◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART9

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1日本@名無史さん
邪馬台国や狗奴国はどこ? 大和朝廷との関係は??
西日本に統一政権はあったか? 統一されたのはいつか??
どのような過程を経てそれらが進行していったのか??

倭人伝の信憑性や如何に? 記紀はどこまで真実を伝えているのか??
最新の発掘状況と最新の資料解釈を元に、古代王権の正体を推理する!!

根拠を明記した意見交換・情報提供・問題提起で活発に議論しよう!!

前スレ
PART 8 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1091455684/
(ただし、スレッド名間違いでPART7となっているので注意。本PART7は以下参照。)
過去スレ
PART 7 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1090293717/
PART 6 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1088171034/
PART 5 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1083108954/
PART 4 http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1078618831/
PART 3 http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1077874356/
PART 2 http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1076418632/
PART 1 http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1045719732/

関連スレ(単なる邪馬台国の場所問題や倭人伝の解釈についてはこちらでどうぞ)
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか13)
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087799602/l50
2日本@名無史さん:04/08/18 16:50
2
3日本@名無史さん:04/08/18 20:15
筑前国の初見は698年であり、
672年5月の郭務宗率いる唐軍撤収のあと、
大和朝廷の筑紫完全支配にともない、筑紫を分けて、筑前国と筑後国を設置したものと思われる。

ここで筑紫君による筑紫支配は終わり、
筑紫に至るまで西日本統一となるのである。

しかし、依然として九州南部は隼人の支配下にあり、
隼人との戦争が始まるのはようやく702年である。

隼人は740年の藤原広嗣の乱へも加担し、これを持ってようやく完全服属となる。
それにより、ようやくこのとき大和朝廷による九州支配が完成となった。
4日本@名無史さん:04/08/18 20:47
邪馬台国って、済州島まではさすがに影響力なかったのかな?
耽羅国だった済州島が、どこに属するか、国境が決まっていく直前の状況。日本が保護すれば日本領となったのにね。

661 耽羅国,日本に使臣を派遣。
666 耽羅,日本に使臣を派遣。
667 耽羅,日本に王子である故如を派遣,貢献する。
669 耽羅,日本に掾磨を派遣,貢献。帰国の時に錦,纈,紺布,桃染布,斧,月子等を得てくる。
674 耽羅,日本に久麻伎王子等を派遣して貢献。五穀種子を得てくる。
676 耽羅,日本に王子である久麻芸,都羅,宇麻等を派遣,朝貢を捧げる。日本に調使として久麻伎を派遣。
677 耽羅王姑如,日本で難破(大阪に到着)。
678 日本,耽羅の客人に船一隻を遣る。
679 耽羅,日本に都羅王子を派遣,朝貢を捧げる。耽羅人(都羅王子),日本から帰国。
685 高句麗と耽羅に派遣されていた日本の使臣が帰国。
686 日本,使臣を耽羅に派遣。
688 耽羅に派遣されていた日本の使臣帰国。耽羅王,左平職の加羅を日本に派遣,朝貢する。
693 日本,耽羅の使臣たちに宴会を開く。
5日本@名無史さん:04/08/18 21:16
ペルシャ帝国の遺民(トカラ人)が、
654年、657年、659年と三度来日、
彼らはゾロアスター経やキリスト教を信じていた
斉明三年(657)七月十五日 須弥山を築きトカラ人を饗応。
6日本@名無史さん:04/08/18 21:18
このスレッドには小林恵子と某国工作員、西都厨=古田信者=アズマ
の立ち入りを禁止します。

(西都厨=古田信者=アズマ隔離スレッド)
九州王朝はなかったのか?※ 9
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1081624257

(小林恵子と某国工作員隔離スレッド)
【古代史電波】小林恵子の妄想を語ろう
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087908201/l50
朝鮮人が日本を作った可能性は
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1057493325/l50






7日本@名無史さん:04/08/18 21:20
このスレッドには小林恵子と某国工作員、西都厨=古田信者=アズマ
の立ち入りを禁止します。

(西都厨=古田信者=アズマ隔離スレッド)
九州王朝はなかったのか?※ 9
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(小林恵子と某国工作員隔離スレッド)
【古代史電波】小林恵子の妄想を語ろう
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朝鮮人が日本を作った可能性は
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8日本@名無史さん:04/08/18 21:21
879 :日本@名無史さん :04/08/16 18:06
白村江の後に九州が唐に占領されたという説は、古田氏じゃないよ。
小林恵子っていう在日のキティガイ女が唱えている説だよ。

昔、「万葉集は韓国語で読める」という本を出した藤本という女が
いたけどこれは、実際は政治活動の一環で総連が4人くらいで
分担して書かせていたとのこと。
これもおおかたその類だろう。






9日本@名無史さん:04/08/18 21:22
魏の明帝は景初三年正月に死去。
皇帝が死ぬと通常は翌年正月元旦に改元。
ところが翌年正月元旦が明帝の一周忌の命日なので改元できない
よって景初四年正月元旦になると誰もが思っていた。

ところが景初三年十二月になって明帝の後を継いだ少帝齊王芳は、
景初四年正月となるはずだった翌月を景初三年の後十二月として
一周忌の命日を済まし、さらに翌月を正始元年の正月にするという詔を発した。

つまり、このぎりぎりになって発された詔が広まるまでは、
景初三年後十二月を景初四年正月だと思われており、
正始元年正月を景初四年二月だと思われている状況となったのである。
このように、景初四年銘が存在する理由として日本に関係なく確立されている。

事情を知らなければ、景初四年とあるだけで日本産だと主張する者も出よう。
10日本@名無史さん:04/08/18 21:23
卑弥呼の同時期に、考古学的に、畿内においてもある程度の勢力があったのを前提。

・九州と畿内の認知交流あり派

当然、互いになんらかの直接あるいは間接な交流があり、認知しあっていたとする。
したがって、畿内説であれ九州説であれ、畿内勢力が魏志倭人伝中の国として登場。
どの国を畿内勢力とするかで、諸説に分かれる。

・九州と畿内の認知交流なし派

例えば、邪馬台国が畿内の勢力と直接の交流などなく、正確に認知できてないとする。
よって、魏志倭人伝の中に、畿内の勢力に該当する国が出てこないのもやむをえない。
しかし、裸国に至るまで数々の国々が掲載される中、なぜ、認知・登場しないのかが重要ポイント。
11日本@名無史さん:04/08/18 21:26
そうそう、「大和国」の領土ですが、日本書紀にはっきりと書いてあります。
敏達天皇13年(584)に、兵庫県(播磨国)は外国だったことが書いてあります。

畿内説の人には、584年に畿内王権が、兵庫県以西を領有していないことを
はっきりと認識していただきたいのです。

高句麗好太王の碑に出てくる「倭」は畿内だと、安易に主張されるので困ります。
12日本@名無史さん:04/08/18 21:27
887 :日本@名無史さん :04/08/16 20:22
たぶん、小林恵子は、

「頑固で保守的な日本の学会は、ワタクシのすばらしい理論を不当に無視して
 いるが、ネットではワタクシの理論を巡って熱い議論が闘わされている。」

とか次の著作で書きたいんだろ。
相手にしない方がいいぜ。


13日本@名無史さん:04/08/18 21:30
なんで西都厨がここにいるんだ?
14日本@名無史さん:04/08/18 21:32
サイト君は入院加療中だと思います。
15日本@名無史さん:04/08/18 21:33
>畿内説の人には、584年に畿内王権が、兵庫県以西を領有していないことを
>はっきりと認識していただきたいのです

11は朝鮮人。キムチ臭えから来んな。

16日本@名無史さん:04/08/18 21:33
そういえば、宮内庁管理の古墳が、なぜか南九州にあるんだってね。
宮内庁には、真実の歴史が伝わっているってことになるね。
17日本@名無史さん:04/08/18 21:35
>14

9〜11は西都厨そのものじゃん。
18日本@名無史さん:04/08/18 21:40
>>17
なんで、>>9の、魏における、景初三年後十二月の挿入という史実のはなしが、
西都厨になるんだ?? アホなこと言ってずに、ちゃんと議論しよう。

鉄の権利把握と国際状況が重要だと思うぞ。
19日本@名無史さん:04/08/18 21:40
16の西都厨は君専用のスレッドに帰りなさい。
20日本@名無史さん:04/08/18 21:42
>>19
おいおい、>>16のいう宮内庁が管理している古墳は鹿児島県だぞ。

西都厨が主張しているのは宮崎県だろ。

南九州というだけで、えらい違うのを、全然区別できてないほど地理に疎いのか??
21日本@名無史さん:04/08/18 21:46
>16
アホか、お前は。
そんなことは誰でもしっとるわ。
22日本@名無史さん:04/08/18 21:48
朝鮮人が一匹いるな。
23日本@名無史さん:04/08/18 21:49
前スレでもそうでしたが、以下のキーワードを使う人は、スレ嵐です。

 古田信者、小林恵子、西都厨、アズマ、朝鮮人、…

特にひどいのが、>>6>>7 などの立ち入りを禁止しますコピペ。
ここ最近ふえはじめたのが、>>8>>12 などの、小林恵子アンチ。
って、ここには、デンパな小林恵子の主張してるやつなんて、いないのに・・・
24日本@名無史さん:04/08/18 21:50
>>11
外国だなんて書いてないんじゃないの? 
違う国主の国だっただけだと思うけど。。。
もともと和国は連合国家形式で各国主の上に
それらを束ねる大王がいた。その大王権争いは和国内であって、
それが近畿と九州だと思う。
強力な単一中央集権国家になるのは中国よりずっと後と思われ。
そこを理解できていないのでは?
25日本@名無史さん:04/08/18 21:51
唐が日本を支配したなど、誰も言っていないし、そこまで曲解するほうがデンパ。

もちろん、当時の唐は内政から各周辺国との諸問題紛糾で、記録がかなりおおざっぱになってはいるが、
泰山の召集など唐を頂点とする戦後体制作りへ様々な処置を行なっていたのは事実。

そのなかで、白村江で勝利した唐が日本の属国化を試みた種々の処置における、
日本の国内での当時の情勢についてを要点としているのであり、
もちろん最終的には唐は対日本政策どころではなく、
対半島でのあの失敗を招いたため、日本から引き上げているところまでは誰もが認めるところ。

単なる使者派遣で、唐の方から日本へ2000人やってきたり、
船団47艘が来るなど複数回のこれらの行為はかなり厳しい状況を記録している。
さらに、筑紫都督府と日本書紀では明記しており、この当時に唐は、
各地域に拠点として都督府をいくつも設置していたことと完全に整合する。
26日本@名無史さん:04/08/18 21:51
 古田信者、小林恵子、西都厨、アズマ、朝鮮人を入禁スレしたら
ええんじゃないの?
27日本@名無史さん:04/08/18 21:52
>>17
本物の西都廚ってのはな、まともな日本語書けない奴なんよ。
生の文章は、内容以前に文意がハチャメチャで理解不能。
かろうじて、他人の文章をコピペしまくったアラシレスから邪馬台国西都説信奉者であろうと思われているだけ。
28日本@名無史さん:04/08/18 21:53
>>26
いや、マジレスすると、そんなのここにいないのに、
妄想でいることにして、アンチとして、荒らしまくっているだけ。迷惑。
29日本@名無史さん:04/08/18 21:53
>24
24の朝鮮人よ、誰がそんなこと唱えているんだ?
言ってみろ。
30日本@名無史さん:04/08/18 21:53
筑紫君磐井は、九州王朝ではなくて、おそらく5世紀後半の誕生した九州朝廷。
播磨の件はさすがに電波すぎで、大和朝廷は吉備くらいまでは支配していたはず。
白村江の件は、九州朝廷が敗北して唐が一瞬だけ筑紫都督府を設置した程度のみ。

そもそも、日本書紀にある通り、白村江のすぐ前の半島緊迫情勢のときに、
大和朝廷はのんびり蝦夷討伐に大軍勢を繰り出しているありさまで、
半島に面していて危機感ありまくりの九州朝廷が間にいたので緊迫度違いすぎ。

とはいえ、唐が形式だけとはいえ進駐してくると、
あわてて近江遷都など混乱を極めてそのまま天智崩御。
そのまま壬申の乱になってようやく日本はまとまった感じ。
31日本@名無史さん:04/08/18 21:55

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32日本@名無史さん:04/08/18 21:58
>29
こいつ西都厨そのものじゃん。
33日本@名無史さん:04/08/18 21:59
九州独立王朝説も畿内説も九州と戦争状態にあれば畿内の発展は無いということだ
まず対九州戦、西南戦争のような戦史跡も伝承もない、つまり妄想
畿内は明らかに古墳時代発展してるので九州王朝説は破綻
畿内政権誕生の時に九州敵対と考えてる畿内説も破綻

投馬東遷しか残らないな。
34日本@名無史さん:04/08/18 22:00
このスレッドには小林恵子と某国工作員、西都厨=古田信者=アズマ
の立ち入りを禁止します。

(西都厨=古田信者=アズマ隔離スレッド)
九州王朝はなかったのか?※ 9
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1081624257

(小林恵子と某国工作員隔離スレッド)
【古代史電波】小林恵子の妄想を語ろう
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087908201/l50
朝鮮人が日本を作った可能性は
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1057493325/l50








35日本@名無史さん:04/08/18 22:02
電波説で九州王朝に対抗して関東大王っていなかったけ。
36日本@名無史さん:04/08/18 22:03
24早く答えろ。
誰がそんなことを唱えているんだ?
37日本@名無史さん:04/08/18 22:04
ツマ国っていったいどこですか?
38日本@名無史さん:04/08/18 22:05
>>3
とすると、
隼人=邪馬台国説に基づけば、
大和朝廷が邪馬台国を完全に屈服させたのは740年ということになるな。
39日本@名無史さん:04/08/18 22:05

「土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、
細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系
「新モンゴロイド」の特徴がありました。
彼らのルーツを求めて朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、
中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の
人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極め
てよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国
だったのです。」
http://sakezo.com/shumi/rekisi/keta1.html

ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず
ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず
ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず
ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず



40日本@名無史さん:04/08/18 22:06
>>29
何か誤解してるみたいだけど、自分は「大きく見れば、和国はひとつ
だった」と言いたいんだよ。国主間の争いは、外国との争いとは違うから。
41日本@名無史さん:04/08/18 22:07
>>40
その関係っていうのは今の国境を仮定してはダメで、
任那や加羅諸国や百済や新羅までも、程度の違いで同じ延長線上ってこと。

今でいうところの日本国という意識や国境などの概念は、
白村江のあとの混乱期を通して、ようやく形成されたのだと思う。

新羅が任那・加羅諸国の一部を併合しても、その分の調を納めれば許していたし、
百済から任那の一部の併合を求められても、許す程度の意識であった。

仮に九州の一部が唐に一時的に占領されていたとしても、
百済が占領されたのと基本的な意識の差はなく、
ただし地理的な近さという点で、より強く恐れたという感覚であったことであろう。
42日本@名無史さん:04/08/18 22:12
24早く答えろ。
逃げるんじゃねえぞ。
誰がそんなことを唱えているんだ?

43日本@名無史さん:04/08/18 22:13
>>42
帥升・卑弥呼・壱与の首長国連邦は、王位を簒奪されながら九州内部で遷都し、670年ごろまで続きます。
畿内は独自に発展し、大規模な国際戦争から身を避けながら、経済的に九州を追い抜いていきます。
壬申の乱で九州が畿内を乗っ取ります。天武天皇が畿内に新九州王権を樹立したのです。
このとき九州には唐の傀儡政権の残党などが跋扈し、手がつけられない混乱状態のようです。
吉野ヶ里などの旧有明軍への援軍呼びかけ・軍事指令に奔走する状態は、持統天皇時代まで続きました。
44日本@名無史さん:04/08/18 22:13
>その関係っていうのは今の国境を仮定してはダメで、
>任那や加羅諸国や百済や新羅までも、程度の違いで同じ延長線上ってこと。

北の工作員らしい姑息な言い方だね(笑)
45日本@名無史さん:04/08/18 22:15
>>44
いや、任那は日本の直轄地だったわけで、そんな感じだと思うよ。
そもそも、韓国や北の人は、任那すら認めていないようだが。
46日本@名無史さん:04/08/18 22:16

>高句麗好太王の碑に出てくる「倭」は畿内だと、安易に主張されるので困ります。

と総連お気に入りの在日学者が唱えていたことはあるが学会には全く相手にされていません。

工作員には注意しましょう。

47日本@名無史さん:04/08/18 22:17
507年 継体天皇が即位
509年 百済が日本に任那の百済人返還を要求/日本は了承
512年 百済が日本に任那の上多利と下多利と娑陀と牟婁を要求/日本は了承
513年 百済が日本に任那の己文と帯沙を要求/日本は了承
514年 伴跛が帯沙と子呑を占拠
515年 物部連が帯沙を取り戻しに行くが伴跛に敗北
516年 百済が物部連を己文へと助け出し日本へ送還
522年 加耶国王が新羅から嫁をもらう
524年 百済の聖明王が即位
527年 新羅から任那の南加羅と碌己呑を奪還するため毛野臣が出発
527年 妨害する筑紫君磐井を討伐するため物部麁鹿火が出発
528年 筑紫君磐井が敗北
529年 百済が任那の多沙津(帯沙)を再び要求/加羅王は反対するが日本は了承
48日本@名無史さん:04/08/18 22:17
西都はなんで専用スレッドが嫌いなんでしょうか?
49日本@名無史さん:04/08/18 22:19
>>42
九州王朝説のアホが、また人に噛み付いてるな。
お前が書き込むから、良識派の人たちがいなくなることに気付け。
50日本@名無史さん:04/08/18 22:19
あの、Naverで韓国人と討論してたら、韓国人が韓国には13000年前の稲があるといってきました。
学会で認定されてて、新聞にも出てました。
http://j2k.naver.com/k2j_frame.php/japan/news.naver.com/news_read.php?oldid=2001011700000094002&s=757&e=998

これって本当?

51日本@名無史さん:04/08/18 22:20
>>46
高句麗好太王は中国吉林省にあり、韓国とは一切関係がない

桓仁(中国遼寧省)付近を中心に建国されたツングース系の貊族の国家

高句麗の全歴史は一般に次の3期に区分できる。
第1期,卒本時代(中国遼寧省桓仁付近に国都,前37〜後209)
第2期,丸都時代(中国吉林省集安に国都,209〜427)
第3期,平壌時代(427〜668)

中国の史籍に高句麗の名称が最初に現れるのは前1世紀前半,
前漢の第2次玄菟郡(遼寧省永陵付近)の主県,「高句驪県」としてである。
52日本@名無史さん:04/08/18 22:20
>>33
投馬東遷の線はあるな。。。
熊襲タケル→ヤマトタケル
ぁゃしぃ
53日本@名無史さん:04/08/18 22:21
■韓国の捏造(一部)。政府・団体の運営・支援が多いのが特徴。
総合ページ
http://members.tripod.co.jp/koreawatcher/

剣道   >韓国では「スポーツ剣道は日本人が始めたが剣道の起源は韓国にある」という考えが一般的
http://www.geocities.co.jp/Athlete-Acropolis/6963/

茶道   >千利休は朝鮮人、よって茶道の起源・本流は朝鮮にある。
http://members.tripod.co.jp/koreawatcher/docs/jpn1_5_3.htm

居合   >居合道も高麗時代日本に渡っていった我々の剣術に過ぎません
http://members.tripod.co.jp/koreawatcher/docs/ne14.htm

柔道   >記録によると、韓国柔道の歴史は高句麗までさかのぼりますが
http://www.universiade-daegu.org/jpn/information/game.play.12.asp

日本刀  >日本刀はまさにこの技術を我が国から盗み出して伝承しているが
http://members.tripod.co.jp/koreawatcher/docs/w98_9_12.htm

合気道  >合気道は三国時代の新羅三郎 源義光が始祖(勝手に在日認定)
http://members.tripod.co.jp/koreawatcher/docs/hapki1.htm

サムライ >百済武士サウラビの精神が、日本のサムライの武士道の源流(映画化)
http://members.tripod.co.jp/koreawatcher/docs/webzine5.htm

盆栽   >盆栽は中国で始まって韓国で花開いてから日本に渡って行った文化
http://members.tripod.co.jp/koreawatcher/docs/right_m3.htm




54日本@名無史さん:04/08/18 22:22
原田実に降臨してもらって古田信者を退治したら。
55日本@名無史さん:04/08/18 22:23
畿内王権は2世紀にはあったのでしょう。
畿内は緩やかな九州の傘下にいたようです。
紀元前に出雲の緩やかな傘下にいたときのように。

畿内が律令を作り始めたのは、独立してからです。
「評」も「郡」に変えました。通貨も発行しました。
法隆寺も移築しました。すべては壬申の乱以降です。
56>51:04/08/18 22:25
高句麗史が朝鮮史の一部であることは疑いない。
日本書紀でも3韓としており新羅だけでなく3韓すべてが朝鮮民族
の国とみるが妥当だ。
57日本@名無史さん:04/08/18 22:25
>>52
九州からの東遷説はありえないですね。

卑弥呼時代を最期に九州の一地方勢力であった女王国などは弱体化し、
大陸からの御威光も八王の乱などで終局を迎え、交易の旨味も消滅。

一方、瀬戸内から畿内および東海にかけての広範囲において、
大連合あるいは統合といった動きが並行してあったのが、
巻向などの遺跡があらわしているわけで、
衰退した九州を吸収したすぐあとに半島進出となるわけですね。
58日本@名無史さん:04/08/18 22:27
>>56
もし、高句麗が、朝鮮・韓国と不可分な歴史の一部であることになったら、

  ・高句麗の広開土王の有名な碑は、現在、中国の東北部にある
  ・高句麗はもともと、中国の東北部を大きく領有していた
  ・中国の東北部には、現在、朝鮮族が大量に住み着いている

これらより、朝鮮・韓国は、中国の東北部の領有権を大きく主張しうる。
中国の東北部の朝鮮族が、朝鮮民族ナショナリズムを得てしまうと現実的になる。

これは、北朝鮮状況が流動的な中で、中国が最も恐れている懸念事項。
したがって、『高句麗は朝鮮・韓国と不可分な歴史の一部』は絶対認められない。

本当は、高句麗は中国とも朝鮮とも異なる民族で、
中国からは北狄と呼ばれた大陸北方民族の一つが、朝鮮半島へも進出しただけ。
59日本@名無史さん:04/08/18 22:27



なんで古田信者は歴史を捏造するの?
和田家文書だけで十分なのに。


60日本@名無史さん:04/08/18 22:28

>卑弥呼時代を最期に九州の一地方勢力であった女王国などは弱体化し、
>大陸からの御威光も八王の乱などで終局を迎え、交易の旨味も消滅。

おもしろい珍説だね。
61>58:04/08/18 22:30
政治と歴史を混在すべきでないのは確かだ。
しかしその主張は証拠がない。
証拠が必要だ。
62日本@名無史さん:04/08/18 22:32
>>60
北九州が衰退するのは考古学的にも裏付けられているだろ
珍説ではなく有利とされている説のうちの一つ
63日本@名無史さん:04/08/18 22:34
古田氏は、『歴史学研究』『史学雑誌』などの雑誌に論文が掲載されたことは
あるんですか?
64日本@名無史さん:04/08/18 22:35
>>61
高句麗が韓国史ならば、高句麗の後継国である渤海も韓国史なんですか?

渤海は沿海州も領有し、ウラジオストック附近から日本海経由で日本へ遣使していましたが、
韓国史にはウラジオストックなど沿海州も含まれるんですね。

ま、まさか、韓国には、ロシア領までも狙う領土的野心が??
65日本@名無史さん:04/08/18 22:36
このスレッドには小林恵子と某国工作員、西都厨=古田信者=アズマ
の立ち入りを禁止します。

(西都厨=古田信者=アズマ隔離スレッド)
九州王朝はなかったのか?※ 9
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1081624257

(小林恵子と某国工作員隔離スレッド)
【古代史電波】小林恵子の妄想を語ろう
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087908201/l50
朝鮮人が日本を作った可能性は
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1057493325/l50










66日本@名無史さん:04/08/18 22:37
>>33
>畿内政権誕生の時に九州敵対と考えてる畿内説も破綻
>投馬東遷しか残らないな。
投馬って吉備のことか?

>まず対九州戦、西南戦争のような戦史跡も伝承もない、つまり妄想
景行紀に、九州を征伐している記述があるがな。
67日本@名無史さん:04/08/18 22:38
とりあえず、妄想ではなく、当時の文献に記録されてることを列挙です。
各説のみなさんは、以下の状況について、資料や根拠を含めて説明してみてください。

・唐から何度も来る使者はすべて筑紫止まりで長期間滞在も何度もあり
・当時は平壤の安東都護府の下に各地に都督府が設置されている
・劉仁願が熊津都督府の司馬法聰等を筑紫都督府へ遣し、境部連等を送致
・唐から郭務宗が率いる47艘も来ている
 (当時の遣唐使は300人で2艘、白村江の全唐軍は180艘)
・天智天皇崩御が、郭務宗等がいる筑紫に伝わったのは3ヶ月後
・郭務宗へ布綿などだけでなく甲冑弓矢まで届けられている
・この白村江後の混乱期に国号が日本へ変更
・唐書に、日本国はもと小国で倭国の地を併せた、との説が掲載
・筑紫君薩夜麻は白村江後に8年間唐にいた
68日本@名無史さん:04/08/18 22:38
>>56 高句麗史が朝鮮史の一部であることは疑いない。
  ↑
中国人に言わせると、その朝鮮自体が中国の歴史的領土の一部だそうだ。
でもそれは別のスレで中国人とやりあってください。
69日本@名無史さん:04/08/18 22:38
・白村江後に唐は泰山に新羅・百済・耽羅・倭の4国の酋長を召集している
・唐の劉徳高の帰国を送使したとする守君大石は泰山に数ヵ月間に合わない
・そもそも守君大石は有間皇子謀反に加わり上毛野国へ流刑となっている
・白村江後の高句麗から近江政権への遣使は荒れる日本海経由
・唐から筑紫へ続々訪れる中、天智天皇は近江遷都や大和の高安城を築城
・築城者が明記されているのは筑紫と長門のみで百済貴族が築城
・唐書の白村江後には不備が多く占領司令官の劉仁願の流刑なども全て記録なし
・百済滅亡の660年に阿倍比羅夫は東北北海道遠征
・阿倍比羅夫は蝦夷の要請により粛慎を征伐している
・斉明紀と天智紀には重複らしき記事多数(以下以外にも見られる)
 *斉明4年と天智5年に、指南車を作ったの件
 *斉明6年と天智10年に、漏刻で時を知らせた件
 *斉明7年と天智7年に、伊勢王が薨去した件
70日本@名無史さん:04/08/18 22:38
>高句麗が韓国史ならば、高句麗の後継国である渤海も韓国史なんですか?

もちろんだ。
韓国・朝鮮の学会では、新羅・渤海時代を「南北朝時代」と呼称している事実を知らないのか。
あまりに無知だ。




71日本@名無史さん:04/08/18 22:38
>>64
一時的に領有していただけなら日本だって朝鮮半島や台湾を領有していた。
それも日本史になる。
72日本@名無史さん:04/08/18 22:39
コピペは、ウザイな。
73日本@名無史さん:04/08/18 22:41
日本でもキトラ古墳には高句麗壁画古墳だけにみられる独自で典型的な四神図壁画、
周辺には高句麗特有の寺院伽藍配置である一塔三金堂様式を持つ飛鳥寺をはじめ、

高句麗文化が濃密な大和朝廷との関係について、もっと解明が進むとよいと思います。
74日本@名無史さん:04/08/18 22:42
高麗史が朝鮮史でないというなら証拠が必要だ。
なぜそのような不自然な主張するか。
75日本@名無史さん:04/08/18 22:43
>>70
魏志東夷伝によれば、3世紀には満洲から半島にかけて、
6種族がいましたが、それらの言語について、
「夫余、高句麗、沃沮、穢」の4種族は似た言葉を話していたが
「邑婁」はそれらとは言語が異なる、とあります。
また「辰韓、弁韓」は中国語の一種を話していたとあります。
「邑婁」がツングース(後の女真族やオロチョン族)であることは歴史的に明白なので
「夫余、高句麗、沃沮、穢」の4種族の言語はツングース語ではないことになります。

どちらにしても、朝鮮・韓国とは全く無関係な民族であったことが記述されています。
76日本@名無史さん:04/08/18 22:43
古田系雑誌に投稿するとどうなるの?
77日本@名無史さん:04/08/18 22:44
>>74
 ご参考までに、上代日本語と高句麗語・朝鮮語(11世紀=高麗王朝時代)
の数詞を示しておきますので、各自比較してみて下さい。高句麗語は断片的
な資料しか残っていないため、不明な部分が多いですが、それでも私の言わん
とするところはわかってもらえると思います。

  日本語 高句麗語 朝鮮語
1 pito   ーー  hana
2 puta   ーー  tuwul
3 mi     mil   seis
4 yo    ーー  neis
5 itu    utu  tases
6 mu    ーー  yesse
7 nana   nanun  ilgop
8 ya    ーー  yedal
9 kokono  ーー  ahop
10 towo   tek   yel
78日本@名無史さん:04/08/18 22:45
中国史ってのも難しいな。
中国民族は無い。漢民族史や少数民族史など複雑だ。
ここで言ってる韓国史や朝鮮史というのは朝鮮の民族史ということか?
79日本@名無史さん:04/08/18 22:46
>75
不確かな中国文書を証拠とすべきでない。もし事実でも
鹿児島人と会津人が言葉が通じないのと同じだ。
単なる方言の齟齬にすぎない。

もっとも確実な資料である3国史記では3国で通訳を使った記録はないはずだ。
80日本@名無史さん:04/08/18 22:46
たとえば、始皇帝は金髪で碧眼だったと記録されている。
これは明らかにコーカソイドの特徴であるが、
中国歴代王朝は異民族による支配の歴史でもあるので不思議ではない。

唐や隋もトルコ系の鮮卑族が支配層であるし、
元は蒙古族ならびにその下に色目人であり、
清は満族(女真族)であるのは御存知の通り。
その他にも渤海、遼(契丹)、金、西夏など、ほとんどが漢族とは異なる。

これらをひとまとめにして、安易に、中国・中国人と表現するのは本質を失う。
81日本@名無史さん:04/08/18 22:47
>>78
大韓民国史のことと思われ
82日本@名無史さん:04/08/18 22:48
半島に、倭語あるいは倭語と同系統の言語を話す民族(倭人かもしれない)が
存在していて、かつ、それらの地名を付けていたというのは、
それらの地名変更記事により避けられない事実であるというのに同意。

ただし、その地名変更をした時点で、烏斯含達『うさぎだけ』を、
兎山へと変更できたということは、『うさぎだけ』の意味を
理解できる人たちが存在していたということも意味する。

もちろん、言語として理解していたかどうかはなぞで、
なんかなぞな地名だけど、意味は兎山ということらしい、
という言い伝えのみが残っていた可能性もあり。

どちらにしても、倭人の勢力圏が半島にあったのか、
あるいは日本語を同系統の言語を話す民族がいたのか、どちらか。
83日本@名無史さん:04/08/18 22:49
>77
扶余系言語なんて数十しか残ってないのによくそんな妄想が働くね。
84日本@名無史さん:04/08/18 22:50
応神の頃までは、天下は有力豪族の持ち回りだったと思う。
父子や兄弟による相続は確立されておらず、有力豪族たちに推戴(共立)
された有力者が大王となった。
応神以前の大王位継承が父子ばかり(仲哀は違うけど)なのが、当時の
医療事情を考えても不自然。つまり親子関係に擬制されたに過ぎないと
思われる。
大王になることが出来る王家は、全国にいくつもあったのではないか?
85日本@名無史さん:04/08/18 22:50
このスレッドを朝鮮人スレッドに指定します。
86日本@名無史さん:04/08/18 22:51
>>78
最初の夏は東南アジア系だし、殷はもともと北狄、
北周や隋や唐や北魏はすべて鮮卑系、遼は契丹、元は蒙古、金や清は女真、
といったように、ほとんどが異民族による王朝だったわけですよ。

もちろん、宋などは逆に異民族の方へ朝貢しているありさまです。
87日本@名無史さん:04/08/18 22:52
>>83
高句麗語の数詞がなぜ判明しているか、については、朝鮮半島の三国史記の地志で、
旧高句麗領地の地名を新羅の景徳王が変更した、という記事が多数あるためです。

高句麗語地名の漢字表記(当て字=卑弥呼などと同じ)と、
新羅地名に変換後の漢字表記(漢字の意味利用)を対比すればよいわけです。

「三」は高句麗語で「密」なので当時の発音推定により「mit」
「五」は高句麗語で「于次」なので当時の発音推定により「utu」
「七」は高句麗語で「難隠」なので当時の発音推定により「nanun」
「十」は高句麗語で「徳」なので当時の発音推定により「tek」

大和言葉の「み(mi)」「いつ(itu)」「なな(nana)」「とお(to)」と類似しており、
逆に、周辺の中国語/満州語/朝鮮語/モンゴル語等とは全く異なるという状況です。
88日本@名無史さん:04/08/18 22:52
>>80
そのとおり。
89日本@名無史さん:04/08/18 22:53
大和言葉は高句麗語?
90日本@名無史さん:04/08/18 22:58
新羅語の直接子孫と思われる前期中世朝鮮語(高麗時代)の語彙の中には、
高句麗語と一致するものがごく少数ながら存在することが知られています。

これは高麗が高句麗の故地であった開京を都としたために、
高句麗語の語彙の一部が前期中世語の中に入り込んだことによるものと推定されます。

ただし、これらの高句麗語的要素は次第に新羅語のそれに置き換えられて漸次消滅し、
今ではほとんど残っていないもようです。

ちなみに、新羅の王族とその臣下が立てた高麗は、高麗の名を盗んだことで有名です。
つまり、たまたま反乱の血が高句麗の故地(しかも単に侵略した先)であったのと、
そのとき、同じように故地ということで後百済と名乗る反乱軍もあったので、
マネして後高句麗と名乗り、さらに、高句麗の本名(520年に改名)の高麗の名をパクリました。
91日本@名無史さん:04/08/18 23:33
すばらしい朝鮮人スレッドですね。
92日本@名無史さん:04/08/18 23:44
>>91 貴方も参加資格が有りそうでつね(w
9325歳職歴なし引きこもり:04/08/18 23:55
邪馬台国の研究をして生きていきたいのですが
どうしたらいいのでしょう?ちなみに日本の歴史には
全く詳しくありません。大学受験も世界史使いました。
学部も経済学部です。
94日本@名無史さん:04/08/18 23:59
>>93 
 トテツモナく世間受けのする電波ネタが有れば別ですが、
 「邪馬台国研究」で生きてゆくの無理だと思います。
95日本@名無史さん:04/08/19 00:00
>>93
趣味で研究するとか日本史の大学院に行くとか編入するとか
ちなみに邪馬台国は日本の歴史の一部
96日本史@名無しさん:04/08/19 00:06
古代史なんてやめた方がいい。
このスレをもっと酷くしたような現実が待っている。

数理科学的な分析や結論が出ないのを良いことに、権威と通説が支配する世界。

本当に能力のある人間は、せめて平安時代以後をお勧めする。戦国時代、江戸時代でさえ
わかっていないことは沢山ある。

悪いことは言わない、ごろつきばかりの古代史は(ry
9725歳職歴なし引きこもり:04/08/19 00:11
趣味で研究したとして、それを
発表する場みたいなものがあるのでしょうか?
何か打ち込めるものがほしいので
邪馬台国の研究を日々していきたいと
考えるようになりました。
98日本史@名無しさん:04/08/19 00:17
もう邪馬台国だけ取り出して云々の時代は終わったよ。

大事なのはその後の変遷。

このスレでも結構いい感じになってたんだけど、狂人の粘着厨が張り付いて、あれてしまったから・・・・・。

まあ、そういうホムペでも探せば?まともな議論できるところは沢山あるよ。
9925歳職歴なし引きこもり:04/08/19 00:23
変遷も何も邪馬台国=大和朝廷でおしまいなんじゃないのでしょうか?
ただ単に魏志倭人伝には大和のことを邪馬台と表記しただけでしょう。
素人の意見ですいませんけどね。
100日本@名無史さん:04/08/19 05:13
>>73
高松塚古墳の壁画が、古代版の鹿鳴館といえる中国文化のコピペであるように
「高句麗」壁画古墳も中国文化なのに、北朝鮮の歴史捏造により捻じ曲げられている。
かつてのまともな韓国考古学者の発言を読めばよく分かる。
東晋の武将・冬寿の墓を平気で高句麗・美川王の墓と捏造する体質に呆れる。

金元龍・編(1989)「韓国の考古学」(講談社)
「313年の楽浪郡滅亡後から427年平壌遷都までの約1世紀間、平壌地方の楽浪旧領は、
中国系住民、新来の亡命中国系勢力者たちを住まわせた一種の自治的特殊区域であったと
筆者はみている。ここで、楽浪セン築墳から石室墳への転換が行なわれ、また357年の
安岳3号墳が示すように、・・・。
 この絵が中国系画家の手になったことを示すものであると筆者は考える。北朝鮮では、
この古墳が冬寿の墓ではなく美川王(331年没)のであり、冬寿はこの古墳築造の総監督者か
または墨書銘自体が後世の落書であるとみているが、古墳築造者の名前は書きながら
墓主の名前を書かないということはあり得ない。これは間違った愛国思想であり、学問ではない」
101日本史@名無しさん:04/08/19 06:19
>変遷も何も邪馬台国=大和朝廷でおしまいなんじゃないのでしょうか?
  ただ単に魏志倭人伝には大和のことを邪馬台と表記しただけでしょう。

とりあえずその単純な脳内をなんとかしるw
誰がやまとと呼んだかぐらい知っててください。
102日本@名無史さん:04/08/19 07:00
>>101
それでいいだろ。隋書が「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。」
「倭国の都は邪靡堆で、魏志が言う邪馬臺である」と書いているのが正解。

隋の使者の調査・伝聞による倭国の地理。
「夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。」
103日本@名無史さん:04/08/19 08:24
>>99
宮城県と宮崎県とは別だよ。
104日本史@名無しさん:04/08/19 09:23
>>102

それも九州説の根拠のひとつな訳だがw

話は変わるが、九州を歩いて南に下ると、実際3月かかったらしい。
有明海の泥の海が、今より更に上流に広がって大変な状態だったそうですね。
そこから、山門郡や八女も、場所的には苦しいらしい。吉野ヶ里も、今でこそ奥まってる
けど、その頃はすぐ海だったらしい。
105日本@名無史さん:04/08/19 09:26
>>102
隋書が意味を持つのは限定的なことを思い出しましょう。

隋への使者あるいは隋からの使者への答弁次第で、
適当なことを言えばそれが反映されるし、
さらに隋書の編集者の推測などが加味されたものが、隋書にすぎないわけです。

旧唐書にある、日本国は元倭国の別種でその地を併せた、というのも同様。

それら参考レベルのものを、証拠だといっているようでは、
古代史学においては、デンパと言われてもしょうがないでしょう。
106日本@名無史さん:04/08/19 09:53
>>104
はぁ? 魏志倭人伝と違って方角の齟齬もないし
日本書紀の記述とも合致しており疑う余地などない
107日本@名無史さん:04/08/19 09:55
>>105
隋書の記述は九州王朝とかデンパ説には都合が悪いから必死だな
108日本@名無史さん:04/08/19 09:58
隋書の記述だと、邪靡堆=邪馬台にいる当時の王は、男となってるけど、
このへんはどう解釈したらいいの?
109日本史@名無しさん:04/08/19 10:20
107 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/08/19 09:55
>>105
隋書の記述は九州王朝とかデンパ説には都合が悪いから必死だな


↑ あ、お前は氏んでいいから
11025歳職歴なし引きこもり:04/08/19 10:40
>>108
個人的な見解ですが、推古天皇と聖徳太子の関係と
同じようなものだと思います。実際に政治を
しきっていたのは男で、対外的にも女が王というのは
体裁が悪いので、男が王だということにしてあるのではないでしょうか?
11125歳職歴なし引きこもり:04/08/19 10:46
こんな私ですが、職業は古代史研究家と名乗っても
いいのでしょうか?無職では体裁が悪すぎて・・・
ああさっさと公務員試験にでも受かって就職しないとな。
112日本@名無史さん:04/08/19 10:49
>>110
過去にそんな事例が一件も無いから、説得力が無い。
113日本@名無史さん:04/08/19 10:52
>>102
九州は、南北の方がはるかに長いですが?明らかに九州とは違う。
114日本史@名無しさん:04/08/19 11:00
>>110

馬鹿みたいな理屈だな。周辺諸国の蛮夷に女王国があろうが何とも思わねえよ、中国は。
そんな内政干渉になるようなこと言う分けない。膨大な衛星国家群を服属させている中国
は、超リアリストでなければ務まらない。女王だろうが無かろうが事務的に処理するだけ。
「陛下、明日は倭国です。」「( ´_ゝ`)フーン 次は?」「越です」「( ´_ゝ`)フーン 」って感じ。

それに、かつて三国分立という厳しい時代にはるばる遠方から使いしてきた東夷の女王国の
末裔というしっかりとした歴史認識を持ってる国に対して、わざわざ国王を詐称するという大
変なリスクを犯す必要がどこにあるんだよ。実際に使いが来ても、玉座に厩戸王子を座らせ
るなんてことをするわけがない。

しかも、第一王子だったかどうかも未だに確定できていないのに、平安時代の聖徳太子伝説
に振り回されるのも馬鹿としか言いようがない。厩戸王子の事績ではっきりしていることは、
実は少ないんだよ。死後すぐから伝説化が始まってるから、実に謎が多い。七人の話を聞く
のも冠位十二階や教典の整備、法律の整備なども大して変わらないレベルなんだよ。

115日本史@名無しさん:04/08/19 11:10
>>113

そりゃそうでしょうw

だって領国の範囲を述べたものだから。

倭人伝の時代とはちがう。
116日本@名無史さん:04/08/19 11:46
>>115
113ですが、アンカー間違えました。104に対しての疑問でした。
117日本@名無史さん:04/08/19 11:56
天照大神
一部で最も有力と考えられている説。
卑弥呼の没したとされる年の前後に1回、北九州で皆既日食がおきたことが天文学的計算より明らかになっており、
古事記・日本書紀における天岩戸に天照大神が隠れたという記事に相当するのではないかと考えられている。
また統計学的手法によって、天皇の平均在位年を求めると、丁度卑弥呼が生きていた時代に、天照大神が生きていた計算になる。
また、作家の松本清張や井沢元彦が唱える説として、卑弥呼暗殺説もある。皆既日食が発生したことで、
太陽神(日=ヒ)に仕える巫女(=ミコ)である卑弥呼の霊力がなくなったとして、邪馬台国の人々が、卑弥呼を惨殺した。
そして、皆既日食が終わったあとに、邪馬台国は混乱したが、台与を新たな太陽神に仕える巫女として選んだ。
このことが、古事記・日本書紀において、天岩戸に一度隠れた天照大神が再び出てきた(=復活した)という記事につながっていったのだと考えられる。
卑弥呼が天照大神であるという説によれば、邪馬台国は九州にあり、卑弥呼の子孫(=神武天皇)が、九州から畿内へと征服を行ったと考えられる。
118日本@名無史さん:04/08/19 11:59
>>108
聖徳太子が摂政だったと記載されているし無問題
119日本@名無史さん:04/08/19 12:09
>>117
その日蝕説は好みであるが、
皆既日蝕がはっきりわかる時間帯で起こる必要性と、
その当時の人たちの伝承に日蝕の存在がないほど以前に日蝕が長期間ないことなどが、
必要とされるが、地球時点速度変化の補正をもってしても納得行くデータはなさげ。

最新データがあるのであればぜひ知りたいので挙げていただけるとうれしい。
120日本@名無史さん:04/08/19 12:28
>>118
聖徳太子が摂政というのも一つの大きな疑義となっているが、
まずはあなたのいうとおりに摂政だとしましょう。

隋書の記述を見たことがありますか?
摂政があんな状況の国っていったい…
そして推古大王の立場と記述は?
121日本@名無史さん:04/08/19 12:50
隋書の記述は以下の通り。
『倭王姓阿毎,字多利思比孤,號阿輩[奚隹]彌』
『王妻號[奚隹]彌,後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。』

聖徳太子を仮定すると、太子が該当すると思われる。

「王=オオキミ」「王妻=キミ」だろうか。
妻があって、かなりの規模の後宮があるようだ。
この王を聖徳太子とするにはかなり無理がありそうだ。
122日本@名無史さん:04/08/19 13:22
『大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。』
『其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。』

607年(大業3年)に、多利思比孤が王で、遣使したのは明らか。
そして「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」と。

大きな後宮を持つほどのこの偉大な王は、畿内であれば、蘇我馬子あたりか?
12325歳職歴なし引きこもり:04/08/19 23:46
結局、遺跡の発掘を国が許可しない限り永遠に
謎のままかもしれませんね。ニニギノミコトの
墓が西都市にあるらしいのでここを調べれば
何かわかるかもしれません。あと箸墓を調べれば
なんかでてきそうな気がします。誰か盗掘しにいってきて
くださいw
124日本@名無史さん:04/08/19 23:54
>94
古田氏や安本氏のように専門家も一目置く人もいるのを忘れていないか
125日本@名無史さん:04/08/20 00:02
>123
西都房は立入り禁止です。
126日本@名無史さん:04/08/20 00:07
>>123
歴史ロマン語るには、国が強くないと洒落にならん。
127日本@名無史さん:04/08/20 00:09
高句麗が朝鮮民族の国であることを否定する妄言は許せないですね。
12825歳職歴なし引きこもり:04/08/20 00:12
北九州が衰退していって、鉄器が東へ
移っていくのは何世紀ごろのことですか?
129日本@名無史さん:04/08/20 00:35
>>123 遺跡の発掘を国が許可しない限り永遠に謎のままかも

よくそういう人を見るけど、遺跡を掘り返しても、
戒名とか入れない時代だから結局どこ出身の何民族とか
明確には分からないと思う。一緒に埋葬されている品物も、
海外との交易品や貢物で、地位が高いから家宝として所有
していただけ、という可能性も高いし。
これまで発掘されたとこだって結局推定ですから。
ただ推定される時代に、どういう品物が
どのような技術で作られていたか、
というのはかなり正確に分かるだろう。

 
130日本@名無史さん:04/08/20 02:26
>>128
従来の年代推定で言えば、3世紀後半。
卑弥呼の時代の直後となる。

最近、古墳の年代推定を過去に遡らせる動きがあって、
それに基づく年代推定では卑弥呼の時代より前となる。

ただ、後者の年代推定に基づくと、
邪馬台国と出雲・吉備・四国との和合以前に、
文化の東進と融合が起こることになり、
やや不合理な状況にはなると思う。

前者の年代推定では、東征に伴って、各勢力と和合
しながら文化も融合することになり、理解しやすい。
また、いわゆる神話だの記紀だのと言われるものの
ストーリー通りのことが、実際にも起こっていたことになる。
131日本@名無史さん :04/08/20 03:47
>>130

その「前者の年代推定で説明しやすい文化融合過程」は
従来の年代観に合わせるべくして創作された融合過程だから、
新しい年代観に合わせた説明を作ればそれ相応に形で、
神話と同様の事件を想定可能になるだけのことだ。
13225歳職歴なし引きこもり:04/08/20 09:17
箸墓を発掘して金印がでてくれば万事解決ですw
133日本@名無史さん:04/08/20 10:53
>>131
あなたの仰ることはもっともだけど、
(畿内説なりの融合過程が構成できれば良い。)
畿内説は、まだ融合過程の合理的な解釈が
構成できていない状態だと思う。

私は、新しい年代観自体に疑問を持っている。
というのは、
新しい年代観を出している人同士でも
まちまちの年代をやたら狭い範囲で言っていたり、
根拠が材料の年代を示すもので、
材料の年代が古いことが、必ずしも
古墳の古さを示すものと言えないなどあるから。
134日本@名無史さん:04/08/20 11:01
畿内説って何かというと遺跡だとか発掘成果だとか強調するけど
どっぷり記紀に寄りかかってるじゃん。
この時代からの記述は信憑性があるとかこの古墳は○○天皇の
モノに間違いないとかさあ。文献資料を発掘成果と恣意的に
結び付け過ぎだと思うな。
135日本@名無史さん:04/08/20 14:14
>>134
3Cから畿内に大きな遺跡が出来始めるのは事実なので、
記紀に頼らないなら、それをどう解釈するのですか? 
それこそ根も葉も無い誇大妄想にならないよう気をつけないと。
136日本@名無史さん:04/08/20 15:59
神代の軽視。3Cからは発掘成果との整合性もとれると平然と
言ってみたりする。出雲勢力などは長いこと記紀という文献上に
しか存在しない概念だった(「架空」「妄想」などと言っていた
考古学者もいる)。出雲が注視されるようになったのは
荒神谷以降。
地方の軽視。記紀の記述は畿内中心で神武以降一貫して
大和朝廷は畿内に存在するかのように見える。だがその
根拠は地名と古墳のみ。地名は変えられるものだし遷移して
来た異王朝が先住民の墳墓を再利用したり自らの始祖たちの
墓と騙ること(伝承を作り変える)も考えられなくもないのだ。
13725歳職歴なし引きこもり:04/08/20 16:03
九州に邪馬台国があったなら大和朝廷との
結びつきはどう考えますか?邪馬台国東遷?
畿内勢力が邪馬台国を滅ぼした?
少なくとも東遷説はしっくりこないような気がします。
なんで東遷しなければいかないのかがわからない。
138日本@名無史さん:04/08/20 16:18
>>137
東遷という呼称はインチキで、実は東侵。
だいいち神武は東遷以前は王じゃないのだから「遷」りようが無い。

なぜ東侵しなきゃいけなかったかというと、軍人として時代遅れになったから。
有明海から半島戦に出撃するのに必要な、遠距離航海が身についていないし
有明海の中で迷子になっちゃうんじゃ、話しにならない。
よって、神武は邪馬台国からお払い箱となった。
139日本@名無史さん:04/08/20 16:53
http://www.sankei.co.jp/news/040819/bun104.htm
宮崎県の百足塚古墳の横穴式石室が6世紀前半だって!はや〜
140日本@名無史さん:04/08/20 17:27
>>134

本来ならその辺は、学術論文においては
「考察」の部分にだけ書き込んで、

「個人的な空想で悪いけどこんな感じでどう?」
的に補足する程度にとどめるべき部分なのになあ。

記紀の記述の信憑性を過大に評価するのも考え物。
全く事実無根というわけではなくとも、
それ相応に間違いやら誇張なども含まれているはずだしね。
141日本@名無史さん:04/08/20 17:43
両者が区別されて明記されていれば
参考意見として十分意味があるので無いよりもあった方がよいです

ただしそのへんが分離できていない報道発表や論文は・・

例えば測定結果にしても出た結果とそこからの妄想ってごっちゃにするようでは・・
142日本@名無史さん:04/08/20 18:40
>>135

それこそ、九州からの東遷があったことの証拠です。
丁度、そのころから、九州に王権的な遺跡が激減するんですよね。

ただ、無理やり早い年代推定をしているので、
九州説でも畿内説でも理解が難しい状態になっている。

従来どおり、3世紀中ごろという推定なら
すっきりと理解しやすいですがね。
143日本@名無史さん:04/08/20 18:45
>>137
東遷があったこと自体は、証拠も多く
畿内説の人も大半が認めているのでは?

(言葉は東遷でなく、東侵なり、東征なりでも良いが)

両説の違いは、その時期がいつかということで、
卑弥呼前だと畿内説、
卑弥呼後だと九州説となる。
144140@名無史さん:04/08/20 20:31
>>141

論文は、分離できてるものもできてないものも、
玉石混淆だから、まだマシ。

新聞報道は、そういう区別の必要を全く理解できない、
学盲の手で作られているから、すべからく問題外。

新聞に載っている「学会発表」「論文の紹介」などは、
基本的にマユツバと思って読むしかないのが現状。
145日本@名無史さん:04/08/20 21:14
14625歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/20 23:52
結局どれが本当の真実なんですか?
東大卒のお偉い先生でもわかんないんですか?
147日本@名無史さん:04/08/21 00:14
邪馬台国は何度も遷都をしてると思う。北九州から熊本へ、そして再度北九州へ。
熊本遷都時に、はじかれた軍部(神武)は畿内へ侵入。

なんだかんだ言っても、金印も阿蘇山も九州。
14825歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/21 00:18
3世紀にすでに畿内に大勢力があったのに
はじかれた神武がのこのこいって
征服できたとは思えない・・
149日本@名無史さん:04/08/21 00:21
神武が制覇したのは4C末、わずかな領土。考古学的には無に等しい。
150日本@名無史さん:04/08/21 00:23
鉄器の神武、サヌカイトのナガスネヒコ。神武はちょっとだけ勝った。
15125歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/21 00:25
そもそも神武って実在する人物だったんですか?
たしか初代から8代目まではフィクションだと
いうことが通説なんじゃないんですか?
152日本@名無史さん:04/08/21 00:42
神武はちょっとだけいて、そのあと群馬にいったのでしょう。
153日本@名無史さん:04/08/21 01:19
>151

(現崇神陵以前の大王墓)
@纒向石塚古墳(庄内1)
A勝山古墳(庄内2?)
B矢塚古墳(庄内3)
C東田大塚古墳(布留0)
Dホケノ山古墳(布留0?)
E箸中山古墳(布留0)
F外山茶臼山古墳(布留1)
G西殿塚古墳(布留1?)
Hメスリ山古墳(布留2)
*年代は、伊達、橋本等による。
154日本@名無史さん:04/08/21 01:24
筑前国の初見は698年であり、
672年5月の郭務宗率いる唐軍撤収のあと、
大和朝廷の筑紫完全支配にともない、筑紫を分けて、筑前国と筑後国を設置したものと思われる。

ここで筑紫君による筑紫支配は終わり、
筑紫に至るまで西日本統一となるのである。

しかし、依然として九州南部は隼人の支配下にあり、
隼人との戦争が始まるのはようやく702年である。

隼人は740年の藤原広嗣の乱へも加担し、これを持ってようやく完全服属となる。
それにより、ようやくこのとき大和朝廷による九州支配が完成となった。

155日本@名無史さん:04/08/21 01:25
筑前国の初見は698年であり、
672年5月の郭務宗率いる唐軍撤収のあと、
大和朝廷の筑紫完全支配にともない、筑紫を分けて、筑前国と筑後国を設置したものと思われる。

ここで筑紫君による筑紫支配は終わり、
筑紫に至るまで西日本統一となるのである。

しかし、依然として九州南部は隼人の支配下にあり、
隼人との戦争が始まるのはようやく702年である。

隼人は740年の藤原広嗣の乱へも加担し、これを持ってようやく完全服属となる。
それにより、ようやくこのとき大和朝廷による九州支配が完成となった。



15625歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/21 08:47
中国の漢王室の末裔が日本の天皇の源流になった
可能性はないんでしょうか?
157日本史@名無しさん:04/08/21 08:58
>>151

闕史八代は通説。つうか俗説に近い。根拠薄弱。

昔の帝紀などの家伝の伝承は、そんな甘いものではない。
今でも世界中で、村長や特別な存在がそれを行っているし、それをミスったら即首という
厳しい掟のところもある。

>>156

各地に除福伝説が残っており、異物や地名などからも無視しがたい。
ただ、後世の人間が牽強付会で自分を有力に見せようと除福の子孫を語ったという説は、どうだろうか。
まあ、本当に5000人来てたら当時の日本にとっては神レベルだっただろうが。でも、だからって漢の皇
室の直系ならそれを名乗ればいいわけで。
158日本@名無史さん:04/08/21 10:45
筑前国の初見は698年であり、
672年5月の郭務宗率いる唐軍撤収のあと、
大和朝廷の筑紫完全支配にともない、筑紫を分けて、筑前国と筑後国を設置したものと思われる。

ここで筑紫君による筑紫支配は終わり、
筑紫に至るまで西日本統一となるのである。

しかし、依然として九州南部は隼人の支配下にあり、
隼人との戦争が始まるのはようやく702年である。

隼人は740年の藤原広嗣の乱へも加担し、これを持ってようやく完全服属となる。
それにより、ようやくこのとき大和朝廷による九州支配が完成となった。

159日本@名無史さん:04/08/21 11:21
そうそう、「大和国」の領土ですが、日本書紀にはっきりと書いてあります。
敏達天皇13年(584)に、兵庫県(播磨国)は外国だったことが書いてあります。

畿内説の人には、584年に畿内王権が、兵庫県以西を領有していないことを
はっきりと認識していただきたいのです。

高句麗好太王の碑に出てくる「倭」は畿内だと、安易に主張されるので困ります。


160日本@名無史さん:04/08/21 12:44
倭国のモデルとしてドイツ諸邦(神聖ローマ帝国)やイタリア諸邦の
ような状態を想定しては駄目だろうか?
161日本@名無史さん:04/08/21 13:00
3C中頃まではいいんじゃない?
162日本@名無史さん:04/08/21 13:54
>>160
6C初期まではいいんじゃない?
7C後期まで仮定する説もあるけど難しいところ
163日本史@名無しさん:04/08/21 13:55
つうかいつまでそう言う状態だったかがこのスレの趣旨でもある。

強力な集権国家でなくとも、各王国に上下の格を付けることは可能だし、そのような形を
経て集権国家が出来るのが普通だから。

というより、そのような中国のような形は、平安時代から明治時代まで飛んでしまう。だか
ら余計にポスト卑弥呼からプレ大和の時代を議論する能力が学会そのものに欠如してい
るのではないかと見る。実際このスレを見てもよくわかるように、冷静な議論が出来ない。
164日本@名無史さん:04/08/21 14:02
記紀ってのは中央政界(連邦政府中央議会)の記録みたいな
ものかもしれないね。各豪族は首都に拠を構えて中央政治に
参画しているが、地方に本貫地がちゃんとあってそこの王でもあるとか。
記紀であたかも中央支配体制が整ったように書かれているのは
編纂時の虚偽かもしれないわけだ。
165日本史@名無しさん:04/08/21 14:21
そう思うよな。各地の記録を禁書にして、日本書紀だけ残した。古事記さえ禁書扱いで
封印されてた。

大和政権のやり方って、権力者なら当然かもしれないが、あんまり爽快感ないよな。
日本の原風景として、はなはだ気持ち悪い。万人がすげーって納得の逸話とかも全
然ないし。こんなつまらない国史もないんじゃねえか?

中国だってヨーロッパだってかっこよかったり残虐だったり、でも面白いもんな。
166日本@名無史さん:04/08/21 15:38
>>165
おまえの趣味で決めつけるな。自分は記紀を非常に面白いと思う。
ダブルミーニングで真実をほのめかしたり皮肉ったり
しているところもあって。っていうか原文読んだ事ないだろ。
単なるレッテルはりの中傷野郎はすっこんでろ。
167日本史@名無しさん:04/08/21 15:43
またアフォが湧いてるな・・・・・・・。

まだ夏か・・・・・。
16825歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/21 17:08
狗奴国当選説は無視ですか?
169日本@名無史さん:04/08/21 20:43
東遷、東征と言うけれど、「なぜ北九州勢力が地理的優位な本拠地を捨ててまで、
畿内に移る必要があったのか」の説明ができていないように思う。
倭人伝に記載されている、伊都に置かれた一大卒は「諸国を検察し、諸国はこれを
畏憚した」とされており、この当時、北九州勢力は畿内(邪馬台)の風下に立って
いたと考えられる。北九州勢力が東征で畿内邪馬台を建国したとすれば、この記述も
おかしいと言わざるを得ない。

畿内は、邪馬台国以降、中国で言うところの中原となり、大王位を狙う豪族は
畿内に攻め上がろうとしたのだろう。応神しかり。吉備、継体しかり。
170日本@名無史さん:04/08/21 21:09
倭国は諸王領からなる連邦国家であった。連邦皇帝(倭国王)選出は
諸王会議によって行なわれ、選出された連邦皇帝の所領で倭国の
中央会議とでも呼ぶべきものが開催された。
初期の皇帝権限はあまりなく、支配権も名目上のものに過ぎなかったが
やがて力のある国が議会で権力を得るに従って世襲、中央集権化など
が進み実質上の「倭=大和の国」が建国された。

神武の如きは直接この議会に乗り込んでクーデターを企てた男かもしれない。
失敗したのか成功したのか、あるいは議会と畿内のごく一部は制圧した
もののその乗っ取り状態は長続きしなかったと見るべきか。
171日本@名無史さん:04/08/21 21:32
卑弥呼の頃は北九州の八女あたりでいいように思う。なんたって、7万戸
養える土俵かな…でも、卑弥呼がいなくなってからはトヨがたった。ヤマト国が
吉備や、出雲と、一緒に中国地方、近畿地方に進出したと思う。近畿の大和に
国をうちたてた。卑弥呼の頃から環境やら、政治中心地の選定やら、東国に向けての
けん制やらで場所万全の大和に三国合同のやまとを建てた。トヨの墓は
西殿塚(西のトヨの塚)じゃあ箸墓は、となるけど、分かりません…
戦乱の時にもうひとり出雲系の皇女さまの働きで、第二のやまとを巻向に誘致したの
でしょうか?
172日本@名無史さん:04/08/21 21:44
>>171
そういえば、筑紫君の本拠地も八女付近ですよね。
てことは、邪馬台国→筑紫君って流れになるのかしら。
173日本@名無史さん:04/08/21 21:44
>>171

九州全域の総人口と近畿全域の総人口がほぼ同レベルだよ。
北九州だけなら畿内とほぼ同レベル。
174日本@名無史さん:04/08/21 21:55
闕史八代〜仲哀っていうのは、大王位が有力豪族の持ち回りであった頃の大王たち
なんだろう。
応神は九州からやって来た簒奪者であるが、以降、大王位は応神の血統であること
が要求され、後の継体は応神の裔であることで(実際はかなり怪しいが)、大王位
継承権を主張した。妄想すれば、磐井も応神の血筋を僭称したのかもしれない。
175日本@名無史さん:04/08/21 22:05
筑前国の初見は698年であり、
672年5月の郭務宗率いる唐軍撤収のあと、
大和朝廷の筑紫完全支配にともない、筑紫を分けて、筑前国と筑後国を設置したものと思われる。

ここで筑紫君による筑紫支配は終わり、
筑紫に至るまで西日本統一となるのである。

しかし、依然として九州南部は隼人の支配下にあり、
隼人との戦争が始まるのはようやく702年である。

隼人は740年の藤原広嗣の乱へも加担し、これを持ってようやく完全服属となる。
それにより、ようやくこのとき大和朝廷による九州支配が完成となった。



176日本@名無史さん:04/08/21 22:14
景行紀に出てくる、「三種の神器」を賢木にかけて服属してきた
神夏磯媛が、邪馬台国の卑弥呼の後裔なのかもしれない。
177日本@名無史さん:04/08/21 22:16
滅亡に貧した畿内中心主義者の断末期の叫びが聞こえるスレッドだ。
178日本@名無史さん:04/08/21 22:24
筑前国の初見は698年であり、
672年5月の郭務宗率いる唐軍撤収のあと、
大和朝廷の筑紫完全支配にともない、筑紫を分けて、筑前国と筑後国を設置したものと思われる。

ここで筑紫君による筑紫支配は終わり、
筑紫に至るまで西日本統一となるのである。

しかし、依然として九州南部は隼人の支配下にあり、
隼人との戦争が始まるのはようやく702年である。

隼人は740年の藤原広嗣の乱へも加担し、これを持ってようやく完全服属となる。
それにより、ようやくこのとき大和朝廷による九州支配が完成となった。





179日本@名無史さん:04/08/21 23:04
畿内中心「主義」って。
少なくとも、古墳時代以降は、畿内が倭国の中心となって推移したことは
間違いないと思うがな。
畿内説も、なにも3世紀から倭国が中央集権国家だったとは言っていない訳
で。6世紀くらいまで各地に王がいて、ある程度の自治権はあったと思うよ。
180日本@名無史さん:04/08/21 23:16
>>178
こいつ、誰?
いい加減、ウザいのだが。
181日本史@名無しさん:04/08/21 23:50
何で記紀に出雲神話、筑紫神話があるのかが根本的な問題だよな。

それに対して、大和神話という物がないから、どう少なく見積もっても九州、出雲は
無視できない。

だからといって、近代国家のような連合、代表の持ち回りなどというのはあり得ない。
九州、あるいは畿内などの狭いエリアならともかく。
だから、東遷説というのも合理的思考の産物ではないのは明らか。
18225歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/22 00:17
宇佐に何かあるきがしてならない・・・
183日本@名無史さん:04/08/22 00:40
>だからといって、近代国家のような連合、代表の持ち回りなどというのはあり得ない。
>九州、あるいは畿内などの狭いエリアならともかく。

何故、ありえないのか?
18425歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/22 09:34
邪馬台国が大和朝廷になったんじゃなくて
邪馬台国って大和朝廷の初期形態でしょ。
185日本@名無史さん:04/08/22 11:06
>180
うざいのはいろんな議論を封殺する畿内中心主義者の方だろ。
わざと議論の幅を狭めてどうする。
186日本@名無史さん:04/08/22 11:11
2ちゃんはツリー表示できないんだから、
テーマによってスレを使い分けるのがあたりまえ。
それができないのは池沼。
187日本@名無史さん:04/08/22 14:35
>>185
180は、>>158以下の重複コピペ(それも既存レスの)がウザイと言ってるんですが・・・・
188日本@名無史さん:04/08/22 15:57
>>181
古事記に大和の神話ありますよ。
   ↓
活玉依媛が夫がいないのに身ごもったので
不思議に思った親が尋ねると、夜間に訪ねてくる
美しい男がいるという。

そこで次に現れる時、その男の服に麻糸を巻きつけておき
帰った後にその糸をたどっていくと、大和の三輪山の
お社(やしろ)に行きついた。
そこで、その男が神の子だと判った、という話。
等々。。。
189日本@名無史さん:04/08/22 16:14
>>188続き
この神話は、古事記の中巻にあり、
その辺りから大和の話が多くなります。

ちなみに、お社(やしろ)に入った糸の
もう片端である活玉依媛の家には、
麻の糸が三巻き(みまき)だけ残っていたという。 
これはミマキイリヒコ(応神天皇)の神話なので、河内王朝でしょう。

190日本@名無史さん:04/08/22 16:20
>>181の言ってるのは天皇以前の神代の神話だと思うんだけど…。
191日本@名無史さん:04/08/22 18:55
河内王朝は、研究史上の遺物です。
いまどきそんなこと言っている奴いないよ。
192日本@名無史さん:04/08/22 18:58
>163
>学会そのものに欠如しているのではないかと見る。
君の言う学会ってどこの学会?ちゃんと議論しているよ。
193日本@名無史さん:04/08/22 19:01
小林行雄や都出ヒロシも読まずに議論しているレベルの低いスレッドですね。
194日本@名無史さん:04/08/22 19:08
とりあえず、妄想ではなく、当時の文献に記録されてることを列挙です。
各説のみなさんは、以下の状況について、資料や根拠を含めて説明してみてください。

・唐から何度も来る使者はすべて筑紫止まりで長期間滞在も何度もあり
・当時は平壤の安東都護府の下に各地に都督府が設置されている
・劉仁願が熊津都督府の司馬法聰等を筑紫都督府へ遣し、境部連等を送致
・唐から郭務宗が率いる47艘も来ている
 (当時の遣唐使は300人で2艘、白村江の全唐軍は180艘)
・天智天皇崩御が、郭務宗等がいる筑紫に伝わったのは3ヶ月後
・郭務宗へ布綿などだけでなく甲冑弓矢まで届けられている
・この白村江後の混乱期に国号が日本へ変更
・唐書に、日本国はもと小国で倭国の地を併せた、との説が掲載
・筑紫君薩夜麻は白村江後に8年間唐にいた

195一応九州王朝説:04/08/22 22:30
お久です・・・・・。

が・・・・・・・。






あんまり白村江だけにこだわっても、建設的な議論がしにくいですが・・・・・。
196日本@名無史さん:04/08/22 22:53
>>194
なぜそんなに一時期の詳細にこだわるのですか?
それが全体に影響を与えたなら、まだわかるが、結局、
大きな流れとして唐は撤退してしまい、筑紫の反乱も
続かなかった。
だから近畿の朝廷が続いたのでしょう。
19725歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/22 23:03
ここの方々はやけに専門的ですがいったい
何してる方々ですか?大学で研究してる方々?
それとも単なる歴史マニア?
198日本@名無史さん:04/08/22 23:20
>>190
>181の言ってるのは天皇以前の神代の神話だと思うんだけど…。

181が「記紀に」と書いていたから確認でつっこみ入れたまでです。

それから古事記中巻から大和神話が出てくるというのは
近畿にいつから朝廷の原形ができたか、という推定にも大きく関わってきます。

古事記上巻の最後に、3C後半のから4C始めの
邪馬台国の卑弥呼やトヨを思わせる
トヨ玉媛や玉依媛の話があり、

中巻が、神武東征で始まり、次に河内王朝の
ミマキイリヒコ(応神)の話しが多くを占めるのは、
トヨとその後継の男王の時代(3C後半から4C)に
九州から近畿に、大王の勢力が拡大したか別の勢力が近畿で勃興
したことを示唆している、と私は思います。その時代の大遺跡もでてますし。
199:04/08/22 23:25
>>198
ミマキイリヒコは崇神天皇でしょう。応神ではないですが。
200日本@名無史さん:04/08/22 23:29
記紀神話について言えば、それがいつ頃成立したのかによると思う。
伊勢=東・聖、出雲=西・穢という世界観に基づいたもので、
その当時のヤマト朝廷の勢力圏を表している。
各地の神々にそれなりの役割を与えて、整合性を持たせるというのが
記紀神話の役割なのだろう。

神武東征は、欽明以降の応神神格化の流れで、出来たものではないか。
神武=応神、アマテラス=神功、高木神=武内宿禰。
応神は父の分からない子、聖王伝承としても考えられる。
20125歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/22 23:35
天照大神=卑弥呼 大国主命=狗奴国王

と仮定すればつじつまが合いませんかね?
202:04/08/22 23:44
ま〜ず、イコールをやると外れます。
>>198さんが 崇神=応神  を主張しているのだとすれば、
>>200さんは 神武=応神  を主張し、さらに 天照=神功
>>201さんは 天照=卑弥呼 を主張しています。
あまりにも等号が多すぎるとは思いませんか?
正解は全部不等号ですよ。
203一応九州王朝説:04/08/22 23:46
>古事記上巻の最後に、3C後半のから4C始めの
  邪馬台国の卑弥呼やトヨを思わせる
  トヨ玉媛や玉依媛の話があり、

そこが私にも興味深い所です。
玉は、三種の神器の中では日本のオリジナルとも言われる存在で、国生みも天孫降臨も
玉が出てきます。縄文の北陸→出雲→筑紫という玉の変遷も、神話と照応していますよね。
先年亡くなられた水野氏の説も、三種の神器の中で玉が最も古く、特別な存在だということ
ですが、そう思います。

204日本@名無史さん:04/08/23 00:23
>>203
キ○ガイのお前は来るな。
205日本@名無史さん:04/08/23 00:40
神武東征伝承は、九州から来た偉大なる大王がヤマト地域を征服したという、
畿内の古老の記憶がベースになっていると思う。
九州から来た大王。それを応神と考えるのはどうだろうか?
北九州に縁が深い応神。熊襲征伐で大軍を任された応神が、大王位継承争いの
ドサクサに紛れて、葛城氏と結託。大王位を簒奪したのだろう。
半島への積極策への転向。それは半島利益をもつ北九州豪族たちの悲願でもあった。
神の声を聞かず、半島権益を軽視し、熊襲戦に拘る仲哀が殺されたのは、
興味深いことだと思う。
206日本@名無史さん:04/08/23 01:24
>>188
その話って九州(祖母山)にも朝鮮にもあるんですよ。
207日本@名無史さん:04/08/23 02:43
とすると、唐の進駐軍の助けを借りて、壬申の乱を勝利に導いたのではないか?
208日本@名無史さん:04/08/23 22:34
このスレッドには小林恵子と某国工作員、西都厨=古田信者=アズマ
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(西都厨=古田信者=アズマ隔離スレッド)
九州王朝はなかったのか?※ 9
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1081624257

(小林恵子と某国工作員隔離スレッド)
【古代史電波】小林恵子の妄想を語ろう
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087908201/l50
朝鮮人が日本を作った可能性は
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1057493325/l50








209日本@名無史さん:04/08/23 22:37
高句麗が朝鮮民族の国であることを直視できない馬鹿がいるスレッドは
ここですか?
210日本@名無史さん:04/08/23 22:50
西都厨きちゃったよ。
211日本史@名無しさん:04/08/23 23:19
208 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/08/23 22:34
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↑ クズが。お前が隔離させてろや。ボケ。
212日本@名無史さん:04/08/23 23:21
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213:04/08/23 23:24
右翼=国粋主義者=畿内厨=嵐
214日本@名無史さん:04/08/23 23:24
池沼なんとかしろよ。
215暴れ畿内厨は放置:04/08/23 23:27
 ┌─────────┐
 │               .|
 │  キチガイ警報!  │
 │               .|
 └―――──――――┘
      ヽ(´ー`)ノ
         (  へ)
          く
216日本@名無史さん:04/08/24 01:20
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217日本@名無史さん:04/08/24 01:21
>>209
高句麗を朝鮮民族の国だというのは半島人の妄想。朝鮮人は祖国におかえりなさい。
218日本@名無史さん:04/08/24 01:21
高句麗が朝鮮民族の国であることを否定する妄言は許せないですね。

219日本@名無史さん:04/08/24 01:27
>217
事実を直視できないのは恥ずかしいですよ。
高句麗妄言を繰り返す日本人の精神構造は不思議だ。
220>215:04/08/24 01:29
西都厨、お前は入スレ禁止だ。
221日本@名無史さん:04/08/24 01:32
>>218-219
そんなこと逝ったって、高句麗は朝鮮人の国じゃないんだからしょうがないじゃん。
222日本@名無史さん:04/08/24 01:33


274 :日本@名無史さん :04/05/20 01:23
古田史学系の雑誌ってカウントされる?
それとももしかしてマイナス?


275 :日本@名無史さん :04/05/20 08:56
>>274
マイナスではありません。
×0(かけるゼロ)です。
つまり今までの業績が全部チャラになります。
恐らく永遠に復活できなくなるでしょう。


223日本@名無史さん:04/08/24 01:35
>221
なぜそうなのか理論的な説明が日本の学者にはできていないですね。

224日本史@名無しさん:04/08/24 01:51
アンカー狂人出現中
225日本@名無史さん:04/08/24 14:33
>>203 三種の神器の中で玉が最も古く、特別な存在

そうなんでしょうね。
紀元前2300年ころ(縄文時代中期後半)の
青森県の三内丸山遺跡の竪穴式住居からも、良質な新潟(糸魚川)産
ヒスイでつくられた大きな玉がでています。

>縄文の北陸→出雲→筑紫という玉の変遷も、神話と照応

北陸と筑紫は、古事記神話で、具体的にどこを指して
いらっしゃるのでしょう? 
226日本@名無史さん:04/08/24 14:37
>>206 その話って九州(祖母山)にも朝鮮にもあるんですよ。

朝鮮も和人の居住エリアだったので不思議はないでしょう。

これに関しては、小中華意識を凝縮させてきた朝鮮の人々の心の中に、
漢民族にすりこまれた東夷(この場合は和人)に対する差別意識があり、
自らの祖先に和人がいた事実を受け容れ難くしているように思います。

どうでしょうか? 
227日本@名無史さん:04/08/24 14:45
朝鮮民族が出来上がるのは、12世紀でしょ。
倭人は紀元前1千年まえから。
228日本@名無史さん:04/08/24 15:06
>>225
縄文時代のヒスイ大珠は東日本に広く出土していたもので
末期にはヒスイ勾玉に発展し、弥生時代には西日本にも広まり
古墳時代には任那・新羅・百済の遺跡でも数多く出土しています。
ttp://www.city.itoigawa.niigata.jp/contents/7d46070e371a3d8/other/7d46070e371a3d836.jpg
229日本@名無史さん:04/08/24 15:13
>>227
朝鮮半島では旧石器時代の遺跡は見られるものの
12000〜7000年前までの遺跡が発見されていません。
7000年前に縄文人が土器を持ってきてからは、人類の遺跡が続いており
朝鮮半島における先住民族は縄文人となります。
230日本@名無史さん:04/08/25 00:17
古朝鮮の歴史は5千年にものぼることを知らないアホがいるな。
231日本@名無史さん:04/08/25 01:08
卵から人間が生まれたような朝鮮の5000年まえだから、真剣に考えたほうがいいぞ>>230
232日本@名無史さん:04/08/25 04:45
>>230
歴史?
中国の夏王朝だって、まだ完全に認定されていないのに?
何でもかんでも古文書に記載があれば歴史とはいわないでしょ?

あ?歴史と考古学を混同しているのか!
道理で文章が変だと思いました。「歴史」っていってますものね!

233日本@名無史さん:04/08/25 09:27
>>230
その場合の「古朝鮮」は、現在の半島にある朝鮮じゃなくて、
周に封じられた殷人が支配していた、中国東北民族の国でしょう?

その後、その支配者が鮮卑になったりプヨになったり
漢人になったりしながら、半島や九州まで侵略してきて、
和人などの在地勢力と混合していく。

邪馬台国が殷とそっくりな文化を持っていたのは、
そういう流れの結果だと思います。

(注: 殷は祭政一致の宗教国家で、亀甲を火であぶって占い、
    陰陽思想等による鬼道を使っていた。
    邪馬台国の卑弥呼が、殷とそっくりの文化を
    受け継いでいます。)
234日本@名無史さん:04/08/25 18:41
神武東征を、「征服」のように考えるのは、どうかと思うが。
本当に「征服」したのは、崇神天皇が四道将軍を派遣した時から。
それ以前は、単なる大和盆地のいち豪族に過ぎない。
神武東征は、大和盆地の一部を乗っ取っただけに過ぎない。
235日本@名無史さん:04/08/25 19:03
3世紀頃に、ヤマトが吉備や東海らと大連合したことを、記紀は「四道将軍を
派遣した」と記載しているのでは、と思うが。
236日本@名無史さん:04/08/25 19:37
>>235
畿内と吉備の連合は、箸墓古墳以降に吉備発祥の特殊器台→埴輪を並べるように
なったのが画期と見られます。

東日本の前方後方墳体制が終わる330年頃に東海以東も組み込まれたのでしょう。
ttp://agatazin.jp/niwazin/sji/2003-11/2003-11.html

471年の稲荷山鉄剣銘に書かれた系図だと、7代前が四道将軍と同名のオホヒコです。
1代20-30年と仮定すれば、この人物の活動時期は260-330年の幅に入ります。
237日本史@名無しさん:04/08/25 22:53
記紀で一番困るのは、いつどのような形でヤマトが各地方を併呑していったかという
ことが非常に不明瞭なことだよな。全然わからない。

どうもその辺りにいろいろなことが隠されていると思う。
238>236:04/08/25 23:09
特殊台器は、箸墓からで別に最初じゃないよ。
それより前の前方後方墳はいくらでもあるよ
239日本@名無史さん:04/08/25 23:31
「古代の天皇が四囲に皇族将軍を派遣して、天下を安んじた」というのが、
記紀編纂者の描きたかったことなのだろう。
実際には、倭人伝に記載されているように、倭国の王たちが女王を共立して倭国大連合
が結成されたということ。
崇神以前、ヤマトの王家は倭国各地の王族と血縁関係を深め、それが四道将軍伝承
として語れていると思う。各地の王族は連合する時に、祖先を共通とする認識を
強めた結果であろう。我々は同じく偉大な始祖王の末裔であると。
ヤマトの大王が実際に各地に将軍を派遣したというのは、もっと後代のことだろう。
四道将軍派遣に九州が含まれていないことは重要。次代の景行の時に九州はヤマト連合の
傘下となっている。つまり、四道の連合→九州制圧という流れ。
マキムク遺跡に九州系土器が出土しないこととも符合する。
240239:04/08/25 23:34
なんか、変な日本語になってしまった。スマン。
241日本@名無史さん:04/08/25 23:38
>239
最初期の古墳が旧奴国など北九州にあるので、その見解は成り立ちません。
242239:04/08/25 23:52
>最初期の古墳が旧奴国など北九州にあるので
那珂八幡とかの、小さい前方後円墳のことですか?
あれは、倭国連合(前方後円墳体制)の傘下となった、北九州豪族の墓だと
考えていいのでは?
見解が分かれるところだがな。
243日本史@名無しさん:04/08/26 00:35
まあいくら議論したところで、考古学に関わる人間のほとんどが
「炭素同位体法など無駄。土器で確定!」って平然としている狂
人ばかりの現状では、真実なんて明らかになる分けないよ。
24425歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/26 00:40
三国志はあんなに詳しいのに
なぜ魏志倭人伝のほうは邪馬台国の
場所すら定かではないんだか・・w
245日本@名無史さん:04/08/26 00:50
海洋民族の倭人国で、陸路を基本とした里程記述は少々無理だったのかもしれないな。
倭人は距離を移動時間でしか把握してないしな。方向感覚も少々おかしいことだし。
246日本@名無史さん:04/08/26 01:19
>>244
中国では史書は絶対視されていて、滅多な事では捏造はできないと
されている。
されど、史官も、外国の事まで、正確に情報収集は不可能だろう。
報告をそのまま記録するしかない。
247日本@名無史さん:04/08/26 01:28
>>239
景行の時に大和朝廷は九州を征服したというのは、あり得ないと思う。
古事記の記述では、日本武尊が、捨て身のテロで、熊襲の酋長を暗殺
した事になっている。
とても、征服者のやる事ではない。
実際、南九州は7世紀まで支配下にしていないのだから。

大和朝廷が北九州を征服するのは、継体の頃ではないか?
いわゆる、磐井の叛乱の制圧である。
248日本@名無史さん:04/08/26 01:30
>>245
>>方向感覚も少々おかしいことだし。

おかしいっていうか、「日の縦」・「日の横」の解釈が違ったように思う。訳すとき間違えてもしょうがない。
249日本@名無史さん:04/08/26 01:47
>>205
と、いうか、半島制圧に功績のあった将軍である神功が、今度は
大和制圧を行ったというのが、時系列からみて正しいのでは?
250日本@名無史さん:04/08/26 01:53
>>247
>景行の時に大和朝廷は九州を征服したというのは、あり得ないと思う。
>古事記の記述では、日本武尊が、捨て身のテロで、熊襲の酋長を暗殺
>した事になっている。

日本書紀では詳細に語られているけどね。
251日本@名無史さん:04/08/26 01:55
邪馬台国:九州王朝出身の神武が、大和制圧、新王朝を立てる

崇神が、大和王朝を拡大・発展させる

大和王朝の発展に危機感を抱いた九州王朝が、朝鮮半島侵攻で功績の
あった女将軍・神功に、大和王朝を攻撃させる。
神功の息子の応神が大和王朝を継いで、親・九州王朝政権となる。

継体が大和王朝を乗っ取り、さらには九州王朝を服属させる。
252日本@名無史さん:04/08/26 02:07
また九州王朝信者か
253日本@名無史さん:04/08/26 02:09
いい加減、神武東征神話に振り回されるの止そう。
応神東征伝承を、焼き直したものなんだから。
254日本@名無史さん:04/08/26 02:14
>>247
北部九州は早くから前方後円墳体制に組み込まれており無問題だろ。
東日本は前方後方墳体制が崩壊する330年頃だろうけど。
255日本@名無史さん:04/08/26 02:40
今さらなんだけど、
ここの議論は記紀の神武以降のどれとどれを
実在て措定してのハナシなの?

256一応九州王調説:04/08/26 08:09
ふむ。

神武がよく登場するが、科学的方法論としては、むしろ近い方が先に確定されていく
のが普通のはずなんですが。崇神、応神、継体、聖徳太子、天智、天武・・・。

ところが、陵墓指定という日本史学の根本的な不幸があるために、このような事態に
陥ってしまっている訳ですが、このことに対してどのような立場を取っているかと言うこ
とも大事な踏み絵となると思います。

畿内派には、あからさまに天皇の墓暴きは不敬である、と公言している人もいるので、
ここが世間的に信用されない理由の一つですよね。
257日本@名無史さん :04/08/26 13:53
>>245
海洋民族の倭人だからこそ航海技術に優れているはずで、
方向感覚がおかしいなんておかしいだろう。

258日本@名無史さん:04/08/26 14:32
>>257
無理やりの陸路の方向感覚はめちゃくちゃだろう。
259日本@名無史さん:04/08/26 15:55
方角の違いは言葉の問題なんだってば…
260日本@名無史さん:04/08/26 21:10
>>253
東征が2度あったら、いけないのですか?
神武と、応神の東征は、記紀を見ても、シチュエーションが全く別
なんですが。

例えばあなたは、アングロ・サクソンのブリテン島侵入は、ノルマン
の侵入を焼き直した伝承だと、そうおっしゃるので?
261日本@名無史さん:04/08/26 21:36
レベルや規模の大小はあるにせよ、波状侵入説に賛成。
262一応九州王調説:04/08/26 21:43
東征と東遷・・・・・。似ているようで、偉い違いですよね。

東征は、要するに領土拡張戦争で、東遷も軍事的意味合いは同じです。
どちらも、畿内を征服支配するだけの軍事・政治能力が九州にあったという点は共通します。

ただ、東遷とは要するに遷都、或いは国替えなわけで、そんな事が実際にあったとしたら、
それだけで十分日本の古代史に大変な問題提起です。それこそ電波クラスのw

明治維新は遷都と言うことになっています。しかし、江戸時代270年間、実質首都であり、それ
抜きにはあり得なかったでしょう。また、無理に京都に戻したり大阪に持っていくのも大変だった
わけで、まあ形式だけのことです。

近畿天皇家の遷都については、離れてもせいぜい大阪や大津程度で、その時代でも例えばい
きなり蝦夷に遷都が出来るものでしょうか。北陸や東海でさえ実質的に不可能だと思われます。

以上、「東遷説」などあり得ないことは明らかだと思われます。よく言われるマキムク遺跡ですが、
当然というか、最近はプレマキムクの存在も予想されています。それは、あれほど有利な条件の
土地で降って湧くはずがないw 何せ奈良盆地で耕作できる場所自体限られていたわけで、あの
場所が無人であったわけがないですよね。

ようするに、邪馬台国=畿内では不利なので、東遷した事にすれば畿内ヤマト一元論ができると
いう妄想の産物といって良いでしょう。木に竹を接ぐとはこのことで、こんな事が可能ならそりゃ何
でも有りだ罠
263一応九州王調説:04/08/26 21:49
同時に、そのような東征・東遷を可能とするだけの力が九州にあったなら、それが一気に
消滅するはずがないのも常識です。歴史的に侵略戦争は、森林破壊や人口増大によって
引き起こされるか、領土そのものを奪われそうになって、根拠地を移す場合がほとんどです
が、後者は考えられないでしょう。森林破壊意外の大規模な環境の激変についても、喜界
カルデラの爆発クラスの大噴火など当時起こっていません。

つまり、「東遷」説は、東遷というあり得ない政治モメントと、九州の生産力と政治力、人口圧
力などが、一気に或いは長期的に霧散したという、これまたあり得ない二つの前提の上に成
り立つ、これ以上ない電波と言えます。
264日本@名無史さん:04/08/26 22:34
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(西都厨=古田信者=アズマ隔離スレッド)
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(小林恵子と某国工作員隔離スレッド)
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朝鮮人が日本を作った可能性は
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265日本@名無史さん:04/08/26 22:38
和田文書に決定的にダメージを与えたのが安本美典氏である。季刊
「邪馬台国」誌上での徹底的な攻撃は的確で、あらゆる角度から論証した。
古田氏は最初は本物と信じていたが途中でバチもんと気が付いても、もう
引き返せないドロ沼にはまっていたものと思われる。窮した古田氏は、
東北大の鑑定結果をねじまげたり(額入り宝剣騒動)、二百万円で
「本物のにせ物」の古文書製作を広島の専門家に依頼したりする。
266日本@名無史さん:04/08/26 22:54
九州王朝説のアホが、また人に噛み付いてるな。
お前が書き込むから、良識派の人たちがいなくなることに気付け。


267日本史@名無しさん:04/08/26 23:45
>お前が書き込むから、良識派の人たちがいなくなることに気付け。

カスが。それはお前だろうが。キチガイ野郎。

他のスレまで荒らし回りやがって。さっさと史ねよ。お前が史んだら親も喜ぶだろうぜ。
268日本史@名無しさん:04/08/26 23:48
又出たか。狂人アンカー野郎。
だれかこいつの顔晒してくれよ。あちこち貼りまくるからさ。
269日本@名無史さん:04/08/27 00:06
また九州王朝信者か

270日本@名無史さん:04/08/27 00:07
なんで西都厨は、隔離スレッドでおとなしくしないのですか?
271日本@名無史さん:04/08/27 00:10
このスレッドには小林恵子と某国工作員、西都厨=古田信者=アズマ
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(西都厨=古田信者=アズマ隔離スレッド)
九州王朝はなかったのか?※ 9
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272日本@名無史さん:04/08/27 00:12
古田爺さんの信者はカルトだから
何を言ってもムダだな

273日本@名無史さん:04/08/27 00:20
古墳の問題はともかく、銅鐸の問題については、畿内説の人は、
どう考えているのですか?
畿内を中心に拡がっていた銅鐸文化が、後世の伝承として残らなかった
のは、どういう理由だと考えているのでしょうか?
274日本史@名無しさん:04/08/27 00:20
アンカー野郎はチンカス
275日本@名無史さん:04/08/27 00:22
>歴史?
>中国の夏王朝だって、まだ完全に認定されていないのに?
>何でもかんでも古文書に記載があれば歴史とはいわないでしょ?

>あ?歴史と考古学を混同しているのか!
>道理で文章が変だと思いました。「歴史」っていってますものね!

また、妄言をはくな。
朝鮮青銅器文明は中国と独立して発展したことは学会で証明されている。
文献の証拠もある。
なにが問題なんだ

276日本@名無史さん:04/08/27 00:24
>273
残っていない文化なんていっぱいあります。
277日本@名無史さん:04/08/27 00:27

竹内文書、富士文書や壇恒古記のような真に価値ある古典を無視していることが、
日本の古代史を迷走させているとしかいいようがない。

いまからでも遅くはない、これらを解析すべきだ。

278日本@名無史さん:04/08/27 00:33
ホツマ文字など神代文字もちゃんと研究されるべきだ。
保守反動の学会オヤジどもを倒そう。
279日本@名無史さん:04/08/27 00:34
神代文字は上代仮名遣いの問題でアウト
280:04/08/27 00:38
『卜』字は文字通り卜占に使うから、逆に未来文字ともなり
天地初発の悠久の太古、神代から遠い未来まで絶えることはない。
これを正解すると邪馬壱国の秘密を知れる。
281日本@名無史さん:04/08/27 01:13
>>275
捏造チョンは消えろよ。
衛氏朝鮮は燕の衛満が建てた漢人の植民国家だし
漢の武帝時代にこの国を滅ぼして楽浪郡を置いて直轄領にした。
282日本@名無史さん:04/08/27 01:51
>>276
なら、九州を中心とする銅鉾文化のほうは、何故銅鐸と違って伝承が
残ったのですか?
(記紀神話にも、鉾はアイテムとして、何度も登場する)
283日本@名無史さん:04/08/27 03:35
銅鉾文化は明らかに破壊された歴史など無く、破壊された銅鐸文化だけが問題になると思うが
284日本@名無史さん:04/08/27 05:12
文献をエポケーして(とりわけ記紀を無視するとして)
考古学的に何が妥当かを眺めるとすると
古代は結局どんな感じなの?
285日本史@名無しさん:04/08/27 07:58
>>284

それも不均等すぎてまだ何も言えない。
奈良などは掘り放題、保存され放題だが、九州なんて掘れない、掘らせない、炭素法測定
してくれない、掘っても「これは伊都国」で終わり。

荒神谷だって保存されるまで大変だったよ。
こういった現実があるから、橿原研が何か言った時点でとりあえず眉につばする。
286日本@名無史さん:04/08/27 11:38
>>285
> 奈良などは掘り放題、保存され放題だが、

でたらめ言うなよ、基地外。
長屋王邸跡はそごうの駐車場として潰された。→そごうは数年後に閉店。
畿内王権発祥の研究に重要なオオヤマト古墳群ですら国史跡の認定がなく
高速道路で分断の危機にある。

> 荒神谷だって保存されるまで大変だったよ。

保存されただろ。

> こういった現実があるから、橿原研が何か言った時点でとりあえず眉につばする。

都合の悪いことは認めたくない基地外。
287日本@名無史さん:04/08/27 11:48
ひろゆき=創価であることを報じないマスコミ

1 :文責・名無しさん :02/10/24 18:37 ID:ajNeHEw8
なぜマスコミはひろゆき=創価であることを報じないのか!!

http://ex5.2ch.net/test/read.cgi/mass/1035452245/l50
288日本@名無史さん:04/08/27 12:21
>>287
うるさい!
お前が創価じゃねえか
289日本@名無史さん:04/08/27 14:03
勝山古墳出土木材年輪年代測定結果について
記者発表資料(2001年5月30日)
この資料の伐採年代は、新しく見積もっても西暦210年を降らないことになる。
ttp://www.kashikoken.jp/from-site/2001/katuyama4b.html
ttp://www2.begin.or.jp/sakura/maka02.htm
290日本@名無史さん:04/08/27 22:01
>281
衛満は、中国系朝鮮民族だ。

291日本@名無史さん:04/08/27 23:01
>285
西都厨、いいから元のスレに帰れ
292日本@名無史さん:04/08/27 23:34
>>286
長屋親王邸跡は、ちゃんと、イトーヨーカドーの地下に保存されていますが?

そのために、通常は地下1階を設けて食料品売り場にするところを、
地下を作らずに、1階を食料品売り場としたまま、引き継いでいます。
293日本史@名無しさん:04/08/27 23:46
291 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/08/27 23:01
>285
西都厨、いいから元のスレに帰れ


↑ チンカスは隔離板逝けよ
294日本@名無史さん :04/08/28 11:19
>>291
九州説がはっきり否定されたわけではないのでそういう物言いはやめてくれ。
実際畿内説支持は三文学者だけなんだから。
295日本@名無史さん:04/08/28 11:33
短里も知らず、箸塚やマキムクにすがって生きる畿内説に、未来は無いだろう
296日本@名無史さん:04/08/28 12:18
このスレッドには小林恵子と某国工作員、西都厨=古田信者=アズマ
の立ち入りを禁止します。

(西都厨=古田信者=アズマ隔離スレッド)
九州王朝はなかったのか?※ 9
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1081624257

(小林恵子と某国工作員隔離スレッド)
【古代史電波】小林恵子の妄想を語ろう
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087908201/l50
朝鮮人が日本を作った可能性は
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1057493325/l50






297日本@名無史さん:04/08/28 12:30
なぜ日本の神道は、アラバハキ神を、名を変えて客人神扱いしたり、土地神として他の神様に
置き換えることで、神道世界から無視しているのか?
それは、アラバハキ神の真実がわかると、神道、いや天皇家の存在、延いては日本民族の歴史の
多くが否定されたり、大きく書き換えられてしまうからです。


298日本@名無史さん:04/08/28 12:34
>>297
基地外朝鮮人かよ ( ´,_ゝ`)
299日本@名無史さん:04/08/28 12:43
>>295
古田等が使う『短里』と言う言葉は、皆知ってるよ。
そして、倭人伝の路程を現在の地図に当てはめれば、一里=65メートルになるのも事実だ。
だけど、三国志全体で見れば、やはり一里は436メートルであり、
魏代に『短里』が施行されていたと言う古田等の言い分認められない。
多くは、文献の誤読若しくは曲解の類で、それを鵜呑みに出きるのは『信仰心』の賜物だ。
『駑牛』や『周髀算経』の話は、過去スレで散々論破されているので、持ち出してもスルーされるだけだよ。
新参の方はパート3を参照されたし。
300日本@名無史さん:04/08/28 12:54
アラハバキ神は、天津神や国津神を崇拝する人々より以前に日本に住んでいた
原住日本人が崇拝していた神様です。
これは、獅子神と蛇神(地母神)の間に生まれた神様です。
邪神ではありません。
今も、土地神様のような形で、大きな神社の重要な箇所(方向)に祀られている
ケースがあります。

301日本@名無史さん:04/08/28 13:00
「大朝鮮帝国史」 1994年 東亜出版社
韓国陸軍授業、「民族史教育」にて同内容が採択。
http://members.tripod.co.jp/koreawatcher/docs/jushin.htm

第1巻
* 我が民族が住む全世界を朝鮮(チュシン)という。

* 我が民族はパミール高原に源を発して、バイカル湖を経て不咸山に移動、定着した。
  不咸山に到着した我々の先祖はそこを中心に集団定着、文化を発達させ、
  紀元前6000年頃には紅山文明を、続いて黄河文明を起こした。

* 我々の先祖は既に紀元前3898年に倍達国を建て、農耕民族である中華族を制圧し、
  大帝国を建設していた。
302日本@名無史さん:04/08/28 13:04
韓国105代天皇尊影集
http://members.at.infoseek.co.jp/koreawatcher/docs/emperor.htm

「韓国105代天皇尊影集」は「大朝鮮帝国史」の作家、卍夢 金珊湖(キム・サノ)先生が
5年余りにわたる刻苦の努力と、我々の歴史を正しく知らせて民族の精気を正しく立て直そうという熱望で、
渾身の力を尽くして100点余りの絵で描き出したご先祖様たちの姿を盛り込んだ「画集」である。

失われて歪曲された歴史を復元し、画家としての霊感を足して描き出した、
韓民族の国々を起こしたご先祖たちの姿は、どきっとするほどの衝撃的な感動を与える。
我々が見てきた率去の1000年余り前の檀君像は、
国を起こした方としてはどこか不足した部分が多かったのが事実だ。
神話的な要素がより多く見える神仙のような姿ではなかったか?
しかし、金珊湖画伯の霊感で描き出した始祖 檀君の姿は、国を建て起こし、
性通光明,理化世界,弘益人間を理念とする桓因の国である桓国と
倍達帝国を継承した大朝鮮帝国の始祖として、
「やはりそのようなお姿だっただろう」という感嘆を自然に醸し出させる。


303日本@名無史さん:04/08/28 13:25
倭(奈良百済)国 始祖 応神王仁

高句麗による侵攻のために百済から日本列島に逃げた応神天皇は、そこで
奈良百済=倭国を建国し、そこから大百済帝国 http://www.damool.net/html/jushin/daejusin04.jpg
を支配していた

http://www.damool.net/html/emperor/198.gif
304日本@名無史さん:04/08/28 16:35
>>285
発掘の大半は、
「そこを開発する前に緊急に発掘する」ものであり、
その際の発掘費用は工事を行う業者持ち。

開発が盛んな方が発掘件数が増えるわけ。

奈良では、そういう勇気ある業者が少ないので発掘は意外に少ない。

研究者が国に申請して、大規模発掘プロジェクトを実行するのって、
予算の都合もあって、ハードルが高いでしょ。
急がないから後にしろ、って感じではないかと。

その結果、実は奈良より福岡の方が発掘件数が多く規模も大きいんじゃないかと。
305日本@名無史さん:04/08/28 17:23
>>303
なんじゃそのサイト
306日本@名無史さん:04/08/28 18:02
>>299
短里は証明されてますから、論外。
307日本@名無史さん:04/08/28 18:04
>>299
パート3はまだ見れないんだけど、解説よろしく。
308日本@名無史さん:04/08/28 21:19
>>303
また凄いもの見せてくれたな〜!
大百済帝国、外百済、内海、奈良百済、ホエー!
309日本@名無史さん:04/08/29 00:07
大百済帝国が実在したとしても、結局継体天皇率いる、日本列島の
土着勢力に駆逐されてしまう訳だから、実にはかない歴史だな。
310日本@名無史さん:04/08/29 00:10
>>309
白村江へ救出に行ってるのはなぜですか?

どちらかが分家の可能性ありますか?
311日本@名無史さん:04/08/29 00:11
それと、百済の支配階級って、被支配階級とは言葉が全く違う
異民族なのだろ。
被支配階級のほうは、今の朝鮮民族の直系の祖先。
支配階級のほうは、外部からの侵入者。
「大百済帝国」を韓国人が誇るってのは、中国人がジンギスカンを
誇るようなもんだ。
312日本@名無史さん:04/08/29 00:11
女真族が建国したとされる大金帝国も朝鮮民族の国だった。

大金帝国初代皇帝 金阿骨打(キム アクダ)の肖像

http://www.damool.net/html/emperor/224.gif
313日本@名無史さん:04/08/29 00:13
>>310
継体天皇は、応神天皇の8世の子孫と名乗って、一部の「大百済帝国」
の勢力と妥協を図っている建て前上から。
314日本@名無史さん:04/08/29 00:16
>304
でも福岡じゃ肝心の春日丘陵が宅地家されちゃってるのね。
だから点と点でしか掘ってないね。
それでもあんだけ出てくるのは凄いことだろうけどね。

315日本@名無史さん:04/08/29 00:18
>>312
「勃海」という、高句麗の亡命政権・・・つまり、朝鮮民族が中国東北部を
侵略して建国したという、国家がある。
ところが、その侵略者による国家は長続きせず、土着の被支配者階級が
抵抗運動を起こして、真の民族政権である「遼」の建国となる。
ところが、そういう現地の人の独立運動を踏みにじり、またしても朝鮮
民族は「金」を建国して、性懲りも無く侵略をくり返したのである。
つまり朝鮮民族は、骨の髄まで侵略者なのである。

我が日本が、そういう侵略者どもを征服するにあたって、建て前だけでも
「対等合併」にして、顔を立ててやった事を、朝鮮民族は、土下座して
感謝すべきだろう。
316日本@名無史さん:04/08/29 00:21
キム アクダ マンセー
317日本@名無史さん:04/08/29 00:21
>>299
パート3はまだ見れないんだけど、解説よろしく。とくに『周髀算経』のネタは
論破されてるってあたりを。

>>310
同盟国だからだろ。分家だの本家だの関係あるかい?

>>311
百済の庶民階級は「馬韓人」。
べつに「今の朝鮮民族の直系の祖先」などではないと思うが?

>>312
なんだよ、金阿骨打(キム アクダ)ってw
ずいぶん大胆な捏造だな。本当は完顔阿骨打(ワンヤン アクダ)なのに…
318日本@名無史さん:04/08/29 00:25
応神王朝の最期の天皇・武烈天皇は、さまざまな悪行を行った。
その際たるものは、女の子をすっぽんぽんにした上で、その女の子に
馬の交尾を見せて、おまんこが濡れ濡れになった女の子については、
即座にブチ殺した事である。
もちろん、こんな事は武烈天皇が突然思い付いたのではなく、応神天皇
の頃から、類似の事は行われていたのは間違い無い。
つまり、大百済帝国なるものは、歴史上比類の無い、破廉恥・変態帝国
だったのである。
319日本@名無史さん:04/08/29 00:37
>>315
あなたの言い方、中国人みたい。アイアム・ザパニーズ?
320日本@名無史さん:04/08/29 00:40
>317
歴史を歪曲するな。
愛「新羅」覚羅氏も同じく満州を支配した。
321日本@名無史さん:04/08/29 00:41
金の皇帝・完顔亮・・・いや、金亮は、皇族150人を殺して、その
妻子をことごとく後宮に入れて、ヤリまくった。
妻が欲しくば夫を殺す、と史書に記されている色情狂である。
朝鮮民族が大帝国を建国すると、必ず変態色情狂の皇帝が生まれる。
やはり、朝鮮民族そのものが、変態色情狂の遺伝子を持っているのだろう。
322日本@名無史さん:04/08/29 00:43
なんで西都厨消えたの?
323日本@名無史さん:04/08/29 00:44
>>320
その釣りあきたよ
324日本@名無史さん:04/08/29 00:44
>>320
愛「新羅」覚羅溥儀は、ホモの変態。
西太后も、サドの変態。
朝鮮民族は、やはり変態色情狂の遺伝子を持っているのだろう。
325日本@名無史さん:04/08/29 00:55
このスレッドには小林恵子と某国工作員、西都厨=古田信者=アズマ
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(西都厨=古田信者=アズマ隔離スレッド)
九州王朝はなかったのか?※ 9
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1081624257

(小林恵子と某国工作員隔離スレッド)
【古代史電波】小林恵子の妄想を語ろう
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087908201/l50
朝鮮人が日本を作った可能性は
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1057493325/l50








326日本@名無史さん:04/08/29 00:58
317の古田信者うぜえ、早く消えろ。
327日本@名無史さん:04/08/29 00:59
326は論破されて泣いている畿内厨
328>327:04/08/29 01:07
2ちゃんはツリー表示できないんだから、
テーマによってスレを使い分けるのがあたりまえ。
それができないのは池沼。

329日本@名無史さん:04/08/29 01:09
このスレッドには小林恵子と某国工作員、西都厨=古田信者=アズマ
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(西都厨=古田信者=アズマ隔離スレッド)
九州王朝はなかったのか?※ 9
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1081624257

(小林恵子と某国工作員隔離スレッド)
【古代史電波】小林恵子の妄想を語ろう
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087908201/l50
朝鮮人が日本を作った可能性は
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1057493325/l50




330:04/08/29 01:11
電波
331日本@名無史さん:04/08/29 01:29
畿内厨 宇座杉
332日本@名無史さん:04/08/29 01:37
>>329は火病
333日本@名無史さん:04/08/29 01:40
>>325>>329は「火病」!!

【「火病」の定義】

ではそもそも「火病」とは何なのか?
「火病」とは、朝鮮民族だけに見られる特殊な病気(精神病の一種)で、"Hwapyung"という英語医学表記もある。
怒りを押さえすぎて起こる病気を指す「鬱(うつ)火病」の略語らしいが、強いストレスを適切に解消できず、我慢することで胸が重苦しくなる症状を指すという。
最終的には、口から泡を吹く・絶叫・悶絶・顔面紅潮・嘔吐・七転八倒などの症状を起こす。
ここで注意しなければらならないのは、そもそも「火病」という病気は医学界で確かに認められているが、それは朝鮮民族だけの病気というものである。
特定の伝染病などを除けば、このような精神病がある民族だけに限定されると言う例は、世界でも「火病」以外存在しないのである。
334日本@名無史さん:04/08/29 01:41
「大百済帝国」なんて脅威の国があったら、中国の史書に
記述されてるわい。ヴォケ。
335日本@名無史さん:04/08/29 01:47
統一新羅にコテンパンに負け組みだった○○道の韓国人の妄想です。
336日本@名無史さん:04/08/29 01:54
新羅なんて、高句麗の遺臣の助けを借りてやっと国になった。
それなのに統一すませたら、高句麗の遺臣を迫害した卑怯者たちだ。
337日本@名無史さん:04/08/29 11:07
2ちゃんはツリー表示できないんだから、
テーマによってスレを使い分けるのがあたりまえ。
それができないのは池沼。



338日本史@名無しさん:04/08/29 11:10
↑ こいつが一番池沼。板の嫌われ者。
339日本@名無史さん:04/08/29 11:14
「日本外交はなぜ朝鮮半島に弱いのか」 佐藤勝巳 2002年 草思社
北朝鮮からみた対日政策でもっとも重要なことは、日本の政治をいかにして
韓国から引き離し、北朝鮮寄りにもっていくかにある。
私は帰国運動の第一線にいたとき、信じがたいことを目撃した。
1963(昭和38)年5月1日、総聯は「祖国自由往来」なる運動を提起した。
在日朝鮮人が北朝鮮に自由に往来できるようにするという運動だが、
そのためにとった戦術は、まずは地方議会にこれを決議させ、日本政府に圧力をかける
というものである。
地方議員は圧倒的に保守系であったが、この人たちの賛成がなければ決議は実現できない。
そこで総聯は、「飲ませる、食わせる」はもちろんのこと買収あるいは女性を与える
という、「目的のためには手段を選ばぬ」方法をとった。
みるにみかねた私は、公式の会議の場で総聯の責任者に向かって
「間違った運動である」と批判した。


340日本@名無史さん:04/08/29 11:23
>317
渤海は、朝鮮北朝と言われ、れっきとした朝鮮史上の国。
その末裔である女真族が朝鮮民族の系譜であることは学会でも認められているはずだ。
341日本@名無史さん:04/08/29 12:02
邪馬台国のスレなのに九州年号の話が出ない。なぜだ。
不思議なスレだ。
342日本@名無史さん:04/08/29 16:31
>>340
電波は半島の中だけにしろ。渤海を北朝なんていってるのは現代の朝鮮人だけだ。
343日本@名無史さん:04/08/29 19:22
>342
広く認められてる学説だ。
日本でも井上秀雄なども渤海を古代朝鮮史の一つとしていたはずだ。
344日本@名無史さん:04/08/29 21:02
井上秀雄は電波。
345日本@名無史さん:04/08/29 21:11
>>343
やっぱり朝鮮人が自立のよりどころにしているのは日本人の支えですね。
それなのに朝鮮人は日本人を見下し、祖先に和人がいることさえ
認めることが出来ない。「差別は我が内にあり」。
346日本@名無史さん:04/08/29 21:14
冗談でそ?
渤海の遺跡を訪れるには、中華人民共和国に旅行しかいと行けないよ?
347日本@名無史さん:04/08/29 21:18
>346
それは漢民族の不当な侵略によるもの。
高句麗を我がものにしようとする中国の野望には吐き気がする・
348日本@名無史さん:04/08/29 21:19
高句麗は中国でそ?
好太王碑を見に行くには、中華人民共和国に行かないと見れないよ?
349日本@名無史さん:04/08/29 21:22
>344
東北大学教のことを電波とは呆れたな。
350日本@名無史さん:04/08/29 21:24
>348
渤海の滅亡後、満州は漢民族に奪われた。
351日本@名無史さん:04/08/29 21:25
失われた歴史の重さを負ってこのように生きた姿で我々の前に現れた方が
何と105人であり、桓因時代 7人、桓雄時代 18人、檀君朝鮮(チュ
シン)の47人、そして北扶餘、卒本扶餘、高句麗、百済、新羅、倭(日本)
、勃海(大震国)、後百済、高麗、遼、金、李氏朝鮮、清、大韓帝国につな
がって、1万年の我々の歴史を証明している。 また、本図書にはこのよう
にいきいきと描き出された先祖たちの姿だけでなく、その業績も共に記述し
て歴史的理解を助けている。

352日本@名無史さん:04/08/29 21:31
>>350
え? 匈奴は朝鮮とちがうでしょ?
353日本@名無史さん:04/08/29 21:32
ここは朝鮮スレじゃないですよ。
354日本@名無史さん:04/08/29 21:37
>>349
教授だろうがなんだろうが電波は電波。
小林恵子だって教授だろうがw

井上は倭というのは半島の加羅のことだと北チョンに媚びたものの
日本の学界では相手にされてないだろうが。
355日本@名無史さん:04/08/29 21:41
>>340
渤海を新羅が北国とよんだことがあるから
南北朝時代をパクって「南北国時代」なんてむりやりな名称を作ってるだけ。
ちなみに女真族が朝鮮民族の末裔なんてのは100%電波。

>>343
>井上秀雄なども渤海を古代朝鮮史の一つとしていた

悪いけど、出典を示してくれる?
356日本@名無史さん:04/08/29 21:58
奈良市が日本国の歴史の中心となった輝かしい実績はわずかであり
他は田舎県内のローカル的歴史に登場しただけであった。

               日本の歴史

桜井【大和朝廷・邪馬台国畿内】→明日香【仏教文化】→橿原【初代首都藤原京】→奈良【平城京】→京都→鎌倉→京都→東京

http://www8.ocn.ne.jp/~kyosyu/

橿原今井 http://mago-k.cool.ne.jp/imai.html
橿原八木 http://mago-k.cool.ne.jp/yagi.html
奈良町  http://mago-k.cool.ne.jp/nara.html
桜井三輪 http://mago-k.cool.ne.jp/miwa.html
桜井初瀬 http://mago-k.cool.ne.jp/hase.html
大和高田 http://mago-k.cool.ne.jp/takada.html
大宇陀  http://mago-k.cool.ne.jp/ouda.html
御所   http://mago-k.cool.ne.jp/gose.html
五條   http://mago-k.cool.ne.jp/gojo.html
高取   http://mago-k.cool.ne.jp/takatori.html
田原本  http://mago-k.cool.ne.jp/tawaramoto.html
榛原   http://mago-k.cool.ne.jp/haibara.html

いかに県内ローカルな歴史でも奈良市がしょぼいかわかりますね。
さすが京都大阪の犬。都市と言えるのか微妙です。
その奈良の犬の生駒郡山とか論外ですね。

357日本史@名無しさん:04/08/29 22:02
355は狂人
358日本@名無史さん:04/08/29 22:03
その畿内は九州邪馬台国の衛星国だったわけだが
359日本@名無史さん:04/08/29 23:28
>355
名著「実証 古代朝鮮」を読んでいないのか。
この本は、3国時代→南北国時代への変遷を正しく記述してうr。
また、好太王碑の倭は、大和朝廷ではないという正しい歴史を描く
すばらしい本だ。
360日本@名無史さん:04/08/29 23:30
日本の歴史の解明には朝鮮史の解明がかかせないことが分からない
厨房が一匹いるな。
361日本@名無史さん:04/08/29 23:31
>354
えそうなの。
小林恵子って大学教授なの。
してその大学はどこ。
362日本@名無史さん:04/08/29 23:57
朝鮮史の解明と朝鮮マンセーをごっちゃにしてる白痴がいるなw
363日本@名無史さん:04/08/29 23:59
>>360
デンパな学説は必要無いってだけ。
大体、朝鮮史の解明は難しい。文字で残されていないからだ。
だから残されている史書の中から「朝鮮民族」を作り上げるため、
様々な言葉の内容の再定義や読み変えが横行する。
364日本@名無史さん:04/08/30 00:00
>>359
その本ならもってるけど何か?誤りの多い困った本だよな。
365日本@名無史さん:04/08/30 00:27
東北帝国大学教授の井上秀雄を馬鹿にできるほど諸君は賢いのか。」
366日本@名無史さん:04/08/30 01:41
>>365
馬鹿にしてはおりません。ただ、
「XX大学教授」という肩書きが、自動的に正しい学説を
産み出すのではないことも、知っております。
 
367日本@名無史さん:04/08/30 03:41
三角縁神獣鏡の原材料産地を探る
− SPring-8を利用した青銅鏡の蛍光X線分析 −
平成16年5月15日
(財)泉屋博古館
(財)高輝度光科学研究センター
ttp://www.spring8.or.jp/j/press/040515/bronze_mirror.html
368日本@名無史さん:04/08/30 03:49
チョンは歴史書通りに書かれると捏造だと吠えるんだな ( ´,_ゝ`)

「平壌は中国の植民地」 海外サイトの歴史歪曲拡散
 ヤフー(yahoo)など世界のポータルサイトが「平壌(ピョンヤン)は約2000年間、中国の植民地だった」という内容を掲載したのに続き、
歴史チャンネルの「ヒストリーチャンネル(www.historychannel.com)」や百科事典の「ブリタニカ(www.britannica.com)」など世界的なインターネットサイトも同様の内容を掲載したと、サイバー外交使節団「バンク」が29日明らかにした。
 同団体によると、「ヒストリーチャンネル」は説話を引用し「平壌は紀元前1122年に中国商王朝の子孫によって誕生した都市で、平壌付近には都市の伝説的設立者である中国学者の箕子の墓がある」とし、
「紀元前108年に平壌は中国の植民地となり、文化の中心地になった」と説明した。
 また、「ブリタニカ」と世界最大の情報ポータルサイト「インフォプリーズ(www.infoplease.com)」は、豊臣秀吉の領土欲と日本国内の政局不安のため起きた「文禄の役」の原因について「征明假道(明を征伐するため朝鮮の道を借りる)のため」と歪曲したと指摘した。
権景福(クォン・ギョンボク)記者 [email protected]
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/08/29/20040829000047.html
369日本史@名無しさん:04/08/30 09:38
スレ違い失せろ
370日本@名無史さん:04/08/30 10:11
>369
消えろという奴が消えろ。
371日本@名無史さん:04/08/30 10:25
>364
どこがあやまりあなのかっせいかくに指摘すべき・
372日本@名無史さん:04/08/30 10:28
>369
このスレッドは、奈良百済が大和朝廷になったのかを論証するスレッドです。
373日本@名無史さん:04/08/30 14:06
池沼って誰
374日本@名無史さん:04/08/30 15:34
読みは「ちしょう」。漢字変換すると正解がひとつ見つかる。
375日本@名無史さん:04/08/30 16:47
古田の弟子のことですか
376日本@名無史さん:04/08/30 17:07
アレは顔もね。http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/
377日本@名無史さん:04/08/30 19:01
378日本@名無史さん:04/08/30 20:12
>>350
三国時代の中国には、渤海郡ってのがあって、
公孫瓉の領土だった、と記憶している。
その滅亡後は袁紹、さらに曹操と変遷した、たぶん。
379日本@名無史さん:04/08/30 21:04
>>378
中国の渤海郡は満洲とは別のところでそ
380日本史@名無しさん:04/08/30 21:05
>>375

お前のことだ。ちんかす。
381日本@名無史さん:04/08/30 23:02
卑弥呼=天照大神
卑弥呼の弟(乱暴者)=スサノオ
これは、日本書紀や古事記を編纂した連中が魏志倭人伝を
参考にした捏造なのだろうか?
382日本@名無史さん:04/08/31 00:07
スサノオは、新羅系在日朝鮮人。
出雲に植民地を立てた。」
383日本@名無史さん:04/08/31 00:28
>>382
新羅自体の祖先が和人だからスサノオは在半島和人だろ。
384日本@名無史さん:04/08/31 01:02
スサノオは神話上の存在で実在じゃないだろw
385日本@名無史さん:04/08/31 01:43
卑弥呼=天照大神なんて
ナポレオン=ヒトラーどころかもっと時代が違う。
三百年以上時代が違う。

アホが考えるお馬鹿説だな。
386日本@名無史さん:04/08/31 01:52
>>382
アフォかその逆で、新羅は倭国の分家みたいなものだ。朝鮮正史「三国史記」を読め。

新羅第4代王の脱解尼師今は、倭の女王国の女と多婆那国(丹波?)の男から生まれ
捨てられたのが朝鮮半島に流れ着き、新羅の倭人重臣・瓢公が有能さを認めて
新羅王にしたと言う記述がある。要するに倭人が新羅王になったと明記されているのだ。
387日本@名無史さん:04/08/31 02:34
朝鮮民族がすこしずつ出来てきたのが統一新羅以降だと思う。
はっきりしてきたのが12世紀頃だろう。それ以前は民族混成時代。
388日本@名無史さん:04/08/31 02:35
>>385
三百年さかのぼろうが何百年さかのぼろうが
天照大神は実在の人間じゃないよ。神話の中の神様なんだから。
389日本@名無史さん:04/08/31 02:37
>>388
実在じゃない証拠があるんだな?言ってみろ!
390日本@名無史さん:04/08/31 02:50
実在してるよ。天照大神は太陽の神なんだから。
昨日も今日も明日も空に輝いているだろう。
391日本@名無史さん:04/08/31 03:35
天岩戸の伝説を日食と結びつける話は良く聞くな。
巨大な墓を築いたのは、日本以外に中国・エジプト・メキシコなどがあるが
他の地域では墓室は地平面下なのに対して、日本の初期古墳の竪穴式石室は
天高く葬るところが違っている。天岩戸は古墳の頂上を髣髴とさせる。

248年9月4日(ユリウス暦)の朝に、近畿で皆既に近かった日食を当てる説は有名。
この日食が、死せる卑弥呼に代わって台与を擁立する経緯になったのかも?
392日本@名無史さん:04/08/31 08:14
卑弥呼=天照大神 というより、卑弥呼=日巫女なんじゃない?
つまり、天照大神=太陽 とする、太陽信仰の巫女だったんでしょ。
393日本@名無史さん:04/08/31 08:16
天照大神は遥か昔に日本人がまだバイカル湖周辺にいた頃の記憶。
今で言うとエベンキゾクのシャーマンみたいなものだ。
394太国玉:04/08/31 08:24
以前の、12chスーパーマンTのロイス・レーンに何となく似た美人ですわ。
U〜以降より、ヘアスタイルの関係でTの方が似ています。
U〜以降はそんなに似ていない感じで〜す。Tの時の様な髪型ですの。
395日本@名無史さん:04/08/31 08:33
日本人はムー大陸からやってきたんだぞ。
396日本@名無史さん:04/08/31 08:39
>>392
卑弥呼が鏡を好むのも、太陽信仰と関係がありそうだ。
397太国玉:04/08/31 08:55
>>394
すみません。この説明は天照大御神様のほうですの。
日神は正規に頭上前面に八角形の鏡のついた冠をかぶっています。
卑弥呼姫は円鏡ある冠をかぶっていますわ。
398タイムトラベラー:04/08/31 11:54
狗奴国王の息子の雷火という男と
邪馬台国のイヨが結婚して、九州統一。その後
東遷したのです。
399日本@名無史さん:04/08/31 22:25
壇君は実在説が定説かしている。
神話上の人物だからといって疑うのは日本の学会の悪い癖だ。
400日本@名無史さん:04/08/31 22:34
>>399
北チョンの歴史捏造ではな。( ´,_ゝ`)
スターリンに派遣された金成桂ソ連大尉を伝説の金日成と捏造し
息子の極東ロシア生まれのユーラ(金正日)を白頭山生まれと捏造し
東晋・冬寿の墓と書いてある壁画古墳を高句麗・美川王の墓と捏造したりと
北チョンは嘘八百。
401日本@名無史さん:04/08/31 22:55
西都厨消えたな。
チョンだから高夫人の葬式にでも行ったらしい。
402日本@名無史さん:04/09/01 07:39
倭国の相貌
ttp://www.d8.dion.ne.jp/~kouji-kd/

邪馬臺國畿内説が不可解ではなくなる一週間のプログラム
ttp://www.d8.dion.ne.jp/~kouji-kd/hougen/7Days.html
403日本@名無史さん:04/09/01 09:17
>>400
×金成桂→○金成柱

スクープ・テロ国家の原点
ロシアで制作された衝撃のドキュメンタリー
1 『赤い君主 金日成の謎』
(1) ソ連がつくり上げた英雄伝説
http://www.weeklypost.com/jp/030214jp/news/news_1.html
404日本@名無史さん:04/09/01 11:37
>>402のリンクは、論理破綻説の好例だな。

あれならマンゴやパパイヤが実り、夕方スコールの雨が降る灼熱の国が
南極や北極でもいいわけだ。畿内説ってめちゃくちゃだな。
405日本@名無史さん:04/09/01 12:08
こういった畿内説はデタラメだな。

継体天皇だって、九州全土をさっぱり支配できていないことが前提となったストーリーとなっている。
全中国地方’(山陰山陽)の領有もたぶん出来ていないだろう。
畿内説信者は言うだろう、ハワイ州知事は米国大統領を支配し、北米全土を領有していると。
406日本@名無史さん:04/09/01 20:47
九州王朝説の人間が暴れ出して以来、このスレは活気が無くなったな。
みんなが呆れて、去って行ったというか。
俺も、もう去るよ。
407日本@名無史さん:04/09/01 22:05
西都厨って朝鮮人ですか?
408日本@名無史さん:04/09/01 22:21
>>406
池沼はさっさと去れよ
409日本@名無史さん:04/09/01 22:43

isaの知・拉致等ダイアリー

 某大学に在学中、旧社会党、朝鮮総連の執拗な工作を受け、
危うく拉致されるところでした。もちろん、連中は「拉致」
などという意識はなかったと思います。ただの「オルグ(勧誘)」
でしょう。私ももちろん、他の左翼組織からと同様の「オルグ」
を受けたという意識しかありませんでした。ところがその後、
似たような体験をした方の本を読み、また直接会って話をする中で、
この「オルグ」なるものの全体像がおぼろげながら見えてきて、
遅蒔きながら、恐ろしさに震え上がったものでした。
「行って、自分の目で見なければ批判なんかできないよ」
 この誘いに乗ってたら、今頃どうなっていたことか。
 
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/1731/tiratira03.html



410日本@名無史さん:04/09/01 22:55
>406
もう一つのスレは健全です。
とりあえず西都厨は、徹底的に無視することが秘訣だとか。
411日本@名無史さん:04/09/02 00:21
九州王国は存在します。南北朝時代に。
中国の明朝の初期において、日本を対外的に代表していたのは、この
九州王朝です
412日本@名無史さん:04/09/02 00:23
九州王国は存在します。戦国時代に。
当時のヨーロッパの中心とも言えるローマ教会に、日本を代表した
使節を派遣したのは、九州王朝です。
413日本@名無史さん:04/09/02 00:24
九州王国は存在します。幕末に。
当時の国威発揚の場であるロンドン万博において、日本とは別の独立国家
として、出品を行っています。
414:04/09/02 00:56
700年以降は国としての体をなしていないだろう。
415日本@名無史さん:04/09/02 14:34
邪馬台国は大分の豊前中津宇佐を中心とした地域と考えられます。

卑弥呼は、巫女であったこと。
宇佐神宮そのものが、古墳の上に立てられているという言い伝えがあること。
宇佐神宮は全国八幡宮の総本社で中心に祭られている神は、ヒメ大神。
歴史的に朝鮮との繋がりも深く、古代日本の先進地域であった。
宇佐神宮は古代、強大な土地・荘園を有する勢力であった。
奈良の大仏の建立にも宇佐神宮が関与している。
道鏡事件では天皇家が、伊勢神宮ではなく宇佐神宮に和気清麿を遣わして
天皇後継問題の支持を仰いだこと。
奈良時代以降1100年間も天皇家は近くの伊勢神宮に参拝すらしたことが
無いのに、国家の大事や天皇の即位時には、宇佐神宮に必ず勅使が遣わされ
ていること。
付近に京都(みやこ)郡、山国(やまくに)=邪馬国?=邪馬台国=大和(やまと)国、
耶馬溪、豊前(豊の国)中津=下毛郡中津(毛には豊の意がある)=豊葦原中つ国
など、記紀や邪馬台国と関連の深い地名が多く残っている。
大分県中津には宇佐八幡神が降臨したとされる薦神社がある。
薦神社の御神体は、渡来人によって作られた灌漑用溜池である。
八幡は「多くの秦氏(渡来人一族)?」。

近年天皇が朝鮮半島にゆかりを感じると発言するなど、天皇家と
朝鮮半島ー宇佐に深いつながりを感じさせます。
416:04/09/02 16:23
マルチポストはやめれ!!

宇佐は九州討伐の拠点なだけで、都ではない。
417日本@名無史さん:04/09/02 16:27

宇佐は瀬戸内海・畿内討伐の拠点。
418日本@名無史さん:04/09/02 17:00
そのとおり。東征の拠点。
これだけ邪馬台国としての条件を備えいるところはないと思う。
419日本@名無史さん:04/09/02 17:06
おいおいw
420420:04/09/02 22:40
そもそも卑弥呼がだれか、と論じる事自体おかしい。
卑弥呼=天照だと?卑弥呼は卑弥呼だ。
421日本@名無史さん:04/09/02 22:52
まあ、卑弥呼は固有名詞という感じでもないわな
422日本@名無史さん:04/09/02 23:33
天照は、卑弥呼であり卑弥呼でないと思う。
天照大御神=卑弥呼+台与
423日本@名無史さん:04/09/02 23:39
天照=天照。卑弥呼=卑弥呼ではないでしょうか。
卑弥呼は固有名詞です。421さん、知識をもっと深めるべきです。
424日本@名無史さん:04/09/02 23:43
アメのタラシヒコ
アメは姓だろ
425日本@名無史さん:04/09/02 23:48
アメは天皇家の苗字みたいなもの。
426日本@名無史さん:04/09/03 00:03
>>423
天照は神話上の人物。卑弥呼は実在の人物。
で、神話は大和朝廷の歴史的正当性を主張したものであり、事実ではないが、
全くの嘘でもないと思う。
つまり、時代には信憑性がないが、朝廷以前にモデルとなる人物や伝説が
あったと。
卑弥呼が大和朝廷の直接の祖先であるかどうかは別として、天照のモデルと
なったことは、ほぼ間違いないと思う。
岩戸隠れの前が卑弥呼、後が台与。
427タイムトラベラー:04/09/03 00:35
神武東征は応神東征を正当化するためのでっちあげ。
卑弥呼=日巫女=天照大神。
当時、畿内を中心とした連合国家だった日本が
卑弥呼を擁立したことで始めて一つにまとまった。
これが大和朝廷の源流。私がこの目で見てきたことなので
間違いなし。
428日本@名無史さん:04/09/03 00:36
卑弥呼はヤマトトトヒモモソヒメで、女神としての天照大神のモデル
429日本@名無史さん:04/09/03 01:18
神武=崇神(ハツクニシラス スメラ ミコト)で、応神東征はまったく別。
規模が全く違う。
神武の東征をでっち上げとし、記紀の都合のよいところだけ尊重するのは
どうだろうか?
3−4世紀前半の銅鐸の突如の消失は、東征による畿内の勢力の消滅を示唆。
神武の東征があったならば、それ以前の天照=卑弥呼は、記述的にも九州
に邪馬台国が存在したことになる。
百襲姫=卑弥呼は矛盾が多すぎる。
430日本@名無史さん:04/09/03 01:23
>>神武の東征があったならば、それ以前の天照=卑弥呼は

いや、神話の天照大神は卑弥呼(モモソヒメ)や持統天皇をモデルにして後から作られたんだよ。
431日本@名無史さん:04/09/03 01:30
卑弥呼は生え抜きの北九州人で3世紀前半。
アマテルは生粋の対馬人で紀元前1世紀の人。
アマテルの孫がニニギでその子孫の世代に卑弥呼が出た。
ただし卑弥呼の血筋はニニギ系かどうか不明。

「神武東遷」とは後世彼を祭り上げたときのウソの用語である。
実際は九州更迭軍人神武の畿内侵入譚であり、小集落の領有にとどまった。
神武は4世紀後半の北九州人。
432日本@名無史さん:04/09/03 01:35
津田左右吉の思いつきで説かれた二人の「ハツクニシラス」天皇だが
新領土=ハツクニであり、王朝の創始=天基の草創という意味ではない。
半島の「広開土王」のたぐいであって、津田の低レベルに惑わされてはいけない。
433日本@名無史さん:04/09/03 01:48
>>429
銅鐸の消滅はもっと早い。
末期の銅鐸ですら鉛同位体比は前漢〜後漢初期の鏡と同様で
後漢中期以降の値を示す銅鐸はない。

卑弥呼の時代より早く銅鐸が消滅していたことは確実だな。
434日本@名無史さん:04/09/03 02:10
ソース希望
435日本@名無史さん:04/09/03 03:04
邪馬台国(邪馬大国)の前に出雲大国があった。

古事記では、天照(邪馬台国の卑弥呼か)が、
出雲の大国主から支配権を奪った
という言い伝えを載せている。

近年の荒神谷遺跡や大山・麦ばんだ遺跡などの
考古学的な発見も、その説を補完している。

なぜ邪馬台国が九州か近畿か、ということばかりが
討論されるのだろう?
436日本@名無史さん:04/09/03 03:11
出雲の宗主権を奪ったのが対馬(BC100頃?)
対馬が侵略して対馬より栄えたのが北九州(委奴国、金印AD57)
437日本@名無史さん:04/09/03 03:40
>>435
弥生時代中期〜後期のことで
卑弥呼が活躍した古墳時代前期前半とは時代が違うからな
http://www.pref.shimane.jp/new/inishie/pdf/26.pdf
438日本@名無史さん:04/09/03 06:41
大国主命は明らかに出雲で、大和から追放され
鎮魂の意味で出雲大社に祀られている訳だからねえ。
439タイムトラベラー:04/09/03 09:49
天照の孫がニニギではありません。
それはのちに改ざんされたものであり、
本当は天子降臨だったのを天孫降臨にしたのです。
私がこの目で捏造の現場を見てきたので
間違いありません。
440日本@名無史さん:04/09/03 13:17
420
441日本@名無史さん:04/09/03 13:22
420を支持する。東夷伝を通読すれば卑弥呼が固有名詞であることがわかる。
442日本@名無史さん:04/09/03 13:29
大丈夫か?この人>>439
異次元の世界に逝ってるな。

天子の語は、周の穆王が漢民族のふるさとで西王母に会い、
西王母が「天」と自称していたから、自分穆王は「天子」と自称してよいかと
許可をもらったことに由来するので、倭人の対馬王の部下が天子を自称する訳がない。
アマテルの孫が対馬の都から九州島に下ったから「天孫降臨」であって他意はない。
443日本@名無史さん:04/09/03 21:10
>>442
ネタにマジレス、カコワルイ
444日本@名無史さん:04/09/03 22:08
まとめると

卑弥呼死亡の年=皆既日食があった年
ゆえに卑弥呼=天照の可能性大

道鏡事件で、なぜ和気清麻呂は九州の宇佐八幡宮に行ったか?
九州が天皇家の故郷である可能性大

邪馬台国=九州だな
445日本@名無史さん:04/09/03 23:13
>>443
勘違いするなよ、本人じゃなくて読んだ人に語ってるんだよ。
446日本@名無史さん:04/09/03 23:30
>>444
>卑弥呼死亡の年=皆既日食があった年
>ゆえに卑弥呼=天照の可能性大

付け加えるならば、
卑弥呼の死亡の年に皆既日食=天照の岩戸がくれ
台与の治世=天照が岩戸から出てくる

と考えられるため、
天照大御神=卑弥呼+台与
と考えられる。
447日本@名無史さん:04/09/03 23:39
>>444
畿内で説明が付くだろ。

Windows版 日蝕ソフトEmapWin (Ver 1.21)
ttp://www2c.biglobe.ne.jp/~takesako/cal/emapwin_jpn.htm

391 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:04/08/31 03:35
天岩戸の伝説を日食と結びつける話は良く聞くな。
巨大な墓を築いたのは、日本以外に中国・エジプト・メキシコなどがあるが
他の地域では墓室は地平面下なのに対して、日本の初期古墳の竪穴式石室は
天高く葬るところが違っている。天岩戸は古墳の頂上を髣髴とさせる。

248年9月4日(ユリウス暦)の朝に、近畿で皆既に近かった日食を当てる説は有名。
この日食が、死せる卑弥呼に代わって台与を擁立する経緯になったのかも?
448日本@名無史さん:04/09/03 23:52
九州に邪馬台国があったとしたら
箸墓などの畿内の遺跡はどう説明する?
3世紀に畿内に大勢力が存在したことは
事実なんだろ?箸墓も天皇の一族の者だと
記紀にも書いてあるし、九州邪馬台との
関連性はあるの?
449日本@名無史さん:04/09/04 00:47
箸墓の時代推定は、近年徐々に繰り上げられつつあるが、明らかな
物証がなく意図的に繰り上げられている印象がある。
3世紀にある勢力が存在したのは確かだが、銅鐸を伴うそれらの勢力は
あるとき忽然と姿を消し、九州で主だった銅剣の文化に入れ替わって
いる。これは勢力の入れ替えと考えるのが自然と思う。
450日本@名無史さん:04/09/04 00:48
宇佐のヒメ大神は宇佐八幡建立よりも更に古くからこの地で信仰されており
記紀では神宮後背の御許山に天降られたとされているが、古来、この山は、
入山禁制の地とされ、ピラミッド伝説もあるくらいである。
おそらくは、自然の山であるとは思うが、この御許山か、現宇佐神宮境内
の亀山に卑弥呼が眠っている可能性があるのではないかと思われる。

宇佐神宮の上宮には、
一之御殿 八幡大神=応神天皇
二之御殿 比売大神
三之御殿 神功皇后
が祀られており、一見八幡神が主神のように思われるが、宇佐神宮に
行くと、その実、二之御殿が中心に大きくあり、その脇を、両御殿が
脇を固めているのが明らかである。
つまり、ヒメ大神は記紀にて歴史上、偉大とされる応神天皇と神功皇后
を両脇に従えさせる程の神であり、天皇家も代々これを認めているのである。

一地方神に普通、このような待遇を取るであろうか?
この事実が何を意味するか、考えるべきである。
ttp://www.usajinguu.com/Frame.html
451日本@名無史さん:04/09/04 01:22
井沢信者は立ち入りを禁止します。
隔離スレッドにお帰り下さい
452日本@名無史さん:04/09/04 01:23
比売大神というのは神功皇后の妹で、葛城襲津彦の嫁さんの
「虚空津比売命(そらつひめのみこと)」だよ。
別名「玉津媛」「豊姫(ゆたひめ)」「淀姫」。
453日本@名無史さん:04/09/04 01:38
>>449
銅鐸の時代はもっと前。

433 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:04/09/03 01:48
>>429
銅鐸の消滅はもっと早い。
末期の銅鐸ですら鉛同位体比は前漢〜後漢初期の鏡と同様で
後漢中期以降の値を示す銅鐸はない。

卑弥呼の時代より早く銅鐸が消滅していたことは確実だな。
454日本@名無史さん:04/09/04 01:59
九州邪馬台国は、対馬を中心としたアマ族を中心とした国だから
箸墓なんか全然関係ないんだよ。フゴッペの壁画と同じくらい関係ないの。
装飾古墳や金印、阿蘇山、都督府などが重要ポイント。
455日本@名無史さん:04/09/04 02:25
>>452
それは、断定されてないし、宇佐には宗像一族の伝説は全く存在しない。
比売大神の素性が明らかでないため、あくまでも後年にそのように結び
付けられた可能性が大で、なぜ八幡神や神功皇后よりも高位とされるには
矛盾がある。

>>453
それは、一説に過ぎない。土器や銅器など物質的時代推定は、物質その
ものの古さでは分からず、他の地域での出土と比較して推定している。
いわば伝言ゲーム見たいなもので、どこかの出土での推定が誤っている
(例えば同じ場所に異なる時代の遺跡があり、誤って推定する)とそれ
を基準とした他の遺跡の古さも全て誤ってしまう。あくまでも他の遺跡
との新旧比較参考に過ぎない。
むしろ、関西で興隆を極めた銅鐸文化が忽然と姿を消し、九州の銅剣文化
が遅れて流入している点に着目すべき。
456日本@名無史さん:04/09/04 02:38
>>455
銅鐸が卑弥呼の時代より前に終わっていたことは確実だし
墓に副葬する銅剣と違って、墓には収められないもので
同列で扱うのは違っている。
ともあれ東遷があったとしても卑弥呼以前。
457日本@名無史さん:04/09/04 02:42
>>455
勘違いしているようだけど土器型式の相対編年と違って
漢式鏡は暦年の指標となる。
458日本@名無史さん:04/09/04 02:54
よく考えてもらいたいのは、邪馬台国の条件として、一部のみが満たす
ために邪馬台国だと主張される場所は国内に多々あるが、宇佐ほど多く
の条件を矛盾なく説明できるところはないと思う。
一部の条件のみを持って、主張することはどうであろうか。

例えば、倭人伝の 「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、みな倭種」。
距離については、様々な解釈があるのでここでは触れないが、これ一つとっ
ても既に畿内説とするには無理がある。紀伊半島の東には伊勢湾があるでは
ないかといわれそうだが、倭人伝ではたかだか末盧国(佐賀県唐津市付近)
から伊都国(福岡県糸島郡三雲付近)までの短い陸路をわざわざ記載している
のである。伊勢湾に出るには山を越えねばならない。当然記載されるはず。
しかも、海を渡ったら倭人の国があるのである。一方、宇佐(大分県)から
東には当然四国がある。何のこじつけ必要とせずに、自然に説明できる。
459日本@名無史さん:04/09/04 03:22
>>415,>>450,>>458
をよく読んで欲しい。

更に明治40年と昭和8〜17年の改修工事で石棺が発見されている。
境外には「奴婢百余人」の埋葬地に相当する「百体神社」があり、ここも
甕棺が出土している。

415の朝鮮半島との繋がりに関しては、邪馬台国以降に宇佐神宮と渡来人が
結びついた可能性も考えられるが。
460日本@名無史さん:04/09/04 03:25
委奴国が邪馬壱国となったわけだが極端な場所の移動が想定できないように思う。
この国は絹が特徴の国だが、宇佐ではあまり出土しないだろう。
461日本@名無史さん:04/09/04 03:36
>>460
場所の移動については
ttp://cgi.din.or.jp/~washi/yamataikoku/paper/paper1.html
で単純明快に説明されている。

絹は、日本国内いたるところで産生可能なのであまり大きな証拠には
ならないと思うが。宇佐では積極的な発掘がなされていないようなので、
まだ出てきてないだけの可能性もあるし。
その辺は自分もわからないので検討してみます。
462日本@名無史さん:04/09/04 05:03
>委奴国が邪馬壱国となったわけだが
???
前原、甘木説か?

養蚕は確かに当時、ほぼ九州のみ、特に福岡・佐賀では盛んであったよう
だが、邪馬台国からの使者が絹を献上したりしていた程度で、邪馬台国の
特産だったかは不明では。
むしろ、人々は木綿をまとっていたとされる。
当時、既に対馬の人々が穀物を交易で手に入れていたことを考えると、
邪馬台国も交易で手に入れたのでは?
だから、貴重なものと考え、使者に貢物として持たせたのではないか。
一方で、甘木栗山遺跡では、庶民が絹をまとっていたことが分かっている。
庶民さえ手に入れることが出来るものを、わざわざ魏への使者に持たせた
だろうか?
いずれにせよ、絹だけでは説明できないと思う。
確かに甘木周辺は、文化・経済の先進地であったと思うが、邪馬台国は、
あくまでも政治・宗教上の中心地であり、必ずしも、経済・文化の中心地
であったとはいえない。むしろ、それまでの競合の多い男社会とは一線を
画したわけだし。
また、甘木は地名などが大和に一致するところが多いといわれるが、
それ以外の点では、矛盾が多い。東征の際に、九州勢力の一員として
参加し、大和地方に定着し、同じ地名をつけたのではないだろうか。
463日本史@名無しさん:04/09/04 07:15
>>447

その薄弱な根拠でケテーイされた根拠はなんでつか?

「説明できる」だけなら世の中無限にあるよんw
464日本@名無史さん:04/09/04 09:08
ハワイの古い文献に邪馬台国との交流が
あったことが明記されていそうです。
465日本@名無史さん:04/09/04 09:45
東遷は卑弥呼の時代より前です。
みなさんは畿内か九州かと硬直した
思考しかできないみたいですが、
ようは、九州にも邪馬台国はあったし畿内にも
邪馬台国はあったということです。
つまり本拠地は九州にあり、本州を統治する中心組織が
畿内にあったというわけです。室町時代でいう
関東公方みたいなもんです。
466日本@名無史さん:04/09/04 10:03
卑弥呼(天照)の邪馬台国は九州にあって魏と交流
    ↓
男王(スサノオ)の代になり戦乱
    ↓
台与の代で安定し晋と交流
    ↓
後に東征し大和朝廷
    ↓
道鏡が皇位に就くべきか否かを故郷である宇佐で確認した


これで決まり
467日本@名無史さん:04/09/04 10:08
>>465

中心地が九州から畿内に変わったのは東征ではなく遷都ということか
いずれにせよベースは九州説ってこと?
468日本@名無史さん:04/09/04 10:25
>東遷は卑弥呼の時代より前です。
の根拠を皆が納得できる形で述べてください。
469日本@名無史さん:04/09/04 10:38
>468
考古学者がみんなそう言ってるじゃん。
470日本@名無史さん:04/09/04 11:25
天照を卑弥呼(+台与)と考えると、東征を行ったとされる神武は
天照の子孫であるから、東征は卑弥呼の後ということになる。
神武は天照と同様、おそらくは架空の人物で、実際は
神武=崇神=ハツクニシラス スメラミコト
なんだろうが。

余談だが、台与(とよ)は豊受大神とする説があり、「台与の国」が
現在もいわれる「豊の国」となったと思う。

さらに邪推だが、邪馬台国人は体に朱を塗っていたとされるが、これも
八幡宮が朱色に塗られているのと関係がある気がする。
471日本@名無史さん:04/09/04 11:28
>>469
一部がの畿内説論者が言ってるだけ。
皆が納得できるように説明するべき。
472日本@名無史さん:04/09/04 11:51
>471
一部でなく、考古学者ほぼ全員が言っている。


473日本@名無史さん:04/09/04 12:01
おいおい、じゃあ具体的な説明を。
言い張るだけでは、誰も納得しないぞ。
474465:04/09/04 12:03
>>467
つまりこういうことです。
3世紀前半には邪馬台国は九州にありました。
と同時に、3世紀より前に、邪馬台国の一派が
東征して畿内を中心に本州の統治にあたっています。
3世紀後半になると、狗奴国からの攻撃により
九州邪馬台は衰退。そして4世紀前半に、畿内邪馬台と
合併したのです。合併といってもそこで同属同士の戦いが
あったでしょう。ちょうど足利義教と足利持氏のようにね。
勝利したのが九州邪馬台一派の祟神天皇。そして敗れた畿内側の
総大将がおそらく大国主として出雲大社に祭られているのです。
国譲りの神話はここからきています。天照も卑弥呼でしょう。
475日本@名無史さん:04/09/04 12:04
九州の邪馬台国VS関西〜中国の大国主命
ここで邪馬台国が勝って統一
大国主命は出雲で戦死

東征はこの神話に集約
476日本@名無史さん:04/09/04 12:11
>>474

えー、俺は467であり475でもあります

東征を同族内の内乱としているが
別に単純に東征でもいいんじゃない?
同族にするほうが納得のいく根拠は?
477465:04/09/04 12:12
大国主が出雲で戦死したから
出雲に祭られてるというのは
違う気がします。黄泉の国に
一番近いと考えられているところが
出雲だったから出雲で祭られているのでしょう。
478465:04/09/04 12:14
>>476
天照の一族と、大国主の一族は
もとをたどれば同じ一族です。
神話上ではそうなっています。
479466=475=476:04/09/04 12:16
卑弥呼(天照)の邪馬台国は九州にあって魏と交流
    ↓
男王(スサノオ)の代になり戦乱
    ↓
台与の代で安定し晋と交流
    ↓
後に東征し大和朝廷(負けたのは大国主命)
    ↓
天孫降臨の話を作り正当化
    ↓
仲哀の代に応神に簒奪される(権力強化し巨大古墳)
    ↓
継体の代に血は途絶えたと考えられる
    ↓
道鏡が皇位に就くべきか否かを故郷である宇佐で確認した


これで決まり
480465:04/09/04 12:23
答えがでましたなw
めでたしめでたし。
これにて邪馬台国論争も
お開きとしますか。
481466=475=476:04/09/04 12:24
>>477

まあ、そのあたりはどっちでもいいが
黄泉に近いから出雲に祀ったのか
それとも大国主命が死んだ場所だから不吉な場所とされたのか
ニワトリとタマゴどっちが先かということ

>>478

例えば源氏と平氏も同じ起源だが、これを同族と見做すのは個人の考え方だな
俺の邪推では卑弥呼(天皇家)も大国主命も朝鮮からの移民なんだが
482465:04/09/04 12:30
>>481
朝鮮からの移民だというのには賛成です。
これがばれると困るから宮内庁も古墳の
発掘許可を出さないのでしょう。
あと国譲りは、神話上では多少の小競り合いが
あるとはいえ、話し合いの形で行われています。
大政奉還みたいなものですかね。なので
源氏と平氏とするより、南北朝みたいな感じのほうが
近い気がします。
483466=475=476:04/09/04 12:48
移民説についてはスレ違いになりそうだから簡単に言うが
俺はガキの頃、任那という場所に非常な違和感があった
当時、関東など陸続きでも未開の地があるのに大陸に日本府?
そもそも任那(もしくは百済)がスタートの地で、順次、九州→畿内と移ったと考えたほうが自然では
そして九州の時点で魏と交流があったと
白村江の戦いで故郷を失ったのだな
484日本@名無史さん:04/09/04 13:07
ミマナとは聖なる本土と言う意味だ。
485日本@名無史さん:04/09/04 13:14
>>481-484
糞チョンの妄想かよ。( ´,_ゝ`)

その逆の話は朝鮮正史「三国史記」に載っている。
新羅第4代王の脱解尼師今は、倭の女王国の女と多婆那国(丹波?)の男から生まれ
捨てられたのが朝鮮半島に流れ着き、新羅の倭人重臣・瓢公が有能さを認めて
新羅王にしたと言う記述がある。
日本人はこういう記述がある事実をもっと知るべき。
「新羅 脱解 倭人」でぐぐって見るといい
http://www.google.com/
486日本@名無史さん:04/09/04 13:19
そもそも、記紀の成立年代と卑弥呼の時代の三世紀前半の歴史時間差の認識が欠落している。
487483:04/09/04 13:21
>>485

別に俺は在日じゃないし、別に天皇家がどこの出身だろうと事実がわかればそれでいい
倭の移民が新羅に渡ったという話は聞いていたが
それで任那→九州ルートが否定されるわけではない
任那→九州→一部が新羅でいいだろ
488日本@名無史さん:04/09/04 13:26
>>487
糞チョンが捏造話に必死だな。
魏略逸文によると邪馬台国の使者は呉の太伯の末裔と自称しているし
天孫降臨が南九州なのも華南から来たなら考えやすい。
外部から来たとすれば華南ならありうる。
489日本@名無史さん:04/09/04 13:34
>>487
「倭の移民が新羅に渡った」ではなく倭人が新羅王になったのだ。
糞チョンは都合が悪い話は誤魔化そうとしてばかり。
490日本@名無史さん:04/09/04 13:41
中国古代史で呉とか越とかは謎の国だよな。
あっという間に勃興してあっという間に滅亡した感じ。
491日本@名無史さん:04/09/04 13:45
中国南部に倭人と同じ民族いなかったっけ
492日本@名無史さん:04/09/04 14:18
倭人が銅鏡を非常に好むのに対して、半島土着の墓には殆ど見られず
半島の漢人の墓ですらせいぜい1〜2枚であり、突出している。

道教文物の概説 二〇〇二年十一月三十日 早稲田大学道教研究所講演会
中国社会科学院歴史研究所 王 育成
三、道教の鏡とそれに関する問題
http://www.littera.waseda.ac.jp/appendix/Daoism/bunbutu4.htm
493暇人:04/09/04 14:30
492 それは倭人が元々半島系では無い事。そして半島を経由する事なく、直接漢人と交渉があった事の証左ではないの?
494日本@名無史さん:04/09/04 14:30
古代の半島人は今の半島人と人種違うんだっけ
495日本@名無史さん:04/09/04 15:46
古代から黄色人種でモンゴロイド。
496日本@名無史さん:04/09/04 19:35
>>488
>>489

宮内省にもそういう発想があるから古墳調査を許可しないんだろう
別に日朝の優劣とかいうことでなく、ただ単に過去の研究をすればいいだけなのだが
497日本@名無史さん:04/09/04 19:53
魏志倭人伝の方位に従うと、沖縄にたどり着いたり、
1年後にはフィリピンやインドネシアにたどり着くという。
しかし、台湾にたどり着くという記述は見られない。
三国志の著者、陳寿は魏の国の人間なので知らなかったのか?
呉の国の知識人ならば、台湾がどこにあるのか知っていたとおもうのだが・・・

誰か三国志全編を読破した人、「台湾」の記述について納得のいく説明をしてくれ。

自説としては、魏志倭人伝では東の方位を故意に、あるいは盲目的に南と表記したのだと結論している。
498日本@名無史さん:04/09/04 20:36
台湾は不思議なとこだな、今でこそ中国も必死こくが
大陸側にしろ沖縄側も積極性が無い。少数民族しかいない。
499日本史@名無しさん:04/09/04 22:12
呉や越は大量難民が日本に流入したという説もあるね。

東征はOK、だけど東遷まではもの凄い飛躍があると思うけど、古代史学者ってあほでつか?
500日本@名無史さん:04/09/04 22:13
>>499
> 東征はOK、だけど東遷まではもの凄い飛躍があると思うけど、古代史学者ってあほでつか?

意味不明、おまいは池沼だろ。
501日本@名無史さん:04/09/04 22:18
ふつう「遷」というのは国や都や王権が移る意味だろう。
「征」は攻め込んで領有すれば、どんな集団でも可。
502日本@名無史さん:04/09/04 22:20
征でも遷でもどっちでもいいが

とりあえず邪馬台国畿内説はありえないってことは確かだな
503日本@名無史さん:04/09/04 22:26
橿原考古学の時代はもう終わるでしょう。マキムクに畿内説の情念だけ残しながら・・・
504日本@名無史さん:04/09/04 22:30
>>503
終わりなのはお前のような基地外
505日本@名無史さん:04/09/04 22:33
マキムクだけが最期の砦と化した畿内説。
哀れなものよ・・・・
506日本@名無史さん:04/09/04 22:53
このスレッドには小林恵子と某国工作員、西都厨=古田信者=アズマ
の立ち入りを禁止します。

(西都厨=古田信者=アズマ隔離スレッド)
九州王朝はなかったのか?※ 9
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1081624257

(小林恵子と某国工作員隔離スレッド)
【古代史電波】小林恵子の妄想を語ろう
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087908201/l50
朝鮮人が日本を作った可能性は
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1057493325/l50






507日本@名無史さん:04/09/04 23:32
>>506は極左
508日本@名無史さん:04/09/04 23:47
疑問なのですが、3世紀の航海術で
船で1年も移動が可能なのでしょうか?
不思議でしょうがないです。
509日本@名無史さん:04/09/05 00:00
コンチキ号の例もあるだろ。
イカダに帆を付けたような船でも可能。
510日本@名無史さん:04/09/05 00:10
古代ポリネシア人は航海術に優れて、南米大陸まで遊びに行ったとか・・・
(コンチキ号漂流記より抜粋)
ハワイ諸島の原住民も日本人ではないし、中国人でもない。
太平洋のど真ん中の島に何年かけてたどり着いたのか? 不思議だ!
511日本@名無史さん:04/09/05 00:12
食料はどうしていたのでしょう?
1年分も用意できるとは思えない。
512日本@名無史さん:04/09/05 00:13
>>510
あのへんはもともと大陸だったんだよ
513日本@名無史さん:04/09/05 00:14
黒潮古陸?
514日本@名無史さん:04/09/05 00:23
>>511
糸と針があればじゅうぶん。エサは勝手に向こうから船に飛び込んでくる。
あと器だな。土器か木器でスコールを受け、それをヒョウタンに入れて
イカダにくくっとけばだいじょうぶ。
515日本@名無史さん:04/09/05 00:30
倭人伝にも1年がかりで船で
たどり着く国がありますよね?
3世紀の時点で、そんな遠くの国と
交流があったのってすごくないですか?
516日本@名無史さん:04/09/05 00:32
おもいきりすごい。
古代に行くほどグローバル!!
517日本@名無史さん:04/09/05 00:53
>>474
東征が3世紀以前に行われたという根拠は、相変わらず示されてない。
あくまでも神話の解釈のみによるみたいだね。
神話は、日本書紀と古事記で異なっていたり、多説あるわけであるし、
他の要素を加味しないといけないと思うが。

で実のところは、天照(卑弥呼、台与)の後、その子孫?の神武を中心
(実際は戦死したその兄の五瀬命?が中心)とした勢力が新天地を求めて
中国・畿内の平定に向かったと思われる。
518日本@名無史さん:04/09/05 00:54
東征は、日向(宮崎県)を出発(少なくとも五瀬命はここから)し、
四国から真っ直ぐに畿内に向かわず、宇佐による。ここで、宇佐の
勢力と合流したのであろう。五瀬命の弟に「豊御毛沼命」がおり東征に
参加したと見られるが、豊は「豊の国(北九州−大分)」そして、御毛は
「三毛郡」で宇佐市の北隣、中津市周辺を表していると思う。「毛」も
古来、「豊」を意味する語として知られている。なお、この豊御毛沼命が
神武とする説もある。
更に、筑紫にもよってここで1年滞在しているが、筑紫勢力と合流した
のかもしれないし、あるいは逆に対抗する筑紫軍と戦ったのかもしれ
ない。しかし、大和に甘木地方同じ地名が多いこと等を考えると、やはり
前者で、この時期に、筑紫地方から東征に参加した人々が大和に住み着い
たのであろう。筑紫では、1年(邪馬台国時代の1年は半年との説もあるが)
かけて大戦に備えて連合軍の軍事演習を行ったとするのが妥当だと思う。

このいきさつを考えると、当時、少なくとも日向、宇佐は、明らか
に連合状態であり、おそらくは血縁関係をもっていたのかもしれない。
天照の後、邪馬台国(宇佐?)勢力が九州各地の平定に向かっている
ような記述もあるし、卑弥呼ら一族の血をひいているかもしれない。
いずれにせよ、神武らは九州連立王朝の連合軍で、決して落ちぶれものと
いった半端な組織ではなかったわけである。
519日本@名無史さん:04/09/05 00:56
邪馬台国=ハワイ。

ちゅかどーでもいいんだけどね。

魏志倭人伝なんて歴史的価値0以下だしねw
520日本@名無史さん:04/09/05 01:01
>>515
上にも書いたが、倭人伝より邪馬台国時代は、四季を1年としていなかった
という記述があり、半年を1年と計算していた可能性がある。

当時の船旅は、今と違い、食料を確保するために、各地を経由地しながら、
ゆっくり航海したため、その時間も含めた航海と考えるべき。
521日本@名無史さん:04/09/05 01:08
そんなことはないでしょう。
神武は半島情勢の悪化しているときに、半島戦と関係ない方面ばかりに行っている。
これは九州における主戦力から外れた一軍であることを意味している。
糸島地方出身の神武らは、有明海直行の半島戦が出来ないという深刻な欠点があって
九州邪馬台国から精鋭軍としての地位を更迭されたことであろうと思う。

しかし、鉄器を持つ五瀬命軍(神武軍)は、サヌカイトが主力の衛星国において、
十分に強かったので、九州本土から抜け出して衛星国で仕えるべき国を探したのだろう。
522515:04/09/05 01:10
515は>>518に対してです。
523再度訂正:04/09/05 01:11
>>521>>518に対して書きました。515さん、失礼しました。
524日本@名無史さん:04/09/05 01:13
俺は畿内派なんだけど、宇佐も何かしら関係はあるような気がするんだよね。皇室がいちいち宇佐の神にお伺いを立ててたのは応神の関係だけじゃないと思う
525日本@名無史さん:04/09/05 01:15
>524
>>415,>>450,>>458
をよく読んで欲しい。
526日本@名無史さん:04/09/05 01:17
宇佐は、九州邪馬台国の負け組み=九州残党を、九州邪馬台国の勝ち組=畿内天武〜持統が
征伐したときに拠点としたところ。
527日本@名無史さん:04/09/05 01:17
神武軍が精鋭か、はたまた落ちぶれ者かはともかく、神武が結局支配したのは、大和盆地のみ。
さらに勢力を拡大するのは、崇神の時代。

それに異をとなえるなら、神武を出す必要が無い。
神武が広大な領地を支配したというなら、すなわち崇神の業績と重なる。
つまり、神武は架空の天皇であり、崇神が初代だという、歴代天皇の造作説を採るのが妥当。
528日本@名無史さん:04/09/05 01:20
>>521
>糸島地方出身の神武らは、
その根拠は?少なくとも五瀬は、宮崎県北部を意味するのだが。

半島情勢がどう関係があるのか分からない。
529日本@名無史さん:04/09/05 01:24
>>527
だから、>>470
神武=崇神=ハツクニシラス スメラミコト
神武を作り出したのは、日本の歴史を古く見せるための見せ掛け。
530日本@名無史さん:04/09/05 01:40
>>526
もうちょっと論理的な説明は出来ないのか?
神武=崇神天皇が畿内大和朝廷をつくったが、その後も、九州の
連合国家も並立して本家として存在していた。いわば畿内は分家。
だが、もともと連合国家であった九州に対し、大和朝廷は、中央
集権国家体制をとり強大化していった。しかし、宇佐は本家である
から、以降の大和朝廷も宇佐を重んじていた。

宇佐が畿内征伐の拠点かどうかは自分は知らないが、その話が本当
なら、勢力の弱くなり、縮小した本家宇佐を分家の大和朝廷が援軍を
出して、周囲の奪われた土地を取り返したと考えるのが妥当だろう。
531日本@名無史さん:04/09/05 01:47
>>521
>糸島地方出身の神武らは
とか
>委奴国が邪馬壱国となったわけだが
とか断定して書いているが、絹の件で反論は?
その他に、宇佐以上に筑紫が邪馬台国だという多くの条件を
論理的に並べられるのか?
532530:04/09/05 01:49
>宇佐が畿内征伐の拠点かどうかは

宇佐が畿内大和朝廷の九州征伐の際の拠点かどうかは
533日本@名無史さん:04/09/05 02:18
>>527
架空なのではなくて、神武のときに大和盆地を支配し、崇神の代になって勢力を拡大したんだね。
>>529
そういう説は古いよ
534日本@名無史さん:04/09/05 02:32
>>529
だから、「見せかけ」は、天皇の年齢および、最初の頃の天皇位が、直系で継承されたという記述。
歴代の天皇は全て存在して、ただし100歳近くまで生きたというのがフィクションだとして、
後代の天皇の在位と同じか若干短い在位年数と考えたほうが、つじつまがあう。
多くの天皇が架空であると考えると、逆に古い時代の天皇は在位年数が極端に長かった事に
なってしまうので、かえって計算があわない事になる。
535日本@名無史さん:04/09/05 02:34
>>533
古い=間違い
とは限るまい。他の話と整合性がつくならなおさら。
そもそも、記紀は当時まだ歴史の浅い大和朝廷が、自らの政権の
正当性を主張しようとしたもの。だからといって、全てが嘘ではなく
他の史書との整合性が多く見られる。さしあたって、当時の人々、
もしくは中国などの外国を納得させられればよかっただろうから、
将来の人々に本当の歴史を伝えるヒントを隠したとしても不思議では
なかろう。神武=崇神=ハツクニシラス スメラミコトは、その1例だ
と思う。彼らは、中国での史書の存在により、既に後世での史書の
役割を認識し、歴史研究の対象とされることも予想していただろうし。

畿内説論者は、話の一部をもって邪馬台国の畿内発祥を正当化
しようとするが、誰もトータルでの整合性をつけることが出来ない。
いわば矛盾だらけ。
豊前説はなんのこじつけもなく、自然と説明可能である。
536日本@名無史さん:04/09/05 02:48
>>534
崇人天皇=神武天皇が初代で、以降は現存する天皇とするほうが
妥当だと思う。
直系かどうかという点は、自分も同様に疑問を持っているが、傍系で
あれ血統は維持されているように思う。

さて神武天皇は、それだけの功績があるとされながら古墳一つ残っていなく
神社に主神として祀られたのもつい最近のこと。代々天皇家に軽んじられ
ているわけである。初代とされる天皇がである。これをどのように考える
べきか?
つまり、天皇家はもともと神武は架空であることを認識していたために
そのような態度を取った可能性が高い。
あたかも、伊勢神宮の天照を卑弥呼の偶像とし、実際は宇佐神宮を重んじた
ように。
537日本@名無史さん:04/09/05 03:18
>>535
神武=ハツクニシラス がそもそも間違い。
神武の和風諡号は「始馭天下之天皇」だが、これを「ハツクニシラス」と
読めるかどうか。まず「無理」と言うしかない。現実に日本書紀の古写本には
「ハツクニシラス」との読みがふられていないし、古事記には和風諡号すらない。

さらに「崇神」の方であるが、
 所知初国天皇(古事記)  
 御肇国天皇(日本書紀)
であるから、まあ「ハツクニシラス」と読んでも良いだろう。
しかし、すでにどなたかがここで述べられていたように
初国とは「新しい領土」の事であり、本国(もとの領地)の対語なのである。
つまり崇神のハツクニシラスとは、「新しく領土を広げた天皇」、
という意味なのである。

>>536
神武天皇陵は存在する。しかも「古墳」などではなく、その規模は小さく、弥生時代の
陵墓としてはとてもふさわしい。以下の欠史八代の天皇陵も、みなこじんまりとした
弥生時代の陵墓である。
神武陵が「巨大古墳」であったら、それだけで「神武架空説」の屈強な証拠であるが
弥生陵の規模であるから、かえって「神武実在」を裏付ける資料となりそうだ。
538日本@名無史さん:04/09/05 03:52
>>537
ようやくまともな議論が出てきて面白くなってきましたね。
>初国とは「新しい領土」の事であり、本国(もとの領地)の対語なのである。
>つまり崇神のハツクニシラスとは、「新しく領土を広げた天皇」、

しかし、それも断定するほどの根拠はなく、あくまで一説であり、
崇人天皇=神武天皇を否定できるほどの意見ではありませんね。
むしろ記紀ともに崇神をハツクニシラスとしたのに対し、神武は
日本書紀でしか触れられていないことを考えると、神武は偽者、
架空ですよ、とのヒントとも取れます。
神武と崇神で名を似て非なるものとしたのも、すぐには気づか
れないが、後世の人が気づくようにと編者が配慮したとしても
矛盾はしませんな。

>神武天皇陵は存在する。
>弥生陵の規模であるから、かえって「神武実在」を裏付ける資料と
なりそうだ。

そうでしょうか。作られた当時としては、小さいものであっても、初代天皇
として重んじられたならば、神社などの神聖な場所として祀られ、その後も
徐々に大きくなっていく可能性は十分あります。ましてや、九州から近畿に
遷都したならともかく、ずっと畿内にあったのならなおさらですね。
残念ながら神武の古墳とされる陵墓も一説であり、畿内説を断定できる
根拠とはなりませんね。

畿内説では誰もトータルでの整合性をつけることが出来ない。
なぜか、それは畿内に邪馬台国がなかったから。
豊前説はなんのこじつけもなく、自然と説明可能です。
539日本@名無史さん:04/09/05 04:02
畿内説を唱える人は、矛盾しない点を主張するのではなく、今まで
指摘されている矛盾に対しての誰もが納得がいく、明快な答えを
出してもらいたい。
540日本@名無史さん:04/09/05 04:07
神武陵のある「畝傍山」は、古くから神格化されていますが?
541日本@名無史さん:04/09/05 04:12
>>537
崇神が新しくつくった初国「新しい領土」に対する本国(もとの領地)
はどこを指すのでしょうか?
まさか、たかだか畿内での移動によって出来た領土を「ハツクニ」
とは言えないでしょう。
その点、本国が九州であったとして、崇神(=神武)が東征した。
豊前説では、ここでも自然ですね。
542日本@名無史さん:04/09/05 04:14
>>540
で、それ以外に畿内説を強める根拠は?
543日本@名無史さん:04/09/05 04:18
現在、神武天皇陵とされている古墳は、実は古墳ではないというのが
考古学会での常識である。すなわち、神武天皇は陵墓すら存在しないのが
実状である。
544日本@名無史さん:04/09/05 05:07
>>541
神武〜開化まで、ずっと大和が勢力圏内だったわけで、
「本国」は当然、大和でしょう。
で、崇神の時に大和盆地を飛び出し、周辺を新たに領地とした。
「東方十二道の征服」「四道将軍の派遣」など、記紀にも明記されるところである。

ちなみに私は畿内論じゃないよ、九州説だよ。

>>543
神武陵を古墳だと言ってる学者はおらんでしょ。どうみても弥生墓。
開化陵がようやく「前方後円墳」らしい形になってるだけで。
545日本@名無史さん:04/09/05 05:09
第2の謎。
そもそも、未だに多くの考古学者がこれだけの多くの根拠がありながら、
豊前説を否定も肯定もせず、ただ自説の主張ばかり繰り返すのは何故か?

答えは簡単。
豊前説を認めれば、今後、自分が飯を食っていくのに困るから。
日本の考古学界はその程度のものなのか?
546日本@名無史さん:04/09/05 05:15
>>544
>神武〜開化まで、ずっと大和が勢力圏内だったわけで、
その前提が既に怪しいことを論議してるのだが。

>で、崇神の時に大和盆地を飛び出し、周辺を新たに領地とした。
>>541のように、それが九州から近畿に侵攻したとすることよりも
優位であるとはいえない。

どうもスレの流れを読んでないようですね。もう少しさかのぼって
読んでください。
547日本@名無史さん:04/09/05 05:32
「神武陵は古墳ではない。だから神武は存在じたい捏造」
なんてのはブサヨの情報操作。
考古学上の定義における古墳ではないが、弥生墳丘墓であれば
つまり神武は古墳時代でなく弥生時代の人物ってことだ。
548日本@名無史さん:04/09/05 05:34
つまり、神武とは関係のない弥生の墓を神武にこじつけたとも
解釈できるな。
いずれににせよ、神武の墓があるというには証拠不十分。
549日本@名無史さん:04/09/05 05:40
>>547
543の趣旨がわかってないようですな。
古墳でも陵墓でもないということ。墓でないということ。
神武天皇は陵墓すら存在しないということ。
550日本@名無史さん:04/09/05 06:11
>>547
そういうことだな。飛鳥時代に陵墓を捏造するなら初期も立派でも良いはず。
ところが初期の陵墓指定地域には目ぼしい古墳がない。弥生墳丘墓だろう。
一方で崇神〜欽明陵の多くは、指定地域に時代が調和する巨大古墳が存在する。

記紀が示す天皇陵は大倭国→河内国→大倭国と移っているが
巨大古墳は前期は奈良県、中期は大阪府、後期は奈良県が突出するのと調和している。

三国時代の漢式鏡は、弥生時代の墓からは出土せずに古墳時代ばかりなのに
卑弥呼を根拠なしに弥生時代とした過ちが、混乱を生んだだけ。
551日本@名無史さん:04/09/05 06:42
>>550
別に神武の墓を捏造したわけでもなく、神武どころか、皇室とも関係
のない弥生の墓を後世、誰かが神武にこじつけたとの可能性は否定でき
ないな。
そもそも、神武を架空視していたすれば、朝廷は捏造さえしていない
だろうが。
明治まで、神武がどこにも祀られなかった事実はどう説明するのかな。
まあ、神武が存在したとて、別に豊前説が不利になるわけでもないが。

>一方で崇神〜欽明陵の多くは、指定地域に時代が調和する巨大古墳が
>存在する。
卑弥呼の時代より古墳を取り入れた邪馬台国系の崇神が九州から東征
してきたために、巨大な古墳が現れはじめたとしても矛盾しない。

>卑弥呼を根拠なしに弥生時代とした過ち
???
卑弥呼が239年に使節を送ったのは確かなのだが、何を意図してるのか?
魏と交流し、魏の墓を参考にして卑弥呼の墓がつくられたため、卑弥呼が
古墳時代のはじまりとも言えるとは思うが。

>三国時代の漢式鏡は、弥生時代の墓からは出土せずに古墳時代ばかり
>なのに
東征にて九州の勢力が流入したから、それ以前の畿内の墓からは鏡が
見つからない。つまり文明の交代。
552日本@名無史さん:04/09/05 06:52
要は
天照=卑弥呼(+台与)と神武の東征
をどうみるかということ。
この両方を肯定すると、神武は天照の子孫とされるため
必然的に畿内説は否定され九州説が肯定される。
よって、畿内説論者は天照=卑弥呼(+台与)か神武の東征を
不自然にも否定せざる得なくなる。
この両者を肯定しつつ、畿内説を肯定できるか?
もちろん豊前説は肯定できる。
553日本@名無史さん:04/09/05 07:16
>>551
> 明治まで、神武がどこにも祀られなかった事実はどう説明するのかな。

はぁ?「延喜式」によると、平安時代には神武天皇陵には守戸五烟を置く決まりになっていた。

皇室が衰微してからは、八幡信仰の応神陵と太子信仰の聖徳太子陵くらいしか
祭られなくなった。日本最大の仁徳陵ですら放置だったのだからな。

> 卑弥呼の時代より古墳を取り入れた邪馬台国系の崇神が九州から東征
> してきたために、巨大な古墳が現れはじめたとしても矛盾しない。

土器型式・古墳の形状によると、崇神陵よりも箸墓の方が古いから外れ。

> 東征にて九州の勢力が流入したから、それ以前の畿内の墓からは鏡が
> 見つからない。つまり文明の交代。

そういう意味ではない。日本全体に弥生時代はもっと古い漢式鏡で
三国時代の漢式鏡は古墳時代の墓からしか出ない。要するに昔の年代観はデタラメ。
554日本@名無史さん:04/09/05 07:22
>>552
> 天照=卑弥呼(+台与)と神武の東征

卑弥呼(+台与)は崇神の叔母ヤマトトトヒモモソヒメと天照の二重イメージだな。
前者であれば神武陵が弥生墳丘墓で問題はない。
日本書紀の編者は神武以降を歴史時代として記述している。
555日本@名無史さん:04/09/05 07:33
>>553
>はぁ?「延喜式」によると、平安時代には神武天皇陵には守戸五烟を
>置く決まりになっていた。
なぜ、それほど大切な人物なのに他の神社に祀られていない?

>土器型式・古墳の形状によると、崇神陵よりも箸墓の方が古いから外れ。
箸墓の最近の(意図的に)時代を遡る学説は、疑問が呈されている。
しかも、何れの古墳も埋葬された人が確実には分かるまい。

>そういう意味ではない。日本全体に弥生時代はもっと古い漢式鏡で
>三国時代の漢式鏡は古墳時代の墓からしか出ない。要するに昔の年代観はデタラメ。
???
なんか強引だな。何が矛盾するかよく分からんが。そもそも畿内の鏡は
日本製でしょ。
556日本@名無史さん:04/09/05 07:36
>>554
たかだか天皇の叔母と女帝卑弥呼を同一視するところに
畿内説の強引さがある。
557日本@名無史さん:04/09/05 07:54
>>555
あちこちでやたら祀られることがえらいのなら
日本でいちばんえらいのはお稲荷さんってことになってしまうがねw
558日本@名無史さん:04/09/05 08:04
>>553
>三国時代の漢式鏡は古墳時代の墓からしか出ない。
のは、東征で銅鏡・銅剣文化を畿内に持ち込んだ九州勢が、家宝の古い
後漢鏡などを古墳に埋めたとしても不思議ではあるまい。

>>557
子供みたいないいわけですな。
別に沢山とは言ってない。明治まで一つもなかったことが
不思議だといっている。
559日本@名無史さん:04/09/05 08:08
宮中で祀られてたんだから十分でそ。
560日本@名無史さん:04/09/05 08:51
宇佐には、宇佐神宮とは別に、3世紀後半に作られたとされる九州最古の
前方後円墳赤塚古墳がある。

3世紀半ばに卑弥呼の墓が魏をまねて作られたとして、その子孫
(傍系?)が赤塚古墳に葬られたと考えられる。
4世紀にはいると、宇佐勢力の分派と思われる日向勢が興隆し、
西都原にも古墳が見られるようになる。
日向と宇佐、筑紫の連合郡(神武=崇神?)が東征したと
考えられる。
その後、九州より持ち込まれた古墳文化が畿内に持ち込まれ
流行する。

ttp://yamatai.cside.com/tousennsetu/hasihaka.htm
箸墓は350年ごろと考えられ、ここでも豊前説は矛盾しない。
561日本@名無史さん:04/09/05 10:37
すでに答えは>>474ででてしまっています。
562日本@名無史さん:04/09/05 11:01
 別に卑弥呼=天照=天皇家と考える必要はないんじゃないかな
 魏に使いをやったって言ったって、単なる有力豪族だったってこともある
 幕末に薩摩が密貿易やったようなもん
 共通点は女で太陽信仰というところだけ
 当時の自然崇拝の風潮からして太陽の巫女はいくらでもいるんじゃない
563日本@名無史さん:04/09/05 11:04
>>562
邪馬台国ほどの大国とその連合国家が
忽然と姿を消し、5世紀に入ると
大和朝廷中心に歴史が動いてることを
どう説明します?
564日本@名無史さん:04/09/05 11:07
>>563

邪馬台国、狗奴国などがひしめく戦国時代で
たまたま魏志に記録されてるのが邪馬台国
天皇家は別の国
まあ、可能性です
565日本@名無史さん:04/09/05 11:11
>>564
天皇家も記紀では九州から
東遷して畿内にきています。
倭人伝も九州中心に記述が
なされています。邪馬台国と
大和朝廷がなんらかのかかわりが
あったとみるほうが自然でしょう。
566日本@名無史さん:04/09/05 11:16
>>561
>3世紀より前に、邪馬台国の一派が東征して畿内を
>中心に本州の統治にあたっています。
これは明らかに違うと思う。もしそうならば、倭人伝などに記載
されているはず。
>3世紀後半になると、狗奴国からの攻撃により九州邪馬台は衰退。
むしろ、逆。日向の邪馬台国分派は狗奴と和合。よって、戦力を戻して
東征を行った。応神天皇以降に熊襲系と思われる婚姻関係があるのは
その為だろう。
567日本@名無史さん:04/09/05 11:18
>>565

俺もいちおう九州説
畿内の邪馬台国=ヤマト国=大和朝廷とは思わない
卑弥呼は九州に居たと思う
しかし彼女が天照であり、子孫が神武で東征(遷)したかどうかは疑問
別に狗奴国が九州で覇権とって東征したっていい
さらに妄想すれば
九州に上陸した半島OR大陸南部の侵略者が東征ってことも
568日本@名無史さん:04/09/05 11:21
>>567
豊前説でこれだけ矛盾なく自然に説明できるわけであり、
敢えて、根拠のない他説を持ち込むこともあるまい。
569日本@名無史さん:04/09/05 11:25
そんな疑り深く考える必要はないでしょ。
卑弥呼=日巫女 で太陽信仰の巫女だったと
いう可能性は高いですし、天照の神話と
日食も一致します。邪馬台という名前も
ヤマトと読めますし、邪馬台国が東遷して
自分の国の名前を畿内に定着させたと考えても
なんら不自然ではないでしょ。
570日本@名無史さん:04/09/05 11:30
豊前説
>>415,>>450,>>458,>>560
これらをよく読んで欲しい。
571日本@名無史さん:04/09/05 11:32
>>568

俺がひっかかるのは任那
5世紀にいきなり半島に飛び地領土出現
広開土王碑にある391年の出兵で占領したから?
その後7世紀頃まで飛び地を支配していたのか?
白村江の戦いでは国運を賭けて半島の権益を死守しようとしている
天皇家の起源が任那と考えるのが自然じゃない?
572日本@名無史さん:04/09/05 11:34
甘木ではなく豊前が優位な訳
>>462
573日本@名無史さん:04/09/05 11:38
>>571
勉強不足。
ヤールー川の広開土王との戦いは、局地的に日本がそこで負けただけで、
同様の戦争が、同時期に朝鮮半島のあちこちで起こっていた。
場所によって、勝ったり負けたりし、ヤールー川流域では負けただけ。
574日本@名無史さん:04/09/05 11:39
任那でほぼ間違いないでしょ。
任那の王族かなんかが日本に
流れてきて、それが天皇家の
源流になったと。古墳から天皇家の
ルーツが朝鮮にあったことがばれるのを
防ぐために、宮内庁は発掘許可を出さないと。
まあこんなとこだね。
575日本@名無史さん:04/09/05 11:44
>>574
天皇家に朝鮮系の血も流れているのは否定しない。
古来より渡来人は日本に渡ってきており、あなたの
体にも流れている。
任那とも何らかの接点があったかもしれんが、それを邪馬台国と
結びつけるのは、畿内説以上に強引っていうか、このスレとは
関係ない。
576日本@名無史さん:04/09/05 11:47
これでいい

任那で建国したのが神武(初めて国を治めた天皇)
神武の東征(これは半島から九州に行ったことを指す)
宇佐での地位を確立したのが崇神(これも初めて国を治めた天皇)
畿内の大国主と対決し勝利
応神期に畿内政権確立
577日本@名無史さん:04/09/05 11:50
>>576
神武の東征は、日向を出発している。
任那が日向か。いい加減にしたまえ。
578日本@名無史さん:04/09/05 11:51
>>575
朝鮮ではないだろ
579日本史@名無しさん:04/09/05 11:55
>>538

その言い方はおかしいでしょう。一学者の造作説を前提にしてしまって。

崇神=神武こそ、神武を相当強力に否定出来る説でないとだめだと思うが。それに神
武を否定したからと言って、それをすぐに崇神に持っていくのもまた別の話でしょ?

神武は、必ず実在したと思います。
そうでなければ相当に古い時代のあれだけ具体的な伝承をわざわざ初代に持ってくる
理由が無い。ことさらに古く見せようとしたって、各氏や各地方の王族にそれぞれ家伝
が残っていて、更に当時は村単位でもそれがあっただろうと言う説もあるくらい。いくら
焚書したってそもそも口伝による歴史の時代だから、半分意味がない。後世の我々に
は被害甚大だったがw

だから、それらと矛盾する話をわざわざ作って、自ら権威を落とすことは考えられない。

これを論破してください。
580日本@名無史さん:04/09/05 11:57
>>578
大神氏、秦氏など朝鮮系渡来人は古くから九州に上陸し
灌漑などの技術を伝えたのは常識。
宇佐神宮は、確かに彼らとの結びつきは強い。
だからといって、任那が神武の起源とするのはばかばかしい。
581日本史@名無しさん:04/09/05 11:58
句奴国の攻撃で云々言ってるヤシって、何か証拠あんの?
実際太宰府近辺の同位体調査では、相当古くから遺構が連続していると言うことがわかってきてるし、
何も九州勢力が滅んだとか衰退したとか無理にでっちあげんでもいいと思うが。

そこんとこちゃんと説明してくれや。
582日本@名無史さん:04/09/05 12:01
>>577

日向というのは「日に向かう」つまり東海岸につく地名
東海岸ならどこでもありうる
富士山が見える場所に「富士」や「富士見」がつくのと同様
よって任那の東海岸から出発した
・・・ってダメか
欠9代を説明できると思ったんだがなあ
583日本@名無史さん:04/09/05 12:04
>>579
同意。神武は後の天皇から折に触れて回顧されているしねえ(崇神とは明らかに別に)。
人麻呂も「大和」は「橿原の聖の御代」(神武)以来、歴代の天皇が次々に天下をお治めになった地だと歌ってる。
やはり固定化した伝承がなければ後世の人々に回顧されないよ。
584日本@名無史さん:04/09/05 12:14
>>574
485 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:04/09/04 13:14
>>481-484
糞チョンの妄想かよ。( ´,_ゝ`)

その逆の話は朝鮮正史「三国史記」に載っている。
新羅第4代王の脱解尼師今は、倭の女王国の女と多婆那国(丹波?)の男から生まれ
捨てられたのが朝鮮半島に流れ着き、新羅の倭人重臣・瓢公が有能さを認めて
新羅王にしたと言う記述がある。
日本人はこういう記述がある事実をもっと知るべき。
「新羅 脱解 倭人」でぐぐって見るといい
http://www.google.com/

488 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:04/09/04 13:26
>>487
糞チョンが捏造話に必死だな。
魏略逸文によると邪馬台国の使者は呉の太伯の末裔と自称しているし
天孫降臨が南九州なのも華南から来たなら考えやすい。
外部から来たとすれば華南ならありうる。
585日本@名無史さん:04/09/05 12:17
>>569
邪馬台国がもと九州にあったかもしれないし、宇佐に巫女王がいたかもしれない。
でも魏志に描かれた時代にはもう大和に遷って8〜10代くらいになっているはず。
魏志の卑弥呼は三輪にいたでしょう。
586日本@名無史さん:04/09/05 12:17
チョンは昨日も叩かれて黙ったのに、鳥頭だから翌日は再びわめくのかよ。

492 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:04/09/04 14:18
倭人が銅鏡を非常に好むのに対して、半島土着の墓には殆ど見られず
半島の漢人の墓ですらせいぜい1〜2枚であり、突出している。

道教文物の概説 二〇〇二年十一月三十日 早稲田大学道教研究所講演会
中国社会科学院歴史研究所 王 育成
三、道教の鏡とそれに関する問題
http://www.littera.waseda.ac.jp/appendix/Daoism/bunbutu4.htm
587日本@名無史さん:04/09/05 13:33
>>579
>そうでなければ相当に古い時代のあれだけ具体的な伝承をわざわざ
>初代に持ってくる理由が無い。

あります。それは、実際に相当する人物がいて、存在した事実だからです。
神武天皇は即位前の東征までのことは詳細に語られているが、即位後が全く
不明です。一方、崇神天皇は、即位のいきさつは全く不明であり、即位後
の記録ばかりです。つまり崇神の即位前が神武、即位後が崇神と考えられる
のです。
卑弥呼を天照大御神とすることにまず異論はないと思いますが、だとすると
神武は卑弥呼以降の人物となります。卑弥呼が239年に魏に使いを送っている
ので、神武はそれ以降です。一方、箸墓古墳は、350年頃のものとされている
ようです。この墓は崇神の大叔母、百襲姫の墓とされていますが、これも史実
などからほぼ確かであるようです。百襲姫が卑弥呼とする畿内論者は更に古い
ものと主張しているようですが。そしては崇神もこの頃か少し後に活躍した人
となります。もしそうだとすると、わずか100年もの間に10人もの天皇が存在
したことになります。実際は、卑弥呼の子孫の代ですから、最大で100年程度
です。ひょっとしたら、50年かもしれないし、10年かもしれません。この矛盾
をどう説明されるのでしょうか。
588日本@名無史さん:04/09/05 13:34
ここで、神武と崇神を同一人物とするとこの矛盾がなくなります。
しかも二人とも厳密には同じではないかもしれませんが、はじめて国をつくる
意味の名が当てられています。これが単なる偶然でしょうか。はじめて国を
つくるという意味がただ領土を広げただけでそのような名がつくなら、その
ような天皇は他にも存在するはずです。記録として、その名がつく限り、
それは領土拡張程度ではなく、国を作ったと解すべきで、国を作るという
最初の1回と解すべきではないですか。まして、時間の整合性が得られる
ならなおさらです。記紀が全くの嘘でない一方、いろいろな矛盾が含まれ
ており全てが真実でないのは確かです。しかし、その細工も、この件では
ちゃんと矛盾なく紐解けるようにヒントを準備してくれていたと理解すべ
きではないですか。明らかに間違いがあると分かる記録があるにもかかわ
らず、一方でその記録残っているからと、すべて本当だと決め付けるのは、
無謀ではないでしょうか。

その他、その業績にも関わらず神武の墓が存在しないこと、朝廷に重んじられ
てないことなどは上に書いたとおりですし、豊前を邪馬台国として考えると
この仮定が矛盾なく説明できます。
589日本@名無史さん:04/09/05 13:36
>>585
激しく同意!!
卑弥呼は福岡県甘木市近くの三輪地方にいたんだろうね。
590日本@名無史さん:04/09/05 13:44
>>587
> 卑弥呼を天照大御神とすることにまず異論はないと思いますが、だとすると
> 神武は卑弥呼以降の人物となります。卑弥呼が239年に魏に使いを送っている

歴史時代としては崇神の叔母ヤマトトトヒモモソヒメだろ。
天照大神は神話時代の存在で年代すら入れないあやふやなもの。
ヤマトトトヒモモソヒメが神話化したものだろう。
591日本@名無史さん:04/09/05 13:47
>>583
平安時代まで下がると、記憶があやふやになり、正史とされる記紀を信じても
おかしくはないでしょう?
っていうか、「橿原の聖の御代」の歌そのものに神武の名が出てないじゃない。
他の人を想像していたかもしれん。
592日本@名無史さん:04/09/05 13:47
>>588
突然に崇神朝のような大国家から始まるのは不自然で
前段階としてオオヤマト周辺のローカル勢力の時期があるだろ。
同一人物と思う説の方がDQNだな。
593日本@名無史さん:04/09/05 13:58
>>590
崇神の叔母としてもいいが、なおさら10人の間隔が狭くなるだけ。
ヤマトトトヒモモソヒメが卑弥呼なら畿内説。しかし、今更畿内説?
矛盾だらけで話にならん。
過去スレ見てから書き込め。

>>592
はあ?
少しはスレを読んでから書き込め。
594日本@名無史さん:04/09/05 14:02
甘木は位置をはじめ、矛盾が多い。
古代の先進地であったことは認めるが。
>>568
>>415,>>450,>>458,>>560
595日本@名無史さん:04/09/05 14:29
>>587
>わずか100年もの間に10人もの天皇が存在
したことになります。

その通り。実はそれこそが、「神武天皇は実在した」という証拠に
なるのだよ。
歴史的に、ほぼ在位年数が確実と言える、第31代用明天皇から、
第41代持統天皇までで、100年ちょっとで10代の天皇が存在している
のだが。
そしてそれ以降の天皇の在位をみると、「時代が下るほど平均の在位
が長くなる」という傾向があるのだ。
つまり、神武天皇から100年たらずで10代の天皇が立ったというのは、
「統計学的に自然な事」なんだ。
それでも、神武天皇から開化天皇の存在を否定する、何か根拠はある
のかね?
596日本@名無史さん:04/09/05 15:09
>>過去スレ見てから書き込め。
>>少しはスレを読んでから書き込め。

誰かが一人で連続カキコしてるだけなのにw
597日本@名無史さん:04/09/05 15:10
>>589
奈良の三輪だよ。祭祀遺跡も多い。
598日本@名無史さん:04/09/05 15:11
>>591
人麻呂は平安じゃないっすよ
599日本史@名無しさん:04/09/05 15:48
>>587

あなたの立論には相当仮定や推測が入っており、ストレートに崇神=神武を導き出せるかどうか
なんとも言えないですよね。自覚があるかどうかわかりませんが。
600日本@名無史さん:04/09/05 16:34
大和朝廷は初期から豪族連合みたいな感じで天皇家(大王)の
実権はあまり無いじゃないか。
なら天皇家自身の出自はどんな小国出身でもいいわけなんじゃないの?
極端にいえば国の王ですら無かったかもしれないじゃないか。
豪族(というより各地の「王」)に祭り上げられた実権なき大王。
神武とか初期天皇は、初めて実権を手中にした大王(天皇)、
天智とか天武が自分達の祖が始めから強大な日本の支配者だったと
主張するために記紀にデッチアゲに近い形で載せたものだと思う。
601日本@名無史さん:04/09/05 17:04
>>600
もしそうだったら、神武天皇の神話は、太閤記的なものになったんじゃないか?

北畠親房も、神皇正統記で、日本の天皇家が神の子孫だというのを、諸外国
にはない、極めて珍しい事であると、述べている。
神の子孫だからすごいなと思うのは、そういう伝説が「確定」した、後世に
なってから。
リアルタイムにおいて、伝承をでっち上げる場合、あまりに荒唐無稽な
ものを作ると、誰も信じてはもらえない。
やはり、天皇家が神の子孫だと言っても、納得してもらえるような背景
(後世、神と称えられるような人物の子孫だった)は、あったと考える
べきだろう。
602日本@名無史さん:04/09/05 17:12
さらに付け加えると、古代ギリシャ、ローマでは、神が人間の娘と交わって
子供を作るという伝承が、ゴロゴロしている。
もし、神武天皇が、卑しい出自であったのなら、神武天皇が神の子孫だと
いうのは、そういった伝承によってでっち上げされていたのではないか?
古事記や日本書紀の伝承だと、神武天皇はそういった落胤ではなくて、
むしろ正嫡であるという伝承になっている。
・・・むろん、正嫡であるというのは後世の作為であって、実際には
傍流であるという可能性はあるが(と、いうか、その可能性は高い)
603日本@名無史さん:04/09/05 17:49
みんなアホだな。俺が教えてやるよ。九州説が前提。
卑弥呼の死後、トヨが女王位につくまで紛争があっただろう。
その時にトヨと争って破れた政治家(男)が亡命したんだよ。
呪術による政治を守ろうとするトヨと、
より合理的な政治体制を確立しようとした男。
邪馬台の民は卑弥呼の再来としてトヨの方を選んだわけだ。

男は挽回を図れる土地を探して東へ。
呪術政治に疑問を抱く多くの優秀な民が彼に従っただろう。
しかし、既に国としての形を持っていた中国地方に男の居場所はなかった。
そこで奈良盆地ですよ。

奈良盆地の豪族達が男を天皇として受け入れた経緯は色々考えられる。
神話を信じるなら、征服、或いは既に居た王を滅ぼした。
しかし、長旅の亡命者が戦争に勝つのは容易ではないだろう。
そこで、こういう説はどうだろう。
奈良盆地の豪族達は和の精神でもって治めていたけども、国の形はなかった。
西方の情勢を見るにつけ国家としてのまとまりの必要性を感じていた。
しかし、誰かが王位につくとすれば、争いは避けられない。
そこに亡命者がやってきた。先進的な国家観、技術、兵法を持ち、
邪馬台出身というステータスもある。
他にもさまざまな利害が一致し、男を天皇として頂いて国を創設した。
或いは始めは客人だったのが、男の有能さから徐々に
奈良盆地の豪族が従うようになり、天皇として推し頂くようになった。
男は国の名を、トヨへの対抗意識とヤマタイの正統の意味で、「ヤマト」とした。
この天皇-豪族の関係は強力な政権を築くのに適していた。

この経緯は天皇の出自としてはあまり印象が良くないので、
歴史書には東征神話としてあいまいに書いたのだ。
天皇家がどこかよそものっぽくて、豪族達の発言力が強い理由など、
他のさまざまな疑問もこの説なら矛盾なく説明できる。
604日本@名無史さん:04/09/05 17:54
天皇家が真実畿内の一豪族として勢力を拡大したのならば、
なぜ征服したお膝元の豪族たちがかなり強い権力と自主性を
有していたのだろうね。
605日本@名無史さん:04/09/05 18:03
>>603
>その時にトヨと争って破れた政治家(男)が亡命したんだよ

それって、高天原を追い出された、スサノオノミコトの伝承じゃないのか?
大和ではなくて、出雲の話だと思う。
606日本@名無史さん:04/09/05 18:05
出雲って、今の出雲とは限らん。大和にも出雲系いたじゃん
607日本@名無史さん:04/09/05 18:24
スサノオノミコトによる東征のあとにも
ニニギノミコトによる東征もあるよね。
ニニギはスサノオの宝剣を貰っちゃうは、娘まで奪ってしまうはで、
スサノオは踏んだり蹴ったりだね。
若かりし頃は暴れん坊として名を馳せた猛者も可愛そうな気もするが、
スサノオ本人は勇ましい若人に少々嬉しかったりして・・・
608日本史@名無しさん:04/09/05 18:33
>>603

俺にはそんな勇ましい話には見えんがな。
あっちふらふら、こっちふらふらで、まあ一応王家の一族ってんで客分として数年づつわらじを
脱いだけど結局居場所が無くて、結局淡路の向こうの敵地に行かざるを得なくなったって感じ。
あるいは、初めから東に行くつもりだったけど、自信がなかったか、情勢を見ていたのか?

それも、あんまり攻撃の効果が無くて、無惨に敗北したところは、相手が友好的と勘違いしたの
か、それとも内応者の触れ込みが嘘だったか・・・。どう考えても輝かしい初代の征服譚とは思え
ない。まあ、それをわざわざ残して語り継いだこと自体がリアルなんだけどな。

とにかく大将である五瀬を失ったのに撤退せずそこから更に大変な悪路を踏破したところをみて
も、これは判断というよりもう帰れない何かの事情があったんだろう。
609日本@名無史さん:04/09/05 18:46
要するに吸収説にせよ機内説にせよ
九州→畿内と政権が移った点は同じ
卑弥呼が居たのが九州の時点か畿内の時点か
これはわからない
わかりようもない
よってこのスレは終了
610日本@名無史さん:04/09/05 19:35
スサノオって、倭人伝にでてくる卑弥呼の弟でしょ。
記紀ではスサノオとの確執のせいで天照は岩戸に隠れたとある。
つまり、卑弥呼=天照とスサノオ=卑弥呼の弟との
権力争いが起こり、邪馬台国内の和が乱れ、それにたまたま
日食がきたものだから、民衆は卑弥呼に徳がなくなったと思い、
卑弥呼を殺して、イヨを新しく擁立したんだろう。
611暇人:04/09/05 19:45
610 でもスサノオは追放されてますけど。
612日本@名無史さん:04/09/05 21:07
スサノオ君は朝鮮半島の新羅に遠征して泣きべそかいて逃げ帰っています。
乱暴者だけど弱っちい愚痴男だったのでしょうか?
その後、出雲地方にふらふら出かけて行って、地元の化け物(ヤマタノオロチ)
を退治して出雲王権の始祖になっています。
邪馬台国が国譲りをしてもらうのは、スサノオ君の子供や孫の時代です。
邪馬台国では嫌われ者のスサノオ君ですが、奈良大和王朝建国には
なくてはならない歴史的必定人物だったのです。
そのため、悪者として描ききれないもどかしさが記紀の中に見え隠れしています。
613日本@名無史さん:04/09/05 21:10
神話だろ、神話
614日本@名無史さん:04/09/05 22:30
>卑弥呼が居たのが九州の時点か畿内の時点か
>これはわからない
>わかりようもない

分かってるよ。畿内だよ。
違うというなら、考古学雑誌に反論出したら。
まあ、採用されないだろうけどさ。
615日本@名無史さん:04/09/05 22:35
>588

>ここで、神武と崇神を同一人物とするとこの矛盾がなくなります。

そりゃ昔の説。
現崇神陵以前の大王墓と想定される古墳は、これだけある。

@纒向石塚古墳(庄内1)
A勝山古墳(庄内2?)
B矢塚古墳(庄内3)
C東田大塚古墳(布留0)
Dホケノ山古墳(布留0?)
E箸中山古墳(布留0)
F外山茶臼山古墳(布留1)
G西殿塚古墳(布留1?)
Hメスリ山古墳(布留2)
*年代は、伊達、橋本等による。

616日本@名無史さん:04/09/05 22:39
 スサノオは出雲でテナズチ、アシナズチに会う。ズチってやっぱりカナズチの
ズチ?そして、福井県あたりから来たやまとのおろちを退治。そのとき、しっぽを
切ったら、剣の刃がこぼれる、天のムラクモは鉄剣かな。出雲は鉄に見入られて
銅文化をやめたのかも。くしなだ姫はくしいなだ姫くらいで、稲田、鉄文化が
入ってきた出雲は稲田を守れる強国になったのかな。
617日本@名無史さん:04/09/05 22:44
 今のうちに、スサノオは、ヒイカワから流れてきた箸を見たんだよ。
この頃の日本はタカツキに手つかみで食事。そのことを、知ったスサノオ
が、出雲を保護したのかな。
618日本@名無史さん:04/09/05 22:53
 そして、箸つながりで、やまとととびももそ姫、出雲っぽいお姫様。
(別に卑弥呼とは言わないけど、)オオクニヌシもやまとにのぼる時の
話を残してるから、畿内のやまとと出雲はなにかしら切っても切れないね。
619日本@名無史さん:04/09/05 22:56
決死8代なんて生きた年齢からして
でたらめだしでっちあげにきまってんじゃん。
もーそんなこともわからず真に受けちゃう
お馬鹿さんはオレオレ詐欺にでもあっちゃうよw
620日本@名無史さん:04/09/05 22:59
>>619
そういう根拠のない話を「科学的」みたいに言うのが害毒なんだよな。
621日本@名無史さん:04/09/05 23:03
>>619
欠史八代だけではなく、たとえば応神天皇なんかも、110歳まで生きたことになってますよ。

622日本@名無史さん:04/09/05 23:06
実在確実な(?)雄略天皇も古事記によれば、124歳まで生きてたことになっています。
少なくとも、寿命と実在性とは関係ない。
623日本@名無史さん:04/09/05 23:14
 オオクニヌシが畿内やまとに新しい鉄文化、あと、乗馬、(馬もこの頃…)
そんなこんなで、もろもろ伝えた。
だから、三輪の山を祭るンでしょうか?(卑弥呼の時代は馬は居なかった、)
オオクニヌシはもう、馬の背に乗って倭に出向く。鉄、箸、馬 新しい
文化を出雲が倭に伝えた?
624日本@名無史さん:04/09/05 23:34
>>622
倭人伝から、1年=半年で実際は半分の寿命が妥当だろう。
となると、邪馬台国と初期大和は同じ暦を使っていたことになり
同系統の政権と考えられるな。
625日本@名無史さん:04/09/05 23:43
>>614
卑弥呼は明らかに東征の前。

大和の東に海はない。山だけ。
百歩譲って紀伊半島全部を邪馬台国だったとしても、東に国と
されるに相当する島はない。
宇佐なら四国がある。

南の狗奴に相当する有力な国もない。
宇佐なら熊襲がある。

更に南の海に国といわれる程の島はない。
九州なら奄美・種子島・琉球がある。

あきらかに畿内はこじつけに過ぎん。
626日本史@名無しさん:04/09/06 00:24
>決死8代なんて生きた年齢からして
  でたらめだしでっちあげにきまってんじゃん。

すこしは勉強しような。外国でも古代人の年齢はそんなもんなんだよ。ギリシャの有名な学者や
政治家、エジプトの王族、中国の古代人、インド人・・・・・。日本だけじゃない。古代人の平均年齢
を考えれば、揃いも揃ってそんな高齢なのはあり得ない。

少なくとも年齢だけを根拠に欠史八代なんてナンセンスなんだよ。
627日本@名無史さん:04/09/06 00:34
>>595
100年に10代とは大きく譲って、卑弥呼と神武が同世代と仮定した
場合であって、実際は神武が子孫であり、東征の偉業を行った
後であるから、現実的には、少なくとも20-50年は時代が下がる
だろう。しかも記紀の如く、神武が五代後なら各妃が甘く見て15歳で
出産したとしても卑弥呼から75年は後ということ。
よって記紀を信じるなら、実際は100年に10代の可能性よりも、10−30年
に10代天皇が変わったことになる。

>「統計学的に自然な事」なんだ。
統計学といえるほど母数がないでしょう。
628日本@名無史さん:04/09/06 00:37
前半はともかく、統計で飯食ってる俺にとって
>「統計学的に自然な事」なんだ。
みたいなアホ発言はちょっと許せんな。627に同意。
学問的用語を気軽に出して説明した気にならん方がいいよ。
629日本@名無史さん:04/09/06 00:46
宇佐は、確かに重要地で
東遷に何らかの関わりがありそうだが、
卑弥呼の宮でなく、(東遷に係わった)
台与の宮があったところではないだろうか。
豊(トヨ)の国だし。

卑弥呼の宮は、日向(ヒムカ)の国の斎殿原で、
三輪(高田、甘木)は、男衆が会議する
実質的な政治の中心地ではないだろうか。

三輪という地名は、本州の何箇所かにコピペされていくが、
ムサという地名も、重要地にコピペされている。
もしこれが宇佐が語源だ(または宇佐の方がムサから訛った)
としたら調子が良いのだが。
630日本@名無史さん:04/09/06 00:56
>>627

伝説によれば、神武はアマテルからヤタの鏡を貰ってるし、
一説には卑弥呼の墓とされるヒラバル古墳からは
(伊勢にあるのと)同じ大鏡が5枚出ている。

・・・となると、同時代の人と考えるのが自然。
アマテルと神武の間の人を縦に並べてしまった系図の方が
間違いで、実際には兄弟とかで横並びの人が沢山いたかと。
631日本@名無史さん:04/09/06 01:31
>>615
まず崇神天皇の陵墓が崇神のものであるかどうかが断定できない。
それから纒向をはじめとして、畿内での古墳年代は、意図的に
繰り上げられているきらいがあり、疑わしい。
箸墓で布留0と馬具が同時に見つかった際に、布留0の年代を
下げるのではなく、他の状況から考えてありそうもない、馬具が
もっと古くからあったとするなど不自然である。
逆に馬具から考慮すると甘く見ても、せいぜい3世紀後半か4世紀前半
と考えられ、東征があったと考えられる時期とも重なり矛盾しない。
崇神の墓も、実はこれらの1つかもしれない。
632日本@名無史さん:04/09/06 01:48
>>629
>三輪(高田、甘木)は、男衆が会議する
>実質的な政治の中心地ではないだろうか。
ほぼ同意ですが、巫女の時代卑弥呼や台与の頃は、政治の中心は
彼女らの周囲にあったと思います。ただ、その前後では、むしろ
甘木あたりに活気があり、政治・経済の中心だったのではないで
しょうか。ただし、混乱も多かったと考えますが。

>卑弥呼の宮は、日向(ヒムカ)の国の斎殿原で、
西都原遺跡は、宇佐より若干年代が下がります。これは何を意味するのか。
>>560を参考にしてくださいで、説明できないでしょうか。
なぜ、日向が興隆したかは、狗奴との対立のため、宇佐から勢力を
傾けたのではないかと。そして、狗奴との対立が治まったため、
主力軍が今度は東征をはじめたのではないかと。
仁徳以降に熊襲系の姫との思われる婚姻があるのもそのためだと
思います。
633日本@名無史さん:04/09/06 01:49
>>629
日向(ヒムカ)の国の斎殿原は、むしろトヨや神武関連じゃないの?
伊勢神宮で、天照(ひみこ?)に仕える人を斎王と言うから。
634日本@名無史さん:04/09/06 02:07
>>630
>伝説によれば、神武はアマテルからヤタの鏡を貰ってるし、
天皇家では代々三種の神器として鏡を譲ります。だからこれは
直接もらったとは言いきれないのではないでしょうか?

>一説には卑弥呼の墓とされるヒラバル古墳からは
>(伊勢にあるのと)同じ大鏡が5枚出ている。
だとしても、伊都国は邪馬台国と親交があり、連合国家を
なしていたわけですから、100枚の鏡の一つが出ても不思議
ではありません。
また、更に邪馬台国と大和朝廷、そして卑弥呼と天照の
関係がはっきりします。
635日本@名無史さん:04/09/06 02:26
>>633>>560
もちろん宇佐の同盟国あるいは宇佐の分派である日向から
東征軍(五瀬命ら)が出立していると考えられるので
いいのではないでしょうか。
神武は豊御家沼命等とする説もあり、そうならば宇佐から
合流したことになります。
636日本@名無史さん:04/09/06 02:41
>>631
なお崇神天皇陵は箸墓古墳はあまり築造年代も変わらないと
されており、崇神天皇陵でも問題ない。
637日本@名無史さん:04/09/06 03:30
>>600
神武とか初期は別にして、箸墓以降はそんなことはありえない。
世界有数の巨大古墳を築くには、継続的に強大な勢力がないと
短期で瓦解してしまうだろ。
638日本@名無史さん:04/09/06 03:35
>>621
神功皇后を卑弥呼+台与に比定するために、120年繰り上げた影響だろ。
神武など初期の天皇の寿命が異常に長いのは
勝手に天皇を追加することなしに、周代に始まったことにするためと思われ。
639日本@名無史さん:04/09/06 03:44
>>631
最近繰り上げたのではなく、昔が根拠なく繰り下げられていただけだな。
漢式鏡の年代と極めて矛盾する暦年換算を放置していた時代が異常だった。

1)山中I式が遅くても西暦一世紀中頃にはじまっているとしたら
この時点で流入した象徴する出土遺物としては、濃尾平野最古の鏡である名古屋市高蔵遺跡のき龍文鏡や岐阜市瑞龍寺山山頂墳出土の内行花文鏡などが存在する。
今回の暦年代からはほとんど長期の使用・伝世を想定する必要がないことになる。

箸墓古墳の築造終了を廻間III式1段階の中にあるとすると、248年前後に死亡したとされる倭の女王「卑弥呼」と極めて近い時期を想定できることになる。
箸墓古墳に卑弥呼が眠っている可能性が高くなることは間違いない。三角縁神獣鏡は廻間II式期中頃以前の墳墓から発見されてはいない。

最後に奈良県のホケノ山古墳であるが、配置された東海系加飾壺から、廻間II式2段階に造営が終了している墳墓と想定することができた。
すると239年に卑弥呼が魏に使いを派遣する以前の墳墓である可能性が高いということなる。
http://agatazin.jp/niwazin/sji/2003-11/2003-11.html
640日本史@名無しさん:04/09/06 07:34
>神功皇后を卑弥呼+台与に比定するために、120年繰り上げた影響だろ。

こういうのはいくらでも言えるから、よほどの論証がないとな。
641日本@名無史さん:04/09/06 08:47
卑弥呼=天照の弟のスサノオが卑弥呼と
不和になり、邪馬台国から追い出され、
本州に渡った。そして、本州制圧の出来事が
ヤマタノオロチ等の神話に集約された。
のちにスサノオは、畿内を中心に本州を制圧。
その子孫が大国主。のちに、九州邪馬台が
他国からの攻撃により衰退したので畿内に移動。
これが国譲りの神話。これが事実でしょ。
642日本@名無史さん:04/09/06 08:57
>>640
こんな基本的なことも知らないのか。百済王の名前から確実に言えるだろ。
643日本@名無史さん:04/09/06 11:14
>>632=560

箸墓が350年ごろなら、あなたの考えは有力かと思います。

畿内説の人は250年ごろで卑弥呼の墓と言ってるし、
(ただし、「棺ありて槨なし」じゃないし、
生贄を埴輪に変え始めているし、ありえないと思うが。)

280年前後という分析に従えば、
台与が東遷女王で、台与の墓という可能性もある。
644日本@名無史さん:04/09/06 11:40
>>642
百済関係記事は天皇編年ができた後にはめ込んだだけだろ。
645日本@名無史さん:04/09/06 11:41
>>632
> 西都原遺跡は、宇佐より若干年代が下がります。これは何を意味するのか。

確かに、西都原の古墳郡のうち巨大なものは、宇佐の繁栄より新しいものですね。
ただし、これは西都原全部が新しいという意味ではないでしょう。

魏志倭人伝を書いてある文字通りに読むと、福岡の東岸に出たあと南に水行し
(水行とは海岸沿いに船で行くこと=帯方郡から韓国南岸までが「水行」だった)、
2つの人口の多い国に着いている。九州東岸で稲作によって大人口を養えるのは、
大分の平野と宮崎の平野くらいしかない。なので、順に

大分の平野=投馬国
宮崎の平野=邪馬台国

と考えることができる。そこから先の遠絶21ヶ国、更に南の別王朝である狗奴国
とスムーズにつながりますし。
646日本@名無史さん:04/09/06 12:01
>>634
>100枚の鏡の一つが出ても不思議 ではありません。

100枚の鏡のうちの1枚ではなく、
畿内の皇室の至宝である八咫の鏡、その同型大鏡が
九州の古墳からまとめて5枚出てきているのです。

八咫の鏡は九州で複数枚作られ、その内の1枚が
(九州に住むアマテルの化身として?)
畿内に持ち込まれたのです。
647日本@名無史さん:04/09/06 13:03
>>646
なぜそう断定口調で書くかねえ?
仮説なのだから「持ち込まれたのではないでしょうか」とか
書くべき。
648日本@名無史さん:04/09/06 13:25
アマテラスをアマテルと逝ってる奴はホツマ信者か?
649日本@名無史さん:04/09/06 14:31
アマテラスは、1万2千年前に滅びた
超古代文明の生き残りの子孫だよ。
650日本@名無史さん:04/09/06 14:46
>神武天皇は存在した


はて?弥生時代にですぜ?
神武天皇がいたとして初代天皇として日本の王であったなら、卑弥呼はどうなるんだ?
卑弥呼は王だろう、でも天皇の系譜には無い、しかも卑弥呼の時代は神武天皇のずっと後。
しかも弥生時代には日本列島に列島統一政権は誕生していないはず。
とするならば、魏志倭人伝にあるような魏と交流した倭と呼ばれた邪馬台国の女王卑弥呼とは別に、
神武天皇を頂点とする後の日本につながる正当な政権があったということだろうか?
だとするならば、中国にとって倭であった邪馬台国は、今の天皇制につながる古代国とは別の国だということになる。

はて?
651日本@名無史さん:04/09/06 14:49
120年生きた神武天皇、当時の寿命は50歳も生きれば長生き、120年生きた神武天皇とはw
652日本@名無史さん:04/09/06 17:24
>>643
> 生贄を埴輪に変え始めているし、ありえないと思うが。)

おいおい、それは古墳時代中期〜後期に盛んになる形象埴輪のことだ。
箸墓に並べられた吉備発祥の特殊器台(円筒埴輪の前身)は棺としても使うものだ。
653日本@名無史さん:04/09/06 17:28
>>644
そうではなく暦年を示すものとして使っている。
神功皇后に関しては卑弥呼+台与に比定するために
干支はそのままに2運(120年)繰り上げているのは良く知られた話だ。
654日本@名無史さん:04/09/06 17:34
>>650
> 神武天皇がいたとして初代天皇として日本の王であったなら、卑弥呼はどうなるんだ?

当時は日本の王ではない。オオヤマト周辺に限定したローカルな勢力と書かれているだろ。
崇神天皇が四道将軍を派遣した頃には大きな勢力となったことになる。

> 卑弥呼は王だろう、でも天皇の系譜には無い、しかも卑弥呼の時代は神武天皇のずっと後。

箸墓に葬られたヤマトトトヒモモソヒメだろ。日本書紀では間違って神功皇后に比定しているが。

> しかも弥生時代には日本列島に列島統一政権は誕生していないはず。

卑弥呼は古墳時代だ。

箸墓古墳の築造終了を廻間III式1段階の中にあるとすると、248年前後に死亡したとされる倭の女王「卑弥呼」と極めて近い時期を想定できることになる。
箸墓古墳に卑弥呼が眠っている可能性が高くなることは間違いない。三角縁神獣鏡は廻間II式期中頃以前の墳墓から発見されてはいない。

最後に奈良県のホケノ山古墳であるが、配置された東海系加飾壺から、廻間II式2段階に造営が終了している墳墓と想定することができた。
すると239年に卑弥呼が魏に使いを派遣する以前の墳墓である可能性が高いということなる。
http://agatazin.jp/niwazin/sji/2003-11/2003-11.html
655日本@名無史さん:04/09/06 17:45
>>652
 特殊器台は、弥生時代の終わり頃(2世紀末〜3世紀)に、吉備地方で作られ始めた葬送用の器台(壷などをのせる台)です。
特殊器台を出土する弥生墳丘墓などの遺跡の分布は、備中南部を中心に、備前・美作・備中北部・備後にわたり、かって「吉備」と呼ばれた地域に集中しています。
特殊器台が注目されたのは、この器台の発展が、これまで謎とされていた古墳時代の円筒埴輪の起源に直接結びつくものであることが判明したことによります。
 この特殊器台は、昭和38年(1963)に宮山墳墓群(総社市三輪)の土壙墓から棺に転用された状態で発見されました。
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kenhaku/hakubu2.htm
656日本@名無史さん:04/09/06 17:54
>>647

まあ、三種の神器ってどれもこれも、
畿外の豪族(?)から、服属のしるしに献上されたものばかりだし、
九州から持ち込まれててもいいでしょう。

但しその場合、九州は地方政権でしかなく、
畿内政権の祖先ではなかったと考えられます。
657日本@名無史さん:04/09/06 18:50
>>650
卑弥呼は歴代中のどれかの天皇の皇女のうち結婚しなかった誰かだろ。
658644:04/09/06 18:59
>>653
だからそういう見方に妥当性はないよ。
第一に日本書紀のもともとの原史料なり原伝承は
古事記みたいな簡潔なもので歴代百済王の記事や正確な年代なんてなかったろ。
あとからはめ込んだんだわけだろ。

あとからはめこんだ百済王関係記事だって、その年代はもともと干支が書いて
あるだけで具体的にいつなのかはわからない。(百済記、百済新撰)
つまり繰り上げようも繰り下げようもない。

つまり「神功の年代を120年繰り上げるため」じゃないだろ。
手順からいえば
1、まず神功の年代を卑弥呼と同時代と推定、
2、応神の伝承にでてくる照古王を百済史料の近肖古王と同一人物と推定、
3、その後は順次、干支に従って年代を当てはめ。
659日本@名無史さん:04/09/06 19:15
>>658
> あとからはめこんだ百済王関係記事だって、その年代はもともと干支が書いて
> あるだけで具体的にいつなのかはわからない。(百済記、百済新撰)
> つまり繰り上げようも繰り下げようもない。

そんなバカなことはない。時系列で記事が並んでいれば
何運前の干支に当るか判明する。
120年繰り上げたのは常識だ。
660日本@名無史さん:04/09/06 22:17
>>659
んなわけないだろw
根本的に干支の仕組わかってるのかよ

たとえば月日がなくて曜日だけわかってても
藻前は何月何日のことかわかるのか?
「時系列で順番がわかる」と「何月何日かわかる」は意味ちがうぞ
661日本@名無史さん:04/09/06 22:22
邪馬台国の疎まれ者のスサノオが神武天皇ですな。
神武が天皇家で敬われていないのは、アマテラスのお姉さんと喧嘩ばかりしていたためでしょう。

邪馬台国と敵対する豪族は邪馬台国に嫌われているスサノオを憐れみ、親しみも感じていた(敵の敵は味方)ので
出雲地方には受け入れられたのでしょう。
東征といってもこの頃の邪馬台国では出雲地方の支配が限界だったのでしょう。
また、出雲地方も邪馬台国に属しているという気もなかったのでしょう。
そのため、神武天皇の墓は九州でもなく畿内でもなく出雲大社に祭られています。

奈良地方への東征は神武天皇以降の祟神天皇によるものでしょう。
崇神天皇による東征伝説が神武天皇によるものと稗田阿礼が間違えてしまったものと思われます。

「神武」とは神の武力を持つ者、という意味として間違い無いと思いますが、
「崇神」とは、たたり神(呪い)という意味なのでしょうか。
神武が敵を外部から傷つけ破壊するのに対し、崇神は敵を内部から腐敗させ朽果てさせる神というイメージがあります。
662日本@名無史さん:04/09/06 22:42
>>660
アフォか、年干支は60年で繰り返される。
歴史書を順位追っていけば間違えるはずがない。
663日本@名無史さん:04/09/06 22:43
>>661
基地外は基地外板でやれよ
664日本@名無史さん:04/09/06 22:59
アマテラス=ヒミコ、トヨ
太陽信仰だから九州の東海岸
ヒミコ、トヨ=日向(国)、豊(国)
邪馬台国=宮崎+大分
天孫降臨=呪術政治からの脱却
海幸彦と山幸彦の兄弟喧嘩で山幸彦の逃れた先は、
瀬戸内海の突き当たり=奈良
そこに3年居て現地のA姫に子供はらます。
九州に帰って兄を打ち負かし服従させる。
身重のA姫は奈良から日向に移るも、
出産現場を見られたのに腹を立て子を置いて奈良に帰る。
つまり、日向の人と習俗が合わなかった。
代わりにA姫の妹B姫が日向に来てその子を育て、ついでに結婚。
で産まれたのが神武を含む兄弟4人。
つまりこの兄弟4人は、母と祖母が奈良人で奈良の血が非常に濃い。
兄弟は奈良のことについて、祖父や母から色々聞いただろう。
そして、母と祖母の故郷である奈良の地が欲しくなった。
(或いは海幸彦の系統が力を盛り返し、異国の血が入っている為疎まれたかも)
で、奈良へ向かう。以外に抵抗に合って苦しんだが、今更帰れない。
これを助けたのはA姫とB姫の一族だろう。
こうして、西のヤマト(海幸彦系?)に対して東のヤマト(山幸彦系)が成立する。
西のヤマトは西都古墳群を作るまで発展するが、その後衰退。
或いは東のヤマトに吸収されたか。
東のヤマトは大和政権ヘ。
665日本@名無史さん:04/09/06 23:03
>>627
おいおい、あんた、>>587ではどう主張していた?
「わずか100年もの間に10人もの天皇が存在したことになります。
実際は、卑弥呼の子孫の代ですから、最大で100年程度です。
ひょっとしたら、50年かもしれないし、10年かもしれません。」
50年、10年は「ひょっとしたら」と言うから、あんたが一番
可能性として高いとしている、100年にあわせて、議論を展開
したんじゃないか。
それを、自分の都合が悪くなると、
「実際は100年に10代の可能性よりも、10−30年に10代天皇が
変わったことになる。」
・・・か。いい加減にしろ!!
まあ、あんたが、最初に「神武天皇は存在しない」という結論ありきで、
その結論にあわせるためには、自分の主張さえコロコロ変えるDQNという
事はよくわかった。
666日本@名無史さん:04/09/06 23:17
>>627
さらに言ってしまえば、
「神武が五代後なら各妃が甘く見て15歳で、出産したとしても卑弥呼から
75年は後ということ。」
とあるが、何で卑弥呼〜神武までが、直系・父系で家系が続くのだ?
卑弥呼の頃は、男王を立てたけど国がまとまらず、結果として台与が
立てたように、王位が父系・直系であるという継承ルールが存在しない。
おまけに、「神武〜崇神の10代は架空」だと言っているにもかかわらず、
「天照皇太神〜神武までの5代」は、架空とはみなしていない訳だな。
つまり、スタンスがバラバラ。
「天照皇太神〜神武までの5代」は架空ではないと仮定しないと、
「「神武〜崇神の10代」は架空だという事にはならない訳だ。
ここで自己矛盾を来している。
667日本@名無史さん:04/09/06 23:31
だからな、ここは単純に考えればいいのだ。
卑弥呼=天照皇太神の時代が230年頃。
百襲姫は崇神天皇の大叔母である以上、当然天皇より年上だろう。
すると、崇神天皇は百襲姫より、少なく見積もって10年は若い。
すると、崇神天皇の没年は360年頃。
230〜360年で、約130年。
その間、天照皇太神〜神武〜崇神で合計14代。
1代あたり10年弱という事で、矛盾は存在しない。
むしろ、神武〜崇神以前の9代は架空と考えると、
天照皇太神〜崇神で5代で130年。1代あたり26年となり、統計的に
無理が生じる。
668日本@名無史さん:04/09/06 23:35
>>天照皇太神〜神武

そこんとこの神話はもっと複雑な事情で成り立ってるのだ。
669日本@名無史さん:04/09/06 23:42
>>667
安本かよ。( ´,_ゝ`)
卑弥呼=崇神天皇の叔母ヤマトトトヒモモソヒメ=箸墓
670日本@名無史さん:04/09/06 23:45
>>641がおそらく事実。
671日本@名無史さん:04/09/06 23:46
なお、統計の母数うんぬんなどと言っていたので、以下に示そう

31代用明〜40代天武 101年 1代あたり10.1年
41代持統〜50代桓武 116年 1代あたり11.6年
51代平城〜60代醍醐 124年 1代あたり12.4年
61代朱雀〜70代後冷泉 122年 1代あたり12.2年
71代後三条〜80代高倉 112年 1代あたり11.2年
81代安徳〜90代亀山 89年 1代あたり8.9年
91代後宇田〜100代後小松 138年 1代あたり13.8年
101代称光〜110代後光明 242年 1代あたり24.2年
111代後西〜120代仁孝 191年 1代あたり19.1年

天皇の在位期間は、大体が10年強くらいで推移してきているのがわかる
と思う。
672日本@名無史さん:04/09/06 23:50
>>662
だからさ。ある干支ともう一つの干支の間がどれぐらい開いてるかは
1年から59年までの自然数nである可能性と
n+60、n+120、n+180……といろんな可能性があるだろ。
なんでかならず59年以内の幅につまってると断言できるんだよ。
673日本@名無史さん:04/09/06 23:52
>>662
干支を間違えるはずがない?

三国史記にでてくる卑弥呼は
干支を一運まちがえてるってのが通説だと思ったけど。
674日本@名無史さん:04/09/07 00:04
投馬国東遷説が実は正解だったりする。
675日本@名無史さん:04/09/07 00:06
安本珍電波信者がいるな。
676日本@名無史さん:04/09/07 00:08
>>671
統計は統計に過ぎない。
ローマ帝国の皇帝を見ても
安定期は在位が長いが混乱期は非常に短かった。
677日本@名無史さん:04/09/07 00:09
>>673
それはそうだな。
678日本@名無史さん:04/09/07 00:11
>>675
このスレには安本信者が一匹棲息している。
邪馬台国=畿内が確定的になって安本の火病が進むばかり。
http://yamatai.cside.com/
679日本@名無史さん:04/09/07 00:12
最初にやってきた邪馬台国の使者は、奈良地方の豪族に受け入れられているのに、
後から来た邪馬台国の使者とは戦争になっているのはなぜだろう。
680日本史@名無しさん:04/09/07 00:12
母数が少ない元統計的処理は困難。

むしろ、当時は年齢の数え方が違ったと考えるべき。

例1)ソクラテス70才、プラトン80才、アリストテレス63才、デモクリトス109才。
例2)その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年(倭人伝)
例3)仏陀80才、須跋120才以上、セイロン島の平均寿命100才(プリニウス)
例4)成王(在位37年)、昭王(同51年)、穆王100才(55年)・・・・・、孔子74?才、顔回42?才

顔回が通説通り42才没とすると、全然夭折とは言えない。これらの例の時代は人間はみんな
30代で死んだそうな。50才越えるなんて、お祝いするほどの長寿。

ともかく、これらの例がことごとく「造作」とすると、世界中の古代人が馬鹿と言うことになります。
「年もまともに伝承できないのか」と。或いは、無数にあるこのような長大な年齢を、一人一人個別
的に、伝承したり記録した人間も含めて逐一捏造する理由を考えるなどと言う気が遠くなるような
作業をやりたい人、いますか?

要するに、天皇の年齢を、いちいち60年サイクル持ってきたり平均したり統計処理したり捏造理由
をあれこれ妄想するのも、同じ事だと言うことです。
681日本@名無史さん:04/09/07 00:24
安本も90年代に畿内説に転向すりゃよかったね。
だいたいこのころ九州説の学者は、東遷説に転向したよね。

鉄の話とか70年代から言ってたのは偉いんだけど、変な古墳
編年つくりだしたあたりkら狂っちゃったね。
信者の手前九州説を捨てられなかったんだろうね。

682日本@名無史さん:04/09/07 00:25
現代の東欧(ハンガリーやブルガリア)には
自称120歳という人が沢山いるそうです。
ヨーグルトを食べ続けると長生きできるそうです。

弥生時代にフニュウや醍醐があったのでしょうか?
683日本@名無史さん:04/09/07 00:30
>>681
安本も営業上のライバル古田を叩いていた頃は良かったが
九州説が没落した今でも悪あがきしている醜態を見たら
古田並みのドキュソとしか思えない。
684日本@名無史さん:04/09/07 00:32
近親憎悪
685日本@名無史さん:04/09/07 00:34
森さんに九州説の学者って高島さんだけですか?って聞いたら、
「いやオレも」と言っとったらしい。
考古学者ではとうとう2人だけに落なったんだってさ。
安本だって心の中では畿内説なんじゃないの。
邪馬台国の会なんかつくったから身動きがとれないんだと思うよ。

686日本@名無史さん:04/09/07 00:35
>>650
>卑弥呼の時代は神武天皇のずっと後。

これは、そうとも言えないんじゃないの?
神武天皇は、卑弥呼より後でもなんら問題ない。

天照=卑弥呼+台与 という説には説得力があると思う。
この説に基づけば、神武は彼女らと重なる時代を生きて、
彼女らの後に支配者になったということだと思う。
687日本@名無史さん:04/09/07 00:38
ってかじんむはそうそう上の人物
688ゴジンム:04/09/07 00:40
プッ!
689日本@名無史さん:04/09/07 00:44
>>686
日本書紀の編者は、歴史時代は神武天皇から後としている。
卑弥呼は箸墓に葬られたヤマトトトヒモモソヒメで
別途神話として天照大神として登場していると見るべき。
690日本@名無史さん:04/09/07 00:53
天照を重視してる奴が多いが、
天照なんて奈良時代以降になってから
最高神に祭り上げられただけの神だよ。
それまでは全く重視されてなかった。
691日本史@名無しさん:04/09/07 00:55
畿内説の荒らしが来たら雰囲気がすぐ悪くなるよな。

二言目にはすぐに「学会がどうの」「電波云々」だとか。

ここでそんな糞みたいな事いっても何の意味もないのにね。
692日本@名無史さん:04/09/07 00:57
天照って元々は男だったっていう説があるらしいよ。
693日本@名無史さん:04/09/07 00:59
>>691
「ここでそんな糞みたいな事いっても何の意味もない」
確かに『ここで』言っても『意味』はないな。
694日本@名無史さん:04/09/07 01:00
>>689
ヤマトトトヒモモソヒメが絶大な権力を
握った時代など存在しないでしょう。

卑弥呼や台与は、豪族や伊都国王らを束ねる
最高権威者で、単なる一皇女ではありません。
彼らから共立されて王になっています。

この時代に、同じ勢力内に
大和朝廷の大王は居ないでしょう。
695日本@名無史さん:04/09/07 01:26
>>694
卑弥呼は権威のトップで表に出ることはなく、権力を振るっていたのは弟だろ。
「年已長大、無夫壻。有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者。」
696日本@名無史さん:04/09/07 01:45
>>695
まず君は小学生国語の勉強をするべきだな

>最高権威者で、単なる一皇女ではありません。

>卑弥呼は権威のトップで表に出ることはなく、権力を振るっていたのは弟だろ。

反論にもなってない
697日本@名無史さん:04/09/07 02:05
兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。

卑弥呼の宮殿は衛兵が常置され、それぞれ矛・盾・弓などで護衛されていたという。
さて、矛や鉄鏃、矛の鋳型が出土するのはどこか?
私は福岡県から「大量に出土」していることは知っているが、畿内からそれらが
出土した、という話は聞かない。
698日本@名無史さん:04/09/07 02:06
また、魏朝から卑弥呼へ下賜されたものには、銅鏡以外にも「白絹五十匹」というのが
ある。
そして倭国側から魏朝に献上したものには、「倭錦」が存在する。

では、これら「絹・錦」が出土する所はどこか?
福岡からは唐の原、立岩、比恵、有田、宮ノ前、吉武高木、樋渡、須玖岡本、
吉ヶ浦、門田、栗山から出土。また佐賀県からは朝日北、長崎では三会村から出土している。
特に「須玖岡本」からは、唯一、「中国絹」が出土しているのである。

では、畿内からは「錦・絹」は出土しているのか?
私はそのような話を聞いたことがないのである。
699日本@名無史さん:04/09/07 02:07
さらに須玖岡本遺跡からは「きほう鏡」が出土している。
これについて故・京大教授の梅原末治氏は、このきほう鏡が「3世紀のもの」
であると断定、それまでの自説である「紀元前1世紀のもである」とする自説を
撤回・訂正した。
梅原教授は、須玖岡本遺跡から出土したきほう鏡について、追跡調査をするために
海外にまで出向いていった。そしていろんなきほう鏡を実見し、詳細に調査して
鏡同士の「編年」を行ってみた。その決す、須玖岡本遺跡のきほう鏡は2世紀後半を
さかのぼりえない鏡であった。したがって、須玖岡本遺跡を紀元前1世紀のものと見なした
従来の説はあやまりで、「三世紀前半以降」のものと訂正する、と発表した。

後漢鏡を「国産」とする説はたしかにあるが、この「きほう鏡」を国産とする説は、
私は聞かないのである。
700日本@名無史さん:04/09/07 02:07
畿内説ってダメダメじゃん!!
701日本@名無史さん:04/09/07 02:07
系図上で天照と神武の間にいる人たちの名前って、
魏志倭人伝に出てくる倭国を構成する各国の官の名前と大体同じ。
ということは、もしかしたら、

・卑弥呼は、一族の人間を各国の官として派遣していた
・系図上で天照と神武の間にいる人たちは同時代の人で、縦につなぐ系図は間違い
・結果、神武もほぼ同時代の人
・やはり、天照=卑弥呼(+台与)

ということだろうか?
702日本@名無史さん:04/09/07 02:11
>>697-699
火病安本の信者かよ。( ´,_ゝ`)
卑弥呼は古墳時代の人物であることを忘れるなよ。時代を間違っているぞ
703日本@名無史さん:04/09/07 02:20
>>702
たとえ「古墳時代」だとしても、「矛」「錦・絹」は近畿から出ません。
704日本@名無史さん:04/09/07 02:21
古墳時代などという呼称自体、一貫性がないよね。

縄文時代・・・土器の模様に由来
弥生時代・・・東京の弥生町に由来
古墳時代・・・一部の墓の形に由来

べつに古墳以外の墓が無かったわけじゃないんだよ。
くだらない命名だな。
705日本@名無史さん:04/09/07 02:24
古墳古墳とわめくヤツは、脳内吉備帝国幻想でコーフンしとけ。
706日本@名無史さん:04/09/07 02:34
>>703
古墳時代前期・下池山古墳の絹も知らないのかよ。( ´,_ゝ`)

「絹織物から見た古代人の技術と感性」
         京都工芸繊維大学・名誉教授、奈良文化財研究所・客員研究員    佐藤昌憲
天理市下池山古墳出土の青銅鏡には明らかに縞模様の色彩がある織物断片が出土したが、
http://www.ipc.kit.ac.jp/~kansaijs/summary13/summary13.htm
707日本@名無史さん:04/09/07 02:46
>>703
元稲荷古墳
 この古墳は、向日丘陵先端部の尾根上に築かれた全長94mを測る前方後方墳です。
築造は3世紀末から4世紀初頭で、乙訓地域では最も古い古墳と考えられています。
 後方部の中央には竪穴式石室があり、大半が盗掘されていましたが、
鉄製武器(銅鏃・刀・剣・鏃・鎗・矛・石突)や鉄製工具(斧・錐)、土師器の壷が出土しました。
http://www.city.muko.kyoto.jp/gaiyo/shi-isan-inari.html
708日本@名無史さん:04/09/07 02:55
>>707
福井県史
 出現期の最大規模の前方後円墳は、奈良盆地東南部の三輪山の麓に位置する箸墓古墳(奈良県桜井市、墳丘長約二八〇メートル)であり、次が椿井大塚山古墳(京都府山城町、約一九〇メートル)である。
このほかでは、浦間茶臼山古墳(岡山市、約一四〇メートル)、石塚山古墳(福岡県苅田町、約一二〇メートル)が大きい方である。
前方後方墳では、元稲荷古墳(京都府向日市、約九四メートル)が最大規模である。
当時、大陸からの新しい文物の受け入れ口である玄海灘沿岸地域には、那珂八幡古墳(福岡市、約七五メートル)が所在するのみである。
 これらの事実から、前方後円(方)墳の創出は、畿内と瀬戸内海沿岸地域の有力首長が大陸の鉄をはじめとする新しい文物を安定的に手に入れるために連合し、
九州北部を制圧する必要性を契機になされたと考えられている。この連合政権をヤマト政権と考古学者はよんでいるのである。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2%EF%BD%A53-01-01-01-02.htm
709日本@名無史さん:04/09/07 02:57
>>706
>天理市下池山古墳出土の青銅鏡には明らかに縞模様の色彩がある織物断片が出土したが、
>これも当時のどのような織物に該当するかについては、議論の分かれる所である。

・・・・錦・絹かどうかもわからぬ「織物」なんですけど・・・
710日本@名無史さん:04/09/07 02:59
>>707
で、矛の「鋳型」はどこに???
711日本@名無史さん:04/09/07 03:03
>>709
絹であることは専門家の鑑定で分かっている。
もっと細かい分類についてのことだ。
712日本@名無史さん:04/09/07 03:05
>>710
鋳型の出土は稀だからな。実物が出土しているのに因縁を付けるな。
713日本@名無史さん:04/09/07 03:06
>>712
福岡からは、鋳型の出土は「稀」じゃないんだけど。
714日本@名無史さん:04/09/07 03:08
>>712
お〜い、九州では鋳型は多数出土してまっせ
715日本@名無史さん:04/09/07 03:11
>>713-714
卑弥呼が活躍した古墳時代最初期には
北部九州は没落していたのに。( ´,_ゝ`)
716日本@名無史さん:04/09/07 03:12
「銅矛 鋳型」でぐぐったら、九州しか出てこないヨ・・・

 


                       欝だ・・・
717日本@名無史さん:04/09/07 03:15
漢代は薄葬の風があったから、漢を宗主国とあがめる国として、
古墳作りに血道をあげる畿内は、ちょっとちがうね。
やっぱり九州。畿内はこじつけても無理でしょ。
718日本@名無史さん:04/09/07 03:15
古墳時代初期には畿内(邪馬台国)と吉備(投馬国)が強大だったからな。

浦間茶臼山古墳
 岡山市浦間にある前方後円墳で、国指定史跡である。墳長138 m、後円部径81m、後円部高13.8m、前方長61mで後円部は三段築成である。
前方部が三味線のバチ形に開く最古形式の前方後円墳である。葺石があり、最も古い埴輪である都月型埴輪も採集されている。
内部主体は後円部中央にある竪穴石室で、長さ7 m、幅1.2 m、長大な割竹形木棺が納められていたと推測されている。
盗掘によって副葬品のほとんどは持ち去られていたが、細線式獣帯鏡片・銅鏃・鉄刀・鉄鏃・鉄のみ・鉄斧・刀子・ヤスなどが出土した。
 本墳は、吉備のなかでは最古の大形前方後円墳である。しかも、邪馬台国の女王卑弥呼、あるいは台与の墓ではないかとも言われている奈良県桜井市箸墓古墳の2分の1相似形墳である。
箸墓古墳の相似形墳のうち、畿内以外では最も大きい。古墳時代に巨大な勢力を誇った吉備の始まりを告げる古墳といえる。
http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/kofun1/01.html
719日本@名無史さん:04/09/07 03:17
半島で戦争しっぱなしの国が、サヌカイトの畿内だって?
無理っしょ。
720日本@名無史さん:04/09/07 03:18
>>717
倭人は当時の中国の風習とは無関係に鏡に異常な関心を持っていたし
卑弥呼の墓は直径100余歩(140m余り)と巨大だったと書かれているのに
勝手に妄想するとは頭が逝っているな。
721日本@名無史さん:04/09/07 03:19
>>715
ご冗談を・・・
装飾壁画を持つ古墳など、九州は古墳文化の爛熟期に入っております。
722日本@名無史さん:04/09/07 03:19
>>694
ヤマトトトモモソヒメの陵は同時代の天皇である崇神陵より大きい。
「男の天皇は現実の政治を、女の皇女巫女は祭祀を」と分担してたんだろうけど
卑弥呼と男弟の関係と同じで、当時はどっちが上とみられていたかは何ともいえないだろ。
723日本@名無史さん:04/09/07 03:21
>>719
アフォか、半島で戦争を盛んにしていた古墳時代中期には
畿内をはじめとして日本各地で鉄製品が多数出土しているぞ。

それどころか古墳時代初期の古墳でも鉄製品は出土している。
724日本@名無史さん:04/09/07 03:23
半島からは九州産の矛や鉄鏃が出土する。
また「金官式」と呼ばれる甕棺墓も、九州と共通のものだからな。
725日本@名無史さん:04/09/07 03:24
>>722
ヤマトトトヒモモソヒメは崇神天皇より前だぞ。
宮内庁指定の崇神陵は大きな古墳で年代的にも調和的だとされる。
726日本@名無史さん:04/09/07 03:25
>>723
巨大古墳を作る労力があったのなら、なんで半島での戦争に
それを投入しなかったのでしょうか?
727日本@名無史さん:04/09/07 03:28
>>724
おいおい、弥生時代と古墳時代では違っているぞ。

韓炳三(1995)「韓国の古代文化」(日本放送出版協会)によると、
狗邪韓国=金官加羅に比定される、金海大成洞古墳群からは、
日本の弥生時代に相当する時代には、北部九州に特徴的な多量の小型倣製鏡と中広形・広形銅矛が、
3世紀末以降は、大和の首長墓に特徴的な巴形銅器・筒形銅器・碧玉製品類のような倭系遺物が出土している。
728日本@名無史さん:04/09/07 03:28
>>720
馬鹿だなあ、おおげさな墓作らない倭人にしては、めずらしいので特筆しただけ。
だいいち、あんた単位が間違ってるよ。短里だから結構小さい塚だぞ。
729日本@名無史さん:04/09/07 03:29
北部九州の古墳は、百済・高句麗などの当時の半島側の古墳とスケールが似通っている。
近畿の古墳だけが、異常なほど大きい。
このことがはげしく疑問なのですが・・・。
730日本@名無史さん:04/09/07 03:30
おいおい、畿内なんか鉄器が少ないので有名じゃないか。
サヌカイトで高句麗と戦えるのか?
731日本@名無史さん:04/09/07 03:30
>>726
頭が悪いな。余力があったわけだ。
応神・仁徳の頃は関東の住居遺跡が減少しており
東国などからも動員したと考えられている。
732日本@名無史さん:04/09/07 03:31
>>728
短里など池沼の妄想。まともな中国人学者に一笑されて終わり。
733日本@名無史さん:04/09/07 03:32
>>730
卑弥呼の頃から半島の鉄を獲得していたことが書かれているだろ。
池沼は魏志倭人伝の記述すら読んでいないのかよ。
734日本@名無史さん:04/09/07 03:33
>>721
畿内説はそれだから駄目なんだよ。
日本の巨大古墳の多くが九州の装飾古墳なのか?
ばかも休み休み言え。
735日本@名無史さん:04/09/07 03:35
>>731
頭が悪いな。余力がありながら半島から撤退せざるを得なかったのか。
バカが・・・
736日本@名無史さん:04/09/07 03:36
>>733
畿内には鉄がものすごく出ないんだよ。サヌカイトが多い。
倭人伝どおり九州はバンバン半島から鉄を取ってるわけだ。
お前こそ読んでねーだろ?
737日本@名無史さん:04/09/07 03:38
>>732
お前の通りだと、対馬や壱岐のサイズ巨大なんだが、
日本列島が沈没するような天変地異でもあったのかよ、お馬鹿さんよ?
738日本@名無史さん:04/09/07 03:46
>>732
始皇推終始五コ之傳,以為周得火コ,秦代周コ,從所不勝。方
今水コ之始,改年始,朝賀皆自十月朔。衣服旄旌節旗皆上K。數以
六為紀,符、法冠皆六寸,而輿六尺,六尺為歩,乘六馬。更名河曰
コ水,以為水コ之始。剛毅戾深,事皆決於法,刻削毋仁恩和義,然
後合五コ之數。於是急法,久者不赦
(始皇帝本紀六)

六尺=一歩となったのが秦の始皇帝からで、それ以前は違っていたことがわかる。
魏朝は「古聖にしたがう」と宣言しているのだから、始皇帝以前の短里を制度として
採用していたことは明らかだ。
739日本@名無史さん:04/09/07 03:48
>>735
撤退はしてないだろ。
740日本@名無史さん:04/09/07 04:04
>>735
はぁ?応神・仁徳の頃は朝鮮半島での軍事活動が盛んだっただろ。
雄略天皇の頃から陰りを見せだして、継体天皇の頃からは斜陽化が進み
遂には任那を放棄せざるを得なくなった。
741日本@名無史さん:04/09/07 04:06
>>738
そんな曲解などナンセンス。古田信者かよ。( ´,_ゝ`)
742日本@名無史さん:04/09/07 04:12
>>741
どこが「曲解」なのか論じてみなさい。
少なくとも私はこれを読んで「六尺=一歩はこの時から」としか
解釈のしようがないのだがな。
743日本@名無史さん:04/09/07 04:13
>>741
相手に「古田信者」、と言えば反論が成立したと思うな。
この項目は、正直、「短里否定説学者」たちの頭痛の種になっているのだから。
744日本@名無史さん:04/09/07 04:39
>>743
頭痛の種と思っているのは古田とその信者だけだろ。( ´,_ゝ`)
王莽も周代の復古を唱えたぞ。

計量の歴史を紐解く、記念講演会盛況に開催
鞄立コミュニケーションテクノロジー 渡辺英夫
http://www11.ocn.ne.jp/~keiryo-k/database/kouenkai/040319kashima.pdf
745日本@名無史さん:04/09/07 04:54
>>744
王莽の「新」は結局、前漢の歴史を編纂することなく滅亡した。
また、当然ながら光武帝は「漢」の後継王朝として即位したのであって
「新」の後継王朝ではないことは言うまでもない。
したがって「新の制度」の詳細は記録に残っていないのである。

746日本@名無史さん:04/09/07 04:55
>>744
で、どこが「曲解」なの?
早く論じてくださいな。
747日本@名無史さん:04/09/07 05:01
>>745
新の制度を示した遺物まで現存するぞ。

嘉量(かりょう) 台北 高さ25.6口径34.6 新王莽の度量衡升。
自らの正統性を主張する249字の銘文が刻まれている。
http://village.infoweb.ne.jp/~yamamott/video-kokyuu-2.htm
748日本@名無史さん:04/09/07 05:01
四川省の戦国墓(戦国の七雄の一つである秦の時代)から出土した木牘(もくとく=
木簡)によれば、阡陌(せんぱく=あぜみち)の幅が3歩と記されております。これを
上記の歩(長歩)で考えると4メートル以上の幅となり畦道としては広すぎると思われ
ます。  通常あぜ道は人が一人通れる程度と考えれば80センチメートル弱で十分
と思われます。このことは、1歩が25センチメートル程度の短歩の存在を示唆してい
ると考えられます。

「戦国策、韓一」に強い弓に関して、天下の強弓は六百歩の外を射る、という記述が
あります。天下の強弓は六百歩以上の射程があると言っているわけです。弓といっ
ても日本の弓とは異なり、現在の洋弓に近い形のものですが、これを長歩で考える
と射程が900メートル以上となり、いくら強弓といっても現実離れの観がします。何よ
りも900メートルも飛ぶとなれば、滞空時間が長すぎて容易に身をかわすことが出来
るため、弓で射る意味をなさないと思われます。これが短歩であれば160〜170メート
ルとなりまさに強弓の名に値すると思われます。因みに日本の弓場(的場)は古来、
約76メートルで変わっていないそうです。約76メートルといえば短里の長さです。これ
を単なる偶然とは思いにくいのですが、それはともかく、短歩の存在を考えないと上
記二つの例はすんなり理解が出来ないようです。従来からわかっている「里」と「歩」
の関係とは別に、「短歩」と短歩に基づく「短里」の系統があったことは疑えないよう
に思います。「短歩」とは足のつま先からかかとまでの長さを基準とした単位(英語の
Footに相当)ではないかと考えられます。


周代が「短里=短歩」であったことは明かですね。
749日本@名無史さん:04/09/07 05:10
>>746
中国では古代から度量衡の標準が多数出土しているけど
三国時代は別に変わっていない。

中国古代度量衡図集
山田慶児 ;浅原達郎
秦始皇帝の詔書を刻んだ標準器をはじめ、最近発掘された計量器具240点を精選した画期的図集。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9850358254
750日本@名無史さん:04/09/07 05:12
>>748
「歩」と言う漢字の意味からしてダウト。
古代から近代まで、1歩は120-160cmの幅に収まっている。
751日本@名無史さん:04/09/07 05:18
>>749
まず、「三国時代」という表現が曖昧ですね。
短里を採用したのは「魏朝」とその後継である「晋朝」であって、
「蜀漢」「呉」などは無関係なのですから。
752日本@名無史さん:04/09/07 05:18
今では専門家の殆どが邪馬台国=畿内で納得して
アマチュアでもおかしなことを言うのは
古田信者・安本信者とチョンくらいになったな。
753日本@名無史さん:04/09/07 05:24
畿内説は無いでしょう
江戸が平安時代から日本の首都だと主張しているようなもの。
754日本@名無史さん:04/09/07 05:30
>>750
残念だね、「史記」の始皇帝本紀の注釈には次のようにあるのだ。
「譙周曰く、『歩は人足を以て数と為す。独り秦制のみ然るにあらず』と」

つまり、蜀漢朝の「歩」の単位が秦制であり、それが「人間の肉体的条件という
自然の条件にかなっているから、正当である」と弁明しているのである。
蜀朝の臣であった譙周が、なぜこのようなことをわざわざ述べているのか?
それは敵対する「魏」が、「秦以前」の制を採用している、という現実があったからである。
755日本@名無史さん:04/09/07 05:34
>>752
>今では専門家の殆どが邪馬台国=畿内で納得して
考古学者の世界ではそうなのかも知れないが、古田・安本は古代史学者。
「古代史」の分野では、畿内説はかなりの劣勢である。
756日本@名無史さん:04/09/07 05:40
>>755
古田や安本は史学でも少数派だろうが。
本屋の店頭に並ぶ通俗書だけみて畿内説が劣勢だと思ってる奴は真性ドキュン。
757日本@名無史さん:04/09/07 05:47
>>756
本の数=優劣かい
バカかテメーは
758日本@名無史さん:04/09/07 05:48
>>754
何を意味不明なことを言っているのだ。( ´,_ゝ`)
「歩」の意味からしても120-160cmの幅に入らないとおかしい。
759日本@名無史さん:04/09/07 05:52
>>757
昔なら古田や安本に感化される香具師も、ある程度いたかも知れないが
これだけ発掘が進み自然科学の導入も進んだ今となっては
池沼しか引き込めなくなったな。

箸墓が卑弥呼の墓として最も相応しい。
760日本@名無史さん:04/09/07 06:03
>>758
ふーん、「意味不明」ね・・・
>>754が意味不明、というレベルの低さを、自ら認めたというわけだ。
「独り秦制のみ然るにあらず」とはどういうことか、よく考えよ。

>「歩」の意味からしても120-160cmの幅に入らないとおかしい。
と言うが、そもそも「120cm」もある一歩って、どんなんやねん。
761日本@名無史さん:04/09/07 06:09
1歩=25cmなら、普通に人が「1歩」踏み出した時の長さですよね。
120cmも踏み出すのは、ちょっとつらいし、たとえ「両足分で1歩」としても
片足60cmになる。自然の1歩ではないですね。
762日本@名無史さん:04/09/07 06:15
>>759
矛・鉄鏃の実物、鋳型。
倭錦・倭絹、中国絹。
ガラス製の勾玉の実物・鋳型。

これら倭人伝に記載されている者の出土物が九州北部に集中している現実を
故意に「無視」している人のみが「畿内説」論者なのだ。
現実に彼らの論を読んでみなさい。
上記の出土物が九州に出土しているが、○○○だから、邪馬台国は畿内である、
とする論者がいますかね?
763日本@名無史さん:04/09/07 06:25
ことに「孔青大句珠二枚」を中国に献上しているのは決定的ではないだろうか。
「大句珠」が「大きな勾玉」に相当することは間違いないであろうが、「大勾玉」の
鋳型が出土するのは九州北部のみである。

この点、畿内から出土した勾玉の鋳型は、ずっと小ぶりである。とうてい「大句珠」などと
言えるようなものではない。
764日本@名無史さん:04/09/07 06:38
>>757
だから「本の数じゃないだろ」と逝ってんだろ
藻前は日本語よめねーのか?
765日本@名無史さん:04/09/07 06:45
箸墓が卑弥呼の墓に相応しいから(願望)邪馬台国は畿内と何度喚いてるんだろう
墓制も副葬品もでたらめなのに
それ以外に傍証は無いの?畿内説論者よ。
766日本@名無史さん:04/09/07 07:04
>>760
> と言うが、そもそも「120cm」もある一歩って、どんなんやねん。

左右一回ずつで一歩と言うのも知らないのかよ。( ´,_ゝ`)
身長160cmで120cm、170cmで140cm程度になる。
767日本@名無史さん:04/09/07 07:07
>>763
アフォか、ヒスイ勾玉は鋳型で作るのではない。
縄文〜古墳時代には、東アジアの中で糸魚川地域でしか産出しなかった
ヒスイ輝石の原石を加工して作ったのだ。
768日本@名無史さん:04/09/07 07:36
九州に存在した邪馬台国は文明創世記の成長過程にあったが、国土が狭すぎた。
そのため、朝鮮半島や広大な奈良地方を併合し、発展をはかってきた。

朝鮮半島では言語も民族も違うために反乱も多発し、併合に失敗し衰退していく。
奈良地方は同じ倭種であり経営にも成功を収める。
しかし・・・
発展するにつれて有能な人材が新天地へと流出していき衰退の一途をたどる。

奈良地方では九州王朝の言語や文化風習を基盤にしながらも、やがて独自の文明を築き上げていく。
開拓精神にあふれる冒険者たちの手で広大な奈良盆地を開発し巨大な富と権力を手中に収めていく。

イギリス文明からアメリカ文明に移り変わるように・・・
769日本@名無史さん:04/09/07 07:49
>>768
基地外乙
770日本@名無史さん:04/09/07 08:37
>>769
カワイソウニ、他説に耐えられないんだね(藁



畿内説の御高説はどうしたの?始めろよ。
771日本@名無史さん:04/09/07 09:05
沖縄の海底に眠っている遺跡が邪馬台国です。
772日本@名無史さん:04/09/07 11:41
トンチンカン説論者は、金印と阿蘇山を見つけてくることだな。
773日本@名無史さん:04/09/07 12:52
私は生まれも育ちも生粋の関西人で、感情的には
「(卑弥呼・台与時代の)邪馬台国は畿内にあってくれれば嬉しいなあ」とは思っていますが、
現時点までに私が得ることができた情報をできるだけ理性的に統合してみれば、
やはり『魏志倭人伝』に登場する邪馬台国は九州にあった確率は高いのではないかと考えています。

皆さんが↑でいろいろ証左なさっているので、私の知識では付け加える余地もないのですが、
素人考えで、やはり畿内説よりも九州説の方が有力であろうと思われるポイントの一つに
海の存在があると思うのです。

海が近くにある(あるいは海に面してクニがある)と言うことは
船or舟を使用した人々の交流があり、文物の交換があり、互いの情報収集が行われた、
ということにつながると思います。
また高度とはいえないまでも、間の海を渡るための造船術や操船術も必要でしょう。
774日本@名無史さん:04/09/07 13:04
(773の続きです)
しかし、奈良県はご存知のとおり「海なし県」なのです。
そこに何らかのクニがあったとしても、上段で記したような造船術や航海術を持ち合わせていたとは
やはり考えにくいと思います。
この一点を考慮しただけでも、邪馬台国九州説に有利に働くのではないかと思われます。

かなりの長文になってしましました。
分からないことは分からないので、できるだけ誠実に書こうとして「〜だと思うのです」という
推測的語尾を乱発していますが、なにぶん素人ですのでご容赦ください。
775日本@名無史さん:04/09/07 14:13
>>773-774
ニセ関西人の自演乙
776日本@名無史さん:04/09/07 14:20
>>774
まあ厳密に考えれば当時海進の影響で大阪の平野はほとんど海だったんだけどな
奈良も海に近いといえば近い
しかし、奈良の遺物に船舶造船関連が無いので九州説で決まり
畿内には鉄が無いのが痛いよ、他にも無い無い尽くし。

777日本@名無史さん:04/09/07 14:42
>>776
製鉄は古墳時代後期に吉備を中心として盛んになるまでは、日本のどこにもないぞ。
魏志倭人伝に書いてあるように半島の鉄を取っていたわけだ。
弥生時代には畿内の鉄遺物は少ないが、古墳時代になって多くなっているだろ。
778日本@名無史さん:04/09/07 14:48
779日本@名無史さん:04/09/07 15:22
鍛冶工房
 発掘例を見ると、鉄の加工は弥生時代中期(紀元前後)に始まったと見てまず間違いないでしょう。
しかし、本当にしっかりした鍛冶遺跡はないのです。例えば、炉のほかに吹子、鉄片、鉄滓、鍛冶道具のそろった遺跡はありません。
また、鉄滓の調査結果によれば、ほとんどが鉄鉱石を原料とする鍛冶滓と判断されています。
鉄製鍛冶工具が現れるのは古墳時代中期(5世紀)になってからです。

鉄器の普及
  この弥生時代中期中葉から後半(1世紀)にかけては、北部九州では鉄器が普及し、石器が消滅する時期です。
ただし、鉄器の普及については地域差が大きく、全国的に見れば、弥生時代後期後半(3世紀)に鉄器への転換がほぼ完了することになります。
http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/p02012.htm
780日本@名無史さん:04/09/07 16:34
>>777
>製鉄は古墳時代後期に吉備を中心として盛んになるまでは、日本のどこにもないぞ。

はいはい、畿内説論者の嘘発見!
博多古墳群でも検索してみ、ばーか。
781日本@名無史さん:04/09/07 16:42
山陰の朝鮮製鉄は?
782日本@名無史さん:04/09/07 16:42
>>777
>弥生時代には畿内の鉄遺物は少ないが、古墳時代になって多くなっているだろ。

少な過ぎるんだよ
鉄は畿内のどこかの古墳で鏃2個だけだろ!
九州の数百分の一なんだよ、比較もできないレベル、無に等しいレベルだよ、ばーか

というか暇人が畿内説だろ?、7月までに畿内説を叩き潰したのに暇をいいことに復活してるし
仕事してるの?畿内説論者?

783日本@名無史さん:04/09/07 16:57
>>782
> 鉄は畿内のどこかの古墳で鏃2個だけだろ!

基地外か( ´,_ゝ`)
「鉄 古墳 奈良」とかでぐぐってみろ
784日本@名無史さん:04/09/07 17:01
>>780
弥生時代に製鉄はなかった?
  弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったというのが現在の定説です。
今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、
5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、
5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。
http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/p02013.htm
785日本@名無史さん:04/09/07 17:05
ウワナベ古墳(宇和奈辺陵墓参考地)その3

さて、この白いタワーのある この付近が、おそらく大和6号墳があった場所だと思います。
この陪塚は、径約30メートル程度の円墳だったそうです。上下、2段の円筒埴輪があったとのこと。
で、封土の中央から、872点(総重量128キログラム)の鉄が出土したとのことでした。
う〜ん 128キログラムって? うっ。どれぐらいの容積になるんやろ。

さっぱりイメージが湧きませんが、鉄が、この古墳に大量に埋められていた・・・この事実は、当時、大きな話題となったようです。
http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/burial-mound/uwanabe-kofun-03.htm
786日本@名無史さん:04/09/07 17:10
神戸市東部における前期古墳について −神戸市東部には海岸線に沿って西から西求女塚古墳、処女塚古墳、東求女塚古墳の3古墳が東西に約2キロの間隔で並んでいる。

西求女塚古墳からは250点にも及ぶ多くの鉄製品が出土した。短剣や、槍先、刀、鏃などの武器のほか、ノミ、オノ、ヤリガンナ、ヤスなどの工具、漁具である。
当時としては貴重な鉄製品を埋納していることは、その入手が継続的に可能であったことを意味している。
豊富な鉄製品を入手し、山陰系祭祀土器をもつこの古墳の被葬者は、当時朝鮮半島からの鉄素材交易に関わっていた豪族だったのではないか。

当初半島からの鉄素材の入手では北九州が有利な地位を占めていた。弥生後期の何時ごろか、鉄素材の入手で大和が優位に立ち、その地位が逆転した。その結果大和の強大化が進行したとされる。
最近但馬地方で発見された「茶すり山古墳」などをはじめとして、この地域に何代かの豪族拠点を認め、この地域を通ずる鉄の交易ルートを想定し、但馬、播磨、摂津と続く鉄の交易ルートを通じて、
摂津の前期古墳の被葬者も大和への鉄供給の一端を担っていたのではないかとする考えが披露されている(ふるさと全史<46・47>神戸新聞)。
神戸市東部に存在する前期古墳の被葬者が大和政権の誕生前後の時期にどのような役割を演じたのか興味は尽きない。
http://world-reader.ne.jp/time-slip/m-maeda040527.html
787日本@名無史さん:04/09/07 18:51
>>782-786
今時九州説に拘泥している連中は基礎知識もない池沼が多いな。
788日本@名無史さん:04/09/07 19:25
九州は面で出ているから、比較になりません。量でも圧倒。
畿内説はやっぱり破綻。
789日本@名無史さん:04/09/07 20:05
>>788
基地外は逝ってよし。古墳時代になって畿内が逆転しただろ。
790日本@名無史さん:04/09/07 20:10
>>789
朝鮮半島でも北部九州→畿内と変わっている。

韓炳三(1995)「韓国の古代文化」(日本放送出版協会)によると、
狗邪韓国=金官加羅に比定される、金海大成洞古墳群からは、
日本の弥生時代に相当する時代には、北部九州に特徴的な多量の小型倣製鏡と中広形・広形銅矛が、
3世紀末以降は、大和の首長墓に特徴的な巴形銅器・筒形銅器・碧玉製品類のような倭系遺物が出土している。
791日本@名無史さん:04/09/07 20:12
古墳時代になると勢力が九州から奈良へ移動(東遷)したので、当然といえば当然。
792日本@名無史さん:04/09/07 20:20
>>791
卑弥呼は古墳時代の人物なのだが
793791:04/09/07 20:32
すまん・・・
縄文時代とか弥生時代とか古墳時代とかで線引きするのが、私の悪い癖です。
その時代に生まれ育っていない自分が、つい偉そうなことを言ってしまった。
今は反省している。
794日本@名無史さん:04/09/07 21:05
銅鐸文化=出雲と考えよう。
出雲は国引きやヤマタノオロチ退治で中国、四国、近畿の広域に進出。
国譲りにより中国、四国が九州の邪馬台国支配下に入り、鉄器製造に入る。
出雲勢力は近畿以東を支配。
海幸彦、山幸彦の兄弟喧嘩の過程で、
邪馬台国の王家に出雲の血が入り、
出雲の血の濃い神武が生まれる。
神武は出雲の本拠地奈良を目指し、母方の家系の助けを得て即位。
熊襲を除く西日本統一王朝の成立である。
795日本@名無史さん:04/09/07 21:21
海幸彦と山幸彦の神話は、
邪馬台国で王位継承の際に兄弟間で紛争が起こり、
海幸彦=邪馬台国 対 山幸彦+奈良連合軍の闘いになり、
山幸彦+奈良側が勝利したことを示している。
しかしその後山幸彦は奈良の支配下に入らず、
邪馬台国の王位に就いて政治を続ける。
姫は怒って奈良に帰る。その代わり妹を送りこむ。
これは婚姻関係で影響力を高めようとする、
後の世にも使われる常套手段である。
その結果奈良の血の非常に濃い神武が産まれ、
奈良側が神武を迎えて統一となるのである。
長スネ彦がこれに抵抗したのは、神武の即位により
その母方の家系が王家となって影響力が増すのが
嫌だったからだろう。
796日本@名無史さん:04/09/07 22:08
>697
出てるよ。
安本珍電波派編年で見ると、出てないことになってるだけだよ。
797日本@名無史さん:04/09/07 22:35
>782
そりゃ弥生時代。
古墳時代から逆転している。
798日本@名無史さん:04/09/07 22:38
考古学者には九州説はいなくなったのに2ちゃんねるになぜ生息してるの?
799日本@名無史さん:04/09/07 23:00
>>795
違います。
海幸彦と山幸彦の神話は、
(北九州那国&出雲中心=海洋交易連合=海日子) 
      対 
(邪馬台国が中心の首長国連邦=内陸に拠点=山日子)

です。
800日本@名無史さん:04/09/07 23:11
>>798
池沼がいるから
801日本@名無史さん:04/09/07 23:15
>>798
郷土史研究家のなりそこないとかでは
802日本@名無史さん:04/09/07 23:15
考古学以外の学会では、近畿説は少数派
803日本@名無史さん:04/09/07 23:18
銅鐸を造るのに鋳型が必要になります。
精度の高い銅鐸を作るためには鋳型そのものも高精度である必要があります。
質の高い鋳型をつくるために鋳型職人は日夜研究に励みます。
粘土や砂利、砂等をいろいろ比率を変え、混ぜ合わせ型を彫る作業を繰り返していた
そんなある日のことでした。
とある川の砂を混ぜて鋳型を焼き固めると驚くほどの強度を持った
鋳型が偶然出来あがったのです。
職人はその砂を抽出し精製し「玉鋼」と名づけ、新しい時代の到来を予感するのでした。

SPring8では銅鏡や銅鐸の成分調査はしたのだろうが、鋳型の成分調査はしたのだろうか?
804日本@名無史さん:04/09/07 23:18
>>802
そりゃ古田史学会でしょ
805日本@名無史さん:04/09/07 23:33
文化人類学、神話学、比較言語学、日本言語学、民俗学、古代史学、古代文献学
どれひとつとっても、九州説優勢だわな
806日本@名無史さん:04/09/07 23:42
神武とか、本気で信じてる人、いるんだね。

倭人伝にも書かれているが、初期ヤマト政権の大王は有力豪族に共立されていたので
あって、特定の血統による大王位継承はされておらず、つまり、倭国王は有力豪族に
よる持ち回りだったと。
神武→成務までの不自然な父子継承は、本来、血縁関係がない日継ぎが行われていた
のを、後世、父子関係に擬制したと解釈すべきだと思うが。
807日本@名無史さん:04/09/07 23:46
私は畿内説だが、通説の「魏志倭人伝の南をすべて東に読み替える」
というのはむちゃくちゃだと思う。
北九州から畿内に行くには、瀬戸内海を通って東にいくが、これを南に行くと
誤ったのではないかというのが私の説。

808日本@名無史さん:04/09/07 23:48
神武天皇と戦った畿内の神が
たしか物部氏の神だから、
畿内にあった物部王国を
天照の一族が滅ぼした。
そして銅鐸もそのとき全部消滅させた。
日下を併合して、その名前が日本になった。
これで完璧w
809日本@名無史さん:04/09/07 23:59
倭国王の座が、北九州→畿内に移ったのは間違いないのだが、
東遷説には、強引な印象が拭えない。
何故、遷都の必要があったのか? 第一、広域の統一王権が成立していない
段階で、はたして本拠から遠く離れた僻地に遷都など行えるものなのか?
信長の時代ですら、大名が本拠地を移すのは大変だったんだよ。

唐古・鍵に連なる、山辺の道・大和川水系に誕生した王権が、吉備や東海、
北陸などと語らい、倭国連合の盟主となったというのが、自然な気がするが。
810日本@名無史さん:04/09/08 00:07
>>766
>左右一回ずつで一歩と言うのも知らないのかよ。( ´,_ゝ`)
>身長160cmで120cm、170cmで140cm程度になる。

まず「左右一回ずつで一歩」というのを実例を挙げるなどして証明して下さい。
これは旧日本陸軍の事ですが、「行軍にて距離を計測する」場合、歩数でもって
計測することを常としていました。そしてその際「片足で一歩」と数えていたのです。
人間の脳として当たり前ですが「両足で一歩」とするよりも、「片足ごとに1,2,3…」
と数えていく方が、はるかに「数えやすい」のです。
811日本@名無史さん:04/09/08 00:09
初代天皇は、華々しさが必要だしね。
南九州から瀬戸内を通り畿内に攻め込むなんて、列島を縦断する頗る壮大な
英雄伝承で、雄略や継体とかが好みそうだな。
実際の始祖は応神だと思うが。
812809:04/09/08 00:18
あれ? アンカーが噛み付いてこないな。
もう寝たのか。
813日本@名無史さん:04/09/08 00:33
>>809
戦国大名は「遷都」しまくっているだろ。
神武の頃はオオヤマトのローカル勢力に過ぎなかったようだし。
814日本@名無史さん:04/09/08 00:34
>>810
> まず「左右一回ずつで一歩」というのを実例を挙げるなどして証明して下さい。

漢和辞典で「歩」の項を見ろよ、池沼。
815日本@名無史さん:04/09/08 00:35
32歳のイヨちゃんが晋に朝貢してるよ。
350年ごろにも倭の大王が中国に朝貢してるよ。
つまり3世紀後半から4世紀のはじめにかけて
大和朝廷の原型が出来上がっていたと。
32歳のイヨちゃんが建材だから狗奴国との戦いには
勝ったんだろうね。
816日本@名無史さん:04/09/08 00:43
>>814
漢和辞典は、学問の証明として使うべき物ではないのだがな。
どこの学者が、「漢和辞典に書いてあるから」として証明に使っているかね?
アンタのレベルの低さが、よくわかった。
817日本@名無史さん:04/09/08 00:45
× イヨ
○ トヨ

狗奴国が滅んだのは、江戸時代に島津氏によって。
818日本@名無史さん:04/09/08 00:48
>>813
>戦国大名は「遷都」しまくっているだろ。
実例を挙げてくれ。
819日本@名無史さん:04/09/08 00:50
漢和辞典の著者が「6尺=1歩」を元に 1歩=左右一回ずつ という概念を
導き出したことも、当然考えられるのである。
こんなの歴史やってりゃ当然考える事なんだけどな。

諸橋徹次さんですら、邪=斜め という意味を、「東北」に限定してしまう、という
大失態を犯してしまってるんだから・・・。
820日本@名無史さん:04/09/08 01:04
>>816
根拠のない短里とかを持ち出す池沼古田信者がよく言うよ。( ´,_ゝ`)
821日本@名無史さん:04/09/08 01:05
>>818
織田・徳川・伊達・上杉など
822日本@名無史さん:04/09/08 01:08
>>820
だから、短里のどこが「根拠がない」のか自分で説明しろって。
今までこのスレで説明してきたごとく、「根拠ありまくり」だろ。
823日本@名無史さん:04/09/08 01:10
オレは古田信者じゃない(九州王朝説はありえないと思う)が、
短里にはちゃんとした根拠があるでしょう。

魏志倭人伝には、帯方郡から伊都国までの道のりが、
途中の国々までの距離も含めて、何里か詳しく書いてある。

その距離は現実の距離によく比例している。
しかし、1里=435mでは全然合わない。(この距離では東南アジアまで行く。)
1里60〜70mだと丁度ぴったり現実の距離となる。

むしろ、1里=435mとする畿内説は完全に間違っているといえます。
824日本@名無史さん:04/09/08 01:18
韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里。(魏志韓伝)
至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里(魏志倭人伝)

「方四千里」を1里=約400mで計算したら、どんな巨大な朝鮮半島が
出来上がるんでしょうか?
また壱岐はそんなに大きい島だったのでしょうか?
そして朝鮮半島、壱岐は、3世紀からこちら、地殻変動かなんかで
水没してしまったのでしょぅか?
825日本@名無史さん:04/09/08 01:42
>>821
織田、徳川はともかくとして、上杉は春日山、伊達は米沢のままだった
と思うが。秀吉以降のことを言ってるのか?
織田、徳川の本拠地移転にしても、北九州→畿内程の遠方じゃないし、
ましてや領国の範囲内な訳だし。
826日本@名無史さん:04/09/08 01:57
もう長里説は破綻したな。
827日本@名無史さん:04/09/08 02:07
安本は今も「東夷伝短里説」など主張しているのだろうか?
828日本@名無史さん:04/09/08 03:20
安本は短里説にはあまり興味ないみたい。嫌ってもないけど。
「短里説だと都合よく説明つくように見えるが真相不明」みたいな感じ。
829日本@名無史さん:04/09/08 03:29
周牌算経がある限り短里に根拠がないなんて言えんわな
あと山東省沖の千里岩が陸地から76km離れてることも
830日本@名無史さん:04/09/08 07:07
卑弥呼の墓は径100歩ぐらいなら、
直径50mくらいの円形古墳だと思うな。
卑弥呼の墓に台形の墓をおまけに作って卑弥呼と合葬したのが
トヨの墓ではないのか?
直径120mもある円形古墳が九州地方に存在するだろうか?
奈良地方に東遷してから天照大神を祭るための古墳のようなものを築造したかもしれないが・・・



831日本@名無史さん:04/09/08 07:11
>>809
「東遷」じゃなくて「東征」だよ。
いや、「征」でもないかもしれんが。

神武の時代は、大和盆地限定の勢力に過ぎない。
崇神の時代に四道将軍を派遣し、各地を平定。
九州にまで勢力拡大するのは、景行期。
仮に神武=崇神としても(個人的には否定するが)、九州には大和政権
の影響が及ぶのは、もっと後の事。
邪馬台国が拡大・遷都したのではなくて、邪馬台国の(おそらく傍系の)
一部勢力が東に新天地を求めた。
832日本@名無史さん:04/09/08 07:20
>>783
古墳時代だろ? それは。
邪馬台国の時代は、弥生時代末期じゃなかったっけ?
833日本@名無史さん:04/09/08 09:14
出雲に大勢力が本当にあったみたいです。
834日本@名無史さん:04/09/08 10:00
邪馬一国でしょw
835日本@名無史さん:04/09/08 13:18
>>832
三国時代の漢式鏡は弥生時代の墓からは出土せず
出土するのは古墳時代の墓ばかりなので、弥生時代説は疑問視されていました。

初期古墳の纒向石塚古墳・勝山古墳の年輪年代が200年頃であることや
ホケノ山古墳のAMS年代が3世紀前半かそれ以前であることから
卑弥呼は古墳時代の人物で、魏志倭人伝に書かれた墓は箸墓が最有力候補です。
836日本@名無史さん:04/09/08 14:48
>>835
福岡県の須久岡本遺跡や平塚遺跡から出てきた漢式鏡はどうなのよ
ちょっと検索すれば畿内説の君が嘘を付いている事がわかるんだけど・・・
http://www.yu-ji.com/doukyou.htm
837日本@名無史さん:04/09/08 15:04
>>836
須久岡本遺跡D地点甕棺墓 出土鏡 形式 面数 年代 面径
草葉文鏡 3面 漢鏡2期(前二世紀第3四半期) 約23cm
星雲文鏡 6面 漢鏡3期(前一世紀第二四半期) 15〜17cm
重圏銘帯鏡 6面
連弧文銘帯鏡 6面
単圏銘帯鏡(日光鏡) 5面 10cm以下

古い漢鏡2期の草葉文鏡も含まれるものの、ほとんどが漢鏡3期の鏡であることから、この甕棺墓の年代としては、漢鏡3期を上限とする前一世紀中ごろが当てられます。
中国の漢墓では、一人一枚の鏡を埋葬するのが普通であり、王侯クラスの墓でも2、3面がせいぜいです。
これは、中国では鏡はただの化粧道具であったからですが、このように多数の鏡を副葬する倭においては、ただの化粧道具という以上の特別な意味があったと考えられています。
また、草葉文鏡の面径は約23cmであり、この当時の漢鏡としては、突出した大きさです。
中国出土の草葉文鏡の平均は13.0cmですが、大型鏡が皆無かと言うとそうではなくで、王侯クラスの墓から以下のようなものが出土しています。

中国出土大型草葉文鏡 江蘇省高郵神居山一号墓 広陵王劉胥またはその夫人 24cm
山東省巨野紅土山墓 山陽国あるいは昌邑国の王族 21.3cm
河北省満城一号墓 中山王劉勝 20.7cm
山西省太原東太保墓 「清河太后」に関係あり 20.5cm
陝西省西安徐家湾 19cm
湖南省長沙曹[女巽]墓 長沙王呉氏の夫人 18.5cm

このような事例から、岡村氏は、大型草葉文鏡は王侯クラスに限って保有することが出来た特別な文物であり、
須久岡本D地点甕棺墓の草葉文鏡も、漢王朝が王侯に相当する待遇として奴の首長に贈与したものではないかと推測しています。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2091/syuchobo/syuchobo.html
838関西説:04/09/08 16:22
>>836
すいません、私は関西説です。
嘘を付いておりました。申し訳ない。
嘘や虚言で説明しないと奈良邪馬台国説は無理なんです。わかってください。
839関西説:04/09/08 16:22
あーーーーー自殺したい
840関西説:04/09/08 16:26
邪馬台国が九州なら
今までの俺の人生はどうしてくれるんだよ!
今から九州の古跡を叩き壊したい気分だよ!

殺せ、おれもおまえもkjfひぱうvhtpう
841日本@名無史さん:04/09/08 16:30
中華思想ですら、そんなに欲張ってないぞ。
842日本@名無史さん:04/09/08 17:27
>>838-840
厨房の素人芝居 ( ´,_ゝ`)
843日本史@名無しさん:04/09/08 19:51
715 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/09/07 03:11
>>713-714
卑弥呼が活躍した古墳時代最初期には
北部九州は没落していたのに。( ´,_ゝ`)


↑ ( ´,_ゝ`)
844日本史@名無しさん:04/09/08 19:52
732 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/09/07 03:31
>>728
短里など池沼の妄想。まともな中国人学者に一笑されて終わり。

732 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/09/07 03:31
>>728
短里など池沼の妄想。まともな中国人学者に一笑されて終わり。

732 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/09/07 03:31
>>728
短里など池沼の妄想。まともな中国人学者に一笑されて終わり。
845日本史@名無しさん:04/09/08 19:53
752 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/09/07 05:18
今では専門家の殆どが邪馬台国=畿内で納得して
アマチュアでもおかしなことを言うのは
古田信者・安本信者とチョンくらいになったな。


↑ おまいはチンカス。史んだ方がいいよ。
846日本史@名無しさん:04/09/08 19:55
798 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/09/07 22:38
考古学者には九州説はいなくなったのに2ちゃんねるになぜ生息してるの?


↑おまいに生きる価値はあるの?

847日本史@名無しさん:04/09/08 19:57
842 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/09/08 17:27
>>838-840
厨房の素人芝居 ( ´,_ゝ`)

↑ チンカスアンカー馬鹿の一人芝居 ( ´,_ゝ`)
848日本@名無史さん:04/09/08 21:38
>考古学以外の学会では、近畿説は少数派
おい、ウソつくなよ。

849日本@名無史さん:04/09/08 21:43
現代考古学のめざましい発展により歴史を塗り替える発掘が次々と行われています。
素晴らしいことです。

『魏志倭人伝』や『記紀』という文献はたいせつな重要資料です。
しかし、その数千文字の資料の中に落ち込み縛られてしまうことは避けなくてはなりません。
倭人伝に記された国と国の間に、記されることの無かった国が遺跡として発掘されるとき、
文献だけに記された太古日本がいかに小さく描かれているかを知るでしょう。

富山県で採れた翡翠が、加工されて青森県で出土しているのです。
このことを記した文献はありません。
大昔の日本は流通も盛んで、もっとスケールが大きかったのです。

既存の概念や枠組みを今一度洗い流し、何も知らなかった無垢の状態にまでたち帰りましょう。
真っ白な心で見つめ直した時、今までとは違う日本が見えてくるでしょう。

統計をとるための線引きが後々になって、発想を閉じ込める檻に化けてしまっているのです。
縄文だとか弥生だとかの線引きがいかに新発見を妨げる目隠しとなっているでしょうか。

文献上、行き詰まった現在、私は日本考古学の新しい発掘調査に期待します。
それゆえに、神の手を何本も使った捏造は止めていただきたいのです。
強引な出土品の改竄も止めていただきたいのです。
一部の者のみによって行われた事件が考古学の信用を失墜させ、
歴史学術全体の停滞や後退までも引き起こしてしまうのです。


って、こう書けば在日認定されないよなっ!
前に疑われて以来
俺、必死なんだよ。
850日本@名無史さん:04/09/08 21:45
このスレッドには小林恵子と某国工作員、西都厨=古田信者=アズマ
の立ち入りを禁止します。

(西都厨=古田信者=アズマ隔離スレッド)
九州王朝はなかったのか?※ 9
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1081624257

(小林恵子と某国工作員隔離スレッド)
【古代史電波】小林恵子の妄想を語ろう
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087908201/l50
朝鮮人が日本を作った可能性は
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1057493325/l50








851日本@名無史さん:04/09/08 21:49
また、西都厨が出てきた。

隔離スレッドあるのにしつこいやつだな。
852日本史@名無しさん:04/09/08 22:15
>>850は人間のかs(ry
853日本@名無史さん:04/09/08 22:23
>>849
江戸時代、松前藩はアイヌから厳しい収奪を行っていた。
そのアイヌから収奪した物産の中に「蝦夷錦」というのがある。
日本人はそれを、アイヌが作っていたものと信じていたのだが、実は
その蝦夷錦は、中国産のものであった。
当時、沿海州、樺太、北海道にまたがる、原住民の交易ルートが存在し、
アイヌはその交易ルートを使って、蝦夷錦を入手していた。
むろん、江戸時代に、沿海州、樺太、北海道にまたがる、巨大帝国が
あったなどと、信じている学者はいない。
大規模な交易ルートといっても、しょせんは物々交換を長距離に
またがって行ったに過ぎないからだ。

・・・ただ、近世史では「沿海州、樺太、北海道にまたがる、巨大
帝国があった」などと信じている奴はいないのに、なぜか古代史に
なると、誇大妄想がまかり通っているように思うのは、私だけだろうか?
854日本@名無史さん:04/09/09 00:11
虚心坦懐、金印は志賀島、阿蘇山は九州中央部。
誇大妄想はやめましょう。
855日本@名無史さん:04/09/09 00:23
まだ言ってるのか、金印とか阿蘇山とか埒もないことを・・・・
学習効果のないやつだ。
856日本@名無史さん:04/09/09 00:26
ほんじゃ、錦、絹、矛、鉄鏃、全部九州北部。
857日本@名無史さん:04/09/09 01:19
邪馬台国にちっとも結びつかない、箸墓やマキムクに、誇大妄想を抱くのはやめましょう。
858日本@名無史さん:04/09/09 01:49
>>856
卑弥呼が活動した古墳時代初期には
畿内でたくさん発見されているのに。
859日本@名無史さん:04/09/09 02:03
>>857
記紀を読む限り、初期ヤマト政権の大王が三輪山麓にいたのは間違いなさそうだ。
箸墓やマキムクはその意味で重要。
確かに、邪馬台国であるとの証拠はないがな。

ところで君は、北九州→畿内への権力移動を、何世紀ごろ、どのように起こったと
思っているのか?
860日本@名無史さん:04/09/09 02:18
>>831
>邪馬台国が拡大・遷都したのではなくて、邪馬台国の(おそらく傍系の)
>一部勢力が東に新天地を求めた。
まあ、そういった北九州から畿内への移住は、何世紀もかけて行われてきたとは
思うよ。畿内の在地勢力や、天皇の先祖も、ルーツを辿れば九州出身となる
のかもしれない。
しかし、プレ大和政権成立期(3〜4世紀)のことを語るなら、ナンセンスだな。
畿内にはすでに大国があり、少数の畿内への侵入では、政治的に大した影響力は
持てなかったと思う。大規模な東遷や東征を想定するなら別だが。
861日本@名無史さん:04/09/09 02:56
>>860
天皇家以前の近畿政権が「一枚岩」という前提で語るならそうだが、
「諸国連合」の形で抗争でもあったら、十分可能。

それに、神武〜開化までは大和盆地から外に権力が及んだ形跡がない。
つまり「政治的に大した影響力は持てなかった」と見ていいだろう。
862日本@名無史さん:04/09/09 03:01
>>853
ということは、いろんな遺物が九州からでようが近畿からでようが
その原産地を特定する理由にはまったくならないし
邪馬台国の所在の決め手にも関係ないってことですね?
863日本@名無史さん:04/09/09 03:07
>>862
銅矛、鉄鏃の「鋳型」までが移動するわけないでそ・・・
864日本@名無史さん:04/09/09 07:10
九州邪馬台国が東征するとき、鉄製武器で武装していたとすると、
銅矛程度で武装した畿内豪族は戦争にもならなっかただろう。

そこで、疑問なのだが、九州邪馬台国が畿内にて大和王朝を確立していく過程のなかで、
畿内に前方後円墳を築造していったのだろうが、
そのなかから、鉄剣等の鉄製品が発掘されないのだろうか。

それとも、発掘そのものが禁止されているのか?
865日本史@名無しさん:04/09/09 07:54
>それとも、発掘そのものが禁止されているのか?

だってあんた、宮内庁の指定地いくつあるかしってっか?
866日本@名無史さん:04/09/09 08:24
マキムクは4世紀の遺跡。
3世紀にあった畿内の勢力は
大国主のもの。4世紀にある遺跡は
東遷してきた邪馬台国のもの。
867日本@名無史さん:04/09/09 08:47
>>864
日本では最初から青銅器が祭祀用、鉄器が実用でそ
868日本@名無史さん:04/09/09 09:21
記紀を参考に歴史を推理でればこうなります。
天照=卑弥呼、スサノオ=卑弥呼の弟。
スサノオの6代目の子孫=大国主命。
卑弥呼とその弟が不和なり、邪馬台国内で
勢力分裂。スサノオの勢力が追放される。
この追放されたスサノオの勢力が東遷。
これが260〜270年くらいの出来事。
この6代後。つまり1代10年くらいとして
およそ320年くらいの大国主の時代になって、
卑弥呼の子孫が九州で衰退したのをきっかけに
畿内に東遷。これが国譲りの神話。これで間違いなし。
869日本@名無史さん:04/09/09 11:43
>>864

>>809の疑問に答えてくれ。
3世紀の初期ヤマト政権が、九州〜畿内までの広範囲を完全支配した統一王権だった
とでも思っているのか? 
特に、北九州からマキムクへの本拠地移転は、瀬戸内航路に強国吉備が存在する限り、
咽喉元に合口を突きつけられているような、脆弱な権力基盤と言わざるを得ない。

何度も言われている事だが、マキムク遺跡から九州系土器が殆ど出土しないのが、
東遷説には致命的。大和盆地を支配するのに、北九州の兵隊を連れて行かなかった
とは思えない。マキムクと600年続いたとされる唐古・鍵とは、目と鼻の先だし、
敵地の真っ只中な訳だから。
東征説にしても、唐古・鍵とかで大規模な戦闘の痕跡とか見つかっているのか、
と逆に聞きたい。
土器から推測するに、マキムクに駐屯していたのは、畿内、吉備、東海ら諸国王に
率いられた軍隊だったんだろう。
870日本@名無史さん:04/09/09 12:17
>>869
 纒向遺跡から出土する土器の約15%以上が、大和以外の地域で製作され纏向に持ち込まれたことがわかっている。
また製作された地域を調べても、西は九州北部から東は南関東までと広範囲にわたっている。
http://www2.begin.or.jp/sakura/maki01.htm
871日本@名無史さん:04/09/09 13:17
弥生時代像も大きく変わってきたな。

弥生時代の始まりは紀元前10世紀後半 土器測定で歴博
 弥生時代の実年代の割り出しを進めている国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)は8日、
北部九州の弥生最古の土器を加速器質量分析計(AMS)を利用した炭素14年代測定で調べた結果、同時代の始まりは紀元前10世紀後半である可能性が強い、と発表した。
 同館は菜畑遺跡(佐賀県唐津市)から出土した山ノ寺式という弥生時代早期前半の土器の内側についた炭化物を測定、前10世紀後半〜前9世紀末という値を得た。
 同館は昨年5月、AMS法によって山ノ寺式の前後にあたる縄文時代晩期末と弥生早期後半の土器の炭化物の測定から、弥生初頭は定説を500年さかのぼる前10世紀ごろと推定していた。
今回の測定値を総合して検討した結果、「前10世紀後半に絞り込むことができた」としている。
http://www.asahi.com/culture/update/0908/009.html
872日本@名無史さん:04/09/09 13:24
>>871
平成16〜20年度 文部科学省・科学研究費補助金 学術創成研究費
弥生農耕の起源と東アジア−炭素年代測定による高精度編年体系の構築−
研究代表者 西本豊弘(人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館・教授)
ttp://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/sousei/yayoinoukou/index.html

2003.7.25. 歴博特別講演会配布資料弥生時代の開始年代
- AMS年代測定法の現状と可能性 -
ttp://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/0725/index.html

国立歴史民俗博物館研究報告会
「弥生時代の実年代」
−2003年12月21日配布資料−
ttp://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/kenkyuhokoku/031221/index.htm
873日本@名無史さん:04/09/09 18:31
畿内説はどうもしっくりきない
874864:04/09/09 21:19
>>869
国譲り神話にあるように、大規模な戦争など無かったのではなかろうか?

群雄割拠する戦国時代も末期になると、小国は淘汰され大国と大国の争いに
時代変遷していく。
大国と大国との戦争は大消耗戦になることを、本能的に知っているので
政治的解決を求めたのではなかろうか。

九州邪馬台国の東征は二回あったのでは・・・?
第一次部隊は、まだ豪族が群雄割拠する状態の畿内の中に溶け込むことに
成功したのだろう。それは東征といえるほどではなく、畿内の一豪族と同盟を
結び、敵対する豪族を制圧していったのではなかろうか?

婚姻や同盟を制圧した豪族とも重ねながら、第一次部隊は畿内に
王朝とも呼べるほどの権力基盤を確立したのだろう。
記紀にあるような東征は、第二次部隊の話ではなかろうか。
875日本@名無史さん:04/09/09 21:44
天照大神=天孫降臨以前の神
卑弥呼=天孫降臨よの後代の女王
876日本@名無史さん:04/09/09 22:28
>>874
第一次がニギハヤヒで、第二次が神武ですか…

あなたの説は、畿内在地勢力がヤマト朝廷となったという説と大差がない
ように思うのだが。
北九州の貴種がヤマトに招かれて、畿内勢力の王になったとかは、
あったかもしれないし、なかったかもしれない。証明しようのない話だな。
877日本@名無史さん:04/09/09 22:54
神武以下、欠史八代の天皇の多くが、葛城国に宮を置いている。
つまり、初期ヤマト政権の大王たちは葛城系であったという解釈ができる。
葛城に柏原という地名もあるし。開化で葛城地方を離れ、崇神以降に磯城に移る
訳だが。

ここからは妄想なんだが、後世、蘇我が権力を握った時、蘇我は葛城後裔を称
していたから、葛城系の大王を追加したのではないか?
本来、崇神がハツクニシラスであったのを、自らの祖先を高めるために、
以前は大王としては認められていなかった葛城王たちを、大王に追尊したのでは?
それを根拠に馬子は天皇として即位したのではないだろうか?
878日本@名無史さん:04/09/09 23:01
>>877
妄想が過ぎるな。蘇我氏以外にも言い伝えはあったはずだし
蘇我本宗家が滅びてしまったら、そんなものは採用しないだろ。

そもそも最初から四道将軍を派遣するほど強大なのは不自然で
ローカル勢力に過ぎなかった時代を経ているはず。
879日本@名無史さん:04/09/09 23:04
アメリカのイラク攻撃を見ていても、国を征服するのは難しいんだなあと思う。
東遷説は、やっぱり無理があるよ…
880日本@名無史さん:04/09/09 23:10
>>878
じゃあ、あんたは、神武〜欠史八代の天皇が葛城地方に縁が深いのを、
どう解釈する訳?
881869:04/09/09 23:31
>>870
意味が分からない。マキムクの搬入土器の比率で、九州が圧倒的に低かったと
記憶しているが。
88225歳♂投馬国王の子孫:04/09/09 23:40
金印見つければいくらで売れますか?
883日本@名無史さん:04/09/09 23:44
>>879
うん。連合国家の盟主が都を定める場所は、できるだけ自分の勢力圏に近い所に
したいと思う筈だよ。
北九州勢力が、畿内に遷都したなんてナンセンスな話だ。
884日本@名無史さん:04/09/09 23:45
投馬の子孫って何氏だっけ?
88525歳♂投馬国王の子孫:04/09/09 23:46
>>883
畿内に遷都したんじゃなくて
畿内に遷都せざるをえなかったのでは?
88625歳♂投馬国王の子孫:04/09/09 23:58
邪馬台国の研究論文を
発表する場とかありませんか?
雑誌でもプレゼンでもなんでもいいです。
あったらぜひ私も参加してみたいのですが・・
887日本@名無史さん:04/09/10 00:01
遷都じゃなくて神武の東侵でしょ。
部族群のなかで敵の多い1部族をやっつけても、周囲の部族は喜んだだけ。
神武は鉄器で嫌われ部族を追放、わずかな領土を得た。
888864:04/09/10 00:05
鉄器と銅器との戦争では鉄器の方が勝るのは言うまでもないことだが、
九州地方は大陸と近いので進んだ武器、技術、文化を兼ね備えていたのだろう。
畿内の田舎豪族(失礼な言い方ですが・・・)から見ると
九州は華やかな先進的大国というイメージがあったのではなかろうか?
また、九州邪馬台国は親魏倭王として大陸の威を借りることが出来た。
国家としてのカリスマ性が優れていたことが、畿内勢力の戦意を弱めさせていたものと思う。

ところで、記紀では神武東征が重要視されているが、
卑弥呼の時代においては、畿内はまだ重要視されていなかったのではなかろうか?
この時代の仮想敵国としては『クナ国』であったり、朝鮮半島ではなかったのか。
畿内地方は未開であり、せいぜい弱小部隊程度の派遣だったのではないか?
権力基盤が畿内に移されて以降、神武の子孫によって神武東征が神格的に語り継がれたのではなかろうか?
889日本@名無史さん:04/09/10 00:08
>>881
纒向では朝鮮半島の土器も発見されている。
近場の東海や吉備が多くて、遠隔地の北九州や関東が少ないのは自然だろ。
890日本@名無史さん:04/09/10 00:12
>>885
>畿内に遷都せざるをえなかったのでは?
その理由は如何に?

>>887
君は、神武東征神話に振り回され過ぎ。
「皇室氏の先祖は九州出身だ」程度の解釈で良いのでは?
89125歳♂投馬国王の子孫:04/09/10 00:12
私は完全に無視ですかw
まあいいですけど、とりあえず
神武が存在してた人物だと
仮定して議論をするのはどうかと
思いますけどね。明らかに架空の
可能性のほうが高い。
89225歳♂投馬国王の子孫:04/09/10 00:16
>>890
西暦280年ごろに、大人になった
台与が晋に朝貢しています。
つまり、他国からの攻撃が激しくて
救援を求めていたのでしょう。
そしてついに狗奴国(熊襲)等の
圧迫により九州を追われ、本州へと
東遷せざるをえなかったと。
893881:04/09/10 00:17
>>881
はあ。だから何が言いたい訳?
私は、北九州東遷説が信憑性が低いと言っている訳ですが。
894893:04/09/10 00:22
ごめん。
>>889に対してのレスです。
自分に話し掛けてどうする…(汗
89525歳♂投馬国王の子孫:04/09/10 00:33
すでに結論は出てると思いますが、
なぜゆえまだこれほど議論がなされているのでしょうか?
邪馬台国の場所は宇佐周辺。倭人伝の水行20日陸行1月は
邪馬台国へといたる全日程の合計。卑弥呼は天照で
弟のスサノオとの不和と日食が重なり殺された。
スサノオが第一に東遷、その子孫が大国主。4世紀前半に
狗奴国の圧迫により、天照一族の祟神が第2次東遷。大国主より
国を譲られる。これにより大和朝廷成立。しかし九州に
残っていた邪馬台国の王族の一派が、九州の勢力をまとめあげ
第3次東遷。これが応神天皇となり河内王朝成立。神功皇后は
万世一系の建前を守るためのでっちあげ。これでほぼ間違いないでしょ?
間違いだと思う人はどこが間違いか指摘してみてくださいよ。
896日本@名無史さん:04/09/10 00:39
>>895
>狗奴国の圧迫により、天照一族の祟神が第2次東遷。大国主より
>国を譲られる。これにより大和朝廷成立。
崇神をタタリガミと書いている時点で、残念。
もっと勉強し給え。
89725歳♂投馬国王の子孫:04/09/10 00:42
>896
わかってますw
変換できなかったので
似たような変換しやすい字で
書いたまでです。眠いので
もうめんどくさくってw
898896:04/09/10 00:55
>>897
崇拝の「崇」だし、特段、変換が難しい漢字とも思えないが。
まあ、言い訳はどうとでも出来るがな。
君の傲慢な態度が、このような突っ込みを招いたと自覚した方がいい。
89925歳♂投馬国王の子孫:04/09/10 01:00
>>898
すいません。井沢元彦読みすぎましたw
90025歳♂投馬国王の子孫:04/09/10 01:01
まあなんにせよ、結論がでてよかったですね。
めでたしめでたし。これで宇佐から金印でも
でてくれば最高なんですが・・
901896:04/09/10 01:02
>>899
ごめん。俺も言い過ぎたw
902日本@名無史さん:04/09/10 01:04
>>880
延喜式によると、初期10代の陵墓は以下の郡を移動しています。
高市→高市→高市→高市→葛上→葛上→葛下→高市→添上→城上

宮を含めていずれも奈良盆地の範囲内に過ぎません。
90325歳♂投馬国王の子孫:04/09/10 01:09
皆さん博識ですが、こういった雑誌も
毎回読んでるのですか?
ttp://www.fujisan.co.jp/Product/2672
904日本@名無史さん:04/09/10 01:14
>>895
デンパな連中は自然科学を含む考古学研究の進展を無視して
頭の中だけの妄想に耽っているな。

卑弥呼は古墳時代の人物で、箸墓と時代や規模や伝承が調和的で
埴輪の原型を並べていることから、吉備との連合が出来たように見られる。
東日本は東海発祥の前方後方墳体制が席巻していた。

投馬国=吉備、邪馬台国=畿内、狗奴国=東海に当てはめるのが妥当だな。
905日本@名無史さん:04/09/10 01:18
>>903
韓国版スクリーン…チョン
週刊誌『ニューズウィーク』…日本語版は反日チョン編集者で悪名が高い
週刊金曜日…北チョンの手先の反日雑誌

チョン臭いオンライン書店は(゚听)イラネ
906日本@名無史さん:04/09/10 02:02
「宇佐」連呼=25歳♂投馬国王の子孫=25歳♂職業;邪馬台国研究家=糞チョン
907日本@名無史さん:04/09/10 02:06
もう21世紀だというのに神話と歴史の区別のつかない奴は絶えることがないな。
908日本@名無史さん:04/09/10 02:10
>>907
半万年とか言っている糞チョンのことか?
909日本@名無史さん:04/09/10 02:55
司馬遷の影響か、古代の歴史家は神話時代と歴史時代を区別しているな。

「史記」は五帝以降(後世に三皇を加筆)
「日本書紀」は神武以降(それ以前は年月日を記さない)
「三国史記」は新羅・高句麗・百済の成立以降(それ以前は楽浪郡が半島を席捲)
910日本@名無史さん:04/09/10 03:00
>>717
>漢代は薄葬の風があったから、漢を宗主国とあがめる国として、
>古墳作りに血道をあげる畿内は、ちょっとちがうね。

曹操が最初に太守(と同格の相)として赴任した済南にて、
邪教淫祠を取り締まったのは漢代。
さらに、袁紹の一門を滅ぼしたとき、その地域で
薄葬令を出すまで、その地域は贅沢な葬儀が主流だった。
漢代の中国がこの調子だ。
中国を遠く離れた辺境で薄葬が守られなくても当然。
911日本@名無史さん:04/09/10 03:43
そんなデタラメで金印もらえた験しは無い。
畿内の薄葬たるや、646年まで無かった。
こりゃ畿内説は駄目だわな。
912日本@名無史さん:04/09/10 04:18
古田信者と安本信者以外で九州説が有力な世界は存在しない。

…あ、2chは除く。
913日本史@名無しさん:04/09/10 06:34
神話の信憑性がどんどん認知されていってるのに、未だにアフォな事言ってる畿内派が
学会で主流というのが凄いな。中国の殷や周でさえ昔は架空の存在って言われてたのに
な。

でも、結局「何で出雲神話や筑紫神話がどっかりと中心に鎮座しているのか?」と言うこと
についての説明は誰もしてくれないよな>畿内派
基本的な疑問は他にも沢山あるのに、ほとんどスルーでマキムクとかホケノ山とか、三角縁
神獣鏡とか、狂ったように同じ事ばっかり。ほとんど宗教だわw

せいぜい「東遷」などという珍説で木に竹を接いだ説明があるぐらい。

欠史八代というが、要するにまだ大王じゃなくてローカル首長にすぎなかったんだろ。だから、
逆に、しょぼい事績が抹消されたかもしれないよ。ただ神武についてはしょぼくても東侵自体が
価値ある事績だから残さざるを得なかった。それすら削ってしまうとなんで筑紫勢力が奈良に
移住したのかの理由すらわからなくなってしまうからな。
914日本@名無史さん:04/09/10 07:09
>>913
×筑紫→○日向
915日本@名無史さん:04/09/10 07:19
>>904
箸墓は4世紀中頃であって、3世紀の卑弥呼とは合わないのだが。
916日本@名無史さん:04/09/10 07:49
>>915
ドキュソ安本が吠えているだけの妄説
91725歳♂投馬国王の子孫:04/09/10 08:40
新しい説を発表して、本出せば売れますかね?
「邪馬台国はフン族に滅ぼされた」っていう本書きたいんですけど。
フン族の分裂がローマ帝国の滅亡に一役かったように
極東日本にもフン族の残党が3世紀に日本に流入してきたために
いっきに九州は衰退してしまったと。騎馬民族説に近いものが
ありますけど、どうですかね?
918日本@名無史さん:04/09/10 08:41
>>917
悪あがきせずに糞チョンはチョン国に帰れよ。
91925歳♂投馬国王の子孫:04/09/10 08:54
ぺ・ヨンジュンは嫌いですが・・
なぜ私がチョン扱いされなければならないんでしょうか?
920日本@名無史さん :04/09/10 10:04
>>919
あんた畿内説じゃなかったの?
いつ宇佐説に転向したのさ。
921日本@名無史さん:04/09/10 10:45
>>912
おいおい、トンデモ信者は箸墓信者やマキムク信者だろ。
92225歳♂投馬国王の子孫:04/09/10 10:57
>>920
私は井沢信者なのでもとから右左折ですよ。
いったい誰と勘違いしているのですか?
923別人だが・・・:04/09/10 11:12
>>922(25歳♂投馬国王の子孫) = >>93(25歳職歴なし引きこもり)
   
                 じゃないのか?
924日本@名無史さん:04/09/10 11:24
佐賀県佐賀市十七歳 ◆ypURG809QA  とは別人なのか?
92525歳♂投馬国王の子孫:04/09/10 11:26
私は25歳♂投馬国王の子孫です。
他の誰でもありません。しかし
17歳でここにいる人がいるとは
驚きですねw
926日本@名無史さん:04/09/10 11:29
ジャネット・ジャクソンのポロリの罰金6000万円

今年のアメリカ・NFLスーパーボールのハーフタイムショウでジャネット・ジャクソンが”ポロリ”をした件で、
連邦通信委員会(FCC)では放送したCBSに$550,000(約6000万円)を罰金として支払うように求めるようだ。
これはワシントンポスト紙が報道したもので、同紙によれば、名前を公表していないFCC委員の証言に基づくもので、
この金額はアメリカテレビ史上最高額になるが、FCC委員会で賛成多数で可決されるだろうという見通しだという。
今年のスーパーボールを放送したCBSが所有するの各局20社に$27,500 (約300万円)ずつ課金した合計だという。
また、同様にスーパーボールを放送した200社以上にも及ぶCBSの系列局は罰金対象から除外されている。
委員会では投票は可決されるものの、何人かの委員は罰金金額が十分に厳しくなく、足りないのではないかという者もいるのではないかと同紙は予想している。
FCC関係者によれば、5名の委員が系列局が罰金対象から除外されたことにたいして不服であるということだが、この件に関してFCCのスポークスマンはノーコメントだ。
CBSは「この件が起こったことを残念に思い、視聴者の方に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
しかし、スーパーボールの放送に関して間違ったことはなかったと今でも信じているし、(FCCの決断は)非常に残念だ。」と発表している。
927日本@名無史さん:04/09/10 12:44
>926
ここまでスレ違いのも見たことない。
928日本@名無史さん:04/09/10 14:32:28
畿内では4世紀頃から巨大古墳群が大量に築造されてくるのはなぜだろう?
(3世紀頃から築造されている、という説はあえて無視する)
箸墓等を築造するのに、どれだけの人夫を要しただろうか?
それだけの人夫を養うだけの食料はどこで生産されていたのだろう?

もちろん、その当時の人間は全員が土木工事に携わっていたのではないだろう。
軍事に携わるもの、武器や土器を製作するもの、食料を生産するものが
それぞれ存在しただろうし、彼らの家族もいただろう。
(一説によると、奈良時代の畿内は数百万人もの人口を有していたという。)
箸墓が築造された時代においても100万人以上の人口を有していただろう。

さて、魏志倭人伝によると邪馬台国の戸数を7万戸としている。
(実際に数を数えたかは怪しいし、多めに見積もっていただろうと思う。)
そこから人口を推定すると30万人ぐらいではなかろうか?
それっぽっちの人口しかいない国力で箸墓のような巨大古墳を築造できるものなのか?

30万人の人口でも労働可能な人口は10万人くらいであろう。
箸墓を築造するのに3万人くらいの人夫を要しただろう。

箸墓を築造するために国民総生産の30%を注込む大事業なことを、やってしまったのか?
しかも、次から次へと巨大古墳を築造しまくるし、これでは国が疲弊して
軍事力も衰退し、諸外国から侵略されてしまうのではなかろうか?
 
上記の点から考えると、畿内に箸墓が存在することで、邪馬台国が存在できないことの証明になると思う。
929日本@名無史さん:04/09/10 15:53:36
>>928
> (3世紀頃から築造されている、という説はあえて無視する)

おいおい歴史捏造に走るなよ。

> しかも、次から次へと巨大古墳を築造しまくるし、これでは国が疲弊して
> 軍事力も衰退し、諸外国から侵略されてしまうのではなかろうか?

実際には次々と巨大古墳が作られているから、その仮説は破綻している。
応神・仁徳の頃には、関東の住居遺跡が激減すると指摘されており
他の地域からの動員を利用しているわけだ。
930日本@名無史さん:04/09/10 16:08:47
まあ他所から奴隷としてひっぱて来るとしても、どうやって食わせてたんだ?
そんなに余剰作物あったのか? 奴隷使い捨てにしてバタバタ死なせてたら
その死体処理は? ちゃんと処理しないと奈良盆地みたいなところは死臭で
とても住めたもんじゃないな。伝染病も流行るし。
931日本@名無史さん:04/09/10 16:29:54
>>930
信長以前はもっぱら農閑期に戦などを行っていたわけだし
土木事業も時期を選べば無問題。
また海が穏やかな瀬戸内海での漁業も活用できる。
現実に畿内には巨大古墳が次々と作られているだろ。
932日本@名無史さん:04/09/10 18:02:59
>>917
ローマ帝国やゲルマン人を襲ったフン族が仮に北匈奴とすると、
これは東蒙古におこりモンゴル高原を制覇した鮮卑族(檀石槐)に追われて
西へ逃げたもの。
同時期に、高句麗も西への進出を鮮卑(慕容部)に阻まれて打撃を受け、
進出方向を南に変えている。これが半島で高句麗と倭が衝突することになった原因。
つまりフン族がローマ帝国と戦ったのも、
高句麗が倭と戦ったのも、どっちももともとの原因は鮮卑の膨張によって
フンと高句麗が外側へ追われたから。

(まぁ檀石槐が直接に倭を襲ったという記録もあるが…)
933日本@名無史さん:04/09/10 18:08:04
平壌に遷都する以前の高句麗は北方民族国家としか見えないな。
中原に勢力を拡大できていれば、半島は楽浪郡しか興味が持たなかっただろう。
934日本@名無史さん:04/09/10 23:19:02
今更学問板でアカデミズムで滅亡した九州説かよ、
レベル低いねえ
935日本@名無史さん:04/09/10 23:27:24
>>934が群を抜いてレベル低〜!!
93625歳♂投馬国王の子孫:04/09/11 00:03:44
フン族の王が天皇家の起源だと思います。
937928:04/09/11 00:13:14
>>929
>実際には次々と巨大古墳が作られているから、その仮説は破綻している。
これから新説発表する前の段階における仮説破綻(故意)ですので、これから逆説的に説明していきます。

>応神・仁徳の頃には、関東の住居遺跡が激減すると指摘されており
関東地域からの人口激減は、人夫や食料を徴用されたからなのか?
それとも、巨大古墳を築造できるほどの豊かな新興国家への移民なのか?

さて、4世紀頃からある日突然、巨大古墳を次から次へと築造することが出来るほどの
国力と人口を有した畿内政権と国民はどこからきたのか?
それだけの人口を養えるほどの肥沃な農地は畿内にしかなかったのか?

九州地方の狭い農地では30万人ほどの人口がキャパシティ一杯で、
巨大古墳を築造することが出来なかったのではなかろうか?

やはり、邪馬台国は畿内で発祥して大和王朝を建国したのか?

私はついに、この難問を解き明かすことに成功した。
しかし、
このスレッドはレスが900を超えており、証明するには残りレスが少ない。
93825歳♂投馬国王の子孫:04/09/11 00:17:52
地政学的にみても畿内で大王朝が自然発祥するはずがないw
大陸→九州→畿内 と発展したに決まってる。
常に最先端の情報もってるほうが強いんだよん、
939928:04/09/11 00:30:07
>>938
>大陸→九州→畿内 と発展したに決まってる。
そのとおり!
それを説明しようと一生懸命書き込んでいたら(一説によると、4時間以上推敲を重ねた。)
error表示ですよ。
なんか変です。と言われました。

もう、今日は疲れました、眠ります、沈むように・・・
940日本@名無史さん:04/09/11 00:53:05
>>938
>大陸→九州→畿内 と発展したに決まってる。
三内丸山とかは無視ですか?
941日本@名無史さん:04/09/11 01:09:58
天皇家が大陸→九州→畿内なのは間違いないな
だが問題は邪馬台国の場所だ

1 大陸→九州→畿内(邪馬台国)
2 大陸→九州(邪馬台国)→畿内
3 大陸→九州(邪馬台国を滅ぼす)→畿内
4 大陸→九州→畿内(邪馬台国を滅ぼす)

1・2は天皇家=邪馬台国の場合
これでも畿内説と九州説が考えられる
あと邪馬台国滅亡説として3が考えられる
4はありえない
942日本@名無史さん:04/09/11 02:27:44
>>936
多利思比古(たりしひこ)は
匈奴語で「天子」を意味する「?犂孤塗」からきてるのかもな。
943日本@名無史さん:04/09/11 02:46:57
>>941
う〜ん、ちょっと単純すぎるかも。
だいいち倭人が大陸にいたとき、天皇という存在などない。

文武がニニギの血統、神武の王統を引き継ぐ宣言をしたことは確かだ。
だから出自は対馬・北九州系だけれど、王家としては畿内のみ。
血統と王統は全然別だ。
944日本@名無史さん:04/09/11 02:57:15
>>943
違うぞ、日向をルーツとしているだろ。
延喜式にも日向三陵を載せているし。
945日本@名無史さん:04/09/11 03:28:33
筑紫の日向だから福岡県で正解。
946日本@名無史さん:04/09/11 03:48:21
日向の国で宮崎県だ
94725歳♂投馬国王の子孫:04/09/11 08:57:31
日向なんて長いこと大和朝廷の支配化に入ってなかった
未開の地だろ。そんなとこか皇室発祥なわけがないw
948日本@名無史さん:04/09/11 09:10:30
発祥地であるが後になって支配を外れたのかも知れんぞ?
まあオレは東遷・東征は支持しないが。
949日本@名無史さん:04/09/11 11:52:00
邪馬台国=北九州卑弥呼 と 投馬の日向天皇の祖 で考えたら自然に解釈できるよ。

950日本@名無史さん:04/09/11 11:54:37
九州説って安本と古田信者以外で信じているアホはいるの?
951日本@名無史さん:04/09/11 12:09:36
そう妄想しちゃってるのは、畿内厨だけですか?
952日本@名無史さん:04/09/11 12:20:58
学者には、畿内説しかいないのにアホだえ
953日本@名無史さん:04/09/11 12:52:26
と妄想しちゃった、ど素人哀れ
954日本@名無史さん:04/09/11 15:21:09
東征・東遷説を信じている人は、実際どれくらいいるのか?
「弥生時代、鉄は圧倒的に九州だから、畿内が九州を屈服させた筈がない」とか、
「だけど、古墳時代に畿内に大和政権が誕生しているから、北九州の伊都国あたり
が畿内に攻め込んで大王になったんだろう」とか言ってたよね。
神武神話からの思いつきなんだろうけど、もっと根拠を示して欲しいな。
壮大でロマンのある話だが。
955日本@名無史さん:04/09/11 15:30:25
それ以前に倭人の代表国のあかし、金印と阿蘇山の反論してみろよ。
だいたい畿内の国家がサヌカイトで高句麗と戦えるのか?
956日本@名無史さん:04/09/11 15:30:28
畿内説=魏、九州説=呉、東遷説=蜀、九州王朝説=燕、西都説=妄書く。

でよろしいか?
957日本@名無史さん:04/09/11 15:32:54
箸墓とマキムクの一方的妄想に基づいた畿内説は、破綻してるだろ。
958日本@名無史さん:04/09/11 15:35:51
>>955
>だいたい畿内の国家がサヌカイトで高句麗と戦えるのか?
4世紀末の話か?
サヌカイトって…
古墳時代の畿内遺跡からは、鉄製品は多数出土していると思うが。
959日本@名無史さん:04/09/11 17:32:23
鉄器がわずかしか出ない畿内の鉄器がどうして多数なんだ?
96025歳♂投馬国王の子孫:04/09/11 18:51:17
金印どこにありますかね?
見つけ出して有名になりたいんですけど。
961日本@名無史さん:04/09/11 18:57:47
>>959
過去ログを読んでいないのか! 古墳時代の畿内からは鉄製品がザクザクだ。
ここら辺を見ろ >>783-790
962日本@名無史さん:04/09/11 19:03:53
>>960
マーズ・パスファインダが火星で見つけました。
世間には秘匿されていますが、事実です。

NASAに行って火星に打ち上げてもらってください。
もう帰ってこなくていいですよ。
963日本@名無史さん:04/09/11 19:06:38
「宇佐」連呼=25歳♂投馬国王の子孫=25歳♂職業;邪馬台国研究家=糞チョン
964日本@名無史さん:04/09/11 19:11:00
新羅が日本の亜流だったことは、朝鮮正史「三国史記」に載っている。
新羅第4代王の脱解尼師今は、倭の女王国の女と多婆那国(丹波?)の男から生まれ
捨てられたのが朝鮮半島に流れ着き、新羅の倭人重臣・瓢公が有能さを認めて
新羅王にしたと言う記述がある。

日本人はこういう記述がある事実をもっと知るべき。
「新羅 脱解 倭人」でぐぐって見るといい
http://www.google.com/search?as_q=%E6%96%B0%E7%BE%85+%E8%84%B1%E8%A7%A3+%E5%80%AD%E4%BA%BA&num=100&hl=ja&ie=UTF-8&c2coff=1&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&as_epq=&as_oq=&as_eq=&lr=lang_ja&as_ft=i&as_filetype=&as_qdr=all&as_occt=any&as_dt=i&as_sitesearch=
965日本@名無史さん:04/09/11 19:14:02
>>964
↑のリンクは冗長すぎた。↓これだけで行ける。
http://www.google.com/search?as_q=%E6%96%B0%E7%BE%85+%E8%84%B1%E8%A7%A3+%E5%80%AD%E4%BA%BA&num=100
966日本史@名無しさん:04/09/11 19:14:06
東征はあっただろ。ふつーに考えても。
人口動態や、鉄器などの移動など、弥生から連続的に続いてきたわけで。

ただ、権力機構の中心がごっそり移動という相当大胆な説については、かなりの
無理がある。その前提となる、九州の衰退も考古学的に証明されたわけでもない
し。(除く土器編年w)
967日本@名無史さん:04/09/11 19:23:28
>>966
いいかげん、編年の意味を理解しろよ。
968日本@名無史さん:04/09/11 19:40:57
編年って?
969日本@名無史さん:04/09/11 19:41:10
>>966
東遷があったとしても1-2世紀だな。
3世紀は古墳時代で畿内や吉備が強大化している。
970日本@名無史さん:04/09/11 19:56:39
考古学によると箸墓等が3世紀頃の築造だとする説がある。
しかし、本当なのだろうか?
考古学的検証とは、科学的な検証をしているものなのだろうか?
それほど信用していいものなのだろうか?

90年代に入ると考古学的発見が相次いだ。
日本中で発掘がされて、次から次へと新発見のニュースが飛び交い、
人々はその新発見に一喜一憂し、さらなる刺激を求めつづけた。
それは、流行でありブームであり熱狂的であった。
まるで、新興宗教的な集団洗脳の儀式を見ているようだった。

しかし、捏造が多発する事件が発生してから、急速に信用が失われていった。
971日本@名無史さん:04/09/11 20:01:22
>>970
魏や呉の鏡は弥生時代の墓からは出土せず、古墳時代の墓ばかりで出土する。
昔が根拠なく古墳時代の始まりを遅らせていただけ。
安本はこの不自然な説が崩れて、九州説が砂上の楼閣になって火病連発。
972日本@名無史さん:04/09/11 20:13:34
さて、考古学ではどのような年代検証がなされているのだろうか。
発掘現場からの出土品の形や様式から、また埋葬方法から年代推定しているのだろうか?
この方法で年代推定するということは、他に年代が確実に推定できているものが必要になるが、
その基になったものはどのように年代測定したのだろうか?

また出土品が製作された年代、使用されていた年代が測定できたとしても、
それらが廃棄され埋葬された年代までわかるものなのだろうか?

出土品はいつも完全な形のままで出土されるわけではないだろう。
バラバラの破片からどのようにして様式を読み取るのだろうか?

もちろん、断片的な情報を地道につなぎ合わせて解読していく姿勢は敬服します。
973970=972:04/09/11 20:21:23
>>971
情報ありがとう。

歴史学者が線引きした弥生時代や古墳時代というものが、
考古学の発掘によって線引きの見直しが迫られている、ということだろうか
974日本史@名無しさん:04/09/11 20:42:26
>安本はこの不自然な説が崩れて、九州説が砂上の楼閣になって火病連発。

楽しいか?
975日本@名無史さん:04/09/11 21:01:48
>>974
事実を紹介しただけ。近年は安本の火病が酷い。
http://yamatai.cside.com/
976日本@名無史さん:04/09/11 21:06:16
>>972
> それらが廃棄され埋葬された年代までわかるものなのだろうか?

墓によってまちまちだろうが、例外なく100年以上も経って副葬されるとは考えられない。

> バラバラの破片からどのようにして様式を読み取るのだろうか?

もちろん型式が判明できるだけの遺物が得られた場合です。
977日本@名無史さん:04/09/11 21:37:44
>>961
ば〜か!卑弥呼は弥生時代だろ。卑弥呼の墓は、古墳じゃなくて「チョウ」だぞ。
978日本@名無史さん:04/09/11 21:40:29
>>977
卑弥呼が古墳時代の人物であることは確実だし
箸墓は年代・規模・伝承から最有力。
979日本@名無史さん:04/09/11 21:46:33
どうもこのスレの連中って話がかみ合ってねえな。
卑弥呼の時代は昔の区分だと弥生時代で最新の区分だと古墳時代だろ?
統一して使えよ・・・。
980日本@名無史さん:04/09/11 21:47:42
>>970 捏造が多発する事件が発生してから

多発といっても、一人の馬鹿が何度も仕込んでたわけで。
まあ、それを暴いて結果を修正する勢力がいたのは良かった。
981日本@名無史さん:04/09/11 22:02:37
>>978
卑弥呼が古墳時代の人物でないと困るのか?
982日本@名無史さん:04/09/11 22:11:16
卑弥呼の時代は「狗奴国」との争いのあった時期。
古墳を作る余力があったとは思えない。

逆に言えば「狗奴国」と対立していなかったからそこ、古墳を作る余力が
あったとも言えるわけで、したがって卑弥呼の時代に古墳が作られた勢力圏は、
邪馬台国ではない。
983日本@名無史さん:04/09/11 22:25:29
>>978
>卑弥呼が古墳時代の人物であることは確実だし

どこがどう確実なのか、自分で「論証」し証明せよ
984日本史@名無しさん:04/09/11 22:29:43
>>981

つまりどうしてもマキムクやホケノ山などに結びつけたいわけだw
つうか、「古墳時代」なんてあいまいな概念自体古いのにね。意味無いし。
985日本@名無史さん:04/09/11 22:36:36
倭人伝によると、「ヒコ」ってのは官名だよね。
で、崇神の名が「ミマキイリヒコ」で、あきらかに官名。
その妹だったか姪だったかが卑弥呼なんて、ありえないんじゃないの?

崇神は、卑弥呼か臺与によって「ヒコ(もしくはイリヒコ)」に任命された豪族でしょう。
986日本@名無史さん:04/09/11 23:13:33
>>984
いや、だからさ。
邪馬台国が北九州にあったとしたところで、
倭国王の座が、北九州→畿内に移ったのは確実だし。
三輪山麓の王権が初期大和政権になったのは記紀を読めば分かる。
君は、邪馬台国が北九州にあったとして、その後の大和朝廷の成立について
どう考えているのか?
98725歳♂投馬国王の子孫:04/09/11 23:22:27
私は九州邪馬台が東遷して大和朝廷になったのを
最有力説だと思ってますが、もう一つの可能性としては
日本書紀に神功皇后が北九州の山門の女酋長を滅ぼしたという
記述があります。これが卑弥呼だとすると、3世紀前半に
すでにマキムクを中心とした連合国家があり、この勢力が
九州邪馬台国を滅ぼし、大和朝廷になったんでしょう。
出雲に大量の青銅器が発見されたことから出雲経由で大陸からの
技術の流入があったんでしょうね。そしてマキムク政権に
多大な影響を与えていた出雲も滅ぼされ、出雲大社ができたと。
宇佐神宮の比売大神が卑弥呼だとすると、応神天皇と神功皇后は
卑弥呼の怨霊鎮魂のために一緒に祭られているのだと解釈が出来ます。
どうでしょうか?
988日本@名無史さん:04/09/12 00:54:39
>>987
君の思う最有力の説を書いて。

>宇佐神宮の比売大神が卑弥呼だとすると、応神天皇と神功皇后は
>卑弥呼の怨霊鎮魂のために一緒に祭られているのだと解釈が出来ます。
後世の人、少なくとも記紀の編纂者は、卑弥呼=神功皇后と考えているのだが。
宇佐に応神が祀られたのは、欽明の頃、6世紀の話。
欽明が自らの直接の先祖である応神を神格化するために、しでかした事だろう。
98925歳♂投馬国王の子孫:04/09/12 01:17:02
>>988
もう何度も書いているのですがw
とりあえず>>897あたりを参照してください。
99025歳♂投馬国王の子孫:04/09/12 01:18:23
間違えましたw
>>895です。
991日本@名無史さん:04/09/12 02:56:11
>>895
随分と強引な説だね。
君がその妄説を思いついたのが記紀を読んでなら、君の説と矛盾する記紀の記述は
全部無視なのか?
例えば、神武のこととか、欠史八代はどう考えるのさ。
君の思いつきは根拠不足、単なる想像であって、間違いであるとか議論できる
レベルの内容じゃない。
だから
>間違いだと思う人はどこが間違いか指摘してみてくださいよ
とか言っちゃダメだよ。
まあ、応神東征→河内王朝は個人的に賛成なんだけど。
992日本@名無史さん:04/09/12 03:02:36
>>895で賛同できるのは
「倭人伝の水行20日陸行1月は邪馬台国へといたる全日程の合計」
という部分だけだな・・・・
993日本史@名無しさん:04/09/12 06:55:31
時期が問題なんだよ。昔みたいに「九州は衰退」って馬鹿の一つ覚えみたいに言ってるのは
もう通用しないし、実際出雲は所詮神話の話と馬鹿にされてたけど実体の方が発掘によって
明らかになってきてる。

あとは、西→東の、倭国王という看板そのものの移動の時期と、それまでの交渉史だと思うん
だよな。もちろん時には東→西もあっただろうし。

この時代の、文献が乏しくて記紀のような改ざんしか無い状況で、困難なパズルを組み立てる
ことが日本古代史の中心課題といってもいいはずなのに、幼稚な荒らしや傲慢な断定、都合が
悪くなると「学会」や「箸墓」で議論を終わらせようとする連中の多いこと。古墳時代が早まるとか
なんだよそれ。国立研究所の発表の衝撃もそんなちっこい問題に矮小化かよorz

多分内容的には専門職の人も間違いなくいるだけに、相も変わらずの古代史業界の体質が見
えてしまって自分的には萎えだよな。
99425歳♂投馬国王の子孫:04/09/12 10:05:44
>>991
神武や決死8代は、皇室を長く見せるための
でっちあげですよ。そんなこともわからないのですか?
995日本@名無史さん:04/09/12 10:20:59
>>994
うわあ…いまだにこんな厨みたいなこと言う奴がいるとは・・・
99625歳♂投馬国王の子孫:04/09/12 10:57:37
だったら何が正しいのでしょうか?
まあ何をいっても否定されるとこですから
気にしませんけどねw
997ゴジンム:04/09/12 10:58:10
>>994
そうだったら、けちけちど8代位より、50代100代と代数をふやす。pupupu!
99825歳♂投馬国王の子孫:04/09/12 11:03:25
>>997
50代も100代も名前やストーリー考えてたら
疲れてしまうでしょうがw
99925歳♂投馬国王の子孫:04/09/12 11:04:10
風のたどり着く場所に邪馬台国は存在した
100025歳♂投馬国王の子孫:04/09/12 11:04:46
1000なら私の説が正解
10011001
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