他にスレが見当たらないので立ててみました。
戦国末期ですが、出兵に参加した武将は島津義弘を始め名将も多いように思います。
そこで戦国時代を生き抜いた戦国武士達がどのように朝鮮半島で戦ったのかを
日本から見た目で語りましょう。
荒らし、中傷等は控えてください。
2 :
日本@名無史さん:04/09/20 23:45:27
★キムチは大阪が起源
韓国名産といわれるキムチ、実は大阪が起源です。
天正から慶長にかけて、羽柴秀吉というお殿様が、
南蛮から伝わった唐辛子を漬物に混ぜたのが始まり
です。
殿様は部下の武士の越冬用として作らせました。
当時は「辛漬」「猩々緋漬」「赤まぶし」と呼ばれ
ていました。
これが韓半島に伝わったのは16世紀後半、いわゆる
朝鮮出兵、壬申丁酉の乱の時でした。
日本よりも寒い朝鮮半島では、体を温める効果のある
唐辛子は珍重されました。当然、武士の食料であった
唐辛子の漬物も海を渡りました。
その後日本では羽柴の血筋が滅亡してしまったため、
唐辛子の漬物の伝統は自然と消え去っていきました。
僅かに、漬物に唐辛子をまぶす習慣や、タカノツメを
入れる習慣だけが残りました。
大阪の食文化を伝える会 銛川芳行
>>1 ×朝鮮出兵
○朝鮮侵略
×文禄の役慶長の役
○壬申丁酉倭乱
歴史用語も正確に使えない人がスレ建てするのはどうかと思うが。
動員兵を復員させるのが困難だったのでやった外征
5 :
日本@名無史さん:04/09/21 00:00:42
>>3 今日の釣果はどんなもんです?
ひょっとして俺が始めて?
うーん、ネタスレじゃなかったんですけどね。。。
他板でもたまに朝鮮出兵(侵略、征伐、etc)の話が出るんですが
知識が殆どないもので困ってるところでして。皆さんとの語り合いの仲で
勉強したいというのが本音です。純粋に。
8 :
日本@名無史さん:04/09/21 02:30:41
文禄、慶長の役で宜しい。
日本史として論ずるのなら此が正しく、他国の呼称を強要する者こそ狂人。
それが直後からの呼称でもある。
同様の理由から、朝鮮征伐といいたまえ。
9 :
日本@名無史さん:04/09/21 02:38:21
豊臣政権最大の失策だな
10 :
日本@名無史さん:04/09/21 03:02:53
通訳はどのくらい準備したのだろうか?
この件に関して論じている書籍は見たことがない。
戦争の基本が、敵国の情報収集から始まるのである以上、戦国を戦ってきた彼ら
戦国武将にとっては、敵国の情報を知らないで行くなんて、おっかないことではなかった?
それを気にしないほど、戦争指導層は、それまでの成功経験で感覚が麻痺していたのだろうか?
11 :
日本@名無史さん:04/09/21 07:12:38
通訳は対馬から各大名に付けたりしているがやはり不足した。
民生失敗の一因ですな。
どなたか軍板の朝鮮征伐スレをリンクしてください。
沈んだ李舜臣スレも参考になります。
かなり冷静に李舜臣の補給路切断説が否定されていました。
願わくば知的な展開希望。
12 :
日本@名無史さん:04/09/21 09:39:05
九州征伐だって上方の兵と現地農民では言葉は通じんだろ?
朝鮮の占領統治が失敗したのは、
統治を受け入れることが繁栄をもたらすと理解できない民度の低さと非常識な現地の貧困。
13 :
日本@名無史さん:04/09/21 09:43:33
九州にゃ天皇の威光届くけど、朝鮮にゃ届かないからな
>>9 俺は途中で秀吉が死んだ事以外は失敗ではないと思う。
あれは西日本の大名の力を削ぐ意味もあったし、
特に秀吉が一番警戒していた毛利などは、これに国力を削がれ、関が原でも十分動けなかった。
秀吉子飼いの将が、朝鮮征伐で多くの者が出世し、秀吉恩顧の大名を増やす事に成功した。
そしてへタレな事したやつは、領地を没収し、地盤を固めつつあった。
問題なのは、これにより、西南の大名が力を削がれ、関が原で西軍負け。
秀吉子飼いの武将が、文官と対立して家康に付いてしまったことだな。
完全に裏目に出てしまったわけだ。
秀吉には忠誠を誓っていたが、豊臣家には誓ってなかったって事だよな。
>>1>>7 ここでもらった知識でその他板でエラソーに語るんだろ
自分で本買って調べろよ
>>14 原哲夫の「影武者徳川家康」で小早川秀秋は
女子供ばかり選んで殺して秀吉が切れてたんですけど
史実ですか?
17 :
日本@名無史さん:04/09/21 10:15:39
さあ、いわれの無い非難を受けた17の反応は如何に?
>>17 自分で自分次の行動に「?」とかつけてちゃダメでしょ。
19 :
日本@名無史さん:04/09/21 12:54:05
>>14 は?当初の目的は「唐入り」だったのに、実際は唐土から程遠い某半島南部で
飢えに苦しみながら引きこもってたわけだが。明らかな失敗じゃん?
>あれは西日本の大名の力を削ぐ意味もあったし、
>特に秀吉が一番警戒していた毛利などは
ソース希望ってか、なんで西日本に対象を絞るのかね?
>秀吉子飼いの将が、朝鮮征伐で多くの者が出世し、秀吉恩顧の大名を増やす事に成功した。
そんなに出世した奴いたか?秀吉の死後に家康から加増を受けたのはいたような気がするが。
20 :
日本@名無史さん:04/09/21 13:52:52
だって関東は小田原征伐直後で疲弊してたからね
22 :
日本@名無史さん:04/09/21 13:57:37
戦役中に加増されている大名はたくさんいるだろ
特に旧大友領とか。
朝鮮征伐には出征大名領の太閤検地の推進という政権強化策の側面も見逃してはいけないよね。
23 :
日本@名無史さん:04/09/21 14:05:59
本当の李氏朝鮮へのスローガンは 征明嚮導
24 :
日本@名無史さん:04/09/21 14:28:51
北条攻めなんか単に城取り囲んで宴会してただけじゃん
一番力削ぎたい筈の徳川は大して疲弊もしてないし北条攻め・朝鮮出兵ともに
ずっと上げで書きつづけてる人いるけど
人増やしたいならハングル板ででも宣伝したほうが人増えるよ
>>19 当初は唐入りだけど、途中からは半島南部の占領に方針を変えただけ。
また東日本の大名にも動員はかけている。
ただ西日本の大名ほど国力はないから、それほど警戒されなかった。
また加藤や小西などは秀吉恩顧だと思うけどな。
また有力大名の家臣に領土を与え、独立させるという政策を実施しているね。
朝鮮で大増したので有名なのは小早川か、これは四国征伐あたりから、領土をあたえて本家と離している。
ちょっと話はそれるが吉川も九州征伐で独立させる予定だったが、親子そろって死んだので、失敗した。
他にも直江などに誘いをかけているし、石川数正も引き抜いている。
朝鮮出兵もその一環ではないかな。
成り上がりである秀吉には、譜代の家臣などいない。
なんらかの方法で、譜代を創らないといけない。
けど国内に戦場はない、戦前の秀吉に逆らうなんて勇気のある大名もいないし、
だから功績をたてる場所を欲したと思われ。
27 :
日本@名無史さん:04/09/21 14:44:47
動員兵力の中心だった西国大名は、1万石につき兵600人を割り当
てられており、莫大な出費を強いられた。
一方、兵と戦費の負担をまぬがれた家康は「夢のようだ。これで
好きな鷹狩りが楽しめる」との手紙を残している。
28 :
日本@名無史さん:04/09/21 19:47:26
兵糧の供出は免れない。
国内で戦っていないとはいえ名護屋には
後詰めとして駐屯しているわけだし負担はあるよ。
場合によっては伊達のように渡海しなければならなかった。
>>26 >また加藤や小西などは秀吉恩顧だと思うけどな。
こいつらは朝鮮出兵以前の加増のはずだが。
30 :
日本@名無史さん:04/09/21 19:59:15
そんな、昔から韓流ブームとは
31 :
日本@名無史さん:04/09/21 20:01:37
脇坂とか加藤は加増?九州と四国あたり。
32 :
日本@名無史さん:04/09/21 20:17:32
韓じゃないし
33 :
日本@名無史さん:04/09/21 20:22:10
世界史板で、だいぶ前からやってるぞ。
34 :
日本@名無史さん:04/09/21 20:50:50
石田小西の和平派を排除して家康の力も借り、秀吉自ら出兵していたら
シナ大陸征服も夢でなかっただろ
>>26 方針変えたのは唐入りなど夢のまた夢である現実を見せ付けられたからだよね?
朝鮮の役の翌年(文禄2年)に突然秀頼が生まれているから、狂気
乱舞した秀吉は戦争などほっぽり出して、日本へ即座に帰国したはず。
37 :
軍板リンク:04/09/21 21:16:32
おりゃ失策だと思うよ
やるんだったらもうちょっと準備をしてからやりゃあ良かったんだ
朝鮮の兵自体は弱小だから問題ないが兵站の問題をしっかりしてナイト
だめだよねぇ
39 :
日本@名無史さん:04/09/22 02:22:29
帰国以前に朝鮮に渡ってなくなかったっけ?
だから情報に翻弄されたり、見当違いやタイミングのずれた命令ばかり発してたんだと思ったが
40 :
日本@名無史さん:04/09/22 03:17:22
>>12 現地農民云々はこの際問題ないでしょう。
交渉相手と意思の疎通が出来ればいいわけですから。
>>13 これは、正鵠を得ているかと思います。津軽氏や島津氏が近衛家を通じて京都中央の情報共有を
図っていたことが、戦争の終わらせ方、交渉のプロトコルがあったということでしょう。
>>14 西日本の・・・と言われても、東日本は?という
>>19 さんの真っ当な疑問がでてしまう。
九州征伐も小田原征伐も大軍の動員力を持って、初手の激戦の後、あっさり終わっている点では
同じ、島津が謝り上手だったのに対して、北条が引き際間違えたという差。
>>26 整理すると、秀吉は譜代作りのシステムとして「功績=恩賞」の相互関係を採用した。その功績の場として
国内が無くなったので、海外に目を付けた。。。ということでしょうか?
この視点は、私の記憶では初めての指摘のように思います。
直江・石川の例よりも、結城や徳川四天王に対する秀吉の露骨な介入の例の方がこの場合あっているかと。
毛利家の場合、結果として後から見ると別家立てのように見えますが、家康が早めに死んで、秀忠になって
いたら、結城はもちろん、井伊家なんかは、徳川から独立していたかもしれません。
41 :
日本@名無史さん:04/09/22 04:13:46
李舜臣
李氏朝鮮の将軍。
豊臣秀吉の2度にわたる朝鮮侵略軍をわずかの艦隊で撃退した稀代の名将。
その卓越した戦略・戦術眼は日本武将を恐怖・震撼させ、
秀吉は「李舜臣を見たら逃げろ」と指示を出すほどであった。
李舜臣の勝利はそのすべてが完全勝利であり、
その戦果は世界海戦史上において群を抜いている。
後世の軍人は「西にネルソンあれば、東に李舜臣あり」と評したほどである。
李舜臣将軍の戦法を研究し、取り入れた日本海軍は、
日本海海戦において奇跡的な勝利をあげた。
連合艦隊を指揮した東郷平八郎は従軍記者に
「あなたはネルソンや李舜臣に並び称されるべき名将です」
と言われた時、こう語ったという
「ネルソンはともかく、李舜臣将軍と並び称される男ではありません、
私は李舜臣将軍の足下にも及ばぬ男です」と・・・・・・。
やがて李舜臣は全東洋の海軍の守り神として崇められたのである。
‖
‖
‖ /⌒ヽ
‖ √.M. ̄ヘ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
○ /<`Д´>ヽ < イ スンシン
ζ。//。ζ ‖\⌒巛巛 ⌒ゝ | 李 三振 将軍参上ニダ!!
ミ 皿ゞ 彡 (;;;;;36;;;;;)○) \___________
ゝvv| /;;;;;;∧;;;;;\
/ ̄ |vvv| ̄ ̄\ ̄ ̄ ̄ ̄ ──── __
‖==|vvv.|==‖========== \
‖==ヽvv |==‖===========‖
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从从从从从从从从从〜从从〜从〜从从〜从〜从从〜〜〜〜
慶長2年の巨済島沖海戦で、朝鮮水軍は壊滅的な打撃を被った。
提督の元均、李億旗ら幹部も戦死した。
当時、元均の讒言で李舜臣は解任されていたが、この敗戦
に呆然となった朝鮮は、李舜臣を再び復帰させた。
44 :
日本@名無史さん:04/09/22 11:06:40
別に指揮が李舜臣だから勝ったわけではない。
水軍の勝利も敗北もたいていは停泊中の攻撃によるもの。
非戦闘中の船は脆弱。
秀吉の指示は不利な海上決戦を回避して陸海共同の迎撃。
これは有効な指示であり李舜臣の攻撃を何度も退けている。
45 :
日本@名無史さん:04/09/22 19:56:17
無秩序な農民ゲリラのおかげで補給路はズタズダさ
農民なのかゴリラなのかはっきりしろ
47 :
日本@名無史さん:04/09/22 20:06:12
日清戦争の頃にも、朝鮮人人足を雇ったら、荷物を盗んで逃げたらしい。
おかげで日清戦争の陸軍は補給で苦しみまくり。
秀吉軍も朝鮮人の泥棒根性は計算に入ってなかったんだろ。
秀吉の計算ミス。
48 :
日本@名無史さん:04/09/22 23:15:50
朝鮮人に命まで盗まれるとは思ってなかったようだね。
倭人はいと哀れ。
西郷どんのパクリ!
朝鮮征伐やったおかげで日本国内に梅毒が持ちこまれた
51 :
日本@名無史さん:04/09/23 00:09:24
【文禄の役講和交渉】
1 明の皇女を迎えてわが后妃とする。
2 勘合貿易を復活する。
3 日・明両国の朝権をもつ大臣が誓詞をとりかわす。
4 上の条目を領納すれば、朝鮮を南北に分かち、朝鮮の北部4道と国都を返還する。
5 朝鮮より王子・大臣一両人を人質とする。
6 去年生け捕りの朝鮮王子二人は故国に帰す。
7 朝鮮国王の権臣が累世違却なき誓詞を書く。
しかし、小西行長はなんとしても講和を成功させようと策謀し、
明使節の沈惟敬と図って、明廷への国書を、秀吉が封建を求めて和を結ぶものにすりかえた。
明王からは、次の3つを条件として和好を約するとしていた。
1 日本兵はことごとく帰国する。
2 すでに封ずるも貢をあたえず。
3 朝鮮を侵すことなきを誓う。
【慶長の役の開始】
秀吉が再征の令をだした1596年(慶長元年)9月2日の時点で、
朝鮮半島にとどまっていた軍は、釜山および加徳島にあった若干部隊にすぎなかった。
それは、小西行長の策謀した講和交渉で全軍撤退という条件を満たすため、
小西行長が諸将に撤兵を呼びかけていたことによる。
勝 っ て い た 戦 を 策 謀 で 弄 り 回 し た 小西、石田、増田 が 糞 だ っ た だ け
清正の兄貴も怒りますわな。
家康、利家、景勝も出陣させろよ。ゴラ
52 :
日本@名無史さん:04/09/23 00:12:21
梅毒上げ
結局
>>1は出てこねーじゃねーか
他の奴が書いてるのを他所で自分が書くのに利用したいだけだろ
>1 明の皇女を迎えてわが后妃とする。
天皇の后妃じゃなかった?
55 :
日本@名無史さん:04/09/23 00:31:40
>>51 4と5の項目を見れば分かるとおり、秀吉軍はかなり優位だった。
だから、こういう項目が存在することがわかるね。
でも、秀吉の意向を無視して勝手に講和しようと画策し、
講和交渉中、占領軍の諸将に勝手に、釜山まで撤兵させた文派の罪は重い。
結局、秀吉の文派が全部ダメにしたんじゃん。
秀吉子飼いの武と文が、仲悪くなったのもこの辺が関係してるんじゃねーの?
56 :
日本@名無史さん:04/09/23 00:32:16
>>51 > 勝 っ て い た 戦 を 策 謀 で 弄 り 回 し た 小西、石田、増田 が 糞 だ っ た だ け
ウソつけ。負けてたから当初は明まで攻め込むつもりだった秀吉が意気消沈して和平交渉に同意したんじゃないか。
見苦しいな。
>>56 負けてる軍が朝鮮国境越えるかよ。
日本で言えば、モンゴル軍が、陸奥の国まで進撃したと同じじゃねーか。
講和中に勝手に文派が撤兵させたんだよ。
加藤清正の進撃路を確認汁
>>58 翌1593年1月、明軍は平壌を奪還するが、碧蹄館の戦いで宇喜多秀家率いる日本軍に敗北し、
漢城の奪還に失敗した。この段階で戦線が膠着し、
日本軍も物資の欠乏から戦争を続行できる状態に無く休戦状態になり、和平交渉が始められた。
ハァ?
ソウルが落ちてないまま、戦線は膠着したままで、講和に入ってますが何か?
李如松の軍がワープして釜山まで侵攻したのですねw
日本〜釜山の間の補給路が李舜臣の水軍によって遮断されたという「神話」は一人歩きし、
いろんな本で無造作に援用されている。
さしあたって手頃な本屋で立ち読みしてみた。
日本文芸社「歴史新聞」文禄の役の項は、
「朝鮮海峡の補給路を遮断された」と表記している。
朝鮮海峡とは日本と対馬海峡の間約50キロの海路を指すが、
この間の補給路が遮断されたという証拠はない。
なぜなら李舜臣が日本船団の本拠地である釜山を襲撃したのは一度だけで、
この海峡の間で日本船団を襲撃した記録は皆無である。
しかもその襲撃によって補給路が遮断された事実はない。
このような誤った前提は、次のようなトンデモない見解を生む。
「2時間でマスター・戦国早分かり」(題名未確認)
金○○○郎 中○出版(あえて伏字)
ここででは、「李舜臣の活躍で食糧が運べなくなった。
その表れとして平壌の小西行長は水軍が大敗した直後(文禄元年七月)は敵を撃退できたのに、
半年後は食糧難になって敗れている。」(要旨)
平壌の敗退は食糧難とは関係もなく、戦力の多寡が主因。
平壌に潤沢な補給があったとは思えないにせよ、
釜山〜平壌という陸上補給路の長大さのためで海での敗北とは関係はない。
著者は塾教師の経験をもつという。
この本は慶長の役の清正の蔚山戦を「敗北」と規定しているほどの暴論を展開しており、
こういう人が若者に講義をしていると思うとゾッとする。恐ろしい事だ。
和平交渉
秀吉は明が降伏したという報告を受け、明の朝廷も秀吉が降伏したという報告を受けていた。
これは日本・明双方の講和担当者が穏便に講和を行うためにそれぞれ偽りの報告をした為である。
このため秀吉は和平に際し、明の皇女を天皇に嫁がせる事や朝鮮南部の割譲など、
とうてい明側には受け入れられない講和条件を提示し、明の降伏使節の来朝を要求した。
一方、明の朝廷の側も日本が降伏したという証を要求したが、これも秀吉にとってはとうてい受け入れられるものではなかった。
結局日本の交渉担当者は「関白降表」という偽りの降伏文書を作成し、
明側には秀吉の和平条件は「勘合貿易の再開」という条件のみであると伝えられた。
「秀吉の降伏」を確認した明は朝議の結果「封は許すが貢は許さない」(明の冊封体制下に入る事は認めるが勘合貿易は認めない)と決め、
秀吉に対し日本国王の金印を授けるため日本に使節を派遣した。
文禄五年(1596年)九月、来朝した明使節は秀吉と謁見。秀吉は降伏使節が来たと当初は喜んだが、
使節の本当の目的を知り激怒。使者を追い返し再度の朝鮮出兵を決定した。
文派の捏造マンセー
>>59 翌1593年1月、明軍は平壌を奪還するが、碧蹄館の戦いで宇喜多秀家率いる日本軍に勝利し、
釜山および朝鮮南全域の奪還に成功した。この段階で日本の敗北が決定し、
日本軍も物資の欠乏から戦争を続行できる状態に無く休戦状態になり、和平交渉が始められた。
朝鮮南岸へ上陸した日本軍は破竹の勢いで進撃し、瞬く間に漢城、平壌など
朝鮮の主要都市を攻略し、一部は明領内にまで到達しました。
しかし、朝鮮の道路事情は極めて貧弱で、しかも、各地には*ゲリラや山賊が
跋扈していました。(*ゲリラや山賊→韓国では、義民・義兵と呼ばれます)
そこで、日本軍は黄海へ水軍を進め、前線近くまで海路で物資を送りたかったのです。
しかし、それは李舜臣が率いる朝鮮水軍の活動により阻止されていました。
このため、日本軍は前線への輸送を、困難な陸上輸送に頼らざるを得なくなりました。
日本軍が進撃するにつれて、せっかく釜山などに陸揚げした物資も、
思うように前線へ送れなくなっていきました。
また、朝鮮はもともと日本よりずっと人口が少なく、田畑は荒れており、食糧な
どを現地で入手することも難しかったのです。
このような事情から、前線の日本軍の中には、少しずつ、補給に悩む部隊も出
て来るようになりました。
ただ、
>そこで、日本軍は黄海へ水軍を進め、前線近くまで海路で物資を送りたかった
>のです。しかし、それは李舜臣が率いる朝鮮水軍の活動により阻止されていました。
の、まさに当スレの主題部分ですが、
黄海に水軍を進め、前線に海路物資補給という点ですが、
実際にそういう計画が日本軍にあったかどうかを示す資料も見当たらないんですよね。
あるのかもしれないが。
これは李舜臣の戦いと日本の船団および陸上軍の行動の足跡を見て
そうじゃないかと推察されるだけです。
当然ながらその足跡を見ると、日本〜釜山までの補給路が遮断され
その海上補給路がなくなり兵糧その他を運べなくなった、
という説が胡散臭いとわかるわけですが。
226 :考察 :04/02/25 15:19 ID:npqc56Z2
海上補給に関する秀吉軍への影響に関する謬見が一人歩きしてしまうのは、
李舜臣の活躍を漠然としかとらえておらず、具体的にどのような場所で、
いつ、どのような動機で、どのような状況で戦果を上げたかを客観的に見ていないからだろう。
227 :場所 :04/02/25 15:20 ID:npqc56Z2
(1)場所=李舜臣の水軍が活動したのは朝鮮海峡(日本〜釜山の補給路)を遮断する空間ではなく、半島南岸の沿岸である。
文禄の役では一時的に半島東端まで活動範囲を広げたが、慶長の役では、半島西半分までしか進出できなかった。
228 :時期 :04/02/25 15:21 ID:npqc56Z2
(2)時期=文禄の役で秀吉軍が釜山に上陸してわずか一ヵ月後には李舜臣の水軍は活動をはじめ、戦果を上げている。
その後も秀吉軍の陸上での進撃は続いていたのだから、李舜臣の活躍と秀吉軍の停滞とは必ずしも符合しない。
229 :動機(作戦目的) :04/02/25 15:22 ID:npqc56Z2
(3)=文禄の役初期は日本の船団が停泊する場所への奇襲攻撃。
後期は基地への積極攻撃。前者は成功するが、後者はそれほどでもなかった。
兵站基地を制圧する事は出来なかった。
230 :状況 :04/02/25 15:23 ID:npqc56Z2
(4)状況=ほとんどは多勢に無勢、つまり李舜臣の側が船の数において日本船団よりかなり優位に立っての攻撃だった。
少ない船で多くの日本の船を打ち負かした例として、慶長の役における鳴梁海戦があげられるかもしれないが、
これも記録が大げさすぎて、かえって疑問が生じ実態はどうだったか分からない。
日本側が沿岸築城し少数の船団で行動しなくなると戦果はさほど上がらなくなっている。
231 :日本側の反応 :04/02/25 15:24 ID:npqc56Z2
(5)日本側の反応=水軍敗北の記録の一方、陸上での戦闘状況や海上行動を見ると必ずしも連動していない。
つまり、水軍敗北が全般の状況に決定的影響を与えたとは見受けられない。
232 :結論 :04/02/25 15:25 ID:npqc56Z2
李舜臣が日本の海上での行動を大幅に制限させる事に成功したのは認められるものの、
それによって半島の秀吉軍と日本本土との「補給路が切断された」とは言いがたい。
65 :
日本@名無史さん:04/09/23 00:56:10
後顧の憂い無く朝鮮だけと戦出来てればいいけど
徳川等有力大名が謀反起こすかもしれんし、秀吉はどんどん衰弱してるし、明軍まででばってくるし
戦やめさせたがったのも無理無い、工作は稚拙極まるけど
>>65 確かに、徳川256万石は一番の悩みだね。
後、秀吉自身の体力も問題。
ただ、講和派の工作員はヘボかった。
子飼いと言っても代々の譜代の臣じゃないから、手柄がほしかったのかな。
でも、戦じゃ福島正則や加藤清正と違って、手柄とれんもんなぁ・・・・・ > 石田三成、小西行長、増田長盛とか
コニタンは正直、びびったか?
68 :
日本@名無史さん:04/09/23 01:03:56
まぁチョッパリ相手の戦で活躍した数少ないウリナラ戦士だからな
多少戦功に色がついてもしゃあない
先生!朝鮮経由で伝わったものが、いつの間にか、朝鮮起源になるのは何故ですか?
70 :
日本@名無史さん:04/09/23 01:10:56
こぉーらー69まぁーた教室間違えてー
その授業はハン板って言ったろう
わずか10数隻の朝鮮水軍にびびって逃げる日本軍15万。
秀吉火病って死亡。
臆病な日本人w
72 :
日本@名無史さん:04/09/23 01:19:57
っていうか、石田三成、小西行長らは現実が見えてただけだろ。
朝鮮にとどまってどうなるんだ?餓死か?戦死か?
74 :
日本@名無史さん:04/09/23 01:31:23
冬が来る前になんとか引き上げたかったみたいね
でも朝鮮なんて寒い荒れ果てた地なんて手に入れてもしょうがないんだから
秀頼生まれて機嫌が良いときにでも、何とか説得すりゃいいのに
根性ある馬鹿か賢い根性無ししか側近にいなかったのが致命的だな
ジサクジエンスレ
忙しくてスレ立てしたのを忘れてました。
死ぬほど頭を下げておきます。すまん。
思った以上にレスを付けていただいたみたいで、ありがとうございます。
全部目を通させていただきましたが、状況が日清戦争のときとそっくりですね。
唯一違うのはロシアの介入がなかったくらいですか。
このときの李氏朝鮮国王はどういう対応を取っていたんでしょうか?
やっぱり日和見ですかね。時に日本、時には明と。
78 :
日本@名無史さん:04/09/23 12:43:11
明に統治権渡してもいいから、島国の蛮族倒して王子取り返してくれと泣き付いた
79 :
日本@名無史さん:04/09/23 15:40:50
当時の戦争なんて勢いが大切なのに、
一番重要なルートを進んだ小西が明軍の口車に乗って半年間もピョンヤンに滞陣しているようでは、
そりゃ勝てんわな。
まあ最初から小西は勝つ気がなかったのかもしれんが。
小西と宗の組み合わせは最悪だったな
朝鮮出兵当時の島津軍は相当強かったらしい。
殿軍を受け持った島津義弘以下4千名は、
明軍6万名の完全包囲下にありながら逆に4万名を殺し、
日本軍の完全撤退のみならず自軍の脱出まで成し遂げている。
適当なことかいてる奴ばっかり。参考文献挙げてみろよ。
83 :
日本@名無史さん:04/09/23 20:56:03
参考文献を挙げられない文盲の82が何やら煽っておりますw
↑
教授スレの煽りの方ですか?
出張乙です。
李舜臣はもともと政治犯で投獄されていたのが水軍に投入されて力を発揮したそうな。
だから戦争が終わった後は朝鮮でもかえりみられることもなかったんだが、
李舜臣と戦った島津側が彼の奮闘ぶりを記録していたため朝鮮併合以降彼の名前が広まったらしい。
アイアムザパニーズも通用しなくなってきたな
89 :
日本@名無史さん:04/09/26 23:27:38
アイアムザマニーズ
90 :
日本@名無史さん:04/09/27 09:58:52
三成の行動は必ずしも秀吉に忠実でない。
どういうスタンスの分析と判断なのだろうか?
みっちーの行動って、太平洋戦争の時の外交官に通じる物があると思う
上の決定に対して
「こうした方が日本のため(みっちー的には秀吉のため)に良かろう」
と勝手に考えて、上の命令とは違う行動をする
その結果、更に泥沼の地獄にはまりこんでいくのだが
みっちー直には地獄の被害が及ばないので、人からどんなに恨まれているか全く自覚できない。
92 :
日本@名無史さん:04/09/27 10:19:13
実際の外交と先鋒を務めた小西と宗は朝鮮利権に直結していたから
秀吉の命令を曲げ過ぎて戦機を逃している。
戦闘に関しては功名心に駆られたハングリーな大名を当てるべきだった。
本当にワシの力だけで日の本の感情を動かせると思っておるのか?
っていうか、前には明軍後ろは蜂起農民、
海の上には李舜臣。
一体どうしろと?
95 :
日本@名無史さん:04/09/27 18:14:47
96 :
日本@名無史さん:04/09/28 20:40:42
対抗して宮下あきらに愛国漫画を描いてもらうしかないな
97 :
日本@名無史さん:04/09/29 01:46:29
三成が講和させたのが悪いって言ってる人がいるが、
そのまま戦線が大陸奥地へ拡大しても勝ちきれたかどうかは疑問
井沢の本かなんかで、もし秀吉の言うとおり天皇を北京に移したら、
元や清のように母屋ごと滅んで「中華民国日本省」になってたかもってのがあったが、
その可能性は捨てきれない
98 :
日本@名無史さん:04/09/29 04:16:25
半島すら制してないのにどうやって奥地に行くんだ?
明領に入っちまったら明が本腰入れて襲ってくるぞ?
99 :
日本@名無史さん:04/09/29 06:47:27
住み分けりゃいいんだよ
満州は清
100 :
日本@名無史さん:04/09/29 18:48:08
>>97 人口や文明度から見て
さすがに日本が満州人のように吸収されることはないだろ
101 :
日本@名無史さん:04/09/30 00:34:41
吸収同化されるかどうかはともかく、
皇統が絶えちゃったら現代に連なる日本の歴史も変わっただろうな
まあ京にも誰かしら皇族は残るだろうから杞憂だけど
102 :
日本@名無史さん:04/09/30 01:03:40
秀吉は小西の情報に騙されてたんで初期は朝鮮は日本を歓待すると思ってたから
朝鮮が明への壁になると思ってなかった
103 :
日本@名無史さん:04/09/30 02:00:58
>>102 馬鹿だなぁ。
歓待なんぞするわけ無いじゃん。
ってか、じゃあ何でいきなり攻めかかったのかね?
104 :
日本@名無史さん:04/09/30 05:44:14
>>98 明本土にまともな軍隊はほとんどいなかった。 遠征軍で全戦力のかるく半分以上を占めてた
もし日本が明に勝ったら、大陸への強制大量移住させられそう。
明の戦力ってそこまでバカに出来るものでもないと思うよ。
張居正と戚継光のコンビが活躍してたのが、朝鮮出兵の10数年前なんだし。
そんな簡単に国力は落ちないでしょ。
事実女真族にやられたやん
108 :
日本@名無史さん:04/10/01 04:28:49
女真族って人口10万人だっけ?
109 :
日本@名無史さん:04/10/01 04:36:13
明は農民の反乱で滅びたわけだが。
110 :
日本@名無史さん:04/10/01 05:09:02
現場の連中は厭戦というより半島のしょぼさに嫌気がさしたんだろ。
支配層や一部の工芸品はともかく社会や庶民は古代さながら。
辺境とはハングリーさが違うってことだな。
>>109 大陸中国の歴代王朝はみんなそんなもんさ。
112 :
日本@名無史さん:04/10/01 20:33:03
平成の秀吉出でよ!
114 :
日本@名無史さん:04/10/02 18:01:41
腐ってるな朝鮮
確かに腐ってるな。
まあ、小倭よりは若干マシな様だが。
スッゲー糞スレ
なんで三戦に立てないの?
>>1って池沼?
117 :
日本@名無史さん:04/10/04 06:45:01
李子朝鮮は何万石?
118 :
日本@名無史さん:04/10/04 17:39:03
さあな
119 :
日本@名無史さん:04/10/04 17:51:00
35石
120 :
日本@名無史さん:04/10/04 19:10:09
記録ぐらいないのかな?
121 :
日本@名無史さん:04/10/07 06:50:41
秀次を出征させていれば勝ってた
>>121 マジレスすると
秀吉の脳内計画では
・日本→八条宮智仁親王を天皇、秀次関白
・中国→後陽成天皇を連れていって皇帝にする、最初は自分、後成長した秀頼が関白
てな大風呂敷を広げていたんではなかったっけ
何かの本で読んだだけ
ソース提示できず スマソ
124 :
日本@名無史さん:04/10/08 13:35:19
チェスト
125 :
日本@名無史さん:04/10/08 14:06:48
126 :
日本@名無史さん:04/10/09 01:35:21
↑
いや、天才ですが?
反論があるなら受け付けますよ。
低い知能指数丸出しの罵倒ではなく、
古の両班の如き、整然たる論で反論してみてください。
李舜臣は世界四大提督の一人だからね。
東郷平八郎も
「私は李舜臣将軍の足下にも及ばない」って言ってるし。
日本の水軍が負けるのも仕方ないさ。
東郷「ネルソンよりは上。あいつ戦死してるし」
>>128 東郷さん、矛盾してますよ。晩年の東郷さんですか?
130 :
日本@名無史さん:04/10/13 20:30:08
はぁ暇だしMVP以下の順位でも考えようか?
たとえば小早川隆景は活躍したな。
131 :
日本@名無史さん:04/10/13 20:46:22
金吾も大手柄
132 :
日本@名無史さん:04/10/13 21:11:46
浅野
加藤清正
島津義弘
一番勝利に貢献したMVPといえばコニタンじゃねの?
小西は戦犯でしょう
まだ三成の働きのが功績が大きくないか?
136 :
日本@名無史さん:04/10/14 12:02:47
豊臣家臣に亀裂作った罪はでかいよ
現場の将の神経逆撫でただけだし
137 :
日本@名無史さん:04/10/14 12:04:11
分析はえれえ正確なんだけどな
138 :
日本@名無史さん:04/10/14 12:25:23
朝鮮で秀家は活躍したの?
大軍を率いていたにかかわらず、土民相手に自ら先頭に立って戦い死にかけますた。
140 :
日本@名無史さん:04/10/14 13:09:33
秀秋だろそれ。
負傷した大名が結構あたようだが誰?
141 :
日本@名無史さん:04/10/14 13:49:18
中川は狩りの最中に殺されたよ。息子は豊後岡へ半分に減封。
>>134-135 「勝利した」のは明・朝鮮側。
スンシンよりコニタンのほうが勝利に貢献してると思われ。
143 :
日本@名無史さん:04/10/14 18:34:02
当時から売国奴がいたわけね。コニタンの流れをブサヨクが担っているわけか。
当の中華の史書には「勝ち目はなかった」と書かれてわけだが。
145 :
日本@名無史さん:04/10/14 20:23:55
売国は宗もだよな
利権がらみで親戚の小西と裏工作
で、コニタンがMVPってことでFA?
149 :
日本@名無史さん:04/10/14 20:55:45
何度も潰走してるしね
150 :
日本@名無史さん:04/10/14 22:15:45
該当者なし
三成も秀家も負傷しているな。
黒田長政もだっけ?
あと亀井と脇坂もじゃなかった?
152 :
日本@名無史さん:04/10/14 23:06:03
宇喜多もどこぞの山城攻めたときに負傷したと聞いた。
沙也可もMVP候補として挙げておきたい。
154 :
日本@名無史さん:04/10/14 23:08:18
秀吉的には政宗にMVPやってるな
>>144 これね。
544 :名無し三等兵 :04/06/26 18:03 ID:???
>>543 「明史朝鮮伝」によると、こうある。
倭が朝鮮を乱してより七載(年)、喪師数十万、糜餉(軍事費)数百万、
中朝(明)と属国(朝鮮)ついに勝算無し。関白の死に至りて、禍始めて息む。
156 :
日本@名無史さん:04/10/14 23:12:45
158 :
日本@名無史さん:04/10/15 07:04:24
何で勝ち組が惨めな生活なんだ?
159 :
日本@名無史さん:04/10/15 22:54:34
ちなみに小西軍が平壌で明軍に大敗したとき
退却時の餓死を含めて18000人中12000人が死んだと推定されている
(日本陸軍参謀本部の戦史研究の推定)
そりゃやる気なくすわ
その被害推定は、 「動員命令数」−「三成の漢城点呼報告」 でしょ?
交渉後の平壌撤退だから大規模な追撃は受けていない。
161 :
日本@名無史さん:04/10/16 13:15:02
>>160 参謀本部の推定も
ほとんどは餓死と凍死
寒さを知らない九州兵が凍った大同江を草鞋で渡って
かなりの兵が凍傷で指がなくなったと言うし
162 :
日本@名無史さん:04/10/18 20:10:23
戦闘に勝って戦争に負けた
163 :
日本@名無史さん:04/10/18 22:54:47
日本は自らの戦ぶりを確認し、明は人海戦術を確認し、朝鮮は何も考えなかった。
そして季節は変わった。
つづく
164 :
日本@名無史さん:04/10/19 20:26:52
続かないの?
165 :
日本@名無史さん:04/10/19 20:31:39
奴ら今でも見くびっているもんな
166 :
日本@名無史さん:04/10/19 21:20:07
>>155 それなら、やはり信長なら明征服に成功してたんじゃないか?
秀吉・総大将、黒田官兵衛・参謀で。
本能寺がなければ2年以内に天下統一していたとも言われるし、その時、信長51歳。
時間的にも余裕がある。あの頃なら朝鮮の大飢饉前だから、食糧不安もないし、
秀吉なら、小田原攻めでもそうだったけど、名護屋城での仮装パーティーだの、
兵の心理をよく理解しているし、何より、勝手に和平交渉なんてやるわけない。
それと、満州族の成功は、明らかに秀吉のおかげだな。
その間に、分断統治されていた満州族は部族統一に成功し、明軍の物資補給中継
で財力も得たそうだ。
167 :
日本@名無史さん:04/10/19 23:11:29
今日の「なんでも鑑定団」で初めて朝鮮出兵が高麗茶碗を求めて起きた
「茶碗戦争」説を知ったよ。
そうだとすれば、朝鮮出兵の原因は織田信長ってことだよな。
168 :
完全理論武装論者:04/10/20 00:14:56
秀吉が朝鮮出兵する祭に、朝鮮出兵とは無関係の東松浦半島に
堅牢な名護屋城をなぜ築いたのか?誰も問題にしないとは嘆かわしい
秀吉の朝鮮出兵の本当の理由はここに隠されているというのに
今の時代、この名護屋城築城の本当の意味を読み取ることのできる
賢者は私以外におらぬのか?
169 :
完全理論武装論者:04/10/20 00:23:34
明智光秀が本能寺の変で織田信長を討つ祭、本能寺とは無関係の安土城に
攻め入って火を放ったのはなぜなのか?誰も問題にしないとは嘆かわしい
本能寺の変の本当の理由はここに隠されているというのに
今の時代、この安土城炎上の本当の意味を読み取ることのできる
賢者は私以外におらぬのか?
170 :
日本@名無史さん:04/10/20 00:27:41
また変な馬鹿が湧いてきたぞ。
171 :
日本@名無史さん:04/10/20 00:33:45
172 :
完全理論武装論者:04/10/20 00:47:25
173 :
完全理論武装論者:04/10/20 01:00:35
174 :
完全理論武装論者:04/10/20 01:13:45
豊臣秀吉が朝鮮出兵する祭に、朝鮮出兵とは無関係の東松浦半島に
堅牢な名護屋城をなぜ築いたのか?1
朝鮮出兵の祭、豊臣秀吉はわざわざ東松浦半島に堅牢な名護屋城を築いてから
朝鮮半島へと兵を送り出していった。
戦略的見地で見て、朝鮮半島の軍事的制圧・占領が目的ならばその大拠点となるべき
守りに固い堅牢な城は、朝鮮半島の最初に上陸占領した地点に作るのが常識のはず
なぜ朝鮮半島からはるかに離れた九州東松浦半島に守るための堅牢な城を作る必要があるのか?
またなぜそんな堅牢な名護屋城作りに何年も費やしてから、朝鮮半島へと攻め入ったのか?
またなぜそんな堅牢な城が徳川幕府時代には活用されず、すぐに壊されてしまったのか?
それらがすべて結びつく結論がたったひとつだけある。
それが豊臣秀吉の朝鮮出兵の本当の理由なのだ。
175 :
日本@名無史さん:04/10/20 01:16:19
>>173 名護屋の件は、佐賀が陶器の産地だからという話で、
安土の件は、天皇の御所を侮辱する形で配置し、遷都までさせようとしていたこと
への朝廷の反発だといいたいんだろ。
安土はともかく、陶器戦争という話はアホ臭い。
176 :
完全理論武装論者:04/10/20 01:26:42
豊臣秀吉が朝鮮出兵する祭に、朝鮮出兵とは無関係の東松浦半島に
堅牢な名護屋城をなぜ築いたのか?2
朝鮮半島に秀吉が出兵させたのは秀吉が晩年のころで、すでに天下は秀吉のものとなっていた。
秀吉は中国の明をも支配下に治めようとして、朝鮮出兵を思い立ったと歴史史家は口を揃えて
言うが、本当にそうなのか?
秀吉はもうそのころは晩年で若くはない、しかも自分の跡を継ぐ世継ぎの心配もあった。
日本国内でいえば秀吉の天下とはなったが、地方によっては何かあれば即座に秀吉に
叛旗を翻しそうな大名は数多くあった。
秀吉の天下は磐石で安定していたわけではなかった。
そういう状態なのに最低でも10年はの長期戦となる朝鮮出兵と明征服を企むだろうか?
朝鮮半島占領や明国占領までに秀吉本人が死んでるかもしれないのに、秀吉が征服欲に
まみれただけのバカな人物だと思うだろうか?
177 :
日本@名無史さん:04/10/20 01:40:34
がんばれ
178 :
完全理論武装論者:04/10/20 01:41:17
豊臣秀吉が朝鮮出兵する祭に、朝鮮出兵とは無関係の東松浦半島に
堅牢な名護屋城をなぜ築いたのか?3
天下を取ったばかりで国内ですら磐石でないのに、晩年の年老いた秀吉が
征服欲のみで朝鮮出兵を思い立ったと、歴史史家は言い教科書にもそう載る。
なんという愚かな現代人たちだろう、きっとあの世でキレ者秀吉も大笑いしてるに
違いない。
「いまの時代のこの程度の人間ばかりならば、10年あればわしが天下を取って見せる」と
秀吉は豪語するに違いない。
秀吉の目的はたったひとつ、「ワシが天下を取ったのなら今度は豊臣家で、その天下を磐石に
してみせると」
秀吉の朝鮮出兵の本当の目的はこのためだった。
秀吉の取った天下を豊臣家で永代まで続けていけれる磐石な基盤作り、そのためには
たとえ今は家臣であっても、将来に渡っていつか豊臣政権を脅かすような存在に
なるうる大名は始末しなければならない。
豊臣政権で天下を磐石にするのに邪魔な大名とは誰のことかもうおわかりでしょう。
そう家臣である徳川家康の朝鮮半島への追放(転封)こそが、秀吉の朝鮮出兵の
本当の理由だったのだ。
179 :
完全理論武装論者:04/10/20 01:56:46
豊臣秀吉が朝鮮出兵する祭に、朝鮮出兵とは無関係の東松浦半島に
堅牢な名護屋城をなぜ築いたのか?4
秀吉の目論見
秀吉が家臣である徳川家康を総大将にして朝鮮出兵を命ずる
↓
もし家康が主君秀吉の命令に逆らえば領地没収して家康に切腹を命ずることができる
↓
仮に家康が朝鮮出兵をして戦死してくれればもうけもの
↓
家康が朝鮮出兵での合戦で失態を演じて敗走しても、責任を家康に取らせて切腹させれる
↓
家康が見事に朝鮮征服を成し遂げれば、手柄として関東の地から朝鮮全土の大名へ転封できる
↓
朝鮮全土大名へ大出世した家康が、朝鮮半島の民の不満を治めることができずに
領地内で暴動を起こせば家康に責任をとらせて切腹ののち領地を没収できる
↓
仮に家康が朝鮮半島をうまく治めることができても、明国が大軍を率いていずれせめてくる
そうすれば何かと理由をつけてすぐに援軍を送らず、家康を見殺しにする
↓
もし豊臣政権内でごたごたがあって、家康が反豊臣として蜂起しても朝鮮半島からは
上洛することは非常に難しい
↓
万が一家康が朝鮮半島から上洛してきた時の備えとして名護屋城に豊臣方の堅固な
城を作っておけば、家康の上洛を九州で阻止できる
180 :
日本@名無史さん:04/10/20 02:07:45
>>179 あ、なるほど。半島方面から逆に日本人が攻めてくる場合の対策としての名護屋城ね。
それはなかなか面白い。
しかし、西洋人宣教師が記した文献によると、秀吉は、キリシタン大名を事前に九州に
転封して集中させており、朝鮮出兵では小西らキリシタン大名を先鋒として投入。
そして、キリシタン大名を朝鮮に転封して領土を召し上げ、その後キリシタンを根絶
しようとしていたらしい。
家康が出兵するのは、政宗ら東国大名も同様に秀吉と一緒の予定。
だから、名護屋城はキリシタン対策と考えればうまく説明できるかも。
渡海拠点としてだけでなく、長崎方面などのキリシタン弾圧拠点としても博多より
良かったんじゃないか?
いい考えだろ。俺が歴史家なら注目されるかも。
181 :
完全理論武装論者:04/10/20 02:09:44
豊臣秀吉が朝鮮出兵する祭に、朝鮮出兵とは無関係の東松浦半島に
堅牢な名護屋城をなぜ築いたのか?5
家康の栄転名目(転封)の朝鮮半島追放と、家康寄りの大名も栄転目的(転封)で
朝鮮半島に追放すれば、国内は完全に豊臣政権で磐石になる。
まさに殺さず生かして力を奪い取る完璧といえる策に秀吉は完全に溺れた。
そうして朝鮮出兵は決断された。
しかし家臣である家康以下他の大名もバカではない。
戦国の世を渡り抜いてきた、ひとくせもふたくせもある強者揃いの武将たちだ。
秀吉の本当の目論見ぐらい見破っている。
しかし表立って逆らえば秀吉に殺される、だからやる気のない戦いをダラダラと
朝鮮半島で繰り広げてきた。
必死になって戦ったのは秀吉の目論見を見破れない大名か、朝鮮半島に転封される
恐れのない子飼いの大名だけ
そしてその絶体絶命のピンチを家康は他の転封されそうな武将たちと、協力して
ダラダラと戦い秀吉の死によって切り抜けれることができた。
終わり
182 :
完全理論武装論者:04/10/20 02:15:38
>>180 朝鮮半島に攻め込んでから、守り用の堅固な名護屋城を建築すれば
どんな大名からでも怪しまれる。
だから朝鮮に出兵する前に名護屋城を作った。
秀吉とはそういう計算高い男
183 :
日本@名無史さん:04/10/20 02:47:24
184 :
日本@名無史さん:04/10/20 07:05:53
小田原征伐と徳川関東移封直後の朝鮮移封はないだろ?
家康は朝鮮征伐への賛成と引き替えに渡海免除の取引を秀吉としたという説もある。
何がいいたいかというと、マルチポストうざいということ。
185 :
日本@名無史さん:04/10/20 08:44:32
いや、なかなか感心した。
面白い説だ。
秀吉のターゲットが家康だったのかキリシタンなのか、
あるいは両方なのかは分からないが。
186 :
日本@名無史さん:04/10/20 16:46:45
徳川の朝鮮転封などありえない。
関東転封で封じ込めは終わっているんだよ。甘かったけど。
東海道には秀吉派が並べられて徳川来襲に備えてあった。
もっとも、それも甘くて、関ヶ原ではことごとく徳川に取り込まれたけど。
一方、黒田如水らキリシタン大名は九州に集められていて、高山右近なんかも
秀吉の狙いに恐怖心を持ち始めていたそうだ。
187 :
日本@名無史さん:04/10/20 16:54:59
朝鮮に移封されるのは、切支丹でさえ嫌がるのか。
188 :
日本@名無史さん:04/10/20 17:13:30
朝鮮の当時の人口ってナンボだったの?
当時の半島は食料の現地調達が困難なほど荒廃してたのか?
189 :
完全理論武装論者:04/10/20 17:35:16
史料がないのは当然
朝鮮出兵の本当の理由を語らない秀吉の腹の中を、家臣が推測して史料にしてしまえば
「謀反の恐れあり」「主君を冒涜」などといいがかりをつけられて、その大名は
切腹させられてお家は断絶させられる。
秀吉が口にしない限り、これがたとえ秀吉の本心だろうと状況証拠で断定できても
後々に降りかかる災いや言いがかりされるきっかけを考えたら、誰も史料には残さない。
史料に絶対出てこれない本心。これが歴史というもの
190 :
完全理論武装論者:04/10/20 17:36:27
>>187 秀吉は国内でもあれこれインネンをつけて家康潰しを狙ったが、その度に家康に
うまく逃げられてばかりだったろ
言葉や態度に用心深い家康を潰すのは並大抵の策では無理なわけ
そこで朝鮮出兵して朝鮮を領地にしてしまえば、家康や反豊臣方の大名を
堂々と島流し目的で転封できる。
いろいろと理由があって殺せない武将を、だったら島流しにして力を奪うのと同じこと
鎌倉時代以前の昔は九州に島流し目的の転封が多かった。
しかし家康や反豊臣大名を九州に島流しするだけでは完全に安心できない
そこでより遠い朝鮮に島流し転封を狙った
191 :
完全理論武装論者:04/10/20 17:42:55
>>186 関東に転封された家康があっさりと関東の豪族たちを支配下に納めたために
秀吉があわてた、ただでさえ三河や駿府では家康に従う豪族が多いのに、
それに加えて関東の豪族までも支配下に納めたら、家康勢力は一大勢力になってしまうと
だから家康には全く縁もゆかりもない所(朝鮮)に島流し転封にして、家康の影響力を
そぎ落とそうとした。
192 :
日本@名無史さん:04/10/20 17:51:26
した。って、してねーじゃんよ。
朝鮮転封の根拠は?
193 :
日本@名無史さん:04/10/20 18:28:09
韓国
_____________
<○√
‖ 伊藤博文
くく 日本
しまった!併合だ!
オレがくい止めているうちに破棄するんだ!
早く!早く!オレに構わず!
_____________
・<○√ グハッ
ターン・∵‖ ,・ー=y <`∀´>安重根
くく \/
ガシャーン 韓国
| | | | | | | | | | | | | | |
_____________
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
日本
∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ 韓国
<ヽ`∀´><ヽ`∀´><`∀´、><`∀´、> ウエーハッハッハッ
( )( )( )( )
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194 :
完全理論武装論者:04/10/20 18:56:31
>>192 名護屋城の要塞堅固化築城
この築城は明らかに朝鮮半島から攻め入る軍から九州を守るための備え
まさか秀吉が明軍や朝鮮軍の九州侵攻を予測して名護屋城を作った上で
朝鮮出兵をするはずがない。
だとしたら朝鮮半島から九州へ攻め入る軍勢はただひとつ
朝鮮に転封島流しされて反豊臣勢力のみ
>194
>だとしたら朝鮮半島から九州へ攻め入る軍勢はただひとつ
>朝鮮に転封島流しされて反豊臣勢力のみ
それよりも転封に従わないで謀叛起こされるのを心配した方が……。
196 :
完全理論武装論者:04/10/20 19:13:40
>>195 家康が謀反を起こしてくれたらそれこそ秀吉の狙い通り、してやったり
大 義 名 分 の あ る 戦 は 勝 ち 戦
主君に逆らって謀反を起こした家康にどこの大名や武将が味方しますか?
主君の仇という大義名分があったから秀吉の元には武将たちが集まり、明智光秀には
孤立無援だった。
家康が謀反を起こしてくれたら、秀吉が天下に号令をかけて裏切り者の家康を討てと
命令を発すれば、全国から武将がはせ参じるでしょう。
一方家康が主君の秀吉を討てと号令を発しても、武将は誰も集まってきませんよ。
197 :
日本@名無史さん:04/10/20 19:17:39
頭悪いなあ。
198 :
日本@名無史さん:04/10/20 19:39:34
家康か、利家か、如水が総司令官なら、
おそらく、大明国征伐はもっとうまくいったであろう。
朝鮮は確実に分捕れたはずだよ。
女真族を介入いして北京は間違いなく陥落しただろうな。
総司令官不在で行われたのが、大明や朝鮮にとってはラッキーだったわけだわな。
まあ秀吉が彼らに手柄を立てさせるはずはないがな。
日本での権力基盤が揺らぐわな。
>194
反豊臣勢力って具体的には誰?
朝鮮半島は本州より少し狭いくらいだから、かなり移せると思うが。
200 :
日本@名無史さん:04/10/20 20:35:28
うんこ
マルチポストうざいよねー。
この完全者って香具師、昔日本刀スレで馬鹿にされてた奴じゃないのか?
>>202 そうでなければ伊達君の新コテかもしれん。
204 :
日本@名無史さん:04/10/21 07:12:14
移封が不満で反対反抗した大名はいたが、
移封後に反乱を起こした大名なんていたか?
205 :
日本@名無史さん:04/10/21 08:34:32
小早川なんて転がされる毎に太ってないか?
誰か増封過程を希望。
・天正17(1589)年 丹波亀山 10万石(改易された秀勝の後釜)
・文禄4(1595)年 筑前・筑後 307300石(小早川隆景領を相続)
・慶長3(1598)年 筑前・筑後没収、越前へ国替←実施されたの?
・慶長4(1599)年 筑前・筑後復帰(家康様のおかげ)
・慶長5(1600)年 備前・美作 50万石(関ヶ原裏切りのご褒美)
・慶長7(1602)年 発狂。
ググれなどと言わずまとめたオレに乙。
伊予は?
208 :
日本@名無史さん:04/10/21 22:27:53
>>204 羽柴秀勝(小吉)
丹波亀山10万石もらってもっとくれと言って
秀吉がぶちきれて甲斐に移封される。
その後許され(母ちゃんが弟の秀吉に泣きついて)岐阜に戻る。
210 :
完全理論武装論者:04/10/22 00:06:39
>>198 >女真族を介入いして北京は間違いなく陥落しただろうな。
関東軍並みにおつむが甘い
関東軍が北京を占領して漢民族が完全に降伏したか?
北京以外の内陸都市に都を移して明軍は徹底抗戦するに決まってるだろが
中国大陸内陸部に秀吉軍が入り込めば入り込むほど、明軍との戦争は泥沼化して
日本本国の人的資源と物資資源が底を打って結局アボーン
あなたみたいなお気楽な考えのだ日本人が多いから、日本人は間抜けだと
世界から笑われるんだよ
211 :
完全理論武装論者:04/10/22 00:46:52
>>197 歴史を史料でしか語れない人か
もっと心理学や深層心理を勉強した方がいいよ
名探偵コナンやシャーロックホームズを見たまえ
現場に残された証拠だけで犯人を探し出したりはしない、被害者の置かれた状況や心理
加害者と思われる人物の状況や心理など、ありとあらゆる面から推理して犯人を捕まえる
日本人に欠けているのは物証(文書史料・発掘史料)でしか、推理できないチャチな脳みそだ
いいかげん史料だけで推理するのはやめたまえ
名探偵コナンやシャーロックホームズたちに笑われるよ
212 :
日本@名無史さん:04/10/22 01:02:40
数十万人程度の満州軍が明を完全に征服出来たんだ。
秀吉に出来ない道理は無い。
支那事変が長引いたのは、西洋列強が支那諸軍閥を支援していたからに過ぎない。
213 :
完全理論武装論者:04/10/22 01:07:36
私は小さい頃からシャーロックホームズの本を何十冊も読みあさった
シャーロックホームズの難事件で犯人を特定する推理はすばらしかった
現場に残された証拠はもちろんのこと、ほんの小さな現場の変化でも見逃しはしなかった
また、事件の関係者全員のささいな言動や細かい仕草などや、服装から履いている靴、さらには
靴についている泥や洋服に付着している花粉、ありとあらゆる面から推理して犯人を特定していった
私はシャーロックホームズの本を読めば読むほどはまっていった。
物証や証拠がなくても現場の変わった様子や変化、関係者の言動や態度などの心理で
犯人を特定することができるのだと、私は多くのことをシャーロックホームズの本で学んだ
あなたたちも一度シャーロックホームズの本を読みあさってはどうだろうか?
史料だけで歴史を判断することはきっとなくなりますよ
214 :
完全理論武装論者:04/10/22 01:14:56
>>212 秀吉の年齢をご存知ですか?
60を過ぎた高齢ですよ、秀吉の在命中に明国を完全に軍事占領なんかできませんよ
それとも中国大陸での合戦現場での指揮を石田三成や加藤清正に任せて、
秀吉は大坂城で大陸での合戦報告を聞いては逐一指示を出すわけですか?
秀吉がまだ50歳くらいで北京か平壌に15年間は、本腰を据え居城を構えて明国と戦うのなら
明国を滅ぼすのは可能だと思いますが、その間に日本を野心ある他の大名に乗っ取られますよ
>>213 俺は人生をタイムボカンシリーズで学んだ。
人生マンネリだ。
216 :
日本@名無史さん:04/10/22 02:42:50
>>213 先日亡くなった網野先生とそっくりな方法論だな。
217 :
日本@名無史さん:04/10/22 03:22:17
推理小説作家って、犯罪も結果も推理も自分で考えた世界でしょう。
自分で解明できない問題なんて最初からない世界だよ。
つか、マルチポストホントウザイいんですけど>完全推論さん
219 :
完全理論武装論者:04/10/22 20:10:59
>>217>>218 ここにも無能にわか歴史家がいたか
なんで日本人というのはこの程度のやつらばっかなのだろか?
>>217 もし俺がアメリカの有名大学の教授か有名研究所の所長で、まったく同じ意見を
載せたらあんたは「へへっー、さすが偉い人は物事の考え方が違いますね」と
頭を下げて納得するんだろ?
バカな日本人てのは権威や学歴や有名人に弱いからなぁ
俺の意見を権威のあるやつか有名人が言えば、途端に納得して
うなづくやつが多いからな
どこまで日本人というのはバカになっていくのだろうか
220 :
日本@名無史さん:04/10/22 20:26:05
俺がもし当時の石田三成の立場で朝鮮出兵の
同意求められたら、
俺「こ、この天下一の大うつけがぁ〜っ!」
サル「貴様・・・今何と申した?誰に物申してるか分かってるのきゃぁ〜!」
俺「貴様じゃ〜!このサル関白がぁ〜っ!」
んで翌日、晒し首にされている事だろう。
221 :
日本@名無史さん:04/10/22 20:27:33
敵陣の目の前で一夜城を作ってみせた秀吉の事だ。
秀吉の知略をもってすれば明軍ごとき烏合の衆を完全制圧するくらいの作業は片手間で出来る。
秀吉は、家康等の政敵に足を引っ張られて明国平定に手こずっただけなんだよ。
222 :
日本@名無史さん:04/10/22 20:29:35
家康を江戸に飛ばしたはいいや、
255万石はまずかった罠。与え杉。
223 :
日本@名無史さん:04/10/22 20:38:57
和歌山県田辺市近辺で、糖尿病に悩んでいる方が
おられたら、良い医師をご紹介致します。
国立病院機構:南和歌山医療センター
http://www.hosp.go.jp/~swymhp2/index.htm 所在地:〒646−8558
和歌山県田辺市たきない町27−1
電話:0739-26-7050(代表)
FAX:0739-24-2055
金 栄浩(きん しげひろ)先生
http://www.hosp.go.jp/~swymhp2/b-naika.htm ◆診療内容◆
患者様の自己選択件権を尊重し、十分な説明の上で納得のいく医療を
提供したいと考えております。
糖尿病、甲状腺疾患を中心とした代謝、内分泌疾患に加え血液疾患、消化
器疾患、膠原病、腎疾患その他一般内科の診療を行っています。
近年、増加の著しい糖尿病については月2回の糖尿病教室を検査科、栄養
科、薬剤科と共に開催し患者様のいろいろな相談に答えられるように努力
しています。
297 名前: マンセー名無しさん [sage] 投稿日:
224 :
日本@名無史さん:04/10/22 21:01:21
そいつって「日本人は血祭だ」発言で有名な殺人予告在日朝鮮人医師のREDとかって奴とは別人?
225 :
日本@名無史さん:04/10/22 22:12:24
マルチはやめようぜ
各板の兄さま方もそろそろヤバ気だせ
226 :
日本@名無史さん:04/10/24 18:04:03
先鋒が命令に忠実に停止せずに急進していれば
鴨緑江へ李氏王朝を追い落としていたろうか?
227 :
日本@名無史さん:04/10/24 19:57:56
>>210きみこそはおつむが尼尼!
大明すべてを占領なんてすぐには無理だろう。それはわかっとるよ。
しかしね君は推理力がないな。家康公の力を考慮しているのかね。
家康公は事前工作で、内通者をつくり、謀略で内部から崩壊させるのよ。
関が原しかり、大阪夏の陣、冬の陣しかり。
盤暦低の圧政にくるしんでる明で、内通者などいくらでもいるだろうよ。
といえ超現実主義者の家康は、もちろんこんな無謀な戦争などしないがな。
太閤の命令ならばやるだろうが、やるからには
朝鮮、遼東半島から北京周辺で割拠して秀吉の対抗勢力
となっていたであろうな。
228 :
日本@名無史さん:04/10/25 20:20:20
追い落としていた。
足踏みして講和交渉をしていた小西と宗は戦犯。
229 :
日本@名無史さん:04/10/25 20:27:32
自分の国を統一したら、隣の国を攻めるのは当たり前(当時は)
アレクサンドロスもチンギスハンもヌルハチもナポレオンも歴代中か皇帝も
みんな自分の国がある程度安定してから攻めてるし、
世界史の中で言えば特に珍しいことでもないと思うが。
家康も十年若く統一していたら攻めたと思う。
何せ日本の鉄砲保有数は世界一、百年内戦やっていてみんなが傭兵みたいな猛者ども。
まさに最強 突撃あるのみ
230 :
日本@名無史さん:04/10/25 20:34:23
231 :
日本@名無史さん:04/10/25 20:34:58
大阪の陣とか西南戦争とかは統一後の失業処理みたいな戦乱だからな。
朝鮮征伐も似たようない性格だろう。
明軍は総勢何万人の兵力がいたのでしょう?
>>232 明が派遣した軍勢は文禄・慶長役ともに10万と号しておりますですよ
ま、文禄役の時の実数は5〜6万程度かと思うけどね
明が諸問題を抱えていた時期に、辺境の属国へ侵攻してきたそのまた辺境の軍勢と
朝廷が認識してたっぽいのに10万も送り込むとは考えられまへん
慶長役の時には、本格的に送り込んだよーです
ちなみに朝鮮の官軍なんてのは、多く見積もっても3万あるかないか…
日本の前線兵力も似たようなもんだろ
それ以上だと民衆同様に飢える
235 :
日本@名無史さん:04/10/26 07:54:29
当時の朝鮮官軍は総勢5000
火縄銃も無く、錬度も低かった。
とうてい日本軍15万に抵抗する事は出来ない。
李舜臣は、地元の水路に詳しいので明の水軍に助っ人外人選手として指揮を委任された。
ちなみに当時の朝鮮の人口は約300万人。
つまり当時の石高は約300万石。
236 :
日本@名無史さん:04/10/26 17:35:42
237 :
日本@名無史さん:04/10/26 22:53:58
李舜臣忠武公>>>>>>>>>>>>>>倭兵>丁如昌提督
238 :
日本@名無史さん:04/10/27 00:17:20
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┃妄想度 ┃120% ┃ .〈_フ__フ
┣━━━━━━━╋━━━┫ ┗ ┛
┃色欲度 ┃999% ┃ ピピピ・・・
┗━━━━━━━┻━━━┛
◆主な生息地域:朝鮮半島より全世界へ拡散中
◆主 食 キムチ等の唐辛子を使った辛い物、犬、猫、糞、塵
◆特 徴 狡猾,貪欲,残虐,獰猛,冷酷,低脳で寄生・繁殖能力に優れる
徒党を組む習性があり、在来種に対して集団で恫喝・暴力・嫌がらせを行う
日本に於いては、その大多数が在来種に擬態している
各地で在来種との対立を起こし、地規規模で害虫と認識されている
オスは生殖本能が異常に強く、メスに対して無理矢理な交尾を得意とする
オス、メス共に容姿に非常な劣等感を持ち、異常に整形手術したがる
オスはメスが妊娠した幼体がメスだと判明すると掻爬させる
オスの個体数が常に過剰のためオス同士でも交尾する
強者に媚び弱者には徹底的に冷酷,同族を平然と見捨、虐殺する
神経中枢に「幸福回路」と呼ばれる固有の神経細胞を持つ
神経中枢に「火病体」と呼ばれる内分泌器官を持ち、都合が悪くなると
火病ホルモン 「ファビョーン」を大量に分泌、異常な興奮状態に陥る
239 :
日本@名無史さん:04/10/27 02:19:11
鬼女板での拾い物なんですが、誰かソース持ってる人いますか?
769 名前:可愛い奥様[] 投稿日:04/10/26 23:50:26 ID:SA4XOhop
徳山がチャンピオンになった時(防衛戦だったかも?)の試合を見てたんだけど
試合後のインタビューで最後に皆さんへメッセージをって所で
「会場に応援に来てくれた皆さん、本当にありがとう(←この辺はうろ覚え、決まりきったセリフ)
そして池田大作先生!ありがとうございます!!!」って絶叫してて引いたことあるよ。
見てた人いないかな?私びびって隣にいた旦那に
「い、今・・池田大作先生って言わなかった?てか、確実に言ったよね?言ったよね?」と
興奮して聞いてしまった(その試合は当たり前のように日本人の徳山の応援をしてたから
呆然として・・引いてしまったし、あんなに応援した自分が悲しくなったの)
チョソバッシングしたいだけなら、ふさわしい他の板に逝け
秀吉と全然関係ないだろ
241 :
日本@名無史さん:04/10/27 07:47:57
朝鮮軍が最終的に動員した兵力はどれくらい?
二万ぐらいかな?
1万ぐらいじゃない?
243 :
日本@名無史さん:04/10/28 20:58:14
たいした記録など残ってないのだろ
244 :
日本@名無史さん:04/10/28 21:53:43
記録はあったけど日帝が燃やしたニダ。
とほざかれるのがオチ。
熊本城スレでは晋州城だけで6万人超殺されたことにされてたぞ。
しかもチョンだけで。
10万とかは居ないだろうけど数万位は居たんでね。
李朝末期以外はそれなりに兵力はあったと思う。いやあって欲しい。
246 :
日本@名無史さん:04/10/29 17:14:57
だって正規兵は初戦で壊滅した八千だけでしょ?
あとはその辺の農民を徴兵した俄か仕込みの即席兵。
戦後の明の駐留兵二万七千を食わすのさえ困難だった痩せた土地から
兵隊が湧いてくるかな?
朝鮮軍の主力は義勇兵(あがり)なんじゃないの?
朝鮮史は何時の時代も何かというと『義勇兵』なるものが湧き出てくるが、
それは如何なることなのか?
正規軍が貧弱だし、反抗らしい反抗がほとんどないから、とりあえず民衆の
義勇兵ということにしてお茶を濁しているのであろうか?
いや、そんなことはない。本当に義勇兵がいつも大活躍していたはずだ。
そうであって欲しい。
寂しすぎるから
食料目当ての盗賊がたまたま日本軍を攻撃した。
これを指して義兵。
当然 朝鮮軍を襲った義兵もいる。
高麗は4万くらいの軍がいたから、それくらいはいたんじゃないかな。
ただ19世紀の李朝のように2000とかまで減ってなければだが。
251 :
日本@名無史さん:04/10/30 20:26:07
この時代の人口とかは、分からないけど
だいたい、産業革命(工業化革命)に入るころの
各国の人口比とそんなには変わりが無いと思われるから
だいたい、人口比(経済規模比)は
日本:明:朝鮮=3:14:1 くらいだと思われ。
で、実際、広大な明が、朝鮮半島へ戦力を集中させるのは限度がある。
一方、日本も渡海して安定補給しようとすれば、これまた兵力に限界がある。
よって、明は全国力の20分の一、日本は全国力の5分の一程度しか投入できない。
ちなみに、朝鮮は自国内での戦争だから、
全国力を投入できるし補給の心配も無い。
なのに、なぜ、3ヶ月ほどで半島全土を蹂躙されたか?
よっぽど、朝鮮が情けなかったとしか言いようが無いな。
252 :
日本@名無史さん:04/10/30 20:28:40
当時の朝鮮の人口500万人もいたか?
せいぜい300万人くらいじゃねーの?
あんな北でやまだらけで、平野がろくにない地形でそこまで養えるかな。
面積もかなりショボイ、せいぜい東北にちょっとくわえたくらい。
254 :
日本@名無史さん:04/11/01 13:20:57
そんぐらい。
戦役で3分の1ぐらいになったが。
255 :
日本@名無史さん:04/11/01 17:33:48
>>254 アメリカと4年間戦って
原爆や焼夷弾のアメあられを浴びせられても
日本の人口は、10分の一も減っていない。
朝鮮の役で朝鮮の人口が激減したなんていうのは
科学的に見て無茶な話。
それは、朝鮮人の日本たたきや
日本に攻められなければ国力が上がっていたという幻想。
自然科学の面からみて、朝鮮半島の
気候、面積、そこから割り出される農耕生産量、人口は
工業化社会前では、日本の3分の一以下。
256 :
日本@名無史さん:04/11/01 20:34:47
ちみは本土を蹂躙されていない近代の総力戦を引き合いに出して
大陸における人口崩壊システムを無視するのかね?
257 :
日本@名無史さん:04/11/01 21:14:34
半分以下になったのは確実でしょう?
日本兵、明兵、朝鮮兵、流民に略奪されまくったんだから。
人口が激減したのは事実だろ。
それに中国なども人口の爆発と崩壊を繰り返している。
朝鮮の戸籍管理能力ってどんなものなのですか?
260 :
日本@名無史さん:04/11/02 10:23:06
朝鮮の即席動員兵は役に立ったのかな。
261 :
日本@名無史さん:04/11/02 10:25:17
寒いから米もとれんだろう。
262 :
日本@名無史さん:04/11/04 14:42:02
土地も痩せているし
263 :
日本@名無史さん:04/11/04 21:28:14
日本軍の死者と朝鮮人の捕虜はどっちが多い?
264 :
日本@名無史さん:04/11/06 12:43:22
倭軍の損耗は五万が二回で合計十万人を失ったのだよ
逃げ帰りたい気持ちも分かるよ
265 :
日本@名無史さん:04/11/06 12:48:50
法螺
266 :
日本@名無史さん:04/11/06 15:45:12
チョンはみんな亡命だろ。
奴隷達がついてきた。
正確な戦果も知らない韓国人のレスはスルーで。
268 :
日本@名無史さん:04/11/07 01:29:17
弘仁四年(八一三)、新羅の賊百十人が平戸に来寇し、九人を殺して百余人を連れ去った。
貞観十一年(八六九)五月二十二日夜、新羅の船二隻が博多湾に侵入し、豊前国の年貢を奪って逃走。
寛平五年五月には肥前松浦郡、閏五月には肥後飽田郡に来寇。
寛平六年(八九四)九月、新羅から賊二千五百人が四十五隻の船で対馬に来襲。
※侵攻の発端は、捕虜が言うには「人民飢苦、倉庫悉空、王城不安、然王仰為取穀絹、飛帆参来」と、財政の窮迫によって、王が命令した。
270 :
日本@名無史さん:04/11/07 02:46:47
文禄の役での日本兵の死者5万人というのは、
ある程度信用できる。
そのほとんどは病死者であるが、原因は、
戦線が拡大し、南方系の風土である日本と全く異なった
北方系の風土を戦場にせざるを得なくなったため。
ちなみに明示になってからの台湾征伐においても90%は病死者、
日露戦争でも60%くらいはあったと思う。
第二次世界大戦(支那事変)でも大半は戦病死。
昔の遠征というものがいかに大事業であったかは想像に難くない。
明清の争いなどと言うものは、こういう観点から見た場合、
内輪の内乱と同じ。
ただし慶長の役では戦線を限定した事、前役の戦訓から、
犠牲者の数は病死者を含め2万に達しないと思われる。
朝鮮で言う「義兵」というのは山賊のこと。
日本にも当時山賊は存在したが、ことわけ治安の悪い李氏朝鮮は郊外に出れば山賊がウヨウヨしていた。
土地に不慣れな日本兵は昼は明軍、夜は山賊に補給物資を狙われ眠ることすら出来なかったという。
秀吉の朝鮮出兵では確かにこういった「義兵」達がゲリラ的に日本軍を襲い、成果を挙げた事実は否定しないが。
>248
に対する回答ね
義兵≠一般民衆鮮人の反抗という意味で
もといナショナリズムなどという概念がなかったこの時代において、まして空前絶後の最悪の統治をしていた李氏朝鮮という国で
「正規軍がだらしないから、民衆が立ちがるべき」などという考え自体が民衆の間にあったかどうかすら謎
273 :
日本@名無史さん:04/11/07 07:41:26
ある訳ないじゃん。
仕事が無いから雇ってくれと寄って来るから仕方なく荷物運びをさせていたら、
隙を見て持ち逃げしたってのが真相だろ。
朝鮮人が勝ち誇る戦果とやらの実際はいつの時代でもこんなもんだ。
李舜臣だって停戦協定を破って日本軍を不意打ちしようとしたら、返り討ちにされて敗死した雑魚。
>>270 > 明清の争いなどと言うものは、こういう観点から見た場合、
> 内輪の内乱と同じ。
風土を観点にしたら、日本→朝鮮以上に、
満洲→華南の方が変化に富んでると思うが。何故、明清は内輪で済ましてしまうのだ?
Σ(゚д゚;≡;゚д゚) 大明美少女ドコ?
>>248 >>271 義兵活動の最盛期にあたる1593年1月時点では、
朝鮮軍84,500人のうち、義兵は22,600人を占めていたとされている。
義兵将のほとんどは両班(支配階級)であり、
日本軍の圧政に耐えかねた民衆の決起ではなく、
正規軍が崩壊状態にあったので、国家によって上から組織したという側面が強い。
慶長の役のときは、義兵はごく少数にとどまり、ほとんど活躍は見られないが、
これは軍事戦略を明軍に全面的に依存してしまったことによるものと思われる。
民衆反乱については、日本軍が南に撤退し日明の講和交渉が行われた期間に頻発した。
中でも1594年1月の宋儒真の乱、1596年7月の李夢鶴の乱は大規模なものであった。
277 :
日本@名無史さん:04/11/07 14:59:19
義兵将の殆どは政争に敗れて浪人していた両班だよ。
戦争が終わると処刑された。
278 :
日本@名無史さん:04/11/08 19:12:16
なんでまた
>>274 長城越えてからは、ほとんど呉三桂とか明の降将まかせだろ。
>>276 手元に資料がなく、俺には真偽の程は分からないけれど、『伝説の朝鮮義兵』について
ここまで冷静に語っている人に初めて会った!
かたじけない
それ本に書いてある期日の抜き出しだよ。
282 :
日本@名無史さん:04/11/09 01:50:01
>>274 日本も伊達の東北から島津の鹿児島まで
中国に負けない長大な南北軸を持っていますが、何か。
日本の戦国時代も「内輪」ですよね。
朝鮮出兵の時、加藤清正と鍋島直茂は、日本軍で唯一中国・満州入りを
してるよね?この満州という地域は、一体どの様な地域だったの?
285 :
日本@名無史さん:04/11/09 20:06:40
>>284 身の毛もよだつようなヒドイ連中だな>日本側「学者」
286 :
日本@名無史さん:04/11/09 20:55:04
まさかどこもつかわんだろ。
287 :
日本@名無史さん:04/11/10 09:55:23
デムパ教科書皿仕上げ
>>209 遅レスだが、
>>206は小早川家ではなく羽柴秀俊→小早川秀秋(秀詮)の増封過程。
>>207が考えていたのは多分小早川隆景の増封過程。
・天文3(1534)年 出生 なし(毛利元就の3男)
・天文13(1544)年 安芸竹原庄 不明(竹原小早川領を相続)
・天文19(1550)年 安芸沼田庄を加える 不明(沼田小早川領も相続)
・天正13(1585)年 伊予拝領 35万石(四国攻めの恩賞と本家からの切り離し策)
・天正15(1587)年 筑前・筑後拝領 36万3300石(九州攻めの恩賞と本家からの切り離し策2)
・文禄4(1595)年 筑前の内 5万150石(隠居領 居城は備後三原)
・慶長2(1597)年 死去。
伊予から筑前・筑後に移る時に、なぜ表高が減っているのかよくわからん。
筑前には貿易港博多があるので実収入は筑前>伊予なのか?
289 :
日本@名無史さん:04/11/10 17:51:57
伊予はそんなに石高あるの?七万石くらいかと思っていた。
290 :
日本@名無史さん:04/11/11 00:10:51
_,.;-''"~~''-,r'"⌒'-、 ≧∞≦ ,.;' タ フ
r" ヽ l l r'" ケ フ
{ 見 す ま ヽ ,.-┴`ー....... -、 { す コ ン
> つ ぐ っ γ':::::::::::::::::::::::::::::::::丶 ゝ ぐ プ
/ け に て /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::. V 勃 タ
て ミ ろ /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::'; ち l
や l よ ;'::::::::::::::::::::::::: _,.-'"m:::::::::::::::; や を
ゝ、 る ち ヒニゝ、 ハ ヒ´_,.-'''":::::::::::::::::.| が つ
ヽ か ゃ ヾ-t''〉 ;';;,,r'五ニ7::::::::::::::r'^';| る け
〉 ら ん /~~/ y´ ~""''-、:::::::::: タ i る
;' な を '; ( ノ ,_ ;i:::::::::::'レ',イ と ノ
.'; 'i `t っ ;i::::::::r-' 'ト、 r'~
ヽ_ ,r' l トこニ-.,__、 ;;l::::::::| .'i ヽ_,.-'"
~''--'''"~ | t--.,_,, r' ::::::::::.'i
'、 _,.-':::::::::::::::::|
ゞ,二;;;;='''""-''"~ _,..-┴
|i~ @ -''"~
291 :
日本@名無史さん:04/11/11 19:44:33
所詮四国
292 :
日本@名無史さん:04/11/12 18:38:43
小早川家の兵の出身はどの辺が主体なんだろうね?
293 :
日本@名無史さん:04/11/13 17:20:42
兵は現地の四国や九州では?
294 :
日本@名無史さん:04/11/13 21:16:05
チョン
295 :
日本@名無史さん:04/11/13 22:43:24
∧_∧ ・・・・・・・・・・・・・
< `Д´ > ∧_∧
/ \ < `Д´ > ・・・・・・・・・・・・・
__| | | |_ / ヽ、
||\  ̄ ̄ ̄ ̄ / | | |
||\\ (⌒\|__./ ./ このスレッドは
|| \\ ~\_____ノ| おはようから、おやすみまで、暮らしを邪魔する在日
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爆発一番 ハム日新聞
拉致ひとすじ 金正日
妄想 ふくらまそう 民口寸
淫らな明日のために 従軍慰安婦
黄色いエラ 街宣ウヨ(ジサクジエン)
犯行は計画的に ほのぼのレイプ
歴史をクリエイトする 朝魚羊総連
電波も全開に コリア 観光局
悪名世界一への挑戦 しG電気
ご覧のキムチ野郎の抵抗でお送りします。
297 :
日本@名無史さん:04/11/16 20:00:05
今こそ朝鮮を征伐せよ!
隆景時代と秀秋時代では家臣構成が違うの?
>>298 隆景が隠居する時に小早川譜代の重臣はごっそり三原へ連れて行きました。
三原衆と呼ばれた彼らは、隆景が死ぬと毛利家に仕えています。
その後残った譜代は、隆景が特に指名した新参衆か筑前にある隆景の隠居領の代官、そ
うでなければ毛利氏から秀秋の正室になった宍戸氏に付けられた者くらいでした。
その後を秀秋に付いて来た羽柴系の家臣が埋めました。
越前移封時に秀秋と折り合いが悪くなって離れた山口宗永や、その後に来て関ヶ原で寝返
りの段取りをした稲葉正成や平岡頼勝らが家老職を勤めています。
関ヶ原でサボタージュしたことで知られる松野主馬も羽柴系の家臣です。
故に、碧蹄館で大勝した小早川勢と関ヶ原で秀秋が率いた小早川勢は名前こそ同じだけど
中身は全く別物と言っても過言ではないようです。
301 :
日本@名無史さん:04/11/17 00:57:42
302 :
日本@名無史さん:04/11/17 01:41:51
元均は朝鮮人らしい朝鮮人の中の朝鮮人と言える。
存在そのものが朝鮮人をかたっている。
所詮満洲族の李舜臣には真似出来ない、
朝鮮人らしさが見える。
味方を差別し利敵行為をおこなう。
実力もわきまえないで戦う。
(まあ満洲族の李舜臣も同じだが。)
彼を讃えずしてどの朝鮮人を讃えられるか?
>>300 299の話は大体合ってるだろ。
ネタとしての否定だとしても、こういうスレではもう少しセンスのいいレス
が欲しいところだぞ。
304 :
日本@名無史さん:04/11/17 08:35:17
今こそ朝鮮を征伐せよ!
305 :
日本@名無史さん:04/11/17 10:23:56
足軽の出身構成は?
どうでもいいが、李舜臣は海戦で島津義弘に討ち取られてますが。
308 :
日本@名無史さん:04/11/17 22:39:24
朝鮮最強は元均の口だ。
日本人>>>>>>>元均>>>>>>>>満州族李舜臣
>>309 俺は
>>299ではないが、
>>300のレスがあまりにチープだったもんで
つい突っ込んでしまった。
正直、スマンかった。
>>307 オマエのレスは最悪だなあ
「必死だな。(w」って、今どき(ry
つまらんからやめろ。
312 :
日本@名無史さん:04/11/18 01:10:36
↑
きみに言われるとは思わんかった。
朝鮮征伐のMVPは、島津義弘。
李舜臣は、せいぜい盗塁王あたりだな。
島津は小西と露梁海戦で大敗してるじゃん。
李舜臣は戦死してでも賊を追って禍根を断とうとしたのでした。
315 :
日本@名無史さん:04/11/19 02:17:50
馬鹿関が原にいたのは幽霊か?
316 :
日本@名無史さん:04/11/19 02:18:40
>>島津は小西と露梁海戦で大敗してるじゃん。
李舜臣は戦死してでも賊を追って禍根を断とうとしたのでした。
基地外チョンのネタ。
317 :
日本@名無史さん:04/11/19 04:09:03
実際に韓国の学校では、そんな風に教わってそうだけどな。
韓国人は歴史とフィクションの区別が出来ないらしいから。
318 :
日本@名無史さん:04/11/19 07:01:50
朝鮮側の自己申告だけで撃沈数や死者を断定されてもなー
露梁では明や朝鮮の武将が軒並み死んでいて追撃戦も行なえなかった。
自称 大捷 なんですな。
319 :
日本@名無史さん:04/11/19 07:55:45
当時は釜山からソウルまで何ヶ月もかかるものだったんでしょうか?。ナポレオン軍にあったような 補給用の大型馬車隊のようなものは秀吉軍にはなかった?から 大兵力を維持するのは厳しかったんですか?
320 :
日本@名無史さん:04/11/19 11:13:52
大規模輸送が可能な道路が皆無だから、てこずったんだろうよ。
占領統治がうまく行っていれば小田原征伐他のように補給はうまく行ったのだけどな。
腹を空かして共食いまで始めた朝鮮農民が敵味方関係無しに略奪しだしているのだから
人足輸送がうまく行かなかった。
323 :
日本@名無史さん:04/11/19 23:00:02
明までどうやっていけるのかと・・・
>>316〜318
〜露梁津で李舜臣らのひきいる韓・明水軍と遭遇し、
戦って大いに敗れた。明側の文章によれば〜(中略)
〜韓国側の文章のほうが正確であろう。
「日午・賊大いに敗れ、追って二百艘を焚く、賊兵焼溺し俘斬殆んど尽く。
義弘ら、わずか余兵五十艘をもって脱走す」
島津側の記録でも右とほぼ同様で、島津義弘が戦場を脱出して
基地の唐島までもどったときは、その船の船体はほとんど破れ、
両舷に矢が無数に突き立って針鼠のようであったという。
〜基地外、司馬遼太郎のネタ。
325 :
日本@名無史さん:04/11/20 01:42:18
大砲で攻撃したんじゃなかった?
チョンは。
326 :
日本@名無史さん:04/11/20 01:44:25
>>追って二百艘を焚く
義弘ら、わずか余兵五十艘をもって脱走す
400-200-50=150
どこいったの?
あと島津1万人小西5000人どうやって
日本に帰ってきたの。
僅か50艘で
327 :
日本@名無史さん:04/11/20 04:22:21
↑
ほとんどしんだ。
328 :
日本@名無史さん:04/11/20 07:39:24
329 :
日本@名無史さん:04/11/20 08:17:02
>>326 島津軍、1万人もいねーよ。
義弘、「兵がいないのでかっこ悪い、肩身が狭い」と国許に兵を送ってくれるよう
泣き付いてるぐらいなのに。
330 :
日本@名無史さん:04/11/20 09:20:21
それで島津家中の主な戦死者は?
島津側の資料だと一桁だっけ>戦死者
有名な武将が戦死した記録も無いし。
大将が戦死して戦場から逃げ出した明朝鮮軍のぼろ負けでしょ>露梁津
332 :
日本@名無史さん:04/11/20 10:02:03
一番気になるのは、徳川や前田とか、
統率力のある大大名を渡海させなかったことなんだけど、なんでだろう?
やっぱりこれ以上手柄をたてさたくなかったのかな?
333 :
日本@名無史さん:04/11/20 10:53:42
小西軍はどうなのよ?
334 :
日本@名無史さん:04/11/20 10:55:07
蒸発した150艘の行方は?
335 :
日本@名無史さん:04/11/20 11:00:58
当時、船や兵糧は海賊商人(小西みたいな)に委託してたからねえ。石田三成の書状によると、
「島津の水軍(伊藤屋?)が無許可で沿岸を荒らしまくってる。作戦行動に支障がでるから早々にやめさせてくれ」
とのこと。水軍の数があやふやなのも納得
336 :
日本@名無史さん:04/11/20 11:18:02
僅か50艘で日本まで帰ったということは、
終戦直後の買出し列車か?
さもなければ、泳いで日本に帰ったのか?
さすが島津軍。
しかも戦死者一桁
337 :
日本@名無史さん:04/11/20 11:20:19
馬鹿サイト見ると今でも捏造された
亀甲船が載ってる。
司馬もその口だろう。小説家なんてそんなもんだ。
かれは歴史家じゃないし。
338 :
日本@名無史さん:04/11/20 12:37:44
被害兵数的には痛み分けだと思うよ。
しかし島津は寡兵でよく出撃しているな。
明と朝鮮はこの海戦だけで指揮官が死にすぎ。
339 :
日本@名無史さん:04/11/21 00:00:03
そんなに死んでないよ。
小西が関が原に5000人連れてきたし、
島津もそんな記述はない。
琉球に侵攻したしね。
340 :
日本@名無史さん:04/11/21 00:08:22
亀甲船のソースまだーーー
341 :
日本@名無史さん:04/11/21 01:57:21
金属活版印刷なんかは、西洋より4百年早いのに。
343 :
日本@名無史さん:04/11/21 10:49:08
捏造言いがかり
344 :
日本@名無史さん:04/11/21 11:12:23
>>341 動力飛行は無理だろう。最近の人力飛行機は30里(たぶん18km)は飛べるから、不可能ではないだろうが、材料が当時よりも格段に進歩しているし空力設計もコンピュータを使っている。無理だな。
もし、実在したとすると、むしろ熱気球と併用したようなものではないだろうか。
345 :
日本@名無史さん:04/11/21 11:44:25
真に受ける馬鹿発見
どうせチョンの脳みそにあるだけさ。
346 :
日本@名無史さん:04/11/21 12:39:26
このサイトを知ってる人も多い筈だが、まずはこちらをご覧頂きたい。
>>
http://members.at.infoseek.co.jp/koreawatcher/docs/w98_9_12.htm 最後の“伝統と原型を取り戻しに出る道”の場面で
>刃をよく作るためには熱処理と鍛造(叩いて強度を高めて成形する作業)がなによりも重要だ。
>日本刀はまさにこの技術を我が国から盗み出して伝承しているが、我が国はこの技術を失ってしまって復元できないのだ。
完全にパクれねぇ事への言い訳じゃねぇか!それよりこんな事言って信じる奴居んのか???
ってか叩くだけじゃ強度上がんねぇし! (笑
それより、俺が言いたいのは、
>彼は早い時間内に日本の刀剣技術を学ぶために日本へ行く計画を立てている。
>恐らく我が国の職人の後裔に違いない日本最高の刀剣職人に既に頼みを入れた状態だ。
>彼もホン・ソッキョン氏が学ぶことを許諾したというから、まもなく我が国の刀の原形を取り戻しに行く作業が始まるはずだ。
パクる気満々じゃねぇか!
ここでちょっと見て欲しい、
>彼(日本最高の刀剣職人)もホン・ソッキョン氏が学ぶことを許諾した
マジこいつだれ???本当に日本最高の刀剣職人か?何わざとパクらしてんの?みんなでこいつを叩こう!
もう手遅れかもしれんがこの馬鹿職人に指導を止めさせなくては!
もしこいつを知ってる
347 :
日本@名無史さん:04/11/21 13:12:35
≫346
ハライテーーWWW
朝鮮って本気でこんなこと考えてるんだ。捏造通り越して茶番。
鎌倉時代に、
「日本刀すげっ!もっとおくれよ」
て言って貿易してたのダレなんだよ!W
348 :
日本@名無史さん:04/11/21 14:37:32
>>345>>347 おまえら在日だな。在日の朝鮮コキオロシは酷いからな。親類の悪口は遠慮なく言える特権があるからな。
>>346 >日本刀はまさにこの技術を我が国から盗み出して伝承しているが、我が国は
>この技術を失ってしまって復元できないのだ。
でも、たしかにこれはおかしいな。日本刀を開発していたころは、日本も朝鮮もなかったろう。著作権や特許権があるわけじゃなし、盗んだというのは不穏当だ。日本語の旨くない翻訳者が翻訳したのではないか。
349 :
日本@名無史さん:04/11/21 16:10:59
>>348 お前が在日だろ。
言いがかりつけんなボケ
350 :
日本@名無史さん:04/11/21 16:14:51
在日は本国人はたたかない。
逆に本国人は在日のことは大いにたたく。
こんなの常識じゃないか。知ったかぶりしてうそつくなよ。
>>盗んだというのは不穏当だ。
日本語の旨くない翻訳者が翻訳したのではないか。
この書き方はおかしい。在日のの馬鹿チョンが。
351 :
日本@名無史さん:04/11/21 16:16:23
チョンも秀吉の偉大さを認識したということだな。
352 :
日本@名無史さん:04/11/21 16:17:25
在日のの馬鹿チョンが。
訂正
在日の馬鹿チョンが。
353 :
日本@名無史さん:04/11/21 16:19:09
しかし
>>348のかばい方はすごいな。
在日は本国の犬というのは本当だな。
354 :
日本@名無史さん:04/11/21 16:26:07
>>348 ♪ ∧_∧∩
♪ <丶`∀´> 日本にガツンと言ったニダ
( つ く 心の中で言ったニダ
( \
レ' ⌒ヽ フ
これぐらいのレベル。
355 :
日本@名無史さん:04/11/21 17:17:07
腹痛っと笑ってられんぞ
韓国人はこの手の妄想を世界で言いふらしてるからな
356 :
日本@名無史さん:04/11/21 18:43:56
>>348 ホロン部出現。
>>日本刀を開発していたころは、日本も朝鮮もなかったろう。
著作権や特許権があるわけじゃなし、盗んだというのは不穏当だ。
日本語の旨くない翻訳者が翻訳したのではないか。
確かに日本は在ったが朝鮮はなかったな。この当時
357 :
日本@名無史さん:04/11/21 18:49:59
358 :
日本@名無史さん:04/11/21 21:06:09
人を勝手に在日とか認定ずる
無知なチョン公のいるスレはここですか?
>>358 きみのレスを見ると、残念ながらそう判断せざるを得ないな。
360 :
日本@名無史さん:04/11/22 00:32:03
>>359 きみのレスを見ると、残念ながらそう判断せざるを得ないな。
361 :
日本@名無史さん:04/11/22 00:33:01
>>348何
「在日の朝鮮コキオロシは酷いからな。
親類の悪口は遠慮なく言える特権があるからな。」
のソースまだーーーーー。
362 :
日本@名無史さん:04/11/22 00:39:37
何なんだよここ真面目にやれ。
363 :
日本@名無史さん:04/11/22 00:54:10
元均は朝鮮人らしい朝鮮人の中の朝鮮人と言える。
存在そのものが朝鮮人をかたっている。
所詮満洲族の李舜臣には真似出来ない、
朝鮮人らしさが見える。
味方を差別し利敵行為をおこなう。
実力もわきまえないで戦う。
(まあ満洲族の李舜臣も同じだが。)
彼を讃えずしてどの朝鮮人を讃えられるか?
日本人>>>>>>>元均>>>>>>>>満州族李舜臣
364 :
日本@名無史さん:04/11/22 12:56:40
マスえもん声優、大山のぶ代ら7人が交代
朝鮮中央放送系の不人気アニメ「マスえもん」で4半世紀にわたってマスえもんの
声優を務めてきた大山のぶ代ら主な声の出演者7人が来春、 降板し、若手と交代することが21日明らかになった。
後任の人選については、マスえもんの声は元力士でタレントの増健(30)、 ジャイアンはKONISHIKI(40)、のび太は
山田花子(33) 、静香は高見山(60)、スネ夫は荒勢(58)、ぼた子は時津洋(36)、多目くんは琴富士(43)が務め、
主題歌は大至(36)が歌う予定。
交代決定を受け入れた大山さんは「つきひざから1年半が すぎ、ちょうどよい交代の時期。遠い未来までずっとず
っとみんなに愛される『マスえもん』であってほしい」と話している。
「マスえもん」はブラックタイムに視力検査並みのの視聴率を取る同局のお荷物アニメ番組。原作者の柳川・F・信行氏
が「マスえもんはこういう声だったんですね」と認めるほど、大山さんらははまり役で、不人気の原動力になっていた。
(共同通信)
365 :
日本@名無史さん:04/11/22 16:25:12
>>348は逃げたか。
全く勉強もしないで知ったかぶって書き込むからな。
最低のクズ野郎が。
韓国の李政権が斉州島の住民を虐殺したとき、
その韓国軍の虐殺を逃れて日本に逃げてきた白丁を日本政府は在日として
受け入れてやった訳だが、その恩を忘れて在日は自分たちを殺そうとした
韓国政府に媚り、日本に対し捏造の歴史で中傷するのは何故?
366 :
日本@名無史さん:04/11/22 16:39:47
↑
その答えはきみたち在日が知っている。
367 :
日本@名無史さん:04/11/22 17:01:56
↑
その答えはきみたち在日が知っている。
368 :
日本@名無史さん:04/11/22 17:02:17
>>348は逃げたか。
全く勉強もしないで知ったかぶって書き込むからな。
最低のクズ野郎が。
369 :
日本@名無史さん:04/11/22 17:04:19
そんなに何で仲間にしたいのよ。
馬鹿にされた恨みかい?
370 :
日本@名無史さん:04/11/22 17:08:13
お前が無知で馬鹿なんだからしょうがないじゃないか。
>>348
>>370 下らない朝鮮人の言いがかりなんて無視しろよ。
捏造と言いがかりはチョンの得意技だろ。
372 :
日本@名無史さん:04/11/22 17:35:00
朝鮮の役」当時の資料をみてみると、日本軍は敵に対して勇猛で
はあったが、軍律は意外に厳しく、民衆に対する一方的な狼藉は働
いていない。(加藤清正の告諭文、「西征日記」)
朝鮮の一般民衆は「苛政にあえいでおり、その塗炭から救うことを
要する」とさえ記している。さらに「乱中雑録」には、「群盗あり、
倭人と称し」云々とあり、朝鮮でどさくさ紛れに「明兵」及び朝鮮人
が狼藉を働いているとさえある。
事実、朝鮮側の資料(「再造藩邦志」)にも、いかに朝鮮側が、明兵の乱
暴狼藉に苦慮していたの記録が残っている。あまりにも酷いので、明兵の
来援を請うのをためらったとある。
天朝(=明のこと)に奏すといえど、たとえ兵を出すも
…必ず憑陵横暴侵藉の憂いあらん。…「天兵」(=明兵のこと)
の為に蹂躙せらるれば、即ち更に足をつくる所無からん。
「天朝」と呼んで頭が上がらなかったのだろうが、中国にも激しく
文句いった方がいいと思うぞ。
>>372 別に異論があるわけでないんだが、
朝鮮側の資料に、日本兵の規律などを記したものは残っていないのですか?
清正の文じゃそりゃ自前の兵を悪く書かんだろう・・・と思ったもので
375 :
日本@名無史さん:04/11/26 00:01:22
>>374 中傷はいいから
何が違うのか資料を提示して教えて
大変興味がある
376 :
日本@名無史さん:04/11/26 00:26:29
>>373 当の李王が言っているよ。
清正に捕縛されたのちの李王が、
「日本人は気宇壮大、仁義に厚い」
と誉めている。
手許に資料はないが調べてみ。
377 :
日本@名無史さん:04/11/26 00:31:46
>>375 今度は居直りでつか? 思い込みって指摘されたらまず反省しろよ、伊達君。
相変わらず破れかぶれで生きてるんですね。(w
↑
はいはい。ソースまだ〜?
清正は北朝鮮でも、解放軍のように民衆に慕われるが、
彼が戸籍調査だの検地だのを始めた時点で
単なる侵略者と見なされてしまうのであった。
小西行長「戦スルノマンドクセ('A`)」
383 :
日本@名無史さん:04/11/27 11:06:21
>>382 ピョンヤンであの兵力で大損害出してまで明とあんだけ戦ったのに・・・
明も平壌にいたのが日本の最精鋭部隊だと判断して
もう後は雑魚だと南下して大敗したのが碧蹄館
384 :
日本@名無史さん:04/11/27 11:53:51
どの部隊が一番強かったんだろう?
385 :
日本@名無史さん:04/11/28 13:43:25
平壤で大被害?
根拠は?
386 :
日本@名無史さん:04/12/03 14:13:22
京都人で、通学域に33間堂があるところで育ちました。
耳塚のこと勉強しましたが、もっと知りたくてこのスレにきました。
もっと適切なスレあったら教えてください。教えてチャンですみません。
387 :
日本@名無史さん:04/12/03 14:18:18
ここには変な教育を受けてしまった朝鮮人が湧いてるから、いい加減な話も紛れ込んでるよ。
戦功を水増しする為に一体から二つ取れる耳を持っていったらしい。セコイナ('A`)
本当は鼻だったときいてる。
>>388 行ってみますが、鼻請け取り証では、鍋島軍(佐賀)吉川軍(山口)が
ダントツ。他に(熊本)があるのか?
>>387 決め付けないで。
日本人だけど、京都は赤系教師多いから変な教育受けたのはあたっているかも。
三十三間堂や博物館への遠足のついでにかならず耳塚寄ったものだ。
でも、小さいながらも直感的に保留マークつけておきました。
それからン十年、ほんとのことが知りたい年頃になったと言う事だと思う。
392 :
日本@名無史さん:04/12/06 01:32:17
チョンが都合の悪い話の流れになったから話をそらすために
自作自演下だけの話。
スレ読めば分かる。
393 :
日本@名無史さん:04/12/10 23:25:38
日本史板は相変わらずチョンチョンうるさいんだな。
戦争運営に失敗して朝鮮は自滅している
397 :
日本@名無史さん:04/12/18 14:15:37
>>396 それまさに日帝のことじゃん(激藁
日帝も自滅、ウヨ厨も自滅
倭人はいつまでたっても進化しないね(極藁
398 :
日本@名無史さん:04/12/19 00:03:49
もし現在のチョンだったら武将の戦功水増しし放題だな。
整形で不必要になった鼻とか耳とか舌とかそこら中に落っこちてそうだ。
そのせいで豊臣政権経済破綻の危機が、より深刻に。
三成、長束らもサービス残業で必死だな。
399 :
日本@名無史さん:04/12/19 00:52:51
水増ししまくりは現代の倭人では?
400 :
日本@名無史さん:04/12/19 01:13:02
義兵活動の最盛期にあたる1593年1月時点では、
朝鮮軍84,500人のうち、義兵は22,600人を占めていたとされている。
義兵将のほとんどは両班(支配階級)であり、
日本軍の圧政に耐えかねた民衆の決起ではなく、
正規軍が崩壊状態にあったので、国家によって上から組織したという側面が強い。
慶長の役のときは、義兵はごく少数にとどまり、ほとんど活躍は見られないが、
これは軍事戦略を明軍に全面的に依存してしまったことによるものと思われる。
民衆反乱については、日本軍が南に撤退し日明の講和交渉が行われた期間に頻発した。
中でも1594年1月の宋儒真の乱、1596年7月の李夢鶴の乱は大規模なものであった。
401 :
日本@名無史さん:04/12/19 01:13:26
勝ってたのは文禄1年の最初の「1年間」だけ。
文禄2年〜3年になると、李舜臣得意のおびき出しに、
日本軍も乗ってこなくなる。手の内が完全に読まれた挙げ句、
「慶長の役」では、2回とも日本軍の圧勝に終わった。
熊川の海戦 日本軍傍観(朝鮮軍撤退)
慶長1年:巨済島の海戦 朝鮮軍の大敗北(*李舜臣左遷で不在)
上陸した朝鮮の陸上部隊は島津軍により
ほぼ全滅。
慶長3年:露梁海峡 明・朝鮮軍壊滅。李舜臣敗死。
402 :
日本@名無史さん:04/12/19 02:37:11
朝鮮人はみんな嘗めている。
嘗めているから臭いんだー
朝鮮人はみんな生きている
生きているから臭いんだ
グロイちんぽを太陽にすかしてみれば
まっかに流れる僕の血潮
大腸菌だってサナダムシだって
寄生虫だって
みんなみんな生きているんだ
友達なんだ
五二 李舜臣逮捕される
水軍統制使李舜臣を逮捕して、獄に投じた。(宣祖三十 1597年1月27日)
〔朝廷では、かれに〕拷問を一度加え、死罪を減じ、官職を削って軍に編入した。
〔李〕舜臣の老母は、牙山(忠清南道牙山郡霊仁面〕にいたが、李舜臣が獄に
下ったと聞いて気が動転し死んでしまった。
舜臣は、出獄して牙山を過ぎる道すがら成服(喪服を着ること)し、そのまま
権リュルの帳下に赴いて従軍した。人々はそれを聞いて悲しんだ。
六一 最後の決戦、李舜臣戦死する
・・・
李舜臣は、危険をものともせず、みずから力戦していたが、飛来した弾丸が
その胸に命中して背中にぬけた。左右の者が帳中に扶けいれた。李舜臣は
「戦いはまさに切迫している。くれぐれも私の死を知らせぬように」といい、
言いおわるや息絶えた。 (宣祖三十一 1597年11月18日)
才能はあるのに運命にめぐまれず、〔その抱負の〕百に一つも実現できずに
死んでしまった。 ああ、惜しいことである!
404 :
日本@名無史さん:04/12/19 22:52:35
抱負を実現する能力が、才能なのだよ。
405 :
日本@名無史さん:04/12/19 23:16:42
えっ?李舜臣て敗死だったの?
敗死も敗死。
おまけに、講和で撤退する日本軍への騙し討ち中の敗死。
407 :
日本@名無史さん:04/12/19 23:23:44
停戦協定を破棄してだまし討ちを試みたが、島津軍に反撃されて討ち死に。
勿論李舜臣が率いていた艦隊も敗北。
408 :
日本@名無史さん:04/12/19 23:52:18
>>390 まあ、それは女子供を殺して水増しした戦果だからね。
409 :
日本@名無史さん:04/12/19 23:57:30
李舜臣というのは韓国に数少ない英雄だと聞いたが、随分みっともない奴だな。
単なる卑怯者として返り討ちにされてるんじゃ、マンガに出てくるチンピラ役と変わらないじゃないか。
李舜臣は明国水軍都督陳リンの指揮下にあった。
陳リン軍の主力は朝鮮戦船であり、逆に明戦船は装備が乏しかった。
順天城から撤退する日本軍への攻撃を発案したのは誰だったのだろうか?
ズバリ、ランランだな。
>>409 それは歴史修正主義です。
李舜臣将軍の活躍を貶める陰謀、デマの類です。
反論は受け付けません。
413 :
日本@名無史さん:04/12/28 14:29:15
日本には李舜臣級の指揮官は大勢いるからね
李は貶としめるほどすごい能力があるわけでなし
>日本には李舜臣級の指揮官は大勢いるからね
日本は李舜臣になす術もなくやられまくってますが・・・。
殆どは緒戦期の奇襲攻撃であとは善戦している。
逆に朝鮮水軍だって奇襲されれば元均のように潰走している。
日本は海洋進攻津作戦自体がないんだから軍司令官さえ存在していない。
朝鮮出兵時に朝鮮に移り住んだ香具師は、いるのでつか?
418 :
日本@名無史さん:04/12/29 19:15:36
停戦協定を破ってだまし討ちを試みて逆に敗死したのは、単なる卑劣なチンピラの人生としか言い様が無い。
初期の李舜臣が活躍したのは補給部隊を襲撃するような作戦であり、当時の日本人の感覚では補給部隊を襲撃するなど武士としての誇りを知らない野盗の所業に過ぎない。
野盗として活躍し、チンピラとして死んだ雑魚。
そんな雑魚を英雄視するのは、武士道を知らないチンピラ民族だけだ。
ちなみに停戦協定を破って日本軍を奇襲しようと発案したのは李舜臣本人だ。
日本との実力差を冷静に認識している明の提督は李の提案に難色を示したが、李は自分が一切の責任を負うと言って協力を求めてきたので仕方なく部隊を貸した。
ところが島津軍の逆襲を受けてアッサリ壊滅し、李舜臣が武人としての名誉と人間らしい誇りを捨ててまで敢行した卑劣な作戦は失敗に終わった。
李舜臣のブザマな最期は、朝鮮人の醜悪さだけを後世に語り継がれる結果となった。
>>418 そんなマヌケの銅像ぶっ建てて崇めてるなんて凄い奴等だな。
是非映画化でもして欲しいものだ。
420 :
日本@名無史さん:04/12/29 21:31:39
>>418 俺は日本人だがそれは辛辣すぎるぞ。補給部隊を襲うゲリラ戦術はきちんとした抵抗手段だろう。
戦力差を自覚してそういうゲリラ戦術に徹し、日本軍を苦しめたのなら立派、立派。
最後の状況判断は確かに結果的にはミスだったが、
「倭軍を逃がしたら増援がくるのは必至、徹底的に壊滅しておかなくてはどうする」
という判断は朝鮮側の視点から見れば正しいような気がする。
確かに秀吉の違命で日本が撤退しているのであり日本がこれ以上戦争をする気がなかったのは事実だったんだが、
こんな事は李は知らなかったんだし。
421 :
日本@名無史さん:04/12/29 21:42:13
まあ彼は祖国のために不足した兵力を最大限に生かし日本軍を苦しめ、最後には名誉の戦死を遂げた。
それだけであっぱれだろう。
実際、東郷元帥ですら彼の戦法(反転とかおびきよせなど)を研究して日本海海戦などに生かしたそうで、
「私など李将軍の足元にも及ばぬ」と語ってる。
漏れ達ごときが避難するのはどうかと思うよ。
422 :
日本@名無史さん:04/12/29 21:49:56
慶長3年の朝鮮との最終海戦は、日本側の大逆転で終了した。実に痛快な話だ。
軍官の宋希立と李舜臣はそろって敗死。それにしても、日本軍の殿をつとめた
島津義弘の強さは、最後まで際立っていたな。
明・朝鮮を骨の髄まで震え上がらせたわけだ。
「李舜臣」は凄いと思っておりますぜ。
424 :
日本@名無史さん:04/12/29 22:13:31
東郷元帥が李舜臣について言及したというのは事実と異なる伝説。
実際には日露戦争に臨んで帝国海軍の某士官が縁起かつぎで李舜臣の墓参りをしたという逸話に尾鰭がついただけ。
この件で東郷元帥に何か関係があるとするなら、実際に墓参りをした人物の上官がたまたま東郷だったというだけ。
425 :
日本@名無史さん:04/12/29 22:19:11
>>420 戦術的には問題ない。
通商破壊や補給の軽視、あるいは宋襄の仁のごとき約束事の偏重は日本人の悪弊だ。
だが、それこそが正々堂々たる戦いから逃げない勇気と誇りを重視する武士道なのだ。
李舜臣は卑劣な戦いに終始して、島津にアッサリ返り討ちにされて惨敗した雑魚の中の1匹に過ぎない。
いや、戦いに卑劣も糞もないだろ。
427 :
日本@名無史さん:04/12/29 22:35:07
それは朝鮮人の考え方。
武士道とは異なる発想だな。
騙し討ちなんて、される方が悪いとしか言いようがない。
そもそも正々堂々とした戦ってなんじゃそりゃ。
どんな戦よ。
429 :
日本@名無史さん:04/12/29 22:42:00
慶長の役では、李舜臣が参加したのは、順天城と露梁海峡の2海戦。
順天城では小西行長を薄汚い罠にかけようとして、見破られ失敗、
水軍はすごすと撤退する始末。露梁海峡では朝鮮軍の完敗。
李舜臣、勝率ゼロだろw
430 :
日本@名無史さん:04/12/29 22:45:53
朝鮮人には、正々堂々とした戦いという概念自体が認識不可能なようだな。
戦いを止めるという約束を無断で破棄して不意打ちするのは、卑怯なんだよ。
確かに相手の油断を誘えるので戦術的には効果的だが、何度もそんな真似をしていると次第にそんな奴との約束を守る相手は居なくなる。
騙される方が悪いと言い放つ朝鮮人を信用してしまうようなマヌケは朝鮮人によって攻め滅ぼされ、
生き残るのは島津のような隙一つ無い強者ばかりとなるからな。
そして生き残って朝鮮を返り討ちにする島津のような強者たちは、朝鮮人を卑劣な弱者だとしか認識しない。
それが朝鮮人の選んだ道のりという訳だ。
オラオラさっさと書けや、正々堂々とした戦をよ。
俺は日本人なんだが…。
433 :
日本@名無史さん:04/12/29 22:52:08
正々堂々とした戦いについて一々説明しなくてはならないのかね?
正々堂々と戦う事の大切さを知らない朝鮮人というのは、実に難儀な連中なんだな。
さて、朝鮮人にも理解しやすい書き方をするなら、李舜臣みたいな卑劣でブザマな真似をしない戦い方の事だよ。
なんだ、ただのバカか。
435 :
日本@名無史さん:04/12/29 22:59:28
明のヘタレ李如松6万の軍勢と、朝鮮のゴロツキ李舜臣の500隻の艦隊。
いずれも日本軍を包囲して逃げ道をふさごうとしたわけだが、歴史が
証明するとおり、日本軍は撤退に成功。
李舜臣はぶざまに敗死したわけだ。
436 :
日本@名無史さん:04/12/29 23:04:06
約束を無断で破って不意打ちを試みるような戦い方は、卑劣でブザマだ。
例えば大東亜戦争の真珠湾奇襲については現在米国の公文書が公開されて色々な真相が判明しつつあるが、
アメリカは日本に対して卑怯者の烙印を押す事を画策して見事に成功した。
アメリカの策に嵌った結果とはいえ、日本は卑怯者として名誉を失った。
アメリカは法律で公文書を秘匿する期限を明確に定めておくという正々堂々さによって、かつて日本を卑劣な手段で陥れた事実を自ら公開して犯した罪を濯いだ。
恐るべきは卑劣さと正々堂々さを併せ持つアメリカのような敵であり、単に卑劣さに徹しているだけの朝鮮に対しては信用しないだけで処理できる。
李舜臣のように自分の卑劣さによって自滅するような愚か者は、所詮雑魚に過ぎない。
厳島合戦の桂元澄なんて立派だよな。
誓紙まで書いて。
438 :
日本@名無史さん:04/12/29 23:17:02
>>425 日清も日露も太平洋戦争も
戦線布告無しの開戦だが?
439 :
日本@名無史さん:04/12/29 23:24:16
宣戦布告の有無と、不意打ちかどうかとは別問題だ。
攻撃してくる事が分かりきってる相手からの攻撃は、不意打ちとは言わない。
大東亜戦争の時のアメリカは日本を散々追い込んで戦争に踏み切らせたのだから、いつ日本から攻撃されてもおかしくない状況だった。
日清戦争も日露戦争も事情は同じ。
しかし李舜臣は、撤兵の為に引き上げていこうとする日本軍に対して不要な不意打ちを試みた。
日本と明が戦いを止める為に取り交わした停戦協定をわざわざ破棄して日本軍を奇襲しようとした李舜臣は卑劣の極み。
しかもそれが自分の死と艦隊の惨敗を招いたのだから、愚劣も愚劣。
卑劣にして愚劣を極めて犬死にした雑魚。
それが李舜臣。
露梁津って小西行長の救援に向かった島津義弘を李舜臣が邀撃したんじゃなかったっけ?
だから戦に卑劣も糞もないっての。
やられる方が悪いの。
で、李さんは返り討ちにされたと。
返り討ちにされるのが悪い。
それだけ。
朝鮮出兵時に明と朝鮮軍が焦土戦術を取ったって聞いたのですが
本当ですか?
443 :
日本@名無史さん:04/12/29 23:42:05
戦だろうが平時だろうが、約束を破るのは卑劣なんだよ。
敵との約束を破って自分の信用を落とすのは、いずれ自分を滅ぼす結果を招く愚行だ。
だから悪いのだ。
例えば米国は前述のように、卑劣な行いで日本から勝ちを掠め取った事がある。
ところがそのままではいつの日にか必ず失われる事になる米国への信用を守る為に、日本を嵌めたかつての悪事すら自ら後日公開する制度を確立している。
いつの日にか米国は全世界を敵に回して攻め滅ぼされる運命にあるが、その日は当分先の事になるだろう。
444 :
日本@名無史さん:04/12/29 23:45:02
>>442 事実ではないだろうね。
単に義兵の補給妨害工作が効を制しただけだろう。
それで小西郡などはひどく苦しんだ。
445 :
日本@名無史さん:04/12/29 23:47:15
>>444 何を根拠にそう判断したのかね?
ちゃんと根拠を説明しなくては納得しようが無い。
446 :
日本@名無史さん:04/12/29 23:51:33
>>445 土地にたくさんの民衆が残ってるのに焦土戦術なんかできるわきゃないだろう。
そんな事してたら土地の民衆は全員餓死だ。
ロシアの場合は民衆も一緒に奥地に後退していったが、
朝鮮の場合は北へ逃げたのは支配者階級だけだ。
447 :
日本@名無史さん:04/12/29 23:53:49
>>446 民衆を見捨てて逃げ出すほど卑劣で無能な両班が、民衆の都合などを考慮すると考える理由が不明だな。
448 :
日本@名無史さん:04/12/30 00:02:26
>>447 いくら両班でも民衆の食料を全て奪って逃げるなんて事は無理だろう。
正規軍も壊滅状態だし。やろうと思っても能力不足。
449 :
日本@名無史さん:04/12/30 00:05:57
官軍の残党が義兵を名乗る匪賊と化して、民衆に対する略奪暴行の限りを尽くした可能性の方が高いね。
450 :
日本@名無史さん:04/12/30 00:08:15
匪賊集団は時と場合によって義兵と名乗ったり、又ある時には倭寇と名乗ったりしていた可能性の方が高い。
451 :
日本@名無史さん:04/12/30 00:16:46
参謀本部編の『朝鮮の役』には、
明軍が清野、つまり焦土戦術を行ったと書いてあった。
452 :
日本@名無史さん:04/12/30 00:19:07
>>451 「参謀本部」というのが問題なんだよね。
結構、朝鮮役には政治的配慮からか嘘も多いです。
極力、朝鮮・明を悪役にしようとしてますから。
453 :
日本@名無史さん:04/12/30 00:20:33
明なら人手は十分だな。
属国に過ぎない朝鮮の民衆なんかおかまいなしに、平気で焼き尽くすだろう。
>>452 参謀本部の公式見解を覆す真相が分かるソースをよろしくね。
455 :
日本@名無史さん:04/12/30 00:22:40
明軍も略奪を行った、
日本軍も略奪を行った、
朝鮮官軍くずれも略奪を行った。
という事だな。
しかし三者とも補給不足だから、
生きるためにしかたなかったのかもね。
456 :
日本@名無史さん:04/12/30 00:25:14
>>354 はあ?
あの本には島津八千の兵が20万の明軍を敗ったとかおかしな事も書いてある本だしさ。
ウリは生粋のイルボン軍ニダ!
食い物を全部出すニダ!
女も全員連れてくるニダ!
島津軍の総勢は1万人で、泗川の戦いの時点で死傷者、落伍者を除けば5千〜8千人だという計算は妥当だ。
それに島津を包囲していた明軍が30万と号していたのも事実なのだから、実数を20万と推測するのも不自然とは言えない。
明の軍編成では、朝鮮派遣軍は10万しかいなかったんだがw
しかも泗川・蔚山・順天の三路に分かれてるんだけどw
支那の伝統では、軍隊を2〜3倍の数で誇張して公式の兵力数とするのを「号する」という。
実数が10万でも、主催者側の公表する数字を敵対する相手側が修正する手段は乏しい。
ちなみに泗川新城の戦いで島津軍が得た明軍将兵の首級の総数は38000に上る。
日本社会において首級の数は恩賞計算に直結するから、誤差はほぼ皆無と考えられる。
最低でも38000人が島津の5000〜8000を包囲して皆殺しにされたという事だが、数が多い明軍の方が一人残らず狩られたという事態は現実的とは言えない。
大方5万〜10万くらいの明軍部隊が島津を包囲したものの返り討ちにされて、逃げ遅れた38000人が首を狩られたというのが実情だろう。
島津義弘、忠恒が高野山に建てた朝鮮陣戦没供養碑に
「シ四川表大明人八万余兵撃亡…」とある。
これは捕虜が明軍の兵糧八万人分と供述した事から、
討ち果たした明兵八万人と誇張したものである…。
八万でも十分凄いね。
信憑性の有無は知らないけど、桑田忠親氏の「日本合戦全集 5」では
中路軍 明軍1万3500 朝鮮軍2300と書いてあった。
ネタ元求む!!!
463 :
日本@名無史さん:04/12/30 01:03:29
38000という数自体、信じがたい。
なんせ朝鮮の話しだからいくらてもホラがふけるわけだしさ。
いや俺だって島津が数倍の大郡を撃破したことは異論がないわけだが、
三万八千とかそういう数字は誇大だろうと思ってるわけ。
ちなみに日本に戦果として鼻を送った最高の大名は島津ではなく、
一位が吉川で二位が鍋島で三位が小早川だったのだが、これらの大名は5〜6万の鼻を送っているわけで、
民衆虐殺による戦果水増しが相当行われたとことがわかる。
>ちなみに泗川新城の戦いで島津軍が得た明軍将兵の首級の総数は38000に上る。
こりは島津が大坂に宛てた書状の内容まんまなんですよね・・・。
80000÷3=26666
466 :
日本@名無史さん:04/12/30 01:06:07
>>464 はあ?
君らの頭には
「島津が嘘をついている」とか「戦果を水増ししている」という発想はまったく浮かばないわけだね。
誇張だろうというのであれば、その根拠を示さないとね。
支那では自軍の規模を2〜3倍に誇張する事を号するというのは支那史での基礎知識だから、実数を2分の1から3分の1に見積もるのは基本中の基本。
ただし、それ以上の倍率で誇張するとさすがに嘘が見抜かれる為なのか、2〜3倍を超える誇張はめったに無い。
そして首級というのはちゃんと数を計算して恩賞が決まるから、これを誇張する際には民間人を殺戮してでも実物を揃える必要がある。
ただし朝鮮征伐の場合は、鼻の部分だけでも良かったけどな。
>>466 島津の書状内容そのままって書いてるんだけど。
深呼吸してカルシウムとったほうがいいですよ。
470 :
日本@名無史さん:04/12/30 01:12:30
ちなみに明・朝鮮側の資料では四川の戦いで投入された兵力は明軍三万四千、朝鮮軍二千の計三万六千とある。
無論、これだけの大軍を8000程度の兵力で撃破しただけで十分凄いんだが。
471 :
日本@名無史さん:04/12/30 01:15:06
>>468 そう鼻だけだったから民衆を虐殺していくらでも戦果を水増しできる。
もっとも、日本に送られてきた壷に詰められた鼻の中には女子供としか思えないものもたくさんあったそうだが。
朝鮮撤退が日程にのぼっている時、領国の総力をあげて参戦した島津家にとっては、
戦功をあげた島津家の誇示が何よりも重要な事だったのである。
当たり前のように兵力数を歪曲する伝統が根付いているシナの文献では、負け戦の際の兵力は過少に改竄されてるんじゃないのか?
さすがに10万なり20万なりの大軍が5千〜8千程度の倭寇を包囲していながら返り討ちにされて壊滅したら、面子もへったくれもないだろうからな。
475 :
日本@名無史さん:04/12/30 01:20:42
辺境の属国の反乱に10万でも送り込んだ方だ>明
それより北西や南方の反乱鎮圧、国内の情勢不安で、いっぱいいっぱいです
>>475 島津が水増し等やってるとは思うが、そのサイトは信用できない
島津が領国の総力をあげて?
島津家中の武士は総勢5万くらいは居るぞ。
朝鮮に渡った1万は、豊臣秀吉の命令にしぶしぶ従った最小限の兵力だ。
島津義弘が朝鮮征伐については極めて消極的だった。
それは義弘の「朝鮮の領地は寸土も要らぬ」発言でも分かる。
戦う前から領土的な見返りを全く求めない義弘の発言は、朝鮮の占領地を分割する相談をしていた諸将を驚かせた。
島津厨が史実と講談とを微妙にハーモニックさせて
レスに真実味をもたせようとする典型>478
>>480 何か反論があるのなら、是非君自身が史実をソースつきで説明してくれよ。
忠告しておくが、キムチ臭いページは説得力ないから要注意だ。
478もソースつきで説明するらしい。
>>482 お前は他人の事なんか気にしなくて良いから、史実をソースつきで説明してくれ。
知ってるんだろ?史実を。
478は自分のレスは証明不要なんですよw
485 :
日本@名無史さん:04/12/30 01:39:19
ソース?
大日本帝国陸軍参謀本部が富国強兵を実現する為に心血を注いで編纂した名著、「朝鮮の役」では一体何が不満なのかね?
>>484 ソースは?
やっぱりデマカセなんですか?
487 :
ソースまだ?:04/12/30 01:41:05
島津が領国の総力をあげて?
島津家中の武士は総勢5万くらいは居るぞ。
朝鮮に渡った1万は、豊臣秀吉の命令にしぶしぶ従った最小限の兵力だ。
島津義弘が朝鮮征伐については極めて消極的だった。
それは義弘の「朝鮮の領地は寸土も要らぬ」発言でも分かる。
戦う前から領土的な見返りを全く求めない義弘の発言は、朝鮮の占領地を分割する相談をしていた諸将を驚かせた。
488 :
日本@名無史さん:04/12/30 01:42:57
ボケ老人田原総一郎(=反日の悪魔)が、また問題発言!
本日のテレビ朝日『サンデープロジェクト』で、
田原総一郎が”また”問題発言を行った。
本日出演の孫正義氏(在日朝鮮人3世)と
王貞治氏(在日台湾?2世)に対し、
『日本人ではないから差別されたでしょう』
と昔日本が、外国人を酷く差別したかの
如く発言していた。
これに対し、
孫氏は
『小学校の頃まで差別はあった。
最近では韓流で”孫さま”と呼ばれる』と答え、
王氏は
『全く差別されたことはなかった。
国体には参加できなかったが、
目標は甲子園だった』と答えた。
『反日の悪魔』である田原総一郎は、
昔日本が朝鮮や台湾の人間を酷く差別していた
かの如く報道したかったのだろうが、
孫氏、王氏の両氏から
その様な期待通りの発言を得ることはできなかった。
田原総一郎が『反日の悪魔』であることは
今に始まったことではないが、
一体、田原総一郎は何を考えているのだろうか?
田原総一郎に限らず、テレビ朝日は
『反日の悪魔の親玉』である。
日本の公共の電波を用いて
朝鮮やシナのプロパガンダを垂れ流す
田原総一郎とテレビ朝日は徹底糾弾されるべきである!
490 :
日本@名無史さん:04/12/30 01:44:20
491 :
日本@名無史さん:04/12/30 01:45:17
>>478 そうだったかな? 義弘がそんな発言をしたのは知らないな。
朝鮮出兵に反対していたのは島津義久の方だよ。
彼は朝鮮出兵の話しを聞いた時に激高したという逸話は残ってるね。
義弘の方は豊臣政権の命令に逆らうべきではないという考えから積極的に出兵した。
とはいえ義弘も内心は反対で仕方なしだったろうけどね。
492 :
ソースまだ?:04/12/30 01:45:35
493 :
日本@名無史さん:04/12/30 01:46:00
島津が首級の数を水増ししたという主張にはソースが無いようだな。
了解。
494 :
日本@名無史さん:04/12/30 01:47:02
島津5万
義弘発言と周りの反応
島津厨得意の捏造です
島津の水増は、中路軍の数と合わない事からも明白なんだが。
水増ししてないとなると、それこそ住民も撫で斬りと考えるしかないんですが。
497 :
日本@名無史さん:04/12/30 01:51:46
>>495 君はまず、島津軍が泗川の戦いで首級を水増ししたという説のソースを出そうな。
出せなかったら反島津厨による捏造だと言う事になるからね。
498 :
日本@名無史さん:04/12/30 01:53:25
>>496 支那側の文献では、気軽に兵力を歪曲するのが当たり前の習慣として定着している支那文化の伝統からみて額面どおりの兵力だと考える理由がないよ。
499 :
日本@名無史さん:04/12/30 01:53:46
>>493 確証はないが状況証拠からいって水増しはしてただろうね。
もっとも島津は鍋島や吉川、小早川よりは水増し率は少なかったと思われ。
あと鼻の量に関しては各大名とも恩賞目当てとか虚栄心で水増ししたわけではなく、
豊富政権からノルマを通達されていてやむおえずやったようだな。
>>498 常識的に考えての事なんですが。
それより実数に関して誇張はあっても矮小の事例はあるんですか?
501 :
日本@名無史さん:04/12/30 01:56:22
>>499 その状況証拠とやらが支那側の文献に記載されている数字に過ぎないなら、「兵力を号する」慣例から見てもはなはだ疑問なのだが。
502 :
日本@名無史さん:04/12/30 01:58:43
島津の20万も明らかに嘘だから、島津の史料は信用できないとw
503 :
日本@名無史さん:04/12/30 01:59:11
水増しというか、
当時の朝鮮民衆は無害な非戦闘員とかではなく、
ようするに一向一揆みたいなものだからね。
そもそも朝鮮役自体が日本の国内戦みたいな
軍人対軍人の戦いではなく、
軍人も民衆も一緒くたになっての戦いだから。
「殺された民衆」というのも何らかの戦闘協力はしてたと思われる。
ちなみに朝鮮役を題材にした朝鮮映画では
女子供も城に立てこもって投石や熱湯投げなど日本軍への抵抗をしめしてたシーンがあった。
504 :
日本@名無史さん:04/12/30 01:59:31
>>500 支那人のメンタリティとして、事実を記述する事よりも都合の良い数字を記述する事を優先するのは明白だ。
兵力を誇大に表記するのが当たり前なのは、それで敵が怯えると有利だからだ。
それならば惨敗の時には、体面を保つ為に実数よりも過少に記述する虞が十分にある。
支那人にとって大切なのは事実ではなく、実益だ。
506 :
日本@名無史さん:04/12/30 02:03:24
>>505 泗川に20万なら蔚山や順天にはどれくらいかなぁw
さあな。
支那の公表する数字など額面どおりに受け取れないという事しか分からんよ。
>>504 明は他の辺境方面の派兵でさえ5〜10万程度ですが、貴方がそこまで明白というなら
軍勢の矮小の事例と肯定するだけの何かあるんでしょう。
是非教えてください。
>>507 なるほど
島津の公表する数字は額面どおりに受け取れないという事が分かるとw
>>508 ヤメトケ 伊達厨並の思い込みでレスしてるからw
>>508 5千〜8千人程度の島津軍を包囲した軍勢が返り討ちにされて惨敗した場合、包囲した側の兵力を誇大に記述するのは恥を大きくするだけだ。
当たり前のように兵力を誇大に記述する伝統が受け継がれる支那側の文献の数字を真に受けるのは馬鹿げている。
つまり、事実を知りたければ状況証拠で実数を推定する以上の事はできない。
ここで状況証拠というのは、支那人が数字を歪曲する習性を持つ事だ。
島津に惨敗したという事実を隠蔽できない場合、兵力をどのように改竄すれば支那にとって有利なのかを推理すればよい。
それが出来ればどのように数字を捏造したのかという見当もつく。
>>509 首級の数は恩賞計算に直結するから改竄は難しいという事が理解できないのかね。
島津軍が民間人を手にかけたような証拠が出てこない限り、水増しを疑う理由は無い。
512 :
日本@名無史さん:04/12/30 02:20:51
恩賞計算つっても、首級送ったわけじゃなし
義弘が大坂宛に明20万だ〜首級4万近くとっただ〜書いてるだけ
>>512 適当な数字を書いただけで戦果としてカウントされるのであれば、そもそも鼻や耳を日本に送る必要も無いんだよ。
島津軍が民間人を手にかけて戦果を水増ししたという説が事実である事を証明するソースは無いのかね?
>>510 状況証拠なら、当時の派遣された明の司令官の役職、その役職で率いた平均的な軍勢、
また多くの辺境へ派兵された遠征軍の数で判断するのが当然では?
貴方の書き方では、単に信用できない、外征で負けたから実数減らしたと
自己の想像だけで断定してるように取れますが。
明の国力や国内情勢、過去の事例から派兵の総数10万は超えないと思われますけどね。
>>514 公式文書にさえ水増しした兵力を記述する習慣のある国の文書の数字を額面どおりに受けるほどマヌケではないというだけだよ。
そんな数字を根拠に、人間の死体という証拠を伴わなくてはならない島津側の戦果が水増しだと指摘するのは笑止のいたり。
島津軍が民間人の死体を使って水増ししていた事を証明できない限り、島津の戦果を疑う理由はない。
516 :
日本@名無史さん:04/12/30 02:33:45
島津の明軍20万も大坂への公式文書w
>>516 支那の公文書と日本の公文書を同列視するなよ。
征韓録。
519 :
日本@名無史さん:04/12/30 02:38:30
公式文書にさえ水増しした兵力を記述する習慣のある国の文書の数字を額面どおりに受けるほどマヌケではないというだけだよ。
公式文書にさえ水増しした兵力を記述する習慣のある国の文書の数字を額面どおりに受けるほどマヌケではないというだけだよ。
公式文書にさえ水増しした兵力を記述する習慣のある国の文書の数字を額面どおりに受けるほどマヌケではないというだけだよ。
公式文書にさえ水増しした兵力を記述する習慣のある国の文書の数字を額面どおりに受けるほどマヌケではないというだけだよ。
公式文書にさえ水増しした兵力を記述する習慣のある国の文書の数字を額面どおりに受けるほどマヌケではないというだけだよ。
公式文書にさえ水増しした兵力を記述する習慣のある国の文書の数字を額面どおりに受けるほどマヌケではないというだけだよ。
大坂伏見に明軍20万打ち破ったと鼻高々
520 :
日本@名無史さん:04/12/30 02:40:56
なんだか毛利家の記録で厳島の戦いで陶軍を破って四万五千の首級をあげたとかいう話しを思いだしたよ。
そんなわきゃないんだけどね。
四川の戦いでも20万の敵軍とか3万8千殺したとかという具体的に数字に無理があるわけで、
とにかく単に島津が数倍の大軍を破って多大な戦果を挙げたで十分すごいし、
それでいいんじゃないの?
>>519 それは事実だからな。
支那の公表する出鱈目な数字と、日本で取りざたされる信憑性の高い数字を同列視するなよ。
>>520 無理があるかのように見えるのは、支那側の文献の数字を鵜呑みにしてるからだよ。
島津家は機関銃でも持っていたのだろう。
524 :
日本@名無史さん:04/12/30 02:44:31
蔚山の加藤清正公は、どっかの「公式文書にさえ水増しした兵力を記述する習慣のある大名」とは違い
明軍3万と書状で報告しとりますw
525 :
日本@名無史さん:04/12/30 02:45:35
>>523 泗川新城での戦いの経緯を知らないのかね?
至近距離まで引き付けて大砲に散弾を込めて零距離射撃した。
途端に明軍は崩壊して潰走。
後は単なる首狩り競争。
526 :
日本@名無史さん:04/12/30 02:46:25
527 :
日本@名無史さん:04/12/30 02:47:31
>>524 清正が戦っていた敵の数は、それくらいだったんだろうな。
主力は島津が引き付けていたのだから、残りは少数部隊だという事ぐらいは容易に見当が付く。
528 :
日本@名無史さん:04/12/30 02:48:21
主力は順天w
529 :
日本@名無史さん:04/12/30 02:48:24
中路提督董一元率いる明・朝鮮連合軍を
川上忠実が城下に引きつけ鉄砲で撃退。
531 :
日本@名無史さん:04/12/30 02:50:17
島津の公式文書では城外の晋州河で合戦し明20万を打ち破ったと書いておりまふw
なるほど零距離射撃ですかw
>>526 >ソースを聞こうw
高名な料理評論家のような台詞だな。
聞茶っていう清涼飲料水あったよな。今もあるのか?
533 :
日本@名無史さん:04/12/30 02:54:35
>>531 支那人が大砲の発射音に酷く怯える習性を持つ事は、支那事変の記録でも散見される。
機銃の発射音には怯える事無く反撃してくる支那兵も、大砲の射撃音や爆発音が鳴り響くとたちまち大パニックに陥るという。
泗川新城下でギリギリまで敵をひきつけた末に大砲で反撃すれば、その瞬間に壊滅したというのもうなずける。
534 :
日本@名無史さん:04/12/30 02:58:11
>>515 >>513 残念ながら歴史学は現代の裁判みたいに「疑わしきは罰せず」の理屈は当てはまらないんだよね。
もう一つ言うと確定的な証拠が出てこない限り主張が認められないというわけではないんだよ。
確実な証拠が無くてもさまざまな信用性の高い資料・低い資料、状況証拠や推測も含めて総合的に判断するものなの。
「上杉謙信が女ではない」という確定的証拠がなくても、だからといって上杉謙信が女だという説は認められないし、
「義経とチンギスが同一人物だということを確実に否定する証拠がない」からといって、
そんな主張は認められないの。
それにあんたは割と常識的な数を示した明・朝鮮の資料を嘘と決めつけ、
島津側のいかにも胡散臭い誇大としか思えない数字を信じてるわけだから話しにならない。
あと島津の戦果水増しも当時の日本軍の状況からして多かれ少なかれやってただろうね。
535 :
日本@名無史さん:04/12/30 02:58:37
城下?城外の晋州河で合戦って読めませんかそうですかw
島津の公式文書では泗川新城とは別のように書かれてますがw
536 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:00:25
>>512 確か秀吉の死亡により必要なくなったため鼻の数は実際には確認されず、
島津がそれだけ殺したと主張してるだけだったよね。
537 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:00:28
>>534 詭弁はいいから、島津が民間人の死体で戦果を水増ししていた証拠を出しな。
支那側の文献のでたらめな数字に立脚して島津側の数字に疑問を持つのは倒錯している。
538 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:01:42
>>537 歴史学に証拠なんていらないんだよ。
それより「常識」の方が優先されるの。
539 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:01:45
>>535 地図を見た事が無いのか?
川が城の傍に流れてるんだよ。
540 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:02:25
島津の出鱈目な数字だけ突出して目立つw
蔚山の加藤清正3万
順天の小西行長4万
泗川の島津・・・20万w
541 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:02:41
>>538 支那の文献の数字を鵜呑みにするべきではないというのは歴史研究者の常識だよ。
542 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:03:27
鉄砲の砲が字が違うんだが出てこない。
544 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:04:20
島津厨が陸軍参謀本部編纂の大日本戦史と島津文書を結び付けようと必死れすw
>>539 ふーん、その川なんだね?間違いないか?w
545 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:04:22
「証拠なんていらない」は必ずしも正確ではなかった。
証拠はあった方が良いが必ずしも絶対ではないということだ。
なんせ歴史は当時の人間が自分たちに都合よく書いただけのものだし。
物証ですらねつ造の時も多い。
546 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:05:30
島津の文献は鵜呑みに出来ないのも史学者の常識
沖田畷しかり
547 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:07:58
>>544 必死なのは屁理屈を捏ね続けているお前だけ。
>>545 支那の文献の数字を鵜呑みにした場合に限って疑問が生じてしまう島津側の戦果と辻褄を合わせる際に、民間人の死体で水増しという物語が必要になる。
支那の数字など鵜呑みに出来ないという常識をわきまえれば、島津が戦果を水増ししていたと考える根拠は皆無なんだと気づく筈だよ。
548 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:10:19
島津の戦果も明軍の数も島津の主張以外、証拠がないからなあ。
549 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:14:20
支那の文献に記録される数字は出鱈目でも良いが、日本側の戦果には同数の死体を用意する必要があるんだよ。
日本軍では民間人を殺して水増ししていた例があったという話があるが、島津軍がそれをやって38000人の戦果を捏造したと言いたければそれなりの証拠が必要だ。
550 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:15:19
大日本戦史の泗川の合戦の場所と島津文書の合戦の場所は全く違う事かいておりまふw
551 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:16:57
>>549 いや島津の四川の闘いでの戦果は実は彼らの主張のみで
確認はされてないんだよね。
552 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:17:11
とゆーことは!
島津家ぐるみの組織だった戦果捏造!!!
さすが島津w
553 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:18:30
554 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:19:59
20万や3万8千という数字を見たら水増しや捏造を疑うのが当たり前ではないかと思うが。
555 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:21:07
>>551-552 すると、死体は全て民間人だとでも言いたいのかね?
民間人を殺戮して明軍撃退の事実を捏造したのだとすれば、流石に5000〜8000人の手で38000人の民間人を殺戮した大事件を隠蔽する事は出来ないと思うがね。
556 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:22:53
>>554 支那の文献を鵜呑みにするから、そういう誤りを犯す。
初心者はしばしば支那の公式記録を鵜呑みにしてしまうから厄介なんだよ。
557 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:23:21
誰かちゃんと数えて確認したのか?
558 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:26:27
日本では戦果に応じた恩賞計算を厳密にやってるから、最低でも死体は不可欠だよ。
民間人を殺して戦果を誇張した例があるのも、死体をどうにか工面しなくてはならないという事実の反映だ。
死体が不要なら、何故民間人を殺して鼻を削ぐ必要がある?
559 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:28:21
まああんたは
「島津は立派な武人なので戦果の誇張ましてや民衆虐殺による水増しなどという卑劣な事はしなかった」
と思いたいんだろうけど、それは現代人の考えであって、ちとドリーマーにすぎない視点だと思うよ。
思うに水増しとか民衆虐殺は当時の価値観では必ずしも卑怯のうちには入らなかったと思われ。
当時の日本には騎士道精神とかフェアプレイとかそういう概念そのものがなかったわけで、
人誘いとか、略奪、などは日本国内の合戦でも普通に行われてた行為だし、
別に卑怯でもなんでもなかった。
逆に民衆による落ち武者狩りは敗残兵ばかりではなく常時の正規兵にも行われる程盛んであったという。
そんな民衆だから殺害されても仕方ないとも言えるんだけどねえ。
ましてや朝鮮の役の時の朝鮮民衆は平穏に暮らしている非戦闘員などではなく全員が反日、
言うなれば巨大な一向一揆みたいなもんだしね。
560 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:29:11
>>556 いや、白髪三千丈の文献を鵜呑みにする奴もそうはいないだろ。
561 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:30:40
>>559 何を勘違いしてるんだ?
俺は、証拠も無い与太話を真に受けるようなマヌケではないというだけだ。
島津軍が民間人を殺して戦果を水増ししていたと言いたければ、証拠を出せよ。
証拠もなく辻褄も合わない与太話には説得力がない。
562 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:31:31
563 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:33:11
>>561 豊臣家の役人達だろうな。
わざわざ朝鮮から切り取った鼻や耳を船で運び込んでるんだから。
564 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:33:29
>>555 当時の大混乱の朝鮮の話しだからね。
そういうことも可能かもしれない。
>>558 日本国内の合戦ならそうなんだけど、
なんせ朝鮮の話しだからホラはふき放題だったんだよ。
あと朝鮮の役後の明の記録に「朝鮮には鼻のない人がたくさんいた」という記録がある。
そう戦果水増しのために生きたまま鼻を剃がれた人もいたらしい。
565 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:34:39
島津の自己申告で誰も確認しておりませんw
566 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:35:10
>>563 島津の四川の戦いでの戦果は
秀吉が死んでじうでも良くなったのか確認されてない。
567 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:35:24
>>563 だから誰がそれを数えたんだよ。ソースは。
568 :
566:04/12/30 03:36:01
「じうでも」→「どうでも」
569 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:36:13
>>564 だから、カモシレナイだけで訳の分からん事を決め付けるなよ。
カモシレナイだけで仮説が成立するなら、たまたま地球に立ち寄っていた異星人の仕業なのカモシレナイとでも何とでも言えるわい。
570 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:38:10
571 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:38:14
>>569 だから、歴史学に必ずしも確定証拠はいらないんだよ。
そんな事言ってたら、実は人間の歴史は百年程度でそれ以前の証拠や記録はすべて嘘だったのかもしれないと言えるぞ。
572 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:39:20
泗川に薫一元率いる明20万w
では問題です
薫一元より立場が上だった、提督の麻貴はどれくらい兵を率いたんでせうか?
573 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:39:47
日本軍が未確認の戦果を信じるマヌケ揃いなら、始めから鼻を切り取って集めたりする訳ないだろ。
鼻をそがれて生きている者が多かったのであれば死体が不可欠とはいえないが、鼻自体が恩賞計算には必要だという事に変わりない。
574 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:42:15
575 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:42:39
>>571 島津が戦果を水増ししていたと考える根拠が何一つ無い状況では、水増しを疑う理由はない。
>>572 董一元の上官なら、董一元プラス20万人という事かね。
576 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:44:31
>>574 鼻をそがれていた朝鮮人が多かったという事実は、恩賞計算に鼻が不可欠だった事を示す証拠だろう。
それ以外に当時の朝鮮で鼻がもげている者が多い理由など無い。
577 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:44:49
アホか。
578 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:44:50
579 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:47:25
>>578 支那の文献の数字など一々覚えてないよ。
どうせ出鱈目なんだから。
580 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:47:47
島津厨によると、泗川に薫一元率いる中路軍20万
提督の麻貴は蔚山の加藤清正攻めて、(清正によると)3万
ワロタ
581 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:49:16
支那の文献覚えてないっていうが、おまいさんは何見たの?
>>579
582 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:50:12
>>580 何が面白いのか分からん。
指揮する兵力は階級に比例するとでも思い込んでるのか?
そんなもんは現場で臨機応変に配分されるもんだ。
583 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:51:22
>>582 Q.指揮する兵力は階級に比例するとでも思い込んでるのか?
A.そーです、明の軍制ではそうなっとりまふw
584 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:54:57
>>583 建前上の指揮系統が、現場でそのまま押し通せるわけ無いだろ。
どこで何人の部下が死傷して減るのかなんて分かる訳が無い。
だから現場では状況に応じて随時再編成するし、採用する作戦内容次第で部隊ごとの兵力には偏りも生じるのは珍しくもなんともない。
泗川が主力を投入すべき拠点なら、そこにだけ大兵力を割くのも当然だ。
585 :
日本@名無史さん:04/12/30 03:59:16
建前上の指揮系統w
麻貴は前線指揮官での最上位
派遣された軍の中での最上位は軍務経理の楊鎬
586 :
日本@名無史さん:04/12/30 04:02:56
>>585 前線指揮官の最上位だからといって、常に最大の兵力を直接指揮しているとは限らないんだよ。
加藤清正を3万で抑えておけば済む状況なら、余った兵力を危険度の高い泗川方面にさし向けるくらいの判断は当然ありうるのが戦場というものだ。
587 :
日本@名無史さん:04/12/30 04:07:06
………。
588 :
日本@名無史さん:04/12/30 04:09:42
島津の戦果には何の疑問も無い事は分かった。
そろそろ視点を変えて、李舜臣あたりの駄目っぷりを検証してみようじゃないか。
589 :
日本@名無史さん:04/12/30 04:10:18
さすが島津厨、明の軍制すら脳内理論で無視w
でも
>>581には答えられないとw
島津厨によると
泗川は危険度が高く、主力を投入すべき拠点で
その為に採用する作戦内容次第で部隊ごとの兵力には偏り、20万とw
で7月に漢城から三路に分かれて進軍したら
東路軍3万 提督の麻貴
西路軍4万(小西申告) 劉テイ・陳リン
中路軍20万 副総兵の董一元
となるわけかw
590 :
日本@名無史さん:04/12/30 04:12:28
漢城には楊鎬がいるからな
島津厨に言わせれば、明軍は30万以上も派兵してるのかw
明総軍の1/3近いなw
591 :
日本@名無史さん:04/12/30 04:14:15
軍制を無視してるんじゃなくて、戦場の現実を直視してるだけなんだよ。
階級と実力は比例しているとは限らないし、兵力は必ず三等分しなくてはならないという規則もない。
古今東西を問わず指揮官というものは、与えられた権限の範疇で必要な兵力を過不足なく配分するのが仕事だ。
泗川には董一元が20万の兵力を率いる必要が認められていたが、それでも不足して壊滅した。
それが現実だ。
592 :
日本@名無史さん:04/12/30 04:15:32
>>590 それで日本撤退後も疲弊して、あっさり満州族に敗北したという訳だ。
明にとっては災難だったとしか言えないな。
593 :
日本@名無史さん:04/12/30 04:17:38
いい電波だ
暇潰しに付き合ってくれて、あんがとなw
594 :
日本@名無史さん:04/12/30 04:19:14
反論を断念したのであれば、大変結構。
身の程を知る事が出来るものには、まだ進歩の余地が残っている。
たゆむ事無く今後も精進したまえ。
595 :
日本@名無史さん:04/12/30 07:29:22
別に島津が自群の数倍の大群を撃破し相当の戦果をあけだ点には異論はないのだが、
20万と戦ったとか、3万8千を討ち取ったというのがありえん話しなんだよ。
596 :
日本@名無史さん:04/12/30 07:45:51
何故、ありえないのかを説明しませう。
数字に関しては全く信用に値しないシナの文献の数字から逆算した結論で「ありえない」と言ってるだけではまったく参考になりませんな。
597 :
日本@名無史さん:04/12/30 07:51:55
燦然たる戦果に彩られた正真正銘の英雄である島津義弘の話はそれくらいでいいだろう。
韓国が自信を持って推薦するインチキ英雄である李舜臣のショボさについて、もっと語り合おう。
598 :
日本@名無史さん:04/12/30 08:06:31
599 :
日本@名無史さん:04/12/30 08:21:54
>>595 >20万と戦ったとか、3万8千を討ち取ったというのがありえん話しなんだよ
だから憶測はいいよw 証明できない限りは。
あちらの方の島津アレルギーを見る限り、「名前」だけでも相当なトラウマになってる
ことは確かだw いかにこっぴどく叩かれたかの間接的な証拠ともいえる。
民族の血が、対「島津」への恐怖をまざまざと覚えているわけだ。
実際、10万位討ち取られてるんじゃないの?(w
600 :
日本@名無史さん:04/12/30 10:14:41
太陽系最強民族として名高い薩摩隼人でも、さすがにフタ桁違う大軍相手はキツいだろ。
実際38000くらいの首を取っていたというあたりが現実的。
疑う理由は無いしな
601 :
日本@名無史さん:04/12/30 11:11:32
まぁ石曼子と呼ばれたとか朝鮮や支那の記録には発見出来んけどな
島津が朝鮮と同じぐらい信用できんと明確になっただけでもいいとするかw
603 :
日本@名無史さん:04/12/30 12:41:15
島津の戦果を証拠も無い民間人殺戮の仮説のみを頼りに黙殺し、
その上支那の記録に残る数字を無検証的に信じる馬鹿には難しすぎたようだな。
604 :
日本@名無史さん:04/12/30 12:42:47
島津の記録に残る数字を無検証的に信じる馬鹿には難しすぎたようだな。
606 :
日本@名無史さん:04/12/30 12:47:17
ワロタ
607 :
日本@名無史さん:04/12/30 13:38:26
島津の戦果は首級と明記されているからな。
もしも生首が無かったら虚偽だと発覚するだけだ。
何の証拠もなく38000という数を黙殺するのはおかしい
608 :
日本@名無史さん:04/12/30 14:25:57
四川の戦いにおいて受け取り状はないが、鼻を樽に詰めて送り戦功により義弘に4万石加増…。
鼻、確認されてるみたいだな。
609 :
日本@名無史さん:04/12/30 16:21:55
家康が島津征伐を躊躇したのは、朝鮮の役で猛威を振るった島津軍の恐るべき武力を
家康が熟知していたからだしな。
610 :
日本@名無史さん:04/12/30 16:44:26
秀吉は躊躇しなかったな。
611 :
日本@名無史さん:04/12/30 19:00:38
支那蓄必死だな(w
612 :
日本@名無史さん:04/12/30 19:11:35
まあ島津の言っていることも島津の言葉以外に証拠はないわけだし。
>>608 鼻を送ったのは島津が最高ではない
1位が吉川で6万5千くらい、次が鍋島で5万8千、次が小早川で5万4千くらい。
なのに何で島津だけが加増対象になるのか。
島津が加増されたのは三成へのコネと
実際(鼻とか除いて)の活躍によるものだが。
あっ、三成と仲の良い小西を救ったのも大きいな。
613 :
日本@名無史さん:04/12/30 19:27:32
614 :
日本@名無史さん:04/12/30 19:29:12
ああ、別スレで島津の加増を推進したのは家康ではなく三成だという話しは読んだことある。
関ヶ原に備えて島津に恩を売っておきたかったんだろうね。
615 :
日本@名無史さん:04/12/30 19:44:15
しかしアンチ島津厨も島津厨も食いつき良すぎw
端から見てると双方とも見苦しく見えるだけだが。
というのはおいといて
>>614 その話を私もおそらく同じスレ(三戦史板だったか?タイトルは失念)で見たような記憶があるのだが
ソースは結局提示されなかった。
616 :
日本@名無史さん:04/12/30 21:27:23
まあ20万は言い過ぎだろうが、泗川城の戦いで島津が討ちとった首級は
33,700首
だから(『島津家記』於朝鮮国泗川表討取首注文之事)。
大量の敗残明兵どもの死体は、城外に20間の大穴を掘って埋め、
その耳鼻を削いで、秀吉の元へ送った、とある。
明はまさに壊滅的な手損害を被り、参将李寧戦死のおまけ付きだった。
618 :
日本@名無史さん:04/12/31 00:31:41
明史だと明軍は倭乱で「師を失うこと数十万」とか言ってるよね。
16万ぐらいしか出兵してないのにどうやったら数十万も失えるんだよって突っ込みたくなる。
あれか?中国人は居もしないのにたくさん死ねるというあの特殊能力か?
それとも存在する数以上の中国人を殺せる日本人特有のあの特殊能力か?
619 :
日本@名無史さん:04/12/31 00:57:18
シナの記録の数字は伝統的に全く信用に値しない。
シナの記録に立脚した「島津の戦果はありえない」といった主張は、ただの寝言。
620 :
日本@名無史さん:04/12/31 01:01:02
実際に30000以上の耳鼻を送ったとしても討ち取った数とするには多すぎる気が。
鼻は特に兵隊のものでなくとも
「朝鮮人を皆殺しにして、朝鮮を空き地とせよ。鼻を割いて首級の代わりとせよ」
と出陣の際秀吉が命令しているそうだから、
非戦闘員の鼻でも戦功に問題はない。
621 :
日本@名無史さん:04/12/31 01:09:10
鼻で見分けが出来たら大したものだ。
622 :
日本@名無史さん:04/12/31 02:02:28
クラウゼヴィッツも知らない素人さんが戦果を主観で論じないように。
戦場で最大の戦果が生じるのは、殆どの場合一方の軍勢が潰走を始めた後の追撃戦の局面なんだよ。
破裂音に弱いシナ兵は島津の大砲一発で瞬時に包囲網が壊滅し、パニックに陥った明軍将兵は我先に逃げ出した。
島津はその後ろから追いかけて首を稼いでいただけ。
3万4万なら十分可能な数字だね。
623 :
日本@名無史さん:04/12/31 02:07:32
>>622 島津が主に殺したのは明・朝鮮の正規兵というより
義兵だったろうね。
義兵といってもろくな武器も持たない民衆の群れだけど、
合戦には参加したみたい。
624 :
日本@名無史さん:04/12/31 02:12:23
>>623 董一元の率いる部隊の主力が義兵だったとでも?
さしあたりソースをよろしく。
義兵の実態なんてのは日本軍の補給物資や武装してない朝鮮人を狙う強盗団みたいな連中だよ。
島津軍の戦闘部隊を包囲するだなんて軍隊じみた真似をする訳が無い。
626 :
日本@名無史さん:04/12/31 02:19:11
>>622 大砲一発でパニックに陥った、後は勝者のなすべき主要な仕事。
そんな簡単な合戦だったという資料はあるのでしょうか?
627 :
日本@名無史さん:04/12/31 02:25:22
クラウセベッツなる学者の理屈を突然引っ張り出す622は、示唆的な知ったかぶりと醜態を晒しているであろう。
慶長3年(1,598年)10月董一元(ドン・イユァン)率いる明・朝鮮軍約20万が泗川城近郊に侵攻して来た、実はこの時近郊の諸侯から援軍を出すという申し出を義弘は断っている。
義弘父子は新城に籠り、古城に約500名の守備隊を置いた、まず古城に明・朝鮮軍は殺到した、守備隊は激しい抵抗を見せ明・朝鮮軍に5,000名の被害を出したが、数にものを云わせ間断ない攻撃が続きついに500名の守備隊は戦死者は約150名を出し、新城に撤退した。
この報を聞いた若武者忠恒は古城救援を申し出ているが、義弘は止めている。古城を落とした明・朝鮮軍は義弘父子がいる新城に迫った。古城落城から2日後に新城に攻撃を開始した。
島津軍は鉄砲を駆使した戦いで攻撃軍を寄せ付けずよく守っていた。そこへ思わぬアクシデントが起きた、
明・朝鮮軍は大砲を使って城閣を壊していて、この時も大砲が使われたと思われる、その大砲や火攻めに使用としていた火薬に鉄砲の流れ弾
(異説があり「島津兵2名が火薬庫に近づき点火した」と、いう説もあり)が命中し爆発をおこした明・朝鮮軍の陣営が爆発で混乱している所に島津軍が城から討って出た。
明・朝鮮軍は後退を始めるが、すかさず攻城軍別働隊約1万人が再び城の手薄な部分に攻撃をしようとした、それを見ていた忠良の三男島津尚久(しまづなおまさ)の子島津忠長(しまづただなが)が
わずかな100騎を率いて別働隊の城への侵攻を食い止めるが苦戦するが味方の援軍が到着し撃退に成功した。
明・朝鮮軍はそのまま体制を立て直すことが出来ずに撤退した。島津軍は義弘・忠恒も自ら刀を振るい戦う程の大激戦でこの敗戦で明・朝鮮軍は首都京城まで撤退した。
http://www.ijyuin.com/seinenbu/ijyuin-townhistory/ijuin%2Cno%2Crekisi%2Chonnprn.htm#ijyuin26
>>627 本当にお前はクラウゼヴィッツすらも知らなかったのかよ。
孫子とならんで兵法の基本だぞ。
630 :
日本@名無史さん:04/12/31 02:36:01
…今手元に「学研M文庫島津義弘」があるんだがw、
>>628とほぼ同じ内容でなんかワロタ。
631 :
日本@名無史さん:04/12/31 02:43:19
学研の書籍をパクって、スレに張りたくっている間抜けが一匹紛れている模様。
>>628で引用してるリンク先は、伊集院町のページだろ。
633 :
日本@名無史さん:04/12/31 02:48:09
べつにクラウセヴィッツを敢えて引用しなくても、朝鮮の役を分析することは充分可能ですが、何か?
逆言すれば、クラウセヴィッツなる理論を引用しても説明できないドキュソがいる模様である
634 :
630:04/12/31 02:49:24
>>631 いや、違う。そのまんまではない。
勘違いさせたならスマン。m(_ _)m
>>633 それでは、何故38000という数字がありえないのかという根拠をそろそろきちんと説明してくれたまえ。
38000では多すぎるという根拠だ。
636 :
日本@名無史さん:04/12/31 02:57:52
しかし
>>628を読んでも大砲が爆発した後も別動隊が攻撃しようとしてるしな。
その後苦戦するが撃退に成功したとはあるが、追撃したとは書いていない。
637 :
日本@名無史さん:04/12/31 02:58:23
島津軍が明軍四万の首級を斬獲したというのは通説であり、殊更にクラウセウィッツなる理屈で分析を加えんとすること事態がナンセンスである。
638 :
日本@名無史さん:04/12/31 02:59:42
慶長の役で明が投入して軍勢は14万程度。
しかも三軍に分かれてた。
島津のみに20万投入するのは不可能。
というかそんな必要性がない。
実際は3万4千投入で死者は数千〜1万といったところか。
>>636 統率が乱れた烏合の衆とはいえ、明軍は20万人の大群衆だからな。
5000〜8000の島津軍だけで赤子の手を捻るような楽勝とまではいくまい。
まあそれでも、首級の30000の40000くらいはチョロいだろうがな。
>>636 >明・朝鮮軍はそのまま体制を立て直すことが出来ずに撤退した。
体制を立て直す事が出来なかったのは、反撃に転じた島津の攻撃を受け続けていたからに決まってるだろ。
追撃されていなかったのであれば、その時点で体制を立て直して再包囲が可能だ。
>>637 だから、何故ナンセンスなんだよ?
いい加減にちゃんと説明しろよ。
>>638 シナの文献の数字をまだ鵜呑みにしている馬鹿ですか?
642 :
日本@名無史さん:04/12/31 03:08:06
いずれにせよ朝鮮出兵の功績や関ヶ原での見事な進退ぶりが徳川政権下でも、島津氏をば、事実上の九州探題ならしめていたことは異論の余地がないということ、これである。
いや、一度崩れると、元に戻すの大変よ。
644 :
日本@名無史さん:04/12/31 03:10:04
>>643 だから5千の島津軍でも、3万や4万くらいの首を狩るくらいは容易なんだね。
納得です。
645 :
日本@名無史さん:04/12/31 03:11:34
じゃ、クラウセウィッツかぶれのキミは、シナの数字に代わるデータが用意できるのかね?
646 :
日本@名無史さん:04/12/31 03:15:30
島津が戦功を認められて恩賞を加増された史実が十分に戦果を証明している。
秀吉の遺言で朝鮮征伐に従軍した諸大名への加増は固く禁止されていたにもかかわらず、島津だけは例外的に遺言を無視して4万石加増されている。
誰の目にも明らかな功績が無かったのであれば、加増されない他の諸大名が島津だけの特別扱いに対して黙ってる訳が無い。
647 :
日本@名無史さん:04/12/31 03:25:45
>>640 明軍は崩れて立て直せず撤退した。追撃はしなかった。
とも考えられるが。
撃退したとはあるが、追撃したとは書かれていないのだから。
>>647 島津が兵法の基本である追撃戦を敢えて実行しなかったという仮説を採用する根拠は何かね?
649 :
日本@名無史さん:04/12/31 03:33:29
何でもかんでも兵法兵法という根拠にそもそも何なのかね?
関ヶ原、大坂の陣の生き残りは、兵法で戦が事足りるのならば
大将など入らない、軍学者か坊主にでも采配を預ければ良いと、喝破している。
650 :
日本@名無史さん:04/12/31 03:34:03
>>649 兵法の基本を知らなかったら、島津は寡兵で大軍に勝ち続ける事なんて出来ないよ。
島津軍が僅かな兵力で敵の大軍を撃破した事は何度でもある。
別に泗川の戦いだけの現象じゃないぞ。
652 :
日本@名無史さん:04/12/31 03:38:05
653 :
日本@名無史さん:04/12/31 03:38:26
>>650 明軍が体制を立て直して再包囲する事が出来なかったと言う事実だ。
島津軍が追撃戦を開始して明軍の立て直しを邪魔していたのでなければ、何故立て直せなかったんだよ?
654 :
日本@名無史さん:04/12/31 03:39:55
>>652 クラウゼヴィッツは学歴を必要とは考えていなかっただけで、兵法が不要だなんて言ってないぞ。
半可通だな。
655 :
日本@名無史さん:04/12/31 03:42:51
656 :
日本@名無史さん:04/12/31 03:45:12
>>655 戦意喪失して逃げ出す敵を追い回して首を狩るのが、追撃戦なんだよ。
そんな雑魚を仕留めて3〜4万くらいの首を狩るくらいは十分に可能だ。
657 :
日本@名無史さん:04/12/31 03:46:01
>>654 関ヶ原、大阪の陣の実戦を経た人間が言ったというのが似ている。
島津軍から追撃されてないのに、明軍は泗川から京城まで逃げ出したのかね。
距離的に言ってかなり逃げ過ぎだろ。
659 :
日本@名無史さん:04/12/31 03:48:30
>>657 実戦経験は、兵法の基本を体得する好機だからな。
660 :
日本@名無史さん:04/12/31 03:59:18
てゆうか、このスレッドバカ大杉
661 :
日本@名無史さん:04/12/31 04:01:39
>>660 いや、 このスレで馬鹿なのは多分君一人だ。
662 :
日本@名無史さん:04/12/31 04:04:30
>>661 いや、 このスレで馬鹿なのは多分君一人だ
663 :
日本@名無史さん:04/12/31 04:06:31
>>662 島津の戦果に異論があるなら、さっさとちゃんとした根拠を説明しろよ。
664 :
日本@名無史さん:04/12/31 04:07:14
俺は馬鹿です。
665 :
日本@名無史さん:04/12/31 04:07:37
左様。
>>658 >島津軍から追撃されてないのに、明軍は泗川から京城まで逃げ出したのかね。
>距離的に言ってかなり逃げ過ぎだろ。
京城ってどこですか?(・∀・)ニヤニヤ
667 :
日本@名無史さん:04/12/31 04:11:00
京城というのは、本来ソウルの正式名称だよ。
>>667 >京城というのは、本来ソウルの正式名称だよ。
本来ってどういう意味ですか?(・∀・)ニヤニヤ
669 :
日本@名無史さん:04/12/31 04:47:03
ソウルは原住民による俗称に過ぎず、もともとは京城と呼ぶのが正しいのだよ。
ま、泗川で5000人の島津兵に撃退されて逃げ込むにしては距離が離れすぎだな。
>>669 電波だしまくりだね。(・∀・)ニヤニヤ
671 :
日本@名無史さん:04/12/31 05:08:05
>>669 いや、 このスレで馬鹿なのは多分君一人だ
672 :
日本@名無史さん:04/12/31 06:28:38
耳川の戦いで何故、島津の追撃にもかかわらずにあの程度の戦果だっのかな。
沖田畷でも何故、あの程度の戦果だったのかな。
織田の話しだが桶狭間や長篠で何故、あの程度の戦果だっのかな。
あと極めつけはヘキテイカンで日本連合軍は大勝して追撃したのにもかかわらず
何故、何万人も殺せなかったのかな?
島津の戦争・戦闘の常識に外れる誇大なヨタ話しは聞き飽きた。
673 :
日本@名無史さん:04/12/31 06:37:31
と、議論のすりかえに躍起になっておられる。
674 :
日本@名無史さん:04/12/31 07:54:14
>>646が指摘するとおり、家康等五大老は、この泗川の勝利を高く評価している。
証拠の「耳」も検証しただろう。結果、義弘は「4万石加増」、忠恒は「出水地方
の加増+近衛少将に任じた」とある。破格の扱いだ。
明側の戦闘員は36700人だったが、客観的にみても、死傷率は悲惨なものだ。
例えば、先方軍は7500人(指揮官3名)いたが、ある部隊は3000人中、
生存率400〜500人の惨状だった。
死者の大半が戦死より病死・餓死・凍死ではないか
676 :
日本@名無史さん:04/12/31 10:14:32
明軍が退却したのは星州では?
677 :
日本@名無史さん:04/12/31 11:09:31
泗川合戦の斬首数については、村井章介氏による論考がある(歴史学研究736)。
それによると、島津家に残る史料では、38,717と30,817の2種類あり、
五大老によって公式に認定された数字は前者だが、
後者の数字の方が実際に近いという結論になっている。
明軍の兵数については、この合戦に参加した兵士が国元に送った書状によると、
「数万騎」「廿万程」「八十万騎」などとバラバラであり、
戦闘直後から誇大な情報が飛び交っていたらしい。
結果として、義弘の注進状では「弐拾万騎」で、五大老の奉書でも「弐拾万騎」となっており、
20万が公式に認定された敵兵力ということになる。
旧参謀本部編纂の日本戦史によると、中路軍の兵力は次のとおり。
ソウル出撃時 15,800(明13,500、朝鮮2,300)
晋州出撃時 約4〜5万(明34,500+α、朝鮮2,200)
「+α」の部分については、記録で拾える兵力(36,700)以外にも、
若干の部隊がいたが、詳細はわからないとしている。
そして、上記兵力は戦闘員(歩兵・馬兵)だけなので、
明軍の戦死者には輜重など非戦闘員も含まれているのではないかと推定している。
678 :
日本@名無史さん:04/12/31 11:12:44
>>674 4万人位で攻めて3万人以上死んだという気か?
677の続き
輜重部隊はそれなりにいただろうから、明軍全体では10万人くらい。
そのうち3万が戦死したということなら、それほど不自然な数字ではない。
680 :
日本@名無史さん:04/12/31 11:24:55
× 朝鮮出兵
〇 朝鮮征伐
誤解を招きそうなので、若干訂正します。
×戦闘員、非戦闘員
○戦闘部隊、非戦闘部隊
682 :
日本@名無史さん:04/12/31 11:48:12
巨済島在番時の島津勢の態勢。
兵数2000
鉄砲100挺
鉄砲玉4000
それに付随する煙硝、鉛、硫黄。
更に弓矢、刀、鑓等の武器。
非常食として、味噌25桶(10石入り)、塩、昆布、菜種、干飯、鰯など。
備蓄米3000石。
× 朝鮮征伐
〇 唐入り(からいり)
684 :
日本@名無史さん:04/12/31 12:47:54
やっぱり、3万4万がありえないとは言えないな。
島津の物凄さは分かった。
しかしここは島津スレではない。
そろそろ捏造英雄である李舜臣の虚飾に満ちた実像に検証のメスを入れよう。
686 :
日本@名無史さん:04/12/31 13:52:03
結局、何を証明したいのかね?
島津軍が頽勢の中で劣性を覆し、明軍(正規軍、非正規軍かはともかく)三万〜四万の首級を追撃戦で斬獲した、それで良い。
上記は事実。
なぜなら、
朝鮮にシーマンヅという名前が残ってること、
朝鮮には島津の家紋を魔除けかわりにする風習が残ってることなど、
これである。
687 :
日本@名無史さん:04/12/31 13:59:57
嶋津の物凄さだろ。
それはもう分かったから良いよ。
他の諸将の話を聞きたい。
沈安頓吾=島津殿(島津義弘)
690 :
日本@名無史さん:04/12/31 15:15:20
明軍が大砲一発で崩れたソースや、明軍を追撃したソースはまだか。
もう出たよ。
692 :
日本@名無史さん:04/12/31 15:19:58
693 :
日本@名無史さん:04/12/31 15:24:24
あなたの心です。
694 :
日本@名無史さん:04/12/31 15:26:02
はい。
695 :
日本@名無史さん:04/12/31 15:29:27
最新遺伝学で、日本人は日本人最多のHLAで見ると、モンゴル東部に起源が
求められ、日蒙同祖論になってしまうんだな。
韓国人は韓国人最多のHLAで見ると、満州南東部あたりに起源が
求められ、韓満同祖論になってしまう。
韓国人は日本人とHLAが6割も違い、ほとんど異人種と言って良い。
日本から朝鮮半島に渡った縄文人のmtDNAを朝鮮半島に求めた時にだけ
日韓同祖論がなんとか成立する。
いやはや、日韓同祖論も遠くなりにけり・・・
泗川では明軍の弾薬が誘爆した混乱に乗じて一気に攻勢に出て逆転した。
島津の戦術眼は確か。。
五奉行・五大老の感状によると、島津軍は明軍を即時に追い崩し、
泗川から晋州まで五里の間追いつめ、ことごとく討ち果たした、とある。
20kmにわたる追撃戦を行い、大戦果を挙げたことは間違いないようだ。
しかし、参戦武将の覚書などを見ると、勝敗は紙一重だったことがわかる。
爆発があって明軍が敗走すると、島津軍は我先に城外に出て、
大将の忠恒を含めて逃げる敵の首取りに夢中になってしまった。
追撃を逃れた明軍の一部が手薄になった城内に侵入しようとしており、
城に止まった義弘が「早く城に戻れ」と指令を出しても誰も聞かない。
(薩藩旧記雑録後編巻43・伊東壱岐入道玄宅覚書)
もしも島津忠長隊がこの明軍を撃破していなければ、城を攻め取られ、
追撃部隊も挟撃されて、島津軍は全滅してしまったかもしれなかったのだ。
698 :
日本@名無史さん:04/12/31 17:41:09
岩田豊雄の海軍に出てくる爆弾三勇士だね。
699 :
日本@名無史さん:04/12/31 18:11:35
>>697 その20Kmの追撃で3万人以上討ち取れると思われますか?
>>699 出来る筈がないと結論付けられる根拠が存在しない以上、実際に出来たんだろうね。
連合艦隊が僅か3隻の損害しか出さずにバルチック艦隊を全滅させる事なんて出来る筈がないよねぇ〜w
702 :
日本@名無史さん:04/12/31 18:42:05
>>700 じゃ、終了します。
ありがとうございました。
703 :
日本@名無史さん:04/12/31 19:57:17
島津の物凄さについてはそれくらいにして、他の諸将についての話をしよう。
俺は張リボテの英雄、李舜臣の実像について知りたい。
704 :
日本@名無史さん:04/12/31 21:29:04
文禄1年10月中旬の「第一次 晋州城の戦い」は、日本軍は無様な敗北を喫しているな。
長岡忠興、長谷川秀一(いずれもマイナー武将だが)ら2万人もの軍勢で力攻めで攻城戦
をしかけたが、見事に失敗して撤退した。長岡の弟は戦死。
たかだか4千人の朝鮮兵相手に負けたわけだw 日本軍、弱いんじゃね?w
続く文禄2年1月の「第三次 平壌城の戦い」でも、ヘタレ李如松(p)
に、小西行長が負けてますな。
この2戦役の報告受けた秀吉のショックのでかさが忍ばれる(笑)
>>704 > 長岡忠興、長谷川秀一(いずれもマイナー武将だが)
長岡忠興がマイナーですか? ご意見を完全否定はしないが疑問を呈しておきたい。
706 :
日本@名無史さん:04/12/31 22:35:47
小西行長は元々文官だからな。
戦争は苦手なんだよ。
708 :
日本@名無史さん:05/01/01 00:29:22
細川忠興はメジャーだが、長岡忠興はなぜかマイナー。
同一人物だという事さえ知られていない程だから、マイナーもマイナーだ。
709 :
日本@名無史さん:05/01/01 00:39:30
小西幸長は戦争苦手かな?
710 :
日本@名無史さん:05/01/01 00:41:28
×幸長
○行長
>>704 第1次晋州城攻撃で忠興の弟・長岡玄蕃が戦死したという記述を見かけることがあるが、
玄蕃頭興元は1619年まで生きている(常陸谷田部藩の藩祖である)ので、
何かの間違いであると思われる。
712 :
日本@名無史さん:05/01/01 06:42:01
小西行長が戦争を苦手としていたのは、朝鮮程度の雑魚相手に苦戦した事でも明らかな事実だ。
713 :
日本@名無史さん:05/01/01 08:15:17
>>711 確かに。しかし、この人、何で死んだことにされてるのかな。
兄弟仲が悪かったとも聞くし。谷田部藩行きは左遷だし。
慶長の役に於いて、島津が陸では泗川、海上では露梁と、その武威をいかんなく示した
が、文禄に限って言えば、ひいき目に見ても、やはり苦戦してる。
巨済島・玉浦の海戦(文禄1年5月)では、藤堂高虎達が李舜臣、元均のコンビに
ボロカスにやられてる。
715 :
日本@名無史さん:05/01/01 12:29:33
それだけじゃん。
そのあとは勝ってない。
勝ってたのは文禄1年の最初の「1年間」だけ。
文禄2年〜3年になると、李舜臣得意のおびき出しに、
日本軍も乗ってこなくなる。手の内が完全に読まれた挙げ句、
「慶長の役」では、2回とも日本軍の圧勝に終わった。
熊川の海戦 日本軍傍観(朝鮮軍撤退)
慶長1年:巨済島の海戦 朝鮮軍の大敗北(*李舜臣左遷で不在)
上陸した朝鮮の陸上部隊は島津軍により
ほぼ全滅。
慶長3年:露梁海峡 明・朝鮮軍壊滅。李舜臣敗死。
716 :
日本@名無史さん:05/01/01 12:58:20
第一次朝鮮征伐の主な戦い
釜山城の戦い…1592.4/14
東?城の戦い…4/15
尚州の戦い…4/25
忠州弾琴台の戦い…4/28
漢城(ソウル)陥落…5/3
巨済島・玉浦・合浦の海戦…5/7
赤珍浦の海戦…5/8
臨津江の戦い…5/18〜28
開城陥落…5/29
四川の海戦…5/29
続く
717 :
日本@名無史さん:05/01/01 13:09:45
唐浦の海戦…6/2
唐項浦の海戦…6/5〜6
栗浦の海戦…6/7
平壌陥落…6/15
錦山(熊峠・梨峠)の戦い…7/8〜9
閑山島の海戦…7/8
安骨浦の海戦…7/10
平壌攻撃(明副総兵祖承訓)…7/17
海丁倉の戦い…7/18〜19
延安の戦い…8/22
続く
718 :
日本@名無史さん:05/01/01 13:19:31
釜山浦の戦い…9/1
鏡城の戦い…9/16
第一次晋州城の戦い…10/6〜10
?興の戦い…10/16
吉州長坪の戦い…11/15
1593年
平壌の戦い…1/8
碧蹄館の戦い…1/27
幸州の戦い…2/12
第二次晋州城の戦い…6/22〜29
終了
李舜臣の活躍は、文禄1年5月〜7月までのわずか2ヶ月に過ぎない。
(海戦数は6回程度だが、いずれも短期間に日本軍が大敗を喫している)
被害に驚いた秀吉が7月14日、対李舜臣との「海戦停止令」を指示、
「回避戦術」に転換する。これ以降、全面的な決戦に至らず。
慶長の役になると、今度は日本軍が逆襲し、大勝したのは歴史が証明する通り。
720 :
日本@名無史さん:05/01/01 13:36:05
第二次朝鮮征伐の主な戦い
巨済島の海戦…1597.7/14〜16
黄石山の戦い…8/16
南原の戦い…8/16
?山の戦い…9/7
鳴?の海戦…9/17
?山の籠城…12/22〜1598.1/4
1598年
四川の戦い…10/1
順天の戦い…10/2〜4
露?津の海戦…11/19
>>708 その論法によれば、立花鎮虎も統虎も俊正も経正もどマイナーということですな。
722 :
日本@名無史さん:05/01/01 20:29:53
左様。
723 :
日本@名無史さん:05/01/01 21:04:51
上杉輝虎もだな。
724 :
日本@名無史さん:05/01/01 21:13:46
725 :
日本@名無史さん:05/01/01 21:17:59
左様。
727 :
日本@名無史さん:05/01/02 02:19:45
日本には利益が何もありませんでした。
捕虜にした、陶工の専門家に日本に来てもらって技術を伝えて貰った程度になろう。
「晋州城一番乗り、加藤肥後守が家来、庄林隼人佐」
「同じく加藤が家来、森本儀太夫、飯田覚兵衛」
「三番乗り、黒田甲斐守が家中、後藤又兵衛」
729 :
日本@名無史さん:05/01/02 07:20:29
一番乗りは黒田の後藤と堀じゃないの?
730 :
日本@名無史さん:05/01/02 15:43:40
731 :
日本@名無史さん:05/01/02 16:23:38
結局、忠興の弟も亀井も朝鮮で戦死説があるが死んでいないんだよな。
だいたい水軍の戦闘能力というのは戦闘準備が出来ていない時、
さらには停泊中話に等しい。
李舜臣が最初の二回の出撃で勝ちまくったのも、
同じ朝鮮水軍が元均の指揮で壊滅したのも
停泊中の襲撃によるもの。
正面対決をしたのは
脇坂が抜け駆けして負けた時と
中型船で進出して潮に流されて来島が戦死した閑山島の戦いと
露梁の開戦ぐらいじゃないか?
733 :
日本@名無史さん:05/01/02 20:06:16
>>732 悪いがもう少し推敲して書き直してくれ。
何を言ってるのか今ひとつ分からん。
734 :
日本@名無史さん:05/01/02 20:35:35
>>732 停泊中の襲撃に何か問題があるのですか?
735 :
日本@名無史さん:05/01/02 20:40:34
停泊中の襲撃で問題があるとすれば、戦果の多寡と指揮官の才能にはあまり関係がないという点かな。
どんな凡将でも、寝込みを襲うような不意打ちなら大戦果を上げる事が可能だ。
凡将には寝込みを襲うような不意打ちなんてできませんが
737 :
日本@名無史さん:05/01/02 20:53:56
>>735 厳島合戦について一言コメントをお願いします。
738 :
日本@名無史さん:05/01/02 20:57:08
ガイシュツかも知れんが、加藤清正の家来で向こうに寝返った
阿蘇出身岡本越後守って、大したことないの?
739 :
日本@名無史さん:05/01/02 21:01:25
凡将でも、寝込みを襲うような不意打ちは可能だよ。
相手が寝込んでいれば、誰にでもできる。
740 :
日本@名無史さん:05/01/02 21:08:31
>>739 相手が備えをしていても寝込みを襲う事が可能ですか?
相手が寝込んでるタイミングで襲うのが難しいんじゃないの?
742 :
日本@名無史さん:05/01/02 21:12:38
難しくないよ。
寝込んでなければ、いつまでも寝込むまで待つだけで良い。
寝込みを待てなくて相手が警戒している所を襲撃するのは、不意打ちではない。
743 :
日本@名無史さん:05/01/02 21:15:11
>>742 相手が見張りを立てていたら朝が来そうですね。
744 :
日本@名無史さん:05/01/02 21:16:15
そうだね。
相手が寝込まない限り、寝込みを襲う事はできない。
普通は寝込むまで待てない奴を凡将っていうんだよ。
746 :
日本@名無史さん:05/01/02 21:20:16
寝込むまで待てない奴は凡将だが、寝込んだ相手にいくら大戦果を上げても指揮官としての能力とは関係ない。
寝首を掻く程度の事は、目覚めている人間なら誰にでも出来る事だからだ。
747 :
日本@名無史さん:05/01/02 21:21:20
まさかこないだろうと思ってたら警戒も緩むでしょうね。
748 :
姉妹スレもよろぴく:05/01/02 21:22:29
寝込んだ相手を襲えるかどうかが指揮官の能力なんだと思うけどね
750 :
日本@名無史さん:05/01/02 21:24:53
相手が寝込んでいるのかどうかは、指揮官の能力とは関係ない。
人は寝るものであり、部隊を挙げて寝込んでしまうのは相手方の油断の反映にすぎない。
751 :
日本@名無史さん:05/01/02 21:29:26
文禄の役当時の日本軍は寝込みを襲われるようなボンクラ揃いだとでもいいたげですな。
754 :
日本@名無史さん:05/01/02 21:33:01
攻め込まれる可能性がある状況で警戒を怠る方が悪い。
寝込みを襲う方はどんな凡将でも大戦果をあげる事が可能となる重大な油断だからな。
755 :
日本@名無史さん:05/01/02 21:34:00
李舜臣みたいなボンクラに寝込みを襲われて大損害を出したのであれば、ボンクラに決まってる。
756 :
日本@名無史さん:05/01/02 21:36:38
>>754 レスありがとうございました。
以上です。
野木将軍(当時長州藩士)が活躍した話聞かせてよ
758 :
日本@名無史さん:05/01/02 21:43:15
野木将軍?
誰だそれ?
>>754 どんな凡将でも勝てる状況を作り出せたら名将。
760 :
韋駄天はふと考えた:05/01/03 00:02:38
私にとって哲学とは自然の現象や事象を情報として記憶、脳内でシュミレーション実験
(架空実験)をして、結果や正解を導き出そうとする学問と考えています
一方科学(医学・物理・化学・生物・数学)は実際に動物実験や実験器具(電卓・コンピューターも含む)
などで実験を行い、これらの実験結果を踏まえて結果や正解を導き出そうとする学問と考えています
また歴史学(考古・世界史・日本史)は過去の文献や遺跡発掘、事件記録、事故記録・戦争記録などの
証拠品を元にして、歴史上での結果や過ち(正解も含む)を導き出そうとする学問と考えています
よって哲学が高度な知能を最も必要とし、すべての最高位の学問であると考えています
私の考えは間違っていますか?
761 :
日本@名無史さん:05/01/03 00:20:12
そもそも論理的思考というものは、理論が現象と合致しているという事実を観測する必要がある。
理論が現象と矛盾していれば、その理論が正しいと見なす理由が無いし、現象を観測しなくては理論と現象が合致しているのか矛盾するのかさえ分からない。
科学や歴史学に依存しなくては正誤を判定する事さえままならない哲学が、何故他の学問よりも上位なのかが良く分からないな。
762 :
日本@名無史さん:05/01/03 00:23:59
>>759 従って、そのような状況で生じた戦果は指揮官の能力とは関係ないのだよ。
凡将でも上げる事の出来る戦果を、名将である根拠として指摘する事は出来ないのだ。
763 :
日本@名無史さん:05/01/03 00:47:58
よく分からんけど、敵地で眠りこけてた倭人は愚劣ってことだね。
764 :
日本@名無史さん:05/01/03 01:17:26
眠りこけてたというのは物のたとえで、実際には明や朝鮮が講和を破棄して騙し討ちを試みていた訳だが。
まあ、朝鮮人との約束を信用するような日本人がマヌケだというのは事実だね。
765 :
韋駄天はふと考えた:05/01/03 01:18:20
>>761 ではお聞きするが、科学や歴史学は物証がないと正誤の判定はできない学問
だからこそ遺跡を掘り返したり、文献を探ったり、動物実験や研究実験をする
しかし物証の出てこない事象については、正誤の判定どころかどうすることも
できなくなるという欠点が、科学や歴史学にはある
具体的に言おう、スケールの大きい事象の場合例えば、宇宙外部や地球内部の構造を
知るのに実験で知ることはできないから、正誤の判定は哲学的(脳内での空想実験)な
考えに判定を委ねることになる
また歴史においても物証が出てこない事例の場合(対象物が古すぎたり、
海底に沈んでいて発掘が困難な場合)は、これまた正誤の判定はできなくなるので、
正誤の判定は哲学的(脳内での空想実験)な考えに判定を委ねることになる
したがって実験や物証による正誤の判定が困難な場合は、最終的に哲学的な
思考でもって判定することになるので、哲学が最高位の学問となる
766 :
日本@名無史さん:05/01/03 01:41:01
>>765 哲学を構築する為に不可欠となる論理的な思考が論理的思考である事を確認する為の立脚点として、現象を観察する事が不可欠だと言ってるんだがね。
理論と現象の合致を確認せずに、その理論が正しい事を確認する手段は無い。
宇宙の外部や地球内部や海底に眠る遺物について考察する際にも、観測可能な切り口から得られた結論の積み重ねで真相を推理する事しか出来ない。
科学や歴史を正しく構築する手順を学ばなくては、宇宙の外部や地球内部を知る事さえままならないのだよ。
767 :
韋駄天はふと考えた:05/01/03 02:33:29
>>766 すべての生物は哲学的な思考で持って、いろいろな自然の力を取り入れて繁栄に利用してきた
魚や鳥の世界に航空力学や水流学の知識はないし、超音波を使えるコウモリやイルカに
科学を学ぶこともない
地球上のすべての生物は実験などしない、過去の遺物を発掘もしない
細胞自らが自然現象を経験として記憶して、記憶した経験をいろいろと組み合わせて、
自然で発生する力を繁栄するための力に取り入れた
つまりすべての学問の元は哲学的思考から、様々な学問に派生していったといっていい
もちろん考古学もまた、哲学的な思考から派生していった学問に過ぎない
そのことを文字も学問も持たない多くの生物たちは教えてくれた
768 :
日本@名無史さん:05/01/03 02:44:35
>>767 人間以外の生物が哲学的な思考を用いて繁栄してきたと考える根拠はない。
あらゆる生物は、自らの体が耐え忍べる限界を超えた負荷をかけられた時に死ぬ。
そのような事態が繰り返された末に、たまたまそのようなストレスを回避する能力に長けたり、耐久力を向上させた個体のみが子孫繁栄に有利となって来ただけだ。
そのような個体が世代を重ねた末に危険を回避する能力を発達させたとしても、それはその個体の思考に起因する現象であるとは限らない。
考えるまでもなく、世代を重ねて研ぎ澄まされた本能や感覚に反応するだけでも、危険を回避できるようになっている場合があるからだ。
769 :
韋駄天はふと考えた:05/01/03 03:07:32
ではここは歴史スレだから歴史的に聞こう
>>768では>自らの体が耐え忍べる限界を超えた負荷をかけられた時に死ぬ。
そのような事態が繰り返された末に、たまたまそのようなストレスを回避する能力に長けたり、
耐久力を向上させた個体のみが子孫繁栄に有利となって来ただけだ。
↑となっているが、戦国時代で耐久力を向上させたはずの戦国武将の子孫たちが、その後
歴史上の動乱でパッとした活躍を見せないのはどういうことですか?
>世代を重ねて研ぎ澄まされた本能や感覚に反応するだけでも、危険を回避できるように
なっている場合があるからだ。
↑が事実なら戦国武将たちの子孫は通常の農民の子孫に比べれば、はるかに
優れていなければならない
ところが、その後明治以降の戦争でも、戦国武将の子孫たちが活躍したという話は
聞くことはない
ということは哲学的な思考を持った者だけが優れたということになるまいか?
770 :
韋駄天はふと考えた:05/01/03 03:14:47
戦国時代に名を残した武将の子孫たちを見る限り、過酷な生存競争に優れた能力が
そのまま遺伝したとは考えられにくい
よって遺伝ではなく考え方によって優劣がつくのではないのか?
これは人間以外の生物にもあてはまると思う
生物は遺伝で優れた能力を発揮しているのではなく、細胞の考え方が
優れているからこそ、すばらしい能力を発揮し続けているのではと考える
771 :
日本@名無史さん:05/01/03 03:18:26
戦国時代の日本の農民は、決して安全な生活を満喫していた訳ではない。
戦闘員として駆り出されたり、戦闘の巻き添えを食ったり、治安が悪化した地域で盗賊に襲撃されたりという様々な危険に晒されていた事には変わりない。
生物進化を促進する淘汰圧としては、結果的に武家と農民の間での差は無かったという事だな。
戦国時代の約100年という期間では、遺伝形質に大きな発達の形跡が観察できないのも無理は無い。
世代交代に換算すればせいぜい3〜5、6世代程度の短い機会だ。
772 :
韋駄天はふと考えた:05/01/03 03:27:12
戦国時代の合戦を渡り歩いて生き残った戦国武将たちの子孫が、戦いに優れた遺伝子を
もし受け継いでいるのなら、明治維新、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争などで
何人かの戦国武将の子孫たちが、活躍していないとおかしい
ところがそういった例はまずない
ということは遺伝によって戦いに優れた能力が受け継いだのではなく、親から子へと
戦いの仕方を教えることによって、戦いでの優れた能力が受け継がれていったのではないかと
もしこの仮説が正しければ明治維新以降の戦争では、戦国時代の戦い方では通用しないので
戦国武将の子孫たちも、先祖から教えられた戦い方では活躍できない
この考えだと明治以降戦国武将たちの子孫が、戦争で活躍しなかったのもうなづけれる
773 :
日本@名無史さん:05/01/03 03:33:43
戦国時代の100年間に武家と農民の間でいくばくかの能力差が遺伝形質化していたとしても、
その後の270年間が天下泰平だったのでどのようにスポイルされるのかは無視できない。
明治維新の時点では、武家と農民の階級差では遺伝形質の差が目立つほどではなくなっていたのだろう。
その上戦国時代でも江戸時代でも、実態としては階級間の移動は頻繁に観察できる現象だった。
跡取りの居ない武家が農家から養子をとったり、百姓町人の娘が武家に見初められて嫁入りしたりなど、
明治維新以前の身分制度は遺伝学的には有名無実の制度だった。
774 :
韋駄天はふと考えた:05/01/03 03:36:14
>>771 ということは遺伝による進化(変化か?)は3〜5世代の100年程度では
形成できないと
ならば人間に飼われている犬やネコや馬などの家畜はどうなのかと
たった2〜3世代ぐらいで体の大きさから毛の長さまで大きく変わる
配合次第で親とはまったく違った子が生まれる
これは明らかに遺伝の力だとは思うが、決して優れた能力を
遺伝させたわけではない、むしろ退化させた能力を遺伝させたケースだろう
優れた能力は遺伝によって伝わりにくいが、退化した能力は遺伝で伝えやすいと思う
このスレの連中は李舜臣の偉大さを否定しようと必死のようだが、
彼が世界四大提督、アジアでもっとも偉大な海将である事実は変わらない。
776 :
韋駄天はふと考えた:05/01/03 03:48:22
>>773 江戸時代が平和だったといっても、武家諸法度に沿って武士は戦に備えて
鍛錬を日々行っていたわけだし、武具や武器も常に使えるように準備していた
とうぜん戦い方も親から子へと受け継がれていったはずで、これに親からの
戦いの遺伝も伝わっていれば、普通の農民出身の兵相手にまず負けるはずがない
ところが明治維新ではコロコロと徳川家譜代の武士たちが負けていった
戦国の世を勝ち抜いた徳川家の家臣の子孫たちがだ
いったい戦国100年を戦い抜いた血はどこに流れていったのか?
やはり遺伝ではなく考え方で優劣が決まる証拠だろう
777 :
日本@名無史さん:05/01/03 03:56:21
幕末には日本人全般で食生活上でタンパク質不足が深刻化していた。
ペリー来航以来、戦国時代から伝わる甲冑を引っ張り出した武家の中には、重すぎて立ち上がる事も出来ない者が少なくなかったという笑えない話も伝わっている。
戦国以来の武士らしさを継承していたのは会津や薩摩の武士くらいのもので、他の武士は泰平の世に弱体化を極めていたと言える。
自分の先祖が着用して戦場を駆け回る事が出来ていたはずの甲冑を着ても立ち上がれなくなってる状況を、考え方だけで克服するのは難しい。
>>777 教育機関において徒競走などの運動会・身体測定が何のために導入されたか少しは考えろ。
780 :
日本@名無史さん:05/01/03 07:24:30
日ソ中立条約の場合には、それこそ破棄されない方が不思議なくらいだ。
同盟国のドイツがソ連と戦争していたのだから、そんな条約が存在する事自体が本来は不自然な状態。
日本が窮地に追い込まれた時に必ず破棄されるものだという事くらいは気づかなくてはならない。
約束を破っても恐ろしくない相手との約束は、都合の良い時に破られる運命だ。
まあ、日ソ中立条約でソ連に文句をつけたりするのは単なる外交音痴を晒して失笑を買うだけなので、日本国民の品位を守る為にも自粛すべき話なのだが、
朝鮮征伐で李舜臣が日本軍を騙し討ちにしようとして講和を破棄するのは愚の骨頂だと言える。
本来の実力では日本軍の方が上なのだから、その日本との約束を無闇に破るのは非常に危険な賭けになる。
李舜臣も引き上げて行く日本軍を大人しく見送っていれば全てが丸く収まって長生きできた筈の所を、むざむざ喧嘩を売って犬死にしてしまった。
敵と己の力量を見極める事は孫子の兵法でも最も重要な教訓としているのだが、李舜臣にはそれが出来ず、自信過剰の愚を犯して死んだ。
あたかもスピードの出し過ぎでハンドル操作を誤って事故死した無免許の中学生のように無駄な死だった。
781 :
日本@名無史さん:05/01/03 07:27:15
>>779 考えたが、いったい何を言いたいのかね?
もったいつけてないで言いたい事を具体的に説明したまえ。
最期の戦いが李舜臣の発案だったという確証はあるのだろうか?
明・朝鮮側の作戦が成功しておれば、明・朝鮮は日本将兵を捕虜として人質外交を有利に展開できたはず。
第2次世界大戦後のソ連による日本兵シベリア抑留もそうだったではないか。
783 :
日本@名無史さん:05/01/03 07:44:10
日本と明軍は、日本軍が朝鮮から撤退していくのを妨げないように講和を結んだ。
秀吉が死んで朝鮮から去ろうとする日本軍を無闇に攻撃したりすれば、日本軍としても踏みとどまって戦い続けるしかなくなる。
だからさんざん痛い目に遭わされていた明軍は日本との講和を破る気などなかったが、李舜臣が全責任を負うから部隊を指揮させろと口説いて騙し討ちに踏み切った。
日本の実力を読み誤った愚将李舜臣は、思い上がりの報いを受けて討ち取られた。
そして、目先の損得に捕らわれて破る必要も無い約束を破る朝鮮人の愚劣な習性だけが後世にいたるまで語り継がれる事になった。
784 :
日本@名無史さん:05/01/03 08:10:34
結論は戦闘状態にない船を襲えば勝ち
>>783 いや、戦い続けないだろ。
実際帰った。
786 :
日本@名無史さん:05/01/03 08:22:46
帰ったのは、李舜臣を討ち取って無力化したからだよ。
日本軍にとっては帰り支度していたところに邪魔が入っただけだから、邪魔者を退治した時点で滞りなく帰る事が出来る。
>帰ったのは李瞬臣を討ち取って無力化したからだよ。
意味がわからん。
李を討ち取れと命令でも出ていたのか?
帰国命令の他に。
李を討ち取ったと確認して帰ったのか?
帰ったのは秀吉が死んだからだろが。
790 :
日本@名無史さん:05/01/03 09:48:16
秀吉が死んだから皆朝鮮みたいな不毛の地に居座る理由がなくなり、日本に帰るところだった。
そこで明には「もう帰るから邪魔すんなよ。」と話をつけていたのだが、
「騙し討ちにすれば日本軍に大打撃を与えるチャンスニダ」という愚かな考えに陥った馬鹿が講和を一方的に破って日本軍に襲いかかったものの、
返り討ちにされてあっけなく死んだ。
破る必要が全くない筈の約束を守らずに自滅した馬鹿が死んで心配が無くなったので、
日本軍は帰り支度の続きにとりかかった。
という笑い話さ。
朝鮮人は目先の損得に目が眩んで約束をムヤミに破る馬鹿なので信用できないという悪評だけを置き土産に残して、
李舜臣はこの世から立ち去った。
791 :
日本@名無史さん:05/01/03 09:57:32
また嫌韓馬鹿の長文か(ワラ
李舜臣は日本水軍の船団を殲滅しようと、露梁海域で待ちうけ、戦闘の
最中に敵弾に当たって壮烈な戦死を遂げた(1598年11月)
まさに返り討ち。
793 :
日本@名無史さん:05/01/03 10:17:49
全く必要のない戦闘を仕掛けて返り討ちにされ、
朝鮮人の卑劣さと弱さだけを後世に印象づけて死んだ愚将李舜臣マンセー
794 :
日本@名無史さん:05/01/03 10:28:39
まあ、島津くんは通常の李舜臣の3倍ほど何かが早い日本の赤い彗星っスから。
・・・シャ?・・・シャアだっ!
796 :
日本@名無史さん:05/01/03 11:07:59
島津とケルト十字の関連はあるのか?
797 :
日本@名無史さん:05/01/03 12:32:09
戦国時代の島津の家紋は◯もつかない毛書体の「十」というものなので、
10という数字が何らかの理由で島津家を象徴していたという可能性が大きいが、詳細は不明。
もしかすると何かが10倍ほど速かったのかも知れない。
つまり・・・
島津はとてつもなく早漏だったと?
799 :
日本@名無史さん:05/01/03 19:37:27
ところで…
>>783 >明軍は日本との講和を破る気などなかったが、
李瞬臣が全責任を負うから指揮させろと口説いて騙し討ちに踏み切った。
これのソースを知りたいのですが…。
朝鮮主張:撤退する日本軍を追撃する気がない明軍を
李瞬臣が全責任を負うから指揮させろと口説いて追撃に踏み切り、日本軍を追い返したが自身は壮絶な戦死を遂げた。
支那主張:順天包囲してたら日本軍が襲いかかって来た。
まぁ実際は、李瞬臣は全軍指揮出来るとか、意見を具申できるような立場じゃねーし
明軍が朝鮮軍の指揮下に入る訳もねーし。
陳リン指揮下の明水軍が順天を海上封鎖してたから、小西行長が撤退出来ずにいたので
島津・立花等が順天救援に向かい、露梁で海戦し勝利、小西行長は脱出成功、これが真実。
泗川に撤退命令が届いたのは10月8日、露梁海戦は10月18日。
明との講和を担当してたのは加藤清正、だが明と慶長3年に講和した形跡は無し。
よって、この時期に明と講和なぞしておりません。
801 :
日本@名無史さん:05/01/03 20:19:00
>>800 >明との講和を担当してたのは加藤清正、だが明と慶長3年に講和した形跡は無し。
>よって、この時期に明と講和なぞしておりません。
ソースは?
自分が知る限りでは、
中路大将怦鼬ウは、配下・茅国器の参謀史世用を、島津義弘がいる泗川新城に送り、
和議談判を行い、人質として茅国器の弟・茅国科を泗川新城に送った。
西路大将劉テイは、10/25に人質として一族の劉天爵を小西行長がいる順天城に送った。
これはいずれも明水軍都督陳リンが秀吉死去の情報を入手した11/7よりも前の話。
>露梁海戦は10月18日。
露梁海戦は11/18ではないだろうか?
803 :
日本@名無史さん:05/01/03 20:38:36
さらしあげ
露梁海戦の日付は?
804 :
日本@名無史さん:05/01/03 20:42:17
…11月19日でしょうか?
11/18午前2時に島津軍が敵軍を発見。露梁海戦発生。
11/19小西軍が順天城を出立。11/20巨済島に到着。
806 :
日本@名無史さん:05/01/03 21:01:03
>>805 すみません。
804は現地の暦と書いてありました。
暦を詳しく知りませんが…。
807 :
日本@名無史さん:05/01/03 21:02:21
808 :
日本@名無史さん:05/01/03 21:03:34
ところで
>>802さんのソースをお聞きしたいのですが…。
露梁海戦は11/18だね、素で間違えてたよ。
>中路大将怦鼬ウは、配下・茅国器の参謀史世用を、島津義弘がいる泗川新城に送り、
>和議談判を行い、人質として茅国器の弟・茅国科を泗川新城に送った。
>西路大将劉テイは、10/25に人質として一族の劉天爵を小西行長がいる順天城に送った。
>これはいずれも明水軍都督陳リンが秀吉死去の情報を入手した11/7よりも前の話。
和睦はしていない。
この人質の話は徳永寿昌・宮木豊盛と共に10月13日で泗川で行った事になっており、
その際に小西行長・寺沢正成も同席したことになってる。
が島津家文書では、10月15日付の加藤嘉明発給文書で明軍の順天攻撃が書かれており、
その件について、徳永寿昌と宮木豊盛と相談するようにと島津忠恒に送ってる。
また9月27日に、加藤清正発給文書で、やはり順天攻撃の件が書かれており、
辻褄が合わない。
810 :
日本@名無史さん:05/01/03 21:21:03
なんか、すんげーイタイ
スレになってきたな。
もはや日本史板のスレとは思えん。
>>809 何が何に対して辻褄が合わないと思うの?
わかりやすく説明して。
>>811 >中路大将怦鼬ウは、配下・茅国器の参謀史世用を、島津義弘がいる泗川新城に送り、
>和議談判を行い、人質として茅国器の弟・茅国科を泗川新城に送った。
この話は10月13日に行われていた。
が、その際これには何故か書いてないが、小西行長・寺沢正成・徳永寿昌・宮木豊盛も同席した事になってる。
が、9月半ばから順天は西路軍と水路軍に包囲されており、小西行長が泗川に出れた形跡が見られない。
また10月15日付の加藤嘉明発給文書では、小西行長が「篭城」していると書状で書いており
この話の信用性が問われる。
また、10月8日以降に徳永寿昌・宮木豊盛は順天に赴き、小西行長に秀吉死去の件と撤兵の件を伝えたと
なってるが、この時には「撤兵命令」は出ておらず、撤兵命令が出たのは
11月2日に五大老からであり、その日に徳永寿昌・宮木豊盛両名は筑前に帰っている。
813 :
日本@名無史さん:05/01/03 21:36:55
さっきまでさらし上げしてたのに、もういいの?
814 :
日本@名無史さん:05/01/03 21:43:47
良い
815 :
日本@名無史さん:05/01/03 21:46:33
802のソースは?
816 :
日本@名無史さん:05/01/03 21:49:59
学研の歴史群像w
817 :
日本@名無史さん:05/01/03 21:50:25
無い
818 :
日本@名無史さん:05/01/03 21:53:39
>>812 >撤兵命令が出たのは11月2日に五大老からであり
五大老からの撤兵命令は、慶長3年10月15日ではないか?
>>812 >小西行長が泗川に出れた形跡が見られない。
10/4に順天城攻囲が終わったはずだぞ。
包囲し続けたことを示す明・朝鮮側の史料は?
>また、10月8日以降に徳永寿昌・宮木豊盛は順天に赴き、小西行長に秀吉死去の件と撤兵の件を伝えたと
>なってるが、この時には「撤兵命令」は出ておらず、撤兵命令が出たのは
>11月2日に五大老からであり、その日に徳永寿昌・宮木豊盛両名は筑前に帰っている。
何が言いたいのか?
命令が出るまでは撤退の計画立案さえ許されないわけか?
五大老の朱印状の日付は10月15日。
このとき、五大老は「順天包囲」という"古い"情報に基づいて命令を出した。
11/1の泗川勝利、11/4の順天包囲終了を五大老が知ったのは、11月に入ってから。
>>818 それは何で確認しましたか?
慶長3年10月15日で確認できる朝鮮関係の史料では、自分が挙げた
島津宛の加藤嘉明の書状がありますが、五大老云々はありません。
さらに泗川の守備交代の話がある。
10月16日付の島津宛の加藤清正の書状では御年寄衆、御奉行衆から蔚山から撤退するように
指示と、小西行長が明の水軍に阻まれ撤退できず篭城とある。
>>819 包囲は終わったというが、島津家文書に残る両加藤の書状の内容読む限り終わっていないとしか
受け取れないが。
命令が出る前に、撤退の計画立案どころか勝手に講和し泗川城の明け渡しまで話し合うのは良いのだろうか?
上記の通り、泗川城の守備交代の話も出てるのに。
訂正します。
×11/1の泗川勝利、11/4の順天包囲終了を五大老が知ったのは、11月に入ってから。
○10/1の泗川勝利、10/4の順天包囲終了を五大老が知ったのは、11月に入ってから。
823 :
日本@名無史さん:05/01/03 22:14:45
情報のタイムラグがあるという点を無視しているのは誰?
書状の内容が当事者情報ではなく伝聞情報であるならば、
情報の鮮度について考慮されなければならないのではなかろうか。
島津家文書
11月2日付 浅野長政・石田三成発給
早急に御奉行衆と年寄衆が対談の上で朝鮮の諸将への帰朝命令を伝達、明軍の攻撃によって撤退できなければ
諸軍とも翌年3月迄は在城、撤退が延期した場合は徳永寿昌・宮木豊盛を渡海させる、明が和議に応じれば
交渉解決まで講和の使者のみ釜山浦に残留すべき
という内容ありますが。
826 :
日本@名無史さん:05/01/03 22:16:41
802のソースは?
例の人は、徳永寿昌・宮木豊盛の行動について詳しいようなので、
伏見から前線までの徳永・宮木らの行程日数も知り得るはずだが・・・。
828 :
日本@名無史さん:05/01/03 22:22:10
802のソースはないの?
829 :
日本@名無史さん:05/01/03 22:27:59
>>829 自分のが必要?今まで書いたレスで十分だと思うけど。
どこに必要か教えてね。
書状の差出人と受取人の時間差が理解できていない人がいるようだな。ワロス
ん?タイムラグに拘るが、それを論理的に説明出来ないのね。
小西行長は直前にも騙し討ちを受けている。
9/18、劉テイは小西行長と和議の直接交渉を行おうとし、
翌19日に順天古城(明軍支配下)で直接出迎えると打診した。
当初から行長を生け捕りにするつもりであった。
計画は直前に失敗し、劉テイは順天城包囲へと切り替えた。
これが、順天城包囲の実態。そして順天城包囲は失敗。
明から日本に人質が送られた理由は、このような前歴があったから。
要するに小西は2度も騙されて生捕りされかけていたわけである。
なぜ、和議がなかったと言い張る人がいるのか理解できない。
"茅國科"でググってみてもらいたい。
まとめ
>>800以降、国家間条約と現地軍停戦協定が混同された。
836 :
日本@名無史さん:05/01/04 00:17:42
こうやって支那人と朝鮮人は信用を失って軽蔑され続けてきたんだね。
837 :
日本@名無史さん:05/01/04 00:31:33
それで802=834のソースは?
838 :
日本@名無史さん:05/01/04 00:32:03
征韓録』(1671)と『征韓偉略
840 :
日本@名無史さん:05/01/04 01:32:42
まめ知識
佐賀県東松浦郡浜玉町浜崎のお菓子「けえらん」
せいろで蒸したうるち米の生地で、こし餡を巻いた上品な和菓子。
天正19年頃、太閣(豊臣)秀吉が朝鮮出兵のため、名護屋に陣を構えた折、
浜玉町浜崎の諏訪神社に参詣し戦勝祈願のため立ち寄った秀吉に、
地元の人が献上した団子が「けえらん」の始まりといわれています。
この時、秀吉が「戦に勝つまで帰らん」と言ったことから「けえらん」の名が
付いたという。1個70円。
841 :
日本@名無史さん:05/01/04 04:03:28
かつて秀吉はバテレン追放令を出した。
これまでの話を読んできて思ったが、話が半分でも本当なら
もし今の時代に生きていたなら中国人、朝鮮人追放令を出していたかもしれんな。
特に834みたいな話が本当なら。武士としては到底許せるものじゃないからね。
>武士としては到底許せるものじゃないからね。
君は武士の道徳観を理解してない。
戦時下においては基本的に騙される方が悪い。
戦国時代には約定破棄はごく当然に行われていた。
仮に小西行長の生捕りが成功しておれば、
明・朝鮮において陳リン・劉テイらは稀代の謀将として称えられていたはずである。
日本から人質返還のための賠償などを得られるからである。
>>837 彼のネタ元は寛文11年に書かれた征韓録。
これは文禄慶長役を調べる際には欠かせない史料だが
これに書かれてるというだけで鵜呑みにしてるだけの輩が多いのも事実。
実際は指摘したように書状等の史料との矛盾点が見受けられるので、
それを踏まえた上での検証が必要と思われる。
>>845 小西の件も具体的な矛盾点だが。
もちろん内容を読んで書いてるんだよね?
>>846 まず、改めて矛盾点を列挙してもらえないかな?
相互に誤解があると困るから。
>>847 どなたかが、
>>848で挙げてくれたので
このスレに書かれてるのはこれくらいかな?
これ以外は、征韓録をもう一度確認しながら挙げるので
しばし猶予が欲しいです。
島津と並んで活躍したと言われている立花宗茂は実際どの程度活躍したんだろ?
碧蹄館の戦いや露梁海戦で実際によく働いてたようなんだが、
蔚山で加藤清正を救出したとか後世の講談で作られてる部分も多いみたいだし、
他に何をやってたのか興味があるのですが
853 :
日本@名無史さん:05/01/06 06:54:49
尉山解放戦は追撃で大勝利なのに籠城戦と比べて話が少ない。
三成の酷評が今でも影響しているのかな?
854 :
???? ◆VgMkRE6jec :05/01/06 07:13:43
『官位』板を誰かが煽ってますが無視して下さい。もし迷惑をかけていましたら、すいませんでした。
官位板使者
855 :
日本@名無史さん:05/01/06 10:51:13
でも追撃不足なのは事実なんだよな
勝ち戦というのも同じく事実だけど
時空警察で「秀吉は他の将軍とは違う。親近感がある」と言ってた捜査員が
朝鮮出兵時の秀吉に会ったら、泣くだろうな。
恵さんは鹿児島藩の武士の子孫とのこと。
朝鮮出兵の時のように日本軍全体に貢献するだろう。
858 :
日本@名無史さん:05/01/06 12:54:31
因縁を感じるねぇ
859 :
日本@名無史さん:05/01/07 07:05:51
>>852 朝鮮での立花の活躍を記した小説とか読んでると
まるで彼が自ら槍をふるって戦っているように
書かれているけど、そんなのは嘘だとしか思えない。
武将が直接戦うなんてのはほとんどありえない。
小早川秀秋は本当に自ら槍をふるったらしいが、
こっちの方は秀吉に「大将にあるまじき行動」とはげしく叱咤されてる。
しかも秀秋が槍で討ち取った相手はろくな装備もない連中だったらしい。
860 :
日本@名無史さん:05/01/07 10:04:10
幸州山城の攻撃失敗ではメインの武将達に負傷が目立つが何傷なのかな?
矢傷?
863 :
日本@名無史さん:05/01/08 22:52:01
>>860 誰が負傷したんだっけ?
石田三成と小西行長と宇喜多秀家だっけか?
オレオレ、オレだよ。
865 :
日本@名無史さん:05/01/09 15:32:05
幸州山城攻撃はばかげた戦い。女子供の集まりと過小評価して、力攻めしたもの、
石を落とされ負傷者続出で大恥をかいている。負傷した、石田三成、小西行長、
宇喜多秀家、前野長康等のメンツを見ると、戦争ベタなヘタレばかり。
866 :
日本@名無史さん:05/01/09 17:29:26
>>865 碧蹄館の不参加組メインだからなぁ・・・
まぁこの攻撃で結局幸州山城は朝鮮軍が自主放棄を
しているので戦略的には目的達成しているが、
日本軍は京城近辺では補給が少ないので作戦の自由度が無い。
これは山城にある食糧を強奪する目的もあったのだろ?
だから城に食糧が運び込まれるまで待って攻撃をしたような形跡がある。
その食糧は確かに奪ってしまった。
その後朝鮮側が撤退。
868 :
日本@名無史さん:05/01/11 06:48:35
では作戦目的は達したといえるのかな?
良く分からんが、城内に食料が運び込まれる前の段階で補給部隊を攻撃して手に入れる方が簡単なんじゃないのか?
わざわざ城内に立てこもる奴らを攻める方が効果的なくらいショボイ規模の補給だったのかね?
それとも城内の兵力が物の数ではないほどショボかったのかな?
し! _ -── ‐- 、 , -─-、 -‐─_ノ
未 // ̄> ´  ̄  ̄ `ヽ Y , ´ ) 朝 え
開 L_ / / ヽ 鮮 |
地 / ' ' i 出 マ
域 / / く 身 ジ
だ l ,ィ/! / /l/!,l /厶 ,!?
よ i ,.lrH‐|'| /‐!-Lハ_ l /-!'|/l /`'メ、_iヽ
ね l | |_|_|_|/| / /__!__ |/!トi i/-- 、 レ!/ / ,-- レ、⌒Y⌒ヽ
│ _ゝ|/'/⌒ヽ ヽト、|/ '/ ̄`ヾ 、ヽト、N'/⌒ヾ ,イ ̄`ヾ,ノ!
「 l ′ 「1 /てヽ′| | | 「L! ' i'ひ} リ
ヽ | ヽ__U, 、ヽ シノ ノ! ! |ヽ_、ソ, ヾシ _ノ _ノ
-┐ ,√ !  ̄ リ l !  ̄  ̄ 7/
レ'⌒ヽ/ ! | 〈 _人__人ノ_ i く //!
人_,、ノL_,iノ! /! ヽ r─‐- 、 「 L_ヽ r─‐- 、 u ノ/
/ / lト、 \ ヽ, -‐┤ ノ キ 了\ ヽ, -‐┤ //
ハ ヨ { / ヽ,ト、ヽ/!`hノ ) モ |/! 「ヽ, `ー /) _ ‐'
ハ ン ヽ/ r-、‐' // / |-‐ く | > / / `'//-‐、 /
ハ 様 > /\\// / /ヽ_ ! イ ( / / // / `ァ-‐ '
ハ │ / /! ヽ レ'/ ノ > ' ∠ -‐  ̄ノヽ /
{ i l ! / フ / -‐ / ̄/〉 〈 \ /!
873 :
日本@名無史さん:05/01/11 08:35:37
ソウルに対する付け城でウザイので攻めますた。
大損害を出して攻略失敗しますた。
874 :
日本@名無史さん:05/01/11 09:32:48
すると、城内のチョンはなぜ撤退したんだ?
875 :
日本@名無史さん:05/01/11 13:27:51
もともと明の支持しない籠城だったので城を維持できなかったんじゃないかな?
損害は大きかったが城の無力化には成功。
撤退したのは日本で言う二の丸まで落ちて持ちこたえられなかったからだろう。
鍋島だったか、食糧庫を奪取したので感状を得た
というようなことがたしか武功夜話か何かに書いてある。
この武功夜話には確か、
「手負い討ち死に(死傷者)四千人、討ち取る首級四千ヶ、
本役で最も苦しき取り合い(城攻め)なり」
とかかれていたはずだから、苦戦は事実のようだ。
(資料訂正タノム)
荷駄なんかでえっちらおっちら、
五月雨的に運び込まれるのを
いちいち追いまわして強奪したところでしれているし、
すぐに逃げ散って効果は薄い。
現代のように空襲したりの機動力はないわけだし、
労多く得るものは少ない。
漢城の残りの兵糧をも見計って攻め込んだのではないか。
三成はそのあたりの計算はさといと思う。
878 :
日本@名無史さん:05/01/13 10:27:32
日本側も朝鮮水軍を見て援軍輸送と勘違いして早期撤退をする苦しい台所事情
880 :
日本@名無史さん:05/01/13 14:05:56
日本側も勝ち戦のあとで結構甘く見ていたんじゃないの?
881 :
日本@名無史さん:05/01/13 14:54:24
唐辛子は日本から半島に伝わったのは有名だが、
キムチが大阪名物ってのはあり得ないだろ。
関西より西の郷土料理はすべて薄くちだし。
882 :
日本@名無史さん:05/01/13 15:13:08
いやぁ〜、VAWW-NETジャパンでぐぐったら出るわ出るわ。
NHKエンタープライズ21のプロデューサー池田恵理子
アジア太平洋資料センター」村井吉敬上智大教授
「日本赤軍最高幹部」重信房子
「PWJ」大西健丞
「土井の元秘書」五島昌子
朝鮮総連系「朝鮮新報」
「日本カトリック正義と平和協議会」高嶋たつ江
「日本キリスト教婦人僑風会」高橋喜久江
「三保ヶ関部屋」増健=本名・柳川信行
松井やよりの平山照次は東京山手教会代表
同夫は北京の日本大使館に勤務し、チャイナスクールの優等生。
すげ〜なぁ、極左勢力、共産主義、フェミニズム、キリスト教。
三拍子どころか、卸問屋ですよ。w
このスレとどう関係あるの?
それはともかく、身の毛もよだつ面々だな〜。
こういうのが日本を主導し始めると末世だ。
>>878 それアチラ側の主張じゃなかった?
日本側の資料にあったっけ?
884
ちょっと自信がないけど、
ソース頼む。
886 :
日本@名無史さん:05/01/13 21:07:10
チョン頃どこいった?
>>886 鏡をのぞいてみろ。チョン頃がうつるはずだ。
888 :
日本@名無史さん:05/01/14 15:28:45
日本側の誇大記録ではどうなっているの?
889 :
日本@名無史さん:05/01/14 15:32:06
誇大記録というのは朝鮮側にのみ存在する
891 :
日本@名無史さん:05/01/14 21:33:33
怪我して負けて逃げたのは宇喜多ほかの倭軍
892 :
日本@名無史さん:05/01/14 22:33:54
亀甲船とはどんなものだったのでしょう。
清正がこれを見て攻城用の戦車みたいものを作ったり、九鬼守隆が大坂の陣
で潜水艦みたいなものを作って攻撃したいうのを読んだ気がするのですが?
893 :
日本@名無史さん:05/01/15 05:49:30
朝鮮の亀甲船(銃弾が貫通しない)VS日本の安宅船(竜骨がなく脆弱そのもので、
転覆しやすい)は、
駆逐艦 VS 芦ノ湖の遊覧船
ほどの優劣があったのではないのか?
操船技術にかけても、李舜臣にたくみに潮流を読まれ、翻弄されまくってる。
文禄年間はボロ負けしてる。
>>891-893 を見るとやはりこれに関連した一連のスレ立てが
韓国人によるものだと分かる。
相手にして欲しいんだよね。
前スレ読めば分かるものを同じことばかりループする。
896 :
日本@名無史さん:05/01/15 06:52:12
負けたのは事実ですから
三大捷の一つですから
897 :
日本@名無史さん:05/01/15 06:58:36
亀甲船がどんなものであったのかという事実を示す現物も設計図も例によって全く実在しない。
あるのは考証がいいかげんな想像復元模型だけ。
朝鮮人が吹聴するホラ話はいつもこんな調子だ。
898 :
日本@名無史さん:05/01/15 09:20:03
当時は亀船と呼ばれていたんでしょ?
いつのまに甲を追加したの?
そういえば広開土王も文武王も最近の左斜め上半島では大王と言い換えているよな?
899 :
日本@名無史さん:05/01/15 11:08:41
韓国人にとって、historyとstoryは完全な同義語
900 :
日本@名無史さん:05/01/15 11:14:14
亀甲船が銃弾を通さない構造なら、李舜臣は島津軍との戦闘で射殺されたりしない筈だよな?
901 :
日本@名無史さん:05/01/15 13:20:27
>>898 倭ではあきれ返ったことに王を天皇と言い換えておるが。
902 :
日本@名無史さん:05/01/15 13:43:37
天皇と王の格差も知らないチョン並のお前に呆れかえる。
903 :
日本@名無史さん:05/01/15 14:14:29
???
夜郎自大の倭人の寝言が聞こえたような・・・。
気のせいだね、きっと。
>>903 これほど朝鮮人らしい書き込みも無いな。
905 :
日本@名無史さん:05/01/15 19:31:48
>>896 > 三大捷の一つですから
ふ〜ん、自称「半万年の歴史」で三つしか威張れる勝利がないんでつか。
907 :
日本@名無史さん:05/01/15 19:47:52
日本軍弱え〜、日本軍弱え〜(笑)
文禄元年(1592)全羅道右水使・李舜臣指揮のもと
四月十三日、
秀吉軍釜山上陸。
五月七日、
巨済島東岸入り江の玉浦の海戦、日本側船二十六隻沈没、生き残りは山中に逃
走。
五月七日夜、
合浦前洋の海戦、日本側大型船五隻炎上沈没。
五月八日早朝、
赤珍浦の海戦、日本側大船九隻・中船二隻破壊。
五月二十九日、
泗川の海戦、日本側大船十三隻炎上。
六月二日、
唐浦の海戦、日本側二十一隻全滅。
六月五・六・七日、
唐項浦の海戦、日本側船舶(加藤清正軍か)全滅、損害七十四隻。
七月七・八日、
閑山島(見乃梁)の海戦、日本脇坂軍五十九隻損害、脇坂安治負傷。
七月九日、
安骨浦の海戦、日本四十隻余全滅。九鬼・加藤軍。
八月二十九日、
朝鮮水軍、釜山浦の日本船四百七十余隻を攻撃、百隻余りを破壊。
908 :
日本@名無史さん:05/01/15 20:03:44
驚いた。文明力の違いから勝敗ははじめから明らかだったのだが、
賊軍は手も足も出ていないではないか。
倭人達はさぞかし惨めな思いを味わったのだろうな。
やはり分をわきまえる、ということは大切ですよね?
>>909
909 :
日本@名無史さん:05/01/15 20:54:20
それ自己申告の戦果ですから
日本軍は全然堪えていませんから
勝っても負けても大したこと無い局地戦でしたから
朝鮮人は輸送部隊を襲撃していただけで、 戦闘部隊相手の戦いでは日本軍に惨敗しまくってるよ。
いつの時代にも朝鮮人は正面きって堂々と戦う事が苦手な連中だ。
李舜臣も最後には調子に乗って島津と戦ったから仕留められてるし。
腹が減っては戦は出来ぬ。
だから朝鮮軍はあっという間に壊滅して野盗化しちゃったんだね。
義兵の実態はただの強盗団みたいなもの。
日本軍相手には武装らしい武装を持たない輸送部隊を不意打ちするばかりで、
主には朝鮮人同士で農家を襲撃して荒らし回っていた。
腹が減っては戦は出来ぬ。
義兵はただの野盗
日本軍も朝鮮人もおかまいなく、強奪できるところを狙うだけ。
腹が減っては戦は出来ぬ。
916 :
日本@名無史さん:05/01/15 22:03:20
朝鮮は不潔だから戦死より病死続出
朝鮮人は自分が出したウンコを食べて戦うから油断できないぞ。
凄いな朝鮮人は。
まるで永久機関だ。
919 :
日本@名無史さん:05/01/15 22:17:22
左様。
920 :
日本@名無史さん:05/01/16 00:29:26
水戦はホーム側が圧倒的に有利ですね。潮流の様子や暗礁も地元の人間には
よくわかるが、はじめてきたらわからない。これを熟知しているのと
いないのとでは全然違う。知らねば「よちよち歩き」するしかない。
それでも李舜臣がいなかったときには日本側は大勝しています。
船の性能にはそれほどの差はなかったのではないでしょうか。
李舜臣は他の貴族出の司令官とは違い、様々な情報を自分の肌で熟知していた
のではないかと思います。
921 :
日本@名無史さん:05/01/16 00:36:26
李舜臣はいくら戦功を上げても李朝からは冷遇されていた事もあり、倭寇出身説もかなり説得力がある。
倭寇といっても日本人ではなく、「ウリは倭寇ニダ!」の方だがね。
923 :
日本@名無史さん:05/01/16 00:49:04
右翼のソースは常に脳内ですw
924 :
日本@名無史さん:05/01/16 00:53:58
倭寇である李舜臣に戸籍の記録が残ってる訳ないだろ。
歴史上いつの間にか出現して、いくら戦功を上げても投獄されたりと冷遇の極み。
戦争が終わると朝鮮では完全に忘却されてしまった。
朝鮮人が李舜臣を称えるようになるのは、日本海軍が記録を掘り起こして再評価して以来の事に過ぎない。
925 :
日本@名無史さん:05/01/16 00:57:24
日本史板でもその辺の事情をきちんと検証してる良スレがあったな。
朝鮮人が必死に否定しようと試みていたが、李舜臣倭寇説にはかなーり説得力があった。
927 :
日本@名無史さん:05/01/16 01:00:26
ん?
歴史に無知な朝鮮人による煽りは無視する事にしてるんでな。
ま、無視されるのがイヤならハングル板に帰りな。
>>927 いや、日本人が朝鮮人みたいに嘘や捏造はして欲しくないし、
興味があるからソースを聞いているのだが。
929 :
日本@名無史さん:05/01/16 01:08:01
以前見かけた李舜臣倭寇説のスレに沢山引用されていたのを読んでいただけなんでな。
調べたい事があるなら、自分で関連スレを探してくれたまえ。
まさか日本史板住人なら、李舜臣倭寇説自体が初耳だなんて素人さんじゃなかろ?
>>929 最近日本史板に来た素人です。
右も左も分かりません。
とりあえずレスありがとうございました。
931 :
日本@名無史さん:05/01/16 01:14:33
( ゚д゚)ポカーン
932 :
日本@名無史さん:05/01/16 01:52:21
>>930 > 右も左も分かりません。
あなたが右利きであれば、お箸を持つ方の手が右。お茶碗を持つ方の手が左。
933 :
日本@名無史さん:05/01/16 01:58:03
右利きの右ってどっちですか?
934 :
日本@名無史さん:05/01/16 02:07:09
君はそんな事を気にしなくても良い。
判断は私が行なう。
935 :
日本@名無史さん:05/01/16 02:12:30
じゃあどっちがどっちなんですか?
936 :
日本@名無史さん:05/01/16 02:14:47
君はそんな事を気にしなくても良いのだよ。
937 :
日本@名無史さん:05/01/16 02:24:44
室井さん
聞こえるか?
命令してくれ
俺は室井さんの指示に従う
かめだ(蒲田)
939 :
日本@名無史さん:05/01/16 10:59:20
李舜臣=倭寇説、意外に本当だったりしてな。
実際は、李舜臣は特殊能力を持った海軍武官ではなく、
女真族との戦いで功を挙げた経歴をもつ人物。
叩き上げの海軍武官だったのは、倭寇対策に精通していた現場の指揮官たち。
亀甲船も倭寇対策から生まれた技術だったとされる。
李舜臣は節度使に昇進したのち、指揮官らの助言に従って
ひたすらに正攻法の作戦を行った。
徹底した正攻法の猛訓練が他の武官との違いである。
941 :
日本@名無史さん:05/01/16 21:01:28
実際には倭寇=朝鮮水軍だろ。
942 :
日本@名無史さん:05/01/16 21:03:53
もしも倭寇=朝鮮水軍だとしたら
金やれば日本側に簡単に寝返りそうだけどな
そういう工作はしなかったのか?
実際明軍が来ると朝鮮人の多くが日本側に味方したらしい。(朝鮮側の記録)
それほど明の略奪も凄まじかったのか。
>>943 ヤンバンの了解のもとで行われる略奪は、きれいな略奪だ。
なんら問題ない。
「日本は目の粗い櫛で浚っていったが、
明国は目の細かい櫛で浚っていった」
ただ、それだけのことだ。
945 :
日本@名無史さん:05/01/16 21:52:25
朝鮮人は、その場その場で最強の存在に対して服従する。
日本軍への協力者が続出するのは、朝鮮では単なる自然現象。
↓
明から清に主人を替えた後の朝鮮人はじつにおとなしく、清の軍隊召集に馳せ参じ、
2回の羅禅(ロシア)遠征と明の征伐に従軍した。父として明を敬っていたはずなのに、
新しい父を迎えた途端、明に対して残酷無情な態度を取った。3回にわたる明征伐では、
朝鮮軍は満州人を驚嘆させるほど明人を虐殺した。満州八旗軍は軍紀正しい軍隊であったが、
盟友のモンゴル八旗軍の朝鮮蹂躙には、かなり悩まされていたが、朝鮮軍が満州人の軍門に
下り清軍に召集されると、今度は朝鮮軍が旧宗主国の明征伐を通して漢人への凄まじい
虐殺と略奪を行ったのだ。清の将軍である龍骨大が率いた、明征伐についての朝鮮兵行状の
記録には次のようなものがある。「韓兵ことに虐殺を極めたり。漢民号呼して曰く、天朝
朝鮮において何の仇があろうか。その恩に背いて、ここに至るかと…」
明は300年近く朝鮮を保護し、李氏朝鮮は宗主国である明から国号を下賜された。しかし、
いざ明が弱勢になると、朝鮮はすぐさま清に乗り換えて逆に明を逆襲し、明人を虐殺した
日韓合邦後、満州でもっとも暴れたのは朝鮮人である。万宝山事件は、朝鮮人と中国人の
水をめぐる争いから起こり、朝鮮半島における中国人虐殺にまで発展した。満州では、
朝鮮人は「二鬼子」として中国人から恐れられ嫌われていた
ttp://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6199/rekisi1.htm (恒屋益服著「朝鮮開化史」博文館、明治34年)
946 :
日本@名無史さん:05/01/16 22:10:42
満州人も、野獣以下の朝鮮人による蛮行には空いた口がふさがらなかっただろうな。
シナ文化で精神性が腐敗する以前の満州族は、日本の武士に勝るとも劣らないほど誇り高い民族だったし。
947 :
日本@名無史さん:05/01/16 22:16:40
>きれいな略奪だ。
根こそぎ
948 :
日本@名無史さん:05/01/16 22:19:47
キムジョンイルに逆らえないくらいに奴隷根性が染み付いてるのが朝鮮民族だし。
両班の苛斂誅求に逆らう事なんて夢にも思いつかないんだろうね。
朝鮮人に出来るのは強者へ対する絶対服従と、弱い者イジメだけ。
949 :
日本@名無史さん:05/01/16 22:19:48
明や李氏朝鮮自身の略奪は
批判する存在を許さないぐらいの略奪なんだな。
日本軍優しすぎ。
950 :
日本@名無史さん:05/01/16 22:40:47
>>944 f`::'ー 、,-、-、_ _,....-- 、_ _,....-=―ヽ―-、-、_ 、ミ川川川彡
,.r'‐'゙´ヽ,r' ヽ \ー、_:::::::::/,´:::::::::::,:::::::,::::::::ヽ::\`ー、 ミ 彡
,〃ィ ,rヽ'-ヽ i 、 、 ヾ,、 `'y',ィ´/::::::::/|::::::ハ_::::::::ト、::::\ \ 三 朝 そ 三
r'/〃// | i! |, \、_`ー!rf.,イ-,ィ/u ノ::::/ |::::`::::|iヽ::::::ヽ ヽ. 三 鮮 れ 三
iヾ!l i /,.=ヽ i,ケ ハ,i', Y't=ラ゙,〉'|::::r'|! 彡´ ,!--、 |i!|::|::i::::::', ', 三 語 は 三
{ヾllッ-, 〃ノ'-'、||ii i|i| |-/! /^ヽ ´ ヾ|从ノ::i::::| ||三 で 三
>|゙! 0ヽ ノ' ´ 0 レノWノi |,.、!/ 0 0 ',' レ|,イ::::i,,_ | !三 言 ひ 三
',i ヽ- , _, " |i| | | ´ '´ハ',Y .!三 っ ょ 三
/l ` !| | i `´ r 'ー‐' u (-, ' | !三 て っ 三
/久 U |! i|'´'、u z_,ノ/ .i |三 る と 三
/イ |ヽ '==..‐_、 |!,'|Y´,ヽ ___ ハ_ ,/i | |三 の し 三
|ト|、',::::\ _,.-‐イ//-'´::::!\'ー‐--ニュ / ト_、 _| _!,=,|三 か て 三
〉:ヾ_'、::::`ー‐r< //イ|::::::_、:::`7i\ __,..-‐'´ .| |`゙"::"::|-"三 !? 三
'ー‐'´¨`'ー、/,rケ /,'1ノ人'-‐'`y'/::::, i| ,!, |`iiイ:::::::::| 彡 三
,〃7,‐/ { ´_,-'´ ,,‐!、=,/.〃::::i i|kハ / ,ヾ、::::::|.|! 彡川川川ミ
,ッ'、_〃'f /゙-<´ r〃 〃 /イ::::,!ッ'/ ', / / |ト、:|:リ
rir' 〃,y'、久_,.rヽ/〃 川/iケir'〃/ ,-'水´ / 〃 \
f::}'ー'〃_i| /::::f|::::', .〃 r/if |||ir' f| レ' r'o | .〃-、 〃 "i
,);'ーッ゙-. レ:::::/_|::::::',_,〃=_、!!|| !i/ ||:,ri !o ∨/_)_〃 |
951 :
日本@名無史さん:05/01/17 00:15:45
勝ってたのは文禄1年の最初の「1年間」だけ。
文禄2年〜3年になると、李舜臣得意のおびき出しに、
日本軍も乗ってこなくなる。手の内が完全に読まれた挙げ句、
「慶長の役」では、2回とも日本軍の圧勝に終わった。
熊川の海戦 日本軍傍観(朝鮮軍撤退)
慶長1年:巨済島の海戦 朝鮮軍の大敗北(*李舜臣左遷で不在)
上陸した朝鮮の陸上部隊は島津軍により
ほぼ全滅。
慶長3年:露梁海峡 明・朝鮮軍壊滅。李舜臣敗死。
952 :
日本@名無史さん:05/01/17 06:22:29
東海岸の朝鮮水軍は何してたんだろうね?
蔚山籠城戦だって加藤清正の入城を阻めなかったし・・・
水軍節度使が配置されていなかったんじゃないか?
953 :
日本@名無史さん:05/01/17 06:59:46
>>951を見て、やっと2ちゃんの使い方が分かってきた様な…。
真面目にやろうとしても疲れるだけ。
955 :
日本@名無史さん:05/01/17 13:12:34
秀吉があと数年生きていれば今度は朝鮮側の補給が破綻すると思うんだがどうよ?
956 :
日本@名無史さん:05/01/17 16:38:43
倭城の配置がいまいちなんだよな。
順天は突出しすぎ、順天は放棄して泗川、晋州を西の基点に河川沿いを支配すれば生産力のない朝鮮は自壊する。
957 :
日本@名無史さん:05/01/17 20:01:38
東部戦線については?
958 :
日本@名無史さん:05/01/17 20:32:53
戦線を縮小すると敵も戦力を集中してくるぞ
959 :
日本@名無史さん:05/01/17 22:21:51
烏合の衆がいくら寄り集まっても日本軍には勝てないよ
960 :
日本@名無史さん:05/01/18 00:55:32
l
961 :
日本@名無史さん:
秀吉は、毒殺されたんだろう。