1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:04/08/20 21:08
ヤベーな。オイ。前、俺のツンベにカマ掘りやがったのかいたのよ。
それが25歳の女でよ。
額切っちゃってたから激怒して、その場で一筆書かせてやったのよ。
で、修理代が300マソ。もちろんソッコー取立て。
その女、旦那と別れて狭いアパート暮らしで2歳の子供までいやがんの。
金払えないなんてふざけた事ぬかしやがるから体で払えって。
ちょっと生活疲れしてるけどスレンダーで結構好みだったから萌。
シクシク泣くのを無視してストリップやらせて萌。
んで、その後は無理やりJrをぶち込みまくり。
溜まってたから濃い〜のがいっぱい出たよ。もちろん中田氏。
一晩2万ということで体で払わせる事にして、それから週3ペース。
俺の大好きなローションプレイさせたり、縛り上げて写真撮影したりで。
尻の穴まで舐め回してやって泣きながら力無く抵抗してあえぐのがまた萌。
しばらくしたら俺が行く日は晩飯作って待ってやがるからバカな女よ。
で、何がヤバイってその女の2歳の娘。
俺になついちゃって、可愛いのなんのって。パパ呼ばわりよ。
小さい手でぎゅっとしがみつかれたら情が移っちゃって。
女は玩具で飽きたら捨てようと思ったが、この子は辛いな。
まあそんなこんなで今の嫁とも知り合って10年にもなるわけだが。
3 :
日本@名無史さん:04/08/20 21:13
前スレおちたんか・・・。ログとりそこねた。
わざわざ埋めるなよな。糞ったれ!
参謀本部(×印幹事)
牟田口廉也 松村秀逸 ×二見秋三郎 松村知勝 河辺虎四郎 遠藤三郎 寺田済一
×森本軍蔵 野田謙吾 井原潤次郎 秋草俊 平田正判 浜田平 中山寧人 橋本欣五郎
藤塚止戈夫 小原重孝 ×田中弥 天野勇 武藤章 唐川安夫 石本寅三 諌山春樹
根本博 中野英光 影佐禎昭 ×長勇 今井武夫 和知鷹二 大橋熊雄 安達二十三
奥田千里 三原敏男 佐藤幸徳 上野勘一郎 飯田泰次郎 ×小野打寛 青津喜久太郎 川原貞男
陸軍省
坂田義朗 ×林 群喜 田中清 岩畔豪雄 渡辺秀人 真田穣一郎 前田正実
富永恭次 岡崎清三郎
教育総監部
坂西一良 ×北島卓美
警備司令部
樋口季一郎
憲兵司令部
三浦三郎 横山憲三 美座時成 ×河村愛三 植木鎮夫 四方諒二 赤藤庄次
麹町憲兵分隊
大木繁
麻布連隊区司令部
古思了
科学研究所
生田目恒雄
陸軍大学校
堀又幸 ×佐野忠義 畑 勇三郎 大内孜 片岡薫 永井八津次 福山寛邦 坂井芳雄 辻政信 三島美貞 大野武城 ×青木一枝 笹路太郎 渡辺富士雄 本郷忠夫
陸軍自動車学校
原口啓之助
陸軍戸山学校
鶴田国衛 池田早苗 石川寛一 植田稔 伊藤知四郎
陸軍士官学校
山本清衛
陸軍歩兵学校
末藤知文
近衛歩兵第一連隊
生田寅雄 目賀田周之助
近衛歩兵第二連隊
×田中信男 近藤伝八
近衛歩兵第三連隊
長江昌
近衛野砲連隊
日野木正雄 福地春男
歩兵第一連隊
土橋勇逸
学校配属将校
岩佐俊 松崎直人 小浜氏善 横井忠道 田坂八十八
二葉会
14期 小川恒三郎
15期 河本大作・山岡重厚
16期 永田鉄山・小畑敏四郎・岡村寧次・小笠原数夫・磯谷廉介
板垣征四郎・土肥原賢二・黒木親慶
17期 東條英機・渡久雄・工藤義雄・飯田貞固・松村正員・小野幸吉
18期 山下奉之・岡部直三郎・中野直三
木曜会
20期 橋本群・草場辰巳・七田一郎・吉田悳
21期 石原莞爾・横山勇
22期 本多政材・北野賢造・村上啓作・鈴木率道・鈴木貞一・牟田口廉也
23期 清水規矩・岡田資・根本博
24期 沼田多稼蔵・土橋勇逸・深山亀三郎・加藤守雄・本郷義雄
25期 下山琢磨・武藤章・田中新一・富永恭次
29期 渡辺秀人
30期 高島辰彦
8 :
日本@名無史さん:04/08/21 11:27
自決した将軍、提督
阿南惟幾大将 陸軍大臣 20年8月15日官邸で切腹
岡本清福中将 スイス武官 20年8月15日チューリヒで短銃自決
山田清一中将 第5師団長 20年8月15日セラム島で自決
寺本熊市中将 航空本部長 20年8月15日航本の自室で切腹
大西瀧治郎中将 軍令部次長 20年8月16日官邸で切腹
隈部正美少将 航技審査部総務部長 20年8月16日多摩川畔で家族で自決
秋山義~中将 第137師団長 20年8月17日咸興で切腹
中村次喜蔵中将 第112師団長 20年8月18日琿春で自決
田中静壹大将 東部軍司令官 20年8月24日軍司令官室で短銃自決
杉山 元元帥 第1総軍司令官 20年9月12日軍司令官室で短銃自決
城倉義衛中将 元・憲兵隊司令官 20年9月13日自決
吉本貞一大将 第1総軍附 20年9月14日総軍の自室で短銃自決
篠塚義男中将 元・陸士校長 20年9月17日自宅で切腹
浜田 平中将 第18方面軍参謀副長 20年9月17日バンコクで自決
本庄 繁大将 補導会理事長 20年11月20日切腹
柴 五郎大将 北清事変の英雄。9月15日割腹を試みるも老齢ゆえ失敗。同年12月13日死去。
納見敏郎中将 第28師団長 20年12月13日宮古島で自決
上村幹男中将 第4軍司令官 21年3月23日ハバロフスク収容所で自決
人見秀三中将 第12師団長 21年4月13日台南で自決
安藤利吉大将 第10方面軍司令官兼台湾総督 21年4月19日上海監獄で服毒自決
草場辰巳中将 大陸鉄道司令官 21年9月17日東京裁判出廷前に服毒自決
小泉恭次中将 第142師団長 21年12月10日自宅で切腹
安達二十三中将 第18軍司令官 22年9月10日ラバウル収容所で自決
瀬谷 啓中将 羅津要塞司令官 29年5月27日満州で自決
9 :
日本@名無史さん:04/08/24 19:57
陣没将軍一覧
日清戦争
大寺安純少将 歩兵第11旅団長 明治28年2月9日威海衛で戦死
日露戦争
前田隆礼少将 歩兵第22旅団長 明治38年3月26日奉天で戦傷死
支那事変
田路朝一中将 第15歩兵団長 14年6月17日中支で戦死
阿部規秀少将 独混第2旅団長 14年11月22日大行山脈作戦で戦死
中村正雄少将 歩兵第21旅団長 14年12月25日南寧で戦死
藤堂高英少将 独混第14旅団長 15年6月3日江西省で戦病死
飯田泰次郎少将 第35歩兵団長 15年11月28日河南省で戦病死
陣没将軍一覧 大東亜戦争編
酒井直次中将 第15師団長 17年5月28日淅江省で戦死
前田利為中将 ボルネオ守備軍司令官 17年9月5日ビンツル沖北方海上で墜死
河原利明少将 南方航空輸送司令官 17年10月14日南支那海で墜死
那須弓雄少将 第2歩兵団長 17年10月26日ガダルカナル島で戦死
堀井富太郎少将 南海支隊長 17年11月23日ニューギニアで戦死
塚田 攻中将 第11軍司令官 17年12月18日安徽省で墜死
小田健作少将 南海支隊長 18年1月21日ニューギニアで自決
下田宣力少将 南方鉄道隊司令官 18年1月26日泰ビルマ国境で墜死
外立岩治少将 南方軍通信隊司令官 18年1月26日泰ビルマ国境で墜死
阿部平輔中将 第41師団長 18年6月11日ニューギニアで戦死
青木重誠中将 第20師団長 18年6月29日ニューギニアで戦病死
有末 次少将 第8方面軍参謀副長 18年8月29日ビスマルク諸島附近で墜死
中薗盛孝中将 第3飛行師団長 18年9月9日広東で戦死
桜田 武少将 船舶司令部附 18年9月10日東支那海で墜死
西田祥美少将 海上機動第1旅団長 19年2月24日ブラウエン島で戦死
下川義忠少将 第10野戦補充隊長 19年4月19日応城で戦死
片桐 茂中将 第20師団長 19年4月28日ニューギニアで戦死
木村千代太少将 歩兵第59旅団長 19年6月11日河南省で戦死
横山武彦少将 歩兵第62旅団長 19年6月11日淅江省で戦死
斎藤義次中将 第43師団長 19年7月6日サイパン島で戦死
井桁敬治少将 第31軍参謀長 19年7月6日サイパン島で自決
公平匡武少将 第31軍参謀副長 19年7月18日サイパン島で戦死
加嶋三郎少将 独混47旅団長 19年7月18日サイパン島で戦死
陣没将軍一覧 大東亜戦争編
加嶋三郎少将 独混47旅団長 19年7月18日サイパン島で戦死
末長常太郎少将 第38聯隊長 19年7月21日グアム島で戦死
森玉徳光少将 白城子教導飛行団長 19年7月25日ホーランジアで戦死
岡部英一少将 第29師団参謀長 19年7月26日グアム島で戦死
重松 潔少将 独混第48旅団長 19年7月26日グアム島で戦死
岡部英一少将 第29師団参謀長 19年7月26日グアム島で戦死
高品 彪中将 第29師団長 19年7月28日グアム島で戦死
水上源蔵少将 第56歩兵団長 19年8月4日ミートキーナで自決
山内正文中将 参本附 19年8月6日ビルマで戦病死
志摩源吉少将 歩兵第57旅団長 19年8月7日湘桂作戦で戦死
小畑英良中将 第31軍司令官 19年8月11日グアム島で自決
田村義富少将 第31軍参謀長 19年8月11日グアム島で自決
河野悦次郎中将 参本附 19年9月8日ビルマで戦病死
竹田鼎三少将 歩兵第78旅団長 19年10月25日セブ島で戦死
川上清志少将 第3航空軍参謀長 19年12月8日マレーで墜死
村井権治郎少将 第14師団司令部附 19年12月31日ペリリュー島で戦死
重見伊三雄少将 戦車第3旅団長 20年1月27日ルソン島戦死
安田利喜雄少将 第16野航修廠長 20年2月6日南方で戦死
山県栗花生中将 第26師団長 20年2月15日レイテ島で戦死
千田貞季少将 混成第2旅団長 20年3月8日硫黄島で戦死
有馬 徴少将 名古屋造兵廠長 20年3月13日名古屋で爆死
大須賀 応少将 第109師団司令部附 20年3月26日硫黄島で戦死
栗林忠道中将 第109師団長 20年3月27日硫黄島で戦死
横尾 闊少将 第14方面軍附 20年4月16日ルソン島で戦傷死
鈴木宗作中将 第35軍司令官 20年4月19日ネグロス島南方海上で戦死
池田栄之助少将 海上機動第3旅団長 20年4月19日北海道へ向かう途中海没
森 厳少将 戦車第2師団参謀長 20年4月19日ルソン島で戦死
12 :
日本@名無史さん:04/08/24 20:07
陣没将軍一覧 大東亜戦争編
吉川 資少将 歩兵第53旅団長 20年5月17日山東省で戦死
高田清秀少将 ビルマ方面軍兵站監 20年5月21日ビルマで戦死
北條藤吉中将 独混54旅団長 20年5月26日ミンダナオ島で戦死
光成省三少将 独立第10飛行団長 20年6月21日南方で戦死
和田孝助中将 第5砲兵司令官 20年6月22日沖縄で戦死
中島徳太郎少将 歩兵第63旅団長 20年6月22日沖縄で自決
藤岡武雄中将 第62師団長 20年6月22日沖縄で戦死
牛島 満中将 第32軍司令官 20年6月23日沖縄で自決
長 勇中将 第32軍参謀長 20年6月23日沖縄で自決
雨宮 巽中将 第24師団長 20年6月30日沖縄で戦死
鈴木繁二少将 独混44旅団長 20年6月30日沖縄で戦死
有川主一少将 歩兵第64旅団長 20年6月30日沖縄で戦死
佐野忠義中将 支那派遣軍附 20年7月3日中支で戦病死
木下 勇中将 東部軍附 20年7月7日墜死
関根久太郎少将 歩兵第58旅団長 20年7月27日華南で戦死
鈴木鉄三少将 独混第55旅団長 20年8月1日ホロ島で戦死
植山英武少将 マニラ航空廠長 20年8月4日ルソン島で戦死
藤井洋治中将 第五十九軍司令官 20年8月6日広島で爆死
小谷一雄少将 広島聯隊区司令官 20年8月6日広島で爆死
小林 隆中将 マニラ防衛司令官 20年8月8日ルソン島で戦死
牧野四郎中将 第16師団長 20年8月10日レイテ島で自決
栗栖猛夫少将 第26師団長 20年?月?日レイテ島で戦死
沖 静夫少将 第68旅団長 20年?月?日レイテ島で戦死
磯村武亮少将 中部軍管区参謀副長 20年8月10日山梨上空で撃墜さる
国共内戦
元泉 馨少将(元金福国府軍中将) 23年7月 山西省で中共軍と戦い自決
13 :
日本@名無史さん:04/08/24 21:14
海軍中将 八代 祐吉 1942. 2. 1
14 :
日本@名無史さん:04/08/24 23:02
日露戦争で師団長松本務本?が陣没したはず。
松村務本中将 第一師団長 明治38年2月4日陣没
16 :
日本@名無史さん:04/08/25 21:25
日露戦争の旅順攻めで白襷隊の少将は死んでなかった?
17 :
日本@名無史さん:04/08/25 22:16
>>16 傷は負ったけど新でない>中村覚歩兵第二旅団長
後に大将に任官され、関東都督などを務めている。
日本の軍人ってほとんど戦死とか自決してるじゃん。
19 :
日本@名無史さん:04/08/26 07:06
陣没リスト見ながら何いっとるんだね?
20 :
日本@名無史さん:04/08/31 23:53
八月十五日以降も戦い続けた人としては、元泉少将のほかにも
やはり山西省で戦い自決した今村方策大佐(均の弟)や、
通化で反乱を起こし、中共の虐殺にあった藤田実彦大佐などがいますね。
後、ベトミン軍に参加して戦死した将校もいた。
A級戦犯
永野修身元帥海軍大将 元・軍令部総長 22年1月5日巣鴨で病死
松井石根陸軍大将 大日本興亜会総裁 23年12月23日巣鴨で絞首
土肥原賢二陸軍大将 軍事参議官 23年12月23日巣鴨で絞首
東條英機陸軍大将 元・首相、陸相、参謀総長 23年12月23日巣鴨で絞首
武藤 章陸軍中将 第14方面軍参謀長 23年12月23日巣鴨で絞首
板垣征四郎陸軍大将 第7方面軍司令官 23年12月23日巣鴨で絞首
木村兵太郎陸軍大将 ビルマ方面軍司令官 23年12月23日巣鴨で絞首
梅津美治郎陸軍大将 参謀総長 24年1月8日巣鴨で獄死
小磯国昭陸軍大将 元・首相 25年11月3日巣鴨で獄死
B級戦犯
三宅光治陸軍中将 満州国共和会中央本部長 20年10月21日ルビアンカで獄死
山下奉文陸軍大将 第14方面軍司令官 21年2月23日マニラで絞首
本間雅晴陸軍中将 フィリピン協会理事長 21年4月3日マニラで銃殺
田島彦太郎陸軍中将 独混第61旅団長 21年4月3日マニラで絞首
佐藤為徳陸軍少将 独混第35旅団長 21年4月6日チャンギーで絞首
鏑木正隆陸軍少将 第55軍参謀長 21年4月22日上海で絞首
福栄真平陸軍中将 第102師団長 21年4月27日チャンギーで銃殺
斎 俊男陸軍少将 独混第36旅団長 21年5月3日チャンギーで銃殺
平野儀一陸軍少将 歩兵第92旅団長 21年5月12日広東で銃殺
原 鼎三海軍中将 第12特別根拠地隊司令官 21年6月18日チャンギーで絞首
藤重正従陸軍少将 歩兵第17聯隊長 21年7月17日マニラで絞首
酒井 隆陸軍中将 特務機関長 21年9月13日南京で銃殺
洪 思翔陸軍中将 第14方面軍兵站監 21年9月26日マニラで絞首
岩切義一陸軍少将 第4野戦輸送司令官 21年10月20日ラバウルで獄死
岡部直三郎陸軍大将 第6方面軍司令官 21年11月28日上海で獄死
左近允尚正海軍中将 支那派遣艦隊参謀長 22年1月21日香港で刑死
田中久一陸軍中将 第23軍司令官兼香港占領地総督 22年3月27日広東で銃殺
河野 毅陸軍中将 歩兵第77旅団長 22年4月24日マニラで絞首
B級戦犯
谷 寿夫陸軍中将 第59軍司令官 22年4月26日南京で銃殺
原田熊吉陸軍中将 第55軍司令官 22年5月28日チャンギーで絞首
河村参郎陸軍中将 第224師団長 22年6月26日チャンギーで絞首
岸本綾夫陸軍大将 満州製鉄理事長 22年7月中共に抑留され病死
馬場正郎陸軍中将 第37軍司令官 22年8月7日ラバウルで絞首
重藤憲文陸軍少将 南支派遣憲兵隊長 22年8月9日広東で銃殺
立花芳夫陸軍中将 第109師団長 22年9月24日グアムで絞首
近藤新八陸軍中将 第130師団長 22年10月31日広東で銃殺
柳川 悌陸軍中将 第132師団長 23年2月27日上海で獄死
大木 繁陸軍中将 関東憲兵隊司令官 22年4月9日シベリアで病死
阿部孝壮海軍中将 佐世保聯合特陸隊司令官 22年6月19日グアムで絞首
酒井原繁松海軍少将 第65警備隊司令 22年6月19日グアムで絞首
喜多誠一陸軍大将 第1方面軍司令官 22年8月7日シベリアで病死
村上啓作陸軍中将 第3軍司令官 23年9月17日シベリアで病死
岡田為次海軍少将 呉鎮守府参謀副長 22年9月3日ラバウルで銃殺
醍醐忠重海軍中将 第6艦隊司令長官 22年10月6日ホンチャナックで銃殺
鎌田道章海軍中将 第22特別根拠地隊司令官 22年10月18日ホンチャナックで銃殺
田中 透陸軍少将 台湾歩兵第2聯隊長 23年4月7日アンボンで銃殺
佐々 誠陸軍少将 元・泰俘虜収容所所長 23年4月23日オートラムで絞首
大杉守一海軍中将 第23特別根拠地隊司令官 23年8月28日マカッサルで銃殺
田上八郎陸軍中将 第36師団長 23年10月6日ホーランジアで銃殺
浜中匡甫海軍少将 第8警備隊司令 23年10月15日メナドで銃殺
24 :
日本@名無史さん:04/09/02 15:36
B級戦犯
吉岡安直陸軍中将 満州国皇帝附 24年1月15日モスコーで病死
秋草 俊陸軍少将 関東軍情報部長 24年2月シベリアで病死
河根良賢陸軍少将 北支野戦自動車廠長 24年2月12日巣鴨で絞首
浅野新平海軍少将 第41警備隊司令 24年3月31日グアムで絞首
森 国造海軍中将 父島方面特別根拠地隊司令官 24年4月22日マカッサルで銃殺
安岡正臣陸軍中将 スラバヤ州知事 23年4月12日チビアンで獄死
谷萩那華雄陸軍少将 第25軍参謀長 24年7月8日メダンで銃殺
田辺盛武陸軍中将 第25軍司令官 24年7月11日メナドで銃殺
中島鉄蔵陸軍中将 スマトラ東海岸州知事 24年7月25日バタビアで獄死
岡田 資陸軍中将 第13方面軍司令官 24年9月17日巣鴨で絞首
小林恒一陸軍中将 満州国高等軍事学校長 25年5月9日シベリアで病死
加藤泊治郎陸軍中将 北支那派遣憲兵隊司令官 26年2月19日シベリアで病死
下河辺憲二陸軍少将 独混第23旅団長 26年3月20日巣鴨で獄死
西村琢磨陸軍中将 スマトラ州知事 26年6月11日マヌス島で絞首
内田銀之助陸軍中将 第118師団長 26年6月29日巣鴨で獄死
橋本虎之助陸軍中将 満州国祭祀府総裁 27年1月26日ハルピンで病死
横山 勇陸軍中将 第16方面軍司令官 27年4月21日巣鴨で獄死
柳田元三陸軍中将 関東州防衛司令官 27年10月1日モスコーで病死
福地春男陸軍少将 第23軍参謀副長 28年12月9日巣鴨で獄死
斎藤弥平太陸軍中将 満州拓殖公社総裁 行方不明 28年9月28日戦時死亡宣告
佐々木到一陸軍中将 第149師団長 30年5月30日撫順で獄死
25 :
日本@名無史さん:04/09/02 16:15
絞首だの銃殺、獄死と碌な死に方しとらんヤシばっかだけど
こやつら、いったい何やったんね。
26 :
日本@名無史さん:04/09/02 16:23
,,.. -─‐;へ=-‐-、__ ,, -‐ 、
/;.-;..へ;/.:..:..`:..:..:..:..:..''.:.、/' ヽ
/:,.:'゙:..:..:..:.rv‐、:..:ヽ,:..:..:!..:..:i/ i
./:.l:..:i..:..l:..:/  ̄ ヽ:..:iヽ:..:.!..:/ ...........i
i.:..:|.:.|:..:.|;.i─‐- `、:.l'"',~|./ ..:::::::::::::::|
,':..:.」:.!i:.:i'.リ:-─‐、_,,..r'" ̄/ ..::::::::::::::::::l
. i:..:..| リ i;,!~| | l / ..::::::::::::::::::::!
.,'..:..i:ヾ'う `ー一''' `'''/ .::::::::::::::::::::/
':..:..i:.|:.i`''ヽ ' / .:::::::::::::::::::/
:..:..i:..l:.l.:.l.:..\ ワ/ .:::::::::::::::::::/ オマへ反軍ダナー
.:..:i..:i,. ‐'"´ `'‐,r''"~ .:::::::::::::::::/
..:./,. -‐‐- 、 l′ ..:::::::::::::/|
:,' / !.:::::::/:i..:..l
r 、 / !::::::::::: i..:..i
l .......`:i i !:::::::::: ゙、:.i
! ::::::::::/ i i:::::::::: ヽ:i
.! ::::::::/ i .....i::::::::::: ヽ
.ヽ ::::::| `、 `、 .....::::::::::::l:::::::::::: `,
/ \:::l. `、 ヽ::::::::::::::::::::l::::::::::: /'''ー─----、
27 :
日本@名無史さん:04/09/02 20:23
♪その声天地に轟けり
葉月二十六日、日本陸軍の名残床しき富士の裾野で、野戦重砲(15瑠)中心に自走砲、噴進
砲、誘導弾等を實弾射撃してゐました
回天翼機も飛んでゐました
日頃ビンボーな自衛隊も、年に一度ぐらい撃つぞ、てふことでせう
観覧場とは距離があるので、軍艦と違ひ發砲音は大したこと無いのですが、弾着音は流石です
泣き出す子供もゐました
下郎の子は茶碗の音で目を覚まし、侍の子は刀の音で目を覚ます、とか
幼い頃から砲声に慣れさせたが宜しい
28 :
日本@名無史さん:04/09/02 20:41
A級戦犯
鈴木貞一陸軍中将 大日本産業報国会会長 平成元年7月15日永眠
>>25 戦争に負けました。
北白川宮が陣没していたと思います。
北白川宮能久親王 近衛師団長 明治28年10月28日台南で戦病死 任大将
32 :
日本@名無史さん:04/09/03 00:13
法務死の英霊に黙祷!
33 :
日本@名無史さん:04/09/03 01:16
木村兵太郎陸軍大将 ビルマ方面軍司令官 23年12月23日巣鴨で絞首
この人が何でA級なんだ。訳わかんねー。
軍人の中には、木村が起訴されたと聞いて、
裁判を公平に見せる為の無罪要員だろうと考えた人もいた。
それが死刑になるんだからわからんもんだ。
35 :
日本@名無史さん:04/09/03 02:59
畑俊六とか、岡村寧次とか、もっと他にいるだろ。。。
>>33 とりあえず、東条陸軍大臣の次官だったから。
本来部下に当たる軍務局長の武藤章や富永あたりに比べたら大したことしてないんだが。
37 :
日本@名無史さん:04/09/03 15:52
我等は戦犯の方々のやうな立派な人になりたいものです。
38 :
日本@名無史さん:04/09/03 16:23
>>36 ありがとうでつ。
武藤章、富永恭次とくると後は「馬鹿野郎」の田中新一でつか?
39 :
日本@名無史さん:04/09/03 23:28
軍人軍馬軍犬軍鳩軍属
木村に関しては、次官としてより緬旬方面軍司令官としての経歴を重視してると思うよ。
41 :
日本@名無史さん:04/09/04 05:36
方面軍司令官としての「戦争犯罪」は、A級のカテゴリー外では?
42 :
日本@名無史さん:04/09/04 12:00
それをいったら松井石根はどうなのよ。木村以上にA級のカテゴリー外。
軍政に発言権を持ったことある?
43 :
日本@名無史さん:04/09/04 15:12
「戦犯」は地上の星
44 :
日本@名無史さん:04/09/04 15:15
南京だけで絞首刑>松井
ダメポな弁護士のお陰で判事の心象を悪くしたためらしい。
>>40 じゃ、まあ重視してると仮定してみよう。
で、どこがA級に値するの?
松井のように南京に関わってるわけじゃない。
本間や山下のように対戦相手に軍事上の恥辱を与えたわけじゃない。
ちゃんと理由も書いてくれないと
>>41みたいに反論されるのは仕方ない。
46 :
日本@名無史さん:04/09/04 17:27
判決読んだら?
辻の尻ぬぐいじゃなかった?
48 :
日本@名無史さん:04/09/04 18:52
また辻の馬鹿か。。。
あれの尻拭いで戦犯にされた将官が何人いるやら。。。
これは推測だけど、各方面から一人は出すという方針だったんじゃないかな
ビルマ方面ってこれといってめぼしい事件はないから、最高司令官に
白羽の矢が立った。
>>40 容疑に対米、対ソの項目が入ってましたがビルマにも米軍はともかくソ連軍が参戦していた
んですね。
初めて知りました。まさに目から鱗が落ちる思いです!
52 :
日本@名無史さん:04/09/04 19:23
東條英機閣下辞世
身はたとへ千々に裂くとも及ばしな
榮えし御代をおとせし吾れは
A級で死刑になった人は皆、訴因54と55にひっかかってる。
54は残虐行為の命令授権、55は故意または不注意による防止の怠慢。
>>51 あなた賢いねえ
1、共同謀議の罪 27、中国に対する侵略戦争の実行 29、アメリカに対する侵略戦争の実行
31、イギリス連邦に対する侵略戦争の実行 32、オランダに対する侵略戦争の実行
35、ソ聯に対する侵略戦争の実行(張鼓峯) 36、ソ聯に対する侵略戦争の実行(ノモンハン)
54、残虐行為の命令授権 55、故意または不注意による防止の怠慢
有罪となった訴因
荒木 1、27
土肥原 1、27、29、31、32、35、36、54
橋本 1、27
畑 1、27、29、31、32、55
平沼 1、27、29、31、32、36
広田 1、27、55
星野 1、27、29、31、32
板垣 1、27、29、31、32、35、36、54
賀屋 1、27、29、31、32
木戸 1、27、29、31、32
木村 1、27、29、31、32、54、55
小磯 1、27、29、31、32、55
松井 55
南 1、27
武藤 1、27、29、31、32、54、55
岡 1、27、29、31、32
大島 1
佐藤 1、27、29、31、32
重光 27、29、31、32、33、55
嶋田 1、27、29、31、32
白鳥 1
鈴木 1、27、29、31、32
東郷 1、27、29、31、32
東條 1、27、29、31、32、33、54
梅津 1、27、29、31、32
55 :
日本@名無史さん:04/09/04 20:27
関東軍司令官時代の梅津がさきほどTVで演説しとった。
ばんばん自決とかしてるがこんなに死んで後の
指揮系統に影響でないのか?
あれ?
>>12だが、牛島満は大将ではないか?
それにしてもお疲れです。 > まとめた方
>>57 死後大将に特別昇任した。
塚田、小畑英、栗林、鈴木宗も同様。
59 :
日本@名無史さん:04/09/05 09:49
牛島閣下はご存命中の昇進です
栗林中将も。
前田利為 死後の進級
塚田 攻 死後の進級
冨永信政 死後の進級
小畑英良 死後の進級
鈴木宗作 死後の進級
栗林忠道 死後の進級
牛島 満 自決直前の進級
>栗林忠道 死後の進級
そうだったか?
自決直前に進級したと記憶しているのだが。
牛島満閣下は
1945/6/20大将昇進
1945/6/23自決
としている資料があったけど、どうなんだろ。
64 :
日本@名無史さん:04/09/05 21:53
65 :
日本@名無史さん:04/09/06 11:01
木村兵太郎は共同謀議絡みで「ついでに」訴追され、
残虐行為で死刑にされたってころかな?
「共同謀議」がなかったら、B級戦犯だったと思われ。
67 :
日本@名無史さん:04/09/06 16:32
この板に羅列された軍人の中には平時ならとうてい将官になれん香具師がいぱいおる。
彼らは戦時中の陸軍部内では、陰で蒋軍と呼ばれた(蒋介石のおかげで将官になれた)
68 :
日本@名無史さん:04/09/06 17:15
>>67 陸軍大学校を出てるというだけで、
指揮能力もない人間(行政官僚としての能力はともかく)が
将官になる人事システムのほうが問題では?
実際の部隊指揮は、連隊長を二年か三年しかやったことしかないのが
ごろごろいるぞ。
富永の敵前逃亡事件なんかどうよ?
あれでも行政官僚としては極めて有能だったらしいが。
69 :
[日露戦争百年シンポジウム in 明治村・犬山市]:04/09/06 17:21
秋草俊少将は戦犯だったの?
モスコー/ハバロフスクなどで判決があったというなら、ソースキボンヌ
満州にいた軍関係の人間は殆ど連れていかれてるけど、
その中でも情報関係の人はソ連が特に重視してたから、
中野学校の産みの親たる秋草少将が戦犯視されたのは間違いないと思う。
ただ亡くなったのが裁判の後か前かは、ちょっとわからないです。
ハバロフスクでググっても731の話しか出てこないし。
情報関係では天野勇中佐も生きて帰ることはなかったですね。
72 :
日本@名無史さん:04/09/07 12:24
法務死の英霊に黙祷!
>>68 武藤章が言った言葉だったっけ?
蒋軍って。
75 :
日本@名無史さん:04/09/07 18:59
>73
誰だったか忘れたが、以前読んだ阿南惟幾伝に載っていたような・・・
>>71 レスさんくす
手元にある「秘録 陸軍中野学校」は校史「陸軍中野学校」を引いていて、
昭和二十四年三月にモスクワ郊外ウラジミール監獄病院で死亡としているね。
77 :
日本@名無史さん:04/09/07 23:17
>>63 牛島大将は6月20日の大将昇進の発令を知らせる無電を傍受されていたと、
歴史と旅増刊『帝国陸軍将軍総覧』で作家の光武俊郎さんは書いてますね。し
かし、同じ本で準拠している外山操さんの陸軍将官総覧では、死後昇進を示す
「任大将」が使われ、なくなる三日前の昇進の記事はない。思うに、親任官たる
陸軍大将の昇進の連絡を、陛下の裁可もなく打電することはありえないから、
第32軍の無電傍受記録の方が信憑性があるような気がする。
因みに栗林中将の大将昇進は、死後特進として全軍に布告されてから、栗林
中将の生存が確認されている。しかし、父島無線局からの昇進を伝える無電は、
栗林中将には届いていなかったようだ。(最後の連絡に、昇進に関することが
触れられていない。)
78 :
日本@名無史さん:04/09/07 23:22
秦彦三郎「苦難に堪えて」から秋草少将に関するところを抜粋
(終戦直後)
地上に降り立った少将を長とするソ連の一団は、「土居は何処にいるか?」と
鋭い態度を以って質問した。土居少将はいない旨を答えると、そこに居合わせた
特務機関長秋草少将をその場で監禁してしまった。(中略)
(八月)十九日早朝特務機関を出発、七時飛行場に到着した。
飛行場にはすでに二台の大型機が準備されてあった。秋草少将は別の飛行機に
乗せられ、このときを最後としてふたたび相合う機会はなくなった。
(昭和23年レホルトフスカヤ監獄)
こうしている中に、ハルピンにいた前田海軍中佐、満洲国司法部次長の前野君が
二十五年の刑に処せられて、隣室でシベリア行きを待っていること、ハルピン総領事の
宮川君は一階にいるが、目を悪くして読書もできずに困っていること、ハルピン特務機関長
秋草少将、近衛文隆君らが同じく坐っていることが、逐次はいってくる連中から判明した。
ちなみに日本人の罪状というのは殆どが、ソ聯刑法第五十八条(反ソビエト的行為)。
刑期は重労働二十五年もしくは死刑。当時はロシア人でも、外人と話しただけで
これに引っかかって、片っ端からラーゲリにぶち込まれてた。
秦中将がこの判決を受けたのは1952年。
>>78 引用サンクスコ!
秦彦三郎か。ソ連一行は「ヒポサブロー」と呼んでいたらしいな。
80 :
日本@名無史さん:04/09/08 01:04
>>24 >>54 橋本虎之助中将がB級戦犯だったとは知りませんでした。
ご存知でしたら、
どちらで下された判決なのか?
求刑の内容はなんだったのか?
教えて頂ければ幸いです。
>>80 >>54の橋本は櫻会の欣五郎です。
橋本中将らソ聯に抑留された人々は、厳密に言えば戦犯とは呼べないでしょう。
B級でくくったのは失敗でしたね。一様裁判らしきものはやってますが、
橋本中将が結審するまで生きてたのかどうかは分かりません。
日本人の罪状なんて一つしかありませんよ。対ソスパイ、反ソ宣伝、資本主義援助
といった反ソ行為。これは関東軍や満洲国に勤務していたというだけで成立する罪です。
橋本中将の不運は、終戦時ソ聯の手の届く範囲にいたということに尽きるでしょうね。
もし内地にいたなら、何の裁判にも引っかかる事はなかったでしょう。
>>22-24のリストの内、以下の人々はB級戦犯でくくるのは不適切
米英華蘭仏豪諸国にさばかれたBC級戦犯とは分けて考えないとだめですね
岸本綾夫陸軍大将 満州製鉄理事長 22年7月中共に抑留され病死
大木 繁陸軍中将 関東憲兵隊司令官 22年4月9日シベリアで病死
喜多誠一陸軍大将 第1方面軍司令官 22年8月7日シベリアで病死
村上啓作陸軍中将 第3軍司令官 23年9月17日シベリアで病死
吉岡安直陸軍中将 満州国皇帝附 24年1月15日モスコーで病死
秋草 俊陸軍少将 関東軍情報部長 24年2月シベリアで病死
小林恒一陸軍中将 満州国高等軍事学校長 25年5月9日シベリアで病死
加藤泊治郎陸軍中将 北支那派遣憲兵隊司令官 26年2月19日シベリアで病死
橋本虎之助陸軍中将 満州国祭祀府総裁 27年1月26日ハルピンで病死
柳田元三陸軍中将 関東州防衛司令官 27年10月1日モスコーで病死
斎藤弥平太陸軍中将 満州拓殖公社総裁 行方不明 28年9月28日戦時死亡宣告
83 :
日本@名無史さん:04/09/08 13:18
関東軍は停戦しないで作戦計画通り持久すればよかった
84 :
日本@名無史さん:04/09/08 15:25
上のほうのレス見たら、木曜会にばあちゃんの兄弟がいたよ^^
85 :
日本@名無史さん:04/09/09 00:00
軍民一体!
86 :
日本@名無史さん:04/09/09 12:09
支那事変は初めから終りまで、全部シナが悪い
87 :
日本@名無史さん:04/09/09 19:56
>>82 岸本綾夫陸軍大将 満州製鉄理事長 22年7月中共に抑留され病死
服 手 岸
部 塚 本
英 太 美
男 郎 時
│ │ │ 岡
│ ┌─┐ ┌─┐ 田
文 │ 近 綾 速 政
子==粲 江== 夫 女=治
│ │
治 悦
虫========= 子
ずれてしもた
服 手 岸
部 塚 本
英 太 美
男 郎 時
│ │ │ 岡
│ ┌─┐ ┌─┐ 田
文 │ 近 綾 速 政
子==粲 江==夫 女=治
│ │
治 悦
虫=========子
89 :
日本@名無史さん:04/09/10 10:32
ちょっと脇道にそれますが、ここならお詳しい方もいるのではないでしょうか?
例えば陸軍の公文書に「満密大」など三文字の略記が使われていますが、
ああいうものの正式名称を知るには、何を参考にしたらよいのでしょうか?
90 :
日本@名無史さん:04/09/10 12:06
教養を養うことです
92 :
日本@名無史さん:04/09/11 08:49:53
>>91 そんなのは先刻承知なんで、「大陸命」とか「西密受」などの原意を知りたいのさ。
略せずにいうと何というのか?
大陸命=大本営陸軍部命令 奉勅命令
大陸指=大本営陸軍部指示 参謀総長指示
陸密=陸軍省密大日記 軍事行政一般の秘密文書
陸普=陸軍省大日記 軍事行政一般の普通文書、往復文書
欧受=欧受大日記 第一次世界大戦に関する文書
西密受=西密受大日記 シベリア出兵に関する秘密文書
陸満密=陸満密大日記 満州事変に関する秘密文書
陸支密=陸支密大日記 支那事変に関する秘密文書
陸亜密=陸亜密大日記 大東亜戦争に関する秘密文書
94 :
大學教授:04/09/11 19:07:39
海軍にもありました
95 :
日本@名無史さん:04/09/12 18:47:29
大海令=大本営海軍部命令 奉勅命令
96 :
日本@名無史さん:04/09/12 20:00:51
大海指→大海令細部指示
なんてのもある
97 :
日本@名無史さん:04/09/13 11:24:46
帝國陸海軍の機密文書を讀んで偉くなろう
98 :
日本@名無史さん:04/09/14 12:53:38
99 :
日本@名無史さん:04/09/15 15:54:16
木曜会について詳しく知りたい。
できれば、詳しい人とリアルタイムにレス交換出来れば良いのだが。
木曜会というのは二葉会の弟分で、昭和4年5月16日に両者が会同して
一夕会が発足したというのが一般的な話。
ただ、土橋勇逸が世話人となり、三宅坂の若手を中心に昭和3年の11月に
発足した無名会というのがあって、これが木曜会と同一なのか別なのか
ちょっとわからない。高橋正衛「昭和の軍閥」では別物扱いだけど果たして・・・
まあでもこれらの会合のメンバーは互いにかぶっており、若手が二葉亭に来たり、
岡村や永田が木曜会などに顔を出してるので、厳密に分ける意味は余りないね。
「昭和の軍閥」からの孫引きになるが、土橋の「一夕会と桜会」によれば
昭和3年11月3日偕行社に石原、村上、鈴木貞一、根本、深山、本郷義夫、沼田、土橋、武藤の
九名が集まり、会名を無名会と名付け、石原が立体戦争論を話した。
12月3日、同じメンバーで第2回があり、途中から永田が加わった。
岡村日記によれば
12月6日(木)
午後6時偕行社における木曜会に列席 予ははじめて入会せり
研究項目 陸軍のモットー
参集者
東條、深山、村上、鈴木(貞一)、坂西、土橋、根本、関(誠一)、高島
102 :
日本@名無史さん:04/09/15 19:11:04
レスありがとうございます。
木曜会と二葉会の違いはどこにあったのでしょう?
岡村日記によると、東條が参加しているのが目を引きます。
思想の違いや方法論に意見の対立があったのではないかという気がするのですが。
二葉会というのはバーデンバーデンの4人を中心にした14期から18期くらいの
人間の集まりで、木曜会はもう少し若手の集まり。
話し合いの内容は人事や満蒙問題についてなどで、両者に大差はないでしょう。
104 :
日本@名無史さん:04/09/15 19:53:00
>>103 内容には大差が無かったんですか・・
そうなると二葉会の思想が、太平洋戦争や日中戦争の思想根幹だったのでしょうか?
そもそも支那事変なんて、行き当たりばったりでずるずる泥沼に引きずり込まれただけで、
特別何か思想があって遂行したわけではないでしょう。
まあ、皇道派マンセーの人々の中には、支那事変は永田が生前に計画していたもので
あると云う人もいるけどね。
106 :
日本@名無史さん:04/09/15 20:51:01
>>105 関東軍に関しては、石原莞爾の考えがうんぬんされますが
二葉会、木曜会の活動から、どのような経緯で太平洋戦争まで向かったのかに関心があります。
107 :
日本@名無史さん:04/09/15 23:37:42
大東亜戦争と呼ばないと答えてやらん
108 :
日本@名無史さん:04/09/16 11:55:22
>>107 これからは大東亜と呼ぶので宜しくおねがいします^^
あの、昨日から質問している理由を申しますと
実は、家に木曜会の深山の資料が一杯ありまして。
私は深山の曾孫になるので木曜会以外にも沢山資料があります。
あと、両曽祖父、祖父、祖父の兄弟全員、その旦那とか全員陸大・陸士卒なので開戦前後の事については良くきけるのですが
この昭和初期の時期から開戦初期までは軍の中枢には誰もいなかったので謎です。
ここのサイトにくれば何かわかるかもと友人から言われまして。
深山は、昭和4年に立川の飛行場から防空研究の為視察飛行中、飛行機の故障により墜落死しまして。
彼は、日本の防空技術の創始者だったらしく、英国等から独学で防空技術を学んだそう。
当初、軍では防空の重要性が認識されていなくて少数派だった模様。
防空に金をかけるくらいなら飛行機製造に金を廻せというのが主流だったようです。
そのような中で、随分苦労した様子が多数の手紙等に残っているようです。
墜落の日も、鈴木荘三郎?大将に続いて、2番機にて防空研究の為立川を離陸後、故障により墜落とありました。
大国の植民地政策・領土拡張の脅威に対するディフェンスとして航空技術に早くから目をつけディフェンス技術向上の必要性に早くから気づいていたのは慧眼だったのではと思うのですが。
>>108 昨日からあなたの質問にレスしてるものですが、まず
>>107は私と違います。
内容のない1行レスを連発してる低能は無視してもらって結構です。
深山少佐が亡くなった事故は、多分14期の小川恒三郎少将、16期の藤岡万蔵大佐が
亡くなった事故と同じですね、多分。
深山少佐は陸大軍刀組で、亡くなった当時要塞課課員でした。確かに高射砲の
先駆者だったんでしょう。日本陸軍では最後まで高射砲は味噌っかす扱いでしたが、
事故に遭わなければ、もう少しマシになってたかもしれませんね。
私は木曜会については、刊行物から得る以上の知識は持ち合わせておりません。
曽祖父さんの資料があるというのなら、あなたのほうがよほどお詳しいんじゃないですかね。
私の知識の限りでは、思想的対立があったのは永田と小畑です。
しかし永田が倒れ小畑が去り、2人の思想はきちんとした形で後輩に伝えられなかった
ように思います。2人がさった後、思想らしい思想をもってたのは、石原だけでしょう。
しかし彼の5ヵ年計画も支那事変で御破算となってしまいました。
結局きちっとしたビジョンを持った人がいなくなった結果が、あの対米開戦でしょう。
110 :
日本@名無史さん:04/09/16 14:08:31
>>109 レスありがとうございます。
資料と言っても、木曜会の内容そのものについての資料はほとんどありません。
あるのは防空技術に関するものやその予算を通す為に、軍部内での支援や協力者を得るのに苦労していることに関するものがほとんどです。
頂いたレスからすると、どうやら石原莞爾の計画が頓挫したあたりから急激に軍部が変化していったのかもしれないと思いました。
敗戦後も言われていますが、日本は航空機に対する認識が浅かったと思います。
攻撃機としての捉え方も浅かったでしょうし、敵の攻撃に対する防空意識も低かったと思います。
もっとこの昭和初期に航空機と戦争の関係について、十分に検討していればと悔やまれます。
このまま防空の研究が継続されていれば、当然レーダーの重要性にも行き着いたでしょうし。
明確な勝利へのビジョンが無いまま日米開戦とは信じられないことですね。
強大なソ連とどう対峙するかという問題について小畑は、総力戦となっては勝ち目がないので、
内戦作戦で、侵入してきた軍勢を包囲殲滅する専守防衛でいくと考え、一方で支那には手を出さず、
友好関係を結ぶと考えていました。これはこれで立派な戦略だと思いますが、
いずれも相手の有る事ですから、この通りに事が運ぶかどうかは、難しいところでしょう。
永田の考えは、国家総動員体制の確立、その為の統制経済、日満ブロックの形成など、
陸軍の枠を飛び越えたスケールのものでした。満州国が成熟するまでは、ソ連とは
事を構えないと考えていましたが、一方支那に対しては、小畑と比べると多少積極的に
関わる、つまり謀略的な事も多少は必要と考えていたようなふしがあります。
しかしこれは、第二部長という職が関係しているような気もしますが。
2人は北鉄買収の一件で激しく対立し、両者とも参謀本部を去りました。
その後軍務局長として三宅坂に戻った永田は相沢に刺され、小畑は2.26の余波で予備となります。
支那事変に際して強硬派であった東條は永田の最も親しい友であり、同じく武藤は永田の
一番弟子といってもいい存在だったので、この事変は永田の敷いたレールであると、
永田憎しに凝り固まった人々は言いますが、これは穿ちすぎな考えでしょう。
面白い事に、小畑シンパ、永田シンパ共に、石原に対する評価は非常に高く、
石原と小畑(永田)が組んでいれば、ああいうことにはならなかっただろうと言います。
112 :
名無しさん@5周年:04/09/16 15:44:12
>>111 なるほど。
二葉会の中では、東條より永田・小幡は先輩になりますね。
最終的に永田・小幡は失脚したわけで、開戦時には東條が首相になっています。
この2人の失脚には東條は噛んでいたのでしょうか?
113 :
日本@名無史さん:04/09/16 19:18:38
また桑原か!
>>112 春秋の筆法を以ってするなら、2人の退場は確かに東條に責任があると言えるかもしれない。
相沢中佐の永田殺害事件、2.26事件という一連の皇道派将校のテロの発端となったのは、
昭和9年11月に陸士で起きた11月事件です。この事件は、陸士の中隊長をしていた
辻政信が、部下の生徒をスパイに仕立て上げ、皇道派の将校を陥れようとしたもので、
村中、磯部(いずれも2.26で処刑)の2人が免官となりました。このことで怒り狂った
皇道派の活動は一気の過激化し、相沢事件、2.26事件につながるのです。
本来辻ほどのエリートが陸士の中隊長をやることなどありません。この異例の人事を
行ったのが、当時陸士の幹事だった東條です。11月事件のときはすでに彼は九州に
追っ払われていましたが、この事件は辻という爆弾がいなければ起らなかったでしょうから、
多少東條にも責任はあるでしょう。勿論彼は、純粋に陸士を良くしようと思ってこの人事を
行ったわけで、実際生徒の間でも、辻中隊長の評判は抜群だったようですが。
永田の死を聞いた東條は、密かに上京し、永田の血染めの軍服を貰いうけ、さらに
自分の仏壇に永田の位牌を祭り、遺族に対しては幾許かの生活費を終戦まで渡して
いたそうです。
115 :
日本@名無史さん:04/09/16 20:55:48
>>114 ということは、東條は直接的には無関係なわけですね。
何か東條にうまく風が吹いたように思えて仕方が無かったのですが、勘ぐり過ぎなのかもしれませんね。
異例の人事で辻が抜擢されて、東條は九州とは出来過ぎかと思いましたが。
その後の日中戦争の折も関東軍は色々陰謀をやったようなので、この頃から陰謀全開だったのかと思ってしまいました。
宇垣軍縮が陸軍破滅の引き金という意見に、少し納得させられます。
実際に宇垣軍縮による人事の停滞などは、あったのでしょうか?
ttp://www.tabiken.com/history/doc/O/O074L100.HTM 【軍縮とその影響】第一次世界大戦後の軍縮気運のなかで,陸軍は1922年(大正11)と1925年
(大正14)の2回,大軍縮を実行した。ときの陸軍大臣の名を取って,前者を山梨軍縮,後者を
宇垣軍縮という。この結果陸軍の平時兵力は約20万人になったが飛行部隊の増加・戦車隊の新設
など軍隊の近代化がはかられた。軍縮の反面,現役将校を中学校以上の学校に配属し,軍事教練
にあたらせることになった。配属将校の配置や在郷軍人の増加などによって,陸軍の思潮は国民
のなかに深く根をおろし,大きな政治的な力をもつようになった。明治時代,陸軍内は長州出身
者が主流を占めていた。軍縮による人事の停滞は,長州閥の徹底的な追放と陸軍大学校出身者に
よる新しい派閥の成長を招いた。強力な実行力をもつ新派閥は,しだいに政治的な行動をとり,
下剋上の風潮を生むようになった。
117 :
日本@名無史さん:04/09/17 07:30:27
人事の停滞と私物化という点なら、9年ほど陸軍大臣に在任した
寺内正毅の時代が一番酷かっただろう。
大正末から昭和の陸軍の長州憎しと派閥抗争は結局ここに原因がある。
118 :
日本@名無史さん:04/09/17 11:37:24
>>117 こうして結局、田中隆吉の書に戻るわけで・・・。
119 :
日本@名無史さん:04/09/17 11:47:11
田中は怪物
120 :
日本@名無史さん:04/09/19 11:24:45
裏切り者
>>116 人事の停滞ってのが具体的に何を意味するのかもひとつ分からん。
進級が遅くなり、早期退職が増えたというのなら、それは宇垣軍縮とは全く無関係だね。
確かに軍縮と同時に、福田雅太郎などライバルの大中将を整理してるから、
派閥は強化されただろうけど。
>>121 現役将校による軍事教練は、政治的には大失敗だと思います。
ただ人事の停滞というのは、聞いたことが無かったので質問したのですが、
やはり根拠の薄い話のようですね。
>>122 とんでもない。教練こそが宇垣軍縮最大の功績だよ。
124 :
日本@名無史さん:04/09/20 00:19:18
宇垣陸相時代に、長州出身者が省部の要職から排斥されたという話は読んだ事がある。
やむなく彼等は新しくできた航空兵科に転科したそうだ。
125 :
日本@名無史さん:04/09/20 09:03:07
教練こそが宇垣軍縮最大の功績と融雪の詳細キヴォンヌ
戦争で一番困るのは将校の補充。当然士官候補生や少尉候補者だけでは足りない。
そこで教練を受けた幹部候補生が役に立った。
勿論アメリカなんかと比べると質、量共に劣っていたけど、それでも宇垣以前の
一年志願兵なんかと比べれば、ずいぶんましになった。
127 :
日本@名無史さん:04/09/20 13:09:45
ありがとう
でも、幹候と学校教連関係無いんじゃないの
幹部候補生は教練の成績で甲乙に分けられた。
129 :
日本@名無史さん:04/09/20 21:35:45
興亞観音にお参りしませう
130 :
日本@名無史さん:04/09/21 11:07:36
志願の段階で資格的に分けるんじゃないの
131 :
日本@名無史さん:04/09/21 23:45:03
学校教練の単位をちゃんととってないと兵役上不利であったらしい。
あと、青年学校の教練の単位は兵役上有利であったらしい。
132 :
日本@名無史さん:04/09/21 23:48:51
満期が早まったりしましたね
133 :
日本@名無史さん:04/09/22 13:42:33
半年だけ
134 :
満人:04/09/25 15:43:27
青年學校とは夜、暗がりで小僧や御用聞きが集まって
「エイ、ヤア!」
と叫び、竹槍の稽古をするところでした
あんなものを以て旧制中學相當と見做すなんて、納得できません
135 :
日本@名無史さん:04/09/25 17:24:09
青年學校とは竹槍部隊だったのか
136 :
満人:04/09/26 11:02:11
簡易な夜學校でした
137 :
日本@名無史さん:04/09/26 14:05:17
青年学校
昭和10年、主として軍部の要請に基づき、以前からあった実業補修学校と青年訓練所を
合併改編して成立した勤労青少年の教育施設。「国体の本義に基づき・・・皇国青年を練成
する教育」を目指して、尋常小学校卒用の普通科(2年)、普通科修了者と高等小学校卒を
入学させる本科(男子5年、女子3年)、研究科、専修科など。教育内容は普通教育の補習、
基礎的な職業教育、軍事訓練の3本立とされたが、多くは軍事訓練が主体になlていた。
そういえば近所に、むかし、青年学校で無線電信を習ったという近所のじいさんがいる。
138 :
満人:04/09/26 14:13:35
青年學校は本式の學校ではありません
お店の跳ねた後、町内の小僧が下女が集まって棒を振回す講習会です
139 :
日本@名無史さん:04/09/26 14:15:39
実態はその通りだが
140 :
日本@名無史さん:04/09/27 11:50:08
あげ
141 :
日本@名無史さん:04/09/27 12:12:53
因みに、昭和10年発行の日本評論10月号にて、シナの面白い記事が載っている。
「支那の明暗相を語る夕」と題された記事にある広東の盲妹の話で、中国の貧しい娘を安く買い、薬で目を潰して盲目とし、
芸を覚えさせて客の同情を買う見世物で、お金を払うとふちのぎざぎざを探って銅貨か銀貨かをさぐるしぐさが可愛そうでたまらなくなった。と書いてある。
そんなこんなで、一万円(当時の価値です)で見受けされた例もあるらしい。
広東の政府ではそれを黙認して取り締まらず、両極端の思想の中にあって野蛮極まりなく
、商売になると見た人買いに買われた哀れな盲妹は大変な数だったという。
野蛮ですな、中国人。酒池肉林の例えからも野蛮さが滲み出す民族ですな。
また、当時の広東は一夫多妻制だったともかいてありますね。
143 :
日本@名無史さん:04/09/28 08:08:44
軍人軍馬軍犬軍鳩軍属
144 :
日本@名無史さん:04/09/29 09:25:12
夜、竹槍の稽古をして旧制中学卒か
そりゃ、文部省がおかしい
145 :
日本@名無史さん:04/09/29 20:27:09
旧制中卒>新制二流大卒
146 :
日本@名無史さん:04/09/30 00:10:34
旧制高校>新制一流大学
147 :
日本@名無史さん:04/09/30 10:07:36
支那人は人非人で、正直な日本軍人が怒るのは当たり前
148 :
日本@名無史さん:04/10/06 11:29:28
夜、Hをして新制高校卒にしてもらえますか?
150 :
日本@名無史さん:04/10/06 20:23:59
してもらえません
151 :
日本@名無史さん:04/10/07 10:20:11
我々ヨーロッパ人は、互いの間では賢く写るが、日本人に比べると
はなはだ、野蛮であると思う。私は毎日、日本人から教えられることを
告白しなければならない。私は世界の中で、これほどまで天から才能を
与えられた民族はないと思う。」
「京都は、ヨーロッパならローマにあたるが、科学、見識、文明はローマ
よりはるかに高尚である。信仰さえ別にすれば、我々は日本人よりも
あきらかに劣っている。」
16世紀 イエズス会本部への報告書より
宣教師 ニエッキ・ソルド・オルガンティーノ
152 :
日本@名無史さん:04/10/10 10:21:06
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
大東亜戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。
自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという、
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに…見せかけだったのか。
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した…
船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・
153 :
日本@名無史さん:04/10/16 11:32:11
軍人は日本人の精華
154 :
日本@名無史さん:04/10/19 00:13:52
だから(ry
155 :
日本@名無史さん:04/10/23 08:18:27
頭が悪くて反論できないんだね
156 :
日本@名無史さん:04/10/23 08:27:03
話しを本筋に戻しましょう。
作戦の天才、辻政信はどうでしょう?
あまり書物にはいいこと書かれていませんが?
確かインドシナで行方不明になったんだっけ?
157 :
日本@名無史さん:04/10/23 10:15:22
betokonnnikorosareta
河村参郎が獄中で書いた遺著の前文を辻が書いてる。石川の後輩だからね。
河村中将が死刑になったのはシンガポールでの華僑粛正が原因。
一説には過剰な粛正を呼び起こしたのは辻だとか。
159 :
日本@名無史さん:04/10/23 11:59:07
ε ⌒ヘ⌒ヽフ
( ( ・ω・) 日本人は金寄越せブー
しー し─J
160 :
日本@名無史さん:04/10/25 08:40:30
>>156 辻はあらゆる作戦に絡んでいたのでは?
ノモンハン、ビルマ、ガダルカナル。
で作戦屋としては一流やったんでしょうか?
あと服部卓四郎など・・
161 :
日本@名無史さん:04/10/25 22:57:09
デスクワークには優れていたし、学校の成績も良かった
勇気も行動力も有った
部下にも慕われた
然し同僚上司にはしばしば不評であった
162 :
日本@名無史さん:04/10/26 08:44:39
辻は陸大出で初めての士官学校の中隊長だった。
生徒には評判良かったみたいだけど。
11月事件で水戸の連隊に飛ばされたんだよね?
ポートモレスビー攻略に関して大陸命を偽造したという話があるな。
164 :
日本@名無史さん:04/10/31 23:34:18
士官学校勤務は寧ろエリートの仕事だよ
無天のポストだよ。
166 :
日本@名無史さん:04/11/01 22:47:39
三笠宮入校に際して士官学校勤務を買って出たと不評のむきも
167 :
日本@名無史さん:04/11/02 22:34:22
おお、無天
168 :
日本@名無史さん:04/11/05 23:35:54
それはこじつけダナ
陸士海兵に皇族殿下は珍しくない
「昭和の将帥」によればだけど、陸士の中隊長に天保銭をというのは
幹事だった東條の考えらしく、辻の他に久門有文も挙がってたらしい。
久門も辻に負けない俊英で、戦争時は作戦課の航空班長として、
南方へのなし崩し的展開に強く反対していたが、惜しくも17年10月に墜死してしまった。
170 :
日本@名無史さん:04/11/06 12:55:11
学校に屑を配当するのは現今の人事
昔は教育重視だった
171 :
日本@名無史さん:04/11/07 10:16:36
学校の配属将校はみな無天組。
藤江恵輔大将は京大、牛島満大将も鹿児島一中の配属将校だった。
例外的ではあるがね。
173 :
日本@名無史さん:04/11/08 08:47:34
天保銭って今の公務員のキャリア組みたいなもんですね。
>>173 いいや、キャリア組に相当するのは陸士卒業者。
どちらかといえば173が正しい
キャリア組っていうのは戦前でいえば高等(文官)試験合格者だから、それに相当するのは陸士卒。
177 :
日本@名無史さん:04/11/09 08:26:27
陸士卒の中でなおかつ陸大卒は陸軍の中のエリート中のエリートやね。
でも天保銭でもいろいろいますね。
陸士出=大卒、陸大出=高文合格
まあこんなかんじでしょう。陸士出ただけではね。
軍人ほどつぶしの利かない職業もないから、少佐くらいで
ごくろうさんとなった場合はかなり悲惨よ。
179 :
日本@名無史さん:04/11/09 12:19:17
開いた蘭花
開いた蘭花、満洲國
共によろこび手を取つて
天の光に浴しませう
皇帝萬歳、萬々歳
開いた蘭花、満洲國
旗は五色旗、打振つて
王道樂土讃へませう
皇帝萬歳、萬々歳
開いた蘭花、満洲國
鳴らせ爆竹、みな子供
建國十年祝ひませう
皇帝萬歳、萬々歳
開いた蘭花、満洲國
兄と弟よ、菊と蘭
光り輝く大東亜
皇帝萬歳、萬々歳
180 :
日本@名無史さん:04/11/09 16:26:44
>>178 非天保銭で将官まで登りつめた有名な軍人は?
181 :
日本@名無史さん:04/11/09 16:44:33
中将までだが結構居るよ。
>>180 1、木越安綱、田村怡与造、上原勇作・・・このあたりはむしろ優秀ゆえに陸大に行かず欧州に
派遣された組。昇進のスピードも天保銭より早い。
2、青木宣純・・・元祖支那通
3、柴五郎、豊邊新作、永沼秀文、石黒貞蔵、鷹森孝、井上貞衛・・・実戦の勇将
4、楠瀬幸彦、島川文八郎、田中弘太郎、筑紫熊七、鈴木孝雄、吉田豊彦
岸本綾夫、山室宗武、北島騏子雄・・・いずれも砲兵
5、堀丈夫、徳川好敏、安田武雄・・・航空の先駆者
6、城倉義衛、加藤泊治郎、大木繁・・・憲兵
183 :
日本@名無史さん:04/11/10 08:46:21
>>182 鈴木孝雄=鈴木貫太郎海軍大将の弟。
堀丈夫 =226事件当時の第一師団長。
徳川好敏=清水徳川家の当主。
くらいしか判らん。
184 :
日本@名無史さん:04/11/10 15:36:49
>>183 > 堀丈夫 =226事件当時の第一師団長。
息子が、「マッカーサーの参謀」と呼ばれるほど米軍の情報収集に力を発揮した。
> 徳川好敏=清水徳川家の当主。
終戦時の航空士官学校長。
185 :
日本@名無史さん:04/11/10 15:53:26
どなたか沖縄戦の牛島満が大将に昇任したのに
長勇は中将止まりだった理由をご存じの方、
お手数ですがご教示下さい。
186 :
日本@名無史さん:04/11/10 16:11:34
年次の問題ではないですか。
187 :
日本@名無史さん:04/11/10 17:17:52
言い替えると、長はなぜ戦死したのに大将にならなかったのでしょうか。
二か月後の敗戦のためでしょうか。
188 :
日本@名無史さん:04/11/10 17:27:21
長勇て参謀長だろ、軍参謀長なら少将ぐらいのはず。、戦死したからって
大将にはならんだろ、それとも中将で参謀長だったの?
189 :
日本@名無史さん:04/11/10 17:48:48
↑牛島司令官も長参謀長も中将。ただ、卒業年次が20期と28期でえらく離れてる
長は中将に昇進して間もないのかな?
辻は秀才だけど居なかった方が良かった。
191 :
日本@名無史さん:04/11/10 18:07:24
>>187は戦死しても一階級ないしは二階級あがる者と
そうでない者がいるのはなぜかと聞きたいのだろう。
>>184 栄三氏は養子だけどね
>>185 端的に言えば若すぎたんですよ。日本軍において大将という位は
中将とは比べ物にならない重さがある。長将軍は中将になって3ヶ月余り、
まして参謀長でしょ。
因みに武官進級令によれば、大将になるには中将を4年(内規では6年)務めないとだめです。
勿論これは生きて昇進する場合ですが。さらに付け加えると内規は、東條を大将にする為に
5年に縮められました。
193 :
日本@名無史さん:04/11/10 18:58:28
>>勿論これは生きて昇進する場合ですが。
ご教示ありがとうございます。ただ、知りたいのは死んだ場合の基準なのですが…
194 :
193:04/11/10 19:13:19
たとえば栗林忠通は昭和18年6月中将昇任、昭和20年3月戦死の直前に大将に昇任しているのに対し、
斎藤義次(サイパンの師団長)は昭和17年12月中将昇任、昭和19年7月に戦死して
階級そのまま…
というのは、やはり軍司令官と師団長の差という事でいいのでしょうか。
195 :
193:04/11/10 19:16:03
あ、栗林は硫黄島でも師団長でしたね、すみません逝ってきます…
196 :
日本@名無史さん:04/11/10 19:18:32
話は変るけど、牛島司令官は、大和を中心とした残存艦隊が沖縄に出撃し
32軍の攻勢に策応して敵地上軍を撃破するという報に接したが、海を圧する
米艦船群と無数の敵機を見れば成功の可能性は少ないとして、“志は有難いが
益なき犠牲は見るに忍びない”からと艦隊の沖縄突入を中止するのが可とする
意見具申を打電したという(八原博通参謀の手記)
197 :
日本@名無史さん:04/11/10 19:38:28
_ _. (´∀` ノ) <目標前方600の支那兵、撃て〜〜!
_ __┷」|_/_>====< \__________
_ _ //_/ ̄ノ'7/~゙/ ̄| ̄ ̄| ̄~~|\
(0 ロロ,)ニニニニニニ)ニ) ) " _/_/ | | | ヘ
 ̄~ ___<-ノ-|∠^ ー-ー}_l=__ | .| ̄ ̄| ̄ ̄| |
~7<〃____∠_/| ,| | | |y
/=〔| =冊冊冊= 〔{== ,{(()\__,|__|__|__| 》
ヘ =ヘ_____ヘ==ヘ_0_ノ/ l l l l l l ソ/
\=\――――‐\=\_ ゝノゝノゝノゝノゝノゝノ,,/
198 :
日本@名無史さん:04/11/10 19:42:08
皇軍戦車ぢゃないじゃん
>>194 特別進級に関する具体的な規定はちょっとわかりませんが、
斎藤中将が大将に進級しなかったのは、やはりその方面のトップではないからでしょう。
グアムで死んだ軍司令官の小畑中将は大将に進級しましたね。2人は一期しか違いませんが。
栗林は師団長とはいえ、小笠原兵団は大本営直属でしたし。
人事行政上、一方面から何人も大将を出すことは憚られたと思います。
上で書いたように大将と中将は重さが全然違いますから。
200 :
日本@名無史さん:04/11/10 19:45:48
)195
栗林中将は第109師団長だったが、守備範囲は父島、母島、硫黄島、南鳥島など
小笠原地区集団長も兼ねていた。だから、師団といより兵団?父島には
例の人肉食いで名を上げた(w)立花中将が旅団長から師団長に格上げされ師団長
これらも指揮下にあった。司令部を父島に置くことも提案されたが栗林は指揮官は
後方で安閑の地を求めることは許されないと硫黄島に赴任したという
>>182 1、木越、田村、上原は士官生徒一、二、三期の最優等。できたばかりの陸大ではなく
独仏に派遣され、早々に教える側に回った。無天ゆえのハンデは全くないどころか、
同期の天保銭より出世は早い。それぞれ大活躍したが、田村は早死、木越は軍部大臣現役武官制の
改正を巡って討死。上原だけが人臣位を極めた。4の楠瀬もこのカテゴリ―に入る。
2、青木は袁世凱のポン友。
3、柴は北京篭城でその名を世界に轟かせた。豊邊、永沼は日清日露で名を売った騎兵将校。
石黒、鷹森、井上は支那事変で勇名を馳せ、前の2人は大東亜戦争で軍司令官にまでなった。
4、砲工兵には陸大に行く以外に、砲工学校高等科を出て帝大や海外に派遣されるという
もう一つのエリートコースがある。
楠瀬、島川、田中、筑紫、鈴木、吉田、岸本は砲兵のエキスパート。
いずれも陸士の成績を見るかぎり、陸大にいく気があったなら入学は容易だったと思う。
要するに彼らは無天であっても十分にエリートと呼べる。
山室は射撃の名人といわれたが、砲兵畑だけではなく師団長や陸士校長も務めた。
北島は重砲の権威で香港、バターンで活躍。
5、安田は元々は工兵で東京帝大に員外学生として通った。航空に転科して要職を歴任。
202 :
日本@名無史さん:04/11/10 20:32:32
立見尚文は大将まで行かなかったっけ?
203 :
日本@名無史さん:04/11/10 20:34:13
>>199様
なるほど、よくわかりました。
ありがとうございました。
204 :
日本@名無史さん:04/11/10 21:16:29
戦死で特進大将は
牛島満
栗林忠道
鈴木?小畑?
うーん判らん。
205 :
日本@名無史さん:04/11/10 21:33:15
↑知将登場
>192
堀さんって養子だったのか。
知らんかったよ
207 :
日本@名無史さん:04/11/11 02:57:12
南雲忠一
208 :
日本@名無史さん:04/11/11 05:04:50
誠に申し訳有りませんが…
二葉会の初会合の年月日が分かっている方がいましたら
教えてもらえませんでしょうか
209 :
日本@名無史さん:04/11/11 08:30:58
>>208 【昭和二年】
一・一六 二葉亭で会合。出席者:永田、小畑、板垣、東條、岡村、江副。
六・二七 二葉亭で、山岡重厚、河本、永田、小畑、東條、岡村会す。
【昭和三年】
一・二九 小畑私邸で、永田、小畑、岡村、黒木親慶会す。
210 :
日本@名無史さん:04/11/11 10:45:05
コレヒドールの北島きねお、沖縄の和田孝助中将の令名は今も轟き渡ってゐる
>>209様
本当にありがとうございました。
大変役に立ちますた
戦死した中将の進級に関する内規がわかりました。
「中将で戦死した者のうち、武功特に顕著で、しかも親補職2年半以上を経た者のうちから
特にせん衡して差し支えない旨」陸海軍協議の上、大将に親任を奏請することが内規に
定められていた。
ついでに
大佐以下で軍事に関し抜群の功績のある者、又は軍人の亀鑑として陸軍大臣が
全軍に布告したる者、敵前にありて殊勲を奏し首将これを全軍に布告したる者
これらの項目の該当者は二階級進級せしむるを得
陸軍の最初の二階級特進は加藤隼戦闘隊長だったかな?
アッツの山崎大佐、ビアクの葛目大佐、テニアンの緒方大佐、ペリリューの中川大佐といった
孤島で玉砕した部隊長も中将になったし、ラモウで奮戦した兵隊上がりの金光少佐も大佐になった。
義烈空挺隊の奥山大尉などは僅か3週間で3階級も跳ね上がった。
26?歳の大佐だ。
214 :
日本@名無史さん:04/11/12 08:53:38
ぺリリューの中川大佐の小説読んだが感動した。
やっぱり軍隊は指揮官しだいか?
215 :
日本@名無史さん:04/11/12 14:47:21
インパールの宮崎少将も書籍で読むとなかなか良い指揮官みたい。
216 :
日本@名無史さん:04/11/12 14:55:28
素朴な疑問
八原大佐はエリートの方なの?
218 :
日本@名無史さん:04/11/13 00:41:23
転落した元エリート
>>209 >>211 昭和2年1月16日を二葉会の初会合と言えるかは微妙だ。
209氏は高橋正衛の『昭和の軍閥』から引いたのだろうけど
その典拠としている岡村寧次の日記原文は以下のようになっている。
「(前略)午後星野の岳父を見舞い後二葉亭に行き永田 小畑 板垣
江副 東條等の親友と共に語り且美味の洋食を喫し一一時まで快飲す」
つまり、あまり派閥会合という性格のものでは無かったようだ。
「二葉会」と言う名称も見えない。
それと、岡村は大正12年12月から昭和2年4月まで上海駐在で
この時は一時帰国していたわけで、岡村不在時に二葉会的会合があった可能性もある。
そもそも、この種の会合ならば、いわゆる「バーデンバーデンの盟約」後の大正12年に
何度か行われている(こちらは二葉亭ではないが、参加している面子はほぼ共通している)。
つまり、主に二葉亭に集まって放談していた連中が、いつの間にか自分達の放談会を
「二葉会」と名付けたわけで、その初会合をいつかと定義するのは難しい。
>>219 同意。そのような会合は大正年間からすでにあったと思う。
それから会の名前なんかもあまりこだわる意味はないと思う。
大事なのは集まった面子と会談の内容。
221 :
日本@名無史さん:04/11/13 08:38:56
小畑敏四郎は?
書物などを見ると戦術家ではあるが視野が狭い。偏狭とかよく書かれてるが。
永田鉄山とよく比較されてる。
将来は 永田=軍政 小畑=軍令 で進んでいたら陸軍はどうなったでしょう?
明治の 桂=軍政 児玉=軍令 みたいに・・
>>199様
たびたびありがとうございます。戦死した中将の昇任は
やっぱり梅津とかが誰もいない部屋で停年名簿を繰っては
考えていたんでしょうね。
>>221 それを言うなら軍政の桂、軍令の川上ですな。大山が船の中で2人を呼んで言い渡した。
で、小畑中将ですが、彼の戦略は要するに米英と結んでソ連に備えるという日露戦争以来のものです。
これをどう評価するかは各人の考え方によりますね。
224 :
日本@名無史さん:04/11/13 18:18:07
>>221 小畑は総力戦が理解できない時代遅れの戦術屋。
>>224にまじめにうかがいますが、
昭和初年にあってどうすれば「総力戦を理解」したことになったのでしょうか?
226 :
日本@名無史さん:04/11/13 19:05:41
小畑は第一次大戦を東部戦線で見ていた。
>>225 昭和初年といえばもう軍需局が出来て、つぶれて、資源局が出来たころ。
それと小畑と何の関係があるのですか。
小畑は、日本の国力では総力戦は勝てないから短期決戦でと考えてた。
永田は、総力戦は不可避。総力戦ができる体制作りをと考えてた。
そういう発想は総力戦を「理解」してないと出てきませんよね。
私もそう思います。
小畑や永田は書く人が統制派寄りか皇道派寄りかによって
評価が180度近く変わるからね。色々読まないとダメだよ。
234 :
日本@名無史さん:04/11/14 01:58:12
諸君が総力戦を「理解」してるとは思えない
235 :
日本@名無史さん:04/11/14 09:04:35
そんなら
>>234、総力戦とは何か説明してちょーだい
236 :
日本@名無史さん:04/11/15 00:17:33
自分で書け
237 :
日本@名無史さん:04/11/15 07:19:24
できないんじゃん低能 恥を知って腹きって死ね
238 :
日本@名無史さん:04/11/15 08:22:12
興奮するのはテイノウの証
>>213 奥山道郎大尉 大正8年生まれ 陸士53期
20・5・24 義烈空挺隊沖縄突入
20・6・10 少佐進級
20・6.15 戦死認定、二階級特進で大佐
この進級の手厚さに義号作戦がいかに「壮烈」で「残酷」なものであったかが顕れてる。
240 :
日本@名無史さん:04/11/15 19:39:16
241 :
日本@名無史さん:04/11/16 10:34:53
242 :
日本@名無史さん:04/11/16 19:35:43
忠勇義烈
243 :
日本@名無史さん:04/11/16 20:13:47
244 :
日本@名無史さん:04/11/17 00:01:50
質問です。
総力戦に耐え得る国家改造をめざした桜会や二葉会ですが、
日米戦勃発に至っても、とうとうその理想をとげることはできませんでしたよねよね。
で、メンバーたちは、理想がかなわなかったことに対し、何か感慨をもっていたのでしょうか?
特に東条英機は?
どう見ても総力戦に耐え得ない、自らの理想とは掛け離れた
国家体制のトップにたってしまった東条の心境って、
かなり悲惨だと思うのですが。
それとも226以降は、理想を捨てた、単なる利権集団になっていたのでしょうか?
>>244 そりゃ忸怩たるものはあったでしょうよ。
永田の薫陶を受け、早くから総力戦を研究し、また一方で強烈な統帥権独立論者
でもあった東條。ところが首相となり、いざ開戦すると、この統帥権こそが
総力戦をやる上でのネックであったと。このことは痛く実感してたと思います。
だから普段の信念をなげうって参謀総長を兼任した。説き既に遅しですが。
結局本当の総力戦体制をつくるには、憲法改正といったdrasticな改革が必要だったと
思いますが、そんなことは、軍人の手に負えるものではないですしね。
ファッショファッショと言っても、所詮は”幕僚”ですよ。
246 :
日本@名無史さん:04/11/17 07:15:24
↑本当に総力戦なるものを(国家の生産力こそが戦いの勝敗を
決するという意味で)理解していたら、絶対にあんな戦争は出来なかったはず。
つまり、当時の日本では誰も本当に総力戦を理解していなかったということ。
彼らの頭にあったのは日露戦争。「軍人は直前の戦争を戦おうとする」とはまさにこのこと。
ついでにいうと、東条は開戦前後を通じて意気昂揚としていて
あんまり「忸怩たるもの」があったとは思えない。
247 :
246:04/11/17 07:17:22
すみません、意気軒昂でした。
248 :
日本@名無史さん:04/11/18 11:49:59
国家総動員法は永田の発案??
暗殺されてから施行されたが・・・
250 :
日本@名無史さん:04/11/21 18:25:04
永田・石原が陸軍の主流やったらどう変わってたでしょう?
251 :
長江壱條龍:04/11/22 09:33:22
北進論にシフトするので、巧く行けば戦争回避し、戦後世界に於いても
(より絞り込まれた)列強の一角を占め得た
>>250 東條は永田に絶対服従ですが、永田と石原が長期間うまくいくとは
なかなか考えにくいし、小畑と永田は修復不能ですから、内輪揉めは
避けられないでしょう。
それから、永田も石原も本来北支に無関心ではないので、単純に北進など
ということは有り得ないでしょう。
253 :
日本@名無史さん:04/11/22 21:01:23
油が欲しいんだからいつかは南に行ってたと思う
254 :
日本@名無史さん:04/11/22 22:31:04
陸軍の北進派はやっぱり皇道派?
南進派は統制派?
永田には長生きして欲しかった。
>>254 そういう単純な色分けは無意味。
皇道派が強烈な反共だが、こちらからしかけるつもりはさらさらなかった。
256 :
日本@名無史さん:04/11/23 09:34:13
共産主義は侵略体質
257 :
日本@名無史さん:04/11/23 13:08:10
英米と協調していれば油の問題は起らない
258 :
日本@名無史さん:04/11/23 16:52:25
>>255 荒木、小畑は対ソ一撃論じゃなかったか?
259 :
日本@名無史さん:04/11/23 17:40:50
天才アラーキー
>>258 そう勘違いしてる人は多いけど、実際は違う。
261 :
日本@名無史さん:04/11/23 22:54:03
小畑の対ソ戦略はあくまでも満洲防衛に主眼をおいた戦略。
そもそも当時の日本にソ連と戦う国力はない。
そのことは陸軍の中枢にいる軍人が一番良くわかっていた。
統制派は南進、皇道派は北進などというナンセンスな色分けをしたのは
戦後のジャーナリスト。まず皇道派シンパの岩渕某などが終戦直後、
”支那事変も大東亜戦争も統制派の仕業で皇道派が中心にいれば
こんな事にはならなかった”と喧伝した。これに対して統制派寄りの
朝日の高宮などが、”皇道派は北進論だから、ソ連と戦争になってた”と反論。
善玉悪玉に単純化する論は、海軍善玉論なんかにしてもそうだけど、
耳に心地よく受け入れられやすいので、これらの歴史観は未だに相当力をもっている。
263 :
日本@名無史さん:04/11/25 02:27:22
>>262 サンクス。
確かに海軍善玉論は大嘘だわな。
264 :
日本@名無史さん:04/11/25 03:22:54
■創価のチョンと覚醒剤と芸能界。創価の役割は、警察のコントロールとマネーロンダリング。ヤクザの片割れ、朝鮮宗教。
その「S」=周防のことだが、勿論、チョンである。
http://caramel.2ch.net/siki/kako/1009/10099/1009907725.html 創価学会の長年の用心棒として知られるY組系G組。近年ではG組が北朝鮮から輸入した覚せい剤を扱い、創価学会がその収益
マネーロンダリングにあたっているという。このG組の舎弟とみられ、芸能界の覚せい剤汚染の鍵を握るのが、都内の芸能プロ
ダクションBの社長Sである。99年3月、Sは新たに設立した広告代理店Lの代表取締役に就任する。もっともLは広告代理店
と称するものの、実は被告Kの逃亡資金をある社長に提供させるための舞台装置にすぎなかったとされる。S、Kの両者と互い
に助け合う関係にあり、銀座ではホステスに100万円ずつ配り「おまえな、100円の化粧水を1万円で売ってんだから、儲かるに
決まってるだろ!」 と豪語していたと伝えられるこの社長。彼もまた、現在の宝塚を支える一人である。
265 :
日本@名無史さん:04/11/25 15:28:04
>>263 とは言え、最近ぼちぼち出現してきた「海軍善玉論は大嘘だ!」と叫びながら陸軍を免罪し
ようとする一部の旧陸軍軍人が海軍善玉論信者よりもイタいのは確かだが。
266 :
日本@名無史さん:04/11/25 15:38:48
>>265 どっちもどっちだと思うが、海軍善玉論者のほうが知能犯である分、嫌いだな。
それに陸軍免罪論者はいても、さすがに陸軍善玉論者はいないだろう。
海軍善玉論者はそのあたりがあつかましい。
267 :
日本@名無史さん:04/11/25 16:19:48
海軍は阿川なぞのスポークスマンがいたからね。
言ったもの勝ち。
どっちもどっちで免罪とか善玉なんてアバウトな定義が適応されるほど甘い結果でない。
268 :
日本@名無史さん:04/11/25 18:48:35
>それに陸軍免罪論者はいても、さすがに陸軍善玉論者はいないだろう。
いるよ。
ノモンハン大勝利説を唱えている連中とかね。
昭和天皇も陸軍が中国に戦争を仕掛けたとか主張する位だから、
よほど嫌われていたのではないだろうか?
責任は陸海軍等分。好き嫌いは人それぞれだろうがね。
政治的勢力については、陸軍の方が強かったのだから、
陸軍の方の責任が重かろうな。
だいたい山本五十六だって陸軍の息のかかった右翼どもに
暗殺される危険へ晒されていた。
海軍がアメリカと戦えませんと、天皇の諮問に答えた所で、
陸軍が中国撤兵を拒否したら、もうどうにもならんし。
ジリ貧よりも、早めに戦争ぶっかけるしかない。
>>270 もう少し勉強してから書きこんだ方が良いよ。小説以外も読もうね。
日独同盟が国を滅ぼすという強い信念があったなら、五十六の一人や二人殺しても
反対すべき。暗殺されそうだから海へ出したなんて得意げに語ることじゃない。
支那に関していうなら、事変初期に和平交渉をぶっ潰した近衛内閣の海相は誰だったか
という話になる。そもそも日独同盟反対、支那事変反対、こういう人間は別に海軍の
専売特許じゃない。陸軍にもいた。小説にはなってないがね。
大事なのは何を考えたかじゃなくて、何を為したか。
日露戦争前に戦時大本営条例が改正され、陸海軍は同じ権限を持つようになった。
引きずられましたではすまないんだよ。
>>272 帷幄奏上権使って内閣の方針と違う事をしようと企んだのは陸海軍共だからな。
274 :
日本@名無史さん:04/11/26 00:14:59
275 :
日本@名無史さん:04/11/26 11:51:53
宮様
陸軍 閑院 梨本 東久邇 朝香 北白川 竹田 秩父 三笠
海軍 伏見 高松
276 :
日本@名無史さん:04/11/26 12:46:12
なに言いたいんだろ?
うん。274はピントがずれてるよな。
278 :
日本@名無史さん:04/11/26 15:03:25
279 :
日本@名無史さん:04/11/27 00:18:58
恩賜の軍刀って陸士でもらえるのですか?
陸大では銀時計?優秀とはいえ2振もらっても・・・ですよね?
海軍でも同じでしょうか?
だいたい上位何名ぐらいが「成績優秀恩賜確定」になるのでしょうか?
軍刀は陸大、陸士は銀時計
陸大は一学年六十人で上位六人が恩賜
陸士、海兵については知らないけど、そう大差ないんではないかな
一学年の人数は全然違うけど
陸士の恩賜はどうもトップ10だったような気がする。
http://ojaru.cside.biz/mame-2.htm 陸軍大学校 はじめ望遠鏡、のち軍刀
同専科学生 はじめ双眼鏡、のち軍刀
陸軍士官学校 はじめ軍刀、のち銀時計
陸軍予科士官学校 銀時計
幼年学校 銀時計
陸軍砲工学校 軍刀
憲兵練習所 銀時計
海軍大学校 長剣
海軍兵学校 短剣
各術科学校 銀時計
仙台幼年学校、陸士予科、陸士本科、砲工学校、陸大をすべて恩賜で出た高山信武などは、
銀時計三個に軍刀を二本持ってることになるのかな。
282 :
日本@名無史さん:04/11/27 01:17:29
>憲兵練習所 銀時計
なんか違和感・・(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
283 :
日本@名無史さん:04/11/29 19:38:24
俺の家には恩賜の銀時計があるけど
時計メーカーはロンジンだよ
284 :
日本@名無史さん:04/11/30 08:09:21
285 :
日本@名無史さん:04/11/30 08:24:40
古道具屋
286 :
日本@名無史さん:04/11/30 20:36:22
がいむしょうのあなみたいして、あなみこれちかのまごですか?
阿南親子は息子が親の名を汚す典型的な例だ。
ちなみに東郷茂徳の孫も外務省だがこれも祖父の名を汚したとんでもない奴。
289 :
日本@名無史さん:04/11/30 23:25:53
子孫に恵まれない人は多いんだよね。
290 :
日本@名無史さん:04/11/30 23:43:43
軍人(高級将校)の家系は孫、曾孫の代も圧倒的に高学歴
コレ事実!
291 :
日本@名無史さん:04/12/01 00:07:02
出来の良い筋なのは確か。
292 :
日本@名無史さん:04/12/01 00:15:57
もともと秀才なのがさらに猛勉強するわけで(勉強法に問題はあるが)
身体まで鍛えられる。
優秀な遺伝子が伝わるよねそりゃ。
293 :
日本@名無史さん:04/12/01 07:10:09
東郷重徳て先祖は朝鮮人でしょう。>288
294 :
日本@名無史さん:04/12/01 07:34:06
収入が高ければ子弟が高学歴になるのは当たり前の話、現在はその傾向が
ますます高まっており東大生の親の年収は1000万円以上がほとんどで
階層の相続が戦前以上に強くなっているのは常識
295 :
日本@名無史さん:04/12/01 14:23:19
しかし高収入低学歴から高学歴は生まれない
296 :
日本@名無史さん:04/12/01 14:47:29
恒産のない貧乏人の家に生まれたヤシは学歴が唯一の財産。軍人の多くは
無産階級出身だったから、刻苦勉励して這い上がった社会上層の生活を子孫の代まで
継続したい。そのためには、学歴しかないというのを骨身に染みて知ってる
軍人に限らず、大企業幹部、教師、医師、公務員幹部、学者、研究者などの高学歴
職業についた人間の子どもが低学歴というのは滅多にないだろ
297 :
ササキ:04/12/01 16:45:50
>>296 最近近所で増加中、コンビニやってる医者の息子、喫茶店やってる医者の息子。
なにやってだか不明の医者の息子。近所に医者が多いせいかいっぱい目に付く。
昭和の軍人は田舎の貧乏人の秀才が多く他人の金使いまくって、最後アメリカと
喧嘩してなくなった。今その息子社会保険庁、外務省にまたたむろしてる。
>>293 秀吉の朝鮮征伐時に島津家が連れてきた朝鮮人の子孫だ。
299 :
日本@名無史さん:04/12/02 19:30:11
300 :
日本@名無史さん:04/12/02 21:57:30
低学歴者の僻みがうるさいな
301 :
日本@名無史さん:04/12/05 18:13:48
>>288 双子の孫の外務省じゃないほうも名を汚してたな
302 :
日本@名無史さん:04/12/05 18:29:06
軍人は日本人の理想像
303 :
日本@名無史さん:04/12/05 23:41:20
ピストルで自決する香具師になんか萎え・・・
何故
305 :
日本@名無史さん:04/12/06 14:02:46
武士とかサムライとか自称するなら抜き身で(ry
306 :
日本@名無史さん:04/12/06 14:33:09
軍属ってどこまでが軍属なの?
軍服を作る糸を紡ぐ人も軍属なの?
軍属とは陸軍文官、陸軍監獄看守、陸軍警査並びに宣誓して陸軍の勤務に服する
其の他の文官及び同待遇者
308 :
日本@名無史さん:04/12/06 15:04:51
海軍を忘れてるよ
<近衛日記 昭和19年6月22日>
東久邇宮は余に次ぎの如く語った。
「東條も今度は弱ったようだ。とてもやっていけない、と言って来たので私は、『今絶対に辞めてはいかん。
内閣を改造してでも続けよ』と言ってやった。私は東條に最後まで責任をとらせるが良いと思う。
悪くなったら東條が皆悪いのだ。すべての責任を東條におっかぶせるが良い。
内閣が変わったら責任の帰趨がぼんやりし、最後は皇室に責任が来るおそれがある。
だからあくまで東條にやらせるがよい…」 と。
310 :
日本@名無史さん:04/12/06 16:50:25
○○○○は余に次ぎの如く語った。
「藪も今度は弱ったようだ。とてもやっていけない、と言って来たので私は、『今絶対に辞めてはいかん。
政権を改造してでも続けよ』と言ってやった。私は藪に最後まで責任をとらせるが良いと思う。
悪くなったら東條が皆悪いのだ。すべての責任を藪におっかぶせるが良い。
内閣が変わったら責任の帰趨がぼんやりし、最後は○○に責任が来るおそれがある。
だからあくまで藪にやらせるがよい…」 と。
>>303 阿南の自決を見てその凄惨さから、陸軍省高級副官の美山大佐は大将中将を集めて、
自決するときは切腹ではなく短銃か薬物でと説いたそうだ。
それでも篠塚中将のように見事に腹を切った人はいるが。
312 :
日本@名無史さん:04/12/06 22:03:08
後片付けが大変だったんだろうなあ
313 :
日本@名無史さん:04/12/06 22:05:35
314 :
696:04/12/07 11:43:06
>>313 駐屯地内の散髪屋とか共済のおばちゃんとかも軍属?
315 :
日本@名無史さん:04/12/07 13:06:29
防衛庁職員とは、事務次官、参事官、書記官、部員、自衛官、事務官、技官、教官及び
その他の常勤の職員並びに予備自衛官その他の非常勤の職員をもって構成されている
313のいう職員とは狭義の部隊職員等のことでないのか?ちなみに、部隊内の散髪屋などは
町の床屋さんが応募したもの、共済のおばちゃんは防衛庁共済組合の職員、売店などは直営
以外は街の本屋とかコーヒー屋の店員。
316 :
日本@名無史さん:04/12/07 17:26:09
違ふのではないでせふか、313は軍人ではなくて特別職公務員といふ身分である
いまの自衛官のことを軍属といっているのでは?違ったらご免なさいませ
自衛官は昔で言うところの軍人、防衛庁の官僚は軍属、床屋は地方人
318 :
経済学部:04/12/07 18:51:16
素人な質問ですみませんが・・
2・26事件についてなんですが、これは秩父宮様が、昭和天皇を退位させて
自分が天皇になろうとして参画していた、しかも天王星を廃止して完全議会政治の
国家を作ろうとしていたという話を昔福田和也さんだか誰かの本で読んだのですが、
それは事実なのでしょうか?また、そもそもその様な説はどの様な根拠に基づいて
唱えられているのでしょうか。
>>318 秩父宮様は歩三の中隊長時代、西田税や決起した安藤輝三らと知り合い、
青年将校運動に一定の理解を持ってました。事件当時は弘前三十一聯隊の
大隊長でしたが、ここの師団は師団長以下革新色の強い師団で、歩五には
末松太平なんていう有名な青年将校もいまして、宮様が第八師団を率いて
上京してくるなんていう噂が事件当時たったんです(実際は単身で上京されましたが)。
上京した宮様は天皇陛下に拝謁するわけですが、そこで青年将校に同情的な
言辞を弄して陛下に激しく叱責されたという説があります。
秩父宮簒奪説はこうした経緯から生まれた虚妄です。
320 :
日本@名無史さん:04/12/08 04:08:36
本日未明!英米蘭豪と戦争状態に入れり!!!
>>288 阿南大将三男の惟正氏は現在靖国神社崇敬者総代を務めておられるのにその弟ときたら・・・・。
同じ兄弟でもどうしてこうなるんだろ。
322 :
日本@名無史さん:04/12/12 11:30:43
_,.....、、、...
,. ;':´.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.`:.、
/`ソy' ヽく:ヽへ:.:.:.:.:.:.:.:.:ヽ
/:.:.:i:.M:.:.:.:.:`:.:.:.:.゙;´゙;:.:.:.:.:.:.:i
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' lハ! `ト';:!ゞ-゙、ト:l:.:.i';レ‐、:.:.:!
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,':.:.:.:,:. ゝ _,,. '" ,′:.:.:.:.:.:.:.!
_,、' ‐'´ '、 '| 丶、:.::l
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,ノ: : : : :.゙:、!: : : ``:.‐、∨..-:'´: : : l': : : i
〉: : : : : : :.|:_: : : : : : : []: : : : : : : :'; : : :',
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. i: :´: : : : : : : : : : : :./-'‐-‐ ''" '‐` ゙'` ̄ヾヽ ̄` 、
323 :
日本@名無史さん:04/12/22 21:02:31
私は明治神宮崇敬会員です
324 :
日本@名無史さん:04/12/27 20:41:15
326 :
日本@名無史さん:05/01/07 09:09:01
(-ゝ-) 日本最強
.ノ^ yヽ、
ヽ,,ノ==l ノ
/ l |
"""~""""""~"""~"""~"
327 :
日本@名無史さん:05/01/10 09:26:22
恩賜の煙草を戴きました
328 :
日本@名無史さん:05/01/11 20:43:50
恩賜の葉巻を吸わなきゃね
329 :
日本@名無史さん:05/01/11 20:47:45
恩賜のタバコ、皇居の清掃奉仕などするともらえるよ
でも今は健康面への配慮で別なモノに変わったかな?
226事件って国民は支持してたんでしょうか。
331 :
日本@名無史さん:05/01/11 21:40:04
してない。
支持してた人も居たし、嫌悪してた人も居た。無関心の人も居た。
今みたいに電話アンケートなんてなかったから、正確な数字は分からん。
まあ幸楽の周りでキャーキャーやってた人は結構いたみたいだけど、
肝心の農村でどう受け止められてたかは俺も知らない。
新聞はどーだったの?
おおっぴらに支持した報道機関なんて無いと思うけど。
335 :
日本@名無史さん:05/01/12 20:34:31
五・一五事件のときは、事件を起こした青年将校に対する一般国民の支持、同情は強かったらしい。
二・二六事件は、世論的には、比較的人気のあった高橋是清を殺したのが響いたという説はある。
新聞では、毎日が皇道派寄りだったらしい。
宇垣一成擁立工作をしていた美土路昌一や、統制派のスポークスマン高宮太平のいる朝日は、
二・二六事件の青年将校から敵視されていたんじゃないの?
読売は馬場恒吾だっけ?この人も宇垣と親しいね。
毎日の岡田益吉という人が戦後本を出してるが、
この人は皇道派に近かったみたい。
まあ朝日と東京日日はすごいライバル関係だったからなあ。
337 :
日本@名無史さん:05/01/13 00:44:45
朝日はまっさきに襲撃されちゃったしw
調べてみたら515実行犯への100万人の減刑嘆願書がきたそうだ。
しかも即日自首だから新聞は同情的なのは多いのかな。紙面見てないからわからんけど。
226は毎日だけ理解ある論評してたってことでよろしいでしょうか。
朝日の論説委員佐々弘雄は、皇道派と近かったらしいね
340 :
日本@名無史さん:05/01/26 19:14:40
2・26事件ってどこまで解明されたの?
神戸大学の須崎教授が書いた最新刊が、今の学説最新版?
この本はどんな評価?
>>340 かなりいい本だと思う。
226について何か一冊と言われたら、これを薦める。
342 :
日本@名無史さん:05/01/26 20:33:11
>>340 面白い。
ただし、定説を覆すことに主眼がおいてあるような感想。
(青年将校はみな皇道派だった、というようなことへ)
方法論も議論の余地がある。
343 :
日本@名無史さん:05/01/27 15:27:17
青年将校とやらの尋問調書をそのまま信じて引用してるんだろw
人間、最後は嘘をつかないという前提でw
344 :
日本@名無史さん:05/01/27 18:39:56
週刊新潮をちらっと立ち読みしたけど、NHKの松尾編集局長って松尾伝蔵の孫だって。
てことは、瀬島龍三の義理の甥だな。
345 :
日本@名無史さん:05/01/27 23:22:25
>>343 マジで?それはまずいだろ。
思想史だからそれもありだと?!
なんか時間ないっていいわけしてたな
347 :
日本@名無史さん:05/01/28 23:17:25
わかっているようで謎が多い2・26事件。
果敢に切り込んで好感が持てた本です。
たしかに史料の使い方で議論はあるかも。
完璧な226本なんてこの世に存在しない。何かしら欠点はあるよ。
須崎本は相当マシな部類。
349 :
日本@名無史さん:05/01/29 09:22:56
史実は時が経つほどわからなくなる
最新本を読むなんて見当違いで、最古本を探したほうが正解
350 :
日本@名無史さん:05/01/29 23:53:46
工エエェ(´д`)ェエエ工
>>349 なるほど。すると長篠の「鉄砲3000丁3段撃ち」は事実だし桶狭間の「信長大迂回奇襲」も
事実だしミッドウェーの「運命の5分間」も事実だということですね。
つーか、最初の一人が常に完全無欠なら歴史学自体存在意義ないだろ。
352 :
日本@名無史さん:05/01/30 22:53:18
長篠の「鉄砲3000丁3段撃ち」は恐らく事実でない。
だが誤りは最古直近情報に拠らず、後世の書物に拠ったから生じた。
伝聞証拠に意味無し
最古本を嫁。
>>352 常に一次資料が手に入るとは限らないんだが。
そのこと自体は理解できてる?
356 :
日本@名無史さん:05/01/31 18:04:49
エェ━.∧━━.∧━━!?
/,_ ┴─/ ヽ , 、 ,、
(・_.,》.'(・_,》)ミ ヽ . / L--/ l、エェーーーー!?
/ ,,__,ニ、、 ノ( | (・;;》 (・;;》 | /L--/l、 エェーー!?
| Y~~/~y} `, ~ | |y-,‐vi`ノl | (・.》 (・.》 l /L--/l、エーー!?
| .,k.,.,!,.,.,r| ,! く |, kl r| i ^< | 'fT~ヲ x | (・〕_(・〕x| /L/l エーー
/ <ニニニ'ノ \ / (二二‐ ' \ / l==_」 < ,l fmヨ ! L 〔゚fヲ゚.〕
515,226の当時の新聞を見たい。
>>357 図書館行けば縮刷置いてるぞ。
戦前のは必ずあるわけではないが、
大学や、都道府県立レベルなら大抵あるはず
おお、サンクス。
360 :
日本@名無史さん:05/02/06 16:26:42
V
い わ そ 、 : 恣 暴 支 .こ
か け ん jヽ : に. 行 那 の
な に. な ノ´| : さ 陵 軍. ま
い は l l : せ. 虐 に ま
わ ! ヽ る .を
/ ! \
、 _ / l {ヽ、ト、 ー- _
` ー‐ 7 ´ | \\ ーー` ‐ 、  ̄ lヽ、 _.. -‐
! /  ̄ , _‐ヽヽ ヽヽl´\
! l /ー-_- ` ̄イピjヽ´| ヽヽ ` ーi
| l l'ヽイ{ピjヽヽ `ニ- } ヽ\ /
l ! ヽ ー‐ ! { ` ー/
! l ヽ ヽ. 〈! ハ /
! ト \`> r‐ ヽ ,イl ヽ /
l l l ト、 ー.ニ′/ !ゝ、ヽ /
ヽ. ヽヽ ヽ`l ‐ _/ 〉 !'´
\ヽヽ. ヽ!_ , く lー-----
 ̄ ーl´ l  ̄ l´-‐ ´l l
361 :
日本@名無史さん:05/02/20 00:18:58
で、まあ最悪最低の将軍は富永恭次ということで
362 :
日本@名無史さん:05/02/21 10:22:37
__
_.. -''゙‐-´ニ'"''ー- 、
/"_.. - _'ニ ゙ヽ.
l〃,/"7゙// /ii li 、ヽヾ、 ヽ
!/li─-.l/l:/-リ_!.i i i ヽ, ;:゙、
! .iitァ;、 ! l|=ァ-、`メ、ハ,ヾ:i ;; }
/.ド-' :_l:::ソ〉 ノ゙ :i ミ i;;:ソ- ._
/ {''' '  ̄,,, 'ー、i_/ミ' >
,.'〃∧ {ラ /´)゙ )トくχ゙ < 英霊の御霊よ、安らかに!
,.'/ノ-、/ヽ,_ /`''''''"゙,ヽ/
//__ ;ヽ_.ィ"λ い¬;゙;゙;゙;゙;゙゙、
363 :
日本@名無史さん:05/02/26 14:44:59
今日は226事件の記念日
364 :
日本@名無史さん:05/02/26 15:44:59
麻生
365 :
日本@名無史さん:05/03/02 01:08:37
今も生きてる旧軍人の最高階級は大佐ぐらい?
将官はさすがにいないよね?
生きてたら105歳くらいだから、さすがにいないだろう。大佐でも100歳前後だからなあ。
平成に入った頃ならそこそこ生きておられたけど。
瀬島龍三氏くらいなのか?生きているのは。
名前知られてない人でまだ何処かにいるかもしれない。
将官。
369 :
日本@名無史さん:05/03/02 18:13:59
有次中将は100歳越えしてたんだよな。
平成になって没したはず。
最後の大将は嶋田シゲかな?
鈴木貞一もかぎりぎり平成に入って、100歳越えて亡くなってるね。
平成元年鈴木貞一
平成二年東久邇稔彦、原乙未生
平成三年片倉衷
平成四年有末精三
372 :
長江壱條龍:05/03/03 10:09:36
今日3月3日。
事変の現地解決が成り、上海の公園では平和を祝う式典が開かれていた。
そこへ悪い土人が爆弾を投げ込んだので、平和解決に尽力した白川義則大将即死、
重光葵公使片足切断、良民多数死傷の惨事となった。
平和を妨害し、友好の祭典を血で汚すとは憎むべき土人である。
畏れ多くも先帝陛下に於せられては、白川大将を悼み給い、御製を御詠み遊ばさ
れた
乙女らが雛祭る日に戦ひを 止めし勲思ひ出にけり
373 :
日本@名無史さん:05/03/03 10:10:29
のむら大将も片目なくしてるんですけどー
374 :
日本@名無史さん:05/03/05 21:14:03
井本熊男さんはご存命ですか?
375 :
日本@名無史さん:05/03/05 21:16:40
元 少 尉 で も 8 0 歳 。
377 :
日本@名無史さん:05/03/06 07:29:56
>374
井本熊男氏 2000年2月3日、心不全にて死去
378 :
日本@名無史さん:05/03/06 07:30:49
377 続き
享年96歳
379 :
日本@名無史さん:05/03/06 15:25:02
支那事変当時に作戦の中枢におられた方は
井本さんで最後でしょうね。残念です
380 :
日本@名無史さん:05/03/07 09:37:57
謹んでご冥福をお祈り申し上げます
神直道中佐は1998年に亡くなった。
382 :
日本@名無史さん:05/03/07 20:47:39
皇道派って密かに親英米仏派なのか?
大アジア主義は統制派か?
383 :
日本@名無史さん:05/03/07 20:52:48
皇道派は第一次大戦の観戦武官に多かったからね。
親仏、親露帝派が多い。
その分、反ソなんだけど。
384 :
日本@名無史さん:05/03/07 21:17:37
親露帝派なんていたんですか?初耳
385 :
日本@名無史さん:05/03/07 21:19:54
ロシア革命のロシア畑って親露派なんじゃないの?
当時のロシア帝国は日本の同盟国だよ。
386 :
日本@名無史さん:05/03/07 21:21:46
ようするに「白軍派」として革命に従軍した軍人もいた。
ソ連は主義からして許さんが、帝國なら、という考えはけっこう敷衍してた。
387 :
世界@名無史さん:05/03/07 22:10:46
源田実海軍参謀 山本の腹心真珠湾攻撃の立案者
戦後、空自幕僚長 参議院議員を歴任
駐米大使 野村吉三郎 海軍大将 宣戦布告通告遅れ
戦後、参議院議員
辻正信 大本営作戦課長 ノモハンの失敗、ガダルカナルの失敗
戦後、衆議院議員 東南アジア視察中行方不明
岸信介 満州国総務長官、東条内閣の商工大臣を歴任
戦後、内閣総理大臣
他、あとだれがいますか?
388 :
日本@名無史さん:05/03/07 22:30:02
何がよ?
戦後出世した国賊どもか?
橋本欣五郎 参本ロシア班長 桜会結成 翼賛選挙に当選
戦後、参院選挙全国区で出馬、落選
>>387はどういう人物を挙げたいのか答えてくれ。
391 :
日本@名無史さん:05/03/08 14:20:28
瀬島龍三は統制派なの?
226で義父を殺されてるので、心情的には皇道派は好きじゃないだろう。
393 :
日本@名無史さん:05/03/08 19:55:51
>>
387
>源田実海軍参謀 山本の腹心真珠湾攻撃の立案者
源田が山本の腹心て、直属の部下だった時期て何時よ?
394 :
日本@名無史さん:05/03/08 20:15:26
通過、記述内容に間違い大杉、387
辻正信とか岸信介が満州国総務長官とか、ムチャクチャやんけw
395 :
日本@名無史さん:05/03/08 20:27:13
〉387
辻正信(政信)なんつう、作戦課長はおらん象!
戦後マスコミは辻政信を批判しなかったのだろうか?
どんな面して国会議員してたんだ
397 :
日本@名無史さん:05/03/08 21:15:51
辻の悪行の数々が世間に知られるようになったのは、戦後、自粛して沈黙していた
旧軍人たちが日本独立後、マスコミなどに真相を話すようになってからでないの。
川口清健と辻正信、戦後立会演説会での対決の話は面白かった。
399 :
日本@名無史さん:05/03/08 22:00:33
>398
でも、石川県のアホ有権者に野次り倒されて、川口元少将は壇上で立ち往生したらしい
400 :
日本@名無史さん:05/03/08 22:09:04
川口少将もすっかり耳が遠くなってて、言葉も覚束なかったのではなかったかな。
陸大軍刀組だったね。
401 :
日本@名無史さん:05/03/08 22:46:01
陸大で軍刀貰うのは首席の他、上位5人まででないの?川口清健の34期の首席石本寅三
西原一策、中村明人、柳田元三、遠藤三郎、四手井綱正
また、陸士26期の同期には、影佐禎昭、栗林忠道(大35期、軍刀)宮崎繁三郎、和知鷹二
花谷正、山県武光など結構名前の知られた人物多いが川口少将は少し影が薄いような・・・
川口少将は陸大は48番
403 :
日本@名無史さん:05/03/09 00:03:01
宇垣一成:参議院全国区第1位で当選
保科善四郎も国会議員
山本茂一郎少将、下村定大将も参議院議員
この2人は選挙戦を戦った
>>401,402
レスサンクス!
流石この板ですねぇ!
参謀 辻正信という本に確か陸大軍刀組と書いてあった気がしたので・・・。
うろ覚えスマソです。
確かに川口少将は影が薄いですね。小生もガダルカナルよりは辻正信との対決シーンの方が印象深いです。
ところで陸士14期、陸大22期の橋本虎之助中将の席次をご存知でしたら教えて頂けませんか?
本当かどうかわからんのに・・・
409 :
満人:05/03/11 10:28:15
辻は非常に大きな顔をして戦後を生きたし、非難より支持が圧倒的でした
その演説会はすさまじい人気でした
410 :
日本@名無史さん:05/03/11 16:24:37
出自が卑しいヤシってのは恥という観念がないからのう
他人がどう見ようが思おうが知ったこっちやない
411 :
日本@名無史さん:05/03/13 18:20:35
皇道派って統制派に比べて頭が弱い?
412 :
日本@名無史さん:05/03/13 18:35:01
皇道派てのは一部の将官以外は、陸大に合格しないような隊付き将校が
比較的多いのは事実。しかし、荒木貞夫は陸大19期首席、真崎も山下も
5席以内、他にも、川島義之、小畑敏四郎も軍刀組
413 :
日本@名無史さん:05/03/13 19:30:29
陸軍部内の派閥なんて、所詮は出世のためにどちらに入ったら有利かという代物
社内の、専務派か副社長派かてな程度。皇道派なんて大層な名前付いたのも、荒木が
やたら皇軍とか皇道とか皇の字使うの好きだったから。一応は理屈付けで対ソ戦に主眼
だが、精神主義に片寄っていた。統制派だって、ごく少数を除いては、精神主義に
片寄っており、皇道派が消滅してからは誰が何派とは識別できない、元・・・
414 :
日本@名無史さん:05/03/13 19:59:03
頭の良さの尺度が教科書秀才の意味なら、東条よりは皇道派の領袖の方が
頭良い。東条の親父(英教)は陸大1期トップだったが中将止まり
これを長州閥のせいと逆恨みした倅は何かと長州出身者を冷遇した。
英教は下士官上がりで士官学校を出ないで将官になった稀な努力家ではあった
皇道派 統制派
荒木貞夫1 永田鉄山1
真崎甚三郎6 東條英機11
秦真次23 今村均1
柳川平助4 武藤章5
香椎浩平28 冨永恭次20
山岡重厚39 下山琢磨4
小畑敏四郎6 影佐禎昭6
山下奉文6 池田純久17
鈴木率道1 田中清64
村上啓作5 四方諒二無天
頭の良さというのが陸大の席次を指すなら、両派に大差は無い。
416 :
412:05/03/13 20:27:01
真崎、山下、川島、小畑らの順位は首席を除いての席次のことで
いずれも恩賜組という意味。軍刀組と書いたが、副賞が軍刀以外の
時期もあったので、軍刀組→恩賜組と訂正
417 :
日本@名無史さん:05/03/13 21:35:00
皇道派は実は親米派
統制派は親ソ、親独派
418 :
日本@名無史さん:05/03/13 22:48:00
>>414 親爺東條は陸大出てる。
陸大1期、首席のはず。のち教官。
そのころはまだ黎明期の軍事教育システムなので、
昭和期の将官・佐官とはいちがいに比較できない。
419 :
日本@名無史さん:05/03/13 22:50:33
おっと陸大のことは触れてたね。失敬。
皇道派は早期にソ連と一戦!というのが特徴ではなかろうか。
統制派は国家体制を固めてから、という違いが。
白川大将も士官学校出てないね。
421 :
日本@名無史さん:05/03/14 04:50:22
>417
近衛が皇道派寄りで統制派を嫌っていた理由もこの辺か?
422 :
日本@名無史さん:05/03/14 05:02:20
明治18年末、陸大1期卒業生は僅か10名、明治15年2月時点で全陸軍の中少尉
は1239名だったから、如何に狭き門だったか想像できる
>>420 出てるよ
教導団を出て工兵二等軍曹となり、更に翌年陸士に合格し士官候補生(1期)となった
>>422 其の頃の最優秀の青年士官は欧州に留学してる
木越、石本、田村、上原、楠瀬
424 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 00:01:05
軍人軍馬軍犬軍鳩軍属
425 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 00:45:55
陸軍中将から海軍中将に横すべりした西郷従道って超テキトーじゃん。
サイゴーさんのおかげで、日露戦争までに最新鋭の軍艦が揃ったわけだが。
426 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 18:42:14
一応記念垣鼓
しかしなんで慶長なんかわからん
この板こそ皇紀だろうに
427 :
日本@名無史さん:2005/04/11(月) 18:47:00
軍人軍馬軍犬軍鳩軍属
二・二・六 時の参議官を軍閥で分けてください。
>>428 林 日和見
荒木 青年将校に同情
真崎 青年将校に同情
阿部 やや日和見
西 一応中立
植田 事件にやや批判的
寺内 一応中立
430 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 20:36:17
431 :
日本@名無史さん:2005/05/04(水) 02:14:34
イギリス駐日武官のピゴットの自伝読んでたら、荒木貞夫が自由主義的な
親英派とか書いてあったんだけど、何かの間違いか?
親英はともかく、荒木貞夫が自由主義??
432 :
日本@名無史さん:2005/05/04(水) 13:28:36
>>431 ピゴットのいうことだから…
太平洋戦争中の英国で、親日論をぶちまくったくらいの、
筋金の入った親日派ですぜ。
しかしピゴットの自伝、
違った角度からみた同時代人の証言として、
俺はおもしろく読んだけどな。
433 :
日本@名無史さん:2005/05/04(水) 13:32:09
>>414 教導団出身者は田中義一もそうでは?
だから、田中義一は在郷軍人会を掌握できた。(青年団の全国化にも尽力しているが)
私は古武道愛好家です(愛好者の年齢は幅広く15歳から90歳くらいまで)先輩の武田さんと平成4年の秋 大阪の大会で名刺交換した方(森様 79歳)が1937年の12月、
南京戦に参戦されたと言う!驚きでした!当時のこと 、やはり聞きました!『南京大虐殺!目や耳にした事なし!
当時の松井岩根大将から日本軍はあくまでも、武士道精神を忘れず絶対に 民衆に手出しするな!民衆の避難している、安全地帯には立ち入り禁止!との訓令を受けているし、当然
の事、姿勢正しく凛として団体行動をした』との事です。
『 国際戦時ルールをきちんと守り、敵兵を掃討する事はあっても、無辜の民を殺戮や略奪等は断じてなく、民衆は安心したのか、すぐに人口が25万人に増大したじゃないか!』
『 真実を歪曲した中国や白人達にはとても我慢がならん!』との事でした。中国には軍閥政府が 複数あり共同で日本軍に当たろうと言いながら、漁夫の利を得ようと、表向き味方と
思わせ、お互いの足を引っ張る事等は日常茶飯事で殺戮や略奪は! 日本軍のせいに出来る。自国の弱者を無秩序に暴虐を繰り返す民族・文化であった!なぜなら、中国兵には昔から
報酬を与えていないので、弱者より略奪する事に、政府は見ない振り!そういう国に関わった事が嘆かわしいとの事 。60数年前の著書ラルフ・タウンゼント(米国の元中国副領事)の
『暗黒大陸中国の真実』をぜひ読んでください。当時の南京には欧米居留地の外交官や記者やジャーナリストなど数百人と・日本人の大宅壮一・林芙美子・石川達三・草野心平・西条八十
・小林秀雄などの作家や評論家150名 位の人達がいたが、誰一人、耳目にしていないし、国際連盟にも伝達なし!これが歴史の真実です!!誰かの伝聞でも憶測や推量でもありません。
それがいきなり 東京裁判で浮上するなんて?10年近く過ぎてですよ!敗戦に放心虚脱・失神状態の日本政府や国民はアッケにとられ反論もままならず、かの東京裁判という国際ルール
無視の魔女裁判を 押し付けられた訳です!!白人諸国の、対日本国・日本民族、再起不能の為の徹底犯罪国家謀略工作です。中立で国際専門の裁判官による正式な東京裁判をやり直しを
粘り強く、世界に訴えなければなりません!日本人としての誇りを取り戻すためにも!・・しかし戦争はもう嫌です!!金輪際!!
435 :
日本@名無史さん:2005/05/04(水) 13:53:25
>>431 何度も出てるが、皇道派(日本主義者)は外交面では親英派なんだよ。
平沼騏一郎なんかもそうだ。財界との関係もそれほど悪くない。
大アジア主義的な統制派(国家社会主義者)とは違う。
436 :
日本@名無史さん:2005/05/04(水) 13:56:54
皇道派は威勢がいいだけで実際の政治思想はないからな。
荒木貞夫も憎めないおじいちゃんって感じだ。
ピゴットの自伝って何ていう題名ですか?
>>436 これが真崎あたりになると何か陰険なものを感じるけどな。
陸軍軍人場合は個人的な信条よりも留学先での体験で親○○が
決まることが多い。だから、どこに留学したかをチェックすることも大事。
440 :
日本@名無史さん:2005/05/13(金) 19:45:07
アメリカに行ったのに何も学ばなかった佐藤賢了・・・
子供にパパと呼ばせていたようだがw
>>440 留学・駐在して「親○○」になって帰ってくるケースと「反○○」になって帰ってくる両極端な
ケースがある。
アメリカへ行って反米になって帰ってきたのが陸軍の佐藤と外交官の松岡。
イタリアへ行って不信感を持ち帰ってきたのが海軍の井上成美。
陸軍は独・仏へ行くのが一般的に一流の人材と言われ、逆に海軍は英・米組が一流とされ
ていた。この辺の価値観の違いは最後まで埋められなかった。
442 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 11:28:12
サトケンは鬱屈したろうな。俺を独逸にやらんでどうする!と。
そういうのの積み重ねかもね。語学も大変だったろうし。
ドイツ語ばかりの修行時代だったし。
443 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 14:01:38
>>441 陸軍のドイツ留学組って小物ばっかりでは?
留学先でも士官学校に入れてもらえなかったみたいだし。
日本はWW1の連合国だった関係で、フランスとの関係が深かったでしょ。
444 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 17:51:14
井上成美はクラスヘッドなのに、
どうして海軍二流国のイタリア駐在にされたのだろう?
445 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 18:04:10
彼は学者ですよって、37期のクラスヘッドは小林万一郎という人物になってるが
ただ、この人、どういう経歴なのか知らないが少佐の時没している
>>441 >
>>440 > 留学・駐在して「親○○」になって帰ってくるケースと「反○○」になって帰ってくる両極端な
> ケースがある。
この辺のmindは、論壇に脈々と受け継がれてるねw
448 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 17:27:47
>>160 >辻はあらゆる作戦に絡んでいたのでは?
>ノモンハン、ビルマ、ガダルカナル。
>で作戦屋としては一流やったんでしょうか?
一流の訳がないだろ、例示の戦果だけみても。辻正信のような壮語妄想症者が
当時の参謀本部指令に関わっていたのが、日本の悲劇だった。
449 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 18:13:43
田中隆吉『敗因を衝く』(中公文庫)買いたいんだけど
絶版だよね。
450 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 18:37:53
幼年学校の語学の影響は?
>>449 古本で探せ
できれば田中隆吉著作集買うのがベスト
彼の著作3つとも収録してる
452 :
質問:2005/05/22(日) 21:29:52
皇族の軍人(陸軍)の正式名称って、昭和六年当時の秩父宮を例にとると、
・秩父宮雍仁 親王 陸軍歩兵大尉 殿下
・秩父宮雍仁 親王殿下 陸軍歩兵大尉
・秩父宮雍仁 陸軍歩兵大尉 親王殿下
のどれでしょうか?検索しても色々出てきて分かりませんでした。
陸軍歩兵大尉 秩父宮雍仁親王
どうしても後に階級をもっていきたけりゃ大尉宮とでも呼ぶしかないだろ。
歴代海軍大将全覧
思いの外派閥云々はなかった。
>>452 戦前の閑院宮の絵葉書を見ると
「閑院参謀総長宮殿下」となっていたな。
「宮」は役職の後に持ってくるものらしい。
456 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 20:04:22
そうちょうのみや、だね。
457 :
わわわー:2005/05/27(金) 10:19:38
橋本虎之助中将の席次は、昭和10年の停年名簿によると、現役中将59人
中で28番目です。
「歴代陸軍大将全覧」も出ますよね?
459 :
日本@名無史さん:2005/06/06(月) 10:36:48
あげ
田中隆吉「日本軍閥暗闘史」入手。
でも、この人、どうせ内容嘘っぱちなんでしょ?
「金だして、日蓮宗の坊さん殺させて上海事件起こしたの俺俺」って軽薄さがさ。
なんかうそ臭い
461 :
日本@名無史さん:2005/06/06(月) 19:21:20
>>460 嘘って言うか、仮に陰謀が事実でも上海事変の生起に何の関係もないよ。
排日の気運はずっと前から盛り上がっていたし、第19路軍の上海租界接近も
別に陰謀に何の関係もない。
おそらく、第一次上海事変を日本の侵略とするためにキーナンにでも頼まれて
東京裁判で演技をしたんだろ。
東条と仲悪かったしね
田中隆吉という人物自体に説得性を左右されてはいかんよ。
どんなクズ野郎が「1+1=2」と言っても、それは(自然数論では)正しいわけだから。
前スレのログください
465 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 17:43:31
466 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 18:01:49
467 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:28:28
あのさ、初歩的な質問で悪いんだけど、226事件てさ、黒幕なんていないよね?
すべては磯辺、村中というカフェで管巻く学生革命家の熱弁にほだされた
安藤やら栗原やらが皇道派の牙城・第1師団満州派遣で追い詰められ、何の考えも無く
暴発したってことでOK?
1行目は正しい
2行目以降は×
469 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:56:32
でもさ、皇道派と統制派が国家改造・軍部覇権のなかで勢力を争っていたとしてだ。
林銑十郎が永田鉄山を重宝して、真崎甚三郎を頂点とする皇道派を陸軍軍政から排除
していく過程で、暴発したのは事実でしょう?
「決起して政権とらにゃおれたちは永遠に負け犬」って。
青年将校の「至誠」とか「純真さ」って、決起を最後まで迷い、かつ最後
まで鎮圧部隊との戦闘を主張した安藤をのぞいて、なんか胡散臭くてさ
470 :
二・二六事件北一輝、西田税、亀川哲也判決:2005/07/04(月) 00:24:26
1、被告人西田税は海軍中将小笠原長生、同大将有馬良橘、同加
藤寛治其の他に対し
2、被告人亀川哲也は陸軍大将真崎甚三郎、海軍大将山本英輔等
の方面に対し
3、山口一太郎は公私の閑係を辿り侍従武官長陸軍大将本庄繁共
の他陸軍上層部(あるいは陛下ね)に対し
・・・・この辺の宮中工作、有体に言うなら「岡田をぶっ殺して気弱な昭和天皇に真崎に大命を降下させる」
って案はやはり黒幕なしの青年将校らの発案かね?
将軍らは知恵を吹きこんでいないかね?
夫々がコネを使って個々に動いてるだけ
神輿の上に神輿を担ごうとしたマルキストと
それに乗らなくもないよという雰囲気を漂わせた非主流派将官。
私利私欲じゃないっていうけど、真崎内閣を経て青年将校内閣を考えていたんでしょ?
誇大妄想狂かよ。
権力握って何をするかはさておき、権力握る手段として岡田を殺して憲法上の輔弼者を
空白にして、ついで鈴木侍従長、斉藤実内大臣って「真崎以外の誰かを上奏する」君側の奸を
殺し、複数のルートで「後継首班は真崎」って上奏させ大命降下させる。
ここに真崎との共同謀議はもとより無いけど、これが磯辺浅一の計画なら
プランとしては悪くないと思うけどね。
天皇に執拗に「青年将校の至誠の認知」を求めた
娘婿・山口一郎太と本庄繁武官長について、共同謀議はなかったのかね?
少なくとも、陸軍検察は聴取しなかったのかね
474 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 21:36:03
真崎は艦隊派の加藤寛治(当時退役)とは盟友。事件後、真崎は伏見宮軍令部長を
官邸に訪ね事態収拾を要請、宮の車に加藤寛治と共に同乗し宮中にむかっている
車中、強力内閣の首班には平沼ということで一致していた。ところが、参内した伏見宮
は天皇の冷淡な態度で宮も取りつくシマもなく憮然として引き下がったという(伏見宮は
大の真崎贔屓)。天皇を退位させ秩父宮と交代させるという噂があったのが天皇激怒の真因
真因とか妄想で言われても困るわけですが。
476 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 22:08:15
474の内容はホントだよ、半藤一利や北岡伸一も著書で書いている
ただ、最後の、天皇を退位させ・・・・・・・は二人の本にはさすがに書いてないが
正史ではこうしたこと(天皇がらみ)は書けないのは仕方ないこと
秩父宮問題は、「以前より大分およろしくなられた」って事件直後の皇族の顔合わせで
記録残っている。秩父宮も何とか言う国学者が、上京直前に
「若貴じゃあるまいし、弟が粋がるとろくな事ねえぜ」って忠言したはず。
秩父宮は、比較的大人しくしてたんじゃないかな?
天皇激怒は、やはり機関説以来の自分が「玉(ぎょく)」として言いように
陸軍過激派に扱われ、朕が重臣を殺したりして真綿で首を絞められたのが
よほど「国家の元首」として腹に据えかねたんじゃないのかね。
平沼は・・・ファッショに近きもの絶対不可だしなぁ
>474
事件直後、決起部隊、統制派が総すくみになると、いろんな派閥が動いたらしいね。
海軍艦隊派もそうだけど、こないだ読んだ秦郁彦本では、石原莞爾も
新内閣樹立(岡田が死んだって事になってるから)で、鎮圧前日だか前々日に右顧左眄したらしい。
決起部隊は首相を殺して権力の空白を狙ったし、通常、この種の大不祥事が起これば
内閣総辞職なんだけど、陛下が閣僚の辞表を受理しなかった。
この収拾案を提案したのは、間違いなく木戸なんだけど、むしろ
「過激派にいいようにされんぞ」という陛下の頑張りが、226をあやうく失敗させたと
いっても過言じゃあるまい。
たぶん、明君なんだな、陛下は。
国家元首と皇弟の差かね
秩父宮に関しては末松太平の「私の昭和史」読めばいい。
まあ宮は歩三の中隊長してた関係から安藤なんかと親しかったし、
そういう噂がたつのもしょうがないところだけどね。
480 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 06:35:35
秩父宮は2.26の際、弘前の連隊から上京するが上野に着く前、車中で拘束され
そのままトラックに乗せられて宮中に連れていかれた。この後、天皇と二人きりで
話し合ったという。内容は当然ながら不明
>480
2005年になって、なんでそういう事件当時流れた「風聞」を書くんだ。
ちゃんと東京駅経由で参内してるし、皇族会議はそういう「家庭内分裂」の風評が立つのを恐れて
226当時結束している
226事件で事実上秩父宮の政治生命(皇族なのに)終わったし
軍人としては、終わるどころかその後も皇族離れした活躍をしてる。
青年将校話は筒井清忠でも嫁。秩父宮関連は保阪正康。
485 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 00:51:25
青年将校運動って何?
隊付の大尉、中尉クラスの皇道派って観念の空回りとかしてないかね?
大卒上場会社員の初任給が45円の時代に、少尉の初任給が75円。演習手当てが1回20円
(昭和10年)
高等遊民クラスだったのではないかと。
486 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 00:56:23
三菱今も昔も欠陥ずくり後に敗戦。
487 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 00:57:59
永田鉄山というか統制派の思想ってのは、
@皇道派の下克上をおさえ、軍紀を粛清し、個々の軍人の政治関与をなくし
軍務に専念させる。
って文字どうり、「軍内統制」の穏健な思想でしょ?
まさかのちの「統制経済」の統制ではないよね?
で、軍紀を粛清した上で、陸軍一丸となって合法的に高度国防国家をめざす。
具体的には「国家総動員法」「企画院などの官僚主導・統制経済国家」「陸軍よりの政府」
ってことで。
やはり目指したのは、ナチス一党独裁やソ連の5ヵ年計画みたいなもの?
総力戦
>>487 >って文字どうり、「軍内統制」の穏健な思想でしょ?
>まさかのちの「統制経済」の統制ではないよね?
って自分で書いておきながら
>具体的には「国家総動員法」「企画院などの官僚主導・統制経済国家」「陸軍よりの政府」
>ってことで。
って矛盾してるじゃないかw
>やはり目指したのは、ナチス一党独裁やソ連の5ヵ年計画みたいなもの?
計画経済による国力増強という点では同じ。
つーか世界恐慌以降の強国はブロック経済確立ということもあってほぼそういうことをしようとしている。
永田ら統制派は第一次大戦以降の戦争は
武器を中心とする軍事力だけでなく経済力・技術力・資源保有等の
全ての国力を動員する総力戦になると考えた。
その為には政府による長期計画が必要で、
更にその政府をリードするのは陸軍だと。
政府をリードする方法は陸軍大臣の人選のみならず、
組閣準備段階から容喙し陸軍の意見が政策として反映されるようにすると。
統帥権・編成権・帷幄奏上権という軍が持っている
合法的な権力を最大限使うことによってそれを実現しようと。
皇道派の下克上というのもおかしい。
皇道派と呼ばれた高級将校連と青年将校たちは本来別物。
491 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 21:57:00
永田鉄山と陸軍パンフ事件の関係を教えて下さい。
あと鈴木貞一と企画院の関係
492 :
487:2005/07/06(水) 22:14:55
うむ?
荒木や真崎の皇道派首魁と、陸軍士官学校事件〜一連の怪文書事件〜相沢事件〜226事件を起こした
隊付尉官クラス青年将校たちは本来別物ということ?
当方は、青年将校たちが本来の軍務を離れ、指揮系統を無視して例えば陸軍大臣と
政治を語り、あげく統帥を無視して軍を動かすかのような言辞を公言する。
そういう風潮をさして「下克上」といって、「これを永田は統制すべきと否定した」と言ったと思うのだが。
統制派(皇道派からの呼称だナ)の統制とは文字通り「清軍」「綱紀粛正」としての
統制と思うのだが。
陸パンは清水盛明新聞班長のときに出回ったもので、
永田の弟子池田純久あたりの筆が入ってるといわれてる。
真崎たち皇道派の将軍連と青年将校はお互い利用しあってただけ。
お世辞にも同志なんていえない。
青年将校の下克上なんてのは大げさに伝えられすぎてる。
せいぜい真崎から聞いた情報をパンフレットにしてばら撒く程度。
まあ最後の最後にでかいの一発ぶち上げたけどね。
しかしそもそも下克上に開祖は永田なんだし、あんまり神格化するのもどうかと思うね。
軍務局長ごときが組閣人事に容喙することを本気で考えてた時点で
山県が作ろうとした陸軍ではない。
鷹司熙通 生没年:1855-1918 ドイツ留学を経て陸軍少将その後大正天皇侍従長
↑この人どう?
497 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 19:52:42
山縣存命ならば、ギロリと伝令役を一瞥し、
「切れ」
と、いうであろう。
498 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 20:51:15
陸軍の派閥なんぞ、もっともらしい理屈いってるが
所詮はどちらにつけば自分の出世に有利かてな程度
長閥と非長閥しかないけどな。
日本陸軍将官総覧は中古さえも売ってねぇ
501 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 00:43:59
>>496 五摂家で職業軍人ってこの家くらいかな?
息子がノモンハンで醜態を晒して停職になったね。
503 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 21:13:44
醜態を晒したはちょっと酷な言い方だったかな。
鷹司公爵の次男鷹司信煕砲兵大佐は野戦重砲兵第7聯隊長としてノモンハンに参戦。
8月下旬敵の包囲下で「書類」の焼却を指示。ところがこれを聞き間違えた部下が
「車輛」の焼却を始め、その煙を狙い撃ちされて、火砲を牽引する術を失ってしまう。
その後残った部下と加農砲1門を引き連れ後方の司令部に出頭するが、
司令部は聯隊長が火砲を放棄して退却したことに怒り、後方での謹慎を命じた。
9月には停職と男爵の礼遇停止の処分を受け、その後予備役に入れられた。
鷹司大佐は、車輛の焼却の混乱以外は何も間違った処置はしてないと述べているが、
例えば小松原師団長は、沢田茂中将の「何か処分しなければならぬ人はないか?」
との問いに、配属の砲兵旅団で、鷹司中佐(大佐)に逃走の嫌疑がある、と答えている。
また飯村中将はその手記で、「日本最高の名門出身の某砲兵聯隊長の自刃近しとの
報に接し、アノ人もかと思ってハラハラしたのであったが、幸いにも無事であったので
胸をなでおろしたことを、覚えている」と書いてる。
>>503 d
どうやらあまり優秀ではなかったようですね
505 :
山縣は逆賊:2005/07/13(水) 22:24:26
孝明天皇を毒殺して幼い明治天皇を手中に収めた陰謀の薩長は無能の集まり。明治新政府で猛威をふるった山縣の軍が野望を求め第二次大戦で日本を壊滅させた!今日の日本の姿は全て明治維新の無能な薩長のおかげだぜ。
506 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 23:37:48
小松原は鷹司と井置中佐を並べて指弾してる。
もし鷹司が超名門の出でなければ、恐らく井置中佐と同じ運命を辿っただろう。
>504
そもそも「野戦重砲兵連隊」が包囲されるような状況を作り出した、小松原中将
自身も含めた司令部の「優秀でなさ」の方が問題何じゃないだろうか。
508 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 00:27:14
小松原の井置中佐に対する言い草も酷いもんだよ
「僕の部下は、あの困難な状況に於いて、不束な僕の指揮に従ってよく働いてくれた。
ただ一人、捜索聯隊長に問題があったが、同期生が詰め腹を切らせて、表面きれいに
済んでおるから、これには触れたくない」
>>496 階級が少将までって中途半端だな
この人の家柄、門地があったら大将までいっておかしくないと思うが
510 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 16:25:51
>>509 親補職の師団長にはできないような人物だったんだろう。
511 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 17:36:14
いくら五摂家とはいえ、それだけで大将までなれるほど甘くないよ。
まあこの人の場合、佐官時代侍従一筋で、少将進級と同時に後備に入り、
その後も宮中に仕え続けたかなり特殊な人物だけど。
余談になるが、軍人華族の2代目は大佐、少将くらいが多い。
寺内家みたいなのは例外的。
512 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 17:52:10
>>511 反長閥のムードの中で、長州出身者の陸大入学を阻止したりしたこともあったようだから、
埋没した人も多かったんだろう。
513 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 20:03:06
長州云々はあんま関係ないね。軍隊は世襲制じゃないってこと。
親 子 孫
公爵 大山 巌元帥 柏少佐
侯爵 西郷従道元帥 従徳大佐 従吾大佐
伯爵 奥 保鞏元帥 保夫少将
寺内正毅元帥 寿一元帥
長谷川好道元帥 猪三郎少将
子爵 大島久直大将 久忠大佐
大島義昌大将 陸太郎少将
川村景明元帥 景一大佐
高島鞆之助中将 友武中将
立見尚文大将 豊丸大佐
谷 干城中将 儀一少将
西 寛二郎大将 勝男大佐
山口素臣大将 十八少将
男爵 浅田信興大将 良逸中将
上田有沢大将 兵吉少将
安東貞美大将 貞雄大佐
木越安綱中将 専八少将
永山武四郎中将 武敏大佐
井田 譲少将 磐楠少佐 正孝中佐
514 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 17:31:07
井田磐楠 ウィーン生まれの右翼政治家。戦犯として巣鴨に入った。
爵位を継いだ正孝は宮城事件など終戦時のごたごたを語る上では欠かせない人物。
養子だったので戦後は生家の岩田に復姓、電通で重役になった。
まだ御存命なのかな?ちょっとググったけどわかんない。
515 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 18:08:59
長州閥というのは別に世襲をいうのではないだろ
山形有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一と続く陸軍軍政の独占を指すはず
だが、上原勇作の登場で、長州閥の終焉を迎えることになった
516 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 18:11:22
山形有朋⇒山県有朋
517 :
513:2005/07/16(土) 19:07:52
よく考えたら谷儀一少将って血筋的には孫だったわ。
世襲云々というのは、偉いさんの息子だからといってすいすい出世できるわけじゃない
という意味で使ったわけで。
二世があんまり大成してないのは、反藩閥感情に邪魔されたというのも
まるっきりなくはないだろうけど、それより本人の性格や能力に因ると思うのです。
518 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 19:16:25
同等の能力なら力のある派閥に所属してたほうが有利だが、明らかに能力が劣る人間が
出世できるほど世の中甘くはない。こうしたことが行なわれる組織はいずれ衰退する
かの東郷元帥の息子(実)だって特務艦長や地方の人事部長で退役(少将)
519 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 21:08:07
寺内の息子みたいな明らかに無能な人間が何で出世できたんだ?
へー
陸大の成績はわるくないんだなあ、これが>寺内
>>519 二二六後の粛軍で上がいなくなったから、と誰かが書いてたな
粛軍人事をするために陸相になった。
そのお陰で出世出来たのは東條。
>>519 昔のスレのコピペ
寺内寿一
若い頃には放蕩者で、正毅の嗣子でなかったらまあ少将どまりと見られていた。
彼は生来ののんき者というか、伯爵家の坊ちゃん育ち、部内にどんな風が吹いていようが自分に対してどんな冷や飯を食わせようが、超然として酒を飲んでいた。
まあ、毒にも薬にもならないからと、皇道派時代でもあえて首にはしなかったのだ。
他人の邪魔をしたり、何かの野心を持たずにいれば、かえって生き延びられるものだ。
あくせくして上手に立ち回ろうとして、足をすべらして、どんどん転落していく者が出てくるので、いやでも順番が回ってきて第四師団長になった。
第四師団長もまあどうにか勤めたから、もうこれ以上は現役軍人として望むところはない。もとより元帥や大将になろうという野心はない。
昭和九年八月の大規模人事異動で、今度こそ自分の番だとお別れの宴を開くことにし、招待状に日付を書き込むばかりにして待っていると、台湾軍司令官に転補されることになった。
これですっかり運命は一変して、やがて大将になる。
軍司令官から軍事参議官として大礒の自宅に悠々自適しているうち、二・二六事件が起きた。
一番遠隔の地大磯にいた寺内が、参内将軍第一着となり、真崎から不審をもたれる一幕もあって、今度は陸軍大臣になった。
全くついていたというほかはない。
高宮太平、「昭和の将帥」より。
525 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 21:19:57
宇垣「私が陸相時代軍の定期異動で寺内の予備役入りを決めたが、彼は陸軍の
大先輩の跡取りだから、辞令だけでは失礼と思い本人を呼んで”君は伯爵だ。
此の際後進に途を譲り義兄児玉伯と共に、貴族院議員でお国に御奉公してはどうか”
と、勇退を求めた。彼はうなだれて『私の無能は存じて居りますが、私は世間で申しま
す襁褓のうちからではなく、母の胎中にいる時から陸軍の飯を戴いて居りましたので、
任地は由良でも澎湖島の要塞でも結構です。どうか一生陸軍に置いて頂きたい』と
神妙にいうので宋襄の仁も手伝って馘首は引っ込めた」
寺内正毅は、宇多田正輔の3男で、宇多田正毅と言ってた。母の実家の寺内家を継いだ。
そう、あの宇多田ヒカル一族だよ。
ちなみに、宇多田ヒカルの祖父の宇多田二夫は、東京外国語学校(現東京外国語大学)を出ると英語力と一族(寺内寿一)のひきで南方総軍の情報将校となった。
527 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 21:58:47
最悪の大元帥は昭和のテンコロ(w
>>526 寺内の生家が宇多田家というのは知ってたけど、
それが宇多田ひかるにつながるのは知らなかった
一つ勉強になりました
初めまして、ここで質問していいかどうかもわからないのですが
失礼を承知で質問させてください。
旧日本陸軍の少将、中将というのはどういった立場だったんでしょうか?
自分の家系がそういうものだとつい最近知ったのですが、どうもピンとこなくて…
ここに書き込みをしている皆さんなら詳しいかと思いまして。
よろしかったら教えてください。宜しくお願いします。
少将・・・勅任官二等 (正五位)
官衙では陸軍省局長、参謀本部部長、教育総監部部長など。
軍隊では旅団長、独立兵団長、師団附、軍参謀長など。
そのほか学校長や学校幹事、兵学教官など。
官衙に於いては、事実上陸軍を動かす立場にあるが、軍隊に於いては
中将と大佐に挟まれた比較的中途半端な階級。
エリート軍人にとっては中将大将への過程に過ぎないが、無天の軍人に
とっては終着点。少将進級と同時に待命というケースもある。
中将・・・勅任官一等(従四位)
官衙では陸軍大臣、陸軍省次官、参謀次長、教育総監部本部長、航空本部長
各兵監、憲兵司令官、学校長其の他色々。
軍隊では師団長、軍司令官、方面軍司令官、軍参謀長など。
上は大臣方面軍司令官から下は要塞司令官まで幅広い階級。
>>530 少将中将がどういうものが分かってない人に
「無天」「待命」だとか言っても分からんだろう。
参謀本部部長や教育総幹部部長も同じくその要職たるを
知らなければ「部長程度なの?取締役クラスじゃなくて?」ってなもんだ。
分かりやすく説明するのは相当難しいと思う。
>>496の人は日露戦争ではどういう職務にあったの?
>>531 現代の企業にたとえると
代表取締役会長=大将
代表取締役社長=中将
代表取締役専務=中将
取締役専務=中将・少将
取締役常務=少将
取締役本部長=少将・大佐
取締役部長=大佐
536 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 00:22:56
一口に少将といっても、まさにこれから陸軍を背負って立とうかという前途洋洋たる人
もいれば、これから第二の人生どうしようかなあという人もいるわけで。
537 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 00:33:42
陰謀の山縣が創立した軍隊は約80年で壊滅した!薩長は陰謀を企てて明治維新を成し遂げた賊軍である。
>>536 そういうこったな。
「少将が最終到達点なのか」「少将は中将・大将へのステップなのか」
人によって違うからな〜
中将にはなってもそこが最終到達点の人もいれば
更に大将への進む人もいるしな〜
540 :
531:2005/07/21(木) 17:28:32
お答えいただきありがとうございました。
なんとなくつかめたような気がします。
曽祖父は戦死してしまったので中将止まりでしたが、それでも立派だったと思えます。
542 :
531:2005/07/22(金) 09:22:06
第二師団の仙台夜襲師団だった方です。
なるほど。ガダルカナルで高熱を押して夜襲をかけた方ですか。
>>543 あれはご本人にとってはツキがなかったですな。
戦死という結果に変わりがなかったとしても、健康で存分に戦わせてあげたかった。
とは言え、あの職は何か中途半端な感じがしますね。後には職を置かない師団も増えていましたから。
日本陸軍将官総覧持ってる人いる?
欲しいんだけど、なかなか見つからん。
546 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 13:37:49
あれは全部載ってない本なんだよね
548 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 09:39:27
海軍は充実しているんだけど陸軍将官のキャリアが載っているサイトはないんだよな
今日行った古本屋に、偕行社の会員名簿(昭和51年)が
あったので買っておきました。
経理学校出身者らしき方から入荷した関係書籍数冊の山から
見つけました。経理学校出身者名簿他もありましたが、さすがに
食指動かずそちらはスルーです。
550 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 01:21:55
俺ほしいかも。
どこの本屋すか?
いいにくければ地域だけでも。
551 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 03:21:45
文●堂?
552 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 04:36:43
田中隆吉といえば愛人の川島芳子タンだな。
田中隆吉著作集では、芳子の方から自分に迫ってきたと書いているが、
楳本捨三の本では、田中が芳子を手篭めにしたことを別の軍人に得意げに話していたらしい。
どっちが真相なんだか。
村松梢風の文章には、芳子を怒らせた田中が土下座していたのを見たという。
田中の方が芳子に粘着していたな。
553 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 07:02:38
悪名高い関東軍の創立者は?
554 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 07:40:54
明治天皇
隆吉はその後芳子を多田駿に預けた。多田と芳子が男女の仲だったのかどうか
本当のところはわからんが、芳子は多田をパパと呼んでた。
多田が北支那方面軍司令官時代、芳子も北京に戻っており、このとき随分
多田の威光を利用するような言動を為して、北支の一部日本人の顰蹙を買ってた。
556 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 08:44:05
明治天皇は薩長に利用された?
557 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 09:56:09
ノモンハンの死者がソ蒙側が日満側を若干上回ってた事実と、ウェデマイヤー将軍などが日ソ戦日本側に成算あり、みたいな見方を総合すると、小畑敏四郎将軍が関東軍司令官で日ソ戦やったなら、良い展開になったんじゃないかね?
558 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 10:39:15
山縣が軍隊創立した人?
>>558 山縣と言うより大村益次郎。
大村が基礎を築き、山縣や大山等が発展させた。
560 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 11:09:58
薩長の指導者が創立した帝国陸軍は素晴らしい軍隊?
隊付青年将校運動について教えて下さい。
2.26事件って、実質磯辺浅一のオルグだと思うけど、天保銭組への反感も
あったって本当ですか?
(出典 松本清張のあれ)
562 :
日本@名無史さん:2005/08/08(月) 12:32:41
薩長閥を中心とする明治新政府は明治天皇を大元帥陛下にまつりあげ近代国家軍国の道を歩み始めた。
大村益次郎の御親兵制度だっけ?
>>561 人それぞれとしかいいようがない
末松太平の本とか読むと少しは見えてくるんじゃないか
565 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 18:29:14
山口一太郎大尉について、教えて欲しいです。
彼は、226の時、決起したのですか?
処刑はされてないように伺うのですが…。
起訴されてもいないけど、当番司令の時、確か警視庁あいてに突貫突撃訓練
やらかして抗議受けていなかったか?
山口は事件当時、週番司令で、部隊の出動を見逃してる。
その後、舅に働きかけたり、戒厳司令部で熱弁を振るったりと。
無期禁固の刑を受けるけど、割合早くに出獄してる。
まあその能力が重宝されたんだろう。帝大理学部出てるからね。
568 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 21:55:05
ものすごく初歩的な質問なんだけど、
階級(といっていいのか?中尉とか大尉とか、大佐とか大将とか)
というのはどうゆう風にして、上の階に上がれるの?
年齢とか関係あるの?それとも、成績みたいなもの?
569 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 23:48:56
>>568 進級には停年による進級と抜擢による進級の2種類がある。
停年補徐は、進級に必要な実役停年を超えたものを順繰りに進級させるもので、
抜擢補徐は、進級に必要な実役停年を超えたものの中から選らんで進級させるもの。
各階級ごとの進級に必要な年数(実役停年)は、武官進級令で定められており、
例えば大正5年改正の陸軍武官進級令によれば、各階級の進級に必要な実役停年は
少尉-2年-中尉-2年-大尉-4年-少佐-3年-中佐-2年-大佐-2年-少将-3年-中将-4年-大将
となってた。しかし実際は定められてるよりも長くかかる。特に平和な時代は前が詰まってる
ため、大尉あたりで7、8年は当たり前。そのほかにも内規が色々ある。例えば、少将になる
には佐官時代に2年以上隊付をしていなければならないとか。中将候補の少将を集めた
将官演習旅行なんていうものもあった。
少尉から中尉への進級は2/3が停年、1/3が抜擢、中尉から大尉へは停年と
抜擢が半々。大尉から少佐、少佐から中佐、中佐から大佐への進級はすべて抜擢人事。
大佐から少将、少将から中将、中将から大将への抜擢人事は明治天皇に禁じられていたが、
支那事変拡大にともない、少しずつ行われだした。
抜擢を受ける材料としては、やはり陸大を出たかどうか、出たなら其の成績だろう。
天保銭は、大尉或は少佐進級時に、無天の同期生より先に抜擢を受け、
先輩の無天すら追い抜いて進む。
補足
・砲工学校高等科を卒業したものも、陸大卒業者と同等の抜擢を受けた。
・大佐から少将への進級年限は2年と定められていたが、通常は6年くらいかかった。
少将進級見込みの無いものは、4年で予備役となっった。
・明治天皇が将官への抜擢を禁じたのは、「団隊長ともあろうものが、後輩に追い抜かれて
は、恥ずかしくて職に止まれないだろう」という配慮からであった。
・中将から大将への進級は内規で6年と定められていた(進級令では4年)が、東條を
大将にするために5年に短縮された。
>>571 萱場製作所技術部長
青江舜二郎の『石原莞爾』には昭和13?年頃には新京に姿を見せたと書いてある。
梅津美治郎って日記とか回想録の類残してたっけ?
>>573 例え残していたとしても、遺族が公開しなければ我々が見ることは無理。
高松宮日記も危うく宮家の倉庫内で朽ち果てるところだったし。
575 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 16:42:51
質問です。一等兵や二等兵といった人たちと
少尉や中尉などの将校はどう違うのですか?
また、二年兵や一年兵、などは徴兵令で入ってきた兵隊達をいうのですか?
徴兵令は、昭和初期(特に226の時)には
どのように行われていたのでしょうか?
全ての人が、徴兵令に行っていたのですか?
知識が乏しくてすみません;
578 :
日本@名無史さん :2005/08/17(水) 21:54:56
香川敬了って三菱財閥下の企業経営者は桓武帝後裔ってこともあって、献金で陸軍中佐の地位を金で買った。五代財閥も同じ。
579 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 22:25:23
>>573 海軍のA級戦犯で死刑が確実であろうといわれた嶋田繁太郎元海軍大臣は、詳細な日記を付けていたという。
しかし、意外にも終身禁固になり、陸軍関係者の怨嗟の的になった。
したがって、戦後死ぬまで嶋田は沈黙して、遺族も、そんな嶋田の気持ちをおもんばかって日記を公開していない。
公開すれば、昭和史の貴重な資料になるといわれ続けている。
580 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 11:15:08
香川敬了は帝国大学でてるしね。世界恐慌の一ヶ月前に三菱財閥入るとかけっこう頭良いし。
581 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 22:35:39
終戦後の経営者とかってどうなったのかね?満州五代財閥とか
582 :
名無し:2005/08/20(土) 22:04:30
敬了日記って香川敬了が書いたの?あれって自分的には公開されてりゃ世界的だったんじゃないかと思う
583 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 22:17:35
敬了日記(上・中・下)綿糸会社設立→ホワイトスターライン社の視察→陸軍参入までの個人記録。
584 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 22:19:25
タイタニック号の図面や軍人の個人情報など貴重な情報が書かれた。自分の鉄工会社や綿糸会社などの4つの会社の記録から大陸料理や軍隊料理なども書かれていた。自身がシベリア抑留されると執筆中の下巻が行方不明に。上中巻は経堂の屋敷で勲章国債と共に妻に焼かれた。
585 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 22:20:52
現在、焼け残りを保管した女中頭付きの沼なる人物が5ページ分の写本を保管している。
586 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 22:22:19
連書き失礼。私の大学に写本のコピーがあった。でも一般公開はしていない。
587 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 22:28:19
ちなみに沼なる人物は現在70〜?公開しない理由は8年前までお仕えした敬了の息子さんに義理立てしているらしい。なお内容も重要でないとか。
588 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 22:40:32
12月14日 今日は赤穂浪○討ち入りの日である。私も久々に歌舞伎が見たくなった。
高級参謀が連日会議を開いている。戦況は芳しく○いようである。我国の国力は拙い。
軍人には国家計算は出来ないようである。○給品も益々粗悪になってきた。
奸臣達にいくら進言しても日露戦争の話を持ち出す。
おそらく今年の3月には満州撤退命令が下るであろう。内閣がまともならの話であるが。
589 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 23:28:02
5月○○日 満州に来て一ヶ月余りが過ぎた。毎日執務室詰めで仕事も事務が中心である。
たまに本庄氏が来て世間話をする。平時の高位の軍人は案外暇なのだろう。
街では抗日騒動が頻繁に起こる。旅順工場からの書簡で船が抗日騒動で燃やされたと聞いた。
早く日本に戻りたいものである。
教育係の士官が下兵を憂さ晴らしに罰棒で殴っていた。軍規は乱れている。
私は遠縁ではあるが皇叔であり本庄氏や敬三先生の後盾があるので士官は細かい事を言わない。
○原中将に頼み韓国の内侍日誌という王朝の秘文書写本を閲○させて○○た。
以○にその内容の一部を書き記す。
590 :
日本@名無史さん:2005/08/21(日) 01:12:22
>>575 >>577 日本陸軍では「一年兵」とは言わず、「初年兵」と言う。
初年兵は普通、入隊して半年、訓練の成果を見る「一期検閲」があり、
殆どの初年兵は二等兵から一等兵に進級する。つまり一年たって進級
するのではなく半年で進級する。その時点で二年兵の一等兵と初年兵の
一等兵が出来、やがて二年兵は半年がたてば約半数が上等兵に進級して
無事除隊していく。
591 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 22:23:10
質問。
226決起将校の、河野寿大尉と竹島継夫中尉は
同期生(40期)だと伺いますが、
226事件当時、大尉と中尉で階級が違いますよね。
どのような違いから、こうなったのですか?
(質問がおかしくてすみません。)
河野さんが航空兵だからです。
593 :
日本@名無史さん:2005/08/27(土) 09:28:47
鈴木貞一について教えて下さい。
母方の祖父の叔父にあたると聞いて驚いているんですが、本当なのかよくわかりません。
戦前祖父が非常にお世話になったそうですが、祖父のほうが先になくなり、話も全く聞けずじまいでした。
母方は千葉の芝山、成田に親戚が多く鈴木貞一も戦後は成田で蟄居していたそうなので
本当のような気もします。
鈴木貞一氏の兄弟や親戚、戦後のことなどどなたかご存知であれば教えて下さい。
>>593 平成元年まで生きてらっしゃったんですから、お祖父さん以外にも
知ってる親類の方はいらっしゃるんじゃないですか
法事の時にでも聞いてみたら?
595 :
日本@名無史さん:2005/08/28(日) 18:31:02
hayakusine
596 :
日本@名無史さん:2005/08/29(月) 20:14:40
秩父宮って王位簒奪を狙っていたって本当ですか
秩父宮最強伝説
599 :
日本@名無史さん:2005/09/02(金) 17:41:58
有末精三が糸引いてたんでしょ?
なにかと
>秩父宮
600 :
日本@名無史さん:2005/09/02(金) 19:20:44
結核を口実に御殿場の別荘に押し込め。紀元2600年の奉祝式典でも
天皇陛下万歳の音頭も弟の高松宮が・・・・・・・
601 :
日本@名無史さん:2005/09/02(金) 19:23:15
結核を口実に御殿場の別荘に押し込め。紀元2600年の奉祝式典でも
天皇陛下万歳の音頭も弟の高松宮が・・・・・・・
秩父宮殿下は安藤輝三大尉と親しかった。
だから、2・26事件後、青森から上京した時も宮中や軍部は困惑したようです。
本人は、どんな意図で上京したんでしょうね。
当初は、本気で反乱軍の頭目になるつもりだったんでしょうか?
反乱将校のクーデターが失敗に終わった場合の処置を少しでも軽くできたら良いなぐらいの気持ちでしょ。
そんな心持ちなら叛乱将校に「腹を斬れ」とは言わんでしょう。
605 :
日本@名無史さん:2005/09/12(月) 07:13:23
担ぎあげるとしたら誰がやるの?
606 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 08:03:53
北一輝
西田税
607 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 06:23:20
西田が秩父宮と同期で繋がっていたんじゃなかったっけ?
608 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 10:11:46
若殿に兜取られて負け戦
609 :
日本@名無史さん:2005/09/21(水) 00:12:21
有栖川宮熾仁親王は戊辰の役のとき、東征大総督であり、
西南戦争や日清戦争にも功績があるにも関わらず、元帥に
なってないのですか?誰か教えて!
610 :
日本@名無史さん:2005/09/21(水) 00:52:55
日清、日露は薩長が多いが、第二次世界大戦はどうだったのかな。東条は違うし、
やはり薩長じゃないから負けたのかな。
611 :
日本@名無史さん:2005/09/21(水) 05:09:11
山下奉文も事件のあと、陸相官邸に集められた決起将校らに暗に自決するよう示唆したため
事件前は煽ったり同情していたくせにと山下に将校の多くは腹を立てていた
>>609 元帥府条例が制定される前に亡くなったからでしょ
>>612 ですな。
熾仁親王薨去は明治28年。
元帥府條例公布は明治31年。
あと3年生き永らえておれば・・・。
黒木為もとも、元帥になっていないな。
615 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 22:49:13
age
黒木は過小評価されている気がしてならんのだが
有名じゃないし…
617 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 13:37:53
野津兄弟は?
618 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 08:41:20
619 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 17:08:11
失脚した小澤の風貌がいかにも歴戦の将軍・・・
620 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 16:36:49
武雄か・・・曾我スケノリも味がある
621 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 11:59:50
野津弟は一見優男
しかし実際は鹿の血を、精がつくといって飲む人
622 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 17:11:22
日清戦争のさなかの、真冬の朝鮮半島で、水浴びしてたヒトですね・・・
そのシチュエーションにはもしや福島安正が…。
624 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 20:43:18
野津兄は田原坂で酒樽ぶち抜いた話しか知らんわ
自民党の加藤紘一が石原莞爾と親戚だと読売の特集記事で読みました。
びっくりです
627 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 10:39:03
加藤の乱で泣きながら加藤止めてた谷垣大臣は影佐禎昭の孫らしいね
近代史板でやれよ。
629 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 11:11:34
帝國陸軍は全てカス。 山縣が日本をメチクチャにした。
630 :
熊沢:2005/12/11(日) 11:35:49
そやそやワイがミカドやったらあんなことにはならへんかった
631 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 11:56:43
熊沢天皇万歳!
633 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 05:14:10
おいおい実はな…。
カシミールはインドとパキスタンだけでなく、中国も領有を主張しているのだぞ。
それでころか、インド領チベット人地区も狙っているのだ。
なぜなら、そこに化石燃料を見つけたから。
あぁ、恐ろしや、恐ろしや。
中国って本当に怖いね。
634 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 00:29:39
>>491 陸軍パンフレットは永田鉄山のかばん持ちで当時軍事課政策班長だった池田純久の手によるもので、
社会大衆党書記長麻生久の右腕、亀井貫一郎が作成に参加している。
三月事件のとき、永田鉄山は亀井を協力者としたクーデター案と書いており(何とかごまかした)、
麻生と亀井は統制派の重要な協力者の一人だった。
永田が殺されたとき、血の海に横たわる永田を抱きかかえたのが池田純久と武藤章だった。
635 :
;:2006/01/08(日) 12:05:47
>>634 3月事件の予定として.赤松克麿と亀井貫一郎は総同盟の組合員をして
国会に乱入し国会を占拠するつもりだった。
636 :
634:2006/01/08(日) 19:44:06
というか、亀井に陸パン起草への参加を求めたのが永田だったようだ。
>>634 >亀井貫一郎が作成に参加している。
それ、亀井貫一郎以外の証言あります?
どうも眉唾だと思ってるんだが。
>>637 一次資料での証言と言うことではよくわかりません。
他政党が陸パンに反対するなか、社大党の麻生久らは支持に回っていたようだから、
自分としては別に不自然とは感じなかったんで特に探してみようと言う考えもありませんでした。
どこら辺が眉唾ですかね?
639 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 10:09:43
だから近衛(文麿)擁立運動をいうのはわれわれのグループにおいては合法的にいく場合もある。
非合法でいく場合もある。いずれにしても近衛でいく…。
永田(鉄山)の在世中、議会、政党、軍、政府の間に、両院議長が、
つまり近衛が貴族院議長で、秋田が衆議院議長で、それが立会人となって覚え書を作ったんですよ。
…われわれの軍内の味方はある意味においてカウンタークーデターを考えておったのです。
だから右翼は右翼でクーデターを考えてもよい。
どっちのクーデターが来ても近衛を押し出そうと、ここまで考えていたということが永田が殺された原因の一つですね。
(亀井貫一郎談話)
640 :
637:2006/01/12(木) 12:41:26
>>638 レスがすっかり遅れてすみません。
ちょうど
>>639 で引用されてる部分に関しし、塩崎弘明氏は、
「このような亀井の『証言』には多分に思いこみがあるといわねばならぬ」
と評されてます(『国内新体制を求めて』p..23)。
亀井はそこで言及されてる新庄健吉や、内務官僚の加藤祐三郎を、
非常に近い同志としていますが、
塩崎氏の言うようにそのような実体は資料上確認できません。
亀井と永田の関係も、亀井の証言以外には見当たらず、
些細な接触をかなり大げさに述べたものではないだろうかと思っています。
>>640 レスありがとうございます。
塩崎氏の本を見てみようと思います。
642 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 01:13:32
有名軍人の子孫が有名人って例を教えてー
643 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 04:38:31
上原勇作の子孫が加山雄三
644 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 06:31:40
それはガセ。上原謙は芸名で本名は池端。
645 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 10:26:21
山屋他人大将(連合艦隊司令長官)と江頭安太郎中将(海軍省軍務局長)の
曾孫が現皇太子妃雅子。
646 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 10:34:47
やっぱり海軍が日本を滅ぼすということね・・・
東條英機の曾孫は国分佐智子
石原莞爾(1889〜1949)
帝国陸軍中将・参謀本部作戦部長、第16師団長
>満州事変では1万の関東軍を指揮して30万以上の張学良軍相手に圧勝。
>事変を経てその名は世界に知れ渡る。WW2に参加出来なかったのが残念。
この評価が日本人の弱点を端的に表しているね
→「戦術好きの戦略下手」
>しかし彼が招いた大本営軽視の風潮は、その後陸軍の独断専行を頻発させ、
>皮肉にも彼が最も反対していた日中全面戦争、日米開戦の淵源となってし
>まった。さしもの預言者も、“神”ではなかったということか。
>また彼の思想は常人の理解の限度を超えてかなり宗教じみていたが、
>人望も厚く、政治家でもないのに庶民の支持が強い。
>極東軍事裁判でのやり取りでは敗戦国側の証人にも関わらず、
>敵国の判事には尊敬され、石原を追及したイギリス人検事すら
>「馬鹿な尋問ばかりしてすいません」と謝るほど。
>石原の能力・実績のわりに現代での人気がそこまでないのは、
>彼が引き起こした結果責任がマイナスされてのことだろう。
太平洋戦争の「亡国の三傑」と呼ばれてもおかしくない人物にこの評価です
島国の有り難さを肌で実感できますね
654 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 19:59:40
全く・・・石原莞爾は馬鹿だね。有難迷惑の典型だよ。
くたばった馬鹿叩いてもしょうがないけど。
655 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 15:33:55
永田鉄山が殺されてなかったら、以後の歴史は違っていたでしょうか?
石原莞爾は活躍できた。
657 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 04:19:51
2.26あげ。
658 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 21:57:16
うーん
659 :
日本@名無史さん: