1 :
◆0gHjoNa/tU :
2 :
◆0gHjoNa/tU :04/05/11 16:45
新スレたてました
3 :
日本@名無史さん:04/05/11 16:47
3
5 :
日本@名無史さん:04/05/11 19:59
前スレ
埋めようぜ
「三戦板に行け」「思い込みです」「うざい」は使用禁止です。
放置して下さい
10 :
◆0gHjoNa/tU :04/05/12 17:56
じゃあネタ
島津隊はなぜ最後まで動かなかったか
11 :
日本@名無史さん:04/05/12 18:03
三成と喧嘩していたから
12 :
日本@名無史さん:04/05/12 18:07
うわーつまんねぇー
14 :
日本@名無史さん:04/05/12 22:54
島津が西軍にいたのは家康とコミュニケーションがとれなかったからだろ
だからしょうがないから西軍についた
まあそういうことがあったから動かないのはしょうがないと思う
で、最後に家康本陣を狙ったのは家康に裏切られたと勘違いしたから
17 :
日本@名無史さん:04/05/13 19:33
age
>>16 要するに島津はやる気がなかったと。
でも最後の最後に「家康に裏切られたと勘違い」って・・・・これはどーゆーこと?
やる気がないヤシは何やってもダメ(´・ω・`)
いみがわからねぇ
22 :
日本@名無史さん:04/05/14 15:07
>>18 つまり伏見城の守備のやつです
あれを裏切られたと勘違いしたんだと思いますよ
24 :
日本@名無史さん:04/05/14 21:20
あげ
25 :
日本@名無史さん:04/05/14 21:31
島津は関ケ原前夜に、闇討ちを提案したけど、戦況を甘く見ていた三成が反対した。だからやる気が無くなったらしいよ。
26 :
日本@名無史さん:04/05/14 22:06
三成は、福島ら七将の追及から逃れたいだけ、関ヶ原では黒田、細川と馴れ合いの合戦ごっこ。いつでも、家康にしっぽ振って、
守ってくれるなら西軍の他の連中を裏切りマース。途中で話まとまりかけて、佐和山城に引き返した。
ホンとの中心人物は、小西行長と明石全登のキリシタンと東軍の元宇喜多の戸川肥後、浮田左京ら法華門徒だ。
27 :
◆0gHjoNa/tU :04/05/14 22:59
すいませんが先に前スレ埋立ましょうか
>>23 >>25 行き違いがあったり、自分の意見が通らなかったりして、
やる気をなくしてしまうのは実社会ではよくあることだけど・・・。
でも、義弘が真に名将なら、与えられた状況で後悔のないよう
全力を尽くすことを考えるんじゃないかな?
30 :
日本@名無史さん:04/05/15 06:00
秀忠軍が間に合っていたら徳川勢主体で戦って徳川系大名の所領拡大が防げたろうか?
>30
?
32 :
日本@名無史さん:04/05/15 12:15
秀忠軍が間に合っていたら前線指揮官の数が揃うので前面に押し出して使ったのでは?
史実では間に合わなかったので豊臣系の各大名を前線で戦わせた結果、
恩賞によって豊臣系大名の勢力が拡大された。
33 :
日本@名無史さん:04/05/16 11:03
吉継が三成に忠告したと伝えられる発言について、
「へいくゎい」を「横柄」などと漢字を当てているけど、違うんだよな。
へい‐かい【平懐】
へいかい(‥クヮイ)
(「へいがい」とも)
1 ふだん思っていること。平素の考え。また、それを述べること。
2 (形動)無遠慮なこと。とりつくろわないこと。
3 (形動)歌学で、発想や表現などが平俗で陳腐であること。連歌・俳諧でもいう。
三成は「思ったことを口にしてしまう性格」ってことらしい。
確かに残された書状を見る限りでは、
計画をぎりぎりまで知らせなかったことを素直に謝ったり(真田あて書状)、
家康を討ち果たす秘策ありと威勢のいいことをいった(佐竹あて書状)と思えば、
増田長盛を信じ切ってくどくどと愚痴をこぼしたり(増田あて書状)している。
傲岸不遜というより、むしろ率直でお調子者な印象を受ける。
三成が傲慢だったのは捕虜になり処刑されるまでのエピソードぐらいじゃないかな。
34 :
日本@名無史さん:04/05/16 11:12
没収した西軍領の80%が豊臣系東軍大名に加増された。
徳川系大名が戦っていれば潜在的敵対勢力の成長を許すことはなかったであろう。
35 :
日本@名無史さん:04/05/16 21:18
ここらで問題を整理したいのですが
実際三成首謀説というのはどこまで真実なんですかね?
ほとんどが家康方に有利なように話が捏造されているんでしょうが
三成程度の大名が役職も追われた上であの戦闘をプロデュースできたとは
どうしても信じられないのですが
山城が上杉挙兵により家康を挟撃するという策をどこまで推したのか?
伊達に後ろを脅かされて動けなくなるのは戦闘以前に分かり切ったこと
だと思うのですが、その上杉にどのような勝算があったのかも謎
そもそも三成案では上杉が動かなければ戦線維持さえ困難ですよね?
三成の力量で毛利を動かすことは不可能であり
曲がりなりにも西軍総大将の任に付きながら
大阪城から一歩も出ずに撤退してしまうという愚挙も謎
戦況眺めであるならばそもそも戦闘前に仲介するほうが
政権全体にとってもコスト面からもずっと得策だと思うのですが・・
結局三成の描いた家康打倒策とは真実どういったものだったのか
その策に乗ってどの勢力がなにを目的に動いたのか
そのへんがどうも釈然としないのです
もしほとんどの大名が家康の勝利を初めから予測していたなら
あれほどの大イベントにはならず、最初から家康に組するほうが
保身を考えてもずっと良策だと思うんですよね
つまり裏切りを画策して心身を消耗させるより
初めから家康支持に回っていれば戦う必要もないわけで
もっと言えば最初から三成ごときの策に乗る必要性もないですよね
36 :
日本@名無史さん:04/05/19 18:56
>>35 確かに上杉と毛利の愚挙は結果論的にみれば謎だな
三成は上杉と呼応して挙兵したはずだが
実際には上杉は動けず、なんの戦力にもならなかったからね
毛利も戦わずして大幅に減封される始末だし
たんにヘタレだったってことか?
このへんはよく分からん
37 :
日本@名無史さん:04/05/19 22:58
関ヶ原が一日で解決するという意外性故の誤算
38 :
日本@名無史さん:04/05/19 23:19
>>37 実際はどのくらいの期間を見込んでたんだろうね
そしてその場合のグランドデザインは実質誰が描いていたんだろうか
39 :
日本@名無史さん:04/05/19 23:22
当時の決戦は平地に出た場合い短期決戦だと思う。
40 :
日本@名無史さん:04/05/21 15:12
だいたいやねー三成は文官じゃないの
文官が前線に出てきたことが間違いじゃないの
前線には島左近を当ててたらよかったんじゃないの
三成は大坂城に居座って毛利のケツを叩いたらよかった
41 :
日本@名無史さん:04/05/21 17:34
三成は実戦経験あるよ
ああ、あの忍城で
女子供だけの軍勢にしたいようにやられたという
あれねw
43 :
日本@名無史さん:04/05/21 18:24
忍城攻めは仕方がないよ
あれは甲斐姫が異常に強かっただけ
真田親子ですら蹴散らされたんだから
44 :
日本@名無史さん:04/05/21 18:24
朝鮮で激戦を戦い抜いてるっつーの
ちゃんと勝ってるのか?
小西行長みたいに
裏金は送ってるは+しかも取られ損だわでは目も当てられねえぞ。
46 :
日本@名無史さん:04/05/21 19:27
小西は自らの失態を隠すために
先駆け一番乗りを目指してただけ
あれを戦っていたといえるか?
>>40は
>>35と微妙にリンクしてるね
なぜ三成は自ら前線に張り付いたのか?
毛利とともに全軍の指揮を支えるべきだったのに
これって、やはり三成が主軸ではなかったってこと?
三成が前線いて目を光らせないとただでさえやるき無し男続出の西軍さらにやるきなしおになるだろ。
名将左近といえども身分が低いから前線の指揮は握りにくい。
49 :
日本@名無史さん:04/05/21 20:36
三成は奉行職には復帰しなかったのかな?
公職についていた方が何かと便利だったと思うのだが
そんな気さらさらなかったのか、復帰させてもらえなかったのか
>>49 奉行に復帰させる権限(そんなものがあるのか不明だが、
増田・長束・玄似の三奉行にはないはず)のある人間が
大阪にいなかった。
五大老の過半の要請があれば叶うのかもしれないが、
三成の隠居は自発的なものだったと思われる。
そもそも、隠居を撤回させ、家督を戻させるなどという荒業は
秀吉以外には無理っぽいな。
51 :
日本@名無史さん:04/05/22 11:48
>>50 家督?
じゃぁ、石田家の家督は誰だったのさ?
非常時で家康もいないから、二大老・三奉行が同意し
秀頼の名で発すれば奉行復帰くらいできんことはないだろ
52 :
日本@名無史さん:04/05/22 13:22
8月2日付けの真田昌幸あての連署状は、
宇喜多秀家・毛利輝元・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家
の署名順となっている。
それ以前に「大老」と「奉行」が同一文書に連署した事例はなく、
「内府ちがいの条々」もそうだが、同趣旨でも書状は分けて書かれるのが普通。
三成が奉行に復職したというより、西軍挙兵・伏見落城を受けて、
この六人衆による新体制に移行したと考えるべきなんだろうな。
54 :
日本@名無史さん:04/05/24 11:15
こんにちは。日本史板初登場です。
自分は岐阜に住んでいるということもあって、関ケ原の古戦場には2回行った事があります。
超、好きになりました。岐阜人でも関ケ原に行く人は少ないんですよ。
石田三成の陣跡の、あのナレーション、聞きましたか?小早川の裏切りが鮮烈ですね。
すごいお気に入りスポットになったので、これから何回も行くつもりです。
っていうか、日本史ってかなり楽しいものだと再認識しています。
高校時代は漢字が多すぎてイヤだと思って世界史を選択しましたが、やっぱり
20代後半になってくると、自分のルーツを知りたくなって歴史に興味を持ちました。
今、日本ブームですしね。もちろん、「ラストサムライ」は見ましたし、武士道
も読んでいます。いやあ、古戦場って楽しいですねえ!!
最後の激戦地があって、辺りは野原なんだけど、400年前に武士達がここで
命をかけて闘っていたのだ!!と思うと、なんだか熱くなってきます。
400年たった今も、資本主義の世の中で、壮絶なマネーゲームが行われています。
命をかけて闘った武士に負けないように、このマネーゲームに勝ちたいと思います。
武士道よ!、蘇るのだ!!
55 :
日本@名無史さん:04/05/24 12:36
関ヶ原で西軍が負けたとき東軍の秀吉恩顧の武将(加藤とか福島)達は格別嬉しかっただろうね
憎き三成も首を取られて万歳三唱状態だったんだろうね
56 :
日本@名無史さん:04/05/24 14:40
ちょっと聞きたいんですけど、関ヶ原合戦が終わった後に、豊臣家が200万石
から68万石に減封されてますが、家康はどうやってこの減封を決めて実行した
んだろう?上杉征伐に出発する時には一応、臣下として秀頼に伺候してから出撃
していった家康が、帰ってきたらいきなり主家の減封を主張して実行する立場に
いるのは妙な気がするんだけど。どういう理屈をつけて実行したんだろ?
57 :
日本@名無史さん:04/05/24 16:27
関ヶ原の勝者が家康でも豊臣家の減封をまともに実行できないでつよ
家康は豊臣政権下で五大老の義務として上杉征伐に向かった正統な遠征軍
西軍大名は反乱軍であり取り潰し、減封されるのは当たり前
ここではさらに、関ヶ原はいわば豊臣政権下での内紛処理でありまつから、事後処理は豊臣家の200万石の持分
(所領・家政)から東軍諸大名の論功行賞を行うのが筋でツ
外から見るとこれは減封されたのと同じでつがね
58 :
日本@名無史さん:04/05/24 19:06
なるほど。よく分かりました!
59 :
日本@名無史さん:04/05/24 19:40
全国各地に点在した蔵入地を恩賞として与えるのは
関ヶ原以前にも家康が行っているね
島津に出水領、細川に杵築領・・・他にもあったかな
60 :
日本@名無史さん:04/05/24 22:08
しかし福島筆頭に本音はどこにあったんだろうね
家康に荷担して豊家が大減封
自らの足下が揺らぐことなんて明らかなのに
三成の首を取って狂喜乱舞してたとしたら
知能を疑うほどアホな奴らなんだが・・・
>>60 俺は三成信者だが、正則は巷間言われているような武辺一辺倒の
馬鹿ではなく、充分に政治的感覚を持ち合わせていたと思っている。
家康が野心を露わにしたら、俺が諸大名を糾合して内府の首を取る
と考えていたのだと思うし、関ヶ原当時の正則なら夢物語でもない。
62 :
日本@名無史さん:04/05/25 10:07
秀吉の死後、加藤ら豊家武闘派は積極的に家康に傾倒しているよね
新たに縁戚関係までも持つわけで、豊家の立場が危うくなる方向に自ら動いている
これが彼らの政治的感覚で三成らに対峙するとしたらいささかお粗末だよね
63 :
日本@名無史さん:04/05/25 19:32
関ヶ原で小早川の軍がもし裏切らなかったら・・?
64 :
日本@名無史さん :04/05/25 20:27
>>63 裏切らなくても動かなければ東軍の勝ちだろう。
>64
甘いな。
生まれ変わった不気味な体
狸な悪魔を叩いて砕く
ギョウブがやらねば誰がやる!
御輿の上から東軍の真ん中に飛び跳ね
暴れまくる大谷吉継萌え。
東軍なぞあっというまに崩壊です。
67 :
日本@名無史さん:04/05/26 17:33
>>61 つまり問題は反三成同盟の中に家康の野心を見抜いていた
ヤツはいたのか?ってことが重要なんだよな
「三成を葬ったところで豊家は揺らぎもせんわ」と思ってたのか
「この行動が豊家をつぶすことになるかもしれんが、わしは家康についていく」だったのか
とくに福島加藤は割り切れない態度で本音が分かりづらい
68 :
日本@名無史さん:04/05/26 17:50
三成の危惧する展開というか、秀吉子飼いの武闘派が秀吉亡き後の態勢を家康寄りに持っていこうとしたことは
どこかおかしいと思う
徹底した反三成だからそうなったのか
あるいは家康による篭絡工作がそこまで徹底していたのか
皆さん、どう思います
69 :
日本@名無史さん:04/05/26 18:47
豊臣政権の特徴として、徳川幕府もやった「国普請」などの外様大名の弱体化政策
が豊臣恩顧の大名ばかりが負担する構造になっていたことがことがあげられる。
巨大公共事業をやって求心力をつけるのと同時に強すぎる外様大名の力を削減する
こと自体は正しいのだが、問題はこれを家康が極力サボったことにある。
さらに、自分たちもサボりたい外様大名は家康によしみを通じて一緒にサボろうとする。
こういう状況で、求心力維持のため巨大公共事業がやめられないとなると、負担は自然と加藤
福島黒田などの子飼いの大名に集中してくる。
こういう状況の中、朝鮮出兵でも負担は子飼いの武将ばかり。
秀頼の名の下、三成が政権をとり続けたら、こんな状況が続くどころか更に悪化するかもしれない。
それなら、「国普請の負担削減」「無駄なことはやめる」という政策を掲げているように「みえた」
家康に豊臣政権内の派閥争いとしてつくことは悪くはないと考えたんだと思う。
で、家康が実際掲げているように「みえた」政策は天下取りのためのポーズで、実際は自分が天下取りを
するわ、もっと露骨な大名の財政窮乏化政策をやってるときずいた時は時既に遅しという状況になってしまったのだと思う。
70 :
日本@名無史さん:04/05/26 19:45
>>67 細川や池田みたいに、秀吉子飼でない武将は、
「この行動が豊家をつぶすことになるかもしれんが、わしは家康についていく」派が多かったかも。
細川なんか、まちがいなくこちらだと思う。
俺は外征に疲れた国内を立て直すために
しっかりとした政権が欲しくて家康に天下を売ったと思う。
ただし、豊臣は織田家のように存続していくことが
前提にあったであろう。
72 :
日本@名無史さん:04/05/27 01:59
つまりあくまで党内派閥の政権委譲だと思ってついていったら
党自体ぶっ壊されて新党新政権を打ち立てられちまったということか?
ただし加藤や福島の末路を考えると見通しが甘すぎたよね
福島らは「三成らの奉行連中を排除しなければ、三成ら奉行と犬猿だった自分達の身が危ない」と感じていたのかもしれんしなぁ
家康がことさら勝手に姻戚関係を結ぼうとしていたのは、家康自身と他の大老・奉行との対立を作り上げ
武断派と呼ばれる連中に、家康以外に頼れる人間がいないという風な状況にしてたのかもしれん
上杉征伐の遠征時に西軍が挙兵したのを知れば、
福島らは「自分達はやはり豊臣政権から、それ以上に大名としても排除される」と言う危機感に煽られて
東軍として必死に戦わざるをえなくなる
けど西軍の大半は、もともと家康と対立しようと考えてなかったようだし
そうなると、やはり関ヶ原での東西両軍の戦意の差は如何ともし難いように思えるね
74 :
日本@名無史さん:04/05/27 08:10
中納言秀家をあまり語ってないのが寂しい・・・・・。
75 :
日本@名無史さん:04/05/27 14:05
>>74 秀家はお家騒動がかな〜りまずかったからなあ。。。
76 :
日本@名無史さん:04/05/27 19:10
中納言秀信をあまり語ってないのが寂しい・・・・・。
結果的に三成の行動は全て裏目ということか
寂しい・・・・・。
良く言われることだが、家康と親しかった高台院の隠然たる影響力が鍵かも
側室の淀殿と三成、長束や小西はいずれも近江出身
高台院と清正、正則、浅野長政、池田輝政は尾張出身
そして小早川秀秋は高台院の甥だ
秀吉亡き後、豊臣家が近江の計算高い連中に乗っ取られたように
思えたところに、高台院が家康を暗に支持したとしたら、ね
秀頼自身が下知したら話は違ったろうけど、子供だったからね
>78
東軍の藤堂高虎や田中吉政も近江出身。出身地は言われるほど関係ない。
80 :
日本@名無史さん:04/05/29 07:31
豊臣家の戦い
81 :
日本@名無史さん:04/05/29 08:05
>>78 池田は、本来、秀吉から見て主筋だから、秀吉がいなくなったたら
フリーハンド、高台院の縁というより、嫁の縁で徳川についたと思われる。
82 :
日本@名無史さん:04/05/29 17:19
どうして主筋になる?
池田は同僚だわな
84 :
日本@名無史さん:04/05/30 01:04
小沢一郎 =石田三成
加藤、福島ら =旧社会党
徳川家康 =自民党
とりあえず、小沢=三成憎しで、徳川=自民党と同一歩調で、小沢=三成をつぶす。
が、散々吸い尽くされて、結局あぽーん。
所詮人間は感情の生き物。
>>69 個人的に、一番不思議なのは朝鮮の役に徳川軍が全く参加
してないことだなぁ。
当時の力関係では、秀吉と言えども家康に無茶はさせられなかった
のか ? とは言え、東海から関東にあっさり国替えをさせているんだ
から出来なかったとも思えないんだけど…。
徳川は出陣を密約免除された代わりに出兵に賛成したと言われている。
87 :
日本@名無史さん:04/05/30 12:32
朝鮮に出兵しなかった大名は他にも居るのか?
三成も軍監として渡っているし戦闘に加わっていたはず
蒲生氏郷は直前に死去したよな
前田利家も行ってないよね。
つか、行っていないヤツ多いだろ。
90 :
日本@名無史さん:04/05/30 13:41
東国・北国の大名はほとんど行ってないんじゃないか?
小田原征伐の後だからね。
関東東北の大名は後詰めです。
92 :
日本@名無史さん:04/06/02 09:23
秀長の遺領は誰が継いだの?
93 :
日本@名無史さん:04/06/02 09:28
流石兄弟参上
さすがだな俺ら・・・・・
>>92 養子の秀保(秀吉・秀長の姉・ともの息子、小早川秀秋の兄弟)が継ぎました。
しかし、1594年(文禄3年)秀保も若くして急死、秀長家は断絶。
その領土は豊臣譜代に分割してわけられています。
ちなみに秀保の急死についてですが、
実は病死ではなく衆道のもつれで愛人の小姓に斬り殺されたという説が有力です。
>>94 あっ、間違えた。
豊臣秀保は小早川秀秋の兄弟じゃなくて、豊臣秀次の兄弟(弟)ですた
スイマソン
>>94 小姓に抱きかかえられて崖から転落したという話じゃなかったか?
97 :
日本@名無史さん:04/06/07 11:06
age
[関ヶ原西軍甲]
主戦場にて対東軍との戦闘を基本的には行った部隊
{北国街道}----------9800
石田三成(6000)
伊藤盛正(900)
岸田忠次(300)
豊臣旗本衆(1000)
島津義弘(800)
島津豊久(800)
{天満山}-----------23220
小西行長(6000)
宇喜多秀家(17220)
{中山道}------------2910
戸田重政(300)
平塚為広(360)
大谷吉継(1500)
木下頼継(750)
-----------------------------
【純西軍計】 35930
[関ヶ原西軍乙]
主戦場にて東軍に寝返り、対西軍との戦闘を結果的には行った部隊
{松尾山麓}----------4290
赤座直保(600)
小川祐忠(2100)
朽木元綱(600)
脇坂安治(990)
{松尾山頂}---------15600
小早川秀秋(15600)
-----------------------------
【叛西軍計】 19890
[関ヶ原西軍丙]
主戦場とは遠い南宮山山頂・山麓に布陣していたため、
いわゆる"関ヶ原の戦い"に西軍として参戦しなかった部隊
{南宮山}-----------
吉川広家(3600)
毛利秀元(16000)
安国寺恵瓊(1800)
長束正家(1500)
長宗我部盛親(6660)
-----------------------------
【不西軍計】 29560
[関ヶ原東軍甲]
主戦場にて対西軍との戦闘を行った部隊
{北国街道方面}-----19250
黒田長政(5400)
細川忠興(5000)
加藤嘉明(3000)
筒井定次(2850)
田中吉政(3000)
{天満山方面}-------12600
福島正則(6000)
井伊直政(3600)
松平忠吉(3000)
{中山道方面}--------7890
藤堂高虎(2490)
京極高知(3000)
寺沢広高(2400)
{桃配山}-------34840
古田重勝(1020)
織田有楽(450)
金森長近(1040)
生駒一正(1830)
本多忠勝(500)
徳川家康(30000)
-----------------------------
【純東軍計】 74580
[関ヶ原東軍乙]
主戦場とは遠い南宮山山頂・山麓に布陣していたため、
いわゆる"関ヶ原の戦い"に東軍として参戦しなかった部隊
{南宮山方面}-------14490
有馬豊氏(900)
山内一豊(2520)
浅野幸長(6510)
池田輝政(4560)
-----------------------------
【不東軍計】 14490
103 :
日本@名無史さん:04/06/07 14:35
西軍85,380のうち、
正面戦力の35,930(西軍の42%)が戦いました。
松尾山の19,890(西軍の23%)が寝返りました。
南宮山の29,560(西軍の35%)が遊んでました。
東軍89,070のうち、
正面戦力の74,580(東軍の84%)が戦いました。
南宮山方面の14,490(東軍の16%)が遊んでました。
東軍の正面戦力74,580は、西軍の正面戦力35,930の約2.08倍に相当します。
104 :
日本@名無史さん:04/06/07 14:57
105 :
日本@名無史さん:04/06/07 18:39
グッジョブ!!!
106 :
日本@名無史さん:04/06/08 21:39
大津城攻略部隊は、もっと早く引き揚げて関が原に向かっていれば良かったのに・・・
大津城篭城部隊が追撃してくるわけないからね
107 :
日本@名無史さん:04/06/08 21:51
松尾山の西軍が最後まで動かずに、かつ南宮山の西軍が家康の背後に攻めかかれば
結果は、どうなっただろう?
108 :
日本@名無史さん:04/06/12 00:49
つーか結局なんで野戦にもちこんだのか?ってことだよな
109 :
日本@名無史さん:04/06/12 10:00
結局三成の戦略としては、主戦場を大坂城からできるだけ距離を置きたかったんだよ
そこらの駆け引きに終始したということだろう
110 :
日本@名無史さん:04/06/13 23:45
宇喜多秀家26歳、戦場では大谷先輩と共に一番働いたッス!!
小西行長も頑張ったよ。
112 :
日本@名無史さん:04/06/14 09:46
毛利もどっかと構えて微動だにしなかった
凄いよな
[関ヶ原西軍甲]
主戦場にて対東軍との戦闘を基本的には行った部隊
{北国街道}----------9800
石田三成(6000)
伊藤盛正(900)
岸田忠次(300)
豊臣旗本衆(1000)
島津義弘(800)
島津豊久(800)
{天満山}-----------23220
小西行長(6000)
宇喜多秀家(17220)
{中山道}------------2910
戸田重政(300)
平塚為広(360)
大谷吉継(1500)
木下頼継(750)
{松尾山}----------19890
赤座直保(600)
小川祐忠(2100)
朽木元綱(600)
脇坂安治(990)
小早川秀秋(15600)
{南宮山}-----------29560
吉川広家(3600)
毛利秀元(16000)
安国寺恵瓊(1800)
長束正家(1500)
長宗我部盛親(6660)
-----------------------------
【純西軍計】 85380
[関ヶ原東軍甲]
主戦場にて対西軍との戦闘を行った部隊
{北国街道方面}-----19250
黒田長政(5400)
細川忠興(5000)
加藤嘉明(3000)
筒井定次(2850)
田中吉政(3000)
{天満山方面}-------12600
福島正則(6000)
井伊直政(3600)
松平忠吉(3000)
{中山道方面}--------7890
藤堂高虎(2490)
京極高知(3000)
寺沢広高(2400)
{松尾山方面}--------4840
古田重勝(1020)
織田有楽(450)
金森長近(1040)
生駒一正(1830)
本多忠勝(500)
{桃配山}-------37830
森忠政(3810)
榊原康政(3000)
本多忠政(3000)
奥平家昌(2400)
石川康長(2400)
仙石秀久(1710)
大久保忠常(1350)
酒井家次(900)
真田信幸(810)
日根野吉明(750)
小笠原忠政(600)
菅沼忠政(600)
牧野忠政(600)
諏訪頼永(360)
本多正信(300)
戸田一西(150)
酒井忠利(90)
徳川秀忠(15000)
{南宮山方面}-------14490
有馬豊氏(900)
山内一豊(2520)
浅野幸長(6510)
池田輝政(4560)
-----------------------------
【純東軍計】 96900
西軍85,380のうち、
正面戦力の85,380(西軍の100%)が戦いました。
東軍96,900のうち、
正面戦力の96,900(東軍の100%)が戦いました。
これは家康の代わりに秀忠が参戦していて、かつ両軍とも裏切りが無かった場合の想定です。
徳川の本隊が到着しているので、東軍が圧倒的優位かと思われます。
118 :
日本@名無史さん:04/06/14 22:28
>>113-117 欠落している武将が多いな。
データ厨の唯一の取り得である病的な細かささえ欠いているの
だから真性馬鹿と呼ばれても文句は言えないだろう。
馬鹿は三戦板から出てくるな!
121 :
日本@名無史さん:04/06/18 06:10
EURO 2004
>>120 > 馬鹿は三戦板から出てくるな!
それでは、早速貴方様はお帰り下さるようお願いいたしまつ。
123 :
日本@名無史さん:04/06/30 13:45
あげ
124 :
日本@名無史さん:04/07/08 14:16
保存age
125 :
日本@名無史さん:04/07/17 01:03
>>78 実は西軍の黒幕は北の政所であったらしいことが最近分かってきた。
秀吉亡き後、家康の野望に危機感を抱いた北の政所は淀君に家康を警戒する
よう警告するが、家康が豊臣のために働いてくれるものと信じて疑わない
淀にまったく受け入れられず、欲求不満の日々を送る。
そんな折、家康が大軍を引き連れて家康が上杉討伐に向かうことになる。
これを千載一遇のチャンスと見た北の政所は、小早川秀秋、宇喜多秀家ら
身内の有力武将に決起を促す。
北の政所を母と慕う秀家は、さっそくこれを受け入れ挙兵の準備をする。
が、五大老の一角とはいえまだ若い彼は、家康に対抗しうる勢力を
結集するには力量不足だ。
そこで頼ったのが石田三成である。三成ははじめ、今ここで事を起こせば
家康の思う壺であり、豊臣家を危機に陥れるだけだと難色を示すが、
秀家の並々ならぬ決意に押され、それならば協力いたしましょうと、
ついに折れることになる。そして持ち前の人脈と交渉力をもって瞬く間に
家康に匹敵する大勢力を結成する。以下はほぼ史実のとおり。
126 :
日本@名無史さん:04/07/17 01:04
※三成−北の政所 不仲説というのは誤りらしい。
三成は三女を北の政所の養女に出したことが知られているが(しかも
秀吉死後)、このことからも分かるように、二人はかなりじっ懇な
間柄だったようだ。秀吉の死後もたびたび会見を行ったと記録されて
いる。
※三成−淀君 親密説というのも根拠がないらしい。
三成にとって淀は、単なる主君の側室、程度のものだったのだろう。
関が原合戦当時、淀はむしろ家康に全幅の信頼をよせていたようだ。
127 :
日本@名無史さん:04/07/17 02:00
>>113-117 大津勢・鍋島勢・舞鶴勢・大坂勢が入っていない
秀忠だけいれるのは不公平だ
鍋島は関が原の時どこほっつき歩いていたんだろ。w
129 :
日本@名無史さん:04/07/17 14:56
131 :
日本@名無史さん:04/07/18 20:53
>>125-126 大変面白いとおもうんですが・・突っ込むと、
大阪城の西の丸を家康に譲り彼の専横を助長したのは彼女だし
西軍の最大の敗因の一つは北政所の甥の金吾だし
前田の芳春院の江戸下向での介入やら加藤清正への働きかけやら
北政所が首謀者とするなら、もっとましな事前準備できたんじゃ
ないでしょうか?
最悪彼女が大阪に戻り秀頼名代として動けば東軍への同様は
もっと凄いもんだったでしょう。
ちゅうわけで今更ですが北政所の西軍首謀説は無理
とマジレスしてみるぽ。
132 :
日本@名無史さん:04/07/18 20:55
>>東軍への同様は
東軍への分断工作ですた。
>>129 たとえ
>>125の書き込みがそのページの鵜呑みだとしても、その説を否定するためには
>>129 自身が『梵舜日記』という一次資料に目を通した上でその引用が原資料に存在しない捏造で
あるか、明らかな誤読に基づく誤った解釈であることを立証すべきであると思われ。
通常の学会誌や啓蒙書より専門的な書籍の記述であれば、そうすることなしに相手の意見を
頭ごなしに「鵜呑みにしただけだろ?」と否定することは不可能なり。
「ここは2ちゃんだし」という意見もあるのは承知しているが、いやしくも学問板と称している以上
読者としてはもっと実証的な反論をキボン。
134 :
日本@名無史さん:04/07/19 16:01
>>133 君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない
つーか、その大人気ないムキになる言動から推察するに、おまい伊達遠江守家中だろ?(w
135 :
日本@名無史さん:04/07/20 00:32
>>133 やーい、また性懲りもなく思い込みでつか?(w
136 :
日本@名無史さん:04/07/20 00:36
>133に同意。>134や>135は反論したいのなら、
実証的に説明せよ。
137 :
日本@名無史さん:04/07/20 21:47
そうですね。
どうみても134,135の方には説得力もナンもない。ただの煽りに
しかみえん。
138 :
日本@名無史さん:04/07/21 00:22
139 :
日本@名無史さん:04/08/01 13:42
夏age
まったく思い込みが多いやつらだぜ(´・ω・`)
141 :
日本@名無史さん:04/08/02 20:14
143 :
日本@名無史さん:04/08/11 18:33
上杉が打って出たら?
妄想小説以外で上杉が打って出るのは無理でしょう。
上杉は、この漏れ様ほどの判断力と決断力、それに行動力が
無いから、打って出るのは無理だな(´・ω・`)
146 :
日本@名無史さん:04/08/15 00:19
>>145 君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない
三成が挙兵時期を遅らす。家康としては三成挙兵を待ってるわけで上杉とは本格的戦闘には入ってない。ここで三成はひたすら我慢。家康も引き伸ばしには限界があるだろうし、上杉と開戦。その後に挙兵してちょ
148 :
日本@名無史さん:04/08/15 08:59
あ、それいいね。
三成が挙兵しない。
三成は、家康が待っていることを承知で挙兵したという説があるけど、
その裏をかいて挙兵しない。諸将に檄文を送らない。何もしない。
上杉と密約が無かった説をとれば、上杉を見殺し。
戦後の論功行賞で旧上杉領120万石を武功があった武将に分配。
福島ら豊臣恩顧の武将が主力だから、そいつらの領地を加増。
たった120万石だから、あっというまに分配されつくす。
しかも上杉以外はみんな味方同士なので、封土を移封される武将は少ない。
会津辺りでちょこっと異動がある程度。
家康は、逆臣上杉討伐で名声が上がるが、戦後は秀頼と淀君にほめても
らって、それで終わり。
秀秋は長生きして一族反映するだろうね。
秀家は30、40になれば世の中を知るだろうから、豊臣家を支える
重鎮になるだろうね。
三成は佐和山で隠居したままおとなしく何もしない。それで石田家も続く。
149 :
日本@名無史さん:04/08/15 10:39
>>148 それで終わりになるかどうかは分からんな
次は毛利あたりがターゲットになるかもしらんわ
150 :
日本@名無史さん:04/08/15 11:11
デブタも老衰で死ぬしね!
秀忠じゃ(ry
151 :
日本@名無史さん:04/08/15 22:56
まあ、関ヶ原の戦いが起こらなければ、井伊直政が三成の旧領を治める
こともなかったろうから、彦根城は無かっただろうね。
池田輝政も西国で大大名になることはなくて、姫路城は無かった。
加藤清正は肥後半国のままだから、熊本城の増改築も無かった。
でも、家康のことだから、北条氏が源氏から政権を奪ったような手口で
豊臣氏から政権を奪うことになったのではないかな。
秀頼が関白になって、将軍として秀頼を補佐するという形。
豊臣氏が源氏みたいに絶えてくれれば好都合だし、豊臣氏が続いても、
象徴的な存在として有名無実化してしまうことも出来るはず。
三成の戦下手として忍城攻めの失敗がよく上がるけど、
あれって秀吉が手紙で指図してたんでしょう?
まぁ現場指揮官として秀吉の判断に逆らえなかったのが
ダメと言われればそれまでだけど。
153 :
日本@名無史さん:04/08/16 08:17
もし関ヶ原がなければ・・・信吉が長生き
154 :
日本@名無史さん:04/08/16 17:16
>>151 姫路城自体は池田が城主にならなくてもあったんだが。
羽柴秀吉が天守を建てた城が。
155 :
日本@名無史さん:04/08/16 17:48
156 :
日本@名無史さん:04/08/16 19:49
157 :
日本@名無史さん:04/08/16 19:54
>>151 まぁ、歴史にタラレバはないけど
もし、関が原の戦いが起きてなかったら
家康の天下撮りはもっと時間がかかった
んじゃないかな?それに、家康のお年がお年
だから豊臣家を潰せないまま、あぼ〜ん!
してた可能性が高い。そして、家康が死ねば
徳川の天下撮りは瓦解するね。
158 :
日本@名無史さん:04/08/16 20:20
でもそうすると、皆さん上杉攻めに行ってしまい刑部も隼人正を伴って行ってしまいます。大坂には三成の動かせる軍勢いるの?三家老の一人は奥州行きだろうし。
159 :
日本@名無史さん:04/08/16 20:27
三成や兼次にとって何もしないのが最善手?
160 :
日本@名無史さん:04/08/16 20:36
>>159 三成はともかく兼続は御家が潰れてしまうぞ
162 :
日本@名無史さん:04/08/16 21:27
出頭要請に応じればいいだけでは?
上杉は単独決起ではなかろ
163 :
日本@名無史さん:04/08/16 21:31
兼続にそんなにでかい戦出来たかな。最上攻めもあまり戦果無いし。すぐに家康にやられそう。どこまで迎撃案に期待できたか。革籠原って無理に見えるな。
164 :
日本@名無史さん:04/08/16 22:03
上杉の反乱と関ヶ原を戦わない場合を話しているのではないのか?
165 :
日本@名無史さん:04/08/16 22:18
ん?直江状以前まで戻って話したいの?意味分からん
166 :
日本@名無史さん:04/08/16 22:26
徳川寿命待ち勝利案でしょ?
167 :
日本@名無史さん:04/08/16 22:40
ていうか秀次を生かしておけば、そもそも起きなかった戦。黒田長政も父子問答で秀次公が生きていればどうだったかと提起してたし。
168 :
日本@名無史さん:04/08/16 23:12
関東攻めまで考えなきゃならない三成は、やっぱりつらいですね。
169 :
日本@名無史さん:04/08/17 13:26
殺生関白秀次を生かしたまま秀吉が亡くなったら、
家康になびく大名が史実以上に続出して、戦にならん。
慶長5年の段階で家康に堂々と「豊臣家討伐」の名目を与えてし
まう恐れがある。
最近は、秀次の殺生好きは濡れ衣だったという説があるが、確証は無い。
それよりも、1600年の時点で黒船が来航して通商を要求して大砲をぶっ
ぱなしてくれていたら、みんな1つにまとまって協力せざるを得なかった
ろうに。
日本が植民地になったとかいうのはともかく。
170 :
日本@名無史さん:04/08/17 20:08
>>169 1600年にはまだ蒸気機関は発明されていませんが・・・。
16世紀の西欧諸国に、日本を植民地化する力なんてないし。
そもそも、西欧諸国はまだインドや東南アジアでの覇権を争っていた時期なんだからさ。
もう少し世界史も勉強しようぜ。
それ以前に、当時は通商を拒否してないだろ
172 :
日本@名無史さん:04/08/17 20:29
いや、関白が家康を討つなら、相手は朝敵。豊臣系大名は三成主導より残っていいのでは?
173 :
日本@名無史さん:04/08/17 21:03
金もある兵もある恩義もある
足りないのは求心力だけ
秀次でも充分
>>169 まだ信管が開発されず破裂弾がないから、砲撃の被害はごく限定的
脅威にはならない
175 :
日本@名無史さん:04/08/17 22:53
ひょっとして、私達3人しかここにいないのでは
176 :
日本@名無史さん:04/08/17 23:15
じゃ、金吾(´・ω・`)を呼びましょうか;^^)
おーい、金吾タン?
遊んであげるから、おいで。
177 :
日本@名無史さん:04/08/18 15:08
関ヶ原がなくとも、秀吉遺臣団には発火点がいくつもあるような
家康の工作で戦国再編ともなる可能性は少なからずあるような
最初に三成当たりが潰されるような
179 :
日本@名無史さん:04/08/18 20:41
結局三成は、順番間違えた。家康、蒲生、秀次の順番なら始末出来た。途中まで一緒にやれる方から消してどうする。
180 :
日本@名無史さん:04/08/19 06:00
ずいぶん下がったなあげ
181 :
日本@名無史さん:04/08/19 06:36
石田三成って、どうも小役人って感じなんだな。
規則・規則一点張りで、度量がない。秀吉時代の尊大な
態度で、武闘派の怒りを買ったのは、その杓子定規な思考
にあったのだろう。「治部の野郎」と陰で恨まれて。
田中康男の名刺を縦に折って、あとでTVカメラから
逃げ回ってた役人がいたが、あんな男だったんじゃないのかな。
182 :
日本@名無史さん:04/08/19 07:18
おお、ここには鷲しかいないと思ってた。その小役人があそこまでやったと考えるとすごいのでは
183 :
日本@名無史さん:04/08/19 09:28
>>181 そんな姑息な野郎だったら
家康と堂々と戦争なんかはしないだろ
そういう小人は増田長盛とか長束正家
のような香具師だろ
184 :
日本@名無史さん:04/08/19 09:38
西軍の総大将は名目毛利じゃなかったの、大坂城にでんと座ってさ
いつの間に西軍石田三成が大将並にクローズアップされたの
大谷に、「お前は諸大名に嫌われているから前面には出るな」みたいなこといわれたんじゃないのか?
185 :
日本@名無史さん:04/08/19 17:17
うわあぁぁぁぁぁぁぁん誰かいないの?ところで戸田重政の戦いぶりってどうだったっけ?
186 :
日本@名無史さん:04/08/19 17:52
小西行長の戦いぶりは?
朝鮮で活躍したみたいだけど
187 :
日本@名無史さん:04/08/19 18:29
何か戦意が薄いイメージがあります真ん中辺りにいたはずだが。淡輪直政くらいしか拝火知らない小西って急にでかくなった感じがあります。
目でみる戦意の度合
石田>>宇喜多>大谷>小西>>>島津>‖超えられない壁‖>毛利一門・チョウソ壁
私は皆さんとは関係ない所で
自分なりに活動してました。
191 :
日本@名無史さん:04/08/19 21:51
そう言えば、直江が最上攻めてた間、景勝公は、一体何を?越後くらい落としておけば、何とかなったのでは。
192 :
日本@名無史さん:04/08/19 22:17
正宗って野心家だったんでしょ。
なんで上杉、佐竹あたりと共同して
関東に繰り出せば、家康は東西からの
挟み撃ちで一巻の終わりだったのでは?
家康が天下を取れば、正宗の野望も終わり
だろうけど、三成の西軍が勝てばまだまだ
正宗にも天下を手にする目があったんじゃ
ないかと思う。
193 :
日本@名無史さん:04/08/19 22:21
岩手の南部の働きはどないなもんだったんでしょう?
>192
上杉・佐竹も信用が置けないからな。
195 :
日本@名無史さん:04/08/20 01:17
>>182 周りから虐められ過ぎてキレたんだよ。手が付けられないくらいキレてしまったので他の大
名は渋々西軍についたのさ。
>>195 まったく三成は思慮の足りないやつだな(´・ω・`)
197 :
日本@名無史さん:04/08/20 08:52
皆さんおはようございます。あげます。今日は何人来るかな。
198 :
日本@名無史さん:04/08/20 17:09
盛り上がっていいあげ
199 :
日本@名無史さん:04/08/20 17:17
景勝と正宗のヤツ確かにそう思う。
ナンデあの時関が原向かう家康ぶっ叩かなかったんだろ?
まぁそんなことしたらまた群雄割拠で挙句の果てに植民地かも知れんがな
200 :
日本@名無史さん:04/08/20 18:40
200っと。秀吉のお互いに牽制しあうようにという策が奥州にだけはツボにはまったってこと。
201 :
日本@名無史さん:04/08/20 19:14
伊勢路なんて行ってないで清洲へ急進しろよな
202 :
日本@名無史さん:04/08/20 20:33
>>196 と、思慮の端からないやつが申しております。
203 :
日本@名無史さん:04/08/20 20:50
>>199 伊達政宗は家康が上方で手こずっている間に東北を席巻して、
そこを足がかりに、戦いで疲弊した東西両軍を・・・とか思っていたんだろう。
百万石のお墨付きもあるし、政宗が西軍に寝返る理由はない。家康が負けない限り。
上杉景勝だって、関が原が一日で終わるなんて思っていなかったから、
まずは後背を固めるべく最上を攻めたわけで。
そして17世紀前半に日本が植民地になることは百パーセントありえない。
というか、政宗を正宗と間違えてるあたり、199は192か?
204 :
日本@名無史さん:04/08/20 21:11
とはいえ、奥州の北半分を抑えても、ようやく上杉と互角になるかどうかの石高で、突破は困難。火事場泥棒を狙っただけだよね。
205 :
日本@名無史さん:04/08/20 21:17
南部だっているしな
206 :
日本@名無史さん:04/08/20 21:45
南部はそんなに強かったの?
207 :
日本@名無史さん:04/08/20 21:53
南部厨うざい
関ヶ原時、伊達政宗の立場は完全に東軍。家康に反抗する考えな
どさらさらない。天下の帰趨が徳川に行くことは、黒田如水、細川
忠興、伊達政宗ら目先の見えた人間には、自明の理だった。
政宗の狙いは、その上に立っての旧領(会津)の回復以外、何者でもない。
100万石になっておけば、戦後、格段と徳川に対する伊達家の発言力が増す
のは間違いないわけだ。
南部の和賀一揆煽動は、「あわよくば」という一種の火遊びと考えた方が
いい。結果的にばれはしたが、例によって、知らぬ存ぜぬで押し通した。
>>208 なるほど。
しかし一つわからんのは100万石になることは
発言力を増すことになるのかな。
天下泰平ともなれば外様の大大名は逆に
目をつけられると考えるほうが普通のように
思えるんだけど。
因みに自分は199さんじゃないです。
210 :
日本@名無史さん:04/08/20 23:35
>>209 「天下は実力者の回り持ち」になると考えたと思われ。
信長政権−後継者争い−秀吉政権−後継者争い−家康政権−後継者争い−?
という状況を頭に描いていたのだろう。
実力行使で天下を取る家康には従っても、秀忠にも従うとは限らず。
>天下の帰趨が徳川に行くことは、黒田如水、細川
忠興、伊達政宗ら目先の見えた人間には、自明の理だった。
んな事ないよ、一応勝ち負けの勝負に持ちこんだんだし。
自明の理なんてことはないよね
なにが起こるかわからないのが世の中だし
天下云々より、単に家康についてれば御家安泰の可能性が高いと判断していただけじゃないのか?
213 :
日本@名無史さん:04/08/21 05:49
小牧長久手みたいに長期化すると見るのが本当か?
山崎や賤ヶ岳のように短期化するのが本当か・・・賤ヶ岳は中期戦?
>>209 >100万石になることは発言力を増すことになるのかな
無論のこと。忠輝との縁組みに加え、徳川家への発言は飛躍的に増す。
また、政宗が生きているうちは、幕府も伊達家を粗略には扱えない。
>>210の言うとおり、天下の大勢は、徳川に大きく振れていた。
秀頼7歳、後見役が絶望的に人望のない石田三成の下での豊臣政権の
内実は、一枚岩ではなく、脆弱きわまりなかった。
そして「天下回り持ち」の思想に立つ野心家政宗は、家康の「次」、
つまり、家督が秀忠に譲られた後の「対徳川」戦略を、常に念頭に置い
て奥羽で策動していたことは明白だ。
>>211 このフレーズは、徳富蘇峰の「関ヶ原の役」緒言にある。
215 :
日本@名無史さん:04/08/21 06:16
池田輝政みたいな地位?
216 :
日本@名無史さん:04/08/21 07:02
三成は時間が味方だった
政宗は時間が敵だった
てこと?
217 :
日本@名無史さん:04/08/21 20:05
そんなこと言っても、少しばかり石高増えても、歴史の流れはそのまんま
218 :
日本@名無史さん:04/08/21 23:02
>>216 でも、正宗ってそんなに凄い人なの?
彼は、東北でこそ独眼流として
恐れせしめたけど、全国的に見れば
一地方軍閥に過ぎないんじゃない
219 :
日本@名無史さん:04/08/21 23:05
>>218 一地方軍閥にも値しないよ。非広域暴力団並みの貧弱な集団に過ぎない。
>>218 政宗スレになってしまったが。。
石高(62万石)や戦闘・戦術(活躍は約5年しかない)での比較なら、別に
伊達政宗程度の武将はごろごろいるし、スケールも小さく見えて当然。戦闘
だけなら、信長や信玄、謙信などと比べると随分小粒だ。「単なる地方の田
舎大名に過ぎない」という批判も、尤もな話だ。
ただ、若い頃に南奥羽を制圧、当時150万石の家康を凌ぐ領土を拡大した実績に
加え、老獪な戦略家、外交家として一目置かれたこと。豊臣・徳川に服属後も、
一見恭順しながら、常に陰で牙を研いでいるように見えるこの男は、アイパッチ
の独眼の風貌と相まって、時の権力者や庶民に、強烈な印象を残した。
なにせ味方を装いながら、知らぬ間に中央の中枢部まで忍びよって、事があれば
政権を転覆させる機会を伺っているイメージがつきまとっているから、不気味
きまわりない。徳川忠輝の改易を見れば、家康が躍起になって政宗の影を払拭しよ
うと神経を使っていたことが理解できる。
支倉の欧州派遣の目的も(貿易+軍事)、今だに歴史の謎として残っているしな。
221 :
日本@名無史さん:04/08/22 08:16
>>220 > アイパッチの独眼の風貌と相まって、
本当かぁ!?(w 時代劇の見過ぎと違うか?
>本当かぁ!?
本当だ(笑)
政宗は関が原で特に重要な役割果たしてる人物でもないし
妄想かきたてられる事も特にないですね。
関が原では上杉との関わりで語られる程度の大名なので
興味があるなら別にスレをたてたらいかが?
224 :
日本@名無史さん:04/08/22 22:35
アイパッチはうそ。
実際の政宗は単に片目が潰れてただけ。
実は最強の目
226 :
日本@名無史さん:04/08/22 23:26
政宗は上杉征伐軍が西に反転した後、
上杉軍の矛先が自分に向いてきた時
に怯え震えていた根性無しだった
ような気がするが……
227 :
日本@名無史さん:04/08/22 23:31
>>226 それより前から、普通に根性無しですから・・・残念!(w
政宗のヘタレ軍団ぶりは、関ヶ原本戦後に上杉勢によって
天下に晒された。
政宗ヲタは大河ドラマに感化されたんだろうな。
229 :
日本@名無史さん:04/08/23 00:40
徳川家康が西に反転した後に
上杉勢が追撃したら、歴史は
どうなったのだろうか?
景勝と懇意だった結城秀康を
置いていったいう話もあるが…
230 :
日本@名無史さん:04/08/23 05:14
>>229 >徳川家康が西に反転した後に上杉勢が追撃したら、歴史は
どうなったのだろうか?
上杉景勝は、謙信とは比較にも成らぬ、愚直さが取りえなだけの3流大名
だよ。(失礼。2.5流くらいか)
実際、直江の奥州の関ヶ原は、佐竹との連携も取れず、「酒田の陣取り合戦」
をするなど、方針は大局観がなく、動揺の連続だ。なにしろ軽く見ていたヘタレ
の最上義光に大苦戦(長谷堂では粘られ、上山では横田式部が大敗を喫している)
した「実績」(笑)を見る限り、家康が反転しなければ、100%包囲の上、滅亡・
断絶してたはずだ。
なぜ、上杉は東進できなかったか? 東へ向かったが最後、会津を約3万
の伊達政宗+1.2万の最上勢に蹂躙されるのが怖かったからに他ならない。
その結果が「30万石」への転落だ。最初の威勢はどこへやら(w
231 :
日本@名無史さん:04/08/23 05:20
上杉の東進→家康追撃(江戸討ち入り)。
なお、長谷堂追撃戦でも、2000人以上の死傷者を出している
から、上杉勢の実力は格好だけということがよ〜くわかるなw
どこの家も2代目はダメダメだな。特に上杉の場合。
232 :
日本@名無史さん:04/08/23 06:30
佐竹が積極的に動いてりゃ
233 :
日本@名無史さん:04/08/23 06:58
同時代に、短期で上方の情勢が決着すると予想した人などいたの?結城ををおいていったのは、謙信公と勝頼公の故事による物。家康は、決して攻めて来ない策をとったのです。
234 :
日本@名無史さん:04/08/23 09:17
毛利輝元も上杉景勝も、元就・謙信の威光を一代で地に落としてしまったA級戦犯。
共に120万石の領土を、30万石台に暴落させた。
「優柔不断」「決断できない」。武将として、この資質は致命的だ。
235 :
日本@名無史さん:04/08/23 11:52
まあでも元の領土のまま江戸時代を生き残るのは難しかったのかもしれず
関ヶ原で適正な勢力の大きさにハードランディングしたおかげで生き残れたとも言えるかも。
前田家みたいな例はあるけどさ。
徳川家康は、三方原で、あの武田信玄相手に一か八かの一大勝負を
挑んでいる。本人も100%負けると確信しての出撃だったはず。
だから、上杉もとりあえず、伊達・最上は無視して、結城秀康を叩きの
めしに南下しなきゃな。上杉が出れば、佐竹だって中立なんて言ってられ
なくなるわけだし。
237 :
日本@名無史さん:04/08/23 13:19
まあ信長公なら、軽々と会津を立ち
老賊の首を取られたものだろうが
所詮、景勝はその器にはなかったということ
でしょうな。
238 :
日本@名無史さん:04/08/23 20:22
岐阜城がもう少し保ってくれればなぁ。早く決着がつきすぎたというよりも、そのときが来るのが早すぎたのではないか。
>>226 そうだな。政宗は根性無しだな(´・ω・`)
>>237 そうだな(´・ω・`)
漏れ様は軽々と松尾山をたったがな。
>>239 >政宗は根性無しだな
政宗は「利」のない戦は、余裕かまして傍観してるからな。
>漏れ様は軽々と松尾山をたったがな。
家康に銃弾ぶちこまれてな。
>>239 福島を蹴散らして家康の首を刎ね、その後で笹尾山に駆け上って
いたら、今頃は神だったな。
>>230 景勝が2.5〜3流なら、政宗や義宣は4流以下の腐れ大名だな。
>>231 その格好だけの実力しかない上杉に追い払われてる火事場泥棒政宗の実力は無に等しい。
むしろ、最上の方が実力は上だな。
>>242 まー、最上には根性はあったわな。
伊達が弱すぎる理由はわからんが。
244 :
日本@名無史さん:04/08/24 18:57
伏見城を放っておくのが最良だったのでは? 抑えの兵だけおいておくここに捉われたのが秀忠レベルの失敗と思います
京極高次、小早川はじめ裏切りが多いのは
どうしてだろう。少なくとも伏見城攻めまでは
旗色を鮮明にしていたのだが。
>244
とりあえずすごい自信ですね。
>>244 それは結果論だよね
あそこで伏見を血祭りにあげておくのも、士気を高め結束を固めるのに必要だったんじゃないかな
>>242 最上って「5千石」(哀)に廃絶・改易されたこと「だけ」で有名なヘタレ
大名だろ? 福島正則レベルの馬力馬鹿、「廃絶大名」としてさ〜w
義光といえば「卑劣な騙し討ち」。(無論、白鳥十郎事件知ってるよな?)
それに関ヶ原では、その政宗に長男の義康を差し出して「援軍」を乞うてる
んだから情けない(笑)。さすがに滅びると思ったんだな。良かったな、
伊達の援軍をさしむけてもらってさ。
それから景勝だが、家康にはなめられっぱなしだな。家康が褒めているのは
部下の兼続。無論、兼続は一流だよ。ただし主の景勝は3流(笑)。家康が
反転するのを口をくわえて見てただけの間抜けの根性なしだからね。
なお、義光の名誉のためにいえば、戦闘では、義光>>>景勝。
これは決定的な歴史の事実だ。
248 :
日本@名無史さん:04/08/24 22:08
>>247 > なお、義光の名誉のためにいえば、戦闘では、義光>>>景勝。
> これは決定的な歴史の事実だ。
なお、付け加えていえば、戦闘では、義光>>>景勝>>利直>>越えられない壁>>>政宗。
これは決定的な歴史の事実だ。
アイパッチ厨は何なの?
関ヶ原のスレにいても、日本一の弱兵ぶりを笑われるだけなのにな。
>>248 はいはい、良かったね(笑)。その後の各藩の運命。
義光(廃絶)>>永遠に超えられない壁>>利直(盛岡10万石)>>景勝(米沢30万石)>政宗(62万石)
義光は家康に這い蹲って「最上安泰」を頼んだが、秀忠で廃絶。
(哀れだねw 秀次時代は駒姫を処刑され、さらに義康を暗殺し、
家臣分裂で、破滅へ向かってまっしぐら)
片や政宗は、家康に「後事」まで託されて、秀忠・家光にも信頼
されたわけだから、両家は月とすっぽんだw
252 :
日本@名無史さん:04/08/24 22:35
とりあえず三成に時間を作ってあげようとすると他力本願なしで出来るのは、伏見城を攻めない事しかないと思います。
253 :
日本@名無史さん:04/08/24 23:05
時間ならあったよ
惜しむらくは兵力が分散してしまったこと
254 :
日本@名無史さん:04/08/24 23:57
毛利輝元が野心がある人物なら展開が相当変わっただろう。
秀頼をたてて松尾山に展開すれば小早川も容易に動けない
し、なにより裏切らないかもしれない。
そんな輝元だからこそ三成も総大将にたてたんだろうけど。
兵力分散は東軍でも同じ。
255 :
日本@名無史さん:04/08/25 00:06
>>254 家康が松尾山に鉄砲を打ちかければ、
毛利軍3万+小早川軍1万7千の計4万7千の軍勢が大谷に攻めかかった
わけだな。
256 :
日本@名無史さん:04/08/25 11:07
松尾山には、秀頼を伴って毛利輝元が入るはずだったというけど、それなら小早川はどこに入るはずだったのかな?
>>256 戦いには参加させないで大坂城守備にでも回ったんじゃねーの?
258 :
日本@名無史さん:04/08/25 13:59
西軍首脳陣 「石田JAPAN」
名誉監督:毛利輝元=南雲忠一(不決断の迷将。遠方で指揮をとる)
監 督:石田三成=辻政信(コーチ経験しかない、嫌われ者の関東軍参謀)
さんざん期待させながら、1日で大敗。
それを言うなら「毛利JAPAN」だな。エース宇喜多(松坂)力投するも援護無し。
>>258 > 名誉監督:(中略)=南雲忠一(不決断の迷将。遠方で指揮をとる)
不決断はまあ当たらずと言えども遠からずだからいいとするが、「遠方で」って攻撃隊の飛
行機に乗って行き直接攻撃隊を指揮するのでなければ南雲でなくても小澤も山口も角田も
ハルゼーもスプルーアンスもミッチャーも皆遠方で指揮を取っているわけですが何か?
261 :
日本@名無史さん:04/08/25 16:37
三成りとしては輝元を暗殺して秀元に全軍を代理指揮させて操るべし
262 :
日本@名無史さん:04/08/25 17:10
長宗我部は何やってたか語っているもの少ないけど、戦意のなさは何だろね。
263 :
日本@名無史さん:04/08/25 18:32
長宗我部は、仕方なくいたみたいだし、島津もやる気なし。
石田、宇喜多、大谷諸隊だけが、やる気あったようでは。
264 :
日本@名無史さん:04/08/25 18:39
西軍でとにかく戦意の高かった武将を10名ほど上げてみると、それとなく
戦況がみえてきそう
三成>大谷>立花>真田>宇喜多>・・・・島津>
毛利は戦意なし
265 :
日本@名無史さん:04/08/25 18:47
たられば、は禁物だけど、立花がいなかったのは痛いかな。
大津城攻撃隊は、毛利も士気高かったらしいし。
266 :
日本@名無史さん:04/08/25 18:52
真田は、徳川の天敵ですね
267 :
日本@名無史さん:04/08/25 20:53
小西も駄目そうだよね
268 :
日本@名無史さん:04/08/25 20:54
>>264 長曽加部も戦意は高かった
んじゃないの?
ただ、情勢に暗く戦闘時の場所が悪かった
のが致命的だったが・・・
269 :
日本@名無史さん:04/08/26 05:58
西軍の伏見城攻撃によって情勢が変わり、仕方なく西軍に参加。
家康への使者が関所で、石田に捕まったそうだ。
長曽、島津、小早川、やる気ないのも仕方無い。
大名の奥さん人質に取ったりと、三成は上に立つ者としての徳に欠けると思う。
三成に乗せられた、毛利輝元が馬鹿だった。
毛利は、いずれ上杉の次は自分と思ったのかも。
この情勢で、天下人になり得た人は、家康しかいない。
毛利は普通の人、伊達は若いし、秀頼では無理だし。
270 :
日本@名無史さん:04/08/26 08:07
>>260 君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない
271 :
日本@名無史さん:04/08/26 10:49
>>269 その使者、関所にびびって帰ってき
ちゃったと聞いたけど。んで、仕方
なく西軍に。
はっきりと東軍志望とばれたら三成
側にボコられる気が。
元々東軍志望の島津義弘、鳥居と一
緒に伏見篭城してたらさすがに戦死
してたよな。
272 :
日本@名無史さん:04/08/26 11:19
そういえば、松尾山を血祭りにあげてから安心して戦うって言う意見が通らなかったので義弘がやる気を失ったって言うけど、やってたらどう?
273 :
日本@名無史さん:04/08/26 11:47
こうみてくると、家康の上杉征伐軍の軍容は最初から西軍蜂起を想定していたともいえるよな
274 :
日本@名無史さん:04/08/26 11:59
いや徳川本隊が間に合わなかったの誤算だろ
275 :
日本@名無史さん:04/08/26 12:06
でも、最初は加賀を攻めるんだったよね。このとき刑部が何とかしてくれたはず。前田がなあ。まあ、直江が景勝を上坂させ、かわし続けたら家康も困ったろうに。
276 :
日本@名無史さん:04/08/26 13:00
西軍勝利後の論功報償をシミュレートしてくらはい
277 :
日本@名無史さん:04/08/26 15:03
やっぱり無駄に時間を使ったのが三成の敗因です上杉攻めに行くふりをして刑部が清洲城を落とした所で挙兵して東海道をひたすら進めば楽勝。
278 :
日本@名無史さん:04/08/26 15:30
三成は文官的発想で杓子定規だから臨機応変の対応が取れない
下らぬところでこだわりを見せる
いちいち手順を踏みたがる
所詮戦場向きじゃない
279 :
日本@名無史さん:04/08/26 17:59
そんな三成が、自分が立つしかないと思う状況だった訳で、力不足を責めるのは気の毒。不完全燃焼の上改易されたばかより遥かに立派な漢です。
280 :
日本@名無史さん:04/08/26 18:17
しかし三成はなんで会戦構想にこだわったのだろう。
大阪城に篭って家康の死を待てばよかったのに。
さすがに秀頼のいる大阪城には、豊臣恩顧の大名は
手を出しにくかっただろうし、このあたりの連中の参戦
が見込めなければ、家康も大義を失って
死を待つしかなかったような気がする。
281 :
日本@名無史さん:04/08/26 18:19
関が原がなくても目障りな大老から順にいちゃもんふっかけて
屈服させていったんだろう。
いずれ豊臣政権は家康に乗っ取られた訳で。
三成は百戦練磨の黒田如水を司令官にして戦をすれば家康に
対抗できたかもしれない。その場合如水に豊臣を乗っ取られる
かもしれないが。
282 :
日本@名無史さん:04/08/26 19:25
群雄割拠の状態だから火種には事欠かない
家康が動かなければ元気なやつが踊り出てくるだろう
豊臣政権も強力な自前の軍事力なしには統治はできない展開
秀吉が死去したときから三成の時代は実質終わっている
西軍が勝っていたらさらなる動乱の繰り返しで、収拾がつかなかったろう
283 :
日本@名無史さん:04/08/26 20:01
>>280 開戦前にすでに大阪城は家康に
乗っ取られていたが
284 :
日本@名無史さん:04/08/26 22:58
>秀吉が死去したときから三成の時代は実質終わっている
>西軍が勝っていたらさらなる動乱の繰り返しで、収拾がつかなかったろう
三成の時代なんてそもそも無いし。
動乱の繰り返し〜脳内。
家康はほとんど戦ってない。
東軍最大の功労者は福島正則だよ。
彼が福島幕府の将軍になるべきだった。
将軍になるにも格ってものがあるだろう
もう少し粘ってくれれば、
上杉乱入、リアル花の慶次で西軍の勝ちだったのに。
まぁ、殆ど運だけど最上は意外に頑張った。
兼続の策が発動する前に潰れなかった点で評価できる。
三成が微妙過ぎなのが敗因だね。
三成が謙信公なら瞬殺だったのに。
あと西軍ヘタレばっかだもん。
強いって言われる島津でもあの程度だし。
家康に負けるなんて考えられんことだね。
あのビビリ症のウンコ漏らし狸に負けるなんて。
288 :
日本@名無史さん:04/08/27 01:34
>>287 >上杉乱入、リアル花の慶次で西軍の勝ちだったのに。
謙信なら可能だったろうが、景勝の力量では絶望的に無理。
家康は水面下で、北政所に接近して、そのシンパである大名、
福島正則・加藤清正ら「尾張閥」の中核、また浅野長政(幸長)、
池田輝正、細川忠興、黒田如水らを傘下に組み込んでいた。
これに対する文官(淀君派)、石田三成、長束正家、増田長盛
等は役者不足も甚だしい。頼みの上杉景勝と毛利輝元はアレだし。
戦闘の前に、西軍は内部からじわじわと切り崩されていた。
289 :
日本@名無史さん:04/08/27 02:36
最初から、豊臣秀頼をかつげなかったのが敗因だろうか。
遅かれ早かれ豊臣は潰されるだろうし。ここでやるしかなかったんだろう、三成は。
三成が隠居でもしてしまえば、加藤清正あたりを中心に、
豊臣に手出しさせなかったかもしれない。
>>276 くるしゅうない。殿下と呼んでくれ(´・ω・`)
291 :
日本@名無史さん:04/08/27 08:48
大坂から離れた戦に内府を行かせたのが何よりの失敗。東国にいたら、気も弱くなる。いっそのこと進んで協力するという群集心理が作用した。
292 :
日本@名無史さん:04/08/27 08:56
三成憎しで豊臣系大名がこぞって家康についたというのは、三成悪玉論を補強し、それなら家康の天下強奪も仕方ないと思わせる為の誇張でしょう
293 :
日本@名無史さん:04/08/27 10:41
徳川政権樹立はともかくここらで戦端を開いて、その後の新たな加増や論功行賞を目論んでいたと見るべきではないか
現実に潰したいヤツがいたわけだし
294 :
日本@名無史さん:04/08/27 11:02
まあ結局、三成の不幸は人の懐を
あてにしてばくちうたなきゃならかったことだな。
せめて自前の決戦兵力を1万でも持っていれば
戦況も変わったのだろうけど。
295 :
日本@名無史さん:04/08/27 11:20
秀吉が生前に北九州に100万石クラスの領地を三成に与えようとした話は事実でつか?
296 :
日本@名無史さん:04/08/27 11:48
>>295 マジネタと記憶している。
小早川隆景が死去したときに、既にその領地は養子の秀秋が相続していたが
朝鮮出兵でのごたごたが絡み、秀秋を越前福井に転封、その後がまに三成を据えるという話があった。
しかし、当の三成が断ったので、筑前の旧小早川領は秀吉の蔵入り地となった。
最もそこの奉行になったのは三成なわけだが。
と言う経緯だったと思うが、詳しい方補足宜しく。
299 :
日本@名無史さん:04/08/27 23:48
確か、一族全部での話。大分に福原とか、垣見とか、与党がいたでしょ。関ヶ原よりも前に、内府は改易にしちゃったけど
奉行である三成が福島はじめ七将に襲われた事件後
さわやまに隠居したのはなぜなんだろ。
普通、違法に奉行を襲ったのなら家康も豊臣政権の一員で
ある立場上、七将を処分しなきゃならないと思うんだが。
301 :
日本@名無史さん:04/08/28 07:17
三成が悪いから
>>300 七将には「めっ!」っと言っておきましたが何か?
303 :
日本@名無史さん:04/08/28 13:20
七将すでに家康支持大名衆として連携していたんだよ
家康が後ろ盾になっていたわけ
ここ数日の書き込みを読んでいると、三戦板にいるような気が
してくるのは俺だけだろうか?
305 :
日本@名無史さん:04/08/28 18:46
>>300 七将は豊臣政権において当時大した
役職にあったわけではない。対して
三成は五奉行の筆頭格
なのに、騒乱を招いた責任は
冷静に見ても辞職せざるをえない
まぁ、今でも良く大臣とかが事件の
責任をとって辞任するのと一緒だね
日本的な慣例
306 :
日本@名無史さん:04/08/28 20:43
そういえば、三戦とここの住み分けは何で出来ているの?流れが変われば、食い下がって繰り返す馬鹿もここにはいない。嵐なら、他でお願いします
307 :
日本@名無史さん:04/08/28 23:06
島津惟新が、臍を曲げなければなあ。
あの、実直な薩摩気質を、うまく操れれば、三成に勝機はあった。
島津がへそを曲げていたという説は、説得力が薄いな。
同様に伏見篭城を鳥居に拒まれたという有名な逸話も。
兵力が集まらなくてヘソ曲げてたかもしれんな
311 :
日本@名無史さん:04/08/29 01:06
>>309 >同様に伏見篭城を鳥居に拒まれたという有名な逸話も。
鳥居元忠からの入城拒否の件は、島津側が記録してたん
じゃないの?(『惟新公関原御合戦記』)
312 :
日本@名無史さん:04/08/29 06:18
島津の舵取りは誰なんだろうね?
義久なのか・・・
313 :
日本@名無史さん:04/08/29 06:49
朝鮮の役後、島津領内では内乱が勃発(「庄内の大乱」)。終結
したのは関ヶ原の半年前で、島津は兵力を出す余裕もなかった。
>>311 その理屈でいうと、太平洋戦争の大本営発表の戦勝記録も
史実ということになってしまう。
日本史板なんだから(以下ry
315 :
日本@名無史さん:04/08/29 08:53
薩摩ってまだ中世的な体制から
抜け出していなくて、島津は言わば
土豪の盟主的な存在だったんじゃないかな。
316 :
日本@名無史さん:04/08/29 10:05
というか、島津が豊臣のために働いて
くれるという願望がそもそもの間違い
317 :
日本@名無史さん:04/08/29 10:17
他スレより
島津義弘が伏見城入城を拒否されて、やむなく
西軍についたというのは、関ヶ原の戦いの後で
の弁解。そもそも、捨石であり全滅することが分かり
きっている伏見城への入城を申し出るはずがない。
当初から西軍方だったという証拠は書状等で残っている。
鳥居元忠など伏見城を守っていた連中が全滅したので、
死人に口なしということで、「伏見に入城するつもり
だったが、鳥居元忠に拒否された。」という話を
でっち上げて、「最初から家康様に敵対する気は毛頭
ありませんでした。」と弁解したわけだ。
318 :
日本@名無史さん:04/08/29 10:22
島津では鳥居元忠に伏見城入城を申し出て断られたのを
7月19日としている。ところが、7月15日付けの
義弘から上杉景勝宛の手紙が残っている。
「今度内府貴国へ出張につき、輝元、秀家をはじめ、
大阪御老衆小西、大刑少、治部少仰せ談ぜられ、
秀頼さま御為に候条、貴老お手前同意然るべく候由に
候あいだ、拙者もその通りに候」
とある。要するに7月15日以前に西軍に付くことを
決めていたわけだ。7月19日に伏見城入城を申し出
て断られたのを断られたのは、上の書状と明らかに矛盾する。
島津の作り話は明らかだね。
319 :
日本@名無史さん:04/08/29 10:24
上の手紙の出典と原文
『鹿児島県史料 旧記雑録後編』3の1126。
「御案文」
雖未申通候令啓候、今度内府貴国へ出張ニ付、輝元・秀家を始、
大坂御老衆小西・大刑少・治部少被仰談、 秀頼様御為ニ候条、
貴老御手前同意可然之由承候間、拙者も其通候、委曲石治より
可被申候、以上、
羽兵入
七月十五日 惟新
景勝
人々御中
320 :
日本@名無史さん:04/08/29 11:59
>>318 >要するに7月15日以前に西軍に付くことを
>決めていたわけだ。
すると関ヶ原時のあの戦意のなさ、三成の要請はシカト、単なる傍観に
終始した態度は何? 大体兵力も1500人と少なすぎ。東軍の福島正則は
6000人、あの山内 一豊ですら2000人も出しているのに。
この矛盾は、いかが説明いたす?
321 :
日本@名無史さん:04/08/29 12:09
島津は家中分裂で力を出し切っていない
322 :
日本@名無史さん:04/08/29 12:46
義弘は島津の当主ではない。太閤検地により、秀吉から大きな領地の
領有を認められたが、当主は義久。(秀吉から
島津義久蔵入分(10万石)
島津義弘蔵入分(10万石)
が宛がわれている。)
義弘は、(領地を秀吉から認めれれた経緯もあり)西軍につく
ことを決めたが、国元とくに義久は西軍加担の意思はなく、
せいぜい中立であった。義弘から援軍を求める要請が来ても、
当主である義久は当主の権限でこれを拒否している。
したがって、国元からの援軍は主に義弘の領地から、
義弘との個人的なつながりによるボランティア的な
ものしかなかった。
323 :
日本@名無史さん:04/08/29 12:51
それから、島津が戦後改易にならなかった一つの要因は
義弘が当主でなかったことも考えられる。要するに、
当主の弟が小勢を率いて西軍に加わっただけということ。
九州の大名では、鍋島も当主でなく、嫡子が西軍に
参加した(こちらは軍勢が島津と比べてあるかに大きい)
が本領安堵されている。
324 :
日本@名無史さん:04/08/29 13:13
それにしても、家康が戻ってくるのをいつごろと思ってたのかな。近畿を握った所で決戦と見えるが、田辺攻略部隊だけでも止めていたら。
>>245 遅レスだが、
おそらく福島正則の小山会談での発言が原因と思われ。
326 :
日本@名無史さん:04/08/29 22:30
?小山の事を畿内にいた小早川等がどうして知っているの?
327 :
日本@名無史さん:04/08/30 02:48
そういえば、関ヶ原のIFを考えたら、
小山で家康が諸将を集めて、「自分は秀頼公を守り立てる所存であるが、
誤解されて上方で挙兵されてしまった。みんなはどちらにつくか決めて
くれ。西についても決して恨まない」
と言った時に、福島が迷っていれば、その後の情勢がかなり変わったはず。
この点からのIFはあまり語られませんね。
福島が迷っているうちに諸将に動揺が広がり、家康の前から1人、2人、3人、
・・・・・と席を立つ者が現れ・・・・という展開になれば;^^)
松尾山に鉄砲を撃ちかけて小早川が裏切る確立よりも、福島等が迷う確立の
方が高かったと思うのですが。
もちろん、あの時の福島等には三成等に対する感情的なものがあった
そうですがね。
訂正
確立 → 確率
>>326 福島が、逆臣三成の討伐を宣言して進軍を開始したのだから、当然
世間に三成討伐を宣伝するだろう。
330 :
日本@名無史さん:04/08/30 09:59
小山会議では、家康の根回し工作が功を奏したということでつか
秀吉の清洲会議みたいに
331 :
日本@名無史さん:04/08/30 10:03
島津の当主は久恒じゃないの?
332 :
日本@名無史さん:04/08/30 11:23
そういえば、この番号に>>色つけるのってどうやるんだ?はともかく、高台院の説得で家康に味方って何か怪しい理屈。後づけっぽいんだよなあ。
333 :
日本@名無史さん:04/08/30 11:51
>>332 高台院が自分のいた大阪城の西の丸を
家康に明け渡しているのは事実だし
この二人に何がしかの談合があったというのが
自然じゃない
>>331 この時の島津の当主は義久。
それと「久恒」じゃなくて「忠恒」ね 後に家康から偏諱もらって「家久」に改名。
335 :
日本@名無史さん:04/08/30 15:39
そこじゃなくって、福島や加藤に、家康と三成が戦になったなら、家康に付きなさいって言っておくのは時系列的に無理があるって事です。
336 :
日本@名無史さん:04/08/30 15:50
高台院の超人的な洞察力か、誰が見てもこの二人の対決が明らかだったか。どちらにしろ、家康の天下強奪の正当化を狙った嘘が感じられます。
337 :
日本@名無史さん:04/08/30 16:59
あの〜山内一豊さんの活躍は・・・?
338 :
日本@名無史さん:04/08/30 17:22
高台院の元には三成の娘がかいがいしく使えていたよね
娘に敵意でも感じていたのか?
>>337 ああ、堀尾のアイデアを勝ってにぱくった件か
340 :
日本@名無史さん:04/08/30 19:06
堀尾?中村だとずっと勘違いしていた。なんとなく、高台院の言う事を聴かずに、家康についたって思います。だからこその大盤振る舞い。高台院は、家康に騙されたのが真相ではないか。
341 :
日本@名無史さん:04/08/30 19:52
>>340 >高台院は、家康に騙されたのが真相ではないか。
「騙された」というのは人聞きが悪いね。豊国神社、高台寺
の造営を含め、精神的・金銭的に、家康は北政所に全面的な
援助を惜しまなかった。これに北政所が共感したのだ。
342 :
日本@名無史さん:04/08/30 20:26
真田以外、まるで徳川を止めようとする者がいなかったのは、地勢学的に解るけど、こうなる事を見抜けずに東海道に小大名を配置した秀吉は老いていたと言う事ですね。
343 :
日本@名無史さん:04/08/30 20:54
秀吉も福島正則が裏切るとは思わなかったんじゃないのか
344 :
日本@名無史さん:04/08/30 21:13
>>317 そもそも家康自身が、伏見城の警護を島津に依頼しており、
島津はそれを了解していたはず。
345 :
日本@名無史さん:04/08/30 21:42
三成の戦術家としての凡庸さは、大坂−大垣間に位置する福束城の守りを軽視した
こと等にも見て取れる。この要衝があっけなく陥落したため、戦端が開かれる1ヶ月
前にして、大坂との連絡・情報が遮断される重大事態に陥った。
346 :
日本@名無史さん:04/08/30 22:10
初耳。その城の攻防戦の詳細きぼん。主な武将名を交えつつお願いします。
>>337 あれは個人的な保身にすぎない。
天下争奪への山内の影響は皆無。
>>343 豊臣勢同士の争いなのだから、裏切りではないだろう。
名義的には東軍が豊臣軍。
349 :
日本@名無史さん:04/08/31 04:53
明石全登が、頑張ってたよね主君宇喜田秀家を落ち延びさせて
最後は自分も戦場から撤退する。歴史上響きいいよねこの人物は。
明石全登は、大坂の陣でも遁走している。
351 :
日本@名無史さん:04/08/31 12:18
あかしてるずみ?
あかしたけのり?
読み方がわからん
352 :
日本@名無史さん:04/08/31 13:55
宇喜多には、戦国の快男子、本田正重もいましたね。この人を単なる悪役、家康の手先に描いた作品は大抵底が浅い。明石と共に、奮戦しました。
354 :
日本@名無史さん:04/08/31 22:39
>>349 関ヶ原合戦における明石掃部について、
イエズス会宣教師の報告書にはこう記述しています。
ドン・ジョアン(明石)は非常に勇敢な武将であったため、奉行たちは彼を先鋒とした。
彼は大いに奮戦したので、敵軍さえもこれに驚嘆した。
ところが裏切り行為があったために、彼は完全に包囲されてしまった。
彼はキリシタンであったので切腹はせず、戦死しようと敵陣に突撃した。
馬を失い、徒歩で敢闘していたところ、彼の友人である甲斐守(黒田長政)と遭遇した。
甲斐守は「明石掃部殿、拙者のもとに参られよ。安全なる地にお連れ申す」と言ったが、
ドン・ジョアンは「ここで貴殿に会えてうれしい。・・・我が首を刎ねよ」と断った。
甲斐守はどうしても彼を救いたいと思い、繰り返し懇願したので、
彼が示した友情に身を任せる他はなくなった。
甲斐守は馬から降り、自らの馬に乗るように申し出たが、
ドン・ジョアンは甲斐守が家臣の馬に乗るまではそれを断り続けた。
そして、甲斐守は内府様(家康)にありのままを報告した。
彼はドン・ジョアンの才能や勇気を熟知していたので、
かくも立派な武人が死ななかったことは喜ばしい、甲斐守が召し抱えてもよいが、
もしかしたら自分自身に仕えさせることになるかもしれない、と言った。
別の箇所で黒田長政は、捕虜となった小西行長に同情し、
彼の助命を家康に請おうとしたが、行長がそれを断ったという記述があります。
捕縛された三成をいたわり、自らの陣羽織を着せたという逸話は有名ですが、
長政は勝ちにおごらない、礼儀正しい人物だったようです。
>>354 その後で、生き恥をさらした三成をバカにした発言をし、
福島正則にたしなめられた。
356 :
日本@名無史さん:04/08/31 23:31
清正は関ヶ原に参陣してなかったの?
357 :
日本@名無史さん:04/08/31 23:32
>>356 領国で小西の支配下の城を攻めて領土拡張
358 :
日本@名無史さん:04/08/31 23:33
>>345 福束城は大垣・桑名の交通路上にあったため、城主丸毛兼利は糧食の運輸を行っていた。
その兼利と親しくしていた赤目城主・横井時泰は東軍につくようすすめたが、
兼利は三成とすでに約束があり、武士として約束を違えることはできないと断った。
そこで8月16日、福島正則の指示で徳永寿昌・市橋長勝・横井時泰は兵2千で進軍した。
兼利は武光忠棟(長松城主)・伊藤盛正(大垣城主)、舞兵庫(三成家臣)ら兵2千で迎撃し、
長良川をはさんで銃撃戦を展開したが、長勝の兵が夜陰に乗じて渡河に成功したため、
忠棟・盛正らが動揺して大垣城に敗走してしまい、取り残された兼利は福束城に退いた。
兼利はしばらくして大垣に逃げたため、長勝は城を接収して敵城の連絡を断った。
正則は少数の兵を率いて美濃に入り、引き続き寿昌に高須城の攻略を命じた。
8月19日、寿昌は兵1千で高須城(城主・高木守之)を攻撃し、計略を用いてこれを奪った。
それ以後、大坂から大垣に送る書状を奪うこと数回、
みなこれを正則に届け、正則はこれを家康に転送したのである。
織田秀信が河田で敗北するのは8月22日、岐阜城陥落が翌23日だが、
それ以前に美濃における西軍の防衛線は崩されていたと言える。
359 :
日本@名無史さん:04/08/31 23:33
上杉は背後に伊達がいることを考えてなかったのかな?
360 :
日本@名無史さん:04/09/01 05:19
>>359 そんなヘタレ大名何人いたって脅威にならんだろ。
最上攻めと越後一揆が成功してたら、向こうから尻尾振って先鋒を願い出てくる。
361 :
日本@名無史さん:04/09/01 06:07
>>359 7月25日に白石城を落とされ、信夫口方面から伊達政宗(約30000の軍勢)に圧力
をかけられた上杉景勝は、政宗の会津への進攻を恐れたため、白河口へ出て家康を
追撃する決断を下すことができなかった。家康が政宗に課した「上杉への牽制」が
図に当たったわけで、兼続の「関東打入構想」は水泡に帰した。
兼続は、当初から伊達と裏で外交交渉を続けていたが、時間をとられすぎ、失敗した。
結局、政宗の影に怯えた景勝は会津に貼り付いたまま、宇都宮へ出ることすら叶わなか
った。格下に見ていた最上には、上山で敗北まで喫する有様だった。
>>361 君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない
ヘタレ景勝w
364 :
日本@名無史さん:04/09/01 09:03
でも、毛利より上杉の方が
マシじゃね
365 :
日本@名無史さん:04/09/01 09:06
西軍のA級戦犯
1.毛利輝元
2.小早川秀秋
3.吉川広家
4.上杉景勝
5.長曾加部盛親
366 :
日本@名無史さん:04/09/01 11:24
やっぱりわからない。その大垣と伊勢桑名の間の城が通信の邪魔なら、近江経由で連絡済む話。わざわざ紀伊半島経由する理由っ何?尾張が福島領だから船がらみの話でもない。この話は何かおかしい。
367 :
日本@名無史さん:04/09/01 12:27
>近江経由で
佐和山と大垣の間にある長松城が東軍の一柳直盛に占拠されたので
そっち方面でも西軍は通信に障害が出ている。
368 :
日本@名無史さん:04/09/01 12:57
了解しました。しかし、その状況なら、輝元も、何か動いてくれても。手が空いているのこの人だけなんだし。
西軍結成の事情
首謀者
宇喜多秀家、石田三成、大谷吉継、安国寺恵瓊
まず安国寺恵瓊が二代目のボンボン、毛利輝元を上杉征伐中の家康の
名代として大坂に呼びつける。バカな輝元は上機嫌で大軍を率いて
大坂へ向かってしまう。宇喜多を中心に石田や大谷が増田、長束、前田
の三奉行を半ば脅して、強引に家康討伐の弾劾状を発給させる。
そこへ何も知らない輝元登場。安国寺は毛利が家康討伐のために上坂
したのだと吹聴する。諸大名は二大老、三奉行を中核とした家康討伐
軍に参集する。最初はとまどった輝元も多数の大名が集まり、大将と
おだてられてまつりあげられると、秀元、広家の反対を押し切って
その気になってしまった。これで宇喜多、石田達の無血クーデター
は成功した。
370 :
日本@名無史さん:04/09/01 22:48
>>369 そう言われると、身もふたもない。そんな気するけど。あれ、色つかない。
371 :
日本@名無史さん:04/09/01 22:55
で結局のところ明石全登の読み仮名の正解は?
372 :
日本@名無史さん:04/09/02 11:35
えけーの行動、なんかプリティー
373 :
日本@名無史さん:04/09/02 14:46
>>371 あかし てるずみ ただ 当時の読みは、今では考えられんのも有り、正解は…
374 :
日本@名無史さん:04/09/02 14:47
みな、ドラマや司馬センセの小説の影響受けすぎだぁw
375 :
日本@名無史さん:04/09/02 15:24
たけのり だろ?
376 :
日本@名無史さん:04/09/02 20:21
日本史の教授に、正直言って江戸以前の名前の正確な読みはわからねえ、とぶっちゃけられた事が。
377 :
日本@名無史さん:04/09/02 21:19
それでも万一家康&東軍が壊滅して(双でなくとも敗戦一時撤退でも)
大阪城に大軍を擁し秀頼という御輿を抱え込んでる輝元の存在感は
圧倒的になるわな。
西軍が負けたとしても
あれほどあっけなく瓦解せず一時撤退で一定以上の戦力を
温存できてれば輝元の立場はその時効果的になると思われ。
>>377 輝元の能力で天下を切り盛り
出来ると思っているの?
>>377 思っているの?(´・ω・`)
>>378 やつは身の程知らずだから許してやってくれ(´・ω・`)
秀吉が黒田如水をもう少し信頼して政権の中枢に入れて置けば、
内府と言えども下手に動けなかっただろうなぁ。
381 :
日本@名無史さん:04/09/02 22:44
>>317 家康個人の要請というより、この時点では家康は豊臣政権の政務
担当者=五大老の筆頭(実は当時の言い方では五奉行、
三成たち五奉行が実際にはで五大老と呼ばれていたことが
分かっているで)の、あり、家康の命令=豊臣政権の公的な
命令であり受け入れざるえなかった。ただし、引き受けると
はいっても、随分躊躇していろいろな人に相談していること
は当時の義弘の手紙からも分かる。
三成挙兵後、義弘が伏見城を攻めたのはべつにおかしくない。
意外に思われるかもしれないが、三成は義弘と極めて近く、
義弘は検地等々で三成のバックアップを受けており、三成は島津家
(というより義弘)の後見人的な位置にあった。
この三成からの要請は断れないない。しかも五大老のうちの2名
(秀家、輝元)の支持があるということは、この時点で
家康の行動と主張に豊臣政権=公儀の政務担当者としての正当性
がなくなったことを意味する。島津としては公儀の正当な
命令にしたがったまでのこと。
>>380 司馬遼太郎に影響され過ぎ。
如水に天下を切り盛りする力はないし、関ヶ原を差配する能力など
ないと思われ。
如水が唯一政治力を発揮したのは、秀秋を小早川家に押し込んだ
こと。
関ヶ原の戦いが無かったら家康は豊臣家筆頭大老の立場を
利用して上杉征伐を皮切りに次々と邪魔な大名を潰していった
だろうな。家康の天下盗り構想では関ヶ原の戦いは予期せぬ不測
の事態だったんだろう。
>382
>如水が唯一政治力を発揮したのは、秀秋を小早川家に押し込んだこと。
黒田側の記録では「秀秋をどこか養子に入れたい」という秀吉の相談に対して
「輝元に子供いないから毛利家の養子にすれば?」と答え、
それを伝え聞いた小早川隆景が秀秋を毛利家ではなく自分の養子にした。
…と、別に押し込んだ訳じゃない。
385 :
日本@名無史さん:04/09/03 04:41
386 :
日本@名無史さん:04/09/03 06:38
島津も佐竹も、開戦時まで態度が煮え切らないことでは共通している。
裏切り組に加え、このような「様子見組」がいるようでは西軍の勝ち
など到底あり得ない。
387 :
日本@名無史さん:04/09/03 08:51
>>369 西軍の首謀者について、イエズス会宣教師の報告書にはこうあります。
(1600年度年報補遺)
「(市中引き回しの侮辱を受けた3人の)先頭には治部少輔が、
あたかも同盟軍の首謀者かつ頭首として配置されていた」
(1599〜1601年、日本諸国記)
「(安国寺恵瓊について)仏僧で、九か国の国主毛利(輝元)殿が父のように敬愛し、
その助言によって全てを治めており、反内府様(家康)同盟の張本人であった」
表向きは三成が首謀者として処刑されたが、実は恵瓊が首謀者であると見ています。
388 :
日本@名無史さん:04/09/03 17:09
しょっぱなは三成当たりが根回し工作したんじゃないの
関ヶ原にて
湯浅「殿!小早川秀秋寝返りにございます!」
大谷「おのれ金吾!人面獣心なりッ!」
そして裏切る味方4人
390 :
日本@名無史さん:04/09/03 23:08
時々思うんだけど、4人が裏切ってなければ、撃退できたの?
391 :
日本@名無史さん:04/09/04 02:44
>>390 無理です。
小早川勢に対して、
与力の4人の兵力を含めても、大谷勢が少なすぎます。
大谷少なすぎ(ププ)(´・ω・`)
393 :
世良田元信:04/09/04 04:07
>>392 金吾めが・・・、せいぜい徳川の家に利用されて終わるが良いわ!!
>>391 大谷、戸田、平塚勢の合計がおよそ五千。
脇坂、朽木、赤座、小川勢の合計がおよそ四千。
藤堂、京極勢の合計がおよそ五千五百。
小早川勢が八千。
藤堂、京極勢は平塚勢が単独で抑えていたのだから、
裏切った四将が、大谷勢として参戦していればほぼ同数だろ。
神君とあの馬鹿ではヴィルトゥが違いすぎるw
396 :
日本@名無史さん:04/09/04 11:25
>>394 >大谷、戸田、平塚勢の合計がおよそ五千。
3,000くらいでは?
平塚勢は500にも満たなく、藤堂・京極との戦いには大谷ももちろん参加している。
それから小早川は10,000以上あったと言われているのではないか?
まあ、兵力の正確な数字は当時の石高から推測に過ぎないわけだが。
397 :
日本@名無史さん:04/09/04 15:29
この一戦に賭ける気迫の問題ですよね。大谷勢は、もちろん火の玉なわけで。藤堂ってそこそこの感じ。
藤堂は必ず勝者。
したがって西軍有利になると変身する。
399 :
日本@名無史さん:04/09/04 21:30
三成は、関ヶ原の一戦に大義の旗を立てて戦う、ことに意味があったと考える。
陣形は大谷隊を核にした鶴翼の陣で、石田隊が先鋒。豊臣の先陣。
だから、夜襲などを嫌い堂々と戦いたかった。
三成と清正は犬猿の仲だったが、豊臣を守る、という意気は同じだったと思われる。
ただ三成は独断的になりやすいのか、味方が少なかったのが違いだろうか。
401 :
日本@名無史さん :04/09/04 23:31
やはり島勝猛の意見に従うべきだった。義を重んじるのはいいが、
豊臣あっての義だ。主家が勝つためには手段を選ばないぐらいの意気込みでなければ!
左近は光成の人気のなさを十分知ってたから、独断で行える夜襲を提案したのに。
402 :
日本@名無史さん:04/09/05 00:46
まあ、だから大名の奥方人質にしようとしたり、
怪しい小早川まで、味方につろうとしたんだろうね
いっそ秀秋は暗殺してしまうべきだったかと。
秀頼を担ぎ出さなかったのは、巻き込むことの危なさをわかってたからかな。
舞兵庫萌え
404 :
日本@名無史さん:04/09/05 00:55
蒲生郷舎も。
405 :
日本@名無史さん:04/09/05 01:33
大阪にいた大名の妻たちはホントに
危害を加えられたんでしょうか?
なんか細川家の自作自演って気がする
>>398 高虎は戦場で槍を逆に向けるようなDQNな真似は一度もしてないよ(子孫はしたが)
戦後取り潰された小川・赤座みたいな小物とは底が違う
むしろ東軍に藤堂・細川の名前が連なってた時点で東軍の勝ちは決まってた
>405
もし何も無いとしたら黒田や加藤が妻を脱出させた理由が分からなくなる。
408 :
日本@名無史さん:04/09/05 03:34
あれは、本当に実話なの?
409 :
日本@名無史さん:04/09/05 10:43
加藤や福島ら武闘派といわれる武将は、三成憎しということより秀吉亡き後の豊臣政権の限界を感じていたのではないか
三成という人物がそうした政権中枢部にいること自体が我慢ならなかったわけだから、三成が西軍の旗の下に蜂起したのであれば
それに真正面から対抗することになろう
東軍結成の事情
首謀者
徳川家康、前田利長、福島正則、黒田長政
家康は自身の権力基盤を固めるべく、前田利家の死去に伴って
弱体化した前田氏に喧嘩を売ってさらなる権力強化を狙った。
しかしそこで前田利長は家康に降るという世間をあっと言わせる
ウルトラCで、家康に次ぐナンバー2の座を確保してしまった。
家康、利長はさらに権力拡大を狙い、もう一人の大老上杉を北陸
と東海の二方面から挟み撃ちにすべく進撃を開始する。その間少し
ばかりの反乱は覚悟していた。しかし残された二大老の危機感を煽り
西国一帯を巻き込む大規模な反乱へと発展していった。予期せぬ事態に
家康は昵懇の黒田長政に救いを求めた。長政は黒田官兵衛譲りの名軍師
だった。黒田は、諸大名からも豊臣氏からも信頼され声望もり、西軍の
大軍を敵に回しても動じない武勇あり、また西軍首脳陣への憎しみも
ある福島正則を味方に引き入れることを進言した。これで会津討伐軍
はそっくりそのまま東軍へと姿を変えた。
411 :
日本@名無史さん:04/09/05 11:48
>>410 >しかしそこで前田利長は家康に降るという世間をあっと言わせる
ウルトラCで、家康に次ぐナンバー2の座を確保してしまった。
利家亡き後の前田家は、家康にとことんナメられている。
利長は「叛意あり」として家康に恫喝されただけで気が動転。
哀訴嘆願の末、母親を人質に出し、家康の膝下に簡単に屈してしまった。
そもそも「家康暗殺計画に前田が荷担」など徳川方が故意に流したデマで
あり、嘘八百だった。
家康はあの時点で豊臣政権の政務担当者で権力基盤は磐石なもの
があった。何せ五大老の一人上杉を豊臣家に弓引く逆臣として
豊臣家の力で討つ事ができたんだから。
わざわざ関ヶ原みたいな危険な博打を打つ必要はない。
家康を天下人の座から引き摺り下ろすために反家康陣営が仕掛けた
のが関ヶ原の戦い。しかし、秀頼を担げなかった西軍は求心力を
持てず裏切りから瓦解して敗れ去った。
413 :
日本@名無史さん:04/09/05 14:56
しかし、あれだ。
三成側は関ヶ原の戦術的勝利を戦略的勝利に転換できる立場にまで持って行ったのが凄い。
西軍有利のまま一日過ぎたら西東軍を裏切る大名が続発していたのでは?
415 :
日本@名無史さん:04/09/06 03:28
>>412 関が原の合戦をやっていなければ、家康は結局豊臣家の執権になって終わり。
秀忠が北条義時なみに凄腕の政治家なら、さらに権力基盤を固めることができたかも知れないが、
そうじゃなければ家康死後、徳川家は失脚していた可能性も高い。
よって、博打を打つ必要があった。
天下を取るには戦争を起こして反対派を一掃するのが一番手っ取り早い。
北条時頼の宝治合戦(それまでは三浦氏の方が力が大きかった)、秀吉の勝家との合戦、
薩長の鳥羽伏見の戦い、すべて原理は同じ。
416 :
日本@名無史さん:04/09/06 08:49
皆さんは安土桃山時代から生きてる方ですか?
417 :
日本@名無史さん:04/09/06 10:03
秀吉亡き後の豊臣政権の弱体化は、家康の横暴ぶりに見て取れる
家康は身勝手な行動をとることによって諸大名の反応をしっかりと見定めていたわけだ
前田利家没後は五大老のバランスは実質崩壊している
家康としてはなし崩し的に豊臣家の足元を突き崩していったということになろう
418 :
日本@名無史さん:04/09/06 10:13
419 :
日本@名無史さん:04/09/06 12:23
その家康の身勝手な行動を断罪できる人が、不在だったと。
三成は、力は相当に及ばなかったが、噛み付いた。
仮に関ヶ原がなくても、大阪の陣は起きただろう。
結局、石田、加藤、福島と順番に難癖つけて消していったんだろうな。
家康の天下盗りのやり方は秀吉と同じだよね。
秀吉が三法師を担いで柴田、滝川を倒し織田家の天下を奪った
ように家康は秀頼を担いで豊臣家の天下を奪った。
織田、豊臣両家は偉大なる先代の後に幼君しかいなかったので
実力ある野心家の餌食になってしまったって事だわ。
421 :
日本@名無史さん:04/09/08 09:42
家康と加藤清正とは秀吉亡き後、勝手に縁戚関係を結ぶわけだろう
これってどういう成り行きなの
三成って家康が死ぬまで何もしなきゃあいいのに、
上杉討伐しても無視、ひたすら無視。
家康死ねば、跡継ぎ戦争下手な2代目「秀忠」か
熱血漢「秀康」あとはどうしようもない。
>>422 家康死ぬまで放っておいたら、その分だけ徳川の力が強くなるだろうが。
そうなったら三成には手も足も出せなくなってしまうぞ。
秀忠は戦争は下手(というか経験不足)だけど、
優秀な部下に恵まれればしっかりと治世を行っていけるタイプ。
本多佐渡や土井利勝や天海、崇伝といったブレーンを相手に渡り合える人物が、
豊臣家側にどれだけいると思っているの?
>>423 権力の継承がそう簡単にいかないのは歴史が証明してるっしょ
徳川になにが起こるか分からんよ
関ヶ原の結果だけをみれば三成は地味に裏工作を続けながら
機会を伺うのが得策だったかもしれん
三成が挙兵しなかったら家康は上杉を討ち、毛利を討ち・・・と大大名を
根こそぎ滅ぼし徳川の力が絶対的になったところで将軍宣下を受け幕府
を開く。
家康を倒すとしたらあそこで挙兵する以外に手は無かった。
>>424 上杉、毛利、宇喜多と大大名が次々と片付けられていったら、
それこそ徳川に対抗できる人物がいなくなるわ。
権力の継承がうまく行かない可能性はあるけれど、
徳川家の中の内紛で終わってしまう可能性も大きい。
要するに、混乱が起こるにせよ、それにつけこんでいけるだけの
実力を持った大名がそのときに生存していないと、
結局は天下人徳川秀忠が徳川秀康になったり徳川忠輝になるだけの話。
427 :
日本@名無史さん:04/09/08 23:54
景勝が自分の領地のために家康を追わなかった。
光成と挟み討ちにすればわからなかったのでは…と浅知恵ですが。
大局を見れば景勝の行動は保守だ。
謙信公ならば家康の謀略を許さなかっただろうなぁ。
兼続と景勝の立場が逆なら良かったのに。
>>427 謙信が何をしたか客観的視点から見直すことを勧める。
429 :
日本@名無史さん:04/09/09 01:01
>>426 > 上杉、毛利、宇喜多と大大名が次々と片付けられていったら
そのシナリオはそう簡単にはいかないと思うよ
各大名が死にものぐるいで抵抗したら簡単には片づかない
そのうち反徳川の機運が高まるかもしれんし
西国大名に荷担する人間も増えるだろう
大阪の陣の何倍も面倒なことになったと思う
上杉の家康に対する反抗は露骨だったから豊家方の大名も従ったが
明らかな天下取りを想像させる徳川の行動にただついて行くとも思えない
結局は福島、加藤あたりの行動が決め手になるんだろう
まあ家康ならもっと効率的な方法で、結局は天下を握ったとは思うけどさ
430 :
日本@名無史さん:04/09/09 05:52
家康が敵を屈服させる場合、信長のように必ずしも「武力討伐」
をしない点が特徴的だ。関ヶ原〜大坂の役の期間には、いわゆる
豊臣恩顧の大名の力は、じわじわと削がれている。築城や造邸など
の大規模工事・苦役に西方大名をかり出し、莫大な財力を浪費させ
ている。清正ですらこれを断れない威圧感が、家康にあった。
431 :
日本@名無史さん:04/09/09 06:48
上杉景勝は、どうしようもないほど外交下手だ。
結局、何をしたかったのだろうか? 意地を通したかっただけか?
その辺が全然見えない。250万石の太守家康と同盟軍相手に、会津
で籠城徹底抗戦してみても、どうなるものでもない。その戦いぶりを
みても、実に消極的だ。
また景勝は越後から会津へ移封される際、堀秀治分に入る貢祖・半年分を
徴収したまま出て行ったため、両者間で「返せ・返さぬ」という下らない
争いが発生。余計な恨みを買って、堀秀治から讒言される失態を犯している。
>>425 確かに、あの家康のことだ、三成が挙兵しなくても
じわじわ、上杉>毛利>宇喜田とつぶしていって天下を取りにいく可能性大だ。
しかし、少なくとも家康が生きているというのが大前提、
死んだのが家康が死んだのが1616年。
16年間で戦闘なしで「毛利家」「上杉家」「宇喜田家」
「長宗我家」「加藤家」「福島家」「石田家」「島津家」
「真田家」などを屈服させるのはキツイ。
死んだらあくまで豊臣の五大老家康の後継者の立場から脱却しないままの
「秀康」「秀忠」「忠輝」が後をついで天下統一はムリではないだろうか?
ちなみに個人的には「秀忠」はファンだったりする。
>>430 ##家康が敵を屈服させる場合、信長のように必ずしも「武力討伐」しない
どちらかというと「武力討伐」が多いのではないだろうか?
三河>遠江>駿河>甲斐(間接的)>信濃の支配下は全て武力討伐
上杉も武力討伐しようとしたし、関が原でも武力討伐
豊臣家も過程は確かに政略であるが最終的は戦闘での滅亡
433 :
日本@名無史さん:04/09/09 09:22
関ヶ原直前でも家康は大大名であったわけで、伝統的な戦国の国盗りを継続していけば
隣接する1、2国を落としてしまえばそれこそ天下統一も不可能ではあるまい
秀吉と違って息子も8人も儲けているわけで後継者もいるわけだし
>>428 謙信は長期的な展望は持たず、常に目先の小銭を追い求めた
人物だ。
>>432 家康が死ぬまでの16年間に、それだけの数の大名を完全に屈服させるのは不可能。
しかし、盟主となるべき大大名がいなくなれば立ち上がることもできなくなる。
三成が挙兵しなかったら、上杉家は1600年の段階で降伏するか滅亡するかどっちか。
上杉の次に狙われるのは毛利。凡愚な輝元では家康に太刀打ちできないだろう。
島津は外様も外様で、盟主となるような大名じゃない。長宗我部も同じ。
真田なんてほんの数万石の小大名。
逆に家康にとって怖いのは福島正則、加藤清正、加藤嘉明あたりだろうな。
というか、俺は天下分け目の合戦なくして徳川家の天下はないと思ってるんだけどな。
豊臣家の執権たる徳川家の天下ならあり得るが。
437 :
日本@名無史さん:04/09/10 10:23
秀吉亡き後の勢力図を考える必要があろう
特に大老の前田利家や家康には従来から武闘派諸大名の人望が厚かったわけだが、利家亡き後は
家康に集中していった
この過程で三成が奉行職から除かれ、さらに上杉も中枢からはじき出されたわけだ
この流れから行くと、家康体制が次第に豊臣政権内に形作られていくことになる
これに伴う形での戦闘は避けられなかっただろうが、十年単位の攻防でなくて一気に天下分かれ
の大戦に展開したことは家康にとって幸運だったろう
438 :
日本@名無史さん:04/09/10 15:40:43
秀家が求心力になれればね
宇喜多が備前、美作二国のみというのがさびしい(備中も少しあったらしいが)。
現在の岡山県一つもありゃしねー。
国力からいえば国中総動員かけたんじゃなかろうか。
宇喜多に3万いや2万5千ぐらいでもいいから兵を動員できるように秀吉にはして欲しかった。
>>439 でも、配下に日本史上最強の剣士が
いたよ
>>440 雑兵なんて何人いても関係ないでしょ。
それに当時の戦闘では太刀など役に立たないし。
442 :
日本@名無史さん:04/09/11 09:30:18
金吾が何で1万2000〜1万5000(人数不明)
動員出来たんだ 金吾秀秋くん答えてくれ。
443 :
日本@名無史さん:04/09/11 09:38:30
朝鮮出兵で経費がかさみ、家康から運転資金を融通してもらっていた大名は少なくなかったんだよね
金借りてたら頭が上がらんよね
小早川は36万石でしょ。
1万石につき300人の計算で、10,800人。
さらにちょっと多めに動員かければ12,000人以上は集まる。
446 :
日本@名無史さん:04/09/11 17:45:28
2割増は厳しいでしょ?
>446
四人役で14400人だから全然厳しくないだろう。
北の庄16万石から移ったばかりだから。
関ヶ原合戦時、九州は二人役。
小西のばあい二千九百人。
立花は三人役を出したが、それは島津義弘が特筆したほど異例なこと。
もっと言えば、家康も250万石だから、五人役で12万5千人の動員ができる。
もちろん五人役だと経費がかかりすぎて長期戦には向かないので、そんなには動員してないだろうが。
だけど家康のこの一戦にかける意気込みを想像すると、
四人役で10万人規模の動員をかけた可能性も否定できない。
というか関ヶ原の戦いの各大名の兵力は、当時の資料に兵力が記されたものが存在しないので、
旧帝国陸軍が石高をもとに推定したものなんだよね。
>>443 借金取りは殺してしまえば、踏み倒せますよ。
石田が真田へ送った手紙では石田勢6,700だが、石田父子兄弟の
総石高×三人役で6,720だから、石田の手紙は信頼性が高いだろう。
注)島津を除く
そもそも秀吉はなんであれほど莫大な石高を家康に与えてしまったんだろうな
秀吉自身が下克上を生き抜いてきた生き証人なのにね
老いぼれて呆けるまえに、ちょっとくらい家康をどうにかしようとは思わなかったのかね?
453 :
日本@名無史さん:04/09/12 04:11:11
家康は信長公の同盟者(実質はともかく形式上は同格)だったという
点で、秀吉には家康に対してかなり負い目があったのでは?
三河・駿河・遠江から関東に転封させただけでも秀吉としては精一杯
家康を「どうにか」したことになるのではないでしょうか。
それに、秀吉没後にはっきりしたように、豊臣政権自体が烏合の衆で、
秀吉もそれを十分知っていたのではないでしょうか。
家康を怒らせると、関東はもちろんですが、伊達や最上が家康につい
たら、上杉もどう動くかわかりませんから、関東〜東北圏がごっそり
反乱する可能性があります。それに西の毛利や長曾我部が呼応すると
他にも同調する大名が出てくるかもしれません。
晩年の秀吉としては、家康のご機嫌取りが精一杯だったのではないで
しょうか?
家康も、秀吉の後は自分だという自覚があったからこそ、秀吉が健在
なうちは秀吉の顔を立てていたのではないでしょうか?
454 :
日本@名無史さん:04/09/12 05:01:58
財力はあるけど成り上がりの身の哀しさか、信頼できる家臣がいないのが秀吉最大の弱点だから
家臣に恵まれ、武田と戦ってた時代からの練度の高い兵をかかえ
国力もある徳川つつくのは恐かったんでない
世継出来たら徳川と姻戚関係結んで取り込んだ方が遥かに益あるし
ただ子宝と寿命が足りなかった
確かにねぇ、末期の秀吉は政権維持という点では家康を頼んでいたわけで
内心は秀頼の大名としての地位と形ばかりの官位だけを望んでたんじゃないかな
命だけは助けて欲しい、名ばかりの地位と名誉だけは残してくれよ、、と
秀吉は自分亡き後、家康の天下になるのも仕方ないと思ってたかもしれないね
秀吉ほど権力のしくみをよく分かってる人間もいなかったと思うし
ただ大阪城の官僚と淀だけは豊臣の天下が当然だと思いこんでたんだろうな
456 :
日本@名無史さん:04/09/12 10:11:59
>>453 しかし三成でさえ秀頼を立てずにあそこまでやれたのだから、
秀吉自身が家康攻略に全力で取り組めば、
大損害はこうむるだろうが最終的には確実に勝利できたはずでは?
そういう意味では豊臣政権を盤石にしておきたかったのなら、
存命中に関ヶ原的な天下分け目の大戦をやっておいたほうが良かったかも。
>>456 家康の横暴を抑えず放置した結果、毛利、宇喜多、上杉の危機感
を煽れたからあそこまでできたのだろう。
秀吉存命中なら、家康の力を削ごうとした段階で秀吉に対して危機感
を募らせる。
458 :
日本@名無史さん:04/09/12 10:19:44
秀吉はあんま必死こいて戦すんの好きじゃなさそうだからね
いずれ戦しなくても取り込むな
り力封じる自信なんかもあったんじゃないかな?最初の頃は
徳川も秀吉に戦させる口実あんま与えてないし
家康を東国に放置しておくと力を蓄え攻上ってくる危険があった
ので豊臣政権に組込み利家と牽制し合わせる事でその力を制御しよう
としたが利家の死によって豊臣政権は家康に乗っ取られた形となり全て
裏目になってしまった。
>>452 家康を関東へ委封したことは経済的には家康にとって
減俸同然だろう。何の取り柄もない関東と違って、
旧領の駿府なら武田から引き継いだ莫大な金山が。
>>458 秀吉は必死こいて戦するの好きじゃないって言うよりも、天下取りを急ぎすぎた。
武力制圧よりも帰順させることに重きをおいたことがその表れ。
そんなに早く天下人になりたかったのだろうか、滅ぼすべき相手でも降参すれば許してしまっている。
時間はかかっても、小牧・長久手のときに徳川家を滅ぼしておくべきだったわな。
その辺が農民上がりの秀吉の限界なのかもしれない。出世欲に目がくらみすぎたのか。
逆に秀吉に付け入る隙を与えなかった家康の方が、一枚上手だったのかもしれない。
>>460 日本地図を見てみようよ。
これほど広大な平野が関東以外にあるか?
駿遠三はともかく、甲斐信濃なんて山ばっかりで農地にできる土地が少なすぎる。
>>461 甲斐には金山がある罠
それにこの頃の関東平野は今と違って河川の氾濫に悩まされる土地だった
そして関東ローム層という台地が多く、水稲耕作には適していなかった
それを開発して今の基礎を築いたのが徳川家康な訳だが
463 :
日本@名無史さん:04/09/12 16:47:22
いずれにせよ、秀忠軍無しで(真田に邪魔されたわけだが)
関ヶ原で勝った家康は運がいいな。
太閤でも勝てないのに三成が勝てるわけないわな。
「大谷吉継」って言う人かわいそうだね。
家康「勝てば官軍」以後繁栄。
467 :
日本@名無史さん:04/09/12 17:54:42
>>461 小牧・長久手の戦後処理を厳しくとりおこなって
大幅な領地削減なり転地なりを行うことはできたよね。
当然家康は徹底抗戦してくるだろうから
それを理由に本気でつぶすことも可能だったと思う。
北条、九州勢をまだ平定してなかったとはいえ
当時の秀吉の求心力と武力なら家康抜きでも問題ないだろうし。
まあそこで家康を一気に攻め滅ぼさず
懐柔したあたりが秀吉の真骨頂なのかもしれんが。
468 :
金吾秀秋:04/09/12 18:06:39
>>466 よくわかってるじゃないか(´・ω・`)
>>465 まったく大谷という賊軍の一味は悪いやつだな(´・ω・`)
>>442 >>444 漏れ様には人徳があるからなぁ(´・ω・`)
危険だから来るなって言っても家来がカテーについて来るのさ。
469 :
日本@名無史さん:04/09/12 18:28:22
秀吉は狭い日本の統一以外に純粋に海外進出という野望があったんだよ。
単に国内の戦国大名の力を削ぐというだけのためじゃない。
力を削ぐという目的が第一なら、家康などに出兵を命じていたはずだろ。
471 :
日本@名無史さん:04/09/12 19:21:18
小牧・長久手の時に家康に攻撃しかけると
豊臣から離反して徳川につく大名なんかも多くでそうだよ
小牧・長久手で徳川軍の強さ見せ付けられてるし
北条氏なんかもまだ健在だし
>>467 >まあそこで家康を一気に攻め滅ぼさず
>懐柔したあたりが秀吉の真骨頂なのかもしれんが。
というか、懐柔せざるを得なかった。妹や母を人質に出してまでも。
私はこの辺が秀吉の限界と見る。
>>471 小牧長久手の時点では、家康はまだ秀吉の敵対勢力だから、
豊臣から離反する大名がいるとは考えにくい。
また、北条は箱根から西にはまず出張ってこないだろう。
>>471 たしかに、あそこで家康に攻撃をしかけると
リスクは大きくなるよね
ただ、秀吉にとって家康の人間性が
どうだったかだね。もし、家康が腹黒かったならば
間違いなく攻撃で攻め潰しているけど
信長ー家康の間柄を秀吉は良く知ってから
むしろ、家康を懐柔して臣下にした方がずっと
得策と判断したんだるうな。なんといっても
家康は律義者に思えたからこれを配下にすれば
これほどおいしいことはない。
474 :
日本@名無史さん:04/09/12 21:13:18
秀吉は奇抜な作戦や大多数の兵で戦う前に相手の気勢をそぐのが得意
はったりが効かず自力も自信もある徳川はまさに天敵
配下の武将や敵対勢力を、自分を大きく見せて従わせたり牽制してるのに
徳川相手に長期戦になったり苦戦していれば、地金が見えて今が好機と
伊達や北条まで加勢してくるかもしれないし、一度は配下に収めた武将も寝返るかもしれない
だから少なくとも小牧・長久手の戦で徳川と徹底交戦するメリットは少なげ
>>474 長期戦になれば苦しいのは徳川。三河の田原では一村まるごとの
集団自決が発生している。小牧長久手の戦いの結末は、継戦能力
を喪失した徳川の降伏。
476 :
日本@名無史さん:04/09/13 02:50:01
>>474 それはちょっと秀吉を甘く見過ぎでは。
秀吉は戦においても非常に有能な武将だったし
合理的に勝ちを納める方法や長期戦の継続能力など
当時の家康を遙かにしのぐ能力の持ち主だよ
その頃の徳川軍の強さは純粋に兵の精強さであって
利に長け、損得で動く伊達などの地方大名が
わざわざ秀吉と対立してまで家康側に立つなど
ありえないと思うが。
あのまま長期戦を続けていれば滅ぶのは家康であろうことは
>>475さんと同意見です
477 :
日本@名無史さん:04/09/13 10:13:07
じゃあ何で秀吉は家康に人質を送らなければならなかったのだろう
>>477 屈服したはずの家康が中々上洛しないから。
実の母である大政所を送られながら、
上洛しなければ『家康公は不義理な奴』となり、秀吉(゚д゚)ウマー
人質を殺せば徳川攻めの名分が手に入り、秀吉(゚д゚)ウマー
さらに人質を送り返しても(ry
479 :
日本@名無史さん:04/09/13 11:27:47
小牧長久手の戦いにすべての発端はあるよね
徳川家臣団のこのときの自負心は相当なものだったからね
それと他の大名のように朝鮮出兵で勢力を削がれなかったことが家康には幸いしているよね
有力な豊臣家家臣団が一番手痛い損害を蒙っているよ
480 :
日本@名無史さん:04/09/13 11:40:59
三成にもうちょい金と権力やっとけばよかったのに
481 :
日本@名無史さん:04/09/13 11:44:24
肉人と手を組んだ家康は最強
小牧長久手が秀吉の勝利というのは、ちょっと無理があるのではないか?
この講和は、秀吉があまりにも天下統一を急ぎすぎたための失策だと思うが。
ここでしっかりと秀吉が勝っていれば、家康の台頭はなかった。
秀吉は西国の平定を急ぎたかったため、徳川にこれ以上手こずるのは得策ではなかった。
家康は常勝だった秀吉に土をつけたことで、徳川家の実力を大きくアピールできた。
なんというか、日露戦争の結末とよく似ている。ロシアが秀吉で日本が家康。
日露戦争はあのまま継続していれば、日本がやがてジリ貧になってロシアに形成が傾いたであろうことは明らか。
小牧長久手でも、戦争が継続されていれば、間違いなく豊臣側の勝利。
家康も日本も、ベストの時点で講和できており、それはその後の情勢に大きく影響を及ぼしてくる。
秀吉が完全に勝利していれば、強者が母親を人質に差し出すなどという
通常ではあり得ない奇策を行う必要もなかった。
弱者側ならともかく、強者の側が自分の母親を人質に出すなんて、
孝道にもとるとんでもない行為だよ(この頃は儒教の影響はそんなに大きくはないけれど)
483 :
日本@名無史さん:04/09/14 00:06:44
>>482 > 弱者側ならともかく、強者の側が自分の母親を人質に出すなんて、
> 孝道にもとるとんでもない行為だよ(この頃は儒教の影響はそんなに大きくはないけれど)
とはいえ、そこが秀吉らしい芸風なわけで、奇策であろうとも十分効果があった。
結局大阪城に出向いた家康は、それ以降秀吉が死ぬまで律儀に忠義を尽くし
秀吉政権の筆頭幹部としては、なんの落ち度もなく勤め上げた。
これは莫大な戦費をかけて家康を武力制圧するよりずっと上策だろう。
調略の天才たる秀吉の前例をみない奇策の成功は本人も大満足だったんじゃないかな。
484 :
日本@名無史さん:04/09/14 00:20:10
>>482 話の筋道は正しいけど近代の戦争とは比較できないんじゃないかな。
当時の世襲においては継がせるべき子がいなかったり幼すぎる場合
そのまま没落していくのが常道だったわけで
天下を家康に取られたのは小牧・長久手が戦略的に失敗だったというより
単に子宝に恵まれなかった秀吉の歴史的必然的というものだと思う。
もし小牧・長久手で家康が滅亡していたとしても秀吉没後には内紛や
各大名間での戦争などによって結局豊臣政権は崩壊したと思う。
485 :
日本@名無史さん:04/09/14 00:41:44
北条潰したあたりで腰おちつけて子作りに励んでりゃよかったのに
後、自分に忠実な配下の育成とか
大阪民国に対する渡航情報(危険情報)の発出(2003/12/26)
●大阪民国西成区および岸和田市:「退避を勧告します。渡航は延期して下さい。」(継続)
●大阪民国鶴橋地区:「渡航の是非を検討して下さい」(継続)
●大阪民国高槻市:「渡航の是非を検討して下さい」(引き上げ)
●大阪民国中部および南部 :「渡航の是非を検討して下さい」(引き下げ)
●大阪民国北部、京都市:「十分注意して下さい」(継続)
●大阪民国西部および神戸市(芦屋市を除く地域):「十分注意して下さい」(引き下げ)
大阪民国への渡航を予定される皆様及び同国に滞在されている皆様へ
1.概況及び地域情勢
大阪民国全域では、阪神フィーバーが沈静化しつつあり、暴動、騒乱も減少傾向にあります。
太田房江書記長の強権発動により、犯罪取り締まりが強化される一方、ハンナン事件により
大阪民国の政治情勢は、依然不安定かつ流動的であります。
生野、阿倍野地方において、暴力団による襲撃事件や銃撃戦等が続いています。
また、西成においては、日雇い労働者の暴動が発生したほか、高槻市内でも社会民主党系の
テロリスト拠点の存在が指摘されてきており、今後も都市部における暴動、大規模テロ等が発生する
可能性は否定できません。したがって、大阪民国内の政治・治安情勢の推移には引き続き十分な注意
を払う必要があります。
2.滞在にあたっての注意
一般的に「ブラク」と呼ばれる地域には立ち入らないように注意して下さい。
引ったくり犯罪に日本人観光客が巻き込まれる事件が多発しています。
所持品(バッグ類)に注意を払うようにして下さい。
ピースボートと呼ばれる不審船には興味本位でも立ち寄らないで下さい。
京都市営バスは危険です。観光目的での乗車は出来るだけ避けて下さい。
3ヶ月以上滞在される方は、「在留届」を日本国大使館に遅滞なく提出
するとともに、帰国される際には「帰国届」を必ず提出して下さい。
○在大阪民国日本国大使館 06-0000-0000
487 :
日本@名無史さん:04/09/14 09:39:24
>>485 >北条潰したあたりで腰おちつけて子作りに励んでりゃよかったのに
言われるまでもなく励んでるよ
励みすぎで寿命を知事メタ
>後、自分に忠実な配下の育成とか
「自分に忠実な配下」として、三成を育てた
で、死んだらお終い
488 :
日本@名無史さん:04/09/14 10:18:30
>後、自分に忠実な配下の育成とか
士官クラスでもない一騎がけの武者に過ぎない、
加藤清正、福島正則、加藤嘉明、山内一豊、田中吉正、脇坂なんとか、あたりを
一躍10万石以上の大名にしたのはその意味合いがあったわけだが。
みんな、裏切られているけど。
489 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :04/09/15 12:09:30
関ヶ原後に毛利輝元がホイホイと大坂城を出てしまわないで、帰還した毛利税や
立花勢、島津などと篭城していたら戦局も変わったでしょうかね。
>>489 変わんない。
総大将が秀吉子飼でなくて毛利では、大阪城内部で反乱が起こる可能性だってある。
491 :
金吾秀秋:04/09/16 03:07:06
>>490 漏れ様が颯爽と大坂城に入って、
諸将をまとめるから大丈夫(´・ω・`)
また威嚇の鉄砲を撃たれたら知らないけどね。
492 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :04/09/16 08:02:54
>>490 しかし、秀吉子飼いの諸将は、あの時点では秀頼のいる大坂城を攻撃なんて
せんでしょう。東軍分裂の可能性が高いと思いますが…
493 :
日本@名無史さん:04/09/16 10:16:27
ま、あの時点では、三成主導管理体制か家康主導管理体制かどちらかを採れという
感じだったのではないかな
おれなら東軍かな
494 :
日本@名無史さん:04/09/17 04:58:25
朝鮮出兵なんかして、折角の子飼いの奉行を険悪にして
徳川につけこむ隙与えたのがそもそもの間違い
負けは負け
496 :
金吾秀秋:04/09/24 00:42:51
勝ちは勝ち(´・ω・`)
497 :
日本@名無史さん:04/09/24 09:51:04
関ヶ原の戦の後、毛利が大阪城に居座り、三成を切腹させて、
宇喜多など関ヶ原で直接戦った連中を改易にさせるという
条件で和睦を結ぶことができた。これ、三成憎しで東軍
についている豊臣系諸侯にとっても、悪くない結果だった
のだが。
>>497 でも三成は早々と東軍側の武将に捕まってなかったっけ?
毛利がどうこうと言うことはできなかったと思われ
499 :
日本@名無史さん:04/09/24 10:22:22
多くの制約があると思うが、東西が戦端を開くとしてどの地点でぶつかった方が
西軍にとってよかったのでつか?
500ゲット?
>>499 やはり関ヶ原近辺じゃないかな
そこより西だと大坂まで近くなるし
そこから東に行くと家康の勢力が強い区域になる
501 :
日本@名無史さん:04/09/24 11:26:09
城に籠もりながら戦えば、城攻め苦手な家康軍はてこずるだろうし
大阪城や、上杉方の脅威もましたろうに
家康大好きな野戦にもっていって一日で負けちゃった
502 :
日本@名無史さん:04/09/24 11:52:50
主力が大垣城から出たのは三成の作戦を安易に受け入れたからだろう
503 :
日本@名無史さん:04/09/24 11:53:28
>>497 それができるほど輝元が凄腕の武将なら、誰も苦労はしないってw
504 :
日本@名無史さん:04/09/24 14:19:35
>>499 関ヶ原での布陣を見ると小早川や毛利の戦意の無さは一目瞭然で、早々に
戦闘に持ち込まなければ西軍に勝機は無かった。そういう意味で、関ヶ原での
野戦になったのは石田三成としては心中安堵したのではないだろうか?しかも
秀忠の部隊は遅参という状況だし。
505 :
日本@名無史さん:04/09/24 15:35:24
関ヶ原に参戦できなかった西軍大名で、どうしても参戦させたかった武将はだれでつか?
たとえば立花宗茂とか
榊原康政・奥平信昌
507 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :04/09/24 16:26:03
>>499 関ケ原は歴史的に「西軍が負ける」という場所なので、三成にとっては
良い場所とは言えないのでは?
508 :
日本@名無史さん:04/09/24 17:17:38
西軍大名が腰すえかねてるならそれこそ城出ての短期決戦まずかったんじゃない?
もしくはもっと早い段階で攻めに回って徳川の先陣がまだ充実してない時期に攻めて
西軍優勢をみせとけば、腰すえかねてる大名もどうにかなったかもしれない
徳川が参着するまでまってから野戦なんて最悪だと思う
509 :
日本@名無史さん:04/09/24 17:41:20
何家康に喧嘩売ってんの?
西軍は馬鹿ばっかだな。負けて当然じゃ。
510 :
日本@名無史さん:04/09/24 17:54:09
東軍が上ってくるまでの期間にもっと戦略的に準備できなかったの
511 :
日本@名無史さん:04/09/24 19:44:18
>>508 家康が着陣した時点でのことを言ったつもりなので、早い段階で云々は
置いておくとして。城を出ずに短期決戦しなければ戦う以前に造反者が
出たと思うよ。それに家康の背後には秀忠の軍も迫っているわけだから、
ますます不利になる。
512 :
日本@名無史さん:04/09/24 19:45:36
○ 城を出て短期決戦ね
× 城を出ずに短期決戦
秀忠軍の動きをどれくらい読めていたというのだ?
家康の赤坂着陣にビックリしていたのに
家康を関東ではなく九州に転封しておけば朝鮮に行かせられたのに。
515 :
日本@名無史さん:04/09/24 23:58:44
>>513 信州で西方と交戦しているんだから家康の動向よりは分かっていただろう。
516 :
日本@名無史さん:04/09/25 00:09:22
>>508 というか、三成の戦略はそれだよ。
東軍、端的には家康が関東でうろうろしている間に、東軍側の城(伏見や、細川家の宮津など)をどんどん攻め落として
「西軍優勢」の世論をつくり、日和見諸侯を味方につけようとしたわけで。
ただ、三成の予想に反して家康がいきなり赤坂にやってきたために、誤算になってしまったわけだが。
まあ、予想に反しというか、諜報活動をしっかりやっていれば、当然三成も西軍をもっと結集できたはず。
たとえば戦意があり有能な武将であった立花宗茂など。
彼らが関が原に結集していれば歴史は変わったかもしれない。
この諜報活動のいい加減さが、三成より上の世代、信長、秀吉、家康、細川藤孝、黒田如水といった戦国の
動乱を潜り抜けてきた武将たちとの能力の違いというべきかもね。
517 :
日本@名無史さん:04/09/25 00:33:38
上杉−真田−石田の連絡網整ってれば、まだ情勢は変わったかも
後、武将の説得工作
完全に情報戦と交渉力の敗北だよね
>>517 っつーか、西軍が秀頼担げなかった時点で負け
豊臣政権の内紛って扱いにされては家康にかなうはずもない
ここは大野らを暗殺してでも大阪城を巻き込んで
ホンモノの天下争奪戦に持ち込まないとね
秀頼が立てば毛利の行動も変わったと思われ
519 :
日本@名無史さん:04/09/25 01:44:09
>>518 それは無理。
なぜなら、法形式上秀頼の代理人は三成ではなくて、家康なんだから。
三成なんて木っ端役人に過ぎないのに対して、家康は利家亡きあと豊臣家の最高権力者だろ。
仮に大野などを暗殺して秀頼を強引に巻き込んでも、正当性がない。
むしろ、三成と家康の間で中立にもって行き、さらに西軍の形の上では総大将である毛利を
大阪を本陣とさせただけでもよくやったといえる。
明治維新で薩長が勝てたのは、幼少の明治天皇の代理人である外祖父中山忠能を岩倉が抱き込んだため。
520 :
日本@名無史さん:04/09/25 01:53:10
上杉はなにをしたかったんだろうか
521 :
日本@名無史さん:04/09/25 02:04:31
>>519 三成が木っ端役人などという認識はおかしいな。
明治維新と戦国末期を並列に考えてるの?
522 :
日本@名無史さん:04/09/25 02:14:16
>>521 三成は木っ端役人だよ。
豊臣家の序列からすれば、家康、利家以下5大老(とりあえずあるとして)、その次に3中老がいて、
一門格の浅野を筆頭とした五奉行と続く。
徳川幕府でいえば、家康と利家が大老、その他3人が老中、三成なんぞは若年寄程度でしかない。
三成は秀吉側近として「事実上の」権力を奮ってはいたが、法形式上は所詮でしかない。
しかもこれまた法形式上秀頼の母であり、代理人ともいえる北政所も家康に味方しているし。
淀殿なんてあれは無位無官の単なる「オンナ」に過ぎないからな。
明治維新の例を出したのは、結局「旗」というか「玉」という意味で言っている。
秀吉が天下を取るとき清洲で三法師を後継として諸侯に認めさせたのも同じこと。
実力の社会であっても、法形式的な正当性はそれなりに重視されているんだよ。
>522
五奉行・五年寄が豊臣政権のトップテンだから、三成が木っ端役人なんてとても言えないだろ。
>徳川幕府でいえば、家康と利家が大老、その他3人が老中、三成なんぞは若年寄程度でしかない。
若年寄「程度」というのはどうかと思うが、位置としては間違いじゃないな。
実際に政治を動かしているという点でも。
>>522 ムシャ |
ムシャ |
∩___∩ | ぷらぷら
| ノ ヽ (( |
/ ● ● | J ))
. (( | ( _●_) ミ ・
彡、 |∪}=) ,ノ ∴ しけた釣りだクマー
/ ヽ/^ヽ ヽ 。
| ヽ \ |
| ヽ__ノ
526 :
日本@名無史さん:04/09/25 08:59:07
しかし西軍の実質大将やるには人望と戦のセンスは足りなかったな三成
格がなかった三成
528 :
日本@名無史さん:04/09/25 13:46:18
何も考えていなかった毛利
>>519 確かに形式上は家康に楯突くのが難しいのは分かるが
オレの考えてるのは一種のクーデター。
家康には明確に秀吉の定めた掟を破っている事実もあるし
奉行連名で糾弾もしている。
豊臣そのものを守るために政権No.1である家康を討つのは
なにもトンデモナイ悪行というわけでもあるまい。
つまり大名連中を募ることも大切だが
家康が豊臣にとって非常に危険な存在であるということを
秀頼方に伝え抱き込むことが必要だった。
まあもし三成が勝つためには、、、という話だけど。
秀頼方が大阪城に金の瓢箪をかかげ家康と対峙する。
やはり魅力的なシナリオだと思うがね。
530 :
日本@名無史さん:04/09/26 00:07:42
>>529 それも無理だ。
クーデターは結局「力」勝負。武力のあるほうが結局勝つ。
幕末も薩長のしたことはある種のクーデターであるが、結局最後は鳥羽伏見の戦いで
勝つまでは、クーデターは失敗続きだった。
三成が秀頼を抱きこむのは結局無理といわざるを得ない。
もし前田利家が存命なら、まさに利家は秀頼の「正式の」保護者後見人だから可能だったかも知れない。
また、北政所ねねを抱え込むしかないが、これは家康に抱きこまれてしまった。
利家、ねね、家康という秀頼の正式な保護者を誰も抱えることが不可能である以上、所詮無理な話。
531 :
日本@名無史さん:04/09/26 02:50:41
純粋な武力で比べると東西両軍はほぼ互角
むしろ若干西軍のが優勢かもしれん
だから家康もかなり必死の覚悟で開戦もってった筈だし
東軍が負ける可能性も十分あった
家康が大坂にいれば秀頼抱き込むの難しいだろうけど
もう出ていっちゃってて大坂にいるの西軍陣営ばかりなんだし、
普通に抱き込むのは可能なんじゃないの?
淀君は文治派近江閥なんだしさ。
533 :
日本@名無史さん:04/09/26 05:33:54
天下の分け目は忍者の有無
534 :
金吾秀秋:04/09/26 07:16:09
535 :
日本@名無史さん:04/09/26 07:55:43
西軍は手薄なうちに清洲まで前進すべきじゃなかったか?
でも家康は関が原に到着したときには相手の布陣を見て
(あれれ、またやっちゃったよ。俺)とか思っただろうね。
士気が下ってはまずいから「この天候では平地の人数で決まるぞ」とか強がって見せたが。
537 :
日本@名無史さん:04/09/26 13:33:44
上杉がホイホイと家康の要請通り上洛し
他の大名も絶対に難癖つけられないように
静かに暮らしながら家康が死ぬのを粛々と待っていた場合
家康の天下取りはムリだったかもしれないよね
その間に奉行は着々と法整備をしながら
家康死後のグラウンドデザインをしておけば
豊臣は盤石だったんじゃないの?
三成はなぜ家康の死を待てなかったのだろうか?
538 :
日本@名無史さん:04/09/26 13:33:55
前田は茶坊主上がりだっけ?
あんまり武将と比べて迫力無いが・・・
539 :
日本@名無史さん:04/09/26 13:56:05
>>537 今日では40歳ならまだまだ人生これから、特に政治家なら「洟垂れ小僧」だけど
当時は40歳を超えたら、いつ死んでもおかしくないし。
実際彼と同世代の武将でも、蒲生秀郷、加藤清正、浅野幸長、池田輝政、小早川秀秋と
次々に死んでいるわけで。
540 :
日本@名無史さん:04/09/26 14:17:37
>>536 むしろ家康は喜んだんじゃないかな。毛利や小早川は山の上に陣取って戦に
参戦する意欲がなさそうだし。いきさつを知らなかったメッケルは西軍有利
と判断したが、謀略を試みたものが見ると東軍有利に見えるんじゃねーの?
541 :
日本@名無史さん:04/09/26 15:43:00
常に先を読み馬鹿(金吾)に恩と力渡しといた家康の勝ち
ミッチーも武将達に豊臣の恩強調するだけじゃなく
関白にさせてやるぞ位の心の機微が分かる男なら
勝敗はかわってたかも
542 :
福島正則:04/09/27 23:06:57
ワシが西軍になっていれば・・・
543 :
日本@名無史さん:04/09/28 00:18:05
要するに家康は好きではないが、三成はもっと嫌い。
この感情が勝敗を決したか?
544 :
金吾秀秋:04/09/28 01:34:48
>>542 一緒に大谷に襲いかかったのにな(´・ω・`)
545 :
日本@名無史さん:04/09/28 01:58:37
>>539 だったら家康なんてさらにいつ死んでもおかしくないわけで
ひょっとすると明日死ぬかもしれないような家康の死を
なぜ待てないんだよ?
546 :
日本@名無史さん:04/09/28 06:50:29
家康長生きし杉
547 :
日本@名無史さん:04/09/28 09:01:40
そういや家康は関ヶ原以後16年も生きたのか・・・
例え待った所で三成の方が先に逝ってたかも
548 :
日本@名無史さん:04/09/28 13:00:39
>>545 なぜ明日死ぬかもしれないと判断するのかが不思議だ。
明日死ぬかもしれないし10年以上生きるかもしれない、それが人生だろ。
549 :
日本@名無史さん:04/09/28 13:33:45
>>548 >>539の意見を受けての発言なんだから不思議でもなんでもないだろう。
人生50年がやっとの時代で三成が焦るのも理解できるが
さらに高齢の家康の生死なんてもっと危なっかしいわけで
「家康はいずれ死ぬ、ここは2、3年我慢せよ」という発想があってもおかしくはない。
実際は家康があれだけ長生きしたわけだから、三成に勝算はなかったわけだが。
ただ、待つことで機を制するのも戦略のうちだと思うがなあ。
三成、神経質で華奢だから早死にしそう
大谷吉継も早死にしそう
552 :
日本@名無史さん:04/09/28 19:19:59
直江を関西で20万石ぐらいにすれば解決
554 :
日本@名無史さん:04/09/28 21:33:50
>>549 そんなの待ってたら、ますます家康が婚姻政策だの、いろいろやりたい放題やって
地盤を固めてしまうでしょうが。
天下さえ取られなければいい、ってなら待つことはできるかも知れないけど
三成としては「執権」としての家康だって許せなかったんだろ。
しかも、三成を憎んでいる加藤、福島、黒田、池田あたりとは婚姻政策で一連托生になっている
ことを考えれば、逆に家康派に滅ぼされかねない。
大阪の陣で家康の死を待つまでろう城を続けるってのはありでも、秀吉死後で
家康の死を待つなんて無理無理。
家康が地盤を固めても、加藤や福島は秀頼マンセーなんだから
三成が挙兵さえしなきゃ、政権は秀吉→家康→秀頼になるような。
関ヶ原がなけりゃ豊臣家は減封してないし。
556 :
日本@名無史さん:04/09/29 00:00:51
>>555 とりあえず、三成はなんらかの形で失脚させられる。
そうなれば、秀頼を守れる人なんていない。
関白として祭り上げ、執権を徳川家が担うだけ。
豊臣家の領地といっても200万石で家康より少ないし。
徳川幕府だって4代将軍の時には大老酒井家にのっとられていたし。
>>556 とりあえず、三成はすでに失脚してるわけだが・・・
558 :
日本@名無史さん:04/09/29 09:25:02
あえていうなら、家康が秀吉、前田、に続いて早い時期に死んでいたら
豊臣政権は安泰だったのかということだろう
おそらく戦国時代に逆戻りだろうな、単純にみて
559 :
日本@名無史さん:04/09/29 13:29:52
征夷大将軍の官位がないのも豊臣にとってはきつかったな。
室町時代みたいになったんじゃない?>家康早期死亡
561 :
日本@名無史さん:04/09/29 15:50:02
なぜ関ヶ原に勝った徳川家臣団は領地の加増が少なかったのでしょう?
562 :
日本@名無史さん:04/09/29 16:29:34
身内にやる分があるならば他にやって忠誠を得てくれと
重臣達が家康が所領やるって言ったのに辞去したらしい
真偽はしらんけど
563 :
日本@名無史さん:04/09/29 16:39:35
>>561 >なぜ関ヶ原に勝った徳川家臣団は領地の加増が少なかったのでしょう?
主要な武将は秀忠軍につけていて、関ヶ原の決戦に遅刻して
(全く活躍してないからです。家康軍についてきたのは旗本
の小身の寄せ集めで、まとまった戦闘単位とはなりえなかった。
戦いに投入されたのは勝敗の帰趨が決してから後。)
勝った方についていても、武功がなければ加増がない、
少ないのは当然のこと。家康としても、戦場で活躍せずに
遅れてきた譜代の武将に大幅に加増するなど、したくても
できなかったのが真相。井伊が大きく加増されているが、
これは譜代の中でまともな軍団率いてきて、関ヶ原で活躍した
ほとんど唯一の武将だからです。
564 :
日本@名無史さん:04/09/29 16:41:41
カッコの位置あやまり
主要な武将は秀忠軍につけていて、関ヶ原の決戦に遅刻して
(全く活躍してないからです。家康軍についてきたのは旗本
⇒主要な武将は秀忠軍につけていて、関ヶ原の決戦に遅刻して
全く活躍してないからです。(家康軍についてきたのは旗本
565 :
日本@名無史さん:04/09/29 19:15:53
家康隊は東海道を安全に進撃できるが
秀忠隊は戦闘をしながらだかね。
しかし、両軍のバランスが悪すぎたか?
東軍の進撃が早すぎたのだろう。岐阜城攻略は家康が正則たちに
忠誠を示すように示唆したことが原因と徳川御用史家たちに改竄
されているが、実際は家康が仮病をつかって休んでいるのを怒った
正則達が打って出たのが真相だし。家康としては渋々出馬せざるを
えず、目論見が完全に崩れたのだろう。
567 :
日本@名無史さん:04/09/30 20:40:04
岐阜で手こずったとしても似たような結果?
逆に大垣まで落としても、やはり同じ?
568 :
日本@名無史さん:04/09/30 22:10:39
>>567 岐阜でてこずっても結局関ヶ原でやるんじゃないかな。戦う土俵は家康の
意のままって気がするけどなぁ。
>>568 岐阜で手こずっていたら家康はいつ出てくるんだよ?
570 :
日本@名無史さん:04/09/30 23:37:58
手こずるどころか、進軍中の東軍先鋒を急襲して撃退してしまえ。
孫なんだから、血は受け継いでるだろ。
岐阜城落ちない! もう落ちないなんてもんじゃない。ビクともしない。
一歩でも近づいた部隊は全滅。
571 :
日本@名無史さん:04/10/01 15:48:20
>>569 岐阜城は包囲だけして無視すりゃいいんだよ。
>>570 秀信は信長の孫だが、正則は秀吉の従兄弟であり、正則の岳父も
信長の従兄弟だぞ。
573 :
日本@名無史さん:04/10/02 20:30:24
それがどうした。
秀吉は、一時的とはいえ織田秀信を傀儡として利用しなければ天下を
取れなかったんだぞ。
天下統一後もの信長ゆかりの岐阜城で13万石、官位は中納言となか
なか厚遇されてたんだぞ。
それでおめおめと西軍についたんだぞ。
どうだ。すごいだろ。
574 :
日本@名無史さん:04/10/04 12:32:56
秀信が東軍についていたら、東軍の勝利がさらに確実になるし、
戦後に、西国の何処かに加増移封されるのはまず間違いない
でも、徳川政権で信長の孫を大大名にするのはマズいだろうし、
いずれイチャモンつけて減封・改易させるかもしれん・・・
>>574 >秀信が東軍についていたら、東軍の勝利がさらに確実になるし、
織田秀信は大して戦局に影響してないじゃん。
むしろ悪影響。
それならば、むしろ最初から東軍についてくれたほうが、
西軍も岐阜を当てにせず大垣中心に戦線を構築し、むしろ西軍に
有利に働いたかもしれない。
576 :
日本@名無史さん:04/10/04 16:56:26
せっかくの大垣から出た三成が作戦を誤ったのさ
577 :
日本@名無史さん:04/10/05 02:21:44
まったく秀信は情けないやつだな(´・ω・`)
中納言
織田、前田、上杉、宇喜多、毛利、毛利jr、小早川
580 :
金吾秀秋:04/10/06 03:22:24
実力で中納言にまでのぼりつめたのは、
この漏れ様くらいなもんだぜ
他のヤシらは全員コネだぜ(´・ω・`)
>>579 徳川秀忠・豊臣秀頼も中納言。
それから、毛利秀元は参議だね。
582 :
日本@名無史さん:04/10/06 09:56:56
>>561 >>563 ちと違うのでは?
もはや関ヶ原戦以降は武官の時代は終わり文官が必要とされていたからなのでは?
本多とか榊原とか戦国の猛将はもういらないどころか有害になりかねない時代になりつつあったからです。
項羽と劉邦の時代のあとに不要になった武官がどんどん粛正されたように
壇の浦で平家を滅ぼしたあと義経や範頼が始末されたように武功の者たちは平和な時代にはもういらないのです。
井伊に関しては政治も得意で国作りに必要な人材だったというのが大きいでしょう。
583 :
日本@名無史さん:04/10/06 09:59:28
結局西軍で三成しゃしゃり出て作戦に口出ししたことが裏目に出ているような印象を受けるが
どうか
それとも単に関ヶ原における西軍の布陣に落ち度があったのか
584 :
日本@名無史さん:04/10/06 10:16:22
>>583 でも夜戦提案とか史実かどうかわからないし、
仮に夜戦をしたとしても宇喜多軍の様子なんて筒抜けだったから、成功しなかったと思うが。
585 :
日本@名無史さん:04/10/06 11:53:12
あのまま大垣城に籠城していても各個撃破されていただろうし、よく大津城
攻撃部隊が来てもさほど影響はなかっただろう。
あの時点で関が原に出たのは毛利・小早川を戦闘に巻き込み、大津城や他に
散らばっている部隊の援軍が来るのを待つという丁半博打の戦術だったの
だろう、結果的には失敗だったけれど。岐阜が落ちた事で士気を衰えさせ
戦線を縮小できなかった時点で負けは決していたと思う。軍事に明るい方
降臨きぼんぬ。
586 :
日本@名無史さん:04/10/06 13:07:08
>>583 布陣だけ見れば西軍が圧倒的に有利だろ。
徳川って「野戦が得意」と言われてるけどホントか?
587 :
日本@名無史さん:04/10/06 13:31:41
19歳の若造と見下されてたのに
両陣営から必死の引き抜き工作され
実質、関ケ原のキーパーソンにまでなった金吾は結構凄いと思う
後必要だったのは鉄砲にひるまない度胸
588 :
日本@名無史さん:04/10/06 14:50:20
鉄砲で怯んだってのは、創作でしょ?
家康の陣地から、当時の鉄砲の射撃は届かないって
聞いたことあるぞ。
589 :
日本@名無史さん:04/10/06 15:11:43
590 :
日本@名無史さん:04/10/06 15:23:20
小早川秀秋が動かなければ、小早川秀秋の動きを警戒する
必要があるため、家康本隊は動けないと思う
南宮山の西軍を牽制する必要もあるから、南宮山方面の東軍も動けないはず
そうなると、戦況は西軍が優勢だったのではないかな・・・?
591 :
日本@名無史さん:04/10/06 15:39:10
家康の射撃は事実なの?
>>589 また仮に事実だとして、その銃弾が届いたの?
592 :
日本@名無史さん:04/10/06 15:54:50
届かないと思う。火縄銃の射程では不可能だし、戦いの最中に
聞き分けるのは難しい。それに裏切ったのは昼頃ではなくもっと
早かったという説も出ている。
長束隊は戦闘をしたという記録もあるし、戦後に降伏しても切腹しな
ければならなかったというのにも説明がつく。
593 :
591:04/10/06 16:17:26
そうだよね。届かないよね。
撃ったのは事実かもしれないけど。
勝った後なら、いくらでもいいように書けるよね。
撃った撃たないの書物は、どちら側の書物に
書かれてるんだろう?
594 :
日本@名無史さん:04/10/06 17:22:25
勝った側の書物に決まってる、神君の偉大さを表す逸話なんて
ただ届かなかったとしても、銃声で脅かす事は出来たと思う
むしろ味方につけたいんだから、当てちゃだめだろうと
595 :
日本@名無史さん:04/10/06 17:22:45
挟撃するわけでもないのに、長束隊はどうしてあんなに西軍主力軍団から離れた位置に布陣したの?
見ようによっては東軍勢だろう
596 :
日本@名無史さん:04/10/06 17:36:32
毛利と一緒に伊勢方面を攻めたから。そのままくっついて南宮山沿い
に陣をはった。
記録は残っていないけれど伊勢方面の軍監的な立場ではなかっただろう
か?
美濃方面は石田、北陸は大谷、伊勢は宇喜田と長束と考えるのが自然だ
し、大坂城内での立場や連れている兵力の差からいう事を聞かせられな
かったのではないか?現に本戦中でも何度も督促している。
597 :
日本@名無史さん:04/10/06 17:40:23
長束は伏見城攻略戦の原動力だったからね。
家康が鳥居を殺した彼を許すわけもない。
関ヶ原では安国寺と共に毛利を動かそうと必死で工作していたと思われる。
598 :
日本@名無史さん:04/10/06 17:41:15
様々な場所で銃声がなっていて
それが家康からのものと聞き分けられるか謎?
599 :
日本@名無史さん:04/10/06 19:36:47
射程距離内ではなかったから、これ見よがしに小早川秀秋の陣営に向かってぶっぱなしたんじゃないの
当然銃弾は手前でボトボト落ちただろうけど威嚇にはなる
600 :
日本@名無史さん:04/10/06 19:55:53
俺も威嚇銃撃→小早川裏切り説をとるな。
そもそも小早川秀秋が戦況を見て絶好の機会に裏切れるほどのタマなら
秀吉家康クラスは別格としてには、前田利家並の名将と言えることになる。
しかしどうみても小早川秀秋は愚将。
機を見て裏切れるほどのタマとは思えない。
ま、軍監クラスが勧めた可能性は否定できないが、それだったら、その武将は
これまた島左近や後藤又兵衛のように「名将」として名をとどろかせるはず。
しかし、そんな感じでもない。
結局通説が一番可能性があるのではないか。
601 :
日本@名無史さん:04/10/06 20:17:03
稲葉正成・平岡頼勝って・・・
602 :
日本@名無史さん:04/10/06 20:18:57
南宮山に陣を構えたのは石田を始めとする現地参謀と毛利との協議
ではないか?あそこを押さえられたら大垣と関が原との間を遮断
されるし、戦意の低い吉川を城に入れて裏切られたらお終いだし、
吉川としてみればどちらかが勝っても言い訳がきくし、いざとな
れば勝つ側につけば良いのだから。現に細川忠興宛ての手紙には
西軍の急な移動で裏切れなくなったと書いている。安国寺が輝元
の補佐をせずついてきてのは吉川や福原の動向が不安だったから
ではないだろうか。現に吉川と福原は決戦後に東軍に降っているし、
安国寺は秀元の軍に匿われて京都に帰っている。
603 :
日本@名無史さん:04/10/06 20:31:57
小早川の陣では当日も重臣同士でどちらにつくかで激論を交わしている
所からすると決断を下したのは秀秋だろう。裏切る噂が早い段階で
出ていたし、それまでの行動を見ていたら本人としては中立を保ちたか
ったかもしれないが、関が原まで出てきてしまって眼下で戦闘が始まって
しまったからからそれができなくなったのじゃないか。
西軍が勝てば石田執権制になって秀次一派の運命が待っているし、東軍
が勝ってもいずれは取り潰されるのはそれぞれの派の重臣が教えていた
だろう。
604 :
ゆー ◆IcCWFft2M6 :04/10/06 20:46:03
>>590 実際西軍の方が有利ですよ
しかし石田光成は人心が掴めませんでしたし
大阪城に資金援助を申し出たけど断られました
小早川の裏切りなど人心を掴んだ家康が勝ちました
つまり石田光成と徳川家康では武将としての
そもそも質が違ったということです
石田光成は戦いは向いてませんでした
605 :
日本@名無史さん:04/10/06 21:00:15
>>604 光成という書き方もあるの?それとも釣り?
606 :
日本@名無史さん:04/10/06 21:02:39
実際関ヶ原へ行ってみると、南宮山だけやたら標高が高いんだよね。歩いて1時間弱
かかると地元の人に言われた。このあたりに毛利・小早川の心情が見え隠れしている?
607 :
ゆー ◆IcCWFft2M6 :04/10/06 21:02:59
・・・・?
608 :
ゆー ◆IcCWFft2M6 :04/10/06 21:04:35
つーか間違いました
どうもすみませんでした
609 :
ゆー ◆IcCWFft2M6 :04/10/06 21:05:14
三成 ○
光成 ×
610 :
日本@名無史さん:04/10/06 22:39:31
家康の陣から秀秋の陣までの距離は
どの位あったんだろう?
どなたか知りませんか?
別スレで見たが当時の発音では「シェキガファラ」だったらしい
612 :
日本@名無史さん:04/10/06 23:15:31
いやだから関ケ原の発音
614 :
日本@名無史さん:04/10/06 23:48:16
唐突に・・。
>>610 開戦時は直線距離で4-5km位だと思われる。
その後、前進した時は2km未満と思われる。
>>604 大老である前田・上杉征伐の時でも軍事的には誰も味方をしない状況
からしたら、戦力比は10:1の筆頭大老VS隠居させられた元奉行との
対決と捉えるなら結果はともかく優秀だと思うよ。
首謀者が宇喜多である可能性も高い。
石田はただのスケープゴートかも。
617 :
日本@名無史さん:04/10/07 07:22:42
>>606 1時間は大げさじゃないかな。南宮山の標高は419mだから30分ほどでのぼれる
と思うよ。もちろん主戦場へもそれほど時間がかかると言うわけではない。
618 :
日本@名無史さん:04/10/07 08:45:53
考えるだけど、大垣城を背にして赤坂を攻めれば勝てたんじゃないかな?毛利を信用しすぎ!
619 :
日本@名無史さん:04/10/07 08:47:31
考えるだけど、大垣城を背にして赤坂を攻めれば勝てたんじゃないかな?毛利を信用しすぎ!
足場の悪い大垣を拠点に惨敗の悪寒
621 :
日本@名無史さん:04/10/07 08:52:00
考えるだけど、大垣城を背にして赤坂を攻めれば勝てたんじゃないかな?毛利を信用しすぎ!
>>616 7月 2日 石田三成、大谷吉継に決意を明かす(5日説も有)
7月 5日 宇喜多秀家、豊国社で出陣式(梵舜日記)
7月 7日 豪姫ら、豊国社で必勝祈願(梵舜日記)
大谷吉継、同調を断る
7月11日 大谷吉継、反家康の決意を伝える
7月12日 石田三成・大谷吉継・安国寺恵瓊・増田長盛が佐和山で会議
毛利輝元への出馬要請状を発する
ってやつですね。従来の説なら12日が西軍初の作戦会議で、ここで政治・
軍事的行動が決められたはずです。しかし、宇喜多秀家の出陣式を家康討
伐の出陣式と考えると、作戦会議以前にやる気満々なのはどうして?って
なります。
大垣城の軍勢だけではどう考えても足りない。
624 :
日本@名無史さん:04/10/07 10:05:51
当初から反徳川の筆頭と目されていたんじゃないの、三成って
だから佐和山に引きこもる前後から何らかの動きはあったと思う
周囲も家康の専断にそれなりに危機感は持っていたと思う
宇喜多は坂崎出羽守のことや前田利長のことで家康に深い恨みを
持っている。三成は反家康というよりも反武断派。
626 :
日本@名無史さん:04/10/07 11:32:58
>>615さん。ありがとう。
家康との最小距離、およそ2kmで鉄砲届くのか?
>>626 福島正則と徳川家康の合同鉄砲隊だぞ。
家康の本陣から撃つわけないだろ。
628 :
日本@名無史さん:04/10/07 11:50:51
だから届くのか?
もしくはそれを視認できる?
当時の鉄砲の有効距離は100Mそこそこ
玉が届くだけなら、もう少しはいくかな。
630 :
日本@名無史さん:04/10/07 12:08:14
じゃあ2kmは当然無理か・・。
秀秋の陣から家康らの射撃の様子を視認して、
それにビビって行動起こしたって事でOK?
家康軍〜松尾山までは小泉流「非戦闘地域」なので、家康が
「催促してこい!」って鉄砲隊をハケーンして、そこそこ
近くで「バキューン!」きっと鉄砲隊の旗見て
「あちゃー!徳川軍だわぁ。マジィなぁ、催促されてる」
て感じではないかな。万が一西軍に決意した場合、
東軍の後側面からの攻撃になり、西軍でもっとも
徳川軍に近い距離に置かれるので、かなり度胸が必要かも。
インチキ布陣図
西←東 徳川軍 東軍後方守備軍
軍←軍 家康軍
実←主 南宮山傍観軍
動←力 催促の
軍←軍 鉄砲隊
裏切軍 ↓
小早川軍
632 :
日本@名無史さん:04/10/07 17:03:46
通常の戦闘では射程内に敵兵が入ってくるまで無駄玉は撃たない
威嚇だから射程を無視してぶっ放す
関ヶ原の実戦では銃身の長い大型の鉄砲やら大筒は使われたんだろう
633 :
日本@名無史さん:04/10/07 17:07:50
>>625 家康襲撃、もしくは暗殺計画とか画策してたんじゃないの
634 :
日本@名無史さん:04/10/07 19:16:09
弾は届かないだろうが、音は届くのかな。
音速は約330Mなんで、こんな感じ?
(秀秋の陣)
あれ、徳川の鉄砲隊がこっちに銃口向けてるぞ。
↓(鉄砲隊の周囲に煙が発生する)
け、煙だ。撃ったのか!?
↓(約6秒)
ダダダダダーーン!
やばいっ撃ってきやがったよ! ど、どうしよう・・・。
636 :
日本@名無史さん:04/10/07 20:55:24
裏切った時間が鉄砲を撃ちかけたされる時間よりも早かったという説が出ている
し、松尾山に入るに当たって在陣してた西軍を追い払っているから利敵行為
と言える。小説の題材として面白いし、事実としてあったかもしれないが、
これをきっかけにして裏切ったら小早川の将士はへたれとして認定されて
しまう。面子を重んじる武士としては絶対にできない事だ。それに残っている
記録はあくまで勝者の徳川の都合のいいように書かれているのを忘れては
いけない。
637 :
ゆー ◆IcCWFft2M6 :04/10/07 23:34:17
もし小早川が鉄砲打ちかけられて裏切ったとしたら・・・
家康:ええい、進撃ののろしは上げてるはずだぞ!なぜ動かん!
側近:まだ裏切るかどうか決めかねてるようです
家康:もう我慢ならん!鉄砲隊!催促せい!
(その頃小早川の陣地では・・・)
秀秋:ううん・・・どうしよう・・・
(ダダダダーン)
秀秋:ん?うわぁ!!撃ってきたぁ〜!
わ、わかったよ!うらぎればいいんだろ!うらぎれば!!
よ、よし裏切りに決めた!!
全軍眼下の大谷隊を攻撃しろ!!
(その頃の大谷隊・・・)
大谷:むぅ・・・小早川め・・・家康に怖気づきよって・・・
念のため横の防備もしておいたが・・・
何!!他の武将も裏切りだしただと!!
それでは大谷隊の雄姿を天に轟かせ散ろうぞ!
こんな感じかな?
>>632 朝鮮征伐の釜山の戦いで、李舜臣が福島正則に敗退した原因を、朝鮮側
では百匁大鉄砲の威力のせいだと分析していた。
だから福島正則は強力な火砲を充分に持っていたと考えられる。
639 :
日本@名無史さん:04/10/08 04:23:49
aa
640 :
日本@名無史さん:04/10/08 10:37:04
>>638 百匁大鉄砲
以前お宝鑑定団に、関ヶ原から掘り出されたというのが出てたよね
641 :
日本@名無史さん:04/10/08 13:24:37
福島って李舜臣に勝ってたの?
>>641 李舜臣の艦隊はその敗戦後2年以上、まともな作戦行動は出来なかった
643 :
日本@名無史さん:04/10/09 23:13:04
>弾は届かないだろうが、音は届くのかな。
>音速は約330Mなんで、こんな感じ?
金吾:「弾は届いたか?」
石見:「いえ」
金吾:「ならば、おもいっきり笑ろうてやれ」
小早川軍一同:(大音声で)「ははははははは」
家康:「くぅ〜おのれぇ〜、小早川の子せがれめぇ〜」
家康:「松尾山など、一気に踏み潰してくれるわ!」
家康:「全軍、突撃ぃぃ!!」
秀秋:「家康め、きよったな」「鉄砲隊よぉーぅい」
石見:「殿、徳川軍が山を駆け登って来ています」
秀秋:「慌てるでない。まだ撃つでないぞ」
物見:「徳川軍が射程距離に入ります」
秀秋:「まだじゃぞぉ〜」
物見:「徳川軍が我が陣に迫って来ました」
秀秋:「よぉし! 撃てぇ〜ぃ!!」
銃声:「ダダダダダダダ・・・・・」
秀秋:「敵はひるんだぞ、一気に追撃せぇい!」
ナレーション:
山中で鉄砲隊の餌食になった徳川軍は逃げ場を失い、瞬く間に壊滅した。
敵をひきつけて鉄砲隊で一気に攻撃する戦法は、この秀秋が編み出した
ものである。後世、大阪冬の陣で真田幸村が、この時の秀秋の戦法を
真似して一躍有名になったことは言うまでも無い。
戦後、関白太政大臣に就いた秀秋は、石田三成らのいわゆる文官派と
加藤清正らの武官派のバランスをよく取り、豊臣中興の名君と呼ばれた。
>>643 それで何故大坂の陣が発生する?と一応突っ込んでやる
645 :
金吾秀秋:04/10/10 00:54:39
>>643 漏れのこと好きか?(*´・ω・`*)
>>644 漏れって短命だからなぁ。
漏れの跡は暗愚な秀頼が継ぐから、よろしくな。?(´・ω・`)
>>645 関ヶ原をドラマ化して、キムタクにでも演じさせれば
イメージ一新されるんだろうな。
俺は金吾が巷間言われているような暗愚とは異なると
信じたい。
647 :
完全理論武装論者:04/10/11 03:37:01
関が原の合戦は天下分け目の合戦ではなかった1(完全理論武装論者作)
関が原の合戦は東軍西軍に分かれての、天下分け目の合戦だったと言われているが
これは後世の歴史家がそう言っただけで、実はこれは徳川家康の狙い通りの作戦だった。
徳川家康は最初から旧豊臣勢力の舵取り役の、石田光成の首を取ることで
旧豊臣勢力を封じ込めようとした、それがこの関が原の合戦である。
家康がわざわざ3万6千もの秀忠軍を信州へ迂回遠回りさせたのも、自軍の兵力を少なくさせて
光成軍を城に篭らせずに合戦へとおびき出すためだった。
家康軍が秀忠軍も含めて全軍で光成軍と対峙すれば、数に劣勢の光成軍が合戦を仕掛けてこずに
城に篭ってしまう、そうなれば最大目的の光成の首と、光成に共鳴する豊臣勢力を完膚なきまで
叩き潰すのが困難になってしまう。
光成軍が城に篭ってしまえば、かねてから内通していていざという時には徳川方へ寝返りを
約束してくれた武将や軍も寝返りしにくくなる
また徳川方が力攻めで城に篭った光成軍を粉砕するには、光成軍の5〜10倍の兵力が必要になってしまう。
しかし寝返りを約束してくれた武将の軍を除いても、光成軍と徳川軍の兵力差は2倍程度でしかない。
これでは城攻めは無理に近い、そこで自軍の兵力をわざと少なくして光成が合戦で家康の首を討てると
思い込ませる作戦に出た。そのために秀忠軍を切り離して関が原の合戦に間に合わないように遠回り迂回させた。
648 :
完全理論武装論者:04/10/11 03:55:01
関が原の合戦は天下分け目の合戦ではなかった2(完全理論武装論者作)
では秀忠軍3万6千は何のために動員したのか?
それは秀忠軍は保険だった、大坂城に篭って動かない毛利元就とは
あらかじめ内通してあって、「今回の作戦は石田光成の首を討つことだと」
「だから毛利元就の地位や領土には一切手を出さないから、大坂城に篭って
動かないでくれと」事前に内通してあった。
毛利元就も石田光成と光成に加勢する武将たちを邪魔な存在だと思っていた。
なぜなら当時の豊臣政権を支える五大老(家康と元就含む)の執政に唯一意見を
あれこれ言うのが石田光成と光成に加勢する武将たちだからで、五大老にしてみれば
秀吉に特別にかわいがられた光成は目の上のタンコブの存在だった。
だから家康が光成の首を討つ作戦に出るときは内心喜んでいた。
だから大坂城に篭って関が原には出てこなかった。
しかし過去の苦い経験から学んだ用心深い家康は、毛利元就が動かないだろうとは
思ってはいたが情勢が変われば、元就の天下取りへの心変わりして光成に加担
してくるのではと万が一を恐れて秀忠軍も遅れて合戦上に到着できるようにした。
そうすることで万が一毛利軍が関が原に軍を動かしてきても、数の上では徳川軍が
有利となるから
649 :
完全理論武装論者:04/10/11 04:16:35
関が原の合戦は天下分け目の合戦ではなかった3(完全理論武装論者作)
徳川家役は関が原の合戦前においても、光成を油断させる方法をとった。
元々家康も光成も秀吉の家来だったので、面識も行動も共にすることがあり
家康は光成の性格を知り尽くしていた。
一方光成はといえば狡猾で狸芝居がうまく、秀吉にさえ心の中を読み取られないように
していた家康の性格など知り尽くすことができるはずもなく、家康の狸芝居を家康の性格
だと勘違いしてた。
そんな家康が光成は書物に通じていて兵法書などを読み漁っていたことも知っていた
そして合戦の経験のない光成なら、きっと兵法書どおりの作戦をしてくるに違いないと
読んでいた、だからあえて自軍の方が光成軍より数は少ないのに光成軍が、山を背景にして
兵法書では必勝の鶴翼の陣形を取ったことに対して、わざと徳川軍が不利になるような陣形を取った。
家康も当然兵法書など読んでいる、その家康が敵光成が鶴翼の陣形を取ったのにわざわざ自軍が
不利な陣形のまま合戦に挑むようなことはしない。
わざと自軍を不利な陣形にして関が原の合戦を始めさせた。
その理由はやはり光成を城に逃げ込ませないためで、徳川軍もまた完璧な陣形を敷いて
合戦に挑めば、合戦経験の浅い光成は関が原での合戦をあきらめて城へ逃げてしまうだろう。
そうなれば光成の首を取り逃がすことになるし、数の上で圧倒的でない徳川軍では城攻めは
できなくなる。
650 :
完全理論武装論者:04/10/11 04:26:01
関が原の合戦は天下分け目の合戦ではなかった4(完全理論武装論者作)
そこで家康はあえて自軍が不利となる陣形を敷いて合戦に挑んだ。
それでも家康には光成軍に勝てるという勝算があったからで、その勝算こそが
反光成勢力の寝返り作戦。
五大老以外にも石田光成の秀吉に特別にかわいがられたという理由での、
豊臣政権内で光成の発言力が邪魔だと思う武将は数多くいた。
それは特に合戦経験豊富な武将に多く、インテリで合戦経験のない文官の
光成とはどうしてもうまが合わなかった。
そういった反光成勢力の武将を取り込むことに成功してたからこそ、家康は
今回の光成討伐名目の天下取りの軍事作戦を起こした。
651 :
完全理論武装論者:04/10/11 04:50:17
関が原の合戦は天下分け目の合戦ではなかった5(完全理論武装論者作)
家康にすっかり騙されてることにも気づかず、兵法書通りの必勝の陣形の
鶴翼の陣形を取れたことと数で断然勝っている光成軍を見て、石田光成は
勝利を確信した。
そしてついに光成軍の先制攻撃によって合戦の火蓋が切って落とされた。
しかし何かがおかしかった、光成軍はどう見ても勝てるはずなのに
自軍の半分位の武将たちが動かない、特に山に陣を張った武将の軍が
さっぱり動かない。
それでも合戦は光成軍に有利に働いた、なぜなら光成軍の数は半分しか
動かなくても陣形に勝っている分、光成軍の押せ押せムードだった。
しかし次第に数の差でじわりじわり家康軍に追い返されるようになっていった。
やはり光成軍の半分しか合戦に参加しない不利が、徳川軍の数の多さの前に
不利になってきたからで、その流れを見て山に陣取っていた寝返りの光成軍が
一気に光成軍へと攻撃を開始し始めた。
戦況は一気に変わり徳川軍が押せ押せ状態になり光成軍が押される一方となった。
しかしそれでも光成軍は総崩れとならずに持ちこたえ続けた。
寝返り軍も入れて数で圧倒して押しまくる徳川軍に対して、光成軍も必死で持ちこたえた
早朝から始まった合戦も、もう夕暮れ時が迫ってもうすぐ日が落ちるまで数時間となった。
652 :
完全理論武装論者:04/10/11 05:09:57
関が原の合戦は天下分け目の合戦ではなかった6(完全理論武装論者作)
光成は思った。「このまま総崩れにならず日が落ちるまで持ちこたえれば、闇に乗じて
大坂城まで脱出できる」「大坂城に戻りさえすれば再び態勢を立て直して、
今度こそ家康を打倒すると」
逆に家康はあせった。「このまま日没になってしまえば、光成を取り逃がしてしまう」
「この機会を逃せば、用心深くなった光成を討ち取るのは難しくなるだろう」
「日没までに何とかして決着をつけねば」
家康は寝返りをしないでまだ様子見をしている、宇喜多軍に銃を発砲して脅しをかける作戦に出た。
宇喜多軍が動かねば宇喜多軍に向けて徳川軍が総攻撃すると脅しをかけた。
すでに勝敗は徳川軍有利なのは誰の目にも明らかだった、宇喜多秀家は動揺した。
このまま徳川軍の総攻撃をくらっては宇喜多軍などひとたまりもなく総崩れになるだろう
しかし寝返って光成軍に攻撃を加えたくもない、秀吉公への忠義に反することだ。
どうしたものか?
迷う宇喜多秀家に対して、さらに家康軍は銃を発砲して総攻撃を始める仕草を見せた。
ついに徳川軍に恐れをなした宇喜多秀家は光成への攻撃を命令した。
これによって光成軍の総崩れが日没までに始まり、光成軍は一斉に退却し出した。
あとは逃げる光成を見つけ出して捕まえるだけである。
ただちに敗残兵にまぎれて逃げる光成を全軍で探す作戦に出た、さらには街道を早回りして
ケモノ道を大坂に向けて逃げる光成を捕えた者には褒美を出す作戦にも出た。
こうして光成はその日の内に徳川軍に協力した住民によって捕らえられた。
653 :
完全理論武装論者:04/10/11 05:27:26
関が原の合戦は天下分け目の合戦ではなかった7(完全理論武装論者作)
一方関が原の合戦が始まったころの島津軍は、数々の合戦を戦い抜いた家康が
数も少ないのになぜあのような不利な陣形で、合戦に挑むのか疑問を持っていた。
家康のことだから、なにか策があるに違いないと様子見をしていた。
もし不用意に光成軍に加担して光成軍が徳川軍の策に負ければ、島津家も
ただでは済まなくなる。
ましてや自軍はたったの1500ほど、ここはひとつ策がわかるまで
様子見したほうが賢明という作戦に出た。
この島津軍の様子見は正解だった。
やがて家康の策が光成軍武将の寝返りだということに気づいた時には、戦局は
すでに徳川軍有利に働いていた。
島津は考えた。「もはや光成軍の敗北は決定的だろう、ここは徳川軍に
加担すべきか?」「しかしわしは領主ではない、こんな重大な決定を後先考えずに
軽はずみにしてはならぬ」「ここは一旦退くのが賢明だろう」「だがここで徳川軍を
前にして尻尾を巻いて逃げたのでは島津家の代々の恥となる」
「よし、徳川軍の中を突破して逃げようぞ」
こうして島津軍はたった1500の手勢を率いいて敵中突破して逃げていった。
この武勇伝のおかげで、島津家は徳川家康から領地を取られずに済んだ。 完
>>646 金吾は半島で大分無茶やったらしいから
日韓交流の都合上ドラマ化難しいかもね
今のご時世
655 :
落武者:04/10/11 06:36:13
ご苦労。
完全理論武装論者っていうくらいだから期待を込めて読んだのだけど、
石田光成や毛利元就といったあたりから、読む気が失せてしまったよ。
656 :
日本@名無史さん:04/10/11 07:12:39
てゆうか実際は毛利と徳川の権力争いでしょ
三成はサブキャラ
宇喜多秀家の裏切りモナー
登場人物くらいちゃんと押さえて欲しい
658 :
日本@名無史さん:04/10/11 07:32:21
最後は真田太平記か何かのパクりだと思う
最後の書き込みしか読んで無いけど
659 :
日本@名無史さん:04/10/11 07:38:30
てゆうか三成はまだ漢字違うだけだからいいとして元就って・・・歴史変わっちゃってるしさ。
元就生きてたら普通に天下とってたんじゃないの?・・プッ。
660 :
落武者:04/10/11 10:24:07
実のタイトルが「影武者!毛利元就」だったとか。
661 :
落武者:04/10/11 11:10:30
>宇喜多秀家の裏切りモナー
君、そこまで読んだのか。その忍耐力に感服。
「影武者!小早川秀秋」という事にしておいてくれ・・・
もちろん、秀秋の代わりを秀家が務めたわけだ。
662 :
完全理論武装論者:04/10/11 16:23:00
生物であり動物でもある人間の行動は、「理法理論」によってすべて予測可能です。
よく「完全理論武装論者」の書き込んだ文章を、妄想だとか脳内とか言う人は多いですが
これらはすべて、「理法理論」に基づいて人間が次にとる行動を予測しているのです。
「理法理論」の「理法」とは「理にかなった法則」のことで、自然界のありとあらゆる現象は
すべて「たったひとつの理にかなった法則」によって発生しています。
その「理にかなった法則」のことを「理法」と呼び、その「理法」を使って理論を
組み立てたものを「理法理論」と呼びます。
さらに自然界のすべての現象を理法理論で組み立てて、それらを1冊の本に
まとめたものを「理法書」と呼びます。
人間は動物の中に含まれます。
その動物は生物の中に含まれます。
さらに生物は物質の中に含まれます。 物質>>>生物>>>動物>>>人間
そして生物、動物、人間にはそれぞれ役割を持って活動しています。
つまり役割を持った人間が次に行う行動は
物質的行動、生物的行動、動物的行動、人間的行動の4つで構成されています。
そうした4つの行動を「理法」で解析して理論づけしているのです。
良く分かりました
採用する場合は3日以内にメールで御連絡します
今日はもう帰っていいですよ
664 :
完全理論武装論者:04/10/11 16:49:47
さらに私はその「理法書」を使って、世界民族が共有できる新しい憲法草案
「生産者第一主義・女性中心社会」を作って、「生産者党」によって
万民に普及させようと考えています。
665 :
落武者:04/10/11 17:09:53
うむ。君は100年に一度のホンモノのようだ。
君が居れば歴史研究も必要ないじゃろ。
ちなみにここは歴史研究を題材にしておる(と思う)。
もう少し違うところ(例えば宗教系)へ行った方が
他人からの反感を買わずに済むと思うぞ。
666 :
金吾秀秋:04/10/11 17:29:15
>>661 >「影武者!小早川秀秋」という事にしておいてくれ・・・
かこいいな(*・ω・*)
667 :
完全理論武装論者:04/10/11 17:58:10
「ののたん」ですよ
さらに私はその「理法書」=『ののたん』を使って
世界民族が共有できる新しい憲法草案
「ののたん第一主義・ののたん中心社会」を作って
「ののたん党」によって万民に普及させようと考えています。
∋oノハヽo∈
( ´D`)
(⌒)つつ ののたん党れす てへてへ
(__ノ
┌─┐ ┌─┐
│の│ │の│
└─┤ └─┤
∩ ∩ ののたん!
( ‘д‘)彡 ( ´D`)彡 ののたん!
┌─┬⊂彡┌─┬⊂彡
|た| |ん|
└─┘ └─┘
668 :
日本@名無史さん:04/10/11 21:04:24
宇喜多には薮千代と言う息子が居た薮千代の影部者をしたのが
若き日の武蔵だった。
669 :
日本@名無史さん:04/10/12 00:33:56
完全理論武装論者殿
あーた関が原の合戦は徳川家康の狙い通りの作戦だったって
小早川金吾たんの思惑一つで負けかもしれないような戦を
最初から狙ってたとでもいいたいのか?
毛利が思惑を変えて本気出せば家康は負けたのよ?
西軍が勝てば関ヶ原は天下分け目じゃないんだが
現実問題東軍が勝って徳川の天下が一応明らかになった以上
天下分け目といわずしてどういうの?
実力的には天下人とはいえ戦というパフォーマンスというか
通過儀礼は天下鳥に必要でしょ?
単純にネタだろ?
日本史板に、これ以上○○が増えては堪らんよ・・・
671 :
日本@名無史さん:04/10/12 16:56:37
宇喜多が裏切らなかったら、あるいは布陣したまま参戦しなかったとしたら西軍が圧勝していたと思いまつか?
672 :
日本@名無史さん:04/10/12 17:08:06
(−−)/
はい先生。2ちゃんの日本史版では関ヶ原での裏切りは
小早川じゃなくて宇喜多がやったことになってるんですか?
さては喪前らパラレルワールドの住人か?
673 :
睡魔◇Kometukami88:04/10/12 17:38:07
とりあえず現在のマジレス厳禁スルー対象
睡魔=毛沢東(本物)=臭B=ディスクドール=秋篠宮眞子内親王=猫精鋭隊=ながせラム =猫おうえる=猫むすめ=代官山人=安国寺=セラッホェンスキー=トルファン=玄馬=華
工場長=アモイ=アモイ親衛隊 支那留撲滅隊隊=支那侍=曲=大和侍
こいつらは相手にせずスルーしてください
以後別のコテが来たらどんどん追加してスルーしましょう
674 :
日本@名無史さん:04/10/12 17:39:58
/ l あの戦争に英米さえ加入してこなければ
/ ハ | 、
/ | | | ヽ
| いl ヽ,l\_ \ \ 旧日本軍が共産党、国民党まとめて
| / ト' __ , --`ー `ー、 __ゝ l l
|! ,-=、__f´::::::::::::::::::::::::::::::: : ) ノノ 殲滅していたのは
ヽヽ|:::::::::::厂ヽ:::::::::::::::::::::::::::::::/ { ト 時間の問題だった・・・。、
\!::::::::/ \:::::::::::::::::::::::/ ヽ | \
l::::/ ヽ---一 ' 、_ノノ ト、 ハ l
ヾヽ、_ - 、_フ′/ / _/ヽ!
', __ ヽ_∠ノ / ヒ´ノそれにも関わらず
', ,-―‐-- /`l
', -- ____ / ヽ、 現在の中共のあの自信と
l | r――- ニニニニニヽ
l | |::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ノ ノ | 傲慢さはいったい。
r,――‐ ´ ̄ヽ__ ‐┤l::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::―‐/ ハ
{{:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.| l ||:::::::::::::┌────‐┐ヽ! ヽ、どこから出てくるんだ
ヾ、:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:_ノ l | |::::::::::::: |=<>ニ<>ニ<>=|::::::::::::ノ ,
ヾ、:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.ヽ_,.r┴┤|::::::::::::└――――‐┘:::::::ヽ__ハ まったく不思議でならん。
ヾ、:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:ヽ! ', ',::::::::::::::::::::::::::::, -――::::::::::::::::::::::´<
ヾ、:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.| 〉〉:::::::::::::::::, -'´:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
Oh,my God!
675 :
日本@名無史さん:04/10/12 17:40:39
/iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiir、 ,/\,,ヘ/\,/\,/\
/liiiiiiiiiiiiiiiiiiiiリiトiiiiiiiハiil iil liiiハiiiiiiリiiiiiiiiiiiiiiii、 >
" 'liiiiiiiiiiiiiiiiiii/iリiiiiハ/ lil il liii/liiiiトiiiiiiiiiiiiiiiil > 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ
/iiiiiiiiiiiiiiリii/--トiiii/ i _lil" liil liiiiiiiiiiiiiiiト > 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ
riハiiiiiiiiiiil ii ,,__"`'r、 ,i i, _,,/,, yrーir、 liハiiiiiiiiii〈 >ちがーーーーう!
ii liiiiiiiiiil yr"~~`''y,^",‐` -''r''~,, " liiiiiiiirヘ,, ^
/,liiiiiiiil 〈l,` "_,,/~ / "//ヘ/\,,^\,,/\
/⌒ヾ,i--l _,,....,,_ ,./ `r,,‐-、
ヽ , ヘr..,,_ ,,r-_''"- ー--丶、 / 〉
_,, 」 ヽ、 rl'" ゝj, ,/ l'~
l ヽ、 l" 'l l ヽ,, ヽ,
`''+, i, l ..... ,, ー ,. l, l ヘ ,r-"
r" , `、 l / ヾ,,.l / ヽ, l
ヽ,,_ / } lrv l.l ,r l/'"
,l / 〈 ヽヽ、_____ ,,,,,....// l i,
ヽ、/ lゝ、 `ー- ,,,...... -ー''" ,,/l 'i
/ /l `' 、 ,/ / l ヽ
/ 'ムl ` 、 ,, ''" 〈_ l ヽ,
676 :
羽狗狸法師:04/10/12 17:45:16
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。
自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという、
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに…見せかけだったのか。
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した…
船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。
677 :
睡魔◇Kometukami88:04/10/12 18:03:22
中華奥義洗脳三昧!!!!!!
とりあえず現在のマジレス厳禁スルー対象
睡魔=毛沢東(本物)=臭B=ディスクドール=秋篠宮眞子内親王=猫精鋭隊=ながせラム =猫おうえる=猫むすめ=代官山人=安国寺=セラッホェンスキー=トルファン=玄馬=華
工場長=アモイ=アモイ親衛隊 支那留撲滅隊隊=支那侍=曲=大和侍
こいつらは相手にせずスルーしてください
以後別のコテが来たらどんどん追加してスルーしましょう
コテを潰せば中国板は潰れる!
中国板の危機誰も助けにこない、かわいそ。
678 :
金吾秀秋:04/10/12 23:46:14
>>672 まったく、秀家はひきょうなやつだな(´・ω・`)
679 :
落武者:04/10/13 00:16:19
秀家はその恩賞として八丈島をもらって
そちらに引っ越した。という事にしておこうか。
680 :
日本@名無史さん:04/10/13 01:17:19
完全理論武装論者氏の仮説もまあ面白いとおもうけど、
家康は輝元と内通していたというより、淀君と内通していたと
言う説のほうが現在では有力。
三成が秀頼の出兵要請をしたことに淀君が激怒し、
それ以後二人の関係はギクシャクしたものになっていたらしい。
そこに家康が目をつけ、
「西軍が敗れても淀・秀頼の責任はいっさい問わない。その代わり、
毛利を足止めしてほしい」
と、淀に持ちかけたようだ。
西軍が敗北した際の、大阪城への脱出ルートが確保されていなかった点、
三成が捕らえられた際、淀君が家康に助命嘆願をしていない点などが、
これらを裏付けている。
681 :
日本@名無史さん:04/10/13 03:17:29
こいつはキモイな
∩___∩ |
| ノ\ ヽ |
/ ●゛ ● | |
| ∪ ( _●_) ミ j
彡、 |∪| |
>>680 / ∩ノ ⊃ ヽ
( \ / _ノ | |
.\ “ /__| |
\ /___ /
683 :
日本@名無史さん:04/10/13 15:14:22
ミッチーがよく義に生きた男みたいな言われ方するけどさ
ミッチーにも秀頼を立てて自分が実権を握る位の野心はあっただろうし
それが気に食わない諸将も多かったんじゃないかね
毛利につくはよしとしても、武断派に追われた挙げ句
徳川に泣き付いて佐和山に籠もったような男に、従うものかと
そのへんが関ケ原やその前の緒戦の西軍の動きの悪さじゃないかと
淀VS北政所 武断派VS文治派 つまり豊臣方が一枚岩でない+家康の武人・政治家と
しての優秀さ でいくない? 東軍が勝ったおおまかな要因。
685 :
落武者:04/10/13 21:15:16
>>684 政治家としての家康はというと、秀吉から場を与えられた
三成の方が上のような気がするんだよね。
家康は勝手な姻戚関係を結んだ政略・・・むしろ謀略染みた
ダークなやり方が三成よりも優れていたかなぁと。
三成も堀尾吉晴に刺客を送って半殺しにした事件とか
それなりにダークな面もあったんだろうけど、
成果がイマイチだねぇ。
「秀吉の側近だから秀吉から多くを学んだ!」とかって
三成贔屓な人は言うけど、確かに段取りは秀吉っぽくもあるけれど
三成って不思議と成果が伴わないんだよね。
なんていうんだろう。
こいつならテストで90点は固いって印象なんだけれども、
どういうわけだか10点くらいしかとってこないような。
政略結婚のどこがダークなんだ…
687 :
日本@名無史さん:04/10/13 22:38:12
三成は空気読めないから人心ついてこない
政治家としては致命的
688 :
落武者:04/10/13 22:42:40
>>686 秀吉死後の福島や蜂須賀らへの違約の縁組の事だよ。
別にダークでもなんでもないだろ。
お子様じゃないんだから。
690 :
落武者:04/10/13 22:55:39
>>689 ダークでない理由を述べよ。
お子様じゃないんだから。
話にならんじゃないか。
691 :
日本@名無史さん:04/10/14 00:31:08
婚姻は秀吉の了承を得て執り行えという規約だが
秀吉はもう死んでるし、代わりに政治取り仕切ってる家康が
婚姻を自分の判断で行なっても何も後ろ暗い所は無い
家康の了承得ないで大名が勝手に婚姻関係結んだら問題だがな
>>684 三成は政治家として、というより、内政とか官僚的な優秀さなんでない?
政治って、根回しとか謀略とか含むもっと泥臭いモンだと思う。そーいう駆け引き
は家康の方がうまかった気がする。戦は断然上だしね。三成は、NO2っぽい。
ボスの下で一定の仕事を任されたら誰よりも上手くこなす、みたいな。大将の
器じゃない、と思う。
>>690 勝手な縁組みは秀吉の遺言で禁止です。
何事も五大老・五奉行の間で話し合って決めるのが
ルールです。
死人の言を金科玉条にする方が単なる潔癖主義。つーか、お子様だわな。
696 :
日本@名無史さん:04/10/14 08:25:18
婚姻禁止は秀次事件以来の御掟が元だな
遺言は五大老五奉行の合議制て所だわな
太閤の遺命で政治の実務は内府の仕事で
政治の方針や最終承認は合議で決めろと言う事だろうけど
>691
家康が政治取り仕切ってる?
秀吉が死んだからって家康の地位や位があがったわけじゃないし、当然政治取り仕切ってたわけじゃないよ。
あくまで五大老の一人である事は変わらんし、五奉行もあるんだしね。
秀吉が死んだだけで、豊臣家は残ってるし秀頼がいるんだから。
なのに秀吉が生きてる時はせずに、秀頼の代になったら急に政略結婚しだしたのはダークと言わずになんとする!っちゅう事ですな。
698 :
日本@名無史さん:04/10/14 14:15:27
秀頼いるつっても6歳前後だし
社長が死んで副社長が代わりに業務行なうのも当たり前だわな
>698
ちゃんと読んでくれた?
だからね家康が副社長って考えがおかしいの!
副社長でもなんでもないからね。
それに世継に年は関係ないからね。
昔はそれが当たり前だからさ。
それにね、今の主観で歴史話してたらお話にならないでしょ!
ある程度その当時の世情というものを頭にいれて話さないと。
700 :
日本@名無史さん:04/10/14 15:39:30
死ぬ直前に家康を内大臣、利家を大納言にして
家康は伏見城、利家は大阪城に入り執務を行なえと言っている
二頭政治とはいえ官位でも国力でも家康のが高位だし
利家は秀頼の守り役ある上に病を患っている
事実上、家康が筆頭
主君の後継ぎが幼ければ最も力ある家臣が代わりに政治執り仕切るなんて例はありふれてる
何モメてんだよ。正当性なんてないよ、どっちみち。小学校の学級委員じゃないん
だから、そんなこと日本史に持ち込んでもしょーがないよ。
家康は明らかに天下欲しかったんだよ。大名との婚姻を無許可でやったのはそら、
違反で間違いだよ。ただ、そこらへんから逆らって確信犯的に様子見てるんだよ。
誰がどのくらいの強硬さで異を唱え、誰が味方するのか、とか。それが政治って
もんでしょ。
正当性なんてのは、大義名分をなるたけ立てて、自分に優位に導こうとする理屈
付けだよ。そうすることによって味方増やすとかさ。
利家だって、家康の野望やダークなとこなんか見抜いてるよ。その上で、自分の
目の黒い内は秀頼に義理立てし、死後は前田家存続を第一みたいな遺言残すとこに
落としどころを見つけたまで。おかげで幕末まで前田家は残る。いい、悪いとか
そんな単純な事じゃないっしょ。
まあ、律儀者で世渡りしてきた香具師が態度を
変えたところに狡さを感じる
その辺が人気にも影響しているだろうね
703 :
落武者:04/10/15 00:03:20
>>702 >律儀者で世渡りしてきた香具師が〜
確かに。
日ごろ態度を変える人が同じ事してもあまり狡さは感じないね。
それと、勝てば官軍みたいなところがあって、
家康の行為もある程度は認められているっていうのも
あるんじゃないかなとも感じるんだよね。
家康が関が原に負けていれば身から出たサビとかって言われそうだし。
おまえに言われる筋合いは無い。
まず借金を返せ。
705 :
落武者:04/10/15 00:49:47
(゚Д゚)ハァ?
706 :
日本@名無史さん:04/10/15 22:05:09
( ゚д゚)ポカーン
707 :
落武者:04/10/15 23:11:00
まぁ、一服どうぞ。(´・ω・)っ゛旦
話全然変わるけど、秀吉死亡〜関ヶ原迄で四℃殿の発言・行動をあまり
知らないのですが、誰か知りま専科?
伏見城から大阪城に移動する時に
四℃殿「寒くていや〜ん!」
利 家「遺言守らんかい!」
四℃殿「すいません・・・」
位しか知らないよ。
709 :
日本@名無史さん:04/10/16 05:04:26
戦国日本史上、最も大きなギャンブル。
徳川家康は偉大だった。
人の一生は・・急ぐべからず、ですね。
>>709 西軍挙兵を知った時、恐怖で怯えていたのだぞ。
恐怖でウンコ漏らす奴が偉大か・・・ 戦国時代って、いいな。
当時合戦に出て恐怖のあまり漏らす例って結構あったらしいけどね。
結局合戦って人間同士で殺し合いをするわけだから
恐ろしくて当然さ。
野糞三成、糞垂れ家康、ぼっとん便所のおつりを避けきれない加藤清正
714 :
日本@名無史さん:04/10/16 13:30:36
おまいらウンコすきだな・・・
716 :
落武者:04/10/16 14:11:58
>戦国日本史上、最も大きなギャンブル。
まぁ、オッズは大した事ないけど、
掛け金(=兵数)が大きかったってとこかなぁ。
でも秀吉の朝鮮出兵の方がもっと大きなギャンブルだと思うよ。
私のイメージはこんな感じ。
合戦名 オッズ 条件
----------------------------------------------------------
関が原 東軍x1.8 西軍x1.2 西軍の布陣が完了した時点
桶狭間 織田x30 今川x1.2 義元が桶狭間山に布陣した時点
朝鮮出兵 日本x10 朝鮮x1.5 渡航前
717 :
日本@名無史さん:04/10/18 00:39:54
三成、味方への愚痴メールを他の味方におくってるようじゃ終わってる
人間は得意不得意ありますからなぁ。三成は数万を率いる大将としては二流以下です。
でも俺が百姓だったら、この人の領民がよいね。内政は一流ですから。勿論、政治的に
コケない(領地が荒れない)っつーのが条件ですがw。
719 :
日本@名無史さん:04/10/19 10:34:52
関ヶ原で西軍が敗退した後は誰も大坂城には逃げ込まなかったの?
淀殿も巻き添えを嫌って敗軍の将兵を追い払ったの?
毛利も慌てて自国へ逃げ帰ったの?
720 :
日本@名無史さん:04/10/19 13:42:04
毛利は大坂城にしがみついてたが
あんたは三成にかつがれただけ、旧領安堵約束してやるから
安心して出ていきなさいと言われようやく出た
まぁ、すぐに約束をあれは家臣が約束したものでわしは知らないと改易されるわけだが
721 :
日本@名無史さん:04/10/19 15:02:50
>>719 毛利妃秀元や大津城攻撃部隊、島津なども大坂城に戻って再戦を
輝元に申し出ている、記録には残っていないが関が原で戦った者
も個々には戻ってきていたかもしれない。
722 :
日本@名無史さん:04/10/19 15:27:40
最終的には、大坂城の淀殿・秀頼側が西軍部隊を外した時点で西軍の敗北が
決定したんだね
劣勢な方に肩入れはできないということだ
723 :
日本@名無史さん:04/10/19 15:53:52
淀殿や大坂城内の官僚達はあくまで家臣達の争いで自分達は超越した
存在という立場を取りたかったのだろう
724 :
日本@名無史さん:04/10/19 17:21:42
宇喜多秀家は三成以上の家康嫌い?お家騒動も家康がけしかけたんだろう。
秀家があと10年くらい早くうまれていたら西軍が有利になったかも。
29歳じゃ若すぎ。関係ないけど秀家ってハンサムだと思った。
725 :
日本@名無史さん:04/10/19 17:38:18
>>724 たしか戦国武将の中ではもっとも美形といわれていたらしいね
726 :
日本@名無史さん:04/10/19 18:41:32
秀家の母が美人だったから。秀吉の側室にもなったし。
西軍勝ったら秀家も相当な権力者になったろう。
関ヶ原の戦いは実は東軍優勢ではないらしかった。
三成がうまく戦えば家康の首も十分とれてたな。
江戸時代の御用学者が家康を神と崇めてるんだから
三成を悪く言うんだろう。
727 :
完全理論武装論者:04/10/19 20:33:23
>>716 ちょっと待ったあぁ〜!
秀吉の朝鮮出兵がギャンブルだってえぇ??
あれは策略氏秀吉が自らの策におぼれた不始末ですよ
その策の目的を家康と秀吉の家臣のごく一部の武将は知っていた。
だから朝鮮出兵は失敗したんだよ
その秀吉の策が後々記録として残されなかったのは、「知らぬが仏」「口は災いの元」と
自分の一族と領地が、やけどをしないためにだんまりを決め込んだだけ
728 :
日本@名無史さん:04/10/19 20:38:55
西軍優勢で勝てる見込みもあったのに、諸将まとめきれず
半日で味方の裏切りまで出したから戦下手言われてるんだと思う
将としての評価以外は義に生きた男、優秀な官僚と評価高めだと思う
個人的に言われてる程、清廉潔白な人物じゃなかったとも思う
悪い意味じゃなく、野心くらいは有って普通だと思うし
729 :
日本@名無史さん:04/10/19 20:39:55
730 :
完全理論武装論者:04/10/19 20:40:25
さらにつけ加えれば、秀吉の朝鮮出兵の策があったからこそ
元は西軍の武将たちを東軍の家康の味方にもつけれることができた。
さらに問い詰めれば豊臣家が結局滅んだのは、秀吉が策によって織田信長を討ったから
秀吉の策にはまり策におぼれた結果豊臣家も消滅してしまった。
731 :
完全理論武装論者:04/10/19 20:43:55
>>729 秀吉以下戦国の武将たちを凡庸な人物だと思い込んでるあなたこそバカ
凡庸な現代人たちに心理戦を戦い抜いた戦国武将の心の中は読み取れまい
732 :
日本@名無史さん:04/10/19 20:47:31
>秀吉以下戦国の武将たちを凡庸な人物だと思い込んでるあなた
>>729の一行レスからそこまで言い切ってしまうあなたの妄想ぶりに感動しましたw
733 :
完全理論武装論者:04/10/19 20:52:40
現代の凡庸な歴史学者は皆、口を揃えて言う「秀吉の拡大政策朝鮮出兵は失敗だったと」
その程度の物事でしか考えれないくせに歴史学者を平然と名乗る凡庸な現代人
戦国武将達のもっと深い心理をなぜ読み取ろうとしない?
もっと歴史学だけでなく心理学をも学ばなければ本当の歴史は見えてこないよ
734 :
日本@名無史さん:04/10/19 20:57:25
だめだこりゃw
735 :
完全理論武装論者:04/10/19 21:00:24
農民上がりの信長の草履取りでしかない秀吉が、なぜ天下人にまで登りつめられたか?
秀吉の伝記を読めば答えはいくらでも転がっているだろ?
秀吉は戦国一の策の名人だった、あの策には勝る信長でさえ翻弄できるほどの策師だった。
なぜ現代人たちは表面に出た事実でしか物事を語ろうとしないのだろうか?
裏にはもっと出してはいけない事実が一杯あるというのに
表には決して出さなかった策のいろいろが、策師秀吉大出世の理由なんだよ
736 :
完全理論武装論者:04/10/19 21:07:52
現代人の歴史学者たちがもし数百年後に生まれてきてたら、平然とこう答えるだろう。
ブッシュ大統領時代のアメリカがイラクに戦争を仕掛けたのは、フセイン大統領が
大量破壊兵器を隠し持っていて、テロを後ろで支援していて9・11ニューヨーク同時多発テロを
引き起こしたからと
アメリカに都合のよいことを書かれたアメリカの歴史書を読み、きっとこう答えただろう。
737 :
完全理論武装論者:04/10/19 21:18:39
>>701 家康は天下を取りたくて豊臣一族を滅ぼしたのではない
かっての恩義ある主君織田信長公の仇を取っただけ
天下はすでに家康のものとなっていたのに、春夏大坂の陣で
豊臣家を完全に滅ぼそうとしたのは、秀吉が策によって主君である信長を葬ったから
忠義と義理を重んじる家康にとってそれは最も許しがたい行為だったが、
本当は秀吉在命時に秀吉の首を討ち取りたかった、しかしそれができなかったから
後になって汚い手を使ってまで豊臣家を完全に滅ぼした。
738 :
完全理論武装論者:04/10/19 21:31:42
豊臣秀吉がなぜ石田三成を気に入ったのか?
その答えが明智光秀と同じ気質だからである。
策師秀吉にとって腹の中で何を考えているかわからないような武将は嫌いだった
自分が策師だから、「こやつ内心余計な策があるのでは?」「こやつ何か企んでおるな?」
といつも疑心暗鬼になってしまい、精神的ストレスが溜まる一方だった。
ところが石田三成にしろ明智光秀にしろ加藤清正にしろ、秀吉が気に入った武将は皆
策など考えずストレートに行動を移すタイプばかりだった。
だからいつも気の抜けない秀吉も、これらの武将といる時は安心して気を抜くことができた。
739 :
日本@名無史さん:04/10/19 21:36:44
さすが異常者。どこまでも続くぞw
740 :
日本@名無史さん:04/10/19 22:07:59
完全理論武装論者は結局何がいいたいの?
741 :
日本@名無史さん:04/10/19 22:15:39
そういえば、最近金吾(´・ω・`)来ないね。
急に寒くなってきたから風邪ひいたのかな。
742 :
落武者:04/10/19 22:27:23
完全異常武装論者よ。行く処まで行くのじゃ。
そして最高レベルに達してダーマの神殿に行けば
賢者に転職できるらしいよ。
743 :
日本@名無史さん:04/10/19 22:29:12
平塚因幡守為広はがんがったのですか?
744 :
日本@名無史さん:04/10/19 22:39:03
嘗糞遊戯上級の集会 〜李朝時代のある日〜
宰相:この香りは、京城の者ではないな。
王子:色、質感からして全羅道の者かと。
朴老師:今夜の宴は王族方も御参加とのことで、少々難しい題を選びました。
将軍:まさに難題。いや、この香りに騙されてはなりませぬな。
宰相:ワシは見当がついた。(折り紙に何か書き込み老師に渡す)
王子:味を確かめてよろしいでしょうか?
朴老師:どうぞ。
将軍:刺すような苦味!
王子:しかし深い甘みもある。この糞の主は苦労人だな。
宰相:やはり十二歳にして嘗糞龍王と呼ばれた王子殿だ。
王子:ところで倭人は嘗糞を知らぬの聞いたが。
宰相:数十年前、小西某と言う者と会談しましたが、恐れをなして逃げ出しました。
745 :
完全理論武装論者:04/10/20 00:16:39
秀吉が朝鮮出兵する祭に、朝鮮出兵とは無関係の東松浦半島に
堅牢な名護屋城をなぜ築いたのか?誰も問題にしないとは嘆かわしい
秀吉の朝鮮出兵の本当の理由はここに隠されているというのに
今の時代、この名護屋城築城の本当の意味を読み取ることのできる
賢者は私以外におらぬのか?
746 :
完全理論武装論者:04/10/20 00:21:13
明智光秀が本能寺の変で織田信長を討つ祭、本能寺とは無関係の安土城に
攻め入って火を放ったのはなぜなのか?誰も問題にしないとは嘆かわしい
本能寺の変の本当の理由はここに隠されているというのに
今の時代、この安土城炎上の本当の意味を読み取ることのできる
賢者は私以外におらぬのか?
石田三成なんて本当にいたのか?
748 :
完全理論武装論者:04/10/20 01:01:09
749 :
日本@名無史さん:04/10/20 01:32:17
ted
だけど当時の状況を見渡せば見渡すほど、もったいないねぇ、西軍は。
根回しとかが出来る優れた指導者がいればねー。いくらでも勝つ目はあった。
後世の我々から見ればなんて事ないが、当時の家康は怖かったろうなぁ。そのまま
でも実力ナンバー1の大老としてそこそこの思いは出来た筈だし。乾坤一擲の勝負
に賭けて買った家康、あっぱれ、ってとこか。この人好きでもないけど、それは凄ぇな。
751 :
日本@名無史さん:04/10/20 02:37:13
その辺が、大将として乱世生き抜いてきた世代と
豊臣の駒としてしか、戦してこなかった世代の差かねぇ
蒲生氏郷生きてれば幾分流れも変わったかもしれない
福島正則さえ居れば
753 :
日本@名無史さん:04/10/20 17:29:43
若い頃は散々武田信玄にもまれ、討ち死覚悟で三方ケ原に出陣した家康から見れば
多少軍勢がでかくても西軍は子童の寄せ集まりに見えたかもね
後継者も一杯いるし
754 :
日本@名無史さん:04/10/20 19:29:42
前田利家が生きていればなぁ・・・
755 :
日本@名無史さん:04/10/20 19:36:35
秀吉が生きていればなぁ
信長が生きていれば・・・
757 :
日本@名無史さん:04/10/20 19:56:24
義元公がご存命であれば…
758 :
金吾秀秋:04/10/20 21:16:34
漏れ様が関白になっていれば(´・ω・`)
759 :
日本@名無史さん:04/10/20 21:31:57
それちがう
もし竹下登が生まれていたらなー
顔も秀吉と似てるし(゚∀゚)
761 :
金吾秀秋:04/10/24 17:34:20
寒くなってきたな(´・ω・`)
輝ける勝者の漏れ様も風邪ひいたよ。
762 :
日本@名無史さん:04/10/24 20:47:01
秀吉が天下を取れたのはサンカが応援したから
あのころ異常に金山が増えて黄金の山になった
サンカが金山の場所を教えたのさ
金力で天下を取った もともと信長が猿といったのは秀吉の出自を
知っていたから 信長の諜報軍団のひき猿の一人が秀吉だ
蜂須賀党も大いに応援した
サンカって昔話によくでてくる人身御供を要求する神で、たまたま
その村を訪れた勇者が生け贄になる娘を憐れんでこっそりと人身御供に
化けて身代わりに行って、神と名乗っていたお化け猿を退治して、
勇者と娘が結ばれて幸せになる物語のやられキャラだろ。
獣であって人間ではないはずだが。
764 :
日本@名無史さん:04/10/24 21:22:39
サンカは山の民 今ではもういないが昔は山で生活し流浪した
木で茶碗を作ったりした 竹細工 さまざまだ
戦国武将はほとんどが元サンカという説もある
山を駆け回って戦争するなんて常民ではないだろうな
三角ひろしが本を出してるはず
765 :
日本@名無史さん:04/10/25 20:04:37
世界史版に”幕末の広島浅野家から出された布告に出て来るのが「サンカ」に
関する最古の史料”という発言があったが、これが事実だとするなら762の
発言は???と思えてくる。
766 :
日本@名無史さん:04/10/26 20:18:14
サンカは昔からいたよ 広島はサンカの多いところだが幕末に資料を
作っただけだろう まあ今は同化してるからわけわからんことも多いが
小椋姓なんかが元サンカが多いという説を聞いたことがある
箕作なんかもサンカらしい姓だね
767 :
日本@名無史さん:04/10/26 21:33:57
>>766 とすると、765のソースより古い史料があるって事?
768 :
日本@名無史さん:04/10/26 21:35:58
>>766 知ったかぶりのわりに
ぜんぜん役に立たないレスだな。
769 :
日本@名無史さん:04/10/27 15:22:52
サンカじゃなくて金山衆の類が秀吉を応援したんじゃないの?
そういう事例は武田信玄にも見られるし。
最近やたらと流れ者や山人の類のネットワークを過大評価するのは
隆慶一郎のデッドコピー作家が増えたせいだからだろうな。
771 :
日本@名無史さん:04/10/31 15:45:15
本多忠勝・榊原康政・井伊直政・鳥居元忠と徳川譜代は面白み無いな。
加藤清正・福島正則・石田三成・大谷吉継など豊臣恩顧の大名は
長所も短所もひっくるめて興味あるなあ。
772 :
日本@名無史さん:04/10/31 19:39:10
豊臣恩顧の大名はジレンマがあるのが面白い。徳川譜代は”どっち側”かが
決まってるからツマラン。小早川は単に優柔不断だからムカツク。
773 :
金吾秀秋:04/11/01 01:59:25
実は、漏れもジレンマがあるんだぜ(´・ω・`)
ジンマシンがあるのか?
豊臣恩顧の大名は、もしもっと賢かったらとか人当たりがよかったらとか病気じゃなかったらとか
前向きな想像できるからおもしろい。
つまり実物は賢くなかったり人当たりが悪かったり病気だったりするわけか。
777 :
日本@名無史さん:04/11/01 21:57:52
>>776 まぁ、ね^^; 加藤清正が家康の本性見抜けるくらい聡かったら、三成がもっと敵を減らして味方を作ってたら
大谷がライじゃなかったら・・・歴史が変わってたのにとかね。
徳川は、もう勝ち組だからな。あまり想像の面白みがない。
779 :
日本@名無史さん:04/11/02 00:12:47
毛利秀元が吉川広家より前方に布陣していれば、西軍優位な戦況に展開できただろうか?
780 :
日本@名無史さん:04/11/02 00:18:54
それはできない、広家は毛利軍の先鋒大将兼軍監だし、後方にやりたく
ても本家の家老である福原も裏切りもしくは傍観は承知していたのだから。
781 :
日本@名無史さん:04/11/02 04:37:22
>779
秀元は、虫けらの子だけに、広家の本心としては主君(の嫡子)と思っていなかったと思われる。
毛利一族同志の同士討ちになるのを避けるため、やっぱ、動けなかったかも
秀元も毛利傍観に賛同してたっつーに
783 :
日本@名無史さん:04/11/02 23:50:44
大津城攻略隊を関ヶ原に向かわせていれば、どうなっただろう?
裏切り者が増えるだけ
785 :
日本@名無史さん:04/11/03 13:42:36
毛 利 最 強
のヘタレ
確かに毛利より柘植の方が強いと思う(違
立花宗茂に見張らせておけば裏切りは大丈夫かも
立花がやる気満々で島津に突撃
789 :
日本@名無史さん:04/11/06 15:44:12
石川一正がいきてたら東軍か西軍どっちにつくだろう。
一人くらい東軍から西軍に裏切ってくれよ。
790 :
日本@名無史さん:04/11/06 17:07:15
上杉景勝
お前、何しとんねん!!
791 :
日本@名無史さん:04/11/06 23:54:41
信玄・秀吉とガツガツやりあってたら、家康も三成で物足りなかったんじゃないか。
舞台に上がらせるまでが勝負で、あとは台本どおり
でも、秀秋の台本読み忘れと思わせる態度と秀忠の遅刻は計算外だったと思う。
毛利と上杉の処遇も、関ヶ原前から計算づくだな。
この辺、処分しないと、自分に味方した大名に与える領土ないもん
792 :
日本@名無史さん:04/11/07 11:03:30
権現信者乙
793 :
日本@名無史さん:04/11/07 13:04:56
794 :
日本@名無史さん:04/11/07 17:59:10
大津攻略の毛利軍は戦意は非常に高かった。もし関が原に到着していれば
積極的に戦わなかったかもしれないが、傍観、寝返りは考えにくい。
毛利の旗が決戦場に立ってしまえば秀元も傍観を続けられないだろう
795 :
日本@名無史さん:04/11/07 20:44:27
まあ万一関が原で毛利が奮戦し小早川が裏切らなかったとしたら
毛利ののさばりは尋常じゃなくなると思うが・・
その場合、上杉のへたれっぷりと淀殿のあやすぃー動きを見ると毛利が
幅利かせてくるだろうし、何気に宇喜田は毛利寄りだからなぁ
毛利秀元と吉川広家をそれぞれ独立大名にして追い出してしまうくらい
するだろうが・・
>>789 石川は、いまさら徳川に戻れないだろうから西軍に付くかと。
吉川広家は、別に徳川に勝ってほしいじゃなくて、あくまでお家存続大事。徳川勝つとみたから
付いただけ。毛利本家が対徳川覚悟完了したら、素直に奮戦してたんでないかな。
797 :
日本@名無史さん:04/11/07 23:03:21
>>796 >石川は、いまさら徳川に戻れないだろうから西軍に付くかと。
しかし、東軍優勢になったら寝返るかもしれないよ。
798 :
日本@名無史さん:04/11/08 01:49:33
/i()()_/ミ| o ←
>>761 /ヾ/ <ゝ.\_ __ //
iヾ/ ___ソ ⌒ヾ .ミ.\ ガッ / /
|=| ヽ┬ ´ _))))))) / /
ヾ| !、 /_≡三./ / /
| \___/ ̄ ̄\ ☆ /
| / 、 \ |\/|_
ヽ ( /\_└-i┐ / ☆
\__| |ノ__,,/ ̄'─' ヽ--'┘ \
| | `| | ☆ |/\| ̄
ヽ | '| .| ///
┌'┤┌'┤
>>796 > 毛利本家が対徳川覚悟完了したら
でも、勝てるとは思ってないのでやはり必死に止めようとしますが何か?
800 :
大谷刑部まんせーーー:04/11/08 13:14:06
『三成、貴様もわしももう眼が見えぬ、見えぬ者同士の誼じゃ
この命くれてやる、受けとれい!』
801 :
大谷刑部まんせーーー:04/11/08 13:16:44
『皆の者、死ねやーー! かくなる上は人面獣心、金吾の兵を
一人でも多く地獄の道連れにするのじゃ!』
802 :
大谷刑部まんせーーー:04/11/08 13:18:23
『五助、介錯せよ。この首を敵に渡すな、醜い顔を晒しとうない。』
803 :
大谷刑部まんせーーー:04/11/08 13:19:33
ブファ!!『三成、地獄で会おうぞ。』
804 :
日本@名無史さん:04/11/08 13:25:27
>>800 TBS20周年記念のドラマ「関が原」の
大谷吉継は最高にかっこいいな。
もう一度大河ドラマなんかでやってくれないかな>>関が原
805 :
日本@名無史さん:04/11/08 15:28:17
>>804 役者があの時よりもだいぶグレードダウンするだろうね。
森繁久弥、加藤剛、三船敏郎、三国連太郎、宇野重吉、高橋幸治、丹波哲郎・・・・・・
50歳以上ならいい役者はまだずいぶん残っているが、20代、30代、40代あたりが役者不足。
反町とかキムタクあたりを使うならやらない方がマシ。
806 :
日本@名無史さん:04/11/08 17:48:30
あの関ヶ原、最後まで家康が三成を認めてたところが泣けるんだよなあ。
配役も最高でした!
807 :
日本史@無史さん:04/11/08 18:55:15
伝令:「三成様!!東軍に小早川が加勢した模様です!!」
一同:「な、何だってぇーーー!!」
三成:「慌てるでない!!こういう事を想定して、我が西軍は島がおる!!」
伝令:「申し上げます!!島隊が壊滅!!島左近様討ち死に!!」
一同:「な、何だってぇーーー!!」
三成:「かくなる上は・・・蒲生!!我が首を手土産に東軍に下るがいい・・・」
蒲生:「三成様!!まだ終わってわおりません!!」
伝令:「申し上げます!!ヒトラー隊が参戦!!小早川隊はメッサーシュミットの猛攻で
全滅にございます!!」
三成:「誰だヒトラーって?」
蒲生:「何でも南蛮で一番勢力を持っていた国にございます」
三成:「ふ〜ん・・・で?」
一同:「(駄目だこりゃ・・・)」
こうして東西軍はヒトラーのタイガーDに蹂躙されて関ヶ原は終わった
>>799 毛利本家が先頭に立って全国に檄飛ばして伏見城や大津攻めちゃえば、もう家康に恭順したって
許されるとは思わんでしょう。
史実の毛利本家はもう、はっきりしなくて、吉川みたいなのが現れて当然。
809 :
日本史@無史さん:04/11/08 19:29:35
/;;;;;;;;;;;;;\
/\;;::::::::::::::::::ヘ
/,,;;;;;;\.;;;;;;;;;;;;::./;ヽ
L::;;,__ ヽ、::..ノ;. ..:::ゝ__
//;;;;::::::.. ̄ ̄ ̄ ̄ ̄..::::;;;|l
|l l;;;;;;;;;;;;;:::::::::... ...:::::::;;;;;;|l
〔l lllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll〕
/j/ ヾ、
l::||:::: |l
|/ ̄\ (●) (●) ||
r┤ ト::::: \___/ ||
/ \_/ ヽ:::. \/ ,ノ
| _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__
| _)_ノ ハ // / |
ヽ____)ノ \// / |ヽ、∧
松尾山に鉄砲を撃て!!
810 :
日本@名無史さん:04/11/08 19:47:41
毛利秀元が吉川広家より前方に布陣しておき、家康本隊が前進したときに
毛利秀元が後方を襲撃すれば良かったのかもしれない
そうすれば、小早川秀秋ら松尾山勢が側面から攻撃してくれる可能性も期待できたはず
811 :
日本@名無史さん:04/11/08 19:57:02
西軍参戦武将で、関ヶ原にいたら、って人いますか?
東軍でもいいです。
812 :
日本史@無史さん:04/11/08 20:08:08
\\\
(⌒\ ∧_∧
\ ヽヽ(#´_>`)いつもそう言い訳にしかならん事を・・・!!
(mJ 家康 ⌒\
ノ ∩ / /
( | |∧_∧
/\丿 |( 秀忠) 待て待て!!正直スマンかった!!謝るから許して、遅参は
(___へ_ノ ゝ__ノ すべて真田の上田城のせいだ!!
813 :
日本史@無史さん:04/11/08 20:10:31
\\\
(⌒\ ∧_∧
\ ヽヽ(#´_>`)いつもそう関白な発言にしかならん事を・・・!!
(mJ 秀吉 ⌒\
ノ ∩ / /
( | |∧_∧
/\丿 |( 吉川) 待て待て!!正直スマンかった!!謝るから許して
(___へ_ノ ゝ__ノ 全ては秀頼のせいだ!!麻呂は悪く無いでおじゃる!!
814 :
日本史@無史さん:04/11/08 20:23:43
.... ..: : :: :: : 「~|~「~@:::::::: : :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
|二二二| . . . .: : : ::: : :: ::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::
/:彡ミ゛ヽ;)ー、 . . .: : : :::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::
/ :::/:: ヽ、ヽ、 ::i . .:: :.: ::: . :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
/ :::/;;: ヽ ヽ ::l . :. :. .:: : :: :: :::::::: : ::::::::::::::::::
 ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄
本当に三成は役立たずなのでは・・・(by蒲生)
816 :
日本@名無史さん:04/11/08 23:18:32
上杉が動かなけず最上なんかを相手にしたのも、全て佐竹の所為だす
佐竹がはっきり動いとけば、家康の西上はありえず、尾張辺りで福島等は
西軍に叩かれ、最上や伊達なんかも上杉に恭順して、西軍はあっさり勝ててた
820 :
金吾秀秋:04/11/09 02:41:37
822 :
日本@名無史さん:04/11/09 05:33:43
プレイの上手な選手が沢山いるチームが
優勝チームになれるとは限らない。
個々の能力を引き出せる監督の存在も必要だろう。
東軍には家康がいるけど、
西軍には名監督がいない。名参謀はいるけど…
>>822 そうそう。名監督というのは何もしないで黙って座っている人の事
だもんな。
何もしないで黙って座っている人=輝元
825 :
日本@名無史さん:04/11/09 13:27:39
輝元が関ヶ原に出陣していれば、西軍に勝利の可能性はあったのか?
826 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :04/11/09 18:29:20
>>825 秀頼を連れていれば、圧勝だったんじゃないですか?
827 :
日本@名無史さん:04/11/09 18:45:47
何もしないで黙って座っているだけなのに、
周りがテキパキ動いてくれる人と、
シカトされてしまう人がいる。
828 :
日本@名無史さん:04/11/09 18:55:59
>>826 しかし、秀頼を
どこに布陣させるのだ?
829 :
日本@名無史さん:04/11/09 20:39:43
830 :
日本@名無史さん:04/11/09 20:47:37
831 :
日本@名無史さん:04/11/09 21:16:36
>>828 福島正則の前でもいいな。忠吉が抜け駆けで攻めちゃったら、
上様(秀頼)に何をする!と福島隊矛を逆しまにして家康へ突撃!ウマー(゚д゚)
833 :
日本@名無史さん:04/11/09 22:12:41
いいね。長政が家康に誉められて喜んでるのをたしなめたと言うし。
秀吉に遠慮して隠居したわけだし、もう遠慮するこたぁない。
夏の陣参加の家臣、後藤又兵衛も如水になら従う。当然長政寝返り
工作済にしといて。真田みたいに二つに割れてもいいけど。
835 :
日本@名無史さん:04/11/10 05:53:57
>>811 上杉景勝(奥州戦線ではただのヘタレだったが)
実戦には異様に強い、島津と上杉が本気を出して家康に
特攻をかければ、東軍は大混乱になった可能性が
あるなあ。
836 :
日本@名無史さん:04/11/10 07:15:20
上杉が対峙した兵力は自軍以上なのか?
837 :
日本@名無史さん:04/11/10 09:56:38
>>825 家康にしてみりゃ輝元や秀頼が出てこないことを確信した上での関ヶ原でしょ
政治工作で二人を繋ぎとめられなかった場合は動かなかっただろうよ
838 :
日本@名無史さん:04/11/10 12:54:11
>>837 まあ確かにね。
上杉はなぜ動かなかったのか?という疑問も
実際は動かないことがわかったから関ヶ原があったわけで。
しかし上杉は背後を伊達におびやかされることぐらい分かってるはずなのに
なぜ事前にもうすこし策を練っておかなかったのだろうか?
これも関ヶ原がたった一日で終わってしまったから?
839 :
日本@名無史さん:04/11/10 17:19:44
そもそも伊達の場合は積極的東軍ではなく保身の要素が強いから・・
上杉としては周囲敵だらけ上方は徳川抜きでも清洲落としたり戦況は
未知数では軽々に関東侵攻するほうが無謀だし佐竹も家中統一できてないし
で先ずは会津と米沢の間に塞がる最上、旧領越後を早々に併呑して
(そうすりゃ徳川と互角)小野寺と合流したりして時間の許す限り奥羽に進出
東軍が勝てば南部を押さえた伊達と組み西軍が勝てば逆に伊達を打ち破るなりして
大上杉の基礎固めを行い
新政権で第二の家康のような立場に立っていこうとしたのではないかと思うが・・
>>839 >で先ずは会津と米沢の間に塞がる最上、旧領越後を早々に併呑
上杉の計画には、最上攻めは元々なかったんだよ。まったく「突発的」
に秋田季実と、最上が動いたために、景勝が感情的になって、出兵し
てしまったのが真相。偶発的な衝突だった。
直江は、白河口で徳川方を迎え撃ち、佐竹とともに連携して、これを
追撃・殲滅し、関東へ出ることを考えていた。
841 :
日本@名無史さん:04/11/10 18:11:10
結城秀康と徳川秀忠が参陣して実力差が明確になっていたら歴史はだいぶ違ったものになったろうね
842 :
日本@名無史さん:04/11/10 18:15:34
>>840 それはどの史料によって実証されてるの?
>>842 逆に訊ねるけど、「上杉が方向違いの庄内方面へ打って出る構想」って、資料か何かある?
そもそも、上杉は伊達、最上は容易に動かないと睨んでいたし、裏で和睦交渉さえ進め
ていた。(最上家の鮭延越前の所へ兼続が和睦の使者を派遣している)
景勝は、順序として、@伊達や最上などを殲滅して背後の「安全を確保」してから、
@反転して西上するのではなく、一気に白河口で勝負をかけようと考えていた。
なぜ、そう言えるのかといえば、仙北、米沢方面でなく、会津、白河方面の部下の
甘粕景継(白石城番)、安田能元(白河城番)、岩井信能、大石綱元(福島城番)
らへ宛てた景勝自身の書簡が残っているから。景勝自らが、長沼、白河方面の地形
を偵察に赴いており、ここを主戦場とし、対徳川迎撃・決戦を考えてたことは明白。
(そのことは「北越軍記」や「東国太平記」らの史実にも記載されている。
信憑性云々はともかくとして)
ところが、来ると思っていた家康が180度の反転したため、上杉方は大いに動揺
する。そこへ勃発したのが秋田の酒田攻撃+最上の庄内出兵。これに釣り込まれる
ようにして上杉が反応し、長谷堂の戦いへと展開していった。その辺の時系列は
ググってみるとわかると思うけど。
844 :
日本@名無史さん:04/11/11 00:08:33
もし輝元が関が原に出陣していたら、どこに布陣したであろうか?
>>844 南宮山。吉川の後ろに布陣する毛利秀元のその後ろ。
846 :
日本@名無史さん:04/11/11 02:26:04
>>843 だとすると、やはり三成の動きが性急すぎたのかな。
上杉と家康が実際にぶつかってから上方で兵を挙げれば
そうとう状況は変わっていたのかもね。
家康が引けない状態に持ち込んで、西軍が後方を脅かせば
他の大名の動きも違ってたのかもしれない。
847 :
日本@名無史さん:04/11/11 02:28:47
というか、いくら家康でも戦さに絶対はないと考えてるはずで
「こう攻められたらヤバイ」という防衛上の危惧は持っていたはずだよね。
それはどんなシナリオだったのだろうか?
848 :
日本@名無史さん:04/11/11 02:46:10
>>845 小早川秀秋の後ろに布陣すれば、松尾山勢の寝返りを防げたのでは?
849 :
日本@名無史さん:04/11/11 07:34:48
>>848 後ろじゃなく前に布陣すりゃいいんだよ。輝元を押しのけて出陣することが
出来ないからね。
850 :
日本@名無史さん:04/11/11 10:20:28
関ヶ原における東西軍布陣の時系列はどうなっているの
双方陣形が整わないうちに開戦になったの?
半日遅らせたら勝敗は逆転していたの?
851 :
日本@名無史さん:04/11/11 12:46:25
>>843 いや、上杉軍の進行方向に疑問があるわけじゃなく「直江は、白河口で徳川方を
迎え撃ち、佐竹とともに連携して、これを追撃・殲滅し、関東へ出ることを考えて
いた」という所に疑問を持ったわけです。そもそも数で優勢な徳川軍を追撃・殲滅
するには当然背後の安全を確保できる保証がある程度無ければリスクが大きいと思うし、
結果論かもしれないけど佐竹との連携もまるで出来ていなかった訳ですよね。そんな
状況で関東に打って出る計画を本当に立てていたのだろうか?と思ったわけです。
単に領国を出ずに家康を足止めしておくのが目的ならすんなり納得できるんだけど・・・
852 :
日本@名無史さん:04/11/11 12:58:38
>>850 布陣は両軍ともいちおう完了してたよ。秀忠の件は別だけどね。
853 :
日本@名無史さん:04/11/11 15:02:54
>>852 もし秀忠が到着していたら、どこに布陣したと思う?
854 :
日本@名無史さん:04/11/11 15:07:28
>>848 >>849 前に布陣すれば、輝元を押しのけられず出陣できない
後に布陣すれば、寝返っても吉継と輝元で挟み撃ちにされる
前後どちらに布陣しても良いわけだよ
855 :
日本@名無史さん:04/11/11 15:09:30
関ヶ原直前の上杉は、家康の矛先がくるっと変わって安堵してたんでつか?
それともフセインみたいに単独で征伐軍に立ち向かう防戦体制をとってたんでつか?
856 :
日本@名無史さん:04/11/11 17:33:19
今のスレの流れ、非常に面白いです。
いままで、何で、上杉は南下しなかったのか?って思っていました。
上杉領への秋田・最上の出兵に、感情的になってって言う指摘は、なるほどな〜
って思いました。
家康は、上杉に対して備えを残していますが、
果たして、秋田最上が動かず、もし、南下していたら防げたのかと思います。
あるいは、家康はそこまで見越していたのか・・・だとしたら、さすが…って思いますね
857 :
日本@名無史さん:04/11/11 17:43:47
上杉景勝と伊達政宗が、関ヶ原に西軍で布陣していれば
西軍が勝っていた?
858 :
日本@名無史さん:04/11/11 17:44:06
>>847 上杉に領土深くまで引き込まれて膠着状態になるのがヤバイんじゃない?
戦局が長引いているうちに三成方が着々と拠点を潰しながら背後にプレッシャーをかける。
伏見に続いて清洲は落とせるな。
あとは悠々と上杉と家康の戦を見守りながら
大阪城の政治体制を毛利中心に組み替えてしまえば
家康も窮地に陥ったのでは?
859 :
日本@名無史さん:04/11/11 19:25:10
>>853 家康の立場を考えると、前線の豊臣恩顧大名と並ばせるんじゃないかな。
一番槍はあの狂人と決まってるから動かせないにしても、それ相応の働き
ができる位置に布陣させると思うよ。あ、それと采配は榊原の意見をよく
聞いてふるうようにという条件をつけてね。
860 :
日本@名無史さん:04/11/11 19:29:36
関東で天下分け目の関ケ原級の決戦が起きていたら
861 :
日本@名無史さん:04/11/11 19:35:33
>>860 あの平坦な関東平野での戦いとなると関ヶ原とはまた違う戦いに
なるんだろうなぁ。
862 :
日本@名無史さん:04/11/11 21:27:48
秀忠が到着していたら、家康がいなくても東軍の勝ちだと思う?
>>851 もちろん、家康が小山で反転して、それを上杉勢が追撃するというケースの場合、
当然、その恐れが出てくる。上杉領は、危険人物の伊達政宗と最上勢に徹底的に
破壊、蹂躙されることはほぼ100%間違いなく、「追撃」どころの話ではない。
上杉の進撃も下野辺りで挫折する。(ただ、それは歴史上の事実の話。開戦段
階では、@家康が目の前でUターンすること、Aまして関東方面へ、上杉勢単独で
追撃するなど、夢にも考えてなかったはずだから)
文意はそうではなく、景勝は、伊達・最上が自領の奥深くへなだれ込んでくる前に、
白河口で、家康本隊に対して電撃的に一気に勝負を挑み、決着をつけ、その首をとる
計画を立てていたということ。(同時並行で、伊達・最上と裏で和睦(中立)交渉を
行ったり、越後での一揆画策による後方攪乱を工作していたが。なお、景勝は、仮
に伊達・最上と軍事衝突をした場合でも、戦術的に勝利する自信があったようだ。)
計画では、家康本隊を白河の革籠原の湿地帯へに誘い込み、これを撃破。敗走した
徳川軍を、棚倉から佐竹義宣の部隊が挟撃し、家康を討ち果たす。白河で家康が死亡
すれば、ここで関ヶ原は西軍の勝利で会津にて終結。そこに至れば伊達、最上は上杉
に恭順するしか残された道はない。余裕で「関東へ凱旋できる」ことになる。
864 :
日本@名無史さん:04/11/11 22:42:18
↑
>敗走した徳川軍を、棚倉から佐竹義宣の部隊が挟撃し、家康を討ち果たす。
この話の時期に、「棚倉から佐竹義宣の部隊が挟撃」してくれるのか?
そもそも佐竹と上杉が共同戦線張ってたかどうかすら疑わしい時期なのに?
>>864 上にも書いたけど、863の上杉の対徳川迎撃プランのソースについては、
「北越軍記」「東国太平記」「会津陣物語」(←これだけで異常に怪しい)
らに散見されるものだよ。「信憑性云々はともかくとして。」
実際はありえない。この計画の立案が7月。上杉と佐竹の提携が
なったのが8月なんだから。
866 :
金吾秀秋:04/11/12 00:15:02
歴史群像をまんま自分の知識みたいに語るのはヤメトケ
伊達の倒幕計画や、瑞巌寺での迎撃構想なんてのも、
学研の「架空シュミレーション」みたいなもんだからな
秀忠が関ヶ原に到着していたら、西軍は関ヶ原の西方、近江方面へ
布陣して狭い回廊を通過してきた東軍の先頭に集中攻撃をかけると
思う。あるいは秀忠と福島の確執を誘って、福島に離反工作を仕掛
ける。
870 :
日本@名無史さん:04/11/12 11:03:26
>>869 >西軍は関ヶ原の西方、近江方面へ布陣して狭い回廊を通過してきた東軍の先頭に集中攻撃をかけると思う。
そんな場所があるのか?
871 :
日本@名無史さん:04/11/12 12:31:35
柏原とか醒ヶ井とかかな?まぁ場所はあるだろうけど、東軍が伊勢街道から
東海道を経て草津辺りに出られると挟み撃ちじゃねーの?
872 :
日本@名無史さん:04/11/12 13:33:18
>>871 >草津辺りに出られると
西軍も草津まで退いて、草津で決戦というのは?
草津まで退くと北国街道を東軍に押さえられちゃうんだな。湖西をぐるりと回って
京都入洛とか・・・。関ヶ原でぶつかるのは街道が交差する要所ということも
あるんだろう。
874 :
日本@名無史さん:04/11/12 15:31:58
>>873 家康が伊勢街道から草津に向かって、西軍が草津まで退いたら
秀忠が北国街道から湖西を回って上洛する作戦もあったわけですね?
875 :
日本@名無史さん:04/11/12 18:12:50
そうすると前田の存在は結構大きいな。
876 :
日本@無史さん:04/11/12 18:14:35
とりあえず正宗が関ヶ原に乱入!!
正宗「馬鹿め!!家康と三成どっちも潰す!!」
戦国無双ネタですまそ
877 :
日本@名無史さん:04/11/12 18:48:37
>>876 政宗が関ヶ原の乱入するなら、西軍に加担して家康を潰すのがセオリーだろ?
三成など、あとからでも政略で簡単に潰せるのでは・・・
湖西は大溝城を確保されていると突破不可能だ。
>>876 その状態なら政宗一人負け。
どちらかに加担したら、例の法則が発令して加担した側の負け。
史実の関ヶ原における家康の真の勝因は政宗を主戦場に連れて行かなかったこと。
大坂夏の陣では、例の法則のせいでもう少しで負けるところまで追い詰められてしまった。
つーか、佐竹といい大坂城の連中(淀一派以外)といい
そんなどいつもこいつも反徳川で動かないだろ
後に家康によって滅ぼされた奴らですら関ヶ原の時点では
家康に加担してるやつがあんだけいたんだから、徳川に付くのは自然なことだろ
関ヶ原if=西軍勝利って図式になってる人多くないか?
こことかで想定されてるような三成と各大名の連携なんかも、それができるほど
協力関係が密なら、最初から家康は台頭できなかっただろ、てな物が多いし。
881 :
日本@名無史さん:04/11/13 11:02:33
家康のスケジュールでは、当初関ヶ原規模の戦闘は想定してはいなかったのだろうか
上杉征伐も陽動作戦としてはタイミングがよかったのではないか
882 :
日本@名無史さん:04/11/13 17:47:26
小早川が裏切る前に、島津が敵中突破していたら
西軍に勝ち目はあったか?
「例の法則」って、政宗はチョソでつかw
>>882 そもそも島津の敵中突破は周囲が総崩れのためのやむを得ない手段だったので
その問自体があり得ない話と思われ
「例の法則」ってなんだよ?
885 :
日本@名無史さん:04/11/14 00:37:44
島津が敵中突破したとき、他に西軍は残っていなかったのか?
886 :
日本@名無史さん:04/11/14 05:32:07
っていうか、
家康の陣に威嚇の鉄砲を撃ちかければ、
家康が西軍に寝返って井伊や福島や忠吉に背後から襲い掛かるだろうから、
西軍が勝てたのにね。
その後は、遅参して慌ててやって来た秀忠を待ち伏せして、これを撃滅。
887 :
日本@名無史さん:04/11/14 06:15:58
毛利が本気でやる気になって大坂から出て
戦長引いたら、伊達もなにかしら動いたかもね
上杉と組んで、伊達・上杉・真田で背後から東軍ついたり
888 :
日本@名無史さん:04/11/14 06:27:29
何やったって、ヘタレ西軍は勝てないよ。
9月14日に家康が岡山(勝山)に着陣した時、三成は源氏の白旗を
見ただけで理的に一大パニックを来している。統率者としての余裕が
全くないんだよ。大垣城での軍議には、慌てて島津や長曽我部、小西ら
が集まったが、そこに毛利秀元と吉川広家の姿はなし。小早川秀秋も松
尾山に「体調が悪い」などの理由で籠もったまま。
(これが何を意味しているのか、翌日身をもって知るわけだ)
この席で島津義弘は奇襲を提言するものの、三成は「いや、まだ輝元
殿が到着していない…」云々と煮え切らない態度に終始したものだから、
義弘が逆ギレして三成を怒鳴りまくるなど、お粗末極まりなし。
すでに前日に、勝負は決まっていたわけだ。
もし三成が軍事は島左近のイエスマンに徹していたらどうだろう?
島は元々奇襲しようよ派だし。
890 :
島左近:04/11/14 11:53:42
さらば、正義の御人よ。。
>>883-884 > 「例の法則」って、政宗はチョソでつかw
> 「例の法則」ってなんだよ?
チョソとは関係ないよ。日本史における第二法則。
「東北人は東西対決の際、常に敗者の側に立つ」
>>891 関ヶ原ではその法則は当てはまらない気がするが
894 :
日本@名無史さん:04/11/14 16:19:00
吉川広家が東軍を攻撃していたら、西軍に勝ち目はあった?
>>893 最上は勝ち組だよ。それも1人勝ち。+33万石の大加増だから。
戦後、上杉−90万石、伊達+は2万石、佐竹、秋田は仲良く左遷のコ
ンバート。伊達の和賀一揆策謀をいち早く家康に流すわ、秋田をデマ
情報で罠にかけたりと(このため左遷)、出羽狐こと義光の謀略は全開
だった。
まあ最上は家臣の分裂で、最後に4千石へ転落したわけだが
897 :
日本@名無史さん:04/11/14 17:37:38
あぁ、そうだな
899 :
日本@名無史さん:04/11/14 19:05:06
あぁ、そうだな
>>896 「いったん太らせておいて潰す」か。最上は「出羽狐」どころかまるで豚か七面鳥だな。(w
>>894 あると思うな。
吉川が動くという事は毛利秀元も動く。
ただ、関が原で家康を殺すなり捕まえるまでしておかないと、逃がしたら
関が原で勝っても最終的に負けそう・・・
つか、無意味なタラレバ語りたいなら三戦板に逝け
903 :
日本@名無史さん:04/11/14 21:37:59
>>901 吉川広家が動けば毛利秀元も動く、これは間違い無い
しかし、それより後方に布陣している南宮山勢(安国寺など)が動いたとは限らない
その場合でも、果たして西軍に勝ち目はあったのか?
>>901 戦国時代一の逃げ上手である家康を戦場で討ち取るってのは不可能に近いでしょ
もう、隕石の直撃で死ぬのを期待するようなもんじゃないか?
まぁ忍者とか某十勇士が活躍する世界ならわからんが(笑)
905 :
日本@名無史さん:04/11/15 00:07:10
>>904 >戦国時代一の逃げ上手である家康
三国志一の逃げ上手である劉備
と類似しているね?
906 :
日本@名無史さん:04/11/15 01:58:00
もし小早川隆景が生きていたら毛利軍は腹をくくって家康と全面対決するか
あっさり恭順するかどちらかを選んでいただろう
あんなに一族の対応がバラバラになることはなかったろうに
907 :
日本@名無史さん:04/11/15 03:56:19
そもそも頼朝が幕府なんかおっぱじめるからいけないんだ。
武家政権といえば、頼朝よりも先に、貴族化したとはいえ清盛が最初だな。
まったく悪いやつらだな。どうしようもないぜ。
武士は武士らしく貴族の警備係に甘んじてればいいんだ。
908 :
桂小五郎:04/11/15 06:06:29
逃げ上手と言ったら俺だろ(`・ω・´)
909 :
完全理論武装論者:04/11/15 09:57:50
こんにちは歴史愛好家のみなさん。そしてさようなら歴史愛好家のみなさん。
私はこのスレから撤退することにしました。でもロムったりはしますけど。
ずっと自分なりに考えていました、そして答えがわかったのです。
歴史の真実が私の理論で明らかにされても、なぜ歴史愛好家のみなさんは頑としてその真実を
認めようとしないのかがわかりました。
歴史愛好家のみなさんは永遠のミステリーハンターたちなのです。
あなたたちは謎を見つけて謎を追い、謎を究明することなく死んでいく人たちなのです。
謎を研究して楽しんだり、自らの知性を向上させようと謎を利用しているのです。
ですから謎が解明されては困るのです。
謎が解明されてしまえば、謎を研究する楽しみがなくなります。
謎が解明されてしまえば、自らの知性を向上させるための新しい謎を
歴史の中からまた新しく見つけ出さないといけないからです。
戦国時代以上に興味をそそられる歴史の謎なんてそうそうありません。
ですから戦国時代の謎を解明しないように、真実には目をつむり黙殺して
みんなでだらだらと同じ議論をしつくすのです。それが楽しいからです。
ですからひとつの歴史の謎を解明させて、また次の歴史の謎を解明してやろうと
考えている私と、永遠のミステリーハンターでいたいあなたたち歴史愛好家の、
みなさんとでは目的が全く違うのです。
というわけで私はこのスレから去ることにしました。
ではみなさん今日も知性の向上のためにがんばって議論して励んでください。さようなら
910 :
日本@名無史さん:04/11/15 10:32:56
完全理論なんて青臭いことをぶちかますから行き詰まるんだよ
もう少し遊べよ、ここで
>>909 それは、全てあなたの思い込みです。
二度目のさようならですね、伊達君。
そして三度目のこんにちはは何時でしょう。
次はどんなコテを名乗って登場するか楽しみにしていますよ。(w
↑完全理論なんとかってコテもバカでキモかったが
なんでもかんでも伊達伊達言って「思い込みです」で片付けてるコイツもキモイ
>909
独り合点でガンバレ。
915 :
日本@名無史さん:04/11/15 21:13:29
あぁ、そうだな
916 :
落武者:04/11/15 21:26:21
完全無能よ、理論となる根拠が
提示できるように励むのじゃ。
917 :
金吾秀秋:04/11/16 02:24:59
まったく無能なやつだぜ(´・ω・`)
918 :
日本@名無史さん:04/11/16 03:23:57
/i()()_/ミ| o ←
>>917 /ヾ/ <ゝ.\_ __ //
iヾ/ ___ソ ⌒ヾ .ミ.\ ガッ / /
|=| ヽ┬ ´ _))))))) / /
ヾ| !、 /_≡三./ / /
| \___/ ̄ ̄\ ☆ /
| / 、 \ |\/|_
ヽ ( /\_└-i┐ / ☆
\__| |ノ__,,/ ̄'─' ヽ--'┘ \
| | `| | ☆ |/\| ̄
ヽ | '| .| ///
┌'┤┌'┤
919 :
日本@名無史さん:04/11/16 08:41:20
921 :
日本@名無史さん:04/11/16 17:43:21
関ヶ原の論功行賞で最大の手柄を上げたのはだれでつか
922 :
日本@名無史さん:04/11/16 19:29:11
一番大きく加増されたのは黒田長政かな?
1位 結城秀康 57万石up
2位 蒲生秀行 52万石up
かな。結城はおとなしくさせる飴玉って感じ。
蒲生もなー。手柄が評価ってなると違和感。
でもどっちも減封されたりしてんな
うめ?
まだ次スレ立ってないよ(立つのか?)
ゆっくり行きましょう。でも、だいたい話尽くしたかなぁ。
話が尽きたらループすればよろし
929 :
日本@名無史さん:04/11/18 20:38:14
関が原の戦いがあんなにあっさり片付くとは家康も思っていなかった?
だから予備部隊で秀忠軍を温存させた
黒田官兵衛にしても、九州にいた加藤清正にしても、長引いて
また戦国時代に逆戻りすると読んでいた
伊達政宗にしても、同じ読みだろう
大阪城でまだ一戦あると読んでいたのが、またまた毛利が尻ごみして退散
毛利勢のふがいなさには、あきれるわ
>>924 蒲生秀行って、「上杉の南下を押さえた」って
名目で+52万石もらってるわけだが、いくら何でも
貰いすぎだろ〜。しかもあのケチな家康からだよ。
何かあるって、内心ビビってたかもな。
蒲生氏郷が死んだのは石田三成と上杉による謀殺だといううわさが流されていたから、
取り戻してあげたよ→家康いいやつ! と言うパフォーマンスでは
>>924 蒲生は18万石から60万石でプラス42万石ではなかったか?
確かに60−18=42万石だわな。
しかし「関ヶ原研究所のHP」を見てみたら、+52万石になってる(笑)
多分誤植かと。
>>933 ぐぐってそこ見たの; ̄ロ ̄)!!スマソ
935 :
金吾秀秋:04/11/24 03:18:37
家康いいやつ(´・ω・`)
936 :
日本@名無史さん:04/11/24 17:41:43
蒲生秀行ってまだガキだろう、当時は
家康の娘婿か
泣き付かれたんだろう
937 :
日本@名無史さん:04/11/24 19:05:15
三成のことで書くのですが、武将派(清正・正則・長政等)は武士の出世は、戦場にでて敵の首を獲るとの考えで、官僚派の三成を軽蔑してましたが、
そりゃ、3人とも体格にめぐまれてるから(特に清正)できるのであって、小柄な三成にしてみれば可愛そうだ。
三成は事務的能力をよく発揮して頑張った。エライと思う。ちと、人望はないが・・。
幕末の英雄、新撰組の武田観流斎にしても同じだ。
938 :
日本@名無史さん:04/11/24 19:18:51
>>937 忍城攻めを知らんのか?
秀吉だってチビじゃないか。
939 :
日本@名無史さん:04/11/24 19:42:32
知ってる。たしか、刑部・増田も一緒だよね。でも、水攻め失敗しなかったっけ?
秀吉は、自らの手で敵の大将の首獲った事あったっけ?
全部計略(水攻め・兵糧攻め)な気が・・。
秀吉は金ヶ崎で殿やってる。
三成はあそこまで地盤固めた家康に喧嘩売ってる。
似た主従だろ。
福島だ加藤だなんていう卑怯者とは所詮器が違うんだろう。
941 :
日本@名無史さん:04/11/24 20:39:15
人徳のない、小物・三成を嫌っていたのは武断派だけではない。
細川忠興も三成の言動に対してはかなり激怒している。
942 :
日本@名無史さん:04/11/24 21:12:13
清正に小男呼ばわりされた逸話のせいで三成=チビ
ってイメージだけど、実際は当時の平均身長くらいは
あったんだよね。
943 :
日本@名無史さん:04/11/25 06:48:10
>>937 >幕末の英雄、新撰組の武田観流斎
武田観流斎がいつから英雄になったのかと。。
944 :
日本@名無史さん:04/11/25 07:17:26
945 :
日本@名無史さん:04/11/25 19:08:16
>>943
新撰組が英雄ってことで誰も武田が英雄とは言ってない。
>>940 卑怯者じゃなくて、ただ家康の真意を見抜く知恵、未来を予想する知恵が
足りなかっただけでしょう。
いずれにせよ加藤・福島は滅ぼされ、三成の血は徳川家に受け継がれた。
947 :
日本@名無史さん:04/11/28 12:55:31
結果論でいえば秀吉が家康と小牧・長久手の戦いのあと講和したのが
いけなかったな。私は家康は嫌いだが、狸親父ではないと思う。もと
もと、秀吉と戦う気だったんだから。御大秀吉が家康と最後まで戦っ
てたらと思います。
関が原の戦犯はどう考えてもヘタレ会津だろw
>>948 上杉が最上・伊達を処分しないまま関東に討ち入るのは無理。
妄想小説の中でなら可能かもしれんが。
>>948 どう考えても毛利だと思うのだが?
東西両軍ともに。
>>949 つまり当初の戦術の根幹が破綻してるってことじゃんw
ムリがわかっていて挙兵したなら単なるバカ。
わからずに挙兵した後に気がついたのならやっぱりバカのうえにヘタレw
>>951 戦術の根幹云々は君の妄想。
結果論でしか語れぬのは寂しすぎるぞ。
毛利でしょ
954 :
日本@名無史さん:04/12/03 21:41:04
関が原の裏切り者の小早川秀秋の死因は病死ということになっているが
百姓を無礼討ちにしようと切りかかったが、百姓が窮鼠猫をかむ反撃で
クワで秀秋を殴り殺したという説もあるね
あまりにも格好が悪いので病死にしたとか、しないとか
955 :
日本@名無史さん:04/12/03 23:41:46
会津って永遠の負け組っぽい
>>955 会津は地形的にも地理的にも
居心地のいい奥座敷で、外に発展できないし、
またしようとも思わなくなってしまう
入ったら最後、没落を約束された土地。
蒲生氏郷が転報を泣いて悔しがったのもむべなるかな。
957 :
日本@名無史さん:04/12/04 10:34:56
大津城を放置して関が原に集中させていれば、まだマシだったかもしれませんね
>>952 はぁ?
結果論の意味わかってる?アホかw
>>956 >居心地のいい奥座敷
あんな土地、人間の住む土地じゃねー。
蒲生氏郷が転報を泣いて悔しがったのもむべなるかな。
会津はいいところだぞ。
冬は暑くないし
夏は寒くない。
空気もある。
>>958 三戦板の場所知ってるか?
そこに行けば友達が出来るぞ。
>>960 >空気もある
ワロタ。
今は盆地は暑すぎ寒すぎで環境悪いけど
昔は治水が楽だから農業地としてはよかったんだろうな。
会津は猪苗代湖があるから、東北の中では
かなりの上田だったろうし。
地形が八王子に似ているな。
光化学スモッグはどうだ?
964 :
金吾秀秋:04/12/05 03:20:03
また風邪ひいちゃったよ(´・ω・`)
>>964 ヴァカでも風邪引くのか。。。時代は変わったな
関ヶ原がもっと長引けばおもしろかったのに。
慎重すぎる家康があっさり片付けてしまうほど三成は戦下手だった
967 :
金吾秀秋:04/12/10 01:24:53
まったく三成の戦下手にはあきれたもんだぜ(´・ω・`)
968 :
日本@名無史さん:04/12/10 10:10:42
>>947 >結果論でいえば秀吉が家康と小牧・長久手の戦いのあと講和したのが
いけなかったな。
蒲生あたりは主戦論だったわけだが
ここで若手に華々しく大勝されると、秀吉の地固めが難しくなる嫌いがあったんではないか
/i()()_/ミ| o ←
>>967 /ヾ/ <ゝ.\_ __ //
iヾ/ ___ソ ⌒ヾ .ミ.\ ガッ / /
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970 :
日本@名無史さん:04/12/10 13:08:45
そういえば人生相談板に小早川秀秋っていうコテハンがいたなァ
971 :
日本@名無史さん:04/12/10 22:48:41
蒲生生きてても、三成の指示に従わないと思う。
972 :
日本@名無史さん:04/12/11 14:36:59
宇喜多秀家が大坂城にいたほうがよかった。
前田家はまつがいなかったら、西軍になってた?
973 :
日本@名無史さん:04/12/11 21:50:56
あれだけの大きな絵が描けるというのは、安国寺エケイくらいなものだろう
石田三成は、あれほ大きな絵を描く能力はない
安国寺エケイの誤算は小早川秀秋が約束の時間より早く、裏切ったこと
吉川広家が強硬に突入に反対したこと
小早川が約束どおり、もう少し我慢していれば、疲れ果てた両軍を
一気に殲滅して、毛利が天下を取れた 小早川の早めの裏切りが誤算
家康はそれを知っていたから安国寺エケイの首を三条河原ではねた
毛利も当初は取り潰す予定だったが、吉川広家の哀願があって
10国から2国に減封した
あの時、毛利を取り潰していたら、明治維新は起こらなかったかもしれない
三成ちゃんも、高台院に泣付けば良かったんだけどねえ。
甘え下手だったんだねえ。
東軍についた高台院縁故の諸将が西軍にいたら徳川が滅んだ。
浅野家を筆頭に、前田・加藤・福島・・・・・そして、裏切りなしに小早川(w
伊達は、上杉と和睦して結城秀康を攻め、勢いあらば上田に釘付けの秀忠勢を攻撃。
真田信之が沼田に篭って音信不通となるや、秀忠勢で裏切り続出・・・。
秀忠の御覚え目出度くない、真田信之の義父・本多忠勝も反旗を翻し、徳川譜代同士
で内紛激化♪
なんやかんやで、戦国の世が長引いた可能性があるけど・・・・・。
そろそろ次スレ?
しかしこのスレタイからもわかるが
結局三成のことをはなすスレなんだなw
関が原のことだったら
【石田】関ヶ原の戦い【徳川】
【三成】関ヶ原の戦い【家康】
とかだろうに、右も左もどっちも三成w
このスレの総括。
会 津 と 長 州 は ど ち ら も ヘ タ レ 。
>>977 上杉家が越後から移って1、2年しか経ってないのにヘタレと呼ばれる会津も哀れだな。
移って来て200年経ってからヘタレ呼ばわりされる幕末の松平家ならいざ知らず。
会津人は有史以来一貫してヘタレ
980 :
日本@名無史さん:04/12/12 22:28:47
上杉も会津に来た途端、ヘタレになってしまうわけか。
関が原合戦時の島根県仁多郡仁多町三成はどうだったかについて語るとか
会津はクズ。ごみため。
これ定説。
>>980 つまり、一番悪いのは越後に置いておけば役に立ったはずの上杉家をヘタレ会津に移して
わざわざヘタレにしてしまった秀吉。
だったら徳川を会津に移しておけば豊臣政権は磐石だったのにね。
むしろ徳川を越後か奥州にでも移したほうがいいような
遠くに移すと、その分石高増やさないと秀吉ってひどいやつ!ってイメージがつくからな。
家康は三河から動かさずに飛び地で遠隔地を加増。関東には上杉を!
関東官領としてしょっちゅう出てきてたからなじみもあるだろうし、関東への移封なら歓迎するかも?
秀吉は明を制服すると公言してた時点で老人ボケしていたんじゃないの?
それを騙し騙し政権運営していた三成などが清正などから恨みを買うこと
になった。
すべて秀吉のボケが元凶。
若いときの人たらし切れ者の彼だったら徳川に難癖つけて廃絶していた
かと思う。
対して家康は老人になってずる賢さに磨きがかかった。
987 :
日本@名無史さん:04/12/13 16:48:21
秀吉は天下人になってからは、度々失策を繰り返しているよね
あれだけ癇癪起こして自ら扱けそうになって見せると家康も内
心穏やかじゃあるまい
家康に希望を持たせ続けた結果ああなったわけで、長生きにも繋がった
989 :
日本@名無史さん:04/12/13 20:52:53
天下統一後の秀吉といえば、土地本位の経済政策の行き詰まりから明への
遠征を考えたと言う話もあるが、そういうところはどうなの?経済的見地から
秀吉の外征について、説明希望。
990 :
日本@名無史さん:04/12/13 21:10:01
信長にしても秀吉にしても天下を取ったまでは良かったが
天下を取った後の日本の仕置きをどうするかの設計図を
もっていなかった だから両者ともヤケクソみたいな行動を取った
その点、家康は天下の仕置きの設計図を武田信玄から
どういうわけか、手に入れていた
家康のやったことは武田信玄の書いた設計図どおり
内国支配については、表から裏から完璧な設計図だった
甲斐は山国なので海外貿易のことは書いていなかった
そこで家康はわからないので鎖国にした ということ
991 :
日本@名無史さん:04/12/13 22:12:37
992 :
日本@名無史さん:04/12/13 22:49:53
>>990 面白い。
秀吉のアイデンティティーは信長自身だったから、
天下取ったあと、案の定、指標を失い発狂したもんな。
まあ、戦国時代は多かれ少なかれ、前例を大切に
した時代だから、これは秀吉に限ったことじゃないけど…。
ゆえに結果は違えど、この戦いに参加した武将の
多くは、信長の跡目争いである「賤ヶ岳の戦い」を
参考に戦っていたのでは、なかろうか。
結論:西軍も東軍も小早川秀秋は、戦線離脱すると
思っていた。
993 :
日本@名無史さん:04/12/14 02:04:40
小早川秀秋が戦線離脱していたら西軍は大津攻めの軍勢が来るまで持ちこたえただろうな
そうなると毛利の旗が関が原に立ってしまうことになり、吉川も西軍につかざるを
えなくなる。東軍が防戦して秀忠の軍の到着を待つことになるのかそれとも
家康が大津攻めの軍勢が来る前に力攻めをするか
小早川が西軍に裏切りのタイミングでつく以外に西軍が決定的勝利をえる状況がなかなか
思い浮かばん。せいぜい持久戦に持ち込んで講和の道を探るとかしかないのか
>>990 家康は積極的に海外交易をおこなったよ。
鎖国を行ったのは家光だよ。
995 :
日本@名無史さん:04/12/14 20:58:23
家光がとんでもない阿呆だな 世間では名君と言われているらしいが
久能山に埋蔵していた大量の金銀をそのままにしておけば
もっと徳川の世が続いていただろう
金銀を掘り出して公家連中にばらまけば評判は良くなるがアホだね
ちょうど江戸城の金蔵が空になったときに幕府が滅びた
大量の金銀を食いつぶすためだけに存在した幕府官僚
日光へ行って切腹したという話しも聞かないな 無責任な連中だ
徳川幕府は予算、という物を立ててなかったというのは本当ですか?
三成が政権握ってたら、そういうところをしっかりやってたかも
997 :
日本@名無史さん:04/12/14 21:57:11
予算を立てるのはよさんか!
998 :
日本@名無史さん:04/12/14 23:18:30
・・・つまらん
999 :
日本@名無史さん:04/12/14 23:18:59
↓ 1000を取った者が天下を制する
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