【江上】騎馬民族説は今。。。vol.2【波夫】

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1日本@名無史さん
*前スレ

【江上】騎馬民族説は今。。。【波夫】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1068492251/
http://ruku.qp.tc/dat2ch/0410/01/1068492251.html


騎馬民族は日本を征服したか
http://inoues.net/yamataikoku/mystery/kibaminzoku.html
騎馬民族国家―日本古代史へのアプローチ     江上波夫
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121001478/qid=1068485710/sr=1-4/ref=sr_1_2_4/249-2208796-7626727
騎馬民族は来た!?来ない?!                江上波夫・佐原真
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4096260665/249-2208796-7626727
2長谷部タイ子:04/10/03 03:09:05
導尿カテーテル2げと
3日本@名無史さん:04/10/05 22:46:15
[南蛮人がアラブ馬をつれてくるまで、日本の馬はポニー
みたいに小さい馬だった。大きい武将がまたがると足が
地につくほど小さいのもいた。また騎馬団といっても、
実際は馬から降りて切り合った]ということを読んだこと
がある。天正以来のアラブ馬の移入は江戸になっても
続いている。話が大げさとしても、もし本当に近い話なら、
武将が大きい馬でパカパカと駆けて敵陣に切り込む姿は
アラブの馬が来るまでは無かった可能性がある。
馬を使うことのメリットは何だったんだろう?
歩くより疲れない、荷が多く運べる。その程度?
戦闘する際どんなメリットがあったのかな?
生存をかけた戦いならば、敵の馬も弓矢で打ち抜いた
と思うけどな。便利と思ったらどんどん輸入するだけ
の話とも思ってしまう。
4日本@名無史さん:04/10/06 02:40:35
高句麗や金の装甲騎兵なんかも実際は大したこと無かったのかな。
馬にまで鎧着せてたら余裕で100キロ超えてるのでは?
5日本@名無史さん:04/10/06 04:41:34
乗ってる古代の人間自体も小さかったんだろ。
6日本@名無史さん:04/10/06 05:29:14
>>3
小さいと言うならモンゴルの馬だって小さかった。今でも小さい。
その小さな馬であの世界帝国を築いた。
日本で、馬を降りて戦うようになったのは戦国時代の話。
源平/鎌倉時代まではあの「やぶさめ」みたいな戦い方が実際に用いられた。
そのことは例えば「同時代資料」である蒙古襲来の絵巻物などに描かれている。
7日本@名無史さん:04/10/06 05:33:42
>>4
吉野ヶ里や巻向のレベルの軍隊がそういうのにぶつかったら
「大したこと」だった。
戦闘技術の優劣はすべて相対的なものだ。
8日本@名無史さん:04/10/06 11:18:09
まだやってんのかよw
9日本@名無史さん:04/10/06 14:21:19
>>8
それはこっちが言いたいことだ。
反対派の言うことは相変わらず単純幼稚だな。
10日本@名無史さん:04/10/06 18:39:26
407年の時点で鉄製甲冑を一万も所持していた倭軍が
弥生時代のそれと同じとはとても思えないw
それに4世紀末から5世紀前半と推定される古墳から
騎兵用の札鎧が出土していることからみて
既に大和朝廷が朝鮮半島において騎兵を使用していたことも想定できる。
1110:04/10/06 19:20:15
って、弥生時代の話か古墳時代の話と思って書いちまった。
12日本@名無史さん:04/10/06 21:37:49
>>6
なるほど 少し分かった

しかし絵巻物中の馬を使った戦法はどれ位本当だろうか?
馬自体もちょっと…
参考にどの程度出来るのかな?

畑を耕している農耕馬さえも
ものすごく精悍な駒に描かれていることがあるから

13日本@名無史さん:04/10/06 21:52:28
>>6
続き 12です
元が世界帝国を築いたとき 征服された方も
馬を使いこなしていたところがあるはず
馬が主因とは思われない

それから本論とはずれるけど源平/鎌倉の合戦は
馬は(移動以外)合戦にどれ位重要か分かっていないのでは?
壇ノ浦の戦いでさえ実際の戦闘での死者は30名いるかいないか
と聞いた(…俗説かもしれないが)
死者二桁のおとなしい合戦に馬がどんな役割をはたしたのだろうか
死者は大半が落ち武者狩りでやられる
14日本@名無史さん:04/10/06 23:27:25
>>10
5世紀初頭なら三輪王朝が金官と関係を持ち始めてから何十年もたっている。
その間にどんなことがあって、倭が北方化・騎馬化したのかが問題なのだ。

>>12
>しかし絵巻物中の馬を使った戦法はどれ位本当だろうか?

弘安の役で、日本軍の侍が馬上から射た矢が蒙古の将軍に当たって負傷させた。
これが蒙古軍が船に引き揚げた一つの理由だったことが、蒙古側の記録でわかる。

>>13
>元が世界帝国を築いたとき 征服された方も
>馬を使いこなしていたところがあるはず

もちろんだ。ヨーロッパの騎士団は大型の馬を使っていた。
それが小型馬の蒙古騎兵に敗れた。
アジアの馬が小さいと言ったから、戦力は馬の大小によらないことの
例を挙げたのだ。



15日本@名無史さん:04/10/06 23:57:29
>>12のところで間違えた。

誤:弘安の役
正:文永の役
16日本@名無史さん:04/10/07 02:39:22
>>14
何十年もたってるのなら騎馬化したっていいじゃん。
17日本@名無史さん:04/10/07 13:49:23
>>16
だからどんな事件があって、どんな風に騎馬化したのか。
4世紀中葉に三輪王朝が金官の扶余王朝と接触したとき、金官は生命線の鉄を押さえ、
かつ倭には無い北方系の騎馬戦術を持っていた。
ここにどんな関係が生じ、
その結果5世紀初頭の、好太王碑から推定されるように倭と金官が
一体化した状態が生じ、
5、6世紀を通じて任那問題が日本書紀の中心テーマとなるような
状況になったのか。
この疑問にまともに答える説を見たことがない。
18日本@名無史さん:04/10/07 14:27:37
何十年もたってるんだろ?それだけ文化交流してたら伝播してもいいじゃん
19日本@名無史さん:04/10/07 20:00:22
>>14さん 遅いレスですみません いそがしかった

>>弘安の役で、日本軍の侍が馬上から射た矢が蒙古の将軍に当たって負傷させた。
これが蒙古軍が船に引き揚げた一つの理由だったことが、蒙古側の記録でわかる

これは日本の雑兵が石を投げて将軍の顔面に命中し大怪我をしたので・・という話でも
同じ結果ですね 要は馬に乗って戦った武士がいた ということですよね 
騎馬が戦闘に本当に有効の証明にはなりません
一騎駆けの武者は集団の蒙古兵からすぐにやられた 「騎馬軍団」の蒙古軍でさえ
馬に乗っていたのは陣の後方にいる指揮官だけなのでは ?

>>ヨーロッパの騎士団は大型の馬を使っていた。それが小型馬の蒙古騎兵に敗れた。
>>アジアの馬が小さいと言ったから、戦力は馬の大小によらないことの例を挙げたのだ

その通りでしょうね 馬は人の移動と荷役に便利だけと思います
ちなみに
モンゴル軍は大軍で(数で)圧倒して「勝っている」
勝因は小型馬が元気よく駆け回ったからではないです
投石器もあった(動員力のあったハンガリー軍を破ったときは投石器が重要な役割を
している) 火器もあったであろう  食料補給も 百戸千戸の軍事組織も しっかり
していたのだろうと思う…勝ったときは

(参考)
モンゴル軍の騎馬軍団はアラブ馬のエジプト軍には敗北している
敵対関係にある十字軍が邪魔をしなかったこともあるが 兵数が
モンゴル15000エジプト12000で数が互角だったのが主因
大軍でなければ大敗こともある 
20日本@名無史さん:04/10/07 23:42:37
>>18
「文化交流」だけで金官と倭が一体化するのか。
「文化交流」だけで金官が倭に服属するのか。
「文化交流」だけで金官の存亡が倭の歴史記述の中心テーマになるのか。

>>19
>要は馬に乗って戦った武士がいた ということですよね 

その通り。しかしたまたま「いた」というだけではない。
主だった武士は「すべて」馬に乗って戦ったのだ。
なぜなら「弓馬の道」というように騎射が武士のアイデンティティだったからね。

>勝因は小型馬が元気よく駆け回ったからではないです

残念ながら「小型馬が元気よく駆け回った」からだ。
モンゴル軍の勝因は数ではなく戦術にあった。彼等は何日もにせの退却をやって、
ヨーロッパ軍に追跡させた。そして疲れ切ったところを包囲したのだ。
長途の移動にモンゴル馬は耐え、ヨーロッパの馬は耐えなかった。
もちろん装備の重さの違いもあるが。
21日本@名無史さん:04/10/07 23:47:37
さて、ちょっと変わった話をしよう。
私はこの間NHKの歴史番組を見ていて、あっ、と思った。
それはシチリア王国のことだ。シチリア王国とは、バイキングがイタリアの
シチリア島に建てた國だ。
というと、例のバイキング船の大群が押し寄せて敵前上陸、という感じがするが、
ぜんぜんそのような華々しい事件はなかった。
バイキング集団ははじめ、アラブ人の王国の「傭兵」として入ったのだ。
すると戦争のプロたちは手柄を立てる。その手柄に対して領地が下賜される。
これを「公国」という。公国の治世が良ければ王国のなかでバイキング公国
の発言権が増し、あるときシチリア島の全体あるいは大部分を治める王の
地位を禅譲されたのだ。
「征服」とか「建国」とか言ってもこんな例もある。
このようにして扶余が列島に入った、と直ちに言うわけではないが、
このようなことも考える必要がある。
22日本@名無史さん:04/10/07 23:59:11
>>19
>これは日本の雑兵が石を投げて将軍の顔面に命中し大怪我をしたので・・という話でも
>同じ結果ですね

この武士は蒙古の将軍に馬で追跡された。 逃げ切れなくなって、苦し紛れに
振り向きざまに矢を射たのが当たって、蒙古の将軍を落馬させたのだ。
この武士が馬に乗っていなかったら、たちまち追いつかれて殺されただろう。
それでも馬は「有効ではない」かな。

>馬は人の移動と荷役に便利だけと思います

その通り。そして機動力だって戦力の重要な要因だ。
義経はその機動力を有効に使って、鵯越えや屋島で勝利を納めた。
義経の戦術は馬抜きでは考えられないね。
23日本@名無史さん:04/10/08 00:17:11
>>20
三世紀の段階で狗邪国は倭の一部だったんだろ。
24日本@名無史さん:04/10/08 05:55:30
>>23
「倭の一部」というよりは「倭人居住圏の一部」だった。
つまり狗耶韓国は半島にある倭人の小王国だった。
例えば吉野ケ里のようなものが半島にあったと思えばよい。

その倭人小王国が、3世紀末に扶余に支配された。
だから金官は扶余に支配された倭人の國だ。
25日本@名無史さん:04/10/08 06:55:46
じゃ、よかったじゃんよ。解決して。
26日本@名無史さん:04/10/08 13:16:44
>>21
バイキングがシチリアを拠点にイタリア半島の征服に成功してたら良かったんだがな。
いかんせん間に海があった。

海が巨大な障壁になることの実例が二度の元冠だ。

馬を自在に操って欧州東部を支配した大モンゴル帝国も、
海を越えることはできなかった。
27日本@名無史さん:04/10/08 21:56:18
>>20
>>モンゴル軍の勝因は数ではなく戦術にあった。彼等は何日もにせの退却をやって、
>>ヨーロッパ軍に追跡させた。そして疲れ切ったところを包囲したのだ。
>>長途の移動にモンゴル馬は耐え、ヨーロッパの馬は耐えなかった。

まさにその戦術でモンゴル軍はエジプト軍に敗れた 退却と見せて誘い込むのは
その当時でも古典的戦術 何百年も昔の古代ローマ軍も使っている
「馬による戦術」と言うのではなく単なる「戦術」です またひとくちに「ヨーロッパ軍」
と言ってもいろいろです これについてはスペースの関係で略す
モンゴル軍の「強さ」の主因はに大軍(数)であることです
大雑把な言い方をすれば大軍であることに利がない所ではモンゴル軍は
勝てないのです モンゴル軍の話はもうやめます

話をもとに戻して 「日本の昔の馬はどれ位小さな馬だったか?」という点と
「小さな馬での戦闘の利はどれ位あるのか?」 という疑問点です
騎馬民族説肯定派も否定派も馬というキーワードをどのようにとらえているか
興味がある

朝廷が蒙古馬を輸入し牧場を作ったのは奈良時代 「輸入」はそれまでの
日本馬が蒙古馬より体高がさらに低かったことの傍証になります
蒙古馬(中型馬です)は体高が約135cm前後(らしい) 蒙古馬が来るまでは
さらに小さかったのだから もしあと15cm低ければ小型馬のポニーサイズに
なってしまう もし25cm低ければもうペット馬サイズになる
軍の移動荷役には十分役に立つが戦闘自体となると…
という疑問が出てくるわけです (ちなみにロバは110−大型で130cm位らしい)
28日本@名無史さん:04/10/09 13:44:02
>>26
バイキングのシチリア王国を金官に見立てるのではない。
誰かが言っていたように扶余が倭の傭兵になったのであれば、その扶余が
日本列島のどこかに領地を下賜された可能性がある。
これがシチリアのバイキング「公国」にあたる。
そして第二段階で簒奪したシチリア王国にあたるのは倭大王国そのものだ。
29日本@名無史さん:04/10/09 13:55:04
>>27
>ひとくちに「ヨーロッパ軍」と言ってもいろいろです

小型馬の軍が大型馬の軍に大勝した一例として、モンゴル軍とヨーロッパ軍が
最初に戦った「カルカ川の戦い」のことを書いたのだ。
この戦いでの「ヨーロッパ軍」とはロシア人、ノルマン人、ウクライナ人の
連合軍で、総勢約8万人だった。
参考:川崎淳之助「ジンギス・カンの謎」

>モンゴル軍の「強さ」の主因はに大軍(数)であることです

モンゴル軍の人数は、本格的にヨーロッパに侵入した第二回のときでも約10万人
だった。カルカ川のときの第一回は「威力偵察」とされるからこれより少なかった
だろう。要するにカルカ川の戦いの両軍の人数はほぼ互角か、モンゴルの方が
少なかった。
ただし馬の数で圧倒していたことは確かだ。モンゴル軍は全軍騎兵で、おまけに
一人が数頭の換え馬を牽いていたからね。

>朝廷が蒙古馬を輸入し牧場を作ったのは奈良時代 

馬の牧場は古墳時代に始まった。
500年ごろの浅間山の噴火の火山灰で埋まった牧場の遺跡がある。
蹄の跡がランダムについていること、子馬を交えることから牧場であることが
わかる。
500年に埋まったということは、牧場は5世紀からあったということになる。

>軍の移動荷役には十分役に立つが戦闘自体となると…

意味がわからない。絵巻物などの同時代資料にあれだけ描かれている
「騎射」による戦闘をすべて否定しようと言うのかな?
30日本@名無史さん:04/10/09 14:43:46
応神大王は金官加羅からやって来た傭兵隊長
31日本@名無史さん:04/10/10 23:44:49
>>29 
>>馬の牧場は古墳時代に始まった。
>>500年ごろの浅間山の噴火の火山灰で埋まった牧場の遺跡がある。
>>蹄の跡がランダムについていること、子馬を交えることから牧場であることが
>>わかる。500年に埋まったということは、牧場は5世紀からあったということになる。

ナウマン象の足跡もどっかで発掘されるだろうから きっと有史前に
ナウマン象の牧場もあったにちがいない…論理的でない例     
馬飼いなら「足跡」を出さなくとも書紀にも出てるし かわいい埴輪もあるしetc
大陸並の馬に関する技術獲得を目的とした(かもしれない)奈良時代の官製の
牧場のことを言っていることが文章からわかりませんか
朝廷が(蒙古から)蒙古馬を輸入し(その馬のための)牧場を作ったのは奈良時代
より大きくの「大きさ」を問題にしている
 
>>意味がわからない。絵巻物などの同時代資料にあれだけ描かれている
>>「騎射」による戦闘をすべて否定しようと言うのかな?

騎射による戦闘をすべて否定するとはどこにも書いていない
弓そのものが特に古代では最重要な武器 トリカブトがなくとも腐った血肉でも
ぬっておけば浅い刺さり方でも有効だよ 馬から射ようが 地上で射ようが

絵巻物の中には第一級の資料もあるでしょう 絵巻物を全否定はしないよ
蒙古襲来絵詞のてつはうとか実際発掘されているし

ただ 絵巻物+講談 となると用心したほうがいい
糞尿をかけられ全身糞だらけの武者や雑兵が投げた石(礫)で武者が死ぬ場面は
(詳しくないのでよく知らないが おそらく)普通の絵巻物には出てこない
絵そのものも張り合わせ・後書込がある場合もある 絵師は当時は職人
注文者の意向にそって描くし 見聞きしないことを 先人が描いた
ワンパターンの様式・配置等に従って描くこともある(一般論)………
なんか無駄に疲れるような気がするのでこのスレやめます 
32日本@名無史さん:04/10/11 04:41:52
>>28
しかし、扶余の陵墓は金官に造営されてますからね。
本拠地はあくまで金官でしょう?
それに朝鮮・対馬海峡を越えたところで、
今度はまだ関門海峡があるわけですし、
それに日本列島は連邦国家ですからねえ。
やはりシチリアを金官に見立てるのが妥当でしょう。
33日本@名無史さん:04/10/11 12:35:42
古代馬具を日韓比較 県考古学博物館で交流展

 西都市・県立西都原考古博物館(川口靖文館長)の特別展「日韓交流展 それでも
騎馬文化はやってきた」は9日から、同博物館で始まった。12月12日まで。騎馬文化の
波及を示す、韓国と本県出土の古代馬具計171点を比較展示している。
 馬具は5世紀後半、乗馬の風習とともに大陸から朝鮮半島経由で日本に流入。
その結果、日韓双方で見つかった馬具遺物を比較すると形状や使途が共通し、
日本国内の馬具の原形にもなったとされている。
 今回展示しているのは三国時代(4〜7世紀)の韓国と、県内各地で出土した古墳
時代の馬具史料。戦馬用のかぶとやよろい、青銅製馬鈴、権力の象徴として金ぱく
で飾り付けられたくら金具などを紹介している。
 同博物館の北郷泰道主幹は「ほかの展示物も別の角度から見ることができるよう
工夫したので、楽しんでもらえると思う」と話している。
 同展関連事業として10日午後1時から、同博物館で日韓の研究者による国際
シンポジウムが開かれ、古代文化交流の在り方を探る。
ttp://www.the-miyanichi.co.jp/news/index.php3?PT=1&DT=20041010
34日本@名無史さん:04/10/11 12:38:00
まじめなお話中ちょっとすみませんが、こちらで引き取ってくれませんか?

【日韓】「それでも騎馬文化はやってきた」古代馬具で日韓交流展(宮崎)[10/10]
http://news17.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1097390874/l50

69 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん :04/10/10 22:44:58 ID:V9yFy8Bb
ついでに>>51の質問に答えると、天智から天武への移行、つまり壬申の乱というのは、書紀のカモフラージュであって、
実は外来勢力(端的には唐軍)による武力制圧だったんだよ。書紀をよく読めばヒントが書いてある。

88 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん :04/10/11 00:28:53 ID:0I41AwM3
>>80
白村江の敗戦以降、斉明の跡を受けた天智が国防に注力するわけだが、唐の郭務宗を中心とする船団がたびたび西
日本の海上に来航。威圧を続けた。671年(天智10年)10月に、その最後の記述があった直後の11月に天智が謎の死を
遂げる(一般に病死と言われるが、山科に狩に出たまま行方不明になったとも、また、暗殺とも言われている)その数年
前に天武(大海人)が吉野に遁居、事実上の反乱を行い、後の壬申の乱となる。上記は、書紀に記載されたことである。
天智が親百済、天武が親新羅というのは定説であるが、白村江の後、唐と新羅の関係がおかしくなったことから、大和
朝廷内での権力闘争もあったようだ。具体的に言うと、親唐の藤原氏を天武が押えつけて天皇親政を確立した。しかし、
天武の死後、藤原氏が復活し、以後、唐の力の背景の中で、藤原氏中心の政権が構築された。
35日本@名無史さん:04/10/11 12:38:30
93 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん :04/10/11 08:44:36 ID:0I41AwM3
>>90
何でもソースソースって、うるさいお好み焼き野郎だな。少しは自分で調べたりしなよ 「白村江」で検索すればたくさん
出てくるよそれとね 唐が制圧したと書いたが、マッカーサーが日本国内で戦闘を行ったわけでなく、厚木基地にパイプ
を加えて舞い降りたようなもんさ。大和政権の上層部が武力威圧を受けて、唐の直属官僚に無血占拠されたと考える
のが妥当。 で、その唐の官僚てのが藤原氏なわけ。>>91の考古学ファンが何か言ってるが、上の説明でいいでしょうか?
政治権力の上部で進駐軍みたいなのが居座ったときに、それまでの歴史を自分の都合のいいように塗り替えた上で、
あくまでも自分自身はそれ以前の歴史からの正当な継承者であろうと振舞おうとするであろう。 それでも、墳墓のような
ものだけは自分の出自を隠せないもんだから、高松塚みたいに残っちゃうんだね。

110 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん :04/10/11 11:20:06 ID:0I41AwM3
>>106
たしかに。でも、民族差別とかで過剰に反応する人間が2ちゃんに多くて、話がしづらいですね。 歴史は勝った負けた
じゃなくて、 政治や外交、社会、文化を考えるときの基礎を提供するものだと思う。 通説の歴史(特に日本の歴史)から
そういうものが得られにくいのが現状。それから、武士=騎馬民族に他ならないと思っていますが、これについてはどうで
しょうか? 江上氏が想定したような騎馬民族ではないにせよ、関東地方を中心に騎馬民族の流れを汲む人々(新羅
・高句麗系?)が移住(強制または集団疎開)して、武士のもとになったと思います。
36日本@名無史さん:04/10/11 19:25:57
>>32
>扶余の陵墓は金官に造営されてますからね。

その通りだが、5世紀以降、造営が途絶える。
以降は釜山付近に別の中心ができるが、これは金海とは別系統と見なされる。

>それに朝鮮・対馬海峡を越えたところで、
>今度はまだ関門海峡があるわけですし、

あまり海の障壁を重視するとじぶんで首をしめる。
なぜなら倭の半島進出も同じ障壁を越えて行われるのだから。
私は4、5世紀の瀬戸内海は半島と畿内間の「ハイウェー」だった
と思う。
37日本@名無史さん:04/10/11 20:41:02

海だ出たので 突拍子もないことを書かせてください
(イデオロギーのない まじめな専門家の方教えて下さい)

赤いベンガラで塗った墓は 出が海洋民族の墓と理解していいのですか?
38日本@名無史さん:04/10/11 21:10:34
>>37
違う。ユダヤ系。
39日本@名無史さん:04/10/11 21:50:48
>>38 なんとかの謎 とかなんとかの秘密とか 
ユダヤ人がなんたらかんたら というのを
読んでいると 論理力がゼロになりますよ 
与太話俗説はあくまで与太話です 
無理かと思いますが今からでも遅くないので
(2値)論理の本を読むことをお勧めします 

40日本@名無史さん:04/10/11 23:42:40
>>36
それは扶余が高句麗や新羅にやられたからでしょ。
金官に拠点を持てたが駆逐されてしまったんだよ。

倭の場合は、日本列島で連邦体制が既に確立されてるからね。
鏡とか分配して盟約を結んでるんだよ。

扶余が金官から日本列島に侵攻・進出しようとしたところで、
北九州を一時的に抑えられても(たぶんそれも無理だが)、
出雲や吉備、大和が背後に控えてる。
彼らが黙ってるわけなかろう。

日本側は自由に航海できても、
扶余側は迎撃・妨害される。
41日本@名無史さん:04/10/12 13:22:32
>>31
>ナウマン象の足跡もどっかで発掘されるだろうから きっと有史前に
>ナウマン象の牧場もあったにちがいない…論理的でない例 

ナウマン象の牧場遺跡というのは聞いたことがないが、古墳時代の大規模
馬牧場の遺跡は一般に認められている。
たとえば次のページを読まれたし。
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai00/tz2012.html

そのなかで大塚初重・明大名誉教授はつぎのように述べている。

「私はいま、大室古墳群の積石塚の出現は馬の飼育に関わる集団のものと思って
います。<中略>
つまり、東日本における馬の飼育は、五世紀代の後半には長野県の善光寺平でも
かなり大規模に行なわれ始めていた。その技術を持ち込み、馬の飼育を担った
のは、渡来系集団である、ということですね。」

教授は群馬県(私が長野県と書いたのははまちがい)子持村遺跡、白井遺跡の
火山灰で埋もれた馬牧場遺跡の年代は6世紀半ばとしている。
しかし私は別の文献で噴火が500年頃だったというのを読んだ記憶がある。
いずれにしても古墳時代のことだ。

このように、東日本では5世紀後半にはじまって、渡来系の人達による馬の
大規模飼育が行われていたのである。人が渡来系ならば馬も渡来系と考えた
ほうが早いのではないか。
上記の遺跡で、蹄の跡の動物学的研究が行われているそうだから、調べてみる。
42日本@名無史さん:04/10/14 13:48:02
>>27
>蒙古馬(中型馬です)は体高が約135cm前後(らしい) 蒙古馬が来るまでは
>さらに小さかったのだから もしあと15cm低ければ小型馬のポニーサイズに
>なってしまう もし25cm低ければもうペット馬サイズになる

古墳時代の馬はどのくらいの大きさの馬だったか。牧場遺跡の蹄の跡から
わかるはずだ。これについて次のページから引用しよう。

http://archaeoring.ld.infoseek.co.jp/orbit/explorer/kouchi/komochi.htm
「一方、平成2(1990)年から調査が続けられている子持村白井・吹屋地区遺跡群
では、黒井峯遺跡を埋めたと同じ軽石下の地面から、無数の馬の蹄跡が発見され
た。ここには広大な馬の放牧地があったのである。蹄跡は深さ5〜15_ほどの
ごく浅い窪みにすぎないが、前足と後ろ足の区別がつくほどにはっきりと残って
いるもの、馬が歩いた様子がわかるような列も見つかっている。蹄跡の大きさの
統計的分析から、現在の木曽馬程度の大きさの中形馬で、子馬もいたらしい事
がわかっている。」

では「現在の木曽馬」はどのくらいの大きさか。「木曽馬」についてぐぐれば
木曽馬保存会のページがあって、「現在の木曽馬」の平均体高はオス馬で
136cmと出ている。
以上のように、古墳時代の馬は蒙古馬と同じ「中型馬」であって、極端に小さく
はなかった。
想像を書いて疲れる前に、ちょっと調べればこれだけのことがわかるのだ。
43日本@名無史さん:04/10/14 13:51:33
白井遺跡が埋まった榛名山の噴火はいつのことだったのか。
これについて次のように述べているページがあった。

http://www.edu.gunma-u.ac.jp/~hayakawa/paper/inariyama/text.html
「榛名山の二度の噴火のうち,初めの噴火で放出されたFA火山灰は群馬の土器
形式IIIの層準に挟まれています.あとのほうのFP軽石は土器形式IVの層準に
挟まれています.<中略>
ということで,榛名山の約1500年前の噴火が6世紀の前半であることはかなり
確からしいようにみえます.しかし,ここに理学の成果を入れてみるとちょっと
した矛盾があらわれます.FA,FPとも炭化木を含みますので,その放射性炭素
年代がいくつか測られています.それらの中で学術誌にきちんと報告されたものの
数は多くないのですが,ざっと見渡すと,ほとんどの測定結果が6世紀より古く
出ています.もちろん暦年補正した値についての議論です.むしろ5世紀に集中
するようにみえます.」

榛名山の噴火は6世紀前半か、5世紀か、まだ確定していないのだ。
私が以前に読んだ文献の「500年ごろ」という噴火年代は上記の状況を
ひっくるめて言ったものだろう。いずれにしても古墳時代中期だ。
44日本@名無史さん:04/10/14 15:17:59
近年の長野県、群馬県の発掘によって、これらの地方における古墳時代の大規模
馬牧場を担ったのは渡来系の技術者集団であることがほぼ確実となった。

ところで、反対派の根拠の定番に、「日本には去勢の習慣がないから、騎馬民族
は来なかった」というのがある。この説は上記の事実によって吹っ飛ぶ。
なぜなら、「半島では去勢の習慣があった」というのなら、その習慣は上記の
技術者集団によって日本に持ち込まれたことは確実だからだ。

日本に去勢の習慣がないのなら、それはもともと半島でも行われていなかった
のか、それともいったん持ち込まれた習慣が、なんらかの理由によって二次的に
なくなったのか、どちらかしかあり得ない。かくして去勢説は物的証拠によって
吹っ飛んでしまった。

以前は、半島南端まで扶余が来た、とうことに対しても反対派は「荒唐無稽」とか
「証明できない」とか言って安心していた。ところが現在では、大成洞遺跡の
発掘という物的証拠によってこのことは証明されてしまった。

このように、反対派の人達が言う根拠は一つ一つ、物的証拠によって覆されて
いくのは非常に面白い状況だ。
45日本@名無史さん:04/10/14 15:34:31
日本にやって来たと言われる「騎馬民族」の実体は「渡来系の技術者集団」だったってこと?
46日本@名無史さん:04/10/14 16:20:05
>3

馬術の本には「馬は戦車ではない、唯一の武器は逃げ足の速さ」とあった。
源平の頃の合戦は、先ず彼我の弓矢の有効射程を把握してその境界をいったりきたり
しながら敵陣を挑発して適当に矢を射こんでは退却し、それを延々繰り返して敵が
疲弊して崩れるのを待つのが主な戦法だったと思う。

人でも馬でも何十メートルも先でチョロチョロ動き回られたら、銃と違って初速
の遅い弓矢ではそう簡単にあたらないだろう。 
無理にあてようとして雨あられと矢を集中させれば自軍の矢を消耗することになる。
馬の能力がいくら低くても歩兵では捕捉できない。 追っ払おうと思うなら騎馬
には騎馬で対抗するしかない。 

騎馬の利は、現代のテロと同様、領地や城砦などの根拠地を持たずに
移動の速さを活用し小規模の遊兵として運用することにある。
47日本@名無史さん:04/10/14 19:17:19
>>45
「技術者集団」というのは下部組織に過ぎないではないか。
いわゆる「騎馬民族」と称される外来の支配者が来たとすれば、そういうのを
連れて来ることはむしろ当然。

それよりも「去勢説」はもはや反対論の根拠として使えない、ということ
に重点がある。
48日本@名無史さん:04/10/14 22:03:49
>>47
明治維新後に、列強に追いつくための技術指導員として欧米の技術者を雇ったと
聞くから、外来の支配者が来たと言う根拠にはならないと思う。
去勢の習慣が失われたと言うことは、その習慣を持つ集団の影響力が小さく、とても
支配者とは言えなかったことを表していると思う。
49日本@名無史さん:04/10/14 23:20:01
>>48
>外来の支配者が来たと言う根拠にはならないと思う

だから集団の存在が根拠になるとは言っていない。矛盾しないだけだ。

>その習慣を持つ集団の影響力が小さく、とても
>支配者とは言えなかったことを表していると思う。

だから技術者集団が支配者なのではない。
仕える相手が土着王朝であるにせよ、外来王朝であるにせよ、
技術者集団は下部組織だ。

外来王朝の文化的影響力が小さい、あるいは永続しないことは認めるよ。
マケドニア人王朝もまったくエジプト文化に埋没した。
だから跡が残らないことをもって来なかったとは言えないのだ。

50日本@名無史さん:04/10/14 23:29:10
ちょっと待て、それは騎馬民族が日本の支配者になった根拠は無いということか?
51日本@名無史さん:04/10/15 05:17:04
>>50
まず「騎馬民族」を具体的に「扶余」と言い替えよう。
話はそれからだ。
52日本@名無史さん:04/10/15 06:21:37
騎馬文化なら中国にだって前四世紀の趙の武霊王の時代からずっとあるわけだが。
でも中国人を騎馬民族とはいわない。
それなら、なんで夫餘を騎馬民族といわねばならんのだ?
それは本来、遊牧民でもない夫餘をモンゴルみたいな遊牧民とごっちゃにするために
騎馬民族という恣意的な概念を設定しただけのこと。いわば詐欺。

中国にも騎馬文化はある。しかし秦や漢は「騎馬文化をもった勢力」に征服されたわけではない。
中国の周辺諸民族には中国の文化が及んでいるが、
それらの諸民族が必ずしもすべて中国に征服されたわけでもない。

騎馬文化の存在をもって、金官国が夫餘に征服されたという理屈はまったく成り立たないだろう。
53日本@名無史さん:04/10/15 08:22:56
>>49
百済が滅亡した時、
多くの技術者が日本に亡命してるでしょ。
同じことですよ。
金官の扶余は5世紀から姿を消している。
そして日本で馬の本格的な飼育が始まるのも5世紀以降。
追い出された扶余系技術者を日本が受け入れただけのことさ。
54日本@名無史さん:04/10/15 19:09:38
まず「扶余」を「固麻」と言い替えよう。
話はそれからだ。
てかこれだと百済夫余になるな。「狛」で良いか w
55日本@名無史さん:04/10/15 23:15:29
>>52
その通り。
扶余を騎馬民族と呼ばなければならない理由はなにもない。
扶余を騎馬民族と呼ぶからいろいろな混乱や誤解が生じる。
扶余は扶余と呼べばよいのだ。

江上説から「騎馬民族」を差し引いても「扶余」は残る。
それでも江上説の「すじがき」はまったく変わらない。
だから余計な混乱を避けるために、「騎馬民族」を具体的に「扶余」と
言い換えよう、と言っているのさ。
56日本@名無史さん:04/10/16 02:16:46
中国にも騎馬文化はある。しかし秦や漢は「騎馬文化をもった勢力」に征服されたわけではない。
中国の周辺諸民族には中国の文化が及んでいるが、
それらの諸民族が必ずしもすべて中国に征服されたわけでもない。

騎馬文化の存在をもって、金官国が夫餘に征服されたという理屈はまったく成り立たないだろう。
57日本@名無史さん:04/10/16 08:19:57
読者ですが、以下はどう?
3世紀後半最大の中央集権的墳墓は吉備(倉敷)のたてつき遺跡(きりきりの4倍)で
道教的四獣信仰、朱(水銀)40キロ使用(異常な量で当然輸入)巨大玄武石使用
つまり瀬戸内シーレーンは吉備支配下。
吉備に出る特殊器台が出雲、大和に進出し埴輪の元になる。大和まきむく遺跡に
吉備式墳墓を母体に列島各地の様式が結集、初期前方後円墳完成するも、まだ最大の
古墳は吉備の造山、作山古墳(国内4、9位)だった。
つまり4世紀の最大権力者は吉備出身。ご存知のように吉備には騎馬系出土品は多い。
スキタイ文様、匈奴、ペルシャ風馬具、壁画。古代重要な渡来最大の秦氏も3世紀
から駐在説もある。秦氏は金官国、夫餘系という説から単純に大陸系渡来人の総称
まで各説あるが、吉備では高梁川のたたい堰造営、40メートル規模の岩倉祭事、
製鉄(蘇我、物部などと共同運営)など運営、後に律令や仏教国家神道導入で活躍する
赤穂、山代の秦氏よりも古そう。
日本書紀では神武は8年滞在し高嶋宮で建国大和出立(2・11)し、応神仁徳天皇親子
は吉備の皇后を追って長期里帰りをしている。騎馬系吉備主導による大和連合成立が妥当。
58日本@名無史さん:04/10/16 14:38:16
>>53
>追い出された扶余系技術者を日本が受け入れただけのことさ。

その可能性はすでに>>49
>仕える相手が土着王朝であるにせよ、外来王朝であるにせよ、技術者集団は
>下部組織だ。
という形で言っている。
古墳時代の馬牧場のことを言ったのは扶余が来たことの証左として言ったのでは
ない。一つには「古代馬ポニー説」への反論として、一つには例の「去勢説」が
もはや無意味になったことを分かって貰うために言ったのだ。

それにしてもあなたが「金官の扶余」と「渡来系技術者による5世紀の馬飼育」
を認めているのは偉い。従来の観念的な反対論からすれば大きな進歩だ。
今後は反対論も少なくとも上記を前提にするべき。

>>56
>騎馬文化の存在をもって、金官国が夫餘に征服されたという理屈はまったく
>成り立たないだろう。

金官が扶余に征服されたというのは単に「騎馬文化の存在をもって」ではない。
狗耶韓国の王墓を破壊して作られた木郭墓の様式、人の殉葬の存在、武具の様式、
祭祀用の銅壷などが吉林省楡樹などの扶余遺跡と一致することから推定された
のである。
59日本@名無史さん:04/10/16 14:43:12
>>57
おおすじで同意。
吉備がシチリアのバイキング「公国」(簒奪して王国になる以前)にあたる
のではないか、と考えて見ることは面白い。
吉備の古墳が早くから巨大であること、
吉備が大王位を望む動きをして、失敗しても滅ぼされないこと、
吉備が半島経営を任されていること、
等はこの考え方と一致する。
60日本@名無史さん:04/10/16 16:03:16
>>57 >>59
君らは、一体全体、騎馬民族説とどう認識した上で論じてるんだ?
征服の形態でないにしても、少なくとも古代天皇家の出自が扶余系、
ということは最低条件だからな。
しかし記紀では吉備は不当に小さく扱われてるんだよ。
あれだけでかい古墳があるのにね。
それに金官の扶余が4世紀、吉備を拠点に置くのは無理だよ。
61日本@名無史さん:04/10/16 20:43:06
騎馬民族征服説なんて言わずに、扶余人渡来説ぐらいにしておいたほうがいいんじゃないか?
62日本@名無史さん:04/10/16 23:25:02
>「去勢説」がもはや無意味になったことを分かって貰うために言ったのだ。

これいまいち分からん。去勢のための道具とか出土してんの?
まぁ、「二次的になくなった」でも問題なんだけど、気になって。
63日本@名無史さん:04/10/17 05:25:48
>>61
言い換えようと言っているのだから当然「扶余征服説」だ。「扶余王朝説」でもいいよ。

>>62
反対派の人達は「半島では去勢が行われていた」と言っているのだから、その半島から
馬飼育技術者が日本にやって来たことがほぼ証明された現在、彼等が持ってきたはずの
去勢技術はどうなったのか、じぶんで説明をつければいいんでないの?
64日本@名無史さん:04/10/17 08:55:50
>>63
だから、何で「征服」や「王朝」を付けるんだよ。単なる渡来にしておけと言ってるんだ。
征服やらは、その根拠が見つかってからにしろ。何のために、明治期の話を引っ張ってきたのか
わからんのか。
65日本@名無史さん:04/10/17 09:12:36
と言うか、そもそも、その牧場が扶余系と言う根拠はあるのか?
中国系やモンゴル系だったりはしないのか?
なんか、論の飛躍が飛鳥昭雄チックなんだが。
66日本@名無史さん:04/10/17 16:28:27
>>64
「王朝」をつけるのは扶余が倭の大王になった、具体的には河内王朝を開いたと
主張するためだ。
証拠がないというのなら河内王朝が土着系だと言う証拠もない。

>>65
私は長野、群馬の牧場遺跡が扶余系とは言っていない。(言ったのは別の人だ)
「渡来人」「渡来系」と言っている。
具体的には古墳の屋根型石室の様式から百済系とされる。
しかし反対派の人は百済にも去勢の習慣があったと主張するのだろう?
(中国系、モンゴル系ならなおさら去勢はあっただろう。)
それならやはり「去勢説」が無意味になったことに変わりはない。
67日本@名無史さん:04/10/17 16:32:53
証拠がなけりゃ土着系じゃん
68日本@名無史さん:04/10/17 18:38:42
ということは、証拠が無いから中国系でOK?
69日本@名無史さん:04/10/17 19:10:32
なぜ征服説になるのかわからん。
日本書紀には帰化人をさかんに登用して大陸の文化を取り入れようとした記事が
たくさんあるわけだろ。
明治の頃のお雇い外国人とどうちがうんだ?
70日本@名無史さん:04/10/17 19:49:37
>>69
何度もそう言ってるんだが、彼によると技術者と権力者は不可分で
「技術者が来た」=「征服者が来た」らしい。
そもそも、他説にのみ証拠を要求する時点で…
71日本@名無史さん:04/10/17 23:13:51
>>69 >>70
もういちど書くが、馬牧場/技術集団のことを書いたのは「古代馬ポニー説」に
反論したのが第一の目的で、ついでに反対派の定番の「去勢説」が無意味になったこと
を言ったのだ。無意味になってないというならそれについて反論してくれ。

というわけで前にも言ったとおり、馬牧場/技術集団と征服説は直接の関係はない。
征服説と矛盾しないというだけだ。
征服説についてはまだ書いていない。シチリアのバイキング公国の話や、吉備の話が
若干それに関係する。

馬牧場に関連してもうすこし書こう。
反対派のもう一つの定番は「海峡を越えて馬を送れない」だ。
しかし日本書紀には、半島へ数十頭から百頭の単位で馬を送った記事が何カ所かある。
5世紀の大規模馬牧場遺跡はこれの裏付けになっている。
5世紀以降、日本は半島への馬供給基地になっていたのだ。
日本から半島へは馬が送れて、半島から日本へは馬が送れないというのは片手落ちだろう。
反対派の「馬輸送不能説」は一方交通なのだ。
72日本@名無史さん:04/10/18 01:25:28
>>71
太平洋戦争では、
フィリピンの米軍が、インドネシアからの日本の資源輸送を妨害してくる見込みがあるんで、
仕方なく真珠湾を含め、米国を先制攻撃したわけだよ。
でも日本列島から朝鮮半島や満州、台湾を結ぶ輸送ルートには何の障害もない。

自分の勢力圏内を輸送するのと、相手支配圏へ輸送するのとでは意味が違う。
まして当時の航海技術ではね。
馬を輸送することでさえ相当難儀だったはず。
73日本@名無史さん:04/10/18 09:18:39
馬を送れないなんてバカなことをどいつが逝ってるんだ?
そんな低能のヨタ話は征服説にも征服否定説にも関係ない。
74日本@名無史さん:04/10/18 09:25:24
>>72
>自分の勢力圏内を輸送するのと、相手支配圏へ輸送するのとでは意味が違う。

当時、潜水艦が遊弋していたわけでもないし、海岸にくまなく防衛線が築かれていた
わけでもない。
太平洋戦争時の状況を古墳時代に投影してはいけない。
反対派の論拠はそんなことではなく、単に海上輸送の技術のことを問題にするのだろう?

>まして当時の航海技術ではね。
>馬を輸送することでさえ相当難儀だったはず。

いくら困難でも必要とあらばやってしまうのだ。
現に日本から半島へ馬を輸送していたことは、日本書紀のおかげでわかる。
君の言うことは「ブルドーザーのなかった古代に、巨大古墳を築くのは不可能
だったはず」と言うのと同じだ。



75日本@名無史さん:04/10/19 00:28:48
>71
>ついでに反対派の定番の「去勢説」が無意味になったこと
>を言ったのだ。無意味になってないというならそれについて反論してくれ。

簡単に「二次的になくなった」としたら、別に無意味になってないと思いますが。
76日本@名無史さん:04/10/19 02:13:12
騎馬民族説の動かぬ証拠(と言われてるもの)って何?
殺人事件でいう指紋つきの凶器みたいな決定的証拠。
教えてえらい人。
77日本@名無史さん:04/10/19 02:33:16
>>74
文永の役では日本側は潜水艦を遊弋させてもいなかったし、防衛線も築いてもいなかったんだがな。

ある時突然騎馬集団が襲来したらアメリカ先住民のように腰抜かすかも知れないが、
幸い任那で既に馬や騎馬戦術に通じていただろうが。
任那が日本の本拠地なら絶望的だったのだろうが、後方に海という防衛ラインを確保しつつな。
本体は絶対安全圏に置かれつつ、扶余との協力関係を通して馬術は確保したはずだ。

技術的に可能なら、たとえ困難でも実現していたはずなら、
日本は元の一部になってたはずだし、秀吉は明を征服していたはずですよ。
78日本@名無史さん:04/10/19 04:54:24
>>75
>簡単に「二次的になくなった」としたら、別に無意味になってないと思いますが。

言っている意味がわからない。
「馬飼育集団は半島から去勢技術を持ち込んだが、簡単に二次的になくなった」と、
君じしんが思うの?

>>77
>文永の役では日本側は潜水艦を遊弋させてもいなかったし、防衛線も築いてもいなかったんだがな。

だから蒙古は自由に馬を海上輸送したし、馬を上陸させるまで大した抵抗は受けなかった。

>本体は絶対安全圏に置かれつつ、扶余との協力関係を通して馬術は確保したはずだ。

それはまさに三輪王朝の立場だが、三輪王朝が騎馬化した形跡はない。



79日本@名無史さん:04/10/19 05:02:06
金官の扶余王朝は早くから倭の三輪王朝と関係を持った。
そのことは金官の遺跡から出る畿内製の祭祀器具からわかる。文献的には崇神記
にある任那からの使者の記事がそれにあたるだろう。
この両者の関係の意味、あるいはメリットはなんだろうか。

三輪王朝の立場に立ってみれば、第一は鉄の入手だろう。第二は九州勢力との
関係だったのではないか。つまり、鉄の供給を支配し、おまけに騎馬戦術という
戦力(およびそれに付随する馬飼育技術、鉄製武器製造技術)を有する新興勢力
が、先に九州と結びついたのでは全国統一どころかじぶんの存続も危ない。

扶余王朝の立場からは兵力の入手だったろう。伽耶諸国を支配し、新羅を服属させても、
将来の高句麗との抗争に対しては心許なかった。
扶余王朝は後背の巨大国・倭から、なんらかの形で兵力的支援を得ようとしただろう。
この両者の利害が合致して、金官と三輪王朝は提携関係を結んだのではなかろうか。
80日本@名無史さん:04/10/19 09:05:19
>>78
それは海上輸送能力が一定のレベルに到達していたからだ。
しかし4・5世紀となれば話は別だ。
元冠時代の海運力は戦闘にも通用したが、
その頃は輸送するだけで限界だろう。

だいたい舟の大きさをどの程度のものだと想定してるんだい?
81日本@名無史さん:04/10/19 12:48:11
>>80
>それは海上輸送能力が一定のレベルに到達していたからだ。
>しかし4・5世紀となれば話は別だ。
>元冠時代の海運力は戦闘にも通用したが、

元寇時代の話を持ち出したのはそっちだが。

>その頃は輸送するだけで限界だろう。

輸送の話をしているんでないの?

>だいたい舟の大きさをどの程度のものだと想定してるんだい?

どの程度のものであろうと、運んだことは事実だろう。
5世紀の大規模馬牧場は、馬を半島に持って行って使うのでなかったら意味がない。






82日本@名無史さん:04/10/19 12:58:59
>>81
何を言っとるんだ。
弓矢どころかてつはうや火薬での反撃も用意できる
元冠時代の大型船ですら目的は成就しなかったのに、
小型で海上をよれよれの状態で(おそらく運べたのは10分の1くらいか)
馬運搬するのがやっとの時代、
反撃されたらひとたまりもないわ。

もし攻撃が可能だとしたら、
戦闘目的外を装って馬を大量に上陸させ、
その後一斉に蜂起する類の戦術くらいだろうが、
それも九州までが限界だ。
他地域が警戒するからな。
83日本@名無史さん:04/10/19 22:51:59
>>82
倭が本格的に騎馬化するのは5世紀以降だ。
そして5世紀にはすでに金官と倭はなんらかの形で一体化していた。
馬を持ってくるのに多々羅浜の戦いは必要なかった。
84日本@名無史さん:04/10/20 03:52:19
>>83
主体がどこにあるかを語らずに一体化してたといっても駄目ですよ。

ソ連に対抗する日米同盟には主従関係があって米国上位。
しかし日本の主権は名目的には日本国にあり、日本の首相が指導者です。

高句麗に対抗して扶余・倭連合が形成されたとして、
高句麗=ソ連、扶余=日本、倭=米国になるが、

今の天皇家に連なる大王の出自はいずこにあったのかを言ってもらわないとね。
もし王権の簒奪があったのならいつだったのかも。

それとも扶余国は滅ぼされて百済貴族のように、倭に吸収されていったにすぎないのか。

どちらかなのかは全く違う歴史の展開ですからね。
そこが騎馬民族説の根幹でしょ。

馬を日本に運ぶのに戦闘が必要ないのなら征服の形態じゃないんだから、
騎馬戦術は倭人に普及して行ったに違いなく、
その結果、もはや扶余による筑紫の征服は考えにくいということになりましょう。

結局のところ半島における扶余は、後背地が倭しかなく、扶余が必要にかられて倭・倭人に
馬と戦闘技術を普及させ、倭より戦闘員を補充してもらう構図が形成されたことで、
倭征服の可能性はなくなったはず。

倭の傭兵だった扶余が倭を征服したどころか、
扶余の傭兵だった倭人に、扶余は半島における主導権を握られたわけです。
85日本@名無史さん:04/10/20 05:40:25
>>84
>結局のところ半島における扶余は、後背地が倭しかなく、扶余が必要にかられて倭・倭人に
>馬と戦闘技術を普及させ、倭より戦闘員を補充してもらう構図が形成されたことで、
>倭征服の可能性はなくなったはず。

この文章であなたは「騎馬戦術を持たないものはそれを持つものに勝てない」ことを認めて
いるね。それは非常に重要なところだ。
ただし倭は4世紀にはまだ騎馬化していない。それにも拘わらず倭はすでに4世紀中葉には
半島に進出している。
これを統一的に説明するようなすじがきを考えなければならない。

86日本@名無史さん:04/10/20 13:21:49
>>85
残念。

私の論理は、騎馬戦術が、少数戦力扶余の唯一のアドバンテージならば、
そのアドバンテージは倭人の乗馬術習得によって既に喪失してしまってる、
それゆえ騎馬民族説は成り立たないということです。
倭は騎馬部隊化してないと言っても、
本体はしてないが出先の任那や北部九州の一部でマスターしてるはず。
でなければ倭人が任那に戦力を供給しても無意味になってしまう。
87日本@名無史さん:04/10/20 17:38:03
>>86
「出先の任那」というが、その任那へ出て行くにはまず任那を服属させなければならない。
その最初の出会いのときは、相手は鮮卑と戦って来た騎馬戦闘のベテラン、こちらは吉野ケ里
レベル、ないし巻向レベルの歩兵だ。人海戦術で圧倒するのならそれだけの人数を、しかも
前進基地がないから一度に、半島まで運ばなければならない。
このような条件でどうやって三輪王朝なり、九州勢力が金官を服属させたのか?
という疑問。
88日本@名無史さん:04/10/20 18:27:53
>>87

1.扶余が倭人が居住し、鉄資源を採取している任那に侵攻、制圧。
2.金官と高句麗との戦闘が激化。
3.苦戦する扶余は後背地を確保したいが、海に隔てられ困難。
4.扶余が資源供給を欲する倭との連合を選択。技術を提供する一方で戦力の提供を受ける。
5.次々金官に補給される大量の倭人が、扶余指導の下、訓練されて騎馬戦術を習得してゆく。
6.倭人の将軍も扶余と同等の力をつける。
7.戦力的に高句麗と互角の争いに。
8.しかし最終的には高句麗の前に屈服。金官は崩壊して、扶余は流れ者として倭国に亡命。
9.敗北への危機感から、倭は日本列島で本格的な馬の飼育に入る。
89日本@名無史さん:04/10/20 23:22:14
>>84,>>96,>>88に基本的に賛同。

征服派は、仮説を証明するのに別な仮説をもってしているような印象。
90日本@名無史さん:04/10/21 23:04:10
>>88
一応納得できるすじがきだ。
このすじがきは次のような認識に基づいているとおもわれる。
*狗耶韓国を征服した金官の扶余王朝の存在。
*金官の倭に対する軍事技術的優位性。
*金官と倭の当初の関係は倭による征服ではなく提携関係である。
*金官と倭の共同作戦のなかである時点までは金官の方が主導的立場にあった。

これは従来、倭に従属する無力な存在としてしか語られなかった金官像に比べれば
画期的な進歩だと思う。ようやくこのような認識がまともに語られるようになった
のだ。

ただし、「兵力を提供してくれれば鉄を供給しましょう。ついでに騎馬戦術を
指導して上げましょう」というのは金官からすれば気前が良すぎ、倭からすれば
虫が良すぎではないかな。
さらに根本的なことを言えば、金官の第二次滅亡の前後の日本書紀の記事に
現れる、「狭義の任那」の異常な重要性を、このすじがきでは説明できない。

欽明記など読むと、狭義の任那はほとんど聖地である。
つまりヨーロッパの十字軍の時代におけるエルサレムのごとき、「回復すべき失わ
れた聖地」という感じを受ける。
>>88のすじがきのような、単なる過去の軍事同盟相手ということで、こんな
書き方になるだろうか。
これに対する最も腑に落ちる説明は倭王朝の「父祖の地」ということではないのか。

というと百済だって単なる軍事同盟相手なのに白村江までのめりこんだではないか、
と言うだろう。それはその通り。
しかし、百済との関係がまた第二の謎なのだ。
このような倭王朝と任那/百済との関係に関する謎、これが扶余征服説の原点である。
91日本@名無史さん:04/10/21 23:19:24
>>90
もともと倭人の居住地ですからね。
北方領土返還運動みたいなもんですよ。

もしかしたら満州への固執と比較するのが妥当かもね。

それと紀記の記述は渡来系の人間が関与してますしねえ。
高句麗始祖王伝説との共通点とかね。

いろいろ脚色してんでしょ。
92日本@名無史さん:04/10/21 23:53:06
>>90
>ただし、「兵力を提供してくれれば鉄を供給しましょう。ついでに騎馬戦術を
>指導して上げましょう」というのは金官からすれば気前が良すぎ、倭からすれば
>虫が良すぎではないかな。

どっちが虫がいいんだか。もともと鉄交易を生業とする金官が
鉄交易をやめたらおまんまの食いあげだ。兵力のパーター貿易
をなすまでもない。

>欽明記など読むと、狭義の任那はほとんど聖地である。
>つまりヨーロッパの十字軍の時代におけるエルサレムのごとき、「回復すべき失わ
>れた聖地」という感じを受ける。

あほくさ。
北方領土等領土を失った場合それに対する固執が
うまれるのはあたりまえだろ。日本人は北方領土が
故地なのか?
ましてや金官は鉄産地だろ。回復に努めるのがあたりまえ。

>これに対する最も腑に落ちる説明は倭王朝の「父祖の地」ということではないのか。

だったら宋書に「自昔祖禰、躬カン甲冑、山川跋渉、不遑寧処。
東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、『渡平海北九十五国』」
などとは書かない。また倭王権の象徴である前方後円墳
などは金官にこそ大規模造営さるべき。また畿内に先立つ
のが自然なはず。
93日本@名無史さん:04/10/22 03:54:09
>>90
結論先にありきの願望丸出しなフレームアップの典型ですね。
94日本@名無史さん:04/10/22 09:33:11
>>92
>北方領土等領土を失った場合それに対する固執が
>うまれるのはあたりまえだろ。

同じ「領土」のなかでも差がある。半島西南部は前方後円墳もある「直轄領」で
あったにも拘わらず、あっさり百済に譲渡している。そしてその時点でなお
「狭義の任那」にこだわっている。

>また倭王権の象徴である前方後円墳
>などは金官にこそ大規模造営さるべき。また畿内に先立つ
>のが自然なはず。

倭が金官を征服して支配システムに組み込んだのなら前方後円墳が築かれるべき。
そうでないからこそ墓制が異なる。
倭の扶余王朝(具体的には河内王朝)は簒奪王朝だからこれまでのシステムを、
ただしさらに巨大華美にして踏襲するのだ。
満洲族が中国を乗っ取ったら明国の墓制を真似たのと同じ。

95日本@名無史さん:04/10/22 09:46:18
>>93
結論先にありきから調査探索していき修正していくのが基本じゃないの?
その結果出てきた結論は元と違うかもしれないけど。
96日本@名無史さん:04/10/22 09:47:22
日本式木棺 韓国で出土 完全形の「くりぬき式」 古代交流探る資料に

 【釜山13日田代謙一】韓国南東部の古墳で、日本の伝統的墓様式である、くりぬき式木棺が十三日までに出
土した。日本でも数例しかない完全な形での発掘で、古代に加耶があった韓国南東部と日本の交流を探る上で貴
重な資料になるとみられる。調査を進めていた韓国国立昌原(チャンウォン)文化財研究所(慶尚南道昌原市)が明
らかにした。

 古墳は同道昌寧(チャンニョン)郡の松ケン洞(ソンヒョンドン)古墳第七号墳で、五世紀末から六世紀初めの築造。
長さ八・四メートル、幅一・五メートルの横穴石室内に、長さ三・八六メートル、幅一・二メートルのくりぬき式木棺があ
った。同木棺は、半分に切った丸太をくりぬいて遺体を置き、ふたをする形式。同墳では、ふたは大部分腐っていたが、
木棺はほぼ完全な状態で残っていた。

 同研究所によると、完全な形での出土は、韓国では紀元前後の茶戸里(タホリ)古墳(昌原市)に続いて二例目だが、
今回の方が深くくりぬいてあり、しっかりした作りだという。

 ただ、日本で主に使われた四世紀ごろの古墳時代前期とは時期が離れていることや、木棺の材質がクスノキで、日本
で多く使われたコウヤマキではないことなどから、同研究所は「当時の韓国南東部と日本側に何らかのつながりがあった
のは確実だが、どの程度の交流だったのかの研究を続けたい」としている。
97日本@名無史さん:04/10/22 09:48:13
>>94
>同じ「領土」のなかでも差がある。半島西南部は前方後円墳もある「直轄領」で
>あったにも拘わらず、あっさり百済に譲渡している。そしてその時点でなお
>「狭義の任那」にこだわっている。

半島西南部からは鉄は出ません。

>倭の扶余王朝(具体的には河内王朝)は簒奪王朝だからこれまでのシステムを、
>ただしさらに巨大華美にして踏襲するのだ。

簒奪王朝なら墓制は変わります。
そもそもあなたの金官征服説が墓制の違いを根拠としていたこと
をお忘れか?
また、広開土王碑、宋書等どこにもそのような事実はうかがえない。

いいかげんにしとけよ。
98日本@名無史さん:04/10/22 09:50:41
それと西南部に関してだが、割譲地と奪われた土地とでは性格がべつだろ。
99日本@名無史さん:04/10/22 09:55:40
確か大和朝廷が戦闘で騎馬隊を導入したのは、騎馬集団を要する蝦夷との戦いからだぞ。
100日本@名無史さん:04/10/22 10:04:19
鉄や金の権益は現在の石油と同等、それ以上の価値があったろうと思われる。
朝廷が激変する半島情勢を片手間に、数百年にわたって東征に固執したのも、坂上田村麻呂の戦勝の
地が鉱山地ばかりであったことや、後の平泉をみても莫大な金の権益狙いであった事は容易に推測できる。
101日本@名無史さん:04/10/22 11:32:07
>>98
>それと西南部に関してだが、割譲地と奪われた土地とでは性格がべつだろ。

その通り。「性格がべつ」だから一方はあっさり割譲し、一方は奪われた後も
延々とこだわったのだ。
「領地だから」では括れないということ。

>>鉄や金の権益は現在の石油と同等、それ以上の価値があったろうと思われる。

そのころには倭は鉄自給の体制を整えていた、と反対派のだれかが言っていたので
ないかな。私もその通りだと思うよ。
鉄供給の問題は4世紀のことだ。


102日本@名無史さん:04/10/22 12:03:45
>>101
違う。弥生から鉄の加工技術はあったが
製鉄遺跡は任那が滅びた6世紀以降しか見つかっていない。
http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/index.htm
103日本@名無史さん:04/10/22 12:10:39
東日本で鉄、金がでるからもう半島はイラネってことじゃないか?
だから必死になって東征を推し進めたと。
104日本@名無史さん:04/10/22 12:19:48
>>103
全く違う。製鉄は中国地方が圧倒的だ。
口から出任せを言うなよ
105日本@名無史さん:04/10/22 12:23:39
>>103
それに金の話も時代が違っている。
奈良の大仏を作り始めた頃は日本ではまだ金は発見されていない。
その最中に出羽国に発見されたのが初めてだから、
任那や新羅は非常に重要だった。
106日本@名無史さん:04/10/22 13:45:24
>>97
>簒奪王朝なら墓制は変わります。

簒奪は一般に制度を引き継ぐ。簒奪王朝で墓制が変わったら言葉の概念に反する。

>そもそもあなたの金官征服説が墓制の違いを根拠としていたこと
>をお忘れか?

頭固いね。逆は必ずしも真ならずだ。金官の扶余が満洲から出たてで、満洲と
同じ木郭墓を作ったから扶余とわかった。それなら扶余は必ず木郭墓を築くか
と言えばそうとは限らない。
現に高句麗は石室つき積み石塚を、百済は[石専]室付き墳丘墓を作ったでは
ないか。

>>104
103 は私ではないよ。念のため。
107日本@名無史さん:04/10/22 14:07:09
>>106
> 逆は必ずしも真ならずだ。

だからさその時々で根拠を自身に都合のいいように変えるから
説得力がないのよ。

108日本@名無史さん:04/10/22 14:15:32
>>102
「そのころ」というのは話のすじから言って狭義の任那が滅びた6世紀のことだよ。
6世紀にもなって任那にこだわるのは「鉄供給」では説明がつかないと言っているの。
資源の問題ではなく技術の問題なのだから、5世紀にあれだけ鉄製武器の技術が伝わる
間に製鉄技術も伝わり、6世紀には体制が整っていた、と考える方が自然だ。
それにもう一つの「資源」である燃料(まき)は日本のほうが豊富なのだからね。

なお>>103は私ではない。 念のため。
109日本@名無史さん:04/10/22 14:34:22
>>108
>6世紀にもなって任那にこだわるのは「鉄供給」では説明がつかないと言っているの。
自身のためだけではないんだよ。資源を敵に渡すという不利
回避の目的もあるんだよ。
まあ、もっとも新羅にとられて悔しいが本音だろうな。
110日本@名無史さん:04/10/22 15:05:00
>>108
因果関係が逆だろ。任那で鉄が取れるから本土では製鉄が遅れていたのが
任那が衰亡したために内地での製鉄を進めなければならなくなったと見るべき。
鉄の任那と金の新羅は資源的に極めて重要な属領だった。
111日本@名無史さん:04/10/22 18:09:59
吉備地方の製鉄はタタラ法で、奥羽地方の製鉄は餅鉄法。
112日本@名無史さん:04/10/22 23:19:55
>>109 >>110
倭が任那を最も強く支配していたのは5世紀なのだから、その100年の間に
いくらでも技術者を連れて来ることはできたはずだ。馬に限らず鉄だって、
海峡を渡すのは大変なのだから。

>>110
たたら製鉄のページで、古代のたたら遺跡の年代は6世紀と書いてあるだけで、
「6世紀以降」とは書いてない。
任那が滅んだのは532年で、だいぶ6世紀に入り込んでいる。
遺跡の年代推定はかなり幅のあるもので、任那滅亡より後か前かは実際は
決められないだろう。
それと、「遺跡がないからなかった」というのは今までもずいぶんと覆ってきた。

>>107
説得力がなかったら反論すればよい。
「扶余は木郭墓」なんてのはスポーツやゲームのルールではない。しょせんは
人間の所業だから「逆は必ずしも真ならず」があたりまえ。
だいたいなんのために王墓を作るのか。後世の歴史家に、扶余であることを証明
するためではない。王の権威を示すためだ。前方後円墳のかたわらに墳丘もない
木郭墓を作って、権威が示せると思うのか?
113日本@名無史さん:04/10/23 11:45:10
>>112
>だいたいなんのために王墓を作るのか。後世の歴史家に、扶余であることを証明
>するためではない。王の権威を示すためだ。前方後円墳のかたわらに墳丘もない
>木郭墓を作って、権威が示せると思うのか?

おかしくないか、それでは墳丘もない木郭墓しかない金官には
後世に伝えるべき権威ある王権がなかったことだろ。
権威ある王権すなわち統率力のある王権がないのにどうして統
率力のある王権である倭を侵攻可能なんだよ。
114日本@名無史さん:04/10/23 13:36:32
>>113
だから「人間の所業」と言ったのだ。人間のやることは環境に支配される。

扶余は吉林省北部が本拠で、ここにいたころから王墓として木郭墓を作っていた。
晋書東夷伝に「有郭無棺」と記されている通りだ。扶余は「質実剛健」を誇りとして
いたのだ。ジンギスカンの墓が墳丘を持たなかったのと似ている。

その扶余が狗耶韓国にやってきた。狗耶韓国はまさに吉野ケ里と同様な発展段階で、
王墓は共同墓地である自然の丘の頂部に作られた、墳丘を持たない木郭墓だった。
ただし扶余の木郭墓とは形式が異なる。
扶余はこの狗耶韓国の王墓を破壊して、その真上に、じぶんたちの形式の木郭墓を
作った。このようにすることで征服者の権威を示したのだ。
墓は素朴であっても、むしろこれによって彼等の強さの根源である質実剛健の気風が
保てる、と彼等は考えただろう。

環境がじぶんたちとあまり変わらない吉野ケ里レベルだったからこれで権威が示せた。
しかし百済に入った別のグループの扶余はそうはいかなかった。
彼等の環境にはすでに楽浪郡の中国文化があったからだ。
だから彼等は[石専]室付き墳丘墓を作らざるを得なかった。
115日本@名無史さん:04/10/23 13:40:15
>>114

ところで統率した王権の所在をどのように確認できたのかな。
それとその墓を教えてくれないかな。
116日本@名無史さん:04/10/23 14:52:19
しかし、いろんな墓制が混在しているなぁ。どれが統率した王権を
示す墓なんだろ。たくさんいたのだろうか?
117日本@名無史さん:04/10/23 22:39:45
>>115 >>116
意味不明なので答えようがない。

>>102
倭国の鉄生産について、面白いページがあったので紹介しよう。
http://mutsu-nakanishi.web.infoseek.co.jp/iron/ooagta03.htm

引用:
「しかし、この大県の鍛冶工房から出土する大型で大量の鉄滓を考えると、周辺
地域で製鉄製造された鉄材料が精錬(精錬鍛冶)されずにスラグの着いたままでこの
大県の鍛冶工房に持ち込まれたか、この大県鍛冶工房で製鉄から製品までの一貫
した製造が行われていた可能性のどちらかであろう。
<中略>
5世紀半ばから7世紀半ばの長きにわたって、大和政権の心臓部河内で武具・武器・
道具を大量に量産して大和朝廷に供給しつづけたことが、初期大和政権の中央集権
・日本統一の原動力であった。」

つまり、河内北部の大県に河内王朝の一大武器製造センターがあり、そこから
出土する大量の鉄滓が、間接的に鉄自製を証明しており、その期間は5世紀半ば
から7世紀半ばにわたる、というのである。

やはり、河内王朝は任那滅亡のはるか以前から鉄自製の体制を確立していたのだ。
118日本@名無史さん:04/10/24 14:20:50
>>117
鉄が出ればいいというものではないのだよ。
需要を満たすだけの供給がないと同じなんだよ。
実際任那取られて鉄が一時期減っている。
昔本で読んだ。誰かがあげてくれるといいが。
119日本@名無史さん:04/10/24 15:16:23
>>117
扶余の金官の侵略と言うが実際は大成洞のみの集団。
大成洞での侵略の話であろうか話を金官に拡大して金官
侵略と虚言。他の金官集団は並行して存在している。また
独自性をそれぞれの集団は保っている。

小さな金官のさらに小さな一集団の規模では征服はおぼ
つかない。また小さな金官一国すら侵略できない集団が
海を渡って倭を侵略するなど夢のまた夢。
120日本@名無史さん:04/10/24 15:27:24
傭兵隊長
121日本@名無史さん:04/10/24 16:20:37
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041022-02115499-jijp-soci.view-001

古代船が完成、いにしえの航海へ
古墳時代の遺跡から出土した埴輪(はにわ)を基に復元した古代船「海王」が22日、
福岡市で完成し、無事進水式を終えた。全長約12メートルの船体は、樹齢約500年
の大木の板を組み合わせて造られた(時事通信社)19時25分更新

結構ちっぽけな船だな。
122日本@名無史さん:04/10/24 17:03:09
>>119
ノルマン人によるイギリスの征服、満洲族による中国の征服、スペイン人による
中南米の征服はそれぞれどれだけの人数で行われたか考えて見よ。
現代の国民国家間の戦争の感覚を過去に投影してはいけない。
古代の国家は「家」であり、戦争は「家」と「家」の戦いに過ぎない。
ただし、私は三輪王朝と金官王朝の間に必ずしも戦争があったとは思っていないがね。
123日本@名無史さん:04/10/24 18:46:20
あまり反論になってないね。
124日本@名無史さん:04/10/24 22:11:17
>>117
征服王朝であるとする扶余系“河内王朝”が、
大和政権に武器を供給してたと想定するのは論理矛盾があるだろ。
なんで征服王朝が、現地勢力に供給するんだ?
そのまま一挙に大和を攻め落とせばいいだろうが。
125日本@名無史さん:04/10/24 23:23:36
>>118
「なかった」から「足りなかった」に後退したのは「6世紀以降」は撤回した
ということかな?

>>124
この引用文のなかでは「大和政権」=「河内王朝」なのだ。
河内王朝が自前の製鉄/鉄加工センターを持っていたという意味さ。
126日本@名無史さん:04/10/25 12:51:41
>>112
馬に比べれば鉄の運搬なんて容易なものだろ。
任那を支配している間は、内地で鉄生産をする必要性がなかったから
鉄加工のみで製鉄が発達しなかっただけと思われる。
だから任那を失ってから本格的に製鉄が始まる。
127日本@名無史さん:04/10/25 12:57:03
>>117
鉄の加工と製鉄を混同するなよ。
鉄の加工遺跡は弥生時代から存在するし
古墳時代に入ってから鉄遺物も多く見つかっている。

しかし製鉄が盛んになるのは6世紀以降であって
任那を失ったことが直接の要因だと思われる。
128日本@名無史さん:04/10/25 13:48:35
>>121
準構造船ってやつか。
壁画・土器などの船の絵には帆のようなものが描かれた船や
オールの数から20M以上と推測される船もあるそうな、
20人とか30人乗り位の外洋船だろうね。
129日本@名無史さん:04/10/25 15:40:50
>>127
良く読め。鉄滓が大量に出るということは、少なくとも一部は輸入鉄梃ではなく
自製の鉄を原料に使った可能性しかないのだ。

>>119
三輪王朝が直接支配しているのは巻向のみ。
大和の他の地方には他の勢力が存在していた。
これらは三輪王朝に従属しているとはいえ独自性を保っていた。

さらに大和以外の地域はなおさらのこと。
地方勢力のなかにはどちらが大王かわからないくらい大きな
墳墓を築くものもいた。
さらに九州は従属さえしていなかった。

小さな大和地方さえ統一できない集団が海を渡って騎馬戦術を持つ
金官を侵略するなど夢のまた夢。

君の論法で言えばこういうことになるのかな。
130日本@名無史さん:04/10/25 19:50:01
>>129
ガセネタを垂れ流すな。6世紀以前の製鉄遺跡は発見されていない。
支配下にあった任那の鉄で間に合っていたからだろう。
131日本@名無史さん:04/10/25 19:58:03
応神は金官加羅から来た傭兵隊長、これ定説。
132日本@名無史さん:04/10/25 23:19:19
>>130
せっかく>>117でページを紹介しているのだからまずそれを読みなさい。
他にも「大県遺跡」で引けば多くのページがある。
また「潤崎遺跡」で引けば九州の5世紀の製鉄のことがわかる。
133日本@名無史さん:04/10/25 23:57:02
>>132
若干遡ったとしても、内地で製鉄が本格化するのは
任那を失った6世紀以降に変わりはない。
134日本@名無史さん:04/10/26 05:08:53
>>133
ところがその6世紀中葉を境にして、河内北部の製鉄/鉄工センターの生産量は
衰微するのだ。
6世紀以降の本格化のように見える現象は、じつは河内王朝が一手ににぎっていた
鉄産業が地方勢力の手に拡散していく過程を表しているのかも知れないのである。
135日本@名無史さん:04/10/26 08:47:29
>>134
アフォか、製鉄は原料に富む中国地方に集中している。
136日本@名無史さん:04/10/27 08:30:04
>>135
その通り。そして5−6世紀には中国地方その他の地方から、河内の大県センターに、
粗鉄が供給されていたと考えられている。
大県センターを担った技術者たちは、その墓の形式から百済系と推定される。
彼等が、粗鉄を精錬する技術を持っていたのだ。
こうなると、鉄が国産かどうかはたいした問題でなくなる。
今日、日本のメーカーが中国の工場で生産しても優秀な製品を作るのと同じことだ。
137日本@名無史さん:04/10/27 08:48:36
>>136
日本独自の砂鉄を精錬する手法も知らないのか。
半島の製鉄は中国に伝わった製鉄と何も変わらないものだが
任那の鉄を使えなくなって国産が主になると
日本では不純物の少ない砂鉄を精錬して良質の鉄製品を作った。

日明貿易で日本からの加工品輸出としては日本刀と扇子が光っている。
それだけ日本製品の質が高かった。
138日本@名無史さん:04/10/27 14:38:19
>>137
それは後世のことだ。5、6世紀の倭の武装は基本的に伽耶諸国と共通だった。
そのことは古墳時代の両地域の出土品からわかる。

ところで、大県の鉄センター遺跡から出るフイゴ羽口の個数は鉄の処理量を、
鉄滓の量は国産粗鉄の量を表していると考えられる。

これを世紀の前後半別に示せば次の通り。

      6世紀前半 6世紀後半 7世紀前半 7世紀後半
鉄滓kg   90    170   140   30
羽口個数   60    430   410   20

これを見ればわかるように、6世紀前半の金官喪失があっても大県の
鉄の処理量が減ることはなく、かえって飛躍的に伸びている。
鉄の処理量は金官喪失とは関係なく、政治状況のみによっていたこと
がうかがえる。
139日本@名無史さん:04/10/27 15:21:18
>>138
はぁ? 任那を失って製鉄を増やしたんだろ。
その後に中国地方の砂鉄を使った製鉄の優越性が示されたから
生産が激減したのかもな。
140日本@名無史さん:04/10/27 16:23:47
>>138の表をみると任那滅亡(562年)を境に
鉄滓も羽口も激増してるようにしか見えないが???
141140:04/10/27 16:25:59
>>140の続き

つまり、任那滅亡によって輸入がなくなった(ないし減った)分、
国内生産をふやしたと考えるのが自然じゃないのか?
142日本@名無史さん:04/10/27 23:32:20
>>140
>任那滅亡(562年)を境に鉄滓も羽口も激増してるようにしか見えないが???

だからそう言っているでないの?
任那が滅亡したら減るはず、という先入観念があるから人の文章を読み間違える。

>>141
>つまり、任那滅亡によって輸入がなくなった(ないし減った)分、
>国内生産をふやしたと考えるのが自然じゃないのか?

羽口はフイゴの消耗品だから鉄の「処理量」を表している。
任那滅亡前、任那からの輸入原料を使っていたとしても羽口が必要なのは同じだ。
だから任那滅亡後に羽口が増えたのは滅亡とは関係ないということになる。

それに、国内生産を任意に増やせるのなら結構な話で、それも任那の鉄の重要性が
低落していた証拠になる。

>>139
>その後に中国地方の砂鉄を使った製鉄の優越性が示されたから
>生産が激減したのかもな。

大県センターの生産が減ったのは、古墳時代から奈良時代への移行のなかで、
鉄製品を中央で独占生産するような社会体制が変化したからだろう。
それと、古墳時代の鉄製の鎧から革製に変わっていったことも需要を減らしたと
思われる。重いものは誰だっていやだからね。




143日本@名無史さん:04/10/28 03:40:55
個人的にはプラマイ50年の幅があれば十分対応できたとは思うけど
これは憶測だから言い張るつもりはない。
なんともいえんな。
鉄の供給の変化に対する対応力が日本の産業界にどれぐらいあったかという話になる。
これはわからないだろう。
144日本@名無史さん:04/10/28 07:39:25
>>142
頭が悪すぎる。全く逆の話をこじつけるのは無理。

必要は発明の母で、任那の鉄が利用できなくなって
日本独自の砂鉄を使った良質の鉄製品を作るようになったな。
145日本@名無史さん:04/10/28 23:32:35
http://gsis.snu.ac.kr/japan/workshop/workshop-content/
workshop-content-lecture-2001/lecture-2001-6.htm

上記ページによると:

「一方、伽耶地域は4世紀末から5世紀初めにかけて鉄生産が減少して交易基盤を
失っていったことが記録されている。」という。

一方、「百済は3世紀末ないし4世紀初に鉄鉱石と砂鉄を原料に大量の鉄を生産
できるようになった」という。「谷那」鉄山の鉄で作ったと言って七枝刀を贈った
のは4世紀中葉とされる。

伽耶地域の鉄は恐らく鉱山が枯渇して衰微し、代わって百済が有力な鉄産地と
なったのではないか。百済が製鉄技術を持っていたということは大県センター
の技術者集団が百済系であったことと符号する。

こう見てくると6世紀中葉の金官/任那滅亡のころの任那の鉄が、日本書紀
に見える任那の異常な重要性を説明できるとは思えない。
146日本@名無史さん:04/10/29 05:40:53
>>143
大県センターの鉄滓は5世紀半ばからすでに出る。
倭王朝は任那の鉄生産の衰微と侵略の危険性という、4世紀末以降の状況に
対応して、
 *供給源を百済に切り替える。
 *百済から技術導入して大県センターを築く。
という二重の対策を取ったのだろう。
147日本@名無史さん:04/10/29 23:08:20
http://www9.plala.or.jp/juraku/soki1_3.html

上記のページは面白い。
4世紀半ば、倭と百済の最初の出会いに前後して出てくる「しくまななかひこ」
「ちくまながひこ」「しまのすくね」は同一人物と見なされるが、この人の出自
はまったくわからないのだという。
またこのとき共同作戦した倭軍は大王の軍ではなく「しまのすくね」の「私兵」
であろう、と言っている。
148日本@名無史さん:04/10/30 02:44:20
>>145
そのサイト、朝鮮人じゃん。なんだよ「伽耶帝国」ってw
149日本@名無史さん:04/10/30 05:10:58
>>148
朝鮮人だから信用しない、読まない、というのがまさに反対派の偏狭さで
ある。
「伽耶帝国」という用語はたしかにおかしいが、全体として納得できる見方だ。
私はこの時期の倭軍がなんらかの豪族の私兵だった、という見方にまったく賛同する。
150日本@名無史さん:04/10/30 06:32:55
その「この時期」がいつかによるな。
151日本@名無史さん:04/10/30 10:40:01
>>149
漢字も読めない糞チョンの妄言を相手にするだけ時間の無駄だろ
152日本@名無史さん:04/10/31 05:38:13
>>149
もちろん、「この時期」とは倭がはじめて半島に進出した4世紀中葉のことだ。

ただし、全体を読んで見て、これもよくあるこじつけ文献学の一つであることが
わかった。そして文献学共通の欠点である考古学との結びつきの薄さも同じだ。
特にこの時期に一つの軍事的要素であり、倭への門戸に位置する金官の役割がすっぽり
抜け落ちているのが問題。

参考になる見方は:
*「しくまながひこ(しまのすくね)」が半島との関係を専管している。
*「しくまながひこ」は「加羅」となんらかの関係がある。

という2点だ。そして彼と加羅との関係は婚姻関係によって生じた、という
のだが、そんなまわりくどい考えより、「しくまながひと」その人が
金官系であり、それが三輪王朝に仕えていると考えたほうが早いのでは
ないか。
153日本@名無史さん:04/10/31 06:32:45
四世紀中葉? じゃぁ、ダメだな。
154日本@名無史さん:04/10/31 15:22:45
>>153
ダメの意味がわからん。
4世紀中葉以前に半島での倭の軍事行動はない。
155日本@名無史さん:04/10/31 19:23:25
七支刀の銘文自体解読不能なのに、書庫みたいに書いてある時点で電波決定。
156日本@名無史さん:04/10/31 19:25:09
>>155
書庫じゃなくて証拠ね。
この手の電波は韓国だと当たり前になってる。
157日本@名無史さん:04/10/31 23:08:11
>>156
しかしこの人は韓国ではあるまい。韓国ではこの程度でも書けないのではないか。
在日だろう。
158日本@名無史さん:04/11/01 09:18:37
>>156
この人の史観はむしろ旧来の文献学の範疇内だ。
大胆に再編集しているとはいえ全面的に日本書紀に依拠しているし。
(神功皇后も実在とする)

三輪王朝の発展の帰結として半島進出があったことになっている。
金官の存在や役割は無視。
加羅との関係は豪族の婚姻関係のみ。

>>88 が書いてくれたすじがきのほうがよっぽど革新的だ。
159日本@名無史さん:04/11/01 23:12:01
新説だからより正しくなってるとは限らないわけだが。
160日本@名無史さん:04/11/02 10:25:55
>>159
だから 88 が正しいとは限らない。
ただし金官の扶余王朝を無視しないことにおいて従来の説より進歩している。
161日本@名無史さん:04/11/02 21:14:13
×金官の扶余王朝を無視しないことにおいて従来の説より進歩

○金官の扶余からの文化的影響を無視しないことにおいて従来の説より進歩

または

○金官を扶余王朝と断定していることにおいて従来の説より錯誤
162日本@名無史さん:04/11/02 23:09:38
>>161
>○金官を扶余王朝と断定していることにおいて従来の説より錯誤

金官が扶余から文化的影響を受けた?
高句麗ならわかるがなんで遠く離れた満洲の扶余から文化的影響を受けるのか?
文化的影響を受けたらこれまでの王墓を破壊し、これまでなかった殉葬を
始めるのか?

163日本@名無史さん:04/11/02 23:22:42
大和の大王家は金官出自の渡来人でいいんだな。
164日本@名無史さん:04/11/02 23:33:21
実は古代極東アジアの王朝はみんな扶余系なんだよ。
仇敵の新羅人以外は。
165日本@名無史さん:04/11/03 15:46:25
半島内の倭人は考古学的に見て、4世紀以降に主に百済南部にいた
ということが、前方後円墳の分布によって明らかになっている。
つまり、3世紀ごろ任那(金官・伽耶)にいた倭人は、百済南部に移動し、
任那(金官・伽耶)は小国分立状態となった。特に、金官は扶余系の国に
なった。


という理解でいい?
166日本@名無史さん:04/11/03 15:54:30
>>165
こういう情勢になったのは高句麗の南下の影響が大きいと思う。
167日本@名無史さん:04/11/03 18:23:08
>>165
百済南部というか、その頃は百済領じゃないから馬韓南部というべき。

べつにそっちに移ったから加羅が小国分立になったわけではないだろう。
倭人はかなり以前から馬韓にも加羅にもいた。
168日本@名無史さん:04/11/05 02:02:42
アイシンカツラはフヨ、金なんだよね。だとすると満州国は同族が故地に建国
したわけで、フヨ本家の皇室としては、何の問題もないかっての故地を回収した
だけだよな。
当時の軍部はそれを理解したうえで満州事変などを起こしたのか?
169日本@名無史さん:04/11/05 02:08:39
さらに極端なはなし、扶余系は広い意味でのトルコ系も同族なわけ?
匈奴、鮮卑などと同じなら、その同族の領土は遠く欧州まで及ぶ罠

いま中国が高句麗を自国の歴史に編入しつつあるけど、放置してていいのか?
170日本@名無史さん:04/11/05 02:12:53
>>168
アイシンカツラですかああそうですか。
171日本@名無史さん:04/11/05 03:06:32
>>168
愛親覚羅(アイシンギョロ)は金ではあるが夫餘ではない。皇室も夫餘ではない。
しかし当時の軍部には「契丹古伝」 などのトンデモ古代史も知られていたから
168に似たような考えをもってる連中もいただろうね。

>>169
匈奴も鮮卑もトルコも、夫餘系には含まれないよ。
でも韓国のトンデモ古代史には匈奴も鮮卑もトルコも女真=金も
ぜんぶウリナラミンジュクニダ!っていう流派もある。

>いま中国が高句麗を自国の歴史に編入しつつあるけど、放置してていいのか?

ダメだろうね。日本は韓国にも中国にも批判的な立場をはっきりさせないといけない。
両国は「歴史なんてものは国益にあわせて都合のいいようにねじ曲げるものだ」と
思っていることを日本人に知らせるのに最適の見本になるはず。
そうしたらこんな連中と「歴史観を共有した教科書を作ろう」なんてアホなことを
言い出すブサヨに賛同する椰子はいなくなるだろう。
172日本@名無史さん:04/11/05 14:11:41
でも今の中国領土の中に高句麗首都なんかもあったし、時代的には地方政権のひとつ
として捉えてもおかしくない歴史がある。中国の場合イコール東アジア史になるから
便利だよな。日本もある時期は属国扱いなんだろうな
173日本@名無史さん:04/11/05 16:31:52
地方政権じゃないでそ。
モンゴルも満州もウイグルもチベットも台湾も日本も地方政権じゃないよ。
半島だって地方政権といえるのはモンゴル時代の高麗と、李朝時代だけだし。
174日本@名無史さん:04/11/06 15:19:38
>>173
半島は楽浪郡を置いて直轄地とした時期も含めると
大部分が属国だろ
175日本@名無史さん:04/11/07 02:50:07
楽浪郡は地方政権でも属国でもない。これは

「直 轄 地」

だw
176日本@名無史さん:04/11/13 13:24:53
>>175
形式的にはそうだが公孫氏がいばっていたころの実体は「地方政権」と言うに
ふさわしい。

>>173
なにを基準にするかだ。中国軍の駐留と行政監督官の常駐、これがあったかどうかを
基準にするならば、モンゴル時代の高麗は地方政権だが、李朝は日清戦争直前を除いて
そうではない。
177日本@名無史さん:04/11/14 14:13:18
>>176

【公孫氏について】
公孫氏の時代の楽浪郡は「公孫氏の」直轄地だよ。

【地方政権か否かの基準】
互いに上下関係のない甲国と乙国があって、
第三の国・丙国その両方に同時に朝貢ほかの臣従の礼をとっている場合には
丙国はどこかの国の地方政権とはみなせない。

ただし、丙国が特定の国・甲国にのみ専一的に臣従している場合は
たとえそれが形式的なもので軍や監督官の常駐がなかったとしても
地方政権とみなすことを妨げないと思われ。
178日本@名無史さん:04/11/14 15:58:50
>>177
公孫氏は本来の意味の地方政権だ。
地方政権は例えて言えば後の「軍閥」であるわけで、軍閥である張作霖政権が
地方政権ではなく、満洲が張の「直轄領」だと言っても意味がない。
それと同じ。中央あっての地方政権だ。

本来は朝貢国であるA國が、駐留軍や監督官を受け入れることによって
「地方政権化」すると考えるべきだ。
179日本@名無史さん:04/11/15 10:45:13
>>178
おいおい、それはおかしくはないか?

「地方政権=軍閥」とするならば、公孫氏を地方政権とするのは、まぁいいだろう。
公孫氏もりっぱな群雄だしな。しかし、そうすると中国の軍閥=群雄割拠の群雄は、中央政府から
駐留軍や監督官を受け入れてはいないだろ。(受け入れていれば割拠とも群雄ともいいにくい)。

あらためて「地方政権」とは何か、を考えよう。定義しだいでは、漏れは意見かえるよ。
【中央政府から駐留軍や監督官を恒常的に受け入れていること】が条件ならば、
確かに半島は中国の地方政権とはいえないが、公孫氏も中国の地方政権ではない。

漏れの考えでは【中央政府から駐留軍や監督官を恒常的に受け入れている】というのは
地方政権ではなくて、「属国」「保護国」「封建的な従属地域」などのイメージだが。
普通には「地方政権」というとむしろ中央に謀叛して独立している勢力だろう。
180日本@名無史さん:04/11/15 23:02:54
>>179
そうではないの。
朝貢国が駐留軍や監督官を受け入れたら「地方政権化」すると言ったのはいわば
比喩的なもの。そもそも地方政権と朝貢国では制度がちがうのだから、統一的な
法則は語れない。

そうではなくて、「中華世界のなかの独立国」である朝貢国が、駐留軍、監督官を
受け入れることによって独立性を損なって、独立性において地方政権と同レベルに
なってしまう、ということを言ったのだ。
181日本@名無史さん:04/11/16 07:55:13
エーッ!
172以後で180と同一人物はどれとどれなんだよ?
182日本@名無史さん:04/11/16 20:00:03
>>165
半島西南部(百済南部)の前方後円墳は5世紀以降の倭の半島経営による
二次的なものだ。
形式から九州と関係が深いと言われる。
183日本@名無史さん:04/11/16 20:18:24
そもそも「地方政権」というのは中国の制度の一部にあって独立性をやや強めたもの、
という意味だろう。
例えば古代の楽浪郡のような辺境の「郡」とか、唐の末期の節度使の一部とか、
清国の「藩」とか、を指すと思う。
だから形式的には中国の制度の外にある朝貢国である渤海や高句麗を「地方政権」
と呼ぶのははじめから比喩的なのだ。
どこまでその比喩があてはまるかは、人によって解釈が違うだろう。
中国が高句麗を「地方政権」と呼ぶのはものすごく広く解釈している、と私は考えるわけ。
それではあんまりだから私は「駐留軍と監督官の受け入れ」を一つの基準として提案した
のだ。
そうすると元の時代の高麗とか、清国の時代のシンキョウの自治政府とかが地方政権「なみ」
ということになる。
184日本@名無史さん:04/12/02 00:35:40
厨レベルの質問で本当に申し訳ないのですが…江上波夫の騎馬民族征服説及び、
水野祐の三王朝交代説が日本古代史研究に与えた影響って具体的にどういったものなんでしょうか?
それについて書かれた本だけでも教えて頂けると非常にありがたいです。。
185日本@名無史さん:04/12/02 00:42:23



例えば、日本人には10パーセントと高率に見られるハプロタイプは、
朝鮮半島に行くと二、三パーセント、中国大陸の北のほうでは1パーセント
程度しかないんですが、モンゴル共和国に行くと5パーセントに跳ね上がる
んです。そうすると日本人に最も多いハプロタイプはモンゴルから来た
らしいと分かるわけですよ。

http://www.interq.or.jp/dog/macendo/book009.htm


弥生人は騎馬民族。

186日本@名無史さん:04/12/02 01:10:31
日本および日本人を東アジアの中の視野でとらえたということにあるのでは?
また、万世一系とされてきた天皇の系譜に水野祐氏の三王朝交代説と共に疑問を
投げかけ、記紀だけによらない多彩な史料を用いて検証・分析することにより
その神格を否定したことにあるのではないかと思います。

間違ったたらごめんなさい(^^;
187日本@名無史さん:04/12/02 21:33:21

日本人最多のHLAであるB52-DR2の起源はモンゴル東部。
本州日本人に平均10%もの高頻度で検出され、
西日本人に至っては13%もの高頻度で検出される。

しかし、韓国人は1.4%、中国朝鮮族は2.2%、華北人は1%ほどしか検出されない。
しかし、韓国人は1.4%、中国朝鮮族は2.2%、華北人は1%ほどしか検出されない。
しかし、韓国人は1.4%、中国朝鮮族は2.2%、華北人は1%ほどしか検出されない。
しかし、韓国人は1.4%、中国朝鮮族は2.2%、華北人は1%ほどしか検出されない。
しかし、韓国人は1.4%、中国朝鮮族は2.2%、華北人は1%ほどしか検出されない。
しかし、韓国人は1.4%、中国朝鮮族は2.2%、華北人は1%ほどしか検出されない。

日本人と朝鮮人は新モンゴロイドの種からして違う。
つまり、朝鮮人は異人種です。もちろん華北人も。

しかし、モンゴル人には5.9%も検出される。
188日本@名無史さん:04/12/02 21:37:38
日本人最多の弥生系日本人のHLAは朝鮮人とは全く異なり、
モンゴル人の方が遥かに近い。

これは一体何を意味しているのか?

つまり弥生人は、モンゴル東部から朝鮮半島を一気に突き抜けて西日本に
上陸した事に他ならない。

騎馬民族説は間違いではなかった。
時代は違うけどね。

おまえら良かったな。
189日本@名無史さん:04/12/03 21:52:14
いや遺伝子よりも騎馬民族説が古代史研究について与えた影響が…
190日本@名無史さん:04/12/03 23:04:28
馬に乗った倭人=モンゴル
鍬を持った倭人=弥生人
191日本@名無史さん:04/12/03 23:20:53
モンゴル方面から来た弥生人は移動途中の朝鮮南部で水田稲作と乗船を覚え
九州北部に上陸。

でも、その時には日本にも水田稲作はあったけどね。
192日本@名無史さん:04/12/03 23:50:46
朝青龍みたいな顔だったんだろうか。弥生人って。
似てる日本人結構居るけど。
193日本@名無史さん:04/12/04 04:27:00
渡来系の弥生人骨って、キツネ顔だろ。どこがモンゴル人なんだよw
194日本@名無史さん:04/12/05 12:27:13
顔は引き目鉤鼻が良しとされたんだよな平安の頃は。
つまり仏像の顔なんだが、そうなると南方系の顔はきついな。
だが飛鳥のころは目鼻立ちが少々でかくても良かったみたい。
目のふちに墨を入れて強調したりする化粧もあったし。
もっと前は、どうだったんだろ。埴輪は今度はのっぺり顔だな。
わかんないや。

195日本@名無史さん:04/12/05 17:10:19
モンゴル人って基本的にキツネ顔だろ。
196日本@名無史さん:04/12/06 02:27:51
古墳時代の外航船が出土・大阪の蔀屋北遺跡

 大阪府四条畷市の蔀屋(しとみや)北遺跡を調査中の同府教育委員会は2日、
古墳時代中期(五世紀)の外洋航海用の「準構造船」の部材を発見したと発表した。
従来埴輪(はにわ)でしか見つかっていない「西都原(さいとばる)式」という型式で、
実物を確認したのは初めて。当時の海上交易の実態を知る上で貴重な資料という。
 準構造船は丸太の内側をくりぬいた丸木舟を船底に使い、両舷に板を取り付けて
船体を大型化した船。板や角材を組み立てて建造した「構造船」が登場するまで、
弥生―古墳時代に使われた。見つかった部材は船底部の二点で、井戸枠に
転用されていた。スギ材で、長さは2.5―2.65メートル、幅は82―97センチ。
復元した場合、船の全長は10メートル前後と推測される。溝やほぞなど加工痕から、
当時の準構造船を代表する西都原式とみられる。同遺跡は、馬具や馬の骨など
馬の飼育に関連する遺物や、朝鮮半島系の土器が大量に見つかっており、
渡来系氏族の集落だったとされる。

ttp://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20041103AT1G0202F02112004.html
197日本@名無史さん:04/12/06 17:00:37
外航船、渡来系氏族、馬。
馬が外航船に乗せられて渡来した証拠だな。
198日本@名無史さん:04/12/06 18:31:04
10m程度の船で馬が運べたと考えるやつはアホ。

子馬を連れてきて日本で繁殖させたんだよ。
199日本@名無史さん:04/12/06 18:39:23
200日本@名無史さん:04/12/06 19:09:17
>>195
朝青龍の一家とか見てたらわかるが、モンゴル人は丸顔が多い。
フビライの肖像画も丸顔だ。
201日本@名無史さん:04/12/06 19:17:56
半島との往来で、馬を運搬した、という場合、
成馬か仔馬かは語られていないね。

船の大きさから考えても、仔馬を運んで育てたと考えるのが自然な気がするが。
そうなると、その時代に騎馬船舶による侵攻というのは考えにくい。

あと、騎馬民族説では、
なぜ河内まで進みながら、
一挙に大和まで侵攻せずに、
そこに留まって従民政策を長期継続してたのか
真意が不明だ。
202日本@名無史さん:04/12/06 19:31:32
去勢・蹄鉄を知らない騎馬民族。 と言えるかよ
203日本@名無史さん:04/12/07 10:57:12
去勢しない騎馬民族もいるよ。
蹄鉄なんか8世紀になってから。
トンデモ佐原信者
204日本@名無史さん:04/12/07 11:06:16
205日本@名無史さん:04/12/07 11:34:46
去勢しない騎馬民族

トゥバ族
206日本@名無史さん:04/12/07 11:47:30
ALDH2多型から見た日本人民族の構成
http://homepage1.nifty.com/koutarou/insyuidenshi.html
初めて日本を統一した大和朝廷の中心地域は最もALDH2*2遺伝子の頻度が高く、
そこから東西へ行くに従い低くなっていくことが見えてくる。

古墳時代に大和に騎馬民族が来てそこからALDH2*2が拡がったと考えると判りやすい。
ただし、韓国はALDH2*2が日本より少ないんだそうだ。
騎馬民族が韓国を経由して来たとは考えにくい。
207日本@名無史さん:04/12/07 21:17:30
ゲルマン民族の大移動くらい知っていると思うが、
中でもヴァンダル族はドイツのベルリンあたりから北アフリカのチュニジアの
チュニスまで、とんでもない大移動をしているのだよ。
モンゴル人が朝鮮を経由して西日本まで大移動をしていても何ら不思議ではない。

弥生人は朝鮮半島人ではなく、B52-DR2の起源であるモンゴル東部あたりに
居た集団。民族大移動で朝鮮半島をごく短期間で通過して九州北部に上陸して、
朝鮮半島から消えてしまった集団。
弥生人にとって朝鮮半島とは単なる通過地点に過ぎなかったようだ。
その事が、B52-DR2の頻度を比較するとよく分かる。

本土日本人 10%、モンゴル 5.9%、中国朝鮮族 2.2%、韓国人 1.4%、中国北部漢族1%
208日本@名無史さん:04/12/07 22:24:34
>>207

弥生時代が北部九州から始まった事をどう解釈するんだよ。
九州はALDH2*2が少ないんだぜ。
209日本@名無史さん:04/12/07 22:47:36
いやあ、良い指摘をしてくれるね。

実はB52-DR2も九州には少ない。九州で多いのは九州北部のみです。
多いのは九州北部〜西日本。かなり離れて秋田にも多い。

弥生人は最初は九州北部だけに住んでいて、その西部も南部も土着系
の縄文人と接していて、お互いに住み分けていたらしいのですよ。

人口増加とともに、西部にも南部にも行けない弥生人たちは、
東進して中国地方に入り、海岸線伝いに広がっていったという訳ですよ。
210日本@名無史さん:04/12/09 00:21:28
後世、日本人がモンゴルに渡ったとは考えられないのか
211日本@名無史さん:04/12/09 01:37:08
実は僕もそれも考えたんだけどね。
あれこれ色々考えたよ。
実はB52-DR2は縄文人のものではないかとか。
でも、やっぱり弥生人はモンゴルの近くから朝鮮を素通りして
海を渡って九州北部へと大移動してきた集団みたい。

212日本@名無史さん:04/12/09 10:00:13
>>198
なるほど、子馬を連れてきたか。新説だな。それでも外来種には違いない。
日本書紀によれば日本は5、6世紀には朝鮮へ数十頭単位で馬を送っているが
これも子馬の形で連れていったのかな?
213日本@名無史さん:04/12/09 21:40:33
蒙古倭人が朝鮮を素通りして至極短期間で九州北部にやって来れたのは、
やっぱり馬のお陰なんかいな?
214日本@名無史さん:04/12/09 22:44:21
>>202
前にも書いたが、5世紀に今の長野県や群馬県に入って馬牧場を開いたのは
百済系の馬飼育技術者だ。
だから半島で去勢が行われていたのならその技術は必ず上記の地方に入って
いるはず。
後世に去勢の習慣が見られないと言うのなら、それは二次的に消滅したのだ。
それとももともと半島でもその習慣がなかったか、どちらかだ。
215日本@名無史さん:04/12/09 23:22:03
だ〜か〜ら〜、
もともと朝鮮半島は騎馬民族が発祥した場所ではない。
通過地点のひとつだからDNA的つながりが少なくても
驚くような問題じゃないだろ。
216日本@名無史さん:04/12/09 23:22:41
>5世紀に今の長野県や群馬県に入って馬牧場を開いたのは
>百済系の馬飼育技術者だ。


ソースは?
217日本@名無史さん:04/12/09 23:45:34
「百済系」と言ったら、半島に植民地を開きに来た漢民族か、
その手下の扶余族。いずれにしろ中国人だ罠。
218日本@名無史さん:04/12/09 23:50:20
さすがに夫余は華北人ではないだろ。
満州からだろ。
219日本@名無史さん:04/12/09 23:55:15
弥生人は消えた古代トルコ人かもな。
220日本@名無史さん:04/12/10 09:18:49
おもいきりあり得ないことばかり書いてるアホがいるね
221日本@名無史さん:04/12/10 15:37:55
>>216
例えば次のページを読まれたし。
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai00/tz2012.html

そのなかで大塚初重・明大名誉教授はつぎのように述べている。
「私はいま、大室古墳群の積石塚の出現は馬の飼育に関わる集団のものと思って
います。<中略>
つまり、東日本における馬の飼育は、五世紀代の後半には長野県の善光寺平でも
かなり大規模に行なわれ始めていた。その技術を持ち込み、馬の飼育を担った
のは、渡来系集団である、ということですね。」

この積石塚古墳の特徴が百済系とされる。
この古墳群には積石塚古墳の他に土着系の古墳が混在する。
従来、積石塚はもっとも新しいもので、百済文化の流入の影響であると説明
されてきた。しかし土器の編年から、実は積石塚が最も古いことが証明された
のである。つまり5世紀に入った百済系の飼育技術者集団が積石塚を築き、
その後土着系で薄められたのである。
222日本@名無史さん:04/12/11 08:40:42
「去勢がないから来なかった」説など、「事実」の前には屁のようなものだな。
223日本@名無史さん:04/12/12 16:01:01
前スレ >646 リンク先、URL変更

*武寧王陵(宗山里古墳群)
ttp://inoues.net/yamataikoku/korea/buneiou.html
   ↓
ttp://inoues.net/korea/buneiou.html

邪馬台国大研究
ttp://inoues.net/
“22.日本人の源流をもとめて” 東の百済へ
224日本@名無史さん:04/12/12 17:55:03
歩兵の大和朝廷軍が、騎馬集団の蝦夷に偉く苦労していた。
蝦夷の騎馬集団にならって、大和朝廷軍は騎馬を導入したくらい。

山田町の「房(ぼう)の沢古墳群」(7世紀末〜8世紀)から見つかった出土品を紹介する埋蔵文化財展が、
同町中央公民館で開かれている=写真。蕨手刀(わらびてとう)など大小20振りの刀剣類や馬具、農具などの
豊富な鉄製品が目を引き、遠い古代にこの地を支配した蝦夷(えみし)と鉄との深いつながりがうかがわれる。
225日本@名無史さん:04/12/12 17:59:51
「房の沢古墳群」埋蔵文化財展 刀剣や馬具など紹介−−山田町 /岩手

 山田町の「房(ぼう)の沢古墳群」(7世紀末〜8世紀)から見つかった出土品を紹介する埋蔵文化財展が、
同町中央公民館で開かれている=写真。蕨手刀(わらびてとう)など大小20振りの刀剣類や馬具、農具などの
豊富な鉄製品が目を引き、遠い古代にこの地を支配した蝦夷(えみし)と鉄との深いつながりがうかがわれる。
28日まで。
 古墳時代末期から奈良時代にかけて造られた同古墳群は山田湾を望む標高60〜35メートルの丘陵にあり、
39基が確認。96年の三陸縦貫自動車道山田道路工事に伴う発掘調査で分かった。沿岸部の末期古墳として
は宮古市の長根古墳群に次いで2例目。
 未盗掘だったことが大量の出土品をもたらした。刀剣を包んだと思われる絹布の繊維も残っていた。武器や農
具などの豊かな鉄製品は鉄の生産を、馬の墓や副葬品の馬具からは戦闘での騎馬を、黒曜石などは北方との
交流を思わせる。集落跡は見つかっていない。
 見学者の一人は「山田にも昔、素晴らしい先人が暮らしていたと分かって歴史が身近になった」と熱心に見入っ
ていた。
ttp://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/iwate/archive/news/2004/11/24/20041124ddlk03040155000c.html

        蝦夷とアイヌ          
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1076561137/   @考古学
226日本@名無史さん:04/12/13 21:09:24
山の多い細長い島国だから、おんまで来たら大変だろうな。
海岸を行くと100キロに1本は大河川を渡河しないと行けないし、
内陸は登山道くらいの峠道を無数に越えなきゃならんだろう。
足手まといだよ馬は、船を操る民が断然強い、古代日本では。
227日本@名無史さん:04/12/13 22:39:48
その通りだと思う。古代の交通はまず海と川だ。
馬だって船で運んだ方が早い。
河内王朝の馬もそうやってもたらされただろう。
228日本@名無史さん:04/12/14 06:10:32
「船に載せた馬」というのは九州の古墳壁画のテーマだね。
229日本@名無史さん:04/12/14 13:44:47
当初が傭兵で、それが領地を下賜されたとすれば、「馬の大群」よりも領地の
ほうが先だったこともあり得る。
その後、領地まで安全に馬を海上輸送し、馬が溜まったところでクーデターを
行うこともできる。
230日本@名無史さん:04/12/14 22:42:29
当初傭兵として入ったものが領地を得て、次の段階で王位を得た例は
バイキングのシチリヤ王国がある。
あるいはシャム王国の日本人傭兵隊長である山田長政も暗殺されなければ
王位をねらえる位置にあった。
231日本@名無史さん:04/12/15 22:05:25
多分、馬が大して役に立たなくても馬が欲しかったんだな。
当時の船では馬を運ぶのに大変だったろうが、騎馬民族の性という奴か。

かなり無理して運んだんだろう。

奴らが持ってきたのは馬だけではないぞ。
それまでろくな武器もなかった列島に甲冑類を持ち込んだ。
http://www.museum.osaka-u.ac.jp/valuable_specimen/sample0003.html
この甲冑類は元寇の時にモンゴル軍が着ていた物と殆ど変わらない。

これでも騎馬民族が来なかったと言うのかね。
232日本@名無史さん:04/12/15 23:47:30
しかし、なんで西日本人のHLAは近隣の朝鮮人とは全然異なり、
遠方のモンゴル人に近いのか?
誰か教えて欲しい。

ふぅー、全くもってミステリーだよ。

「ハプロタイプは、いったん形成されると何十万年かそれ以上も
維持されて、そう変化しない。地球上の別の場所で、同時多発的に
形成されることは考えられないから、ハプロタイプをたどっていくと、
人類の移動や拡散の道筋が分かるのである。」

という事なんだが。
233日本@名無史さん:04/12/15 23:58:48
>>231
まあ、人と物の区別はつけておいた方がいいよ、いい加減。
234日本@名無史さん:04/12/16 08:58:20
>>233
関西、中部に多いALDH2*2はモンゴル発祥の遺伝子だ。
今ではモンゴル人より多いんだぜ。
おまけに積石塚という墓が五世紀に沢山作られるんだが、この墓は紀元前から大陸の遊牧民の間に作られていた。
満州にも多い。

言語だって日本語と高句麗語と数詞が一致しているし、高句麗と扶余は言語一致していると魏志に書いてある。
扶余とモンゴルは隣接していたから言語も似ていた。

考古と遺伝子、言語が一致してモンゴル発祥を示しているのになぜ否定するんだ?
235日本@名無史さん:04/12/16 20:26:00
>>232
B52-DR2の起源はモンゴル東部あたりとされているが、
今のところモンゴル人の約6%というのが日本以外では抜きんでている
というだけで、日本人の10%という高頻度には全然届かない。
実際はもっと北部のブリアートあたりだと思うな。
236日本@名無史さん:04/12/16 20:46:04
Gm遺伝子  日本民族は中国人や朝鮮人よりも北方系 
ttp://www3.mahoroba.ne.jp/~npa/narayaku/image/dna_map.jpg 
バイカル湖付近で最も高い黄色のGmab3st遺伝子が朝鮮人は日本人の半分しかない。 
中国は南方系の赤のGmafb1b3遺伝子が多く黄色のGmab3st遺伝子が少ない。 
237日本@名無史さん:04/12/16 20:52:37
問題は、
どうしてモンゴルあたりから日本に来る必要があったのか?
どうやって来たんだ?
そのルートは?
何で朝鮮には居ないのか?


もう謎だらけ・・・
238日本@名無史さん:04/12/16 22:32:32
>>231
元寇のモンゴル軍と比べるのは時代がへだたり過ぎ。
しかしこのページの「蒙古型鉢兜」は伽耶地域から殆ど同じものが出る。
また吉林省の扶余遺跡からの出土品および高句麗の古墳壁画とのつながりがある。
239日本@名無史さん:04/12/16 23:13:06
221>>
積石塚は高句麗系だとと思うが。魏志東夷伝にも高句麗は
「積石為封」と記されているし、長野県は日本で一番積石塚が多く、
前部黒麻呂や後部王起等、高句麗人の移住が多い所であるし。
237>>
東胡(おそらくモンゴル系で遊牧民と言うより半農&半牧あるいは半猟)
でも鮮卑慕容部は、遼東半島や山東半島まで移動したがどうだろうか?
240日本@名無史さん:04/12/16 23:23:15
>>196 参考 元寇時の蒙古船サイズ→約40m

元冠船の木石碇(いかり)から文書にない歴史を掘り起こす

 九州北部伊万里湾の鷹島周辺は、弘安の役(1281n年)で、元冠船が台風に遭遇した所として知られている。
この海域から発見される大小さまざまな長柱状の岩石は「蒙古碇石」と呼び慣わされてきた。 1994年、鷹島
神崎港沖の水面下21mの海底から、木と石でできた碇がまとまって出土した。大きい碇は歯の長さが3.15m、
全長が約6mで、163.5kgと174.5kgの一対の花崗岩製碇石を装着していた。碇のサイズから、竹索で繋がれて
いた船の大きさは40mを超える超大型船であることも明らかになった。この超大型船は元冠船なのだろうか。
どこで建造されたのか。 年代測定総合研究センターは、新しく提示されたこの問題に取り組んだ。
まず、木石碇の製造年代を明らかにするために炭素14年代測定を行った。竹は年で生長し、比較的若いもの
を伐採直後に加工するので、竹の炭素14年代は碇の製作年代に近いと考えられる。得られた年代は1268年
から1284年の範囲になる。クビライが日本侵攻のための造船命令を発したのは1279年で、40m級の超大型船
は元冠船と考えてよい。
241240:04/12/16 23:23:35
 碇は普通、船の建造地で積み込まれるので、碇石の産地を特定することが船の建造地を推定する鍵になる。
出土した碇石は、日本には産出しないアルカリ長石花崗岩で作られていた。 CHIME法で測定した結果、
碇石は1憶600万年〜1憶800万年前にできた岩石であることが判明した。同時に朝鮮半島と中国南東部の
花崗岩の年代を測定した結果、碇石と同じ年代をもつアルカリ長石花崗岩は福建省の泉州付近にのみ分布
していた。 40m級の超大型船の建造地は泉州と考えて間違いない。
 マルコポーロの東方見聞録にも記載されているように、南宋末期から元の時代、泉州は世界最大の貿易港
であり、ムスリム(イスラム)商人を中核とする貿易船団の拠点であった。泉州の貿易船団は当時の最も強力な
海上勢力(海軍)であり、蒙古は南宋滅亡前からムスリム勢力との接触を画策していたことが知られている。
鷹島で沈没したのは蒙古軍の指揮部および主力の船艦であると考えられるので、神崎港沖の40m級の
超大型船も蒙古軍の中枢をなしていたに違いない。この船艦の建造地が泉州であることは、ムスリム商人が
船や船員の提供という形で蒙古軍の指揮部や主力部隊の輸送に大きく寄与したことを示唆し、元寇の意味を
考え直すきっかけとなった。年代測定は文書に記されない歴史を掘り起こし、文理融合の新しい研究領域
を開拓しつつある。
ttp://www.sci.nagoya-u.ac.jp/kouhou/06/p16_17.html
242日本@名無史さん:04/12/16 23:31:37
>>239
日本人のB52-DR2の10%という高頻度から見ると、
モンゴル付近から来た渡来人はほとんど純血種。

しかも朝鮮南部の影響を受けた土器や稲作道具を九州北部に持ち込んだ。
この点で華北説は霞んでしまう。

やはり朝鮮を素通りしてごく短期間の移動で日本に入ったのではないか?
243轢死禍:04/12/17 00:49:02
半島人はどう見たって三系統の人相があると思えるんだがどうかね?
あやつらはもともと一民族じゃないだろう。
あてずっぽで、十系統くらいありそうな我が日本民族に比べたら、まだ純潔度が高そうだが…
どうなん?
韓国あたりの民族史研究家はどう見てるん?
244日本@名無史さん:04/12/17 09:58:14
>>243
三韓の地域でそれぞれ違う人種だったんじゃないか?
245日本@名無史さん:04/12/17 18:53:50
246日本@名無史さん:04/12/17 20:22:54
なんでシュリーヴィジャヤの仏像が、
南伝仏教の絡みで問題にされないのか疑問だ。
衣紋など白鳳時代と同形式のものがジャワでも見られる。
能面にしてもインドネシアヒンドゥー文化と無関係なんだろうか。
室町時代末期に舶来の茶器が面白いものともてはやされたように、
南北朝初期に一部の能面の原形となる仮面がヒンドゥー文化圏から渡来したのではないか。
能面韓国由来説もあったが、
むしろ日本と韓国の面に南方の珍奇な仮面を真似たのが最初のものもあるのではないか。
247日本@名無史さん:04/12/17 22:40:23
飛鳥(あすか)の語源。
http://www.sikasenbey.or.jp/asuka/asuyura.html
渡来人が日本に来て安住の宿とした場所を安宿(あすか)となずけた。
安宿は、朝鮮語でアンスク、これが訛ってアスカになった。

大阪にも飛鳥という地名があって安宿郡飛鳥って ゆーじゃない。

奈良の飛鳥も渡来人が多数居たことは既知の話 切ーりー!

やっぱ渡来人が来て大和王朝を作った事は 間違いない!!
248日本@名無史さん:04/12/18 00:04:04
夫餘とモンゴルはぜんぜん時代がちがうのに
平気で「隣接してる」なんていうアホはどうにかならんのか。
249日本@名無史さん:04/12/18 01:26:10

日本人最多のHLAであるB52-DR2の起源はモンゴル東部。
本州日本人に平均10%もの高頻度で検出され、
西日本人に至っては13%もの高頻度で検出される。

しかし、韓国人は1.4%、中国朝鮮族は2.2%、華北人は1%ほどしか検出されない。
しかし、韓国人は1.4%、中国朝鮮族は2.2%、華北人は1%ほどしか検出されない。
しかし、韓国人は1.4%、中国朝鮮族は2.2%、華北人は1%ほどしか検出されない。
しかし、韓国人は1.4%、中国朝鮮族は2.2%、華北人は1%ほどしか検出されない。
しかし、韓国人は1.4%、中国朝鮮族は2.2%、華北人は1%ほどしか検出されない。
しかし、韓国人は1.4%、中国朝鮮族は2.2%、華北人は1%ほどしか検出されない。

日本人と朝鮮人は新モンゴロイドの種からして違う。
つまり、朝鮮人は異人種です。もちろん華北人も。

しかし、モンゴル人には5.9%も検出される。
250日本@名無史さん:04/12/18 03:41:40
↑現代の遺伝子分布みただけじゃ過去の情況はわからんよ。
251日本@名無史さん:04/12/18 09:22:26
去勢がないというだけで騎馬民族説葬ろうとした佐原真ってキティガイ。

歴博って最近弥生時代500年繰り上げたり、トンデモの巣窟。
252日本@名無史さん:04/12/18 15:14:45
>>247

「平ら」という意味の「なら=奈良」の語源を、
現代韓国語で“解読”して「なら=国」と言い張ってる人もいますけど。

「わっしょい」という掛け声の語源は現代韓国語の「ワッソ=来た」だと信憑性のないことで、
在日系関西興銀支援で「四天王寺ワッソ」なんてやってるらしいです。


奈良が地形なんだから、飛鳥も地形でしょう。

あすかの語源 [地形説]

地形を表現する単語が合成されて出来たもので、ア(接頭語)スカ(洲処
ー川水、海水等によって生じた砂地)、或いはアス(浅すー川、海等が浅く
なる又は水が涸れる)+カ(処)もしくはアス(崩地)+カ(処)であるという説。
253日本@名無史さん:04/12/18 21:47:09

>>252
>現代韓国語で“解読”して「なら=国」と言い張ってる人もいますけど。

俺もそれはあまり根拠を認めないけど
朝鮮語の「マウル」が日本語の「ムラ」と関係があるのは否定しようがない。
日本に「○○マル」という地名が数多く存在するのも関係があるだろう。

>地形を表現する単語が合成されて出来たもので、ア(接頭語)スカ(洲処
>ー川水、海水等によって生じた砂地)、或いはアス(浅すー川、海等が浅く
>なる又は水が涸れる)+カ(処)もしくはアス(崩地)+カ(処)であるという説。

その答えは「スカ」!!

飛鳥に渡来人が沢山居たのは事実。
なぜ渡来人が多数いる中に都を作ったのか?

よーく 考えよ〜。事実は大事だよ〜♪。
254日本@名無史さん:04/12/18 22:13:46



5C、7C、古墳時代以降、属国民や難民として日本にやって来て
帰化した朝鮮半島人は全部合せても7〜8000人程度。

仮に多く見て、朝鮮半島人が1万人来たとしても、
古墳時代の日本人口が400万人ほどであったから、
単純に計算すると、1万÷400万=0.0025となり、
どんなに多く見ても、

朝鮮半島の血など、日本人の血の僅か 0.25% 未満に過ぎない事が分かる。




255日本@名無史さん:04/12/18 22:23:56
嫌韓の希望的観測
256日本@名無史さん:04/12/18 23:11:48
>>254
人口比を問題にするのなら中国を征服して清帝国を建てた満洲族と征服された
中国人の人口比はどのくらいか考えて見よ。
257世界@名無史さん:04/12/18 23:25:39
そうやって自分たちの加害行為を強行したり黙認したり出来る人達が恐ろしい。
258日本@名無史さん:04/12/18 23:37:05
>>239
ソースは下記のページだが良く読むと長野県の積み石塚古墳が百済系というのは
この人の説ではなかった。
ttp://www.wako.ac.jp/souken/touzai00/tz2012.html

長野県の積み石塚古墳には大型の合掌型石室があり、これを百済の合掌型石室
と関係づけるのが従来の説。
ところが最近の知見では長野県の合掌型石室付き積み石塚が5世紀と古いのに
対して百済のそれは6、7世紀と新しいことがわかってこれは成り立たなくなった。
このページの著者も高句麗系ではないかと言っている。

いずれにしても5世紀に渡来系の人達が日本の長野県、群馬県などに大規模馬牧場
を開いた、という事実は変わらない。

259日本@名無史さん:04/12/18 23:54:03
>>248
夫余は東胡(モンゴル系)の鮮卑や豆莫婁と隣ですが。モンゴル部は
興安嶺の室韋(狩猟+漁労+農業+牧畜「無羊少馬多豚牛」)が
ルーツでは?
>>251
確かに去勢説だけではわからん。
東胡(モンゴル系)の柔然(6世紀頃ヨーロッパに侵入し、
北はバルト海、西はエルベに達する地域を支配下に収めたアバールと
同種族か近縁かわからんが)について、魏志によると
「古来愚で頑固と云われ、いつも掠奪に来るごとに、メス牛にのって
逃げ、去勢牛をあとにしたがわせたので、メス牛は坐りこんで進まな
かった。他部族の人で、去勢牛に変えるよう教えた者があった。」と
記してありもともと狩猟民(半農?)で余り家畜について詳しくない
ようだが。
それとHLAの西日本=モンゴル系は興味深い。
260日本@名無史さん:04/12/18 23:55:49
人の話をよく聞け、おまいら。
構造がアプリオリなものであるはずないじゃんよ。
261日本@名無史さん:04/12/19 00:53:51
>>247
大和朝廷がいつから存在してたか知ってるのか?
262日本@名無史さん:04/12/19 09:58:22
モンゴル辺りから入ってきた日本人最多のHLAは朝鮮半島には全然無い。
弥生人からも敬遠される朝鮮半島って一体・・・
263日本@名無史さん:04/12/20 11:40:15
>>262
モンゴルから来たのは 弥生人じゃないって。
弥生人は定説どおり江南。

モンゴルから来たのは、いわゆる騎馬民族。馬を連れてきたかどうかは不明だけど。
江上氏は朝鮮半島を経由してきたみたいに言っているが、豆満江あたりから直に日本海ルートで但馬、丹後、近江、越前あたりに来たと考えられる。
平安時代の渤海との交流はこのルートだった。

森浩一氏は「騎馬民族を想定するなら、考古的には崇神天皇や応神天皇より継体天皇の方が合っている。」と言っている。
264日本@名無史さん:04/12/20 20:41:55
出たあw
265日本@名無史さん:04/12/20 21:23:02
北陸あたりに多いHLAはB44-DR13で、これは満州東南〜東部が起源と見られ、
モンゴルには少ない。

弥生人が持ち込んだ日本人最多で、特に西日本に非常に高頻度な
HLAはB52-DR2。これがモンゴルに多く、朝鮮には少ない。
266日本@名無史さん:04/12/21 11:06:20

>弥生人が持ち込んだ日本人最多で、特に西日本に非常に高頻度な
>HLAはB52-DR2。これがモンゴルに多く、朝鮮には少ない。

だから満州から直に畿内に入ったのがモンゴルとか鮮卑だろう。
西日本というが九州はさほど多くない。濃いのは畿内だ。

http://www.athome.co.jp/academy/genetic/gen04.html
下戸遺伝子は畿内中部中心に拡散した。
ALDH2*2の分布を見れば弥生人が下戸遺伝子を広めたのではなく、古墳時代にやってきた民族がいて
古墳文化の広まりと共に下戸遺伝子が広まって行った様子が見てとれる。

なお、倭人伝には「倭人は人性酒を好む」と書いてあるから、3世紀にはこの遺伝子はなかったものと思われ、
これ等の遺伝子が4,5世紀あたりから畿内に入って次第に広まったものだろう、とも推測可能だ。

だからこれでも弥生人がB52-DR2やALDH2*2をもたらしたのではなく、所謂騎馬民族とされる民族が古墳時代に来て
支配者になったと考えなければ説明が出来ない。

これこそがモンゴルか鮮卑族が来て大和朝廷を作った証拠だ。
支配者でなければ遺伝子をこのようには広められない。


267日本@名無史さん:04/12/21 16:38:00
鮮卑がモンゴル系だというのはあくまで鮮卑語の言語系統がモンゴル語と同系だということであって
人種的に(遺伝子的に)同系だという意味ではない。
人種的には(遺伝子的には)鮮卑は中央アジア人種(トゥラン人種)であって、
北方モンゴロイド(ツングース人種)とは系統がちがう。
268日本@名無史さん:04/12/21 21:04:12
九州北部にはB52-DR2が多いよ。
満州から北陸に来た集団が持ち込んだHLAはB44-DR13で、
これは北陸から秋田にかけての日本海沿岸に多いが、畿内は多くない。
つまり弥生人は北陸から入った集団ではない。

弥生人が持ち込んだB52-DR2は九州北部、中国地方、近畿に多く、
弥生人は九州北部から東進していったと考えられる。
269日本@名無史さん:04/12/21 21:12:10
>>266
おまえ妄想が過ぎるぞ。
270日本@名無史さん:04/12/22 07:25:49
判った。
おまえら下戸だろ。
271日本@名無史さん:04/12/22 22:03:05
モンゴル系は興安嶺を南下して来たので、馬飼育に適したモンゴル高原や
熱河方面に来るまで柔然のように、初期においては馬より牛が重要かも、
まだ満州平野の方が馬飼育に適していたともいえる。

満州から東日本への騎馬文化の影響はあったが、牛文化はどうか。
平安貴族の乗る牛車等は西日本的で、東日本は車文化は未発達といえる。
これも東西日本の移住集団の違いか?

ヨーロッパや漢民族は馬車文化的。
モンゴルは房車、荷車を牛にひかせる「秘史」の伝える牛車文化。
中国とは遣唐使等交流のあったのになぜ馬車でなく牛車なのか。
西日本の牛車文化はモンゴル的ともいえるのではないか?
272日本@名無史さん:04/12/23 14:56:18
モンゴルモンゴルというが扶余がモンゴルと関係があったということではないのか?
273日本@名無史さん:04/12/23 15:01:56
高句麗壁画に牛車の絵があって平安貴族の牛車と瓜二つなんだが。
高松塚古墳の壁画も高句麗壁画とそっくり。
モンゴル文化は高句麗経由じゃないか?
扶余は高句麗と同族だし。
274日本@名無史さん:04/12/23 17:33:43
モンゴル的でも内陸アジア的でもよいのだが。高句麗の牛車も
鮮卑族の影響かもしれん。それと江上波夫は松本清張氏との対談
(「謎の源流」角川書店)のなかで、江上氏はこう発言される。

「モンゴル族のいたところと、ツングース族のいたところには明確な
自然地理的境界がなかった。だから遼東の鮮卑などと言われて、
鮮卑が遼東まで来たこともあるのです。そうすると高句麗などとも
隣接することもあったわけです。(中略)夫余はモンゴル族なのか
ツングース族なのか、はっきり言えないと思いますね、あるいは
夫余は東胡と同じで、烏丸・鮮卑と同種でないかとも思うのです。」

「彼らは、モンゴル的なツングース族ではないかと思う。しかしその民族の
中から高句麗や百済が出てくるような頃になると、モンゴルの血は
薄くなって、韓人の血が濃く混じってゆくことになったのではないか。」
275日本@名無史さん:04/12/23 21:44:36
高句麗や百済は扶余と言っても文化的人種的にいろいろ混じっただろうが、
金官にやってきた扶余は素朴な木郭墓を保存しているところから見て
吉林省北部からまっすぐやって来たと思われる。
扶余がモンゴル的だったとすれば金官の扶余はまだその血が濃かっただろう。
276日本@名無史さん:04/12/24 17:21:25

日本の下戸遺伝子比率は中国北部(北京?満州?)より濃いし、
中でも近畿、中部は圧倒的に濃い。

純血種に近いモンゴルだか扶だか鮮卑が来て大和朝廷を作ったと
考えなければつじつまが合わないことになる。
277日本@名無史さん:04/12/24 19:20:29
HLAのB52-DR2もな。
頻度が、

西日本13%、韓国1.4%、モンゴル5.9%

モンゴルあたりから、いきなり西日本に瞬間移動したとしか思えない。

でも、そんなオカルト的な事は有り得ないので、
やはりモンゴルあたりから朝鮮半島を一気に素通りして九州北部に
民族大移動してきた足の速い集団が弥生人だったのだろう。

その後、人口を増やしながら東へと広がっていったのが倭人であり、
大和民族だったのだろう。

278日本@名無史さん:04/12/25 00:45:55
「騎馬民族の道はるか」という本に4世紀末から5世紀初めに金海辺りにあった王朝が5世紀前半に忽然として姿を消した。
と主張する韓国の学者がいると書いてある。

民族移動だね。国がそっくりなくなって日本に来たというのか?
279日本@名無史さん:04/12/25 00:57:05
>>277
ハンガリーやフィンランドみたいにかつては全土を覆っていたけど
後発の民がまんなかに来て飛び地だけ残りました、ってのがありがちじゃね?
280日本@名無史さん:04/12/25 14:31:32
>>274
江上はたいした根拠もなく御都合主義的な憶測ならべてるだけだな。
281日本@名無史さん:04/12/26 00:08:21
>>280
根拠のある御都合主義的な憶測でない意見をお伺いいたしたいのですが。
東洋史や日本史、考古学いずれも詳しくはないのです。
例えばモンゴル系とツングース系と文化の違いは?
扶余はモンゴル系かそれともツングース系ですか?
特に満州北西部を原住地とした鮮卑、拓跋、蒙古族との関係は?
高句麗、百済の民族構成は?
如何でしょうか。
282日本@名無史さん:04/12/27 09:26:16
>>281
ここで議論されているのはある現在の地方の日本人の血液要素が現在のモンゴル人
と関係が深い、ということだ。
あくまで「現在の」ということであって古代の「モンゴル人」とのつながりは
わからない。「モンゴル人」じたいが、多くの要素が流れ込んで長い期間かけて
形成されたと考えられる。(モンゴル人にも多くの要素が入っていることは力士たちの
顔つきを見ただけでわかる。)
であれば、例えば古代の扶余と、後に「モンゴル人」となる集団とに、ある共通の
要素が流れ込んだということだってあり得る。
283日本@名無史さん:04/12/27 11:10:28
口調はもっともらしいけど、電波ゆんゆんだな‥
HLAのB52-DR2、だけ持ち出しても意味は無い。
284日本@名無史さん:04/12/27 19:04:59
>ある現在の地方の日本人の血液要素が現在のモンゴル人
>と関係が深い、ということだ。


違う。
日本人全体に関係が深い。
中でも西日本人が特に深い。

しかし、韓国人や華北人は深くない。
285日本@名無史さん:04/12/28 00:18:47
>>282
人類学的要素は興味深いのだが。現在のモンゴル人も人種的に色々だ
ろうが、古来鮮卑族でも拓跋、慕容、段、宇文の諸部族が人種的同一か
どうかわからない。拓跋部の先祖は旧満州の内蒙古ホロンバイル盟、
大興安嶺東側でハルビンからチチハルさらに上流の甘河、北緯50度
付近での石室と石刻文の確認により発祥地とされる。付近の、室韋の
蒙瓦部(蒙古)がモンゴルのルーツとされているが。

思えば寒冷期である4世紀頃の民族移動期(西洋ではゲルマン等、東洋
では五胡時代にあたる、日本も例外といえるかどうか、ゲルマン南下中、
傍流である英国においても南欧よりゲルマン的要素が強いなら、東洋に
おいて傍流である日本では?)に大興安嶺はバイカル、アルタイ山脈と
共に民族移動の震源地ともいえる。扶余も含め文化的にも(鮮卑族は
敦煌壁画にあるよう、馬まで鎧を着せる重装騎兵等、共通項があるので)
深いつながりがあるのではないか。
286日本@名無史さん:04/12/28 07:21:55
人種系統と文化系統は必ずしも平行しないけど。
287日本@名無史さん:04/12/28 09:00:56
http://inoues.net/korea/korea_fukusendo.html
みれ。
馬冑は中国大陸・朝鮮半島においても出土例が非常に少ない馬具の一つである。製作が非常に難しい事と、その為に所有者が限られる事
などが推測されている。現在までに実物の馬冑が出土したところは、韓国の場合加耶を中心とした嶺南地方だけである。東北アジアに実物
として存在する15点のうち12点がここにある。早くから騎乗文化が栄えていたと思われる高句麗においては、壁画の戦闘図に描かれている
ので、おそらく常習の用具として用いられていたと推測できるが、高句麗からは未だ出土していない。騎乗文化の源流地とされる中国東北
地方においても、現在のところ「朝陽十二台郷磚廠88M1号墳」出土の馬冑1点の出土が報告されているのみである。日本では、大谷古墳と
埼玉将軍山古墳の2例のみで、1998年に、慶尚南道金海市の杜谷古墳群から1点出土し、総計16点となった。

江上氏は伽耶から騎馬民族が来たと考えた理由がここにあるのだろう。
中国の朝陽は前燕、北燕など鮮卑が居たところだし、伽耶地区も鮮卑が騎馬民族文化を紡いでいた。

韓国の学者によると伽耶地区にあった騎馬民族的風習を持った集団が5世紀前半に忽然と姿を消したそうだ。
伽耶から姿を消した騎馬民族が畿内に入った可能性は十分あるだろう。
288日本@名無史さん:04/12/28 14:11:53
それと、いわゆる「蒙古型鉢兜」がある。これは伽耶地区で騎乗用の桂甲とセットで
出るので騎兵用のものとされている。
この兜は伽耶の他に吉林省北部の楡樹の扶余遺跡から出ており、高句麗壁画にも
描かれている。そしてご存じのように日本各地で古墳時代中期の古墳から出る。
これを単に「文化受容」と言っていいかどうか。
289日本@名無史さん:04/12/31 20:07:53
佐原真って本当にばか。

真実を隠蔽しようとした。
290日本@名無史さん:05/01/02 11:06:24
ハプロタイプなどの研究によると、 
縄文人はブリヤート系モンゴロイド。 
弥生人は東南アジア発祥で朝鮮経由で日本に漂着した土人。 
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_26_03.jpg 

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/hn2602/5.htm 

>@ハプロタイプHLA−A24−B52−DRB1*1502(DR15) 

>本土日本人 頻度8,6%、沖縄人 1,5%、 アイヌ人 1,0%、 韓国人 1,4%、 中国朝鮮族 2,2% 

> このハプロタイプは日本人で最多頻度のハプロタイプであり、 
>且つ文献(a)によると、北九州、山陽、近畿、更に秋田・山形でも高い頻度で観察されます。 
>又、国外では、韓国や、おそらく北朝鮮のハプロタイプ頻度を反映していると考えられる 
>「中国朝鮮族」でも、そこそこの頻度で観察されること、及び文献(c)で、中国北部漢族でも見られ、 
>以前の報告ではモンゴル(共和国)の一集団でも高頻度(文献(a)で5,9%?)であると発表されています。 
>私は、このハプロタイプが、日本人最多であり、且つ、北九州、山陽、近畿で更に高頻度であることから、 
>弥生時代開始前後に、遼河流域周辺から、半島西岸を一気に南下して、半島南部に到達し、更に間を措かずに、 
>主力が渡海して北九州〜山口方面に上陸・移住し、瀬戸内から近畿に弥生文化とともに拡がって、 
>ついに国家形成・民族形成・日本語を形成するに至った集団「倭人」の民族移動を表わすものと考えています。 
291日本@名無史さん:05/01/02 11:08:32
YAP+の縄文人とYAP-の朝鮮人は異人種だけど、 
弥生人と朝鮮人の遺伝子はほとんど共通。 
日本人とチョソを隔ててるのは縄文の血なんだよ。 

>>Japanese population was the only East asian country 
>>to show a high percentage of YAP+ chromosomes. 
>http://medical.med.tokushima-u.ac.jp/jmi/vol49/pdf/v49_n1-2_p044.pdf 

>↑のサイト(PDF)によると、東アジアでYAP+をもってるのは唯一日本人のみ。 
>朝鮮人にYAP+はない。 
>詳細は47ページの国別ハプロタイプ比較を見れ。なおhaplotypeIIがYAP+ね。 

>ちなみに比較のために並べてあるUS Whites、US BlacksもYAP+。 
>東アジアでは日本人は特異な人種だけど、 
>世界的に見れば中国人や朝鮮人が特異なんだよね。 
292日本@名無史さん:05/01/02 11:09:54
>Y染色体上の非組み換え領域にある4つの遺伝子座に関して, 
>日本人3集団(沖縄,静岡,青森)と台湾の中国人で遺伝子型を決定した. 
>Y染色体上のAlu配列の挿入多型であるYAP因子は,日本人では 42% に存在したが, 
>中国人には見られなかった.・・・ 
>遺伝的距離の解析により,沖縄の人は本土の日本人とは遺伝的に離れていることが明らかとなった. 
>このことは,現代日本人が縄文人および韓国あるいは中国本土からの移入民である弥生人からの 
>異なる遺伝的寄与を受けた結果であり,また沖縄の人は弥生人とはほとんど混合することはなかった, 
>という仮説を支持する.YAP(+)染色体は縄文人によりもたらされ, 
>YAP(−)染色体の流入は弥生人の移住によりもたらされたと考えられる. 
http://www.nig.ac.jp/labs/nenpo-95j/E/E-a.html 

↑これが基本的な宝来説。 
YAP+は最も日本人を特徴づける因子で、 
これは北東アジアから来た縄文人がもたらしたもの。 
一方、中国・朝鮮人と日本人の共通項は弥生時代以降に渡来人によってもたらされた。 
293日本@名無史さん:05/01/02 11:24:22
294日本@名無史さん:05/01/02 16:01:39
素人の妄説乗っけてどうする。
YAP+は南方。
黒人にも存在する。
YAP+はYAP-より古いんだよ。
295日本@名無史さん:05/01/04 12:36:58
age
296日本@名無史さん:05/01/04 21:23:12
>>290
B52-DR2の起源はモンゴル東部。
日本人とモンゴル人の頻度だけが高くて共通している。
HLAは非常に安定していて一度できると10万年以上も不変な遺伝因子。

しかし、華北人は1%くらいで、それ以南の中国人ではほとんど見られなくなる。

どうして弥生人が東南アジア発祥になろうか?
297日本@名無史さん:05/01/09 22:56:30
韓国105代天皇尊影集
http://members.at.infoseek.co.jp/koreawatcher/docs/emperor.htm

「韓国105代天皇尊影集」は「大朝鮮帝国史」の作家、卍夢 金珊湖(キム・サノ)先生が
5年余りにわたる刻苦の努力と、我々の歴史を正しく知らせて民族の精気を正しく立て直そうという熱望で、
渾身の力を尽くして100点余りの絵で描き出したご先祖様たちの姿を盛り込んだ「画集」である。

失われて歪曲された歴史を復元し、画家としての霊感を足して描き出した、
韓民族の国々を起こしたご先祖たちの姿は、どきっとするほどの衝撃的な感動を与える。
我々が見てきた率去の1000年余り前の檀君像は、
国を起こした方としてはどこか不足した部分が多かったのが事実だ。
神話的な要素がより多く見える神仙のような姿ではなかったか?
しかし、金珊湖画伯の霊感で描き出した始祖 檀君の姿は、国を建て起こし、
性通光明,理化世界,弘益人間を理念とする桓因の国である桓国と
倍達帝国を継承した大朝鮮帝国の始祖として、
「やはりそのようなお姿だっただろう」という感嘆を自然に醸し出させる。
298日本@名無史さん:05/01/11 20:14:11
@ハプロタイプHLA−A24−B52−DRB1*1502(DR15)

 本土日本人 頻度8,6%、沖縄人 1,5%、 アイヌ人 1,0%、
 韓国人 1,4%、 中国朝鮮族 2,2%

 このハプロタイプは日本人で最多頻度のハプロタイプであり、且つ文献(a)に
よると、北九州、山陽、近畿、更に秋田・山形でも高い頻度で観察されます。
又、国外では、韓国や、おそらく北朝鮮のハプロタイプ頻度を反映していると
考えられる「中国朝鮮族」でも、そこそこの頻度で観察されること、及び文献(c)
で、中国北部漢族でも見られ、以前の報告ではモンゴル(共和国)の一集団でも
高頻度(文献(a)で5,9%?)であると発表されています。
私は、このハプロタイプが、日本人最多であり、且つ、北九州、山陽、近畿で更に
高頻度であることから、弥生時代開始前後に、遼河流域周辺から、半島西岸を一気に
南下して、半島南部に到達し、更に間を措かずに、主力が渡海して北九州〜山口方面
に上陸・移住し、瀬戸内から近畿に弥生文化とともに拡がって、ついに国家形成・
民族形成・日本語を形成するに至った集団「倭人」の民族移動を表わすものと考えています。
299日本@名無史さん:05/01/13 00:06:57
西日本の騎馬習慣について少し時代を後として、
天長三年(八ニ六年)の官符で「此間民俗甚遠弓馬 
但豊後国大野直入両郡 出騎猟之児 於兵為要 向府之程単行五日
(中略)城府来弓馬之士」とあるよう当時民俗では弓馬と疎遠と
なったが、大分県大野、直入郡の馬に乗り狩猟を業とする集団に
兵士を求めたとある。徒歩でなく「騎猟之児」であるこに注目したい。

民俗学者の宮本常一氏は「西日本のほうへ行きますと、こちらでは
牛に犂をつけてひかせています。(中略)そして馬に乗る習俗があった。
むろん馬に乗る習俗は関東まできています。けれども、農耕に使ったのが
近畿より西であったということです。騎馬民族の後裔というのは、その
あたりまで分布しているのです。乗馬技術がそれから東へはひろがって
いったでしょうが、いわゆる騎馬民族は、それから東へは容易に
ひろがっていかなかったのではないか。(中略)」と述べられている。
300しばらく:05/01/18 11:14:14
馬による農業革命を実施しようとしたのはアマテラス存命の頃のスサノオで
水田耕作や皮革製品生産を企画した。場所は夜須の近辺だろう。ところが
はじめこれを容認していたアマテラスも馬が手に入らない在来の神々の
やっかみでスサノオの弾圧、すなわち、残酷な刑罰と所払いに処せざるを
得なくなった。以来神国から馬の形跡は消滅するのであるが、これは多分
ヒラバル女王の御宇、1世紀半ば過ぎのことであろうか。これは多分事実で
あろう。スサノオに随行したと見られる月氏・タタール系は楯筑遺跡に狼の
彫刻、秩父神社には狼の狛犬を残し、これらの対策にはフツ主が香取神宮
迄来ており、安達太良山、ホトタタライスケヨリヒメなど列島を横断縦断している。
301しばらく:05/01/18 11:36:51
広く吉野ヶ里までに分布する漢鏡を伝世し、新羅王を輩出する
丹後、その籠神社の狛犬は犬ではなく狼に近い狗(ハウンド)。
ハツクニシラススメラミコト、ミマキイリヒコと縁の深いところです。
302日本@名無史さん:05/01/18 19:15:49
また頭のおかしな奴が紛れこんできたな。
303しばらく:05/01/19 18:15:30
タタール人って言うのは有名な騎馬民族。百済が大量に亡命してくる頃にも
飯田あたりにタタールの風習の馬を埋葬する古墳が現れる。これは第二次
騎馬民族の来朝といえようか。
304日本@名無史さん:05/01/19 18:22:17
騎馬民族説というものには
電波系の人を刺激する独特の何かがあるのであろうか。
古代史の一学説としての騎馬民族説の研究のみならず
今後は臨床心理学の対象としての研究の進展にも期待したいところだ。
305しばらく:05/01/19 18:25:22
タタールの中円双方墳は墳頂に埋葬する日本の古墳と同じ。インドヨーロッパ系
スキタイの祖、アーリア系のマウンド/クルガンは地下に木郭を生め、赤土を敷き
その上に遺体を安置し、その上に山(クルガン)を作るという全く別のもの。この間
中国西域での4000年前の青銅器時代のミイラはクルガンなしのエジプト・欧州西部
等の舟形棺に埋葬する方法なのでコーカサス乃至はアナトリア地方から出てきた
トカラ人の祖でないかと思っている。
306しばらく:05/01/19 18:29:01
中央アジアからイラン、中近東にかけては印欧族以前のタミル・インダス・
シュメールなどに属する可能性のある遺跡があるようだ。この辺の研究は
これからといったところ。
307しばらく:05/01/19 18:30:46
中国のヤンシャオ文化とインドのドラビダ系文化の関係の研究を期待したい。
308しばらく:05/01/19 18:49:31
騎馬民族説とか、安田徳太郎とかは終戦後の世相を反映したもの。日本人が
外地から復員、引き上げしてきて新しい世界観というか体験を語り始めた当時の
風潮だよ。
309日本@名無史さん:05/01/20 06:59:00
>>304
「騎馬民族」というと勇壮な感じがするからじゃないかな?
これが「乗馬民族」だったら、果たしてここまで支持を受けたか疑問だし。
310日本@名無史さん:05/01/20 09:23:55

匈奴は兄が死すと弟が兄嫁を娶って王となる。
日本にもおなじ風習がアル。

高句麗では男が女の家に通う通い婚があった。
日本でも平安貴族は通い婚だった。
 
311日本@名無史さん:05/01/20 09:30:10
 そういえば中国南部の少数民族に走婚という通い婚をするのがあって、こいつらはモンゴルの系統だと言う話がある。
 通い婚は騎馬民族の風俗か?
312日本@名無史さん:05/01/22 00:15:56
通い婚は大昔のデフォルトで、とくに騎馬民族云々は関係ないんじゃないの?
313日本@名無史さん:05/01/23 16:23:44
>>223 関連

<百済王>佐賀・加唐島に「生誕記念碑」を

 660年に滅びた朝鮮半島の古代国家・百済の第25代王で「中興の祖」と呼ばれる
武寧王(ムリョンワン)(在位501〜523年)の生誕伝説が伝わる佐賀県唐津市の
加唐(かから)島に記念碑を建立しようと、日本人と在日韓国人で作る武寧王碑日韓
共同委員会(藤田玉扇会長)が22日、福岡市博多区で設立総会を開いた。
 約1500万円の建立費の募金を始め、6月5日に加唐島で開く生誕祭までに完成を
目指す。
 発起人は九州や関西の在日韓国人10人と、日本人の考古学者や歴史研究家、
経営者ら9人。記念碑は韓国の美術家が製作。高さ3メートルで、カメがモチーフに
なっている。韓国で製作後、加唐島の島おこしグループに引き渡す。
 加唐島では、武寧王の実名「斯麻王(しまおう)」から名前を取った島おこしグループ
「斯麻王(しまおう)会」などが韓国との文化交流を続けている。唐津市鎮西町観光
協会の熊本典宏局長は「韓国側にも協賛団体ができるなど、交流が広まっている。
記念碑建立をきっかけに、相互交流をさらに進めていきたい」と話した。
 百済は、現在の韓国ソウル市付近を基盤に成立した古代国家。475年に現在の
公州市に遷都、約25年間にわたって混乱が続いたが、武寧王の即位後に国内が
安定した。武寧王の出生には諸説があるが、1971年に発掘された王陵の出土品に
日本での生誕説を補強する記述が見つかり、注目を集めている。
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050122-00000086-mai-soci
314日本@名無史さん:05/01/23 16:27:17
【国内】百済王:佐賀・加唐島に「生誕記念碑」を[01/22]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1106441301/   @東アジアnews+
315日本@名無史さん:05/01/23 22:41:51
>>303
馬の埋葬を伴う渡来人風の墓はもっと古い。
これを新しいものとして百済の滅亡に結びつける説は崩れた。
土器の編年によって渡来人風の墓がこのあたりでもっとも古く、
5世紀のものとわかったからだ。
316しばらく:05/01/24 07:29:38
>315 ありがとうございます。ワカタケル時代か。あのころ、馬韓はワカタケルの版図。
ところで、馬の埋葬はインドイラン>スキタイ>タタール>月氏>馬韓と考えています。
このタタール、現在はイスラム化していて神様はアラーなんていう風だからがっかり。
その陵墓は歴史的に中円双方墳で、スキタイと異なり墳頂上に埋葬で、日本と同じ。
中円双方の意味は考古学者の意見として太陽の出入りの観測と関係があるのでは
ということ。春分秋分とか、夏至、冬至とかかな。スサノオが馬の毛皮をはいだり、農耕
に活用し、厳しい刑罰を受ける話が残っています。欧州の概念ではタタールと地獄の
炎というようなイメージがあり、カグツチ神との関連があるのかな。
317しばらく:05/01/24 07:44:34
関連しますが、ホンダというのがホンダワケの御陵近辺の出身者で、御柱とか
善光寺とかにからんでいる。諏訪神社に鉄鐸とか、採鉄関連の神事が残る。
信州には肉食文化、渡来人の石積墳というか、家型墳というのかが多い。要するに
山陰の四隅突出文化圏の影響が残る感じなのが非常に気になる。諏訪の90才の
爺さんと毎日酒を飲んで話を聞いているが、み渡りはあれはセックスじゃ、程度の話
にしか終わらない。
318日本@名無史さん:05/01/24 08:35:11
インドイラン>スキタイ>タタール>月氏>馬韓

↑時代順や配列順がめちゃくちゃだね
319しばらく:05/01/24 09:10:51
大王の馬飼いになって働きにきたものたちだろう。これが軽井沢近辺
で馬の放牧をしていた。小諸でてみりゃ♪浅間の山に♪
320しばらく:05/01/24 09:16:54
「どこの馬の骨ともわからない」という日本語の起こりはこうした渡来人のことを
意味したものかもしれないね。馬鹿いうなといわれるかもしれないが。
321しばらく:05/01/24 11:07:10
話は変わるが馬を飼うにはどうしても蹄鉄、そして、鍛冶屋、フイゴが
不可欠なんだよなー。そうすると日本に来た馬韓の馬飼いはどうしても
鉄を探す必要がある。諏訪神社のタタエ神事の起源と結びつく。産鉄国
弁辰には常に馬韓月氏国から任命されたというのも、漏れの説だが、
月氏人はタタール人、狼をトーテム、馬を埋葬しており、遠く西域の大月氏国
を使いインドの姫を韓国に嫁入りさせたりしていたということがありえるんじゃないか。
漏れは秩父神社の狛犬の狼、北辰神、アダタラ/採鉄をタタールに結び付けている。
これらは邪馬台国建国に参加石上神社にフツの御霊を奉納したものと考えている。
それは石の加工に鉄製の道具が不可欠で淡路島の石上神社および肥後のイワタツ
等は全て鉄製の鑿を使用していたと推定する。石像の文化をトレースするとイワイ、
淡路、楯築、飛鳥等の奈良県、そして最も顕著なあのがアズミを中心とする道祖神
等があり、最終的にはアダタラから奥州の産鉄地方に向かったものと思う。
322日本@名無史さん:05/01/24 22:15:21
ほう、蹄鉄が不可欠ですか。
323日本@名無史さん:05/01/24 23:06:04
河内王朝を支えた二大要素、それは馬と鉄だった。
馬については今の長野県、群馬県などに馬の牧場を作った。
5世紀中葉以降、倭は半島への軍場供給基地と化していたと思う。

鉄は馬具ばかりでなく、このころの武装は鉄製が基本だったから
重要だった。
これについては河内の大県に一大製鉄・加工センターがあった。
324日本@名無史さん:05/01/25 13:55:23
>>323
訂正:軍場 → 軍馬
325しばらく:05/01/25 17:24:07
倭は半島への軍場供給基地と化していたと言うのとは反対で
ワカタケルの三韓征伐により半島南部が倭国領土となり、馬の生産システム
も取得したので国内用に牧場を持ってきたということではないのか。
馬なんか丸木舟では運べないので種のついた雌馬とかメスの子馬を持ち込み
増やすのが順当。あんなに図体がでかくて暴れるものを半島に供給なんて
考えられない。
326しばらく:05/01/25 17:48:56
倭国に持ち込む際にも丸木舟をつなげたり、いかだを組み、水と
飼葉を別の船で運んだり、大きな船団が必要で、大変なことだったと思う。
三韓を制したといっても流動性の高い連中だから安心はできない。だから
対馬辺りに供給基地を作るというのならわかるが。
327日本@名無史さん:05/01/25 18:59:42
幕末支那で使う馬を日本で買いに来たイギリス将校が、去勢と蹄鉄がないのに
驚いてる。ド・フォンブランケ
蹄鉄は職人が仕上げたが、去勢は馬が可哀相と言って拒否したそうだよ。
328日本@名無史さん:05/01/26 13:24:03
>>325
時間の要素を入れないと歴史にならない。
5世紀のある時期以降に半島への馬供給基地になったのだ。
それ以前の話は別。

倭から半島へ馬を供給した話は日本書紀に何カ所かある。
半島で高句麗、新羅と渡り合う目的でなければ大規模馬牧場も
必要なかったろう。
329しばらく:05/01/26 13:35:14
>>328
それなら阿蘇辺りのほうがあんな辺鄙な信州よりはるかに立地がいい。
330日本@名無史さん:05/01/26 23:02:21
>>329
もちろん九州にもあった。
日本書紀に、筑紫の馬40頭を百済に送ったことが書いてあったのでないか?
331日本@名無史さん:05/01/26 23:09:43
あちこちにあるんだろ。いいじゃん別に。
332しばらく:05/01/27 08:19:27
都井岬の野生の馬と韓国の馬のDNA鑑定でもしてもらうか。あまり意味ないなー。
333日本@名無史さん:05/01/27 09:37:58
>>323 半島への軍馬供給基地

というより、メインは、近畿倭王の支配権を
毛人やアイヌが支配していた日本の東国まで広げるためでは?
倭国でのニーズが主体だから、大阪、長野県、群馬県
といった、日本本島の中央部に点在するんじゃない?
まあ半島へ送ったのもあったとしても、
それがメインなら、九州とか山陰・山陽にいっぱい作るはず。
あの交通不便で不安定な自体に、近畿とか関東から
半島に送るの、効率悪すぎ。不自然すぎ。

というのは
334日本@名無史さん:05/01/27 09:41:23
水田の下から全国最大級の古墳群(六世紀後半―七世紀前半)
奈良県天理市の和爾(わに)遺跡
ttp://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20050127AT1G2602H26012005.html

* 墳丘は削られ残っていないが、円墳などの痕跡が29基密集。
* 金銅製馬具など副葬品も多数出土。
* 装飾付き太刀や耳環(みみわ)、ガラス玉などが出土。
* 17基に横穴式石室の床面などが残っていた。
335日本@名無史さん:05/01/27 13:49:58
>>332
古代の馬がどんな馬だったかは、牧場遺跡の蹄跡とか、古墳に殉葬された馬の
骨格とか、資料は多い。
336日本@名無史さん:05/01/27 23:00:16
>>334
毛人との戦いがそんなに大規模だったとは思えない。
それに長野から東北へだって陸上を運ぶのは大変だ。
そのためなら千葉とか埼玉とか、比較的早く開けたところがあったはず。
いずれにしてもなんの理由で大規模牧場が長野、群馬に置かれたかは謎だ。
337日本@名無史さん:05/01/28 08:11:09
>>336
千葉や埼玉はむしろ田舎で、群馬・栃木の方が先に開けたわけだが。
338日本@名無史さん:05/01/28 22:59:13
>>337
千葉、埼玉の5世紀の古墳群があるではないか。
339しばらく:05/01/30 11:27:21
>>335 ありがとうございます。
>>333 下記↓参照。
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai00/tz2012.html
>前方後円墳に埋葬されている人物というのは、古代の天皇陵がおしなべて前方後円墳であるように、
>都と同じ、大王と同じ墓を模倣して造ったその地域の最有力者たちのお墓です。その前方後円墳が
>飯田周辺に集中しているということは、この地域の政治権力なり政治的基盤が五世紀代以降いかに
>強かったかということを証明しています。そして、この前方後円墳に埋葬されている人たちが馬と非常
>に関わりが深かった集団であったことは、中央の大和政権がいかに馬というものを重要視していたか
>ということの現われだと思うのです。

半島で軍馬の現地調達が不可能となり、内地から調達するということは、朝鮮動乱時にプサン付近まで
北朝鮮に追い詰められた時のような戦況であったのかなー。

340しばらく:05/01/30 11:52:31
当時は鴨緑江への核攻撃等の声もあったが仁川上陸作戦で持ち直し
38度線で停戦でしたっけ。忘れちゃったナー。
341日本@名無史さん:05/01/30 12:28:27





◎ B52-DR15(B52-DR2)の頻度

本土日本人 頻度8,6%、沖縄人 1,5%、 アイヌ人 1,0%、
韓国人 1,4%、 中国朝鮮族 2,2%、 モンゴル 5,9%




342しばらく:05/01/30 14:34:38
↑満州にあった特定ハプロタイプ集団が南北に移動、北はモンゴル、南は
夫与・百済・高句麗として弥生時代の終わりころから古墳時代の終わり頃
に関西に入ったとすれば大体のところ無理のない話しじゃないでしょうか。
このハプロタイプ以外に相当多くの江南系が入っているんじゃないかな。
343日本@名無史さん:05/01/30 14:57:53
江南が起源と見られていた僅かなHLAがあったのだが、
最近ではそれも江南が起源ではないという見方になってきている。
日本人の血統のほとんどが旧新の北方系。
344日本@名無史さん:05/01/30 15:08:00

CHLAーA24−B54−DRB1*0405(DR4)

 本土日本人 3,1%、 沖縄人 6,1%、 韓国人 1,2%、 
中国朝鮮族 0,9%、 中国満族 1,2%、 シベリア・ブリアート人 1,3%

このハプロタイプは、文献(a)では、国内では、南方に偏っており、沖縄での
最多ハプロタイプであり、南九州・南四国・東海・神奈川でも比較的多いとされ、
中国南部でも多いとされていましたが(つまり江南などの南方出自を窺わせる)、
文献(c)では何とシベリアのブリアート・モンゴルや、中国満族(満州族)でも、
認められ、このハプロタイプの起源も南方系とはいえなくなりました。以前は、
このハプロタイプを、江南出自の百越の一派で、あるいは水稲耕作をもたらした
集団とも考えていたのですが、とりあえず、不明とせざるを得ません。
「夏人」のハプロタイプである可能性も含め、いろいろと考えていますが、
周辺諸民族の頻度、特にチベット族などのそれが解らないと決定困難だと思われます。
345日本@名無史さん:05/02/04 19:43:13

◎ B52-DR15(B52-DR2)の頻度



本土日本人 頻度8,6%、沖縄人 1,5%、 アイヌ人 1,0%、
韓国人 1,4%、 中国朝鮮族 2,2%、 モンゴル 5,9%



日本人最多であり、且つ、北九州、山陽、近畿で更に高頻度である
朝鮮人≠近畿人≒モンゴル人≠朝鮮人≠近畿人≒モンゴル人
日本人最多であり、且つ、北九州、山陽、近畿で更に高頻度である
朝鮮人≠近畿人≒モンゴル人≠朝鮮人≠近畿人≒モンゴル人
346日本@名無史さん:05/02/05 04:33:42
江波説だと「鐙」の存在ってどうなってるんだっけ?
西方のスキタイもササン朝もソグド人も結局「鐙」を使わなかったんだが・・・
たしか現存する「鐙」って古墳時代の出土品が世界最古だったとか聞いたような。
347日本@名無史さん:05/02/05 06:04:06
>>346
またそれか。
鐙を使わなかったのはギリシャ・ローマ時代の話だ。
映画「アレキサンダー」でもちゃんと、馬上で足をぶらさげて戦う大王が
宣伝写真にある。

一方、北方アジアでは鐙は古くからあった。
高句麗の古墳壁画の装甲騎兵も鐙をふんばって描かれている。
348しばらく:05/02/05 11:10:55
たとえば布留式土器、箸墓、鐙をC14年輪時代測定により3世紀前葉とする場合、
農業に続く人類史上第二の経済的発明である鐙は箸墓被葬者の葬儀時に、
その被葬者に従った集団(楯築及び豊前の石像文化、月星信仰に見える小月氏)
乃至は末期の魏から当時としては最先端の発明が伝えられたという可能性もある
(この場合は箸墓、布留の歴史的年代を3世紀中葉とする)。中国北辺の小月氏の
歴史とか、馬韓月氏国については単純に切り捨てる見方をとるべきではなく、DNA
等による渡来人のトレーシングも視野に入れる必要がある。井蛙管見を戒めたい。
349しばらく:05/02/05 11:23:55
漏れは豊前にあった秦系、月氏(突厥)系渡来人集団が、吉備乃至は投馬
国による攻撃乃至は強力な勧誘により投馬国の吉備地方に誘致されたと見ている。
吉備というのは敦賀気比神社近辺から岡山県に移動したのではないかとも考えて
いるんだけどね。他方近畿、東海地方にも求心的動きがあり投馬国がもこれにのって
纒向に新都を建設する運びとなったのだろう。東遷という記紀の言葉に幻惑されず
もっと自由に解釈してみようではないか。
350しばらく:05/02/05 11:41:50
アマテラスによるスサノオ、渡来系騎馬民族か、に対する馬による水田耕作、
馬の皮革加工等への禁忌とみられる記紀の記述は平原古墳建設の二三十
年前のことと考えている。
351しばらく:05/02/05 11:44:48
従って、箸墓の鐙は渡来人のみがその意味がわかったであろう魏から
得られた当時としては最先端の供献物ではないかな。
352日本@名無史さん:05/02/05 12:05:10
女はヤクザ          
1 :スピードワゴン :03/11/26 19:52 ID:DZSqzPV5
女=ヤクザ
1:すぐ群れる。群れないと何も出来ん。
2:自己中。わがまま
3:ヤクザ(女)同士の信頼関係なし。利害関係のみ
4:人を騙したり、利用したりすることに罪悪感なし
5:強者(権力者・金持ち・イケメン)に媚び、弱者(貧乏人・ブサキモ)を見下す。
6:金に汚い
7:すぐキレる
8:自分の非を認めない
9:都合が悪くなるとすぐ逃げる

http://love3.2ch.net/test/read.cgi/gender/1069843956/l50
353しばらく:05/02/05 17:05:46
>>349
刈谷俊介氏によれば纒向は
1)第一期-庄内式土器時代、
2)第二期-布留式土器時代
の二期に分かれる。
漏れの考えではまず近隣の近畿地方一体をまとめようとする計画があったが
それが、布留式時代に入って投馬国、東海などの全国的規模の新都建設
に発展的に変更されたのではないかと思う。神武記の話を借りるならナガスネヒコ
ニギハヤヒ物部時代というのが庄内時代、神武-崇神時代は布留式となろうか。
354日本@名無史さん:05/02/22 22:43:01
第三期騎馬民族説って、相当修正されてるわけだが。
355日本@名無史さん:05/02/23 00:00:41
『東アジア非核地域条約』を目指してみんなで頑張りましょう!
356日本@名無史さん:05/02/23 04:45:21
>>354
第三期?なにそれ?
357鴨禰宜:05/02/24 19:51:31
いばらくからハンドルを変えてみたが、記紀のスサノオの馬の畜産、役馬としての
使用の背景には渡来人がいると思う。スサノオは高句麗大武神と遠くない頃、奴国に
金印が授与される直前の頃の人であろう。この渡来人は月氏系、つまり、プロト・トルコ
系ではないかと思っているんだが。
358鴨禰宜:05/02/24 20:26:36
出雲というのは渡来系が任那の倭国女王政権から東国出雲に追放されること
ではなかろうか。アマテラスとスサノオの対立は三韓地方を舞台としたものであると
見るのが正しいかもしれない。倭国というのは対馬海峡を中に挟む南北それぞれ
三カ国合計6カ国の国であったと見たい。
359日本@名無史さん:05/02/25 05:13:06
>>357-358
オマエの無根拠な思いつきはもう聞き飽きた。結論はいいから、たまには論証過程をかけ。
360鴨禰宜:05/02/25 08:11:34
邪馬台国建国の原因は倭国乱の時代にあると思われるが、考古学的には
高地性集落、境界における青銅器埋納、末期に現れる古墳などからその原因
が何であったかを判断せざるを得ない。高地性集落は海岸線に沿って瀬戸内海、
裏日本などにあるようだ。記紀によると天孫と出雲の対立は「水穂の国」の統治権
をめぐるものである。
361鴨禰宜:05/02/25 08:21:38
古代において華北満蒙は巨燕、満州東部、半島、列島は倭といった区分であったのだと
思う。倭というのは無文、弥生土器地方といった意味であったのであろうか。ところが
漢の時代にこの倭のど真ん中に漢の植民地ができて倭は半島南部と九州に追いやら
れた。
362鴨禰宜:05/02/25 08:35:54
この倭というのは縄文人の末裔のほかに満蒙朝鮮などのいわゆる五族協和の
多国籍集団であり不安定で、流動的であったが、弁真の鉄鋼資源の枯渇、楽浪
高句麗などの圧力、環境変化による農業不振などの何らかの理由で日本列島への
進出が必要となった。このとき天孫と出雲の分極が始まった。私は天孫とは九州
東岸の勢力でその中心は豊前にあり、海人族とは海幸、山幸の形で対立はするもの
の、血統的には縄文の末裔であり、出雲族とは燕と倭の縄文系以外の集団ではなかっ
たのかなと思う。
363鴨禰宜:05/02/25 08:42:06
箸墓に始まる巨大古墳の建設は箸墓システムの一環である蚩尤神、兵主神
の示すとおり、万里の長城などを建設した土木技術、宗教を持つ秦の遺民が
工兵的な役割を演じて建設され、天孫に献上されたのであると思う。これは出雲族
からの国譲りとして記紀にあるとおりであろう。
364鴨禰宜:05/02/25 08:45:58
天孫とは最初は九州東岸であったが、カムヌナカワミミの示すとおり、次第に
北陸、河内、尾張、大和などの近畿勢が閨閥を利用して成り代わったものであり、
実際に神武の出る幕は限りなく神話に近いものであったのであろう。
365鴨禰宜:05/02/25 08:57:38
このスレの主旨である騎馬民族に近いのは三韓に残る月支国であるが、これを
漢の北辺にいた小月氏であり、西域に栄える大月氏国とその後も関係を維持し
ていたと思われる。インドの王族が三韓の王族と婚姻関係を結ぶというのもこうした
機能が働いていたからだと思う。
366日本@名無史さん:05/02/26 08:50:04
オマエの無根拠な思いつきはもう聞き飽きた。結論はいいから、たまには論証過程をかけ。
367鴨禰宜:05/02/27 16:47:07
中国西晋時代の僧竺法護(じくほうごAD232-309)敦煌の人。竺曇摩羅刹、
敦煌菩醍、月支菩醍とも称された。数代にわたって敦煌に定住した月支の末裔
と言われている。月支と言うのは卑弥呼の時代敦厚でも栄えている。馬韓に
植民地を持っていてもおかしくない。
368日本@名無史さん:05/03/16 04:30:22
馬韓と敦煌の間がどれほど離れていて、そのあいだに、
卑弥呼の時代でどれだけ他民族が支配していたかを考えてからね。
369日本@名無史さん:2005/03/28(月) 06:37:43
370鴨禰宜:2005/04/05(火) 11:00:45
馬韓と敦煌の間を現在は砂漠が隔てているが、卑弥呼の時代は砂漠化が
これまで進んでいなかったと考えられる。卑弥呼より2000年ほど前のシルクロードNHK
小河墓遺跡
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1044174298/l50
の放映に際して説明があったが、タクラマカン砂漠には胡柳が生い茂り、小川やせせらぎ
が走っていたそうである。だから、卑弥呼の時代には大月氏も同様に金印を受けているの
で洛陽における周辺民族間の交流も否定できないし、天山北路からバイカル湖経由の
大圏航路であれば距離は短縮されるし、草があり馬の使用が可能であれば、短期の
往来も可能であったはずである。現に小河墓遺跡はアルタイ地方と玉の交易もやっていた
ようなので、その後2000年も時代の下る卑弥呼時代には朝鮮半島南部に月支国
代表部があってなんら不思議ではない。現在でもゴビ砂漠より北方では砂漠にならず
草原、タイガが残っている。季節を選べば旅行は砂漠より簡単であるはずだ。
371鴨禰宜:2005/04/05(火) 14:16:37
距離は大月氏-洛陽で8000kmあるが、大圏曲線にすると馬韓は380km
遠いのみ。
372日本@名無史さん:2005/04/08(金) 04:41:41
仮に距離が近くて交流があったとして、なんで代表部があることになるんだ?

一応言っておくが、モノや文化がローマから日本まで行ってたとしても、単一の勢力が
最初っから最後まで運ぶ必然性はこれっぽっちもないよ。
373鴨禰宜:2005/04/08(金) 07:08:08
匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう)は月氏に壊滅的打撃を与えた(前176ころ)。
月氏の主勢力は西方に逃れ,パミール高原を越えてアム・ダリヤ流域に移動し,
アフガニスタン北部のバクトリア王国(大夏)を征服した。
中国史料は中国辺境に残留したものを小月氏と呼ぶといわれている。

大月氏(パキスタン)、甘粛とある中での馬韓は「代表部」というか移動中の感じがする。
葬礼には馬の生皮を屋根に掲げる。墓はスラブ石囲いのようだ。突厥系はトルコ、
アゼルバイジャン等西に至ったものも多いが月、星、狼、石像、中円双方(楯築)と同じ
コンセプトで墳頂に棺を収める古墳はカザフスタン方面にまで分布している。日本では
スサノオ、星、狼等に関連するもの、神社の瑞垣、狛犬、地蔵、道祖神などの石像文化
を残しているが、中でも豊前、楯築(神面石)はモンゴリア、アルタイ地方とか、インド
との関係を髣髴とさせている。

374鴨禰宜:2005/04/08(金) 07:22:23
http://www.geocities.jp/tokikazu8/syoki25.html
これはご参考までだが、こちらのお方は「テン」国と大国主を結びつけるとする
広い視野のお方のようだ。昔、レプチャ語と日本語が似ているとか言う本があった。
余談に入って恐縮だが最近ユーラシア中央方面でもHAPLO地図とか、血液型分布
地図をつくっており、おもしろいが逆に日本の情報がないようだね。
375日本@名無史さん:2005/04/09(土) 03:25:26
人は移動しなくても文化は伝播するんだよ。
日本人がジーパン穿くのはアメ公が大挙移住した結果ではない。
376鴨禰宜:2005/04/09(土) 07:54:20
土器、銅製祭具の形式、思想(鳥、熊、蛇、狐)などには流行もある。言語において
も現在のインド、渡来アフリカ系米人の英語等のような例もある。人が動いたのか
どうかについては不明な点が多い。ユーラシアの北部櫛目文土器は現在のゲルマン・
スラブ・バルト語族の地方から韓国(無文の前)にまで見られからといって韓国人が
世界の中心とはいえない。この櫛目文などは石器時代のマンモスハンターとの
関連はあるかもしれないが、人種的にはコーカソイド、モンゴロイドなど雑多なものだと
思う。中国とかロシア、回教徒は地理的なものを同一のイデオロギー、更には言語に
してしまうことがある。
377鴨禰宜:2005/04/09(土) 08:14:55
しかし、古代のコーカサスの土器がバルト海沿岸で発見されたり、小河墓遺跡
の西欧的な衣装を着た集団などは明らかにユーラシア大陸を移動する民族的
集団のあることを物語り、現にジプシーは日本にも来るという。大月氏のいた中央
アジアはアレクサンダー、アーリアのほかに西欧語に近いアナトリア語族のトカラ
語を話す集団がおり、その子孫の言語は敦煌の遺跡から出土する。思うに、仏教に
使用される分析的な世界観、精神分析は中国人だけでは理解不可能であり、言語的に
サンスクリットを解読するにはトカラ語が不可欠であったのだと思う。玄奘三蔵は
道を間違えてはいなかったのだ。南回りでは正しい仏典へのアクセスは難しかった
と思う。
378鴨禰宜:2005/04/09(土) 08:21:31
もし、馬韓の月支国が甘粛、新疆の月支族との接触を維持したものであればインド
から三韓地方に姫が嫁ぐという伝承、日本の伊勢、高山に残る菊文(後鳥羽上皇が
徴用したとか)もあり、豊前に原始仏教が渡来していたということも否定できない。
伊都国で西域ガラス製品の出土があったという。
379HREO:2005/04/09(土) 08:47:08
世界の癌・塵・嫌われ者・臭い・汚い・能無し・知能0・ボケナス・
うんこ・負け豚・アホ・馬鹿な日本人は絶滅した方が良い。
強い者には媚を売るし下僕のようにするくせに弱い者には
ひたすら苛めまくる腰抜け日本人は本当に絶滅させたい
380鴨禰宜:2005/04/09(土) 09:42:31
スサノオが天照から破門されたのは多分平原の葬儀でスサノオが
これ↓(右上霊屋の)屋根の上の馬のローハイド参照。
http://www.altaiinter.org/project/culture/Geography/Culture%20of%20Turks/Graven%20Images/Pictures/ris16.gif
そしてスサノオの墓は楯築。天照は平原・・・と思うんだがね。
381鴨禰宜:2005/04/09(土) 11:13:34
スサノオの出身は高句麗だろう。
「、「我、其の昔、唐国(からくに)に渡りしとき、自ら鍾馗大神と名乗り・・」と
「我、其の昔、三(み)つの韓国(からくに)に渡りしとき、自ら鍾馗大神と
名乗り・・」の二通りの詞章が見える。「唐国」とは、古代の中国を指す語で、
進士鍾馗伝説の舞台である唐(とう)の国との合致を見ることができるが、
「三つの韓国」とは、古代の朝鮮を指す語で、馬韓・辰韓・弁韓又は新羅・
百済・高句麗の総称で、進士鍾馗伝説や蘇民将来説話の内容との合致
を見ることができない。それでは何故「三つの韓国」という国名が詞章に
取り入れられたのであろうか。日本書紀巻第一神代上第八段の一書第四に、
悪行を働き高天原を追放された素戔嗚尊が天下った場所を指して、「其の子
(みこ)五十猛神(いそたけるのかみ)を帥(ひき)いて、新羅(しらぎ)の国に
降到(あまくだ)りまして、曾尸茂梨(そしもり)の処に居(ま)します。乃ち・・」
の記述が見え、この記事が、「三つの韓国」として詞章に反映されたものと思われる。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~t-sato/index35.html
382鴨禰宜:2005/04/09(土) 11:22:24
高句麗の三代目↓
東明聖王(高朱蒙 紀元前58年? - 紀元前19年? 在位紀元前37年? - 紀元前19年?)
瑠璃明王(解 類利 ? - 18年 在位紀元前19年 - 18年)
→大武神王(解無恤 4年 - 44年 在位18年 - 44年)
閔中王(解 色朱 ? - 48年 在位44年 - 48年)
慕本王(解 解憂 ? - 53年 在位48年 - 53年)
太祖大王(解宮 47年 - 165年 在位53年 - 146年)
次大王(解 遂成 71年 - 165年 在位146年 - 165年)
新大王(解 伯固 89年 - 179年 在位165年 - 179年)
故國川王(解 男武 ? - 197年 在位179年 - 197年)
山上王(解 延優 ? - 227年 在位197年 - 227年)
この大武神がスサノオの時代に近かったのではないかと思われる。
このころAD57年奴国王に金印が授与される。この当時の新羅王は丹波の倭人、
つまり日本と大陸は一体のような関係にあった。
383日本@名無史さん:2005/04/09(土) 11:23:57
12口口口番 約480

 神功皇后三韓御遠征の砌り陛下の士査之頭へ勅命を下し奉り
甚七より海中に長く沈まりし古掟にて轡を調達して
香推の皇居に献じて奉れば皇后陛下御叡感の餘甚七へ始めて
○○の姓を下し賜り永く禁庭衛門士の御用を命じ玉う
△△に住居して累代の家名を相続す。
                        △△神社の古縁記より
384鴨禰宜:2005/04/09(土) 11:26:06
しかし楯築をスサノオとすると大武神が武塔神という風に変わっていることもあり
同時代とは言えず、その一族としたほうがいいのかな。
385日本@名無史さん:2005/04/09(土) 11:32:06
うちの姓の由緒書。
それに△△は誉田八幡宮ね。
信憑性は如何な物かと思うけど正倉院の御物の包丁の柄に○○と銘があるらしい
古い鍛冶屋であることは間違いない
386鴨禰宜:2005/04/09(土) 16:18:27
スサノオが来日したのは 阿達羅王四年(西暦157年)だろう。↓
http://www2c.biglobe.ne.jp/~takesako/ecl/densetsu.htm
楯築は「木郭の底が2重になっていて、その上に木棺がありました。
底が全部で3重になっていて、そのなかに大量の朱があって。
大変に丁寧なつくりです。こうしたものは他に例がありません。
考古学と言うものは比較の学問でして、他に比較できないということは、
価値が無いということにもなりまねません。」ということで日本にはない
まるで始皇帝の埋葬のような方法である。
387鴨禰宜:2005/04/09(土) 16:39:50
スサノオは大武神より100年も後の人であり、埋葬方式も高句麗の積石ではなく
鮮卑にでもありそうな古トルコ式、石囲いである。天照にその馬の皮革、農耕への
利用をとがめられ、公職は追放され不遇の生涯であったが、
http://www11.ocn.ne.jp/~jin/GKAI.htm
「岡山県所在楯築遺跡ご神体石」にみられる彼の肖像は東北の「なまはげ」の
お面等で生きているきがするし、狛犬、石垣という形で日本に残ったのではなかろうか。
388日本@名無史さん:2005/04/09(土) 16:43:31

◎ B52-DR15(B52-DR2)の頻度

西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/hn2602/5.htm
日本人最多であり、且つ、北九州、山陽、近畿で更に高頻度である
朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人≠朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人
日本人最多であり、且つ、北九州、山陽、近畿で更に高頻度である
朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人≠朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人
389日本@名無史さん:2005/04/09(土) 17:09:08
ちなみに
>>383の書かれている『誉田宗廟縁起』と『神功皇后縁起』は現在重要文化財だ。
390日本@名無史さん:2005/04/10(日) 02:53:36
スサノオは神話上の存在だから実年代はないだろ。
391鴨禰宜:2005/04/10(日) 09:02:40
スサノオの属性と楯築古墳の属性に共通点がある。楯築古墳については箸墓古墳
より1世代程度前のはずである。というのは箸墓古墳の特殊器台などを担当した
グループは楯築を終えた後に纒向に来ているはずであるからだ。平原古墳はさらに
それより古いはずである。この辺は記紀のロジックに頼るんだが、天照崩御、東部九州
における禊と建国の試み、楯築遺跡の建設、箸墓古墳の建設という時系列で見ている。
(日向は河内王朝時代に後付されてもので最初は豊前経由と考えている)
392鴨禰宜:2005/04/10(日) 09:18:44
専業農家の移動というのは明治の北海道開拓、米国やブラジル移民、戦前の
満州移民などがあるが大事である。河内に物部が入植したというのはとんでもない話
だと思う。これはニギハヤヒという人名とか、地名をコピーしたに過ぎないことであるが
実際にそれを動かしたのは海人族と渡来人であり、彼らこそが農業以外の第二次産業
としての物部の言葉の実質的意味の由来ではないか。すなわち東遷ではなく技術者
集団(プラントエンジニアリングのような)の移動と人名、地名の改称があったのでは。
しかし、渡来人も武蔵とか、但馬とかに最終的には安堵されている。
393鴨禰宜:2005/04/10(日) 09:31:15
倭人伝の不可解なことは所在がぼやけている投馬国の異常な人口である。これは
ひょっとして箸墓、楯築の建設が終了し、過剰労働力を但馬近辺に集中していたの
かもしれない。日系米人のキャンプ入りみたいなことであったのかもね。
394日本@名無史さん:2005/04/10(日) 10:32:55
投馬国=但馬説は大昔からあるよ。しかも有力説でそ。
395鴨禰宜:2005/04/10(日) 10:33:52
東遷がなかったということは神武が「日本の神話を考える」(上田正昭氏)にある
とおり、高句麗神話のコピペであることと矛盾しない。東遷部分がコピペであり、
ナガスネヒコを除く局地戦は個々の地方、特に、紀州、大和地方の古い伝承を
収録したものだろう。
396鴨禰宜:2005/04/10(日) 10:49:39
伊都の県主が鏡を船で渡し、自己の出自を辰韓のウルサンであろとし、仲哀が
「イソイソシイ」から結構であるといったというのは畿内による九州王国の蔑視
である。逆に九州王国こそ本来の倭国王であり、畿内の王朝は渡来人の「鬼道
主義」者といってよかろう。九州王国の女王が夏のリゾート離宮を任那にもっており
巡幸されたといったところが息長大姫のはなしであろう。新羅側の描写のほうが
この点は客観的である。仲哀から応神にかけての話は河内王朝が九州で調達した
ものであろう。
397鴨禰宜:2005/04/10(日) 10:55:23
纒向のオオナムチが邪馬台国に編入された後も九州王朝大本営である高天原は
日田辺りに鎮座し、檄を飛ばしていたのかもしれないね。
398鴨禰宜:2005/04/10(日) 11:17:00
一書によれば高天原はオオナムチに対し天津磐境、天津神籬、安川のマリーナ、ヨット等を
約束、実行し、オオナムチはこれに満足、大和の神社に自己を残すことにより、政界を引退
出雲で高天原の付け人の監視下生涯を送ることになるが、出雲神賀詞では年に一度朝廷に
約束の履行をあたかも相互確認するような文言を奏上しにでてくる。ここにいわれる高天原
の所在地とはと考えると日田あたりかなーなんて考えるわけだが。
399鴨禰宜:2005/04/10(日) 11:50:41
しかし、神武も纒向建設の今で言う用地買収を徹底的に行ったという立派な業績を
残しているのだからその功績にイワレビコのおくりなを与えられるにはふさわしい。
特に吉野山中、熊野などは日向のほうの人でないと無理なので適材ではあったの
であろう。するとこのお方はホケノ山被葬者がぴったりするんだがね。ただ遺品としては
山口県産の壷ということで日向生まれではなく祝島辺りの出身者なのかな。木郭などが
あるようだから渡来人かも分からない。
400鴨禰宜:2005/04/10(日) 14:07:24
>>390
今朝のテレビで「下甑島のトシドンという習慣がナマハに近く、また長江
流域にもあるということをやっていた。ヤフーにも「スサノオの多面性の考察」という
スレがある。スサノオ系でオオトシというのがあるがこういうことなのかと初めて
わかった気がした。スサノオとは渡来系の伝承を一纏めにする神格としての面が
あるのは間違いないようだね。
401鴨禰宜:2005/04/11(月) 08:32:08
スマソ、ナマハゲというのをミスタイプしていた。昨日のテレビは学習院大学
名誉教授諏訪春雄という方のお話で、こうした稲作に関連する祭りは初めて
文化が渡来したときのことを子孫たちに思い出させるためにあるんだとかいっていた。
こうした神を来訪神というのだというお話だったようだ。
402鴨禰宜:2005/04/11(月) 08:39:57
>>399
天孫のオオナムチへの譲歩には安川の勝鬨橋みたいなのがあった。この安川は夜須と
するとオオナムチの帆船は有明海方面ということになるが、野洲とすると大国主の
勢力範囲に近いし、伊勢遺跡というインフラ建設もありるんだがな。しかし、伊勢遺跡の
年代が合うかどうかは不明。
403鴨禰宜:2005/04/11(月) 08:45:54
しかし、漏れはイワレの諸室山が三輪山に改称された頃甘木朝倉方面の三輪神社とか
オオナムチとか一斉のコピペが行われ、大和川という川は下流に八十嶋祭りなどのある
ことから古名を安川と呼んだのかなーという仮説も持っており困っているのが現状だ。
404鴨禰宜:2005/04/11(月) 08:52:17
オオナムチを大和、近江を含む近畿地方、天孫を豊前、筑豊を含む九州地方
というにおくと全ての漏れの仮説が生きるがなー。
405鴨禰宜:2005/04/11(月) 09:10:16
オオナムチとは御諸山と言えた最後の男であり、彼の政界引退を期に一挙に近畿地方
の地名人名の九州化が実施され邪馬台国が名実共に成立したと言うことなのかな。
406鴨禰宜:2005/04/11(月) 10:23:15
何故オオナムチは出雲神賀詞に謳われるように自己、その子供の名前を大和に
保存することを天孫に要請したのかを考えると、オオナムチは天孫側の戦後政策が
駐留軍が道路標識を英文化することを要求したのと同様三輪神社の主神が天照
と改称されること、諸室山が三輪山に変えられるという天孫側の戦後政策を知っていたの
ではないかと思う。敗れたとはいえ本州島の大国魂だ。無条件降伏をいざぎよしとは
しなかった。毎年契約履行状態を見に来ると言う条件付で引退した。これに反発した
崇神は天孫側がミホツ姫を推挙する中あえて娘に三輪山入りを命じ、更には出雲の
荒神谷遺跡の発掘も命じた。これにはかっての同僚イキマことイクメイリ彦も苦言を
ていした。崇神は卑弥呼同様暗殺又は毒殺されたのではないか。
407日本@名無史さん:2005/04/11(月) 11:37:39
神話だっつの。
408鴨禰宜:2005/04/11(月) 12:03:27
古トルコ系↓楯築古墳と共通する古トルコの墓の一例は↓
http://www.ahttp://www.altaiinter.org/project/culture/Geography/Culture%20of%20Turks/Graven%20Images/Pictures/tabl46.gif
また、スサノオが馬の生皮とか、馬による水田耕作、水田運営への妨害などで天照政権下で失脚追放されてことは記紀にあるとおり。
409日本@名無史さん:2005/04/11(月) 14:08:10
マルチ投稿すんなよ
410鴨禰宜:2005/04/11(月) 14:26:41
スマソ、どこ行ったかと探してたんだ。
411日本@名無史さん:2005/04/12(火) 15:38:18
12レス連続あぼ〜んにワラタ
他にレスする奴いないのかw
412日本@名無史さん:2005/05/02(月) 12:40:44
鎌倉時代以降は、
アイヌ系の関東武士・東日本武士が中心となり、
鎌倉時代のモンゴル軍襲来・戦国時代のヨーロッパ列強進出・幕末の欧米列強進出を阻止してきた。

日本がアジアに位置しながら、欧米の植民地にならず、先進国なのは、
上記の関東武士・東日本武士の輝かしい功績のおかげだし、
関東武士・東日本武士が白人系=アイヌ系だから。

>関東武士は長頭で、その後頭部つまり後頭葉は視覚を司る部分らしい。
>空間把握能力に長けていた結果、弓や射撃の名人、騎馬の達人が多かった。
>弓の達人といえば那須の与一が有名だな。
>長頭の白人や狩猟民族アイヌは武勇に優れていた。


関西が歴史の中心になったのは平安時代までで、たいした功績は無い。

関西人が古代朝鮮人の子孫なので、
関西人は、それをコンプレックスに思っているのだろう。
413日本@名無史さん:2005/05/02(月) 12:41:41
関東の極一部を朝鮮人が開拓したのは事実のようだ。
だが、関東はアイヌ系=白人系がほとんどだから、大半の土地はアイヌ人が開拓したんだろうな。
朝鮮人が珍しい関東では、地名として残ったのかもなw

だが、関西は人口の90%が朝鮮人だから、朝鮮人が開拓してもニュースにもならないのかもなw
90%の土地は朝鮮人が開拓したのだろうなw
右も左も朝鮮だらけだなw

何時だったか鎌倉時代の関東武士の人骨が鎌倉から大量に掘り出されたが、ほとんど白人と区別つかなかったそうだ。
つまり、14世紀になっても関東の大部分はアイヌ人の直系とその混血系が多かったということ。

関東人は長頭、半島人は過短頭。
とくに鎌倉から発見された頭骨900体あまりは西洋人並に長頭。

鎌倉市材木座の八幡宮参道沿いで、一の鳥居のすぐ東隣から、元弘三(1333)年五月
の新田義貞の鎌倉攻めの時の戦死者と推定される人骨が、1953年から1956年にわた
る三回の発掘によって、少なくとも910体も発見された。

東京大学名誉教授の埴原さんの分析では縄文人と渡来系朝鮮人の混血率は
近畿地方は渡来系朝鮮人9に対し縄文人1の割合だった。全国の大学に保管してある
現代人の頭骨を調査して統計処理してみると、日本人全体からみれば近畿人の骨
が異質な形態をしていた。渡来系朝鮮人の影響が近畿では濃厚なのである。

関西から、かなり離れた西日本に住んでいる、弥生系西日本人が中頭・中額なのに対して、
関西周辺人は短頭・短額、
関西周辺人は弥生系ではなく、帰化朝鮮系。

近 畿 地 方 は 渡 来 系 朝 鮮 人 9 に 対 し 縄 文 人 1 の 割 合 だ っ た。
近 畿 地 方 は 渡 来 系 朝 鮮 人 9 に 対 し 縄 文 人 1 の 割 合 だ っ た。
近 畿 地 方 は 渡 来 系 朝 鮮 人 9 に 対 し 縄 文 人 1 の 割 合 だ っ た。
近 畿 地 方 は 渡 来 系 朝 鮮 人 9 に 対 し 縄 文 人 1 の 割 合 だ っ た。
近 畿 地 方 は 渡 来 系 朝 鮮 人 9 に 対 し 縄 文 人 1 の 割 合 だ っ た。
414カモネギ:2005/05/02(月) 14:10:23
カモネギ、ここにもアラシでみんなの邪魔しているとは呆れた奴だな。連投しても
自分の身元がバレないと思っているんだったら、アマイぜ。方法はあるんだから。
415日本@名無史さん:2005/05/02(月) 14:23:07
わたしが、騎馬民族説にいまひとつ馴染めない理由を書きます。
渡来した民族の出自はいかにせよ、彼らが日本の地勢において、換言すれば
陳寿の記事を借用するなら、草木繁茂して行くに前人を見ず、という気候の
風景の中に在って、騎馬民族の勇士と馬はいかにして跳梁跋扈し得たのかと
いう素朴な疑問があるのです。
かつまた、騎馬民族が渡海するのであれば、軍事用語で申しますところの、
いわゆる兵站が必要となるはずです。江上氏の本はそれなりに自分も読み
騎馬民族は来た来ない、も読みましたが解りませんでした。
この点につきまして、ご教示の返信を期待しております。
416鴨禰宜:2005/05/02(月) 21:20:29
高句麗広開土王が半島に上陸した倭国軍に対して海から攻めてきています。半島でさえ
騎馬兵団による戦闘には限界があるのでしょう。時代は代わってかの蒙古軍でも水際で
撃退されました。ですから、騎馬を習慣とする民族が馬と共に多数渡来するということは
なかったと思うんですが、しかし、農耕牧畜民族、特に、トナカイ、ノロ、鹿等を大陸で
飼育したり、寒冷地の農業、狩猟などを行っていた民族が渡来し、鹿狩りとか、鹿の飼育を
行うと言うことはありえるんじゃないでしょうか。
417日本@名無史さん:2005/05/02(月) 22:01:28
日本の地勢においては騎馬戦はないだろう、というなら、騎馬戦に強い坂東武者も
戦国の騎馬戦もないことになってしまう。
418鴨禰宜:2005/05/02(月) 22:50:15
日本と言う国も急速に開けたんでしょうね。
>>415 でも引用されているが
「陳寿の記事を借用するなら、草木繁茂して行くに前人を見ず、という気候の
風景の中に在って、騎馬民族の勇士と馬はいかにして跳梁跋扈し得たのかと」
と言った風景は日本国中変わることはなかったはずです。
4世紀の終わりの倭国の大陸進出の頃からそろそろ馬が入ってくるのでしょうか。
419日本@名無史さん:2005/05/02(月) 23:31:26
>>412
少しは疑問点に答えてもよいのでは。あなたは、他板でも関東的、
共産史観的在地領主論を唱え、白人に対し奴隷根性を持っている。
頭示数でヨーロッパ人は示数78〜85までが大部分、つまり中頭が
相当数、短頭が過半数ではないのか?
日本の頭示数では、中世75以下の長頭であるが、現代は80以上と
短頭化している。中世において関東だけが長頭だったという根拠でも
あったのか?
騎馬民族のスキタイは短頭?長頭?頭示数86以上のモンゴル系の
カルムイク人やカザフスタンの人達は騎馬の達人では無いという根拠でも
あるのか?
関東武士が騎射の達人なら、なぜ馬柄杓や馬丁のお供がついてないと
馬が乗りこなせない技術しかなかったのか?関東武士は頼朝以下、
都から弓馬の道を学んだのでないという根拠でもあるのか?
>>416
確かに大興安嶺以東の民族の場合、牧畜だけで無く、狩猟、農耕を求め
渡来した要素もあると思います。
420日本@名無史さん:2005/05/03(火) 00:00:31
>>412-413
アイヌ系って、どういう概念でいってるのかはなはだ疑問だな。
まともな学者はいたずらに議論を混迷させるようなそんな用語は使わないものだが。

>>416
>高句麗広開土王が半島に上陸した倭国軍に対して海から攻めてきています。

そんなこと書いてあったっけ?

>>417
坂東武者の騎馬戦は世界用語としての騎馬戦には該当しないよ。>>419氏がもっともなことをいってる。
421圭角:2005/05/03(火) 09:27:00
義経に限らず、源氏が騎馬民族の子孫という説は承知しています。
しかし、このスレでいうところの騎馬民族説とは江上波男氏を基調とするものでは
ないのですか。私に対して、日本の地勢を問題にするのなら坂東武者の騎馬戦いも
ないだろうというご反論ですから、反問させてください。江上氏の騎馬民族国家と
言う本は、関東平野の坂東武者に論及したものではありませんよ。四世紀の話です。
むろん、浅学の小生とても、倭人伝に馬はなしと記されているからとしても、半島や
中国との交流を想えば、当然すでにいたと解しています。官道が整備され始めたのは
八世紀になってからのことですよね。
当時の邪馬台国もしくは大和政権に至る間に、西日本において騎馬戦が大規模に
展開されたという地域場所があったら、答えてください。できるだけ根拠をと願う。
広開土王が渡海して海から倭に攻め込んだなんていう人がこのスレにいるなんか
驚愕する。驚天動地というかアホラシの一語。
422鴨禰宜:2005/05/03(火) 11:49:19
>>416 高句麗広開土王が半島に上陸した倭国軍に対して海から攻めてきています
これってよく見ると逆のようですね。句読点とか、抜けた箇所の恣意的解釈でどうにでも
なるので断定はできない。書き込みを取り下げます。
恐ろしいなー。
423カモネギ:2005/05/03(火) 12:01:47
当分、カキコ止めて勉強しろ。目障りだ。
424鴨禰宜:2005/05/03(火) 13:12:15
このハンドルうかつに使うと鳥インフルエンザにかかったり神罰が下るぞ。
特に北京ダックなんか食うなよ。
425日本@名無史さん:2005/05/03(火) 15:19:03
関東武士団のほとんどが、天皇家から臣下の列に降った皇族を族長とする
百済難民の子孫じゃん。
426日本@名無史さん:2005/05/04(水) 13:57:04
>>421
>このスレでいうところの騎馬民族説とは江上波男氏を基調とするものでは
>ないのですか。

確かに江上波男はモンゴル的な遊牧騎馬民族について言及しているが、同時に
彼は日本に来たのは任那を征服した扶余族であると、具体的に言っている。
この扶余族はモンゴルのような典型的な騎馬民族ではない。
扶余の軍隊は歩兵、装甲騎兵、軽装騎兵の混成であったと考えられる。
広開土王の碑に「歩騎五万」とあるようにね。

>西日本において騎馬戦が大規模に 展開されたという地域場所があったら、
>答えてください。

吉野ケ里、あるいは巻向の段階の倭人を相手にするのに、あなたが考えて
いるようなジンギスカンの騎馬軍団のモデルは必要ない。
マヤを征服したコルテス軍のような、500人の歩兵と10数騎の騎兵、
といったモデルでも十分だったろう。
彼我の軍事技術はそれほど隔絶していた。4世紀前半の時点ではね。
427圭角:2005/05/04(水) 14:09:19
コルテスとの比較論評することは無理があり過ぎませんか。
コルテスが容易に征服し得た主因は、銃砲の使用によるからではありません
か。
機関銃を二丁、あなたと私が持ってて家来の百人でもいたら、邪馬台国にも
狗奴国にでも勝てますよ。
ついでに、兵站に関してのあなたのお考えはいかがですか。
428日本@名無史さん:2005/05/05(木) 14:02:45
>>427
確かにコルテス軍は銃を持っていた。しかしそれは単発先込めの火縄銃で、しかも
射手は十三人しかいなかった。タバスコの戦いで、十三挺の銃が火を噴いても
1万人のマヤ軍の突撃を食い止めることはできず、白兵戦になった。
スペイン軍の危機を救ったのはたった10騎の騎兵の突撃だった。

騎馬戦術を知らない1万人の軍に対して10騎の騎兵が決定的な効果を持った、
ということが重要なのだ。
429日本@名無史さん:2005/05/06(金) 17:07:29
>>419
長頭は東日本の北方縄文人の特徴。
北方縄文人の直系の子孫であるアイヌ人は現代でも長頭。

西日本に移動した、東日本の北方縄文人もいるだろうから、西日本に長頭人種がいても、おかしくない。

東西間の混血が進み、鉄道・道路等の交通機関の発達後さらに東西間の混血が進み、
また狩猟生活をやめた為、長頭度が退化し(これはヨーロッパも同じだが)、
長頭人種は激減したのだろう。



各時代の頭蓋骨を分析して得た頭長と頭幅の比である頭長幅示数をみると、
日本人の頭長は平均196〜182ミリ、頭幅は平均156〜147ミリで、頭長幅指数は77〜86である。
これには地域差があり、長頭ないし中頭は、東日本や日本海岸、離島に多く、短頭は西日本で、中心は畿内地方である。
なお朝鮮・韓国人は短頭が多い。これらは弥生時代以後に渡来した人々の分布を示している。

短頭=頭が左右に長く、前後に短い
長頭=頭が左右に短く、前後に長い
中頭=短頭と長頭の中間
430日本@名無史さん:2005/05/07(土) 00:47:15
>>429
材木座人骨を手がけた鈴木尚氏は、長頭、扁平な鼻根部、強い反っ歯の
三特徴の組み合わせが、地域に関係なく中世日本人の特性であると
している。逆に中世日本人で短頭型の人骨でもあったのか?

今村豊氏の頭型の比較によると、短頭は、朝鮮人や、蒙古人、満洲人、
ジャワ人で、日本人、中国人は短頭〜中頭、アイヌ人や
ニューギニア人は中頭〜長頭となっている。
431日本@名無史さん:2005/05/07(土) 08:45:38
>>429
もう一つの短頭の中心がある。
それは鹿児島県北部を中心とする九州南部地方である。
432日本@名無史さん:2005/05/07(土) 08:47:55
各種メディアにリンクされてます。
http://www.website-collection.com/
このみのニュースを選べます。
433日本@名無史さん:2005/05/07(土) 15:44:56
金管は鉄の産地で百済新羅高句麗から狙われてただろう。
当時の半島は鉄が貨幣みたいなもので流通していた。どこも欲しがってたんだ。
それで倭も出先町つくって交易で手に入れてた。ところが百済新羅の勢力が増すにつれて
金管は鉄の保持ができなくなってきた。そこで海の向うの野蛮人「倭」を傭兵として同盟した。
西ローマのローマ人とゲルマン人みたいな関係。
それが発展してとうとう金管は倭に従属した。ゲルマンに飲み込まれたローマ見たいな関係。
その結果度々新羅や百済に倭人が襲来して首都を脅かした。
戦国時代の小大名と大勢力の関係。で、金管滅亡、任那滅亡。移民が倭へ。で混血。

ちなみに吉備はもとは秦王国だったんじゃないかな。
434日本@名無史さん:2005/05/08(日) 15:34:20
>>433
逆も考えられる。扶余の金官と三輪王朝は早くから関係があった。これは
出土物から証明される。
金官は三輪王朝より軍事技術が進んでいた。で、三輪王朝の統一事業に対して
騎馬戦闘集団を提供しておおいに功績を上げた。
功績に対して領地が下賜される。これはシチリア島のバイキング戦闘集団が
アラブから下賜されたシチリア公国にあたる。
で、「扶余公国」は強大になり、三輪王朝と婚姻関係を結び、遂にあるとき三輪王朝を
簒奪した。しかしすぐには大和に入らず朝鮮との交通路の河内に王朝を開いた。
バイキングのシチリア王国にあたる。
435日本@名無史さん:2005/05/09(月) 01:15:01
あーとも考えられるしこーとも考えられる。
なんとでも考えられるのなら、その範囲の中で文献や伝承に従うのが学問的態度。
436日本@名無史さん:2005/05/09(月) 01:15:39
>>425
根拠ないよ・・・
437日本@名無史さん:2005/05/09(月) 02:55:55
日本の前方後円墳が3世紀なのに対して
金官周辺の前方後円墳が5世紀なのはどうするべ。

前方後円墳は日本独特のものなんだが。
438日本@名無史さん:2005/05/09(月) 04:55:06
>>435
この時代の文献があるのなら苦労はない。

>>437
金官周辺に前方後円墳はない。
あるのは木郭式の王墓だが、これは3世紀末から4世紀いっぱい続いて、5世紀に
入ると作られなくなる。
439日本@名無史さん:2005/05/09(月) 05:47:23
>>438
「この時代」っていつよ?
440日本@名無史さん:2005/05/09(月) 16:33:41
>>439
主として4世紀。
441日本@名無史さん:2005/05/09(月) 21:54:26
>>438
任那周辺って金官入るでそ
442日本@名無史さん:2005/05/09(月) 22:40:05
>>440
四世紀なら晋書とか広開土王碑文とかあるんじゃねーの?
443日本@名無史さん:2005/05/09(月) 22:50:53
>>441
金官は狭い意味の任那だが、それで?

>>442
で、それらの文献に、倭/任那関係の始まりについてなにか書いてあるの?
444日本@名無史さん:2005/05/09(月) 23:18:32
任那あたりで前方後円墳出てるのしらないの?
445日本@名無史さん:2005/05/10(火) 00:14:07
>>443
何も書いてないんだからそれ以前からあるんじゃないの?
そもそも倭は周の成王の頃から文献にでてくるじゃん。
446日本@名無史さん:2005/05/10(火) 05:31:11
>>444
任那付近のは松鶴洞古墳と言ったかな?
もっとも早く「前方後円墳」と言われ始めたものだが、最近の徹底した発掘で
複数の円墳であることが立証された。
真正の前方後円墳は半島西南部に十数基ある。5世紀以降のものだ。

>>445
>何も書いてないんだからそれ以前からあるんじゃないの?

その通り。なにも書いてない。だから倭/任那関係の始まりは文献以外から
推定するしかない。
広開土王碑の段階では、すでに倭と任那(金官)が一体化していたことは
碑文から推定される。
あなたの言うとおり、それ以前が問題なのだ。
447日本@名無史さん:2005/05/10(火) 13:34:47
>>437
>日本の前方後円墳が3世紀なのに対して
>金官周辺の前方後円墳が5世紀なのはどうするべ。

だから逆に倭が朝鮮半島に進出したのだ、と言いたいのだろうが、
扶余征服説も5世紀以降の倭の半島進出を否定しない。
これはちょうど、フランスからのノルマン人に征服された英国が
その後逆にフランスに進出した状況と同じだ。

扶余に征服されて騎馬化し、強大になった倭が扶余の旧領を足場として
半島に進出したと考えればよい。

448日本@名無史さん:2005/05/10(火) 23:32:02
金官付近?もっと西じゃないの?
449日本@名無史さん:2005/05/10(火) 23:54:27
>>447
3世紀っておまえ、卑弥呼の時代だろ。
そのころに金管が征服しに来たんなら魏の使者も何か書くだろ。

あ、あれか?
中国人が倭にいたということで魏の使者も驚いた秦王国のことか?
あれが金管の移民国だということ?

にしても騎馬化って・・・
山がちな列島、半島で騎馬戦なんてできるかよ。運搬用にしかならねぇよ。
騎馬が決め手になる戦争は日本と半島には有史以来ない。
武田騎馬軍団なんて史実ではなかったんだし。
騎馬軍団が暴れることができるのは中国と蒙古。
450日本@名無史さん:2005/05/11(水) 00:35:21
>>449
秦王国は隋だからずっと後の時代。まだないよ。
451日本@名無史さん:2005/05/11(水) 01:42:21
海の向こうじゃジンギスカンよ。
452日本@名無史さん:2005/05/11(水) 05:22:26
>>448
金官付近というのは相手に合わせて言ったのだ。
本当は安羅の領域にある。

>>449
>3世紀っておまえ、卑弥呼の時代だろ。
>そのころに金管が征服しに来たんなら魏の使者も何か書くだろ。

3世紀末だ。4世紀末の広開土王の戦いだって中国の史書にはない。

>騎馬が決め手になる戦争は日本と半島には有史以来ない。

鵯越え、屋島など義経の機動作戦は馬がなければ成り立たなかった。

>騎馬軍団が暴れることができるのは中国と蒙古。

モンゴルの全軍騎馬の軍団をイメージする必要はない。
扶余の軍隊は歩騎混成。
地形のことを言うなら、装甲騎兵を持っていた高句麗の領域は
日本も及ばぬ山また山の満洲東部だ。
一度現地に行って見たらいい。




453日本@名無史さん:2005/05/11(水) 05:46:47
て言うか、記紀にも馬に纏わる話は無いだろ。
今は完全に否定された事だから。
天皇の起源はインドか中国南部説が有力だよ。言語体系や宗教的に。
インドから中国を通りヤタガラスに助けられ東征したんだよ。
454日本@名無史さん:2005/05/11(水) 11:02:02
>>452
広開土王の倭との戦いは碑文にあるじゃん。もし碑文が発見されてなければ
当たり前だがそんな戦いはなかったというしかないね。
それが学問の手続きというものだ。
夫餘の金官征服戦や倭への侵攻戦がどこかの碑文にあるのか?
455日本@名無史さん:2005/05/11(水) 14:38:38
>>453
>て言うか、記紀にも馬に纏わる話は無いだろ。

神功皇后以後の日本書紀は馬臭ふんぷんとしている。
新羅王が降伏の貢ぎ物の第一に「馬の鞭」を挙げたのに始まって
以後の各天皇記に馬の出てこないのはない。

>>454
>広開土王の倭との戦いは碑文にあるじゃん。もし碑文が発見されてなければ
>当たり前だがそんな戦いはなかったというしかないね。

その通り。 もし碑文が発見されてなければ中国の史書だけでは知られる
ことはなかった。
歴史上意味のある大きな事件でも中国の史書に載るとは限らないのだ。
当然ながら時の中国王朝から見て関心のあることしか書かないのだからね。

扶余の金官征服は大成洞などの発掘成果から証明される。
これもまた中国の史書にはない。

扶余の倭への侵攻ないし簒奪は文献にない。
逆にまた三輪王朝が扶余の金官を征服したという文献もない。
いずれにしても推定の範囲になるわけだ。

456日本@名無史さん:2005/05/11(水) 14:56:07
起源をたとればアフリカの猿ということになるだろ。日本人も朝鮮人も中国人も白人もな。

あとはインドを通ろうがシベリアを通ろううがどうでもいい問題。どの人種も同祖ということだ。

そのご、人種が分かれる段階でものすごい違いができたが。

特に日本人と朝鮮人と中国人の違いは絶大。自分の性格分析によると朝鮮人と中国人は人種的に近い。品性の低さが同じだからな。

これに対して日本人はきわだって優秀で品性も高い。明らかに朝鮮人と中国人とは全く別人種だ。
457日本@名無史さん:2005/05/11(水) 14:59:16
>>455
そんな与太話しているより帰る準備したほうがよくないか。
458日本@名無史さん:2005/05/12(木) 05:30:17
そして5世紀になると全国各地に馬の大規模牧場ができ、河内には大規模な
製鉄・鉄加工センターができた。
馬と鉄は支配を維持するための二大要素だった。
恐らく5世紀の倭は半島への馬供給基地となり、かつ鉄を自給していた。
日本書紀に見る任那への異常な執着は、鉄供給源としての重要性ではもはや
説明できない。
任那は倭王のアイデンティティに関係していたのだ。
459日本@名無史さん:2005/05/13(金) 05:30:17
>扶余の金官征服は大成洞などの発掘成果から証明される。

証明はされてないだろ。
「もれ扶余だけど征服したよ」って文章が出たのかw
460日本@名無史さん:2005/05/13(金) 09:16:09
>>459
吉林省楡樹の扶余遺跡と同形式の殉葬を伴う木郭墓がそれまでの王墓を破壊して
作られていること、同じく扶余式の騎馬戦用の兜、桂甲、槍の出土が突然始まること、
扶余と同じく鉄剣を折り曲げて埋葬する仕方、扶余式の祭祀用銅壷の出土、
これらを扶余による征服以外の理由で統一的に説明することは難しい。

なお、「扶余の金官征服」は便宜上言ったが正しくない。
正しくは扶余が狗耶韓国を征服して金官になった。
461日本@名無史さん:2005/05/13(金) 10:01:40
>>455
それは貢ぎ物だからだろ。
462日本@名無史さん:2005/05/13(金) 14:43:29
フヨが金管を征服した証拠は?
463日本@名無史さん:2005/05/13(金) 22:43:51
>>460
朝鮮で戦争し始めたから装備一新したのでは?
匈奴との戦いで趙の武霊王が匈奴式に装備を変えたのと同じだと思うんだが。
464日本@名無史さん:2005/05/13(金) 23:15:08
>>463
馬の飼養術から乗馬術、騎兵戦術、鉄製武器/武装の製造技術、これらを一挙に
身につけるのは大変だと思うが、100歩譲ってそれに成功したとしても、
何故に墓の形式を変えたり、それまでの王墓を破壊したり、ましてや今まで
なかった「殉葬」を始めたりする必要があるのか?
それを「統一的に」説明しなければ反論にならない。

>>461
貢ぎ物だからどうだというの?
相手が馬を持っていなければ、毎年馬の鞭を贈ってもなんの意味も、有難みも
ないではないか。
そしてこの辺を境にして馬そのものの記述もどんどん増えてくる。

>>462
すでに言った。
465日本@名無史さん:2005/05/13(金) 23:21:04
過去ではなく現状から考えるに、
ミルクティーにミルク入れたりクリーム入れたりする、
つまり乳製品の知識に乏しい日本人が
騎馬民族であるはずが無い、という説も。
466日本@名無史さん:2005/05/13(金) 23:26:57
騎馬民族の間に、
肉食(正確には4足動物)が野蛮、
なんて思想が広まるものなのか。
467日本@名無史さん:2005/05/14(土) 00:32:41
日本には元々チーズもヨーグルトもなかったし。
騎馬民族と乳製品は切り離せないんじゃないのか?
468日本@名無史さん:2005/05/14(土) 01:20:23
騎馬民族の全てが、遊牧民あるいは農牧民ではないと思うが。
シロコゴルフは、満洲人が搾乳の方法を知らなかったと書いている。

肉食云々について、アーリア系牧畜民が支配したインドでは?
それに比べると、日本で肉食は、さほどタブーになっていない。
469日本@名無史さん:2005/05/14(土) 02:15:12
騎馬民族にとって生贄は共通事項だ。
朝鮮でさえ生贄がされてるのに日本ではされない。
生贄なんていう民族の大事な部分をなくすはずが無い。

騎馬民族なら去勢も知ってるはず。日本にはない。

ということから日本は騎馬民族ほど馬を知らず、
見よう見まねで国家事業として急速に馬を飼育し始めたと思われる。
だから馬関係の貢物が好まれたんだろう。
470日本@名無史さん:2005/05/14(土) 02:25:04
木郭墓なんて中国にもあるだろ。
それに扶余遺跡と同形式なんて言えるか?
しかも他人の墓に入りたいと思うか?
同一人物が途中で計画変更しただけだろ。
471日本@名無史さん:2005/05/14(土) 04:19:51
騎馬民族説はとっくの昔に詳細に議論された上で完全に否定されてるわけで
2chくんだりで蒸し返してるのはネタ以上の意味はないよ。
472日本@名無史さん:2005/05/14(土) 06:08:22
何言ってるんだ。
みんなネタで議論しているんだ。
言わずもがなだ。
473日本@名無史さん:2005/05/14(土) 06:13:54
>>468
んー、肉食云々は思いつきで語っただけだけさ。
言い方を変えて、日本に古来より伝わる騎馬民族特有の文化にはどんなものが?
農耕民族の文化は朝廷の儀式を調べれば分かりやすいが。
474日本@名無史さん:2005/05/14(土) 11:56:42
朝廷の儀式って神道なんだけども多分に仏教の影響が大きいらしい。
ま、神仏混合として仏教を受け入れたんだから当たり前だが。
475日本@名無史さん:2005/05/14(土) 14:13:20
>>469
>騎馬民族なら去勢も知ってるはず。日本にはない。

去勢の話は意味がない。というのは、倭国で5世紀に始まった馬の飼養は
渡来人によって担われていたことが発掘からわかる。
もし半島で去勢が行われていたのなら、その技術を渡来人が倭国に持ち込んだ
ことは確実だ。
だから、日本に去勢の習慣がないのなら、それはもともと半島でも行われて
いなかったか、日本で二次的に消滅したか、どちらかしかあり得ないのだ。

>国家事業として急速に馬を飼育し始めたと思われる。

その通り。そしてそのような騎馬化が日本書紀にも反映された。
この議論は>>453が「記紀に馬に纏わる話がない」と言ったのに対して
「たくさんある」と反論したのが始まりだから、認識が一致すればそれでよい。
476日本@名無史さん:2005/05/14(土) 14:17:01
>>470
>木郭墓なんて中国にもあるだろ。
>それに扶余遺跡と同形式なんて言えるか?

扶余式木郭墓の特徴は、四隅に丸太を打ち込んで、その間を横に置いた丸太で
埋めて四壁とする構造、殉葬に対応する平面形、棺を用いず直接郭内に葬る
埋葬の仕方、などである。
このような特徴が金官の大成洞遺跡と、吉林省楡樹の扶余遺跡とで一致する。
また、晋書東夷伝扶余条の、「死者以生人殉葬、有椁無棺。」という記述と
一致する。

>同一人物が途中で計画変更しただけだろ。

狗耶韓国時代の王墓を破壊して、その上にべったりと扶余式木郭墓を築くと
いうことが、金官の複数の王墓において、年代を異にしつつ繰り返されている
のだ。
金官人は王墓を築く度に「計画変更」したのか?
477日本@名無史さん:2005/05/14(土) 18:15:14
>>469>>473
農耕民族の文化は、といわれるので、さぞ農耕民族の文化に詳しいと
思われるが、東南アジアの農耕民族は、牛、水牛等生贄にしないのか?
森浩一氏によると、「病気や事故で死んだ場合馬の頭(脳など)を抜いて、
犠牲獣の場合は、全身骨格か、頭だけ埋めてある。『延喜式』でみると
馬、豚、鶏は、祭りの時犠牲に捧げられている。」
去勢についても、去勢文化圏と非去勢文化圏の区分はどの地域を
想定しておられるのか?
騎馬民族特有の文化を、習慣等で定義しているのはあなたでしょう。
その習慣も地域、歴史によって異なると思うが。
西川一三著「秘境西域八年の潜行」芙蓉書房に、
「青海蒙古人は、血のしたたる肉を生のまま食べている。他の蒙古人は
「けがらわしい奴」という態度をみせた。蒙古人は、肉を生や火の神を
けがすといって焼いて食べるのを忌み嫌い、必ず煮なければ食べない
習慣があるが、青海蒙古人はまったく平気で、生肉を食べる。」
シベリアの諸民族も生肉を食べるが、つまり食習慣だけでもこれだけ
違うのに、騎馬民族特有の文化とは逆に伺いたい。
478473:2005/05/14(土) 19:56:40
>>477
>>469は知らない。俺じゃない。
文化ひとつ特徴が出てこないなら、騎馬民族の定義自体あやふやだな。
馬に乗ってれば騎馬民族?交易すれば騎馬民族?
だとすれば、確かに日本人も騎馬民族かもね。
479473:2005/05/14(土) 20:00:53
そういえば、江上氏は日本人の遊牧騎馬民族説をとなえたんだっけ?
だったら、チーズやヨーグルトくらい伝わってないと変かな。
480日本@名無史さん:2005/05/14(土) 20:03:21
広く騎馬民族の間では、誓いを立て、盟友になるとき、ケットルに酒を入
れ、二人の血をそれぞれに注いで一緒に飲む風習があった。
騎馬民族にとって祭事や宴会や儀式にケットルはなくてはならないもので、
馬につけてどこへでも携えていったのである。騎馬民族の行くところ、つねに
ケットルがあったのは、そのような理由からである。(江上;『月刊 Asahi』1991)

残念ながら、本土三島の古墳からも、朝鮮半島の江上波夫の指摘する
古墳以外のすべてからも、オルドス型青銅ケットルが発掘された例はな
いようです。
481日本@名無史さん:2005/05/14(土) 22:40:06
フヨフヨって・・・百済の王もフヨだろが。
百済の遺跡と共通点がないと金管=フヨとは言えんぞ。まして倭も。

それに文化が習慣がちがう同民族を主張するなら
東アジアは同民族でそれぞれ習慣が違うだけだと主張したほうが楽だ。
1部だけ共通点があり、他の重要な点は違う文化をもつだけで同じ民族と言うのは
おかしなこと。蒙古よりも、中国と朝鮮と日本は同じ民族と言えるだろ。
482日本@名無史さん:2005/05/14(土) 23:16:44
>>479
それなら、いわゆる「騎馬民族」とされる扶余や、その一派の高句麗、百済が
来たことが確実な朝鮮半島に、土着の(西洋由来でない)チーズやヨーグルトが
伝わっているのか?
いないのなら、日本にだけそれを求めることはできない。
483日本@名無史さん:2005/05/14(土) 23:22:04
>>482
>残念ながら、本土三島の古墳からも、朝鮮半島の江上波夫の指摘する
>古墳以外のすべてからも、オルドス型青銅ケットルが発掘された例はな
>いようです。

「朝鮮半島の江上波夫の指摘する古墳」からはケットルが出た、と言う意味か?
484日本@名無史さん:2005/05/15(日) 00:41:45
>>482
ならば扶余は騎馬民族じゃなかったということだろ。
485日本@名無史さん:2005/05/15(日) 01:32:05
中国も高句麗も百済も新羅も金管も騎馬民族じゃない。ならば倭も騎馬民族じゃない。
どこも不器用に蒙古を真似してみただけ。
486日本@名無史さん:2005/05/15(日) 02:22:43
つーか騎馬民族文化に触れた農耕民族が来たというほうが正しくないか?
487477:2005/05/15(日) 03:21:15
>>478
騎馬民族の定義自体難しい。ロシア人のシロコゴルフによると、
満洲人は牛乳を搾らない。しかし満洲人は極めて優れた騎手であり、
過去に於いては極めて優れた騎馬隊を形成していた。満洲人は近い距離に
住んでいる誰かを訪ねなければならない時でも、決して徒歩では行かず
馬に乗って行く。一方漢人は、最も卓越した徒歩者であり、その目的地に
達する為数百哩を徒歩で旅行することが出来る。と言っている。

モンゴル高原の支配者となった柔然は、初期においては騎馬というより、
牛に乗って掠奪する騎牛民族となるのか。蒙瓦部(モンゴル)も初期に
おいては。モンゴル高原の支配部族は、アルタイからバイカル湖、
大興安嶺の近隣の農耕+狩猟(漁労)+牧畜民であり、概ね森林の民が
遊牧民を支配した王朝といえるのだが。
488日本@名無史さん:2005/05/15(日) 03:46:56
「騎馬民族」という概念設定がそもそも不可能。
現実に機能しうる概念でいちばん近いのは「遊牧民」だが
それだと夫餘も百済も高句麗も金官も倭もぜんぶはずれるから
一切の議論に関係がなくなってしまう。
489日本@名無史さん:2005/05/15(日) 05:42:18
そうか・・・、騎馬民族の定義自体できないのでは問題外だね。
そりゃあ
「騎馬民族なら○○のはずじゃないのか」
「そうでない例もある」
という逃げ道がいくらでもあるわな。
反論者側に騎馬民族の定義をさせておいて自分はそれに反論するだけでは・・・。

騎馬民族説を語る奴は騎馬民族の定義をはっきりさせてから来いって奴だね。

500レス近い議論もそもそも土台自体あやふやだった、と。みなさんお疲れ様。
490日本@名無史さん:2005/05/15(日) 06:35:54
馬に乗れば騎馬民族だったら、
牛車に乗ってる人たちは?
象に乗ってるインド人は?
イルカに乗った少年は?
491日本@名無史さん:2005/05/15(日) 06:38:58
>>483
「日本からは出土していない」事を捉えるべき。
492日本@名無史さん:2005/05/15(日) 10:53:17
なにを議論しているのかさっぱりわからない。
江上は「扶余が任那を、次いで倭国を征服して天皇になった」と具体的に
言っているのに、なんで「騎馬民族」の定義が必要なのか?

「扶余は来たかも知れない。しかし扶余は騎馬民族とは言えない。
日本に騎馬民族が来た形跡はない。だから扶余が来たとは言えない」
という議論のばからしさに自分で気付かないのだろうか。

>>491
では聞くが、高句麗、百済からはケットルが出土しているのか?
493日本@名無史さん:2005/05/15(日) 12:43:04
>>492
扶余が騎馬民族だという証明がまずなされていない。
扶余が騎馬民族ではないのなら、正直に無いと言え。

百済も扶余だが共通点あるのか?
494日本@名無史さん:2005/05/15(日) 15:46:40
>>492
> 次いで倭国を征服して天皇になった

もし本当に古来から朝見してる倭が征服されて支配層が変わったなら中国の史書にその旨が記載されるだろ?
別に絶対じゃないけど可能性は相当低いな。
495日本@名無史さん:2005/05/15(日) 15:52:51
百済や新羅がそれを記すはず。
496日本@名無史さん:2005/05/15(日) 17:53:08
>>492
おまえはバカか?
江上は夫餘が日本を征服したというヨタをいうために
わざわざ騎馬民族という幽霊語を捏造する必要があったんだよ。

「あれこれのことが考えられる理由は騎馬民族にそういう特徴があるから」
だのの理屈の中ででてくる騎馬民族の特徴というのはすべて遊牧民の特徴。
しかしそれだと夫餘にこじつけることができないから
「遊牧民と夫餘の両方ふくむ概念」として「騎馬民族」という曖昧な言葉を
あえて使ったんだよ。これで議論のすりかえをしたわけ。
497477:2005/05/15(日) 18:40:28
>>489
奴たあ誰のことなら。わしのことをゆうとるんか。逃げ道じゃゆうて、
誰から逃げとるんか言えいや。
反論者に騎馬民族を定義させた?勝手に定義しとるんは、反論者側じゃ、
ゆうとろうが。定義しとらん者が来なゆうんか?人につまらん指図すなや。
人を愚弄するにも、ほどがあろう。

江上氏によると騎馬民族という言葉自体が、ドイツ人が使い始めた
学術用語で、遊牧民や狩猟農耕民が征服王朝国家を建てた時、
他に適当な用語が見当たらなかったので、騎馬民族となったらしい。
498日本@名無史さん:2005/05/15(日) 20:41:19
騎馬民族云々の話は関係ないと言うんだね。
じゃあ扶余征服説から騎馬民族の特徴などは切り離して語る事ができる、と。
それはそれで良いけど、それで江上氏の説を擁護できるの?

・・・それにしても、タイピング文で使われる方言ってほとんど西日本のものだな。
   普通は書き込む過程で標準語に直すものだが、
   怒りの表現として有効だと思っているのか、
   それとも他地域人が威勢のよさを表現しようとしているのか。
   誰も馬鹿にしても弄んでもいないと思うが、
   その言葉遣いは愚弄を呼ぶ元になると思う。
   微妙に文の読み違いもしているようだし。
499日本@名無史さん:2005/05/15(日) 22:55:14
>>497
2chでマジ切れしてるバカw
関西弁使うと頭足りない奴に見えるぞwww
500日本@名無史さん:2005/05/15(日) 23:12:41
騎馬民族征服説を40年前ならともかく今時いってる段階で十分に頭足りない奴に見えてるよ
まぁそういう奴だからこそ切れると関西弁になるんだろうけど
501日本@名無史さん:2005/05/15(日) 23:55:27
>>493
>扶余が騎馬民族ではないのなら、正直に無いと言え。

騎馬民族かどうかは言葉の遊びに過ぎない。
3世紀末に狗耶韓国を征服した時点で扶余は騎馬戦術を持っていた。
新羅、任那諸国、倭は騎馬戦術を持っていなかった。
これが全てだ。

>百済も扶余だが共通点あるのか?

百済は史書や金石文で扶余と証明される。
金官は出土物から扶余と証明される。
それぞれ証明されるのなら共通点はあってもなくてもよい。


502日本@名無史さん:2005/05/15(日) 23:58:52
>>496
>江上は夫餘が日本を征服したというヨタをいうために
>わざわざ騎馬民族という幽霊語を捏造する必要があったんだよ。

その通り。ヨタかどうかはともかく、江上説にとって「騎馬民族」は余計なものだ。
当時は補強する材料が少なかったから、遊牧民族まで包含する概念を持ってきた
のだろうが、一方で例の「秦王説」は当初から言っている。
秦王かどうかは別として、その内容は扶余が任那の王になった、というものだ。

これは今日の大成洞などの発掘成果を何十年か早く予言したものだ。
先見の明の栄誉は矢張り江上にある。
当時、井上など他の学者たちが任那の扶余についてなんと言っていたか、調べて
見たらよい。
そして、これが証明された以上、倭/任那関係の概念は見直される必要があるのに、
今日でもそれが真面目に行われていない。それが問題なのだ。
503477:2005/05/16(月) 00:38:18
>>498
怒りの表現も、威勢のよさを表現も、へったくれもあるまい。
逃げるじゃあ、奴じゃあ、言われたら、わりゃあ、このくそ外道はわしを
なめとるんか思うど。言葉遣いについて、言いたいんはこっちじゃ。
あなたの扶余征服王朝説から騎馬民族の特徴などは切り離して?
その騎馬民族の特徴とは何か?と思うんじゃが。

江上氏は、遊牧文化を強調し、農耕文化との比較に重点をおいて
おられるが、わしは、487でも書いたように、狩猟農耕併用の民が、
遊牧文明や農耕文明のいずれかに進路を求め支配した要素(前者は突厥、
蒙古等で後者は鮮卑、扶余、女真、満洲等)も軽視出来んと思う。
しかし江上氏の、広い意味での歴史についての視点には共感出来る。
日本においての騎馬民族征服王朝説については、別に征服という形に
こだわっておらん。東北アジアのポリツェ文化と弥生文化の関連や
近年の人類学からの関連も含め影響があったと考えておる。
504477:2005/05/16(月) 01:02:41
>>499
バカじゃあ?礼儀知らずが多いのう。わしの言葉のどこが関西弁なら。
わしの頭が足りまいと、人からどう見られようと、そがんこたあ
どうでもええわい。われが、人の世話やかんでもええことじゃ。
ほうか、わりゃあ、人の眼が気にかかるんか。
ほいじゃ、つまらん見栄で生きんさい。
505ここ重要:2005/05/16(月) 01:06:48
>>503
なるほど。征服という形にはこだわってないと。

それなら文化の伝播は、いろいろな形がありうるわけだ。
お雇い外人もあれば、民間交流もあれば、難民のもちこんだ文化も
あるってことでそ。そうすると政治史には必ずしもならないね。
506日本@名無史さん:2005/05/16(月) 02:13:44
>>501
扶余は遊牧系と言ってるのに百済の扶余は遊牧系の共通点がない。
つまり扶余はすでに半島に南下した時点で遊牧系の特色を失ってるのだ。
それより南の金管もすでに失ってるだろう。ならば、もう遊牧系ではなく農耕系なのだ。
扶余が農耕民族に同化されてしまったのだ。

だから倭にきたのは農耕民族化した扶余だ。

と言えば?
507ここ重要:2005/05/16(月) 03:22:24
いろいろ言いたいことはわかるけど
夫餘はもとから農耕系だし。満州にいた時から。
508日本@名無史さん:2005/05/16(月) 10:38:00
>>506
>扶余は遊牧系と言ってるのに百済の扶余は遊牧系の共通点がない。

だれが遊牧系と言ったのか知らないが少なくとも扶余は遊牧民族ではない。
前にも書いたが、晋書東夷伝を読んで一番感じるのは、扶余の社会が後の
満洲族の社会に近い、ということだ。
その特徴は国民皆兵的な軍事組織にある。軍事組織の目的は周辺の民族を支配することだ。
だから扶余が民族移動して他の土地に移れば、その土地の先住民を支配して支配階級になる。
百済がその好例だ。
百済が扶余だ、と言う場合、それは百済の支配階級を扶余が占めているという意味である。

歴史上、他の民族を支配することを業とする民族は例がある。例えばノルマンがそうだ。
ノルマンはイギリス、ロシヤ、シチリヤ島など、遠隔の土地に行って先住民を支配し、
組織して、國を建てた。扶余もまた高句麗、百済、金官、渤海などに建国した。
扶余は東アジアのノルマンだと思う。

とろで、訂正。「秦王」→「辰王」
509日本@名無史さん:2005/05/16(月) 10:53:52
べつに夫餘が後の満洲族に近いとは思わないが、
百歩譲ってまぁ近いとしよう。
それでも「夫餘も満洲族もともに遊牧民でも騎馬民族でもない」ことにかわりない。
510日本@名無史さん:2005/05/16(月) 12:04:31
ま、あれだ。
東日本の人間にとって、大阪弁も神戸弁も和歌山弁も広島弁も、
余り区別はつかないということだ。ひっくるめて関西弁さ。
鹿児島とか高知とかなら区別つきそうだが。
511日本@名無史さん:2005/05/16(月) 17:20:17
だから農耕民族が来たと言う説になるんだろ。
512日本@名無史さん:2005/05/16(月) 23:21:37
>>509
>それでも「夫餘も満洲族もともに遊牧民でも騎馬民族でもない」ことにかわりない。

前にも書いたが、扶余が遊牧民でないことは確かだ。
騎馬民族かどうかは言葉の定義によるが、3世紀末の時点で扶余には騎馬戦術があり、
新羅、任那諸国、倭にはそれがなかったことが重要だ。

>>511
>だから農耕民族が来たと言う説になるんだろ。

なんで扶余を◯◯民族と呼ばないと気が済まないのかな?

513日本@名無史さん:2005/05/16(月) 23:58:01
> なんで扶余を◯◯民族と呼ばないと気が済まないのかな?

スレタイからして騎馬民族とあるからなw
514477:2005/05/17(火) 01:05:21
>>505>>507
なんで歴史、民族的考察が、政治史とかイデオロギーに結びつくんか?
扶余が「もとから」農耕系と言う根拠は?

騎馬民族という用語自体西洋人が作ったもんじゃが、西洋人は、
満洲人を、タタール(トルコ、モンゴル系)と同種と考えておった。
西洋人も、満洲人をタタールと言う。マルチン=マルチエもそうじゃが、
騎馬民族であることを強調しておる。江戸期の日本人も満洲人を
韃靼人(タタール)と言うとる。
満洲人は、遊牧民ではないが、日常ヤクに乗るチベット系遊牧民より、
日常的に馬に乗る機会が多いともいえる。
そこで騎馬民族の概念とは、ステップ(南ロシア〜西満洲の吉林省西部に
至る地帯)の種族に限定することか?延長地帯である松花江流域は
含まれておらんと限定して考えておるのか?
馴鹿や馬飼養のツングースは、騎馬民族なのか?
このスレで、反論者は儒教朱子学的影響か知らんが、いままで質問に
答えず、どこかの国民の様に、同じプロパガンダを繰り返すので答えて
ほしい。
515日本@名無史さん:2005/05/17(火) 06:20:33
またきたよ関西弁バカが。
516日本@名無史さん:2005/05/17(火) 06:25:57
>>514
救いようのないアホだな。

西洋人がタタールと呼んでる?だからなんだよ。
日本人はポルトガル人を南蛮人とよんでいたが、
じゃぁポルトガル人は中国江南の先住民だったのかっつのw

騎馬民族は話をわざわざ曖昧にするために江上波夫が捏造した概念だと
いってるのに、なんで騎馬民族の定義を質問してるのだ?白痴かよw

オマエはこのスレで一丁前に自説を開陳する以前の段階。
回線切って学校にいけ。そして国語の勉強をしろ。
517日本@名無史さん:2005/05/17(火) 07:28:37
騎馬民族という概念は捏造で、征服は妄想。

つまり、今時騎馬民族征服説を唱えるような奴は…
518日本@名無史さん:2005/05/17(火) 08:46:33
>>514
騎馬民族=遊牧民族と定義されてるから。
フヨは牧畜農耕系でしょ。馬に乗っただけで騎馬民族とはならないよ。
中国人も馬は乗ってたわけでね。ゲルマンやケルトも馬のってたけど
騎馬民族じゃないでしょ。大きくは生活形態が遊牧か否かでわかれるのよ。
遊牧でもさらに馬使用の遊牧形態だけが騎馬民族と言われる。

騎馬戦術もってるかどうかじゃないよ。
中国やローマ、カルタゴだって騎馬戦術もってたんだから。
519日本@名無史さん:2005/05/17(火) 11:04:24
わし、あろう、じゃが、
関西弁以前に痛い・・・
オジンぶりたいお年頃なのか。
520日本@名無史さん:2005/05/17(火) 13:42:52
>>518
古典的な反対論者は大きな矛盾を抱え込んでいる。
というのは、扶余が遊牧民族ではない(これは正しい)ことを強調する一方で、
扶余が日本に来たならば残っているべき遊牧民族的要素(去勢、乳製品など)が
ないことをもって扶余が来なかった証拠とする、という論理だ。
扶余が遊牧民族でないのならば、遊牧民族的な要素が残っていなくて当然ではないか。

>騎馬戦術もってるかどうかじゃないよ。
>中国やローマ、カルタゴだって騎馬戦術もってたんだから。

なんかい言ったらわかるのかな。時代が下れば騎馬戦術は世界中にある。
しかし古代には騎馬戦術に関してバラツキがある。
邪馬台国に騎馬戦術はあったか。あった、という人はいないだろう。
三輪王朝に騎馬戦術はあったか。なかった可能性が極めて高い。
三輪王朝と同時代の金官(扶余)に騎馬戦術はあったか。
あったことが証明されている。
同時代において一方に騎馬戦術があり、一方にはなかった、ということが
歴史のすじがきにおいて重要な意味を持つ、ということを言っているのだ。

521日本@名無史さん:2005/05/17(火) 14:03:04
江上は「騎馬民族」という言葉を、習俗に密着した意味の他に、ものすごく
広い意味でも使っている。
歴史上、土地にしがみついて生きる民族がある一方で、そのような民族を
支配し、あるいはこれに寄生して生きる民族がある。江上は前者を農耕民族と呼び、
後者を騎馬民族と呼んでいるのだ。

例えば近世で言えば国民皆兵的軍隊組織を持ち、少数で圧倒的多数の漢族を
支配した満洲族は騎馬民族とされる。
この場合、漢族とて騎馬戦術はとうに持っているのだから、もはや「馬」は
無関係である。ただ満洲族の軍事的政治的能力と、それを裏付ける民族性とが
関係するのである。

このような意味に「騎馬民族」という言葉を使ったことに江上説の問題があった。
意味に即して言えば「軍事的民族」「寄生民族」「支配民族」などと言えばよかった
のである。

とはいえ、このような広い意味に照らして言えば、扶余族は多くの地域で軍事力によって
土着民を支配して建国したのであるから、「騎馬民族」と呼んでさしつかえない
のである。
522日本@名無史さん:2005/05/17(火) 16:39:06
>>521
だめだこりゃ。終わってるよ・・・
523477:2005/05/17(火) 22:51:49
>>516
西洋人が、満州人を漢人と違う、タタールに分類しておるんが、
南蛮人云々と違う概念であることは、わしの文を読めばわかるものを、
それが、わからんほど、あなたは、無能を自認しとるんか。
ほいで、江上氏が捏造した概念じゃ、いう具体的な根拠を出せえや。
学校にいって国語の勉強をせえ?わしゃあ、アホやオマエ、白痴じゃ
ゆう言葉を、習う必要は無いけんのう。
まあ反論者の多くは、どこかの国民のように、反論に困ると罵倒を
繰り返す。すぐ捏造じゃゆうところも含め、よう似とるのう。
>>518
騎馬民族=遊牧民族と定義されている。という限り、あなたご自身の
意見ではないということか。では、馬使用の遊牧形態だけが騎馬民族と
定義しておられる著者、書籍等を詳しく書いてほしい。
524日本@名無史さん:2005/05/17(火) 22:56:58
はあ・・・、国民性の違いが分かってきた気がする。
525日本@名無史さん:2005/05/18(水) 03:27:16
またきたよ、関西弁バカが。
526日本@名無史さん:2005/05/18(水) 19:24:02
スレタイを考えれば、
騎馬民族云々を切り離して語る事はスレ違い。

騎馬民族関係なく扶余について語りたいならば、
そのようなスレを探すか自分で立てるべし。
そうすれば騎馬民族の特徴とか語らなくても済むよ。
527日本@名無史さん:2005/05/18(水) 20:56:07
>>526
スレタイを見よ。
「江上波男」と書いてあるではないか。
江上説の本質は「扶余が日本を征服して天皇になった」ということだ。
このことで古代東アジアの国際関係を説明しようとしたものだ。
このテーマはいわゆる「騎馬民族」と全く関係なく論じることができる。
528日本@名無史さん:2005/05/18(水) 21:33:10
「騎馬民族説」とわざわざスレタイに入れてあるのに何を今更・・・。
スレ立てた人間は関連性を感じて入れたんだろう。

単に、騎馬民族説の単語を入れないと誰もレスしてくれない話題だと思ったのか。
本当は騎馬民族について語りたかったけど特徴一つ言えない自分に気づいてしまったか。
前者の場合は釣り針。騎馬民族説に反論してた人たちは全員お魚さん。
「ネタニマジレスカコワルイ」の世界。
529日本@名無史さん:2005/05/18(水) 23:40:20
>>527
あほですか。

江上の独創なければ騎馬民族というインチキ用語も存在しない。

騎馬民族なくして江上なし、江上なくして騎馬民族なし。
530日本@名無史さん:2005/05/19(木) 00:46:05
>>529
おい、お前にひとこと言いたい。

「ネタニマジレスカコワルイ」



・・・ってお前がネタかよ。
531日本@名無史さん:2005/05/19(木) 04:45:50
いいスレタイだよ。
「騎馬民族とは何か」ではない。
「騎馬民族説は今・・・」だ。
騎馬民族説は今どうなっているか、という意味だ。

で、どうなっているか。「扶余が任那を、次いで倭を征服して天皇になった」
という江上の説の、前半分までは実証された。
そうであれば、いままでの古代史のすじがきは書き改めなければならない。

現実はどうかと言えば学者達はまじめに問題と取り組まず、
素人達は自分の頭で考えずに「学界で否定された」とお題目を唱えたり、
騎馬民族という、説のお飾りに過ぎない言葉(文字)にとりつかれて
「去勢の習慣がない」などと意味のなくなった論議をひねくりまわしている。

これが「騎馬民族説の今」の状況だ。
532日本@名無史さん:2005/05/19(木) 09:06:27
結論
 
 100x年、日本は牙一族によって支配されていた

533日本@名無史さん:2005/05/19(木) 09:16:08
>>532
(σ・∀・)σなるほど!
恐らく、その牙一族というのはネアンデルタール人との混血で身長3m以上ある
巨人族だったのでしょうね?
そして、大和朝廷に反抗する牙一族は大和朝廷が中国から招きよせた暗殺拳の
使い手によって滅ぼされ、生き残った牙一族は山中に隠れ住み、「鬼」「土蜘蛛」
「天狗」「だいだらぼっち」などと呼ばれるようになった・・・と考えれば
納得です!
534日本@名無史さん:2005/05/20(金) 13:36:10
スレ全体を見回してみたけど、
肯定者も否定者も大半が馬の事を語ってるんだよね。
肯定者が、騎馬民族の特徴を問われた辺りから「馬と扶余とは関係ない」と言い出した。
なら始めからそう言うべきものを延々と付き合ってきたのは何故か。
扶余が騎馬民族か否かが征服説の小さくない部分を占めると考えたからだろう。
反論者を論破できたらそのまま扶余=騎馬民族で通したはずだ。

「騎馬民族って何?」という根本的な疑問を解決できなくなるに至って
その部分を切り離そうと考えた。
それと引き換えかは知らないが「騎馬民族なんて飾りですから。江上説の本質は正しいでFA」と、
いつの間にか証明済みのように語り、更には
「このスレタイはお前らDQNをヲチするためだったんだよ」と言い出す。

江上氏の騎馬民族説の現況は「化石的ネタとしてしか語られない」だろ?
「俺たちは農民じゃなくて広野を駆ける騎馬民族の子孫なんだ」と
当時の日本人に夢を与えたのかもしれないけど。

今の日本では騎馬民族とか農耕民族とかいう括り自体、血液型の性格占い程度の扱いだし。
535日本@名無史さん:2005/05/20(金) 13:48:09
その夢を与えられた人間が「江上説を是非認めさせたい」と考えたか。
「日本は既に我らが同胞に征服されているニダ」という民意高揚の一環か。
536日本@名無史さん:2005/05/20(金) 15:13:05
モンゴルと日本のDNAが近いという。でもその間の朝鮮は中国系だという。

そうすると古代は日本朝鮮にはモンゴル系が跋扈していたけど
中世に中国系移民によって朝鮮を占領されたという感じになるのでは?

三韓時代の古代朝鮮人は中国系に同化されてしまったか、南北に圧迫されたのか。
537477:2005/05/20(金) 23:14:14
馬の事について、どうもようわからんというのが現状。
縄文、弥生期からも馬の骨は、出ておるが、その系統は?古墳後期の
中型馬は、タルパン系と蒙古馬の混血馬で南満洲経由なんか?
形態だけでは、地域によって形が変わってくるので、例えば済州島の
馬は、日本の南西諸島のように、現在小型馬だが、モンゴル人が牧場と
しておった時より、小型化したのか?馬の遺伝子がわからないので、
難しい問題じゃ。まして騎馬史となると。
加茂儀一氏の要約「騎馬史はわからないのです。世界中のいろいろな
ところへ手紙を出しましたが、みなわからないという返事です。
学者というものは、わからないことは黙って伏せておくのが普通だから
というのです。」
それと、日本民族の主流をなす種族は、南ツングース族であるという、
鳥居氏や西村氏の論等、戦前からあったわけで。江上氏は、モンゴル的
要素を強調しておられる。HLAでもモンゴル的要素重視か?
538日本@名無史さん:2005/05/20(金) 23:25:55
>>536
古代の楽浪郡とかじゃないの。
朝鮮の中国血。
539日本@名無史さん:2005/05/20(金) 23:51:23
>>538
そのころから朝鮮民族のの中国化が始まったと思われる。
それまでは楽浪郡が工事で人員募集すると城の外に集落を作っていた朝鮮人が集まってきて
現金収入を得ていたらしい。その際彼らは背中の皮に棒をさして繋いだ重いものを運んで見せるほど
野蛮ぽい力の誇示?をするような原住民だったらしい。

だんだんと中国化されていってそのような原住民(=日本からモンゴルに広がるモンゴル系人種?)は
満州に追い出されるか、日本に移民するか、そのまま中国人と混血していったため、東アジアに広がる
モンゴル系の遺伝子が朝鮮だけぽっかりと穴のあいたように存在しなくなるのかも。

楽浪郡が滅びて朝鮮を初めて統一した新羅なんかは秦の時代の中国系移民が多かったという。
その中国系国家が朝鮮を統一したのだから、中国系遺伝子が多くなるのもうなずける。

たぶん高句麗、百済は新羅よりはモンゴル系遺伝子を含んでたのではないか?
結局高句麗は満州へ、百済は日本へ逃れて行ったわけだ。
540477:2005/05/21(土) 00:26:42
東洋史の佐口透氏も、「大興安嶺北部あたりが、民族移動の震源地で、
扶余、拓跋、契丹、のちのモンゴルあたりが、同じようなところに
住んでいて、東西に移動した。そこが、日の御子神話、天子降臨説話の
発祥の地であろう、つまり、扶余というのは大興安嶺北部の黒龍江流域に
いた狩猟系の騎馬民族でモンゴル種にツングース種を混じった民族である
というのが通説でありますが」とモンゴル的要素もあったのではないかと
述べられておられる。ただわしは、大興安嶺の生活様式においては、
ツングース的要素(人種は別として)が強いと思うが。
>>535
はあ?江上氏は、「朝鮮には日本の『古事記』『日本書紀』にあたる
ようなものがないのです。中国とつながってしまっている。日本が
大八州というある程度の地域的まとまりをもっていたということは、
大きな意味があるのではないか。」と日本と朝鮮は、違った文化圏で
あると考えておられたんじゃが。
541日本@名無史さん:2005/05/21(土) 08:37:49
佐口透のその文章は大雑把なところを適当にまとめてるだけで
大して根拠あるわけでもなけりゃ
精密に検討した結果を書いてるわけでもないだろ
542日本@名無史さん:2005/05/21(土) 10:07:02
馬韓から脱出したスサノオの集団を騎馬民族って思い込んでるだけやんw
543日本@名無史さん:2005/05/21(土) 10:14:53
神様のスーパーヒーロー大国主の祖がスサノオなんだから、日本を征服した
と思う香具師もいるだろうよ
544鴨禰宜:2005/05/21(土) 17:25:45
前科のある神様ってのは世界的にも珍しいんじゃないか。
545日本@名無史さん:2005/05/21(土) 18:53:14
つ「ギリシャ神話」
546日本@名無史さん:2005/05/22(日) 03:19:00
またおかしいのが紛れ込んできたかw
547477:2005/05/24(火) 00:53:42
>>541
大して根拠がなく、精密に検討した結果で無いのであれば、
煽るだけでなく、あなたは、どう考えておるんか?
鮮卑拓抜部の石室については、このスレの285にも書いたが、
大興安嶺が、民族移動の震源地ではないといえる根拠でもあったんか?
>>545
吉田敦彦氏が、日本神話とギリシア神話等の印欧神話を比較され、
ギリシア神話の影響(デュメジル氏の言う三機能体系等)が、
内陸アジアから古墳時代の日本に及んだとの考え方でしょうか。

このような考え方をするだけで、デュメジル氏も吉田氏もそうでしょうが、
「彼奴は、神話の価値を認めているんだ。」と右翼的とレッテルをはって
判断される傾向にある。神話学をイデオロギーと混同する者がおる。
神話による比較検討も、このスレにあっても良いと思うんじゃが。
548日本@名無史さん:2005/05/24(火) 12:29:53
>>547
鮮卑の石室は北魏ができてから伝説に基づいて祭祀したもの。
伝説どおりにそこが発祥地なのかどうかは別問題。
(むろんそこが発祥地である可能性はあるが安直には肯定も否定もできない)
大興安嶺といってもとてつもなく広いわけで「大興安嶺が民族移動の震源地」というのは
漠然とした意味では大間違いになりようがない。つまり「当たり障りのないこと」をいってるだけ。
しかも石室を根拠にしてるのは「大して根拠」もなく「精密に検討した結果」でもないだろ。
549477:2005/05/25(水) 01:34:21
>>548
佐口氏の引用は、アルタイ諸民族の神話と伝承、1975年のもので、
「『魏書』の「礼記」によりますと、烏洛侯国の西北に、
黒龍江の北岸あたりでしょうか、そこに北魏の遠い先祖の石室があり、
そのなかで天地と先祖を祭り、祭文が書いてあったと書かれています。」
その5年後の、1980年の調査で、それまで不明であった発祥地が、
大興安嶺北部の嘎仙洞となった。黒龍江北岸でなかったが、概ね近いと
いえる。確かに始祖伝説が、絶対に発祥地であるとは言い切れんが、
文化圏として考えることも出来る。

あなたの言う「精密に検討した結果」とはどのようなことか?
石室や文献ではなさそうじゃが、どうすれば「大した根拠」になるんか?
550日本@名無史さん:2005/05/25(水) 13:39:19
魏志倭人伝より倭人の風俗
邪馬壱国の男子は、顔や体に入れ墨し、髪を結って、頭をハチマキで縛るのみで何も被らず、
はだしで歩き、横幅の布を結んだだけの涼しげな衣料を着け、矛、盾、木弓、竹の矢で戦い、
赤土から作った顔料を塗って化粧し、部屋がいくつかある屋根に特徴のある家に住み、
独身の若い男子は専用の建物で寝起きを共にして部族の様々な伝統を受け継いでいく。
少なくとも邪馬壱国の民は、どこからどう見ても、北方系というより南方系民族の特徴を持っているな。
中国江南あたりの風俗が類似。
551日本@名無史さん:2005/05/26(木) 10:59:48
>中国江南あたりの風俗が類似。

てゆう事は、、
「晋書」「梁書」の「自謂太伯之後」というのは、
本当かもしれませんね。
552477:2005/05/27(金) 00:44:27
>>550
『魏志倭人伝』の「男子皆露紒、以木綿招頭」あたりは、
江南、東南アジアの焼畑狩猟農耕民に多い習俗ともいえる。
水稲農耕と漁労の海人的部分だけでなく、
山人的要素も無視出来んと思う。

『魏志倭人伝』では倭の地では馬が無いと記してあるが、
弥生時代にも馬の骨は出土しておるので、文献だけでは判断し難い。
確かに、内陸アジアより江南の方が、風土的には西日本に近く、
特に九州は、東シナ海文化圏の要素もある。
日本人が歴史的に、あるいは戦闘形態において騎馬民族とは言えんと
いえるのも風土的条件によるものであろう。
553日本@名無史さん:2005/05/28(土) 23:35:18
>>549
>確かに始祖伝説が、絶対に発祥地であるとは言い切れんが、
>文化圏として考えることも出来る。

「発祥地であるとは言いきれん」と認めているなら
もれの意見とどうちがうのだ???
「文化圏ですらない」などとは一言もいってないぞ。
554がいやまん:2005/06/01(水) 10:56:00
馬韓の月支国については目支の間違いだろうといわれるが、漏れは月支国説を取る。
これは蒙古西部にいたものが冒頓単于に討たれ中国国境沿いを燕に向って南下、
で高句麗の影響下の遼寧を更に南下、遂には百済、徐福亡民と合流、馬韓、肥前、
豊前、出雲、纒向へとの長い旅を続けたものだと思う。
555がいやまん:2005/06/01(水) 14:38:46
私は月支族の出身と名乗る集団の遍歴のコースが冶金関連の遼寧、辰韓、香春
穴師などにあることから、彼らは冶金・鍛冶に関するシャーマン的集団ではなかっ
たのかとの感じを受けている。
556日本@名無史さん:2005/06/01(水) 14:42:17
騎馬民族がどのように海を渡るのかを考えるのが大変だ
557がいやまん:2005/06/01(水) 15:16:19
ウマの渡海はオス、メスのツガイの子馬に水をやりながら対馬海峡などを
渡らせたのかな。いずれにせよ現代で言えばパンダ級の珍獣だったんじゃないかな。
部族自体は農耕も行ったはず。但し、ものすごい値が付いたかもしれないね。
558477:2005/06/02(木) 01:26:26
>>553
もれの意見という言い方は、面白い。わしゃあ、あえて反論はせん。
>>557
弥生期にも馬がおったでしょう。在来馬が小型馬であったと想像すると
当時、中型馬が、めずらしかったと思う。
満洲までの中型馬と朝鮮半島に多い小型馬(果下馬)は、
高句麗あたりが境か?ようわからんのです。
559日本@名無史さん:2005/06/02(木) 04:38:09
>>556
当時の馬が小柄とはいえ、いくらなんでも大量にはミリ。
560がいやまん:2005/06/02(木) 08:16:11
朝鮮馬は非常に小型で精悍、極めて強力、粗食に耐える農耕にはもっていの馬。
道産子は寒さに強いらしいけど。朝鮮馬は軍馬には不向き。高句麗の農業形態は
蒙古よりは農業優先ではないですかね。蒙古ではある程度かけっこもできる程度の
役馬みたいですね。世界中どこでも同じのようですが。競馬馬というのはすぐに足の
骨が折れ、馬肉とか種馬にされてしまう哀れなもので、動物虐待ともいえるかも。
武豊さん、馬頭観音にお賽銭出しなさいよ。
561がいやまん:2005/06/02(木) 08:22:40
天皇陛下というのは白馬にまたがり闊歩闊歩されるのが美しいのであり、
古来朝鮮征伐をしても朝鮮の王様が馬飼いとなりますと誓わされています。
信州飯田などにはにはそれらしき古墳があるようで馬と一緒に埋葬されている
ようですね。どこの馬の骨かわからないが。
562がいやまん:2005/06/02(木) 08:27:29
陛下、このように書きましたがいかがでございましょうか。うーん、そのほう
倭人には惜しいような見事な文才がじゃのう。
563日本@名無史さん:2005/06/02(木) 09:42:31
絶滅危惧種が観察できる貴重なスレはここですか?
564日本@名無史さん:2005/06/02(木) 12:31:51
>>559
例えば時代が下った元寇の頃でさえ、蒙古軍は馬をごく僅かしか連れてきていない。
まして丸木舟時代に騎馬遊牧の民が日本にわたろうとする、これは騎馬を捨てることを意味する。
首長や貴族のみ馬を持ち、一般の民衆は馬を捨てたんだろう。
565日本@名無史さん:2005/06/02(木) 14:51:24
>>564
その程度の軍事力じゃ波夫が言ってるような征服なんて無理だな。
つーか古墳文化事態に断絶がないから首長レベルだけが入ってきた、という説も無理がある。
事実はむしろ逆でしょ。なぜ韓国に前方後円墳がある?
566日本@名無史さん:2005/06/02(木) 20:16:02
>>565
どうだろう。例えば騎馬で名高い戦国の武田家だけど、彼らの保有していた馬は最大で500頭前後。
無論ほとんどの兵は徒歩、士分だけが騎馬だったと推測されている。
その彼らがどうやって周囲を威圧できたか、というと、騎馬による衝撃力だろう。
馬を知っている現代人でさえ、10頭あまりの馬が疾走してくる、正面に自分が立っていると恐怖だ。
ましてそれまで騎馬をほとんど知らなかったであろう原日本人に対しては、一頭が百頭分の働きをしたとみても無理はない。
よって、僅かな馬であっても「征服」は可能であると思われる。もちろん馬を知っているクニにはそううまくいかなかったろうけど。

しかしこれは、少数者としての騎馬民族が最終的に日本人化してしまったという説となんら矛盾しない。
日本人となった元騎馬民族の末裔が、何も知らずに朝鮮に再侵攻したというのも面白い。
567日本@名無史さん:2005/06/02(木) 21:41:01
日本の地形で馬が活躍できなかったから騎馬戦が発達しなかったのに。
中国やモンゴルではじめて馬は活躍できる。日本においては司令官の乗り物以上の役割は無い。
日本の古代の戦争話に騎馬戦が出てこないのはそのため。
568日本@名無史さん:2005/06/02(木) 21:45:14
江波は天皇が辰王家だったというが
血統を大切にする彼ら(朝鮮の辰王家)が日本でまったく血統を証明するものを残さないのはおかしい。
例えハクスキノエでまけて日本人化する必要があったとしても
そうやすやすと捨てれるものじゃない。

辰王家を天皇とするのなら、魏志倭人伝にあった秦王国こそ
辰王家の国だと考えたほうがあってる。
569日本@名無史さん:2005/06/02(木) 22:26:38
>>567
違う。
古代であっても筑紫平野や畿内など、騎兵の活躍しうる余地はあった。
騎兵が発達しなかったのは単に個体数の問題だ。
570日本@名無史さん:2005/06/03(金) 05:15:56
>>566
馬の骨は弥生時代の遺跡からでてるだろ。
571日本@名無史さん:2005/06/03(金) 05:19:42
>>568
「辰王」なるものが夫餘からきたというところですでに江上波夫の妄想なんだが…。
現代の通説では「辰王」は単なる辰韓の王の意味で、
後に新羅王になったもの、つまり斯蘆国の現地土着の王。
それはともかく三国志には「辰王」は馬韓人だとあるから騎馬民族ではありえないだろうな。
572日本@名無史さん:2005/06/03(金) 05:30:00
>>570
僕にはね、どうしても君のレスが>>566のどこに繋がるのかわからないんだよ。
バカの発想についていけなくってごめんね。
573日本@名無史さん:2005/06/03(金) 07:09:42
>>572
> それまで騎馬をほとんど知らなかったであろう原日本人に対しては、一頭が百頭分の働きをしたとみても無理はない。
> もちろん馬を知っているクニにはそううまくいかなかったろうけど。

この辺かな?
多分、「弥生時代から居たんだから、効果は薄い」と言いたかったんでは?
574日本@名無史さん:2005/06/03(金) 13:10:24
>>572
白痴はすっこんどれ
575日本@名無史さん:2005/06/03(金) 15:06:53
>>551
騎馬民族征服説は4世紀以降に、北方民族である扶余が「魏志倭人伝」にある
ような倭原住民を支配して建国した、と言う説なのだから、魏志倭人伝の記述
と両立してなんの矛盾もない。
また支配民族は清国の満洲族の例に見るように比較的少数なのであるから、
現在の日本人が人種的に北方系と言えなくても構わないのである。

>>552
戦闘形態において騎馬民族と言えないというのは「モンゴル的騎馬戦闘」を
頭に置いて言っているのであろう。
それ以外に騎馬戦闘の形式はいろいろあるし、現に扶余のそれはモンゴルと
は異なる。
また古代〜中世の日本の武士が騎馬戦闘を「アイデンティティ」としたのも
事実である。
576日本@名無史さん:2005/06/03(金) 15:24:20
>>571
BC100頃に真番に隣接して「辰国」があった。
三国志東夷伝には「辰王不得自立為王」、辰王は自ら王となることができない、という
奇妙な一節があります。
王族ではあるが外来者のために、その地では先住者の賛同がなければ王にはなれな
かった・・という意味と解釈しておきます。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kk09.html

江上も同じことを書いている。
馬韓に辰王がいて、馬韓が東方の地を割いて秦人に与えた国が辰韓で、
秦韓とも呼ばれた。
弁韓は弁辰とも呼ばれた。
以上の事実から判断すると、辰王=秦王ではないか?
文字を辰に変えたのは、もともと秦人が中国から逃げてきた勢力だから、
中国王朝に対して、ルーツを隠す必要があったからだろう。
なおかつ、江上らが主張するように秦人=秦氏で、さらに秦氏の先祖が
秦の始皇帝であるというのが本当なら、ますます中国王朝を警戒しただろう。
中国にとって危険な一族であるわけだから。
辰王家の統治システムは中国式の官僚制度だった。
577日本@名無史さん:2005/06/03(金) 15:41:23
騎馬民族説コピペ房ウザ、受け売りばかりで空しい奴だ。
578圭角:2005/06/03(金) 18:41:46
突然にお邪魔して申し訳ありません。
江上波男先生の騎馬民族説は単にひょっとすると肥後もっこす的な皇国史観に対しての
アンチテーゼではなかったのか、との思いを抱く者でございます。
先生の騎馬民族説も後でいろいろと変容していることは事実でございますので
よけいに、そう思料する次第であります。
失礼をば致しました。なにとぞご批判くださりませ。
579477:2005/06/04(土) 00:30:45
>>575
戦闘形態について、匈奴列伝に「利則進不利則退不羞遁走」
(不利と見れば退き遁走を恥としない)や「月盛壮則攻撃月虧則退」
(月が満ちさかんであれば攻戦し、月が欠ければ撤退する。)
パルティア(安息)人も遁走を常とし、夜の行動は極力回避したらしく、
焼を待つ。夜闘うことは伝統的ではなかった。
それに対して日本は、平安期から夜襲をよくやり、元寇のおりでも夜襲、
先の大東亜戦まで夜襲をしておる。
このような違いから、歴史的にも騎馬民族的とはいえんと思う部分が
ある。
ただ満洲からは風土の違いが出てくるので、例えば匈奴、パルティアも
攻城が苦手であったらしいが、高句麗は山地であり、攻城や守城戦を
よくやっておる。鮮卑についてパルティアや高句麗と同じく、
重装騎兵を重要としたが、戦闘形態についてはようわからん。
まあ匈奴においても歩兵の弓隊が最前線で騎馬隊が後に続いておるので、
歩騎混合といえる。確かに、古代〜中世日本武士(弓馬の道)への、
影響は無かったとは言い切れん。
580日本@名無史さん:2005/06/04(土) 01:18:15
ヤブサメなんてモンゴル語が日本にある時点でなんらかの影響があったんだろ。
581日本@名無史さん:2005/06/04(土) 01:40:57
それはいつの時代かはわからないけどな。
平安中期から末期、中国で言えば宋の時代、蒙古人は多く女真とともに
黒竜江近辺の沿海州でもごちゃごちゃやっていたらしいから。
つか、日本武士の騎馬戦闘というのは、逆説的に馬の総数が少なかったがゆえの戦法だよね。
582477:2005/06/04(土) 02:04:56
>>578
江上波夫氏は、ご自身のルーツを「私の遠祖は、龍造寺ということで、
肥後に移って山鹿という所に住み、細川家の家臣になったということ
です。ですから龍造寺で半分水軍、半分海賊の出でしょうね。」と
語っておられます。
その江上氏が、文明の生態史観で有名な梅棹忠夫氏のツングース水軍説で
なく、騎馬民族説を唱えられたのも、故郷の熊本が馬飼育に適した地域で
あったことも影響しておるのかも知れませんね。

江上氏は、「私の騎馬民族日本征服説をマルキシズムの皇国史観に
対立するものとして、敢えて提出しようと考えたのです。」
皇国史観には、国学者的史観とともにマルクスの共産主義的唯物史観も
含んでいます。ともかく江上氏は、騎馬民族説のみならず、
学者としての世界史的視野も広い人であったと思います。
583日本@名無史さん:2005/06/04(土) 07:46:56
流鏑馬(やぶさめ)がモンゴル語起源の単語だなんてどこから出てきた風説だ?
584がいやまん:2005/06/04(土) 10:09:40
水前寺公園の流鏑馬か?やぶさかではないが。
585日本@名無史さん:2005/06/04(土) 10:47:57
モンゴル語のヤブサメル=遠乗りが語源らしい。
586日本@名無史さん:2005/06/04(土) 12:14:20
最近嘘吐きチョン大杉
587日本@名無史さん:2005/06/04(土) 14:41:18
>>556 >>557
「騎馬民族」が渡海の技術を持っていなくても別に構わない。
扶余が支配したのは航海・貿易を業としていたクヤ韓国の倭人なの
だからその倭人にやらせればよいのだ。ちょうど蒙古人が高麗人に
やらせたようにね。

>>557
すこし時代が下れば倭国が数十頭単位の馬を朝鮮半島に送ったことが
日本書紀に何カ所か出てくる。(それを裏付けるように5世紀以降、
各地に馬の大規模牧場の遺跡が出る。)
これが可能だったのなら逆方向だって可能だったはずだ。
588日本@名無史さん:2005/06/04(土) 14:45:52
>>558
>在来馬が小型馬であったと想像すると 当時、中型馬が、めずらしかった
>と思う。

上記大規模馬牧場のひずめ跡から、当時の馬が蒙古馬と同じ中型馬だった
ことがわかる。
馬については「人為淘汰」を無視できない。例えば「木曽馬」は江戸時代
に女子供でも扱えるように人為淘汰を受けて小型になった。

>>557
朝鮮馬というのは知らないが「現在の」朝鮮馬から古墳時代の軍用馬を
論じることはできない。

>>559
>首長や貴族のみ馬を持ち、一般の民衆は馬を捨てたんだろう。

捨てたんじゃなくクヤ韓国などの一般民衆はもともと騎馬の習慣が
なかった。それを征服した扶余の支配階級、すなわち「首長や貴族」
のみが馬に乗った。
その扶余の軍隊も蒙古のように全員が馬に乗ったのではなく、軍隊の
一要素として騎兵があった。広開土王碑にも「歩騎五万」などとある。
589日本@名無史さん:2005/06/04(土) 14:50:17
>>556
>ましてそれまで騎馬をほとんど知らなかったであろう原日本人に対しては、
>一頭が百>頭分の働きをしたとみても無理はない。
>よって、僅かな馬であっても「征服」は可能であると思われる。

まったくその通り。だから「馬の大群」を渡す必要はない。
例えば十騎の装甲騎兵でも圧倒的威力だったろう。

>567
>日本においては司令官の乗り物以上の役割は無い。

とんでもない。「坂の上の雲」によれば義経の戦法は明治の軍隊教育でも
騎兵戦法の規範とされた。

>>568
>「辰王」なるものが夫餘からきたというところですでに江上波夫の妄想
>なんだが…。

金官に扶余系の王がいたことは大成洞遺跡等の発掘成果から推定される。
この扶余系の王が文献上の「辰王」であろうとなかろうと、現在ではどう
でもよいことだ。

つまり、「辰王」は江上が用いた扶余系王の存在の「傍証」なのだが、
直接証拠があれば傍証は必要ない。
590がいやまん:2005/06/04(土) 18:58:23
『丁未元年某日朝鮮王基準は、永らく須臾に住まわれ、その民は多くの恩を受け、
豊かであったものの、後に放浪賊団との戦いに敗れ、国が亡びた後、民は海外に
出て戻らなかった。この民族を構成する若干の領民は卓将軍を擁し、大挙して山脈
を越え、月支に迄至って建国した。月支は卓の生れ故郷であった。これは馬韓の中
にあり、弁辰二韓はこれに属する。その人民には各自百平方里の土地が封ぜられ、
自らの名づける首都を決め、代々皆馬韓の政令を敬い、これに背反することはなか
った。桓檀古記 北夫餘紀』
この翻訳でいいかな。助けてください。
591477:2005/06/05(日) 03:08:20
>>588
ひずめ跡から中型馬かは詳しくないゆえようわからんが、
小型馬の分布、林田重幸「日本在来馬の源流」では、木曽馬は、
中型馬に分類される。中型馬の分布は、中央アジア〜満洲及び、
日本本土で、小型馬中国四川〜東南アジア、韓国済州島及び日本の
西南諸島(トカラ、ミヤコ馬)とある。
>>589
日本では、馬飼育に適した関東も、馬を人間が引っぱて口取りがつき、
馬の背に荷をつける延長で人間を乗せておるとも思える習俗なので、
特に関東は、騎馬民族的とはいえん。司令官の乗り物同様ともいえる。
司馬氏の「坂の上の雲」では、後記に参考文献をあげておらんので、
確認出来ず、司馬氏得意のホラ吹きかとも思えるので、騎兵戦法の
規範云々はわからん。
592七曜星:2005/06/05(日) 12:12:41
私の故郷、福島県相馬地方に「相馬野馬追い」なる祭がある。騎馬に興味がある者に是非勧めたい。
593日本@名無史さん:2005/06/05(日) 13:22:10
>591
>>木曽馬は、 中型馬に分類される。

その通り。木曽馬が古代の馬の末裔ならば、もともとは中型馬だった。
それが江戸時代に人為淘汰されて小型馬に近くなった。
現在の木曽馬は戦前の軍部による馬種改良の影響が残って、また大きく
なって蒙古馬と同じくらいの中型馬になっている。

>特に関東は、騎馬民族的とはいえん。

民間の習俗はこのさいどうでもよい。
「騎馬民族」は戦闘集団を含む支配階級として入ったことが想定される
のだから、古代の戦闘方式が重要である。
古代はわからないが、古代に接続する平安時代、鎌倉時代において
騎馬が武士のアイデンティティであったことに注目すべきである。

>司馬氏得意のホラ吹きかとも思えるので、騎兵戦法の規範云々はわからん。

司馬氏に頼らずとも自分の頭で考えればよい。
少数精鋭の騎馬兵集団で長駆機動して敵の弱点を急襲し、混乱させて
戦いの帰趨を決める、これこそ騎兵戦法の規範ではないか。
少なくとも「司令官の乗り物」に留まるものではない。
594日本@名無史さん:2005/06/05(日) 13:24:33
>>571
辰王は辰韓の王ではなく、馬韓の王だろ。
辰韓と弁韓のそれぞれ半分の国々も辰王に服属していたけど。
百済滅亡時の王子・扶余隆の墓は中国河南省開封にあり、墓碑銘も残っていて、
それには「公いみ名は隆、字も隆、百済辰朝の人なり」と記されている。
百済・辰王家は姓を(夫)余と称し、その王の一人(夫)余慶が 北魏に使いを遣わして
上表した文中に「臣は高句麗とともに、源が夫余に出づ」とある。
595日本@名無史さん:2005/06/05(日) 18:11:12
>>593
武士のアイデンティティは刀。
騎馬は古今東西同じように、主従を分けるための乗り物としての要素が強い。

馬に捕らわれ過ぎて、道具としての馬の常識を見失ってる。

596日本@名無史さん:2005/06/05(日) 23:13:40
>>595
アイデンティティが二つあってもよい。
平安〜鎌倉時代の、領主クラスの武士、つまり本来の意味の武士が馬に乗って
戦うことにこだわったことを言っている。
那須の余一は扇の的を射るのに、言われたわけでもないのにわざわざ馬上から
射た。それは「騎射」が武士の資格、つまりアイデンティティだったからだ。

我々はこのことを歴史の「常識」として当たり前だと思っていて、その重要な
意味を見過ごしているのだ。
597日本@名無史さん:2005/06/06(月) 00:42:03
>>596
騎士が騎馬民族か?
馬を駆るインディアンが騎馬民族か?
虎豹騎が騎馬民族か?
武士が騎馬民族か?

騎馬したらなんでも騎馬民族というのはダウト。
598日本@名無史さん:2005/06/06(月) 00:43:29
那須与一は海に分け入って扇との距離を縮めるために馬に乗ってた。
599通りすがり:2005/06/06(月) 05:16:42
刀といえば、古代では直刀での突き攻撃であったが、武士が台頭し始めてから
一騎打ちで切り伏せるために反りの入った太刀になったのだ。
武家のことを「弓馬の家」と言っていただけに、弓の技術も騎射でなければ
実戦の役にはたたなかった。
600日本@名無史さん:2005/06/06(月) 09:31:27
>>597
騎馬民族という言葉はどうでもよい。だから「騎馬民族」と括弧に入れている。
平安〜鎌倉時代の武士が騎射をアイデンティティとしたことが、扶余による
征服の仮説と矛盾しない、ということを言っている。

>>598
いくらでも例はある。鎌倉時代、「鉢の木」の貧乏武士は客人に出す薪に
事欠いても、痩せ馬一頭を飼っていることを誇りにしていた。それは
「いざ鎌倉」のときに乗っていって、武士の本分を失っていないことを
示すためだった。
戦国時代になって、もはや騎馬戦闘が主役でなくなっても、観閲式を
表す「馬揃え」という言葉があった。

>>599
>武家のことを「弓馬の家」と言っていただけに、弓の技術も騎射でなければ
>実戦の役にはたたなかった。

その通り。応援ありがとう。
601日本@名無史さん:2005/06/06(月) 10:05:47
そもそも騎馬民族の定義が存在しないのに
(つまり騎馬民族そのものが存在しない)
なぜずっと馬の話ばかり続けている
602日本@名無史さん:2005/06/06(月) 13:14:55
>>601
「騎馬民族」が存在しなくても「扶余」が存在すればよいではないか。

>>598
馬は鎌倉への単なる乗り物だった、というだろうから付け加えておこう。
「鉢の木」の武士が貧窮の余り馬を売り払って、「いざ鎌倉」のときに
徒歩で、あるいは他人の馬に同乗して鎌倉に行って、将軍の前に出たら
どうなったか。たちまち武士の身分を降格されただろう。
これが「アイデンティティ」の意味だ。
603日本@名無史さん:2005/06/06(月) 15:05:37
北方系を単に騎馬民族やら扶余やら言ってるだけやん、アホくさ。
604日本@名無史さん:2005/06/06(月) 15:11:11
百済王がツングース系だったんなら亡命してきた連中にも
「騎馬民族」や「扶余」もいたに違いないってか?www
605日本@名無史さん:2005/06/06(月) 15:35:25
騎馬民族というより
「どんな戦においても自らを騎兵とし、また騎兵であることに誇りを持っている部族集団」
が古代日本に存在した、ということか。
その起源が夫余か、あるいはどっかのモンゴル人かはさておいて。
ただ、そういう騎馬戦闘を誇りとしたのは平安・鎌倉の武士であって、時代的にはA.D.1000〜だから
一概に古代と結び付けられるわけでもないと思うんだよな。
平安時代の公家たちは騎乗の文化を完全に失っていたし
飛鳥・奈良の天皇や公卿も騎馬を使っていた痕跡はあるものの、騎馬であることにそこまで誇りを抱いていたわけではない。
606日本@名無史さん:2005/06/06(月) 16:06:50
スサノオはツングース
百済王もツングース
天皇もツングース
日本人はそもそもツングース
遺伝的文化的融合無視の一方通行の騎馬民族説
頭の中はとっくにチョウセンジン哀れなり〜www
607日本@名無史さん:2005/06/06(月) 23:10:21
>>605
>平安時代の公家たちは騎乗の文化を完全に失っていたし

完全に失ってはいない。源氏物語を見れば、光源氏は馬に乗る。
まあ武士階級とは騎乗のレベルが違うことは認めるよ。

>飛鳥・奈良の天皇や公卿も騎馬を使っていた痕跡はあるものの、騎馬であることにそこまで
>誇りを抱いていたわけではない。

そうであるならなおさら、「倭の五王」や「河内王朝」に見る、「戦闘者としての倭王」の
姿がわからない。
特に三輪王朝の倭王がどのようにして「戦闘者としての倭王」に変わったのか、がわからない。

608477:2005/06/06(月) 23:23:39
>>602
与一は与一でも石橋山の合戦で、頼朝方の佐奈田与一は、馬を制御出来ず、
馬の暴走の間に郎党との距離が開き、与一は討たれてしまう。民俗学者の
宮本常一氏は、「『年中行事絵巻』というものがあります。たくさんの
お公家さん達が馬へ乗って出てきます。公家たちの馬の乗りこなしぶりと
いうのは実に見事なものです。じつは騎馬民族の後裔だったというのが
よくわかってくるのです。鎌倉武士の場合には、やはり一人で馬を乗り
こなすことは少なかったようであります。これは乗り方が下手だからです」
なるほど、『年中行事絵巻』の射手は、腰を浮かせ、狩猟用の野矢で
射っておる。かたや鎌倉武士の方は、馬が暴れだし、騎手は前のめりに
馬にしがみついておる。これでは、お笑い騎馬武者ともいえる。

鎌倉武士は、下河部、武田、和田等と弓馬堪能の御家人はわずかであり、
都の技術を学んだ秀郷流の流れを汲む下河部行平も、都に近い同じ
秀郷流紀伊の佐藤氏出身、出家した西行の弓箭談義に感心した。
つまり鎌倉武士の弓馬は、都からの輸入にすぎん。
609477改め白馬青牛:2005/06/07(火) 01:11:11
下河部でなく下河辺であった。
武士の源流「弓馬の家」で最も伝統があるといえば、「家は世々弓馬を
事として、馳射を善す」(続日本紀)と坂上田村麻呂の出た東漢氏や
西文氏の帰化人(渡来系)であろう。
例えば藤原広嗣が反乱した報をうけ、聖武天皇の護衛に当ったのは、
東西史部、秦忌寸ら四百名の帰化人騎兵。壬申の乱でも、騎馬の襲撃を
やったのは、田辺史で帰化人。それ以前に騎馬戦があったのか?
しかし大林太良氏は、坂上(東漢)氏を始祖伝説(神牛の教え)から
フン族と似た牧畜民要素があると書かれておられる。
>>606
日本人がツングース「固有日本人」説「原日本人」説、つまり日本人の
基本人種は南ツングース族という説は、戦前からあったが、
遺伝的文化的融合無視の一方通行の騎馬民族説とは?
なにゆえ頭の中が朝鮮人なんか?具体的な根拠を願いたい。
610日本@名無史さん:2005/06/07(火) 01:14:53

>>遺伝的文化的融合無視の一方通行の騎馬民族説とは?
なにゆえ頭の中が朝鮮人なんか?具体的な根拠を願いたい。

必死なところがチョンそのものだなw
611白馬青牛:2005/06/07(火) 01:29:09
>>610
根拠をいえんとは、つまらん。
あなたこそ、どこかの国民と同じ思考回路か。
612日本@名無史さん:2005/06/07(火) 01:30:54
騎馬民族説論者って江上波夫に洗脳されてんだろ?w
613白馬青牛:2005/06/07(火) 01:38:46
>>612
じゃあ、洗脳されておると思われる箇所はどこか。
具体的に書かれよ。一行ですませるスローガンには疲れる。
思いつきでものをいうな。
614日本@名無史さん:2005/06/07(火) 01:41:16
どうでもいいけど漏れのことを>>606と思い込んでる香具師の方が
痛いと思うがねw
615白馬青牛:2005/06/07(火) 01:51:43
>>614
わしゃあ、テキ屋じゃあない。あんたが、誰であろうと知らん。
スレと関係無い話題になっておる。煽りには疲れる。
616日本@名無史さん:2005/06/07(火) 02:30:37
口調が以前の誰かさんとそっくり。
617がいやまん:2005/06/07(火) 10:56:26
すみません。指を詰めさせますので今回はご勘弁ください。
618日本@名無史さん:2005/06/07(火) 11:11:53
>>608
そういえば源氏物語で、なにかのお祭りで、天皇以下が馬でパレードするところが
あったね。
「公家は馬に乗らない」というのがいかに「先入観念」か、ということを証明して
くれてありがとう。
ただし、鎌倉武士の騎射を滑稽に描いているのは、その絵巻が武士と公家のどちらの
立場で描かれたかを考えないといけない。ただでさえ、武士は公家の笑い物だった。

それと、騎射は鎌倉武士のアイデンティティであるが、公家のそれではない。
619日本@名無史さん:2005/06/07(火) 13:06:50
「扶余」云々を語るのに、そんなに馬が重要なのか。なぜ。
620日本@名無史さん:2005/06/07(火) 14:08:51
>>609
古代神話や発掘物から顕著な騎馬民族的特徴が見出されていない
のにもかかわらず
騎馬民族は優秀な民族であり、先住民(農耕民族、海人族)が劣ったものであるから
それらを支配していくことになるとは、これいかに?
騎馬民族説は
民族集団を類型化する側面が批判されているのが、これこそチョウセンジン的では?www
621日本@名無史さん:2005/06/07(火) 15:40:23
韓国慶星大学校文化大学助教授の甲敬徹氏の話
 「最近発掘調査が行われている狗邪韓国ならびに金官伽耶の支配者集団の共同墓地、金海大成洞遺跡をはじめ、金海良洞里墳墓群やその他の全墳墓群の調査を検討してみると、今までの我々の知識(というより先入観)についての根本的な再考が必要であると言う事を悟った。
 特に金海良洞里墳墓群の発掘調査成果が契機になって知りえた事実だが、北方系遊牧民族の習俗と文物、すなわち人と馬の殉葬、武器を折り曲げて墳墓に埋葬する習俗、蒙古鉢形冑や挂甲といった騎馬用甲冑、馬冑、北方式銅カマ、青銅製虎形帯鉤などの文物、を持った北方系
木槨墓が三世紀末に金海地方に突然出現し、首長墓をはじめとするそれ以前の墳墓を意図的に破壊するといった現象が、金海の全墳墓群のおいて確認できるのである。
 このように金海は三世紀末の突発的で衝撃的な一大事件の為、呪術的で中国的な雰囲気の社会から、高度な武装的・騎馬民族的な社会に突然転換する。私はこうした変化を辿る金海地域の状況にたいして、概念的ながら、北方墓制・文物が登場する前を狗邪韓国、以後を金官伽耶
と言う風に把握している。そして金海地域における最新の考古学的知見を重視し、今まで堅持してきた騎馬民族征服説に対する批判的な態度から一歩後退し、核心においては肯定することが出来る部分もあると考える。
 もし金官伽耶=騎馬民族説に全面的に否定的な立場をとるとすると、三世紀末、金海地方に北方墓制が突然出現し、先行墓制を意図的に破壊したという現象に対して合理的に納得できる説明をする事が前提とならなければならない。
 一方、三世紀末、金海に突然出現した騎馬民族の支配集団は5世紀前葉に突然金海から消え去っている。この点も謎である。」
622日本@名無史さん:2005/06/07(火) 16:48:34
「金海は三世紀末の突発的で衝撃的な一大事件の為、呪術的で中国的な雰囲気の社会から、
高度な武装的・騎馬民族的な社会に突然転換する」

一大事件を起したのは扶余の集団に間違ない!

「騎馬民族の支配集団は5世紀前葉に突然金海から消え去っている」

伽耶滅亡を悟り日本への進出(亡命)が本格化しだした時期といってもよい。

623日本@名無史さん:2005/06/07(火) 17:00:43
どうせ相手は高句麗と新羅だろ?つまらん。
624日本@名無史さん:2005/06/07(火) 21:39:46
>>622
>伽耶滅亡を悟り日本への進出(亡命)が本格化しだした時期といってもよい。(<5世紀前葉)

それ以前に、広開土王碑の時点ですでに倭と金官(任那加羅)は一体化している
ことが推察される。
これをどのように解釈するかが問題だ。
625日本@名無史さん:2005/06/08(水) 01:03:56
一体化、というのが金官伽耶を支配していた部族(本来は騎馬民族的特徴を持っていたと推定される)による
倭の支配をさすのか、逆なのか。
そして伽耶の支配部族が北方集団の特徴を捨てたのは、自発的にか強制的なものか。
そういった問題が沸くんだよな。
なんとなくだが、日本と朝鮮、対馬〜沖ノ島〜北九州〜瀬戸内海ラインを保持するためには
馬より宗像安曇といった船の技術が必要だと思うし
そこで活躍するのは鎧兜の重騎兵より軽装・小船の海兵隊的な戦力だと思うんだよな。
626日本@名無史さん:2005/06/08(水) 01:46:18
簡単に考えると。
倭人と伽耶人が狗邪韓国辺りで利害が一致、結託・融合する
理由として主をなすのは三韓に対抗する為
でもってそこそこの勢力になる
独立状態ではあったが後に本国との協力関係も得られるようになる。
627日本@名無史さん:2005/06/08(水) 01:56:48
でもさ、金管って任那日本府のあったところでしょ。
なぜここを確保したかというと鉄が出るから。

そこへ北方民族が来たというのは、
高句麗が新羅や百済を従えて攻めてきたってことじゃないの?
朝鮮半島は倭と高句麗のせめぎあいの中で百済や新羅が離合集散してたから
満州族の面を色濃くもつ高句麗が攻めてきて金管の王の墓を破壊し
金管の豪族たちに従属の証として高句麗風に墓を作り直させたとしたら納得できる。

その後倭が盛り返して前方後円墳を対抗して作ったとしたら
現在も金管らへんに日本特有の前方後円墳がある意味がわかる。
628白馬青牛:2005/06/08(水) 02:36:23
>>618
鎌倉期の説話集「古今著聞集」の武勇、弓箭、馬芸等、貴族社会の行事、
説話が中心となっておる。武芸が貴族社会と別の所から生まれた訳では
無いんじゃが。鎌倉武士は、馬柄杓が必要で、馬に乗ったまま水を
飲ませると騎乗者が落ちるぐらい。つまり東日本は馬へ乗ることも
下手で、牛に車や犂をひかせることも同じく。おそらくモンゴル人や
満洲人には理解出来んであろう。
>>620
古代神話や発掘物から顕著な騎馬民族的特徴が見出されていないと
いう根拠は何処にあるんか?しかも優越論をゆうておるのは、
あなたであろう。朝鮮人的と。民族集団を類型化する側面が批判される?
民族集団の文化、文明領域を語れば、誰が批判するんか?
629日本@名無史さん:2005/06/08(水) 08:16:44
「騎馬民族的特徴」自体がはっきりしないのだから、
顕著だろうが微小だろうが見出される筈が無い。
630日本@名無史さん:2005/06/08(水) 08:18:49
>>625
>そして伽耶の支配部族が北方集団の特徴を捨てたのは、自発的にか強制的なものか。

捨てていない。申教授が消滅したと言っているのは5世紀以降、金海地域で王族の
墓が作られなくなった、と言う意味。
それ以降、釜山地域で「任那滅亡」まで存続した王族も別の系統だと言うだけで、
北方的な特徴は残していた。


631日本@名無史さん:2005/06/08(水) 08:24:46
>>627
>満州族の面を色濃くもつ高句麗が攻めてきて金管の王の墓を破壊し
>金管の豪族たちに従属の証として高句麗風に墓を作り直させたとしたら納得できる。

高句麗の王墓はすでに積み石塚だ。3世紀末以降の金官の王墓は満洲中部の、原始的な
扶余式と一致するのだ。

>その後倭が盛り返して前方後円墳を対抗して作ったとしたら
>現在も金管らへんに日本特有の前方後円墳がある意味がわかる。

金官周辺に前方後円墳はない。
あるのは百済の南に隣接する半島西南部に5世紀以降のものが10基
ほどある。そのころの倭の進出を否定してはいないよ。
その進出した「倭」の正体が問題なのだ。

>>628
>武芸が貴族社会と別の所から生まれた訳では無いんじゃが。

それはその通り。武士自体が貴族から派生したものだ。
ただ、武士は戦闘>騎射をアイデンティティとしたが、貴族の
アイデンティティはすでに別のところにあった。
632日本@名無史さん:2005/06/08(水) 09:54:13
百済もフヨだけど、墓は何式?
633日本@名無史さん:2005/06/08(水) 13:41:26
>>628
古代神話や発掘物から顕著な騎馬民族的特徴が見出せているといと
いう根拠は何処にあるんか?金官のソレが根拠か?

つまりあなたは扶余なる騎馬民族的集団の勢力範囲が倭に及んだと考えてるワケで、
しかもソレらの中には支配層までいたと、ズバリ主張すれば話は解かり易いんだが
それとも根拠が薄いからそうも強引には主張できないか?www




634日本@名無史さん:2005/06/08(水) 14:08:30
>>632
百済は磚室や石室のある墳丘墓だ。楽浪郡の影響を受けたものだろう。
これに対して金官のは丸太材の横積みによる木郭墓で、棺を伴わない。
また殉葬に対応している。
635日本@名無史さん:2005/06/08(水) 14:10:19
当時の馬は貴重輸入品目で容易く手に入るものではなかったと
つまりは馬は支配層によって掌握され一般民衆には手が届かない貴重品であり
王族など支配層は権威を誇示するための馬を利用したと思えばよい。
そうすれば騎馬民族説やらの下らん妄想もなくなるカモwww
636日本@名無史さん:2005/06/08(水) 14:30:45
また定義の話が出てきているので、答えて置こう。
改めて江上の「対論・騎馬民族説」を読んで見た。江上が騎馬民族として挙げて
いる民族は、モンゴルをはじめとして、扶余、満洲族、ゲルマン、ノルマン
等である。「定義」というからにはこれらの民族にすべて共通する性質に
基づかなければならない。

そのような性質とは何か。遊牧することか。
そうとは言えない。上記のうちモンゴル以外は遊牧しない。
では騎馬に優れていることか。
モンゴル、扶余、満洲族はまあまあとして、ゲルマンがその相手のケルト
人やローマ人より、際だって騎馬に優れていたとは言えないだろう。
ノルマンに至ってはその乗り物は馬ではなく船である。
637日本@名無史さん:2005/06/08(水) 14:34:37
遊牧も騎馬も共通しないとすれば、共通する性質は何か。
それは、これらの民族が、土地に定着して土地の生産物で生きている民族を
軍事力によって支配することを生業とする、ということだ。
また組織力や政治力に優れるから、支配の過程で「建国」し、みずからが
支配層となる。
だから、上記の諸民族を通じて呼ぶ名称は、例えば「征服民族」が適当なのだ。

江上が「騎馬民族」という名称を用いたのは、東アジアにおける「征服民族」
が、たまたま遊牧民族であったり、騎馬戦術に優れる民族であったからだ。
つまり、「騎馬民族」という名称で上記の「征服民族」を代表させたのである。

そして扶余は、軍事力によって多民族を支配して高句麗、百済、金官、渤海等に
建国したのであるから、このような「征服民族」という意味での「騎馬民族」
には立派にあてはまるのである。

これがわかって見れば「扶余は遊牧騎馬民族ではないから江上説はなりたたない」
とか、「日本には遊牧騎馬民族的な習俗がないから騎馬民族は来なかった」とか
言う議論がいかに的外れかがわかるであろう。
638日本@名無史さん:2005/06/08(水) 14:47:40
で、その征服民族とやらはいつごろ倭に侵入したんだ?
答えろよ。
639日本@名無史さん:2005/06/08(水) 14:51:53
>>638
紀元前660年〜紀元57年
640日本@名無史さん:2005/06/08(水) 14:54:41
単に北方系の渡来人(弥生人)じゃんよwww
もういいよ
641日本@名無史さん:2005/06/08(水) 16:25:09
農耕民族が馬を農耕に活用した、そのまま戦闘にも活用したということではないか
戦国武士も米飯を食って戦に出たわけだろう
出自は百姓上がりに近い
642日本@名無史さん:2005/06/08(水) 17:00:25
>>638
639は私ではない。
江上説では日本/朝鮮半島の関係において扶余が「征服民族」と見なされる。
江上説から離れて私見を言えば、扶余が金官から日本列島に侵入したのは
4世紀のいずれかの時点でなければならない。

>>641
クヤ韓国の「農耕民族」は突然それまでの王墓を破壊してはるか北方の満洲地方の墓を
真似て王墓を築き、突然騎馬戦術や鉄製武器の製法に習熟し、突然それまでなかった
殉葬を始めたわけか?
643日本@名無史さん:2005/06/08(水) 17:09:20
要は結果として他民族を征服・支配した民族の事かな?
彼らが特別支配欲の強い人種だとしたら征服・支配も必然といえるけど、
(つまり彼らの特徴を研究する事には面白い意味がある)
単に周辺諸民族と比較して強い武力を持っていたというだけなら共通の特徴など挙げようもないし
「征服民族」などと分類する事にも意味は無い。
なぜなら、他民族を征服・支配した結果、当然支配のノウハウが考案され、文化にも影響を与えるから(つまり文化は後)。

扶余が倭を征服したと主張するだけなら、馬を語ることに意味は無いし、文化を語る意味も無い。
結果的に他民族を支配した「征服民族」だったなら、挙げられる特徴など支配したが故のものになるだけ。
既出レスであったように「俺、扶余だけど倭を征服したよ」という文書でも出てこない限り堂々巡りだ。

まあ、江上氏がなぜ「モンゴルをはじめとして、扶余、満洲族、ゲルマン、ノルマン等」を
騎馬民族としてあげたかにも疑問は残るけどね。江上氏の著書に「征服民族」や類似の記述があったの?
644日本@名無史さん:2005/06/09(木) 00:23:24
ローマも中国も征服民族なんですけど。
征服=貢納ってのは世界の常識だろ。
騎馬民族だけに特有なことではない。


よーするに渡来人征服説とすればいいんだよ。

そのためには天皇を渡来人と証明すればいい。遊牧民とか関係ない。
さぁ、証明してくれ。
645白馬青牛:2005/06/09(木) 00:45:53
>>633
質問しとるんはわしの方じゃ。まず他地域の神話において顕著な
騎馬民族的特徴が見出されておる例をあげよ。ウイグル、蒙古、拓跋、
契丹、扶余等の始祖神話と比較したうえで、ゆうておられるであれば。
騎馬民族的神話とは獣祖型か感生型神話か?あるいは日本神話における
「三機能体系」についてはどうか?日本の天孫降臨神話は、他のどの
地域に多い神話か?それは、騎馬民族的な特徴が無いのか?
日本の後期古墳の発掘物からも顕著な騎馬民族的特徴が見出せないと
すれば、それは馬具か?装飾壁画か?具体的に答えられよ。

しかし後半の部分については、征服という形を取ったのかは疑問がある。
馬飼いが尊敬されず、馬飼いは王朝と違う種族で、武人の警護集団、
(王朝のボディガード)の帰化人として扱われておる。
ただ、記述の成立期は、馬飼い帰化人は職能としての弓馬の家の武人で
あった訳で、それ以前の時代の職能が分化する以前についてはわからん。
646日本@名無史さん:2005/06/09(木) 01:59:14
>>644
同感
騎馬民族=征服民族なら 天孫族も対象になって当然でしょうね。
貴族や征服者が渡来人であると主張すれば証明義務が生じる
騎馬民族孫論者も同じで。我々のような懐疑者は反証はすれど
証明の必要は一切ありませんよ。悪魔の証明、常識でしょう。


647日本@名無史さん:2005/06/09(木) 03:12:53
>>636
順序が逆だと思う。
そもそも、なぜ江上が扶余やゲルマンを騎馬民族として挙げたのかその根拠がはっきりしない。
はっきりしない根拠によって挙げられた民族の共通点を考えても何も生まれない。
江上が、「征服民族だから」扶余やゲルマンを「騎馬民族」としたのなら分かるが。
648がいやまん:2005/06/09(木) 08:08:44
>>645
同感。スサノオvsアマテラスは家畜の農業への投入、水稲耕作妨害などを禁じて
いるが、スサノオ的属性を持つ集団をコントロールにおいたということだろう。明らかに
牧畜文化カラーの強い集団が玄界灘・山陰沿岸に達したが僻地に囲い込まれたり、
辺境地に配置されたということであり、水稲文化の主体は安泰であったことを歌い上げ
てるいるようだ。ただ北部九州の先進文化が打撃を受けたのかもね。
649日本@名無史さん:2005/06/09(木) 09:24:09
>>647
根拠がはっきりしてれば共通点を考える必要なんて無いだろw
はっきりしないからこそ、共通点を挙げて「征服民族の意味で言っているのではないか?」と
推測してるんじゃないか。
650がいやまん:2005/06/09(木) 09:33:04
>>648
仲哀の御世、ウルサン出身の伊都県主が白銅鏡を献上するが、その前に、崇神の
御世の頃出雲のフルネは既に筑紫と謀議を重ねていたようである。大体、皇室の宝
となるべきものがウルサン出身の如き家柄から出てくるのは異常であり、その当時
本来の九州王朝は日田とか、西都原などの辺境に疎開した後であったのかもしれ
ない。仲哀は侵入してきた外国勢から旧倭国のレガリアの一部の返還を受け他の
ではなかろうか。
651日本@名無史さん:2005/06/09(木) 13:56:17
>>643
>扶余が倭を征服したと主張するだけなら、馬を語ることに意味は無いし、文化を語る意味も無い。

5世紀の倭は「馬の世紀」と呼ばれるにふさわしいが、その馬の源は金官の扶余にあった
可能性は非常に高い(征服か、文化受容かは別として)のだから、馬を語ることは大いに
意味がある。

>江上氏の著書に「征服民族」や類似の記述があったの?

記述があるどころか、それが江上説の核心だ。「征服民族」は私の造語だが、同じ主旨を
江上が述べている。反対派は江上説を読まずして反対しているのかな?

>>647
>江上が、「征服民族だから」扶余やゲルマンを「騎馬民族」としたのなら分かるが。

まったくその通り。私が「征服民族」と呼んだような性質の民族を江上は「騎馬民族」
と呼んだのだ。でなければ船に乗って征服するノルマンが騎馬民族であるわけがない
ではないか。

>>649
>根拠がはっきりしてれば共通点を考える必要なんて無いだろw

騎馬民族の定義はなにか、という論議があるから定義を述べたのだ。
定義を考えるのに共通点に基づかないでどうする。
「ほ乳類」の定義が、こうもり、鯨、馬に共通する胎生/ほ乳に基づいているのと
同じだ。
652日本@名無史さん:2005/06/09(木) 14:09:12
御託はもうウンザリ、征服民族説(騎馬民族説)証明よろ〜
653日本@名無史さん:2005/06/09(木) 14:20:59
> 騎馬民族の定義はなにか、という論議があるから定義を述べたのだ。
> 定義を考えるのに共通点に基づかないでどうする。
> 「ほ乳類」の定義が、こうもり、鯨、馬に共通する胎生/ほ乳に基づいているのと
> 同じだ。

>>649をよく読め
654日本@名無史さん:2005/06/09(木) 17:49:55
>>まったくその通り。私が「征服民族」と呼んだような性質の民族を江上は「騎馬民族」
と呼んだのだ。でなければ船に乗って征服するノルマンが騎馬民族であるわけがない
ではないか。

だからさ、騎馬民族の定義・特徴を聞かれて、扶余やノルマンなどの共通項から答えるのは
辞書で
右:左の反対
左:右の反対
と書いてるような物で説明にならないのよ。
江上さんは扶余やノルマンを騎馬民族と言っている→騎馬民族って?
→騎馬民族の特徴は扶余やノルマンの共通項(征服)だ→なんで扶余やノルマンを基準に挙げる?
→江上さんが騎馬民族として挙げてるからだ→いや、だから騎馬民族って何よ?
とループしてしまう。

それと
>>征服か、文化受容かは別として
って別にしちゃ駄目じゃん。征服したって主張してるんだろ?
征服説の根拠以外の目的で馬語ってるならただの雑談じゃん。
655日本@名無史さん:2005/06/09(木) 19:49:28
>>654
「騎馬民族」の「騎馬」という文字にとらわれているからそういうループに
勝手に陥るのだ。
「征服民族」を表す単なる記号と考えればなんでもないことだ。
ただ、その記号じたいが征服説の根拠になるわけではないよ。記号は単なる記号だ。

>征服説の根拠以外の目的で馬語ってるならただの雑談じゃん。

そこへ行く前にまず前提を明らかにしよう。
君は金官の扶余王朝の存在を認めるのか、それとも認めないのか?

656日本@名無史さん:2005/06/09(木) 21:48:11
騎馬民族は来なかったが海洋民族は来たでFA
657日本@名無史さん:2005/06/09(木) 22:57:34
騎馬はただの道具であって倭も朝鮮も満州も知って持ってた。
だから騎馬で語ろうとするとボロが出る。

素直に「倭が外来勢力に征服された」証拠を出せばよい。全て事足りる。
騎馬云々はその後だ。
658日本@名無史さん:2005/06/10(金) 01:28:08
そこへ行く前に玄界灘を手漕ぎ船で渡ったことがあるんか?
無いなら出直して来い。因みに漏れもない。
素人が、一人で、行けるんか?ん?
水先案内人がいても心細いぞ、手引きした奴等も信用ならんぞ
さあどうする?
あちらの内通者なりの協力を良くしてもらわんと、木っ端だ!
内陸的民族が一海越えて征服とは常識的に無謀すぎる罠。
659日本@名無史さん:2005/06/10(金) 01:37:01
>>658
漁業関係者、貿易関係者は古代からいるよ。
660日本@名無史さん:2005/06/10(金) 01:45:52
ん?。。核心は信じるか信じないか、それだけのこと。
661日本@名無史さん:2005/06/10(金) 02:13:27
ああ、なるほど。
つまり宗教なわけか。
662日本@名無史さん:2005/06/10(金) 05:08:55
>>657
>騎馬はただの道具であって倭も朝鮮も満州も知って持ってた。
>だから騎馬で語ろうとするとボロが出る。

そんなことはない。魏志倭人伝の倭や、そのころの半島南部に騎馬の習慣がなかったことは
文献にもあるし、発掘もそれと矛盾しない。
そのような地域に、突然3世紀末に、騎馬戦術(特に装甲騎兵)を持つ扶余勢力が金官に
出現した。ものすごい軍事的アンバランスだ。

騎馬はどこにもあった、だからみな同じだ、というのは上記の状況を認めていないと
言うことかな?


663日本@名無史さん:2005/06/10(金) 05:48:13
>>658
お前は、朝鮮の沿岸に来た香具師らが、なんの情報も集めず船乗りもあつめず、
わざわざあるかどうかも知らない天地を求めて素人航海に乗り出したと考えてるのか?
お前の頭に詰まっているのは湯豆腐か?
664日本@名無史さん:2005/06/10(金) 09:55:43
まず征服意欲の旺盛な騎馬民族が南下侵攻して沿岸部の海洋民族、海人族を支配する
次の段階として、海を渡って侵攻征服するという手順じゃないの
小船じゃ馬の輸送もままならない
1,2頭じゃ即戦力にもならん
組織的輸送で一度に数10頭の戦力は必要だろう
665日本@名無史さん:2005/06/10(金) 12:36:42
仮にそうやって南下した民族が騎馬遊牧の民だったとすると
果たして彼らは自らの生活主体である馬と家畜を捨ててまで、新天地に行くかという問題もある。
沿岸の海人族に口説かれたか、それとも騎馬遊牧という生活習慣そのものを薄れさせていたんだろうか。
あくまで征服ウマー民族=騎馬遊牧民、としてだが。
666日本@名無史さん:2005/06/10(金) 14:03:31
海洋民族が戦術的に馬を利用したが、

船を利用した騎馬民族は来なかった
667日本@名無史さん:2005/06/10(金) 14:34:24
>>663湯豆腐頭はお前だ、水先案内人や航行を手引きする香具師らは航行技術に
長けた海人族にきまっとるやろ、そんな空っぽな突っ込みすなや
私的>>664の意見+αの倭側の協力勢力つまり強力な内通者がいたなら>>658
は否定出来るという訳じゃ、解かるか?
しかしだ、決定打が無い、結局のところ「全て憶測」になる。
「あなたは騎馬民族征服論を信じますか?」YES・NO? 理解できますか?
668日本@名無史さん:2005/06/10(金) 15:10:54
>>667
征服民族なるものの痕跡が、半島と倭、玄海灘を跨げて大量発見されない限り
闇の中だと思う

中国の文献とかに「倭を征した〜〜族がいた」とか在ればね
669日本@名無史さん:2005/06/10(金) 15:26:43
騎馬民族って天幕張って騎馬隊で外征する奴等だろ

んな奴等キテネェーし、海人族は水先案内人なんかやらネェー

670日本@名無史さん:2005/06/10(金) 15:33:02
日本の古代天皇名は朝鮮語由来というのは本当?

ひこ、たらし、わけ・・・ なんたらかんたらは、
朝鮮語とか、朝鮮地名からきてるとか?
671日本@名無史さん:2005/06/10(金) 15:37:38
>>670
嘘。
672日本@名無史さん:2005/06/10(金) 16:16:04
竹原古墳壁画には小型馬・船・波・なんかが絵描かれていますね
葬られていた人物は騎馬民族の流れをひくもの?
はたまた馬を重宝がった一有力者の過ぎない? 
疑問。 
673日本@名無史さん:2005/06/10(金) 16:38:40
>>665
>仮にそうやって南下した民族が騎馬遊牧の民だったとすると
>果たして彼らは自らの生活主体である馬と家畜を捨ててまで、新天地に行くかという問題もある。

仮定する必要はない。征服したと想定される民族は具体的に、扶余だ。
扶余は騎馬ではあるが遊牧ではない。
3世紀末に任那に出現した扶余はクヤ韓国の倭人を支配して金官を建てた。
この時点で扶余は満洲から持ち込んだ騎馬戦術(特に装甲騎兵)を持ち、
任那諸国および倭は騎馬戦術を持たなかった。
すべての議論は上記の状況を前提とするべきである。
674日本@名無史さん:2005/06/10(金) 16:48:42
ならフヨの血をもって朝鮮の領有権を主張するはずだよな。
なのに一番有効な主張をせずにただ倭は半島に進出していた。
中国への上奏文も朝鮮半島の領有を認めて欲しいならば
フヨの血統を主張するはずだ。

でもそれは中国への上奏文にもない。
この時点でフヨどうこういうのは説得力をもたない。

あと、大陸文化を積極的に取り入れる方針の日本としては
べつに騎馬文化を取り入れてもおかしくは無い。舶来文化をいつも自分流にものにしてたから。
そのせいで去勢しなかったのかな?
675日本@名無史さん:2005/06/10(金) 17:48:25
扶余=池田大作
強力な人格(勢力)により倭人を洗脳支配
形振り構わず逝け逝けドンドン・・冷めて見る奴多し
クヤ韓国はキチガイ集団の如し
倭今日も晴天なり。

                 今日の出来事
676日本@名無史さん:2005/06/10(金) 18:31:03
倭の側に内通者が居たという考えは面白いと思う
内通者、もしくは先遣隊的組織行動があったとしてもいい
高度に戦闘的民族集団は輸送をはじめ水軍部門を当然持っている
侵略する国に馬がなければ、それこそ圧倒的優位に立てるわけだし
戦略体制としては効果的だ
馬があるところにわざわざ馬を輸送してまで侵攻はせんだろう
要は騎馬戦が強力な戦力とみた状況があったわけだ
677日本@名無史さん:2005/06/10(金) 18:36:28
馬を使って征服したと考えるから変なんじゃねえの?
征服したものがたまたま馬を持ってたというだけじゃダメなの?
まあオレ個人は「騎馬民族征服説」に関しては否定的だけど。
678日本@名無史さん:2005/06/10(金) 18:56:26
>>655
騎馬民族と征服民族を言い換えても同じループになるよ。
もともと征服説支持者が馬と扶余征服説は関係ないと言いながら、その後もこのスレで語られているのは馬ばかり。
それはなぜ?
関係ない(筈の)話を延々と続けて、君らは雑談してるのか?それとも実は密接な関係があるのか?
どちらにしても馬への拘りを人に指摘していい人間の行動じゃない。オマエモナーと言われるだけ。

「征服民族」についてもやはり根拠がはっきりしない。
結果的に他を征服した民族を挙げただけの域を出ず、わざわざカテゴライズする意味が分からない。
単に武力が他に比べて上だっただけの話では?
679日本@名無史さん:2005/06/10(金) 18:57:45
征服したあとから後発部隊が馬や豚という家畜を連れて来たのかも知れぬ
そうなると豚カツ民族征服説も成り立つ
680日本@名無史さん:2005/06/10(金) 18:58:58
古代日本で馬が活躍できる場所(主に草原・平野)があったのか?
山岳地じゃむしろじゃまでないかい。
681日本@名無史さん:2005/06/10(金) 22:13:53
もし江上の言うように天皇が征服民族ならば、日本書紀見れば分かるだろ。
まず神武天皇は日向に降臨してる。ここから瀬戸内海をとおり、河内で倭人に負け
熊野から進入して王朝を立てたとある。

見れば分かるように騎馬が出てこない。行動を見れば海軍を有効活用してるとすら見える。
逆に騎馬を持っていたなら平野の河内で負けることはなかったろう。
逆に騎馬を持っていたなら危険な紀伊半島を周り、熊野の山道を抜けることはしなかったろう。

日向に降臨というところが渡来人説をこじつけようとすればできるかもしれないが
その渡来人は騎馬民族というより海洋民族ではないだろうか?
682日本@名無史さん:2005/06/10(金) 22:24:46
海人族=倭人が船で馬を輸入して覇権を取った、ってだけだろ

その後に三韓征伐だよ
683日本@名無史さん:2005/06/10(金) 22:25:37
倭人≠日本人


神武は日本人であって倭人じゃない
684日本@名無史さん:2005/06/10(金) 22:49:36
>>682

トルコ系ブリアート族=神武≒大和族(日本人)≠倭人

北方遊牧民族系のカムイ・イワレビコ(神武)がそんなこと
するはずがない。逆に倭人=海洋民族を奴隷として、
舟を動かさせた。むしろ乗馬は神武らの得意技だと思われ。
685日本@名無史さん:2005/06/10(金) 22:52:51
そう云や神武東征って馬の話出てくるのか?
686日本@名無史さん:2005/06/10(金) 23:27:06
AD3世紀。邪馬台国は巫女が治めていた。
これは北方騎馬民族にはありえないこと。南方の色が濃いと言える。
この時点ではまだ江上の言う征服民族は着ていなかったのだろう。
江上は4〜5世紀に来たと言う説を唱えてたと思う。

しかし、だ。
すでにこの邪馬台国の時代、中国人の国「秦王国」が倭にあったということを魏の使者が記している。
中国人が来てるなら馬も当然来ててもおかしくない。馬が来てても邪馬台国は存在していたのだ。
ならば倭人は馬を知っていたと言える。だから騎馬でもって征服されたなどとは簡単に仮説を立てられない。
実際、神武は海軍を駆使して征服しているのだから。

江上の言うとおり、邪馬台国と大和朝廷の空白の期間に征服民族が来たのならば
それはまさしく大和朝廷の始祖、神武が征服民族だったということになる。
神武は渡来人かどうかを検討してみよう。
687日本@名無史さん:2005/06/10(金) 23:31:43
そして神武こそ辰王家=フヨ家だということになるが
カムイ・イワレビコがどうしてフヨを名乗らなかったのか。
これが一番問題だ。
688日本@名無史さん:2005/06/10(金) 23:39:39
モンゴルやトルコ諸族に巫女がいたかどうかは知らんけど。
チンギス・ハーンにはテップ・テングリというシベリア・イヌイット
出身の巫者がいたな。占いによって権力を振るっていたらしが。
その親父はかつてチンギス・ハーンを裏切り、後に帰参したムンリク。
そのムンリクがチンギスの生母と不倫したと聞く。
アルタイ語派の巫者は結構、破廉恥魔が多いな。ww
689日本@名無史さん:2005/06/11(土) 00:00:22
>>681
イザナギとイザナミの国産み(つまり天地創造)で生まれた島々も
当時の航海路だしな。
馬の文化、騎馬民族というよりも船の文化、航海民族のにおいを感じてしまう。
白村江だかどこだかの時点で完全に日本人は航海文化を捨ててしまったから
690白馬青牛:2005/06/11(土) 00:39:10
>>684
ブリアートは、モンゴル語系でトルコ語系では無いが、
バイカル湖周辺民族は、モンゴル語化した以前はトルコ語系、
元来は、サモエード系かツングース系であろう。
バイカル地方は、遊牧民というより、狩猟農耕も営む定住民型であった。

海洋民族要素となると、大興安嶺以東で挹婁、黒水靺鞨、刀伊(女真)等
は漁労民的要素もあり、海賊でもある。遼河で起こった契丹も牧畜民では
あるが、漁労民的要素もある。こうなると江上氏の騎馬民族説より、
梅棹忠夫氏のツングース水軍説(梅棹氏はツングースを海洋民型で東亜の
ゲルマン的タイプとして、ツングースにより東アジア諸国家が形成された
とする説)になるんじゃが。馬を語らんと「水軍説は今」となる。
691日本@名無史さん:2005/06/11(土) 00:41:45
邪馬台国のときの倭人は刺青をしてたとある。
北方民族じゃなく南方民族の証拠。

だが現日本人のDNAはモンゴルと似てることが多いらしい。
これは邪馬台国時の倭人に北方から混血が加わったという風に考える?
それとも北方から来た民族が亜熱帯の日本に来て南方習俗に染まったと考える?
692日本@名無史さん:2005/06/11(土) 00:45:20
>>690
なんか、メルキト族みたいだな。

>元来は、サモエード系かツングース系であろう。
ウラル語派の南サモイェードはともかく、北ツングースは
あり得ないでしょ?おそらくシベリア・イヌイットでしょ?

それから、トルコ民族も漁労民的要素もあるのでは。
鮮卑もわずかな例があるしな。
693日本@名無史さん:2005/06/11(土) 01:27:43
おまいら 葉梁職貢図の倭人使の絵 見た?
ありゃ どう見ても漁師おっちゃんだぞ
古墳時代最盛期の大和政権の特使がry...
どうでもいいけど ちょっぴり幻滅したぞ!
694白馬青牛:2005/06/11(土) 01:33:26
>>689
沿海州アムール地方の神話では、ハダウ(イザナギ)とママルディ
(イザナミ)が国産みらしい。
>>691
刺青は、アルタイ地方にも習慣があり、古代キルギスでもしておった。
ただ倭人伝の方は江南的であろう。
人種としては、HLA等でもあるように濃厚に北方系が多いと思う。
弥生期も北方ポリツエ文化の影響もあり、南方的要素だけでは無いが、
ただ風土として、照葉樹林地帯であり、生活の手段、適性としては南方。
>>692
メルキトは、確かに南サモエードがトルコ化のちにモンゴル化したという
説が有力。しかしツングース系エヴェンキもおり、ロシア人学者では、
バイカルからツングースは広がって行ったとする説が有力。
鮮卑はトルコ系よりもモンゴル系じゃと思うが、梅棹説では、大興安嶺
以東は、広い意味でツングース(漁労的要素もある)文化圏と
なっておる。
695日本@名無史さん:2005/06/11(土) 01:38:53
倭人=海人族=海ヒコ=B=893
日本人=山ヒコ=パンピー
696日本@名無史さん:2005/06/11(土) 02:05:34
>>693
これか?

http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/gishi/gimonfolda/gimonn06.htm

ここにも書いてあるように、これは後世に想像で書かれた絵だよ。
東南アジアのイスラム系を想像して書いたとしか思えん。
697日本@名無史さん:2005/06/11(土) 02:20:16
オレもちょっとな〜と思った で後世に描かれたものなら 鉢巻やったり
裸足だったり たぶん邪馬台国時代の想像人物なんだろうな あと みずらもやってないし

>>695
神武の父方は日本人で母方は倭人ってことになるけど、それでいいの?
698日本@名無史さん:2005/06/11(土) 04:16:18
なんで駄目なの?
699日本@名無史さん:2005/06/11(土) 05:22:38
>>686

>すでにこの邪馬台国の時代、中国人の国「秦王国」が倭にあったということを魏の使者が記している。
>中国人が来てるなら馬も当然来ててもおかしくない。馬が来てても邪馬台国は存在していたのだ。

頭のなかがぐちゃぐちゃになっているな。
「秦王国」が出てくるのは隋のときの聖徳太子への使者の話だ。
700日本@名無史さん:2005/06/11(土) 06:09:43
三国志や漢書の記述によれば呉越の子孫=倭人ってことになると
それは江南的な倭人の習俗を見て(それ以前以後に倭人が自らを太伯の子孫と自称していたかはともかく)判断したか
それともまず倭人が呉の末裔なりという思い込みがあってそれにしたがって嘘八百を書いたのか
気になるなあ。
701日本@名無史さん:2005/06/11(土) 13:04:26
北米にも西洋人が馬を持ち込むまで原住民は馬を知らなかった
しかしインディアンは巧みに馬を乗りこなし騎馬戦法を駆使して戦った
インディアンは本来とうもろこしを食う農耕民だったのだ
馬が持ち込まれて、次第に農耕民族が騎馬戦法を取り始めたんじゃないの
702日本@名無史さん:2005/06/11(土) 13:12:02
>>700
それは中国人側の解釈説だよ。スレちがいだけど
703日本@名無史さん:2005/06/11(土) 14:03:31
>>655
>もともと征服説支持者が馬と扶余征服説は関係ないと言いながら

関係ないと言ったのは騎馬という言葉にとらわれるな、という意味で
言ったのだ。去勢がどうだとか、不毛の議論になるからね。

>関係ない(筈の)話を延々と続けて、

そもそもなぜ馬の話が出たのか、考えてみよ。
反対派が、日本列島では古代、馬の重要性は低かったと主張して、それを
「騎馬民族は来なかった」根拠にしようとしたからではないか。
実際は前にも述べたように、「5世紀は馬の世紀」と言えるほど古墳時代の
列島は馬臭に満ちていた。馬と鉄は権力の二大要素であった。

このことは騎馬戦術をひっさげて任那を征服して鉄まで手に入れた扶余が、余勢を
駆って日本列島を征服した、という仮説と矛盾しない。
ただし、矛盾しないというだけで、それが扶余征服説の積極的証拠だと言っている
わけではない。
上記の「馬たいしたことない」説に対する反論はとりあえず「矛盾しない」で
十分なのだ。

>結果的に他を征服した民族を挙げただけの域を出ず、わざわざカテゴライズする
>意味が分からない。

学問はカテゴライズから始まる。ただ強かったから勝った、弱かったから負けた
では面白くもなんともない。
ロシヤ、イギリス、シチリアなどに建国したノルマンの活動と、高句麗、百済、
金官、渤海などに建国した扶余の活動をくらべて見るのはまことに興味あること
だと思うけどね。
704日本@名無史さん:2005/06/11(土) 14:13:53
>>701
インディアンは確かに騎馬戦法を取り入れたが、アメリカ騎兵隊の軍服を
着ようとはしなかった。
古墳時代の倭は馬具、武器、馬甲、騎乗者の鎧兜まで、すべて任那の系統だ。
この違いをどう見る?
705日本@名無史さん:2005/06/11(土) 14:26:30
>>697
ニニギの妻=海神=地ノ王の娘。
また神武の妻は三輪山の蛇神を父とする娘、蛇とは水神であり竜神である、彼女も海神の娘。
ニニギ尊から神武天皇まですべて海神の娘を迎えている。
つまり母は海神の娘であるということになる。地ノ王とはその本質においては母性原理
つまり女神である。
海神の正体は=地ノ王=大地母神
706日本@名無史さん:2005/06/11(土) 14:41:19
そうすると天ノ王が任那系?
707日本@名無史さん:2005/06/11(土) 14:57:56
>>706
それは判らない。
ただ神武の母も祖母も出自は海神、よって彼の血の半分以上は海神のものになる。
708日本@名無史さん:2005/06/11(土) 17:07:47
>>642
「扶余が金官から日本列島に侵入したのは 4世紀のいずれかの時点でなければならない」

新羅本紀

295 倭人討伐を議するも水上戦闘不慣れにより中止
298 基臨王即位(助賁王の孫)
300 倭国と国使を交換
307 国号を新羅に戻す (503にも国号決定記述があり疑問点とされる)
310 訖解王即位(奈解王の孫)
312 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず
337 百済へ使者を送る
344 倭国が花嫁を求めたが辞退
345 倭王が国書を送り国交断絶
346 倭軍が金城を攻撃
356 奈忽王即位(訖解王に子なく味鄒王の父の孫(閼智の八世孫)
364 倭兵が大挙して侵入
368 百済が使者を送る
373 百済の秀山城主が来降する
381 使者を秦国に派遣して国号の変更を釈明する
392 高句麗に人質を送る
393 倭軍が侵入 籠城戦を行う

へ〜 この間に倭国を征服したんだ〜w




709白馬青牛:2005/06/11(土) 18:02:48
神話では、海神のむすめトヨタマ姫が、山幸彦の子を海中で生まずに、
夫の住む陸上に来て生んでおる。つまり夫の家で出産と北方的習俗。

ところが、平安貴族は、南方的習俗で妻訪いに通い妻の実家で出産して
おる。ただし、高句麗にも通い婚があり、在地民の妻を娶ったことから
高句麗や日本の貴族も、実家出産となったのかも知れん。なぜなら世代
から世代へ、女の間で守られてきた慣習で、固執性が強かったと思える。
河内の帰化人(渡来人)同士の結婚では、婚家で出産しておる。

日本でも、実家出産(初産)は、北陸を中心に比較的連続した分布領域で
あるが、近畿や中国、四国は少数の例外を除くと婚家出産地帯。
これは、HLAの「B44−DR13」の多い地帯が実家出産で、
「B52−DR2」の方は婚家と重なる部分が多い。

さらに朝鮮では、初産の時は実家出産らしい。ところが、その北の
沿海州諸族、満洲人、モンゴル人等は婚家出産がふつうである。
710日本@名無史さん:2005/06/11(土) 19:59:34
三韓征伐の時に大量輸入か?
711日本@名無史さん:2005/06/11(土) 23:29:38
>>708
考古学上の事実である、扶余の侵入も書かれてないね。
後世に書かれた歴史書なんてそんなもんだ。
712日本@名無史さん:2005/06/12(日) 01:16:25
>>707
父系が扶余 母系が倭 これはこれで面白い。
天孫族は海人族の力を吸収し国造りを遂行、しかし
現実は逆、海神に吸収されてお御輿になっちゃった...ってオイ!
713日本@名無史さん:2005/06/12(日) 01:19:30
日本人≠扶余 

神武=日本人
714日本@名無史さん:2005/06/12(日) 01:27:42
例え話に反応する...ん〜 真相はいかに
715日本@名無史さん:2005/06/12(日) 02:56:37
倭国が金官から夫餘の軍事技術を輸入したというのなら
苦しいながらもまだわからなくもない(賛同もしないが)。
しかし4世紀に金官が倭国を征服なんてありえないだろ。
>>708の年表から読み取れる歴史像からいえば。
716日本@名無史さん:2005/06/12(日) 03:59:00
倭が征服されりゃ、百済、高句麗、新羅、中国の本に出るはずだよ。
717日本@名無史さん:2005/06/12(日) 09:16:47
>>704
一概に倭人とインディアンを比較できないが、
インディアンが馬を手に入れた時代、既に重装騎兵の時代は終わっていて
馬、武器以外は極論すれば取り入れる必要性がなかった。
またインディアンと白人は徐々に敵対していったという歴史的事実も問題になる。
インディアンには、馬や銃や騎兵戦術を取り入れる必要性はあっても軍服まで取り入れる必要性はなかったわけだ。
翻って倭人の時代を見ると、当時は平原での戦闘力で騎兵を止められるものは存在しない。
(当時の弓兵では無理。遠くから騎兵を壊乱させ得る性能もないし統一された技術もない。
火砲が戦場において騎兵と対等な地位を得られたのは鉄砲が弓にない武器=轟音を持っていたため)
ただ馬を手に入れるだけではなく、当時の社会で他国を撃退し征服するための戦力としては
同時に優れた武器、防具、技術を手に入れることが不可欠。そのためにありとあらゆるものを取り込んだものだと思われる。
また敵対的でなかったか、あるいは形振りをかまっていられないほど双方の技術格差があったとすれば
古代日本人が任那の技術をフルコピーしたのも頷ける点がある。
718日本@名無史さん:2005/06/12(日) 09:51:10
旧唐書に「日本国は旧小国、倭国の地を併せたり」て書いてあるやんけ。
四世紀に入ってから中国も騎馬民族に侵入されまくりだ。
日本列島だけ無事だったと思う方がアホだ。
719日本@名無史さん:2005/06/12(日) 10:19:59
>>718
つ海
720日本@名無史さん:2005/06/12(日) 12:41:25
>>718
んなモンは解かりきってること、問題は小国日本の根拠地だ。
ここではそれが大和と半島に分かれているみたいだけど
721日本@名無史さん:2005/06/12(日) 12:57:22
大和朝廷は伽耶の難民が作った。
伽耶難民が王朝を作った時、伽耶の王族でもなければ自分は伽耶から来たと名乗るはずが無い。
出自が怪しい難民だからこそ、自分は天から神の勅命により天下って王となったと言ったのだろう。
民族の中から自然発生的に生まれた王朝で無いことを示している。
難民が日本に渡った事が一々中国や朝鮮の史書に書いてあるはずが無い。

伽耶地域にいた騎馬民族集団が日本に来た。
日本に去勢の風俗が無いのは馬を連れてきたけれど極少数しか連れて来られなかった。
馬を急いで増やさなければならなかったので、去勢は止めたのだ。
何代か経つうちに去勢の風俗は忘れ去られたのだろう。
722日本@名無史さん:2005/06/12(日) 13:00:06
難民はあんまりだ、説得力がない
723日本@名無史さん:2005/06/12(日) 15:51:09
始めから征服者として軍隊を送りつけるなら、男しか来ない。
しかし、mtDNA 見る限り大陸から女も大量に来た事が判る。
女は軍隊には入らないから mtDNA を持ち込んだのは農民や漁民も含んでいたのは間違いない。
農民が大陸から逃げてくるのは難民としてだろう。
724日本@名無史さん:2005/06/12(日) 16:18:35
>>717
>翻って倭人の時代を見ると、当時は平原での戦闘力で騎兵を止められるものは存在しない。
>(当時の弓兵では無理。遠くから騎兵を壊乱させ得る性能もないし統一された技術もない。

戦闘力の差を認めてくれてありがとう。
で、馬を増やし、武器装甲をフルコピーして任那と同じレベルの戦闘力を身につけた倭が、
装甲騎兵を含む軍隊を船で半島に送って、金官の扶余を打ち破ってこれを服属させた、という
すじがきかな?

ところで断っておくが 721,722 は私ではない。私は難民説ではない。
725日本@名無史さん:2005/06/12(日) 18:48:09
3世紀後葉あたりから難民も含め伽耶勢力を積極的に受け入れたのは
日向天孫。伽耶の先進的な馬・武器・装甲・兵法などを取り込みたかった、
これが主をなす理由、金官伽耶の王族と天孫に血縁があったのかは不明だが、なんらかの王族同士で契りを
交わしていた可能性はある。
倭人を吸収した天孫、伽耶の倭人らと同化してしまった伽耶王族
意気投したのかも知れんな。
726日本@名無史さん:2005/06/12(日) 23:19:22
>>720
「現在日本と称している國の出自は(金官という)小国であった。それが大国である
倭国の地(すなわち日本列島)を併合して、現在日本と称している國になった」
と解釈できるのではないか?
727日本@名無史さん:2005/06/13(月) 01:22:16
>>726
どっちに転ぼうが、倭人あっての金官伽耶
キャツらだけではどうにもならん
倭人がいなけりゃ今頃はアイゴーアイヤーいってるべ
まぁキャツら優位で相互利害が成り立つかは知らんが
本国勢力はまた別だべさ

結論 日本は日本の中にあった 
728日本@名無史さん:2005/06/13(月) 01:32:22
>>723
北方部族集団は女連れで大移動も珍しくないから、それはあてはまらないような。
ただ、一概に遊牧民族と定義できないのは、女と同等に大事である畜獣をどうして捨てたか、だな。
むろん、いわゆる「騎馬遊牧民族」的定義がほとんど無意味である以上あまり関係のない推論だが。
729日本@名無史さん:2005/06/13(月) 08:23:12
昭和天皇は晩年、江上氏を何度も枕元に呼んでは騎馬民族王朝説の講義をさせたそうだ。
天皇家には自分達の出自が騎馬民族だったという伝承があったんじゃないかな?

騎馬民族王朝説がトンデモな話なら、自分の祖先について、いい加減な話を何度も聞かされる事に耐えられないだろう。
天皇が考える自らの祖先観と騎馬民族王朝説はよく一致していたのだろう。
730日本@名無史さん:2005/06/13(月) 09:47:49
>>729
ソースは?
731日本@名無史さん:2005/06/13(月) 09:47:50
>>729

本当のところは密封された古代天皇陵を発掘調査せんと出て込んだろう
何らかの不都合が出てくる懸念があるのだろう
732日本@名無史さん:2005/06/13(月) 10:27:11
>>723
>始めから征服者として軍隊を送りつけるなら、男しか来ない。
>しかし、mtDNA 見る限り大陸から女も大量に来た事が判る。

それは一つ前の弥生人の問題だ。
扶余は支配階級として入ったと想定されるのだから遺伝的にはネグリジブルであって
もよい。本土中国人の遺伝的特徴に満洲族の影響がネグリジブルであるのと同じ。
733日本@名無史さん:2005/06/13(月) 10:41:15
>>730

田中克彦著「騎馬民族説と江上波夫の思い出」

『昭和天皇から「寂しい、ちょっと話をしたい」という電話がかかってくるので、騎馬民族説の話をしに行ったものだ』
そうな。
734日本@名無史さん:2005/06/13(月) 10:52:19
>>732
>それは一つ前の弥生人の問題だ。

弥生人は多くは来なかったと言うのが定説ではないか?
西日本の一部で縄文人の骨格より勝る体型の人骨が現れるが、
いつの間にか元に戻って縄文人の人骨に吸収されてしまったらしい。
つまり、少数だったから縄文人の中に埋没したのだ。
縄文人は少数の弥生人から水耕稲作を学び、半島から金属を輸入して
弥生化した。

再び縄文人の人骨とはっきり差のある骨格の人骨が現れるのは、古墳
時代になってからだ。
735日本@名無史さん:2005/06/13(月) 10:59:39
締め切り迫る!みんな早く書き込もう!

http://www.nhk.or.jp/bsdebate/
736日本@名無史さん:2005/06/13(月) 11:03:50
>>733
> 『昭和天皇から「寂しい、ちょっと話をしたい」という電話がかかってくるので、騎馬民族説の話をしに行ったものだ』

ネタとしか思えないんだが…

個人的に親しかったとしても、そんなに簡単に電話したり会ったりできるのか?
天皇の面会の記録かなんかがあればいいんだが、「江上波夫の思い出」じゃあなあ。
737日本@名無史さん:2005/06/13(月) 11:36:08
>>736
毎年正月に皇居で行われる『講書始の儀』で、昭和天皇の前で騎馬民族日本征服説の概要を解説されたと言う記録はある。
学会の定説になっておらず、しかも万世一系を唱える天皇家にとってはなはだ都合が悪い説を唱える学者なのにだ。

それ以外で病床にあって昭和天皇が「寂しくなると」電話を掛けて来たという話なのだが。
738日本@名無史さん:2005/06/13(月) 12:04:05
列島を制圧した扶余系騎馬民族は、
原住民を「来い・おいで」と呼んで使役していた。
現代にまで残る日本語の一人称、オレ・オラ・オノレ・ワレ・ワラワ等は
全部、現半島語で「来い・おいで」の意味だ。
女子供を呼ぶ「ワラワ」は直接命令法で「来い」を二回繰り返す所に注目。
(野郎を呼ぶ場合は間接話法、伝聞形)

そして、日本語の家族名も渡来人の視点からついています。
侵略軍が最初にやることは女性を奪うことです。
ジジ・ババ(汚い・いらない)
カーちゃん(行け)トーちゃん(ほっとけ)
アニ(違う)アネ(妻)イモ(妾)
739日本@名無史さん:2005/06/13(月) 12:32:59

ほら男爵みたいな話だ
740日本@名無史さん:2005/06/13(月) 14:24:45
89 :天之御名無主 :03/08/25 20:56
 こうした約束を交わしたあとでその日本人は自分自身の身分を明かした。
彼は日本の皇族の一人であった。
 彼が子供の頃、宮城に時々訪れてくる外国人商人がいたそうである。この
外人は高い教育を受け、いろいろな知識をもっていたので、このユダヤ商人と
彼はいろいろな問題について話しあうようになった。二人が非常に親しくなった
あとで、この日本の皇族は、子供のころから皇族の間でうわさされている
天皇家の祖先はユダヤ人であるかもしれないといううわさを話した。
 このようなことから、この皇族は、ユダヤ人の歴史とその宗教について深
く勉強しょうと思ったのだそうである。そして、彼はついに個人的にはユダ
ヤ人として生活し、公的には日本の皇族としてふるまおうと考えるようにな
った。この皇族が結婚するようになった時、彼は自分の妻にもユダヤ文化の
教育をしようと思ったが、その際当時の日本には、ユダヤ教のラビが一人も
いなかったので、満州のハルビンにあったユダヤ人の教会堂にまではるばる
やってきたというのであった。
 そこで、ラビ・キシレフは、皇族の妻の教育のために彼自身の一人娘を日
本に派遣した、というのである。」
http://members.tripod.co.jp/akyonn/yyy3.htm
741日本@名無史さん:2005/06/13(月) 15:28:06
そういや江上氏も原始キリスト教と騎馬民族の関係を考えていた気配がある。

『モンゴル帝国とキリスト教』という著書があるそうだから。
742日本@名無史さん:2005/06/13(月) 15:47:32
支離滅裂日記、書き逃げの江上波夫は今何処。ちーん
743名無シンパ:2005/06/13(月) 16:06:25
まぁ江上の騎馬民族説を崇拝してるヤツは、
キティーで有名な尊師の幻想を真とする、フレアのようなものだしね
744日本@名無史さん:2005/06/13(月) 17:12:36
>>737
そもそも騎馬民族日本征服説は学会なりで支持されているのでしょうか?
以前に私が読んだ考古学関連誌では考古学者や民族学者の間ではあまり
支持されていないとして紹介されていましたが、どうなんでしょう?
745日本@名無史さん:2005/06/13(月) 17:27:35
>昭和天皇から「寂しい、ちょっと話をしたい」という電話がかかってくるので

これだけで江上波夫の人格に対する信頼がうせました
746日本@名無史さん:2005/06/13(月) 18:23:13
>>744
佐原真は日本に馬の去勢の風習が無かった事だけで騎馬民族は来なかったと断じました。
5世紀位の船では大量の馬を運ぶ事は無理だったでしょう。
一頭だけでも難しい状態でした。
しかし、5世紀になると確かに馬は日本に持ち込まれていた。

スペインがアメリカ大陸に馬を持ち込んだのは16世紀でした。
数百頭の馬を船で運んだのですが、生き残ってアメリカまで着いたのは数十頭に減っていたそうです。
5世紀に丸木舟に毛の生えたような船で馬を運んだわけですから、大量の馬が運べたはずはありません。
十頭程度の馬から徐々に増やして行ったのではないでしょうか?
幾ら騎馬民族と言えども、その馬に去勢手術をしたなどとは考えられません。
数代下がれば去勢手術の技術が失われたとしても当然です。
騎馬民族説は大量の馬と共に襲来し、畿内を圧倒して王朝を打ち立てたような印象で語られていますが違います。

佐原真と江上波夫の論争は公開討論形式で行われましたが、佐原の方は十分な準備をして討論に臨んだようです。
江上の方は多寡をくくって討論に臨んだので、細かい矛盾を突かれて回答に窮してしどろもどろになる場面があったそうです。

その討論会の結果、江上の方が劣勢だった印象を世間に与えて、あまり顧みられなくなったのだと思います。
森浩一は騎馬民族が支配者になったかどうかには触れませんでしたが、騎馬民族が来た事は否定しませんでした。
そして騎馬民族が来たとすれば6世紀の継体天皇のころが相応しいと言っています。
747日本@名無史さん:2005/06/13(月) 19:44:24
>>737
陛下はお心がお広い、おキチガイ説も、慶んでお聞きになられたのかとw
748日本@名無史さん:2005/06/13(月) 21:44:43
敬語の使い方がおかしいぞお前。
749日本@名無史さん:2005/06/13(月) 22:16:40
だって江上の騎馬民族説って騎馬民族じゃないのも騎馬民族なのも全部騎馬民族にしちゃうんだもん。
論理性がないよ。

750日本@名無史さん:2005/06/13(月) 22:20:24
騎馬民族は定義がないからいいんです。
751日本@名無史さん:2005/06/13(月) 22:56:27

とりあえず、あっちゃの方から来たら騎馬民族。
752日本@名無史さん:2005/06/14(火) 01:05:10
>>747>>751
とりあえず、○○同士で宜しくやってくださいな、でわ。
753日本@名無史さん:2005/06/14(火) 05:48:28
江上の説のあらを探せばいくらでもある。しかし重要なのははそのなかに含まれる
歴史のすじがきである。
江上は扶余が任那を足場として日本を征服したこと、すなわち任那の扶余王朝の存在
を当初から主張した。
これに対して他の学者達がなんと言ったか。「任那に扶余が来た証拠がない」と言って
批判的、あるいは傍観的な立場をとった。
現在、発掘成果により、金官の扶余王朝の存在は考古学上の問題となった。
少なくとも江上には先見の明の栄誉がある。

金官の扶余王朝が立証された今、これまで他の学者達が考えていたすじがきは
特に半島との関係において書き改められなければならない。
しかし依然としてこれに対して正面からの取り組みが見られない。

従来のすじがきは国内にかぎって見るならば自然で妥当に見える。
しかし任那との関係史になるとたちまちおかしくなり、不自然な説明を
加えないとなりたたなくなるのだ。
754日本@名無史さん:2005/06/14(火) 11:14:22
騎馬民族云々は、実際に戦闘に騎馬戦法を使うことを必須条件とする場合と
兵糧の運搬や兵員移動にのみ馬を活用する場合とがあったと思う
あるいはただ農耕馬としてだけ使うのも居ただろう
とにかく馬を連れている民族は騎馬民族にまとめちまおうよ
755日本@名無史さん:2005/06/14(火) 11:23:04

箸墓の輪鐙を除くと最古の馬具は馬鍬だからね。
間違いなく農耕馬だ。
756日本@名無史さん:2005/06/14(火) 11:52:25
たとえば平安鎌倉の時代の日本は馬上戦闘を戦士の必須技能としていたが
騎馬民族ではない。
それは結局、民族としての総体において馬を誰もが必要としていたわけではないからといえる。
凄く極端な話、ほとんどの民衆貴族にとって、馬がなくなってもあまり問題はない。
対して騎馬民族の場合、馬を失うことは即アイデンティティの崩壊につながる。
757日本@名無史さん:2005/06/14(火) 13:40:07
騎馬民族征服説をどう見るか?騎馬民族は日本に渡来した。
しかし日本は森林や湿地が多く、平原などで機能する騎馬は、渡来直後においてはそれほど
脅威ではなく、威力を発揮できなかったのではないかとも思う。
理由は侵略される側は地の利を生かし、城塞や弓矢で十分防御できたと考えるから。
だから騎馬民族はその独自の祭祀性を日本の風土に馴染ませた。どうでしょう?
758日本@名無史さん:2005/06/14(火) 14:22:37
>>755
>それは結局、民族としての総体において馬を誰もが必要としていたわけではないからといえる。

その「民族」の上層部に、「騎馬民族」である扶余が入って支配したと言っているのだから、
「民族の総体において」騎馬の習慣がなくても別に困らない。
なおここに言う「騎馬民族」とは「征服民族」の意味だが、扶余は騎馬戦術を持って
いたからその意味に限れば文字どおりの騎馬民族。

>>757
装甲騎兵戦術を持っていた高句麗の領域である満洲東部は、重畳たる山また山。
日本と違って海がないから沖積平野もない。平野は盆地のみ。
さらにその国土は当時深い森林に覆われていた(だから貂が撮れた)。
759日本@名無史さん:2005/06/14(火) 16:28:39
馬が来ただけじゃなく、こんなのも一緒に来た。
http://www.museum.osaka-u.ac.jp/valuable_specimen/sample0003.html
それまで甲冑など持っていなかった畿内人は驚いたろうね。

ピサロは200人にも満たない兵と27頭の馬でインカ帝国を滅ぼした。
ピサロは鉄砲も持ってきたが、むしろ人馬一体の姿を神と間違えて降伏してしまったと言う話だ。

九州の倭人なら半島に渡って馬を見た事があって驚かなかったかもしれないが、田舎の畿内人はビックリしたんじゃないか。
760日本@名無史さん:2005/06/14(火) 16:46:59
貴族階級は馬が好きじゃなかった
外出はもっぱら牛車
馬車は百姓が肥ダルを積んで運ぶのに使った
おそらく戦闘に転用するさいは多少臭い馬だったと思われる
761日本@名無史さん:2005/06/14(火) 16:52:13
騎馬ってのは人が馬にまたがって乗ることをいうのよ。
運搬用の馬や農耕馬は騎馬じゃありませんから、残念
762日本@名無史さん:2005/06/14(火) 16:57:18
「学界の定説」と一概に言うがアンチ江上の学者たちはどのように説いているか。
すこし古いが、「名著」と言われる井上光貞の「日本の歴史・神話から歴史へ」
を見てみよう。

「まず、江上氏が「南鮮の辰王もまた征服者だ」とした点についてである。
(中略)証拠を欠いた推測である。このように、辰王が北方騎馬民族であること
も、のちに弁辰の支配者になったことも立証されないとすると(中略)仮説その
ものが疑わしくなるのである。」

現在、「辰王」であるかどうかは別として、北方民族の扶余と推定される征服
王朝が南鮮に存在したことは考古学上の問題となった。
上記の文章は意味がなくなったのである。
763日本@名無史さん:2005/06/14(火) 17:00:38
また井上は第二の問題点として次のように書く。
「江上氏のさらに致命的なことは、崇神天皇を、海を越えて日本に渡ってきた
征服者と見立てたことである。(中略)「前記古墳の時代に騎馬の風習がおこなわ
れていないという事実と矛盾してしまうのである(小林行夫)」(中略)この
ように、崇神天皇を征服者とみることができないとすると、任那王と天皇の系譜
をつなぐ結節点が失われてしまうのである。」

しかし井上自身はどう思うかというと、「応神天皇その人が海を渡って日本に
侵入したのであったとしたほうが仮説としては合理的だとおもっている。」
すなわち4世紀はじめの崇神か、4世紀末の応神かと言う問題であって、征服
そのものを否定してはいないのである。それならばなにも「致命的」というほど
の問題ではない。

764日本@名無史さん:2005/06/14(火) 17:03:29
要するに井上は江上説の細部を否定することによってアンチ騎馬民族説を装い
ながら、実はその本質を認めているのである。それではなぜ征服説を認めるか。
あるいは征服仮説が必要か。それについて井上は暗示的なことを書いている。

「記紀の記述は、国土統一が朝鮮への出兵を促進したというイメージをわたくし
たちにあたえる。しかし、それをそのままにうけいれると、これを歴史の事実と
見誤る危険性がある。もちろん、歴史の事実としてそのような面もたしかにあった
と思われるが、しかし逆に、東アジアの歴史の急展開が、朝鮮出兵とともに国土
統一を促したという面を忘れてはならないであろう。」

井上の文章は具体性に欠けるが、要するに同時進行である。どうやってそれが
可能であったかを考えると、国内の強力な勢力がその困難な事業をやりとげたか、
あるいは国外の勢力が侵入して連合王国を築いたかのいずれかである。これは
後者のほうが考えやすい。なぜなら井上はまた「このころ(4世紀の中葉)に、
大和政権の力が日本各地の族長たちを、どの範囲まで組織していたか疑わしい。」
と書くからである。

井上はここでも国内勢力発展説のような形をとりながらも、前記の応神侵入説
を考え合わせれば、征服説を念頭に置いて書いていることが推察されるのである。
765日本@名無史さん:2005/06/14(火) 18:00:29
>>759「人馬一体の姿を神と間違えて降伏してしまったと言う話だ」
嘘つくな
遠路ハルバルやってきた風変わりな異人どもに友好的に接したのインカ滅亡の原因だ
下賎な身分出身のピサロどもは確かに少数ではあったが、王のトゥパク・アマルは少数の配下のみ
武器も持たずして対峙したところを、不意打ちを食らわし一斉射撃、王のみを捕え勝負が決まったのだ。
王は操り人形にされて、用が済むとry
766日本@名無史さん:2005/06/14(火) 19:21:31
>>765
コルテスのタバスコの戦いなら当たっている。
13丁の鉄砲は10000人のアステカ軍の突撃を防ぎきれなかったが、10騎の
騎兵の突撃でアステカ軍は壊乱した。
767日本@名無史さん:2005/06/14(火) 20:09:57
    
    だ   か   ら   

   嘘をつくなと言っとるだろ

     お前は朝鮮人か?
768日本@名無史さん:2005/06/14(火) 20:33:18
それに10000ではなく30000以上
その気になれば一捻りだったはず。
不意打ちを食らわして王を掻っ攫った、知略だよ下賎の
大軍勢に向かって玉砕覚悟の突撃をするほど奴らも馬鹿でない。
769日本@名無史さん:2005/06/14(火) 20:48:47
勘違いしてたよく見たらアステカだった↑は無かったことにしてネ
770白馬青牛:2005/06/15(水) 00:57:58
>>760
貴族階級と馬のかかわりについては、608や628で書いたが、
少なくとも鎌倉武士よりは、うまく乗馬出来たであろう。

百姓が馬車を使ったというのは、ようわからんので、いつの時代か、
日本のどこの地域かを詳しく書いていただきたい。馬車というのは、
漢民族的で、モンゴルや高句麗の牛車文化ではないので。
771日本@名無史さん:2005/06/15(水) 06:56:53
高句麗壁画に描かれた牛車は日本の牛車と全く変らん。
772日本@名無史さん:2005/06/15(水) 08:48:52
渤海関係の本を読んだら、渤海の最初の国名は「振」または「震」だったと
書いてあったので驚いた。
ちゃんと「辰」の字が入っている。
中国にある、百済最後の王族の墓碑銘に「辰王」の文字があったという話が
スレにあったが、「辰」は扶余の表象かも知れない。

「辰」は時間では朝を意味し、「晨」(日/辰)に通ずる。
ここに「日」が入っている。ひょっとすると「日本」は「扶余の本家筋」と
言う意味ではないか。
金官の扶余は最後に満洲の本拠地を出てまっすぐに南鮮に来たのだから、
百済、高句麗よりも実は本家筋なのだ。
773日本@名無史さん:2005/06/15(水) 09:34:55
地球空洞説や動物磁気に匹敵する説だと思うよ。
774日本@名無史さん:2005/06/15(水) 09:47:40
騎馬民族といえば当然馬文化だろう
日本の場合、馬や牛に関わる文化ってそれほど濃厚じゃないね
十二支ぐらいじゃないの
昔話にしても狐や狸が方がよっぽど多い
むしろ騎馬民族はヨーロッパのほうに行ったんじゃないの
775がいやまん:2005/06/15(水) 10:11:03
渤海を建国した高句麗、靺鞨(ツングース)に辰韓出身のものがいたということも
考えられるが、後世の渤海航路によって敦賀に着いたのではないか、これは伊都国
等に寄港した形跡がないことからだけど、と、見られるツヌガアラシトが新羅(辰国を
韓語でよむとこうなる)の王子という、この場合の辰国は、同時代に、吉林・沿海州・
カンギョンプクドあたりにそうした国があったのかもしれない。漏れは非常に興味のある
問題と考える。
776がいやまん:2005/06/15(水) 10:55:54
日韓の神話で辰(竜)は海のシンボル、渤海はその海の原意を斟酌し中国風に
海洋に勃興というような意味を付与したのではあるまいか。満州唯一の沿海国という
意味合いで命名したとすれば順当なところかな。さて、日本では凡海郷とは若狭湾
沿岸であり、竜宮の伝説のあるのも一脈通じるところがある。つまり、沿海地方
ってところだな。
777日本@名無史さん:2005/06/15(水) 11:25:19
馬はいきなり海を越えて渡ってくることは出来ない
少なくともまとまった数の馬を海上輸送するには相当な準備がいる
船はもとより航海や操船に慣れた海人の協力は不可欠だ
当然闇雲に馬を送り出すわけではなく、渡航先の情勢も掌握した上で
侵攻できる体制もいるだろう
騎馬民族が大挙して侵入するとするならここらの段階の手順を充分に
説明しなくてはならない
そこらの手炉集団でも前準備ぐらいはするだろうが
778日本@名無史さん:2005/06/15(水) 11:34:54
>>777
騎馬民族はうそ臭いけど
確かインカだかどっかはスペイン人のわずか数頭の
馬にびびって敗退したんじゃなかった?
だからそんなに数連れてこなくても征服できた
可能性はあると思う。
779日本@名無史さん:2005/06/15(水) 11:46:05
インカは対外的に無菌状態の無防備お人よし帝国
しかも白人を神聖化、スペイン人を神の使者と錯覚しまくり
インカ人も神を相手にまともな戦いはできんだろう

イノシシや熊と戦う日本原人には数頭の馬なら目新しい食い物にしか見えんよ
780日本@名無史さん:2005/06/15(水) 12:49:49
天孫族も「我々は神の使いだ」ぐらいは言ったんじゃねえの?
781日本@名無史さん:2005/06/15(水) 13:08:31
>>779イノシシや熊と戦う日本原人って・・・ 

倭人は狩猟生活を4世紀あたりまでつづけていたのか?

それとも馬を持ち込んだ流入者達は、縄文人のテリトリーに入ったわけか?

もともと在来馬ではない野生馬がいた可能性は大なのだが?

その原人が目新しいと感じたのは、恐らく馬を道具にしていたことだろ?
782日本@名無史さん:2005/06/15(水) 13:14:52
>>780
別に天孫でなくともヒコだのミコだの神として全国津々浦々色んな神社で
奉られてるやん
783日本@名無史さん:2005/06/15(水) 13:17:05
河童も奉っているところも確かあったような、あれって水神だろ?
784日本@名無史さん:2005/06/15(水) 13:23:17
ウチのご先祖サンは神巧皇后朝鮮征伐の折香椎の皇居に轡を納め
皇后より姓を頂いたと誉田八幡宮の縁起書に書いてあるぞ。
785日本@名無史さん:2005/06/15(水) 13:26:38
>>783
俺ん家の近くには性器の神様がいるが?
786がいやまん:2005/06/15(水) 13:28:07
古代中国語の倭には漁労民族といった普通名詞の意味はなかったのかな。
787日本@名無史さん:2005/06/15(水) 13:33:15
継体帝の古墳とおぼしきところから騎馬風遺物が出てくるのはなぜだ?
788日本@名無史さん:2005/06/15(水) 13:35:18
>>787
物珍しく便利な馬を重宝がった?違う?
789日本@名無史さん:2005/06/15(水) 13:35:26
日本の為、みなさんのご協力をお願いいたします。
http://bbs.enjoykorea.naver.co.jp/jaction/read.php?id=enjoyjapan_16&nid=1440591&work=list&st=&sw=&cp=1
790日本@名無史さん:2005/06/15(水) 13:47:31
馬を持ち込んだのは、半島人。疑いようの無い事実。
もともと、列島に野生馬なんていない。
791日本@名無史さん:2005/06/15(水) 14:06:04
>>782
死後神扱いされた香具師の出自はいろいろあるからね。
792日本@名無史さん:2005/06/15(水) 14:17:54
縄文・弥生時代の馬の骨が、その時代の遺跡から発掘されているのに?
つまり列島に野生馬はいなかったと断定するような発言を控えればいいんだよ
真相は謎だよ、何かにとり憑かれたように、いない!と断定するから×
いたかもしれないが、いないかもしれない、が○
793日本@名無史さん:2005/06/15(水) 14:28:31
渤海の武芸王の国書にある、「高麗の旧居に復し、扶余の遺俗を有す」
というのは「お互いに扶余じゃないですか」という意味を込めた言葉だ。
相手も扶余でなければ言う意味がない。

また天皇を称えた後の「奕葉光を重ね本枝百世なり」は「本家も分家も
代を重ねて栄え」の意味で、その次の(分家たる)武芸王の自己宣伝を
引き出す役目の言葉だ。
本家とは天皇家に他ならない。
794日本@名無史さん:2005/06/15(水) 14:28:32
今の在来馬は渡来人が持ち込んだものだろう。
795日本@名無史さん:2005/06/15(水) 14:38:01
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku209.htm
5世紀以降、東国の各地には、多数の乗馬用の馬がいた。

* 従来、豪華な装飾を施したような特別な馬具が、研究の対象となっていた。 6世紀の実用的馬具
を研究対象として調査すると、静岡、長野、山梨、群馬などの東国から、圧倒的な数の馬具が出土して
いることが判明した。
* 高崎周辺地域には、積石塚古墳のような東アジアの大陸的な墓制が集中し、韓式形土器がたくさ
ん出土する。5世紀初頭のこのような遺跡から、鏡板つきの馬具が出土している。朝鮮半島から、馬の
飼育についての技術者集団が、早い時期に東国に来ていたのではないか。
796日本@名無史さん:2005/06/15(水) 14:46:09
>>781
4世紀?まだ痴呆は狩猟まっさかりでつ
山間部では戦前まで先祖代代狩猟活動は続いていた
いまでも熊でもイノシシでも出てきたら撃ち殺して食べる
100キロ近いイノシシも山刀1丁で解体する
イノシシは食い物屋に十数万で卸す
797日本@名無史さん:2005/06/15(水) 14:54:27
態々ループしなくっても
それって下の縄文のテリトリーで説明つくじゃん
798日本@名無史さん:2005/06/15(水) 15:04:38
だいたいやねー
遺跡から馬の骨が出てきたからって、即騎馬民族と結びつけることはない
戦闘騎馬用の馬なのか、備蓄食料としての馬なのかの検討作業が必要だろう
799がいやまん:2005/06/15(水) 16:03:27
>>793
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/gaikou.html
『赤い狐と緑の狸』♪♪♪
戦前も満蒙研究が盛んであったようで。現在は各国中東によく似た民族
問題を抱えているよですが、それはそうとして、その通りだったんだろうなー。
800日本@名無史さん:2005/06/15(水) 17:15:43
>>786
後漢書烏丸鮮卑列伝に
東方の倭人国を討って、倭人1000余家を得て、これを遼河の支流烏侯秦水の沿岸に移して、網漁をさせた。
[倭人≒汗人]=漁労民族
出自の異なる倭人とおぼしき集団があちこちにいたのか?
どちらにしても北方遼河周辺に倭国の存在は否定できないようだ。
801日本@名無史さん:2005/06/15(水) 18:41:23
>>798
馬が古墳に殉葬されていて備蓄食料はねえだろう。
802日本@名無史さん:2005/06/15(水) 19:56:24
http://www.kurikomanosato.jp/to-siba11-kodai.htm
東国と騎馬文化(坂東武者)
・・・任那が6世紀のはじめに衰弱し、ついに日本の大和王朝と同盟関係にあった百
済に一部を割譲し、さらに新羅にすべてをとられてしまった・・・。くだって7世紀の後
半、朝鮮半島の情勢変化とともに百済のの国運があぶなくなった。この「朝鮮半島の
情勢変化」というのが、武蔵の国にひびくのである。・・・

滅亡した百済人は、当然ながらさかんに倭に流入した。どれほど多くきたかはよくわ
からないが、記録でわかっているのは、白村江の敗戦の翌々年、
「百済の百姓男女四百余人を以って、近江の国神前(崎)郡に居く」
とある。次いでその翌年、
「百済の男女二千余人を以って、東国に居く」
とある。二千という数字は大きい。生存条件さえよければ100年で20万人に達する
こともできるであろう。

「東国に居く」
というこの東国は、かならずしも関東ではない。古くは美濃(岐阜県)あたりから東が
アズマだが、大和政権の拡大とともにアズマ地帯は東へ東へとゆき、おそらくこの天
智帝のころは遠江(静岡県)から関東にかけてのブロックを指すのだろう。・・・
803日本@名無史さん:2005/06/15(水) 19:59:19
http://www.kurikomanosato.jp/to-siba11-kodai.htm
このころの大和から西日本一帯は、瀬戸内海があるため船には長じていた(白村江
の海戦で敗れたものの)。しかし馬にはきわめて不熟練であり、第一馬そのものがあ
まりいなかった。

そういう日本列島にあって、その東の辺陬に突如馬文化が成立するというのは、百
済人二千の入植という事実をはずしては考えられない。
この集団が、日本史上、われわれが誇る、もっとも典型的な日本人集団とされる坂東
武者に変わってゆくことを思うと、東アジアの人間の交流や、文化の発生にかぎりな
いおもしろさを覚える。
804日本@名無史さん:2005/06/15(水) 20:02:43
>>803
>われわれが誇る、もっとも典型的な日本人集団

ここはツッコミどころ。誇ってるのは関東人だけ。典型的日本人(笑
805がいやまん:2005/06/15(水) 20:51:26
>>793 >>800
高句麗領内に倭人が潜在していた。その原因は倭面土国帥升の時代に洛陽に
向った頃の倭国と洛陽を結ぶ中継点として高句麗領内に金海のような倭面土国
海外領土が置かれていた。この檀石槐の攻撃を受けて多くの倭人の日本列島への
移住が始まった。こんなシナリオを考えてみたい。その場所は後の渤海の首府
の近辺を想定したい。
806白馬青牛:2005/06/15(水) 22:15:07
>>802>>803
鎌倉武士が、騎馬に拙劣なのは何度も書いた。あなたの根拠とする
ホラ吹き司馬氏は、東日本的共産主義的在地領主論者であろう。
東日本の騎馬文化に、信濃に積石塚を残した高句麗人等日本海ルートが、
あったことは見逃せんが、高句麗や西日本のように牛車や牛に犂をつける
文化が欠落しておる。
靺鞨は、騎馬の習俗はあったが、牛が無いので車は歩いて推す。
更に東の挹婁「船に乗って、寇盗する」黒水靺鞨「歩兵戦を善くし」等、
日本海側は(南下して挹婁に寇盗された朝鮮半島の諸民族まで含み)
概ね漁労民であり、東へ行くほど騎馬要素は薄くなる。
しかも弥生期から馬の骨の出土が多い東日本では、北方ユーラシアと違う、
馬に荷をつける文化つまり独自の文化があったので、渡来系が入っても
現地人の文化を継承したのかとも思う。

西日本の方は、馬飼い渡来人の伝承から、黄海、渤海、遼河側の西方の
騎馬習俗が入ったと思える。もちろん黄海側でも水軍的要素があるのは、
799で「がいやまん」さんが、資料を提示したように山東を襲った
渤海水軍の例もあり、いうまでもないが。
807日本@名無史さん:2005/06/15(水) 23:06:58
騎馬民族説なんかより、皇室ユダヤ人起源説の方がよほど可能性が高いと思うけどな。

古代日本にイスラエル人!?
http://www.geocities.com/Heartland/Lane/7662/nihon/nihon00.htm

ユダヤ10部族について
http://minzocu.denpark.net/995512067.html#R148
808日本@名無史さん:2005/06/15(水) 23:12:58
>>803
>そういう日本列島にあって、その東の辺陬に突如馬文化が成立するというのは、百
>済人二千の入植という事実をはずしては考えられない。

時代が全く違う。白村江で敗れて百済人が入ってくるのは7世紀後半、
長野県や群馬県に大規模馬牧場が出現するのは5世紀だ。
榛名山の大噴火で急速に埋まったため馬の蹄跡が保存された馬牧場遺跡がある。

http://archaeoring.ld.infoseek.co.jp/orbit/explorer/kouchi/komochi.htm
など、資料は多いので参照されたし。

809日本@名無史さん:2005/06/15(水) 23:25:21
>>808
↓これのUか。>>795 にも書いてあるようだが。

http://www.asukanet.gr.jp/tobira/toraijin/toraijin.htm
渡来時期を4つに区分すると・・・
  T 紀元前2〜3世紀 弥生時代に日本に定住した。
  U 5世紀前後  倭の五王が治めてた時代で,朝鮮半島からの渡来人が多い。
  V 5世紀後半〜6世紀  今来漢人(いまきのあやひと)が最新技術をもたらした。
  W 7世紀  百済・高句麗などから亡命してきた。
810日本@名無史さん:2005/06/15(水) 23:58:54
古代には天皇の呼称は「大王(おおきみ)」だった。
それが「天皇」となった背景は北燕国の王が「天王」という呼び名だった事と関係あるのでは?
また「すめら命」という呼び名はシュメール王国から来ているか、仏教の聖山「シュメル山」来たものか、いずれにしろ日本語では無く外来語由来であろう。
国の王の職位名が外国語と言う事は日本人ではなかった可能性が強いのでは?
811日本@名無史さん:2005/06/16(木) 00:00:12
現在の茨城〜栃木ラインまで大和朝廷は領土として確保していたからね。
その時点で騎馬文化があった=直接、朝鮮→関東という文化伝播ではない、ということ。
>>807
ファンタジーとしては面白いけどね。
かつてはユダ公の仲間であっても、今の日本人も公家も、おそらくは天皇家もどっかの火山の神なんて信仰していないし。
812日本@名無史さん:2005/06/16(木) 00:17:32
>>810 スメラギは飛鳥の昔にはスメラキとかスメロキと言った。それ以前のことは誰も知らないわけだが一応論拠を聞いておきたい。
813日本@名無史さん:2005/06/16(木) 00:27:31
>>810
天皇とは読んで字の如く「天王星=北極星」のこと。
つまり中国皇帝の占星術思想をそのまま輸入したもの。
全ての星が北極星を中心に回ることから世界の中心=皇帝という中華思想が
日本の天皇にあたる。
814日本@名無史さん:2005/06/16(木) 01:45:14
中国では本来皇も帝も天の支配者、神格化された王。
すめらみことの「みこと」は弥生由来の尊称だとして
すめらの語源は気になるね。
815日本@名無史さん:2005/06/16(木) 01:53:46
スレの流れにどんぶらこどんぶらこ・・・ん?
すめら・・・シュメール・・?
・・・至福なひと時を邪魔しおって 謝罪とバ(ry
816日本@名無史さん:2005/06/16(木) 07:09:03
>>808
同じく軽石の下から発掘された積石塚は高句麗(or新羅)由来だし、高句麗・新羅は騎馬系民族だった。
魏志東夷伝にも高句麗、辰韓人は馬に乗ると書いている。
一方、3世紀の百済(馬韓)人は馬に乗らない。

馬を持ち込んだのは百済じゃなさそうだね。
北西九州には馬の痕跡少ないし。
817日本@名無史さん:2005/06/16(木) 07:57:56
半島に騎馬民族の痕跡があるということは
朝鮮半島に国という概念がなかったわけだな。
818日本@名無史さん:2005/06/16(木) 09:31:04
>>801
>馬が古墳に殉葬されていて備蓄食料はねえだろう。

馬が古墳に殉葬されているというのはかえっておかしかろう
死後の世界での供物か、穀物や木の実と同様にあの世での食物用かもしれぬ
馬肉、馬刺しを食ったことがないのか

819がいやまん:2005/06/16(木) 10:14:41
>>805
しかし、鮮卑の行動力は相当ありそうなので楽浪周辺に足を伸ばし、倭面土国遺民も
その辺の百済遺跡辺りにいたものが拉致されたとしてみるのも面白いのではないか。
辰韓の秦族は楽浪に残された同族を我らの残留者として「阿残」と読んでいる。讃岐
から阿波鳴門には大麻比古が入るが鳴門萩原1号墳、ホケノ山古墳は楽浪とドウハン
の鏡を持ち、纒向は兵主信仰(秦族)が建設する。この渡来の引き金となったのが
檀石槐であるとするのは面白いと思う。
820日本@名無史さん:2005/06/16(木) 11:09:04
>>818
過去〜現在まで日本で食用として動物が副葬されていた事は無い。
食料としてなら刻んだ状態で副葬するだろうな。
一頭丸ごと生で食える筈がないからな。
縄文人が犬を抱いて埋められていた事はあるがな。
縄文人は犬なんか食わなかった。大事にしていたんだぞ。
食料にしたものは骨が貝塚からバラバラの状態で出るからすぐにわかる。
馬を決して食わなかったとは言わないが、副葬殉葬されたものは
大切にしていた物なんだよ。
821日本@名無史さん:2005/06/16(木) 11:43:51
日本の文化において、「馬」を「馬」という形で殉葬する必要がないな、食料なら。
822日本@名無史さん:2005/06/16(木) 14:54:36
騎馬民族は総じて馬を副葬するのか
始皇帝の兵馬傭などからみるとまさに彼らが騎馬民族だろう
823日本@名無史さん:2005/06/16(木) 15:06:35
>>814
サンスクリット語のスメール・ラジャ(須弥山世界の王)が語源ってな説がある。
824日本@名無史さん:2005/06/16(木) 17:38:33
>>822
彼は世界の王だったわけだからなあ。
騎兵も兵馬俑に入っているが、同時に秦軍の主力の軽歩兵も、斉の重歩兵も
韓の弓兵も中に入ってるよ。
同じように北方・西方騎馬民族を支配していたとすれば、彼が騎馬民族である必要はない。
825日本@名無史さん:2005/06/16(木) 17:53:05
>>824
>騎馬民族を支配していたとすれば、彼が騎馬民族である必要はない。

なるほど
侵略征服者が騎馬民族を支配していたとすれば、
なにもここで騎馬民族が主役になる必要はないよね

826日本@名無史さん:2005/06/17(金) 00:15:26
新羅の元の辰韓自体が中国の秦の移民なんだから
騎馬民族ってのはおかしいだろ。農耕民族が騎馬を使っていたというだけだ。

ほら。ここで騎馬民族の定義がまたおかしくなっただろ?
騎馬してたらなんでも騎馬民族認定するなよ。在日認定かよ。
827日本@名無史さん:2005/06/17(金) 00:44:36
騎馬民族=天幕を張り、騎馬隊によって長大な補給路を確保しつつ外征を行う民族集団
828日本@名無史さん:2005/06/17(金) 00:54:20
>>822
始皇帝がそもそも漢民族であるとの証拠がないだろ。
もともと騎馬民族の出じゃないの?
829日本@名無史さん:2005/06/17(金) 03:13:42
本来はそうかもしれないが、
既に始皇帝の時代には中国に同化済み。もはや騎馬を生業とするとはいえないでしょ。
大体彼の先祖は殷末周初から中国にいるし。
830白馬青牛:2005/06/17(金) 03:14:55
>>816
逆に北史や通典百済伝には、「人々は騎射を重んじる」とあり、
通典辰韓伝には、「牛馬にも乗る」とあるが「歩兵戦をよくやる」とも
書かれておる。
>>828
秦人は、騎馬民族とはいえんと思うが、元来甘粛省東部の
チベット・ビルマ語系説もある遊牧民出身らしい。
もちろん、のちの陝西省に国を作った秦人は、農耕民、遊牧民等の
諸民族集合体であろう。
831がいやまん:2005/06/17(金) 06:22:51
http://recon.hp.infoseek.co.jp/cgi-bin/img-box/img20040907115249.jpg
↑これをクリック拡大するとチベット・日本・北米・中米でつながってるね。
832日本@名無史さん:2005/06/17(金) 09:01:22
そもそも身近に馬が居たら、騎馬民族に類似した素振りを
するんじゃないの
あえて騎馬民族を特殊化するのがおかしいよ
833日本@名無史さん:2005/06/17(金) 09:19:45
>>816
>北西九州には馬の痕跡少ないし。

奥野正男などを読まれたし。発掘の成果は、騎馬文化がまず5世紀初頭に北九州に
現れ、次いで吉備、河内と、時間を追って西漸したことを示している。
5世紀後半の長野・群馬の大規模馬牧場は騎馬化の最終段階で現れるのだ。

>>828
>始皇帝がそもそも漢民族であるとの証拠がないだろ。
>もともと騎馬民族の出じゃないの?

その通り! 秦は西から来て陜西省に建国した。
中国の歴史は騎馬民族が土着の農耕民族を支配しては逆に同化されることの
繰り返しなのだ。

>>826
>ほら。ここで騎馬民族の定義がまたおかしくなっただろ?
>騎馬してたらなんでも騎馬民族認定するなよ。在日認定かよ。

ここは江上説のスレなんだろ?
江上の「騎馬民族」の定義は前にも書いたとおり、農耕民族を支配して生きる
「征服民族」のことだ。実際に騎馬するかどうかは関係ない。
扶余が倭人の持たない騎馬戦術を持っていたことは重要だけどね。



834がいやまん:2005/06/17(金) 09:22:43
時代的に見てトナカイ、鹿の家畜化の方が馬の家畜化よりは古いかもね。専門家の
ご意見キボンヌ。牛馬が農耕に利用され始めると後戻りは利かなかったであろうが、
牛馬を持てるファーマー階級というのは日本ではいまだに出現していないね。北海道
は例外だが。私有地の単位が小さく人力で採算が取れたんだろうな。しかし、農協で
借金して国民皆でトラクタ・マイカー・パチンコ、そして破滅をたどる赤字国債、財政健全
を唱える政治家は葬られ、何回選挙をやっても亡国の傾斜は止まらない。
835日本@名無史さん:2005/06/17(金) 10:52:06
農耕馬をいきなり戦闘モードに切り替えるのって大変そう
それに日本は湿地帯が多いから馬が泥濘に足を取られると致命的
弓矢の的にされる
山岳地帯の戦闘は不利だし高所からの狙い撃ちには無防備になる
馬防柵で対峙されたらやられそう

まあ遠征作戦の移動には活用出来たろうね
836日本@名無史さん:2005/06/17(金) 11:31:54
竜騎兵的戦術といおうか、移動時騎馬、戦闘時下馬というやり方は
山岳の多い日本では役に立つし。
837日本@名無史さん:2005/06/17(金) 12:12:27
>>833
その定義事態が矛盾してる。

>江上の「騎馬民族」の定義は前にも書いたとおり、農耕民族を支配して生きる
>「征服民族」のことだ。実際に騎馬するかどうかは関係ない。

農耕民族を支配する民族は(騎馬していなくても)すべて騎馬民族になってしまう。
農耕民族が農耕民族を支配しても騎馬民族認定されてしまう。(騎馬してるかは関係ないのだからなおさら)

だからおかしいのだ。

定義づけからやり直せ!
838日本@名無史さん:2005/06/17(金) 12:52:30
>>837
>農耕民族を支配する民族は(騎馬していなくても)すべて騎馬民族になってしまう。

それでいいのだ。だから船で侵略するノルマンも騎馬民族に入れられるのだ。
記号なのだから文句を言っても始まらない。

>農耕民族が農耕民族を支配しても騎馬民族認定されてしまう。

もちろん、江上が言う「騎馬民族」すなわち「征服民族」の属性はいろいろある。
その一つは土地に縛られないことだ。
ノルマンは北欧の生地を捨てて出先に建国した。
ゲルマンはボルガ流域の生地を捨てて西欧に建国した。
満洲族は満洲の生地を捨てたも同然で全員北京に移住した。
扶余は・・・
839日本@名無史さん:2005/06/17(金) 13:26:46
騎馬民族説なんて、まだ考古学の世界では議論のネタになるんですか? それと、征服や
大量移住という考え方が何故「騎馬民族のまま」なのか ちょっと理解できません
が・・・
840日本@名無史さん:2005/06/17(金) 16:21:13
台湾の李総統は客家だから台湾原住民を支配した客家は騎馬民族
国民党は騎馬民族

日韓合併時の日本は騎馬民族

アメリカ人は騎馬民族

ローマ人は騎馬民族

アッシリアは騎馬民族

ユダヤ人も騎馬民族
841日本@名無史さん:2005/06/17(金) 16:51:33
今後は
征服したら騎馬民族
征服されたら農耕民族
というように簡便明確に分類しよう
842日本@名無史さん:2005/06/17(金) 17:32:39
>>838
まだ理解が足りないようなのでよく説明してあげよう。
痩せた土地で農耕して生きているA人があったとしよう。
あるとき、A人はつくづく百姓にいやけがさして、野良仕事はそこそこにして、
軍事訓練に血道をあげはじめた。そして国民皆兵的な軍事組織を作った。

そしてとうとう、あるとき、A民族は大挙して故郷を離れ、B国に遠征して
肥えた土地で農耕しているB人を支配した。そしてA国王はB国王に納まり、
A人たちはすべてB国の支配階級に納まった。そしてB人の納める収穫を食べて
暮らし、自分たちは軍事教練と政治だけを仕事とした。

以上の経過は農耕民族が農耕民族を支配した、とも言えるが、実は農耕民族
A人が騎馬民族に宗旨替えしたのである。そしてこの「騎馬民族」は江上の定義に
よる言葉だから、A人が征服に騎馬を使おうが使うまいが同じである。

以上からわかるように、私は必ずしも農耕民族や騎馬民族の民族性を固定的に
見ない。現に征服では他にひけをとらない「騎馬民族」のノルマンの末裔は、
いまでは世界でもおとなしい部類に入る民族である。

この点で言えば、江上の騎馬民族説の発想は日本人と中国人の民族性の違い、
つまり日本人の民族性が「騎馬民族的」であることだそうだが、私はこのような
固定的な「民族性」の考え方には批判的である。

しかしある時点で歴史を輪切りにすれば、江上の言う騎馬民族的な民族と、
農耕民族とがいることは確かなのである。
それは、動物界に草食動物と肉食動物とがいるのと同じだ。そして熊みたいな
雑食もいるよ、と言ったところで、この分け方は揺るがないのである。
843日本@名無史さん:2005/06/17(金) 17:38:22
ある意味、保守だなw
844日本@名無史さん:2005/06/17(金) 17:42:00
簡単ジャン
侵略せずに定住してたらおとなしく農耕に落ち着かざるを得ない
侵略する側は侵攻のために当然移動する
移動するには輸送手段として牛馬も使うし、騎馬もする
侵攻移動するというだけでも騎馬民族の形態にならざるを得ないわけだ
845日本@名無史さん:2005/06/17(金) 17:50:15
>>833
甘木や福岡は北西九州で無い事を確認しよう。
846日本@名無史さん:2005/06/17(金) 19:31:56
> 痩せた土地で農耕して生きているA人があったとしよう。
> あるとき、A人はつくづく百姓にいやけがさして、野良仕事はそこそこにして、
そこそこでやってけるなら、「痩せた土地」とは言えない気がする。
847白馬青牛:2005/06/17(金) 23:57:48
>>834
トナカイの家畜化については、人間によって飼育された最初の動物の
一つという見解と、いまの品種がすべて単一であるとの理由で最も
新しく家畜化されたとする反対説に分れておる。
騎乗文化については、アルタイ・サヤン地区、シベリア南部において、
馬に乗る騎乗文化より以前にトナカイ騎乗文化があったとの説もある。

遊牧民と農耕民の関係を、中央アジアや西アジアの国家制度で例えると、
支配する遊牧氏族が牧夫。家畜を先導するイヌ等が、他氏族の遊牧民か
軍人奴隷で、農民は家畜の群れとなる。
権力と結びついておらん遊牧集団の場合は、
「わしらは、支配外で、権力の手先の外におる。」という誇りをもつ。
と、いったところか。
848日本@名無史さん:2005/06/18(土) 00:25:17
>>833
>江上の「騎馬民族」の定義は前にも書いたとおり、農耕民族を支配して生きる「征服民族」のことだ。

はて?ほんと?
聞いた話だと、古墳の副葬品が馬具などにかわることから【騎馬】民族って話が出てきたはずなんだけど。
849日本@名無史さん:2005/06/18(土) 00:28:50
対談本「騎馬民族は来た!来ない?」で「私なんて毎年やられてるから」と
本人が言ってたけど、江上は右翼の嫌がらせにあってたんだってね。
それで学説が間違ってたなんて、アホみたいだな。本人も晩年にはさすがに気付いてただろ。
江上は金日成賛美発言みたいなのもしてるんだよな。
「金日成閣下と人民が作った手作りの国である」みたいな感じの。
850日本@名無史さん:2005/06/18(土) 01:13:23
急激に馬具の副葬が増えることの説明はついたの
851日本@名無史さん:2005/06/18(土) 01:14:07
>>847
まあ所詮は騎馬民族説も廃れた一つの説なんだがね

ドンドン空想を膨らまし、フワフワと風船のように
浮いた存在に成り下がっているということに気づけば?



852日本@名無史さん:2005/06/18(土) 01:52:37
地続きでもないのに騎馬民族が何しに来るよ。w
853日本@名無史さん:2005/06/18(土) 03:22:38
>>850
急に仏教が普及するのと同じ
急に鉄砲が普及するのと同じ
急に工場が建つのと同じ

中国の趙の王が匈奴に勝つために習俗を中華風から匈奴風に改めたように
ローマ人が敵であるサムニウム族の投槍を取り入れたのと同じ

逆に聞くけど、騎馬を取り入れなかった国があるかよ?
854日本@名無史さん:2005/06/18(土) 11:35:05
まあ確かに。既に確立された技術体系を取り入れるだけなら
下手したら数年単位の行動で十分。
855日本@名無史さん:2005/06/18(土) 13:30:08
>>848
>はて?ほんと?

うそだというなら、船で侵略するノルマン人がなぜ「騎馬民族」なのか、説明せよ。
(江上はノルマン人も騎馬民族に入れている)

>聞いた話だと、古墳の副葬品が馬具などにかわることから【騎馬】民族って話が出て
>きたはずなんだけど。

日本を征服した「征服民族」とされる扶余が騎馬を持たなかったなどと言っていない。
3世紀末〜4世紀前半の時点で、扶余が装甲騎兵を含む騎馬戦術を持ち、倭人が持たなかった
ということがもっとも重要であることはなんども言った。

>>853
>>854
前に書いたが、井上も言っているように、三輪王朝が騎馬化した形跡はない。
しかし任那の服属は4世紀中葉に起こっていなければならないのだ。
これが最大の謎。
856がいやまん:2005/06/18(土) 13:56:44
>>847
アルタイ・サヤン地区、シベリア南部のトナカイって言うのはヘロドトスの
描くスキタイと関係があるが、スキタイは「王族」、「農耕民」、「牧畜民」による住み分けの
始まる頃であろうか。一方、日本には「イセ」、「シマ」というアングラ言葉にも似た
区分がある。漏れは永年この意味が不明だったのだが、最近こういう解釈があること
を知った:「内宮は、『常民』が住まう伊勢と、海民という『非常民』が住まう志摩の境界
上に存在する、云わば結界の如き場所である。」
http://homepage2.nifty.com/toka3aki/diary/diary_history4d.html
漏れはこうした結界のある地域として、伊都国/奴国、伊勢/志摩、和歌山県北部、
徳島県海岸部などがあげられるかと思う。重要なのは奴国の官の「島子」、浦島子
等の概念である。これを『非常民』、物部、を監督する司、渡来民を監督する司と
関連があるのではないかと思う。ヘロドトスにいわすれば物部とは「牧畜民」の末裔
集団というのではなかろうか。
857がいやまん:2005/06/18(土) 14:08:03
鹿島-香取さんじゃーなくって、鹿取-鹿島であるのかもしれない。
858がいやまん:2005/06/18(土) 14:15:50
鹿島流しは東北一円をカバーするのだからアングラ言葉で言えば鹿取神宮の
「島(jurisdiction)」は北日本全体ということになるがね。
859日本@名無史さん:2005/06/18(土) 15:24:06
>>853
前方後円墳も同じ?
860日本@名無史さん:2005/06/18(土) 21:18:54
ところで馬具を着けたまま埋められた馬を食用だなんて言うアホがいるスレはここですか?
861日本@名無史さん:2005/06/18(土) 23:20:56
>>849
>それで学説が間違ってたなんて、アホみたいだな。

間違ってはいない。すくなくとも半分は正しかった。
「扶余が任那を征服し、次いで日本を征服した」という江上のすじがきのうち、
前半は考古学的に立証された。
江上の他に このことを予言した学者がだれかいたか?
862白馬青牛:2005/06/18(土) 23:27:32
>>851
どこが、空想を膨らましておるんか。その箇所を具体的にいえばよい。
浮いた存在云々は、あなたには関係あるまい。じゃあ、あなたは、
浮いた存在に成り下がることを、怖れる小心者なんか。
>>856
スキタイ人は、紀元前八世紀末に他所(中央アジア方面)から来て、
現地人(農耕スキタイ)と同化したとの説もある。
平地農民の『常民』と山人、海人、帰化人等の『非常民』との境界に
ついては詳しくないが、職能においては違いがあったのかと思う。
軍事集団としては、佐伯部等軍人奴隷の要素もあり、専門的軍事集団の
『非常民』と班田農民から徴発された律令軍や防人等『常民』との
違いは、のちの西日本と東日本(東日本人が常民かどうか、あるいは
国衙の問題もあり単純にはいえんが)における社会構成の違いとなった
ともいえる。
863日本@名無史さん:2005/06/18(土) 23:31:34
>>861
フヨが任那征服したって言うけどさ
フヨってなんだよ?
騎馬民族と同じく、あいまいすぎじゃないか?

だって百済も高句麗もフヨだぜ?

あと任那の豪族の墓から「扶余」って文字見つかったの?
864白馬青牛:2005/06/19(日) 00:33:55
>>849
その対談本は、左翼リベラル派の佐原氏が相手であるが、
確かに江上氏は、朝鮮、韓国に点が甘く、中国の江南や東南アジアに
対して辛辣な発言もある。騎馬民族的というところを朝鮮的と発言し、
誤解を招くところもあろう。江上氏によると日本は、適当に大陸と
離れていたところが、朝鮮との差だといわれたのだが。

しかし江上氏は、反唯物史観で、マルクス史観を酷評しておられる。
そして自由主義を遊牧、農牧型(民主制、個人活動自由)共産主義を
農耕型(権威主義専制、個人活動抑制)とされた。
これも遊牧民優秀論者と、批判されるであろうが。
865日本@名無史さん:2005/06/19(日) 11:21:36
>>863
>フヨってなんだよ?
>騎馬民族と同じく、あいまいすぎじゃないか?

ぜんぜんあいまいではない。吉林省北部にあった扶余の國については魏志東夷伝など
に詳しく説明されている。これは西の鮮卑に滅ぼされるが、その前後に任那の扶余
が現れる。

>だって百済も高句麗もフヨだぜ?

百済と高句麗には上記の扶余本国から別れた分派が支配階級として入った。
百済は支配階級と被支配階級の言葉が違った、という話がこのスレでもあった
と思う。

>あと任那の豪族の墓から「扶余」って文字見つかったの?

以前にも書いたが金海大成洞遺跡の王墓(木郭墓)の作り方や副葬品が吉林省
の扶余遺跡と一致する。





866日本@名無史さん:2005/06/19(日) 13:52:45
>>861
後半が間違っていたなら、前半と矛盾するだろ。
その後も倭が任那を拠点にして高句麗と激戦を繰り広げていた事実は
碑文でも明らか。
もし後半が間違いなら、騎馬民族は倭国の駒として任那に迎え入れられた
ということじゃないか?馬とかが必要だから。
実際、大成洞遺跡のその後の発掘調査では、韓国側学者も認めている通り、
日本製土器等が大量に出土し、しかも最重要品のように埋設されてある。
おまけに、当初、九州産の遺物が主体だったのが、畿内産へと移行しており、
畿内産が中心になるのは、江上が、騎馬民族九州上陸の時期と指摘している
時期(これ以外に上陸する時期はない)。
この事実は騎馬民族説を否定するとともに、任那征服の前半段階をも否定している
と思うが。そして、日本国内で九州から畿内への権力移動が行われたことを示唆している。
867日本@名無史さん:2005/06/19(日) 16:23:56
>百済と高句麗には上記の扶余本国から別れた分派が支配階級として入った。

それは王が扶余系だと文字で書いてあるから分かるんだろ。
なぜ倭だけには文字で記さなかったのか考えろよ。
それに同じ扶余ならそれこそそういう文献が残っていていいはずだ。
868日本@名無史さん:2005/06/19(日) 17:24:53
>>866
>もし後半が間違いなら、騎馬民族は倭国の駒として任那に迎え入れられた
>ということじゃないか?馬とかが必要だから。

それも一つの想定されるすじがき。
ただし受け入れられた戦闘集団が王位を簒奪する可能性は大いにある。
ノルマン人のシチリア王国がその例だ。

>実際、大成洞遺跡のその後の発掘調査では、韓国側学者も認めている通り、
>日本製土器等が大量に出土し、しかも最重要品のように埋設されてある。

日本製で出るのは青銅製の槍の石突きのようなものだ。
韓国の学者は倭が鉄を輸入した見返りではないかと言っている。
土器はいわゆるスエ器で、これはその後に日本に普及する。

>江上が、騎馬民族九州上陸の時期と指摘している時期(これ以外に上陸する時期はない)。

とは限らない。井上が崇神は無理だが応神なら納得できると言っているようにね。

>この事実は騎馬民族説を否定するとともに、任那征服の前半段階をも否定していると思うが。

前半を否定するわけにはいかない。事実だから。後半に多くの可能性があるというだけ。
ただし、前半が証明された今、後半も正しいことの蓋然性は以前より高まったと言える。

>>867
文字で残らないことの最もよい例は当の金官の扶余王朝だ。
いわゆる加羅国記には扶余王朝はまったく書いてない。考古学上の事実のみがある。
869日本@名無史さん:2005/06/19(日) 19:58:39
> ただし受け入れられた戦闘集団が王位を簒奪する可能性は大いにある。
で、簒奪できない可能性は?w
870日本@名無史さん:2005/06/19(日) 22:19:29
>>868
>文字で残らないことの最もよい例は当の金官の扶余王朝だ。
>いわゆる加羅国記には扶余王朝はまったく書いてない。考古学上の事実のみがある。

事実じゃないんだよ。扶余じゃないやつが扶余っぽいことしてただけ。
血統は主張しなければ意味が無い。主張して初めて効果がある。
扶余なんて高句麗から百済までの領有権を主張できる有力な証拠を
本当の扶余が使わないはずは無い。
871日本@名無史さん:2005/06/19(日) 23:12:58
>>866
>もし後半が間違いなら、騎馬民族は倭国の駒として任那に迎え入れられた
>ということじゃないか?馬とかが必要だから。

ごめん。「任那に」を見落としていた。倭國に迎え入れた話かと思った。
それならば三輪王朝は3世紀末にすでに半島南部に進出してクヤ韓国を
滅ぼしていたということになるのかな?
でなければクヤ韓国を無視して「迎え入れる」ことはできないからね。

>>870
> 扶余じゃないやつが扶余っぽいことしてただけ。

扶余じゃなければクヤ韓国人自身ということになるが、クヤ韓国人は
3世紀の末に突然、騎馬戦術と鉄製鎧の製造に習熟し、
突然、クヤ韓国の王墓を破壊してその上に扶余式の木郭墓を築き、
突然、それまでやったこともない殉葬を始めた、というわけかな?
872日本@名無史さん:2005/06/20(月) 01:55:51
>>871
>それならば三輪王朝は3世紀末にすでに半島南部に進出してクヤ韓国を
 滅ぼしていたということになるのかな?

魏志倭人伝に「その北岸狗邪韓國」とあるだろ。あの時代から既に倭国領だったのよ。
倭国の大きさ(里単位)、距離の記述からして、狗邪韓國を倭国に含めないと計算が
合わないということは学者も指摘してたな。
873日本@名無史さん:2005/06/20(月) 09:50:58
>>872
>魏志倭人伝に「その北岸狗邪韓國」とあるだろ。あの時代から既に倭国領だったのよ。

残念ながらかんじんの魏志倭人伝が狗邪韓國を「女王国」支配下の諸国に入れていない。
「その北岸狗邪韓國」は「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。」に引き続いて
あるのだから「倭人」の北岸、つまり倭人居住領域の半島側地域、と言っているだけ。
3世紀末に狗邪韓國が邪馬台国または三輪王朝に服属していたと言っている学者が
いれば引用して欲しい。

それに、そんな強力な集団を迎え入れたら倭にとっても任那にとっても危険な存在で
あることには変わりはない。手の届かない海の彼方でちょっとクーデターすれば、
鉄という倭の生命線を手に入れて、倭の首ねっこを押さえられるではないか。

>>869
>で、簒奪できない可能性は?w

「迎え入れ」られて簒奪しなければクヤ韓国王の臣下であるわけだが、大成洞遺跡の
扶余式木郭墓はクヤ韓国の王墓を破壊してその真上に作られている。臣下がこんな
ことをするのか? すでに「簒奪」した証拠ではないのか?
874日本@名無史さん:2005/06/20(月) 16:10:13
>>873
魏志倭人伝によると、
「郡より女王国に至る1万2千里」
「邪馬台国の周囲は5千里」
「郡から狗邪韓国まで7千里」
なのだから、狗邪韓國を倭国領に入れないと計算が合わないだろ。古田武彦氏もそういう
主張をしてたよ。『倭人伝を徹底して読む』古田武彦(朝日文庫)だったかな?
それに、もともと半島南部が倭国領土だという文献もあるし。

韓と倭の接点

韓伝の最後に辰韓・弁辰の二十四国の中に弁辰涜廬(とくろ)国という国があり倭と
界を接している、と記されています。「東西海をもって限りとなし、南は倭と接す」か
ら始まって最後の段で、「弁辰涜廬国、倭と界を接す」となっているので、三韓(馬韓、
辰韓、弁韓=弁辰)とは別のものとして倭があり、その倭と接しているのは弁辰涜廬国
である、という理解になると思います。
一方、倭人伝では行程上最初に出てくる倭地が狗邪韓国です。ということを
素直に読めば弁辰涜廬国と狗邪韓国が界を接しているということになると思います。
http://66.102.7.104/search?q=cache:kGKIrfyuooQJ:www.melma.com/mag/64/m00113764/a00000006.html+%E7%8B%97%E9%82%AA%E9%9F%93%E5%9C%8B%E3%80%80%E5%8F%A4%E7%94%B0%E6%AD%A6%E5%BD%A6&hl=ja&start=15

信長だって、天皇陵(今城塚古墳)をぶっこわして城を作ったりしたしね。
いちおう、朝廷には服していたのに。
875日本@名無史さん:2005/06/20(月) 16:35:26
>>874 訂正

「邪馬台国の周囲は5千里」
    ↓
「邪馬台国のあった島の周囲は5千里ほど」


●倭の地のプロフィール
 このように倭の地を訪問してみたが、陸地の途絶えた大海の中の洲島の上に在る。
 あるいは互いに途絶え、あるいは連なったりしており、その周囲は5千里ほどである。
http://homepage3.nifty.com/kodai/yayoi/KAISEKI/INDEX.htm
876日本@名無史さん:2005/06/20(月) 17:07:07
墓をぶっ壊してその上に新しい墓を作ったってことは
自分の家の墓を新しくしたってことだな。

騎馬民族ならそういう墓は作らない。
埋葬した場所をどこだかわからないようにするのが騎馬民族の風習。

夫餘族だとしたら、先住勢力の怨恨を無駄に買うような
過激なことはしないだろう。少数者なんだし。
877日本@名無史さん:2005/06/20(月) 19:09:23
>夫餘族だとしたら、先住勢力の怨恨を無駄に買うような
過激なことはしないだろう。

高句麗だったらやるね。
878日本@名無史さん:2005/06/20(月) 20:05:48
>>875
「邪馬台国のあった島の周囲は5千里ほど」
じゃあ無い。
「倭の地を参問するに、一巡り五千余里ばかりであろうか?」
だ。

単純に万二千余里から狗邪韓国までの7千余里を引いた残りだ。
つまり、狗邪韓国から先、の海は既に倭の領域と言う事だね。
879日本@名無史さん:2005/06/20(月) 21:34:22
>>878
「一巡り」には対馬・壱岐間とかも含まれているんだから、
水行区間も含めてであり、当然、狗邪韓国・対馬間も含まれる。
だけど、狗邪韓国が日本領でないなら、対馬海峡の距離をすべて計算に
含めるのは不自然だ。
それに、中国の史書では、半島南部を倭国領と認識しているんだから、
南端の狗邪韓国が倭国領でないことなどありえない。
880日本@名無史さん:2005/06/20(月) 23:03:19
>>874
半島南部に「倭」があって他の国と陸続きだったことには別に反対
しているわけではない。
問題はそれが「倭人居住地域」なのか、それとも君の言う「倭国領」
なのか、だ。「倭国領」というのを、倭の本国の政治組織に組み込まれた
領域、という意味に解釈するならば、その政治組織はなんなのか。

魏志倭人伝の言う「女王国」か、畿内の三輪王朝か、はたまた未知の
九州王朝か。そこまで規定しないと議論にならない。
すくなくとも魏志倭人伝が挙げた女王国構成諸国のなかに狗耶韓国
が入っていないことは確かだけどね。

>信長だって、天皇陵(今城塚古墳)をぶっこわして城を作ったりしたしね。
>いちおう、朝廷には服していたのに。

そんな信長の時代よりさらに1000年も前の、朝廷だって祖先意識が
怪しくなっている(*)古墳を例に挙げてもしかたがない。

*現在のように宮内庁が古墳を厳重に管理しているのは明治以後の姿で、
まさに「創造された伝統」なのだ。

扶余が破壊したのは狗耶韓国の先代や先先代の王墓なのだよ。
ほんとうに例えるならば、今上天皇の臣下である小泉首相が、明治天皇の
多摩御稜を破壊してその跡にじぶんの両親の墓を築いたら、やや近いだろう。
扶余はこれに類することが臣下の身分のままでできた、と言いたいのだろうか。

>>876
騎馬民族でも扶余でもないとしたら誰がやったと言いたいのかな。
881日本@名無史さん:2005/06/20(月) 23:06:26
>>880
女王国構成諸国のなかに狗耶韓国が入っていたから「北岸」と書き、
距離まで計算に入れてるんだろ。
882日本@名無史さん:2005/06/21(火) 02:20:47
>>880
高句麗

半島は高句麗VS倭の戦場だから
倭の属国である任那を見せしめにしたのだろう。
その反動で倭が盛り返したとき、前方後円墳が半島に出てきた。

そういうことでは?
883日本@名無史さん:2005/06/21(火) 05:18:54
>>880
魏志倭人伝は国名の列挙で女王国の範囲を示している。そのなかに狗耶韓国と
書いてあるのか?
また、魏志倭人伝の言う「倭」と「女王国」とは違う。
だから女王国に含まれない倭についても言及しているのだ。
「倭の北岸」は直ちに「女王国の北岸」ではない。

>>882
3世紀末の時点で高句麗はまだ南下していなかった。
また、前にも書いたが高句麗の王墓はすでに積み石塚だった。
3世紀末に金官に築かれたのは満洲の扶余本国と同じ木郭墓だ。

百歩譲って高句麗だったとしても、高句麗もまた扶余であり、騎馬戦術を
持っていた。
騎馬戦術を有する扶余系の王朝が任那に生じた、ということが日本史の
すじがきに投げかける問題は変わらない。
884876:2005/06/21(火) 05:46:05
>>877-883
とりあえず。3世紀の段階で高句麗が直接に任那を侵略なんてありえないよ。
金官の墓は金官の干岐が自分で改修しただけだろう。
885日本@名無史さん:2005/06/21(火) 09:35:26
半島の政権は全て高句麗が出自だと思う。
魏が高句麗を追討した時半島全体に高句麗人が広がったに違いない。
百済も扶余出を自称しているが高句麗と異母兄弟であるといっている。
高句麗が魏に討たれて逃げ出した高句麗の王族の一部が百済の建国に関わった可能性は十分にある。
新羅や任那にも高句麗人が行った可能性は十分にある。
魏や晋の力が強かった時期は身を伏せていた高句麗からの亡命人が、三世紀末、晋の武帝の死後内乱が起きて統制が利かなくなった事に乗じて政権を奪取した。
ありうる話だと思うが。
886日本@名無史さん:2005/06/21(火) 13:42:34
>884
>>金官の墓は金官の干岐が自分で改修しただけだろう。

何回も書くが、なんでその「金官の干岐」は狗耶韓国の王墓を改修するのに
はるか離れた吉林省北部の扶余本国の形式の木郭墓を築き、いままで乗ったことも
ない馬関係の副葬品を埋め、いままでやったこともない殉葬を始めなければならないのか?
そこがわからない。

>>885
高句麗はすでに王墓の形式が違う。いったん積み石塚に進んだものが原始的な塚のない
木郭墓に先祖帰りするというのは歴史上あまり見られない現象だと思うが。
887日本@名無史さん:2005/06/21(火) 16:45:13
>>860
>ところで馬具を着けたまま埋められた馬を食用だなんて言うアホがいるスレはここですか?

副葬の馬が騎馬専用という証明はされたんか
騎馬も廃棄されたら終いには競馬用馬とて食用にされるだろうが
888日本@名無史さん:2005/06/21(火) 18:47:23
>>886
新羅も金官も基本的には積石塚だ。
石の上に土を被せて芝生を張っているから土饅頭のように見えるがね。

日本で五世紀に全国(と言っても中部関東中心)に沢山作られた積石塚も高句麗由来とされている。
889日本@名無史さん:2005/06/22(水) 00:18:22
>>887
お前さんはバカか?
走れない馬を食用にするのは当たり前。どこの民族でもやることだが
別に彼らを食用にするために飼いならすわけじゃなかろう。あくまで主目的は騎馬。食用は従。
さらに、副葬するということは被葬者の死後の世界において、馬は一定の目的を果たすために葬られる。
わざわざ騎乗という主目的を捨てて、食用だけのために葬るか? 馬具まで着けて。
バカな奴だな。
890日本@名無史さん:2005/06/22(水) 00:33:33
>>883
高句麗の尖兵として満州の騎兵が狩り出されたんだろう。
891日本@名無史さん:2005/06/22(水) 05:15:18
>>888
>石の上に土を被せて芝生を張っているから土饅頭のように見えるがね。

それは任那末期の、安羅など周辺任那諸国の話だ。

>新羅も金官も基本的には積石塚だ。

金官の金海地域、すなわち本来の金官王朝は5世紀に王墓の築造が絶えるまで
塚のない木郭墓だった(大成洞遺跡)。
またこれを継いだと思われる釜山地域の王朝も、やや形式を変えつつ最後まで
木郭墓だった(福泉洞遺跡)。
これらは遺跡名で検索すれば発掘状況の写真まで入ったページがある。
これらが積み石塚や土饅頭だったという文献があるのなら示して欲しい。
892日本@名無史さん:2005/06/22(水) 07:28:29
>>886
>なんでその「金官の干岐」は狗耶韓国の王墓を改修するのに
>はるか離れた吉林省北部の扶余本国の形式の木郭墓を築き、いままで乗ったことも
>ない馬関係の副葬品を埋め、いままでやったこともない殉葬を始めなければならないのか?
>そこがわからない。

なんでその明治天皇はせっかく王政復古したのに
はるか離れた欧米の服を着て、いままで食ったことも
ない牛肉をくい、いままでやったこともない対外戦争を始めなければならないのか?
そこがわからない。
893日本@名無史さん:2005/06/22(水) 08:43:05
894日本@名無史さん:2005/06/22(水) 09:27:37
>>889
お前さんはバカか?
死者にとって死後の世界で騎馬しようが食用にしょうが勝手ジャン
食べる前に、セレモニーとして馬具をつけて綺麗に飾るぐらいのことはするだろうが
895日本@名無史さん:2005/06/22(水) 09:29:01
新兵器である馬を導入した部族が、思いつきで古墳を造った
896日本@名無史さん:2005/06/22(水) 09:36:39
馬は古代においては新兵器であり、家畜であり、食肉であった(順不同)
897日本@名無史さん:2005/06/22(水) 09:44:57
>892
それは日本と欧米の技術的政治的格差が大きかっただけ。
翻って狗耶韓と扶余にそこまでの格差があったんだろうかね。
後年の金春秋の中華化政策ならまだしもわかるが。
898日本@名無史さん:2005/06/22(水) 12:26:58
>>894
何で食肉に騎乗用の馬具を着けるんだ?
お前の知ってる食用馬の牧場では、飼ってる馬すべてに意味もなく鞍に手綱に引き綱までくっつけているのかね?
たわ言も程々にしておくとよかろう。
ついでにいえば、この世の馬なら多種多様な使い方をしてもおかしくないが
死者があの世に連れて行くものは、どれもきちんとした単一の理由をもたせるのが普通。
まあその前に、死者が馬肉を必要とするのか、わざわざ騎乗用の馬を馬肉にするという変な行動を取らせるものか
よく考えたほうがよさそうだが。
899日本@名無史さん:2005/06/22(水) 14:00:57
>>897
当時の馬を最先端兵器とするなら、明治期、西洋列強が脅威と見なされる基となる軍艦を
日本の自前で建造すべく(パクリすべく)高額な報酬を払ってまで、侵略国側の
技術屋を丁重に招き、設計・指導に当たらせたことは、注目すべき点であり、古代においても大概に重なるものである。

馬を兵器として最大限にいかせるの集団を招きいれ、パクリを実行したのは間違いないようだ。
他が持ち合わせているものに対する人の欲求は、古今東西かわりなく、兵器となれば尚のことだろう。
900日本@名無史さん:2005/06/22(水) 14:10:36
>>892
関係ない話をしてはいけない。
狗耶韓国の王墓を破壊して、その真上に築かれた、殉葬を伴う扶余式の木郭墓が、
なんで狗耶韓国のカンキによる改修と言えるのか、まともに答えよ。

>>897
狗耶韓国の遺跡も出ている。狗耶韓国はまったく吉野ケ里と同様なレベルに
あった。
騎馬戦術の有無、鉄製装甲の製造技術などの軍事技術の差は大きい。
901日本@名無史さん:2005/06/22(水) 14:48:35
>>900
城をブっ壊し行政練を造った
武家屋敷をブっ壊し、洋館を乱立させた

うま文明開化、もしくはフヨ維新でいいんでないの?
902日本@名無史さん:2005/06/22(水) 15:33:38
>>901民度の低い古代人のこと、王墓破壊なんて屁とも思わなかったのかもな
彼等にしてみれば、優れたものを丸々コピーすることの方が先決だったんだろう。
古くて不必要なものは破壊しつくす、半島特有の流れを、何となく感じるわけだがw
903日本@名無史さん:2005/06/22(水) 16:03:11
>>897
騎馬文化の有無の差は国家の運命を左右するほど大きいんだろ?
おまえは「大した差じゃない」といいたのか?

単に文化を輸入しただけだといえば
「そんなことはない、征服されたのだ」という癖に
今度は「それほど格差があったわけじゃない」ってか?

都合のいいことばかりなんとでも言えるって見本だな。
904日本@名無史さん:2005/06/22(水) 16:08:07
>>900
関係ない話をしてはいけない。
日本式の家屋を破壊して、その真上に築かれた、赤レンガの洋館が、
なんで明治の日本人による改修と言えるのか、まともに答えよ。
905900:2005/06/22(水) 17:27:08
>>901
>うま文明開化、もしくはフヨ維新でいいんでないの?

まったくその通り。ただし明治維新と異なり、扶余という外国勢力による
維新だ。

>>904
反対派は金官の扶余王朝を否定したいらしい。
反対派のすじがき(史観)には、金官の扶余王朝がよほど邪魔になる
らしいね。
なんとかかんとか言って扶余王朝を否定しようとするが、考古学上の
事実だから、もとより否定することは不可能。
それがわかると、このように冗談でごまかそうとするのだ。
906日本@名無史さん:2005/06/22(水) 19:18:24
馬は輸入物資の中の1つじゃないの
輸入された馬を倭人が戦闘用に活用した
あるいは農耕用に転用したわけだ
なかには食用もあっただろう
つまり、馬は渡来したが、騎馬民族文化に染まった征服民族は来なかったのだ
907日本@名無史さん:2005/06/22(水) 19:38:40
1500年前木棺発掘…韓日交流史明らかにしてくれようか
[SBS TV 2005-06-22 12:02]

http://news.naver.com/vod/vod.nhn?mode=LSS2D&office_id=055&article_id=0000047609

<アンカー>
古代韓・日交流史を明らかにしてくれる木棺が千五百年ぶりに世の中の光を見るようになりました.
報道に権伶人記者です.

<記者>
去年木棺が発見された慶南昌寧の松峴洞第7号古墳です.
木棺を取り出すのに先立って発掘団が作業が無事に終わるように祈願しながら御辞儀を差し上げます.
いよいよ木棺が千五百年ぶりに世の中光をまた見る瞬間. 3百キログラムの木棺が用心深く移されます.
搬出作業には特殊製作した無振動車まで動員されました.
木棺はこれから約 5年の間、分析と保存処理作業を経た後、一般人たちに公開される予定です.

5〜6世紀に作られたものと推定されるこの棺は韓半島で探し難い楠木で作ったうえに、古代日本で主に使用した木棺なので日本から渡って来た可能性が申し立てられています.
石室では古代日本墓で主に発見される赤い染料も確認されました.

[チ・ビョンモク/国立昌原文化財研究所長 : 古代韓・日関係を明らかにしてくれる重要な資料です.]
石室ではまた鏃と矢柄も一緒に発掘されました.

[パク・チョンイク /国立昌原文化財研究所研究員 : 矢柄と鏃が一緒に多量に発掘されたことは極めて珍しい事です. ]
今度発掘された木棺が韓半島と日本の古代交流史を明かすことができるか注目されます.

http://news.naver.com/tv/read.php?mode=LSS2D&office_id=055&article_id=0000047609§ion_id=115§ion_id2=290
908日本@名無史さん:2005/06/22(水) 21:46:11
>>905
考古学は文字が出てこない限り文献史学を覆すことはできない。
金官の夫餘王朝なんて存在しないじゃん。学者は誰もそんなこといってないだろ。
おまえは明治政府なんて存在しないとでもいうのか?
反論になってないよ。
909900:2005/06/22(水) 23:16:47
>>899
>馬を兵器として最大限にいかせるの集団を招きいれ、パクリを実行したのは間違いないようだ。

なにかが起こるとき、多くの事象がワンセットとして起こるのだから、
そのなかの一つだけを取り上げて説を作ってもだめ。

3世紀末の狗耶韓国の変化を説明するのに、狗耶韓国人が一念発起して
北方民族の騎馬戦術を習得した、という説を唱えるのはよいが、
例えば何故に騎馬戦術の出現と同時に殉葬が始まったのか、ということ
を説明できなければ何の意味もない。

扶余による征服説はこれらのことを一挙に説明しているのだ。
因みに魏志東夷伝扶余条には「殺人殉葬、多者百數。厚葬、有槨無棺。」
とある。

>>908
驚いた。「文献」は目の前の物理的事実である発掘成果を否定するのか!
後世の人がじぶんの利害関係に従って紙に書いたものに過ぎない「文献」が!
910日本@名無史さん:2005/06/23(木) 01:51:12
>>909質問、騎馬民族出現以前の狗耶には殉葬はなかったの?

確か卑弥呼の埋葬に際して殉葬はあったと(略。
それ以前は、殉葬の痕跡がはっきりと確認されてていない→というか判断が難しいだけでは?
甕棺が同じ坑に同時に埋葬されたりするのは殉葬と考えてもいいのでは?
動機が何だったのか判断が難しいだけであって、ほんとうは殉葬なのでは? 
どう思います?
911日本@名無史さん:2005/06/23(木) 05:36:52
>>909
思い上がるのもいい加減にしろ。
目の前の事実を否定したりはしていない。
目の前の事実とそれに対する自分の解釈を混同してるおまえの思い上がりの方が問題。
912日本@名無史さん:2005/06/23(木) 09:24:40
くや韓国が墓を木棺にした。
韓国が墓を前方後円墳にした。

同じことだろ?
従属したほうの墓形式に改修しただけだ。
つまり高句麗の尖兵として来襲した満州騎兵に従属し
後になって盛り返してきた倭に従属した証拠。
その間の百済新羅はあるときは高句麗に、あるときは倭に従属してやりくりしていた。
朝鮮半島はまさに戦乱の地であり、一気に情勢が変わるには中国の介入がないとありえなかった。
それまでに何度も戦ってる相手(高句麗)のもつ騎馬を恐れるわけが無いし
騎馬を取り入れないわけが無い。
913900:2005/06/23(木) 10:52:50
>>912
正確にしよう。
>くや韓国が墓を木棺にした。

木棺にしたのではない。無棺の木郭墓だ。
狗耶韓国も木郭墓だが、楽浪郡式。3世紀末以降はそれが扶余式に変わった。
さらに殉葬が始まった。

>韓国が墓を前方後円墳にした。

狗耶韓国/金官にも、周辺任那諸国にも、前方後円墳はなかった。
唯一言われた松鶴洞1号墳(安羅)も、連続した複数の円墳とわかった。
前方後円墳があるのは百済と接する半島西南部で、これは5世紀以降に
倭國が領有していた地域だ(後に百済に割譲)。
5世紀以降の倭の半島進出を否定してはいないよ。
それはノルマンに征服された英国がフランスに逆進出した英仏戦争にあたる
わけだから。

>つまり高句麗の尖兵として来襲した満州騎兵に従属し

3世紀末に狗耶韓国を征服したが高句麗であっても、また扶余であっても、
4世紀後半初頭に倭が任那を服属させたというすじがきにとって不都合なのは同じ。
なぜならその時点で三輪王朝は騎馬化されていないし、九州を統一しても
いなかったから。
914日本@名無史さん:2005/06/23(木) 11:15:17
で、日本に来た扶余が日本で無棺の木郭墓を作ったことはあったの?
天皇が扶余を名乗ったことはあったの?

百済も高句麗も扶余なのに扶余式じゃないのはなぜ?
無棺の木郭墓の出現は文化の遅れた伝播じゃないの?
915日本@名無史さん:2005/06/23(木) 11:17:52
>3世紀末に狗耶韓国を征服したが高句麗であっても、また扶余であっても、
>4世紀後半初頭に倭が任那を服属させたというすじがきにとって不都合なのは同じ。
>なぜならその時点で三輪王朝は騎馬化されていないし、九州を統一しても
>いなかったから。

べつに不都合じゃないだろ。
騎馬を取り入れる出先ができた訳だし、出兵の大儀明文ができた訳だし。
916900:2005/06/23(木) 14:00:28
>>910
>質問、騎馬民族出現以前の狗耶には殉葬はなかったの?

なかった。少なくとも墓の平面形に現れてなかった。
これに対して金官の王墓は両側に殉葬用の副郭を伴っていた。恐らく奴婢では
なく高官を殉葬したのだろう。

>>914
>百済も高句麗も扶余なのに扶余式じゃないのはなぜ?

それは百済や高句麗に聞いてくれ。

>無棺の木郭墓の出現は文化の遅れた伝播じゃないの?

吉林省北部の扶余本国の、よく言えば質実剛健、悪く言えば原始的な習俗が
直接、半島南部にやって来たという意味ではその通り。

>で、日本に来た扶余が日本で無棺の木郭墓を作ったことはあったの?

巨大古墳の盛期だよ。その横に墳のない無棺の木郭墓を作ったら笑われる
ではないか。

>>915
騎馬戦術を持たず、九州という足場も持たない三輪王朝がどうやって騎馬軍団
をやっつけて任那を服属させたのか、もうひとつイメージがわかないのだが。
917:2005/06/23(木) 16:27:07
騎馬戦術だ、騎馬戦術だ、と言ってますけど
山地が多い該当地が騎馬戦術のパフォーマンスを発揮出来る
場所であったのか、というのが非常に疑問。
寧ろ海上から迅速に上陸し、高台などに陣をはって、弓などの飛び道具で
攻め入って占領範囲を確保していく方が効果的だとイメージしてますが。

それから、九州という足場も持たない三輪王朝、と言う意味がわからない。
918日本@名無史さん:2005/06/23(木) 16:56:42
来たのは馬だけじゃないぜ。
http://www.narahaku.go.jp/meihin/kouko/146.html
こんなのも。
高句麗領域では発掘されていないが壁画で残っている。
ところが新羅伽耶領域では大量に発掘されているんだ。
919日本@名無史さん:2005/06/23(木) 17:11:50
>>917
てか、兵数の優劣で大方の勝負は決まったと思うよ。
有効戦術が効かない場合、兵数の劣る方は結局アポーン確定
優れた指揮官なり参謀がいたとして、戦局を優位にはこべたとしても
兵が尽きればそこでお終い。
戦術は兵あっての戦術、つまり二のつぎ。
920日本@名無史さん:2005/06/23(木) 17:22:53
(え〜と、関係ないけど、中国の研究者が高句麗の好太王碑の
 新たな墨本(1881年以前)を発見したそうですね。)
921日本@名無史さん:2005/06/23(木) 17:26:11
こと日本・朝鮮に限って言えば、騎馬のメリットはそれこそ満州や中国本土よりよほど少ないからねえ。
もっとも効果を発揮しえるのはやはり小型船と軽歩兵による高機動な開閉集団だったと思う。
山にも河にも海にも自在に潜むあの手の軍団は、森林と山岳と大小河川に囲まれた地域では
最も効果的だ。
922日本@名無史さん:2005/06/23(木) 17:33:23
1万が2万力発揮してもしても
3万には負けるってことでFA
923日本@名無史さん:2005/06/23(木) 22:39:37
>>920
マジ?
924日本@名無史さん:2005/06/23(木) 22:49:39
>>918
新羅は秦の移民の立てた国ですよ。
蒙古式兜が出てきても不思議じゃない。
新羅などを定期的に荒らしてた倭としては新羅の武将の兜を戦利品としてもおかしくない。

>>916
任那が征服されたら分裂していた九州豪族(海賊・貿易商)は選択を迫られるだろう。
ハクスキノエの敗戦によって日本がまとまったように。
そしておそらく百済を救援したように、任那救援を決めたのでは?
925日本@名無史さん:2005/06/23(木) 23:10:10

久しぶりに除いたらまたやっているんだな。
無駄なことを

こういうのは内容の真実性ではなく、デマでも言いつづけることに
意味があると認識しているんだろうな。
926日本@名無史さん:2005/06/24(金) 00:17:55
>>925
> こういうのは内容の真実性ではなく、デマでも言いつづけることに
> 意味があると認識しているんだろうな。

確か、孔子の弟子の母親が、息子が人を殺したと言う話を聞いて、一回目と
二回目には「息子がそんなことをするはずがない」と取り合わなかったが
三回目になって、ついに確かめに行ったという話がある。

たとえデマであったとしても、繰り返され、それに対する明確な反論がなければ、
鵜呑みにする者も出てくるだろう。
927日本@名無史さん:2005/06/24(金) 03:00:55
>>925
皆、事実を求めていると思うよ
928日本@名無史さん:2005/06/24(金) 04:24:42
>>927
事実は無かったということ。考古学的にも確かめられている。
倭の騎馬化は倭の半島進出後。
929920:2005/06/24(金) 08:12:38
>>923
昨日の朝日夕刊>

中国社会科学院の徐建新・教授が論文を発表。
酒匂本と新発見の墨本は文字がよく似ており、
「来渡海破」も大きな違いはない、とのこと。
930日本@名無史さん:2005/06/24(金) 22:53:31
【高句麗】中国人研究者「好太王碑、新資料発見で改ざん説否定された」[06/23]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1119618672/
<好太王碑、新たな墨本発見 倭の朝鮮半島支配の記述巡り論争 改ざん説を否定>
朝日新聞夕刊(05/06/23)を手入力

 古代の東アジア情勢を伝える第一級の史料で、日本の大陸進出を正当化するために旧日本陸
軍が碑文を改ざんしたとの論争がある好太王碑(広開土王碑、中国吉林省集安市)の新たな墨
本(ぼくほん)が中国で発見された。鑑定した中国の研究者は「現存するもので最古」と判断。
旧陸軍が中国から持ち出し、これまで最古とされてきた墨本と、書体や文面がほぼ一致するこ
となどから「改ざん説は否定された」と結論付けている。
 中国社会科学院の徐建新・教授が中国の学術誌「中国史研究」に論文を発表した。同教授に
よると新発見の墨本は北京のオークションに昨年出品され、徐教授が鑑定を依頼された。オー
クションで売買が成立したが、現在の所有者は明らかにできないという。
 墨本は拓本では文字が不鮮明な時に作られ、文字の輪郭をまず紙に縁取りし、その輪郭の周
辺を墨で塗りつぶして文字を白く浮かび上がらせる。発見当時の碑はこけやつる草に覆われ、
拓本を作れなかったとされる。
 好太王碑の最古の墨本はスパイとして1882年ごろ現地に入った旧陸軍士官が83年に日
本に持ち帰った「酒匂本」(東京国立博物館蔵)。改ざん説は、まず酒匂本で日本に都合のよ
い文章が作られ、さらに碑に石灰を塗って墨本と同じ文字を碑に刻んだと主張する。「倭以辛
卯年来渡海破(391年に海を渡って来た倭と戦った)」などの部分だ。
 酒匂本と新発見の墨本は文字がよく似ており、「来渡海破」も大きな違いはない。一方、新
発見本には入手経緯などを記した4人の跋文(ばつぶん)(書き付け)があり、徐教授は書き
付けた人の役職の移り変わりなどから「81年より前に作られた」とみなす。酒匂本より古い
本に旧陸軍士官の意向が働いたとは考えられず、徐教授の見解に従えば改ざんは否定されるこ
とになる。
931930:2005/06/24(金) 22:53:59
 好太王碑は、高句麗王朝19代の好太王(374〜412)の功績が刻まれ、1880年ご
ろに発見された。倭との戦いが記されていることから、日本書紀にある古代日本の朝鮮出兵・
支配を裏付ける材料となってきた。
 これに対し、改ざん説を唱える李進煕・和光大名誉教授は「新たな墨本は非常に貴重な発見。
酒匂本と同じく、最も早い段階のものだ」とした上で、「こけなどを取り除くため、碑は18
82年に焼かれている。新たな墨本の字も焼かれた痕跡が見え、それ以前ということはありえ
ない。跋文は誇張が多く、書いてあることが正しいとは限らず、論文は間違っている」と反論
している。
 論文には96文字が掲載されているが、徐教授によると、墨本所有者の同意を得て、論争と
なってきた部分を中心に百数十文字の写真を撮影してあり、できるだけ早く公開したいという。

 ○旧日本軍の意向とは無関係
 <鈴木靖民・国学院大教授の話> 墨本は縁取る時に文字をどう読むかという解
釈が介在する。新発見の墨本と酒匂本の文字が同じということは、同じ人やグルー
プがかかわった可能性が高いことを示す。この墨本が酒匂本より古いのなら、どち
らも旧日本軍の意向とは無関係につくられたということだろう。これで改ざん説は
ほとんど成立不可能となったと考える。

広開土大王碑文歪曲解釈論ずる
ttp://www.breaknews.com/new/sub_read.html?uid=19249§ion=section3
高句麗広開土王碑は改竄されたか
ttp://homepage1.nifty.com/sawarabi/koukaidoou/koukaidoou.htm
932日本@名無史さん:2005/06/24(金) 22:54:20
1500年前木棺発掘…韓日交流史明らかにしてくれようか
[SBS TV 2005-06-22 12:02]

<アンカー>
古代韓・日交流史を明らかにしてくれる木棺が千五百年ぶりに世の中の光を見るようになりました.
報道に権伶人記者です.

<記者>
去年木棺が発見された慶南昌寧の松峴洞第7号古墳です.
木棺を取り出すのに先立って発掘団が作業が無事に終わるように祈願しながら御辞儀を差し上げます.
いよいよ木棺が千五百年ぶりに世の中光をまた見る瞬間. 3百キログラムの木棺が用心深く移されます.
搬出作業には特殊製作した無振動車まで動員されました.
木棺はこれから約 5年の間、分析と保存処理作業を経た後、一般人たちに公開される予定です.

5〜6世紀に作られたものと推定されるこの棺は韓半島で探し難い楠木で作ったうえに、古代日本で
主に使用した木棺なので日本から渡って来た可能性が申し立てられています.
石室では古代日本墓で主に発見される赤い染料も確認されました.

[チ・ビョンモク/国立昌原文化財研究所長 : 古代韓・日関係を明らかにしてくれる重要な資料です.]
石室ではまた鏃と矢柄も一緒に発掘されました.

[パク・チョンイク /国立昌原文化財研究所研究員 : 矢柄と鏃が一緒に多量に発掘されたことは極めて珍しい事です. ]
今度発掘された木棺が韓半島と日本の古代交流史を明かすことができるか注目されます.

http://news.naver.com/tv/read.php?mode=LSS2D&office_id=055&article_id=0000047609
機械翻訳 http://whatever.say.jp/program/snap_shot/site/11196204626790/
映像 http://news.naver.com/vod/vod.nhn?mode=LSS2D&office_id=055&article_id=0000047609
933日本@名無史さん:2005/06/24(金) 22:55:18
*武寧王陵(宗山里古墳群)
ttp://inoues.net/korea/buneiou.html
玄室内には木棺が置かれ、その材質となった木材は細胞の分析結果から、日本の近畿地方南部に
しか見られない「コウヤマキ」であることが確認され、武寧王時代の百済と日本の関係、また、武寧王
自身の出自などを巡って論争が巻き起こった。
墓から、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、銅鏡、陶磁器など約3000
点近い遺物が出土したが、驚くべきことに百済製の土器は1点も出土していない。すべてが中国の
南朝からの舶来品であって、この王朝がいかに中国南朝に傾斜していたかを物語っている。

「日本書紀」の雄略天皇5年の条に、「百済の武寧王は、筑紫の各羅(かから)島で生まれたので
島君(せまきし)と言う。」という記事があり、武烈紀にも同様の記事があり、「武寧王の諱(いみな)は
斯麻王と言う。」とある。「三国史記」にも武寧王の名は斯摩となっている。島で生まれたから、斯麻王
という名前が付けられたという。各羅島は、現在の松浦半島の突端にある呼子島の真北にある
加唐島(かからじま)のこととされている。これは一体何であろうか?

武寧王の陵墓が発見されたことで、これらの記事の正しさが立証されたが、では斯麻王すなわち
武寧王は日本人なのか? どうして佐賀県で産まれたのか?


韓国南部の前方後円墳は倭人の墓か?
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1008077694/
934日本@名無史さん:2005/06/24(金) 23:20:11
韓国の墓って日本の墓に比べると小さいけど、副葬品は圧倒的に豊富で見事な物ばかり。

日本に支配されたのに日本人の墓より立派な副葬品があるのはどうして?
935日本@名無史さん:2005/06/24(金) 23:32:10
>934

あほか。
副葬も圧倒的に劣ってる。
936日本@名無史さん:2005/06/24(金) 23:43:17
 由水氏のあげておられる例の一つに、新羅古墳から出土した金冠がある。三面の樹木形立飾りをもつのが特徴である。中国の王冠には、このような樹木形立飾りをもつものが存在しない。ところが、ギリシア・ローマの遺跡からは、月桂冠や木蔓冠などが出土する。
 樹木冠の源流は、古代ローマ神話に描かれるダイアナ崇拝から生まれた。森の女神ともされたダイアナが住む聖なる森には聖なる木が一本あり、森の王だけがその枝を折り取ることができたという。その聖樹信仰が広がって、鉢巻状のダイアデムの前中央と左右に
 一本ずつ聖樹の枝を挿すことによって、神権をさずかった王となる儀式が始まり、やがて王となる人物が戴冠する冠として樹木冠が出現してくる。ヨーロッパの王冠は、樹木冠の形式を踏襲している。
 日本でも樹木形立飾りのついた金銅冠が出土しており、その形式は新羅の樹木冠の系譜を引いている。現大阪府や壱岐の古墳から、樹木冠は出土していないが、『記』『紀』には大日下王(おおくさかのみこ)(大草香皇子)がもっていた押木(おしき)の玉縵(たまか
 ずら)にまつわる説話が記されている。この冠は、新羅の王侯貴族が用いた、樹木形の立飾りをもつ冠であったと思われる。『紀』によると、大日下王が無実の罪で安康天皇に殺されると、王に仕えていた難波吉師(なにわのきし)が殉死している。
 「吉師」は「吉士」とも記されるが、新羅の官位名でもあり、新羅系渡来人とみられる。

 韓国側が金なのに対し、日本の物は銅に金メッキ。


937日本@名無史さん:2005/06/25(土) 00:05:04
漢民族=その後の中国南朝→百済・新羅・倭

騎馬民族=中国北朝→高句麗

こう定義できるが、好太王碑から明らかなように騎馬を持つ高句麗と言えど
倭に率いられた百済新羅に手こずっている。結局高句麗は両国を滅ぼせなかったのだから
倭を滅ぼすことなどできようはずもない。
938白馬青牛:2005/06/25(土) 01:26:02
>>936
確かにローマン・グラスは、百済、高句麗の遺跡から一点も出土せず、
西洋人のいうリュトン型(角杯)土器が、新羅、加耶から出土するのも
西方的ともいえる。
この現象を江上波夫氏は、『南朝鮮の三国時代に黄金製品が盛行した
ことは、アルタイ山脈とイェニセイ川上流地域より東では、唯一の
例外的現象だったということです。アルタイ山地や北蒙古の墳墓でも、
青銅器が主で、金製品は皆無ないし例外的でしかない。アルタイ以西では
黄金製品が圧倒的で、以東では青銅製品なのか。アルタイ山中でも、
北蒙古でも、青銅器とともに中国製の絹布や刺繍が出土している。
騎馬民族が常に大量の絹を中国側に要求したという記録も、納得が
ゆきます。要するに絹が黄金を駆逐した。女性たちには、なかでも
すけすけの絹がね(笑い)。西の果てローマの貴婦人たちが薄絹が好きで、
高価なそれを争って手に入れようとし、国費が浪費されると幾度も
禁止令が出されたのですが、婦人の好みは一向に衰えなかった。(笑い)
アフガニスタン北部で発見されたシバルガン黄金遺宝。これが南朝鮮の
金属工芸品と似ている。当時の韓国人が西トルキスタンのソグト人の
国に使節として行った形跡もある。』

なぜ、新羅人が東亜流行の絹ではなく、トレンドではない黄金製を
好んだのかはわからんが。
939日本@名無史さん:2005/06/25(土) 02:49:39
>>925
同意。

>>938
(゚∀゚)煙に撒くヨカーン
>>929>>933に対する江上信者の見解を聞きたい
940日本@名無史さん:2005/06/25(土) 03:05:20
>>932

【韓国】伽耶時代の古墳から木棺を搬出。木材は日本産の可能性大 [06/22]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1119632341/
941日本@名無史さん:2005/06/25(土) 03:05:55
韓国南部の前方後円墳は倭人の墓か?
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1008077694/
124 名前:読売新聞ニュース[] 投稿日:02/11/10(日) 07:51
韓国南部の慶尚南道固城(コソン)郡の松鶴洞1号墳で、
内部を赤色顔料で朱塗りした横穴式石室(六世紀前半)が、
同国の東亜大付属博物館の調査で二日までに確認された。
日本(倭)独特とされた朱塗りの石室が、韓国で確認された
のは初めて。日本の須恵器も出土していることから、日本の
古墳祭祀(さいし)文化の影響とみられる。大陸や朝鮮半島
から文化を一方的に導入しただけではなく、日本も文化を伝
えていたことを示す重要な成果として注目される。
 石室は墳丘北側で、長さ約九・八メートル、幅〇・八五〜二
メートル、高さ一・四五〜一・五八メートル。天井や床、壁が
ベンガラ(酸化鉄)とみられる顔料で真っ赤に塗られていた。
 朱色は、古代中国で血につながる生命力の象徴や不老長寿願望
を反映したものと考えられていた。朝鮮半島ではこれまで発見さ
れていなかった。
 松鶴洞1号墳は一九八三年、韓国の研究者が「前方後円墳」と
紹介し、日本独自とされていた前方後円墳のルーツではないかと
論争になった。
 一帯には、日本と交流のあった伽耶(かや)諸国(四世紀初め〜
六世紀半ば)があったとされ、「日本書紀」などでは「任那(みまな)」
と呼ばれる。
 沈奉謹・東亜大付属博物館長は「日本に近く、葬送儀礼に倭人がか
かわったとも考えられる」と話している。(10月2日15:34)
942日本@名無史さん:2005/06/25(土) 03:11:47
【「昌寧松硯洞7号墳のクスノキ木棺は日本産」】

慶尚南道昌寧郡の松硯洞古墳群の中で 6世紀初め頃に築造された第7号墳の「秣桶型(丸太型)木棺」
を作るのに利用されたクスノキは朝鮮半島自生樹木である可能性はほとんどなく、日本列島から入って
来た可能性が大きいことが分かった。
同時期に築造された公州の武寧王陵から出土した王と王妃の木棺も、日本列島だけに自生する金松と
判明したことがあり、5〜6世紀の朝鮮半島と日本列島の間の緊密な交流が、改めて考古学的遺物で裏
付けられた。
松硯洞古墳群発掘調査機関である国立昌原文化財研究所の依頼で、7号墳出土の秣桶型木棺の分析
などに力を注いでいる木材組織学専攻の慶北大の朴サンジン教授(65)は、「漢字で予樟木と表記される
クスノキは亜熱帯樹木で、現在朝鮮半島では済州島以外に南海岸の極一部の地域でだけ自生している」
と15日語った。代わりにクスノキが現在集中自生する場所としては、朝鮮半島周辺では中国中国南部と日本
列島が代表的なものとして挙げられている。
朴教授は、「松硯洞古墳群が築造された三国時代当時に気候がどうだったかによって、クスノキが朝鮮
半島にも自生していた可能性がないではない」としながらも、「当時の植生は現在とあまり変化がないと
いうのが一般的見解であり、したがって松硯洞の木棺の材料であるクスノキが朝鮮半島の生産品である
可能性はゼロに近い」と語った。<中略>
943942:2005/06/25(土) 03:12:11
したがって、この松硯洞の木棺の材木は、当時の歴史的情況から見て中国南部地域と日本列島の2ヵ所
のいずれかである可能性はほとんど確かと思われ、中でも武寧王陵の木棺や昌寧一帯に位置した伽耶
諸国と倭国の緊密な関係を考慮すると、日本列島から持ちこんだ可能性がより大きいと考えられている。
そうした推定は、この7号墳のすぐ隣にある6号墳に対する昨年の調査の結果、石を積んで作った玄室の
壁面全体が朱で塗られていたという点からも、有力に裏付けされている。
道教神学で永遠不滅の仙薬として特に愛用された朱砂(硫化水銀)で玄室壁面を染めるこうした手法は、
古墳時代の日本列島の古墳の埋葬風習として典型的に確認されている。
一方、今年も松硯洞古墳群に対する調査を続けている国立昌原文化財研究所は、長さ3.4m×幅1.2m×
高さ 40cmほどと測定されたこの丸太木棺を、来週中に玄室から搬出して昌原の研究所に移し、保存処理
に入る予定だ。
池ビョンモク所長は、「保存処理施設を既に昨年中に用意しておいた」と語った。

▽ソース:聯合ニュース(韓国語)(2005/06/15 09:28)
http://www.yonhapnews.co.kr/news/20050615/030000000020050615092849K8.html

※文中の「硯」は、本当は石へんではなく山へん。
944日本@名無史さん:2005/06/25(土) 13:21:41
>>941
>松鶴洞1号墳は一九八三年、韓国の研究者が「前方後円墳」と
>紹介し、日本独自とされていた前方後円墳のルーツではないかと
>論争になった。

現状もちゃんと紹介しないとフェアではない。
「前方後円墳」説はいまでは完全に否定されている。「松鶴洞1号墳」で
検索すれば写真入りのくわしい説明のページがすぐ見つかる。
945日本@名無史さん:2005/06/25(土) 14:28:36
戦後流行った電波説にいつまでしがみついてるんだ?
946日本@名無史さん:2005/06/25(土) 14:56:37
好太王碑の改ざん説なんてもともと相手にされてなかった
電波説なのに取り上げる方がおかしい。
947日本@名無史さん:2005/06/25(土) 15:14:05
狗耶韓にいた倭人たちは、扶餘人に支配権を奪われ金官伽耶へ。
金官伽耶は列島の倭人らに滅ぼされ任那へ。
主流は倭人によるシーソーゲームってことでええじゃないか?
ええじゃないか?
ええじゃないか?
ええじゃないか?
どう?
948日本@名無史さん:2005/06/25(土) 17:43:03
>>911
>目の前の事実を否定したりはしていない。
>目の前の事実とそれに対する自分の解釈を混同してるおまえの思い上がりの方が問題。

なるほど、「解釈」ね。 その「解釈」に関連して、おもしろい本があるので
紹介しよう。「巨大古墳と伽耶文化」角川選書1992年だ。

この本は講演と討論に分かれているが、その講演のなかで鈴木靖民・國學院
大学教授が次のように述べている。
「3世紀中葉に始まる北方系墓制あるいは北方系文物の移入、殉葬の風習など
を考え合わせますと、扶余人など北方の人々が南下して弁辰に移住したことも
ありえなくはないと思います。申先生の扶余の南下説はたいへん魅力的ですが、
しかし、現在のところ、それは扶余の集団規模の人工移動によるものではなく、
それ以前からの弁辰あるいは弁韓の地域的な社会発展の結果としての顕著な
文化受容と解するのが妥当ではないかと思います。」

なんと鈴木教授は、発掘成果のすべてを認めながら、解釈となると「現在の
ところ」などともったいをつけて、なんの理由もなく、事なかれで無難な
「文化受容」に逃げてしまったのだ。まさに君の立場と同じだ。
949日本@名無史さん:2005/06/25(土) 17:48:37
これに対して討論のなかで申教授が言う言葉が痛烈かつ痛快だ。
「鈴木先生は、講演で、北方の墓制が現れるのは文化の受容であるという
意見を示されました。非常に失礼になるかもしれませんが、北方文化の受容
による影響であるという表現は、専門的な学者でなくてもだれでもいえると
思います。しかし、単なる文化の受容であれば、支配集団は変わらないし、
前の集団の墓を壊すことはありません。ところが、新しい集団の墓が昔の
墓を意図的に壊しています(中略)。

もう一つ重要な点があります。それ以前、つまり狗耶国までは日本と同じ
ように殉葬の風習はありませんでした。ところが、北方の文物、北方の
墓制が入ると同時に殉葬が登場するので、特定の民族と結びつけて考える
ことができると思います。」

鈴木教授もかたなし、申教授によって素人あつかいされてしまった。
知識が少ないからではない。解釈が事なかれ主義だからである。
残念ながらこれが今でも学会の風潮だろうと思う。それを見て君のような
反対派の人たちが「学者はだれも言っていない」と安心しているわけだ。
950日本@名無史さん:2005/06/25(土) 17:57:45
質問させてください。 韓国人が、日本は7世紀まで「付与」の属国だったと
叫んでるんですが、付与 とはなんでしょうか?
951日本@名無史さん:2005/06/25(土) 20:10:02
扶余とは満州の狩猟民族。
後の高句麗や百済を建国した民族と言われる。

>>949
文化受容はあるよ。
中国の趙王は中華風から匈奴風に自ら風俗を変えた。
それは馬に乗るには匈奴風の服でないと勝てないと悟ったからだ。

同じことはおそらく半島でも起こっただろう。
952日本@名無史さん:2005/06/25(土) 22:56:52
>>951
戦闘方式と、それに関連する風俗を変えるのはわかる。
しかし墓の作り方や、墓に入れる品物、その入れ方、祭祀用器具の形まで
匈奴を真似たのかね。
953日本@名無史さん:2005/06/25(土) 23:21:12
>>952
宗旨替えしたんだろ。
つーか、占領したんなら墓を作り直さずに破壊するよ。
954白馬青牛:2005/06/25(土) 23:56:05
>>939
煙に撒く?何のことか。938は「日野啓三対談集、創造する心、
東山魁夷、今西錦司、江上波夫」読売新聞社1983から引用した。
それと938のソグトではなく「ソグド人」が正解。

江上信者とは?あいにくワシは、個人崇拝する宗教や政治思想を
持ち合わせておらん。
李進熙氏は江上氏の騎馬民族説否定論者で、伽耶も騎馬民族が
支配したのでなく、伽耶人自らが騎馬習俗を受け入れたという
「文化受容」派。1972年から改ざん説を唱え、任那日本府を
否定しながら韓人は列島に進出したと、まあ日本人の「文化受容」派と
似ておる。
955日本@名無史さん:2005/06/26(日) 00:17:43
だから、あなた自身の意見を聞きたいの、李進熙氏がどう思うとか
そんなん知ったこっちゃない。
江上信者≒騎馬民族説支持者、でないのなら、騎馬民族説自体懐疑的だと思っているのかい?
956日本@名無史さん:2005/06/26(日) 00:21:36
だいたいこいつは頭が固いんだよ、早く隠居しろよ
957白馬青牛:2005/06/26(日) 01:14:30
>>955
わしの意見は、645でもゆうたように、全面的に肯定しとるわけでは
ない。文をよう読まんのか。つまらん質問するのう。
>>956
わしのことか?ほいじゃあ、罵倒しかせん、われの頭にはタコの糞が、
はりついとるんじゃろう。
958日本@名無史さん:2005/06/26(日) 04:48:50
>>953
>つーか、占領したんなら墓を作り直さずに破壊するよ。

現に、大成洞では墓を作りなおしたのでなく破壊している。
それなら「占領」でいいのか?
959日本@名無史さん:2005/06/26(日) 06:12:14
漏れは勝山・石塚を壊して葺き石引っ剥がして、箸墓の葺き石に使ったとにらんでいるが。
巨大古墳の下に壊された墓が沢山あるかも。
960日本@名無史さん:2005/06/26(日) 10:42:59
扶余に征服された任那の亡命者が神武。
961日本@名無史さん:2005/06/26(日) 12:55:28
ミコト命
とは任那人という意味
962日本@名無史さん:2005/06/26(日) 13:45:26
>>961
妄想垂れ流し?
963日本@名無史さん:2005/06/27(月) 23:06:24
age
964日本@名無史さん:2005/06/27(月) 23:53:12
もともと江上なんて考古学会では相手にされてないよ。
965日本@名無史さん:2005/06/28(火) 08:36:27
みんな、朝鮮人が来て日本を支配したと考えることが嫌なだけ。

自分に朝鮮人の血が流れているのにそれを認めたくない。

遺伝子学会では日本人はモンゴル、朝鮮ともっとも血縁関係が強い事は常識だ。
966日本@名無史さん:2005/06/28(火) 10:07:15
>>965
どっちにしろ扶余は朝鮮人じゃないだろ?
967日本@名無史さん:2005/06/28(火) 10:41:59
なるほど済州島にモンゴル系が多いのもそのせいか。
968日本@名無史さん:2005/06/28(火) 14:03:11
江上は伽耶ぬいたのは扶余の分派だと言っている。

考古的には伽耶が扶余的習俗を持っていた事が確認されていて、日本人の遺伝子はモンゴルに近かったら、江上の言う事にも理無しとは言えない。

昭和天皇が好んで江上の騎馬民族説を聞いていた事も、騎馬民族説がまんざらデタラメでない事の傍証にはなるだろう。
http://www.s-yamaga.jp/dokusho/2003/yamatochotei/yamatochotei.htm
自分がホッテントットの子供だと言う話を全くのデタラメと思っていたら何度も聞くことに耐えられないだろうから。
天皇も騎馬民族に子孫であると信じていたのだろうし、文化勲章を授与されたのも騎馬民族説が正しいと文部省も認めていたのだろう。

信じたくない香具師は理解力がない。
969日本@名無史さん:2005/06/28(火) 14:16:29
>>968
おまえは理解力以前に判断力がない。
970日本@名無史さん:2005/06/28(火) 14:22:20
天皇が即位の儀式のなかで「まとこおうふすま」と称するフェルトの布にくるまって
かなり長時間、地面に横たわるのだと言うが、それは本当だろうか?
フェルトというのはどうも稲作民族からは出て来にくい。
971日本@名無史さん:2005/06/28(火) 14:44:57
「金日成閣下と人民が作った手作りの国である」みたいな発言をした
江上教祖。
オカルト思想を信じることの愚かさよ。

嗚呼神よ彼等は今や妄想の主人公です。
あなたは彼等の生きる希望を差し出しておられるのですね・・・
972日本@名無史さん:2005/06/28(火) 14:52:22
>>970
天武天皇が道教を始め、当時の多数の宗教を融合したんだよ。
シナ経由で導入されたんだろ。
973日本@名無史さん:2005/06/28(火) 15:06:56
騎馬民族説も所謂一つの教えみたいなものだしね。
類稀なる宗教も熱烈な信者の支持により生き残ってしまうのが、日本の土壌。

で、実際問題として、丸木舟に毛が生えたような船に馬を乗せ、玄界灘を渡り
倭地を侵略支配できたのか、あいかわらず疑問。
この疑問に明確に答えた香具師はいなかったし
説得力ゼロだったような気ガスる。
974日本@名無史さん:2005/06/28(火) 15:09:21
 それにつけても誌面の都合で、首領・金日成様への祝辞の数々を全て紹介できないのは
残念である。せめてあと数人、抜粋しておこう。

「金日成主席が指導し、全国民が一致してつくった、まぎれもない手づくりの国である」
江上波夫(考古学者、文化勲章受章)。
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2001/00997/contents/00345_002.htm
975日本@名無史さん:2005/06/28(火) 16:19:45
>>965
そりゃあないよ。
民族的特性と文化的特性はまったく別。人間なんてDNAはどの民族も対してかわりゃしない。
976日本@名無史さん:2005/06/28(火) 19:39:49
騎馬民族がどうのこうのといっても、人や馬が海を泳いで渡ってきたわけではない
肝心な輸送ルートと輸送業者(海人族)の特定作業がいるだろうが
騎馬民族がどういう手順で輸送業者と話を付けたか説明しろや

騎馬民族が輸送業者の家族を拉致して人質にしたんか
海人族を海上まで攻め立てて手下に組み入れたんか
977日本@名無史さん:2005/06/28(火) 20:01:33
ニュース板の天皇スレで、古代について話題になっているので、
よければ少々知識を披露してあげてください。
ほかのスレにも張ります。

http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news2/1119715154/l50
978日本@名無史さん:2005/06/28(火) 20:23:21
>>970
>天皇が即位の儀式のなかで「まとこおうふすま」と称するフェルトの布にくるまって
>かなり長時間、地面に横たわるのだと言うが、それは本当だろうか?

伽耶の首露王が布に包まれて亀旨峰に降臨した事と関係あるのでは?
大正天皇が即位の時に着た服装
http://katori.adam.ne.jp/karasu/karasu-3/karasu/karasubook.htm
これも日本的じゃないよな。
三本足のカラスも日本的じゃない。
どうも中国の南北朝時代の北魏とか高句麗の風俗を思わせる。
979日本@名無史さん:2005/06/28(火) 21:44:50
>>978
>亀旨峰に降臨

日本の神話に影響された可能性もある。

>三本足のカラス

ヤタノカラスが3歩脚で描かれるようになったのは後世。
980日本@名無史さん:2005/06/28(火) 22:05:20
>ヤタノカラスが3歩脚で描かれるようになったのは後世。

それは何時からだい?
981日本@名無史さん:2005/06/28(火) 22:14:23
北方民族は弥生人として確かに日本列島にやって来たが、
それが騎馬民族だったかどうかまでは甚だ疑問。
982日本@名無史さん:2005/06/28(火) 22:29:42
>>980
確か室町時代には既に三本足だったはず、ソース忘れた。スマソ。
983日本@名無史さん:2005/06/28(火) 23:04:52
>>973
>で、実際問題として、丸木舟に毛が生えたような船に馬を乗せ、玄界灘を渡り
>倭地を侵略支配できたのか、あいかわらず疑問。

すこし時代は下るが、継体天皇は40頭の馬を百済に送ったと日本書紀にある。
これはどうやって送ったのか、「明確に答え」て見よ。

>>976
>騎馬民族がどういう手順で輸送業者と話を付けたか説明しろや
>騎馬民族が輸送業者の家族を拉致して人質にしたんか

それこそ簡単な話だ。金官の扶余が支配したのは狗耶韓国人(恐らく倭人)であり、
狗耶韓国人は魏志倭人伝によれば海峡を南北市テキする貿易業者、つまりは
「輸送業者」だった。
支配下のかれらに命令すればよいだけ。
984日本@名無史さん:2005/06/29(水) 00:13:03
>>978
三本足のカラスも道教思想だろ。
985日本@名無史さん:2005/06/29(水) 02:21:42
>>983
扶余人が倭人を支配し、列島を征服した明確な根拠なり証拠でもあるのか?
それだけで良いんだよ、答えなさい。




986日本@名無史さん:2005/06/29(水) 02:27:33
どうせ江上の受け売りなんだから、あんまり意味ないか>>985は取り消す。
987日本@名無史さん:2005/06/29(水) 04:01:22
騎馬民族渡来説否定されるのは「去勢」だけじゃないよね?
騎馬民族としては色々と技術が乏しいからでしょ?
988日本@名無史さん:2005/06/29(水) 04:49:33
>>980

> 59 名前:名無氏物語[sage] 投稿日:2005/03/28(月) 00:43:36 ID:5fjX5dA2
> 問題は何時八咫烏が三本足と関連付けられたかだよな。
> 日本書紀巻第二十五白雉元年(650年)2月9日条をみると
> 三本足の意味をすくなくともこの時期まではしらないことが
> 伺える。

これ以後、時期的には中世までくだるのであるまいか。
989日本@名無史さん:2005/06/29(水) 05:38:50
http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3/ftmsw3?ukey=-1248673774&rid=-2
ここで「二十五史」チェック入れ、「三足烏」で検索かけると次の通り
http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3/ftmsw3?ukey=-1248673774&rid=-5
上記日本書紀文中で中国からであることと一致する。
990日本@名無史さん :2005/06/29(水) 06:13:52
ああ
991日本@名無史さん:2005/06/29(水) 07:04:13
三本足のカラスが流行ったのは高句麗。
992日本@名無史さん:2005/06/29(水) 09:23:23
>>987
>騎馬民族渡来説否定されるのは「去勢」だけじゃないよね?
>騎馬民族としては色々と技術が乏しいからでしょ?

まず、扶余は君が考えているような意味での「騎馬民族」ではない。
中国やヨーロッパで騎馬戦術が用いられたのと同様な意味での騎馬戦術を
持っていただけ。
ただし、同時期(3世紀末〜4世紀前半)の倭が騎馬戦術を持っていなかった
から、扶余の騎馬戦術が相対的に意味を持った。

次に「技術」については、普通に騎馬戦術を維持するための技術がなくて、
どうしてあの鎌倉時代までの、騎馬をアイデンティティとする武士社会が
成り立ったか。
993日本@名無史さん:2005/06/29(水) 13:05:29
馬見つけて乗り回してただけ
生活の一部としては組み込まれてなかった。
994日本@名無史さん:2005/06/29(水) 13:23:31
ま〜た鎌倉武士だの逝ってるよ、こりゃ永遠にループだな。
995日本@名無史さん:2005/06/29(水) 13:27:39
>>993
>馬見つけて乗り回してただけ
>生活の一部としては組み込まれてなかった。

馬が生活の一部として組み込まれていなくてははならないというのが、
すでに「騎馬民族」という言葉にとらわれている。
社会の上層部に入った征服者の流れとしての武士階級が騎馬をアイデンティティと
しただけで十分。

996日本@名無史さん:2005/06/29(水) 13:28:56
997日本@名無史さん:2005/06/29(水) 13:30:00
998日本@名無史さん:2005/06/29(水) 13:30:32
999日本@名無史さん:2005/06/29(水) 13:30:52
1000日本@名無史さん:2005/06/29(水) 13:35:46
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