1 :
日本@名無史さん:
謎だらけだ・・・・
俺の靴返せ。
4 :
日本@名無史さん:04/04/29 10:29
「定説・通説」
・虐め、丹波八上城攻略の時、母を人質にしたのに見捨てられて殺された恨みによる突発的な発作による怨恨。
・あらかじめ全て用意しての天下を狙っての戦国武将らしい野望。
・ただのノイローゼによる思い付き。あ、あそこにいる人をヤレバ、、、、。
・ただ、切れた、プッツン説。
「小説家。その他好事家、妄想家たちの作った、これで売れるかな、当たってるかな説」
・宗教勢力説、信長は仏敵じゃぁぁぁぁぁぁぁぁ。
・足利義昭説、まあ、その、、、もう一度将軍にしてくれんかななどと、、、
・朝廷説、なんかあの人、このままじゃあ、危ない人なのでは、、、比叡山のこともあるし。
・徳川家康説、遊び心でそそのかしてみましたら、、、、
・武田家残党説、信玄様、勝頼様のたたりを思い知らせよう。
・北条家+上杉+毛利家説、実は大同盟があった。
・キリシタン+ローマ法王+イスパニア国王説、日本が強大な統一国家になると植民地にするのに困るから。
・四国長曽我部家説、攻められそうなので藁をも掴む気持ちでそそのかした。
・中国明帝国、李氏朝鮮説、日本が強大な統一国家になると攻められそうなので、、、
・森蘭丸説、上様を尊敬してました、で、独占したくて、、、。
・信長妹お市様、愛した浅井長政、長男を殺された恨みで、そそのかしたら、、、
・信長妻お濃様説、浮気ばかりでもう我慢が、、、、
・お家騒動説、次男信雄、三男信孝が、おれのほうが優秀なのになぜ、、、
さて、正解は、、、どれだろうか。それともまだ他の説があるかどうか、、、、
5 :
日本@名無史さん:04/04/29 10:43
「付録」
・羽柴秀吉黒幕説、このままいっても所詮、、、ここらでおれも一度くらい賭けを、、、、
・秀吉軍師黒田官兵衛説、、、ここらで天下を三分し、三国志状態にしてわしは諸葛孔明に、、、
・伊賀忍者・甲賀忍者説、故郷を信長に焼き払われたり、圧迫されたりしたから、、、
・光秀愛人説、妾の某を森蘭丸にとられたから、と井上靖氏が、、、
・くのいち忍者説、別にさしたる意味も無く信長があなたを左遷するそうですと告げ口した。
6 :
日本@名無史さん:04/04/29 11:25
俺は単純に鬱だったに100ガロン
あんな上司だったら普通の人間は耐えられないだろ・・・
光秀愛人説ってそんなのもあるのか…
何に詳しく載ってるか教えていただけると有り難いのだが
8 :
日本@名無史さん:04/04/30 10:22
井上靖全集「森蘭丸」河出書房。
愛人の名前は由弥、年上の女性。
と、小説でした。でも仮説っぽい。
>>8 わざわざ有り難う
そういうことだったのか…
妾をめかけじゃなくわらわって読んでしまって、
光秀が誰かの愛人で、その相手の男をランマルに寝盗られたのかと思ってしまった
わらわとか言って、なりきってるな〜とか思ってたよ
この辺気になる。
940 :日本@名無史さん :04/04/25 13:22
結局、光秀は近江阪本と丹波亀山を没収されて、まだ敵地だった
捕らぬ狸の皮算用で出雲・石見2カ国与えるといわれて、
錯乱して発作的に信長を襲ったという、従来の議論に落ちつく
941 :日本@名無史さん :04/04/25 14:52
>>940 その話は後世の捏造だといわれているけど。
本能寺攻めた時も、坂本・亀山の兵隊を連れて行ったわけだし。
発作的は発作的でも、
信長の油断、大ポカを見て、出来心が湧いたってことじゃないのかな。
942 :日本@名無史さん :04/04/25 16:26
まぁ、あれでござるな、とりあえず、今回NHKの国が発布した文書、
焼き捨ててよろしいな?
943 :日本@名無史さん :04/04/25 20:57
>>940 私は以下の点でこの説は弱いんじゃないかと思います。
・石見・出雲をそれまで対毛利戦に対して活躍していない光秀に与えて
秀吉及びその配下は納得するのか
・石見・出雲の価値が定まっていない(検地もしていないし、国人たちが
みな織田方について領地安堵したら実質光秀の領地はなくなってしまう)
・石見には銀山があり、出雲には鉄がある。それを配下の重臣に与えるのか
11 :
日本@名無史さん:04/05/01 04:34
結局、動機がさっぱりわからん。
「むしゃくしゃしてやった」
月が・・・あの満月がまぶしかったんです。
14 :
日本@名無史さん:04/05/02 21:50
佐久間、林事件じゃね?
15 :
日本@名無史さん:04/05/03 09:10
佐久間問責状であんなに持ち上げられてるのに?
持ち上げてどーするw
足利義昭の陰謀だったのさ!!!
18 :
日本@名無史さん:04/05/04 18:59
>・実は本能寺には7千騎の精鋭部隊が駐屯していた。
奇襲部隊は3千でしょ
やっぱ奇襲されると脆いのかなぁ
19 :
日本@名無史さん:04/05/05 07:35
明智光秀は先のことまでは、何も考えていなかったように見える。本能寺を攻めることで
全精力を使い果たしたように思います。明智氏のあっけない最期は、「陰謀説」が出てくるたびに
問題になりますね。明智光秀の存在自体が謎ですよ。そそのかされて反逆したように見えませんね。
何が彼をそうさせたのか?
光秀は無謀だったのではなく、天下を取れる可能性はあったって
言ってる人もいるけどさ、まあ可能性はなくはないだろけど、
やっぱり成功の確率は低いだろうね。
謀叛の原因はそういうことではなくて、信長を生かしておくと深刻な
事態になることが予想されて、それをなんとしても阻止したかったん
だと思うね。
例えば、密かに書いていた日記が信長に見つかってしまい、
光秀君の恥ずかしい趣味がネットで公開されそうだったとか・・・
21 :
日本@名無史さん:04/05/05 08:14
秀吉の中国大返しがなかったら
いいところまではいってたと思うけどな、光秀の天下。
敗因は
秀吉を過小評価していたことというか
毛利を過大評価していたことというか・・・
22 :
日本@名無史さん:04/05/05 08:35
明智は、先の事を考えての行動じゃないような
気がする。信長の近くに有力な部下がいない
状態を千載一遇のチャンスととらえ、つもり
つもった恨みもあり、賭けに出たんだろう。
信長は光秀を完全に押さえ込んでいる気で
いたから、まさか、裏切るとは思っていな
かった。
また、光秀が単独というより、京とのつながり
もあったし、信長を危険視する勢力とのつながり
もあったんだろう。自分が天下をとれば、そういう
勢力の後ろ盾が得られる目算はあったのでは。
秀吉の中国大返しがなかったら、という意見が多いようだが
それならば、大返しがなかった場合どのような展開になるか考えてみないか?
24 :
日本@名無史さん:04/05/05 10:58
>>4 >・虐め、丹波八上城攻略の時、母を人質にしたのに見捨てられて殺された恨みによる突発的な発作による怨恨。
これはむしろ
>「小説家。その他好事家、妄想家たちの作った、これで売れるかな、当たってるかな説」
に入れるべきかと。もともと総見記の与太記事なんだし。
25 :
日本@名無史さん:04/05/05 18:37
>>23 大返しがなくても状況は厳しいかと
足利将軍の地に落ちた威光を背負ってるにしても
それで加勢するかもしれない北条や毛利が光秀の麾下に甘んじるわけがない
結局義昭だろうが朝廷だろうが軍事力のない黒幕の言いなりになるほど
当時の戦国大名達に忠義やモラルがあるはずがないー光秀も同様
秀吉が遅れたとしても、光秀の天下を易々と認めさせるのは難しく
どっちにしても信長家臣団を個別撃破しなくてはならない
時間をおけば敵方も立て直してくるのが必至
家康との密約でもない限り、弔い合戦の大義名分のもとに
国盗り合戦が再び始まる危険性が非常に高い
織田柴田秀吉が光秀の軍門に下る可能性は低いので
光秀傘下の軍事力だけでそれを平定できるとは考えないだろう
というわけで狂ったのでもない限り自分が簡単に天下人になれるとは
思わないだろうから、どこかとなにがしかの密約はあったと思われる
黒幕、信雄・信孝説
27 :
日本@名無史さん:04/05/08 21:45
二人はあまり得してないだろ
あの当時、信長の○キぶりには
拍車がかかっていた。
自分を神のようにおがむことを
強制するなど完全に逝っていた。
これを憂慮した朝廷より
正統土岐源氏を自認していた
光秀公に密勅がくだされたのである。
黒幕光秀説
主君に対して、完全な騙し討ちをやっちゃったわけでしょ。
そんなやつを、人々が天下人に押し上げるとは思えん。
光秀ほどの人が、「自分がこれで天下人になれる」なんて本気で考えたとは
思えないんだよなあ。
やっぱりノイローゼだったのかなあ・・・。
31 :
日本@名無史さん:04/05/12 10:27
変後の光秀の軍や自分の保身計画を書いた手紙でもあれば、大体見当はつくと思う。
32 :
日本@名無史さん:04/05/12 16:10
120万人チベット大虐殺
1959年の「ラサ決起」の後、中国側は叛徒の徹底的な弾圧に乗り出した。
この前後に行われた虐殺行為については国際法律家委員会のメンバーが現地人の証言をまとめ、
「チベットと中華人民共和国」というレポートを出している。
中国がまず標的にしたのは「富裕階級」「地主」「村などのリーダー」だった。
それらの人々は公衆の面前で銃殺されたり、焼き殺されたりしたという。
「財産を公開しない」という理由である者は溺死させられ、ある者は生き埋めにされた。
密告制度が導入され、人民裁判、つまり、公衆の面前で個人を卑しめたり、その罪状を糾弾させる行為が行われた。
これにより、子供は親の罪状を、親は子供の罪状をあげつらわなければならなくなった。
子供に自分の親を射殺させるなどの行為も行われた。
--------------------------------------------------------------------------------
中国は、3階級の処刑が終わると、今度は僧侶の処刑と寺院の破壊に着手した。
抵抗した僧侶らのうち、ある者は縄で絞め殺された。その際に、縄で首をしめる道具として仏像が使われたという。
腹を切り裂く、撲殺する、糞尿を食わせる、生きたまま焼き殺したり生体解剖を行ったりと、
残虐を極めた行為で次々と僧侶たちを処刑していく。
経典はマットレスやトイレットペーパーに使われた。
33 :
日本@名無史さん:04/05/12 16:12
中国が殺したのは富裕階級と僧侶だけではない。
新婚の女性は産婦人科で知らぬうちに不妊手術を受けさせられた。
「検査」と称し強制的に連行された男性は、生殖器に何らかの手術を施され、
それ以降、性的欲求をまったく感じなくなったという。
子供たちは「中国本土で教育を受けさせる」という名目で連れ去られたまま、
二度と戻ってくることはなかった。
--------------------------------------------------------------------------------
チベット亡命政府の発表によると、
「解放」の美名のもとに中国によって殺されたチベット人は1950年から84年までの間で120万人以上。
チベット人口600万人のうち、実に5分の1以上になる。内訳は以下の通り。
・戦いや蜂起によるもの・・・・・・・・43万2705人
・餓死・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34万2970人
・獄死、強制労働収容所での死・・17万3221人
・処刑・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15万6758人
・拷問による死・・・・・・・・・・・・・・・・9万2731人
・自殺・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9002人
合計・・・120万7387人
中国側は決してこの数字を認めようとしないが、虐殺は現在も続いている。
34 :
日本@名無史さん:04/05/12 16:55
【誰でもできる47氏支援運動!】
【以下の文章を、各種掲示板にコピペして47氏を救おう!】
すみません、貴サイトには直接は関係のない話題ですが、
広くネットに携わるものとして、いや、日本国民として、真剣に考えるべき事案であると考え、あえて宣伝させていただきます。
管理者様、もし、不適切とお感じならば、どうぞ削除なさってください。
先日、著作権違反の幇助との名目で、ファイル交換ソフトwinnyの製作者で、東京大学助手の金子勇氏(通称47氏)が逮捕されました。
しかし、winnyそれ自体は、違法なファイルの流通だけでなく、合法なファイルの流通も可能なものであり、著作権に違反するか否かは、ソフトの作成者ではなく、ソフトの使用者に、その責任がゆだねられるべき問題であります。
さきに、winnyを使用して、著作権違反で逮捕された二人のユーザーは、47氏と何らつながりのない人間であり、「幇助」の理由を付して逮捕するには、あまりにも無理があります。
以上の観点から、私たちは、Winny開発者、47氏に対する不当逮捕に強く抗議します!!
京都府警は、逮捕の理由として、「『著作権法への挑発的態度』が逮捕理由」に挙げたと、報道されています。この報道が真実であるとすれば、これは思想信条の自由の侵害であり、「思想犯」として不当逮捕したものと断ぜざるを得ません!!
これはもはや著作権の問題ではなく人権問題です!!皆様のご協力をお願いいたします。
詳しくは、下記ページをご覧下さい!
Winny開発者 47氏を救う為に
http://77483.org/47/ ネットワークの自由防衛同盟
http://www.netfreedom.tk/ プログラマ仲間の新井氏が設置したblog(47氏支援運動など)
http://www.moodindigo.org/blog/archives/cat_kaneko.html?page=%B6%E2%BB%D2%CD%A6%BB%E1%BB%D9%B1%E7 また、本運動に賛同される方、お知り合いの掲示板などに、本文章を掲示していただけると幸いです。
35 :
日本@名無史さん:04/05/13 10:45
明智光秀は明帝国からやってきた日本を探るための007的スパイだった。
だから四十歳前の経歴不明で、中国の戦法や政治形態、武器扱いに優れていた。
彼は日本が強力な軍事国家として統一されると不味いとの中国皇帝の指示を受けて、本能寺の変を起こし、信長を殺した。
秀吉はそれを光秀家臣の拷問で知っていたので、仇討ちに朝鮮に出兵し、明と戦ったのだった。というのは、、、、、
36 :
日本@名無史さん:04/05/14 10:32
考えたら、織田信長の本城安土城には五千人の馬廻り・つまり親衛隊があり、
あれほどの巨大要塞で、兵量や財宝が一杯あったらしいのに、あっさりと落城している。
これが落城せずに、光秀が時間を取られていたら、とても天王山の戦いどころではなかっただろう。
このあたりが、何か引っかかる気がするんですが、、、
37 :
日本@名無史さん:04/05/14 10:48
>考えたら、織田信長の本城安土城には五千人の馬廻り・つまり親衛隊があり、
>あれほどの巨大要塞で、兵量や財宝が一杯あったらしいのに、あっさりと落城している。
疑似餌で何が釣れますかねぇ〜腐腐腐。
38 :
日本@名無史さん:04/05/14 22:27
光秀は信長の家臣みたいになってしまったのは、義昭追放以後で、光秀の軍団は足利家臣や本願寺門徒、法華門徒
伊賀者、斎藤龍興や朝倉の旧家臣ばっかだったりして。信行(信勝)の子もいるぞ。これじゃ、信長を討つのも当たり前
ね。それに光秀の旧家臣が秀吉や徳川の家臣に沢山なってるし。
39 :
日本@名無史さん:04/05/14 23:42
40 :
日本@名無史さん:04/05/15 11:04
>>37 すいません。
疑似餌の意味がよく解からないんですけど。
当時は、安土城が大要塞で、そこに織田信長とともに毛利攻撃に行くはずだった
馬廻り・親衛隊五千人がいたというのは衆知の事実で、、、。確か守将は蒲生堅秀だったと、、、。で、この城が落ちるかどうかは全く未知数だったわけで、、、それが簡単に陥落してるわけで、、、これが引っかかるわけで、、、
>>39 上のホームページの人は全部人の論をそのまま書いて作ってるようだけど、
これは、、、著作権侵害にならないんですか。
それから、怨恨説、野望説、宗教勢力説、ノイローゼ説などの
定説・通説が欠けているような、、、
41 :
日本@名無史さん:04/05/15 12:40
>>40 >>39 上のホームページの人は全部人の論をそのまま書いて作ってるようだけど、
これは、、、著作権侵害にならないんですか。
ネタ元は八切止夫だけど、著作権は放棄されているからイイんじゃないの。
42 :
日本@名無史さん:04/05/15 13:31
>>40 馬廻衆の一部は京にいたわけでしょ
それに蒲生らは信長の家族を守って日野へ退去したのだから
安土に残った兵力はそれほど多くないと思うが如何
43 :
日本@名無史さん:04/05/15 13:56
安土では、本能寺の変を知らなかったのだ。
だから、明智軍がやってきたとき、城門を開けて明智軍を城内に入れてしまった。
だから簡単に落ちたのだ。
徹底抗戦すれば、数ヶ月はもつ要塞だったからね。安土城は。
44 :
日本@名無史さん:04/05/15 17:56
電話がない時代だからなぁ
そういうこともあったんだろうね
蒲生賢秀にしてみれば寄集めの安土城よりも、地元に帰った方が余程安全だと考えたんじゃない?
六角氏も観音寺城退去して、日野の蒲生氏を頼って篭城というのを何度かやってるし。
46 :
日本@名無史さん:04/05/16 18:46
この安土城なのだが、難攻不落の堅城だったという説と、
実際は全く守りには適していない織田信長の個人的趣味で作った綺麗なだけの城だったという話がある。
どちらが本当なんでしょうか。
それから、馬廻り・親衛隊というのはかなりの精鋭部隊だから、城を守って戦うつもりだったら、守将が解散命令を出したという話も、、、
この当時の正確な資料はありますか。
47 :
日本@名無史さん:04/05/17 10:38
第二次大戦前に本能寺の変が騒がれることはなかった。
皆が光秀の怨恨か、野望かで納得していたから、、、
しかし、戦後、、何故か本能寺の変に注目され、様様な理屈が出てきた。
その理由・原因は何なのだろうか、、、誰か知ってますか。
戦前の歴史教育て どんなんだったんだろか?
特に天皇関係なんか ぼかされてたんじゃないかい?(南北朝とか)
信長って朝敵っぽいなぁ?光秀に成敗された、とか?
49 :
日本@名無史さん:04/05/17 16:58
明治新政府になって、美濃は岐阜と改名されたよな。
そして、岐阜と命名したのは、のぶ。
明治新政府は反徳川だからな。
戦前まではこの延長線上だろ。
>>48 戦前の信長観は勤王家ってことになってたような
51 :
日本@名無史さん:04/05/18 11:03
光秀は織田信長所有の茶器の名器の数々が欲しかった。
で、本能寺と安土城で茶の名器の数々を手に入れた後、死んだことにして、
九州で楽しく暮らしたと民間人で書いている人がいたよ。
52 :
日本@名無史さん:04/05/18 15:56
NHKの足利義昭説だけど、光秀は上杉ら他者を動かすための御旗として
将軍の権威を利用しただけで、義昭が関与していたからといって首謀者とは
言えない。将軍の命だけなら、光秀は始めから義昭追放の信長に従うまい。
やっぱ、朝廷だろう。
実は信長は、光秀が死ぬほど嫌いだった。
また、信長は変の前年くらいから重い病に冒されていた(周囲にはひた隠し)。
病篤く、いよいよもう最期かという段になって、信長は一計を案じた。
「一向宗の残党やら浅井・朝倉の残党やらが蜂起して、本能寺を急襲してきた」
という急使を光秀に送ったのである。
その報を受けた光秀は、大慌てで供の兵を率いて本能寺へ向かう。
「大変だ。殿が敵に襲われてる」「敵?そんなもの何処から涌いて出たのです?」
「そんなことは分からん。ともかく、敵が本能寺にあることは確かだ。急げ!」
しかし光秀が駆けつけた頃には、本能寺は既に火に包まれていた。
(信長が自分で火を点けさせた)
信長は、予め秀吉のところに「こんな訳だからお前が光秀殺せ。そしたら天下をやる」
といった使者を送っていた。その上、自分の死後「本能寺に火をかけたのは明智軍」
という噂を京じゅうに広めさせるべく手を打っていた。
結果、信長の最期の嫌がらせによって身に覚えのない謀反人にされた光秀は、
信長の命令通りに引き返してきた羽柴軍に、弁解する暇も与えられず打ち破られる…。
とか。こんなもんでどうでしょう。
54 :
日本@名無史さん:04/05/19 18:55
朝廷説は、密勅、綸旨が出たと野形跡が残っていないとか、
細川藤孝への手紙に何もそんなことかいていないとか、
公家の日記にも別にあやしいことないとか、
なんで公表しなかったとか、そんな反論を言われる。
織田信長が光秀大嫌いなら、自分の領地内で好きなところで鉄砲、刺客、毒薬でころせると思います。
そのあと好きな理由を並べて城や奥さん、娘を獲れる。そんな時代です。
55 :
日本@名無史さん:04/05/20 10:47
確か、やぎり止夫という人が、
キリスト教の宣教師が、織田信孝の四国遠征軍の堂々たる艦隊を、ポルトガルのマカオ攻略軍と冗談を言われ、
これはイカンと南蛮船の大砲をもってきて本能寺に向かって撃った。
それで織田信長の体は木っ端微塵になった。その火災を見て、慌てて駆けつけてきた斉藤利三が、織田信長が死んだことを知って、これはいいと明智軍の手柄にした。
明智光秀は何も知らなかったが、何時の間にか謀叛の主将になっていたので、仕方なくそういうことにしたと書いていたような。
56 :
日本@名無史さん:04/05/20 15:48
>確か、やぎり止夫という人が、
アンタも八切に釣られた一人だね。
57 :
日本@名無史さん:04/05/20 18:59
やっぱり朝廷の影響を感じずにはいられない
信長に、朝廷を見下す日本の王になられたら一番困る
58 :
日本@名無史さん:04/05/21 13:29
しかし、家臣を利や、恐怖心で裏切らせるというやり口は毛利の常套手段でもある。
信長が光秀の何処に魅かれたかというと
朝廷との交渉する際に通訳(朝廷が使用している言葉と
尾張で使用しているのは違ったらしい、同じ日本語なのに)
として使えるからだったそうです。
明智家系が室町幕府内にいて
そこでの教養等を光秀も学んでいたそうです。
60 :
日本@名無史さん:04/05/23 09:52
おいおい
朝廷では中国語が使われてたとでも?
61 :
日本@名無史さん:04/05/23 10:34
(朝廷が使用している言葉と
尾張で使用しているのは違ったらしい、同じ日本語なのに)
文盲?
同じ日本語って書いてるじゃん。
方言とかじゃないの?
62 :
日本@名無史さん:04/05/23 13:46
津軽のずうずう弁の老人と沖縄の琉球言葉の老人で会話は成立せんだろ。
第一どちらも地元民以外、意味不明だ。
戦国時代の尾張の尾張言葉は相当なまりがあった。
朝廷の言葉も相当特殊。
そんなことも知らない
>>60は家から出たことがないヒッキー
63 :
日本@名無史さん:04/05/23 13:49
おかしい、と一言で済ませるんじゃなく
具体的に指摘しろ。
自分んなかに無い知識・考えを言われると
すぐ否定したがるだろw
66 :
日本@名無史さん:04/05/23 15:06
ありゃ、一日おいて見たらチョト荒れ。
ちなみに
>>59のはNHKラヂヲで歴史学者?かなんか
専門家が言ってたこと。
まぁ、なんでも鵜呑みにしてもどうかとおもうけど。
67 :
日本@名無史さん:04/05/23 18:54
言葉というより有職故実、儀式とかの智識が在ったらしい。
また公家言葉という独特のもの、隠語のようなものもかなりあったらしい。
それていて戦略、戦術、外交も優れていた。鉄砲、刀も使い手だった。和歌、茶道、築城技術もあった。
どこで、学んだのだろうか。まさにこの混乱時代においては、不思議だ。
>>67 家は地元で土岐家に代々仕えていたのだが、こんな話が他の庄屋筋にも
共通で伝わっている
彼の父は土岐家の無名の一人。瑞浪市に勤務していたが母親は御嵩町明智
出身。母親はここの習慣(今でも地元では守られている)で実家に帰り出産。
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.25.48.604&el=137.5.24.808&la=1&fi=1&sc=3 地元の土岐一族研究会によると、土岐家は武芸より学問や茶道、詩歌萌えで
一族ほか仕えてる家の当主まで強制参加?させて茶会や×ゲーム付連歌を
開催したとか(今川家がやってたような)。光秀の母親が教育ママだったことに
加え光秀自身が異常に秀才だったので、彼はなかば監禁状態で孫氏や六韜
さらに詩歌や茶道も土岐本家が斉藤道三に乗っ取られるまで学んでいたらしい
先生は本家当主ほか、京都から招待(実質亡命)していた貴族が当たったとか
若いときの経歴が不明なのに、有職故実や兵法、武芸まで万能なのはこれが理由?
なお光秀の父がわざと土岐系図から外されたのは、彼の先祖が京都で泥酔し、
上皇の車に矢を射た祭りから臭いものに蓋感覚で”表向き抹殺”したためらしい
(名家でも謀反人の子孫を残すのは、分家にせよマズーと思ったのだろう)
結果だけみると、結局血は争えないということになるがw
頼遠なら抹殺も何も超有名だが。
おっしゃるとおり
72 :
日本@名無史さん:04/05/26 02:13
秀吉の大好物はバナナだった。
73 :
日本@名無史さん:04/05/26 03:15
信長は本能寺で黒人を洗っていた
74 :
日本@名無史さん:04/05/29 10:50
朝廷では中国語が使われただって ぷ
76 :
日本@名無史さん:04/06/05 18:18
本能寺の変など
ただの寺の失火事件だよ
秀吉の天下制覇の流れはその前から決まってたし
77 :
日本@名無史さん:04/06/09 10:52
感謝。でも光秀の系図が無い以上は、過去はやはり推測となるのでは、、、、
ひとつ疑問なのは、織田信雄が全くうごいていないことだけど、、、
78 :
日本@名無史さん:04/06/09 11:56
↑不勉強ですね。
信雄は途中まで出張ったものの、お膝元の伊賀で一揆が勃発し
動くに動けなかったのさ。
伊賀の一揆というけど実態はどーなのよ?
家康の伊賀越えも絡んでくるから重要なとこだと思うのだが
伊賀って、もともと守護を追放するほど、土豪地侍の結束が強いところ。
81 :
日本@名無史さん:04/06/10 10:30
本能寺の変とまるで呼応するかのように叛乱がおこったのは、旧武田領の武田残党だけのはず。
伊賀は天正九年の天正伊賀の乱で五万の織田軍に主要人物やサムライは殆ど根こそぎ殺されたから、それほどの力があったと思えず。
せいぜい不穏な動きが、、、くらいだったはずでは。
もし叛乱が起きていれば家康が通過できないのでは、、、。不明。
遂に運が尽きただけって感じ。
本能寺までに自分の判断ミスで死ぬ寸前まで言っているが
家康や秀吉のオカゲで生き延びれただけだし、
運良く信玄&謙信が突然死してくれたしね。
しかし本当に運がよかったのは家康自身で
信長も秀吉も家康を天下人にするための伏線に過ぎなかったてことなのかもしれないけど。
83 :
日本@名無史さん:04/06/10 17:34
>>82 家康は信長に息子信康を殺すよう要求され、これが本能寺の家康陰謀説
の理由の一つになっているが、実際には浜松(家康)と岡崎(信康)との間
で勢力争いが起き、信長を岳父に持つ信康の勢力を家康が危惧していた
とも言われているからね。このときついでに恐妻築山殿も殺したので、
案外家康当人は懸案を一つ片付けられたぐらいにしか考えていなかった
のかもしれない。
3人の天下人のうち、信長や秀吉は個人のカリスマ性(欧米的)の高い性格
だったのに対して家康は集団体制・官僚主義(極東的)な性格。つまり
殺伐とした日本全土を束ねていくのは前出の2人が得意そうで、最後に
統一された日本の新たな支配体制の確立・維持といった裏方的業務は
まさに有能な家臣を巧みに使いこなした家康の独壇場のような気がする。
先輩2人が土台作りをしてくれて、家康にとってはいい時期に死んでいった
あたり、ある意味強運に恵まれた人間だったと思う。
84 :
日本@名無史さん:04/06/11 10:38
織田がつき、秀吉こねし天下餅、座して食うは徳川家康。
餅は、持ち、に掛けている。
もっとも、家康も本能寺の時点では天下をとるとは思っていなかっただろうし、、、
85 :
日本@名無史さん:04/06/12 10:44
鳴かぬなら斬ってしまえほととぎす、織田信長。
鳴かぬなら鳴かせてみせようほととぎす、豊臣秀吉。
鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす、徳川家康。
しかし、家康はただ待っていたわけではなく、手紙を使って、婚姻、領土約束などいろいろと各大名に下工作をしている。この点、マメである。
これが成功したのはやはり長い戦乱を治めるのは家康しかいないという信用、秀吉にも勝った、というような伝説があったためと思われ、、、
86 :
日本@名無史さん:04/06/14 15:49
思うに変当時大阪にいた信孝、長秀勢を光秀はどうする気だったのかね。
結果的には信孝がおろおろしているうちに軍勢がちりじりになった訳だが
あの時、信孝にとっては逆に大チャンスでもあった(信忠も死んだから)。
変直後、信孝がすぐ挙兵していたらどうするつもりだったのか
87 :
日本@名無史さん:04/06/14 19:21
信澄殺害っていつだっけ?
88 :
日本@名無史さん:04/06/15 11:36
明智光秀はそれまで一度も負けたことがなかった。
織田信孝、丹羽長秀の軍は寄せ集めとたかを括っていた、
また、織田信澄は光秀の親戚なので何か叛乱か混乱させてくれると計算していたのでは。
実際、流言飛語であつさり四散してるし、その程度の三流軍隊とわかっていたのでは。
89 :
日本@名無史さん:04/06/15 12:35
明智憲三郎って何者?
>>88 それに、細川・筒井など畿内の武将が自分を指示すると思い込んでいた。
92 :
日本@名無史さん:04/06/15 22:01
いずれも願望だけだった訳だな。
信忠は父を見捨ててさっさと逃げたりはしないだろう。
信孝、長秀はぐずぐずしているうちに軍勢を四散させてしまうだろう。
細川・筒井など畿内の武将が自分を指示するだろう。
こうして見るとザルばかりのクーデターだったわけだな。
どれかひとつでも狂っていたら、別に秀吉がこなくても失敗したわけだ。
というか光秀の目的はまさに”信長を殺す”だけで後の事は考えていなかったくさいな。
93 :
日本@名無史さん:04/06/15 22:30
94 :
日本@名無史さん:04/06/16 12:26
本能寺の変の後、時の主上、正親町天皇は彼の死に対し何か言明したっけ?
96 :
日本@名無史さん:04/06/18 20:18
>>94 「チンは満足である」と言ったとしても、
明智を討った秀吉が天下を取った時点で、その記録をあわてて消したことだろう。
あれだな
信長が生きてるとダイレクトに明へ攻め込んでしまう
そうすると、チョンがあとで謝罪と賠償を要求できなくなる
だから殺った
犯人はチョン
98 :
日本@名無史さん:04/06/23 10:24
丹波では敗走したのではなく、戦略的退却。本陣や周辺が崩れ、逃げた戦いは皆無。
この事変については、何故か秀吉、家康はあまり発言していない。
四国の長曽我部が怪しいとか言い出した人がいるとか。実際、明智の兵が多く逃げ込んだらしいが。
99 :
日本@名無史さん:04/06/23 11:43
事件後大規模な情報統制が取られた
関所では文書類の検閲、関係者達の尋問、焚書が徹底的に実施された
最終的には明智首謀で収束させた
この時点で、さらなる陰謀の拡散は織田家にとって避けたかったわけだ
100 :
日本@名無史さん:04/06/23 21:28
100get
>52
朝倉、織田、朝倉&浅井、武田、上杉、毛利と節操無しに頼りまくった義昭なら充分有りうるよ。
足利将軍という精神構造自体が大名や家臣は将軍に尽くして当たり前、だろうからね。
光秀が丹波&近江坂本召し上げ出雲石見実力切り取りの立場の時に密書が来れば…
気を見るには敏だった節が有るから情報収集能力だけは長けてたのでは?
102 :
日本@名無史さん:04/06/26 11:14
しかし、明智光秀が足利義昭のために変を起こしたのなら、それを公表したほうが得だと思われ。
その証拠の手紙とか、命令書など公表したほうが、
足利幕府恩顧の大名など、味方が多く集まったのでは。と識者たちがいってました。
ごもっとも
>102
信玄の死の時に早過ぎた挙兵で懲りてるから、完全に成功するまで伏せさせてたのでは?
将軍なのだから光秀すら手駒としか思っていないで有ろう。
織田の有力残存家臣が潰された後にしゃしゃり出てくる予定だったとか。
但し、こう書いておきながら、大いなる矛盾が1つ。
確か、当時毛利の世話になってた筈、なぜみすみす秀吉を取り逃がしたのやら…
105 :
日本@名無史さん:04/06/26 12:36
そのときのもーりと義昭の関係はどーだったのだ?
106 :
日本@名無史さん:04/07/02 10:36
毛利と足利義昭の関係は良好。
毛利はあくまで幕府の敵、逆賊の織田を討つとの口実が欲しかった。
107 :
日本@名無史さん:04/07/03 11:58
いちごパンツ(1582)を語るスレ@日本史板
はここですか?
109 :
日本@名無史さん:04/07/12 19:14
>>104 毛利と秀吉は何かあれば停戦の密約があった
強力な中央集権国家を目指す信長の方針は
戦国大名や信長家臣団にもそうとう重圧だったはずで
当時、畿内を中心に様々なクーデターの噂や謀反の計画が
広く囁かれていたとしてもおかしくない
秀吉は本能寺の変を事前に予想してたというよりは
緊急事態に備え以前より大返しの準備を整えていたのだろう
誰かやらないかな〜、誰かやっちゃうかもよ〜、、、という空気のなか
足利将軍の威光をちらつかされて乗ってしまったのが光秀
もし秀吉が先に乗れば、当然光秀が秀吉を討ち天下を掌握しただろう
クーデターの首謀者を悪人にして、のちの天下を丸く収める
その首謀者は細川藤孝、千宗易、近衛前久
共に足利幕府、堺の商権、公家の権益を守りたい既得権益者である
出典ーーーー本能寺(下)
オレ的にはこれがもっとも矛盾無く本能寺の変を理解できたなあ〜
ツッコミどころがあれば指摘よろしく
110 :
日本@名無史さん:04/07/12 19:31
>>109 > 出典ーーーー本能寺(下)
コレって誰の本?
111 :
日本@名無史さん:04/07/13 10:22
信長が中国出陣したとして、毛利を滅ぼすという方針だったのかな?
毛利を滅ぼすつもりなら動員兵力が少し少なくない?
信長死後の秀吉と毛利の講和が早く進んだのは、信長着陣後の
交渉内容に基づいて下交渉をやっていたためでは。
112 :
日本@名無史さん:04/07/15 11:53
>>111 山陽道から秀吉兵団1万8千
山陰道から光秀兵団1万8千
播州から信長直轄機動部隊2万〜3万
計6〜7万、十分では?
113 :
日本@名無史さん:04/07/15 12:26
信長直轄って2-3万も動員出来る?
信長も信忠も馬廻くらいしか動員してないんじゃない?
信忠は主力(川尻や森長可)を占領した甲信地方に
配備したばっかりだし、たしか2-3千しか動員してないでしょ?
伊勢の信雄あたりも動員させてないし。
信長直轄の連中の丹羽や津田信澄も四国向けに動員されている。
秀吉の講和案に近い形で和議結んで、九州・四国攻めに動員するつもり
はなかったんですかね?
114 :
日本@名無史さん:04/07/15 13:58
>>112 明智兵団は1万3千ね、これは丹波兵で編成されている。
>>113 もと明智寄騎の摂津衆、池田、高山、中川などは信長に返上されてこれが約1万〜1万2千。
甲斐の代官は川尻だが駿府に家康軍、背後の関東に滝川兵団を配置してるので
実際の戦闘までには、信忠軍がもう少し動員の余地はあるかも。
信長の行軍に合わせて河内、和泉などの同盟諸将や丹後細川あたりも動員できる。
秀吉兵団はすでに因幡、淡路をおとし来島村上水軍まで調略済み。
それとは別に兵団長をおかず、信長が直轄で持つ傭兵主体の機動軍団があったという話もある。
と、楽天的に考えれば相当の大軍を動員できると思うが。
115 :
日本@名無史さん:04/07/15 17:20
信長は各方面で戦線を拡大し続けたわけだろう
中央作戦室とか大本営作戦部とか置かなかったのか
悠長に茶会など開きおって、いきなり転げ落ちても仕方あるまい
116 :
日本@名無史さん:04/07/15 23:09
>>110 これ、池宮彰一郎の本能寺でしょ?
うまくまとめてるし、小説的には俺も面白いと思った。
小説のクライマックスでは
・千宗易と近衛前久が自己の権益を守るため、方々の大名に根回しを始める。
・細川藤孝が秀吉を焚きつけるが、一枚上手の秀吉は毛利決戦に出馬した信長を幽閉して
一気に京を制圧し自らが天下を握るという策を立て、大返しの準備と毛利との和睦を急ぐ。
・それに危機感を持った細川が光秀と策を講じようとするが、秀吉に先を越されまいと光秀暴走。
・光秀が謀反の後ろ盾とした細川藤孝は実は足利の・・・・・
秀吉のくだりはさすがに小説って感じはするけど
光秀単独犯行というのはどう考えても無理があるので
結局財界を中心とした複合的な策謀に光秀がはめられた
っていうのが事実なんじゃないかな。
117 :
日本@名無史さん:04/07/15 23:34
>>113 摂津衆(中川・高山ら)って明智配下なの?
もともと佐久間信盛配下でしょ?
新たに池田配下になったのか信長または光秀配下なのか不明ですが中国への動員命令でてたの?
その割には本能寺後の池田辺りの動きは遅いと思います。
本願寺講和後の門徒に対する警戒と四国遠征軍がどうなるか不明で動けなかったのでは
(四国で下手売ったら後詰いるだろうし)
河内は蜂屋だっけ、これも四国遠征軍に組み込まれてますね。
和泉は織田(津田)なんとかってのが雑賀衆と戦闘中だったはず。
信忠軍にしても、指揮官クラスの信忠・勝長が上洛してる後に、馬廻程度以上の兵力が
上洛途上だった形跡はないし。そんな部隊がいれば明智勢と安土辺りでぶつかりそうです。
細川は動員されてますね、でも筒井も当主が病気説もあるけど動きが遅い。
信長自身の京都での動きにしても急いでないような気がします。
本気で毛利を攻めるつもりではなく、示威行動に近いのではと思います。
(たとえるなら前年の武田攻めみたいな殲滅を目的としたものではなく、今川義元の尾張侵攻の
ようなものでは)
118 :
日本@名無史さん:04/07/16 23:12
>>117 全体的に動きが遅いのは信長自身がそうとう
ゆっくりした計画を立ててたからじゃないかな
光秀の出陣は岩見出雲に向けてですよね?
秀吉軍が小早川、吉川軍と対峙していて
光秀軍は山陰出雲から備後岩見を抜けば芸州に入れる
で、秀吉光秀に毛利を包囲させてから
信長本体が兵を集めながらゆるゆると播州に布陣する
最強軍団に加えて信長自身まで出馬して、単なる示威行動とは思えないなあ
かなり屈辱的な講和条件を毛利に飲ませるか
毛利が反抗すれば叩きつぶすつもりだったとしか考えられない
119 :
日本@名無史さん:04/07/17 11:08
各方面に部隊が出撃し広範囲に戦闘状態でありながら、ここで毛利と全面的に対峙するとは
どこか無理がありそうに思えるがどうか
それとも毛利は相当に弱体化していたのか?
120 :
日本@名無史さん:04/07/17 12:50
>>117 光秀は山陰方面へ向かって動員されたの?
丹波亀山から南下して、今日と攝津の分かれ道のとこで謀反決断したんじゃなかったっけ?
山陰へ動員されたら、亀山から北へ行きそうな気がしますが。
秀吉と合流する方向へ移動してたのでは?
(道路整備とかの関係で摂津や播磨経由で山陰へ移動する合理性があるのかな)
光秀は最悪信雄、信孝、秀吉、柴田、滝川等の
軍勢と戦う覚悟をきめてたんだろうけどそこが
無謀すぎ。
細川と筒井が合力したとしても無理があると思う。
彫塑壁あたりと連携できそうなんだけどな。
>121
なるほど、長曾我部なら同盟も夢ではないか。
そうすると秀吉との対戦も少しは楽になるかも。。
123 :
日本@名無史さん:04/07/17 14:26
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. ',. ,' , r' 人生五十年〜♪
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124 :
日本@名無史さん:04/07/17 18:27
>>120 題名は失念したがなんかのムック本に明智軍記が載ってて
それの解釈によると
光秀が坂本城ではなく丹波亀山で動員をかけたことにより
光秀軍は丹波兵で編成されていた。
当時、摂津衆は信長の直轄軍となっており
細川忠興、塩川、池田、高山、中川にも出陣命令が出ていた。
という情勢から
秀吉軍が担当戦域を越えて鳥取城をおとしたのは
美作を超えて伯耆・出雲へ光秀軍を進出させるためであり
岩見国境を抑えれば光秀軍は毛利本国の芸州と対峙できる。
信長本体の先鋒として播磨を通過後、一転山陰へ回り
毛利本国を挟撃する作戦ではなかったか?
とか書いてたな、たしか。
真偽のほどは不明だが。
>>121 無謀でもないんじゃないの?
京をおさえ細川筒井が合力して秀吉を討ったあと
足利義昭の幕府再興をもって平定するつもりだったのでは?
誰も合力しなっかったことと秀吉の動きが速すぎたことが
大きな誤算だったんだろうけど
126 :
日本@名無史さん:04/07/21 10:42
一 毛利と秀吉に密約など無い。あれば高松城の有力武将清水宗治を切腹させるはずがない。
一 毛利が秀吉を追撃せず帰したのは、その方が京都で有力武将同士混戦になり、毛利は時間が稼げるとふんだ。
一 細川藤孝は明智に一兵も出していない。光秀と絶縁しているのは変に無関係の証拠。
一 千利休は織田信長と関係がよく、殺す理由が全く見当たらない。
一 近衛前久は館を二条城攻撃の時明智に使われたので逃げた。織田信長の前年の馬揃えにも参加したシンパ、親しかったと言う。
一 足利義昭が背後にいたのなら、毛利の援軍がくるまでそれを公表し、幕府恩顧の大名達の援軍を頼んだほうが有利。
一 四国長曽我部は全く光秀を助けようとした形跡、書簡がない。
一 光秀に全くこれといった援軍が無かったのが、突発的な思いつきの変の証拠。
などと識者たちはいっておるそうです、、、
ただの一部公家と明智のクーデターだって。
信長が絡んでるからって皆考えすぎw
128 :
日本@名無史さん:04/07/21 11:37
信長の自演だったんじゃねーの?
129 :
日本@名無史さん:04/07/24 18:58
んだ
130 :
日本@名無史さん:04/07/26 22:14
惟任日向守
>>126 > 毛利と秀吉に密約など無い〜
秀吉への恩売り、天下争乱の予測、のちのちの毛利本国の安泰などを考えれば宗治の命ごとき軽いもの
> 細川藤孝は明智に一兵も出していない〜
絶縁は変後のことであり、暴発した明智に対し早計に援軍など送れるわけがない
> 千利休は織田信長と関係がよく〜
> 近衛前久は〜
信長との関係が一時良好とはいえ、
それがなんの担保にもならないことは、信長を知れば知るほど身にしみている
> 足利義昭が背後にいたのなら、毛利の援軍がくるまでそれを公表し〜
義昭は首謀者というより、明智を焚きつけるダシに使われた
などと言っている識者たちもいるそうです、、、
132 :
日本@名無史さん:04/08/01 21:50
信長などたいしたことない
133 :
日本@名無史さん:04/08/05 10:58
あくまで忠誠を誓っている有名な城の守将を切腹させるって、毛利の面子にドロを塗る、名誉と力への屈辱だよね。
細川氏は自分で計画、煽動したのに見捨てた、絡んでたのに見捨てたなんてなると。もう誰も相手にしてくれなくなるよ。致命的。
そんなこといったら、誰でも犯人になる、犯人に出来る、もうなんの推理も成り立たない。
だしだろうとなんだろうと、足利義昭将軍様がからんでいたら名前を公表し、幕府恩顧の連中の味方を募つたほうが得。
と識者たちがいっておりました。
134 :
日本@名無史さん:04/08/05 20:08
>>133 > あくまで忠誠を誓っている有名な城の守将を切腹させるって、毛利の面子にドロを塗る、名誉と力への屈辱だよね。
でも実際に切腹させてるし、その後の秀吉を追撃することもなかった
このへんの毛利の動きはどう説明するの?
135 :
日本@名無史さん:04/08/05 23:20
惟任日向守
136 :
日本@名無史さん:04/08/06 10:11
毛利は以後も秀吉政権にすんなりと擦り寄った感じではないか
小早川なんか気に入られてさ
137 :
日本@名無史さん:04/08/06 10:37
この守将を切腹させてまで条件を飲んだ。追撃しなかった、の毛利の動きを証明できるのはただひとつ。
「織田信長の死を何にも知らなかったし、予想だにしていなかった。だから、、、」
何故、追撃しなかったかは
「もしかすると大掛かりな罠なのではと疑った」
或いは、
「戦力を持たせたまま京都に帰し、光秀と長期間噛み合わせよう、毛利回復の時間を稼ごうとした」
と言う見方が多いそうです。
結論として、毛利は本能寺の変を予想すらしていない動きそのまま、、、らしい。
ていうか仮に毛利(と匿われてた足利)が光秀の謀叛を事前に知ってたとしても、
謀叛成功(信長の死)を確信できない限り軽々しくは動けんだろう。
「秀吉が和睦を請うてきた」という段になっても、「信長が死んだから」なのか、
或いは「信長が死んだから兵を退く、と見せかけるため」なのか見極めるのが困難。
仮に光秀から「信長追討に成功」の報が届いたとしても、それが信長の謀略(偽書)
ではないか、ひょっとすると光秀も最初から信長の指示で動いてたのではないか等、
疑えばキリがない。
信長の首級も出なかった訳だし。TVも電話もない時代に300km以上の彼方の
事象の真偽をたった2日で見極めるのはほとんど無理。
139 :
日本@名無史さん:04/08/08 04:37
>>138 京都にスパイを潜入させておけば、可能だった。
それをしていなかった毛利は、所詮、田舎大名。
恵瓊はなにをやっとったんじゃ!
141 :
日本@名無史さん:04/08/08 07:53
ぼーっとしてた
ちゃんとスパイ(というか連絡役)を潜入させていて、かつ、
そのスパイが報告に戻るところを秀吉軍が捕捉したからこそ、
秀吉軍がすぐに知ることができたのです。
143 :
日本@名無史さん:04/08/08 23:22
つうことは、
秀吉軍が優秀だったてことか。
でも、スパイじゃなくて、商人か茶人が毛利に知らせようとしたんじゃなかったかな?
結局、謀反を予想していたら、もっとしっかりと情報網を構築したと思う<毛利
てゆうか、恵瓊は秀吉軍との和睦の為に
備中に呼び戻されていたんじゃ…
145 :
日本@名無史さん:04/08/09 10:08
毛利は前線まで主力軍を進めてもいなかったのではないか
秀吉との対峙も小競り合い程度にしか認識していなっかった
しかも、そこへわざわざ信長が出張ってくるという緊急事態にも対応しきれていなっかったわけで、
まさに情報音痴、田舎大名といわれても仕方なし
146 :
日本@名無史さん:04/08/09 22:58
>>145 秀吉が毛利を攻め始めて何年たったと思ってるんです?
主力を出し続けて国内ボロボロになりかけてますよ、毛利家は。
147 :
日本@名無史さん:04/08/10 01:33
>>145 いくらなんでも秀吉軍を小競り合いだとは思ってないだろ
毛利水軍は本願寺の件で信長軍と直接対決してるし
その後も延々と秀吉に攻められ続けてる
追撃しない理由は領土死守のみが毛利の本音ってのと
もうほとんど毛利には士気が失せてたからじゃないの?
秀吉を追撃し京に駆け上る気もさらさらないし
誰が畿内を押さえるかなんてどうでもいいんでしょ
で、自国を守ることだけはひっしなんだけど
うまく立ち回ったつもりでも
結局秀吉に膝を屈し、家康に領土を削られるわけでね
そこが田舎大名たる所以だね
>>147 実際問題、秀吉一人追い返す事も出来ない程度の兵しかその場に
連れて来られなかったぐらいなので、秀吉が帰ってくれて五カ国安堵なら
万々歳れすよ。
>>139 地図ソフトで計算してみたが、本能寺から広島城まで現代の国道で
378キロくらいあるぞ。
しかもその半分以上は敵の勢力圏なので街道が使えない。
320キロくらいの越中魚津(最前線とは言え経路上は織田勢力圏)の
柴田・佐々軍ですら事態を把握するのに2日掛かってる。
(魚津に報せが届いたのと秀吉・毛利の和睦が成ったのが同日)
京に優秀なスパイが居ても、交渉前に報告するのは無理そうに思うが。
↑
なぜ広島城?
輝元は高松救援のために猿掛山まで出てきてるよ。
直線距離だと、京都から広島まで直線300キロ、倉敷近辺だと200キロくらい。
越中魚津は250キロくらいだから勝家よりは近いかな。
とは言え主要街道を通れないハンデを考えると、1日で伝達するのは難しいかも。
サンカの特殊な走法を使うと、一日40里も走れたという。
忍者はフル装備で一日30里走ったという。
今日のトリビアに出てたオジサン、一日で267km走った記録を持つw
154 :
日本@名無史さん:04/08/13 13:17
名門の自分が、イナカの成り上がり大将に
いじめられて悔しかったから、いつか殺してやろうと思ってタンでは・・
それはさておき、
主君を殺したのに、明智の子孫が現代に生き残ってるんだろ??
闘いで負けた武将の家来とか、嫁とか娘は、どうなってしまうんだろう?
城を追い出されて、ジプシーになって土民に犯されたりするの?
155 :
日本@名無史さん:04/08/13 15:58
秀吉以外は携帯持っていなかったではないか
|
|
∩___∩ | ぷらぷら
| ノ _, ,_ ヽ (( |
/ ● ● | (=)
| ( _●_) ミ _(⌒)
>>155J ))
彡、 |∪| ノ
⊂⌒ヽ / ヽノ ヽ /⌒つ
\ ヽ / ヽ /
\_,,ノ |、_ノ
>>155 毛利は山の上に布陣してたから圏外だったんだよ。
清水宗治は水攻めのせいで充電できなかった。
ホント馬鹿だなオマエラ!
当時の携帯は今のよりずっと大きくて背中に背負ってたの。
アンテナだって主要都市にしか建ってなくて使える範囲は狭かったんだよ。
もちろん地下や城の中では使えないよ。
ふざけるのもいい加減にしろ。
当時は手旗信号に決まってるだろ。
自演乙
161 :
日本@名無史さん:04/08/17 17:09
戦国時代と入っても軍事衛星ぐらいはあったよね?
162 :
日本@名無史さん:04/08/23 07:40
その技術がありながらなぜロケットミサイルや戦闘機を実戦投入しなかったのか、、
謎だ
今時の小中学生くらいだと、30年くらい前の話題だとマジで
「なんでパソコン使わなかったの?」って発想をするよね。
ENIACの開発から60年足らずしか経っていないこと、
電卓だって高々40年前に発明されたに過ぎないということを、
20代や30代の人間でも忘れがち。
まだ16世紀当時は、中国自動車道・山陽自動車道が開通して
いなかったことを忘れちゃいけない。
一般道しか走れないんだから、毛利方の密偵が和睦に
間に合わなかったのも仕方がないと思うよ。渋滞しただろうし。
車がだめなら新幹線使えばいいじゃない
密偵が渋滞したにしてもだ、
毛利が明智の謀反を予想していたんなら、
和議の交渉を引き延ばすとか、
追撃の体制を整えるとか、いろいろできただろう。
頭の悪いスレだな
167 :
日本@名無史さん:04/09/16 19:06:54
本能寺と種子島との結びつきから見た説ってあるの?
>>167 もし種子島にザビエルが上陸しなかったら
本能寺で討ちとられていたのは筒井順慶だったはず、という説か?
どうしてそうなるのかは忘れてしまったが・・・
いや、もし本能寺の変がなかったら
種子島がロケット基地になることはなかった、という説のことだろう
170 :
日本@名無史さん:04/09/22 23:09:54
なんと!
真相書いちゃうと、毛利は関が原敗戦まで秀吉を信長だと思っていた
なんと!
173 :
日本@名無史さん:04/09/23 19:19:58
素敵ですね
ところで217はまだ?w
175 :
日本@名無史さん:04/09/28 12:05:35
>>167 その結びつきって、種子島が法華宗の島であり、
本能寺はその日隆門流の本山だったということ?
そんなの信長がぬるぽと言った為だろ
>>176 案外それが正解かもね。
信長がぬるぽと言わなかった証拠はないし。
178 :
日本@名無史さん:04/09/30 10:57:57
時空警察によると、
本能寺の変は世界征服を企むイエズス会の陰謀だった。
織田信長は鉄砲の火薬の原料である硝石、硝酸カリウムが欲しくてイエズス会の言うとおりに神社仏閣を破壊しまくってご機嫌をとった。
しかし、増長して自分を神と祭らせたので危険視したイエズス会が明智光秀に命じて殺した。光秀にはキリシタン大名が味方する予定だった。
が、中国や朝鮮征服には豊臣秀吉が適任と見たイエズス会は、光秀に味方させずに殺した。と時空警察官が言っていましたが、、、
あと、安部清明は花山天皇とともに関東に武士と農民の独立国を造ろうとした。その素性は関東で大乱を起こし、親皇になった平将門の遺児将国だった。
坂本竜馬暗殺の犯人は、徳川幕府を武力でなんとか徹底的に潰しておきたい薩摩の陰謀。竜馬の徳川との融合政策は邪魔だつた。その首謀者は西郷隆盛から居場所を聞いた大久保利通だった。
伊藤博文の暗殺、銃撃犯人は安重根だけではなく、側の食堂の二階にもいた。その黒幕犯人は当時の韓国併合を企んでいた軍部の元帥達。伊藤博文の韓国の独立を保たせ、協調する温和政策に我慢できなかった、そうです。
で、専門家の人たちの意見はどうなんでしょうか。教授してください。
わかってるくせに
日テレアホだねってみんなに叩かせたいだけでしょ
素直になりなよ、のぶ君
信長が仮にイエズス会の手先だったとしたら
相手を最もよく知る信長が宣教師の前で堂々と「オレが神だかんね!」
なんて言うはずもなく、そんなアホな信長ではないだろう
まあ火薬と布教の取引はあったのだろうが
事の真相は神発言ではなく別にあったんじゃないの?
イエズス会にしたって「神を冒涜した」ってだけで
あれだけの大事業を成せるはずもない。
リスクとデメリットが大きすぎると思うが。
じゃあ、イエズス会が信長の手先だったという線でひとつお願いします。
183 :
日本@名無史さん:04/10/19 10:17:40
数年前、京都あたりで本能寺関係の古文書が出たと聞いたが、誰か知りませんか。
184 :
日本@名無史さん:04/10/27 22:48:01
常識など覆せ!
185 :
日本@名無史さん:04/11/05 20:30:05
はいはいー
186 :
日本@名無史さん:04/11/05 21:29:05
すばらしいスレですね
187 :
日本@名無史さん:04/11/09 09:36:34
常識って何だろう
188 :
日本@名無史さん:04/11/11 17:18:33
>>183 出たよ。中世史関係が多め。
来年くらいに活字化されるんじゃないかな。
189 :
日本@名無史さん:04/11/14 11:41:56
新事実とかあったの?
信長自殺説とか
190 :
日本@名無史さん:04/11/14 19:16:50
光秀は浅野匠頭と同じようにたまたまその時に切れちゃって攻撃したのだよ。
深い理由はない。
>>190 その切れた理由を探しているのだが・・・
192 :
日本@名無史さん:04/11/28 17:42:08
田舎大名と馬鹿にされたんだろ
織田は平家なので家柄では馬鹿に出来ないと思うが
194 :
日本@名無史さん:04/12/01 10:55:06
そんな事言ったら当時の武士階級はほとんどが源平藤橘に帰するわけで
しかしどこをどう読み取れば織田の家柄の話になるのだろうか…
195 :
日本@名無史さん:04/12/01 18:47:40
>>194 >>当時の武士階級はほとんどが源平藤橘に帰するわけで
ほとんど家系図の捏造だけどね。
196 :
日本@名無史さん:04/12/02 00:30:57
光秀が田舎大名ならほぼ全員田舎者だなw
197 :
日本@名無史さん:04/12/03 11:31:35
北条くらいだろ
まともな家柄は
198 :
日本@名無史さん:04/12/05 01:37:06
↑、誰も突っ込まないのか?
つっこむなら田舎大名という話なのに家柄のことを言い始めたところからだな。
200 :
日本@名無史さん:04/12/22 14:37:41
東京をおさえたもん勝ちだよ
201 :
日本@名無史さん:04/12/23 00:12:41
はぁ?
202 :
日本@名無史さん:04/12/23 00:57:02
光秀が土岐氏の血族というのも捏造
田舎モノで浪人だった光秀のハッタリ
203 :
日本@名無史さん:04/12/23 02:56:01
204 :
日本@名無史さん:04/12/27 20:02:57
age
205 :
昔、名無しありけり:04/12/27 20:48:21
正義は勝つ
206 :
日本@名無史さん:04/12/27 21:20:02
歴史上 正義が勝ったことはない 強いほうが勝っただけ
勝った方が、正義を主張しただけなのが日本の歴史。
いや、どちらも正義を名乗るのだから
どっちが勝ったにしろ
正義は勝つのである
208 :
日本@名無史さん:04/12/28 19:01:12
209 :
日本@名無史さん:04/12/28 19:17:47
南蛮勢力が黒幕だってことは明白になったんでしょ?
チキン
南蛮
211 :
日本@名無史さん:04/12/28 23:25:05
南蛮カモ
212 :
日本@名無史さん:04/12/29 13:11:47
精神病の真実 (政治板)
http://money3.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1102516267/l50 世界大百科事典 精神分裂病と向精神薬 より抜粋
「分裂病の原因はなお不明だが〜発生頻度はあらゆる民族,あらゆ
る時代を通じ不変で, 0.7 〜 0.9 %程度とされ,日本でも同様だが,
1963 年の全国調査以後は信頼できる統計がなく,近年の頻度に増減が
あるか否かは明らかではない。」
「精神分裂病には抗精神病薬を数年にわたって長期与薬しなければなら
ぬが,あまり長くなると口や舌がもぞもぞと動いてしまう遅発性ジスキ
ネジアと呼ぶ副作用が出る。これを治すのは難しい。」
「向精神薬が脳のどこへどのように働くかについてはまだよくわからない」
「病気の機序が不明なところへ,作用のしくみがよくわかっていない
精神治療薬を与えて治そうというのには無理がある。」
213 :
日本@名無史さん:04/12/29 14:38:12
漏れも光秀は中国大返しがなければいいところいいとこまでいったと思うけどな
畿内は半年もあれば十分制圧できていたはずだし。
軍団長クラスはほっておけば自壊していたと思われ。
滝川、川尻、丹羽なんてまさにそうだったでしょ
214 :
日本@名無史さん:05/01/04 22:10:20
天下統一という志が全く無かったのでは?
215 :
日本@名無史さん:05/01/04 23:34:35
北陸(柴田)・東海(徳川・信雄)・中国(秀吉)の三勢力を相手に戦うだけの
兵力はないでしょう、光秀には。
うまく各個撃破しても占領するだけの力は無いと思う。
北陸は佐々・前田、中国は宇喜田あたりに後方守らせたら上杉・毛利は
対して動けないと思うし。
そもそも、目標というか目的を天下に宣伝出来なかったこと自体、
光秀に国家戦略がない証拠でしょう。
では結局なにが目的だったのか?
217 :
日本@史名無しさん:05/01/05 13:03:36
足利義昭の線は古典的すぎ?
時空警察はでたらめっぽいけど、
イエズス会がからんでいる、というのは結構いける線かも。
218 :
日本@名無史さん:05/01/05 19:42:17
>>215 先に明智と柴田(位置的に御輿は信孝では無く信雄?)が激突
(光秀を討ち取った場合、決着付かなかった場合)してたら、
秀吉と家康はどうしたろうね?
前者だと清洲会議で勝家主導で織田家は信雄が継ぎ織田家存続、
後は信孝がどう動くかかな?
後者だとどちらか或いは両方が光秀に付くとか。
どちらかの陰謀ならこういう事も有り得るのでは?
>>219 家康・秀吉が光秀に付く大義名分は?
ついでに光秀とどっちが上位者になるかでもめるでしょう。
わざわざ劣勢な立場に立って得るものはなんでしょう?
史実だと、最も早く畿内へ戻った秀吉と光秀が対峙しているけど、
兵数的には秀吉>光秀、もし秀吉が敗れたとしても(首を取るような圧勝でもないかぎり)
次は信雄が進んできてるし、時間がかかれば家康・勝家も進軍してくる。
そっちに兵を向けると秀吉が軍を再編制するという具合に
もぐら叩きになって消耗するだけでは?
信長も同じように、周囲の大名に包囲された時代がありましたが
そのときの周辺大名とは違い、包囲する側が兵農分離が進んだ形態で、
元々織田家として一緒の立場にいた人々ですから、より連携がとりやすいでしょうから。
221 :
日本@名無史さん:05/01/09 02:42:33
ある日信長は南蛮人が日本地図を指してこそこそとしゃべっているのを見た。
問いただしてみるとなんと日本の領土が東経135度で真っ二つに分かれて
東はスペイン領、西はポルトガル領などと勝手に決められていたのだ。
そしてその条約を決めたのが教皇だと言う。
でポルトガル人は「京都は一応スペイン領だしー、やっぱ入っちゃまずいん
じゃね?」と相談していたのだ。
さらにこの南蛮人はずうずうしくも「ノブナガサン、アナタ、
ポルトガルノミカタニナッテ、キョウコウニ テガミ カイテヨ」とのたまった
これを聞いてとうとう信長はぶちキレた。
「この国は南蛮のもんではにゃーでよ!おとといきやがれ!」
南蛮人は「だめだこりゃ、次いってみよー」と言ったとか
222 :
日本@名無史さん:05/01/09 09:07:51
信長は部下に対しても異常性を発揮した。
当時、日本に来ていたキリスト教宣教師ルイス・フロイスは、著作「日本史」の
中で、信長についてこのように書いている。ちなみに彼は信長と面識があった。
-------------------------------
私が一番驚いたのは、信長が異常なほどに部下から恐れられていることである。
信長が手でちょっと合図をするだけで、部下たちは凶暴なライオンの前から逃れ
るように、重なり合いながら、ただちに消え去るのである。
そして、部屋の中から信長が一人を呼んだだけでも、外で百名が大声で返事をす
る。どんなに地位の高い部下でも、信長と話す時は顔を地につけるのだ。
223 :
日本@名無史さん:05/01/10 00:45:31
5月18日
信長は明智光秀と二人だけの密室において。
「お互い、公家朝廷の扱いには苦労したのぅ、中でも一番厄介なのは朝廷を利用
すればする程、朝廷の権威がどんどん上がって行く事だ。光秀、余には力があっ
ても権威がないのじゃ。遠い将来いつか朝廷、天皇を殺さなければならぬ。その
時余は王になる、光秀、その時は、王を助けてくれ」
光秀の肯定の言葉を期待した。
たが明智光秀は信長の野望の実行が近いと判断した。 実は彼は例の手紙が信長の
ものである事を分かっていたのだ。 ただ何のためにこの様な事をするのかが分か
らなかった。たった今分かった、遠い将来なんかではない、今すぐだ!光秀は悟っ
た。ただの皇位簒奪計画ならばいくらでも協力を惜しまない、むしろ積極的に画策
させてもらう。ただ朝廷公家を滅ぼす事には協力は絶対 に出来ない。光秀は信長
に背いた。
224 :
日本@名無史さん:05/01/10 00:52:37
将軍足利義昭を叩きだし、暦を勝手に元亀から天正に改暦してしまで狙った
天皇の座。また信長は天皇しかさわる事の出来ない勅封である蘭奢侍を朝廷
から許可をうけて切り取り天皇に献上したりしている。どれもこれもすべて
自分が天皇となる為の示威行動である。その信長の野望の実現が朝廷より拒
否されたからだ。三職推任状は信長の公的立場を朝廷が配慮してのことである。
225 :
日本@名無史さん:05/01/10 15:51:21
>>224 蘭奢侍なんて足利義政も切り取ってますよ。
念のため、義満じゃなくて義政ね。
226 :
日本史@名無史さん:05/01/28 10:06:54
天皇になるって、
でも南北朝みたいな混乱になったら、かえって厄介では、、、
と言われるよね。
なんか、証拠が出てるんですか。
このスレにリンク張られたような場所を一通り除いてみたが
旧来の光秀犯人説にしても、他の黒幕を唱えてる人間にしてもみんな斉藤利三に
注目してないのが多いね。
光秀の「家老」というフィクションがまかり通ってるけど、明智軍での利三の立場は
柴田軍での前田利家や佐々成政、滝川軍での河尻秀隆みたいな寄力武将。
光秀の下に付けられていた旧美濃衆の筆頭って形。
配下ではあっても家臣ではない、信長の直臣なのに。
どうも利三が謀反に参加したことを「主君光秀に従っただけ」という言い訳が作られた
としか思えん。
無論、その実娘である春日局への配慮で、そういう説が出来たのは彼女の権勢時代
と思われる。
八切止夫とかこの点に注目した人間は要るけどみんな結論が極端だからなぁ
228 :
日本@名無史さん:05/01/29 21:52:23
>>228 最後の行まで読め
それが八切らに代表される「極論」ってことだろ。
与力武将だから、(本来の)主君を裏切らないというのは極論ではないの。
それをいったら、光秀が裏切った原因だって謎なんだから。
>>230 本来の主君を裏切ったよりは、主君が光秀だったことにしてあくまで主君に従った
だけという方が聞こえがいいだろうという話なんだが。
八切らの説が「極論」だと言うのは、利三ら美濃勢や、その他中国攻めで光秀の下
に配属されるはずだった丹後・丹波衆が本能寺を攻めたのに、光秀一人が無実だと
言い張ってる点。
個人的には「共同正犯」の一人だった光秀が秀吉に敗死したことで死人に口無しと
ばかりに全責任をかぶさられて「単独主犯」にされたんじゃないかという気がする。
その他の共犯者の面子は議論の分かれるところだろう。
>>231 斎藤利三は、共犯者(あるいは主君光秀に殉じた)わけでなく、
首謀者の一人というわけですか。
それだと、長曾我部氏との交渉窓口を光秀がやっていたのに、
(最初は織田との関係は悪く無かった)
途中で秀吉が窓口だった三好側を支援することに決まり、
長曾我部攻めが決まったため光秀(と利三)面目を失ったという説ですか?
それぞれに異なる色々な利害が一致しての信長排除だと思うのよ。
↑は送信ボタンの押し間違い
名前欄にも余計なこと書いてるし、寝ぼけとるな…
彼ら以外にもそれぞれに異なる色々な利害が一致しての信長排除だと思うのよ。
本能寺を襲ったのは明智勢だろうけど、その軍事的空白を作るためにはより多くの共犯
が必要だったはず。
言継卿日記で「此度の謀反随一」と名指しされている以上利三も首謀者の一人ではある
とは思うけどね。
彼の場合は長宗我部家と縁戚関係の上に、さらに京の銀相場を支配していた蜷川家とも
縁戚であり、商業をも全て己が管理下に置こうとしていた信長に対しては二重の動機が
あった。
>>234 軍事的空白を作るための共犯って誰をさしてるんですか?
信長配下で、独断で兵を動かしていた武将なんていないと思うのですが。
毛利とか上杉とかのこと?
彼らは軍事的な主導権を持ってなくて、イニシアティブは信長側にあると思うのですが。
その辺は解釈の違いかと
本能寺の変当時に京が空白地帯になっていたこと。
従来は偶然の僥倖を幸いとして光秀が謀反を起こしたと考えられたけど。
それが実は偶然ではなく意図的なもので、事後に光秀一党以外の参加者がアリバイ工作して
その事実を抹消したんじゃないかという見方をしてみた。
237 :
日本@名無史さん:05/02/03 23:09:15
利三は反対したという説を支持するが、後世の作り話か?
6月2日は信長の家臣が全国各地の戦地に赴いていおり、
本能寺の信長陣は手薄であり、家康は裸同然の状況であった。
ある意味、光秀にとって千載一遇の好機と観たのでは
無かろうか?信長暗殺後直ぐに、朝廷より征夷大将軍
の銘を受けたのも、予定されていた行事であったのでは?
本能寺直後に家康も討ち取る計画も有ったと推察
される。
何れにしろ、信長に対しては相当の怨恨があったと
思われるが、あの沈着冷静で頭脳明晰な光秀が単なる
思いつきや、怨恨だけで行動するとは思えない。
238 :
家で猫:05/02/04 08:16:53
朝廷がからんでたんでしょ。信長は征夷大将軍を断ってたし。
帝を殺す気だったんでしょ。だから朝廷が先手をうった
光成は変のあと朝廷と食事会してるしね。
もちろん家康もからんでた
さんざん手を焼かされた義昭でさえ追放しただけの
信長が、なんで天皇と対立して殺す必要があるのでしょう?
征夷大将軍を断ったら、天皇殺さないといけないの? なんで?
断ってないと言う説もあるし、時期がきたら将軍職を受けたのかもしれないし。
240 :
日本@名無史さん:05/02/05 01:54:17
変直前の光秀の行動なんですが、
八切説では、5月27日に愛宕山に登り一泊、翌28日に連歌の会を催し
百韻奉納、その日も宿泊して29日に下山しようとしたら大雨、
結局下山するのが翌6月1日夜になってしまった、ということです。
しかし、一般的な説では28日に連歌会、その日のうちに下山して亀山城に
入るとなっています。ただ、「林鐘談」という本では、連歌会は28日夜から
スタートして翌朝までやっていたようなことが書いてあるそうです。
そうなると当然、28日には下山していないので、その日に亀山城に入るのは
不可能ということになります。
だいたい、連歌の会というのは何時くらいからスタートするのが普通なのか?
28日は晴れているので、この日に下山していれば、その後の亀山城入りや
1日夜亀山城で、謀反の意思を斉藤利三など老臣に打ち明けるというのも
問題ないのですが…皆さんはどう考えますか?
241 :
日本@名無史さん:05/02/08 22:22:23
信長に「歌坊主」と詰られた光秀。
光秀にとって相当、相容れない相手であったのだろう。
家臣として、やって行く自身もその気も失せた。
家臣を辞めるといっても簡単に抜けれるものじゃ
無かろうから、その結果謀反になったのか。
光秀が「時は今・・・」と詠んだのを誰かが
拡大解釈あるいは勘違いして信長に注進
激怒した信長は森蘭を使いに出して詰問
光秀は自分の詠んだ句が信長討伐の意味にも
取れる事に気づき、自棄になって謀反ってのはどう?
こういう説ってすでに誰か唱えてるのかな
光秀は信忠が京にいることを知らなかったんじゃないかと
いう考えから発展させたんだが
243 :
日本@名無史さん:05/02/11 09:27:01
光秀の動機とか黒幕とかを考える前に
状況を見直す必要があるんじゃなかろうか?
例えば、変の6時間後に自分の城と勢田橋焼いちゃった山岡とか、
翌日には髻切っちゃった細川とか、動きが極端過ぎないか?
どちらも百戦練磨の戦国大名で光秀とも顔見知りなんだから、
普通だったら条件交渉くらいすると思うが。
百戦練磨の戦国大名だからこそ
そのように迅速に反応した
とも、考えられる
>>244 結果的に、超非常識な速さで秀吉が帰ってきちゃったんで、
「迅速な対応」で済んだけど、秀吉が毛利に絡まれたり、
途中天候が悪くなったとかで、大返しにならなかったら、
(実際、関ヶ原の秀忠が遅れた理由は利根川の増水のためだし)
それぞれ各個撃破されてますよ?山岡なんか城まで焼いて
一族郎党連れてどうするつもりだったんだろう?
(もし、本当に信長のために戦うというなら関ヶ原の伏見城のように
篭城するという手もあったはず)
また、細川について言えば、関ヶ原の真田のように、親父が秀吉、
倅が光秀に付いてもよかったんじゃない?
っていうか、このこの当時ならこの作戦の方がポピュラーでしょ。
>>245 「光秀が勝てるかも」と思わず、状況からして「必敗する」と判断したんでしょう。
それなら、そういう立場を早く明確にしたほうが保身上有利だし。
山岡は勢田の街道を破壊して時間を稼いで、蒲生あたりと合流して
安土や伊賀・甲賀あたりでの抵抗を考えていたのでは。
単独の勢力では対抗できないだろうし。
細川は、丹後に篭城していれば、前線から秀吉や勝家が戻ってくるまで
守りきれると判断していたのでは。
細川親子、高山右近、中川清秀などは、光秀と親しかったり、与力の立場だったりと
親交があった訳だが、光秀には属さなかった。なぜか?思うに彼らは信長政権の
中である程度の地位を賜っている。その現状に完全に満足していたかどうかは、
ともかく彼らには、信長の下で明日があったのだ。だから信長を消す必要などない。
むしろ信長あっての自分なのだ。これは、信長配下のほかの将も同じ。だが光秀は、
信長を討った。そう、皆が必要としていた強大な存在、信長を消し去ってしまった。
結局、光秀は疎まれたのだと思う。もう織田家の天下は目前というときになって
「何してくれとんじゃー、キンカン頭ぁ!!」って思ったのだと想像してみる。信長が
死んで喜んだのは、追放されていた安藤守就や、本願寺、長我部、上杉といった
諸外の勢力。信長に仕えていた将は、誰一人として喜ばなかったのだろう。
まぁ黒田官兵衛ぐらいのものでしょ、好機ととらえたのはw 後はみんなパニック。
細川が明智に味方しなかったというのは
細川家の史料に基づくものなんでしょ?
なんか不審だな
というのも前年、丹後の一色氏が細川に敵対して
本能寺の変の3ヵ月後に滅ぼされているんだが
一色氏の立場に立つと細川は敵で尚且つ明智は細川の姻戚なんだから
当然、細川は明智に味方すると一色氏は考えたと思う
つまり一色氏は反明智にまわった可能性が高くその一色氏を
滅ぼした細川は親明智ってことにならない?
>>248 一色氏が滅ぼされたのは
天正8年 細川の丹後支配に反抗
天正9年 明智の斡旋で細川と和睦(藤孝娘と婚姻)
天正10年 本能寺の変発生
細川氏の城に誘い出されて謀殺される。
という流れ。
謀殺の理由は、表向きは一色が明智方に付いたおそれがあったからということだったと思います。
(裏では丹後支配の強化のためという可能性もあると思いますが)
だから、細川=親明智の立場ではなくて、反明智の立場で一色氏を滅ぼした形になっています。
>>246 あの状況で光秀必敗と判断するのはかなり難しいのでは?
羽柴、柴田、滝川などはそれぞれ強敵と対峙しており、実際に
滝川などは北条に絡まれてボロ負けしてるわけだし、
秀吉や柴田も同じ状況になることは十分考えられる。
>細川は、丹後に篭城していれば、前線から秀吉や勝家が戻ってくるまで
>守りきれると判断していたのでは。
そうなのでしょうけど、山岡もそうだけど、変の当日や翌日に
「誰かが帰ってきて光秀を倒す」という、その一点買いで行動するのは
やはり不自然な気がします…
>>246 細川あたりから周辺の状況を見た場合、
光秀有利の条件
光秀いわく、京で信長・信忠を討ち取りました。(討ち取ったという証拠はない)
徳川家康は領地を離れて堺に少数でいます。
京都周辺には、筒井順慶や津田信澄など、与力・親族武将がいます。(味方してくれる根拠なし)
信長に不平をもつ旧守護大名の末裔や安藤守就などが味方するかも。(兵力として当てになるのか?)
光秀不利の条件
近江以東の状況が全く不明です。もし信長父子が京を脱出していたら反撃されそうです。
秀吉は高松城包囲済み、毛利の後詰も反撃できない状態です。
勝家は越中魚津城包囲して落城間近、上杉は援軍も出せません。
一益はじめ旧武田領は一揆など起こっておらず、表面上安定しており、周辺の大名とも特に対立していません。
伊勢・伊賀の織田信雄・信包は健在。
大坂では、信澄がいるとはいえ、信孝・丹羽長秀らが四国遠征軍の編成中
信長が足利義昭の提唱した包囲網(浅井・朝倉・武田・本願寺・後に毛利など)に包囲されたような状況を
より少ない勢力・弱い地盤で,光秀は破らないと勝てないと思います。
おまけに包囲側はもともと同じ織田家の部将のため、連携などもよりやり易いでしょう。
この状態を光秀が打破するのはかなり難しいのでは?
252 :
日本@名無史さん:05/02/15 21:42:59
常識が崩れ去る。。
253 :
日本@名無史さん:05/02/15 22:10:32
信長が嫌いだったのでしょう単に。
そして殺さなきゃ殺される状況に陥り
好機行動を起こす。
その後は、反信長勢の大名を纏め上げ
天皇中心の共和制でも引こうとしたんじゃない?
>>251 光秀有利な材料には異論は無いですが…
信長親子脱出の可能性:
わざわざ夜のうちに包囲して、夜が明けると同時に攻撃しているのは
脱出の可能性を限りなく低くするためですよね。
その位の陣立ては当時の常識のうちだから、情報を入手したら、光秀の
戦いぶりもよく知ってる細川あたりなら信長死亡はほぼ間違いないと
容易に判断できるはず。
各方面軍の状況:
TVもネットも無い時代で、何百キロも先の状況は正確につかめない。
織田の武将が実際より景気のいい報告をするのは織り込み済みだし、
逆に毛利北条上杉の強さは過大に評価されていたはず。
実際に秀吉も毛利の実力を過大に評価していた節がある。
光秀包囲網:
足利義昭の信長包囲網との大きな違いは、中央での強大な勢力の発生を
望まない外部有力勢力の存在。羽柴柴田滝川は両面作戦を強いられる。
また、
>同じ織田家の部将のため、連携などもよりやり易い
それはどうでしょう?
柴田滝川はともかく羽柴と柴田滝川の連携は難しいと思われる。
やはり光秀に信長討伐の大義がなかったというのが大きいのでは
天皇暗殺とかでっちあげればよかったのに
256 :
「未来試写室の親父。」。:05/02/16 02:50:42
「日寺は今 あめがしたしる(05−14以降の蜂起?星) 殺気かな」●
257 :
「未来試写室の親父。」。:05/02/16 02:52:09
「きいたんだ 本能寺近江屋 同じ井戸」?
258 :
「未来試写室の親父。」。:05/02/16 02:56:21
「二条第」と「二条城」と、異なり?
伏見稲荷さんゑ!失礼すみませぬ謝意。
259 :
日本@名無史さん:05/02/16 03:00:00
あのですね
最近では
○信長重病→自害説
○犯人信孝説
○光秀は自ら汚名を買って出て
織田家の名誉を保った
という説が有力ですよ
260 :
このカフェも潮時かね?:05/02/16 04:11:16
白人さんが私の印刷物を11枚から間違って?
4枚抜いて持って帰っちゃったらしいとか・・・
7枚しか印刷してないんだけどなあ不思議です?
261 :
このカフェも潮時かね?:05/02/16 04:13:13
レシートもらってみれば・・・
7枚になってるんだけど変・・・
ここのオープン日は昨年か・・・
カメラにまた手など振るか・・・
262 :
このカフェも潮時かね?:05/02/16 04:13:48
はんにんにゃ・・・
263 :
フジテレビに告ぐ妖しい怪しい穢れた裏穴占いか・・・:05/02/16 07:31:50
0659さそり座が頑固でわるかったなあ・・・
264 :
フジテレビに告ぐ妖しい怪しい穢れた裏穴占いか・・・:05/02/16 07:37:47
ジャパンカップ勝ち馬の国籍暗号伝達法(ギャロップ)と
有馬記念等の勝利指定席暗号伝達番号組法(過去法)とをデ
ッドライブだかドライブドアだかさプレゼントまたは売却!
265 :
フジテレビに告ぐ妖しい怪しい穢れた裏穴占いか・・・:05/02/16 07:50:38
今偶然かね?わざわざわたしのちかくにきて
けんかばうってきたあんちゃん(一応勝利私)
なんかも黒い服きてたがあ読売新聞もテレビ欄
あたりの新聞(一夕二朝!!)紙もとっておけ
。0655乃至0657頃大塚やばい細菌撒布
しちゃったからな・・・さくや毎日ちくしょー
野球で赤ゴジラ「55」ばやってたが三三!!
長島さん背番号「33」かと思ったがそれはよ
NHK2200以降米国告白本表紙に「33」
がみえてただけのことよなあ・・・不治テレビ
さん「さそり座の親父。」や「AB型親父。」
めらをあんまり「あしげ」にすんなよ八百長局
!!
266 :
テレビの朝日・・・「報道ステーション」わ「G◎◎D」さっと!!:05/02/16 07:58:16
イチャモンつけられてもあの「報道易」だけは・・・
他の番組で基本的人権侵害とかをしなかったぜよ・・・
不治テレビさん腐れチューリップ八百長開放裏口・・・
入社なのか配役なのか性質悪過ぎ女の見本局かね・・・
267 :
テレビの朝日・・・「報道ステーション」わ「G◎◎D」さっと!!:05/02/16 08:13:54
決して触れなかった番組のフジの八百長ばらしても
もうお天道様も「サイレンス」だろうざんねんだね!
月曜日午後09時台さっさと普通自然の理かたる男と
つぜん出演させてくれたのもテレビ朝日サンだった!
かりやざきとか名はお〜し〜えぬけとPお釜とかめ
が創価不純在日久本とかピカリとかインサイダー資金
シコタマためこみやがって青少年にキレル妖に洗脳し
やがる大塚とか東京事変よかヤイコとか邪運塗堕ル狂
♪危枷やがって・・・事件のちまた騒擾リポーター?
なにが「初恋列車」だあ「一五」暗号の未来買い?
268 :
テレビの朝日・・・「報道ステーション」わ「G◎◎D」さっと!!:05/02/16 08:25:07
02−14夜からまた楽(普通の激痛)になってた
左がわの腕手指ががまんできない暗い激痛再発・・・
しかし!そのままほっとけばいいとわたしはまた諦め
て運転くるまかなっと。それにつけても裸足でも暑き
左がわの足なんだけれど、だんだんお尻の裏あたりよ
りゑあがてきたんだけれど、いったいなんなんだよ?
269 :
創価在日インサイダーゲーニンも金症日つつぬけか大河局?:05/02/16 08:42:03
そんなギャラを公開にしろ〜とまでさ・・・
叩かれたNHKさんでも基本的人権侵害・・・
したりしてまでわてらへ復習しなかった・・・
270 :
創価在日インサイダーゲーニンも金症日つつぬけか大河局?:05/02/16 08:45:24
駄馬駄馬駄馬駄馬駄馬
ヲーマキバノミドリ♪
271 :
ななしまっくす:05/02/16 08:49:57
本能寺の変って何年におきたんでしたっけ?
272 :
創価在日インサイダーゲーニンも金症日つつぬけか大河局?:05/02/16 08:55:55
よい音楽でなかったら
ライブ小屋のドアしめん
・・・日本国国民擁護曲
か?早稲田教育学部卒業
前にゃニヤリとし水商売
らしいテレビ局ばけって
広告代理店コネ入社し男
がしゃべってたけどなあ
・・・
273 :
1582ねんぐのおさめどきさ・・・:05/02/16 08:58:08
1582年じゃ?
274 :
1582ねんぐのおさめどきさ・・・:05/02/16 09:00:59
「井戸」を「緯度」に、わが「257」は修正さるべし?
275 :
1582ねんぐのおさめどきさ・・・:05/02/16 09:03:59
「0446 虹結うより 位置慈勇に」。
>>254 > 信長親子脱出の可能性:
この時点で確認できる事実は「光秀が、本能寺の焼討ちに成功した」
ことだけ。現実問題として信長の首級が上がっていないので
「信長が光秀蜂起を早期に察知し脱出して、夜陰に紛れて逃げ遂せた」
という可能性が否定できない。
もし信長が落ち延びていたと仮定すると、(手勢が無いので)
光秀方の追手の目を眩ますため安全圏に辿り着くまでは潜伏して
いるだろうし、手傷でも負っていれば潜伏期間(逃亡に要する時間)は
数日に及ぶことも考えられる。
信長が死んだことが確信できるまでは、迂闊に光秀に同調する素振を
見せる訳には行かないだろう。
(条件交渉を行なっただけでも、万一信長が生きていた場合「叛意あり」
として処断されることが確実)
蘭○と励みすぎて腹上死
それを聴いた光秀が主君の恥を覆い隠すためにわざと謀反人の汚名をかぶった
この板に森長定が本能寺の時点でまだ小姓だと思ってた香具師がいるとはなw
若い頃は掘られたかもしれんが、他に児小姓なんていくらでもいるのに何が悲しゅうて
とっくに元服して髭の生えてる男と励まにゃならんのやw
>>254 京都から脱出した人は結構いますから。
(織田長益・前田玄以・織田三法師とか)
変の翌朝、明智軍が必死で本能寺で信長の死体を探した(結局見つけられなかった)のも
逃亡の可能性を捨てきれなかったからでしょう。
各方面軍の状況も、
北条は織田と敵対していない。
上杉は国内の混乱で越中に軍も出せない状態で勝家の足止めは無理。
数週間前の情報としてもこの程度はつかんでいたでしょう。畿内では。
毛利もずっと秀吉と対陣しているのに反撃できない状態だし、
細川も中国への援軍として動員されていたから最新情報は入っていたと思います。
短期間で畿内へ戻ることは出来なくても各地の部将達がいずれ反撃に出ることは予想できたと思います。
秀吉程のスピードではなくても1,2ヶ月もすれば各地からの反撃は畿内に及んでいたと思います。
実際、畿内にいた家康でさえ、光秀が滅亡したときには既に軍を尾張まで進めていたわけですから。
280 :
日本@名無史さん:05/02/19 03:52:31
あのさぁ、なんかの本でよんだんだけど、主犯が斉藤利三の亀山?衆三千だけで変がおこった当時キンカンは京都にも入ってなかったっつーのはどうなわけ??
281 :
・・・!・・・:05/02/20 10:13:02
「六月三十二日という日は普通存在しないものです」
「多分二十二日ということでいいんじゃないかな?」
煙草をくゆらせながら奥の木々の方を見る多田と中西。
282 :
日本@名無史さん:05/02/26 00:56:34
信長は生き延びてはんとしごに死んだのさ。
キンカ頭は変には参加していません。
変後直ぐに比叡山に逃げ延びた。
283 :
日本@名無史さん:05/03/06 19:22:16
光秀は死んでいない。秀吉の行った首実検は大いに疑問がある。
信長も本能寺では死んでいない、死体が無かったからな。
でも、変の際受けた傷が原因で数ヵ月後に数人の
家臣に看取られて死にました。秀吉が天下取った後に
名乗ったところで、殺されるのは十分承知していたので
人知れず葬られましたとさ。
284 :
日本@名無史さん:05/03/09 22:47:36
>>283 光秀は本能寺で死んだんだよ。信長が返り討ちにした。
で、信長はその後何となく面白いかな、と思って自ら「信長討たれる」の
偽報を四方に発して、自分は光秀に扮してテキトーに遊んでた。
285 :
日本@名無史さん:05/03/12 11:20:02
それってホントか?
286 :
日本@名無史さん:05/03/12 16:43:44
家康は長男を信長に切腹させられている。本能寺のとき光秀討伐にすぐさま出立せずにうろうろしていたのはそのせい。
光秀を裏でけしかけたのは千利休ら境の豪商たち。
287 :
日本@名無史さん:05/03/12 20:11:27
そして20年後、比叡山の僧侶と化し世を忍んでいた光秀を
徳川幕府の政策顧問として、迎え入れる事となる。
彼は徳川三代に仕え、日光に権現様として家康を奉る事に尽力する。
288 :
日本@名無史さん:05/03/12 20:31:41
光秀=天海説か 信憑性はどうなんだろね?
皆無
光秀無実説で有名な八切止夫は天海=光秀は年齢的にありえず、むしろ
左馬助秀満ではないかと書いていたな。
天海=光秀説の根拠となる事績は全て娘婿の秀満だったなら不思議はない
ことだと。
291 :
日本@名無史さん:05/03/13 10:52:39
家康は天下をとってから、光秀縁故の者を男女問わず重用しているケースが散見される。
>>291 春日局関係以外でいる?
明智関係者は別に徳川以外にも細川や寺沢氏が取り立ててますけど。
別に犯罪者扱いはされてないと思うけど。
当時は主君替えたりするのは当たり前だし。
293 :
日本@名無史さん:05/03/13 11:05:00
http://home.att.ne.jp/banana/history/Dai23-Akechi.html 八切止夫「天海=光秀説」。もし自分が光秀で後に天海と名乗った
ので有れば、同じような行動をとったと思う。
光秀は主殺し最悪の家臣の見本であり、名乗り出ることは永遠に
不可能であろう。となれば、別名で政局に登場し怨念のある織豊
勢力の殲滅へ力を注ぐ。慈限堂と慈限寺の関連性はやっぱり無視
出来ない。人知れず、光秀=天海の証を残したかったのであろう。
希代の知恵者であった光秀の事だから、後世の人々に謎解きを啓示
する様なトリックを残したとしても不思議ではない。
考えすぎかも知れないが、これぞ歴史の醍醐味では無かろうか。
常識的に考えて、「天海自身、自らを光秀だ!」と語る事や文書で
残すことはありえない。しかし、内心では「光秀は生きており、徳川
幕府体制確立の功労者であるのは光秀=天海だ」という事実を
永劫に伝えたい気持ちも有ったに違いない。
証明されることの無い永遠の仮説である。
294 :
日本@名無史さん:05/03/18 23:47:33
なんと!
295 :
日本@名無史さん:05/03/19 08:16:02
296 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 06:47:47
信長を殺さなかったら光秀は追放される。
だから殺した。
以上!!
297 :
日本@名無史さん:2005/04/18(月) 22:04:05
常識など
298 :
日本@名無史さん:2005/04/18(月) 22:10:34
信長は天下が欲しかった。秀吉も家康も天下が欲しかった。光秀も天下が欲しかった。
299 :
日本@名無史さん:2005/05/06(金) 21:41:12
===========================================================================================
『上杉景勝は東スポ並み!!! 「木下藤吉死亡(か?)! 信澄、信長を殺害(か?)!」 』
===========================================================================================
織田信長が家臣の明智光秀の謀反(むほん)で死亡した一五八二(天正十)年六月二日の
「本能寺の変」の一報が、北陸には信長が甥(おい)によって殺されたという内容で伝わった
可能性があることが、金沢学院大美術文化学部の石崎建治助教授の調査で分かった。
石崎助教授は、金沢の旧家が所蔵する越後(新潟県)の戦国大名、上杉景勝(かげかつ)の
書状を一年半かけて分析した。戦国時代の転機となった信長の死がどのように全国に伝わったか、
情報伝達のあり方を示す貴重な資料としている。
この書状は信長と敵対していた上杉景勝が会津(福島県西部)の戦国大名、蘆名(あしな)家の
外交僧、遊足庵淳相(ゆうそくあんじゅんそう)にあてたもの。自著であることを示す景勝の花押
(かおう)(サイン)が入っており、六月九日付になっている。
書状によると、毛利家と戦っていた「木下藤吉」(藤吉郎、後の豊臣秀吉で当時は羽柴姓)が
捕らえられ、それを救援するために信長が駆けつけたが、秀吉は死亡。信長自身も毛利家の軍に
劣勢となり、甥(おい)の織田七兵衛(信澄)の変心によって切腹させられたと記している。
光秀には触れていない。
景勝はこれらの情報を加賀、越前の国境付近から入手したとして、蘆名家にこの情報を伝えるよう
依頼している。
北國通信社 2005/05/05付け記事
http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20050505001.htm
300 :
日本@名無史さん:2005/05/07(土) 03:42:57
>>291 >さて、正解は、、、どれだろうか。それともまだ他の説があるかどうか、、、、
個人的な考えだが天皇陰謀説の可能性もある。
信長は天皇制廃止しようとしてたからな。
301 :
日本@名無史さん:2005/05/07(土) 03:53:26
>>4 >さて、正解は、、、どれだろうか。それともまだ他の説があるかどうか、、、、
個人的な考えだが天皇陰謀説の可能性もある。
信長は天皇制廃止しようとしてたからな。
国変えされたからという説はないんですか
303 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 01:01:51
信長暗殺は国民の総意です。
誰一人悲しんだ香具師は居なかった。
まさに天誅で御座る。
羽柴、徳川、毛利、上杉、皇室、一向宗、
浄土宗、本願寺etcの全員の意見を纏めて
明智君に実行してもらいました。
304 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 11:29:40
信長の死亡だが、事実は、たばこの不始末らしいよ
305 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 20:49:42
マルボロ吸ってたらしい
306 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 21:03:07
マルボロは流石にうそだが、南蛮人が持ってきた
キセルかたばこに関心があったらしい
307 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 21:07:20
明智をそそのかしたのは秀吉だよ
そして俺が援護してやるとそそのかし
たのは家康。
秀吉は裏切り、明智を倒しにかかる
>>307 江戸時代からある説を得意げに書かれてもw
無論江戸時代には家康の示唆って説は表立っては
言えなかったけど。
310 :
日本@名無史さん:2005/05/17(火) 11:06:02
「本能寺の変本当の謎」並木書房
>「本能寺の変」の叛逆者と言えば、明智光秀に決まっている。
ところが本書では、光秀を大忠臣(見方によってであるが)、真の叛逆者を織田信長だったと結論している。
意味が分からないのだが・・
朝廷の視点じゃないの?
312 :
日本@名無史さん:2005/05/17(火) 13:08:39
信長が日本の皇帝に成った場合、なにか困ることでもあるのか?
既得権益者以外でさ。
力によって奪った皇位は力によって奪い返される
やはり中世において頂点は儀礼的地位にしておくのが無難
315 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 21:22:54
信長なんて単なるならず者に過ぎない。
今で言うと「やくざ」の親玉でしょう。
強盗、強姦、人攫い、人身売買、放火、殺人、
拷問、思いつく悪事の全てを組織的に
行った。義理も人情も勲功も親子の情も何も無し。
人間のクズでしょう。
光秀は知性も教養も常識もモラルも兼ね備えた逸材。
基地外の信長と反目するのは当然の事でしょう。
>>315 光秀は、どうして信長の家来になったのかな?
317 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 02:25:59
ズバリ刺客でしょう!
>>310 読売新聞の夕刊で書評でてたな
有力な説なら読んでみたい気もする。
トンデモ本ならパス
319 :
日本@名無史さん:2005/05/20(金) 21:41:56
>>315 そうかな?俺は日本史上唯一の「天才」だと思ってる。
「合目的的」という言葉が唯一ぴったり来る人物だ。
晩年には多少納得できない点は多いが。
ソースが、○栄刊の無双本で悪いんだが、
森乱丸スパイ説なるものがあるって本当?
詳しく読んでこなかったけど、確かこんな感じだったと思う。
(記憶が、あやふやなんで少し違うかも…スマン)
【目 的】お乱を信長に近づけて、信長を懐柔。
【説の根拠】お乱が信長の側に上がったあたりから、信長は家臣任せになっている。
321 :
日本@名無史さん:2005/05/22(日) 01:18:39
ラン○の父さんとも愛人関係にあり親子どんぶりでした。ノブ。
>>315 天の才はあったが信長は間抜けだった
ポカが多い
それはいえてる
324 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 21:31:53
ヌケサクだったな
325 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 04:18:34
なんかの本に光秀を本能寺に呼び寄せたのは信長本人で
それなら1万3千を誰にも怪しまれずに
信長の正確な居場所を知ることができる
太閤記に,「森ラン丸が明智光秀に会って、本能寺に来るように呼び寄せている」と書かれてる
で、油断してたのか信長は少数
光秀が突然、攻撃を仕掛けたんだってさ(w
信長トイレから出て『喧嘩の騒ぎか?』と言うのは『(明智軍の中かで)喧嘩の騒ぎか?』
らしい
信長公遺言『余は余自らが死を招いたな』
326 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 15:22:09
その遺言とやらについて、学識者の見解はどうなんだよ?
太閤記をアテにされてもな・・・
327 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 21:57:38
age
328 :
日本@名無史さん:2005/05/31(火) 14:22:00
父親を殺された今川氏真が
桶狭間以降、着々と準備していた。
監視の目を逃れるために、ワザと愚将の振りをしていたのだ!
330 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 01:26:32
確かに光秀を本能寺に呼び寄せたのは信長本人であるという説は
可能性が高いと思う。いくら早朝だったとしても、1万三千の大軍
を誰にも気づかれずに京に進駐するのは無理であろう。
もし信長自身の指示によらない不審な動きであったとするなら、
それを察知した信長はすかさず逃げ延びるのは明らか。
あくまでも推察であるが、光秀の入京は朝廷に2度目の圧力を
かける為の馬揃えを予定していたのではないかと思われる。
しかしながら京入りに際して、光秀と天皇間には密約が有った。
徳川史観で後世の歴史を作って行く際、朝廷共犯説を実証する
より、光秀単独犯に決め付けておいた方が全てが丸く納まる。
その後の秀吉の中国大返し、家康の伊賀越え、山崎の戦い、
粟田口での光秀暗殺、等すべて一連の流れとして大きく装飾された
作り話の様な気がしてならない。物語として面白すぎる。
橋田スマコか倉本ソウの様な今で言う所の脚本家か放送作家が居たに
違いない。それが大田牛一か?
いずれにしても、怪しすぎるぞ「天正10年!」
331 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 01:48:07
公家の勧修寺晴豊の日記に惟任日向守と密約(右大臣暗殺)が記されてるんだっけ?
332 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 04:11:11
実は本能寺の変は無かったという説がある
そんで、山崎の戦いは、秀吉・毛利連合軍vs信長・光秀連合軍の戦いだったらしい。
たしかにこの説だと、本能寺の変の不可解さも説明できるし、山崎の戦いの後にあっさりと秀吉が織田家を凌駕するようになったことも理解できる
333 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 04:16:53
>>332 その説だと、秀吉が謀反人で、光秀は信長に最後まで従った忠臣にということになってしまうね。
歴史は所詮勝者が作るものってことか‥
334 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 09:07:57
>>332 >実は本能寺の変は無かったという説がある
確たる証拠もなく、想像を述べることを妄想と言います。
このスレの99%は「平気でウソのつける人々の発言」で出来ています
336 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 13:13:26
このスレ適当な妄想ならべて本能寺を語るネタスレだと思うが
>>336 妄想といえばそうだが
いろいろ推測して楽しむもんだ
338 :
日本@名無史さん:2005/06/02(木) 00:36:48
ウソも400年続けば、真実になるという事を考えた事が無いのか
>>334 モチロン、桶狭間の奇襲なんて昭和に入ってから作られたウソ話と
言うの位は知っているのだろ?
それより、今日は一応信長の命日だ!
339 :
日本@名無史さん:2005/06/02(木) 00:42:34
桶狭間の奇襲なんて昭和に入ってから作られたウソ話 ×
桶狭間の奇襲なんて甫庵信長記で書かれてる話 ○
340 :
日本@名無史さん:2005/06/02(木) 00:51:06
厳密にいえば、命日は21日(旧暦で2日)だよ。
フロイスも21日って書いている。
341 :
日本@名無史さん:2005/06/02(木) 00:54:48
342 :
日本@名無史さん:2005/06/02(木) 00:59:37
太田牛一の「信長公記」に自らの筆を加え「信長記」として世に出した。
この中で奇襲攻撃を示唆する表現を登場させた。彼の創作であった。
もうウソばっかで何が真実なのやら‥
実際のところ、桶狭間の戦いは
足軽の煙草の不始末で、義元本陣近くにあった火薬庫に引火するという、義元爆死説が有力だよ。
信長の命日が5月21日なわけねー
旧暦で5月2日だったのに、なんで20日ていどしかずれてないんだよ!!
ちなみにフロイスは20日と書いてまふ
345 :
日本@名無史さん:2005/06/02(木) 19:34:29
>>344 太陰暦では月の朔望を基準に日付けが決まる(新月の日が○月1日)。
太陰暦だと基本的に1年(12ヶ月)は約354日なので、太陽暦(1年≒365.25日)とは
同期しない。放っておくと、太陽暦(季節変動)とのズレが蓄積してしまうので、
約3年ごとに「1年=13ヶ月」となる年を設けて補正する(閏月(うるうづき)導入)。
補正は一ヶ月単位でしか行なわれないので、太陽暦と太陰暦とのズレ日数には
30日弱の揺らぎがある。
例えば「旧暦1月1日」を太陽暦に直すと、2005年は2/9だけど04年は1/22、
03年は2/1、02年は2/12から旧正月だったらしい。
正確なズレ日数を覚えるのは大変なので、厳密さを問われない場合は一般に
「旧暦≒太陽暦の一ヶ月遅れ」として扱われることが多いけど、戦国時代頃の
暦は宣明暦なので、閏月の入れ方が旧暦(天保暦)とは違うし2日くらい間違って
いたらしいので、「当時の暦で5月2日」を「太陽暦6月2日」にするのはひどく
大雑把な計算だなぁ、と。
以上、スレ違い。
346 :
日本@名無史さん:2005/06/04(土) 10:50:14
天正10年は全部ウソ!
347 :
日本@名無史さん:2005/06/04(土) 14:21:40
っていうか、戦国時代は全部俺の創作
みんな楽しんでくれた?
>>347 三国志に比べてロマンとストーリー性が足りない。
信玄と謙信の一騎打ち的な話をもっと織り交ぜ、
徳川家康は最後今川家の遺臣に刺し殺されて終りとかにして欲しかった。
もちろん祖父と同じ村正で・・・
そういや、イマイチ影が薄いが、
津田信澄って明智に味方したから殺されたのだろうか?
それとも娘婿だから味方するだろうと思われて殺されたのだろうか?
後者だったら結構なとばっちりだな…。
信行の息子とはいえ、織田一族内での位置づけはそんなに低くないよね。
351 :
日本@名無史さん:2005/06/08(水) 06:55:05
>>350 信澄はドサクサにまぎれて排除されたっぽいね。
秀吉の指しがねとの噂もあるし。
352 :
日本@名無史さん:2005/06/08(水) 16:54:45
>>343 それなら昼食後の一服か?
それとも飯が炊き上がるまでの一服か?
353 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 00:39:44
354 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 02:02:59
2ちゃんに本能寺スレッドがあると聞いたので飛んできました。
ウチの先祖は本能寺の僧兵の一人だったらしく変事があった時は
織田方として参戦していたみたいです。その時の記録を日記みたいに
まとめてあるんだけど…価値ある?
ほー・・・・信憑性はあるのか無いのかさっぱり分からんけど、
最後は明智の兵にとっ捕まって僧だからと言う理由で逃してもらったとか書いてあるのかな。
ちなみにどれぐらいの分量なの?
356 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 20:21:13
「本城惣右衛門覚書」
(本能寺の変に従軍していた光秀配下の武士 本城惣右衛門が
晩年、子孫と思われる三人の人物に宛てた記録より:奈良天理図書館蔵)
之を読んでいると、変は結構、粛々と進められた様な感じがする。
信長記や信長公記は相当ドラマチックに描かれているが、実際は
本城惣右衛門の伝える話の方がリアリティーがあって、信憑性が高い
のでは無かろうか?
因みに本城惣右衛門は光秀方の証言ですが、織田方の証言が有れば
是非公開して頂きたいものです。史的検証する価値は相当高いと
思われます。
しかし、よく明智軍は本能寺まで行けたな。途中で止められたりしなかったんだろうか。
大軍が京都に入ってくるのは不思議に思うだろうし。それだけ光秀は信頼されていたのかな。
兵士達には何て伝えたんだろうね。内容次第では内通者が出て、信長に知らせる
人間も出てきていたかもしれないのに。
「本城惣右衛門覚書」 はね…偽書説もあるからね…
本能寺の変や伏見城攻めなど、驚愕的内容で、あまりに他の史料と差異があるので
史学者も扱いに苦慮してる模様
359 :
日本@名無史さん:2005/06/15(水) 00:00:39
牛一の信長記だって相当後に書かれたものだし、本能寺に関しては
聞き伝えに過ぎない。
>>357 部下は家康を殺すとか極秘の任務とかで納得できるんじゃねー
361 :
日本@名無史さん:2005/06/15(水) 07:23:47
>>357 真偽の程は別として、「信長の閲兵」が兵士たちに触れられたのは
事実だと思うよ。
362 :
日本@名無史さん:2005/06/16(木) 18:02:25
本能寺の変などたいした事件じゃないよ
363 :
日本@名無史さん:2005/06/16(木) 18:22:31
正確には煩悩児の変
364 :
日本@名無史さん:2005/06/16(木) 18:40:59
反乱軍はすんなりと京の市中に入れたのか
関所なんざぶち壊して乱入したの?
織田家の所領内には関所はないから、公界での関所の有無が問題だと思われ
366 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 09:46:31
京への入り口は検問があったんじゃないの
市中も夜は木戸を閉めてたはずだ
(反乱の意図を明確にするまでは)明智軍は織田軍の一部なんだから
「信長公の閲兵を受ける」と言えばフリーパス
368 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 10:44:39
>>367 そんな軍事行動はきいとらんぞ
ということでもめそう
369 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 10:53:06
>>352 どうも、バイトの足軽さんがシフト交代する前に一服していた時にやっちゃったらしいね。
>>368 可能性をあげつらって行けば終わりはない。この論争はおしまい。
経過はどうあれ、本能寺に到達し信長を討つことに成功している
>>368 光秀クラスの「偉い人」の行軍を現場の判断で下っ端が妨げたりしたら
その場で打ち首もの。
信長等から具体的に「光秀が来ても通すな」という命令が出てるので
なければ、素通りさせるのが当り前。
372 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 00:48:08
>>355 分量的にはそんなに厚くない。うちの祖先は京都のお寺を転々としていた
らしく、記録はそのお寺での出来事ばかり書かれてます。笑ってしまう
話では毛利家の使者が来られた時に応対するはずの住職が二日酔いで
寝込んだので、風貌が似通っていたご先祖が変わって応対したけど
先方の意見が全く理解できずに困ってしまったとか…そんなことも
書かれてます。
うちの爺ちゃんの訳によると本能寺で僧兵をやっていたのは給金が
よかったかららしく、雇われ僧兵だったみたいです。そんなのが戦国時代に
あったのか知りませんけどね。
実行=光秀
謀反示唆=朝廷
で、良いんじゃね
実行:光秀
謀反示唆:バテレン
で、良いんじゃね?w
実行=光秀
謀反示唆=家康
で、良いんじゃね
376 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 22:48:46
実行=光秀
謀反示唆=帰蝶
で、良いんじゃね
377 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 00:08:18
八切に釣られている椰子ハケーン
378 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 00:09:23
実行=光秀
謀反示唆=377
で、良いんじゃね
379 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 07:46:30
380 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 16:44:04
常識が。。。
実行=瀬田宗次朗
謀反示唆=志志雄真
382 :
いえやす:2005/06/26(日) 16:44:10
何度も出ていますが・・なぜ信長の死体が出なかったのか?
@燃え尽きた〜木と紙だけで区別不能まで燃えるか?
A逃げた〜信長の顔を知っていたのは光秀はじめ一部の重臣だけ。足軽に
変装すれば脱出できる?ただ生きていれば後日現れるはず。
B死体を持ち出した〜やはり変装してけが人を救うふりをすれば可?
でもどこへ埋めた?
いずれにしても、光秀も秀吉も必死に焼け跡で捜索したが全く見つれられ
なかったのはなぜでしょう。
じゃあ、天海=信長ってことでFA
>>382 阿弥陀寺の住職が持っていったから
・・・と後世の阿弥陀寺の住職が記録に残しておりまふ
非常に胡散臭いがw
386 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 21:05:43
一旦逃げ延びたが、重傷で再起不能。
そうこうしているうちに秀吉が天下を取ってしまい、
生存が秀吉方の知れるところとなり、秘密裏に暗殺された
というのが真相です。
違うよ
本能寺の焼け跡から命辛々生き延びた信長は海を渡り、満州に渡りヌルハチになる
信長の「長」という時は「長月」つまり‥9
ヌルハチの「ハチ」は言うまでもなく、そう、8を示す
10から数字を下に読んでいった場合。9の次は8だというのは解るよな???
>>386 つまり‥
ヌルハチは実は信長なのだ!!!!
388 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 11:31:54
違うよ
信長はいつの時点からは不明だが光秀が用意した影武者だったのさ
脱出して、本来の役割である光秀の家臣になったのさ
○本願寺の挙兵で原田直正が敗死し、光秀がかろうじて天王寺砦で重囲
におちいり玉砕の危機と聞くや、信長はわずかな供回りで出撃し、
重囲の中を突破して明智勢と合流している。(そのとき本願寺勢の銃撃で負傷もしている)
○佐久間信盛への折檻状で「明智光秀の働きはめざましく天下に面目をほどこし、
羽柴秀吉の功労も比類なし。」と功績の第一に挙げられている。
○また織田家臣団のなかで、もっとも重要な近畿管領的な地位を与えられている。
信長の首はさらされたが、光秀の没落の際の混乱で不明。
信長の名誉のため、本能寺で見つからなかったことにした
390 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 21:46:31
秀吉が必死に本能寺の焼け跡を捜索させたことを見ても、当時も骨や
遺骸がなかったことは驚かれたのだろう。
やっぱり成功したかは別に脱出したのだと思う。(途中で無名人として
殺された)
>>390 秀吉一流のデモンストレーションの可能性もあるけどな。
392 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 00:44:20
なぜ死体がなかったか?
風流人の光秀が、余韻の残そうとしたのだよ。
本来は死体があったのに、なかったことにしたわけだ。
戦巧者の光秀に本能寺を囲まれては、実際問題として蟻の這い出る隙もないだろう。
身の危険も顧みず、窮地に陥った天王寺砦の部下をすくった、その部下にやられたのだから信長も本望だろう。
信長は本来、いさぎよい人物ではないので、あの状況下でも必死に
脱出を試みても不思議ではない。現に本能寺から、嫡男・信忠の
所までたどり着いた人もいたようだ。脱出が完全に不可能だった訳ではない。
394 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 23:36:12
妙だな、1万を超える軍勢で、わずか百数十人のこもる寺を包囲(不意打ちだから完璧な包囲が可能)
したのだから、ネズミ一匹たりとも生きては出られないハズなんだが?
395 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 09:43:07
>>393 >現にに本能寺から、嫡男・信忠の所までたどり着いた人もいたようだ。
>脱出が完全に不可能だった訳ではない。
捏造はいけません。
確かに本能寺からから脱出した人物はいますが、本能寺から二条御所へ
駆け込んだ人物はいません。
396 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 11:24:11
>>394 そんなことはありません。だいたい囲んだ兵のほとんどが信長の顔を
直接見て知っている者がいないのだから。
また戦場ですから双方ともパニック状態なので、鎧をつけて味方だと言えば
区別つかんでしょう。脱出の可能性はありますよ。
397 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 11:35:10
信長のペットの黒人さんは本能寺から出るだけなら出てますよね。
もっとも捕まってますが。で、光秀に「黒人は獣であって人ではない離せ」ってことで
開放され命だけは助かってる。
さて、これをやはり他の逃げれる人は逃げたと取るか、
結局それだけ警備が厳重で、本能寺から出ても見つかり討たれるのがオチだったと取るか・・・。
信長は万一の時のために本能寺に抜け穴を用意していた
しかし、中が塞がっていたためそのまま熱死
遺体は穴に埋まって見つからず
信長は本能寺にいなかった
400 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 14:10:21
400
401 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 14:56:37
うんこ
>>397 俺その黒人のその後が気になってしかたがない。
生きていけただろうか。
後の宮本武蔵である。
>>402 南蛮寺に行けば、かくまってもらえるだろ。
どうせ、また奴隷に戻されただけだと思ふ。
405 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 00:27:10
その黒人がクンタキンテになったというのを誰かに聞いた事があります。
>>404 南蛮寺に引き渡され、ルソン送りになっとります
407 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 19:58:48
時空警察ではキリスト教の陰謀がなんたらとか言ってたんだがあれはどうなんだろうな?
>>407 信長とイエズス会の摩擦は説明されていたが、肝心の光秀とイエズス会の
関係、またなぜ光秀だったのかの説明、証拠は皆無だった・・・>番組内容
409 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 01:49:46
単純に天下を取りたかったってことさ。
いろんな陰謀説があるが、どれも妄想の域を出ない。
410 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 02:36:14
本能寺を襲ったのは斎藤利三の亀山衆三千のみ。日向は京都にもいなかった。ってのを読んだことがあるぞ。知ってる人いる?
411 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 06:39:33
まぁ、通説(『信長公記』を含め)が真実の100%を伝えている訳ではなく、
一番真相を知っていたであろう首謀者たちがみんな死んじゃっている中での
下っ端や傍観者の不確かで作為的な記録にあれこれ言ってもしゃーないよ。
412 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 11:42:29
>>410 本能寺には百十数人しかいなかったから、斉藤利三勢3,000だけで十分。
既に織田家の家督を相続している信忠勢は2,000〜3,000の兵を引き連れていたので、
残りの一万の兵を集中する必要がある。信長を討っても、信忠を生かしておいては
なにもならないからね。光秀は信忠攻囲軍を指揮していたのではないかな?
戦下手の指揮官なら、信忠勢に囲みを破られる恐れもあるし。
413 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 21:37:41
光秀が信長横死を知ったのは翌日
タイムマシンが出来たら是非見に行きたいね!
415 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 22:13:05
>>413 横死ったって死体も首も発見できず。光秀も秀吉も本能寺焼け跡を
何度もほじくり返した。あせっただろうな。
416 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 22:02:57
412レスサンクス 実際はほかにも信長を憎んでいた人たち、朝廷、宣教師、濃姫なども暗黙の了解または協力したらしい。 また光秀は利三が決起したのでしかたなく兵を挙げたらしい。
ソース
418 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 22:26:35
420 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 01:22:27
42 名前:日本@名無史さん 投稿日:2005/07/09(土) 22:00:04
日本の歴史はオール捏造 本当の部分はごくわずか
誤用学者が日本の歴史をむちゃくちゃにした
そもそもの古事記、日本書紀からしてオール捏造 信頼度ゼロ
421 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 10:23:11
>>408 そうか。確かに光秀との関係は説明されてないな。本当気になる
422 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 17:56:21
冤罪ですって
423 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 22:35:46
朝廷関与説の可能性は非常に高いが、後世の徳川史観により
真相は闇に葬られる。
424 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 05:48:11
>>423 >後世の徳川史観により 真相は闇に葬られる。
馬鹿の一つ覚えの常套句ですなー
425 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 19:50:11
やっぱり天皇に取って代わろうとすると、必ず暗殺されるのが日本の歴史
のルールだから、信長もそうだったと思う。
因みに現代もそのルールは生きているといわれている。
426 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 23:26:10
天皇不可侵の法則は日本史の普遍的真理。
三郎信長でさえ例外なし。
尊氏! 尊氏!
…南北朝はさすがに例外か…。
428 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 00:46:21
ノブナガヲコロシタノハタオパイパイ
429 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 00:53:56
なんと!
>>424 禿同
何でもかんでもそれで締めくくる香具師がいる。
[勝者の手によって消された記録だとは思えないのか?]
で妄想をごり押し・・・
431 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 19:12:15
本能寺って城だったの?
信長が泊まれるように強化したお寺 というかお屋敷?
433 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 23:36:31
本能寺という名前だが、実際には有る程度の戦に耐えられる要塞だったらしい。
この本能寺の要塞化するために、城普請を行ったのが光秀。
だから内部の詳細は熟知していたはず。
城普請を行ったのが光秀なら、愛宕の連歌会んときに光秀が、
「本能寺の堀の深さはいかほどか」と口走ったろいうのは作り話だな。。
435 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 02:49:09
森氏の家伝にイエズス会修道士が信長爆殺の一部始終を
本能寺間近の南蛮寺で見届けてから大急ぎで国外に脱出した。
ってのがあったな。
436 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 05:07:53
用心深い信長が普通の寺を宿泊所にする訳がない。
437 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 09:00:40
明治維新では天皇を味方にしたら官軍だった。戦国時代も同じなので、光秀が朝廷から
「味方になるよ。」
という言葉だか手紙をもらっていれば、少なくとも光秀の中では「自分は官軍。」と信じていただろう。
天皇と親密になりさえすれば謀反人といえど官軍=正義。畿内にいる信孝、丹羽軍は下手したら賊軍になるあの状況下では動くことができなかった。
結局、そういう暗黙のルールにうとかった秀吉が光秀を倒したので朝廷もこれはやべぇってことで秀吉につくことで乗り切った。
結局、
「黒幕、朝廷&天皇説」なんじゃないかな。
438 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 09:52:47
朝廷説の場合、
一 勅命が出ていない。
一 なんで、それを光秀が公表して、味方をつのっていないのか。
一 光秀と朝廷が交渉していた手紙がない、仲介役がいない、とか。
一 信長って、朝廷に献金している、
一 子供が官位をもらっているとか、
そんな反論をされるけど、なんか証拠あるの?
内裏奏上を担当する武家・細川に援助を断られた時点で、切られたな。
アジア人は総じて歴史の事実関係に疎いから、あーだこーだ言ってもしょうがない。。。
特に日本人はずば抜けている・・・戦国時代の逸話なんて、全部江戸時代の創作だし。アホらし。
その点は印ー欧語族(アーリア)に見習う所が大きいな。
441 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 15:12:12
朝廷説を採用すると、本能寺以後の歴史的整合性に、
違和感でまくりなんですけど。小西ですけど。
442 :
日本@名無史さん:2005/08/03(水) 00:09:31
朝廷はありえねーべ
細川が臭う
細川に嵌められた
444 :
日本@名無史さん:2005/08/03(水) 03:17:44
まともな候補はイエズス会か幕府しかないだろ
ていうか後楯とか黒幕がいなきゃ謀叛ができない、なんて道理はない。
物語にするには「裏で陰謀を巡らす誰か」が居たほうがドラマチックになるが、
現実問題としては黒幕が存在したという証拠はない。
「むしゃくしゃしてやった。今は(ry」説より信憑性のある説はあんまり
見当たらない気がするなぁ。
446 :
日本@名無史さん:2005/08/03(水) 12:49:53
大学の先生方が大発見した事って、まだ発表されてないの?
447 :
日本@名無史さん:2005/08/03(水) 12:55:44
信長の自作自演だったってやつ?
朝廷説唱えてる人間の念頭にあるのは、
朝廷というか、一部の貴族達かえ?
近衛とか。
449 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 15:56:13
朝廷黒幕説が事実ならば、その後の「関ヶ原の戦い」や「大坂の陣」にも、
当然、朝廷の暗躍があって然るべき。だが……
>>449 モチロンあったと見てしかるべきだ
おそらくはサルの子孫が殿上人になるのを阻止しようと暗躍したのだろう
451 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 22:16:30
信長の朝廷に対する軽視と侮蔑は従来の為政者には見られない
異質のもので有った。自らを現人神として奉らせた当時の信長
にとって、神は2つと要らないという結論に至る。
それを察した光秀と朝廷は自らの存亡を賭して信長打倒の最終手段
に打って出た。もちろん、後ろで猿面冠者が暗躍していたのは
言うまでもない。光秀も利用されたのさ、大局に!
シナリオは近衛前久に他ならない。
実は漏れが犯人
朝廷指示というより、一部の公家+武家が暴走しただけじゃね?
正直、朝廷ってめんどいことしなさそうだし、一歩間違えば
内裏まで巻き添えをくらいかねない洛中で事を起こすかな?
朝廷が指示したというより
一部の公家示唆したとのではと思う
んで示唆したのは、当時、実質的に天皇としての政務をこなしてた誠仁親王を中心とする一派で
それで吉田兼見や山科言経が動いたんではないかと
それを朝廷の総意と光秀が捉え、残存の幕府勢力が加担したと
本能寺の変はただのお家騒動だったとか言ってみる。
ふと思いついただけだから根拠はないけど。
457 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 05:15:32
本能寺の変で信長が生き延び、その後大陸に渡って第2のチンギス・ハーンとなり、
世界を征服して日本も江戸城攻撃して世界の王になったという漫画、
夢幻の如くのがありますがどうおもいますか?
創作は自由ですから。
459 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 09:44:23
あのー、細川藤孝への光秀自筆の手紙に「不意の思いつきでやった」と書かれ、
機内を平定した後、引退する。他に他意はない、とあるんですけど、、、
460 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/10(水) 10:21:06
足利義教を殺した赤松満佑と一緒だと思いますけどねw
細川への書簡は偽書説も出ているから何とも・・・
462 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 00:07:16
誰か黒幕がいて共同謀議を行っていたという説が根強いが、よく考えたら無理があると思う。
信長が身辺が手薄な状態で京にくる事が分かったのは、本能寺の変の数日前だ。
それ以前から何者かと打ち合わせていたというなら、いったいどんな段取りを考えていたのか。
信長を殺った後の光秀の手際の悪さからも、何も考えがなく突発的に行動したのは明らか。
有力武将の粛清
打ち続く戦闘で休む暇も無い
それでいて自分には旨みが無い(当時お手伝いばかりだった)
俺だっていやになるよ
464 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 14:41:31
9.11関連の海外のドキュメンタリーで、
実際には国際テロネットワークなんて存在しなかった、9.11実行犯とビンラディンとの関係は、
ただ資金援助を受けていたことだけ、という番組を見た。
ビンラディン=金持ちの原理主義者が、イスラム圏内での活動に行き詰まって海外に資金を流していた、
実行犯=アメリカに住んでいた原理主義者が、ラッキーパンチで大きな成果を挙げてしまった。
で、実際のところは、多くの人がイメージしたような、砂漠で訓練を積み、都市に潜伏して
ビンラディンの指令を待っているような組織的テロリストは一人も見つかってないらしい。
これを見て、斎藤利三説って結構真実に近いのではと思えてきた。
やっぱり人間って、歴史を揺るがすような大事件には、その背後に大事件にふさわしいキャストが
そろっているものだと思い込んでしまうきらいがある。誰が黒幕だとか何とか。
しかし事件は現場で起こるもの、むしろ全容を把握しているような黒幕的人物がいるほうが珍しい。
465 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 16:39:58
紙と木だけで造っていた寺の建物のなかで信長は灰になった・・・
とあるが、紙と木だけで人間の死体が、区別つかないほど、燃え尽きるので
しょうか?
「爆死」とするひともいますが、記録にもないし、光秀や秀吉が死体探しに
躍起となったことを見ると、こなごなとなる爆死はありえません。
当時は血液型や歯形や骨格、遺伝子調査など無かった
本人と証明する所持品とか無かったんだろ
467 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 18:10:26
信長に限ってイフは許されるんですな。。
だーかーら、わしが密かに骨を拾ったんじゃあ!!!
と、阿弥陀寺住持が叫んでおります。
現代でさえ、よく燃えたら身元確認不能になるもんな
そのへんで他にもたくさん燃えてて
「死体見つからない」というより「どれが信長かわからん」
って状態だったのかも試練
本能寺の裏で荼毘にふしたのぢゃ、間違い無い!
戒名だってわしがつけたのが本当なのぢゃあ!!
信長は自爆装置を持っていたので、遺体は木っ端微塵に消し飛んだ。
473 :
日本@名無史さん:2005/08/27(土) 12:14:21
検索も出来ない夏厨のためにage
474 :
日本@名無史さん :2005/08/27(土) 14:04:01
光秀と秀吉がグルだったんじゃないのか?
古くからの家臣だった、林や佐久間が追放されるの見て、将来に不安をもっていたんじゃないかと。
途中から家臣になって、出世したもの同士。案外なか良かったんじゃないの?会社とかでもそうじゃん。
当時の情勢から光秀が実行。秀吉は毛利家が疲れ果てているから和議を申し立てれば、乗ってくるの分かってたんだとおもう。
勝家は謙信が怖くて動けない。家康は丸腰で大阪。滝川、川尻は北条がいて動けないし、遠いし。
秀吉は、「すぐそっちに戻るから」と光秀と約束。山崎で合流しようという事になった。
だから光秀は、11日あったのにこれという手を打たないでいた。
いざ合流の時になって、黒田官兵衛あたりが、今、光秀やっちゃえば天下取れます。
とかそそのかして、討伐。だから光秀があっさり負けた。落ちた光秀の首は取れたんだろうけど、さすがに気が引けてやらなかった。
これが真相だと俺は思う。
丹波国人一揆説
477 :
日本@名無史さん:2005/08/27(土) 19:59:52 BE:110899744-##
昔見た歴史読本には伊賀忍者衆が自害する寸前に信長をさらって
伊賀に連れ帰って処刑したと書いてあったな。
単に段々権力削られていくのが目に見えてきたからやっちまっただけに一票かなぁ
信長って完全中央集権体制作りたかったみたいな感じに進めてるように見えるし
479 :
日本@名無史さん:2005/08/28(日) 21:52:58
なんてこったぁー!!!
480 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 00:45:43
>475
長浜攻めで、秀吉の家族や有力な家臣って死んだのかな。
それに、ほとんど空の長浜を攻める?あえて。光秀は間抜けじゃないし。
でっち上げなんじゃないかと。
481 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 02:06:55
>>480 その時、ねねは裏の山に逃げたって、有名な話。
482 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 02:29:01 BE:69312825-##
よく助かったな、ねねさんよかった。
まあよく考えれば大政所も生きているからな。
みんな無事だったんじゃね?
やっぱりノイローゼだろう。信長に対する恨みつらみは沢山あった。
所領没収・家康歓待で殴られる・実の母を見捨てられた。等など・・・
今なら殺れる!とやってしまったんだろうな。
光秀は名将と言っていい人物だろうが、もし天下を取るつもりでやったのなら
その後の行動があまりにも頂けない。どう考えても光秀当人は思いつきだろうね。
484 :
;:2005/08/30(火) 11:53:22
秀吉の幸運は.戦が山陽道で行われたこと.毛利の山陽道での決定権は.小早川
隆景にあった。山陰道なら吉川元春が.追撃を主張して.中国大返しなど.成
功しなかった。
逆を言えば光秀の謀反は決して賭けではなく
むしろ秀吉の幸運がなければ成功していた見込みは高かったかもね
柴田は一揆で動けず、滝川や丹羽はあっという間に自壊していたからねえ
486 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 17:21:32
ワールドフォーラム8月例会
http://www.worldforum.jp/information/2005/08.html テーマ:イエズス会・南欧勢力と織田信長−本能寺の変の主謀者は誰か?−
講師: 戦国史研究家・立花 京子 氏
日時 : 2005年9月2日(金) 18:30 - 21:30
場所 : 北とぴあ 9階 901会議室
北区王子1-11-1 TEL. (090)7234−9792
交通 : 営団地下鉄南北線 王子駅 下車 1分 ・JR京浜東北線 王子駅 下車 2分
地図 : 北とぴあへの地図
参加費 : 3,000円(会員) / 4,000円(オブザ−バ−)
487 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 17:59:54
>>485 成功は普通に無理だろ。
仮に秀吉が動けなくても柴田はいかなる手を使ってでも光秀を討ったと思う。
それに光秀が中央政権を樹立しても羽柴、柴田等は絶対に従わないと思う。
羽柴、柴田が従わなければ、毛利、徳川、に加え織田家の重臣はほぼ光秀に
は従わない。そうすると、最後は朝廷が光秀を見捨てる。
結局、光秀は後世最大の謀反人で歴史に名を残す事になる。
>>486 行きたいなぁと思ったが
立花のオバはんのイエスズ会の陰謀説かよ
止めとこう
絶対、安部龍太郎が乱入してくると思うしな
とち狂っていたとはいえキリスト教の最大の保護者である信長をヤソが殺すわけない
逆に光秀は伝統的権威を大事にする古典的な人ならなおさら
ぶっちゃけ・・光秀が敵は本能寺にあり!
って言った台詞も疑わしい。徳川家康を狙ってるんかな?ぐらいの考えだったようだね。
侍大将クラスはね
まあ、今しかやれないぐらいの勢いだったんじゃない?
でも・・組下とか細川・筒井も味方につけられなかったのは
誤算といえば、誤算だね。
>>490 突然、信長殺しちゃったから味方になって♪
なんて言われたってそりゃ無理だろうw
誤算つーか計算に入れないでくれってのが本音だろ
そうゆう、なんの下準備も行わずに信長暗殺を決行したから
突発的としか思えないし、それだから成功したとも言える。
>>491 そうだね、光秀君は強迫観念というか・・ヒステリー状態だったんかもしれん。
難しい理由や陰謀は、なかった。
>>487 果たしてそうか?
秀吉は、密偵が陣を間違えず普通に毛利の陣へたどり着くだけで、秀吉と毛利の和解は成立しなかったはず
信長の援軍がなければ、毛利軍四万と高松城を包囲する秀吉の二万足らずでは秀吉の崩壊は目に見えていると思う。
滝川の二の舞
徳川はどうか。あの時はあの時、家康は堺見学でごく少数のお供しかつれておらず
奇跡的に伊賀越えルートが成功しただけで、光秀が詰めを誤らず伊賀か津を固めておけば兵要らずに家康の首を取れただろうね
実際、家康も堺で本能寺の変を聞いたとき、その場で自害をしようとしたとか述懐しているのだからかなり光秀有利な状態かと
一番、安全圏だったといえる柴田だが
これも本能寺の変を聞くと前田や佐々とかいった連中はとたんに領内に引き篭もり領地を固めて動こうとしなかったそうだね
あの辺は信長の支配下となってまだ間もないし、一向宗の再起の危険もあったからうかつに領内をはなれることはできなかった
柴田がもたもたしている間に畿内を光秀が固めれば柴田なんて問題なくつぶせるだろうね
>>493 > 密偵が陣を間違えず普通に毛利の陣へたどり着くだけで、
それ、本当にいたの? 『甫庵太閤記』が出典とかでなく。
>毛利軍四万
この数字の出典は?
>光秀が詰めを誤らず
状況見ても、本能寺を囲んだ時に、信忠放置してた光秀が
家康の事まで考えてる訳がない
>畿内を光秀が固めれば
固める為の味方が余りに少ないと思うが
496 :
日本@名無史さん:2005/09/04(日) 21:47:51
毛利家の総兵力は20万余り、たかが4万程度は露払い
光秀は本能寺攻撃の際、「三河は討ち取ったか」と数回部下に尋ねていると
記されていることから、意識していたことがうかがえる
味方は存分にいた。
そもそも畿内をおさえることくらい織田家の重臣ならわけないと思うが
夏厨の残党のやうです
夏厨と決め付ける信長厨
>毛利家の総兵力は20万余り、たかが4万程度は露払い
レスするのも馬鹿らしいが、20万っつーたら秀吉の朝鮮討伐の全軍に
匹敵する数だぞ。日本64州全軍の半分だw
498=496はただの電波だから、相手にするだけ無駄
>>499
501 :
日本@名無史さん:2005/09/10(土) 15:25:33
吉川だけで五万いたんだから
あながちいい加減な数値でもない
一万人動員するのに40万石必要とされてるのに
5万といえば200万石。
吉川は子供も年寄りもカウントしてたんだろうな。
503 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 20:56:05
吉川家の家老ですら20万石級がごろごろしていたんだから
あながち、いい加減な数値ではない
504 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 21:00:27
>吉川家の家老ですら20万石級がごろごろしていたんだから
へぇ、誰?
ソースは?
吉川広家の所領は元長からの相続時に14万石しかなかったが
503によると、吉川家の家老は20万石クラスで、ごろごろいるらしい。
506 :
日本@名無史さん:2005/09/12(月) 00:09:09
毛利なら四万くらいわけない思うけどね
思うだけなら誰でも出来る
508 :
ぷち小栗:2005/09/12(月) 00:30:01
この頃の信長は完全に逝っていた…確かに。黒幕は羽柴秀吉と明智光秀かと。自分の影武者に指揮を取らせて信長を討つ。その後、羽柴秀吉に影武者を討たせる。光秀自身は南光坊天海と名を替え黒幕で生き続ける…
509 :
日本@名無史さん:2005/09/12(月) 01:02:16
光秀は南光坊天海として家康のブレーンとして生き残った
つまり犯人は家康
510 :
日本@名無史さん:2005/09/12(月) 01:04:05
暗殺の実行犯が殺されるってよくある話だよな
つまり光秀を殺したヤツの親玉が犯人
光秀を殺したのは農民
農民=国民=民衆の総意だ
>つまり光秀を殺したヤツの親玉が犯人
信長自殺説?
>>508 あの・・・天海は信玄に仕えてた人だから。。。
513 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 20:54:29
「本能寺の変は近衛前久、羽柴秀吉、明智光秀の共謀」っての読んだことがある。
もう手元に無いんで覚えてることだけ書くと、
天下統一に向けて信長は手段を選ばなくなり、らんじゃたい(字がわからん)切り取りなど、天皇も危機感を持ち始めた。
そこで当時公家の中では最も位が高かったが、関白職を信長によって罷免された近衛前久が恨みを晴らすことも兼ねて、信長暗殺を考える。
そこでまずもともと将軍家に仕えたこともあり、また公家とも親交が深く、信長に母(叔母、祖母、赤の他人など諸説あるが、実母説を信じる)を捨て殺しにされた明智光秀をまず抱きこんだ。
光秀は当時は相当な教養の持ち主であり、名君の評もあり(天眼だったという説もある)、光秀が織田家に取って変われば公家社会を脅かすこともなくなると考えたためだ。
しかし、織田家には柴田、丹羽、滝川などの有力家臣がおり、成功してもその後すぐに光秀が討ち取られてはどうなるかわからない。
そこで近衛前久はもう一人有力な織田家臣を抱き込もうと考えた。
柴田、丹羽はまず寝返ることは無いし、そもそもこの二人が信長を倒したら次に警戒しなければならない存在で、滝川は遠く関東の地にいる。
残る有力家臣と言えば秀吉である。
秀吉は柴田や丹羽のように織田家譜代家臣ではないし、野心もある。また中国地方に遠征しているため、寝返ってくれれば四国遠征の準備のために紀伊半島方面にいる丹羽軍団は秀吉軍がおさえ、信長を倒した光秀は勝家軍団を倒すという図式ができる。
そうして近衛は秀吉を抱きこみ、それに成功する。
514 :
つづき:2005/09/14(水) 20:55:45
そして明智光秀は本能寺の変を起こし信長を討った。
秀吉も事前の策の通り、近畿まで引き返し丹羽軍団を倒すため、毛利と和睦。事前に引き上げ準備をしておき、一気に引き返した。
これが秀吉が事前に本能寺の変が起きることを知っていなくてはできないと言われた大返しの真相というのだ。
ここまでは近衛の思った通りだったが、ここで思いもしないことが起こった。
秀吉が戦うはずの丹羽に
「信長様の弔い合戦をするので加勢せよ」
といって明智光秀を討つ姿勢にでたのである。
もともと秀吉は光秀と共闘する気はさらさらなく、光秀一人に逆臣の汚名を着てもらい、自分は主の仇を討った忠臣として信長に代わる天下人になるシナリオを考えていたのだ。
そして秀吉は光秀を討ち、まんまと信長の後継者に納まった、という話。
で、この話には後日談があり、このときの首謀者の近衛前久であるが、後年、秀吉は関白になろうと考え、前久の養子となることで公家になり関白に就任した。
いかに秀吉が天下に逆らうもののいない大権力者とは言え、気位が高く血統を重んじる公家衆が農民上がりの秀吉を養子にするだろうか?
これは本能寺の際の前久の策謀をネタに秀吉が何らかの圧力をかけたのではないか。
そんな本だった。
駄長文でごめん。
乱丸が光秀謀反を予見していたとどっかに書いてあったが
ありゃ本当なのだろうか?
もしそれが本当だとしたら光秀かなり挙動不審だなーと。
516 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 00:54:24
コピペでスマソだけどおもしろいものを他スレでハケーン
332 :勝手な妄想:2005/09/02(金)
俺の母ちゃんは父上自らが望んで正室になったんだぞー
兄ちゃんは父上とソリが合わない形だけ正室の美濃女の養子だし、
滅ぼしたとはいえ、大好きな武田の姫と影では怪しい仲だったから
武田攻略にも弱腰で、一時は信孝が代わりを務めているような
ヘタレだから、遠慮なく北畠を皆殺しできた俺の方が
跡目にふさわしいんだよ。伊賀も壊滅できたし。
それにさ、父上は父上で自ら躑躅が崎館を再建しろなんて意味不明な
厳命を出しているし、兄ちゃんは兄ちゃんで、滅ぼした家の
大好きな姫に自分の許に来るよう早くも呼んだっていうし
長いこと武田の人質だった勝長も、織田とはほとんど縁が無かったくせに
生意気にも尾張に城をもらっているし、これで勇猛な武田遺臣まで
引き入れちゃったら、次の織田政権に俺や生駒衆は出る幕なんて
もうないじゃん。だから思い切ってやっちゃったって感じかな・・・w
517 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 01:12:47
坂口安吾がこういうようなことを書いている。
明智の兵が本能寺に入っていったとき
信長の兵たちは、まさか謀反だとは思わなかったので、抵抗も何もしなかった。
そして、明智の兵はずんずんと奥に入ってしまい、とうとう何の戦いもないまま信長のところに来てしまった。
518 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 10:11:44
>513
近衛前久が動いたという証拠品が全くありませんが、?
近衛って、信長と凄く仲が良かったとかいう話がある。
秀吉が陰謀を知っていたら、そのことを信長に密告して褒美をもらったほうが得。
秀吉は信長を神様以上と思っていた信奉者。証拠あり。
光秀と朝廷、近衛が関わっていたという証拠は全くありませんが、
よくそんな突拍子もない、空想、想像が出来るな、と感心。
なにかの確実な証拠でもあるのですか?
戦前、戦後は高名な先生たちが、「光秀怨恨」と、いきなり思いついた「天下への野望説」ばかりでしたが、、、
妙ですね、、、
519 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 11:13:01
>>518 信長と前久は仲がよかったとも言われているが、
武田掃討戦から信長が東海道を通って帰る最中、従軍していた前久が同道を求めた折り、
「近衛!貴様などは木曽路を上がって帰るがよい!」
と大勢の前で罵倒したとも言われている。
一説には信長が嫡子信忠のために太政大臣を譲るように前久に言ったが断られたためと言われている。
>>519 司馬遼太郎は、「自分だけではなく近衛の接待もしなくてはならない徳川家康のことを思って言った」
って言ってたな。
>>519 >「近衛!貴様などは木曽路を上がって帰るがよい!」
>と大勢の前で罵倒したとも言われている。
こんな与太話信じてる時点でアレだ
>信長が嫡子信忠のために太政大臣を譲るように前久に言ったが断られたためと言われている。
こんな説ないし
522 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 10:11:27
なぜ、細川藤孝に光秀が送った自筆の手紙にある
「藤孝の息子のためにやった、他意はない」という文章が全て無視されるんだ?
秀吉が共犯で謀反を企んだ、裏切ったというのなら、
あれほど愛する母と妻ねねを危険な長浜城に置いておくのだろう。
安全な姫路城あたりにひそかに避難させておけば良いのに?
妙だな、、?
なにをいまさら
524 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 11:00:12
で、光秀軍二万人が、変後、四方から進撃してくる残りの織田軍十数万人に勝つ秘策は何でしたか?
525 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/16(金) 11:01:48
>>521 400年も前の話なんで結局どれも与太話に聞こえなくもないが、
信長が村井春長軒を介して信忠を三職につけるよう朝廷に推任したという与太話も聞いた
朝廷からの三職推任は
・京都所司代の村井らの行動によるもの
・信長が村井らを介して朝廷に圧力かけた結果
・朝廷の権威保持の為、官位任命権は朝廷にあるとして、朝廷存続を図る為
・信長を天下人と認めたから
etc...
諸説あるからなぁ
>>522 その書状は偽書説もあるのでなんとも
テレ東の選挙特番によれば、
解散時に小泉は麻生に、光秀にはならないでしょうな、の問いに
私は光秀ほど馬鹿ではない、と応えたとか。
400年後の政権中枢でも裏切り者の代名詞>光秀。
おそらく1000年後でもこの評価は変わらないだろう。
教養人といわれた光秀は後世のこの評価を泉下で如何に聞く。
529 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 00:42:49
>522
秀吉の母ちゃんと奥さんは避難してたんだって、どこかは知らないけど。
だいたい光秀の長浜攻めの話って事実なんかなあ
空の城をわざわざ攻めるかな
530 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 07:49:05
531 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 10:21:06
>>527 残念ながら細川藤孝への光秀自筆の手紙、鑑定の結果、偽物の可能性はほとんどない。
というか、
光秀に全く味方しなかった藤孝に罪はなし。光秀をかばって、偽物を作る必要は何もなし。
ありのままを秀吉に告げたとしか思えない。
もし秀吉が共犯で変に関わっていたら、知っていたら。
何も急いで毛利と講和したり、清水宗治を切腹させる必要はないんじゃないか。
あんな長距離を急いで帰るようことをしなく良い。
わざと、ゆっくり軍隊の力をたっぷりと保持して帰り、光秀と戦っている織田遺臣、子供軍らの後ろから襲い掛かる。
挟み撃ちで完勝。それをしなかったんだから、、、、
で、光秀軍二万人が、残りの織田軍十数万人に勝つ秘策は何でしたか?
532 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 13:06:14
>>531 羽柴、柴田、滝川が当分帰ってこれないと希望観測。
533 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 15:10:15
>>531 >残念ながら細川藤孝への光秀自筆の手紙、鑑定の結果、偽物の可能性はほとんどない。
面白い事言うね、直筆の手紙なんだ
細川家記に「写し」が存在するのみなはずだが
信長は焼けた材木の墨を顔に塗ったくって黒人のふりをして逃げおおせた。
536 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 17:26:25
>>534 彌介かよw
もっともそのとき本人は二条城だが
537 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 22:50:26
信長を暗殺した勢力は、後に秀吉暗殺にも手を染め失敗、
それが異例の箱崎での伴天連追放令の直因となった。
別板スレがありました
秀吉は天才なんかじゃないよ
明智を殺しそこなった後感づいたでしょ お歯黒達が
手まわしてやらしたこと。
明智の命も村村に触れ出ししてやらしたんだよ。
光秀・三成の逃げ方はよく似ている。
信長は主だった公家衆を呼んで武田征伐、中国四国報告して
安心しきってたんだよ。
安土の自分の寝床より下位置に、正親町天皇を寝かせる(引越)
なんて前代未聞。
お茶会に途中不参加届け出してる 奴 が真っ黒けっけだぜ
秀吉はそいつを放免にしてるのなぜ?
539 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 10:05:08
というか、昔、朝廷説というと、軍隊もないのに信長にたてつくわけがない。
あの時点では、信長から献金なんか受けてるし、まだ敵の多い信長には利用価値があるから、朝廷との間にそんな殺し合いになるようなことはない、といわれていたけど、、、
しかし、なんであの時点で殺すわけ?
また織田軍から報復を受けたら参加者皆殺しでしょ。貴族が、そんな危険冒すかな?
といわれていましたが、、、
このごろ近衛前久、、関係してるとか多いね。前はほとんどそんな話はなかったのに、、、何か妙だな。
540 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 10:20:33
「日本史は英雄だけ」
○引き立ててくれた美濃土岐家を滅ぼし、美濃を乗っ取った斉藤道三様。
尾張守護を滅ぼし、尾張を取り、弟君を暗殺し、臣従を誓った主君足利義昭公と足利幕府を滅ぼした織田信長様。
主君織田信長様と長男信忠様を襲殺され、天下を目指された明智光秀様。
織田信長様の三男信孝様を自決させ、次男信雄様の領土を全部取り上げ、織田家を乗っ取り、天下を統一した豊臣秀吉様。
臣従したはずの主君豊臣家を関が原、大阪の陣で滅ぼし天下を乗っ取った徳川家康様。
はて、どの方が裏切り者、謀反人の代名詞なのでしょうか? 皆、それぞれに、良く知られた英雄のお方ばかりだと思いますが。
晴豊、前久が黒幕。
時は今、と読んでいる光秀は、はたから見れば「家臣」だろうけど
実のところ本人は「一時家臣的」意識。頼まれて頼まれて殺った。
毛利領切り取り次第を誤解した。秀吉&光秀で取れないわけない。
秀吉は自分の手柄にせず、いつものように信長を呼ぶけど
「おめぇ、きんかん!行ってこい。」ってかんじでしょ。
昔は秀吉絡んでそうと疑ったが違う。
是非も無し。
542 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 09:49:32
近衛前久が黒幕との証拠は? 何か出ている?
で、残りの織田軍隊十万が復讐戦にくるのを、どうするつもりだったんですか?
543 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 11:55:39
あの、本能寺関係で新しい絵とか発見した場合、
どこの、誰に持ち込めば良いんですか?
近衛前久にどんなメリットがあるのか。
彼はむしろ信長の恩恵を受けまくってた一人ではないのか
545 :
日本@名無史さん:2005/09/21(水) 08:39:34
一度明智軍を宇治まで撃退したのって
最近の学会ではかなり有力らしいね
546 :
日本@名無史さん:2005/09/21(水) 10:00:51
秀吉が黒幕、光秀共犯とすると、
備中高松城あたりまで信長が来たところで、毛利軍に本陣の位置を教えて、桶狭間みたいに奇襲させて殺しても良いんじゃない?
秀吉のところに逃げてきた信長をも確実にどさくさで殺せるし、、、
で、自分で毛利を討って敵討ちしたとか大きな顔をしても良いし、、、
一度、姫路、京都辺りに戻って、織田の大軍が毛利へ敵討ちに言っている最中に、
光秀軍と組んで京都辺りで兵を挙げる。
織田敵討ち軍を毛利と挟み撃ちもできる、、、
秀吉の勢力圏内で殺したほうが、確実ではない?
秀吉の勢力圏で殺すと、直接手を下したのが毛利だったとしても
「信長を守り損ねた大失態」で失脚は免れないんじゃないかな。
下手すりゃ切腹もの。
信長を毛利に討ち取って貰えたら「弔い合戦」に持ち込めるだろうけど、
もし生捕られたら信長の身柄と引替えにかなり不利な条件での和睦を
強いられるだろうし。
545 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2005/09/21(水) 08:39:34
一度明智軍を宇治まで撃退したのって
最近の学会ではかなり有力らしいね
最近の学会とは、どこの国の学会の事で?
信が撃退したの?
550 :
日本@名無史さん:2005/09/22(木) 10:00:09
>>547 ○て、いうか、秀吉と光秀の同盟の最終目的は、軍事クーデター、天下への政権奪取、つまり乱、だから。
信長暗殺はどんな殺し方でも良いわけで、、、、むしろ確実に殺せるかどうかが問題となるわけで、、
そのためには秀吉の勢力圏が都合がいい訳で、、、
秀吉3万、うち宇喜田は一万、、、、
光秀も付属大名とあわせて二万五千も大兵力があるので、責任とれと言ってる場合ではないわけで。すぐ攻めにかかって大乱になってくるわけで。
○信長は絶対に捕虜になるような性格ではないわけで、本能寺でもすぐ自決してるし、、、
捕虜にならないように暗殺隊くらい、秀吉ならおいておくだろうし、、、
行方不明になったなんてことにするかもしれないし、、、、
捕虜になっても毛利はなかなか手放さないだろうし、
秀吉なら毛利と外交して殺させるかもしれないし、、、
捕虜で生きてたって、光秀と秀吉の大軍が乱、中央で暴れまわって何もかも取ってしまうことになるのでは?
つまり死んだと同じでは?
○でも、全くそんなことになっていないので、秀吉はやっぱり無関係と思えるのだが、、、
>>550 信長の性格ならとか、秀吉なら〜するだろうし、とか
理論の根本が全て自分の(人物像の)想像から導きだされて説得力に乏しいよ
その理屈からいくと、光秀なら暗殺隊くらい使っただろうし
でもそんな話は聞かないから、謀反を起こしたのは本当は光秀じゃない
なんて事にもなりそう
552 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 09:58:46
>>551 ○僕のというより、有名な博士、小説家、学者たちが多くの残されている資料から推察する歴史人物像、性格、知能程度を参考にしている。
そう変わらないと思うよ。信長をなよなよした優柔不断、無知な人なんて書いてる人はいないし。
○「光秀の暗殺隊」
一 なんで使わなかったか。昔、高柳博士だったけ、こっそりと信長を暗殺隊で城内で刺殺、毒殺したりせず、
軍隊で本能寺で派手に殺したのは明らかに軍事クーデター、天下への政権奪取が目的だったから、示威だといってた。
二 つかったけど警備厳重で殺せなかった。だから軍隊を使った?
○つまり551君は、秀吉は共犯と見ているわけ? 見ていないわけ?
>>552 俺の言い方が悪かった。
人物像が想像だってんじゃなくて、秀吉なり信長なりの人物像から
彼ならこうしただろうっていう部分の流れがちょいと稚拙ゆえに説として弱いと言いたかった。
一 高柳博士って誰??ここら辺のくだりは何が言いたいのかまったく分からないけど、ゆえに光秀単独だと言いたかったのかな?
まさか暗殺隊を使わなかったって事への理由づけってんじゃないよね?
二 つかったけど警備厳重で殺せなかった
ありえません。何故かは分かるよね?
つづき
誤解のないように言っておくけど、俺は基本的に光秀単独犯支持者。
しかし、朝廷、義昭、家康、秀吉などの黒幕説を否定する完全なソースが無いのも事実。
その中でも有力視されてる秀吉説を否定するのに、根拠のない憶測じゃ弱い。
(この根拠ってのが、君の場合は彼ならこうしたはず、こうなっていたはずっていう想像しかないのね。つまり主観のみ)
論理的に推測して行く事がこの手のスレの楽しみ方だと思う
きつい言い方に見えたらスマソ。
555 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 10:15:34
>>554 「僕は基本的には光秀怨恨説の支持者。なぜなら、朝廷、貴族、秀吉、義昭、家康、濃姫などが黒幕とする説を肯定する完全な物証、証拠品とする資料などはなにもない」
「これといった証拠品が世に提示されていない。ゆえに、他の説は否定してもかまわない。どれも物証がなく、憶測の域を出ないのだから」
「しかし、学者、小説家、民間研究家が、黒幕説をとり、彼ならこうしただろうと推測、推理するのはかまわない。どうせ、根拠のない空想、虚構になるのだから」
「このうち秀吉説は有力視する向きもあるが、決定的な証拠、物証は何もなく、憶測でしかない」
と書くべきでないですか?
裁判のごとく「物証」と見るなら「光秀自筆の手紙」が細川藤孝家に残っている。そこには「すべては思いつき」「細川忠興と十五郎のためにやった」と書かれているのだが。
これはどう見ます?
細川藤孝は光秀とすぐに絶縁、援軍しなかったし、何も光秀をかばう必要はない。ゆえにありのままの記録、物証が残っていると思いますが?
556 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 11:54:47
>>555 観修寺日記は公家と光秀(利三)が共謀した証拠史料じゃないというのか?
>>555 おまい高校生?あまりにも読解力がないので呆れてきたよ…
さらに言うと、君の言っている事くらい知っています。
俺は 単独犯説支持者とも書いたはずだが?
>>556 不勉強なもんで、詳しく教えて下さい。
>>557 たとえば、織田信長が京歴の閏月論争や正親町帝の譲位問題、三職推任問題で
朝廷と対立していたという、通俗的な公武対立論にはほとんど根拠がない。
にもかかわらず、公家(殿上人クラス)と光秀(実際は四国問題で矢面に立った齋藤利三)
が談合していた史料は、観修寺晴豊の「日々記」(通称観修寺日記)の
「かれ(齋藤利三)なと信長打談合衆也…」(天正十年夏記)
――彼とは信長を討つために衆議談合したものなり
つまり晴豊は、齋藤利三と公家衆の談合を仄めかせる日記を残している。
いっぽう、吉田兼和(兼見)は、誠仁親王ないしは正親町帝の勅使として
安土城で光秀に会い、みずからは銀五十枚、朝廷には銀五百枚を献上させ、
内裏警護の綸旨を贈っている。その兼和がみずからの日記を四月中旬まで
遡って山崎合戦の後まで改竄(正本と副本の写しが現存)した事実から、
変への関与は疑われるところが大きい。
じつは私もあなたと同じ光秀単独説なのだが、光秀が上杉景勝(実際は家臣の須田満親)宛てに
義昭(上洛?)に御馳走す(尽くす)べきという使者を立てた(魚津城到着が六月二日=本能寺の変の当日
なので、使者の出発は五月下旬)事実、紀州雑賀の反信長派に同様の書状を遣わしている史実から、
単独(犯行?)とはいえ、利用できるツテはすべて使ったとみるのが自然で、
義昭に対しても公家衆に対しても、何らかの働きかけがあったと考えています。
まだ研究途中なので明かせない点もありますが、光秀の謀反の動機や黒幕の存在よりも
なぜ、信長が予定では六月四日に中国出兵を予定していたのにわずか数百(信忠の兵も入れて)
で上洛したのか。彼の「是非もなし」を、光秀謀反に思い当たるふしがあったのか、
それとも「失敗した!」だったのか、信長サイドに立って謎を解明したほうが
近道かもしれないと考えているところです。ではまた。恐惶謹言
>>558 ご丁寧なレス有難うございます。
>>556を見て朝廷関与説を支持する方と思いましたが単独説を唱える方でしたので驚きつつも勉強になりました。
単独としても突発的なもの、ましては思い付きでやったとは考えにくいので
事前に出来得る限りのことをしただろう事は自分も思うところです。
どなたか逆に、黒幕、朝廷の関与などを示唆する資料、記録などを知っている方はいらっしゃいませんか?
560 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 09:58:39
○この晴豊の「かれなと信長打ち談合衆也」という記録は前後の文章などから、「あの斉藤利三って、信長殺しの共犯らしいぞ」とあちこち歩いて噂を聞いたことを記したというのが一般的。
どうとも意味がとれるような、一行で、どうして変の加担者といえるのか不思議。
貴族は何人か光秀と親しかったというだけで、書き直してる。もし本当に変に関係していたら、証拠になるような文章は全て消していると思うが。
○吉田兼見の書き直し日記部分は、光秀と会ったということが、書き直しの部分では削除されている程度。
別に何かの証拠になるという程度ではない。
○上杉景勝の手紙から、なぜ、上杉黒幕論が出ないのか不思議? 変前に出した手紙も、手紙の内容もよく意味がわからないのが多い。
○本能寺の変は信長の諜報網に全く引っかかっていないことから、計画的ではなく、信長がわずかな手勢と泊まっていると聞き、いきなり軍出立前に思いついた、という説もある。
○信長がわずかな手勢で京に行ったのは、自慢の茶器を知識人たちに早く見せたかったから。
近くの寺に長男信忠の手勢千人が泊まっていたから、というのがある。
○黒幕、朝廷の関与を示唆する資料、記録とは? 日記か手紙ですか?
何故かこのごろ朝廷説が多いね。少し前は、武田遺臣説、家康説が多かったが、妙だな?
>誠仁親王ないしは正親町帝の勅使
吉田兼見が安土へ行ったのは、勅と明確にはされてないと思うけど
>信長が予定では六月四日に中国出兵を予定していた
信長は毛利ではなく、淡路に行く予定ではなかったのかと思われる
就今度到四国差下条々
一、讃岐国之儀、一円其方可申事
一、阿波国之儀、一円三好山城守可申付事
一、其外両国之儀、信長到淡州出馬之刻、可申付事
右条々、卿無相違守之、国人等相糺忠否、可立場之輩者立場之、
可追却之族者追却之、政道以下堅可申付之、万端対山城守、
成君臣父母之思、可馳走事、可為忠節候、能々可成其意候也
天正十年五月七日 朱印
三七郎殿
と、信長は5月7日の時点で、淡路まで出馬する旨を出してる
562 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 10:28:46
いや、その後、信長は羽柴秀吉の緊急の援軍要請を受け、京都にいた時点では
毛利との高松城をめぐる決戦に出る予定だったんだよ。光秀へも対毛利へ行けと命令してるし。
日付から見て、これは、秀吉からの援軍要請の使者が来る前の手紙では?
秀吉は毛利に単独で決戦に勝ち、信長ににらまれるのを怖がっていたから。
○本能寺の変って、六月だよ。
ちょっと間が開きすぎ。その間、状況は変わるからね。
たしかに、秀吉の援軍要請は5月17日だったな
信孝と丹羽の淡路出兵が6月3日(宇野主水日記)
>561
>>誠仁親王ないしは正親町帝の勅使
>吉田兼見が安土へ行ったのは、勅と明確にはされてないと思うけど
正しくは親王ではなく帝なら「勅使」だが、
「兼見日記」の「先途禁裏御使早々忝なく存じ」(光秀の言葉)を以って
桐野作人氏は「勅使」と認定している。武家伝奏いがいにも勅使の例はあるらしい(信長に対する山科言継)。
兼見(兼和)は従三位神祇大副なので、殿上人。勅使とみていいんじゃない。
565 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 22:58:10
誰か知ってる人、おしえて!
家康黒幕説で、光秀が武田勝頼に通じていたという「軍鑑」の記述。
その件が穴山梅雪(信君)を通じて信長にバレそうになって、家康の配慮で
光秀が信長を討ち、家康は伊賀越えで梅雪を密殺したという筋書きの説なんだけど。
「軍鑑」の記述ではいったい何年ごろ? 原文を知ってたらUPキボンヌ。
※謝礼=感謝の辞を当スレで述べます。クレクレでスマソ。
566 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 00:17:00
信長:「おい!サル!そのまま、ワシと一緒に朝鮮から大陸に進むぞ!」
秀吉:「は!?お市殿には、もう会えなく、、、(怒)」
信長:「キンカ頭!この国は家康にゆずる!先々のために堺を案内させよ!」
光秀:「しかし、朝廷は殿に征夷大将軍をとの話が、、、」
信長:「そんなもん、家康にやるわい!」
光秀:「私は殿と一緒では、、、」
信長:「お前は最近、目が悪くなっておるじゃろ。」
光秀:「え!、、気ずいていらしたのですか。」
信長:「もう、お前に戦はできぬ。その頭を使い家康のよき右腕になれ。」
家康:「なぜ、私めに、、、」
信長:「小さい頃の約束を忘れたのか?(笑)俺は海の向こうに行く!」
秀吉:「なぜ家康が(怒)朝廷に密告じゃ」
朝廷:「なぬ!大陸と戦争になるではないか!逆に攻めてでもされたら、、」
秀吉:「私めによい知恵が(笑)」
567 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 00:23:53
>>566 そ、そんなぁ・・・
マジメに考えてくださいよぉ・・・(565)
568 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 00:28:32
その後秀吉は密氏を使い信長に毒を盛る。
信長と信忠は死ぬ。その事を伝え聞いた光秀は蘭丸に
「私が謀反を起こした事にせよ。黒幕は最初にやって来る。」
来た。秀吉だ!「お前か〜!!」
しかし光秀は敗れた。
光秀の手紙をうけっとた家康は誓う。
「そなたの忠誠心は忘れはしない!」
そして日光には明智平というのがある。
天海?その人物は長男の信康だよ。実の子を
殺す訳ないだろう。
と仮説を立ててみた。
すげぇ波乱万丈だな。わろたけど。
光秀ギャグといいこれといい本能寺って一歩間違えると
ギャグになりかねないね。
570 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 10:20:20
>>564 その「兼見卿日記」には「今度の謀叛のことを存分に話した」というような文が見える。で、「謀反」という字であるから光秀が勝手にやったものと見る説があるけど、、、。
いちおう、あの場合、誰でも様子見の使者くらい出すだろうから、正式な勅使がどうかは疑問視されてる。
>>565 確か「細川家記」に「光秀は武田勝頼に前から通じていた。で、武田氏滅亡時に裏切った穴山梅雪が安土城にやってきた。それをバラされたと思い、突然裏切った」と書かれていたと思う。
しかし、それが本当なら、武田家滅亡時、重臣が何人か捕まったとき、光秀はとっくに処分されているだろう、、、という話。
殆ど可能性がないとされている。
>>566 ○信長は、天下統一がなったとき家康を滅ぼす腹だった、、、らしい。
しょせん外様だった家康は警戒され、武田に勝ったとき、駿河一国しか与えられていない、って話。
>>570 そりゃ、さすがに兼和も「義挙」とか「御征伐」とは書けんだろー!
義昭あたりは諸手を挙げて「信長打ち果たした上は…」(義昭の長曽我部宛書状)と書いてるが。
朝廷の対応も、とても様子見のレベルとは言えんよ。↓
兼見日記別本
六月二日 変当日の日記・粟田口まで光秀に会いに行く(正本では削除)
「悉打果(ことごとくうちはたし)、未刻大津通下向、予、粟田口辺令乗馬罷出、
惟日(光秀)対面、在所之儀万端頼入之由申辜」
六月六日 勅使の趣旨(正本では削除)
「日向守へ為御使罷下、京都之義無別義之様堅可申付之旨仰也」
以前と同じように京都を守護するように申し付ける旨であった
六月九日 誠仁親王の奉書を光秀に届ける(正本では削除)
「御方御所御対面、委細申入……、奉書ヲ向州(光秀)ヘ見之、忝之旨相心得可申入也」
「細川家記」にそんなトンデモ記述が本当にあるの?
何巻の何条か、ぜひとも教えて。穴山が家康と一緒に
安土城に来たのは5月15日なんだけどな。
>571
「細川家記」というより「綿考輯録」だな。
573 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 14:06:50
ケツの処女奪われそうになった説
みんながいる前で信長が光秀を馬鹿にしたのは新手の陵辱プレイ
当時は衆道なんてごく普通の行為
575 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 14:59:45
京都新聞でいま連載してる「夢どの与一郎(作:安部龍太郎)」では
イスパニア+毛利+朝廷が黒幕になってるな。
読んでる人いる?
安部と立花の
イエズス会説は無理があるよね、ローマ教会からは異端視されててそんなに大きな組織じゃないし、
耶蘇教嫌いの光秀に変のあと、ボロボロにされて琵琶湖の島に逃げたんだもん。
>>564 「御使」と「勅使」は全然違う
御湯殿上日記などの朝廷関連の史料では、「御使」と「勅使」という言葉を使い分けてる
桐野の戯言だな
>>577さん
御湯殿上日記が手元にないんで教えて☆んですが
御使と勅使の具体的な違いは、単なる挨拶とかお知らせ(御使)とか、
命令(勅命)ではなくても意思のある確認事項(勅使)とか、で違いがあるんですか?
形式ではなく、内容でどうなんだろうという質問です。クレクレでスマソです。
579 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 22:50:57
明智本隊は羽柴軍、明智の軍は義昭軍
580 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 07:42:12
黒 幕 は 今 川 氏 真
581 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 10:24:31
>>571 義挙? 御征伐ですか?
そういうふうに吉田兼見の日記を解釈すると、最終的に、、、
「織田信長公は何かで思い込みがあり、自らを神と号し、帝位を狙った。その具体的な指示も近臣にした」
「朝廷は、何らかのつてで、それを知り、動揺し、明智光秀公に相談した」
「明智光秀公は勤皇家であり、まだ信長公の一向宗や比叡山への虐殺に疑問を持っていたので、本能寺の警備が薄いことを知り、襲殺した」
「じつは明智光秀公こそ、視点を変えれば忠臣となる」
と、こういうことになるわけですか?
そういう結論でよければ、
とっくに十年前に、そんなこと書いた本が出てませんでしたか?
それとも、そういう光秀忠臣説には、何か、異論、意見、論議があるわけですか?
577じゃないけど。
>>578 勅使は「天皇が公式に派遣する使」が必要十分条件。
内容が「書画をプレゼント(下賜)するから受け取ってね」だろうが「○○追討を命ず」
だろうが、天皇に命ぜられた官位ある使者が勅の旗を掲げて届ければ勅使。
勅使であれば、「送られたという事実」は公開情報で公的記録にも残るので
(内容はともかく)「天皇が直々に文を遣わした」ことを広く世間に喧伝すること
にもなる。
また、普通は武将に対して主君の内諾もなしに勅を送ることはしない。
(頼朝が「義経が勝手に官位を得た」と激怒したように、主君の面目を潰すことになる)
光秀に勅使を下すというのは、光秀を独立した大名(織田家の一族や他の武将らに
憚ることのない存在)であると公的に認めることにもなる。
例え内容が勅令的なものであっても、手続きを踏まずに送ればただの御使。
(例:薩長に送られた「倒幕の密勅」は正式に勅使を立てていないので密勅。非公式)
>577>582
スマソ・・・。
>兼見(兼和)は従三位神祇大副なので、殿上人。
らしいのだが、
>天皇に命ぜられた官位ある使者
の条件は満たしてるの?
↓具体的には、勅の旗=錦旗? 公的記録とは?
>勅の旗を掲げて
>公的記録にも残る
>>581 バカ! 誤読だ
スレの流れ嫁
史料分析してんだぞ!
>>573 それより光秀は信長より年上だからそれはないんじゃないか?
信長はゲイではなくどちらかっつーとショタだとおもう。
586 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 10:23:26
>>583 自分は吉田兼見はそれほど変に大きく加担していないと思います。
もし加担していたら、日記の書き直した部分を絶対に残しておかないと思うからです。
彼は、ただに連絡役をしていただけの可能性があります。
それに会った時貰ったのが、勅命にせよ、密勅にせよ、
光秀、あるいはその近臣が何も書き残していない。
そのことを、手紙に書いて有力大名を味方に誘っていないのは何故か?
ということが昔からよく言われています。
ちなみに僕の疑問は天正九年の伊賀の乱です。
情報網として使えば、かなり役に立つ伊賀の忍者を殺しつくすことに、
信長は、何か特別な理由があったのか。
それが、本能寺の変に何か係わってないか?、、、などです。
>>583 禁裏(帝)の命で殿上人(従四位・参議以上)が主上の御使なら、れっきとした勅使ですよ。
錦旗(相手方の事情がよければ、堂々と旗を立てる儀礼)があるなしにかかわらず。
588 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 03:14:56
>>585 ショタは戦国大名のスタンダードな趣味だったのでは
学界プロパーの「史料分析」と衆道家の「ショタ」が入り混じるスレ・・・?
禿しくどーでもいいが蘭○は美丈夫とは言え超大男だろ
そんな超大男が倒れて馬の上で尻もちしつつよろこぶ50代の大将。
592 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 00:55:29
>>590 どーかなー。
兄の鎧は意外に小さかったらしいよ。
松浦静山の執筆に確かそんな話があった。
593 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 00:59:53
>>585 ゲイって男オンリーな人の事だよね。
妻も子も多く居たからゲイではなく両刀使いじゃない?
流し読みだけど、
>>1からざっとこのスレを読んだ。面白いね。
ただ余談だけど、こーゆースレ見ててよく思うのはたまに無意識に結果に縛られてしかものを語れない人がいるんだよね
実際の当時の状況に立って考えているつもりでも、実は全ての全国の正確な情勢と実際の結果を
知った上で、「こうあるべき」的な論理の組み立てしかできない人
当時の情勢から各武将らの心の動きや決断まで推測するなら、その時点で各武将らが知りうる範囲の情報の
中で、かつその時点から未来は白紙である前提を徹底しなければならないとオモ。
この情報社会でさえ俺たちが未来は解らない、世界の全てのことを把握しているわけではないのと一緒で。
出雲と石見を与えられるといわれても、失敗したら貰えないし(毛利強いし)
石見銀山貰えても田舎は嫌だし、(銀山自体は信長の直轄にもなりそう)
そういえばあんな事やこんな事あったな。よし、信長を殺そう。
でも、ちょっと変の後心配だから細川さんが味方になったら変を起こそうと思って
細川さんに使者を送ったら細川さんがOK味方になるよー。
と言ったので信長を倒したんだけど秀吉が帰ってくるという噂を
聞いたので急いで、細川さんに軍を借りようと思ったら
細川さん応じなかったんですよ。もちろん秀吉には負けちゃって、
今こうして山を登って農民と対決してるんですよ。
信長は一体どこまで私を苦しめれば気がすむんでしょうかね?アハハ・・ぐぶっ!!
596 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 01:22:09
>>595 >出雲と石見を与えられるといわれても
って、明智軍記が信用に足る史料だとでも??
日向の守の名を与えてるのは、天下統一後は光秀に九州を与えて外国との貿易と朝鮮への出兵の指揮を
任せようとしたという説もあるね
>597
秀吉の官途の筑前(現福岡県)ならともかく、日向(現宮崎県)から
朝鮮出兵とか海外貿易はせんでしょ、ふつう。
599 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 10:24:30
「織田信長公は何かで、思い込みがあり、自らを神であると号した。で、帝位を望んだ。その具体的な支持も近臣にした」
「朝廷は何かのつてで、それを知り、動揺し、明智光秀公に相談した」
「明智光秀公は尊皇家であり、信長公の一向宗や比叡山への焼き討ち、虐殺に疑問を持っていたので、本能寺の警備が薄いことを知り、襲殺した」
「見方を変えれば、明智光秀公こそ、忠臣となる」
こういう説が十年ほど前に書かれた書物に載っていました。
僕は、英雄とか、歴史には光と影がつきものだから、こういう説もあって良いのではと思うんだが。
この手の説に対しての、あなたなりの検討、ご意見、異論はありますか?
600 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 10:27:43
祝! 600get
☆ ∵∴∴☆※☆∴∵∴ ./
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∵☆☆☆°°°°|°°°°☆☆☆∵ うんこーーー!!!
※∵★☆☆*°°|°°*☆☆★∵※
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601 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 13:10:53
602 :
601:2005/10/03(月) 13:12:31
このスレは妄想なくして成立しないだろ
妄想なしで十分成立するスレです
ここは史料分析! 日本中世史学界の最先端の議論!
妄想オタは要らん!
資料の裏付けのみでは語れないから今だに謎なんだけどね
607 :
日本@名無史さん:2005/10/04(火) 10:11:08
>>599 織田信長が自分を神に近い存在にしようとした形跡はあるんだよね。
たしかルイスフロイスだったか、そんなことについて書いている。
自分にお賽銭をあげろと寺を作ってるらしい。
フロイスは自分らの神に対して不遜だとか、怒っているような節がある。
なんで信長がそんなことをしたかだが、
「何か自分に超能力がある」と思っていたふしがある。
確かに、彼は、いくつかの苦境、ピンチを超人的に乗り越えているんだが、、、
>>605 このスレってもともと妄想スレだったと思うんだけど。
>>1の5項目(1スレ目の1から継承)のいずれも史料なんて示されてないし。
>>607 それについていけない常人の明智光秀が
こいつやべぇと思い謀反を起こしちゃった。
610 :
日本@名無史さん:2005/10/04(火) 14:21:27
まあ完全妄想ネタスレになる前にキッチリと突っ込んで話を導いてくれるエライ人らが
いるからこそ、ここは一本線の通ったふざけるにも勉強にも両方の面で楽しめるスレになってると思うんだ。
煽り合いも度はすぎずそれでいて毒たっぷりでまた楽しいし。
ROMラーの戯言スマン。
>>610 フロイスの「日本史」を
与太話と決め付ける史料批判(史料)は存在するのか?
613 :
610:2005/10/05(水) 09:13:19
>>612 あのね〜、結局フロイスの『日本史』は当時としては陽の目を見なかったんだよね。
フロイスの記述は几帳面な反面、感情に走る嫌いがあって、『日本史』は後年に
編纂されたものだけに多分に予定調和的だから鵜呑みには出来ないんだよ。
614 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 10:11:52
「自分には、超人的ななにものかがあり、自分を超え得る何者もこの世には存在しない」織田信長。
「日本史」フロイス。
このあと、織田信長公はその理由、自分におきた奇跡をいろいろと述べたらしい。
しかし、フロイスは不遜と考えたのか、怒り、省略している。
そこが一番大事なとこなのに
>568
日光の明智平は明治以降についた地名です。
浅見君シリーズの推理小説に書かれていました。
天海が名づけたと現地で説明されてるんだが
618 :
610:2005/10/05(水) 13:55:51
>天海が名づけたと現地で説明されてるんだが
突然「(密かに)昔から云われていた。」と主張しだす例ってよくあるよね〜。
嘘も数代後には真実と化けるから。
>嘘も数代後には真実と化けるから。
話は広がるが現在に伝わる歴史ってほとんどがその類ではないか
秀吉、特に家康とかの勝利者の逸話は眉唾ものが多い
620 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 20:06:31
明智、、は光秀の専売特許じゃないし。
日光の明智平は、もとは明地平と書かれていたと、何かの本で読んだことがある。
森林が途切れて明るい土地というのが、もともとの地名の由来だろう。たぶん
私も個人的に調べてみましたが下記の結論に到達致しました。
犯人:明智光秀
理由:・徳川家康の接待に対する信長の評価
・毛利領の切り取り自由という理不尽な領地の移動
・嫁(or妹のだんな?)の親族が四国におり、口約束ではあるが
信長と四国に行かない約束をしていたが破られたことへの恨み
・武田討伐の際の自分に対する悪態(公衆の面前での罵倒)
・自分の母を信長のせいで殺された
などなどたくさんあると思われます。誰かがおっしゃっておりましたが
人はそういう事の積み重ねにより爆発する者だそうです。
ましてや、明智光秀は優秀であり、一時の感情により
主君殺しを敢行するとは思えず。今までの恨みを晴らす形に
なったのではないでしょうか?
みなさんは私の意見に対してどう思われますか?
622 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 20:25:19
623 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 20:29:00
とりあえず殺された信長があほだったということで決まりですね
え!?
切り取り自由も?
明智光秀は信長の部下へのいじめを諌めるために、いじめられっ子代表として
謀反を起こしたんだけど、馬力が強すぎてうっかり
信長を自刃にまで追い込んじゃったんだよ。
>>622>>624 毛利領切り取り自由(次第)は「明智軍記」(江戸時代)の創作だが、
武田征伐のときの諏訪法華寺での「このキンカン頭! おまえがいつ苦労した? ガツンガツン!!」(祖父物語)
は聞き取りの相手が確かな史料だよ。その程度のことで光秀が遺恨を持ったとは思えんとしても。
この程度のことで満足してんじゃねぇ!
先は長い。ココロザシは高く持てゴルア!
と思われ。
629 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 10:07:41
僕もまじめに考察しました。
それにこのごろクラブでは妙な噂があります。
それは本能寺の変は十年くらい前にとっくに全て解明されているというのです。
で、答えは朝廷説だとか。
そういわれてみると、僕もそんな気がします。
信長はとうじ宣教師から西洋の軍事や政治を聞いていました。
西洋では王を中心とした中央集権、そういうふうに社会構造を変えるように流れが進んでいました。
信長はローマ法王の話など聞き、政治に宗教が絡むとややこしくなると思い、
天皇家をどこか、京都から遠くへに移そうとしたのではないでしょうか。
それで、反発した周囲と対立、あんな騒ぎになったのでは、、、、。
みなさんの意見はどうですか?
630 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 13:02:47
>政治に宗教が絡むとややこしくなると思い
信長と政教分離を無理矢理絡めた馬鹿野郎の説だな
そんなこといったら、自らを神と称していた(らしい)信長は
どうなんだよー。
だから「信長による政教分離」論は本願寺との関係だけで論じられてるんだよ。
ダメぽ。じっさいは本願寺に対抗するためにイエズス会を利用したわけであって、
最後は自分を神に見立てた宗教国家を作ろうとしていたのさ。
でも、朝廷の権威はぜーんぜん否定してないよ。右大臣職を返還したときも信忠の官途を具申してんだから。
633 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 10:29:38
自分を神に見立てた宗教国家?
すると、ノブナンガ教を作る予定だったとでも。
で、その教祖的態度が、トラブルを?
なんにせよ、このごろ朝廷説、多いね。
すると、やっぱり、十年位前にとっくに本能寺の変は全て解明されてるって話、
あの噂、本当なのかもしれないね。
あまり、的外れな説とか書くとあとで恥をかくからね。
>あの噂、本当なのかもしれないね。
くだらん
だから妄想レス嫌なんだよ。
本当、スレ荒らしだ。
史料的解釈による見解を披露するならわかるが、ただ電波飛ばすだけだし。
資料的裏付けがないから真相不明といって、資料的裏付けがないネタ話まで持ち出してくるし。
『本能寺の変の首謀者は秀吉だった』
という本を読んでみたんだ。
まぁ、なんというか、読んでて痛々しいほどむりがある。
そーゆーこと言う人のほとんどってそいつの(黒幕)ファンの人じゃないの?
>>636 まあ結果から結論を導き出すというのはよくある話だよな。
最終的に家康が勝った→すべて家康の計画だったんだよ!→な、なんだってー!!
みたいなもん。
しかし秀吉黒幕説は今週の「へうげもの」みたいだったらアリかもと思った俺。
639 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 09:46:31
戦後だったと思うが、有名な高柳光寿博士という人がいて、
それまで出ていた「あらゆる資料」に反論、考察を加えた。
その結果、信頼に足るのは、個人的な野望説、
信長の警備が薄いことを偶然に知っての思いつきと断定した。
これに反論を加えたのが桑田忠親氏の怨恨説だったと思う。
長い間に積もった怨恨が、突発的な怒りをうんだ。
何しろ一五八二年のことなので、四百年経っている。
変の関係者が他に手紙などを書いていたとしても、保存できているかどうか疑わしい。
また吉田兼見の日記だが、書き直しの部分など見ても、
朝廷側記録に何を送ったのか正式に書いていない以上、
やはり証拠になるかはわからないのでは?
秀吉は最終的に勝者になったが、変の時点の実力では、
陰謀を企めたかどうか、というのが研究者たちの結果。
たしかlワでは?
>>639 おまいのレス、いつも一般論・抽象的・史料皆無
歴史分析の態度じゃないぞ。ぜんぶ請け売りだし。
最新の四国政策対立説とかイエズス会説とかは検討したのか?
>朝廷側記録に何を送ったのか正式に書いていない
何の史料? 御湯殿上日記?
641 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 11:06:59
研究者に聞いたところでは
吉田兼見がその日記で、安土城で光秀と会ったとき、
「この度の謀叛について存分に語り合った」と書いている。
もし朝廷の命令なら「謀叛」という言葉は使わないだろう。
だから、ただの「謀叛」かもと言っていました。
しかし彼は四国長宗我部も怪しいと言っていました。
明智の残党などが、かなりそこを頼って逃げたそうです。
643 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 16:57:29
関係ない話で申し訳ないんですけど、公家諸法度と禁中並公家諸法度って違うんですか?
>>564 大変申し訳ない
勧修寺晴豊の日々記では吉田兼見の安土訪問を「勅使」としてたよ
吉田兼見自身の兼見卿記(別本でも)では「御使」でした
でも内容は兼見卿記にある洛中の治安・安全の確保を命じる旨のようです
付け加え
で、勅として扱うか否かとしては、ここも微妙な問題で
これが正親町天皇からでなく誠仁親王から発せられたものだと言う事
当時は、誠仁親王の居た二条城を下御所と呼び、誠仁親王を天皇として扱われてます
また、内裏としての政務も誠仁親王が行っていたとしてる説もあります
ですが、正親町天皇の承諾なしで「勅」とするのか、それをはっきりと判断する事は難しいかと
朝廷として正式に勅としての使者だったかは、微妙なところで
日々記では、山崎合戦後、信孝・秀吉に対して正親町天皇から「勅使」、
誠仁親王からは「御使」の戦勝祝いが贈られてます
646 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 20:30:16
怪しいね
日本史最高!
戦国最高!
649 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 09:33:50
大砲
織田信長は鉄砲と大砲を殆ど独占していた。
ところで火薬なのだが、それに使う硝石、硝酸カリウムは日本ではとれない。
貿易に頼るしかないのだが、マカオなどではイエズス会が独占していたというのだ。
九州でも大砲を使用したのはキリスト教徒の大友宗麟だけである。
信長はこの大砲をもっと手に入れようとして、イエズス会と衝突した可能性があるという。
彼はマカオで直接武器商人と交易しようとして、イエズス会、キリシタン大名からにらまれた。
とくに日本植民地化を狙うポルトガル、スペインが背後にいたイエズス会にとって、
武器商人によって大砲を手に入れられることは危険だった。
日本の国力が急速に大きくなるから。
で、本能寺の変になったのでは、、、、
そういう可能性もあると思う。
>硝石、硝酸カリウムは日本ではとれない
ウソです、採れます。というよりも培養できます。
人間を含む動物の尿素(NH3)が土中にいる亜硝酸菌によって酸化し亜硝酸HNO2に、
これが空気中の酵素によって硝酸になり、炭酸カリウム(灰)と結合して結晶化(硝酸カリウム)
になる。越中の五箇山など、産地とわかるものも残っている(本願寺文書)。
以上のとおり、硝石は長期にわたって結晶化する石英のような地下鉱石ではなく、灰の中で食塩のように結晶化する物質。
火薬の調合法(湿度による変化はあるが、硝石75・木炭粉10・硫黄15)と同じく相伝だったため
文書が残されていないものの、火薬の実用例は武田氏の狼煙(狼の糞から硝石を結晶化)など、
多数が史料で確認できる。
>ポルトガル、スペインが背後にいたイエズス会
ウソです。イエズス会はカトリック内部でも異端の新興教団(プロテスタントの宗教
改革への対抗運動と見做すことができる)で、
永禄2年の段階で、全世界の会士をあわせて1000人にも満たない弱小組織。
イエズス会黒幕説の論者は信長の明国侵攻を大陸布教に利用しようとした
という考え方だが、ザビエルが先に布教に行ってる中国を武力侵攻されたら
困るはず。日本植民地化も妄想で、当時はイベリア両国よりも日本のほうが
軍事大国(徴兵率・鉄砲の数)だった。
>大砲を使用したのはキリスト教徒の大友宗麟だけである
史料的裏付けなし。
よって、
>>649の立論は砂上の楼閣。
651 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 16:53:20
>649
いつも一行空きのスカスカな内容で、「…の話では」とか「…という」
伝聞しか書けない香具師。一知半解の聞きかじりばっか書いてないで、
少しは自分で史料に当たってみれ。
>彼(信長)はマカオで直接武器商人と交易しようとして、イエズス会、キリシタン大名からにらまれた。
明智光秀が「キリシタン大名」だったとでも? 史料は何?
イエズス会のオルガンティーノ司祭の「この暴君(光秀)の配下になってはならない」
という手紙が残っているわけだが? 明智勢に安土を追われて、琵琶湖の島に逃げ込んだ
ときの手紙だぞ。ついでに、秀吉も家康もキリスト教を禁教したわけだが?
652 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 22:29:43
軍産複合体の仕業でしょ。
653 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 11:02:19
>>650「硝石は日本では取れない」というのは日本テレビ「時空警察・本能寺の変」でやっていたと思う。番組のスタッフの意見が訊きたいところ。しかし調合の文書が残っていないというのは、歴史学的には火薬の作り方を知らなかった。
使用したのは外国産輸入の火薬、という言い逃れも成り立つのではないのかい?
「イエズス会」千人も会士がいれば十分にスパイ網は出来るよ。彼らが故意か知らずかその国の風俗、軍事、政治情勢について書いたものをローマや会に送り、その国の分析に役立てていたのは確かだし。
ヨーロッパの国が植民地化できるかの資料にもなるだろう。
「大砲」
イエズス会司祭オルガンチノが信長の鉄船大砲を見た後のフロイスへの手紙、
「なんとなれば日本には豊後の王、大友宗麟、が鋳造させた数門の小砲のほかに砲といえるものがない事実を確知しているからである」
654 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 11:18:17
>>651 「、、、の話では」「、、という」推測になるから当たり前。もし断定的になるときは、確実な資料が出てきて真実が解明されたときだけ。
「本能寺の変は怨恨説である。証拠は光秀自筆の細川藤孝への手紙である」となる。
確実な資料は変の本人、関係者の書いたものに限られるわけだが、それが何らかの意図で書き直されている場合、
その資料の信用度はどうなるんでしょうか?
「別に明智光秀がキリシタンではなく、大量の武器鉄砲大砲の供給を約束すると騙されて、織田信長を討った」とする推測。
根拠は上記のように妙に武器、政治情勢に詳しい宣教師たちの手紙。もともと光秀に信長を殺させて、捨て駒にするつもり、日本を混乱させ国力を弱めるつもりだった。
で、自分たちは無関係とする手紙をわざと出した。という推測。
秀吉、家康がキリスト卿を禁止したのは、やはり何か物騒なものを感じたからだろう。
655 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 11:33:09
>番組のスタッフの意見が訊きたいところ。
素人の意見を聞いてどうする?
火薬調合の文書は上杉文書に残ってるし、烽すい(狼煙)は火薬ではないと言いたいのか?
そもそも火薬は紀元前2世紀の中国で作られた説が有力で、ルネッサンスの
三大発見とは、印刷技術(元代)と火薬(秦代)が中国から南ヨーロッパに
伝わったという意味にすぎん。南欧が進んでいたのは、羅針盤の発明だけ。
日本には鎌倉末期に、元寇と倭寇を媒介に「鉄はう」に使われた火薬が伝わっていた
というのが、最新の研究。太田道灌や応仁の乱の細川勢が「火箭」を使ったという資料がある。
鉄砲の伝来も、種子島(1543年)よりも中国から伝来(1510年)説が有力視されている(妙法寺記・重篇応仁期・北条五代記など)。
従来の「鉄砲記」は種子島氏が1609年に先祖の偉業として書いたものだから当てにはならない。
>「イエズス会」千人も会士がいれば十分にスパイ網は出来るよ。
異端視された新興修派のわずか1000人が「全世界に」いるという意味じゃないのか?
ローマ教会が植民地化政策を採っていたというのも初耳だなぁ。
で、「ヨーロッパの国々」?(イベリア両国以外にどこ?)が日本のように住民が武装した
国を植民地化した例を挙げてくれ。
656 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 11:36:43
>大量の武器鉄砲大砲の供給を約束すると騙されて
イエズス会が鉄砲と大砲を供給した事実があるのか?
鉄砲の三大産地は、堺・近江国友・越中五箇山。
日本の鉄砲職人の存在を否定する史料を挙げてくれ。
657 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 11:38:59
>光秀自筆の細川藤孝への手紙
のどこに怨恨が書かれているのか、指摘してくれ。
怨恨説は「川角太閤記」「明智軍記」のはずだが?
いちいちボロを出すなぁ、おまい。
658 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 14:38:15
朝鮮の役で小西行長の使用していた大砲は、かつて宗麟が信長に送ったものらしいね。
>>658 史料は乏しいが、大友宗麟はザビエルを豊前に迎えてから南蛮貿易で多数の鉄砲や大砲を輸入した。
大友宗麟→(秘伝・鉄砲並びに火薬調合次第)→将軍義輝→上杉謙信(永禄2年の上洛で下賜される、「上杉氏文書」)
大友宗麟→(イスパニア商人から買った国崩し・大砲)→織田信長(鉄板船に装備・木津川沖会戦で使用「信長公記」)
その大友宗麟が4万5000の兵で日向の島津軍(2万)を攻めて、あっけなく敗れたことが不思議(耳川の合戦)
爾後、島津に一方的に豊前まで攻め込まれて秀吉に援軍を仰ぐ。キリスト教信仰をめぐる家臣団の乱れとか
言われてるけど、炸裂弾じゃない当時の大砲って野戦では役に立たなかったんじゃね?
禿げしい論戦、キボンヌ
あげ!
663 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 09:56:49
>>655 有名テレビ局の番組、確か日本テレビの時空警察、そこで「硝石は日本では出来ないから輸入に頼った」といわれたら信用するだろう。
そんなに自説に自信があるんだったらテレビ局のスタッフ、それが採用された評論家か作家に論戦を挑んでここに書いたら?
何かの資料があったから書いたんだろうし。僕よりも知ってるだろうしね、その手の人との論戦を皆が読みたがると思うが。
ちゃんとペルー、インド、メキシコと植民地化の先鞭をしたと某本では書いてた。その書名をあげてもいいが、上のテレビ局でも似たようなことを言っていたようだから、
そこに聞いたら。僕などよりも専門家がそろっているだろうしね。それともそういうところの一流どころの資料本は読んでないのかい?
皆、その手のひとと君みたいな民間との論戦が読みたいんだが。
僕も今から専門書を選び、取り寄せるのは時間が掛かるんだがね。
>>656 この説は光秀を武器で釣って騙すというのがミソだから、事実は関係ないのでは?
それらしく匂わせるだけでいいはずだ。
664 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 10:10:31
>>657 「川角太閤記」「明智軍記」は成立が少し遅いところから資料としては少し問題があるとされているのだが?
光秀自筆の細川藤孝への手紙に
「われら不慮の儀」とし、思いがけないこととして本能寺のことがある。
「私が思いがけないことを思い立ったのは、婿の忠興らを取り立てたいためである。他に目的があるわけではない」
とあり、その後、近畿を平定したあとは息子の十五郎、与一、つまり忠興に引渡し引退する」
と光秀の書名と花押、日付がある。
桑田忠親氏、確か博士、は、この文書と、他に光秀に味方がなかったこと、
他の織田の大軍が敵討ちと攻めてくることへの無策的対処のしかた、
変後の光秀の行動に一貫性がないこと、
光秀にいくつかの怨恨を抱くような逸話があることから、
警備薄のチャンスを見て、突発的な怒りに駆られたための後先無しの怨恨原因の行動の証拠とする。
>>663 >ちゃんとペルー、インド、メキシコと植民地化の先鞭をしたと某本では書いてた。その書名をあげてもいいが、上のテレビ局でも似たようなことを言っていたようだから、
>そこに聞いたら。僕などよりも専門家がそろっているだろうしね。それともそういうところの一流どころの資料本は読んでないのかい?
この「某本」をのタイトルを教えてください。
ペルー・インド・メキシコで硝石が採れるという意味なのですか?
666 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 13:36:42
常識をくつがえすんですよ皆さん
667 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 14:25:05
>>664 史料研究の乏しい一昔も二昔も前の化石の個人的見解を信じてるのかい?
実に御目出度い人だね君は。
668 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 14:30:58
>>663 >その書名をあげてもいいが、上のテレビ局でも似たようなことを言っていたようだから、
だつてネタ本だから当然だろ。
テレビ製作会社なんて大した検証していないし、あの番組は面白けりゃいいつてスタンスで
作ったものだよ。
>>663 時空警察がソースだったの?
あれはどう見ても歴史的考証が正確でない番組だと思うけど。
(そもそも「学術的に正確」に作ることを意図していない)
硝石の製法はごく一部にしか知られていなかったため、
「限られた国内生産者から買えない人たちは」輸入に頼った、
というなら解らなくも無いけど、「硝石が国内では全く入手できない」
というのは(
>>655で挙げられてる史料等から)信じられないな。
> この説は光秀を武器で釣って騙すというのがミソだから、事実は関係ないのでは?
光秀だって馬鹿じゃないんだから。
例えば過去にポルトガルからの武器供与が何度も行なわれていて、
「次回からは光秀様に独占的に渡します」と言われたなら光秀だって信じるかも
知れないけど、ある日突然「武器あげますから信長殺してください」と言われても
信じる訳ないでしょ。
せめて供与する物資の一部(半分とか1/4くらい)を手付として持って来て
見せなければ、普通の知能を持った人なら信用しないんじゃないかな。
>>664 >光秀自筆の細川藤孝への手紙に
自筆じゃない、「写し」
全ての歴史TVがそうだとは言わないがたいていのTVはいい加減だよな
ほとんど趣味程度の素人の俺がみても「今更何言ってんのオイ」みたいな内容の歴史TVは多い
>>671 硝石て、縁の下で簡単に出来んじゃん(笑
675 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 09:58:33
>>665「高山右近」「高山右近と○○○」なる某本で、参考文献ですね。
>>668「テレビ局の番組でも一応、この本とか文献を参考にしました、はあるのでは」
>>669「もし時代考証いい加減なら、そのことを書くべきだ。まじめに見て、メモしてしまった」
>>672「光秀自筆の手紙ありなんです、現存! 写真にも出てる。
歴史に使われた現物、署名花押あり、確か細川護立氏所蔵だが、、、」
そもそも歴史関連番組の信憑性はNHKでも怪しいからな
学者や研究者がNHKの歴史番組に出ても、
自説や論評など、言いたいことがあまり言えないらしいよ。
番組のテーマに沿って、こんな解説をお願いします・・・らしい。
>>675 高山右近がフィリピンに亡命したことが、イエズス会の日本植民地化説と
どんな関連があるのか、ちゃんと説明せれ。ヨタ本はいいから、一次史料は何なんだ?
すげぇな…ここまで論戦をひっぱってきた根拠が
時空警察だったなんて想定外だったよw
未来警察なら昔よく見たが
ウラシマンかよ!w
一次史料を丹念に読むという「常識」を「覆した」結果、
テレビの糞番組で聞きかじった説に同意したのです。
一体、何がしたいんだ??
684 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 10:40:09
>>664 「光秀自筆の手紙」+「変後の光秀の無策的行動、援軍がなかったこと」+「いくつかの古い文献にある信長への怨恨の逸話」
よって「信長が本能寺では警備薄なことを知って、突発的な怒りに駆られての襲撃、怨恨が原因の謀叛」
これに吉田兼見が安土で光秀に会ったときの日記に「今度の謀叛のことを存分に話した」とあること。
つまり「謀叛」という言葉を使っていることから、個人的な謀叛である。という説を加えれば完璧になる。
○ところで、ここに来る人は、この完璧な「怨恨説」を超えることができますか?
もし超ええるとしたら、どうやってだと思う?
685 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 10:43:32
>>678 違うよ、宣教師が植民地化の先鞭をかついでいたから、
高山右近とかをとりこんで、いざというときの戦力にしようとしていたんだろう?
宣教師と高山右近との関係を書いた本はいくつか出ている。
687 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 19:12:41
>686のバカへ
本能寺の変の当日(6月2日)、明智光秀の使者が上杉氏の家臣に
支援をもとめる書状を渡してる(「覚上公御書集」河隅文書)ので、
5月下旬には使者が坂本を出ていたことになる。
●よって、光秀は計画的だった。が正しい。
京極高次が光秀の支持で秀吉の居城(長浜城)を攻める
北陸の武田氏、雑賀の反織田勢力が挙兵、甲斐の旧武田家臣団が
織田家臣の川尻秀隆を攻め殺す。旧信濃国人衆(上杉氏配下)が
信濃川中島4郡から織田家臣の森長可を駆逐する。
●よって、光秀は孤立していたわけではない。
>「いくつかの古い文献にある信長への怨恨の逸話」(684)
「川角太閤記」「明智軍記」は江戸時代の軍記物語
●よって、同時代(古い?)史料ではない。
>「光秀自筆の手紙」(684)
写しにすぎない。
●以上、684の与太レスはまったく根拠なし。
688 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 19:15:57
>686のバカへ ×
>684のバカへ ○
ついでに、
>変後の光秀の無策的行動(684)
安土城を制圧し、順調に近江を平定している。
写しにすぎないが「光秀自筆の手紙」にも、その旨が明記されている。
●よって、光秀の行動は無策とはいえない。
689 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 22:37:01
お馬鹿な687さんへ
藤田某の恣意的な「覚上公御書集」の解釈もいいが(日付は後から付け加えられた可能性が高い)、
最近上杉から芦名へ宛てた「本能寺の変」に関する手紙が公開されたのを知っているかい?
それには光秀の「み」の字も書いてないんだよね〜。当然義昭の「よ」のじもね。
690 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 23:16:51
>>689 >最近上杉から芦名へ宛てた「本能寺の変」に関する手紙
石崎建治(金沢学院大学)の恣意的な史料分析(比較史料が編纂モノ)なわけだが、
織田方に組しつつあった芦名を撹乱する偽文書が正確なところじゃ?
藤田達生の分析が恣意的なのは、「義昭」を「馳走」に読み替えてる
ところであって、使者到着の日時は6月2日と明記。藤田の解釈と河隅忠清書状の史料性は別の話だよ。
それに、
>>684>>687-688の流れに「義昭説」は見当たらないが、どこをどう誤読したの?
つうかさぁ。
光秀がその時『突発的な怒りに駆られた』かどうかなんて、
それこそタイムマシンにでも乗って光秀本人に聞きに行きでもせんと
わかるわけないだろーが!www
>689のバカへ
な〜んだ、おまい恥ずかしっ!レスも満足に読み取れんくせに
資料批判はそもそも無理だろうよなぁー(ゲラゲラゲラ
あと遅レスだが
>>641 >しかし彼は四国長宗我部も怪しいと言っていました。
>明智の残党などが、かなりそこを頼って逃げたそうです。
おまいは知らんのかもしれんが、
長宗我部元親の正室は明智家家老・斉藤利三の妹。
斉藤利三黒幕説も昔から存在する。
>>685 >違うよ、宣教師が植民地化の先鞭をかついでいた
イエズス会がイベリア両国の植民地化の先鞭を担いだ
という史料は何? 南米やフィリピンなんどでは植民地軍が先で、
布教は後ではないのか? また、当時の日本(刀狩までは農民も二本挿しだった)
のように、住民の大半が高度に武装した地域を植民地化した例はあるのか?
イエズス会に「武器援助してもらっていた」とされる大友宗麟が半数以下の島津勢に
大敗して九州から追い落とされそうになったのに、イエズス会は本当に武器を
自由に輸入出来たのか? 実際のところはイベリア領国の商人たちじゃないのか?
>693
黒幕っちゅうか、斎藤利三は実行犯なわけだが。
>696
そういやそうだったなw
>691
> それこそタイムマシンにでも乗って光秀本人に聞きに行きでもせんと
時空警察の出番だな!
そこでタイムトンネルですよ
誰か代表して光秀に会ってきてよ。
帰って来れなくなる可能性があるんで、真相を聞いたらすぐに
本能寺界隈の寺社に文書を書いて奉納する。で、どう?
信長と恋に落ち連れて帰ってきたらどうするんだ
>>699 ウラシマ…じゃなくてあれだ、ゼンダマンだな!
斎藤利三は明智家の家老じゃなくて光秀に付けられた与力
704 :
689:2005/10/16(日) 08:11:56
知ったかの
>>690さんへ
>使者到着の日時は6月2日と明記。藤田の解釈と河隅忠清書状の史料性は別の話だよ。
あのねぇ〜、書状本文中には明確な日付はなく『覚上公御書集』編纂時(200年後)に
本能寺の変に絡めて付け加えられた可能性が高い訳なんだよ。
日次や宛名のない写しも別に伝わっているしね。
実際、柴田勢に包囲されていた魚津城に明智の使者が入り込むのは難しいし、そんななか
河隅の使者が抜け出すのもしかり。
>魚津城に明智の使者が入り込むのは難しい
誰の解釈か知らんが、河隅を魚津城主とかにしちゃうから
おかしな話になる。6月3日に落ちた魚津城の城将の中に
河隅忠清の名前があるとでも?? 須田満親(親書を受け取った本人)も
川隅も松倉在城だったんだよ、バカ。おまい、原史料みてないだろ?
706 :
689:2005/10/16(日) 12:31:45
ゴメンよ「河隅の使者」はうろ覚えの誤記。
でもやはり明智の使者が魚津城に入ったのは柴田勢の撤退後と考えるのが自然だろう。
第一、事を起こす前にそんな密使を送って途中で捉えられでもしたらその時点でお終いだろ。
光秀の手紙は変の後で合力を得るべく送ったものの一つとみるべきだよ。
撤退ってそんな簡単なん?
秀吉が和平調停中なのは計算外として簡単に撤退できないのが前提なんじゃなかったの
>>707 テターイしなかった河尻秀隆は甲斐の国人衆(旧武田)に
攻められてアボンなわけで、滝川一益も北条に追いまくられてテターイ
柴田もすぐにテターイしてるよ
709 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 01:36:38
というかみんなのぶながが怖くて、もしも生きてたらと考えて
光秀には見方なんてできるわけない。
朝廷が公然と光秀の見方になってやっと、見方になってもいいかもと
考え始める程度じゃないのか?
ついでに光秀は謀反人で、光秀を殺す大義名分はあっても
味方する大義名分がないってのは痛い。
と254まで呼んでレスしてみた。
お前が知ったかぶりじゃねーか>706
とりあえず
>>690に何か言うことがあるんじゃないのか?
>>709 信長が反逆しそうな奴を燻り出そうとした策略と思ったかもね。
それはないだろいくらなんでも>711
713 :
689:2005/10/17(月) 05:22:39
>>710 >お前が知ったかぶりじゃねーか>706
とりあえず
>>690に何か言うことがあるんじゃないのか?
>それに、
>>684>>687-688の流れに「義昭説」は見当たらないが、どこをどう誤読したの?
の件だろ。
計画的説を主張する藤田某は光秀の手紙は上杉に義昭への「馳走」を求めるものだと
しているのだし、多分687の認識もそうだろう。
714 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 10:17:01
>>687 1「殆どの研究者、博士、参考文献が光秀の自筆、本物であるとしている細川藤孝への「光秀自筆覚書」
これを偽物、写しだと言い張っても無駄」
光秀に全く味方しなかった細川が、光秀の手紙、記録に偽りを書く必要もなし。
2「川角太閤記、明智軍記だけでなく、ほかにも怨恨的逸話を載せたものがあるはずだが。
問題なのは、そういう逸話がいくつか伝わっているとして、記録されていること。あの信長の激しい気性ならいくつかは真実ではないか、あったであろうと判断、思われること」
3「天下の名城安土城を手に入れながら、天下の堅城坂本城、亀山城を擁しながら、篭城か、攻撃かもはっきりせず、
また少数ならば京都市街戦にも持ち込めたのに、何故か、のこのこ天王山に一万五千人くらいで、倍の敵の前に出て行く」
ゆえに行動、作戦に一貫性がないとされている。
4「京極高次」脅されて味方になりましたとあとで言い訳していなかったっけ?
どちらにしても論ずるに足りない兵力。大勢に影響なし。
5「北陸の武田、甲斐の武田家臣団、雑賀衆、旧信濃国人衆、
は光秀と連絡をとった形跡、使者、計画的な手紙なし」
よって、信長の死と織田軍の混乱を知っての便乗的、扇動、反乱。
715 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 10:45:14
>>714 >光秀に全く味方しなかった細川が、光秀の手紙、記録に偽りを書く必要もなし。
てっ言うか、秀吉は必要以上に細川に気を使っているよね。それって・・・・
>714
北陸の武田=若狭、異常に早い段階で挙兵してるが?
雑賀衆=光秀への返書が残ってるよ
旧信濃国人衆=上杉(事前に知っていたとされる)の家臣だが?
>信長の死と織田軍の混乱を知っての便乗的、扇動、反乱
であったとしても、北条氏が滝川一益を攻めたように、
関東甲信で織田勢が駆逐されたのは史実。光秀が孤立していなかった
ことにはならないのか??
>天下の名城安土城
実際に見に行ってみ、模型は綺麗だが、めちゃ小さな縄張りの城だぞ
実際、じつに簡単に陥落したわけで。
>>715-717 714にレス返すな。こいつ、自分で何も勉強せんで
聞き齧った一般論をネタに遊んでるだけ。ネタ元はテレビだし。
719 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 13:14:13
>>685 > 違うよ、宣教師が植民地化の先鞭をかついでいたから、
先鞭はつけるものであり担ぐものじゃないところから、
先鞭の意味を間違えてる可能性を指摘してみる。
先鞭をつけるというのは「他人より先に着手する」って意味だよ?
(転じて「先例を作る」意味に用いられることも)
先鞭をかついでいた×
先鞭をつける ○
こいつの国語力は小学生なみだから、漏れもいちいち正してみる(笑
「お先棒をかつぐ」が正しい
>殆どの研究者、博士、参考文献が光秀の自筆、本物であるとしている細川藤孝への「光秀自筆覚書」
殆どの研究者・博士・参考文献がねぇ
実例キボン
723 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 18:50:23
>>722 たぶん、テレビの時空警察でそう言ってた。ということだと思う。
そもそも光秀は本当に秀吉軍と闘り合う為に天王山に行ったのか?
光秀ビイキの俺としては光秀らしくない希ガス
725 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 19:49:14
じゃー秀吉と合流するつもりだったとでも言いたいのかな?
証明はかなり難しいな〜。
726 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 21:24:47
本城惣右衛門覚書の<我らは最初信長様を討つとは夢にも思っていなかった。
てっきり家康様を討つとおもっていた>という部分が昔からひっかかっています。
まったく根拠のないただの妄想なんですが…
信長は最初光秀に家康討伐を命じていて、
あらかじめ家康と内応の密約がかわされていた光秀は本能寺の変を起こした。
しかし、自分達の考えていたタイミングと大幅に異なったために、何の準備もなく
、あっさりと秀吉に倒されてしまった。
秀吉も、あらかじめ信長が光秀に家康討伐を命じた事を知っていて、その上信長
から<光秀が家康を首尾よく討ち取った時は、光秀の単独行動であるということに
して、儂とおまえで光秀を討つ>みたいな命令を受けていたために、直後にあんな
迅速に行動できた。というのはやはり飛躍しすぎでしょうか…
駄文の長文ごめんなさい。
727 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 21:33:04
所詮『本城惣右衛門覚書』なんて曖昧な記憶と巷間に迎合した年寄りの与太話。
>726
鋭い視点だな、無理はあるが<信長が命じて光秀が動き・・・>これまでにない説だ。
家康は6月3日に堺から上洛する予定だったわけだから。
>715
>てっ言うか、秀吉は必要以上に細川に気を使っているよね。それって・・・・
官位は優遇されたが、所領は本能寺の変後からほとんど増えていない罠。
730 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 21:53:55
>>728 >家康は6月3日に堺から上洛する予定だったわけだから。
それは初耳だね。
家康は信長の上洛と入れ替わりに堺へ下っており、その後大坂や奈良を
遊覧する予定じなかったかな?
それよりも2日の茶会を突然キャンセルして上洛を思い立ったのはなぜだろうね。
731 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 22:00:26
>>729 >官位は優遇されたが、所領は本能寺の変後からほとんど増えていない罠。
清洲会議を前に誓紙を交換し秀吉は細川を見放さないことを約束しているね。
細川の後ろめたさは誰もが知るところだからこそ加増なんか出来なかったんじゃないかな。
>>730 ちがうよ、家康は茶屋四郎二郎を先行させて上洛させようとして
たら、戻ってきて「事件でござる」で、伊賀越えで国元に
帰った。堺に下ったのは安土からで、上洛は堺見物のあと。
733 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 22:50:53
>>732 >堺に下ったのは安土からで、上洛は堺見物のあと。
あれれ、家康は信忠とともに上洛し5/21〜/29までの間、清水で能見物なんかしてるんだけどね〜。
そつちは影武者だったのか。
>>726 スレタイにふさわしいレスですね。
おもしろいと思います。
ただ秀吉の部分はどうですかね。
そこまで信長が陰険とは思えませんが。
陰険といえばむしろ家康で、そっちのやりくちに近い気もします。
5月29日まで家康は京で見物
天王寺屋会記でも5月3日に茶会予定してるが、2日朝突然「上洛しなきゃいけないんで、チャオ」と
堺からそそくさと出て行きました
鷺森日記では、本能寺の変を聞いた家康が堺から出る言い訳に使ったのだろうと明記してますな
茶屋四郎二郎の先行とか、んなもんは石川忠総留書の甲か乙(どっちかは忘れた)の軍談風味に
書き直されたのが初見です
同じ石川忠総留書の記録の方では堺から帰ったとだけ記されてます
よって6月2日早朝の堺退去は、本能寺の変を知ってからですな
よければ天王寺屋会記・鷺森日記・石川忠総留書挙げるよ
>>724 天王山には行ってません
淀城を改修し、後詰の城に勝龍寺城と淀川を挟んでの迎撃作戦だった模様
天王山は信孝・秀吉軍がアッサリ占拠しております
>>726 家康と内応していたのなら家康になぜ知らせなかったのもし
738 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 07:22:46
>>735 >よって6月2日早朝の堺退去は、本能寺の変を知ってからですな
前のスレでも議論になってなかったっけ?
「鷺森日記」も第三者の憶測交じりの記事だからね、
知ってか知らずかは断定できないよ。
まぁ、家康が独自の情報網で本能寺の変を知ったとすれば面白いけどね。
739 :
709:2005/10/18(火) 09:30:53
信長が生きてたら日本はイスパニアと争う強国になれたんだろうなあ
っていうか時間がねえ!
740 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 10:09:33
>>722 光秀自筆覚書は本物。桑田忠親著「明智光秀」、
その他の参考文献も全てそうでした。
>>716 そういうのはどうでも良い、味方になるかどうかわからない二次勢力という。
問題なのは、即戦力となる光秀配下の与力大名細川、あるいは高山、筒井順慶などに工作がなく、
結局味方になってないこと。そういうのが加わっていたら二万五千くらいになっていたはずでは。
>>717 変当時の安土城は琵琶湖の水がもっと近くにあり、かなりの堀もあった。今と地形も様子が違います。また坂本城は光秀が知恵を注いだ堅城だった。
また安土城は交戦していません。陥落というより、守将蒲生賢秀が信長の家族を伴い、蔵を封印し、日野へ退去です。
>>736 普通光秀が「天王山」へ行った、と書けば「通称天王山の戦い」、
山崎の戦いの事を指すのでは?。
>>719 「たとえば、インド。ペルー、メキシコの指導者たちがキリスト教を触手として侵略してきた彼らの意図を読み取ることが出来たならば、
あのような悲惨な蹂躙を決して許すことはなかったであろう」
あるフロイス関係の本。実在。
>>726 信長が家康を殺そうと思えば、安土城での毒殺、だれかの銃撃で十分。
犯人は適当に、信長の都合のいいやつに偽装もできるのでは? 雑賀がやったとか。
741 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 10:47:38
>>738 五月二十九日から堺を見物していた家康一行は、二日朝信長に謁見するために上洛する「宇野主水日記」
が、このとき、すでに信長自決の報を掴んでいたらしく、電光石火の伊賀超えで、四日には岡崎城に。
淀川河港の河内枚方にて先に上った本田忠勝の知らせを聞き、帰国を急いだ、
そのとき茶屋が金子を用立てた。「茶屋四郎次郎由緒書」
黒幕は織田信雄
>>740 >
>>719 > 「たとえば、インド。ペルー、メキシコの指導者たちがキリスト教を触手として侵略してきた彼らの意図を読み取ることが出来たならば、
> あのような悲惨な蹂躙を決して許すことはなかったであろう」
> あるフロイス関係の本。実在。
これのどこがどう
>>719 > 先鞭はつけるものであり担ぐものじゃないところから、
> 先鞭の意味を間違えてる可能性を指摘してみる。
に対する回答になっているのかと小一時間(ry
ていうかイベリア両国はインドを征服なんてしてないよ。
ゴアなどいくつかの港町を武力制圧し、総督府を置いて支配しただけ。
(インドの広域を支配するムガール帝国などは健在)
キリスト教で支配した訳でもなく、単に軍事支配してただけだし。
>740
ペルーはスペインの軍隊が馬に乗って攻め込んできたんだぞ。
単に軍事的に敗北しただけであって、宣教師とかは無関係。
>>740 >普通光秀が「天王山」へ行った、と書けば「通称天王山の戦い」、 山崎の戦いの事を指すのでは?。
光秀が本当に天王山へ行ったか云々とあったから、正確に答えたまで
>>738、
>>741 「鷺森日記」「天正日記」「宇野主水日記」は同一の史料名
宇野主水が書いた日記を総称して宇野主水日記、天正時代に書かれた部分を天正日記
その中で鷺森滞在中に書かれたのを鷺森日記と言います
鷺森日記を読めばわかるが、八木駿河が家康の接待役をやっていた堺奉行でもある松井夕閑から
直接、家康の様子・行動を聞いている
これのどこが「第三者の憶測交じりの記事」なんだろうか?
憶測とは、宇野主水が「これハ信長生害ヲ知テ、計略ヲ云テ上洛也」と書いた部分だけ
「当代記」「三河物語」「石川忠総留書・坤」「永日記」「原本信長記」「川角太閤記」では家康は堺で聞いて帰還となってる
「石川忠総留書・乾」から上洛途中で変を知ったとなっている、勿論、「茶屋四郎次郎由緒書」も
「石川忠総留書」も「茶屋四郎次郎由緒書」も家康死後に編纂された徳川史観がバリバリ入った史料であって
第三者の伝聞以上に信憑性なし
ましてや「鷺森日記」や「天王寺屋会記」と比べくもない
746 :
709:2005/10/18(火) 18:27:01
信長燃ゆ
だったかな?
新聞に掲載されてたのが本になったやつ。
前久を中心に書いてた。
おもしおかったろ
747 :
726:2005/10/18(火) 21:14:49
>>740 確かにそうなんですよね…
家康を殺すだけが目的ならこんなに回りくどい方法で殺す必要はないんですよ。
それに光秀を殺す理由なんて無いわけだし…
やはりこの説は無理がありすぎですね。
748 :
日本@名無史さん:2005/10/19(水) 10:40:49
>>743 「インド航路が、一五〇〇年にブラジルを発見した。そしてそれらの発見された土地はキリスト教による救霊を前面に掲げて植民地攻略が行われたのである」
「当時、宣教者がとにかく為政者に近づくことを目標にしていたので政治に介入する虞は十分にあった」フロイス関係の本、実在。
>>745 「しかし茶屋四郎次郎は家康の友人、協力者みたいなもので、金を貸すとか、どのあたりで報告を受けた、くらいのことで嘘をつく必要はないはずだが」
「信長と近衛前久」の本?
「誠仁親王」−「近衛前久」ラインの朝廷説かい?
そういうのだったら一九九七年前半にとつくに「本能寺の変の新発見」
「やりました、証拠品らしきもの見つけたよ」とか豪語して書いてる人がいたよ。
もっとも、こっちは推理小説仕立てだったが。
それに、その信長の本、内容に「明智光秀自筆覚書」とか、フロイスの書簡、
最後に、参考文献、特別な文献とかちゃんと載せてるの?
載せてないなら研究者の間では一円の価値もないことになるんではない?
というか、問題になるのでは? つまりはあの手の疑惑ね。
話は違うけど文部省とか、小数部出版の本の内容について保護、
検討とかしないのかな?
フロイスの記録はすべて消失してますが?
>748
わーったよ、テレビ君
751 :
日本@名無史さん:2005/10/19(水) 14:15:30
>>748(時空警察の視聴者)
>話は違うけど文部省とか、小数部出版の本の内容について保護、検討とかしないのかな?
「文部科学省」が正しい。「少部数」が正しい。
本の「内容は保護」とかは「検討」どころか、出版表現の自由と著作権で保護されてます。
>>748 > 「インド航路が、一五〇〇年にブラジルを発見した。
ごめん、これ本当に日本人が書いた文? 「植民地攻略」ってのも変な言葉だし。
> 「当時、宣教者がとにかく為政者に近づくことを目標にしていたので
> 政治に介入する虞は十分にあった」
これは(明の宮廷に仕えた宣教師などもいたので)概ね正しいだろうけど、ゴアや南米の
征服に使われた手法とはまるで違う。
アフォンソ・アルブケルケもエルナン・コルテスもフランシスコ・ピサロも宣教師を連れて
行ったとか(武力侵攻以前に)布教活動をしてたなんて話は聞いたことがないし。
>>752 インド航路という人がブラジルを発見したのさ。偉大な人なんだよ。
>>748 >「しかし茶屋四郎次郎は家康の友人、協力者みたいなもので、金を貸すとか、
>どのあたりで報告を受けた、くらいのことで嘘をつく必要はないはずだが」
君は「茶屋由緒書」にちゃんと目を通すべきだ
目を通してないから、こんな事書いてるのだから
史料を語りたいなら、一度読んでから書いてね
フロイスの書簡を載せてる本なぞ見た事も聞いた事もないが748があるようだ。
その前に、フロイスの手紙って現存していたとは驚いた。
こーだろ?「だーって、テレビで言ってたんだもん
>>748」(笑
757 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 06:57:36
>>745 >鷺森日記を読めばわかるが、八木駿河が家康の接待役をやっていた堺奉行でもある松井夕閑から
直接、家康の様子・行動を聞いている
これのどこが「第三者の憶測交じりの記事」なんだろうか?
憶測とは、宇野主水が「これハ信長生害ヲ知テ、計略ヲ云テ上洛也」と書いた部分だけ
家康が信長への面会を口実に堺を発ったのは事実だろ。つまり堺に本能寺の変のことが伝わる前に。
当日、津田宋及は上洛途中、天王寺付近で変のことを知ったと証言(『宋及他会記』)。
安土には巳刻(AM10時ごろ)に(『信長公記』)、奈良へは昼ごろ(『蓮成院記録』)らしいから、
大体、堺へも同じころだろうね。
そんな中で家康が早くに「信長の自害」を掴んでいたとすれば、独自の情報網を張っていたということだよね。
主水の「これハ信長生害ヲ知テ、計略ヲ云テ上洛也」てのは、夕閑あたりが八木駿河に漏らした言葉が
本になっているんじゃないのかな?
ちなみに宋及はまた、夕閑も上洛途中で引き返してきたと記し、今井宋久はその夕閑から夕刻に変のことを
聞いたと証言(『今井宋久茶湯日記』)。
>「当代記」「三河物語」「石川忠総留書・坤」「永日記」「原本信長記」「川角太閤記」では家康は
堺で聞いて帰還となってる
てのは、真相を掴んでいて断定的にそう記したというより、単に一記事として述べたに過ぎないものであり、
それらを以って「家康は堺で聞いて(少なくとも公に)帰還」とは断定できないよ。
それに、凶報を聞いて夕閑や宋及本人が急ぎ上洛しようとしたとは考え難いんじゃないかな。
筒井順慶なんかも当日、上洛の途中にあって引き返してきているが、その理由として「信長の安土帰還」を
触れているから、彼らの上洛の目的はやはり「信長との面会」と考えるべきもの。
呼ばれてもいない家康が突然「信長との面会」を口実に自分たちとは別行動で堺を発ったことで、夕閑もしくは
八木駿河あるいは宇野主水は家康の行動に疑念を抱いたんじゃないかな。
− 「家康は(本能寺の変を)堺で聞いて帰還」というのは、当たり障りのない穏便な記述。 −
758 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 10:44:16
>>752 「その当時の日本はキリスト教を受け入れなかった。キリスト教を植民地攻略の先鞭としてきたポルトガル、スペインの国から見れば、日本は他国に勝って手ごわい相手だったに違いない」
「一四八七年にインド航路が、一五○○年にブラジルを発見した。それら発見された地は、キリスト教による救霊を前面に掲げて植民地攻略が行われたのである」
「二人の支配者、秀吉と家康はまさに武力闘争の背後でいつもキリスト教の力に脅え、それによって自らの政策を決定せざるを得ない立場に追い込まれていったのである」フロイス関係の本、実在。
>>755「日本史」フロイス著、
「フロイスの日本覚え書き」E・ヨリッセン著。
>>757 「なんにせよ、家康って本能寺の変に無関係だろ? 光秀と裏約束が会ったら、仮病でも使って三河にでもいて、軍隊こっそり集めていたほうが、領土、援軍しやすいのでは?」
だからフロイスの「日本史」は19世紀に編集された本だってば。
>>758 > 「その当時の日本はキリスト教を受け入れなかった。キリスト教を植民地攻略の
> 先鞭としてきたポルトガル、スペインの国から見れば、日本は他国に勝って
> 手ごわい相手だったに違いない」
手強かったのは確かだよ。日本には騎兵を見て「半人半獣の化物だ!」とパニックを
起こす様な兵士は居ないし、白人を見て「創造主(ケツアルカトル)の化身だ」と平伏
してしまうようなこともなかったし。
武装も棍棒や石斧ではなく鋼の刀剣や長弓・鎧兜などを発明していたし。
とりあえずその「実在の本」の書名・著者名を明らかにしてくれ。学術的に信頼できる
文献か、そこらの三文作家が書いた与太話かで全く違うし。
著者名も書名も伏せられた状態で
> 一四八七年にインド航路が、一五○○年にブラジルを発見した。
みたいな日本語文法能力が中学生レベル以下の文章を読まされると、マトモな人が
書いた信憑性ある文献だとは思えなくなってしまうから。
ちなみにただ「実在」というだけなら「織田軍が迫撃砲や90式戦車を配備していた」
という本だって実在するぞw
>>757 >家康が信長への面会を口実に堺を発ったのは事実だろ。つまり堺に本能寺の変のことが伝わる前に。
堺に本能寺の変が伝わる前と、家康に伝わる前とは違う
>当日、津田宋及は上洛途中、天王寺付近で変のことを知ったと証言(『宋及他会記』)。
午六月二日ニ 上様御しやうかひ也
惟任日向守於本能寺御腹ヲキラせ申候 家康モ二日ニ 従堺被帰候 我等も可令出京と存
路次迄上り申候 天王寺辺ニ而承候 宮法モ従途中被帰候 「宗及他会記」
嘘いかんね、本能寺の変を堺で聞いて、天王寺まで出て行ったが、詳細聞いて引き返したんですが?
「今井宗久茶湯日記」でも「今朝 於京都 上様惟日カ為ニ生害ノ申 友閑老ヨリ申来候」とありますけど
これ、どこに「夕刻に変のことを聞いたと証言(『今井宋久茶湯日記』)。」と時間がわかる箇所あるんですかねぇ?
>そんな中で家康が早くに「信長の自害」を掴んでいたとすれば、独自の情報網を張っていたということだよね。
そう考えて問題ないかと、筒井順慶も持ってていち早く情報掴んだから、上洛しようとしたんですけどね
>単に一記事として述べたに過ぎないものであり、
そうだよ、単に一記事として堺で変を聞いて帰ったとあるんだよ
当時の史料は堺から帰ったとなってる、上洛途中云々は家康死後に出てきた話
当時から上洛途中に聞いたなどという史料があれば、話は違うがね
>凶報を聞いて夕閑や宋及本人が急ぎ上洛しようとしたとは考え難いんじゃないかな。
「宗及他会記」読んでね、史料否定出来る物があればどうぞ
762 :
続き:2005/10/20(木) 19:25:52
>上洛の途中にあって引き返してきているが、その理由として「信長の安土帰還」を 触れているから
一 順慶今朝京ヘ上洛 上様急度西国ヘ御出馬トテ 既ニ安土ヘ被帰申歟 依之被帰候 「多聞院日記」
上洛理由が、「信長の面会と考えるべきもの」?普通に変を聞いて上洛しようとしただけに読めるが
安土云々は、引き返してきた理由にしたに過ぎない
>呼ばれてもいない家康が突然「信長との面会」を口実に自分たちとは別行動で堺を発ったことで
二日朝徳川殿上洛 火急ニ上洛之儀者 上様安土ヨリ二十九日ニ御京上之申アリテ
それニつきふたふたと上洛申候也 「鷺森日記」
信長が呼び寄せたと窺い知るものが何一つないのに、現在ある史料を否定するんだから凄いね
29日に堺に来た家康が、29日に信長が上洛したからとして、2日朝に慌てて上洛してるのにね
ちなみに29日まで京で同行していた信忠は、27日には信長が上洛してくるからという理由で、
堺見物を遠慮するとしているのだけれどね
家康が、堺で変を聞いて帰ったという記述は家忠日記にもある
しかし、君の主張してる事は、何一つ根拠がないのだが?
>>758 >「日本史」フロイス著、 「フロイスの日本覚え書き」E・ヨリッセン著。
フロイスの書簡じゃあないね
書簡とは書状、手紙の事なんだよ
>>761-762 批判と主張がまったく判読不明。これでわかる香具師いたら、翻訳してくれ。
史料批判(分析)なら、引用と自分の主張をちゃんと分けて書かないとな。
766 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 20:59:06
>765
だとしても、文章ヘタすぎ。他人に読ませるもんじゃないね。
767 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 22:18:21
768 :
>>765クンへ:2005/10/20(木) 23:23:24
>>757のような歪曲した解釈もしてないけどね
先学のそれの引用交じりなんですがね〜。
君の解釈こそ思い込みが激しいんじゃないかな。
そもそも
>>765クンは、家康の堺出立時刻、松井友閑、津田宋及らの同、筒井順慶の
奈良出立時刻と本能寺の変の第一報(もちろん噂としてだが)が堺にもたらされた
ことの時系列をどのように(具体的に)捉えているんだろうか?
『宋及他会記』の記事だって後日に記されたものだって理解できてるのかな?
ましてや列記された史料はなおさらってことも。
>>765クンの言う通りだとすると、巷に噂が広まる前に恐るべき速さで情報を得ていた
人物が多かったことだね。
769 :
日本@名無史さん:2005/10/21(金) 00:15:29
激論になってまいりましたな。
時空警察ネタテレビ君の下らんレスで辟易してたところ、本格派同士の戦い。
マターリと、深い議論をしませう。当方は朝廷(公家)説まじりの
最新ベストセラー『信長の棺』を読みながら、ここ覗かせてもらってます。
>>768 >先学のそれの引用交じりなんですがね〜。
是非、先学のそれの引用とやらを詳細に説明してもらいたいね
・当日、津田宋及は上洛途中、天王寺付近で変のことを知ったと証言(『宋及他会記』)。
・安土には巳刻(AM10時ごろ)に(『信長公記』)、奈良へは昼ごろ(『蓮成院記録』)らしいから、 大体、堺へも同じころだろうね。
・今井宋久はその夕閑から夕刻に変のことを聞いたと証言(『今井宋久茶湯日記』)。
・凶報を聞いて夕閑や宋及本人が急ぎ上洛しようとしたとは考え難い
・彼らの上洛の目的はやはり「信長との面会」と考えるべきもの。
・呼ばれてもいない家康が突然「信長との面会」を口実に自分たちとは別行動で、堺を発ったことで家康の行動に疑念を抱いたんじゃないかな。
・『宋及他会記』の記事だって後日に記されたものだって理解できてるのかな?
この説明を史料からによる解釈と「先学のそれの引用」を基に説明願うよ
勿論、こちらも説明するけどね
時系列の話も史料から説明してするから、その前に君の「時系列」を説明して欲しいもんだ
こちらも先学の解釈を引用して説明するからさ
付け加え
津田宗及ね、宋及じゃないよ
「茶の湯の古典4」註訳者・熊倉功夫(世界文化社)
本能寺の変の報を聞いて、家康は堺からそのまま帰国した。
友閑と私も様子をみようと京都へ向かうも、あぶないので天王寺あたりで
ひきかえした。
ついでに、「本能寺の変の第一報が堺にもたらされた」と書いてるが
堺にではなく、それぞれにもたらされたと考えるべきであり、ではないと
>>757が今井宗久が夕刻に友閑から聞いたとしながら(この夕刻というのも推測にしか過ぎないが)、
堺へは正午にもたらされたとする矛盾の説明がつかないのだが
各自、それぞれが独自のルートで情報を得ていたと考えるべきなんだがねぇ
ま、過去に
>>757君と全く同じ主張していた人いたが
文体も似てるけど、別人である事を願うよ
その人は途中で逃亡しちゃったしね
>>770-771 申し訳ないけど、相変わらずの悪文(少なくとも自分には)で論点がワカンネ。
家康が何処で引き返したのかが議論の軸なのか、最初から本能寺の変を
見越して堺から引き上げたのが主張の中心なのか? 本能寺の変に関連して
家康がどういう立場(たとえば事前に知っていた=黒幕の一角・・・・知らなかった=
黒幕ではなかった)なのか、所論をハッキリさせてから論じたほうがよいと思われ。
おふた方とも、それなりに史料を分析しておられるようなので、敢えて苦言・・・。スマソ。
773 :
>:2005/10/21(金) 07:32:46
何か異変が起きたらしいと知ったら、まず小者を出して様子を探るってのが常套じゃないのかな?
家康だって本多を先行させてるしね。
その家康の場合、一刻も早く帰国しなければと堺を出たのだろうが(※もし知っていたとすれば)、友閑や
宗及らは危険も覚悟のうえで自ら京へ向かったのかな。奈良の順慶も然り。
各自が出発時に知っていたかどうかは明記されているわけではなく、個人的印象の問題のような気がするね。
>>772 申し訳ないけど君は以前のレスを読まないだけだな
そら悪文とか論点がワカンネとかいうはずだ
>>735で自分の主張ははっきりさせてるのに、
>家康が何処で引き返したのかが議論の軸なのか、最初から本能寺の変を
>見越して堺から引き上げたのが主張の中心なのか?
それに対して
>>757が根拠不明なこと言い出してるだけだが
>>773 >各自が出発時に知っていたかどうかは明記されているわけではなく、個人的印象の問題のような気がするね。
明記はされてないが、知って出発したのではないかと推測する事は十分可能
その為の鷺森日記であり、天王寺屋会記であるわけだけどね
この二つだけでも、徳川家康と松井友閑は知り得て堺を出たと言える
「イエズス会日本年報追加」でも、家康は堺で変を知ったとあるけどね
史料挙げても
>>757は第三者の云々で信用できないとか言いそうだけどな
775 :
日本@名無史さん:2005/10/21(金) 10:53:17
>>760「彼らの伝道方法はいつでもまず支配者層に近づき、彼らをまずキリシタンにしてからその力を利用して一気に大衆を動かすというのが常道であった」フロイス関係の本。実在。
「時の支配者たちはーー中略ーー純粋な布教のみならず、それに伴って入り込んでくる政治的な力をも見抜いて警戒していた」フロイス関係の本、実在。
つうかさ、数百の参考文献とか読んで、この本、論はモノホンと見抜く、評価するのも歴史探索の楽しみの一つ。コンテスト応募する奴とかは最初からいろんな本を読んで自分の論を決めて主張するわけ。
あまたある、数百の本の中からどれが役に立つかを考えるわけ。だから、君のこれだと発見する楽しみを阻害すねのもいやだから教えないことにする。
しかし実在の本で、ちゃんとした参考文献だよ。
>>769 この「信長の柩」ってさ、妙な俳句か、川柳みたいな句が出るらしいね。これが研究者の間でとやかく言われ、問題になっている。
「光秀が近衛前久をさがしてうろうろした」とかいう句。こんな句今まで見たことないって。
著者が自分で勝手に、作ったんではないかとさ。なんで、、、すると???
是非作者の見解を聞きたいって、研究者たちが言ってる。
>>773 「だから、徳川家康は本能寺の変には無関係」関が原の勝ち方など見れば、家康はかなりのプランナーである、ゆえに。
一 家康が光秀と裏密約していたら、
安土にいった後、堺見物などせずに本国にすぐ帰ったろう。その方が立場が有利。
二 家康が光秀と共謀していたら、すぐ国で大軍を動員できるようにしていて、京都に上ったろう。あるいは光秀の味方になるよう他の大名を恫喝したろう。
三 家康が光秀の共犯者なら、変の日を知っていたはずだから、その前に帰国の算段を何かしらつけていたろう。
四 家康は上洛して光秀に会い、騎馬隊など借り、変装して、本国に安全に早く帰れたのではないか。史実のごとく危険な伊賀越えなどするより。
五 この関係について調べた人がいる、これほどの大事を共謀し起こす以上は何らかの密接な連絡が必要である。
しかし、両者の間にそんな人物、書簡、頻繁な密接な密会の形跡なし。
本能寺の変の真実は「朝廷説」、
とっくに十年前に解明されてるって、言ってる人がいるよ。
>>774 > 申し訳ないけど君は以前のレスを読まないだけだな
> そら悪文とか論点がワカンネとかいうはずだ
772じゃないけど、はっきり言って論点はよくわからん。
この板IDすら出ないから、名無し同士だと何人がそれぞれ何を主張して
何を争点に論議してるのかわからん。
ageとか引用の仕方などから3人以上(5人くらい?)が論争してるように見えるが
どのレスとどのレスが同一人物か確信を持てない。
>
>>735で自分の主張ははっきりさせてるのに、
とか言われても、そう言われるまで
>>770と
>>771と
>>735(765と761もかな?)
が同一人物かどうかなんて書いた本人以外には判らんのだから、
主張の一貫性や前後関係を確認できるわけがない。
論争が一段落するまでハンドル固定(「735」とかだけでいいから)でも
してくれれば少しは追いやすくなるかも知れないけどね。
>774
論争点(自分の主張・相手の説への批判の要点)を読み手に
スっとわからせなければ、何を書いても無意味・駄文。
>775
もう君の単なる落書きは相手にされてないからね。
778 :
甲斐犬 仕事休み:2005/10/21(金) 15:04:55
戦国大名とは、国人や地侍と呼ばれた中小領主の連合体。中小領主たちは
君主による利益誘導と脅迫によって結びついている。もし、織田信長が急死
したら、配下の中小領主たちが、別の戦国大名の配下になったり、国人一揆
になってしまう可能性があった。特に、譜代を持たない羽柴秀吉配下の中小
領主など、地縁や血縁を頼って、毛利側に走る危険性が高い。
光秀はこれを見抜いた。織田家のアキレス健を切ったのだ。
滝川の配下は、北条家の圧力で瓦解。川尻の配下は反乱。柴田は退却した
が、畿内へ全軍は送れなかった。丹羽も内紛。光秀有利。予想通り。
ところが、この危機を羽柴秀吉は見事に乗り切った。おそらく、以前から
配下の中小領主たちをかなり上手に手なづけていたはず。裏切る時間も与えず、
主力を短時日に畿内に送り込めば、大逆転。去就を迷っていた、畿内の領主を
結集させれば、勝利は必定。
光秀の不幸は、この時、秀吉の器量が生涯最高のコンディションにあった
こと。秀吉が黒田や石田を完璧に使いこなせたこと。
後にも先にも信長と嫡男信忠を同時にやれるチャンスは、丹羽の離れたここが最後だったろうな。
中央を離れてしまえばもう二度と信長政権を屠るチャンスはないわけだ。
>>776 ID出ても、日付変わればID変わって同じ事だが
コテハンつけてたら何か変わるわけでもなし、コテハンつけたり外したりした場合の自演など
どう判断するのか?
本人以外にわからんというが、アンカーを付けてるので追って行きながら自身で判断するのが当たり前
君自身でさえ、誰とも判断出来るものを出してやってないではないか
名無し同士でのやりとりを否定し、君が確信持てないからと、他人にコテハンなどを要求するなら、
君は2ちゃんねるには向いてない、ヤフーの掲示板などがいいと俺は判断するが
>>777 君のレスも主張や論点わからず、相手への批判だけしかしてないので
俺からすれば駄文にしか過ぎない
何でもそうだが、読み手にもよるわな
一行にまとめられるな
ID出ても自演できるから意味なし、と
>>781-782は自分の思惑通りにならなきゃ煽りに徹するのか、まぁよくあるパターンだ
こりゃ本能寺の変の話をするのは大変だが、以後は放置すっか
俺は、本能寺の変の結論は出てない、解明はされてないと思ってる
今ントコは、誠仁親王と一部公家衆による煽動により光秀が動いたのではないかと考えてる
今さらながらの陳腐な説なんで説明する意味ないんだけど
どうしても誠仁親王の変後の処遇が、変以前と違う事が納得行かないんだよね
どうして正親町天皇は「天皇としての職務」を誠仁親王に任せ、退位を持ち出しながら
誠仁親王に譲位せず、彼の死後、4ヶ月も経たずに誠仁親王の長子の和仁親王(後陽成天皇)に譲位したのか?
この辺りの説明がつかないんで、誠仁親王は変に何らかの関わりがあり、その為、皇位に就けなかったと考える
まぁ
>>775曰く、とっくに解明されてる事なんで、こんな与太話してもしょうがないか
>>783 俺は論戦についてはROMしてただけだから煽りじゃない
本筋から離れた話は短くまとめれるならまとめれ、と
読みにくいから
785 :
日本@名無史さん:2005/10/21(金) 21:57:36
>783に質問
光秀は武士だろ。どうして、親王や公家の味方になるんだ?
そもそも、武士の発生理由や鎌倉幕府が何で作られたか。を考えると納得いかないんだよな。
誰か他の武将に扇動されたのなら、わかるんだけど。
足利尊氏が後醍醐帝の味方したのだって、律令政治を取り戻すために味方した訳じゃないし。
武士が朝廷側の手先になるって変じゃないか?
>>785 783ではないが、マキシマムなテーマ(公武対立)をミニマムなテーマ(本能寺の変)に
振っても、生産的な議論にはならんよ。武家も公卿(位階・官途のある殿上人)であって、
二項対立ではないんだから。君の図式が当てはまるのは、鎌倉初期(承久)と南北朝の瞬間的な一時期、
江戸時代全般にすぎんね。
俺はと
>>784に言われてもなぁ、誰だよってな感じなんだが、まぁいいか
何をもって本筋なのかも謎だしなぁ
>>785 朝廷の味方だ手先だというのは極論です
これはあくまで俺の考え、観点からの見解なんだけど
信長による三島暦の導入、三職推任への回答保留、信長本人の官職就任の辞退(官位は貰ったままだけど)、
誠仁親王への譲位への介入、五宮猶子などを、一部の公家が朝廷そのものの私物化・否定と捉え、
当時、天皇としての職務を行っていた誠仁親王も、いずれ皇位を五宮に譲らなければなくなると考えた
そして幕臣でもあり、京の公卿衆と繋がり深い明智光秀を煽動したという次第
信長が安土城に清涼殿(と思われる)を建設し、総見寺を建立し、暦問題、譲位問題と
公家衆から「朝廷の否定」と光秀が諭され、朝廷の保護を目的として変を起したと考えてる
明智光秀自身がどれほど朝廷の権威・伝統を重んじていたかはわからない
叡山焼き討ちでは、問題なく任務遂行してるので権威主義者ではないとは思うが
それでも、それまでの日本人には到底出来なかった「朝廷そのものの否定」に話が及んだ場合に
室町幕府をあっさり捨てた信長に対して、光秀が危機感を感じたと考えてもおかしくはないかと
この辺は、明智光秀の動機なので答え出るわけでもないのだが
あくまで自分の考えだから
ついでに
>>785-786で、武士の発生云々あるので、ちょっと別問題だと思うが、自分なりの考えを言えば
後醍醐天皇と足利尊氏が対立はしたけれども、足利尊氏は朝廷そのものは否定してはいないし
承久の乱でさえ朝廷自体は否定されてない、介入はされたけどね
そこで信長が持ち出した暦問題が大きな意味があると考える次第なんだけどね
これこそ前代未聞だからね
>>787 暦問題ねぇ・・・、暦の実務は下級公家である陰陽師の差配なわけで、そこまで禁裏筋が危機感を
感じたかどうか・・・。少なくとも西欧暦(グレオリウス)は無関係とだけは知っておいて欲しい。
実務的に、三島暦と京暦の齟齬があったのは確かだから、合理主義者の信長が問題にしたのも
間違いないが、本能寺に出向いた土御門久脩は本来の暦者でもないわけっしょ?
うーん、また考えてみまつ。
789 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 12:35:53
>787
「朝廷の保護を目的」というのが理解できないんだよな。
「朝廷そのものの否定」に光秀が危機感というのもね。
武士の権益を守るために、鎌倉で武士政権が樹立してからの流れを考えると、「朝廷の存在は否定しないけど手は貸さない」というのが光秀の立場なのかな。と思った。
だから質問したんだ。
>>788 賀茂家断絶によって、土御門家が暦の管理を一任されおり
土御門家は地位は低いものの、中務省は天皇直轄の省で、暦の制定・頒布は朝廷の、
犯されざる権限であり、勧修寺晴豊の「晴豊記」「日々記」、吉田兼見の「兼見卿記」でも、
2月から信長の暦への介入問題が度々見られる事から重要視されていたのではないかと、自分は考えてます
本能寺前日の6月1日の「言経卿記」では、朝廷の要職にある人物が総出で本能寺に出向いており
その会見の内容は「日々記」によれば、三職推任への返答(関東討ち果したので、将軍職を望んでた)と、
暦問題で、信長へ三島暦の導入の拒否を伝えてる
これらから、一部の公家は信長の要求に対して、かなりの警戒感を抱いていたのではないかと思うのね
ところで、なんでグレゴリオ暦(当時だったらユリウス暦かな?)が出てくるのだろうと思ったら
どうも信長の暦問題をグレゴリオ暦導入と言ってるのがあるようなんですな・・・知らなかった
>>789 >武士の権益を守るために、鎌倉で武士政権が樹立してからの流れ
武士の権益を守るのを、自分の権益を守ると替えた方がいいのでは?
特にこの時代、武士と公家を明確に区分する必要もないかと
「武士だから」という固定観念が自分にはよくわからないので、
答えようがないと言うのが正直な感想
>>790 南欧におけるグレゴリオ暦の導入がこの年(天正10年10月)だったことから、
宣教師にそれを聞いていた信長が西暦に改めよとした。なる説が
革命児信長信者には多いんですよね。暦に関しては、他にも地方暦が
あったという説があり、検討を要するところですね。
792 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 01:09:22
>>790 >本能寺前日の6月1日の「言経卿記」では、朝廷の要職にある人物が総出で本能寺に出向いており
その会見の内容は「日々記」によれば、三職推任への返答(関東討ち果したので、将軍職を望んでた)と、
暦問題で、信長へ三島暦の導入の拒否を伝えてる
嘘はいけません嘘は。
三職推任への返答は5月7日ごろになされています。その後、話題に上がっていないことから、
誠仁親王からのその申し出に対し信長は穏便に断ったものと推察されます。
信長としてはもはや官職に興味はなく、嫡男・信忠へのそれ(将軍か)を望んでいたものと推察。
五の宮即位の暁に太政天皇となることを意識していたんじゃないかな?
>>792 あぁ、6月1日じゃなく5月4日だった>日々記の将軍職の件
この時は、森乱丸が応対して晴豊が、将軍職にして欲しい旨を伝えたんだけど
その際も信長から返答があった様子なし
なので自分は回答保留としているけど、5月7日に返答したソースは何だろう?
それより君、
>>757、
>>768に対して
>>765、
>>770で返答してるのだが
君の言う「先学のそれの引用」の説明などはまだかな?
いつまで待てばいいのかな?
みんな、カキコしてる相手(争論の)がよくわかるなぁ・・・(微笑
誰が何を主張して、何に対して反駁してるんか、自分にはよくワカラソ
前スレあたりから読み返してみるかな・・・。でも、レベルが高いね。ここ。
おれも正直ここ数週間はぜんぜんわからん
ステロタイプがわからんわからん繰り返している目的がわからん。
チラシの裏ウザいから。
ステロ→ステレオ?
>796
じゃあ、おまいが論点を整理してみろよ
799 :
792:2005/10/24(月) 07:35:49
>>793 >あぁ、6月1日じゃなく5月4日だった>日々記の将軍職の件
この時は、森乱丸が応対して晴豊が、将軍職にして欲しい旨を伝えたんだけど
その際も信長から返答があった様子なし
「晴豊が、将軍職にして欲しい旨を伝えたんだけど」 は
「晴豊が、将軍に就いて欲しい旨を伝えたんだけど」の間違いだよね?
誠仁親王との関係からすれば、晴豊の言葉は親王の内意を伝えたものと考えるべきだろうね。
確かに信長は直ぐに晴豊らに会おうとはせずに森乱や楠長諳を間にたて応対しているが、その上で
『日々記』には「かさねて又両御所へ御返事被出候」とも記されており、信長からはちゃんと返事が
出されているじゃないか。
その後、晴豊らは7日に帰京しており、村井貞勝にも報告しているよね。
それに
>>790 >本能寺前日の6月1日の「言経卿記」では、朝廷の要職にある人物が総出で本能寺に出向いており
その会見の内容は「日々記」によれば、三職推任への返答(関東討ち果したので、将軍職を望んでた)と、
暦問題で、信長へ三島暦の導入の拒否を伝えてる
とのことだけど、『日々記』には三職推任への返答があった(それを窺わせる)なんて一言も記されていない。
席上、信長は、武田攻めの様子と毛利攻めには4日に出陣の予定であり然程手間取ることもないであろう
ということを語り各自に茶を振舞ったが、それを三職推任への返答だと曲解するのかな?
800 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 10:06:28
三島暦への介入、信長の官職辞退、三職推任への返事の保留、誠仁親王への譲位問題への介入、五宮猶子問題、
安土城に清涼殿らしき建物、総見寺、暦問題、における朝廷の否定が
本能寺の変の原因というのは、十年位前によく言われたこと。
しかし、こういうことが、「織田信長を殺す、というような動機になる」程度のものか、
とは、本能寺朝廷説に対してよく言われた。批判である。
殺すには、軽すぎる理由というのだ。
しかし、決定的な証拠が出たあとは、皆これである。
だが、たとえば平家の専横に対してさえも、朝廷はうまく対処し、次の鎌倉幕府幕府とも対決してきた。
で、、、後醍醐天皇が、鎌倉幕府を滅ぼした。
さて本題に入ろう。僕が言いたいのは、
そのあとに帝位に対してのかなりの問題が起きたはず。
で、室町幕府時代となり、ついに足利幕府が滅ぼされる。
それで、である。
足利幕府は南北どちらの朝廷を応援したであろうか?
そして、織田家はどちら側の家であったであろうか?
次男は北畠信雄と名乗っていなかったか?
ということ。
つまり、朝廷が「帝位」「三種の神器」に係わるのでは恐れた疑惑が、
信長にあった可能性があるのだ。
まず、それこそが、本能寺の変が起こった、要因のひとつではないか。
と思われる。
>>775 > つうかさ、数百の参考文献とか読んで、この本、論はモノホンと見抜く、評価するのも
> 歴史探索の楽しみの一つ。コンテスト応募する奴とかは最初からいろんな本を読んで
> 自分の論を決めて主張するわけ。
> あまたある、数百の本の中からどれが役に立つかを考えるわけ。
> だから、君のこれだと発見する楽しみを阻害すねのもいやだから教えないことにする。
書名も明かせない文献なんて、学術的には実在しないも同然。
文献の存在自体が捏造かもしれないし、実在する文献であっても正しく
引用していない(曲解したり改竄したりしている)可能性が大いにあるから。
775は、自説の学術的正しさとかリアリティは二の次にして、「自分の妄想を
膨らますのに都合が良い文献を探す行為」そのものを「楽しみ」と捉える
ロマンティストの類いだな。文系の「自称・研究者」にありがち。
> しかし実在の本で、ちゃんとした参考文献だよ。
「ちゃんとした参考文献」って何?
文や書籍の体裁を取ってさえ居れば、時空警察のネタ本だろうが東スポの
記事だろうがMMRだろうが「実在の文献」であることは確かであるし、
それらの内容を参考にさえすれば「参考文献」には違いないんだけど。
『歴史関係の学会の学術雑誌や論文誌に、専門家の査読を受けて
掲載された論文』のような「ちゃんとした文献」ってこと?
802 :
甲斐犬 仕事休み:2005/10/24(月) 17:33:57
本に書いてある「理想」や「伝統」とやらに合わせて社会を改革(復古)し
ようなんてのは、近代のインテリ特有の気質である。
しかし、そんな性向は、現代の実業家や自民党政治家には希薄だし、
まして16世紀の武士に濃厚にあるとは考えにくい。彼らが「理想」や「伝統」
を語るのは、後付けの「口実」である。
器量者は、勝ち残るための方便で生きている。以前、この前スレッドで
「光秀の有職故実は、大久保利通の(接待用)囲碁」と喝破した優秀者が
いた。卓見だと思う。
本能寺の変は、光秀の野望説が最も現実的である。本能寺の変に
謎など無い。光秀が勝ち残るはずだったのが、秀吉に大逆転されたので、
「無謀な反逆」とカン違いされてしまった。「謎」にされてしまった。
779>信忠も殺してしまえば、さらに完璧だね。光秀が勝ち残るはず
だったんだな。秀吉の奇蹟が無ければ。
>802
閑話休題か
804 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 01:52:47
>>802 細川、筒井など、近畿の大名・小名が光秀を支持すれば、
秀吉が大急ぎで戻ってきても、「大逆転」なんかできなかった。
光秀は下工作すらしていない。やっぱり「無謀な」反逆だったのだ。
>804
はぁ?? 「光秀は下工作」してますけど?
806 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 06:27:12
事前にへたな工作をすれば計画が漏れる恐れがあるから、多分見切り発車で
謀反を起こしたんだろうね。
807 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 11:08:58
>>801つうか
一番重んじられるのは戦争、事件の当事者が書き残した日記、手紙、公文書、署名した命令書とか。
二番目が、その当事者の周囲にいて直接状況を見聞きした関係者の書き残した日記、手紙、記録だよね。
で、その手の目撃者が書き残した日記を原文、訳文を紹介し、いちいち後世判明した史実とかと照らし合わせて、ここは敵、遠方の情勢とかがよく解らなかったらしく間違いがあるとか、ここは史実と合ってるとか。
こんなことを言っているが、当時、この人物の影響があったとか、言ってる本。
>>802 「野望説」
というとかなりエゴイスティック、利己主義だから。
そういう金とか領土目当ての人間は強力な相棒、あるいは援軍などで勝つ見込みがないと、動かないだろう。
つまり、武田を滅ぼし、ほとんど天下統一への見込みがついた織田家に、端っこでも、ついているほうが有利。
光秀は、これといった強力な援軍もなく、また天王山の付近まで秀吉軍迎撃に出張っていっている。
勝つなら、光秀が知恵の限りを尽くしたという坂本城篭城とか、京都市街戦にしてもいい。
知ってのとおり、大軍を小軍があいてにするなら市街戦にすれば、殆ど篭城戦みたいな効果がある。
風向きとか見て火とか掛ければ大軍でも厄介な戦になることもある。
また光秀は安土城、京都近くの坂本城、丹波亀山城などと、
三つのかなりの城を手に入れていた。
これらの城、とくに丹波亀山あたりを中心に篭城し、夜討ち朝駆けなど奇襲で苦しめれば、
勝てる可能性もと斉藤利三は進言したらしい。
しかし、光秀はそういう策をとっていない。
これはやはり光秀が長期の攻防戦になれば、京都に迷惑が掛かると考えたせいだろう。
つまり光秀の戦略は、京都を重んじていたことになる。
808 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 13:09:15
>>807 京都市内で戦争しなかったのは、光秀には、朝廷しか頼る相手がいなかったからにゃ。
その朝廷にも、天王山の敗戦後はあっさり捨てられたわけだがにゃ。
でも、幕府勢2000が先頭で戦ったんだろ、光秀軍。
810 :
甲斐犬 仕事休み:2005/10/25(火) 17:55:11
光秀は細川氏に五十〜百日で、近隣を制圧すると書状を送ったらしい。(仮に
これが偽文書だったとしても、この程度の日数があれば、一流の武将なら、
万人規模の兵で、信長死後の混乱した畿内を制圧できそうだったのだろう。)
光秀に百日あれば、信長死後の、去就に迷う中小の領主を脅迫と利益誘導で
結集して、織田家領域中央部を乗っ取ることができただろう。
おそらく、「織田家領域中央部乗っ取り成功の確率」 と 「織田家に仕えて後に
粛正されない確率」 を計算したら、光秀の主観では前者の方が高かったの
だろう。
807>
市街戦は小単位の部隊編成になるね。そうなると、当時のイヤイヤ動員さ
れた農民兵なんてサボリまくるね。現実的ではないよ。
封建時代の戦争なんて、今日のナショナリズムに基づく戦争に比べれば
かなり末端の兵の戦意が低い。
どっかの記事で光秀は秀吉軍と決戦するためでなくどこぞを制圧する為に軍を出していて
秀吉軍のまさかの行軍に仕方なく山崎で防衛戦を行ったとあったんだけど本当なのけ?
>>810 本能寺の際は一万三千だったのが山崎時には二万越えてたから
それだけの日にちがあればね・・・
まあ同時に他の人にも時間は平等なはずなんだけど^^;
813 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 23:34:40
京都総見院・秋の特別公開!
信長社長のワンマンぶりにはもうウンザリだ!!
事あるごとに同期の秀吉と比較しやがって!!
家柄・交遊関係・学識…どれをとっても俺のほうが上だろ〜が!
あ〜、ムカつく!!今頃本能寺で…
…お!?
信長やるなら今がチャンスやん。今しかないやん!?
で、やっちゃった。
最期は農民(秀吉)に…。そのほうが俺にとってもいいだろって事で。
明の朱元璋の娘婿が
「延々戦いばっかりで家族団らんすることも出来ない、疲れた」
みたいな事言って反乱を起こしたそうだが
光秀も似たようなものじゃないのかな
816 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 06:47:31
そうだね。
織田信雄が最初に無断で伊賀を攻めて大敗した時は、家臣たちが伊丹攻めに
出かけるのを嫌がったゆえの出兵だったし、東国出陣の時は筒井順慶の兵たちが
不満を漏らしていたらしく、光秀の兵もダラダラしていたらしいね(勧修寺晴豊の談)。
817 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 11:22:42
十年前、1582年六月二日におきた本能寺の変は、
「日本史2000年最大の謎」
「戦国史最大の謎」
「中世日本史最大の謎」
「今世紀最大の謎のひとつ」などと言われていた。
なにしろ「織田信長」−「豊臣秀吉」−「徳川家康」と続くのが、天下とりの系譜なんだからね。
一番魅力的なラインのわけだ。
だから色々な人が、この「本能寺の変」、動機などについて思ったことを書いた。
その数と説、実に数百に及ぶだろう。
その四百年に及ぶ謎、その真実がすでに解明されている、
少なくとも誰がやらせたかは特定されている。
そのヒント1「織田信長は南朝ではとの説」
○その真実へのヒント2
「階段」を探せ。「階段」を調べろ、なのだった。
818 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 15:13:01
はいはいワロスワロス(AA略
とりあえず変な改行して行数かせぐの禁止な。理由はウザいから。
「何だこの階段はぁ」「せっかくだから俺はこの赤の扉を選ぶぜ」
とか?
ROM専素人の俺からしてもいいかげんウザイと思います>3つ上
821 :
日本@名無史さん:2005/10/27(木) 11:00:16
おいおい、「日本史2000年、最大の謎」のひとつだぞ。
英雄や歴史大好きなら、全財産を掛けても知りたいと思う人もいるはず。
いたはずだ。
一生、知る事が出来なかった学者もいる。
その謎、真実を知るヒントだぞ。
しかし、その謎と真実にたどり着くには、ある程度の知識が要る。
ここの人たちも囲碁、将棋は知っているだろう。
しかし、その名人戦や一流の人たちの棋譜の面白さは、
ある程度、知識と経験を得てからだよ。
素人目には、なんでこんな手を打ったのかよく解らない。
しかし、ある程度の知識を得ると、その棋譜の面白さがわかる。
さて、三番目のヒント、
織田信長を殺せしものは
「ネブカドネザルの塔」と「聖書」だ。
うざい
823 :
甲斐犬 仕事休み:2005/10/27(木) 17:44:51
そりゃ、光秀の耳に、「信長を討て」だの「信長を生かしておいては・・・」
だのささやいた者はいたかも知れんよ。しかしだ、そんなことだけでで動くのは
狂信者だけだ。光秀ほどの器量者が狂信者とはとても思えない。
本能寺の変の最大の理由は、光秀一流の勝ち残れる打算だよ。
この打算は秀吉のホームランで逆転されたがね。
光秀側に謎など無い。むしろ、あのピンチを乗り切った秀吉の、中小領主
の人心掌握術の方が、よっぽど謎だ。譜代も直轄もごく少ない秀吉、まるで
親会社が倒産した自己資金の少ない中企業の社長のような立場なのに、株主の
全面的信頼を得られたのだから。
しかしおまいら見てきたように語るんだな。
時空警察の関係者か?
825 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 11:37:37
まあ、しかし、世の中「大義名分」というものがあるからね。
こちらは正義であり、向こうは討たれねばならない悪だという理屈。
それがないと世の中には受け入れられないわけだ。
光秀が勝ち抜く自信があったとしても、それだけでは動かなかったろう。
むしろ端っこでも織田家についていたほうが食うには困らない。
さて、秀吉のホームランだが、作家小林久三氏が、彼は元スッパ、ラッパ、つまり情報収集員ではなかったか、というようなことを書いている。
実際、織田家に入ってからも、いろいろな職業の人間が彼を訪ねてきていたという。
部下の蜂須賀小六、川並衆だったっけ。
つまり、なにかの情報網を持っていた可能性があるわけだ。
で、このごろ、とある文書が出てきて、彼は信長が殺されるかどうかまでは知らなかったろうが、何か中央で政変がありそうだと考えていた可能性があることがわかった。
で、ある程度軍を引き締めて、警戒していた可能性があるってことが、わかった。
さて、本能寺の変のヒント四。
「神の国」
「聖書」ー「あまねく欧州の王や法王、民がひれ伏すイエス・キリストの職業」
オナニーはもういいから
827 :
甲斐犬 仕事休み:2005/10/28(金) 17:53:27
情報収集員?戦国時代は、テクノクラートなんていないから、戦国武将は
みんな、情報部員であり、行政官であり、指揮官であり、兵站担当であり・・・
戦国武将なら、みんな情報収集に熱心だよ。上手下手の差はあるけどね。
それに蜂須賀なんて過大評価することは無い。戦国時代とは、水田が丘陵地
から、平野部の大河川周辺に移る時代。平野部の新興農村の利権の支配者
が戦国大名でもあるのだ。つまり、戦国大名ならみんな川並衆みたいのを抱えて
いる。当然、明智光秀も、近江坂本や丹波の「川並衆」を抱えているよ。もちろん
非農民のもね。
828 :
甲斐犬 仕事休み:2005/10/28(金) 18:15:14
さて、本能寺の変にて、光秀側に謎は無い。光秀は合理的に行動している。
むしろ、信長が死んだのに、秀吉の軍団が瓦解しなかったことの方に大きい
謎が残る。親会社が潰れたのに、自己資金の少ない(譜代・直轄の少ない)
秀吉社長がいかにして株主・債権者の信頼を得、資金(兵隊)を引き上げら
れずに済んだか。
その最大の理由は、宇喜多家との融合にあると思う。当主が死に、幼主と
未亡人が残された宇喜多家。重臣による乗っ取りや瓦解を防ぐには、未亡人
と幼主が外部の実力者と結ぶのが良い。秀吉は、幼主・秀家を宇喜多家を
継承させる事に協力する見返りに、宇喜多家を、秀吉の疑似譜代として取り
込んだのだろう。これで、後の宇喜多家の厚遇も説明できる。秀吉社長は、
宇喜多銀行の女社長に信用の保証人になってもらったわけだ。
もちろん、毛利元就数十年の偉業を、数年でひっくり返していく手腕に
配下だけでなく、毛利家諸将までが恐れ入っていただろうから、和睦から
大返しが成功したんだが。
>>825 > さて、本能寺の変のヒント四。
> 「神の国」
わかった!犯人は森だ!
830 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 18:42:18
くだらない夢の話は結構です。
「とある文書」て…
832 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 07:34:32
だから釣りだって。
833 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 10:33:52
>>828 宇喜多は、それほど立場が強いという訳でもないよ。宇喜多能家が、主家浦上家の家臣島村観阿弥の嫉妬から、主家黙認で砥石城を奇襲されて自殺。
その子興家が無能なので宇喜多直家を哀れに思い、浦上宗景が家臣に取り立てた。ところが直家は有能で手柄をあげ、乙子城の城主になり、家臣を集め、勢力を伸ばし、ついには主家浦上家を滅ぼして備前を手に入れる。
しかし、それゆえに、配下は不安定。直家は毛利、織田と手のひらを返すように同盟を繰り返している。その直家は変当時は死んでるが、それほど秀吉にとって頼りある味方とは?
主家を殺したという負い目あるゆえに、織田家に上手くついていたとしか。実際、その軍は山崎の戦いに参加していない。
それよりも、甲斐犬氏。
秀吉については<tul面白いことを教えよう。
本能寺のあと、信長の長子信忠は二条城に篭り、攻防戦になって死んだ。
その重包囲の中、前田玄以は信忠の子三法師、後の秀信とともに何故か脱出に成功。
これがのちの清洲会議で役立ち、秀吉は織田家を乗っ取れた。
その前田玄以を、寺から引き立てて織田信忠に仕えさせたのが秀吉だ。
その秀吉は同姓の前田利家の親友だった。
前田利家はのちの賤ガ谷の戦いのときに出陣しても戦わずに退却。
その後秀吉に臣従した。
このふたりは前田玄以が秀吉政権で五奉行を勤め、
利家は別に武功なくも重臣として大禄をもらって、
加賀百万石の礎をきずく。
秀吉と「前田玄以」−「前田利家」の線、調べたらどうだね?。
834 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 10:54:05
「日本史2000年最大の謎、本能寺の変」
そろそろ、本格的なヒントを出そうか。明智光秀が変前に愛宕山で詠んだ連歌百韻、大半は意味がない。
風景句らしいのだが、しかし、中には面白い句がある。
その九十九番目の連歌。
「色も香も、酔をすすむる花の下」心前。
「はなのもと」−「花の下、花の本と書く」
一 花の咲いている木の下。
二 花の下で行われた連歌の権威者が次第に公認され、一時代にひとりを限り朝廷に許される名誉の称号になった。転じて連歌師。
三 二の故事により、各世界の名誉ある第一人者のこと。
この句は百番目のちょうど前。
わかるだろう、この前の言葉は、どうみても祝盃をあげているとしか思えない。
その素晴らしい「褒美か」という感じだ。
二の故事による、三の意味「第一人者」だから。
「朝廷によりただひとり許された名誉の称号、による第一人者」の意味としか思えない。
武士にとっての第一人者、朝廷により、一時代、ただ一人に限り許される名誉の称号とは?そう、あれとしかおもえないのだ。これが大きなヒント。
835 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 12:06:26
「むむっ、この句は?」
明智光秀はうめいた。
そして、このとき、歴史は大きく動いたのだった。
数日後、この句を羽柴秀吉も見た、、、、、、
そして、、、、
836 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 21:23:30
信長の自作自演だって
837 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 22:14:49
hitomanekozalu
838 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 16:17:28
光秀軍は本能寺に行く途中止められなかったのかな
本願寺に光秀が来るなんて聞いていないとかって理由で
部下(兵士)の中にもおかしいと思う人だっていたと思うけど
>>838 光秀は部下(下っ端の兵士たち)には”信長様が閲兵するから一旦京都に向かう”と
説明していて、その説明を信じていたということだったような。
光秀と京都の間には、まとまった兵力を持った武将がいなかったので実力で光秀を止めることは出来なかったでしょう。
そもそも、信長の軍隊が行軍する際に、途中にいる武将にいちいち連絡して通行の許可を得るというシステムはなかったと思います。
例えば、秀吉が加賀に出兵した際に柴田勝家と喧嘩して、勝手に部隊を引き上げたという事件がありますけど
途中で誰も秀吉を止めていない。
840 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 21:16:19
秀吉や光秀クラスは、顔パスでつよ。
「俺だ。通るぞ」
それよりも、信長が間抜けだったのは、有力武将にスパイを付けていなかったことだにゃ。
家康なら、必ず付けていただろう。
まあ、そうゆう、陰険さがないところが、今日信長に人気がある理由だろうが(w
841 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 21:41:42
議論され尽くしてると思うが、信長が本能寺の変で討たれたことは
今の日本にとって良かったか悪かったか?
もし生き残ったらという仮定も魅力的で捨てがたいが、
天皇家の権威が残ったことで結果的によかったと思う。
>>841 死のうが生きてようが、大勢に影響なし
信長も朝廷の権威にひれ伏していたわけだから
>>842 信長が生きていれば、今の中国はなかった。東洋の大帝国日本が誕生していた。
>843
ザビエルが布教してた中国を、何ゆえに信長が? ワカラソ・・・
信長が生きていれば、公家の政治が武家を駆逐していたはず。
なぜならば、
藤原政権(武家の力でアボン)→平家政権(東国源氏の力でアボン)
→足利政権(公家の画策でアボン)→安土政権(公家と前幕閣の画策でアボン)
→豊臣政権(関東武士団の力でアボン)→徳川政権(公家を圧迫して、ウマー♪)
早めに信長の後継者(猿)がアボンしたお陰で、江戸の泰平が拓かれたわけだ。
>信長が生きていれば、今の中国はなかった。東洋の大帝国日本が誕生していた。
いいえ、今の日本がなかった。
帝も東洋の大帝国明国の大王(臣下)になっていることでせう。
うつけ(信長)を持ち上げすぎ! ビジネス作家の褒め殺しに踊らされるなよ
無学者たちよ。信長はそれほどのもんじゃないよ
残念ながら、うつけ者です。
845 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 06:58:24
>>839 >光秀と京都の間には、まとまった兵力を持った武将がいなかったので実力で光秀を止めることは出来なかったでしょう。
京の東西を押さえる兵力がその光秀自身のものだったからね。
846 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 12:00:58
○「戦国史最大の謎、本能寺の変の真実」それへのヒント。
「色も香りも酔をすすむる花の下」心前。
これだけでは駄目だからね。この句を生かすには「はなのもと」なる言葉が「朝廷により一時代に、一人に限り許される名誉の称号」おそらくは「征夷大将軍」
と断言することは出来ない。なぜなら、この言葉にはほかにも「連歌の宗匠」「花の咲く下」なんて意味もある。それが、この句と言葉の巧みなところだ。
これを生かすには他に「本能寺の変は朝廷説」と断言できる証拠がいる。
それが一九九七年に出た。
ゆえにこの句は「褒美としてはまさに花の征夷大将軍」と断言できるわけだ。
そして、朝廷の返事であるこの句と言葉をこの位置に入れるように頼んだのは明智光秀ではないだろうか。
光秀は自分の行動が歴史に残るものであることを自覚し、その場合「はなのもと」なる後世に残るだろう言葉を九十九番目にいれることによって、自分がただの醜い欲望に動かされたのではないという意を残したかったのだろう。
つまり彼も名を惜しむ武士だったのだ。
○やっぱり、この時代を読み解く最大のヒントは「神の国」「聖書」かも。
847 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 12:06:35
ハイハイ。
848 :
甲斐犬 仕事休み:2005/10/31(月) 17:58:35
>833よ
「幼主と未亡人が残された宇喜多家。重臣による乗っ取りや瓦解を防ぐには」
と甲斐犬は、宇喜多家の問題点も指摘している。宇喜多家は、すでに書いた
ように、外部の実力者と結びついてこその「頼りある味方」
すでに書いた事をさらに詳しく説明しよう。
「直轄領・譜代が足らないが、当人の実力はピカ一の秀吉」
「国人レベルではなく、大名レベルだが、幼主への継承に不安のある宇喜多家」
この両者が密着すれば、盤石。他の国人・地侍レベルの配下も、裏切る可能性
は、かなり低下する。宇喜多資金が動かないなら、他の小口債権者も引き上げ
たりしない。
>秀吉と「前田玄以」−「前田利家」の線、調べたらどうだね?。
もし、秀吉と光秀の共謀なら、玄似を生かしておいては、いかんだろう。
それに、光秀が「前田玄以」は殺すな、と配下に命じてあったとしたら
笑う。兵は玄以の顔も知らないしね。
まっ、法体と女官は、普通に助けられたんだろうよ。
陰謀説か?この手の説は、「世の中、思い通りにならない。」という言葉の
意味が本当にわかっていたらハマらない。
助けた者に嫌われ、見捨てた者に慕われ、愛しても愛されず、意外な人に
救われるのが、世の中であり、人生だ。
いつの時代も、陰謀は確かにたくさんあるのだが、滅多に予想通りの結果を
生まない。たいていは、意外な、予期し得ない方向に、世は進む。
まっ、君も、岡山にいて、京都にいる者と、電話もネットも使わずに、
連絡を取り合って、「陰謀」を試してごらん。
849 :
日本@名無史さん:2005/11/01(火) 04:25:20
本能寺の変の真相は言うまでもなく森蘭丸をめぐる男色関係が
原因であったぞよ!!!
これは常識の域に属するがのう。
850 :
日本@名無史さん:2005/11/01(火) 11:40:47
ハイハイ。
851 :
日本@名無史さん:2005/11/01(火) 13:13:24
本能寺の変の真相は言うまでもなく森蘭丸をめぐる男色関係が
原因であったぞよ!!!
これは常識の域に属するよのう。
852 :
日本@名無史さん:2005/11/01(火) 14:01:19
ハイハイ。
常識のない奴らだな
854 :
日本@名無史さん:2005/11/01(火) 19:17:47
本能寺の変の真相は言うまでもなく森蘭丸をめぐる男色関係が
原因であったぞよ!!!
これは常識の域に属するよのう。
855 :
日本@名無史さん:2005/11/01(火) 19:57:58
ハイハイ。
856 :
日本@名無史さん:2005/11/01(火) 20:50:09
昔とある本で本能寺の変の際、信長は炎上する本能寺から伊賀者によって連れ去られ
伊賀で処刑されたっていう話を読んだことがある。確かに信長は伊賀を攻めているし
本能寺の焼け跡から信長の遺骨が出てこなかったし。でも現実味が乏しいなあ・・・。
わざわざ死ぬ信長を本能寺から連れ去るなんてそんな非効率的なことを伊賀者がする
とは思えないし・・・。
857 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 11:18:05
なるほどぴんと来ないという訳だ。
○「本能寺の変、それは日本史最大の英雄たちのかかわる最大の謎である」
「日本史2000年最大の謎、本能寺の変、その真実」
○「今世紀最大の謎、本能寺の変、そのミステリーの真実」
こういう文句を見ると皆が多分笑ってしまうんだろう? あるいは鼻じらむ? いままで、そんな宣伝文句は何千冊も見てきたよ。皆、偽物だった、と無意識に思ってしまう。
丸山応挙の書画などは数千出てきたうちひとつ本物があればいいって言われる。
だから、ある日突然、四百年にただ一冊の真実本が出てきても、良く解らない。いや、私ごとき判断ができないという訳だ。
だから鑑定眼が重要になる。偽物に高い金を払って喜び、相手からピエロにされてあざ笑われる。その判断力は家を傾けるだろう。
しかし、ここに書いてあるのは、まごうことなき一九九七年に出た書物の真実だ。
さてヒント。、上の九十九番目の句に明智光秀は息子の名で返事を返した。百番目の句だよ。
「国はなおのどかなるとき」明智光慶。
「国々はなおのどかなるころ」
858 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 11:31:06
859 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 13:37:23
ハイハイ。
ヒント厨が来てからこのスレがつまらなくなった
861 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 15:20:34
本能寺の変の真相は言うまでもなく森蘭丸をめぐる男色関係が
原因であったぞよ!!!
これは常識の域に属するよのう。
862 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 16:03:19
ハイハイ。
本能寺の変はユダヤの陰謀
ふ〜ん・・・
865 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 11:08:45
○日本にはあの「ダビンチ・コード」にまさるとも劣らぬ謎がある。
有名なとある絵にも、仏閣にも。しかし、キリストとマグダラのマリアが子をなしたとか、キリスト教闇の秘史はフィクションらしいが、
こちら、本能寺の変は正真正銘の本物だ。
一「織田信長南朝説」戦国時代の始まりである「応仁の乱」。東陣細川勝元が、西陣山名宗全がそれぞれ奉じた人は?
二「階段」周囲を脅えさせた階段とは?
三「ネブカドネザルの塔」と「聖書」織田信長にとって神の子であるイエスキリストの職業は大問題であった。
四「神の国」織田信長は無神論者であった。しかし周囲の人はそうではなかった。とくに南無阿弥陀仏と叫びながら銃口前に突っ込んでくる人々は厄介な存在であった。そして彼は悟ったのだ。
五「はなのもと」しかし、征夷大将軍だけが光秀を動かしたのではなかった。
○本能寺の変は、本当に次の一言で言い表されるかもしれない。
「過ぎにし薔薇は名前のみ。虚しき名前が今に残れり」ウンベルト・エコ著「薔薇の名前」
866 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 15:02:07
ハイハイ。
説得力なし。
867 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 23:09:48
本能寺の変の真相は言うまでもなく森蘭丸をめぐる男色関係が
原因であったぞよ!!!
これは常識の域に属するよのう。
本能寺の変はルーズベルトの陰謀
869 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 09:30:34
ハイハイ。
説得力なし。
870 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 10:46:48
○日本には、あの「ダ・ビンチ・コードに勝るとも劣らぬ謎がある。
いくつかの日本の絵にも、奇怪な符号が存在する。
それは画家たちの遊び心なのか。
それとも背後にいる何かの秘密結社の命令なのか?
○その「ダビンチコード」にまさるとも劣らぬ日本史上の最大の謎
織田信長と明智光秀
「本能寺の変の真実」
それは、すでに一九九七年に全て解明されている。少なくとも誰のためにしたかはわかっている。
その答えは、、、「朝廷説」
全ての証拠品は天王山の戦いで明智光秀が負けたとき、注意深く消された。
日記は書き直された。
覇者豊臣秀吉は「こうである」と歴史を創った。
しかし、明智光秀の人柄と、そのやむにやまれぬ行いを愛した者たちによって、
ほんのわずか、ほんの僅かのみ、証拠品が残っている。
その者たちの、大権力者秀吉の下でも真実を残したいという血の叫びと悲しみ、、、、
四百年前の、その心こそ偉大だ!
○愛宕百韻百番目「国々は、なお長閑なるとき」明智光慶。
本能寺の変は神様の陰謀
むーっむーっ
873 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 11:46:59
ハイハイ。
説得力なし。
彼のオナヌーはいつまで続くのだろう
875 :
葛籠ノ重蔵:2005/11/06(日) 12:42:57
伊賀者の仕業でござるw 従って証拠の品は皆無w
876 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 20:11:53
877 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 11:02:12
○いよいよ、日本史2000年、最大の真実○
○本能寺の変の真相、その解明○
そこまでは、僅かな距離だ。
だが、それには少し予備知識がいる。
ほんの僅かな予備知識がないために、あるいは歴史に対する僅かな認識がないために、
目の前の重大な事象がよく解らないという訳だ。
よく言われるのが茶器だな。私なども知識が全くないからね。目の前に名器が転がっているのを見て、「なんだ、これは、汚い茶碗」などと言ってしまうわけだ。
それを鑑定家が見ると、「ああ、五千万円はする歴史的なものだ」と涙を流す、という訳だ。
ほんの少しの予備知識がないために、、、、
無知のために、、、
いかに多くの歴史的な巻物、手紙、資料が失われたことだろう、、、、
○さて明智光秀の辞世の句とされるもの。「明智軍記」に載っている。
逆順無二門
大道徹心源
五十五年夢
覚来帰一元
この句は不確かな資料「明智軍記」にある。だが、辞世の漢詩などを軍記を書いたものが創作したりするだろうか?
それは死者、霊に対する無礼となる。そんな失礼はこの時代の人はしないだろう。ゆえに本物と見て良いだろう。
さて、この漢詩を見て、何か思いつかないかね?
878 :
おバカさんへ。:2005/11/07(月) 13:13:28
>さて明智光秀の辞世の句とされるもの。「明智軍記」に載っている。
たしか「明智軍記」成立の少し前に起きた北陸某藩での事件で、
ある人物の詠んだ辞世の句がネタ本だとか・・・
> ○いよいよ、日本史2000年、最大の真実○
日本史2000年というと、西暦に直すと1340年頃だな。
室町幕府成立直後には既に本能寺の変が計画されていたのか。それは凄いな。
オナヌーに突っ込んでもこのアホは何とも思ってないぞ多分
881 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 10:35:00
神代から数えなくてはいけないのだろうか、日本史は? それはまた別の大問題だな。
ここでは一応、西暦にあわせておきたいのだが、、、。
しかし、お望みなら、、、、
○日本史3000年最大の謎、本能寺の変、その真実。
○戦国史の謎、本能寺の変、その解明○
西暦一五八二年、六月二日、戦国最大の英雄、先駆者、梟雄、奸雄、あるいはただの虐殺者など、さまざまな評価のある覇者織田信長が、京都本能寺において、家臣明智光秀の軍に襲殺された。
なぜ織田信長は京都で死ななければならなかったのか、なぜ忠臣明智光秀が突然裏切ったのか? なぜ本能寺焼け跡から織田信長の遺体は発見されなかったのか?
昔から、そこには日本史を根幹から揺るがすような巨大な謎があると密かに言われ続けていた。推測された説、じつに数百。浮かんだ容疑者徳川家康、豊臣秀吉、武田残党、朝廷、森蘭丸、仏教勢力、キリスト教、堺商人、伊賀忍者など数知れず。
そして、西暦一九九七年、ついにその真実が解明された。驚くべき決定的な証拠とともに。
その答えは「朝廷説」、、、
それゆえに次の句や詩も朝廷説に関係があることが判明した。
○光秀が仲間と変前に詠みし、愛宕百韻連歌。
九十九番目「色も香も酔をすすむる花の下」心前。
百番目「国々はなお長閑なるとき」光慶。
明智光秀辞世の漢詩「逆順無二門、大道徹心源、五十五年夢、覚来帰一元」
○ここを読んだ君が調べなければならない言葉は、、、
「花の下」「御門」「無二」「一元」
○そうすると君は、驚くような、奇妙な「本能寺の符合」「日本のダビンチ・コード」に気づくに違いない!!
882 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 10:50:11
光秀のノイローゼでしょ
信長が京都で丸腰状態なのを知ってあとさきのこと考えずにやってしまった
信長に使いまくられて鬱になっていたのだと思う
NHKの記者ですか!
884 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 11:46:03
>>881 日本史が3000年もあったのか。
3000年前にあったどんな出来事が日本の起源なのだろうか。
神武の降臨以前数百年はどのような政体があったのだろうか。
その方が本能寺なんかよりも遥かに大きな謎だ。
885 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 11:56:56
本能寺の変は在日朝鮮人である信長に
日本ででかい顔されては、日本が汚れてしまうという日本人の意地をみせたのが真相です。
2chのユーザーとよく似た感情で抹殺した光秀は日本の功臣。
光秀「何度奴の火病を食らったことか・・・あの切れ長で細い目をみたら一目瞭然」
馬に乗って逃走中に農民に殺された光秀がどうやって辞世の句を残したのか教えてください。
887 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 00:28:27
>>886 土民に竹槍で刺されて深手を負ったけど
付き添いの部下に辞世の句を伝える程度の余力はあった
そしてその場で切腹し介錯してもらった
>>887 それじゃ、筆・紙までは用意してないだろうから口述ですね、漢字までは判んないのでは・・・
介錯終わるまで待っててくださるとは、武士の情けを持った農民の皆さんですね。
辞世の句って普段から用意してるもんだと聞いたが
ちみに謙信の辞世の句は単純明快で大好きだ
辞世の句ってのは、後世に贈られたのもあるんだよ
バカしかいないスレだからって、嘘教えるのはいかんよ
891 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 00:47:58
>>888 光秀も不意打ちでやられたんであって正面から戦えば竹槍で武装した農民は追い払われてしまうよ
892 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 04:00:10
秀吉と家康が光秀にやらせた。その後の秀吉と家康の対峙(小牧・長久手など)は芝居で西は秀吉が、東は家康が揉めてるフリしてまとめ最後に家康が屈する。真剣にぶつかりあった形跡がない。
893 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 04:18:42
家康は信長に徳川のお家騒動にじょうじてすりかわった偽者だとばれているのを弱みにつけこまれていた。それを秀吉も知っていた。家康は信長に生きていられては困る理由があった。秀吉が狸呼ばわりしたのもそれ。
894 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 04:23:52
すべてはどこの馬の骨かもわからない出自不明の猿と狸の共同作業。家康が秀吉の死後墓や遺骸をすべて焼いたり抹消しようとした理由はそれである。普通はそこまでしない。
895 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 08:09:18
本能寺の変の真相は言うまでもなく森蘭丸をめぐる男色関係が
原因であったぞよ!!!
これは常識の域に属するよのう。
896 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 09:58:24
>>886 フロイスの著した「日本史」には光秀の最期のようすがかなり具体的に記されている
・哀れな明智は,隠れ歩きながら,農民たちに金の棒を与えるから自分を(近江の)坂本城に連行するように頼んだということである。
・彼ら(農民)はそれを受納し,刀剣も取り上げてしまいたい欲に駆られ,彼(光秀)を刺殺し首を刎ねた。。。
・彼(光秀)は。。。切腹をするための時間すらも持ち得ず,貧しく賎しい農夫の手にかかり,不名誉きわまる死に方をしたのである。
・三七殿(織田信孝)は,(光秀の)身体に首を合わせた後,裸にして,万人に見せるため,(京都の)町はずれの往来が激しい一街道で十字架に懸けるように命じた。
確か光秀が農民に殺され、農民に武将が
殺されるなんてあまりにもみじめだから
将棋の歩は王をとってはいけない。
という話を聞いたことがあるな〜。
898 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 11:03:38
○日本史2000年最大の謎のひとつ、本能寺の変の真実○
○織田信長が大和朝廷の敵となれば、
それはまさに皇統譜最大の戦になるであろうことが周囲には解っていた。
なぜなら織田信長は比叡山延暦寺の焼き討ち、一向一揆への虐殺など、
たとえ神であろうと自らの前に立ちふさがるものは徹底的に破壊するという姿勢を見せていたからである。
司馬遼太郎が書いている。徳川家康が関が原で勝ったあと、小牧長久手時代の鎧を指差し「これが、なんだかお解かりか」と何気なく言っただけで、相手は震え上がった。本人にその気はなくとも、豊臣秀吉に勝ったとされる鎧を見せられただけで充分な恫喝になったのだ。
独裁権力とはそういうものなのである。まして比叡山延暦寺を焼き討ちし、一向一揆を過酷に抹殺してきた織田信長の一挙一動は、ちょっとした言動でも周囲の人を震え上がらせるものであった。その信長が不愉快な顔をした問題があった。
○光秀のものとされる首無し死体の鎧の引き合わせにあったとされるのが「明智軍記」の辞世の漢詩。武将は戦死のことを常に考え、命を懸けた戦の前には詠んで用意していた者が多かった。
○フロイスの日本史における光秀の記述は「伝聞証拠」の域を出ないものばかりである。またフロイスはせっかく話を聞いてくれた織田信長を殺したというので、光秀には好意を持っていなかった。
また具体的にあって話した模写もない。
また光秀の首と死体発見においてはいくつか資料がある。発見された遺体が本人のものだったか、偽者だったかも諸説あり。
○光秀の死体は別人??○
本能寺の真実は朝廷説と判明している。
すると朝廷、貴族の庇護で、逃げる場所はどこにでもあることになる。例えば、普通の人々が入れぬ寺、禁地。
ヒント「一元」、
なぜ、織田信長が死んだ場所が「本能寺」なのか?
> それはまさに皇統譜最大の戦になるであろうことが周囲には解っていた。
そんなもん、朝廷じゃなくても一緒じゃん。
信長は本願寺にとって既に「最大の仏敵」になってる⇒一向門徒の犯行説
もし信長がキリスト教と敵対したらイエズス会最大の敵⇒イエズス会の犯行説
信長が言いがかりつけて光秀討伐を決めたら最大の敵⇒光秀単独犯行説
朝廷だろうが宗教組織だろうが朝鮮政府だろうが、光秀だろうが秀吉だろうが
家康だろうが「信長に狙われたら最大の危機」なんだから、どの説でも
同じ論法で説明ができる。
> 司馬遼太郎が書いている。
昭和以降の創作。史料的には全くの無価値。
> 本能寺の真実は朝廷説と判明している。
シテネーヨ。
朝廷説とやらでは、朝廷という漠然とした存在が関与したとされているだけで、
具体的にどこの誰がどんなことを画策し、いつどこでどのように光秀に
指示したり匿ったりしたのか、が何一つ明らかにされていない。
判明してるというなら、犯行グループの頭立った者たちの姓名くらい挙げてみたまえ。
> すると朝廷、貴族の庇護で、逃げる場所はどこにでもあることになる。
> 例えば、普通の人々が入れぬ寺、禁地。
大名の庇護で隠れる場所だってどこにでもある(家康が天海として匿った説など)。
本願寺なり比叡山なりが首謀者なら当然寺に匿うことができるし、
イエズス会が本気で匿えば海外に逃がすこともできる。
光秀単独犯行だったとしても、懇意にしていた寺社の一つや二つはあるだろうから、
落ち延びて剃髪し俗世と縁を切って静かに余生を送った可能性だってある。
朝廷には脅威だったかもしれないが、朝廷が敵対しない限り信長から攻撃される可能性は
低かったと思うよ。
信長は割りと合理的に考えるようで、敵対しないのであれば宗教などにも寛容。(宗教の価
値は認めていたのだろう)
安土に移ってからは、信仰心を利用しようとした節はあるけど、それをもって天皇排除に動い
たとは言いがたい。
本願寺との講和に天皇を利用したりしているので、天皇の利用価値を見出していて、排除す
る意向は本能寺の時点ではなかったように思う。(将来的も存続の方向だと思うけどね)
日本の天皇って早くから立憲君主のような性格があって、「君臨すれども統治せず」のスタイ
ルになってる事が多く、信長にとっては、その状態が続く限りは排除しなかったのではなかろ
うか。(つーか、その状態を永続させようとしたのでは?)
既存の権威には懐疑的だったとは思うが、実効性の薄い無意味な慣例に自分が組み入れら
れる事をを嫌っただけのなのでは?
最初の征夷大将軍は源氏ではないので、幕府が源氏の専売特許って発想に疑問を持ってい
たとは思う。
「誰かが作ったものに慣例だといって従うのであれば、自分は作る側に廻りたい」と思っていた
んじゃないかと。(従うのは嫌だが従わせる側ならいいわけだw)
天皇を排除しないが、織田家が恒久的に天皇に次ぐ位置にあって政治を司る仕組みを
作ろうとしていたと思う。
これは既得権を壊す行為なので、天皇周辺の官職に居るものにとって脅威になるから、その
筋から信長排除の動きは出てくるだろう。
信長の合理主義から見ると、天皇の一族だけ存続すれば公家なんか要らないと思うだろう。(公
家の役割を織田一族がすればいい)
強力な武威を持った実効性を伴う公家とでも言うべきかw
天皇と武士の間に公家が居る事を嫌ったのと、平家が公家化して没落した事から、武士が武士
のままで公家的な役割も担うべきと考えたんじゃないのかな?
そのれを織田家だけの特権として慣例化して残そうとしたと
陰謀はあった!
但し隠されている!
だけど俺は知っている!
↓
百済は日本を支配していたニダ!
但し(日帝により宮内庁図書館に)隠されているニダ!
だけどウリは知っているニダ!
これを真面目に語っていのであれば、それを人は電波と云う。
903 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 10:26:39
○日本史2,000年、最大の謎、本能寺の変の真実○
○それは皇統譜最大の戦い○
戦国覇者織田信長にとって大和朝廷はいつかは戦わねばならない相手であった。なぜなら、太政大臣、関白、征夷大将軍のいずれの地位をもらうにしても、自家の勢力が衰えた途端、その地位が紙切れ一枚で奪われることは解っていたからである。
例えば、天皇家と婚姻までした平家、北条家の鎌倉幕府、足利の室町幕府。
また彼は中国の春秋戦国時代を研究していた。人材の登用、能力主義、信賞必罰の厳正さ、新兵器新戦法、拝金主義、その合理的な手法。
そのモデルは広大な中国を最初に支配した男、「秦の始皇帝」、前漢によって中国を長く支配した「漢の劉邦」であった。
○そして思想的な対抗は「キリスト教」であった。
○「岐阜」
○一九九七年に解明された、本能寺の変の首謀者○
朝廷、リーダーになったのは誠仁親王ー近衛前久の線。補佐は神官吉田兼見など。
おそらくは光秀の死体が発見されたあたりの領主。
また六月一日から二日にかけて、本能寺訪問した高位の貴族たち。彼らの役割は信長を疲れさせ、本能寺に釘付けにしておくことであった。
愛宕連歌
九十九番「色も香も酔をすすむる花の下」心前。
百番目「国々はなお、長閑なるとき」光慶。
光秀辞世漢詩一行目「逆順無二門」
○「御門」と「一元」
さあ、本物の「日本のダビンチ・コード」にたどり着くまでは僅かな距離だ。
904 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 10:43:11
朝廷説を出しまくる人がいるようだが、
逆にわからないことがあるのでお聞きしたい。
当時の朝廷の認識ってどれくらいあったの?
当時の京都は荒れててみるも無惨なものであって、朝廷もそうであり
色んな有力者から寄付を募ったと読んだのだが…
当時日本一だった信長を暗殺できるほどの力を持ってるということなら、
どうして信長だけを暗殺したの?
> 戦国覇者織田信長にとって大和朝廷はいつかは戦わねばならない相手であった。
> なぜなら、太政大臣、関白、征夷大将軍のいずれの地位をもらうにしても、
> 自家の勢力が衰えた途端、その地位が紙切れ一枚で奪われることは解っていたからである。
中国の歴史を研究してたなら、
「皇帝の地位を得たにしても、自家の勢力が衰えた途端奪われる」
ことが解るだろ。
日本では中国と違い、皇帝を廃して新王朝を立てるという例が無かった(未だにない)けど、
自分がその例を作れば誰でも真似してよいことになってしまうから。
また、自分が帝位に即くと、その即位を認めない各地の諸大名が勝手に王だの帝だのを称したり
旧天皇家の血統が帝位を主張したりして、王朝乱立の戦国時代になってしまう惧れもある。
(例えば信長が皇帝として日本を統一しても、信長の没後に家康か誰かが旧天皇家の
親王などを適当に担ぎ出して「正統なる天皇の御旗の下、偽帝信忠を討つべし」等と
檄を飛ばせば、織田王朝は二代かそこらで滅んだかも知れない)
一方、天皇家を存続させ、関白等の地位を得て全権を掌握しておけば、建前上は他の
どんな大名よりも高い地位が保証される。
官位を以って公然と他の大名を服属させることができるし、抵抗勢力は全て「逆賊」にできる。
こんな便利なアイテムを、合理主義者の信長が簡単に棄てる訳はないと思うが。
>>886-890 そうですね。死後放置されて暫く経ってから遺体が見つかったと聞きます。
負傷したまま行動し、途中で力尽きた、が妥当な所ではないでしょうか。
死に目に会った人はいないでしょう。辞世の句は後世の策でしょうね。
策>作。
908 :
甲斐犬 仕事休み:2005/11/10(木) 17:54:59
朝廷説の根本的弱点を披露しよう。
皇室のさる人が、君に耳打ちしました。「小泉純一郎を殺れ。彼は皇室の敵だ。」
君はやりますか?百人の現代日本人のうち百人近くは、やりません。乱世の人
でも多くはやりません。
でも、小泉純一郎を確実に殺すチャンスがあり、ほぼ確実にその後に
日本国総統になれるのなら、私なら迷います。百人の日本人のうち、迷う人は
少なくないでしょう。平和な時代に生まれた私は結局はやりませんが、
乱世に生まれた日本人なら、多くはヤルでしょう。
朝廷説は否定はできますが、野望説は否定できません。光秀に成功の確率が
高ければね。
909 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 11:08:05
○日本史2000年最大の謎、本能寺の変の真実○
○それは、皇統譜最大の戦い○
○だから「岐阜」ですよ。岐山の意を良く調べよ。
○「天皇家の親戚」ー「関白・太政大臣」なんてのは平清盛、平家が全てやっています。
安徳天皇、三種の神器、の独占までも。壇ノ浦でどちらが官軍だったと思っているんですか?
で、それ以上の権力維持の方法が考えられたんです。
○恐れ多いことですが、、、
仕方ないから中国の後漢献帝から魏の曹操の息子への帝位の譲り方。
周囲の魏派になった多数の貴族たちから、突き上げられたんですよ。
で、自分からこの帝位を譲ると無理矢理に言わされた。
で、魏の息子は三度拒否、と形をとった。で、献帝は大典式を自らし、娘二人をつけて「神に選ばれし徳あるものへ」と帝位を譲った、という形になった。
あくまで、自ら、自発的に、帝位を、、、と言う形で。
で、皇帝陛下が自ら選ばれた新帝様へ、あなたごときが、文句つけられます?
○この周囲の貴族への取り込みが、、、、ばれた、、、。
○「一元」、「本能寺」、
そんな常識を書き込まれても…
ここは常識を覆すスレですから。
>>909 > ○だから「岐阜」ですよ。岐山の意を良く調べよ。
岐阜の地名(城名)を付けたのは1567年頃。まだ尾張と美濃の一部しか領有していない
時代に天皇即位のための布石として名付けた、というのはこじ付けもいいところ。
周の都は文王の時代に岐山から遷都されていた。(商/殷を滅ぼした武王の都は豊ないし鎬京)
よって、「岐山の故事に倣う」なら「信長は天皇を殺す前に死ぬ予定で、天皇を殺す仕事は
息子にやらせるつもりだった」ことにもなる。
また、岐山は武王即位〜成王の時代は王弟・王叔の姫旦(周公旦)が領有していたから、
「摂政として王を補佐し、治世が安定したら大政奉還するつもりだった」とこじつけること
だって出来るかも。
> 仕方ないから中国の後漢献帝から魏の曹操の息子への帝位の譲り方。
(中略)
> で、皇帝陛下が自ら選ばれた新帝様へ、あなたごときが、文句つけられます?
魏帝が「献帝自らの意思による禅譲である」と主張したところで、認めない人は認めないよ。
実際、魏帝即位は簒奪であるとして、劉備が「漢王朝の継承者」として蜀漢皇帝を称した。
魏王朝(蜀漢も)の正当性を認めないという建前で、孫権が呉帝を称した。
簒奪しなければ、彼らは「同じ漢の皇帝に従う王」に過ぎなかったのに、漢朝を滅ぼしたこと
により皇帝即位(互いに上下関係のない独立君主)の大義名分を与えてしまったことになる。
日本でも、弘文天皇の即位を認めず天武天皇が起ったり、後醍醐天皇が「自らの退位・
光明天皇への譲位は脅迫によるものであり無効」と称して南朝を開いた例などがある。
日本では対立候補として出てきた者も全て同じ一族(神武天皇の男系子孫)に限られ
王朝交代の例は一度も無かったのだから、「織田王朝を認めない」を挙兵や新帝即位
などの大義名分として用いるのは広く世間に受け入れられるだろうね。
912 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 22:26:05
>>911 オナニーマン#909は長々とスレ汚しはするけど、質問や疑問には一切答えないので、無視してください。
こんなヤシにマジスレは無駄。
流石に同意
914 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 11:00:58
>>911 ○岐山ー常識は周の武王が殷の暴君を倒した新王朝が出た地。岐阜と名づけたときはそんな景気の良い地、くらいの意だったろうが、いざ天下統一間近と成り、朝廷と対立が起こると疑いをかけられる要因のひとつになったという訳だ。
○魏、その後の晋が正統と見られたからこそ、蜀や呉は最後は力負けしたんだよ。簒奪は後世の見方であり、当時は支持された。
○織田信長はいくつか敗北もしてるしパーフェクトマンではない。思い道理にならなければ比叡山焼き討ち、一向一揆虐殺などもある。未来への考えに間違いがあっても不思議ではない。
「仮説」
○正統な織田皇帝への敵対挙兵、新帝即位こそ信長の望んだものだったかも。その兵は十五万と号し、鉄砲、大砲など軍事力は他を引き離していた。反逆者を徹底的に叩き潰してこそ、織田王朝が正統として世間に認められると考えていた。
○織田信長は普通の人と違い、尾張半国から桶狭間での奇跡的勝利、武田信玄、上杉謙信など大国を潰してきた。どんな尊大な自信があっても不思議ではない。
915 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 11:08:58
続き。
○日本史2000年、最大の謎、本能寺の変の真実○
○それは皇統譜最大の戦い○
「おまえたちは、あの巨大なペルシャ帝国を征服するのに何年掛かると思っているのだ。
とても十年ではきかないだろう。だから俺はペルシャ王を手紙で怒らせるだけ怒らせた。
ペルシャ王は帝国の底を払って兵を集めて決戦してくるだろう。おれはそれを全滅させる。そうすれば、ペルシャの諸都市は守るに兵もなく、俺の前に降伏するだけに違いない」アレキサンダー大王。
覇者には、こんな考え方もあるのだ。そして織田信長も宣教師たちから聞いていたかもしれない。簡単な、しかし伝説的な、大国の手に入れ方を。
916 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 11:44:49
武田信玄、上杉謙信は決戦前に病死であり、信長は喜んだ。
一説には、毒殺、狙撃、ともある。
918 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 21:11:20
>>916 覇王になるには運の強さも不可欠ということでしょうね
919 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 09:18:26
みんなで常識をくつがえそうよ 信長主犯説
黒幕は武田勝頼
921 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:59:38
黒幕は天海
黒幕はサマノスケ
923 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 07:51:25
黒幕は出雲大社
924 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 10:41:10
○日本史2000年最大の謎、本能寺の変の真実。
○それは皇統譜最大の戦い○
織田信長は自分を「アンブレイカブル」何があろうと決して肉体的に死なない、運の強いものと考えていた可能性あり。
彼は桶狭間や美濃攻めでも負傷しなかった。朝倉攻め失敗時、逃げ道で鉄砲の名手に至近距離で狙撃されたが身を掠めただけ。
他にも本願寺攻めで雑賀衆に一斉狙撃されたが足を負傷しただけ。決戦前の武田信玄、上杉謙信の急死。フロイスにも自身におきた奇跡的なことについて色々と語ったという。
そんな人間は、なぜ自分だけこんなにツいていて、死なないのか考える。第二次世界大戦や、ベトナムでもそんな部隊全滅の中、ひとり生き残る運の強いのが何人かいたらしい。
で、その都合の良い答えが「聖書」における「神の子」の職業だった。
古式を愛する明智光秀には、そんな考えが不遜、許せないものに思えた。
925 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 10:44:35
続き
指揮する将軍やらがそんな人間とは、兵士たちへの士気鼓舞のためによく伝説的にいわれることだ。
たとえばフランスの英雄ナポレオンにもそんな話があった。
織田信長にあっても不思議ではない。
926 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 11:08:36
本能寺の変は信長自身の狂言から始まった・・・
>>914 > ○岐山ー常識は周の武王が殷の暴君を倒した新王朝が出た地。
常識では「文王(の命を受けた呂尚ら)が挙兵した地」だよ。
武王が後を継いだときには既に周の拠点は周原(岐山の麓)から豊邑(豊京、現在の西安付近)
に移されているし、武王が王朝樹立を宣したのは鎬京。
普通は「岐山」から連想するのは「武王の」ではなく「文王の」紂討伐の戦の原点。
岐山→文王に倣う、と考えれば「本人は存命中には簒奪しない。簒奪者は息子」となる。
(魏王であった曹操が周囲から帝位につくことを勧められたとき
「余は文王でありたい」(≒『自分は簒奪しないよ。息子がどうするかは知らんがねw』)
と言ったとか何とか)
また、武王も紂王討伐後、武庚(紂王の息子)を殷に封じて商王室を存続させている。
武王の没後、武庚は成王に叛乱を起こし処断されたが、成王は隠棲していた微子
(紂王の兄)を招聘し宋に封じて、商の社稷を守るよう命じている。
これに倣うなら、「天皇家から支配権を奪い王朝を興して君臨するが、天皇家も存続させる
つもりであった」(天皇は名目上の支配権を失うだけで一族は安堵される)と考えられる。
> 天下統一間近と成り、朝廷と対立が起こると疑いをかけられる要因のひとつになったという訳だ。
ここで「疑いをかける」のは誰?
朝廷? 光秀?
>>914自身を含む後世の人々?
928 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 10:04:19
>>924○文王は岐山で信望を集めましたが、殷王に対して「挙兵」してはおりません。
殷の暴君に対し、決意し挙兵したのは、その子の武王です。
○なんにせよ、新王朝周の原点が岐山なのは常識。なぜなら、そこで産まれた文王ー武王のラインが殷を滅ぼしているからです。
○大和朝廷にとっては「帝位簒奪が信長、その子の信忠でも大して変わりはない」でしょう。
○それらはあくまで故事。無神論者と言われ、比叡山焼討ちなどをし神仏を焼いた信長がどう考えていたかは解りません。
神官みたいにどこかに残したかも知れませんし、源氏が平家に対してやったように徹底的にやったかも。
○疑いかけるー朝廷、光秀、当時の貴族などでしょう。
929 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 10:10:01
○日本史2000年最大の謎、本能寺の変、その真実○
○それは皇統譜最大の戦い○
織田信長は「アンブレイカブル」?
宣教師ルイス・フロイスに対し、織田信長は次のように述べた。
「自分には人智を超えたなにものかがあり、自分に勝る何者もこの世には存在しえない」
そのあと、信長は自らに起きた奇跡について、いくつか述べた、という。
>>928 > ○それらはあくまで故事。無神論者と言われ、比叡山焼討ちなどをし神仏を焼いた
> 信長がどう考えていたかは解りません。
「あくまで故事に過ぎずどう考えていたか解らない」以上、「岐山=朝廷説」は単なる
妄想に過ぎない、と。
故事や迷信に拘らない信長が「周の故事に倣い、天皇家を討とう」なんて考えを
持ったかどうかも疑わしいからな。
> ○疑いかけるー朝廷、光秀、当時の貴族などでしょう。
「でしょう」って、自分で書いた文の内容だろ。誰に同意を求めてるんだよw
それとも
>>928≠
>>914 なのか?
また天海か
933 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 11:51:19
>>930 ○だから「織田信長が岐阜と名づけた時には、新王朝が出るほどの景気のよい地くらいの気持ちだったろうが、
それがいざ天下統一が間近となり、朝廷と対立が起こってくると、新王朝を興すのではと、
朝廷、光秀、貴族に疑いの目で見られる要因のひとつとなった」ということ。
○朝廷を滅ぼす、信長にその気がなくとも、周囲が疑いをかける、
そう思い込むことはあるね。
934 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 12:27:14
○日本史2000年最大の謎、本能寺の変の真実○
○それは皇統譜最大の戦い○
○世界のアンブレイカブルの残した言葉。
「余は国家である」ルイ十四世。
「私は決して間違わない。私の言葉は一つ一つが歴史である」ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラー。
「私のような人間は、たとえ百万人の生命だろうと、意に介してたまるものか」フランス皇帝ナポレオン・ボナパルト。
「この信長を信じ、信長を拝め。予の誕生日を聖日とし、総見寺に参拝せよ。されば、万人が幸福に生きられる」織田信長。
「疑いもなくアレキサンダー大王は死ねば神と祀られるであろう。したがって彼を生きているうちに崇めるほうが、
死後に崇めるなどという何の得にもならぬことをするよりはるかに勝っているのである」この哲学者の言葉を
大王は気に入り、長々と学者に議論させ、神へとしての礼儀を求めた。
935 :
日本@名無史さん:2005/11/17(木) 10:38:59
織田信長、戦国最大の英雄、戦国の革命児、梟雄、奸雄、あるいは虐殺者、ただの野心家、発明家、誇大妄想狂など、さまざまな評価のある彼は
日本史のなかでも、歴史家にとって異質な面白い存在に違いない。
それゆえ、研究のやりがいのある人物なのである。ところで、歴史家明石散人氏によれば、
信長は第二次大戦後に評価が高まったという。敗戦後、それまで最大の英雄であった豊臣秀吉、彼が他国を征服しようとしたために、
描くことが出来なくなり、内なる人を多く殺した信長の評価が浮上したのだと言う。
それまでの信長は家臣に不意をつかれた凡庸な君主にすぎなかったらしい。文献も少ない。
しかし、調べ始めると彼はなかなかの改革者、リーダーであり、そこには尾張半国からのし上がった
さまざまな戦略、戦術、経済政策、武器への工夫があったことが解ったのである。
第二次大戦の敗北が、それまでの英雄を沈め、別の人物を英雄にしたのであると散人氏は言う。
ではなぜ、織田信長の評価が低かったのかと言うと、偉大な天下人秀吉を臣下として表現するから、
ある種のタブーに引っかかったという。歴史の英雄浮上も、その時代のニーズによるのである。
936 :
日本@名無史さん:2005/11/17(木) 11:25:02
織田信長、
ではその最期である本能寺の変の繊細はどうなるのか?
これについて多くの歴史家、評論家、作家が書いてきた。
しかし、大半が最期については、それほどはっきりとは書きたがらないのである。
「かれは英雄らしく、立派な言動をとっていたが、部下明智光秀を励まそうとし、きつい言動をとったのが、誤解された」
という表現をとりたがる。光秀の怨恨説、野望説である。従来は、それだけであったが、近来いかなる理由なのか、黒幕説というのが小説などで出てきた。
じつはこれが面白いのである。家康、秀吉、足利義昭、朝廷、伊賀者、武田残党、森蘭丸、仏教勢力など数十説ある。
どこから黒幕と言う話が出てきたのか解らない。しかしながら、信長は敵が多かったし、明智光秀の人格が温厚、知性的であり、芸術を愛するところがあったから、
だたの謀叛ではないのでは?という疑いからであろう。そして、実はそこに真実の回答があったのだ。
その真実への回答をどう読むか、実は「真実はいつも怖い」というヨーロッパの言葉そのままである。
「歴史の真実」それをどうするか? いいアドバイスはないのか? 研究者たちはいつも混迷する。
なぜなら「真実」は、それだけ偉大だからだ。
しかし、それだけに影響が大きいし、いくつかの内包した日本史の問題も噴出させてしまうからだ。
本能寺の変、それはまさに日本史上最大の溶岩のかたまりかもしれない。
937 :
日本@名無史さん:2005/11/18(金) 10:41:46
「閑話休題」とりとめもない話。
それにしても織田信長という男はなぜ人気があるのであろうか?
尾張半国からいきなりのし上がり、桶狭間の奇跡の勝利から、美濃制圧、将軍候補足利義昭を奉じて、上京し、
名家浅井、朝倉、名将武田信玄、上杉謙信との対決や、比叡山焼き討ち、一向一揆への虐殺など、彼に魅力を感じる人は、
やはりやりたい放題にやった、戦国という時代を生きたい様に覇者として生きた、という生き様かもしれない。
あるいは最新鋭の武器、戦闘機の魅力にも似ているのかもしれない。それは常にナンバーワンを目指すものの魅力である。
なぜなら、戦闘機はナンバーツーになれば撃墜されてしまうからである。
また、自らを魔王とも救世主とも豪語した彼の内面の複雑さ、にもあるかもしれない。
織田信長という人は戦国に、突如開いた巨大で複雑な深淵なのかもしれない。
そして、それを研究する人々もまた取り込まれないように
気をつけなくてはならないかも知れないのだ。
なぜなら、ドイツの哲学者ニーチェが言ったように、深淵をじっと見つめるあなたもまた、
深淵に見つめられているからである。
938 :
日本@名無史さん:2005/11/18(金) 10:48:41
「閑話休題」とりとめもない話。
もし徳川家康が生きていたら、
キューバのゲリラのひとりが残した言葉を使って、戦国時代と自分の人生を表現したかもしれない。
「わたしは、怪物たちの中に生きてきた、、、、、」
939 :
日本@名無史さん:2005/11/18(金) 11:27:33
○日本史2000年最大の謎、本能寺の変の真実○
○それは皇統譜最大の戦い○
「アンブレイカブル」について。浅はかなる閑話。
事故や事件に遭っても全く負傷しないとか、周囲はばたばた死んだのになぜか自分には弾が当たらないとか、そういう人間は確かにいるそうである。第二次大戦や、ベトナム戦争などでも何人かいたと言う。
戦国のような殺し合いの時代には、まさに、そういう運? 肉体?の持ち主は目立ったかもしれない。
我々が見る限り、世の中の成功者にはまさにそういう奇妙な運の持ち主がいるようである。いるようである、というのは正確なところは解らないからである。
たとえば、若くして数百億円の財産を築くとか、数十億の年収を得るとか、そんな人々を見て、我々は「頭が良かったから」「注意力があってよく気づいたから」「住んでる世界、環境が良かったから」などという言葉を使う。
しかし、本当のところは、全くよそからは解らないのである。何が彼を突き動かして会社を興させ、その分野に進ませたのか?
自分の人生のツキは自分しか解らない。何か、我々にはよく解らない奇怪な運が彼らに働きかけ、彼らを今是非そうしなければと揺り動かし、自分ではたいした事をしたつもりもないのに非常な成功をさせた、自分でも驚いているということもあるのだ。
不幸話もある。例えば失恋して自殺した人を見て、なんで浅はかな事をと考える。しかし調べてみると、彼の周囲には他にも色々と小さな悪いことが起こっていて、失恋が引き金となり、耐えかねて自殺したということも多いのである。
織田信長はこれと全く逆だったのかもしれない。普段の細かいこともツイテいる。いつも一時的には苦境に陥るが、ここぞと言うときには必ず好転する。そんなことが度々起こる。
天下は信長の下に自ら来たと思えたのかもしれない。彼は、自らの運をこうだと悟った?、、、のかもしれない。
フロイスに自らを「神体」であると豪語した信長。これが彼の真実なのか、錯覚なのか、妄想、嘘なのか、
それは解らないものの、、、、。かくて彼の眼は大和朝廷に向いたのである。
940 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 11:12:38
「閑話休題」
明智光秀、
まるで織田信長を殺したことから謀反人の代名詞のように言われる明智光秀だか、江戸時代の評価はそう悪くない。
これは織田信長が豊臣秀吉、徳川家康と言った「天下人」の上司であったことから、凡庸に描かれていたせいだろう。
上司が凡庸であればあるほど、部下で、それを補佐した秀吉、家康の活躍が光るという訳だ。従って、頭の悪い人間を機会を捉えて殺し、天下を狙ったという下克上時代に、
当然のことをした武将、頭の良い奴という妙な評価があったようだ。
では、実際の明智光秀はどういう人間であったのか?
これは、どこで学問を積んだのか、かなり知性的な人間であったという。源氏物語などの文学、和歌や古文書にも通じ、さらに堺市などへの交渉にも使われている。
また足利義昭を奉じて入京しないかと言うアイデアを美濃統一後の織田信長に持ってきた。不思議なのは、あの比叡山焼き討ち後、その近くの坂本に城を築き、実質上、京都を見張る?
実質上は軍で支配するような重要な立場にもあったことである。知ってのとおり、彼は織田家のよそ者である。それが城を与えられたのは重臣たちの中で一番早かった。
このような重要な立場、京と近くの城を与えられたのは、何か四十前は不明とされる過去にあるのでは?といろいろと言われている。
明智光秀には、何か不思議な謎がある?、、、実はそのとおりなのだ。
彼には信長に重んじられる理由があったのである。彼の前の職業はおそらく○○である、、、、
実は、そこから、奇妙な信長の別の面が浮かび上がったのである。
「明智光秀」、、、万人の将の器と斉藤道三にいわれる。文道にすぐれる。射撃、剣術に優れる。槍、薙刀の達人でもある。「続群書類従」
941 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 11:18:21
では、明智光秀の織田家の武将として世に現れる前の「職業」は何であったのか?
じつは、そこにも「日本のダビンチ・コード」がある。
ヒントは比叡山焼き討ちであろう。
なぜ、その近くの坂本城を彼は信長に任されたのか?
じつは、織田信長は不安だったのである。
942 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 12:15:36
○日本史2000年、最大の謎、本能寺の変の真実。
「何故、あの日、西暦一五八二年、天正十年六月二日、に本能寺の変が起こったのか」?
実は、その日でなければならなかった、と思われる。
なぜなら、織田信長が本能寺に、長男の「織田信忠」が近くの妙覚寺に手勢とともに宿泊していたからである。
実は、この時点で信忠は織田家の家督を継いでおり、信長に何かあっても覇業を継続できる立場にあった。
それなりの主君としての教育も受けていたと思われる。それが逃げられなかったのである。
信忠最初、信長を助けようとしたが、事態が手遅れと考え、近くの二条城に入ったとある。
なんでそんな袋のねずみになるようなことをしたのかよく解っていない。そこは誠仁親王の座所であった。
まさに不敬の極みとなる行いであるが、その行動には何か朝廷に対する疑いのようなものを感じる。
しかし、これといった証拠のようなものもなく、彼は誠仁親王と家族を外に出すと、明智軍との戦いで死ぬのである。
あの最初の朝倉攻めで、背後を浅井の裏切りで封鎖されたとき、ただ数騎で逃げた信長の事は知っていたはず。
総大将は討たれなければ報復がきくとは信忠は知っていたはずなのだ。
一説には京都街境の盗賊よけの木戸が全部閉まっていて逃げられなかったともある。
これが事実ではなかったのか? そこで弓か何かを射掛けられたのかもしれない。
そこで京都=朝廷では?と疑った行動が二条城篭城になったのでは??
しかし織田信忠は、最期はいい人質になるかもしれない親王の家族を交渉で外に出して死ぬ。
この信忠の態度が、当時の織田家の朝廷の立場への認識を示していると思われるのだ。
転載だろうけど、もうちょっと要約したら?
無駄に長いよ。
明智の前職は坊主か
つまり、信長は二度死ぬ、と
946 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 10:25:58
○日本史2000年、最大の謎、本能寺の変の真実。
○それは皇統譜最大の戦い○
>>943転載などしていない。ここに書かれている論説は全て2ちゃんねるのこの掲示板のために私が書いたオリジナルだよ。
誰それの論だったら、「歴史家の○○○氏はこう書いているが」と書いてるだろう?
942の論を読めば解るだろう? 明らかに朝廷説との証拠がないと書けない論説だ。
これを読めば、この本能寺の変というクーデターが、明らかに織田信長個人に対してのものではなく「織田家」に対してのものだと言うことが解るはずだ。
つまり、光秀の行動は織田家という集団に対してのものであることがわかる。
京都で信長、信忠が死んだこと、さらに光秀が京都を戦場にしなかったのは、
それなりの理由あってのことなのだ。
実際、ただ主君を暗殺する、というだけなら、自分の城に呼んで、殺す、などという手もある。
戦国ではその方がかなり使われている。
足利将軍の中にもその手で殺されたのかいるし、
織田信長の弟もそれで殺されている。
947 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 10:32:16
○戦国史最大の謎、本能寺の変の真実○
○それは皇統譜最大の戦い。
○不明とされる明智光秀の前職。
それは神官、陰陽師の可能性が高い。
○安土城に秘められた巨大な謎○
あの地図上の位置に、あの山の上になぜ建てられたのか?
そこには、軍事上だけではない大きな理由があった。
信長は数ある候補地から、あえて、あの場所を選んだのだ!!
948 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 10:46:28
○中世日本史最大の謎、本能寺の変の真実○
すでに全ての真実は、一九九七年に前半に全て解明された!!
その答えは「朝廷説」、、、、
確固たる証拠品も出ている。
それゆえに、それから出た本能寺の変関係の本は、朝廷説、近衛前久関係。
これからも出る本は、朝廷説。三年たとうと、五年たとうと、十年経つても朝廷説。
あるいは十年後、二十年後、三十年後、五十年後、百年後も朝廷説なのだ。
なぜなら、あまりに的外れなことを書くと笑いものになるし、
証拠もでているので、もう無視は出来ないからだ。
そして、ここを見ている人も知っているはずだ。
「真実は偉大だ。真実に勝るものはない」ということを。
なぜなら、「それは次の時代に大きく影響するからだ」
さあ、日本全国広しと言えど、武士はいないのか?
ここに、絶対にそれは違うと言うものがあれば書くがいい、
恐れ多いことだが、あえて書かせてもらう。
「歴史を、書き直すべき真実、がもうとっくに出ているのだ」と。
歴史学問のために。
949 :
おバカさんへ:2005/11/21(月) 18:52:08
這い這い。
爺スレになっちゃったね
951 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 10:56:02
「閑話休題」
奇妙な儀式を一五八一年、天正九年七月十五日にした織田信長。
宣教師ルイス・フロイスによれば、盂蘭盆会にあたるこの日、日本の家々では、先祖の霊を供養するために、家々では迎え火が焚かれるとのことである。
しかし、織田信長は、なぜかそれを、ここ安土では、一切禁じたのである。
その夜、全てが闇になると、安土城天守閣、織田信長が神体であるとする総見寺の三重塔にはさまざまな提灯が吊るされた。
それにより天守閣と三重塔が夜の空に神秘的に浮かび上がったのである。
さらに、安土城天守閣から、キリスト教教会堂までの一キロほどの坂道の両側には、
松明を持った人々がずらりと並べられたのである。
天守閣から、信長はそのタイマツの明かりの中をゆっくりと歩き、宣教師ヴァリャーニたちの待つ教会へと行った。
この盂蘭盆会に行われた巨大な灯りの演出が何を意味するものであったのか?
それはよく解っていない。
952 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 11:12:43
「閑話休題」
○宣教師は安土城を「バベルの塔」と重ね合わせた。
不思議なことに宣教師ルイス・フロイスは、ある時期から信長を批判し始める。
ルイス・フロイスはある時期まで織田信長をキリスト教に対する保護者として信頼を置いていた。
それが、安土城や総見寺の完成あたりから、「悪魔」あるいは「神をも恐れぬもの」と言い始めるのである。
フロイスは安土城の天守閣をネブカドネザルの塔と例えたという。
ネブカドネザルは紀元前のバビロニアの王で天への挑戦としてバベルの塔を建設しようとし、失敗した人物である。
何ゆえに、フロイスが信長を批判し始めたのか?
フロイスが安土城で何を知ったのか?
織田信長は、何かフロイスの気に食わないことを言ったのだろうか?
それは歴史の謎のひとつである。
953 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 11:23:00
「閑話休題」
○織田信長は天下統一後、次のごとくすると周囲に語っていたと宣教師ルイス・フロイスは書く。
「毛利を平定し、日本六十六か国を支配したら、一大艦隊を編成し、中国を武力で征服しにゆく。日本はわが子たちに分ける」
この言葉が、本当であるかどうかは解らない。
しかし、このあとを継いだ豊臣秀吉が本気で、朝鮮、明国制圧のために海外出兵をしたのを考えると、
あながち無視するわけにもいかない。
何か、簡単に朝鮮や明国に勝てる信長の秘策のようなものを
酒の席で聞いていた可能性もあるからである。
つーか、とっとと結論言えよ。
閑話休題=無駄話はここまで
って意味なんですけど逆に使ってるでしょ?
○全て無駄話
957 :
日本史@名無しさん:2005/11/24(木) 10:40:26
本能寺の変の真実は、すでに一九九七年前半に解明されている。
その答えは「朝廷説」、
ただ、それを証明するには少し歴史の専門知識と、予備知識が必要。
そこが厄介と言えば厄介なのだね。
たとえば、この人が、こう言い、こういう行動をしていると述べても、
その人に対しての予備知識、どんなに重要な立場、関係にあるかの認識がないと、
それがどういう重要な行動かがわからない。
その伏線をどうここに書こうか、、、、
なぜなら、織田信長と明智光秀の「本能寺の変」は
全て解明されているのである。
恐れ多いことだが、あえて言わせていただく。
「真実は、ひとつしかなく、それは百年たってもひとつだからだ」
958 :
日本史@名無しさん:2005/11/24(木) 10:55:49
私は無駄とは思わないな。
なぜなら、「真実は偉大であり、真実は次の時代を創る」からだ。
そしてヨーロッパの言葉にあるごとく
「真理は時の娘である」からだ。
それは時が経てば、いやでも出てくる。
そして、いつの間にか周囲は知り、自分だけが知らないことになる。
問題なのは、その真実をきちんと知ろうとしないことだな。
「偉大な真実を、偉大として受け止めず、茶化してしまうことだ。それは歴史に対する侮辱にもなるだろう」
959 :
日本史@名無しさん:2005/11/24(木) 11:17:35
○日本史2000年最大の謎、本能寺の変の真実○
○それは皇統譜最大の戦い。
NHKの「そのとき歴史は動いた!」は、
本能寺の変を「永遠の謎」と表現した。
しかし、本能寺の変はとっくに解明されているのだ!!
その答えは「朝廷説」
もはや、永遠の謎でもなんでもないことを、
もはや、唯一無二の真実は出ていることを、
この掲示板、このスレッドを見ている人々は知っている。
○真実は必ず「時の娘」として、いつか出てくることを。
960 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 13:05:50
とっくに解明されてるよ。光秀単独・衝動的犯行。
他の諸々の説の「証拠」とされるものは全て後世の捏造。
なぜかみんな
やたら改行
してるのはなぜ
関ヶ原スレの改行厨だろ。
963 :
日本史@名無しさん:2005/11/25(金) 10:39:36
「真実を人々はどう見るか?」
幾多の説が「後世の捏造」と言うことは、ない。
なぜなら、真実は、当然ながら同時代の人々の証言の中にあるからだ。
ちとえば、明智光秀やその配下の兵たちが逃げた場所には、寺や山があるはずだ。
そこの僧侶やら、関係者たちの証言はどうだ? 捏造と言えるだろうか?
彼らは、何の関係もないとしたら?
兵や将が言っていたことを
捏造
して残すだろうか?
964 :
日本史@名無しさん:2005/11/25(金) 10:55:22
「真実を人々はどう見るか?」
たとえば、ここにあなただけが知る歴史の真実があるとする。
ところが、それは新しい権力者のために、話すことが出来ない。
しかし、どうしても後世のために、残しておく価値があるものだ。
それだけの「真実」である。
だが、自分の一生の間には話すことが出来ないだろう、と新権力者の威勢の前に思う。
あなたならどうする??
レオナルド・ダビンチは頭のいい方法を考えたという。
国王にささげられるような「国宝級の絵」に隠してしまうことだ。何かの暗号として。
それが「ダ・ビンチ・コード」であるという。
国宝の絵、重要な文化遺産。誰が傷つけることが出来よう。
だが、暗号や文書の隠し場所としてなら、、、どうだ。
最高の場所かもしれない。
それが日本にもあるとしたら、、、?
有名な京都の寺にある仏像、巻物、神社の秘宝、
じっくりと見たことがあるか?
明智光秀や将が隠れたとしたら、、、
そんな場所ではなかったのか?
嘘や偽りではない!! 日本にも本物のダ・ビンチコードがある。
真実は、本当に「一枚の絵の中にある」「ひとつの階段の中にある」、といって良いくらいだ。
965 :
日本史@名無しさん:2005/11/25(金) 11:08:51
「真実を人々はどう見るか」
戦国という地獄よりも地獄だった時代、
人々は次々と死んでいく人間の命のはかなさに何を考えたのか?
そして、何をこの時代に求めたのか?
そして、織田信長はどうだったのか?
それが「本能寺の変」の謎を解く鍵だ。
>>963 > そこの僧侶やら、関係者たちの証言はどうだ? 捏造と言えるだろうか?
どーでもいい様な仏具とか茶器とかに箔をつけるために、
「昔、○○軍の○○という武将がここに落ち延びてきた。匿ってあげたら
お礼にと置いていってくれたのがこの○○である」
みたいな逸話をでっち上げるのは普通に行なわれている。
「明智軍の落ち武者の首を取ってきますた」と届け出てちょっとした小遣い稼ぎ
をするために関係ないゴロツキや浮人などを殺したりもしたらしいし。
日本全国に(自称)平家の落人部落があったり、平泉から落ち延びた義経の
立寄った土地・所縁の品々があったりするのだから、同様に「明智家所縁の」
捏造品が山の様に出てきても不思議はない。
967 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 14:08:18
967
「真実は〜に!」「カギはあーだこーだ!」
結論はなし
う ん ざ り
969 :
日本史@名無しさん:2005/11/26(土) 10:34:07
>>966 だから、そういう偽物を見抜くために同時代の資料や証人などがあるのです。
偽物は鑑定家によれば、「ずくに分かる」のだそうです。大将の持ち物、鎧とかは部下とは出来が違うそうだ。
こういう話がある。父の富豪が買って一生大事にしていた骨董品を、
息子の代になって、何々鑑定団という番組に出した。結果、偽物だった。
偽物を一生大事にしていたのだ。
本物を見抜けないものは偽物に子供が泣く。
「階段」−ほら、もう真実に気づくものが出ている。真実は、言われなくとも出てくる。
○本物を、真実を見抜け。真実を見抜けるものが、
次の歴史を造った「真実」に気づく。
970 :
日本史@名無しさん:2005/11/26(土) 10:47:36
>>969 真実はもう出ているだろう。
本能寺の変の答えは「朝廷説」。それ以外の「真実」は歴史にない。
なぜなら、歴史の「真実」は「ひとつ」しかなく、
それ、「朝廷説」こそが唯一無二の答えだからだ。
その仮定で、今まで出ているいくつかの証拠、本能寺前後の事件を見てごらん。
いままで気づかなかった、幾多のことに気づくから、、、。
まさに歴史の真実への証明は古典的茶器の名品の鑑定に似ていると思うことがあるな。
これが数千万円のだれそれの使った歴史上の名品だよと目の前に出しているのに、
よく見えない、まさか、という感じだな。
しかし、頭のいい奴、悪知恵の働くものはもう見抜いているかも知れないな。
知らん振りして、十年後、十五年後、
自分が発見しましたと話題作、ベストセラーでも出して一儲けするつもりかもしれないな。
そういうのを見抜くのも君の鑑定眼の出来次第だね。
971 :
日本史@名無しさん:2005/11/26(土) 10:55:57
○日本史2000年最大の謎、本能寺の変の真実○
真実の証拠は国宝級の絵、文献の中に隠されている。
なぜなら、戦国の権力者、覇者が手を出せない、気づかない唯一のものであり、
立場の弱い者たちにとっては、こっそりと証拠を残しやすい物だから、、、
972 :
日本史@名無しさん:2005/11/26(土) 11:08:31
歴史の偉大な真実に気づいたものは、他のものは何も見えなくなる。
そして、他のものは皆、ばかばかしいと思えるようになる。
過去の歴史上の人々の、本当の偉大さも少し分かるようになる。
それが真実の偉大さだ。
これは、嘘偽りのない本当の話だ。
調べるんだ、、、、
化石乙
974 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 23:48:53
信長って日本人じゃないだろ。光秀も60近いおじいちゃんで、なにができるの?全部徳川の造り話です。
そうなんだよなー個人的には50半ばの中年おじさんが
何を思ったのか娘の事も家の事も何も考えずに
謀反をするとは中々思えないんだよな。
松永久秀にとりつかれてなきゃやらんよ。
まさかそこから常識を覆すのかよw
朝廷黒幕説なら、朝廷が何故”綸旨”などを発して
光秀を支援しなかったのかという疑問点があるんだけど。
光秀を教唆しただけなら黒幕とは言わないよね。
源頼朝の挙兵の黒幕は文覚上人とは言わないわな。
頼朝の黒幕は後白河院で、尊氏の黒幕は光厳院
とでも言うんだろうな
979 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 17:23:23
鎌倉幕府も室町幕府も徳川幕府も明治政府の作り話しでした。
980 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 17:57:19
ちなみに光秀(当時の55歳くらい)は、いつ死んでもおかしくない年齢。
実際に本能寺攻めを指揮したのは、斎藤利三と明智秀満。
この事実を抜きにしてはいけないと思う。
981 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 18:56:25
確か光秀ってあまり身体が丈夫ではなかったらしいよね。
最後に、生き残った家康(徳川家)が、すべての罪を光秀の仕業にでっちあげた。
いちばんつまらん推理だ
984 :
日本史@名無しさん:2005/11/28(月) 10:28:07
>>977「綸旨」これはよく言われることだが、
○正解は信長の遺体、首が発見されず、また織田本軍、家臣団の大軍が健在だったから。
まだ信長が生きているかもと言うことで、形勢見に慎重にならざるを得なかった。
あるいは密勅は出ていたかもしれない。安土に吉田兼見が使者としていって何か渡している。しかし、光秀の配慮で発表を控えたようだ。
○この前に南北朝の長い騒乱の歴史があったこと。応仁の乱のときは南北朝の帝とか宮を持ち出して対決しているので、また南朝でも持ち出されてはと慎重になった。
○変後に吉田兼見を初めとして朝廷側の日記が書き直されたり、散逸していること。なぜ、そんなことになっているのかは調停の関係する何かの文書、儀式があったとしか思えない。
○現在の事件で「殺人教唆」って、殺人実行犯より上になることがあるよ。
光秀はあの時点で天下間近の信長に楯突く必要は全くなかった。疑いをかけられたら妻や子供全てを人質に出す。信長から養子をもらうなど、いろんな手がある。
ほとんど天下の決まった信長についている以上食うには困らない。
985 :
日本史@名無しさん:2005/11/28(月) 10:39:43
984の続き○何故こんなことがいえるのかというと、もう「綸旨」以上の証拠が出ているからだ。
たとえば、光秀にとっては別にたいしたことではないが、朝廷には大変な恐怖的問題になる、なんて事物があるとしたら?
たてえば「ひとつの階段」とか、、、、
○「五十五歳」
光秀があの時点で本当に五十五歳だったかは解らない。
これは光秀辞世の漢詩が元になっているが、じつはあの漢詩は暗号であると言う説がある。
逆順無二門、
大道徹心源、
五十五年夢、
覚来帰一元。
これを縦にではなく横に読む。すると「逆と大きく五を覚えた」とも読めるわけだ。
では「五」は何を示すかというと、、、、、そこにひとつの答えが出てくるわけだ。
「一元」と関係あるような、、、、ね。
986 :
日本史@名無しさん:2005/11/28(月) 10:56:16
戦国という地獄よりも地獄だった時代、、、
多くの人の命が、塵のようにはかなく消え去っていった時代、
人々は何を考えていたのか、、、
地獄だからこそ、より強大な鬼として生きねばならぬと考えた男と、、、
地獄だからこそ、より人間らしく生きようと考えた男と、、、、
そして、天正十年六月二日、京都本能寺、、、
織田信長と明智光秀の運命の時刻が来た、、、、。
987 :
日本@名無史さん:2005/11/28(月) 10:59:06
だからその句は越後騒動での小栗美作の辞世の句の盗作でしょう。
988 :
日本史@名無しさん:2005/11/28(月) 11:10:02
○日本史2000年最大の謎、本能寺の変の真実○
○それは皇統譜最大の戦い。
羽柴秀吉の軍、奇跡の中国からの大返し、
それは決して偶然ではなかった!!
>>971 > なぜなら、戦国の権力者、覇者が手を出せない、気づかない唯一のものであり、
延暦寺丸ごと焼き捨てる信長クラスなら楽勝で手を出せますが。
> 立場の弱い者たちにとっては、こっそりと証拠を残しやすい物だから、、、
「立場の弱い者が」容易に何かを書き残せる代物ならば、後の時代に誰かが
勝手に書き込んだ捏造記録の可能性が大いにあるな。
>>984 > ほとんど天下の決まった信長についている以上食うには困らない。
現に、三方ヶ原や長島一向一揆鎮圧などで大功ある佐久間信盛が本願寺攻めが
遅々として進まないというだけで追放されたり、執務官として長年織田家を
支えてきた林通勝を二十年以上前の信行擁立を理由に追放されたりしている。
「信長についている」者は、用済みになったらいつ追放され路頭に迷うかわからない。
990 :
日本@名無史さん:2005/11/28(月) 18:46:38
おまえはひつようねといわれました。
991 :
日本@名無史さん:2005/11/28(月) 20:19:17
光秀の謀反は、朝廷からの「脳内勅命」と「精神的疲労」の合わせ技と
考えて間違いないでしょう。所謂、憂国病です。
で、秀吉が光秀を討ち破った後に、やっと朝廷の存在が見え隠れ
してくるわけですが、これは「朝廷の暗躍」と言うより「秀吉の朝廷工作」です。
俗に言う「位攻め」ですね。
これら一連の動きを、ひとまとめにして「朝廷黒幕説」と言う人もいますが、
んーー。黒幕説と言うより要因説……のような気がする、初冬の夜かな。
最近の研究では本能寺の真相は光秀による黒人開放運動らしいよ。
弥助が鍵を握ってると俺は思うね。
warota
弥助かよ!
そういや信長の大河では弥助は生きていたが
秀吉の大河では見事殺されて棚。