戦国大名の子孫って、江戸城で土下座するの?

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1日本@名無史さん
例えば、加賀前田家は織田家に引き立てられたんだから、
天童織田家の子孫とかに江戸城の廊下とかでばったり会ったら、
大藩の藩主でも「ははー!」とかいってひれ伏すの?
他にも「織田家と丹羽家」とか…

あと、南部と津軽とか先祖が殺し合いをしていた
藩同士がばったりあったらどうするの?
2日本@名無史さん:04/09/24 18:17:46
せっぷんする
3日本@名無史さん:04/09/24 18:24:15
だっぷんする
4日本@名無史さん:04/09/24 18:30:34
みんなやってるでしょ
5日本@名無史さん:04/09/24 21:48:27
その辺は幕府の格式に従う。
元主君筋として丁重に応対するなんて事はあったみたいだが
殿中でひれ伏すなんて事はない。

仲の悪い(過去がある)藩同士の場合、できるだけ顔を合わせないようにしていたとか。
6日本@名無史さん:04/09/25 00:43:31
sechs
7日本@名無史さん:04/09/25 00:47:59
せっぷんってキッスのことだよ
8日本@名無史さん:04/09/25 00:51:59
キッシュしてくり歩合歩合歩合
金で解決歩合合合合合
9日本@名無史さん:04/09/25 01:01:21
>>5
それでも会っちゃったらどうするの?
お辞儀とかするの?
10日本@名無史さん:04/09/25 13:48:11
>>9
だから「顔を合わせないようにしていた」って言ってるだろうが
11日本@名無史さん:04/09/25 13:51:21
>10
アホかそれでも会っちゃう事はあるんだよ
12日本@名無史さん:04/09/25 13:57:55
>>11
参勤交代の時期をづらしてたから城中で会うことはない。
13日本@名無史さん:04/09/25 15:09:18

毎日ないしょで会ってるよ
14日本@名無史さん:04/09/25 17:22:03
アホは>>11だったってことだな。
15日本@名無史さん:04/09/25 17:28:51
>>14
アホはお前だよ
実際あっちゃった例もあるだろ
知恵遅れは黙ってろよ
16日本@名無史さん:04/09/25 18:04:14
識者が光臨しますた
17日本@名無史さん:04/09/25 18:05:58
不仲同士の大名が登城した際には、茶坊主が気を配って
鉢合わせしないようにした。なかにはミスで出会っちゃった例もある。
参勤交代をずらしてたら、同時期に登城してるはずないでしょ。
18日本@名無史さん:04/09/25 18:27:09
>>12
×(誤)時期をづらす
○(正)時期をずらす
19日本@名無史さん:04/09/25 18:33:49
>>15>>17
詳細キボンヌ
20日本@名無史さん:04/09/25 18:38:56
仲の悪い大名同士が顔合わせても、江戸城内で何か出来るわけでもないだろ。
お互い、顔を逸らして終わりだよ。

変な事したら、松の廊下になるのがヲチ。
21日本@名無史さん:04/09/26 01:24:38
っていうか、当事者同士に面識がなかったりするんだから
喧嘩なんかしないだろう。
喧嘩しているように見えるのは、極右形の家臣に口を合わせているだけ。
案外一緒に茶を飲んでるかもよ。

南部「うちの藩の馬鹿家老が、おたくのこと悪くいってましたよ…」
津軽「お互い家臣には苦労しますな…」
22日本@名無史さん:04/09/26 14:56:15
>>21
「かもよ」とか空想、妄想は語りにこなくてよろしい
事情を知ってる者だけが書け
23日本@名無史さん:04/09/26 16:17:03
で、鉢合わせしちゃった実例はまだぁ〜?
24日本@名無史さん:04/09/26 16:26:29
うちの社長と専務がこの前すれ違った時に互いに完全に無視してたから
こんな感じだと思う
25日本@名無史さん:04/09/26 16:49:11
>>12
実例挙げてくれ
26日本@名無史さん:04/09/26 16:54:49
『戦国大名の子孫…』ってタイトルで厨房丸出しだ

百歩譲って、『旧徳川家の家臣』 ならまだしも、
何故 『戦国大名』 の子孫が江戸城に土下座せにゃならんのだw

『守護大名』と『戦国大名』の違い
 
『御一門』 『譜代』 『外様』 の成り立ちと関係や明治維新…誰が裏切り、誰が殉じた

それぞれの事情は? など…

もチョット勉強してからスレたてなさい
27日本@名無史さん:04/09/26 17:02:40
>>26 だがスレの趣旨を勘違いしてたようです 関係者並びにスレ主に対し謝罪します

申し訳ない(T∇T)
28日本@名無史さん:04/09/26 17:28:32
「風雲児たち」では井伊直弼が薩摩島津家に対し関ヶ原の因縁を意識してるけど
これって史実なんでしょうか。

あとスレ違いになっちゃうけど
江戸時代も後半になると外様から幕閣入りするケースがでてくるよね。
松前・真田・脇坂・仙石等は徳川幕府が長期化するうちに取り込まれたのかな。
養子縁組とかで。
29日本@名無史さん:04/09/26 17:35:37
准譜代扱いの大名。
江戸大名スレをくぐってみるといいよ。過去ログ倉庫にあるかも。
そのレスの中に大名の格式や席次に関するリンク先があった。
そこのHPに逝けばここの疑問に関する回答はほぼ出てくる。
30日本@名無史さん:04/09/26 18:38:35
創造科学
宇宙と生命の起源進化論に代わる新しい科学

http://www.ne.jp/asahi/seven/angels/index.htm


31日本@名無史さん:04/09/26 19:39:54
>>28
風雲児たち みなもと氏しかり、司馬センセしかり…個人の思想や誰かの影響…(子母沢センセ?w)

入っていないとは言いがたいのでは?

32日本@名無史さん:04/09/26 19:56:48
33日本@名無史さん:04/09/26 23:34:36
>>32
それ見ると、丹羽と前田は同席されなかったらしいけど
なんでだろう?仇敵って書いてあるけど…

あと織田と前田について書かれていなのはなんで?
家来筋が自分より何十万石も上なんだぜ?恥ずかしくないのか?
34日本@名無史さん:04/09/26 23:51:45
たしか、大聖寺前田が大和柳本?の織田に侮蔑され
刃傷した事件があったっけ
35大目付松平:04/09/27 00:07:26
>>33関ヶ原の戦い北陸版で金沢城主前田利長(東軍)と小松城主丹羽長重(西軍)が
小松城下浅井なわてで闘って以来、不仲だったらしい。
前田家側からすれば豊臣政権の五大老次席として丹羽より格は上だという
自負があったし、丹羽家側からすれば自家は旧織田時代は信長の家老の家柄で
あり、柴田勝家の組下にすぎなかった前田よりも本来格は上のはずだという
遺恨が続いたらしい

>>34侮辱されたというより、大聖寺新田藩主前田利昌が乱心して柳本織田家の当主に
斬りつけたらしい。
36日本@名無史さん:04/09/27 00:09:48
関が原の北陸版である浅井なわて(?記憶が曖昧)で戦っているから
でつ。

信雄の系統は江戸初期には織田家という事で御三家に次ぐくらいの扱い
だったそうですが、その後どんどんと格下げになったそうです。
37日本@名無史さん:04/09/28 02:32:20
そういえば、福島家と加藤家ってその後どうなったの?
確か一万石を与えられたんでしょ?
でも諸侯には列せられていないだけど……
38日本@名無史さん:04/09/28 09:55:18
加藤と福島も死後お取りつぶし、福島の系統は旗本として取り立てられる。
ちなみに福島は川中島4.5万石になるが、正則死後検死を待たずに荼毘に
ふしたという理由でそれも取り上げられる。
39日本@名無史さん:04/09/28 10:08:39
加藤は?
そういえば肥後加藤家って清正しか知らない……
4038:04/09/28 15:21:05
説明不足すまそ。
忠広の死後、嫡子の光広が先に死んでいるという理由で1万石も取り上げられ
てます。
秀吉取立ての有名所で取り潰し後に1万石与えられて生き延びたのは生駒と
加藤嘉明の系統でつ。
生駒は8000石の交代寄合から明治に1万石に高直し、加藤は後に2万石に
なって水口城主で終わりました。
41日本@名無史さん:04/09/28 16:23:16
>>28
仙石は逆に譜代格から外様扱いになった。
  http://museum.umic.ueda.nagano.jp/hakubutsukan/story/sengoku/cont_sengoku/087.html
帝鑑間から柳の間へと席が変更になった。
 
42日本@名無史さん:04/09/28 18:04:02
肥後加藤家改易というと必ず二代目の加藤忠広が暗君だとか言われるけど、真の愚者はその世継ぎの光広らしいな。
若年の光広は同世代の近習達とグルになって、知恵遅れ気味の家臣に対し「幕府に謀反を起こすからお前も部一軍を率いよ。」
なんて座興を行なってからかったらビビりまくったそいつが幕府に訴えて大問題になり結局御家取り潰し。馬鹿丸出し。
4342:04/09/28 18:09:30
「部一軍」てとこは「一軍」に訂正します。
いや「部将になれ。」と書くか「一軍を率いよ。」にするか迷ってたのよ。
44日本@名無史さん:04/09/28 19:12:05
そういえば最上も潰されたよね。
最上、加藤、筒井、蒲生。
一万石をも取り上げられた人たちはどうなったんだろう?
45日本@名無史さん:04/09/28 19:19:19
せっぷんしたよ
46日本@名無史さん:04/09/28 19:37:05
>>42
福島正則、加藤嘉明ら腰の抜け果てた田分け者よりははるかに気概があって大変結構だね。

47日本@名無史さん:04/09/28 20:18:39
最上は1万石の後5000石の交代寄合、詳しくは最上スレへ
筒井はお取り潰し、蒲生は松山20万石の後、跡継ぎなく廃絶
48日本@名無史さん:04/09/28 20:39:36
取りつぶしやらなにやらばっかだな。
江戸時代に浪人が増えたわけだ。
49日本@名無史さん:04/09/28 20:55:27
>>44
加藤はその後庄内に配流され、土着しました。
その十何代かの子孫が漏れです('A`)
50日本@名無史さん:04/09/28 20:58:10
>>1
江戸城でひれ伏す相手は将軍に対してだけだろ。
後は自分より格上(官位とか江戸城で割り与えられる待ち部屋の
格とか)には廊下の端によって会釈、同等ぐらいならお互い
会釈程度だと思う。
昔の関係なんて関係ないよ。
51日本@名無史さん:04/09/28 20:59:31
>34
織田監物を刺した前田妥女は大聖寺のさらに分家。
52日本@名無史さん:04/09/28 21:23:26
ところで前田が織田を刺したのも勅使接待の件だったな……
出雲の亀井が吉良を刺そうとしたのも(そんな事件があった)勅使…

やっぱり疲れるのかな?
53日本@名無史さん:04/09/29 00:28:25
亀井これちか の 吉良ブッスリ未遂は
津和野銘菓源氏絵巻などでも由来としてうたってるが
史実かどうか?
仮名手本忠臣蔵定本確立後にそれの影響で創作された可能性もある。
54日本@名無史さん:04/09/29 00:49:42
大名という職業はかなりきつかったと思う。

乱心で取り潰されたのはかなりあるから。
55日本@名無史さん:04/09/29 09:39:18
乱心ってのは口実をあわせるための手段でしょ。
基地外と決め付けて取り潰し
56日本@名無史さん:04/09/29 10:36:52
まあ家督を継ぐまでは二番目に偉い、将来家督を継いだら一番偉い。
てな感じに大名屋敷の中で育てられて来た奴等が、いざ大名になってみたら
千代田城には自分より偉いのがウジャウジャいて自分なんかワン・オブ・ゼムでしかない。
という現実は辛くてなかなか受け入れられない、でも受け入れなきゃならない。
という点で苦労してるのかもしれないよ。
家臣の苦労や領民の負担をモノともせずに殿中での格式をあげる事に夢中になる殿様って結構いるもの。
57日本@名無史さん:04/09/29 11:26:30
やっぱり、大名は弟になって部屋住みするのが一番楽だな
58厨房君:04/09/29 12:27:26
「藩」という言い方は幕末にできたそうだけど、江戸時代に今でいうところの
「薩摩藩下屋敷」「津和野藩主」を呼んでいたんですか?薩摩藩なら「薩摩国
主」かもしれませんが、「国主」でない小藩の藩主は?
59日本@名無史さん:04/09/29 12:41:56
藩という言葉が生まれる前には御家と呼ばれてたんじゃないかな。
弘前津軽家(弘前藩)とか津軽家当主(弘前藩主)とか津軽屋敷(弘前藩上屋敷)とか。
あくまでも推測だけど。
60日本@名無史さん:04/09/29 13:38:52
>>58
領がそれにあたると思います。
ただし「薩摩藩下屋敷」は「島津様下屋敷」になるかと。
61日本@名無史さん:04/09/29 14:13:01
>>58
藩の呼称が使われたのは明治新政府が
慶應4年(1868)閏4月21日に旧幕府領を府県、
旧大名の領国を藩と改められた時から、明治4年7月14日
廃藩置県が行なわれた時までの期間のことです。

それ迄の公称は「国」や「家」でした。
旗本の「知行所」に対して、大名領は「領分」「領国」「分国」
と呼ばれ、大名の家臣団は「家中」と称しておりました。
62日本@名無史さん:04/09/29 17:50:55
高家の子孫って今でもいるの?
六角とか吉良とかの。
63日本@名無史さん:04/09/29 17:58:19
>>42
ねえ、面白そうだから加藤光広についてちょっと
調べてみたんだけど、加藤光広の母親は徳川家康の孫だべ?
親戚が幕府の長なのに、そんな発言する必要あるのかな?
64日本@名無史さん:04/09/29 18:20:37
>>63
座興だろ。
65日本@名無史さん:04/09/29 18:28:14
だから光広は当時ヤンチャしたがる若造で同世代の近習達と色々悪戯してたんだよ。
で、そのターゲットに選ばれたのが家中にいた知恵遅れ気味の家来。
その頃の世間じゃ将軍家光と駿河の忠長の確執が噂され展開によっては戦になるのでは、なんて言われてた情勢で
この話に便乗した光広はほとんどの大大名が署名してる偽の連判状をでっちあげ、知恵遅れに見せて
「我等は決起するのでお前も一軍を率いよ。」とからかったらそれを本気にしてびびりまくったの。
そこでフォロー入れとけばよかったんだけど、もっと長期的にからかいたかった光広はそれしないで
逆にふざけ仲間達に「拙者は貴殿の下で働く事となり申した。」なんて耳打ちさせたりしたワケ。
そんな事を度々言われ、自分から何度幕府には敵わぬと諫言しても「もはや決まった事。」と返されるばかりの知恵遅れは
幕府に訴えれば謀反を思い止まってくれるんじゃないか。
と考え(この辺いかにも知恵遅れ)大問題に発展しちゃうのよ。
66日本@名無史さん:04/09/29 18:35:16
リアル ドリーム ドラえもん プロジェクト
「2010年までに本物のドラえもんを作る」を目的とするプロジェクト。
バンダイを中心に有識者、関連技術企業によって運営。
プロジェクトの内容紹介、最新ニュースなど。
http://rddp.jp/ BCC
67日本@名無史さん:04/09/29 19:17:04
加藤光広の母親は、

曽祖父・織田信長
祖父(父方)・蒲生氏郷
祖父(母方)・徳川家康

というなかなか面白い血統の女性だね。
母方の祖母は結局お竹の方なのか下山殿なのかわからないけど、
家康の側室の中では出自がよい方だな。
68日本@名無史さん:04/09/29 19:43:20
>>61
プゲラ
生半可な知識をひけらかしてんじゃねえよ
藩翰譜はいつ出たんだ?
69大學ヘ授:04/09/29 20:20:56
>>61 藩の呼称が使われたのは明治新政府が慶應4年(1868)閏4月21日に旧幕府領を府県、
   旧大名の領国を藩と改められた時から、明治4年7月14日廃藩置県が行なわれた時ま
   での期間のことです。
   それ迄の公称は「国」や「家」でした。
   旗本の「知行所」に対して、大名領は「領分」「領国」「分国」と呼ばれ、大名の
   家臣団は「家中」と称しておりました。

 上記は概ね正しい認識です
70日本@名無史さん:04/09/29 20:33:39
>>69
プゲラ
生半可な知識をひけらかしてんじゃねえよ
藩翰譜はいつ出たんだ?
71日本@名無史さん:04/09/29 20:35:54
生半可な知識も無いんじゃいよいよ恥ずかしいよ
そんなことは自分で調べなさい
検索一発だ
72日本@名無史さん:04/09/29 20:37:43
>70
GJ
73日本@名無史さん:04/09/29 21:00:20
>自分から何度幕府には敵わぬと諫言しても「もはや決まった事。」と返されるばかりの知恵遅れは
>幕府に訴えれば謀反を思い止まってくれるんじゃないか。

どこが知恵遅れだよ。賢いじゃねーか。
74日本@名無史さん:04/09/29 21:48:32
>>67
どこの時点で信長の血が入ってるんだ?
忠広の時?
75日本@名無史さん:04/09/29 21:54:55
2chってモノ訊ねるとき態度でかい奴って多いな
76日本@名無史さん:04/09/29 22:41:03
>>74
織田信長――蒲生氏郷室――蒲生秀行――加藤忠弘室――加藤光広
徳川家康――蒲生秀行室――加藤忠弘室――加藤光広
7767、74:04/09/29 22:45:21
加藤清正の息子と孫の名前は加藤忠広・光正だったかもしれない。
なんか混乱してきた・・・・・・
78日本@名無史さん:04/09/29 22:46:29
>>73
要するに、改易されることすら予想できなかったから
知恵遅れという意味では?

>>76
要するに忠広の奥さんに信長と家康の血が入っていたって事ね。
庄内に流された後の子孫って分かっているだけで何代まで下れるの?
7976:04/09/29 23:01:06
>>77
検索してみたら以下のような記述がありました。
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keijiban/kato-ki.htm
徳川吉宗の頃までは子孫がいた模様。


結局、光広でも光政でも正しいということなんだろうか。
80日本@名無史さん:04/09/29 23:50:35
清正--忠広--光広(光政)--?

光広は江戸に移送される途中に、自害して果てたらしい。
この時15歳。子供がいるとは思えんが……
81日本@名無史さん:04/09/29 23:54:33
いや忠広が配流先で作った子供の子孫。
光正には子孫なし。
82日本@名無史さん:04/09/30 00:10:51
>>81
へー、もう一人子供がいたんだ。
名前とか分かりますか?
83日本@名無史さん:04/09/30 00:14:17
いや梅毒で死んでしまった
84日本@名無史さん:04/09/30 00:19:50
>>82
一説に熊太郎という男子が居て、光広が江戸に行く際にも(途中で自害)
そのまま庄内に留まったらしい。
現在山形県内で確認されている清正の子孫はこの熊太郎から出た家系の可能性大。

どう?うろ覚えでスマン。
誰か忠広の子供について知っている人いたらキボンヌ
85日本@名無史さん:04/09/30 00:39:56
忠広の子孫については、以下の伝説があるらしい。
http://www.yamagata-np.co.jp/media/chimei/kj/k154.html


だけど「光秋」という名前はありなのか?
光正(光広)の場合は徳川家光からの一字拝領だろうけど、
庶子、しかも配流先でできた子が光秋と名乗るか疑問。
86日本@名無史さん:04/09/30 00:54:52
>>85から引用
>やがて光秋は成長すると加藤村で、ある娘と結ばれ、道久という男の子が誕生する。大人になった道久も、幕府の目を逃れ、勘右衛門と名乗って余目の家根合(かねあい)に移り住んだ後、
>酒田の新堀に永住。子孫は今も健在であるという。

マジで!?
俺酒田出身の加藤なんだけど、関係あるのかな!?
家紋も蛇の目だし……
87日本@名無史さん:04/09/30 01:15:55
とりあえずここまで繋がったな
清正--忠広--光広(自害)
     /---光秋--道久--?

最後の道久が名を変えて酒田に移り住んだところを見ると、
町民籍ということになるかな?
この辺りの身分(取り潰し大名の庶民化)の扱いについて、全く無知なんで助言求む  
88日本@名無史さん:04/09/30 01:50:41
>>79のサイトの記述からだと

  嫡子となった忠広の子には豊後守光正(一に光広)のほか虎竹(沼田真田家に預けの正良と同人か),
  二女子という子があったと伝えます。豊後守光正は飛騨配流の途中,15歳ほどで自害し,正系は断絶します。
  また,忠広が出羽庄内に流されてからの子女として,熊太郎と一女子があったと伝え、
  その後裔が山形県に現存するとされます。後になって、有徳院将軍吉宗は享保年間に加藤清正の子孫を召し出し旗本としましたが,
  加藤寅之助に禄千五百石を給した(『肥後国志細注』)とも、加藤虎松に禄五百石を給した(『閑余漫録』)、とも記されます。

   (略)

  ○関係の論考・記述として、気づいたものでは、
  ・佐藤清五郎氏が『旅とルーツ』誌に
   「加藤清正と子孫の動向」(第67号、1994年)
   「(子孫訪問)加藤清正の末裔 十四世孫加藤醇さん」(第77号、1999年)
  という記事を書いており、後者では忠広を初代として、第2代光秋、第3代道久以下現代の当主までの略系を記載しています。




以上から

忠広―+―光正
     |
     +―虎竹(正良?)
     |
     +―熊太郎……加藤寅之助 or 加藤虎松


忠広―――光秋―――道久……加藤醇
89日本@名無史さん:04/09/30 02:23:17
>・佐藤清五郎氏が『旅とルーツ』誌に
>「加藤清正と子孫の動向」(第67号、1994年)
>「(子孫訪問)加藤清正の末裔 十四世孫加藤醇さん」(第77号、1999年)
>という記事を書いており、後者では忠広を初代として、第2代光秋、第3代道久以下
>現代の当主までの略系を記載しています。

系図見たいなあ、誰か持ってない?
系図だけでもいいから
90日本@名無史さん:04/09/30 05:38:39
昔図書館でコピーしたな
91日本@名無史さん:04/09/30 10:39:30
>>90
今でも持ってたらキボンヌ
92日本@名無史さん:04/09/30 17:43:43
金森家は改易される途中に、火を放って自害したってんだから凄いよな…
9358:04/09/30 22:25:40
皆さん、大変勉強になりました(^^
94日本@名無史さん:04/09/30 22:52:56
>>49にご子孫さんが降臨されているではないか。
9549:04/10/01 00:26:15
>>94
いや……
しっかりした系図があるわけでもないから。
ネタ半分に聞いといてちょ
96日本@名無史さん:04/10/01 01:25:35
徳川家康、織田信長の血が入っていない江戸後期の大名なんているのかな……?
97日本@名無史さん:04/10/01 01:46:22
>>95
山形旅行した時に見学しました。
9849:04/10/01 02:01:48
>>97
なにを?
ちなみに俺は山形生まれだが、丸岡なんて行った事が無い。
99日本@名無史さん:04/10/01 04:20:47
織田信長の血だと限定されそうな気がするな
100日本@名無史さん:04/10/01 10:01:19
そういう面を考えると、娘の嫁ぎ先の息子たちが改易されて
ある人物の血を持った人間が野に下ることになる……
高貴な人物は嫁ぎ先が限定されてるとはいえ、ここまで考えると
戦国大名の子孫ってたくさん居るんだな。
101日本@名無史さん:04/10/01 10:57:33
名族の嫡統だったり名将の子孫だったりすると一度潰れてもほとぼりがさめた頃に御家再興してくれるしね。
あくまでも保護・コレクションの対象なので危険性のない小大名・旗本としてだが。
102日本@名無史さん:04/10/01 15:36:51
一色とか斯波とか細川(京兆)とか北畠とか菊地とか
伊勢とか武田とか木曽とか上杉(扇谷)とか足利(将軍家嫡流)は
永遠に日の目を見ることになりませんでしたがなにか?
103日本@名無史さん:04/10/01 15:37:26
↑追記
北畠や菊地は維新時に日の目を見ているね。
104日本@名無史さん:04/10/01 18:50:34
清正の子孫が旗本にされたって書いてあったけど
名前とか分からない?
後世にも名前が残ってないし……

清正の娘が生んだ子供の子孫が吉宗だから、単なる伝承話じゃないかな?
大岡越前の三方一両損みたいな。
105日本@名無史さん:04/10/01 19:12:50
>>104

そういう面もありそうだねえ

千五百石の加藤寅之助はパチモン(別系)
五百余石の加藤百之助はガチ(家老の家だが清正の外孫)

江戸幕臣人名事典と寛政重修諸家譜参照
106日本@名無史さん:04/10/01 20:05:17
加藤寅之助ねえ……
確かにうさんくさい。寅と虎をかけたんだなきっと
107日本@名無史さん:04/10/01 20:55:13
それに道久って人は幕府から逃げて商人自治区の酒田に移り住んだんでしょ?
「清正の子孫ってことは危ないから内緒だよ」って代々言われてただろう酒田加藤家が
吉宗の時代にほいほいと江戸までついていくかな普通
108日本@名無史さん:04/10/01 23:25:45
加藤道久の子供とかの系図ないの?
109日本@名無史さん:04/10/02 02:53:53
あってもこんなくそスレのゴミみたいな奴らの為に書きこむわけないじゃん
110日本@名無史さん:04/10/02 03:47:33
↑みたいではなくゴミそのもの
111日本@名無史さん:04/10/02 14:17:42
>>109-110
がゴミ
112日本@名無史さん:04/10/03 10:09:04
清正子孫の略系図

清正−忠広−光秋−道久−了道−了然−主膳(以下略)
113日本@名無史さん:04/10/03 17:13:16
>>107
「系譜が清正まで繋がる将軍様の御世」

だからこそ、御赦免みたいなもんでしょ。
白石の真田ですらそれ以前に呼び出し受けてるし。


流れと違うけど、宇喜多はずっと許されなかったんだなぁ・・・
114日本@名無史さん:04/10/03 17:18:29
どうでもいいが、「戦国大名の子孫って、江戸城で土下座するの?」ってスレなわけだがら
>>1にあるように、江戸城の廊下とかでばったり会ったら土下座するのかについて話せよ。
それ以外の話題ははスレ違い。
あんまりスレ違いの話が続くならこのスレの削除依頼を出すよ。
115日本@名無史さん:04/10/03 17:26:39
>>112
略さないで全部教えてくれ〜
図書館必死になって探したんだが、見つからないんだ!
116日本@名無史さん:04/10/03 17:44:56
>>114
お前が、見なきゃ、いいだけ。

お前の板かそうかそうか。
117日本@名無史さん:04/10/03 17:57:33
>>116
なんかお前糞スレに必死にこだわってるな>>1なのか?
スレに全く関係ない話題で必死に糞スレ伸ばそうとするなよ

>>115
嘘付くな
図書館なんか行ったことも無いくせによ
118日本@名無史さん:04/10/03 19:07:31
>>117
自称読書家なんで休日には毎日いってますよ〜
119日本@名無史さん:04/10/03 19:29:20
……というのは、嘘で
隣が図書館なんです
120日本@名無史さん:04/10/03 20:13:06
>>112
益々スレ違いになってしまうけど
最後に書いてある主膳って「主膳」という官位名ですよね?
この人が旗本に取り立てられて、主膳に領以されたのでしょうか?
121日本@名無史さん:04/10/03 20:46:43
加藤茶も清正公子孫の一人です。庄屋になった家系の庶流だそうです。
122日本@名無史さん:04/10/03 21:11:13
加藤鷹も清正公子孫の一人です。庄屋になった家系の庶流だそうです。
123日本@名無史さん:04/10/03 21:18:51
>>120

主膳正とかでない限り、私称でしょう

ところで、領以って何??
124日本@名無史さん:04/10/03 21:34:25
>>123
すいません、受領と間違えました。

……でも私称したってことはそれなりの地位にいたんでしょうね
125日本@名無史さん:04/10/03 22:19:48
>>112

これがマジなら、道久−了道−了然あたりは僧籍にあったということかな?
126日本@名無史さん:04/10/03 23:02:53
山形県人だけど、清正の子孫が出家した寺なんか知らないよ
127日本@名無史さん:04/10/04 09:29:02
元清正の家臣で10000石の大名になった香具師がいたな。

そういえば没落した大名の陪臣だったけどいろいろあって大名になれた
人って、旗本とかに取り立てられて再興した元主家とどうつきあうのだろうか……?
128日本@名無史さん:04/10/04 11:28:15
将軍の前ではすべての大名は同僚
石高や官位や将軍家との親疎に応じて、詰めの間(控え室)が異なる

個人的に旧主家に敬意を払うヤシがいたかも知れないが
必要以上に昔をなつかしむと、現体制=将軍体制を否定するもの
と取られて命とり
129日本@名無史さん:04/10/04 12:28:45
超遅レスだが
藩というのが幕末から明治期になってから使われだしたのなら
”親藩”とう語も後世のもので
当時は使われてなかったの?
130日本@名無史さん:04/10/04 15:02:08
御三家とか御連枝っていいかたしたんじゃないですかね
131日本@名無史さん:04/10/04 15:03:47
>>128 美濃守南部侍従利敬と土佐守津軽寧親はある意味昔を懐かしんでいたのかな?
132日本@名無史さん:04/10/04 15:26:01
んで清正子孫の旗本と正則子孫の旗本って仲がよかったのかな?
133日本@名無史さん:04/10/04 22:40:41
福島左衛門大夫(正則子孫・旗本)と、加藤主計頭(清正子孫・旗本)、加藤越中守(嘉明子孫・水口2万5000石。譜代格)の子孫は互いに不仲であったろう。
134日本@名無史さん:04/10/05 00:01:25
と思わせといて、化膿姉妹みたいにギャラがないと
演技しなかったりして
ヨーロッパの街角にいるよね、お金を置くと動く大道芸人
あんな感じ
135日本@名無史さん:04/10/05 00:15:12
殿様たちは親戚同士だjからな。
136日本@名無史さん:04/10/05 00:18:57
>135
クソスレあげんな
137日本@名無史さん:04/10/05 01:08:57
>>133
なんで?
138日本@名無史さん:04/10/06 12:46:35
139日本@名無史さん:04/10/17 17:10:08
加藤清正も福島正則も浅野幸長も豊臣家を何とか存続させようと奔走し過ぎたんで逆にそれを見てた家康は
これ程までに豊臣系大名のアイデンティティーとなってる豊臣家は危険すぎる存在と見なす様になってくんだよね。
まあこれだけが理由じゃないが。
140質問は質問スレで:04/10/17 19:05:50
【初心者】スレッド立てる前に質問をPart8【歓迎】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1093006082/l50
落合博満だけど、何か質問ある?@日本史板
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1093947976/l50
【本物】★★初心者質問スレ★★【本物】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087889438/l50
歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ15
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1092484626/l50
141日本@名無史さん:04/10/20 19:57:16
福島は旗本なのに、なんで加藤は町民なの?
幕府は加藤に恨みでもあったのか?
142日本@名無史さん:04/10/21 18:51:47
加藤の子孫は庄屋だよ。
143日本@名無史さん:04/10/22 18:19:15
庄屋?
一万石に減封された後、もう一度改易にあって町民籍になった話はどこかで
聞いた事があるけど、庄屋になった話は聞かないな〜

っというより、わざわざ潰した大名を名字帯刀を許された庄屋にするかな?
完全に取り潰すか、町民にさせて前歴を抹消させるかの二つだと思うんだが?
144日本@名無史さん:04/10/22 19:43:25
>>143
ほとんどの取り潰された家は旗本になっているが。
145日本@名無史さん:04/10/22 23:26:06
調べてみたけど、清正子孫の旗本なんていなかったよ。
吉宗政策の講談なんじゃない?
ちなみに、福島、最上はちゃんとありますた
146日本@名無史さん:04/10/23 01:43:27
144 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/10/22(金) 19:43
>>143
ほとんどの取り潰された家は旗本になっているが。

嘘付くんじゃねーよ
147日本@名無史さん:04/10/24 21:52:26
土下座して謝罪した「慰安婦ヌード」
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/02/16/20040216000055.html
タレントの李丞涓(イ・スンヨン)さんの「慰安婦ヌード」
を制作・企画した(株)ネティアンエンターテインメントが
元「日本軍慰安婦」の女性たちに土下座し、制作の中断を発表した。
148日本@名無史さん:04/10/24 22:39:15
半年以上前のをわざわざ
149日本@名無史さん:04/10/25 00:56:11
検察が事実上の死刑求刑 元留学生土下座し謝罪
http://www.kobe-np.co.jp/kyodonews/news/4101901002983.html
150日本@名無史さん:04/10/26 01:57:05
でもさあ、一度は50万石の大名になった加藤家だよ?
旗本にすらなれなかったてのはおかしいんじゃないかな〜?

調べてみたら、血縁は自害または病死しているらしいんだが。
151日本@名無史さん:04/10/26 02:11:07
>>150
っか、清正の加藤家は二代目の忠広(清正の三男)で改易されてるんだよ

旗本ってのは、戦国でいうところの旗の元、つまり主君の傍に仕えて主君を守る家柄だから…

徳川でなく、豊臣幕府だったら『旗本にすらならない…』lって論議もあるかもしれないけど

徳川幕府の外様で、ましてや豊臣子飼いの清正の子孫が旗本になれる方が変だよ

地方で一万石程度の領主になった有名所の子孫は多いけどね
152日本@名無史さん:04/10/26 02:15:35
      r;ァ'N;:::::::::::::,ィ/      >::::::::::ヽ
.      〃  ヽル1'´        ∠:::::::::::::::::i
       i′  ___, - ,. = -一   ̄l:::::::::::::::l
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      l        _,, -‐''二ゝ  l::::l f゙ヽ |、 ここはお前の日記帳じゃねえんだ
        レー-- 、ヽヾニ-ァ,ニ;=、_   !:::l ) } ト
       ヾ¨'7"ry、`   ー゙='ニ,,,`    }::ヽ(ノ  チラシの裏にでも書いてろ
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153日本@名無史さん:04/10/26 03:12:24

バカ
154いえみつ:04/10/26 03:24:56
      r;ァ'N;:::::::::::::,ィ/      >::::::::::ヽ
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       ヾ¨'7"ry、`   ー゙='ニ,,,`    }::ヽ(ノ  布団を敷こう
:ーゝヽ、     !´ " ̄ 'l,;;;;,,,.、       ,i:::::::ミ
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  ↑>>152
155105:04/10/26 08:54:10
>>145

寛政重修諸家譜の第十三、七十四頁
もと片岡氏だが清正の外孫
旗本に召出されたのは秀忠の時
156日本@名無史さん:04/11/18 00:09:48
157日本@名無史さん:04/12/02 16:44:09
>>155
そういうのを子孫と呼べるのかなあ?
158日本@名無史さん:04/12/11 15:14:31
>>151
「旗本」は、万石以下=大名未満の家臣、ってだけの意味でもある。

将軍家の譜代の家臣という意味とは限らないよ
159日本@名無史さん:04/12/23 16:48:05
外様大名の家から分家して「旗本」になった者も
数多くいるしな。
160日本@名無史さん:04/12/23 18:39:28
野木将軍(当時長州藩士)みたいなもんだな
161日本@名無史さん:05/01/03 01:30:43
なんやねんそれ
162日本@名無史さん:05/01/03 01:33:35
外様の分家の旗本が加増されて諸侯になると譜代になる例もあるしね
163日本@名無史さん:05/01/03 19:10:05
いちいち土下座しないでしょ?
出会った時点で位や待遇が上の方が偉い。これは常識でしょう。
加賀前田家が天童織田家や柏原織田家に土下座するなんてことが
あれば、周囲は「尋常ではない。何事だ!」って大騒ぎになると
思う。
もちろん、祖先の事はお互いに知ってるだろうから、前田家の
方から一礼くらいはするかもしれないけど、それに対して織田家
が威張ってふんぞり返るというようなことはないでしょう。

164金吾秀秋:05/01/03 19:17:49
トグーンの連中は、漏れ様とすれ違うときに土下座するよ(´・ω・`)
165日本@名無史さん:05/01/03 19:44:16
>>1
先祖の身分ではなく、本人たちの身分で上下関係は決まる。
166日本@名無史さん:05/01/22 14:16:38
ぬるぽ
167日本@名無史さん:05/01/23 03:22:53
@南部美濃守と津軽越中守は同席させず、津軽を軽く扱う。
A前田加賀守と丹羽右京大夫では、同席させず
B池田因幡守と永井信濃守も同席させず
C前田加賀守と織田近江守も同席させず
168日本@名無史さん:05/01/24 00:19:03
土下座はもちろんしないけど、、、なにか特別な思いはあるよ。
江戸城(皇居)って表記が自然に頭の中に出来上がってるくらいに。
169日本@名無史さん:05/02/23 23:59:34
>>167
1はともかく、それ以外はどういう理由?
170日本@名無史さん:05/02/24 00:05:22
A前田加賀守と丹羽右京大夫では、同席させず
は、関ヶ原の関係。
当時丹羽は越前に領地を持っていて、関ヶ原の際に加賀の前田と戦をした。
結果家康が勝ち、丹羽は奥州へ捨扶持を与えられる身の上になってしまったから。
その上に、秀吉治世中に丹羽は前田の監視を命じられていたので
前田も丹羽を嫌っていた。

C前田加賀守と織田近江守も同席させず
はかつての君臣関係+前田の分家が織田を江戸城内で刺し殺した事件があったから。

B池田因幡守と永井信濃守も同席させず
は知らん
171日本@名無史さん:05/02/24 02:28:33
>池田因幡守と永井信濃守も同席させず

ヒント:荒木又右衛門
172日本@名無史さん:05/02/24 20:37:21
>>171
ちんこ大名池田の親父と兄貴がアナル大名永井に殺されたから じゃなかった?
173日本@名無史さん:05/03/02 09:25:54
長久手で池田の親父の勝入斉が永井にばっさりやられたから。
息子の輝ちゃんが「俺の親父の首でいくら加増してもらったんよ」
って永井に聞いてその答えを聞いた輝ちゃんが
「俺の親父の首そんな安くねーよヽ(`Д´)ノ ウワァァン」って騒いだので
家康は慌てて永井を大名にしたという。

真偽のほどは知らん。
174日本@名無史さん:05/03/02 09:26:51
ヽ(`Д´)ノ ウワァァン
175日本@名無史さん:05/03/02 11:12:12
>>171が正解。
敵討ちのときの討手側=池田
永井側が仇を保護した
176日本@名無史さん:05/03/02 21:17:04
>>175
その前段が173なんだよ。
177日本@名無史さん:05/03/02 22:06:14
アナル大名永井って何の事ですか?
178日本@名無史さん:05/03/02 22:58:54
そういうことは、普通聞かないものなのに聞く池田も池田だが
首の報酬をその息子に話す永井も永井だなw
179日本@名無史さん:05/03/02 23:02:59
池田恒興と池田元助を討ち取ったのが安藤直次じゃなかった?
180日本@名無史さん:05/03/03 00:01:15
恒興が永井で元助が安藤ではなかったか?
181日本@名無史さん:05/03/03 20:07:47
>>177
家康の衆道の相手 井伊の後釜 蛍大名といわれた。

池田の輝は、家康が猫かわいがりしていた次女の旦那。
福島に一物で獲った百万石と言われた。
ちなみに鳥取池田は家康の孫なので親藩。岡山は先妻の子なので外様。
182日本@名無史さん:05/03/03 20:36:13
鳥取って親藩だったんだ。
ってっきり外様だとおもてたよー。
183日本@名無史さん:05/03/03 20:45:58
今上陛下の姉君がお輿入れした池田は元鳥取の池田家でしたって?
184日本@名無史さん:05/03/03 21:03:19
では両池田家は一族意識も希薄だったのだろうか?
185日本@名無史さん:05/03/03 21:16:32
三船敏郎 -TOSHIRO MIFUNE-
http://www.mifuneproductions.co.jp/ BCC BCC

本  名 三船敏郎(同じ)
生年月日 1920年4月1日
没年月日 1997年12月24日(77歳)
ボディサイズ 身長172cm・体重73kg・靴のサイズ26cm
趣味・特技 乗馬・射撃・剣術
嗜好
<食事> 中国料理、和菓子他
<お酒> ビール、ワイン、ウイスキー他
<煙草> 愛煙家(ダンヒル、カルテェ他洋煙多し)
洋服 スーツはバーバリー他
Yシャツ、ネクタイはランバン他
靴はバリー他
車 1952年型MG-TDを45年間愛用。
その他、米映画「グランプリ」出演の際買い求めた1962年型ロールスロイス・シルバークラウドなど多数
船 モーターボートを所有。
186日本@名無史さん:05/03/03 21:17:11
アナル俳優永井大
187日本@名無史さん:05/03/04 05:49:43
>>183
岡山の池田動物園のオーナー
>>184
養子や正妻などは支藩も含めもらってない。
伊達なんかは宇和島の別家と仲が悪かったのに養子や正妻の送り込みなど
親戚づきあいはしまくってた。
ただし、幕末の藩主は兄弟だったかと、生家が同じ
188日本@名無史さん:05/03/07 01:44:56
鳥取が親藩ってのはいいすぎだろ。確かに江戸城では大広間席から大廊下下之御部屋席
という親族同然の扱いを受けていたが。
189日本@名無史さん:05/03/07 01:57:49
>江戸城で土下座するの?
土下座とはいわない。
平伏という。
190日本@名無史さん:05/03/07 04:19:05
>>188
池田の家紋 岡山 ちょうちょ なのに 鳥取は 葵だぞ。
初代は、3代目将軍候補だったんだし
191日本@名無史さん:05/03/07 05:51:50
ttp://homepage3.nifty.com/ksatake/kakaku01.html#KAKU-6-2

ここ見る限り葵ではないが。一代限りじゃね?
ってか、3代将軍候補?
192日本@名無史さん:05/03/07 17:07:35
三代将軍候補って池田宰相輝政がか。
193日本@名無史さん:05/03/07 17:36:17
>>188
鳥取の池田家は、江戸時代の後期に
徳川家から養子が入っている。
よって、現在の鳥取・池田家は男系でみると徳川家。

岡山の池田家は、一時期
島津家から養子が入ったけど
次期に池田家の男系の人間に当主を戻している。
よって、現在の岡山・池田家の当主は
池田輝政からの男系の子孫。
194日本@名無史さん:05/03/07 21:25:08
>>191
http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/rekidai/keizu/ikeda-i.htm
ほい。

>>192
松平忠継 家康最愛の娘の息子だから、家光が生まれるまでの秀忠のスペアだった。
家康の中では、督姫=忠継>>秀康、忠輝 だったらしい。

>>193
どっちも幕末に水戸から養子
195日本@名無史さん:05/03/08 09:02:36
これちょっと話が違うけど、家康が天下をとり、各大名に領地を与える時に、奥州の
伊達政宗が呼ばれて平伏していると、家康が「政宗その方には奥州○○で30万石を与え
る」と言ったのに対し、平伏したまま返答せず、家康が聞こえなかったかと思い再度同
じ事を言ったところ、やわら政宗が「承知致しました、30万石と30万石で都合60万石確
かに拝領仕った」と家康をア然とさせ、しかし一本取られた格好で仕方なく60万石にし
たと聞いたんだがほんとだろうか、ほんとなら徳川が政宗を非常に警戒したというのも
判る。
196日本@名無史さん:05/03/08 09:33:42
>>49
柳生忍法帳で先祖が成敗されていたねw
197日本@名無史さん:05/03/08 09:56:40
>>193>>194
江戸の末期、岡山・池田家には
奥平家(男系では島津系)、水戸徳川家から
養子が入っているが
最後の藩主は、九州の相良家からの養子だが
この相良家の養子の父系の祖父が
昔、池田家から相良家に入った人だったので
最後の藩主の代で、池田輝政の男系の系統に帰ってきたことになる。

http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/chugoku/okayama.html
198日本@名無史さん:05/03/08 11:02:27
本家は岡山池田のほうなんだよな?

そういえば参勤交代中にごたごたで結局責任者切腹とかあったような気がする。
何家と何家だったか忘れたけど。家格の関係で先着していた大名が
本陣から脇本陣にうつらなきゃならなくてどうのこのうのって事件。
詳細が知りたいです。


あと船使う参勤交代で船沈んで大名郎党ともに溺死全滅とか
200年もあったんだから一回ぐらいあってもよさそうだけどなかったのね。
運がいいなぁ。
199日本@名無史さん:05/03/08 11:04:51
川止めか何かで本陣が込みまくってた時に
牧野忠訓は「わしは相部屋でもかまわんぞ」といったことがあるらしい。
結局家臣が野宿することでクリアしたらしいが。
なかなか気さくな殿様ではないかと思う
200相馬長門守:05/03/08 23:12:24
>>198 それって、陸奥中村の相馬長門守が参勤で国許に赴く途中、おりしも江戸出府
のため会津から出てきた松平肥後守と鉢合わせし、宿割りの件で家来同士が
もめて相馬家来が会津の家来を切った事件ではないのか。

佐藤雅美「槍持ち佐五兵衛の首」という小説に書かれていた。
201日本@名無史さん:05/03/08 23:27:34
202日本@名無史さん:05/03/08 23:39:37
交代寄合だけれど知久家が川渡りの時流された事はあった
何年か後に刀が川から出てきた
203日本@名無史さん:05/03/09 00:37:47
>198
>本家は岡山池田のほうなんだよな?
 敢えて言えばそうなんだろうけど、元々が外様池田家の分家というより、家康の外孫
を大名に取り立てたという面が強いため、本家分家という感じではなかった、という話
ではないでしょうか。
204日本@名無史さん:05/03/09 04:19:22
>>198
鳥取は、織田信長の乳兄弟の池田家子孫っていうより、督姫子孫としての松平(池田)家って感じの別の家
松平(久松)や松平(奥平)と同じような感じの。だから、親藩扱い。権現様の孫>>池田の本家 って
考えてたんじゃない。

岡山は廃嫡とか弟の家来になるとか支藩藩主にとかされなくてラッキーって感じなので、
争いごとも少なかったと思われ。

その代わりといってはなんだが、分家か別家争いを繰り広げた仙台と宇和島でも血筋が絶えそうになると
養子をもらったりしてるが、そういうやりとりもなさそう。
205日本@名無史さん:05/03/09 04:22:07
>>204に追加
岡山池田も松平もらってただろ。という香具師対策
鳥取は分家も松平姓だからね。
206日本@名無史さん:05/03/09 04:40:47
>>195
うっそくせー。
ホントに、「承知致しました、30万石と30万石で都合60万石確かに拝領仕った」なんてホザイていたら
家康にぶった切られても文句言えないよな。
207日本@名無史さん:05/03/09 17:45:11
>>206
この話は東北旅行で観光バスのガイドさんから聞いた事なんで真偽のほどは
不明、話としては面白いと思ってカキコしたんだけどね、でもやっぱり作り
話ぽいねどうも・・・
208日本@名無史さん:05/03/09 17:58:40
家康からの政宗への朱印状は勝田郡一郡のみという朱印状が残っている
209日本@名無史さん:05/03/09 18:07:13
>208
ええー、ほんとかよ!?
210日本@名無史さん:05/03/09 20:13:46
>>206
元々の領土安堵+拝領だから30*2だと元々の領土は無しですか。
211日本@名無史さん:05/03/09 20:42:22
>>204
鳥取が親藩扱いというのは初耳。
そーすきぼん
212日本@名無史さん:05/03/09 20:50:42
>181=204 は思い付きででまかせを書いているんじゃないのか。
池田が親藩などとほざくバカがいるスレはここですか。
213日本@名無史さん:05/03/10 05:44:20
>>212
岡山市サイト
214日本@名無史さん:2005/04/06(水) 23:56:55
はあ?
215日本@名無史さん:2005/05/03(火) 01:29:32
216日本@名無史さん:2005/05/03(火) 01:56:35
鳥取池田は江戸城での序列では岡山池田より上で、松平家の親藩と同じ位置
217日本@名無史さん:2005/05/03(火) 02:02:32
鳥取池田の最後の藩主って徳川慶喜の弟じゃなかったっけ?
218日本@名無史さん:2005/05/04(水) 23:56:29
>>217
岡山池田もな。
219日本@名無史さん:2005/05/05(木) 00:15:14
岡山池田は徳川の縁続きじゃ不味いので、分家に養子に来ていた殿に代わったはずだ
220日本@名無史さん:2005/05/26(木) 01:49:49
そうなの?
221日本@名無史さん:2005/05/26(木) 02:17:25
因州藩は外様だが、葵紋の使用を許されたり、将軍家や水戸家から養子を迎えたりして、
幕末には親藩並の扱いになってるな。
222日本@名無史さん:2005/05/28(土) 23:34:17
波州一国の国持大名の蜂須賀淡路守も将軍家より斉裕を当主に迎え、親戚同然となっている。
223日本@名無史さん:2005/06/08(水) 18:17:52
>222
それはあなたの思いこみです。
224日本@名無史さん:2005/06/10(金) 11:26:41
>>223
それはあなたの思いやりです
225日本@名無史さん:2005/06/17(金) 18:48:17
ん?
226日本@名無史さん:2005/07/01(金) 02:41:03
意味不明
227日本@名無史さん:2005/07/01(金) 16:42:18
あげ
228日本@名無史さん:2005/07/01(金) 20:09:28
因州鳥取の池田相模守は御国司・准親藩として幕末には大広間下之御部屋席に詰めていたが、
一方で主筋の織田伊勢守は国主格を剥奪され大広間席から陣屋住まいの柳間席に移されている
時代だな
229日本@名無史さん:2005/07/01(金) 20:29:57
>>221
もともと、鳥取池田は初代が家康の外孫だから、準親藩的
に扱われてきた面がある。支藩にいたるまで、松平姓だったし。
(岡山池田は、松平を名乗るのは、岡山の本家のみで、
支藩は池田を名乗っていた。)
230日本@名無史さん:2005/07/01(金) 20:43:43
>あと、南部と津軽とか先祖が殺し合いをしていた
>藩同士がばったりあったらどうするの?

その場で殴りあいが始まります。
231松平伊豆守信明:2005/07/01(金) 21:55:11
文政になると津軽右京大夫寧親は御三卿田安家のコネクションも活用して家格を四万七千石から十万石に高直しをし、
また従四位下侍従となったため、柳間席から国持大名が詰める大広間席に昇格した。南部と肩を並べたわけである。
ただ、幕府は南部と津軽の参勤交代を交互にして江戸で藩主同士がかちあわないようにしていた。
また、幕府には津軽を軽く扱い、南部と津軽の関係者同士を同席はさせないようにしていた。
また、津軽は参勤の際、出羽佐竹領をとり、陸奥盛岡領はとらないようにしていた。
232日本@名無史さん:2005/07/14(木) 05:36:59
>>82
なるほど
233日本@名無史さん:2005/07/14(木) 05:39:23
間違えた

>>182
なるほど
234日本@名無史さん:2005/07/14(木) 05:40:22
スマソ また間違えた

>>128
235日本@名無史さん:2005/07/14(木) 21:59:21
>>194

家康は自分の子でも好きな子と嫌いな子の待遇の差が激しい。
236日本@名無史さん:2005/07/15(金) 01:25:38
戦国大名の子孫といえば、徳川宗家もそうなのだが、将軍自体も天皇の勅使
が来ると土下座(平伏)していたぞ。
237日本@名無史さん:2005/07/15(金) 01:34:35
御殿医はそのへんの小大名より官位は上だった。
大名は江戸城下で御殿医に会うと礼をとらなければならない。
しかし御殿医には農民出身者などもいた。
それをよしとしない大名は時間をずらしたりしたらしい。
238日本@名無史さん:2005/07/15(金) 03:07:50
>>236
将軍は土下座はしない。
勅使も上段に上がれるだけで将軍よりは下の扱いだったはず。
239日本@名無史さん:2005/07/15(金) 06:07:42
>>231
津軽を軽く扱ったってあるけど、どう軽く扱ったの?
240日本@名無史さん:2005/07/16(土) 15:32:06
今日別のこと調べていて知ったんだけど
前田藩の家来には伊藤何某という、戦国末期に潰された戦国大名の本血筋が居たようだ。
(明治まで続いたかどうかは知らない)

江戸の治世になった戦国時代の話とかはもう関係ないかも。
241日本@名無史さん:2005/07/16(土) 15:33:15
>>240
前田藩→加賀藩 ね
242日本@名無史さん:2005/07/17(日) 09:41:59
関ヶ原で土壇場寝返りしたが、通款を明らかにしなかったという理由で家康から観傍反覆を咎められ、改易された赤座直保も加賀藩に仕えたらしいね。
でも西軍の怨霊に祟られたのか、濁流を渡河中に落馬、溺死している。
243日本@名無史さん:2005/08/14(日) 00:02:26
244日本@名無史さん:2005/08/22(月) 01:34:47
>198
寛文3年(1663年)に森藩主久留島通清が船で参勤中、暴風雨に遭い
自身は助かったものの、弟や家臣の多くが死んだそうです。
因みに久留島家の先祖は水軍…
245日本@名無史さん:2005/08/24(水) 00:06:09
>>49
あなたは漏れの小学校時代の担任でつか? ちなみに神奈川
246日本@名無史さん:2005/08/24(水) 16:03:53
>>244
俗に300諸侯といわれるほどいるのに
よりにもよって源平合戦の頃からの
水軍の名門の村上水軍の末裔の家がそんな目にあっていたなんて・・・

まぁ久留島も九鬼も水軍上がりとはいえ陸に国替えされちゃったからなぁ
でも幕末にアメリカいった船では塩飽の人たち大活躍したらしいですぜ。
おカに上がった水軍大名は駄目ってことか・・・
247日本@名無史さん:2005/09/04(日) 17:40:31
>>240
あれかな、関ヶ原の時に大垣城主だった伊藤家とか。
248日本@名無史さん:2005/09/09(金) 19:56:26
むむっ岡本大八め 許さんぞ!
249日本@名無史さん:2005/10/03(月) 00:25:23
だれだっけ?
250日本@名無史さん:2005/10/24(月) 21:33:38
251日本@名無史さん:2005/10/31(月) 01:56:12
男はやらない。女はやる。w
252日本@名無史さん:2005/10/31(月) 02:01:53
女だったら江戸というだけで有難がって
土下座でもなんでもするだろ。犬と同じで権力に迎合する

男だったらやらない。反権力のほうがかっこいいだろ?
253日本@名無史さん:2005/11/16(水) 19:57:07
好きだから
254日本@名無史さん:2005/11/16(水) 20:41:51
平安時代って江戸の前だっけ?
まあ新しいんじゃないかな?
255日本@名無史さん:2005/11/26(土) 12:29:27
馬鹿ハケン
256日本@名無史さん:2005/11/26(土) 12:56:39
>>236
幕末までは将軍が上座、勅使は下座じゃなかったっけ?
その後、幕威の衰えとともに対等になり、それからすぐ上下が逆になったような…
257日本@名無史さん:2005/11/30(水) 09:35:22
>>248

江戸初期、キリシタン大名有馬晴信から賄賂巻き上げて、ばっくれて、訴えられて、ばれて、供倒れになったひとですな。
258日本@名無史さん:2005/12/11(日) 00:48:31
ああそうか。
259日本@名無史さん:2006/01/08(日) 17:10:42
260日本@名無しさん:2006/01/08(日) 19:14:41
>>1 >>11

家康は、織田家の人々(信雄、有楽など)には言葉遣い丁寧に
応対したときいたよ。
仲が悪い大名の例では、関が原合戦で、共に西軍の立花宗茂と島津義弘が敗走途中に鉢合わせになった。
島津軍は100人弱で弱りきっていたので、立花家の家臣たちは勇み、島津を討ち取ろうとした。
しかし、立花宗茂はそれを止め、島津義弘は深く礼を述べたという。
261日本@名無史さん:2006/01/15(日) 23:46:37
>>204
鳥取藩と岡山藩は本家分家問題は、官位上昇運動とかで根拠にされた
らしいよ。鳥取藩を引き合いにだして、鳥取藩主のほうが官位上昇が
早いのはどういうことか。こっちが本家なんだからこっちも同等に
扱え、みたいな運動に利用されたらしい。
つきあいに関しては、江戸中ごろに、鳥取藩主娘が岡山藩主の正室に
なってる。あと、鳥取藩の娘が島津藩に嫁にいって斉彬とその弟を
産んだんだけど、その弟を、岡山藩が養子にもらったりしている。
262日本@名無史さん:2006/01/16(月) 21:37:25
で、決着は先帝陛下の内親王殿下のご降嫁でついたと。
岡山の勝ち。
263日本@名無史さん:2006/01/27(金) 11:26:36
>>260
そういうことがあったの?
江戸時代になると立花家と島津家は仲が良くなったと読んだことがあるが、
関ヶ原時代の共闘路線がきっかけかな。
264日本@名無史さん:2006/01/29(日) 01:17:02
各大名屋敷の現存する門のサイトです
http://www.asahi-net.or.jp/~CN3H-KKC/shiro/shiro15.htm
265日本@名無史さん:2006/03/16(木) 20:32:42
島津は立花宗茂の実父の高橋紹雲の仇だもんね〜

海音寺の小説で関ヶ原から撤退中の2人が過去の遺恨は水に流し九州に帰って対徳川の共同戦線張ろうって約束する話があったけどあれは史実なのかな…
266日本@名無史さん:2006/03/19(日) 16:42:52
267日本@名無史さん:2006/04/02(日) 00:10:35
ほほー
268日本@名無史さん:2006/05/01(月) 22:37:43
文政になると津軽右京大夫寧親は御三卿田安家のコネクションも活用して家格を四万七千石から十万石に高直しをし、
また従四位下侍従となったため、柳間席から国持大名が詰める大広間席に昇格した。南部と肩を並べたわけである。
ただ、幕府は南部と津軽の参勤交代を交互にして江戸で藩主同士がかちあわないようにしていた。
また、幕府には津軽を軽く扱い、南部と津軽の関係者同士を同席はさせないようにしていた。
また、津軽は参勤の際、出羽佐竹領をとり、陸奥盛岡領はとらないようにしていた。
269日本@名無史さん:2006/05/12(金) 01:14:59
接吻は明治にできた言葉
もっと昔は口吸いと言ったから
270日本@名無史さん:2006/05/13(土) 23:59:04
南部藩士が津軽藩主狙った事件あったな
271日本@名無史さん:2006/05/14(日) 00:06:48
一度目は南部信直の影武者を用いて、津軽為信を騙し討ちしようとし、幕末には、津軽藩の列に、南部出身の浪人で、かつて影武者として為信殺しを命じられ失敗した一族の末裔が大砲をぶっ放したな。
272日本@名無史さん:2006/05/27(土) 15:36:59
 
273日本@名無史さん:2006/06/27(火) 22:38:48
まさか
274日本@名無史さん:2006/07/01(土) 19:14:58
(本家)岡山池田・・・姫路52→姫路42→鳥取32→岡山31

(別家)鳥取池田・・・淡路6→岡山31→鳥取32(2か国の国主)
官位・・・侍従から少将

275日本@名無史さん:2006/07/14(金) 21:25:01
岡山と鳥取と取りかえっこになったのか
276日本@名無史さん:2006/07/16(日) 15:25:49
そう、鳥取の方が官位も席次も少うし備前池田より上だった。
277日本@名無史さん:2006/07/22(土) 17:17:04
岡山池田が姫路52万石で
鳥取池田が淡路6万石だった時、岡山と鳥取には別の池田があった。
2家とも後に廃絶(取りつぶし)にされたが。

 池田忠継(利隆の異母弟)
岡山28万石⇒岡山38万石⇒廃絶
*実の母に毒饅頭を食わされ中毒死

 池田長吉(輝政の弟)の家
鳥取6万石⇒備中松山7万石⇒廃絶
*親豊臣(長吉は秀吉の養子だった)のを警戒された?

 あと岡山と鳥取の支藩に小大名の分家があったり
米子に家老の城下町があったのはガイシュツ
278日本@名無史さん:2006/07/22(土) 18:14:18
毒饅頭事件自体がかなり胡散くさい話なんだが…。
それに伝わっている内容では食わされたんではなく誤食。

長吉が秀吉の養子どうので親豊臣いうのも少し違うと思われ。
秀吉は恒興存命時からなぜか池田にかなりコビを売っていた
ような節があるし養子も池田が頼んでした訳じゃなく逆パターン。
輝政も養子だったことがある。関が原で兄弟が分かれたのは真田家
同様に、どっちが負けても家は残すための一種の保険みたいな
もんだったんだろ。
279日本@名無史さん:2006/07/22(土) 18:33:04
なるへそ、長吉は羽柴秀長の長と秀吉の長の2字貰ったと思ってた。
小早川や直江山城、徳川の石川、伊達の片倉みたいに
太閤の方から秋波おくってたのか・・・
280日本@名無史さん:2006/07/22(土) 18:39:52
結局、「稀代の愚物」と荒木又衛ェ門一族らに酷評された
池田忠雄・光仲と続く鳥取池田が一番の出世頭か・・・
281日本@名無史さん:2006/07/23(日) 18:49:57
>>279
秀吉の池田懐柔は恒興生母で信長の乳母でもある養徳院にまで
ゴマすり書状を送る程必死だった模様でつ。
恒興が清洲会議の時に秀吉方についたと言われているため池田は誤解を
されている部分があるようですが、勝家との戦では理由不明で従軍しなかった
ことがあり、また、娘婿森武蔵が遺言状の中で秀吉に謀反する気なぞないと
必死に弁明している節もあるため、これらを加味して考えると通説で
いわれているほどはたして池田は親豊臣だったかについては少々疑問な点も
あるようです。

かなりロマンティックで小説的な解釈になりますが、淀が自らを使って
仇である豊臣家を滅ぼしたという見方もできるように、輝政もまた
主家である織田家を乗っ取りやりたい放題の秀吉への復讐、引いては
ある意味仇打ちの意思を胸に秘めその機会を伺い、復讐を遂げたという
解釈もできるかもしれません。(恒興から何か聞いていたのかもしれません)
ちなみに岐阜城が落城し秀信の預け先となった寺は池田家懇意の寺でした。
また、信長の義弟斎藤新五の息子を厚遇で召抱えたのも池田家でした。
282日本@名無史さん:2006/07/24(月) 04:18:36
そういえばいつ江戸城再建されるの?
283松平頼胤:2006/07/24(月) 05:15:04
天守閣再建よりも譜代筆頭たるわが高松松平、会津松平、彦根井伊が詰める溜之間の再建こそが急務
溜之間再建をすすめる会の署名者

松平頼高
井伊直連
松平容長
酒井忠行
久松定明
久松定昭
榊原政恒
本多忠夫
板倉勝種
井上正永
堀田正永
284日本@名無史さん:2006/07/26(水) 04:49:09
江戸城は地方の城に比べて保存状態はいいよ。
285日本@名無史さん:2006/07/29(土) 16:01:36
彦根城や名古屋城に落書きをした
どたわけが居る!!
286日本@名無史さん:2006/08/17(木) 20:38:06
江戸城を作ったのは
大工の源さん
287日本@名無史さん:2006/08/21(月) 17:39:23
どんな人?
288日本@名無史さん:2006/09/09(土) 21:34:31
将軍の一の子分である大老・老中に対しては
御三家も土下座・・まではいかなくても敬礼くらいはしますか?
289日本@名無史さん:2006/09/12(火) 19:21:56
教えてage
290日本@名無史さん:2006/09/12(火) 19:45:57
大老・老中より御三家の方が格上の家だから、江戸城内でも
御三家と大老・老中が出会ったら、大老・老中の方が道を
開ける。
御三家より、老中が上座に着くのは将軍の代理として上意を
伝える時だけ。
291日本@名無史さん:2006/09/12(火) 20:33:56
なるほどです。ありがとうございました
292日本@名無史さん:2006/09/15(金) 21:15:17
御三家といえども城内で大老とすれ違えば
「これはご大老」と礼をしたものです
293日本@名無史さん:2006/09/19(火) 04:34:20
御三家と御三卿はどっちが上?家格ね。
294日本@名無史さん:2006/09/27(水) 11:16:36
>>293
当然御三家
295日本@名無史さん:2006/10/22(日) 21:32:04
ほー
296日本@名無史さん:2006/11/23(木) 16:43:29
そうなんか
297日本@名無史さん:2006/12/22(金) 23:00:51
298日本@名無史さん:2007/01/20(土) 20:31:16
   
299日本@名無史さん:2007/02/22(木) 19:24:01
>>298
なんか書けよww
300日本@名無史さん:2007/03/18(日) 12:30:23
「藩」という言い方は幕末にできたそうだけど、江戸時代に今でいうところの
「薩摩藩下屋敷」「津和野藩主」を呼んでいたんですか?薩摩藩なら「薩摩国
主」かもしれませんが、「国主」でない小藩の藩主は?
301日本@名無史さん
>>300
松平伊豆守様御屋敷とか酒井修理大夫様御屋敷とか言ってたんじゃ?