1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:04/03/04 01:26
3 :
日本@名無史さん:04/03/04 09:26
乙あげ
4 :
日本@名無史さん:04/03/05 20:48
新田基氏age
ちんこ
まんこ
>>5-6 こいゆうこと書く人の精神構造を教えて下さい。
私見としましては異性、もしくは自分の性器に異常なコンプレックスを
抱いていると思うのですが・・・。
9 :
日本@名無史さん:04/03/07 03:01
ちょっと来ないうちにもう3が立ったのか?と驚いて前スレ見たらまだ50近くも残っていた
折角だから新田鬼童丸age
11 :
日本@名無史さん:04/03/07 09:53
新田は何で足利にまけたの?
12 :
日本@名無史さん:04/03/07 10:22
≫11
新田貞義が女性との別れに無駄な時間を費やした為に負けた。
13 :
日本@名無史さん:04/03/07 13:38
貞が先にきてる
16 :
日本@名無史さん:04/03/07 17:08
新田義貞は偉大な豪傑。
足利尊氏は自己宣伝と演技のうまい
卑劣漢。
17 :
日本@名無史さん:04/03/07 18:07
新田は一族と家臣に恵まれなかった。
尊氏には弟の直義が(後半は敵だったけど)執事の高師直が居た。
18 :
日本@名無史さん:04/03/07 18:21
: .,' l. . ll::::. . . . . . ..:,':: .,'.,' .|.l.',.'!::.. . . . ..!:',:. . . . . :.',.. . .', ゙、
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>>1は本望だろうね
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ゝ' ,r". . . . |
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19 :
日本@名無史さん:04/03/07 18:22
>>14-15 ああ、長楽寺文書にある関東下知状の誤記のことねw
まぁ実際には高時ではなくその下の事務官僚たちのミスなんだろうけど(高時は今でいうハンコ押し=決済署名だけ。
当時は北条貞時の諱の影響か、「貞」が上に来るのが普通だったんで間違えたんだろうな。
20 :
日本@名無史さん:04/03/07 19:11
新田義貞がクソ尊氏に負けてから、どうなったの?
根絶やしにされたわけではないよね。
新田さんって全国的にも多いよね。
>>20 >クソ尊氏
引きこもりのオマエよりマシだろ?(p
22 :
日本@名無史さん:04/03/08 11:35
最近、新田涼子って人の名前をよく目にするな
芸能人だと思うのだが(興味がないのでよくわからない)
もしかして新田一族の末裔かな?
23 :
日本@名無史さん:04/03/08 23:00
24 :
日本@名無史さん:04/03/09 00:07
足利の庶流である新田では武士の信望を集めることができない。
八幡太郎義家の嫡流で、一説には鎮西八郎為朝の子孫とも言われる足利にはカリスマ性がある。
>24
足利の庶流なのか?
26 :
日本@名無史さん:04/03/09 03:04
>>22 イラク復興支援に当たっている航空自衛隊派遣部隊は、3日からイラクへの
空輸を開始した。
クウェートからイラク南部のナシリア近郊にあるタリル空港への輸送である。
第1号機には派遣部隊長の新田一佐が搭乗し、タリルで陸自派遣部隊の業務支
援隊長・佐藤一佐に荷物を引き継いだ。
新田一佐は「ほっとしました」と語っている。
27 :
日本@名無史さん:04/03/09 03:44
>>24 電波ですか?
新田氏が足利氏の庶流でないことは系図を一目見るだけでも明らかですよ。
嫡流、庶流という言葉の定義から勉強し直すことをお進めします。
28 :
日本@名無史さん:04/03/09 04:49
>>24 為朝の子孫が聞いて呆れる尊氏のへたれぶりは
前スレの>960あたりに詳しく述べられているよ(ワラ
29 :
日本@名無史さん:04/03/09 09:26
足利自体が庶流。
しかし長子相続が定着したのは鎌倉時代後半。
それまでは子供全員に相続権があったし、嫡流より庶流の方が羽振りの良い
家もあった。北条だって桓武平氏だけど庶流の庶流の庶流。
>>27 君は馬鹿ですか。
北畠親房等の公家の認識を知ってるかい?
32 :
日本@名無史さん:04/03/09 23:39
源義国から分かれた新田と足利では、足利が嫡流、新田が庶流と説いておられる。
この説は大いに傾聴に値するが、鎌倉幕府内での地位を見ても、新田は足利のはるか
下位にあった。
少なくとも、義国の地位を継いだのは、
義国が任ぜられていた鳥羽院北面の地位を継ぎ、
朝廷での昇進も新田義重とは比較にならない程早かった
足利義康であることには疑いようもない。
34 :
日本@名無史さん:04/03/10 00:27
>>30 「尊氏が末の一族なり」っていうあれか?
そして、おまえはその北畠の認識が正しいと言うのか?(pu
>>31 「源氏」の嫡庶はどっちか?って話ならまだわかる。
でも
>>24は新田を「足利」の庶流だと言っているんだよ。明らかにおかしいじゃん。
>>34 少なくとも公家の認識、
それも建武政権の破綻後に
新田義貞の味方であるはずの
北畠親房が「尊氏が末の一族なり」
と著述した意味は大きいと思わないか?
少なくとも新田は公家の認識では全く無名の
「足利の末裔」でしかなかったんだよ。
うだうだ言う前に、
新田が「足利」の庶流だというのが
「明らかにおかしい」
根拠を示せ。
それから、お前の言う
「源氏」の嫡庶はどっちか?
って何だ?
それこそ証明のしようがないものじゃないのか?
>35
新田が足利の庶流かどうかは
根拠も糞も無いだろ?
まぁ、源氏(足利)の庶流と言えなくもないが・・・
>>35 根拠って・・・おまえは系図を見たこと無いのか?www
新田厨は何で同じ話をループさせるのかね?
学習機能が無いのか?
>35
北畠親房の記述が正しいのなら
足 利 尊 氏 は 逆 賊 っ て 認 識 で O K ?
40 :
日本@名無史さん:04/03/10 03:26
>>35 北畠親房など公家の一部でそういう認識が持たれていたことと、実際に新田氏の出自が何なのかは話が別だろ。
当時の公家たちの認識について議論するのはそれなりに意味があると思うが、
そもそも
>>34が言っているのは単なるファクトの問題なんだから、
それについて根拠を示せとかいうのはかなりキチガイじみている。
>>35の脳内では新田義重は足利義康の子供ってことになってんだろうよ
『尊卑分脈』には義国の注記に
「号 足利式部大夫」
とあるんだが。
義国の本領も足利荘。
系図史料はともかく、
足利氏で足利姓を最初に使用したのが確実なのは
義康の子義清、
新田氏は義重が新田大炊介と呼ばれたことは
『吾妻鏡』によって分かる。
誰が初代であるか、という捉え方の問題なのだとは
思うが、義康が義国の嫡子である(長幼ではなく)
ことは明らかなのだから、
義重は義国流の庶流だろ?
43 :
日本@名無史さん:04/03/10 12:46
当時義国流に嫡庶なんて考えはなかったんじゃん?
44 :
日本@名無史さん:04/03/10 13:49
新田義貞は鎌倉へ攻め上る途中で、どんどん集まってくる各地の豪族が
自分の旗のもとではなく、同道している尊氏の子供のもとに集まってきている
という事実を知って、さぞ寂しい思いをしたんだろうね。
源氏ひっくるめて足利と認識してた公家が結構いた、ってだけの話のような。
>>44 何がどうだろうと兵が集まるならそれでよし、としか思ってなかったかもよ。
そういうのが気になりだすのはゆとりがある時だし。
46 :
日本@名無史さん:04/03/10 15:31
>>43 俺もそう思う。どっちが嫡流かって問題は同時代的にはそんなに意識されていなかったのでは?
そういうのが問題になってくるのは、足利が天下を取ってからの後付けの話であって。
で、更にその後、天下を取った徳川が新田末裔を名乗ったから話が余計ややこしくなったと。
47 :
日本@名無史さん:04/03/10 15:42
嫡流そのものの定義も時代によって変化しているからね。
例えば一般に源義朝の嫡男は、官位昇進の早さとか生母の身分なんかで
三男の頼朝とされているようだが
平治物語では長男の義平が重盛に一騎打を挑む際に「御身は平家の嫡子、我は源氏の嫡子」と名乗っている。
義平と新田義重は家の中における位置付けが似ているので
義重の周囲の人間には義重が義国流源氏の嫡男と思われていた可能性はかなりある。
というより、その頃の嫡男というのは実子とか長男とか、その程度の意味だったのかもね。
48 :
日本@名無史さん:04/03/10 15:51
義貞の言動を見ていると
彼は正直少しアホォですな。
しかし、裏切りや暗殺を重ねずるがしこく勝ち残った尊氏よりも、
アホォではあるが忠義な熱血漢であった
義貞のが好感がもてる。
49 :
日本@名無史さん:04/03/10 15:51
>>42 義国って本領は足利なの?
「足利別業に蟄居」とあるのを何かで見た気がするんだけど
別業ってのは本領とは言わないんじゃないかと。
教えてエロい人
50 :
日本@名無史さん:04/03/10 17:31
京が本拠という意
なんか、足利、新田の庶嫡の問題って
大覚寺統、持明院統の問題と
立場が交差してるのが面白いね。
北朝 南朝
持明院統(兄の系統)vs大覚寺統(弟の系統)
足利氏 (弟の系統)vs新田氏 (兄の系統)
52 :
日本@名無史さん:04/03/10 20:56
坂東に本拠を置いていた義朝の嫡男は義平。頼朝は京都支店長として摂津源氏の見張り役。
前スレの
>>960にマジレスするとなんで鎌倉末のCさんが拝一刀を知っているのかという
ことだ。
ついでに言えば旗本クラスって・・・・・・
鎌倉末で旗本っていうのか
ありえな〜〜い!BYプリキュアブラック
>>52 >頼朝は京都支店長として摂津源氏の見張り役。
何故そこで摂津源氏が出てくるの?
よーく考えてみるがいい
57 :
日本@名無史さん:04/03/10 21:34
平家となかがよい
そもそも頼信、頼義、義家の系統自体、経基流清和源治の嫡流なんですか?
本来嫡流は源頼光流だと思うんですが。
単に後世の人間が頼朝の宣伝に乗せられてるだけではないのですか?
59 :
日本@名無史さん:04/03/10 22:05
>58
まったくその通り。
四天王を率いる雷斬りの頼光殿
の摂津源氏こそが
源氏の本流。
60 :
日本@名無史さん:04/03/10 22:14
ところで嫡流問題であるが
義貞が鎌倉を落とした時の
鶴岡八幡の神宝問題からもわかるように
残念ながら八幡太郎義家の本流に当たるのは
足利氏であると見るのが妥当なようだ。
と思ったがそもそもあの旗は本当に
義家が奉納したものなのだろうか?
当時の源氏の旗は赤旗でなかったか?
共産主義者だったのか
62 :
日本@名無史さん:04/03/10 23:50
甲斐の武田氏も常陸の佐竹氏も源義光の子孫だけど
佐竹は武田の庶流なんて言わないでしょ?
朝廷や幕府に対して一族を代表して交渉できる立場(権力・身分)であれば
庶流とはいえない(本人も他人もそう考えなかった)のでは?
63 :
日本@名無史さん:04/03/10 23:52
傍流だ
64 :
日本@名無史さん:04/03/11 00:08
天皇が朝鮮系の人だから本流は朝鮮人にきまっているだろうね。
新羅三郎系こそ保守本流
でも武田は怪しいってどっかで読んだ気がする・・・
66 :
日本@名無史さん:04/03/11 01:14
67 :
日本@名無史さん:04/03/11 02:19
摂津源氏厨がまぎれこんでいる悪寒
68 :
日本@名無史さん:04/03/11 02:27
当時「まっ白」という旗はあったのかな?
源氏の佐竹に模様を書けといったのは150年も昔のはなしだし。
69 :
日本@名無史さん:04/03/11 12:35
幕末の頃は源氏は笹りんどうだろ?足利氏は既成事実を作りたかったんだろ?
>>69 自称新田末裔(実は詐称)の新田厨、必死だな(ワラ
72 :
日本@名無史さん:04/03/11 18:00
まあ、実際今でも事業が成功して
成り上がった分家が本家をさしおいて
本家づらすることはある。
74 :
日本@名無史さん:04/03/11 20:36
まぁ、やり方が汚いのは相変わらずだな(笑
76 :
日本@名無史さん:04/03/11 21:11
○| ̄|_ =3 プッ
78 :
日本@名無史さん:04/03/12 04:14
>>54 えっ?言わんの???
「旗本」って、そういえばいつ頃から使われ出す言葉なんだろう?教えてくだされ
79 :
日本@名無史さん:04/03/12 09:38
戦国期からだろ。室町時代は奉公衆じゃない?
80 :
日本@名無史さん:04/03/14 10:50
まあ義重、義康の頃は
源(河内)本家が健在ゆえに
足利も新田もともに傍流として仲良くやっていたのだろう。
しかし、上州の山奥にいた新田氏と違い、
北条にこびへつらい鎌倉に常駐していた
足利が結局勢力をつけてしまったのであった。
新田氏も鎌倉に出仕していた訳だが。
82 :
日本@名無史さん:04/03/14 14:30
京都で出家してひきこもり
は?そりゃ新田政義の話だろ?
「新田氏」と言う枠で見れば
新田(世良田)頼氏は鎌倉に出仕していたし、
兄の得川頼有も下野守になっていたことを考えれば
鎌倉に出仕していたと考えて良いと思う。
84 :
日本@名無史さん:04/03/14 18:26
岩松政経モナー
85 :
日本@名無史さん:04/03/14 18:30
山名モナー
86 :
日本@名無史さん:04/03/14 18:31
里見モナー
岩松はともかく、
里見や山名は「新田一族」として把握されていたのか?
「楠合戦注文」などを見ると
新田一族と山名・里見は別個として扱われているが。
88 :
日本@名無史さん:04/03/15 11:11
新田一族のうち、独自に御家人として一家を興していたのが
・新田本宗(由良)-世良田-岩松
・里見氏
・山名氏
89 :
日本@名無史さん:04/03/15 18:16
>>87>>88 独自に一家を興すというのは具体的にいうとどういう状態なのか説明キボンヌ。
例えば足利氏。
吉良とか今川、細川、一色、斯波、仁木なんかも幕府から見れば別の一族扱いになるの?
足利の場合は、
基本的に吉良・斯波・一色・今川など、
足利義氏の子孫は
「足利左馬頭入道跡」として同族として
捉えられてるんじゃないかな。
今川は吉良の庶流だね。
これに対して畠山は畠山上野入道(泰国)跡として
明らかに別個に捉えられている。
微妙なのが桃井で、
足利蔵人入道(義兼)跡と記され
「足利左馬頭入道跡」が「鎌倉中人々」なのに対して、
上野国の住人として捉えられているが、
これが足利本家とは別個なのかどうかは分からない。
同じように微妙なのが渋川で、
桃井にしろ畠山にしろ渋川にしろ、
他の御家人の跡を襲ったとしたら、
「別の家」として捉えられていたのかもね。
91 :
日本@名無史さん:04/03/15 21:55
従四位上だの兵衛佐だの馬権頭だの、義親の子孫の義信とか義政って凄くねー?
もしかして源氏の嫡流は摂津でも頼朝でもなくこいつらでは。
92 :
日本@名無史さん:04/03/16 00:10
仁木と細川は家格が低かった
93 :
日本@名無史さん:04/03/16 07:34
>>91 為義は義親の五男だし、
八幡太郎義家の家ってことに限定すると
義信はもしかして「隠れ嫡流」的にリスペクトされていたのかもな。
義信の子の延朗上人ってのも何気に身分高そうだし。
94 :
日本@名無史さん:04/03/16 12:32
義親は廃嫡だから…
95 :
日本@名無史さん:04/03/16 19:05
>>92 それってよく耳にする言い方なんだけど、
その「家格」っていうのはどういう風に決まるもんなのかな?
例えば斯波氏なんてのは南北朝初期には足利氏扱いだし
『梅松論』でも「殿」付きで呼ばれたりしていて、ある意味別格なんだけど、
そういう扱いの差ってのは具体的に何から生じるのかと。
官位?生母?役職?所領?血筋の濃さ?それとも他の何か?
その全てじゃねーの?
例えば、吉良氏は足利義氏の長男(五郎だが)で、
嫡子三郎泰氏の兄に当るし、
鎌倉に出仕して上総介になっているから、
子孫もその先例からか鎌倉時代には
鎌倉に出仕して上総介にも任じられる家柄となった。
斯波氏の場合は祖家氏は名超朝時の娘を母とし、
嫡子三郎頼氏の兄であり、ひょっとすると
本来は嫡子扱いされていたかもしれない人物。
血筋的にも最も本家に近いといえると思う。
家氏は鎌倉に出仕していただけではなく、
中務権大輔・検非違使左衛門大尉・尾張守と、
鎌倉御家人の中でも有数の官職を歴任している。
これらの要因が重なったから
鎌倉末期にも高経が鎌倉に出仕していることが分かるし、
南北朝期にも本家に継ぐ地位を保てたのだろう。
97 :
日本@名無史さん:04/03/16 20:10
父親の判断と、あとは本人の資質です
98 :
日本@名無史さん:04/03/17 21:04
母親の出自
99 :
日本@名無史さん:04/03/18 00:25
>>96 幕府に出仕できることってのが大きいように思うのですが。
出仕すれば功績を評価されて恩賞(領地・官位)など貰えるでしょうから。
例えば複数の子供のうち誰が出仕出来るかどうかってのは
幕府(北条氏)・総領のどちらが決めるんでしょうか?
あと鎌倉期の今川氏なんかは足利の支族である吉良のそのまた支族にあたるのですが
合戦で功績挙げたりしたらどこから恩賞もらうのでしょう?
幕府?足利氏?吉良氏?
幕府から恩賞貰ったら、足利・吉良とは別の独立した
御家人に出世したってことになるのでしょうか?
100 :
日本@名無史さん:04/03/18 01:05
桓武平氏が100げっと
101 :
日本@名無史さん:04/03/18 01:05
政所下文で地頭になる(所領の領有を承認される)のは御家人でなくても可能。
>>96 なるほど…。
すると斯波高経の「高」は宗家の足利高氏同様、北条高時から貰った偏諱だったのかな?
だとしたらプライド高いのも頷けるね。
103 :
日本@名無史さん:04/03/18 15:40
>>99>>101 幕府と御恩と奉公で結びついているのが「御家人」だってガッコで習った覚えがあるんだけど
それは
「幕府から恩賞(土地)を貰う、もしくは保証される=御家人」
って単純な図式ではないわけね?
だとすると、御家人とそうでない武士との区別ってどういうところにあったんでしょうか?
僧侶に地頭職を安堵している文書などもあるからね。
105 :
日本@名無史さん:04/03/18 18:18
>103
御家人は幕府ではなく将軍と主従関係を結んだ人でいわば幕府の構成員
だから執権には御家人を直接支配する権威はなく調整役みたいなもの
106 :
日本@名無史さん:04/03/18 21:43
後家人役を名指しで命令されている家が後家人
107 :
日本@名無史さん:04/03/19 01:21
>>105 でも、現実にはすっごく影薄いよね>鎌倉将軍
足利の天下になっても「先代」といえば北条氏のことだし、
南北朝の歴史物語(「太平記」も「梅松論」も)でも鎌倉幕府の親玉はあくまで北条氏って扱いで
最後の将軍(守邦親王だっけ?)の話なんてこれっぽっちも出てこない。
それでも立前上は、全部その親王将軍が軍勢を動員していることになっているわけか。
何というか、難しい時代だなぁ‥‥
108 :
日本@名無史さん:04/03/19 13:04
大義名分
109 :
日本@名無史さん:04/03/21 01:36
あげ
>>102 なるほど。やはり足利系は
北条に媚を売ったおかげで勢力をつけたのは明らかですな。
河内源氏伝統の「義」の字を使い続けた
新田一族とは大違いである。
>>110 足利:義国_義康_義兼_義氏_泰氏_頼氏_家時_貞氏_尊氏(兄高義)_義詮
新田:義国_義重_義兼_義房_政義_政氏_基氏_朝氏_義貞
…( ´,_ゝ`)プッ
112 :
日本@名無史さん:04/03/22 09:48
あげ
足利の庶流が新田だとすると、
佐竹の庶流が武田、武田の庶流が小笠原、小笠原の庶流が南部ということでOKですか?
114 :
日本@名無史さん:04/03/22 16:50
南部の庶流が津軽(笑
115 :
日本@名無史さん:04/03/22 23:24
武田と小笠原は同格
116 :
日本@名無史さん:04/03/24 15:00
酒井と徳川は同格
117 :
日本@名無史さん:04/03/24 18:23
酒井と井伊が同格
118 :
日本@名無史さん:04/03/26 18:49
納得
119 :
日本@名無史さん:04/03/26 19:16
津軽は南部より格上だよな
120 :
日本@名無史さん:04/03/26 19:46
・・・と思ってるのは津軽人だけ
南部藩関係者の子孫ならともかくなんで領民の子孫まで津軽を嫌うのですか?
別に関係ないと思うのですけど。
津軽が独立して藩財政が厳しくなって年貢が上がったとかあったんですか?
122 :
日本@名無史さん:04/03/26 21:25
>>121 漏れは八戸に数年住んでいたけど現代のアンチ津軽的思考は歴史関係なさそうだったが。
南部・津軽は口実で青森全体の三割程度を占める南部圏住民の鬱憤て感じ。
他県人の青森イメージが(りんご・米・ねぷた・三味線・吉幾三)等津軽。
ローカル放送も津軽ネタばかりでマイノリティとして無視されるには人大杉。
124 :
日本@名無史さん:04/03/27 14:17
岩手の伊達…
ここは津軽と南部を語るスレですか?
>125
新田次郎の義貞だと
津軽まで遠征していたな。
127 :
日本@名無史さん:04/03/28 14:15
土佐湊
128 :
日本@名無史さん:04/03/29 06:04
十三湊だよ
十三湊じゃけん
130 :
日本@名無史さん:04/03/29 16:14
十三(じゅうそう)
131 :
日本@名無史さん:04/03/29 19:58
三島十三はじゅうざって読むんですよ。
132 :
日本@名無史さん:04/03/29 22:25
>>130 阪神大震災のとき、「十三大橋」を「じゅうさんおおはし」と読んでいたDQN民放アナがいた。
133 :
日本@名無史さん:04/03/30 18:12
そんな穴氏んじまえ
134 :
日本@名無史さん:04/03/31 23:33
あげ
135 :
日本@名無史さん:04/04/01 10:26
井伊万千代
いいまんちょ
エロエロ
136 :
日本@名無史さん:04/04/02 14:27
あげ
137 :
日本@名無史さん:04/04/02 14:38
あげまん
138 :
日本@名無史さん:04/04/03 12:30
大館氏明は死ぬまでバリバリの南朝方だったのに、その子の義冬から足利将軍家の奉公衆になったのはなぜ?
なんでも佐々木道誉が九州に隠れていた義冬に娘をめあわせて引き立ててやったらしいけど
そんなことをわざわざやってやる必然性がどこにあったのかがわからん。
氏明と道誉の間に個人的な恩義とか友情でもあったのかな?
139 :
日本@名無史さん:04/04/03 20:05
義冬の兄弟は難聴
140 :
日本@名無史さん:04/04/05 07:55
>>138 確かに道誉にとってはあまりメリット無いような‥‥
道誉は一度新田軍に投降しているから、助命のため氏明が口をきいてくれたとか
そういう恩でもあったかとも思うけど、それにしても娘までくれてやるのは謎だわなぁ。
141 :
日本@名無史さん:04/04/05 18:07
しかも将軍の親衛隊ともいうべき奉公衆だからね。
よっぽど腕がたったとか、何か相応しい理由はあったんだろうけど。
142 :
日本@名無史さん:04/04/06 00:29
大館を利用して他の新田一族を北朝に帰順させるようなことでも画策していたとか?
もしくは、単に道誉が八方美人的にいろんな勢力に恩を売っただけなのか?
143 :
日本@名無史さん:04/04/06 09:35
売名行為
144 :
日本@名無史さん:04/04/06 09:38
駿河健康ランドの石川ともみさん、かわいい。
145 :
日本@名無史さん:04/04/06 18:59
それどこにあるの?
146 :
日本@名無史さん:04/04/06 22:38
>>142 二行目に同意。道誉の考えていることは常人の感覚では計り知れない。
147 :
日本@名無史さん:04/04/06 23:02
>>142 その二つだったら俺は一行目に同意かな。
単なる八方美人では、あそこまで政権に食い込めないと思う。
直義・師直亡き後、尊氏・義詮の二人がいちばん頼りにしていたのは道誉だし、
幕府に一番忠実だったのも案外道誉だったりする(もちろん道誉にとってもメリットがあるわけだが)
148 :
日本@名無史さん:04/04/08 11:44
age
奇人であり謀略家であるから
確実な根拠でもないと判断が難しい
150 :
日本@名無史さん:04/04/08 20:24
バサラ
151 :
日本@名無史さん:04/04/09 20:55
あげ
152 :
日本@名無史さん:04/04/10 00:16
てか京極道誉だろ。
153 :
日本@名無史さん:04/04/10 00:32
鎌倉時代 足利一門で独立御家人は足利宗家と吉良と斯波の3氏だけだったとおもー。
新田の子孫は岩松流が 徳川幕府より「新田義貞嫡流」と見做され交代寄合で幕末にいたる。
現在も子孫健在。
本当の新田本流は堀江姓を名乗り健在。
参考
『清和源氏の全家系』(全6巻 新人物往来社)
『清和源氏 新田堀江家の歴史』(高文堂出版社 絶版)
>>153 なんで?
少なくとも畠山・渋川・桃井は御家人であるのは間違いない。
鎌倉幕府法にのっとれば、足利義氏の子孫は
僧と女子を除けば、みんな御家人であるはず。
つ−か、その奥富氏の本出鱈目だから、信じるなよ。
御家人台帳でいうところの独立した“家”ではないという意味でごわす。
足利庶流家のほとんどは 宗家の家の子扱いであったとおもー。
幕府から宗家と別扱いの庶流は吉良と斯波くらいだとおもー。
ひょおとしたら渋川もそうだったかしらんがおいら知識不足。エライ人教えて。
156 :
日本@名無史さん:04/04/10 14:40
畠山 桃井は独立してる
157 :
日本@名無史さん:04/04/10 18:32
世良田 岩松
158 :
日本@名無史さん:04/04/11 00:54
畠山なんて成立の経緯から考えても独立に決まっているだろう。
また、斯波が独立なら渋川も独立のはず。
桃井はよく知らないが、桃井の祖で承久の乱で戦死した義助(義氏の弟)の遺児・義胤がわざわざ祖父である義兼の養子になっていることからして家格は高そう。
>>153 奥富氏の本は、
>>154も言っているけど、そのまま信じないほうがいいよ。
奥富氏は、かなり偏見と思い込みが激しい上に、ほとんど実証的な作業をしてないまま、妄想と主観で書いている面が強い。
>>153 1333年の「楠木合戦注文」に「大番衆」として
「足利蔵人二郎跡」が記されている。
「足利蔵人」は足利義兼を指すことから
足利蔵人二郎は桃井氏の祖、
足利義兼の二男義助ということになる。
この時の大番衆は上野国の御家人であることから
桃井氏は幕府に「上野国御家人」として
把握されていたことが分かる。
足利氏本家は「鎌倉中御家人」であり、
桃井氏は足利本家からは一応独立した立場だったようだ。
それから「御家人台帳」って何?
160 :
日本@名無史さん:04/04/11 21:30
吾妻鏡なんかに出てくる足利一族は、仁木(日記)や細川(細河)のように明らかに家臣扱いのものを除いては、基本的に足利姓で名前が記されている。
>>160 畠山は?
まさか足利一族じゃないなんて言わないよね?
渋川も、鎌倉時代に渋川姓を名乗っていた史料がある。
162 :
日本@名無史さん:04/04/11 22:09
畠山の扱いは別枠だろ
>>162 なんで別枠だといえるの?
むしろ足利一族と一緒に行動してるときの方が多いけど?
あー 奥富氏は電波でしたか。新しい発見でごわす。皆さんスマソ。
おいらの大好きな吉良氏、吉良満氏の越前守護補任も奥富先生のガセネタでしたか。
桃井はどうかしらんが畠山が足利の家の子扱いはどうかなあと思ってたんだよね。
それから 先生は妙に斯波を高くアピールしてるもんね。
ねえ しつこいようだけど吉良は独立してないの?
エライ人おせーて。
165 :
日本@名無史さん:04/04/12 02:45
>>164 吉良は鎌倉後半期に足利姓で三河守護として出てきたりもする。
>>162 無論、畠山と岩松は別ですよ。
166 :
日本@名無史さん:04/04/12 02:48
>>161 姓なのか単なる家系を示す号のようなものなのか微妙な部分もある。
南北朝期に北朝に帰順した新田一族宛に室町幕府が発給した文書なんかには、「新田大嶋○○殿」とか「新田大館○○殿」みたいな表記もあったりする。
167 :
日本@名無史さん:04/04/12 02:53
>>161 「斯波」だって家名としては鎌倉時代から存在する。
苗字として名乗るようになるのは室町以降だろうけど。
「家の子」であることと「一族」であることは違う。
例えば足利義純が畠山重忠室(娘という説もある)と婚姻して、
その子泰国が「畠山」氏を継いだ。
だから、足利本家を惣領と仰ぐ「足利一族」には違いないが、
同時に鎌倉御家人「畠山氏」の家を継いでいることになる。
畠山氏が足利一族として把握されていることを示す史料としては、
『吾妻鏡』の「おう飯」や、将軍供奉の位置などに顕著に現れる。
他の御家人の家名を継いでいるパターンが渋川氏や桃井氏。
いずれも、鎌倉中期に没落した御家人の家名を
継いでいると考えていいと思う。
一方、斯波や吉良は、祖家氏及び長氏が、出自(母方や、嫡子の兄であるという点か?)
などの理由によってだろうが、鎌倉幕府内に高い地位を得、
子孫も高い地位を得て幕府に出仕することになる。
他の足利義氏の子孫たちは、足利氏惣領の強い制約を受けながらも、
御家人身分は保持していると考えるべき。
一族内では「家の子」的な地位に甘んじていたとしても、
御家人身分を保持しているかどうかというのは別問題。
得宗被官にだって、御家人はたくさんいるでしょ?
それと同じ。
足利義清の子孫(仁木・細川・荒川)が御家人身分を得ていたかは不明。
義清は鎌倉には仕えていないし、その子孫の行動も鎌倉初期は不明だからね。
169 :
日本@名無史さん:04/04/12 18:40
>>164 吉良満氏の越前守護補任は事実。
佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』に詳しく載っている。
>>165 三河国守護は足利氏本家が鎌倉末期までがっちり固めている。
吉良氏の三河国守護はありえない。
>>167 「斯波」「吉良」という家名が鎌倉時代から存在しているとする根拠は何?
斯波郡を治めていたから斯波だ、というのは理由にならないよ。
170 :
日本@名無史さん:04/04/12 22:56
斯波氏が「斯波」を名乗るのは室町になってからだったと記憶している。
171 :
日本@名無史さん:04/04/13 01:20
>>169-170 家名ではあっても、苗字としては名乗っていないと言ってるでしょ。
北条一族でいうところの極楽寺流や常葉流みたいなもの。
これらは、特定の家系を指す名称(=家名)ではあっても、文書の宛所などの史料上では基本的に北条姓で現れるので、苗字とは言えない。
他の例では、佐々木一族の諸氏のうちの六角・京極・塩冶・朽木なども、家名としてはとっくに成立しているが、鎌倉〜室町前半期においては同様の理由で苗字とは言い難い。
足利一族に関して言えば、他家の名跡を継ぐ形で成立したとされる畠山・桃井・渋川などは、すでに鎌倉期段階で苗字として定着している。
また、仁木・細川のように家臣扱いの一族も、鎌倉期の段階で既にこの家名が苗字として使用されている。
>>168もあげた吾妻鏡の「土完」飯の記事に足利本家当主の従者として時々登場する日記姓や細河姓の人物が仁木氏・細川氏であることはほぼ疑いない。
そして、このどちらにも当てはまらない吉良や斯波は、鎌倉末〜南北朝初期に至るまで、苗字として足利を名乗っていた。
しかし、苗字として名乗っていなくても、吉良家・斯波家はそれぞれの祖である長氏・家氏の時代から、三河国吉良庄・陸奥国紫波郡を領しており、
それが家名の由来になっている以上、特定の家系を指す名称(=家名)としてはその頃から使われることがあったと考えるのが自然。
そして、のちに室町幕府によって分家一族の足利姓の使用が禁止された結果、家名が苗字として定着したと言える。
172 :
日本@名無史さん:04/04/13 02:08
>>171 >他家の名跡を継ぐ形で成立したとされる畠山・桃井・渋川
畠山はわかるけど桃井・渋川って?
173 :
日本@名無史さん:04/04/13 02:16
174 :
日本@名無史さん:04/04/13 02:58
>>166のような表記は、「大嶋」や「大館」が単なる家名から苗字へと変わる過渡期的な状況を示すように思えるかも。
他の例では、例えば佐々木文書(尼子氏の子孫に伝わった文書群)における尼子氏宛文書の宛所の表記について年代を追って見ていくと、
「佐々木○○殿」→「佐々木尼子○○殿」→「尼子○○殿」
のように変化していて、「尼子」が徐々に苗字のようになっていくのがよくわかる。
>>171 だから、「斯波」「吉良」が家名として「使われていた」
根拠を示せ、と言ってるんだよ。
171が挙げた「極楽寺」も「常盤」も『太平記』の頃に便宜上つけられた物であって、
鎌倉時代には使用されていない。
金沢貞顕は、「赤橋殿」と呼ばれていたが、
これは単に居住地を示す言葉であって、
家名で名字でもない。
それから、仁木はともかく、『吾妻鏡』に出てくる御家人細河氏を
そのまま足利流細川氏と看做すのは危険だぞ。
小川信氏も断定していないし、むしろ疑問とする声の方が大きい。
176 :
日本@名無史さん:04/04/13 09:58
金沢が赤橋?
177 :
日本@名無史さん:04/04/13 17:55
>>176 そう。
金沢北条氏は鎌倉時代には一度も金沢姓で呼ばれていない。
貞顕は鎌倉の赤橋邸に住んでいた為に「赤橋殿」と呼ばれた。
かと言って「赤橋」は姓でも家名でもない。
178 :
日本@名無史さん:04/04/13 18:11
>>175って、なんでそんなに威張った物言いするんだろう。
イヤな奴。
180 :
日本@名無史さん:04/04/13 21:42
じゃあ、赤橋はなんていうの?
181 :
日本@名無史さん:04/04/13 22:33
Red Brige
俺、両親の実家&本家の方にいる親戚に電話するとき
苗字じゃなくて住んでいる市の名前を言う。
ex.浦和市に住んでいる太郎なら、「浦和の太郎です!」みたいにね。
183 :
日本@名無史さん:04/04/14 03:26
>>173 >詳しいことは
>>168が先に書いているので省略。
まったく触れられていないけど…
桃井・渋川ともに他家の名跡を継いだという具体的な話が本当にあれば知りたい。
厳密に言えば、畠山も名跡を継いだわけではないからね。
>>182 浦和市はあんたの土地じゃないだろw?
まぁでも、親戚相手だとみんなが同じ苗字なもんだから、
住んでいる土地の名で言ったりすることは普通にあるわな〜。
185 :
日本@名無史さん:04/04/14 03:48
>>175 根拠といわれても困るけど、のちに吉良氏や斯波氏になる家系を指す特定の名称がないことから考えると、
これらの家系を足利本家と区別して示す必要性があるときは、分封地の地名を用いた可能性は高いと思われる。
もちろん、完全に断定はできないので、
>>171では、そう考えるのが自然という表現にとどめた。
ただ、特に斯波氏に関して言えば、斯波が苗字として定着する南北朝末期には、管領家の斯波氏(武衛家)は明らかに越前を中心とした北陸に拠点を置いており、
それにも関わらず、苗字として斯波を名乗ったという事実は、斯波がこの特定の家系を指す名称としてそれ以前から使われることがあった可能性を強く示唆するものと考えられる。
また、そもそも斯波が完全に南北朝末期になってはじめて出現した家名なら、武衛家と高水寺斯波氏(志和御所)の苗字がどちらも同じ斯波ということはないと考えられる。
つまり、この家系を示す家名としてそれ以前から斯波が使われることがあり、互いにその嫡流を自認しているからこそ、武衛家と志和御所はいずれも斯波を苗字としたとも思える。
186 :
185続き:04/04/14 04:18
>>175 >『吾妻鏡』に出てくる御家人細河氏を
>そのまま足利流細川氏と看做すのは危険
それ以前にそもそも足利流の源姓細川氏は、御家人扱いされていない可能性のが高いだろう。
但し、足利家の当主が行った「土完」飯(おうばん)の記事に関してだけは、そこに登場する細河姓の人物は、足利一門の細川氏と考えて問題ないはず。
基本的に「土完」飯の役は、その一族のものだけで執り行っているのが普通であり、
足利家当主が行っている「土完」飯で、その従者として登場するのは、他もすべて足利一門と思われる人物ばかり。
(唯一例外的に、足利義氏の行った「土完」飯には、彼の娘婿の新田政義が登場していることが若干ある)
>金沢貞顕は、「赤橋殿」と呼ばれていたが、
それも知っている。
赤橋も金沢も、もとは単なる個人の通称であるし、家系を指して○○流という言い方は錯綜していて揺れがあるのも事実。
例えば、常葉流なんかは、政村流を指す場合と、極楽寺の支流で仲時(最後の六波羅探題北方)に繋がる系統を指す場合があるし。
また、北条義時も江間義時と書かれる場合があり、揺れがある。(まあ義時段階では北条自体が苗字として確定していないのだが)
・・・そういう意味では、
>>171で鎌倉北条氏を例に出したのはちょっとまずかったかナ。スマソ
>>178 まあ、でもそのくらいは、高圧的な態度に出ないと、この業界で生き残れないのも事実だから。
万が一、仮にトンデモ説であったとしても、それをごり押しできるくらいの図太さがないと・・・。
俺のレスだって見る人が見ればかなり失礼に見えるかも知れないし。(自分じゃわからんけど)
仁木はともかく、『吾妻鏡』では細河氏の登場は
建長二年三月一日条の「閑院殿造営雜掌目録」だけで、
「おう飯」の記事には出てこないぞ。
188 :
日本@名無史さん:04/04/14 17:21
で、赤橋は何ていえばよいのかわかったかなぁ?
どかんばん
190 :
日本@名無史さん:04/04/16 14:11
ハァ?
191 :
日本@名無史さん:04/04/17 10:13
ひぃ?
192 :
日本@名無史さん:04/04/17 20:42
太田市・新田町・尾島町等が合併してできる新市名が太田市に決まったようです…。
ハァ…。折角新田市にするチャンスだったのに。地元民はセンスねえなあ。
193 :
日本@名無史さん:04/04/18 01:42
>192
同意
194 :
日本@名無史さん:04/04/18 14:24
禿
だから新田は駄目なんだ
駄目なヤツはなにやっても駄目
>>192 同意。でも俺は新田市と思いこむからどうでもいいや。手紙も新田市で出してやる。
どうせ着くだろ。
197 :
日本@名無史さん:04/04/18 18:45
郵便番号が正しければな
198 :
日本@名無史さん:04/04/19 04:04
合併後馬鹿な名前になるのって多くねーか?
199 :
日本@名無史さん:04/04/19 13:01
まだ太田でマシなんじゃない?
既存の地名を使えばいいのに、サヨクっぽい平仮名造語でわけわかめ
な市名が多いよな。
>>200 >サヨクっぽい平仮名造語
意味不明。何で平仮名造語だと左翼っぽいんだ?
漢字だとウヨクっぽいってことでは
>>201 サヨクが好んで使う手口。
一億総白痴化。
204 :
日本@名無史さん:04/04/19 23:04
仕方がないだろ、全共闘世代なんだから。
205 :
日本@名無史さん:04/04/20 00:53
なかなか面白い話が出てたのに・・・。
>>177 >金沢北条氏は鎌倉時代には一度も金沢姓で呼ばれていない。
>貞顕は鎌倉の赤橋邸に住んでいた為に「赤橋殿」と呼ばれた。
>かと言って「赤橋」は姓でも家名でもない。 貞顕は、「赤橋殿」
太平記では北条一門は北条高家とじゃなくて名越高家みたいな名前で出てきますよね。
ということは室町の初期にそういう呼び方が始まったのですか?
なんでそういうふうに呼び出したんでしょう?
しかも177さんの話では生きてた頃は呼ばれもしなかった家名で。
ひょっとして金沢流初代の実泰が「金沢殿」って呼ばれてたら、その子孫は太平記では金沢○○なの?
でも金沢の分家は別の姓で出てた気がするな。
太平記の作者はどういう基準で名前を呼んでるのかなー。
気分で書きました
正直すまんかった
これからは「あかはし」「かなざわ」殿でどうよ?
208 :
日本@名無史さん:04/04/20 02:02
それを言い出したら室町時代の将軍家は「足利」氏ではなく「室町」氏
次郎
210 :
日本@名無史さん:04/04/20 05:26
>>205 太平記といえば、名越が楠軍に旗や幔幕を奪われて嘲笑されるシーンがあったけど
それによると家紋は北条の三つ鱗じゃなくて「三本唐傘」ってことになっている。
これが本当なら、すでに別の一家ってことになるんじゃ?と思うんだが、
俺には難しいことはようわからんw
詳しい人誰か説明キボン。
211 :
日本@名無史さん:04/04/20 05:44
伊勢丹メンズ館4階の浦野靖代さん、かわいい
212 :
日本@名無史さん:04/04/20 20:45
「かねさわ」だYO
>>212 金沢文庫(かなざわぶんこ)だから「かなざわ」じゃないの?
214 :
日本@名無史さん:04/04/21 09:26
≫213
「かねさわ」!永井晋著「金沢貞顕」参照。
215 :
日本@名無史さん:04/04/22 00:19
金沢文子か・・・・
かねざわうんこ
217 :
日本@名無史さん:04/04/23 01:37
絶対新田市の方がいいと思うけどなあ。まだ間に合うぞ、考え直せ。
218 :
日本@名無史さん:04/04/23 02:07
>>169 >三河国守護は足利氏本家が鎌倉末期までがっちり固めている。
>吉良氏の三河国守護はありえない。
元弘元年に後醍醐天皇側と戦うために上京した鎌倉幕府軍のなかに、三河の御家人を率いている大将として「足利宮内大輔」という人名が出てくる。
この場合、当該国の御家人を率いることができるのは、通例では当該国に軍事指揮権を持つ守護である。
ところが、「宮内大輔」という官名は、貞氏・尊氏のいずれとも異なる。
その結果、この「足利宮内大輔」即ち三河守護を足利惣領家の人物ではなく、吉良貞義に比定すべきという議論もある。
219 :
日本@名無史さん:04/04/23 04:41
東群馬市とかミもフタもない名前になるよりは良かったんじゃないの
220 :
日本@名無史さん:04/04/23 09:06
足利市があるんだから対抗して新田市の方が他県の人には分かりやすいよ。
221 :
日本@名無史さん:04/04/23 10:17
>>218 >「足利宮内大輔」という人名が出てくる。
どこに出てくるの?
>>218 >「足利宮内大輔」即ち三河守護を足利惣領家の人物ではなく、吉良貞義に比定すべきという議論もある。
『光明寺残篇』に出てくる足利宮内大輔のことだよね?
確か足利宮内大輔=吉良貞家
(貞義は上総介になっているし、この頃は既に出家している)
という説は吉井功兒の説だったっけ?
だけど、吉良の庶流の貞家が
守護になっているとは考えにくいし、
何より建武政権期に宮内大輔の貞家が、
鎌倉幕府崩壊を経ても官職が変わらず
にいるというのは不自然じゃないかな?
この「足利宮内大輔」は従来の佐藤進一氏の見解どおり、
「足利治部大輔」の誤りで、
足利氏当主の前治部大輔高氏であると考えるべきだと思う。
223 :
日本@名無史さん:04/04/24 10:26
>>222 鎌倉末期には足利本家当主の格式が「大輔」だったから、
分家の吉良の当主が同じ格式を持っているのは不自然だよね。
224 :
日本@名無史さん:04/04/24 15:59
少輔
225 :
日本@名無史さん:04/04/24 18:25
>>223 室町期の細川家だと、本家の当主が右京大夫だけど、分家一族に兵部大輔とか刑部大輔とかいたりするよ。
226 :
日本@名無史さん:04/04/24 21:21
細川元総理と細川隆一郎の関係は?
親子
おホモだち
229 :
日本@名無史さん:04/04/24 22:48
>>226 隆一郎は、忠興の長男で廃嫡になった忠隆の子孫。
230 :
日本@名無史さん:04/04/25 01:40
細川幽斎は兵部大輔?兵部少輔?
231 :
日本@名無史さん:04/04/25 02:12
>>230 細川藤孝(幽斎)
生没年:1534-1610
父:大和守 三淵晴員、母:船橋宣賢女
父:足利義晴?
義父:和泉半国守護 細川元常
万吉、与一郎
1552 従五位下
1552 兵部大輔
1554- 和泉半国守護
1573 改姓長岡
1580 従四位下
1580 侍従
1582-1610 幽斎
1582- 丹後田辺城主
1585 二位法印
1902 贈正二位
正室:光寿院 麝香(父:上野介 沼田光兼)
1563-1645 忠興
1564-1619 興元(常陸谷田部藩へ)
刑部少輔 幸隆
中務少輔 孝之
娘(吉田兼治室)
娘(木下延俊室)
娘(伊賀守 長岡好重室)
娘(長岡孝以および小笠原長良室)
232 :
日本@名無史さん:04/04/25 10:11
>232
労働学習生殖睡眠
234 :
日本@名無史さん:04/04/25 18:18
>>232 熊本藩に代々部屋済みで養われていたようなものでは?
235 :
日本@名無史さん:04/04/27 00:21
でも、治年の代で細川宗家が断絶したときにも、後継者候補にならなかったんだね。
236 :
日本@名無史さん:04/04/28 08:55
先祖が廃嫡されたら普通ならないだろ
237 :
日本@名無史さん:04/04/28 23:28
安室奈美恵のAlarmは抜けるよ。
239 :
日本@名無史さん:04/04/29 01:06
>>236 加賀藩における前田利政の子孫みたいなものか。
240 :
日本@名無史さん:04/04/29 01:47
ゆゑあればこそ
ここにかきおくなれ
しするにあたり
われよりのちのこにたくす
われにかはりててんかをとり
ゑんそのゐたくをなしとげよ
われせいうんをおもふやたねん
しかれどもわれにとくなく
ゆめむなしくやぶれ
わづかにかめいをまもらむがため
いちめいをなげうつのみ
われよりのちのこにたくす
わがいをつげよかし
われにかはりててんかをとれ
241 :
日本@名無史さん:04/05/03 17:22
細川藤孝って船橋宣賢の外孫なんだ。
242 :
日本@名無史さん:04/05/04 20:34
船橋宣賢?・・・って誰?
243 :
日本@名無史さん:04/05/04 21:17
>>242 清原氏系の公家。
清家流といわれる学者の家系。
244 :
日本@名無史さん:04/05/06 15:49
細川藤木孝
245 :
日本@名無史さん:04/05/07 23:18
あげ
246 :
日本@名無史さん:04/05/08 19:55
のちの天下人徳川家康は
新田系源氏を名乗りました
247 :
日本@名無史さん:04/05/08 20:10
足利が源氏で信長が平氏、光秀が源氏で秀吉が源平藤橘以外、で家康が源氏だと
光秀の源氏の次としては変じゃありませんか?やっぱり源氏と平氏は交互に
登場しないとね。
>>247 秀吉は平朝臣を称していたこともあるから、源平の交代でいいんじゃないの?
249 :
日本@名無史さん:04/05/09 00:03
光秀の天下はわずか11日だけだからなぁ・・・。
251 :
日本@名無史さん:04/05/09 09:26
あげ
252 :
日本@名無史さん:04/05/10 00:41
age
253 :
日本@名無史さん:04/05/10 21:44
≫247
百姓の出の秀吉が、どーやって平朝臣を称したの?
≫249
光秀は11だけだったけど、一応朝廷から認められた天下人でしたよね。
254 :
日本@名無史さん:04/05/10 22:28
秀吉は足利義昭の猶子になり損ねて平氏を称した
255 :
日本@名無史さん:04/05/12 19:09
あげ
256 :
日本@名無史さん:04/05/13 22:36
何故、源平藤橘しか征夷大将軍になれないの?坂上田村麻呂は?
制度上は定まっていないはずで、単なる先例主義。実は平、橘は実例がない。
大伴、坂上、文室(大なしの征夷将軍)、藤原(平将門の乱の時に征東大将軍)
あとは源義仲以降全部清和源氏ということになっている。
徳川が清和源氏だって?プププ、ですけどね。
源氏は先例が多いから良いとして、なぜ平氏がなれると思ったのか納得いきません。
だれか説明お願いします。
確か、室町幕府を滅ぼした後の織田信長が朝廷から征夷大将軍に
なってくれと請われて断った話があったような。
織田氏は平氏系統でしたっけ?
260 :
日本@名無史さん:04/05/14 09:21
村井貞勝に命じて密かに朝廷から推任するように根回ししたうえに、これを断った。ジサクジエンカコワルイ
261 :
日本@名無史さん:04/05/14 09:27
織田家は平資盛の末裔を称しています。
実は越前の方の小さな神社の神官の子孫という説もありますが。
>>257 >あとは源義仲以降全部清和源氏ということになっている。
ヲイヲイ、摂家将軍や宮将軍を忘れるな。
263 :
日本@名無史さん:04/05/15 16:24
>>261 てか、平資盛の遺児の親実が越前織田神社の神官の養子になったものが織田の祖先ってのが、信長公記なんかの公式見解でしょ。
その後、室町時代に越前守護となった斯波氏の被官となり、守護代として尾張に赴任。
まあ、織田家の祖先が織田神社の神官をしていたのは、ほぼ間違いないらしい。
平資盛の血筋かどうかは別にして。
その織田家と信長の織田家が本当に血縁かどうかもやや怪しい所はあります。
265 :
日本@名無史さん:04/05/15 18:47
織田氏は美男美女系だし、平氏の末裔って言われると納得してしまいそう。
家康の息子達や一族のの仲の悪さを考えると、源氏って言われて納得してしまいそう。
>265
織田家だって一族内で主導権を巡って争っていたんだが。
信長なんか弟殺してるし。
>>266 そうそう。同族相食むのは源平藤家も一緒。
織田信長は尾張守護斯波家の陪臣の身でありながら織田氏宗家と
抗争して最後には尾張一国の大名へ成り上がったしね。
268 :
日本@名無史さん:04/05/15 22:47
平氏を称した信長が将軍になれるわけがないw
織田家は本来は藤原氏を称していたらしいが、実は忌部氏だとも言われています。
ただしそれは守護代の織田家で、その奉行であった信長系の織田家が
本当に守護代家と血縁があったかどうかには?マークぐらいはつくと思います。
尾張の土豪が一族待遇を受けて姓を与えれた可能性も有ります。
実際系図についての定説はありません。
その点、先祖は流浪の乞食坊主か遍歴の職人だったにせよ、
定住してからの系図がしっかりしている(本当は家康系は宗家でないようですが)
松平の方が名家と言わざるを得ないでしょう。
家康嫌いの自分には認めたくないことですけど。
270 :
日本@名無史さん:04/05/16 00:38
家康公は清和源氏の嫡流で、信長秀吉の存命中から未来の将軍候補と言われていた
271 :
日本@名無史さん:04/05/16 03:03
>>269 信長公記の見解では、平資盛の遺児・親実が養子に入る前の織田神社神主家が藤原姓なので、織田信長は元々藤原姓を称していたが、のちに源平交代思想によって、実際の血縁上の姓である平姓に戻したということらしい。
これがどこまで事実かは全くわかりませんが。
ただ、信長公記の作者が信長の祖父・信定について、明らかに胡散臭いにも関わらず、これを織田敏定(応仁の乱の頃の斯波義敏の被官で尾張守護代)の子としていることが、信長系の織田氏についての様々な憶測が生まれる原因と言えます。
これは、信長の家系を少しでも織田本家に近づけるための創作なのか、それとも信定以前は本当に何も判らないので適当に名前が似ている敏定にくっつけたものなのかも、判断に迷うところです。
あと、一説には、文明年間頃の史料に出てくる織田良信という人物を信定の父に比定しようという説(根拠は信長系の通字「信」)もあります。
しかし、この良信は明らかに斯波義良(尾張守護。義敏の子)の偏諱を受けており、守護代家の奉行人クラスが守護から偏諱を受けることがあり得るのか、という疑問は消えません。
>>270 秀吉が、古河公方末裔(喜連川氏)を取り立てた理由は、家康への牽制のためという説もあるとか。
家康の胡散臭い源姓に対して、喜連川氏は鎌倉公方家直系の明らかな源姓。
秀吉からの喜連川氏宛の書状には、全て宛先に「鎌倉○○殿」と書かれていたりする。
272 :
日本@名無史さん:04/05/16 03:31
>>271 >守護代家の奉行人クラスが守
>護から偏諱を受けることがあり得るのか
織田良頼もそうだから別にいいんじゃないの?
273 :
日本@名無史さん:04/05/16 21:05
織田良信の読みは「おだ・ながのぶ」?
274 :
日本@名無史さん:04/05/17 01:42
斯波義良の読みは「しば・よしよし」?
275 :
日本@名無史さん:04/05/17 01:54
松平康安の読みは「やす・やす」?
276 :
日本@名無史さん:04/05/17 06:23
豊臣秀吉の読みは「とよとみ・しゅうきち」?
277 :
日本@名無史さん:04/05/17 09:40
シデキツです
278 :
日本@名無史さん:04/05/18 12:39
あげ
279 :
日本@名無史さん:04/05/20 14:32
あげ
280 :
日本@名無史さん:04/05/21 09:17
あげ
281 :
日本@名無史さん:04/05/21 14:30
両方同じ本から写しただけかもよ
283 :
日本@名無史さん:04/05/21 20:40
>>271 喜連川かぁー。もしその説が本当だとしたら、江戸期以降の高家入りは解せない気が。
実際高家には、吉良、畠山、武田、今川、その他明らかな源姓の家が目白押し。
284 :
日本@名無史さん:04/05/22 00:21
285 :
日本@名無史さん:04/05/22 00:26
>>283 いや、
>>271は秀吉がどう考えていたかということに対する推測であって、家康以降の江戸幕府がどう考えていたかということではないですよ。
秀吉の時代には、すでに100年以上鎌倉に住んだことのない古河公方家の末裔に対して、書状の宛所に必ず「鎌倉○○殿」と入れるのには、何か意図が感じられるってこと。
286 :
日本@名無史さん:04/05/22 00:35
>>285 古河公方は「鎌倉殿」と意識されていたと言うこと。
287 :
日本@名無史さん:04/05/22 00:50
>>286 秀吉の統一後の話ですよ。
この時期の秀吉が相手の苗字・居所のいづれでもない地名を宛所に冠しているのは喜連川以外にはないそうです。
古河公方の子孫を敢えて「鎌倉殿」として意識させるにしても、関東の大部分を支配下におく家康への牽制措置としての意図が読めるということらしいです。
ちなみに、これは私の先輩のドクターの人の説の受け売りなのでこれ以上詳しくは知りませんが。
288 :
日本@名無史さん:04/05/22 01:57
秀吉が持ち上げた喜連川を家臣筋じゃないと利用したのが家康。
信長と組んで将軍家と敵対してるから実に都合良い。
289 :
日本@名無史さん:04/05/22 02:03
公方って朝廷でしょ。
北条に対する牽制と、征伐後の残党への牽制みたいなのもあるんじゃないかな?
291 :
日本@名無史さん:04/05/22 08:29
>>290 それもあると思う。何しろ喜連川国朝は北条が滅ぼした小弓御所の系統だし。
292 :
日本@名無史さん:04/05/23 02:47
>>271 >秀吉からの喜連川氏宛の書状には、全て宛先に「鎌倉○○殿」と書かれていたりする。
そんな書状はありません。
293 :
日本@名無史さん:04/05/23 03:46
294 :
日本@名無史さん:04/05/23 04:35
295 :
日本@名無史さん:04/05/23 05:26
296 :
日本@名無史さん:04/05/23 19:24
時に、ここに玄人はいるんですか?
298 :
日本@名無史さん:04/05/23 23:45
俺以外はすっこんろ!
おまえがすっこんでろ!
301 :
日本@名無史さん:04/05/25 04:06
楠公精神が大切です。
302 :
日本@名無史さん:04/05/26 23:34
脇屋義助って子孫いますか?
義治っていう息子がいたと思う・・・・
俺の先祖が脇屋義助だか義治を奉じてたとか爺さんから聞いた覚えがある・・・・
304 :
日本@名無史さん:04/05/27 22:05
出羽に落ち延びてその後消息不明なんだよね
305 :
日本@名無史さん:04/05/27 22:06
出羽に落ち延びてその後消息不明なんだよね
306 :
日本@名無史さん:04/05/27 22:35
義治の子供は義睦だっけ
307 :
日本@名無史さん:04/05/27 22:37
義治の子供は義睦だっけ
>脇屋義治の子は、系図などだと、
義則・義隆・義久
の3人が知られるね。
どれも胡散臭いことこの上ないけど…。
309 :
日本@名無史さん:04/05/27 23:53
義治は出羽に逃走してから消息不明なんだよね。
310 :
日本@名無史さん:04/05/27 23:54
311 :
日本@名無史さん:04/05/28 07:52
>>310 おはようございます
地村 保でございます。
>>310 瓜生さんじゃないです
愛知県のあたりの宮方だったそうですが、知多半島付近で戦いがあったときに没落したみたいです
314 :
日本@名無史さん:04/05/30 02:46
義助って尾張にいたの?
315 :
日本@名無史さん:04/05/31 00:23
我らは源氏。北条は平氏。ゆめゆめ平氏の犬に成り下がるでないぞ!
316 :
日本@名無史さん:04/05/31 14:35
江戸時代に旗本になった大島家って、確か新田の分家だよね?
我々は1が何故このようなスレッドを立てたのかという疑問を解決するため、
1の故郷である群馬県に向かった。「まだ日本にこんなところがあったのか…」
思わず口に出てしまった言葉を同行した上司に失礼だと咎められた。
小人が住むような小さな家、ツギハギだらけの服を着る農夫たち、そして
彼らは余所者で身なりのいい我々を監視する様に見詰めている。
高度成長だの、神武景気だの、オリンピックだので浮かれていた我々は改めて
農村の現状を噛み締めていた。ボロ屑のような家に居たのは老いた母親一人
我々を見るなり全てを悟ったのか、涙ながらに「息子が申し訳ありません」と
我々に何度も土下座して詫びた。我々はこの時初めて1を許そうと思った。
誰が悪い訳ではない、農村の貧しさが全て悪かったのだ。我々は1の母親から
貰った干し柿を手に、打ちひしがれながら東京へと帰路についた
>>317 古い
こんなもんコピペして喜んでるのはオマエだけ
319 :
日本@名無史さん:04/06/02 22:57
大嶋は里見一族で大井田の同族
320 :
日本@名無史さん:04/06/03 12:22
321 :
日本@名無史さん:04/06/03 19:23
大嶋は義政という人物が尊氏の九州落ちに従っているね。
山名や岩松同様、新田一族とはいえ早々と足利側に立っていたようだ。
322 :
日本@名無史さん:04/06/03 22:13
新田氏流では他に鎌倉攻めで活躍した綿打氏義ってのもいたな。
323 :
日本@名無史さん:04/06/04 13:33
大嶋氏は、南北朝時代の一時期には三河守護になっている。
足利氏と縁の深い三河の守護になるあたり、結構足利方から信頼が厚かったのではないだろうか。
324 :
日本@名無史さん:04/06/04 18:05
九州に落ち延びた時についてったからね
325 :
日本@名無史さん:04/06/04 21:40
大嶋義政って新田義貞といっしょに鎌倉攻めに参加してるよね?
幼名わすれたけど義詮に従って鎌倉攻めに参加したのだと思う
327 :
日本@名無史さん:04/06/04 22:27
千寿王
そうそう
センズリ王
329 :
日本@名無史さん:04/06/05 02:37
>>326 そりゃ大嶋ではなく世良田満義じゃないか?
一部で第二の挙兵を企図していたとか言われている人物。
330 :
日本@名無史さん:04/06/06 09:38
岩松経家
331 :
日本@名無史さん:04/06/06 09:44
ところで、岩松満純が実は新田義宗の子っていう説があるけど、信憑性はいかほど?
333 :
日本@名無史さん:04/06/06 14:34
本人がいってるから、それでいいんじゃないの?
334 :
日本@名無史さん:04/06/06 18:52
本人が言ってるの?子孫じゃなくて?
335 :
日本@名無史さん:04/06/06 19:28
いいんじゃないの?別に今更否定したとこで歴史は変わらないよ。
336 :
日本@名無史さん:04/06/06 21:20
そういう問題じゃないだろ。
それで研究論文を書く人がいるかも知れないし。(難しいと思うが)
337 :
日本@名無史さん:04/06/06 22:33
>>336 現存する新田(旧)男爵家がたとえ自称でも、
自らの祖先を新田義宗の子供にしているのを、
研究論文で否定するのはどうかと思うが…。
岩松氏はそれを根拠の一に新田氏や新田岩松氏と称しているのだし。
島津氏が源 頼朝の後胤だとか、
徳川氏が世良田氏だとかと言ってるのとは
次元が違うのだし。
敢えてわざわざ新田義貞後胤を名乗る必要性は感じられないなぁ。
338 :
日本@名無史さん:04/06/07 09:33
↑いや、それでいいんだよ
339 :
日本@名無史さん:04/06/11 02:15
>>329 >第二の挙兵を企図
実際には世良田の地から兵糧や軍用金を前線に送る役割を担っていたんじゃないかと久保田順一氏が書いていた。
340 :
日本@名無史さん:04/06/11 14:34
結構な話ですな
341 :
日本@名無史さん:04/06/11 19:48
>>339 でも、あれは根拠が弱いよな。
足利系が二派に分かれることは考えられない、
と言ったって、岩松も桃井も共に新田に近く、
共に上野国御家人だしね。
少なくとも史料的な裏づけの取れる話じゃない。
342 :
日本@名無史さん:04/06/11 21:23
↑観応擾乱は?
343 :
日本@名無史さん:04/06/11 23:03
大館が足利に寝返って側近になったきっかけは何?
宮方では食っていけないから
345 :
日本@名無史さん:04/06/12 05:47
>>343 寝返ったというのとはちょっと違う。
前レスにもあったが、きっかけは佐々木道誉の推挙らしい。
大館氏明の子義冬が道誉の娘婿。
どういう経緯でそうなったのかは俺も興味あるけど知らん。
詳しい人説明キボン。
346 :
日本@名無史さん:04/06/12 10:42
その道誉の娘との縁組みは、寝返りより前なの?
347 :
日本@名無史さん:04/06/12 20:21
推測だが倒幕以前の大館と佐々木は格式が違いすぎるので、倒幕以降〜中先代の乱以前の時期が妥当だろう。
348 :
日本@名無史さん:04/06/13 18:40
鎌倉末期の身分。
新田大館氏・・・惣領家ですら無位無官の新田氏の庶家の一つ。
佐々木京極氏・・・佐々木一族のなかでは、惣領家の六角氏に次ぐ家柄を誇り、代々得宗家から偏諱を受ける超名門。初代氏信は評定衆にもなった。
別世界の人間ですな。
350 :
日本@名無史さん:04/06/13 22:44
家格云々より大館義冬も大変だったろうな
「あたしのパパは佐々木道誉なのよ!」とかあったんだろーな
351 :
日本@名無史さん:04/06/14 00:38
>>348 新田宗家って北条一門から妻を娶った人がいませんでしたっけ?
勢力はないけど名門として見られていたということはないかな。
江戸時代の高家とか公家みたいな感じで。
道誉の娘にしても、庶子だとすると釣り合いとしては
悪くないのかも。
ま、普通に考えれば倒幕以降に接点が出来たと考えたほうが自然ですね。
352 :
日本@名無史さん:04/06/14 02:44
新田は、足利一族との婚姻関係なら、鎌倉時代に実例があるけどね。
足利義氏の娘が新田政義の妻になったり。
あと、山名なんかも鎌倉時代から足利一門出身の女性を妻に迎えている例が多い。
しかし、佐々木一族とは、まず接点はないですね。
なお、佐々木京極氏は、北条一門出身の女性を妻に迎えている例があります。
353 :
日本@名無史さん:04/06/14 07:43
>>351 新田政氏の妻が平(北条?)秀時の娘。
六男ながらこの秀時の孫にあたる基氏が新田宗家を継いだことから、
実家の力は新田家においては大きかったらしい。
もっとも尊卑分脉には「秀時」という名はなく、仮に北条一門だとしてもかなり傍流ではないかとされている。
354 :
日本@名無史さん:04/06/14 19:09
道誉の娘との婚姻の件は大館持房という義冬の子孫が書き残しているのがソースらしい。
父氏明が戦死した後九州にひそんでいた義冬を道誉が見い出した、という話になっていて、
時系列は曖昧だが、どうも書き方の順序からすると娘を娶ったのはその後っぽく読める。
しかし、それ以前に婿になっていたからこそ救いの手をさしのべた、と見る方が妥当な気もする。
355 :
日本@名無史さん:04/06/14 21:06
若すぎるんじゃないの?
356 :
日本@名無史さん:04/06/14 23:42
>>351 >勢力はないけど名門として見られていたということはないかな。
>江戸時代の高家とか公家みたいな感じで。
だったら、新田義貞が元弘3年まで無位無官だったのは何故でしょう?
357 :
日本@名無史さん:04/06/15 02:02
>>351 >>勢力はないけど名門として見られていたということはないかな。
>>江戸時代の高家とか公家みたいな感じで。
>だったら、新田義貞が元弘3年まで無位無官だったのは何故でしょう?
江戸時代ほど官位の価値が下がってなくて、官位をもらえる武士は
地位・実力とも備わったクラス(守護以上とか)に限られていたから
新田氏までは官位が回ってこなかった
というのは無理があるかなー。
北条秀時という人物が名越流にいますが(時章の孫、篤時の子)
新田政氏の妻が秀時の娘ではちょっと年代が合わない気がします。
名越だと越後が地盤だし、新田と接点はあっても不思議ではない気はしますけど。
358 :
日本@名無史さん:04/06/15 03:53
確かに政氏の子である基氏の生没年が1251−1324であることを考えれば、その母が時章の曾孫というのは無理がありますな。
359 :
日本@名無史さん:04/06/15 19:03
ええとう、ええ
ええとう、ええ
ええとう、ええ
ええとう、ええ
ええとう、ええ
ええとう、ええ
ええとう、ええ
ええとう、ええ
ええとう、ええ
360 :
日本@名無史さん:04/06/16 02:27
>>357 >新田氏までは官位が回ってこなかった
政義の代に失脚するまでは官位もあったわけで、
単に幕府(というか北条得宗家)に嫌われていたからじゃないの?
それに、鎌倉攻略の大手柄があったとはいえ、それまで無位無冠の人間がいきなり正五位になったというのは、
血筋的なものがやはりあったからじゃないかと思う。
361 :
日本@名無史さん:04/06/16 02:55
>>357 >地位・実力とも備わったクラス(守護以上とか)に限られていたから
守護職を持っていなくても官位を保持している武家なんていくらでもいるだろ。
前述の佐々木道誉だって、鎌倉幕府滅亡以前に守護職は持っていないが無位無官というわけではない。
362 :
日本@名無史さん:04/06/17 00:33
そもそもこの話は、鎌倉時代に新田庶子家の大館氏と
京極氏が縁組する可能性はあるのかという話が発端なので
名門だから縁組するという可能性を言っただけですよ。
>>360 >政義の代に失脚するまでは官位もあったわけで、
>単に幕府(というか北条得宗家)に嫌われていたからじゃないの?
政義の罪は幕府に届けず勝手に出家したというものですよね?
これって本人だけでなく、子孫まで官位が貰えなくなるほど重大な罪だったんでしょうか
足利氏や北条一門(塩田氏)とかも同じ事やってますよね。
(ま、権力者と近いと話は違うのかも。^^)
>>361 >守護職を持っていなくても官位を保持している武家なんていくらでもいるだろ。
>前述の佐々木道誉だって、鎌倉幕府滅亡以前に守護職は持っていないが無位無官というわけではない。
朝廷が一応機能しているし、江戸時代みたいに同じ受領名を
複数の武士に与えるわけにもいかないから官位を貰っている武士は少なかったのでは?
それに京極氏は六角氏が近江守護だったから守護にはなってないけど、
幕府内の地位からみれば十分守護クラスの力はあったのでは?
363 :
日本@名無史さん:04/06/17 03:14
新田政義の妻は、足利義氏の娘。
364 :
日本@名無史さん:04/06/17 05:00
>>362 >これって本人だけでなく、子孫まで官位が貰えなくなるほど重大な罪だったんでしょうか
京都大番中の自由出家(一種の職務放棄)だからね。
これを許せば他の御家人に示しがつかなくなるし、罪は決して軽くはないでしょ。
それと新田氏の失ったものは官位だけではない。
所領は没収、更に惣領職も奪われたりと、まさに散々。
新田氏が宗家の地位を回復するのは、漸く義貞の祖父基氏の代、
つまり代わりに惣領となっていた一族の世良田氏が二月騒動で失脚してからの話だから
これでは官位どころではなかったと思う。
それにしても政義って無茶をやる人だよな。
この後も宗尊親王への供奉をドタキャンしたりしているし、懲りてないのか?
365 :
日本@名無史さん:04/06/17 20:28
南無八幡大菩薩、我らにご加護を!
>>364 新田惣領家が所領を没収されたというのはともかく、
惣領権を剥奪されたと言うけど、
これってどうなのかね?
史料上そういう形跡はないと思うのだが。
それに、世良田頼氏は三河守、
兄弟の得川頼有は下野守になってるから、
元々新田惣領家より地位が高かった可能性だってないか?
367 :
日本@名無史さん:04/06/18 05:14
>366
>元々新田惣領家より地位が高かった可能性だってないか?
「元々」という意味がよくわからん。
世良田氏の祖義季の時点ですでに新田宗家より地位が高かったって意味?
368 :
日本@名無史さん:04/06/18 18:45
まさか、違うだろ?
>>367 説明不足スマソ。
頼有・頼氏段階のこと。
義兼・義季段階だと、義兼は皇嘉門院蔵人で、
義季は無位無官だから、
朝廷の序列で言えば義兼が上だったし、
『吾妻鏡』での登場の頻度から考えても
幕府内の序列も恐らく義兼の方が上だよね。
上には山名・里見がいるわけだけど。
370 :
日本@名無史さん:04/06/18 21:08
>>366 >史料上そういう形跡はないと思うのだが。
惣領職について明記された史料は確かに無いけれど(少なくとも俺は知らん)
とりあえず「吾妻鏡」で世良田頼氏は「新田三河守」と表記され、登場頻度も新田政義の比ではないくらい多い。
これは幕閣で最も優遇されていた新田一族が世良田頼氏だったことを意味し、
少なくとも幕府とか公の認識では世良田頼氏を新田氏の代表と見なしていたと考えてもよいのではないかな?
371 :
日本@名無史さん:04/06/19 07:38
>>364 >それにしても政義って無茶をやる人だよな。
おばあちゃんの新田尼が依怙贔屓して、ほとんどの所領を同じ孫(政義には従兄弟)である岩松時兼にあげちゃったからな。
「冗談じゃねえぞ!やってられねえや!!」って心境だったのかもしれない。
承久の乱にも出陣していないし、こりゃもう自分から「やる気ありません」って公言しているようなもんだ。
ちなみに新田宗家が参戦しなかった承久の乱に、一族の里見や世良田、岩松などは参戦していることから、
この時点ですでに新田宗家の惣領としての権限はさほど強くなかったと思われる。
372 :
日本@名無史さん:04/06/19 19:33
自由出家は敵前逃亡と同じだからね。
373 :
日本@名無史さん:04/06/19 21:38
新田 政義の自由出家事件ていつのこと?いまいち分からないのだが…。
北条経時〜時頼の頃?
374 :
日本@名無史さん:04/06/19 22:28
子孫の新田涼子脱糞問う撮事件との関連は?
375 :
日本@名無史さん:04/06/19 22:57
自由出家って、二条河原の落書にもあったね。
376 :
日本@名無史さん:04/06/19 23:19
ところで、新田家が白旗党余類とかいう山の民からでてきたって本当で塚?
だとしたら家康も・・・?
377 :
日本@名無史さん:04/06/21 16:56
>376
白旗党余類って何?
378 :
日本@名無史さん:04/06/23 04:27
せらた三河との。
それだと足利の大屋形とも同格じゃな。
元家の遺老よししげとののことを皆が忘れるわけもなし。
すくなくとも心では、にうたのとののほうが足利より偉いと思うとった者はいそうじゃよ。
これも今と変わらずな。
かといって、いまの人とおなじく、過去の威名なぞしらぬぞんぜぬ
の者もあれ。
どうよ入道みたいに何やっても咎めなしなキャラって、やっぱりいまでもおるじゃろ?
どこぞの強姦総理なんかどうじゃ?
379 :
日本@名無史さん:04/06/23 06:54
>378
強姦よりも売国の方が総理としての罪は重いのだが‥‥
しっかしなんで歴史板には嫌小泉厨が多いのかなぁ 正直N速あたりでやって欲しい
381 :
日本@名無史さん:04/06/24 00:50
検索条件:旧国名= 上野,旧郡名= 新田
検索結果:211件
【合計】 67151.500000 【平均値】 318.253540
【最大値】 2572.458008 【最小値】 2.650000
382 :
日本@名無史さん:04/06/25 21:14
久保田順一『新田一族の盛衰』を読んだ。
これまで知らなかったことも述べられていて結構面白かった。
383 :
日本@名無史さん:04/06/28 07:04
>>371 新田政義が承久の乱に参加していないのはやる気の無さとかそういう問題ではない。
新田家は歴代尊王の心が篤かったのである。
384 :
日本@名無史さん:04/06/28 14:08
承久の乱のときの新田本家の当主って政義なのか?
政義って足利義氏の娘婿だし、前後の世代数から言っても、承久の乱のときはまだ幼少くらいの年では?
385 :
日本@名無史さん:04/06/28 14:51
386 :
日本@名無史さん:04/06/28 15:36
このころはまだ、朱子学日本に入ってきてないだろ。
387 :
日本@名無史さん:04/06/28 18:55
>386
意味がわかりません。
朱子学が流行する前の日本人には尊王の気持は無かったということですか?
388 :
日本@名無史さん:04/06/28 19:03
>>384 新田政義は1187(文治三)誕生。文治四生まれ説もあるが、これらが正しければ承久の乱の時は成人している。
父義房も祖父義兼も共に亡くなっていたし嫡子政氏はまだ12,3才だから、当主であったのは間違いなかろう。
390 :
日本@名無史さん:04/06/29 11:20
>>388 新田惣領家歴代の生没年って判りますか?
私が知っているのは、基氏以降だけなんですが。
基氏 1251−1324
朝兼 1270−?
義貞 1301−1338
391 :
日本@名無史さん:04/07/05 06:20
保守
392 :
日本@名無史さん:04/07/05 09:47
幕府が倒産です
393 :
日本@名無史さん:04/07/09 22:49
>>390 前から思っていたのだが、義貞の生年の根拠史料てなんなの?
395 :
日本@名無史さん:04/07/10 12:29
歿年齢からの逆算じゃないの?
396 :
日本@名無史さん:04/07/11 06:36
>>393 系図だろ?尊卑分脈とか新田岩松系図とか、その他もろもろ。
それぞれ生年はバラバラで1300〜1303年まで諸説あるらしい。
その中でなぜ1301年が定説のようになっているかは俺も知らん。
まあ、正しくは1301?〜1338などと表示すべきなんだろう。
397 :
日本@名無史さん:04/07/17 07:30
新田義貞って有名なわりに生年不詳、母も不詳、
父の方も朝兼、朝氏、氏光……と諸説あり。
なんで?やっぱり里見家からの養子だから?
398 :
日本@名無史さん:04/07/22 19:03
よく新田義貞が討幕前は無位無冠の貧乏御家人に過ぎなかったっていう言い方をきくんだけど
それでも源義家の嫡流という血筋は一目置かれるものだったと思う(特に関東では)。
そもそも本当に「貧乏」だったかどうかも疑問だし。
399 :
日本@名無史さん:04/07/22 19:23
>>398 最近は地方有力御家人だった、という見方もある。
その室に得宗被官安東氏を迎えていたこともあって、
必ずしも反北条氏だったわけではないようだ。
…が、「源義家の嫡流という血筋」って何だ?
新田氏は庶流だろ?
400 :
日本@名無史さん:04/07/22 19:46
400
有力御家人の名前を幕府が間違えるか?
402 :
日本@名無史さん:04/07/22 23:54
吉良貞義?
403 :
日本@名無史さん:04/07/22 23:54
そもそも新田義貞の「貞」って得宗貞時の偏諱なの?
404 :
日本@名無史さん:04/07/24 06:32
>>403 義貞が元服する頃には貞時はもう死んでいたはずだし、
立場が上の人間の偏諱を下の方にすることはあまり考えられない。
>>401 あの当時は「貞」のつく人が結構いるね。
しかもみんな上の方の偏諱。
幕府の役人が文書で「貞義」と間違えて書いたのもその辺りの慣れというか、思い込みが影響していたんじゃないかと。
405 :
日本@名無史さん:04/07/24 06:44
>>404 貞時が死んだときの義貞の年齢って数えで11歳だよ。
当時の武士の元服って、7〜8歳くらいが普通なんでしょ?
それに、鎌倉時代の偏諱って、単なる烏帽子親子関係を表すものだから、貰った字を下につけることも普通にあるじゃん。
偏諱を下につけることが禁止されて、偏諱が主従関係を表すものに変わるのは、足利義満以降だし。
406 :
日本@名無史さん:04/07/24 06:47
407 :
日本@名無史さん:04/07/24 20:48
上野の守護は得宗だから、無位無冠とはいえ上野の有力武士である新田氏惣領が、守護から偏諱を受けるの不自然じゃないよ。
有力だったの…?
409 :
日本@名無史さん:04/07/24 22:05
落ちぶれたとはいえ上野国内では有力豪族だよ
410 :
日本@名無史さん:04/07/25 00:47
>>405 なるほど。
でも更に疑問なんだが、烏帽子親といっても様々じゃないかと。
一族とか対等の立場の烏帽子親の諱なら下につけるのもいいけど、
幾ら何でも当時の新田氏のような立場で得宗の諱を下の方で名乗っている人なんて義貞以外に誰かいる?
411 :
日本@名無史さん:04/07/25 01:28
>>410 既出だが、究極の例がある。
九条頼嗣→北条時頼
宗尊親王→北条時宗
412 :
日本@名無史さん:04/07/25 14:24
>>406 >既出だが、究極の例がある。
>九条頼嗣→北条時頼
>宗尊親王→北条時宗
得宗家は例に当たらないほど有力な家だと思うけど。
(むしろ自分たちだけの特例として他の御家人・北条庶家とは格差をつけたい立場だと思う)
北条氏スレに上げたけど話が進まなかった内容を転記します。
北条時頼周辺の得宗家の人って時○という名前の人が結構いるんですよね。
【鎌倉】北条氏を語るスレPart2【執権】
>229 より
>泰時の子、孫も将軍家から偏諱もらったのではないかもしれないですね
>
>北条時氏(1203-1230)←?(足利氏?)
>北条時実(1212-12227)←源実朝?(1219死去)
>
>北条経時(1224-1246)←九条頼経
>北条時頼(1227-1263)←九条頼経(or頼嗣?(1442将軍就任))
>北条時定(?-1290)←?
>
>ふつうもらった偏諱って上につけることが多いですよね。
>(家の通字が○時だし)
>
>時宗は得宗家の家督だし、将軍家にたいする優位の象徴として
>下に付けたのは判るような気がしますが嫡男ではない時頼はなんでだろう?
>(泰時・経時の意志が入ってるはずですよね)
>
>嫡男が時頼、次男が経の字もらって経時のほうが自然な気がします。
>ちょうど頼朝からもらった、頼時(泰時)・朝時兄弟みたいに
413 :
日本@名無史さん:04/07/25 18:07
泰時は何故時頼という名を捨てたのか?頼朝から1字貰ったのに?
時房は何故時連という名を捨てたのか?三浦盛連から1字貰ったのに?
時定という人物が多いのは何故?
414 :
日本@名無史さん:04/07/25 22:42
415 :
日本@名無史さん:04/07/25 22:42
>>410>>412 得宗家からもらった偏諱を北条一族でない一御家人が下に付けた例。
他にも探せばいくらでも例があると思うけど、とりあえず気が付いた分。
北条時政→長沼宗政
北条時政→小野成政
北条義時→島津忠時
北条泰時→長沼宗泰
北条泰時→二階堂行泰
北条経時→小笠原長経
北条時頼→太田政頼
北条時頼→後藤基頼
北条時頼→島津久時
北条時頼→二階堂行頼
北条時宗→足利家時
北条時宗→太田康宗
北条時宗→島津忠宗
北条貞時→二階堂行貞
北条高時→佐々木清高
416 :
日本@名無史さん:04/07/25 23:58
>>415 島津忠時って北条義時に一字貰ってるの?時代が合わない気がしますが。
長沼氏や小笠原氏、二階堂氏の例をみても
もともと宗○とか長○、行○が通字の家だから
烏帽子親から貰った一字を下につけたんではないでしょうか?
417 :
日本@名無史さん:04/07/26 02:34
>もともと宗○とか長○、行○が通字の家だから
>烏帽子親から貰った一字を下につけたんではないでしょうか?
意味不明。
418 :
日本@名無史さん:04/07/26 03:42
既出だが、鎌倉時代の偏諱は、烏帽子親子関係を示すだけのもので、主従関係とか身分の上下を表すものではない。
だから上に付けても下に付けても問題ない。
偏諱が武家社会における主従関係を象徴するものに変質したのは、足利義満の時代。
このときに、「与えられた字は上に付ける」「与える側の上の字を与えられる者のほうが下の字を与えられる者より格上」というようなルールが徹底された。
(但し、将軍家から公家への偏諱は別物)
後世の感覚に引きずられて歴史を見ると、事実の見落としや重大な事実誤認をする可能性があるよ。
ここにレスをつけているみんなが研究者として歴史をやっているんなら、なおさら慎重にしないと。
419 :
日本@名無史さん:04/07/26 05:33
>>417 横レスだが、得宗から貰った諱とは限らないって意味だと受け取ったが?
例えば新田義貞の場合も「貞」は北条貞時からではなく、
烏帽子親となった足利貞氏から貰ったとか、一族の長老・安養寺貞氏から貰ったとか、
そういう場合もあるのでは?ってこと。
>>417だけから
>>419のような解釈ができるのは驚異。
>>417についていえば、通字を上に付けるか下に付けるかなんてことは、特に決まりはない。
鎌倉時代の偏諱に決まりがないのと同じ。
>>417 二階堂氏とかは行○という名前を付ける例が多くなっていった。
それが二階堂家の基本として確立した。
その基本が出来た後に烏帽子親から名前を貰った例ではないのではないかという意味です。
つまり二階堂氏では通字を上に付けることが先例化するのが比較的早かったのではって意味。
>>418氏が言われているのは儀礼として公式化したのが義満期ということですから
矛盾してないよね?それ以前に家単位で決まってても。
北条氏(得宗家)では通字を上に付けるか下に付けるか、ルールとして決めて無かったから
経時・時頼兄弟のような例があっても不思議ではないという理解でOKです?
兄弟で時を貰える、貰えないとかで身分上の違いはなかったんですかね?
(泰時兄弟で言えば、泰時・朝時・重時あたりは北条一門としても重要な地位に付いたけど
政村・実泰は時はついてないけど結構な地位にいる。
それに比べて有時は子孫も含めてあまり目立ってませんね)
時宗兄弟でも時輔(時利)より兄弟の序列的には宗政が上ですよね。
時という字が付くことをそんなに重視してなかったのかな。
あと、私は研究者じゃなくて単なる歴史好きなのでバカな質問でしたらごめんなさい。
>>421 マジメな研究者はこんなとこ見ないと思うよ
423 :
日本@名無史さん:04/07/27 00:40
俺は落ちこぼれ研究者だから見てるけど。藁
424 :
日本@名無史さん:04/07/27 00:49
>>421 とりあえず、自分の妄想だけで議論しないで、鎌倉時代の偏諱についての研究論文でも、いくつか読んでみたら?
まあ、鎌倉時代の偏諱は、烏帽子親子関係に基づく擬制的親子関係を強化し、同族に準じるような結合・連帯感を持たせるためのもの、というような理解が一般的なようだけど。
425 :
日本@名無史さん:04/07/28 05:14
>>424 >鎌倉時代の偏諱についての研究論文でも、いくつか読んでみたら?
誰の何ていう論文があなたのお勧め?
具体的に挙げてみてくれると有難いんだけど
426 :
日本@名無史さん:04/07/29 01:17
上野の有力御家人っていうより有名御家人だったんじゃないかなぁ…反面教師として
428 :
日本@名無史さん:04/08/01 01:30
北条高時と貞時の偏諱の組み合わせ
塩冶高貞こそ最強
429 :
日本@名無史さん:04/08/04 00:24
431 :
日本@名無史さん:04/08/05 01:26
>>430 何こいつ。えらそうに馬鹿じゃねーの?
2ちゃんになんか来なけりゃいいじゃん。
>>431 あーあ。泣いちゃったよ。
( ´,_ゝ`)プッ
433 :
日本@名無史さん:04/08/06 01:27
434 :
日本@名無史さん:04/08/06 04:54
>>433 427じゃないが
>>415って全部ソースがあって言ってるのことなのか、俺も疑問には思ったぞ。
例えば
>北条時政→長沼宗政
長沼宗政の「政」はその父親である小山政光の偏諱だとする方が自然だと思うんだが(ちなみに政光の父は行政だし、宗政の兄は朝政を名乗っている)。
宗政の「政」が時政からの偏諱であるという根拠を教えてほしい。
>>430 狭量な香具師だなぁ。
まさかみんながみんな専門家とか研究者みたいなのばかりだとでも思ってる?
何を勿体ぶっているのか知らんが、こっちはあんたがハイレベルな研究者らしきこと言ってるんで、論文名くらい挙げるのは朝飯前と思っただけ。
別スレではそのくらいいともあっさり教えてくれたしね。
誰かさんと違って、口先でなく本当に知識豊富って感じの人だったけどw
何も知ってる論文全部挙げろと言われたわけじゃなし
おすすめを挙げてくれってだけなのに、それさえ言わないのは
器の小さいドケチか、研究論文なんて実はろくに読んでいないかのどっちかだろうな。
437 :
日本@名無史さん:04/08/06 18:36
>>434 足利義氏の「義」は父親の義兼の「義」ではなく、北条義時の偏諱だったりするからわからないぞ。
438 :
日本@名無史さん:04/08/06 22:38
義家流の嫡流である自己主張じゃない?
439 :
日本@名無史さん:04/08/06 23:44
>>437 これも義時からって確実なの?
438氏も言うように義は源氏(特に義家流)には多いし、
義氏の兄弟(畠山義純や桃井義助)も義が付くけど
全員義時から貰ったと言えるのかな?
すなおに父親から一字貰ったと考えたほうが自然では。
(庶子である義純に執権が烏帽子親になるとはちょっと考えにくいのでは)
北条一門だと吾妻鏡あたりに元服の記事があって、そこから烏帽子親が特定できそうですが
他家の御家人だと烏帽子親が確実に断定できるほうが少ないような気もします。
440 :
日本@名無史さん:04/08/07 16:28
>>439 畠山・桃井は他家の名跡をついだ形になっているから足利の単なる庶子扱いじゃないよ。
それに義氏の「義」が義時の偏諱っていうのはこの時代の研究者にとっては常識レベルでは?
441 :
日本@名無史さん:04/08/07 21:17
>>440 >畠山・桃井は他家の名跡をついだ形になっているから足利の単なる庶子扱いじゃないよ。
元服時には既に他家を継ぐことが決まっていたのですか?
それほど足利氏は有力な一族だったという理解でいいのかな。
>それに義氏の「義」が義時の偏諱っていうのはこの時代の研究者にとっては常識レベルでは?
ここを見ているのは研究者ばかりじゃないです。
常識ならその辺りを簡単に教えて頂けますか?
>>440 >それに義氏の「義」が義時の偏諱っていうのはこの時代の研究者にとっては常識レベルでは?
史料的根拠はないよ。
つーか、常識ではないと思うけど?
443 :
日本@名無史さん:04/08/08 02:05
444 :
日本@名無史さん:04/08/08 02:47
荒れそうな悪寒
445 :
日本@名無史さん:04/08/08 02:52
>畠山義純
の妻は元畠山重忠の妻で北条時政の娘(政子や義時の妹)
446 :
日本@名無史さん:04/08/08 03:56
>>445 北条の縁者になったから偏諱を貰ったって意味?
でも畠山義純って当初は新田氏から妻を迎えていたよね。
しかも子供まで二人こさえている(岩松氏の祖)から、
畠山の名跡をついだ頃にはすでに成人。
つまり北条と縁続きになる前から義純を名乗っていることになると思うが
(名跡をついだ時に改名でもしていない限り)。
>>443 煽るのは構わないけど、
史料的根拠と、
誰が提唱してる説かご教示願えませんか?
「義」は足利氏の通字なんだから、
普通に偏諱なんか受けなくても名乗るだろ?
むしろオレは「氏」がどこから来たのか気になるね。
(偏諱じゃない可能性もあるが)
449 :
日本@名無史さん:04/08/08 16:10
450 :
日本@名無史さん:04/08/08 16:41
451 :
日本@名無史さん:04/08/08 21:06
蛆虫どもが五月蠅いなぁ。藁
453 :
日本@名無史さん:04/08/09 00:51
454 :
日本@名無史さん:04/08/09 01:55
とりあえずこのスレは日本史の研究者と学生・院生以外カキコ禁止にしようよ!
そうすれば荒れないし高度な議論ができる。
455 :
日本@名無史さん:04/08/09 03:36
↑
ぷぷぷぷぷ
456 :
日本@名無史さん:04/08/09 03:49
>>454 そう言うおまえがまずは手本を示してみるがよかろう。
「高度な議論」とやらを存分に期待しておるぞw
ネタぐらい書き込ませろってんだよバカ
↑
ぷぷぷぷぷ
459 :
日本@名無史さん:04/08/09 21:23
高度な議論
460 :
日本@名無史さん:04/08/09 21:24
↑
ほれ、高度な議論でカキコしてやったぞ!
461 :
日本@名無史さん:04/08/09 21:27
論破された馬鹿が荒らしてるな
462 :
日本@名無史さん:04/08/09 21:30
463 :
日本@名無史さん:04/08/09 21:54
案の定荒れてきたなぁ
465 :
日本@名無史さん:04/08/09 22:00
童貞万歳
466 :
日本@名無史さん:04/08/09 22:00
やりマンは死ね
467 :
日本@名無史さん:04/08/09 22:01
468 :
日本@名無史さん:04/08/09 22:20
それ以外のもお前だろ(プゲ
469 :
日本@名無史さん:04/08/09 22:29
俺は今日本に帰ってきたばかりで
このスレを見つけたから
にった先生のすばらしさを知ってもらうために
啓蒙活動を始めただけだ
本当だ
470 :
日本@名無史さん:04/08/09 23:47
良スレあげ
471 :
日本@名無史さん:04/08/09 23:49
童貞鎮魂姦
472 :
日本@名無史さん:04/08/10 23:38
このスレ、命運尽きたな。
473 :
日本@名無史さん:04/08/11 10:08
畠山義純と足利義氏は兄弟でも母が違うんだよな
474 :
日本@名無史さん:04/08/11 10:11
奪!童貞
>473
義氏の母は北条政子の妹。家督を継げたのもそのおかげ。
476 :
日本@名無史さん:04/08/12 02:11
義純の母は白拍子。藁
当時の白拍子って、決して身分が低いわけじゃないんだよね。
北条氏の地位は義兼の頃はそれ程高かったわけじゃないから、
北条氏が、というよりは、頼朝が選び、
頼朝の御台所の妹
=将軍家の縁者であった事を重視した結果、
義氏が家督を継げたのでしょう。
一説によると、義純は義兼から勘当されてた、
というけど。
478 :
日本@名無史さん:04/08/12 11:31
マジ童貞
うるせぇよばか!!!おまえらなんか
ママの知り合いの偉い人に頼んで
滅ぼしてもらうからな!!!覚悟しろ!!!
480 :
日本@名無史さん:04/08/12 22:10
涼子姫のウンコでも食ってろ
482 :
日本@名無史さん:04/08/13 00:08
久保田順一氏によると、新田氏は初期の頃武蔵北部にも勢力を扶植しており、
特に秩父の畠山氏とはかなり密接な間柄だったそうな。
新田義重の嫡子義兼の正室は畠山氏だった可能性もあるというから、
だとすると足利義純は最初の妻(畠山氏の娘)を離縁し、その後で畠山氏の婿に入ったことになる。
何かちょっとややこしい話しだけど。
484 :
日本@名無史さん:04/08/13 04:59
義純の最初の妻は、新田義兼の娘だろ。
その辺の久保田さんの説、
ちょっと妄想入ってるからなぁ…。
>485
根拠らしい根拠が明示されていないからね。
でもあながち妄想とも言い切れない。
新田義兼夫人(新田尼)は出自未詳だし、新田義重は秩父党を助けるため合戦もしているし。
まあ仮説ってことでいいんじゃない?
487 :
日本@名無史さん:04/08/14 00:10
で、義純の最初の妻は、義兼娘なの? 畠山氏なの?
488 :
日本@名無史さん:04/08/16 01:19
実は宇宙人
489 :
日本@名無史さん:04/08/16 02:37
実は童貞
490 :
日本@名無史さん:04/08/16 19:35
実はヽ( ・∀・)ノ ウンコー
491 :
日本@名無史さん:04/08/17 12:36
奥州に下った足利一門について知りたいのですが
吉良家
石堂家
斯波流 高水寺斯波家・大崎家・最上家・石橋塩松家
畠山流 二本松家
は大体わかるのですが
後年、最上と戦った細川直元は細川義季流なんでつか?
492 :
日本@名無史さん:04/08/17 16:15
全然関係ないです。
493 :
日本@名無史さん:04/08/18 01:05
494 :
日本@名無史さん:04/08/19 21:39
>>493 石橋和義って斯波氏の祖の家氏の曾孫だから確かに系図上は尊氏と同世代だね。
義満と義教の年齢差が少し離れていることを考えても、ちょっと微妙かも。
兄弟相続を父子相続と誤認しているところとかあるのかな?
495 :
日本@名無史さん:04/08/19 21:43
>>494 下手に異議は唱えないほうがいい
男は10歳から80歳まで子作りできる
496 :
日本@名無史さん:04/08/19 21:51
俺の初射精は11歳だった
オネイニーで射精した
497 :
日本@名無史さん:04/08/19 22:30
_ -── ‐- 、 , -─-、 -‐─_ノ
永 あ // ̄> ´  ̄  ̄ `ヽ Y , ´ ). .新 え
久 ん L_ / / ヽ 田 |
に た / ' ' i !? マ
. 無. じ / / く ジ
理ゃ l ,ィ/! / /l/!,l /厶,
じ天 i ,.lrH‐|'| /‐!-Lハ_ l /-!'|/l /`'メ、_iヽ
. ゃ 下 l | |_|_|_|/| / /__!__ |/!トi i/-- 、 レ!/ / ,-- レ、⌒Y⌒ヽ
. ん統 _ゝ|/'/⌒ヽ ヽト、|/ '/ ̄`ヾ 、ヽト、N'/⌒ヾ ,イ ̄`ヾ,ノ!
一 「 l ′ 「1 /てヽ′| | | 「L! ' i'ひ} リ
ヽ | ヽ__U, 、ヽ シノ ノ! ! |ヽ_、ソ, ヾシ _ノ _ノ
-┐ ,√ !  ̄ リ l !  ̄  ̄ 7/
レ'⌒ヽ/ ! | 〈 _人__人ノ_ i く //!
人_,、ノL_,iノ! /! ヽ r─‐- 、 「 L_ヽ r─‐- 、 u ノ/
/ / lト、 \ ヽ, -‐┤ ノ 無 了\ ヽ, -‐┤ //
ハ キ { / ヽ,ト、ヽ/!`hノ ) 意 |/! 「ヽ, `ー /) _ ‐'
ハ ャ ヽ/ r-、‐' // / |-‐ く 味 > / / `'//-‐、 /
ハ ハ > /\\// / /ヽ_ ! │ ( / / // / `ァ-‐ '
ハ ハ / /! ヽ レ'/ ノ > ' ∠ -‐  ̄ノヽ /
{ i l ! / フ / -‐ / ̄/〉 〈 \ /!
498 :
日本@名無史さん:04/08/24 23:51
足利=あしかが
って考えてみると不思議な読み方だな
>>498 弟子屈=てしかが
は不思議じゃないのか?
500 :
日本@名無史さん:04/08/25 21:21
長万部
レ・マン湖
502 :
日本@名無史さん:04/08/25 22:09
エロマンガ諸島
ノーパンしゃぶしゃぶ
504 :
日本@名無史さん:04/08/25 22:27
野球台湾五輪代表のレフト。
チンキンポーって名前はヤバイだろ。
名前にバキュンバキュン入れろよ。
505 :
日本@名無史さん:04/08/25 22:29
. . .... ..: :: :: ::: ::::: :::::::::: : ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
Λ_Λ. . .: : : 水泳選手にソープさんがいらっしゃいますが…
/:彡ミ゛ヽ ) ー、. . .: : ::::: : :: ::::::::::::: :: ::::
./ :::/:: ヽ、ヽ、 ::i . .: :::::∧∧ ::::::::::::::::::::::::::
/ :::/;;: ヽ ヽ ::l . /~)(~ヽミ 、. . .: : : ::::::
 ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄ ̄`" ̄"'´ ̄
マンコビッチに適うもの無し!
昔、ラジオ韓国日本語放送に
沈 宝慶(ちん・ほうけい)アナウンサーがおられました。
本人も、気にしていたようです。
マンコビッチがいるなら、マンコスキーはいないのかね?
誰でも好きだと思うんだが....
すっかりオナニー厨房に住みつかれちゃったね、このスレ
510 :
日本@名無史さん:04/08/29 13:35
age
511 :
日本@名無史さん:04/08/30 00:11
大分、前の投稿だけど、摂津源氏が嫡流で河内源氏が傍流とする説は如何なものか。
確かに河内源氏は義家以降台頭したとする説もある。ただ、頼光の母は源氏の出だが五位クラス。
頼信の母は大納言の娘だ。兄より血統はいい。母の実家の勢力が後継きめにものをいった時代、これは考慮すべきだが。。
個人的には新田と足利はそれぞれ別個にしたいのだが、時代背景による変遷はあろう。
当初は平等だったかもしれないが、勢力差格式、源氏将軍の滅亡によって北条は源氏の嫡流を足利に与えた。
このあたりから新田を一族の末として認識したのではないだろうか。
足利は北条時頼の時代、頼朝ご落胤説もあり、頑固で誇り高い結城朝光に対して「結城上野介殿・・足利政所」と書いた。
これは本来対等な御家人に対して非礼な話。足利は謙譲して「結城政所殿・・・足利式部大輔」とでも名乗るが筋。
源氏嫡流を得たことで、格上を主張した。結城家も負けずにことさら墨を濃くし「足利式部大輔殿・・結城政所」と書いた。
結城の方が御家人の功績が強い。血筋より武功こそ御家人にとって地位の証だったが、足利はここで有力御家人にあえて噛み付いた。
源氏嫡流の価値を見せ付けるために。
時頼は結局裁判して両家を対等としたらしい。執権を中心とした北条支配を考えれば、足利が出張るのは不都合だろう。
もともと血筋は名門で天下取りの伝承があるとかないとか言っており、このあたりに、足利の上昇志向の根源がありそう。
武田と佐竹の関係。戦国期、佐竹義昭は武田信玄と一度、交流があったらしい。
上杉か何かの対抗戦略もあったのか。詳細はわからぬ。ただ、佐竹はこちらの方が嫡流だという話を武田側にしたらしい。
そしたら、武田は甲斐源氏の頭目のプライドもあり、こちらは新羅三郎殿伝来の品もある、こちらが嫡流と返書したらしい。
佐竹は「しめた」と思ったのか、こう返書した。
当家は新羅三郎義光公の血を引くが、その兄である賀茂次カ義綱の家系が絶えたのでそちらを継いだ。
よって、新羅系の武田より格上であると・・・。
ニッタ、ニッタすん無いアシカが笑ってらぁ!
>>513 なんつーか…。
突っ込むのもアホらしくなってくる。
勉強し直して来い。
514 :
日本@名無史さん:04/08/30 06:28
プッ
自虐キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━━!!!!!
516 :
柴門たまき:04/08/30 20:34
まんこ太郎
ちんぽ次郎
518 :
日本@名無史さん:04/08/30 21:38
519 :
日本@名無史さん:04/09/05 22:33
>>519 みれないよ。
新田源氏末裔の上州開墾オフはありますか?
521 :
新田中村の子孫:04/09/07 00:53
話が長くなりますので、先に結論。その後に3つぐらいに分けて説明します。
新田義貞の嫡子で三男の義宗は新潟に匿われて、その後、名前を新田中村、
そして最終的には平凡な名前の中村になっています。
実は私がその子孫です。
http://www.ksky.ne.jp/~atrbdg/siseki/nittakeizu.htm ここには沢山の新田家の子孫の方々が来られて来ているでしょうから、
その方も子孫には間違いないと思いますので、仲良くしてください。
たしか、新田の子孫で新田姓で残っているのはごくわずかです。
本流、支流を調べてみたのですが、トップは名前を変えています。
細谷さん、篠塚さん、小泉さん達は、名前を変えずに済んでいますね。
群馬におられる子孫の新田さんはたしか、明治の時代に、名前を新田に戻した
と聞いています。
義宗以降は新田妄想、最終的には異常な妄想なんだろうなぁ・・・
523 :
新田中村の子孫:04/09/07 01:03
私の祖父は、新潟の山深い刈羽郡の出身です。そこで、代々、村の長
を務めていた中村の長男でしたが、子供の時に両親が早く死に、弟や
妹を食べさせる為に、東京で丁稚奉公で出てきて100年経ちます。
その祖父が、私に、「うちの先祖は、義貞の甥だか弟だよ」
と言っていたのを覚えていて、最初は関心なかったのですが、30歳近くに、
なんとなく興味を持つようになり、自分で細かく調べたくなって、
新潟のその田舎に行ってきました。そうしたら、山の頂上近くに旧家があり、
うちの分家があとを守っているのですが、家の近くには、どうやって運んできたのかわかないぐらい
大きな石でできたお墓があり、そのまわりを囲むように小さなお墓が沢山ありました。
そして柏崎に行く途中の安住寺(かなり古いお寺)に行って、御住職に会ってきました。
その人が、お寺で一番上においてある戒名を2つ持ってきて、これが、あなたたちの
先祖だよ。と言って見せてくれたのが「新田義貞の正室」と「その子義宗」でした。
でも、その御住職でさえ、「義貞の甥だと言われている」と言ってました。
524 :
新田中村の子孫:04/09/07 01:13
私が祖父やその妹の大叔母から聞いていた言い伝えの話を書きます。
義貞の関係でお腹の大きい女性が逃げる途中、神社の下で子供を生んだ、
それが、我々の先祖だと。そして新潟の山を城砦として、かなり長い間、
戦をした。ある日、山の中で煙を出してしまったら、足利軍が攻めてきた。
近くの田んぼから、眉間を守る金の小さい板が出てきたとのこと。
たしかにふもとに天王山という地名があるので、ここで大きな戦があった可能性はあると思った。
でも、誰も明確に義宗の名前が出てこない。義貞の死後、足利の追撃から、ひた隠しに隠されて
育てられていたのかな?幼名を新田城の介義宗と言うそうですが、
うちの祖父はヨシシロと言っていたような記憶があります。
>うちの分家があとを守っているのですが
現代では、あとを守っている家を本家って言うんじゃないかな・・・
526 :
新田中村の子孫:04/09/07 01:23
私もすでに東京に住むただの人間だから、別に優位性を持ちたくて書いているわけではないのです。
ただ、真実を知っている人が非常に少ないのが残念です。
分家で見せてくれた家系図と烏丸刀。ただ、源氏の跡取りが、
代々持つはずの鬼切りという刀はどこに行ったのだろう?
代々、血を残すということで、母は跡取りとして婿をとっています。
それと、あまり良くないことだけど、曽祖父までは血縁結婚を繰り返してるようです。
いずれにせよ、信じるも信じないもよしです。
茨城の新田の会会長さん(この人子孫ではないのだけど)は、自分達の
知らないことには興味を示さず、もうそんなことはどうでもいいみたいなこと言ってたな。
これじゃ先祖が浮かばれないと思った。でも、自分達で静かに供養してあげるだけでいいけど。
527 :
新田中村の子孫:04/09/07 01:25
結論は最後の一行。誰が本家でも分家でよし。
528 :
新田中村の子孫:04/09/07 01:27
訂正
結論は最後の一行。誰が本家でも分家でもよし。
直系でも傍系でも子孫は子孫。それぞれが、先祖を敬う気持ちを持って、
このせちがらい世の中をまじめに生きればいいのではいかと思う。
>茨城の新田の会会長さん
この人を祭り板で主役にしてあげようとは思わんのかね
530 :
新田中村の子孫:04/09/07 01:32
10年ぐらい前の事なんでご存命かな?
>>521 >ただ、真実を知っている人が非常に少ないのが残念です。
何故それを真実と断定できるのだろうか?
自分の所だけは系図捏造が行われていない、
と言い切れるのだろうか?
ご落胤伝説にしろ落人伝説にせよ、
はっきりとした根拠もなく
「通説が嘘で自分の家に伝わった伝承が事実である」
というのは「子孫を名乗る家」ではありちがちな事。
自分の家に伝わった史料の批判が必要なのに、
それをしないから信用性があるわけがない。
よく見られる、
「先祖が嘘をつくわけがない」
というのは妄想に過ぎない。
ことに、南朝関連の伝承には
それが広がる土壌があったのだから
(そしてまた捏造が多いのもよく知られるとおり)
慎重になるのも当たり前だろう。
>いずれにせよ、信じるも信じないもよしです。
幽霊や宇宙人と同レベルだよね。
最終的には
>>522の言うとおりなんだよな。
どこかで誤った伝承・捏造が混入されても、
子孫に言い伝えられえてしまえば、
それは立派な「先祖伝来の伝承」になってしまう。
岩松家の新田義宗子孫妄想みたいにね。
岩松なんて、新田と足利双方の血を受け継ぐ名門なのに、
足利を否定して新田氏という
由緒のみを強調するようになってしまった。
これじゃ先祖が浮かばれないよね。
532 :
新田中村の子孫:04/09/07 02:25
531さんへ
僕は別に、この板であなたとバトルしに来たわけではないので、勘弁してください。
今日、たまたま、こんな板があること知って来たんですよ。
もしかすると、いろいろ僕より詳しく新田の末裔を知っている人がいるかなと思い。
たしか、岩松氏は一度、足利に寝返っているはず、その後、都合よく新田に戻ってるのでは?
いずれにせよ、負けたものは辛いものがありますね。近所に偶然、足利最後の将軍の
将軍、慶松丸の子孫が住んでいます。名前は慶松さんです。
足利も直系は足利姓で残っていないのでは?
僕も本当に子孫かどうか疑問に思ったことはあるんですよ。
・新潟刈羽郡高柳町で1000人以上中村がいて、トップは治という字を一字つけて、
治平という屋号を名乗る。
・美智子様(正田家)がご結婚される前に、宮内庁がうちの分家に家系を調べに来た。
・でも、家紋が大中黒ではないんです。「丸に上」これは天皇家の裏紋と言われているそうですが、
よくわからんのです。上州新田一族を示すのかな。いずれにせよ、堂々と家紋や名前を
名乗れない状況に追いやられていたのではないかという勝手な解釈です。
いずれにせよ、この板、荒らさない方がいいので、これで、しばらくカキコには来ません。
皆さん、ごきげんよう!
533 :
日本@名無史さん:04/09/07 04:49
>>526 鬼切は新田義貞が討たれた時に斯波高経が入手、
以後はその子孫(最上家)に伝えられたという説と、
足利尊氏に献上して将軍家に伝わったという説とがある。
刀じたいは現存していて、源氏発祥の地である多田神社(兵庫県)が保管しているらしい。
しかしなぜか同名の刀は北野天満宮にもあるらしくて、
どっちが本物なのか、またそれぞれの来歴など、詳しいことは俺も知らん。
まあ>531に言わせれば、全く別の刀を「鬼切」と称しているだけ、とかなるんだろうけどな。
535 :
新田中村の子孫:04/09/08 01:35
また、おじゃまします。
534さんの資料によると貞方が亡くなった1410年ごろから、系統がよくわからなくなっているそうですね。
私が、新潟の田舎に行った時の話で思い出したことを書きます。
私が訪ねた安住寺は、今から560年以上前にうちの先祖が開基旦那として建てたお寺だそうです。
そのご住職が言うには、それ以前は、うちの先祖の一族には常時、ご僧侶が待従していたが、
ある時期、そのご僧侶達が大島村へ行ってしまった。そのご僧侶のお寺の名前が思い出せないのですが、
そのお寺に、結構、重要な資料があるはずだと言ってました。今度、もう一度聞いてきたいな。
534さんの資料の年次と、なんとなく符合する点に気がつきました。
いずれにせよ、新田義宗が越後で育ち、活躍した背景はわかりました。
ただ、貞方に子供が一人だけだったかは?のような気がします。
まだ、何人かいたのではないでしょうか?
その後、新田の桜井の別れで、堀江姓を名乗っている方々、越後に残った私の先祖、
他の地に行った人々などに分かれたような気がします。
できたら、解明して、新潟の田舎の村興しにでも役立ててもらいたいな。
>>535 >新潟の田舎の村興しにでも役立ててもらいたいな
無理やろ
537 :
日本@名無史さん:04/09/08 03:10
鬼切は木曾義仲が所持していたこともあるそうだ。
どちらも持ち主が不運な最期(義仲、義貞二人とも泥田で矢が頭に当って落命)を遂げるのは鬼の祟りか?
もう1つの義貞の愛刀鬼丸は、太平記によると義貞が北陸落ちに際して比叡山に奉納。
後に徳川家康が所有、明治以後は皇室の所蔵らしい。
538 :
新田中村の子孫:04/09/08 22:57
536>でも、まむしとじょんのび村だけではカワイソウだよ。
537>たしかに。義という字をもらった人で、いい思いしたの、
最初の義家だけだ。後は、義朝、義仲、義経、義貞、義顕、義興、他にも多数。
気のどくだった。成功したのは頼朝、高氏(尊氏)という義という名前関係ない人だった。 何かの因縁かな?
ところで、うちの大叔母が、昔話してくれた、村に伝わっている義貞の最後についてだけど、
最後、自分の首に刀をあてがい、倒れこんで、自分で首を切って、
その首を泥田に自分で抱えこむようにして埋めたそうです。
義宗のいる村に戻ってきた家来が伝えたのかな?
本当の話だったとしたら、スゴイ気概を持った人だね。
他人に切られたくないのと、武将として自分の首をさらされたくないプライドだったと思う。
>537
「太平記」だと斯波高経が尊氏に嫌われる理由の一つとして、
その鬼切と鬼丸を素直に差し出さなかったというのがあった。
「おいおい、鬼丸は新田義貞が北国落ちの前に日吉大社に奉納したんじゃなかったのか?」
という突っ込みができるのも「太平記」らしいところだが。
>538
義家もなぁ‥‥。
晩年は実弟と対立するわ、嫡男の義親は謀反人になってしまうわ、
後をついだ四男(義忠だっけか?)は暗殺されるわで
あまり幸福な人生とは言えない気がするが。
普通、新田中村っていえば、
仙台藩士だけどなぁ。
なんか偶然ってすごいね。
542 :
ひみつの検閲さん:2025/01/09(木) 18:04:51 ID:MarkedRes
543 :
日本@名無史さん:04/09/10 00:26
インチキ新田が岩松に嫉妬してるな。
新田岩松氏の起源が新田の相続。
岩松氏、京兆・礼部の関係解れば新田宗家としても別に問題ない。
素朴な疑問なんだが、
新田貞方は実在の人物なのか?
>543
嫉妬って・・・馬鹿ですか?(w
546 :
日本@名無史さん:04/09/10 06:50
547 :
新田中村の子孫:04/09/12 02:23:09
箇条書きでいいかな。
・系図は残っている。2メートル以上のもので、漢字が楷書体で、よく
わからないけど。高橋という名前はあった。しかし、うちは村上源氏ではない。
・長い歴史の流れで、うちが仙台藩主という話はない。
・僕自身が現在41歳で右と左の世界でトップになっている。
基本的に、あまり深く突っ込まないこと。死にたくなければな。
それは言わずもがなだな。
548 :
新田中村の子孫:04/09/12 02:27:13
>基本的に、あまり深く突っ込まないこと。死にたくなければな。
侮辱するなよと言う意味だ。
>基本的に、あまり深く突っ込まないこと。死にたくなければな。
鮫島っぽいな
550 :
日本@名無史さん:04/09/12 09:47:39
>>547 すまん。意味不明だ。
つーかさ、先祖自慢なんか愚の骨頂だよ。
552 :
新田中村の子孫:04/09/12 12:03:05
変なカキコして反省してます。昨夜は虫のいどころが悪すぎたので。
プライドが高すぎなのと、怒りっぽい性格に自己嫌悪してます。
もしかして、先祖もそうだったのかな。
もう一度、自分が普通の人であることを肝に銘じて、
まじめに社会的にためになるように生きていきます。
みなさんもがんばってください。
>>547 殺せるものなら、
やってみろyo!
ヴォケが!!!!!!!!!
554 :
日本@名無史さん:04/09/13 03:35:20
右と左の世界って何?
左右田さんのアレ?
556 :
日本@名無史さん:04/09/13 12:21:03
新田中村の子孫 ウゼー
松平斬九郎は実在したんですか?
559 :
日本@名無史さん:04/09/21 06:31:48
戦国時代の岩松の家紋は大中黒だったのかな?
>>559 新田岩松氏は
五三切or十六葉裏菊
どちらも新田義貞が朝廷より賜った紋。
因みに新田横瀬由良氏は
五七桐orニ引両
561 :
日本@名無史さん:04/09/22 00:34:55
>>560 ありがとう。
岩松に限らず、山名とか里見、大館なんかも
独自の家紋を持つのは義貞の鎌倉攻め以降なのかな?
みんながみんな大中黒じゃ、
南北朝時代は両家の一族が入り乱れて戦うわけだから紛らわしいもんな。
562 :
日本@名無史さん:04/09/22 02:53:30
漏れの会社の上司で新田義貞の末裔と言う人がいる。
その人は祖父からその事をきいたらしい。
なんでも、祖父は水戸市か千葉市出身らしく、明治時代か昭和の始めぐらいまで鎧や刀が実家にあったらしい。
でも茨城や千葉に新田義貞の子孫なんていないよな(w
まぁ、漏れは日本史には疎いけど、このスレ見てその話を思い出した。
563 :
日本@名無史さん:04/09/22 23:37:37
水戸だったら、水戸徳川家の家臣の末裔とか。
徳川家も新田流ってことになっているし
水戸は南朝正統論の本家だから、
新田子孫として取り立てられた可能性はあると思うけど。
564 :
日本@名無史さん:04/09/23 02:23:26
562です。563さん、レスを有り難う。
その人の苗字は新田。
新田の苗字で新田義貞の末裔と称するって事は
それなりに格式ある家の人なんだろうね!由良家か岩松家の一族の人かな?
その人は品も学もあるし。
565 :
日本@名無史さん:04/09/23 06:36:01
ぽかーん
566 :
日本@名無史さん:04/09/23 08:21:50
まあ、ここでわかったことは
>>562の上司が新田義貞の子孫かどうかではなく、
>>562が本当に歴史に疎いということだけだな。w
568 :
日本@名無史さん:04/09/23 09:00:34
569 :
日本@名無史さん:04/09/24 01:08:19
本物の
>>562だが、
>>564って、お前は一体誰なんだ(w
まぁ、
>>563の話からすると一応新田義貞の末裔(自称)のお侍さん
の流れの家の人間か。
まぁ、テレビの再放送で新田義貞の末裔さん(石川県の地主)が出演
してたけど、新田義貞の末裔と詐称するのは百姓から旗本までいろいろ
いるんだね。
570 :
日本@名無史さん:04/09/24 01:09:49
必死だな
何つーか…。
○○の子孫とか言う奴が出現すると、
いつもスレが荒れるな。
ここだけの話だが、俺は哺乳動物の子孫だ
俺は自信がない。
575 :
新田氏もうだめぽ:04/09/27 22:05:44
576 :
新田氏もうだめぽ:04/09/27 22:09:22
TBSの報道によると、出会い系サイトで知り合った男女に女子生徒を紹介され、
月10万円で囲おうとした、とのこと。
>>571 自分の出自にコンプレックスもってるやつが嫉妬であらしてるんだろな
まあゴミらしい行動だよな
>577
だよな。子孫云々がネタであれ法螺であれ、そういう話題をまず楽しめる度量の広さこそ歴史愛好者なら欲しいものだ。
脊髄反射で嘘だの詐称だのと決めつけるだけじゃ何一つ盛り上がらんよ。
移封や転封、引越しで水戸だか千葉にいたんじゃないのか?
>580
なら何か面白いネタ出せよ。
>>582 無理無理。
馬鹿なんだから、他所で他の人が書いてたことをパクってくるぐらいしか出来ない。
寄生虫なんか相手にしなさんな
547=577=579=583
必死だな(p
>585
こんな匿名の掲示板で自演認定したってしょうがないだろ。
面白いネタor歴史ネタが投下できないならさっさと消えてくれ。
ちなみに俺は579だが582でもある。あとは別人。
わかってる当事者からすればおまえみたいなのは滑稽なだけよ。
>>586 >面白いネタor歴史ネタが投下できないならさっさと消えてくれ。
んじゃ、まずお手本を見せてくれ。
>>587 結局なんのネタも提供できねーんじゃんw
>>585 この推理なんかみても幼児まるだし。無視しよう。
589 :
日本@名無史さん:04/09/29 22:44:51
このスレ読んでると、日本人が日本の歴史を学んだりすることの無意味さを思い知らされますね
590 :
日本@名無史さん:04/09/30 05:49:49
>>585 新田の子孫がそんなに羨ましいの?
嫉妬が見え見え
まあお前の出自と性格と頭が悪いのはよくわかった ワラ
591 :
日本@名無史さん:04/10/07 04:38:42
新田氏の大中黒も足利氏の二引両もシンプルな家紋だけど
やはり古い名門ならではのシンプルさなんだろうね。
成立したのはいつの時代かな?
どちらも似ているし、双方で何か話しあって決めたんだろうか?
法律板行ってもプログラマー板行っても経済板行っても
知識ばっかで頭の中子供な連中は腐るほどいる。
593 :
日本@名無史さん:04/10/09 13:15:18
>>589 戦国時代より前の歴史は学ぶ意味が薄い
特に南北朝以前は不要。
>>593 つまり君は戦国時代以前に価値を見出だす能力がなく、
戦国時代以前の知識も理解も持ち合わせていないと
自ら吐露しているわけだ
>>592 お前みたいに知識もない頭の中子供よりはましだなww
アメリカでは歴史が短いので、生徒は助かる 日本は損だな
>>595 自分の子といわれたかと思った?( ´,_ゝ`)
>596
そうだな。
>572
みんなそうなりますよ。
600get
また自作自演臭くなってきたね
新田子孫に嫉妬してる大阪の朝鮮人ですか?
602 :
日本@名無史さん:04/10/16 04:42:41
>>591 源義家の頃の源氏は無地の白旗だった。
頼朝が挙兵した時に畠山重忠が無地の白旗で参陣してきたので、
頼朝が源家でもないおまえがなぜその旗を使うのかと咎めたところ、
その旗は先祖が義家から勲功によって賜ったもので代々大切にしてきたものだと答えたので
特に許されたということだから、
おそらく頼朝が権力を握った後から他家は無地の白旗は使いにくい雰囲気になっていたと思われる。
そこで新田氏も足利氏も頼朝を憚って白地に何か目印を入れようという話にしたのではないか?
>602
太平記には鎌倉攻めを終えた新田義貞が八幡宮に奉納された源義家の白旗を検分するシーンがあって
それによると無地の白旗ではなく二引両だった、とあるわけだが。
これが事実だとすれば義家の時代からすでに二引両があったことになるね。
まあ太平記の言うことだから史実かどうかは何とも言えんけど。
工房だった頃の同級生にM平クンがいた。
家康のリアル子孫だけど、いいやつだった。
家に伝わる刀で二人でチャンバラとか時代劇ごっこやってたらM平クンのお母様に見つかった。
怒られた。
605 :
日本@名無史さん:04/10/27 03:16:59
>604
高校生にもなってチャンバラごっことは‥‥立派なご先祖もさぞかしトホホってな心境だろう
>>605 真剣でチャンバラごっこなら、御先祖様もトレビア〜ンな気持だろう。
607 :
日本@名無史さん:04/10/27 20:40:49
最近新田さんの本を読んだけど、なんか明治になって新田の末裔だからと新田に姓を変えた家で九州出身だとか書いてた。
608 :
日本@名無史さん:04/10/27 20:48:08
>>602 佐竹についても、同じような話があります。
頼朝の奥州征伐の時、佐竹家が無地の白旗を掲げて参陣したところ、頼朝がそれを禁止し、持っていた白扇に黒丸(月)を描いて渡し、その図柄を旗に描くことで許されたという。
で、佐竹家はその後も「扇に月の丸」を家紋としたそうです。
609 :
日本@名無史さん:04/10/28 00:47:10
鎌倉の人々の間では、
将軍<北条氏<<足利氏<<<新田氏という家格があった模様。
足利氏は、幕府関係者中では源氏の正統を継ぐ地位ではあったが、
家格そのものはむしろ「北条氏の姻戚」であることが大きかったはず。
たぶん、鎌倉時代半ば頃が転換期だった?
足利氏とちがって北条氏と血縁のない新田氏は、
幕府関係者や関東の御家人中では格式が非常に低かったわけ。
京都から見ると足利と同様の源氏支流だけど。
610 :
よしみつ:04/10/28 01:14:53
, -'TT >、__ノ!
/ミ、,ィ‐'‐、;;;;;;;;;;;;;;;|
/三,l _, -=---<_
l三,ノ´;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`'' 、
|=/;;;;;;;;;;;/`'''ー- 、,ィ'゙ヽ',
|ヲ;;;;;;;;;;;/ ° °',!
〉;;;;;;;;;;;;;`フ __,, 、 , ,.._, 〉
/;;;;;;, -、;;/ `ャッ'フ ) 〈{ノ/〈
l;;;;;//ヽ, l! 、  ̄/ lヽ' ノ
',;;;;', 、rノ `゙" r、_,j 'l
_ゝ;;ヽ、_/ 〃~~___, ~'!l ワシの婆ちゃんが北条じゃ。
__ 7ラ‐ゝ l l! - l l
/\: : : ̄/ヾ、 `''ー|、 /! _,l''
_, -‐'/ `- 、/:::::::\ ! j`ー';;`フ!: `ヽ_
_, -‐''´ / \ ` 、::::::::\、 ノl;;;;;;;;;;,;l!:l: :./! ` ー-、_
、/ヽ | \ `ー 、:\、 ヽ;;;;;;;;;|゙:::l / l ``i、
/ ヽ: : ヽ l `'-、 ` -、_ヽ 〉i!/::/ / l: iヽ
/ ヽ : ヽ `ー-、_ ` ー' 、,/ / l: :lヽ
/ ヽ: : ヽ `ー-、_ / / l: :! ヽ
/ ヽ : ヽ `ー-、'´ l: :! \
イチローはアニメの一休さんが好きらしい
613 :
日本@名無史さん:04/10/30 00:44:19
江戸時代、新田の殿様(岩松)書いた猫絵ネズミ除けの神札。
明治以降も神格化された血筋。
足利は只の名家。
足利家も江戸時代に内職でマムシ除けのお札を作ってたよ
616 :
日本@名無史さん:04/10/30 18:25:26
俺の考えたキャラクター。
足利小五郎。23歳。身長185センチ体重70キロ。顔は超美形。
車輪眼と白眼を両方持っていて完璧に使いこなせる。
しかもチャクラは無尽蔵と言っていいほど巨大で、九尾とかも一発で倒せる。
螺旋丸とか千鳥とか1億人多重影分身とか召喚とか余裕で使える。
しかも影分身一人一人に本体と全く同等の力と思考力を持たせることができる。
あと言い忘れてたけどIQは500以上で測定不能。実は500よりもっとある。
部下は50億人以上いて、そのなかの一番のザコでも三忍とか余裕で倒せる。
ただしそのなかの一番の側近は裏切ろうとしているが、
俺は余裕でそのことを見抜いた上で使っている。
あと設定としては、過去いろんな戦いで大活躍してきたという経歴を持つ。
いろんな最強の称号を持っている。
あと本気になったら他人の能力とか全部吸収できる。
俺の考えたキャラクター。
新田彦四郎。23歳。身長185センチ体重70キロ。顔は超美形。
軍神の実と勤皇の実を食べていて天皇に完璧に忠実で最強に強い。
しかも体は首が切れても死なないぐらい無敵で、ミホークとかも一発で倒せる。
将軍とか摂政とか頼まれるし1億人影武者雇うとか余裕でできる。
しかも影武者一人一人が本物と全く同等の力と思考力を持ってる。
あと言い忘れてたけどIQは500以上で測定不能。実は500よりもっとある。
部下は50億人以上いて、そのなかの一番のザコでもアーロンとか余裕で倒せる。
ただしそのなかの一番の側近は裏切ろうとしているが、
彼は余裕でそのことを見抜いた上で使っている。
あと設定としては、過去いろんな戦いで大活躍してきたという経歴を持つ。
いろんな最強の称号を持っている。
あと本気になったら他人の能力とか全部吸収できる。
暇人。
620 :
日本@名無史さん:04/11/07 18:33:17
>>616&618
藻前の脳ミソはチンカスでできてんじゃねーの?
他所でやれ。アホ!
俺の考えたキャラクター。
ジョニー楠木。57歳。身長157センチ体重78キロ。顔は左とん平にチョイ似。
近眼なのに老眼。仕方なく、遠近両用眼鏡を使っている。
ちなみにHOYA バリラックス。
ペプシのオマケのガンダムを集めている。会社の後輩に余ったペプシを
買わせるので、結構嫌がられている。
最近 、スヌーピーのオマケに変わったので、メーカーに迷惑電話をかけてるらしい。
あと言い忘れてたけどIQは1,000以上で測定不能。実は1,000よりもっとある。
でも掛け算九九の7と8の段は苦手。 その日は風邪で休んだ為らしい。
ただし7x7、7x8、8x8以外は、例えば7x5では無く、5x7と置き換える事で
難無く対応しているらしい。
あと設定としては、過去いろんな学生運動で大活躍してきたという経歴を持つ。
いろんな逮捕歴を持っている。
あと本気になったら他人の手柄とか全部吸収できる。
622 :
日本@名無史さん:04/11/13 07:40:45
>>621 ‥‥おまえさぁ、そんな人生でむなしくないか?
カノジョくらい作れよ。な?
>>622 オマエの為に考えたキャラクター。
神保三郎、アダナはチンポシャブロウ(
>>622)。
19歳。身長165センチ体重95キロ。顔は宅八郎。
しょっちゅうカップヌードルを食べていて、親に完璧に忠実で7歳下の妹には強い。
しかも体はパンチ喰らっても痛くないぐらいデブで、体脂肪とかも凄くある。
力士とか関取団の役とか頼まれるし、かっぱ寿司で50皿喰うとか余裕でできる。
しかも一皿一皿が\100と全く同等の価値観を持ってる。
あと言い忘れてたけど包皮は10cm以上で測定不能。実は10cmよりもっとある。
精子は50億匹以上いて、そのなかの一番のザコでも卵子とか余裕で倒せる。
ただしそのなかの一番の側近は受精しようとしているが、
彼は余裕でそのことを見抜いた上で中出ししている。
あと設定としては、過去いろんな風俗で大活躍してきたという経歴を持つ。
いろんな罵倒の称号を持っている。
あと本気になったら他人のマン汁とか全部吸収できる。
>>623 ‥‥おまえってやつは‥‥俺のためにそこまで‥‥
ありがとう!!
おまえはなんて暇でイイやつなんだ!!久々に泣けたぜ!!!!
626 :
日本@名無史さん:04/11/14 18:49:13
足利と新田との争いの中で新田は一族の中から山名や大舘など足利方に
ついた分家もあるのですが、足利から新田についた分家はないのですか?
627 :
日本@名無史さん:04/11/14 19:00:18
桃井
628 :
626:04/11/14 19:13:47
桃井は観応の擾乱で直義方について没落したのじゃないのですか?
629 :
日本@名無史さん:04/11/14 23:22:07
畠山と同じように足利の分家でない
桃井が存在していたと言うが、
どういうことだ?
630 :
日本@名無史さん:04/11/16 00:09:04
>>629 誰かが平姓畠山氏に足利氏から婿に入ったのと同じように
もともと御家人だった(他姓の)桃井氏を継いだとか言ってました。
(2chでちらっと見ただけだが)
631 :
日本@名無史さん:04/11/16 04:49:51
>>626 関東の争乱で、石塔義房と上杉憲顕が新田義興・義宗兄弟についたことがあったような‥‥
632 :
日本@名無史さん:04/11/16 04:55:50
新田氏は一瞬だけで、繁栄しなかったけど
新田氏の分家の山名氏は、長きに渡って名族だったよね。
山名氏と聞いて、新田の庶流なんて印象が薄いくらい
山名氏って、新田氏から独立しすぎた存在。
633 :
日本@名無史さん:04/11/16 04:58:04
ところで、足利氏の分家の中での家格って
どういう順番だったんですか?
斯波、吉良あたりは、家格高そうですけど
細川って、室町時代に入るまでは、家格が低かったそうですが...
634 :
626:04/11/16 16:26:17
レスサンクスです。新田と違って足利の方が分裂が少なかったのは足利に
ついていった方が良いと思ったのでしょうね。
>>633 前スレで読んだのですが斯波は管領は家臣の仕事だと言って最後まで渋って
たそうです。
探題をしたのが一門格で守護をしたのが家臣格じゃないでしょうか?会社
で言うなら探題は支社長で守護は支店長だと例えれると思います。
635 :
日本@名無史さん:04/11/16 21:06:14
>>633 家格は時代によって変わるでしょうからいちがいには言えないと思います。
鎌倉期だと
(1)足利本家>斯波家 吉良家(守護クラスで本家が若かったりした場合、本家の代理をやったりする。)
(2)その他の庶流家
*畠山家は有力御家人の家を継いだことになるので(1)と(2)の間くらい?
足利家からは独立していたのかな?
(1)と(2)の間には大きな格差があると思いますけど、(2)の中の格差は(あるはずだけど)どうでしょうね。
所領の大きさなのか、本家との血縁の濃さなのか、御家人・非御家人という身分の差なのか
南北朝時代は有力な家があっというまに没落したり、逆に興隆したりするので
本人の才覚次第というところだと思います。
636 :
日本@名無史さん:04/11/16 21:09:31
勝てば官軍というけど尊氏は後世まで逆賊扱いだったな。さすがに室町時代は
尊氏は官軍扱いだっただろうけど。
637 :
日本@名無史さん:04/11/17 01:19:41
>>633 斯波はともかく(室町時代の)吉良って家格高いか?
一応、守護ではあったがそんな家は他にもあるし、
幕閣の要職を務めたわけでもなく、これといって目立った功績や活躍も見当たらない。
おそらく「信長公記」などで斯波、吉良、今川が「名門」ってことで併記されていることから来る、
後世の錯覚では?
大作『足利一門守護発展史の研究』
を著した小川信先生が亡くなられたとか
639 :
日本@名無史さん:04/11/17 14:49:13
吉良の家格が高いのは、なんとなく分かる。
比較的に足利家から分かれるのが遅かったのもあるが、
それ以上に、三河国という足利の重要な所領の領主だし...
足利宗家が関東の領地を管轄して
そこから遠国で、同じ様に重要な三河の国を任されたから
初代の長氏は、宗家を継いだ弟の泰氏の庶兄とも
言い切れないくらいの重要な感じだと...
つまり、父の義氏や幕府から、
宗家の泰氏と同様な扱いを受けていた感じ...
640 :
日本@名無史さん:04/11/17 14:56:11
641 :
日本@名無史さん:04/11/17 15:12:24
斯波氏の家格に秘密。
それは、北条氏内の家格の対立でもある。
斯波氏初代の家氏の母は、名越流北条氏出身。
宗家を継いだ、弟である頼氏の母は、北条得宗家出身。
兄の家氏よりも、得宗家の母を持つ弟の頼氏が、宗家の座を射止めた。
しかし、兄の家氏の母親の家格も、得宗家と覇権を争うような家格だったわけで、
家氏は内心面白くなかったはず、実際、その後、足利宗家の当主が若くして死んだので
家氏が宗家に変わって、足利家を引っ張ることが多かった。
北条氏内の対立。泰時・朝時兄弟の対立。
北条泰時(北条義時の長男、母親は出自の曖昧な低身分出身)
名越朝時(北条義時の次男、母親(義時の正妻?)は名門の比企氏出身で、
源頼朝とのパイプが強かった。同腹には、北条一族の有力者・重時が居る)
で、長幼の序で、泰時が家督を継いだが
母親の身分で勝る、朝時には不満だった。
642 :
日本@名無史さん:04/11/17 16:32:24
>>641 こりゃまた根の深い経緯があったもんだな。
こんな風に斯波氏が代々宗家に不満を抱いていたのが事実なら、
後醍醐天皇は斯波高経を建武政権に引き立てるなどして、
足利一族の内部分裂を画策すれば良かったのに。
まぁ、「たかが武士が」で、よく知らなかったんだろうけど。
643 :
日本@名無史さん:04/11/17 19:43:42
家格では斯波氏は別格。
斯波氏は南北朝時代も
足利を名乗ることが多かった。
文献では、斯波高経は、足利高経って出てくるのが殆ど。
吉良は?
645 :
日本@名無史さん:04/11/17 20:20:06
>>644 吉良も重要視されていたと思う。
吉良の初代・長氏は、側室の腹といえ長男だし...
近世の伊達家に例えると
宇和島藩の伊達家みたいな存在だと思う。
>>637 吉良・渋川・石橋は、
いわゆる「御一家」
として室町時代高い家格を誇った。
>>640 ちょっと強引だな。
647 :
日本@名無史さん:04/11/17 20:25:38
家柄は時代によって変わる。
クロスボーンガンダムのセリフにこんなのがある。
「貴族というのは何十代の血筋があって・・・」
「じゃあその何十代か前のご先祖さまはなんで貴族なんだい?」
「あ、そうか」
家柄低いと言われる執権北条氏も執権を努めた実績から室町以降も名家だったといえる。
農民あがりの豊臣家なんかも典型例。
648 :
日本@名無史さん:04/11/17 20:25:48
大河ドラマの北条時宗では、
北条得宗家、名越北条家、足利家の
三家の微妙な関係を取り上げていたな...
あれでも、足利家の家督相続や北条家内の権力闘争で
この問題を取り上げていた。
これって、正に
斯波氏の創世記の話。
649 :
日本@名無史さん:04/11/17 20:26:14
>>646 江戸時代の御三家や御三卿みたいなものなのだろうか?
そういえば、足利将軍は鎌倉公方以外に足利姓の分家がないが、
「御一家」が一門としての役割を果たしていたのか?
650 :
日本@名無史さん:04/11/17 20:29:40
あと、大河ドラマの太平記でも
足利尊氏が京へ攻め込もうとしたと時に
京に近い足利領(三河国)の領主として
吉良氏、今川氏が重要な役目で出ていた。
651 :
日本@名無史さん:04/11/17 20:31:40
大河ドラマは北条時宗は持明院統とダイトクジトウ(変換できん)の争いは描かれなかった。
当時の重要政治問題のはずだが。
652 :
日本@名無史さん:04/11/17 20:34:54
>>649 足利将軍家(義詮)と
鎌倉公方家(基氏)の
2家だけで
そこから、いくつか分家が出ている。
ちなみに、直冬(尊氏の庶長子)は、
足利宗家とは敵対関係で、一門って感じじゃないと思われ。
653 :
日本@名無史さん:04/11/17 20:42:05
ここの住人は知っていると思うが
尊氏には、高義という兄が居て
貞氏の次の当主は高義だったと思われる。
実際、体が弱くて早逝するまでの短期間、
足利家の家督を貞氏から譲られた記録もある。
高義の母親は、北条一族の者。
尊氏・直義の母親は、上杉家の出身。
よって、高義は長男であり、正妻の子でもあった。
しかし、不幸にも高義は早く死んでしまった。
高義には2人?男子がいたが、出家させられていたみたいだ。
高義が健在なら、足利家の正統な当主だったかもしれない。
>>653 高義が体が弱かったなんて記録は
見たことがないのだが、
もしあるならソースキボンヌ
655 :
日本@名無史さん:04/11/17 21:13:40
>>642 同感。
岩松經家がもう少し長く生きていれば、それを実行していたかもしれない・・・
などと、九州に流れた岩松の端くれの自分は思ってます。
ついでに言えば、名越高家を早い時期に失ったことは、建武政府や新田にとっては痛恨だったと思う。
のちの建武政府が、北条江間の宗家に彼を据えて名跡を残させたなら、足利を相当程度御すことができたし、
それに、尾張流足利氏と名越一門には親近感が当時もあったみたいだし。
むろん、兵部卿親王が第一の鍵だったのは当然だけど。
なんだか妄想スレと化してるな…。
なんで岩松経家がそんなことせにゃならんのだ?
名越高家?アホちゃうのん。
足利高義、高氏、高国だといかにも兄弟という感じ。
この「高」は北条高時からなのかな。
尊氏と直義が争わなかったら、直義の家系が関東公方家みたいになったのだろうか。
西園寺家と得宗泰家のクーデタは、露見したためにそのような壮大な戦略があったことも信じられている。
でなければ、刑部時興の隠密活動なんて妄想そのものだったでしょう。
抱いたまま顕れなかった考えなり政策については、名、出自、顕れた交渉関係、家伝から類推してもよかろうと。
「家」は名越に表れた通字、「経」は頼経を想起させ経時も。
名越がこの「経」を用いないのは、頼経・経時が執権職を光時に譲ろうとした過去かららしい。
「高」は高時ではあるが、勢威が同時代の政権に認められていることの誇示。
高経と經家、高家。
吉良氏は武家でありながら、昔っから軍事面ではあまり活躍してないし、
期待もされていない印象がある。特別な役割があったのでは?
662 :
日本@名無史さん:04/11/18 17:27:53
>>646 >吉良・渋川・石橋は、いわゆる「御一家」として室町時代高い家格を誇った。
これよくきくんだけど、そもそもの出典とか根拠は何?
渋川氏なんて直義派で没落したんじゃなかったっけ?
663 :
日本@名無史さん:04/11/18 18:20:19
ちょっと自分で調べてみたのですが、石橋は守護とかにもなってますが、
その後は活躍してないのですが、京都にいて官位が高かったのですか?
吉良、渋川も上杉本家と一緒で本家は京都にいて徳川御三家の手本に
なったのでしょうか?
664 :
日本@名無史さん:04/11/18 18:34:45
寛政重修諸家譜を見ると、室町期の吉良の歴代当主は無位の者が続いている。
戦国期には三河の領地にいたようだが、三河の守護だったわけでもなく、
官位や役職からはあんまり名門という印象はない。
>>662 「長享元年九月十二日常得院殿様江州御動座當時在陣衆着到」
(『群書類従』巻第511)
御一家として、
吉良殿
渋川殿
石橋殿
が挙げられている。
666 :
石橋尾張守:04/11/19 00:52:34
>>649 >江戸時代の御三家や御三卿みたいなものなのだろうか?
将軍職継承権は想定されてなさそうだから、ちょっと違うと思う。
>そういえば、足利将軍は鎌倉公方以外に足利姓の分家がないが、
>「御一家」が一門としての役割を果たしていたのか?
足利家当主幼少時(例、義教薨去後・義勝将軍就任前)に、一門を代表するような役割を果たしてたらしい。
667 :
石橋尾張守:04/11/19 00:53:58
>>657 あなたの説おもしろいと思う。
>尾張流足利氏と名越一門には親近感が当時もあったみたいだし。
のソースは?
668 :
石橋尾張守:04/11/19 01:00:04
>>664 鎌倉時代には、足利家時・貞氏が従五位下止まりなのに、
吉良長氏・貞義が従四位下まで上っているのは興味深い。
まぁ家時は若くして自刃したからだろうけど。
守護に就かなかったのは、「御一家」が守護より格上だからだと思う。
尤も「花より団子」というのが真理なんだけど。
669 :
石橋尾張守:04/11/19 01:01:30
>>667 補足。「当時」ってのは高経・高家の代ってことですよね。
670 :
石橋尾張守:04/11/19 01:10:26
>>663 石橋は京都←→岩代四本松。
吉良は京都←→三河吉良。
澁川は京都←→九州。
(澁川であれば、探題として鎮西に赴き、退任後は帰洛する、みたいな)
恥ずかしながら私も御一家についてはよく知らない。
(いつから列せられたのか、とか)
後年、徳川秀忠が石橋・吉良・品川(今川)を高家に列したのがこの制度の嚆矢だそうだけど、
吉良は有名だし品川も最近本が出たけど、高家石橋についてどなたか知ってたら教えてください。
671 :
石橋尾張守:04/11/19 01:12:35
>>665 『大舘常興何とか』にも御一家の石橋・吉良・澁川への書状は三管家に準ずる
というような記述がありました。
うろ覚えで失礼。
672 :
石橋尾張守:04/11/19 01:20:18
>>663 「御一家」と言われる割には、
石橋は左右衛門佐
吉良は左兵衛佐
あたりが概ね極官で(澁川もそのクラス)、
兵衛督・衛門督クラス(斯波・畠山嫡流・山名)とか
京大夫・修理大夫クラス(細川・能登畠山・赤松等)より
官途としては下と言わざるを得ない。
石橋家では、柳原権大納言の女婿になった人物は従四位下となり昇殿を許されているが、
官途は尾張守・右衛門佐。
673 :
日本@名無史さん:04/11/19 03:02:21
>>672 目立った功績も無いわりに左右衛門左や左兵衛左になれたんだから、
(まぁ石橋和義はそこそこ功績あったけど)
一門だからこその厚遇といえるんでないの?ようわからんけど。
674 :
日本@名無史さん:04/11/19 03:21:29
>>672 御一家というのはいつもその三家に限って使われている言葉なの?
>>667 文献による証左はできません。浅学の身ですのでご容赦ください。その上で・・
1.尾張殿初代家氏が、名越朝時の孫であること。
2.なぜ足利「高家」という名ではなく(「家」は当時の尾張家の通字でもあった)足利「高経」なのか。
高経の弟に「時家」がいます。
「高時」をレスペクトするなら「高家」「時家」兄弟でしっくりきますが・・・
これは、やがて名越の若君が名乗る予定の名越北条「高家」のために、いわば空けておいたのではないか
と推測します。
3.名越は時章以降「尾張守」に代々補任されていること。1245年、つまり光時没落の年に時章が、
1265年には時章から見て甥の足利家氏が、時章が1272年に殺された後、子の公時が1274年に・・・という具合。
「足利」世良田頼氏「三河守」補任後の、足利家当主の「空位」時代には、どちらも朝時娘を娶ったという意味で
義兄弟だった世良田頼氏・足利家氏が1272年の頼氏没落を画期として、それぞれ足利家の対外代表的位置に交代で
就いたように思われます。(世良田が足利の代表といえるほどだったかは疑問もありますけれど、わたしはそう見ます)
頼氏没落を契機に一門の代表格を務めたといえば、足利に尾張家氏が、そして新田に新田経兼がいました。
その子である岩松政経(経家の父)は、世良田頼氏の姪の子ということになる。
名越朝時が越後守護だったとき、その守護代に相馬義胤がいたようですが、娘の「土用御前」なる人物がちなみに経兼の母です。
>>675 失礼。「家氏の父と世良田頼氏が義兄弟」に訂正します。
>>668 吉良長氏・貞義の四位にはなってないぞ。
ソースは?
>>675 あかん…。ダメや。お前。
渋川氏は尊氏の弟や息子の正室をだしているのだから、もっと表に出てきていいようなのに影が薄い気がする。
679 :
日本@名無史さん:04/11/19 14:57:00
>>670 徳川家が吉良家を高家筆頭にしたのは
足利家の名門というのもあるが、
おそらく、徳川家の世良田源氏への系図偽称に関与したから、
だと思う。
680 :
日本@名無史さん:04/11/19 15:19:48
>679
三河吉良は源氏の名門として有名、三河、知多半島あたりは
昔から源氏の金城湯池
家康が征夷大将軍になるにあたり、源氏である必要があった
そこで、三河吉良氏の系図を借りて、その中に得川があったので
それを借用した と聞いている
681 :
日本@名無史さん:04/11/19 17:13:42
682 :
日本@名無史さん:04/11/19 17:21:55
>>681 つまり、徳川氏どころか得川氏なんてのも存在していなかった。
家康の偽証系図には
新田宗家に継ぐ名門で、新田氏が鎌倉幕府に咎められていた時期に
新田宗家に代わって総領を任されていた世良田氏の系図を
引用している。
この世良田氏は、三河の国にも関係が深い一族。
しかも、新田宗家とは違い、足利氏とも関係が深い。
683 :
日本@名無史さん:04/11/19 18:01:41
家康の清和源氏への執着は、源氏長者の地位への執着ではないか?
秀忠に征夷大将軍の地位を譲っても源氏長者の地位は譲らなかった
室町期などの日本の外交は源氏長者の名称で行われていた
つまり、諸外国では日本の真の支配者は源氏長者と見ていた
ということになる この説はどこかの大学教授が本を出していた
そろそろ忠臣蔵の季節ですな。
685 :
日本@名無史さん:04/11/19 18:55:44
新田氏の末裔と称する徳川が足利支流の吉良の系図を借りるというのがわからん。
686 :
日本@名無史さん:04/11/19 19:02:24
新田義貞は一生戦いに明け暮れたな!
俺はそんなのいやだ!
HappyEndで終わりたい。
687 :
家康:04/11/19 19:03:19
俺の考えたキャラクター。
世良田親季
以下略
これが真相
688 :
日本@名無史さん:04/11/19 19:04:39
>>685 足利系の系図は偽造が難しかったんじゃないの?
室町期は、足利氏の全盛期みたいな感じだったし...
偽造しても ばれ易かった。
でも、新田氏は、南北朝後、大部分が行方知らず状態だった。
そこで、新田系の兄弟に当たる足利系で
地元の三河の吉良氏に、系図の偽証を依頼した。
ちなみに、三河国には、かつて新田系の名門・世良田氏が落ち延びて
身を隠していたところだった。つーことだろう?
689 :
日本@名無史さん:04/11/19 19:07:38
>>681 そのサイトの検証も滅茶苦茶だな。
史料を自分に都合の良い解釈しかしていない。
義季の史料で、最も古い史料では、
「新田次郎義季」で、
世良田を称していることが史料上分かるのは、
頼氏の孫満義から。
少なくとも義季段階では
世良田も名乗っていた、という確証はない。
そもそも鎌倉初期は名字ではなく、
あくまで通称でしかないのでは?
691 :
日本@名無史さん:04/11/19 19:22:18
家康は源氏を名乗るにあたって吉良家から系図を譲り受けたとよく聞くが、
吉良家の持ってる系図なら、当然足利一門の系図ではないのか?
それを譲り受けて(借りて)、なんで新田の子孫になるのか不思議でならない。
「足利支流吉良家」の系図ではなくて、「清和源氏」全体の系図ということか?
692 :
日本@名無史さん:04/11/19 20:09:51
スレ違いになるけれど、三河は足利の第二の本国ともいってもいい所だし、
将軍家から分家までイパーイ残っていたから名乗りづらかったのじゃない
だろうか、新田なら本家から分家まで殆ど滅んでいるし、他の尾張や美濃源氏
は無理があると思われる。
岩松家の子孫から系図を借りようとして断られて20石扱いにしたと過去スレ
読んだ記憶があります。
693 :
日本@名無史さん:04/11/19 20:21:18
幡豆郡あたりは、源氏系が逃げ込むのにちょうどよいくらいのところ
だったのかな?源氏の金城湯池で潜居するには、いい環境だったみたい
うちの先祖も一時は幡豆郡にいたみたいだ
逃げ込んで殺されるんだがな
695 :
日本@名無史さん:04/11/19 20:37:11
世良田とか、松平とか
浪合記とかいう史料に出て来るんだよな。
この史料が、どこまで真実なのかは疑問だけど...
その史料では、世良田氏が三河へ身を隠したつーのが出てくる。
それと、松平泰親とかいう家康の先祖らしき人物も出てくる。
家康の先祖で明確なのは、泰親の子ということになっている信光から。
だから、その松平泰親の記述は、非常に興味深い。
ちなみに、この松平泰親という人物は、源氏とは何の関係も無い
ただの金持ちとして出てくるW
696 :
石橋尾張守:04/11/20 10:18:36
>>674 室町時代に「将軍家御一家」といえば、石橋・吉良・澁川です。
>>675 あなたの説は実に興味深いです。
私の論文(というか雑文)が丁度家氏関連に差し掛かったところで貴説を拝読したことに縁を感じます。
確かに高経の「経」はどこからきたのか謎ですね。
世良田頼氏が失脚した政氏に代わって新田を代表していたのは知ってましたが、
足利氏をも代表していたというのは初耳。
やはり自由出家の咎で退隠していた泰氏が表に出るわけにはいかなかったのかな。
世良田頼氏は泰氏の女婿ですか。
でも家氏も成人していますから、何も女婿ではなく実子で良いのではないかと思うのですが。
それに1272年と言えば、家氏の伯叔父名越時章・教時が追悼された年でもあり、
この年を境に世良田頼氏から家氏に足利家代表の地位が移ったというのは、なお検討が必要なように思います。
>>677 ソースは新人物往来社の「鎌倉・室町人名事典」(すみません未検証です)。
でも、義氏が正四位下だがらその庶長子長氏が従四位下でも不思議はないか。
貞義も、正慶2年(1333)(尊氏従三位武蔵守に補任)以降であれば、従四位下になってもおかしくないですね。
697 :
石橋尾張守:04/11/20 12:01:04
>>696 失礼 失脚したのは政氏ではなく政義ですか
長氏・貞義が四位として出てくる史料は
『群書類従』所収の「吉良系図」。
でも、その信憑性からしても疑問が持たれるし、
他の史料(『分脈など』)では
従五位下と記されている。
貞義は年元亨3年(1323)には上総前司。
建武3年(1336)6月6日には沙弥省観。
康永2年(1343)に亡くなった時は
「総州太守実相寺殿象(相)観大禅定門」
と書かれているから、
上総介が極官であったことが分かる。
極官が1323年時の上総介だったら、
足利当主でも鎌倉末期は五位止まりだし、
北条氏でも四位になっているのは
相当地位が高い人物なんだから、
五位が妥当じゃないの?
699 :
日本@名無史さん:04/11/20 22:24:31
将軍家の庶子とかが坊主になったのは寺社勢力を抑えるためですか?
有力守護や武家、そして公家に養子として送り込まなかったのは家臣格に
なるのを嫌ったのですか?
700 :
石橋尾張守:04/11/21 00:40:45
>>698 thanks。
確か家氏が従五位下だったと思うので、
長氏が従四位下というのは(いくら吉良氏の祖とはいえ)違和感を覚えてはいました。
701 :
日本@名無史さん:04/11/21 08:25:50
>>699 単に家督問題がこじれるのを危惧していたから。
有力大名家の当主でしかも将軍の子弟なんて面倒くさい奴がいたら問題が荒れまくるの必至だし。
>>701 んー、当時は家職とかの意識があるから、既にある大名家に養子を送りこんでも
家臣が反発して治まらないことを危惧したからでは。
(後継ぎがいない場合、結構近い血縁の家から養子を迎えてますね、当時の大名は)
次男以下を新しく家を興したりさせなかったのは、相続争いをさけるためだとは思いますけど。
実際に鎌倉公方家とは緊張関係があったみたいだし。
寺にいれなかったのは将軍家の家系だと、義満の弟や子供だけですかね。
江戸時代のように将軍家の力が強くないので 養子を各大名に送り込めなかったと考えてたよ
704 :
日本@名無史さん:04/11/24 15:24:29
>>702 江戸時代と室町時代以前では
大名家の家督相続が、かなり異なっていたりする。
室町以前は、傍流でも良いから、同じ父系での一族から養子を迎えていたけど、
江戸時代は、他家から平気に?養子を迎えていることが多い。
705 :
日本@名無史さん:04/11/30 23:19:40
そんな尊氏、来年生まれてから700年。
足利氏の一族としては、斯波氏が一番本家に近くて次に「御一家」の吉良・渋川・石橋ていう感じなのか。
「御一家」と言っても、
名誉だけで実がないからね。
708 :
日本@名無史さん:04/12/01 21:10:42
吉良のキラは、キララから来ている キララは今で言う雲母のこと
花崗岩の中に黒い部分が雲母
つまり吉良氏は元々は鉱山、採掘に関わっていた
とかいう説を何かの本で読んだことがある
709 :
日本@名無史さん :04/12/01 21:20:58
>>708 はぁ?
何それ。
吉良荘を領有していたから吉良氏だろ。
そもそも吉良を称するのは南北朝期以降だし。
710 :
日本@名無史さん:04/12/01 21:35:38
>709
シンプルシンキングで幸せそうだな
712 :
日本@名無史さん:04/12/02 00:31:19
日本人の苗字は殆ど、地名か職業。
封建領主の場合、殆ど、地名。
「吉良」という地名の由来がキララなら、
吉良荘相続に由来する源姓足利の流れを吉良氏と称する限りにおいて、
別の意味で「吉良は雲母に由来する」とは言えるかも。
同時に、たとえば「多々良」氏でも、鉄製造に関わっていたからその姓なのかどうかは、判らない。
日本中世は、当時のペルシャ語におそらく由来する姓だってあるくらい、思いがけない因果が隠れてるかも知れませんし。
井沼さんと岩松さんの苗字の由来が多分同じだ、なんて、ふつう気付きませんからね。
吉良と斯波の家格はどちらが上かは、時代によって異なるってことか?
715 :
日本@名無史さん:04/12/04 20:19:04
鎌倉時代のことは良くわかりませんが
南北朝以降は斯波氏>吉良氏でしょうね。
家格というよりは家の勢力の大きさとして。
斯波氏は三管領家の一つとして、政治的実権も持っていたから
逆に警戒されていたのかもしれませんね。
御一家というのは家格は高いけれど実権を持っていない家を
祭り上げた名称のような感じがします。
江戸時代の公家とか、大名でいうと御三家みたいな印象です。
(実権は将軍や側用人・老中たちがもっている)
716 :
日本@名無史さん:04/12/04 20:57:11
吉良氏は室町時代二流に別れて血で血を洗う凄惨な内紛を狭い遠江の国で繰り広げていたからな。
両派が仲直りして合体したときには、時既に遅く、隣国の今川義元に攻め込まれて当主は駿府に拉致された。
後に三河から拉致されてきた松平竹千代と親しくなる。その縁で徳川幕府設立後、高家筆頭に取り立てられる。
上野介の四代前の義安の室が、家康の祖父の妹(娘とも)だった。
吉良家と徳川家の間には、血縁関係があった。
718 :
日本@名無史さん:04/12/04 23:37:24
>>716 そういえば吉良氏ってあちこちで顔をだしますが(三河とか関東とか)、
足利幕府が認めてた嫡流はどこになるんでしょうか?
御一家って活躍が目立たないですよね。
渋川家も九州探題なんて肩書きだけで、大内・少弐氏に頭押さえつけられてばっかりだし、
石橋家も守護職すら維持できなかったし。
719 :
716:04/12/04 23:49:05
遠江守護が本家。
石橋、渋川、石橋は南北朝期に失脚したからね。
今川も家格は高かったけど傍流だったけど了俊が失脚してからは中央政界からは締め出されたよね。
文面おかしいぞ
721 :
日本@名無史さん:04/12/04 23:59:01
石橋を叩いて渡らない
722 :
今川末裔:04/12/05 03:33:47
義元公が上洛に成功し、天下に号令していれば今川の家格は足利本家を超えていたはずである
724 :
日本@名無史さん:04/12/05 20:50:32
貴族化した武家はすべて滅びる 平家が代表例
現代でいえば、貴族化した官僚も滅びる運命にある
725 :
日本@名無史さん:04/12/05 21:13:33
官僚は国家がある限り滅びないよ
726 :
日本@名無史さん:04/12/05 21:16:33
今の官僚はみな百姓だから、しぶといかもしれんな
727 :
日本@名無史さん:04/12/05 22:06:22
>>722 今川家の家格は、高いと思うけど、それは言いすぎだと思う。
今川家の国力は、東国で有数で血統も優秀だけど、
その割りに、今川義元の官位って
そんなに高かったか?と思う。
728 :
日本@名無史さん:04/12/05 22:09:59
義元って三河守になったよな
発祥の地だから?
729 :
日本@名無史さん:04/12/05 22:14:00
今川義元って従4位くらいか?
同時期で、将軍・足利義輝が正3位くらいだったと思うが、どうよ?
ちなみに、この同時期で武家最高は
将軍ではなく、周防の大内義隆が従2位くらいだったと思う。
誰か、詳しい人、教えて!
730 :
日本@名無史さん:04/12/05 22:27:18
>>727 義元の官位って三河守、上総介、治部大輔 だっけか?五位ぐらいだね。
でも武衛家の官位も治部大輔、左兵衛佐だからどちらかといえば高い方じゃない・
>>727 そんなもん、義元公が上洛に成功して天下に号令さえしていれば位なんて幾らでも上がるだろ。
後年、信長ふぜいが右大臣、その家臣の猿面冠者が関白にまでなったんだぞ。
>731
あくまで天下を取ってい「たら」の話ね。
でもそこまで言い出したら今川に限った話ではないな。
逆に新田義貞が足利に勝っても、そこそこの官位しか
貰えなかっただろう事が悲しいな。
734 :
日本@名無史さん:04/12/06 23:56:25
おまえら、新田氏の嫡流と認定されている
岩松氏について、どう思う?
たしか、ここは母系で新田氏で、父系で足利氏だと思うが
南北朝期に、満純とかいう新田義宗(義貞の3男)の子供が
養子に入って、再び新田氏の男系の系統に戻って
明治維新まで継続したことになっているが...
735 :
日本@名無史さん:04/12/06 23:58:46
どうでもいい
736 :
日本@名無史さん:04/12/07 00:04:03
あと、堀江氏とかい
新田義宗の子、貞方の系統はどうよ?
とにかく、新田氏といえば
岩松と堀江に興味がいく。
737 :
石橋尾張守:04/12/07 00:57:55
>>718 >そういえば吉良氏ってあちこちで顔をだしますが(三河とか関東とか)、
>足利幕府が認めてた嫡流はどこになるんでしょうか?
三河の西條吉良です(御一家衆)。
>御一家って活躍が目立たないですよね。
>渋川家も九州探題なんて肩書きだけで、大内・少弐氏に頭押さえつけられてばっかりだし、
>石橋家も守護職すら維持できなかったし。
御一家の概念が成立したのがいつか知りませんが、
奥富敬之氏の例の面白いけどいい加減な本によれば1370年とか。
丁度石橋棟義が奥州総大将として下向した頃で、
将軍家は自ら室町殿御分国を収めるとともに
最も近い血縁である鎌倉公方に関東を、
御一家の石橋氏と澁川氏に奥州と九州を、
同じく御一家の吉良氏に鎌倉期以来の重要拠点である三河を委ねた
と私は愚考しています。
結局奥州は、北奥を高水寺斯波氏、中奥を大崎氏、南奥を石橋氏と二本松畠山氏という形になってしまい、
九州では澁川氏はご指摘の通り虚名を擁するのみだったわけですが。
738 :
石橋尾張守:04/12/07 01:01:43
>>719 >遠江守護が本家。
遠江守護は今川→斯波→今川で、吉良は遠江守護になってないのでは。
>石橋、渋川、石橋は南北朝期に失脚したからね。
石橋は義詮政権下で斯波高経と対立し失脚、
高経失脚に伴い奥州総大将として復権、
康暦の政変でまた失速
しかしその後も御一家としての格式と、
奥州における一定のプレゼンスは保ちました。
739 :
石橋尾張守:04/12/07 01:03:52
>>722 :今川末裔さん
>義元公が上洛に成功し、天下に号令していれば
私も義元の不測の落命がなければどんなに良かったかと悔やまれます。
740 :
石橋尾張守:04/12/07 01:08:13
>>729 義輝は若くして薨去しているので、従四位下左中将が極位極官だったと記憶しています。
うろおぼえですみませんが。
>>730 >武衛家の官位も治部大輔、左兵衛佐だからどちらかといえば高い方じゃない・
長生きしてれば衛門督になりますよ。
だからこそ「武衛家」な訳で。。
>>737 奥州や羽州は氏満の子孫が治めていませんでしたか?
又、この系統がどうなったか御存じですか?
742 :
日本@名無史さん:04/12/07 23:05:07
稲村御所と篠川御所のこと?
鎌倉公方と義満が和解したとき、奥州と羽州が鎌倉府支配に管轄替えになった。
そこで奥州支配のために満貞と満直が南奥州に入府した。
その後また鎌倉府と幕府の対立が激化。幕府は関東や奥羽の御家人を将軍直属の京都扶持衆に編入し鎌倉府を牽制。
稲村御所と篠川御所も両派に別れた。鎌倉府派の稲村御所は奥州を追われ、鎌倉に帰る。篠川御所は幕府の力を背景に独自勢力を築こうとするが地元武士団の反発を買い殺される。
なお、満貞と満直のどちらがどちらだかは、字がにているせいで、当時から誤記が多く不明。
>739
もし今川義元が上洛に成功していたら、具体的に何をどうするつもりだったんですか?
まさか本当に将軍にとってかわろうなんて野心があったとも思えない。
結局は大内義興みたいに暫く幕政を補佐した後で、国元に帰ることになった希ガス。
だとすると官位も家格も
>>731の言うようには上がらないよね?
>>742 レス、ありがとうございます。
結局奥州には関東将軍家の勢力が根付かなかったんですね....
745 :
石橋尾張守:04/12/08 10:00:45
>>740 失礼。武衛は衛門督じゃなくて兵衛督でした。
>>743 義元の行動予測はあなたの言うとおりだと思う。
足利家にとって重要なのは、信長に政権を簒奪されずに済むこと。
746 :
日本@名無史さん:04/12/15 08:54:10
>>734 南朝方の新田義宗の子がなぜ北朝方の岩松家の養子に入るのか?という疑問がある。
後年こじつけたという説が有力。
747 :
日本@名無史さん:04/12/15 16:26:44
↑新田版桜井の別れがどこで行なわれたか、わからないけど、
小田原に行った堀江氏と新潟の山中に蟄居していた新田中村氏が
有力だよ。実際の子孫は目立たないようにしていたと思うよ。
748 :
日本@名無史さん:04/12/15 22:56:57
>>746 けど、岩松ほど出自のハッキリしている家が、
わざわざ負け組の新田子孫を名乗るメリットはあるのかな?
岩松は徳川と違って、系図を詐称しなくても歴とした清和源氏で、
歴史の勝ち組である足利流だし。
満純は義貞の孫って言い出したのはいつ頃なのかわからんけど、室町時代であるなら
義貞の孫も降ったんだからテロやめろなって意味のプロパガンダなんじゃね?
関東の安定とかって意味で足利氏が命じたとか。
まぁ、本当の子孫なら
>>747の言う通り、目立たないようにしてたんじゃない?
750 :
日本@名無史さん:04/12/16 00:05:15
751 :
日本@名無史さん:04/12/16 04:31:25
岩松氏も京兆家と礼部家の二派に別れて対立していたから、
旧義貞系の武士団を味方に引き入れやすくするため上野に潜伏していた新田義宗を保護し、
その子(満純)をいざという時の旗印にするべく養子としてキープしていた、なんてことは無いかな?
南北朝の争いも後期になるとゴチャゴチャとわけがわからなくなっているから
義貞の血筋でもまるっきりあり得ないとは言えない希ガス。
752 :
日本@名無史さん:04/12/16 18:28:31
確か岩松満純の子家純は、父が上杉禅秀の乱に連座して没落した後は、
美濃の土岐氏の保護を受けていた。
その後どういうわけか将軍義教に召し出され、その御前で元服。
しかも、その義教の強い後押しで再び岩松家の家督をついでいる。
もし家純が義貞の曾孫なら、義教(=尊氏の曾孫)がそうまでして贔屓するというのは
どうもピンとこない。
やはり義貞の血統云々は、このとき義教に言い含められた、一種のプロパガンダだったのかな。
753 :
日本@名無史さん:04/12/16 21:32:19
岩松家純の家督相続や元服が足利義教の後押しというのは、
単純に鎌倉公方に対抗するためではないのでしょうか。
鎌倉公方の力をそぐ為には新田の名前でもなんでも使うと。
(義教の時代になれば新田なんて看板だけで実質的な力はないと思います。)
足利って実は織豊・江戸初期の京極ぐらいしょっぱくね?
対平家戦争で活躍したわけでも幕府草創に政治参画したわけでもなく
母縁で頼朝の従兄弟、妻縁で相婿だっただけじゃん(プ
その後も代々上司のぶっさいくな娘と結婚して地位保全(ダサ
なにが源氏嫡流だよ聞いて呆れるね(ゲラゲ
>>754 ああ、君は吾妻鏡ちゃんと読み直しなさい。
ちゃんと読んで義兼の立場を把握した上で
上記の発言だったなら、
頭おかしいぞ。
まぁ、釣りなんだろうけどな。
756 :
石橋尾張守:04/12/17 23:04:55
>>756 頼朝が好きだったのは実は政子じゃなく妹の時子だったという説あり。
とすれば時子は美人だったのではないだろうか。
敢えて釣られてみた。
757 :
石橋尾張守:04/12/17 23:11:44
蛇足ですが時子は義兼夫人です。
上の方で吉良と斯波どっちが格上?って質問があったけど、吉良らしいです。
将軍との対面を待つ際、申次が吉良を呼ぶときは「殿」を付け、
三職を呼ぶ際は消え入るような小声で「殿」を付け、
それ以外は呼捨てだったとか。
(by二木先生)
>>757 吉良好きの俺にはうれしいことだが、それだけで決めちゃっていいの?
759 :
日本@名無史さん:04/12/22 03:42:22
>>753 ってことは、裏を返せば、関東での「新田」という旗印には
まだまだ根強い求心力があった、ということになるね。
確かに宮方だった在地武士勢力を糾合するには都合がいいだろうし、
もっと言うなら、そういう不穏な勢力はまだまだ各地に存在していたってことにもなるな。
いや、そもそも
岩松満純=新田義宗実子説
が出てきたのがいつの時点か分からないんだから、
そこまで言えないんじゃないかな。
私見じゃ江戸時代だと思うんだがね。
>>760 正木文書だか何か忘れたけど、戦国時代に岩松の家臣が持ち出した文書や系図の類で、
岩松満純が新田義宗の子供になっているって話だったと思う。
この文書に改竄が無いとすれば、
一応戦国時代には岩松満純=新田義宗実子説
はすでにあったと見ていいんじゃないかな。
762 :
日本@名無史さん:04/12/23 21:18:39
岩松は徳川や由良なんかと違い、出自の明白な名門なわけで、
戦国時代や江戸時代にわざわざ新田義貞の血脈に系図を改竄する意味は無いと思う
(明治になってからならわからんが)
案外、本当に新田義宗の子じゃないか?>岩松満純
763 :
日本@名無史さん:04/12/25 03:32:01
764 :
日本@名無史さん:04/12/25 03:44:09
>>762 岩松って
新田氏族ということに誇りを感じていたのか
それとも、足利氏族ということに誇りを感じていたのか?
室町期に新田義宗を強調していたなら
新田義貞の後裔説は本当かもしれん。
越後岩松氏の末裔のHP
http://www005.upp.so-net.ne.jp/fung/shishi/shishi00.html ちなみに宮方についた側の子孫で、礼家・京兆家とは別の系統。
新田次郎の小説には対立してるように書かれてるけど、南北朝まではそうでもなかったよう。
ただ新田義宗の子が岩松氏の養子になったの経緯はあまり詳しくかかれてないのが残念。
観応の擾乱で岩松と新田本宋がくっついたのかもしれない。
室町中期に入ると、幕府にしてみたら鎌倉公方が最大の脅威だったから、牽制させる意味で新田残党を許したんだろう。
小田氏や伊達氏も宮方で戦国時代まで続いてる宮方も多い。
「岩松」って、名前が普通だよね。
いつの間にか、
このスレでは新田義宗実子説
がデフォになってしまいまつたね。
アホちゃうんの?
768 :
日本@名無史さん:04/12/25 19:36:49
>767
>観応の擾乱で岩松と新田本宋がくっついたのかもしれない。
まあ、そんなところじゃないかな。
新田義宗、義興の兄弟は頻繁に関東に入ってきては、各地の豪族に働きかけていたようだし、
義宗が岩松本流に対立する支流陣営に接触したとしても不思議は無い。
同盟を強固にするため、そこで義宗を婿として遇し、結果として満純が誕生したのかも。
769 :
日本@名無史さん:04/12/26 00:27:57
岩松の出自は別として
足利って、一族同士でも仲間割れして、
片一方が、南朝側に走ったりしていたんだよね。
何やっているんだか...
770 :
日本@名無史さん:04/12/27 07:58:34
どこもそうだよ。
鎌倉末から南北朝期は惣領制の解体期だから。
771 :
石橋尾張守:04/12/30 09:41:37
>>758 御意。斯波は(早世しなければ)兵衛督まで昇りうるなのに対し
吉良は概ね兵衛佐どまりで、畠山・山名(兵衛督・衛門督まで行く)よりも下。
にも拘らず「御一家として高い格式を保った」と言われている訳で、
御一家衆の謎解明が私(一介の素人ですが)のライフワークです。
吉良好きの758さんも、何か分かりましたらご教示下さい。
そういえば、尾張の「石橋殿ノ御座所」で石橋義忠・吉良義安・斯波義銀が信長打倒
の計画を練った際、吉良と斯波が席次を巡って揉めたという話もあり。
772 :
日本@名無史さん:04/12/30 17:59:36
>771
公での序列(官位)と足利一族内部での序列とが二通りあった、なんてことは無いかな?
足利家が一介の御家人であった頃はそれで丸くおさまっていたものが、
幕府を開いて家政と公儀がごちゃまぜになって、ややこしくなってきた、とか?
773 :
日本@名無史さん:04/12/30 22:48:05
>>772 朝廷での位は低いけど武家では高く評価される官位ってありますよね。
左兵衛佐(頼朝が任官してたから)、左馬頭(あれ、これなんでだっけ)など。
幕府内でも勢力が高い細川氏は右京大夫(これってあまり高い官位ではないですよね)。
これはもともと細川氏の家格は低かったからかな。
>左馬頭
源義朝の官職であり、足利義氏の官職でもある。
>右京大夫
従四位下相当の官職だから決して低くはないよ。
鎌倉時代の御家人では
大仏維貞が修理大夫となった以外は
北条氏でも権大夫止まりで、
これに相当する官職となった人物はいない。
775 :
石橋尾張守:04/12/30 23:46:03
>>774 そうですね。
大雑把に言えば室町期の武家官途は
A.衛門督、兵衛督
B.修理大夫、京大夫、武蔵・相模・陸奥守
C.大膳大夫、衛門佐、兵衛佐、八省大輔、讃岐・阿波ほか一部受領
D.八省少輔、上記以外の受領
ってとこですかね。
ついでながら、左馬頭は義詮の補任以降「次期将軍」と同義。
鎌倉公方もかな。
で、例えば従五位下左馬頭とかでも、将軍の嫡子ってことで
例えば従三位右兵衛督である管領が敬意を表したりする訳ですね。
同様に「御連枝」として同族待遇と定められたゆえに、
御一家衆は官途と関係なく格式が高かったってことなのかな。
776 :
石橋尾張守:04/12/30 23:47:57
>>775の後半は772さんの見解と近いというかほぼ同じです。
徳川幕府だと、位が高い御三家が、位が低い将軍家嫡子(家光)に
雇従するのをゴネたという話がありますが、
足利幕府だとそういうことはなかったのでしょうか。
斯波は家格が高いからといって管領になるのをいやがったりしましたが
管領自体(高氏とか細川氏)には(建前でも)上位者として認めていたのでしょうか。
775さんの分類でも官位的には斯波氏が上になるけど。
石橋のいうことなんか信じる必要なし。
馬鹿なんだし。
松平定知が80万円着服したって本当なのかな
783 :
石橋尾張守:05/01/05 20:53:18
>>778 >斯波は家格が高いからといって管領になるのをいやがったりしましたが
当時は管領じゃなくて執事ね。
細川清氏失脚後、執事就任を打診された斯波氏頼が
「執事なんか仁木・細川のする仕事。家の恥。」
と言って出家したという話がありますが、
そのときは弟の義将が執事になりましたから、
実際には氏頼より義将を偏愛する父高経の意向と言われています。
しかし上記の氏頼の言葉(とされるもの)に
斯波氏の細川氏を見る目というものは表れていると思いますので、
>(高氏とか細川氏)には(建前でも)上位者として認めていたのでしょうか。
は、ないと思います。
>>779 私は一介の素人なので、見当はずれなことをいうことも多々あるとは思いますが、
ま、そう言わずにひとつよろしく。
>>783 斯波氏就任時に執事から管領に名前変えたと記憶してました。
執事だと家格に響くからという理由で。
778では簡略化して書いてました。
江戸幕府だと、通常石高が高い外様大名のほうが、石高が低い譜代大名より官職とか詰めの間での
立場は上ですが、譜代大名が老中になると立場が逆転して、外様の大大名でも呼び捨てにしていたそうです。
室町幕府でも斯波や吉良など家格が高い家と、家格が低い細川氏あたりのその辺りの関係はどうなっていたのか
疑問に思って質問してみました。
785 :
石橋尾張守:05/01/07 00:50:43
>>784 康暦の政変による義将再登板時は管領で問題ないでしょうけど、
最初のとき(清氏の後釜)は執事でしょうね。
で、それこそ「執事なんて仁木・細川の仕事」で
高経がやる訳にもいかず(法体でもあるし)、
13歳の義将にやらせて自らは実権を握ったんです。
管領は元々役職名ではなく動詞で、
「義将を執事に就けて、高経が幕政を管領した」
とかいうような表現をされたらしいです。
それがのちに役職名に転化するのは、鎌倉時代の「連署」みたいですよね。
問題は義将の後任の細川頼之が執事なのか管領なのか。
後半のご質問の件ですが、鎌倉期は斯波(というか足利尾張家)や吉良と
細川では雲泥の差ですが、開幕時の功績で細川氏の地位がぐんと上がりますよね。
斯波高経は尊氏に背いたり帰順したりを繰り返し、吉良も最後の頃まで直義党でしたし。
15世紀には「三職と吉良・石橋・渋川は同格」という位置付けが固定化したようですが、
これはもう斯波と細川と畠山が「三職」と一括りにされている訳で、
彼らの間に上下はないのだと思います。
吉良家が代々地頭を務めた三河は、古くは関白通家の荘園であって高貴な土地柄である。
それゆえ、姓氏辞典なんかにはたいてい吉良家は、足利一門で最も地位が高いと書いてある。
788 :
石橋尾張守:05/01/08 10:05:45
吉良氏の祖、長氏は一旦家督を嗣いだものの、病弱のため弟泰氏に家督を譲った、
それゆえ吉良氏は宗家に次ぐ家格とされた
という話も聞いたことあり。
>>787 むしろ、吉良(長氏)が重要視されてたからこそ
吉良荘を譲られたんじゃないかな。
>>788 そういう吉良氏ヨイショの記録は、
今川か吉良関係の記録だろ。
『吾妻鏡』を見ても、
初見である安貞2年には無官の五郎で、
16年後の寛元元年に
ようやく従五位下・検非違使となった長氏と、
嘉禎2年の初見記事で
21歳にして既に従五位下・丹後守であった泰氏とでは
全く待遇が違うんじゃないの?
790 :
日本@名無史さん:05/01/09 21:45:11
泰氏の母は北条泰時の娘。
長氏の母は家女房。
長氏が家督を継いだという説はやはり無理があるわな。
尊氏卿がまた自殺未遂をしたスレは此処ですか?
>>790 斯波氏の初代が足利宗家の名代務めたみたいに
長氏も一時期(嫡男弟がある程度の年齢になるまで)名代を務めていたという
可能性はないですかね?
>>793 うーむ、すると吉良氏が家格が高くなった理由がよく判りませんね。
単純に義氏にかわいがられてたのかな。
795 :
日本@名無史さん:05/01/13 05:01:10
承久の乱で父義氏に従って武功を挙げたからって可能性は?>吉良の家格
前の方で、吉良は比較的分かれるのが遅かったというレスがあったが、そんなことはないよ。
吉良、畠山、細川、斯波のこれら4家だけみたら畠山が一番早く分かれ、その次にほとんど同時期に吉良、細川が分かれ、
一番最後に斯波だな。足利一門全体でみれば、吉良はむしろ比較的早くに分かれ家の名が起こっている。
797 :
日本@名無史さん:05/01/13 19:56:16
>>795 足利義氏は承久の乱で戦功があったようだし、
長氏が若年ながら従軍していたとすれば、
実戦経験がある兄ということで後年泰氏が一目おくようになり、
その「一目」が家格に反映された可能性はあながち否定できない。
798 :
日本@名無史さん:05/01/13 20:00:59
799 :
日本@名無史さん:05/01/13 20:14:59
僕は、足利の子孫でつが、新田が好きでつ。
たまに気晴らしに群馬新田の史跡などを探して歩いてまつ。
そっち方面の方お友達になろ^^
>>796 家が分かれるのが早いメリットは、貰える領地が(比較的)多い、戦功などを立てて出世すれば
本家から独立できる、あたりかな。
逆に没落しちゃうと家臣的に扱われるかも。
逆に分かれるのが遅いメリットは、本家からすれば身近な親戚なわけで、
いろいろ家政面で口出しできるとかかな。
801 :
日本@名無史さん:05/01/14 01:22:48
足利(吉良)長氏は体が弱くて、弟の泰氏に足利宗家を継がせたと言うのを何かで読んだことがある。
802 :
日本@名無史さん:05/01/14 01:33:25
連投スマソ、吉良氏は今川氏と並んで有職故実に詳しい家柄だったんじゃないかな、でも、吉良って守護大名にならなかったのが、不思議だ。
803 :
日本@名無史さん:05/01/14 01:49:22
住んでる町が新田足利両氏の遠い祖先の地であることを発見。
でも家のある場所は楠木勢の砦。
やはり長氏が宗家を継げなかったのは母親の血筋が悪いからじゃないの。
泰氏の母親は北条家の出身だし。
そのかわり義氏は長氏に足利家で最も大事な三河の地頭を継がせたってとこだろ。
>>804 足利氏内部の地位なら、それで高くなると思うのですが
幕府で守護クラスまで地位を向上できた理由にはならないと思うのですが。
足利本家が没落して代わりに出世したのでもなさそうだし。
それだけ義氏の地位が高かったって事でしょ。
義氏在命中に幕府に出仕していた
家氏・兼氏(義顕)も、
守護にはなっていなくても
幕府における地位の高さは
歴然としているし。
家氏・兼氏の場合は、弟で嫡男の頼氏が早世したためでは?
(吉良)長氏の場合とは少し事情が異なる気がします。
>>807 頼氏(利氏)登場以前から
家氏・兼氏は出仕しているよ。
兼氏は頼氏以前に『吾妻鏡』から
名が見えなくなっている。
家氏も母親が名越朝時の娘だから、
最初からかなりの地位にあったのでは?
809 :
石橋尾張守:05/01/16 18:26:47
>>796 惣家から分流したのは、細川(義兼兄)、畠山(義氏兄)、吉良(泰氏兄)、斯波(頼氏兄)の順。
>>805 あなたの言う「守護クラス」とは、独立した御家人扱いという意味?
守護にはなってないみたいですよね。
畠山も長男から分家したのか。
だったら吉良と畠山はどっちの方が家格が高いんだ?
やっぱり吉良か?それなら、同じような事態で分家したのにどうしてそうなるんだ?
812 :
805:05/01/17 00:18:19
>>809 >あなたの言う「守護クラス」とは、独立した御家人扱いという意味?
吉良長氏は守護になっていませんが、
息子の満氏は越前守護になったという説がありますよね。
長氏自身も上総介という官位を貰っているし。
単に足利宗家より独立した御家人ではなく、それなりの地位をもつ家系なのではないかと。
813 :
日本@名無史さん:05/01/17 00:57:49
>>810 畠山では?
なんと言っても畠山初代は舅は北条時政、義姉北条政子、
義兄北条義時、おいに北条泰時だから、宗家と同じくらい
北条家に近く、優遇されているし。
814 :
日本@名無史さん:05/01/17 05:00:34
>>813 畠山は、坂東八平氏の畠山氏に
足利氏の長男が養子に行った形だったのでは...
で、当然、家格は
斯波や吉良に劣る。
>>813 >>814 北条氏との関係でいえば、畠山氏はかなり濃密な関係ですよね。
足利一門内の序列は 足利>斯波・吉良>畠山で
鎌倉幕府内での序列は足利(及び当主代行中の斯波氏)>畠山>斯波・吉良
などということはないでしょうか。
人は皆、平等だと思います。
817 :
日本@名無史さん:05/01/18 10:03:19
福沢は「平等」の意味は、
貧しくても金持ちに媚びるな、金持ちはいばるな。つうことです。
サヨの「平等」とは違います。
819 :
日本@名無史さん:05/01/18 18:33:37
人間は他者を見下すことで快感を得る動物である。
平等なんて糞でも食らえ。
820 :
日本@名無史さん:05/01/18 18:45:26
福沢は
「人間の貴賎は生まれでなく、学ぶか学ばないかで決まる」っていってるから人間に貴賎があることを明言してる。
平等があるとすればそれは能力平等。
効率良く働く奴は効率良く稼げる。
たくさん働く奴は、たくさん稼げる。
多種多様な能力があれば、様々な仕事を選択できる。そんだけ。
そんだけだから、「尊くなるか卑しくなるかは自分で決めれるんだからなぁ〜」言うてるの。
車夫、馬丁はどうとか言ってたよな・・・
822 :
日本@名無史さん:05/01/18 19:07:27
昔、俺がまだ学生だった頃、
通学中に学校に行くのが面倒臭くなり途中の名も知らない駅で下車してぶらぶらしてた。
そしたら駅のロータリーに、なんか馬乗った銅像があって、行って見てみたら「新田義貞」とか
書いてあるの。
日本史で出てくる足利ではないもう一方の、マイナーな方の奴だった。(それぐらいは知っていた)
よく読むと、なんでもこの近辺の分倍河原の戦いで勝利して鎌倉幕府を滅ぼした等などとあった。
「へー、お前・・・こんなところで頑張ってたんだ・・・」
って思った。
そんだけ。
823 :
日本@名無史さん:05/01/18 20:40:55
新田郡は太田市に吸収されます。
824 :
日本@名無史さん:05/01/25 16:22:28
>823
これを機に「新田市」にすりゃ良かったのに。
825 :
日本@名無史さん:05/01/27 11:11:54
総髪で太刀をかついで馬に乗ってる「伝・足利尊氏画像」は、結局誰の
像なんだろう。
826 :
日本@名無史さん:05/01/27 11:15:41
新田郡太田町だったわけだから新田市のがいいね。
827 :
上上:05/01/27 11:20:07
ほんまや(ーー;)
太田町に免許取りに行ったよ。
駅前にあるのは義貞の銅像?
829 :
為義:05/01/27 18:54:05
すみません。このスレ初心者の者です。大河みてて思ったんですが
保元・平治の乱の頃足利、新田一門は何してたんですか?
足利は京の都で義朝と行動したりしてた
新田は新田荘、足利荘の留守番
831 :
日本@名無史さん:05/01/27 19:01:27
まだ別家を立てる段階に来ていなかった。
832 :
日本@名無史さん:05/01/27 21:08:19
足利は北面の武士でしょ。
833 :
日本@名無史さん:05/01/27 21:59:53
>>830 義朝と一緒というよりは、
832が言うように
鳥羽院の北面で、
義朝からは完全に独立していたと
だったと考えるべきじゃないかな。
新田義重も、最近では
京にいたという見方があるわけだけど。
835 :
為義:05/01/27 22:12:07
義朝に味方してたら平家にうたれてたんじゃなくて?
>>835 貴殿が言うなw
保元の乱
(勝ち側) 源義朝・平清盛・源(足利)義康 vs 源為義(義朝父)・平忠正(清盛叔父)
平治の乱
(勝ち側) 平清盛 vs 源義朝
足利義康は保元〜平治の乱の間に病死して、平治の乱には足利・新田氏はタッチせず。
源義康、足利義康、源義重、新田義重などをキーワードにググってください
838 :
835です:05/01/27 23:33:35
>>836 そうだったんですか。てっきり源頼政あたりに与してたと思ってました
839 :
日本@名無史さん:05/01/27 23:36:07
名和とも仲の良かったという「海の岩松」がなぜか飛騨守護に、
またあの時期に兵部大輔になっている。あの兵部卿がいた時期に。
意図的な任命だとして、誰の意図か、どのような意図か、って思いますな。
岩松の一人として。
840 :
日本@名無史さん:05/01/27 23:37:37
>為義
何度も言うように義康は独立勢力であり、義朝や頼政の与力ではなかった。
>>839 その時期の官職にそこまで求めることねーんじゃねーの。
むしろ、直義が兵部大輔だったからじゃねーか、という気がするが。
新田と足利は同門でありながら、同門ではない。
足利は天下を取ったが、やり方がまずかった、天皇の子供何人も殺した。
新田は足利に負けたが、本当は勝利したし、武士として素晴らしかった。
新田次郎さん(本名はしんでんと読む)の本読んでね!
ボクは本当の直系すなわち子孫。DNAは恐ろしい。ボクは家庭の事情で、
5歳の時に甲府の愛宕山のお寺にあずけられた。
義経のあずけられた鞍馬寺は京都だけど、愛宕山山中のお寺だとか?
不思議な因縁だけど、ボクは今41才、まだ、
やること一杯残ってるので、もっと生きます。
843 :
日本@名無史さん:05/01/28 00:50:21
DNAよりもDQNのほうが恐ろしい。
>>842 DNAって。。。
足利も新田もそもそも同じ血からわかれてるじゃんw
845 :
日本@名無史さん:05/01/28 06:28:12
久々に心がホノボノさせてもらったw
ありがとう>842
846 :
日本@名無史さん:05/01/28 07:54:11
ウチは自称新田だ。よかった
>>842と同じDNAを持っていなくて
847 :
日本@名無史さん:05/01/28 12:23:51
848 :
日本@名無史さん:05/01/28 13:41:32
849 :
日本@名無史さん:05/01/28 18:46:12
>847
ネタに必死になるな馬鹿。死ね。
後醍醐天皇の皇子たちは足利氏に殺されたの?
戦乱の中だし、後醍醐天皇に見捨てているのも大きい気がする。
足利氏も戦時中だから敵だったら殺すのに躊躇しないだろうが。
851 :
日本@名無史さん:05/01/29 00:39:09
源平から→足利・新田等、源氏独占の歴史へ・・・
852 :
日本@名無史さん :05/01/29 01:22:34
清和源氏って基地外ばかりだな
>852
だってご先祖様が
842です、また不興を買いに来ました。
今日、NHKの義経観て思ったんですが、DNA=遺伝子の言及です。
義経の生まれ変わりは義貞で、頼朝の生まれ変わりが尊氏だと
思うのは僕だけでしょうか?
反論は自由です。
明日この掲示板見に来ますので、ヨロシコです。
856 :
日本@名無史さん:05/01/31 02:17:50
>855
反論って、あなたねぇ‥‥
まぁ、面白いから釣られてみるか。
義貞の前世は木曾義仲だと思う。泥田で流れ矢があたって死ぬというところがそっくりだし
二人とも鬼切丸を所持していた。
頼朝の生まれ変わりは尊氏ではなく弟の直義の方。
尊氏の前世は平重盛。
理由:顔がそっくりだから。
義経の転生は‥‥誰だろ?新田義顕かな?
理由:義経も後に頼朝によって義顕と呼ばれたから。
857 :
日本@名無史さん:05/01/31 18:21:44
細川定禅や顕氏の子孫は何処へ行ったのですか?
41歳で気違いじゃ、人生終わりだな。
ありがとうございます。基地外という言葉、好きです。
海老が居座ってたら茨城至上主義で義経が作られたんかなー・・・
佐竹氏の自立志向は実は義経と気脈を通じていた!
だとか、
義経は白河の関ではなく勿来の関を使った!
だとか・・・
861 :
日本@名無史さん:05/01/31 22:42:22
>>856 >頼朝の生まれ変わりは尊氏ではなく弟の直義の方。
>尊氏の前世は平重盛。
>理由:顔がそっくりだから。
禿藁。いや〜おかしくておかしくて死ぬかと思った。最高〜!!!
862 :
日本@名無史さん:05/01/31 22:44:51
顕家率いる奥州軍が勿来の関を通って佐竹を撃破してから
鎌倉へ向かったって本なら読んだことあるぞ。
伝頼朝像は足利直義で、伝重盛像が足利尊氏なわけだね。
864 :
日本@名無史さん:05/02/01 05:02:40
>863
確かにあの肖像画、伝重盛も伝頼朝もそっくり(同じ画家の手とはいえ)。
向きも左右対称だし、兄弟の肖像という方が、
源平の仇敵同士の肖像というよりもしっくりくるような気がする。
特に重盛の方はちょっと垂れ目気味なところが木像の尊氏や義満像にも通じるな。
865 :
日本@名無史さん:05/02/01 11:11:31
だとしたら直義って兄よりも貫禄あるね。
個人的には重盛と頼朝より、どちらかというと重盛と悪源太義平が対のイメージがあるから、
別人説も納得できるかな。
尊氏と直義は一つ違いの同母の兄弟だし、政治能力や見識は直義の方が優れていると思う。
ただ神経質な人物だったようだし、兄の下の方が能力を発揮できるということが分かっていたんだろう。
人をひきつけるのは、おおらかな尊氏の方だったみたいだし。
867 :
日本@名無史さん:05/02/01 20:10:47
高師直の肖像では、尊氏のイメージが湧かないが、
平重盛の肖像だと、へらへら笑いながら矢玉の中で指揮を執っているのが想像できる。
新田義貞にも、政治能力や実務能力のある人物が近くにいればよかったのにね。
やはり広く一族や地盤をもってる足利の方がかなり優位だな。
尊氏は頼朝を尊敬してたとどっかで読んだ。
その生まれ変わりなら嬉しいだろうが、弟の直義が
頼朝の生まれ変わりだったとしたら微妙だろうな。
義貞は、木曾義仲の生まれ変わりに一票。
義経はおもいつかない。
と釣られてみた。
義経は直冬とかじゃにゃーか?
義経は新田義興あたりだろう。
すばしこい行動、神出鬼没の動き。
史実よりも伝説的逸話が多いところも共通。
872 :
日本@名無史さん:05/02/02 10:09:54
新田義貞・義助兄弟は、安田義定・義資父子の転生。
873 :
日本@名無史さん:05/02/02 14:58:12
>>869 :日本@名無史さん :05/02/02 00:34:31
>尊氏は頼朝を尊敬してたとどっかで読んだ。
同じ清和源氏の大先輩だしな...
頼朝の政治力は有史以来最高だと思う。
鎌倉というあれだけ困難な場所に幕府を開いたんだから。
876 :
日本@名無史さん:05/02/05 19:49:50
>>872 「女によって失敗してる点で義資と義貞は似ている」
と言いたいのか?
877 :
日本@名無史さん:05/02/05 19:51:09
鍋のフタと釜のフタ
まぁ、取り敢えず
転生厨は
痛いって事だ。
879 :
日本@名無史さん:05/02/08 11:18:54
室町幕府の名管領といえば畠山満家だな。
まんけ
881 :
日本@名無史さん:05/02/08 22:27:30
急激に糞スレ化してきたわけだが。
尻のフタと釜のフタ
◆史実厨度CHECK!◆
@大河ドラマの脚色(史実厨的には捏造)は絶対いけないと思う。
A2ちゃんねるの日本史板に常駐している。
B戦国時代のファンは厨房だと思う。
C五摂家の家名(近衛鷹司九条一条二条)をすぐに言える。
D無知な大衆が愛する人物は嫌い(義経・大石内蔵助・土方歳三など)。
E作家や郷土史家よりも歴史学者が一番えらいに決まっている。
F司馬遼太郎を常に叩かなければ気が済まない。
G新人物往来社の歴史本を貶すのが大好き。
H大衆に人気のない人物を必要以上に褒め称える(梶原景時・吉良上野介・山県有朋など)。
I南北朝時代が一番好きな時代である。
884 :
日本@名無史さん:05/02/15 00:44:29
北畠顕家はなぜ2度めの上洛の時に
北陸の新田軍との連携を取らなかったのか?
太平記には義貞に戦功を奪われたくなかったから、とあるけど。
新田義重・足利義康兄弟は、源義国が50歳を過ぎてからの子供だったとか。
それまでいったい何してた?>義国
しかし半世紀小梨でもあれだけ子孫が繁栄するんだから、
もてないお前らにも朗報だな。
886 :
日本@名無史さん:05/02/16 05:33:30
>>885 50代じゃないだろ。
源義国の生年は諸説あるが、一番古いのから新しいものの差は10年以上もある。
その一番古い1080年生まれ説でみても、義重の時は30代、義康の時は40代。
まぁそれでも当時としては遅い方なんだろうけど。
887 :
日本@名無史さん:05/02/16 19:58:31
源義家も父頼義が40過ぎてからの子供だった。
頼義ほどの武将にその年になるまで子供がいない、というのはちょっと不自然な気もするが。
888 :
日本@名無史さん:05/02/16 21:14:44
>>855 50歳過ぎてって奥富大先生の本読んだんですか?
大先生の本には義重が生まれたのは義国54歳とあるが・・・。
886氏のそれぞれ30代、40代が妥当でしょうね。
足利氏の事やそれらの事を詳しく解説してあるサイトあったんだが、
どこだったか分からなくなってしまった。スミマセン。
流行り病で亡くなられたのじゃ
奥富の本…。
まだ信じてるヤツいるのか。
891 :
日本@名無史さん:05/02/16 22:11:37
>>888 大先生の御本によると
義国…1082年生
義重…1135年生
ということになってますな。
これだと義国54歳の子ということになる。
>>886の説を採ると義重の生年が間違ってるということなのか。
892 :
日本@名無史さん:05/02/16 23:56:23
>>891 そう!義重の生年が違うことになる。
大先生は吾妻鏡の68歳没説(1135生)を妄信しておられるが同じ吾妻鏡に
孫の里見義成が1234年78歳没とあり逆算すると1156年生となる。
20歳そこそこで孫がいる訳がない!信憑性の低いとされる新田足利両系図の
1114年生、1202年89歳没の方がまだ辻褄があう。
義康にしても大先生は10代で死亡説をとっておられるが20歳で死んだとしても
生年は1137年となる。ところが1142年足利荘が立荘されたとき荘司は
3男義兼と書いてありこれでは5歳で3人の子を持つ父親になってしまう。
義康没の4年後長男義清元服から考えると続群書類従足利系図の1127年生の方がまだ理解できる。
上記は以前、義国、義重、義康の生没年を考証したサイトからメモった年代・出典です。
大先生の本の矛盾とを照らし合わせてみました。
893 :
日本@名無史さん:05/02/17 00:39:48
義康の生年については永久6年(1114)とする新資料が発見されたそうです。
菊地卓、日下部高明「新編足利浪漫紀行」にあるそうです。
内容をご存知の方、おられますか?
894 :
日本@名無史さん:05/02/17 19:00:56
895 :
日本@名無史さん:05/02/17 19:38:06
そんな大先生でも、今年の大河ドラマでは時代考証を担当。
道理で年令がメチャクチャなわけだ。
この前出てきた静御前なんて、どう見ても3才には見えなかったもんなw
896 :
日本@名無史さん:05/02/17 20:59:25
NHKの覚えめでたいわけですな!
大先生の本は専門書・学術書じゃないから読みやすい(笑
さらに大学教授の肩書きあるから歴史に弱い製作スタッフがコロッと参ったわけだ!
難解な歴史を分かりやすく解説できる偉大なる先生だ!ってね。
ところで大先生の説がまた一つ崩れているのを見つけました!
「源義国の母」についてでした。
大先生説の藤姓足利家綱の姉妹ではなく日野流藤原氏、中宮亮藤原有綱女であると
資料を出して見事に突き崩されていました!
「大先生敗れたり!」がまだ他に無いか探しています。
>>896 あんまり苛めるなよ。
つーか、叩く価値もありゃしない。
898 :
日本@名無史さん:05/02/18 03:43:10
関東で足利義信という名前の人間が飲酒運転で捕まってるよ。
899 :
日本@名無史さん:05/02/18 04:07:23
>>898 去年だったか、武田晴信という香具師が窃盗か何かでタイーホされたインパクトには及ばないな。
900 :
日本@名無史さん:05/02/18 06:45:38
なんだかんだ言いつつも900.
901 :
日本@名無史さん:05/02/18 20:46:58
903 :
日本@名無史さん:05/02/19 00:50:50
NHKは今、不祥事で問題になってますな!
ハチャメチャな奥富大先生を時代考証担当にするって、
これも一種の不祥事じゃないのか(笑)?
奥富史観糾弾スレまだー
スレたっても受信料払わないよー
905 :
日本@名無史さん:05/02/19 17:45:31
【買ってはいけない】日本史の悪書 スレに「奥富敬之氏の本」って書いておいたからな。
906 :
日本@名無史さん:05/02/20 04:28:10
>>904 「史観」って何だよw
単なる調査不足だろ、あの人の場合は。
糞スレになったな。
908 :
日本@名無史さん:05/02/20 17:54:33
>>893 俺もそれ詳しく知りたい。
事実なら義康が兄で義重が弟ってことになり、定説が覆る。
909 :
日本@名無史さん:05/02/20 18:31:36
893です。
申し訳ない!書き間違いでした。
義康生年の新資料は永久4年(1116年)でした!スミマセン。
910 :
日本@名無史さん:05/02/20 19:25:58
新田と足利のどちらが嫡流かは
あまり意味がないな...
そもそも、新田家内、足利家内でも、長幼の序は
全然、守られていないし、
長幼の序だけで考えるなら、義国流は、
山名氏が嫡流だし、実際、
義重の子供では、
新田を継いだ3男よりも、長男の義範のほうが官位が上だった。
>>910 嫡流かそうでないかと、長幼の序はイコールではないでしょ?
当時の感覚だと母親の実家の勢力が強い(=嫡流)ほうが家を継ぐのに有利だけど絶対ではない。
本人の運(義国は嫡流継げるチャンスを流罪中だったので逃したといわれるし)
実力・有力者とのコネなども大事でしょう。
そもそも自立できる力があれば、自立することも可能だし。
912 :
日本@名無史さん:05/02/21 15:41:10
応仁の乱で山名は新田、細川は足利なんだよね。
源氏と平氏は犬猿の仲だが、源氏同士でも足利と新田も仲が悪いって事?
913 :
日本@名無史さん :05/02/21 15:54:28
たまたまでしょ
914 :
日本@名無史さん:05/02/21 17:19:45
>>909 それだと義重と義康は同じ年に生まれたことになるな。
まぁ、あり得ないことではないが
定説通りに義重が関東、義康が京都で生まれているとすると、
義国もずいぶん忙しいなw
915 :
日本@名無史さん:05/02/22 00:28:57
>>914 いやいや、義重は1114年生まれ、義康新説は1116年生まれ。
2歳違う。奥富論粉砕説では13歳の違いだが。
ただ義康新説の資料の詳細が分からない。
奥富先生はソースを書かない
これが奥富クォリティ
917 :
日本@名無史さん:05/02/24 02:31:28
>>910やはり長幼の序で見るのは違う思う、頼朝が挙兵する際も義重は頼朝にはむかったけど、義範はいち早く頼朝に従ってる、だから新田系源氏の中でも新田とは別に一御家人として扱われて官位が高かったのは当然。
918 :
日本@名無史さん:05/02/24 19:33:08
尊氏が六波羅を攻めたのは
単に時代に便乗しただけの無法行為から
だから
天皇は幕府を滅ぼし関八州を平定した
義貞を将軍に任命すべきだった。
>>918 尊
単
だ
天
義
どこを縦読みですか?
氏
に
か
皇
貞
ここしかないだろ
921 :
日本@名無史さん:05/02/25 18:06:59
足利が新田より上になったのは
足利二代目義清の活躍があったからでは
ないか
>>921 義清…?
水嶋合戦で戦死した矢田義清…??(ppp
村上義清
924 :
日本@名無史さん:05/02/25 19:57:52
またぞろ義清廚が出てきたということはもう春も遠くないかな。
925 :
日本@名無史さん:05/02/26 01:08:18
義貞が鎌倉を攻めたのは
単に尊氏公に便乗しただけの無法行為から
だから
天皇は湊川で正成を見殺しにするような
義貞を将軍に任命しなかったのは賢明だった。
926 :
日本@名無史さん:05/02/26 01:35:44
ではこれからは「足利義清二代目当主説」について論じる事になりますかな!?
二代目は義清では?と論じている人もいますからね。
義國ー義國後家ー義清という流れによる梁田御厨相続という事実をもとに
前出奥富敬之氏の義兼の母の出自(頼朝との母方血縁関係)による二代目義兼との
思い込みを突き崩せばばいいのかな?
調べるのはちと難しいかな。でも大先生理論崩れるのって楽しいから・・・。
927 :
日本@名無史さん:05/02/26 01:39:37
>>925 いや、尊氏と和睦しろ=義貞を見殺しにしろ、と天皇に進言したのは正成の方でしょ、そんなこと言ってたら正成は義貞に見殺しにされてもしかたない。
928 :
日本@名無史さん:05/02/26 21:34:41
大塔宮、義貞、顕家で尊氏を攻めていれば
929 :
日本@名無史さん:05/02/26 21:43:28
3月2日(水)NHK「その時歴史が動いた」は「実朝暗殺」
ゲストは東大史料編纂所助教授、本郷和人氏。
奥富大先生の分野なのに・・・大先生ではない・・・。
御尊顔を拝することはできないのか?VTRで喰らい付いてくるのだろうか?
もう奥富ネタはいいよ。
931 :
日本@名無史さん:05/02/27 17:38:27
>>926 従来の足利義康の生年からすると、義清のような大きい子供がいたのか疑問、
とかいう説をどこかで見たように記憶しているけど、実際のところどうなんだろうね?
932 :
日本@名無史さん:05/02/27 18:44:29
>>931 義康も大きかったよ。義清は父親似なんだね。
。。。ゴメン
933 :
日本@名無史さん:05/02/27 23:51:56
>>932 義兼も長身(八尺?)だった由。
実父為朝説もあるが。
>>929 奥富って日本医科大学以外で教授やってたっけ。
934 :
日本@名無史さん:05/02/28 00:14:53
俺は某歴史雑誌の源氏特集のときに義氏の身長2メートル超と書いてあったの覚えてる。
オヤジの義兼も大きかったと書いてあったが義氏も本当に大きかったの?
奥富は以前、早稲田大学教育学部の講師をしてたはず。今はどうか知らんが。
935 :
日本@名無史さん:05/02/28 00:51:55
>>931 足利氏関係のサイトには次のように生年が書かれていたよ。
1127年 義康誕生 義康1歳 足利系図
1149年頃 義清誕生 義康23歳 柳田貞夫説
1154年 義兼誕生 義康28歳 足利家通系図、足利家譜
柳田氏が何を根拠にしたか明示されていなかった。
系図を根拠とするのも信憑性という点ではちょっとという気がするんだが・・・。
足利氏であと生没年がハッキリしないのは頼氏と家時だったかな?
936 :
日本@名無史さん:05/02/28 09:39:59
937 :
日本@名無史さん:05/02/28 16:17:28
938 :
日本@名無史さん:05/02/28 23:09:59
939 :
日本@名無史さん:05/03/01 01:24:58
平島氏の家系図キボンヌ
940 :
日本@名無史さん:05/03/01 01:53:57
>>935 だとすると、義清が死んだのは35才位か。
それなら元服をすませた位の子供がいてもおかしくはないが。
942 :
日本@名無史さん:05/03/01 16:30:45
確かに阿波公方の平島氏は嫡流みたいだが、明治に爵位や俸禄はもらえなかったのだろうか?
平島から足利には改名しなかった?
あと、最後の将軍・義昭には子供いなかったんだっけ?
>942
義尋っつう息子がいた。
二条御所を落ち延びるさいに人質として信長に差し出した。
944 :
日本@名無史さん:05/03/01 17:58:53
>>940 確かに元服した子供がいてもおかしくはないね。
義清2代目当主説があるが子供が3代目になるのは難しかっただろうと思う。
大きな時代の変化の中、義兼と頼朝の母方の血縁関係や
頼朝と対立した義仲と義清との関係などで・・・。
945 :
日本@名無史さん:05/03/01 18:21:56
>>942 蜂須賀家から所領削減、百石の捨扶持とされた上、足利を平島に、下の名前を
義○ではなく又八といったように改める事を強要され冷遇され続けた。
その冷遇に反発し後に京都に移り足利に復姓した。
明治になってからは主家を持たない浪人のため士族にもなれず平民にされた。
華族への取立ても訴えたが南朝正統、華族増反対の考えから爵位は貰えなかった。
義昭の子供、義尋は後に還俗して高山を名乗った。
高山の子供は義尊、常尊。2人とも僧侶のため子供はおらず義昭の血筋は絶えた。
946 :
日本@名無史さん:05/03/01 18:35:07
嘉吉の変で赤松充祐にヨシノリが殺されたんだよね?
947 :
日本@名無史さん:05/03/01 19:00:21
>>946 赤松側では義教と折り合いの悪い満祐が隠居、教康が当主という事になっていたが
「満祐が殺した」でいいんだろうね。
948 :
日本@名無史さん:05/03/01 21:39:34
>>945 還俗して高山になったということは高山が諱名なんでしょうか。
「あしかがたかやま」?
949 :
日本@名無史さん:05/03/02 00:15:00
「あしかがこうざん」 確か読みはこうだったはず。
諱(忌み名)の意味を調べると2つあるね。
1、死後に贈る称号。贈り名。
2、身分の高い人の実名。
吉川弘文館「足利義昭」(奥野高広著)によれば「還俗して足利高山といい・・」
とあるから2番なのかな。詳しい方、おられますか?
ちなみに出家した義昭は道号を昌山、法名を道休という。
息子の場合、還俗後の名前の方が出家後の名前の様に感じる。
950 :
日本@名無史さん:05/03/02 00:38:52
鯰公房・梅津義清
赤松満祐って三頭身だったそうだね。
容姿のことをいつも義教にからかわれて
相当頭に来ていたらしい。
952 :
日本@名無史さん:05/03/04 18:56:10
>>951 タイトルは忘れたがある本に満祐は「三尺入道」と呼ばれていたと書かれていた。
三尺は約90センチ。実際は身長90センチってことはなかったと思うが
相当なチビだったんだろうね。そのことでからかわれたのかも。
ちなみに室町時代の庶民の体格だが身長は男性で157センチ(前出、奥野著「足利義昭」より)。
満祐じゃなくて親父の義則でしょ?
955 :
日本@名無史さん:05/03/04 23:56:04
今、調べたら義則だった。スマソ。
956 :
日本@名無史さん:05/03/05 00:07:36
更に調べたら満祐に三尺入道と書かれているのがあった。どっちが正しいの?
957 :
日本@名無史さん:05/03/05 00:59:57
958 :
日本@名無史さん:05/03/05 04:25:12
>956
かの頼山陽先生も「日本外史」で満祐を三尺入道と書いていたぞ。
多分親父の方だとは思うが、実際に将軍を殺したのが満祐なので、
通説的に満祐がそう呼ばれていたことになったのかもな。
959 :
日本@名無史さん:05/03/06 15:28:22
新田嫡流の岩松氏は現在でも健在?
あと今川氏が昭和61年に断絶したって本当?
>>959 健在じゃねーの?
東京在住らしいが。
今川氏直系って明治時代初頭に断絶だと思う。
江戸や水戸界隈で新田一門と詐称する者は死罪だったって本当なの?
961 :
日本@名無史さん:05/03/07 02:21:34
今川はずいぶん地味に断絶したな。
でも氏真は静岡サッカーの先駆けだったんだよな。
蹴鞠に現を抜かしてたから。
962 :
日本@名無史さん:05/03/07 17:30:40
まあ、現在、一番有名な
義元ー氏真の男系の直系は
田代まさし だけどなW
963 :
日本@名無史さん:05/03/07 17:34:10
>>962 どこが面白くて W つけてるのか教えてください。
よろしくお願いします。
966 :
日本@名無史さん:05/03/08 00:03:08
>>965 こういう過去ログを貼っとく。
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1067465743/491-495 559 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2004/06/27(日) 21:23
今川義元−今川氏真−西尾安信−酒井忠宇(庄内藩士)−酒井忠寧−石野信政−石野信和−石野信一−石野三和−石野宗孝−田代文兵衛−田代文也−田代孝明−田代和政−田代政
脈々と受け継がれる今川の血筋。田代政さんは芸名田代まさし、1980年シャネルズでデビュー。
その後グループ名をRATS&STARに改名、現代に至る。
562 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2004/06/27(日) 23:14
>>559 西尾安信は氏真の三男か四男だったと思う。その子供が庄内藩主の一族の養子になってる。
その家の五男が石野姓をなのってて家紋は先祖にちなんで二つ引両。石野家の子供が田代家(剣術師範)に婿養子に入った。
967 :
日本@名無史さん:05/03/08 00:44:43
>>966 知らなかった・・・・
田代がそんなスゴイ名家の出身なんて・・・
968 :
日本@名無史さん:05/03/08 01:40:12
静岡で石野って、電気グルーヴの石野卓球の先祖?
969 :
日本@名無史さん:05/03/08 22:56:25
卓球は津軽だろ。
970 :
日本@名無史さん:05/03/12 10:48:53
阿波公方と喜連川はどっちが嫡流?
971 :
日本@名無史さん:05/03/12 11:21:35
972 :
日本@名無史さん:05/03/12 12:04:59
>>970 一応、阿波のほうが将軍家の系統だから嫡流で
喜連川は鎌倉公方の系統だから傍流。
でも、喜連川のほうは、徳川幕府から高家に封じられたこともあって、
明治に華族に認定されたけど
阿波のほうは、徳島藩に保護されていたが、非常に粗末な扱いで
それに怒って京都へ帰ったが、貧乏暮らしで家来も居なかったので、
明治政府からは華族どころか士族にも認定されなかった。
一応、華族にしてくれ!って届けたんだけど、
明治政府が思想的に南朝を正当化する方針で、
北朝を正当化した足利氏にはマイナスに働いた。
阿波公方家は12代義晴の庶兄の系統で、
本流を継いだ義晴ー義輝、義昭の系統と長く争っていて
14代は阿波公方家の義栄が就任したけど、15代は義昭が就任した。
足利幕府崩壊後は、阿波公方家は義栄の弟の系統が継承していった。
一方、最後の将軍・義昭の系統は残存していないと思われ。
973 :
日本@名無史さん:05/03/13 08:32:13
前、ズームイン朝に出演していた足利尊氏の末裔のジジィって
阿波公方の末裔だったんかな。
974 :
日本@名無史さん:05/03/13 11:34:34
阿波公方の末裔は今も健在で?
975 :
日本@名無史さん:05/03/13 13:23:08
足利健亮大先生はどちらの足利?
976 :
日本@名無史さん:05/03/13 15:38:45
>974
現当主の足利義弘氏は九州保健福祉大学の教授を勤めてらっしゃいます。
977 :
日本@名無史さん:05/03/13 22:55:32
以前、いいともに出てきた足利義忠ってアンちゃんの系統はどうなの?
978 :
日本@名無史さん:05/03/14 00:39:43
愛知県岡崎市に新田義貞の首があるらしいが本物なの?
阿波公方は江戸時代にわいて出た自称子孫だろ。
980 :
日本@名無史さん:05/03/14 11:52:43
新田と足利が河内源氏の嫡流って本当?
984 :
日本@名無史さん:05/03/15 00:32:15
足利義忠氏に幻滅。
義忠氏までの系図を知りたかったのに・・・。
義忠氏までの様々な歴史を知りたかったのに・・・。
985 :
日本@名無史さん:05/03/15 13:53:14
なぜ新田と足利の2代目が同じ「義兼」というのだろうか?
986 :
日本@名無史さん:05/03/15 15:46:10
>>981新田か足利が河内源氏の嫡流とすれば義康の兄義重の新田のほうが嫡流だと思うんだけど。
たしかに足利は幕府を開いたくらい栄えたが、栄えた家=嫡流ではないでしょ。
987 :
日本@名無史さん:05/03/15 18:54:49
>985
同一人物だったから。
新田家と足利家の当主を兼ねていたので、良く兼ねる者だということで良兼。
転じて義兼となった。
988 :
日本@名無史さん:05/03/15 19:50:19
>>986 源義國の跡を継いだのが兄の義重ではなく弟の義康!
だから義國流の嫡流は足利!義重は分家。
だから河内源氏の嫡流が新田、足利のどちらだ?となればば足利になる。
989 :
日本@名無史さん:05/03/16 00:59:30
>988
平安末期の新田氏も足利氏は、
どちらが宗家でどちらが分家というのでもないだろう。
何か事ある時に宗家の下に馳せ参じる、というような関係ではないし、
おのおのが自立した別個の家として存在していたと見るべきだと思う。
武門にとって「嫡流」が重要な意味を帯びてくるのは、頼朝が幕府を開いてからの話では?
990 :
日本@名無史さん:05/03/16 01:17:20
足利と新田の関係は、
源義朝の子の義平と頼朝のようなものだろう。
長子ではあるが嫡子でなかった義平に該当するのが新田氏で
三男ながら嫡子となった頼朝に該当するのが足利氏。
991 :
日本@名無史さん:05/03/16 01:28:33
義重は罪を犯して、義康が跡を継ぐこととなった。父から足利庄などを譲られた。
992 :
日本@名無史さん:05/03/16 12:56:09
>>989 平安末期においてはまさしくその通りだろうね。
>>991 初めて聞いた。罪ってどんな事?
993 :
日本@名無史さん:05/03/16 14:52:20
新スレ建てた?
994 :
991じゃないけど:05/03/16 21:39:13
>>992 たしか誰か公家(院の近臣だったような)と喧嘩して屋敷を焼き討ちにして都にいられなくなったんじゃなかったけか?
996 :
日本@名無史さん:05/03/16 22:39:24
>>994 それは親父の義國だよ。
二つ事件を起こしている。
一つ目は家来が后宮職大炊女と権弁藤原光頼の小舎人を相手に喧嘩をして
殺害されたことに対し相手邸に襲撃させた事件。
二つ目は右大将大炊御門実能の行列と衝突、義國が実能の家来に馬から
引きずり降ろされたことに家来が憤慨して実能邸を焼き払った事件。
この結果勅勘を蒙り都を引き払った。
997 :
日本@名無史さん:05/03/17 00:40:23
>>885-887 間男の子だったんだろ。
清和?陽成?くだんね。星野も竹内も奥富も野口も赤坂もアホ。
>頼義ー(間男)ー義家ー義国ー(間男)ー義康
998 :
日本@名無史さん:05/03/17 00:43:46
義國が亡くなったのは新田の方だっけか?
墓だったか、祀った神社だかがあったように思ったが。
999 :
哲郎出川:05/03/17 00:54:48
999
1000人切り
1001 :
1001:
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