1 :
日本@名無史さん:
仮にも徳川幕府は日本全国の要地を抑えていて、
数百万石の国力を誇っていた。
それなのに薩長土(肥)主体の官軍にあっさり負けたのは
どういうわけなのだろうか?
それをこのスレで語っていきましょう。
2 :
日本@名無史さん:04/05/01 02:02
直轄軍を動員せず、譜代の諸藩に戦わせたから。
てか譜代の諸藩すらろくに戦ってないんだよ。
慶喜が戦線を崩壊させ夜逃げしたからね。
4 :
日本@名無史さん:04/05/01 09:22
慶喜は最初から政治戦だけで勝つつもりだったのだが?
武装が貧弱なくせに勝手に暴走したのは会津と桑名だろ。
5 :
日本@名無史さん:04/05/01 09:26
第二次長州征伐を冷静に判断すると、いかに幕府の戦闘方法が時代
遅れになってしまったか判断できたはず。それを受けての対応がな
されていなかった。
6 :
日本@名無史さん:04/05/01 09:27
>>4 庄内藩が一番暴走したんじゃないかな。
薩邸焼いちゃって。
>>1 鳥羽伏見の戦いと戊辰の戦いをごっちゃにしているのでは?
>>2 なるほど、それはごもっとも。
将軍自身はやる気無くて、他人(他藩)だけが戦っていたと。
>>7 鳥羽伏見を含めた戊辰戦争全般のことです。
局地的には幕府軍が頑張ったところもありましたが、
全体的に見れば1年程度で官軍に鎮圧されてしまったわけで、
そういう意味で「あっさり負けた」と書きました。
9 :
日本@名無史さん:04/05/01 18:33
幕府が本気になれば薩長なんて一瞬で消滅させられたのに…;;
慶喜がやる気無かったせいだ!!
>9
そうかあ・・・?
第二次長州征伐なんて完全包囲状態、かつ200,000対5,000の絶対優位の兵力差で挑んでも負けてるぜ?
小笠原がやる気なかったせいっていうんなら同意だけど。
って、戊辰戦争のスレだったな。すまそ
12 :
日本@名無史さん:04/05/01 18:51
幕府が倒れるって時に本気にならない幕臣というのは、
幕府は薩長に打倒されるべきだという現実を自覚していたんじゃないのかね?
13 :
日本@名無史さん:04/05/01 18:59
>>12 んなことない。江戸にいた幕臣の多くは、
薩長など赤子の手をひねる様な事だと思って暢気に構えていた。
鳥羽伏見に負けて将軍が江戸に帰ってきてから焦りだしたが、
恭順する事になったので戦わずに終わった。まぁ、主戦派が納得せず
局地戦をやったけどね。
政府軍の大村益次郎にあたる全体的な作戦指導を行う人間がいなかったことと、
各方面の司令官に大藩(米沢や会津)の無能家老を配置したことが原因だろうね。
局地戦での優勢や圧倒的な海軍戦力を最後まで生かすことができず、
結局、各個撃破されてしまった。
15 :
日本@名無史さん:04/05/01 19:04
薩長を侮っていた為に赤子の手を捻るように負けたのなら、それが幕府側の実力だったのさ。
16 :
日本@名無史さん:04/05/01 19:11
やっぱり新政府軍の方が武器とか性能良かったからでしょう?
日本人どうしで殺し合って困った困った。
17 :
日本@名無史さん:04/05/01 19:13
徳川慶喜は、幕府軍の態勢を立て直すために淀藩へ逃げ込もうとした。
淀藩は春日局の実家である稲葉家の直系で、代々老中職を務めた譜代
の家柄だが、幕府の命脈がもはや尽きたことを察知した淀藩は幕府軍
が入ることを拒否した。これが、幕府軍敗退の決定打となった。
18 :
日本@名無史さん:04/05/01 20:26
>>17 まてまてぇーい!
徳川慶喜は大阪城から出てないってw
しかも伝令も届いたか届かないかぐらいの時期だろ
幕軍の最前線指揮官が悪いんじゃ。
19 :
日本@名無史さん:04/05/01 20:44
津 藩は幕府歩兵、新撰組、旗本衆に鉄砲をぶっ放すようなことやっているし、
彦根藩は持ち場の伏見奉行所をとんずらするし、
準大将の大目付格の滝川播磨守具挙はにげるし。
これが敗退の原因だよ。
20 :
日本@名無史さん:04/05/01 20:56
おフランスの軍事顧問は最後まで戦ってくれたいうのに
ホンマ情けないわ腹切ってお詫びします
21 :
日本@名無史さん:04/05/01 21:02
ドドイツの軍事商人は最後まで機関銃を提供してくれたのに
股を打ち貫かれてしまってすいません。お詫びします。
>>16 鳥羽伏見の段階では
薩摩兵・長州兵の主力兵器がミニエー銃だったのに対し、
幕府歩兵は一段上の性能のシャスポー銃で、武器では勝っていた。
・・・・しかし先陣は何故か火縄銃と刀槍が主力兵器のヘタレ会津&新撰組
当然薩摩と長州に秒殺
>>16 それよく言われることだけど、誤解らしいよ。
幕府側もフランスの後押しでかなり装備は強化されていて、
その面では互角だったらしい。
ただ、幕府側は戦意のない大名連中の寄せ集めで、
指揮系統がまともじゃなかったのが敗因だったのだろう。
24 :
日本@名無史さん:04/05/02 22:33
王政復古の朝議、小御所会議で大勢が決していたのではなかろうか。
諸藩日和見状態にしてしまった時点でもう幕府は厳しいのでは。
暗殺の危険もあろうが、
あえてあの会議に誰かを参加させられなかったものだろうか。
25 :
日本@名無史さん:04/05/02 23:10
東海道を渡って来る倒幕軍を幕府海軍が横から叩けば勝てたのだ。
大村益次郎も危なかったと話している。
勝海舟が倒幕派と組んで反撃を阻止したから負けたのだ。
26 :
日本@名無史さん:04/05/02 23:17
1000人ぐらい死ぬと幕府軍は我先にとにげだしそうなかんじだが。
いい武器持っていても士気が無ければ国府軍や南ベトナム軍のように総崩れになってしまう。
幕府方の比較的士気の高い軍は、ほぼ例外なく旧式装備で、
装備がいいとこは、士気が低いんだよ。
その結果、どちらも装備も士気も高い薩長に、鎧袖一触で蹴散らされ、
新政府軍の宣伝になってしまった。
会津や幕府歩兵は夜襲とか側面攻撃とか火砲を持った相手に対して作戦で補うような戦術を執っていないような。
薩長は弾薬が少ないんだから、可能な限り弾薬を費消させた後に攻撃に出れば
薩長もかなりの打撃を受けたと思うが。
29 :
日本@名無史さん:04/05/02 23:57
鳥羽伏見の敗因は、
幕府士官の旗本が腰抜けだったからだね。
旧体制保全の家柄だけの無能なものが指揮官なら、
その軍は最弱だな。
30 :
日本@名無史さん:04/05/03 00:09
そして将軍慶喜が早々に蟄居謹慎したし、
幕府にははじめから戦う気力がなかったね。
その幕府のために戦った
甲府で負けて処刑された新撰組近藤勇もかわいそうだし、
幕府の有能勘定奉行 小栗の処刑もかわいそうだ。
越後長岡藩の河合つぐのすけは、良く戦ったが、
それは、武士の意地のためか、
しかしおじや会談の岩村は最悪だな。
あとで奥州で暗殺されたが、当然だろう。
戊辰戦争最後の函館戦争の土方歳三もかっこ良かったよね。
戊辰戦争の戦闘能力として評価すると、
長州藩所隊 100
薩摩藩 90
土佐藩 60
肥後藩 50
長岡藩 70
会津藩 50
庄内藩 50
幕府旗本 −100
幕府海軍 70
だろう。
何度戦っても薩長軍は圧勝するだろうね。
31 :
日本@名無史さん:04/05/03 00:44
鳥羽伏見の戦いでの幕府軍の司令官は竹中重固。
この人、実は竹中半兵衛重治から12代目の子孫。
>>30 長岡はガトリング砲が強かっただけのような気がする。
33 :
日本@名無史さん:04/05/03 03:14
>勝海舟が倒幕派と組んで反撃を阻止したから負けたのだ。
倒幕派は大政奉還 公議政体路線を踏みにじって徳川家潰しの戦争始めたんだから
勝は反撃しる派だよ。
それでも慶喜が恭順を選択したから、主命に従っただけ。
34 :
日本@名無史さん:04/05/03 03:42
巨人がダイエーに負けるようなものかも。
35 :
日本@名無史さん:04/05/04 12:37
幕府軍ってなんだよ。
戊辰戦争の時は既に幕府じゃなかったわけだが。
>33
でも益満休ノ助というクズを生かしていたのは
許せん。
新政府軍が「天皇」を持ち出してきてしまった。
これで旧幕府側は「逆賊」となってしまい、大方の士気を奪った。
また、諸藩も朝廷に恭順せざるをえなかった。
(奥羽列藩同盟も榎本軍も全て、「天皇及び朝廷に敵意は無い」と弁明している)
>>37 やっぱそれが大きいか。岩倉たちの政治工作のたまものだな。
戦争は軍事力だけでなく、政治的工作や計略も重要だということだな。
39 :
日本@名無史さん:04/05/05 01:07
徳川幕府のいわば柱石であったはずの譜代がだめすぎたんだよな。
長州征伐失敗などはまさにそれが表面化した事件。
小笠原終わってる・・・
で、鳥羽伏見では畿内の親藩・譜代が裏切りまくりと。
>>37 奥羽奥羽列藩同盟は東武帝という天皇を作り出そうとした。
>>32 長岡のガトリング砲は偽者じゃなかったっけ?
43 :
日本@名無史さん:04/05/06 01:43
幕府軍は負けたっつーけど、そもそも戊辰戦争で敗者なんていたのか?
徳川家の政権放棄は徳川家自身が選んだものだし。トップクラスの大大名で存続して公爵なんだから勝ち組でしょ誰がどう見ても。
幕臣も有能でIQ高い椰子は明治になっても活躍するし
徳川慶喜も松平容保も優雅な老後生活送って天寿松任してるし。
東軍の悲劇つったって、一部のどんくさい香具師が犬死にしたりIQ低かったりで失職して路頭に迷ってただけで
どうせ幕府側が勝っていても負け組だった連中でしょ。
戊辰戦争に勝敗なんてなかったのさ。
戊辰戦争には幕府軍なんていないだろ。
45 :
日本@名無史さん:04/05/06 01:55
既視感のあるつっこみだ
>40
東武皇帝 輪王寺宮
将軍 伊達慶邦
副将軍 松平容保
陸軍奉行 竹中重固
海軍奉行 榎本武揚
確かNHKの「歴史への招待」のムック本で見たことあります。「榎本艦隊
北へ」の回だったような・・・。江戸の彰義隊、北関東の大鳥・土方と大同
団結し、関東以西に薩長を追い落として、徳川慶喜の復権と幕藩体制の緩や
かな回復がスローガンだったような・・・。
47 :
日本@名無史さん:04/05/06 19:04
津藩というか藤堂家て清々しいぐらい分かり易い家だよね。
藤堂高虎といい鳥羽伏見の時といい。
しかし彦根藩て譜代筆頭で長州征伐の先鋒だったぐらいなのに、なんで鳥羽伏見の時には
早々と幕府見捨てるようなことが出来たのかな。
48 :
日本@名無史さん:04/05/06 19:27
榎本武揚が悪いんだろ
軍艦で薩摩を急襲すれば艦砲射撃で楽勝だし
ホームレスになった薩摩なんか誰も相手にしなかった
>>そもそも戊辰戦争で敗者なんていたのか?
上級領主はその経済基盤である領主制が廃止されました。
彼らは政治権力から除外されました。だから彰義隊が反乱を起こしました。
下級武士は命をかけて軍事力となったのに生活は改善されずに、
各地で不平士族の反乱を起こしました。
>>トップクラスの大大名で存続して公爵なんだから
形式的にはそうですが、実際の政治権力の重要な場面からは遠ざけられて、
下手に反乱を起こしたりしないように懐柔しただけです。
箱根挟撃論みたいな話はよく聞くのだが、
仮に海軍と洋式歩兵で東海道軍する部隊を殲滅できたとして、
中山道軍をどう抑えればいいのか?
つーか、慶喜恭順の状態で誰が旧幕府軍の統制するのか?
>>37 つっても長州は朝敵に認定されても、幕府軍に勝っているからなあ。
へタレが言い訳しているだけじゃないのかと。
52 :
日本@名無史さん:04/05/06 22:00
たしかに、第二次征長は失敗で敗北を喫したわけだが、
先方は彦根藩兵じゃなかったっけ?
財政困難な藩兵は軍備も古く、士気も低いと聞くので決死の長州に負けて
当然かと思う。
圧倒的な海軍も奇襲されるという失態、薩摩ら諸藩も征長の非を説く状況
になってしまう。
それでも慶喜が引かなければ長州は滅んでいただろうと思う。
宮さん 宮さん
慶喜自身が長州より薩摩を憎んでいたので、
士気が上がるはずもない。
参加していた諸藩は軍資金不足と士気の低下でさっさと帰国したがっていたんだから
たとえ慶喜にやる気があっても戦争の継続は無理なんじゃないかな。
長州大討込を速攻で撤回した原因もこのあたりだろうし。
はっきりいってあの状況で「勝つまで長州攻めを継続」なんてことするのは家康でも無理でしょ。
56 :
日本@名無史さん:04/05/08 22:34
>>52 長州征伐かぁ、
五分の戦いをしているのが広島方面だけってのが痛かったな。
この方面は井上が参謀しているくらいで、まともな司令官がいなかったので十分勝てる戦いだった。
広島藩が長州に通じていたり、不安点が多いが、逆撃できる唯一の場所だった。
また小倉方面は熊本藩が頑張ってくれれば、なんとかなったかもしれない。
だがあまりの幕府軍のへタレっぷりに、呆れていたそうだけどね。
石見方面はどうしようもないな、相手が悪い。
あと長州が滅ぶまで対陣するのは難しいと思うぞ、戦闘では勝てないってのを宣伝される事になる。
また下関は北前行路の重要地点で、あそこを封鎖されると、流通網が遮断され、
大坂や江戸の物価が高騰し、庶民の不満が高まるし、物資を買い上げるのが困難になる。
欧米の圧力もあるだろうし、かなり難しいと思う。
場所が土佐や薩摩だったら、藩そのものを封鎖しても問題なかっただろうけど、長州の場合、場所が悪い。
幕府そのものが逆に封鎖される形になる。つーかなんで幕府があんな需要拠点を西軍大将に与えたんだろ。
>>56 薩摩も海外との貿易ルートがあったから、
下手に封鎖できないのは同じだと思う。
確かに毛利に防長与えたのは失敗だったかもね。
どうせなら本拠地の安芸・吉田を安堵しておけばよかったかも。
吉田のような山奥ならさほど問題ないと思われる。
58 :
日本@名無史さん:04/05/10 23:18
やっぱり大将たるべき徳川慶喜がやる気無かったのが一番の原因かも。
譜代・親藩が集まったとしても大将がまともじゃなければ単なる烏合の衆。
さらにはその譜代・親藩もかなりの数薩長側についてしまったため、
ますます幕軍は統制を欠いた状態になってしまったと。
>>23 そう、大砲だけじゃ勝てんのよ。
読売さんの火力は素晴らしい。
でも、徳川幕府が戦略・戦術で負けたように、
相手の隙をうまく付くことが出来れば、勝てないわけでもないのさ。
60 :
日本@名無史さん:04/05/10 23:50
>>30 >戊辰戦争最後の函館戦争の土方歳三もかっこ良かったよね。
土方は、味方によって殺されたって説も有力だけどね。
五稜郭に籠もった榎本たち幕府軍首脳は、すでに降伏を腹に決めていた。
しかし、土方がいつまでも徹底抗戦を主張して聞かないため、戦死に見せかけて土方を始末したとか。
>>43 戦いに敗れて、斗南藩という、津軽半島の、寒くて冷たくて痩せこけた土地に
強制的に移住させられた会津の将兵は負け組ではないのか?
62 :
日本@名無史さん:04/05/10 23:55
斗南藩は下北半島ね。今の季節は新緑・温泉・海の幸が観光の目玉
ですぜ。
>>63 たしか斗南藩の開墾は海外の例とか取り入れて、極めて計画的
だったはず。もっともうまくはいかなかったんだけど。
>>55 明治の版籍奉還や廃藩置県が内戦が起こる事も無く無事終了
したのもそれが理由だと思う。幕末の紛争で戦費に財政の大半を
費やしてしまって、大方の藩は破綻ギリギリの状況にいた。そこに
新政府が領土領民等を取り上げるものの、藩の負債も全て肩代わり
するとしたので特に抵抗も無く済んだんだろうと思う。
66 :
日本@名無史さん:04/05/12 05:43
長岡藩から新潟を没収したのが痛かった。
新潟が長岡藩領だったら幕府が勝ったかもしれんのに・・・
67 :
日本@名無史さん:04/05/12 06:07
幕末の幕府は、ちょうど、今の民主党で党首が小泉みたいなもんだろう。
やることなすこと全てが裏目に。これでは、どんなに党首が優秀でも
勝てやせん。
あと、慶喜研究で有名な松浦令によれば、鳥羽伏見時の慶喜は戦闘も
政争もやるきマンマンだったと書かれているね。ただ、鳥羽伏見の敗戦
で情勢がガラリと変わってしまい、その喪失感が大阪城退去という
結果を呼んだと述べている。
68 :
日本@名無史さん:04/05/12 06:40
http://www.n-shingo.com/cgibin/msgboard/msgboard.cgi?page=19 では、公明党とは何か・・・
それは、宗教団体である創価学会と不可分一体の政党である。
創価学会がなければ公明党は存在しない。創価学会は、公明党という政党を作り維持し選挙を支えている。
創価学会と公明党という名称は、宗教面と政治面で使い分けられたレッテルであるにすぎず、この実態は宗教・政治にまたがった一体の存在である。
したがって、創価学会のカリスマ的指導者は、池田大作氏であり、創価学会の指導者は、即、公明党の指導者である。
なぜ、日本のマスコミが、創価学会と公明党のことを指摘せず、むしろ捨象して、「二大政党制」と言いふらすのか・・・。
なぜ、「政治評論家」もマスコミと同じなのか・・・。
その理由は、お分かりだろう。
選挙になれば、痛感することだが、
創価学会と公明党の体質は、
「他に対しては、激しく口汚く批判し攻撃するが、自らが批判されることは激しく拒否し、批判を回避するために相手が根負けするまで執拗に敵視攻撃する」ということである。
そして、この体質で一糸乱れず動く集団が、不買運動を展開して企業であるマスコミを倒産に追い込むこともできる力を蓄えているどころか、いまや、与党として財力どころか政治的権力も握っているではないか。
したがって、この一文も、覚悟して書いているのである。
日本の第四の権力と言われるマスコミが、
その機能を果たさず、創価学会と公明党のことを無視して二大政党制という幻想を振りまき、国民が実態を見れないような情報操作を、続けているように見える。
これは、わが国の民主主義の危機である。
私は、領土であれ、国民の拉致被害であれ、国の危機を認めれば必ず立ち上がる。それが、議員の使命と心得ているからだ。
さーて、これから、私に対して、
執拗なる○○○○○が起こるんだろうな。
西村眞悟を民主党代表に
http://tv5.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1084049341/
69 :
日本@名無史さん:04/05/12 06:57
新潟港は事実上長岡藩が武力進駐をしていた。
新潟港を押さえていたために新政府軍から疑惑の目で見られて
中立は方便との基本方針を取られてしまった。
70 :
日本@名無史さん:04/05/12 09:36
>>60 そんな早乙女貢みたいな説を最近吹聴する香具師が多いのは
何か意図があるのかね?
味方に殺された…という事にしたいのかな〜?
土方を撃った側の人の子孫と土方の実兄の子孫が会って
話をしてるのに。
71 :
日本@名無史さん:04/05/12 10:20
一枚岩では無かったからあっさり敗けた。
>>67 鳥羽伏見の一戦に賭けてたのかな。
大阪城まで退却してもまだ勝機はあったかもしれないのに。
慶喜にやる気がなかったに俺も賛成。
もしも慶喜が本気になっていたらもっと戦いは長引いていただろうし日本の国力
は間違いなく低下していたと思う。
俺の中では慶喜の評価は結構高かったりしますw
戦い続けた人よりも戦わずに生き延びた人のほうが何となく好きなんだよね
ちなみに日本史じゃないけど劉禅は暗君だと思ってないです
阿斗=慶喜
75 :
日本@名無史さん:04/05/12 22:26
戊辰戦争ほど勝者による敗者へのしうちが寛大だった戦争もめずらしい。
単に幕府が酷かっただけのような。
77 :
日本@名無史さん:04/05/13 03:13
78 :
日本@名無史さん:04/05/13 04:06
>>77 そうか?容保は子爵になったし
斗南の連中はたった2年だけで多くは会津に帰ってるし
元の敵を大勢官吏や教員に採用してやってるぞ
子爵ってだけでもすごいけど
本来なら伯爵相当をもらえるはずが
会津だからって爵位が下げられたはず。
軍関係は出世も制限があったんじゃなかったっけ。
80 :
日本@名無史さん:04/05/13 06:21
>75
外国勢力がいたからね。
きつい仕打ちをして幕府軍との内戦が起こったら、維新はただの
地方VS中央の権力闘争、イギリスVSフランスの代理戦争になる。
敗者全てに寛大だと、勝者のなかにはおさまりがつかないのみいるので、
薩長から物凄く嫌われていた会津だけをいけにえにして、後は寛大にするのは
内戦をさけるにはいい手だと思うよ。
81 :
日本@名無史さん:04/05/13 12:13
差別?がなくなって東北軍人が陸海のさばったら
とたんに大戦争おっ始めて惨敗
松岡大先生の賜物でつ。
>>83 戊辰戦争で薩摩藩と会津藩は、独ソ戦なみのジェノサイド合戦やってた
西南戦争で旧会津藩士の多数が政府軍側に従軍したのはこのせい
85 :
日本@名無史さん:04/05/13 22:29
>>84 薩摩藩は別に会津藩を嫌ってはいなかっただろ。
例え戊辰戦争でしこりが残ったとしても、西南戦争で会津側の鬱憤は晴れたろうし。
会津を嫌ってたのはどっちかっていうと長州だろ。
薩摩は嫌ってはいないけど、戊辰戦争でいろいろやらかしたし
一時期同盟組んでた割に寝返ったから
一方的に会津から嫌われてたんじゃないのかなー。
戦後の措置にしても、薩摩は会津によくしてあげてると思うけど。
87 :
日本@名無史さん:04/05/14 00:17
会津が政権とったままだったら、第三次長州征伐のみかいずれは
薩摩まで殺られたんじゃないかな。
だから薩摩はせめて共存できる体制に持ち込もうとしてたのに
会津は妨害しまくった。
だから薩摩が攻めてきても会津は自業自得だと思われ。
最初から長州征伐に会津や新選組を投入して、
きちんと征伐してれば歴史は違っただろうね。
89 :
日本@名無史さん:04/05/14 01:02
無理無理。会津藩はそんなに強くないだろ。
ただでさえ京都警備で金がないってのに。
あの時期に大量の洋銃と西洋銃陣を整備できるとは思えない。
刀だけの新撰組は論外だろうな。
>>87 会津は薩摩と組んでいたんだから、薩摩を攻める動機がない。
共存できる体制を妨害していたのは長州じゃないの?
人海戦術で長州が弾切れになるまで幕府が肉弾攻撃を加えるとか。
こんなことやれば長州より先に幕兵の方が瓦解する危険はあるができないことは無い。
92 :
日本@名無史さん:04/05/14 01:46
長州が大量の西洋銃陣を整備するのは第一次征長の後のことでしょ。
やる気のない徳川慶勝が長州に再起の時間を与えてしまったのが痛い。
西郷なども最初は武力制圧を主張する強硬派だったのだが、
あまりに優柔不断な幕府を見限り、薩長同盟に踏み込んでいく。
長州追討の勅命が出た時にすかさず攻め落とし廃藩にすべきだったね。
慶勝に寛典論を説いていたのが西郷なんだが。
94 :
日本@名無史さん:04/05/14 02:22
「いずれ追討の勅命相下り申すべき儀と存じ奉り候に付き、その節は
正々堂々の兵をもって長賊を駆り尽くし申すべしと相待ち居り申し候」
これは禁門の変の際の西郷の手紙。
この直後征長の勅諚が発令されてる。
このとき幕府が迅速に長州に攻め込んでたら薩摩は幕府側で戦功をゲットする道を選んだはず。
しかし将軍家茂は陣頭に立たず、征長総督は当初紀州、ついで尾張に押しつけられる。
尾張慶勝は朝廷からの督促を受け流して進発は何ヶ月も遅延。
幕府の志気が低いのならば、
薩摩としては長州を温存してキャスティングボードを握る方が得策ということになる。
96 :
日本@名無史さん:04/05/14 03:06
>>92 それでも無理だよw。
やる気があったのは会津だけだろ。その会津も出兵してないし。
みーんな無気力じゃ勝てんよ。
藩同士が争っていたわけでもないだろう。
長州以外は。
98 :
日本@名無史さん:04/05/14 03:10
会津は攻め手に対して守っただけだ。
>95
第二次長州征伐が成功しかけたら薩長同盟の
手前、長州に援軍をだすのかな。
100get
慶喜さんが前面にたち諸藩が、やる気をだせば問題なかったんだね。
もし倒したらその領地は諸藩に分けるっていえば死に物狂いで戦った・・・
かもね。
102 :
日本@名無史さん:04/05/14 19:41
>>101 長州領を丸ごと貰えるならまだしも、諸藩で山分けじゃあ割が合わないよ。
戦費と戦った論功行賞で家臣に与える土地金が全然足りん。
>>101 薩長が幕府に強気な態度がとれたのも
フランス以外の諸外国は徳川政権を見捨てたのも
それをする力が幕府に無いことを見抜かれてしまったのが原因だろうね。
徳川幕府存続のシナリオ書くなら最低でも井伊直弼が大老になる前までさかのぼらないと無理でしょうね。
横レスで申しわけないのですが、実際のところ
うちの郷里の先代たちは戊辰ではどうだったのでしょう?
他のレスでは
「会津での略奪暴行に参加したのは薩摩と土佐で、長州は不参加」
というのがあって、ここのスレでは
>75>86
のような意見もあります。
ただ単に、自分の出身地だからすごく気になってしまう
といった気持ちからなのですが、詳しい方どなたか
教えてもらえませんでしょうか。
>>104 暴行略奪に関しては会津研究家がそういっているだけだよ。
会津戦争で酷いことしたのは長州藩だと長い間思いこんでいたらしい。
最近になって薩土藩が主力だった事に気がつき(←何を研究してたんだかw)
じゃあ、会津に酷いことをしたのは薩土だと短絡的に言っているだけ。
ちゃんと研究検証された訳じゃないから自分で調べた方が良いと思うよ。
第二次長州征伐は諸藩寄せ集めで士気が低く、装備も古い陸戦部隊が負けた
のは分かるけど、圧倒的な優位な幕府海軍の軍艦も役にたってないのは理解
できないな。
榎本がぐずぐずしてたからだろ。
圧倒的な兵力があっても、何事も官僚化されて動きが鈍い。
打開するなら、慶喜さんが前面に立つ事だったね。今の政治とは違い、将軍
が立てば全て動くこれが、幕府でしょ。軍事体制なんだから。薩長が敵だと
慶喜さんが腹に決め全力でやれば、勝ったでしょうね。
同じ様な事でもし、豊臣秀頼が前面に出て戦ったら、どうなったかって思う(余談ですが)
>>106 結論から言うと、海軍を運用する「技術者」はいても、
海軍を使って運用して成果をあげる「戦略家」がいなかったから。
例えば北越戦争で河井継之助は重要拠点だった新潟港をガラ空きにするという
今の軍事上の常識からしてみれば信じられないミスをして負けているんだけど、
そんな河井ですら、当時は名将と言われている。
要するに当時の平均的な戦略的知識のレベルというものは「その程度」でしかなかった。
110 :
日本@名無史さん:04/05/16 03:37
>>78 会津25万石から斗南3万石への大減封。(石高は旧領の2割以下)
こんな藩は他にはないはず。(
戊辰戦争で唯一改易となった上総請西藩(1万石)も、まもなく親族に5千石(旧領の5割)が還付されているし。
>>79 会津だから下げられたのではない。
廃藩置県段階での実高で爵位を決定したから。
もし会津時代の石高で爵位を決定していたら、侯爵相当だろう。
111 :
日本@名無史さん:04/05/17 00:39
>>110 10分の1に減らされた駿府藩を忘れてるぞ
よっぽど被害妄想にふけりたいらしいなw
112 :
日本@名無史さん:04/05/17 04:04
>>111 400万分の70万なら、それも2割弱だね。
10分の1は言い過ぎ。(もしくは旗本知行地も入れて考えてる?)
まあ、一応旗本知行地は除外したほうが良いと思う。
明治維新段階だと、知行地を持つ旗本は、幕府の統制から離れて勝手に新政府側についているものが結構いるし、維新後駿府藩領のなかに旗本知行地が移されたわけでもないし。
113 :
日本@名無史さん:04/05/17 13:34
>>112 苦しい言い逃れだねぇ
素直に負け認めとけ
>>113 言い逃れなんかしてないだろ。
誰かに負けたわけでもない。
115 :
日本@名無史さん:04/05/17 17:01
>>113 粘着はほっとけ
会津厨は会津が一番虐められてないと満足しないマゾ
116 :
日本@名無史さん:04/05/17 17:06
疑問なんだか、関ヶ原のように東軍・西軍に別れて戦ってたらどうなっていたのだろう?
幕軍も一枚岩となって戦っていたら・・・
>>115 なんでも会津厨と決めつけるやつのほうが粘着だろ。
会津が叩かれたのは事実だし。
118 :
日本@名無史さん:04/05/17 17:26
119 :
日本@名無史さん:04/05/17 17:36
>>118 ちゃんと読んだか?
アホの相手は疲れるよ…
121 :
日本@名無史さん:04/05/17 20:33
>>116 幕府軍側でまともな洋式装備があるのは幕府歩兵と長岡藩ぐらいじゃないか?
幕府歩兵は装備はいいけど傭兵部隊で質が悪いし、薩長土肥の洋式装備部隊
と大勢で真正面から野戦なんか選んだら、あっという間に幕府側の敗北になる気
がするが。
122 :
日本@名無史さん:04/05/17 23:49
>>113 会津藩(→斗南藩) 3÷25=0.12
将軍家(→駿府藩) 70÷400=0.175
普通に会津藩のほうが減封率高いですよ。w
ちなみに私は会津関係者でも旧幕臣の子孫でもありません。
123 :
日本@名無史さん:04/05/18 02:21
やっぱり肥前藩が新政府側に付いた時点で旧幕府側に勝ち目はなかったと思う。
124 :
日本@名無史さん:04/05/18 02:23
宇和島って結構強くなかったっけ…?
近代的な武装整えてたって話聞いた事あるような
>>125 確かに近代的な武装を整えていたみたいだね。
小藩ながら軍艦もつくったようだし。
127 :
日本@名無史さん:04/05/18 20:37
第二次征長で敗北した以上もう無理でしょ。
第一次のときに徹底的に叩いとかなきゃ。
128 :
日本@名無史さん:04/05/18 22:15
藩主は親戚同士なのに、仙台と宇和島の明暗をわけたのは、なんなのだろう?
129 :
日本@名無史さん:04/05/18 22:31
>>129 今ならば、仙台よりも宇和島のほうがよっぽどド田舎なのだが・・・・・
131 :
日本@名無史さん:04/05/18 22:42
>>130 ま、それでも革命が起こるとしたら西からだろうな
それにしてもなんで会津とか火器火砲の優劣はともかく
簡単に防衛拠点落とされたり突破されたりしてるんだ?
指揮官とかは幕府、列藩同盟のほうが有名だが薩長側のほうに
無名でも優れた指揮官が多かったってことか。
当時の戦記類とか読むとなんでこんな楽々と出し抜かれてるのかって腹が立つぐらいだ。
>>132は城とかではなく(たしかに城とかも簡単に奪取、奪回されてるのが多いけど)
野戦における防衛地点とかちょっとした陣地みたいな意味です。
134 :
日本@名無史さん:04/05/18 22:57
兵力差でしょうに。
白虎隊などを前線に投入せざるを得ない会津軍と、
烏合の衆とはいえ各藩連合軍である西軍。
会津は戦線拡大しすぎで肝心の故郷を守る兵力が不足してたのでは?
越後とかにも派兵してたしね。
個別の守備線やら保塁やら単位で見ても、兵力差・戦力差があった
んでしょう。
更に、長岡藩のような軍事的統率者がいないわけで…
西郷頼母じゃ無理でしょ、城落ちても生き延びてる家老なんて…
>>134 兵力差もそうだけど、とにかく薩長側って機動力があるよね。
橋を守れって駆けつけても先に薩長軍に橋を占拠されたりとか。
とにかく薩長軍、官軍ってやったら動きまわってかく乱してくる感じです。
前出の戦記類読むと。
本当に惜しい人物もいますしね。東北側にも。
玉虫左太夫とか若生文十郎とかは、もし赦されて新政府に仕えたなら、
それなりの仕事をしたと思うんですよ。
対するに、我が屋代島出身の世良修蔵。
何の能があって参謀にまで登りつめたのか不才にはわからないのですが、
維新後に生き残ってもはっきり言って使えなかったでしょう。
福島で惨殺されたのは、世良本人にとっては無念だけど、国家国民にとっては
良かったのかも。
>>136 玉虫はもし生きながらえていたら自由民権運動に身を投じたのかな。
少なくとも政府で職を得ても長続きしなかったんではないだろうか。
彼の思想は政府の進める政策とは対立するものだし。
世良にしても仮に生きててもなんの影響もなかったのでは?
彼と五十歩百歩の人間なんていくらでもいるし。
どっかの岩村さんとか。
138 :
日本@名無史さん:04/05/18 23:19
>>135 官軍の方が服装とかの面でも機動性が優れてたのかも。
薩長土以外は雑魚だった連合軍だけど、雑魚には後方
の守りさせればよかったし。
>>137 仙台藩の上級武士である玉虫は、盛岡藩の家老である原氏を知っていたので
しょうか?
もしも、維新で死を賜ることがなければ、あるいは原の道を歩いたかも?
・・・・・というのは妄想に過ぎましょうか?
>>138 そう言えば思い出した。
昔の人たちはそれこそ忍びの者でも無い限り、現代人のように早く走れなかったって。
それを変えたのが軍隊での洋式訓練、後の義務教育での集団での体育だとか。
洋式訓練を積んだ薩長兵は普通に走れても、旧式の幕府兵、列藩同盟兵は走力で劣ったとか。
もしこの妄想が事実だったら・・・・・・そういうこともきちんと書いてくださいS乙女氏。
あなたの書き方では会津の兵達がただのノロマに見えてしまいますよ。
141 :
日本@名無史さん:04/05/18 23:52
142 :
日本@名無史さん:04/05/19 00:19
>薩長軍
正確には薩摩土佐軍だ。長州軍は越後でモタモタし、会津国境付近でもモタモタしてが?
143 :
日本@名無史さん:04/05/19 00:22
>>136 世羅の事をちゃんと調べてから語れ。山口県人の名が泣くぞw。
世羅は参謀になってポカをやったが、それ以前の奇兵隊や諸隊の幹部の頃はかなり有能だったよ。
144 :
日本@名無史さん:04/05/19 01:28
馬鹿が岩村を悪役にして溜飲下げても
倣岸な態度で会談やって準備どうり
開戦にもっていった河井の罪は未来永劫消えんよw
この手の「なぜ○○は△△だった?」
「もしも□□が××だったら・・・」とかのスレで
思うのだけれど、
「もし、会津の殿様が戦の前に腹を切ってたら、
戊辰戦争はおこらなかった?」
やっぱり攻め入ったかなぁ・・・。
147 :
日本@名無史さん:04/05/19 18:15
松平容保が切腹する
↓
藩内穏健派は恭順、西郷頼母以下家老の何名かは追腹
↓
穏健派を惰弱とする急進派(若手、京都派遣組?)が藩内で台頭
↓
嫡子や一門衆を巻き込んで穏健派と急進派が対立
↓
急進派内で篭城玉砕派と脱走徹底抗戦派の二派が対立(忠臣蔵?)
↓
混乱している間に西軍が越後を抜き会津方面へ侵攻
↓
仙台伊達藩降伏
↓
篭城玉砕派腰砕け、降伏開城(精神論者が多数の為、いざとなると…)
↓
白虎隊など一部青少年武士団が領内で蜂起、西軍により鎮圧
↓
脱走徹底抗戦派、仙台へ敗走し榎本脱走艦隊と合流
↓
函館戦争にて壊滅
…となるだろうから、結局史実と余り変わらないのではないかと。
勝手な想像ですが。
148 :
日本@名無史さん:04/05/19 18:21
世良修蔵、日本TVの「白虎隊」で泉谷しげるが演じてたよな。
暗殺シーンが余りに惨めだったので、そのイメージがつきまとってる。
小学生のとき観たあの憎たらしい世良のイメージが…。
泉谷演技はうまいな、良い味出してた。
史実は、命乞いして、階下で裸にされて殺された…だったっけか?
149 :
日本@名無史さん:04/05/19 20:00
>>148 世羅の殺され方が違うよw。
ちゃんと捕縛されてみんなの見てる前で斬首された。
命乞いと裸で暗殺されたは作り話しですな。
>>136 山口県といっても周防側は不遇な人が多いよね。
世良とか赤根武人とか。
戊辰戦争で一番戦闘指揮がうまかったのは誰だろうか。
後の出世ぐあいから見ると桑名の立見鑑三郎の様な気がするんだが。
152 :
日本@名無史さん:04/05/19 21:02
>>151 もしかして日露戦争物語に影響されたのか?
153 :
日本@名無史さん:04/05/19 21:18
戊辰戦争の小説では会津が主役なので薩長土は悪者扱いだよな。
>>147 丁寧な推察ありがとう。
単純に、松平公が腹を切ってさえいればあるいは・・・
と思ってたんだけどね。
やっぱり残った腹心に交戦の意思があれば、
戦争回避は難しそうだなぁ。
初めて戊辰戦争を知ったときは
「なんで幕府は交戦体制をとる会津をとめなかったのか」
と思ったもんだけど。
>154
大政奉還したのに、
あの存在が罪である益満休ノ助、伊牟田尚平、相楽総三らを
使って仕掛けたんでしょ。
>>135 政府軍の場合、まず弱小藩を叩いてから日和見藩の恭順を狙う、という一貫した方針があったから
戦力をピンポイントで集中させられたけど、
同盟軍の場合、藩の打算で動いていた藩が多いし、そもそも軍全体の戦略を決める意志決定組織がなかったから
各藩がバラバラに戦っていて結果的に各個撃破されてしまったわけだからね。
実際の所、同盟軍側は防御側としては十分な兵力もあったし、
何より東洋最強の海軍があったのだから、
大村益次郎のような参謀総長的な人材がいればかなり善戦できたんじゃないかな。
官軍の将の黒田清隆と土方は実際に遭遇したのかな?
会津って保科正之の頃は強かったんだよね。
どうして弱くなっちゃったの。
>>158 貧乏だったから
天明の大飢饉で領内が疲弊し、
人肉食いが行われるほど悲惨な状況だったにもかかわらず、
白河藩や米沢藩のような対策は何もしていない無策っぷりだったので、
幕末の頃には藩の財政はガタガタだった。
吉田寅次郎と宮部鼎三が旅行した時は礼儀正しい子供達と日新館の設備に
驚いたと言うけど…
財政ガタガタじゃだめでつね。
剣と武士道で大砲には勝てないか。
161 :
日本@名無史さん:04/05/23 08:51
最大の要因は時代の趨勢だろ。将軍からしてもうあきらめてたようだし。
ただ、ちょっと読んでみると意外と大規模な戦闘が行われていたようだな。もっとあっさり負けてたのかと思ってたが。
162 :
日本@名無史さん:04/05/23 15:16
幕軍は縦隊で進軍してきたというのもあるな。面あたりの火力がない為、
相手に横隊で対抗されたら少ない敵でも苦戦する。
2ゲットしたからかな
戊辰戦争?
幕府側はフランス製の武器、維新側は英国製の武器を使ってたからだろw
性能の違いは言わずと知れている
東北の外様が結構頑張っていたのが意外だった。
あのあたりだけやけに抵抗が激しかったな。
166 :
日本@名無史さん:04/05/28 23:54
会津も東北です。
でも外様じゃないよ
168 :
日本@名無史さん:04/05/29 11:30
>>158 別に強い訳じゃないよ。
会津藩は戦国を生き抜いた戦国大名じゃなくて
徳川の血縁で生まれた大名だから。
単に名君に統治され、幕政にも影響を与えただけ。
>>160 教育はどこの藩も力を入れていたので会津が特別なわけじゃないです
(日本が明治以降に近代化に成功したのは、アジアでダントツだった識字率の高さのおかげ)
ただ、教育方針については各藩それぞれ個性があったようなので、
松蔭が驚いたのはその点ではないでしょうか。
170 :
日本@名無史さん:04/05/29 14:06
礼儀に極端にうるさい地域は発展しない
朝鮮がいい例
>>168 まあ、ああいうケースの血縁だと恩義に突っ走るか、代々憎悪を
たぎらせるかどっちかだと思う。
>>158 強いっていうより正之本人の力によるものじゃないの?
将軍家の血筋ということもあるし。
173 :
日本@名無史さん:04/06/05 14:56
あっさり負けたと考えられる理由として、
1、幕府側は総合的な数としては勝っていたが実際会津や桑名、新選組等以外はやる気が乏しかった。
2、幕府側の首脳部があまりにも腐りすぎていた為。(かなりふざけた指令を出している。
3、装備の違いも大きい。
4、錦の御旗の出現により戦意消失。
とまぁ、俺が少し考えただけでもこれだけ浮かんだ。
この上記の内、3の要素が無かった場合、どうなっていただろうか?
>>173 幕府も薩長軍に劣らぬ近代兵器を装備をしていたし(活用しきれなかった)、
錦の御旗も幕府軍に立てられていた(御旗により決着がついたなんて後世の誇張話)。
>>174 早速のレス感謝!
なるほど・・・では、1と2の要素は大体あってますかね?
慶喜はどこまで本気だったのだろうな
鳥羽伏見の敗戦以降はまるっきりやる気ないだろ
あの時点で日本の今後を考えて勢いのある新政府軍に政権を委ねようとしていたのかな
ただ和解では混乱するから幕府軍側を負けさせて時間を懸けさせない様にあえてなにも
しなかったのだろうか、だとしたら実は凄い戦略家だったりするのだが。
ていうか俺はそう思っているんだが慶喜は何も語らなかった様だし真相は分からずじまいか
>>173 あってるよ。
要は幕府軍の統率力が最大の要因な。
幕府軍も圧倒的兵力の前に薩長軍も逃げ出すものと高を括っていた。
彼等には木曽義仲の再来としか考えてなかったわけさ。
179 :
日本@名無史さん:04/06/08 13:59
結局戦意の違いなんだろうね。
薩長は幕府を打倒する気があったが、
幕府は長州すらつぶせないわけで、ましてや薩長などの連合軍相手に
まともに戦う気なんてなかったんだろう。
で、兵の士気も上がらず初戦で惨敗、あとは寝返り、降伏が相次いで、
敗北まっしぐらと。
180 :
日本@名無史さん:04/06/08 15:07
てかそもそも社会の空気が何つーかな。
世直し一揆が全国で巻き起こってて
幕府の人間も「ああ俺らはもはや抵抗勢力なんだな」という自覚が
あったんじゃないかと思いますね。
慶喜がまだ反抗の余地を残してたのに
鳥羽伏見だけで戦争をやめてしまったのも、そういう空気を察知したのだろうと。
181 :
日本@名無史さん:04/06/08 15:25
現在、日本が戦争に巻き込まれても同じだろう。
泰平の世が続いた結果、骨抜きになってる国民では戦意は無くあっさり敗ける
今、大名の日本地図ってのを見ているんだが、幕末各藩が新政府側に
傾く経緯は恐るべき勢いがある。
幕府に義理がありそうな、高松藩や備中松山藩なども「攻めないで...」と
白旗。「では協力せい...」と、人、金、物資を供給したみたい。
加賀藩も鳥羽伏見へ出かけて来て、途中から新政府軍へ参加、北越へ行って
いる。赤門も取り上げると言われて、「どうぞ、どうぞ」だったのか。
幕府を見放しても、もう怒られないって、見きりはどうして付けたのか、
疑問が尽きない。一部の藩を除き、借金だらけで、投げ出したかったのかと
も思える。
183 :
日本@名無史さん:04/06/08 17:48
まじめな話、大政奉還した時点で最強硬派をきっているわけで
その後抵抗しろと言われてもね。
日本史でも奥州藤原氏の滅亡とかままあるよね。
184 :
日本@名無史さん:04/06/08 17:50
確かに呆気なさ過ぎる戦争ですよね。
僕も上記の
>>179から
>>182までの意見に同意です。
歴史にもしもはないですが、もし幕府側がまともにやる気でしたら
いくら薩摩と長州、土佐等が中心となっても、数で勝る幕府側の
勝利に終わっていたでしょう。負けるべくして負けた戦争だと思います。
185 :
日本@名無史さん:04/06/08 17:54
徳川慶喜とか総大将が居なくてまとめる人が居ないからやる気もなくす、
榎本武揚じゃあ神輿にならんでしょ
勝ったときの恩賞は誰が配分するのかがまったくわからない、
「やってらんねえぜ」
反論ではなく、疑問解明という意味での問いかけですが、
>> 183 その後抵抗しろと言われてもね。
確かに、関が原とかでは、家康が手紙をどんどん出して、根回し、多数派工作とか
やっているが、幕末幕府がそんなことをしたとは、余り話に出てない。
(逆に、勤皇志士が全国を駆け巡った話の方がある)
幕藩体制で甘い汁を吸っている人たちもいたと思うので、言われなければやらない
とも思えないけど、250年の武士の教育はナンだったんでしょうね。
>>184 もし幕府側がまともにやる気でしたら
東海道へ艦砲射撃とか、箱根で防戦とか、強硬派もいたようですが、老中とか時の
高官は、どうだったのかが、不思議でなりません。彦根藩も直弼が死んで、藩内は
ころっと体制が変わってしまった。なんとか心と秋の空そのものにうつる。
(仙台も奥州列藩同盟を早々に抜けている。南部は割り食ったけど)
>>185 勝ったときの恩賞は...
そういえば、新政府側が事前に恩賞をちらつかせた話は聞きませんね。
戦後、論功行賞は行ってはいるし、その後のガス抜きに華族令も出たが、
恩賞目当てが、強力なモチベーションだったとも思えない。
幕藩体制は限界、天朝さまの世を選ぶという気分がどうして形成されたか。
勤皇側のプロバガンダがよかったのでしょうか。勤皇町人とかもいるので
密かに勉強していたのでしょうか。単に大勢につくだけでは肌寒い。
187 :
日本@名無史さん:04/06/08 23:49
>>186 恩賞とはちょっと違うけど、赤報隊が触れ回った「年貢半減令」の効果があったのでは?
仮に諸藩が佐幕派だったとしても、その基盤となる農民が新政府を支持すれば、
どうしようもないわけで。
>>187 そうそう、で、明治政府は、年貢金納にして、農民は転落。
それが、その後の陸軍の暴走に繋がるとか、ありましたねえ。
で、戦後更に、農地改革。
年貢半減令は「幕府領限定」だよ。
徳川家の領地は没収するつもりだったからね。
新政府といえど他藩の領地を勝手に年貢半減にはできない。
>>189 では、諸藩の農民の動機付けにはなりませんねえ。
それに、天領の農民は相対的に年貢は優遇されていたという話もあるし。
尾張藩をみてみたら、豪農中心の部隊が北越へ行っている。武士は傍観の体。
紀州は鳥羽伏見で負けて、京都警備を願い出て、新政府に取り入っている。
191 :
日本@名無史さん:04/06/09 19:28
不平等条約による物価の異常上昇が主な原因じゃね?
それで食べ物が買えなくなり一揆や打ち壊しに走った農民は多いぞ。
外国と取引して財を成した商人は真っ先に「天誅」の矛先が向けられた。
193 :
日本@名無史さん:04/06/09 21:02
外国人が日本にきた時から物価の上昇が始まるからね。
外国人や外国とつるんでいる日本人は多くの人から嫌われたんだろうな。
確かに幕府も(一部を除く)各藩も経済運営は破綻状態だし、多くの武士は禄高
借り上げで青息吐息で、そこへ開国で、一方攘夷が特効薬みたいに言われたので
なだれを打ったと想像できますが、どさくさに紛れて儲けた悪徳?商人が各地に
そんなにいたのでしょうか。長崎、博多、下関、兵庫、大阪、津、小浜、横浜、
函館...と考えてみても、住民が開明的なイメージはありますが、天誅があった
のは、全部じゃないですよね。
(人々の思いがころっと変わる)経済ってのをもっと知りたいところですね。
195 :
日本@名無史さん:04/06/10 02:04
>194
>(人々の思いがころっと変わる)経済ってのをもっと知りたいところですね。
これは現代の日本を見ればわかるんじゃないかな?
バブル崩壊と長期低迷に911テロと北朝鮮問題がからんであっという間に
右傾化してしまった。
当時の民衆は政治とは無縁だが、比較的教育を受けていた武士層は、
慶喜の大阪城脱出で、戻らない空気の流れを見切ったのだろう。
>>195 ころっと変わったという見方も捨てきれないけど、
>>戻らない空気の流れを見切ったのだろう。
というのから、そもそも底流、素地があったというのも忘れてはならないと
思い直してみた。
関が原の恨みは別にしても、結構、尊皇思想は根強い気もする。土佐の商人
も天保の頃一派を作ったというのもあり、江戸時代も時代が下ると幕府のや
り方の限界を感じて、次ぎの体制を探っていた感じもある。
天保以降の幕府のいわば内閣は、体をなしてないと言えそうだし、直弼が最後
の抵抗を試みたということでしょうか。(幕府の何回かの改革も質素倹約一本
槍で(産業振興もありはしたが)、能がないといえなくもない。)
それにしても、直弼死後、浪士志士の思想、言論、行動の自由の拡大は目を
見張りますね。タガがはずれたってことですかね。
>>192-193 しかし、明治・大正期の財閥はこの時期に基礎が造られたり
してるから皮肉ではある。
幕府勢力側の抵抗があまりなかったというのは、やはり現状ではダメだという
考えが幕府側でもかなり浸透していたのかな。いくら慶喜や勝みたいなのが
上にいても、そうでなければ抑えきれなかっただろうし。
しかし西南の藩と奥羽越とか藩の情勢判断や武器装備の差ってあまりにひど
いな、地理だけであそこまで差がつくものかな。
200 :
日本@名無史さん:04/06/11 00:31
つうか、鉄砲の強さを理解しておきながら
自分でつかわなかったことw
>>199 奥州人の実直さを感じる。時代は違うが、三河武士は強いのに、隣の尾張は弱くて
信長はその補いに鉄砲を使ったというのもある。一体に奥州はのんびりした環境が
あって、時勢に振りまわされなかったことが裏目に出た感じ。
>>200 こういうのを見ると、
真珠湾で航空機の威力を見せ付けながら、相変わらず大鑑巨砲にこだわった海軍を
思い出す。米国はあの後、航空機と航空母艦の増産に励んだと。
>>199 奥羽諸藩は飢饉が連発したせいで、基本的に財政難だったから
藩政改革に遅れてしまったところが多いんです。
米沢藩や庄内藩は例外。
だから
金がない→旧式装備で戦うしかない→精神力でなんとかするんじゃぁ
という昭和の日本軍みたいな悪循環にはまってしまった。
203 :
日本@名無史さん:04/06/19 07:30
そりゃ西国諸藩も同じ状況だったろw
204 :
日本@名無史さん:04/06/19 12:19
旧幕府軍は旧式の銃を使っていた。
対して新政府軍は欧米から取り寄せた最新式の銃に加え、西洋式の軍隊。
205 :
日本@名無史さん:04/06/19 12:29
東北人の弁解がだらだらと
206 :
日本@名無史さん:04/06/19 13:39
>>204 幕府伝習歩兵は最新式ライフル銃を使っていますが?なにか?
207 :
日本@名無史さん:04/06/19 13:40
第2次大戦も東北人のせいで負けたな
208 :
日本@名無史さん:04/06/19 17:35
東北は一度焼け野原にした方がいいな。
209 :
日本@名無史さん:04/06/19 20:37
東北人の指導者で戦に勝てるわけが無い。
210 :
日本@名無史さん:04/06/19 20:40
あれはな、負けてやったのさ
211 :
日本@名無史さん:04/06/19 20:46
古来より日ノ本の政権移譲には東夷の征伐という風習がありましたからな。
大化の改新・明治維新と近江人は東夷によって国賊として成敗されますた。
213 :
日本@名無史さん:04/06/19 21:28
と、有史以来、一度も栄光が輝かない東北人の妄言が続きます。
昔読んだ本によると
第二次長州征伐では時刻の概念が
伝習隊は欧州式で諸藩は日本旧来のものだったため
作戦遂行にかなり不都合がでたらしい
215 :
日本@名無史さん:04/06/26 23:57
四境作戦なんかやったのが悪かったんだよ。
ただでさえ統制が取れていないのに、4つもの軍団がまともに行動できるわけがない。
将軍を総大将として、1つの軍団に戦力を終結させて、
長州側の拠点を確実に落としていって、一丸となって進軍していくべきだった。
216 :
日本@名無史さん:04/06/27 01:21
って言っても、4つの戦場のすべてで幕府軍が長州軍の10倍以上の兵力持ってたんだがなあ・・・
山陽からの芸州口 30000対3000
山陰からの石州口 10000対1000
九州からの小倉口 20000対700
四国からの大島口 20000対200
これで全戦全敗だったんだから、やっぱり勝てなかったと思う。
>>215 そうなったら、長州側の有能な作戦指揮官が1箇所に集まってしまうが。
長州兵力を一極集中するより恐ろしいと思うね。
218 :
日本@名無史さん:04/06/27 02:33
やはり指揮系統の問題もあるかと。
装備の違いと言ってる人も多いが、敗因はそれだけでは決してないな。
薩長土側に劣ってる要素が装備の違いだけならおそらく負けてはいなかったでしょうね。
総大将の慶喜はと言うと本人威嚇したいだけで戦意ゼロ&前線どころか遠く離れた大阪城にいる。
219 :
日本@名無史さん:04/06/27 02:39
>>216 総合的な数だけ見ればそれだけの差でも指揮系統もしっかりし、まとまっている薩長土側と烏合の衆の旧幕府軍。
かなうはずありませんなw
本当「あっさり」負けたとしか言い様がない。
始めから旧幕府側が勝てるはずのない戦争だったかと。
慶喜が大坂から逃走したのは、果たして愚行だったのかね。
あのまま戦ったとしたら、幕府は莫大な資金と労力使って薩長潰しの
戦争をやらねばならなかったわけだけど、そんなめんどうな事わざわざしなくても、
べつによかったんじゃないかな。旗本だって九州まで戦いに行きたくないでしょ。
そんな事しなくても、徳川氏は滅亡するどころか、トップクラスの大大名として存続したし
幕府時代の指導者は皆、優雅な余生をのんびりまっとうしている
幕臣たちも、有能な層は時代がどうなろうが重宝されるのだから問題ないし
能力のないクズが失業してくいっぱぐれても、同情することはない。
一部の血の気の多いDQNが死んだとはいえ、あれほど平和的な政権交代も珍しい。
よって徳川氏は誰がどう見ても勝ち組。誰も困ることはなかった。
戊辰戦争が悲劇だったなんて妄想だよ。
水野忠邦の改革が成功してれば軍事的な敗北はなかった。
もっと経済的にのめる改革ではなかったがな。
222 :
日本@名無史さん:04/06/27 15:38
田沼意次が蝦夷地開拓に成功していれば。。。
223 :
日本@名無史さん:04/06/27 16:28
徳川家康が毛利と島津を潰しておいてくれればってかw
224 :
日本@名無史さん:04/06/27 23:43
近藤は、戊辰戦争参加したっけ?
してなきゃ、それが敗因だよ。
いるだけで、士気が違ったんだよ。
225 :
日本@名無史さん:04/06/28 01:47
226 :
日本@名無史さん:04/07/03 13:09
てか近藤が負けなければ勝ち目はあった。
なんか宴会ばっかしてて土佐の名将板垣に
あっさりと敗北。
勝の箱根と軍艦で東海道押さえておけば
なんとかなるはずという作戦が甲州街道を
取られたことであっさり破綻。無血開城
しかなくなった。
御膝元の水戸で尊攘派が蜂起し佐幕派を一掃する勢いだった。
慶喜も本圀寺党は離反するし、御膝元でも蜂起するしこれじゃ
やる気なくしただろう。
228 :
日本@名無史さん:04/07/04 03:18
江戸開場後も、勝はなんだかんだ徳川家存続を有利に運ぼうと交渉に苦心。
しかし新政府に対する圧力役であった彰義隊が、予想外にザコで瞬殺されたので
大いに落胆したんだとか。
229 :
日本@名無史さん:04/07/04 12:47
彰義隊とか近藤とか勝があれだけ予算とか手配とか
してんのに無能であっさり負けすぎ。
もっとも大村はそれに気付いてて手を打ってたらしいんだが。
勝の江戸放火作戦とか把握して防火計画とかスデに用意してた
そうな。
つか、1日で壊滅って雑魚すぎだろ。
もうちょっと粘れよ。
というより、集まったところを纏めて叩かれたって感じだよな。
案外そこまで計算づくだったりして。
>>228 大村が「本気で潰すぞ」と宣伝工作しただけで兵力が1/3になったくらいだからねえ
232 :
日本@名無史さん:04/07/04 22:27
幕軍は新撰組とか白虎隊みたいにろくに訓練もされていない、
寄せ集めのやつらばかりだからあっさり敗北したんじゃないかな。
外国式の訓練を受けていたとされる一部幕府直轄軍は
大将・慶喜がやる気無くて機能しなかっただろうし。
233 :
Σ(・ω・ノ)ノ777:04/07/04 23:32
ていうか、14代将軍を家茂じゃなく慶喜にしてたら
大分結果は変わってた。 キガスル
234 :
日本@名無史さん:04/07/04 23:41
慶喜・容保が敵前逃亡したから。
以上!
大村益次郎が偉大だったから。
236 :
日本@名無史さん:04/07/05 00:05
奥羽越列藩同盟と言っても空名を擁するのみ。
なぜなら一部のぞいてみな小藩だから。
肝心の会津は港を持たず、
従って軍備に致命的な遅れがある。
会津が破れれば二本松の丹羽、福島の板倉も崩れ、
会津と福島から米沢も覆され、
となれば仙台も防衛に窮する。
パズルのように解体されちゃう。
237 :
日本@名無史さん:04/07/05 00:17
その点長岡は小藩ながら強かった。
軍備すぐれていたのは有名だが、
戦術も並ではない。
両軍均衡する最中別働隊を引き抜いて
機動軍とし、司令官みずからが直率。
陽動隊の間隙を縫いつつ長駆長岡を衝く辺りはものすごい。
成功例が最も少ない作戦類型を見事成功させてる。
238 :
日本@名無史さん:04/07/05 02:06
質問。
大村益次郎はどの程度戊辰戦争を指導したの?鳥羽伏見の戦いには関わったの?上野の戦い以後はどうしてたの?
誰か教えて下さい。
239 :
日本@名無史さん:04/07/05 03:41
賊だから
240 :
日本@名無史さん:04/07/05 03:43
大村益次郎のその後は靖国神社で銅像と化している
>73
しかし益満休乃助らを使って極悪非道のことをしたので戦うべきだ。
それと相楽総三が英雄扱いされてるのはダメだ。
242 :
日本@名無史さん:04/07/05 07:47
鳥羽伏見のときは大村の意を含んだ門人を派遣したに留まる。 上野以降は江戸にあって戦略、兵タン、軍政に任じた。 大村というと石州口や彰義隊討滅のイメージが鮮やかだが、 本性としては事務家で、むしろ実戦も強かったことが奇跡的である。 ショウ何みたいな才質の人だね。
長岡は最後は水戸で天狗残党相手に敗走なんだが。
>>243 まともな指揮官がいなければそんなもの。
245 :
日本@名無史さん:04/07/06 00:18
>>236 会津は長岡と同盟しており、新潟の港から武器や物資を得られた。
そのおかげで会津はかなり粘ることができて、それまで順調だった官軍の進行速度がかなり落ちた。
ただ、官軍の圧倒的な攻撃の前に次第に拠点を奪われてじり貧状態になって、
最後は居城を落とされて敗北確定だけど。
246 :
日本@名無史さん:04/07/06 01:17
戊辰戦争を事実上指導したのはやっぱり大村なんだ。
官軍参謀総長みたいな役割だったのかな。前線の指令官は山県、黒田、などだよね。
ところで鳥羽伏見の作戦は誰が立てたの?
247 :
日本@名無史さん:04/07/06 02:44
官軍がライフルの祖型を持っていたのに対し 会津は外国商人に火縄銃の末裔をつかまされていた。 会津がよく戦えたのは白河口争奪戦まで。 地勢上白河須賀川は会津にとっての ガダルカナル島の如きもの。 ここを会津が死守できなかった時点ですでに勝負がついてる。
248 :
日本@名無史さん:04/07/06 03:02
>>246 大村は上野戦争のみ、
普通に考えれば大軍の西軍が小勢の東北軍相手に苦戦している。
249 :
日本@名無史さん:04/07/06 03:05
>>248 熟知された地理内で序盤に有利に戦いを進められるのはよくあることだろう。
西南戦争の田原坂の西郷軍だってそうだし
251 :
日本@名無史さん:04/07/06 03:55
おいおい水戸諸生党は新潟で佐渡でよく戦っているよ
長岡がやる気なくなっただけだろう
252 :
日本@名無史さん:04/07/06 19:36
河井が負傷した瞬間に長岡藩は弱体化した。
253 :
日本@名無史さん:04/07/07 04:27
やはり東北が貧しい上に佐竹津軽などが官軍側につき
分裂したり、会津や長岡以外各藩別々に戦っているし
主力の仙台はやる気ないし兵隊も弱い。どうしようもない
貧しいから武器買えない。会津も京都に行ったりして
金ないし、せめて徳川家からかっぱらってくればよいが
そんなこともしなかったようだし。
何とか戦争しないですむと思っていたんじゃないのかな。
そうじゃなかったら会津馬鹿すぎ
>>253 その後の話だが、戦艦大和だって制空権もないのに沈むために出ていった。
会津藩も長岡のように何でも売って金つくり戦うべきだった
覚悟が足りない
256 :
日本@名無史さん:04/07/08 14:44
会津には河井に匹敵するほどの指揮官がいなかったことが悲劇
長岡は河井という有能すぎる指揮官がいたことが悲劇
鬼勘兵衛なんかがいたろ
また戦国策にもあるが
人がいないのではなく用いる人がいないのだ
28万石でいないはずがない
結論として松平容保をはじめとする上層部が無能だったのだ
258 :
日本@名無史さん:04/07/08 16:57
>>1 何といっても井伊、榊原の時代錯誤、藤堂の裏切りだろ。
259 :
日本@名無史さん:04/07/08 16:58
で、その佐川は西南戦争で薩軍ならぬ熊本の一揆兵に射殺されてる。
260 :
日本@名無史さん:04/07/08 17:08
結果論として言えば、幕府は張り子の虎だったって事かな。
>>257 ....上層部が無能だったのだ
そういうことだってことでは、異論はないが、容保も外から養子で入っているし、
雄藩の尾張だって、藩主が代わって若かったし、彦根も大垣も岡崎も、家康が考えた
東海道筋の防衛線が全く機能しなかった。
今の日本でもそうだが、平和ボケで危機管理がなっていなかったってことではないか。
なぜか平和ボケの藩からのみ老中が出て、老中になるための賄賂出費で四苦八苦。
よくある末期症状といえば、末期症状。学ぶことは一杯ある。
諸藩は黒船以来、必至に砲台作ったり、兵制立てなおしたり、訓練しなおしたりと、
色々やってたんだけどねえ。
やっぱ上の問題か。
263 :
日本@名無史さん:04/07/09 02:12
ごめん、sage忘れた。
>>264 リンクの仕方間違えた。
慶喜の母親は有栖川宮の娘でしょう、水戸黄門以来尊皇のお家。
>>265 前からどこかで言ってみたかったことだが、光圀の乳母も京都出身だったらしい。
村上元三の小説だからどこまで本当か分からないが、光圀は出生が当初秘密だった。
その乳母が幼児の耳元で夜な夜な天朝さまは偉い偉いと刷り込んだようだ。
それが、大日本史編纂になり、尊王の素地となり、幕末に花を咲かせた。
大した乳母だ。
267 :
日本@名無史さん:04/07/10 12:57
慶喜の兄貴のかみさんもそうだし
お姉さんも嫁いでいるしほとんど
水戸家と有栖川宮は一族
268 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 11:52
>>248 大村は4境戦争と鳥羽伏見後の戊辰戦争全体ですよ。
ちょっと4境戦争とか異常な戦果挙げてる・・・。幕府方の数万に
大して千程度で勝ちまくり。各個撃破ってこうもうまくいくものなのかと。
269 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 16:12
逆に言えば幕府軍って連携ゼロに近いな
珍説を発明してみる
旗本どもは惰弱に流れ、武士のくせに僧侶や神官のようにルースな
越中褌を使ってたるみきっていた
これは激しい動きをするとすぐに緩むのは言うまでもない
一方、必死の西軍兵は六尺で締め上げていたので動きが良かった
ダメか
EXCITING な説だな
__
∧_∧ /|__|\
(;・∀・) //|__|\\
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____ゝ ヽヘ. ______|///|__|\\\|_______________
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_____________|/______ \|________________
272 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 19:17
、 ヾ> ,r'゙,.::::: : : : : : : : ::;.`、 ,、‐'ヽ,
< `ヽ、 ,r'. ;'.;.:.:.:ィ:/i::i、:::i:::::';.',: :'、<_,、‐'´ あはははは
`ヽ、_》'.::::;'.:l,'lシ-l' ';l''、;l:、::l;i:l::::..'、 新説イイ
/.:::::;':::l ナ''ヽ '"`ヾl.',:i:::::::', ,、,,,_
. r‐''i !.::::::i:::::l ''´ i゙'''''''゙'! '` l:::::i:::::::i `'-ノ
''゙´i.::::::::l::::::l !,、-ーl .l:::::l::::::::i
l:::::::::l ::::ト、 ! / l:::: l;:::::::::l
. l::::i::::;l::. :l;:`:.、ヽ_ノ_、..:'/ ..::i;;:::::::::l
l:::::i::::;;l::::::l;:;:;:|`-´‐'|:;:/.:::::/;;::::::i:::l
!:::::l:::;;:l:::::::l‐'゙ - -‐ `7.::::/;;;;:::::::l::l
l:::r'´ l:::::::l. : : : : : ./.::::/ ``''-、:!
>>270 いや、昨今少子化の原因のひとつに、戦後流行の「ブリーフ」という説も
ある。あれは適度に冷やさないといけないのに、ほぼ常時暖めているのは
よくないというのだ。チン説は当たらずといえども遠からず。
六尺は、余計な欲求の抑止に役立ったかも知れない。
ダンブクロ着てタスキにしたり、負傷したら包帯にしたり、用途も広い。
現在でもサバイバル用品として何本か用意しておくべき代物。
>>269 奇しくも、指揮命令系統の重要性を指摘している。
現下のイラクでの状況でも、考慮されるべき重大な要素。
多国籍軍は、つづめていえば各藩の軍隊みたいなもの。補完手段が
講じられないと、同じことが起こる。一本化しろと言う気はないが。
>>257 ではないが、今夜の「その時」にも、会津というか幕府側の窓口の
対応のノンビリさが指摘されていた。容保公が指示したとも思えないが、
緊張感のなさは、いつの時代にもの観。
新潟の方の大雨では、緊張感のない対応で差がでて、年寄りがまた死んだ。
月賦の終わっていない車が廃車になるんだって、やりきれないのに。
鳥羽伏見の戦いの隊長も、五稜郭の戦いの官軍トツプも山田市之允、後の山田顕義。
僅か23歳で、高杉晋作の遺言、大村益次郎、木戸孝允の推薦で長州軍のトツプに選ばれて
います。身長148CMの小僧ッコが、徳川300年の歴史にピリオドを打つんだから
幕末ッてなにか可笑しい。変わってる。
徳川慶喜も近藤勇も土方歳三も沖田総司もポロポロ、ポロポロと泪を流しながらアッチラ、コッチラと
逃げてつた。市ィ-には榎本武揚、江藤新平、西郷隆盛、中村半次郎も泣かされた。
山田は小ナポレオンとも、用兵神の如しとも言われる軍事の天才。電撃作戦に妙。陣頭指揮。突貫。
日本軍隊の軍旗や軍服は山田が制定しました。大佐や軍曹などの名称も市ィ-が制定しています。
日大と国学院を創立した人でもあるな。血をみるのが大嫌いで軍事を辞めて法律と教育の道に進んだ
人です。韓国が大好きで、号を韓峯山人と言います。
http://gj0012.hp.infoseek.co.jp
279 :
日本@名無史さん:04/08/01 01:00
市ってウヨの教祖かい。なーんだ。
280 :
日本@名無史さん:04/08/01 02:58
山田顕義 山田しぇんしぇい
今でもこの名を聞くと西村晃を
思い出す
日大系の方はそうですよね
マイ・フェニックスなんて糞映画見に行きましたよね
秋山某の影響力も凄いもんだな。
282 :
日本@名無史さん:04/08/01 04:39
韓国が大好きで、号を韓峯山人と言います。
283 :
日本@名無史さん:04/08/01 04:46
>278
>幕末ッてなにか可笑しい。変わってる。
可笑しい、はまだ許せる。が、変わってる呼ばわりされるのは勘弁。
幕府に殉じたまじめな人もいた事をお忘れなきよう。
世が世なら斬って捨てられますよ。
284 :
日本@名無史さん:04/08/01 04:58
山田顕義は在日だろ
285 :
日本@名無史さん:04/08/08 12:12
ものすっごく単純にいうと金がなかったから負けたってことらしいですよ。
領地が広大ってことは出費も莫大なわけで。なんか賠償金300万両ってのが
ネックで事実上破産。列強は借金棒引きでなんか開港とかそんなんにしようと
思ってたらしいんだけど幕府は面子とかそんなん重視して本当に払ったんだとか。
ちなみに100万両くらい返して残りは明治政府が払いました。
286 :
日本@名無史さん:04/08/08 18:04
我が大日本帝国の敗因と同じですな。
要するに戦争は金力ってこと。
雨は金があるから今も昔も強い。
>>283 変わっているのがなぜ許せない?
「何かに殉じるまじめな人」はいつの時代でも少数派で、変わっていて、すばらしいだろ。
>>285 賠償金300万両だけじゃないよ。小栗が造船所やらなんやら色々作って大金を使い込んでいるし、
陸軍歩兵を要請するための費用、外国人教師の高額な給料、沢山買った軍艦の費用など考えると最初から破産状態だった。
289 :
日本@名無史さん:04/08/14 01:34
引用です。ちなみにオレ千葉県民だぞ。
>戊辰(東北)戦争後、仙台六十二万石は、半分以下の二十八万石に減封。
>会津に至っては、二十三万石から三万石に減封の上、
>下北半島の斗南(むつ市田名部)へ遠流のように移封と、
>明治政府の東北処分は過酷を極めました。
>会津藩士が移住した斗南の地は、多くが火山灰の不毛地か、
>泥炭地に葦が群生する湿地帯で、公称としては三万石ですが、
>実収は七千五百程度であったといわれています。
>かつて二万四千石だった亘理は、一門の扱いで五十八石五斗。
>これで、7800人といわれる家臣を養うのは不可能でした。
>このように東北の藩士達は、賊軍の汚名を着せられ、
>日々の生活の糧もままならぬまま、明治という近代を迎えたのでした。
→亘理伊達藩って北海道の伊達市を開拓したそうだ。
ごめん、戊辰戦争からちょっと外れるか。
291 :
日本@名無史さん:04/08/14 02:17
鳥羽伏見で幕府軍が官軍に負けたのは、淀藩の裏切りが
あったからだよ。
淀藩の殿様は、あの春日局の子孫。
春日局の子孫を大名に取り立てばかりに徳川滅亡。
徳川家光ってアホやね。
ちなみに春日局は明智光秀の縁戚でもある。
裏切りの名門だね。
>>290 過酷か?
家康の処分なんて、安国字や石田などの処刑そして領土没収。
積極的に加わらなかった大名ですら、僻地に減封されているぞ。
温情に溢れた沙汰だと思うが。
293 :
日本@名無史さん:04/08/14 02:40
3時間も?!!!!!!!!!!!!!!!!
295 :
日本@名無史さん:04/08/14 03:10
>291
関が原の時に毛利家に下した処置に比べたら軽いと思うが。
伊達は外様のくせになんで会津に味方したの?
少なくとも、鳥羽伏見の後は「外様の当家は徳川に恩などない。
徳川親藩会津を血祭りしてやる」と言って会津攻めを行っても
おかしくないと思われ。
当時、会津軍の主力は京都や江戸に出ていた訳だし。
伊達分家の亘理家の悲劇も、伊達がさっさと官軍側についていれば
おこらなかったのでは。
関が原や大坂の陣の処置を考えれば、徳川慶喜や会津容保は斬首。
徳川宗家は改易が妥当だったと思うけど。
御三家は石高を10分の1にして、僻地に転封。
譜代筆頭の井伊は改易。藩主は斬首。
大坂の陣の時に、秀頼の子(10歳)を切腹ではなく斬首した、
徳川の冷酷さを考えれば、因果応報でしょ。
賊軍の首魁慶喜は武士として殺す(切腹)価値はないよ。
豊国大明神は取り壊した例にならって、東照宮・寛永寺・増上寺は
取り壊しが妥当。
薩長は甘すぎるよな。
296 :
日本@名無史さん:04/08/14 04:00
>>295 それはちょっと違うと思うんです。
奥羽越列藩同盟というのは「反新政府」ではあっても「佐幕」ではないのですから。
大政奉還後のことでしょ。そもそも補佐すべき幕府は既に存在しないわけです。
奥羽戊辰戦争は、新政府の路線対立・政権構想の食い違いととらえるべきです。
奥羽諸藩は雄藩連合路線で、別の宮のもと、別の年号で、薩長支配の新政府か
ら自立した勢力でありたかったわけです。それは箱館における「蝦夷民主国」の
構想にも続きます。
薩長は甘いのかどうかはわかりませんが、王政復古のクーデターっていうのは
要するに「慶喜はずし」とみますがね。大政奉還後にわざわざそういうことをす
るのはエゲツない。坂本龍馬・後藤象二郎の誠心はここで裏切られた。
その意味では明治維新も「裏切られた革命」ですよ。
もっとも大政奉還には土佐による薩長封じの意味もあったし、慶喜は慶喜で、
あえて奉還することによって新政府での自分の地歩を築く目論見があった。だか
ら薩長の心配は決して杞憂ではないのだが。
そしてまた、東北も決して保守頑迷ということではない。相対的に漸進主義だ
というだけの話。
297 :
日本@名無史さん:04/08/14 04:14
>296
早く統一政体を作らなければならない時代に、勝手に地方政権を樹立すれ
ば列強が介入する口実を与えて、軍閥の横行した、清末民国初期の中国みた
く日本も列強の半植民地か本当に植民地状態になる可能性になるよ。
特に逆賊徳川は、蝦夷地をフランスに献上して、金を借りようとしていた
位だからね。売国奴政権だよ。
298 :
日本@名無史さん:04/08/14 04:44
徳川は別に売国奴政権ではないし、逆賊ではないと思いますね。ていうか、そういう
ふうに考える人に支配されたくありませんね。現代のわたしはそう思いますが、当時の
人が同じように考えても無理はありません。
陸軍のもととなった講武所も、海軍のもととなった海軍伝習所も、東大のもととなっ
た蛮書調所(開成所)も、お台場も、外国への留学事業も、全部、幕府がはじめたこと
です。
前半部分は一理ありますが、それも後付けの理屈です。
299 :
日本@名無史さん:04/08/14 05:04
>>297 薩長が明治初年の段階で本当に公約通りに「尊皇攘夷」を実行していたら、間違い
なく植民地になっていたでしょうね。せめてもの救いは米欧留学をおこない、開化政
策に転じてくれたことです。
天皇を持ち出して、その下に隠れるような汚らしいことをしてくれましたが、その
点は評価できることです。「攘夷」を実行してくれなくてよかったと心から思います。
300 :
日本@名無史さん:04/08/14 05:39
>298
フランスに国を売ろうした徳川は売国奴だろう。
鎖国政策と大船建造の禁止で、日本の造船技術を退歩させただけは
まだ飽き足らなかったのかね徳川は。
蛮社の獄で蘭学者に大弾圧を加えたのはペリー来航の少し前の話な
んだが。
301 :
日本@名無史さん:04/08/14 07:51
かといって、攘夷を叫んでいた倒幕派を持ち上げるのも胡散臭い。
>>296 佐幕ではなく、反新政府だから問題なんだろうが。
勝負がついているのに、自己の満足のために、勝ち目のない戦争を決意して、
日本を混乱させた問題行動。独立を目指して戦争にならないと思っていたならアホ。
>坂本龍馬・後藤象二郎の誠心はここで裏切られた。
いや、薩長がなんで坂本や後藤程度のいうこと聞かなきゃならないんだ?
むしろ薩摩の走狗の癖に、策動しているんだから、問題行動だろうが。
>陸軍のもととなった講武所も、海軍のもととなった海軍伝習所も、東大のもととなっ
>た蛮書調所(開成所)も、お台場も、外国への留学事業も、全部、幕府がはじめたことです。
そんなのは薩長もとっくの昔からやっているんですよ。
外国技術の流入は薩長の方がはるかに先進的。遅れていたから幕府は潰されたんですよ。
そもそも種をもって、苗のもととするのは笑えますね。
韓国の自主近代化論並です。所詮種は種、種で終わったから幕府は終わったんですよ。
>>299 攘夷ってのは、ただ欧米に服従しないってだけで、君が考えている攘夷ではないよ。
開花政策というなら、下関で外国船に砲撃している時からしている、
外国に留学生を送ってますし、外国に砲撃した大砲には外国から輸入したアームストロング砲が含まれてます。
攘夷と開花は薩長にとってなんら矛盾する物ではない。
303 :
日本@名無史さん:04/08/14 10:19
昨日まで幕府の開国に反対し、「尊皇攘夷」をあれだけ叫んでも、
今日は外国と手を結んでる。
この点をどう捉えるかだな…
鹿児島県や山口県の人は、時勢を見る目が鋭く妥当な決断だと思うのだろうが、
身代わりが早いと言うか、なんと言うか…
少なくともそうゆう人とは友達になりたくないね、俺はw
昨日まで友達だったのが今日は平気で裏切りそうなんだもんw
徳川こそ売国でしょう。
貿易の独占を企むフランスの甘言にのり、開港ではなく賠償金を選んだのは幕府。
(ま、その後結局借金を払えず、延長の代償として開港させられるんですが)
フランスから莫大な借款をして、さらに北海道の開発権を担保にさらに莫大な借款をしようとしていたアホ。
流石に小栗以外はアホじゃなかったし、売国奴であることが薩長にばれ、倒幕の口実になってしまい、結局は流れましたがね。
倒幕派は欧米からの借金は極力さけていたし、長州なんか1銭も借りてない。欧米の危険性を理解していたんだね。
>>303 だから攘夷という意味を理解しろよ。
高杉は、アメリカはイギリスから攘夷して今があると言っているの。
欧米に服従せず、独立するって意味なんだよ。
幕府のへタレ外交を非難しているのであって、拝外主義じゃないんだよ。
そして友人を裏切るっていうなら幕府こそが相応しい。
それまで懇意だったイギリスと手を切り、利権に釣られフランスと手を組んだのが幕府。
英蘭米から言わせれば、裏切られた気持ちだったろうね。
国家には友人など存在しない、利害関係があるのみ。
307 :
日本@名無史さん:04/08/14 11:23
>>297 >>300 土佐や東北・関東で自由民権運動がさかんだったのには、それなりの理由があるでしょ。
要するに、王政復古の大号令というクーデターは、三条・岩倉・薩摩・長州で政権を独占
しようという策動にすぎなかった。薩長の政治家をすべて否定するわけではないし、もち
ろん、その業績の素晴らしい点は認めるよ。しかし、原敬が首相になったのは大正に入っ
てからのことなんだから、そのことの功罪を少し考慮しないと。
政権構想の参画自体に反対だっていうなら、だからこそ、戊辰戦争は起こったのだし、
自由民権運動は起こったってことじゃないだろうか。
勝手に地方政権を樹立すれば云々とあるが、もともと各藩は地方政権だったわけで。そ
れが新政府の政権構想の構築に参加できないってのは、道理に反する。その時点で「反・
新政府」といったって、別に江戸進駐や京都侵攻を企てたってわけじゃない。プロセスを
みれば薩長の方が侵略者なわけです。
幕府のヘタレ外交というが、新政府の外交のなかで、たとえば対朝鮮外交はいただけな
い点も多い。宗氏をスポイルしたため無用の侮りと恨みを持たれ、いまだに影響を残して
いると思う。
勧善懲悪史観は、そろそろ脱却しなきゃね。
同時期のドイツ統一とあわせて考えるなら、これは大ドイツ主義と小ドイツ主義の対立
のようなものではないかと思える。ビスマルクは現実的に判断して小ドイツ主義をとった
のだが、日本の場合は大日本主義となった。しかし、可能性としては小日本主義の道もあ
りえた。どちらが幸せだったかわからないが、ドイツとオーストリアのように、同じ民族
で異なる国家を形成するという道もありえた。
308 :
日本@名無史さん:04/08/14 11:40
ちょっとまて
>>307主従が逆転しているぞ。
奥羽諸藩が反乱したから、賊軍扱いになって新政府から冷遇されたのであって、
冷遇されたから反乱したわけじゃないだろ、会津とかは兎も角、
仙台などの雄藩を敵に回したかったわけないだろ。
積極的に参加していれば、旧幕府の官僚が多く登用されているし、
一部は大臣にもなっているんだから、もっと早めに首相を選出するのも無理じゃなかった。
薩長が求めたのは強力な中央集権国家なんだから、地方の分離政権なんて認めるわけないでしょ。
小国が分立した状態で欧米に対抗出切ると思っているの?
309 :
日本@名無史さん:04/08/14 11:59
別に対抗する必要なんてない。
310 :
日本@名無史さん:04/08/14 12:07
欧米に占領されたかったってわけか。
311 :
日本@名無史さん:04/08/14 12:17
>>308 大政奉還までは良かった。
統一政権をつくらなければならないっていうのは、わりと当時の共通認識
だったわけだよな。
しかし、王政復古の大号令というのは、屋上屋を重ねる不要な政治行動だ
ったし、政権返上をした忠義者の慶喜がなぜか一番の逆賊になってしまった。
奥羽越列藩同盟というのは、そうした成り行きをみて成立したわけだ。会津
への報復と薩長の政権独占がみえたからこそ、同盟を組んだわけだ。
理屈としても心情としても間違っていたとは思えないがね。負けて庶民に
迷惑かけた点は別にして。
そして、それ以上にこの大号令が後世に与えた悪影響の方が大きいと思う。
伊藤博文あたりからすれば、それをよく認識していたと思う。だから元老の
立場にありながら、政党の結成に乗り出したのではないだろうか。
312 :
日本@名無史さん:04/08/14 13:50
もと紀州藩士・陸奥宗光のような、新政府に取り立てられ、偉大な業績を残した人物でさえ、亡く
なるとき藩閥打倒・議会制民主主義の未達成を嘆きつつ死んでいったというからね。藩閥政治がよく
ないっていうのは伊藤博文・西園寺公望あたりもよく知っていた。西園寺は、陸奥の死に対して「藩
閥のやつらはたたいても死にそうもないやつらだが・・・」と言って、端で見ても痛々しいほどに落
胆したといいます。
原敬なんか、山県閥に対してはよくぞここまでというくらい気を使っていますよ。
少なくとも、逆賊のレッテルは余計なものだったと思いますが、いかがでしょう? いまだに「逆
賊」呼ばわりする人間に言っても無駄かもしれませんが。
「逆賊」なんて煽りで言ってるやつは居ても、本気にしてんのは今じゃ会津人くらいのもんだろ。
314 :
日本@名無史さん:04/08/14 19:35
ちなみに
第2次長州征伐の時の総大将(将軍)は家茂でして、家茂が死んだ為
に長州征伐も中止?になったはず
東海道待ち伏せを言い出したのは小栗上野介でしてそれを止めたのが
勝海舟。
315 :
日本@名無史さん:04/08/14 19:56
>>311 奥羽越列藩同盟は、仙台を大将軍とした仙台幕府樹立をも考えていた。
東武帝の即位という計画もある。権力争いという点では薩長と大差ない。
>王政復古の大号令
その具体的な中身まで知って言っているのか?。
ちゃんと調べてから書けw。レベル低すぎだよ。
>>311 だからなんで新政府に協力しなかったわけよ。
佐賀藩なんて、倒幕には全く功績はないが、
彰義隊や奥羽列藩同盟討伐で、地歩を固めたんだぞ。
明治6年の政変で負けなければ、天下をとれていたかもしれない。
それと同じ事だ。新政府は人材の登用という事に関しては柔軟だし、
つかえるのなら、賊軍扱いされたとこだろうが、犯罪者だろうが気にせずつかう。
>>312 そういう陸奥に帰化長州人と罵倒を浴びせていたんだよね。
>>314 中止じゃないよ、家茂が死んだし、戦争では四境全て大敗。
その為、止戦を長州に言い渡したの。
当然長州は、撤退するなら追わないが、止戦を受け入れるつもりはないと言い、決別。
317 :
日本@名無史さん:04/08/14 23:40
>>315 >権力争いという点では薩長と大差ない。
まったくその通り。問題はどうすれば勝てたか、少なくとも負けずにおれたかだ。
結局、庶民の広汎な支持は得られなかった。武士階級の現状維持志向が列藩同盟を
支えた気分なのだから仕方がない。四民平等など現状打破のスローガンを新政府に
先んじて打ち出す必要があった。
また、薩長は錦の御旗を掲げるのがうまかった。東北でも大義名分論は広くいき
わたっていたし、平田神道・草もうの国学が広がっていたから、二本松・久保田な
ど同盟に造反する勢力が次々に出てきてしまった。内戦が長引くとみたら新政府軍
もおいそれと侵攻できなかっただろうから、ハッタリでも一枚岩を貫く諸施策が必
要であった。その当時の新政府はまだ海のものとも山のものとも知れなかったので
好機はあった。
無駄な抵抗といえるかもしれないが、力のない者には抵抗すらできない。負けは
したが、よくぞ抵抗したと思う。もしここで、北海道も含めた東北以北が独立を維
持していれば、いずれ連邦国家となって日本に吸収されたとしても、日本は韓国併
合など無駄なことはせずにすんだかもしれない。新政府部内で内治派がもちこたえ
たのも、この抵抗の成果ではないだろうか。
日本に接取されるんならいいけど、欧米に占領されないとなぜ言えるんだ?
韓国同様、日本に併呑されなければ、ロシアの餌食だろ。
ついでに韓国併合がなんで無駄なんだ?
あそこは防波堤としても大陸への足がかりとしても重要だぞ。
319 :
日本@名無史さん:04/08/15 00:58
>>316 佐賀みたいに勝ち馬に乗りさえすれば政府部内で重用されるとか、新政府が人材の登用という事
に関しては柔軟だというのは、明治初年の段階では、少なくとも見えていないだろ。あの時点で、
長いものに巻かれろ、それが正義だと主張することには無理がある。
今だから言えることだろ。
逆に、そうした抵抗があったからこそ、新政府が、こと人事に関しては柔軟になったという側
面もあるわけだから。
>>318 「防波堤」はともかく「大陸への足がかり」と考えたからこそ、その後の日本はダメになった
んだと思うのだがね。防波堤と考えるなら、併合は不要だし、かえって有害だ。保護国でとどめ
おくべきであった。
併合の収支決算を考えたら、膨大な国庫の損失でもあった。
ま、大村益次郎の招魂社、これは官軍兵士しか祀られていないわけだよな。それを、明治憲法
制定時か、日露戦争終了時か、適切な時期に賊軍兵士も祀ればよかったのだよ。
今となっては時期を失した感もあるね。せめて明治100年のときにそうすりゃよかった。
そうすれば、本当の意味で国民国家になったかもしれないのに、いまだに靖国には賊軍兵士は
祀られていないだろ。賊軍だという理由で。
今からでも遅くない。これは、敗者が要求することではなくて、本来は勝者が自ら気づいて示
す雅量という気がするがね。別にわたしは会津人じゃないが、そう思うね。
国内的にすらまともな外交ができていないんじゃないか?という気がして暗澹たる気持ちにな
るよ。
>>319 >明治初年の段階では、少なくとも見えていないだろ。あの時点で、
>長いものに巻かれろ、それが正義だと主張することには無理がある。
正義とかいうつもりはないが、何時の時代でも長い物に巻かれた方が得だし、
新政府を支える有力な派閥として生き残るのは難しい事じゃないよ。
そういった処世術で生き残った人は大勢いるし。旧幕府の官僚の多くはそれ。
少なくとも敵対するよりはマシ。
それに薩長は脱藩した志士に援助しているし、
使える者をなんでも使うのは、昔からの方針だと思うけど。
西南戦争では、奥羽諸藩から人集めをしていたし。
>「防波堤」はともかく「大陸への足がかり」と考えたからこそ、その後の日本はダメになった んだと思うのだがね。
当時の状況で辺境の島国でどうやって生き残るんだよ、そんなに世界は優しくない。
自由貿易体制が出来あがった現在からの視点で語るな。
そして辺境の維持で赤字になるのは当然、そしてそれでいいの。
北海道や東北、沖縄なんて当時の日本からみたら、半島と同じく赤字だよ。
財政的な問題だけじゃないの、
それに併合しても、べつに大した反乱はおきてないし、あそこの住民は長い者にまかれろな国民性だよ。
併合している間は実に従順で、御しやすかったから問題ないと思うけど。
そして防波堤がハーグ密使事件のようなドキュソな行動したら、保護国じゃおいておけないだろ。
浮沈空母がソ連と繋がるようなものだ。
322 :
日本@名無史さん:04/08/15 01:31
佐賀は長崎に近いので内外事情に通じた人が多かったのかもしれませんね。
だから、簡単に勝ち馬に乗れた。
>>320 台湾は黒字だったそうですね。
あの状況で、会津につく藩がアホなだけかと。
324 :
日本@名無史さん:04/08/15 06:02
>323
特に仙台・米沢ね。外様大名なのに。
会津征伐の時点では、徳川一門である御三家ですら、新政府側についていたの
に。
松平容保は美濃高須五万石の小大名の冷や飯食い。
「養子殿様で小大名の息子なぞ、さっさと薩長に差し出して、許してもらおう」
と考える家老・重臣はいなかったのかね。
京都守護職の就任には、家老連中は反対した訳だし。
容保を薩長に差し出した後は、島津か毛利の次男坊以下を養子にもらえば
万々歳だったのにね。
325 :
日本@名無史さん:04/08/15 23:21
>>324 御三家だから天皇側についたんだよ。わかる?
326 :
日本@名無史さん:04/08/15 23:34
>>319 それはいえる。
賊軍とされた方の人間はいい気がしないよ。
327 :
日本@名無史さん:04/08/15 23:56
何で長州人が創った神社に祭って欲しいの?
もともとああいう意図で作られたもんじゃないからな。
329 :
日本@名無史さん:04/08/16 14:54
>>327 日本人がつくった神社だから祭ってほしいと思ってんだろう。
もうそろそろ日本人が同じ日本人を『逆賊』と呼ぶのはやめにしたいものだな。
だれか逆賊って言っている香具師がいるか?
いるわけないじゃん
会津を今でも逆賊なんて呼んでる奴なんていませんよ
332 :
日本@名無史さん:04/08/16 19:43
未だに事実を認めず泣き喚く砂漠派がいるな。
そんなに薩長が作り上げたこの日本がいやなら、どうぞ北朝鮮にでも行って頂戴。
333 :
日本@名無史さん:04/08/16 19:47
>>332 今の日本が嫌なら外国に行けっておかしくない?
当時の薩長だって、当時の日本が嫌だから良くなるようにしようとしたんじゃないの?
(まぁそれは一部で自己出世が目的な奴もたくさんいるけどさ…)
334 :
日本@名無史さん:04/08/16 19:50
薩長は日本を盗んだだけ。クズが日本を作ったなんておこがましい。
>>324 会津は「佐幕」か「反幕府」どっちかになるかだよなあ。
保科正之が「捨てられた」と思って、代々徳川家を憎んでれば全く違う
結果になってたかもしれんね。
>>325を見て思ったんだけど、水戸藩の言う「尊王」と、
薩長(それに土肥など)の「勤皇」とは大分開きがある気がする。
>>332 今の日本国はアメリカ様につくられた国です。
薩長がつくった大日本帝国は59年前に見事に滅びました。
337 :
日本@名無史さん:04/08/16 19:59
>>335 薩摩と長州に、本当の意味で天皇を敬う気持ちあったのかな。
ただの道具として利用してるに過ぎないと思うは俺だけだろうか。
338 :
日本@名無史さん:04/08/16 20:01
>>336 東北出身の将校が大東亜戦争をおっぱじめましたが何か?
>>337 天皇は道具としてしかみられてないだろ。
だからその後すんなり立憲君主制へと移行できた。
だけど、マジで尊皇とか言っていた東北の軍人どもは、のちにああなったと。
340 :
日本@名無史さん:04/08/16 20:27
>>337 薩長に限らず当時はどこも天皇を本気で敬っていないだろ。
藩としては水戸藩くらいじゃないか?
341 :
日本@名無史さん:04/08/16 20:34
>>337 長州の戊辰戦争など明治維新の時に参戦した古老が後年天皇を語るとき
「あれもわしらが今のようにしてやったっんじゃ、それでなきゃ・・・」と銭湯など
で誇らしげに語っていたという、当時は後年の神格化されたような天皇じゃなか
った事がうかがえる。
342 :
日本@名無史さん:04/08/16 21:07
>>330 三笠宮妃だったか、秩父宮妃だったか忘れたが、自らを逆賊側出身だと言っていたよ。
343 :
日本@名無史さん:04/08/16 21:09
345 :
日本@名無史さん:04/08/16 21:48
>>313 煽り程度の軽い気分で逆賊呼ばわりするのが一番タチが悪いのかもな、戦前みた
いな時代では。
>>337 天皇を政治の道具とするのは古来からの政争の常道ですよ。
>>344 ごめん、その発言は多分、高松宮妃だったと思う。
妃の著作「菊と葵のものがたり」に出ていたはず。
高松宮妃、秩父宮妃、三笠宮妃が全て旧幕府側出身者なのはある程度
知られているけど、これらの宮様達の長兄・昭和天皇の妃、つまり
淳香皇后が中川宮の子孫だという事は何故かあまり知られてないみたいだね。
中川宮は孝明帝に仕えたバリバリの公武合体派で、近藤勇を目付けに推挙
していたような人物ですよ。(ちなみに秩父宮妃の祖父は松平容保)
要するに、昭和天皇兄弟というのは、全て幕府勢力、或いはそれに荷担した
人達と結ばれたという事。
罵倒用語として使っているようにはみえないが?
スゲー名案が浮かんだ。
靖国神社は長州が明治維新で死んだ仲間のために作った神社が元だから、
同じようにに会津も賊軍のための神社を作ればいいと思う。
会津藩や新撰組の面々も敵と一緒に祭られたくはないだろーからな
350 :
日本@名無史さん:04/08/17 06:37
戊辰戦争というのは公武合体派と倒幕派の路線対立なのだから、理由のいかんに
よらず賊軍呼ばわりは不当だと思うがね。
>>349 1坪程度の祠を建てるんならすぐ出来るだろうが、それでも数万円では出来ない。
まして靖国神社に近いものにしようとすると、数億円では収まらないだろう。
だれが、今時そんな金を出すんだ。
掛川城のように、奇特な老人が5億円とか寄付する話が出れば別だが。
と煽って、もしできれば快事。
>>350 時の民衆が利口なら、不当な賊軍呼ばわりは、荒らしスルーと同じになるが、
民度の低い時代には、下手な応援が出ると邪魔になるんで、そういう言い方
をして防止にまわる。
「...路線対立」も話し合って結論出して、自分の主張が通らなかった側も
それに従うとかなるなら、ことは簡単だが、当時は殺し合う時代。
ごく最近でも思い出すのは、党首の選挙で負けた側が党を出るというのが
あった。まだ日本人には、多数決に従うという民主主義の基本が身になじ
んでいない。すぐ感情に負けて、ヴォケ、アフォ呼ばわりする輩と同根。
戦後50年とか60年とかいうが、数十年では進歩しない。
353 :
日本@名無史さん:04/08/17 08:55
やはり賊軍だから
>>323 第二次長州征伐(四境戦争)
○長州藩(賊軍) 3500人 ●幕軍(官軍)100000人
・清末藩 ・彦根藩 ・松山藩 ・小倉藩
・岩国藩 ・高田藩 ・宇和島藩 ・肥後藩
・紀州藩 ・浜田藩 ・柳河藩
・大垣藩 ・福山藩 ・久留米藩
・因幡藩 ・松江藩
この状況でも長州につく馬鹿な藩もいるわけだし。いいじゃねーか。勝負師だったんだよ。
男なら全レース大穴狙いだ。
時代は今、自爆テロ。昔のこった、なんでもあり。
356 :
日本@名無史さん:04/08/17 21:07
龍馬・象二郎が大政奉還を勧めなきゃよかったし、慶喜も大政奉還しなきゃよかっ
たんだよ。人がよすぎ。
>>356 慶喜にしてみれば大政奉還は、
「古い幕府の衣を捨てて、大君中心の立憲君主制に踏み切るチャンス」
と考えてやったんじゃないの?
元々江戸表では徳川慶喜の評判は最低で、洋食好きの豚様とか
水戸の乗っ取り屋とか言われていた。
徳川慶喜も将軍就任後も絶対に江戸に帰ろうとはしなかった。
要するに、徳川慶喜は近畿に幕府に代わる自分の政権を立てようと画策し、
途中で薩摩にそのプランを乗っ取られて、江戸へたたき出された。
薩摩は、慶喜が江戸幕府の権威を貶めるところまでは協力し、
自分で残りはできると踏んで、慶喜に肘鉄を食らわせた。
それがフィクサーと呼ばれる所以。
結論、徳川慶喜自身が反幕府的な思考の持ち主だったから。
慶喜は江戸の鰻の蒲焼きが大好物だったらしい
>>354 支藩だけじゃん、まだ薩摩は同盟というより、秘密協定に近いし。
360 :
日本@名無史さん:04/08/18 00:20
>>357 自分の党をぶっ壊すと言っていた誰かさんみたいだなw
>>360 竜巻が来て一瞬のうちに家が壊れるようには、壊れていないが、
あちこち壊れているんでねえの。煩いのが第一線から消えたりして。
362 :
日本@名無史さん:04/08/18 20:06
最後の将軍、小泉純一郎
363 :
日本@名無史さん:04/08/20 00:07
みんな逆賊になりたくなかったから。
364 :
日本@名無史さん:04/08/20 00:25
逆賊っていうのは、治安維持法時代の「共産主義者」と同じような、
マイナスのイメージがあったのだろうか?
365 :
日本@名無史さん:04/08/20 02:11
もっと強烈だろ。非国民だ。
小泉は逆賊にはならんだろうな。
逆賊どころか、死んだら従一位くらい贈られそうな悪寒・・・
367 :
日本@名無史さん:04/08/20 03:22
1
公武一和の強い見方である光明天皇が毒殺?崩御したからでないの?
>>367 ごく単純に言うなら、幕府(幕閣、老中)の対応能力の欠如が露呈したから。
アテネで長島ジャパンは負けましたが、これも幕末の様相でしょうか。
371 :
日本@名無史さん:04/08/24 23:11
中畑よー、勝てなかったからってへいこらするな!
長島ジャパンって言うけど、実際はおまえが監督だろーが!
入院中の長島はテレビ見てるだけだろ。だから巨人はだめなんだよ!
なにが申し訳ありませんだ。謝ることなんかこれっぽっちぽないだろーが!
精一杯やったんだ、胸を張れ!
372 :
日本@名無史さん:04/08/24 23:15
長島ジャパンである以上、敗北の責任はすべて長嶋にある。
373 :
日本@名無史さん:04/08/24 23:22
374 :
日本@名無史さん:04/08/25 22:50
薩長土肥の明治国家がもたらしたもの。
●日本固有の領土である、樺太をはじめとする北方領土を露助に取られた。
●太平洋戦争敗北により日本本土の一部をアメリカに割譲するはめになった。
●チョン系の薩長土肥人が、同一民族の国家・朝鮮を併合した為、朝鮮人が日本本土に大量に流れ込み、日本本土が在日朝鮮人だらけになった。
佐幕派政権の方がよかったな。
王政復古と明治維新をやった、
薩長土肥人・皇族・公家は氏ね。
薩長土肥人・皇族・公家を叩き続けよう。
375 :
日本@名無史さん:04/08/25 22:59
江戸城にこもって戦っても、それほどはもたなかっただろうな。
大砲の時代には日本の城はほとんど無意味だから。
大阪冬の陣で証明済み
優秀な火器で戦ったが弾薬切れになったところで幕軍や長岡は徹底的に叩かれた。
また指揮官が戦死するとその部隊が一斉に逃げ出すなど、幕府軍は戦死者が出ると
非常に弱い。一方で長州の部隊は半分ぐらい殺されても逃げずに全滅するまで戦った。
戦においては理性や常識が狂気に敗北する時もある。
378 :
日本@名無史さん:04/08/26 22:46
>>377 んなことはない。半分もやられた長州兵は、逆に全滅するまえに撤退する。
最後まで戦ってしまうのは薩摩兵の方だろうw。
379 :
日本@名無史さん:04/08/26 23:00
緋村抜刀斎が強かったからなぁ
380 :
日本@名無史さん:04/08/26 23:06
志々雄真実も忘れるなよw
381 :
日本@名無史さん:04/08/26 23:12
幕府が滅んだのは何をやるにも外注主義だから。
蝦夷地の警備は奥羽諸藩にやらせ、京都の守護は会津と庄内にやらせた。
382 :
日本@名無史さん:04/08/26 23:20
庄内は江戸なw。京都の守護は会津と桑名。
383 :
日本@名無史さん:04/08/26 23:23
江戸湾警備はどこでしたっけ?
384 :
日本@名無史さん:04/08/26 23:27
薩摩と長州が組めば一大勢力になるのは、分かってたけど
こうも化けるとは誰も想像つかなかったのではと・・・。
>>377 そもそも長州には殆ど死傷者でてねーもん。
四境戦争での死傷者って、全て合わせて数百人くらいだよ。
最後まで戦うもなにも、追い詰められた事がない。
386 :
日本@名無史さん:04/08/26 23:36
漫画のドラゴンボールに例えると「ヒュージョン」そのもの
だったんじゃないの。
長州も大野口では圧倒的兵力で押し寄せてきた幕軍の攻撃でかなりの死傷者を出しながらも踏ん張った。
逆に石州口で攻勢に出て井伊・榊原を破って大野で優勢だった幕軍は撤退せざるを得なくなった。
388 :
日本@名無史さん:04/08/27 00:49
今新選組をNHKでやってますが、隊士は農民出身者や浪人が多くを占め
ます。徳川直参の武士以上に武士根性を持った集団です。このような集
団が生まれた背景には徳川幕府の元々の家来達が役立たずになっている
ことも大きいと思われます。例えば京都所司代ですが幕末に騒がしくな
っていく京都の治安を守れなくなった時には内部からの組織改革でその
状態に対応するのが普通です。徳川体制が健全なときはそうしていたで
しょう。しかし、会津藩という御三家でもない藩を据えて治安を維持し
ようとしました。現に松平容保は京都守護職就任の要請を一度は断って
います。
自らは変化しないで「外注」でしのごうとしたところに弱点が見えて
います。
新選組も会津藩も徳川から見れば幕府の組織の欠点を補うための「外
注」になります。そういう意味で、容保には新選組に同志としての親近
感があったかも知れません。
大老や老中というのは同時に藩主であったわけですから、今でいうな
らさしづめ、業績がよく、しかも中央に忠実な県知事が国政を一手に担
うような仕組みだったわけです。井伊直弼も、そういう観点に立てば、
幕府の制度疲労を体現してしまった人物といえます。ある意味、犠牲者
です。
>>387 大島口じゃないのか?
そこでの死傷者は確か23人だったような。なお幕府軍は五千だったっけな。
数字ミス、死傷者は24人(総勢500人)、幕府軍は2000人の大軍
なお石洲口は凄い、長州の軍勢千人、長州側の死傷者9人、幕府軍三万(幕府側は不明)
全てあわせて261人しか死傷してないというのもなんだかなあ。
総勢3500人だから、1割以下か。
正直幕府軍はなにをやっていたんだか。
大野の戦いでは1日の戦闘で長州は即死10人、負傷者30人にも達し、
幕府側も指揮官2人が戦死するなど凄まじい戦いだった。
両軍の発砲の凄まじさの為に銃身が焼けて使いものにならなくなったりして
度々肉弾戦闘になるほどだったが、長州は踏ん張ったし、幕府も怯まなかった。
だから大野の戦いってどこよ。
394 :
日本@名無史さん:04/08/28 09:14
>>393 自分で検索して調べろ。たぶんそっちの方が解りやすいぞ。
奥羽戦争しかかからない。
そもそも四境は、大島口、芸州口、石州口、小倉口なのに、
大野口ってどこのことなの?
396 :
日本@名無史さん:04/08/28 22:30
今となっては幕府体制も決してそんなに悪いものではなかった。外圧が顕在化して
いない時代にあっては、国内商業の発展や都市の発達、町人文化の発展などの面では
たいへん大きな遺産を後世にのこした。
しかし、外敵の恐怖が支配した時代になっては、幕藩体制はもろさをかかえていた、
そういうことじゃないか。
397 :
日本@名無史さん:04/08/29 11:39
最後の将軍金正日
398 :
日本@名無史さん:04/08/30 14:16
●江戸幕府陸軍
奥詰銃隊(親衛隊)二個大隊約1000名、伝習歩兵隊(教導隊)三個大隊約2400名
撤兵隊(軽歩兵)四個大隊約1024名、騎兵隊(未編成)鳥羽伏見では伝令として参加
砲兵隊六個中隊8cm野砲又は山砲、一個中隊あたり8門
歩兵隊(主力戦列歩兵)九個連隊約9000名、築造兵隊(工兵)五個小隊250名
御料兵隊(警備歩兵)城郭、重要施設の警備
★最新の装備(シャスポー銃など)と近代的な訓練を施され、バランスのとれた編成
を持つ幕府陸軍は、海軍ととも慶喜新政権の切り札となるはずであった。しかし、
中隊指揮官などの前線の指揮をとる人材が不足、また予期しない戦闘で真の力を
発揮することなく幕府が瓦解し解散した。
その後、旧幕府陸軍の少数が幕府滅亡後の戊辰戦争で実力を発揮して活躍している。
399 :
日本@名無史さん:04/08/30 14:23
ちんちんいじり過ぎて敗北との噂
400 :
日本@名無史さん:04/09/01 02:10
誰も言わないけど、二条城から大阪城に兵を引いたのが最大の敗因でしょ
401 :
日本@名無史さん:04/09/01 03:16
追い込まれる以前に天皇を江戸に連行しなかったのが最大の敗因。
402 :
日本@名無史さん:04/09/01 03:30
そんなことしたら更に追い込まれてたと思うよ
そもそも家康公が毛利を撮り潰しておかなかったのが
最大の失敗
島津も潰しておけばなおよかった〔こっちは難しかっただろうが〕
>>403 毛利や島津の問題ではない。時間の問題だった。譜代大名のなだれ現象を
なんとみる。
攘夷で金が必要になっているのに、各藩は財政破綻状態。
明治になって、元大名が江戸住まいになり家臣の給与の心配がなくなって
喜んだという話がある。
幕末は、もうやってられないという状態だった。今の日本もチト心配だが。
毛利は天保の改革で財政を持ちなおしている。
家臣は3分の1の給与しか支給されていなかったが、堪えている。
荒天でもバーディ取るやつはバーディ取るってのに似ている。
407 :
日本@名無史さん:04/09/04 14:56
>406
長州藩は、領地は減らされたけど、交通の要衝である下関を領地にもって
いたのが財政回復のもとだね。
領地を減らすときに、石高は同じでも、下関は天領していれば良かったの
にね。
408 :
日本@名無史さん:04/09/04 18:54
>>407 その頃はまだ西回り航路が開かれてはいなかった。
409 :
日本@名無史さん:04/09/04 19:03
>408
家康の時代はそうだな。
でも、家康の時代でも、下関は本州と九州を結ぶ要衝だろ。
天領にするか「下関藩」(5万石)を作って、親藩・譜代を
配置すべきだったのでは。
>>409 そのつもりで、細川を熊本へ移したあと、小笠原を小倉に持ってきたんでは
ないの。りっぱな城がありながら、腰抜けだったが。
411 :
日本@名無史さん:04/09/04 20:05
>>410 下関が金の成る木になってから、強制的に天領化して、その代替地として、隣国
の石見浜田5万石(松平)を宛がえば良かったと思われ。
要所の天領化は水野がやろうとしたが出来なかった。
413 :
日本@名無史さん:04/09/04 20:32
>>412 そのせいで新潟を奪われましたが・・・
by長岡藩
414 :
日本@名無史さん:04/09/04 20:54
でも長岡は管理権だけは持ち続けたろw
>>411 長州が認めるわけがない、
支藩の領土だったのに、無理矢理萩本藩が召し上げたのに。
(代替地は用意したけど)
416 :
日本@名無史さん:04/09/05 10:45
天領化って無理なんだよ。水野はバカ
418 :
日本@名無史さん:04/09/12 11:21:30
>416
水野の上知令が成功して、江戸十里四方、大坂五里四方が天領化されて
いれば徳川は滅びなかったのでは。
天領の問題ではない。賄賂で老中になるのに汲々としている連中に外国相手の
問題が処理できる訳がない。早々に馬脚が表れる。
勝海舟が米国から帰って、かの国との違いはと聞かれて、上つ方ほど頭がいい
と答えたら、鼻白んだというではないか。推して知るべし。処理できないんだ
から、よきに計らえといえばいいのに、その勇気もない。
組織は頭から腐る。
420 :
日本@名無史さん:04/09/13 12:40:09
あげ
421 :
日本@名無史さん:04/09/15 00:17:46
>419
薩摩や長州だって、家老職は藩主一門や特定重臣の家系によって持ち回りされ
ており、下級武士の子では、家老にはなれなかったんだろ。
長州藩なら、家老職は安芸吉田の小豪族だった頃から仕えている、福原・宍戸
(毛利元就の娘婿)・国司などの家ではないと家老になれなかったんだろ?
家老(老中)クラスの人材登用に関しては薩長も徳川も似たりよったりと思われ。
中級武士で、お世継ぎ様(毛利元徳)の小姓まで勤めた、高杉晋作ですら、家老に
はなれなかった訳で。高杉家は元就の代に臣従した、備後(安芸の隣国)の土豪で、
で、毛利家家中でも古い家柄なのにね。
あと長州藩初期財政を立て直した、益田も含まれるな、彼の功績は凄まじく永年家老を与えられた。
で、家老職はそうなんだけど、実質政務をとるのは、
藩校明倫館をいい成績で卒業した人だけなんだよ。
ま、長州は封建社会じゃなくて、官僚社会だね。
423 :
日本@名無史さん:04/09/15 00:47:41
>422
益田は石見益田の土豪で、旧尼子の家臣だろ?
安芸吉田以来の家系を押しのけて、永代家老への大抜擢か。徳川で言えば
、彦根の井伊家(旧今川家臣)みたいなものか。
備後の土豪の家臣化は尼子滅亡前の話だから、旧尼子の家臣は毛利家家臣
としては新参者だよね。
そう言えば、乃木希典の乃木家も、石見の豪族だよね。
戦国時代の乃木家の当主が希典なら「当家の主人は尼子家のみ。武士は
二君につかえずじゃ」とか言って帰農していただろうね。
そうすれば、旅順要塞の悲劇もなかった訳で。
ちなみに児玉源太郎の児玉家は、元就以前から家臣の分家。毛利家発祥の
地、高田郡吉田町には児玉と言う字名が残っているよ。
明倫館は入学制限があったのでは?入学は中級武士以上に限るとか。
直正は家康のお気に入りだったからな、直正本人は今川には仕えてないし。
でないとあの猜疑心の強い家康が筆頭にまでするわけない。
益田も児玉もノブヤボでも出てくるくらいの有名人だな、能力はショボイが(涙
で、入学制限なんかあったっけ?そりゃ最低限の学費はいるから、
貧乏人は無理だろうけど、制限されてたっけなあ(半知とかで苦しかっただろうけど)
確か武士階層以外も入学して勉強するだけならできた筈だが?
支藩校が領内に六つもあるし、本校は日本随一の大きさだし、
中級以上だけなら、支藩校までは必要ないと思うけど。
今と違って毎日、そして何十時間も拘束するわけじゃないんだから、
中級以上じゃいくらなんでも多すぎないか?
425 :
日本@名無史さん:04/09/15 01:29:55
>424
消防の時に呼んだ、伊藤博文の伝記で「足軽の自分たちは明倫館に
は入学できないよ」とぼやく場面があったので。
徳川も、金で武士になった、貧乏御家人出身の勝を陸軍総裁(老中クラス)
にまで、登用しているから、幕末の人材登用では薩長に負けないと思うが。
海軍副総裁の榎本も、親父の代に幕臣になった新参者だし。
>>425 勝と榎本が陸海総裁に就くのは、幕府が滅びて譜代大名による老中制が廃止になり、
純粋な徳川家家臣が徳川家のトップに立てる様になってからだよ。
427 :
日本@名無史さん:04/09/15 05:43:58
勝の祖先は、金で旗本株か御家人株を買っただけで、
「純粋」とは言いがたいのだがなあ。
プロ野球のオーナーは、譜代老中意識だな。
新参者は、下がりおろう。
選手の皆さんは、なにに比せるか。
429 :
日本@名無史さん:04/09/15 10:03:22
>>425 慶応3年までは館山藩主・稲葉正巳が陸海軍総裁。藩政改革に成功した名君で、
大名で最初に牛鍋を食った人物。大政奉還と同時に隠居してしまう。榎本や人見
は彼を頼りに館山に向かったが、藩士15名をくれただけで助けてはくれなかっ
た。館山は支藩で、本藩は山城淀藩。時の老中であったが誰もが知る最初に幕府
を見限った藩。
幕府は稲葉家(斎藤系)に見限られたのが運の尽きじゃないかな?ここのご先祖
は織田信長を討ち取り(斎藤利三・明智光秀筆頭家臣)、石田三成を見限った上
に一族を討ち取り(稲葉正成・小早川秀秋筆頭家臣)と、戦国時代以降歴史の転
換点で最も重要な役割を果たしている。トドメが幕府崩壊と…
稲葉家若しくはその家臣の人が現日本政権に叛旗を翻したら腐った日本の政府が
ひっくり返るのじゃないかなあと期待したり…w
>>429 正巳は、慶喜の抜擢とか。淀藩は尾張の助言で幕軍支援を断ったようで、
余り、差し出がましい家系とも思えない。
そういえば、ちょっと前、稲葉のジジイとかいなかったっけ。
431 :
日本@名無史さん:04/09/18 17:40:06
小笠原があまりにも・・・って感じでは?
日露戦争物語でちょっと江川が触れてたけど
その息子がまたとんでもないことを
432 :
日本@名無史さん:04/09/19 13:08:11
小笠原長生って東郷伝とか書いた人だよ。結構文才あるとおもうけど。
ペンは剣より強しというけれど、始まっちまったら、ダメだろ。
434 :
日本@名無史さん:04/09/20 14:27:59
鶴ヶ城の篭城戦について情報キボン
435 :
日本@名無史さん:04/09/21 22:27:27
長州藩は、討幕・尊皇攘夷。討幕については一貫している。攘夷は下関戦争後ゆらぐ。
孝明天皇は、公武合体・佐幕。ホンネは攘夷。
徳川慶喜は、尊皇・開国。しかし、表向き開国は言えず。
薩摩は、公武合体・攘夷から討幕・開国へ方針が180度かわった。
幕閣は横浜鎖港を主張して開国論を唱えた越前・土佐など親幕藩による参与会議を潰した。
肝が据わらず動揺と日和見をくり返してたのは薩摩だけ。
なんとなく女々しい・・・
薩摩:一貫して日和見
会津:一貫して佐幕
水戸:一貫して攘夷
長州:一貫して倒幕
薩摩は一貫して開国
薩英戦争やっているから、一貫して、は疑問。
つーか、一貫しているかどうかなんて意味無いだろw。
藩内の政治勢力が変われば方針は変わるんだし。
442 :
日本@名無史さん:04/09/23 22:29:38
>>434 城は藩士と家族の糞尿で便所が溢れて士気が低下し、開城となった…
これプラス米沢・仙台両藩が降伏し、その旗差が包囲軍の陣中に靡いた
のがトドメ。
包囲は東西北のみでそれも武家屋敷外周部分までしか攻め込めなかった。
南は空いたままだったため会津藩は出入り自由だった。
小田山の砲台からの攻撃も花火程度で城への実害ほとんどなし…開城後
五年放置されても写真の通りだった。
唯一一貫していたのは会津だろ。
長州は攘夷から開国に変わっているし。
長州は下関戦争で攘夷派はしぼんだ。ヤケドしないとわかんないの典型。
君子豹変ともいうが。
445 :
日本@名無史さん:04/09/24 20:36:41
>>443 会津も攘夷から開国に変わったんだけど。なにか?
443は会津と長州しか知らないらしい。
>>443 攘夷も開国も長州の昔からの方針なんだけどな。
外国と積極的に交易し、そして武器を輸入して攘夷している。
攘夷≠鎖国
小栗を更迭した時点で敗戦確定
449 :
日本@名無史さん:04/09/30 00:54:44
>>440 撮影戦争は売られた喧嘩で、開国を否定するための戦争ではないし。
原因の生麦事件は「交通事故」。
交通法規を守らない不良外国人が引き起こしたトラブルで
攘夷でもなんでもない。
450 :
日本@名無史さん:04/10/01 07:33:48
越前とか尾張とかの徳川系が幕府自体に協力してないから。紀伊も散々。
越前も尾張も時の当主は、よそから入っていたんではないのか。
で、元からの家臣に遠慮があったとか。
容保もそうだが、家訓が効いた。
452 :
日本@名無史さん:04/10/02 14:06:11
直轄軍がほとんど機能していないというか旗本で戦力になった
例がないようだ。まあお殿様なわけで戦えって言うほうが無理な話。
大名でも小笠原みたいに最後まで戦った例がないわけではないが・・
かえって敗戦の元になったようなところがありとにかく駄目だったような
気がしないでもない。
小笠原は譜代並で、関門海峡のお目付けだったのだろうが、長年いたんで
向こう岸の藩に篭絡されていたってことはないか。
ところで、この藩、元は礼式のお家?
454 :
日本@名無史さん:04/10/02 15:35:07
そんな感じ。分家とかいろいろだけど老中格だよ。例によって
石高が少ないのに参画権限はデカイ。・・・って有事の時に
使えねぇやつってことですよ。いわば三成。
スピリッツって週刊誌に載ってる日露戦争物語で子孫がまた
愉快な行動をとってます。華族の師弟が海軍に入って士官とか
ロシアとあんまり変わらない感じだったみたい。
455 :
日本@名無史さん:04/10/02 16:16:56
>>453 元は南信州の大名。武田信玄によって領地を奪われた。
江戸時代に徳川家の礼式として採用された。他の流派もあると思うが
明治時代に華族の礼式として小笠原流となり、現在は小笠原流しか残
らなくなった。
海外で小笠原流洋食作法すると時代遅れで恥じをかくから要注意
幕府って最後は、幕府陸軍とか言って、師団制取り入れてましたよね?
アレはうまく機能してたんですか?
たしか、立見尚文の指揮した雷神隊があれの一部だったような。
>>454,
>>455 古文書みたいな家なんですねえ。
コンビニの店先に座り込んでいるガキどもの、お行儀とかよくする運動など
やりそうもないね。
458 :
日本@名無史さん:04/10/02 19:56:36
>>455 もともと小笠原家は礼法の家柄。
室町幕府(義満)が制定した三管領四職等の
中に礼式奉行として武田家と小笠原家となっている。
460 :
日本@名無史さん:04/10/04 19:54:23
ヨシノブの腰ぬけ
これが全てだ
461 :
日本@名無史さん:04/10/04 20:03:50
薩摩には5〜6万の武士(下級も含め)長州には毛利の3万もの武士を飼っていたんだ
その他の西日本の藩は徳川方の親藩もふくめせいぜいが数千の武士
こういうのが南北戦争のお下がりの銃もあって十分に徳川に対抗できたんでそ
神君家康公のご威光にすがって、親方日の丸でやってきたら、どうなるかの
お手本を天下に示したのであります。
有り難い教訓に感謝しませう。
463 :
日本@名無史さん:04/10/08 23:07:31
_ -―- 、,へ -‐‐/\ 、 __
|「  ̄`ヽ、/ _.. `- ´-― `<´ |
| ┌‐/ \ !二ニ..ヽ, |
l |./ / ! l , l 、 ヽ\ l __ノ
t /.l l. メ、 / l l l.! l ∨ ,' ヽ レッツ
,>、ヽl. レ_,.ム_ ハ /! / |_ノ| ! / ) ageで
//〃|. |〃f「!:!` |/ ,レ-<.! ! イ.l ' / ございます!!!
,'〈/// .| .l └'┘ |f;_}〉ノ__ノレ <
! 〈/ ! | !. ``` 、_'_ ≡`/ ト、 `ヽ
|/| | l t {` / / .ト、〉 |/  ̄ ヽ
! .レ、__,ヽ、| ,\ `-‐' , イ l. ト、\
/´二_ヽ`ー'7`_ ー__l´ | ! | `' ,. -/
/ /,. - ― - 、7 ハヽ`ー- 、| | _,. -‐ ´ /
,'/ ,. -‐- 、 \ ゝ-) ,.!>-‐ " /_,. - '´
/´/ ○ / ヽ ヽ__,. ‐' / _,. -‐'"
ム ,' { } l _,. '‐ ' ‐-`、
-= ニ二.! ゝ、 ノ !-‐'  ̄`' ー -┘\
_ ... l  ̄ l i ヽ
464 :
日本@名無史さん:04/10/09 12:14:09
この時代の兵器レベルなら1000人くらいで戦争勝てる
らしいよ。
卑劣な薩長の連中は、まず降伏させた上で「天子さまの兵に返り忠すれば、罪一等を許されるぞ」と威す。
むろん、一議も無く承知する。
すると、京へ攻め上った罰だと言って眼をえぐる。
両目をえぐり取られて、盲目となったのを、「さあ、東へ攻めてゆけ」とかりたてるのだ。
「逆賊慶喜は東へ逃げちょる、追え、天子さまのお手先だ、さあ賊を追え」
東といっても、盲目にさせられてわからない。西も東も解りようがない。
「こっちだ、こっちが東だ、コケッコー」
手を叩いて、鶏声を聞かせ、顔中血だらけにした者が、その方へ向かおうとすると、今度は別の方で手を叩く。
「おい、東は反対側じゃ」と槍で突く。抜き身の槍である。或いは刀で尻を叩く。
追い立てるのに、白刃でやるのだ。たちまち尻も血まみれになってしまう。
「賊軍が東も知らんとか。立て、歩け、走れ」野良犬を追い立てるように、白刃で殴りつける。
全身血だらけになって号泣哀訴する者たちを、手を打って笑い、
「見たことか、賊軍はみんな犬畜生じゃ」嘲罵し、殺戮を楽しむ官軍に、大坂人たちは蒼白になって震え上がったという。
ただ、殺戮を愉しんだだけではない。震え上がらせた上で、「天子さまの軍」へ献金を申しつける。
これが明治政府の基礎となったのだから近代日本の夜明けどころではない。官僚政治の最も悪い形が発足したことになる。
非情冷酷、醜悪な権力主義だ。この連中によって、近代日本は作りあげられた。
今日の日本の不幸は、ここに端を発している。
とりあえず幕府が降伏した浪士を鰊蔵に放りこんで問答無用で300人以上を斬首した事実はあるが。
467 :
日本@名無史さん:04/10/10 11:04:30
実際は寛容というか殺戮を目的にしなくて勝てばいいって戦略だった
らしく適当に銃撃して別働隊を迂回させて挟撃、背撃。逃走路を開けて
おくと幕府側の兵はあっさり逃走するという仕組み・・・これ戊辰戦争
でほとんどの戦域で見られた。逃げないやつは、味方が後方に下がってる
ので各個撃破。桑名の一部は戊辰の最後の辺は真っ先に死地を脱し逆に
遊撃して戦功を上げ、後の明治軍部に評価されたという。不利なとこで
玉砕するのは、ただのバカということらしい。
政略的には、官軍に味方するという名目もあったので
日和見系も佐幕系も最終的に官軍に入っていることも多かった。
で抵抗しても降伏したらそのままってのばかりだったので大抵和睦してる。
意外だが小倉(小笠原は北海道まで戦ってるが・・)や会津も
潰されなかった。
将棋と同じで、取った駒はまた使う
469 :
日本@名無史さん:04/10/11 02:37:21
新政府軍の上官が、何か、金髪のロンゲのようなヅラを被っている
光景を映画などで見ますが、あれは何ですか?
>>469 127 日本@名無史さん 04/09/01 10:21
戊辰戦争で、官軍のエラい人たちって、
なんか変なカツラみたいな帽子かぶってるでしょ。
あれってなんですか?
128 日本@名無史さん sage 04/09/01 10:30
>>127 「赤熊」(しゃぐま)という戦国時代からある物
兜の装飾、敵の威嚇のためにつけられた。
129 日本@名無史さん sage 04/09/01 10:54
>>127 128に補足すると、ほかにも黒熊、白熊とある。赤だけではないよ。
元はチベットなどにいる、ヤクという牛の仲間の毛。
江戸城に秘蔵されていた物を、無血開城後に戦利品として官軍が被るようになった。
ゆえに、それ以前の戦いで官軍が被っているのは、厳密に言えばおかしい。
会津や五稜郭はともかく、鳥羽伏見とかで被ってる時代劇とかね。
戦利品は俗説だよ。そんなの秘蔵しないから。基本的に
最初から。防寒具っぽい扱いだったようだ。
ちなみに赤、白、黒でなんか藩ごとに色変えてる。
472 :
質問:04/10/11 15:17:45
質問ですが鳥羽伏見の戦いの時の薩長軍5000人はどうやって集めたのでしょうか?
長州からイギリスの軍艦に乗って神戸で上陸し上洛しようとしたところで徳川慶喜軍
に出くわして戦ったのでしょうか?
なんでイギリスに輸送されるんだよ、アホかね君は。
普通に陸路を歩いて行ったに決まっているだろ。
中国の大名はすでに薩長側に転んでいるので問題ない。
そもそも禁門の変とかどうしていたとおもっているんだ。
ワープした
475 :
日本@名無史さん:04/10/11 16:15:50
船だってば・・・。瀬戸内海とかそれで移動できるから
縮地法のできる将軍様を雇(ry
477 :
日本@名無史さん:04/10/11 16:22:57
新幹線で移動した
478 :
日本@名無史さん:04/10/16 13:58:01
新幹線とか鉄道はもっと後の時代だよ
479 :
日本@名無史さん:04/10/16 16:26:59
え?レールスターに乗ったんじゃないの?
JRも戦いを盛り上げるために車体に双方のステッカーを貼ったって聞いたよ。
480 :
日本@名無史さん:04/10/16 17:50:23
飛行機の方が早いが空港がなぁ
481 :
日本@名無史さん:04/10/17 13:34:34
ここはもう目茶苦茶だな
まともに答えるだけでアホらしくなる
>>477 新幹線で行くわけねーだろ。いくら掛かると思ってんの?
青春18切符で鈍行に決まってんじゃん。
483 :
日本@名無史さん:04/10/17 14:29:25
岡山と姫路の連絡の悪さにぶちきれたらしいな
484 :
日本@名無史さん:04/10/17 16:00:25
赤穂線で遠回り
485 :
日本@名無史さん:04/10/17 21:53:15
慶喜が大政奉還してしまった以上、一介の大名にすぎないのだから、あっさり負ける
のは当然だろう。議論するほどの話題かね?
>>471 藩ごとに色を変えてるというのも俗説ですよ。
487 :
日本@名無史さん:04/10/30 14:00:02
色分けは識別目的だったそうだよ。どこの藩か分からないから。
488 :
日本@名無史さん:04/10/30 16:21:19
軍服っぽいのが官軍。
489 :
日本@名無史さん:04/10/30 16:27:01
>>485 とはいえ徳川は400万石という圧倒的な国力を誇っていたのだから、
やり方次第ではどうにもなったはず。
慶喜がやる気無かったからといえばそれまでだけど、
薩長みたいに家臣が実質的に指導者になれば、
元々の力から考えて充分な戦力になる可能性はあった。
幕末の徳川に老中や若年寄級の武将や数千の旗本を生贄に差し出してまで
戦う根性を期待するのは無理な話だ。
>>489 なんだその電波なサイトは。
根拠ゼロで完全に妄想100%じゃねーか。
493 :
徳川は逆賊:04/10/30 22:13:42
徳川は豊臣家をあれだけ惨く滅ぼしたのに、薩長が徳川に惨い仕打ちすることを
「残虐」とか「武士道を知らぬ」とか言いたい放題だね。
494 :
日本@名無史さん:04/10/30 22:16:10
薩長の戦争は品がない。これに尽きるな。
イラクの民兵レベル。
495 :
日本@名無史さん:04/10/31 01:01:04
>>494 ???品のある戦争ってどんな戦争なんだ???
是非語ってくれw
496 :
日本@名無史さん:04/10/31 01:05:52
水戸家の人間が勅を無視するのは不可能。
しかも親父が烈公でその愛児で、有栖川宮の孫で
義兄弟で、いとこなんだよ。
497 :
日本@名無史さん:04/10/31 01:16:22
>496
烈公は皇室マンセーの人間なのに息子の慶喜を公家風に育てなかったの
かな?
嫁はお公家さんの姫君だが。
498 :
日本@名無史さん:04/10/31 02:15:01
>>497 なるべく徳川の中枢に近い、いいとこの家に養子に出したかったから
武家風に育てたんだろ。なんせ七男だからな
499 :
日本@名無史さん:04/10/31 03:31:02
>498
別に大名家でなくても、妻(慶喜母でもある)のつてを使って、京都
の公家に養子に出せば良かったのに。
大名の姫君が公家の若様に嫁入りするのは珍しいことではなかったし。
養子もありでしょ。
宮中に烈公思想を吹き込むと。
公家が武家から養子をとることはほとんど無い。
501 :
日本@名無史さん:04/10/31 13:50:32
スレタイに対して想像しうる範囲で
1・大政奉還した時点で諸大名が徳川家に従う理由が無くなった (識者)
2・モチベーション (サッカー解説者)
502 :
日本@名無史さん:04/10/31 13:57:06
>>490 400万石という国力…それは400万石の米がとれる(雑穀含む)土地を支配しているに過ぎない
武士は食うだけの存在 250年もった事が奇跡に近い
光圀以来水戸では楠木正成こそ武士の鏡として足利尊氏を逆賊と教育していた。
東北の賤民どもが幕府側についたため、例の法則が発動してしまったからに決まってる。
505 :
日本@名無史さん:04/11/01 19:30:00
陰謀論は、アホだけが真に受ける。
507 :
日本@名無史さん:04/11/02 11:56:10
505は何がいいたいんだ
もしかしてチョンの脊髄反射レスかよ?w
1.天皇が完全に新政府軍側に付いてしまっていた。
2.幕府軍・佐幕藩軍も最新鋭の武器を入手(幕府歩兵隊、庄内藩など)
していたり、士気も高い藩(会津、諸西藩など)もあったが、どちらかと
いえば横のつながりが薄い。
3.多くの藩が日和見的状況に陥っていた。
4.慶喜自体にカリスマ性が無かった。幕府内部にも彼に反発する勢力が。
5.近代装備の幕府歩兵隊は士気が低く、別に徳川家に縁も恩も無い
一般庶民から成っていて悪い意味で「傭兵」化してしまっていた。
509 :
日本@名無史さん:04/11/02 14:02:58
>>508 カリスマじゃなくてやる気のほうが無かった。
というべきだろう。
>>509 そうかもしれない。
関係無いけど、旧山一證券の最後の社長とかぶってる気がする>慶喜
初戦で大敗したのが原因だな。
これで形勢が一気に傾いた。
戦記小説とかだと、初戦負けて敵を領内深く引きつけて反撃とかいう方法をとる場合がよくあるが、
現実には、初戦で大敗したら日和見やら、裏切りやらであっという間に勢力が崩壊してしまうんだよな。
512 :
日本@名無史さん:04/11/02 22:30:50
>>511 後手から反撃に転じる様な戦い方は統制の取れた軍隊ならできる。
諸藩連合の多国籍軍で統制の取れていない軍隊ではとても無理。
513 :
日本@名無史さん:04/11/03 07:00:43
>500
大名家の姫が公家に嫁入りすることは多かったのになぜ?
大名の次男以下を引き取る代わりに持参金つけてやるとかいって養子を押し付けきても
おかしくないのにね。
公家は家柄や官位は高いが、金はないからね。
514 :
日本@名無史さん:04/11/03 17:28:31
政治力の差だよ。将軍でもなんでもなくなったただの無役につく義理
はどこにもない。しかも徳川家は分派しすぎて団結は皆無。徳川家で
最後まで戦った大名はいないのだ。むしろ官軍に協力することで徳川
宗家への寛容な処遇をという感じが多かった。
515 :
日本@名無史さん:04/11/03 17:28:53
家光の頃なら余裕で3〜4万人程度の兵隊を集められたと思うんだけど、鳥羽伏見で1万5000人の
幕府兵は少な過ぎませんか?
やっぱ徳川の力が相当低下したという事でしょうか?
>>515 純然たる戦闘員ということなら大差ない。
>>515 長州征伐で、12万は集めているよ、殆どが幕府の命令でいやいや出兵した諸藩の寄せ集めだけどね。
>>514 尾張徳川家は真っ先に見切っていて、今でも一種の自慢になってる。
内ゲバで自滅した水戸や思考停止状態になってた紀州よりはマシらしい。
>>487 由来のはっきりしてる現存品を見てみ。
実態は各人バラバラだよ。
520 :
日本@名無史さん:04/11/05 23:36:41
ま徳川慶勝は長州征伐で西郷と行動を共にした時点で獲り込まれたな
徳川慶勝って、どっかから入った、若い人ではなかったか。
尾張徳川の分家の高須松平藩出身
松平容保や松平定敬とは血の繋がった兄弟
ちなみに母親は烈公徳川斉昭の姉なので、徳川慶喜は従兄弟
523 :
日本@名無史さん:04/11/06 11:44:36
どうして大阪城で徹底抗戦しなかったのか?
皇軍も京都抑えても補給が続かないし、東進もできなかっただろうに。
はじめから戦う意思がなかったとしか思えない。
御三家や福島などの有力な親藩も寝返っているから、
大坂に留まるのは敵地のど真中に居座るようなもの。
525 :
日本@名無史さん:04/11/06 14:24:23
大阪城に篭城して秀頼みたいに焼け死ねばオモロかったな
526 :
日本@名無史さん:04/11/06 16:04:36
大阪で孤立したらヤバいやん。
江戸に戻るのは定石。
>>522 レス thanks。同じ兄弟で(後付けだが)皮肉。
>>526 定石だけど、徹底抗戦の末の逃亡じゃなくて、
率先して大将が逃げ出しちゃったらなあ……
529 :
日本@名無史さん:04/11/06 21:55:45
鳥羽伏見の時点で親藩は立場を明確にしてたの?
あと制海権は幕軍にあったんじゃないの?
530 :
日本@名無史さん:04/11/06 22:18:08
>>529 内戦だとあんまし制海権とか後の制空権とかは関係無い。
南北戦争みたいに水上交通が発達していたり、後の戦艦みたいに
強力な対地攻撃ができる軍艦があれば話は別かもしれないし、
外国が新政府軍に全面協力して海上封鎖をしたとでも言うのなら
海軍もいくらかは必要だけど、戊辰戦争では海戦が重要になった
ケースは少なかった(無かったわけでは無い)。
532 :
日本@名無史さん:04/11/06 22:43:52
制海権が幕軍にあれば大阪城に孤立しても
補給の心配がないので有利かとも思ったのだけど。
当時の輸送力でどれだけのことが出来るよ。
そもそも食料の大半は西日本や西回り航路から大坂とおって、江戸に回るわけで。
西日本が陥落した時点で、大坂どころか、江戸が餓える。
534 :
日本@名無史さん:04/11/06 23:13:37
なるほど、どうして箱根や中仙道で抗戦しなかったかとも思ってたけど。
薩摩と長州が反乱した時点で、江戸が持たなかったということか。
家康の江戸防衛思想も時代遅れになっていたわけだ。
長州が対岸落として関門海峡を完全に管理できるようになった段階で、流通網が崩壊したからな。
江戸では物価高騰が収まらず、米価は一時的に八倍にもなったという。
当時下関は日本屈指の物資集積所で、大坂への流通はここが管理していた。
(流通量を調整し、ここで価格が調整されていた、何故なら一気に大坂に流すと相場が下落するからね)
幕府の喉元が敵地にあったのが幕府の最大の失敗だったな。
四国丸ごとやってもいいから、長門は抑えとくべきだった。
慶喜の実家で反乱が起きているわけだが
家康の江戸防衛抗争のおかげで、東海道に橋がかけられず。
また大型船を禁じた為、流通が貧弱だったのが理由だったりします。
また江戸滞在で、武士の多くが江戸に滞在する為、一大消費地になり、
膨大な移入を行わないと、都市が維持できなくなっていた。
538 :
日本@名無史さん:04/11/07 15:11:31
よく考えると補給が続かない財政破綻の幕府が勝てる見込みは
ほとんどなかったわけだな・・・。
539 :
日本@名無史さん:04/11/07 15:50:47
?補給は江戸に直接運ぶとかできるわけだが
当時、フランスは日本の植民地化を狙っており慶喜が本気で薩長に国を渡すくらい
なら植民地になった方がマシと考えていたら日本を内戦の混沌に沈ませるくらい
はできた。やらずにさっさと引っ込んだ英断があったから今日がある
>>539 砲台や台場はあっても、五稜郭のような洋式城郭というのは少ないし、
純粋な洋式城郭となると五稜郭や龍岡城、函館戦争の時の四稜郭のような
野戦築城位しか残っていない。本当に泥沼化覚悟で内戦を推進したら、
近畿や東海道周辺にも洋式城郭があちこちに建ってただろうけど、
かわりに今の日本は無くなってただろうな。
541 :
日本@名無史さん:04/11/07 20:03:34
おそらくイギリスがついている薩長が長い内戦の末勝利したと思うが、
インドと同様イギリスの植民地になっていただろう
で、植民地解放闘争を経て独立し、今頃は急成長中の発展途上国
542 :
日本@名無史さん:04/11/07 22:24:15
武器が旧式のばっかだったとか?
負けたのは悔しい気。
まあ人材ロクなのいないしな
慶喜が嘆いてるし
A:西郷に匹敵する人材は誰か?
Q:藤田東湖です!
A:大久保利通に匹敵するのは誰か?
Q:原市之進です!
全然大丈夫!人材揃ってます!上様ご安心を!
慶喜は武士としてはスゲーカッコ悪いんだけど、人命損出を最小限に抑えて
新政府に権力を移譲した点は評価しても良いと思う。
合理主義者は世評など気にしないものだ。
慶喜も合理主義者の範疇に入る。
547 :
日本@名無史さん:04/11/08 11:46:37
慶喜は薩長の藩閥政治、富国強兵、日清・日露戦争をどういう気持ちで眺めていたんだろう?
548 :
日本@名無史さん:04/11/08 13:40:16
>>545 ……彰義隊も会津も榎本も空気嫁(´ー`)
>>547 かって豊臣残党が騒いだように、また自分をかついでひと騒動起こしたい輩が
よく来たが、体良く追い払ったよ。
551 :
日本@名無史さん:04/11/08 16:36:47
このスレの結論は慶喜が英断によってわざと負けたからでいいでしょう
戦力的には両軍は拮抗しており江戸決戦となった場合どちらが勝ったかは
分からない。
>551
戦力的に全然拮抗してないよ。鳥羽伏見では幕軍1万5千、官軍5千。
夢を壊して悪いけど、幕府軍は弱かったと思う。
慶喜の英断云々にしても、わざと負けるくらいなら最初から降伏したほうがいいと思うし。
553 :
日本@名無史さん:04/11/08 19:59:49
鳥羽伏見の戦いはいわば中立地帯での戦いで薩長両軍も相当苦戦を強いられた。
もし江戸攻防戦でフランスが全面支援したとなると薩長両軍がイギリスの全面支援
を受けないと勝利はおぼつかなくなるだろう。
長州征伐は敵地。鳥羽伏見は中立。江戸は地盤
554 :
日本@名無史さん:04/11/08 20:01:47
要するに慶喜は外国の手を全面的にかりてまで戦おうとはしなかった
それだけでも十分英断ではないか。実際フランスは相当幕府に肩入れしていたし
555 :
日本@名無史さん:04/11/08 20:11:37
残念だが慶喜の英断とか言ってる時点で相手にされてない
556 :
日本@名無史さん:04/11/08 20:45:40
俺が言いたいのは幕府方が本気なら両者共倒れ、日本滅亡のシナリオは
描けたのにあえてやらなかった幕府の勝海舟、慶喜は評価できるということ
インドでセポイの乱が起きたときイギリスへの協力者が極めて多かった
ことに比べると彼らは日本に実に誠実だった
>>555 みんな反応してるじゃんw。無知で会話に入れないヤツほど煽りを入れる。
慶喜はフセインみたいに最後の一人になっても粘る事が出来た筈だが、
あえてしなかった点はへタレで武士(もののふ)としては限りなくカッコ悪いが
一個の人間としては評価してあげても良いのではないかな。
まあ英断と言うほどカッコいいものではないかもしれないけど(w
>>554 慶喜は例えて言えば、
物語で悪役が最後に自爆装置を押すかどうかで、押さなかっただけ。
そこまで追い詰められたんだから、救いようのないアホなのは確定なの。
ただ救いようのない、外道ではなかっただけでさ。
560 :
日本@名無史さん:04/11/09 01:06:13
新政府側も結局慶喜を助命することで妥協せざるをえなかった
もし徹底的に追い詰めていたら江戸にフランス軍上陸というシナリオはあっただろう
561 :
日本@名無史さん:04/11/09 01:08:44
つまりこの戦争は始めから異国の目を双方が意識し続けた半分八百長の
ようなもので関が原のようなガチではなかった
562 :
日本@名無史さん:04/11/09 01:22:02
慶喜の晩年の写真ってみんな目が死んでるよな。
なんか本人は大政奉還した後も権力の座に就けると思ってたふしが
あるが、見事に失敗して後悔しまくりって感じ。
あ〜、あの時小栗の言うこと聞いてりゃあなぁ、とか多分思ってただろう。
そうかな、案外ノホホンと余生送ったんじゃねーのか。いろんな呵責はあったろうが
な、当然。そこまで向こう気や権力欲が凄い奴なら、大坂でもうちょっとなんかしたべさ。
>>560 世界の裏側まで、陸戦隊もってくるのにいくら時間と金がかかると思っているのやら。
すぐすぐ出来るわけね―じゃん。
またそこまで幕府に肩入れするとも思えない。
565 :
日本@名無史さん:04/11/09 12:06:36
幕府に肩入れしているんじゃないよ。フランスの狙いはあくまで日本の植民地化だよ
そのメリットがあれば陸軍投与くらいはできるだろう
また、当時フランスはナポレオン3世の帝政下でメキシコに介入(失敗)してる
ことからも日本への本格介入は十分ありえた。
566 :
日本@名無史さん:04/11/09 12:52:08
>>493 全く同感!
徳川のクソどもよ、てめえらが現在存在できていること自体明治政府に感謝しろ。
それどころか公爵にまでしてもらって何が不満だ。
本来なら徳川は豊臣氏にやった卑劣極まりない行為を徳川自体が受け、この地上から抹殺されてしかるべきチョソみたいな奴らだ。
>>565 政治的介入でなく軍隊を送り込んでいたのだから、フランスにとって実際に戦費が負担になってしまっている。
アメリカの政治的圧力によってメキシコへの介入を断念した以上、むしろ同じような愚を避けるとは思わないのか?
ひょっとして、君はギャンブルで負けがこむと頭に血が昇って泥沼に嵌るタイプかなw?
569 :
日本@名無史さん:04/11/09 13:50:35
570 :
日本@名無史さん:04/11/09 13:53:37
>>568 確かメキシコから完全撤退した時期が譜仏戦争の直前で大政奉還前後
は介入まっただ中じゃなかったっけ
フランスの撤退は1867年。
撤退する冷静さをもったフランス政府が、幕末の最終局面で日本に軍事介入するとは考えにくい。
572 :
日本@名無史さん:04/11/09 14:06:43
まあ、この戦争を理解するには当時の国際情勢と各国の国内事情が理解できていないと
なかなか難しい。薩長側のイギリスはどうだったのかなどなど
この当時のヨーロッパは精神の上では野蛮な未開民族の開明、経済上は市場の確保
を目的として植民地主義を推進していたのは間違いない。
天保の改革の時期あたりから世界史と日本史は完全に並列させて考えたほうがいい。
幕末は日本史の中でもダイナミックで魅力的だけど、
ちゃんと全世界の動きを把握しながら日本国内を見ないと被害妄想の虜になってしまう。
単に列強の本国であるヨーロッパだけ見ていても駄目で、
本当に世界規模で動きが活発だった時期だし、存在感の薄い感のある南米の動きも重要。
おまけに、後に枢軸国として台頭する国々はいずれもこの時期に大きな政治変革を経験している。
574 :
日本@名無史さん:04/11/09 15:20:32
山岳が多く、剽悍な日本人との戦争でフランスが陸戦隊を送るとは
考えにくいけど。
武器供与の代償として領土割譲や、輸送支援くらいはやったかもしれないね。
>>569 ベトナムがフランスの統治下に入ったのは、
1887年なんだが、なにわけのわからんことを言っているんだ?
平日昼間からお疲れさまです(苦笑)
馬鹿だから職にもつけず、学校にも行けない現実を、少しでも忘れられたらいいですね。
>>576 モマエも忘れたいんだな。オレはもう数分で帰れる。
さっそくニートくんが釣れてますね(笑)
今日、昼間「徹子の部屋」に第18代ご当主が出ておられた。
旗本が武具を質屋へ入れているのを吉宗が聞いて、それでこそ家康公の念願だった
平和というものとの挿話を話されていた。吉宗のころから、旗本は武具なんぞ
身の回りにも置いてなかった。幕府も防衛予算ゼロ状態だったらしい。
>オレはもう数分で帰れる。
変な見栄をはるところなんかカワイイネヽ(´ー`)ノ
>>562 別に好きこのんで権力者の将軍職に就いた訳じゃない。嫌々だった。
だから権力を放り投げるのもあっさりしたものだった。
583 :
日本@名無史さん:04/11/13 12:30:33
金のない権力者って結局ダメでしょ。
小栗なんか幕臣の5割給与カットとかやっちゃってるし
そりゃイヤにもなるよ。
外国からの借金でどうにかしようとする無能な小栗
とか勇ましいこというわりに負けばっかりの小笠原とか
こいつら将軍を苦しめるためにわざとやってんのか?
584 :
日本@名無史さん:04/11/13 16:36:57
いわゆる「最後」の大政奉還までに、慶喜は同じ様なことをやってるのよ
『そんなに幕府に不満があるんだったら、あんたたちがしなさいな!』ってなことを
だれか詳しい人 後宜しく^^
585 :
日本@名無史さん:04/11/13 17:08:16
慶喜じゃないが、家茂も将軍返上を言い出し幕臣に止められている。
将軍職はよほど嫌な役職なのだろう。
586 :
日本@名無史さん:04/11/14 19:05:46
家茂は無能で無責任なアホだから、連合艦隊に最後通牒つきつけられて
頭がパニくって将軍職捨てて逃走しただけ。
慶喜が死ぬ気で条約勅許とって解決。
家茂辞表提出の原因は勅許無しで兵庫開港を強行しようとした
幕閣の官位を孝明天皇が剥奪し幕府内の人事に対しての朝廷の介入に
反発した幕府強硬派が家茂に勧めた為。
588 :
愛のエメラルド:04/11/14 22:04:18
私は薩長が勝ったのは、しごく当然だと思うな。錦の御旗にしても事前に
準備をしていたんだな。事前に準備をしていなければ、錦の御旗は立てられないよ。
薩長軍にしても事前に、戦闘準備をして上京してきたんだな。
長州軍総指揮官の山田市之允の戦術は、1対1の勝負はするな少ない兵を損ねて
どうする、物陰から集団で銃を打ち込み、敵が怯んだ所で一斉に飛び込むと言うものです。
又、敗れた時の事も考え、撤退場所も事前に決めて置くと言う用意周到ぶりです。
徳川軍も勢いはあったけど、戦術面ではかなり差があった気がします。大名行列じゃあ
あるまいし、道路を縦一列で行進するなんて・・・・ノンビリしすぎる・とろい。
徳川軍が鳥羽伏見で大敗したのは、当然じゃあないの!!。
http://gj0012.hp.infoseek.co.jp
589 :
日本@名無史さん:04/11/14 22:20:02
>>587 詳細はそうだが、連合艦隊側は条約勅許が無ければ本気で戦争するつもりだった。
日本の存亡がかかった一大事に、家茂が将軍職をほっぽりだして逃走したのは事実。
590 :
日本@名無史さん:04/11/14 23:01:51
結局幕府軍が滅んだのは無脳な徳川慶喜のせいでした。めでたしめでたし
590=彦根必死だなw
592 :
日本@名無史さん:04/11/16 14:50:30
無能な将軍が続いたんだな
日本が滅びなくて良かった良かった
新政府さんのおかげです
593 :
日本@名無史さん:04/11/16 17:32:47
幕末の原動力になったのは
下級藩士なんだよなー
今じゃ、引きこもりがそれに位置する
お前らで番だぞ!w
594 :
日本@名無史さん:04/11/16 17:39:40
国防を説いた海国兵談などを発禁にする平和ボケ政権だから負けて当たり前
595 :
日本@名無史さん:04/11/16 19:20:14
>>593 マジで糞な官僚共を除けるのは俺らかもな
ミイラになるなよ
597 :
日本@名無史さん:04/11/16 23:03:45
総括
慶喜を将軍にした幕府がアホだった事で
歴代将軍を見ても慶喜は1、2を争うほどの賢将軍だったが
598 :
日本@名無史さん:04/11/16 23:53:37
家茂が救いようも無いほど無能な将軍だったから
慶喜が幕府建て直しに尽力せねばならなかった。
勅許無しで兵庫開港しようとした幕閣もバカだし
家茂は国家の一大事に将軍職をほっぽりだして逃走し慶喜に叱られている。
599 :
日本@名無史さん:04/11/17 08:32:04
>家茂は国家の一大事に将軍職をほっぽりだして逃走し慶喜に叱られている。
結局慶喜も同じ様な事をやっている
600 :
日本@名無史さん:04/11/17 13:42:26
>>598 本気で言ってんのかよ。俺は嫌いだけど、井伊直弼とか小栗上野介あたりがテコ入れ
しようとしても無理だったんだ。時勢を勘定に入れろ。将軍なんざ、誰でも無理。
最後の大変なときに、身体の弱い家茂じゃなかったのはよかったし、慶喜じゃなけれ
ば少し幕末の様相は変わったかもしれんが、どのみち明治突入は避けられんよ。
601 :
日本@名無史さん:04/11/17 13:51:26
>>600 ほっとけ
こいつはどこでも下手な擁護しては論破されてる慶喜ヲタ
602 :
日本@名無史さん:04/11/17 21:57:46
家茂はそんなバカだったっけ?
603 :
日本@名無史さん:04/11/17 22:25:46
斬新!
ひきこもり=下級武士 説
目からうろこが落ちますた
慶喜=小泉 かな
604 :
日本@名無史さん:04/11/17 23:50:49
家茂は誰がどう見ても無能。
有能だったなんて信じてるバカはいない。
伊達宗城のことをよく知らないんで、本を買って読んでいるが、この人のおじいさんが
大阪町奉行時代、江戸から増税して金を寄越せと言われて、切腹して断ったというのが
ある。家斉の時代らしいが、大奥の奢侈で金が要ったらしい。
増税できない事情を何回も手紙にして幕閣に訴えたが無視された。後、増税は沙汰やみ。
家茂も将軍に据えられるときは、ま、お家の事情が優先して、幕府の上つ方は
どうしようも無かったみたいだ。
旗本の元気のいいだけが取り柄のヤツが鳥羽伏見で暴発して、自滅の道を歩み
始めたってとこだろう。
606 :
日本@名無史さん:04/11/18 09:58:12
>>598 家茂の辞職は兵庫開港強制を呑んだ老中二名の官位剥奪に怒って抗議したもの。
逃走ではない。
能力的には底が割れる前に死んでしまったが、
旗本や幕臣たちにこれほど敬愛された将軍はいないのではないだろうか。
608 :
日本@名無史さん:04/11/18 23:46:26
>>606 怒って抗議したなんていうと聞こえが良いけど、内実は惨めなもんだ。
罷免された老中らも家茂も、「勅許など要らん」とタカ派的信念があったわけでもなく
勝手に開港なんかしたら、後が収拾つかないのをよく分かっていた。
阿部正外は外国艦隊側との会談で、「新たな開港には、条約勅許が必要だ」とはっきり述べている。
ところが彼らには、勅許を獲得する政治手腕も才覚も、根性もない。
タカ派的な信念というより、自分らの無能さゆえに進退窮まって、無勅許開港で
外国艦隊の許しを乞うしか方法がなかったのよ。後先も考えずね。
慶喜からすれば、こいつら救いようも無いバカだと呆れたのも当然で
自分が勅許をとるからと、幕府のために、無能な無勅許開港方針をひっくり返してやったのよ。
家茂は顔から火がでる程の大恥かいて、自ら参内して勅許を要求するなどの根性もみせず、
事態打開への努力を全く放棄してメソメソ泣くしかなかった。
家茂はみんなに愛されていた。
それで十分だ。
家茂は足利義尚みたいなイメージがある。
幼少のうちに自分の意志とは無関係に担がれて、争いに巻き込まれる。
で、将軍就任後威信を示すために討伐するが、陣中で没してしまう。
短命だったので、これといった成果を残せず、
マイナーな将軍として埋もれてしまう。
家茂は能無し。能無しが将軍じゃ立ち行かないのが
家茂のお陰で誰の目にも明らかになったから、後任が慶喜になった。
でなけりゃ、あれだけ嫌われた慶喜が将軍になれるわけがない。
政治を司ってたのって、だいたい大老とか幕閣クラスでねーの? 結果を将軍に
持ってって許可くらいは得ただろうけど。ああしろ、こうしろ、って将軍が指図
してたとは思えん。吉宗クラスの優れた将軍なら別だが、そうそう出ねーよ。
慶喜は確かにけっこうリーダーシップw取ろうとし、周囲も許したんだから、
無能とは言わんけどな。
つまり無能ですね
能のないいい方
家茂って慶喜に殺されたんじゃないかな。
ここには、慶喜マンセーとアンチ慶喜しかいないのかぁw。殺したにしては動機薄すぎ。
で、慶喜は無能ではない。歴代将軍能力値ってもんがあれば、平均値は間違いなく超
えてる。でも、「権現様以来の傑物 家康の再来」は誉め杉、てとこ。
慶喜本人は、人物といえるだろうが、家康と比べると、違いは子飼いの家臣に恵まれて
なかった点では。いわば孤軍奮闘だった。
618 :
日本@名無史さん:04/11/21 17:28:39
有能とか無能とかって、相対的なもんだよ。
確実に言えるのは
慶喜は無能な将軍でした、という視点に立つならば家茂は池沼以下の廃人だし
家茂が英明でした、という視点に立つならば慶喜は神ということ。
619 :
日本@名無史さん:04/11/21 18:13:43
620 :
日本@名無史さん:04/11/21 18:25:10
結局
装備・・・やる気のない幕府旗本>薩長>やる気のある幕府軍
士気・・・やる気のある幕府軍=薩長>>>やる気のない幕府旗本
で、指揮系統がまとまっていれば幕府軍が勝っていたかもしれないのか?
伝習隊等がまともに機能していたら
ちょっとは変わったんだろうか……まだ数が足りないか
大坂に逃げ帰り、諸外国には強気なところを見せておきながら
為すところなく大坂退去って時点でもう終わってたのかな幕軍は
百何十年もたって、まだ幕府軍に勝たせたいの?
623 :
愛のエメラルド:04/11/23 19:49:53
市ィと慶喜が、がっつんこ
私は、徳川軍と薩長軍の違いは、まとまりの違いだと思うな。薩長軍は全員が一丸
となって、戦闘を望んでいるのに対し、徳川軍はまだら模様。命がけの者もいれば、
平和ボケした者もいたんじゃあないの。だいたい、徳川慶喜の腰が据わってないよ。
西軍と東軍が激突した関が原の戦いと同じだよ。東軍が徳川家康で纏まったのに対し
西軍はバラバラ、まだら模様、やる気のある者もいれば平和ボケした者もいた。
戦争というのは、一丸となって突撃するやつが強いのさ。徳川軍も情けないね。身長僅か
151CM,24歳の若大将山田市之允の陣頭指揮・突貫の声に、哀れ身長151CM徳川慶喜も土方歳三も
沖田総司も、あっちらこっちらと逃げてった。
http://gj0012.hp.infoseek.co.jp
勝ったはずの官軍兵士も
10年後にはアボーンされたわけで...
命がけで戦うのがばからしくなりますな
>>624 >>命がけで戦うのがばからしくなりますな
その通り。しかし、食い詰めていると戦いに活路を見出したいと思う人も
いる。自分が死んでも、家族や子孫が繁栄するかも知れないと考えて、昔
は戦った。困るのは他人を巻き込むことだ。
現役自衛官だったら626は神
そうじゃなかったら626はゴミ
628 :
日本@名無史さん:04/11/25 19:50:05
>家茂って慶喜に殺されたんじゃないかな。
長州の息のかかった人間に毒殺された可能性が高い
電波を流すなよ、疱瘡で死んだだけだろ。
あほかーい。家茂を外部から暗殺できたのなら、そいつはゴルゴ並みの天才さ。
逆に内部からなら、あるいは・・・・・・。
慶喜の前後の行動があまりに挙動不審だとは言っておこう。
長州征伐に自ら行くと言ってたのに急に居残りしたり、
江戸の帰るのを頑なに拒んだり、・・・・・・
それに引き換え、628には根拠がないな。
孝明天皇と勘違いしてるとか……それはないか
孝明天皇も家茂も容易に殺れるという点では慶喜が長州や岩倉よりも近かったことは確かだが、
慶喜は流血や謀略を好まない人間だったので可能性は低い。
633 :
日本@名無史さん:04/11/25 22:42:21
つーか、慶喜は戦争で戦国時代の群雄割拠状態となり
諸外国の草刈り場になる事を恐れたから戦争反対派だったんだよ。
腰すわってないもなにも、会津桑名幕臣が勝手に暴発しただけじゃん。
>>632 同意。よくも悪くも慶喜にはそんな度胸はない。武人としたらヘタレだと思う。
古ぼけた武門の頂点に立つ人間がヘタレで良かったと思う。勇ましく強権を発動
されたりしたら、それこそ被害甚大だったからな。幕末期の土佐の山内容堂が、
そのプチ見本だな。
635 :
日本@名無史さん:04/11/26 22:23:48
それはあなたの思い込みです
慶喜がヘタレなら、
条約勅許すらとれなかった歴代幕閣や家茂は、そのヘタレ以下のチンカスとしか言いようがない。
637 :
日本@名無史さん:04/11/27 13:23:55
そういうこと
どいつもこいつもヘタレだらけ
だから潰れた
おれもヘタレだが、教えてくれ。
幕府ってのは内政向けの制度で、外交は朝廷が古来担当とかの話があり、
条約の話になって知恵者が、それは朝廷に断らないとってなって、勅許
の話になったようにどっかで耳にした。井伊直弼はお構いなしでやった。
ま、古くは足利義満も貿易やって「王」をもらっていたとかあるから
井伊直弼が勘違いしても、むべなるかなとは思うが、こういう仕切りは
幕末、どこまで考えていたのか、知っているひと、教えてけれ。
639 :
日本@名無史さん:04/11/28 12:25:17
慶喜は実際有能だったのか疑問
有能だろう
幕府方で朝廷工作したの彼ぐらいだし。老中なんて高圧的なだけで何もしてないぞ。
慶應三年十二月九日(1868年1月3日)のクーデターを察知していながら、
手を拱いて岩倉具視らの参内を許したうえ御門警備から追放された。
これで禁門の変から攻守逆転した。
頭が良いだけの人。覚悟が出来ておらず頼りにならない。
それゆえ将軍として無能と判断する。
そうだな、学識者と実務家の適性差は抗い難いものがある
643 :
日本@名無史さん:04/11/28 14:08:25
頭が悪くて実務も出来ないのが大半でしょ
644 :
日本@名無史さん:04/11/28 14:09:54
>>642 言っちゃ悪いけど低学歴の負け惜しみに見える
慶喜は幕府勢力の中では最も有能だと思われ。
歴代幕閣の誰も獲得できなかった条約勅許を取れた一件で
それが誰の目にも明らかになった。
だから、あれだけ嫌われていながらも将軍になれた。
慶喜の限界は、幕府勢力そのものの限界ということさ。
慶應三年十月に、慶喜は先手を打って大政奉還した。
征夷大将軍職も辞退したが、朝廷はひとまずこれを保留した。
慶喜は諸侯会議のなかで主導権を取っていく選択をした。
ならばそれを貫徹すべきで、そのためにはなんとしても朝廷を武力倒幕派に
委ねるべきでなかった。
全国的には武力倒幕派はまだ少数だったし、だからこそ西郷達はクーデターを
起こしたり江戸で騒乱を起こしたりして慶喜が時間を稼ぐのを阻止した。
慶喜がここで判断を誤ったことが小御所会議での王政復古の大号令につながり、
秩序の崩壊を招き後日の大量流血につながったと思うんだが。
「判断を誤った」とは具体的にどの「判断」があやまりだといっていますか
そもそも誰がどのような「判断」をしたのかわかっているのですか
そりゃ欠席裁判を許したことでしょ。
それで王政復古と辞官納地が決まり、慶喜はそれをあっさり受け入れ
ながらそのあと大坂で6カ国代表と会って、天皇は名目に過ぎない、
今後も自分が代表であると言明。
戦争を避けつつ外国勢力も借りて主導権を握りたかったんだろうけど、
時間を稼げず挑発に乗らざるを得なくなって鳥羽伏見の戦い。
後手に回って混乱を招いてしまった。
クーデターの動きを知りながら、薩長軍に御所の門から追い
払われるに至ったところが判断ミスだと思う。逆に警備兵力を増強
し責任者に命じて、門を薩長に渡してはならなかった。
辞官納地なんか事前に分からないから後知恵だろと言われたら
それまでだけど、朝廷を敵に委ねないことは、主導権が欲しいなら
最重要だったのに変りはないと思う。
で、なぜ退いた大坂城内で将兵を焚きつける発言をしておきながら
その足で東帰してますか
大坂主戦派を黙らせるためとは言え、要らぬ混乱の種を増やすことは自明なのに
慶喜自身も混乱していた?
>>644 学識者がすべて適切な政治力を持つわけではないと言いたかったわけだが、
そう見えるか。これから気を付けるよ……
>>649 混乱してたんでしょうね。
本当のところは知る由もない。
レイテ沖の栗田艦隊の謎の反転のような不可解さを感じる。
意に反して主戦派に担がれて、汚名を着るとか暗殺されるとかの
恐怖を感じたのかも知れない。神経衰弱だったのかも知れない。
それでも責任者として言行を一貫すべきだった。
結果的に混乱と流血を増やしたと思う。残念だった。
652 :
日本@名無史さん:04/11/30 03:33:25
つまり将軍におよそ向いてない、無能の人だったわけだ
子供はつくったから、不能ではなかった。
654 :
日本@名無史さん:04/11/30 20:37:37
>>649 主戦派に無理矢理言わされたんだよ。知らなかったの?。
士気鼓舞は慶喜の意志ではない。
655 :
日本@名無史さん:04/11/30 21:59:35
>655
横レスだけど、『徳川慶喜公傳』と『昔夢会筆記』にある。
前者は「慶喜公を刺してでも上京して薩摩を討つ!」と言いながら
老中連中につめよったいう兵士の言葉。
後者は、慶喜自身が「兵士たちが勝手に上京しようとした」と述懐。
657 :
日本@名無史さん:04/12/01 02:56:29
>>656 なんだそれしかないのかよ
澁澤栄一が元の主君の慶喜を悪く書くわけないし
一方は後から自分に都合良く述懐してるだけだし
しかし自分のミスを全部部下に押し付けるとはねぇ
本当に酷い奴だな慶喜は
658 :
日本@名無史さん:04/12/01 07:38:28
>>657 ソースが出て必死に抵抗を始める厨房w
みっともないねぇ
>>654 言わされたで終わらせてしまったら
最高意思決定者である将軍位として無能であると結論せざるを得ないな。
兵を騙して東帰恭順するにしても、後を任せる何者をも置かず、上層部だけが遁走……。
もし残った戦力が慶喜の意に沿わず上京を開始していたら
どう言い訳するつもりかね。同じく会桑あたりの勝手な振る舞いだと逃げたか?
660 :
日本@名無史さん:04/12/01 13:33:53
>>658 ソースが出てからじゃないと反論しようがないが?
おまえしょうもないバカだなw
>>660 本気でそう思っているの?
だとしたらお子様ランチでも食べてたらどうよ
実際慶喜は二条城に水戸藩兵だけを残し会津・桑名・旗本を引き揚げさせたし、
しかも水戸藩兵に徹底抗戦を指示しなかった。
664 :
日本@名無史さん:04/12/01 20:44:32
会津桑名の両藩主も慶喜と夜逃げしてますが。なにかw。
慶喜は水戸の勤王思想にどっぷり浸かった人物。
どんなに頭が切れようが、天皇に弓をひくような選択肢は入ってなかったんだよ。
>>648がいいこと書いているけど、
判断ミスじゃないんだよ。御所に自兵を送るとか、御所に攻入って薩摩を駆逐する、
そういった選択肢を慶喜はもちあわせていなかった。
それが徳川にとっての悲劇だし、このスレに対する答え。
おまえらなー薩長が勝ってよかったジャマイカ
幕府が勝ってたら今の世の中も変わってただろうよ
667 :
日本@名無史さん:04/12/14 19:35:37
age
668 :
日本@名無史さん:04/12/20 23:04:58
age
669 :
日本@名無史さん:04/12/20 23:09:27
>>666 あまり変わらなかっただろうという話もあるが。
少なくとも、明治新政府と徳川幕府と、対外政策に大きな違いはない。
670 :
日本@名無史さん:04/12/21 07:51:47
年貢と税金の違いで経済的には大きく違うだろう。
671 :
日本@名無史さん:04/12/21 07:59:21
慶喜は頭はいい方だが
戦いは出来ない男ってイメージだな
672 :
日本@名無史さん:04/12/21 20:21:17
>>331 >会津を今でも逆賊なんて呼んでる奴なんていませんよ
失笑。会津と会津人は今でも逆賊だよ。
673 :
日本@名無史さん:04/12/21 20:45:12
>>665 悲劇でもなんでも無いだろ
そんな慶喜を将軍にしたのは幕府な訳で薩長には関係ないこと
それが幕府の実力です
674 :
日本@名無史さん:04/12/21 20:49:15
鳥羽伏見の戦いで一番まっさき駆けて逃げたのが上級武士
下級武士はそこそこ戦った
それを知った徳川慶喜は徳川再建をあきらめた
現代と同じ、泥舟日本から個人資産をぜんぶ海外へ移して
いつでも移住OK体制の高級官僚と同じ
割りを食うのはいつも下っ端。
675 :
日本@名無史さん:04/12/21 21:36:37
↑小笠原必死だなw
677 :
日本@名無史さん:04/12/21 23:26:51
あれだ、旧態依然とした体制の限界ってことだ
678 :
日本@名無史さん:04/12/21 23:55:58
無能に扱えるわけが無い
慶喜には仮病で逃げて布団の中震えてるしか手がなかった
679 :
日本@名無史さん:04/12/22 20:00:17
逃げ切れず無謀な戦いを始めた会津と比べれば逃げ切った慶喜はエライ
>>671 禁門の変ときの采配を目撃しているので
薩摩人などは、慶喜を武将として高く評価していた。
小松など「慶喜は天下無双の豪傑!」などと絶賛。
>>680 > 禁門の変ときの采配を目撃しているので
> 薩摩人などは、慶喜を武将として高く評価していた。
> 小松など「慶喜は天下無双の豪傑!」などと絶賛。
そりゃ、米海軍の「かつて日本海軍ほどの強敵と戦ったことはなかった」と一緒。
本音は「それほどの強敵を破った俺様って最強!」ってこと。
>>681 >米海軍の「かつて日本海軍ほどの強敵と戦ったことはなかった」と一緒。
なら事実だということになるな
683 :
日本@名無史さん:04/12/25 01:06:58
慶喜は禁門の変で戦争指揮能力証明したけど
松平容保なんか仮病こいてぶるぶる震えて何の役にもたたなかったな。
684 :
日本@名無史さん:04/12/25 01:34:11
↑
ガチでバカ 可愛そうなバカを皆で暖かく笑ってやろう
685 :
日本@名無史さん:04/12/25 01:35:41
可哀相が正しいのだろうけど、あえて…
684が馬鹿でした。会津中将は鶴ヶ城でも失態を演じているよ。
板垣が母成峠を破り十三橋を越えた時点で容保は恐慌に駆られ、
城下を焼き尽くすことを命令し、すぐ城門を閉ざしてしまった。
哀れ城の外で放置された子弟は集団自決する羽目に。
おまけに城下が燃えているのを見た白虎隊まで集団自決した。
白虎隊の悲劇の原因は松平容保の臆病だったのだ。
嗚呼、なんて残虐非道な松平容保。
687 :
日本@名無史さん:04/12/25 12:07:43
慶喜は、神君家康公の再来と言われるほどの人材。実際恐れられていた
そうだよ。薩摩は、マジで殺す気だった。
ただ水戸家出身で先代の大奥に薩摩、天皇家から人が入って
いるので助命嘆願とか結構あったらしい。
白虎隊の悲劇って上官の命令を無視した結果だって聞いたことがあるが
白虎隊の経過
・最初は会津若松から東へ移動。(この時は上官がいた)
・母成峠から官軍が西進、隊は街道を離れ山中へ。
・上官、状況がわからず若松にいったん帰って聞いてくることに。(隊を離れた)
・隊士、待ちきれずに場所移動、迷子になる。
・飯森山の麓で会津若松城下の劫火を見る。絶望し集団自殺。
・上官、責任を責められて行方不明に。
場所移動はよくなかった。上官の命令無視とはこのことだろう。
だが、彼らを自殺に追い込んだのは松平容保の焦土命令だった。
>>689 俺が聞いたのは場所移動した後に上官に再会できたものの、
上官の命令(内容忘れた)に反対して山の麓で切腹という話だった。
…あれ、もしかして官軍と一戦も交えていないのか?
白虎隊って、隊長が食糧調達に行ったまま戻らず
そのまま政府軍との戦闘に突入し、敗走する途中で城下町の炎上を目撃したんじゃないの?
692 :
日本@名無史さん:04/12/26 11:25:47
じゃあなんで負けたの?
会津人が能無しだから。
695 :
日本@名無史さん:04/12/26 12:38:16
>>693 江戸軍事体制スレにいって聞いてみれば。
エロイ人が答えてくれるんじゃね?。
696 :
日本@名無史さん:04/12/26 21:43:40
↑
と、クズが申しております。
そう、会津が能無しだったのが悪い。俺は悪くない。
というか長岡と庄内以外は奥羽越列藩同盟はカス。
主力の会津、米沢、仙台なんかは重要拠点・白河を守りきれずに、
あとはズルズルと負けていっただけ。
701 :
日本@名無史さん:05/01/01 21:00:21
米沢と仙台を一緒にするは失礼だよな
あの変わり身の早さ、そして何より会津攻略の最立役者だからな
馬鹿だ馬鹿だよ 二本松は馬鹿だ
三春狐に騙された
704 :
日本@名無史さん:05/01/02 22:05:23
>>702 そんなに卑下することはない。仙台人こそこの時代における地上最大の馬鹿。
鼻の差で会津人が二位。蟷螂の斧を絵に描いたような長岡人が三位。
どんなに二本松人が馬鹿だとしても、せいぜい四位だから気にするな。
706 :
日本@名無史さん:05/01/03 23:44:34
>>1 長州藩に火縄銃と和筒を持たせて幕府軍と戦わせてみたら、
その「真実」が「底上げ」だとわかるだろうな。
畢竟、武装の差も実力の差なんだよ。ぼうや。
709 :
日本@名無史さん:05/01/04 08:45:43
>>700 米沢って、ヘタレ景勝がリストラで押し込められた土地だろ?
710 :
日本@名無史さん:05/01/04 08:52:45
肉美味いからいんじゃねーの?米沢牛(゚д゚)ウマー
711 :
日本@名無史さん:05/01/04 08:54:05
鳥羽伏見では双方の装備はほぼ同程度か、一部では幕府側が上回っており、
新政府軍5000に対する幕府軍15000の内、4000が洋式歩兵であった。
ってことを、何度言ってもわからないアフォがいるな。
ろくに働いてないけどな>洋装部隊
713 :
日本@名無史さん:05/01/05 00:52:03
指揮官と戦術がダメダメだったからだろ。
関が原では、薩摩がこのまま引き上げると後でナメなれると反撃しつつ脱出を
図ったように、一部旗本他がこのまま引き上げると後でナメられるとダメ元で
戦ったまで。薩長を潰しても大した恩賞にならないから元気は出ない。
サムライの意地を一兵卒まで皆が持っているわけではない。
勝った側も期待の褒美(待遇)は得られず、西南戦争などの反乱をしている。
715 :
日本@名無史さん:05/01/08 21:22:16
世界ふしぎ発見で戊辰戦争の会津藩やってますね
716 :
日本@名無史さん:05/01/08 21:25:09
717 :
日本@名無史さん:05/01/09 05:48:18
それにしても関が原の薩摩兵の凄まじさに比べると、幕末の旗本の弱さ・情けなさが目立つよなぁ。
実際、江戸時代の薩摩藩は徳川から一目置かれ恐れられていたが、明治の旧幕臣は舐められっぱなし。
もともと文化的な厚みのない三河の田舎侍が豊かさの中で腑抜けになったというだけだったのかな?
ひょっとすると創始者の性格の違いが幕末における両者の軍備の差になって現れたのかも。
718 :
日本@名無史さん:05/01/09 06:15:31
尊王思想が浸透していたからだろ。
賊にはなりたくない罠。
あるいは寧ろ幕府方のほうがより
尊王が身に染みついていた人が多かったの
かもしれない。
錦の御旗をでっち上げるなんてことは
恐れ多くて思いもつかなかった。
719 :
日本@名無史さん:05/01/09 08:19:34
>>718 単に無能が多かっただけだろ。
幕府方に尊皇思想が多かったら、
孝明天皇が攘夷を叫び会津藩が同調した時に幕府も攘夷決行したはず。
実際には、朝廷を無視し、会津藩を京都守護から解任しようとした。
720 :
日本@名無史さん:05/01/09 09:40:58
幕府は外国の強さを知ってて、開国せざるをえないと考え、開国したけど
攘夷訴えてた薩長に討伐される。でも薩長は開国。
幕府は槍玉に挙げられただけだ。
721 :
日本@名無史さん:05/01/09 10:02:32
開国の心構えが全然違う
幕府はなし崩しに開国し、諸外国の言いなりに不平等条約を結び
半植民地状態にした。開国した後も閉鎖的。
明治新政府は、開国して文明開化。諸外国に文明化した事を認めさせ、
不平等条約と撤廃させた。
722 :
日本@名無史さん:05/01/09 10:04:27
↑参考史料の提示を求める
723 :
日本@名無史さん:05/01/09 10:09:02
中学校で習ってないのかw
教科書でも見ろよ
ようするに体制がかわったことを外国にアピールする必要性から
幕府を倒すというデモンストレーションが必要だったわけだ。
戊辰戦争とは銃砲の撃ち合いで決したのではなく
空気の読み合いで決した戦争であった。
726 :
日本@名無史さん:05/01/09 16:41:26
ちょっと分からないので教えてほしいんだけど、
鳥羽伏見以降、慶喜にやる気がなくなったのは何故?
727 :
日本@名無史さん:05/01/09 21:57:55
あまりにも幕府方が弱いことに愕然としたらしい。
具体的には小笠原(小倉陥落)が敵情を過大に報告してたことと
主戦派の完全敗北っぷりに。
大久保や西郷ごときモノがいないと。
728 :
日本@名無史さん:05/01/09 23:56:06
もともと江戸幕府っていうのは徳川家のことだけを考えて作られたものだからな。
自分の保身のために国を売るようなことでもやりかねないイメージがあったのだろう。
諸藩が幕府を見捨てたのも無理はない。
729 :
日本@名無史さん:05/01/09 23:57:58
水戸の出身だから天皇陛下には逆らえない。
730 :
日本@名無史さん:05/01/11 06:28:52
水戸藩にしろ会津藩にしろ幕藩体制にどっぷり浸かってた藩というのは
イデオロギーから抜け出せなくなって、威勢はいいけど現実を把握する
力が弱くなるという傾向はあるかも。
その点、薩摩や長州は徳川政権下で半独立国といった形を保っていて、
幕府と朱子学の影響を抑えることができたのが大きいかもしれないな。
薩摩や長州の人々は、江戸時代に作られた形而上的な侍ではなくて、
リアリズムに基づいた独特の武士道を創りあげたし。
731 :
日本@名無史さん:05/01/11 09:55:08
>>730 会津・彦根は現実を一番良く知ってたよ。
1853年の黒船来航時、浦賀・富津の警備は会津と彦根だったんだから
現実を知らずに攘夷を叫んだ連中とは違うと思うが?
つーか
どの大名も、関ヶ原の際に家康を立てて当面の安堵を計っただけだから、
幕府に恩義があるわけではない。(味方についてくださいと書状を貰った側
だから)
毛利・薩摩・上杉は、「存続できないなら、もう一戦」って立場だったので、反
徳川色は代々残っていた。
なにより、建前上はすべての大名が「朝臣」であって徳川家の家臣ではない。
しかも、徳川家の内紛があり尾張・紀伊は日和見をした上倒幕に回り、他の
松平家も多くがそれに追随した。(これを見て、諸藩の親戚を頼って逃げる
旗本も大勢出た)
家柄上のプライドを掛けて幕府を守ろうとする者が、幕府側に少なかったの
は痛い。(親藩・譜代・旗本レベルでも幕府の安泰より当家の安泰が重要だ
った)
「久しぶりに戦乱が起きました。さて、どっちにつきましょう?」ってノリなわけ
だから、「幕府への不満が多々ある昨今、勢いは倒幕側」って判断が多かっ
たのだろう。
そのことが錦の御旗を引っ張り込む事にも役だった。
「幕府側が不利です。倒幕側についてないと、隠岐に流されますよ」って、
御上への耳打ちに真実味があった(w
幕府側の悪循環が、倒幕側の好循環だっただけ。
733 :
日本@名無史さん:05/01/11 11:53:00
幕府が負けた理由は、賊軍とされたから
それだけだ
京都では各藩士に禁足を命じ
あっけなく御所を明け渡して大阪に退いた途端
外国相手にでかい顏をする
慶喜さま……
735 :
日本@名無史さん:05/01/11 18:30:56
佐幕藩の最右翼で京都守護職で、現実を一番よく知っていたはずの会津が、
外国勢力の実力や、禁門の変での薩摩の洋式銃隊の威力を間近に見ながら、
軍制改革にまったく手をつけず、鳥羽伏見の惨敗にいたってようやく編成を洋式にした程度だったのは何で?
長州は独学で洋式戦術を身につけ、仇敵である薩摩と手を組んでまで新式銃を買ったが、
会津ならそんな苦労しなくても、幕府のお墨付きのもと、堂々と武器を買い揃えることができただろう。
幕府歩兵隊みたいに、現役フランス軍人に指導を受けるという方法も容易だったはず。
それとも努力してこうなったのか?
736 :
日本@名無史さん:05/01/11 18:54:05
河井のガドリング砲が足りなかっただけだろ。それだけだ。
長岡のガトリング砲は使い物にならない不良品じゃなかったか?
たしか、冷却機構がついてないとかいかれているとかで砲身がただれて
しまったとかいう話を聞いたことがあるんだが・・・・・。
738 :
日本@名無史さん:05/01/11 19:54:25
>>735 直前になって一大改革は始めてます。
神戸で山本覚馬がツントナーデル銃3000挺とケッペンの雇用を
契約したのですが、引渡し直前に鳥羽・伏見の戦いが勃発した。
1年おそく戦争になっていたら幕府・会津側は1万挺のボルトアク
ション銃を装備していた。
止めを言うなら会津藩財政は破綻していたので改革が遅れたとも
言えます。天保年間より浦賀警備、終わったと思ったら京都守護職
と…幕府が会津ばっかり使ったので、重要な時に会津が立ち行かな
くなったんだと思います。
>>737 長岡に買われたガトリング砲は欠陥品だったんだけど、佐賀に買われたのは故障知らず。
やっぱ売る方も足元見てるんだよ。
各藩(島津とか毛利とか)の家臣って、領地ってのはもってたの?
それとも殿様が全部支配してたんでしょうか。
741 :
日本@名無史さん:05/01/11 22:12:25
一応名目上あるよ。福原氏は宇部。国司は船木とか。
でも当主とか名目で福原氏なら家令の渡辺氏が司ってたりする。
福原って徳山毛利氏の子供で養子養子で実権とかなかったんじゃないかな。
島津藩内で私領が大きかったのは、「都城島津家(4万3千石)」。
これは戦国時代に独立国人だった北郷(ほんごう)氏が名を替えたもので、
江戸期もこの所領に藩の役人は入れなかった。他はあらかた宗家が管理。
ただし加治木・重富・出水・永吉(日置)・垂水・宮之城の各分家内部は
アンタッチャブルだった。反面、佐土原藩は独立藩だったが万年赤字で
宗家の命令に完全服従だった。
なるほど。
ではどこの藩の家臣でも、昔からある主だった家は領地をもっていると考えていいですか?
>>743 領地をもっていると...
くわしい人に解説してもらうといいんだけれど、
「領地をもっている」という定義をはっきりさせた方がいいのではないか。
その土地に古くからいて、開拓もして、所有権(まがいのもの)を持っている場合と
藩主から、知行地といった年貢徴収権を付与されただけの場合がある。
簡単に考えると、年貢徴収権だけだと、絞れるだけ絞るということになるが、
所有権(まがい)になると、気持ちも違う気がする。毛利元就の頃の国人は、
土地は自分のものという理解だったと思える。
なるほど知行地ね。
>>744 むしろ自分仕置ができる(裁判権がある)かどうかではないか?
内分大名でも、自分仕置権を巡って本家と争うケースはよく見られる。
たとえそれが一応幕府から大名認定されていて、町場付の居所(城か陣屋)を持っている
場合でも本家は分家の自分仕置を制限しようとする場合が多い。
(上位)
下記に加えて自分仕置権が認められている。
下記に加えて知行地内に居所を持つ
下記に加えて知行地内の行政権を持つ
知行地内の年貢徴収権を与えられている
知行目録で知行地は記載されているが年貢は大名家の代官が徴収している
(下位)
当然上位に行けば行くほど大名権力の求心力は低下するのは避けられない。
ちなみに、毛利元就の頃は領内の国人を完全に家臣化できていない。
むしろ家臣と言うより格下の同盟者と考えた方がよいと思っている。
>>746 くわしい方がおいでのようで、心強い。
挙げておられる、(上位)〜(下位)の分類は、大変面白い。
話題が江戸幕末で来ているので、江戸時代ってことでいうと、
>>741 のいわれる、周防・徳山(支)藩が一時、幕府に萩本藩からの独立?
を画策したことがあったのを思い出す。
また、子母沢寛の「父子鷹」で勝小吉が隣家・旗本岡野家が貧窮して頼まれて、
岡野家の関西の知行地へ金をひったくりに行く話を思い出す。
安堵状というのを見たことはないけど、権限の内容まで、書いてあるのかしら。
749 :
日本@名無史さん:05/01/29 14:29:07
思い込み厨房は会津の工作員なので、無視してください。
「会津絶対正義史観」以外を受け入れることができないので、
だれかれ構わず「それは、全てあなたの思い込みです。」のカキコをやって
スレを破綻させようとします。知識のない哀れな会津小説愛読者なんです。
武人が武をもって争う以上勝ち負けが全てであることは大前提のはず
変に教養を身につけてはいかんな
無駄飯食い階級の、文武両道とやらの自己満足のゆえに、納税者である庶民が
ひどい目に遭った
752 :
日本@名無史さん:05/01/30 11:57:42
まあ慶喜が戦争を避けたおかげで庶民は戦禍を免れた
わけだが・・・最大の英雄と言われる由縁だ。
領地を戦禍に巻き込み、自身の城や民家を焼き自らは
なにも責任を取らなかった藩主もいたりするわけだしし。
鳥羽伏見では勝つつもりが惨敗 そして大坂城から脱走・・・
豚一様は死ぬのが怖かっただけじゃないのかと
後半は「あ」のことですか 戦国期を過ぎてから出来た独特の家訓付な
家だけに、現実に生き残るか滅びるかよりも大義名分などの観念論が
大事だったのかな
活動の財源は結局租税なんだから、領民はおおきに迷惑だよね
現代なら、移住の自由があるからチャッチャと逃げ出すだろうな
754 :
日本@名無史さん:05/01/30 13:31:02
敵の回し者が大将なんだから勝てるわけが無い。
水戸出身の人間を将軍にしたのが大間違い。
慶喜は日本を薩長に売り渡した大奸物。
755 :
日本@名無史さん:05/01/30 13:48:02
薩長と水戸は日本の癌
幕閣が結果を出せない無能揃いだったから慶喜は幕府を見捨てたのさ。
総力を挙げた長州征伐でボロ負けするような組織に国の総領たる資格は無いよ
大久保や西郷は慶喜斬首を主張したのに岩倉も木戸も慶喜に罪一等をを減ずると主張して譲らなかった背景はなんだろう・・・
758 :
日本@名無史さん:05/01/30 18:05:05
揉めるからじゃん。基本的に岩倉も木戸も調整型。薩摩は、酷いこと最初にやって
後で寛容にして恩を売る。あれだよ。殴ってから後で優しい言葉かけて殴った側が感謝
するってやつな。
検証はできないけど、
生き物を殺さないというのは、仏教的な精神風土があるように感じる。
儒教だと、割と気にしない。「義」が優先。
薩摩は仏教を余り気にしていなかった。木戸は毛利で一向宗。岩倉は儒教では
ないだろう。井伊直弼はなんだったかはよく知らないが。
信長も仏教を旧勢力とみて弾圧した。
昨今、凄惨な事件が多いのも、そんな風土が薄らいだのではないか。
といって、仏教の提灯もちをしたいわけではないけど、埋め合わせる対策は
必要だろう。
薩摩は慶喜の首を取る為には損害を厭わず幕府軍と血戦する覚悟で、
岩倉や長州連中は慶喜を殺すにこしたことはないが、
その為にこっちが犠牲を出すのはいやだといった程度の違いかもしれない。
761 :
日本@名無史さん:05/01/31 20:52:17
というか木戸が強硬意見言ったことないよ。軍人が政治に口出すのを
嫌った人物だし。明治は薩摩を中心に軍人が勝手なことばっかしてる。
ていうか、「大久保や西郷は慶喜斬首を主張した」はどこから引用?
小説の創作な予感がするんだが。
予感的中!
764 :
日本@名無史さん:05/02/01 21:07:14
薩摩が強行に首を要求したのは、報復をする余力を残さないため。
島津家のお家騒動でも見られるように派閥抗争は、相手方のトップを
とことん潰すのが基本戦略。これはトップダウンで従う強固な組織形態
という伝統もあったようだ。長州に派遣されていた黒田が長州がトップに
拘らずに誰でも自分の意見を持っていることに驚いているが、トップの
代わりがいくらでもいるというボトムアップの対極なのだろう。
765 :
日本@名無史さん:05/02/01 23:31:22
会津の被害妄想も勘弁だが、長州の郵便番号制度を悪用したネクラな仕返しは
それ以上に許せない。
東京以外は原則北から0番なのになんで会津・庄内・長岡だけ飛び地のように
900番台後半なんだよ。日本の歴史が終わるまで(ほとんど人類滅亡までと
言っていい)修正されない…佐藤A作(山口県出身)露骨…
・・・なにが不満なのかわからない。
三宅島に100-1100があるね
一昔前、会津若松と山口かな?
市長どうしのインタビューでまだまだ和解できずみたいなの見た覚えあるけど
まだシカト状態続いてんの?
同じ旧仇敵同士でも、南部津軽(八戸弘前か?)はもう普通状態だよね?
769 :
日本@名無史さん:05/02/02 00:32:35
>>765 >原則北から0番
これはあなたの思い込みです。1番から始まり9、0と続いているだけです。
郵便番号は次の順番で付けられています。
東京→関東→東海→近畿→中国→四国→九州→沖縄→北陸→東北→北海道
>>769 つーか、むしろ本当に露骨な差別をした方がよかったんじゃないか?
トーホグだけ数字じゃなくて干支とか甲乙丙使ったりして。
771 :
日本@名無史さん:05/02/02 04:52:37
アホばっかり
所詮、自分が大事
772 :
日本@名無史さん:05/02/02 05:10:29
実際、薩長は徳川幕府から差別的な待遇受けてきたからね。特に長州は窓際族。
人材も金も不足していた。知恵もかw
優遇されてきた大半の譜代・旗本連中もいざとなったら日和見きめこんでいたわけだし。
人材も金も知恵も不足していた相手に滅ぼされた幕府wwww
なんでそんなにウケてるんだろう。
776 :
日本@名無史さん:05/02/02 21:08:32
まあ小栗が幕臣の給料大幅カットとかしちゃって
士気が下がりまくってたわけだが・・・
御恩が減れば御家人は働かないよね。
(*´д`*)
天保の改革あたりで明暗が分かれたな
米経済からカネ経済に世の中は移っていたのに
幕府はそれを認めたくなかった
時計の針を逆回ししようとして失敗した
この時に幕府の実質は瓦解していたんじゃないか
薩長はその変化を認め(というか大借金で認めない
わけにいかず)適応して金持ちになった
兵器を揃え洋式軍隊に切り替えることが出来たのも
経済力があることが前提だね
その辺をもっとくわしく。
シバリョウ読め
>>779 文春新書「大名の日本地図」なんて、各藩の改革が挙げてある。
天童(織田家)の将棋も武士の副職の結果らしい。
改革のための人材の多さにびっくりする。改革できなかったのは、彼らを
使うひとの見る目と気概だな。
小栗たん可哀相
783 :
日本@名無史さん:05/02/05 23:06:51
小栗は殿様だから人の苦労とか分からなかった・・・。
路頭に迷う人間よりも未来を取ったんだよ。
784 :
日本@名無史さん:05/02/06 02:42:11
小栗とか勝の足元にも及ばないし
勝のような無能なゲロ吐き男は問題外
786 :
日本@名無史さん:05/02/06 13:14:39
小栗のような無能なゲロ吐き男は問題外
787 :
日本@名無史さん:05/02/06 13:27:43
勝先生は咸臨丸で本当にゲロ吐いてまつ
幕府も官軍もトップらが共和制を知ったから
これ、本当だろうか
(前略)
これに驚いた長州や薩摩は慌てて直ぐ和平交渉をし、その代わりに、
新硝石を買いに上海へ家来を派遣したと聞くと、勝は膝を叩き、
「徳川家が今度、薩長と戦う時は、馬関戦争や鹿児島戦争の二の舞に
なるだろうよ」と、幕臣のくせに、土佐や長州、薩摩の連中に対し、
何時世の中がどう転んでもよいように接触しだした。しかし慶喜は虫が
好かずだったせいか、この情報を海舟は故意に知らせずだった。
だから、何も知らぬ慶喜は自信満々。
(続く)
慶応四年正月二日には、自ら大阪城で「討薩表」を布令して幕府軍を
出陣させたものの、鳥羽口や伏見の戦いで、僅か二千の薩長土の
兵士へ、三万からの幕軍が攻め掛かったはよいが、弾薬が殆ど不発の
状態で、
「これまで積み上げて在った大阪天満与力保管の硝石が、古くて用を
なしません」と報告を聞くや、慶喜は真蒼になって、直ちに小姓と偽って
城外へ脱出し、沖の軍艦で逃げてしまったのである。つまり政治的発表の
<恭順謹慎>の実体はこれである。
791 :
日本@名無史さん:05/02/06 21:40:22
,.、
,ヘ,_/:.:.`´`''`ーヽ
,r‐':.:.:,.、/ヽ:'ト、:'、:.ヽヾ;、.
_/:.:./!:,'´ , ',:!、,'.,!-'、'ヾ、ヽ
,':.:.i:.,',,l,-‐‐' 、-', ',:.',
/`''i:.:.i,' ! '、.,__,.. ノ,_:'、. あ゙〜〜あ゙ぁ〜〜〜……
! |:.:.,'、 _ノ _ '. `. ',ヽ、
.| !_:゙i ''ー; '´; r '''゙´ヾ', '. '. ',l:.':, ,.、
! ',-、 ; ; l ',. '. '..!::::.:':., /ヽ'';
',. ', ;、 ; ; | ', '. ,.':':,:::.:.:.゙::., ,.: '´ ,. '
'., ' 、.._; ; l ',./':,:::':,:::__,.:.:.';、 '´ /
'., .:,' l !‐- .,|.,__,.. ィ;´‐‐,'7;‐''l. i`!´ ,. '´
小栗たんを叩くなんて酷い人たちですね!
793 :
日本@名無史さん:05/02/12 13:57:02
江藤の小栗評じゃないけど間抜けだからな・・・。
小栗たん間抜けでもいいよ
腹黒よりいい
あのう、政治家で裏表ない人って、無能って事なんですが。。
ありすぎても困るよ
798 :
日本@名無史さん:05/02/15 15:24:46
一部を除き、300諸侯のほとんどが「徳川」を担ぐ理由が無くなったから
799 :
日本@名無史さん:05/02/16 13:08:09
連邦国家だったから。
大政奉還→王政復古 その時点で徳川家には、振る旗が無くなった
800 :
日本@名無史さん:05/02/16 15:42:31
禁門の政変に敗れ改易直前の長州が急速に近代武装することが出来たのは
一重にロイヤルサッスーン系ユダ(ry
801 :
日本@名無史さん:05/02/16 15:49:28
目に見える物量は優勢であったが、
威信、求心力は遠の昔に朽ち果てていたから。
はダメなのかい?
802 :
日本@名無史さん:05/02/16 16:08:53
装備が勝ってたのは伝習隊だけで
二次長州征伐以降の戦争は殆ど官軍による虐殺だったよ
近代兵器の質と量の差。これがファイナルアンサーさ
ナポレオンから贈られたシャスポー銃だかか
江戸城に眠っていたそうジャマイカ
上も下もやる気ねえ>幕府
しかし、銃砲といい軍艦といい
近代兵器への脱皮期に戦争があったというのが
804 :
日本@名無史さん:05/02/16 22:21:08
要は士気の差なんだろうな。
莫大な借金で俸禄を削りまくってた
幕府に殉じる連中はいなかった。
新撰組とか活躍した連中は、報奨金とかで
結構金を渡していたようだが・・・。
金を配る話になると、暗澹たる思いになるが、先の地震などの義援金も額を聞くと
すごいとおもうが、配ると一軒当たり数万円にしかならない。
旗本と新撰組では、規模が違うってことじゃないかな。
先の、ふるさと創生資金とかも、事業を始めて利益を生んでいる自治体もあるし、
ばら撒いて、もうどこへ行ったか分からないところもある。
806 :
日本@名無史さん:05/02/18 01:07:09
>>805 的を射てんだか、外してんだか…
かなり外してるっぽい
ただの閑話
まともな政ができなくて
黒船がきてから10日12代のおっさん将軍が死んで
13代14代みんな殺されてるんだろ。
そんで幕府嫌いの慶喜たんが大政奉還しました。
ついでに孝明さんも殺して
その辺をほっつき歩いてた15歳の少年を
天皇に仕立てました。
めでたしめでたし。
勝と慶喜がガン
810 :
日本@名無史さん:05/02/20 19:35:02
まぁ英雄ではあるが・・・その前の将軍が酷すぎたからな
処刑執行なら出来るがまともな殺し合いになると浮き足立つ幕府軍
812 :
日本@名無史さん:05/02/21 22:07:44
>>803 > ナポレオンから贈られたシャスポー銃だかか
> 江戸城に眠っていたそうジャマイカ
銃はあっても使い方説明書がありませんでしたから…
フランスで使い方&戦術マニュアルが出来たのが1869年
813 :
日本@名無史さん:05/02/21 22:27:40
シャスポー銃は性能はいいが、弾を自分たちで製造できないので港
を抑えられたら使えない銃。
814 :
日本@名無史さん:05/02/21 23:04:18
815 :
日本@名無史さん:05/02/21 23:18:51
江戸城無血開城した時
徳川家の財宝わはどこいった?
譜代・旗本の多くは、外様大名は嫌いだが幕府に恩はないと思っている
から、幕府の為だけに死にたくはないのが本音。
今時の日本国民だって、日本の存亡が掛かるとなれば命懸けにもなるだ
ろうが、今の政権のために命を懸ける輩は一人も居ない。目的が国のた
めであっても、時の政権の元に参集するとは限らない。命を預けられると
思う人を見つけてその元で戦うだろう。
817 :
日本@名無史さん:05/02/21 23:52:14
幕府と内閣を一緒くたかよ()テラワロスwww
幕府と内閣は違う要素が多いが、官僚の世界では、×××長官とか×××大臣とかは
旅人みたいなもんで、そのうちお移りになるから、ご滞在中は丁重に扱っておくってのが
あるようだ。(キャリアで立派な人もいるのは確かだが)
江戸時代も落下傘領主は、領民から見たら、そういう気分はあったんではないか。
旗本も時代が下って、無役とか長く続くと、神君のご威光ばかりを言っては居られないだろう。
勝海舟の父親の日記などにも、その気分は感じられる。
無血開城ができないときは、江戸を火の海にするための指図は、勝海舟も旗本ではなく
辰五郎などの「鳶」に依頼している。旗本をあてにしていない。ま、いわばこれも
民間活力といえるのかどうか。
819 :
日本@名無史さん:05/02/22 14:00:32
江戸を灰塵にしてれば勝も今頃叩かれまくりだろうなw
>>819 東京も逆に立派な計画都市になってたりしてw
生臭坊主と共に貴重な叡山の仏閣経典を焼いた信長は叩かれてない
結論:焼こうが焼くまいが勝てば官軍
>貴重な叡山の仏閣経典を焼いた
ソースプリーズ。
823 :
日本@名無史さん:05/02/22 16:50:02
>>821 叩かれてますよ。信玄とかは仏敵とか言って非難してる。で、本人は五障(梵天王、帝釈天、転輪聖王、仏身、魔王)の内、敢えて魔王を自称して「仏敵ですがなにか?」て開き直った。
自称してない
>>812 最新鋭のシャスポーが入っていたのは事実だが、銃器管理が
行き届いておらず、それこそ火縄銃から最新鋭のまで混交していた模様。
そのため、錆び付いてるライフルもあったようだ。かなりいい加減な管理
をしていたんだろうと思われる。
>>813 戊辰戦争の初期はシャスポーを使用していたが、銃弾やスペア
部品が枯渇して、箱館戦争の頃には旧式のミニエーなどに先祖返り
してしまった模様。銃弾の国産化も頓挫しちゃったみたいです。
あと、東北向けにガラクタを売りつける欧米の極悪武器商人も跋扈
していたみたい。
つかシャスポー銃装備してたのって幕府歩兵隊の中で更に伝習隊だけ
数が全然足りない
幕府陸軍というのはなんか最後まで統合失調な気がする。
伝習隊から古色蒼然とした旗本・御家人衆まで色々な部隊が
存在してしまって、一枚岩的な行動が取れなさそう。
慶喜にしても幕閣内に反対派がいたわけで。
828 :
日本@名無史さん:05/02/22 18:53:55
>>825 お聞きしたいのですが、シャスポー銃の弾丸ってどこで製造されたんですが?
フランスでは部隊配備開始は1870年なのですが。
>>825 > あと、東北向けにガラクタを売りつける欧米の極悪武器商人も跋扈
> していたみたい。
売り物もガラクタならば買う方もガラクタか。こりゃぁいいや。(w
830 :
日本@名無史さん:05/02/22 23:36:16
グラッバが薩長に藩の収入の八百年以上の借金させて売りつけたミニエー銃も
アメリカ南北戦争で使用されたスクラップ同然の中古品だったわけだが
831 :
日本@名無史さん:05/02/23 01:31:30
>>830 ふーん、銃にたいして差がないのに東北はボロ負けしたんだ
てことは武士の質が屑同然の劣悪さだったって事かねえ?
海音寺潮五郎の列藩騒動録を見ていたら、黒船がきた頃の老中の阿部正弘が
譜代大名が相談相手にならないので、伊達宗城や島津斉彬などを幕政に引き込もうと
していた話が出ている。ま、海音寺は鹿児島出身だから多少間引いて読む必要が
あるかも知れないが、開明的というか、海外事情に詳しい人が幕府に少なかった
ようだ。(全国的にそうだったとすると、奥州諸藩はより疎かったかも)
知らなかったが、家斉の嫁さんは島津から出ているとか。そんなこんなで、外様大名
への抵抗感がこの頃は大分減少していたみたいに感じる。
この後、流れが変わって、井伊直弼が政権を取るのだが、もうだめだと皆が思う
ようになったのだろうね。
833 :
日本@名無史さん:05/02/23 17:36:27
毛利も島津も徳川と姻戚関係持ってて松平氏を名乗ってたわけだが
834 :
日本@名無史さん:05/02/23 18:52:46
幕末のときの雄藩のほとんどが島津の親戚。
835 :
日本@名無史さん:05/02/26 13:13:07
>>818 冒頭はもっともらしいが、じっくり読んだら、かなり的を外してる。 と思いました。
>>834 それを言うと、結局は
「雄藩のほとんどが○○の親戚」という複数のロジックが成立する。
すべての道はローマに通ず⇒すべての道はクソ田舎の○○に通ず
が成立するのと同様だ。
>>836 そういう、言い方も可能だろうが、
いくさがなくなって、自分とこの保身に万全を期そうとして、ネットワークと
いうか、スバイというか、人質というか、そういう手段がはびこったということ
いうことではないか。
で、情勢がわかっている藩は、幕府ばなれを起こした。
838 :
日本@名無史さん:05/02/27 08:14:46
>>827 幕府陸軍は、それを率いた総司令部(幕府)とその指揮官(徳川家臣)
がアフォだっただけだよ。大鳥が率いたら北関東を席巻し、
破れても補給もなしに復活してなおも部隊行動してたろ。
これも、海音寺潮五郎の列藩騒動録からの引用だが、読み進んだら、
幕末に、軍隊としての武士が存在した藩は、薩摩と会津のみと指摘している。
一時期、島原の乱とかはあったが、大阪の陣以降、いくさがなくなって、武士は
文官化を求められて、上の2藩以外は、軍隊色をなくしていったというのだ。
それでも幕末、軍隊的行動をした藩は、長州、土佐、佐賀などがあるが、
佐賀が近代部隊を編成しようとしていた以外は、長州は奇兵隊、土佐は郷士
が主体で、正規の武士団は軍隊として機能していないという。
幕府もごたぶんに漏れず、軍隊がなくなっていた。(武力集団と軍隊とは違う
ことに注目する必要がある)
尚、後、会津は戊辰戦争で、薩摩は西南戦争で、軍隊としての武士(表現が変だが)は
壊滅させられる。
保守的な藩では、鉄砲を自分が扱うことを藩士は嫌がっていたらしい
あれは鉄砲足軽のやることだと言って
戦闘において槍や刀では激弱という自己認識もなかったわけだ
弱いのに強いと思い込んでる武士って、穀潰しという以上に有害
余談だが、
>>839 の続き。
軍隊としての武士が文官化させられるに当たって、うまく行かないところが
よくお家騒動を起こして、取り潰された。
江戸時代初期の武士は、いくさ功名で禄高が決まると思っているところへ、
財政だ、土木工事だで、うまくやって家老とかになると、やきもちを焼いて
派閥抗争を起こして、(タイミング悪く)藩主も代替わりして、統制が
うまく行かないとダメになってしまうという図式。
福島正則や加藤清正が石田三成を嫌ったと同じ伝。
前田、細川、藤堂などは、うまくやった例。
いくさ功名狙いの武士というのは、もめ事を起こして、藩がどうなろうと構わず
おのれの心情というか、我というか、個人プレイが優先するものらしい。浪人
しても再度仕官できると信じる単純さが、なんともいえない。
今でも、身につまされる事情ではある。
>>840 柳生宗矩が剣を修身の手段に高めたのは、いくさがなくなって、さりながら
剣を無用のものにすると、失業するので、「芸」として存続を図ったのでは
ないか。剣が武士の魂になり、いくさのしかたは忘れられてしまった。
ま、体よく牙を抜かれたのだ。お陰で250年余り平和だった。
843 :
日本@名無史さん:05/02/28 17:44:40
>>840 幕末に至っても当時の武士の平均ってそんなものだったのかなぁ。
844 :
日本@名無史さん:05/03/01 00:17:20
>>843 ま、だから徳川直臣の旗本たちが銃を持ちたがらず、歩兵訓練(指揮訓練)
をさぼりまくり、幕府は諦めて下級武士や町人百姓から幕府歩兵隊を作った。
そう中公新書の「幕府歩兵隊」には書いてあるな。
>>843 武士、武士っていうけど、もともと幕府というのは、軍隊組織を基本に分担というか、
階級が定まっているので、それぞれの地位、従って役目の人がその役割を果たせば
いいのだが、軍隊組織としての役目ができなくなっていたのだろうね。
下級でない武士がどのへんまでかは、調べないといけないが、近代軍隊の概念で
みると、将佐官、尉官クラスがしっかりしないといけないが、その辺がグウタラ
だったといえるのではない。(長谷川平蔵とか、八丁堀の七人ではその指揮例が
出る。)
似たような話で、今でも会社で災害時には、防災隊を組んで行動するようになって
いる(消防署の指導)が、東京にある事務所でいざとなると、テキパキできるかと
いうと心寒い気ががする。先ず指揮官が敏速に指示して大きな声で号令をかける
ことができるか(といっても避難中心だが)。
地方の事業所の方がはるかにうまい、てなことを想像する。
学校にもサスマタが入るそうだ。
先生も、サスマタの使用法を身につけなければならない。変な世の中になった。
847 :
日本@名無史さん:05/03/02 23:26:23
なんの得にもならない存在になりはてた
848 :
日本@名無史さん:05/03/08 13:09:55
旗本御家人て異常なまでの穀潰しだよな
849 :
日本@名無史さん:05/03/08 16:51:13
サスマタ
850 :
上杉斉憲:05/03/08 17:26:51
ス
ネ
ル
兄
弟
に
騙
さ
れ
ま
し
た
小栗たんは穀潰しじゃない
852 :
日本@名無史さん:05/03/10 11:36:18
小栗たんは硬派
853 :
日本@名無史さん:05/03/10 22:28:46
人の心がなかっただけだ。下々のことは思い至らず
人心を掌握する能力は皆無だった。
854 :
日本@名無史さん:05/03/10 23:12:42
国が苦しい時は仕方ないよ。
今だって同じでしょ
そりゃあれだけ裏切られたらなあ・・・。
鳥羽伏見なんて、関ヶ原がそのまま復活したような役者が揃って、しかも今度は
徳川を見捨てるという漫画みたいな展開だしw
856 :
日本@名無史さん:05/03/11 00:30:39
勝っちと慶っちが悪い
若くして亡くなられた家もっちと孝明天皇がry
858 :
日本@名無史さん:05/03/11 11:58:04
家もんと孝明たんは不可抗力なのに可哀相でしょ
859 :
日本@名無史さん:05/03/11 22:14:10
まさに因果応報だなw
860 :
日本@名無史さん:05/03/11 22:35:44
じゃあ長州と薩摩も因果応報だ
861 :
日本@名無史さん:05/03/11 23:23:51
新撰組が奮戦したのに敗れたのはどういうわけだろう?
いかに官軍の近代的兵器が強力とはいってもそのころならまだたかが知れてるのでは?
釣られたいところだが、ここはぐっと我慢だと思った。
863 :
日本@名無史さん:05/03/12 15:21:30
864 :
日本@名無史さん:05/03/12 17:09:29
廃れた県
865 :
日本@名無史さん:05/03/12 18:41:24
>>862 釣りではないけど。
新撰組は最強の剣客軍団だぜ?
剣客なんて戦争の最中には物の役にもたたんだろ。
護衛が精々だろ。
武蔵は戦場で碌な手柄を立てられなかったし東の柳生、西のタイ捨と言われた
丸目長惠も戦場では島津の釣り野伏に引っかかってボコボコにされてる。
>>865 君の大好きな新撰組副長、土方歳三自身が鳥羽伏見のあとで
「これからは槍と刀で戦はできません」と言ってるでしょうに。
長州は下関戦争で負けて、こりやだめだとすぐ改革した。
土方も長州征伐での状況を知らなかったのかな。幕府の人は、行って負けたのは
はずかしいので黙っている。行かなかった人はおれが行けばあんなもんではない
と何もしなかった、みたいに見えない?
三河以来の譜代の井伊なんかはボロボロに負けて総崩れの原因を作ったとか言われてるな。
前線を経験した武士たちは伝来の鎧が役に立たないのを知ると売り払って銃を買おうとしたらしい。
途中の経過は知らないが、彦根は早々に新政府軍に協力。大多数の武士は協力に
抵抗はなかったのは、そういうこともあったのか。心底が見えた感じ。
871 :
日本@名無史さん:05/03/14 10:15:58
彦根はおかま野郎のスクツだったのさ
減封されたうえ、因縁浅からぬ慶喜の幕府ではね。
873 :
日本@名無史さん:05/03/15 11:22:12
オカマ幕府か・・・
874 :
日本@名無史さん:05/03/15 12:59:35
彦根藩。
新政府に参加したけど、旨みがあまりにも少なかったため、
うらみに思って〜現代
彦根市民は今でも「彦根藩は佐幕派だった」と
カン違いしている奴が多いらしい。
長 野 主 膳
876 :
日本@名無史さん:05/03/15 15:14:55
877 :
日本@名無史さん:05/03/15 22:51:37
派閥争いで報復と粛正やってたからだよ。水戸や彦根だけじゃなくて
幕府の将軍人事でも分裂し団結力がなかった・・・
旧来の守旧派や改革によって特権利権を失ったことも大きい。
能力のあるモノは
むしろ新政府につくほうが理にかなっていた。
878 :
日本@名無史さん:05/03/15 23:12:22
>>869 井伊家がボロ負けして敗因になったというのは言い過ぎだろう。
事実井伊家がボロ負けしてはいるが、それ以前に幕府軍全体が烏合の衆で、
しかも幕府軍の中で戦う前から非戦穏健論が蔓延していた。
最初から戦う気が無い連中を、無理矢理戦わせた幕府本体の方が問題だ。
幕府軍は討幕派・反幕派を処刑したかったが自らが先頭に立って戦ってこれを討ち取るという事は避けたかった。
なんで新政府軍は、会津をあそこまでコテンパンに潰す必要があったの?
恭順の意を示してるんだから許してやればいいのに
881 :
日本@名無史さん:05/03/16 14:25:01
私怨
具体的にどんな私怨?
長州は8.18や禁門の私怨があるのは分かるけど。
>>880 あの会津の軍事増強政策は何だ?
そりゃ訝しがられるよな
それは新政府軍が攻めてくる気配があったからだろ
鳥羽伏見で攻めかかってきた幕府軍に会津勢が多かったのも
新政府軍の私怨を買ったのかな。
ところで薩摩軍が会津の町で大量殺戮してるのを西郷隆盛は知ってたのか?
西郷は平和主義者のように思えるエピソードが多いが、会津での惨劇に
対しては何も言わなかったのか。
>>884 なら、
「どうぞ、我々の兵士を日本国の為に使ってくださいまし」
と、会津兵のうち数千を政府軍に提供するべきだよな。
西郷は平和主義者ではないぞ。
敵対する武人の心を尊重する男だけど。
>>882 征長の役のとき容保が長州を討てと訴えてたような
平和主義者というのとはちょっと違うかもしれないけど、
西郷はけっこう慈悲深いイメージはあるのだが。
しかし新政府軍の会津への仕打ちは黙殺してたんだろうか。
何か言ったかもしれんな。残されていないだけかもしれんが
会津攻撃の司令官大山綱良は「もう少し穏便に処置できたはずなのになぁ」と
自分の指揮の拙さぶりを同郷の西郷宛ての手紙で愚痴っている
長州以外の、薩摩や土佐は、会津にどんな恨みがある?
会津を攻めたのって、主に長州じゃなくて薩摩や土佐だったんでしょ?
一度、殴り合いでもいいし、格闘技でもいいから、やってごらん。
気持ちが分かるんではないの。あなたなら何発目で止めるか。
始めると興奮して、立てなくなるまでやるヤツっているもんだ。
子供自分は暴れまわったもんだ。今思うとオカシイ。
そもそも戊辰戦争が起きた本当の原因って何なのか良く分からないです。
幕府の政策だと日本がダメになるから討幕するっていうのが、新政府軍の言い分
だったのかもしれないけど、具体的に幕府と新政府軍の政策はどこが違うのか。
海外との付き合い方に関してはすでに、幕府と薩摩と会津は開国して外国の文化を
取り入れたいという方針になってたから、そんなに違ってたとも思えない。
長州は日本が外国の言いなりになるのを嫌って攘夷になったけど、その原因の
井伊直弼は暗殺されたし、幕府はこれからは公武合体して皆の意見を聞くっていう
姿勢を見せてるんだから、それ以上執拗に討幕する必要もないような気がする。
新政府軍が討幕しようとした動機は結局、日本の将来がどうこうより、単に自分たちが
政治のイニシアチブを握りたいという覇権争い的なものだったんですか。
895 :
日本@名無史さん:05/03/16 23:00:38
>>894 全然違うよ。会津戦争は恭順交渉中に会津藩っていうか奥羽諸藩が世羅を殺し、
交渉のテーブルを先に蹴った。藩主の首を出せとは一種の脅し。
通常は、家臣一同の嘆願と降伏する事で、死一等を減じて家老クラスの切腹と減封で済む。
戊辰戦争で藩主クラスが処刑された例は無いから。会津藩主だって戦後生き残っているし。
私怨はあっただろうが、それだけで戦争になる理由にはならない。
戦争すれば味方だって犠牲者が出るし金もかかる。恨み晴らすだけでは理に合わない。
幕府や会津藩が開国方針だったのは外国が強く戦えないから。
一方の尊皇派は外国の強さに気が付かず、当時の経済悪化物価急上昇を外国の責任
にして彼ら追い出そうとした。薩長は、これら攘夷派の側に立っただけ。
藩単位の覇権争いというが、数年後に廃藩置県で藩なんて潰しているからね。
薩摩も萩も嫌がって西南戦争やら萩の乱やら起こしてるし。
896 :
日本@名無史さん:05/03/16 23:04:29
会津戦争に関しては世羅の対処も悪いが会津藩も武装強化など
恭順の姿勢を示す事に失敗している。
互いに疑心暗鬼だった事も原因だと思われ。
>一方の尊皇派は外国の強さに気が付かず
>薩長は、これら攘夷派の側に立っただけ。
ずいぶん都合のいい考え方だな(笑
イギリスと薩英戦争でガチで戦った薩摩が、
欧米列強の強さを日本で当時、一番身にしみてわかってたよ。
その後、和解したイギリスに薩摩から留学生も送り込んでる。
当時、世界最強の大英帝国相手に、
一国の一藩でありながら真っ向勝負を挑んでおいて、
ここまで得たものが多い敵は、世界広と言えども薩摩ぐらいだろな
この勢いが倒幕へと追い込んだんだよ
>>895 >数年後に廃藩置県で藩なんて潰しているからね。
>薩摩も萩も嫌がって西南戦争やら萩の乱やら起こしてるし。
偉い端折り方だな。それじゃ廃藩置県が直接動機になってるよ
会津戦は時間かけてやるつもりだったらしいよ。でも会津は北陸を
煽ってたり実際に部隊が上層部の以降無視して戦闘を継続してたり
軍部が暴走してたから。穏健派は吊し上げくらって宇都宮に増派しなかった
司令官は罷免されたし、恭順を主張した重臣の家族は、籠城に加われず
自刃したとか。
土佐の名将板垣が一気に電撃戦で会津城下を落としてあっけなく勝敗は
決したけど...戦線を無理に拡げず守りをちゃんとしておけば(本来は)難攻
不落。現実には、伸びきった補給線(というか本拠地遮断)と分断された
部隊続出で各個撃破・・・補給ないから郡山での徴発とかやって悪名とか
散々。
900 :
日本@名無史さん:05/03/17 01:37:28
個人的には、庄内藩がかき集めた銃器の種類豊富さに興味がある。
まあ、言うほどでもないけど。
902 :
日本@名無史さん:05/03/17 09:38:30
徳川家に行くはずの関ヶ原以来の私怨が
慶喜が逃げたせいで会津に向かった
903 :
日本@名無史さん:05/03/17 09:39:33
薩摩に寛大な対応してもらった庄内藩に比べて、会津はと言えば、
城下町は老若男女の別なく殺され、女は強姦され、あらゆる家の財産は
奪われ、挙げ句の果てに戦死者の埋葬も翌年の春まで許されず、町には
死臭がたちこめたというではないか。
ホントなぜここまでする必要があったのか。
>>904 あった。と言うより、これでもかなり抑制がきいていた結果。
本来なら会津領内は武士・領民を問わずなで斬りにされてもおかしくはない。
ではなぜ激しく戦った庄内藩は許されたのに、恭順の意を示してた会津が
徹底的にやられたのか、905は説明しる。
松平容保って京都守護職を何度も断ったのに引き受けるハメになり、その後も
再三辞退しようとしたのにそれも許されず、恭順の意を示してるのにそれも
受け入れられず、おかげで最後は徹底的に叩かれ、とんだとばっちりを食った
悲惨な香具師って感じがするんだが。
徳川慶喜は「昔夢会筆記」で、薩長は会津の兵力を憎んだんだ
みたいな事を言ってなかったっけ?
908 :
日本@名無史さん:05/03/17 14:40:39
本当は慶っちが悪いくせに〜
会津人じゃないんだから怨みだけで行動するような馬鹿な真似はしません
910 :
日本@名無史さん:05/03/18 00:06:57
>>897 >>898 こんな所で、一から百までいちいち全部説明してれられないよ。
気が向いたから書いただけだし。あとは自分で調べる事だね。
911 :
日本@名無史さん:05/03/18 00:20:45
関ヶ原依頼の怨念って…
西郷や大久保、桂や高杉は、戦国以来の血筋だっけw?。
912 :
日本@名無史さん:05/03/18 00:21:53
訂正
依頼×
以来○
913 :
日本@名無史さん:05/03/18 00:22:17
>>906 一橋や会津は孝明天皇から厚い信任を得て公武合体を進めていた。
これに対し、薩長は必死に玉の争奪戦を仕掛け、
結局孝明天皇を毒殺して宮中クーデタを起こした。
これが倒幕・明治維新の核心部。
要するに私欲と嫉妬と怨念が最大の動機だね。
>>911 関が原以来の血筋じゃないけど藩内でそういう教育がなされてる。
916 :
日本@名無史さん:05/03/18 01:50:23
チェスト行け!関ヶ原
917 :
日本@名無史さん:05/03/18 02:43:49
幕末スレは荒れるのが定番だけど、このスレは比較的落ち着いているね。
>私欲と嫉妬と怨念が最大の動機
ライブ&村上VSフジ
歴史は繰り返すのか
>917
お前が荒らさないからだろ
「裏切りの藤堂藩」
>>906 庄内は、薩摩が開戦口実を作るための謀略にたまたまひっかかっただけだから。
その時江戸市中の警備を任されている藩ならどこでもよかった存在だから。
故に「まああれだけ激しく抵抗してもしょうがないよなぁ」と思われていた。
向こうの都合で戦うことになった相手と、こっちの都合で戦わざるを得なくなった相手に差を
つけただけ。
922 :
日本@名無史さん:05/03/18 11:34:08
小栗たんは勝っちに陥れられたんだょ
ほんと当時の薩摩藩ってのはゴミだな。
後世ここまで問題になるって思わなかったのか?
924 :
日本@名無史さん:05/03/18 12:32:42
ゴミに負けた幕府(pgr
925 :
日本@名無史さん:05/03/18 21:23:14
つーか薩摩厨ウザイ
あっちこっちで大久保マンセーばっかりじゃん
926 :
日本@名無史さん:05/03/18 22:55:50
幕末の戦の絵図とか戦国時代の絵図とかがいろいろみれる
本って売ってないでしょうか?
もし新選組を土方・近藤の指揮に任せて遊撃に出していたら幕府軍は勝利できた。
身分にこだわり優秀で最強の剣客集団である新選組を有効利用できなかった幕閣達
の頭脳の古さが最大の敗因。
928 :
日本@名無史さん:05/03/19 09:09:31
>>927 それは無い。鳥羽伏見で銃隊を相手に剣で突撃した土方や、
行軍が遅く、結果甲府城を取られて無茶な戦いをした近藤の指揮では勝利できない。
幕閣達の頭脳の古さが最大の敗因なのは納得だが。
新選組オタは、日本史における彼らの置かれた冷静かつ客観的な立場・地位を、
全く理解してないからな。
賊軍の、しかも下級武士だぞ。そもそも武士とも言えるのか疑問。
この日本史に名前が残るほどのもんじゃない新撰組とやらを、
誰かが話を大きくして、芝居になったり小説になったりで、
この話を大きくした最初の一人が、最も罪作り
子母澤寛のことかああああ
まあ最初のひとりではないにせよ、昭和から断続的に起こる新選組ブームの根幹は彼だろうな。
931 :
日本@名無史さん:05/03/19 10:40:44
>>928>>929 歴史を知らないのだねw
新選組は戊辰戦争の頃実質京阪の治安を統括していたのだよ。
つまり戦場を知り尽くしている。その上新選組の強さは幕末最強軍団。
もし土方が幕府軍を率いていれば幕府軍は負けなかった
>>931 治安活動してるからって戦場を知り屈してることにはならないだろ。
相手は刀を振り回す浪士じゃないんだぞ。
ライフルと大砲を持った軍隊だ。
933 :
日本@名無史さん:05/03/19 10:58:11
知り屈して(pgr
934 :
日本@名無史さん:05/03/19 11:07:16
>931
あのな、そこでいきなり土方が幕府軍を率いていればとか、
そんな現実離れした分不相応な例えを出されても話しにならんのだよ。
あえて途方もないifを持ち出すならまず、
新撰組が、会津藩に所属するいちおうは武士と認めるとして、
幕府軍どうたら言う前に、
「土方が会津藩を率いていれば、もっと幕府軍に貢献ができた」
とか言うほうが先じゃないのか
>>934 いや、歴史的な事実なんだが・・
>>932 >治安活動してるからって戦場を知り尽くしていることにはならないだろ
に訂正。
つまり戊辰戦争は新選組がキーパーソンだったという訳だな
938 :
日本@名無史さん:05/03/19 11:28:16
新撰組は軍隊じゃないぞ。
第一、近藤土方の指揮の悪さが鳥羽伏見と甲州で露呈している。
戦場を知り尽くしていないのは、この事実からも明白なのだが。
939 :
日本@名無史さん:05/03/19 11:33:56
新撰組(笑)
>>921 ではなぜ江戸は無血開城が許されたのに、会津は徹底的にやられ(ry
土方って会津戦争で指揮してたけど、あまり活躍できなかったんじゃなかったっけ?
>>941 そんなに言うなら是非ご高説を伺いたい。
950も間近になってとんだ釣り合戦ですな。
てか次スレ要る?
>賊軍の、しかも下級武士だぞ。
その頃の幕府や会津は賊軍ではないだろ。
公武合体を望む考明天皇のために尽力してたからな。
あとで新政府軍が尊王を正当化するため、明治天皇をかつぎあげて
幕府や会津を賊軍扱いしようとしただけ。
そういう意味では、元々は新政府軍の方が賊軍だったとも言える。
しかももし考明天皇の毒殺が本当だとすれば、新政府軍は自分にとって
都合のいい天皇を作り出すために、本来の天皇を殺した事になる。
実際、考明天皇は、京都でテロ行為を働く長州を嫌い、それを防ごうとする
会津に感謝状みたいの送ってるし。
947 :
日本@名無史さん:05/03/19 12:02:40
やはり新選組を重用しなかったのが最大の敗因だったのか
次スレ立てるとしたら、戊辰戦争に関する事なら何でも総合的に語れるように
スレタイは普通に、戊辰戦争スレでいいよ
>やはり新選組を重用しなかったのが最大の敗因だったのか
誰もそうは言ってない
>>945 >しかももし考明天皇の毒殺が本当だとすれば、新政府軍は自分にとって
>都合のいい天皇を作り出すために、本来の天皇を殺した事になる。
んな実証されてないことを元に陰謀論を語るのはどうかと
星亮一じゃないんだから。
新撰組が鳥羽伏見の戦況の鍵を握っていたって?ギャハハハハ、ハライテーヤメテクレー
952 :
日本@名無史さん:05/03/19 12:39:43
従医の日記によれば孝明天皇の死因は砒素による毒殺。
毒殺犯が権力を奪ったのだから、
天皇をタブーとして死因が「実証」されてないのも当然。
953 :
日本@名無史さん:05/03/19 12:43:29
>>948 次スレもちゃんと「なぜ負けたのか」を入れないとこのスレの存在意義がなくなる
>んな実証されてないことを元に陰謀論を語るのはどうかと
何感情的になって否定してんの?
だから「もし」「とすれば」って言ってるじゃん。
しかも毒殺があろうがなかろうが、本来は新政府軍の方が賊軍だった事に
変わりはない。
>>957 楽でいいねと満足して済んでいるうちはいいが、代が変わり、気が変わって、
陪臣じゃなく、将軍様お目見えに、なんて思うヤツも出てきて悶着起こす。
スレ終わりも間近で何だが、
新撰組と新選組とどっちの字が正しいの?
>>953 どんちゃん騒ぎで遅れて流山で大敗北という実績を残した新撰組がどーやって鳥羽伏見の戦況を変えるの?
961 :
日本@名無史さん:05/03/19 22:38:04
新撰組はどっちでもいいようだよ。
近藤自体が両方書いてるのであんまり当時は、気にしてなかったようだ。
当て字っぽい扱い。読みが同じなら当時の人は気にしない。
>>945>>956 >本来は新政府軍の方が賊軍だった事に変わりはない。
なんじゃそりゃ。
結果として幕府軍および会津藩が賊軍になったのであって、
「本来は」とか「その頃は」とか、
世界中の名だたる戦全てにおいて、そういう途中の段階で言い出したら、きりがない。
基本的に戦は、勝てば官軍、負ければ賊軍
>>950=962
この人なんでこんなに必死なの?
長州は禁門の変で御所を襲ったため、
天皇直々に朝敵として討伐された。
その賊徒長州が隙を狙って天皇を殺し幼帝を握り、
「官軍」を詐称し幕府を「賊軍」呼ばわりして内乱を起こした。
世界的に見て典型的な悪役の行動パターンだな。
>世界中の名だたる戦全てにおいて、そういう途中の段階で言い出したら、きりがない。
典型的なアフォだなコイツはw
歴史上の事件が起きた経緯を知ろうともせず、大雑把な結論のみを
鵜のみにするお前に歴史を語る資格ないよ。
ってか、幕府や会津が賊軍でない事は今や常識になってるのに。
今どきなんでこんな無知が日本史板に紛れ込んでるの?
興奮しすぎ。もちつけ
>幕府や会津が賊軍でない事は今や常識になってるのに
先の大戦で、敗戦した日本が賊軍でない事が今や常識、というのと同レベル
962は歴史の経緯云々以前に、言葉の使い方を分かってないと思われ。
「勝者」「敗者」「官軍」「賊軍」、全て定義が違う言葉だろ。
勝者が官軍である事もあれば賊軍である事もあるし、敗者の場合もまたしかり。
短絡的に勝者=官軍、敗者=賊軍とはならない。
言葉の定義の区別はきちんとつけろや。
>興奮しすぎ。もちつけ
お前が一番興奮してんだろがw
一人で見苦しい詭弁の連続投稿繰り返すなよw
新政府軍が賊軍だと何か不都合な事でもあるのか?w
>968
おれは言っとくが連続投稿してないし950でもないし。
思いこみの疑心暗鬼になってるぞ。
wこれ3つも使って自分の慌てたレスみてみ。ほんとに、もちつけって
>>967 ま、何にしても、用語の使い方も知らないこんな香具師に歴史を
語る資格はないでつねw
横槍さしてすまんが、970と971はどう見ても同一人物だと思う。
ほぼ同時刻に、同じような名前の書き方。
>>973 同時刻になったのは偶然ってもまぁ信じてもらえないんだろうな。
同じような名前の書き方って言われてもなぁ、半角で数字入れただけの話なんだが。
自作自演するならもっと上手くやれよw
同時刻に書いたらあやしまれる事くらい予想できなかったかな?
藻前こそ、もちつきが足りないなw
ま、言葉の定義をゴッチャにして混同する低能君だから仕方ないかw
>自分は
>>950のあと発言してないよ。
>950の後しばらく発言してないような人が、このジャストなタイミングで突然
書き込んで来るかね? 普通
977 :
日本@名無史さん:05/03/20 00:26:20
新政府が賊軍であったことはないよ。
考明天皇に対しては新政府が賊軍
明治天皇に対しては幕府が賊軍
勝てば官軍ってのは、皇室は節操がないと言っているのと等しい気がする(笑
昔から権力者の都合によってコロコロ変わるのが天皇の立場。
981 :
日本@名無史さん:05/03/20 01:27:17
今も昔も薩長は賊軍
>>980 孝明天皇は節操のある帝だったため
薩長は天皇をすげ替えたわけだが
983 :
日本@名無史さん:05/03/20 02:11:17
984 :
日本@名無史さん:05/03/20 02:11:52
>>978 孝明天皇の時代は長州が賊軍。新政府はまだ誕生していないから賊軍にはなれない。
明治天皇の時は、幕府が滅んで諸藩による連合により新政府成立。
幕府はもう存在していないので幕府は賊軍にはなれない。
その後、
新政府メンバーの徳川と、新政府メンバーの薩長が京都付近(鳥羽・伏見)で小競り合い開始。
その他の新政府メンバーの藩は両家による私闘として中立。
政府は事態を静観。
その後に
薩長が錦旗を手にし、新政府と他の諸侯を味方につける。(土佐の参戦、淀藩の入城拒否、津藩の寝返り)
徳川追討令により徳川家が賊軍に指定。
「新政府軍」が江戸へ進軍を始める。
>>982 攘夷馬鹿の帝を排除したのは神戸開港に頭を悩ませていた慶喜の可能性も大。
まぁ
長州は倒幕材料として帝が邪魔
幕府は条約問題として帝が邪魔
986 :
日本@名無史さん:05/03/20 03:02:57
天皇や多くの武士達にとって
夷狄と戦わない「征 夷 大将軍」が一番邪魔。
987 :
日本@名無史さん:
新撰組がどうのこうのとかスレ末にえらくチンケな話だな