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日本@名無史さん:
隋書「倭国伝」を虚心に読めば、
日本国家の形成が、ふつう思われているよりもかなり遅いことがわかる。
日本書紀でだいぶ誤魔化したが、
その日本書紀ですら、大方を中国人に書いてもらった。
(原文)
明年(608年)、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望身冉羅(タムラ:済州島)國、
經都斯麻(対馬)國、迥在大海中。又東至一支(壱岐)國、又至竹斯(筑紫)國、又東至秦王國、其人
同於華夏、以爲夷州、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。倭王遣小徳阿
輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多毘、従二百余騎郊勞。既至彼都、其王與
清相見、大悦、・・・
(訳)
・・・筑紫国があり、秦王国があり、さらに十餘国があって、筑紫国より東の国は全て倭国の支配圏(
「皆附庸於倭」)であり、倭王が(小徳:第2等級の廷臣)阿輩臺という人物(と従者数百人)を遣っ
て(行列・楽隊つきで)出迎えさせ、それから10日して、今度は(大禮:第7等級の廷臣)哥多毘とい
う人物(と従者2百人)を遣わして都の近く(「郊」は国都の城外の意味)でねぎらった。それから、
倭国の都に到着して倭王と会った。・・・