433 :
日本@名無史さん:04/12/09 02:59:18
>>430 この頃の家康は、信長が天下を取るのは確定だと思っていただろう。
で、信長の天下で生き残るためには、領土的野心を持つのは危険。
それよりも、長年の同盟者としての信用を維持することのほうが大事。
そして、織田政権下で重要な地位を築くことを考えていただろう。
信長よりも長生きすることを望んでいたのは、間違いない。家康は健康オタクとしても有名(w
>>431 堺から海路で三河まで何日かかるのかな?
家康は、一日でも早く三河に戻って、光秀追討の兵を挙げたかった。
もちろん、次の天下人への名乗りとして信長の仇討ちをするために。
だから、安全よりも速度を重視して、陸路を選んだと思う。
甲州・信州を取れたのは、滝川一益が逃げ帰ったからで、家康が共謀に加わっていた根拠はない。
光秀をそそのかしたのは、光秀自身の野心と信長の油断かな。
堺を見学していた家康一行は予定を早め、京に滞在していた信長に御礼言上をする為に、
京へ向けて進発していた。
本能寺で変があった時、家康はすでに堺を離れており、京より火急を知らせに駆けつけた
茶屋四郎次郎清延(後の幕府御用商人)と、京にかなり近い河内の飯盛山付近(諸説有)
で出会い、事件を知ったと言われている。
この時点では堺からかなり離れており、なるべく最短距離かつ本街道から離れたルートと
して、伝わっている伊賀越えのルートに特に問題はないと思う。(堺付近には、四国へ渡海
予定だった信孝軍団が展開していたので、不測の事態を考えたら避ける方が無難)
堺の滞在予定を早めて、安土で会ったばかりの信長の下へ挨拶に行こうとしている行動が、
何か不穏な兆しを掴んでいた可能性を示しているのかも知れない。
ただ、別の視点で見ると、この時毛利と対峙していた秀吉からの援軍要請に応えて、信長
自身の出馬準備が進んでいた。
信長から家康に付けられていた案内役の長谷川秀一から、信長が京に滞在中で出馬が近
いとの連絡を受け、用心深い家康が出陣前に挨拶をしておこうと考えたとしても辻褄は合う。
穴山梅雪の殺害は証拠はないのだが、家康の指示の可能性はかなり高いと考えられる。
(その後の梅雪旧領への旧武田家臣や旧梅雪家臣の派遣など、布石が迅速だった)
この間の経緯を含めて、家康が本能寺の変に関わっていたという証拠は当然残されていない
ので、想像を楽しむしかなく、真相は藪の中だろう。
いずれにしても本能寺の変の結果、得をしたのは、秀吉、家康を筆頭に、毛利や滅亡の淵に
いた上杉家や長曾我部、関係が悪化しつつあった北条家、前将軍義昭、大坂の退去勧告に
最後まで従わずようやく紀州に退いた本願寺教如、正親町天皇の退位を迫られていた朝廷や
公家衆も含まれるであろう。
譲位自体は正親町天皇も望んでたことなんじゃないかな?
>>435 正親町天皇も天正元年(1573年)頃から、自ら譲位を口にしていたフシはあるようです。
(信長の譲位の求めに対しての言動という説もあり)
実際の譲位は信長死後の天正14年に行われている。
信長がある意図を持って、正親町帝から誠仁親王への譲位を迫ったかどうかは、当然
ながら正史に記載されている訳ではないので、信長と朝廷の確執を当時の出来事や
他の記録より類推するしかないと思われる。
@ 京での二度にわたる馬揃え(正親町天皇への示威と捉えるかどうかで評価も異なる)
A 正親町天皇の第五皇子である誠仁親王を信長自身の猶子とし、二条御所を築く優遇する
B 二度にわたる暦の改訂を朝廷に求める
(勧修寺晴豊の日記に「これ信長むりなる事に候」)
C 永禄12年 正親町天皇が信長に副将軍職を勧めるが、信長は返答せず
D 天正3年 正親町天皇の官位昇叙の勧めを辞退し、家臣の任官を奏請する
E 天正6年 信長 右大臣、及び右近衛大将を辞官
F 天正9年 信長 左大臣推任も辞退
(信長は,正親町天皇が誠仁親王に譲位すれば,左大臣任官を受けると
朝廷の使者に伝えた「御湯殿上記」)
G 天正10年 朝廷からの三職推任も返答を留保
437 :
日本@名無史さん:04/12/09 15:30:35
家康は信長の饗応に応えて五月下旬には安土に赴き接待を受けている
この時点で信長に正式な御礼言上は出来ている
京や堺見物は信長に進められている
堺から再度京に上ったのは信長が直々に出張ってきていることへの
出陣祝いのためだ
本能寺の変の知らせを受取った時刻には諸説がある
おそらく堺出立前に耳に入っていたのではないか
海路を採らなかったのは当時は海賊が多く海上の治安が悪かったからだ
438 :
ゆきだるま ◆mTjw0CyQU6 :04/12/09 23:46:52
トリップ変更しました。 前;#abd
439 :
日本@名無史さん:04/12/12 22:48:11
マンコの陰毛だろ
440 :
日本@名無史さん:04/12/19 21:00:15
信長死亡の密使が明智光秀から、秀吉に発せられた
使者が毛利陣と秀吉陣をいくら夜中といえども間違うわけはない
光秀から「暗殺成功」の密書を受け取った秀吉はその使者を切り殺している
秀吉のその後の動きも迅速、口封じに光秀も殺す必要があった
裏切られた光秀も慌てた 共謀というより、秀吉のそそのかしくらいかな?
中国大返しのスピードぶりから見ると事前に入念に準備していた可能性大
秀吉を見逃した小早川隆景も事前に変を知っていたものと思われる
441 :
日本@名無史さん:04/12/19 22:14:30
秀吉の綿密なる陰謀。
秀吉にとっての最大の功労者光秀を討ち取らなかった
>>440 スピードの速さは、無問題だと思うよ。
桶狭間でも、今川軍が2万5千の兵力だったなら本隊全滅でも2万は残ってい
るので敵討ちしてから帰国できたのに、今川諸隊は一斉に撤収を始めている。
なぜか?
義元の死で武田・北条との盟約が反故になる危険性が出て、諸将の知行地が
侵攻の危機に瀕したから、急いで家族の居る知行地へ引き返したくなったから
だろう。
秀吉も同じ立場になっただけのこと。
迅速に撤収するのは当然で、しかも毛利と明智勢の挟撃を避けるには、どちら
か一方を粉砕する必要もあった。
本能寺以後の予想のつかない乱世を生き残るには、とりあえず急いで戻って明
智勢を撃退し領国を守る必要があった。
安土を出た信長本隊が、信長と小姓だけが本能寺に入り周辺に布陣しない状
況を秀吉が構築するのは難しい。二条城の信忠も同様。
中国出陣の過程で、明智勢の位置関係と信長が精強な馬廻り衆を手近におか
ずに本能寺に入るタイミングが偶然重なったから、「今なら簡単に殺せる」と思った
光秀が動いただけの気がする。その後は織田の敵対勢力頼み。
与力の裏切りやら四国討伐中の信雄勢の秀吉加勢など不利な事態に遭遇した
のは、秀吉の書いたシナリオではなく単に用意周到な事前工作が無く、偶発的に
事を始めてしまったから。
443 :
日本@名無史さん:04/12/20 17:21:11
家康に操られる理由って、、、光秀にあったのか?
444 :
日本@名無史さん:04/12/21 01:25:12
信長討ったら、次が誰か全然わかんないけど重用してくれるんだわさ、
と根拠のない夢をもってやってしまっただけさ。
そしたら、「お前、何しとんねん、コツン」とやられてしまったただの間抜け者。
445 :
日本@名無史さん:04/12/21 01:44:59
→444
『燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや』ってヤツだな。
物事を勉強しなおせ。
四国討伐中の信雄勢
>堺を見学していた家康一行は予定を早め、京に滞在していた信長に御礼言上をする為に、
>京へ向けて進発していた。
>本能寺で変があった時、家康はすでに堺を離れており、京より火急を知らせに駆けつけた
>茶屋四郎次郎清延(後の幕府御用商人)と、京にかなり近い河内の飯盛山付近(諸説有)
>で出会い、事件を知ったと言われている。
>この時点では堺からかなり離れており、なるべく最短距離かつ本街道から離れたルートと
>して、伝わっている伊賀越えのルートに特に問題はないと思う。(堺付近には、四国へ渡海
>予定だった信孝軍団が展開していたので、不測の事態を考えたら避ける方が無難)
うわぁ、消防レベルだよ
448 :
日本@名無史さん:04/12/21 23:29:55
>>447 なら、おまいは厨房レベルの見解を示してみそ
449 :
日本@名無史さん:04/12/22 00:57:00
信忠⇔光秀
血迷って信忠まで討ってしまった、、
もしくは裏切ったか?
厨房レベルか知らんけど
>堺を見学していた家康一行は予定を早め、京に滞在していた信長に御礼言上をする為に、
>京へ向けて進発していた
>>48これの根拠示してくれ、昔似たような事書いてた厨いたのを思い出したから。
ちなみに京で家康と同行してた信忠は、5月27日の時点で信長上洛するからって言って
京に残ると書状に残してる。京の公卿等も信長上洛の話を知ってて、出迎えしようとしたが
出迎え無用と言われたと日記に残してる。
なーのに、信忠と一緒だった家康だけ堺見物して、6月2日に「長に御礼言上をする為、急いで上洛」???
前日まで堺衆に接待受けまくってたんだがね。
つーわけで、飯盛かどうかは色々あるが、最低でも
>本能寺で変があった時、家康はすでに堺を離れており
というようなのはネタもいいとこ、消防レベル。
>堺付近には、四国へ渡海予定だった信孝軍団が展開していたので、
>不測の事態を考えたら避ける方が無難)
んな訳ない、信孝等が居たのは住吉や石山等の摂津。堺には断られてる。
こんな程度、調べれば簡単に判明すんのに、何見たか知らんけどなぁ。
>>450 >信孝等が居たのは住吉や石山等の摂津。堺には断られてる。
堺の街中に軍勢が駐屯しなかったのは事実だったろう(住民には迷惑この上ない)。
住吉も含めて摂津、和泉に比較的広範囲に展開していた記録があるが、本能寺の変が
起こったまさに6月2日の当日、信孝軍団が渡海する予定だった記録があるのも確かだ。
信孝本隊の渡海はまだ先だとしても、当日堺付近に信孝軍団が集結しつつあり、少なく
とも渡海の先陣部隊が堺付近に存在した蓋然性は高かろう(少なくとも信孝の幕僚部隊
の一部が堺にいなかったとは考えられない)。
また、散々既出だが、歴史というのもは正史(とされる記録)であっても全て真実が記録
されているとは限らない。
都合の悪い事は改竄あるいは記録されず、され、都合のいい事は誇張されるものだ。
ある人物にまつわる一つのエピソードでさえ、複数の人物の事とされている記録がある。
家康が変を堺で知ったのか、あるいは当日の朝出発し途中で知ったのかは、色々な説が
ある。
特にこの時代には、それぞれが大きく矛盾する記録や伝聞が多く存在する。
もちろん、講談や歴史資料的な価値の低い物は割り引いて見なければならないが、一つ
の歴史の出来事を検証する場合、一つの記録を鵜呑みにするのはあまりにもウブである。
特に歴史のミステリーを検証する場合には、多角的な検討が必要であるし、正史とされた
出来事以外を全て唾棄するのであれば、歴史年表でも暗記すればいい。
また、品位のない書込みはスレの本意ではないだろうし、見ている方が恥ずかしくなる場合
がある事を覚えて、ミステリーの解明を楽しめばいいではないか?
>>450 「茶屋文書」に京都で本能寺の変を知った茶屋四郎次郎が、堺にいる家康に連絡
しようと早馬を飛ばすと、のんびと帰京途中の家康一行と枚方付近で遭遇したとの
記述がある。
茶屋家が徳川家への貢献を誇張しているかも知れないが、そのような記録は他にも
あるようだ(場所は諸説)。
>信孝等が居たのは住吉や石山等の摂津。
天正10年5月29日 信孝、四国渡海のため摂津住吉に着陣。
翌日泉州岸和田に着陣。 ← (手紙等の記録によるものらしい)
雑賀衆の軍船百艘が待機。
6月1日 阿波の篠原自遁に宛てて、阿波に禁制を発する
少なくとも、軍団の渡海のために大勢の船出衆や軍勢が泉州付近にいた事は間違い
ないのではないか。
家康が変の知らせを堺で知ったとしても、万一の為、陸路を選んだのは妥当だろう。
また、途中で知ったとしたなら、京を避けて最短距離のルートを選んだのはまさに当然
だと思う。
>>451-452 電波発信するのも構わんが、ネタ元ぐらい書けよ。
>本能寺の変が起こったまさに6月2日の当日、信孝軍団が渡海する予定だった記録があるのも確かだ
へぇ、何の記録?俺が知る限りでは、3〜4日辺りだったはずだが。
>渡海の先陣部隊が堺付近に存在した蓋然性は高かろう(少なくとも信孝の幕僚部隊
>の一部が堺にいなかったとは考えられない)
おまいが思えんのは勝手だが、軍が堺に入るのを拒否しらから、信孝は住吉へ移動したんだが。
何か?堺に四国派遣する軍勢が一部でも入っているようなニュアンスの資料でもあんの?
>家康が変を堺で知ったのか、あるいは当日の朝出発し途中で知ったのかは、色々な説がある。
諸説ねーよ、どこに「諸説」あんの?誰がどんな説唱えてるか教えてほしいもんだ。
最低でも鷲森日記・歴代古案ぐらい確認してくれよ。
>講談や歴史資料的な価値の低い物は割り引いて見なければならないが
茶屋文書?茶屋由緒書の事か?これと鷲森日記を天秤に掛けてんの?
>そのような記録は他にもあるようだ(場所は諸説)。
記録ねぇ、どんな「記録」?石川忠総留書には何て書いてある?
同時代の数少ない記録や、時代が近い信憑性の高い記録は何て書いてある?
「他にもある」やら「諸説」あるらしいからさ、他の史料や、他の学説を是非紹介してほしいもんだw
もっともらしく
>歴史の出来事を検証する場合、一つの記録を鵜呑みにするのはあまりにもウブである。
>特に歴史のミステリーを検証する場合には、多角的な検討が必要であるし、正史とされた
>出来事以外を全て唾棄するのであれば、歴史年表でも暗記すればいい。
と書いて、徳川家正史を鵜呑みにしてるんだしなぁw
>家康が変の知らせを堺で知ったとしても、万一の為、陸路を選んだのは妥当だろう。
誰も海路選んだとは書いてねーけど?信孝の軍勢云々って話したから、そりゃ違うだろとは書いたが。
あぁ。それと↓のは、何の記録だ?曖昧な表現で誤魔化さず、正確に書いてね。
> 翌日泉州岸和田に着陣。← (手紙等の記録によるものらしい)
> 雑賀衆の軍船百艘が待機。
鷺森日記が鷲森日記になっとる...orz
今井宗久茶湯日記書抜、鷺森日記、石川忠総留書、家忠日記
これ、本能寺での家康の行動を調べる上で、必須の史料。
こんなの常識。
もうちょっと落ち着いてやわらかい言葉使いで書こうぜ。
>>456 すまそ、そーする。
つか週末いないんであれだが、本能寺関連の史料のコピー結構持ってるから
希望があればうpするよ。
鷺森日記でも、多聞院日記でも、当代記でも、石川忠総留書でも、宗久茶会記でも
家忠日記でも、何でもあるものだったら抜粋しまっせ。
もちろん、茶屋由緒書もあるよw
>>454 もう少し、落ち着けよ。電波にも色々な種類があるぞ。
おまいさん、去年も「本能寺の変の真の黒幕は誰じゃ」のスレで荒れてたヤシじゃねーの?
「鷺森日記」や「家忠日記」ぐらい、このスレ来る人間は一度は目にしてるだろうよ。
軍勢が遠征するには、兵糧・武器・弾薬・馬の飼料その他大量の物資を集積する策源地が必要だ。
当時の泉州での最大の策源地といえば堺だ。合理的に考えて
>>451の言うように監督・指示する
官僚的な武将がいると考える方が普通だと思うぞ。
(軍勢の駐屯を断ったからと言って補給担当の官僚武将の駐在迄断ったとは思えないし、そんな記録が
あるなら後学の為に教えてほしい)
それに
>>451は<渡海の先陣部隊が堺付近に存在した蓋然性は高かろう
<堺の街中に軍勢が駐屯しなかったのは事実だったろう(住民には迷惑この上ない)
と書いていて、堺の街中に大軍勢がいたという事は一言も書いてない。
普通にスレ見てる人間からすれば、おまいが言葉尻を歪曲して大声で叩きたいだけに見えるぞ。
「家忠日記」は同時代の資料として価値が高いと評価されているが、「今井宗久茶湯日記書抜」、「鷺森日記」は
は伝聞や推測や噂話も多く、いくら当時の資料とは言え、全てを鵜呑みにはできないという意見も多い。
松平家忠も当時堺にいたわけでなく、伝聞を記述している。(後日訂正している可能性もあるが)
また、いくら史料価値の高い記録でも、全て真実を記録しているかどうかは分からない。(日記類は主観も多く、また
簡潔に書かれてもいる。家忠も石川忠総も徳川家の家臣だ)
つまり、過去に行けない我々は、100%正しいとは実証できない過去の記録より類推するしかないということだ。
理性的な人間が言うように、大事なのは歴史の闇を解明するには、相互に検証しつつ、ある程度の合理的な推測で
点と点を繋がねばならないという事だろ。
それから言葉使いはコミュニケーションの初歩の初歩だぞ。
>おまいさん、去年も「本能寺の変の真の黒幕は誰じゃ」のスレで荒れてたヤシじゃねーの?
誰それ?俺が知ってるのは、以前こういうスレで、史料の捏造してた電波垂れ流ししてて
突っ込まれたら、スレ荒らして逃げてった阿呆だけだが。
>「今井宗久茶湯日記書抜」、「鷺森日記」は伝聞や推測や噂話も多く、
>いくら当時の資料とは言え、全てを鵜呑みにはできないという意見も多い。
誰の意見?つか、茶屋由緒書っつー、伝聞の噂込みの、成立年代がかーなり後の家譜を鵜呑みに
していた意見とは思えんなぁ。
しかも、本能寺の変の際の記述が「伝聞や推測や噂話」?はぁ?誰の意見でどんな風に否定してるか
はっきり書いてね、俺は聞いたことが無いからさ。
>軍勢が遠征するには、兵糧・武器・弾薬・馬の飼料その他大量の物資を集積する策源地が必要だ。
>当時の泉州での最大の策源地といえば堺だ。合理的に考えて
>>451の言うように監督・指示する
>官僚的な武将がいると考える方が普通だと思うぞ。
策源地?堺が?駐屯地を住吉や石山にしてるのに、どうして軍の駐屯を拒否した堺にしてるんだって聞いてるんだが。
それこそ、本能寺後に信孝等が入った石山と考えるのが常識だが。
補給担当の官僚武将?それは誰を指すのかな?
>つまり、過去に行けない我々は、100%正しいとは実証できない過去の記録より類推するしかないということだ。
>理性的な人間が言うように、大事なのは歴史の闇を解明するには、相互に検証しつつ、ある程度の合理的な推測で
>点と点を繋がねばならないという事だろ。
アホらしくて言葉もないが、じゃあ、おまいは史料から「合理的な推測」してる訳ね。
自分もしてるつもりだから、次に史料を通じて、
>堺を見学していた家康一行は予定を早め、京に滞在していた信長に御礼言上をする為に、
>京へ向けて進発していた。
>本能寺で変があった時、家康はすでに堺を離れており、京より火急を知らせに駆けつけた
>茶屋四郎次郎清延(後の幕府御用商人)と、京にかなり近い河内の飯盛山付近(諸説有)
>で出会い、事件を知ったと言われている。
切れたんで、
>>460をもう一度。
>つまり、過去に行けない我々は、100%正しいとは実証できない過去の記録より類推するしかないということだ。
>理性的な人間が言うように、大事なのは歴史の闇を解明するには、相互に検証しつつ、ある程度の合理的な推測で
>点と点を繋がねばならないという事だろ。
アホらしくて言葉もないが、じゃあ、おまいは史料から「合理的な推測」してる訳ね。
自分もしてるつもりだから、次に史料を通じて、
>堺を見学していた家康一行は予定を早め、京に滞在していた信長に御礼言上をする為に、
>京へ向けて進発していた。
>本能寺で変があった時、家康はすでに堺を離れており、京より火急を知らせに駆けつけた
>茶屋四郎次郎清延(後の幕府御用商人)と、京にかなり近い河内の飯盛山付近(諸説有)
>で出会い、事件を知ったと言われている。
を否定して
家康が本能寺の変当時、堺にいて、本能寺の変の報を聞き、堺を脱出した
ってのを証明するから、おまいも証明してね。
五月二十七日 信忠が森乱丸宛に、信長上洛を聞き堺見物を取り止めると言う内容の書状(小畠文書)
五月二十九日 家康が堺に到着、三日には宗久邸で茶会予定(今井宗久茶湯日記抜書)
家康が堺に到着、松井友閑・津田宗及等の接待受ける(宗及他会記)
六月一日 朝、今井宗久邸で茶湯朝会、昼、津田宗及邸で茶会、晩、松井友閑邸で茶会、その後、酒宴
家康には案内役として、信忠より杉原(家次?詳細不明)、信長より長谷川秀一付けられてる(鷺森日記)
二日の事は、史料の内容をそのまま書くね。
今井宗久茶湯日記抜書
一 今朝、於京都 上様惟日ヵ為ニ御生害ノ由、友閑老ヨリ申来候
天王寺屋会記(宗及他会記)
午六月二日 上様しやうかひ也
惟任日向守於本能寺御腹ヲキラせ申候、家康モ二日ニ従堺被帰候、我等も可令出京と存、
路次迄上り申候、天王寺辺ニ而承候、宮法モ従途中被帰候
鷺森日記
二日朝徳川殿上洛 火急ニ上洛之儀者、上様安土より二十九日ニ御京上之由アリテ、
それニつきふたふたと上洛由候也(これは信長生害ヲ知テ、計略ヲ云テ上洛也)
以上の史料(他にもあるが、主なのだけね。)から、家康が堺に来るまでには
信長が上洛する事は知っており、また、家康の言い訳の「二十九日に上洛せよと言われていた」と、言うわりには
一日は杉原、長谷川、穴山などと一緒に一日中接待受けてる。
しかし、二日朝に「ふたふた(慌てて)」と出てる事から、宇野主水も書いてるように
明らかに堺を出る「口実」にしており、下記の内容は間違いとなる。
また、本能寺変の時刻は大体午前5〜7時の間であり、それより先に家康が堺を出たというのは
この当時の行動から不自然極まりない。
>堺を見学していた家康一行は予定を早め、京に滞在していた信長に御礼言上をする為に、
>京へ向けて進発していた。
>本能寺で変があった時、家康はすでに堺を離れており、京より火急を知らせに駆けつけた
>茶屋四郎次郎清延(後の幕府御用商人)と、京にかなり近い河内の飯盛山付近(諸説有)
>で出会い、事件を知ったと言われている。
ついでに信孝の件。鷺森日記から
一、三七殿阿州三好山城守養子トシテ御渡海アリ 二十九日住吉ニ御一宿アリ
軍勢堺ニ家陣ヲトルベキ由在之 南北以外迷惑仕候ヘバ 宮内法印ヨリ被申分テ、陣取無之
三七郎殿へ為御使平井越後ヲ被遣也(但罷帰也) 御太刀、馬代鳥目五千疋、御道服一、
御帷五、岸和田迄平越罷上分也 但時宜難計云々 三七郎殿ノ取次岡本右衛門尉ト云
三日今朝阿州ヘ御出船アルベシト云々 然処、二日之朝信長生害ニ付而、岸和田城より摂州表へ陣替之条、
平越御音信を不相届 四日早朝平越帰寺
宗及他会記から
六月五日 於大坂城中七兵衛殿しやうかひ、三七殿五郎左衛門両人之為御覚悟之儀也
これらから、信孝は松井友閑からの申し出で堺に「陣取無之」とし、岸和田へ移ってるのがわかる。
その後3日に四国出兵の予定だったが、変を聞き、岸和田を出て石山(この当時から大坂城としてるのがわかる、
やはり信長は安土から移る気だったのか?)に入ってるのもわかる。
策源地と主張する堺に対して、本能寺以降に信孝から、何の働きかけもない。
堺の奉行的立場だった松井友閑にさえ、それらしき行動をしていない。
これは如何なる事か?
様々な史料による推測で書いてるらしいので、史料的根拠を基に明確な推論を望む。
付け加え
>天正10年5月29日 信孝、四国渡海のため摂津住吉に着陣。
翌日泉州岸和田に着陣。 ← (手紙等の記録によるものらしい)
雑賀衆の軍船百艘が待機。
↑これ、鷺森日記に書かれてる一文だったから、何の史料って聞いたんだけどなぁ。
これは鵜呑み、でも家康に関する記述は否定とw
それと、「諸説ある」「意見もある」「他にもある」とか書いてるが
全くそれを証明してないね。誰がどんな根拠を基にどんな説述べてると書いてくれないとね。
そりゃ学説でなくても構わんからさ。「諸説ある」だけでは、反論にも証明にもならんよ。
466 :
日本@名無史さん:04/12/27 21:37:07
age
467 :
日本@名無史さん:04/12/27 23:24:11
本能寺の変は変!
過疎化スレなんで冬厨相手の秒殺禁止>465
469 :
ゆきだるま ◆mTjw0CyQU6 :04/12/28 23:44:04
保守
470 :
日本@名無史さん:04/12/29 00:25:40
新田次郎の小説も読んだほうがいいかも。
471 :
日本@名無史さん:04/12/29 13:16:10
精神病の真実 (政治板)
http://money3.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1102516267/l50 世界大百科事典 精神分裂病と向精神薬 より抜粋
「分裂病の原因はなお不明だが〜発生頻度はあらゆる民族,あらゆ
る時代を通じ不変で, 0.7 〜 0.9 %程度とされ,日本でも同様だが,
1963 年の全国調査以後は信頼できる統計がなく,近年の頻度に増減が
あるか否かは明らかではない。」
「精神分裂病には抗精神病薬を数年にわたって長期与薬しなければなら
ぬが,あまり長くなると口や舌がもぞもぞと動いてしまう遅発性ジスキ
ネジアと呼ぶ副作用が出る。これを治すのは難しい。」
「向精神薬が脳のどこへどのように働くかについてはまだよくわからない」
「病気の機序が不明なところへ,作用のしくみがよくわかっていない
精神治療薬を与えて治そうというのには無理がある。」
>>465 >それから言葉使いはコミュニケーションの初歩の初歩だぞ。
これには反論しないんだな。
おまいさんのレス見てたら、全く後出しジャンケンだよな。
しかも別の人同士がやってるゲームの横で、勝手にジャンケンして「勝ったぞ!
勝ったぞ!何とかしろっ」て言ってるようなもんだな。
やっぱ冬休みに入っただけの事はあるわ。
誰かが書いたレスに最初に横レスで出て来て、いきなりエラそうな口叩いて、
批判されたら、それで反論・証明しろもクソもないだろうが。
文字数も行数も制限のある1レスに何を期待してるんだ?
日本史の前に国語を勉強し直した方がいいぞ。
趣味で色々見てる人もいる。
不特定の人間が見るスレであんまり他人の気分を悪くさせない方がいいんじゃないか?
474 :
日本@名無史さん:04/12/29 19:04:14
冬厨age
472のいう後出しジャンケンの意味がわからない。
>>475 学研雑誌しか読んだ事のない漏れの思い込み通りに展開したのに、後から口出すんじゃねぇ!!
と言いたいんです。
これではまともな議論にならんね、一方はレス内容が喧嘩腰。
もう一方は、妄想逆切れ厨。
このまま年明けか?
>>476 君のレスも荒れるもと
>>472 自論を述べたり史料批判するなら求められた論拠提示は必要です
それをしなければ、ただの憶測です
また肯定・否定するにも抽象的表現では誰も納得せず理解を得られません
言葉遣いは兎も角、
>>462-465のように史料からの抜粋とはいかずとも
それなりに明確にし論証されては如何?
478 :
重複:04/12/30 07:21:42
典型的知ったか
冬はまだまだ続くと
根も葉もない与太話をさも真実のように述べ
嘘八百並べて自身のレスをさも正しいかのように書き並べ
論破されると本性現し逃亡
いつものヤツかw
481 :
日本@名無史さん:05/01/05 11:48:09
k;
482 :
日本@名無史さん:
石川忠総留書をうpして頂けないかと