[常陸]────────佐竹───────→[出羽]
1 :
日本@名無史さん:
平安後期の源義光以来、何かと歴史の端境期に顔を出し、
歴史の話題に事欠かない、佐竹一族。
源頼朝の佐竹征伐。
足利高氏との協力。
上杉と協力した関東戦国三国志の戦い。
芦名・伊達との戦闘と和解。
出羽転封と、その後の「秋田の四倒れ」。
戊辰の役における官軍への対応。
知っている人はよく知っているけれど、知らない人は全然知らない不思議さ。
シンパもアンチも書きこんでみそ。
2 :
日本@名無史さん:04/06/14 02:43
おれは2をとるんだろうな
3 :
日本@名無史さん:04/06/14 03:38
佐竹氏の凄いところは、平安時代の新羅三郎義光以来、現在に至るまで、すべての当主の名前に「義」の字が使われていること。
ここまで徹底している家は、他には例がない。
なお、佐竹氏は、室町時代に山内上杉氏の者を婿養子として当主に迎えたことがあるが、その当主も名前が「義憲」なので、一応「義」の字は維持している。
4 :
日本@名無史さん:04/06/14 12:59
くだらねぇ
5 :
日本@名無史さん:04/06/14 23:05
渋江内膳あげ
6 :
日本@名無史さん:04/06/14 23:25
俺の推理では、陸路じゃなくてて海路を使ったんだと思うよ。
7 :
日本@名無史さん:04/06/14 23:59
4
何がくだらねぇんだ。こういうスレを書くやつがいるから、テーマがよくてもつまらなくなるんだ。
8 :
日本@名無史さん:04/06/15 00:02
いちいち反応してるおまえが一番つまらん
9 :
日本@名無史さん:04/06/15 00:03
同意。ネタふりゃいいのに。
>>8以降こうやってクソスレ化が進む。
佐竹関係の書籍って,最近なにか出た?
11 :
日本@名無史さん:04/06/15 08:21
>>3 これはある意味佐竹は安定していたということを示すんだろうな。
実定と義藤の乱でも一族の多くがブチ殺しあったわけじゃないし。
のんびりしてたんでしょうね。
>>10 無明舎から「佐竹氏物語」が、数十年前に出たけど?
「仙台、水戸、名古屋」の水戸と言われるようになったのは、美人を全部連れていったから
はたはたが採れないのは、殿様の後を追っかけていったから
とか俗説は多いね。
今の当主は誰なの?秋田市長?
糞スレ化するんですか?
>>14 いいえーこれからおもしろくなるそうですよー。
まちがいた「雪の峠」だ
あの漫画は俺も好き。
剣の舞の方もちょうど読んでいたバカボンドと内容がリンクしていて面白かった。
とりあえず義重は堅実。政宗は派手な演出と博打をよくうつ。北条は・・・・・・?
北条は戦略で戦をする戦国大名。
氏康までは結構博打も打ってたけどね。
義光が笛を吹く話とか、人取橋の合戦 とか。
21 :
日本@名無史さん:04/06/19 18:55
なんんあん^¥
22 :
日本@名無史さん:04/06/19 20:19
佐竹の石高は20万しかないの?
秋田の市長は、北家(角館)の当主らしい事を、どっかのスレで誰かが書
いていたが。秋田の女性って、面差しに他所とは違う神秘さがあって良い
よねえ。
24 :
日本@名無史さん:04/06/19 21:15
>>22 自己申請だから。石高調査の検地は大名の自己申告に頼ったから。近世初期には過少申告して負担を少なくするのが当たり前だった。
25 :
辺茂黒 便太郎:04/06/20 06:59
石高には格式上のものと米(と物産)の収入の二つの意味がある。
本来の意味は米の収穫量から来ているが、
江戸幕府(と豊臣政権)は石高によって軍役を定めたので、
石高にはその大名の格付けという側面がある。
基本的にかってに大名が自分の領内の石高を上下させることはできない。
久保田領の場合、江戸幕府によって決められた。
はじめ佐竹は自分たちで検地した結果30万石ちょいくらいだろということで
幕府に数字を出したが、そんなにはダメといわれた。
その後「じゃぁ、25万でどうスカ?」と聞いてみたが、それも断られた。
佐竹が移された出羽の土地は、豊臣時代の検地で20万石くらいだったので
幕府には初めから佐竹はやっぱり20万くらいという認識があったらしい。
が、実際にそのことが朱印状で指示されたのは関が原から約60年後。
ナムコの独眼竜正宗で南方の強豪だったから気に入っていたのに
信長の野望でガッカリした。
なんですか、あのゲーム開始初期に消し飛ぶ泡沫大名は。
>>25 だったら転封時に20万石で朱印状だせやぁぁあ!
>>22 そうかもしれん。
でも源氏なので、徳川家と一緒ということで、出羽の半分しかないのに
国持大名の格で遇されたとか。
で、徳川家ってホントに源氏なのかと突っこみたいんだが、、、、、
29 :
日本@名無史さん:04/06/21 00:26
格式では大大名は20万石以上らしかったから、その最低レベルということで・・・
実質は帰農した部下や農民に開墾奨励したから、朱印状認可のころには実質50万石レベルだったとか・・・。
30万石の余裕・・・←これが「秋田人気質」の始まり?
30 :
日本@名無史さん :04/06/21 17:52
佐竹家の現当主は義重の子孫?
31 :
日本@名無史さん:04/06/22 00:05
相馬氏の子孫?
32 :
日本@名無史さん:04/06/22 08:23
相馬氏から養子を迎えたがこれは前に佐竹から相馬に行った人の子孫だから
佐竹の血筋。現在どーなってんだろ?
33 :
日本@名無史さん:04/06/22 08:57
>>28 でも、出羽は二国分(現在の山形、秋田)
西日本各国と比較すれば4〜5国分はあるから
佐竹が国主クラスでも問題はないと思う。
>>33 それに、明治になってからとはいえ羽前羽後に分かれたからね。
35 :
日本@名無史さん:04/06/23 12:52
庄内、内陸、仙北、大舘、
最低でもこのくらいに分割できる。
あと一つくらい必要かな。
36 :
日本@名無史さん:04/06/23 13:49
佐竹の前領主秋田氏は秀吉時代は20万石扱い、それなら厳封という
事になるけど、間違いない。えろい人知ってたら教えて下さい。
裏高30万石あっても外様大名はいつでも逼迫
徳川さんのおかげで
>>32 今の当主の孝氏は大給義竜氏の息子だよ
前の当主の義栄氏の妻百合子さんが義竜氏の妹なので
義栄氏から見れば孝氏は妻の甥ってことだね
39 :
辺茂黒 便太郎:04/06/23 14:18
秋田、戸沢、六郷、小野寺領合わせて佐竹領二十万石なのに、
秋田領だけで二十万石あるわけない。
秋田氏は五万五千石程度のはず。
佐竹氏と交代で、常陸宍戸に石高はほぼそのまま維持されて国替えされた。
40 :
日本@名無史さん:04/06/23 18:50
>>39 秋田氏は、関ヶ原で東軍につかなかったから、減封されたんだよ。
41 :
日本@名無史さん:04/06/23 18:52
歴史に疎い者ですが書き込み御容赦ください。
私の父方の曾祖母が、明治時代に佐竹から嫁いできた武家の娘(奥方付きの家老の娘だと言うことですが、そのような役は実際にあったのですか?)なのだそうです。
戦後数年で亡くなっていますので、30年代生まれの私は実際に会ったことはありません。
当時父の曽祖父は、隅田川沿いに蔵を幾つも持つ和紙問屋を営んでおり、曾祖母の嫁入りは輿に乗って行われたと聞いています。
何しろ曾祖母の時代とは震災と戦災を挟んでいるので、私の両親の記憶も、形見の品も散逸してしまっているのが残念です。
実家には辛うじて、曽祖母の降嫁にあたって佐竹の奥方様が書いたという「清風」の二文字額が残っているだけです。
42 :
辺茂黒 便太郎:04/06/24 06:53
43 :
日本@名無史さん:04/06/25 23:52
44 :
日本@名無史さん:04/06/26 01:30
江戸期の佐竹は759ヶ村で表高20万5800石、実高39万3000石
>>13 佐竹はよい治世をしてたのにその後の水戸徳川家が最悪の治世をしたから
水戸家を皮肉った逸話がたくさん残ってる。
特に水戸光圀の評判がすこぶる悪い。
(参考)
@佐竹義重-岩城貞隆-佐竹義隆-義処-相馬叙胤-徳胤-恕胤-祥胤-益胤-佐竹義尭-義生-義春-義栄
A徳川(田安)斉匡-松平慶永-徳川(尾張)義親-大給義竜-佐竹義孝(現当主.孝)
だったかな。
47 :
日本@名無史さん:04/06/27 00:33
>>46 徳川から入籍でつか・・・。まあ、室町初期には藤原系上杉からも入籍していたし・・・。
48 :
日本@名無史さん:04/06/27 19:17
49 :
日本@名無史さん:04/06/29 23:20
佐竹って本家は、上杉から養子が入っちゃってるけど、分家一族のなかに、男系で源義光の遺伝子を保存している家はないの?
50 :
日本@名無史さん:04/07/01 00:01
松平がそうだったような。
51 :
日本@名無史さん:04/07/01 02:02
山入氏じゃないの?
52 :
日本@名無史さん:04/07/01 03:11
水戸のご老公の悪口をいうな
53 :
日本@名無史さん:04/07/01 11:06
水戸光圀、18歳でホームレス殺人。
>>52よ、史実だぞ。
54 :
日本@名無史さん:04/07/01 11:56
未成年なんだから役立たずの1人ぐらい殺してもいいじゃないか
今でもそうなんだからこのころ全然大丈夫
少年法でも言っているだろう更生させることが目的と
ご老公は史記伯夷伝を読んで心を入れ替えられた
常陸源氏で佐竹氏以外の名族を教えて。
56 :
辺茂黒 便太郎:04/07/01 14:38
>>55 土岐原 清和雷光流
小田 義朝→知家
菅谷 村上赤松系
57 :
日本@名無史さん:04/07/01 17:28
>>38,46
佐竹氏の当主が孝氏とは初めて知りました。
以前、何かの本で見たとき義栄氏長女朋子さん、朋子さんの後に男性の名前
が書かれていたような記憶があります。
婿養子ですか?現当主には佐竹の血は流れているんでしょうか?
それと「孝」「義孝」どっちが本当?
58 :
日本@名無史さん:04/07/02 01:58
霞会館の名簿は「孝」になっていたような。
佐竹家は、先代義栄氏の生存中、一時的に婿養子を迎えました。
しかし、不縁となり、先代義栄氏の死後、孝氏を養子に迎えました。
孝氏は婿養子ではありません。義栄氏の未亡人の養子(実際は甥)のはずです。
養子縁組後、「義孝」と改名したように聞きました。
60 :
日本@名無史さん:04/07/03 21:37
義栄氏健在時に婿養子を迎えていたというのは初めて知りました。
以前、佐竹本三十六歌仙の「絵巻切断」という本のなかに取材記者に対しての義栄氏の言葉がありました。
完全ではありませんがこの様に記憶しています。壁に掛かっている子供の絵を見て
「息子の絵です。小さい頃に死んでしまいましたが。佐竹の家も私の代でお終いです。」
この言葉からまもなくして亡くなったと書いてありました。
華族階級の没落を体験し子供を亡くし死の直前の「私の代でお終い」でしたから
名門存続の意思を失くしていたのかと思い込んでいました。
養子縁組は、1965年頃のことだったと思います。
秋田の地方紙(魁新報)なんかに載っていたと思います。
幼くして亡くなったのは、長男義忠さんのことです。
62 :
日本@名無史さん:04/07/03 23:39
58さん、系図マニアさん、ありがとう!57、60です!
系図マニアさん詳しいですね!
私は兵庫県在住なんですがなぜか佐竹ファンなんです。
といっても知識はありませんが。寛政重修諸家譜と姓氏家系大辞典をよく見ます。
このスレを通して知識を深めらる事ができればいいなと思っています。
よろしく。ありがとう。
64 :
日本@名無史さん:04/07/04 23:53
亀レスだが・・・
藤原系が入っていない?佐竹は山入氏の他、
南北朝前後に四国の土佐久礼に来て陣取っていた土佐佐竹氏、
雑賀孫一とともに雑賀鉄砲衆の一員と共に暴れ回り、後に広島へ移った佐竹(後に足利将軍の勧めで「佐武」と改姓)伊賀守
と思うが・・・。
65 :
日本@名無史さん:04/07/13 23:20
安東氏は太閤蔵入れ地2.5万石の管理もしていた。
(もともと安東氏の領地だったが秀吉に分捕られた。)
だから、本領?五万数千石+2.5万石で約八万石
余談だけど、八郎潟の商業地区や海や川の通行料などの権益、
秋田杉などの木材を含めれば実質十数万石相当の存在だと思う。
大雑把にいって安東8+小野寺5+戸沢5だけでも十八万石
その他小領主の領地も含めれば二十万石相当かそれ以上は当初からあった。
あと現代の佐竹氏の養子は初耳。
家は血筋だけではないものだが偽源氏からの縁組とは違和感が多少ある。
(過去では繋がっているのかもしれないけど)
余談の余談、郷土史家の土居氏の本では当時でも佐竹本家(相馬氏関連の養子の問題で)
以上に佐竹氏の血筋を残している佐竹一門の家があったと書かれていた。
67 :
日本@名無史さん:04/07/18 00:32
>>66 東家、南家、北家の事?
まあ、偽源氏だろうが平家・藤氏だろうが、他の血筋が宗家に入ると、何がしかの試練が来るのが佐竹宗家の歴史。
藤原系上杉から義人公が入った時は、足利義教将軍と関東管領足利持氏の争いが入り、義教将軍&山入一派によって打ち殺されかけたのを、嘉吉の乱で辛うじて助かった。
平氏系相馬出身で固めようとした義尭公の時は、官軍側に付いたおかげで東北精強の新庄藩から攻められ、危うく久保田まで灰燼に帰するところだった。
「地獄の悪運」の洗礼を歴史から受ける羽目になるんだな・・・。
68 :
日本@名無史さん:04/07/18 00:46
新庄、庄内じゃねいの
69 :
日本@名無史さん:04/07/18 11:18
本庄まなみのほんじょのところ
70 :
日本@名無史さん:04/07/18 18:15
常陸佐竹氏五十七万石 現茨城県常陸太田市
地形は、東に里川 西に源氏川 南に久慈川流れる低湿地帯と
水田に突出した小さな丘陵の南端に位置する平山城で
天然の要害。太田城 別名舞鶴城。四百四十年、佐竹氏の居城として
栄えた。
すいません。質問させてください。
自分のルーツは常陸太田付近のなのですが、
調べてみると、そこに住む豪農は、岩城氏に仕えていたとのことなんです。
佐竹氏(もしくは岩城氏)の版図が、現在の地図と対応しているような資料を載せた本(もしくはサイト)
をご紹介していただけませんでしょうか。
72 :
日本@名無史さん:04/07/19 08:12
岩城氏。常陸平氏ですね。祖は、平安忠。
73 :
日本@名無史さん:04/07/26 23:56
すみませんが、江戸時代、先祖が秋田市の久保田城に仕えていたのですが、それって佐竹氏と関係有りますか?
家系図では与力です。
墓は白馬寺です。元は廃寺になって違うけど。
江戸時代の久保田城ならば,間違いなく佐竹の家臣だったのではないかと。
家中の何家に仕えたとか,そういう話は伝わってないですか?
実は、家系図には「松平出羽守」と書いてあります。
家系図はおそらく400年程前から書かれており、先祖の発祥は愛知県岡崎市付近、
更にたどると足利流清和源氏and物部氏のようでございます。
その後、松平家に仕え各地を転々とし、山形県を経て最終的に秋田に定着したようでございます。
佐竹と言う文字は家系図には全く出てこないのであります。
でも祖父の旧制中学(現高等学校)の卒業証書は確かに『秋田県士族』と書かれてあります。
いったいどうなっているのでしょう????
松平出羽守、ということは松江ですか
77 :
日本@名無史さん:04/07/28 02:44
佐竹庶流に山入氏、またその庶流に松平氏あり。
戦国時代
高柿上総介康信-松平弾正少弼信広(のち尾張守)-松平弾正少弼信久(のち上総介)
多分松平というところに住したため松平を名乗る。
が、徳川に恐れ多いということで高柿に復す。
79 :
日本@名無史さん:04/07/28 18:28
佐竹氏。歴史書の中では、あまり触れられない佐竹氏。大河ドラマでも中々
出ない、佐竹氏。文禄四年の検地で、家康の二百五十五万石 毛利の百二十万石
上杉の百二十万石 前田の八十三万石 島津の七十万石 伊達の五十八万石
宇喜多の五十七万石 に続く全国八位の大名。BSで伊達正宗の大河総集編
放送しているが、人取橋の合戦出てくるのかな?鬼義重は誰が演じてるの?
81 :
日本@名無史さん:04/07/28 22:12
佐竹は一族あわせりゃ、全国で5番目の大大名なのにね。
>>76 凄い、よくご存知ですね。
お詳しいようなので是非お伺いしたいことがあります。
実は私の家系図には松江城が出てきます。
そして「主君代〇〇(先祖の名前)戦死」と書いてあるのですが、どう言う意味でしょうか?
『主君代』とは家老職という意味なのでしょうか?それとも主君の代わりに死んだと言う意味なのでしょうか?
家系図の文字の意味がわからず謎だらけです。
松平出羽守の出羽守とはどういう意味でしょうか?秋田と関係があるのでしょうか?
はじめ佐竹氏と何か関係があるのかと思って投稿しましたが、だんだん話がそれて私事になってしまってすみません。
83 :
日本@名無史さん:04/07/28 23:19
>>82 > そして「主君代〇〇(先祖の名前)戦死」と書いてあるのですが、どう言う意味でしょうか?
> 『主君代』とは家老職という意味なのでしょうか?それとも主君の代わりに死んだと言う意味なのでしょうか?
「主君の身代わりとなって戦死」という意味じゃないでしょうか
この主君が松平出羽守であれば、松平出羽守直政の初陣にして唯一の合戦・大坂の陣での戦死ということになるかと
ただし、このときの直政は14歳(夏の陣は15歳)で大名でもなく、松江を拝領するのはまだ随分先のことですが
> 松平出羽守の出羽守とはどういう意味でしょうか?秋田と関係があるのでしょうか?
> はじめ佐竹氏と何か関係があるのかと思って
出羽守は受領名のひとつです
もともとは国司といって地方行政官だったのですが
この時代には権限は伴わず、ステータスの一種となっていました
ただ、その「出羽守家」から出羽の大名佐竹家に士官するなんて面白いなあ、と思うのでした
84 :
73 75 82:04/07/31 22:08
>>83 私の少ない言葉に、的確なご返答を頂きましてありがとうございます。
お尋ねした大名の出陣した戦まで知ってるなんて凄すぎます。
おかげで先祖が何の戦で戦死したか知ることができました。
ウチは前述の与力という下層階級で大したことないのですが、読みにくい家系図があるばかりに、何が書いてあるのかモヤモヤと気になっておりました。
家系図には、仕えた主人が松平出羽守から始まって、結城山川城主水野氏忠善(7代目)から水野氏十数人の名前が書いてありまして、
佐竹氏や久保田城は家系図には出てきません。
久保田城は言葉で親(戦後生まれで本人も昔のことはよく知らない)から聞いたのでもしかしたらこちらのほうが違うのかもしれません。
こんな的確に答えていただける方はいらっしゃらないのでいろいろお伺いしたいしたいことがあるのですが、
スレ違いの私事になってしまうので、これまでにしたいと思います。
違うスレで、またお会いできれば嬉しいです。本当にありがとうございました。
まあそういう系図はだいたい捏造物なんだけどね
86 :
日本@名無史さん:04/08/02 01:49
歴史書といっても・・・
源平争乱の時は「東鏡」では記載されているのに「平家物語」では除外されている。
南北朝の時は北朝の筆頭大名だったため、南朝贔屓な日本人の感性に合わない。
一方で幕末は官軍側だったが、その後の処遇を書くと政府(薩長閥)にとっては何かと都合が悪い。
87 :
日本@名無史さん:04/08/02 01:59
佐竹を出すと、一見歴史びいきの連中にとって、都合が悪い部分が出てくると思われ。
今までの歴史認識が、実は自分の思い込みや後世の曲解が意外と多かったのでは?と。
88 :
日本@名無史さん:04/08/02 03:43
たとえば〜君がいるだ〜けで♪
>>87 思い込みは、伊達遠江守家中だけでたくさんだよ。もうイラネ。
91 :
日本@名無史さん:04/08/05 12:05
佐竹の血筋に天皇家とか京都の公家は混じってるの?
92 :
日本@名無史さん:04/08/05 14:47
>>7 それは「スレ」じゃなくて「レス」。
最近こういう間違い多すぎ。
亀厨が居るな
>91 ご指摘はこれですか?
公家・高倉永慶-佐竹義隣(北家)-義秀(東家)-義本-義道(新田藩)-義明(秋田藩)-義敦-義和-義厚-義睦
確かに、近世秋田藩佐竹家の七代から十一代の当主は、男系では公家の高倉家につらなります。
近世前期、佐竹一門に公家から養子を迎えたのは、
初代藩主義宣による「御一門払い」と考えられています。
詳しくは、国学院大学の紀要に書かれていたように思います。
96 :
日本@名無史さん:04/08/06 16:42
その高倉永慶も確か義重の外孫か何か。
永慶の息子で東家に入ったのは義寛ではないかしらん。
前に義寛の手紙を買ったことがある。
佐竹義宣といえば、太田城での騙し討ち、関ヶ原での日和見、
今福の戦いでの無様な敗北しか浮かばない、3流ヘタレ大名。
>97
高倉永慶の妻は、佐竹義重の娘で、息子義隣・義寛が北家・東家の養子になりました。
ただし、義寛は跡継ぎに恵まれず、実兄義隣の子どもを養子に迎えました。
そんなわけで、略系図のように、秋田藩主佐竹家は、男系で高倉家に属します。
なお、近世の細川家の分家も公家から婿養子を迎えていたと思います。
100 :
書跡研究者:04/08/07 21:28
あ、成る程。系図を読み間違えていました。スミマセン。所で「御一門払い」
についてもうちょっと説明下さい。
101 :
日本@名無史さん:04/08/08 01:53
佐竹敬久秋田市長は佐竹北家の当主です。
今でも角館にお宅があります。
佐竹家は久保田の本城の他に大館城と横手城が幕府から許可されていたので
伊達家と同じ広大な領地を持つ立派な国持大名と言えるのではないでしょうか。
それと、今年は秋田建都400年で記念事業が行われていますが、
入封時の久保田派と横手派・金沢派との争いは秋田県の人でも知らない人が多い。
>>101 >入封時の久保田派と横手派・金沢派との争いは秋田県の人でも知らない人が多い。
それはどんな物だったのですか?
>>101 >入封時の久保田派と横手派・金沢派との争い
「雪の峠」にも描かれていたな
どれほど実像を掴んでいるのかはしらんけど
南部家と同じ無駄に広大な領地を持つ脆弱な国持大名と言えるのではないでしょうか。
脆弱とはなんだ!
棍棒振り回すと強いぞ。
107 :
日本@名無史さん:04/08/11 07:01
>>104 だな。
内容・実力が伴わない大名に限って、過去の名声や系図、家柄に拘泥するものだ。
佐竹が良い見本だろう。「〜家」「〜派」など、外から見れば失笑するしかないが、
現代でも一族の「結束」を誇りにしてるのは、何やらアーミッシュに近い。
寒い東北の辺境の地・秋田に飛ばされたため、「家格」「家柄」に執着し、かつ
「京」にも憧れるという田舎もの特有のコンプレックスを抱えて幕末までやってき
た藩の哀しい宿命か。
108 :
日本@名無史さん:04/08/11 08:24
だけど戦国期の常陸国の住人は幸せだったんじゃないの?
佐竹家のおかげで外敵の直接侵攻は無かったんだから。
北条領の関東なんか悲惨でしょ。
村は焼かれ、人はさらわれ・・・。
上杉勢が侵攻した時には人身売買の市場まで開かれたくらいなんだから。
血統に執着も何も
源氏の正当を羨んだのは周囲だろ
血統に執着も何も
源氏の正当を羨んだのは周囲だろ
( ´,_ゝ`)
>100
御一門払いとは、藩主の権力を強化するため、一族・親族を統制・淘汰する
といったことです。
藩主佐竹義宣は、佐竹北家にわざと家中と関係の薄い、京都の公家から養子
を迎え入れ、減知。二代藩主も東家を同様に扱います。こうして藩主と一族
の家系を隔絶させて、一族の藩政への関与を封じていったようです。
113 :
まんがおたく:04/08/13 17:22
今年の5月頃発売されたビックコミックに佐竹家のことに触れた漫画があります。
「公家侍。。。」とかいうタイトルで、19世紀前半の江戸時代が設定されているようで、そこに
佐竹家御用達の刀屋が登場しています。
114 :
日本@名無史さん:04/08/14 03:26
南北朝以外には常に負け組(平家・北条家・石田三成)に加担しながら生き残ってきた
稀有な家柄。戊辰戦争には勝ち組についたのに、かえって干されてしまったうえに、領土
は焦土と化した。伊達とは常に因縁多き家柄。
115 :
日本@名無史さん:04/08/14 11:58
関東と奥羽の中間の「茨城」って中途半端な位置なんだよな。
東京と横浜の中間の「川崎」って感じ。
関ヶ原はどちらにもつけず、いきなり「秋田」へ直行した。
秋田に移封されずに55万石佐竹常陸藩が尊皇教育やったとしたら水戸藩以上に脅威だ。
117 :
日本@名無史さん:04/08/21 22:27
佐竹義宣は、秋田転封の話にブチギレて、領内の美少女をねこそぎ
拉致し、秋田へ連れて行った(これが「秋田美人」につながった)
という俗説がある。
いずれにせよ、顔全体を隠した兜といい、少し変わった人物
だったことは確かだ。
>>115 中途半端っても日本の最東端だけどな。
常に夷敵との最前面に会った>常陸
119 :
書跡研究者:04/08/21 22:56
112 レス有難うです。そう云われればそう、と受け取るしか無い
のですが、どのような証左があるのでしょうかね?廃嫡した義継を南
家にやったり、小場が後に西家?を許されたりする経緯を見ると、同
名四家は宗家に向って初めからかなり格落ちで、単に永慶から余った
子供を押しつけられた結果に思っていましたが。それにしても義舜・
義寛の存在は、秋田の文芸には相当な影響があったように思います。
義宣の文治政策の一端と見たい所ですが。
所で、仙岩道路を通って岩手から秋田に入ると、(ババヘラも面白い
ですが)、とたんに漬物の味付けが甘くなるんですよね。茄子や大根
等、コンビニで売っているやつも見事に全く京都のそれと同じやり方
で、これには驚いた覚えがあります。食べながら、久保田藩の京都デ
スティナシオン振りに感じ入っていました。
>119 もし興味があれば、論文「秋田藩における「御一門払」」(国学院の紀要)をお読み下さい。
なお、佐竹義継(義直)は、最初に佐竹北家を継ぎ、次いで本家の養子、廃嫡となります。
廃嫡後は僧侶になっています。一説には江戸城での居眠りが原因とか。
陪臣佐竹家は、公家から正室を迎えたり、天皇の即位に使者として京都に行きます。
そんなことも京都風と関係あるかも?
121 :
日本@名無史さん:04/08/22 13:16
大嫌いな不倶戴天の敵・伊達政宗に、江戸城で養子の居眠りの現場
を目撃され、皮肉っぽく耳元で諭された佐竹義宣は、痛くプライド
を傷つけられ、腹いせのあまり、その養子を廃嫡したと伝えられる。
義宣の器の小ささを物語るエピソードとして面白い。
122 :
日本@名無史さん:04/08/22 13:26
京風ってのは北前船の影響でしょ
123 :
日本@名無史さん:04/08/22 13:49
>>123 義重が側室の間に生ませた、佐竹義直。幼名「申若丸」。
義宣の弟に当たる。佐竹北家を継ぎ、子のない義宣の嗣子
になったが、上記のくだらない理由にて廃嫡。
>>124 ほへー、そんなやつおったんやねえ
サンクスです
>>117 >顔全体を隠した兜
面頬は別に変じゃないよ。
当世具足にはたいてい付いている、顔面を守る防具です。
残念ながら、顔を隠した甲冑姿の佐竹義宣画像は、近世のものではありません。
秋田市出身の土屋氏なる近代の画家によって書かれたものです。
菩提寺・天徳寺に伝わるその他の歴代藩主画像は、近世のものと思いますけど。
>>121 それ、土居以外に誰か言ってるヤシいるのか?
>>129 土居氏の「佐竹義宣その時代」に載っています。
氏が小説を書く際に調べた事柄が載っている小冊子。
そのネタもとは不明ですが。
131 :
ともチャン:04/08/23 04:06
>>130 おおもとのソースは『義宣家譜』および『梅津政景日記』。
常々義直(義継)は頭が弱いっぽいと思っていたが能の一件でふっきれた模様。
132 :
日本@名無史さん:04/08/23 09:32
可哀相すぎるな、義直…
133 :
日本@名無史さん:04/08/23 13:32
>>130 あくまでも土居氏の見解に依拠するのであれば、例えば国分盛重が「秀吉の小田原攻めよ
り前に佐竹亡命済み」という氏の見解と、葛西大崎一揆の時に政宗が(断られて成実に交代
したが)盛重を蒲生氏郷への人質に出そうとした矛盾をどう解釈なされる?
>>133 おや,失礼。横レスして勘違いさせた様子。
130は私だが,121は私じゃないよ。
>>133 つまり土居輝男氏の見解には、問題ありと?
国分盛重が「秀吉の小田原攻めより前に佐竹亡命済み」という
土居氏の見解とは、どんなこと?
136 :
日本@名無史さん:04/08/24 06:33
佐竹義久も、義宣に殺されてるな。
>>135 土居氏の代表作『常羽有情』の2巻で、佐竹から那須に届いた書状の中に天正18年の正
月の式典の記述があり、そこに「昨年伊達から亡命してきた義重夫人の弟彦九郎盛重」に
ついて「見慣れない名前だな。誰か?」という会話を枕に亡命の件が書かれています。
小田原降伏は天正18年の7月、天正18年の正月の式典の話題で「昨年」と書かれている
以上、土居氏は天正17年のいずれかの時点に国分盛重が常陸に亡命したと認識している
ということにはならないでしょうか?
古くは政宗が小次郎を粛清した頃、最近は文禄年間(秀次事件解決以降のいつか)頃と
言われている盛重亡命をこれだけ早期に設定した説は他に見たことがありません。
詳しい方で、土居説を補強できる資料をお持ちの方がいらしたらご教示ください。
138 :
日本@名無史さん:04/08/24 21:53
佐竹家と京都のつながりは、源平時代まで遡る。
相馬御厨を巡って上総介と争い、奥州藤原家や常陸平氏の伝で、当時京都で盛を振るっていた平清盛とコネを持った。
常陸介を賜り、当時反伊勢平氏の旗印として南関東の平氏連中に担がれた源頼朝に対抗させられた。
139 :
日本@名無史さん:04/08/24 22:09
>>136 義宣は義理や人情を持ち合わせない非情な人だからな。
>>137 > 古くは政宗が小次郎を粛清した頃、最近は文禄年間(秀次事件解決以降のいつか)頃
おまいこそその無駄口のソース何だよ。古くからって、古くからそう思い込んでるのかい?(w
>>137 どうも今ひとつピンとこないのだが? 国分盛重亡命説は、以下の3つのどれかに当たると。
@天正17年(1589)説(★土居氏):芦名家滅亡(伊達家の最大勢力時)
A天正18年(1590)説(=政宗が小次郎を粛清した頃=北条討伐時)
B文禄4年頃(1595)説(秀次粛正事件発生の頃)
盛重が政宗の出頭命令を拒否、決定的に関係が悪化したのは慶長4年(1599)。
(←1589年とする土居説氏と、10年の誤差があるのに注目)
盛重は、慶長8年(1602)に、佐竹の一員として秋田へ同行。
つまり一番怪しいのはBの時期なんだが(宮城の郷土史家・紫桃正隆氏の見解)
大体、天正18年(1590)、蒲生氏郷への人質に伊達成実・国分盛重が出てるのは
間違いないから、@だけは絶対に可能性が薄い。
それに、佐竹義直と国分盛重の話は、全く別の問題だと思うよ。
143 :
日本@名無史さん:04/08/26 08:06
>>143 条件反射的にレスに食いつくおまえがな(w
「左遷の佐竹」「バカ殿・義宣」への悪評…。
何か痛い所でもつかれたらしい(笑)古傷が痛むか?
>>142 > B文禄4年頃(1595)説(秀次粛正事件発生の頃)
秀次粛清事件の後始末に、伊達家重臣連署で「主君が殿下に叛かぬよう諌言します」等と
大名としてはちょっと恥ずかしい誓紙が出されてるんですが、この五番目か六番目位に
「伊達彦九郎」として署名しています。
この頃までに、国分家臣団が盛重としっくりいかなかったため国分家は解体されて家臣団
は伊達家臣団に吸収されていたので国分ではなく伊達と名乗っていたのかもしれません。
それはともかく、こんな情けない記録もしっかり残っている以上盛重の亡命時期は1599〜
1602の何れかの時期だと思うのですがどうよ?
> それに、佐竹義直と国分盛重の話は、全く別の問題だと思うよ。
土居氏の記述の正確さはどうか?という点ではかろうじて共通するかと。
少なくとも、スレ違いではないでしょう。
143は、スバリ最上厨だろ?(w
( ‐ Δ‐)っ<ずばぃ!
>>145 国分盛重の亡命時期は、実際、秀次事件を経た後の「1599〜1606」だろうね。
すると「天正17年説」は土居氏による「創作」という話になってくるが。
しかし、その土居氏だけど、佐竹サイドで執筆される方でしょ?なぜ、わざ
わざ、義直の件では「義宣にとって不名誉な逸話」を書くのか?抹殺しても
よいはずなのに。
心情的に、政宗が憎たらしいのは義宣にとっては当然。
例えば、文禄の役での名護屋への陣立ての序列は、初め1番前田利家、2番
徳川家康、3番佐竹義宣、4番伊達政宗、と決定していたのを、政宗が難癖
をつけ、1番前田利家、2番徳川家康、3番伊達政宗、4番佐竹義宣に強引
に変更させた。豊臣に一貫して忠誠を尽くしていた義宣が、面白かろうはずが
ない。それだけに、義直廃嫡という裏に、「伊達の一言」が何らかの影を落と
していたのかと勘ぐられても仕方ない。(事実は別にあるとしても)
ただ、これも「創作」と考えた場合、土居氏の狙いは何だったのかという疑問
も当然残るわけだが。
149 :
日本@名無史さん:04/08/29 19:02
>>148 > 土居氏の狙いは何だったのかという疑問も当然残るわけだが。
仙台叩き。
150 :
書跡研究者:04/08/29 23:24
義直の件でウソ書いてすいませんでした。北家から本家へコンバートして
からあぼーんしてたんですねえ。うろ覚えで書いていて申し訳無い。
『政景日記』を見る限りでは、前々から義直の暗愚ぶりに業を煮やしてい
た義宣が居眠りの一件で廃嫡を決断したか、かねがね何かにことよせて廃
しようと狙っていた(ただちに岩城吉隆を嫡に据えた一件あたり、そう思
わしめる)か、どちらかに思えるのですが。政宗云々のくだりの典拠はい
ずこにありましょうや。
岩城町が合併先を秋田ではなく本荘に選んだ住民投票の結果をおもんみる
に、本藩の煮え切らない態度から封地を失い、若殿を奪われ、内政に介入
された結果のルサンチマンですかねえ。跡継ぎを岩谷堂から態々迎えたり
、戊辰戦争でも久保田とは正反対の行動を取った事の一線上にあるように
見える。
151 :
日本@名無史さん:04/08/30 00:51
>>150 いや、やっぱ政宗が悪い。
秋田では昔から良くないことは全て政宗(もしくは仙台人)の陰謀と言うことになっている。
日本の最底辺の争いというわけか>秋田と仙台
秋田藩と亀田藩は東西ベルリンだなw
佐竹は、本来秋田氏が開発していた「秋田杉」で随分利益を得たはず。
秋田市民は、「藩祖の佐竹氏」ばかり持ち上げているようだが、前の殿様
のことはどう考えているのだろう…。「秋田氏」って陰薄いね。
156 :
日本@名無史さん:04/09/01 14:48
157 :
秋田=チョン:04/09/01 15:10
戦前
<丶´Д`> <国として立ちゆかないウリの国の面倒を見て欲しいニダ…
戦後↓
<丶`Д´> <ウリの国は日本の植民地にされていたニダ!謝罪と賠償を(以下略)
----------------------------------------------------------------------------------
戦中
<丶´▽`> <高給ニダ!是非ともついていって体を売るニダ 追軍娼婦するニダ
戦後↓
<丶`Д´> <ウリは無理矢理連行され、従軍慰安婦にされたニダ!謝罪と賠償を(以下略)
----------------------------------------------------------------------------------
戦前
<丶´▽`> <日本に密入国して商売するニダ!
現在の在日チョン↓
<丶`Д´> <ウリは日本に強制連行されて祖国から拉致されたニダ!謝罪と賠償を(以下略)
---------------------------------------------------------------------------------
北朝鮮へ帰国した在日
<丶´▽`> <北朝鮮は地上の楽園ニダ!日本なんかとは違うニダ!さすがウリの民族ニダ!帰るニダ!
脱北した在日↓
<丶`Д´> <北は楽園じゃなかったニダ!日本に戻ったから生活の面倒見るニダ!
脱北した在日の将来↓
<丶`Д´> <ウリはだまされて北に帰ったニダ。 責任は日本政府にあるニダ。謝罪と賠償を(以下略)
---------------------------------------------------------------------------------
戦前
<丶´▽`> <満州で中国人にいじめられるニダ。日本人にしてほしいニダ…
( ´∀`) <じゃぁ、日本に併合してあげるよ、日本の苗字を名乗ってもイイモナ
戦後↓
<丶`Д´> <日本に苗字を無理やり変えられたニダ!賠償するニダ!
ウリナラの歴史マンセー
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Darts/3036/uri.html
158 :
日本@名無史さん:04/09/02 00:11
>>108 北条領が悲惨だったのは北条のせいじゃねーじゃん
キタの戦闘員が拉致りまくっただけだろ。
159 :
日本@名無史さん:04/09/04 19:24
160 :
日本@名無史さん:04/09/06 10:55
>>145 仙台人、相変わらず必死だな。
資料を捏造するのは仙台人の悪習だぞ。
故に、仙台側の資料より土居氏が発掘してきた記述の方が信憑性は圧倒的に上。
いつの間にか仙台人にされている145
つーか、おまえら東北はどこであろうと最低レベルなんだってことを自覚しろよ。
164 :
日本@名無史さん:04/09/06 21:27
レスを読む限り、
>>145は茨城県人か秋田県人に見えるな。
どさくさ紛れに山形人も混じってますなw
167 :
日本@名無史さん:04/09/07 14:48
>>165 茨城県人・秋田県人なら、普通は土居氏の説に疑いは持たないでしょ。
むしろ仙台側の紫藤氏などの説を疑って然るべき。
そうしてないんだから
>>145は池沼の仙台人でFAだと思われ。
>>167 いつまでも、何しつこく粘着してるんだ?
>>145の文章をじっくり嫁。
あからさまに政宗を貶してるぞ。
「大名(=政宗)としてはちょっと恥ずかしい誓紙」
「こんな情けない記録」(=伊達側)
仙台人なら、こうは書かないだろ。嘆願書だから別に恥ずかしくもない。
つまり
>>145は「義直がヘタレの上、政宗のイヤミが原因で廃嫡にされたこと」
を土居氏が書いていることが納得できず、他の資料も矛盾してるから、この説は
怪しいと「意義申し立て」してるんだと、読めるな。
よって、
>>145は仙台人にあらず。(まあどうでもいいことだがw)
キモ
170 :
日本@名無史さん:04/09/07 20:16
ま、どっちにせよ土居氏が義直廃嫡と国分盛重出奔時期に関して参考にした資料の所在
を明らかにしない限り、ここで叩かれてる司馬遼太郎と同様「所詮土居史観だから(w」とい
う評価を受ける憂き目を逃れることはできまいさ。
日本史における新説というものは資料批判を経て価値が決まるものなんだから、その資料
がどこにどのように保管され、研究者が誰でも原本・マイクロフィルム・印影版のどれかを
見られるようでないと検証の手立てがない。
そういう意味では信者にしか原本を閲覧させない前野家文書などは現時点では落第だな。
まったくもっておっしゃるとおり
172 :
日本@名無史さん:04/09/08 02:22
>>170 それは、全てあなたの思い込みです。
土居氏は、秋田郷土史界の誇りです。秋田県民全てに対し、謝罪と補償を(ry
173 :
日本@名無史さん:04/09/08 13:51
>>170 君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない
174 :
日本@名無史さん:04/09/09 20:46
>>170 おまいが一番落第だ。現時点どころか未来永劫に。
国分盛重出奔時期については、明らかに土居説は旗色が悪いな。
何せ辻褄が全然合ってない。
176 :
日本@名無史さん:04/09/09 22:26
>>175 それは、全てあなたの思い込みです。
そうでなければ仙台人の捏造です。
178 :
日本@名無史さん:04/09/10 01:04
つーか、おまえら東北はどこであろうと最低レベルなんだってことを自覚しろよ。
180 :
日本@名無史さん:04/09/10 09:36
>>179 と、東北を最低レベルに固定しておかないと自分の方に火の粉が回りかねない山陰人が
申しております。
181 :
日本@名無史さん:04/10/04 20:08:27
山陰人って鳥取島根県民でしょ?
182 :
日本@名無史さん:04/10/04 20:57:58
と言うわけで、国分盛重の出奔時期については、仙台人による捏造が土居氏の新説によっ
て木っ端微塵に撃破されたわけだが。
低レベルな煽りあいだな
こりゃ三戦板の方がはるかにましだね
184 :
日本@名無史さん:04/10/06 10:04:02
185 :
日本@名無史さん:04/10/28 07:28:59
今も昔も、秋田人は図々しいよな。
勝手に「白神市」を自称しないでくれ。
186 :
日本@名無史さん:04/10/28 12:34:25
1に書いてある「秋田の四倒れ」ってのはなんですか?
>>186 食いだおれ
着倒れ
履き倒れ
あと、もういっこ、なんだべ?
189 :
小貫:04/11/10 22:45:02
age
>>182 禿同。腐れ仙台人も、早くこの真実を悟るべきだな。
191 :
日本@名無史さん:04/11/11 04:55:27
>>182 >国分盛重の出奔時期については、仙台人による捏造が土居氏の新説によっ
て木っ端微塵に撃破されたわけだが。
撃破も何も、当時の記録に、
「天正19年正月朔日に名生へ、彦九郎(国分盛重)…
氏郷へ御目懸り、御供…」
として、伊達成実、浅野正勝と一緒に、人質に送らしめたという資料が
残ってるわけだが(w。
>>191 と、仙台人得意の捏造資料を信頼してるわけか。(w
193 :
日本@名無史さん:04/11/11 23:46:12
義経の次の大河に「佐竹」がノミネートされたとか。
本決定かどうかは別として。
このスレをざっと読んだ限り、佐竹の対「伊達コンプレックス」
「伊達PTSD」は相当なものだな(w
「佐竹を悪く言うものはすべて仙台人」って決めつけてるし。
城中で居眠りをしていた佐竹義直の廃嫡の原因について、
「政宗のツボをついた嫌みの一言が、義宣を刺激し、義直を廃嫡した」
という「土居説」はどうも本当だったらしい(w
つ〜か,このスレにいる連中がそうだってだけだろ。
>>193 まじ?で新羅三郎から明治維新までやるのかよ?
197 :
日本@名無史さん:04/11/12 09:28:31
198 :
日本@名無史さん:04/11/12 22:48:01
新羅三郎って韓国人らしいけど、まじ?
199 :
日本@名無史さん:04/11/12 22:53:27
新羅出身だから新羅三郎
常識です
200 :
日本@名無史さん:04/11/12 23:47:44
>>193はデマに決まってんだろ、ボケ
義経の次は功名が辻じゃ
201 :
日本@名無史さん:04/11/13 10:51:03
>>194 >>197 と言うことは、やはり国分盛重の出奔時期も仙台人の捏造した「文禄〜慶長」説よりも土居
氏の「天正(小田原役以前)」説が正しいと言うことですね。
全く仙台人は捏造の常習犯だな。(w
>>201 豊臣方中枢の浅野長政が、天正19年に、国分盛重の人質の
件をしっかり確認してますから、事実かと。
その「小田原役以前」説は小説か何かのフィクションでしょ。
203 :
日本@名無史さん:04/11/13 12:00:51
マジレスすんなよバカ
204 :
日本@名無史さん:04/11/13 12:31:12
>>202 それは、全てあなたの思い込みです。
もしくはあなたが仙台人の捏造に釣られているか。
秋田が誇る郷土史家の土居氏が、歴史的事実についてフィクションや捏造で記述すること
はあり得ない。
>>204 ウケ狙いで書いていると思いますが、面白いのでもう少し釣ら
れてみます^^;
「名生城の戦い」では、蒲生氏郷が政宗の謀略を恐れて城に籠城。
氏郷がなかなか城を出ようとしないため、その和解の仲介役として
浅野長政が間に立ったのが天正18年の暮。膠着状態になってましたが、
一門の伊達成実と老臣の国分盛重を「人質」に差し出すということで、
漸く氏郷も納得して、翌年城を出て会津へ帰っています。
(佐竹にいるはずの国分氏が、何で伊達家にいるわけ〜?)
「嘘つくんじゃねーよ」つっても、浅野長政の付け人として、浅野正勝
が一緒に同行して、一部始終見てましたから、否定しようもないです。
土居氏の代表作『常羽有情』の2巻 これ、小説でしょ? どう考えても。
というか、上記の経緯が嘘というのなら、納得のいく説明お願いします。
>>205 > 土居氏の代表作『常羽有情』の2巻 これ、小説でしょ? どう考えても。
つーか、↓見ると『常羽有情』自体は小説の形取ってるけど、実際の活動は郷土史家(小
説家と言うより歴史家の眷属)と言っても過言じゃないでしょ。
知名度は低くても、司馬遼太郎よりも歴史的経過を歪曲しちゃいけないのじゃないか?
土居氏のHP
ttp://www.cna.ne.jp/~doi/ ちょうど仙台で同じような立場なのが紫桃正隆氏だな。
図らずも国分盛重の出奔時期の解釈では真っ向対立している。
さて、嘘つきはどっちだ?
まあ、漏れは仙台人が嘘つきだと思ってるので自分の意見は言うまでもないが。(w
>>206 「国分盛重の出奔時期」については、土居氏、紫桃氏、双方違っていますね。
●天正17年(1589)北条討伐前頃(★土居氏説←国分氏佐竹に出奔)
◎天正18年(1590)(*国分氏伊達家在籍の記述。『伊達家文書』)
●文禄4年頃(1595)秀次粛正時期頃(★紫桃氏説←国分氏佐竹に出奔)
それで、天正17年(土居氏)なのか、文禄4年(紫桃氏)なのか?
(『伊達家文書』では、天正18年国分氏は伊達家にいたとなってます。)
別にどっちでも構まいませんけど(紫桃氏の見解が誤りとして)、土居氏の
場合、「この伊達家の資料を覆すデータが」が必要になりますよね。
それ、あります?
それから、誤解されていますが、紫桃氏は宮城県の方ではありますが、仙台人
ではありませんよ。(宮城県の歴史、政宗ものずいぶん書いてるようですが。)
本来は仙北・桃生郡の、主に葛西・大崎家の歴史を発掘してる郷土史家ですね。
ここは政宗に、一揆軍もろとも殲滅・滅亡させられた征服地でもあるわけで、実質
「伊達家の馬打ち」領です。それで葛西一揆鎮圧時の政宗の首領の皆殺しなど、伊達
家にとっては封印したい暗部もずいぶん抉りだしてもいますね。
純粋な仙台人のように、政宗マンセーともいかんでしょ?
いい加減、佐竹厨が見苦しいな
普通の佐竹通などが可哀相になるくらい
ホント、公開オナニーは辞めてくれって感じ
>>207 > 別にどっちでも構まいませんけど(紫桃氏の見解が誤りとして)、土居氏の
> 場合、「この伊達家の資料を覆すデータが」が必要になりますよね。
> それ、あります?
そりゃ、土居氏本人に聞いた方が早いと思われ。
巻末に主要参考文献は挙げているが、普通に入手可能な事典類には土居説の裏づけは
見られなかったぞ。
漏れは秋田人じゃないので、現地の図書館にしかない一次資料や自治体史、地方出版物
までは見たことがないが、きっとその中にあるんじゃねーの?
国分盛重なんつーデボチカ野郎のことなんてどうだっていいだろうが。
このヅラ杉太郎康親ドモが。
だいたい土居は根拠の怪しいことも確定しているかのように書いてるんだよ。
やつの本にはそんな間違いがたくさんあるじゃねえかスットロ。
保源面すらマッチのスけってるんじゃ子えぞメソ。
>>211 > やつの本にはそんな間違いがたくさんあるじゃねえかスットロ。
具体的な事例が挙げられないと、単なる妬み呼ばわりされますよ。
> 保源面すらマッチのスけってるんじゃ子えぞメソ。
この行だけ意味がわかりませんでした。教えてください。
213 :
日本@名無史さん:04/11/18 18:35:46
「佐竹曙山」の本が出たらしいけれど、読んだ人、いる?
>>213 それは画集ですか? それとも評伝か何かの読み物ですか?
狭竹物部
217 :
日本@名無史さん:04/11/24 17:55:05
>>215 それは、全てあなたの思い込みです。
つーか、読んでもいない本を何故それほど偉そうに。
218 :
日本@名無史さん:04/11/25 15:37:40
219 :
日本@名無史さん:04/12/05 21:31:47
土居輝男氏の『常羽有情』(四巻・落花の巻)ブックオフで100円で購入した。
『東国太平記』や『会津陣物語』がソースとみられる箇所が多々あったが、
その他、気になる箇所があった。
@羽州街道を進んだもう一隊の上杉軍が上山城を攻めて
奇襲に遭い大敗を喫した日→1600年9月17日
A伊達政宗は最上軍の上山での勝報を9月19日に受け取り、
伊達政景を援軍として派遣した。
@上杉軍の上山(月岡)城攻撃は9月21日では?
A政景は17日には派遣命令を受けていますが、何か?
これも新説なのだろうか。。
負け犬佐竹。
東北がお似合いw
>>219 > これも新説なのだろうか。。
仙台人の捏造が次々青天白日に晒されているということだ。
222 :
日本@名無史さん:04/12/14 23:16:22
俺、水戸市民だが、大河で是非佐竹をやって欲しい。
というのも、今、水戸は光圀と斉昭とか水戸黄門関係ばっかで佐竹って殆ど無視されてる状態なんだよね。
でも、大河が決まった途端に市役所や観光業界が「佐竹、佐竹」って大騒ぎしだすんじゃなかろうかと。
それを生暖かくヲチしたいんだよねw
224 :
日本@名無史さん:04/12/16 15:24:05
>>223 当然原作は土居氏の『常羽有情』だな。
仙台人が丹精して捏造してきた歴史像を木っ端微塵にするようなドラマをキボン。
このドラマが始まると、日本中から伊達ファソは姿を消すくらいの勢いが必要だ。
>>224 『常羽有情』は突っ込みどころ満載だよ(笑)
226 :
日本@名無史さん:04/12/17 02:22:24
東北高校のメガネッシュこと鬼メガネはプロにいけなかったな。
わかったわかった。それじゃ俺が佐竹の小説を書いてやるよ。
来年中には仕上げてやるからな。期待して待ってろ。このイケメンとかチョコパフェども。
「義宣国替えの儀は、われら一代の間御免下され」と家康に懇願した
東義久は、謎の急死をとげている。佐竹家中では義宣の毒殺という噂
が立ったらしいが。この真実は何? 義宣がやったのか?
真実などわかりません。何の証拠もないですよー。
東義久の死については、『常羽有情』では1〜2行の記述しかないね。
なお、佐竹が秋田へ転封されたのも、すべて政宗の仕業になっている。
232 :
日本@名無史さん:04/12/20 00:59:44
ただいま、新人物往来社「常陸・秋田 佐竹一族」読書中。
700年=新羅三郎から義宣の秋田転封までを一冊ってのは、やっぱり無理があると思ふ。
233 :
日本@名無史さん:04/12/20 12:54:58
>>231 > なお、佐竹が秋田へ転封されたのも、すべて政宗の仕業になっている。
そのとおりですが何か?
234 :
日本@名無史さん:04/12/20 14:45:05
で、出羽久保田に転封を命じられた佐竹氏の
実際の石高は何万石だったんですか?
それと、俳優の佐竹明夫は関係者?
235 :
日本@名無史さん:04/12/20 15:25:13
>>223 秋田県は間違いなく騒ぎ出すな。
茨城は・・・北はともかく南は・・ね。
「佐竹」だけではマイナー扱いだけど、扱う時代は長すぎる(平安後期〜江戸幕末)し、
関わる地方は意外と広範だし(京都、関東、東北の3つは間違いなく関わる)
関わる有名人も結構多いし。
「武士の時代」の黎明から末期までを通して見るには最適かな。
236 :
日本@名無史さん:04/12/20 15:37:24
1601年、家康に年頭の挨拶すっぽかすところなど、義宣は脳天気な
二代目といえる。あの兼続、景勝でさえ頭下げてるのに。
237 :
日本@名無史さん:04/12/21 01:09:24
佐竹貞義・義篤は南北朝時代、一貫して尊氏側についていた。
結果的にその判断は正しくて常陸に勢力を回復することが出来たわけだが、一族の中で南朝にまわったヤツはおらんのか?
どうも「関が原西軍加担→出羽への国替え」の流れをマイナスに
捉える向きが多いようだが、漏れは『雪の峠』を読んでから考えが変わった。
庶民の「奥筋」蔑視は昔からあったが、支配者の目で見れば、
まず重要なのは第一次産業の資源の豊かさ。
山林・耕地面積・鉱山などから見たらむしろ栄転とさえ言える。
徳川も相手が佐竹だからこそ遠方に飛ばしつつも優遇したのだ。
常陸に居たままで東軍側について勝利しても、徳川に睨まれて潰されるのがオチ。
形だけ西について転封を狙ったという読みは穿っている。
典型的な戦国大名・オポチュニストの義宜らしい選択と言える。
それ以前の佐竹家もわざと負ける側について生き残ってきたのではないかとさえ思えてくる。
ただ戊辰戦争だけは勝つ側についてかえってババを引いた。
これは平田篤胤・佐藤信淵といった国学者や漢学者・根本通明らが
こぞって尊皇攘夷思想を鼓吹した為に中・下級藩士に「外様原理主義」が
根付いてしまった為だと思われる。外様なんてどうせ形だけ、損して得取れ、という
佐竹らしい処世術が継承されなかったのだ。なまじ学問を奨励したせいで
武力もないのに理屈だけ先行した勤皇の藩が生まれてしまったわけだ。
タテマエだけの「原理主義」はろくな結果を生まない。かくして維新後の秋田は損してばかり。
>>238 官軍についたものの、戦後の「版籍奉還」は、徒労以外の何物でもなかった。
このため政府への恨みが残り、秋田には革新勢力が根強いと聞いた。
241 :
日本@名無史さん:04/12/21 23:49:03
あと、佐竹の大河は諦めたほうがいい。
素材うんぬん以前より、今のNHK大河は韓流ドラマのデッドコピーと化しつつある。
エビジョンイルが居座る限りは。
いや、韓流ドラマ自体、90年代野島伸司風トレンディドラマの焼き直しみたいなものだから。
今大河になれば悲惨な内容になるのはみんな薄々感じているとは思う。
>>238 てか、北東北なんて気候的にはに基本的に人間の住むとこじゃないけどな。
ミジメな敗北の記憶を合理化しないと生きていけない。
かわいそうな人たちなんです。許してあげて。
245 :
日本@名無史さん:04/12/24 12:48:38
武田信吉が水戸藩主になって、たった1年で死んだのは佐竹の呪いでっか?
246 :
日本@名無史さん:04/12/25 06:20:29
来年の大河ドラマ、何かの手違いで内容もキャストも、
「義経」→「義重」になっていたら笑えるのだが。
247 :
日本@名無史さん:04/12/25 10:14:42
来年の大河、
源平時代を扱った従来のドラマ通り、頼朝による佐竹討伐は
いっさい描かれないに違いない。出るのは、せいぜい隆義の
名前だけ。
上京の意志のあった頼朝が、自分を担ぐ板東武者らの意向に
従って佐竹討伐に向かい、鎌倉に居座ることを決定する。
その後の歴史に大きな影響を与えた重大な局面なのに、佐竹
は無視されるに違いない。佐竹にとっても鎌倉時代を不遇の
ままに過ごすことになる重大事件なのに、無視されるに違い
ない。哀れなり佐竹。
248 :
日本@名無史さん:04/12/25 11:03:31
>>247 しかし、頼朝と義経の歴史的「黄瀬側の対面」と佐竹征伐は
セットで放映してもらいたいものだが。
尤も、その頃、義経は鎌倉で留守番してたから無理か。
おそらく「頼朝は常陸の佐竹氏を討伐し・・・」というナレーションが流れ、佐竹が頼朝の前で土下座する
ワンカットくらいで済ますと思われ。
あれ、藤原氏征伐まで潜伏してたんじゃなかったっけ?
251 :
日本@名無史さん:04/12/26 22:56:37
茨城県で御所ヶ丘という地名があるけど親王や公家、鎮守府将軍が、県内に入部したり起居した事跡のあるところってどれくらいあるのかな。
もしくは、県内で御所とつく地名や史跡ってどれくらいあるかな。古河御所は有名だけど。
三重県を探訪した時、鎮守府将軍の血を引く北畠家の“御所”が点在して格好よいなあと思って、、
わが茨城県には、御所がいくつあったのか。。
相変わらず下がってるな。
ところで義重の墓所ってどこなんだ?
エロい人教えてくれたまへ
253 :
日本@名無史さん:05/01/12 13:00:47
天徳寺からどっかにうつったらしい
久保田城ってしょぼいね
工エエェェ(´д`)ェェエエ工?
257 :
日本@名無史さん:05/01/16 08:11:27
何考えてんのかな、秋田人は。
久保田城跡(石垣ないね)に建ってる銅像、てっきり佐竹義宣かと思ったら、
第12代藩主・初代「秋田県知事・佐竹義堯銅像」
だと……
>>257 糞同盟との共倒れを防ぐために、最良の決断をした不世出の英傑ですが何か?
佐竹氏を大河ドラマに。
炎立つみたいに何部かに分けて。
1.新羅三郎義光が後三年の役に行く
2.頼朝が挙兵したときに、合戦になる
3.人取り橋の合戦で伊達政宗と争う
4.出羽転封。久保田城に入る
5.平賀県内を呼ぶ。銀山の開発、秋田蘭画
6.戊辰の役。奥羽越列藩同盟に入るかどうかで迷う
7.秋田市長選挙。
>>260 「上杉謙信と同盟して、北条氏康と戦う」を挟めばいい。
秋田人の建前:糞同盟との共倒れを防ぐために、最良の決断をした不世出の英傑
真実:同盟を混乱させ崩壊に導き、自分だけ助かろうとした只のヘタレ
>>264 それは、全てあなたの思い込みです。
つーか使者を誅殺されたくらいで僻むなよ仙台人。(w
秋田県知事・佐竹義堯
官軍についたものの「廃藩置県」で骨折り損のくたびれもうけ。
だったわけだな(w
267 :
日本@名無史さん:05/01/19 20:33:07
>>260 「足利尊氏に協力し北朝勢として戦い殊勲を上げる」・・・・南朝マンセーの世間から叩かれまくるな。
PHP文庫で「佐竹義重」ってのが出てるンだねぇ。
誰か読んだ人,感想希望。
269 :
日本@名無史さん:05/01/20 09:46:19
>>268 俺も気になってる!立ち読みじゃ中々内容までは…。
感想キボウ!
270 :
日本@名無史さん:05/01/20 13:01:41
PHP文庫で「佐竹義重」
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
近衛 龍春
1964年、埼玉県生まれ。大学卒業後、暫しオートバイレースに没頭。
その後、通信会社勤務を経て、フリーライターに転職。
『時空の覇王』(ベストセラーズ)で作家デビュー
近所のコンビに程度の大きさの本屋に売ってました。
新刊なので置いてあったんでしょうな。
はっきり言って小説としてはかなり疑問が残る感じ。
ちょっとした間違いも多い。
例えば開幕直後いきなり家臣の小田野と小野崎を混同している。
もっともPHP文庫の小説はみんなそんな感じだけどな。
三戦板の佐竹スレにも感想があるが、
「小説というよりはガイドブック」という意見に賛成。
同感。でも全部読みましたYO
273 :
日本@名無史さん:05/02/13 01:02:58
1.新羅三郎義光が後三年の役に行く
2.頼朝が挙兵したときに、合戦になる
3.上杉謙信と同盟して、北条氏康と戦う
4.人取り橋の合戦で伊達政宗と争う
5.出羽転封。久保田城に入る
6.平賀県内を呼ぶ。銀山の開発、秋田蘭画
7.戊辰の役。奥羽越列藩同盟に入るかどうかで迷う
8.秋田市長選挙。
274 :
日本@名無史さん:05/02/21 21:13:12
秋田市長が戦国大名だったら天下をとっていたろうか
275 :
日本@名無史さん:05/03/01 13:02:46
徳川は佐竹を激しく嫌って街道とかの整備を許さなかったとか
いう話があるけど。ガセなの?確かに秋田への道は今でも悪いが。
外様はやはりだめだ。あんな徳川のようなやつがいたから地方分権がなくなった。
単にろくな政治家がいなかったからでは 村岡さん秋田でしたか?
>>275 佐竹は清和源氏なので、出羽の半分しか持ってないけど、一応国持ち大名として遇した
と、聞いたことがあるぞ。
あと秋田への道が悪い?新潟と比べたらね。
相馬から養子が入ったんで今は平朝臣です。
こりゃ、おじさん一本取られたなぁ〜ハハハハハハハ
出羽半分もない
>>275 そうか?
大きい外様大名のいたとこは結構いい文化残ってるところが多いと思うけどなぁ。
秋田 金沢 仙台 米沢 薩摩 山口
282 :
日本@名無史さん:05/03/02 16:28:58
283 :
日本@名無史さん:05/03/02 17:55:00
文化シャッターならあるよ
284 :
日本@名無史さん:05/03/02 17:58:49
佐竹本三十六歌仙、スゴイじゃないか。
285 :
日本@名無史さん:05/03/02 18:02:32
秋田蘭画ってのもあるしな。
マイナー過ぎ。
そういうのはたとえるなら雑な品質の糸が一本あるだけ。
いくつもの糸が存在し、寄り集まり、布面をなして鮮やかに文様を浮き為す。
こういうレベルにはとても達しない。
一本しかないから雑な糸にすら逆に名が与えられる。
そういうレベル。
>>286 > いくつもの糸が存在し、寄り集まり、布面をなして鮮やかに文様を浮き為す。
で、三都(江戸・京都・大坂)以外にそのレベルに達している地域がどれだけあるのでしょう?
ご教示いただけると幸いです。
確かに秋田には文化というほどのものは無いね。
あるのはアル中文化や自殺文化くらいじゃないか?
白神山地の一件(昨今の新市名のごたごたも含めて)を見れば
秋田に文化が一欠片もないことは小学生でも解りますよ
290 :
日本@名無史さん:05/03/10 12:02:51
秋田家が石高詐称してたおかげでそこそこの大名として残れたラッキーな家。
西軍で秋田に飛ばされるも秋田は秋田家の検地では5万石
家康としてもそれぐらいの小大名に落とそうとしたのだろう。
ところが秋田は実収20万石。
結果出羽の外様大名のおものとして残ってしまった。
逆に東軍の秋田実季は転封で5万石にこれは本当に裏表なしの五万石だっため
東軍で買ったのに大幅減封という自業自得というかなんというか、ねぇ?
正直に生きたほうがいいんですかね。
かつては三戦板よりも日本史板のほうがレベルが高かったものだが、
>>290のような痴呆が蔓延る糞板になってしもうた。
292 :
日本@名無史さん:05/03/10 19:28:35
↑って反論ですらないよな、言わば「釣れた!」って言うのと同意って感じ
顔真っ赤にして「悔しい!!」って思うんだけど付け焼き刃の知識を振り回すとさらに突っ込まれる
それが怖いから内容に触れない煽りになるんだけど冷静じゃないから他人にバレバレ
294 :
日本@名無史さん:05/03/11 13:39:17
↑に文句つけても全く意味ないから止めたほうがいい。
前からいる知恵遅れでこれしか言えない。
出羽の佐竹の領地は、旧秋田領、旧戸沢領、旧浅利領、旧小野寺領等々を含んでいる。
家康は、佐竹の石高は二十万石前後がよろしかろうと思っていた。
ちなみに秋田の(実質の石高が)二十万石あったというのはかなりいかがわしいソース。
ネットで探すと、秋田領二十万石みたいなのがたくさん見つかるが、
これは直江兼継の米沢領が三十万石だというのと同じような勘違いであると思われる。
>295
おまえうざい
名門大佐竹といえども秋田に流されてはおしまい。
土民と交わるにつれその形質も劣化していった。
>>297 何しろ、江戸時代最後の当主は奥州の土民、相馬から養子入りしてるからな。
押しも押されもせぬ土民だよ。
299 :
日本@名無史さん:05/03/14 19:34:57
現在の当主は明治天皇の子孫なんだね。
女系の女系だけど。
300 :
日本@名無史さん:05/03/14 20:10:54
名門大相馬といえども福島に流されてはおしまい。
土民と交わるにつれその形質も劣化していった。
302 :
日本@名無史さん:05/03/15 22:32:14
秋田人には何の関係もないだろ。
秋田ではダメだろ。秋田では。
今の秋田を見てもわかる。ダメすぎ。
305 :
日本@名無史さん:05/03/16 23:57:12
age
306 :
日本@名無史さん:05/03/18 14:58:02
家の近所に咳の神様といわれる祠がある。
風邪を引いて咳がひどいのでを拝んできた。
佐竹国替えの後水戸城奪還奪還を図り処刑された車丹波守噴根の地と書いてあった。
とんだまがいものに頭をさげてたわけだ。
かわいそうにw
咳の神様というからには咳がとまらなくるのがご利益だろう。
紛い物で良かったなw
309 :
日本@名無史さん:05/03/18 23:34:40
昔々、隠れていた侍(車丹波守)が咳をして見つかり、捕縛されたから、咳の神様として祀られたんだと、祖母さんが話していたな。幕末には吉田松陰も参拝していた。戦前まで縁日には大した賑わいだったそうだ。今は参る人もいない。
あぁ、だから車寅次朗は啖呵を切る訳か
>>309 吉田松陰で箔をつけるのか。
情けない神様もあったもんだなw
やっぱり咳が出るんじゃねえか。
>>306はとんだトンマだな。風邪引いてるのに寒空の中、見当違いの行動w
313 :
日本@名無史さん:2005/04/06(水) 10:56:59
義宣の養嗣子とされた義直が廃嫡されたのは、実は切支丹絡みだったから。
居眠りとかのエピソードはそれを糊塗する為だと思う。
義直は北家を経由しており、北家は切支丹が盛んだったらしい。
禁令の切支丹に関わる義直を当主に据えたら、佐竹の改易は間違いなかった。
義宣はお家大事と、廃嫡した。
大河ドラマでは、頼朝と合戦してくれるんだろうか?
>>313 できればソースPLZ。
煽っているわけではないぞ。
義直の廃嫡の理由がどうも解せないな。「居眠り」だなんて、まるで志村の馬鹿殿状態。
「病」とかそれなりの理由をつければよいものを。
義直に対する佐竹家の相当な悪意を感じるな。
>>316 >>131に書いてある通りじゃないのか?
元々器量に疑問があったのだろう。
廃嫡した後は出家させられて僧侶になってるし。
>>316 というか、わざわざ義直の居眠りを義宣に教えたことになっている政宗への悪意だろ。
319 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 12:06:06
佐竹家と深いつながりのあった天海主催の行事での居眠りだったから大事になったんじゃなかったっけ?
(うろ覚えだが)
320 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 12:09:31
>>207 一回出奔したあと、第三者の仲介で伊達家に復帰したんだよ。
322 :
日本@名無史さん:2005/04/10(日) 19:09:13
>>321 それを言ったら国分盛重の出奔が一回だったという根拠は?
325 :
日本@名無史さん:2005/04/13(水) 18:53:51
>>49逆に分家が上杉。本家が徳川だな。
>>301相馬の嫡流が絶え、上杉の分家となった佐竹家の分家となった。で、今に至る。
326 :
日本@名無史さん:2005/04/13(水) 19:47:26
相馬長門守益胤はいまに続く大富豪の基盤を築かれた英邁な君主であるニダ
327 :
313:2005/04/17(日) 04:07:53
>>49義憲(義人・義仁)が山内上杉家より入嗣する以前の分家した一門衆は男系の義光流と言えるでしょう。
>>325徳川は義家流の新田氏の末流得川氏を無理やり先祖として清和源氏を称えた。だから徳川は義家流。
>>315複数の本で読みました。再度読み返してみます。しかし、その本2冊を引越しの際何処かにしまい込んで…
328 :
日本@名無史さん:2005/04/17(日) 15:44:04
佐竹が水戸の美人を秋田に連れ去ったから、
水戸はブサイクが多いとか、秋田は美人が多いと言われるようになったのだろうか。
逸話でしょ
そんなこと言われたら秋田もイイ迷惑だ。秋田美人ぐらいしか戦えるものないのにorz
330 :
日本@名無史さん:2005/04/18(月) 00:19:37
今年もさ・・・なんだっけ。さ・・た・け?
さたけは大河に出れませんでした(プ
小田は出まくりだぜ。
331 :
日本@名無史さん:2005/04/18(月) 00:27:41
今日の義経、佐竹討伐があっさりとかたずけられていた。
332 :
日本@名無史さん:2005/04/18(月) 06:00:11
台詞で「佐竹を討つ」とあっただけね。
333 :
日本@名無史さん:2005/04/18(月) 09:34:57
先祖の義光と同族の武田も台詞だけだったな
334 :
日本@名無史さん:2005/04/19(火) 06:33:37
やはり佐竹の大河は無理か!
335 :
日本@名無史さん:2005/04/19(火) 11:53:33
336 :
日本@名無史さん:2005/04/19(火) 20:51:09
武田は四菱の旗が出てた
337 :
日本@名無史さん:2005/04/21(木) 12:52:44
佐竹って途中で上杉から養子貰ってるよな。
藤原氏みたいになってしまったわけ。
義光流の佐竹氏は残ってないの?
>>337 Y遺伝子が残っているかどうかってこと?
340 :
日本@名無史さん:2005/05/01(日) 22:16:31
自前で大河のサブタイトルを考えてみるつーのはどうよ。
「佐竹義宣」でくくれば、一番面白い時代だろ。
出生から逝去までだと、義重の時代も描くことになる。秀吉・石田三成を
からませて、徳川との関係(小山評定での花房助兵衛の話とか)を絡ませて
一大左遷ものがたり(おっとっと)。
さぁ、第一話はどうする?。
※もし、佐竹が東軍に加担していたら・・・の「そのとき歴史が動いた」も
見てみたいなっと。
341 :
日本@名無史さん:2005/05/01(日) 22:22:04
補足:水戸の博物館(?)で見た、芋虫とからすの羽で作った前立で
ぜひとも戦場を駆けてほしい>>義重。
なんとなく、かっくいーー。
342 :
日本@名無史さん:2005/05/05(木) 23:39:52
>340
京女5人衆はべらせてバカ殿気取ったのがいけなかった。
そいつらから性病移されて、正妻も側室も跡継ぎも逝っちゃった。
悔やんでも悔やみきれない・・・。
正室が若くして自害したのはその辺が理由なの?
やっぱ性病の武将の正室側室ってみんな性病うつされてたのだろうか。
妻の実家がぶち切れたりしなかったのだろうか。
性病がどういう病気と認識されてたか調べれば?>344
346 :
日本@名無史さん:2005/05/12(木) 23:27:44
近世佐竹氏、近世岩城氏、そして近世相馬氏って山内上杉の男系子孫なんですね、最近知りました。
現在まで男系で続いているのは、相馬氏だけでしょうか。しかし、米澤上杉氏が男系では長尾、後に吉良、旗本上杉家は畠山なのに、一方で山内上杉の男系子孫大名が三つもあるなんて
347 :
日本@名無史さん:2005/05/13(金) 01:07:37
小田氏が敗れ佐竹一門が城主となった時、
周辺の人々はどのような気持ちで新しい城主梶原氏を迎えたのだろうか。
348 :
日本@名無史さん:2005/05/13(金) 05:35:47
佐竹南家の嫡流の方(佐竹義宏氏)が書いてるHPあるよね
350 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 02:07:00
記憶が定かでないんだが、確か上杉謙信が小田原城を攻めた時(永禄四年だっけか)に、なかなか落とせなくて、周囲の人が、
どういう形で撤退にもっていくか・・・と悩んでいた時、佐竹義重が謙信に
「イセ(後北条)のヤシラも相当参ったみたいですし、ここは関東管領のご威光は十分発揮されたかと・・・」
って感じで謙信をなだめたエピソードが好きだ。(ほんとうは全部ヤラセかもしれんが)
イセとあれだけ喧嘩してきた鬼義重が言うんだし・・・みたいになったんじゃなかろうか
351 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 06:46:17
初めまして、私は、大給って名前なんですけど、何かわかりますか?自分の家系(過去からのもの)が、気になるんですが・・・
よかったら、教えて下さい!
352 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 09:40:37
15611 大給 約340 大名大給松平家は三河国賀茂郡大給邑発祥、清和源氏大給松平氏。
永禄四年頃の佐竹が北条と本格抗戦してたっけ?
>>353 してない。本格的な抗争は元亀に入ってから。
上杉が北条と同盟したので、渋々北条と戦う羽目になる。
355 :
日本@名無史さん:2005/05/17(火) 06:51:29
先週の大河で、「源氏は全国に居るが、木曾の義仲 尾張の行家
遠江の範頼 甲斐の武田 常陸の佐竹が居る」
「頼朝が西の軍を動かせば佐竹に不穏な動きがある」
それほど頼朝は佐竹を恐れていたのか?
356 :
日本@名無史さん:2005/05/17(火) 12:36:15
僕は大好きカレー
ママは大嫌いカレー
>>355 > それほど頼朝は佐竹を恐れていたのか?
そうなんじゃないの?その後頼朝はわずか2代または3代で滅んだけど、
佐竹は現代までつづいたわけだしぃ。
五本骨の扇に丸印ってのは、頼朝から賜ったんだっけ?
359 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 09:44:59
>>357 つまり頼朝は自分の子孫が二代で絶えて、かたや佐竹はずっと続くことを知っていたがために佐竹を恐れたわけだ。
この場合、どっちが凄いのだろう。佐竹?頼朝?
そりゃ頼朝でっしゃろ 役小角やろか
361 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 17:37:29
エスパー頼朝
362 :
日本@名無史さん:2005/05/25(水) 12:49:52
やぁやぁ我こそは清和源氏より下りし数十代 蝦夷志苔館主小林良景下りし二十二代 小林某なるぞ いざ勝負せよ!・・・といったところで松平+前田=松前みたいな日和見の権化に打ち破られて家臣になってしまった当家より腐っても佐竹、伊達の方がうらやましいわ
所詮六十五石二人扶持 やれ石高が二十万、三十万の話は雲をつかむようなお話 秋田も仙台も盛岡もいいよ 米とれるから 昆布だけじゃどうにもならないわ
>>362 アイヌ(今はこの言い方はまずいのかな?)とぁゃιぃ貿易してたじゃん
ま、その分野でも島津には負けるかも知れないが
岩城家の御当主が先月亡くなられたそうです。
地元新聞の訃報欄に載っていました。
365 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 00:29:36
>>355 正確には、佐竹の背後にいる奥州藤原氏・藤原秀衡を恐れていた。
当時佐竹家は秀衡の娘の一人を嫁に迎えて、奥州藤原氏との結びつきを強めていた。
一方で京の伊勢平氏・平清盛とのコネクションも強くしていた。
鎌倉牽制のためとはいえ、常陸介を受理できたのもその成果。
366 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 18:05:55
そうかな?
367 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 19:00:47
上野の佐竹商店街で買い物します。
368 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 17:17:35
秋田藩御家中の名簿、何処でで如何したら見られますか?
市長に当選おめでとうございます。
天コ寺の佐竹家の御廟が傷んでいるとか。
修理してはいかがですか?
龍ヶ崎市って信太郡と河内郡どっちだろう?ふとわいたこの疑問。
市史持ってないもんで県史中世編を引く、信太荘については記述があるが河内郡はない。索引を見てみる、土岐(原)氏は項目もない。
悩んだ挙句、臼田文書見たらなにかあるかもと思い史料編を引く、出てるわけない。
どうすっぺとペラペラ捲ってたら、概説のところにありました。龍ヶ崎市は河内郡。
疲れた。チラシの裏に書くようなことをダラダラ書いたが、市制になっても旧郡を表示してほしい。
371 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 20:12:56
佐竹氏の凄いところは
372 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 20:55:23
家康が嫌いだったから国替えさせられた佐竹。
373 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 08:23:26
佐竹氏ゆかりの史跡巡り13キロ 全国歴史ウオーク
■来月2日
日本ウオーキング協会関東甲信越ブロック協議会など主催の
「全国歴史ウオーク2005第七回太田城・佐竹義重」が七月二日、
常陸太田市内の佐竹氏ゆかりの史跡を巡る十三`のコースで行われる。
主管する同ウオーク県実行委員会では「地域の歴史を学び、ウオーキングを
楽しんで」と市民に参加を呼び掛けている。参加費は大人五百円、高校生以下二百円。
事前申し込みはファクスかはがきで川上さん〒311−4143
水戸市大塚町九九三ノ七、ファクス029(251)3246へ。当日参加も受け付ける。
374 :
歴史博士(自称)つーさん:2005/06/26(日) 09:32:18
そういえば佐竹氏の祖先、佐竹義業は武田氏の祖先、武田義清とは
兄弟関係らしいよ。
375 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 10:31:00
376 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 00:39:03
神田にある佐竹稲荷って?
377 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 02:01:05
河内郡と信太郡は何回か郡域が変動。河内は筑波国(紀国とも)から分かれ 信太は印波国(のち下総印旛郡)から分かれる。龍ヶ崎は始め信太、のち河内郡。稲敷郡は信太全域と河内東部が合併。稲敷は龍ヶ崎(中心部)の古名。
378 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 02:02:17
上杉家から養子が来たから藤原氏だろ。
379 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 12:45:34
その上杉家は長尾景虎が継いだから桓武平氏鎌倉流。→吉良が嗣いで清和源氏足利流。エトセトラ
380 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 02:40:59
姐己のお百のモデルになった事件ってあったんですか?
381 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 11:40:53
>>380 どうかな?わたしも知りたい。ぐぐっても良く分からないし。
姐己は古代中国の人だよね?
382 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 18:57:28
>>371 江戸時代の家格が国主大名だった(国主18家)
一国一円十二家(前田、島津、毛利、池田、蜂須賀、黒田、浅野、備前池田、山内、宗、藤堂、松江松平)
大身六家(伊達、細川、鍋島、有馬、佐竹、上杉)
華族制度で侯爵になった(大名)
紀伊徳川 尾張徳川 水戸徳川 (御三家)
前田家 細川家
黒田家 浅野家(広島)
池田家 池田家(鳥取)
蜂須賀家 山内家
鍋島家 佐竹家
ちなみに公爵は
毛利家 島津家 徳川宗家
伯爵は
伊達家(仙台)伊達家(宇和島)上杉家..... など30家以上
ただし、宇和島伊達は、熱心な運動をした結果、その後に侯爵に昇格している
鮮貴族令(明治43年皇室令第14号)により朝鮮貴族にも爵位が授けられるようになった。
公>侯>伯>子>男
383 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 23:50:11
>>380 「銀札騒動」だと聞いているが・・・講談の「姐己のお百騒動」はどういうストーリーなのかわからん・・・。
佐竹宗家は南北朝では北朝側、幕末では朝廷側だったもので、どうも歴史講談作る側としては、やばい話になりそう・・・。
384 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 07:12:17
アイン アイン アイン アイン アイン アイン アイン アイン アイン アイン アイン アイン
アイン アイン アイン アイン アイン アイン アイン アイン アイン アイン アイン アイン
アイン アイン アイン アイン アイン アイン アイン アイン アイン アイン アイン アイン
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アイン アイン アイン アイン アイン アイン アイン アイン アイン アイン アイン アイン
385 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 21:34:05
アイン だけか
386 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 23:29:30
アイン ツヴァイ ドライ フィアー フュンフ ・・だったっけ。
常磐線、宴会列車と揶揄されているけれど、その土台はだれが作った?
茨城人って、列車内で宴会するんですか?
387 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 05:59:13
いばらぎは関東の孤島なので、他に見られて恥ずかしい思いしません。
388 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 10:44:34
佐竹藩は藩主が絵が上手かったそうだが、
俺の高校時代のド低脳のデブのキモオタはそいつの子孫らしい
五歳児の画を良く描いていた
そこしか、共通点ないね
家が朽ちた
389 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 10:56:01
訂正 高校時代にいたデブ
>>388 うまい人も居た。平賀源内に習ったんでしょ?蘭画を。
あと、藩士で小田野直武だったかな?も。
で、解体新書の挿絵を描いたんじゃないかな?
殿様の絵には名前が書いてあるけど曙山源義敦と書かれていたような記憶が。
やっぱ、いざというときは、源氏なのね。
391 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 02:12:13
>>390 戦国時代、義昭は関東管領職はもらうが、藤姓上杉は要らないと言った。
数代前の義人は上杉からの養子だったが・・・。
やはり、武士には「源」「平」のネームバリューの方が強い。
392 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 05:06:06
>>84は三十年代生まれなのに両親は戦後生まれなんだ。ふーん。
393 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 07:46:41
へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜 へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜 へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜 へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜
394 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 01:34:00
>>392 日露戦争のことだろ。きっと京都人をまねたんだよ。
395 :
佐竹明夫:2005/09/07(水) 01:54:02
常陸から出羽久保田に転封させられたとき、その段階では出羽領の石高を決まって居なかったそうだが…
396 :
佐竹明夫:2005/09/07(水) 02:07:11
徳川幕府は佐竹を何万石のつもりで出羽へおいやったのでしょうか?
397 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 09:10:43
クソスレであげないといけないのはわからんでもないが
さげていこうぜ。
398 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 10:02:49
嫌だ
15万石程度は見込んでたんじゃないの?
家康は源氏優遇したし
佐竹は減封遅れたように
領地減らされるような明確な理由もなかったしな
秋田(公称5万石=実は倍以上)+小野寺(3万石)+戸沢(4万石)で12〜15万石くらいのつもりでは?
上杉や毛利が1/4くらいになっているのでだいたいそんな積もりだとか。
佐竹の減封遅れは、佐竹義久がいたからだ
彼の死後に減封
402 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 16:41:14
403 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 17:11:47
川井って?
北茨城大隅守
常陸太田右京大夫
常陸大宮中務大輔
日立周防守
東海越前守
ひたちなか但馬守
かすみがうら摂津守
つくば天庵
つくばみらい中務大輔
筑西蟠龍斎
桜川安芸守
小美玉宮内少輔
↑筑西蟠龍斎・桜川安芸守以外はちょーアホっぽくね? 常陸太田・常陸大宮は室町以前ならアリな表現ていやあアリだけども。
↓それなりに味わいがある。
高萩掃部助
十王山城守
那珂下野守
結城中務大輔
下妻修理大夫
土浦伊勢守
石岡清幹
鹿島又六郎
鉾田通幹
行方治部少輔
潮来左衛門尉
江戸崎美作守
龍ヶ崎左兵衛尉
牛久治部少輔
笠間長門守
ひ〜、十王町も江戸崎町ももうないじゃん。鹿島も鹿嶋だしさ。
稲敷美作守、鹿嶋又六郎となるわけすね。そんで城里遠江守、と。
ところで、佐谷のある千代田町が石岡市ではなくかすみがうら市とはこれ如何に。
地図だけ見てると、そのうち木原をようする阿見町・美浦村までもが土浦市に編入されそう。
406 :
田安斉匡:2005/09/14(水) 16:12:37
佐竹は常陸54万石から出羽久保田に15万石格で転封を命じたというわけですね。
だけど、秋田秋田城介が石高を過少申告していたのが幸いして21万石だった、と。
407 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 02:00:39
佐竹好きな香具師は伊達(特に政宗)は嫌いでつか?と聞いてみる。
408 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 18:38:02
佐竹は皇室と縁戚関係が無いね。
>>407 別に。私、むかし、本籍地&出生地は秋田だった。
でも生まれてすぐに父の仕事の関係で仙台に。
だからどっちも好きだよ。
東北人全体の一般意思として、まず秋田を糾弾することから始めようじゃないか。
俺はみとっぽだけど、秋田は好きですよ。
>>410 佐竹を語るスレに君みたいな岩手人はいらないから
413 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 21:41:45
佐竹の旧臣で秋田への途上、他の家に仕官した家も相当ある。私の一族は嫡流
は常陸に残り、庄屋になったが、他は、山形で鳥居家に仕官し、その取り潰し
後、保科に仕官して、会津にいき、幕末、一方は、勤皇、一方は佐幕になって
京都・江戸等で走り回った。また、酒井雅楽頭家に仕官し、後、姫路に行った
のもいる。そこには、佐竹家臣として秋田についていった国安氏の女が嫁いで
いる。
三戦板の「佐竹義重」dat落ちしちゃってるけど、273・274の話はどちらが正しいんでしょ。
一部引用しときます。
>273(佐竹の領地は山岳地帯が多いため大きな勢力ではないんじゃないかっつー271へのレス)
>近代日本の農業をみると、平地に田畑を作るのが一般的だが、
>中世の田畑は多少傾斜のある場所が好まれたようだ。
>理由は言わずもがなだが、水の通りが良いため。
>傾斜地だと上から流れてくる水をそのまま開いた田んぼに流すだけだが、
>平地だと灌漑に大きな労力がかかる。
>274
>大子、水府、里美、北茨城、高萩、日立、山方、美和、緒川、御前山
>この地域は本来の佐竹の領地の7割ぐらいを占めているが
>現代ですら田はほとんど無い
>特に山入氏の領地である里美、水府なんて田は皆無に等しい
415 :
佐竹旧臣末裔:2005/10/12(水) 23:58:40
佐竹公 万歳!
>>414 実際その地域は田はほぼなかったね
江戸期を見ても雑穀などがメインになっている
近代になって多少開墾されたが今でも少ない
何より水が冷たく山は岩盤の上に砂利が堆積したような土地だからね
コンニャクや蕎麦ぐらいにしか適しない
今となっては名産になったけど
417 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 18:21:52
茨城でも北の方だからね。
農業より八溝山地からの金発掘が収入のメインだったんじゃないの?
418 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 19:44:19
419 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 20:23:22
>>419 へ?
松平家からの入り婿と聞いていたが?
縁戚も何も佐竹自体天皇の子孫なわけで
それはちがうべ、藤原氏だもん
422 :
佐竹常陸介旧臣:2005/10/15(土) 13:18:58
あくまで家観念で考えて420の言うとおりだろ?もっとも、その佐竹の系図が
本当ならばだが。嫁の実家のダイジョウ氏の兵を借りたって言ってもなぁ。
本当かよって感じだな。それいったら佐竹だけじゃなくほかもそうだけど。
ちなみに、私は佐竹義重公の旧臣、○○和泉守の子孫、常陸残留組です。
母の実家は東義久の臣、やはり、兄弟で一方は秋田にいって一方は常陸残留
です。
義人(竜保丸)は山内上杉憲定の子でしょ。
すなわち冬嗣〜北家藤原でしょ。
424 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 13:31:31
>>423 ですね。でも佐竹っていう家は清和源氏流でしょ?社会通念上、日本
では血統ではなく家観念でいうんじゃないでしょうか?どうなんだろか。
>>424 義昭が上杉からの管領就任要請を断ったように、家としての意識はバリバリの 清和源氏 ですね。
私個人は義光以来の、源氏の血が絶えて非常に惜しいと思っています。
426 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 16:31:21
江戸期に存続した大名家としては
一番源氏の本筋に近い家じゃないか?
細川がおるべや
細川は大分離れてるんじゃないか?
それに肥後細川は管領の細川の直系ではないよな
細川幽斎の父三淵晴員は細川元有の子、細川氏の流れです
源氏の本筋〜頼朝に近い…義光より義家〜義国かなと思いますが
佐竹時代の水戸城ってどんな風だったんだろう
432 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 21:01:07
433 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 21:07:38
>>425 途中で上杉家から養子が入ったって説もあるぞ。
例の管領職譲渡のとき、
この上、上杉まで名乗ったら完全に佐竹が消えてしまうって理由で断ったって話も。
おれの手元の資料にも、養子が入った形跡のあるのがある。
それと、佐竹家に関しては、「寄生獣」で有名な岩明均が漫画かいてたよな。
>>428 もともと、足利と佐竹は同格に近い家柄だし、足利傍流の細川とでは
比較にならないと思う。
それに
>>429のいうように細川幽斎は細川傍流の姓を冒してるわけだから。
436 :
佐竹宇都宮連合:2005/11/07(月) 19:43:29
>>433 それはもうわかった上での話ですよ。さかのぼって読んでね。
>>434 血としては、佐竹は藤原になってるからね
血であえていえば細川って言いたいんじゃないかな
竜保丸は婿養子とは違うの?
正妻は誰?
婿だが義盛の娘は手元の本では単に女、
義人の嫡子義俊はこの女とは系図上繋がっていないのが確認出来るだけ、
申し訳ないです
義宣は派手好きだったのに地味な佐竹家
441 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 12:14:39
age
小田城で池の遺構がみつかったらしいんだけど、どこの板・城関連スレ等を見ても話題がない。
う〜ん、なんかもっと古い時代の奥州藤原氏の遺跡からも、もっと大きな池の遺構が出てるらしいし、しょうがないのかな。
ま、とにかく、鎌倉の幕末に万里小路藤房が小田氏に預けられてたことがあったと思うけど、あれも京の貴族に見せても恥かしくない程度の館を持ってたからとかが関係するのかな。
ただの縁故?
444 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 01:25:55
かつて「佐竹800年」をNHK大河ドラマに・・・と考えていたが、
電通のイタさ、犬HKのヘタレを見るにつれ、やらないでよかったと思うように・・・。
来年の大河で、NHKの「大河商法」に地方から抗議がでています。
445 :
444:2005/12/06(火) 01:27:14
447 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 21:07:25
噴火があったからという理由で参勤交代免除申請して、すんなり認められたのって佐竹だよね?
そして噴火なんて真っ赤な嘘だったという話なんだけど
448 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 21:11:10
>>443 ついでにご近所の真壁城では能舞台跡が発掘されたみたいだね。
由緒ある真壁郡真壁町もついに桜川市になって残念だが、同県には、
桜川村ってのがあんだよね。ややこしい。
水戸にも、桜川があるし。。。
町村合併のお陰で全国的に由緒ある市町村が消えていく…
しかも新名はふざけた名前や最低のセンスのものが多い
嘆かわしい
常陸大宮市とか?
やっぱ最低は元祖つくば市かなあ
ひらがなのは最悪だな、カタカナなんて言語道断
歴史や文化を破壊しようとしてるとしか思えん
んっ!これはやはり…
茨城でいうと古河、結城、石下あたりは歴史のある街だし
なんとか残って欲しい
ちなみに常陸大宮市は旧名部垂村(ヘタレ)
佐竹一族の部垂氏が支配していた
ヘタレ村にヘタレ一族にヘタレ城…
これは名称変えてよかったかも…
ちなみにこの部垂氏
自儘な振る舞いが多く、主家の方針にも従わない事が多かった為
佐竹義昭に急襲されて滅亡している
突然の襲撃に対応できず、城内に数人しかいなかった為
ろくな抗戦もなくあっけなく落城した
ヘタレって言えばヘタレかも…
455 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 13:08:45
土浦城と木田余城は別物?
456 :
雲黒宰:2005/12/14(水) 22:28:21
うむ。
某MHKエンタープライ○がへたれだから、いきなり佐竹は難しいだろう。
まずは北条からはじめ、からみで佐竹をサブメインで扱うことから、始めたら成功の部類に入るな。
えびちゃんが「徳川慶喜」やっちゃったしね。
森首相で「利家とまつ」、小泉首相が「北条時宗」で、次の首相候補が安倍(山口)・麻生(福岡)・谷垣(?)・福田(群馬)っしょ。額田がなればあるかもね。
関東ネタだと、福田さんに首相になってもらって上杉憲実あたりが現実的なんじゃない。原作あるのかは知らないけど。
458 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 00:49:37
あまり広範囲だとややこしくなるから
やるなら義昭、義重、義宣3代が限界だな
個人的には平安〜室町が見たいが
459 :
雲黒宰:2005/12/16(金) 00:25:33
案外、佐竹義久と直江兼続のコラボレートも面白い!
是非やってほしい。結構うまくいくと思うな。
460 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 00:34:28
ヘタレさんの子孫はいないの?
461 :
雲黒宰:2005/12/16(金) 00:38:06
山入さんか?
462 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 01:21:10
ヘタレは断絶したよ
ヘタレ義元の子だか孫だかが家臣に守られて落ち延びたという話しがあるが
あくまで言い伝えでしかないから信憑性は薄い
義元って名前は不意に落命するようだな
464 :
日本@名無史さん:2005/12/19(月) 22:21:16
鎌倉・江戸期の「負け組」?な雌伏時期。
室町・幕末期の「勝ち組」?の理不尽。
どっちに転んでも、苦労は絶えない。
>>456 北条がらみ・・というより「北条」「武田」「上杉」の関東三国志でも面白いかも。
上杉管領の内紛に愛想をつかして、ついに自ら関東の覇王を目指す伊勢新九郎こと北条早雲を曹操ちっくに。
北条と丁々発止の干渉の末、同盟結んだ佐竹の同系(義光系)の武田信玄。
信玄のライバル越後の上杉謙信が何故「関東管領」を名乗れたのか、佐竹がらみでないと説明つかないし。
その中で佐竹は上杉が越後にこもっている間は関東管領総代?となって北条と組合って・・。
当然北進政策も出てくるため、北の岩城・相馬・田村・芦名・伊達氏とも絡んでくる。
後半になると今度は「伊達政宗」も登場してくるから、ますます関東・南東北はわけわかめ。
そしてクライマックスは秀吉の小田原攻め。
まあ、後日談として、「関が原」&「大阪冬の陣&夏の陣」も必要だな。
小田原城と大坂城という天下の大城を二つも崩落していくさまを見た義宣公の胸に去来するものはなんだったのか・・・。
「生者必衰」の理の中を、それでも必死になって生き延びた一族・・・。
それは初代昌義公の遺言にあった。
「男子たるもの、運が大事。運とは人との縁である。」
465 :
日本@名無史さん:2005/12/19(月) 23:10:02
佐竹の旧臣で常陸に残留した人って帰農したの?
それとも水戸徳川家その他に仕えたの?
ところでいま事情あって茨城県に住んでるけど、
近所に「佐竹」という表札がかかってる家があって
妙に気になる。
佐竹義尭って馬鹿だったのか利口だったのか
少禄の佐竹旧臣は大半残留して帰農した
そうでない者も一族全員秋田へ移った者はいないと思う
嫡男だけ秋田へ行ったり
逆に嫡男を残したり
次男以下の者を残したり様々
転封先の石高が不明であるから少人数で移住した
それに数百年守ってきた土地を完全に捨て去る事もできなかった
徳川なんぞに…と言う思いもあり仕官する者も少なく
水戸家も警戒して積極的に仕官を求めなかった
だから旧臣はほとんど郷士や庄屋身分
因みに現在茨城で佐竹名乗ってるのは
明治になって名乗ったか他県から来た者が大半
468 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 18:47:53
469 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 12:14:12
>>467 佐竹家が参勤交代のときいつもは日光街道とおるのだけど、
事情があって(確か朝廷使者の日光参拝と被ったとかだと記憶してる)
水戸家領内を通らざるを得なくなったときがあった。
そのときは佐竹家は滅茶苦茶気を使って、
家臣に「水戸領内で自分の由来を訊ねたり、親戚探しをしたりしないように」
との厳命が出たとか。
あらぬ疑いをかけられる可能性があるからね
水戸家に不満が溜まってるから内乱でも起こされたらたまらん
471 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 17:40:53
age
472 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 17:52:37
戦国時代、秋田にはマイナーな戦国大名しかいなかったから、茨城でも秋田でも
大名といえば佐竹さん。ラッキーだね。
安東はマイナーっちゃマイナーだが、無視出来るようなお家柄の人ではございません
佐竹氏は久保田統治が上手くいったから慕われてるんでしょう
日本四大名君出したりしてるし
475 :
日本@名無史さん:2005/12/22(木) 02:43:54
名君といえば佐竹義和かな?
あとは上杉治憲なんかだろうか
細川とか
四大名君なのに6人くらい居たり
477 :
日本@名無史さん:2005/12/22(木) 14:52:42
>>473 安東氏は阿部比羅夫の子孫だっけ?
源平藤橘に属さない、しかも蝦夷系というのは
300諸候の中でも唯一の家柄。
阿部比羅夫の子孫説もあるが、系図的には安倍貞任の子孫
大和朝廷に敗北した安日の子であるから安東氏が「天皇家より古い家系」と豪語するのは伊達ではない
479 :
日本@名無史さん:2005/12/23(金) 09:27:54
age
480 :
日本@名無史さん:2005/12/23(金) 20:24:22
age
られてもなー書くことないよ
佐竹の対伊達戦のやる気のなさは何なんでしょうか
>>481 人取橋の合戦の件ですか?
やる気無かったんですか?
483 :
雲黒宰:2005/12/28(水) 23:55:22
うむ。
やる気のなさというよっか、連合軍が内股膏薬だったからなぁ。
>>481 人取橋もそうだし郡山でも摺上原でも
いつもうやむやになって撤退してる
有利に戦況が進んでるのにもかかわらずグダグダに・・・
485 :
日本@名無史さん:2005/12/31(土) 19:39:58
伊達氏から嫁もらっていたからねえ・・・。
義宣公と政宗は従兄弟同士だし・・・。
政宗が、窮地を切り抜けたという自慢話を聞いて、
「女のいうことは聞くものじゃない。」と吐き捨てた。
格好悪い吐き捨て方だな
せめて石勒クラスの暴言を吐いてほしかった
一説には東義久と義重正室が深い関係で
事あるごとに正室が伊達救済を義久に求めて
作戦を変えたりしたと言う話が…
488 :
日本@名無史さん:2006/01/05(木) 07:17:12
頼朝と佐竹の関係は?
489 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 10:49:30
>>488 平家に取り入って関東でブイブイ言わせてたら、
妬んだ千葉とかが逆に頼朝に取り入って佐竹攻め。
這這の体でなんとか逃げ出し、許してつかあさい後生じゃけん
と頼朝に詫びいれたら何とか存続を許された。
>>488 「佐竹が五月蠅いから上洛できない」と頼朝がいいわけに使った
のでしたっけ?
あと月丸印五本骨軍扇の家紋はそのときからだったんだっけ?
491 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 16:34:41
頼朝側は早々に滅亡したが佐竹は明治まで存続
よって佐竹の勝ち
>>491 明治まで?今でもあるだろ。秋田市長もそうだし。
493 :
日本@名無史さん:2006/01/07(土) 17:15:35
今の市長は佐竹さん?
著作者人格権を一切行使しないことを承諾します
495 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 02:10:32
>55-56 常陸の源氏を全て常陸源氏と呼ぶわけではありません。義光流のみですよ。
496 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 02:13:28
>49 山入一揆に参加せず、江戸期には秋田に付いて行った分家は、幾つかありまつ。
497 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 02:25:28
みのもんたは秋田佐竹家の家老の血筋である。
498 :
日本@名無史さん:2006/01/10(火) 07:49:45
東北でも開明派と思う佐竹家でも領民も江戸時代の感覚があるんだね
保守的=利権独占とは思っていないが、佐竹家にそぐわない意見は
どんなことでも通過不可だろうね。
悪いことだとは言わないが。
499 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 00:00:03
今年の秋田はひどい雪です。
雪国東北のイメージって、なぜか秋田の特産「かまくら」「なまはげ」が脳裏に浮かぶのはなぜでしょう?
500 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 00:55:28
あと乳頭温泉!
北東北の残り二県がショボイから
502 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 07:17:31
北東北の残り二県?
戦国以降の話題が多い中スマソ。
関東管領・山内上杉家を養子に迎えた事で、同族の山入家との抗争に発展しましたけど。
山入家は京都御扶持衆、佐竹惣領家は鎌倉公方派で、永享の乱そして将軍・義教暗殺後の関東で、
享徳の乱以降の古河公方と上杉家の対立では、惣領家は上杉方に付いたのでしょうか?
一方の山入家は、幕府の威光を得て惣領家を牽制していたのでしょうか?古河公方支持?
あと応仁の乱時では、惣領家と山入党はそれらに呼応した動きはあったのでしょうか?
素人な質問ですが、ご教授くださいませ。
504 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 07:26:49
佐竹のお里
茨城常陸太田
いい女残っているよ
まだ
献上する?
505 :
無知:2006/01/13(金) 09:23:07
佐竹秀義の子は6人? 名前が全部わかる人教えてくださいな。
>>503 山入佐竹は佐竹義人入嗣の際の蜂起で関東管領ミツカネにブチノメされ、
それ以来ミツカネ系の血統に憎悪しまくり。
上杉全集の乱でも全集側についた(つまり結果としては幕府に敵対するかたち)。
このとき山入佐竹は持氏に依上保一帯を没収され、そのまま白河結城に与えられた。
さらによほど持氏に嫌われたのか、常陸にまで攻められる始末。
これでまた憎しみ倍増で、永享の乱でも山入は稲川御所に集まって反持氏。
享徳の乱では当然くじ引き将軍側。つーかこのときは宗家も山入と一緒に京都側だった。
何故ならこのとき佐竹宗家の実権は佐竹実定(義人の次男)という人物が握っており、
この実という字は上杉憲実の実なのだから。
つまり山入は根っからの反関東公方派(やがて幕府もそうなるので
結果的に京都側につくことになる)だったが、
宗家は別に積極的な関東公方支持というわけでもなかった。
山入がうるさいので、なんとなくそうなっちゃっただけなのだ。
ちなみに応仁の乱ははっきり言って近畿付近の争いであり、
そもそも中央とはたいして緊密でもなかった関東の田舎では
「ヘースゴイスゴイ。だから何?」的状態だった。
つーかそもそも成氏自体古河に押し込まれてやる気ナッシング状態だったし。
507 :
松平健:2006/01/13(金) 12:22:20
暴れん坊将軍V
>>506 ちょっと待ってね、事実誤認があるんじゃ
山入はだいたいそういう感じだけど、佐竹宗家が少し違うのでは
1、佐竹実定が兄義俊を追放し、実権を握るのは宝徳二年(1450)頃
永享十年(1439)当時は隠居した義人に実権があり、当主は義俊
ちなみに実定は一度上杉憲実の養子となり、太田城にもどって来ていた
2、結城合戦(永享十一年 1440)の時、義人は兵二千を率い、結城の救援に向かっている
小栗城に入場できず引き返すが、城に兵糧を補給はした
これが将軍義教の怒りにふれ、あわや佐竹討伐の事態になりかけたが、
嘉吉の乱で義教が暗殺され、事なきを得た
つまり公方方ではない
訂正です
つまり公方方ではない→つまり将軍方ではない
訂正じゃないけど別の本みると、
義俊が実定に追放されたのは、享徳元年(1452)と書いてあるのもありました
ちなみにこの本では、永享の乱時山入は上杉方で参戦(佐竹は記述なし)
結城合戦時は佐竹は結城側、山入は幕府側で参戦と書いてあります
511 :
506:2006/01/13(金) 14:04:05
あーちっと間違えとった。
>享徳の乱では当然くじ引き将軍側。つーかこのときは宗家も山入と一緒に京都側だった。
>何故ならこのとき佐竹宗家の実権は佐竹実定(義人の次男)という人物が握っており、
>この実という字は上杉憲実の実なのだから。
この時代にくじ引き野郎はヌッ殺されてていなかった。
「くじ引き将軍」のトコは「現実逃避将軍」に変えてくれたまえ。
そういえば佐竹宗家は義人あたりから調子に乗って右京大夫と言ってやがったな。
そう考えると宗家は関東公方方だな。間違いない。
お詫びとして今チンコ切断した。これで許してくれたまえ。
ま、もともといずれは切るつもりだったけどな。
(((((((;゚д゚)))))))
506は宦官になったのか、女の子になったのか・・・
513 :
503:2006/01/14(土) 20:35:49
>>506-511 丁寧な解説どうもです。
古の時代から常陸に根付く佐竹家にとって、幕府の権威をかさに威張る上杉家ってのはうっとおしい存在なんでしょうね。
逆に鎌倉公方と関係を蜜にした人物っていますでしょうか?公方の御内衆とか?
佐竹家として中央に進出できた?ってのは石田三成との関係による義宣くらいでしょうか?
そもそも三成との関係だけで中央政界進出(権力抗争に関係した)したといっていいのかわかりませんけど。
稚拙な質問でスミマセン。。。。。
514 :
506:2006/01/15(日) 21:06:58
>>506よ。
誰も答えないのでわたしが答えておくわ。
初めはどうかは知らないけど、戦国時代以降、
上杉と佐竹はほぼ常に共同歩調を取ってきたはずよ。
特に義昭、義重の時代は強力な同盟関係にあったわ。
また上杉憲実が復興したことでも知られている"坂東の大学"こと足利学校も、
佐竹が庇護した正宗寺や勝楽寺と関係が深かったわ。
さらに、古河公方の側近だった簗田氏は関宿落城のあと佐竹に落ち延び、
また古河公方の医師の田代氏などは佐竹家臣となるなどということもあったわね。
豊臣政権は手っ取り早く言えば日本の大名領地のブロック化をしたのだけれど、
常陸の旗頭に選ばれたのが佐竹ね。
それまでの東国戦線における徳川-北条-伊達ラインvs豊臣-上杉-佐竹ラインという枠組みの中で
少なからず貢献したのが功を奏したみたいだわ。
確かに豊臣と佐竹の間は石田三成と佐竹義久を介して取り持たれたけれど、
むしろ佐竹としては中央とは一定距離を保っておきたかったんじゃないかしら。
豊臣政権の僅かな時間以外には、平清盛のときも佐竹の光り輝いた時代だったらしいわね。
当時の当主隆義は何故だか知らないけどとっても清盛に気に入られて、京都に常駐していたらしいの。
そのせいで逆に頼朝には目をつけられてしまったのだけど。
>>514 勉強になりました。ありがとう。
確かに豊臣政権という大規模政権なら、外様は何かしらのパイプ役との関係はありますね。
野心強くて最上義光のように、次期後継者と言われた豊臣秀次との関係性を強めてたら・・・
佐竹氏一門系図という書籍を買いました。アマゾンでも買えますです。
12000円もしたです。
凄く欲しいけど高いな…
519 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 15:04:36
>>517 あんまよくないから買わないほうがいいよ。
同じ名前の当主が多いな・・・
521 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 22:12:08
当主は「義」の字を当てる名前が多いですから、畢竟・・・。
元は「義光公」がルーツなんだが、兄貴の「義家」「義綱」も「義」付だな・・・。
あ、源氏は名前に「義」を付けるのが通例なのか?
当時は元服と同時に幼名から改名するのが常識だったし。
源氏で「義」を最初につけるのは前九年の役で活躍した頼義。
頼義は偉大な男だったので、その子らの太郎と次郎と三郎は
それぞれ義家、義綱、義光と名乗った。
コイツラ以前は「頼」が源氏の通字であり、
例えば頼光の子孫である土岐系列は戦国時代になっても「頼」をつけている。
義家、義光は父の頼義より偉大だったので、その子孫は「義」が通字となる。
鎌倉幕府の滅亡後、源氏の棟梁は足利氏となるが、これは「氏」を通字としていた。
というのも本当は足利は新田の庶流であったので初めの頃はあまり「義」には
こだわらなかったのだが、新田氏をブチノメしてからは自分が本当の義家の嫡流である
ということを世間に知らせるために、突然「義」をつけるようになった。
鎌倉公方の系列は尊氏の子孫であることを強調するためか、
あるいは京都に対抗するためか「氏」を通字としている。
新羅義光の嫡流であると公言する武田氏も、初めは「義」を使っていたが、
頼朝と同時代の武田信義がまあそこそこ偉大といってもいい人物だったので、
それ以来「信」を通字とするようになった。
ついでに本当のところ武田勝頼は諏訪氏を継いだので武田氏の「信」の字はついていない。
佐竹も初めから自分が義光流の嫡流だと思っており、数百年間たいした争いもなく
続いてきたので、態々「義」をそのほかの字に変える必要もなく、ずっと「義」のまま。
ちなみに「義」の字の画にはホコ(戈)がはいっており、
これが武門の家柄にふさわしいということで源氏は「義」を好むようだ。
足利義政ははじめ「義成」と名乗ったが、それだと「戈」が二つもついてしまい、
なんか攻撃的で嫌だというので、穏やかに「政」を付け直したというのは多分有名な話。
>>522 おおよそ同意だが、ちょっと気に入らないところがある
>数百年間たいした争いもなく 続いてきたので、
ちょっと待てや
金砂合戦は何よ?南北朝の争いは何よ?山入一揆は何よ?
常陸は平穏無事じゃないと思うが・・・
524 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 17:13:47
>>523 そんなチンケなことどうだっていいじゃないですか。よっしゃこい
525 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 00:16:38
>>523 確かに平穏無事ではなかった。
下手すりゃ宗家が滅亡の危機だった。
・・・にもかかわらず、佐竹宗家伝家の法則「地獄の悪運」発動で乗り切ってきた。
・・・今の宗家は松平家からの入り婿だそうだが、今のご時世に「地獄の悪運」発動させる事態なんて、起きるかな?
いや、皇室典範問題があったか。
これが、鎌倉末期の「持明院統」VS「大覚寺統」の争いとかぶって見えるのは漏れだけか?
526 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 07:33:31
いま水戸黄門の再放送を見ている
うっかりはちべえが佐竹の殿様と瓜二つというエピソードだ。
徳川に常陸を追われ、数百年後にはドラマでネタにされ、まったくもって憐れでおじゃる。
528 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 21:43:40
佐竹の場合は宗家が「女系」、山入が「男系」だった。
結果は義舜の逆転勝ちだったが・・・。
公方様より正しき御筋目
かく謳われしも今は昔
上杉に冒されて久しく
松平の末と成り果てぬ
もはや新羅三郎義光の後裔を名乗ることはできない
>>529 そのかわり上杉より本物の上杉だけどね。
531 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 23:19:36
2ちゃんねる
でも話題になるなんて、先祖はすごいね。
レポート書こうと思って色々見てたら、
偶然ひっかかっただけだけど、通り過ぎてみた
何かと、ありがとう。すこしだけ、感激した。
レポートにも、書かせてもらう。
今度秋田にもきてください
>>531 秋田美人を紹介してください!
お願いします!
加藤夏希
534 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 14:48:33
秋田に美人は居ません。みんな田舎っぺ、ほっぺ赤い、めばり濃い。
先祖も泣いてます。ぼくは東京に行きたいです。
加藤ナツキは奇跡が生んだ賜物です。
めばりって秋田弁ですか
んだな。色白くても、口開けば、秋田弁だものな。
東京から来たんだば、言葉通じねくて、しゃねべしな。
田舎から東京行くと可愛い子多くて驚くもんだよ
俺もそうだった('A`)
それ都心部だけじゃん
マジレスすると化粧技術の差だよ
言えてる
よく見れば凡百な顔してるし、足も太い
京女はスタイル宜しいな。秋田は色白と顔か。博多は行ったことないから判らん
あと三大ブスと呼ばれる宮城も、仙台駅前に限って言えば美人多し
美男は神奈川というが、神奈川の女は……な感じ
542 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 09:44:37
現在の佐竹家で義の通字を使っていない家が複数あるね。
すいません、スレタイを見るたびに
「さ────────────た────────────け」
って思います
546 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 12:34:22
NHK大河ドラマ「佐竹義宣」
後半は渋江政光に友であった三成の姿を見ながら久保田の地を眺める義宣
その次の回の大坂の陣で義宣の腕に抱かれて息を引き取る政光
政光を討った木村重成の息子をかくまう義宣
結構ドラマチックだよねぇ、最期の最期まで
どこぞの山内家よかは
548 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 23:13:58
地味w
549 :
酒井宮内大輔忠勝:2006/04/06(木) 01:35:25
幕府は、改易された最上家の後に、山形藩24万石鳥居左京亮忠政、
新庄藩68000石に戸沢山城守政盛、上山藩4万石松平丹後守重忠、
松山藩2万石酒井長門守忠恒、そして荘内藩14万8000石酒井宮内大輔忠勝。
>>544さん
戦国時代の終焉〜「北条の夢」と秀吉の天下統一 齋藤慎一著 中公新書
最近読みました。沼尻の合戦について詳しく書かれていて面白かったです。
戦国常陸時代の佐竹ファンにオススメです。
佐竹というと肝心な戦では負けっ放しなのになぜか生き残った不思議な家だな
まぁ俺は佐竹より上杉の方がよく生き残ったと思うわけだけれども
水戸光圀の八幡殺し
554 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 02:37:19
光圀氏ね
もう氏んでるYO!
556 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 14:10:47
>>551 佐竹の快勝って思い浮かばんw
織豊徳川大名以外の家でこれは珍しいね。
558 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 14:27:54
佐竹のしぶとさ舐めちゃいかんよ
頼朝の佐竹討伐と山入氏の乱で二度国を追われるが復帰
那須、江戸、宇都宮に大敗するが特に変化なし
小田原に遅参するが20数万石加増
関ヶ原後一年以上家康無視して水戸に居座るが
21万石の国持ちとして生き残る
>>559 小田原に関しては、佐竹はずっと前から秀吉与党の主力として、
上杉と連携して対北条戦にあたってたからね。遅参もなにも、
もう5年くらい北条戦に携わってたといえる。なので加増も
当然かと。徳川、伊達に対する牽制の意味でも佐竹が強化され
るのも望ましいしね。
561 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 17:17:15
更に、出羽転封についても、直接指図したのは本多正純?らしい。
ところが、佐竹を転封した後、自身は宇都宮吊り天井事件で職を追われ、佐竹の預かりに。
家光の時代に逝去したが、「墓を作ることまかりならぬ」と家光自身から言及され、打ち捨てられる事に。
562 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 22:03:12
義重が10歳で政務を執っていた
ってのはホントかね?
563 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 22:14:44
K1の佐竹選手はここの関係者ですか?
>>561 指図したのは家康だろうけど正純は
佐竹など5万石ぐらいにしてしまえと言っていた
しかし皮肉な事に正純は吊り天井事件で佐竹預かりに…
幕府の嫌がらせだろうかw
>>562 「政務」が何を表しているのかを示す必要があるが、普通家臣に一字を与えたりとかも政務のうち。
義重の発給文書の初出は永禄二年(1559)十三歳のときに真崎義保に与えた一字状。
566 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 23:09:49
>>564 嫌がらせというよりも、正純は他の大名や幕僚に対しても結構不評だったらしい。
家康はまだしも、その子(2代目将軍)はかなり正純を嫌っていたらしい。
で、嫌正純派と2代目将軍が密かに罠をかけた、と。
正純が佐竹預かりになり、出羽へ流される途中で幕府の密偵?から殺害されかけるという小説があったとか。
皮肉にも、国境に出張っていた佐竹陣営の者が間一髪間に合って命拾いしたとか。
出羽に入ったところで殺害されたら、管理不行き届きで佐竹も連座で詰め腹切らされるだろうと、小説では書いてあったが・・。
皮肉にも佐竹は義光公以来の因縁の地へ戻ってきたと言っていたとか。
実際、転封後は開墾奨励で、名目21万5千石、実質40万石と金のなる地へ変えて行ったからね。
567 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 23:16:09
家の格式の最大は「21万石以上」だったそうな。
で、平安末期からの清和源氏という歴史と名代、幕府への徴税率(石高が高いほど幕府への納税も高くなる)も鑑みて、
最大格式で最低限石高「21万5千石」という数字を出してもらったのではと邪推。
568 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 02:56:20
血統は折り紙つきなのに
最高で常陸1国とは情けないよな
569 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 23:13:30
陸奥や下野にも所領はあった筈。血統は折り紙つき?どこが?
570 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 05:47:57
>>563
関係ないって本人がラジオで昔言ってた。
571 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 22:57:40
572 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 23:58:27
まさに征チョン大将軍
573 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 09:56:47
魁ハァ━━━━━━ ;´Д` ━━━━━━ン!!!!
574 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 11:51:53
佐竹北家・佐竹東家・佐竹西家の
歴代当主と系図を御存知であれば、
是非とも教えて下さい。
575 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 23:56:36
佐竹資料館の企画展とやらに行ってきた。
梅津憲忠の鑓で穴のあいた陣羽織に萌えた。
血痕みたいなのも残ってた。
576 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 10:27:42
577 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 08:13:29
奥羽越列藩同盟の裏切り者佐竹wwwww
庄内にボコボコにされたみたいだなwwwww
まぁ幕末奥州で一番みっともなくて情けないのは仙台藩と南部藩だけどな
579 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 14:36:10
>>577 で、久保田まであと少しと言うところで、騎兵隊ならぬ最新火器で武装した肥前藩が久保田藩の援護に登場。
逆にコテンコテンにされましたとさ。
>>578 ドン五里仙台と一緒にするな。南部に謝れ!
いやあ、南部も同レベルで空気読めてないし
幕末の極貧南部に諸藩並みの装備や士気があったとは思えんな
いやぁ、一人のバカ家老さんは士気高かったろw
楢山佐渡か?
585 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 10:18:51
鹿角を返せよ馬鹿佐竹!!
裏切り者の秋田は庄内にズタボコに殺られ、救援に来た馬鹿津軽も全滅W
新渡戸翁の武士道をきちんと読めや!
まぁそれでも最終的に勝ち組だから
全然美味しくなかったケド
盛岡藩主の墓所って異様なまでに荒れているよな。
遠野の根城系南部氏の墓所はきちんとしているのに。
賊軍の汚名のためなのか。
元から領民にも家臣にも慕われてない説>南部
589 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 23:17:52
佐竹義宣の本が2冊でたな
1冊は、南原 幹雄 (著) 角川書店で、
もう1冊が近衛 竜春 PHP文庫だ。
590 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 00:03:23
>知っている人はよく知っているけれど、知らない人は全然知らない不思議さ。
K−1の佐竹を思い出したよ。今どうしてんだろうな
やっぱりこいつは佐竹氏の一族か?
591 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 00:36:26
592 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 01:20:32
追い討ちがお家芸なら
家康が駿府あたり移動中に、江戸に乱入しろよ、と
近衛って信忠の作者だろ?
人物に魅力が無いんだよなぁ・・・
小説はダメだ
完全に創作で書いてやがる…
無理に贔屓目に書いたりしてあると逆に萎えるし
水戸あたりの本屋か歴史館なんかに資料まとめた本が結構売ってるが
あの辺り読んだほうがおもしろい
595 :
日本@名無史さん:2006/06/06(火) 12:34:01
え〜・・・
渋江政光の渋の字もでなさそうだな、オイ
597 :
日本@名無史さん:2006/06/16(金) 12:17:50
家康をして「今の世に義宣ほど律儀なものは見たことがない」とも
言わしめた、北関東の若き義将佐竹義宣!
家康の腹の中は……
598 :
日本@名無史さん:2006/06/16(金) 15:04:47
599 :
日本@名無史さん:2006/06/16(金) 20:41:08
同じ様な石高だなw
600 :
日本@名無史さん:2006/06/16(金) 21:06:29
南北朝時代の佐竹氏は・・・北朝勢なもので、南朝びいきの今の日本じゃ書けません。
ある意味一番の激戦区なのに。
江戸中期の義敦・義和公の話は・・・合戦が無いから地味。
幕末戊辰戦争は・・・明治政府の朝廷側転向組への放置プレー爆発だから、書けない。
601 :
日本@名無史さん:2006/06/17(土) 06:10:35
602 :
日本@名無史さん:2006/06/17(土) 14:38:26
>>598 自分自身を基準にして律儀かどうかを決めてたからでしょ。
この頃の現役大名で家康より律儀じゃないヤシなんぞ、土人酋長伊達政宗以外に存在しないけどなw
でも義宣は豊家に対しての律儀なんだけどね
つうか仮に義宣が義重の言う事聞いてさっさと東軍についてたら家康はかなり困ったんじゃないか?
敵対されて関東で暴れられても面倒だし
佐竹の場合、中立てのが一番扱いやすかったかもしれん
>>603 どのみち常陸みたいな江戸に近いところには置けないから、
東軍に加わっても転封でしょ、多分
佐竹に徳川の娘を嫁に圧し付けたり、佐竹の家老に徳川の譜代を附けたりして
佐竹は実質的に徳川の分家のようにされただろう。
少なくとも佐竹が手付かずでそのまま残される可能性は無い。
西軍勝てば東国の雄だけどね
607 :
日本@名無史さん:2006/06/20(火) 21:27:36
家康は家康で、佐竹が動かないよう徹底的に手を打っておいた。
伊達政宗を自軍の陣営に引き込んだのも手。
ただ、油断はならぬと、後代の幕府は伊達家に隠密(松尾芭蕉?)派遣していたみたいだが・・。
609 :
日本@名無史さん:2006/06/21(水) 00:05:46
伊能忠敬も隠密だったらしいぞ
610 :
日本@名無史さん:2006/06/21(水) 00:11:46
>609
それを言うなら間宮林蔵も隠密だった
じゃあ、西堀も最上も明石も、みんな隠密なのかよ?
612 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 23:48:26
義重が京都へ上洛して、秀吉に謁見したところ、かなり冷たくあしらわれたとか。
おそらく、秀吉が義重に自己紹介ついでに佐竹家についての説明を求め、義重が滔々と平安末期からの歴史を語った事が最大の原因ではと。
613 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 14:18:35
冷たくあしらわれてなんかいないぞ。むしろ逆だ。
義重が秀吉に会見したとき義重の態度が対等の礼をとり不遜だったのだが、秀吉は咎めようとはしなかった。
秀吉は
「義重はずっと常陸にいて自分より上位のものと会ったことがなく、また日常が戦いの連続で、
しかも常陸や周辺の諸豪族の旗頭だったので戦場での慣例に従ったまでだろう」
と理解を示したのだ。
614 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 23:31:42
佐竹は関西では知名度が低いよ
615 :
日本@名無史さん :2006/07/02(日) 01:38:27
>>484 伊達は相馬や芦名に任しといていい程度で、本当のライバルでなかったからでない?
ちょっと隙見せると進軍してくる後方の北条が抜け目なくて怖い存在だったんでは。
伊達は佐竹を、佐竹は北条を、北条は武田を警戒してたんでしょ、要は。
616 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 11:19:36
相馬は信達平野や阿武隈川以北まで侵攻し伊達を再三苦しめた存在だったのに
佐竹と通じてからは伊達に連戦連敗・・・ホント疫病神だな佐竹は
それ佐竹とは関係ないだろw
>>608 芭蕉は芭蕉でも俳人とは違う芭蕉。
松尾って姓だったかな。
619 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 23:49:53
仮に内府を義宣公が追撃しようとして・・・
徳川としては伊達に佐竹の牽制を勤めるように手を打ったのだろうが、果たして伊達が徳川の思うように動くだろうか?
表面上は内府の救援に駆けつけようとするが、少し遅れて佐竹にわざと内府を討たせ、その後佐竹の背後を急襲するという仕掛けだと。
「内府の救援に駆けつけましたが、上杉に阻まれ、内府を討たれてしまい、仇たる佐竹を討ちました」とでも言い訳するつもりだったのだろう。
蒲生氏郷が手を焼いた会津の一揆の後ろで手を引いていたらしいし・・。
伊達は再び戦国の世になれば、今度こそ自分が覇王だと考えていたのだろう。
おそらく徳川派の東義久、北城殿の義重も、内府を討った後の伊達の暴走振りをそれとなく予想し、あえてあいまいな態度を義宣に進言したと思うが・・・。
621 :
日本@名無史さん:2006/07/03(月) 00:07:26
もう少し太閤の東下が遅かったら佐竹は無くなってたと思うよ。
伊達と北条に半分づつ美味しく喰われたてと思うよ。
622 :
日本@名無史さん:2006/07/03(月) 00:35:02
たぶん義宣は家康を追撃しようなんてバクテリアフォージの大きささえも思ってなかったと思うお。
あと伊達も佐竹のところまで領土を広げようとは思ってなかったと思うよ。
全国の大名が思っていたのは、しばらくの間は豊臣以前の乱世に戻るだろうということ。
だからみんな石田や徳川の思惑なんかより、目先の利益を追求したんじゃないの。
上杉は庄内を、伊達は福島から米沢を、黒田もなんか近くのどっかを殴ってたし、
毛利だって大阪までは出てきたけど動かなかったしな。
島津は義久が動くなって言っていたにも関わらず、みんな上っていったけれども。
ちなみに佐竹も同様に徳川や石田なんかはどうでも良くて、うつのmy(ry
>島津は義久が動くなって言っていたにも関わらず、みんな上っていったけれども。
「みんな」って
当時公称60マソ石の大名ですが関ヶ原に逝ったのは1500名程度だったんでわ?
624 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 00:40:40
詳しい方教えて下さい。
宇都宮成綱の外祖父とされる佐竹義親は、義舜vs.山入の抗争の際には
どちらに与したのでしょうか?
625 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 02:19:00
葛西、大崎か
626 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 10:14:27
>>623 単なる表現です。
>>624 その前に佐竹義親がわからない。と思って調べてみた。
大体成綱の祖父になる辺りの年代に長倉義親(文明10年死亡)という奴がいる。
長倉氏は鎌倉時代に分家された佐竹一族で、
同一族の中では最も下野に近い場所(今の御前山村付近)に所領を持っていた。
佐竹氏では比較的繁栄した一族で、佐竹の乱では山入佐竹に組して反惣領家の立場。
上杉禅秀の乱でも禅秀側について調子に乗り過ぎた為、足利持氏率いる関八州全土の
連合軍に攻められたが、落城せず持ち堪えたという全く信じられない伝説を持つ。
その後も佐竹宗家に対抗しつづけていたが、山入が滅亡するに至って降伏した。
佐竹義宣の代にまた調子にのって水戸城の修復を嫌がったため、蟄居ののち自殺させられあっさり滅亡。
長倉の女なら、宇都宮氏の正室はないだろうが妾にはなってもおかしくはない。
妾でいいじゃん
俺も妾かこいたい
嫌だそんなの。・゚・(ノД`)・゚・。
630 :
日本@名無史さん:2006/07/05(水) 18:31:52
馬鹿言え。表立って妾囲ってもいい世の中になったら、漏れのところには余計女性が回ってこなくなるじゃないかw
もてるヤシの所に女性が集中する度合いが高まるだけだぞ。
631 :
624:2006/07/05(水) 22:45:25
>>626さん、ありがとう。
お蔭で疑問が徐々に氷解しつつあります。
家伝によると私の先祖(因みに室は結城氏)は明応の政変で失脚、
下野(現栃木県石橋町が本貫地らしい)を経て常陸に入部したものの、
1505年下総香取郡に移ってます。
その前年には山入氏義が佐竹義舜に攻殺されてますから、
私のご先祖の常陸出国は山入氏の滅亡と関係あるのかも。
(因みに佐竹義親=長倉義親なら、
私の家は結城→宇都宮→長倉という閨閥関係にあったことになりそうです)
633 :
624の石橋:2006/07/05(水) 23:07:34
>>632さん
どうぞよろしく!
(あなたは石橋さんor結城さんor宇都宮さんor長倉さんor佐竹さん?)
>>626さん
失礼。「各家成員リスト」見たら義親は成綱の岳父でした(外祖父じゃなくて)。
因みに「武家家伝 長倉氏」には義親は出てきませんでしたが、
626の情報ソースというか、おススメの参考文献ありましたらよろしくです。
635 :
626:2006/07/06(木) 09:25:58
>>633 戦国武将の家紋の系図には義林という奴がいると思うんだけども、それが義親。
親と林は、たぶん草書体が似ているんだと思う。
林という字がいみなに使われるのはあんまり見たことないので、
たぶん本当は親という字だったんだけど、系図を写すときに見間違えたんじゃないかと思う。
そもそも義林をなんて読むのかわからないし。
ちなみに義親を発見したのは新編常陸国誌。
宇都宮に嫁に行くくらいだから、それなりの家系(初めは山入家あたりと予想した)だと思った。
636 :
626:2006/07/06(木) 09:55:55
ついでに戦国武将の家紋の長倉氏の系図は間違いがたくさんあるな。
義綱(義常もしくは義長ともいう)
義利
義景(義利の弟かもしれない)
義成(義勝ともいう)
義貞
義祐(義貞もしくは伊義と兄弟か)
伊義
義久(義親の兄かもしれない。おそらく長倉を継がず)
義親(義林)
義昭
義尚
義忠
義重
義当(戦国武将の家紋の系図では義富となっているが、
富とされている字は当の旧字「當」であって富ではない)
義興(このときに滅亡)
みんな詳しいね
なんかお勧めの書籍ない?
638 :
日本@名無史さん:2006/07/06(木) 21:35:56
ヘタレ伊達の血が入ってる事、忘れんなよな。
佐竹読本
続だったかな、もある
佐竹氏物語 無明舎出版
641 :
624の石橋:2006/07/06(木) 22:30:41
>>626さん、ありがとう!
新編常陸国誌読んでみますね。
この木なんの木気になる木
643 :
日本@名無史さん:2006/07/15(土) 16:05:26
気になる木になる
644 :
日本@名無史さん:2006/07/16(日) 23:02:26
質問です。
わざわざ、相馬が攻めてきたことがあるみたいですが、疑問があります。
・なぜ岩城領を素通りしてこれたか
・なぜ佐竹を攻撃したか
分かる人います?
645 :
日本@名無史さん:2006/07/17(月) 10:33:01
千葉氏と佐竹は犬猿の仲ですもん
646 :
日本@名無史さん:2006/07/21(金) 01:15:28
>>644 戦国板にも佐竹スレある。
そこでは・・・南陸奥侵攻した佐竹に対して、相馬と岩城が組んで反撃したという意見でした。
647 :
日本@名無史さん:2006/08/27(日) 13:20:33
age
648 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 05:55:39
「名将 佐竹義宣」南原幹男
家名存続か、武士の意地か? 家康も恐れた男の関ヶ原!
豊臣秀吉の小田原攻めに馳せ参じた佐竹義宣は、石田三成の
引きで大大名に名を連ねた。挟撃を警戒する隣国・江戸の
徳川家康は、しきりに誼を通じようと接近を図る。
秀吉没後、義宣が選んだ道は?歴史長篇小説。
今年もお祭り来るのかなあ
650 :
日本@名無史さん:2006/10/23(月) 10:39:53
とりあえずage
651 :
日本@名無史さん:2006/10/26(木) 12:47:58
家康への年賀の挨拶をしなかった男が、景勝と義宣でいずれも左遷。
律儀な家康は、この手の社交辞令もできない武将は最低の評価を与える。
桓武平氏流武田氏って何代まで続いたの?御存知の方は御教示ください。
653 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 23:50:24
すっかり忘れてた!
いつのまにか つ く ば み ら い 市 が誕生してるゥーーー
うんちくせー市とつくばみらい市の二本立て茨城
655 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 12:27:02
age
656 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 18:53:34
うちの田舎には、佐竹一族の大山氏の居城である大山城があった
657 :
:日本@名無史さん :2006/11/19(日) 11:52:23
>>651 そうか?北条旧臣や伊達との兼ね合いだと思うぞ。
唐突なんだが梅津兄弟の幼名知ってる人いる?
政景は金阿弥っていうのを聞いたことがあるが、自分で確かめた訳ではないので不確証。
憲忠は皆目不明。
異父兄弟の水野春阿弥からして憲忠も阿弥がつくのではと睨んでるんだが…。
659 :
658:2006/11/27(月) 23:04:16
あ、ついでに水野春阿弥はもしかすると異母兄かもしれない。
660 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 12:30:08
水野春阿弥
梅津憲忠 = 義阿弥
梅津憲次
梅津政景 = 金阿弥
出典は多分なんかの辞典。コピーしか持ってないので書名がわからない。
近世ナントカ人名事典とかいう名前だと思われる。
661 :
658:2006/12/02(土) 04:27:12
>>660 dクス!
やっぱり阿弥がつくのか…。
おまけに憲次の存在がすっかり脳内から消滅してた。
戦国人名事典とかそんな名前の本は持ってたんだけど
一昨年の大雨で実家が浸水、あぼーんしてしまった…。
切ない。
662 :
書跡:2006/12/02(土) 15:13:41
梅津憲忠は善阿弥だよ(『梅津政景日記』解題略系図)。梅津憲次はこの系図
に記載されていないが、どこに位置するんだろう。
663 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 15:32:56
664 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 15:43:05
>>662 オラの持ってるコピーでは「義阿弥」だな。「ぎ」とルビまで振ってあるので、誤植ではないようだ。
ということは、おそらくもとの史料では「善」か「義」か判別し難い字になっているのだろうな。
666 :
イーハトーブ:2007/01/08(月) 11:22:06
津軽や秋田がいくら喚こうが所詮は裏日本w
子殺し犯罪者が全国ニュースで恥晒しまくりだろうがw
667 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 22:32:00
秋田に美人が多くて茨城はブスが多いのは
佐竹が美人だけを出羽に連れて行きブスは
常陸に捨てていったかららしい
>>667 関東と秋田の湿度と日照時間を比較して、肌の美しさに与える影響を昨日のTBSで解説してた。
佐竹の出羽移行ルートとその規模を資料で調べれば、ホントしょうもない俗説であることに気づくだろ
670 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 21:54:13
そのまんま東age
671 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 22:17:31
>>666 恥さらしは言い訳できないけど…裏日本とか言うなよ。
672 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 23:08:02
佐竹が美人連れていったっつーのは美人がいない茨城人の言い訳
佐竹はいきなりの移封により一部の一族を連れていけなかった位だったんだからな。
女をあちこちから拉致ってる時間はなかった。
もともとは常陸国は田舎だから独特の顔の人が多い
673 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 23:26:50
>>672 ナンダコラ
イバラギなめてんのか?
将門の木像盗まれる県なめんなコラ
674 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 02:08:41
佐竹義あげ
675 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 02:34:32
676 :
電気気動車:2007/02/28(水) 12:56:47
頼朝と戦い、後北条を食い止め、政宗と戦い家康を悩ませ、
幕末は奥羽列藩を敵に回し、
もう少し評価してもいいけどね、佐竹氏。
677 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 13:15:18
今の茨城北部に引き籠もって、何とか自分の領地だけは無事でよかったって程度。
そんなものは県内限定の評価で充分でしょ。
678 :
電気気動車:2007/02/28(水) 22:28:15
引き篭もってでも家を守りたかったのに消えた大名の多いこと。
格好悪いけど変なポリシーの大名家だね。
佐竹が江戸幕府下でも常陸55万石を支配し続けたら、
幕末の尊王攘夷運動はあれほど激化しなかったかもしれない。
680 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 02:02:11
評価されない理由のひとつは、南北朝時代で北朝勢だったから。
小田城に篭って「神皇正統記」を書いた北畠家にとって、憎んで有り余る存在。
今の世情って南朝びいきだし。
尊皇攘夷運動だけど、一番過激な国学の国粋主義者を匿っていたのも秋田の佐竹氏なんだよね。
どういうわけか、江戸から追われた奴等が行き着く先がなぜか秋田。
一時期福島南部を領有
682 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 06:23:03
佐竹の殿様ん家って地元じゃまだちゃんと有るの?伊達の殿様んとこみたいに博物館はやってないだろうけど何やってんだろ?
ウチは400年以上前から佐竹に仕えてたらしいが、明治になり、貧乏でそれどころじゃなくなり、故地を離れ北海道に植民してはや130年。主家の事がちょっと気になるお年頃。
684 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 22:01:23
それは北家だろ
東家は断絶したらしいが、本家は続いてるんだろうか
685 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 22:50:24
南原幹雄の「名将 佐竹義宣」(角川書店)
やたら「佐竹家は、新羅三郎義光公直系の名門」と強調するのがウザくて読むの止めた。
上杉だっての! アホかいな…
686 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 23:53:54
本当の佐竹の血統は全滅したんだろうか
本当に山入の血統は全滅したんだろうか
688 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 01:47:16
那須や田村ぐらいは潰してほしかった
689 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 21:58:35
>>686-687室町期に宗家は藤原姓上杉氏になりました。山入家も滅びました。
しかし、義光公の流れを汲む一門のうち、山入一揆に与せず宗家に従った庶家もあります。つまり、真の佐竹氏は江戸時代にも残ってました。
>室町期に宗家は藤原姓上杉氏になりました
なってないよ。
ていうか、血統と家系を一緒くたにするなと。
血統が上杉流になろうが相馬流になろうが、源氏は源氏。
北条スレのほうにも似たようなこと_を言う人が現れるが、
より重要なのは家系の存続のほう。
義光の血統自体は途絶えたが
>>691 だ か ら
上杉の養子に佐竹の娘を娶わせて
佐竹家を継がせたの
血は繋がってんの
693 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 10:35:54
>>690の理論だと、畠山家は室町時代も桓武平氏秩父党なんだよな。清和源氏足利流ではなく。
普通は父系でみるのでは?
>>692の理論だと、足利宗家も執権北條家の末裔になる。
そこら辺はあいまいだな
695 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 11:36:46
養子がそのままの氏を名乗るか
それとも家の氏を名乗るのか
何を言っているのだチミたちは。
徳川が初めは藤原氏で、途中で源氏に変えたことは知ってるな?
小田は宇都宮系の藤原氏だったが、これも途中で源氏に変えた。
姓氏というのはその時の気分でどうにでもなるものなの。
重要なのは当時の公文書に姓氏をなんて書いていたかということだ。
佐竹はずっと「源朝臣佐竹」であって「藤原朝臣上杉」ではない。
>>696 絵のサインも 「曙山源義敦」 だもんね
698 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 01:08:13
宇都宮氏が藤原姓ってのも、疑問視されてる訳だが。
大ざっぱに言えば、『佐竹氏』は清和源氏義光流であるが、御当主は藤原の血脈だという事ですね。ややこしいが。
699 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 13:04:59
まあ、個人的に言えば、血脈は関係ないと思う。
佐竹の家に他家から養子が入ったとき、ある試練が「時代」から下される。
義人公が上杉氏から入ったとき、結城合戦が起き、舞鶴城が足利義教の軍に取り囲まれそうになり、城を枕に討ち死にの寸前まで行った。
ところが同時に京都で嘉吉の乱が起き、赤松氏の造反で足利義教あぼーん。ギリで助かった。
義堯公が相馬氏から入ったとき、戊辰戦争が起き、庄内藩軍勢が久保田城手前まで押し寄せてきて、城下は火の海になるかと思われた。
そこに最新武器で武装した肥前藩が騎兵隊のごとく登場、庄内藩軍を追っ払った。
他家から入った者が、自分の元いた家よりも佐竹の家名を取ると決断したとき、地獄の悪運が発動し、首の皮一枚で露命を繋ぐ。
>>そこに最新武器で武装した肥前藩が騎兵隊のごとく登場、庄内藩軍を追っ払った。
戊辰戦争だと軍は家名ではなく藩名で表現されるのはなぜだろう
庄内藩軍を酒井軍、肥前藩軍を鍋島軍と呼ばないよね
701 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 00:43:13
何かの本で、武田勝頼(多分)の書簡に、
佐竹が奥州を制覇しそうだとの観測が述べられてた手紙が
会ったような気がするが、どこで見たのか思い出せない。
だれか似たようなもの見てませんか?
702 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 21:32:09
703 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 08:36:14
704 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 10:58:45
綱吉の頃紀州徳川家から嫁を貰っているけど何で?
確かに名家ではあるけど石高は半分以下だし減封された外様だぜ?
釣り合わなくないか
TBSと同じぐらいの捏造&八百長で偽源氏の系譜の徳川家(笑)と
新羅三郎義光からの名家佐竹家だったら・・・
どっちの方が迷惑かわからんのか?
706 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 14:27:35
>>705 だったら偽源氏同士で盛岡南部と縁組すればよかったんだなw
>>705 盛岡の南部は偽源氏じゃないよ
母方は一方井という蝦夷系だけど
708 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 16:29:52
南部は甲斐源氏だもんな。
709 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 05:59:41
過疎
710 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 08:58:59
豊前の田川郡あたりに局地的に佐竹姓の旧家が多いが一族なのか?
711 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 13:49:04
すんげーどうでもいい家だよな。
確かに何百年も常陸に存在してるけど脇役にすらなれやしねえ。せいぜいエキストラだ。
面白みが無さ過ぎて信長の野望でも使ったことねーや。
712 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 13:37:35
おまいら竿灯祭りに行けよ 佐竹の子孫の佐竹市長が開会式と閉会式の挨拶を英語で話すぞ!!
713 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 10:30:20
今年の佐竹会は何時?
714 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 14:57:55
>>711 お前のような卑しい犬野郎に佐竹家のことをどうこういう資格はないよw
715 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 23:33:17
「佐竹市長が知事になればいい」という声が最近、飽きた県庁内では
よく聞こえます。
716 :
日本@名無史さん:2007/08/29(水) 00:43:34
朝鮮総連の秋田支部への徴税問題、どうなりました?
戦国板の佐竹厨なんとかしてくれw
718 :
日本@名無史さん:2007/08/29(水) 02:43:37
\●/ 佐竹家 常陸水戸54万石→出羽久保田21万石 外様 大広間 国主
>>676 南朝の英雄、北畠親房の軍勢を食い止めてたのが抜けてる。
しかも香具師の基盤は、常陸と伊勢。よく小勢で耐えてたな。
>>717 佐竹スレの連中のことかな?
三戦板から戦国板になった辺りから、
板全体が以前よりもさらにひどくなったな。
ただの戦国時代的お国自慢板。
ほとんどのレスが中身の無い罵り合いだけという。
722 :
日本@名無史さん:2007/08/29(水) 15:34:03
盛岡南部も仙台伊達も米沢上杉も偽者な中、佐竹だけが本物と言える。
武田とか上杉とか伊達とかは厨がつきやすいと言われているが
戦国板では、むしろ毛利とか今川とか佐竹の方がよっぽど厨が寄り付いてる
まあリアル厨房がマイナー寄りの大名を選んでしまうのは仕方のないことです
>>718 本当は出羽の半分だけなのに、源氏だから国主扱い
726 :
日本@名無史さん:2007/09/19(水) 23:11:03
>>710 豊前の田川郡?? 豊前国ってことかな?豊前ていうと豊前市ってイメージが・・・
確かに筑豊の方に佐竹姓あるみたい。
墓地の一帯が佐竹ばっかしの所が・・・秋田か茨城ならわかるんだけどさ。
なんでだろ?
728 :
日本@名無史さん:2007/09/19(水) 23:34:39
>>727 宇都宮氏と仲が良かったらしいというのはググってみて分かりましたが、
九州に出てくるのかがイマイチわかりませんでした・・・
ヒントありがとうございます
729 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 04:57:30
>>726 南北朝時、九州に落ちた尊氏に従って佐竹の庶子が居た。その子孫と思われ。
まあ、実際その筑豊の佐竹氏のお墓の家紋とか寺の過去帳…言い伝えとか、裏取らないとなぁ。
茨城に佐竹姓の人って多く無い。庶子家の姓なら多いが。
730 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 19:50:18
ドキュンからバックアップうけている反日本記事捏造のアサヒる新聞。
恥ずかしくて公共の場では読めない新聞。
731 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 20:00:10
伊関(あってるかな?)って佐竹家の支流ですか?
733 :
日本@名無史さん:2007/12/24(月) 12:49:52
大河ドラマ「坂東太郎鬼義重」
主演:木村拓也(佐竹義重)
734 :
日本@名無史さん:2007/12/27(木) 18:52:30
うちの先祖は墓に佐竹の臣って書いてあったなぁ○○右京慶長没って書いてあったけど武士でOK?
735 :
日本@名無史さん:2007/12/27(木) 19:13:56
それ盗品だろ
736 :
日本@名無史さん:2007/12/27(木) 20:02:22
それねつ造だろ!
737 :
日本@名無史さん:2007/12/27(木) 23:07:27
そんな事ひどい事言わないで下さいよ!少しでも先祖を知りたいだけなのに
738 :
日本@名無史さん:2008/02/03(日) 22:09:03
佐竹贔屓だが、葦名盛重=佐竹義廣が天正17年に畠山義継の嫡子国王丸を常陸で殺害した理由は何?
義重は知っていたのか?事実だとしたらかなり引いてしまうのだが・・・
740 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 17:48:59
佐竹一族で、浄土真宗に帰依して本願寺の家臣だか寺の別当だかになった家系があるそうなんだが。
741 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 22:54:02
742 :
日本@名無史さん:2008/04/30(水) 20:38:23
300諸候の中でも超名門の大名じゃなかろうか?
島津や南部も古豪だが、佐竹の場合は出自もハッキリしてるし。
もっとフューチャーされてもいいんでない?
743 :
日本@名無史さん:2008/04/30(水) 21:08:33
<公務災害>茨城の校長自殺に逆転裁決 「ストレスで発症」
4月21日21時51分配信 毎日新聞
茨城県常陸太田市の県立佐竹高校で06年、必修科目の履修不足が発覚した後に自殺した高久裕一郎校長(当時58歳)について、地方公務員災害補償基金県支部審査会は、「公務外」とした同支部の決定を覆し、民間企業の労災にあたる公務災害とする裁決を出した。
3月31日付の裁決によると、審査会は「特に過重な職務による精神的ストレスのために精神疾患を発症し、自殺に至った」と判断した。
高久校長の妻は06年12月、公務災害補償を請求したが、同支部は07年4月、「校長としての職責の範囲内。精神疾患を発症させるほどの心的ファクター(要因)ではない」と退けた。このため、遺族が07年6月に審査請求していた。
同校では06年10月、当時の3年生の生徒80人が世界史と理科の必修科目を履修していないことが発覚。高久校長は同月30日の保護者説明会当日に同県(大子だいご)町の山林で首つり自殺しているのが見つかった。
745 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 23:18:23
746 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 23:19:03
747 :
日本@名無史さん:2008/08/14(木) 13:04:07
みんな、小野崎氏というのをご存知かな?
佐竹氏の重臣で、佐竹から養子も入っている。
佐竹氏に本拠となる太田城を譲ったのも小野崎氏だし
守護代もつとめていたらしい。
佐竹氏が関ヶ原後に秋田に転封されたとき
京都から本拠へ帰ることを許されず、
中山道を通り秋田へ向かうことになった93騎の中の1騎でもある。
実は自分はその子孫で、漏れの父は、
関ヶ原で転封された先の土地、秋田で生まれたのだが。
茨城には小野崎という地名がある、
というのを話だけで知っているのだが…。
もし詳しいことを知っている御仁がいたら
お願いします。
武家家伝とかは読んでます。
749 :
日本@名無史さん:2008/09/07(日) 09:07:16
>>748 常陸時代の小野崎氏は三家あった。
宗家の山尾、そして石神、額田の三つな。
その他に「小野崎」を名乗らない分家の赤須や根本などもあった。
額田は常陸時代に佐竹義宣に攻められて滅亡、
当主の小野崎照通は水戸藩に仕えたといわれている。
石神は佐竹とともに秋田に移動。
山尾は義宣の叔父である義昌が佐竹から来て継いでおり、
本来の藤原姓から源姓小野崎に変わっていた。
義昌は人取橋合戦の際に死亡したので、
義昌の娘が嫁いでいた佐竹東家から養子を貰い家を続けた。
当然山尾小野崎も秋田に行った。
佐竹家中はどの家臣も結構大量に文書が残っているのだが、
何故か山尾小野崎は文書がほとんど残っていなくて、実情が良くわからない。
750 :
日本@名無史さん:2008/09/09(火) 13:20:26
伊達は上杉に任せて佐竹だけでも東軍を追撃すべきだったんじゃないか?
あそこが運命の分かれ道だったね。
751 :
日本@名無史さん:2008/09/09(火) 19:00:55
>>750 > 伊達は上杉に任せて
何ともったいない。すぐさま滅ぼすのではなく単なる足止めで良いのであれば相馬にでも任せておけばいい。
あれだけ身上に差があっても、戦えば常に相馬が勝っているんだし。
752 :
日本@名無史さん:2008/09/12(金) 20:25:21
ヘタレ佐竹じゃ無理ww
部垂城があったからな部垂には違いない
>>751 相馬とかw
伊達に滅ぼされかけて覚悟を決めたところで小田原を迎えたり
改易されるところを政宗に取り成してもらったり、
つまりヘタレですやん
756 :
日本@名無史さん:2008/09/27(土) 15:20:47
>>755 そんな伊達側の捏造ネタを信じる人は居ませんよ。相馬が改易を免れたのは三胤が本多正信に取り成してもらったから。
家康に頼みごとをするのに百万石の空手形つかまされる間抜けと、本多正信とどっちに頼めばいいかアルツハイマー(by麻生太郎)でも
すぐにわかります。
757 :
常陸人:2008/09/27(土) 15:24:36
水戸徳川ゴーホーム!
758 :
蘆名家来:2008/09/27(土) 15:36:40
ファッキング伊達!
759 :
常陸残留を余儀なくされた佐竹旧臣:2008/09/27(土) 15:42:58
水戸徳川氏は三河に帰れ!
760 :
日本@名無史さん:2008/09/27(土) 19:18:09
761 :
日本@名無史さん:2008/09/27(土) 22:00:23
>>759 助さん、格さん、やっておしまいなさい!
762 :
日本@名無史さん:2008/09/28(日) 10:10:05
偽源氏は三河に帰れ
764 :
日本@名無史さん:2008/09/30(火) 18:36:35
血筋は上杉のくせに
765 :
佐竹ファンの常陸人:2008/10/01(水) 07:24:06
>>764 おまけに江戸時代には直系の血も徳川化←確か徳川宗家から養子を貰ったような
しかし、「家」ですからね!水戸徳川家は出ていけ!
766 :
日本@名無史さん:2008/10/01(水) 11:25:20
>>765 水戸徳川家の子孫って今でも茨城県に住んでるの?
>>766 東京海上の部長だから東京在住なんじゃないの?
>>765 常陸の代わりに秋田もらったんだからいいだろ
水戸徳川家は昔から江戸詰めだろ
4年も細々と続くスレ…落涙
773 :
日本@名無史さん:2008/10/17(金) 11:41:08
>>766 少なくとも先代は水戸に住んでたぞ
市内で農業やってた
一度見た事あるけど斉昭にそっくりだった
>>765はガセ
>>773は戦後の話だよね?
義重の血筋が絶えた現佐竹宗家…
確か、先代の奥様の実家から養子をもらったはずですよね?
まあ元々男系は室町時代に絶えてるんだからいいんでない?
まあ、男系自体は腐るほど残ってると思うがね
嫡流以外での話しなら
>>777 まあ、佐竹の血を引いているひとならそこそこいるからね。
779 :
日本@名無史さん:2008/10/31(金) 10:49:21
徳川家も名門だし良いんじゃない
780 :
日本@名無史さん:2008/10/31(金) 16:01:13
ドイテルオ『常羽有情』(じょうううじょう)よろしく。
>>780 土居さんの作品って創作の記述(?)が多くないか?
782 :
日本@名無史さん:2008/12/29(月) 22:28:46
偽源氏徳川が源氏長者とか名乗っていることが笑えるw恥ずかしくないのかねwww
783 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 03:33:00
あげ
784 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 16:29:13
秋田県は米の生産高が日本一になったね。
江戸期に品種改良が進んでいれば、
佐竹はとんでもない大名になれたね。
785 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 21:08:24
常陸の寺やお墓にいったけど「川上」が多いな!
786 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 23:23:49
今度の大河どうなんだろう?
ちゃんとした役者かな、それとも華麗にスルー?
787 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 01:25:16
(( n n )) (( n n ))
(ヨ ). ハ,,ハ ( E),、 , (ヨ ) ハ,,ハ ( E)
\\ ( ゚ω゚ )/ / ヽ、,,./ ヽ、\( ゚ω゚ )//
ヽ <∞> / .\ <∞> /
__/ <V>/ ○ ○ \<V> \__
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く __Y ヽ__/( (__人__) 丿\__/ Y__ノ
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> ) (. <
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く_⊃ ⊂_ノ
‐┼‐ヽ |ヽレ ノ_ │ | | ‐┼‐ ‐┼‐
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(丿 ) |ノ|ヽノ | ノ ヽ__ノ (丿\ ノ
789 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 19:48:55
>>788 じゃあ、どこの血統ならいん?また中国系漁師の血を入れたいの?w
790 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 22:11:25
東家は男系の血を継いでると聞いたことがあるが・・間違ってたらゴメン
それにしてもノブヤボの義久の数値は納得出来ない
今日の水戸黄門(再放送)の悪役は佐竹様と申すお侍さまです
肛門さまが佐竹を叩くとは・・・・
792 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 15:31:00
あの…、みんな詳しいんだな。
俺秋田市民なんだが、佐竹さんの前の殿様
安東氏(秋田氏)の居城近くに住んでいる。
同じ秋田市民(県民)でも、安東氏の居城近くの住民は
佐竹<安東の傾向が強く見られる。
まあ佐竹さんも安東氏も秋田では大した功績は残して無いんだが…。
安東氏…安東愛季(秋田実季の親父)が信長に鷹を献上した。
羽黒(山形)の僧兵が秋田に来襲した時撃退した。
ぐらいしか判らん。
久保田城(千秋公園)…石垣がない。ただの丘。近年、門やら櫓が再建された。
ただの町おこし?
まあ、花見の時期は賑わうが普段は公衆便所で高校生カップルが…。
城跡の下をトンネルが走ってるが、周辺で心霊現象がよく聞かれる。
793 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 15:33:25
あっ、言うの忘れた…。
ノブヤボで安東氏と佐竹さんを選択し挑戦したが、クリヤーするのが大変難儀だ。
要するに、源氏とは何者か?という日本史における究極の疑問にたどり着く。
一言でいえば、源氏も平氏も地方の土着の豪族の入婿となった天皇の末裔
ということになる。
では、源氏と平氏の違いは何かというと、養子を迎える豪族が、国津神系が
源氏で、天津神系が平氏ではないかと思うのだけれど、長い年月の間に
政略結婚や同盟関係による混血が進み、ほとんど違いがなくなってしまった
のではないかと考えられる。
797 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 20:35:50
これから戦国佐竹氏を勉強しようと思いますが、オススメの書籍があれば教えてください。
798 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 10:42:57
美人だけを秋田に連れて行きブスを茨城に残した責任は大きい
茨城には松居直美がいるじゃないか!
秋田出身で訛ってるのは佐竹氏に随行して秋田に移った北関東人。
秋田でブスといえば、北関東出身だから迷惑です。
801 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 21:43:11
茨城出身で訛ってないのは
佐竹に置き去りにされた役立たずだっぺ
まあ土崎湊なんかで上方との交流もあったし、秋田の地侍(=安東氏系)は訛ってなかったかもね
反対側の南部氏辺りは「田舎モンって津軽と一緒にバカにされている気がする……」なんて国元にネガ手紙だしてるけど
803 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 23:53:15
事前運動だったんですね。通報しました。
当選しやがったか
805 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 01:11:57
佐竹の殿様が知事だからなあ。
806 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 21:25:55
北家らしいな
ふーん
808 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 00:07:55
源氏の家系の佐竹が上杉の血筋で、米沢上杉が源氏の血筋とは面白いな。
山入の予感
810 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 01:20:55
仙台のあたりを治めていた
大崎義隆は米沢で亡くなり
米沢で生まれた伊達政宗は
仙台に城を築いた
>>154 遥か彼方悠久のレスに答えるが、
土崎衆にとっては、やはり秋田城介が一番。
山車の題目を見れば一目瞭然。佐竹が取り上げられることは滅多に無い。
何となく、佐竹に興味を持ちあちこち見てたら、「部垂氏」って人を知った。
まさに、「へたれ」だったみたいだけど、「部垂氏」が「へたれ」の語源なのか?
813 :
日本@名無史さん:2009/10/02(金) 00:11:34
部垂義元っていかにもヘタレっぽい名前
義元はヘタレじゃないぞ
佐竹宗家に弓ひいて12年もやり合ったのだから山入一揆以来の大乱だ
ごめん、知らなかった
佐竹氏の秋田改易は相当、屈辱的な措置ではなかったのかな。
佐竹氏は関が原戦後に中立だったことから
常陸50万石から秋田20万石に改易になったが、
当時は同じ石高でも温暖な地域の土地が欲しがられ
東北のような寒冷地への転封は
東北の地元大名か蒲生氏のようなよほどの大加増がないと
屈辱的だったはず。
817 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 22:54:06
実際、伊奈事件で家康が憎悪していた
福島正則が改易された時も最初の改易予定地は津軽だったが、
津軽氏が津軽を離れたくないと運動したため、川中島に変更されたというし、
安房から倉吉に改易になった里見氏ですら「こんな寒いとこに飛ばされるとは屈辱だ」みたいな
発言が残ってたはずだよね。
蝦夷地を除けば津軽に次ぐ寒冷地の秋田に飛ばされるって
どんだけの屈辱と怒りよと思ってしまう。
家康がどんだけ佐竹を鬱陶しく思っていたか分かる措置。
ほとんどイジメに近い。
50万石って寄騎大名含めてだから実数は変わってないだろ佐竹常陸→秋田
寒いこと我慢すれば日本海の船がある分儲けはでるから関ヶ原後の転封された大名じゃマシな方だったろう
義宣が初めて秋田入りした時に、思いのほか広大な平野が広がっていて上機嫌になったらしい
冷害などがなければ旧領より肥沃な土地であるしね
鉱物資源も豊富で(常陸ではあらかた掘り尽くしていた)結果的には左遷組にしては恵まれていた
まあ、どんな土地でも転封されるのは屈辱であるけど
822 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 14:21:59
「減封」だな
むしろ転封
824 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 11:37:30
吾妻鑑 文治5年7月の佐竹秀義参陣と、
新渡戸氏系譜に載る遠田三郎の関係で、
現在宮城県遠田郡には佐竹姓を名乗る家があるのですが
なにか伝承等御存知の方がいらっしゃいましたら
教えて下さい。
佐竹義敦の側室で佐竹義和の生母三木氏がどこの三木氏か分かる方いらっしゃいますか?
主たる家臣にも三木はいないし、旗本でしょうか?
826 :
wasi ◆Qbc7FAzM.M :2010/04/16(金) 11:21:58
ん?
827 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 15:22:03
>>819 実高は表高の倍以上だったからいいほうだろうね。
(明治初期の人口は、秋田58万人、宮城56万人)
828 :
日本@名無史さん:2010/05/09(日) 01:25:53
秀吉時代末期に越後を失い、関ヶ原後に出羽酒田湊も失い・・・
米沢なんぞのド田舎内陸部に押し込められた上杉よりはマシ
上杉は本来、斬首改易コースだから30万石の大大名として残れただけ奇跡的幸運だよ
830 :
日本@名無史さん:2010/08/01(日) 22:41:46
>>812 「常陸日月抄過去帳」って史料にヘダレって書いてあったから
こう読むのかもしらんね。
831 :
日本@名無史さん:2010/08/08(日) 11:45:20
「部垂の乱」って響きが悪すぎる
ヘタレ義元って言うと必ず今川義元の事だと思われる