佐ではなく豊前一体が邪馬台国。
もちろん宇佐も含まれてるけど。
797 :
日本@名無史さん:04/11/06 13:19:43
>>795 いや、石を腹にまいて出産を遅らせたという
記述もあるし、こうしたことから血のつながりを
無理やり作ろうとしてると考えるほうが自然。
798 :
日本@名無史さん:04/11/06 13:27:51
>>794 宇佐神宮のすぐそばに、九州最古級で3世紀後半の前方後円墳
がありますし、古来渡来人によって栄えたという経済的基盤も
あります。
秦氏の入植は遅く見られているようですが、いきなり秦氏がはいって
来たわけではなく、少なくとも弥生初期より継続的に入植していたと
考えた方が自然だと思います。
>AやBの条件を満たす候補地は、それこそ山のように在りますよ。
そうでしょうか?
細かな点まで考慮すると、これ以上他に満たす地はないのではないでしょうか?
匹敵するような地があれば教えてください。
799 :
日本@名無史さん:04/11/06 13:28:21
神武=徐福。
800 :
日本@名無史さん:04/11/06 13:28:48
記紀編纂者も卑弥呼の正体が判らなかったのではないかな。
かといって対外文書である日本書紀で、倭人伝記事を無視する事も
出来ず、苦肉の策として「神功皇后=卑弥呼」を当てはめたとは考えられない?
紀年繰上げがバレるきっかけとなった百済王の名前に関するミスなんか
まさにそのあたりの混乱と苦労が偲ばれるのだが。
801 :
日本@名無史さん:04/11/06 13:29:40
>>796 揚げ足取りだなあ。
もともと当方は、そういうスタンスであることはご承知でしょう。
貴殿は、宇佐になびいたり、否定したり、いったいどっち?
802 :
日本@名無史さん:04/11/06 13:33:04
崇神王朝までは畿内土着の政権っぽいね。
倭人伝でも畿内については何もかかれていないし
邪馬台国とは交流がなかったんだろう。
応神のときに初の統一国家ができあがったと考えられる。
古墳の規模もでかいし、権力を象徴してる。
>>793 神功皇后が7世紀の女帝をモデルにしたフィクションだと信じている人ですか?
神功皇后=卑弥呼という考え方もできるが、同じ巫女なら
天照大神=卑弥呼
神功皇后=台与
という考え方も有りなのではないかと思った
804 :
日本@名無史さん:04/11/06 13:37:35
天照は卑弥呼でいいと思う。
日食事件とも整合性があるしね。
神武は応神。東征を行ってるし
神武は応神をモデルに書かれた架空の人物。
805 :
日本@名無史さん:04/11/06 13:43:37
日食・・・なつかしいなぁオイ。
しかし日食は卑弥呼とは無関係であろうと議論が決着した事は
このスレの古参の方々には周知の事実だったりする。
(part2か3のあたりだったかな)
806 :
日本@名無史さん:04/11/06 13:52:00
>>804 神武=応神は無理があると思う。
応神天皇は、記紀の内容から四世紀後半以降の人と考えられる。
しかも、朝鮮の出兵したことも考えると、とてもではないが、
神武が東征した直後にそこまで大和をまとめることが可能で
あったとは考えにくい。
神武、崇神はともに「ハツクニシラス」を意味する名を持つ同一人物
であろう。
神武は即位までのが詳細に記載されているにもかかわらず、即位後は
全く不明。一方、崇神はハツクニシラスであるにもかかわらず、その
功績が不明で、即位後から詳細に記載されている。
807 :
日本@名無史さん:04/11/06 14:06:32
>>800 >記紀編纂者も卑弥呼の正体が判らなかったのではないかな。
その可能性も大いにあるとは思うが、殷王朝は2千数百年も
言い伝えられ、ついに見つかったのである。
この狭い日本で、たかだか数百年前の記憶がなくなってしまうものだろうか?
もし、随所の記すごとく、邪馬台国と大和朝廷が同系統であるなら
なおのことである。
百済王は、海を隔てた隣国のことであるが、自国のことですし。
>>786-787 何度も書いてると思いますが。
宇佐神宮が記紀に書かれていないのは、その当時、宇佐神宮は天皇家からそれ程
重要視されていなかったということだと思います。
記紀編纂以前から宇佐神宮が天皇家の祖霊を祀る大事な神社なら、何故宇佐神宮のことが
記紀に書かれていないのか?
記紀は天皇家の倭国支配の由来・正統性を語るために書かれたもの。もし宇佐神宮が
そんなに大事なら、記紀に書かれていないのはおかしいと思うでしょ?
何か特別な理由でもあるなら兎も角。
その<特別な理由>について、「邪馬台国との繋がりを知られたくなかった」というレスが
あったから、神功紀に倭人伝の記述が書かれてますよ、と言ったわけ。普通に読めば、
神功=卑弥呼と読めます。ストレートに卑弥呼のことが書かれていないのは、古い話で卑弥呼
が誰のことか分からなかったから。だからあくまで紀編纂者は「卑弥呼=神功皇后」説の
立場をとっていたのだと考えています。
宇佐説の人は「記紀編纂以前から、宇佐神宮が天皇家から重要視されていた」と言うなら、
なぜ記紀に宇佐神宮のことが書けなかったか、に答えて下さい。
>>806 神武が「ハツクニシラス」っていうのはどこに書いてあるのかね?
811 :
日本@名無史さん:04/11/06 14:59:07
>>808 >記紀編纂以前から宇佐神宮が天皇家の祖霊を祀る大事な神社なら、何故宇佐神宮のことが
>記紀に書かれていないのか?
宇佐ではなく、神宮として書かれてないことに疑問をもっていると解釈してよいのでしょうか?
前述したように、宇佐(豊前)は元来、神社というわけではなく
あくまで国家であり、神宮自体の成立は由緒どおりの時期だと思います。
そして、政権そのものが畿内に移った後、亀山を守護する意味もあり
神宮の形をとったものと思います。
これが、記紀に神宮として記載されていないもう一つの理由と思います。
812 :
日本@名無史さん:04/11/06 15:00:10
では、なぜ国家であったと考えるのかというと、残念ながら詳しい
成立時期は分かりませんが、有史時には「本御荘十八箇所」とよばれる
広大な土地を北部九州から南は鹿児島に至るまで所有していたから
です。ふつう、1地方の神社がそれほどの土地を有力者からの寄進のみで
得ることが可能でしょうか?
このことは、記紀において天照大御神が天の岩戸の後、更に領土を拡大した
記述や天孫降臨、熊襲の存在、西都原の発展、神武東征、そして大隅八幡
の反乱が(もらろん1解釈ですが)矛盾なく説明可能なのです。
神功記と卑弥呼についてあなたがいいたいことも分かりますが、いずれに
せよ推測の域をでないのであり、これ以上の論戦は他の方々への迷惑
となるばかりと思うので、お互い自説を信じればよいのではないでしょうか?
813 :
日本@名無史さん:04/11/06 15:35:34
>>793 神功皇后を架空としたがるのは糞チョンの歴史改竄工作
814 :
日本@名無史さん:04/11/06 16:14:36
神武天皇は即位前の記録、崇神天皇は即位後の記録。
神武東征は日向出身だった神武=崇神が近畿に派遣もしくは逃亡し
近畿の有力豪族の連合政権の大王になったことを記したもの。
欠史八代は歴史の延長のために大王の親族を縦に並べた。
もしくは近畿の有力豪族と擬制的な親族関係を築くために
実在の人物もしくは架空の人物を縦に並べた。
事績が記されていないのは即位していないからあえて記さなかった。
崇神天皇〜仲哀天皇は大王の権力強化や勢力を拡大していく課程で
応神天皇のときに半島南部を含めてほぼ全国を統一する。
継体天皇は応神天皇が北陸に封じた正真正銘の子孫だったが
有力豪族の権力闘争に巻き込まれ大和入りが難しく
それを好機と捉えた筑紫と新羅が反乱を起こした。
有力豪族の権力闘争はさらに安閑、宜化天皇と欽明天皇派に別れて続いた。
とありきたりの妄想スマソ
>>811 >前述したように、宇佐(豊前)は元来、神社というわけではなく
>あくまで国家であり、神宮自体の成立は由緒どおりの時期だと思います。
由緒どおりの時期って、欽明の頃ってこと?
>そして、政権そのものが畿内に移った後、亀山を守護する意味もあり
>神宮の形をとったものと思います。
だから、政権が畿内に移り宇佐神宮を建立したのは、記紀編纂以前だろ?
なぜ、記紀に書けなかったんだよ。
粘着じゃなく、本当にどう思っているのか聞きたい。
後世になって別の人物を混同することはあっても、別々に分けるなんてことはないと思う。
分ける必然性がないし。
818 :
日本@名無史さん:04/11/06 17:02:58
崇神・・・近畿の連合政権の大王
垂仁・・・大王の権力強化
景行・・・東海地方や中国地方を征服する
仲哀・・・北九州を征服し南九州を征服中に戦死
神功
南九州は諦め半島南部を征服するが
征服中に本国にいる母の違う仲哀の息子が即位したため
これを討ち自ら大王に即位し実の息子の応神を皇太子に
記紀編纂時には半島とは完全に別の国だったから
応神の朝鮮生まれを隠すため妊娠期間を長くする必要があった
応神
全国がほぼ統一された初めての大王となる
と妄想スマソ
819 :
日本@名無史さん:04/11/06 17:08:01
即位していない八人を大王にする場合
初代より前に入れるのも、初代と二代の間に入れるのも変だから
初代を分けてその間に入れたんだと考える。
八人を入れた理由は神武天皇の即位をBC660年にするためと
擬制的な親族関係を構築するためだろう。
しかしその八人には何らかの意味があるんだと思う。
ないなら何十人も入れたら不自然にならずに済むのだから。
妄想スマン
応神は神功皇后と武内スクネの子でしょ
藤原氏にとっては、そんなこと絶対に表にしたくない罠
821 :
日本@名無史さん:04/11/06 17:19:00
邪馬台国の卑弥呼と聞くと丹色の入れ墨が思い浮かぶが、
大和の国のひめみこと聞くと色の白い皇女が思い浮かぶ。
822 :
日本@名無史さん:04/11/06 17:50:14
万世一系ではなく、王朝が交代してるというのは確実なんでしょうが、そこで疑問。
何故滅ぼした前王朝の君主も「天皇」だった事にして系譜を繋げる必要があるのか?
つまり応神が仲哀を滅ぼしたのなら、応神が初代天皇と書けばいいだけ、別に仲哀「天皇」にする必要は無い。
いくら万世一系といっても、オオクニヌシとかニギハヤヒといった大和朝廷以前に畿内の王だった
存在は記述されているのだから、何故応神以前の王朝もそれと同じ扱いにならないのか
823 :
日本@名無史さん:04/11/06 17:52:42
824 :
日本@名無史さん:04/11/06 18:13:44
825 :
日本@名無史さん:04/11/06 18:16:00
実際に王朝が交代したなら
中国みたいに前王朝を悪し様に書く史書を編纂すればいいこと。
所が記紀には王朝交代は記されていない。
つまり、王朝交代などなかったということ。
826 :
日本@名無史さん:04/11/06 18:18:35
やっぱり万世一系だったと思うな。
まあ本当に生物学的に繋がっているかは
タイムマシンでもなきゃ分からんけど。
827 :
日本@名無史さん:04/11/06 18:24:23
>>825 >前王朝を悪し様に書く
前王朝というより、最後の皇帝を悪く書くと思う。
それで思い出すのは、武烈天皇…
828 :
日本@名無史さん:04/11/06 18:28:07
しかし武烈を天皇にする必要はあったんだろうか。
継体が本当に応神の五世孫だったと考える方が自然だ。
スレ違いだが、武烈天皇は殷の紂王や夏の桀王と同じような書かれ方してるんじゃなかったっけ?
継体が新王朝だという、文献的根拠になってる。
830 :
日本@名無史さん:04/11/06 18:46:04
五世孫なら王朝交代みたいなもんだろ。
フランスなら王朝交代になるんじゃなかったっけ。
たしかユーグカペーからルイ16世まで男系で繋がっているんだろ。
おまえら暇だな。今日の午後だけで50件かよ。読みきれねぇ・・・
832 :
太国:04/11/06 20:11:34
驚くべし。皇統は確かに萬世一系。
833 :
日本@名無史さん:04/11/06 20:56:30
纒向遺跡は3世紀初から4世紀後半ぐらいで、突然廃棄された人工都市と言われている。
崇神−垂仁−景行の3天皇だけでは、150年以上の年月で少なすぎるような気がする。
ちなみに、成務天皇は突然大津に遷都し、纒向が廃れたと考えると、成務天皇即位は、
4世紀前半ぐらいか?
834 :
日本@名無史さん:04/11/06 21:07:44
>>833 あるいは成務天皇は別王朝とも考えられるな。
835 :
日本@名無史さん:04/11/06 21:11:36
成務、仲哀は架空の天皇
836 :
日本@名無史さん:04/11/06 21:13:26
私は畿内邪馬台国の王は崇神天皇で、卑弥呼は邪馬台国連合(女王国)の王だったと考える。
つまり、現代にたとえるなら、崇神天皇がアメリカの大統領で卑弥呼が国連の議長みたいな感じかな?
下手な例えでスマソ。
>>836 その場合の卑弥呼は、やっぱりトトヒモモソ姫になるの?
838 :
日本@名無史さん:04/11/06 21:17:37
839 :
日本@名無史さん:04/11/06 21:25:18
>>833 纏向は卑弥呼、トヨの時代でしょう。400年頃に、中国の石碑に倭が侵攻
してきたとの記述があるから、その頃に遷都したのかもしれない。
また、その朝鮮にせめた時が神功皇后って事はないの?
840 :
日本@名無史さん:04/11/06 21:30:51
畿内説によれば、崇神=卑弥呼の弟。
ということですか?
841 :
日本@名無史さん:04/11/06 21:40:54
卑弥呼=ヤマトトヒモモソヒメ
なわけがないだろ。国連議長が
一介の皇女扱いか?
842 :
日本@名無史さん:04/11/06 23:05:59
>>841 一介の皇女扱いかどうか崇神天皇紀読めば分かると思うが
843 :
日本@名無史さん:04/11/06 23:13:29
纒向の搬入土器は東は関東から西は北九州まで広範囲にわたる。
つまりこれが邪馬台国の支配の及ぶ範囲とすると、論理的に考えて、
狗奴国は南九州、つまり熊襲ではないかと思う。
畿内説では狗奴国は東海地方みたいなことが言われているが、
それはやはり違うと思う。
しかし、天気のいい休日に真昼間からPCに張り付いてる連中って…
亀レスですが
>>810 故語に称して曰さく、
「畝傍の橿原に、宮柱底磐の 根に太立て、高間の原に搏風峻峙りて、
始馭天下之(はつくにしらす) 天皇を、號けたてまつりて 神日本磐余
彦火火出見天皇 と曰す」(神武紀元年正月)
845 :
日本@名無史さん:04/11/06 23:25:25
>>844 ですから、漢字を見ても分かるように、「ハツクニシラス」とは読めませんよ。
始馭天下之天皇 ハジメテアメノシタオサメシスメラミコト
ぐらいですかね?
846 :
日本@名無史さん:04/11/06 23:29:53
>>845 「ハツクニシラス」という訓は延喜式のものですね。
「延喜式」は平安中期に編纂されたものであり、そのころには
神武天皇と崇神天皇が混同されていたという証拠だとは思うが
これをもって、神武天皇=崇神天皇というのは,無理があると
思います。
847 :
日本@名無史さん:04/11/06 23:46:09
神武天皇 始馭天下之天皇
崇神天皇 御肇国天皇
字面から見るにまったくの別人ですね。
事実かどうかはともかく、記紀は別人だと主張しているわけです。
848 :
日本@名無史さん:04/11/07 02:22:10
849 :
日本@名無史さん:04/11/07 02:35:06
>>848 >ここはどうなんすか?
では意味が分からないだろう。
言いたいことを要約する能力がないと思われるぞ。
850 :
日本@名無史さん:04/11/07 04:15:49
>>847 もともと記紀では別人として書いているから名前も同一では
ないのは当たり前。
欠史8代や時代の矛盾を考えると、編者が同一人物を
似た名前にして、分けたと考えた方か、いい気がする。
編集当時は、中国に対し事実がばれるとまずいが、史記などを通じて
後年まで歴史が残ることを既に意識していた編者は、嘘八百を伝える
ことに良心が痛んだためヒントを残したか、後年の人が謎解きする姿を
空想して楽しんだのかもしれない。
藻前の妄想を聞かされてもリアクションに困るなぁ
852 :
日本@名無史さん:04/11/07 09:20:32
畿内説は自分の都合のいいように解釈しまくりで笑えるね。
卑弥呼=ヤマトトヒモモソヒメとか言い出すし、
記紀では卑弥呼=神功皇后になってるんだけどさw
政府の公式見解が卑弥呼=神功なのになんでまた
わけのわからない姫が卑弥呼になってしまうんだかww
>>852 紀の編纂者は「卑弥呼=神功皇后」説を最初に唱えただけ。
肖古王120年繰り上げとか、聞いたことない?
実際に崇神紀を読んだら、トトヒモモソ姫の印象は変わると思うよ。
埋葬されたとされる箸墓も奇妙な伝承が残っているし、吉備発祥の円筒埴輪
を初めて周囲に並べた前方後円墳ではないか、とされている。
854 :
848:04/11/07 10:15:35
>>849 歴史に詳しくない私が、ふと見つけたサイトで、真偽を確かめに来ました。
古いとか奇説とか意見をもらいに。
855 :
日本@名無史さん:04/11/07 10:30:32
日本書紀で天皇家は歴史を捏造したが、神話には本当のことが残っている気がする。
>>855 歴史部分の日本書紀を造作したのは、天皇家なんですか?
>>853 アホにモノを教える先生のようだな。
正しいかどうかは別にして。
858 :
日本@名無史さん:04/11/07 11:30:29
>>853 奇妙な伝説ならどこにでもある。
埴輪があるからって?
奴婢百余人と円筒形埴輪では、後者が伝説の奴婢百余人に倣い
埴輪を埋めたと考えた方が自然。
根拠として弱すぎ。
そもそも大元が男王と認めているんでしょ。
859 :
日本@名無史さん:04/11/07 11:48:09
>>855 天皇で利益を得ようとした人が指示してると思いません?
それに抵抗した人が、神話という形で真実を残そうと抵抗。
歴史ってそんな記録な気がする。
根拠無し。
根拠無し。
861 :
日本@名無史さん:04/11/07 12:05:38
>>860 卑弥呼の墓に、埴輪があると書いてあった?
前方後円墳と書いてあった?
卑弥呼が陰部に箸を突っ込んで自殺するなんて逸話があった?
箸墓のまわりで奴婢の骨が発掘された?
862 :
日本@名無史さん:04/11/07 12:15:18
>>846 >「延喜式」は平安中期に編纂されたものであり、そのころには
>神武天皇と崇神天皇が混同されていた
たった数百年前の詳細に記述された有名な天皇と、初代とされる
非常に有名な天皇を宮中に身を置く人間が混同なんてするものだろうか?
真実をきっと知っていたはず。
>>861 なんか必死だな。
3世紀の前方後円墳体制の中心地とされる大和マキムク。
箸墓が強い霊力のあった巫女の墓という伝承から、トトヒモモソ姫=卑弥呼を推定
している。
まあ確定じゃないのは百も承知だが、古代史のことを余り知らないようだったから、
>>853で老婆心で教えただけ。
反論するにしても、もう少し勉強してから書き込んだ方がいいよ。
864 :
日本@名無史さん:04/11/07 12:25:31
生け贄の代わりの埴輪は形象埴輪であって
巨大な円筒埴輪や特殊器台は棺桶にも使われている。
865 :
858:04/11/07 12:43:59
>>863 852とは別人だが。
>箸墓が強い霊力のあった巫女の墓
だけでは根拠がうすい。巫女なんて履いて捨てるほどいる。
それとも畿内では巫女は珍しいのか。
そもそも卑弥呼の墓に埴輪は関係ない。
倭人伝から読み直したら。
橿研自体が箸墓を男王の墓としているだろ。
866 :
858:04/11/07 12:49:58
それから852は、さほどおかしいことは書いてないようだな。
>政府の公式見解が卑弥呼=神功なのに
も別に信じているわけではなく皮肉と見た。
867 :
日本@名無史さん:04/11/07 13:13:13
>>865 > 橿研自体が箸墓を男王の墓としているだろ。
基地外はでたらめを言うなよ
868 :
日本@名無史さん:04/11/07 19:20:13
応神東遷が邪馬台国東遷とみた。
こう考えればすべてが一本の線につながる。
869 :
日本@名無史さん:04/11/07 20:40:24
箸墓は、卑弥呼の時代よりも古いことがわかったという、
最新の研究を知らんのか?
知らん。というより、電波だろそれ。
871 :
日本@名無史さん:04/11/07 20:47:45
発見当時は3世紀末から4世紀といわれていた箸墓古墳が、
年を経るごとに早くなる 大学者先生というのは器用なもんだねえ
873 :
日本@名無史さん:04/11/07 21:01:48
箸を使ってない時代に造った古墳なのに、箸墓古墳とは
これいかに?
当時は畿内じゃないのに、畿内説というが如し。
念のため言っとくと、時代が下がってからついた名前だからってことね。
最近、読解力ないやつが多いから解説しとかんと心配で・・・・
無粋だけど。
九州…
そして天皇…
877 :
日本@名無史さん:04/11/07 21:29:05
>>873 倭人伝には、手づかみで食べてたとあるね。
確かに、箸はつかわれてなかった。
878 :
日本@名無史さん:04/11/07 21:41:44
畿内に残る証拠は全部捏造なんじゃない?
自分が普段から捏造をくりかえしてると、相手も同じ事をしてるとどうしても思ってしまうんだろうな・・・・
気の毒に・・・・・
880 :
日本@名無史さん:04/11/07 21:50:21
>>879 そういう思考が出来る準備ができてるのは君だ。
これだけ差別を行ってきた権力者たちが、都合のいい歴史を作らなかったとは思えないんだよね。
>>868 >応神東遷が邪馬台国東遷とみた
3世紀初めには、すでに畿内を中心とした前方後円墳体制(初期ヤマト政権)が始まっている。
応神は4世紀末頃の人と思われ、その頃まで九州・邪馬台国とヤマト政権が並立していたとは思えない。
882 :
日本@名無史さん:04/11/07 22:26:29
実際のアマテラスは卑弥呼なんだが、朝廷は卑弥呼をオオクニヌシにしたかった論。
オオクニヌシは朝廷の敵の象徴であるスサノオの末裔じゃん。
あと2回死んでるってのは卑弥呼+台与ではないかな。
で、アマテラスを天皇の方の家系に組み込む、と。
883 :
日本@名無史さん:04/11/07 22:29:32
3世紀に、九州邪馬台国は熊襲に滅ぼされた。 熊襲が九州を支配。
4世紀以後、九州熊襲と畿内大和朝廷は対立関係を続ける。
884 :
日本@名無史さん:04/11/07 23:39:27
邪馬台国が東征したって言うけれど、
馬のいない邪馬台国が馬のいる大和朝廷に果たして勝てたのだろうか。
と言うか、馬はどういうルートで来たのだろうか。
馬の話があまり出てこないよなここ・・・
885 :
日本@名無史さん:04/11/07 23:56:40
九州の応神は畿内崇神王朝に勝てたじゃんかよ。
むしろ畿内が大陸からの影響を受けやすく
先進的な九州に勝てるほうがおかしいと思うんだがw
886 :
日本@名無史さん:04/11/08 01:07:34
>>883 >3世紀に、九州邪馬台国は熊襲に滅ぼされた。 熊襲が九州を支配。
熊襲が熊本・鹿児島・宮崎辺りだとすると、それは無いんじゃないかな。
北部九州に、中・南部九州の影響があまり無いようだから。
ここでつながる宮崎と馬
…都井岬
888 :
日本@名無史さん:04/11/08 01:21:01
そもそも馬なんて街道が整備されてなきゃ使い物にならん。
あと現代の感覚では騎兵のイメージがあると思うが、
古代では大将格のやつが乗ってただけにすぎない。
義経が現れてからやっと馬による機動力が戦に使えることと
騎兵という概念が生まれた。ましてや古代邪馬台国の時代に
馬がいた、いないで戦争の勝ち負けにそう影響はない。
>>885 半島は倭国より中国からの影響を受け易く、倭国より鉄を沢山持ってましたが、
倭人の侵入を許しました。
安易な「先進の北九州が後進の畿内に負ける筈がない」という説は、
正直、稚拙と言うしかありません。
890 :
日本@名無史さん:04/11/08 01:29:03
っていうか邪馬台国は中国と同盟関係にあったんだから
畿内から攻められてもそんなに簡単に負けないはずでしょ。
>>890 邪馬台国が畿内か九州かの結論は出ていない。
北九州東遷説を主張したいようだが、他の論拠を示してくれ。
892 :
日本@名無史さん:04/11/08 02:37:46
>>885 応神の場合は別だろ。政権内クーデターだろ。
兵力を出すというのは実は出す側にとっても危険なんだよな。
周りの兵力がなくなるし、途中で寝返られた場合にはお手上げ
となるから。
場面は違うが応神紀では武内宿禰もそのような寝返りの嫌疑を
受けて身代わりを立てて、一人大和に戻り嫌疑を晴らす記述がある。
893 :
日本@名無史さん:04/11/08 05:13:10
神武天皇=カムヤマトイワレヒコ
カム(漢)ヤマト(倭)イワレ(奴)ヒコ(国王)
神武天皇は、1世紀の、志賀島出身の豪族
読むに耐えない妄想ばっかえだな。お花畑寸前なのもいるし。
895 :
日本@名無史さん:04/11/08 07:54:06
邪馬台国の時代は船が主要な移動手段かも。
だから、伊勢や吉備、安房、浪速、出雲、紀伊などが重要になってくる
倭人伝の「棺あって槨なし。」
がすべてを物語っている。
たとえ畿内の遺跡が古くとも、他の記述を含め、文化・風俗が
全く一致していない。
銅鐸文明が滅ぼされたか、捨てられたかにせよ、北部九州の
文明に飲み込まれたのは明らか。
むしろ、畿内説こそ様々な矛盾を説明して切れていない。
897 :
日本@名無史さん:04/11/08 11:09:09
道鏡事件のときに宇佐神宮にいったことがすべてを物語っている。
応神天皇、神功皇后、そしてこの二人より上に立つ、比売大神=卑弥呼。
卑弥呼の子孫の応神が東征して大和朝廷を作ったことがすぐにわかる。
崇神王朝までは畿内土着の王朝。我々が知ってる大和朝廷は応神が作ったもの。
898 :
日本@名無史さん:04/11/08 13:22:43
日本神話は海洋的要素が強い。
大和朝廷の源流は、奈良では無いだろう。
899 :
896:04/11/08 13:55:59
>>897 援護射撃ありがとう。
しかし、応神天皇東征については、自分は疑問。
>>897 もともと、宇佐を巻き込んだのは道鏡だろうが。
勅使が宇佐に行ったのは確認にすぎん。
宇佐説とか言ってるバカは、そんなことも知らんのか。
901 :
日本@名無史さん:04/11/08 15:17:56
もし、宇佐がただの地方神なら太宰府の某が
宇佐で道鏡を天皇にしろなんて御告げがあったと
報告しても、無視するか、最高の神であるはずの伊勢に
確認すれば済むことのにね。
902 :
日本@名無史さん:04/11/08 15:31:43
↑アホ?
903 :
日本@名無史さん:04/11/08 15:35:40
↑
まともな反論もできない。
知らんかったなら、知らんかったって言えよ。
道鏡が何で宇佐をかつぎ出したか位は、ググればすぐ出てきただろ?
伊勢に確認するって、本物のバカなの?
道鏡を失脚させるには、宇佐の神託をひっくり返すのが最も簡明かつ
後に遺恨を残さんだろうが。
905 :
日本@名無史さん:04/11/08 15:53:47
はあ?
>もし、宇佐がただの地方神なら
それから、一応指摘しといてあげるけど、道鏡事件に登場するのは、
キミの大好きな比売大神じゃなくて八幡神だから。残念。
907 :
日本@名無史さん:04/11/08 16:16:14
908 :
日本@名無史さん:04/11/08 20:18:24
畿内王朝に勝てた応神って何者なの?
九州人っぽいんだけどさ。
909 :
日本@名無史さん:04/11/08 20:36:37
応神天皇陵は前方後円墳だけど、河内王朝は奈良の前方後円墳を
継承しているということは、大和朝廷の勢力範囲内の有力者という
ことではなかろうか。応神が九州から来たのなら九州もそのころ
すでに大和朝廷の勢力範囲だった。応神は前方後円墳を作って
嬉々としている人々の一人であったことは確かですよね。
910 :
日本@名無史さん:04/11/08 20:48:01
>>909 応神は邪馬台国の流れをくむものだったと思うね。
3世紀の終わりごろにはすでに九州邪馬台国連合は
畿内王朝の軍門に降りその傘下に加わり、王族であった
応神の先祖も大和朝廷の豪族となった。そして時は流れ
4世紀後半になり、大和朝廷が九州に兵を繰り出したとき
応神も参戦し、そのとき自分の先祖の土地が蹂躙されるのが
見るにしのびなくなって、反旗をひるがえした。
これに九州勢力も呼応し、第二次大和朝廷である河内王朝が
成立した。
すんません、質問です
今日本書紀を読んでますが、神武天皇の実名(彦火火出見)が、
その祖父と同じに読めて混乱しています。
どういうことなんでしょうか?
912 :
日本@名無史さん:04/11/08 21:02:22
応神が、機内と対立したというような記述があるのか?
日本書記読んでも見つからないが。
913 :
日本@名無史さん:04/11/08 21:04:10
今ごろセックスしてるやつもいれば、日本書紀なんぞを
読んでる奴もいる。いやー世の中ってほんと面白いですねw
914 :
日本@名無史さん:04/11/08 21:09:34
915 :
日本@名無史さん:04/11/08 21:10:28
卑弥呼の子孫が新潟を訪問しましたね。
卑弥呼の威光は現代まで生き続いています。
916 :
日本@名無史さん:04/11/08 21:13:04
>>910 >応神も参戦し、そのとき自分の先祖の土地が蹂躙されるのが
>見るにしのびなくなって、反旗をひるがえした。
なんか応神をかなり美化してない?
いや、あんたが言うとおりの可能性もあるんだから別にいいんだけどさ
歴史はロマンやね
917 :
日本@名無史さん:04/11/08 21:33:21
>>914 すまん、畿内王朝と戦ったという記述は、どこにあるの?
応神東征は、後世の継体の時のように、地方の王族が中央の政治的混乱に乗じて
大王位を簒奪したものだろう。高句麗南下、半島情勢の激変が原因か。
応神の畿内征服は葛城国が内応したことで、比較的短期間で片が付いたように
思われる。
応神は前方後円墳体制を継承、それどころか更に墳墓を巨大化させ、高らかに
大王位継承を宣言した。
応神は河内を本拠とするが、その事も大和盆地になかなか入れなかった継体と
ダブる。
919 :
日本@名無史さん:04/11/08 23:32:15
古墳巨大化についてはたぶんこうだろ。
倭の半島進出、高句麗南下で半島は混乱。
多くの難民が大阪にくる。
難民管理と治水等生産性確保のための公共事業
の必要。それらをかねたのが巨大古墳築造だと思う。
事実この時期記紀には渡来人を使役しての土木工
事、およびその他の土木工事の記述がたくさんある。
そしてその個所は古墳が巨大化する個所とかなり
かぶる。
>>918 それだと先後関係がごっちゃになっている。
応神の東遷というが記紀での記述は
神功皇后+武内宿禰+乳児応神 vs オシクマ皇子+カゴサカ皇子
応神自身は畿内と戦っていない。
応神即位 --> 倭の半島進出と高句麗の南下 -->古墳の巨大化
だろ。
>>919 記紀に高句麗の記述はないのだが。
好太王の碑文より、3世紀末、倭が南下する高句麗との戦端を開いていた
のは確か。倭王讃が南朝に遣使したのもその頃。
921 :
日本@名無史さん:04/11/09 00:04:28
922 :
日本@名無史さん:04/11/09 00:18:46
結局、応神が畿内王朝と戦ったというソースが出てこなかったか。
たとえデンパでも、文献も無いような空想を語るのは許せん。
>>922 >文献も無いような空想を語るのは許せん
記紀の編者はどう?
924 :
日本@名無史さん:04/11/09 08:07:27
>>906 あのね、狭義には八幡神とは応神天皇を指すが、
ふつうは3神含めて八幡神と認識されているの。
そして、宇佐八幡に參るといっても3神に參るし
むしろ、気づかずに比売大神が八幡神と思っている人が
ほとんど。
知ったかぶりはやめようね。
17時間かけて調べまくって、出した答えがこの程度
927 :
日本@名無史さん:04/11/09 10:23:55
たとえ邪馬台国が畿内政権の傘下に入っていたとしても
4世紀の終わりに邪馬台国の流れを汲む応神一派が
東征し、政権を奪取したことに変わりはない。この政権奪取を
正当化するために神武東征が作られた。
928 :
日本@名無史さん:04/11/09 10:35:44
応神が、畿内と対立したっていう文献がどこにあるんだよ!
929 :
日本@名無史さん:04/11/09 10:43:31
邪馬台国と大和朝廷の因果関係については
明白には分からない。
ただ、日本の史書に出てくる寿命が100歳以上の初期の天皇たちの年齢を
2分の一にすると、ちょうど、同時期の
欧州・中国の皇帝や国王と同じような年齢や即位期間になる。
1年を四季で考える思想は大陸的な思想で
日本では元々は二季を1年と考えていたふしがある。
そういうふうに考えると、天照大神と卑弥呼の生存時期が
同じくらいになる。
930 :
日本@名無史さん:04/11/09 10:53:06
日本の古代の史記を観察すると
無理やり、各地域の歴史を合体させた雰囲気がある。
普通に考えて、九州の勢力が軍事的・経済的に畿内の勢力を征服するのは不可能。
では、九州の実力者が、畿内の権力者に就くとしたら
どういう可能性が考えるれるか?
それは、畿内と九州が既に統一していて、
西国政権(九州と畿内の統一政権)の中で、
九州の実力者が平和時に政権に任命される場合。
おそらく、日本の地理的な変遷で考えると
その古代の時代から、後の幕藩体制のような
地方分権型の連合政権という雰囲気が強くて
紀州徳川家から徳川宗家へ養子に入って政権に就く、みたいな感じか?
>>925 キミの宇佐への愛はよく分かったが、 何を言いたいのか理解に苦しむな。
前段と後段で明らかに矛盾してるし。
>あのね、狭義には八幡神とは応神天皇を指すが、
>ふつうは3神含めて八幡神と認識されているの。
あのね、八幡宮って宇佐だけじゃないの。知ったかぶりはやめようね。
鶴岡の神様が古代の謎の女王だとか思ってる奴がいたら、病院に行くことをオススメするよ。
>そして、宇佐八幡に參るといっても3神に參るし
>むしろ、気づかずに比売大神が八幡神と思っている人が
>ほとんど。
>知ったかぶりはやめようね。
何に「気づかずに」かよく分からんな。三神含めて八幡神と思ってるのが普通じゃないのか?
932 :
日本@名無史さん:04/11/09 13:47:48
なんでみんな揃いも揃って「東征」だとか「王朝」だとかの
勇ましい妄想に走るのかねぇ?
やっぱそっちの方が派手だし、妄想していて楽しいんだろうな、多分。
倭国大乱は少なくとも2世紀後半には完全に終結し、
その後は銀行再編よろしくの大合併劇が繰り広げられたとの説が
圧倒的主流なのを、もしかしてみんな知っていながらワザとやってるのですか?
それともマジでごく少数の異端説の寄り合い場に成り下がっちゃったの、ココ?
次スレではまともな方向に軌道修正されていることを願うよ。
933 :
日本@名無史さん:04/11/09 14:11:15
>宇佐説も含めて九州説の人へ
もし宇佐や北部又は中部九州に邪馬台国があったのなら
畿内、山陰の文化影響が顕著に見られる(と言うより
本州連合の出先機関だとの説が有力な)3世紀の遺跡である
大分県日田市の「小迫辻原遺跡」なんかはどう説明するの?
ここから出土する土器は纏向式やら庄内式が主流だし
建築様式も他の九州型環濠集落とはまったく違う纏向タイプだし
何より3世紀初頭に突如として建築され、末期にこれまた唐突に廃棄されて
いるあたりの事実を踏まえた上で、どのような説が成り立つのか
理性的に考えてみてくださいよ。
いわゆる「まともな九州説論者」はこの遺跡に関しては
必ず何らかの見解を発表している。決して無視などしていない。
これは次スレへの九州説提唱者への宿題として、受け取ってくれよ。
ここの九州説は単なる妄想なんだから、専門的な話されても困ります。
935 :
日本@名無史さん:04/11/09 14:35:48
>それと東遷論者へ
2世紀末から4世紀半ばまで纏向が「防衛施設も軍隊も無しに」栄えた
事実からして、この時期の九州からの軍事東征は有り得ない事は明白ですよね。
また東遷にしても土器がほとんど発見されないほど少数の軍人の移動では
吉備、山陰、丹後、近畿、東海の連合を支配するのは、現実的ではないでしょう。
纏向建設以前に時期を求めても、奈良盆地から九州特有の土器や建築様式、
そして何より祭祀である大型の銅剣や銅矛が発見されないのは、これまた不自然ですね。
ちなみに、銅鐸消滅とほぼ同時期に北九州の銅剣、銅矛も終焉を迎えているのはご存知ですか?
現在では、大和岩雄氏や関裕二氏の「邪馬台国とヤマト連合の合併説」などが
唯一生き残っている東遷説と言えるのかも知れませんね。
僕はこの説を採りませんが。
937 :
日本@名無史さん:04/11/09 15:02:49
>>935 よければ、あなたの説をお聞かせ頂けますか?
938 :
日本@名無史さん:04/11/09 15:06:45
「吉備、山陰、東部四国、丹後、河内、奈良盆地、東海、琵琶湖周辺、越、南関東
これらの公益圏が倭国大乱(2世紀末まで)の後に連合化して、原ヤマト連合を形成した。
(但し連合化の順番や内部での力関係は諸説ある。)」
邪馬台国建国に関しては、これは動かしがたい事実なんですよ。それに対して
@この連合が倭人伝に言う倭国であり、邪馬台国連合である。
また後の大和朝廷の基礎となったのであろう。
卑弥呼はおそらく畿内纏向に居たのであろうが
纏向以外の土地に居た可能性もまた否定はしない。
これが畿内説。
A倭人伝に言う邪馬台国は、本州連合とは別の九州連合であろう。
と言うのが九州説。
なお大和朝廷との繋がりにおいては
a)邪馬台国は連合に滅ぼされたか吸収された。
b)九州連合と本州連合合併後、イニシアチブを執ったのが九州連合。
c)血縁関係を結び、同族として融合化した。
d)あくまで合併を拒み7世紀頃まで自治独立化した(古田説)。
などが主な説であり、畿内説論者でも邪馬台国と大和朝廷の断絶を支持する
考え方をしている者も少なくありません。
また後の時代の壬申の乱や大化の改新
また記紀編纂時の恣意的な編集を指摘する動きも、九州、畿内支持に関わらずやはりあります。
ですので簡単に畿内説やら九州説のカテゴリーでは括れないようです。
私は畿内説系纏向首都、同族融合、記紀恣意編集派です。
939 :
日本@名無史さん:04/11/09 15:09:10
なるほど。凄い説得力がありますね。
940 :
日本@名無史さん:04/11/09 15:11:04
つまり壬申の乱は連合内での争いだったということですか?
941 :
日本@名無史さん:04/11/09 15:18:23
>>940 そう言い切るには問題が多いのですが
(なにしろ記紀と言う「勝者側の証言」しかありませんので)
実際に天皇家が名実ともに一つの系列に纏まったのは
平安京の桓武天皇ではないかと言う説もあります。
彼の行った粛清政治がその後の礎となったのは事実ですし。
それ以前の権力争いとして壬申の乱や大化の改新があるとの
いわば派閥抗争の繰り返しが、大和朝廷の歴史でしょうね。
942 :
日本@名無史さん:04/11/09 18:59:19
943 :
日本@名無史さん:04/11/09 19:08:26
俺が貼ろうとしたら既に
944 :
日本@名無史さん:04/11/09 19:17:48
これで決まりだな。
畿内に巨大国家がそんざいした。
九州にも存在した。
945 :
日本@名無史さん:04/11/09 19:24:36
紀元前1世紀の巨大王権は物部王朝〜神武政権に
いたるものだろう。九州邪馬台国と畿内の合併は
崇神天皇の時代に行われたと思われる。
946 :
日本@名無史さん:04/11/09 19:39:18
神武などいなかったわけだが・・・
947 :
日本@名無史さん:04/11/09 20:34:38
ナガスネヒコとかニギハヤヒの政権じゃないんですか?
>>933 >建築様式も他の九州型環濠集落とはまったく違う纏向タイプだし
このへんが良くわからん。
巻向タイプなんていう『建築様式』あるのか?
どんなの?
ソースキボンヌ
951 :
日本@名無史さん:04/11/09 21:08:53
もし、大和東遷があったとしたら、なんで中国の古書に一行でも
出てこないのか?素朴な疑問・
952 :
日本@名無史さん:04/11/09 21:10:22
まぁ、朝鮮半島より西日本の方が米が沢山取れた事はまちがいないだろ。
宇佐神宮は記紀の「神功皇后=卑弥呼」説に基づいて、8世紀に新たに整備されたもの。
それ以前は宇佐津彦、宇佐津姫の夫婦神を祀る古社であった。
神功皇后の社が後に造り足され、三つの拝殿が並ぶ特異な形態の神社となる。
「やはたのみや」という名前も、邪馬台(やばたい)を意識して名付けられたのでは?
954 :
日本@名無史さん:04/11/09 22:27:48
宇佐はもういい。
955 :
日本@名無史さん:04/11/09 22:29:27
>>946 神武に当たるモデルはいただろう。
そして問題とすべきは「なぜ神武天皇の東征が神話として描かれているのか」だろう。
東征・東遷がなかったとしてもあったとしても。
956 :
日本@名無史さん:04/11/09 22:35:52
やっと真相がわかったぞ。。
神功皇后は邪馬台国の一族だったんだな。
つまり、3世紀末の九州邪馬台国と畿内崇神王朝の
合併により、九州・畿内の王族同士が融合したが
神功は邪馬台国の王族の一派だった。仲哀から
応神への政権の転換は、天智系から天武系への皇統の
変遷と同じように、畿内系から邪馬台国系への
皇統の変遷を示すものだったんだ。記紀で卑弥呼=神功と
していたのも神功が邪馬台国の一派だったことを示すものだったんだ。
957 :
日本@名無史さん:04/11/09 22:36:56
卑弥呼以前の畿内王権って、ニギハヤヒ〜ナガスネヒコの国に間違いないと思う。
・スサノオ〜オオクニヌシ
・ニギハヤヒ〜ナガスネヒコ
・崇神天皇〜仲哀天皇
この3つは「卑弥呼以前の畿内王権」の歴史を3重に写したものだろう。
いささか短絡的だがスサノオ=ニギハヤヒ=崇神天皇と考えられる。
このうち一番歴史に近いのが崇神〜仲哀紀。
畿内王権が実際九州にまで攻め込んだ様子が景行紀に描かれている。
(ちなみに景行天皇は九州を天孫降臨の地・父祖の地と思っていたフシは皆無)
国譲りや神武東征は「応神の東遷」を正当化するためのエピソード。
958 :
日本@名無史さん:04/11/09 22:39:29
>>956 おおむね賛成。
でも、そういう説は畿内説論者は嫌うね。
なんで素直に畿内に邪馬台国を持ってこないのか、と。
>>956 思いつきはもういいので、もう少しまともな根拠も書いて。
960 :
日本@名無史さん:04/11/09 22:53:37
神武は実在したかどうかは怪しいが、
ニギハヤヒら物部一族の国が畿内にあったが
次第に連立して王を出す体制になり、崇神の時
一つの王族によって統合されたとみることができるな。
このとき、九州邪馬台国も一緒に統合されたんだろう。
>大分県日田市の「小迫辻原遺跡」
日田は日本三大の杉の産地だが、やはり古代水軍との関係とかはあるのでしょうか?
吉野杉の紀伊水軍のような。
ところで葛城臣は紀臣の血を引くとされてますが、やはり外征で活躍してますよね。
葛城ソツヒコとか。
>>938 非常に客観的で素晴らしいまとめなので次スレのテンプレに希望します。
963 :
日本@名無史さん:04/11/09 23:07:30
>>955 東征を強調してるのは、応神天皇以降は
邪馬台国系の血統が大和朝廷の主流になったから。
先祖の地を強調してるんだよ。もし崇神の血統が
そのまま続いてたらおそらく神武東征など記紀に書かなかっただろうw
964 :
日本@名無史さん:04/11/09 23:21:42
卑弥呼の墓に関する記述ひとつ見ても、
邪馬台国ってそんなデカイ国だったとは思えないのよな。
狗奴国との対立の件もあるし
ただ単に中国に近かったから朝貢できた気がするなぁ。九州だとすればね。
965 :
日本@名無史さん:04/11/09 23:22:41
神話と現実を混同する連中が多いな(呆
966 :
日本@名無史さん:04/11/09 23:24:20
>>965 具体的にどのレス?
まさか神話を100%作り話と思っているわけじゃないよね?w
967 :
日本@名無史さん:04/11/09 23:30:10
>>965 「混同」している人間は、さすがに見当たらない。
東征などの神話の記述をどのように解釈するか、
その元となった史実はどういうものだったのか、
妄想的にしろ理知的にしろ自分の見解を述べている人間はいるけど
神話と聞いて一笑に付すような時代遅れの人間に言われたくはない罠
968 :
日本@名無史さん:04/11/09 23:35:19
>>967 時代遅れもだけど、それ以前に神話を軽視するのは学問的態度じゃないな。
神話にちょっと触れるだけで「神話と現実を混同するな」とかねw
神話だって現実世界の人間が作り出したモンなんだし。
問題は神話にこめられた「何か」を考えることだろう。
969 :
日本@名無史さん:04/11/09 23:41:27
>>933 >建築様式も他の九州型環濠集落とはまったく違う纏向タイプだし
おまえ勘違いしてないか?
出土したのは、奈良時代の遺跡であって、
九州型環濠集落と違うのは当然だろ。
神話と現実の境目ってちょうど崇神天皇のあたりなんだよな。
武内や神功あたりもどっちかっていうと・・・それもややこしくしてるよなぁ。
971 :
日本@名無史さん:04/11/09 23:47:06
応神大王以前は神話で架空の存在。
せいぜい崇神〜景行あたりに実在の可能性があるくらいだろ。
972 :
日本@名無史さん:04/11/09 23:51:57
景行が九州に攻め込んだのは、
畿内王権の九州進出を暗示する話であることは間違いないと思う
(ちょうど卑弥呼の原型みたいな女酋も景行の行く手を阻むものとして登場する)
だからこそ仲哀の謎の死や応神の畿内入城がますます怪しくなってくるわけだが
973 :
日本@名無史さん:04/11/09 23:53:09
>>933 >何より3世紀初頭に突如として建築され
3世紀初頭って、どこにソースがあるんだ?
974 :
日本@名無史さん:04/11/09 23:53:16
>景行が九州に攻め込んだのは、
>畿内王権の九州進出を暗示する話であることは間違いないと思う
それが「神話と現実の混同」に他ならないんだが・・・バカ?
975 :
日本@名無史さん:04/11/09 23:55:54
976 :
日本@名無史さん:04/11/10 00:18:29
>>933 >ここから出土する土器は纏向式やら庄内式が主流だし
畿内形式の土器が主流というソースも見つからんぞ。
都合よく捏造するんじゃねえよ。ボケが。
977 :
日本@名無史さん:04/11/10 01:49:42
「前1世紀の近畿に王権か 大阪、池上曽根遺跡」
紀元前1世紀(弥生時代中期後半)の巨大な神殿跡が見つかっている大阪府和泉市の環濠(かんごう)
集落、池上曽根遺跡の中心部で、整然と配置された大型の掘っ立て柱建物群跡が見つかり、和泉市
教育委員会が9日発表した。
市教委は集落の中枢にかかわる倉庫群と推定。神殿から約100メートル離れたこの一帯に、支配者の
特別区画を設けて政務や宗教、収税など権力機関を集めたとみている。
邪馬台国の女王卑弥呼が現れるより約200年前で、北部九州以外はまだ農村のような共同体社会
とみられていたが、既に権力を一手に握る「王」が誕生していたらしく、弥生時代像の見直しを迫る貴重
な発見だ。
見つかった建物跡は4棟あり、2時期に2棟ずつ建てられ、東西に並んでいた。柱の直径は30−
35センチ。立てるため1辺1・5メートルの方形の穴を掘っていた。うち1棟は約80平方メートルあ
り、当時としては最大級という。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041109-00000153-kyodo-soci
978 :
日本@名無史さん:04/11/10 10:16:14
>>969 >>973 >>976 ネットでは見つかりませんね、僕も調べましたが。
しかしこれらの調査発表は日田市教育委員会が正式に報告したものですので
確認を取られるのなら、最寄の埋文又は考古資料館にて研究員に質問するか
(結構気さくに答えてくれるはずです。)
直接日田市の公文書資料館などに問い合わせてみて下さい。
それと奈良時代の遺構は小迫辻原遺跡とはまったく別モノですよ。
ついでに「纏向タイプ」という正式な建築様式はもちろんありません。
@まず環濠や水路を建造するといった都市計画に基づいた新都市。
A直径10〜15cm程度の支柱跡を持つ複数の小規模建築が規則的に並んでいる。
B第1次産業従事者の居住跡がほとんど見られない。
こういった特徴を限られたスペースにて書くために、少々乱暴なまとめ方になりました。
誤解を与えたのなら申し訳ないです。
979 :
日本@名無史さん:04/11/10 10:34:19
>>942 細かいこと言うようだけど、「卑弥呼より前に王がいた」事は
ビッグニュースではありませんよね。
卑弥呼より、かなり先立つ57年に金印をもらった倭王がいたわけですし、
卑弥呼の前にいろいろ男王がいたことは魏志倭人伝に書かれています。
そのニュースは卑弥呼以前の「近畿に」王がいたことが考古学的に
証明されそうなことがニュースなのでは?
980 :
日本@名無史さん:04/11/10 10:38:15
卑弥呼以前の九州に王がいたのは当然として、
卑弥呼以前の近畿にも王がいた。
邪馬台国が九州だとすると、3世紀半ばまでは
倭人伝から察するに近畿とは交流はなかったように
思われる。ではいつどうやって近畿と合併したのか??
981 :
日本@名無史さん:04/11/10 10:45:26
>>979 仰るとおりです。
>>980 >3世紀半ばまでは倭人伝から察するに近畿とは交流はなかったように思われる。
うーん、倭人伝の記述では「交流があったかどうかは分からない」というだけで
実際はかなり濃密な文化及び通称交流があったことが確認されていますので
合併説を取るにしても、不都合は無いと思われます。
但しそれを根拠に展開するのは、少々強引な気がしますので、念のため。
982 :
日本@名無史さん:04/11/10 10:48:26
983 :
日本@名無史さん:04/11/10 11:47:58
エラー出まくりでスレが立てられませんので、どなたかご協力願います。
なおテンプレと
>>938の改訂版を以下に貼りますので、ご使用ください。
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART13
邪馬台国や狗奴国はどこ? 大和朝廷との関係は??
西日本に統一政権はあったか? 統一されたのはいつか??
どのような過程を経てそれらが進行していったのか??
倭人伝の信憑性や如何に? 記紀はどこまで真実を伝えているのか??
最新の発掘状況と最新の資料解釈を元に、古代王権の正体を推理する!!
根拠を明記した意見交換・情報提供・問題提起で活発に議論しよう!!
前スレ
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART12
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1097632577/
984 :
ちなみに私は938です:04/11/10 11:49:01
985 :
ちなみに私は938です:04/11/10 11:49:58
「吉備、山陰、東部四国、丹後、河内、奈良盆地、東海、琵琶湖周辺、越、南関東など
これらの公益圏が倭国大乱(2世紀末まで)終結後に連合化して、原ヤマト連合を形成した。
(但し連合化の順番や内部での力関係は諸説ある。)」
これを3世紀の列島情勢だとする通説を採用したい。それを踏まえて
@(畿内説)この連合が倭人伝に言う倭国であり、邪馬台国連合である。
また後の大和朝廷の基礎となったのであろう。
魏への朝貢は、北九州を併合又は合併した後に行われたと考えられる。
卑弥呼は畿内纏向に居たとの説が中心だが、それ以外の土地に居た可能性も十分にある。
A(九州説)倭人伝に言う邪馬台国は、本州連合とは別の九州連合であろう。
後の大和朝廷との関連については、継続説と断絶説がある。
魏への朝貢は、狗奴国(南九州説と本州連合説がある)との対立や貿易権確保が目的である。
卑弥呼擁立時には原ヤマト連合とは合併していないとの見方が多数。
少数ながら原ヤマト連合を支配下においていたとの見方もある。
なお、卑弥呼の居館及び邪馬台国の位置は諸説ある。
なお大和朝廷との繋がりにおいては
a)邪馬台国は原ヤマト連合に滅ぼされたか吸収された。
b)九州連合と本州連合合併後、イニシアチブを執ったのが九州連合。
c)連合に際して血縁関係を結び、同族として融合化したのち派閥化した。
d)あくまで合併を拒み7世紀頃まで自治独立化した(九州王朝説)。
などが主な説であるが、畿内説論者でも邪馬台国と大和朝廷の断絶を支持する
考え方をしている者も少なくない。
また後世の壬申の乱や大化の改新などによる大和朝廷内の派閥争いの結果
記紀編纂時に恣意的な編集が見られると指摘するする動きも、九州、畿内支持に関わらずやはり根強い。
(神武東征、欠史八代、倭人伝の神功紀注釈への挿入、各天皇の即位状況、継体天皇問題
聖徳太子と蘇我氏、物部氏の役割、藤原氏の意図など、問題は山積である)
このため単純に畿内説や九州説といったカテゴリーでは括れないのが現状である。
986 :
日本@名無史さん:04/11/10 12:49:31
まあ3世紀の時点では、機内と九州は
交流はあったけど、それぞれ別の国だったというのが
妥当な結論だと思うね。紀元前1世紀の時点で
畿内・九州それぞれに国があり王がいたことが証明されたし
3世紀の時点で紀元前1世紀から200〜300年近く
経過してるので交流がなかったと考えるほうが不自然。
そして4世紀に畿内と九州が合併していた理由として考えられるのは
3世紀末におそらく九州において邪馬台国と狗奴国の戦いが激化し、
九州邪馬台国が、押され始め、邪馬台国は畿内政権と共同で狗奴国を
討つために畿内政権と同化したと考えるのが1番しっくりくる。
なので畿内政権は熊襲征伐を頻繁に行っていたのであろう。
前1世紀に九州に王がいた痕跡は、まだ出てないよ。
988 :
日本@名無史さん:04/11/10 14:17:34
>>986 東海や関東といったように東にも沢山の土地があるのに
なんでそこまで南の果ての熊襲にこだわったのだろうか?
やはり、もともと九州が故郷で、その故郷が脅かされたから
と考えた方がしっくりするなあ。
この前にも言ったように、
日本書紀 に卑弥呼の記述がある→大和説が正解
三国志 に卑弥呼の記述がある→九州説が正解
そして邪馬台国は無かった。あったのは邪馬壱国。
990 :
橿原一派:04/11/10 14:57:20
991 :
日本@名無史さん:04/11/10 16:23:17
九州の邪馬台国からの分家が崇神天皇で
畿内に大和王朝を建てた。
そのうち分家の大和王朝が強大になって
仲哀天皇のときに邪馬台国を吸収した。
しかし熊襲討伐中に仲哀天皇が戦死してしまって
仲哀天皇の后で邪馬台国出身の神功皇后が即位
仲哀の子の応神を皇太子にすることで近畿の豪族も味方につけて
近畿の仲哀の子を倒す。
992 :
日本@名無史さん:04/11/10 18:31:12
古代、和泉の辺は、瀬戸内海の交易の拠点だったのかも。
九州の国は、畿内のこの交易ルートを押さえないと、畿内に侵攻される
おそれがあったのだと思う。
993 :
日本@名無史さん:04/11/10 18:48:36
畿内にとって、九州邪馬台国は中国と同盟関係にあり
うかつに攻められなかったんで困っていた。
卑弥呼の時代より前においても九州連合はちょくちょく
中国に朝貢していたので手を出せなかった。
3世紀後半、狗奴国との戦で疲弊している邪馬台国をみて
畿内政権がチャンスとばかりに合併話をもちかけた。
畿内と合併すれば畿内政権内で重要な地位を約束するし
狗奴国と一緒に戦うと約束したんだろう。邪馬台国はこの条件を
呑み平和裏に北九州と畿内は合併した。
だから、妄想はやめろって。
995 :
日本@名無史さん:04/11/10 19:54:34
とりあえず邪馬台国は北九州にあったということだけは
間違いないだろう。
古代の神州に2極ありか・・・・・。
>>995 だな
さ、区切りが付いたところでw 次スレに東遷するかな
うおおおお
999 :
日本@名無史さん:04/11/10 20:06:15
1000なら邪馬台国西遷
1000 :
日本@名無史さん:04/11/10 20:07:06
うんこ
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。