1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:04/07/24 00:21
___
|ノットッタ!|
 ̄ ̄ ̄|
ヽ○ <コノスレッドハ ワタシガ ノットッタ!!
□ゝ
<<
3 :
日本@名無史さん:04/07/27 00:58
a?
4 :
日本@名無史さん:04/07/28 19:23
ついにパート2ですか。
宗家が忠勤一筋家康に尽くした
三河の各松平家を天下平定後、その奉公に答えず冷遇した事実を暴きだすべし。
大給家は報われているといえなくないか?
6 :
日本@名無史さん:04/07/28 23:55
明治になって松平からみょじを変えてるところと変えてないところがあるけど
なんで?
能見は報われているといえないか?
8 :
日本@名無史さん:04/07/30 23:07
時代劇やドラマの徳川家康はホント虚構すぎる。
第一、家臣の中で三河弁を話している
人間が一人もいない。
9 :
日本@名無史さん:04/07/30 23:13
性犯罪者在籍校早稲田!
わざわざ高い金払って性犯罪者の後輩になる必要ない。
10 :
日本@名無史さん:04/08/01 12:13
江戸時代以来、徳川家臣団を理想の
武士群のように描いてきたが
これは大ウソ。
実際は田舎くさい三河弁で罵倒しあう
百姓まがいの集団。
11 :
日本@名無史さん:04/08/01 12:17
当時の駿河の人たちは
家康以下の三河の田舎集団が移住
してくるのを忌み嫌ったという。
ネタでなく静岡の事情通の人から実際に聞いた話。俺のツレが。
12 :
日本@名無史さん:04/08/01 14:06
世良田親氏は実在の人物。
しか〜し、徳川家康とは何にも関係ない。
ちなみに、新田初代の義重の子孫で
徳川を名乗った奴は居ません。
13 :
日本@名無史さん:04/08/01 17:58
徳川家なんて江戸時代に
得田家にのっとられてるわけで
14 :
日本@名無史さん:04/08/09 21:18
石橋を叩いて渡らない、と言われているトヨタですが、
同じ風土の家康公もトヨタと同じように、時には思い切った投資というか
リスクをとって動いたんでしょうか?
>>14 チャンスを吸い上げて少しずつ肥え太っていったという感がありますね。
その辺は負け組(ダイハツ・ヤマハなど)を取り込んで大きくなっていった
トヨタに近いところがあるけれど、秀吉から一歩距離を置いたところは
リスクを取って動いていたといえなくはないでしょうか。
16 :
日本@名無史さん:04/08/11 22:05
それは文治派で浮いてしまった数正が、豊臣に内通してしまったから
関東で力を蓄えざるを得なかっただけでは?
17 :
日本@名無史さん:04/08/15 09:32
それはある。
しかし、貴様等松平を語れ
18 :
日本@名無史さん:04/08/16 00:17
おお、じゃ今の徳川家正統継承者は、
どの地に住まわれておられるのでしょう?
19 :
日本@名無史さん:04/08/16 03:48
>>18 東京だと思う、たぶん。
現当主は18代目・徳川恒孝公(1940年生まれ)
次期当主は、19代目・徳川家廣公(1965年生まれ)
恒孝公は母系で徳川宗家を相続。
恒孝公の母上は、17代目・徳川家正公の娘さん。
15代目の慶喜公の後は、田安徳川家(創立後、11代将軍・家斉公の子息が養子に入る)
の家達公が16代目。その息子の家正公が17代目。
ちなみに、恒孝公のお父上は、会津若松藩の分家出身の松平一郎さん。
この一郎さんは、かの有名な会津藩主・松平容保公の系統。
松平容保公は、水戸徳川家から会津松平家の養子に入った。
よって、現在の当主・恒孝公は、男系では水戸徳川家の系統。
20 :
日本@名無史さん:04/08/16 09:52
16松平の当主はどこにいますか?
21 :
日本@名無史さん:04/08/16 19:15
家にいるよ。チンカス
ヽ( ・∀・)ノ ウンコー
23 :
日本@名無史さん:04/08/16 21:21
18松平は全国各地に
転封されたんだろ?
24 :
日本@名無史さん:04/08/16 21:23
目白にある、徳川れいめい会にはどのような方々がおられるのか?
25 :
日本@名無史さん:04/08/16 21:44
26 :
日本@名無史さん:04/08/19 21:42
>>23 大名として明治維新まで残った家は、すべて華族(子爵)になっている。
他に、旗本で存続した家もいくつかある。
27 :
日本@名無史さん:04/09/07 09:00
age
28 :
日本@名無史さん:04/09/07 22:28
>>26 NHKの松平定知アナも旗本で存続した家でしたっけ。
29 :
日本@名無史さん:04/09/16 23:16:19
やっぱりそうなんだ!!
ところで、「武士道とはなんぞや」みたいな分かりやすい本って
何かありませんか?
30 :
日本@名無史さん:04/09/18 00:07:42
>>29 5000円札のおっさんが書いた本でも読めば!
31 :
日本@名無史さん:04/09/18 00:24:33
新渡戸稲造と李登輝を勧めます
32 :
日本@名無史さん:04/09/18 01:02:57
>>28 そうだけど本物の松平じゃなくて久松松平だろ
33 :
日本@名無史さん:04/09/18 11:05:33
>>32 久松松平も本物の松平から養子が入っているだろう?
34 :
日本@名無史さん:04/09/18 14:38:01
>>33 それは松山藩と白河藩。本物の徳川(田安家)から養子が入った。
アナの方は旗本なので、久松の血統のままじゃないのか?
ま、旗本同士の養子縁組が多いから、松平の血になってるかもしれんが。
本物てなんだ?
36 :
日本@名無史さん:04/09/18 23:19:54
>>35 家康には異父弟があり、久松姓であったが、
家康の親近であることから、松平姓を名乗ることが許された。
松平氏初代以降の分かれた家でもないため、本物でないということ。
なんで前スレ等で既出の情報を偉そうに語ってるヤツがいるんだ?
38 :
日本@名無史さん:04/09/19 03:28:44
結城秀康は、結城から徳川に苗字を戻したけど、息子の忠直はなんで松平なの?
40 :
日本@名無史さん:04/09/19 23:05:08
>>39 ウソ書くな! 結城から徳川に苗字を戻したぞ。
「叢記」に書いてある。
「叢記」=福井県立図書館・福井県郷土誌懇談会編『福井県郷土叢書第七集 国事叢記』(上)、1961
>>40 それ、福井人のお国自慢が多量に入ってますから・・・・残念!
43 :
日本@名無史さん:04/09/24 23:24:10
三河十八松平
竹谷、形原、大草、御油、能見、長沢、大給、西福釜、安祥、
滝脇、深溝、宮石、福釜、桜井、東条、藤井、三木、鵜殿
江戸十八松平
前田、山内、島津、奥平、伊達、松井、黒田、戸田、浅野、
久松、毛利、鷹司、池田、本庄、鍋島、越智、蜂須賀、柳沢
44 :
日本@名無史さん:04/09/25 05:53:42
で、秀康のみよじの件はホントのとこどうなのよ?
46 :
日本@名無史さん:04/09/25 08:22:16
徳川ではない
松平
47 :
トヨトミ:04/09/25 08:26:40
48 :
日本@名無史さん:04/09/25 10:15:46
50 :
日本@名無史さん:04/09/27 23:21:15
コ川の「とく」の字は徳に横棒1本入るのが正しいって知っていたか?
51 :
日本@名無史さん:04/09/28 00:11:39
↑
知らなかったの?
無知だね
52 :
日本@名無史さん:04/09/28 00:24:30
単なる旧字体だろ
53 :
日本@名無史さん:04/09/28 06:57:18
じゃあ
鎌倉幕府の執権も
北条×
北條○
54 :
日本@名無史さん:04/09/30 07:01:12
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55 :
日本@名無史さん:04/10/02 16:25:26
徳川斉彊の兄弟、正室、側室等お解りになりますか?
56 :
日本@名無史さん:04/10/02 16:46:13
斉彊の兄弟はムチャクチャ多いぞ
57 :
日本@名無史さん:04/10/02 20:29:57
58 :
日本@名無史さん:04/10/03 17:58:42
じゃあ、徳川斉彊の兄弟で恭三郎という名前の人はいますか?
59 :
日本@名無史さん:04/10/03 18:52:55
1796-1799 敦之助(清水徳川家へ)
1792-1793 竹千代
1793-1853 家慶
1795-1797 敬之助
1798 豊三郎
1801-1846 斉順(紀伊徳川家へ)
1803-1805 時之助
1806-1810 虎千代
1809-1813 友松
1810-1845 斉荘(尾張徳川家へ)
1816-1817 久五郎
1818-1821 陽七郎
1820-1849 斉彊(紀伊徳川家へ)
1823 富八郎
1809-1827 斉明(清水徳川家へ)
1814-1891 松平斉民(美作津山藩へ)
1817 信之進
池田斉衆
松平斉良(義父:石見浜田藩主 松平斉厚)
蜂須賀斉裕
1814 奥五郎
1820-1838 松平斉善(越前福井藩へ)
松平斉省(義父:武蔵川越藩主 松平斉典)
1825-1844 松平斉宣(播磨明石藩へ)
民之助
1819-1839 斉温(尾張徳川家へ)
60 :
日本@名無史さん:04/10/03 20:28:16
>>55 正室:近衛充子(1822-1853 父:従一位内覧関白 近衛忠熙)
側室:おしづの方
側室:おてつの方
61 :
日本@名無史さん:04/10/03 20:32:53
みんな早死にやね・・・
62 :
日本@名無史さん:04/10/03 21:29:25
55:ありがとうございます!!!ところで、清水徳川に恭三郎、正光は、どのルーツか、お解りになる方いらっしゃいますか?
63 :
日本@名無史さん:04/10/03 21:45:09
家斉の子で清水家を継いだのは敦之助、斉順(菊千代)、斉明(保之丞)、斉彊(恒之丞)
の4人だが、恭三郎正光という人はいない。
将軍の実子は元服したら、必ず一字拝領しているから、「斉○」と名乗るはず。
64 :
日本@名無史さん:04/10/03 23:17:40
55:あー、本家を継いでいるかどうかは?ですが、戦争で役所が焼けてしまって、ルーツの途中が解らなくなってしまったもので。。。
清水徳川家は明治まで実子相続がありません。
初代重好からして実子がいなくて、彼の死後、一時断絶しています。
その後、
>>63にあるように4代続けて家斉将軍の子が相続しましたが、
早世または紀伊家に転出するなどで子供はいませんでした。
とくに斉彊のあとは、水戸から昭武が入るまで20年間も当主不在でした。
66 :
日本@名無史さん:04/10/04 00:07:34
日本初飛行の
徳川好敏中将は清水家出身
67 :
日本@名無史さん:04/10/04 00:32:57
清水徳川家
御三卿の中で最も事績に乏しい家。
維新後、華族の礼遇に耐えられずとして爵位(侯爵)を返上してしまった家。
>>66の代で男爵に復位。
68 :
日本@名無史さん:04/10/04 00:38:12
>>67 >>華族の礼遇に耐えられずとして・・・
何が耐えられなかったのだろう?
69 :
日本@名無史さん:04/10/04 01:12:39
70 :
日本@名無史さん:04/10/04 14:34:17
扱い
明治の当主徳川篤守(伯爵、水戸徳川慶篤の子)が事業に失敗したため。
>59
松平斉宣(播磨明石藩へて木曽山中で
尾張家の領民のガキを手打ち。
尾張候が激怒して大名行列が領内通行禁止になったお方では。
ちなみ死因は尾張家の領分を町駕篭で通行中、ガキの親父に
仇討ちされた説。
73 :
日本@名無史さん:04/10/07 21:24:24
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74 :
日本@名無史さん:04/10/08 00:00:51
♪叩けボンゴ 響けサンバ 踊れ南のカルナバル♪
♪誰も彼も 浮かれ騒ぎ 光る汗がはじけとぶ♪
♪熱い風に 体あずけ 心ゆくまで躍れば♪
♪波も歌うよ 愛のサンバを 胸にあふれるこのリズム♪
♪オーレオレ マツケンサンバ オーレオレ マツケンサンバ♪
♪あぁ 恋せよ アミーゴ 踊ろう セニョリータ♪
♪眠りさえ忘れて 踊り明かそう♪
♪サンバ ビバ サンバ♪
♪マ・ツ・ケ・ン サンバ オレ!♪
75 :
日本@名無史さん:04/10/15 21:22:25
実子相続なぞ不可能。
76 :
日本@名無史さん:04/10/21 17:07:26
土地返して下さい
77 :
日本@名無史さん:04/10/21 17:08:58
父上を返して下さい
78 :
日本@名無史さん:04/10/21 17:56:00
マツケンサンバ!
鈴木末七
七人兄弟の末っ子だから末七。
81 :
日本@名無史さん:04/11/09 21:41:06
紅白出るのか?
82 :
日本@名無史さん:04/11/18 12:17:23
あげ
83 :
日本@名無史さん:04/12/01 15:46:44
age
84 :
日本@名無史さん:04/12/18 19:12:21
保守
85 :
日本@名無史さん:04/12/19 02:06:35
寿美花代はどこの松平家の分家なんですか?
時代が時代だったら、今でも華族令嬢になれてたような家柄の松平家なんですか?
維新後も松平を名乗ったのは久松氏系だけじゃないかな。
あのNHKの人もそう。だから手繰るのは難しくないと思わ
れるが…古い『人事興信録』に載っていないかしら。
(旧姓で松平節子)
87 :
日本@名無史さん:04/12/19 05:20:47
御三家の支藩(高松松平、守山松平、高須松平、西条松平)、結城松平、吉井藩の鷹司松平、宮津藩の本庄松平、浜田藩の越智松平、郡山藩の柳沢松平たちも十八松平に入っているんですか?
88 :
日本@名無史さん:04/12/19 05:35:08
徳川の出自って三河の山窩系だろ?
それだけポンポン出てきて知らないわけはあるまいと思うから
釣りだな
>>87 十八松平って、家康の代になるまでに発生した一族・庶家の総称だから、家康の子や孫が
初代の松平(御三家支藩・結城松平)や秀忠以降の時代に出来た松平は当然入っていない
と考えるのが普通でないでしょうか?と釣られてみる。
91 :
日本@名無史さん:04/12/20 01:10:14
>>86 松平から改名したのは
島津、伊達など外様を除くと、久松、大河内、大給、松井、鷹司、桜井くらいじゃないの?
92 :
日本@名無史さん:04/12/20 01:58:15
松平は希望者全員に当たります
93 :
日本@名無史さん:04/12/20 02:32:38
あの鷹司って五摂家の鷹司とどれくらい関係があるんですか?
94 :
日本@名無史さん:04/12/20 02:35:58
鷹司孝子の関係者の鷹司信平が幕臣になった
95 :
日本@名無史さん:04/12/20 02:36:25
3代家光の頃の分家だからねえ
その後本家には皇室から養子が入ったから
血脈から言えば・・・
96 :
日本@名無史さん:04/12/20 03:28:52
>>91 ほかには柳沢、本荘なんてのもそうじゃない?
>>94 綱吉に正妻として輿入れした鷹司孝子に随行した弟信平から始まる。
この姉弟の父は太閤鷹司信房。
ついでに言うと、この信平は後に徳川(紀伊)頼宣の娘婿にもなって
いるので、紀伊の御連枝扱いもされた。諸侯に列したのは信平の孫
信清から。
>>91 今話題の吉井松平(鷹司)も、維新後吉井を名乗っているぞ。
100 :
日本@名無史さん:04/12/20 18:34:07
吉井 怜は元をたどれば松平 怜⇒鷹司 怜
101 :
日本@名無史さん:04/12/21 03:42:58
103 :
日本@名無史さん:05/01/01 11:40:29
オーレ、オレ、マツケンサンバ。
104 :
日本@名無史さん:05/01/02 10:30:34
徳姫とその娘は、信康切腹後どうなったの?
105 :
日本@名無史さん:05/01/02 11:05:57
>>99-101 なーんだ、この鷹司か。
マユゲふといんでてっきり五摂家の方だと思っていたヨ・・・。
誰かと間違えてんの?
108 :
日本@名無史さん:05/01/15 08:53:40
保守
109 :
日本@名無史さん:05/01/18 21:39:41
>>104 長女:小笠原秀政の妻
次女:本多忠政の妻(ちなみにこの間に生まれた忠刻は千姫の夫)
111 :
日本@名無史さん:05/01/19 08:26:02
それで小笠原はいつも幕閣で重要なポストについてたのね
112 :
日本@名無史さん:05/01/19 19:09:42
>ちなみにこの間に生まれた忠刻は千姫の夫
変な近親相姦だよな。
113 :
日本@名無史さん:05/01/19 19:19:42
>112 従兄弟だから問題ないでしょ、現代でも。
だな 普通にいとこ同士
さらに父同士は異母兄弟だから普通に問題ない
115 :
日本@名無史さん:05/02/04 20:11:29
保守
116 :
日本@名無史さん:05/02/08 20:32:52
安祥合戦450周年慰霊祭というのが
三河であるらしい
徳川宗家も出席するのだろうか?
117 :
粂八:05/02/08 20:39:45
>>43は松平姓を与えられた外様大名のことをいってるのだろう
120 :
日本@名無史さん:05/02/11 19:23:45
安祥合戦450回忌に
徳川宗家は出席すべきだ
121 :
日本@名無史さん:05/02/12 00:32:58
その安城合戦450年忌のソースキボンヌ。
122 :
日本@名無史さん:05/02/13 17:32:58
安祥城跡にある寺が
看板出してた。
徳川宗家は出席して自分達が指導して引き起こした戦争の犠牲者にお悔やみを申し上げるべきだろう。
とすれば、その450回忌法要には財団法人徳川黎明会会長・徳川恒孝氏や、久能山東照宮、日光東照宮の各宮司
、徳川美術館館長たちがそろって参列する可能性が高い訳ですな。
124 :
日本@名無史さん:05/02/15 18:32:39
いかないんじゃないの?
じゃ、松平和泉守乗全の子孫の大給さんは?
126 :
勘定方上席の佐川:05/02/16 18:27:27
松平定敬の子孫の久松さん、松平忠固の子孫の藤井さん、松平忠國の子孫の奥平さん、みんな参列します。
127 :
日本@名無史さん:05/02/16 18:41:15
腹でも切るのか?
128 :
日本@名無史さん:05/02/16 19:08:36
うんこもらし大会やります
129 :
日本@名無史さん:05/02/17 19:51:35
>126
ホントですか?
それにしても松平氏ばかりで
徳川宗家が参列しないとはけしからん。
130 :
日本@名無史さん:05/02/17 19:55:23
そもそも徳川宗家は
松平東照宮や久能山東照宮に年一回くらいは参拝してるのか?
日光には行ってるだろうが。
131 :
日本@名無史さん:05/02/19 03:39:58
松平は源氏の新田の一族なんぞではなく、先祖は三河に流れてきた賤民。
新田の一族に得川というのがあって、家康が真似して徳川を名乗っただけ。
前田も菅原氏の一族などと言っているが実際は違うと思う。
132 :
日本@名無史さん:05/02/19 04:56:10
そんなこと、いまさらあんたに偉そうに言われるまでもないことなんで-_-
133 :
日本@名無史さん:05/02/19 18:13:47
ところで糸魚川藩の祖 松平定員 の出自はわかりますか?
どうも手元の資料では久松らしいのですが
この系統は最後は越前本家を継いでるのに家康出自じゃないのが気になって
134 :
日本@名無史さん:05/02/19 18:31:30
糸魚川藩 二代松平直好
三河刈谷藩主松平(久松)定政の孫松平小十郎定員の長男
松平(久松)定政(さだまさ)
伊勢桑名藩主の松平(久松)定勝の六男
桑名藩
松平(久松)定勝(さだかつ)
久松俊勝の三男(家康は異父弟)
男系ではね。
135 :
日本@名無史さん:05/02/19 19:13:14
そうですか
定員の父親(定政の子)は誰ですか?
136 :
日本@名無史さん:05/02/19 19:31:07
徳川16将だかに入ってる
松平はどういう人?
137 :
日本@名無史さん:05/02/20 11:22:56
定澄 初代三河刈谷定政の次男
定員 四代久松康元家・康尚の五男
定員は康尚の5男とありますね。
138 :
日本@名無史さん:05/02/20 22:07:49
>>137 dクスです
すると定政−康尚−定員ですか?
定澄とか康元って?
康尚は康元の孫ですよね(久松宗家?)
すると定員は定政の孫ではなく、康元の曾孫?
だれか整理してくれ!
139 :
日本@名無史さん:05/02/21 04:49:37
会津藩が秀忠の血を継ぐ嫡流なんじゃない?
140 :
日本@名無史さん:05/02/21 07:31:44
会津の松平容保は水戸血筋の高須松平家からの養子。
養父の容敬も実は高須家の出身。
141 :
日本@名無史さん:05/02/25 15:48:28
秀忠か家光の血筋はない?
142 :
日本@名無史さん:05/02/25 17:54:07
そもそも、家康は関ヶ原で
死んだんだろ。
徳川の歴代将軍はどこの馬の骨ともつかない家康のそっくりさんの子孫。
だから先祖の眠る松平東照宮に参拝に行かないわけだ。
143 :
日本@名無史さん:05/02/25 18:12:26
秀忠の子孫・・・会津松平家(容敬の代に水戸血筋に)
家光の子孫・・・越智松平家(初代清武に実子なく、代々養子)
144 :
日本@名無史さん:05/02/25 22:44:58
会津松平には庶流あるいは養子入りした系統はないのだろうか
146 :
日本@名無史さん:05/02/26 21:25:08
徳川宗家なんて
駿河の浮浪者の子孫だろ。
147 :
日本@名無史さん:05/02/26 21:43:03
じつはユダヤ人の血を引くヒトラーが
ユダヤ人を憎悪したように
被差別民出身の偽徳川家康とその子孫は
被差別民を徹底的に弾圧した。
148 :
日本@名無史さん:05/03/03 02:21:54
明石候の松平斉宣が大名行列横切ったガキを周りの名主の嘆願書を無視して手打ちにしたことで、
尾張領内を通行させてもらえなくなったというのは本当ですか?
149 :
日本@名無史さん:05/03/03 02:37:59
さては、故・菅 貫太郎氏の暴虐により、遠山美濃守領地馬籠の宿で明石藩一行尽く惨殺された映画の影響だな。
150 :
日本@名無史さん:05/03/03 11:09:36
秀忠には4人子供(男)がいたけど、子孫は残ってないの?
151 :
日本@名無史さん:05/03/03 18:28:41
徳川宗家は大樹寺には行くのか?
152 :
日本@名無史さん:05/03/03 23:07:11
>>148 明石といえば、松平直明が同じように伊豆三島で大名行列横切ったガキを手打ちにしたって話があるぞ
153 :
日本@名無史さん:05/03/04 19:22:46
徳川家のルーツは
駿河で主として牢内の雑用をしていた
非人
154 :
日本@名無史さん:05/03/04 19:34:16
林道春「駿府政事録」
には家康自身がガキの頃売り飛ばされた
と語ったと記されている
155 :
日本@名無史さん:05/03/04 19:40:58
松平清康が部下の阿部弥七朗に暗殺された
世にいう「森山崩れ」は
16松平の一つ桜井松平の謀略によるとも言われる
156 :
日本@名無史さん:05/03/04 19:56:04
調べてみると、三河の16松平てどうも
もともとは松平じゃないようなんだな。
松平家に攻められて無理矢理、松平姓に
変えられたらしい。
157 :
日本@名無史さん:05/03/04 22:37:58
東京23区で野菜の無人販売が未だにあるわが近所に、徳川という表札が
これって...
158 :
日本@名無史さん:05/03/05 01:20:11
現在に残る徳川氏はやはり嫡男以外、松平を名乗るの?
現代民法を知らんのか
160 :
日本@名無史さん:05/03/05 19:26:48
東京の芝のプリンスホテルの土地は
戦後のどさくさに紛れ
徳川家の墓地を堤家が買い叩いたらしい
161 :
日本@名無史さん:05/03/09 18:57:13
安祥合戦詳細きぼーん
162 :
日本@名無史さん:05/03/13 14:36:56
163 :
日本@名無史さん:2005/03/29(火) 16:15:51
保守
164 :
日本@名無史さん:2005/03/29(火) 20:41:52
スレタイと似たような本を見掛けて
立ち読みしたが現地調査もせずどっかの文章を転載したと思われる形通りの16松平の紹介。
出版する資格なし。
165 :
松平鶴千代:2005/03/29(火) 20:49:05
現地調査をせずに歴史を語るなかれ。
拙者は先日、桜井松平の居城、桜井城跡を現地調査した。
安祥城の南に広がる田園地帯を数キロくだったところにある。
もとは小浦氏の居城だったらしいが
松平家の安城進出の際、占拠されたとのこと。
166 :
鶴千代:2005/03/29(火) 20:55:32
数代にわたって松平氏が住んだらしいが
家康の関東移封に従い
武蔵国なんとやらに移動して廃城になったとのこと。
その後、どうなったのでしょうか?
167 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 09:05:15
松平家って、時宗の僧で浮浪者の親氏が婿養子になった伝説があるけど、
これ事態、本当だろうか?
いくら、何でも出来すぎじゃないのか?
そんな出自の怪しいのを、
朝廷や幕府との関係がある家が、婿養子として向かえるか?
実は婿養子なんていなくて、そのまま松平家って繋がっているんじゃ?
だとしたら、徳川家は在原姓でしょう?
また、賀茂氏との関係については
松平家に臣従した本多家が賀茂氏族であり、
松平郷のある加茂郡が、賀茂氏と関係の深い土地だった、
というのが大きな理由だと思われ。
よって、松平家自体は、賀茂氏族では無いのかもしれんが、関係は深かった。
それが理由に、松平家は葵の紋が欲しくて、本多家から譲ってもらった、
みたいな史料が出てきている。
168 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 09:09:29
で、グーグってみたら
在原業平の頃から
在原氏は賀茂神社と関係深いみたいだね。
つーことは、松平氏は在原氏だな。
169 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 09:21:18
45 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 02/02/01 02:31
徳川(松平)の先祖について
豊田市史に詳しいこと書いてありましたんでご紹介。
史料は「松平村誌」 村の伝承を集成したもののようです。
松平信重が自分の家系について語った言葉として、
<在原とも紀州鈴木の筋ともいうが詳細は知らず、
今は源氏の末と言っている>とあります。
信重が連歌の会を催した際、記録する者がおらず、
「事仮初のやうなる流人」が「すこすこと」来て
連歌を見物しておったそうですが、信重が記録を
とるよう依頼したところ、これを引き受け、秀れた
句もつけたそうです。これが徳翁斎信武という徳阿弥の
モデルになった人です。
この時、信重が先祖を尋ねると、
「東西をきらハすして牢流の者に候へハ、おんはつかしく
存候」と答えたそうです。
つまり、ナニモワカラナーイのが本当ですね。
170 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 09:24:00
67 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 02/02/02 00:52
33は混乱している。正しくは
在原姓松平信重の姉娘の婿が賀茂親氏、その後を妹娘の婿である
清和源氏新田支流世良田泰親が継いだが、泰親の後は親氏の子信光が継いだ。
従って信光の子孫である家康は松平氏ということで言えば在原姓(在原姓荒尾氏か)だし、
実系で言えば賀茂姓。源姓は割って入った泰親に依ることになり根拠としては薄い。
なお親氏(後に信武)の父在親と、泰親の叔父(父親季の弟)有親は別人。
また泰親の父親季(徳阿弥)と養父親氏(信武)とは別人。
171 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 09:24:54
70 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 02/02/02 01:29
>>67 前述「松平村誌」ではその点も異なって記述してある。
松平信重に二人の娘がいたことは同じだが、姉娘は酒井に嫁ぎ、
妹娘が未婚だったので、これを徳翁斎信武と結婚させようとした。
信武は今の知立市八橋にいた弟祐金斎を松平郷に引き取ることを条件に
これを承諾した。
信武と信重の娘の間には、2男1女ができたが、信武が急死し、祐金斎が
数年の間、松平を取り仕切り2代目と呼ばれた。
信武の男子のうち、長男は足が悪くこれが松平郷の松平氏の祖となった。
一方、次男は信光と名乗り、後に岩津に移り徳川氏の祖となった。
地元に伝わった伝承では、残念ながら泰親は出てこない。
在原や源氏の子孫といった伝承は、45のいうとおり信重段階ですら
よくわからない状態となっている。
172 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 09:27:52
71 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 02/02/02 02:20
>70
ご高説深謝。
祐金斎の俗名は伝わっていないのですか?
72 名前: 70 投稿日: 02/02/02 18:01
>>71 伝わってないようです。
豊田市史によれば「松平村誌」は1879年に編纂され郡役所へ提出された史料で
稿本のままで刊行されることはなかった、とされています。
前述のように幕府が編纂した徳川(松平)系図とは異なる松平氏の発祥や
松平郷松平家(太郎左衛門家)のことが触れられています。
村の伝承を集成したもので、かつ編纂年代が明治に入ってからなので、
批判は容易ですが、信重が家の由来なぞよくわからんと言っているあたり
大変正直で個人的には好感がもてます(藁)
お住まいがどちらかわかりませんが、都道府県図書館に「豊田市史」は
置いてあると思いますので、是非ご覧ください。
173 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 10:22:53
8 :日本@名無史さん :01/12/30 20:01
徳川家康の祖先に後南朝関係者がいるらしいが・・
47 :日本@名無史さん :02/02/02 02:29
>>8 世良田政義が尹良親王を奉じており、娘との間に尹重が生まれている。
その後消息を絶つが、間もなくして松平郷に世良田親季・泰親という
親子が現れる。親季は政義の子である。
174 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 15:44:47
175 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 16:05:30
176 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 18:50:09
上の一連のコピペすごいな。
どこからもってきた?
177 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 11:40:15
178 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 11:48:28
徳川家の先祖で実在が確かな人物
松平信光 生没年:1404-1488
となると、彼の父や祖父の生存期は
ちょうど、南北朝時代の終盤と重なる。
179 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 11:52:54
180 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 20:06:58
三河に限らず全国の鈴木の祖は
紀州では?
181 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 16:33:46
182 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 16:50:05
>>181 長沢松平氏が
源氏の嫡流に入れ替わったのは
江戸時代になってから。
183 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 17:22:57
徳川宗家より血筋がいいなんてね。
184 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 20:35:58
!
かの酒呑童子、土ぐも退治の頼光の子孫!?
まさしく名門中の名門というより
伝説の家系ですよね。
しかし、長沢はわかりますが大河内て三河のどこなんでしょう?
185 :
鶴千代君:慶長410/04/01(金) 20:38:38
大河内の場所さえわかれば
諸君の期待に答え現地を調査してくるぞ
186 :
日本@名無史さん:慶長410/04/02(土) 00:26:38
ちなみに、摂津源氏嫡流の頼政が大河で反乱を起こします。
丹波哲郎の役なんでお見逃しなく。
その子孫が大河内氏なわけ。
187 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/03(日) 01:00:35
188 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/03(日) 02:35:51
>>168 >在原氏は賀茂神社と関係深いみたいだね。
賀茂神社の紋所はたしか三つ葉葵だったよね。
189 :
日本@名無史さん:2005/04/03(日) 09:12:44
それより、三河松平を語ろうゼ
190 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 00:37:31
191 :
日本@名無史さん:2005/04/05(火) 01:30:13
>>172 泰親の法名「用金」が「祐金」のことと考えられる。
192 :
日本@名無史さん:2005/04/05(火) 07:16:06
>>191 1879年に編纂された「松平村誌」の伝承が
どういう経緯で伝わったかは分からないけど
きわめて真実を語っていると思われ。
まあ、徳川家が創作した伝承が
そのまま、そこの村民に違う形で伝わったのかもしれないし、
本当に、南北朝時代後期の松平家の勃興家庭が
そのまま伝承で伝わったのかもしれない。
自分は後者のほうを取りたい。
となると、本当に松平初代は流浪人だったみたいだが
色々、学や文化的素養のある人物だったとなると
注目に値する人物だったかも。
ひいきめして、南朝の関係者だったから、自らの出自を曖昧にしたのかもしれんし、
ただ単に、芸人だったのかもしれん。
193 :
鶴千代:2005/04/10(日) 17:36:48
>190
小京都西尾の寺津かよ。
長沢とは距離あるな。
紹介サンキュ。
194 :
日本@名無史さん:2005/04/10(日) 17:58:29
しまった。今日、岡崎で家康行列(家康+三河武士団)
あったのか。
見逃した。
195 :
日本@名無史さん:2005/04/12(火) 15:56:56
結城秀康と保科正之の直系の子孫は誰になるの?
他の松平からの養子はなしで。
江戸大名なんて直系の家系あるのか?
197 :
日本@名無史さん:2005/04/12(火) 19:40:23
養子は日本古来の古俗だから
それを認めないというのはおかしな話だ。
松平=朝鮮渡来系説
http://www5.tok2.com/home2/okunouso/aug2.htm 上の絵図面をみると圧倒的に「松平」氏が多い。もっともこれも一部に過ぎないし
年代によっても違うだろうが、それにしても明確に「松平」が多いことが分る。
さて「松平」の名前の中にありますね…。「平」というのが。これは間違いなく「百済」姓だね。
しかも「松」は百済のシンボルでもあるから、これはもう、はっきり「百済王氏」の出身と断言できるね。
新座市と志木市あたりは江戸時代から明治になっても、新羅郡と呼ん
でたんだね。というからには「新羅」色が濃いのかというとそうでもない
んだね。それよりも新座市といえば有名なのが「平林寺」。ここは「松平」
家ゆかりの菩提寺でもあるんだね。となるとむしろ百済郡と言ってもおかしくない?
菩提寺 菩提寺 菩提寺
200 :
日本@名無史さん:2005/04/12(火) 23:47:56
>>198 おまえ、アホ。
松平は地名です。ただ単に。
松平郷の一帯は、松の木の平原。
松平郷の近くには、杉平というところがあるけど、そこの杉の木の平原。
201 :
日本@名無史さん:2005/04/13(水) 16:39:59
>>34確かに。久松の血統だったらNHKで松平を名乗れるわけがない。
現に明治政府は、「松平の通称を本氏に戻す事」を官報で発表してるんだし。
202 :
日本@名無史さん:2005/04/13(水) 21:00:27
198は百済ない煽り
203 :
日本@名無史さん:2005/04/13(水) 21:12:40
>>201 それは島津や前田ら徳川・久松一門以外で
松平姓を賜った者らのことでは
204 :
日本@名無史さん:2005/04/14(木) 00:14:42
結城秀康と保科正之の子孫はどうなった?
江戸時代は養子ばっかで血筋が途切れてる気がするのだが。
保科正之の子孫は唯一の秀忠の男系の子孫といえるかもしれない。
>201
桑名藩主家(子爵)は、明治以降も松平を名乗り続けたよ。
>204
保科松平は幕末に水戸徳川から養子が入ったから血筋は絶えてる。
結城松平は子孫いるんじゃないの?
206 :
日本@名無史さん:2005/04/14(木) 00:58:49
断絶してないのに養子もらってる家が結構あるがそれはなぜ?
>206
例えば将軍家から養子をもらえば家格が上がるし、脇坂家のようにお家安泰の為にあえて
堀田家から養子を貰うということもある。
208 :
日本@名無史さん:2005/04/14(木) 15:11:58
>>204 結城秀康の男系の子孫は
結構存在する。
出雲松江藩の松平家とかそう。
209 :
日本@名無史さん:2005/04/14(木) 15:44:03
養子を貰う場合、母親が自分の家から出ている事が多いのだろうか?
210 :
日本@名無史さん:2005/04/15(金) 10:02:44
歴代将軍の中で一番ダメだったのが家重だよな。
現代なら養護学校送り
家重は将棋の本を書いてる。
パッパラパーでは出来ないことだ。
言語障害だろ
聾学校でちょっとした才能を伸ばせるタイプ
家定のほうが馬k(ry
215 :
日本@名無史さん:2005/04/17(日) 16:45:09
じゃあ一番ダメな将軍は誰だった?
将棋のうまい将軍など何の役に立つんだ。
政をせよ
一番だめなのは家継
217 :
日本@名無史さん:2005/04/17(日) 18:00:44
218 :
松平鶴千代:2005/04/17(日) 18:57:36
三河吉良町で源頼朝建立の
国宝、金蓮寺弥陀堂公開とのこと
219 :
日本@名無史さん:2005/04/17(日) 19:00:44
>>201 ということは現在三河以来の松平家は存在しないのでしょうか?
松平太郎佐衛門家
>>215 吉宗
中途半端な延命改革を上から実施して
わが国の近代化を50年は遅らせたから
222 :
日本人:2005/04/18(月) 00:42:04
>>205 保科家の血筋は途絶えていませんよ。
保科家の最後の娘(嫡男とか男子は全て病死している)が、家来(600石拝領していた)の男子と結婚しています。
娘はこの家来の男子と結婚して幸せな家庭を築いていたのですが、不幸なことに後継ぎである藩主の嫡男が病死してしまい
跡継ぎに困ったこの会津藩主が家来ににささげた娘を突然返せと無理難題を突きつけてきたのでした。この卑劣極まりない行為に
家来の当主が激怒し、藩主と一戦交える決意をしたが結局、自らの屋敷の火を放ち一族もろとも自害してしまったそうなん。
もちろんこの夫婦たちは前もって逃がしておいたのでこの災難から逃れることが出来たという。こうして会津藩としての
保科家は消滅したが、血筋としては現在も代々子孫に受け継がれているのでした。今でも会津藩関係者の知る人ぞ知るノンフィク
ションな出来事であります。 簡単に説明させていただきました。
223 :
日本@名無史さん:2005/04/19(火) 12:43:52
女系は血筋に含みつつ、含まない
これが日本史の掟
224 :
日本人:2005/04/19(火) 12:56:51
なんか屁理屈臭っつ
225 :
日本人:2005/04/19(火) 13:04:00
おそらく藩主は、自分の娘を返してもらい
他の格別な大名クラスの子孫と結婚させようと画策したのでしょう
その後この保科の子孫たちは、北海道に渡り、北海道(明治期)にて広大な土地を所有し
海運会社まで経営するまでに至りましたとさ。利権をめぐり三井、三菱財閥との争いもあったようだ。
226 :
松平鶴千代:2005/04/23(土) 09:55:54
>大河内氏の祖は源頼政で、孫の顯綱(あきつな)が三河国額田郡大河内に移り住み
>、土地の名を称したのが始まりである。(『寛政重修諸家譜』)
>この"額田郡大河内"が不分明なため、その具体的な場所について、
>研究者の間でいろいろな説が唱えられている。
>有力な説としては、現在の岡崎市内大平町付近があげられている。(『西尾市史』)
>吉良氏に属し、寺津(現在の愛知県西尾市内)を支配した。
大平町なら長沢には近い
227 :
松平鶴千代:2005/04/23(土) 09:59:14
>松平宗家
> 藤輪の内三つ葵
>祖の信広は『寛永系図』では、泰親の長子で信光の庶兄となっているが
>、『寛政譜』では、親氏の長男と見える。
>泰親の譲りうけで、代々三河国加茂郡松平郷に住んだものという。
>尚栄は関ヶ原の役に出陣、家康にまみえ、旧領二百五十石を賜わった。
>のち大坂役に従軍、功によって四百四十余石を領した。
この記事によると家康が宗家なわけではないということか
228 :
日本@名無史さん:2005/04/23(土) 10:04:45
229 :
日本@名無史さん:2005/04/25(月) 19:20:09
そのうち碧海郡安祥城(安城市)を与えられた次男親忠
(1501年没。のち宗家四代に数えられる)とその嫡子長親(1544年没。五代)
の安祥松平家が勢力を拡大し、松平宗家化するとともに戦国大名へと発展して
いった。
安祥松平家の台頭後も宗家の座を狙う松平一族の間に内紛が続き、
六代に数えられる信忠(1531年没)は一族を抑えられず、
1523年に父長親の命で若くして隠居させられた。
代わって13歳で家督を相続した七代清康(1535年没)は
翌年岡崎城を奪って居城を安祥城から移す
(以後の安祥松平家を岡崎松平家とも言う)。
230 :
日本@名無史さん:2005/04/25(月) 19:26:36
松平郷→岩津→安祥→岡崎
が宗家の流れか。
これとは別に代々松平郷を受け継いだ宗家があるということか。
231 :
日本@名無史さん:2005/04/27(水) 19:30:37
関東の徳川ヲタは徳川家と松平家発祥の地
三河に参拝に来ないのか?
232 :
日本@名無史さん:2005/04/29(金) 20:24:07
東国の江戸、徳川ヲタは
三河を敬えよ
233 :
日本@名無史さん:2005/04/30(土) 00:34:39
西国の上方、豊臣ヲタは
三河を呪うべきか
234 :
日本@名無史さん:2005/04/30(土) 00:47:21
>>230 これのことだね
今回の松平郷松平家は、松平太郎左衛門家とも言われ、三河松平の
庶宗家です。その祖は三河松平の祖松平親氏の庶長子で、叔父泰親と
弟信光が岩津・岡崎の両城を築き移ったのちは松平家の故地加茂郡
松平郷を譲り受け代々住したそうです。
宗家に従い、たびたび軍に加わり功績を挙げていますが、二代長勝・
三代勝茂・勝茂の子信茂・四代信吉・信吉の子勝吉・五代親長の子
重長と討ち死し、六代由重は戦いの傷により軍事に従うことが出来ず
松平郷に閑居するなどして、機会に恵まれず、結局四百四十石余の
微禄ですが、交代寄合として残りました。
また江戸の拝領屋敷はなく、参府の際は分家または奥殿(のち田野口)
の大給松平家に宿したそうです。
ちなみに松平郷松平家の末裔で大正・昭和前期の当主信博氏は殿様
作曲家として知られ、映画主題歌や伴奏音楽などに多くのヒット曲を
出したそうです。
235 :
日本@名無史さん:2005/04/30(土) 14:45:28
こんな出自を分からない奴が将軍になりやがってと思っていたが、
逆にこんな身分の人間でも天下を取れると言う事が分かったからこそ、
薩摩や長州の実力のある低級武士が新時代を切り開き、
日本が大国になれたのだと思う。
秀吉にも感謝。
236 :
日本@名無史さん:2005/04/30(土) 15:17:28
秀吉の生まれた尾張の中村など名古屋駅の裏、西で
現在はソープ街の多いところだろ
ヤクザがはびこってるところだろう 昔も今も変わらんね 中村は
237 :
日本@名無史さん:2005/04/30(土) 16:32:22
238 :
松平鶴千代:2005/04/30(土) 19:47:27
>>234 じつは岡崎城を築いたのは松平宗家ではない模様。
このあたりごちゃごちゃしてるがいわゆる16松平成立の秘密に関わってそう。
今調査中である。
239 :
日本@名無史さん:2005/04/30(土) 20:00:14
江戸時代の大大名で
最高の名門は毛利氏。
男系で見ると、藤原道長の後胤。
毛利といえば、大江氏のイメージが強いが
毛利氏の祖・大江広元は、藤原氏の出で、母方の大江氏の養子になった。
240 :
日本@名無史さん:2005/05/01(日) 10:42:22
大大名の定義が分からない。
国持格でいいんじゃね
名門だから天下を取れたんじゃなくて、天下を取ったから
名門という称号が向こうから勝手にやって来たんだけどね
243 :
日本@名無史さん:2005/05/01(日) 16:57:47
>>203久松一門もそうだよ。
>>205だから、桑名は現徳川家当主恒孝と同じ、頼房の子孫になるから。
事実、現当主である、靖国神社の神主は藤堂の血だったから、ちゃんと久松を名乗っている。
>>234これを考えたらやっぱり松平郷が宗家で徳川家が分家だと思う。
244 :
日本@名無史さん:2005/05/03(火) 09:59:47
>>243 桑名が松平のままなのは、佐幕派だったから
245 :
日本@名無史さん:2005/05/03(火) 10:22:02
維新後、大河内、松井、久松に諸家が本姓に戻したのはわかるんだが、
もともと松平氏の大給、滝脇、桜井が改姓したのはなぜだろう。
あと、吉井松平は改姓(復姓)するなら鷹司だろ?
>>245 > あと、吉井松平は改姓(復姓)するなら鷹司だろ?
本物の鷹司家に気を使ったとかじゃね?
その辺の細かいところの一次資料はなかなか見る機会がないので推測に過ぎんけど。
247 :
日本@名無史さん:2005/05/04(水) 04:19:14
>>245 朝敵の名を名乗りつづけるのを憚ったということもあるらしいが、
今に続く姓名の簡素化に乗っ取ったというところが大きいんじゃ
ないかな。彼らにとって「松平」は名字じゃなかったしな。
249 :
日本@名無史さん:2005/05/04(水) 11:34:47
だとすれば越前系の松平諸家は結城に改姓しなければならなくなるが。
250 :
日本@名無史さん:2005/05/04(水) 12:53:59
織田の一部は北畠。
251 :
日本@名無史さん:2005/05/04(水) 13:29:24
>>248 いや、憚ったとか自主的なものじゃないよ。
松平を名乗ってた外様大名等もそれでもとの名字に戻した。
252 :
日本@名無史さん:2005/05/04(水) 14:57:23
>>245 源氏から、武田や佐竹が分かれていったように、
大給、滝脇、桜井と呼ばれることのほうが多かったから。
プラス、
>>248
253 :
日本@名無史さん:2005/05/04(水) 15:36:53
松平なんかより大河内の方が遥かに血筋はいいからな。
254 :
日本@名無史さん:2005/05/04(水) 16:24:48
榊原や本多までが松平を名乗っていた時期が有る。
255 :
日本@名無史さん:2005/05/05(木) 02:33:44
256 :
日本@名無史さん:2005/05/05(木) 02:48:09
しかし、大給とかは普通に松平のままでよかったような気がする。
257 :
日本@名無史さん:2005/05/05(木) 04:15:20
淀殿は秀吉を恨んでいて、
豊臣家を滅亡へと導いたって考えはどう思います?
258 :
日本@名無史さん:2005/05/05(木) 04:43:42
それは淀に聞かないとわからんよwww
259 :
日本@名無史さん:2005/05/05(木) 17:08:06
大給の本家は松平姓のままじゃなかったっけ?
260 :
おっくん:2005/05/06(金) 01:37:51
松平の出た中津藩の奥平家について
知ってる人教えて下さい。
中津藩の大阪蔵屋敷や京屋敷に住んでいた奥平家の人達の
名前や住んでいただいたいの時代を知るにはどうすれば。
>260
まず日本語の勉強からすれば。
262 :
日本@名無史さん:2005/05/06(金) 16:27:46
大江戸に放火した知恵伊豆こと松平信綱は源頼政の子孫。
263 :
日本@名無史さん:2005/05/07(土) 00:51:18
放火したってのは定説なの?
264 :
日本@名無史さん:2005/05/07(土) 15:31:06
歴史学者の間ではもはや定説らしい。
松平信綱は家康なんかよりずっと名門の出なんだよな。
源氏嫡流と言ってもいいくらい。
265 :
日本@名無史さん:2005/05/07(土) 22:29:26
どこで定説なんだかwwwwwwwwwww
266 :
日本@名無史さん:2005/05/07(土) 22:35:57
>>260 とりあえず中津藩奥平家大阪屋敷の長屋で福沢諭吉が産まれたことは確かだな。
267 :
日本@名無史さん:2005/05/07(土) 22:36:10
まあ下からいろいろと克服していくのは大変だって。
それ以外に本当の方法なんてなさそうだけどね。
268 :
日本@名無史さん:2005/05/07(土) 22:38:36
269 :
日本@名無史さん:2005/05/07(土) 23:25:28
名門名門って言うけどさ、皇室とかってのは元々なんなの?
270 :
日本@名無史さん:2005/05/08(日) 07:26:36
天皇陛下は、もともとは豪族連合の筆頭だったわけですから、「名門」は長時間かけて醸成されました。
現天皇家は、縄文家、携帯家、蘇我家、藤原、平、足利、徳川といった血が
271 :
日本@名無史さん:2005/05/08(日) 11:37:39
賎民だった徳川も15代続けば名門だな。
石原家だって2代くらいで名門らしいから。
273 :
日本@名無史さん:2005/05/13(金) 17:44:40
柳沢吉里は本当に綱吉の落胤だったのですか?
また秀忠の男系の子孫はいないのですか?
274 :
日本@名無史さん:2005/05/13(金) 22:09:13
>>273 秀忠の子、保科正之の子孫が幕末まで残っていましたが、断絶しました。
その後、高須松平家より容保らが養子に入りました。
275 :
日本@名無史さん:2005/05/13(金) 22:23:41
やっぱり下克上の覇者はあの時代において賎民なんですね。
276 :
日本@名無史さん:2005/05/13(金) 22:30:25
将軍ってそもそも征夷大将軍のことで
これは、天皇が任命しますね。
思うんですけど、天皇家を差し置いて権勢を我が物にする
為政者にこっそり刺客を送ってるのは実は天皇家でしょw
平家も後白河法皇の差し金で潰されたようなもんだし。
そんでその刺客の大ボスが各時代の将軍になってるように思うんだけど
気のせい?
277 :
日本@名無しさん:2005/05/14(土) 02:23:23
あ〜あ、それにしても徳川家康の一万円札出来ないね
変な学者や文学者を日本銀行券に採用しやがって!!
官軍子孫はこれだからやだよ 今も平然と勢力保ち続けているからな
家康の名をも思い出したくないのだろう 市ね長州子孫!
278 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 05:07:23
今さらだけど、なぜ世良田には東照宮が二つあるの?
どっちが本家?
279 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 11:16:27
豊臣が源平藤橘に次ぐ第五の姓ならば、
徳川は第六の姓と考えた方がいいのかも知れない。
まあ「徳川」は朝廷から貰ったわけではないが。
280 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 11:23:40
281 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 23:23:55
>>277 それは拙者も思うが、
家康公は世界的な功績が皆無だから、難しいのではないか?
非常にダークな世界と親和的でないとお札にならないという説もあり。
方々はどう思われる?
岩倉具視と伊藤博文は天皇毒殺の功績があったからお札になれた。
常識の範疇だね。
283 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 01:03:56
三河の土豪…100%源氏じゃねえな、権現さんも、明治期破却しちまえばよかったのよ。
284 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 01:09:15
維新で、徳川の滅亡が見たかったー。
根絶やしにされる、徳川。
285 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 01:11:58
>>274 女子はいたんだろ?婿を取って、秀忠の血筋は残ったのでは?
286 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 20:48:29
>>281 世界的功績云々よりも
政治家はあまり取り上げない
方針になっているでしょう?
287 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 21:20:24
学問は和漢洋を兼ね、オランダ人からは将軍の師、と紹介され、学者が本業である新井筑後守君美を五千円札にすべきである。
また自民党政調会長の与謝野の祖母を一万札に
288 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 21:57:29
意味不明
>政治家はあまり取り上げない
半分くらいが政治家じゃん。
ところで、「武士の鑑(かがみ)」と思える逸話スレを立てようと思うんですが、
家康公関連の逸話は、長篠の戦の鳥居勝商か、秀吉の家法自慢で
「500騎ばかりの命知らず」、伏見の鳥居元忠、
他にもっと良い逸話ありませんか?
289 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 23:50:47
マイナーだが・・・
織田信長死亡後、甲斐・信濃に侵攻した徳川家康の先鋒・本多百助忠俊が川尻肥前に殺害されてしまったケースをぜひ取り上げて欲しい。
290 :
日本@名無史さん:2005/05/16(月) 23:12:59
来月、会津に徳川の末裔が講演しにくる。
行ってみようかな?
291 :
日本@名無史さん:2005/05/17(火) 00:13:26
>>290それは、会津系の徳川氏か?
292 :
日本@名無しさん:2005/05/17(火) 00:21:54
>>285 そのとうり。保科正之公の血筋は今も子々孫々に受け継がれています(現在は朝廷より離れすぎてはいるが)。
女性(婿取り)に継がせた例は他の華族たちにも往々としてあるわけで、
これをもって断絶した、などとはいえない。
293 :
日本@名無しさん:2005/05/17(火) 00:25:54
>>283 お前長州人か?馬鹿だなお前ら、当時の毛利藩主の娘からしてヤリマンだったことを
知ってるか?長州女はさせ子が多いんだぜ!男たちも同様に性に対してだらしない。
これ想定内?がはーはっ
294 :
日本@名無史さん:2005/05/17(火) 00:28:10
>291
会津系から養子に入った、18代当主の徳川恒孝氏です。
295 :
日本@名無しさん:2005/05/17(火) 00:37:48
>>292 確かに今の姓は「保科」ではないが。
現在、この子孫たちの職業は親族、親戚まで広げても8割がた公務員であるのだ。
会津藩の子孫の会(名称忘れた)にも当然加入しているし、7年程前に北海道利尻島に会津藩の
記念碑が建ったときもこの行事に参加していた(会津藩は当時対ロシア監視役として駐留していた)。
296 :
日本@名無しさん:2005/05/17(火) 02:12:31
>>287 お札は政治家または、宗教家以外厳禁である。
文学者、学者、市民活動家にその資格はない。
297 :
日本@名無史さん:2005/05/17(火) 02:37:22
池田名誉会長を10万円札に
298 :
日本@名無史さん:2005/05/17(火) 15:37:29
資格はないとか厳禁であるって、、、
299 :
日本@名無史さん:2005/05/17(火) 17:19:37
ナニサマのつもり?
300 :
日本@名無しさん:2005/05/17(火) 20:37:50
物書きがお札になるようではこの世は終わりである。
文学のような俗物、嘘吐きを人的に尊敬する奴らの感覚が
どうかしている。作家とは嘘つきの天才なのだ!不謙虚極まりない
泥棒の始まり連中を政治的に参加させる必要はない。(商人同友会ならよいが、笑)
301 :
日本@名無史さん:2005/05/17(火) 20:54:18
1万円札は神武天皇
5千円札は神功皇后
1千円札は明治天皇
が適当
302 :
日本@名無史さん:2005/05/17(火) 22:09:07
松平町には松平総本家みたい家があるのだろうか?
303 :
日本@名無しさん:2005/05/18(水) 01:53:10
一万円札は徳川家康 一万円札は豊臣秀吉
五千円札は足利初代 五千円札は織田信長
二千円札は藤原初代 →そして50年後くらいには 二千円札は武田信玄
一千円札は保科正之 一千円札は伊達政宗
これで決まり! こんな感じか
304 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 03:32:18
なんで松平家の話題がお札の図柄の話題にかわってんだよ。元に戻せ
305 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 07:54:30
多分、旦那との営みが充実してるからでしょうね、きっと。女性ホルモン
の分泌が活発になるから。
306 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 13:06:05
307 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 11:04:21
徳川は第六の姓なり
308 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 11:16:38
以前何気に個人名の電話帳開いてみたら
徳川姓が何件か載っていた
やはり世が世なら・・の方々なのでしょうか
電話してみる勇気はなかったけど
徳川家康の先祖って、時宗の坊さんでそ?
時宗といえば・・・
310 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:36:54
311 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:36:54
312 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:37:50
>>310 ってことはつまり、生きる基本に織田信長なんだな?
313 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:38:57
いや、どちらかと言うと基本は長曾我部元親だな
314 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:39:03
315 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:40:32
「生きる基本に織田信長」これだね!!
俺はもう30回は熟読したよ。
316 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:40:40
>>314 俺オレ、今本能寺なんだけど
やっぱ基本は俺?
317 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:40:52
>>313 長曾我部かよ。それよりも島津斉彬じゃね?
318 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:41:22
319 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:41:29
バ テ レ ン の 俺 が き ま し た よ
320 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:42:21
321 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:42:24
生きる全てに織田信長って応用出来ると思うしね
322 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:43:08
>>317 斉彬は幕末wやっぱ基本は姉小路公知かと
323 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:43:30
俺は、生きる基本に織田信長も読んだけど、どちらかというと
秀吉サンクチュアリの方がやられたって感じした
いや、好きだよ、生きる基本に織田信長も
324 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:43:42
>>321 そうだな。織田信長の言った有名な解釈ってなんだっけ?
325 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:44:00
あれ・・・? 外が騒がしいぞ・・・なんなんだ
326 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:45:04
>>322 ばっ、おめー幕末が熱いんじゃねーか
まさしく生きる基本て感じになんねー?
327 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:45:15
>>325 バッカ
おまえ裏切られてるよ(プゲラ
328 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:45:19
来たな信長厨め!
スケートリンクに罠仕掛けてやるわ!!
<塩鯖好きな延暦寺末裔>
329 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:45:50
330 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:45:53
>>323 秀吉サンクチュアリもガチだな。
あと、マイナーだけど上杉チュートリアム。
331 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:46:13
>>324 コペンハーゲン解釈だが、よそうぜ、野暮なこと言うのは
332 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:46:14
生
き
る
基
本
に
織
田
信
長
333 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:47:21
>>331 すまんかった。上杉チュートリアム読んで出直す。
334 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:47:34
桔梗の旗印が見える・・・光秀か?
でもアイツ遠征に行ってうわ、火事だあqswでftgyふじこlp;@
335 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:47:51
上杉チュートリアルを知ってるヤシがいるとは!
このスレレベル高いな
もしかして家康マニュファクチュアも既出か?
336 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:48:37
>>334 焼き直されてやがる(プフュージョソ
337 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:48:41
スマソ
×チュートリアル
○チュートリアム
な
338 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:49:16
339 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:49:32
340 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:49:58
長 信 田 織 に 本 基 る き 生
341 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:50:17
ま、基本は
生きる基本に織田信長
これはガチだな
342 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:50:39
343 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:50:51
344 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:51:40
今度”信長せんせーしょん”って少女マンガが始まるのもその影響か?
345 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:52:31
人生の基本は俺オレ 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなりなんだけど
ひとたびこの世に生を受け滅せぬもののあるべきかな?教えてエロい人
346 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:52:59
>>342 そういやここは家康スレだったな
知ってて当然かw
みんな生きる基本に織田信長知ってるみたいだったから
信長スレかと思ってたスマソ
347 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:54:32
>>345 間違いない。それだけはガチ。まぁ50年って事だがw
348 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:54:34
>>345 天下の内をくらぶってから来いと何回言えば(rr
349 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:55:46
>>346 いやいいんだ。俺も織田信長好きだ。
今度生きる基本に挑戦するよ。
350 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:55:50
>>344 公式見たけどヒロインがツンデレで萌えるぞ
たぶん、生きる基本に織田信長を少女向けに焼き直した感じ
351 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:57:23
--≪PR≫-------------------------------------------------------------------
生 き る 基 本 に 織 田 信 長
-------------------------------------------------------------------≪PR≫---
352 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:57:29
【基本は信長】徳川家のルーツは徳川モラトリアムを嫁2ガチ目【生きて美穂】
次スレな
353 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:57:42
>>350 いや・・・趣旨は俺も判るんだがね
織田信長を少女向けに焼き直す意味がくらぶれんのだよ
354 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:58:04
>>350 少女向けに焼き直しか。あの展開をどうやって少女向けにするのか見ものだな。
ところでどこで買えるんだ?
355 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:59:14
356 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 15:00:15
357 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 15:02:08
ちょ茄子
358 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 15:02:24
お市様はツンデレでは無くガチでツンツンでしたorz
柴田勝家
359 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 15:11:39
明治時代、勝手に「徳川」と言う苗字を付けた農民っているの?
361 :
日本@名無しさん:2005/05/19(木) 21:04:44
お前ら餓鬼臭いな。生きること前提の紙幣って何だ?基本的にどこが関係あるんだ。
紙幣候補者というのは日本の歴史上功績のあった政治家がなって当然である。
生きるって、肉体のことだよな。精神的にまだ幼稚だな。「生きる」という意味が解ってない
知性低き者たちめ。
ところでお前らこのスレのレベル落とすなよ。歴史的に探求しているもの以外くるな。
362 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 23:15:39
363 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 23:33:06
お札ネタはお札スレッドにてどうぞ。
>>289 本多”信俊”もしくは”光俊”では?
364 :
日本@名無しさん:2005/05/20(金) 10:56:52
>>363 お前の低き精神性行為ネタ発言も他のスレットでどうぞ
365 :
日本@名無史さん:2005/05/20(金) 17:09:37
徳川は第6の姓なり
366 :
日本@名無しさん:2005/05/20(金) 19:27:01
367 :
日本@名無史さん:2005/05/20(金) 21:07:24
バカが364に降臨
368 :
日本@名無史さん:2005/05/22(日) 22:42:34
徳川語りはバカしかいねーなw
岡崎に篭ってろよ。味噌臭い百姓はよ
369 :
日本@名無しさん:2005/05/22(日) 23:24:21
>>368 家康の父は浄土宗の坊さんだぞ!味噌はお前だ!
370 :
日本@名無史さん:2005/05/23(月) 00:46:05
松平広忠 公ではないのか?
371 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 22:59:20
三河って、ほんとに魅力ねえ。
百姓大名、松平元康
372 :
日本@名無しさん:2005/05/27(金) 11:03:29
>>371 こいつは長州勢力の回し者
朝鮮人に近いDNAのもち主、三河のこととやかく言える立場ではない。
万景に乗って帰りんしゃい!
373 :
日本@名無しさん:2005/05/27(金) 11:05:13
長州の隣は捏造世界朝鮮!
朝鮮人と瓜二つ^^;
374 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 23:18:56
もっと建設的な討論をしようよ
来月に徳川家現当主の講演会があるので行ってきます。
376 :
日本@名無しさん:2005/06/05(日) 15:18:05
俺も講演会行ってこようかな。で、場所は?どこ。
徳川家縁の会っていうのがあれば、俺も血縁者という事で入会したいのだが。
そんな会ある?新規者は無理か?あん
377 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 15:21:32
鳥居元忠に子孫であるが、有名っすか?
378 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 15:23:17
>>371 『百姓大名』っていやあ劉備玄徳もだなwww
379 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 15:37:14
380 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 17:33:58
徳川一門が集まる葵交会なんてのもあるらしい。
家康に似たのかよく下痢になる
382 :
日本@名無しさん:2005/06/07(火) 03:07:51
>>379>>380さんきゅー。
それに入会するには条件などある?除籍謄本等で徳川家の血縁者だと証明できればいんだろ。
または旧幕臣の会か。ネット検索すれば出てくるかな?
>>381 俺も慶喜公とは近くない血縁なのだが、結構俺の顔は彼にそっくりかも。
383 :
日本@名無しさん:2005/06/07(火) 03:10:14
>>383 ははっ!
わたくしの先祖は徳川家臣において何番目に有名でござりましょうか
385 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 17:36:03
四天王の次くらいだと思うから、5番目か?
関ヶ原少し前の伏見城の戦いなどで
長篠・奥平家臣 鳥居勝商の次くらいに感銘を受けている者も多いと思うぞ。
みんなうらやましい。 拙者は苗字があったから富農程度さ。
386 :
日本@名無しさん:2005/06/07(火) 21:38:53
てゆーか、新しく徳川家臣団子孫の会(仮称)でも作ろうか。
年会費2千円という事で如何?誰か入会しない。
もちろん本家本流をもしのぐ会に成長させるという目的もある。
新しい秩序作りに邁進しよう!どうせ本家の者たちが、「俺こそ直系」などと、勝手に宣言しているだけであり、
俺たちに実力が供わっていれば結果、われわれが直系となりうる可能性も否定しきれないだろう。
奴らは階級制度をしいて俺らを(直系以外)外枠に外そうという魂胆丸見え。かえって俺たちが本流となり、
ポールポジションを取り戻そう!御公家遊びなど興味ないし厳禁だ!
387 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 23:49:24
その団体の顧問にはかねて目立ちたがりで有名な、団地住まい、川越藩松平家の末裔を迎えよう。
そういえば昭和期、旧譜代大名の華族達で「御譜代会」なる会合を開いてたらしい。
389 :
日本@名無しさん:2005/06/08(水) 19:19:29
>>387 団地住まいの松平家か。なんか悲しいな。おまけに目立ちたがりなんか?
その人とでいいから紹介してよ。一回会ってみるとするか(変な奴だと認識した上で、笑い)。
>>389 川越なんてド田舎に先祖がいた因果が災いして悲惨な人生・性格になってしまったのでしょう。
彼もある意味被害者なのです。
391 :
日本@名無しさん:2005/06/09(木) 19:37:20
目立ちたがりで田舎っぺか。多分その人血液型B型だろうね。
だから人望がないんじゃない?=貧乏。
そこの娘に俺の血液入れりゃァ再起するかもよ(笑)
392 :
日本@名無しさん:2005/06/09(木) 19:39:58
ほんと田舎者は卑しいからね
393 :
日本@名無しさん:2005/06/10(金) 14:07:41
子孫の輪を広げよう
394 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 15:57:59
未だに徳川幕府の親藩や譜代の会合って
あるんだよね。
なにせ、徳川松平の会なんて
月に1回は開催してるくらいでしょう?
>>391 マイナス×マイナスでプラスになることを期待するわけか。
396 :
日本@名無しさん:2005/06/10(金) 20:34:32
>>395 人のこと言える存在じゃないだろ 必然的に自覚しろ!
397 :
日本@名無しさん:2005/06/10(金) 20:52:59
おっとケンカはやめようね。
>>394月に一回なんて集まってないよ。半年に一回ぐらいじゃない。
ああ、新しい会を創立しなくては。新生佐幕派主議会を・・。誰か理論付けを頼む。(笑)
>>397 「楽しそうだから」
「年寄り相手に健康食品を売りつけられると思って」
399 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 20:03:24
なにをやっとるだー。おまえら、このたわけが。
そんなにおえらいさんならあんたらのために犠牲になった岡崎信康公の墓参りにでもこにゃあかんだら。
東京だかに行って三河のこと忘れてえらがっとたらあかんだらー。
400 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 20:05:31
なにが新生佐幕主義だ。
たいがいにせにゃあかんぞ。
401 :
日本@名無しさん:2005/06/12(日) 00:51:57
歴史探求、当然墓参りもありだ、安心せい!
403 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 16:50:38
徳川は第六の姓なり
くらいに考えた方がいいね。別に天皇から貰ったわけじゃないが。
404 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 17:24:28
「徳川」は織田や羽柴同様の名字であって、源とか藤原に対応するものではない。
一方、「豊臣」は源平藤橘に次ぐ第五の姓(厳密には氏=ウジ)であって、名字ではない。
源氏・・・足利、吉良、今川、細川、新田、山名、徳川
藤原氏・・・近衛、鷹司、九条、二条、一条(厳密には称号)
405 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 21:49:07
徳川が源氏ってのは、現代においても、片腹痛いような、感じを受けるなあ。
406 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 00:35:39
でも、徳川は結局、
中世からの新興で偽源氏だといっても
徳川氏自体が
皇別、藤原氏族に匹敵するほどの
大族になったようなキガス。
だから、偽源氏だからといって、
あれくらいの大族になれば、
十分、名門に入るでしょう、現在では...
407 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 08:34:56
>>404お前に偉そうに言われんでもここにいる奴らは理解してるんで
家康を初代とした「姓」と考えてもいいくらいだな。
>>157 そこ知ってるw そういえばその近くには松平さんの家もあるし
なぜか九州方面の大名の表札もあったりする。
むかしは三家三卿に家に生まれても、跡取り一人しか徳川を名乗れない。
今は二三男でも名乗り放題だから、どんどん増える罠
411 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 10:20:24
>>409 マジモノかもしれないが
在が通名で大名苗字を名乗るのはよくあることでして・・・
場所がわからんとなんとも言えないっすけど。
412 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 14:56:52
明治に勝手に苗字をつけた農民や在日朝鮮人で、
徳川とか豊臣などと付けた人はいるの?
413 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 21:11:16
10年くらい前に福岡県知事選挙に立候補した人に徳川ナントカって人がいた。
なぜか佐賀県出身だったがw
羽柴ナントカで立候補する人もいるし
>>408 そうだね
勅許を得て、松平から徳川へ改姓したというが、事実から言えば
源平藤橘・豊臣に次ぐ新たな氏姓を創始したと考えてもおかしくない
(オリジナルのほうは得川だった筈だし)
徳川に改姓したときは、まだ小大名だったと思うが
417 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 08:30:16
豊臣だって初めは、藤原姓になってから関白になった訳だし。
418 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 08:59:12
419 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 09:11:29
だとしても
>>416はまったく上のカキコが理解できてないな。
420 :
日本@名無しさん:2005/06/15(水) 14:51:13
脱糞家康・・(信玄にビビッテ)
421 :
日本@名無史さん:2005/06/15(水) 15:04:15
これはむすびの味噌じゃ!
味噌じゃっ!!
422 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 11:09:01
徳川は第六の姓って事で
423 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 15:16:34
だから三河の特産は八丁味噌なのか。
>>421 では一戦してお腹もすいていらっしゃるでしょうから召し上がれ(はぁと
426 :
日本@名無しさん:2005/06/22(水) 20:41:52
御公家遊び禁止
学習院大学出身子孫は性格がしょぼく根性無し
427 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 21:51:31
全国の江戸、徳川ヲタはふるさと三河に参拝に来いや!
ついでに万博でも見ていけ
428 :
日本@名無しさん:2005/06/24(金) 20:21:21
429 :
三河三郎:2005/06/28(火) 19:42:41
かわいい女の子なら案内してあげるよ!
430 :
三河三郎:2005/06/28(火) 19:48:01
女子限定!
神君家康公と三河16松平を巡る旅。
お泊りはホテル五万石!
431 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 19:48:10
>>415 徳川家が正式には源氏を称する以上、源平藤橘につぐ姓(セイ、ウジ)のわけがなかろう。
徳川はあくまで名字。
男には三河名物、岡崎の石、三州瓦を担いで運ぶ人足プレイを体験させてやる!
>>431 源平藤橘に次ぐくらい繁栄したという意味でしょ
教条主義だなww
434 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 20:07:47
姓氏は紛らわしいから、日本史板でもけっこうごっちゃにしてる人が多い。
誤解や勘違いをおこすような表現はどうかと思うね。
435 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 09:36:20
>>431=
>>434マジレスすんなよカスw
お前が偉そうに姓と苗字をいまさら語らなくてもいいことなんで。
437 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 14:21:02
>436粘着乙
439 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 21:53:01
十八松平(結城松平、越智松平、柳澤松平、大河内松平、本庄松平、榊原松平、鷹司松平、など)はいずれも、徳川創業の功臣。
440 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 01:13:46
>>439 鷹司松平や柳澤松平が、創業時にどんな功績が・・・
441 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 01:18:31
442 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 11:39:08
じゃあ徳川は第六の姓って事で
>>439 越智松平、柳澤松平、本庄松平、鷹司松平・・・
いずれも創業に関係ない。
445 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 16:17:33
源平藤橘豊徳
446 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 19:16:08
三河以来の松平以外は
実際ただの公家
釣られやすいっていうか素直な人が多いスレなんだな
448 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 20:26:59
おまえら所詮はアキバ系だろ?
松平を必死になって論評しあっているのって
なんかキモイ
おまえらの外見まで容易に想像できるんだけど
449 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 21:31:12
>>448 小太り一重瞼で眼鏡かけて口が臭いですが何か?
451 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 23:38:05
徳川家茂は虫歯だらけで口臭臭杉だった。和宮さんも迷惑だったろうなあ
452 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 00:52:36
>アキバ系
昭和の用語だよね、これ。
いくつだ?448って。
奈良盆地の北寄りにある法隆寺の寒さは格別です。とくに正月から3月の初めごろまでが、もっとも厳しい寒波に見舞われる季節です。
正月、金堂や大講堂で行われる「修正会」の法要は、法隆寺を代表する行事です。冷たい風に叩かれる金堂の大きな扉。
隙間から吹き込む寒風。そのたびに堂内の燈明のあかり
が揺れ動き、仏前で焚かれる香の煙が神秘的な雰囲気を醸しだしています。修行僧にとって仏の顔が優しくも見えたり、恐
ろしくも思えるひとときでもあります。ピーンと張り詰めた緊張感とともに、一つの安堵感のようなものを覚え、それは仏に抱か
れ、救われるとの思いにかられているからかもしれません。
吉祥悔過に続いて、「夢殿の十一面観音悔過」や「金堂壁画焼損自粛法要」、「西円堂の薬師悔過」、玄奘三蔵の命日に行われる「三蔵会」などの諸行事があり
、法隆寺にとって最も忙しい時期でもあります。
毎年5月16日から、夏の代表的行事である「夏安居」が始まります。夏安居とは、インドで仏教が発祥したころからの習慣で、雨季の約90日間、僧たちが托鉢を行わず、一つの場所に籠って修学することをいいます。
法隆寺の夏安居は、聖徳太子の遺命によって行われたとする伝承があり、8月15日
まで毎日、西室で説法を行ない、各年ごとに法華経と勝鬘経・維摩経の講義が行われます。
夏安居の時期に「法隆寺夏季大学」があります。
老若男女を問わず全国各地から集まって来られる毎年千人近い受講者が、仏教や仏教史、仏教美術、建築、考古などについて学習され、その受講者の一部の人々は、
境内の子院に宿泊して4泊5日を過ごされます。
かつては蚊に悩まされ、一睡もすることなく一夜を過ごした方も珍しくなく、蚊の大群と戦う受講者の姿が、夏季大学の風物詩であったころを懐かしむ方も多々いらっしゃいます。
454 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 15:27:42
馬鹿がキレた
松平永芳元靖国神社宮司が亡くなられました。
456 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 15:11:15
96 :日本@名無史さん :2005/07/09(土) 13:19:55
徳川慶喜は将軍に就任して以来、列強諸国から「日本の皇帝」(エンペラー Emperor)として承認されていました。
その彼が、12月9日の「王政復古」の政変による幕府廃止に伴い、
将軍職を辞任(と言うよりも更迭)させられた一週間後の12月16日、大坂城(大阪城)に各国公使を引見した際、
慶喜は引き続き「自分自身が日本の主権者である」旨を宣言しており、公使達もそれを支持していたと言う事実です。
更に重要な事は、「大政奉還」にしろ「王政復古」にしろ、朝廷=新政府(薩長主体の)には、発足当初、日本を統治する何らの実力も無かったと言う事です。
「大政奉還」を受理した朝廷は、国家の重要案件や外交問題の処理については「衆議を尽くす」事、
その他の案件については「召しの諸侯上京の上、御決定これあるべく」として、諸大名に対して朝廷から上京命令が発せられたのですが、
譜代大名(徳川家の直接の家臣)の多くがこの命令を辞退(無視)し、朝廷より賜った官位を返上しようとした事実です。
つまり、彼ら譜代大名にとっては、徳川家こそが自分達の主権者であり、
外様(とざま)である薩長が主体の新政権=朝廷に指図を受ける筋合いは無い、と考えた訳です。だからこそ、
上京命令無視・官位返上と言う挙に出ようとした訳です。これが意味するものは、
例え将軍職(列強諸国が言う所の「エンペラー」)を辞したとしても、慶喜が「日本の主権者」である事に何ら変わりがなかったと言う事です。
そして、その慶喜が最終的に目指したもの、それは将軍に代わる新たな地位 ── すわなち「日本国大統領」の座だったのです。
「日本国大統領」。慶喜は、自らの政治顧問である西周(にし-あまね)に『議題腹稿』を起草させています。
これは言うなれば「憲法草案」と言えるものでした。(以下、概要)
457 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 15:11:39
97 :日本@名無史さん :2005/07/09(土) 13:20:39
この中に謳(うた)われている「大君」こそ、慶喜が将軍職に代わって新たに狙っていた地位なのです。
確かにその名称は「将軍」の対外的呼称であった「大君」(タイクーン:Tycoon)と同じです。
しかし、『議題腹稿』に定義されている新たな「大君」職は、行政府の長であり、立法府の長であり、尚かつ、軍最高司令官をも兼任する強大な権限を有しており、
それはさながら、古代ローマ皇帝(元首:Princeps プリンケプス)か、アメリカ合衆国大統領(President プレジデント)と言った所でしょうか。
そして、それを可能にする素地が実際にあったからこそ、慶喜は「大政奉還」の挙に打って出、将軍職を辞任しても何ら臆する事が無かったのではないでしょうか?
「列藩会議」。慶喜は、徳川宗家の持つ強大な軍事力、
「前将軍」と言う知名度、そして、列強諸国から依然として「日本の主権者」として認知されている事実を最大の武器に、
朝廷が諸大名を招集して開催するであろうこの会議において政治の主導権を掌握し、
『議題腹稿』に則って「大君」 ── 事実上の「日本国大統領」に推戴される事を狙っていたのでしょう。
しかし、歴史の歯車が狂い、戊辰戦争において「朝敵」の汚名を受け、遂に日本国初代大統領の座を掌中にする夢は潰(つい)え去ったのです。
その後、日本は薩長土肥主体の明治新政府が成立、時をおいて内閣、そして議会が開設されていくのですが、
私は、慶喜の思惑通り事が進み、例え『議題腹稿』に沿った新国家が成立していたとしても、
我々の知る「歴史」とそれ程違った体制になったとは到底思えないのです。発足当初こそ大名主体だったとしても、
時が経てば当然の事ながら民主化されたでしょうし、天皇も現在の地位である「日本国民統合の象徴」として定着した事でしょう。
要は、「明治維新」と言うある種の「革命」があったかなかったか、改革が急進的だったか漸進的だったかの違いでしか無かったのでは無いでしょうか?
もし、歴史に「if」が許されるのであるならば・・・そう考える時、
慶喜が目指した新国家の「その後」の歴史が、実際どの様に推移していっただろうか?と、知りたくもあります。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/keiki.html
458 :
日本@名無しさん:2005/07/21(木) 02:18:56
長州は許せんな
仙台第2師団連中を虐殺しやがって、ガダルカナルの次はインパール作戦に投入しやがった。
これもすべて当時の執行部たちが長州出身者で占められていた事実を物語っている証拠だ。
老人比率も西日本のほうが圧倒的に多い、関東、東北地方のじいさんたちは弾除けとして戦地に送られていて死傷したので
老人数が少ない。皆先鋒として殺しやがった。長州政権からすれば佐幕派死ねということだ。ある新聞にこのように老人数統計が
出ていた。
未だに西日本出身者が政治を動かしている、関東以北出身者は政治家になって巻き返しを計ろう。
459 :
日本@名無しさん:2005/07/21(木) 02:26:33
長州出身者は可愛いので温存しやがった。東北人を虫けらに扱った。
関東・東北人は怒れ!
長州勢力に報復を!会津藩士飯森山死体さらし事件を許すな!長州に天罰を!
460 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 02:29:45
徳川は会津電波の被害者です。会津はもう来ないで下さい。
461 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 22:29:34
群馬の利根川へりに徳川町がある。徳川家の本貫といわれ、家康が東照宮
を勧請して残っている。源氏新田氏にも連なる得川氏のながれ・・だが、
こじつけ。もともとは放浪坊主が松平の祖先。
462 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 22:46:40
新田の分家である得川氏の系統は残ってないのですか?
名乗ってから4代目までは記録に残っていると何かで読んだ
記憶があるのですが、その後は純粋に絶えたのか、後に消したのか
どちらでしょう・・・
463 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 22:49:26
明治維新はクーデターで成り立った。薩長中心の明治新政府は、さまざまな醜い部分や真実を歴史から消し去り、謀略によっておのれを正当化したのである。
その後、明治新政府は
冨国強兵
殖産興業
という政策により軍国主義の道を歩み始めた。
こうしてこの百年間で幾多の戦争を引き起こし、多くの犠牲者を出した事は多くの人々の知る事である。
日本の悲劇は、薩長を中心とする人らによって政府が作られた時からすでに始まったと言ってよい。
464 :
日本@名無しさん:2005/07/23(土) 23:05:08
>>463全くそのとうりです。
帝国主義は薩長を中心として作られた。おまけに廃仏毀釈し国家神道という
お下劣な現世利益思想なるものを国民に押し付けた。そうして神道と武士道を融合させ
国民教育として各人を洗脳していった。そしてこの明治より悲惨な侵略戦争国日本として
突き進んでいく・・。全ては明治政府=薩長出身者が悪いのだ。悪政に次ぐ悪政でどれほどの国民が犠牲になったことか。
佐幕派子孫たちは是非、長州子孫に報復を加えるべきである。いでよ!平成の新撰組!!
465 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 23:14:50
徳川恩顧の子孫ですが、長州よりも463と464に報復を加えたい気分です。
どうせ同一人物でしょ、くだらないことでageないでください。
>>462 松平元康の時代に武家としては既に消えていた、と思われます。
得川の家系は高家にも見られません。
もし存在していたら、必ず徳川幕府に取り込んでいたはずです。
(でも、得川は江川として続いた、とする考え方もあります)
466 :
462:2005/07/24(日) 00:10:58
レスサンクスです
家康も残っていなかったから徳川と名乗ったのかもしれませんね
十八禁松平氏
469 :
おいちょ:2005/07/28(木) 03:24:03
桜井松平家の子孫ゎ今どこにいるの?
470 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 11:09:05
十六松平
鷹司松平、本庄松平、柳沢松平、越智松平、保科松平、越前松平、津山松平(越前連枝)、明石松平(越前連枝)、松江松平(越前連枝)、糸魚川松平(越前連枝)、
守山松平(水戸連枝)、川越松平(越前連枝)、喜連川松平、高須松平(尾張連枝)、西條松平(紀伊連枝)、高松松平(水戸連枝)
471 :
おいちょ:2005/07/28(木) 12:13:01
桜井松平家の桜井城から関東に移った後の消息を教えて下さぃ(・・?)
472 :
日本@名無しさん:2005/07/29(金) 20:43:11
>>465おまえまさか長州のチンカスでも入った子孫か?徳川の血が泣くぜ!家康公にお詫びしろ!
日光東照宮も長州を主体とした神職たちに占領されたままだ。東照宮を返せ!佐幕派を靖国本殿にすら祭っていないではないか。
朝鮮人(長州)に近い血を入れたおまえの先祖に乾杯!?
473 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 20:44:55
フジテレビと仲のいいバレーボールの松平康隆元カントクは
どの松平だ?
474 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 22:00:13
475 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 22:53:49
松平郷は京都の賀茂社の領地で、松平はその氏子にして賀茂信仰の厚い一族。
賀茂社の神紋は二葉葵で、家康が徳川の紋所を三葉葵としたのはこのことに
よる。葵を紋所に用いたのは賀茂社のみだったので、三葉葵の紋所がこれと
深いつながりがあるのは明らか。
476 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 17:57:17
第11回朝鮮通信使 金 仁兼の記録
「日東壮遊記」より
1764年2月27日 武蔵国 江戸
55の正門、4つの橋、城門3つを 次々と通過し
関白の宮殿に到着 第1の門がある橋の上に
下馬の札があり 上官らは馬から下りる
機指物、軍楽もここで留まり 煙管を持つことも禁じられる
第2、第3の門で 駕籠の者も皆下り
第4、第5の門では 使臣方も輿を下りられる
館伴2人、目付2人 さらに長老2人が出迎え
揖して入ると 通路には薄縁が敷かれ
第6門、第7門より先は 畳敷きの廊下である
板の段を上り 柳の間に入ると
使臣方の外の控えの間 角1本出た紗帽を戴いた紅衣の者や
木靴を逆さにしたような冠を 戴いた者がいたが
素足で坐っている者の数が きわめて多かったという
内の控えの間に入る 松の絵が描かれた部屋である
(朝鮮通信使の長 趙 ?・李 仁培が徳川家治公に謁見)
細面で顎がとがり気は確かなようだが 挙動に落ち着きが無く
頭をしきりに動かし 折本をもてあそび
やたらにきょろきょろとして 泰然としたところがない
2月28日 武蔵国 江戸
関白(=徳川将軍)より言葉があったとかで
「朝鮮の使臣らは 礼儀正しく気品も備わり
なかなか立派である」とのこと 聞いていて可笑しい
477 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 14:07:09
>>474 バレーボールの松平サンはれっきとした徳川系の松平って聞いたぞ。
今は平民。っていうか金儲けのうまい平民だが。
478 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 14:29:33
康の字を使ったイミナ風の名前なんだから、旧幕臣の可能性は高い。
朝臣にならなかったり、静岡に移住したりせず、平民になった旗本も多い。
479 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 00:57:44
康の字を名に取り入れている大名旗本といったら真っ先に松井松平を想定するけどねえ
480 :
日本@名無史さん:2005/08/04(木) 17:30:28
質問ですが、徳川忠輝と松平光長の男系の子孫はそれぞれいるのですか?
481 :
ケン防:2005/08/13(土) 12:42:42
松平氏の庶流(長澤、能見、竹谷等)のそのまた支流の系図、特に御三家・御三卿または大名の家臣となった松平氏の系図を教えて欲しいですけど・・・。
482 :
菊池彦:2005/08/13(土) 14:52:00
>>470 オ〜イ
常陸府中松平(水戸連枝)・常陸宍戸松平(水戸連枝)
出雲広瀬松平(越前連枝)・出雲母里松平(越前連枝)
奥平松平が抜けているぞ
あと越前福井松平(本家)美作津山松平(宗家)だぞ
483 :
菊池彦:2005/08/13(土) 15:10:15
まだあった・・・
伊予松山松平(久松松平)・伊勢桑名松平(久松松平)・伊予今治松平(久松松平)
484 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 12:41:34
>>478 旗本は華族に取り立てられなかった者でも、士族身分にはなってると思うぞ。
いきなり平民はないんじゃないか?
>>481 斎木一馬 『徳川諸家系譜』 続群書類従完成会
486 :
日本@名無しさん:2005/08/19(金) 20:20:57
>>484失業者ですからいきなりの平民です
サル山の大将が一度ボスの座を明渡すと、いきなり一市民?となります。
物理的に旧旗本に与える碌がないのだから平民になって当然であります。
新階級の誕生です。これが革命なのです。
487 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 20:32:16
新政府の朝臣になった者と徳川宗家に従って静岡に移住した者は士族です。
488 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 13:10:23
江戸開城の際、帰農(商)した幕臣は結構多い。
朝臣になるのは後ろめたく、さりとて駿府に無禄移住して生活するあてがないから、
知行取りの旗本は知行所の村に帰農した。(遠山の金さんの家など)
また、大身の旗本は高家や交代寄合以外でも結構朝臣になっているし、
町奉行所、勘定所、外国方の役人はそのまま新政府の官吏に雇用された者が多い。
489 :
日本@名無しさん:2005/08/21(日) 20:46:37
徳川政権最高!家康公バンザイ!長州視ね
とはいえ、高禄を食んでいた者ほど朝臣になった者が多いわけで・・・
491 :
日本@名無しさん:2005/08/22(月) 20:38:56
家は最後まで佐幕派として戦ったから家康公に対し酬いる行為をしたと思う。
他の徳川血縁者は薩長に味方した裏切り者である。現在朝廷に召抱えられている徳川なんたれは
正当な徳川一問とはいえない。徳川家の魂を売った者に本家を名乗る資格はない。
われわれこそ徳川家の直系であるといえる。われわれは大権現霊守役当主の資質あり。
492 :
日本@名無史さん:2005/08/23(火) 06:19:46
おい、三河の松平一族は武士になって家康に従って関東に行ったのはごく
少数で、九割方は現地で農林業だろ? 本家の太郎左衛門家も旗本待遇
だが現地では実質庄屋みたいなもんだろ?
493 :
日本@名無しさん:2005/08/23(火) 13:05:30
松平一族は三河の山奥で盗賊だったのか?それで儲けた?
朝鮮王然り、中国の皇帝然り、元はみな盗賊か。
494 :
YAP?:2005/08/23(火) 13:30:07
>>493
松平一族は、どちらかというと商人だろう。
そしてその「有徳人」としての活動で、要するに「金」で、三河国内の土地を手に入れたわけだ。
で、その財産を守るための用心棒集団が、その武力の根幹となったわけだ。
勿論、松平太郎左衛門の養子に入った徳阿弥(親氏)は、「道々の者」だったらしいが。
495 :
日本@名無しさん:2005/08/23(火) 19:03:30
>>494当時から金で土地を買えたなんてホント?
その土地の豪族が売ってくれた?
496 :
YAP?:2005/08/24(水) 00:23:32
>>495
室町・戦国時代は、「有徳人」が全国各地ニ存在し、流通・交通に関与し
年貢の請負制を利用して、請負代官として活動し、また荘園領主に銭の貸与や
奉加を行い、本所領の寺社の維持のために盛んに寄進をしたので、「有徳人」
と呼ばれたのだ。
勿論その狙いは、「請負代官」の獲得にある。
三河松平氏の第二代泰親の子の益親は、今日の公家日野氏の代官として近江で
盛んに活動していたのは有名だ(「京都松平氏」)。
勿論、金を貸しても「徳政令」でパアになうこともあったが。
497 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 09:23:21
それは商人ではなく、経済活動も行う豪族ってことでは・・・
498 :
三河人:2005/08/25(木) 09:29:58
松平一族なんて昔の人は知らん。
今は豊田一族が殿様だでな!
499 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 09:31:53
豊田一族は労働者と胡麻はしぼれば
しぼるほどよいと思ってます
>>495 日本において貨幣で土地売買するのが主流になったのは鎌倉時代中期以降から。
鎌倉時代初期の頃までは絹織物や米などが土地取引において貨幣の代替機能を
果たしていた。
>>487-490 ただの小身旗本・御家人衆だと薩長からのお登り藩士と職場職務で拮抗しますから。
維新後だと只でさえ身の置き所が厳しい上に大抵は貧乏暮らしだったのだから、
真面目に宮仕えをするなんて馬鹿げている、そうかといって転職の当てもない。
ならば土地に帰って暮らすほうがマシと考えたでしょう。
でも奉行所系は拮抗しない。スペシャリストだからお上り藩士にいきなり仕事が
できるわけがない。最低、引継ぎ申し送りが要るし、町奉行の仕事は特に市民の
ほうからお上りを嫌うので中々変えられない。高禄大身だとなおのことで、個人的
にも大きな屋敷や下人を抱えている。そんな彼らはすんなり朝臣として生きる道を
選んだでしょう。
502 :
YAP?:2005/08/25(木) 19:17:28
>>497
『松平由緒書』によれば、松平太郎左衛門尉信重らが、連歌会を行おうとした時に、執筆役がおらず、
それを、見物していた旅の者が連歌に心得がありそうなので、誘った所、字もうまく、句も中々の秀句
で、結局これを契機として、この男、即ち「徳翁斎信武」が、長逗留して、信重の娘婿と成ることになったが、
その条件として、弟の祐金斎を呼び寄せることとし、それを信重が承知したので、徳翁斎が、婿入りしたとされている。
で、この信武(徳翁斎という名の渡り職人で、松平「信」重の次女を妻として婿入りした時に、松平氏の「通字」ある
「信」を用いた「信武」という名にしたのだろう)とその弟の「祐金斎』(或いは用金)兄弟が、松平氏の、初代とされる
「親氏」と「泰親」のことということになる。
この『松平由緒書』では、徳翁斎兄弟は、時宗とは無関係だが、養父の信重は、念仏の行者だったそうだ。
信重の長女「海女(あまめ)」が、坂井某と結婚し、これが「酒井氏」の祖となるわけだ。
信重の次女「水女(みずめ)」と徳王斎・信武の間には、長子信広、次子信光があり、長子が、松平太郎左衛門を称し、
惣領家の松平太郎左衛門(松平郷松平家)を継ぎ、次男の信光は、庶子として岩津郷に進出し、「岩津松平氏」の祖となるのだ。
で、兄が早世したため、まだ幼い子の代わりに「松平太郎左衛門」を称したのが、徳翁斎信武の実弟の祐金斎もしくは用金(斎)だ。
飽くまでも彼は中継ぎであり、その子孫は京都に出て、いわゆる京都松平氏となり、おそらく用金の女婿らしい甥の(岩津)松平信光が、
三河の彼の所領を引き継いだのだろう。
で、問題の松平諸流は、宗家を除き、全て、「岩津松平氏」から分かれたわけだ。
信武兄弟が、遍歴の職人だとして、その養家の「松平家」はどうかというと、在原氏とか記州熊野の鈴木氏(穂積)の子孫とかいうが、
子の松平氏も、信重の父信盛(信森)が初めて、「松平郷」に土着したとされている。
到底鎌倉時代以来の土豪だとか、そんなことはいえない家柄だ。
まあ、山間にもかかわらず、交通・流通の結節点であったらしい松平郷に、土着してわじか「二代」で、「土豪」だとはいえないだろう。
503 :
日本@名無しさん:2005/08/25(木) 21:32:42
ほー。鎌倉時代から土地の売買をしていたとは・・驚いたぜ!
でも中国でもそうだが、元は清時代の行政庁(軍司令官)のように自己の所属していた王朝がつぶれた後に
独立し(その町に居座った)たのが結局豪族となった。
日本国でもこのように同様か。足利幕府末期のように。
>>503 というか、その・・・
元寇後の借金の担保に土地を取られた、土地を売ったという話がなかったっけ?
505 :
YAP?:2005/08/26(金) 00:09:47
松平一族の高利貸活動だが、第二代とされる泰親がおそらく伊勢氏の被官となったことがその京都方面での
活動のきっかけとなったのだろう。
信光に始まる岩津松平家とその庶家、つまり、いわゆる「松平の七人衆」のかなりの者は、京都で、伊勢氏の
家臣として名前が残っている。
信光の嫡子の岩津松平親長、次男大給松平乗元、三男安城松平親忠、四男長沢松平親則、らはみな在京が確認
されている。
岩津松平氏の総領和泉守親長は、、公家三条西公条(きんえだ)西京雀森の土地を担保として金を貸したのだが、
永正元年の分一徳政令で、踏み倒された。一方、勧修寺家領加賀国井家荘代官職を担保とする百貫文は、「分一銭」
つまり、1/10を幕府政所(ところでその責任者が、親長らの主君たる伊勢貞親だ)に治めて再建は無事踏み倒されずに
保全されたわけだ。
506 :
YAP?:2005/08/28(日) 18:50:13
上げを兼ねて
岩津松平家の庶家「松平の七人衆」
@岩津太郎
A形ノ原又七郎、(松平紀伊守、又次郎、佐渡)
B安城次郎三郎
C大給源八郎(松平和泉守、左近
D岡崎大膳亮
E竹屋(竹谷)与次郎(松平玄蕃允、備後)
F五井弥九郎(松平外記、弥三郎、太郎左衛門)
G長沢源七郎(松平上野介)
@が岩津松平氏の「惣領家」であり、A〜Hがその庶家ということになる。
みな、信光の「子」を始祖とすると考えられる。
507 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 23:07:08
保守
508 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 13:37:24
親の字は伊勢貞親から貰ったという説あるね
509 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 02:41:57
510 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 23:46:38
東映の映画プロデューサーだった松平乗道さんは
大給系ですか?
511 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 11:04:35
常陸の清和源氏、佐竹氏の家臣に大身ではないが徳川姓がいたのは実際に見た
ことがあります。得川もあったような・・・。秋田にうつった江戸時代ではな
くその前。
512 :
mn:2005/10/01(土) 14:54:32
>>511確かに姓氏辞典を見るとそのようなことが書いてありますね。
実際にそのような徳川氏はいたのですか?その人たち江戸時代はどのような姓を名乗っていたのか?
まさかその当時徳川姓を名乗ると逮捕されそうだし。
513 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 03:29:01
在日系ってのもあるだろ
514 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 23:50:53
で、「徳川」って姓は一体どこから出てきたわけ?
なんで松平が徳川って名乗るようになったの?
気分転換
まっぴら!と呼ばれるよりマシだから
517 :
mn:2005/10/23(日) 19:37:53
徳川姓って家康が独自で考案したんだろ?
朝廷からもらったわけではないよな、、
家康は本家の松平一族ではなかったので気兼ねして自ら考案した可能性が高いな。
そうだろうな。家康は松平でも何でも無いからな。
519 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 15:11:26
520 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 15:36:33
「徳川」というのは名字。
だが、「姓」という文字は「名字」と混同されている。
もともとの「姓」はカバネであり、朝臣、宿禰などの称号。
時代が下ると、源姓とか藤姓とかいった具合に「氏」(ウジ)と混同され、
さらに現代では「名字」と同義語で使われている。
521 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 15:38:29
名字・・・徳川、松平
氏・・・源
姓・・・朝臣
本来の意味での姓は早い時期にすたれたからな
>>519 吉宗だって源氏(源姓)で署名していたろう?
>>520がいうとおり日本式では「氏(ウジ)」。
中国式では「姓」になるんだが。
524 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 23:02:39
保守age
525 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 21:55:19
率爾ながら御伺い致し度き儀、これあり。
『甲子夜話』に芝高輪の貧乏医者に「化け物振る舞い」をして
からかったとかいう「松平南海候」というのは、どなたのことを指している
ので御座りましょうや?
只今、手許には柴田宵曲『妖異博物館』(ちくま文庫版)しか御座居ませぬ。
その開巻第1話「化物振舞」の項(16頁〜)に、
この松平南海候の史譚が載って居ります。
国史に通ぜぬ門外漢のこと故、分かり易く御教示たまわり度う御座居ます。
何卒よしなに御頼み申し入れまする。
ホモ吉は同性愛板で訊け!
527 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 05:38:12
526番こそが「変態」のホモ吉だぞ!!!
皆の衆、かかる低能のクズは歯牙にもかける事なかれ。
528 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 07:46:42
529 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 22:17:26
おまいら 2006年1月号の歴史読本で松平特集だぞ・・・
マツケンサンバとか・・・
530 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 23:18:52
松平恒雄って本家を継いだ容大や保男より良いところから妻を迎えているね。
子どもも平民なのに秩父宮妃や徳川宗家の婿や尾張家夫人と豪華。
保男の子どもは慶喜の孫に嫁いだ人以外は地味なところで半分が平民と結婚してる。
あと恒雄姉の美祢子は一度か嫁いだことはあるの?
531 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 10:51:11
大正さんの生母「早蕨典侍」こと柳原愛子の実家たる
柳原家の当主は今日では松平家の血統になってしまっている
と聞いたことが御座居ます。
いったい此の松平家というのは、どの系統の松平の出身で、いつから
如何様な事情で柳原家を継承するようになったのか教えて頂けませんでしょうか?
国史音痴の私にも理解出来るように易しく御教示下さいませ。
なにとぞ宜しく。
532 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 20:17:58
もし結城秀康があとついでたら次の将軍はあの息子になるわけでしょ?
足利義教みたいになるのか・・・?
533 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 20:21:57
室町を含め歴代将軍が「源」と署名したのは
534 :
mn:2005/12/13(火) 09:03:40
足利の子孫の活躍はどうなっているのか?お公家に血縁が残った程度か?
徳川時代になってからの足利家の血縁はどうなったのやら?徳川と結んだか?
535 :
日本@名無史さん:2005/12/13(火) 09:54:56
>>532 後付けされた、ステレオタイプの伝承に過ぎない。
鬱屈は溜まっていただろうけど。
536 :
日本@名無しさん:2005/12/19(月) 02:14:28
これをみよ!朝鮮人の悪行さを・・
コピペのコピペ↓
北側大臣 ⇒ 創価学会員
姉歯 ⇒ 創価 建築士
ヒューザー ⇒ 創価 企業
木村建設 ⇒ 木村 盛好 社長 = 「 李 盛好 」 朝鮮人
イーホームズ ⇒ 創価 藤田 社長 創価企業・韓国人だらけ
シノケン ⇒ 社員の半分 朝鮮。
公明党 山口議員 ⇒ ヒューザー社長を 国交省 担当者に 紹介。
創価大学 ⇒ 卒業生の進路から、ヒューザーを速攻で削除。
★在日コンサルタント( 工事を発注 )→ 土建屋( 在日 )
★同和採用枠の公務員( 工事を発注 )→ 土建屋( 在日 )
★在日カルト宗教法人( 工事を発注 )→ 土建屋( 在日 )
ttp://www.geocities.jp/ariradne/aneha.html
537 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 16:57:55
age
538 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 23:04:28
保守age
539 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 00:56:44
すいません素人です。漏れの勝手な仮説では本物の家康は若くして亡くなった
徳の高い人物だった。(おそらく松平の若様)そして1616年に死んだ家康は
その老獪さからしても決してボンクラ育ちではない。が本物の家康の家来か
近しい人物だった。天下安泰の大儀の為には非道なこともくぐりぬけてきた。
しかしこの入れ替わった家康は死ぬまで若くして亡くなった方の家康と
比べた時自分がいかに下賎の身であるか自覚しており敬っていた。
しかし天下安泰の為に徳川家康でありつづけたのであった。
540 :
日本@名無しさん:2006/01/20(金) 15:47:06
541 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 22:58:23
保守
542 :
日本@名無しさん:2006/03/01(水) 19:47:18
幕府再興!まずは函館から決起を!
543 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 20:58:18
それよりも蝦夷地を開拓して新徳川政権、田沼大老を起用せよ、
544 :
日本@名無しさん:2006/03/01(水) 21:06:49
あんた田沼の血縁者?なら俺の傘下のもとにおいて奉行職から始めなさい。
北海道は新徳川政権へ委譲せよ!
北海道の土地をただ同然で手に入れたにっくき三井、三菱財閥解体せよ!
新政府軍との癒着財閥に責任を取らせよ!
武士道を解体した新政府子孫にも鉄槌を!百姓の集まりであった新生貴族院のチョソ的日本人たちにも鉄槌を!
われわれは徳川家血縁者で構成する武家制度再興を望む。
545 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 21:19:58
蝦夷共和国
奥平外相
久松蔵相
大河内通産相
大給農相
三木法相
松井文相
546 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 23:12:52
実際に、安祥松平(清康-広忠-家康の家系)は宗家ではないんだよね?
547 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 23:20:20
548 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 20:17:14
十八松平
保科松平 桑名久松松平 奥平松平 柳沢松平 越智松平 本庄松平 鷹司松平 福井松平 高松松平 守山松平 西条松平 高須松平 明石松平 津山松平 松江松平 川越松平 糸魚川松平 松山久松松平
549 :
桂昌院光子:2006/03/08(水) 21:00:56
徳川のルーツは浅野ゆう子が作成した
>546
宗家の定義が不明瞭だけど、本来の嫡流で無かったことは確かでしょうね。
以前は岩津松平家が総領だったけれども、永正年間の今川家との抗争によって、岩津家が滅亡。
その後、他の庶子家を押さえて総領となったのが安城松平家であると。
551 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 00:38:58
ふーん
流れをぶった切って質問します。
なぜ徳川家は甲斐国にこだわったのでしょうか?
553 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 22:32:20
扨て話題は些か変わりますれど、
徳川家光の正室・鷹司孝子(「中の丸殿」)と日野権大納言資勝とが
親戚関係にあったという話を聞き及びました。
ために対馬の御家騒動「柳川一件」にて、
宗対馬守義成(その夫人が日野権大納言資勝の娘)は
「お咎め無し」と相成ったとか。
したが、日野家と鷹司家との親戚関係が、よく分かりません。
もしや中の丸殿の生母が日野家なりしや?
識者の方々の御教示を願い上げます。
何卒よしなに。
554 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 09:24:47
家光公の息子で将軍になり損なった甲府宰相・綱重の正室「隆崇院」
二條関白光平の姫(九條兼晴の養女)の名前は何というのでしょうか?
また彼女の没後、二條光平の養女として綱重の継室「紅玉院」
となったのは、山科言行の女(実名不詳)が正しいのでしょうか?
或いは中納言綾小路俊景の女(実名不詳)が正しいのでしょうか?
兄の家綱、弟の綱吉ともに正室(御台所)の名前が判明して居るのに、
(伏見宮貞清親王の姫「顕子」とか、鷹司左大臣教平の姫「信子」と)
綱重の場合は正配の名前が二人とも知られて居ないのでしょうか?
たんに日本史門外漢の私が無知なだけやも知れません。
識者の御教示を願う次第で御座居ます。
何卒宜敷く。
555 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 00:18:35
徳川が甲斐にこだわったのは江戸を守る最後の砦・岩殿城を控えることと、神君が糞便にまみれつつも尊敬した武田進言のゆかりの地だからです
556 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 05:59:06
家光公の息子で将軍になり損なった甲府宰相・綱重の正室「隆崇院」
二條関白光平の姫(九條兼晴の養女)の名前は何というのでしょうか?
また彼女の没後、二條光平の養女として綱重の継室「紅玉院」
となったのは、山科言行の女(実名不詳)が正しいのでしょうか?
或いは中納言綾小路俊景の女(実名不詳)が正しいのでしょうか?
兄の家綱、弟の綱吉ともに正室(御台所)の名前が判明して居るのに、
(伏見宮貞清親王の姫「顕子」とか、鷹司左大臣教平の姫「信子」と)
綱重の場合は正配の名前が二人とも知られて居ないのでしょうか?
たんに日本史門外漢の私が無知なだけやも知れません。
識者の御教示を願う次第で御座居ます。
何卒宜敷く。
557 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 08:32:13
重ねて問いますれど、
家光公の息子で将軍になり損なった甲府宰相・綱重の正室「隆崇院」
二條関白光平の姫(九條兼晴の養女)の名前は何というのでしょうか?
また彼女の没後、二條光平の養女として綱重の継室「紅玉院」
となったのは、山科言行の女(実名不詳)が正しいのでしょうか?
或いは中納言綾小路俊景の女(実名不詳)が正しいのでしょうか?
兄の家綱、弟の綱吉ともに正室(御台所)の名前が判明して居るのに、
(伏見宮貞清親王の姫「顕子」とか、鷹司左大臣教平の姫「信子」と)
綱重の場合は正配の名前が二人とも知られて居ないのでしょうか?
たんに日本史門外漢の私が無知なだけやも知れません。
識者の御教示を願う次第で御座居ます。
スレ違いやも知れませぬが、何卒宜敷く。
同じ電脳を使った別人の書き込みと誤解しないで下さい。
559 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 15:24:26
太郎左衛門家は冷遇されてるよな
所領はたった400石、江戸に拝領屋敷もない
560 :
阿部和泉守:2006/04/02(日) 15:42:26
小野次郎右ヱ門も冷遇されてるよな。相役の柳生氏は一万石の大名として諸侯に列したのに、小野氏は600石の下級旗本に終始したんです
561 :
日本@名無しさん:2006/04/05(水) 21:20:51
>>560おいおい、600石所領者を下級というなかれ。失礼な。
十分上級だと思うが。
562 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 22:37:32
江戸屋敷がなかったら参勤交代の時はどこかに間借りしてたのですか?
563 :
西尾豊後守:2006/04/05(水) 22:54:41
江戸陣屋という大屋敷を一時的にレンタルできるよう道中諸奉行に
依頼が可能でした。
松平本若とは?
江戸幕臣人名事典(江戸城多聞櫓文書を元にしたもの)に出てくる
松平本若とは誰でしょうか?
伯耆守養子とあるところから、たぶん本荘宗秀の養子ではないかと
推定していますが、確証がありません
本若の実名や実父も分かりましたらご教示ください
(安政六年一月十六日に没しています)
565 :
562:2006/04/06(木) 14:21:45
レスサンクスです
確かに1000石以下の交代寄合で江戸にも屋敷持つのは難しいでしょうね
でも一番ポヒュラーな方法は家臣団を縁故のある大名旗本、寺に分宿させるというのもあります
567 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 23:02:40
568 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 23:10:10
ノブナガが浅井の裏切りをお市から送られた
小豆で知ったという話しの意味がわかりません
569 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 23:27:56
>>568 ググレ、と言いたいところだが・・
小豆を両端の切れた袋に入れて送ったんじゃなかったかな
両端を結んだ袋で・・
・・こころは挟み撃ち・袋のねずみ
家康(妻・関口家女)
秀忠(妻・浅井家女)
家光(妻・鷹司家女)
家綱(妻・伏見宮家女)
綱吉(妻・鷹司家女)
家宣(妻・近衛家女)
吉宗(妻・伏見宮家女)
家重(妻・伏見宮家女)
家治(妻・閑院宮家女)
家斉(妻・近衛家養女)
家慶(妻・有栖川宮家女)
家定(妻・近衛家養女)
家茂(妻・内親王)
慶喜(妻・一条家養女)
将軍の嫁は皇室か摂関家からってルールがあったんですか?
歴代室町将軍の嫁を誰か教えてくださいよ
571 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 21:23:50
超マニアック情報
営業で三河を回った時
山奥で滝なんとやら東照宮というのを見かけたが
572 :
日本@名無しさん@お腹いっぱい:2006/05/20(土) 00:38:27
573 :
日本@名無史さん:2006/06/01(木) 20:58:33
>>570 はい、そういうルールです。
上方育ちの気位高いお姫様と将軍では合わないんでないかと
思いきや案外正室と仲が良かった将軍は多い。
ただし正室の子はほとんどいないのは
生まれてもすぐなくなるケースが多かった。
大奥というところはほんとに怖いとこだったんですね〜。
574 :
日本@名無史さん:2006/06/01(木) 22:49:08
京都出身の正室で跡継ぎを産んだのは泰子が最初で最後
575 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 21:00:15
慶頼夫人佳子女王は三十歳で結婚した
といってもそれ以前に越前家と婚約があったらしいが
佳子女王は双子だが重好夫人貞子女王も双子
徳川松平関連で双子の人物は他にいる?
576 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 08:23:05
いないよ
577 :
日本@名無史さん:2006/07/05(水) 00:05:38
しらないよ
578 :
日本@名無史さん:2006/07/05(水) 00:31:27
京都賀茂社の葵紋を継承した徳川将軍家と菊紋(元は桐紋)の天皇家が、
ある時は協調しあい、ある時は対立しあう歴史の醍醐味。
579 :
日本@名無史さん:2006/07/16(日) 01:12:14
菊門
580 :
日本@名無史さん:2006/07/16(日) 05:17:17
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060630-00000258-kyodo-soci 「アリさんマーク」のテレビCMで知られる大手引越社グループの「引越社
関西」(大阪市)で、運転手が過労と知りながら運転を指示していたとして、
大阪府警交通捜査課は30日、道交法違反(使用者の義務違反)の疑いで神戸市
須磨区北落合、同社姫路支店長代行林篤貴容疑者(29)を逮捕、本社や同支店
など3カ所を家宅捜索した。
死亡したのは同支店の運転手松平圭志さん(21)=兵庫県明石市。3月27日夕、
大阪府東大阪市の阪神高速で2トントラックを運転中、渋滞で止まっていたトラックに
追突した。
この松平さんはどこの松平さんかね? 明石藩主の家系ではないだろうな?
581 :
日本@名無史さん:2006/07/20(木) 21:20:20
A級戦犯合祀当時の靖国宮司の松平さんは
徳川の松平と関係ありますか?
その親は内大臣を務めていたということですが
ぐぐれ
583 :
日本@名無史さん:2006/07/21(金) 03:40:09
松平宮司は春嶽の孫
父は内大臣じゃなくて宮内大臣
宮司の思想的立場を考えた場合奥さんの父親が潜水艦乗りでB級戦犯
として処刑された醍醐忠重侯なのがかなり影響してると思う
584 :
日本@名無史さん:2006/07/21(金) 15:02:11
スミマセン〜通りすがりですが、昔勤めてた会社に旧姓松平さんがいました!帰国子女で英語堪能。発音はネイティブと同じ。かなり個性的で、皆外人と思って接してた
585 :
日本@名無史さん:2006/08/06(日) 20:24:01
徳川家の一族が鳥羽伏見以来の官軍の英霊をまつっていたとは
586 :
日本@名無史さん:2006/08/06(日) 20:28:53
戦前の徳川侍従長は?
もちろん徳川家の人だよね
>>586 尾張徳川家の分家筋。
17徳川慶勝┐=18義礼=19義親─20義知=21義宣─22義崇 (尾張徳川本家、=は全て婿養子)
└義恕┬義寛(侍従長)
└津軽義孝−華子(常陸宮妃)
588 :
日本@名無史さん:2006/08/09(水) 21:54:10
>>587 感謝。
尾張公の子孫でしたか。
尾張徳川家の侍従長は天皇にとっては頼もしい存在でしたね。
589 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 10:58:58
偽源氏乙w
590 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 18:29:41
592:08/22(火) 01:32
591
盛岡南部が「れっきとした源氏」だというソースがないんですがどうしましょうか?
593:08/22(火) 02:07 [sage]
明確なニセ源氏の松平氏よりましやろ。
>>469 我が家は桜井松平の一族らしいんです。
とは言うものの、親から話を聞いただけで、系図等直接的な資料を見たことはありません。
状況証拠としては、家紋は九曜で、我が家の代数と親の話のツジツマは合います。
どなたか、各松平家の詳しい系図が載ってるホームページなどありましたら教えてください。
深溝松平家三代の忠雄の父伊行ってどういう家系の出身ですか?
593 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 05:08:22
>>43 >江戸十八松平
戸田なんて譜代家臣じゃん。
594 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 05:09:43
>>590 武田や小笠原と先祖が共通=甲斐源氏
Quod Erat Demonstrandum
595 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 10:38:49
徳川氏が新田氏の家紋の中黒や足利や新田に許された桐紋を使用しなかった
のは偽者という自覚があったからでしょうか?
桐は秀吉が使用したせいもあるでしょうが
>592
深溝松平家相続次第(江戸初期)
忠定┬ 好景─ 伊忠─1家忠┬2忠利─3忠房
│ └ 忠隆─ 忠久─ 伊行─4忠雄
├ 定政─ 忠政─ 忠次─ 重光─ 女 ─ 重矩─ 勘敬─6忠刻
└ 康定─ 定広─ 広次─ 房次─ 次章─5忠俔
以降忠刻子孫が江戸末まで相続。
597 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 11:26:33
津軽WWW
598 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 18:16:51
>>595 由緒ある賀茂朝臣であるからして、
源氏を名乗ったあとも葵紋を捨てられなかったのでしょう
599 :
盛岡藩士:2006/10/14(土) 22:53:44
桐紋は由緒正しからざる紋なり
神社紋とか花紋とかはエタ以下
600 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 22:56:45
601 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 23:29:06
信光がやたら絶倫男だったから分立したんだっけ
>>599 ああ、それであなたの家紋が桐紋なんですね。
603 :
YAP?:2006/10/15(日) 23:08:26
松平氏の「葵紋」といったって、本当に松平氏が、「賀茂朝臣」の子孫云々
というよりは、「賀茂郡」に松平郷」があったという方が、大きな原因
じゃないかな?
確か、賀茂郡出自の松平氏の家臣のほとんどの家は、「葵紋」で、後に
本多氏か何かを除き(「立ち葵」紋)、皆「葵」を捨てさせられたと
いう話があったはずだが?
第一、松平氏の家系伝承を見ても、世良田氏を称する前は、在原氏か
何かを言って多様だし。
604 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 13:54:32
信光のときに賀茂朝臣を名乗っていたのはたしかですね
室町中期に第三者史料で実在が確認できるんだから
なかなかの家系ですよ、松平氏は
605 :
YAP?:2006/10/16(月) 22:29:01
そういえば、松平益親とか、いわゆる「京都松平氏」は、何時ごろ
史料から消えたんだろう?
主家の伊勢氏の没落と、同時期だったのかな?
応仁の乱で京都が荒れ果てたから、本国へ引き揚げたとか。
その後守護の統制が緩んで、戦乱の世に入り、以前の有徳人としての側面が
薄れて、代わりに国人として側面が強くなってきて、復興しつつある京都に
戻らなかったとか。
以上妄想です。
607 :
YAP?:2006/10/26(木) 23:27:50
でも、益親を祖先とする松平氏の一族が三河の松平氏の中に残っていなかったわけだから、
やっぱり三河には帰らなかったのでは?、
608 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 00:30:17
もしその系統が生き残っていたら、江戸時代に何らかの形で取り立てられたと思う
(たとえば伊勢氏の被官だった蜷川氏みたいに)
609 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 00:32:04
徳川の家紋は一番かっこよくて威厳があるね
色もいいし
具体的に京都松平氏という家系が有るのではなくて、松平氏の一族で伊勢氏の
縁故で京都を中心に活動した人々を総称して京都松平氏として括られて居るのでは。
だから伊勢氏が衰え、松平氏が国人としての性格を強めると、中央で活動する人々が
減ったと言うことでは。
611 :
YAP?:2006/10/28(土) 23:54:29
確かに、いわゆる「京都松平氏」と称されているものの「活動」には、もっぱら
「有徳人」として、高利貸もしていた、松平氏の惣領(といっても「信光」系のだが)家の
岩津松平親長や、弟の大給松平、安城松平、長沢松平氏なども、入ってはいるが、彼等は、
同時に、三河国に、岩津・大給・安城といった、はっきりとした所領を、持っている。
これに対し、泰親の子とされる益親の子孫は、三河に所領を持っていなかったか、もっぱら
京都や、近江あたりで、日野氏や、伊勢氏の代官や、有徳活動をしていて
三河での活動の形跡がみえない。
つまり、岩津松平氏や、その庶家のいわゆる「松平の七人衆」はあくまでも
「三河松平氏」だが、益親・信親の家系は、京都近辺でしか、活動していない。
狭義の「京都松平氏」と言う事になるのだが、この系統が、どうなったか、知りたいのだが。
613 :
日本@名無史さん:2006/10/29(日) 20:34:14
益親や勝親は本当に松平泰親からでた系統なのかという気もするが。
伊勢氏と結び付いていたのは信光や親長たち三河の松平であって
益親は近江菅浦の日野氏の所領の管理をしてたんだろ。
少なくとも三河とのかかわりをしめすものは同時代の史料にないのでは?
岩津生まれの俺より詳しいことやたら知ってるな、おまいら
615 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 21:18:04
菅浦文書では益親は三河兵を動員したとしているから、
事実なら三河に根を持っていた可能性もある。
しかし益親がやった湯起請って古代の「クガタチ」だよな
室町時代までこんな荒っぽい裁判が行なわれてたなんて知らなかったよ
616 :
YAP?:2006/11/08(水) 20:43:22
益親が、三河兵を指揮していたとしても、それは、岩津松平氏の兵力だったのではないか?
勿論、岩津松平の庶家の兵力も含んでいたのだろうが。
益親は、菅浦と大浦の抗争時、日野氏の代官として、総指揮を任され、いっせつには、万余
の大軍を指揮していたとされているから、相当な有力者だったのだろう。
しかし、その子孫が残っていないのはなぜだろう?
>しかし、その子孫が残っていないのはなぜだろう?
可能性1:戦国後期・江戸初期に松平系図が安城松平を中心として再編成された時に先祖を書き換えた。
可能性2:継嗣が絶えて、その名跡は十八松平のどこかに引き継がれた。
可能性3:岩津松平の衰退と共に衰微し、行方不明になった。
618 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 02:42:06
明治維新が日本の夜明けなどというのは馬鹿げた話だ。
開国したのは江戸幕府。製鉄所や造船ドッグを造ったのも江戸幕府。
富国強兵?幕府海軍は東洋最強と言われていた。
慶喜がやる気なかったから薩長に負けただけだ。
明治維新など無くとも日本は近代化を達成できただろう。
619 :
YAP?:2006/11/10(金) 22:50:57
う〜ん、617氏の仮説の3つともありそうで、またなさそうな・・・。
系図の偽作を疑うならば(勿論、松平氏の庶家間のだが)、なんといっても、
岡崎松平氏が、問題になるだろうと思う。
本城を、安城松平氏の世良田次郎三郎清康に奪われ、その後大草松平氏に
なったというが、そもそも、西郷氏から養子が入ったとかの話もあるし・・・。
トンデモだが、いっそのこと、安城松平氏を乗っ取ったという説はどうだろう?
安城松平氏は、
親忠ー長忠ー信忠ー清孝(清康)ー広忠ー元信(元康、家康)ー秀忠
という系譜なのだが、この「清康」の代が、前3代とことなり、通字の「忠」が
入っていない。次代の広忠でもちゃんと「忠」が、入っているのにこれは異常だ。
「清」は、まあ、吉良持清あたりからの偏諱だろうから、初名が、「清忠」なら、
いかにも安城松平氏の惣領らしい名前だが、「清孝」ぐらいしか、みつかって
いないのでは、まあ、『史疑』程度の、レヴェルで、清康が、本来の安城松平氏の
家督を清孝(あるいは清忠?)から奪ったという筋書きだ。
そうすると、いわゆる「守山崩れ」で、重臣の阿部大蔵の息子が、清康を殺害した
動機も説明できるし、阿部大蔵が、そのまま幼君広忠の重臣を勤めて誰も文句を
言わなかったのも説明できる。
>>616 なぜ惣村のわずかな住民を攻めるのに、益親は大軍を率いたのか?
菅浦って陸の孤島あるいは秘境みたいな場所なんだよね。
いまでこそ奥琵琶湖パークウエイが開通して車で行けるようになったけど。
陸路ではなかなか攻められないだろうな。
決死で戦う覚悟の惣民たちが降伏したのは水軍まで動員されたから。
621 :
617:2006/11/11(土) 13:13:14
十八松平の中で出自のあやふやな一族を挙げるとしたら長沢松平では。
初代〜三代まで親を使用しており、生没年なども矛盾があり、操作されている
可能性が高い家系だと思われる。
また二代松平源七郎親益は、寛正六年没とされており、京都松平の益親と年代
的にも近接しています。
622 :
YAP?:2006/11/12(日) 00:59:37
確かに長沢松平氏は、かなり怪しげな系譜になっており、当初の信光の子の長沢松平氏がそのまま、伝わった可能性は少なそうだが、
でも、「世良田氏」を称したあたり、清康の可能性も少しくらいは残るような気が・・・。
まあ、岩津松平氏の多くの庶子(「算」のつくのが一杯いたような)や、丸茂、細川とか、
信光系とされている松平氏で、後裔が不明なのも多いので、そのあたりに、益親の後裔が、猶子
とか用紙になって紛れ込んでいる可能性もありそうだ。
でも確かに「親益」は、怪しすぎる名前ですね。
623 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 03:15:11
>>591 ふつうに親に詳しく聞けばいいんでねーの?
624 :
YAP?:2006/11/12(日) 22:55:05
長沢松平氏の初代親則は、永享8(1436)年生まれで、寛正二年(1462)に
死亡し、その子の親益は、父の死後4年経った寛正6年3月20日に没したとすれば、
3代目が、親益の実子である可能性は少ないでしょう。
勿論、親則の子で、親益の弟の可能性は否定できませんが。
文亀元(1501)年8月16日付け大樹寺文書の丸根(622の「丸茂」は、
間違いだ。訂正する)美作守家勝等連判状に署名している長沢七郎親清は、親益の
弟か、その子でも年齢的に辻褄はあいそうですが、「勝宗」は、異質な名前のように思えます。
「勝」は、益親の子の勝親とおなじく「勝」字を持っています。
この「勝」は、益親系の通字というよりも誰かからの「偏諱」である可能性が強そうに思えますが、
丸根家勝、岩津弥九郎長勝、岩津八郎五郎親勝の名が、連判状ニ見られるので、松平氏の中で、この頃
はやっていたのかもしれません。
625 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 15:15:48
鍋島系は=朝鮮半島出身
だから皇室も徳川家も今では朝鮮的
626 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 15:17:16
朝鮮人種
627 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 15:39:20
>>625 結局、みっともない自分たちの姿を勝手に宗家流に投影しているだけなんじゃないの?
三河は細川成之のあと確実なところ守護職が消滅してしまっているな。
隣国の尾張・斯波、遠江・今川とくらべて早過ぎやしないか?
実効支配はもとより名目支配も応仁の乱以前になくなっちゃったのか
629 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 14:53:42
龍・葵はともかく蓬なんてぜんぜんみねー@岡崎市民
631 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 23:35:52
吉川弘文館の「日本史年表・地図」に載っている徳川氏系図には、
松平氏の三代目が信光ではなく益親になっているのだが、
編者の意図や一次史料が何によっているのか気になる。
あえて通説の信光をはずすあたり、何らかの確信に基づいているとは思うのだが。
632 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:21:33
633 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 00:16:01
まさか松平氏が物部からでているとかw
634 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 20:18:08
十四松平の残り
結城松平
高須松平
守山松平
西条松平
津山松平
明石松平
松江松平
糸魚川松平
越智松平
柳沢松平
本庄松平
鷹司松平
母里松平
榊原松平
635 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 19:50:25
保守
636 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 23:05:32
age
637 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 16:55:11
勝ち○ 松平信光 VS ×足利一族。
勝ち○ 松平長親 500 VS ×北条早雲 1万。
勝ち○ 松平清康(世良田二郎三郎) VS ×織田信秀。
勝ち○ 徳川家康 2万 VS ×豊臣秀吉10万。
勝ち○ 松平信康 VS ×武田勝頼。
松平普通に強い。イレギュラーがなければ、清康の時代に天下を取ってもおかしくないほど。
638 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 04:44:55
>>595 中黒は竹谷松平が使用している。
>>605 義晴とか義輝くらいの時期の伊勢氏周辺には松平苗字の奴は見かけないね。
>>628 遠江の守護職は1508年までは斯波氏。
あと、細川成之(讃州家)以降の三河守護の実態が不明な背景としては、以下のことが考えられる。
1.三河は細川讃州家の本拠地・阿波から離れており、直接支配が困難だった。
2.三河が細川讃州家の管轄になるのは将軍義教によって元の守護・一色義貫が殺された結果であり、讃州家が三河守護となってから日が浅かったことが祟った。
3.三河は守護権力の及ばない奉公衆(含・伊勢氏)などの勢力が強く、守護が国主として権力を確立するのは困難だった。
639 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 06:07:02
>>621-622 長沢松平って松平忠輝が養子に入った家ですよね?
のちに家康の実子が名跡を継いでるあたり、確かに松平一族内でのランクは
高い家だった可能性もありそうですね。
>>624 もの凄く細かいことですが、寛正2年は1461年ですよ。
640 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 13:52:31
(部落と朝鮮の関係)
27 :日本@名無史さん :2006/05/17(水) 01:49:30
朝鮮出兵の捕虜の関連性は?
28 :日本@名無史さん :2006/05/17(水) 02:13:53
それ信じてる人いるけど、徳川は朝鮮すきだし通信士送ってるし
陶工との区別わからんし、それに彼らの名前とか居留地
文化みると朝鮮とは直接結びつかない。
┬松平広忠┬徳川家康┬12忠輝──女
└碓井姫 └矢田姫 └11松千代 ‖─14昌興─15親孝…
‖ ‖──┬10康直 ‖
‖───9康忠 └女──13直信
─8政忠
あの家はどうもこういう感じになっているらしい。
家格の高い家というより、単純に安祥松平家と近いんだな。
それが忠輝時代のアレコレで家はなかったことにされたも
同然になってしまっていたようだが。
642 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 14:39:50
643 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 14:41:56
>>642 陰陽道賀茂氏の祖・孝霊天皇とは
今、話題の邪馬台国論争の
女王・卑弥呼の父親とも言われている人物。
このへんは桃太郎の伝説と少し関係がある。
644 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 04:17:31
>>641 安城松平と近いという点を詳しくお願いします。
645 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 17:13:02
徳川って、茶屋、服部など、三河以外に地盤を持つ人物が重要な働きしてるんだよなあ。
他にも天海とか、出奔して出戻りの真宗門徒の本多正信とか。
三河って、秘密結社のアジトだったのか???
信長や秀吉にない怪しさがある。
三河って、29万石しかないんだよな、で天下取ってる。
どう考えても、尾張以西、遠州以東のほうが国力がある。
646 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 04:24:13
>>645 遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模あたりは、いずれも三河より石高低いぞ。
647 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 14:38:18
648 :
日本@名無史さん:2007/03/19(月) 19:39:21
コピペ
薩摩長州の創った法治主義を破壊しろ!
武士がなぜわけわからん警官とやらに逮捕されなければならないのか。
みんなでよく考えよう。
649 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 19:07:35
松平家忠って同時代に三人いるの?
651 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 19:03:28
一番有名なのは、『家忠日記』を書いた深溝松平の家忠かな?
652 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 00:11:35
東条と形原にもいるんだね
653 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 00:46:09
あとからつけた二人は紛らわしいと思わんかったのかなあw
654 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 01:50:43
昔は自分の名前を名乗ることはほとんどなかったでしょ
普段は通名(字)を使っていて公式な場では官職名
655 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 11:31:31
竹谷家の松平忠清が嗣子を残してれば
竹谷家は将軍の偏諱+清で大名になってたと思われ
光清
綱清 池田がいるので×
吉清
宣清 吉清が若死にしない限りないな
継清 〃
宗清
重清
治清
斉清 黒田がいるので×
慶清 すでに吉清がいるので×
定清 多分ない
茂清
656 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 18:50:39
16松平なんて郷土史家でも詳しくは知らないでないか?
大給なんて今は人も住んでないだろ?
657 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 21:47:01
郷土史家の大半は研究者ではなく素人歴史ヲタ。
658 :
YAP?:2007/04/23(月) 22:10:08
t竹谷松平の「忠清」の「忠」が、本当に「将軍の偏諱なのかね?
(忠」は、安城松平氏の「通字」であり、大久保忠教・忠世、ホ多忠勝、
酒井忠次とか、一杯いたのだが。
松平忠吉だって、別に兄の秀忠から一字拝領したわけでは無いだろうに。
659 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 23:46:50
家康以前の松平氏の名前が代々「○忠」だから、代々偏諱を貰っていたと考える
余地はある。
ただ近世には、家康以降に分かれた親藩を除き、松平一族や譜代大名は
偏諱NGみたい。
忠が通字といえるほど厳密に受け継がれていないので苦しい
661 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 14:07:29
>>660 親忠−長忠(長親)−信忠−清忠(清康)−広忠−家康
徳川氏および松平一族の家康期以前の系図はかなり操作されていているが、
家康に繋がる家系は原則「忠」がつく名前と考えられる。
「長親」「清康」の名は一次史料には見えず後世の創作とされる。
662 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 21:34:11
そうだったんだ、知らなかった。
てことは信光とか益親とかは逆に系譜的なポジションはかなり怪しい(家康側から見て)ってことだな
663 :
YAP?:2007/04/24(火) 22:36:46
長親が史料上は「長忠」だというのは、知っていたが、「清康」については
「清忠」という名を記した史料は無かったように思うのだが?
「清孝」がその初名だったという話だったように思うが。
尚、「信」は初期松平氏の「通字」だろう。
入り婿とされる親氏やその実弟らしい「泰親」の子孫など、本来の
松平氏(在原?賀茂?)の血統ではない連中が通字としているのだろう。
664 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 22:37:25
>>662 初期の頃は「親」が通字だった可能性はあるだろうし、益親については近江の菅浦の史料に出てくるから実在自体は堅いんじゃないかな。
ただ松平氏が元々伊勢氏の被官だったことや、桶狭間の戦いまでは今川氏の強い影響下にあったことを考えると、初期の松平一族の「親」は伊勢貞親や今川氏親の偏諱と考える余地もありそうかと。
所詮は徳阿弥の子孫
666 :
YAP?:2007/04/25(水) 00:47:01
松平信光のこの岩津親長、安城親忠、長沢親則などの「親」は、
伊勢貞親からの偏諱だろう。伊勢貞親の被官だったと考えられるので、説明できる。
初期の親氏・泰親兄弟や、泰親の子孫である益親・勝親らは、偏諱の通例であれば、
「親」は、名前の飢えのほうの字になるはずだ。
やはり、この「親」は、徳翁斎、祐(用)金斎一属の「通字」だろう。
667 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 01:46:48
松平益親は本当は親益だったって可能性はないの?
668 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 01:07:53
安祥松平は、代々が、次郎三郎。で、幼名が、竹千代。
松竹梅で、松を育てる竹で。松は、1級の意味。
清康は、安祥次郎三郎と呼ばれていた。
家康は、次郎三郎元康。
669 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 17:15:19
なぜ江戸時代に16松平の調査が進められなかったのかな?
670 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 21:46:24
>>669 調べるといろいろマズいことがあるから、将軍家の側も18松平の子孫の家のほうもお互いに調べなかったということでは?
「家康のとこより家が本家筋」とか言い出す奴がいたらいろいろと困っただろうしね。
どちらも。
672 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 12:19:38
どちらも困るなら、どちらも言い出さないだろ。
673 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 13:07:29
でも、一応、太郎左衛門家が庶宗家だったんだろ?
674 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 13:15:22
で、徳川はやはり源氏の子孫ではなかったのは確定なのか?
675 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 15:39:17
小学校から高校まで東洋英和女学院で育ちになり、幼い頃から茶道、書道、
絵画、フランス語の薫陶を受け
ロータリークラブの活動にもご熱心
慶應大学環境情報学部をご卒業のみぎり、自由ヶ丘で自ら書道教室を開いた
そんな美貌の松平紗永子さまは、どの松平家の出でしょうか
676 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 16:05:00
信康の子孫はいないの?
677 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 20:57:54
江戸時代に16松平の履歴がぼかされていたとなると
家康の出自はどこまで本当なのかあやしい。
>673
>でも、一応、太郎左衛門家が庶宗家だったんだろ?
「庶」というのも徳川史観で、実際はあやしいんじゃないかな。庶長子を太郎家に、
というのが公式の説明だろうけど。
先祖代々の家を継いで守った本家より、外に出て勢力を広げた分家の方が大きくな
るというのは、珍しいことでないし、本当は太郎家が嫡宗家だというのは充分ありそ
うに思える。次郎家の本来の嫡流という、岩津松平もなかったような扱いだし。
679 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 04:05:57
16松平じゃなくて18松平だろ?
680 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 14:47:04
「葵の御紋」といえば徳川家の家紋です。しかし、徳川家の紋は「三葉葵」です。
どうして、徳川家がこの紋を使っているのかについては諸説があります。
徳川家康は、三河の松平家の本流といわれていますが、
その出自にはいろいろ、疑問があるのです。
歴史家の村岡素一郎氏の研究によると、徳川家康はもともと
松平氏とは関係のない「世良田二郎三郎元信」と称する男であり、
この男が松平当主であった信康を暗殺して岡崎城主になったと
いうのです。この真偽は定かではないですが、家康がいろいろ
系図操作をしていることは確かなのです。
ところで、葵を家紋としていたのは、徳川四天王のひとりである
本多正信です。本多氏は賀茂神社の神官の一族であり、その
ルーツは賀茂氏、その家紋は「立ち葵」です。そこで、家康は
本多家にあやかって葵を家紋としたといわれているのです。
しかし、これとても真相であるとは思えないのです。
むしろ、徳川家も賀茂氏の系統で、配下に陰陽師や漢波羅を
抱えていたとする説の方が説得力があります。およそ日本の
歴史において、今まで権力を握ったものは、そのすべてが
秘密組織「八咫烏」の力を借りているからです。したがって、
徳川家康がそれと無関係であることは考えられないのです。
嫡流なんて結果論だからね。
頼朝があっさり殺されていれば、佐竹あたりが清和源氏の嫡流とか言ってたかもしれない。
新田の方が羽振りが良ければ足利は庶流だし。
682 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 17:58:10
683 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 18:04:52
あはははは そうだよね
684 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 18:07:30
本日、噂の吉良東条城跡を調査してきた。
東条松平氏は家康が東条吉良氏を攻め滅ぼした後に
松平家を入れてできたとのこと。
しかし東条吉良氏は守山崩れの時に家康の父広忠をかくまった
恩人だったのだ。また家康の祖父(広忠の父)の妹が
嫁いでいるので縁戚関係もある。
その東条吉良氏を家康がなぜ攻め滅ぼしたのかは
今日はわからなかった。
もっともその後、吉良一門のものを旗本に取り立てて再興しているわけではあるが、
685 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 18:12:47
よく家康が吉良家を再興した理由に
「家康の名家好き」というように説明されるが本当だろうか?
他に家康が再興させた名家の例はありますか?
吉良家の場合はむしろ父の恩義がある吉良家を
自ら攻め滅ぼした後ろめたさから
吉良家を再興させたのではないでしょうか?
686 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 18:20:18
>>650>>652 そうだったんですか?
たしか東条松平は家忠一代で、家康の子忠吉が継いでその後
断絶と書いてあったような。
687 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 20:12:35
一八松平とは
越前松平、川越松平、津山松平、出雲松平、明石松平、糸魚川松平、母里松平、越智松平、柳沢松平、
本荘松平、守山松平、高須松平、西条松平、鷹司松平、会津松平、高松松平、宍戸松平、府中松平をさす
688 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 21:05:25
>>688 越前〜母里までは越前系だから秀康の子孫。
長男忠直→光長の流れが津山
次男忠昌の流れが越前でその分家が糸魚川
三男直政の流れが松江で母里はその分家(ここに書いてないが広瀬も分家)
五男直基の流れが川越(維新時は前橋)
六男直良の流れが明石
高須は尾張家の分家
西条は紀伊家の分家
高松・守山・宍戸・府中は水戸の分家
越智は家宣将軍の弟が取り立てられた家
柳沢は柳沢吉保の子孫、だけど分家は松平姓じゃない。
本荘(多分本庄)は綱吉将軍の生母の弟が取り立てられた家
鷹司は家光将軍正室の弟で鷹司家の庶子が取り立てられた家
会津は家光将軍の弟が養子に行った保科家が加増されてできた家で、松平に復姓したのは三代正容から。
>>685 今川、武田、大友、赤松、土岐、北条、別所、山名と結構いるぞ。
691 :
日本@名無史さん:2007/05/24(木) 11:27:40
あぼーん
めずらしいな
日本史板であぼーん来てるよ
>>692は何が書いてたのかな・・・って、アンカーも狂ってそうだ
これの二つ上のレスのことね
695 :
日本@名無史さん:2007/05/24(木) 23:57:07
結局謎だらけだな。
鎌倉幕府滅亡から室町幕府6代将軍までの、三河国の歴史が分かるものあるのかな?
どうも、浪合記(偽書として疑われている)を最近読んでから興味があるんだが。
696 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 00:20:33
大久保氏・奥平氏・戸田氏・・・
松平家周辺には、南朝関係者がやけに多い。
松平が自称する南朝残党ってのは本当かもね。
697 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 03:54:53
>>695 三河は幕府の御料所が多く、奉公衆の所領もかなり集中した国だった。
三河出身の奉公衆の多くは、鎌倉時代に足利氏が三河守護だった頃から、
足利氏との間にある程度関係があった家も多い。
しかし南北朝期には守護の変遷が激しく、一時期は新田一族の大島氏が守護に
なったりもしている。
義満の時代以降の三河守護は、基本的に1440年の将軍義教による
一色義貫謀殺までは一色氏、それ以降は細川氏一族の讃州家(阿波守護家)。
しかしなんで義教の時期までで切るの?
義教の富士遊覧の話でも念頭にあるのかな。
699 :
695:2007/05/25(金) 16:47:54
>>697 正解。
富士遊覧の話も念頭にあります。
南北朝〜後南朝の混乱が、三河国の国人動向や幕府奉公衆の関係とか知りたい物で
700 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 17:28:39
701 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 00:28:16
富士遊覧は義満もやってるね。
但し義満の富士遊覧は一字史料的には確認が難しいらしいが、
明らかに一次史料から確認できる義教の富士遊覧に関して、
これに義満のときの先例がかなり引用されていることから、
義満の富士遊覧もたぶんあっただろうとされている。
702 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 00:29:32
703 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 14:39:54
南朝は吉良左京太夫をへて一色弾正大弼の子、由良之助の落とし種が、大給松平の源と、後三河風土記にある
704 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 19:22:47
で、南北朝統一以後の後南朝勢力とも繋がりがあったのか?
705 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 05:40:23
長沢松平は由良之助の落とし種の長八郎を源流とす
長沢長八郎秀輝。
706 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 00:19:58
で後南朝なのか?
707 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 20:54:06
長沢って講武所の剣術教授になってから(つまり江戸定府)
交代寄合になったんじゃなかったっけ
参勤交代できたの?
708 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 19:45:10
なにかすごいことになっているなこのスレッドは
>>703>>705 ?これはつまり各松平家は
本来松平郷の松平家とは元々
別の家系だったということではないでしょうか?
何家かは擬制的血縁関係が混ざってるんだろうなとは思う。根拠はないけど。
710 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 02:41:16
菅浦文書に出てくるのは長沢松平だっけ?
711 :
尾張五郎太:2007/05/31(木) 07:15:18
一色由良之助
浪合記で、松平泰親とい人物がいる。
この人物がどうも後南朝に関係しているようだ。
ちなみに徳川氏系図によると、徳川親氏の子らしい。
他の文献(信用度が低い)を調べると、世良田政親という新田一族の人物を匿ったというのだが、
どうも確証がない。
松平一族、後南朝に近い一族か?
713 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 21:16:33
新田って南北朝合一後も後南朝と関係あるの?
普通に、松平氏=まつ平氏 → 平氏だろ。
待つ平氏
平氏の世の復活を願う名前だったんだよ!!
716 :
平山貴士:2007/08/09(木) 00:03:54
皆様に質問があります。
私の先祖に松平十郎左衛門という人がいるのですが、
どなたかご存知ありませんか?
戊辰戦争の時に島原藩の隊長として官軍に参戦し、
東北に行った。という事しかわかりません。
深溝松平家に詳しい方、どうかお教え下さい。
718 :
平山貴士:2007/08/09(木) 03:41:29
補足をさせてもらいますと、
母親の実家から借りた「深溝松平家譜」という本には
享和二年(1802年)生まれの「景保」という人までしか載ってません。
私の曽祖父は「景虎」と、いって1873年生まれですので、
一代分あいてる事になります。
たぶん、その人が「十郎左衛門」だと思うのですが・・・
>>718 ttp://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1156556741/l50 私の母方の実家は松平と申しまして、「深溝松平家譜」という家系図があり、
調べた結果、家祖松平忠定の4男康定の子孫で、後に養子となって2男定政の系統を
継いだ事がわかりました。
したがって私は、家康公の祖父の祖父の祖父の松平信光公の子孫です。
この場を借りて言わさせていただきます。
皆様方の御支持のおかげで、「徳川家康」「葵 徳川三代」が作られました事を
厚く御礼申し上げます。
尚、母方の墓は「本光寺」といい、資料館があり、そこには「上杉輝虎の書状」
「京都御所常の御殿を模した部屋」「切腹の間」伏見城の戦いで死んだ松平家忠の
「家忠日記」尚、私の先祖にあたる「松平十郎左衛門の写真」(十郎左衛門は戊辰戦争
の際島原藩の隊長として官軍に従軍し東北で戦いました。)
私は幼い時からこのようなすばらしい文化遺産を、まのあたりにでき、非常に幸せだった
と思っています。
皆様もぜひとも島原に来ていただき是非立ち寄って下さい。
必ずや満足できるものと確信しております。
「真の日本の歴史・美」を体感して下さい。
言わさせてはないだろ・・・常識的に考えて・・・
といって「表明する」「宣言する」とかいうのはちょっと尊大というか偉そうに感じるからな
申し上げますでいいんじゃね
723 :
平山貴士:2007/08/11(土) 00:18:38
すみませーん。質問に答えて下さい。
それから719番様。
それ、私の文です。盗用しないでね。
この場を借りてもおかしいな
子孫名乗るなら、掲示板とはいえきちんとした日本語書かないと恥かくぞ
後々までコピペされて残るんだから
なんだお前か
糞コテに用はない。氏ね
726 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 00:30:54
>>719 あっちでも相手にされてないのなw
まあこの支離滅裂文見りゃ相手にもしたくないわな
727 :
平山貴士:2007/08/11(土) 00:32:21
結局、知らないんですか?
728 :
平山貴士:2007/08/11(土) 00:50:11
相手にされてないか・・・
実物見てないんじゃ仕方ないですよね。ハイ。
729 :
平山貴士:2007/08/11(土) 01:18:50
後々まで残る・・・
のぞむところです。
730 :
平山貴士:2007/08/11(土) 02:47:55
ちなみに
「この場を借りて言わさしていただきます」というのは
前の文の続きではなくて
後の文の前フリだったんですねー。
つまり
「大河作ってくれてありがとう」というお礼を
「この場を借りて言わさせて」もらったんですねー。
乱文の程は、ひらにご容赦を。
もう少し文脈を理解するよう心がけましょう。
お礼に文句言うならご勝手に。
731 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 03:16:39
後の文とあわせてみても、言わさせてはおかしいぞ
732 :
平山貴士:2007/08/11(土) 03:27:25
どうでもいいけど
質問の答えはどうした?
733 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 03:31:07
どうした?なんていう奴には知ってても教えたくないな
734 :
平山貴士:2007/08/11(土) 03:31:51
文脈は、つかみきれないんだな。
単語の批判するだけか?
お礼に文句言いたきゃご勝手に。
735 :
平山貴士:2007/08/11(土) 03:33:16
知るわきゃねえだろ!ひゃひゃひゃ
736 :
平山貴士:2007/08/11(土) 03:35:53
言わさせてなんて言葉ねえんだ。このヤロー!って誰か言いそうだな。
737 :
平山貴士:2007/08/11(土) 03:37:29
「おまえがなー」とか。
738 :
平山貴士:2007/08/11(土) 03:59:53
質問に答える気ないんだろ?
国語検定やっとれ。役立たず。
739 :
平山貴士:2007/08/11(土) 04:05:26
716の答えなんか知るかバカ!
国語教育やって揚げ足とってやったんだよ!
とかいいそうだな。
盗作したくせに・・・
740 :
平山貴士:2007/08/11(土) 04:07:03
結論・誰も知らない
741 :
平山貴士:2007/08/11(土) 04:23:30
それでも言わさせてはおかしいと言い続けるであろう。
1000まで言わさせてくれ!とか言って。
742 :
平山貴士:2007/08/11(土) 04:26:27
「言わさせてって言わさせてくれって!」
「よしなさい!」
それがお前の本名ではなく、
他人の名前の場合、
逮捕や訴訟をちゃんと覚悟しとけよ。
進学は諦めろよ。
744 :
平山貴士:2007/08/11(土) 05:22:15
本名だよ。
進学?
いくつじゃと思っとんじゃコラ!
おれは31じゃ!
745 :
平山貴士:2007/08/11(土) 05:32:56
それから言っとくが
大瀬戸の警察官とは知り合いだ。
6月15日に西彼杵高校を訴えると言ったら
来てくれて代わりに収めてくれた。
何だったら家来るか?
長崎県西海市大瀬戸町瀬戸西濱郷1618−4だ。
直に会おうや。家系図見したる。
746 :
平山貴士:2007/08/11(土) 05:36:43
お前等、深溝松平家侮辱した責任取ってもらうぞ。コラ。
また、警察に電話しよかな。
747 :
平山貴士:2007/08/11(土) 05:45:40
6月13日19:30頃
バスの最前列に乗っていた所
後ろから中身の入った缶ジュースを投げつけられる。
幸い当たらなかったが、2日後通学路のコンビニにて警察に通報。
警察の説得により学校訪問は中止。
748 :
平山貴士:2007/08/11(土) 16:51:05
逮捕・訴訟覚悟してます。
法廷で会いましょう。
749 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 20:47:51
バカジャネーノ
750 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 20:58:13
なぜ三河深溝の松平家が島原に定着したのでしょうか?
751 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 21:02:42
そして本光寺たしかに三河深溝あたりを調査した時に似たような寺を聞いたことがあります。
752 :
平山貴士:2007/08/13(月) 16:00:42
愛知の幸田町の本光寺とは別に
島原にも本光寺があります。(同じ深溝松平の寺です。)
検索した所
「先祖探しの相談には当寺では請け負いかねます。
市役所の方へ伺ってください。」という旨の文がありましたので、
いつになるかはわかりませんが、市役所へ相談にいこうかとも考えております。
753 :
平山貴士:2007/08/13(月) 16:10:21
ちなみに、私の日本語がおかしかった件について考えてみたところ。
1・学生辞めて10年たつので、国語をど忘れした。
2・方言が混ざっていた。
まあ、こんなところでしょうか。
754 :
平山貴士:2007/08/13(月) 16:34:37
瑞雲山本光寺の住所です。
長崎県島原市本光寺町3380番地
近くには島原工業高校があります。
755 :
平山貴士:2007/08/14(火) 10:38:40
750番様へ
「霊丘神社」で検索してみてください。
島原藩主の変遷が紹介されてます。
756 :
平山貴士:2007/08/14(火) 10:50:48
「島原 本光寺」(スペースをあける)
これで検索してみて下さい。
私の説明では不十分だと思うので。
島原の乱以降、島原半島では幕府の命令に基づき、
キリスト教徒の弾圧と他地域からの入植、仏教寺院・神社の建立が行われた。
本光寺はこのときの建立であり、表の石段には所々に十字が彫り付けてある。
これには、石段を登った人間には気付かぬうちに踏絵をさせる、という意味がある。
島原半島はこのように、全国からの入植者がいるので、江戸時代以前の先祖を探すのは難しい。
寺の過去帖を調べられないのなら、ほとんど無理であろう。
758 :
平山貴士:2007/08/16(木) 10:21:11
過去帖ですか。貴重な意見ありがとうございます。
さて、家系図からわかった事ですが、母方の松平家は
1・徳川家康公の子孫ではない。
2・伏見城の戦いで死んだ松平家忠公の子孫でもない。
したがって、藩主の子孫でもない。
3・深溝松平家の庶流である。
と、いう事です。
759 :
平山貴士:2007/08/16(木) 10:33:06
ちなみに、深溝松平家の場合、庶流の家は
家紋も菩提寺も主家とは違う場合が多いのですが
家紋は「重扇」で、菩提寺は「島原本光寺」と
主家と同じ扱いになってます。
過去帖ですか。今度きいてみますね。
760 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 11:01:25
藩士になった『松平』っているの?
全く別系統の松平なのでわ?
761 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 12:00:08
島原と三河は少なからず因縁はあるはず。
たしか島原の乱の時に幕府から派遣されていた板倉重昌は
たしか時の深溝領主のはず。
当然領内から武士を率いていったはずで、
この時のことが関係しているのかも。
762 :
平山貴士:2007/08/16(木) 12:14:55
深溝松平家初代の忠定の4男康定の系統なので
藩主の家とは別系統です。
重複しますが、先祖の松平十郎左衛門(名がわからない)は
戊辰戦争の際島原藩隊長として官軍に従軍し
東北まで行ったという事なので
藩士だったと考えられるのですが
ただ、この人が家系図には書かれてなかった。
1802年生まれの「景保」という人までしか書かれてません。
763 :
平山貴士:2007/08/16(木) 12:29:12
深溝松平家の変遷
関が原後・・・三河深溝
慶長17年・・三河吉田3万石
寛永9年・・・三河刈谷
慶安2年・・・丹波福知山4万5千石
寛文9年・・・肥前島原6万5千石
寛延2年・・・下野宇都宮
安永3年・・・肥前島原
島原の乱の頃は松倉氏だったので、正直よくわかりません。
系図は偽物が大多数なんだから、まずは第一番に過去帳を調べなされ
765 :
平山貴士:2007/08/16(木) 12:41:57
わかりました。過去帖調べますね。
31歳にもなってコテ名乗って基地外三昧のレスを繰り返してるバカを相手にするなよ・・・
767 :
平山貴士:2007/08/16(木) 16:20:33
基地外?どこが基地外なのさ?
everything!
769 :
平山貴士:2007/08/16(木) 17:13:09
それじゃ答えになってません。
日本語の不備を指摘したんだから日本語で。
「具体的に」「どの箇所が」
記念真紀子
いいかげんうぜえ
772 :
平山貴士:2007/08/17(金) 08:59:37
関係ない人、よそ行って暴れなさいね。
773 :
平山貴士:2007/08/17(金) 09:03:36
とりあえず764番様の意見を参考にして調べてみます。
貴重な意見ありがとうございました。
774 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 01:31:55
おい、平山
専ブラっていいよね
名前であぼーんできるからね
777 :
平山貴士:2007/08/19(日) 22:56:48
どうぞ、ご勝手に。
関係ない人、よそ行って。
糞コテが真っ先にどっかへ行くべきかと
779 :
平山貴士:2007/08/20(月) 17:48:06
だから、どこがよ。
説明責任果たす義理ないがね。
その前にsageろや
781 :
761:2007/08/20(月) 21:22:48
平山氏、ネットは変な人がたくさんいるので
スルーする技術を身につけてください。
三河15松平家の末裔の名に恥じぬよう。
当時の松平家の関係の家が残っているのは非常に稀なことだと思います。
本当の末裔ならもっとしっかりした証拠を持ってるって
783 :
平山貴士:2007/08/20(月) 23:59:08
何の由縁もなく、家紋と菩提寺が一致するとも思えないんだが。
ただ、藩主の子孫ではないというふうに家系図が表してるしな。
家系図の鑑定でもしないとわからないな。文が難解だし。
ちなみに、母の実家の松平家は近所でも珍しいため
雲仙市吾妻町 松平 だけで手紙が届くそうです。
784 :
平山貴士:2007/08/21(火) 00:16:20
781番様へ
「松平家の末裔の名に恥じぬよう」
この言葉は結構こたえました。
まあ私自身に徳がないので、血縁にすがらねばという思いが強いという訳で。
私個人は、とるにたらん人物なわけで。
まあ激励サンクスです。はい。
785 :
平山貴士:2007/08/21(火) 00:27:35
スルーされとるでしょうが話続けます。
家系図の本来の持ち主である伯父(母の兄)
数年前まで長崎日大の教員をやってました。
社会科で生徒指導部主任だったと思う。
現在は社会を明るくする運動に参加してるんだったかな。
ただ、社会の先生なのに自分の家系にはあまり興味がない。
つーか、親類みんなそうなんだよな。オレだけ浮いてる。
つーか、オレは社会からも浮いてる。
この板でも浮いてる。
だから血縁にすがる訳で。
786 :
平山貴士:2007/08/21(火) 00:35:17
おさらいですが家系図によると
1・徳川家康公の子孫ではない。
2・島原藩主家の子孫でもない。
3・あくまでも深溝松平家の庶流。
との事です。
787 :
日本@名無史さん:2007/08/21(火) 09:52:30
葵紋は賀茂氏の家紋という書き込みがあったが、義貞が後醍醐天皇から
葵紋を下賜されているし、自称新田氏の由良氏も葵紋を使っているので
それを調べて使い出した可能性はありますか?
788 :
平山貴士:2007/08/21(火) 10:24:13
母の実家は「葵」の紋ではなくて
「重扇」です。これは深溝松平家の家紋なんです。
ちなみに伯父は
「この家紋なかなかないんだよな。
使い勝手が悪くて困る」と言ってたとか。
ちなみに平山家は「丸に橘」
これは日本で一番多いベタな家紋らしいですけど。
スレの私物化も甚しいな
>>788 【主な深溝松平一門】
◎家忠家 領地六万五千石 深溝の本光寺 重扇、五葉の実橘
◎忠貞家 知行千五百石 牛込の万昌院 丸に七本骨開扇、根笹、橘
◎高久家 蔵米二百五十俵 後継なく断絶
◎忠治家 蔵米三百俵 四谷の祥山寺 丸に五本骨開扇、根笹
◎貞友家 蔵米三百俵 後継なく断絶
◎忠一家 知行千二百石 青山の玉窓寺 丸に五本骨開扇、三本骨開扇
◎忠冬家 知行四千五百石 赤坂の種徳寺 五本骨開扇、菱扇
◎忠頼家 知行五百石 市ケ谷の松雲寺 丸に五本骨開扇、菱扇
◎忠政家 知行三千石 四谷の西迎寺 七本骨開扇、丸に三矢、鞠挟
◎忠勝家 蔵米百三十俵 牛込の願正寺 五本骨雁木扇、丸に三矢
◎忠重家 知行三百石 後継なく断絶
おっしゃる血筋が事実だとするならば、本家(家忠家)から別れたとしか考えられないでしょうね。
ここにあるのは江戸時代初期のパターンらしいですが、家祖は江戸時代の後期〜末期あたりに
分かれたのかもしれません。
系図に載っていないといっても、どこまで載せるかは編者の裁量一つ。
庶子で本家を継がないなどの場合、本家の系図に載せる必要は必ずしも無いですから。
791 :
781:2007/08/21(火) 17:35:34
平山氏、本屋の立ち読みで
拾い読みした時に島原松平家の家紋は
丸に橘と書いてあったような。
ちなみに由緒ある武家ならもう一つ家紋がある可能性があるので
探してみてください。
792 :
日本@名無史さん:2007/08/21(火) 17:45:30
>>784>>785 先祖を大事にすることは
自分も大事にすることです。 失礼ながらご結婚はされてますか?
_,,.. -──-- 、.,_/⌒ヽ
,.::'"´::::::::::::::::::::::::::::::_;:,! i ノ'-、
/:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::i´ _,ゝ+‐'- _ノ
/::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::[_'ーァ' |`ヽ ),
,':::::::::;::::::::::::::/|::::::::::::::::::::;:::::!、__,ハ、_ノ、_,>
|:::::::;'::::::::/_/__|:::::/´|:::::::ハ:::::::';:::::::::::';::::|〉
|:::::::|::::::/|:/__ |:::/ |::::/‐!-:::::i::::::::::::|:::|
レ、__|ハ_| ' ̄`ヽ' レ',.==、/|:::/|:::::|:::|
|:::::::|:|"" `i/:::|_ハ|:::|
|::::::从 ' "",ハ|::::|ノ::::::|
ノ::::/|:::|ヽ、 「 ̄`i ,/::::|::::|::::::i::::',
∠、:::::|:::|へ|`ヽ、.,__‐'_,,. イ/::::/|:::|::::::ハ::::| 自作自演乙
レヘ、|_,>イ | /`レ'、/:;ハイ::::|/
,..‐''/ .| |/ / /`' 、ハ'"
/_,r/ |/ / /_ とヽ.
〈Y (_,イ / / Y___) ',
_ハ.', |. / / | |
,.r''"ヽア`r」、__/____ ___! ,.-、 |
/ 、 ヽ._|、ノキ (><) ̄´ュ7 ヽ-' ',
、 ヽ,.イヘ〉、へ、.,________,,.ァ'"-‐ 、_ ノ-‐ァ、
:アー'´:::| ヽ!ー'^ヽ-ヘ-/_) /|:::::/7
>>785 おじさんや親戚の態度の方が一般的には普通だな
先祖や血筋など、庶流には大して意味のないものに頼らなくても
自分の力や現実世界の方が圧倒的な力強さを持っているんだろう
795 :
平山貴士:2007/08/22(水) 10:53:36
792番様へ
私は31で独身ですが
弟は29で嫁さんと2歳の子持ちというわけで
まあ弟のおかげでなんとかなっとるわけで
大変な責任を弟は背負っとるわけで
とにかく弟はえらい!
そんな弟は大友宗麟が好きです。
796 :
平山貴士:2007/08/22(水) 11:04:29
ちなみに私は10月生まれ
弟は7月生まれ
なので、正確には3つ違いです。
797 :
平山貴士:2007/08/22(水) 11:15:59
重複しますが、系図によると
家祖忠定の4男康定の系統から
2男定政の系統に養子に行ったと書きましたが
定政の系統(忠政家・忠勝家)が出てきましたので
説明を加えます
790番様ありがとうございます。
798 :
平山貴士:2007/08/22(水) 11:36:54
忠政の長男は忠次となってますが
実はその前に元勝という人がおります。
この人は天正14年に早世したため
忠政家の家督は相続しておりませんが
別家として存続しており(結城秀康の家みたいだな)
後にこの家(元勝家とでも申しましょうか)に
跡継ぎがいなくなった為
うちの先祖(景信と申します)が跡を継いだと。
あー疲れた
>>797 読み直しましたが、その系統は旗本ですよね…
直祖の松平十郎左衛門は島原藩付のようですが、この代か、前の代かわかりませんが
本家の臣になって家紋を下賜され御一門となったように思えますが。
旗本家の資料から追跡していくほうが身元が判りやすいかもしれない…
800 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 19:04:18
庶流の女系を辿って調べて何の意味があるんだろう
801 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 22:20:21
松平で一番の名門は、松平伊豆守でおk?
1大給
2桜井
(長澤)
(東条)
3(竹谷)
4(五井)
5能見
6藤井
7形原
----
8深溝
9滝脇
(大草)
(三木)
10福釜
11長澤(幕末)
803 :
平山貴士:2007/08/23(木) 23:18:30
松平信綱は確か大河内だったと思いますが。うーん、どうだろう。
女系を調べて何の価値がか。うーん。
まあ一理ありますがね。
ただ、思ったのは血筋が貴ければ
オレ個人の卑しさが際立っちゃうんだよね。
オレほんと凡庸だもん。
804 :
平山貴士:2007/08/23(木) 23:28:08
私物化が甚だしいとありました。
まあ、お叱りごもっとも。
さらに私物化しちゃいますが
ボクは虚弱体質なので
結婚して嫁さん養う甲斐性がない。
まあ、そういう卑しい人間でしかないんですよ。
私物化してゴメン。
他に誇れるものは何もございません。
805 :
平山貴士:2007/08/23(木) 23:42:02
話をもとに戻しますね。お目汚しさせたので。
確か小栗忠順も松平一門だったような。どうだっけ。
東条松平は家康4男忠吉が継いだので、
もう少し上かも・・・うーん。
長澤は6男忠輝が継いだんでしたっけ?
深溝は8番目ですか。なるほど。
806 :
平山貴士:2007/08/23(木) 23:52:04
とりあえず過去帖を調べてみないとわかりませんもんね。
家系図も文章が難解で
学者さんにでも調べてもらわないと如何ともし難い。
鑑定が必要かも知れない。
ボクは生没年ぐらいしか読めません
国語力がないと指摘されましたが、
それは認めます。
807 :
平山貴士:2007/08/23(木) 23:55:49
長文すいません。スルーしてくださって結構です。
そうだった。血筋が貴ければ
オレ個人の卑しさが際立つんだった。
松平竹千代(徳川家康)は「13年間辛苦を舐めた云々…」
とよく言われるけど、どこまでが本当でどこからが虚構なんだろうか
大体、嫌なことがあった土地(駿府城)に住もうと思うだろうか
809 :
平山貴士:2007/08/24(金) 00:34:04
まあ、良くも悪くも
「故郷の感あり」ってとこじゃないでしょうか。
810 :
平山貴士:2007/08/24(金) 00:38:44
あくまでも憶測です。
数々の駄文申し訳ありません。
812 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 19:57:34
三河の松平家はほとんど
断絶して
家康の子が家を継いだりしてるんですね。
暗殺かも?
813 :
平山貴士:2007/08/27(月) 04:18:50
例えば?
家康の子で他家を継いだ履歴がある者
・2男秀康(説明無用かと)
・4男忠吉(秀忠同母弟。東条松平家の家督を継ぐも関ヶ原戦の傷のため27で死去)
・5男信吉(甲斐武田氏の名跡を継ぐも21で病死)
・6男忠輝(下記松千代の後を継ぐ)
・7男松千代(忠輝同母弟、長澤松平家の家督を継ぐも6歳で歿)
・8男仙千代(尾張義直の同母兄。徳川十六神将平岩親吉の養子に。6歳で歿)
>>814 ・8男仙千代(徳川十六神将平岩親吉の養子に。6歳で歿)
816 :
日本@名無史さん:2007/09/02(日) 23:49:01
松平氏のルーツである賀茂氏はヤタガラスの子孫
817 :
日本@名無史さん:2007/09/12(水) 17:26:45
818 :
日本@名無史さん:2007/09/12(水) 20:18:41
武田家は滅ぼした家の
姫を略奪して
子供を産ませ家を乗っ取るパターンですが
松平家は入り婿制なのでしょうか?
京都御所周辺を歩くのがすき。
清浄華院の奥には、公家の墓があり、見ることができます。
正親町三条家、山本家、堤家など。江戸期の墓石が寄せ集められて
家ごとにまとまっています。自由拝観とはいえ、お墓だから、
最初と最後には手を合わせました。
余談ですが、その前にある「アーバンライフ」っていう名のマンション
ステキだなあと思い、こんなとこに住みたいなあと管理人さんに
空室あるのか尋ねたら、あるけど億ションだと言っていた。あそこは
御所内だもんね。
京の市内は意外に地価高いよ
821 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 16:32:44
今日は岡崎城のある岡崎公園に現地調査。
調度東京から来た東京農業大学の応援団が演舞を披露していた。
しかし、天守閣は工事中で入れず。
三河武士のやかた家康館の
中で資料を見ていたらあっという間に半日経ってしまった。
822 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 16:51:58
三河武士のやかたは展示資料の文書の写しかなんかを
有料でわけてもらえるとありがたいのだが、
たしか松平三代目は伊勢氏の被官になっているのだが、
この時期の伊勢氏て後北条やらちょくちょく登場するのだが何者?
823 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 21:13:34
尊氏以降の足利一門のふるさとは西三河にあり
細川氏(岡崎市細川町)
仁木氏(岡崎市仁木町)
吉良氏(幡豆郡吉良町)
今川氏(西尾氏今川町)
清和源氏新田氏流の松平宗家。
その清和源氏の地尼崎を任された松平桜井家が松平最強という説について。
825 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 22:13:42
テレビ東京で、武田信玄と徳川家康が親子だったってさっきやってたけど。。。。。
歴史を捏造するのにもあまりにも無理があって、大笑いしてしまったwwwwwww
木こりの子孫が清和源氏とな!?大福所wwww
827 :
日本@名無史さん:2007/09/22(土) 20:28:58
>>821 その前の週に日テレでも同じデタラメな歴史番組やってた。下らない番組作る金があったらワシにくれといいたいよ。
828 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 01:10:40
>>822 松平信光は伊勢貞親の被官だったとされる。
伊勢貞親が何者かなんて、ここのスレの住人なら説明不要だと思うが。
>>824 尼崎がどうした?
尼崎の佐幕厨房(当人は尼崎松平の縁者と名乗っているが、実態は在日)は、
以前「西国のアズマ帰依者」と名乗り中傷罵倒・個人攻撃を重ね、
以後も日本史板を荒らしている馬鹿野郎なのだ。
ニュー速+スレで「大阪民国www」カキコをすることでも知られている。
奴に居座られると客観的な会話が成立しない。以後は無視すべし。
830 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 16:16:36
どちらかと言うと、尼崎の現地人なら摂津源氏か河内源氏を挙げるべきだし
江戸時代以降の移封なら、尼崎という地を「清和源氏の地」と誇るだなんて、ちゃんちゃらおかしいし
832 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 17:48:44
>>828 申し訳ない。わからないので
何者か教えてください。
833 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 18:17:15
>>823 足利一門の
一色氏は幡豆郡一色町でしょうか?
834 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 18:56:52
>>831 摂津源氏発祥の地である多田神社なら、尼崎じゃなくて川西だろ。
835 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 22:57:02
>>832 このスレでもさんざん既出なのだが
1から読むのが面倒なら「室町幕府」「執事」でぐぐってみ
836 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 01:09:36
「室町幕府」「執事」でぐぐると、まず高師直とか仁木頼章とかがヒットしそうだがな。
837 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 06:06:43
「執事」っていうと、のちの「管領」につながる「執事」のイメージ。
伊勢氏の場合は政所の「執事(頭人)」だからな。
_ -――――- ,
_,,ィ´ `ヽ
∠/ \
. / ヽ
/ ',
,' i l i .l | l
,' / l | | l il l | l l l l 、!
| | l l | i | | i .|| |ヽ ll ト、 ト、lヽ | | | ヽ|、
| | | |-|/l-ハ/l ,ハl | ハl-l |-j‐| | ,j_j_j/\
Vl l l | |rlj┬‐リ、 V ィ─┬、.| // ̄/\ \
/ | | |リ 弋辷jノ 弋辷j/l// n/ ヽ ヽ
/ /ヽハ|jハ//// //// //_ l | ヽ ヽ私の執事にならないか?
. / / l ∧ _'_ ,-┴<゚ j } ヽ ヽ
../ / l |.l ヽ、 ヽ .ノ </_\ヽ j ヽ ヽ
/ / ll.| `r 、 _ イ_<_へ ヽ ./ ヽ ヽ
/ ___V -―「 ー――ヽー/ / ヽ ヽ
. / /ヽヽ |:::::::::::::::::::/ l /\ ヽ ヽ
/ / lヽヽ. |二二二/ くl_ノ |//ヽ ヽ ヽ
,' l ヽヽ | ,/ j==-'' イ\ | ',. ',
| l ヽヽ l / /`ー‐'´ ト、j ',. ',
| | \\ヽ /__,/ヽ ', \ ', i
j \ .|\ _><―― ヽ ', { ', |
/ ヽ.| `ー''´ |ニj`''ー―''´ヽ ヽ | ', !
,/ | / 八ヽ ヽ } l l
839 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 10:08:16
松平末裔の現徳川氏のDNAを調べたら平壌周辺地域にルーツを辿れたらしいね
天皇家といい徳川家といい、日本に古来から土着している猿は天下を取れないんだよな
840 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 11:49:14
で、尼崎はなんだったんだ?
841 :
日本@名無史さん:2007/10/06(土) 02:48:32
そもそも日本人自体が各方面から渡ってきた人たちだからね
DNAたどればそうなるのは当然
842 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 09:51:55
まあ、もともとは足利家の家政を仕切ってたわけだから、「執事」でいいんだよな。
843 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 18:57:03
まあ鎌倉幕府の場合は、執権というのは元々は政所別当のことだからな。
しかし幕府が単なる将軍家の家政機関という枠を超えて政権としての体裁を整えていく中で、
将軍家の私的な家政機関のトップと、政権としての幕府の政務の統括責任者が
分離したというところか。
844 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 19:16:51
尼崎の説明まだー?
845 :
日本@名無史さん:2007/10/14(日) 16:10:41
徳川家(家康)の祖先はホントに新田氏族世良田氏かもしれない
信濃、三河、遠江の山間部は南朝の勢力が根強く残っていた地域
新田の武将の一人である世良田某の子孫がいてもおかしくはない
現に同じく南朝の勢力が残っていた丹波北部の綾部には江田行義の子孫である江田氏が
織豊時代まで大豪族として活躍していた
江田、世良田、得河は元々始祖新田義季の領地から派生した苗字であるから子孫は
どれを名乗ろうと自由であったらしい
江田行義も世良田行義と記されたりしている
得河から嘉字である徳川に漢字を替えることも
とくに珍しいことではないと思います
846 :
日本@名無史さん:2007/10/14(日) 16:15:45
>>12 あなたの言い切りの自身は
どこからくるのか分かりません
南北朝時代から生きている仙人か
神様でございましたら
失礼しました
謝罪します
川西と多田は何の関係も無い
川西は池田だよ、マヌケども。
豊能郡池田の川の西にあるから川西。
その池田は藤原氏系の池田氏の地。
わかったか、三河のちょんども。
清和源氏は多田の山の中などとっくにぬけだし、
まず同じ川辺郡尼崎の土豪となってる。
そして足利幕府貢献してる。
うそだと思うのなら多田神社にでも行って来い。
>>831 おまいはバカか?
摂津源氏 = 清和源氏だよ、www
まったくおなじだ。
>>829 おまいがいってる人物とは違うぞ。
おれは日本史版などめったに来ないよ。
何でそんなに必死なんだ?
チョンン認定して、おまえがチョンじゃないのか?
三河者などしょせんチョンと変わらないと思うがw
>>823 おいおい、足利一門を下賎な三河出身者にするなよ。
チョン並みの捏造だなw
足利の起源は三河!とか言ってたりしてw
そもそも三河など畿内でもない、
ただのアズマ土人部落に天皇家の子孫がいるとでも思ってんのか?w
>>830 尼崎は畿内だから、三河のイナカッペ土人地域とは違い、古代から藤原氏、嵯峨源氏、
そのほかいろいろな勢力争いがあるんだよ。
その中で、尼崎だけが地元住民に加え、清和源氏系武将の居城として中世の室町時代から幕末まで来ている。
伊丹などは藤原氏系の池田氏系の荒木村重。 川西も同じ。
清和源氏の地元摂津川辺郡で尼崎だけが唯一清和源氏勢力を保ってるんだよ。
というか保っていたな。幕末までな。
松平桜桜井家は、出世城といわれた初代浜松藩主も任されてるし、
それだけ徳川本家からの信望が厚いから家康が信奉する清和源氏の地尼崎も任されてるんだよ。
やはり最強説はくつがえらないだろう。
あはははあ、三河土人なみだ目ww
ちなみに、伊丹有岡城が伊丹氏池田氏荒木氏などの藤原氏系勢力、
尼崎城が清和源氏側の細川氏勢力の居城として、激しく戦争をやってるんだよ。
そして清和源氏勢力と藤原氏系武将勢力の互いの前線の境目あたりが現在の伊丹市と尼崎市の境界あたり。
だから現代社会にも微妙に影響している。
もうひとつ、川西といえば火打、火打といえば皮革、皮革といえば嵯峨源氏渡辺党。
火打といえば、自称清和源氏の矢野弾左衛門の出身地のひとつ(出生地は摂津国菟原郡住吉、現在の芦屋市と東灘区)。
川西は明らかに清和源氏とは関係の無い池田なんだよ。
藤原氏系と嵯峨源氏渡辺党は仲がいい。
だから川西も伊丹も嵯峨源氏渡辺党の地である大阪と仲がいい。
矢野弾左衛門は明らかに藤原氏系か嵯峨源氏渡辺党だろうと思われるのだが、
家康から江戸の利権をもらうためにわざと清和源氏を名乗ったとか。
家康もそれは知っていたが、便宜上、清和源氏系以外の人間にやらせるわけにも行かず、
暗黙の了解だったそうな。
多田を藤原氏系池田の川西扱いするのは、矢野弾左衛門なみの行為w
>>821 岡崎市って知的レベル低いんだね。
そもそも三河武士ってのは軽蔑的ニュアンスが強いんだよ。
畿内の武士が一流なら、三河武士は田舎の土豪の三流武士ってニュアンス。
そんな用語を公的施設に使うなんて唖然・・・
徳川家もそんな三河武士に扱われると征夷大将軍としての威厳にかかわるので、
真偽はおいといて、清和源氏を名乗ってるわけだよ。
余計なもん作らないで八丁味噌でも作ってろw
そもそも池田氏は当初藤原氏を名乗り、その後清和源氏や橘氏も名乗っているらしい。
はっきりしないらしい。
ひょっとすると百済人である可能性もあるな。
池田ってのは百済渡来人が多いはず。
おそらくここの人間は川辺郡の地理をまったく知らず、
川西市や多田荘の位置関係がわかってないんだろうから言っとくけど、
多田荘は川西池田から山をひとつ越えた山の中だ。
はっきり言って所領としては平地に比べてあまりいいところではない。
よって所領を没収されてもこたえない。
よって多田荘など当の昔に消滅している。
川辺郡地域は現在の尼崎市、伊丹市、川西市、猪名川町だけ。
池田は豊能郡、川辺郡ではない。
徳川家の清和源氏説は本当かもしれない。
三河が発祥地であるのにもかかわらず、
徳川家には三河や遠州に対する愛着があまり見られない。
三河や遠州を自身の通過点としかみてないかんじだ。
これは松平家が本当に各地を開拓して定住する気質が強い清和源氏なら
その通過点としかみない傾向が強いと考えられる。
アメリカで言えば、西部へ移動した白人が、
その通過点である東部や中西部にはなんら愛着を残さないのと同じで。
858 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 10:48:43
>>847-857 頭、おかしいの?
職場でいやなことあった?
どこかで、人生相談をするといいよ。w
ああ、いやなことがありまくりだ。
アズマが畿内にコンプレックスを持ち、必死に日本史まで歪曲して
アズマ優越主義を広めようとしているからな。
ちょんとやることが変わらんよ、アズマは。
油断してると何をするかわからん。
アズマやチョン州人、薩摩のポリネシア土人などはとにかく畿内が気に食わなく、
必死に日本史を歪曲し、日本のルーツは九州!とかやってるね。
まったくちょんと思考回路が同じで、史実・現実を受け入れられないで、
つねに自分達の都合のいいほうに歴史を歪曲してるってこと。
日本人としてこれほどの不幸はない。とくに東ちょん人がひどい。
武家社会に反抗する「ええじゃないか」は三河から始まった。
なによりもそれが三河こそが徳川に虐げられ、反抗する下層民社会であることを物語っている。
畿内においてそんなことをやってるのは大阪ぐらいだ。
そして下層民のチョン州人、薩摩土人のクーデターにより、畿内の覇権は滅ぼされ、
日本は朝鮮化されてしまった。
にもかかわらず、アズマやチョン州人、薩摩土人に三河遠州の"ええじゃないか"下層民は
畿内人のルーツが朝鮮半島であると捏造し、畿内人を見れば無差別に在日認定し、
逆に自分達が日本人だと妄想し、ことごとく日本の秩序を乱している始末なのだ。
これほど嘆かわしい日本の現実は無い。
そこまでやるか・・・・
頭がおかしいのはお前らのほうだろう。
862 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/10/27(土) 12:05:43
>>857 あぜんとしたよ。
あまりのアホさに。
もっと君は勉強したほうがいい。
清和源氏が開拓云々もさっばりわからない。
それと思いつきでものをいうのはやめたほうがいい。
君に独学は向いてない。
書斎人を尊び、あまり生産性の無いほかの氏族と比べて
清和源氏の精神性が埋め立てなどして新田、新天地を開発、
産業を開発するのに富んでいるのは日本の常識だろ。
だから清和源氏子孫の地は工業都市などが多く、
日本の経済発展に大きく寄与している地域が多い。
そんなことさえ知らない君がアホであることを棚に上げて、
他人を侮辱するのはやめなさい。
君は歴史を学ぶにむいてない。
それと何が思いつきなのか指摘もできないくせに、
思いつきで「思いつきでものを言う」などと中傷するのもやめたまえ。
君自身が思いつきでしかものが言えない惨めな人間に見えるだけだw
東京人をはじめとするアズマ優越主義者の歴史捏造により、
畿内人が恫喝され、恐縮しまくってしまい、何も言うこともできない。
その歪められた歴史観に基づた東京優越主義のマスゴミやテレビは、
全国に放送という媒体でそんな歪曲された歴史観に基づくアズマ優越主義を洗脳し、
日本はどんどん朝鮮アズマ化されていく。
にもかかわらず、彼らは日本人ぶっている。
いったい日本はどうなってしまうのか・・・
>>862 清和源氏子孫など世の中に山ほどいる。
少なくとも畿内には多い。 珍しくもなにもない。
そんじょそこら清和源氏子孫だらけだよ。
東海・関東人や九州人が先祖の君たちにとっては珍しいのだろうけど。
徳川家が本当に清和源氏かどうかなど問題ではない。
問題はいかにその堅実な精神性を継承しているかが最大の問題。
たとえ血統が違っても、あれだけ清和源氏の精神性を継承し実行してれば、
真性の子孫よりもはるかに畿内の清和源氏だ。
そんな血統主義じゃないんだよ。
そもそも畿内では真性の子孫でさえ自分がそうであることも知らない人がほとんど。
そもそも中世には宗教のごとく自分の追従する精神性を持つ氏族を名乗る習慣がある。
もともと物理的な血統など後世にいろんな血が混じっているし、どうでもいいんだよ。
いかに畿内のその清和源氏の堅実な精神性を持ち合わし履行しているかということが問題なんだよ。
徳川幕府がまるで関東優越主義に基づく支配構造の
征 ”大和” 大 将 軍
であったように歴史観を歪曲している三河遠州駿府関東&九州の諸君、教えてやろう。
当たり前だが、徳川幕府は
畿内の 大 和 朝 廷 の 征 夷 大 将 軍 であり、
その”夷”とは大和朝廷支配や畿内に反抗する最大勢力の
三河遠州駿府+関東や薩摩隼人・チョン州などの勢力を征圧し、
隷属させて畿内の大和朝廷政権を運営することである。
だから三河遠州駿府などの民衆にとっては、
松平も幕府も東海関東の自分達を抑圧する畿内の支配構造でしかなく、
その畿内大和朝廷の支配に反発し、ええじゃないかと踊りまくり、
反政府クーデターへとつながったわけだ。
なのに今頃になってそのまるで三河遠州駿府関東がその支配構造であったように妄想し、
史実を歪曲するのはあまりにもこっけい、
ち ゃ ん ち ゃ ら お か し い
征夷大将軍の”夷”とは、三河遠州駿府&関東土着の畿内人にはむかう民衆のことで、
字のごとく、それら夷を征圧する将軍ということです。
今で言えば、その地域によくいる畿内人を【関西人】などと軽蔑する
身の程知らずの傲慢で頭の悪い東京人や静岡・愛知人のことを”夷”と呼ぶわけです。
わかったか? たぁーーーーけども!
けしておまいらの味方ではないんだよw
おまいらの敵なんだよ。
さぁさぁ、歪曲しろ、自分達の都合のいいように新たに徳川悪人論を捏造しろよww
>>865 この板を代表するバカコテを相手にするな
869 :
平山貴士:2007/10/31(水) 04:18:35
とりあえず落ち着いて下さい。
バカコテが来た
871 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/10/31(水) 23:26:29
ふふふ。
よほど頭に来たことがあったのだろうかw
872 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/10/31(水) 23:30:14
私はストレス解消で書いてるだけさ。
バカ叩くのは楽しいじゃない?
悔しかったら、もうちっとお勉強することですな。
しかし2ちゃんねるって学力レベル低い奴ばっかだな。
基本書レベルのことすらクリアしてないんだからw
笑っちゃいます。
これからもこのスレ来ては潰すんで
よろしくねw
873 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 00:04:02
あぼ〜んが続いてるな
874 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/11/01(木) 00:14:57
「清和源氏が開拓云々」って言い方、在地領主の典型みたいな表し方だけど、
清和源氏は軍事貴族だろう。
常に京にくっついて(京周辺にバンキョしたり)地方でも官位(と武力)でもって幅効かせたり。
ていうか、中世史とか昨今の武士論について全然無知なんだなw
学部生レベルの入門篇だよ、私の書き込みは。
もういいかげん、クダラナイ歴史読み物とかネットで、お勉強するの止めたらどう?
↑と言っても聞かないんだろうな。だから勉強できないんだろうな。
勉強なんてバカ(素直)になんないと出来ないんだよね。
875 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 16:58:55
あぼーんだらけw
876 :
平山貴士:2007/11/02(金) 12:10:57
バカコテってオレ?
つーか落ち着け。
877 :
平山貴士:2007/11/02(金) 12:15:04
とりあえず参考になる事を書いてくださいね。
ここは学術板じゃなかったのか?
878 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 17:31:24
あぼーん
あぼーん
879 :
平山貴士:2007/11/02(金) 23:51:39
おいおい!
しっかりしてくれ!頼むから!
他の歴史板は結構レベル高いぞ。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーんってレス
あぼーん
881 :
平山貴士:2007/11/03(土) 00:20:57
とりあえず表題くらい読めよ
「あぼーん」で1000までいく気かよ
なんだかな・・・
882 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/11/13(火) 23:58:36
バカコテと名指しされているのは私だが。なにをはぐらかす
ググってきたお気楽インチキな日本史の知識はゴミだ。
これからも私は時々来ては間違いを指摘してやるさ。
平山なんとやら。もう少し本を読み給え。
史料にもあたれ
でないと私はまたくるぞw
日本史は君たちみたいなネットおたくの語るオモチャじゃない。
レッキとした学問。ホーリーランド(聖域)なのだ。
君たちの来る場所じゃない。愛人といちゃつくかオナニーでもして寝なさいw
しかしここも私のせいでゴーストかw
いいことだ。
ここは素人の来るとこなんだよ。
2chだよ。ネットオタの牙城だよ。
プロは野口板にでも行って下さい。
あ、そうか、おまえは行けないもんな(
884 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/11/14(水) 01:22:38
>>883 おお来たなw
怒ってるなw
私の目的はスレのゴースト化なんだよ。お分かりかなw
友人に2ちゃんの日本史板を潰してみるって宣言したくらいだもん
>友人に2ちゃんの日本史板を潰してみるって宣言したくらいだもん
無理だよ。おまえのやり方では。スレいくつあるんだと思ってんだよ。
ちなみにつぶし方はいくらでもあるし、これまでも行われてきたし、
そのたびに管理人氏はそれと戦ってきたし、あんたがとてもかなう相手じゃないよ。
ネット・PC関係素人のあんたにはね。
886 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/11/14(水) 01:44:35
>>885 なんか勘違いしてるな
潰すってのは学問的にさ。
実際にできるわけもないよ。
だからトウロウの斧を自称してる(だよね國學院w)
ただ私に間違いを指摘されて書き込みするのを恐れている連中がでてきている。
技術的にでなく私の書き込みの内容のせいでレスがてきない。
一休スレが例だ。
現にこのスレもそうだろw
分かったかバカ野郎w
一休スレ見たけど、別にあんたに学問的につぶされたわけじゃなくて、
(あんたの書き込みに学問的発言も特になかったし。罵詈雑言ばかりで)
連投するウザい野郎が来たんで、みんないやになって書かなくなっただけじゃん。
要するに最後はあなたひとりぼっちで。まあ、確かにスレつぶしてるけど。
要するに早い話がアラシやっただけじゃん。BBSでアラシはいかんよ。
888 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 02:19:10
一休和尚年譜はブヨーの言い出したソース
889 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/11/14(水) 02:47:20
>>887 おまえネットだけやってるクズだよ
前レスよく読めバカ
おまえは日本史どころか本なんか読まない奴だから分からないんだろうが
一級史料である一休の年譜を知らずに延々とレスしていたアホども揶揄しただけさ。
みんな恥ずかしいのさ
なんたってみんなネットの切り貼りしかしてないんだからなw
しかしおまえ本当日本史分からない奴だなw
和長卿記だって一級資料だろ。わずか14年後だ。
891 :
平山貴士:2007/11/14(水) 12:48:40
本を読め・・・か。
何の本がよろしいですか?
892 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 15:20:39
893 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 19:28:23
そんなナンとか年譜と公家の日記じゃ、どう考えても後者のほうが信頼性があるな。
894 :
平山貴士:2007/11/16(金) 10:44:29
家系図の真贋を確かめる具体案あります?
あったら書き込んで下さい。
始祖が天皇、その地の有名武将ってのは大抵怪しいけどね
系図売りに売った本物を偽者が買ってたりもするから、系図自体が本物でも家が偽者だったりする
参考の品の一つ程度に思っといた方がいいね
896 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 12:12:14
アトポス死ね アトポス死ね アトポス死ね アトポス死ね アトポス死ね アトポス死ね アトポス死ね アトポス死ね
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897 :
平山貴士:2007/11/17(土) 01:01:42
「アトポス」は無視して
とりあえず正月に過去帖調べてみます
ただ、実はうちの親戚の系図は清和天皇から始まっているので・・・
いやな予感がする・・・
まあでも
ニセモノときちんと判明したらそれはそれでスッキリするんだが
こんなことを書いてるカマガサキのチョンがいますよ。反論して叩きのめしてやってください
【大阪市尼崎区】実質的に他県の勢力下にある都市
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/geo/1135356243/276 276 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2007/11/18(日) 11:25:36 ID:PAzBHpf7
尼崎が大阪の支配下にあるなんてまったくの大阪と東京人の無知な妄想。
そもそも多田神社の帰りに徳川家康に船を出した長洲御厨(尼崎大物)沖の漁師と
尼崎の豪族の間には御厨の魚市場を通じ密接な関係があり、
尼崎の豪族は足利幕府設立のために村上源氏赤松氏の下で戦った武士団でもある。
それらの豪族が支持していた足利氏は清和源氏支流河内源氏であり、
清和源氏政権の誕生のために戦っていたわけだ。
ここがポイント。 家康はその清和源氏の聖地である川辺郡多田に行った帰りだった。
そこで清和源氏勢力の川辺郡尼崎と何らかの同盟関係が成立し、
それで尼崎長洲御厨に海産物を納入するそれら沖合いの西成郡の漁師に船を出させたはず。
当初から計画的だったというわけ。
偶然に船を出してくれたというのは、尼崎勢力をけん制したい、
西成郡出身で住吉神社新興の東京人ガ後日捏造したものだろう。
ただ船を出したわけではなく、それら西成郡の漁師は海賊でもあり、戦闘力もあった。
大阪の陣の祭には家康に加担し、水軍として海から大阪城を包囲し、大阪城落城させたらしい。
家康による大阪城落城、および天下はじつは川辺郡尼崎を地盤とする清和源氏勢力の
家康側への加勢が勝利を決めた。室町幕府誕生とほぼ同じ構造で徳川幕府が誕生しているのだ。
よって、何でも家康が悪いといまだにやってる大阪が、その家康側の尼崎の川辺郡地域を支配下におくなんてありえませんので、
スレタイの妄想は無視してください。
277 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2007/11/18(日) 11:36:57 ID:PAzBHpf7
尼崎のその長洲御厨のあった大物杭瀬周辺には多田出身者が多い、というか
伊丹みたいに藤原氏勢力に支配されない川辺郡唯一の町であるためにみんな出てくる。
尼崎だけが川辺郡の中で唯一幕末まで清和源氏勢力を保ち続けた土地であり、
家康が多田神社に行き、そこで正式に清和源氏としての洗礼を受けたものと思われる。
よってその後、尼崎のそれら清和源氏支持の豪族により最大の協力を受けたのが真実だろう。
東京や大阪など朝鮮と同じだから、自分達の都合のいいほうへと歴史を歪曲するし(笑)、
それで偶然のように記述されていると思う。 東京人の尼崎に対する敵意・コンプレックスはめちゃくちゃ強く、
カマガサキと罵倒することで尼崎では有名。
なぜか?それは西成郡や石山本願寺の渡辺津(大阪城)に集結していた海賊や流浪の乞食非人・芸人などを
もとにした、武家支配に反抗する一向一揆門徒の末裔だから。 だから東京築地には本願寺が・・・・(笑)
278 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2007/11/18(日) 11:47:51 ID:PAzBHpf7
もっとも、東京人が「カマガサキ」と罵倒するその釜ヶ崎は、
その東京の築地本願寺の元祖である、
すわなちその住吉神社信仰の東京人の元祖である西成郡の津守地域のことなのだが、
あまりのチョンなみの無知さから混同しているお笑いな人たちなのだ(笑)。
自虐的に蔑視しているのだろうか? 非常に興味あるところ。
誰かその精神性について詳しく知ってる人いる?
そいつは有名な尼崎の基地外
尼キチと呼ばれてて不動産板や人権板の名物基地外だからスルーしろ
関西弁がまったく喋れないから尼崎の人間ですらない
ただの地方の基地外
かまがさきって尼崎じゃないの?
>>900 それだけでわかるって、おまえも相当の粘着ストーカーだなw
そこまで粘着する何か深い事情でもあるのか?
>>903 尼キチは地方系板で有名な基地外だよ
この板のなんちゃら陰士みたいな基地外コテみたいなもんだ
905 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 15:25:19
徳川美妃
906 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/11/20(火) 20:30:58
>>904 てめえみたいなバカに言われる筋合いねーよ。
悔しかったら学問的水準クリアしろ。
ネットで完結しているヘタレ根暗野郎がw
おバカな書き込み見ても見逃してやるつもりだったが、
やっぱり気が変わった。これからはビシバシ間違い指摘して小馬鹿にするよ。
しかし清和源氏の捉え方を小馬鹿にしたら激怒する奴とか、まともな基礎もねー奴しかいないスレだな。
私に叩かれたくなかったらちよんと本読んで勉強することだなw
でないとここもゴーストだ。
ま、学問的にきちんとした知見に対しては批判はしないんでな。
でないと潰すぜ。
わははははははははは
お前は学問的には水準クリアしてるのか知らんが人格的には破綻してるな
まだあぼーんしてないのか
909 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 09:35:26
尼崎といえば、細川高国終焉の地というイメージくらいしかないな。
多田神社は尼崎じゃなくて川西だし。
910 :
平山貴士:2007/11/21(水) 11:00:18
なんかいい本ないすか?
>>910 だからどうして過去帳を見てこないんだよw
江戸初期あたりの代々の戒名見れば一発でわかるだろ
912 :
平山貴士:2007/11/24(土) 02:52:51
寺と家との距離が結構あるので
盆と正月ぐらいしか行けないんです
どうもすみません
??
ここで粘着するよりは簡単だろうに
915 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 16:41:33
徳川家って賀茂氏説があるけど
賀茂氏って大きく分けて二つの系統があるんだよね。
天神系(天津系・昔からの皇室の家臣)と皇別系(皇室から臣籍降下・孝霊天皇後胤)と。
徳川家の場合、どっちなんだよ?
916 :
平山貴士:2007/11/25(日) 01:08:29
914へ
簡単じゃないすよ
車で片道3時間かかるんすよ!
大瀬戸から島原までは
917 :
平山貴士:2007/11/27(火) 01:16:26
西の果てからレスしてます
平山は行く気ないんだろ
それほど言うなら過去帳見て来いって前から言われてるのに一向に行く気配もない
お盆も連休もたくさんあったのに、たった3時間ぽっちのところへ行けない理由は
先祖に自信がない
運賃やお布施などの金がない
どっちかだ
919 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 00:16:36
世良田二郎三郎元信って何者?
920 :
平山貴士:2007/12/02(日) 00:59:56
918へ
金がないが正解
あと乗り物酔いするほどの虚弱体質だった
最近体調はよくなってきてる
とにかく一言言わせてもらう
「待たせてごめん」
チャリ漕いで池
922 :
平山貴士:2007/12/03(月) 01:17:17
だから金がないんだって
自転車も持ってない
923 :
平山貴士:2007/12/03(月) 01:23:33
まあ仮に「天一坊」だったと判明しても
きちんと書き込むよ
それが書き込んだ者としての務めだからね
働けよ・・・
925 :
平山貴士:2007/12/03(月) 02:32:58
すまんね
就職活動もこれからやる
心配かけて申し訳ない
まあニセモノだったら
正式に詫び入れますんで楽しみに待ってて下さい
何か自信無くなってきた・・・
そして10年が過ぎた
へんじがない
ただのしかばねのようだ
927 :
平山貴士:2007/12/03(月) 15:02:39
ドラクエか?あはは
423 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/09/25(火) 02:01:10
徳井は来年結婚する。
相手は潮田でも年上でもない、同級生。
10代後半から付き合いはずっと続いている。
彼女は芸人に全く興味ないし、舞台も見に行かないし未だに京都在住。
最初の数年は普通に付き合ってたが、今は数ヶ月に一度会う程度の頻度。
釈とも六車ともモデルとも女子大生とも潮田とも付き合っていただろうし、
34歳が実在の人物でも過去他の女と同棲してても本カノとの付き合いは終わってない。
本カノには「結婚するまで浮気する」と宣言した上での行動で、結婚するのは本カノと決めている。
結婚してももちろん公表するつもりはないが、来年末に戸籍調べたらわかるよw
家康が百姓の苗字を禁止したのは秀吉に対する嫌悪感もあったのかな?
930 :
平山貴士:2007/12/07(金) 02:51:08
皆さんに報告です。遅レスで申し訳ありませんが
今月中に島原に行けそうです
結果は正確に伝えます
どうかそれまでお待ちを
江戸初期あたりの代々の戒名を見ておいで
後期になるともう滅茶苦茶になってるからね
932 :
平山貴士:2007/12/09(日) 17:22:34
おお、サンクスです。
レスくれてありがとうです。
933 :
日本@名無史さん:2007/12/09(日) 17:30:21
平山氏、ルーツ探しもいいが
そろそろ嫁も探すべきです
その前に就職だろw
つか地元の有力家なら就職先なんか履いて捨てるほど紹介されるもんだが
確かに先祖や嫁の前に就職だな
936 :
平山貴士:2007/12/11(火) 01:02:44
ありがとうございます。
レスくれてサンクスです。
心がけます。
937 :
平山貴士:2007/12/11(火) 01:28:49
就職ねえ。
歴史の学者でもやってみたいが
(歴史の知識はないが愛着はある)
どうやったらなれます?
知識がなくて学者にどうやってなるのか俺も知りたいわ
939 :
平山貴士:2007/12/11(火) 03:11:52
皮肉はいいからさ。
とりあえずこれをやれぐらい言ってくれ
嫁は美形の人がいい。
心当たりある?
知識はないけど学者になりたい
職も収入もないけど美人の嫁が欲しい
平山はNG入れとくか
942 :
平山貴士:2007/12/13(木) 02:00:13
じゃあ、いらねえよ!
あおったの、そっちだろ!
943 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 11:16:54
松平定知
朝のニュース「NHKモーニングワイド」のキャスターを担当しNHKの朝の顔として活躍していたが、
泥酔してタクシーの運転手を殴り降板させられた。その後、テレビニュースキャスターとしては
1995年4月の「NHKニュース11」で復帰。
1999年、その「NHKニュース11」の放送中にスタッフに鉛筆を投げつけた姿が放送され、問題となった。
944 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 10:13:14
>>942 院いけ。院出たって食えるかわからんが、いかんことには
話しが始まらない。
嫁は無理だ。風俗いけ。
史学科の院なんて出ても良い就職先なんてないよ
946 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 14:24:58
徳川の起源は徳井義実です
947 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 14:38:28
>>945 バーカ。とりあえず学者になるにはそれしかねえだろ。
宝くじと同じ(買わないと当たらない)
ま、おまえらじゃ無理だなw
あいつって大学受けるような年じゃなかったような
31だっけか
まあ・・・ガンガレ・・・
950 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 17:46:27
2ちゃんなんかに書き込みしてる時点で学者向きじゃあねえなw
まあ分相応に生きろよ。
31で無職な男の人って…
952 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 18:21:38
>>946 来年の大河で有栖川宮熾仁親王を演じるらしい。
因みに相方は三条実美の役で出るらしい。
953 :
平山貴士:2008/01/03(木) 01:22:32
学者は無理。風俗行けか・・・
まあ貴重な意見ありがとうございます。
ところで島原行きは天候不良により12月は見送り
1月以降という事になりました。残念いや申し訳ない。
1月は風邪を引き無理でした
お盆は台風で無理でした
一生無理だよお前
955 :
日本@名無史さん:2008/01/03(木) 10:19:42
>>953 俺に妹がいたらお前に嫁にやったんだが…
残念ながら
いねえw
956 :
日本@名無史さん:2008/01/03(木) 10:41:51
疲れた
957 :
日本@名無史さん:2008/01/03(木) 17:34:13
平山氏、頑張って下さい
応援してます
958 :
平山貴士:2008/01/04(金) 00:30:45
954番様へ
スレを見た感想
へこんだ・・・
と、いうのはウソで実際は
大笑いした!
たるんでるとそうなるでしょうね。気をつけます。
959 :
平山貴士:2008/01/04(金) 00:35:08
955番様へ
お気使いだけで結構っすよ。
ちなみに私には9つ違いの妹がいるんだが
アンパンマンみたいな顔で
どう見ても20代に見えない・・・
嫁にいけるか心配だ。
960 :
平山貴士:2008/01/04(金) 00:44:23
957番様へ
うーむ・・・(しばし固まる)
ここまで言われると本気にならざるをえんな。
緊張してきたよ。人に応援された経験なんてないからなー。
こうなったら親はあてにせず1人で行ってみるか。
島原市民のみなさん!待っててくださいね!
必ず行きますから!
その前に体作りだ。散歩しなきゃ。
961 :
日本@名無史さん:2008/01/04(金) 01:48:16
松平親顕って実在の人物なの?
962 :
平山貴士:2008/01/06(日) 19:51:45
今日私は島原本光寺に行って参りました。
墓参りを済ませた後
過去帖を見せてもらおうと家系図を持参して受付へ
「すいません。母方の実家の先祖を調べに来たんですけど
過去帖見せてもらえませんか?」
本光寺のホームページでは
「先祖などの問い合わせは請け負いかねます」
と、あったのでだめもとのつもりだったのですが
「うちは藩主家の寺なので藩主家のことしかわかりません」
やっぱりだめかと思っていたところ
「住職様呼んできますね」というわけで
住職様と会わせてもらうことができました。
実は住職様の話は2時間に及びました。
と、いうわけでこれから住職様とのやりとりを説明しようと思うのですが
今日は疲れました。またおいおいと。
963 :
日本@名無史さん:2008/01/06(日) 20:01:51
今週の週刊新潮にこんなのが
【ワイド】表舞台から「消えた人々」
(13)生活保護に自殺未遂「徳川将軍家の末裔」が送る「孤独な晩年」
こんなにも私物化甚しいスレは久しぶりだ
だって話題がないんだもんな
馬鹿からかって遊ぶスレになってるがw
967 :
平山貴士:2008/01/07(月) 00:54:21
そんなもんじゃへこたれんよ
思い出しながらゆるゆるやるか
まず、こう言われました。
「最近、家老の知り合いだと行ってやってくるケースが多いんです。
誰それと聞き返してみるとニセモノだったというケースが多い。
そういうケースが多かったんで追い返してたんですが
あなたの場合系図を持参して来られたし
吾妻町の松平さんは実在しますしね
それで相談に応じたんです。
結婚の際身分照会して士族の身分と聞いてたのに
約束が違う結婚は白紙だってな事になっても
こっちじゃ責任持てないですから」
と、言われました。また、系図についてはこう言われました。
続く
968 :
平山貴士:2008/01/07(月) 01:06:08
967の続き
「あなたが持参された系図は(うつし)です。」
と、言われました。
「例えば1402年製作と書かれた世界地図があったんですが
調べてみると1650年代の物だということがわかった。
要するに1650年代に1402年のものを写したわけですね。
あなたの系図も享保年間に製作された物だと書いてあるけれども
後世書き写した可能性もあるし
書いてある年代をそのまま信用するわけにはいかないんです。」
また・・・
続く
969 :
平山貴士:2008/01/07(月) 01:15:23
968の続き
また、
「この系図は(深溝松平年譜)と書かれてますが
現在で言うところの公文書にあたる。
これは本来門外不出のはずで外に出るはずがないんです。
それが家にあるということは(うつし)の家系図である可能性が高い
原本がどこか別のところにあるはずです。
しかし、(うつし)の系図だからといって価値がないわけではない。
その証拠に・・・」
続く
970 :
平山貴士:2008/01/07(月) 01:26:56
969の続き
「その証拠に保母という名字が出てきます。
保母松平氏というのは実在するんです。
ただ(小納戸)と書いてあるなあ。
松平の人間がお小姓組なんてするかなあ・・・
ちょっと疑問ですね。
それから家紋が一緒だというのも怪しいですね。
名字も家紋も一緒だというのが一番怪しいんです。
先祖探しのコツなんですが・・・」
続く
971 :
平山貴士:2008/01/07(月) 01:38:05
970の続き
「名家である証明は(墓)と(位牌)です。
現に保母さんの墓も位牌もあります。
普通は松平本家をはばかって松平と名乗ったりはしないんです。
保母松平の人間は保母を名乗る。
保母さんは現在国見にいるんですがね。
位牌は明和・・・古いな・・・
こういう江戸時代からの位牌が名家ならあるんです。
それから法名に(院殿)があるかどうかも重要です。
(院殿)はめったにつけないですから調べてみて下さい。」
と、言われ吾妻の松平家へ
続く
972 :
平山貴士:2008/01/07(月) 01:48:48
「ばあちゃん、昔の位牌だけど・・・」
すると、ばあちゃん一言
「燃やした」
ぎゃあー!
暗転。
しかし曽祖父の景虎の法名は
「景光院殿虎山道 居士」
(空欄は難しい字だったので写せませんでした)
おお、院殿があった!
また、明治四十年に57歳で亡くなった
「景寿」という人も見つけました。
973 :
平山貴士:2008/01/07(月) 02:01:36
話は再び寺へ
「あの松平十郎右衛門景済さんが先祖だと聞いてたんですけど」
すると、住職様は
「あのねえ、それも怪しいんですよ。
よく系図ではくっつけるということをやるんですよ。
松平家だって天皇家や清和源氏とくっつけたりしたでしょ。
おたくの先祖も同じことやったかもわからん。
一番確実なのは曽祖父の人の戸籍を調べることです。
そこに士族か平民か書いてあるから一目でわかる。
ひょっとしたら婿養子で入ったかもわからない。
下からさかのぼって調べるのが一番確実です。」
と、言われました。
974 :
平山貴士:2008/01/07(月) 02:14:23
973の続き
「実はうちの寺は昔(浄林寺)という寺だったんです。
隠居寺だったんです。島原藩の。
明治維新の際に本光寺は廃寺となり
(晴雲寺)という寺に遷されたんです。
その後(浄林寺)を(本光寺)として再建したと
まあ支店に本店が乗り込んだ形になったわけなんですが
そういうわけで江戸時代からここに墓があったと言ってくる人がいますが
それはうそなんです。浄林寺という寺だったんですから」
と、言われました。
975 :
平山貴士:2008/01/07(月) 02:28:28
「晴雲寺に行ったら何かわかりますか?」
と、聞いたところ
「位牌も何もないですね。ただの(まちでら)ですから」
と、言われました。
それから屋敷割りの地図をもらい
(家老格の松平勘解由家や板倉家は1500石の家柄だけあって
屋敷も大きい。保母家は小さかった。
とはいえ、城内に屋敷があるだけまだマシで
城外に住んでる
[たそがれ清兵衛]のような身分の人の住まいも確認できた。)
最後に住職様から
「気長にやってください。
何かわかったらまたいらして下さい。」
という言葉をいただきました。
976 :
平山貴士:2008/01/07(月) 02:38:28
結論から言うと、ますますわからなくなったな。
戸籍は見せてもらえないだろうしな。
余計謎が深まった。
どうせこれだけ書いてもろくに読んでもらえんだろうしな。
「自作自演乙!」とか
「妄想厨のひとりごとでした。わけわかめ!」
とかしか言われんだろうがな。
でもまあオレのライフワークだ。
体調整え体作って再度島原へ行きますか。
とりあえず疲れた。
またなんか思い出したら書きますね。
977 :
平山貴士:2008/01/07(月) 03:23:41
改めて見たけど長い文だな・・・
とばされそうな気がするな。
明治の院殿居士号は金でどんな身分でもつけれるから意味ないよ
意味があるのは江戸初期ごろまで。この頃なら身分で墓の大きさも戒名も決まってる
中期からは外様のド田舎じゃ好き放題で、金のある家ならでかい墓作ったり院殿院居士つけてる
まあ、坊さんに話聞けてよかったじゃん
ここでやるより先祖探しスレでやったほうがいいと思うけどな
979 :
平山貴士:2008/01/07(月) 15:02:29
あ、そうなんすか。
勉強になりました。ありがとうございます。
ところで住職様の話に戻りますが
「今は片山ですが、もともとは最上家でした。
その前を遡ると足利に行き着くわけですが。」
と、言ってました。
かなり博識な方で系図も細かい文字を読みぬく目聡さで
私は圧倒されっぱなしでした。
また、こうも言われました。
「先祖探しも良し悪しですよ。
不祥事起こして廃嫡された人とかいますから。」
さすがに改易を経験した最上家の出だけあって
含蓄豊かなこと言うなと感心しました。
「本家の忠貞さんがいらした際には聞いてみます。」
との言葉もいただきました。
とにかく昨日は有意義だった。良いことばかりじゃなかったが。
恒孝の長男・家廣は、両親に猛反対されたがベトナム人女性と結婚して報道された。
本当ですか?
981 :
日本@名無史さん:2008/01/07(月) 21:12:12
あのー平山某 終わった?
まだ言いたいことあったら今のうち書き込んどきなよ。
また後で出てきたらuzeeeeeからさ。
折角コテつけてくれてるんだからngにしとけよ
983 :
未来は長く続く:2008/01/07(月) 23:11:46
系図は偽文書だらけである。
これは研究者の間では常識。
偽系図の制作は現代に到るまでなされている。
作った当人さえ黙っていれば、子孫の方々は本物と思って相伝してゆく。
偽系図の巧妙なのは(見破るのは素人では難しい。
ましてや先祖に栄光を求め誇りとしたい者の客観を著しく欠いた目で見抜くことはまず無理)
嘘と真実をまぜこぜにしていることだ。
まったく縁もゆかりもない名族の某と姓が
たまたま同じだからと
くっつけたり(江戸時代の武士と明治の平民をくっつけた事例をある近世史の学者が面白く話していたことがある)
あまり名の知れた先祖ではなく、マイナーだが身分のある人物の家系を系図にのせたり
まあいろいろある。
仕上げは表装だなwきれいに仕上げ一丁上がり!
ちなみに父祖伝来の刀、槍、鎧、中世文書も怪しいので、あまり鵜呑みにはできない。
ところで研究者が史料調査などで、民家を来訪しいろいろ文書などを拝見するときがある。
そのとき大部分の研究者は、主人の先祖自慢みたいなものを
やりこめたりせず適当におだてたり話を反らしたりする。
史料を見せてくれなくなったりするのを避けるためである。
2ちゃんねるは先祖の話が多いが、これは日本史好きからくるというより
単に先祖興味によるものだろう。
984 :
平山貴士:2008/01/08(火) 19:57:12
系図の表装はおせじにも綺麗とは言えません。
オレの従姉妹は
「そんなボロ処分しちゃえばいいのに」
と、言ったそうです。
現物見てないの丸わかりで笑っちゃいました。
985 :
平山貴士:2008/01/08(火) 20:03:47
住職様並の知識があるかどうか?
あなた方の鼎の軽重を問う。
「伊達家の家紋は他家から拝領したものです」
どこの大名家か?
またもうひとつ拝領した家紋とは?
それはどの大名家から拝領したものか?
答えられるか?悪態つくのが関の山か?
で、お坊さんに会って来たのに肝心の過去帳を見なかったのは何で?
987 :
平山貴士:2008/01/09(水) 00:04:24
まず位牌を確認してみろということでした。
曽祖父の戸籍も確認せにゃならんしということで。
過去帖は一応聞いたんですが返答はえられませんでした。
次また聞いてみますね。
それではお答えどうぞ。
その位牌は明治以降しかなかったんだろw
除籍謄本持って過去帳見せてもらって来い
お布施ははずめよ
989 :
平山貴士:2008/01/09(水) 03:04:09
なるほどお布施ね。高いんだろうなあ。
それでわかりましたか?
990 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 08:52:34
何がわからないのか知らんけど、先祖や嫁より職探せよ
991 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 15:31:13
徳川美紀って何者なのよ
992 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 17:22:21
徳川美妃の間違い?
本名は西澤みゆきっていうんでしょ。
長野出身のプロダクション経営&タレント。
徳川家と何の関係もない。
993 :
平山貴士:2008/01/09(水) 20:10:19
985の答え
まだですか?
おたくらの知識の程を問うてるの。
他人の知識の受け売りで他人を試そうって
おまいどんな神経してるんだwww
995 :
平山貴士:2008/01/09(水) 23:53:23
まあろくな性格じゃありません。4!
996 :
平山貴士:2008/01/09(水) 23:53:57
3!
997 :
平山貴士:2008/01/09(水) 23:54:24
2!
998 :
平山貴士:2008/01/09(水) 23:54:48
1!
999 :
平山貴士:2008/01/09(水) 23:57:22
ブー!残念!
答え
1・上杉家
2・九曜紋
3・細川家
でした!チャンチャン!
1000 :
平山貴士:2008/01/10(木) 00:39:57
それではPART3でお会いしましょう。サヨナラ。
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。