一体この家は何回養子を貰えば気が済むのだろう?
ギネスに載るまで?
3 :
日本@名無史さん:04/07/27 14:54
ようし がんばるぞ
上杉謙信、上杉景勝、上杉鷹山、吉良の馬鹿息子。
有名ところはみんな養子。
>>1は
,v------i、 ,l冖'''''''''''ッ r''''''''''''''''ュ .,,r・'''"゙"''・x,、 .,v・'''"゙"'''・vー┐ .,r¬''''''''''''L
|_,,、 .゙l, .゚ー、 r‐″.―i、 .r-".,r″.,,,r‐--,,、.゚'li、 ,r″.,,,r---v,、 .| _,,=@ ゙l、
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.,l°゚1゙l ゚t゙|] | ――ー" | .| j′ │ }| 〔 .゙'''″ .,i´ '| } .゙|.]゙l
.,i´ .lひ .ll川″ | _,,,,,,,,,,,, | l゙ | | .|| .| ,「 .lレ″ liゾ[
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: 广  ̄k .广゛ `~N゚~゛ `~ト .广` `~ト .゚=,,、  ̄` ,,rぐ ゙'r,,_  ̄^ .,,x'゚[ .] l″ .]
: ゚''――'''″ ゙¬―ー'''゚.゚''――'''″ ゚''――'''″ `゚'''ー'''''″ .`゚''''―'''''゙~  ゙゙゙゙゙゙゙̄″ `¨゙゙゙゙゙゙゙゙″
'i、 _,,----,,,,、
.ヽ ,,,,,二 `゙'ヽ、
'b、 .レ‐'''''ヽ, ゙゙゙゙゙"' ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
.!ご゙゙゙゙'""'''''''''''''" ゙l ゙l、 <
>>1 糞スレ立てんな、蛆虫、氏ね。
゙''゙l|2ニ,,-,,,,,_ \ ゙l, ,--、 \______________
.゙|i、 `゙゙'''''レニニニ',"",,r" ゙l.(′ `'-,
从--‐'}  ̄` `゙゙゙゚゙^'ッ,, ,/`
゙l,'|i、 l ,,,i´ ″
`'〜、| ヾ^ ゙l
6 :
日本@名無史さん:04/07/27 16:15
越後上杉の養子になりそこねた伊達実元。
引き出物の「竹に雀」だけはちゃっかり使用。
7 :
日本@名無史さん:04/07/27 16:36
∧_∧ ∧_∧
_( ´∀`) (;; @u@)
三(⌒), ノ⊃ (
>>1 ) 糞スレは・・
 ̄/ /) ) | | |
. 〈_)\_) (__(___)
∧_∧ .∧_∧
( ´∀) (;; @u@)
≡≡三 三ニ⌒)
>>1 .) 立てんなって
/ /) )  ̄.| | |
〈__)__) (__(___)
∧_∧ ,__ ∧_∧
( ´)ノ ):;:;)u@)
/  ̄,ノ''
>>1 ) 言ったろうが
C /~ / / / ヴォケがー
/ / 〉 (__(__./
\__)\)
ヽ l //
∧_∧(⌒) ―― (@u@)なんだと ―――
( ) /|l // | ヽ
(/ ノl|ll / / | ヽ
(O ノ 彡'' / .|
/ ./ 〉
\__)_)
8 :
日本@名無史さん:04/07/27 16:40
| __ /
な そ |,、_,.、_ _rvヘ-''"´..:::::::::::.. ̄`ヽjヽ ,' い. そ 立 糞
い り l::::::::::::`〜-、 >...:.:.:.::::::::::::::::::::::::::::.:.:... ノ | う の て .ス
だ ゃ 〈::::::::::::::::::::::::ヾ、 (rソ:::::::::::::::::::::::,ィ:::,、:::::::::.ヽ. | の ま て レ
ろ あ L_:::::::::::::
>>1}} (/::(:r'ハ::f(/ノィノイ(::::::::::! | か ま お を
. う 厂ト、:::::::;;::::;;:rシ ゝ(.ン=≧-、`lニニ二r |r-、! | い 逃. い
? /::::}} `'´_,、! ハ!'´li゙}゙f| '´lリ` |l}、l| .〉 ? げ .て
\ /.:::ノ′r'フ'⌒´ト l l;  ̄.ソ  ̄ j「ノノ! |. る. .
::::::.`ー一 <、::::) ´,fリ \、 ヾ! Lャ- ,!r':::リ| っ
::::::::::::::::::l fヘ〉l::} ''"" _´丿 ', ーニ-''" ハ::::f′\
::::::::::::::::::\ ゞ'′, ´ ( i、 ー' /! ぐリ \ /
ヾ:::::::::::::::::::ゝr-、 i, ∠´「 _」 \_/ ,! `ヽ、  ̄ ̄)厂 ̄ ̄
`(::::::::::::::;;F′ヽ ャ′ __,,、-‐''"´ |i , ′ `ー- 、..__
L;;::::::广′ `ー- 、._ ) / `‐- _ ′! / ! _,..、 ''"´ ``丶、
ツ ::::::i ̄__/ _ ヾ  ̄`` r┴'''"´ ̄ -''゙ ヽ.
_、-''| / >'´, ,`´  ̄\へ ,i i′ ゙;
=ニ´_ j i / i′/ / / ィ‐-L.._\ ,! :l i
`ー 、_' _,,⊥-ヽl'' { j= r′ `ヽ、 l ' 、 .::|
ヽ '´ \ヽノ .ノ ヽ| ゙! ::::|
9 :
日本@名無史さん:04/07/27 17:13
10 :
日本@名無史さん:04/07/27 20:15
憲房の養子重能
重能の養子能憲
能憲の養子憲孝
11 :
日本@名無史さん:04/07/27 22:09
養子だらけということは、それだけ名家ってことよ。
12 :
日本@名無史さん:04/07/27 22:14
ドキッ!!養子だらけの上杉家!!!
上杉義枝(1720〜1742)
旗本千四百石 高家
養父:上杉知義
実父:伊達村豊
やっと上杉さんになれた伊達さん
>>13 ってことは、俺には伊達の血も流れとるのか?
15 :
日本@名無史さん:04/07/30 19:19
古河公方からも養子を迎えてたよなあ
16 :
日本@名無史さん:04/08/01 08:00
血筋が全く入っていない名家ってある?
17 :
日本@名無史さん:04/08/01 12:21
あの〜上杉謙信自身が長尾晴景(兄)の養子になって長尾家を継いで、その後、
上杉憲政の養子になって上杉政虎になって・・って感じなんですが。
極端に言えば養子が伝統なんじゃないの?
18 :
日本@名無史さん:04/08/01 12:27
ウホッ!いい養子
19 :
日本@名無史さん:04/08/01 12:28
綱憲・治憲(鷹山)は養子だけど、母系に景勝の血が入ってる。
20 :
日本@名無史さん:04/08/14 21:10
愛の前立
21 :
日本@名無史さん:04/08/14 21:15
景勝は謙信の姉の子じゃないか!
吉良に至っては、師直(言うまでも無い)さんの子が有名で全く別の人間扱い!
よーわからんが仮名手本?
23 :
日本@名無史さん:04/08/21 01:44
元々はバリバリの坂東八平氏鎌倉党。
母系で桓武平氏の血が引き継がれ、
中臣鎌足以来の家柄を継ぎ、
足利の名門、吉良の清和源氏の血をも引き継ぐ、
源平藤の超・名門だぞ!橘が入れば揃い踏みさ。
>>24 長尾が桓武平氏、上杉が藤原氏ってのはそれぞれ系譜研究者の間で疑問視されているよ。
どうせ同級生の上杉君にいじめられてる奴なんだろな・・・
28 :
日本@名無史さん:04/08/22 11:34
>>25 重房の出自に疑問が持たれてるというのか?
29 :
日本@名無史さん:04/08/22 12:04
長尾本家は和田合戦で滅びた
age
>>1 別に上杉家はよその家と比べても特に養子が多いわけじゃないでしょ
スレを立てた奴には、上杉に対してなにやら
嫉妬している感じがするさんじゅうニダ。
33 :
日本@名無史さん:04/09/01 13:32
っていうか、上杉スレもしかしてここだけ??
扇谷上杉vs.山内上杉 とか
謙信
景勝(+直江兼続)
鷹山 などなどがいるのに、武田関連のスレの数に比べても少な杉
三戦史板の方が上杉スレは充実してると思われ
ネタスレもあるが(^^;
35 :
日本@名無史さん:04/09/02 01:02
つーか坂東八平氏が平氏の後裔だという説そのものが
疑問視されてるし・・・。
じゃあ、なんたら源氏なんかい?湧いて出たんかい?
なんかソースらしきもんがねーのかねぇ・・・
ただのうんこスレだなここは。
大名で養子ないとこの方が少ない 鷹山も血筋を辿れば上杉家だし
たしか、鷹山のばーちゃんが上杉家から嫁いできた姫様だな。
もうみんな知ってるようなこと書いてどーすんのよ。クソスレ。
定憲は顕定の実子か?
41 :
日本@名無史さん:04/09/12 21:04:36
鷹山の実家が秋月家ということは秋月種実の子孫かよ!
正論の重臣を殺して、いざ秀吉が攻めてきたら茶壷を差し出して降伏した…。
42 :
日本@名無史さん:04/09/13 10:57:06
上杉の伝統は「ホモ」
ゆえに、養子
43 :
日本@名無史さん:04/09/13 12:46:51
ゴメソ、よく考えたたら、こいつは扇ガ谷の養子かw
46 :
日本@名無史さん:04/09/13 16:42:54
それより上杉家の祖先をたどっていくと藤原頼長に行き着くのを知ってびっくり
筋金入りの男色家一族ですか
48 :
日本@名無史さん:04/09/16 19:32:12
49 :
日本@名無史さん:04/09/16 20:33:26
>>46 上杉は甘露寺系だから、初代摂政・良房の弟の子孫なので摂関家とは無関係。
50 :
日本@名無史さん:04/09/16 23:09:23
江戸時代の大名家相続は、
平均してほぼ1/3が養子でしょ。
上杉はもっと多いんでしょうけども。
女だらけの水泳大会だったら良かったのに。
こんな糞スレ削除しろ。
52 :
日本@名無史さん:04/10/09 13:57:49
養子憲実最強!
謙信は女だった。
54 :
日本@名無史さん:04/10/09 14:11:06
謙信は女だった。
55 :
日本@名無史さん:04/10/09 22:42:26
エンペラー吉田
「天才・たけしの元気が出るテレビ」で有名な素人。
「偉くなくとも正しく生きる」の座右の銘と入れ歯をはずすその技で、お茶の間を沸かせた。
56 :
日本@名無史さん:04/11/11 23:59:07
57 :
日本@名無史さん:04/11/12 18:22:03
上杉といっても、ホントは吉良クンだろ?
58 :
日本@名無史さん:04/11/12 20:34:51
上杉といっても、ホントは長尾クンだろ?
長尾より上杉のが響きがいいが、謙信より景虎のが好きかも
源平藤だな
61 :
日本@名無史さん:04/11/13 13:19:00
そこで上杉三郎景虎タンですよ
吉良の子供が上杉家を継いだのは母親が当時の藩主の姉妹だったから。
鷹山は他家から来たが、鷹山の後を継いだのは先代の藩主の息子。
63 :
日本@名無史さん:04/11/13 17:19:57
鷹山も母の母の父が上杉綱憲。
64 :
日本@名無史さん:04/11/13 17:22:44
上杉景虎の子孫ているの?
65 :
日本@名無史さん:04/11/13 17:24:42
いずれにせよ、吉良の直系子孫だな。
66 :
日本@名無史さん:04/11/13 22:32:13
三郎景虎の息子は憲政と一緒に斬られちゃったんじゃなかったか
67 :
日本@名無史さん:04/11/22 22:49:08
タッちゃん私を甲子園に連れてってage
68 :
日本@名無史さん:04/11/22 23:20:57
上杉家に断絶が多いのは
謙信以来の「ウホッ」文化が家風として浸透していたから
と仮説を立ててみる。
69 :
色部又四郎:04/11/23 00:07:56
それゆえに、なにかとわが藩は困窮を
極め申すのです。
大谷家、特に真宗大谷派のように、
ほぼ完璧に嫡男による相続が続いてきた家もある。
しかも、代々血が濃いはずの公家や皇族と婚姻を続けてるのにな。
さすが絶倫親鸞の家風だけある。
>>70 やっぱ坊主はエロいし、
武家に比べてプレッシャーやストレスがないので
ガンガンできちまうわけよ。
72 :
日本@名無史さん:04/11/23 22:39:48
>>71 同じ一族でも、本願寺派は連枝が継いでるのが多いし、常盤井家や花園家、渋谷家、木辺家も
養子が継いでる。坊主でも大谷派はレアケース
ちなみに絶倫は親鸞ではなく蓮如
73 :
日本@名無史さん:04/11/23 22:50:31
全くのスレ違いだけど、エロ坊主の代表は道鏡。ラスプーおちんちん。
俺の憧れは生臭エロ坊主だ。
75 :
日本@名無史さん:04/11/28 13:47:45
謙信が実際に不能(ED)であったという説はのこってないのか?
公家の鷹司家も養子ばっかだよね
77 :
日本@名無史さん:04/12/23 16:46:50
公家は養子の入っていない家なんてほとんどないな。
次・三男以降は他家に養子にいくか出家するかしかなかったので
同姓の分家や生涯部屋住みみたいな存在はほとんど皆無。
当主に男の子がいなければ必然的に養子を取らざるを得ない。
>>75 京都で稚児に性病移されてるからEDではなかったんしょ。
それより女性説の新しい史料は出ないのか?
79 :
日本@名無史さん:05/01/02 22:49:19
単純な女嫌いか?
80 :
日本@名無史さん:05/01/02 23:03:24
養子だらけはホモの証し
81 :
日本@名無史さん:05/01/08 10:26:58
明治まで続いた大名家で養子相続がなかったのは柳沢家だけだと何かの本で読んだよ
82 :
日本@名無史さん:05/01/08 19:11:29
83 :
日本@名無史さん:05/01/09 01:28:22
84 :
上杉播磨守:05/01/09 01:40:14
わが米澤藩は十五万石だが、いずれ天下をひっくり返して越後百二十万石のむかしにもどしたい。
そのためには軍資金が必要で日向高鍋秋月筑前守から治憲侯を養子に迎え、倹約政策を断行す。
86 :
日本@名無史さん:05/01/09 10:26:11
吉里が綱吉の子。w
87 :
日本@名無史さん:05/01/09 11:43:41
養子って言っても男系のみの相続と女系、或いは血すら繋がっていないのとじゃ
雲泥の差が有るけどな。
89 :
日本@名無史さん:05/01/27 05:23:47
>>88 男系にこだわったのが、宇和島伊達だったっけ。家斎の息子を拒否して、
(口減らしに?)旗本に養子に行った先代の弟の孫を養子に
>>88 胴衣。そういう意味では、女系とはいえ藩祖謙信以来(精確には長尾為影以来)ずっと血が繋がってる上杉家はまんざらでもないと思うが。
×影→○景
謙信を便宜上一代目(@)にすると(以下はいずれも血縁、養子関係を含まず)、
長尾為景→仙桃院(@上杉謙信の姉)→A景勝→B定勝→三姫(C綱勝の妹)→D綱憲→E吉憲→H重定(F宗憲、G宗房の弟)→勝煕(I治憲、J治広のはとこ)→K斉定→L斉憲→M茂憲(最後の米沢藩主)→N隆憲→O邦憲(現当主)
また間違えた。スマソ
長尾為景→仙桃院(@上杉謙信の姉)→A景勝→B定勝→三姫(C綱勝の妹)→D綱憲→E吉憲→H重定(F宗憲、G宗房の弟)→勝煕(I 治憲、J治広の兄)→K斉定→L斉憲→M茂憲(最後の米沢藩主)→N隆憲→O邦憲(現当主)
う・・・マジスマン。イッショケンメニツクタノニ また間違ってた全部旧字にしてから逝ってくる
長尾爲景→仙桃院(@上杉謙信の姉)→A景勝→B定勝→三姫(C綱勝の妹)→D綱憲→E吉憲→H重定(F宗憲、G宗房の弟)→勝熈(I 治憲のはとこ、J治廣の兄)→K齊定→L齊憲→M茂憲(最後の米澤藩主)→N隆憲→O邦憲(現當主)
現当主は何やってんの?
96 :
日本@名無史さん:05/02/07 01:20:02
ageとく。
養子が多いとはいえ、景勝から現在まで、一回女系を経由しただけみたいですね。治憲(鷹山)の実子顕孝(治広の養子)が夭折しなかったらまた変わってきてたかもしれないけど。
顕孝も母親は上杉一族出身だし
初代からの血統を守り通した一族なのは間違いなかろう。
ところで、景勝の子供ってホントに定勝1人だけなの?
お手軽な系図では定勝1人しか書いてないようなので・・・。
一人だけです。
正室の菊姫の間には子供は生まれず定勝は側室の子。
その側室は定勝を生んで半年ほどで亡くなってその後はずっと独身。
結婚してから子供がいないまま養子も取らずに20年以上ってすごいね。
急死したりしたらどうするつもりだったんだろ。
>>98 時折ネタにもなる男色云々は脇に置いといて、
>急死したりしたらどうするつもりだったんだろ。
ほんと謎だよね。
自分も不思議な気がする。養子ぐらい手元に置くのが普通では。
100 :
日本@名無史さん:05/02/10 03:59:08
100記念カキコ
ただの→は実の親子関係、[]はそれぞれの間柄を表す
藤原鎌足→不比等→(北家)房前→真盾→内麿→冬嗣→良門→高藤→定方→朝頼→(甘露寺)為輔→説孝→頼明→憲輔→盛実
→顕憲→盛憲→清房→(上杉)重房→頼重→憲房→(山内上杉)憲顕→憲方→憲定→憲基―[いとこ]→憲実→憲忠―[弟]→房顕
―[いとこちがい]→顕定―[はとこ]→憲房→憲政
藤原鎌足→不比等→(南家)武智麿→巨勢麿→貞嗣→高仁→保蔭→道明→尹文→(山井)永頼→能通→実範→季綱→友実→能兼
→(高倉)範季→範茂→範房→模世→女(平高望妻)→平良文→→忠通→(鎌倉)景成→景政→景次→(長尾)景行→定景→景茂→
景能→定時→景廉→高景→景房→頼景→重景→能景→為景→景虎(政虎,輝虎,謙信)
よってこの系図に拠った場合には、養父上杉憲政と養子上杉謙信は61親等離れているが血のつながりがある
101 :
日本@名無史さん:05/02/10 10:57:20
なら源平藤橘皆兄弟ね
102 :
日本@名無史さん:05/02/10 11:37:59
103 :
日本@名無史さん:05/02/10 12:18:14
いや、以外に藤原氏と平氏って血が繋がってないことがありうる。(多くは繋がってるけど。)
なぜなら、桓武天皇に藤原氏の血が入っていないから。奈良時代の聖武天皇や孝謙天皇の母は藤原氏だが、こちらは孝謙天皇
が重祚した称徳天皇が宝亀元(770)年に崩御したことで皇統としては終わりで、次は奈良時代初期に分かれた系統の光仁天皇
が即位し、その皇太子が後の桓武天皇。桓武天皇の后などは再び藤原氏だから、これ以降の天皇には藤原氏の血が入っている
が、桓武平氏の祖葛原親王は桓武天皇と多治比氏の娘との間に産まれているから、この時点では藤原氏の血は入ってない。
105 :
日本@名無史さん:05/02/14 21:35:02
長尾氏発祥の地、現在の神奈川県横浜市栄区長尾台町
山内上杉氏発祥の地、現在の神奈川県鎌倉市山ノ内
当然といえば当然だが、両者は非常に近い。直線距離で二キロくらいか
>>98 景勝
>急死したりしたらどうするつもりだったんだろ。
あと継げそうな一門衆っていたのかな?
古志って滅びてるよね?
>>106 >古志って滅びてるよね?
滅びてる。つーか思いっきり滅ぼした。
世にいう御館の乱も景勝vs景虎というより、
上田衆(景勝の股肱)vs古志衆(上田衆と確執ありまくり)の戦いと見る向きが多い。
うん。長尾一族って仲悪いよね。
景勝と血繋がってるは上条の息子ぐらいだけど政繁出奔してるから微妙?
道満丸だってむちゃくちゃ血を分けてますけどおもっくそ惨殺
妹もあっさり自害してるし、生かしておこうとか全く考えてなかったであろう悪寒
>>108 天正12年に甥っ子の上条政繁息子を養子にして秀吉の人質にしているよ。
ちなみに政繁と景勝が信濃統治をめぐって対立し、袂を分かったのは天正14年のこと。
>>109 あの時代よくあるケースとはいえ、わずか9歳だったと云われる道満丸は実に不憫だ。
北条という後ろ盾ゆえに戦に担ぎ出されてしまったように思える三郎景虎も、
実兄に追い詰められて死んでいった華渓院も本当に悲運の人だ。
とにかく過去に溜まりに溜まっ宿怨がいっきにあの乱で吹き出た感じがするな。
妹一家を皆殺しだからな。
子供が一人しかできなかったのはそれの祟りだよ。
一家皆殺しっていっても3人だけでは。
ところで道満丸は結婚してからすぐ出来たっぽいけど
その後何年も一緒なのに子供生まれてないんだね。
上杉ってどの代も子供少ないイメージがあるよ。
>>112 3人だけって、血を分けた妹や甥を殺しといて3人だけってのはあんまりやろ。
しかし武田信玄も息子を殺しとるし、伊達政宗も弟を殺しとるし、
戦国大名というのは今のヤクザみたいな奴等だったんかな。
殺らなきゃ殺られるんですよ
まぁ単にコロシが好きだったやつも中には・・・
115 :
景勝:05/02/17 21:23:52
>>114 >まぁ単にコロシが好きだったやつも中には・・・
叔父さんのことですか
116 :
日本@名無史さん:05/02/17 22:19:24
菊姫は京屋敷に放置で自害説があるな
菊姫死亡と定勝誕生の時間差がよくできすぎてる
まあその後四辻娘は産後の肥立ちが悪くてやっぱり死んでしまうわけだが
記録にはないが家中で菊姫怨霊説が流れていてもおかしくはない
余談だが菊という名の姫は我が国ではよく祟る
宗像氏を滅ぼしてみたり小幡氏を滅ぼしてみたり
118 :
謙信:05/02/18 05:14:18
119 :
日本@名無史さん:05/02/18 20:41:21
上杉鷹山って上杉景勝の血は流れてるの?つまり子孫かどうか。吉良上野介の血は?
>119
母系で一応血は流れてる。
121 :
日本@名無史さん:05/02/18 20:48:15
江戸時代の上杉の家系図ってありませんか?
122 :
日本@名無史さん:05/02/18 20:54:53
>119
今川氏真--吉良義定妻--吉良義弥--吉良良義冬--吉良義央(上野介)--上杉綱憲--
」
-----------------------------------------------------------------------
|
--黒田長貞妻--秋月種美妻--上杉鷹山
吉良上野介だけでなく今川氏真の子孫だったりもする。
123 :
日本@名無史さん:05/02/18 21:13:11
そうか?
125 :
日本@名無史さん:05/02/18 21:28:51
126 :
日本@名無史さん:05/02/18 23:05:30
>>122 羨ましいな。
俺も一つでいいから、貴族の家に繋がる系図が欲しい。
徳川とか松平じゃなくて、今川とか吉良とか斯波とかのはっきりとしたやつ
>>126 その気持ちすっごくよくわかるッ!!
もちろん御先祖様を敬う気持ちはあるけど。
128 :
日本@名無史さん:05/02/19 00:24:50
129 :
日本@名無史さん:05/02/19 03:31:55
宇宙科学研究所の上杉邦憲氏はこの上杉の一族ですか?
131 :
日本@名無史さん:05/02/19 13:37:39
鷹山って九州から養子に来たんだよね
上杉が貧乏だとは聞かされていたんだろうけど、論外の貧乏とは
知ってたのかねえ
養子の話が決まった後に、実は倒産寸前で・・・と打ち明けられたりして
132 :
日本@名無史さん:05/02/19 14:45:13
そういえばサーヤの婚約者の黒ちゃんは上杉家出身って話ホント?
またいい加減なことを・・・
>>131 九州からといっても、育ったのは江戸の秋月の屋敷だけどね
倒産寸前の藩に来ることを、悲惨ととったかやりがいがあるととったか・・・
江戸では常識だったんだろ
新品の鍋なんかの金物の金っ気を抜くおまじないで「上杉、上杉」てのが
あったらしい
136 :
日本@名無史さん:05/02/20 15:15:24
137 :
日本@名無史さん:05/02/20 16:19:39
この程度で親戚と言うのか?
皇女を迎えるにしてはしょぼい家だな。
138 :
日本@名無史さん:05/02/21 03:16:37
半端に有名人いるくらいの家柄なら百姓に嫁げ
139 :
日本@名無史さん:05/02/21 04:53:47
吉良上野介の子孫だけあって鷹山も名君だ。
140 :
日本@名無史さん:05/02/21 07:33:38
>>136 華族社会の周縁部にたむろしてる一般人(新興実業家)の家系にすぎない。
>>129 上杉家17代当主 にして 文部省宇宙科学研究本部教授 です。
142 :
日本@名無史さん:05/02/21 16:08:42
143 :
日本@名無史さん:05/02/21 16:35:01
>>142 なんか怪しい系図だな
普通長尾氏といえば鎌倉景正の孫景行から出るんだが
てか頼朝の配下は平氏ばっかだろうが。
146 :
日本@名無史さん:05/02/21 21:55:09
147 :
日本@名無史さん:05/02/22 01:33:17
148 :
日本@名無史さん:05/02/24 01:32:13
長尾の直系の子孫は残ってないの?
上杉に改名してない・
149 :
日本@名無史さん:05/02/27 12:57:40
>>149 とっくに締め切りが過ぎているわけだが。
151 :
日本@名無史さん:05/02/27 14:14:38
>子孫も未来永劫
直江兼続は子孫はおろか
名跡さえも絶えたわけだがw
名門上杉は永遠ですが、パートナーなんて使い捨てですから!
兼続も使うだけ使ってポイよ、ポイ。
まあもともと直江とは名ばかりで尻の穴で抜擢された人だからなあ
確かに兼続死後の扱いには禿げしく???だよな。
あの死亡直後の位の低い戒名といい菩提寺破却の件といい。
景勝ももうちょっと何とかしてやれんかったのかとオモ。
直江未亡人はあれだけ大事にされてるのに
>>155 愛のない婿養子生活に疲れた兼続は
上杉なんか別に滅んでも(・∀・)イイ!と西軍につきました。
兼続の決断がまわりの大名に比べて果断に見えるのは
負けたってウザ嫁が困るだけ、勝てば俺の功績
という開き直りからなのです。
きっと晩年にホモの痴情のもつれで景勝と大喧嘩したんだよ
そのころは同じく美形の清野長範が重用されていたからね。
景勝の色小姓上がりで才気バツグン、キャラがかぶる長範タンは
兼続死後の与板衆失脚キャンペーンの立役者でもある。
159 :
日本@名無史さん:05/02/27 15:24:03
>>155 菩提寺破却の時には景勝は既に亡くなっていたわけだが
160 :
日本@名無史さん:05/02/27 15:24:41
161 :
日本@名無史さん:05/02/27 15:33:59
>きっと晩年にホモの痴情のもつれで景勝と大喧嘩したんだよ
激ワロスw
なんかそういや晩年男色禁止令出してたような。
「直江兼続の全て」によればの兼続の子は早世。
本人及び夫人の希望で直江家の録は藩主に返すことを決めたらしいぞ。
「上杉氏年賦」によれば天正年間に藩主景勝は
各種の法令の中で衆道・男色の禁止をしている。
上記の正式な書名は以下の通り
上杉氏年賦 → 『上杉氏年表』
直江兼続の全て→『直江兼続のすべて』
165 :
日本@名無史さん:05/02/27 20:44:03
つーか景勝こそマヂホモだろ。
武田信玄の娘は20年にわたりお手つき無しでいじけて伏見で自害するし。
四辻公遠の娘が定勝生んで早々に死んだ後は20年間ずっと男やもめ。
つーか四辻権大納言家から御胤付きで御輿入れしてきたんとちゃう?w
>>163 下々には禁止して置いて自分はやりまくりかよ
むしろ「おまいら長範に絶対手ぇ出すな」という純愛
長範タソがレイープ未遂事件で家中一切厳禁
とかいってみるテスト
スレが妙な流れになっとるな。
上杉の男色禁止令って慶長年間じゃなかったか。
景勝60歳ぐらい。長範は40歳近く。レイープって…ww
そういや兼続も養子数人居たはず。本多やら本庄やら。
みんな直江家には残らず本家へ戻ったんだっけ。
本多の次男は前田家へ行ってるよ。
>>168 兼続に実子が生まれて、本庄は実家に戻る。
本多の次男は嫁(兼続の娘)が亡くなって前田家へ
前田に移ってからも兼続には恩義をもって接していたとなんかで読んだ。
172 :
日本@名無史さん:05/02/28 11:47:23
金沢に本多政重の甲冑が残っているが兼続が長谷堂城合戦で身につけた甲冑と瓜二つ。
173 :
日本@名無史さん:05/02/28 11:53:25
鷹山前後の家系図詳しく教えて。
古本屋逝ってマジ向けホモ本見てみろ
髭ヅラむちむちのオサーンばっかりだぞ
40歳とかぜんぜんおかしくない
>>174 髭禿デブはぶっちゃけ短髪マッチョと同じくらい人気だよね。
>>170 そういう説はあります
一応参考に
於菊・甲斐御前・大儀院
1558年(永禄元年)〜1604年2月16日(慶長九年)
上杉定勝・従四位下左近衛少将
1604年6月2日(慶長九年五月五日)〜1645年10月29日(正保2年9月10日)
あとはご自身で好きな説を採ってください
後ろ盾の無くなった正妻の立場といえば斉藤道三の娘などが代表的でしょうか
余談として、政治のために結婚した夫が一切手を出してこないのでホモかと思ってたら
第二夫人に子供が、てまるで山岸涼子の「日の出づる処の天子」みたいですね
菟道貝蛸皇女と蘇我刀自古郎女
当然フィクションですが
177 :
日本@名無史さん:05/02/28 21:09:02
>>176 子ができないから即ホモ判定はあんまりだよ。
菊姫が石女であるにもかかわらず、
自らを救った同盟への義理やら実家を失った姫への労りやらを重んじて
晩年まで側室を持たなかった、ともいえるんじゃないか。
嫡男がいないと大名家としてヤヴァイとか
そういうことを天下が固まるまで考えないあたりが
いかにも上杉。
景勝がガチホモで喜ぶ腐女子はいても
困る人なんて誰もいないからee-JUMP
179 :
日本@名無史さん:05/02/28 21:49:05
>>177 確かに子ができなかったけど猿はホモじゃないわな。
秀勝(一人目)
>>176 なんでそんなエラそうに漫画と同列に語ってんだw
あとはご自分で好きな説をって、
景勝をマジホモ、菊姫は手つかずの処女妻と必死に言い張ってるようにしか見えんが。
景勝は謙信譲りの正義の人
兼続は悪狸家康に逆らった忠義の人
で別にいいじゃないですか
今更重箱の隅ほじくり返さなくったって
大国実頼を国外に追い出してついに存命中帰国を許さなかったとか
安田能元の功績を私怨で全く取り次がなかったとか
そんなことは無かったことにすべきなんです
ところで謙信の死後、勝った戦争はあるの?
景勝が景虎に勝ったってのは無しで
新発田重家に大勝利
、、、5年かけて
あ、サドの本間氏に勝ちましたね
>大国実頼を国外に追い出してついに存命中帰国を許さなかったとか
>安田能元の功績を私怨で全く取り次がなかったとか
改めてこう書かれると兼続って微妙…
他の家臣にも呆れられてアホ扱いされた実頼はともかく、
安田能元の件はなんだかなぁ。
閻魔状の話を美談ととるかDQNととるかで
キミの上杉ファン度がわかるぞ
つーか上杉のプロパガンダはなかなか絶品だと思うので
敬意を表し、敢えて乗ってやるのもまた一興ってかんじ。
忠臣蔵でも色部又四郎とかオイシイ役どころだよね
吉良邸の上杉兵がただの1人も浅野浪人を倒せなかったのはさっぴくとしても
190 :
日本@名無史さん:05/03/01 06:55:03
>>183 景勝は謙信に譲ってもらえなかったの正義の人 に訂正
191 :
日本@名無史さん:05/03/01 07:03:45
上杉のプロパガンダは実は紀州徳川家というクライアントあってだから
けっこうムチャなことでもやれたのかもね
ttp://osaka.yomiuri.co.jp/katati/ka40517a.htm >「本名宇佐美ニ相改メラレ申スベキ旨 仰セ付ケラレ候(そうろう)」
>頼宣に召し抱えられ、上杉家軍学の体系化を進めていた「大関左助」なる藩士に、
>二代藩主の光貞が宇佐美姓を名乗るよう命じた、とする内容だった。
>
> 宇佐美定祐、の誕生だ。
けっきょく宇佐美定祐って紀州からの出向者じゃん
大関というと杉原親憲の実家で浦佐の大関氏を連想するわけだけど
なにか関連あるんでしょうかね
浦佐といえば坂戸のすぐ近くで上田長尾の勢力圏ですが
>景勝は謙信に譲ってもらえなかったの正義の人 に訂正
アンチ景勝粘着っぽい
>>191 初期は武田びいきの徳川宗家に張り合うために上杉推しだったくせに
いざ将軍職を手に入れると見向きもしなくなる
現金なものだ
>>193 しょせん上杉は「武田のライバル」なのですよ。
上杉のライバルが武田、なのではないのですよ。
巨人と阪神。
195 :
日本@名無史さん:05/03/02 11:13:00
そのライバルに庇護を受けていた武田信清殿と元武田家家臣
なんにせよ諍いは見苦しいな
現上杉家当主と現武田家当主は定期的に酒を酌み交わす程の莫逆の友でもある
これを見たら嘆き悲しむだろうて
別に嘆きませんよ。
初めから私恨なんてないんだから。
信玄の遺言も、信清を親族として大事にした景勝もイイ!
>>192 景勝好きだが謙信はちょっと…てひとじゃないのか。
高坂の息子ってたしか景勝に手討ちにされたんじゃなかったか
北条に寝返ろうしたのがばれたんだっけ?
>197
192じゃないけどアンチ景勝の人はネチネチと叩いてくるのがちょっと…
>>193 その副産物で上杉に関する逸話が多く広まって、
小説やドラマの題材になったんだから定祐にも
まあちょっとは感謝せにゃならんでしょう。
さらにその副産物がなんでもマンセーの上杉厨だが。
>>197 192だが謙信ファソですが何か。
景勝も兼続も鷹山もおまけに武田も好きですが何か。
君は景勝叩きの人?だったらいい加減しつこいからヤメレ。
202 :
日本@名無史さん:05/03/03 11:11:34
上杉には武田保存会みたいなのはない?
>>202 どうだろ?
でも、武田保存会みたいなのって
他所でもあまりないんじゃないかな?
よく知らんけど。
「結城同族の会」なんてのはあるらしい。
景勝は信玄の息子(6男?)大事にしてるよね。
親族扱いにして、子孫も明治になるまで、上杉家高家衆筆頭だよね?
206 :
日本@名無史さん:05/03/03 12:12:56
安田信清でしょ?
景勝が景虎に勝てたのも勝頼が援軍くれたから。
結局そのために武田は滅んだが、景勝は恩に感じていたんだろう。
>>206 >結局そのために武田は滅んだが
そこんとこ、詳しく。
織田と北条で手を組んで武田を滅ぼそうと書簡のやり取りしている。
もっとも、北条は武田が劣勢をなかなか信じられず、
参戦しないまま武田が滅びた。
後に参戦できなかったことを悔やんでいる。
>景勝が景虎に勝てたのも勝頼が援軍くれたから。
援軍というより、勝頼は景勝から上野と1万両を貰って、軍を引いたでしょ?
この時の勝頼は依頼先の北条が数日経ても影虎援軍を発しないのを怪しんでいた。
tp://jyosei.hp.infoseek.co.jp/kikuhime.htm
異母兄の勝頼が、景勝と結ぶにあたって22歳で嫁いだ。上杉家では
盛大な婚儀を行ったという。美貌と聡明さを兼ね備えた女性で、
上杉家中では甲州夫人・甲斐御前・御寮人様などと呼ばれて大切に扱われた。
信清を大事にしたのは奥さんの弟だから。
親族扱いもその為。
そもそも謙信在命中北条とは臨戦態勢だったとか(武田とは和睦済)、
佐竹との決戦の動員が決まってて北条家の官僚機構では弾力的な動員ができないとか、
補給線の弱い上州峠を嫌ったとか、
そもそも氏政が妾腹の景虎を嫌ってたとか、
考えられる状況は多数あるが
少なくとも勝頼が穀倉地帯の北信濃を非常に欲しがったのは間違い無いだろう。
織田との決戦を控えて動員力が変わってくるのでね。
北信濃割譲が円滑に進んだことが後の景勝信濃衆重用の理由の1つではあると思われる。
>>209 伊藤かずえが「美貌と聡明さを兼ね備えた」はちょっと厳しいもんあるけどねw
シャムシェイドのベースと結婚したいわゆるバンギャだし
ちょっと懐かしいドラマ
212 :
日本@名無史さん:05/03/03 15:31:12
武田・上杉・北条の三国同盟ができてたらどうなってただろう。
日本版三国志ってこの三家でしょ?
(日本版三国志・・・)
関東版三国志では?
215 :
日本@名無史さん:05/03/03 17:53:29
もし三国同盟ができてたら、武田は滅びずに済んだのだろうか?
その三国同盟が堅固なら・・・。
それも、信玄、謙信、氏康なら・・・。
ドリームチーム
信玄と謙信が手を組むだけで凄い!
219 :
日本@名無史さん:05/03/04 11:46:17
221 :
日本@名無史さん:05/03/05 01:18:19
上杉の血筋がしっかりしててよかった。
真田はどうなんだろうか?
222 :
日本@名無史さん:05/03/05 01:37:33
上杉弾正大弼斉憲、伊達陸奥守慶邦
223 :
日本@名無史さん:05/03/05 11:59:00
>>223 私のパソからは普通に見られましたが・・・
225 :
日本@名無史さん:05/03/05 15:08:43
いや、系図がみれないよ。
227 :
日本@名無史さん:05/03/05 16:07:02
英字の変なサイトしかみれない・・・。
それと上杉と直接関係ないネタを書き込むときはメール欄に「sage」と書いてみて
230 :
日本@名無史さん:05/03/05 17:16:37
教えて下さい。
「四条上杉」ってどの系統ですか?
231 :
日本@名無史さん:05/03/05 20:46:09
>>198 北条高広の息子で景勝側についた丹後守勝広だか誰だかが
やっぱりお手討ちになってたと思う。
つーかお手討ち多いよ。
そりゃびびって川だろうが海だろうが飛び込む罠。
>>231 気の毒だけどね。
裏切りが多い時代だから・・・
御舘の乱の真っ最中に、怪しい行動で誤解(誤解だよね?)>勝広、高坂
高坂昌元が殺されたのはもっと後だよ
当たり前だけど武田家が滅びてからの話
誤解で殺されたとされてるのは下総守高定(高広の弟?)
勝広が丹後守を名乗ったのは長兄の丹後守景広死後とみるのが自然であり
また勝広は景勝の一字拝領と思われるので少なくとも御館戦後処理までは生きていたのではないかと
その後に北条家は末弟(?)の上野介高明(後に高広に改名)が嗣ぐがあえなく出羽で戦死
235 :
日本@名無史さん:05/03/07 02:22:52
長尾の嫡流はどうなった?
上杉に改名しなかったところ
236 :
日本@名無史さん:05/03/07 09:46:20
>>235 白井長尾、総社長尾は上杉家に仕えて→会津→米沢
237 :
日本@名無史さん:05/03/08 01:32:37
結局どこが長尾の嫡流なの?
238 :
日本@名無史さん:05/03/08 04:57:44
239 :
日本@名無史さん:05/03/08 15:02:04
越後長尾氏は傍流だろうが
240 :
日本@名無史さん:05/03/08 17:37:42
嫡流は足利長尾氏
足利長尾はどうなった?
242 :
日本@名無史さん:05/03/09 00:02:34
足尾銅山?
そこそこ回復してきたらしいよ
243 :
日本@名無史さん:05/03/09 00:48:38
いやかなり回復したぞ。熊が住んでるくらいだからな。
で、足利長尾氏はどうなった?
244 :
日本@名無史さん:05/03/13 17:52:23
上杉謙信は平氏?藤原氏?
血筋は平氏だが、家は藤原氏だから。
上杉継いだ時点で藤原かな?
書状には藤原輝虎って書いてあるよね。
本人が藤原と称しても後世の人間は平氏と書くだろうな
247 :
日本@名無史さん:05/03/14 16:01:34
武田信玄が源氏だから平氏ではあって欲しいね。
248 :
日本@名無史さん:2005/03/23(水) 23:23:21
そこで旗本の畠山上杉家ですよ
249 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 17:39:58
源平合戦では源氏が白旗、平家が赤旗だったが、
戦国時代では武田信玄が風林火山の赤旗、
上杉謙信は何色だったの?
謙信の旗はは「毘」と「龍」じゃなかったかな。
「毘」と「龍」は白地に文字だから、白かな。
謙信は紺地に日の丸もあった。
254 :
日本@名無史さん:2005/04/11(月) 19:59:36
謙信は幼女
>>252 紺地に朱色の日の丸ね
為景の代に、朝廷にネジ込んで賜った旗
>>255 おお、同志というか・・・何というか。
257 :
日本@名無史さん:2005/04/12(火) 13:02:19
謙信=漢=ホモ
258 :
日本@名無史さん:2005/04/12(火) 13:40:30
259 :
日本@名無史さん:2005/04/12(火) 16:49:27
武田二十四将に対して上杉は何将だっけ?
260 :
日本@名無史さん:2005/04/12(火) 16:50:37
|┃三 人 _____________
|┃ (_ ) /
|┃ ≡ (__) < ホモで悪いか!
____.|ミ\__( ・∀・) \
|┃=__ \  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|┃ ≡ ) 人 \ ガラッ
あちらのスレで聞くのもスレ違いなのでこっちで質問です。
>柿崎景家を謀反の疑義で滅ぼした件も、文献史料から事実ではないとされています。
景家謀反の話は景家死亡が1577年ではなく1574年なのでもし謀反の話が本当なら
景家ではなく晴家だという説なんですが、その晴家も御館の乱で殺されたという説もありますよね。
それ以外に晴家の息子(の家臣)が景勝側についてお家再興してたり色々話があるけど
どれが一番信憑性高いのでしょうか?
景家…謀反は嘘。1574年病死。(年齢的に天寿?)
晴家…謀反容疑で1577年に柿崎家取り潰し。晴家も死亡。
憲家…御館の乱で景勝に味方したので以前ほどの大きさではないが再興。
こんな感じ?
晴家が御館の乱で早々ぶっ殺されてるんだったら景勝側につかないと思うんで1577年死亡説かなと。
晴家暗殺後猿毛城は篠窪出羽守が仕切っていたが
柿崎旧臣が反感持って(三条城山吉旧臣パターン)
末弟憲家を擁立して景勝方に奔ったと仮定すれば
一応話の筋は通ると思う
>>262 261ではないが
ふーむ、なるほどね。謝!
264 :
日本@名無史さん:2005/04/13(水) 15:53:22
>>57確かに。
吉良といっても、ホントは柘植クンだろ?
相馬といっても、ホントは上杉クンだろ?
佐竹といってもホントは徳川(一橋)クンだろ?
265 :
261:2005/04/13(水) 17:07:04
>262
あーなるほど。ありがとうございます。
ということは御館の乱では代は変わってる家はあっても
直江、山吉、柿崎、斉藤辺りの重臣と信濃衆は大体景勝側ってことですね。
(河田は微妙?)
んで一門衆は景虎側と。
近衛といっても、ホントは細川クンだろ?
鷹司といっても、ホントは鍋島クンだろ?
一条といっても、ホントは四条クンだろ?
謙信の晩年に影響力でかかった一門衆って景信以外だと誰になるの?
景信の影響力ってのもあの時期すでに微妙だが。
>>265 斉藤朝信は弟の三郎左衛門が景虎方として参戦
とここまではどこもやってるが、乱後にその三郎左衛門を赤田城に引き入れて匿った
正直どの程度景勝に肩入れしたかは微妙
嫡子景信の代には放逐しているし
(堀家へのスパイ説もあるが帰参後の序列の低さから微妙)
ようは景虎派も景勝派も自家の権益をいかに守るか・伸張するかだったんだろうな。
初期の謙信を支えた旧主流派=景虎派vs後期の謙信を支えた子飼いメンバー=景勝派、
と見る人も多いみたいだね。
つーか、既に亡き人なはずのまん虎様を巡っての恋の鞘当て。
罪な女だねぇ。(w
>269
上田衆が最初から主力で必死で戦ってたから戦後の恩賞が
あんなに偏ったのかねえ。
それに初め国人衆はあそこまで大きな戦いになるとは思ってなかったのかも。
斉藤は武田の同盟の調停なんかやってたから結構肩入れしてるのかと思ってた。
何だか御館の乱って調べれば調べるほど訳分かんなくなるな…
よく本には景虎が後継者でほとんど重臣がついたって簡単に書いてるけど
自分で史料調べると意外とそうじゃないし。
上越市史研究にのってる家督継承と家格秩序の創出っていう論文は
読んだ人いますか?
273 :
日本@名無史さん:2005/04/20(水) 10:27:21
!公開捜査!
春日山城址の直江屋敷跡のボード壊した奴自首汁!
くっそー俺が壊したかったのに先を越された
>274
通宝しますた
276 :
日本@名無史さん:2005/04/20(水) 17:03:55
謙信が天下とったら、春日山が大都市になっていたのだろうか?
あまり知られていないが、当時の越府(直江津・春日山城下)は
人口6万説あり。京都に次ぐ大都市です。越後状布・金銀・木材
などが、敦賀経由で畿内に運ばれていた。
だからこそ関東でさらってきた奴隷を換金できたんだな
>>272 読んでみた。
謙信から景勝への官途譲与は景勝の捏造であり文書も偽造である、
と論じた景虎後継者正統説論者への反証には納得。
天正3年の軍役帳の意義の洗い直しにも、なるほどと思わされた。
が、越後上杉家が山内上杉家の上位に格付けされていた、
という説は強引過ぎると感じた。これは今後各方面から反論が出そうだな。
あなたはどうでしたか?
>279
確かに山内上杉家と越後上杉家の家格秩序の部分は
異論も出そう。ただ今までああいう視点で
論じた説を見たことが無かったのでこれを機会に色んな
角度で研究されれば良いなと思います。
それと「従来の研究は政治動向、背景の移り変わりによって権力や当主の意志が
変化することを考慮してない」という説には同意。
越相同盟から御館の乱まで8年も間隔があってしかもその間に景勝への官途譲与が
あったりするわけだから。
>279
天正3年の軍役帳も何の為に作成されたのか不明だけど
天正5年の「上杉家家中名字尽手本」も何なんだろう。
初め手本ってあるから誰かに書いてあげた物かと思ったけど
そういう類のものでは無くてただの武将名簿?
これも全員の武将の名前書かれてないし作成目的が不明…
ちなみに他に謙信が書いた手本
・いろは折手本(永禄5年といわれる)
・片仮名いろは折手本(↑と同じく永禄5年)
・伊呂波尽手本(永禄11年)
・署名消息手本(↑と同じ)
・折手本(これも?)
>>281 甥である養子に自ら手習い手本を書いてあげる優しいおば様だったんですね。
太田資正の妹(三戸夫人)あての書状(相越一和のさい)、
吉江景資夫妻宛ての書状(加賀の陣中で?)も直筆ではないかと。
女性ではないかと思わせる、丁寧でやさしい文面です。
>>283 > 女性ではないかと思わせる、
デムパ飛ばすなよ。「思わせる」んじゃなくてれっきとした女性なんだから。
いろはも片仮名も、端正かつとても丁寧な楷書で幼い甥への愛を感じさせるけど、
何と言っても伊呂波尽手本。
あれ、ホントに素晴らしいよ・・・貰った喜平次少年が裏山〜。
伊呂波尽手本と署名消息手本は朱色の墨で
ルビまで書かれてるんだよね。細やかな人だ。
でもあれ永禄11年だと喜平次14歳なんだがその年の子に
伊呂波手本贈ったりするもんなの?
贈った前月に初陣(と思われる)してるからそのお祝いなんだろうか?
成人式や新社会人にマナー辞典贈ったりするのと同じで。
数えで14歳、満13歳か。>喜平次
その歳の子に贈るお手本としてどうなんだろう、
ただ昔の当て字ってとにかく一杯あるから、それこそ辞典として実用できるね、伊呂波尽。
それにしても喜平次初陣の童具足はキラキラ金色&紅白で見るからにおめでたい。
オーダーメイドは当然としても、あれこれ細やかに注文つけとる謙信が目に浮かぶw
何だかいつまでも子離れできない親のようだ…謙信。
三郎が養子に来てからも「心のこもった細やかな手紙すごく嬉しいです」とか
「鷹貸してあげるよー」とか手紙出してるしな。
北条に30過ぎて独り身なんてみっともないって
結婚の世話したり基本は世話焼きの人なんだろうね。
でも景勝は謙信死ぬまで結婚の話がでないのが謎。24歳なのに。
>基本は世話焼きの人なんだろうね
禿同。
畠山の娘を北条景広に嫁がせたりとか
秀吉の夫婦喧嘩の仲裁した信長に通じるマメさだ
>>289 現代だったら近所の世話焼きオバサンだな。
292 :
日本@名無史さん:2005/04/30(土) 15:53:32
山内と扇谷はどっちが嫡流なんですか?
あと江戸時代に大名になった以外の上杉氏はいないのですか?
294 :
日本@名無史さん:2005/05/01(日) 03:50:05
>>292 >あと江戸時代に大名になった以外の上杉氏はいないのですか?
>>293 私もよく知ってるわけじゃないけど、多分
>>248が言ってる畠山上杉家のことだと思う。
越後上杉家の養子になった越後守護上杉定実の実の甥でもある、上条上杉頼房というのがいて、この人の
養子になったのが、能登畠山の一族畠山義春(上条政繁)。この上条政繁の二男(?)長員が、上杉姓で高家
として取り立てられたんだったと思う。因みに長男景広は畠山姓で米沢上杉家に仕え、三男義真は畠山姓でこれまた高
家になっている。さらに、二男と三男の母親は上杉景勝の姉か妹。だから、結局のところ、この長員の流れの(畠山)上杉家は
上杉の名跡と畠山と長尾の血を引いていることになる。
上杉の苗字の大名、旗本としては、米沢の上杉家の他に、分家の米沢新田藩上杉家(支侯;米藩第五代藩主上杉吉憲
の弟の勝周を祖とする)と上記の高家(畠山)上杉家の他には、江戸時代に関しては知らない。詳しい方ご教授キボンヌ
>>292 >山内と扇谷はどっちが嫡流なんですか?
この二家は拮抗してる感じでどっちが上とかは私は知らない。ただ、
http://www.www2.harimaya.com/sengoku/html/o_uesugi.html の最初の方に、「京(八条上杉家)は惣領、関東(扇谷他)は庶子」とあるから、強いて言えば嫡流はこの室町幕府に仕え
た八条上杉家なのかも?この八条上杉家はその後どうなったんだろ?
295 :
294:2005/05/01(日) 03:57:36
296 :
日本@名無史さん:2005/05/01(日) 11:34:45
おまいら
こんなところで語ってないで米沢上杉祭に行こう
>>273 一応直って立っていたよ。
雪でつぶされたらしい。
298 :
日本@名無史さん:2005/05/06(金) 00:47:31
>「京(八条上杉家)は惣領、関東(扇谷他)は庶子」
これ享徳の乱の頃、東福寺禅僧の日記に書かれてたものらしいけど、
上に出てきた謙信の家督継承と家格秩序の創出に関する論文でも提示されてた。
「上杉内平(本カ)宗は越後、〜」という記述があるらしく、
そこを論拠に、関東(山内・扇谷上杉家)ではなく、
越後守護上杉家が宗家とみなされていたのでは、という主旨だった。
どうなんだろう。
あと、上条政繁と畠山義春は別人という説もあるみたいです。
上杉祭、今年は行けなかった・・・
299 :
日本@名無史さん:2005/05/06(金) 21:52:49
=================================================================================================================
=================================================================================================================
上杉景勝は東スポ並みの嘘つき!!!
「秀吉、毛利により捕縛・殺害!!(かもね?)」
「信長、甥に殺された!!(されてたりして(笑))」
「光秀、誰それ?(なんちゃってw)」
=================================================================================================================
=================================================================================================================
織田信長が家臣の明智光秀の謀反(むほん)で死亡した一五八二(天正十)年六月二日の
「本能寺の変」の一報が、北陸には信長が甥(おい)によって殺されたという内容で伝わった
可能性があることが、金沢学院大美術文化学部の石崎建治助教授の調査で分かった。
石崎助教授は、金沢の旧家が所蔵する越後(新潟県)の戦国大名、上杉景勝(かげかつ)の
書状を一年半かけて分析した。戦国時代の転機となった信長の死がどのように全国に伝わったか、
情報伝達のあり方を示す貴重な資料としている。
この書状は信長と敵対していた上杉景勝が会津(福島県西部)の戦国大名、蘆名(あしな)家の
外交僧、遊足庵淳相(ゆうそくあんじゅんそう)にあてたもの。自著であることを示す景勝の花押
(かおう)(サイン)が入っており、六月九日付になっている。
書状によると、毛利家と戦っていた「木下藤吉」(藤吉郎、後の豊臣秀吉で当時は羽柴姓)が
捕らえられ、それを救援するために信長が駆けつけたが、秀吉は死亡。信長自身も毛利家の軍に
劣勢となり、甥(おい)の織田七兵衛(信澄)の変心によって切腹させられたと記している。
光秀には触れていない。
景勝はこれらの情報を加賀、越前の国境付近から入手したとして、蘆名家にこの情報を伝えるよう
依頼している。
北國通信社 2005/05/05付け記事
http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20050505001.htm
300 :
日本@名無史さん:2005/05/06(金) 22:59:37
>石崎助教授は、「首謀者は七兵衛」という正確ではない風説を景勝が信じた可能性や、
>信長寄りで上杉家と敵対していた蘆名家を混乱させる意図が入った可能性もあると分析。
>他の史料と総合して景勝が一報を受け取ったのは六月七日か八日と推定している。
301 :
日本@名無史さん:2005/05/09(月) 14:28:52
上杉から見れば津田信澄も明智光秀も変わらないだろ。
302 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 23:51:33
age
303 :
294:2005/05/16(月) 01:31:36
あれから調べた結果、上杉氏としての大名、旗本としては、上に挙げた
・米澤上杉家、及び米澤新田上杉家
・畠山上杉家
の他に、
・山内上杉の祖上杉憲方の弟の庁鼻和上杉憲英の子孫(深谷上杉氏)。旗本。但し、苗字は「深谷」
・同じく山内上杉憲方の叔父にあたる詫間上杉重兼の子孫。後北条に仕えた後に旗本に。但し、苗字は「宅間」
・河越合戦で戦死した扇谷上杉朝定の大叔父上杉憲勝。後北条に仕えた後に旗本になったというが、詳細は不明。
の三つがありました。詳しい方フォロー希望
304 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 00:32:37
私は上杉朝昌が好きだ。
扇谷分家!
305 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 16:05:03
平景虎
源晴信
質問なのですが、
景勝の「勝」は武田勝頼からもらったものでしょうか。
また子の定勝の「定」は誰に由来しているのでしょうか。
定実ちゃん
>>306 勝頼?景勝の名乗りは天正の始め頃に謙信が決めたのではなかったかと。
景勝の勝が勝頼から貰ったとするなら、どうして下についてるのだと(ry
定は上杉家じゃねーのか?
>306
なんでそこで勝頼が出てくるのか気になる。
顕景から景勝になったのは天正3年の1月だね。
景は長尾の通字だとして勝はどこから来たんだろう。
>>306 上杉定勝(初名実勝)の定や実は上杉の通字。
伊達実元も上杉氏を継ぐ予定で実がついた。
>>307-311 どうもありがとうございました。
景勝の勝を知っている方がいたらぜひ教えてください。
定勝は、豊臣あるいは徳川らか名をもらえなかったんですね。
その後の跡継ぎは、将軍から名前をもらえるようになった
いきさつもご存知でしたらよろしくおねがいします。
313 :
日本@名無史さん:2005/05/22(日) 11:41:14
今更ながら
>>93に突込んどく
M茂憲―N憲章―O隆憲―P邦憲
314 :
日本@名無史さん:2005/05/22(日) 12:38:27
茂憲は、なんで維新後に家茂の「茂」の字を捨てなかったんだろう?
家茂から拝領した「茂」の字を捨てた人っている?
316 :
日本@名無史さん:2005/05/22(日) 22:11:02
久松松平は久松にもどってるね。
>>315 島津忠義。
ちなみに「茂久」という名前だった。
>312
定勝の幼名の千徳丸(初めは玉丸)は秀忠から
貰ったんではなかったかな。違ったらごめん。
景勝の勝はどこからなんだろうね。特に誰かから貰ったって
ことではないのかも。
顕景から景勝で「景」が前に来たことには何か意味がありそうですが。
徳川茂承(紀伊)
徳川茂栄(一橋)
松平茂昭(福井)
池田茂政(岡山)
彼らも「茂」の字を捨ててないようだし、島津忠義が例外なのでは?
亀割り柴田から、と言ってみるテスト
>>315 ちなみに家慶・家定から拝領した「慶」「定」の字を捨てたのは毛利敬親・元徳父子。
慶親→敬親と定広→元徳。
>321
正確に言えば捨てたのでなく、幕府から取り上げられた。
323 :
日本@名無史さん :2005/06/02(木) 09:36:33
324 :
日本@名無史さん:2005/06/02(木) 09:46:15
長尾氏の嫡流は何処だったのですか?
上杉を継いだ謙信の越後長尾氏は傍流だったと思いますが。
また米沢上杉氏には女系で扇谷や山内の血筋にはならないのでしょうか?
>>324 越後長尾氏の嫡流なら謙信の兄チャマだろ。
妹に家を取られてしまったが。
327 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 05:11:19
米沢興譲館と岡山興譲館は何か関連ありますのん?
328 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 13:59:01
じゃあ米沢上杉に女系でもいいから、扇谷や山内の血筋は繋がっているのでしょうか?
329 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 14:20:27
吉良の息子も養子に入ってたな。
330 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 14:29:24
ていうか、今の上杉家は吉良の直系子孫でしょ。
331 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 14:45:57
>>330 吉良は親戚の別の家(たしか東条家)がちゃんと家名を存続して続いています。
赤穂事件の後、その家が高家に列して活躍し続けていたはず。
浅野家も浅野の弟がちゃんと家名を存続している。
両方とも石高は減ったが。
332 :
謙信 崇拝:2005/06/12(日) 16:38:28
上杉謙信 戦国武将・最強です!
毘の旗印を見た時、勝家筆頭の織田軍団は、震え上ったのだ!!
あの三国峠を十数度、関東へ向けて・行軍したし<義>のもとに・・・
こんな、戦国武将はいない!!
上杉謙信最高!!
格闘家の須藤元気氏も、上杉ファンの一人なのだ!!
春日山の城に・5たび訪ねたが、難攻不落の、謙信魂がそこにありました!
333 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 09:52:26
謙信から始まる上杉は藤原氏勧修寺流ではなく、越後長尾氏支流の上杉氏と考えた方が自然では?
謙信は上杉の養子となったというが、実際は苗字を貰っただけという気がする。
乗っ取りに近い訳だが、相馬氏は将門子孫であったが千葉氏支流になってるし、
足利も藤原姓足利氏の娘を義国が娶って義康が生まれたが、義康は藤原氏ではなく源氏となってしるし。
米沢上杉氏はそれまでの藤原姓上杉氏ではなく、平姓上杉氏と考えた方がよいのでは?
335 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 11:35:41
>333
ふむふむ。
>>328への答えにもなるけど、謙信や景勝にも一応女系で藤原不比等の血が入ってるが(
>>100)、いかんせん遠すぎvv
・扇谷上杉家
・八条上杉家
・犬懸上杉家
・越後上杉家(越後守護の家ね)
・山内上杉家
・米沢上杉家(近世上杉家)
・上条上杉家(のち、旗本上杉家)
みたいに、山内と米沢(近世)とに分けてしまえばいいかも。
謙信は米沢とも近世とも関係ないが、そこは大目に見て
あと、米沢上杉家の公史「上杉家御年譜」では、上杉家の系図として藤原鎌足から延々と書いてる。
このように米沢上杉家自身が自分を藤原氏としていたことが平姓上杉氏とする際にネックになるといえ
ばネックになるかな。
そのくせに本国は越後と考えていたりして矛盾してるんだけどね
338 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 22:43:05
なるほどね。
339 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 22:52:22
上杉謙信は男色専一で女犯を断っていたから
美貌の養子を迎えた。
かかる事は他家にも例が多かった筈ぢゃ。
340 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 11:40:13
平姓上杉氏の方が源姓武田氏との戦いに貫禄がつく
明治期の上杉伯爵家は藤原氏に分類されてる。
謙信は手取川のあとは、関東出兵の予定だったんだよな
上杉景虎はどうなる予定だったんだろうか?
344 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 15:51:50
そんなとこ目指さないで京都目指せよ
345 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 15:57:55
でも血に対する執着ないからこそ、明治の世まで上杉の家は続いたんじゃない
346 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 18:30:24
>>345 女系でも血筋重視だから、家斉の子を養子にもらわなかったんだと思うが
名門なので持参金付き加増付きで養子もらえたと思うが
謙信が関東出兵する時点で、
三郎の後継者の資格は消えてそうなもの。
にも関わらず、三郎が後継者に名乗りを上げて、
御館の乱が起こり、憲政は景虎を指示する。
これは一体なに?
348 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 20:34:35
>>347 本当に景虎支持したのか?>憲政
押しかけられて巻き込まれただけじゃないのか、あの屁タレは。
わからんな
謎だらけ上杉一族
憲政が和議の申し込み行ってるけど
景虎の息子連れて行ったら殺されに行くようなもの
じゃないのか?何で一人で行かなかったんだ。
いくら甥でも他の国巻き込みながら一年も争ってる
様な敵の子供なんて助命出来るはずないのに。
352 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 06:39:33
>>351 子供のいなかった叔父さんは敵の子供の甥を養子にしましたが何か。
当時、景勝も子供がいなかったわけで
>>352 政景死亡時の状況と、御館の乱真っ只中の状況を比較対照するのはおかしいだろ。
政景の死亡に謙信の意図が絡んでいたかどうか真実はともかく、
表向きは従順な家臣団の1人。
景勝を殺してしまったら上田衆吸収も出来ずに、
それこそ無用の乱を起こすはめになる。
>333
義康の母方祖父は藤姓足利氏では無くて日野流藤原有綱と云う方が
現在は有力だった様な気がしますが。
355 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 11:20:03
どっちにしろ藤原氏だろ
>>349 三郎支持じゃなければ、殺される事はないだろ
>>356 そうだな。
>349の言うように押しかけられて嫌と言えなかった可能性もあるにせよ、
一年一緒に御館で共闘のような格好になった以上、
本人の意思はどうあれ、対外的には景虎支持。
もっとも支持したところで結局役立たずで、
前管領の権威も何も微塵も無かったように思われるが。
そして
>>351が言うように、
国を真二つに割っての乱の最中に嫡子を連れて行くとは状況判断が甘過ぎる。
ところで三郎の山内上杉家継承について、
越相同盟締結当時から既定済みのことだったとする説が多いことを今さら知った。
氏康が、それまで長尾と呼び続けた謙信を
同盟成立の頃から山内上杉当主と認めていることからも察せられるとか。
そうだとするなら同盟が決裂した後は、すでに姪との間に子供もあり、
正式に養子として遇している三郎を既定どおり関東管領職に据えるかどうか、
謙信は相当悩んだろうな。
北条の子である三郎がその職を継ぐことで、
将来越後上杉家にどのような影響を及ぼすか。
(管領職の実態や権威が現実的にどの程度のものかという問題もあるけど)
下手すりゃ管領の名を振りかざしての実質丸呑み、北条の属国化する可能性もあり。
>>358 同盟が破れたのに三郎が北条へ帰らなかったのは、
自分に何の相談もなく一方的に同盟を破った兄の氏政に含むところがあったからだろうか。
謙信もその氏政のやり方に憤慨して、
景虎と従者の遠山親子にえらく同情していたよな、確か。
景虎って側室いたんだっけ?遠山の娘だか誰か。
同盟決裂後に貰ったんなら景虎の立場って
どんなもんだったんだろ。
軍役が無い=後継者ってすぐ判断しちゃうのは
短絡的だと思うけど。
>353
景勝が生まれたのは政景が謙信に服従した
後だしな。それに政景晩年は重用されてるし。
三郎が山内上杉家の跡継ぎで、
景勝が越後上杉家の跡継ぎが妥当かな。
関東出兵の目的は、氏政を蟄居させて
関東に三郎を立てるつもりだったのかな。
でも、御館の乱の原因て一体なんだろう?
普通に考えれば景勝に正当性がありそうだけど。
三郎は何を求めたんだろう?
363 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 20:34:43
>>362 故人の意図としては三郎だったという話があるが
>故人の意図としては三郎だったという話
櫻井某とかいう人の説か?景勝を簒奪者と位置付けて論文書いたという。
また西岡某とかいう人に至っては、
三郎の尻に惹かれて後継者にしたかったのではと考えとるらしいが・・・禿ワロヌ
謙信がすべてを三郎に譲るつもりだったらなら、
景勝に自身の官途を譲与するなど全く支離滅裂な行為だし、
長尾姓を捨てさせ、あらためて上杉姓名乗らせる必要もない。
櫻井某はその官途譲与も景勝の偽造工作によるものと論じたらしいが、
最近の研究では完全に論破されとる。
>>362 幕府が滅びている以上、三郎が管領職をどう考えていたかはともかく、
山内上杉家の継承は当初の約定どおりに自分の権利だと考えていたのでは?
そこへもってきて、上田出身の景勝による越後上杉家の継承を是認できない、
反上田、反景勝派の人々に、対抗馬として担ぎ上げられたのかと。
北条の巨大な後ろ盾もあることだし。
とにかく悲劇の美少年のイメージばかり先行する人だが、当時もう25〜26歳。
上杉の首領として国を奪い、自ら立つ野望が燃えたとしても全然不思議じゃない。
櫻井さんのは知ってるけど西岡さんって
いう人はそんな論文を書いているのか。
何に載ってるのだろう。そこまでいくと逆に読んでみたい気が。
櫻井氏は女性だよね。
美少年って義経みたいに判官贔屓の創作だと
思ってたんだけど上杉関係の論文ではそれが根拠に語られてるのか…
景勝に越後国主、景虎に関東管領っていう説のは井上氏だっけ?
一般にこの説取られてるから
直接読んでみたいんだけどどこにも置いてないんだよなあ。
具体的にどんな根拠で書かれてるんでしょうか?
366 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 22:33:56
>>362 「越後上杉家」って定実が天文十九年(1550)に死去した時点で断絶じゃないですか?
上条上杉家は養子で続いてますけど、謙信、景勝らとは全く別系統ですよね?
367 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:14:51
>>366 362じゃないけど越後国主上杉家という意味合いで使ったのではないでしょうか。
守護家である越後上杉が滅び、もはや守護代家としての府中長尾でもない、
その時期に景勝に与えた上杉姓。これが越後上杉でもなく山内上杉でもないとすると、
謙信が考えていたのは全く新しい上杉家ということになるのでしょうかね?
>364
それ西岡じゃなくて西澤じゃないかと。『上杉氏年表』で御館の乱のコラム書いてる人。
前に別の板でも話題になっていたのですが。景勝クーデター説を前提にした内容なので、
史料の引用や状況の説明、すべて三郎に都合のいいように書かれています。
しかも論点がズレていき、河田長親が謙信の寵臣だったのを引き合いに、
三郎も美貌で寵愛されただろうから後継者と目していた筈、というオチ(^^;
三郎美形説の典拠は関八州古戦録、あとは御年譜でしたっけ?
資料としては・・・(ry・・・どっちも五十歩百歩?ですか。
368 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 02:43:21
でも越後上杉はあくまでも山内上杉の分家だよ
越後上杉氏=定実没後、長尾氏(景虎)が継承
山内上杉氏=憲政から長尾氏(景虎)が継承
越後長尾氏=景虎が継承するも、傍流へ
井上鋭夫説のとおり、景虎に山内上杉(関東管領)景勝に越後上杉(越後守護)
だとしたら、
三郎景虎(えらい・北条も関東武士団も配下)>景勝(臣従)になるわけだが、
景勝(兵力あり)>三郎景虎(北条が敵対している以上、実力なし)になるわけで、
この絵空事のような謙信の構想を、謙信死後にみんなが気づいた?
のではないだろうか? 謙信最後の関東遠征が、北条と和議を結んで三郎を関東管領に、
北条氏政を後見に景勝と武田勝頼を奉行(評定衆筆頭)に、返す刀で承久の変のように
上洛する。というのなら、なるほどと思う。関東甲信越にとって信長が最大の敵になっていたわけで。
ところが、謙信が身罷ってしまうと、そんなの何の現実性もない。で、御館の乱。かな?
>370
お見事!
でもそこまで現実的で無い構想だと
謙信生存中でも誰かが気づきそうだけど…
あと北条と和議なんて出来るんだろうか。
373 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 22:50:53
>>372 >三郎を関東管領に、北条氏政を後見に景勝と武田勝頼を奉行(評定衆筆頭)に
この条件なら遠征に出る前に、事前交渉で和睦成立するんじゃないか?
同盟結んでる武田とどう絡むのかはわからんけど。
>370の構想でいくと勝頼も関東管領・三郎景虎のもとで評定衆らしいから、
三郎に呼ばれたら景勝と同様、鎌倉府、
あるいはそれに模した場に出仕しなきゃならんという事だろう。後見が氏政。
対織田共闘戦線とかいう以前に、北条による北条のための北条帝国出現かね。
>>370 で、謙信がそういう思惑だったとすると、
当然事前の交渉は天正5年、少なくとも半ばあたりから進んでたと思われるが、
そういう形跡はあるの?
>>373 義昭の内書がありますね(複数)。「越甲相和して室町府の危機にあたるべし」
謙信天正6年上洛発令説をとる歴史家のなかには、北条も上杉に援兵を出す予定だった
という人もいます。
軍艦によれば、信長が天正5年末に(手取川敗北後)勝頼に対して
「これまでのことは水に流して、和議を結んで上杉を打倒しよう」と
使者を送っていますが、勝頼はこれを拒みます。通説では将軍家への義理立て
とされていますが、追放された義昭への義理とは、少し穿ちすぎ。
むしろ、義昭の内書を媒介に、謙信と秘密同盟(信長打倒の)があったのでは
と推察されます。でなければ、あまりにも強気すぎる。「余が亡きあとは謙信を頼れ」
は、信玄の遺言だったわけですし。
>対織田共闘戦線とかいう以前に、北条による北条のための北条帝国出現かね
鎌倉幕府の歴史でいえば、末期の北条得宗独裁ではなく、
安達氏を滅ぼした段階の中期「御家人・評定衆体制」でしょうね。
有力御家人(評定衆)による、関東武士の楽園?
関東武士の楽園・・・
なんだかよくわからない流れだけど、
つまり、天正4年に義昭の意を受けて武田・北条と和睦、越中平定を果たしてるが、
その時の越甲相和が、謙信の死に至るまで脈々と生きていたということ?
とすると天正5年、
反北条の佐竹や宇都宮の越山要請に応えた形での陣触れと越山、
天正6年の結城晴朝の要請による関東出陣の陣触れはどういう位置づけになるんだ。
>>375 それこそ、三郎ちゃんの晴れ姿(関東管領就任式典)でしょう。
河田長親ら北陸番の武将は残して関東に大軍で押しかけ、宇都宮・佐竹・結城・太田・里見
らを力ずくで説得。「そのほうたちも、鎌倉府の評定衆として、三郎を供奉するがよい」
てな、感じかな。いや、マジで。そう考えないと、御館の乱の原因が説明できないんですよ。
謙信公の壮大な妄想が悲劇をもたらした、と。
377 :
375:2005/07/05(火) 00:46:18
やっぱり景虎さまヲタの釣りだったか
いや、関東府という仮説の内容は、なかなかのものだったと思うな
謙信にとっての天下が関東だったとすれば、北条との和解で鎌倉府という構想もあったかと。
謙信は政子ファン
>376
>河田長親ら北陸番の武将は残して関東に大軍で押しかけ、宇都宮・佐竹・結城・太田・里見
>らを力ずくで説得。「そのほうたちも、鎌倉府の評定衆として、三郎を供奉するがよい」
力ずくって…
そこまでして何で三郎ちゃんを関東管領にしなくてはいけないんだ謙信は?
あと天正6年の時点でそこまで執着する程、関東管領の威厳ってあるのか
えーと、この流れを読んでしばらく考えてたんだけどよく分からない
>376
天正4年の越甲相和がその頃から
続いてたって前提で>370、374が出てるんだよね?
景虎の下に景勝、北条、武田っていう謙信の構想は。
でもそれだと>375さんの言うとおりに天正5年の反北条からの
要請に応えた越山は矛盾しちゃうと思うんだけど。
和睦どころじゃないよね。それともこれも力ずくで説得(攻撃)なの?
で、その後佐竹や宇都宮も力ずく?
>375の質問に>376の答えが噛み合ってないような気がするんだけど…
あと御館の乱の原因がそれじゃないと説明できない理由って???
あ、景虎の下に景勝、北条、武田じゃなくて
景虎(と北条)の下に景勝、武田の間違い。
こういうことではないか?
もはや関東で揉めている場合ではない(天正5年9月・手取川の結果)から
岐阜・安土を蹂躙して、武装上洛の時である(謙信)ついては、関東甲信越の
総力を結集したい。で、わが子(養子の三郎タン)を名代(関東管領)に、関東
の諸侯が評定衆として、先駆けするべし。
で、実態は。
謙信「評定を開く。意見ある者は述べよ」
景勝「ははッ、されば…」
謙信「もうよい、喜平次」
景勝「はぁ…」
謙信「先陣大将は勝頼殿じゃ。織田の鉄砲隊を蹴散らし、長篠の遺恨を晴らすがよい」
勝頼「ははッ」
謙信「二番大将は氏政殿よ。織田の槍衾を突破せよ!」
氏政「はぁ…」
謙信「三番大将は、このわたしじゃ。佐竹、太田、里見、成田、結城、宇都宮。
そのほうたちは、わが旗本として奮戦するべし」(目が釣りあがっている)
佐竹「しかしながら、まだ北条殿との和議も」
謙信「うるさいッ!」
景勝「御館様、それがしは…?」
謙信「そなたは三郎が逃げぬよう、後備えを務めよ。それッ、出陣じゃ!!」
謙信公、鎌倉府執権として評定を御沙汰のことである。(天正6年6月・笑)
関東管領が三郎だったとしても、
戦国時代では、ある程度の自主的な宰領は任されていたとは思う。
それでも主導権争いというのは起こり得るのかもしれないが。
しかし、一番間抜けなのは氏政という気がして仕方ないな。
信長包囲網を破綻させたあげくに秀吉に滅ぼされたって印象が拭えない。
織田に対抗しようとしてる武田や上杉の側面に進攻するって何を考えてるんだ?
しかし、北条スレでは、そういう状況を考えられず、
上杉に優勢だった氏政エライってなってるな
まぁ、残念ながら氏政クンは、暗愚な武将ですねぇ。(不識庵)
おまえよりはデキるヤツだけどな
先代が優秀だと何かと比較されるからねぇ
>387
もうめちゃくちゃだw
でも天正6年6月じゃもう謙信死んでないか?
>383ですが余計分からなくなったでもう少し考えてみます
ごめんなさい
>387じゃなくて>384でした。
>謙信にとっての天下が関東だったとすれば、北条との和解で鎌倉府という構想もあったかと
晩年の謙信にとっての関東って、天下どころか、山内上杉家当主のメンツに賭けて、
上野一国をいかに北條派勢力から本領として取り戻すか、
というある意味現金な一点に集約されるようにしか思えないのだが。
関東出兵の準備をさせておいて、フタを開けたら北条と手を結び、
(元亀の和睦のような国分人質等の事前交渉もなくどうやって手を結ぶつもりか知らんが)
果ては越山要請した親上杉、反北條派の連中には迎合を強請予定。
・・・これのどこがなかなかの仮説なのか自分にはわからん
391 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 01:02:10
>>388 生きていればの仮説(虚構)だからこそ、天正6年6月なんだろ(笑)
謙信が生きていれば、甲信越の総力で魔天王ノブナガを打倒できたという。
三郎(軍務は無役)を景勝より家中で上位にしていた理由は、そうでも考えないと
説明できませんよ。北条ともういちど結んで、関東府を再建して尾張のうつけを
滅ぼすと。。。
>三郎(軍務は無役)を景勝より家中で上位にしていた
これは確定なのか?
>392
新史料が発見されないかぎり、確定ですね。
景勝(中城殿)=軍役あり
中城とは、春日山城の三の丸。景虎は二の丸在住(軍役を課す側)。これは、天正記の
上杉家中の常識(天正三年軍役帖より)。謙信が軍役を課せられないのと同じです。
北条三郎(上杉景虎)が与板衆にかつがれ(謙信の遺言)
喜平次景勝が上田衆にかつがれた原因。これが問題(最大の謎)だ。
つまるところ、謙信の関東政治構想が何だったのか、と。
高尚な議論ですね、さすが日本史板および三戦板きっての上杉(謙信)スレ
あまり荒れてないのも、いいですね。しっかり観ていますよ。
与板衆は景勝側だろ…
最初から思い切り景勝支持に回ってるじゃないか
というかその謙信の遺言ってどこから出てきたんだ?
栖吉衆のまちがいと思われ
>393
これ本当に確定?いつから上杉家中の常識になったんだ。
>390
なかなかの仮説というかそう言ってるのは一人だけで
他の人たちはちょっと付いていけない(理解できない)状態だと思うんだが。
つっこみのレスの方が多いぞ
最近過疎化ぎみだったから活発になっていいけど。
>>393 いちおうマジレス投下
>景勝(中城殿)=軍役あり
「中城殿」ではありません。「御中城様」です。
敬称の用い方は当時の文書において「どの」「殿」「様」が厳密に書き分けられています。
また、この軍役帳では、かつて長尾家の主君であった守護上杉家の一族
(上条上杉、山浦上杉、山本寺上杉)、謙信擁立の基盤勢力であった栖吉の古志十郎など、
他の一門の人々がみな「殿」付けで並べられているのに対し、
もとは上田長尾家の出身に過ぎない景勝にのみ「御」「様」という二重の敬称が付けられ、
最上位に別格の扱いで記されています。
そもそも苗字、通称といった名前を用いず「御中城様」と在所を代わりに宛てているのも、
謙信を「御実城様」と呼ぶのと同じ尊称の1つです。
続き。
また、天正3年の御軍役帳、この史料による軍役の有無だけを根拠に、
後継者の正否や上下関係を確定するのは無理があります。
研究者もこの軍役を根拠に判断することを肯定する立場と否定する立場に分かれています。
三郎ちゃんファン以外は納得しない人も多いと思われます。
否定説の一例を挙げると、この軍役帳は、天正2年、
関東における拠点の多くを失って激しく落胆した謙信が、
父の盛大な法事、自身の出家を経て、翌天正3年にあらためて北条氏討滅を誓い、
他国国境線に派遣している在番衆などを除き、本拠である越後春日山城周辺から、
対北条戦に出陣できる将士の賦課を動因名簿としてまとめたものであって、
実家の北条氏に対する三郎の複雑な立場を考えれば、
そこに(本来ならば「山内殿」として他の一門衆と並ぶべき)三郎の名がなく、
出征軍の賦役を課されていないのはごく自然なことであるという説です。
この軍役帳作成後、謙信は氏政との戦いを宣言、願文を捧げて祈願しています。
(その後、状況の急変で関東出兵が延びたのはご存知のとおり)
また続き。長くてスイマセン
>中城とは、春日山城の三の丸。景虎は二の丸在住(軍役を課す側)
違います。中城の場所、規模、諸説あり不明です。
中城=三の丸ではありません。
中城が、謙信の居た実城と並ぶ春日山城の二大郭だったという説もあります。
景虎の在所も、二の丸郭説、三の丸郭説と両方あります。
(ちなみに他家の例をみても軍役を課すのが国主とその継嗣のみとは限りません。)
>北条三郎(上杉景虎)が与板衆にかつがれ(謙信の遺言)
喜平次景勝が上田衆にかつがれた原因。これが問題(最大の謎)だ。
>397の言うように与板=栖吉ですね?
現在明らかな史料に、謙信の遺言など何ひとつ存在しなかった筈です。
それに栖吉にとって景勝がライバル上田長尾出身の若僧であるが故に、
反景勝=景虎派。別に謎とは思えません。
403 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 19:50:15
景虎は養子とはいえ人質的性格が強かった、
或いは、部屋住みで、まとまった数の家臣がいなかったために軍役も課せられていなかった、
ってのはどうかね?
404 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 20:45:37
>>403 普通に考えればそうなんだが・・・
ただ、叔母、姪 どっちも喰った巨根男って可能性も
あと北条時代の奥さんに側室有り。
結構女性とは縁あるな。
そういや謙信、景勝は何で結婚させてないんだろ。
子供作ってもらって身内増やしたほうがいいような。
>>405 確かに言われてみれば、他の養子や寵愛の近習たちは、
15歳だの17歳だのでせっせと縁組させてる。もちろん政略の一環として。
景勝はどうなんだろう・・・ある意味最強の手駒だから甥っ子は売り惜しみ?
直江景綱あたりが「御中城様もよいお年頃ですし、そろそろ」なんて打診してみても、
あの家の娘じゃダメ、その家の娘もダメ、と駄目出ししてた可能性もありか。
仙桃院もうるさそうだし
ていうか、自分が食(ry
三郎景虎を「山内殿」とよんでる史料はあるの?
>>408 ないよ。
本当に山内殿にするつもりかどうだったかも不明。
ただ越相同盟当時の条件だったと考え得るので1つの可能性として語られるのみ。
御館の乱は、単純に家臣の反乱に三郎が担がれただけなのかな?
御館の乱は一門衆同士や古参新参、反北条親北条、
色んな確執が絡み合ってるから
単純にこれだけが理由って片付けるのはどうかと。
それに謙信死去の前年天正5年に景綱、豊守、柿崎辺りの
重臣が一気に死んで家中に混乱もあっただろうし。
うん。
なんかもう、上杉家が抱えてたあらゆる病巣の膿が一気に流れ出した感じ。
日本の歴史上で最も素晴らしいのは治憲です。
415 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 21:11:09
枇杷島弥七郎は八条上杉氏の出身だと考えられてるのか?この人も養子?
416 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 21:49:50
謙信は養子じゃないだろ.家名を継承したが,家を嗣いだわけではない.
おまいら家康の子の信吉が長生きしたら武田の養子とか言うのかなw
417 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 22:16:30
信吉って穴山の養子だったかな。
ま、早死にしなかったら信吉家が武田一門の宗家的ポジションになったんでは?
その場合、信玄の子孫(高家武田家)の復活の可能性は低くなるが。
>415
謙信は何人養子いるの?
高梨政頼の娘と佐野昌綱の息子と山浦国清辺り?
小説の話で恐縮ですが政繁が上杉姓名乗ってたけど
実際もそうなんでしょうか。
上条も山浦も越後守護上杉の氏族っすよ
ちなみに謙信の上杉は憲政から譲られた関東管領の上杉
長尾は越後守護代っすね
いやぁ氏康くんも氏政くんもボク謙信に比べたら力の無いやつだったよ。彼らはいつもボクに攻められては城にこもって…そんなに野戦の自信ないのかなあ…
おかげで現代の人で勘違いして北条のが強いなんて事ゆうやついるんだよ。
攻められ方のくせにさ…
だからみんな勘違いしちゃだめだよ
謙信>氏康=信玄>>義元>>>>景勝>氏政=勝頼>>>氏真>氏直
なんか文句ある?
>>420 一人称が「ボク」という手塚漫画系お転婆娘の謙信萌え。
422 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 21:03:23
俺も上杉に養子に入りてぇぞ
いくら持ってる?
424 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 14:46:17
『たけのまたみまさかまさつな』って読みづらいね
425 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 16:34:17
上杉家というのは、男子が生まれにくい強烈なDNAがあるのだと思うぞ。
426 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 16:39:39
>100
上杉憲政と謙信は一応、血族だったのか、驚き。
しかし、景勝と謙信だって、叔父甥とはいっても、景勝の母と謙信の母は
別人だとしたら、この時点で、血の濃さは半減される。
まったく別人と言ってもよい人たちによって継承されている上杉家って
なんか会社みたいだね。
でも他に甥がいるとも聞かないし(景勝の兄は早世)一番血が濃いのは
景勝一人なんだからこの場合は仕方無いんじゃないのか。
一応晴景に早世した息子がいたことになってるけど
こっちは完全に異母兄弟だし。
景勝の母と謙信の母は別人だろう
いや謙信と晴景の母が違うってこと
>428
あ、
>>426に対してだったのか。ごめん勘違い。
431 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 21:42:38
>>426 景勝の母の母と謙信の母が別人っていいたいんだよね。たぶん。
はははははは
>>426 > しかし、景勝と謙信だって、叔父甥とはいっても、
全然違う。叔母甥だ。
その話は専用スレで。
>>418 >高梨政頼の娘と佐野昌綱の息子と山浦国清辺り?
亀ですが、
この辺は一度養子にしてからすぐ他家へ出したんじゃないかと言われてるらしいね。
政繁は上杉姓を与えられて、その後あらためて上条上杉に入嗣した。
436 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 22:43:33
山浦国清がよくわからん
なんで浪人の息子に上杉一門の名跡をやるのかもわかんないし
村上氏と村上義明の関係もわからん
国清って村上姓の頃から徳川側との取次ぎやってたり
謙信の側近みたいなことしてるし謙信子飼いの立場として考えると
入嗣政策の1つなんじゃないか。
上杉家は現在も家名を継承している方はいらっしゃるの?
439 :
日本@名無史さん:2005/09/18(日) 17:43:49
>>438 上杉本家が東大のロケット博士で、麻布(駿河)上杉家が欧米カクテル研究家。(流石お酒好き)
能登(畠山)上杉家が経済学者やなかったけ?
長尾家当主(晴景子孫)がIQ200超の天才でHP持っとるのは外出やったかいな?
管領上杉家の末裔という意味なら岩城・近衛・佐竹とかの家中でいぱい居りそうやん。
440 :
日本@名無史さん:2005/09/18(日) 17:49:31
晴景の子孫っていたのか?
江戸時代、何やってたんだろう。
441 :
日本@名無史さん:2005/09/18(日) 18:30:57
>>426 おいおいネタにマジ反応するなよ。
61親等なんて他人と同じだろう、
442 :
日本@名無史さん:2005/09/18(日) 19:00:44
謙信が上杉の名跡を継いだ結果、長尾の家名はどうなったの?
あと、本当の上杉の一族はどこに消えたの?
443 :
438:2005/09/18(日) 19:12:35
>>439さん ありがとうございます。
頭いいですね。上杉一家。
長尾さんのIQ200のホームページとは?
気になります。
444 :
日本@名無史さん:2005/09/18(日) 19:17:05
その長尾さんって本当に晴景の子孫なんだろうか?
米沢藩の一門かどっかの大名の家臣として存続していたの?
445 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 13:48:39
晴景に子供はいない
446 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 13:52:42
やはり織田無道や青森の羽柴と同類か・・・
うちの祖先が景勝時代に鷹匠頭だったらしいのだが鷹匠て偉いのか?
>>447 家老より偉いよ
おまえの先祖すげぇなぁ(`・ω・´)ゞ
449 :
447:2005/09/23(金) 21:31:10
>>448 釣り?家老て将軍(藩だと大名)の次くらいに偉い人じゃないの?
俺の知識程度だと鷹匠は良くても中級武士くらい?
ただ後に頭が付くとどうなんかなと思って聞いたんだけど
家老より偉い人の末裔がなんでこんな一小市民なんだよ(俺のことだけど)
大名の子孫でも一小市民はいるよ。傍系でなくて直系でも
451 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 17:58:03
>>440 >晴景に子供はいない
長尾千代(猿千代?)がいたと思う。他の子の名はわからない。勉強不足でごめんね。
>>442-445 >その長尾さんって本当に晴景の子孫なんだろうか?
HP消えてました、うろ覚えで申し訳ないが
長尾高景(輝虎の7代前の守護代)…長尾能景−長尾為景−長尾晴景…長尾景明(鷹山と敵対した重臣の1人)…長尾清成…(孫=当主)だったか?
>頭いいですね。上杉一家。
先々代も先代も東大卒だもんな・・・大学院まで出てて博士だし。
宇宙工学が専門というのもビクーリ!
>謙信が上杉の名跡を継いだ結果、長尾の家名はどうなったの?
>>米沢藩の一門かどっかの大名の家臣として存続していたの?
米沢藩の重臣に長尾家がありますね。
武田・北条・畠山・大石とか、かつて敵対した大名や豪族が上杉重臣になってるのがすごい。
島津や毛利も上杉家中にいるし、高畠に来た織田家の面倒も見てあげたらしいから、
上杉家だけで「某なにがしの野望」とか「なんとかヶ原」のTVゲームが出来そうだ。
(スレ違い勘弁)
452 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 18:10:25
>養子だらけ上杉一族
謙信以降では4回だけやん
景勝(上田長尾)綱憲(吉良)治憲(秋月)斉定(能登畠山)の4回
女系では繋がってるやろし。
現当主のおばあちゃんは鷹司家から嫁いでるんだな
455 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 16:35:41
謙信以降とそれ以前の上杉氏とでは全く別物
むしろ謙信が「平姓」上杉氏初代と言っても過言ではない。
456 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 13:15:32
景虎が上杉氏の養子になった時点で越後長尾氏は断絶したのか?
それとも誰かに家督をゆずったの?
血統も家臣団も別物でも、上杉家が藤原姓上杉氏の後継者と意識してふるまってる以上、
そしてもとの上杉氏が納得づくで名跡も系図も譲った以上、本物だ。
実質的もしくは客観的には別物でも、当事者にとっては本物で間違いない。
そもそも、ほとんどの江戸大名の本姓が詐称に近い自称だという事実を考えれば、
正真正銘の上杉家より名跡を譲られた上杉謙信とその子孫は、来歴がはっきりしてる分、
インチキ度が低い。
そこいらの自称藤原氏より由緒来歴のはっきりした藤原姓だと言える。
>>456 越後の長尾氏って何家に別れてたんだっけ?
そもそもそれがようわからん…詳しい人おらんかね
府内と古志と上田とあとは?
白井とか総社は越後ではないよな、上野?
越後長尾氏全体の跡目ってことで謙信が誰かに譲った形跡はないと思う
古志長尾は河田に譲りたがったらしいがどうも上手く運ばんかったようだし
上田長尾はまぁ言わずもがなだ
460 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 21:42:55 ID:0
鷹司松平は家光夫人の縁で松平名字を与えられただけで、徳川松平一門の誰かの
養子になったわけではない。
華族類別録でも、「第42類 神別 藤原朝臣 天児屋根命後内大臣鎌足十七代
摂政関白太政大臣忠通裔」に、「従四位 吉井信謹 正五位 鷹司熙通」とある。
462 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 23:17:23
なるほど
463 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 23:51:21
吉井信謹
生没年:1853-1890
父:出羽米沢藩主 上杉斉憲
義父:上野吉井藩九代藩主 吉井信発
幼名:鉄丸
1865- 上野吉井藩十代藩主
従四位下
侍従左兵衛督
1869 改姓吉井
1869- 吉井藩知事
464 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 15:01:24
三条長尾っていなかった?
465 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 16:15:49
じゃあ、養子になった訳じゃない上杉景信は平氏って事になるし、系図も長尾氏の延長になる訳だが。
466 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 18:20:41
文句は上杉家に言え。
上杉家の自己申告に基づく「寛政重修諸家譜」は藤原姓だし、「華族類別録」も藤原姓だ。
467 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 18:25:48
「華族類別録」には「第49類 神別 藤原朝臣 内大臣鎌足七代内舎人良門裔」の項目に
「従四位 上杉茂憲」と明記してある。
謙信が山内上杉家の通字「憲」を名乗ることにならなかったのは、何かわけでもあるんかな
469 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 04:51:56
>>468 足利義輝から『輝』を貰って『輝虎』
上杉憲政から『政』を貰って『政虎』
だっけ?
『憲』は名乗ってないね。
鷹山はなんでわざわざ他家から養子にきたの?
もっと近い血の人いるじゃん.
472 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 20:33:41
鷹山の正室・幸姫(重定の娘)はちょっと普通じゃなかったんだっけね
473 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 00:06:14
山内上杉家の家臣の子孫でございます
昔、自称「山内上杉の子孫」という爺さんが埼玉県川越市を訴えたんだが、まだこの人生きてるのか?
川越城は上杉持朝が太田道真・道灌父子に命じて築城させたのだから、築城者は持朝である。
故に、築城者を太田道灌として役所前に銅像を立てている川越市は銅像を撤去して出版物の記述を改めろ。
という趣旨だったが「学説の差異は訴訟になじまない」と裁判所に門前払いを食っていたところまでは新聞で
読んだ記憶がある。
それはともかく、なぜ扇谷上杉の話に自称山内上杉の子孫が首を突っ込むのだろう?
越前松平忠直の名誉回復に水戸家の子孫がしゃしゃり出るようなものではなかろうか。
475 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 22:54:41
>>474 >越前松平忠直の名誉回復に水戸家の子孫
春嶽のことですか?
>>474 >自称「山内上杉の子孫」という爺さんが
自称なになに、というのは本当にやっかいだ
かくした証拠が無くても代々受け継がれてきた信念だからなかなか変えようとしない
478 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 17:54:48
>越後の長尾氏って何家に別れてたんだっけ?
>府内と古志と上田とあとは?
>白井とか総社は越後ではないよな、上野?
長尾景忠(越後・上野守護代)
のいとこ(弟説あり)・景直(足利長尾)、
孫・清景(白井長尾)と忠房(総社長尾)、彼らの子孫が上野守護代を継いだ。
甥・高景(三条長尾)と景春(高志=古志長尾)、景春の子・房景(上田長尾)、
高景の孫・頼景(府内長尾)、房景の孫・顕吉(栖吉長尾)
彼らの子孫が越後国守護代を世襲。
これでいいのか?地震ない
479 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 15:17:00
越後に地震がないのはいいことだ。
>>478 三条長尾の流れで下田長尾(謙信の頃は奉行の長尾藤景)もあるよ。
481 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 18:55:05
吉井信謹夫人はどこの家の出身?
482 :
日本@名無史さん:2005/10/04(火) 10:23:07
>>477 そういう事。
「証拠がない、根拠がない主張」というのが
実は最も無敵だったりする。
483 :
日本@名無史さん:2005/10/04(火) 13:37:39
484 :
日本@名無史さん:2005/10/04(火) 22:56:53
で越後長尾氏の本家として長尾景虎の跡を継いだのは誰?
これは長尾景虎(一応、上杉謙信とは区別)の養子で越後上杉氏第十何代目の当主と言う事になるのかな?
一門をみんな上杉に改名させたところを見ると、長尾姓は完全に捨てちゃったみたいだね。
まぁ為景の所為で聞こえは悪いからなー
486 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 20:31:37
じゃあ、長尾氏嫡流の白井は今でも続いてるの?
長尾のままだったら大大名長尾家の祖だったのに、
為景も気の毒だな。
488 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 16:25:04
(最後の白井長尾)
天正十八年(1590)、最後の白井城主・長尾正景は上杉景勝らに降伏し、
城を開け渡し、加賀に連行された。
やがて白井長尾家の家宝を差し出して許され上杉景勝の臣下となった。
大坂の陣に際しては、長尾景広が景勝の名代として駿府に参じ、
その後も一族が上杉家の重臣になったと史書には記されている。
子孫がいれば今も存続してるかも(直径でないかもしらんが)?
489 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 16:36:10
>血統も家臣団も別物でも、上杉家が藤原姓上杉氏の後継者と意識してふるまってる
血統だと
景勝(長尾政景の次男)綱憲(吉良義央の長男)
治憲(秋月種美の次男)斉定(畠山勝熙の長男)と
藤原からの養子がないが、家としては藤原氏だと当主も家臣も思ってたのじゃまいか?
490 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 01:52:59
上杉に改姓したのは景虎の他は景信だけだよ。
491 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 02:30:05
ところで重臣になった信濃島津氏って子孫いるの?
492 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 02:44:27
椎名氏の養子になった長尾景直ってどういう出自?
諸説あってよくわかんね
493 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 13:31:40
>>488 米沢藩といえば、上杉鷹山の改革が有名ですが、
当初この改革には「けっ、弱小藩から養子に来た藩主の分際で」
「新参者の言う事ばっか聞きやがって」「謙信公以来のわが藩の伝統を!」
みたいな抵抗勢力がありました。
その”謙信公以来の譜代の重臣”たちの抵抗を、「七家騒動」と言いますが、
その七家は皆さんお馴染みな苗字の
江戸家老・須田(満主)
奉行・色部(照長)
・千坂(高敦)
・平林(正相)
そして
・芋川(延親)
・清野(内膳祐秀、当時藩政を支配していたらしい)
残る七家目が
侍頭・長尾(景明) ←
キター
ただしこの七家、厳正なる取調べの後、「二名切腹(須田・芋川)、残りは知行半減or蟄居閉門」ですが・・・
その後、二家にも相続を許し、残りの家の閉門も解いたそうで、
http://www.onogawa.jp/~koma/onogawa_JP/zyuku/nen/1.htm これを見ますと、鷹山時代前期にも(七家騒動を挟んで)後期にも、「長尾家」が国家老になってますね。
たとえ一度閉門になろうとも、国家老に復帰できる。
そのぐらいの地位をキープしていたのだと思われます。
ただし、これがどこの長尾さんか白井なのか?そうなのか?は知りませんすいません・・・
494 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 15:51:46
495 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 20:21:55
今日社長が鷹山の言葉を引用して乾杯した。
困るんだよね、論破するわけにいかないし。
496 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 18:07:44
吉良義周の病死後、再興された高家吉良家も上杉一族?
上杉鷹山の家老・大石内蔵助は佐々内蔵助成政の子孫?大石りくの子孫?
497 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 18:16:51
高家吉良家を再興したのは上野介の弟の孫かひ孫だったかと
思うからかなり遠い
498 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 18:32:09
499 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 18:34:53
485(訂正)
>>497のまちがい
重ねてm( )m深謝
500 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 21:54:56
祝! 500get
☆ ∵∴∴☆※☆∴∵∴ ./
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∵☆☆☆°°°°|°°°°☆☆☆∵ うんこーーー!!!
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501 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 19:45:40
上杉家は結構美人が多いかも
502 :
日本@名無史さん:2005/10/19(水) 16:15:43
「上杉 季雄」(伝国の杜館長)で検索すると「上杉家当主」という説明が度々出てくるんだが・・・
上杉家当主は
>>471の上のリンクにもあるとおり上杉邦憲氏だろ?(隆憲氏は既に故人)だれだ上杉季雄って??
まあ、どの上杉家かはわからんが上杉家の当主であることは間違いないな
>>502 扇谷上杉家か越後上杉家の当主だったりして。
505 :
日本@名無史さん:2005/10/19(水) 21:03:53
>>501 鎌倉時代、代々、妾として娘を足利氏に貢いでたんだよね。
506 :
日本@名無史さん:2005/10/19(水) 22:18:54
507 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 16:02:52
文政5(1822)年文政武鑑よると
確かに吉良家ちゃんと再興されてるね。
高家
大沢右京大夫基之 従四位上侍従 3550石
畠山飛騨守義宣 従五位下侍従 3100石
上杉中務大輔義長 従五位下侍従 1496石
(略)
表高家
畠山左衛門基利 5000石
吉良中務義房 1425石 (略)
とあるね。畠山は高家と表高家のどっちが
能登畠山かわからん。官位なしの方か?石高が多すぎる気もするが。
508 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 18:17:50
>「上杉 季雄」
>どの上杉家かはわからんが上杉家の当主
上杉一族で「季」がつく人物は
季姫(畠山勝煕の孫)くらいだね。ほかに見当たらん
509 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 00:11:06
>>507 「高家」
ってのは、現在わかってない部分も多くて・・・
簡単に言えばかなり曖昧な基準で、
高家・・・しょっちゅう仕事がある。官位が貰える。
「奥高家」とも呼ばれる
表高家・・・無役。官位が貰えない。
なんかきっかけがあったり、空きがないと奥高家にはなれなかったっぽい。
この「表」「奥」に血筋・石高はあんま関係ないっぽいです。
で、畠山ですが
・左衛門基利 → 政長系
・飛騨守義宣 → 能登のあの流浪の人から(つまり上杉関係者www)
・吉良義房 → 吉良成高〜世田谷御所〜蒔田氏が東条吉良氏断絶後に「吉良」に復姓
・上杉中務大輔義長 →
>>13参照。伊達から養子が入ってる・・・
510 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 12:28:47
重定の子畠山勝煕って、どこの畠山の養子になったんですか?
勝煕の実の伯父(重定の兄)義紀が高家の能登畠山(
>>509でいう畠山飛騨守義宣の家?)の養子になっているところを見ると、勝煕もこの系統の畠山の養子になったのかな??
511 :
510:2005/10/25(火) 12:31:37
512 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 00:29:59
ここは上杉ファソとゆーか系図マニアが多いの?
まったりと良いスレだ
513 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 05:39:57
武蔵吉良氏は、おなじ吉良でもほとんど他人といえるくらいに三河吉良氏とは
離れているね。三河吉良が主流と認められて、江戸幕府から吉良姓を取り上げられて
「蒔田」(横浜市南区)を名乗っていたが、赤穂浪士の討ち入りで三河吉良が
滅亡したため、吉良姓に復帰。
514 :
日本@名無史:2005/10/30(日) 16:53:49
武蔵大石氏(山内家臣)も、赤穂大石氏と他人といえるくらいに離れているよ。
ややこしいのが、同じ時期に鷹山の改革に協力したくらいの重臣の大石氏と
下っ端の大石氏が両方居たこと。
515 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 16:59:10
浅野屋敷と上杉屋敷とは近かったので
佐々りくの子孫(流刑から許されて芸州本家行った)を上杉家で採用した
「内蔵助」は佐々成政ゆかりの名乗りとか
516 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 23:46:59
517 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 16:21:54
親上杉の越中の国人(小島、土肥、斉藤など)の一族が上杉家臣になっていた
縁故で佐々(大石)の末裔も米沢藩士になった
さすがに「内蔵助」は吉良関係の冠婚葬祭や使者の時は遠慮しただろうが
518 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 16:26:18
>浅野屋敷と上杉屋敷とは近かったので
前2つの「離れている」に引っ掛けたレスだ!
上杉家臣の織田氏は「おた」で北条氏は「きたじょう」って読むのか・・
織田信長や北条氏政とは無関係なんですね。
520 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 23:15:40
会津三奉行の大石綱元(山内上杉家臣)って憲政が
越後に来た時に一緒についてきたんですか?
綱元は御館の乱では景勝側に付いたって本で見たんですが
主人の憲政とは別行動してたんでしょうか。
522 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 22:10:07
義央 ━ 綱憲 ━ 吉憲 ┳ 宗憲
┃
┣ 宗房
┃
┗ 重定 ┳ 治広
┃
┗ 勝熙 ━ 斉定 ━ 斉憲 ━ 茂憲 ━ 憲章 ━ 隆憲 ━ 邦憲
>>521 越後に来てからは謙信の家臣として仕えていたのではなかったかな。
御館の乱の頃にはもう主人と呼べるのは謙信(景勝)だったってことでは。
>>514 武蔵大石氏って、多摩地区本拠で北条氏照が養子に入った大石家のこと?
大石綱周(定久の子)が氏康の二男氏照を養子に迎えて、武蔵大石氏は北条傘下に入った。
大石氏照は初め滝山城主であったが、のちに八王子城主となり大石(北条)陸奥守氏照と名乗った。
小田原の陣で、氏照自刃し、定久の実子も没落(子孫は八王子の同心)、大石氏の嫡流は絶えたが
武蔵衆(岩附衆)として上杉謙信に従属した一族の大石石見守の子孫が(『関東幕注文』などによる)米沢藩士となったようだ。
この大石氏と鷹山の頃、芸州浅野家から来た大石(佐々)氏は別。
>上杉家臣の織田氏は「おた」で北条氏は「きたじょう」
畠山家臣で上条入庵についてきた織田は「おりた」と読む説もあったんじゃないか?
関係ないが上条城主・上条入庵(じょうじょうじょうしゅじょうじょうじゅあん)
て言いにくい
527 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 19:14:02
>525
芸州浅野家から来た大石て播州赤穂の?
入庵は政繁と同一人物?
政繁(宜順)と義春は別人でいいんだよね。
529 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 01:22:14
age
530 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 14:28:42
畠山義春と上条政繁
上杉景虎と北条氏秀
は別人説と同一説がありますね
景虎は氏政の弟じゃなくて従兄弟が通説だって
前にどこかのスレで見たんだけどそれだと誰の子に?
7男ではなく8男だっていうのはよく聞くけど…
>>531 三郎景虎は北条氏政の弟でしょ
北条氏秀が従兄弟っていうか北条綱成の次男
うん、景虎じゃなくて氏秀が従兄弟なんじゃないかなって
思ったんだけど景虎が従兄弟って書いてあったんだよね。
御館の乱で弟でなくて従兄弟だから氏政はあんまり積極的ではなかったとか
書いてあったからやっぱり景虎なんだよなー、前にも他のスレでも見たし
こういう説もあるのかと思ってた。
その人が単に2人を混同しちゃったのか。
534 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 17:00:31
上杉は家(構成、家臣、家法)は平氏(長尾)
血(血筋)は源氏(吉良)
家系(公称)は藤原氏という変わった大名家だ
養子相続で血筋が他人になってしまうことは珍しいことではないが、
この場合は長尾領国が看板だけ「上杉」にかけ替えた特殊なケースだよな。
536 :
日本@名無史さん:2005/11/28(月) 00:40:06
佐竹は義憲以降上杉の血だけど、途中養子が入ってる?
537 :
日本@名無史さん:2005/11/28(月) 03:15:41
>>536 今の当主の孝氏は家康の男系子孫。
徳川家康━徳川頼宣━徳川光貞━徳川吉宗━一橋宗尹━一橋治済━田安斉匡━松平慶永━徳川義親━大給義竜━佐竹孝
オズオズ・・・猫型ロボットってロダどこっすか?・・・
一応ググってみたけど見つからなかったっす
失礼致した、誤爆でありんす
540 :
日本@名無史さん:2005/11/30(水) 01:10:12
─上杉斉憲┬茂憲─憲章─邦憲
■■■■■└亀雄─虎雄?─季雄?
現在米沢在住の上杉氏について、誰か知ってる人いる??
541 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 15:58:48
>芸州浅野家から来た大石て播州赤穂の?
佐々りくの三男(主税の異父弟)の子孫だろ
542 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 16:44:02
>重定の子畠山勝煕って、どこの畠山の養子になったんですか?
父の仇を討とうとする上杉綱憲を止めた畠山下総守(猫や色っぺーだというのは俗説)の家と思う
543 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 15:42:37
分家の1万石の駿河守の家も参勤交代したんですか?
544 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 16:42:21
>>543 確かに、米沢藩の内から1万石(不特定で現金?米で支給)だし、陣屋や城もなくて
書類上米沢城同居だけどさ。
「柳間」格だから、藩内支藩じゃなくて公認っぽいから・・・参勤交代してたんじゃないかなぁ?
545 :
日本@名無史さん:2005/12/14(水) 16:26:56
宇宙科学者で宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究本部教授の上杉邦憲は米沢藩上杉家の17代目当主にあたる。
んだって
ウィキペヂアにかいてた。
546 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 14:20:42
>>545 ここにカキコしてる人は皆知ってるよ
弟の隆治氏が音楽家(昨年死去)ということもね
男が立たない家柄なんですね。
548 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 17:24:19
上杉邦憲は徳川家達の曾孫。
549 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 11:25:17
邦憲氏に御子息はいるんか?
18代目の噂が全然聞こえてこないんだが
550 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 11:46:16
>>549
いますよ。
上杉裕憲氏。浩憲だッたような。
551 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 11:53:42
>>550 さんくす
けど上杉裕憲でも上杉浩憲で検索してもなにもひっかからん
どんな人?
>>551 人材派遣の契約社員で米沢の工場で4勤2休してる。
おいたわしや・・。
世が世なら不識庵謙信公以来の武門の誉れが・・。
人売りに売られるとは・・。
554 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 14:26:50
555 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 16:11:15
世が世であれば越後120万石の太守を相続される方が、あわれ米澤の倒産間際の町工場で
重労働に従事しているとは。たれか捨て扶持を支給せよ
556 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 17:45:30
おまいら わかってないな
越後国主の座を自ら捨て出家しようとした謙信公や
1500両の藩主の給与を自ら409両に減らした鷹山公の血を受け継ぐ御方だぞ
俺らと違って生まれながらにして欲望など持っておらぬ
年収200万円でも神に感謝して生活を送ってらっしゃるに決まってるだろ
557 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 18:49:08
つまんない
ホントかどうか知らんがいい加減にしろ
因果だな。
人売りしてた先祖の報いを子孫が受けているのだ
560 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 17:05:56
age
ここ2〜3年の本で(歴史書・小説なんかひっくるめて)
三郎景虎の子供が数人いたって言う話が気になって
どの資料に載っているのかと探していたら、こんなの見つけた。
ttp://banner.meganebu.com/~hinagi/cgi-bin/blognplus/index.php?e=81 別の記事見ると、ご先祖が米沢藩士らしい。
でも他の歴史話もそうだけど参考文献も書いて無い。
>彼の子供達の戒名を見つけまして、それによると「道満童子」・「源桃童子」・「還郷童女」の三人だそうです。
>どうやら景虎とその正室と一緒に納められているらしく、三人とも正室(謙信の姪)との間に生まれた子供のようです。
だれかこの話の元になってる史料を知らないだろうか。
外出済みの遠山氏の娘の話の史料も知っていたら教えてくれ。
自分の持っているのはもっぱら謙信のもので、視野が狭いんだ。
このスレすごいな…全て鵜呑みにしてはいけないんだろうが、
会話の幅が広くてキャッチボールできてる人たちを尊敬する
>「道満童子」・「源桃童子」・「還郷童女」
米沢の常慶院にある政景と仙桃院の肖像画(よく本とかに載ってるやつ)に
戒名が書いてあります。
これは最近の本だと小和田さんの「戦国の女性たち」の仙桃院のページに
結構詳しく書いてあったよ。
遠山氏の娘は「遠山氏系図」や「寛政重修諸家譜」にのってる。
遠山康光の娘が景虎の側室で女子あり、みたいなことが書いてあるらしい。
康光の奥さんが景虎の伯母だから2人は従兄弟同士になる。
こっちは北条スレの方が詳しい人いるかも。
あと氏康からの酒飲み注意の手紙も花押と辰という年から判断すると
弘治2年に出されたものだから時期的に景虎ではないみたいだね。
(景虎は生まれた年も不明だから上杉来た時20才とっくに越えてます、とかなら
別だけど)
>>562 アトガd
祖父母の肖像画の裏かー。
教えてもらった本、読んでみます。
>寛政重修諸家譜
そうか…18世紀の史料なんだ。
返す返すアリガd、手がかりにして書籍探します。
>>563 それについて書かれた十年以上前の本で申し訳ないが
「辰」を永禄年間で三郎が15〜6歳の頃ってなっていた。
今は違うんだね。
565 :
日本@名無史さん:2005/12/31(土) 00:55:19
age
566 :
日本@名無史さん:2006/01/04(水) 01:53:24
江戸時代の上杉氏は関東管領家だと思ってたんかな。どっかの本で管領家の誇りとか書いていたが(特に吉良綱憲以降)
567 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 20:07:38
とりあえず血は二の次なのだな
最初から謙信の直系ですらない連中の流れだからな
569 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 13:41:43
栃尾刈谷田川の戦い ○謙信軍 対 ●反乱軍
謙信の初陣。病弱な兄、晴景に変わって出陣した。
実戦経験の無い謙信だったが、油断していた敵を畳掛け、初陣とは思えない華々しい勝利を飾った。
これによって家中の期待が高まり、上杉家は謙信が継ぐ事になった。
北条征伐 ○上杉軍 8万人 対 ●北条軍 9万
関東管領として、北条を征伐した戦。 関東豪族のほとんどが上杉謙信の側についた。
北条軍は撃破されまくり、殺されまくりで小田原城に追い詰められる。
北条軍は小田原城落城寸前まで追いやられるものの信玄が助けに入ったため助かる。
関東管領として始めての戦であった。
川中島の戦い ○上杉軍1万3千 対 ●武田軍2万
無敵の武田騎馬軍団も毘沙門天の化身上杉謙信には勝てるわけがなかった。
啄木鳥戦法も軍事の天才謙信には見破られ、武田軍は山本勘助や弟ら重臣を失う。
車がかりの陣で武田軍は追い詰められ、死者四千六百三十人、負傷者七千五百人を出す大被害を追った。
謙信は単騎特攻して信玄と一騎打ちするなど大活躍を見せた。
唐沢山城救援戦 ○上杉軍13 対 ●北条軍3万
上杉側の関東の豪族、佐野昌綱を救援するため、北条の大軍の中を数騎で特攻。
謙信の威勢に恐れをなした北条軍は怯えて近づく事が出来なかった。
手取川の戦い ○上杉軍2万 対 ●織田軍4万8千
最大勢力の織田も軍神上杉謙信の前では赤子同然だった。
能登畠山を軽々と滅ぼし、謙信に怯え逃げる織田軍を追撃。
織田軍は二千人近くの死傷者を出して、大敗する。
信長自身、近習ら数十騎とともに命からがら美濃へ逃げ帰ったという。
もし謙信が寿命で死んでいなかったら信長は滅んでいただろう。
松川の戦い ○上杉軍2千 対 ●伊達軍4万
この20倍にも及ぶ戦力差を本庄繁長の巧みな戦術で克服し、奇跡的な大勝利を得ている。
伊達軍は大量の死傷者を出して大敗、撤退する。
この戦いを捏造と言う伊達厨がいるが、もちろん負け惜しみから来る妄想なので注意が必要である
570 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 23:31:46
同じ名門なのに細川の養子ナシな血縁の濃さと、なんと対照的な・・・
571 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 00:26:44
Wikipediaに
かねて上杉氏に養子を招くことを望んでいた上杉憲政が、上杉氏から養子を出したことのある佐竹氏からの養子を断られ、同じく上杉氏から養子を出したことのある家臣筋の長尾氏に依頼が来たものである。つまり、景虎の父系の祖先の中に上杉氏の血が入っているのである
って書いてるけど誰か長尾に養子にきた人いたっけ
572 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 17:18:13
>>570 それは熊本藩細川氏のこと?幽斎が養子ジャン
573 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 17:19:40
今の上杉の殿様は宇宙工学の研究者なんだね
574 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 17:27:42
>>572 幽斎以来護熙にいたるまで養子なしってことじゃないの
575 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 20:33:48
>>572 養子だけど、弟が養子にいってそこで生まれた子供というのが公式な系図。
伊達の血にこだわられ貧乏旗本の息子から宇和島藩主になった伊達宗城と同じ立場。
本当は将軍義晴の隠し子
>>575 細川藤孝が義晴の子供だと断定できる証拠があるの?
577 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 22:16:09
>>577 徳川綱吉と柳沢吉里の俗説と混同してない?
579 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 19:45:20
580 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 05:06:18
>570,>574細川と違い、正式な別家(支藩)がないからね。
米沢新田なんて諸侯に列してないし…
徳川綱吉は、頻繁に柳沢吉保の屋敷を訪問した -> 吉保の妻と出来てんじゃないの
-> 吉里って実は綱吉の子では? って話じゃなかった?
将軍の侍女だか側室のお下げ渡しが細川藤孝の母親だったと思ったけど。中小公家の出ですよね。
582 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 17:56:56
>>543 参勤交代免除で江戸常府では?
>580
明治で子爵なので諸侯でない?
583 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 02:07:36
千石ぐらいで分家つくっておけばいいのに・・・
584 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 02:14:27
>>508 米沢新田は享保4年に勝周が1万石で諸侯に列しましたが?
柳間詰で廃藩置県に至ってますよ
585 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 02:35:14
今も女の子二人 また養子かな
586 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 08:42:32
>585佐竹から養子貰えば、血が繋がる?
587 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 18:31:26
>>580-584 米沢新田はたったの1万石で賊軍なのに子爵?
官軍の毛利分家の小早川や薩摩分家の種子島が男爵なのに・・・
588 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 19:01:13
新田は分家とはいえ、維新前からの諸侯だから子爵。
小早川は維新後の分家、種子島は陪臣だから男爵。
589 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 06:28:48
>>587 種子島は分家じゃないぞ?
分家は貴子さんとこ
日向佐土原3万石の分家ね。
591 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 00:22:24
忠烈なる討ち死にをとげた豊久の所領ですな
但し現行の佐土原島津家は豊久の子孫じゃないけどな
593 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 23:16:50
どこの末裔?
現行の佐土原島津家は島津忠将(島津貴久の弟)の末裔。
595 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 05:37:50
>>594 >現行の佐土原島津家は島津忠将(島津貴久の弟)の末裔。
江戸時代はそうだったけど、明治時代に久光の末裔に変わったんだが
いや、男系ではそうだが女系ではつながってる。
但し、天皇妹・貴子さんの夫は後妻出生のため忠将にはつながらない。
597 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 14:01:27
米沢新田の植えすぎは駿河守家とか麻布家とも言うけど
静岡や麻布にも領地があったの?
>>597 代々の受領名が駿河守だったのと、江戸藩邸が麻布にあったのではなかろうか
599 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 23:59:34
上杉知彦氏は邦憲の長男か?
600 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 00:20:59
ところで、吉良上野介は男子はひとりしかいなかったんだよね。
それを大名とはいえ上杉に養子に出して、自分のあとはどうするつもりだったんだろう?
601 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 00:24:51
上野介は男子は二人いて
弟の方を上杉家に養子にだしたんだけど
兄が夭逝しちゃったから
弟の子供の次男の方を吉良家が養子にしたんじゃなかったかな
602 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 00:41:47
362 :日本@名無史さん :2006/03/29(水) 23:31:31
第6次川中島合戦録(平成18年3月29日フジテレビ・トリビアの泉)
川中島八幡神社に両陣営の陣幕「毘」と「風林火山」の旗が翩翻とひるがえる
−6℃のなか、上杉の先攻で始まった一回戦は僅差で武田の勝ち。
兵法書「よくわかるオセロ」で勉強する上杉。勉強してきたらしく、兵法書に付箋が付いていた。
上杉が二回戦、三回戦を圧倒的に制す。武田の敗因は、兵法書を持参しなかった
ことと、携帯電話で戦法を具申してきた山本勘助の献策を用いなかったこと。
ただし、武者姿は赤備えに諏訪法性兜の武田(57歳当主)が
なぜかみすぼらしいツギハギ頭巾の上杉(48歳分家当主)を圧倒していた。
603 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 08:26:45
>>600 >ところで、吉良上野介は男子はひとりしかいなかったんだよね。
>それを大名とはいえ上杉に養子に出して、自分のあとはどうするつもりだったんだろう?
もともと、上杉氏の当主が急死して跡取りがいないという非常事態だったから。
当主からみると甥(姉妹の息子)にあたる上野介の息子を急いで養子にした。
当時のしきたりでは、末期養子といって、死ぬ直前に養子取るのは禁止だったから本来なら上杉家は取り潰し。
そこをいろいろ工作して石高を30万石から15万石と半分にすることで許してもらった。
当時だと、上野介はまだ若いし、妻の実家の非常事態だからOK出したのでは。
その時点で吉良家に迎え入れれる養子候補は居たんだろうか?
>602
次は山本勘助%56の子孫を軍師に川中島で人間将棋なんかいかがでしょうか。
もちろん、開戦劈頭の真珠湾攻撃ありですが・・。
607 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 14:20:38
>米沢新田
駿府城加番(大阪城代や飛騨奉行みたいなもんか?)に任じられたり
麻布に上屋敷(江戸では白金にも拝領地あり)あったためと思う
親藩と外様が幕府重職に就けないというのは間違い
米沢藩本家も会津の前に京都守護よ依頼されている(実際には受けなかったみたいだが)
608 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 22:19:21
>>605 弟がいる。
後に吉良家を復興している。
609 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 22:44:55
上杉房子さんが美人という話を聞いたけどこのスレ的にはどうなの?
610 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 23:54:00
羽州米澤侯上杉弾正大弼斉憲に内々に京都守護職の台命の打診が下ったってマジですか?実際に上杉に目をつけたのはたれ?久世大和?板倉?越前?ソース希望
611 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 00:05:25
>49良門の子孫なら、井伊から養子貰えばよいのに…
譜代→外様 はあり?
>>611 別に問題ないのでは。
有名どころだと真田家が井伊家や松平定信から養子貰ってますね。
613 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 23:39:22
>>612 逆に伊達から堀田や願譜代の真田に養子も出してる。
614 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 14:52:08
幕府が上杉斉憲に京都守護職を委ねたというソースきぼん
来年の大河ドラマで上杉謙信役はGackt
米沢上杉祭りage
617 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 21:42:45
米沢行ってきた。上杉まつりは終わっちゃってた。
どこ行っても鷹山ばっかりだったけど、とてもいいところだったよ。
米沢駅前の『やまびこ』の老夫婦、面白かった。
618 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 23:52:32
吉良家には東条吉良と西条吉良があって上野介の養子(血筋は孫)が死んで断絶したあと西条系の蒔田(旗本)家が再興した
619 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 23:55:42
上杉家の分家のご当主が池袋でバーを経営してるって
聞いたんだけどまだやってるのかな?
620 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 08:23:56
関東管領
上杉孝久さん(東武百貨店池袋店プラザ館B1「フードバー楽」)>米沢藩分家 新田藩子孫
飢え過ぎ祭りって池沼が行くところだろ?w
上杉信者マジ哀れ・・・・orz
【上杉家の特徴】
・武田に北信濃を奪われ、頼りにしてきた豪族を裏切った上杉は論外
・関東を散々荒らしまくりながら、結局土地を取れなかった上杉は論外
・一時の感情で味方に暴行し、離反された上杉は論外
・小学生でも見抜けるような捏造武勇伝ばかりの上杉は論外
・下野の小豪族佐野家の城を10度攻め、一度も落とせなかった上杉は論外
・関東豪族を裏切ってまで北条と同盟したのに、その後北条にも同盟破棄された上杉は論外
・家臣に反乱を起こされまくった統率力が無い上杉は論外
・後継者の事を何も考えず便所で死亡し、勝手に自滅した上杉は論外
・勢力的に明らかに格下の神保に苦戦しまくった上杉は論外
・織田家に嫉妬し、手取川の戦いを捏造した上杉は論外
・伊達家に対するコンプレックスで松川の戦いを捏造した上杉は論外
・自ら起こした関ヶ原で負け組みになった上杉は論外
・幕末、何も見せ場がなかった上杉は論外
・容姿がキモ過ぎる上杉は論外
http://www.valley.ne.jp/~rinsenji/kenshin.jpg ・肖像画まで捏造した上杉は論外
・大量の基地外信者を生んでしまった上杉は論外
【vsスレ荒らし・上杉信者の特徴】
・根拠もなしに上杉謙信最強と言う
・歴史初心者に上杉家最強と吹き込む
・紛れも無い捏造の松川を事実と言い張る
・上杉を擁護するために平気で捏造をする
・自作自演での印象操作が得意
・たいして知識が無いのに、歴史に詳しいフリをする
・なぜか伊達家の話題を振ってくる
・突っ込んだ質問をされると即逃走
・人格攻撃、コピペが得意
・どこ行っても嫌われ者
・上杉は○○だからダメと言われる→そんなことは無い、とただ単に全否定するだけ
・一度書き込み出すと連続で書き込む(でも時間は絶対に被らない)
625 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 07:06:09
藩土返上を真剣に考えた上杉弾正大弼重定だったが、日向高鍋秋月筑前守から養子を迎え、上杉弾正大弼治憲は改革を成功させました
626 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 04:26:14
上杉重定の娘で治憲(鷹山)の正室だった幸姫(だったっけ)は障害を持ってたって本当?
627 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 23:05:43
>>625 上杉重定は弾正大弼に任官されたことはなかったのでは。確か大炊頭だったはず。
よけいなつっこみすまん!
628 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 04:08:46
上杉治憲の改革に抵抗した千坂なんとかいう奉行がいたが、これは上杉綱憲の時代の家老・千坂兵部の孫か曾孫?
629 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 09:54:03
上杉家は代々衆道を尊ぶ家柄、親子で睦合うのは常識
630 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 22:08:42
あ あ
あ あ
`わ あ
う ぁ っ あ
ぁ !
あ
ぁ ! !
あ
ぁ あ
ぁ あ
631 :
日本@名無しさん:2006/06/01(木) 12:58:44
>>626 そんな小説あったな。俺、読んだからw
>>1 仕方ないさ。上杉謙信からして子供を作っていなかったんだから。
632 :
日本@名無史さん:2006/06/01(木) 16:46:42
鷹司家から嫁いできた房子夫人は美人
現代の当主も房子夫人に似てイケメンなのか?
633 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 00:06:39
>>628 元禄12年に隠居した千坂太郎左衛門(兵部)高房から4代目
の曾孫が千坂対馬高敦(但し広江家から養子)で七家騒動のとき
上杉鷹山に処罰された1人です。
ちなみに千坂兵部が忠臣蔵で藩主綱憲を諌止する役目で出てくることが
ありますが吉良邸討入り事件のときはすでに鬼籍に入っており、子の安親も
このころはまだ奉行に取り立てられていないのであの場面はフィクション
か色部又四郎と混同しているようです。
余談ですが千坂家の子孫はその後海軍兵学校長をされています。
634 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 00:18:36
足利尊氏の外戚である点が重んじられてきた理由のはずなのに、結構忘れられてるよね。
635 :
628:2006/06/04(日) 03:46:08
636 :
日本@名無史さん:2006/06/06(火) 15:13:10
何で米沢藩は戊辰戦争で列藩同盟側についたんですか?徳川に対する怨みは無かったのでしょうか?
637 :
日本@名無史さん:2006/06/07(水) 21:44:26
景勝も本間一族討伐では一族皆殺し。
子供まで全部磔にして殺した陰惨さがぬぐえない。
638 :
日本@名無史さん:2006/06/07(水) 22:12:41
>636
本来なら恨みもってるはずやけど時間だな 長い間 恭順してるうちに徳川支配に馴らされたみたいだ むしろ長州みたいにずっと根に持ってる方がめずらしい
639 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 05:54:32
沖縄人もいい加減 おとなしくなればいいのにな。
かみついても独立国家だったのは昔の話で
いまじゃあ単なる辺境の一自治体にしかすぎないのに。
640 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 14:37:09
稲嶺琉球守に代わってから大分恭順的にはなってきている
641 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 19:43:33
上杉茂憲三所松平琉
642 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 23:16:34
氏憲好きはいないのか
643 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 23:32:31
639
いいじゃん独立させてやれば
どうせ10年位で泣付いてくるんだから
あんなところ就業率最低だし、日本の足引っ張ってるの沖縄でしょ
644 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 23:56:33
沖縄といえば、漫画版の前田慶次が琉球いってそれから関ヶ原に流れ
上杉に仕官となるが、小説では韓国にいっているんだよな。
なんで原作通りにしないのか不思議。
645 :
日本@名無史さん:2006/06/09(金) 07:52:15
朝鮮の粟や稗は腹を壊すから
646 :
日本@名無史さん:2006/06/09(金) 08:13:17
大河ドラマ琉球の風にあわせて編集の介入がはいったんじゃないか
内容も朝鮮征伐で微妙だし、隣国の人が火病になるから
配慮したんでしょ。
琉球話はそろそろスレ違い
648 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 19:30:08
>>633 史実では千坂でも色部でもなく畠山下総守(上杉入庵の曾孫?)らしい
>>636 保科が法を曲げてまで断絶の例外とした恩だとか
徳川と親戚(吉宗とか慶喜とか)だったとか
米沢藩は新潟に飛地(預かり地)があったので越後120万石を回復(司馬著「故郷・・・」より)
の野望が上杉中将斉憲にあったとか(同「斬策」より)諸説ある
>>647 二代目沖縄県令は植え過ぎ伯爵(琉球史では屈指の名君とされているみたい)
上杉(笑
650 :
日本@名無史さん:2006/06/14(水) 07:06:24
松川の戦い(笑
651 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 21:48:21
なんで?
なんで?
なんで上杉厨は荒らすの?
653 :
日本@名無史さん:2006/07/08(土) 09:13:30
おい
>>644 ジャンプコミックス版の作者コメントに「朝鮮にしなくて良かった」と書いてあるよ。
揉め事が起こるのわかってたから変更したわけね。
655 :
日本@名無史さん:2006/07/17(月) 00:21:11
無無無
656 :
日本@名無史さん:2006/08/01(火) 12:24:56
関ヶ原の戦いで敗れた上杉景勝は米沢30万石へ減封をうけ、不遇をかこっていた。そのような中、
幕府より大坂への参戦を命じられ、名誉挽回の格好の機会とみた。
さて、五千の軍を率いて大坂にでた景勝は、大御所より、佐竹義宣、丹羽長重と鴫野方面にあたるように命じられ、渡辺糾、大野治長ら一万二千と戦う。
上杉勢は、不識庵以来の軍法として、戦機熟すまで兵を伏せ、大将以下一切私語をしない。
そこへ家康の旗本が馬に乗り訪れた
「上杉弾正大弼どの、上様からの伝令でござる!畏まれよ!」
「………」
「なんと唖に候やぁ?覚えていよ!」
と激昂して駆け去った
のちにその報告を受けた家康は、
「それが不識庵以来の上杉の軍法なのだ」
と全く意に介さなかった
豊臣方との対戦においては、友軍丹羽長重から共同で敵にあたる提案を拒否。独力で敵に当たる。当初上杉勢は苦戦したが敵を撃退し、また、窮地に陥った佐竹軍を救った。
上杉の損害甚だきを危惧した家康からは、堀尾山城守と交代するよう命じられたが、一旦取った陣地を最後まで譲らず、「不識庵以来の上杉軍団今日健在なり」
657 :
日本@名無史さん:2006/08/15(火) 17:25:57
長尾氏の嫡流はどこでその家は現在どうなっているのか教えて下さい
景虎を輩出した守護代の春日山長尾氏より三条長尾氏の方が家格は上だと聞きました
白井、足利、惣社などありますけれども
658 :
日本@名無史さん:2006/08/18(金) 02:34:32
第1次橋本内閣で民間人起用となった長尾立子法務大臣は、越後120万石の長尾氏の末裔という説が濃厚になりつつありました
659 :
日本@名無史さん:2006/08/18(金) 20:59:08
杉上ってどこの発祥?全国の世帯数100くらいなんだけど。
|;;;;;;;;;;;;:;;;;;;;;;;;;; | )
〔i_二八二二二i〕 ) 誰ぞ、ネタを投入してくれぬか?!!
{ r' ⌒-、ノ ,r‐l| ) (※鎌倉公方と関東管領・上杉との対立)
,-l l ‐=・=´;;l;;;;;;ト, ノ_
ヽl l ', ,_ ! ,'ノノ ⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒
ハ. l r'"__゙,,` l|
. / lヽ ノ ´'ー'´,ハ___ , -‐ 'フ ̄ヽ
_,<´ l ヽ,,,,二,,,/ トへ / / | 足利義教と共に苦難を乗り越えてゆくスレB
, --,.─ヶ┴‐,‐‐--‐'´ / /_ノ |
ttp://p2.chbox.jp/read.php?host=academy4.2ch.net&bbs=history&key=1154227935&ls=all / フ´ /彡'´ /
/ / \ 、 /
// \ー--=―┬‐' ビシッ!
| 丶 \/ ,| |
6代将軍・足利 義教
すまんけど。
永享の乱以前の上杉家の本拠はどこだったのでしょう?鎌倉の館に在地?
関東管領・上杉憲実は、鎌倉公方・持氏と対立して上州に落ち延びたけど、どの城に入ったの?
扇谷持朝はどこが本拠?川越城などは後の太田資長(道灌)によって築城されたけど、それ以前の資料がわからん。
662 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 12:06:33
663 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 22:33:44
とんでも説を始めて知って飛んできたら、
上杉謙信女性説が普通に書かれていてびびった。
おまいら、マジかよ。
>>663 まだ知らなかったんですか? 歴史学会ではもう定説ですよ。
665 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 01:05:00
>>664 新潟県出身者として恥じ入るばかりです
年末実家帰って調査してきます
667 :
日本@名無史さん:2006/10/26(木) 23:35:42
上杉謙信って生涯一度も負けなかったんですよね?
なのに何度も川中島の戦いをやって村上氏が支配してた信濃を奪回できてないのは何故ですか?
668 :
日本@名無史さん :2006/10/26(木) 23:42:28
>>667こないだ「その時歴史が動いた」で川中島の戦いはパフォーマンスだとか言ってたよ
双方、北魚半の核実験と同じようなもんで・・・。
ところがヤラセのシナリオが、山本勘助のおかげでどこか消えてガチになっちゃつたのが
3回目だったら4回目・・・。
どちらも大損害だして当分の間動けず。
test
671 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 07:33:00
餓餌巣木あげ
672 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 19:01:30
あ
げ
673 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 06:44:14
新潟だから
674 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 12:44:53
唯一ましなのが治憲
>>667 大嘘に決まったある
生きてりゃ兵を引いただけで負けてない
となんぼでも言い張れるから
こういうアホ臭い飾言は排さないと
見えるもんも見えて来ない
676 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 19:13:43
例えば上条上杉家からは中条家に嫁いでいるし何れかの上杉家から守護代長尾家に全く嫁いでいないと考える方が不自然であり女系なら謙信にも上杉の血は流れていると思われる。
677 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 19:16:14
女系なら中条家ぐらいにも上杉の血が流れているから謙信にも流れていると見た方が自然。
678 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 19:18:53
女系なら謙信にも上杉の血が流れていると見た方が自然。
679 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 19:26:43
女系なら謙信にも上杉の血が流れていると見た方が自然
景勝の上田長尾氏にいたっては出自からして胡散臭いからな
深谷系とか七沢系とか八条系とか山本寺系とかは残っとらんのかな
681 :
上杉大炊頭重定:
うぬら、弾正大弼を年若いと見て侮ったな?千坂、色部、芋川!不服あらばわしが聞こう。どうした?答えられまい。
藩主を脅迫するとはとんでもない奴らだ。存分に処断し、威権を示したがよかろう