「多岐」太平洋戦争直前の超大物「亡羊」

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1( ̄▽ ̄)。o0○
一人づつ拾っていけるといいな〜。
2日本@名無史さん:04/06/07 20:47

陸軍:東條、寺内、杉山、畑、梅津、(山田、西尾、岡村、板垣、土肥原)
海軍:米内、永野、嶋田、五十六、及川、豊田副
外務:広田、東郷、重光
宮廷:木戸、原、鈴木貫、(蓮沼)
重臣:近衛、平沼、若槻、岡田、林、阿部
在野:宇垣、荒木、真崎、柳川、石原

()内は開戦持、東條より右翼にいた現役大将
3日本@名無史さん:04/06/07 20:48
4日本@名無史さん:04/06/07 20:49
身分は低いが影の実力者

陸軍:武藤章、冨永恭次、田中新一、佐藤賢了、真田穣一郎、服部卓四郎
海軍:岡敬純、福留繁、富岡定俊、高田利種、石川信吾
企画院:鈴木貞一、秋永月三、迫水久常
5日本@名無史さん:04/06/07 20:52
CINCO
6日本@名無史さん:04/06/07 20:57
【日米開戦の】木戸幸一について語ろう【キーマン】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1083823789/l50

「木戸と東條」
その東條が第三次近衛内閣の次期首班に推薦されたのは、木戸幸一内大臣の推薦による。
木戸は、主戦派の東條に戦争をさせない約束をさせておいて、日米交渉に尽力させる意図
であった。そしてその背後には、天皇の東條に対する深い信任があった。東條もこれに応
え、「日米不戦」の天皇の意志を呈して努力を重ねた。陸軍若手将校らから生命を狙われ
るほど、東條は主戦派から交渉派に変貌し、努力を重ねたのである。
しかし、ハル国務長官からいわゆる「ハル・ノート」が突きつけられるや、ついに日米開
戦となる。
(略)
東條の真摯さは独善となりつつあった。そして、この余地を縫うようにして、近衛文麿、
岡田啓介らによる東條内閣倒閣クーデタが策され、木戸幸一内府が反東條に廻ったことに
よって一気に進展した。さらに天皇への伝声管である木戸が反東條に廻ったということは、
天皇が東條では今後心許ないという意志を示したことにもなった。こうして、東條は重臣
集団の宮廷クーデタによって政権を逐われたのである。
7日本@名無史さん:04/06/07 21:07
略歴

近衛文麿=首相、大政翼賛会創立、対米戦反対
平沼騏一郎=首相、枢密院議長、反共反ソ、対米戦??、東條内閣更迭関与
若槻礼次郎=首相、重臣会議員、文官提督(渾名)、対米戦反対、東條内閣更迭関与
岡田啓介=首相、重臣会議員、対米戦反対、東條内閣更迭関与
阿部信行=首相、翼賛政治体制協議会会長(推薦議員を決定)、陸軍大将

原 嘉道 =枢密院議長
林 銑十郎=首相、大日本興亜同盟総裁、なにもせんじゅうろう内閣
8日本@名無史さん:04/06/07 21:19
分けるほどの事は無かったと思うけどねえ・・・・

まあ、陸軍軍人に関してなら幾等でも書くよ。
9日本@名無史さん:04/06/07 21:29
東條内閣の直前、
陸軍の杉山元、建川美次、寺内寿一は皆、宇垣一成の子分筋なのに、宇垣内閣は、
陸軍によって流産させられている。
つまり陸軍の真の権力は、彼らの手に無かったということになる。

また昭和十二年の頃に陸軍の声明書を、寺内寿一陸軍大臣の承諾も無しに武藤章が発表している
様子が阿川本の山本五十六(第六章)で別本から引用されている。

つまり、陸軍に限れば、上層部は佐官の操り人形と化していたと・・・
10日本@名無史さん:04/06/07 21:42
>>8
苗字だけで語られてもよくわからんかった。どんどん知らん人が出てきて。
もうちょっと実力を示すエピソードが増えるとうれしい。
11日本@名無史さん:04/06/07 22:40
東條は陸士17期。開戦時東條より右翼にいたのは
寺内寿一(11) 杉山 元(12) 畑 俊六(12) 中村孝太郎(13) 西尾寿造(14) 山田乙三(14)
梅津美治郎(15) 岡村寧次(16) 土肥原賢二(16) 板垣征四郎(16)
()内は陸士の期

このうち大物ということで、まず脱落するのが中村孝太郎だろう。
彼は林内閣で陸相となったが、チフスになり一週間で杉山にその座を譲った。
林内閣は、宇垣内閣を潰した石原等が作ったもので、石原は陸相に板垣をと考えていた。
それを阻んで中村を送り込んだのが、当時陸軍次官だった梅津である。
中村はその後回復し、東部防衛軍司令官、朝鮮軍司令官を務め、開戦後は再び
東部軍司令官となり、昭和18年5月に予備となった。
失礼ながら、何故こんなに長らく現役にとどまったのかわからないぐらいの人。

次に消えるのが、最後関東軍司令官として有名な山田乙三だろう。
彼は開戦前は、教育総監兼軍事参議官兼防衛総司令官。開戦直後に防衛総司令官
の職を東久邇宮に譲り、昭和19年7月、梅津が参謀総長に就任したことで、彼の後任
として関東軍総司令官となった。終戦前後の関東軍に関しては悪評が絶えないが、
決して逃げたわけではない。ここでは詳述は避けるが。昭和31年6月、シベリアより帰還。
彼は政治向きには一切かかわらない純軍人であり、国策についてあれこれ意見する
ような人ではなかった。
12日本@名無史さん:04/06/07 22:58
西尾寿造は日本の大将では珍しい、幕僚の手綱を引き締めて緩めないタイプの人で、
あまり下僚の人気は無かったようだ。支那派遣軍が創設されると初代総司令官になる
など、同期の山田より出世はずっと早く、掛け値無しの大物軍人ではあったが、
開戦時は軍事参議官としてすでに、一線を引いていた。
昭和18年の4月頃、軍事参議官として地方を視察中、記者の何らかの質問に対し、
「わしはそんなことは知らん。毎日、ゴミ箱をあさっとる奴がおるだろう。
そいつにでも聞いてみろ」という強烈な皮肉を飛ばした。
これはすぐに東條の耳に入り、かんかんに怒った東條によって、即待命、予備役となった。
しかし、東條が失脚後の昭和19年7月から終戦まで、東京都長官を務めた。
戦後は巣鴨に入ったが、23年12月釈放。
13日本@名無史さん:04/06/07 23:15
へー、陸軍にも興味でてきたよ。モットモットー
14日本@名無史さん:04/06/08 00:17
土肥原賢二は、支那通の草分け坂西利八郎の愛弟子。
支那服を着たら、誰も日本人と気付かなかったとか。
一夕会に入り、藩閥の打破や満蒙問題に早くから関わった。
柳条湖事件のときは奉天特務機関長であり、事件直後臨時に奉天市長となった。
その後ハルピン特務機関長、歩兵第九旅団長を経てまた奉天特務機関長となり、
張北事件をきっかけに、宋哲元の二九軍をチャハル省の長城線以北から撤退させるという
土肥原・秦徳純協定を結び、さらに親日派の殷汝耕をして冀東防共委員会をつくらしめ、
国民政府から独立を宣言させた。これによって華北では学生を中心に激しい反日運動が
盛り上がり、土肥原の悪名は更に上がった。その後、第十四師団長として支那事変に出征。
第五軍司令官、陸士校長を経て大東亜戦争開戦時は、航空総監兼航空本部長であった。
当然彼は航空兵ではないので、これはおかざりみたいなもの。
昭和18年5月から東部軍司令官、昭19年3月からはシンガポールの第七方面軍司令官
となり、20年4月からは教育総監、そして終戦を迎えた。鈴木内閣が総辞職し、東久邇宮
が首班となると、陸軍は従来どおり三長官が会談して、陸相に土肥原を推薦したが、
東久邇宮はこれを拒否して、北京から同期の下村定を呼び寄せたのは有名な話。
土肥原の経歴を見ると、第十四師団長として徐州作戦を戦って以降は、前線にでること
はなく、その後の職歴を見ると、決して干されてるというわけではないが、国策を動かす
ような政治力はなかっただろう。
支那では、特務の親玉として、泣く子も黙る鬼のような存在だったが、
実際に彼がどんな酷い事をしたのかというと、上に挙げた政治謀略以外には、
具体的に上がってこない。東京裁判では、『満州のローレンス』などとも言われたが、
彼が支那人に嫌われる一つの原因は、彼の苗字にある。
支那人は土肥原を『土匪源』とよんだ。土匪の源というわけである。
東京裁判ではA級として起訴され、絞首刑となった。
最後に良い話をひとつ。第十四師団長時代、彼の師団が行軍する後を、
不思議なことにぞろぞろと支那の民衆がついてきたそうだ。
第十四師団は軍規が厳正で、それの後をついていけば安心と思われていたようである。
15日本@名無史さん:04/06/08 07:46
首相経験者

若槻礼次郎A(立憲民政党)244日65歳 1931年
犬養毅〜〜〜(立憲政友会)156日76歳 1931年(5.15事件)

斎藤実〜〜〜(海軍)774日73歳 1932年(ヒトラー内閣成立)
岡田啓介〜〜(海軍)611日66歳 1934年(2.26事件)
広田弘毅〜〜(文官)331日58歳 1936年(西安事件)
林銑十郎〜〜(陸軍)123日60歳 1937年(ゲルニカ爆撃)
近衛文麿@〜(貴族)581日45歳 1937年(トラウトマン工作失敗)
平沼騏一郎〜(文官)238日71歳 1939年(三国同盟提案、ノモンハン事件、独ソ不可侵条約)
阿部信行〜〜(陸軍)140日63歳 1939年(欧州で第二次世界大戦勃発)
米内光政〜〜(海軍)189日59歳 1940年(ドイツ軍、パリ入城)
近衛文麿A〜(貴族)362日48歳 1940年(三国軍事同盟締結、独ソ戦開始)
近衛文麿B〜(貴族)093日49歳 1941年(アメリカ、対日石油輸出禁止)

東条英機〜〜(陸軍)1,009日57歳 1941年(略)
小磯国昭〜〜(陸軍)260日64歳 1944年(サイパン陥落、ヒトラー暗殺計画)
鈴木貫太郎〜(海軍)133日77歳 1945年(大和撃沈、終戦)

東久邇宮稔彦(皇族)054日57歳 1945年(マッカーサー、日本上陸)
幣原喜重郎〜(文官)226日73歳 1945年
16 (略文):04/06/08 08:26
政界の惑星  宇垣一成1868-1956
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/zinbutsu/u.htm#宇垣一成   
 岡山県出身の軍人・政治家。

 陸軍士官学校第一期生として優秀な成績で卒業し、その岡の推輓と宇垣自身の才幹で栄達、
 五内閣の陸相を歴任、いわゆる『宇垣時代』を現出せしめた。

 宇垣は陸相時代、世界的な軍縮の風潮に抗せず、むしろこれを逆手に取り『宇垣軍縮』を
 標榜した。また、宇垣はこの陸相在任中、陸軍若手将校の結社である『桜会』と右翼イデ
 オローグ大川周明らの政府転覆事件(『三月事件』)に組みした疑惑がある。

 宇垣は陸相を南次郎に譲った後、日記を丹念につけつつ朝鮮総督としてはるか政界を観望
 していた。しかし、首相推薦の任にあたる西園寺公望元老にとっては、軍縮推進者で親英
 米派にちかい宇垣はと共に重要な持ち駒であった。西園寺が彼を奏薦したのは、二・二六
 事件後組閣した広田弘毅の後継内閣首班としてである。ところが宇垣の組閣工作は陸軍の
 非常な抵抗に際会した。(首謀者であった石原莞爾は後にこれを悔やむ事になる。)
 小磯国昭らへの直接交渉も失敗した宇垣は勅による事態打開をはかったが、失敗し、つい
 に組閣を断念する。いわゆる宇垣内閣流産である。
 
 以後、宇垣は遺憾なく「政界の惑星」ぶりを発揮し、第三次近衛内閣の総辞職時にも後継
 首班としてその名が出たが、木戸幸一の反対により東條英機に首班を攫われている。

 宇垣は若槻礼次郎に「ほんとうの平和愛好者」と評され、また西園寺も宇垣は三月事件の
 疑いがあるものの、最後の手駒として非常に重要視し、また高く買われていた。
17日本@名無史さん:04/06/08 08:41

こうしてみると、宇垣内閣の二度目の誕生失敗も痛かったな。
18一言メモ:04/06/08 09:29
若槻礼次郎A(立憲民政党)244日65歳 1931年
(天才として名を馳せ、良識派だが、なぜか気弱な官僚政治家?。重臣会議メンバー)
犬養毅〜〜〜(立憲政友会)156日76歳 1931年(5.15事件)
(志半ばで倒れる。)

斎藤実〜〜〜(海軍)774日73歳 1932年(ヒトラー内閣成立)
(海軍良識派、2.26事件で死亡)
岡田啓介〜〜(海軍)611日66歳 1934年(2.26事件)
(海軍良識派、2.26事件で一命を取りとめる。重臣会議メンバー)
広田弘毅〜〜(文官)331日58歳 1936年(西安事件)
(外交官出身の気弱な政治家。陸軍に押されまくる。支那事変収拾に失敗。重臣会議メンバー。謎のA級戦犯)
林銑十郎〜〜(陸軍)123日60歳 1937年(ゲルニカ爆撃)
(ロボット首相を望む石原莞爾に見込まれ首相に。軍事予算の食い逃げ解散で短命。)
近衛文麿@〜(貴族)581日45歳 1937年(トラウトマン工作失敗)
(家柄、能力、経歴、魅力を備えた、貴族院のエース。だが・・・。重臣会議メンバー。)
平沼騏一郎〜(文官)238日71歳 1939年(三国同盟提案、ノモンハン事件、独ソ不可侵条約)
(右翼の頭目だったが、実は良識派?独ソ開戦を読めず総辞職。重臣会議メンバー。A級戦犯)
阿部信行〜〜(陸軍)140日63歳 1939年(欧州で第二次世界大戦勃発)
(まじめで地味だが、首相時には、やることなすこと失敗した。後、翼賛政治会会長)
米内光政〜〜(海軍)189日59歳 1940年(ドイツ軍、パリ入城)
(言わずと知れた海軍良識派。)
19一言メモ:04/06/08 09:30
小磯国昭〜〜(陸軍)260日64歳 1944年(サイパン陥落、ヒトラー暗殺計画)
(朝鮮の虎と言われた茶坊主。宇垣派。長々と何をやっていたのやら?)

鈴木貫太郎〜(海軍)133日77歳 1945年(大和撃沈、終戦)
(2.26事件からの生還者。宮廷仕えかつ海軍OB。)
20日本@名無史さん:04/06/08 09:45
少し、見えてきた。

陸軍:*東條、寺内、杉山、畑、梅津、岡村、板垣、(*土肥原、*西尾、*山田、*中村)
海軍:*米内、永野、嶋田、*五十六、及川、豊田副
外務:*広田、東郷、重光
宮廷:*木戸、*鈴木貫(原、蓮沼)
重臣:*近衛、*平沼、*若槻、*岡田、*阿部、(*林)
在野:*宇垣、荒木、真崎、柳川、石原

*既出
21日本@名無史さん:04/06/08 18:51
宇垣内閣の流産に関して
陸相寺内にとって宇垣は恩人。湯浅内府から次期首班は宇垣でどうかと打診され、
「もうそろそろいい時分でしょう」と深く考えずに答えた。ところが宇垣と聞いて大反対
したのが石原莞爾。産業5ヵ年計画や常備36師団計画が御破算になると考え、
片倉衷らと諮って、これを潰しに掛かった。表向きの理由は三月事件など。
こうなると寺内には手の施しようがない。
次官の梅津の仲人は宇垣。一応片倉の勝手な行動について怒り、陸軍省で皆を集め
「片倉少佐のやったことはどうもけしからん。あなた方はどう思うか」と聞いた。
ところが軍務局長磯谷廉介以下、片倉が根回し済みで、誰もが片倉の肩を持った。
そうなると、「明哲保身の人」といわれた特性が顕れ、「みんながそういうなら、私の
言ったことは取り消す。しかし私は、君のやったことは、その行為には同意しない」
といっただけで終わった。
22日本@名無史さん:04/06/08 19:10
続・宇垣内閣の流産に関して
教育総監の杉山と宇垣の縁は、上の2人どころではない。ところが、よりにもよって
宇垣を直接訪ねて拝辞を求める役回りを演じる事となった。本人も恐らく相当嫌だった
だろうが、宇垣の方でも怒るよりまず驚いただろう。「部内の若い者が騒いで、陸相候補
がまとまらないから、どうかお辞め願いたい」という杉山に対し宇垣は、
「それをまとめるのが君や寺内陸相の責任だろう。その尻を私に持ってくるのは
不合理である。まとめる責任のある君たちが責任をとって辞めるべき筈なのに、
私に辞めよというのは筋が通らない」と強く突っ撥ねた。杉山は返す言葉も無く、悄然と
して帰った。これ以降の杉山に対する宇垣の感情は、杉山が戦後自決したときに、
杉山の副官に宇垣が送った書簡に、よく現れている。
「・・・爾来私の杉山観に多少の変化を来して、杉山も存分責任感を弁えぬ人であると
考えてましたが、今度の美事なる御最後を聞きまして、元帥はやはり責任感の強い方
であると、全く中途における私の元帥観を見直した次第であります・・・・」
23日本@名無史さん:04/06/08 19:47
続々・宇垣内閣の流産に関して
朝鮮軍司令官小磯国昭の場合は少し滑稽である。
一応三長官が推薦した近衛師団長香月清司にあたってみたが、当然彼は辞退した。
そこで宇垣は旧知の小磯に長距離電話をかけて、「陸相をやってくれぬか。相当に
空気が悪いから、僕と討ち死に覚悟でやってくれないか」と頼んだが、明敏な小磯は
「三長官の推薦があるのならやりましょう」と答えるのみ。「三長官の推薦がないから
君に頼んでるんじゃないか」という宇垣に「今私が承ったところで、朝鮮海峡を渡るころ、
三宅坂から予備役編入の電報一本でだめになります」
結局宇垣の方が諦めて電話を切ってしまった。
ところが翌年、小磯自身待命となってしまう。これには本人は相当不満で、かなり
駄々をこねたが、結局そのまま予備となった。
昭和19年7月、首相となる。予備の大将では戦争指導に不自由するので、現役に
復帰し、陸相を兼摂したいと願ったが、かつての宇垣と同じように陸軍から拒否された。
結局大した事は出来ずに退陣。

実は小磯の予備役入りは、2.26の後に既に決まっていた。ところが建川美次が、
「自分は予備でいいから、小磯はもう少し現役に残してやってくれ」と頼んだ結果、
少しだけ現役寿命が延びていたのである。

宇垣の伝記作者の額田中将は、巣鴨で橋本欣五郎から、「宇垣を抑える空気は
軍部外にあった。山下将軍と同じだ」と聞いたそうである。宇垣崇拝者の額田は
敢えてこれを謎の言葉としてるが、別に謎でもなんでもない。皆さんおわかりだろう。
ただ橋本が何を根拠にそんな事を言ったのかは不明だが。
24日本@名無史さん:04/06/09 00:03
宇垣派−桜会−皇道派ってのは確かにありそうだ。少なくとも当時の世間や宮廷はそう見ていたようだ。

皇道派
荒木貞夫、真崎甚三郎、山岡重厚、山下奉文、小畑敏四郎など
桜会など
橋本欣五郎、大川周明、北一輝
25日本@名無史さん:04/06/09 10:40
石原はのちに「宇垣反対は千慮の一失であった」と吐露したらしい。

そのように恐るべき権力を誇った石原莞爾が支那事変で、一旦消極姿勢を示すと途端に力を失い失脚し、
彼の更迭に関与した武藤章が軍務局長の身で君臨しながら、開戰に躊躇すると途端に力を失い更迭される。

陸軍には、狂った民主主義でもあったのだろうか・・・
26日本@名無史さん:04/06/09 12:52
>>23
> 「宇垣を抑える空気は軍部外にあった。山下将軍と同じだ」
天皇陛下だね。
27日本@名無史さん:04/06/09 20:24
岡村寧次
16期三羽烏の一人。旗本の次男坊で生粋の江戸っ子。支那通。
中佐時代は直隷派の孫伝芳の顧問を務めた。
上海派遣軍参謀副長として第一次上海事変に出征。
関東軍参謀副長としてタンクー停戦協定を結ぶ。
2.26事件のときは参本第二部長。
闊達で誰からも好かれる性格だが、やや八方美人的。
有名なバーデンバーデンの密約で、藩閥人事一掃を永田、小畑、東條と約す。
その後、同人を集め二葉会(後一夕会)をつくり、真崎、荒木を推す。
荒木が陸相になったあたりから、永田と小畑の仲がおかしくなる。
岡村はなんとか仲裁しようとするが失敗。遂に永田殺害にまで到る。
本人はなるべく中正な立場を保とうとするが、周りは真崎派と見た。
2.26事件の後第二師団長となる。
その後、第十一軍司令官、北支那方面軍司令官、第六方面軍司令官を務め、
支那大陸において一号作戦を初め数々の作戦を指揮する。
終戦時は支那派遣軍総司令官で、南京において何応欽に降伏。
中共が戦犯として引渡しを求めたが、国民党は拒否。
昭和24年、無罪判決を受けて帰国。拘留中の扱いはよかった。
台湾に逃れた蒋介石の要請を受けて、軍事顧問団「白団」を組織。
昭和41年逝去

当然実力から言ったら陸軍大臣になってしかるべき人物だが、2.26以降、
軍事参議官を1年4ヶ月やった以外は、東京と無縁だった。
調整型の人物だから、あの状況下でどこまでやれたかは不明だが、
畑のような軍政の素人を使うなら、この人を一度起用してもよかったと思う。

ちなみに開戦時は北支那方面軍司令官として完全にノータッチだった。
28日本@名無史さん:04/06/10 07:49
時代と方向がばらばらだけど名前だけあげる
上海でテロられた白川義則

東条の後継候補で米内に蹴られた後宮淳

あと秩父宮と高松宮と東久爾宮あたりは重要人物
29日本@名無史さん:04/06/10 08:15
首相候補なら他にも名前のあがった人がいなかったか?
30日本@名無史さん:04/06/10 08:40
>27
バーデンバーデンの密約。
東條秀樹、永田鉄山(統制派のボス) 、小畑敏四郎(皇道派のボス)、そして岡村寧次。
なんかほんとにドラマチックな話だね。極東裁判で話題をさらうわけだ。
31日本@名無史さん:04/06/10 10:01
>>20のカテゴリーには入れにくいけど、
朝鮮総督を長く務めた南 次郎も首班候補に挙げられたことがある大物。
それから同じ大分の河合 操も2.26の後、首班候補に挙げられた。
尤も河合は大東亜戦争開戦直前に亡くなってるが。
32日本@名無史さん:04/06/10 12:41
白鳥敏夫
吉田茂

外交官の引退後の権力とはあるのか?
33日本@名無史さん:04/06/10 19:12
軍人以外で元閣僚と言うだけでは実力者とはいえないな

枢密院や参議官などの発言権がないと
34日本@名無史さん:04/06/10 20:45
軍事参議官といえば、東條と同期で篠塚義男という中将がいた。
熊幼、中幼、陸士すべて首席で卒業し陸大も恩賜(第五位)で卒業した秀才。
開戦時は陸士校長兼軍事参議官だった。
開戦を前に軍事参議院会議が開かれ、大本営から開戦についての説明を受け、
軍事参議官全員がこれに賛成し、署名した。
敗戦後、篠塚は「大東亜戦争開始に当り軍事参議官として同官会議に列席し
開戦を可と奉答したる責任を感じ」自決した。
軍事参議官なんてのは大した権限もない閑職だし、彼よりはるかに責任ある立場に
いながらのうのうと生き長らえてる人間はたくさんいるんだが・・・
大物ではないけど、一応記憶の片隅にとどめ置かれてもいい軍人だと思う。
35日本@名無史さん:04/06/11 06:28
今の湯浅利夫宮内庁長官は内大臣の湯浅倉平の子孫?
36日本@名無史さん:04/06/11 12:47
>>28
海軍戦争検討会記録で及川が
「第三次近衛内閣(北支軍司令官、岡村寧次)の時、総参謀長、後宮淳が私の所へ来て、(支那からの)撤兵は賛成です。
と言ったことがある」といっている。
と本に書いてあったけど、後宮淳(うしろく じゅん)とはどんな人だったの?
37日本@名無史さん:04/06/11 13:03
>>24
橋本欣五郎、大川周明、北一輝の関係ってのは、よくわかんないな。

大川周明 おおかわしゅうめい
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C194C100.HTM
アジア 日本 AD1886 明治時代
1886〜1957 日本ファシズムを代表する1人。山形県出身。五高をへて東京帝大でインド哲学を学ぶ。
植民地インドの現状に目をむけ日本によるアジア解放を提唱。1918年(大正7)満鉄入社。老荘会をへ
て1919年北一輝らと猶存社を組織,右翼的国家改造運動のさきがけをなす。が,まもなく北と対立し,
1925年行地社を創立,機関誌「月刊日本」を発刊。1920年代後半ごろから「満蒙問題解決」を叫ぶ。
1931年桜会の橋本欣五郎・小磯国昭など軍幹部や,一部の右派社会改良主義者と結んで宇垣一成によ
る軍部独裁政権の樹立をめざし三月事件を画策した。民間右翼や青年将校が総結集した未遂クーデタ
の十月事件にも関与。1932年改めて神武会を創立し会頭となった。同年五・一五事件で幇助罪に問わ
れて検挙され下獄。1937年出獄。東西文明の対抗を基調とする大アジア主義の主張は,太平洋戦争当
時,大いに受け入れられた。1945年12月A級戦犯として逮捕・起訴されたが精神疾患ということで免除。
著訳書に『復興亜細亜の諸問題』『コーラン』などがある。
38日本@名無史さん:04/06/11 13:12
同期の桜〜 

http://homepage1.nifty.com/kitabatake/gunzin3.html
15期梅津美治郎大将、蓮沼蕃大将、多田駿大将、今井清中将、谷寿夫中将
 山岡重厚中将、永持源次中将、徳川好敏中将、河本大作大佐
16期岡村寧次大将、土肥原賢二大将、板垣征四郎大将、安藤利吉大将、永田鉄山中将
 小畑敏四郎中将、園部和一郎中将   
17期東条英機大将、後宮淳大将、前田利為大将、飯田貞固中将、篠塚義男中将
 鈴木重康中将、岩松義雄中将   
18期山下奉文大将、岡部直三郎大将、藤江恵輔大将、阿南惟幾大将、山脇正隆大将
 安井藤治中将、酒井鎬次中将、久納誠一中将、佐々木到一中将 
19期今村均大将、田中静壱大将、河辺正三大将、喜多誠一大将、塚田 攻大将
 本間雅晴中将、斎藤弥平太中将、小須田勝造中将  
20期朝香宮鳩彦王大将、東久邇宮稔彦王大将、下村定大将、吉本貞一大将、木村兵太郎大将
 牛島満大将、橋本群中将、木下敏中将、酒井隆中将、飯田祥二郎中将
3938 訂正:04/06/11 13:14

15期 梅津美治郎大将、蓮沼蕃大将、多田駿大将、今井清中将、谷寿夫中将
     山岡重厚中将、永持源次中将、徳川好敏中将、河本大作大佐

16期 岡村寧次大将、土肥原賢二大将、板垣征四郎大将、安藤利吉大将、永田鉄山中将
     小畑敏四郎中将、園部和一郎中将   

17期 東条英機大将、後宮淳大将、前田利為大将、飯田貞固中将、篠塚義男中将
     鈴木重康中将、岩松義雄中将   

18期 山下奉文大将、岡部直三郎大将、藤江恵輔大将、阿南惟幾大将、山脇正隆大将
     安井藤治中将、酒井鎬次中将、久納誠一中将、佐々木到一中将 

19期 今村均大将、田中静壱大将、河辺正三大将、喜多誠一大将、塚田 攻大将
     本間雅晴中将、斎藤弥平太中将、小須田勝造中将  

20期 朝香宮鳩彦王大将、東久邇宮稔彦王大将、下村定大将、吉本貞一大将、木村兵太郎大将
     牛島満大将、橋本群中将、木下敏中将、酒井隆中将、飯田祥二郎中将
40日本@名無史さん:04/06/11 13:49
>>36
後宮淳は京都出身で東條と同期の陸士17期
2.26事件のときは人事局長 支那事変勃発時は軍務局長
支那事変における彼の態度は拡大派とする本もあるけど
恐らくどちらかと云えば不拡大派に近かったと思う。
その後、第二十六師団長(内蒙)、第四軍司令官(満州)、南支那方面軍司令官(広東)
を経て支那派遣軍総参謀長となり、開戦前に上京し対米戦に対する不安を訴えてる。
昭和17年8月、大将に昇進し中部軍司令官(大阪)となる。

首相兼陸相でありながら、作戦に関与できない大本営の構造的欠陥に痺れを切らした
東條は昭和19年2月、周囲の大反対を押し切って、参謀総長を兼摂することにした。
ただ一人で四役(外に首相、陸相、軍需相)は無理なので、従来一人の参謀次長を
二人に増やし、気心の知れた人間を置いて自分の分身にしようと考え、
この第一参謀次長ともいうべき地位に同期の後宮を据えた。
(ちなみに元々いた参謀次長は24期の秦彦三郎中将)
翌3月には航空総監も兼任したので、この時点での後宮の職は
「軍事参議官兼参謀次長兼航空総監兼航空本部長」

しかしこの足掻きも空しくサイパンは落ち、東條は退陣した。
後宮も東條退陣と同時に参謀次長の職を解かれ、翌月には第三方面軍司令官として
満州に発った。そしてそのまま終戦を迎え、シベリアに抑留、昭和31年12月復員。
41日本@名無史さん:04/06/11 14:11
>40
相変わらず見事な文で・・・。
このスレ終わるまでに、この文らにツッコメル人が現れるかどうか・・・

とうでに>>24で宮様が沢山出てるけど、やっぱ宮様の影響力って絶大なの?
42日本@名無史さん:04/06/11 14:51
>>41
伏見宮博泰王が軍令部部長の時に、皇族部長の威光を十分意識して、
海軍軍令部の権限を、陸軍参謀府並みの改定を画策した。
この時は、軍務第一課長だった井上成美大佐が全く同意せず、
上司の寺島軍務局長や、果ては大角海相まで困らせている。
結局、井上大佐を横須賀にとばし、条約改定はなされ、
強化された軍令部が、条約派をつぎつぎに予備役に飛ばす。(寺島や五十六の盟友、堀もこの時予備役に)
(伏見宮はなぜか井上はとばさず、少将の道が開ける比叡艦長に送り込んでいる。)

宮様ってのは、職務以上に実力を持っていたといえるかも。
4341:04/06/11 15:15
訂正です。
とうで→ついでに
>24→>>28
44日本@名無史さん:04/06/11 15:18
>>41
伏見、閑院両宮殿下がその威力を発揮したことは何度かある。
軍縮問題、真崎更迭、米内内閣倒閣etc
ただ後から糸を引く人間がいないと踊らないけどね。
東久邇宮はなかなか鋭敏な人で、東條は近衛の後釜に東さんを推してた。
結局自分がなってしまうわけだが。

皇弟秩父宮殿下は、歩三に務めてた関係から所謂青年将校たちと関わりがあり、
彼らの革新運動に理解を示していたという。2.26のときは歩三十三聯隊の大隊長
だったが、この第八師団は革新将校が多い師団といわれており、殿下が師団を
率いて上京するという噂が流れた。結局は単身で上京し、天皇と面談。
そのとき天皇親政を訴えて怒られたという説がある。
その後、大本営参謀となり戦争指導班(班長 高嶋辰彦)に入った。この戦争指導班は
支那事変不拡大派の総本山で、殿下も当然不拡大方針を支持しておられた。
昭和13年1月16日に出た第一次近衛声明とその前日の大本営連絡会議に関しては
有名過ぎて今更書くまでもないけど、政府のトラウトマン工作打ち切りに反対して
孤軍奮闘していた多田駿参謀次長が会議の合間に参謀本部に帰ってきたとき、
思い余った殿下は次長に面会を求めた。そのときの様子を同席していた第二課長の
河辺虎四郎が回想録に書いてる。それによると殿下は
「このような重大な案件は御前会議を開き、そこで各人所信を披瀝し、陛下の御判決を
仰ぐべし」と訴えた。要するに、そうすれば平和主義者の陛下は必ず参謀本部を支持して
下さるであろうという考えなわけだ。多田次長は深く感動しながらも、
「いかに重大な案件であろうとも、文武当局の意見が合わぬからといって陛下の御裁決を
仰ぐのは、責任を陛下に負わせることとなり、輔弼の重責を放棄した違憲の行為である」
として殿下の意見を却下した。どうも天皇親政熱がまだ醒めてなかったようである。
その後病気となり軍務を引かれたが、>>40の東條総長兼任問題では激しくこれに反対し、
病床から三度も御付武官を東條の元に送り、東條を詰問している。


45日本@名無史さん:04/06/11 16:28
秩父宮は西田から北に繋がるルートがあるし、昭和天皇に逆らう場合に陸軍の担ぐ御輿ですな。
46日本@名無史さん:04/06/11 16:40
参謀本部の一部で、まだ中佐に過ぎない秩父宮を
参謀総長に据えようとする運動があった。
昭和13年だから、支那事変解決のためかな?
結局ぽしゃったけど。
47日本@名無史さん:04/06/11 17:54
>>36の続きで
及川海相に続き、沢本海軍次官が
「岡敬純(軍務局長)が富田健治(内閣書記長)から聞いた話だが、
 畑俊六(総軍司令官)からも青木一男(南京政府顧問)を通じ、
 撤兵賛成と言ってきたことがある」
って書いてあった。

よく読むと畑は陸相時も、米内首相に協力的だったけど、閑院宮参謀総長にやられたとか。
結構、洒落になって無いね。
48日本@名無史さん:04/06/11 18:26
>>42の井上成美は、米内光政、山本五十六とで海軍左派トリオだね。
彼が「超大物」だったら、問題は無かったのに・・・。

最後の海軍大将 井上成美
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1080995833/l50

でそろそろ畑俊六について知りたいな。どうも右派とは思えないんだけど。
49日本@名無史さん:04/06/11 19:15
だから陸軍の閑院に対抗するために海軍は伏見を担いだ
5050:04/06/11 19:41
超大物の住処
重臣会議、陸海軍、陸軍参謀府、海軍軍令部、枢密院、参議官

開戦直前の超大物候補

陸軍:*東條、寺内、杉山、畑、梅津、板垣、(*後宮、*岡村、*土肥原、*西尾、*山田、*中村)
海軍:*米内、永野、嶋田、*五十六、及川、豊田副
外務:*広田、東郷、重光
宮廷:*木戸、*鈴木貫、湯浅、原、蓮沼
重臣:*近衛、*平沼、*若槻、*岡田、*阿部、(*林)
在野:*宇垣、荒木、真崎、柳川、石原
親王:*秩父宮(陸)、*閑院宮(陸)、*伏見宮博泰(海)

身分は低いが影の実力者

陸軍:武藤章、冨永恭次、田中新一、佐藤賢了、真田穣一郎、服部卓四郎
海軍:岡敬純、福留繁、富岡定俊、高田利種、石川信吾
企画院:鈴木貞一、秋永月三、迫水久常

>49
まだ育ってないから上げちゃ駄目だよ。>>100くらいまでは、大物の紹介文で埋めつくしたい。
51日本@名無史さん:04/06/11 20:18
>>47
親英米派の米内と陸軍はしっくりいってなかった。そこで参謀次長の沢田茂は、
この際畑陸相に辞任してもらい後任を出さず米内内閣を倒し、挙国一致の
強力な内閣をつくろうと考え、同期の陸軍次官阿南惟幾と諮った。
ここまでは沢田回想録でもはっきり認めている。しかし、畑陸相に辞任を迫るときに、
閑院総長宮の署名の入った一札を以って迫ったという点については、
沢田は断固否認している。阿南が統帥部からも一札欲しいといってきたが、
こういう問題に皇族を巻き込むのは避けたいと考え、次長である自分の署名入りの
メモを渡したと沢田は書いている。
他にも沢田回想録には、本来事変不拡大派であるはずの秩父宮殿下が、
衡陽作戦や蘭州作戦といった積極作戦を進言してきたことも書いてある。
52日本@名無史さん:04/06/11 20:44

平沼騏一郎
東京大学法学部に入学。首席で卒業すると司法省に入った。「シーメンス事件」時、検事総長として
の辣腕ぶりで名をあげ、政界入りを果たす。1924年に右翼団体国本社を創立し、枢密院議員、副議長
をつとめるが、キングメーカー西園寺に嫌われ長く枢密院議長になれなかった。

その後、平沼の反共反ソ姿勢の裏返しとしての英米協調路線を西園寺が選び、平沼内閣は1939年1月
に発足した。その直後、ドイツからある提案が出された。日独伊三国同盟の締結である。これは第3国
から攻撃を受けた場合の相互武力援助を義務付けるというもので、2年前、ソビエトに対抗するために
締結した日独伊防共協定を強化する内容だった。ここで問題となったのが第三国の規定であった。新し
い同盟案では、これまでのソビエトだけではなく、イギリスとフランスも加えることになっていたの
である。この内容を巡り、国内の意見は2つに分かれた。陸軍は賛成。外務省と海軍は反対したのであ
る。平沼は総理就任早々、難しい舵取りを迫られた。

さらに、ノモンハン事件が起こり、対ソ戦が続く中、衝撃的なニュースが平沼の元に届いた。ドイツが
ソビエトと相互不可侵条約を結んだというのである。平沼にとってはドイツと三国同盟を結ぶために尽
力していただけに衝撃をだったようだ。

結局平沼は、ドイツ政府に対し、三国同盟に関する交渉は打ち切る事を伝え、「欧州情勢は複雑怪奇」
という声明を残し、総辞職した。

その後、東條倒閣に関与、天皇のお召により御前会議に出席する権利を得たが、アメリカから事実上の
無条件降伏を要求されると、出席するたびに国体論から降伏に反対した。しかしついに日本降伏、彼は
身を「く」の時に折って泣いたという。

米軍の進駐がはじまると、ほぼ同じくして戦犯の収監がはじまった。東條英機らのほか、平沼も収監さ
れることとなったが、それに先だってソ連の係官が彼を尋問するために自宅に訪れ、茶飲み話のように、
「あなたは今後、責任ある地位に立たれた場合、依然として共産党に弾圧を加えますか」
 と質問した。平沼は平然として、
「もちろん、弾圧します。(その理由は)共産主義はわが国体に反するからです」と答えた。
53日本@名無史さん:04/06/11 20:54
>>52
<天皇に小言申し上げた平沼枢府議長>

平沼議長は天皇に向かい、静かに口を開いて
「今度の敗戦については、天皇陛下、あなた様にも責任がございますぞ。
なんといって皇祖皇宗の英霊に対し奉り申し訳がありますか」
との驚くべき事を発言したのである。
並み居る者は思わず襟を正して粛然としたものである。

池田純久著『日本の曲がり角』
54日本@名無史さん:04/06/11 20:59
下村定
保科善四郎
松平恒雄
幣原喜重郎
野村吉三郎
栗栖三郎
大島浩
白鳥敏夫
安岡正篤
頭山満
笹川良平
川南豊作
中島知久平
久原房之助
町田忠治
5550:04/06/11 21:01
>>54
せめて一言、説明入れてくれ。
56日本@名無史さん:04/06/11 22:12
>>54
> 下村定      陸大校長
> 保科善四郎   兵備局長
> 松平恒雄 宮内大臣
> 幣原喜重郎   ??無職? 元外相
> 野村吉三郎 駐米大使
> 栗栖三郎    特命全権大使
> 大島浩      駐独特命全権大使
> 白鳥敏夫    駐伊特命全権大使
> 安岡正篤    思想家 陽明学
> 頭山満      玄洋社
> 笹川良平    良一の間違いだろう。国粋大衆党総裁
> 川南豊作    川南造船社長
> 中島知久平   元政友会中島派総裁
> 久原房之助   元政友会総裁 
> 町田忠治    元民政党総裁

なるべく開戦時の職を書いたが、下の三人はわからない。
多分翼賛会関係だと思うんだけど。
大物政治家というカテゴリーをつくるなら、久原と町田ノントウはいれても良いと思う。
中島は本来飛行機屋だからねえ。
頭山は間違い無く在野の大物だね。
松平は宮中の大物といっても良いかもしれないけど・・・・微妙だなあ。
安岡とか平泉は大物学者だと思うけど・・・・
57日本@名無史さん:04/06/11 22:41
超大物の住処
重臣会議、陸海軍、参謀本部、海軍軍令部、枢密院、軍事参議院

開戦直前の超大物候補

陸軍:*東條、寺内、杉山、畑、梅津、板垣、(*後宮、*岡村、*土肥原、*西尾、*山田、*中村)
海軍:*米内(予備)、永野、嶋田、*五十六、及川、豊田副武
外務:*広田、東郷、重光、(本多熊太郎)
宮廷:*木戸、*鈴木貫、湯浅、原、蓮沼、松平恒雄
重臣:*近衛、*平沼、*若槻、*岡田、*阿部、(*林)
在野:*宇垣、荒木、真崎、柳川、石原、頭山満、徳富蘇峰
親王:*秩父宮(陸)、*閑院宮(陸)、*伏見宮博恭(海)、東久邇宮(陸)
政界:久原房之助、中島知久平、町田忠治、中野正剛、末次信正
総督:南次郎(朝)、長谷川清(台)

身分は低いが影の実力者

陸軍:武藤章、冨永恭次、田中新一、佐藤賢了、真田穣一郎、服部卓四郎
海軍:岡敬純、福留繁、保科善四郎、富岡定俊、高田利種、石川信吾
企画院:鈴木貞一、秋永月三、迫水久常
右翼:児玉誉士夫、笹川良一、橋本欣五郎
58日本@名無史さん:04/06/11 22:44
>>42
【軍令部】伏 見 宮 博 恭 王【総長】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1041240488/l50

>>56
謝謝。幣原喜重郎なんか、完全に忘れ去られた人で、戦後の復活が逸話になってるのにね。

ttp://www.c20.jp/p/skijuro.html
権力は人を若返らせる。 終戦直前、吉田茂が和平工作に幣原をかつぎ出そう
としたとき、 彼は「非常にやせて生気がなく、がくがくとあごをならし、手
もふるえ、誠に老齢そのもの」の状態で、遣いの者をうろたえ驚かせた。 と
ころが、その後、首相の座につくや、あごの音はやみ、手のふるえも止まり、
すっかり若返って、激務をこなした。 天皇の人間宣言も、首相自らの手で書
かれた。権力が彼を若返らせたのだ。
5957:04/06/11 22:45
ちょっと修正を加えてみた

本多熊太郎は大物というには格が足りないと思うが、清沢が暗黒日記で
開戦の元凶として外交界の本多、政界の中野、軍界の末次、文筆界の徳富
の四人を挙げてたのを思い出したもので。
60日本@名無史さん:04/06/12 06:01
白鳥敏夫
 外務省の新官僚のホープ
 内田外相にスウェーデン大使に飛ばされそうになったけど
 軍部の支持もあって飛ばせずに有田外務次官が辞職した。
 そんなに偉いの?
61日本@名無史さん:04/06/12 06:16
宮様とか鈴木貫とか幣原とか宇垣とか荒木とかは元実力者だったり、
いざというときに首班に担ぎ上げられる候補だから別のカテゴリーを
設けては如何かな?
62日本@名無史さん:04/06/12 09:32
陸軍は軍務局長あたりで強硬論を吐く奴が方向を決めているような気がする。
出世して責任がある地位に立って現実的判断をすると失脚。
63日本@名無史さん:04/06/12 10:45
>61とりあえず沢山実力者あげて、後でしぼっていけばいいかなと思ったけど、確かに収拾つかなく
なる気もしてきたんで、分けてもいいかも。
(ただ混乱が予想されるんで、スレタイの難易度が高そう)

>>19
小磯国昭(東條失脚後に担がれたが、終戦に失敗した朝鮮の虎)
ttp://www.ntv.co.jp/nnn24/live/sori/20011001.html
小磯は1880年3月22日、栃木県の宇都宮で生まれた。
中学時代に指導を受けた元軍人の教師の影響で、中学卒業と同時に陸軍に入隊。その後、中国へ
の赴任などを通して、軍人としてのキャリアを積んでいった。 こうした実績が評価され、
小磯は1930年、50際の時、陸軍の軍務局長に抜擢された。この軍務局長というのは陸軍大
臣直属の重要なポストで、小磯は時の陸軍大臣である宇垣一成を補佐することになった。

当時の日本は世界恐慌のあおりを受け、失業者の増加など、大きな社会不安を抱えていた。そし
て、政治改革を求める声が高まっており、陸軍内でも政治的な動きが活発化していた。 これに
小磯も無縁ではなく、参謀本部内に陸軍大臣の宇垣を総理に担ごうとする結社「桜会」が結成さ
れると、そのメンバーになった。「桜会」は国家の改造を唱え、陸軍の将校らを中心に支持を広
げていったが、次第に急進的となり、ついに、クーデターを思い描くようになった。
その計画とは、議会や警察などを包囲して、内閣を総辞職させ、陸軍大臣の宇垣を総理に就任さ
せるというものだった。計画を知った小磯は当時の社会情勢と照らして、「時期尚早」と判断。
当の宇垣も態度を保留したが、クーデターに賛同するメンバーたちは翌1931年3月を実行日
と定め、着々と準備を進めていった。しかし、土壇場になって、宇垣が計画の阻止を決定し、小
磯も事態収拾のために動いた結果、クーデターは未遂に終ったのである。

この事件以降、陸軍内では、宇垣を中心とするグループが失脚を余儀なくされ、小磯も次第に要
職を追われるようになっていった。 1939年、その小磯に一つの転機が訪れた。時の首相、
平沼騏一郎から国外の植民地を監督する拓務大臣に就任して欲しいとの要請が舞い込んだのであ
る。こうして思いがけず、政治家への道が開かれた小磯は、平沼内閣に続き、米内光政内閣でも
拓務大臣を歴任。
64日本@名無史さん:04/06/12 10:45
軍人と政治家、両方でキャリアをつんだ小磯は1944年7月、総理に就任したのである。1944年
7月22日、小磯が総理に就任した時、日本はアジア・太平洋戦争の真っ只中にあった。戦況は思わ
しくなく、アメリカ軍による日本への上陸作戦が現実味を帯びてきていた。そんな中、小磯が
まず取りかかったのは、最高戦争指導会議の新設だった。実は、それまで、戦争の方針決定はほと
んど軍部主導の元で行われてきており、総理は戦争遂行の中枢である大本営にすら入ることが出来
なかったのである。小磯はこうした現状を打開するため、天皇と総理が共に出席する会議を設けて、
自らの意思を反映させようとしたのである。

小磯は、これと同時に、航空機や船舶の生産量と保有量の調査を行った。当時の日本軍の能力を把
握し、今後の方針に活かすためだったが、蓋をあけて見ると、愕然とする結果であった。生産能力
も数も、戦争を続けるために最低限必要と考えられていた水準に及ばなかったのである。小磯は日
本の敗北を悟らざるを得なかった。そして、小磯の中で、終戦に向う一つのシナリオが動き出した。

まず、日本の戦力を結集して、アメリカに総攻撃をしかけ、同時に中国と講和条約を結ぶ。そして、
それをてこに、日本にとって有利な形で連合軍との交渉に臨もうとしたのである。総理就任から3ヶ月
後の1944年10月、小磯が決戦の地と考えていたフィリピンのレイテ島にアメリカ軍が上陸。日本軍は
部隊を補充してこれを迎え撃った。しかし、アメリカは徹底した物量作戦を展開し、日本軍の敗北は
決定的となっていった。

一方、中国との講和も難しい状況に追い込まれていた。外務省と徹底抗戦を主張する陸軍に反対され
たからである。結局、中国との交渉は最高戦争指導会議で否決され、失敗。自らのシナリオが実現で
きないと悟った小磯は、1945年4月5日、総辞職したのである。

その4ヶ月後、日本は終戦を迎えた。小磯は連合軍による裁判で、戦争を指導した責任を問われ、無
期懲役の判決を受けた。そして、その刑に服している最中の1950年、病によってその人生に幕を閉じ
たのである。
65日本@名無史さん:04/06/12 10:57

小磯は開戦直前の「超大物」とは言えないけれど、その成立過程は、文官首相のヘタレ理由や
統制派と皇道派の話が出てきて興味深い。また終戦の遅れた理由が平沼絡みと憶測できる。>>52

成立過程
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/Syouwa-kyukenpou/42-Koiso.htm
 東條内閣倒閣工作の間は、小林躋造(海軍大将)を首班とする皇道派内閣が擬せられていたが、
天皇が皇道派に対して嫌悪感を示していたことからこれは事前に雲散霧消し、七月十九日の後継
首班を論ずる重臣会議では、若槻礼次郎が宇垣一成を推し、阿部信行が同席の米内光政を推薦し
た。米内はこれに対して、
「自分は戦争は出来るも、政治のことはわからぬ。従つて文官の人が出て、軍人は一切政治から
手を引くべきである」
 と言ったが、近衛文麿が、
「原則論としては賛成なるも、自分の経験からみるも、軍の実情を知る者にあらざれば、到底出
来ず」と発言、平沼と若槻がこれに賛同したことによって、軍人内閣は既定路線となった。広田
弘毅は、梅津美次郎を推したが、梅津は参謀総長となったばかりだから、ということで木戸に反
対された。
かねてから、軍部の統制派は日本赤化の御筆先だと考えていた近衛がここで皇道派軍人をだす
べき、と暗示したが、平沼がこれに気づいて賛成したのみで若槻などは話題を転じ、今度は現役
軍人ではなく退役の人々にも論が及んだ。平沼は、敬神家だという理由で小磯国昭を推し、また
寺内寿一と畑俊六の名前も出た。この三名を、寺内、小磯、畑の順番で候補とすることで落ち着
いたが、寺内は南方総軍の総司令官ということもあって「ここで寺内を動かすは面白からず」と、
統帥の関係上、梅津総長が奉答。かくして、お召の電話は小磯国昭にかかった。

大命は小磯、さらに近衛の勧めもあって米内にも降下した。米内も副総理格として入閣すること
になった。「小磯・米内連立内閣」と呼ばれるゆえんである。
66日本@名無史さん:04/06/12 11:34
>>57  日本の外交官っていつの時代でも権力が無いな。(国内の誰も脅せないから?)
重光葵          (しげみつ−まもる)
ttp://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/zinbutsu/si.htm
東京帝大法科卒業後、外務省に入省。1930(昭和五)年から駐華公使として満州事変に呼応して始まった
上海事変の停戦協定に当った。白川義則大将を説いて日華停戦に持ち込み、また重光曰く「自分が経験し
た最も複雑な交渉」である停戦調停(国際都市上海に利害関係を有する米英仏伊と日本軍部を相手とした
という意味で複雑であった)を成功に導いた。

帰国後、斎藤実内閣で内田康哉外相のもと外務次官、さらに広田弘毅外相のもとでも引き続き外務次官を
務め、『広田外交』を助けた。一方、省内における白鳥敏夫情報部長をはじめとする革新派・親軍派との
対立をも余儀なくされた。白鳥を在外公使として転出させることで問題は片が付いたように見えたが、結
局この問題は外務省をのちに大きく揺さぶることとなり、広田弘毅が首相となって組閣する際に、白鳥の
一派は外相として有田八郎を推薦、重光を駐ソ公使に転出させた(ここで張鼓峰事件の交渉にあたる)。
その後、駐英大使に転じ、、欧州事情に関して非常に大部のレポートを本省に送付して西園寺元老をし
て「やはり重光のものがいちばんよくできている」と言わせたほどのものであった。

しかし、最終的には重光の努力は実らなかった。開戦後、重光は汪兆銘南京政府に赴任する駐華大使とな
り、大東亜省設立を見て辞職しようとしたが、東條英機首相に乞われて留任、谷正之外相辞任後は外相に
就任した。そのときに昭和天皇は新外相に、「今度は中国問題を、よくやってね」と、非常に期待した。

重光外相は大東亜政策を重視し、かつての大東亜共栄圏思想を刷新し、大東亜共同宣言を発してアジア諸
国に対する内政干渉などを排するように努力した。東条内閣総辞職後も引き続き外相となり、小磯国昭首
相と緒方竹虎国務相の繆斌工作に対抗し、実際のところこれを阻止したため、非常に小磯に恨まれた。次
の内閣で重光と木戸の計画であった聖断による終戦が成立し、東久邇宮内閣成立。外相。

辞任後ソ連検事の主唱で戦犯として巣鴨監獄に収監。かなりの無罪は実証されたが、禁固七年の判決。
67日本@名無史さん:04/06/12 11:37
斉藤実内閣の時に荒木貞夫の提唱で始まった五相会議(総理、外相、蔵相、陸相、海相)

現役職のこの五人は重要じゃないか?

ここでは蔵相から名前が挙がらないけど。
68日本@名無史さん:04/06/12 14:22
小磯は十分大物だと思う。

>>67
蔵相を抜いた四相会議というのもあるからねえ。連絡会議にもでないし。
69日本@名無史さん:04/06/12 14:27
超大物の住処
重臣会議、陸海軍、参謀本部、海軍軍令部、枢密院、軍事参議院

開戦直前の超大物候補

陸軍:*東條、寺内、杉山、畑、梅津、板垣、(*後宮、*岡村、*土肥原、*西尾、*山田、*中村)
海軍:*米内(予備)、永野、嶋田、*五十六、及川、豊田副武
外務:*広田、東郷、*重光、(本多熊太郎)
宮廷:*木戸、*鈴木貫、湯浅、原、蓮沼、松平
重臣:*近衛、*平沼、*若槻、*岡田、*阿部、(*林)
在野:*宇垣、荒木、真崎、柳川、石原、頭山満、徳富蘇峰
親王:*秩父宮(陸)、*閑院宮(陸)、*伏見宮博恭(海)、東久邇宮(陸)
政界:久原房之助、中島知久平、町田忠治、中野正剛、末次信正
外地:南次郎、長谷川清、*小磯

身分は低いが影の実力者

陸軍:武藤章、冨永恭次、田中新一、田中隆吉、岡本清福、佐藤賢了、真田穣一郎、服部卓四郎
海軍:岡敬純、福留繁、保科善四郎、富岡定俊、高田利種、石川信吾
企画院:鈴木貞一、秋永月三、迫水久常
右翼:児玉誉士夫、笹川良一、橋本欣五郎
70日本@名無史さん:04/06/12 14:30
満州の 二キ三スケ は?
71日本@名無史さん:04/06/12 15:52
>>69
東郷茂徳   (開戦、終戦時の外相。モロトフの敵?)

祖先は秀吉の朝鮮出兵時に日本に連行された朝鮮人陶工。旧姓は朴。薩摩出身。東京帝國大學文科大學文學科
(獨文)卒、1912年(大正元年)10月に外交官試験合格して、外務省に入省。奉天、ドイツ、アメリカと赴任し、
ドイツ人女性、エディータ(東郷エヂ)と結婚する。1938年(昭和13年)10月駐ソ連大使に赴任し、この時ノモ
ンハン停戦協定を成立させ、外相野村吉三郎に“日ソ不可侵入条約”の締結を具申。

1941年(昭和16年)10月18日成立の東條英機内閣の外務大臣兼拓務大臣に就任、戦争決意を主張する統帥部と
激しく論争し、交渉継続を勝ち取るが、付帯条件として作戦準備も進める事となったため、これを察知した
米国との交渉は失敗に終わる。東郷は軍部から付帯条件への同意を迫られたとき即答を避け、広田弘毅・
元首相を訪ね、辞職すべきかどうか相談したところ、広田は「辞職すれば、直ちに戦争を支持する人が
外務大臣に任命せらるることになるのは明らかであるから、予(東郷)は職に止まって交渉成立の為め全力
を尽すべきである」と助言したため、譲歩を選んだ。後、東郷自身、この譲歩を悔やんでいたとの説もある。

開戦の翌年、東郷は「大東亜共栄圏」地域を所管する大東亜省設置案をめぐって東條と激しく対立し辞職する。大東亜省の設置は外交の一元化をみだすこと、アジア諸国を差別視するものであることが東郷の主張だった。

1945年(昭和20年)4月9日に鈴木貫太郎内閣の外務大臣に就任し、陸軍大臣阿南惟幾と鋭く対立したが、鈴木
の片腕としてソ連を通じて連合国と和平交渉を工作を進めた。

戦後の1946年(昭和21年)4月、AA級戦犯として極東國際軍事裁判所(極東軍事〔東京〕裁判)に起訴され、
1948年(昭和23年)11月、禁固20年の判決を受け、巣鴨プリズンで服役、病死。
(東郷は難しいっす。無段でスマソ ttp://www.han.org/a/half-moon/hm064.html 半月城)
72日本@名無史さん:04/06/12 18:42
半月城からの引用は問題あるな
73日本@名無史さん:04/06/12 20:16
畑 俊六 砲兵科 功一級 元帥陸軍大将 本籍は福島
陸士12期(同期に杉山、小磯、二宮) 陸大22期(首席で卒業)

兄・英太郎(7)も陸軍大将。英太郎は軍事課長、軍務局長、次官を歴任し、
宇垣が自分の後継者にと考えていた逸材だったが、関東軍司令官在職中に病死。
俊六は兄とは違い、野砲聯隊長、参本課長、野重旅団長、参本部長、砲兵監、
第十四師団長、航空本部長、台湾軍司令官と軍令畑を歩んだ。
支那事変初期は教育総監を務めていたが、昭和13年2月、中支派遣軍司令官に補され
出征し、徐州、漢口の二大作戦を指揮。13年2月に山田乙三に職を譲り帰国。
14年5月から侍従武官長となり天皇の側近くに仕える。

平沼内閣が倒れ、阿部が首班に指名されると、天皇は直々に阿部に対し
陸相は梅津か畑のどちらかにするようにとの御言葉を賜った。
両者ともに派閥に与せず中正に立場にある将軍ではあったが、
軍政経験のたっぷりある梅津がより適任であったのはいうまでもない。
しかし運悪くこのときノモンハン事件があり、植田謙吉関東軍司令官の後任に
梅津が予定されていた。そこで陛下の信頼厚い侍従武官長が陸相となることとなった。
任官以来まったく陸軍省と縁の無かった畑にとって、この陸相就任は気の重い
ものであった。一方畑を迎える省の一部にも
「これは聖上の大臣にして我等の大臣にあらずとの恐るべき思想」があったという。

阿部内閣はまもなく食糧問題と貿易省問題で行き詰まり、陸軍からも梯子をはずされ
総辞職となった。後任候補について、新聞紙上では畑が有力とされたが、
畑本人は首相になる気など毛頭無く、陸軍上層部も陸軍から首相を出す気はなかった。
後任には現役を退いた米内大将が座り、畑は陸相として留任することとなった。
このとき特別に、陸相は米内に協力するようにという御言葉があった。
しかし>>51のような経緯があって、畑は辞職することになった。
畑としては、陛下の御言葉に背くことは心苦しかっただろうが、温厚な彼に
部下の進言を跳ね除ける強さはなかった。
74日本@名無史さん:04/06/12 20:22
>>73の続き
陸相を辞めた畑は、昭和16年3月から支那派遣軍総司令官にとなる。
平和を愛する陛下の御気持ちをよく理解していた畑は、当然対米戦など考えても
いなかったが、彼とは無関係なところで事態は進行し、大東亜戦争開戦となった。

東條内閣が倒れると、その後任候補の一人として名前が挙がるが、結局同期の
朝鮮総督小磯が組閣。しかし畑も19年11月、内地に帰り再び教育総監に就任した。
(この少し前に、元帥刀を授与される)
20年4月、本土決戦をにらんで大幅に体制が改編され、畑は第二総軍司令官となった。

8月10日の御前会議で遂にポツダム宣言受諾の聖断が下る。
畑は阿南に請われて14日に上京。
天皇は畑、杉山、永野の三元帥を呼び、ポツダム宣言受諾を告げ、軍に服従を命じた。
三人は詔書必謹を誓ったが、この時杉山と永野は
「日本はまだ敵に一撃を加える力がございます」と現実を見ないことを言った。
しかし畑だけは「自信がございません」と率直に答えたという。
天皇と畑の信頼関係の深さがわかるエピソードだ。

その後は巣鴨に収監され、A級戦犯として起訴された。判決は終身禁固。
昭和29年10月に仮釈放され33年4月刑免除。
その後37年5月に亡くなるまで偕行社会長を務めた。



以上 畑日記が今手元に無いので大分薄い内容ですが
75日本@名無史さん:04/06/12 20:30
淡々と進む良スレ
76日本@名無史さん:04/06/13 03:11
>74
無理にキボーンしてすみません。力抜いてやってもらって結構ですよ。カキコ内容についての検討、大歓迎ですし。
>70
【二キ三スケ】
満州の実力者の東条英機・星野直樹の二人の「キ」と、満州の三スケと言われ満州国の実験を握っていた
山口県出身の三人、 鮎川義介(ヨシスケ)・岸信介(ノブスケ)・松岡洋右(ヨウスケ)。この五人を「二キ三スケ」とも呼ぶ。

星野直樹(開戦時の書記官長)

神奈川県出身。大蔵省営繕管財局国有財産課長在任中の1932年に推されて「満州国」官吏に転出、 同国
財政部理事官、財政部総務司長、財政部次長、国務院総務庁長を経て、37国務院総務長官に就任。 在任
中は東条英機らとともに「満州国」を動かす〈2キ3スケ〉の1人として同国の財政経済を統轄した。 帰国
後は第二次近衛内閣のもとで企画院総裁に就き、資本と経営の分離などナチスばりの革新理念を盛った経
済新体制要綱原案を作成、 自主統制を主張する財界との間に激しい摩擦を生じて41年辞職。 貴族院議員に
勅選されたが、同年東条内閣の出現とともに書記官長に起用され、 以後東条退陣に至るまで東条側近とし
て大きな発言力を保持した。 その間、総力戦研究所長事務取扱・同参与、国家総動員審議会委員・企画院
参与等もつとめた。 辞任後は大蔵省顧問。敗戦後A級戦犯として極東軍事裁判で終身刑を宣告されたが、
58年放免された。 のち、旭海運社長・東急電鉄取締役・ダイヤモンド社会長などに就任。

<コンサイス日本人名事典(汗)>
(無知蒙昧なので無段天才。BBSで私が払うのは最大限?の敬意だけです。お金は払えません。)
77日本@名無史さん:04/06/13 03:26
鮎川義介[あいかわよしすけ]  日産創始者  
(無官で外地なんで、東郷みたく開戦を左右できた大物では無い気がする。)
ttp://www.sanbou.net/retsuden/aa/ayukawa.htm(経済傑物列伝)
山口県出身。母方の大叔父にあたる井上馨の元で書生生活を過ごしながら東京帝大工科大学に進む。
卒業後、芝浦製作所に一介の見習い職工として入った後、渡米。
鍛造技術を習得した後、若干29歳で井上の後援と貝島太助・藤田小太郎らの出資により戸畑鋳物株式
会社を設立。戸畑鋳物経営の際に「共立企業」と言う小規模の持株会社を設立・経営したことと、同
様の方法で貝島家の事業を立て直したことが後々日産コンチェルンを経営する上で役立つことになる。

昭和2年、義弟の久原房之助率いる久原財閥が商事部門の経営破綻で不振に陥ると、その後始末を引受
ける。久原の中核だった久原鉱業を日本産業株式会社に改称し事業は新設の日本鉱業に引き継がせ、
日本産業は株式市場から広く資金を仰ぎながら傘下企業の日本鉱業・日立製作所・日立電力などの管
理や新事業の開拓に専念する持株会社とした。更に戸畑鋳物を日本産業の傘下に置くと共に共同漁業
(日本水産)・大阪鉄工所(日立造船)・中央火災海上(日産火災海上)・日本蓄音器商会(日本コロン
ビア)などを買収・設立した。なお現在の日産自動車は昭和8年に設立された自動車製造鰍翌年改称し
たものである。

忽ちのうちに三井・三菱・住友に次ぐ大コンチェルン組織を作り上げた鮎川の才覚は、当時「満州国」
を牛耳っていた関東軍の目にも止まり、戦時経済によって成績が頭打ちになっていた鮎川側との利害
が一致する形で、昭和12年に日本産業を「満州国」の新京(現・長春)に移転し「満州国」籍の満州
重工業開発株式会社に改組した。しかし、鮎川が目論んでいた外資導入は悉く不調に終わり且つ関東
軍が喧伝した程の地下資源も豊富でなかったことから日産の満州移転は芳しい成績を収めぬまま終戦
を迎える。

(2004/2/17 執筆者 杉山真大)
●第三十一代:斎藤実内閣(任:1932/昭和七.5.26-1934/昭和九1934.7.8)
総理大臣:斎藤 実,
内務大臣:山本達雄,
外務大臣:斎藤 実, 内田康哉, 広田弘毅
大蔵大臣:高橋是清,
司法大臣:小川松吉,
文部大臣:鳩山一郎, 斎藤 実,
農林大臣:後藤文夫,
商工大臣:中島久萬吉, 松本烝治,
逓信大臣:南 弘,
陸軍大臣:荒木貞夫, 林銑十郎,
海軍大臣:岡田啓介, 大角岑生,
鉄道大臣:三土忠造,
拓務大臣:永井柳太郎,
内閣書記官長:柴田善三郎, 堀切善治郎,
法制局長官:堀切善治郎, 黒崎定三,

●第三十二代:岡田啓介内閣(任:1934/昭和九.7.8-1936/昭和十一.3.9)
総理大臣岡田啓介,
内務大臣後藤文夫,
外務大臣広田弘毅,
大蔵大臣藤井真信, 高橋是清, 町田忠治,
司法大臣小原 直,
文部大臣松田源治, 川崎卓吉,
農林大臣川崎達之輔,
商工大臣町田忠治,
逓信大臣床次竹二郎, 岡田啓介, 望月圭介,
陸軍大臣林 銑十郎, 川島義之,
海軍大臣大角岑生,
鉄道大臣内田信也,
拓務大臣岡田啓介, 児玉秀雄,
内閣書記官長河田 烈, 吉田 茂, 白根竹介,
法制局長官金森徳次郎, 大橋八郎,
●第三十三代:広田弘毅内閣(任:1936/昭和十一.3.9-1937/昭和十二.2.2)
総理大臣広田弘毅,
内務大臣潮 恵之輔,
外務大臣広田弘毅, 有田八郎,
大蔵大臣馬場^一,
司法大臣林 頼三郎,
文部大臣潮恵之輔, 平尾釟三郎,
農林大臣島田俊雄,
商工大臣川崎卓吉, 小川郷太郎,
逓信大臣頼母木桂吉,
陸軍大臣寺内寿一,
海軍大臣永野修身,
鉄道大臣前田米蔵,
拓務大臣永田秀次郎,
内閣書記官長藤沼庄平,
法制局長官次田大三郎,
●林銑十郎首相(在任:1937.2.2-1937.6.4)
総理大臣林 銑十郎,
内務大臣河原田稼吉,
外務大臣林 銑十郎, 佐藤尚武,
大蔵大臣結城豊太郎,
司法大臣塩野季彦,
文部大臣林 銑十郎,
農林大臣山崎達之輔,
商工大臣伍堂卓雄,
逓信大臣山崎達之輔, 児玉秀雄,
陸軍大臣中村孝太郎, 杉山 元,
海軍大臣米内光政,
鉄道大臣伍堂卓雄,
拓務大臣結城豊太郎,
内閣書記官長大橋八郎,
法制局長官川越丈雄,
●第三十五代:第一次近衛文麿内閣(任:1937/昭和十二.6.4-1939/昭和十四.1.4)
総理大臣近衛文麿,
内務大臣馬場^一, 末次信正,
外務大臣広田弘毅, 宇垣一成, 近衛文麿, 有田八郎,
大蔵大臣賀屋興宣, 池田成彬,
司法大臣塩野季彦,
文部大臣安井英二, 木戸幸一, 荒木貞夫,
農林大臣有馬頼寧,
商工大臣吉野信次, 池田成彬,
逓信大臣永井柳太郎,
陸軍大臣杉山 元, 板垣征四郎,
海軍大臣米内光政,
鉄道大臣中島知久平,
拓務大臣大谷尊由, 宇垣一成, 近衛文麿, 八田嘉明,
厚生大臣木戸幸一,
内閣書記官長風見 章,
法制局長官瀧 正雄, 船田 中,
83日本@名無史さん:04/06/13 08:40
内務省ってどうよ?
●第三十六代:平沼騏一郎内閣(任:1939/昭和十四.1.5-1939/昭和十四.8.30)
総理大臣平沼騏一郎,
内務大臣木戸幸一,
外務大臣有田八郎,
大蔵大臣石渡荘太郎,
司法大臣塩野季彦,
文部大臣荒木貞夫,
農林大臣桜内幸雄,
商工大臣八田嘉明,
逓信大臣塩野季彦, 田辺治通,
陸軍大臣板垣征四郎,
海軍大臣米内光政,
鉄道大臣前田米蔵,
拓務大臣八田嘉明, 小磯国昭,
内閣書記官長田辺治通, 太田耕造,
法制局長官黒崎定三,
●第三十七代:阿部信行内閣(任:1939/昭和十四.8.30-1940/昭和十五.1.15)
総理大臣阿部信行,
内務大臣小原 直,
外務大臣阿部信行, 野村吉三郎,
大蔵大臣青木一男,
司法大臣宮城長五郎,
文部大臣河原田稼吉,
農林大臣伍堂卓雄, 酒井忠正,
商工大臣伍堂卓雄,
逓信大臣永井柳太郎,
陸軍大臣畑 俊六,
海軍大臣吉田善吾,
鉄道大臣永井柳太郎, 永田秀次郎,
拓務大臣金光庸夫,
厚生大臣小原 直, 秋田 清,
内閣書記官長遠藤柳作,
法制局長官唐沢俊樹,
●第三十八代:米内光政内閣(任:1940/昭和十五.1.15-1940/昭和十五.7.22)
総理大臣米内光政,
内務大臣児玉秀雄,
外務大臣有田八郎,
大蔵大臣桜内幸雄,
司法大臣木村尚達,
文部大臣松浦鎮次郎,
農林大臣島田俊雄,
商工大臣藤原銀次郎,
逓信大臣勝 正憲,
陸軍大臣畑 俊六,
海軍大臣吉田善吾,
鉄道大臣松野鶴平,
拓務大臣小磯国昭,
厚生大臣吉田 茂,
内閣書記官長石渡荘太郎,
法制局長官広瀬久忠,
●第三十九代:第二次近衛文麿内閣(任:1940/昭和十五.7.22-1941/昭和十六.7.18)
総理大臣近衛文麿,
内務大臣安井英二, 平沼騏一郎,
外務大臣松岡洋右,
大蔵大臣河田 烈,
司法大臣風見 章, 柳川平助,
文部大臣橋田邦彦,
農林大臣近衛文麿, 石黒忠篤, 井野碩哉,
商工大臣小林十三, 豊田貞次郎,
逓信大臣村田省蔵,
陸軍大臣東條英機,
海軍大臣吉田善吾, 及川古志郎,
鉄道大臣村田省蔵, 小川郷太郎,
拓務大臣松岡洋右, 秋田 清,
厚生大臣安井英二, 金光庸夫,
国務大臣・企画院総裁星野直樹,
参議・国務大臣鈴木貞一,
参議・国務大臣平沼騏一郎,
参議・国務大臣小倉正恒,
内閣書記官長冨田健治,
法制局長官村瀬直養,
●第四十代:第三次近衛文麿内閣(任:1941/昭和十六.7.18-1941/昭和十六.10.18)
総理大臣近衛文麿,
内務大臣田辺治通,
外務大臣豊田貞次郎,
大蔵大臣小倉正恒,
司法大臣近衛文麿, 岩村通世,
文部大臣橋田邦彦,
農林大臣井野碩哉,
商工大臣左近司政三,
逓信大臣村田省蔵,
陸軍大臣東條英機,
海軍大臣及川古志郎,
鉄道大臣村田省蔵,
拓務大臣豊田貞次郎,
厚生大臣小泉親彦,
国務大臣・企画院総裁鈴木貞一,
参議・国務大臣柳川平助,
参議・国務大臣平沼騏一郎,
内閣書記官長冨田健治,
法制局長官村瀬直養,
●第四十一代:東條英機内閣(任:1941/昭和十六.10.18-1944/昭和十九.7.22)
総理大臣東條英機,
内務大臣東條英機, 湯沢三千男, 安藤紀三郎,
外務大臣東郷茂徳, 東條英機, 谷 正之, 重光 葵,
大蔵大臣賀屋興宣, 石渡荘太郎,
司法大臣岩村通世,
文部大臣橋田邦彦, 東條英機, 岡部長景,
農林大臣井野碩哉, 山崎達之輔,
商工大臣岸 信介, 東條英機,
農商大臣山崎達之輔, 内田信也,
逓信大臣寺島 健, 八田嘉明,
運輸通信大臣八田嘉明, 五島慶太,
軍需大臣東條英機,
陸軍大臣東條英機,
海軍大臣嶋田繁太郎, 野村直邦,
鉄道大臣寺島 健, 八田嘉明,
拓務大臣東郷茂徳, 井野碩哉,
大東亜大臣青木一男,
厚生大臣小泉親彦,
国務大臣・企画院総裁鈴木貞一, 岸 信介,
国務大臣安藤紀三郎, 大麻唯男,
国務大臣青木一男, 後藤文夫,
国務大臣藤原銀次郎,
内閣書記官長星野直樹,
法制局長官森山鋭一,
●第四十二代:小磯国昭=米内光政連立内閣(任:1944/昭和十九.7.22-1945/昭和二十.4.7)
総理大臣小磯国昭,
内務大臣大達茂雄,
外務大臣重光 葵,
大蔵大臣石渡荘太郎, 津島寿一,
司法大臣松阪広政,
文部大臣二宮治重, 児玉秀雄,
農商大臣島田俊雄,
運輸通信大臣前田米蔵,
軍需大臣藤原銀次郎, 吉田 茂,
陸軍大臣杉山 元,
海軍大臣米内光政,
大東亜大臣重光 葵,
厚生大臣広瀬久忠,
国務大臣町田忠治,
国務大臣・企画院総裁児玉秀雄, 広瀬久忠, 石渡荘太郎,
国務大臣・情報局総裁緒方竹虎,
国務大臣小林躋造,
内閣書記官長三浦一雄, 田中武雄, 広瀬久忠, 石渡荘太郎,
法制局長官三浦一雄,
●第四十三代:鈴木貫太郎内閣(任:1945/昭和二十.4.7-1945/昭和二十.8.15)
総理大臣鈴木貫太郎,
内務大臣安倍源基,
外務大臣鈴木貫太郎, 東郷茂徳,
大蔵大臣広瀬豊作,
司法大臣松阪広政,
文部大臣太田耕造,
農商大臣石黒忠篤,
運輸通信大臣豊田貞次郎, 小日向直登,
運輸大臣小日向直登,
軍需大臣豊田貞次郎,
陸軍大臣阿南惟幾,
海軍大臣米内光政,
大東亜大臣鈴木貫太郎, 東郷茂徳,
厚生大臣岡田忠彦,
国務大臣桜井兵五郎,
国務大臣左近司政三,
国務大臣・情報局総裁下村 宏,
国務大臣安井藤治,
内閣書記官長迫水久常,
法制局長官村瀬直養,
●第四十四代:東久邇宮稔彦王内閣(任:1945/昭和二十.8.15-1945/昭和二十.10.5)
総理大臣東久邇宮稔彦,
内務大臣山崎 巌,
外務大臣重光 葵, 吉田 茂,
大蔵大臣津島寿一,
司法大臣岩田宙造,
文部大臣松村謙三, 前田多聞,
農商大臣仙石興太郎,
運輸大臣小日向直登,
軍需大臣中島知久平,
商工大臣中島知久平,
陸軍大臣東久邇宮稔彦, 下村 定,
海軍大臣米内光政,
大東亜大臣重光 葵,
厚生大臣松村謙三,
国務大臣近衛文麿,
国務大臣緒方竹虎,
国務大臣小畑敏四郎,
内閣書記官長緒方竹虎,
内閣副書記官長高木惣吉,
法制局長官村瀬直養,
●第四十五代:幣原喜重郎内閣(任:1945/昭和二十.10.9-1946/昭和二十一.4.22)
総理大臣幣原喜重郎,
内務大臣堀切善次郎, 三土忠造,
外務大臣吉田 茂,
大蔵大臣澁澤敬三,
司法大臣岩田宙造,
文部大臣前田多聞, 安倍能成,
農林大臣松村謙三, 副島千八,
運輸大臣田中武雄, 三土忠造, 村上義一,
商工大臣小笠原三九郎,
陸軍大臣下村 定,
第一復員大臣幣原喜重郎,
海軍大臣米内光政,
第二復員大臣幣原喜重郎,
厚生大臣芦田 均,
戦災復興院総裁小林十三,
国務大臣松本烝治,
国務大臣次田大三郎, 石黒武重,
国務大臣小林十三, 楢橋 渡,
内閣書記官長次田大三郎,
内閣副書記官長三好重夫, 木内四郎,
法制局長官楢橋 渡, 石黒武重,
●第四十六代:第一次吉田茂内閣(任:1946/昭和二十一.5.22-1947/昭和二十二.5.24)
総理大臣吉田 茂,
内務大臣大村清一, 植原悦二郎,
外務大臣吉田 茂,
大蔵大臣石橋湛山,
司法大臣木村篤太郎,
文部大臣田中耕太郎, 高橋誠一郎,
農林大臣和田博雄, 吉田 茂, 木村小左衛門,
運輸大臣平塚常次郎, 増田甲子七,
商工大臣星島二郎, 石井光次郎,
第一復員大臣吉田 茂,
第二復員大臣吉田 茂,
復員庁総裁幣原喜重郎,
厚生大臣河合良成, 吉田 茂,
逓信大臣一松定吉,
経済安定本部総務長官膳桂之助, 石橋湛山, 高瀬荘太郎,
物価庁長官膳桂之助, 石橋湛山, 高瀬荘太郎,
行政調査部総裁斎藤隆夫,
国務大臣幣原喜重郎,
国務大臣植原悦二郎, 星島二郎,
国務大臣一松定吉, 膳桂之助, 高瀬荘太郎,
国務大臣斎藤隆夫,
国務大臣金森徳次郎, 田中万逸,
内閣書記官長林 譲治,
内閣副書記官長周東英雄,
法制局長官入江俊郎,
95日本@名無史さん:04/06/13 10:58
圧倒的ではないか、我が軍部は?
96日本@名無史さん:04/06/13 13:27
だれ?
97日本@名無史さん:04/06/13 13:47
考えたら、大日本帝国最後の首相は吉田茂なんだな。
片山哲は日本国憲法下の初代の首相だから。
(厳密には第一次吉田内閣の末期からだが)
98日本@名無史さん:04/06/13 13:56
安倍源基 内務官僚というとこの人かな

それから戦後、日教組と戦った大達茂雄

>>83
99日本@名無史さん:04/06/13 16:04
内務省は特高警察をもっていて国民には強い権力を持っているが政治的にはどうか?

選挙の取り締まりなどで政友会と憲政会の政権が変わるために辞党に有利な人事をしていたからな。
100日本@名無史さん:04/06/13 16:47
100はこの人かな。
岡田 啓介   おかだ−けいすけ  1868-1952
ttp://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/zinbutsu/o.htm
最初は偕行社の建物を見て陸軍を志望するが、従兄の親類の海軍大尉に「陸軍にはいるとは何事か」と
一喝されて手続を教えてもらい、海軍兵学校に入学した。財部彪、広瀬武夫などと同年である。卒業後、
財部とともに「金剛」乗組となり、「厳島」など数艦を経て日清戦争、日露戦争に従軍。水雷が専門分
野であったために水雷学校の教官・校長、「春日」「鹿島」の艦長などを歴任し、第一次大戦では水雷
船隊司令官として膠州湾攻略に従事。
 大正十三年には連合艦隊司令長官、昭和二年には田中義一内閣海相。濱口内閣では財部彪に海相の座
を譲って自らは軍事参議官となるが、このときに問題になったロンドン海軍軍縮条約においては牧野伸
顕内大臣の意志(おそらく天皇の意志と同一であろう)を受けて、対米七割を主張する軍令部長加藤寛
治や海軍の長老東郷平八郎元帥などと対立し、軍縮推進の濱口内閣とスクラムを組んで条約通過を企図
し、成功させる。しかしそれがために海軍の中の親英米派と目されることとなる。

五・一五事件後の政情不安定の中、再び海相(斎藤実内閣)に就任した岡田は、定年を迎えて海相と海
軍大将を退いて「ぶらりぶらりと暮らしていたが」、突然原田熊雄が訪れて、西園寺公望公は斎藤内閣
のあとを君にやってほしいと言われている、と伝えた。岡田は面食らったが、原田の紹介で後藤文夫農
相、河田烈拓務次官を組閣参謀にして民政党を与党とする内閣を組織した。岡田内閣は高橋是清蔵相を
中心に(余談だが、高橋は岡田が共立学校の生徒だったときの英語教師である)政友会、陸軍の予算増
加要求に屈せず、政友会の絶対多数議会を打破するために解散をしたが、その直後に突発したのが二・
二六事件であった。

官邸で岡田の身辺警護に当っていたのは義弟の松尾伝蔵大佐(余談だが女婿は瀬島龍三)であったが、
岡田を使われていない風呂場(普段は酒蔵になっていたようである)に隠したあと決起将校らに殺害さ
れた。松尾はかねてから岡田に似せた顔格好をするように努めていたから(岡田に言わせると「まるで
101日本@名無史さん:04/06/13 16:48
別人だ。しいていえば二人とも年寄りであるということが似ている」くらいだったようである)、これ
で岡田首相を殺したと確信した決起将校らは意気揚々としていた。そこで岡田は、一旦女中部屋に隠れ、
さらに「岡田首相の葬儀」に紛れて脱出した。

しかし、この不祥事の責任を取っての内閣総辞職は免れず、これ以後岡田は前官礼遇を受けた元首相と
して重臣の列に加えられ、内大臣の主宰する重臣会議に出席してもっとも発言する一人となる。という
のは、他の重臣と違い、彼には海軍(息子の岡田貞外茂を含めた人脈)と、陸軍(親戚の瀬島龍三)、
そして女婿で大蔵革新官僚として有名な迫水久常(のち企画院)という独自のニュースソースがあった
ためである。

その後、東條内閣成立にも反対し、成立後、戦局と人心が悪化すると大いに危機感を抱いて若槻礼次郎、
近衛文麿、平沼騏一郎などとともに東條内閣打倒工作に挺身し、「東條の副官」と呼ばれた嶋田繁太郎
海相を辞任に追い込むなど、東條内閣倒壊への副次的な引き金を引いた。東條内閣倒壊後は小磯内閣が
成立、これが沖縄戦の責任を取って総辞職の後は、岡田は新首相鈴木貫太郎(海軍の先輩に当る)の内
閣に迫水を入閣させ、これと協力して終戦工作をおこない、ついに終戦へともちこんだ。

 戦後、1947(昭和二十二)年、八十歳を迎えて宮中での杖の使用を許される。このころから毎日新聞
に掲載された『岡田啓介回顧録』が好評を呼ぶ。これを1950(昭和二十五)年、同社から刊行。岡田は
1952(昭和二十七)年、八十五歳で死去した。なお、女婿の迫水久常はのち参院議員、郵政相。娘の万
亀は九十一歳(平成十三年現在)で存命の筈である。
102日本@名無史さん:04/06/13 17:29

陸軍に対抗できるくらいの「超大物」で絞っていきたい。
もしくは陸軍内部の「実力者」。特高警察か・・・。
>95w そうなんだよ、困ったことに。
103日本@名無史さん:04/06/13 17:33
では西園寺公望と松岡洋右
西園寺は戦争前に死んだけど
104日本@名無史さん:04/06/13 18:24
三国同盟締結後、西園寺は女中たちに「これで日本は亡びる、お前たちも
畳の上では死ねないようになったから、今から、その覚悟でおれ」と嘆いたとか。
105日本@名無史さん:04/06/13 18:33
>>103
太平洋戦争直前には、すでに死亡と失脚では、対抗力は無いと・・・
106日本@名無史さん:04/06/13 19:18
原 嘉道(開戦時、枢密院議長)
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/zinbutsu/ha.htm
 長野県生まれの官僚、弁護士、司法官。(はら−よしみち)1867-1944
 慶応三(1867)年二月十八日、信州須坂藩の足軽小頭原茂作の長子として生まれる。須坂藩は現在の
長野市の東にある須坂市にあたる。原嘉道は明治青年の典型的な立身出世のコースを歩み、大学予備門
を出て、第一高等中学へ入学、明治二十三年には帝国大学法科大学を卒業、農商務省に入省する。
 原の官僚生活は、みじかい。明治二十三年に入省して、二十六年には退官している。だが退官の時の
地位は、農商務省参事官、新設の鉱山監督局の東京鉱山監督署長兼大阪鉱山監督署長である。いかに原
が抜擢されていたかが知れる。その原の退官の理由は、後藤象二郎農商務相と衝突した鉱山局長和田維
四郎と連袂したためであったという。元から弁護士に志望を持っていたから、渡りに船であったのかも
知れないが、官界としては惜しむべきであったろう。
 なお、この官僚時代に、彼はふたりの人物に邂逅している。ひとりは、もうひとりの近代史上の原、
原敬である。原敬は農商務省試補を「追々仕込まんと欲し」て採用時に、嘉道と会っている。もうひと
りは、「剃刀大臣」こと陸奥宗光である。原が商工局勤務を命じられてまもなく、京都府下の重要輸出
業の過去・現在および将来という調査項目を与えられて出張したとき、精緻きわまる復命書を提出した
ことから陸奥の目にとまり、「往々、直接に、担任以外の用事をも言付けられることがあった」という。
 この陸奥大臣(原の辞職時には外相であった)が、もっとも辞職に反対したひとりで、もしよければ
埼玉県書記官に仕官の口が用意してあるから翻意せよとの書簡を原に出している。が、原は弁護士に志
があることを縷々述べ、ついに辞職してしまった。
 原は、後年口述筆記の回顧録「弁護士生活の回顧」において、この官僚時代に草創期の鉱山法を会得
することによって、「之れが後に弁護士になってから、非常に我が輩の立場を有利に導いて、我輩の弁
護士生活を安定せしめたのである」と回顧している。事実、彼がこの後手がける民事訴訟には、豊国炭
107日本@名無史さん:04/06/13 19:20
坑事件、三池鉱山事件など、炭坑・鉱山関係のものが非常に多いのである。
 さて、この後原は順当に経験を積み、東京弁護士会でも有力で有能な弁護士として令名を得てゆく。
その彼が、大正九年原敬内閣が成立すると、政府が構想した陪審法に関する諮問委員の一人に選ばれる
こととなった。原敬と原嘉道が初対面だと思いこんでいた横田千之助法制局長官は、原嘉道のキャリア
を滔々と原首相に説明した。ところが案に相違して、晩餐会の席上、原首相と原嘉道の話が弾むのを見
て、「総理は君を知らないと思って、僕はアの会合前に君のことをいろいろと総理に説明したら、総理
は只ウムウムと聴いていたが、君は農商務省時代から総理とは懇意であったのだねー」
 と横田が言うので、原嘉道は得意げに、
「さうだ、単に月日の長短から謂へば、僕の方が君より余程長い間の知り合ひなのだ」
 と答えて、二人で大笑いしたという。
 さて、横田は原嘉道を、大審院判事に推そうとしたこともあり、両名の交友はこまやかであったよう
である。この横田や、原敬を基点とした政友会内の人脈が、のちの原の大抜擢とも見える、田中義一内
閣入閣の複線となってゆくのかも知れない。
 もうひとつ、彼の人脈は、法曹界の法皇であり、観念右翼の巨頭であった平沼騏一郎の主宰する右傾
団体「国本社」のメンバーに列したことで伸長した。国本社は国内だけでなく、海外からも日本ファシ
ズムの総本山的な目をもってみられた国本社入会の経緯に関して、彼は回想録で何も語っていない。し
かし、同会には原のみでなく、荒木貞夫、後藤文夫らのビッグネームが参加していたことを見ても、隠
然たる影響力を持つ結社であったことはまちがいない。
 とまれ、彼は田中義一=政友会内閣に民間枠の法相として、就任をはたす。田中内閣においてもっと
も注目されたのは、元司法官僚で入党すぐに内相に起用された鈴木喜三郎の異様な怪腕ぶりであり、そ
してまた田中義一首相(外相兼任)による強硬な大陸政策であるが、その一方で、原が取り組んだ政策
108日本@名無史さん:04/06/13 19:20
課題も見逃せない。治安維持法の厳罰化である。もとから、政友会・枢密院内部において、普通選挙法
が実施されると政治動向がラディカルとなり、共産主義が浸透することが懸念されていた。平沼騏一郎
は、日本においても共産主義の禁止法を実施しないと、到底普選法に賛同するを得ず、とまではっきり
言明していたほどであり、そういう趨勢から言って、治安維持法の厳罰化が緊急勅令によって実施され
たのは必然の勢いであったと言っていい。
 田中内閣の崩壊後、原は枢密顧問官。そして日米開戦直前には枢密院議長に就任した。一時公職にあ
ったが、本来弁護士の出身であった彼としては、異数の累進であったといっていい。原枢府議長は、在
任のまま昭和十九年に死去するが、日米開戦直前の御前会議において、軍部の作成した「帝国国策要領」
を読み、あまりに強硬な意見に対して、
「外交交渉が主であるのか、戦争準備完整が主であるのか、伺いたい」
 と発言し、その直後に天皇がその意見を敷衍するようにして、「四方の海」の明治天皇御製を詠んだ
ことは、よく知られている。
参考資料:「弁護士生活の回顧」(原嘉道、大空社)、「国史大事典」、「日本の近代5 政党から
軍部へ」(北島伸一、中央公論新社)
109日本@名無史さん:04/06/13 19:25

三国同盟締結前に、原枢密院議長は、
「しかるにこの条約の発表により日本の態度明白とならば極力日本にたいする圧迫を強化し極力蒋
  を援助し、日本に対し石油、鉄を禁輸し又日本より物資を購入せず、長期にわたり日本を疲弊戦
  争に耐えざるに至らしむる如く計らうべしと考う。」
と正確に予測し、
「石油なくして戦争遂行不可能なり。蘭印の石油は英米にして和蘭政府は英国に逃れおる関係上、
  平和的手段にて石油を獲得する事は不可能と考えうるが、政府の所見をうけたまりし。」
と質問している。

これに対し、東條陸軍大臣は、
「蘭印に関してはしばらく外交的措置によりその重要資源の確保に努め、また場合によりて
  は武力を行使する事あるべき旨はほぼ決定しあり。決して無方針に進行しある次第にあらず。
  もとより蘭印資源の獲得は平和的手段によるを望むもまた状況により武力行使をも定め政府
  の方針は決定しあり。」
と答えている。
110日本@名無史さん:04/06/13 21:12
五一五や二二六で襲われた連中とか開戦時や終戦時に試問を受けた人達は重要人物ではないか?
111日本@名無史さん:04/06/13 22:08
昭和16年11月4日の軍事参議院会議に出席したメンバーは以下のとおり
閑院宮、伏見宮、朝香宮、東久邇宮
東條、杉山、永野、嶋田
寺内、加藤隆義、百武源吾、及川、西尾、山田、塩沢幸一、土肥原、吉田善吾
日比野正治、篠塚
112日本@名無史さん:04/06/13 22:58
米内後の第二次近衛内閣を推薦した重臣会議出席者
 若槻、岡田、広田、林、近衛、平沼(元首相)、林嘉道(枢相)、木戸(内相)
113日本@名無史さん:04/06/13 23:19
二・二六事件の襲撃対象、岡田首相、齋藤実内大相、大蔵大臣高橋是清、教育総監渡辺錠太郎、鈴木貫太郎侍従長。
114日本@名無史さん:04/06/14 06:38
>112
*若槻、*岡田、*広田、*林、*近衛、*平沼(元首相)、*原嘉道(枢相)、*木戸(内相)

(ただ、重臣会議は、内相が圧倒的に強い?)

木戸幸一きど−こういち 1889-1977
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/zinbutsu/ki.htm
 「明治の元勲」木戸家の当主孝正の子として東京に生まれる。家系上、木戸孝允の孫であるが、
孝正が養嗣子に当たるため、血縁上の孫には当たらない。学習院に入学し、京都帝大に進み、近
衛文麿、原田熊雄を知る。卒業後、商工省に入省。さらに岡部長景の推輓で内大臣秘書官長とな
る(当時の内大臣は牧野伸顕)。そのとき木戸は、宮内省に入っても大好きなゴルフができるか、
と岡部に聞き、岡部が「もちろんできる」と答えたからこれを受けたと言われる。木戸がいかに
ゴルフきちがいであったかということは、『木戸幸一日記』からも知れる。
 しかしまもなく、明治国家は危機に瀕し、内大臣の立場は重要なものとなってゆく。木戸は次
期首班奏薦を諮問する使者としてたびたび静岡県興津に住む西園寺公望のもとに下向し、その胸
を叩いた。また、彼は人脈を広く持ち、近衛文麿、岡部長景、原田熊雄、有馬頼寧らと毎週の会
食の会を持ったり、鈴木貞一などの軍人と親しく交わって情報の収集に努めた。この間、内大臣
秘書官長から宗秩寮総裁を兼ね、まもなく宗秩寮総裁専任に転じる。
 その後、木戸は乞われて第一次近衛内閣の文相をはじめとして厚相、、平沼内閣の内相などを
歴任して一旦宮中を退いたが、まもなく湯浅倉平内大臣が辞職すると、1940年六月、木戸が内大
臣に就任した。この当時になると、もともと元老が握っていた次期首班奏薦の任務は西園寺の意
志もあって大幅に宮中における重臣会議、とりわけその重臣会議を主催する内大臣の手に帰する
ようになっており、木戸が内大臣秘書官長に就任した当時よりもきわめて強力なものとなってい
た。
 木戸が内大臣として携わった首班奏薦で特に重要なのは、第三次近衛内閣の退陣に際する重臣
会議においてである。木戸は、若槻礼次郎、岡田啓介の推す宇垣一成を退け、近衛と対立して内
閣を退陣させた東條英機に、逆説的だが大命を降下させることがしかるべきと報答して、かくし
て東条内閣が成立した。
115日本@名無史さん:04/06/14 06:39
 木戸は天皇の親任篤い東條を擁護し、東條非難の雑音を天皇に申し上げず、そのために近衛の
側近である細川護貞からは酷評を蒙っている。事実木戸はおそらくもっとも重要な、昭和天皇の
ニュースソースであったといえる。しかしのちにはついに東條に引導を渡した。その後、小磯=
米内連立内閣、鈴木内閣の成立に関与。鈴木内閣成立後には終戦を決意し、「海軍大臣が(和平
を)言い出すかと思っていたが一向やらぬ。此の上は自分がやらねばならぬ。さうすれば殺され
るだろうが、後は頼む」と近衛に述べて奔走するなどの面もあった。木戸の奔走によって、鈴木
首相、米内海相など終戦を決意していた人々は、「ぜひやりましょう」と言って、木戸に協力。
ついに「聖断」による終戦が成立したのは、1945年八月十五日であった。
 占領軍の進駐がはじまると、戦犯の拘引が開始された。東條などが巣鴨プリズンに投獄される
と、木戸も自分の投獄を予感したが、彼は「自分が戦犯として有罪となれば、陛下も有罪になる
おそれがある」と考えて、拘引後、自ら積極的に日記を提出して戦犯となるのを回避しようとし、
他の戦犯容疑者攻撃も辞さなかった。なお、彼の弁護人は次男木戸孝彦(平成十二年死去)であ
る。 しかし、木戸は終身禁錮の判決を受けた。七年後、仮釈放されて以後は政界に携わらず、
時折学者のインタビューを受ける程度であった。もっとも重要なのは、木戸が東京裁判の際に提
出した日記の公刊であったろう(『木戸幸一日記』)。
 1977年、八十七歳で死去。昭和天皇は勅使差遣の意志を洩らしたが側近に制止され、遺族に自
らの哀悼を伝えるに留まった、という。
116日本@名無史さん:04/06/14 07:15
内相と書くと内務大臣になってしまうよ
内大臣は内府と略す

内務大臣→内相
宮内大臣→宮相
内大臣 → 内府
117日本@名無史さん:04/06/14 09:30
枢相も枢府
名前は原嘉道

話はかわるけど艦隊派の末次信正も総理候補になっているよね。
118日本@名無史さん:04/06/14 09:42
東条を推薦したときの重臣会議には清浦圭吾も出席してるんだな
何才なんだ?
119日本@名無史さん:04/06/14 10:42
開戦前夜の超大物
重臣会議、陸海軍幹部、参謀本部、海軍軍令部、枢密院、軍事参議院、閣僚(現職)

陸軍の超大物
陸軍:東條、寺内、杉山、梅津、板垣、*小磯、(*西尾、*山田)(〈外地〉*畑、*後宮、*岡村、*土肥原、*中村)

陸軍に対抗できる「超大物」
海軍:米内(予備)、永野、嶋田、五十六、及川、豊田副武
外務:*東郷(*重光、本多熊太郎)
宮廷:*木戸、*原嘉道、*鈴木貫、湯浅、蓮沼、松平
重臣:*近衛、*平沼、*若槻、*岡田、*阿部、広田、林
閣僚:*星野
親王:*秩父宮(陸)、*閑院宮(陸)、*伏見宮(海)、東久邇宮(陸)
総督:(〈外地〉南次郎、長谷川清)

在野:荒木、真崎、柳川、石原、頭山満、徳富蘇峰、(〈外地〉*鮎川)
政界:*宇垣、久原房之助、中島知久平、町田忠治、中野正剛、末次信正、岸

身分は低いが影の実力者

陸軍:武藤章、冨永恭次、田中新一、田中隆吉、岡本清福、佐藤賢了、真田穣一郎、服部卓四郎
海軍:岡敬純、福留繁、保科善四郎、富岡定俊、高田利種、石川信吾
企画院:鈴木貞一、秋永月三、迫水久常
右翼:児玉誉士夫、笹川良一、橋本欣五郎

*既出
120日本@名無史さん:04/06/14 11:16
>>119 (定期的かつ、勝手なカウントです。)

小磯は、開戦直前、内地に居たと思う。(あれっ予備役でした)
重光は、開戦直前、駐英大使だと思う。
現職閣僚を追加。(馬鹿にできない事に気付きました)
広田、林は、詳細が必要だと・・・。

親王、在野、政界は、>>61の言うように別カテにしようかな。
海軍と影は、放置中。誰か語ってちょーだい。
121日本@名無史さん:04/06/14 11:40
>>118    (92歳)
東條英機内閣成立過程
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/Syouwa-kyukenpou/41-Tohzyou.htm
(略)
 かくして、十月十七日に開かれた重臣会議において、若槻礼次郎は宇垣一成を推し、
これに対して木戸内府は東條を推した。木戸は、軍部を抑えるには、かつて宮城で失
火があった際、警備に当たっていた田中静壹、賀陽宮などを断然更迭して陸軍部内に
信望のあった東條を、逆説的ながら首相にするのが良いというのが、木戸の判断であ
った。
 重臣会議は揉めに揉めた。先述の宇垣案を若槻、そして岡田啓介と、92歳の老齢
ながら出席した清浦奎吾が賛同し、また木戸は一時海軍大臣であった及川古志郎に組
閣させるのも一案、としたが、これは海軍OBの岡田と米内光政が断固反対。そして
遂に木戸が東條内閣案を持ち出すと、若槻と岡田がこれに食ってかかった。
 重臣会議は事実上、宇垣案、東條案にまっぷたつに割れたが、清浦が宇垣に「会議
の経緯より見れば、結局宇垣説に落ち着く」とは語ったものの、重臣会議はそもそも
奏薦の決定権を持たない。実際の奏薦権は内大臣に握られていたから、木戸の東條支
持によって東條内閣が成立することになった。昭和天皇は、これを聞き、
「いわゆる虎穴に入らずんば虎児を得ずと云ふことだね」
とたとえた。しかし皇族のうちには東條に対し、抜きがたい不安を持つ人々もまた、
いた。東久邇宮は日記に記している。
「東條は日米開戦論者である。このことは陛下も木戸内大臣も知っているのに、木戸
がなぜ開戦論者の東條を後継内閣の首班に推せんし、天皇陛下がなぜこれをご採用に
なったか、その理由が私には判らない」

 東條内閣は、十月十八日、東條首相が陸相、内相を兼ねる形で発足した。
122日本@名無史さん:04/06/14 12:44
総理大臣東條英機  昭和16.10.18-昭和19.7.22
内務大臣東條英機  昭和16.10.18-昭和17.2.17
外務大臣東郷茂徳  昭和16.10.18-昭和17.9.1
大蔵大臣賀屋興宣  昭和16.10.18-昭和19.2.19
司法大臣岩村通世
文部大臣橋田邦彦  昭和16.10.18-昭和18.4.20
農林大臣井野碩哉  昭和16.10.18-昭和18.4.20
商工大臣岸 信介   昭和16.10.18-昭和18.10.8
陸軍大臣東條英機
海軍大臣嶋田繁太郎 昭和16.10.18-昭和19.7.17
鉄道大臣寺島 健   昭和16.10.18-昭和16.12.2
拓務大臣東郷茂徳  昭和16.10.18-昭和16.12.2
厚生大臣小泉親彦
国務大臣・企画院総裁 鈴木貞一  昭和16.10.18-昭和18.10.8
内閣書記官長       星野直樹
法制局長官         森山鋭一
123123:04/06/14 13:03
陸軍省
次官:木村兵太郎
 軍務局長:武藤章
   軍事課長:真田穣一郎
   軍務課長:佐藤賢了
 人事局長:富永恭次
 兵務局長:田中隆吉
 整備局長:山田清一

海軍省
次官:沢本頼雄
 軍務局長:岡敬純
   第一課長:高田利種
   第二課長:石川信吾
 兵備局長:保科善四郎
 人事局長:中原義正

大本営陸軍部
参謀次長:田辺盛武
   第二十班長:有末 次
 総務部長:若松只一
 第一部長:田中新一
   第二課長:服部卓四郎
 第二部長:岡本清福

大本営海軍部
軍令部次長:伊藤整一
 第一部長:福留 繁
   第一課長:富岡定俊

124123:04/06/14 13:05
開戦前夜の超大物
重臣会議、陸海軍幹部、参謀本部、海軍軍令部、枢密院、軍事参議院、現職閣僚

陸軍の超大物
陸軍:東條、寺内、杉山、梅津、板垣、*西尾、*山田、*畑、*岡村、*土肥原、*中村*後宮、*篠塚
    (*宇垣、南、*小磯、真崎、荒木、柳川、石原)

陸軍に対抗できる「超大物」
海軍:永野、嶋田、五十六、及川、豊田副武、長谷川、(小林躋造、米内、末次)
外務:*東郷、*重光、吉田、本多熊太郎
宮廷:*木戸、*原嘉道、*鈴木貫、湯浅、蓮沼、松平
重臣:*近衛、*平沼、*若槻、*岡田、*阿部、広田、林
閣僚:*星野、岸、鈴木貞一、賀屋
親王:*秩父宮(陸)、*閑院宮(陸)、*伏見宮(海)、東久邇宮(陸)

在野:頭山満、徳富蘇峰、児玉誉士夫、笹川良一
政界:久原房之助、中島知久平、町田忠治、中野正剛

*既出
()内は予備役、後備役

陸海軍中央省部の幕僚は別枠にしてみた
125日本@名無史さん:04/06/14 16:10
大分わかりやすくなったなー。
消えたのは橋本欣五郎、*鮎川義介、秋永月三(在野)かな。
126日本@名無史さん:04/06/14 16:20
>>125
秋永月三は現役の陸軍中将(27期)です。
ただ陸大を出た後、東京帝大の経済を卒業した異色の軍人。
このころは企画院第一部長でした。
127日本@名無史さん:04/06/14 17:24
牧野と幤原も大物ですぞ
128ツバキ:04/06/14 17:27
生産性のない人間がこんなにいたことが不思議。経済が逼迫するの解るね。
129日本@名無史さん:04/06/14 17:55
加藤友三郎の娘婿で軍事参事官の加藤隆義

大久保利通の子供で吉田茂の義父の牧野伸顕
130日本@名無史さん:04/06/14 18:00
いまだってそうだよ
五一五事件で犬養毅首相暗殺後の内閣。

以前の「憲政常道」に従えば首相候補は政友会の鈴木喜三郎総裁。
陸軍革新派は荒木貞夫、または平沼騏一郎を希望。
西園寺の参考意見、若槻民政党総裁、近衛公爵、清浦元首相、上原元帥、高橋首相代理、倉富枢府議長など。

西園寺奏薦は元海軍大将・斎藤実。
斉藤実内閣後継

西園寺の発案によって、元老、重臣(首相・枢相経験者)、枢相、内大臣の協議の上奉答する形式に変更。

岡田啓介海軍大将が奏薦。
岡田内閣の二・二六事件後

一木喜徳郎は平沼騏一郎枢密院副議長を推薦。
木戸幸一内大臣府秘書官長は近衛文麿公爵を推薦。
西園寺は近衛文麿を奏薦するも近衛が固辞。
松平恒雄宮相が広田弘毅を推薦し、西園寺も推奏。

広田弘毅首相誕生
広田内閣総辞職後

西園寺の推薦は宇垣一成。
一木枢府議長、牧野元内府、岡田前総理などは海軍の末次信正など軍部からの起用に賛意。
第一候補宇垣、第二候補平沼により宇垣に大命降下も陸軍大臣が選出できずに組閣失敗。
湯浅内府の推薦は第一候補平沼枢相、第二候補林銑十郎大将。平沼が固辞。

林銑十郎に大命降下。
林内閣退陣後

寺内寿一など軍の重鎮や湯浅倉平・内大臣は杉山元を推薦。
西園寺は拒否。

西園寺の推奏は近衛文麿。
近衛総辞職後

木戸厚相、松平康昌・内府秘書官長、湯浅内大臣は平沼騏一郎を推薦。
西園寺も同意。

平沼内閣誕生。
137日本@名無史さん:04/06/15 01:57
『阿部内閣は有末精三がつくり、武藤章が倒した』

平沼が桂冠した後、陸相の政治幕僚たちは、後任に阿部信行大将を推す事に一決した。
一方「宇垣山を下る」の報が陸軍省に入る。稲田正純が親戚の井上成美に聞いたところ
によると、海軍は広田を推すという。しかし最後は陸軍から近衛に通じて、阿部に決定した。
このとき最も派手に動いたのが、陸軍省軍務課長だった有末精三であった。

その後阿部内閣は貿易省問題などでがたがたになる。内閣を強化しようと考えた
軍務局長武藤章は、民政党総裁町田ノントウに入閣を求めて断られる。
『武藤軍務局長、民政党に蹴られる』と新聞に大々的に報じられた武藤は
逆切れして、「阿部内閣はもうだめだ」と放言。これで阿部内閣は倒れた。
永井柳太郎は「阿部内閣は陸軍が二階に上げておいて梯子をはずした」
という言葉を残した。
138日本@名無史さん:04/06/15 06:56
戦争直前の重臣は誰?
139日本@名無史さん:04/06/15 15:16
現職時以外の重光はちゃうやろ
だったら有田や石射や松岡はどうなんや
140日本@名無史さん:04/06/15 17:36
>>138
11月29日 重臣会議 対英米蘭開戦ニ関スル諒解懇談
出席者  阿部、林、岡田、米内、若槻、広田、平沼、近衛、原
141日本@名無史さん:04/06/15 19:48
賀屋 興宣

広島県出身。東京帝大法学部卒業後、大蔵省入省。
石渡荘太郎(11-1-10-2)・青木と並ぶ大蔵省内三羽鳥の一人、特に予算編
成事務に通じていた。
主計局長、理財局長、事務次官などを歴任後、近衛内閣1の蔵相に就任。
「賀屋財政経済三原則」(生産力の拡充、国際収支の適合、物資需給の
調整の3つで、昭和恐慌で経済力の弱さを露呈していた日本の基盤を強
くするものだった。)を主張し、戦時経済を担当した。貴族院議員、
北支那開発総裁を歴任し、東條内閣で蔵相に復帰。戦後、A級戦犯と
して東京裁判で「終身禁固」の判決を受ける。正式赦免のあと、
衆議院議員に立候補し当選。岸内閣の外交調査会長として、安保改
定に取り組む。池田内閣2.3期では法相を務める。政界引退後
も「自由日本を守る会」を組織、日本遺族会会長として活動。
平沼内閣総辞職後

近衛が荒木貞夫を推薦したが反対にあい、広田弘毅も固持。
次の候補は池田成彬と宇垣一成であり、西園寺も池田を支持、しかし近衛が不同意。
陸軍は勝田主計を支持していたが阿部信行大将を推薦。
平沼騏一郎首相と湯浅倉平内府は反対したが西園寺は同意。

阿部信行内閣成立
阿部内閣後

湯浅内府は近衛を推したが固持、米内光政海軍大将を推薦。
世評では杉山元・軍事参議官が湯沢三千男(元内務次官)、瀧正雄(元企画院総裁)
などによって担がれ、また畑俊六陸相なども有力な後継候補と目されていた。
重臣会議では岡田啓介、平沼騏一郎、近衛文麿、清浦奎吾の四名が召され(若槻礼次
郎は遠方で連絡つかず)、近衛が池田成彬を推したほかは、皆、米内奏薦に同意。

米内内閣成立

(湯浅倉平内大臣退任、湯浅の推薦は若槻、宇垣、木戸。
 一般的に見て最大の候補者は、近衛、続いて平沼。
 結局は木戸幸一が内府に決定。)
米内内閣後

重臣会議では若槻以下近衛の推薦が大勢。
西園寺は消極的反対も同意。

第二次近衛内閣成立
松岡外相を外すために総辞職後、第三次近衛内閣成立。
第三次近衛内閣後

前首相近衛文麿、陸相東條英機は皇族内閣を希望。
具体的には陸軍大将・東久邇宮稔彦王、しかし木戸幸一内府は反対。
重臣会議で木戸は一次及川古志郎を推薦するも岡田と米内は反対。
若槻礼次郎・岡田啓介・清浦奎吾は宇垣一成を推薦。
木戸内府は東條を推薦、若槻と岡田は反対。
奏薦権のある内府の木戸案により東条が奏薦。

東条内閣成立
東条内閣後

小林躋造海軍大将の皇道派内閣が模索されたが廃案。
重臣会議では軍人首班を模索とし、若槻礼次郎が宇垣一成を推薦、
阿部信行が同席の米内光政を推薦、
広田弘毅は梅津美次郎を推薦したが木戸内府は反対。
平沼は小磯国昭を推薦、また寺内寿一と畑俊六も候補。
結局、寺内、小磯、畑の順番で候補とし、外地にいた寺内南方総軍総司令官は動かせ
ないので小磯に決定。
近衛の勧めもあって米内にも大命降下し連立首班体制。

小磯内閣成立

小磯内閣後

木戸内府は阿南惟幾陸軍中将を推薦。
近衛、岡田、平沼、若槻は鈴木貫太郎枢相を推薦。東條以外は鈴木で纏まる。
重臣会議は近衛文麿、岡田啓介、平沼騏一郎、広田弘毅、東條英機、若槻礼次郎、鈴
木貫太郎枢府が出席して鈴木を奏薦。

鈴木内閣成立
終戦による鈴木内閣後

木戸幸一内大臣は天皇の御下問に対して、今回は重臣会議を開くことなく平沼騏一郎
枢密院議長と篤と相談の上、奉答すべき旨を言上。

東久邇宮内閣成立



東久邇宮内閣後

木戸幸一内大臣と平沼騏一郎枢府議長は外交官出身者を首班とすることに一致。
第一候補に吉田茂外相を推薦、吉田は固持し幣原を推薦。

幣原内閣成立



幣原内閣後

総選挙の結果、第一党は鳩山一郎率いる自由党(過半には射たらず)。
内大臣木戸幸一の収監によって内府奏薦の慣行は不成立、前任首班の幣原が後継首班
として鳩山を奏請。
GHQは鳩山一郎を公職追放処分。
鳩山後のの自由党総裁の人選は揉めに揉めて結局吉田茂に決定。

吉田内閣成立
149コピ編集ペ未検証ですが何か?:04/06/15 22:51
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/index.html
と言うわけで引用先。


この人達は重要

内大臣:
 →牧野伸顕
 →斎藤実
 →一木喜徳郎
 →湯浅倉平
 →木戸幸一

枢密院議長:
 →倉富勇三郎
 →一木喜徳郎
 →平沼騏一郎
 →近衛文麿
 →原嘉道
 →鈴木貫太郎
 →平沼騏一郎
 →鈴木貫太郎
 →清水澄

侍従長:
 →珍田捨巳
 →鈴木貫太郎
 →百武三郎
 →藤田尚徳
150日本@名無史さん:04/06/16 10:55
陸軍をどうするかだよな
151日本@名無史さん:04/06/16 11:45
政友会と憲政会で泥仕合をして国民からそっぽを向かれて対消滅したように、
海軍も陸軍と対消滅すればヨカッタのかな?
152コピ編集ペ未検証ですが何か?:04/06/16 20:52
わりと好きなスレだけど、どうも人が少ないような・・・

華がないからかな?

それとも厨がいないからかも。
153日本@名無史さん:04/06/17 08:02
宇垣首班案は何度も上がっては消えているな
154日本@名無史さん:04/06/17 09:13
>>152
「太平洋戦争直前」なんで、重臣会議に居ない元首相や、旧閣僚の大半、開戦後の新閣僚は
超大物と言えないと思う。スレタイの絞りが甘くて、話が散乱中かも。

そろそろ開戦前夜の陸軍内部を重点的に・・・。キーマンは誰だろう。
155日本@名無史さん:04/06/17 09:18
総理自身は忘れ去られていても登用されるからな
権限も今と違って限られているし
156日本@名無史さん:04/06/17 11:00
旧憲法は独裁にならないように首相のが弱い
157日本@名無史さん:04/06/17 12:36
この時期の重臣ってじじいか役立たずって感じがする。
158日本@名無史さん:04/06/17 23:35
柳川平助中将 騎兵科 陸士12期 陸大恩賜

佐賀出身ということで当然のごとく皇道派。真崎、荒木に次ぐ皇道派の旗頭。
荒木が陸相になると、騎兵監から陸軍次官に抜擢され、皆を驚かせた。
統帥と馬のことしか興味が無く、政治や経済の話など全く分からない。
異常なほどの堅物で酒席が大嫌い。およそ陸軍次官には不向きな人物であった。
荒木が病気で陸相を林に譲った後も次官として残ったが、林のことは大嫌いだった。
林が、実弟の汚職事件を理由に辞意を匂わせたときは、大喜びで、
「弟の事件の責任を取られるとは、林閣下は実に見上げた人格者だ。」
と誉め殺し、辞任に追い込もうとした。しかし林は渡辺錠太郎や閑院宮に説得されて
辞意を翻し留任。柳川は8月の定期異動で第一師団長となった。
その後起こった十一月事件、相沢事件はいずれも第一師団軍法会議で審理された為、
柳川等皇道派の容喙で遅遅として進まず、特に永田事件の公判では、
永田は悪魔のような人物に仕立て上げられ、それを斬った相沢は天下の義士である
というような論調であった。昭和10年12月、台湾軍司令官に栄転。一種の厄介払いか。
その二ヶ月後に2.26事件が起きる。2.26後の粛軍で当然予備となるが、
第二次上海事変で召集され第十軍司令官として出征。杭州湾敵前上陸を敢行。
”皇軍百万杭州湾上陸”のアドバルーンをぶち上げたが、所謂覆面将軍として
軍司令官の名前が公表される事は無かった。配信される写真でも、柳川の顔だけ
塗りつぶされていたという話もある。松井石根中支方面軍司令官の名前を発表しながら
柳川だけ覆面のままなのは、統制派の嫌がらせだとして、皇道派人士を痛嘆させた。
南京を攻略後、第十軍は解散し柳川の召集も解除された。
帰国後は新設の興亜院総務長官となり、第二次近衛内閣では法務大臣として入閣。
第三次近衛内閣でも内閣参議・国務大臣を務めた。
昭和20年1月逝去
159日本@名無史さん:04/06/17 23:39
>>158の続き
統制派をアカとみなしていた近衛とその一統は事の他皇道派が好きで、
特に柳川は皇道派のエースと目されていた。
予備役編入後間もなく第十軍司令官に起用されたのは奇異に移るかもしれないが、
陸軍では毎年数個の軍司令部の動員を計画し、その軍司令官も予め決定してある
のである。つまり第十軍という軍が編成されたなら、その軍司令官には柳川が起用される
ということは、年度の初めから決まっていたことであった。
しかしこういう局面で起用されたのは、その統帥を認められていたからかもしれない。

帰国後、興亜院総務長官となったのが近衛の引きなら、近衛内閣に法務大臣として
入閣したのも当然近衛の引きである。近衛は他にも荒木を文相として入閣させている。
さすがに真崎だけは使うことは出来なかったが、彼の皇道派への執着がよく現れている。

「皇道派は反共親英米派であり、皇道派が権力を握っていれば、支那事変も
大東亜戦争もなかった」というのは、戦後皇道派シンパが吹聴しているところであるが、
果たしてこの話、どの程度信憑性があるだろうか。
支那事変の本格的な泥沼化が始まったのは、南京攻略からだ。
そもそも参謀次長多田駿中将は、南京攻略には大反対であった。
その次長を押切って攻略を進めたのは誰か?
現地軍の強硬意見と、それをバックにした一部の幕僚たちである。
大アジア主義者で知られた松井石根も皇道派の柳川も
どうしても南京を攻略しなければならないという強硬な意見を吐いていたのである。
第一次上海事変の白川大将のようにさっと兵を収めていれば、
まだどうにかなったかも知れないのに。
さらにその後も皇道派は常に近衛と接触を持っていた。
その結果近衛が何をしたか。日独同盟ではないか。
結局近衛がやらかした事を見る限り、近衛の陸軍側のブレーンであった皇道派が、
そんなに素晴らしいものであったとは、なかなか思えないのである。
160日本@名無史さん:04/06/18 19:45
やはり近衛内閣と東条内閣が焦点かな?
161日本@名無史さん:04/06/18 20:42
経済閣僚と企業家の話が薄い鴨
162日本@名無史さん:04/06/18 21:16
細木数子が晩年を看取ったという安岡正篤ら思想家だろ、戦前に影響力を持った超大物と言うなら。
163日本@名無史さん:04/06/18 21:19
きしゅつ
ただし解説を所望する
164日本@名無史さん:04/06/18 21:38
聞いたこともない。
165日本@名無史さん:04/06/18 22:37
新官僚でしょう
166日本@名無史さん:04/06/18 22:51
国維会、イラネ。

http://www1.odn.ne.jp/nssk/sensei.html
安岡正篤先生は、明治31年(1898)、2月13日、大阪市に生まれました。
幼少の頃から四書五経に親しみ、中学生のころ、王陽明に傾倒、東京帝国大学法学部政治学科
卒業と同時に、『王陽明研究』を著して一躍脚光を浴びました。
以後、陽明学者として知られるようになりました。昭和2年、金鷄学院を開校しました。これ
は儒学を中心とする東洋思想を活用して地域振興に役立つ有徳の人物養成を目指すものでした。
特に人物の修養に重点をおくもので、当時、こうした視点と目的の塾風教育は、西洋の教育制
度を模倣した学校教育の中で忘れられようとしていましたから、当時のジャーナリズムは"昭
和の松下村塾"と称したほどでした。

ついで昭和6年には、農村の次代のリーダー養成ということに、目的を純化させて日本農士
学校を開校。次代の指導者育成に努める一方、各界指導者に多大な影響を及ぼしました。
これら両校で教育にあたる一方、昭和7年には、政界・官界の若手リーダーを糾合して国維
会を結成、為政者たる者の覚悟を促しました。

このように安岡先生は、教室で古典の講義をし、研究に没頭するだけの学者ではありません
でした。昭和19年、大東亜省の顧問に就任。後に終戦の枢機にまで関わる契機となりまし
た。
翌20年の「終戦の詔勅」草案に加筆補正したことは、知る人ぞ知る事実です。
167日本@名無史さん:04/06/18 22:55
もともと重臣だからといって権力があるわけではない。
重臣会議も後継内閣指名のために天皇が召集するもの。
168日本@名無史さん:04/06/18 23:33
  東條首相罵倒事件
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/jinjiotu/jinji08.html
(省略)
 参謀本部側は、幹部が参謀本部第1部長室にて閣議決定の報告を待っていた。
 昭和17年12月5日 2000 陸軍省軍務局長佐藤賢了少将(29期)が駆付け、閣議の報告を行った。

 報告を受けるや否や、参謀本部第1部長田中新一少将(27期)は酒の勢いも手伝って
 「ナニ!18万トンの解傭を陸軍に要求するとは統帥干犯だ!」と怒鳴り
 さらに一言、二言言い合ったあと、やにわに鉄拳で殴りつけた。
 軍務課政策班長時代、「黙れ」事件 (注)を起こし、さらには北部仏印進駐に際し
 武力進駐の強硬派としてフランス軍から狂人とも言われたという佐藤賢了は、
 たとえ相手が2期先輩でもおとなしく殴られているような者ではなかった。

 「殴ったな!」と身構えて2つ、3つ殴り返した。
 その場にいた参謀次長田辺盛武中将(22)が、冷静に話しあえ、と止めに入ったが
 「あなたは黙っておれ」と押し返され、田辺中将の参謀飾諸が切れた。
 大本営第15課長 甲谷悦雄中佐(36)が田中第1部長をソファーに押し付け、
 部屋から連れ出しやっとこの場は収まった。

 翌12月6日 政府・統帥部の間で妥協案が練られたが、今度は東條首相が「閣議決定どおり。妥協してはいかん」
 と色をなして叱咤したので再び事態は紛糾。6日の夜、改めて田辺参謀次長は東條首相を説得に行くことになった。
 田中第1部長も強引に同行し、首相官邸に着いた。次長の説得は30分ほどで、終わってしまう。

 田中部長は、今度は自分が説得するといって首相の部屋に入った。
 木村陸軍次官(20)、佐藤軍務局長(29)、富永人事局長(25)が同席していた。激論約1時間
 臨室に控えていた戦争指導班員・種村佐孝中佐(37)にも双方の声が次第に高く激しくなっていくのがわかった。
 いよいよ解散という間際になり、東條首相らに向って(一説には木村次官に向って)
 「この馬鹿者ども!」(一説には「この馬鹿野郎」)と怒鳴ってしまった。
169日本@名無史さん:04/06/18 23:37
>>168
陸軍は複雑だな。

次官:木村兵太郎
 軍務局長:武藤章
   軍事課長:真田穣一郎
   軍務課長:佐藤賢了
 人事局長:富永恭次
 兵務局長:田中隆吉
 整備局長:山田清一

大本営陸軍部
参謀次長:田辺盛武
   第二十班長:有末 次
 総務部長:若松只一
 第一部長:田中新一
   第二課長:服部卓四郎
 第二部長:岡本清福
170日本@名無史さん:04/06/18 23:38
こんなんばっかだな?
171日本@名無史さん:04/06/18 23:43
岡本清福中将 開戦時の第二部長
http://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/general/colonel/okamoto2.html
172日本@名無史さん:04/06/18 23:58
皆さんの力も借りて断固阻止しましょう。増税の分、年金削られる分より遥かに大金を一部中国に買収された政治家が中国に日本の領土の石油640兆円!!を盗まそうとしています。
日本には実は世界第3位の石油埋蔵量があったのです。それを全て盗まそうと一部の政治家がしています。これがなければ増税、年金も楽になります、しかし、一部政治家&官僚が私腹を肥やす為北朝鮮の拉致はない!!と断言したのと同じ手段が今回も使われようとしています。

http://www.yomiuri.co.jp/main/news/20040611i101.htm

政府もほんのちょっとは頑張ってますが油断できませんよ。橋本派は完全に買収されてるでしょう、角栄とのからみで中国利権を握っています。自分の私腹の為に我々の640兆円を中国に盗ませるのです
中国政府に買収されたのです。
北朝鮮の拉致はない、と主張して金、米を送った政治家と同じやり方です。
日本お金640兆円が盗まれるかもしれません。
http://www.chunichi.co.jp/anpo/0809.html
皆さん協力して阻止してください。
シナに日本の石油を盗ませてはいけない。抗議のメール&マスコミには問題を大きく大きく取り扱うようメールしましょう。

メール先は首相官邸:http://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken.html
自民党:http://www.jimin.jp/jimin/main/mono.html
報道2001:http://www.fujitv.co.jp/cgi-bin/banmail.cgi?198000010
読売新聞http://www.yomiuri.co.jp/index.ht
毎日新聞:[email protected]
産経新聞:[email protected]


http://www.masuzoe.gr.jp/
↑マスゾエ議員はこの問題に関して海洋権益ワーキングチームを作っており断固戦う決意です我々はせめて応援はしよう。マスコミ各社に抗議のメールを送ろう。
一番聞くのは読売、フジでしょう。
↓こちらのフォームから中川経産相に応援メールをおねがいしやす
http://www.jimin.jp/jimin/giindata/nakagawa-syo.html

を貼りまくりましょう。少々の過大表現はこの際気にしない事です。
173日本@名無史さん:04/06/19 00:06
>>172
ウザイ。


つーかsage進行でヨロ。
174日本@名無史さん:04/06/19 01:34
岡本清福(>171より)

岡本清福中将は砲兵科、東京生まれ。 昭和10年8月参本作戦班長、11年6月軍事課高級課員。昭和14年3月からは、
野砲兵第四聯隊長として満州に駐屯。同年12月、駐ドイツ武官に発令され渡独、 ナチスドイツの快進撃を目の当た
りにし、三国同盟締結を強烈に支持。 帰国後の昭和16年4月、参本第二部長に就任し、大東亜戦争開戦を迎えた。
そして17年8月17日、南方軍総参謀副長となりシンガポールへ。

昭和17年10月、大本営連絡会議において遣独伊連絡使派遣が決定し、団長に岡本が内定、3月遣独伊連絡使節団
は東京を出発。 団の目的は、駐独伊大使及び陸海軍武官に対し東亜の情勢、開戦の経緯、その後における帝國
の実情を明らかにし且つ三国爾後の戦争指導上相互協力強化の方途に関し研究することにあった。 当時のヨー
ロッパ情勢は、漸く枢軸側に不利に傾きつつあった。ベルリンでは大島浩大使、 小松光彦少将等と会談したが、
結論は極めて暗いものだった。 ともあれヨーロッパ情勢を仕入れた使節団は各地に散らばり、岡本はスイスに
飛びこんだ。 そして昭和19年3月には、正式にスイス公使館附武官に発令された。

当時バーゼルに居た国際決済銀行の北村理事、吉村部長は、岡本中将に対しても率直に戦争継続の反対を訴えるよ
うな人であった。 岡本は表面上は彼等に反論しながらも、内心では揺れ動いていた。聡明な彼は、友邦ドイツに未
来が無い事に 気付いていたのである。国内なら非国民のレッテルが貼られるであろう人々と、岡本は連絡をとり続
けた。 昭和20年5月8日、遂にドイツが無条件降伏した。6月上旬に北村と会った岡本は、アメリカとの和平について
切り出した。「私は梅津さんからは信頼されているので、この進言も恐らく取り上げてくれると思う。また、梅津さ
んの人望と 力をもってすれば、我陸軍を抑えることも、そんなにむつかしくはないと思われる」この意向はダレス
に伝わる。ダレスは、諜報機関OSSのヨーロッパ総局長で、ジョン・フォスター・ダレス を兄に持ち、ホワイトハ
ウスの信任も厚い人物である。ダレスはヤコブソンの話に、大いに意欲を燃やした。
175日本@名無史さん:04/06/19 01:37
ダレスからの回答を、岡本が北村から聞いたのは 7月16日であった。思ったより苛酷な条件に、中将は頭を抱えたが、
1日熟慮をした後、遂に梅津参謀総長宛に 電報を打った。中将は電文を書きながら、こぼれる涙を抑える事ができ
なかったという。 しかし、日本からは何の反応も無い。加瀬公使も外務大臣宛に請訓の電報を打ったが、これもな
しの礫であった。 この頃日本では、ソ聯を仲介とした和平に必死になってたのである。 ダレスは、23日にもヤコ
ブソンと会談し、日本側の回答を督促した。中将は再び参謀総長に督促電を打ったが、 返ってきたのは「和平工
作は政府で手を打っているから、スイスでの工作は必要無い」という空疎極まりないもの だった。7月26日、遂
にポツダム宣言が出された。しかし、スイスにおいてはまだ、米国との直接和平工作 に対する努力を続けてい
た。8月9日、北村は岡本と会い、加瀬公使に全権を委任するなら、米国側も交渉に応ずる 準備があることを伝
えた。中将は一縷の望みをつなぎ、参謀総長に電報を打った。「涙をふるって聖断を 仰ぐべし」という文言が、
補佐官桜井一郎大佐の記憶に残っている。 明けた10日、ポツダム宣言受諾をスイス、スウェーデンの両政府
を通じ、連合国に伝達する依頼の電文が 舞い込んだ。こうして、スイスにおける和平工作は、完全に終了した。
(略)

8月15日、岡本中将は自決する。中将の葬儀は、18日ベルンの旧陸軍武官室で行われたが、 葬儀に参列したスイスの
陸軍参謀総長は「日本に武士道が残っている事を、岡本中将 の死によって、はっきり知る事が出来た。これこそ、
日本の強さの源泉で、感銘を深くする ものである」と其の死を悼み且つ称揚した。

(略)
176日本@名無史さん:04/06/19 01:37

岡本がドイツ通として、日本の状況に強く責任を感じていた事は、甲谷大佐の証言でも明かである。 甲谷が昭和19年
6月、潜水艦で日本に帰ることになったとき、送別を兼ねてベルリンにやってきた岡本は 甲谷に対し、「甲谷君、東
京に帰ったら、ぜひ上の人に伝えてくれ給え。岡本は開戦の時の責任を痛感しております。 その過ちを償うために、
これから永くヨーロッパにとどまって、今後の情勢判断を誤らないように、 大いに努力します。こう伝えてくれ給え」
と思い詰めた表情で云った。甲谷は激しい口調で、「閣下、とんでもない ことをおっしゃる。開戦の責任は、何も閣
下一人にあるわけではありません。しかも、閣下の決心だけで、 そんな重大事が出来たわけが無いではありませんか」
と遮った。「いや、そうではない。 昭和6年には、ドイツ駐在の武官補佐官となり、14年にはまたドイツ駐在の武官と
なった。参謀本部の情報部長 として、ドイツ中心の情勢判断になることを自分では警戒しながらも、結果的には開戦す
るように仕向けた事になる。 これは私の過ちだ。その責任は、今となっては、まぬがれるものではない」その時の岡本
の表情と声を、 甲谷は忘れられなかった。赤柴八重蔵中将は云う。「大東亜戦争が始まったとき、 私は満州に居たん
ですが、岡本君が情報部長で開戦したなら、この決定には信用が置ける。和して同ぜずという 性格で、誰かの誘いなど
で、ものを云ったり行動したりするような人ではない。豪傑タイプではなく、どちらかと云えば インテリタイプで、
優れた軍人の一つの典型であった。人情に厚く、責任感も強い人だったから、 自決をしたと聞いた時は、さすがは岡本
君だと思いました」これは、多くの同僚に共通する岡本観と云えるだろう。
(田々宮英太郎『大東亜戦争始末記』)
177日本@名無史さん:04/06/19 02:17
開戦前夜の超大物
重臣会議、陸海軍幹部、参謀本部、海軍軍令部、枢密院、軍事参議院、現職閣僚

陸軍の超大物
陸軍:東條、寺内、杉山、梅津、板垣、、篠塚、*西尾、*山田(〈外地〉*畑、*後宮、*岡村、*土肥原、*中村)
    {*宇垣、*小磯、*柳川、南、真崎、荒木、石原}

陸軍に対抗できる「超大物」
海軍:永野、嶋田、五十六、及川、豊田副武、長谷川、{小林躋造、米内、末次}
外務:*東郷、(*重光、吉田、本多熊太郎)
宮廷:*木戸、*原嘉道、*鈴木貫、湯浅、蓮沼、松平
重臣:*近衛、*平沼、*若槻、*岡田、*阿部、広田、林
閣僚:*星野、*賀屋、岸、鈴木貞一(秋永月三、迫水久常)

親王:*秩父宮(陸)、*閑院宮(陸)、*伏見宮(海)、東久邇宮(陸)
在野:頭山満、徳富蘇峰、児玉誉士夫、笹川良一、橋本欣五郎、*安岡、*鮎川
政界:久原房之助、中島知久平、町田忠治、中野正剛

*既出
{}内は予備役、後備役
178日本@名無史さん:04/06/19 02:18
陸軍省
次官:木村兵太郎
 軍務局長:武藤章
   軍事課長:真田穣一郎
   軍務課長:佐藤賢了
 人事局長:富永恭次
 兵務局長:田中隆吉
 整備局長:山田清一

海軍省
次官:沢本頼雄
 軍務局長:岡敬純
   第一課長:高田利種
   第二課長:石川信吾
 兵備局長:保科善四郎
 人事局長:中原義正

大本営陸軍部
参謀次長:田辺盛武
   第二十班長:有末 次
 総務部長:若松只一
 第一部長:田中新一
   第二課長:服部卓四郎
 第二部長:*岡本清福

大本営海軍部
軍令部次長:伊藤整一
 第一部長:福留 繁
   第一課長:富岡定俊
179日本@名無史さん:04/06/19 04:57
陸軍の英米派は潜在的な大物になるのでしょうか?
180日本@名無史さん:04/06/19 08:38
親英米派といえば本間雅晴、田中静壱、辰巳栄一くらいかな
本間、田中は19期だから、開戦時は大物の一歩手前だな
181日本@名無史さん:04/06/19 09:04
戦後の陸軍大臣になった下村定は小物?
陸軍に英米派など居るのか?
182日本@名無史さん:04/06/19 18:38
>181 ここで扱う訳にはいかないが、栗林忠道、八原博通はどうよ。
あと、「大戦間期の日本陸軍」読む限り、大正の日本陸軍は米陸軍をかなり研究していたらしい。
183日本@名無史さん:04/06/19 20:32
 
184日本@名無史さん:04/06/19 20:37
飲み屋でもてたいため戦争起こした陸海軍の軍人なんかに
大物は一人もいない。
185ツバキ:04/06/19 21:17
>>184
バブル期銀座で飲んでいたやつみんなダメ、と同じ。
186日本@名無史さん:04/06/20 11:12
外務省のパワーバランスはどうなっていたのですか?
大使は偉いの?
187日本@名無史さん:04/06/20 12:17
大使と大将が同じぐらいじゃないかな?
188日本@名無史さん:04/06/20 18:18
開戦時の全閣僚をあげよ
枢密院も議会も責任あるのか?
189日本@名無史さん:04/06/20 18:35
>>187
国外に居る奴は、なんもできんだろ。しかも陸軍、海軍みたく、大臣を上回るのも稀。

>>188
全閣僚>>122
枢密院、議会の影響力は、著しく低下していたような。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/sumituinn.htm
190日本@名無史さん:04/06/20 20:30
枢密院が政策を否としたらどうなるのかね?
191日本@名無史さん:04/06/20 21:26
>189 …大島大使…
192日本@名無史さん:04/06/21 00:42
>>191
元陸軍中将のコネと、独ソ開戦を前もって知らせた情報力で、他の大使に比べて強力な発言力があったno
かな。
一応、開戦は左右できる地位に居たと言える?

ただ情報を貰って判断するのは、本国のような・・・
193日本@名無史さん:04/06/21 08:29
ヒトラーの手先だからなー

ところで開戦時の枢密顧問官を調べたのだがよく分からない。

メンバーは重臣会議とかなりかぶっていると推測するけど、
原議長が試問を受けたのは重臣会議だし、
枢密院に開戦の諮問はなかったのでしょうか?
194日本@名無史さん:04/06/21 14:38
大鳥の連合軍の勝利のための貢献度。これはマジでスゴイ。
大英帝国勲章ぐらい余裕でもらっても不思議ではないw
195日本@名無史さん:04/06/21 14:59
大島だろ

それとも大鳥圭介か?
196日本@名無史さん:04/06/21 16:58
公式な宮中席次

第一階
第1   大勲位
  1 菊花章頸飾
  2 菊花大綬章
第2   内閣総理大臣
第3   枢密院議長
第4   元勲優遇のため大臣の礼遇を賜った者
第5   元帥、国務大臣、宮内大臣、内大臣
第6   朝鮮総督
第7   内閣総理大臣又は枢密院議長たる前官の礼遇を賜った者
第8   国務大臣、宮内大臣または内大臣たる前官の礼遇を賜った者
第9   枢密院副議長
第10   陸軍大将、海軍大将、枢密顧問官
第11   親任官
第12   貴族院議長、衆議院議長
第13   勲一等旭日桐花大綬章
第14   功一級
第15   親任官の待遇を賜った者
第16   公爵
第17   従一位
第18   勲一等
  1 旭日大綬章
  2 宝冠章
  3 瑞宝章
(皇室儀制令29条)
197日本@名無史さん:04/06/21 17:56
現役閣僚が大物だろ。
198日本@名無史さん:04/06/21 20:49
岸 信介 (開戦時の商工大臣)
>>76
山口県に生まれる。叔父に鮎川義介、松岡洋右、弟に佐藤栄作(養子に出る)
帝大法学部卒業。在学中、天皇制絶対主義を唱える学生七生会に入る。法学部ではのちの民法学者
我妻栄と並び称されるほどの英才であったが、官界では傍流の農商務省に入省。同省分割の際に
は商工省に勤務した。商工省では濱口内閣の主導する管理減俸に真っ向から反対して「商工省の岸」
の名を全官界に轟かせ、吉野信次次官(大正デモクラシーのイデオローグ吉野作造の実弟)と深い
結びつきを持った。

1936年満洲国実業部総務司長として渡満、数年後総務庁次長となり、満洲開発5ヶ年計画など、そ
の実力を遺憾なく発揮、東條英機などと共に満洲の実権を握る「二キ三スケ」のうちに数えられる。
1939年帰国し商工次官となる。41年、商工相と対立して辞職するが同年、東条内閣で商工相に就任。
商工省が改組され軍需省となると軍需次官となる。

戦後A級戦犯で逮捕されるが起訴は免れ、48年釈放。53年自由党で当選。吉田内閣に反対し、鳩山
内閣擁立に組みする。自民党総裁選では石橋湛山と争い敗れるが、病気退陣した石橋に代わり組閣。
60年新安保条約に署名し、米軍の準占領体制から脱却するが、対ソ米国戦略圏に加わる。衆議院で
の批准承認に警官隊を導入。国会に突入した学生デモ隊と機動隊が衝突し死者が出る。参議院での
批准議決がないまま、新安保条約が自然成立すると退陣。派閥を福田赴夫に譲り、影の実力者とな
った。自主憲法制定国民会議議長。

満洲国における異常な権勢、そして政界において安倍晋太郎を自民党総裁にするための蠢動などは
いかにも不気味な印象を拭いきれず、、読売新聞から「昭和の妖怪」との異名を奉られた。
199日本@名無史さん:04/06/21 20:50
岸と強制連行
http://www.shohin-data.co.jp/menu/tokusuru.htm
 更に、昭和16年12月8日に太平洋戦争に突入すると、日本への白金輸入は完全にストップし、重要
軍需物資のひとつである白金は北海道産の砂白金への依存度を一段と強めることとなった。戦時中に
商工大臣を務めていた岸信介氏(故人)は、砂白金の増産を促進するために、新会社となる帝国砂白
金開発有限会社を設立、北海道に所在していた開発会社38社がこの新会社の管轄下に置かれたばかり
でなく、大部分の鉱区が強制買収された。

 また、この政府至上命令である増産を達成するためには、国内の鉱山労働者だけではとても足りず、
昭和18年には朝鮮半島から強制的に連行した労務者約2,000人に加え、学徒勤労隊、女子挺身隊まで
も投入した。しかし、それまで鉱山労働に就いた経験がまるでない労働者は下層階級として食料など
様々な面で冷遇され続けた。零下35度という厳寒での労働はあまりにも厳しく、飢えと寒さによる死
者が続出した。その結果、岸信介氏の思惑に反して砂白金の増産計画はほとんど成果を上げることが
出来なかったという。

200日本@名無史さん:04/06/21 20:51
東條内閣打倒と岸
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/jinjiotu/jinji09.html
東條内閣を打倒する決め手は2つ。
@ 東條首相の陸相・参謀総長兼任をやめさせて統帥の確立を迫ること。
A 海軍部内で悪評盛んな嶋田海軍大臣の更迭を迫ること。
この二点で追い詰めることによって東條内閣打倒に追い込もうとするものであった。
昭和19年7月13日 東條首相は木戸内大臣と会談し、内閣を改造しこの難局を引き続き担当する
決意を述べた。これに対して木戸は、前記2つの点と重臣を内閣に入れる点の三条件を迫った。東條
はこの三条件が天皇の御意志であることを確認し、その線に沿った改造に着手した。嶋田海相は退任
し、新参謀総長の人選も進んだ。次ぎに他の閣僚の交代に続き国務大臣岸信介に辞任を迫った。
ところが岸はガンとして単独辞任を承知せず、総辞職を主張した。東條側近の一人である四方諒二東
京憲兵隊長は、半ば強圧的に辞職を迫り、一方でテロの噂も流した。しかし岸は屈することはなかっ
た。岡田啓介の手が裏から回っていたのであった。さらに重臣の入閣についても、重臣たちは申しあ
わせて入閣を拒否した。こうした動きをしった東條は7月18日ついに総辞職を決意したのである。
201日本@名無史さん:04/06/21 20:53
岸信介 〜 千万人といえども吾往かん(国際派日本人養成講座)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h16/jog337.html
 かつて死を覚悟したことが三度ある。最初は東条さんと
喧嘩したとき、二回目は戦犯容疑で捕まったとき、三度目
は安保改訂の際に首相官邸でデモに取り囲まれた時だ。

 最初の「東条さんと喧嘩したとき」とは、昭和18年暮れ、
岸が東条英機内閣の国務相兼軍需省次官を務めていた時のこと
である。岸はサイパンが陥落すると、国内の工場はB29の空
襲を受けて、軍需生産は著しく低下するので、戦争を終わりに
すべきだと、東条に率直に進言した。東条は顔を真っ赤にして
「文官に何が分かるか」と怒鳴りつけたが、岸は引き下がらな
かった。その後、サイパン陥落後に東条が内閣改造で乗り切ろ
うとした時、岸は辞表を出すのを拒否して、内閣総辞職に追い
込んだ。東条内閣のままでは終戦工作ができないと判断したの
である。

 二回目の「戦犯容疑で捕まった時」とは、開戦時に東条内閣
の商工大臣を務めていたので、米軍に逮捕されて巣鴨に3年3
ヶ月拘留されていた時の事である。何度か自決を思いたったが、
大東亜戦争は侵略戦争ではなく、連合国に追いつめられた日本
の生存のための戦いであった事を明らかにする事が、開戦当初
の閣僚であった者の責任と考えた。結局、米ソ冷戦が始まり、
米国が日本を「防共の砦」に育てようという方針に変更した事
もあって、岸は不起訴処分となり釈放された。
202日本@名無史さん:04/06/21 20:59
>>196
枢密院議長って、貴族院議長、衆議院議長に比べて断然偉いんだな。
203日本@名無史さん:04/06/21 22:06
ああ 岸はいいね 日本にもこういう「悪党」がいたんだと嬉しくなる
204日本@名無史さん:04/06/21 22:48
これは彼の人生の訓戒だろうか。

>>201
>総理大臣というものはそういうものではない。経済は官僚がやってもできる。
>なにか問題が生じたら正してやればいいのだ。
総理であるからには外交や治安にこそ力をいれねばならんのだ。
205日本@名無史さん:04/06/22 01:09
残念ながら 日本には人物はいなかった。 小物だけである。
アメリカは、文官、軍人とも歴史的人物がうなるほど輩出した。

日本は明治維新で100年間の人材のストックを費消したのだ!
206日本@名無史さん:04/06/22 11:55

大島浩や鈴木貞一は、陸軍中将なのか。陸軍、政治やりすぎ。
207日本@名無史さん:04/06/22 16:49
厚相の小泉も陸軍軍医中将
208日本@名無史さん:04/06/22 17:56
衆議院議長より上位の首相の経験者や皇族がなるのが枢密顧問官だから当然
209日本@名無史さん:04/06/22 19:44
その代表が枢相だもんな
選挙に受かっただけの議員の上に立つ議長とはレベルが違う
210日本@名無史さん:04/06/23 20:19
日銀総裁は?
211日本@名無史さん:04/06/23 20:59
偉いんじゃない?
212日本@名無史さん:04/06/23 23:20
日銀総裁の名前なんか知っているのは井上準之助ぐらいだよ
213日本@名無史さん:04/06/24 07:12
企画院は権力あるのかな?
統計とって見通しを立てる機関?
214日本@名無史さん:04/06/24 11:11
陸軍に都合のいい見通しをな
215日本@名無史さん:04/06/24 20:54
宮内大臣てのは偉くなさそうだ
216日本@名無史さん:04/06/25 05:26
あんたより偉いぞ
217日本@名無史さん:04/06/25 13:30
陸軍三長官
218日本@名無史さん:04/06/25 13:44
海軍にはそういうのないの?
219日本@名無史さん:04/06/25 13:57

◆陸軍省◆
1.陸軍省は、中央行政官署である各省の中の一つである。
   「軍政」に関する中央統轄機関として陸軍軍人軍属を統轄し、所轄諸部及び学校を監督する官衙である。
2.陸軍軍政事務は
  1) 一般国務に関する軍政事務・・・兵役行政、経理事務、徴発事務など
  2) 統帥及び編成事項に関する軍政事務・・・平時編制、動員計画、要塞兵備
3.陸軍大臣は陸軍大将または中将をもって新補され、天皇に直隷し内閣を構成する一員として
   天皇補弼の重責に任ずる。
   慣習として、陸軍大臣の人選は陸軍3長官の議決によった。

◆参謀本部◆
1.軍令・統帥に関する陸軍中央統轄機関で、その長官は参謀総長である。
   参謀本部は天皇の持つ統帥大権を補佐する官衙である。
2.主要任務は
  1) 国防・用兵計画の策定
  2) 参謀職にある陸軍将校の統轄と教育
3.参謀総長は、陸軍大将、中将をもって親補される。
   なお、戦時または事変に際し大本営が設置されると、参謀本部は大本営陸軍部となり
   部員は両方を兼務する。

◆教育総監部◆
1.教育に関する陸軍中央統轄機関でその長官は教育総監である。
   全陸軍部隊の教育・所轄学校・陸軍将校生徒試験等に関する事項、などを掌る軍事教育の中央機関であった。
2.陸軍軍隊の教育の進歩を図り隷下学校と陸軍将校生徒試験委員を管轄する。
3.教育総監は、陸軍大将、中将をもって親補される。


「陸軍大臣」 「参謀総長」 「教育総監」を総称して陸軍三長官と呼びいずれも天皇に直隷した。
「軍政」軍隊の編成・兵器の備用・給与・人事・規律等、主として軍隊維持にかかわる一般的な「行政的側面」
「軍令」国防計画・作戦計画・平戦両時における兵力の使用など、主として軍隊運用にかかわる「統帥的側面」。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/sosiki/sosiki-annai.html?
220日本@名無史さん:04/06/25 14:07
帝国陸海軍の軍制度は、ドイツ帝国の軍制にならってつくりあげられた結果、軍政、軍令の二元主義を採用した。
海軍の中央統括機関は陸軍と異なり、軍令部と海軍省の2機関よりなっていた。

◆海 軍 省◆
1.海軍省は内閣組織中の1省であって、海軍大臣は天皇に直隷し国務大臣の一員として
   天皇輔弼の重責に任じ、海軍軍政を管理し海軍軍人、軍属を監督して所管諸部を監督する。
3.海軍大臣は、現役の大・中将をもって親補され、大臣官房のほか8局を置き、帝国議会との交渉事項には
   政務次官及び参与官があたった。

◆軍 令 部◆

1.作戦・用兵の事項を掌る海軍統帥に関する中央統轄機関で、その長官は軍令部総長である。
2.軍令部総長は勅裁を得た命令(大海令)を関係指揮官に伝達し、
   天皇の委任を受けた事項について指示(大海指)を行う。
3.軍令部総長は、大・中将をもって親補され天皇に直隷する。

昭和 8年10月 軍令海第5号 軍令部令によって、
「帝国全軍の参謀総長」であった陸軍参謀総長と形式的に同格となり、
名称も軍令部長から軍令部総長と改められた。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/sosiki/sosiki-annai.html?
221日本@名無史さん:04/06/25 17:15
>>218
海軍大臣は海軍省内の次官、軍務局あたりが決めていたと思われ。
なんで、嶋田が、海軍大臣になったのやら。

海軍のも欲しい・・・
陸軍主要ポスト変遷表(1890年-1945年)
http://www2.wbs.ne.jp/~ms-db/other%20data/rikugun%20main%20post.htm
222日本@名無史さん:04/06/25 17:44
223日本@名無史さん:04/06/25 18:13
陸軍三長官  
東條英機(陸軍大臣)杉山 元(参謀総長)山田 乙三(教育総監>>11

しかし宇垣は、凄いな。

宇垣一成による陸軍三長官合意の設立  宇垣流産>>21-23
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/zinbutsu/u.htm
その後も順調に出世の階梯を登り続け、参謀本部第一部長、第十師団長、教育総監本部長、
陸軍次官を務める。当時、陸軍内では隠然たる影響力を誇った『長老』山縣有朋の死後、
薩派を率いる上原勇作元帥と長州派をまとめる田中義一大将の鞘当てが激化していたが、
清浦貴族院内閣成立における陸相推挙に当ってはこれが露呈、上原の推す福田雅太郎大将
と田中の推す宇垣中将の対立となって現れた。宇垣は陸軍三長官の合意という新慣習を作
り上げてこれに競り勝ち、以後五内閣の陸相を歴任、いわゆる『宇垣時代』を現出せしめ
るに至った。
224日本@名無史さん:04/06/25 18:36
将官人事は三長官協議の上決定という省部協定は、
軍部大臣現役武官制廃止は巡り、陸相木越安綱が
参謀本部などの反対を押切り改正に合意したことが原因でできた。
ただし天皇の御裁可はなく所謂あげおき上奏であった。
225日本@名無史さん:04/06/26 00:28
そうはいっても
226日本@名無史さん:04/06/26 01:48
半月城も所々面白いなー。

ttp://www.han.org/a/half-moon/hm053.html#No.348
  天皇はまた1940年9月、日独伊三国軍事同盟の締結を前にして、閑院
宮の陸軍参謀総長、伏見宮の海軍軍令部長をやめさせるよう、天皇のほうから
積極的に発議した。木戸内大臣の日記9月17日の条にいわく。
 「10時出勤、武官長(侍従武官長)来室。陛下より両総長御勇退、元帥府
確立につき思召を拝したる由にて、相談あり」。
  9月19日、「10時10分、思召により拝謁、総長宮更迭につき、聖慮
を承る。11時すぎ退出す」。
  どうして天皇はこのように発議したのか。これについて木戸は、19日の
日記に次のように書いている。
 「かねて愈々(いよいよ)重大なる決意をなすときとなりたるを以て、此際、
両総長宮の更迭を願いて、元帥府を確立するとともに、臣下より両総長を命ず
ることとしたしとの思召(天皇の意向)あり、武官長に御下命あり、余にも相
談すべき旨御沙汰あり」。
  天皇は“重大なる決意”すなわち独・伊と軍事同盟を結んで米英に対抗す
る決意−−それは米英との戦争にいたることをかくごせねばならない−−をか
ためるとともに、万一戦争になったとき、皇族が陸海軍統帥機関の長であるこ
とを望まず、臣下に代えたかったのである。
  戦時(あるいは戦争準備期)の参謀総長、軍令部総長の責任は至重至大で
ある。天皇は第一にその責任を皇族に負わせたくなかっただろうし、第二には、
場合によっては皇族−−>皇室−−>天皇へと責任がおよぶことを警戒したの
であろう。
  陸軍は閑院宮の参謀総長をやめることにただちに同調し、10月3日、閑
院宮は辞職し、後には杉山元が総長になった。海軍はいますぐ伏見宮がやめる
のは絶対に困るとのことで、翌1941年4月、伏見宮は辞職し、永野修身大
将が後をついだ。
227日本@名無史さん:04/06/26 02:04

東郷茂徳
「相手国と交渉する時には、まず、本国にものを言わねばならない」

http://web.sfc.keio.ac.jp/~takaki/hpdata/tougou.htm
228日本@名無史さん:04/06/26 02:14
>>226
閑院総長宮の辞任はノモンハン事件の後に決定してた。
ただ皇族を更迭するようなかたちは具合が悪いので、しばらく間を置いただけ。
229日本@名無史さん:04/06/26 11:19
教育総監は影が薄いな
230日本@名無史さん:04/06/26 14:03
ポスト指名役は実権がある訳じゃないよな?
231日本@名無史さん:04/06/26 14:22
高い能力と強靭な意志を持った人間が「教育総監」に就けば、かなり有効利用できたと思う。
232日本@名無史さん:04/06/27 11:23
海軍は基本的に海軍省が優位とされていたが

陸軍は船幅の割り当てで参謀本部と陸軍省で

殴り合いをする仲だからなぁ・・・

陸軍省に向かって参謀本部の奴が「統帥権干犯」

なんて叫ぶ軍隊はどうなっているんだ?
233日本@名無史さん:04/06/27 16:53
中曽根いわく

明治憲法の統帥権独立の濫用
ttp://www.yatchan.com/seiji/tenchi/tenchi2000/01-02b.html
 もう一つは、統帥権独立の問題であります。旧憲法の十一条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という
条文がありました。それで軍令と軍政と分けて、軍令は天皇に直結する。つまり、参謀本部、軍令
部が天皇に直結しており、内閣の掣肘を受けないとか、陸海軍大臣の掣肘を受けないというよネ解
釈が行われた。明治から大正の初めぐらいは大山(巖)、伊藤(博文)、山県(有朋)、松方(正義)、
西園寺(公望)という元老がいて、彼らが軍令と軍政というようなものを人間的に統合していた。
その過程を経てから枢密院等を経て、あるいは軍事参議官というものの議を経て天皇へ上奏すると
いうことで、事前に元老による統合が行われていた。したがって、これが分裂するということはな
かったと思うのです。
 しかし、大正に入ってから元老が亡くなり、西園寺さんも老齢になって、非常に体も衰弱してか
らというものは、この統帥権独立意識が非常に強くなって、統合する力がなくなった。これがロン
ドン会議等を経て噴出してきたのです。
 それが結局は満州事変とか、日支事変とか、大東亜戦争に至る非常に大きな因子になったと思う
のです。もちろん、それにはそれぞれ日本の固有の権益とか、相手の対応とか、一部、日本側の指
摘する理由もありますが、大局的にみて、歴史的な流れを日本として反省し、解明すると、そのよ
うな起因とも言うべきものがあると思います。
 そうなると、あのことが起こる前に、実は明治憲法を改正して、統帥権問題を調整しておかなけ
れネらなかった。あるいは解釈を明確にして、軍令を押さえる力を内閣が持つように確定しておく
必要があったと思うのです。そういう作業を怠ったために、大東亜戦争にまで至ったということ
を私は反省しているのです。
234日本@名無史さん:04/06/27 20:07

企画院は「アカ」の巣窟?
235日本@名無史さん:04/06/27 21:50
軍事参技官は誰がなっていたか判る?
236日本@名無史さん:04/06/27 21:51
日米戦を回避していたら野村吉三郎が首班になっていたかもね
237日本@名無史さん:04/06/27 22:01
>>235   技→議
軍事参議官(軍事参議院)について

軍事参議院は、明治36年に海軍の強い要望で陸海軍対等が制度上も担保(海軍軍令部長も参謀総長と
「同格」の天皇の参謀長となった。)された際に、陸海軍の調整を図る為に作られたものです。任務は
「帷幄ノ下ニ在リテ重要軍務ノ諮詢ニ応スル所トス」というもので、国務における枢密院に対応するものでした。
軍事参議院の参加者は元帥、陸海軍大臣、参謀総長、海軍軍令部長(軍令部長) 、
軍事参議官でした。しかしながら、陸海軍合同の軍事参議院はめったに開催されず(昭和期は僅か一回)、
通常は陸海軍別々で開催されていました。

 軍事参議官は親補職(天皇陛下から直々に任命される職)で艦隊司令長官、師団長並に格が高かったため、
後には、単なる処遇の為の肩書きとなってしまいました。このように、陸海軍の統合機能を目指した元帥及び
軍事参議院が本来の機能を十分に果たすことはありませんでした。
238日本@名無史さん:04/06/27 22:04
二二六事件
陸軍軍事参議官

荒木貞夫 真崎勘三郎 林銑十郎 阿部信行 西義一 植田謙吉 寺内寿一、朝香宮、東久邇宮
239日本@名無史さん:04/06/27 22:06
野村吉三郎    (開戦時の駐米大使)>>236
http://www.c20.jp/text/hs_senry.html
・ 和歌山県出身。海兵26期卒。
・ 海兵教官、「千歳」航海長などを歴任。オーストリア、ドイツ駐在後、在米日本大使館付武官。
・ パリ講和会議、ワシントン軍縮会議に全権随員として出席。
・ 軍令部次長、呉・横須賀鎮守府司令長官などを歴任。
・ 第三艦隊司令長官として上海事変?@に出征、停戦交渉にあたる。
・ このとき、上海爆弾テロ事件で片眼を失う。
・ 予備役編入後、学習院長。阿部内閣では外相に就任。
・ 駐米大使となり、太平洋戦争開戦まで日米交渉にあたる。
・ 戦後、日本ビクター社長。参議院議員、自民党外交調査会会長などを務める。

戦後の野村吉三郎
ジャパン・ロビーにとって最も価値ある日本人の一人は、元外相野村吉三郎海軍大将であった。
野村は真珠湾奇襲の時には駐米大使を務めている。 占領期間中、ACJのメンバーは積極的に
野村に近づいた。 一九四六年八月に野村が公職追放された後、パゲナムは定期的に(実は違法に)
食料や煙草を送り、経済的に苦しい彼の便宜を図った。 ウィリアム・R・キャッスルは野村との
つき合いを再開し、 野村こそ「日本を、正しい道筋で、再び重要な国家となるように再建するの
に役立つ人物の一人だ」と主張した。 日本を訪問するたびにカーンは野村をもてなした。 そして
野村の最も親しいアメリカの友人であるウィリアム・V・プラット提督は海軍の軍人仲間をACJ
の活動に引っ張り込んだのである。
240日本@名無史さん:04/06/27 22:07
野村は一時的に追放状態にあったが、日米関係では彼が引き続き重要なことをACJはよく理解
していた。 野村は、日本側では旧帝国海軍の将校たちに活動の舞台を提供していた。 すなわち
右翼国家主義者からなる再軍備団体の顧問あるいは代表として動いていたのである。 海軍復員省
という誤れる名前の組織の外で、新たな日本海軍建設を計画するグループの「ご意見番か精神面での父」
でもあった。 戦後外相や首相となり、日本国憲法の戦争放棄条項に反対したことで知られる芦田均
とも親しかった。 そして山梨勝之進海軍大将を通して吉田茂首相とも連絡をとることができたのである。
野村は、アメリカ側ではアーレイ・バーク提督やターナー・ジョイ提督、ジョン・フォスター・ダレス特使
といった高官と定期的に連絡をとっていた。 こうした交際はすべてACJの支援によって始まり、進展した
ものである。 野村のとってACJは、日本海軍を復活しようとする自らの活動の役に立ったし、 降伏後に
おける初期対日方針によって自分たちの立場が脅かされたと感じていた日本の旧支配層内部のいわゆる
「穏健派」の憂慮を、 アメリカ世論やワシントンにはっきり知らせるためにも有用であった。
ハワード・B・ショーンバーガー 「占領 1945〜1952」  P.179
241日本@名無史さん:04/06/27 22:17
>>235
>>111

>>234
統制経済ってのは見る人によってはアカに見えるんだろう。
実際美濃部亮吉みたいなのもいたからね。
242日本@名無史さん:04/06/27 22:42
戦前に親米政権ができていたら幣原や吉田よりも野村が有力だと思う。
243日本@名無史さん:04/06/27 23:26
永野修身 (軍令部総長)
http://www.hkr.ne.jp/~igyou/serviceman/zinbutu/nagano.htm
この人物は戦中、戦後、そして今現在に至るまで正直なところ不当な扱いを受けていると自分は感じるのである。
この人物を語るには、やはり米内光政、山本五十六の両人を抜きにして語れまい。この両名の名前が燦々と未だに
輝いている為、対局にあった永野が不当に虐げられていると、少々偏見かもしれないが自分は思ってしまうのである。
 太平洋戦争開戦前、永野は「このままではアブラが切れ、ジリ貧となって戦う前に滅びる」と発言し、米内が
「ジリ貧となるのを警戒するあまりドカ貧にならぬよう用心するに越したことはない」と皮肉を言ったのは有名な
話であるが、すでにジリ貧の様相を呈してきた状態に近づいており、このことは組閣経験もある米内の方が責任を
感じなければならないのではないであろうか?
 真珠湾攻撃とミッドウェイ攻略の認可は永野の元で行われているが、両作戦とも軍令部は反対意見であった。こ
の際連合艦隊司令長官だった山本五十六は「本作戦が認可されない場合は本職を辞任する」と言っている。確かに
早期終結を決意していた山本に取って職務を両天秤にかけるだけのものであろうが、組織においてはこの行為は
「わがまま」と言える行為では無かろうか?
 戦後、極東軍事裁判で真珠湾攻撃の責任が問われたが、永野は戦死した山本に真珠湾攻撃の責任を押しつけよう
としなかった。上記のエピソードは多数の軍関係者が記憶しており、自分に有利な弁明も出来たはずである。真珠
湾攻撃の事を記者から問われても「軍事的見地からみれば大成功だったよ」としか答えなかった彼の心境は、軍人
として戦争責任を負って死を遂げようとしていたのではないかと自分は思うのである。
 だか、彼は判決を待たずして、昭和23年1月3日病死、彼の極東軍事裁判での態度を見たジェイムス・
リチャードソン米海軍大将は「武人とはああありたきもの」と賞し、彼に人を介して敬意を伝えたという。
244日本@名無史さん:04/06/27 23:53
昭和16年11月4日の軍事参議院会議に出席したメンバーは以下のとおり>>111
閑院宮、伏見宮、朝香宮、東久邇宮
(陸)11期 寺内寿一元帥
(陸)12期 杉山 元元帥 (◆)28期 永野修身元帥
(陸)14期 西尾寿造大将>>12 (陸)14期 山田乙三大将>>11 (◆)30期 百武源吾大将
(◆)31期 加藤隆義大将 (◆)31期 及川古志郎大将
(陸)16期 土肥原賢二大将>>14 (◆)32期 嶋田繁太郎大将 (◆)32期 塩沢幸一大将 (◆)32期 吉田善吾大将
(陸)17期 東條英機大将 (陸)17期 篠塚義男中将>>34 
(◆)34期 日比野 正治中将
245日本@名無史さん:04/06/28 09:03
会議にはでるけど現役の軍務大臣と統帥部代表は参議官ではないね
246日本@名無史さん:04/06/28 16:16
加藤寛治
末次信正
247日本@名無史さん:04/06/28 19:07
開戦前夜の超大物
重臣会議、陸海軍幹部、参謀本部、海軍軍令部、枢密院、軍事参議院、現職閣僚

陸軍の超大物
陸軍:東條、寺内、杉山、梅津、板垣、、篠塚、*西尾、*山田(〈外地〉*畑、*後宮、*岡村、*土肥原、*中村)
    {*宇垣、*小磯、*柳川、南、真崎、荒木、石原}

陸軍に対抗できる「超大物」
海軍:*永野、嶋田、五十六、及川、豊田副武、長谷川、{小林躋造、米内、末次}
外務:*東郷、(〈大使〉*重光、*野村、吉田、白鳥、大島、本多熊太郎)
宮廷:*木戸、*原嘉道、*鈴木貫、湯浅、蓮沼、松平
重臣:*近衛、*平沼、*若槻、*岡田、*阿部、広田、林
閣僚:*星野、*賀屋、*岸、鈴木貞一(秋永月三、迫水久常)

親王:*秩父宮(陸)、*閑院宮(陸)、*伏見宮(海)、東久邇宮(陸)
在野:頭山満、徳富蘇峰、児玉誉士夫、笹川良一、橋本欣五郎、*安岡、*鮎川
政界:久原房之助、中島知久平、町田忠治、中野正剛

*既出
{}内は予備役、後備役
248日本@名無史さん:04/06/28 19:09
陸軍省
次官:木村兵太郎
 軍務局長:武藤章
   軍事課長:真田穣一郎
   軍務課長:佐藤賢了
 人事局長:富永恭次
 兵務局長:田中隆吉
 整備局長:山田清一

海軍省
次官:沢本頼雄
 軍務局長:岡敬純
   第一課長:高田利種
   第二課長:石川信吾
 兵備局長:保科善四郎
 人事局長:中原義正

大本営陸軍部
参謀次長:田辺盛武
   第二十班長:有末 次
 総務部長:若松只一
 第一部長:田中新一
   第二課長:服部卓四郎
 第二部長:*岡本清福

大本営海軍部
軍令部次長:伊藤整一
 第一部長:福留 繁
   第一課長:富岡定俊
249日本@名無史さん:04/06/28 19:14
>>246
艦隊派の大物、加藤寛治。すでに死んでるじゃん。(昭14(1939). 4. 9)
250日本@名無史さん:04/06/28 20:43
牧野が入っていないのが不満
251日本@名無史さん:04/06/28 20:45
負けたことに変わりはないんだけどね。
252日本@名無史さん:04/06/28 21:35
牧野伸顕 元内大臣、名前は何回もでてきてるね。
開戦時の役職や、人への影響力キボーン。
253日本@名無史さん:04/06/28 21:38
>>244
それぞれの役職はどうなってたんだろう。
254日本@名無史さん:04/06/28 21:38
梅津美治郎 大分 歩兵科 熊幼ー中幼ー陸士15期 陸大23期首席(次席は永田鉄山)

父を早くに亡くし母が再婚したため、若い頃は是永を名乗っていた。
陸大を卒業した頃に、是永家で生まれた弟が家を継いだため、梅津に復籍。
若い頃は中々美形で、その気になれば相当もてただろうが、弟と妹を東京に
引き取って学校に通わすなど面倒を見ていた。40前で宇垣の媒酌で結婚するも、
数年後に結核で妻が亡くなると、後添えは貰わなかった。

省部の要職を歴任し、満州事変時は参本総務部長であった。彼は、その性格から、
関東軍の暴走には不快感を抱いていたであろうことが想像される。
荒木陸相の就任で総務部長職を追われ、支那駐屯軍司令官となった。
昭和10年6月、親日新聞記者殺害事件を切欠に梅津・何応欽協定が結ばれる。
この一件は何応欽のプライドをいたく傷つけ、戦後酒井隆参謀長は絞首刑となった。
しかしこの頃梅津は新京におり、交渉にはあまりタッチしていなかった。

10年8月の定期異動で第二師団長に栄転。2.26事件のとき、各地の師団長が
玉虫色の対応を見せる中、梅津だけは即時討伐という意見具申の電報を陸軍省に打ち、
幕僚達を感心させる。事件後、陸軍次官となり、寺内を輔佐して粛軍を行った。

宇垣に大命が降ったが、梅津自身はそれほど宇垣に反感は無かったようである。
しかし石原片倉らが策動して之を阻止した。そのときの梅津の対応は>>21に見る通り。
林に大命が下ると、石原は十河信二を組閣参謀長に、自分の理想を実現する為の
内閣作りに励んだ。彼は、陸相には盟友板垣征四郎を据えるつもりであった。
しかしそれを阻んだのが梅津であった。梅津は林の実弟白上祐吉と結び、
石原ー十河ラインを林から遠ざけ、陸相には中村孝太郎を送り込んだ。
梅津がこういう政治的な動きをするのは珍しい。
これは彼が石原に一種の危なっかしさを感じてた為であろう。

この頃、陸軍省には機密費目当ての自称”愛国者”が多く擦り寄ってきていたが、
梅津は機密費の取扱の厳しい人であった。その為多くの右翼が乾上がり、
そういった連中は梅津を悪し様に罵った。
(続く)
255日本@名無史さん:04/06/28 21:43
>>254の続き
支那事変に対する彼の態度は、曖昧ではっきりしない。
拡大派であるという人もいれば、不拡大派であるという人もいる。
しかし、いくつかの証言や事例から鑑み、少なくとも強硬な一撃論者ではなかったと思う。
この前年、関東軍参謀副長今村均少将が、内蒙工作の資金をねだりに上京したとき、
梅津は、この人にしては珍しく、はっきり感情を現して今村を説教してる。
曰く「中央は内蒙工作を禁じておるのに、なぜ中止しないのか」
曰く「そもそも君を関東軍にやったのは、勝手な事をする参謀を抑えさせる為なのだ。
君の悪評が満州から伝わるたびに、僕は喜んでおった。それがなんだ。
木乃伊取が木乃伊になって」
平素本心を他人に吐露しない梅津が、このようにはっきり言うのは珍しい。
それだけ今村を信頼していたということだろうが、中央の統制に服さない幕僚への
強い怒りがこの苦言となったのだろう。
これには後に昭和の聖将と呼ばれる今村将軍もただただ恐縮するばかりであった。
また梅津は派閥を作らない人物であり、そのことに関しては極端に気を配っていた。
その彼の唯一の腹心といえるのが柴山兼四郎軍務課長だ。柴山は支那事変に関しては
絶対不拡大派であり、陸軍省内で強硬派の田中新一軍事課長と激しく対立していた。
之等の事から推測すると、やはり梅津は強硬論とは一線を画していたと見るべきだ。
しかし、彼がはっきりと不拡大を唱えた形跡はない。この辺が彼の限界であろうか。

当時参謀本部を事実上取しきっていたのは、石原莞爾第一部長であった。
石原は対ソ戦などの観点から、事変拡大に反対していたが、8月に関東軍参謀副長に
転任した。石原を満州に追ったのは梅津であると書く本は多いが、
参本に居辛くなった石原が多田次長に辞職を申し出、石原と親しい多田は
石原の為に阿南人事局長に無理を言って関東軍参謀副長の職を貰った、
というのが真相である。
ただ梅津が石原を軍秩の破壊者とみなしていたのも確かなことであった。
一方の石原の梅津評は「梅津は石橋を叩いても渡らない。しかし陸軍省で
話が出来るのは梅津だけだ」というものであった。
(続く)
256日本@名無史さん:04/06/28 21:48
>>255の続き
阿部内閣組閣時、阿部大将に天皇から直々に
「陸相は梅津か畑を」という御言葉があった。
梅津が能力・人格ともに陸相として最適であるのは衆目の一致するところであった。
その評判は天皇の耳にも届いていたのである。
しかし丁度その頃ノモンハン事件があり、梅津は植田大将の後任として
関東軍司令官となった。関東軍司令官は普通古参の大将がやる職である。
しかし昭和に入ってから、常に中央の統制を無視し暴走を続けていた関東軍を、
抑える事が出来るのは梅津しかいないということで、中将での就任となったのである。
梅津の軍司令官就任によって、関東軍に長らく蔓延っていた下克上の風潮は
完全に影を潜めたが、もしこのとき関東軍司令官ではなく陸相になっていたら、
あるいはその後の歴史は変わっていたかもしれない。
結局梅津が中央に復帰したのはそれから5年後、戦争も漸く行き詰まった頃であった。

関東軍司令官としての梅津は、幕僚の越軌の行動を厳しく戒め、北方の静謐を
保つ事に集中した。独ソ開戦以降の帝國の執るべき道に関しての梅津の考えは
「独ソが開戦した以上、ソ連はいずれ我敵となる。この機会を利用して
北方問題解決すべし」というものであった。
しかしその後策定された帝國国策要綱で、日本は南進を決定。
真珠湾奇襲で大東亜戦争が始まった。
梅津が関東軍第一課長田村義富大佐に
「この戦争はどうなるだろうか」と質問したところ、
田村大佐は即座に「この戦争は勝ち目が無いように思います」と答えた。
梅津も「自分も其のように思う」と田村に同意したという。
ミッドウェーの敗戦について、大本営はひた隠しに隠していたが、
外電は早くも米軍大勝を伝えた。この知らせを受けた梅津は
「この戦争はもう駄目だ」と嘆声を漏らしたそうだ。
(続く)
257日本@名無史さん:04/06/28 21:53
>>256の続き
昭和19年7月15日、退陣する事となった東條は、自分が兼任していた参謀総長の後任に
後宮大将を内奏した。ところがこれを聞いた参謀本部内は、後宮では戦争が出来ないと
大騒ぎとなり、服部卓四郎は冨永次官の元を訪れ、参謀総長は畑か梅津のどちらかに
してくれるよう頼んだ。それを受けた冨永は東條を説得し、2日後異例の内奏やり直し
で梅津が総長となった。上京してきた梅津は三長官会談で次期陸相について相談。
東條は陸相として次の内閣でも残りたいと考えていたが、梅津はこれをはっきり拒絶。
逆に阿南ではどうかと切り出した。しかし、前線の司令官を引っ張ってくる事は出来ない
と東條が反対。結局小磯と同期の杉山教育総監に決定した。

総長となった梅津は組織の簡素化や人事の刷新を熱心に行った。
このころの彼の机の上には、停年名簿一冊だけが置かれていたという。
また一撃和平論を内心持っていたようで、レイテ決戦に関して、熱心にこれを推し進めた。
ただ中国戦線から満州への兵力転用問題に関しては優柔不断な態度をとり続け、
宮崎第一部長や河辺次長を苛立たせた。
鈴木内閣では、同郷の後輩で昔から親しい阿南大将が陸相に就任。
参謀本部と陸軍省はここに初めて完全な一致をみたが、すべて遅すぎた。
和平問題に関して梅津は立場上、表向きは継戦論であったが、
内心はポツダム宣言受諾やむなしであった。
一部の将校が画策していたクーデターについては、最初から最後まで絶対反対であり、
其の意見がぶれる事は無かった。
ミズーリ号上での降伏文書の調印式の全権に、重光と共に大本営代表として
選ばれたときだけは、激しくこれを拒絶し抵抗したが、天皇に直々に説得され、
結局行くこととなった。

その後、A級戦犯として起訴されたが、これはソ連が強くのぞんだもので、
当初梅津はアメリカのリストの中には挙がっていなかった。
ソ連のおかげで起訴されたのは梅津と重光で、逆に助かったのは阿部と真崎であった。
裁判中に癌で倒れ、病院で洗礼を受けた。判決は終身禁固。判決が出た2ヶ月後に死去。
(続く)
258日本@名無史さん:04/06/28 22:04
>>257の続き
梅津は陸軍でも右に出る者が居ない細密な頭脳と事務処理能力を持ち、
軍紀、秩序を重んじ、これを蔑ろにするものを許さなかった。
一方、なかなか本心を表に出さない曖昧な態度を「明哲保身の人」と揶揄する人もあった。

人間関係に関しては、派閥を嫌い、同世代の優秀者の多くが所属した一夕会とも
無関係であった。
昭和に入ってから、陸軍では大分県人の進出が目立ち始めた。
2.26事件で南大将が予備に入ってからは、大分軍人の頂点に立つのは梅津であったが、
彼は世間から大分閥と後ろ指をさされるのを極度に恐れ、同県人の取扱には
特に気を払った。その為後輩の大分軍人からは、冷たい人だと思われていたらしい。
しかし、世間はそうは見なかった。
池田純久、秋永月三と大分出身で。東京帝大経済学部を出た所謂統制派の
経済軍人が居た。近衛と其の周りの皇道派は彼らをアカと見做し、
また彼等の先輩である梅津もアカであろうと勝手に思いこんでいた。
この近衛と皇道派の妄想は中々根強く、近衛&皇道派シンパの人が
戦後書いた本の中によく見るところである。
しかし実際は、彼が親しくしていたのは同期以外では阿南、山下、今村といった程度で、
お気に入りの部下は柴山と田村義富くらいであった。

柴山は輜重兵科ながら、梅津によって異数の抜擢を受けた人で、
田村は田村怡与造中将の甥で、グアムで戦死した。
(終)
259日本@名無史さん:04/06/28 22:12
梅津好きなんだねー。
>>174で岡村清福中将が
「梅津さんの人望と 力をもってすれば、我陸軍を抑えることも、そんなにむつかしくはないと思われる」
とか言ってるけど。
260日本@名無史さん:04/06/28 22:49
>>244
閑院宮、伏見宮は議定官
杉山は参謀総長、永野は軍令部総長
東條は陸相、嶋田は海相
山田は教育総監兼防衛総司令官兼軍事参議官
土肥原は航空総監兼航空本部長
篠塚は陸士校長兼軍事参議官

残りの人は専任の軍事参議官
261日本@名無史さん:04/06/29 03:44
>>244
東久邇宮稔彦王:士官候補生20期、 
(1933・8中将・第2師団長、 34.8第4師団長、 35.12軍事参議官、 37.8兼航空本部長、 
38.4第2軍司令官、 39.1軍事参議官、 39.8大将、 
41.12兼防衛総司令官、 45.4軍事参議官、 45.8内閣総理大臣)

朝香宮鳩彦王:士官候補生20期、 
(1933.8中将・近衛師団長、 35.12軍事参議官、 37.12上海派遣軍司令官、 
38.3軍事参議官、 39.8大将、 45.12予備)

1933年の段階では、朝香宮が近衛師団長で、東久邇宮は第2師団長。この配置から、
ここまでの軍人としての部内評価は朝香宮のほうが上だったはずだと考えてまずまちがいないでしょう。
だからこそ、日清戦争以来40年ぶりの皇族の外征軍の軍司令官就任の話も、東久邇宮でなくて、
朝香宮のところにいったのだと考えると、よく納得できます。

ところが、朝香宮は凱旋後は軍事参議官という名誉はあるが、実質的には何の権限もない職についたまま、
ついにその軍歴を終えます。上海派遣軍司令官を拝命した時点で彼はまだ満50才ですから、
老け込む年齢ではありません。
いっぽう、同い年の東久邇宮は入れ替わりで第2軍司令官となり、武漢作戦に従軍します。
彼の率いる部隊はもとの上海派遣軍の構成師団(3D、13D、16D)を含んでいました。
その任務をすませたあと、2人とも仲良く大将に進級し、軍事参議官となりますが、
わかれめは太平洋戦争を前にしての防衛総司令官(内地の陸軍の総司令官)に朝香宮ではなくて、
東久邇宮がなった点です。

ここで、陸軍内の評価が1933年時点とでは、はっきりと逆転しているのがわかります。
この2人に対する評価のちがいは、もちろん中国での軍司令官としての統率ぶりに対する評価の差に由来するとみても、
大きな間違いとはならないでしょう。
ttp://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/eichel2.html
262日本@名無史さん:04/06/29 07:17
梅津と畑はそんなに天皇の信頼が強かったのでしょうか?

平沼は「右翼だから」徹底的に忌避されていたとか?
263日本@名無史さん:04/06/29 17:58
>>262
張作霖爆殺事件で天皇が
『お前の最初に言つたことと違ふぢやないか』
『田中総理の言うことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ』
『それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうか』
って言ったら、田中義一が総辞職から3ヵ月後に狭心症の発作で死んで、
西園寺ジィに苦言いわれて、その後、信頼とか忌避とか、表に出なかったんじゃないかな。
(そのかわり側近が「君側の奸」としてテロに会うようになったみたい)

平沼とか末次とか宇垣なんかは忌避されてるの知らなかった気がする。
264日本@名無史さん:04/06/29 18:09
昭和天皇が好きだったのは畑、東條、阿南といったところ
逆にあまり好かれてなかったのが宇垣、真崎、小磯
265日本@名無史さん:04/06/29 21:16
宇垣が嫌いなのは現役陸軍だけじゃないの?
266日本@名無史さん:04/06/29 21:59
>>265
宇垣と小磯は三月事件で陛下に嫌われたようだねー。
>>21-26
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/zinbutsu/u.htm
宇垣は若槻礼次郎に「ほんとうの平和愛好者」と評され、また西園寺も宇垣は三月事件の疑いが
あるものの、最後の手駒として非常に重要視し、また高く買っていた。ところがその組閣を阻ま
れ、結局ついに内閣首班となることはなかったが、それには湯浅倉平、木戸幸一ら宮廷官僚たち
が反宇垣感情を持っていたことが原因だと、渡邊行男の『宇垣一成』に描かれている。
だが、実はその背景には、昭和天皇自身が宇垣に対して不信感情を抱いていたことがあげられる。
天皇は、独白録中できわめて激しい宇垣批判を試みている。
「宇垣一成は一種の妙な癖がある、彼は私が曖昧な事は嫌いだという事を克く知っているので、
私に対しては、明瞭に物を言うが、他人に対してはよく『聞き置く』と言う言葉を使う、聞き置
くというのは成程その通りに違いないが相手方は場合によっては『承知』と思い込むことがあり
うる、宇垣は三国同盟(三月事件の誤記か?)にも関係があったと聞いているがこれも怖らくは
この曖昧な言葉が祟ったのではないか。この様な人は総理大臣にしてはならぬと思う」
267日本@名無史さん:04/06/29 22:03
真崎は天皇だけじゃなく閑院宮にも烈しく嫌われてたからなあ
268日本@名無史さん:04/06/29 22:24
田中義一の後継として旧長州閥の匂いがしたからかな?

大奥に人気が無くて苦労した徳川慶喜みたい。
269日本@名無史さん:04/06/30 06:04
>>260
議定官って参議官とどう違うの?
270日本@名無史さん:04/06/30 18:45
>>269
よくわからんけど維新政府の三職(総裁・議定・参与)からきてるんじゃないかな?
まあ多分名誉職でしょう。
271日本@名無史さん:04/06/30 20:36
帷幄上奏権を持っていたのは軍務大臣と統帥部代表の四人だけ?
次長や次官はダメか。
272日本@名無史さん:04/06/30 21:10
統帥を乱されて迷惑
273日本@名無史さん:04/06/30 22:29
軍令部次長とかが帷幄上奏した例はなかったと思う
274日本@名無史さん:04/07/01 01:38
陸軍航空総監って、天皇直隷だったんだね。
かなりの権力あるんじゃ?
海軍大将
28期 永野修身〜 軍令部総長/将官会議議員
30期 百武源吾〜 軍事参議官/高等技術会議議長
31期 加藤隆義〜 軍事参議官
31期 長谷川清〜 台湾総督
31期 及川古志郎 軍事参議官
32期 塩沢幸一〜 軍事参議官
32期 山本五十六 聯合艦隊司令長官
32期 吉田善吾〜 軍事参議官
32期 嶋田繁太郎 海軍大臣
33期 豊田副武〜 呉鎮長官

陸軍大将
11期 寺内寿一〜
11期 岸本綾夫〜
12期 杉山 元〜 参謀総長
12期 小磯国昭〜 
12期 畑 俊六〜 支那派遣軍総司令官
13期 中村孝太郎 
14期 古荘幹郎〜
14期 西尾寿造〜 
20期 東久邇宮稔彦王
20期 朝香宮鳩彦王
14期 山田乙三〜 教育総監/防衛総司令官/軍事参議官
15期 梅津美治郎 
15期 蓮沼 蕃〜 
16期 土肥原賢二 航空総監/航空本部長
16期 岡村寧次〜 北支方面軍司令官
15期 多田 駿〜 
16期 板垣征四郎 朝鮮軍司令官
17期 東条英機〜 総理大臣/陸軍大臣/内務大臣
276日本@名無史さん:04/07/01 08:52
航空総監は航空本部長も兼任し、陸軍航空行政を掌った。
教育総監から独立したのは、それだけ航空兵科が重視されたから。
空軍として独立させることを訴えた航空兵科の将校もいたけど、
これは実現しなかったが。
277日本@名無史さん:04/07/01 09:09
>>275
陸軍大将
11期 寺内寿一〜 南方軍総司令官
12期 杉山 元〜 参謀総長
12期 畑 俊六〜 支那派遣軍総司令官
13期 中村孝太郎〜 軍事参議官
14期 西尾寿造〜 軍事参議官
20期 東久邇宮稔彦王〜 軍事参議官
20期 朝香宮鳩彦王〜 軍事参議官
14期 山田乙三〜 教育総監/防衛総司令官/軍事参議官
15期 梅津美治郎〜 関東軍司令官/駐満大使
15期 蓮沼 蕃〜 侍従武官長
16期 土肥原賢二〜 航空総監/航空本部長
16期 岡村寧次〜 北支方面軍司令官
16期 板垣征四郎〜 朝鮮軍司令官
17期 東条英機〜 総理大臣/陸軍大臣/内務大臣


11期 岸本綾夫〜 昭和11年に既に予備役
12期 小磯国昭〜 昭和13年に予備役 この頃は満州移住協会理事長
14期 古荘幹郎〜 昭和15年に急逝
15期 多田 駿〜 昭和16年9月大将進級と同時に予備役
278日本@名無史さん:04/07/01 13:40
海軍の予備役大将は?
鈴木、岡田、野村、小林、米内など
279日本@名無史さん:04/07/01 23:36
財部も生きていたし、有馬良橘が生きていたのには驚き。
280日本@名無史さん:04/07/01 23:40
豊田貞次郎は?
281日本@名無史さん:04/07/02 11:47

「戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、
 戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族永遠の亡国であるが、
 戦って護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも祖国護持の精神が残り、
 われらの子孫はかならず再起三起するであろう」

----------永野修身海軍軍司令部総長 昭和16年(1941年)9月6日の御前会議にて
282日本@名無史さん:04/07/02 13:12
開戦直前時の陸海大将
海軍大将
28期 永野修身〜 軍令部総長/将官会議議員
30期 百武源吾〜 軍事参議官/高等技術会議議長
31期 加藤隆義〜 軍事参議官
31期 長谷川清〜 台湾総督
31期 及川古志郎 軍事参議官
32期 塩沢幸一〜 軍事参議官
32期 山本五十六 聯合艦隊司令長官
32期 吉田善吾〜 軍事参議官
32期 嶋田繁太郎 海軍大臣
33期 豊田貞次郎 昭和16年4月、商工大臣就任と同時に大将進級、予備役
33期 豊田副武〜 呉鎮長官

陸軍大将
11期 寺内寿一〜 南方軍総司令官
12期 杉山元〜〜 参謀総長
12期 畑俊六〜〜 支那派遣軍総司令官
13期 中村孝太郎 軍事参議官
14期 西尾寿造〜 軍事参議官
20期 東久邇宮稔彦王 軍事参議官
20期 朝香宮鳩彦王   軍事参議官
14期 山田乙三〜 教育総監/防衛総司令官/軍事参議官
15期 梅津美治郎 関東軍司令官/駐満大使
15期 蓮沼蕃〜〜 侍従武官長
16期 土肥原賢二 航空総監/航空本部長
16期 岡村寧次〜 北支方面軍司令官
15期 多田駿〜〜 昭和16年9月大将進級と同時に予備役
16期 板垣征四郎 朝鮮軍司令官
17期 東条英機〜 総理大臣/陸軍大臣/内務大臣

参拾壱、頁(海軍)    http://homepage2.nifty.com/nishidah/index.htm
283日本@名無史さん:04/07/02 19:17
>>269
賞勲局には総裁、副総裁の下に15名以内の議定官が置かれた。
議定官は皇族及び大臣、陸海軍将官其の他親任官、勅任官にして
勲一等以上の者を以って之に勅任す。
284日本@名無史さん:04/07/04 07:29
学習院長 山梨勝之進 海軍大将
285日本@名無史さん:04/07/04 13:36
作戦の鬼 小畑敏四郎も世が世ならばと言ったところ

山下奉文も同じか
286日本@名無史さん:04/07/05 11:02
小畑は大将になれたの?
287日本@名無史さん:04/07/05 11:53
中将で予備>小畑
288日本@名無史さん:04/07/05 23:42
惜しいね皇道派が健在ならエースだろうに
289日本@名無史さん:04/07/06 21:52
五十六は重要なのか?
ここに出てきて人と比べて小物だ゛よな
290日本@名無史さん:04/07/06 23:41
どんな日本語だ
291日本@名無史さん:04/07/07 06:42
次官時代に築いた人脈はすごいぞ
292日本@名無史さん:04/07/07 07:37
>>291
そうなんだろうが、笹川ぐらいしかあまり聞かない。陸軍にも顔はきかんかったろ。
で、三国同盟締結で負け組み。海軍大臣へのシナリオは簡単なようで実は難しく、
GF長官→軍事参議官→引退(政治家に転身?)の予定だったが、長官の任期切れ
が日米一触即発の時期だった為、元帥(あぼーん)の道へ。

まぁ、いなかったらパールハ-バーは無かったんだろうから、別な意味で重要な
キャラだったんだろう。
293日本@名無史さん:04/07/07 08:23
山本五十六と嶋田繁太郎は同期だから、
この二人が及川の後任有力候補だったとか?
294日本@名無史さん:04/07/07 13:30
近衛とタメ口きいてなかったか?
295日本@名無史さん:04/07/07 23:46
他にも五十六の人脈って無かった?
296日本@名無史さん:04/07/08 21:28
海軍の名士だから
297日本@名無史さん:04/07/09 03:54
杉山元
陸大の成績は20/50結婚は三度。結核で二人と死別。
出世と無縁と思われたが、山梨軍縮、宇垣軍縮の実務に携わり出世。
宇垣曰く
「軍務の整理や軍の近代化や、国家総動員の創始や、国民訓練等の重大機務に、
私を助けて参画される所、為される所、到る所可ならざるは無く、精励恪勤、
承認必謹、誠に敏腕にして、加うるに責任観念の強い方だと私は認めていた」

容貌などから、参謀総長時代、部下に「ボケ元」とあだ名されたが、メモを
欠かさない細心緻密な性格だったらしい。
また満州事変、2.26、支那事変と常に武断派に位置し、戦いを躊躇しない人
だったようだ。

終戦事務の処理が終わった九月十二日朝、ブローニング拳銃で、四発全部を
心臓に打ち込み、しばらく苦しんだ後、絶命した。杉山元帥が自決すると、
夫人啓子はその絶命を確認した後、短刀で心臓を突き刺して死んだ。
298日本@名無史さん:04/07/09 03:58
どうも元元帥はよく分からんな。部下に押し切られたのか、部下と一致していたのか・・・。
299日本@名無史さん:04/07/09 08:35
元帥の数はバランスかな?
300日本@名無史さん:04/07/09 18:02
昭和陸軍を象徴する人だね>杉山元
ロボットだ便所のドアだと言われるが、なかなかどうして、複雑な人だよ。
三月事件では、二宮小磯建川らが賛成する中、ひとりだけ態度を保留したりと
その保身術は並ぶものが無い。
かと思えば、小磯内閣で陸相となったときには、松谷誠を大臣秘書官として
呼び戻したりもしてるし。
301カウント:04/07/09 23:57
開戦前夜の超大物 「重臣会議、陸海軍幹部、参謀本部、海軍軍令部、枢密院、軍事参議院、現職閣僚」

陸軍:東條、*杉山、*土肥原、*山田、(〈外地〉寺内、板垣、*梅津、*畑、*岡村、*後宮)
    (〈参〉*中村、*西尾、篠塚)  {*宇垣、*小磯、*柳川、南、真崎、荒木、石原}

陸軍に対抗できる「超大物」
海軍:嶋田、*永野、豊田副武、五十六、及川、長谷川、{小林躋造、米内、末次}
外務:*東郷、(〈大使〉*重光、*野村、吉田、白鳥、大島、本多熊太郎)
宮廷:*木戸、*原嘉道、*鈴木貫、蓮沼(陸)、湯浅、牧野、松平
重臣:*近衛、*平沼、*若槻、*岡田、*阿部、広田、林
閣僚:*星野、*賀屋、*岸、鈴木貞一(秋永月三、迫水久常)

親王:*秩父宮(陸)、*閑院宮(陸)、*伏見宮(海)、東久邇宮(陸)
在野:頭山満、徳富蘇峰、児玉誉士夫、笹川良一、橋本欣五郎、*安岡、*鮎川
政界:久原房之助、中島知久平、町田忠治、中野正剛
*既出 {  }内は予備役、後備役

陸軍省               海軍省
次官:木村兵太郎          次官:沢本頼雄
 軍務局長:武藤章         軍務局長:岡敬純
   軍事課長:真田穣一郎      第一課長:高田利種  
   軍務課長:佐藤賢了        第二課長:石川信吾
 人事局長:富永恭次        人事局長:中原義正
 兵務局長:田中隆吉        兵備局長:保科善四郎
 整備局長:山田清一
大本営陸軍部             大本営海軍部
参謀次長:田辺盛武          軍令部次長:伊藤整一
   第二十班長:有末 次
 総務部長:若松只一
 第一部長:田中新一           第一部長:福留 繁
   第二課長:服部卓四郎          第一課長:富岡定俊
 第二部長:*岡本清福
302日本@名無史さん:04/07/10 07:31
杉山メモでおなじみであります
303日本@名無史さん:04/07/10 07:48

天皇 「日米が開戦するとして、どのくらいですむものか」
杉山 「南方方面の作戦は、三ヶ月ぐらいで片づけるつもりでおります」
天皇 「汝は、支那事変勃発当時の陸相である。そのとき朕が、
    どのくらいで終わるかと尋ねたおり、 一ヶ月ぐらいで片づくと申した。
    しかるに、シナとの戦争は、四ヵ年の長期にわたっているが、 まだ片づかないではないか」
杉山 「シナの奥地が広く開けていて、予定どおり作戦が運ばなかったのであります」
天皇 「シナが広いというのならば、太平洋はなお広いではないか。
    いかなる確信をもって、 三ヶ月で片づくと申すのか」
これには杉山も答なく、ただ頭を下げていた。
304日本@名無史さん:04/07/10 07:54
永野軍令部総長と杉山参謀総長とで、天皇をたばかった気がする。
305日本@名無史さん:04/07/10 08:55
開戦前夜の超大物「重臣会議、陸海軍幹部、参謀本部、海軍軍令部、枢密院、軍事参議院、現職閣僚」
肩書は東條内閣発足当時(16年10月18日)
*既出 {  }内は陸海軍予備役、後備役
<陸軍の大物>
陸相:東條 参謀総長:*杉山 教育総監:*山田 航空総監:*土肥原
軍事参議官:朝香宮、東久邇宮、寺内、*中村、*西尾、*山田、*篠塚
支那派遣軍:*畑、*後宮 北支那方面軍:*岡村 
関東軍:*梅津
朝鮮総督:{南次郎} 朝鮮軍:板垣
<海軍の大物>
海相:嶋田 軍令部総長:永野
軍事参議官:百武源吾、加藤隆義、及川古志郎、塩沢幸一、吉田善吾、日比野正治
聯合艦隊:山本五十六
台湾総督:長谷川清 鎮守府:豊田副武

親王:*秩父宮(陸)、高松宮(海)、*閑院宮(陸)、*伏見宮(海)
宮廷:*木戸、*原嘉道、*鈴木貫、松平、蓮沼(陸)、{百武三郎}
重臣:*近衛、*平沼、*若槻、広田、*岡田、{*阿部、林、米内}
閣僚:*東郷、*星野、*賀屋、*岸、{鈴木貞一}
大使:*重光、{*野村、大島}、吉田、白鳥、本多熊太郎
政界:久原房之助、中島知久平、町田忠治、中野正剛
在野:*宇垣、頭山、徳富、*安岡、*鮎川、{*小磯、*柳川、真崎、荒木、石原、小林躋造、末次}
-----------------------------------------------------------
小物故排除(秋永月三、迫水久常、児玉誉士夫、笹川良一、橋本欣五郎)
既に死亡又は隠棲(湯浅、牧野)
宇垣、岡田、鈴木は退役
306日本@名無史さん:04/07/10 09:16
>>305
寺内は、昭和16年11月  南方軍総司令官になってるけど?
南方軍総司令部ってサイゴン?
307日本@名無史さん:04/07/10 10:08
宮廷:
内大臣   木戸幸一 1940.06.01-1945.11.24
侍従長   百武三郎 1936.11.20-1944.08.29(元海軍大将)
宮内大臣  松平恒雄 1936.03.06-1945.06.04(松平容保の4男)
枢密院議長 原 嘉道 1940.06.24-1944.08.07
枢密院副- 鈴木 貫太郎 1940. 06.24-1944.08.10(元海軍大将)
侍従武官長 蓮 沼蕃 1939.08.31-????.??.??(陸軍中将)
308306:04/07/10 10:14
東條内閣発足当時か。
寺内 寿一、ハラキリ問答と、2.26事件後の粛清人事くらいしかわからないな。
309日本@名無史さん:04/07/10 12:30
あと、元帥陸軍大将伯爵寺内正毅の長男か。
310日本@名無史さん:04/07/10 14:19
>>307
侍従武官長 蓮沼 蕃 1939.08.31-1945.11.30(陸軍中将1940.12.2大将親任)

311日本@名無史さん:04/07/10 17:12
東條内閣発足(16年10月18日)から終戦までの省部主要職員の推移
陸軍省
次官:木村兵太郎→冨永恭次→柴山兼四郎→若松只一
 軍務局長:武藤章→佐藤兼了→真田穣一郎→吉積正雄
   軍事課長:真田穣一郎→西浦進→ニ神力→荒尾興功
   軍務課長:佐藤賢了→真田穣一郎→二宮義清→赤松貞雄→永井八津次→吉本重章
 人事局長:富永恭次→岡田重一→額田坦
 兵務局長:田中隆吉→那須義雄
海軍省
次官:沢本頼雄→岡敬純→井上成美→多田武雄
 軍務局長:岡敬純→多田武雄→保科善四郎
   第一課長:高田利種→山本善雄→長沢浩
   第二課長:石川信吾→矢牧章→末沢慶政
 兵備局長:保科善四郎→廃止
 人事局長:中原義正→中沢佑→三戸寿→大野竹二

大本営陸軍部
参謀次長:塚田攻→田辺盛武→秦彦三郎→(後宮/秦)→秦彦三郎→河辺虎四郎
 第一部長:田中新一→綾部橘樹→真田穣一郎→宮崎周一
   第二課長:服部卓四郎→真田穣一郎→服部卓四郎→天野正一
 第二部長:*岡本清福→有末精三
大本営海軍部
軍令部次長:近藤信竹→伊藤整一→(塚原/伊藤)→伊藤整一→小沢治三郎→大西瀧次郎
 第一部長:福留 繁→中沢佑→富岡定俊
   第一課長:富岡定俊→山本親雄→田口太郎→大前敏一

参考リンク
ttp://homepage2.nifty.com/nishidah/p_index.htm
ttp://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/5593/
ttp://homepage2.nifty.com/nishidah/p_index.htm
312日本@名無史さん:04/07/11 04:34
>>311>>305
開戦後よりも、第三次近衛内閣あたりが重要な気がする。
第二次近衛内閣発足(15年7月22日)から開戦までの省部主要職員の推移
陸軍省
次官:阿南惟幾→木村兵太郎
 軍務局長:武藤 章
   軍事課長:岩畔豪雄→真田穣一郎
   軍務課長:河村参郎→佐藤賢了
 人事局長:野田謙吾→富永恭次
 兵務局長:石本寅三→田中隆吉
海軍省
次官:住山徳太郎→豊田貞次郎→沢本頼雄
 軍務局長:阿部勝雄→岡 敬純
   第一課長:矢野英雄→高田利種
   第二課長:山口治平→鹿目善輔→石川信吾
 兵備局長:保科善四郎
 人事局長:伊藤整一→中原義正

大本営陸軍部
参謀次長:沢田 茂→塚田 攻→田辺盛武
 第一部長:冨永恭次→田中新一
   第二課長:岡田重一→土居明夫→服部卓四郎
 第二部長:土橋勇逸→若松只一→*岡本清福
大本営海軍部
軍令部次長:近藤信竹→伊藤整一
 第一部長:宇垣 纏→福留 繁
   第一課長:中沢 佑→富岡定俊
>>306
南方軍総司令部は、
昭和16年11月6日、陸軍大学校に置かれ極秘に編成。
昭和16年12月1日には、サイゴンにあった模様。
>>305
豊田副武は、開戦前は大物と言えないな。山本と古賀は、艦隊を握っているから大物かな。

太平洋戦争開戦時の海軍編成  大本営  海軍部  www.geocities.jp/bbyamato01/soshiki.html

横須賀鎮守府 中将 平田 昇
呉鎮守府 大将 豊田副武
舞鶴鎮守府 中将 小林宗之助
佐世保鎮守府 中将 谷本馬太郎

大湊警備府 中将 大熊政吉
大阪警備府 中将 小林 仁
鎮海警備府 中将 坂本伊久太
旅順警備府 中将 浮田秀彦
馬公警備府 中将 山本弘毅

連合艦隊 大将 山本五十六
 − 第一艦隊 中将 高須四郎
 − 第二艦隊 中将 近藤信竹
 − 第三艦隊 中将 高橋伊望
 − 第四艦隊 中将 井上成美
 − 第五艦隊 中将 細萱戊子郎
 − 第六艦隊 中将 清水光美
 − 南遣艦隊 中将 小沢治三郎
 − 第一航空艦隊 中将 南雲忠一
 − 第十一航空艦隊 中将 塚原二四三

支那方面艦隊 大将 古賀峯一
 − 海南警備府 中将 砂川兼雄
 − 第一遣支艦隊 中将 小松輝久
 − 第二遣支艦隊 中将 新見政一
 − 第三遣支艦隊 中将 杉山六蔵
316日本@名無史さん:04/07/13 18:26
>>300
部下を掌握してないで保身に走る大将ばかりだな。昭和軍人
東條>板垣>土肥原>岡村>梅津>寺内>山田>杉山>畑
って感じ。
317日本@名無史さん:04/07/14 23:07
ウケと信頼と実力のバランスだよね?

永田なんか完璧すぎて殺されるしかなかったんじゃないか?
堀も似たような感じだけど条約という左遷理由があったから生き延びた。
318日本@名無史さん:04/07/15 14:27
そうなのか?
319日本@名無史さん:04/07/15 14:34
無味乾燥なポストと姓名だけ書いてどうする気?
何か意見でも書くなら読む人間もいるが。意味のない文字の羅列じゃ〜
320日本@名無史さん:04/07/15 14:39
ホストのメモリーの無駄、やめなはれ!
321日本@名無史さん:04/07/16 00:56
>>319-320
そうなのか?組織背景と重要ポストは多分揃ったが、人物評がイマイチ足りない。
>>317
永田鉄山の何がそんな評価できるのか良くわからない。
東條英機と違わない路線で行きそうだけど。
あと堀栄三?
322日本@名無史さん:04/07/16 23:45
堀悌吉
323日本@名無史さん:04/07/17 01:16
それぞれの盧溝橋事変(1937.7-10月)時の姿勢?

陸軍省
陸相:杉山元(積極)
次官:梅津美治郎(?)
 軍務局長:後宮淳(?)
   軍事課長:田中新一(積極)
   軍務課長:柴山兼四郎(慎重)
大本営陸軍部
参謀総長:閑院宮戴仁(慎重)
参謀次長:多田駿(慎重)
 第一部長:石原莞爾(慎重)→下村定
   第二課長:河辺虎四郎(慎重)
   第三課長:武藤章(積極)
 第二部長:渡久雄(積極)→本間雅春(慎重)
 第三部長:塚田攻
 第四部長:下村定(慎重)
関東軍
司令:植田謙吉(積極)
参謀長:東條英機(積極)
参謀副長:今村均(積極)→笠原幸雄→石原莞爾(慎重)
朝鮮軍司令:小磯国昭(積極)
324日本@名無史さん:04/07/17 02:14
>>267
昭和帝が真崎嫌う言うけど、息子の取立てをみるにそこまで嫌っていた?
との疑問。
325日本@名無史さん:04/07/17 17:54
>>323
梅津は積極派で、石原とは林内閣の時に続いて、この時も激しくやり合ったという話があるな。
すると元宇垣派のほとんどが積極派だったようにも見える。
>>308
寺内(陸相)は中央勤務の経験が無いので、粛清人事は梅津(次官)が行った。
326日本@名無史さん:04/07/17 21:30
なぜ畑と永野があの時期に元帥?
対抗馬は居なかったのか?
327日本@名無史さん:04/07/17 23:55
畑も杉山も昭和20年には65歳で後備役入りしてしまう。
(大将の現役定限年齢は65)
元帥になれば、終生現役。
328日本@名無史さん:04/07/18 06:57
戦時中だから元帥を作った?
329日本@名無史さん:04/07/18 15:23
畑は終戦の報を聞くと直ちに返上を申し入れている。真意測り難し。
敗戦の責任というより、連合国の追及をおそれたのか?
330日本@名無史さん:04/07/18 16:05
無分別なる打算により日本帝国を滅亡の淵に陥れたる我儘なる軍国主義的助言者
により日本国が引き続き統御せらるべきか又は理性の経路を日本国が履むべきか
を日本国が決定すべき時期は到来せり。
吾等の条件は左の如し
吾等は無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるるに至るまでは平和、安全、おおび
正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるを以て、日本国国民を欺瞞し之を
して世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は永久に除去せら
れざるべからず。
331日本@名無史さん:04/07/19 20:35
斉藤隆夫議員はどの程度重要?

戦後は大臣を歴任したようですが?
332日本@名無史さん:04/07/19 22:26
>>331
開戦時は議員を除名されてた。政治的には重要じゃ無いと思われ。

人物探訪: 孤高の代議士・斎藤隆夫
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog282.html

終戦時には、最後の陸軍大臣・下村定陸軍大将を詰問してる。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/jinjiotu/jinji10.html
333日本@名無史さん:04/07/19 22:39
杉山元参謀総長はほんとアホだな。

十一月十日、陸軍俊英の本間、山下、今村、3司令に対して、
「期限内に目的地を占領せよ。」
と言って、正直な本間と不仲になっているのを今村が戦後話してる。

シナ事変は一ヶ月、大東亜戦争は3ヶ月。こいつはヤバイよ。
334日本@名無史さん:04/07/20 00:05
寺内はインパール作戦やるし。
宇垣の後継者達は、あまりにも無能すぎ。
335日本@名無史さん:04/07/20 12:03
寺内を宇垣の後継というのは無理がありすぎる。
宇垣が自分の後継者として期待して育ててたのは畑英太郎と津野一輔。
336日本@名無史さん:04/07/20 21:45
政局によっては斎藤も重要人物になっていた
337日本@名無史さん:04/07/20 22:48
>>324 真崎本人は嫌っていたけど、親の因果を子に報いちゃいかんでしょ、とバランスをとったと思われ。
338日本@名無史さん:04/07/21 00:06
>>313
田中隆吉
島根出身、26期。陸軍大学時、校長は宇垣であった。参謀本部付けでシナに行き、
主にスパイ活動に従事していたらしい。板垣の要請により、第一次上海事件を引
き起こした事を戦後告白し、世間を驚かした。その後、本土、関東軍と異動、
内蒙古工作を行い、綏遠事件を起こす。また張鼓峯事件にも参加、兵務局長に
栄転する。そこでは武藤軍務局長+富田警保局保安課長と田中兵務局長+橋本
清吉内務省警保局長の激しい対立があったらしい。その後、昭和17年頃から、
初老期憂鬱症状とあり、軍務を離れる。東京裁判において、軍内部をあけすけ
に暴露し、その判決に重きをなしたため、かなり評判が悪い。田中は尊敬する
人物として、宇垣、板垣、下村を挙げており、東條、武藤等を統制派と呼んで
最も嫌い、ついでに皇道派をも非難している。阿南、大川とも旧知の仲であった。
339日本@名無史さん:04/07/22 06:41
隆吉は復讐か?

田中といえば新一や静壱の方が・・・
340日本@名無史さん:04/07/22 11:40
隆吉が東京裁判で陸軍の悪行を暴いたのは、一連の軍事行動は
彼らが勝手に始めたことで、天皇はあずかり知らぬことという
印象を他の連合国に与え、天皇を訴追の対象から外すための
キーナンと田中の連携プレイ、というのが現在の定説。
341日本@名無史さん:04/07/22 21:18
憲兵司令官なんかどう?
342日本@名無史さん:04/07/22 23:24
>>339
著書があるって良い事だ。田中隆吉
343日本@名無史さん:04/07/23 08:17
池田純久中将が、裁判での田中の言動を難詰したとき、田中は「おれの真意が
わからぬのか。おれは天皇を裁判にかけないことに努力しているのだ」と答えている。
また、裁判中、東条が「日本臣民が、陛下のご意志に反することなどあり得ぬ、
いわんや高官においておや」と発言したことで、キーナンは驚き、直ちに田中を通じて
宮内省の松平康昌から獄中の木戸などへ伝えられ、東条への説得を行った。結果、東条
はこの証言を取り消した。この後、田中は松平に呼ばれ、天皇の「お言葉」と「御下賜品」
をもらっている。
344日本@名無史さん:04/07/23 08:33
天皇の名においてライバルを地獄に送る手段は陸軍の伝統かな!
345日本@名無史さん:04/07/23 08:42
天皇は、どちらの側からも利用できるのが便利(庶民は関係なく)。
古くから、権力者の「錦の御旗」として敵対者を葬り去るところに
利用価値があった。何も陸軍とは限らない。
346日本@名無史さん:04/07/23 11:01
隆吉がどれほど策動しようが、東條に総てをかぶる気持ちがなければどうしようもなかった。
347日本@名無史さん:04/07/23 15:43
田中隆吉は戦前、武藤章とは明らかに敵対していたが、
東條英機とは、敵対していなかったフシがあるな。
あと、中村明人と仲が良かったらしい。

憲兵司令官
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/5593/others/royal/kenpei1.html
 田中静壱19期昭和13・8・2
 平林盛人21期昭和14・8・2
 豊島房太郎22期昭和15・8・1
 田中静壱19期昭和15・9・28
 中村明人22期昭和16・10・15
 加藤泊治郎22期昭和18・1・4
 大木 繁22期昭和18・8・26
 大城戸三治25期昭和19・10・14
 飯村 穣21期昭和20・8・20
348日本@名無史さん:04/07/24 08:51
誰と誰が殴り合いをしたんだっけ?
349日本@名無史さん:04/07/24 08:59
田中新一と佐藤賢了
350日本@名無史さん:04/07/24 09:24
南雲忠一と山口多聞
351日本@名無史さん:04/07/24 14:45
>348
>>168
首相:東條英機
陸軍省
陸相:東條英機
次官:木村兵太郎 
 軍務局長:佐藤兼了
 人事局長:富永恭次 

大本営陸軍部
参謀総長:杉山元
 参謀次長:田辺盛武 
  第一部長:田中新一
352日本@名無史さん:04/07/24 16:07
東条て、中国相手の戦しか知らぬ骨とう品だろ。サイパン防衛について聞かれ
「サイパンの守りは鉄壁、参謀総長として断言する」と言ったが、いざ戦闘が
始まると大本営は1週間そこそこでサイパンの放棄を決定。米軍の鉄と機械力の
近代戦を体験したことないから大口叩き、第一線部隊をふがいなく感じるのだろ。
353日本@名無史さん:04/07/24 16:23
田中新一「オラー、東条、次官、軍務局長、人事局長の前で、このバカ野郎ども!
て怒鳴って部屋を出たんだども、翌日、南方の第一線に飛ばされてしもうた」
取り巻きはみな能吏タイプばっかだった。
354日本@名無史さん:04/07/24 16:36
>346
べつに、策動したわけでもなかろう。アタマ悪くて理解力のない東条に
発言の重大性とその理由をコンコンと言って聞かせただけ(人を介してだが)
355日本@名無史さん:04/07/24 17:16
>>353
いや田中は自分から、辞任を申し出ている。
>>168
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/jinjiotu/jinji08.html
やがて暴言を謝した田中部長は杉山参謀総長に辞任を申し出た。
そして翌日重謹慎15日を申し渡され、南方総軍司令部付へと
転任発令を受けたのである。後任には綾部橘樹少将(27)が任じられた。

この事件は、田中部長が職務熱心なあまり暴走してしまった、という性質の
ものではない。
=困難な局面に対処してこれから逃避せんとして打った芝居であるとは、私
一人の観察ではなかった。誰が何と言ってもあの時の田中中将の態度は、思
慮あり責任ある将帥、幕僚のとるべき態度ではなかったと確信する。それと
ともに杉山参謀総長、田辺次長の態度も甚だ不満であった。自らこの難局を
打開するの決意を欠いて事態の推移に引きずられていたことに大いなる不満
を観ぜざるを得ない。=<西浦進 当時の軍務局軍事課長>

開戦前から進攻作戦まで指導した猛将田中第1部長は、こうして自らの身を
退くきっかけを「東條首相罵倒」という事件演出に託して作為したのである。

田中新一はのちに、第18師団長として北ビルマで敢闘した。机上の熱血漢は、
前線において大本営高級幕僚の名を辱めないかを憂える人々も少なくなかった。
しかし事実はそれを杞憂に終わらせた。
ビルマ方面軍司令官河辺正三中将は「この人けだし国軍の逸材なり」と評し、
九州健児の菊兵団長として実質2個大隊になるまで長期持久戦をフーコン谷地に
展開したのである。
356日本@名無史さん:04/07/24 19:36
服部卓四郎はどんな人?
辻の出来損ない?
357日本@名無史さん:04/07/24 19:39
変わり身早い、、世渡り上手。これに尽きる。
対米強硬論者だったのが、敗戦と同時にコロッと変わってGHQの使用人。
358日本@名無史さん:04/07/24 20:09
若い頃の卓ちゃんは男前
359日本@名無史さん:04/07/27 07:29
天皇大権は統帥権だけじゃないけどね。
360日本@名無史さん:04/07/27 16:05
陸軍には調整役の長老がいないようだ
361日本@名無史さん:04/07/27 21:30
西浦進 堀場一雄 服部卓四郎
人呼んで34期三羽烏

西浦は八方美人の秀才官僚
堀場は支那との大乗的和平をうったえた熱血漢
服部は作戦課長として帝国を敗亡に追いやった元凶の一人
全く行き方の違う三人だが、その友情は終生変わらなかった。
362日本@名無史さん:04/07/28 08:23
少年期から陸軍という狭い職域での交際しかない彼らに
他の世界の人間と親密な付き合いをする選択肢はなく、
交友範囲は、同期、先輩、後輩といった限られた範囲になる。
363日本@名無史さん:04/07/28 08:44
海軍はゴンベイ、友三郎、斎藤実、鈴木貫三郎、岡田、野村吉三郎、米内と見識を持った長老が沢山いる
364日本@名無史さん:04/07/28 20:03
この前古本屋で海軍の長老、山梨勝之進の著書を見かけた。
学習院院長をやったんだっけ?
365日本@名無史さん:04/07/29 20:55
豊田 貞次郎 とよだ ていじろう和歌山海兵33期
海軍大将Toyoda, Teijiro海大17期優等
ttp://homepage2.nifty.com/nishidah/p_back00.htm(みそひとのぺえじ)
豊田は海兵33期生の首席であった。卒業して直ちに厳島に乗組んだが、すでに日露の
講和は成っており戦時体制も間もなくとかれた。実質的には戦後派である。マークは鉄
砲だが、海兵・海大をともにトップクラスで卒えたエリートゆえ、実際には鉄砲屋とし
ての配置はほとんどなく、幕僚勤務が非常に多い。また大尉時代には英国駐在、中佐時
代には駐英武官として英国勤務を命ぜられた。英国は明治以来日本海軍の師匠であった
から、英国はもっともエリートとして将来を嘱望された将校の派遣される国であった。
豊田はなおもエリート街道を驀進する。同期生でもっとも早く少将に昇進し、2年目少
将として海軍省軍務局長の要職に就いた。豊田がつまづいたのはそれから半年後のこと
だった。詳しくはわからないが、どうやら伏見宮の意にそわぬ発言をしたらしい。得意
の豊田がつい口を滑らせたものであろう。いずれにせよ、伏見宮の逆鱗に触れた豊田は
軍務局長の座を逐われ、広工廠長に左遷された。
366日本@名無史さん:04/07/29 20:56
豊田は以後、艦本総務部長、呉工廠長、そして佐鎮長官と必ずしも表街道ではない配置
を歴任してきた。エリート意識の強い豊田がこの配置に満足しているわけがなかった。
この頃、次官だった山本は豊田から手紙を受け取ったがそこには「私が親補職にあるか
らといって、次官にならないということはありません」とあったという。佐鎮長官は親
補職だが、次官は親補職ではない。豊田はこの手紙で次官への希望を匂わせたのである。
運動が功を奏したのか、豊田はまもなく航空本部長として赤煉瓦に戻ってきた。航空本
部長は海軍省外局の長、つぎの次官の有力候補である。山本退任後は航空本部長の座に
留まったが、吉田大臣が三国同盟問題で病気退任し、住山次官も併せて退任することに
なると、豊田はついに念願の次官に就任した。豊田は、及川大臣を補佐して、というよ
りもむしろ引き摺って当時懸案だった三国同盟に賛成することに海軍部内をとりまとめ
、ついに三国同盟を成立させた。この過程では豊田は強引な手法を用いており、部内で
は「豊田大臣、及川次官」とまで呼ばれた。また、海軍省の次官室内にそれまでは掲げ
られていなかった歴代次官の写真を掲げさせるなどのパフォーマンスを行なった。
豊田は昭和16年4月、内閣改造にともなって近衛内閣の商工大臣に就任した。海軍部
外の官に就くにつき、当然予備役に編入されることになったが、それに際して大将に昇
進している。部内では、「豊田は出世のために海軍を踏み台にしたんだ」と評された。
豊田はのちの内閣改造で外務大臣に横滑りしており、東條内閣成立により辞任。さらに
小磯内閣では軍需大臣に就任している。戦後はA級戦犯容疑として逮捕されたが不起訴
となった。同期に豊田副武大将があるが、赤の他人である。
367日本@名無史さん:04/07/29 21:42
>>313 
沢本 頼雄 さわもと よりお 山口 海兵36期(開戦時の海軍次官)
http://homepage2.nifty.com/nishidah/p_back00.htm(みそひとのぺえじ)
海軍大将Sawamoto, Yorio海大17期

沢本は海兵36期出身、典型的な鉄砲屋である。若い時期の軍歴には一見して戦艦勤務が大部分を
占めていることがわかる。少佐頃から赤煉瓦勤務が多くなる。転機となったのは武官補佐官として
の英国勤務であろう。中尉時代に金剛の回航委員として英国出張しているが、今回は実質的に最初
の海外勤務である。帰朝後、海上勤務を経て人事局に勤務する。以後、赤煉瓦ではもっぱら海軍省
勤務ばかりであり、間違いなく「軍政系」である。注目すべきは昭和7年に満洲事変を調査する国
連のいわゆるリットン調査団に対する海軍準備委員となっていることである。
艦長職を経て少将に昇進、このころはやや傍流を歩いており海大や艦本といったポストで勤務して
いた。艦本総務部長の時代に支那事変が勃発し、やがて第七戦隊司令官に補せられる。以後、練習
艦隊司令官、海大校長を経て北支を担当する第二遣支艦隊長官に親補される。
昭和16年4月、豊田次官の退任にともない海軍次官に任ぜられる。昭和4年から7年にかけて軍
務局第一課長を勤めているが以後本省での勤務はなく、局長職にも就いていない。その沢本が次官
に抜擢されたのは相当に異例の人事である。この経緯は分明でない。当時の及川大臣と特別に懇意
だったというわけでもないようだ。伏見宮元帥から高い評価を得ていたとの話もあるが、軍政畑の
沢本と伏見宮の間には接点がない。
368日本@名無史さん:04/07/29 21:43
いずれにせよ、沢本は開戦直前の重要な時期に海軍次官の要職に就いた。しかし沢本は経歴からし
て英国贔屓の穏健派である(軍政系には比較的穏健派が多い)。開戦の是非をめぐって政変があり、
東條内閣が成立したのは沢本の次官就任から半年後のことである。海軍大臣は嶋田繁太郎に替わっ
た。嶋田は済し崩し的に開戦に賛成しようとしていた。沢本はこれに強硬に反対した。このままで
は次官として補佐できないから辞任する、とまで言ったのである。ところが嶋田は「次官を勤め上
げた後にはGF長官を考慮している」と応じた。戦後、沢本は自身「これにやや感激の念を起こし」
と告白しているが、要するにGF長官という空手形で反対を引っ込めてしまったのである。
沢本は丸め込まれ、開戦は決定した。そして沢本は内心不賛成でありながら嶋田大臣とともに東條
内閣を支えつづけ、実に通算3年余も次官の地位に留まったのである。昭和19年3月、沢本は大
将に昇進したが、次官を勤め続けた。大将の次官というのは前代未聞の人事である。正式には軍事
参議官であり、海軍次官事務取扱となっていたが。これから4ヶ月後、嶋田大臣は退任を余儀なく
され、野村大将が新大臣となった。沢本はこれを機会に次官を去り、呉鎮長官に転じた。さらに翌
年5月には海軍総隊設置に関連して呉鎮長官の座を去り、無任所の軍事参議官となって終戦を迎え
る。
369日本@名無史さん:04/07/29 23:23
海軍がこけた理由が・・・

海軍省
海軍大臣:吉田善吾→及川古志郎→嶋田 繁太郎
次官:住山徳太郎→豊田貞次郎→沢本頼雄
 軍務局長:阿部勝雄→岡 敬純
   第一課長:矢野英雄→高田利種
   第二課長:山口治平→鹿目善輔→石川信吾
 兵備局長:保科善四郎
 人事局長:伊藤整一→中原義正

大本営海軍部
軍令部総長:伏見宮博恭王→永野修身
軍令部次長:近藤信竹→伊藤整一
 第一部長:宇垣 纏→福留 繁
   第一課長:中沢 佑→富岡定俊
370日本@名無史さん:04/07/30 00:43
海軍次官の三人目もあった。

住山 徳太郎 すみやま とくたろう東京海兵34期
http://homepage2.nifty.com/nishidah/p_back00.htm(みそひとのぺえじ)
海軍中将Sumiyama, Tokutaro海大17期

34期生の住山は人格者として知られていた。マークは分明ではないが、経歴からして
航海屋とみなされていたことがわかる。中尉時代には当時まだ実験兵器の域を出なかっ
た潜水艇乗組を経験している。しかしこれ以後潜水艦勤務はない。大尉から中佐にかけ
ての時期には、海兵や海兵団の教官といった教育畑のほかに一時期は東郷元帥の副官を
つとめたこともある。元帥副官や皇族附武官に補される者は容姿端麗、人格穏健な者が
選ばれることが多かった。
少佐の初年に海大甲種課程に入り、卒業後は艦隊参謀などを経て人事局勤務となった。
人事局勤務2年ののち、住山は東宮武官兼侍従武官に補せられる。当時は大正天皇の病
のためにのちの昭和天皇が摂政をつとめていたためにこういった発令になったが、わず
か1月もたたないうちに大正天皇が崩御したため東宮武官の兼職は解かれた。侍従武官
の在任期間は他の職に比べて長いことが特徴だが、住山もこの職に丸5年とどまって戦
艦艦長に転じた。
鎮守府参謀長を経て少将に昇進、巡洋艦戦隊司令官ののち、再び教育畑に戻って海軍省
教育局長となる。そして2年後、江田島の海兵校長と、教育畑の重要職務を歴任する。
もっぱら教育畑を歩いてきたことと、その温厚な人柄から「女子学習院長」というあだ
名があったという。
昭和14年、時の平沼内閣はドイツとの同盟の可否に揺れていたが、独ソ不可侵条約の
締結という新情勢にあい、「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」という有名な一
句を残して総辞職する。この総辞職にあたって、これまで海軍を代表してきた米内大臣
・山本次官のコンビはその席を譲ることとなった。新大臣吉田を補佐する次官に充てら
れたのが住山だった。
371日本@名無史さん:04/07/30 00:44
次官が硬骨な山本から温厚な住山にかわるとあって、これまでのように陸軍の横車に抗
しきれるかどうかを心配する世評に対して、山本は「海軍は誰がきてもその政策に動揺
はない」と言い切った。確かに吉田大臣と住山次官は日独同盟を主張する陸軍に対して
あたうかぎり抵抗した。しかしその抵抗はもっぱら防御に徹したものだった。
平沼内閣を襲った阿部内閣では、独ソ不可侵条約のあおりを受けて日独同盟を求める勢
力もそれほど強くなかった。阿部内閣が米内内閣にかわったころ、ドイツは対北欧・対
仏作戦を開始し、電撃戦でもってフランスをあっというまに占領してしまった。これに
幻惑された陸軍などの親独勢力では、ふたたび日独同盟を主張する勢いが増してきた。
しかし内閣の首班がかつて海軍大臣として日独同盟に徹底して反対してきた米内である
から、政府首脳と海軍の意見は一致しており、むしろこの内閣では陸軍の方が孤立して
いた。ところが、陸軍の倒閣運動によって米内内閣が倒れ、新体制運動に同情的な近衛
が内閣を組織すると、閣内で孤立したのはむしろ海軍だった。海軍大臣吉田は焦燥感を
強めた。住山も懸命の補佐をしたが、もとが温厚な性格だけに徹底して大臣を支えきる
ことができなかった。吉田はついに神経衰弱に陥って大臣を退任することとなり、住山
もあわせて次官の座を降りた。後任となったのは及川大臣・豊田貞次郎次官である。及
川・豊田は吉田が抵抗しつづけた日独同盟をあっさり呑んでしまった。
住山は佐鎮長官、軍事参議官を経て太平洋戦争開戦から間もない昭和17年3月に中将
で予備役編入となった。
372日本@名無史さん:04/07/30 22:19
軍務局長
(井上成美)→阿部勝雄→岡 敬純






阿部 勝雄 あべ かつお岩手海兵40期
http://homepage2.nifty.com/nishidah/p_back02.htm
海軍中将Abe, Katsuo海大22期優等

阿部は海兵40期生、岩手出身である。海兵を卒業したのは明治がまさに終わろうと
するときで、二週間後に大正と改元した。そのころ、阿部ら40期生は候補生として
豪州方面への遠航のさなかだった。大尉昇進と同時に砲術校高等科学生となり、鉄砲
マーク持ちとなった。駆逐艦の砲術長や砲術学校教官などを勤めたのちに海大甲種学
生課程に入った。優秀な成績で海大を卒業した阿部は、まもなく米国に派遣される。
米国駐在は2年あまりにわたった。当時の駐米武官は山本大佐だった。
373日本@名無史さん:04/07/30 22:19
帰国したのち、阿部は赤煉瓦では主に軍務局で勤務し、艦隊参謀と軍務局とを行った
り来たりしていた。中佐の古参からは海大に教官として御礼奉公している。昭和8年、
軍令部は権限強化を海軍省に要求した。軍令部は伏見宮軍令部長の威光を背景に強硬
に権限強化を迫ったが海軍省側は難色を示し、特に強く反対したのは主務者である軍
務局第一課長の井上大佐だった。伏見宮は「課長を替えろ」と言い、井上は「自分は
信念の上からどうしても同意できない。強いて同意しろというなら、自分に替えてこ
の案に判を捺す人物を課長に持ってくればよかろう」とあくまで反対した。そして、
井上に替わって「判を捺す人物」として持ってこられたのが阿部だった。
阿部は2年ほど課長を勤め、一時ロンドン会議の随員として派遣されたが、この軍縮
会議は決裂に終わった。帰国後は鉄砲屋でありながら主に空母艦長を勤めた。この間
に支那事変が勃発しており、おもに中支方面で作戦している。さらに軍令部の情報を
担当する第三部長に就任する。第三部長を勤めたまま昭和14年前半には第二次大戦
直前のヨーロッパに出張している。帰国して間もなく、阿部は軍務局長に就任した。
またもや井上の後任としてである。前任者と違って阿部は同盟推進論者だった。大臣
を相当厳しく突き上げたらしい。結果吉田大臣は神経衰弱で辞任し、後任の及川大臣
はついに同盟に同意した。
阿部は三国同盟が成立するのを見届けた上、これを手土産にしてドイツに派遣される。
米国通であったはずの阿部がなぜこうもドイツびいきになってしまったのか。いずれ
にせよ阿部は同盟国ドイツでの日本海軍の次席代表(首席は野村直邦)格として以後
終戦までヨーロッパにとどまり続ける。昭和20年5月、ドイツの敗戦を受けて中立
国スウェーデンに移駐しここで日本の敗戦を迎える。ドイツ第三帝国の崩壊を目の前
で目撃し、遠い異国で日本の敗戦を聞いた阿部の心境はいかばかりだったろうか。翌
年3月に帰国するが、それから2年ほどで死去。57歳。
374日本@名無史さん:04/07/30 22:22
岡 敬純 おか たかずみ山口海兵39期
海軍中将Oka, Takazumi海大21期優等
http://homepage2.nifty.com/nishidah/p_back00.htm
海兵39期生の岡は水雷屋だが、実際には「ドン亀」と言っていいだろう。中尉時代に
第一潜水艇隊附に補せられて以来、海上勤務はすべて潜水艦に関係している。大佐時代
に艦長を勤めているのも、潜水母艦の迅鯨である。潜水艦勤務以外は海外にあることが
多く、日本海軍では珍しいフランス通で、のちには当時ジュネーヴにあった国際連盟本
部に派遣されている。
ジュネーヴに派遣されるまでは4年ほど軍令部参謀をつとめたが、帰朝した岡は海軍省
臨時調査課長として本格的な赤煉瓦勤務をはじめる。海大を優等で卒業したエリートに
しては出世街道にのるのが遅かった。潜水艦屋でありフランス通というのは、日本海軍
では間違いなく傍流で、その点が響いたのかも知れない。臨時調査課の任務は明確には
規定されていないが、大臣直属で海軍省の各部局の職掌分担を検討することが主な任務
と考えられる。格のわりには重要な職である。
その後、岡は迅鯨艦長を経て軍務局第一課長、軍令部第三部長(情報部長)を歴任し、
昭和15年、日独伊三国同盟締結直後に軍務局長に就任した。岡は及川、嶋田両大臣の
下で3年半以上もこの要職にあった。単に期間が長かったというだけではない。三国同
盟直後から、日米開戦、南東方面での激闘を経て米軍の本格的反攻をうけてマリアナ失
陥までの重要な時期を海軍の政策責任者として過ごしたのである。
嶋田大臣が辞任し、野村新大臣が就任すると岡は軍務局長事務取扱のまま海軍次官に昇
任した。しかしそれも束の間、東條内閣は総辞職し野村大臣もわずか5日で辞職、米内
が現役に復帰して大臣に就任することになった。米内は就任直後、人事局長に「岡次官
をそのままお使いになりますか」と問われて「一夜で放逐する」と言い切った。嶋田大
臣のやり方を支えてきた岡に米内が好意を持たなかったのは当然だが、しかし米内にと
っては岡自身がどうこうというよりは、次官として意中の人があったからだろう。実際
には、米内の意中の人である井上の異動の都合で岡の退任は2週後になった。
岡は次官退任後に朝鮮の鎮海警備府長官に左遷され、さらに翌年6月に予備役となった。
375日本@名無史さん:04/07/31 20:17
軍令部次長:近藤信竹→伊藤整一






近藤 信竹   こんどう のぶたけ   大阪海兵35期
海軍大将   Kondo, Nobutake   海大17期
http://homepage2.nifty.com/nishidah/p_back00.htm
典型的な軍令畑の鉄砲屋である。大正なかばに海大を卒業したあとの最初の海外勤務と
して、ドイツに派遣されている。英国贔屓の多かった日本海軍では珍しいドイツ通で、
しかも第一次大戦直後の破滅的な経済状態のドイツを実際に経験していることになる。
変わったところでは、大正の末に中佐で東宮武官兼侍従武官を2年ほど経験している。
当時の皇太子はのちの昭和天皇で、すでに摂政に就任しているから侍従武官兼任とはい
え専ら仕える対象は昭和天皇であった。近藤がGF首席参謀として海上に出たときには、
未だ知るべくもなかったが大正時代はすでにあと1月も残っていなかった。
 当時のGF長官は加藤寛治、参謀長は高橋三吉でいずれも名だたる艦隊派、近藤自身
もそれに影響されたのか、それとも元々共感するところがあったのか後年艦隊派に近い
とみられるようになっていた。しかし、この昭和2年度の演習では美保関事件という大
事件を惹き起こしてしまい、それが祟ったのか加藤長官や高橋参謀長が留任する中で海
大教官へ転出した。もっとも、これが左遷であるとは言えないが。大佐に昇進した近藤
はやがて最精鋭巡洋艦である加古の艦長をへて軍令部課長、そして戦艦金剛の艦長を経
て少将に昇進、海大教頭に就任する。
 海大教頭2年ののち、GF参謀長に補職。当時の長官はかつての参謀長高橋三吉とい
うめぐり合わせとなったが、これまたわずか半年余りで軍令部第一部長に就任して去る
ことになる。第一部長の時期は3年におよぶ。この間に日中戦争が始まり、大本営が設
置されて当然のこととして近藤は大本営参謀を兼ねることとなる。この間海軍ではまず
第二次上海事変による市街戦、そして中攻部隊による渡洋爆撃といった作戦を実施して
いるが、大本営海軍部作戦部長たる近藤の指導によるものである。
376日本@名無史さん:04/07/31 20:20
 日中戦争が一段落し、進攻作戦が中断したころに、近藤は中央の軍令部から、南支を
担当する第五艦隊の長官へと転出した。しかしすでに広東攻略作戦も終了しており、た
だひとつ行なわれた積極作戦が昭和14年初頭に行なわれた海南島占領作戦である。こ
れは対支作戦というよりも、仏印や蘭印をにらんだ南方作戦への足がかりとして海軍が
発案したものであったらしい。外地暮らしはまたもや1年足らずで終り、再び軍令部へ
今度は次長として戻ることになる。日中戦争はすでに慢性化しており特に海軍について
言えば進攻作戦はまったく行なわれず、ただ蒋介石のこもる重慶を爆撃するのみであっ
た。むしろこの時期は第二次大戦の勃発にともなって日米間の緊張が高まっており、き
たるべき日米戦争のための準備に没頭していた。

 もはや開戦も時間の問題となった昭和16年の秋に、近藤は再び実戦部隊たる第2艦
隊の長官として海上に出た。山本五十六についでGF内では次席指揮官である。近藤は、
開戦にあたっては南方部隊指揮官としてサイゴンにあり、第3艦隊および南遣艦隊をあ
わせ指揮してマレーおよび比島、蘭印の攻略に任じた。少ない兵力ではあったが、事前
の準備が幸いして攻略は予期した以上に順調に進んだ。ついでミッドウェー作戦には攻
略部隊の指揮官として輸送船を護衛して進撃したが、周知のとおり機動部隊が壊滅した
ので避退した。近藤はミッドウェー作戦には批判的だったと伝えられる。そしてガ島戦
が始まる。ガ島戦の生起によりGF主力は直ちにトラックに進出、2Fおよび3Fは陸
軍のガ島奪回支援のために出撃した。ミッドウェーの戦訓により、2Fは機動部隊であ
る3Fを援護し、かつ好機には夜戦にもちこむため、3Fよりも敵側に位置して前進部
隊となるべく戦策で定められていたが、第二次ソロモン海戦や南太平洋海戦では結果と
して意図したようには動けなかった。これは、機動部隊指揮官である3F長官の南雲よ
りも近藤の方が先任で、南雲から近藤に指示が出しにくかったことによるのではなかろ
うか。第三次ソロモン海戦では、近藤はみずからガ島沖に飛び込んだが、米戦艦と対戦
して待避せざるを得なくなった。
377日本@名無史さん:04/07/31 20:30
 翌昭和18年4月、近藤は2F長官在職のまま大将に昇進した。昭和に入ってからは
かつて無かったことである。この大将昇進の直前、一大事件が発生した。山本GF長官
の遭難戦死である。山本を除けば、GFでもっとも先任の指揮官は近藤であった。そこ
で、山本の遭難が伝えられると近藤は直ちにGFの指揮をとることを電令した。後任の
古賀が発令されるまで、わずかな期間だが近藤は実質的にGF長官であった。
 間も無く、近藤は2F長官を譲って内地に帰還、軍事参議官となるが年末には支那方
面艦隊長官として大陸にわたる。そのころのCSFは勢力縮小の一途をたどり、もっぱ
ら支那沿岸の船団護衛が任務となっていたが、それでもGFと並ぶ格をいまだ保持して
おり、ときにはCSF長官のほうがGF長官よりも先任であったこともあった。近藤が
そのCSF長官を退任することになったのは、昭和20年4月から5月にかけての海軍
総隊司令部設置と、GF長官の更迭が影響している。これまでGFと並んで大本営直率
だったCSFの上に海軍総隊司令部が設置されてGF・CSFや内地部隊を統一指揮す
ることになり、長官はGF豊田長官が兼務することとなった。これだけなら近藤が退任
する理由はないのだが、GF長官兼海軍総隊長官に近藤よりも後任の小沢が就任するこ
とになって問題が生じた。この更迭は海軍総隊司令部設置の際にすでに折り込み済みだ
ったようだが、このままでは先任の近藤が後任の小沢の指揮をうけることになり、具合
が悪い。そこでCSF長官を譲って軍事参議官として内地に帰還することになった。大
戦末期のこの期におよんでまだ軍令承行令に規制されていたことがよくわかる。






伊藤 整一   いとう せいいち  福岡海兵39期
海軍大将   Ito, Seiichi   海大21期優等
http://homepage2.nifty.com/nishidah/p_back01.htm
378日本@名無史さん:04/07/31 20:33
伊藤は海兵を第39期生として卒業している。同期生中からは、伊藤を含めて4名もの
大将が出ているがいずれも戦死による昇進となっている。伊藤は水雷屋としてその軍歴
を重ねて来た。水雷校高等科学生を卒える頃からは駆逐艦の水雷長や巡洋艦の分隊長な
どを経験している。大尉の末年に海大甲種学生となり、成績優等でその課程を修了した。
海大を出た伊藤はしばらく戦隊参謀や海軍省人事局で勤務していたが、やがて米国に派
遣される。
ちょうど2年の米国駐在を終え、帰朝した伊藤は海兵で教官勤務につく。伊藤は教育・
人事関係の配置が比較的多いように思われる。大佐に昇進した頃、上海事変直後の中国、
そして成立直後の満州国に派遣される。満洲勤務は1年余続き、帰朝したのちは短期間
の巡洋艦艦長を経て人事局課長に就任する。昭和10年の定期異動で艦隊に出た伊藤は、
少将に昇進するまでのあいだ、一貫して海上にあった。少将昇進から1年、当時第二艦
隊参謀長だった伊藤はまた人事局に、今度は局長として戻ってくる。
人事局長を2年勤め上げたのち、巡洋艦戦隊司令官を経て聯合艦隊参謀長の要職に就任
する。これまで軍令部勤務のほとんどない伊藤が聯合艦隊参謀長に就くのは珍しい。聯
合艦隊参謀長には作戦に詳しい人間が就くのが通例だからである。逆にいうと、伊藤は
軍政系でありながら作戦に明るいと見なされていたのかもしれない。山本聯合艦隊長官
に半年ほど仕えたのち、伊藤は中央で作戦を主導する軍令部次長に就任する。中将五分
前とはいえ、少将で軍令部次長に就任したのは昭和になってからは始めてである。当時
の軍令部総長は永野大将であった。
伊藤が軍令部次長となったのは太平洋戦争開戦直前、そして昭和19年の11月までこ
の職にとどまっている。すなわち、太平洋戦争のほとんどの時期、大本営にあって海軍
作戦を指導してきたと言って過言ではない。もっとも、日本海軍の場合には聯合艦隊司
令部という別個の組織があって作戦指導のかなりの部分を分担していたから、そのすべ
ての責任を伊藤に押し付けるのは酷であろう。
伊藤はその経歴の示す通り米国通の穏健派として知られており、対米作戦の統帥部主務
者という役回りが必ずしも適任であったかどうかはわからない。しかし、伊藤が誠実に
379日本@名無史さん:04/07/31 20:34
かつ真剣に職務に取り組んでいたことは間違いない。だが、その穏健さが場合によって
は保守的に働いたケースもあったようだ。マリアナ沖海戦後、海軍省では損傷した戦艦
の修理を行なわないという方針を出した。ところが、軍令部ではこれに反対し、低い優
先度ではあったが修理を行なわせた。このために海軍省の井上次官は伊藤次長に対し、
「軍令部ではまだ戦艦中心主義が抜けないのか」とあたかも叱責のように抗議したとい
う一幕もあった。

井上は、「あれば使いたくなるのは人情」と表現し、比島海戦で戦艦を含む大部隊が動
員され、結果として多数の被害を出したその遠因はここにあるとの見解を示しているが、
伊藤はこの比島海戦ののち、敗戦の責任をとるかたちで3年余り勤めてきた軍令部次長
を退任した。

軍令部次長を退任した伊藤は、第二艦隊長官に親補された。平時であれば間違いなく栄
転であるが、戦争末期のこの時期、唯一の水上部隊である第二艦隊の指揮官という役ど
ころはけして人の羨むようなものではなかった。伊藤は戦艦大和に将旗を掲げたが、比
島海戦で損傷した大和も、軍令部の方針によって修理が行なわれるとともに対空装備の
さらなる強化が施されていた。「あれば使いたくなるのは人情」である。昭和20年4
月、米軍が沖縄に上陸して来たのにともない、水上特攻部隊が急遽編制された。主力は
第二艦隊、そして指揮官は伊藤である。

ややのちには昭和天皇も疑問を表明された作戦である。作戦的な合理性ははじめから疑
問だった。作戦説明に司令部を訪れた聯合艦隊参謀に、第二艦隊司令部はその疑問をぶ
つけた。回答に窮した聯合艦隊参謀は情に訴えた。「一億特攻の先駆けとなっていただ
きたい」この精神論によって議論は終結してしまった。伊藤はこの結論を受け入れた。
徳山沖を出撃した特攻部隊は豊後水道で早くも発見され、翌日には米機動部隊の集中攻
撃を受けた。半日の死闘の末、特攻部隊は壊滅し大和も沈没、伊藤は旗艦とともに東支
那海に果てた。
380日本@名無史さん:04/07/31 21:10
海軍省
海軍大臣:吉田善吾(慎)→及川古志郎(慎)→嶋田 繁太郎(積)
次官(>>365-371):住山徳太郎(慎)→豊田貞次郎(積)→沢本頼雄(慎)
 軍務局長(>>372-374):阿部勝雄(積)→岡 敬純(積)
   第一課長:矢野英雄→高田利種
   第二課長:山口治平→鹿目善輔→石川信吾
 兵備局長:保科善四郎
 人事局長:伊藤整一→中原義正

大本営海軍部
軍令部総長:伏見宮博恭王→永野修身(積)
軍令部次長(>>375-379):近藤信竹(積)→伊藤整一(慎)
 第一部長:宇垣 纏→福留 繁
   第一課長:中沢 佑→富岡定俊
381日本@名無史さん:04/08/02 20:58
元老不在だから混迷する
382日本@名無史さん:04/08/03 02:40
>>381
木戸が事実上の元老にあたると思われ。
383日本@名無史さん:04/08/03 05:52
木戸は元老ではないな
384日本@名無史さん:04/08/04 14:00
しかし一人元老制になってからの内府の比重は高い
385日本@名無史さん:04/08/04 19:42
最後の元老、西園寺が死んだのは昭和15年11月24日(90歳)
386日本@名無史さん:04/08/04 21:43
なが
387日本@名無史さん:04/08/04 23:54
>>380
 第一部長:宇垣 纏
   第一課長:中沢 佑
このコンビは三国同盟に最後まで反対した。by半藤一利

宇垣纏 開戦決定の際の記述
「万事オーケー、皆死ね、みな死ね、国の為俺も死ぬ」(戦藻録)

降伏後の特攻は、この時、決定事項だったのだろうか。
ミッドウェー敗戦における冷静さもひかる。
宇垣一成の甥が宇垣完爾、その縁戚が宇垣纏。
艦隊派、親ドイツ派だったため誤解が多い。また評判も芳しくない。
黄金仮面と呼ばれる英才だったが、無理な戦争にイマイチついていけなかったようだ。
388日本@名無史さん:04/08/05 10:20
宇垣は司令部で浮いた存在だった
389日本@名無史さん:04/08/05 23:04
保科の人事は名人芸だったとか
390日本@名無史さん:04/08/06 06:40
ああ、こりや典型的な二枚舌の手相だな
391日本@名無史さん:04/08/06 07:32
誰の手相?
392日本@名無史さん:04/08/06 12:01
保科善四郎・軍務局長の手相を観た井上次官の評
393日本@名無史さん:04/08/06 18:04
保科、中沢、福留、富岡があるけど。
バックナンバー http://homepage2.nifty.com/nishidah/a_back.htm

保科 善四郎 ほしな ぜんしろう宮城海兵41期
海軍中将Hoshina, Zenshiro海大23期優等
http://homepage2.nifty.com/nishidah/p_back00.htm
海兵41期出身の保科は、海兵を卒えた時の席次は28番で草鹿などより低く、
飛び抜けて優秀というわけではなかったが、海大を優等で卒業してエリート配置
に乗ったと言えよう。マークは砲術である。とは言え、佐官時代までは思ったよ
りも赤煉瓦勤務は多くなく、少佐時代に人事局員を3年ほど、さらに大佐時代に
軍務局第一課長を2年強勤めているだけである。しかし、最大の仮想敵国である
アメリカに武官補佐官として派遣されていたことは、保科に対する期待を物語っ
て余りある。
保科が軍務局第一課長の職にある間に、支那事変が始まった。保科は海軍の政策
立案責任者として事変拡大阻止に動いたが、結局は事変の全面化は避けられなか
った。保科は第一課長を罷めて南京陥落直後の支那方面艦隊に参謀副長として着
任した。しかし中国勤務もわずかで、艦長を3隻勤めて少将に昇進した。
少将に昇進した保科は新設の兵備局長に就任する。兵備局は、それまで軍務局で
管掌していた「出師準備ニ関スル事項」「国家総動員一般ニ関スル事項」などを
掌った。保科はこの兵備局の最初の局長であり、そして最後の局長でもあった。
昭和20年に兵備局が廃止されるまで、その職にあって戦争中の軍需、運輸、通
信などを管掌した。兵備局が廃止されると、その職掌のほとんどは軍務局と軍需
局に移された。そのために軍務局と軍需局の機構は大幅に拡充され、軍需局はや
や遅れて部長制をとることになり、軍務局には新たに次長が置かれた。保科はそ
の軍務局次長に就任することになる。
戦争も末期に入った昭和20年5月、保科は海軍最後の軍務局長に就任する。軍
務局長はいわば海軍省の筆頭局長で、大臣、次官につぐナンバー・スリーである。
結局保科は戦争中はずっと海軍省にあって兵備局長、軍務局次長、軍務局長とつ
ねに政策立案の中枢にあって戦争を指導してきた。戦後保科は郷里宮城県から衆
議院に出馬、議員を4期勤めた。平成3年、百才の長寿を全うして病死。
394日本@名無史さん:04/08/06 19:44
平成まで生きてたんか
395日本@名無史さん:04/08/08 00:32
カツオ君に関しては、阿部勝雄日記と言うのがあり、
日記を読む限りでは枢軸派で動いたことはなく、枢軸派で動くと言うよりも、日頃のル
ーティンワークの中で、いかにドイツを利用すれば日本軍にとってうまく行くかと言う
話しか考えていないわけで、たとえば大島浩などのようにヒトラーの虜になって動いた
タイプとは全然違うらしい。
396日本@名無史さん:04/08/09 10:38
兄弟だっけ?
397日本@名無史さん:04/08/09 13:43
軍人は頑健で節制してるから長命が多い
398日本@名無史さん:04/08/10 07:04
そんなことないだろ
399日本@名無史さん:04/08/10 07:19
>398
戦死が多いですしね。
400日本@名無史さん:04/08/10 07:19
400get
401カウント:04/08/10 11:31
*既出
開戦前夜の超大物「重臣会議、陸海軍幹部、参謀本部、海軍軍令部、枢密院、軍事参議院、現職閣僚」
肩書は東條内閣発足当時(16年10月18日)
 {  }内は陸海軍予備役、後備役

<陸軍の大物>
陸相:東條 参謀総長:*杉山 教育総監:*山田 航空総監:*土肥原
軍事参議官:寺内(南方軍)、朝香宮、東久邇宮、*中村、*西尾、*山田、*篠塚
軍総司令:*畑(*後宮)(支那派遣軍)、*岡村(北支那方面軍)、*梅津(関東軍)、板垣(朝鮮軍)
朝鮮総督:{南次郎} 

<海軍の大物>
海相:嶋田 軍令部総長:永野
軍事参議官:百武源吾、加藤隆義、及川古志郎、塩沢幸一、吉田善吾、日比野正治
聯合艦隊:山本五十六 支那方面艦隊:古賀峯一
台湾総督:長谷川清

親王:*秩父宮(陸)、高松宮(海)、*閑院宮(陸)、*伏見宮(海)
宮廷:*木戸、*原嘉道、*鈴木貫、松平、蓮沼(陸)、{百武三郎}
重臣:*近衛、*平沼、*若槻、広田、*岡田、{*阿部、林、米内}
閣僚:*東郷、*星野、*賀屋、*岸、{鈴木貞一}
大使:*重光、{*野村、大島}、吉田、白鳥、本多熊太郎
政界:久原房之助、中島知久平、町田忠治、中野正剛
在野:*宇垣、頭山、徳富、*安岡、*鮎川、{*小磯、*柳川、真崎、荒木、石原、小林躋造、末次}
-----------------------------------------------------------
小物故排除(秋永月三、迫水久常、児玉誉士夫、笹川良一、橋本欣五郎)
既に死亡又は隠棲(湯浅、牧野)
宇垣、岡田、鈴木は退役
402日本@名無史さん:04/08/10 11:36
*既出
第二次近衛内閣発足(15年7月22日)から開戦までの省部主要職員の推移

陸軍省
次官:阿南惟幾→木村兵太郎
 軍務局長:武藤 章
   軍事課長:岩畔豪雄→真田穣一郎
   軍務課長:河村参郎→佐藤賢了
 人事局長:野田謙吾→富永恭次
 兵務局長:石本寅三→*田中隆吉

大本営陸軍部
参謀次長:沢田 茂→塚田 攻→田辺盛武
 第一部長:冨永恭次→田中新一
   第二課長:岡田重一→土居明夫→服部卓四郎
 第二部長:土橋勇逸→若松只一→*岡本清福

海軍省
次官:*住山徳太郎→*豊田貞次郎→*沢本頼雄
 軍務局長:*阿部勝雄→*岡 敬純
   第一課長:矢野英雄→高田利種
   第二課長:山口治平→鹿目善輔→石川信吾
 兵備局長:*保科善四郎
 人事局長:*伊藤整一→中原義正

大本営海軍部
軍令部次長:*近藤信竹→*伊藤整一
 第一部長:*宇垣 纏→福留 繁
   第一課長:中沢 佑→富岡定俊
403日本@名無史さん:04/08/10 11:40
宮廷:
内大臣  *木戸幸一 1940.06.01-1945.11.24
侍従長    百武三郎 1936.11.20-1944.08.29(元海軍大将)
宮内大臣   松平恒雄 1936.03.06-1945.06.04(松平容保の4男)
枢密院議長 *原 嘉道 1940.06.24-1944.08.07
枢密院副-  鈴木 貫太郎 1940. 06.24-1944.08.10(元海軍大将)
侍従武官長  蓮沼 蕃 1939.08.31-1945.11.30(陸軍中将1940.12.2大将親任)
404日本@名無史さん:04/08/10 11:57
>>401
豊田副武が消えたな。大将で、嶋田の時の本来の海相候補だったけど。
呉鎮守府長官のほうが、外地の支那方面艦隊よりマシなのかな?
405日本@名無史さん:04/08/10 14:58
豊田副武は大の陸軍嫌い、海相候補に上ったが東条に忌避された。
海軍良識派の大物といわれ、三国同盟や南部仏印進駐には徹底して反対した。
だが、終戦時には梅津参謀総長とともに参内、徹底抗戦を上奏したのは解せぬ。
406日本@名無史さん:04/08/10 17:02
そもそも海軍良識派なんていう概念自体がフィクション
407日本@名無史さん:04/08/10 21:09
陸軍嫌いは貞次郎だろ
408日本@名無史さん:04/08/10 21:22
いや、副武も大の陸軍嫌い
陸軍軍人と結婚したら縁を切ると親戚筋にいってたとか
409日本@名無史さん:04/08/10 23:14
豊田貞次郎って、微妙だ。

豊田貞次郎、外相就任
http://www.c20.jp/text/yk_marik.html
七月十八日、内閣の決定さえ裏切って独走しがちな松岡の追い出しをねらった近衛内閣
の改造が行なわれた。 松岡の後任として外相に任命されたのは、海軍大将豊田貞次郎
だった。
豊田は野村と同じ和歌山県の出身で後輩だった。 人柄は誠実で、日米衝突はできるだけ
避けるべきだという考えを持っていた。 海軍大将だから、ある程度陸軍を牽制すること
もできよう。 豊田―野村のラインなら、日米交渉を続行させるために、最善のコンビに
なる。 こうした諸条件を考えて、近衛は豊田を外相に登用したのだった。
柳田邦男 「マリコ」  P.85

日本海軍 失敗の研究 著者:鳥巣建之助 文春文庫
http://homepage3.nifty.com/~fwix7026/books/ww2/sipaiken.htm
近衛首相は豊田次官にたずねた。 「海軍は伝統的に三国同盟に反対であったが、
どうしてあっさり賛成したのか」 豊田は次のように答えた。 「海軍としては、
じつは腹のなかでは三国条約に反対である。 しかしながら、海軍がこれ以上反対
することは、もはや国内事情がゆるさない。 ゆえに、やむをえず賛成する・・・」

この重大難局に際し、武人というよりも学者というべき 及川古志郎が大臣となり、
能吏ではあるが武人とはほど遠い豊田貞次郎が次官に就任したことは 海軍のためだけ
でなく国家のためにも不幸だった、、、
410日本@名無史さん:04/08/12 12:45
そんなこと言ったって、及川を大臣にするよう策動したのは海軍第一委員会の
対米強硬派・石川信吾大佐。ところで鳥巣て、海軍軍人じゃなかったっけ?
411日本@名無史さん:04/08/12 13:07
>>408
陸軍を「馬糞」とか公言して憚らないほどの陸軍嫌い。
及川の次の海軍大臣に擬されていたが、「陸海協調」に支障があるとその座を嶋田に奪わ
れた。
412日本@名無史さん:04/08/12 19:28
>>410
詳しいね。鳥巣は海軍中佐、水雷参謀だそうです。
他に対米強硬派は誰が居たの?
413日本@名無史さん:04/08/15 09:37
ある種の一口コメントだな。

昭和史の軍人たち 文春文庫
秦 郁彦 (著)
山本五十六―昭和海軍の大スター
阿南惟幾―順逆の接点に立って
永野修身―戦略なき主戦派
東条英機―戦時下のカミソリ宰相
神重徳―最後の大艦巨砲主義者
片倉衷―満州国の王様
井上成美―海軍左派の合理主義者
田中隆吉―陸軍随一の怪物
黒島亀人―山本元帥に愛された恋人参謀
長勇―昭和維新の侠客
源田実―不死身の鳥人
宮崎繁三郎―不敗の名将
嶋田繁太郎―東条の副官と呼ばれて
辻政信―乱を求めたスーパーマン
山口多聞―ミッドウエーに死す
建川美次―「敵中横断3百里」の行末
石川信吾―日米開戦の推進役
秋草俊―陸軍中野学校の生みの親
大西滝治郎―特攻の思想
石原莞爾―堕ちた偶像
藤井斉―海軍革新派の先駆
影佐禎昭―汪政権の生みの親
平賀譲―大艦巨砲の設計者
真崎甚三郎―昭和陸軍の妖怪
末次信正―艦隊派の雄
宇垣一成―非運の惑星
414日本@名無史さん:04/08/15 18:25
五十六閥ってスゲエよな?
415日本@名無史さん:04/08/15 18:52
東条は組閣の大命が下り、及川から海相は豊田と聞かされると、即座に
「豊田は困る。陸軍の空気が悪く、彼には協調精神がない。強いて固執
されるなら、自分も大命を拝辞するほかない」と述べた。呉から上京し
及川からの要請を了承していた豊田は空しく呉へ空戻り。
普通、後任の海相を選ぶときは前任の海相が選び伏見宮の承認を得るのが
慣例だが、及川は沢本次官、岡軍務局長、中原人事局長、伊藤次長、福留
第一部長に相談(11/16)。戦争を避けたい5人は豊田を推すことにしたのだが。
416日本@名無史さん:04/08/15 19:18
開戦は既定のことと決めていた東条(陸軍)は非戦派の豊田では困るわけ。
白紙還元の御諚も受けたのは内閣だけ。形だけの戦争回避の動きはしたが、
天皇から何の示唆も受けていない統帥部はやる気満々。筋書き通り開戦へ
417日本@名無史さん:04/08/16 03:09
>>402
高田利種は、 著者 阿川弘之に向かって、
「山本五十六さんが一番嫌っていた事をお前がやった。」
って文句言った人。
418日本@名無史さん:04/08/16 15:57
山本五十六閥なんてあるの?
419日本@名無史さん:04/08/16 17:47
旧海軍軍人にも柔軟なのと堅苦しいのと2種類いて、阿川に好感もつヤシと
たかが予備士官の分際でえらそうに海軍士官ズラして、わしらのこと勝手に
書きまくると反感持つのといた。
420五十六閥:04/08/16 17:58
米内、堀悌吉、五十六、井上成美、大西瀧治郎、山口多聞、草鹿龍之介、源田実、淵田美津雄
こんぐらい?
421日本@名無史さん:04/08/16 18:25
豊田副武は砲術畑だったが、山本とは違う理由(費用対効果)の面から
大和の建造に反対していた。また、掘悌吉とは中学(杵筑)海兵とも1期
下の後輩。中学の1期後輩には外務省の重光葵がおり、合理的精神も持つ
バランス感覚のある人物。海兵入校も掘の影響を受けたとか。堀と山本は
同期で仲は良かったらしいが、同じ考えだったかは?山本が条約派だった
という根拠はないのでないかな?
422日本@名無史さん:04/08/16 19:24
>>420
海軍省は、外で陸軍、内で艦隊派、更には軍令部と戦ってたわけで、
そいつら以外は、派閥なんてつくってる余裕無かったのでは。
ついでに総理は海軍出身じゃ無い限り、海軍人事についてド素人なので、
海軍大臣の推薦は、次官やら局長達が推薦していたフシがある。
他に影響力があるのは>>282の大将の面々くらいか。
423日本@名無史さん:04/08/16 19:40
前任の海相を忘れていた。>>415

ついで
豊田海相から嶋田海相へ
ttp://homepage2.nifty.com/nishidah/p_back00.htm
そうして豊田の代わりに白羽の矢が立ったのは横鎮の嶋田である。
嶋田が海相に就任したのには、伏見宮の意向があったと言われる。嶋田は軍令部
勤務が長く、部長の伏見宮の部下を永く務めたからであった。伏見宮はその当時
の嶋田の勤務ぶりが気に入り、高い評価を与えていた。嶋田はこれまで軍政畑に
何らのかかわりもなく、はじめは当惑したようだが海軍軍人軍属を統率する海軍
大臣という地位の魅力には抗しきれず、海相就任を受諾した。海相となった嶋田
は、それまで蚊帳の外に置かれていて知るすべもなかった日米交渉の経緯や大本
営政府連絡会議の内容を知らされた。
組閣にあたって嶋田は天皇から「陸海協調してことにあたるよう」というお言葉
をいただいていた。天皇の意向によって日米開戦についてはいったん白紙に戻す
ことになったが、それも開戦をわずかに遅らせただけで、結局は日本はアメリカ
に対して開戦することになってしまった。嶋田はこの開戦に積極的に反対するこ
とはなかったらしい。いよいよ開戦が決定し、全軍悲痛な決意を固めていたころ、
井上成美が山本GF長官に伝えたところによると嶋田は10倍の国力を持つアメ
リカと戦うというのに「ニコニコとしていてまったく困った風じゃなかった」そ
うであり、それを聞いた山本は「そうだろ。嶋ハンはお目出度いんだ」と苦虫を
噛みつぶしたように応じていたという。
424日本@名無史さん:04/08/16 20:02
伏見宮は豊田や井上にあまり好感を持っていなかったのは確からしい。
だから、及川が豊田案を伏見宮のところに持っていった際も、積極的には
賛成せず及川の留任を望んだ。及川の辞意が固いのを知ると、豊田でも
反対をしないと態度を保留はした。だが、おそらく陸軍側に情報を流し
東条が忌避するよう示唆したことは想像できる。でなきゃ、豊田に固執
するなら大命を拝辞する、という強気の言葉が東条の口から出るのはおかしい。
425日本@名無史さん:04/08/18 12:30
陸軍はどこを抑えても噛み付かれるヒドラだ
阿南はよくやった
終戦期以外だったら殺されていたろう
426日本@名無史さん:04/08/19 09:36
シマハンはなあ
427日本@名無史さん:04/08/19 12:10
嶋田 繁太郎 しまだ しげたろう東京海兵32期(開戦時の海相)
海軍大将Shimada, Shigetaro海大13期
http://homepage2.nifty.com/nishidah/p_back00.htm
嶋田は山本五十六らと同期の海兵32期出身。砲術屋である。しかしその軍歴は
もっぱら軍令畑に集中していた。日露戦争当時、嶋田らは海兵を卒業したての
候補生で、日本海海戦では巡洋艦和泉に乗組んでいた。
嶋田は海大甲種学生修了と同時に少佐に昇進して、まもなくイタリアに派遣される。
そのころ欧州では第一次大戦の真っ最中で、日本とイタリアはともに連合国陣営に
属する盟邦だった。3年ほど駐在して帰国した嶋田は、以後ほとんど軍令部もしく
は海大で勤務することになる。大佐時代に潜水隊の司令、軍艦の艦長などで艦隊勤務
をしているが、それも長いことではなく、将官に昇進すると今度は参謀勤務が多くなる。

軍令部の作戦班長だった昭和8年ごろ、嶋田は次長の高橋と組んで軍令部の権限強化を
策し、部長伏見宮の威光を背景にこれを強行する。これに最大限抵抗したのが海軍省の
井上成美だった。しかし結局井上は抗しきれずに更迭されてしまう。海軍軍令部作戦
班長の職名は「軍令部第一部長」とかわった。結局嶋田は作戦班長時代から第一部長に
かけて軍令部で作戦を主管する部門の長を2年余りつとめ、いったん軍令部出仕として
「海戦要務令」の改定に携わったが、それも10ヶ月ほどで今度は軍令部次長に就任する。
次長も2年ほど務めた。この間に支那事変が勃発しており、嶋田は軍令部の実質的な
最高責任者として(当時総長は伏見宮)、支那事変初期作戦を立案した。そうして嶋田は
2F長官として艦隊に出る。直属上官のGF長官は同期の吉田だった。同期生が上官と
いうのが具合が悪いと考えられたのか、嶋田は1年で艦隊を降り、呉鎮長官となる。
昭和15年5月、嶋田は支那方面艦隊長官に親補された。支那事変が始まってからすでに
3年になろうとしていたが、解決のめどは全くたっていなかった。嶋田は長官就任の訓示で
「自分の長官在任中に支那事変の解決を期す」としたが、海軍がどんなに熱意を抱こうとも
陸軍にその気がなければどうにもならない。嶋田は1年半の任期を終えてむなしく内地に
帰還せざるを得なかった。
428日本@名無史さん:04/08/19 12:14
支那方面艦隊長官時代に嶋田は大将に昇進していた。帰国してついた職は筆頭鎮守府たる
横鎮の長官である。帰国からまもなく、政変が起こった。仏印進駐にともなう経済封鎖を
打開すべく行われていた日米交渉の行き詰まりに対し、断固開戦を主張する陸軍の突き
上げにあって決断のできない近衛首相が内閣を投げ出したのである。後継首相は陸相の
東條英機となった。及川海相は交代することになり、呉鎮長官の豊田副武を候補にあげた。
しかし豊田は陸軍から忌避にあった。豊田は陸軍嫌いで知られていたからである。中には
「この際東條内閣をつぶしてでも豊田海相で行け」「東條陸相に対抗できるのは剛腹な
豊田しかいない」という意見もあったが、結局豊田は呉から呼び出されておきながら
「一時出張」の扱いでまた舞い戻ることになった。そうして豊田の代わりに白羽の矢が
立ったのは横鎮の嶋田である。(続きは>>423

開戦から1年ほどの間は大きな問題はなかったが、ガダルカナル攻防戦が日本の撤退で
幕を閉じたころから陸海軍の対立は尖鋭になってきた。特に問題となったのが船舶と
航空機材料の割り当てである。海軍には、最前線で戦っているのは海軍だけで陸軍は
わずかな兵力を出すだけで航空戦力の大部分は大陸で遊んでいるという感覚があり、
したがって航空機材料の陸海対等というのは到底納得しがたかった。しかし嶋田は
陸軍に押し切られ、「海軍は大型機が多いから機数が少なくても必要物資は対等に
なるだろう」という理論で決着させられた。また、船舶の徴用量については陸軍だけ
でなく民間需要のための徴用解除を求める政府との間で三つ巴の争いになり、さらに
陸海軍でも統帥部と陸海軍省のあいだで意見が食い違い、陸軍では参謀本部の部長と
陸軍省の担当者がつかみ合いの喧嘩をする有り様だった。>>168
429日本@名無史さん:04/08/19 12:19
南東方面の戦線が崩壊し、中部太平洋方面からも米軍の反攻が始まった昭和19年
はじめごろ、嶋田の海軍部内での信望は地に落ちていた。ことごとに陸軍に妥協を
重ねる「東條の副官」だと言われていた。2月、米機動部隊が中部太平洋の要衝
トラック島を空襲、「日本の真珠湾」と呼ばれたトラック基地はその機能を失った。
もはや南東方面どころではなくなってしまい、日本本土が敵の攻撃にさらされかね
ない事態となった。これに危機感を抱いた東條は軍事と政治の一体化をより一層
すすめるために陸相でありながら参謀総長を兼任することとし、これを嶋田に諮ると
ともに海軍でも同様の体制をとるよう求めた。そこで嶋田は海相と軍令部総長を兼ねる
ことにしたのである。悪評さくさくたる海相が軍令部総長を兼ねたことで、嶋田と
東條に対する反感はますますつのり、倒閣運動が本格化することになる。
東條が「難攻不落」と言明したサイパンが陥落した7月、重臣層は倒閣運動の仕上げに
乗り出した。挙国一致のために内閣改造を求めたのであるが、その条件のひとつが
「嶋田海相の更迭」であった。東條は「嶋田はこれまでいろいろと協力してくれた」
として更迭に抵抗したが、ついにこれを承諾、嶋田も了承して海相を降りることとした。
しかし嶋田の更迭からわずか18時間後、東條はついに内閣を投げ出す。>>200
嶋田は海相を退いたのちも軍令部総長の職は保っていて、「さすがに面の皮が厚い」
と評されたが10日で総長の職も譲ることになった。軍事参議官となるも半年も
たたず予備役編入。戦後はA級戦犯として終身刑を受け、保釈後はひっそりと
暮らして昭和51年死去。嶋田の死で海軍大将はすべて世を去ったことになる。
430日本@名無史さん:04/08/19 12:31
イソロクタンの影響力大き杉
431日本@名無史さん:04/08/19 12:32
五十六こそ位は低いが大物
432日本@名無史さん:04/08/19 17:27
吉田の後の海相が山本か豊田だったら開戦は防げたのだろうか?
433日本@名無史さん:04/08/19 19:44
嶋田、山本と同期の堀梯吉(海兵席次首席)、塩沢孝一(同No2)は共に
昭和3年に少将に、中将も8年に同時に昇任。嶋田、山本は1年遅れて4年に進級。
だが、堀は艦隊派宮に嫌われて9年に予備役、塩沢も14年に大将(前2人は15年)
になったものの、横鎮長官を最後に、開戦時は軍事参議官という閑職。
海兵卒業時席次が上位でも、部内実力者に忌避されたらなにかと響くみたいだ。
山本が条約派という説にはやはり?がつく。三国同盟反対したのは事実だが。
434日本@名無史さん:04/08/19 20:07
塩沢は頭は良かったが病弱でその後すぐ死にましたぞ
435日本@名無史さん:04/08/19 20:14
山本の国葬の司祭長務めたあと直ぐ死んだけどね。
436日本@名無史さん:04/08/19 20:24
養命酒飲んでなかったのか
437五十六閥:04/08/20 21:28
山本海相あげ
438日本@名無史さん:04/08/21 06:53
イソロクを海相に抜けなかったのは
鈴木内閣で寺内陸相がダメだったのと同じ理由?
439日本@名無史さん:04/08/21 07:19
五十六なんか他のスレで腐るほど、語られてるだろーに。
語るなら他の奴を語れ。
440日本@名無史さん:04/08/21 08:39
自主撤兵の困難な日本の戦争回避に必要なのは中共の早期成立しかない
441日本@名無史さん:04/08/21 08:41
五十六のコネと人望は圧倒的
伝説にもなる罠
442日本@名無史さん:04/08/21 19:57
一介の中将があそこまでコネを作れるのかね
他の人じゃそうはいかないでしょ
443日本@名無史さん:04/08/22 06:07
山本を次官に抜擢したのは永野。さらに永野がとりいれた新しい
人事考課方式の人事考課は、
「人事局は必要な時期に必要な場所へ最適の人材を送り込んでくる」
と評される。
44456:04/08/22 10:33
1-443 だまれっ!なお、言うと鉄拳が飛ぶぞっ!
445日本@名無史さん:04/08/22 15:27
百武 三郎 ひゃくたけ さぶろう佐賀海兵19期>>403
海軍大将Hyakutake, Saburo海大 3期
http://homepage2.nifty.com/nishidah/p_back00.htm
百武は海兵19期の出身である。この期は日清戦争直前に海兵を卒業しており、百武
は黄海海戦では少尉候補生として旗艦松島に乗り組んでいた。戦後は主に軍艦乗組を
歴任している。なお、中尉昇任からわずか半年余で大尉に昇進しているが、これは明
治30年にそれまで廃止されていた中尉の階級が復活したことによる経過的措置であ
ろうと思われる。その後海大を卒業し、日露戦争では大尉ないし少佐で、前半は装甲
巡洋艦日進分隊長として、後半は3Fもしくは4Fの参謀として勤務した。

戦後は、ドイツおよびオーストリアに合計3年ほど勤務している。帰朝後は軍艦副長
や艦長、艦隊参謀長を経て将官に昇進、鎮守府参謀長、戦隊司令官、要港部司令官、
鎮守府司令長官という、重職ではあるがあまり華々しくない職を歴任して大将にいた
り、昇進とほぼ同時に予備役に編入されて海軍を去った。

百武はむしろ2・26事件で襲撃されて重傷を負い、辞任した鈴木貫太郎のあとの侍
従長に選任されたことで知られる。昭和天皇は百武が侍従長の後任に決まったと伝え
られたとき、「百武という海軍大将がいたことは記憶しているが、どういう人物か」
と尋ねたという。つまり、百武は天皇の意思で選ばれたというよりはむしろ、侍従武
官長の職が事実上陸軍の占有となっている対抗上、予備役海軍大将の中から適当な人
物を引っ張り出してきた、という政治的な背景から選ばれたというべきであろう。し
かし、侍従長に選ばれるだけあって人格温厚篤実であったと伝えられている。百武は
日中戦争直前から太平洋戦争末期までの困難な時期に侍従長を勤めた。戦争末期に健
康悪化のため辞職(侍従長は常時側近に奉仕するため、病気のために挙措に支障が出
た場合には辞職するのが通例となっていた)、後任はやはり海軍大将の藤田となった。

百武には他に軍人になった兄弟が2人おり、源吾は海軍大将にまで進み、晴吉は陸軍
中将となって大戦中第17軍司令官としてガ島に渡り苦戦した。
446日本@名無史さん:04/08/22 15:27
百武 源吾 ひゃくたけ げんご佐賀海兵30期>>282
海軍大将Hyakutake, Gengo海大11期
http://homepage2.nifty.com/nishidah/p_back01.htm
百武源吾は海軍大将の兄三郎と陸軍中将の弟晴吉とで「軍人三兄弟」として知られる。
兄弟で大将にまで登りつめた例は珍しい。百武ら海兵30期生が海兵を卒業したのは
日露戦争の直前で、少尉に任官した時点ではもう日本海軍はほとんど戦時体制が整え
られており、聯合艦隊も編制されていた。百武は聯合艦隊旗艦三笠に乗組んで旅順攻
撃作戦や黄海海戦などに参加したが、日本海海戦当時には中尉に昇進して富士に転乗
していた。戦後、戦艦香取の受領のために英国に出張する。香取は日露戦争勃発直後
に戦力増強のために英国に発注されていたが、結局戦争には間に合わなかった。

大尉に昇進早々、特修科学生として砲術学校に通学した。ここでマークが鉄砲に決ま
ったもののようである。卒業後は、海大の乙種学生、専修学生を経て甲種学生になり、
将来の出世の糸口をつかんだ。卒業後は、軍令畑と、外交畑での勤務が多くなる。少
佐から中佐時代には米国に駐在している。ちょうど第一次大戦の最中で、ドイツの無
制限潜水艦作戦により米国の参戦が決まったまさにその場に百武は居合わせた。帰国
後は3年ほど海大教官を勤めて大佐に昇進、多摩や春日などの艦長を勤めたのちに教
育局や軍令部で働いている。大佐の末年から少将の初年にかけ、国際連盟での軍縮会
議の海軍代表としてジュネーヴに出張している。
447日本@名無史さん:04/08/22 15:32
大尉に昇進早々、特修科学生として砲術学校に通学した。ここでマークが鉄砲に決ま
ったもののようである。卒業後は、海大の乙種学生、専修学生を経て甲種学生になり、
将来の出世の糸口をつかんだ。卒業後は、軍令畑と、外交畑での勤務が多くなる。少
佐から中佐時代には米国に駐在している。ちょうど第一次大戦の最中で、ドイツの無
制限潜水艦作戦により米国の参戦が決まったまさにその場に百武は居合わせた。帰国
後は3年ほど海大教官を勤めて大佐に昇進、多摩や春日などの艦長を勤めたのちに教
育局や軍令部で働いている。大佐の末年から少将の初年にかけ、国際連盟での軍縮会
議の海軍代表としてジュネーヴに出張している。






加藤 隆義 かとう たかよし広島海兵31期>>282
海軍大将Kato, Takayoshi海大12期
http://homepage2.nifty.com/nishidah/p_back00.htm
加藤は海兵31期生の出身、航海マークである。実父の船越衛はもと広島藩士で、戊
辰戦争で東北遊撃軍参謀として功績をたて、維新後ははじめ陸軍省、のち内務省に勤
務し宮城県知事などを歴任、さらに男爵を授けられ枢密顧問官となった。長兄の光之
丞は外務省に勤務、ドイツ駐在などを経てメキシコ公使に任ぜられたが現地に赴かず
辞職、貴族院議員となっている。

加藤は日露戦争当時、なりたての少尉として戦艦富士に乗り組み、日本海海戦に参加
した。戦後は香取を英国から回航するための回航委員として英国に出張、さらに何隻
かの艦艇に勤務して大尉時代に南清艦隊参謀に任ぜられ、参謀勤務を開始した。南清
艦隊はまもなく第三艦隊と名称を改めたが加藤は続けて勤務した。参謀勤務1年余、
東京で学生生活が始まる。海大乙種学生および専修学生である。これら両課程はいず
れも航海術を専修するもので、のちの航海学生に相当する。
448日本@名無史さん:04/08/22 15:33
しかし学校を卒業したものの、引き続き参謀としての勤務が続く。大正時代に入って
すぐ、海大甲種学生として再び学生生活となる。卒業後は航海長勤務ののちにフラン
スに派遣され第一次大戦末期のヨーロッパに駐在し、休戦後は講和会議の全権随員と
してヴェルサイユで過ごした。帰朝後は軍令部作戦班に勤務していたが2年弱で1F
参謀として洋上に転出、さらに侍従武官兼東宮武官として宮中に勤めた。侍従武官に
は有爵者あるいはその子弟が補せられる例が多い。

大正12年、当時内閣総理大臣だった前海軍大臣、海軍大将加藤友三郎の健康が悪化
した。加藤友三郎には子がなかったので、同郷の海軍将校船越隆義を養子として家を
継がせることとした。まもなく加藤友三郎は病没、船越改め加藤隆義は友三郎の爵位
を継ぐことになった。

大佐に昇進した加藤は霧島艦長を経て再びフランスへ出張、引き続き国際連盟軍縮会
議海軍代表(のち空軍代表を兼務)に任ぜられてジュネーブに勤務した。フランス・
スイス勤務は前後あわせて5年ほどにもなる。当時の海軍で随一のフランス通である。
帰朝後は軍令部作戦班長、第一航空戦隊司令官、海大校長を経て海軍中将に昇進、航
空本部長となったがすぐに軍令部次長に転補される。これは前任の松山次長の病気退
任に伴う人事である。さらに2F長官としてGF長官の高橋三吉とペアを組み、呉鎮
長官を経て軍事参議官に転じ、海軍大将に昇進。以後ながく軍事参議官として現役に
とどまり、太平洋戦争中盤以降は専任軍事参議官としては最先任となり、しばしば特
命検閲官として各地の部隊を視察した。
449日本@名無史さん:04/08/22 23:29
失脚後の松岡はどうなんでしょうか?

国民的な人気はあったと思います。
450日本@名無史さん:04/08/25 08:44
天皇「松岡らは今日の情勢を如何に見居るや」内府「彼らは何ら責任感なく、従って
自分がやれば斯かることにならずして済んだろ〜と公言すべし」
天皇「彼奴(きゃつ(らのことだから其の位の処だろ〜」(重光葵の手記)
451日本@名無史さん:04/08/25 09:08
8月11日夕、しばらくぶりで帰宅した阿南陸相の処に松岡が訪ねてき
1時間以上話しこんでいた。後で、阿南は「ソ連はあんなに助けてやったのに」
と夫人に漏らしたという(愚痴)。
452日本@名無史さん:04/08/25 10:43
アカを信じちゃいけないよ
453日本@名無史さん:04/08/25 17:34
外交官なら「落日燃ゆ」の広田弘毅の方が。
454日本@名無史さん:04/08/25 21:22
「広田は時々奇妙なことを言った」
お上と木戸の会話
455日本@名無史さん:04/08/26 10:56
本多って何した人?
重要なの?
456日本@名無史さん:04/08/26 15:35
外務省は誰が重要なんだろーねー?
457日本@名無史さん:04/08/26 16:13
霧島艦長カコイイ!
458日本@名無史さん:04/08/27 20:30
誰?
459日本@名無史さん:04/08/27 20:37
マニラで大暴れして、おっ死んだ岩淵ちかいうおっさんだろ
460日本@名無史さん:04/08/27 21:42
本多熊太郎は、経歴すら見つか無い。開戦時は何処の大使だったんだろう?
461日本@名無史さん:04/08/27 21:46
駐華大使
462日本@名無史さん:04/08/28 07:19
まだ。駐ソ大使の佐藤の方が有名
463日本@名無史さん:04/08/28 10:54
白鳥敏夫は開戦時には大使じゃ無いみたいだね。
佐藤尚武は外務大臣の後、在野かな。

どうも公使と大使が混同されてるみたいだけど。↓
http://www.geocities.com/TheTropics/Paradise/8783/tokyot.html(A級戦犯の顔写真あり)

白鳥敏夫(Toshio Shiratori)   
59歳 千葉 駐伊大使
昭和5年外務省情報部長、同14年駐伊大使、日独伊三国同盟の立役者の一人、
同15年外務省顧問、同18年翼賛政治会総務、論文多し。

大島浩(Hiroshi Ohsima)   
60歳 岐阜 陸軍中将、駐独大使
昭和11年ベルリン大使館付武官、同13年10月から20年4月まで駐独大使、
日独伊三国同盟の締結に活躍、陸軍中将。

重光 葵(Mamoru Shigemitu)
59歳 大分 駐英大使、外相
昭和6年駐華大使、同11年11月から13年11月まで駐ソ大使、同13年から16年6月まで駐英大使、
同16年12月から18年4月まで南京政府駐剳大使、同18年4月から19年7月まで東條内閣の外務大臣、
同19年7月から20年4月まで小磯内閣の外務大臣兼大東亜大臣。
464日本@名無史さん:04/08/28 12:32
吉田茂も重要人物だろうな
干されているが
465日本@名無史さん:04/08/28 14:48
大島浩 別名、ベルリン駐在ドイツ大使
在欧州公館からの情報はすべてベルリンに集められ大島が目を通していた。
そこで独逸に不利な情報はキャンセルされ、独逸側に操作された情報だけが
東京に送られた。一方、受け取る側にも、自分好みの情報しか頭に残らず
独逸不利の情報は共産主義者のヤシらが流す謀略と決め付けた。だから、
英国駐在の辰巳栄一少将や仲野好雄中佐らが、9月、航空決戦(バトルオブブリテン)
の後、「独軍の英本土上陸は、極めて困難なりと認む」と、直接電報を打ったが
大本営からは「独が上陸作戦を断念したとは思考しあらず、弱気な電報を東京宛
打電するなかれ!」というお叱りの返電がきた。こうして9月末、三国同盟締結。
466日本@名無史さん:04/08/31 08:20
栗栖三郎
467日本@名無史さん:04/08/31 18:18
来栖は三国同盟に反対だった。駐独大使である来栖にも極秘のまま
東京で松岡とスターマーの間の交渉で成立。来栖は政府の命令でこれに
調印したが、これまでこの条約に不同意だった関係上、又、自分の頭を
飛び越して条約が締結された経緯から鑑みて、電信をもって辞意を伝え
松岡も了承したが後任者の関係で翌年2月まで待たされた。
468日本@名無史さん:04/08/31 18:43
ドイツ大使館は大島が仕切っていたから来栖はスルー
469日本@名無史さん:04/08/31 20:39
さらにアメリカでも警戒されて本位ではなかったろうな
470日本@名無史さん:04/08/31 22:02
三国同盟の反対論者なのに首魁だと思われいるんだから救われないよ
471日本@名無史さん:04/09/02 01:19
死んだ斎藤博は重要人物だったのでしょうか?
472日本@名無史さん:04/09/02 19:54
外交官から重要人物になった人いる?
473日本@名無史さん:04/09/02 20:11
吉田、幣原、首相になった
474日本@名無史さん:04/09/02 20:20
加藤高明
475日本@名無史さん:04/09/02 20:53
大島浩は、巣鴨で過去の生き方反省したみたいだ。
巣鴨から出所した後、吉田か誰からか、参院選出馬を依頼されたが断った。
「私は、勝者が敗者を裁く東京裁判を肯定するものではないが、国の運命を
狂わせて国民に多大の迷惑をかけたことには違いない。こうした人間が政治家
になり、再び国の運命を担うようなことは許されることではない」多少、違って
るかもしれぬが大意はこんなところだった。
476日本@名無史さん:04/09/03 01:11
外務省は第2次、3次近衛内閣時には枢軸派と旗幟不鮮明派で占められていたという
戦後、表舞台で脚光を浴びた外交官には当時、熱心に枢軸の旗を振っていた者もいる
477日本@名無史さん:04/09/03 05:10
加瀬俊一なんかもその一人だろ、彼は松岡の秘書官やったはず。
478日本@名無史さん:04/09/04 07:33
古賀峯一は?
479日本@名無史さん:04/09/04 07:59
陸軍の実施部隊の長にあたるポストはないだよな
480日本@名無史さん:04/09/04 19:02
実施部隊に長って?
481日本@名無史さん:04/09/04 19:02
軍事用語使うのは結構だが、実施部隊のイミわかってカキコしてるの?(w
482日本@名無史さん:04/09/04 19:09
古賀峯一は殉職扱いで靖国神社に合祀されず、病死の松岡が合祀
どうもよくわからん基準だ、ま、どうでもいいことだが。
483日本@名無史さん:04/09/04 19:09
海軍だとGF長官ですな?
484日本@名無史さん:04/09/04 19:13
左様でござろう、他にもポストはイパイあるけど
485日本@名無史さん:04/09/04 20:31
百武 源吾
>>447の続き

以後、少将から中将にかけて、艦隊、軍令部と海大での勤務を交互に命ぜられている。
海大では教頭、ついで校長。軍令部ではまず第一班長、そして次長。艦隊では巡洋艦
戦隊司令官、そして練習艦隊司令官、舞鶴要港部司令官、第三艦隊司令長官をつとめ、
佐鎮長官から横鎮長官までに進んでいる。また、二・二六事件後の粛軍で空席となった
艦政本部長を一時勤めた。横鎮長官時代に大将に親任、さらに軍事参議官に転じて4年
ほどその座に留まった。開戦直前に元帥でない専任軍事参議官としては最先任となり、
高等技術会議議長を兼任している。しかし、開戦から半年余り経ったころの、米軍の
ガ島反攻が始まる直前に予備役に編入され、海軍を退いた。昭和20年には望まれて
九州帝国大学の総長に就任したが、敗戦により退任している。
486日本@名無史さん:04/09/04 20:36
古賀 峯一  こが みねいち 佐賀 海兵34期   (支那方面艦隊長官>>401
元帥海軍大将  Koga, Mineichi  海大15期
http://homepage2.nifty.com/nishidah/p_back99.htm
古賀は山本の戦死の後を襲ってGF長官となったが、その在任期間中には大きな作戦は
行なわれなかったし、1年にも満たない短期間で殉職してしまったので比較的影が薄い。
しかしそれまでの古賀は、海軍省・軍令部・艦隊の要職をバランスよく経験してきた正統
的でかつ優秀な海軍軍人として知られていた。少なくとも、山本などよりもよほど典型的
なエリート軍人であった。

古賀は日露戦争直後に海軍兵学校を卒業した34期の出身である。古賀と山本は肌合いは
違うが、早くから肝胆相照らす仲であった。中尉時代、古賀は宗谷乗組で分隊士であったが、
直属の上官が分隊長の高野大尉(のちの山本)であった。宗谷は当時練習艦隊に所属し、
37期生を乗せて遠洋航海に出たが、37期生には井上成美などがいた。彼らの親交は
ここに始まる。

第一次大戦後に古賀はフランスに駐在し、戦後の欧州海軍事情を研究していた。帰国後、
北上副長、海大教官などを経て岡田長官の下でGF首席参謀に就任したが、実弾射撃訓練
において命中弾なしという椿事を引き起こして「岡田だの古賀だの、軍縮条約に賛成する
ような連中がやってるからこんなことになるんだ」という非難を被った。古賀がワシントン
条約において条約賛成であったのはよく知られており、それが条約反対派の憤激を買っていた。

大佐昇進後にはフランス駐在武官としてパリに駐在することになった。帰国後は海軍省首席
副官となったが、時あたかも海軍を二分したロンドン軍縮条約にあたり、古賀は職責上も
あるいは自己の信念としても、条約の締結に尽力することとなる。古賀はこの条約を評して
「日本が英米の十分の六に抑えられているというより、国力から言って英米が日本の六分の
十で我慢していると見るべきだ」と述べた。この条約締結の後、所謂条約賛成の穏健派の多く
が海軍を逐われることになるが、古賀は条約締結の中心人物の一人でありながら奇跡的に
現役に留まった。
487日本@名無史さん:04/09/04 20:38
その後の古賀は主に軍令畑を歩き、軍令部第三班長から第二部長(昭和8年、軍令部は
班長制から部長制となる)、艦隊勤務を経て軍令部次長に就任する。当時の軍令部総長
は皇族の伏見宮で、古賀は実質的に軍令部を主宰していた。支那事変中の難しい状況で
作戦計画に責任を持つ軍令部次長の責任は重大であり、当時海軍次官であった山本は、
親友の堀に宛てて「古賀氏次長はご苦労ながら適任と存じ候」と書き送っている。山本
にとっても、情勢の基本認識を同じくし、気心の知れた古賀が軍令部にいるのは心強か
ったであろう。

山本がGF長官に転出すると間もなく、古賀も軍令部から2F長官として海上に出る。
平時のGFは1Fと2Fから構成され、1F長官はGF長官が兼任するから、古賀は
GFの次席指揮官となったことになる。開戦直前の人事異動で古賀はCSF長官となっ
て中国へ赴任する。CSF長官は形式上はGFと同格の独立艦隊であるから、栄転と
言ってもよかろう。開戦後の17年に大将に昇進、同年秋に横鎮長官となって帰国した。
昭和18年4月に山本が戦死したとき、閲歴からして候補者は古賀と豊田しかおらず、
豊田の方が一期先輩(33期)だったが、大臣の嶋田は古賀を選んだ。

古賀は、戦略的な認識としては山本と一致していたが、戦術的には山本とは大分異なっ
た認識を持っていたらしい。開戦直前に基地航空部隊として南方に進出途上の航空隊の
士官がCSF司令部を表敬訪問したとき、士官たちが航空機の優位性を主張したところ、
古賀はむきになって戦艦優位を強調したという。航空主兵主義の山本とは明らかに異な
る戦術眼を持っていた。しかし山本の戦死後、古賀がGF長官を継いだ時には誰の目にも
飛行機が戦争を左右していることは明らかであり、古賀もその認識の上に立って作戦を
立てざるを得なかった。
488日本@名無史さん:04/09/04 20:38
古賀の長官就任直後、北方アリューシャン諸島のアッツ島の守備隊が玉砕、日本の劣勢は
覆うべくもなかったが、古賀は大きく広がり過ぎた日本の占領地域のうちどうしても死守
すべき線を「死守決戦線」と名付け、その線で決戦を行ない米軍に打撃を与えた上で講和
に持ち込むという構想に唯一の希望を託していた。わずか一年にも満たない在任期間中、
古賀はこの決戦を実現すべく渾身の努力を傾ける。しかしその古賀が待ち望んだ決戦が起
こる前に古賀は殉職してしまう。

古賀は当初マーシャル諸島を決戦の舞台と想定していたらしい。しかし飛行機の甚大な損耗
により、その想定は実行不能となった。ついで想定したのはマリアナ諸島もしくはパラオ諸
島である。19年2月には「日本の真珠湾」と呼ばれたトラック諸島が空襲を受けて壊滅した。

GF司令部はパラオに移ることになり、古賀はトラックからパラオへと後退したが、古賀自身
はこの後退には強い抵抗があったようだ。そして3月末、パラオへの敵の来襲が予想されると
の警報を得、GF司令部は比島南部のダバオへと再度後退することとなり、2機の飛行艇に分
乗して出発したが、途中台風に遭遇、古賀の乗った1番機は行方不明となった。
489日本@名無史さん:04/09/04 20:47
GF長官に就任し、トラック島の司令部で行われた最初の会議で
「すでに三分の勝ち目もない」と言い切っている。
490日本@名無史さん:04/09/04 21:44
パラオでなんで武蔵から2式大艇に乗り換えたんかいな?
491日本@名無史さん:04/09/05 08:53
武蔵は横須賀へ帰す予定ですた
492日本@名無史さん:04/09/07 21:14
めだたないけど財界からの重要人物も拾ってほしい
493日本@名無史さん:04/09/07 22:34
中山素平
494日本@名無史さん:04/09/07 22:51
モーリーはすごい男だ真性の基地外だよ
http://www.j-wave.co.jp/original/earlymorley/
>>>数件中国の別名の入った書き込みを消しました
>すみませんが、放送禁止用語となっているのでやはり番組の掲示板に掲載されているのはまずい、
という判断です
戦争中にアメリカ兵がかなりむごいことをやったという記述を読みました。本当だとしたら、初耳です。ちょっと呆然とする。

ベトナム戦争中に韓国軍が本当に派兵されていたのですか?
色々と書いてあるのですが、そちらの方は出自も示していないし、
アフリカのコンゴかどこかの記録を適当にコラージュしたものでは?→今後歴史を参照するときは、きちんと文献をあげてください。歴史に関する通念からかけ離れる場合はなおさらです。


>どうしてもと言うなら モーリーさんにあとで電話してきいてみますが
それと HTML組みをあまり簡単にいじれないため 残念ながらガイドラインをトップに掲載できないんです
削除する時は 管理者判断で削除するようにとのことだったので それぞれの管理者の判断でやっています
ガイドラインはモーリーさんが設定したので 変える場合は やはり本人から動くのを待ちます

これでハーバード出たとか東大中退と自称しているんだ

495日本@名無史さん:04/09/08 06:50
中山素平ってだれ?
496日本@名無史さん:04/09/08 19:29
↑ 財界鞍馬天狗といわれたことも、このジッチャまだ生きてるのかな?
497日本@名無史さん:04/09/08 20:41
戦前は何やってたの、偉い人?
498日本@名無史さん:04/09/11 16:36:00
おしえて
499日本@名無史さん:04/09/13 11:39:27
自分で検索しろ共産党!
500日本@名無史さん:04/09/13 19:04:14
日銀総裁とかいたの?
501日本@名無史さん:04/09/18 12:52:54
小林躋造 皇道派内閣の可能性
502日本@名無史さん:04/09/20 15:19:28
こばやしへそぞう
503日本@名無史さん:04/09/20 15:37:29
小林臍造
504日本@名無史さん:04/09/20 21:08:58
興亞観音にお参りしませう
505日本@名無史さん:04/09/23 11:01:11
外務大臣とかは有力なのかも知れないけど辞職後は力を失ってしまうよね。
その点「軍人は軍を抑えられるから」ということで実力を認められる。
506日本@名無史さん:04/09/23 15:54:19
軍を辞めれば同じです
507日本@名無史さん:04/09/25 08:46:25
へそぞうはGF長官
508日本@名無史さん:04/09/25 22:08:23
岡田啓介とか斉藤実などの大昔の退役軍人で文官といってもいいような人は軍に影響力あったのかねえ?
509日本@名無史さん:04/09/26 05:43:42
現役を去ったら影響力はありません(直接の上司だったら、ともかく)
阿川の海軍モノだったと思うが、戦時中、ある元将官が戦況が心配で
海軍省だか軍令部へいったが、スタッフから邪魔にされ、憤慨して
帰ってきたとかいう話が載ってた。
510日本@名無史さん:04/09/26 05:51:33
影響力ありとせば、統合など神格化されカミサマ扱いの一部だけだろ
511日本@名無史さん:04/09/26 08:02:05
元帥は終身現役です
512日本@名無史さん:04/09/26 08:03:42
首相経験者は重臣として後継内閣の諮問などに影響力を奮っている。
元陸相とか、元軍令部総長とかでは首相候補ぐらいにしかならないんじゃないか?
513日本@名無史さん:04/09/26 12:24:04
東条だって首相を辞めたあとは家庭菜園で畑仕事。たまにお声がかかる
重臣会議に出席して「陸軍が黙っておりますまい」とハッタリかますのが関の山
514日本@名無史さん:04/09/26 12:33:58
権力の座を降りたものが、背後で院制敷いて組織を操ろうなんてのは
後進国のやること。中国の江沢民も企んでいたみたいだが失敗した?
日本でも一昔前までは、そういった大企業もあったが、多くは傾いて
負け組みに入ってしまった。
515日本@名無史さん:04/09/27 09:42:42
つまり陸相自身は犀彪ではなく猛獣使いということだね
516日本@名無史さん:04/09/30 18:22:34
陸軍には大臣より上位の人が大勢いるんだよ
517日本@名無史さん:04/09/30 19:22:49
さらにそいつらより陸軍の創意のが上
518日本@名無史さん:04/09/30 19:40:15
陸軍は下克上
519日本@名無史さん:04/10/01 01:03:48
おまいは下司下郎
520日本@名無史さん:04/10/01 17:54:31
海軍は上意下達
521日本@名無史さん:04/10/01 18:40:46
統制を乱す不忠者め
522日本@名無史さん:04/10/02 07:16:26
戦中に東条に与えられた経済に関する独裁権とはどんな権力ですか?
523日本@名無史さん:04/10/03 10:28:53
東条固有の独裁権なんてありません
524日本@名無史さん:04/10/03 18:15:59
もめた挙げ句、昭和18年に付与されてるでしょ?
525日本@名無史さん:04/10/03 18:34:34
それは陸軍部内だけに通じる権限でせう
526日本@名無史さん:04/10/03 18:50:46
軍需省のこと言ってるのか?
527日本@名無史さん:04/10/03 19:07:00
たぶん、首相、陸相、参謀総長兼任のことで賀正
528日本@名無史さん:04/10/03 21:06:17
さうでせうね、きっと
ですから東條さんに独裁権なんて無いのです
ある日首になって終り
529あぼーん:あぼーん
あぼーん
530日本@名無史さん:04/10/04 12:05:08
誰か石原莞爾とか語っておくれ。

軍板
【百花】WWUの軍人達を数値化するスレ【繚乱】
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1094310365/l50
531日本@名無史さん:04/10/04 20:44:23
経済に関する独裁権

知らないの?
532日本@名無史さん:04/10/05 16:45:56
まず事実を示して見ろや
彼は一個の軍事官僚に過ぎない
533日本@名無史さん:04/10/05 16:53:09
内相兼務?
534日本@名無史さん:04/10/05 17:49:12
おい、ピニン共。図書館から借り込んできた本の内容そのまま書き込んでんのかぁ?
暇人やの〜。生活保護か〜?、それとも親の脛か〜じ〜り〜か〜?
535日本@名無史さん:04/10/05 21:28:36
東条英樹は首相に他の閣僚を監督し、また戦争
経済全般を指導する独裁権を付与する案を議会に提出。
激しい論争の後議会は非常大権を可決、43年3月17日に勅裁を得た。

↑これなに?
536羽狗狸法師:04/10/05 21:31:29

清国はアロー戦争でフランスに敗れ、ロシアは満州を征服して日一日と
南下政策を続けた。もし日本が北進に努力しなければ、ロシアは必ずや
朝鮮を侵略しただろう。腐敗せる朝鮮王室と両班がどうしてロシアを
一蹴できたであろうか。故に日本の北進は止むを得なかったのである。
日清・日露の両大戦は、日本にとって民族の興亡、国家の存亡を賭した
戦であった。中国とロシアは共に世界の大国である。小をもって大に
抗す、しかも、十倍の大に抗するのである。日本人が気狂いでない限り
、一歩退いて考えざるを得なかった処であろう。「前進は生路あり、後退
は絶路である」ということを彼らは極めてよく承知していたのである。

     「止むを得ざる日本の北進」 中国の国士、戴天仇

537これかなあ?:04/10/05 21:33:23
戦時行政職権特例(昭和18年勅令第133号)

第一条 大東亜戦争ニ際シ鉄鋼、石炭、軽金属、船舶、航空機等重要軍需物資ノ生産拡充上特ニ必要アルトキハ内閣総理大臣ハ関係各省大臣ニ対シ必要ナル指示ヲ為スコトヲ得

第二条 大東亜戦争ニ際シ前条ノ物資ノ生産拡充上特ニ必要アルトキハ労務、資材、動力及資金ニ関スル各省大臣ノ職権ノ一部ヲ命ヲ承ケ内閣総理大臣自ラ行ヒ又ハ他ノ各省大臣ヲシテ行ハシムルコトヲ得

第三条 大東亜戦争ニ際シ第一条ノ物資ノ生産拡充上特ニ必要アルトキハ前条ノ場合ヲ除クノ外内閣総理大臣ハ労務、資材、動力及資金ニ関スル一ノ行政官庁若ハ官吏ノ職権ヲ自ラ行ヒ又ハ他ノ行政官庁若ハ官吏ヲシテ行ハシムルコトヲ得

第四条 前二条ノ場合ニ於テ必要アルトキハ内閣総理大臣ハ関係行政官庁ノ職員ヲシテ臨時他ノ行政官庁ニ於テ執務セシムルコトヲ得

第五条 第二条又ハ第三条ノ場合ニ於テハ一ノ行政官庁又ハ官吏ノ職権ニ係ル罰則ノ適用ニ付テハ其ノ職権ヲ行フ他ノ行政官庁又ハ官吏ハ之ヲ当該行政官庁又ハ官吏ト看做ス

第六条 本令施行ニ関シ必要ナル事項ハ内閣総理大臣之ヲ定ム

  附 則

本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス




--------------------------------------------------------------------------------

制作者註

この勅令は、昭和18年3月18日に公布され、即日施行された。上掲のものは、昭和18年勅令第549号による改正前の制定時の条文である。
この勅令は、昭和18年勅令第549号、同勅令第841号、同勅令第842号、昭和20年勅令第44号および同勅令第362号による改正がなされた。
昭和21年勅令第175号により、本令は昭和21年3月30日をもって廃止された。
538羽狗狸法師:04/10/05 21:33:37
無明に縁りて行生ず。行に縁りて識生ず。識に縁りて名色生ず。名色に縁りて六処生ず。
六処に縁りて触生ず。触に縁りて受生ず。受に縁りて渇愛生ず。渇愛に縁りて取生ず。
取に縁りて有生ず。有に縁りて生生ず。生に縁りて老死の苦しみ生ず。
無明あますところなく滅すれば行滅す。行滅すれば識滅す。かくのごとくにして全ての苦は滅する。」

森羅万象、全てのモノの法則が日本にこれまでもこれからも何よりも善たることを求め、導き続けるだろう。
539これかなあ?:04/10/05 22:44:35
>>537が東条の経済独裁権なんでしょうか?
540日本@名無史さん:04/10/06 06:03:16
どうなん
541日本@名無史さん:04/10/06 11:27:35
道南
542日本@名無史さん:04/10/06 14:21:45
をいをい、資料が出たんだからレスしてくれたまえよ
543日本@名無史さん:04/10/06 18:35:54
まだー?
544日本@名無史さん:04/10/06 20:32:35
>官吏ノ職権ヲ自ラ行ヒ
凄いな。権力集中は間違い無いと思われ。
545日本@名無史さん:04/10/07 06:45:55
独裁者東条?
546日本@名無史さん:04/10/07 13:31:09
はいる
547日本@名無史さん:04/10/07 20:36:17
東条英機と石田三成のキャラが被ると思うのは俺だけ?
548日本@名無史さん:04/10/07 21:21:18
歌謡曲「東條さん」を愛唱しませう
549日本@名無史さん:04/10/08 20:20:02
そんなに俺が偉いのか?
550日本@名無史さん:04/10/11 11:17:54
敬愛されていた
551日本@名無史さん:04/10/11 19:44:29
誠忠善良の人
552日本@名無史さん:04/10/12 09:10:56
誰か略伝うpして!
553日本@名無史さん:04/10/12 15:03:35
誰の?
554日本@名無史さん:04/10/13 16:59:21
東條さん
555日本@名無史さん:04/10/13 20:47:47
橋本欣五郎は?
556日本@名無史さん:04/10/13 22:10:33
戦争から、きらめきと魔術的な美が、ついに奪い取られてしまった。
アレキサンダーや、シーザーやナポレオンが、兵士たちと危険を分かち合いながら、
馬で戦場を駆け巡り、帝国の運命を決する。そんなことはもうなくなった。
これからの英雄は、安全で静かで、もの憂い事務室にいて、書記官たちに取り囲まれて座る。
一方何千という兵士たちが、電話一本で、機械の力によって殺され、息の根を止められる。
これから先に起こる戦争は、女性や、子どもや、一般市民全体を殺すことになるだろう。
やがてそれぞれの国には、大規模で、限界のない、一度発動されたら、
制御不可能となるような破壊のためのシステムを、生み出すことになる。
人類は、初めて自分たちを絶滅させることができる道具を手に入れた。
これこそが、人類の栄光と苦労の全てが最後に到達した運命である。

by ウィンストン・チャーチル

NHKスペシャル・映像の世紀「大量虐殺の完成」より

これは日本が合理的で優れた外交戦略により美味しい果実のみを得る事が出来た第一次大戦の回想。
歴史の皮肉を垣間見る事が出来る。
557日本@名無史さん:04/10/14 07:28:37
やはり重要なのは天皇でしょう。

親政派や統制派それから天皇制社会主義の傀儡でも国民はついていくだろうか?
558日本@名無史さん:04/10/14 09:54:13
承詔必謹
559日本@名無史さん:04/10/15 18:59:50
↑ 憲法第一条を大切に!
560日本@名無史さん:04/10/16 08:43:01
亡羊って何?
561日本@名無史さん:04/10/16 09:55:59
多岐亡羊

故事成語
562日本@名無史さん:04/10/16 10:02:39
ありがたう
意味は?
563違う人:04/10/16 11:50:30
そんなん、辞書見れば
564日本@名無史さん:04/10/16 12:42:10
鈴木貞一最強伝説。うぃ〜
565日本@名無史さん:04/10/16 16:35:23
>>564
“ウェーイ”だ
566日本@名無史さん:04/10/18 20:43:26
挫折官僚だろ。
陸軍版の豊田貞次郎みたいな感じ。
567日本@名無史さん:04/10/18 21:19:40
>>566
黙れ小僧!
統制派と皇道派を股にかけ、政治家にすり寄り
刑務所でも立派に存在感をお示しになった貞一様に
挫折の2文字があると思っているのかッ
568日本@名無史さん:04/10/20 07:09:54
この人は陸軍の出張員?
569日本@名無史さん:04/10/20 14:20:24
似たようなもんだ
出世の道は断たれてるし
570日本@名無史さん:04/10/20 16:33:16
陸軍を予備役で退いた後の方が出世してるんでないかい
鈴木の節操の無さは自身身に覚えのある小磯国昭をして
呆れるほどだったという。
571日本@名無史さん:04/10/21 07:04:53
でも中将止まりだからなあ
572日本@名無史さん:04/10/21 21:09:34
企画院なんて権力あるのか?
573日本@名無史さん:04/10/22 17:32:35
有るどころか権力中枢
574日本@名無史さん:04/10/22 18:00:38
開戦前の御前会議で、和戦いずれにしても南方の資源は獲得する必要があると
述べたうえで、でっちあげみたいな物動計画を示し、船舶などは喪失分より建造が
上回ると大ボラ吹きまくって、開戦にだめ押しの論拠を与えたのが鈴木貞一
575日本@名無史さん:04/10/22 22:15:17
↑ ばか
576日本@名無史さん:04/10/22 22:19:10
悪い奴だな
577日本@名無史さん:04/10/22 22:56:19
ユづゆづ
578日本@名無史さん:04/10/23 12:08:27
                 ◯                  _____
                 //           ____/       \_________
                // |\_____/                     /
                // │                              /
               // │                             (
               //  │            ,,,,,||||||||||||,,,            )
              //  │         ,,,|||||||||||||||||||||||||          /
              //   │        ,,|||||||||||||||||||||||||||||||||         /
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          //<                        _____\
          //  \__            ______/         ̄
         //       \________/
         //
        //  
  ___ //
  ヽ=@=/ //
 ( ・∀・)//  日本勝利!
 (    つ
  人  Y
 (_(__)
579日本@名無史さん:04/10/24 08:56:50
しかし企画院の見積もり以上に資源の還流は巧く行った。
戦争二年目までは。
580日本@名無史さん:04/10/24 23:09:13
船舶被害はなんびとも予想し得なかったのだから止むを得ない
581日本@名無史さん:04/10/25 06:45:32
官僚の予測能力なんて、道路交通量ひとつみたって杜撰どころかほとんど捏造に近い
彼らは、必要に応じた数字のメーキングなんかお手の物。
582日本@名無史さん:04/10/25 20:14:49
広田には平沼や若規のような大物感がないな、なぜだろう?
文官でも政党と関係ないからかな。
583日本@名無史さん:04/10/25 20:20:51
なんで、そんな人が首相になれたんだろう?
584日本@名無史さん:04/10/25 20:26:06
ヒロッタ内閣だから。
585日本@名無史さん:04/10/25 21:12:26
226事件のおかげ
586日本@名無史さん:04/10/26 07:25:22
陸軍のロボット総理、組閣の際、陸軍の横やりで閣僚人事はガタガタにされ
一旦は組閣を断念したものの、元老重臣らに忍耐しろと唆され陸軍と妥協したのが
運の尽き。流れていれば吊るされることもなかったろうに。
587日本@名無史さん:04/10/26 07:51:23
「米」「英」「蘭」の三国の要求を受け入れ、日本が満州と支那から全面撤退していれば、
石油禁輸措置は解除され、とりあえず当面の危機は脱せられたとする論理は正しい。

だがそれには、大陸から締め出された結果、日本は唯一残された外資収入の場を失い、
やがては石油を買う経済力も失って、遠からず大国の経済支配下に置かれたであろう
もうひとつの危機への予測が、抜け落ちている。

それは戦後、植民地を失い経済波状をし、墜落した蘭国の例をみてもあきらかだろう。

資源を持たない日本が大国列強の狭間で独立を維持するのは、どの道不可能な話しだった。
戦後も、高度経済成長などと浮かれていたが、朝鮮戦争特需なしには有り得ない話しでもあった。

ましてや、圧倒的な国力を誇る米国でさえ、ハワイやパルマ、フィリピンを植民地化し、
日本が造りあげた満州にまで割り込もうと企てていた事実、「海外市場」の奪い合いを
戦争に見立てれば、戦争を始めたのは米国の方だとする理論も成り立つ。



       これが俺の、先の大戦における「戦争認識」だ。
588日本@名無史さん:04/10/26 13:02:53
間違ってるけどな
589日本@名無史さん:04/10/26 16:55:38
歴史認識というのは、義務教育においては、歴史的事実を教えることと間違われています。
歴史的事実というのは無数にあるのです。だから、どれを選ぶかなんです。

それは、私の好きなオーエン・バーフィルドの比喩によれば、
歴史に事実なんて雨上がりの空の水玉みたいに無数にある。しかし・・・・・・

http://www.tokyo-jc.or.jp/2003/memb/watanabe.html
590日本@名無史さん:04/10/27 06:31:07
↑ ばか
591日本@名無史さん:04/10/27 10:04:33
広田は右翼マフィアの黒竜会の総帥じゃなかったっけ?
592日本@名無史さん:04/10/27 12:36:48
全然違う
593日本@名無史さん:04/10/27 16:22:52
玄洋社が経営する町の柔道場などにも通っていたし
玄洋社にはよく出入りし、私的にも遠山満の世話になっていたが社員ではない
594日本@名無史さん:04/10/28 20:56:02
スタンスの定まらない奴だな
595日本@名無史さん:04/10/29 17:22:52
松平恒雄は偉いのかな?

あの態勢のままなら内相とか枢府になっていそうな気がする。
596日本@名無史さん:04/10/29 18:34:03
戦後の衆議院議長?
597日本@名無史さん:04/10/29 22:05:32
松平恒雄
元駐米大使、駐英大使、宮内大臣、参議院議長
ロンドン海軍軍縮会議の時には駐米大使だったことを活かし
米国リード全権と度々会談し会議の妥結に多大な貢献をした。
政治家としては潔癖・慎重。
「子分」なども作らず、それゆえに「融通がきかない」などと陰口されることもあったという。
私生活においても清貧そのもので礼儀正しく紳士であったという。
598日本@名無史さん:04/10/30 01:27:29
融通がきかないのは父親譲りか…
599日本@名無史さん:04/10/30 18:26:25
メーキングはおまいだろ
ほんとにわからなかったんだ
600日本@名無史さん:04/11/01 01:01:19
      -'::.:;;:-‐:.:.:.:.:.:.!:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.ヽ、::.:.:.:ヽ、:.:.゙、
      ,'.:.:/.:.:.:.:.:.:.:.:.:..;!:.i:.:.:.:.:.:、:.:.:.:.:.:.:.:.:ヽ;::::.:.゙、:.:.゙!
      !,.'.:/:.:.:;.':.:.:.:.:.:.,.'゙!:.、:.:、:.:.:ヽ、:.:.:.:.、:.:.:.゙、:::.:.゙!::.:|
      .,'.:,イ:.:./:.:.:.:.:.:./  ゙、゙、:.ヽ;:.:.:.ヽ、:.:.:゙、.::.:.゙;:::.:.!i:.:!
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     l::!゙i:.:..;!::.:.:.:.:;' _,,.`ヽミ、、ヾ:.、,.>,、、ヾ!::::.:|::.;'/
     |:! ゙!::.;イ::.:.:.:;!ィ´!ノ:::::iヽ ヽ、 ` ,イ,ノ:::!゙ヾ::.:.;!iス、      赤い話をやめなさい
.      ゙! ゙!:| !::::.:.:|  ゙!::::::ノ      L::::ノ  !|:/.:ヽヾヽ、        反逆罪は死刑だよ!
        ヾイ、:.:.,. - 、 ̄´           ,!!':.:.:.:.:゙、ヾヽ`ヽ、
       ,.'i゙,' !::ヽ!   \    '     ,.' ゙、:.:.:.:.:.:.゙! ゙!|  ,!
      /,rl::!´゙!::.:.゙、.   ゙、  ´ ̄   ,.::'.::::::::゙、:.:.:.:.:.゙! .i|:.. |
      .// |:! .゙、:.:.:゙、.   ゙!-/⌒!_,..-'',!:「`_- _:.!|i:.:.:.:.| ! ,. ,!
    .,.':,'   |!  ゙、:::.:.:.゙! .:..l |  |-‐''゙,'::::! i::ト、` i|_!:.:.:;'-'; ,'
   .,.'::::!:..    .:.゙、:.:,r' ー--ゝ、 {ニ´ッ::__::! l::゙、テ``!::/   ,!
  んヘ:゙、:..    .:::..,! 、...__  ゙!、゙、,ィ',´-::..、!:::゙、:. |/   |  
     ヾ、:.     .:.!    `ヽ.!  !,ィ´`` ‐--ヽ,_/   _,,.!  
       i゙     .{ '' ´ ̄ヽ y /::..     !- ....二二-'
       .,! ..:. ,.._ァャ゙、 t‐ 、 ,ソ /:..      ;.ヽ、 /
       ,! .:ィ',./ム-'"ヽ、` ―'゙ /:::..      , i::. Y__,
.     ゙!:.,.:イ |::i       /:::...     ,.:':. :. . !、,.゙!
      `i   !::!      イ|::::::    ,.ィ'::. ..   ,'.! !
601日本@名無史さん:04/11/01 13:14:24
父って誰だっけ?
容保が祖父だっけ?
602日本@名無史さん:04/11/02 10:35:46
松岡洋祐は重要人物にはならない?
603日本@名無史さん:04/11/03 01:06:57
松岡洋右カコイイ!
604日本@名無史さん:04/11/03 15:14:22
若くして上海総領事
605日本@名無史さん:04/11/05 08:50:37
更迭されて最後は貴族員議員だっけ?
606日本@名無史さん:04/11/06 14:27:50
東京裁判では反論しない東条と死んだ松岡に責任を押しつけたせいで悪者にされてしまった。
607日本@名無史さん:04/11/06 15:26:05
近衛は責任とれ
608日本@名無史さん:04/11/08 11:16:01
松岡かわいそう
609日本@名無史さん:04/11/09 00:55:03
松岡カコイイ
610日本@名無史さん:04/11/09 15:55:08

  開いた蘭花

開いた蘭花、満洲國
共によろこび手を取つて
天の光に浴しませう
皇帝萬歳、萬々歳

開いた蘭花、満洲國
旗は五色旗、打振つて
王道樂土讃へませう
皇帝萬歳、萬々歳

開いた蘭花、満洲國
鳴らせ爆竹、みな子供
建國十年祝ひませう
皇帝萬歳、萬々歳

開いた蘭花、満洲國
兄と弟よ、菊と蘭
光り輝く大東亜
皇帝萬歳、萬々歳
611日本@名無史さん:04/11/10 01:15:17
松岡修造カコイイ!
612日本@名無史さん:04/11/10 19:38:49
                    _ _. (´∀` ノ) <目標前方600の支那兵、撃て〜〜!
                 _ __┷」|_/_>====<  \__________
   _ _             //_/ ̄ノ'7/~゙/ ̄| ̄ ̄| ̄~~|\   
  (0 ロロ,)ニニニニニニ)ニ) )   " _/_/    |   |    |  ヘ
    ̄~      ___<-ノ-|∠^ ー-ー}_l=__ |    .| ̄ ̄| ̄ ̄|   |
           ~7<〃____∠_/|    ,|   |    |    |y
          /=〔| =冊冊冊= 〔{== ,{(()\__,|__|__|__| 》
           ヘ =ヘ_____ヘ==ヘ_0_ノ/ l  l  l  l  l  l ソ/
           \=\――――‐\=\_ ゝノゝノゝノゝノゝノゝノ,,/
613日本@名無史さん:04/11/10 19:50:07
うざい!
614日本@名無史さん:04/11/11 02:53:59
おまいが?
615日本@名無史さん:04/11/11 19:39:51
たとえは誰?
616日本@名無史さん:04/11/12 18:44:46
秩父宮は?階級とか。
617日本@名無史さん:04/11/12 19:47:52
陸軍少将、だが、かなり早い時期から結核療養のため軍務には付いてないはず
618日本@名無史さん:04/11/12 20:43:44
高松は中佐?
619日本@名無史さん:04/11/12 20:48:50
大佐というのは何かで読んだ。
620日本@名無史さん:04/11/12 22:39:30
ポツダム大佐かな?
621日本@名無史さん:04/11/12 23:55:41
ポツダム進級は下級将校以下だけでないのかい?
622日本@名無史さん:04/11/14 12:55:29
そうだよ
赤い妄言無視汁!
623日本@名無史さん:04/11/16 06:45:17
A級戦犯に起訴されたやつは重要人物
624日本@名無史さん:04/11/16 20:40:13
偉い人
625日本@名無史さん:04/11/21 11:36:28
熱血少女に禿同
626日本@名無史さん:04/11/21 22:21:48
戦ひ抜かう
    大東亞戦
627日本@名無史さん:04/11/22 10:00:56
東○書籍の歴史教科書とか読んでいると
頭に南京虫が湧くよ。
628日本@名無史さん:04/11/22 20:25:47
こうしてみると大物などいない
629日本@名無史さん:04/11/28 11:05:23
明治憲法下では臣民の最大の義務は兵役であり、天皇のために命を捧げる事が最大の名誉とされた。このことについて600文字程度でよいので意見を聞きたいのですが・・・お願いします
630日本@名無史さん:04/11/30 11:16:32
そんなことないだろ。
国防は重要だけど、徴兵だって適応者の六人に一人ぐらいだよ。
631日本@名無史さん:04/11/30 16:18:27
牧野は重要人物
632日本@名無史さん:04/12/02 08:41:08
大久保卿の孫
633日本@名無史さん:04/12/02 09:28:30
大久保の息子(次男)だろー牧野
牧野の娘が吉田茂の妻、だから吉田が軍部に嫌われた
634日本@名無史さん:04/12/02 21:45:53
牧野卿は何故軍に嫌はれたの?
635日本@名無史さん:04/12/06 09:04:49
軍縮条約結んだから
海軍上層部の責任転嫁臭いが
636日本@名無史さん:04/12/06 18:32:04
<近衛日記 昭和19年6月22日>

  東久邇宮は余に次ぎの如く語った。
  「東條も今度は弱ったようだ。とてもやっていけない、と言って来たので私は、『今絶対に辞めてはいかん。
  内閣を改造してでも続けよ』と言ってやった。私は東條に最後まで責任をとらせるが良いと思う。
  悪くなったら東條が皆悪いのだ。すべての責任を東條におっかぶせるが良い。
  内閣が変わったら責任の帰趨がぼんやりし、最後は皇室に責任が来るおそれがある。
  だからあくまで東條にやらせるがよい…」 と。
637日本@名無史さん:04/12/07 09:19:53
昭和十六年の各皇族の年令はわかります?
638日本@名無史さん:04/12/08 12:22:43
わからん
639日本@名無史さん:04/12/09 00:58:40
結局近衛は長袖
640日本@名無史さん:04/12/10 09:17:18
大蔵省は?
今は最強だけど昔はそれほどでもないの?
641日本@名無史さん:04/12/10 11:30:27
それほどでもなかったな
内務省や企画院、外務省のほうが格上
642日本@名無史さん:04/12/10 19:39:06
企画院?
643日本@名無史さん:04/12/10 20:00:22
5相会議てあったが
644日本@名無史さん:04/12/10 20:04:25
企画院なんぞ、今でいえば、内閣府の外局みたいなもんだろが
645日本@名無史さん:04/12/11 07:23:35
経企庁程度では?
646日本@名無史さん:04/12/15 22:54:11
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃. r‐,.'´  ̄ ヽ. .今日は.ここまで 読みました ┃
┃. L_lミ!レノノ)))〉                     ┃
┃. く_l从゚ ヮ゚ノリ         琥 珀 の しおり ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
647日本@名無史さん:04/12/16 09:32:38
企画院は革新官僚の牙城
648日本@名無史さん:04/12/17 04:48:03
ジパングって漫画おもしろいっすね。山本五十六って大和に乗ってたんですか?ほかにはどんな人が乗ってたか教えてくださいm(__)m
649日本@名無史さん:04/12/23 18:24:38
             ;'.,;!::     i:::::::,'    ヽ.  |   i _,,,,,_       
            ,' |:::     |::/r‐'''''‐-、_ヽ.__!,、-'"~  ,i          
      プル     ,'/i::::     |:}::::〔  ,   ‐-} }=-'_"  ヽ、   プル   
      ,,、、_‐,,,,,~、、{{ヽ:::     !=;‐-{'"   ,,-‐i''''ヾ\`==‐-',、   -‐-、
    ,、‐'''´      ヽ::::::::::.....ノ、 \ー;;;;/  / ___ヽ. `、\ ノ ヾ'',´ ̄~~`'‐ 、,ヽ、
   r'          ヽ--‐'"ヾ.ヽ `ヽ~_  /-=、,,,,ヽ. ,、‐'"ノ  }       ヽ.
.   {                ヾ=;;、   ヾ'''‐-、、-‐' ~,‐'~ ,,、=ヽ.         }
    ', ` 、,,               `ヾ=、,,_   -‐''~_,,、‐;'~''~  i       ; i
    ',   \                  ~'''‐-‐''~`''''"           ,'´ i
    ヽ、  `;、                     .;            丿  ノ
      ` 、_,{ `‐、_                 ,米           ,、' ~`y'
         )  r' ~`'rr-、、,,,_          ,ノ"゛         _,、<   ,;;ゝ
        `~`i'   ,'r´:::::::::`;丶、 ,_    _,,、-'´,ノ ,ノ      ,、 ‐'"`, ';‐'"
          ,'  ,','::::::::::::::,'    `````  `"´ `"´~`''''''''''T´::::::::::::::',', |
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       r''"'  ノノ:::::::::::: ,'                   ',::::::::::::::::',', i!ヽ
       {____,、-'/:::::::::::::;;'                    ',:::::::::::::::::ヾ
650日本@名無史さん:04/12/25 07:58:21
非軍人の大物官僚は?
651日本@名無史さん:04/12/25 19:53:26
652日本@名無史さん:04/12/25 20:15:24
いわゆる右翼の大物
と言われる人達はどんな影響力があったのですか?
653日本@名無史さん:04/12/25 22:03:58
影響力は無い
654日本@名無史さん:04/12/26 10:16:57
右翼スレへ言ってくれ。
655日本@名無史さん:04/12/26 11:50:57
大物だったら問題なし
周明とかは?
656日本@名無史さん:04/12/26 13:48:50
占領軍は黒龍会をナチみたいなものだと思っていたんだろうか?
657日本@名無史さん:04/12/28 12:15:33
>652
陸軍の陰謀家とタッグを組んでた連中は
公的地位に見合わぬ政治的影響力を発揮。
近衛を脅したりね。
658日本@名無史さん:05/01/07 09:06:53

    (-ゝ-) 日本最強
   .ノ^ yヽ、
   ヽ,,ノ==l ノ
    /  l |
"""~""""""~"""~"""~"
659日本@名無史さん:05/01/07 10:08:24
町田は総理になれたかもしれないのに斎藤隆夫のせいでおしゃか
660日本@名無史さん:05/01/08 14:21:56
骸を馬蹄にかけられつ
身を野晒しになしてこそ
世に武士の義と言はめ
             山田美妙斎
661日本@名無史さん:05/01/11 06:45:14
貴族院と枢密院の人材リソース面での関係は?
662日本@名無史さん:05/01/17 20:35:16
貴族院で選ばれると枢密院に行ける?
それとも天皇次第か。
663日本@名無史さん:05/01/18 09:44:42
初心者はロムっててね
664満洲帝國復興委員會:05/01/19 18:48:44

 謹賀新年 (^-^)V

 今年も宜しく
665日本@名無史さん:05/01/26 13:36:58
あげ
666日本@名無史さん:05/01/26 13:42:01
あの娘は太陽のKOMACHI!えんじぇーる!
667日本@名無史さん:05/01/27 20:45:54
議会スゲー重要
憲法で保証されてる
668日本@名無史さん:05/01/29 09:25:13
黒龍会はカコイイ
英訳すると更にカコイイ!
669日本@名無史さん:05/01/29 09:28:15
蛇頭の名称でつか?
670日本@名無史さん:05/01/29 14:39:13
軍歌の人気投票はじめました。
よかったらご協力ください。
http://www.37vote.net/music/1106975632/
671日本@名無史さん:05/01/31 16:12:32
ブラックドラゴンあげ
672日本@名無史さん:05/02/01 11:16:09
 Д
 ||
 ||       |
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(# # #)    /  |  # ■_/|■
(###)    //   L# |  || \
_____ ===/    |__/||__||__ \________
\                    /
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   
673日本@名無史さん:05/02/02 11:40:41
早速投票しました
674日本@名無史さん:05/02/07 09:26:53
どうも民政会が日本をダメにしているような気がする。
それともダメなのは幣原か?
675日本@名無史さん:05/02/14 16:39:39
何、民政会って?
676日本@名無史さん:05/02/14 18:36:26
民政党?
677日本@名無史さん:05/02/15 19:59:48
右翼から総理になった奴なんかいないだろ
678日本@名無史さん:05/02/16 10:39:13
広田弘毅、平沼騏一郎
679日本@名無史さん:05/02/26 11:08:08
いるじゃんかよ
680日本@名無史さん:05/02/26 15:06:15
今日は226事件の記念日
681日本@名無史さん:05/02/26 15:45:29
麻生
682日本@名無史さん:05/02/27 10:22:30
 第2次大戦末期、佐渡島の相川金山で、連合軍捕虜387人が虐殺されたとの情報を
盛り込んだ英語本が海外で出版された。新潟国際情報大学のグレゴリー・ハドリー助教授は、
佐渡には連合軍捕虜はおらず、情報は「歴史の歪曲(わいきょく)」と指摘。
ねつ造された情報が独り歩きすることを憂慮している。
 この本は、既に死去したニュージーランドの作家、
故ジェームズ・マカイ氏が1996年に出版した「上層部の裏切り」。
 同書は、ニュージーランド人戦犯調査官、ジェームズ・ゴドウィン氏が保管していた
資料「ファイル125M」を基に、相川金山で1945年8月2日、捕虜387人を集めた
鉱山を旧日本軍が爆破、生き埋めにしたなどと主張。

 これに対し、ハドリー助教授とオーストラリア在住の研究者は、佐渡の郷土史家や
お年寄りらに対する聞き取り調査を実施。助教授らは調査の結果、
佐渡には連合軍捕虜はいなかったとしている。
 また、ゴドウィン氏がオーストラリア政府に提出した公式の報告書と比較、
分析してみたところ「ファイル125M」自体がマカイ氏のねつ造であること分かった、
と助教授らは指摘している。
 旧日本軍による捕虜の扱いが不当だったとして、日本側に賠償を求めようとする
オーストラリア元軍人らのため「虐殺」をねつ造し、旧日本軍の残虐性を示す狙い
があったのではないかと助教授はみている。
683日本@名無史さん:05/02/28 16:59:45
陸軍の強硬派とは誰のこと?
684日本@名無史さん:05/02/28 23:06:20
武藤章
685日本@名無史さん:05/02/28 23:08:40
>>683
どの時代の強硬派?
686日本@名無史さん:05/02/28 23:10:38
佐藤賢了


なんか坊さんみたいな名前だ
687日本@名無史さん:05/02/28 23:58:23
田中・・・新一でよかったよね?
688日本@名無史さん:05/03/02 16:55:53
よか
689日本@名無史さん:05/03/02 19:21:33
西郷隆盛
690日本@名無史さん:05/03/05 09:43:31
陸軍でも田中は色々いるからな
691日本@名無史さん:05/03/07 21:14:39
他の田中とは?
692日本@名無史さん:05/03/10 21:15:22
陸軍も色々だよ
693日本@名無史さん:05/03/11 21:03:00
田中隆吉
田中新一
田中静壱
694日本@名無史さん:05/03/11 21:54:35
おらが大将もいるがな、義一
695日本@名無史さん:05/03/11 21:56:25
田中芳夫 近所のオッチャン、伍長だった
696日本@名無史さん:05/03/11 23:29:55
田中頼三
697日本@名無史さん:05/03/12 10:28:40
海軍じゃん!
698日本@名無史さん:05/03/14 20:59:10
歴代陸軍を牛耳ってきた男を列伝で紹介してちょ
699日本@名無史さん:05/03/14 22:09:14
最後は誰なのかね?

武藤時代というのはありそうだ。
700日本@名無史さん:05/03/15 21:43:47
その前は石原時代
701日本@名無史さん:2005/03/28(月) 23:59:42
ウガキ時代
702日本@名無史さん:2005/03/29(火) 17:47:24
宇垣て、戦後は進歩党総裁の座を町田忠治と争って敗れてる、よほどついてない
オッサンだったみたい。もっとも、2人とも直ぐ公職追放になったから同じだが
町田は半年足らずで栄養失調で死んだが、宇垣はさらに10年も長生きしたから勝者か
この総裁争いの時、町田側に資金提供したのが若き日の田中角栄28歳
703日本@名無史さん:2005/04/04(月) 19:56:16
歴史だなあ
704日本@名無史さん:2005/04/05(火) 22:39:07
陸軍の永田時代はあった?
705日本@名無史さん:2005/04/05(火) 22:50:15
あった
706日本@名無史さん:2005/04/05(火) 23:12:03
東条時代の後は誰が陸軍を締めてたんだ?
707日本@名無史さん:2005/04/06(水) 07:21:34
腹心の憲兵隊長
708日本@名無史さん:2005/04/07(木) 22:29:52
だれ?
失脚したのでは?
709日本@名無史さん:2005/04/11(月) 04:53:05
>>707
東条憲兵?
それなら東京憲兵隊長で
後の上海派遣軍憲兵司令官四方諒二少将の事か?
でも東条失脚後はやはり梅津と米内。

やはり実力者といえば
@児玉源太郎A石原莞爾B梅津美治郎
C武藤章D岡敬純

軍務局長経験者はやはりタマが良い。
710日本@名無史さん:2005/04/11(月) 08:14:01
日米戦に反対していた武藤は開戦間もない昭和17年4月に軍務局長を去った後は
師団長や山下軍の参謀長など前線に留まったままで遂に中央には戻ることはなかった
711日本@名無史さん:2005/04/15(金) 11:02:11
黙れの人は?
712日本@名無史さん:2005/04/15(金) 14:19:50
陸士25期の三羽烏といわれたのが、田中新一、武藤章、富永恭次
武藤が軍務局長を去った後、その椅子に座ったのが、軍務課長だった佐藤賢了
ずぼらタイプの佐藤は規律重視型の東条に何故か可愛がられたというが?
713日本@名無史さん:2005/04/15(金) 22:25:27
戦犯にされた人たちにも恪の違いってある?
714日本@名無史さん:2005/04/15(金) 22:26:51
戦犯にされた人たちにも恪の違いってある?
715日本@名無史さん:2005/04/16(土) 10:16:50
総理はトップクラス
716日本@名無史さん:2005/04/20(水) 09:45:15
松井とか武藤は格下
717日本@名無史さん:2005/04/20(水) 17:56:20
木村兵太郎て、今市、影が薄いというか存在感ないけど、なして死刑などというむごい刑に?
718日本@名無史さん:2005/04/21(木) 09:53:35
中国の横車だっけ?
719日本@名無史さん:2005/04/26(火) 18:51:33
東条の次官だっけ?
720日本@名無史さん:2005/04/28(木) 10:40:03
そうだよ
721日本@名無史さん:2005/04/30(土) 19:24:27
罪状は?
722日本@名無史さん:2005/04/30(土) 19:40:42
木村の罪状?なら
1、1928〜45年に於ける戦争に対する共同謀議
27、満州事変以後の対中華民国戦争遂行
29、米国に対する大東亜戦争遂行
31、英国に対する 々
32、阿蘭陀に対する 々
54、1941・12・7〜1945・9・2に於ける米英仏加比中蘭ソ軍隊に対する戦争法規違反
  の計画立案実行
55、同上期間に於ける俘虜及び一般人に対する条約順守の責任無視による戦争法規違反
(数字は各訴因に付けられた番号、他の訴因は省略)
723日本@名無史さん:2005/05/04(水) 13:09:29
夫人が頑張ったね
724日本@名無史さん:2005/05/09(月) 23:04:22
軍事参議院
725日本@名無史さん:2005/05/12(木) 06:52:46
連絡会議で統帥部は次長がよく発言しているが政府側の次官は出席さえしていないの?
726日本@名無史さん:2005/05/15(日) 11:20:58
age
727日本@名無史さん:2005/05/15(日) 12:12:56
次官ごときに軍の機密を漏らすことはできぬ!(軍
728日本@名無史さん:2005/05/15(日) 15:02:06
あほかw
729日本@名無史さん:2005/05/15(日) 15:37:06
大本営政府連絡会議というのは支那事変初頭、近衛が首相も構成員とする大本営設置を
陸海軍に申し入れたが、陸海軍ともに統帥権の独立を侵すものとして首相の加わる反対した
ただ、大本営は設置して、政府との間には大本営政府連絡会議を設置することで妥協した
構成員は政府側が首相、外相、蔵相、陸相、海相で必要に応じて他の閣僚や枢府議長も
加わった。統帥部からは両総長、必要に応じて次長クラスも参加。だが、統帥部は
戦況の詳細は政府に説明せず、これに困却した東条、嶋田らはは統帥部長も兼務したが
これも廃止され、最後まで政略、戦略の融合はできないままで終り、s19年8月に廃止
最高戦争指導会議が新たに設立されたが・・・・・

730日本@名無史さん:2005/05/15(日) 15:44:46
軍務局長とかも発言しているようだが?
731日本@名無史さん:2005/05/15(日) 15:50:41
大本営政府連絡懇談会というのもある、こちらは従来の連絡会議より簡単に
政府と大本営との間で連絡をはかることができ、下位のクラスでも参加した
732日本@名無史さん:2005/05/16(月) 10:52:47
各部省の三席というとどのポスト?
軍務局長とか作戦第一部長とか官房長?
733日本@名無史さん:2005/05/16(月) 19:23:57
>>730
軍務局長や次長は軍側の事務方(説明役)で出席するんでないのかな?
連絡会議は政府側から統帥部に知らせる内容は少なく、主題の多くが軍の作戦
軍政に関することを政府首脳に説明するという性格上、軍トップが詳細を把握
しているとは限らないので、細部に精通した下僚が説明するのでは?
734日本@名無史さん:2005/05/16(月) 21:38:37
塚田次長とかがよく喋っているようだ
735日本@名無史さん:2005/05/19(木) 20:46:35
きいたことない名前
何の人?
736日本@名無史さん:2005/05/20(金) 08:41:24


         ─┬=====┬─┬─┬     向ふところ敵無し!
           ヽ┴-----┴ 、/_ /           最強チハ車
         ==||:|: 乃 :|: 「r-┴──o
   ____________ |:|:__ :|: ||--┬┘
   |ミ///ロ-D/   ~~|ミ|丘百~((==___
 . └┼-┴─┴───┴──┐~~'''''-ゝ-┤
   ((◎)~~~O~~~~~O~~(◎))三)──)三)
    ゝ(◎)(◎∩◎)(◎)(∩)ノ三ノ──ノ三ノ
737日本@名無史さん:2005/05/20(金) 22:39:08
外交大権
738日本@名無史さん:2005/05/21(土) 12:49:59
オリエンタルランドの掃除してきまちゅ
739日本@名無史さん:2005/05/21(土) 21:14:48
小磯たんの自伝本ってやたらデカいんですね
740日本@名無史さん:2005/05/23(月) 06:53:21
東京裁判のために検挙されたのが大物。
741日本@名無史さん:2005/05/23(月) 23:15:40

     参考:歴代台湾総督

1. 樺山資紀 1895.05.10 - 1896.06.02  海軍
2. 桂 太郎 1896.06.02 - 1896.10.14  陸軍
3. 乃木希典 1896.10.14 - 1898.02.26  陸軍
4. 児玉源太郎 1898.02.26 - 1906.04.11 陸軍
5. 佐久間左馬太 1906.04.11 - 1915.05.01
6. 安東貞美 1915.05.01 - 1918.06.06
7. 明石元二郎 1918.06.01 - 1919.10.26 陸軍
8. 田 健治郎 1919.10.29 - 1923.09.02 初代文官総督
9. 内田嘉吉 1923.09.06 - 1924.09.01    
10. 伊澤多喜男 1924.09.01 - 1926.07.16    
11. 上山満之進 1926.07.16 - 1928.06.16
12. 川村竹治 1928.06.16 - 1929.07.30
13. 石塚英蔵 1929.07.30 - 1931.01.16
14. 太田政弘 1931.01.16 - 1932.03.02
15. 南 弘 1932.03.02 - 1932.05.26    
16. 中川健蔵 1932.05.27 - 1936.09.02    
17. 小林躋造 1936.09.02 - 1940.11.27  海軍
18. 長谷川 清 1940.11.27 - 1944.12.30 海軍
19. 安藤利吉 1944.12.30 - 1945.10.25  陸軍
742日本@名無史さん:2005/05/26(木) 10:46:16
歴代陸相
743日本@名無史さん:2005/05/30(月) 18:57:13
海軍記念日を期して太平洋を見下ろす温泉に行って来た
英霊よ、安らかなれ
744日本@名無史さん:2005/05/30(月) 19:17:22
国会議員はどうなの?
当時の名簿ない?
745日本@名無史さん:2005/06/07(火) 20:55:49
         _,._イ_    ノ
        _,.YT -‐_,.ィ ー' ´  ̄ ``ヽ、
      /_,. -‐ ⌒ヽ         ─- 、       _
   _,r/-‐ /                \  / \
-‐ '´,/   / /                  マ  ヽ  ヽ
. イ7 // /    ///    i      T7ニ i !   i}
.  / / ./ / /  /,ィ //,イ/ィ/ !  } }  } }    Lト! リ   ハ
 / /! / / / ,イ/ィァ‐i、 iハ/ } / /! //リ  }   i ! i  ,'  }
 ! / i/i /! / / l/,.イ'⌒) { !  i /メ、!//i  /  ソ ! !    ,'
 | ! ! li lハ i lヾ {トr7    イブヽ/V/// / // // /  /
 li  i ! |!∧/ イ 、._ー'     /!_,.イ}/V/ / ///// /  /
 |   ヽ // V {   ´´     ヽ.. シム∧,イ ///// /  /
      {! /!.ハ   、'    ``- .. /_/ /// ./ /  /
     ,.イl l! |/l>、  ` ー    _/イ / // / ,ィ'  /
      / |! /   \      _/ / // // /
      !   !  、  ` r‐一 ' フイ' /!〃/  ! /
.    | 〇 |   ヽ.  i  _/ /ィ´  \    i /
    j/  /     ヽ      /     ハ  {i
    /   {      ' _         } ヽ ヽ  お空に上った英霊の皆様
   ,'〇  \       ` 、_     / 〇 ',       安らかに!
.   {   〇 \r'    __,.. -─ '"     !
746日本@名無史さん:2005/06/20(月) 08:34:42
議員の権力なんか微々たるものでは?
747日本@名無史さん:2005/06/21(火) 13:31:54
そうでもないさ予算を決めているし。
748日本@名無史さん:2005/06/23(木) 20:41:03
腐敗議会軽視
749日本@名無史さん:2005/06/24(金) 15:39:59
東条に代わる人材がいない
750日本@名無史さん:2005/06/24(金) 22:13:19
開戦前(東条内閣)、議会で英米イテマエ決議案が提出されますた。
これって採択されたんだっけ?確か有志100名ぐらいの提出だったような。
751日本@名無史さん:2005/06/25(土) 15:47:31
された
752日本@名無史さん:2005/06/28(火) 14:53:19
河本大作は重要?
753日本@名無史さん:2005/06/30(木) 22:06:45
怪人
754日本@名無史さん:2005/07/04(月) 21:10:31
永田鉄山だよ
755日本@名無史さん:2005/07/07(木) 17:36:03
武藤は良識派なのか?
間違った評価じゃないか?
756日本@名無史さん:2005/07/12(火) 09:34:51
中将止まりだし
757日本@名無史さん:2005/07/12(火) 15:00:40
武藤は対米戦争に反対だったから東条とは合わなくなり中央から追われた
758日本@名無史さん:2005/07/12(火) 15:51:21
東条も開戦反対派だよな?
759日本@名無史さん:2005/07/12(火) 18:04:41
矢次一夫によれば、東條と武藤の感情のもつれの端緒は組閣案の相違。
具体的には、星野の書記官長に反対した武藤(矢次)が岸と星野を
入れ替えるよう執拗に要求したことで東條の対武藤感情が悪化した。
760日本@名無史さん:2005/07/15(金) 11:40:07
では東条のお気に入りは誰?
761日本@名無史さん:2005/07/15(金) 11:52:15
佐藤賢了
762日本@名無史さん:2005/07/15(金) 15:56:31
例の比島から逃げ出したオッチャン、富永?
763日本@名無史さん:2005/07/15(金) 16:49:47
死刑になった7人より大物といえば生き残りと自殺者のトップ7は誰でしょう?
764日本@名無史さん:2005/07/26(火) 13:39:20
だれだろね
765日本@名無史さん:2005/07/27(水) 15:55:18
>>763
自殺者の大物なら・・
@近衛公  
A杉山元帥
B本庄大将
この三人は外せないと思うが。
766日本@名無史さん:2005/07/29(金) 20:30:11
本庄は微妙。
満洲事変の当事者で、日本軍に恨み骨髄の張学良が唯一好きな軍人が本庄。
90歳くらいのときのインタビューで将軍の墓参りがしたいといってた。
767日本@名無史さん:2005/07/29(金) 20:52:46
侍従としての方が重要だよな
768日本@名無史さん:2005/07/29(金) 22:25:27
>>763
生き残りの大物なら
@岡田啓介大将
A米内光政大将
B若槻禮二郎男爵
いずれも総理大臣経験者で重臣。
鈴木貫太郎大将や幣原喜重郎男爵も大物だと思います。
769日本@名無史さん:2005/07/30(土) 13:32:54
阿部信行大将
林銑十郎大将
770日本@名無史さん:2005/08/01(月) 15:56:00
野村吉三郎大将
771日本@名無史さん:2005/08/01(月) 16:02:17
野村タンは外務官僚からシカトされほとんど浮いてた
772日本@名無史さん:2005/08/01(月) 17:40:53
近衛の息子の手記読んだけど、奥さんから息子から書生から
「あ、この人、今夜死ぬ気だな」てわかった上で歓談して、さてとみな寝室にさがる。
耳を済ませていると、夜中に「あっ」という声(青酸で胃腑を焼く声)が聞こえるってのは
怖いな
773日本@名無史さん:2005/08/02(火) 12:37:42
近衛公が革新派の貴族と勉強会?作ってませんでしたか。
(木戸候、有馬伯、岡部子爵とか参加してたと思いましたが)
詳しい方教えて下さい。
774日本@名無史さん:2005/08/04(木) 22:23:07
会の名は?
775日本@名無史さん:2005/08/05(金) 19:45:43
『重臣たちの昭和史』で出てきてたような気がする。
近衛の父ちゃんも日露同志会とかやってたな。
776日本@名無史さん:2005/08/05(金) 21:57:39
朝飯会
777日本@名無史さん:2005/08/12(金) 10:49:21
木戸の代わりになる奴は居たの?
778日本@名無史さん:2005/08/12(金) 11:07:12
どういう意味での代わり?
779日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:57:58
死んだときの代役かな?
内大臣には松平恒雄とかどう?
780日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:04:11
>>773
万葉会ってあったような気がするが
781ホッシュジエンの国内ニュース解説:2005/08/15(月) 09:58:51
戦後60年の終戦記念日を前に、毎日新聞は13、14の両日、戦争の評価などについて
全国世論調査(電話)を実施した。日本が米国や中国などと戦った戦争を「間違った戦争
だった」と答えた人は43%で、「やむを得ない戦争だった」の29%より多かった。
「分からない」という回答も26%あり、日本人の戦争の評価は必ずしも定まっていなかった。
戦争責任に関する戦後の議論については「不十分だった」との回答が75%に上り、「十分
だった」の14%を大きく上回った。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 彡ミ    ___  __    つーか、「戦争」ですらなかった訳だが。
  |ヽ  /|  ,,,,,,,,l /  / 単なる公共事業だった訳だし。
  |ヽ   | | ミ ・д・ミ/_/旦~~ 
  ⊥   |  ̄| ̄|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| お仕着せの結論をうのみにせず、ちゃんと歴史を
  凵    `TT | ̄l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l  掘り起こして勉強しましょうね。m9・∀・)モウ スコシ ガンバリマショウ。

05.8.15 Yahoo「<世論調査>『間違った戦争』43% 『やむなし』29%」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050814-00000044-mai-pol
782日本@名無史さん:2005/08/18(木) 20:13:56
>>777
近衛公、松平恒雄氏、松平慶民子爵あたりか。
783日本@名無史さん:2005/08/18(木) 20:27:19
私は、終戦60年を迎えるに当たり、改めて今私たちが享受している平和と繁栄は、
戦争によって心ならずも命を落とされた多くの方々の尊い犠牲の上にあることに思いを致し
二度と我が国が戦争への道を歩んではならないとの決意を新たにするものであります
先の大戦では、300万余の同胞が、祖国を思い、家族を案じつつ戦場に散り、戦禍に倒れ、あるいは
戦後遠い異郷の地に亡くなられています
また、我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に
対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と
心からのお詫びの気持ちを表明するとともに、先の大戦における内外のすべての犠牲者に謹んで・・・・・・
784日本@名無史さん:2005/08/18(木) 20:29:09
木戸がいまでいう2世で、侯爵だったから内大臣=貴族のイメージがあるけど、
木戸の前任者が内務官僚の湯浅倉平だったことを考えると、門閥の家柄華族に
限定しなくてもいいんでは?>木戸の代わり
785日本@名無史さん:2005/08/18(木) 21:20:08
786日本@名無史さん:2005/08/19(金) 12:52:25
>>784
湯浅倉平は内大臣就任前に宮内大臣もしています。
内務官僚から宮廷政治家に転身した訳ですね。
死後、男爵授与。
787日本@名無史さん:2005/08/23(火) 20:35:20
貫太郎が適任だろう
788日本@名無史さん:2005/08/24(水) 09:02:15
近衛、平沼、若槻も候補だった。
789日本@名無史さん:2005/08/24(水) 14:11:11
木戸侯の側近 広幡忠隆侯や松平康昌侯なども
候補になるんじゃないですか
790日本@名無史さん:2005/09/05(月) 10:48:20
それぐらいかな
791日本@名無史さん:2005/09/05(月) 15:58:25
第一次近衛内閣改造後、板垣を陸相にすれば軍部は不拡大方針になるかもしれないという計画が失敗した近衛は
もう総理はやめて内大臣に転じたいと西園寺に漏らしたが
西園寺はこれまで近衛内閣が続いてきたのは軍部の支持があったためである。しかし宮中には軍部の勢力を及ばせてはならない、
だから軍部に近い近衛を内大臣にすることはならないとこの考えを退けている。

まぁ結局木戸も軍部に迎合しちゃうわけだから近衛が内大臣でも良かったね。
792日本@名無史さん:2005/09/13(火) 14:44:47
早く西園寺に成り代わりたかったんだろ
793日本@名無史さん:2005/09/16(金) 08:10:07
若規や岡田はやめてからの方が重臣として活躍しているような感じ?
794日本@名無史さん:2005/09/19(月) 06:06:17
政友会や民政党には首相を張れる人材はいなかったの?
軍部と対立して議会は何度も倒閣してるよね?
795ホッシュジエンの国内ニュース解説:2005/09/19(月) 12:09:08
させられていたことが、清水寛・埼玉大名誉教授(障害児教育学)の調査で分かった。
戦地から本土の病院に送還された兵士のうち、少なくとも484人をカルテの分析で
確認した。兵力不足が深刻になった戦争末期に近づくにつれ、徴兵されるケースが急増。
ほかに戦死者も多数いたとみられ、清水名誉教授はさらに多くの知的障害者が徴兵された
とみている。戦地で精神疾患を発症した例も多かったが、恩給や補償の対象外にされた
ことも判明した。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 彡ミ    ___  __    お国のために死ねと送り出されてどんどん戦死すれば
  |ヽ  /|  ,,,,,,,,l /  / そのうち当然、兵力不足になるのは誰だって分かる。
  |ヽ   | | ミ ・д・ミ/_/旦~~ 
  ⊥   |  ̄| ̄|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| つまり日本の戦法から見ても太平洋戦争は
  凵    `TT | ̄l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l 勝つための戦争ではなかった事が分かります。(・∀・ )

05.9.19 Yahoo「<旧陸軍>知的障害者も徴兵 大戦中、480人以上」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050919-00000009-mai-soci&kz=soci
796日本@名無史さん:2005/09/19(月) 13:03:09
>>794
人材どうのこうのっていうより、
あまりにも利権本位で動く政党政治そのものが
国民から不信感を持たれてたのが大きいもな。
陸軍も日産コンツエルンとかと密接な関係の中で満蒙侵略を進めるんだけど。
797日本@名無史さん:2005/09/20(火) 07:00:34
政友会が鳩山か中島に一本化されていればなあ。
政党は自滅した。
798日本@名無史さん:2005/09/27(火) 19:41:53
無茶
799日本@名無史さん:2005/09/27(火) 19:56:02
戦時内閣にも、大麻唯男とか山崎達之輔とか政党員がしっかり入閣している。
政権担当能力はなくなっても、政権中枢にもぐり込む生命力だけはあるんだなw
800日本@名無史さん:2005/09/28(水) 15:35:31
       祝! 800get

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     \  ※∵☆☆★☆★☆★☆☆∵※
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   ∵☆☆*°°     〉    _ノ   °°*☆☆∵ *
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   ※☆☆☆*°°★ し´(_)  ★ °°*☆☆☆※ *
   *∵☆★☆°/°☆☆★☆☆°\°☆★☆∵
      ∵☆☆☆°°°°|°°°°☆☆☆∵    うんこーーー!!!
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         ※∴∵☆★☆★☆★☆∵∴※      ☆
            ∴∵∴☆※☆∴∴∵
801日本@名無史さん:2005/09/30(金) 21:40:17
>>793
『良い事』『悪い事』って評価軸が許されるなら
東條内閣の頃の重臣はたいてい重臣になってからの方が活躍してるね。
まぁ広田なんかはハブられたりしてあんまり目立ってないが。
802日本@名無史さん:2005/10/05(水) 21:50:58
年寄りも大活躍
803日本@名無史さん:2005/10/08(土) 17:29:01
若槻?
804日本@名無史さん:2005/10/11(火) 07:24:18
斎藤以降の軍人首相の有能度はどんな順でしょうか?
805日本@名無史さん:2005/10/11(火) 13:18:27
首相として内閣をちゃんと機能させたか?という意味なら、
戦前に有能な宰相っていってもなぁ、戦中含めれば 
鈴木>東条>・・・・>岡田・・・>阿部>米内・・>小磯>林 って感じ?
806日本@名無史さん:2005/10/11(火) 13:25:39
米内より安部が上?

岡田が一番のような希ガス。
807日本@名無史さん:2005/10/11(火) 14:02:08
>>805
斎藤は?

宇垣はどうだろう?
808日本@名無史さん:2005/10/12(水) 04:23:38
>>806
レスどうも
阿部内閣は機能したが経済面での運が無かったというのが、あっしの認識
米内は個人的に好きだけど、陸軍と近衛の動作に翻弄され、輔弼の任をまっとうしようという意思に欠ける
岡田は2.26を事前阻止できなかったこともあり、輔弼責上は、
終戦を実現した鈴木、陰口に耐えながら総力戦体制に曲りなりにも尽力した東条に劣るという評価です
809日本@名無史さん:2005/10/12(水) 06:50:39
226を阻止って統帥権もないのにどうやって?
810日本@名無史さん:2005/10/12(水) 11:47:14
なんで犯罪抑止に統帥権が必要なのか?
811日本@名無史さん:2005/10/12(水) 15:52:07
岡田は機関説とか国体明徴の問題で減点が大きいんだと思った。
812日本@名無史さん:2005/10/13(木) 07:12:37
じゃあ陸海軍将校を予防検束したらよかったのか?
813日本@名無史さん:2005/10/14(金) 03:33:13
俺は岡田が好きだが、首都での叛乱をゆるした責任はやはり重い
事件の被害者でもあるし、とばっちりのように感じる人も多いようだが、首相の責任とはそういうものではない
彼は首相になってからも陸軍の事は他人事のように考えていたと感じるし
あるいは勢力争いをする陸軍の方が、1枚岩の陸軍より都合がいいと考えていたかも知れん
陸軍や宮中と軍部の綱紀粛正について会話し、もうすこしやれる事があったはずだと思う
その後の日本の道のりを考えるとかえすがえすも残念なことだと思う
814日本@名無史さん:2005/10/14(金) 10:11:57
首相が陸軍に干渉したら大問題だろ?
815日本@名無史さん:2005/10/14(金) 16:38:23
各国務大臣は個別に大権を輔弼してるから直接指導命令は当然出来ないが
首相は閣内統一の責任があるから、内閣の方針への協力依頼や意見調整は当然可
つーかそれが仕事
統帥事項も含めて、連絡会議や懇談で軍部に注文を付けた首相は幾らでもいる
816日本@名無史さん:2005/10/14(金) 20:44:05
反乱起こしそうな将校を営倉に入れてくれと
陸相に実名で泣きを入れる首相がねえ
817日本@名無史さん:2005/10/14(金) 21:30:20
細川護貞(護煕の父、近衛の秘書官)先日まで生きてたんだね〜!
とっくに死んでたものとばかりおもてた
818日本@名無史さん:2005/10/16(日) 00:53:31
杉山元帥を最大の亡羊とする同人腐女子サイト。
http://www.geocities.jp/skgmn435/index.html
このクソ女の説によると、杉山元帥が太平洋戦争へ
日本を引っ張ったらしい。
突っ込みどころ満載だがw
819日本@名無史さん:2005/10/16(日) 03:55:32
最大の亡羊??
820日本@名無史さん:2005/10/19(水) 22:33:45
元元帥
821日本@名無史さん:2005/10/21(金) 20:53:40
グズ元
822日本@名無史さん:2005/10/21(金) 21:05:52
自決するときもグズグズしてたので女房に愛想つかされ、ほな私が先に
逝きますよって勝手にしなはれ、て言われ、やっと(渋々)自決
823日本@名無史さん:2005/10/30(日) 21:45:47
真の実力者は宮中勢力にあり。
824日本@名無史さん:2005/10/31(月) 00:46:34
つまり木戸だな
825日本@名無史さん:2005/11/05(土) 19:47:47
牧野伯
826日本@名無史さん:2005/11/12(土) 17:51:41
前田米蔵とかは?
827日本@名無史さん:2005/11/12(土) 17:55:19
増田山
828日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:19:07
>>826
うち、その人と遠い血縁関係にある。
829日本@名無史さん:2005/11/12(土) 20:23:18
だからなに?
830日本@名無史さん:2005/11/12(土) 23:36:56
  

ちょっとそこで暇を持て余している2chネラーさん。

なんだかよく分かりませんが、とりあえず

『 っちょwwwおまww、2ちゃんねるをやるんだったら一度は見とけよ。 』

的な、憂国ムービーやらフラッシュを適当に置いときますね。

 ↓

http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1131181588/771
http://p2.chbox.jp/read.php?url=http%3A%2F%2Fnews18.2ch.net%2Ftest%2Fread.cgi%2Fnews4plus%2F1131181588%2F771

(ファイルは、削除される前にぜひ保存しておこう。)

 
 
831全宇宙全生命永久永遠の大天国:2005/11/16(水) 09:56:00

日本を愛するものよ 一度観てくれ 頼む 損はしないから
★★★特攻隊の動画★★★です ↓↓↓すぐ終わりますよ 長くはありませんので どうぞ

http://nandakorea.sakura.ne. jp/media/sinjituwadokoni.swf
               
              ↑
       わざと スペース空けてあります
       くっけて観てください


マジ 感動する 涙がとまらねぇぇぇーううう。。。(泣き)


 ★↑靖国反対の人も賛成の人も一度 観てくれ マジ感動するから★
832日本@名無史さん:2005/11/16(水) 20:02:33
皇族はどうだったの?
東久邇は戦前も宰相待望論があったし、
秩父宮はクーデター派の御輿でしょ?

一朝ことあれば、天皇や摂政や首相や全権大使に起用される可能性のある皇族について検討しようではありませんか。
833日本@名無史さん:2005/11/16(水) 20:09:09
秩父宮は青年将校たちに同情的ではあったがクーデターに乗る事は有り得ない。
ただ、宮と昭和天皇は、天皇の役割についてかなりの意見の差があった。
834日本@名無史さん:2005/11/16(水) 20:22:01
否応なく担がれるわけだかな先帝の様に
835日本@名無史さん:2005/11/17(木) 06:29:35
年頃の皇族って誰?

天皇候補なら近親かな?
836日本@名無史さん:2005/11/17(木) 10:16:42
秩父宮、高松宮、あと皇太子もな。
837日本@名無史さん:2005/11/18(金) 09:34:02
伏見宮と閑院宮は当時何歳?
838日本@名無史さん:2005/11/18(金) 10:29:57
伏見宮博恭王(1875/10/16〜1946/8/16)
閑院宮載仁親王(1865/9/22〜1945/5/22)
当時(?)を差し引けば年齢でる
839日本@名無史さん:2005/11/18(金) 18:39:07
開戦直前の昭和十六年で
閑院宮が76歳
伏見宮が66歳か
840日本@名無史さん:2005/11/18(金) 18:49:54
伏見宮や閑院宮が挙兵して天下を奪うというシナリオはなかったのか?
841日本@名無史さん:2005/11/18(金) 18:53:02
ない
842日本@名無史さん:2005/11/18(金) 19:04:43
世情が乱れればわからんよ
843日本@名無史さん:2005/11/18(金) 19:16:28
乱れても無い
844日本@名無史さん:2005/11/19(土) 08:56:25
当時の皇位継承順はどうなっていたの?
845日本@名無史さん:2005/11/19(土) 17:59:34
昭和十六年なら明仁、常陸宮、後は誰だろね?
846日本@名無史さん:2005/11/19(土) 18:34:57
秩父、高松、三笠、山階、賀陽、久邇、梨本、朝香、東久邇、竹田、北白川、伏見、閑院
847日本@名無史さん:2005/11/19(土) 20:45:12
1941年 昭和天皇の次
1.皇太子(明仁)
2.常陸宮正仁親王
3.秩父宮雍仁
4.高松宮宣仁
5.三笠宮崇仁

ここまでは分かるんだがこの次は誰になるの?
848日本@名無史さん:2005/11/19(土) 20:50:41
山階宮武彦
849日本@名無史さん:2005/11/19(土) 20:56:03
旧皇室典範では、

 皇伯叔父及其ノ子孫皆在ラサルトキハ其ノ以上ニ於テ最近親ノ皇族ニ伝フ

 皇兄弟以上ハ同等内ニ於テ嫡ヲ先ニシ庶ヲ後ニシ長ヲ先ニシ幼ヲ後ニス

とあるので、直宮の次は伏見宮系皇族でもっとも長系の山階宮武彦になる。
850日本@名無史さん:2005/11/19(土) 21:01:54
だが、山階宮武彦には子供がおらず、武彦の弟たち(山階芳麿、筑波藤麿ら)は
華族になっているので、その次は賀陽宮恒憲となる。
851日本@名無史さん:2005/11/19(土) 21:03:26
でも伏見宮系皇族を旗頭にクーデターを起こすのは今一だな。
担ぐなら>>847の中からだろう。

それ以外なら皇族内閣の方が良い。
戦争直前なら誰だろうね。
852日本@名無史さん:2005/11/19(土) 21:27:40
史実でも名前があがった東久邇宮稔彦
853日本@名無史さん:2005/11/19(土) 21:32:33
伏見、閑院、梨本は老人すぎるし、山階は廃人同然。
竹田はまだ若いし、北白川は子供。

賀陽、久邇、朝香、東久邇の中から選ぶとすれば、東久邇しかいない。
854日本@名無史さん:2005/11/19(土) 22:00:37
竹田宮恒久王って陸軍高官でクーデター派に同情していたんでしょ?
855日本@名無史さん:2005/11/20(日) 00:23:33
普通の首相候補ならば60前後が適齢なんだろうけど、
近衛待望論とか東久爾宮待望論とかは40代から50代でも
実現するからなあ。
856日本@名無史さん:2005/11/20(日) 00:32:07
久邇は素行がよくない。朝香は南京虐殺に関与の疑惑濃厚。
賀陽も入江日記によると、天皇側近筋の評判がよくなかったみたい。
857日本@名無史さん:2005/11/20(日) 00:37:43
頭の良さなら東久邇宮が抜けてる。
朝香宮は上海派遣軍司令官だったが、別に虐殺を指令した訳ではないので問題無し。
ただ能力的に首相が務まるかは疑問。
858日本@名無史さん:2005/11/20(日) 00:44:18
朝香宮鳩彦王は?
859日本@名無史さん:2005/11/20(日) 00:58:11
鳩ポッポは松井大将に責任をおっかぶせて、戦後も生き延びたワル。
860日本@名無史さん:2005/11/20(日) 01:02:58
ただの老人だった梨本元帥より、鳩ポッポの方がよほど戦犯なわけで・・・
861日本@名無史さん:2005/11/20(日) 07:01:16
只の老人のほうが収まりが良い場合もあるんだよ。
862日本@名無史さん:2005/11/20(日) 07:26:14
昭和20年8月12日皇族会議で、以下「独白録」より、最強硬論者は朝香宮
国体護持が出来なければ戦争を継続するのか?の質問に天皇は、勿論
朝香宮と東久迩宮は兄弟でありながら、終始反対の意見を持っていた
863日本@名無史さん:2005/11/20(日) 13:47:36
国体の護持が降伏条件なのは鈴木首相、東郷外相、米内海相も同じだろ
864日本@名無史さん:2005/11/20(日) 16:36:29
首相を張れるぐらいで東久邇の次に頭が切れるのが朝香?
865日本@名無史さん:2005/11/20(日) 18:07:41
東久邇宮内閣はほとんど天皇と木戸の独断で決まったようなもの、木戸は平沼枢相
も招いて協議したが木戸に異議を差し挟む余地もなかった。こうした中で強硬派の
朝香なんぞ眼中に無し。木戸は返答を渋る東久邇宮に「この度の大命は重臣会議
によらず、陛下じきじきの思し召しによるもの、陛下にご心配をおかけしないよう
ぜひお受けあるように」と情感に訴えた殺し文句で勝負は決まった
866日本@名無史さん:2005/11/20(日) 18:58:14
第二次近衛内閣前に近衛自身が推していたのが東久邇宮稔彦王内閣だっけ?
867日本@名無史さん:2005/11/20(日) 19:00:08
長老と言われるが梨本宮は1940で66歳
868日本@名無史さん:2005/11/20(日) 19:09:40
近衛の辞任が避けられないと知って、東久邇宮を推薦したのは東条陸
理由は、天皇の意向を直接聞けること、陸海軍をまとめられるという2点
近衛は東条の意向を受けて15日、木戸を訪ねて東久邇宮内閣をとなえた
これに対し、木戸は「東条が陸海軍協調のため政策転換に同意したものなりや」
「事前に陸海一致の方針、すなわち自重の方針(避戦)」が決定されたのか?と
反問、決定されたのでなければ皇族内閣には反対(理由は現在は周知)と語った
8691940年:2005/11/20(日) 20:12:54
陸軍
閑院宮載仁親王 75歳
梨本宮守正王  66歳
朝香宮鳩彦王  53歳
東久邇宮稔彦王 53歳
賀陽宮恒憲王  40歳
山階宮芳麿王  40歳(臣籍降下)
秩父宮雍仁親王 38歳

海軍
伏見宮博恭王  65歳
北白川宮輝久王 52歳(臣籍降下)
北白川宮正雄王 50歳(臣籍降下)
山階宮武彦王  42歳
久邇宮朝融王  39歳
高松宮宣仁親王 35歳
870日本@名無史さん:2005/11/20(日) 20:25:56
陸軍の竹田宮恒徳王が抜けてる。
871日本@名無史さん:2005/11/20(日) 20:33:11
陸軍
閑院宮春仁王
872日本@名無史さん:2005/11/21(月) 06:54:48
首相なら中将以上でないと難しいんじゃないか?
東久邇宮待望論だって、彼が陸軍高官であるのが要素の一部なんだし。
クレマンソーと親交があったんだっけ?

上のリストだとどう?
873日本@名無史さん:2005/11/21(月) 07:22:24
例え首相以外に陸海に皇族を配しても省益で相克しそうな予感。
874日本@名無史さん:2005/11/21(月) 08:14:58
朝香も結構やるだろ。
875日本@名無史さん:2005/11/21(月) 08:28:34
詳しく。
876日本@名無史さん:2005/11/21(月) 12:42:45
海軍は適齢の空白だね
877日本@名無史さん:2005/11/21(月) 13:04:48
朝香宮鳩彦王が首班に推されることはなかった。
陸相や総長なら勤まった?
878日本@名無史さん:2005/11/21(月) 13:51:38
戦前の竹田恒徳の階級は?
879日本@名無史さん:2005/11/21(月) 14:30:54
鳩ポッポはスペア
880日本@名無史さん:2005/11/21(月) 18:21:14
師団長は勤まるぐらい有能なんだな。
881日本@名無史さん:2005/11/21(月) 18:46:32
>>878
中佐参謀
882日本@名無史さん:2005/11/21(月) 19:19:51
開戦時の他の人の階級も教えてください。
883日本@名無史さん:2005/11/21(月) 20:50:53
難しいな、最終階級なら分かるんだが。
884日本@名無史さん:2005/11/21(月) 20:53:56
どうせ、4年しかたってないんだから、最終階級から類推しとけ。
885日本@名無史さん:2005/11/21(月) 21:09:54
元帥陸軍大将 閑院宮載仁親王
元帥陸軍大将 梨本宮守正王
陸軍大将 朝香宮鳩彦王
陸軍大将 東久邇宮稔彦王
陸軍少将 賀陽宮恒憲王
陸軍大佐 秩父宮雍仁親王
陸軍大佐 閑院宮春仁王
陸軍少佐 竹田宮恒徳王
886日本@名無史さん:2005/11/22(火) 07:03:32
非直系の皇族では東久邇宮と朝香宮が重要人物ということでファイナルアンサー?
887日本@名無史さん:2005/11/22(火) 07:12:03
朝香宮て終戦直前に陸海軍の統合を唱えただろ
陸戦隊を解体して陸軍の指揮下に入れるという内容の
888日本@名無史さん:2005/11/22(火) 16:09:13
親宮が厳しくて「本物の連隊長が勤まるように仕込んでくれ」とスパルタされた宮様って誰のこと?
889日本@名無史さん:2005/11/22(火) 21:54:26
それ伏見宮じゃなかった?
890日本@名無史さん:2005/11/22(火) 23:16:15
そうだっけ?
891日本@名無史さん:2005/11/23(水) 07:27:54
伏見宮て海軍でないのけ?海軍に連隊長なんてないだろw
892日本@名無史さん:2005/11/23(水) 07:48:23
>>891はなんだと思っているんだ?
893日本@名無史さん:2005/11/23(水) 07:56:23
閑院宮?
894日本@名無史さん:2005/11/23(水) 20:38:56
はてら?
895日本@名無史さん:2005/11/23(水) 20:40:11
>>885
読み方教えて下さい
896日本@名無史さん:2005/11/24(木) 15:54:42
誰の?
897日本@名無史さん:2005/11/24(木) 16:00:47
閑院宮載仁 かんいんのみや ことひと
梨本宮守正 なしもとのみや もりまさ
朝香宮鳩彦 あさかのみや やすひこ
東久邇宮稔彦 ひがしくにのみや なるひこ
賀陽宮恒憲 かやのみや つねのり
秩父宮雍仁 ちちぶのみや やすひと
閑院宮春仁 かんいんのみや はるひと
竹田宮恒徳 たけだのみや つねよし
898日本@名無史さん:2005/11/25(金) 10:55:36
あげ
899日本@名無史さん:2005/11/26(土) 07:45:30
旧皇室典範で王と親王の線引はどうなってるんでしたか?
900日本@名無史さん:2005/11/26(土) 18:45:40
↑広辞苑にでも載ってるはずだが
901日本@名無史さん:2005/11/26(土) 19:15:06
宮家ごとに陸と海に別れすぎ?
902日本@名無史さん:2005/11/26(土) 20:41:22
李王家ってどんな扱いだったんだろう。
清沢洌の暗黒日記に李王殿下が軍の要職について
皇族の方がかかる重職につくのはうんぬんって話があって違和感あったな。
903日本@名無史さん:2005/11/27(日) 15:06:44
ほぼ一緒
904日本@名無史さん:2005/11/28(月) 14:35:58
重要?
905日本@名無史さん:2005/11/29(火) 13:20:16
今まで出てきた重要人物の昭和十六年での年令は?
906日本@名無史さん:2005/11/29(火) 20:21:33
東条は若手なんだっけ?
907日本@名無史さん:2005/11/30(水) 03:28:46
重要人物で若いのと言えば近衛文麿と岸信介辺りかな。
1945年に重臣会議で一番若い人と言えば近衛だった。開戦時は50歳。
戦後を引っ張る吉田茂当時は63歳で、
近衛グループでの吉田のあだ名はジイサンだったんだから、
近衛が政治生命自身の生命共に終えた後吉田が大活躍というのは皮肉なものだね。
岸は45歳で東条内閣の商工大臣になった。
商工省内の要職のものたちは岸より年上が多かったので、
それを逆手に取り先輩に遠慮が出ると仕事ができないとして、
省内の改革を行い自分に都合の良い体制を作り上げた。
908日本@名無史さん:2005/12/01(木) 20:03:36
次スレは近代史板かな?
909日本@名無史さん:2005/12/03(土) 09:23:18
年寄りといわれた鈴木や幣原は何才?
910日本@名無史さん:2005/12/03(土) 11:39:51
鈴木貫太郎1867(慶応3)〜1948(昭和23)
幣原喜重郎1872(明治5)〜1951(昭和26)
911日本@名無史さん:2005/12/03(土) 14:37:12
年寄りだなあ
912日本@名無史さん:2005/12/04(日) 03:44:42
しかし若槻礼次郎・1866年生75歳、平沼騏一郎・1867年生74歳、岡田啓介・1868年生73歳、
と並べてみるとずば抜けて年寄りというほどでもない。
清浦奎吾は91歳。
頭山満が86歳。
徳富蘇峰は78歳。論壇での活躍は20代前半からなので大変なキャリアがあった。
913日本@名無史さん:2005/12/04(日) 08:57:26
彼らの現役時代はもっと前だろ?
914日本@名無史さん:2005/12/08(木) 14:11:58
米内も年寄り
915日本@名無史さん:2005/12/10(土) 00:36:36
オザキは?
916日本@名無史さん:2005/12/11(日) 09:58:47
尾崎行雄?
917日本@名無史さん:2005/12/11(日) 13:45:05
もっと昭和十六年時の大物の年令を教えてください。
918日本@名無史さん:2005/12/11(日) 14:14:37
そんくらい、自分でググれ
919日本@名無史さん:2005/12/11(日) 22:25:14
岸信介45歳
星野直樹49歳
近衛文麿50歳
鈴木貞一52歳
賀屋興宣52歳
木戸幸一52歳
重光葵54歳
東条英機57歳
嶋田繁太郎58歳
鳩山一郎58歳
東郷茂徳58歳
杉山元61歳
永野修身61歳
米内光政61歳
広田弘毅63歳
吉田茂63歳
林銑十郎65歳
阿部信行66歳
岡田啓介73歳
宇垣一成73歳
平沼騏一郎74歳
若槻礼次郎75歳
徳富蘇峰78歳
牧野伸顕80歳
尾崎行雄81歳
頭山満86歳
清浦奎吾91歳

間違いあったらスマソ
920チェックよろ:2005/12/13(火) 21:05:35
松岡洋右61
東郷茂徳59
佐藤尚武59

寺内寿一89
真崎甚三郎65
小磯国昭61
梅津美治郎59
後宮淳57
岡村寧次57
山下奉文56
阿南惟幾54

野村吉三郎64
長谷川清58
山本五十六57
及川古志郎58
豊田副武56
921日本@名無史さん:2005/12/13(火) 22:20:55
訂正
寺内寿一62
922日本@名無史さん:2005/12/15(木) 16:11:50
age

そろそろ纏めて。
923日本@名無史さん:2005/12/15(木) 17:04:27
何をまとめるの?
924日本@名無史さん:2005/12/15(木) 17:10:49
>>922
ま〜なんだ いいスレだな 次スレもよろしくってことで
925日本@名無史さん:2005/12/16(金) 01:15:13
>>777
小磯は木戸が協力しないので困っているから
外務省のほうの吉田茂を外相、内田信也を運輸相にするので協力してくれと近衛に頼んでいるが、
この時内大臣を木戸から近衛に変えようとしていたんじゃないかと言う話もある。
もっとも近衛は小磯を信頼していなかったので吉田と内田の入閣もなくそのまま小磯内閣は倒れるが。
926日本@名無史さん:2005/12/16(金) 01:30:22
>>650
大蔵省では大蔵省三羽烏 賀屋興宣 石渡荘太郎 青木一男

しかし軍を左右するほどの力は無し。
927日本@名無史さん:2005/12/16(金) 08:19:59
どっからの引用?
928日本@名無史さん:2005/12/16(金) 23:25:00
松平恒雄と米内光政の後押しで石渡荘太郎を宮相にしたあと内府にする計画もあったそうな。
929日本@名無史さん:2005/12/17(土) 03:55:09
>>927
どれが?
930日本@名無史さん:2005/12/17(土) 10:04:21
平沼ってのは官僚上がりなのにエライ権力を長く握り続けていないか?
どんな基盤があるんだ。
931日本@名無史さん:2005/12/17(土) 11:30:36
検事あがりだから要人の弱み握ってた
932日本@名無史さん:2005/12/17(土) 12:11:35
最初は天皇に嫌われていたみたいだけど権力の座に居た期間が異常に長いよね。
933日本@名無史さん:2005/12/17(土) 13:33:44
>>928
鳥居説かな
宮相の松平が引責辞任の形ををとって、木戸を後任に推し
内府を空席にした上で、石渡を押し込むというやつ

鳥居の爺さまは史料に書かれて当然なのに書かれ無かった事や、史料の矛盾から
現実に起きたと思われることを類推するのが非常に上手いね
934日本@名無史さん:2005/12/19(月) 13:43:28
絞れよ
935日本@名無史さん:2005/12/20(火) 03:37:35
何を絞るんだ?
936日本@名無史さん:2005/12/20(火) 08:35:42
現役の権力者として平沼はいつからいつまでいたの?
937日本@名無史さん:2005/12/21(水) 08:29:18
内務大臣をやったのが権力家へのはしり?
938日本@名無史さん:2005/12/21(水) 09:48:29
検事時代に大逆事件はじめ有名な事件の捜査にいくつも関わっているから優秀なことは優秀なんだろう。
隠然とした勢力を持つようになったのは1913年の司法次官時代にやった司法界の大粛清がきっかけじゃないか。
長く権力の座にいたが、一方で民衆の支持がなく、宮中に嫌われていたため
伸び悩んでいたと言う面もある。近衛文麿に接近し国本社を辞めることでようやく首相になれた。

近衛内閣の国務相、内相時代には企画院事件を起こしている。
当時の司法相は柳川平助>>158。柳川は内務省社会局の人間に向かって
「社会局とは社会主義者を養成する所か。社会局というからには社会主義と関係があるところだろう。けしからんから会わない」
と言って陸軍内ですら馬鹿にされた(あだ名は『頭の悪い小畑敏四郎』)超反共主義者なので、
平沼が内相に、柳川が司法相になれば何もおきずに済むはずがないw
ただ、横浜事件の黒幕が平沼と言うのは誤り。
939日本@名無史さん:2005/12/21(水) 12:41:45
平沼は後年回顧録で、海相時代の斉藤実がシーメンス事件の松本和中将から
多額の金銭を貰っていたことを暴露(当時、検事総長)
940日本@名無史さん:2005/12/21(水) 20:03:23
高宮太平の柳川評は公平に欠ける
941日本@名無史さん:2005/12/22(木) 05:31:16
木戸幸一の柳川評
「柳川中将はただ神様を拝むばかりだから困る」

昭和天皇の柳川評
「2・26を一師団長として押さへ得ざりしこと。賀陽宮のご批評、第10師団長としての好成績。
部下にまかすにあり、部下次第にて目的を達することを得べきか、方面軍司令官までの人物にあらざるか。 」
「いまソ連と親しくせねばならぬとき、対ソ強硬派たるかれらを出しては悪くないか」

戦時中、柳川担ぎ出しを狙った近衛は柳川について考えを聞いたがやはり評判は良くなく、
結局柳川担ぎ出しは辞めになり、柳川は昭和20年1月に死去。

ジャーナリストではやはり近衛周辺の佐々弘雄、岩淵辰雄が柳川を高く評価していた。
942日本@名無史さん:2005/12/22(木) 20:11:49
池田は?
いつだか首相に推薦されたこともあるらしいが、戦時なので却下されたとか。
首相の器?
943日本@名無史さん:2005/12/24(土) 16:55:44
池田成彬?
なら俺は良かったんじゃないかと思うよ。
944日本@名無史さん:2005/12/27(火) 11:58:36
池田成彬は三国同盟前は首相候補だったが
戦時中は大磯グループ、ヨハンセングループとして要注意人物
近衛一派の一員として検挙対象候補。
945日本@名無史さん:2005/12/27(火) 13:57:02
それだけ潜在的な大物?
946日本@名無史さん:2005/12/27(火) 22:30:25
財界出身で太平洋戦争前の政界にも影響力のあった大物
池田成彬=三井財閥出身。三井の大改革を行う。
三井財閥の保全のため右翼が軍部に接近したが、本人はリベラル。
西園寺公望、近衛文麿、石原莞爾らに気に入られていた。石原は池田を林内閣の蔵相に予定していたが、
石原一派は林内閣の組閣から追われ流れる。第一次近衛内閣改造後蔵相兼商工相。
平沼内閣、阿部内閣後には首相候補にあげられる。
昭和16年10月に枢密院顧問官。独白録によれば昭和天皇からも信頼されていたようだ。

小倉正恒=住友財閥出身。政界に関与する気はあまりなかったようだが、
仲の良い近衛の頼みで第二次近衛内閣国務相、三次内閣蔵相。
葬式では吉田茂が友人代表として、私は西園寺公や近衛公を通じて住友とは親しかった、
近衛公が首相とやっていたときにあなたは大臣として努力して偉かった、と言う内容の弔辞を読んでいる。
昭和16年9月に吉田が牧野に送った手紙には『近衛首相、豊田外相は対米開戦反対なのにはっきり決断できない、
田辺内相は右翼を恐れて日米交渉をしたがらない、もう頼りになるのは小倉蔵相だけだ』という内容のことが書かれている。
947日本@名無史さん:2005/12/27(火) 22:31:49
村田省蔵=大阪商船(三井)出身
近衛が岸信介に「逓信大臣は海運に詳しい人がいいと思う」と言い、
岸が「その通りだと思います」として海運業界出身の村田省蔵を推薦。
第二次、三次近衛内閣の逓信大臣兼鉄道大臣になる。
『海の日』を制定した。開戦後は日本軍のフィリピン統治に助力。
戦後は巣鴨拘置所に入る。岸によれば、巣鴨に入れられた軍人たちはみな情けなかったが、
村田の態度は立派だったと言う。

内田信也=三井物産、内田汽船出身
代表的船成金。欧州大戦にともなう船舶不足を見越して内田汽船を創設し、大儲けする。
他の船成金が大戦後の恐慌で没落する中、内田は見事に乗り切った。
加藤高明に『珍品五個』(賄賂)を送ったことが発覚したり、
列車の転覆事故にあい、「金はいくらでも出す!助けてくれ!」と叫ぶなど成金的エピソードも多い。
東条英機改造内閣の農商相になるが、むしろ近衛文麿や岡田啓介らと親しかった。
近衛首相が東条陸相が対決した日は近衛、賀屋興宣、水谷川忠麿(近衛の弟)と夕飯を食べる予定だった。
戦後は第五次吉田茂内閣の農林大臣。(吉田とは近衛グループ同士として戦時中から親交があった)
948日本@名無史さん:2005/12/28(水) 20:13:14
井上準之助が起きていたら大物になっていたかな?
それとも生きていても失脚?
949日本@名無史さん:2005/12/30(金) 09:42:55
歳は?
950日本@名無史さん:2006/01/02(月) 06:43:37
生きていたらね?
951日本@名無史さん:2006/01/02(月) 10:09:31
他の暗殺された奴なんかは?
952日本@名無史さん:2006/01/04(水) 11:07:57
特高の長は?
953日本@名無史さん:2006/01/04(水) 17:05:30
長官
954日本@名無史さん:2006/01/04(水) 18:36:48
特高の長なら部長だろ、その前は課長(特高課)
個々(官僚)の名前なら知らん
955日本@名無史さん:2006/01/04(水) 19:13:20
安倍源基
956日本@名無史さん:2006/01/04(水) 19:17:55
小林多喜二虐殺時の警視庁特高部長は安倍源基。

安倍が警視庁特高部長や内務省警保局長だったときは、
特高がもっとも残忍性をあらわにした時期で、
1933年には戦前でも最多の19人が拷問で虐殺された。

安倍は戦後、A級戦犯容疑で拘置された。
957日本@名無史さん:2006/01/04(水) 20:37:05
でもお咎め梨で釈放やん。
958日本@名無史さん:2006/01/05(木) 07:07:24
東条の対抗馬について語ってください
959日本@名無史さん:2006/01/05(木) 09:05:01
安倍は敗戦前の内相、8月14日最後の御前会議でポツダム宣言受諾に際し
受諾反対の陸相、両総長の意見陳述に続いて反対意見を述べようとしたが
鈴木首相にさえぎられて発言できなかった。
960日本@名無史さん:2006/01/05(木) 15:18:06
ちなみに安倍の息子、安倍基雄も政治家。
東大法学部卒業後、大蔵省入省。大蔵省官房審議官を経て、衆議院議員。
細川内閣の文部政務次官。民社党副委員長を経て、新進党に入党。
新進党解党に伴い自由党に入党。最後は自民党だったはず。
961日本@名無史さん:2006/01/05(木) 20:38:13
終戦後の阿南の次に陸軍から推薦された陸相は土肥原だったらしいね?
東久邇首相宮に却下されたらしいけど。
962日本@名無史さん:2006/01/05(木) 23:09:42
梅津参謀総長と土肥原教育総監が話し合って土肥原が出ようと言うことになった。
963日本@名無史さん:2006/01/06(金) 06:46:57
河辺次長といい統帥部は敗戦で刷新されていないんだよな
964日本@名無史さん:2006/01/07(土) 01:34:18
敗戦で刷新する必要が最早無かったでしょうに
統帥部
965日本@名無史さん:2006/01/07(土) 21:59:56
終戦処理会議(大本営政府連絡会議→最高戦争指導会議の後継)

東久邇宮首相、下村陸相、米内海相、重光外相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長、近衛国務相

下部機関に終戦事務連絡委員会
966日本@名無史さん:2006/01/12(木) 08:50:04
sage
967日本@名無史さん:2006/01/13(金) 06:55:43
近衛に代わる貴種系政治家はいないんですか?
968日本@名無史さん:2006/01/14(土) 13:02:05
それより東条でなく及川に大命降下していたらどうなっていたんだろうか?
開戦せずに済んだ?
969日本@名無史さん:2006/01/14(土) 13:21:01
すんだ。
970日本@名無史さん:2006/01/14(土) 14:20:10
sage
971日本@名無史さん:2006/01/16(月) 03:45:42
>>968
あんなのに大命が下るワケがない
972日本@名無史さん:2006/01/16(月) 14:35:54
プゲライオンwwwwwプオウオポウッポプオポポウwww
973日本@名無史さん:2006/01/16(月) 20:22:59
次スレどうするの、近代板へ行く?
少し切り口変えないとだいたい語り尽くしたような気がするんですが・・・

とりりあえず、近代板で

【キングメーカー】 歴代内閣成立を語るスレ 【大命降下】

みたいな感じでどうでしょうか?これでは全然別テーマのスレになるか。
974日本@名無史さん:2006/01/17(火) 14:24:00
あげ
975日本@名無史さん:2006/01/19(木) 15:36:22
湯浅が生きていればなあ
976日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:39:14
sage
977日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:39:56
sage
978日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:40:30
sage
979日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:41:52
sage
980日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:42:46
sage
981日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:44:04
sage
982日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:45:55
sage
983日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:46:49
sage
984日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:47:21
sage
985日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:48:07
sage
986日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:49:49
sage
987日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:50:55
sage
988日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:51:28
sage
989日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:51:52
sage
990日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:52:24
sage
991日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:53:10
sage
992日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:53:58
sage
993日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:54:31
sage
994日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:55:04
sage
995日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:56:20
sage
996日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:56:54
sage
997日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:57:27
sage
998日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:58:10
sage
999日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:58:55
sage
1000日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:59:27
sage
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