徐福は日本に来ていました
2 :
日本@名無史さん:03/08/03 15:34
1000Get
3 :
日本@名無史さん:03/08/03 15:36
この板はもう書けないので二度と立てないで下さいです。
4 :
日本@名無史さん:03/08/03 15:40
皇族は徐福一行だったかもしれんね。
5 :
日本@名無史さん:03/08/03 15:41
北部九州の渡来系弥生人と中国山東省で発掘された前漢時代の墳墓より出土の古人骨
とが酷似しているという日中共同の調査結果が、今年はじめに発表された。
現代の科学的人類学的分析で、古人骨に高い類似性が指摘されたわけである。
前漢は日本の弥生時代前半に当たり、大陸から古代人が農耕や金属器文化など
と共に次々と渡来していた可能性が出てきた。
従来の朝鮮半島南部経由の古代人渡来ルートとは異なる新説ということである
が、再び鍼医・徐福の渡来伝説や日本人の起源が新たな注目を浴びることになった。
http://kanemasa-web.hp.infoseek.co.jp/data4/kojin.htm 従来の朝鮮半島南部経由の古代人渡来ルートとは異なる新説ということである
従来の朝鮮半島南部経由の古代人渡来ルートとは異なる新説ということである
従来の朝鮮半島南部経由の古代人渡来ルートとは異なる新説ということである
従来の朝鮮半島南部経由の古代人渡来ルートとは異なる新説ということである
6 :
日本@名無史さん:03/08/03 15:53
神武は徐福だったかも知れんが、今の天皇はチョンコ系。
明仁はプサン港へ帰れぇ!
8 :
日本@名無史さん:03/08/03 16:02
9 :
日本@名無史さん:03/08/03 16:03
「土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、
細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系
「新モンゴロイド」の特徴がありました。
彼らのルーツを求めて朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、
中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の
人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極め
てよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国
だったのです。」
http://sakezo.com/shumi/rekisi/keta1.html ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず
ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず
ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず
ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず
10 :
日本@名無史さん:03/08/04 22:37
やっぱり徐福は日本に来ていたんだな!!!
11 :
日本@名無史さん:03/08/04 22:38
秦王国ってのはどうなの?
12 :
日本@名無史さん:03/08/04 23:05
徐福=神武天皇
が、のちに亡命百済族にのっとられる。アイヌは北へ追いやられる。
しかし、その天皇もまた別の百済系有力豪族にのっとられる。
でいい?故にそれまでの歴史書は焚書される・・・?
聖徳太子は亡命突厥?
大和朝廷ができる以前の小王国には当然大陸やポリネシアから
渡来した人々の国もあって、必ずしもみんながみんな猿のような生活という
訳でもなかった・・・中でも繁栄してたのは出雲族?
徐福一行=出雲族という説もあるみたいですけど・・・
そんなはず無いニダ!断じてイルポソノムはウリだったニダ!
14 :
日本@名無史さん:03/08/04 23:08
日本の歴史は始皇帝の不老不死の薬探しから始まった・・・?
ちゅーか、大陸での戦に破れて、亡命してきた人たちなんだね。
きっと。
15 :
日本@名無史さん:03/08/04 23:10
ジョフーとジンム
響きが似てなくも無い。
16 :
日本@名無史さん:03/08/04 23:12
日本の歴史は縄文王室と徐福一行との出会いからだと思うね。
17 :
日本@名無史さん:03/08/04 23:14
長宗我部元親が始皇帝の末裔とか言ってたのも関係あるかな?
18 :
日本@名無史さん:03/08/04 23:28
やはり出雲族はでかい神社持ってるだけあって
それなりに繁栄してたのだろうね。
19 :
日本@名無史さん:03/08/05 00:26
>>18 でかい神社は出雲王のために天皇が建てた牢獄だろ。
徐福って静岡県で死んだ事になってるんだろ?
21 :
日本@名無史さん:03/08/05 15:05
>>20 墓は和歌山にあるらし。いろんなところに伝説あるんじゃない?
22 :
日本@名無史さん:03/08/05 15:18
ということは、日本書紀や古事記は捏造歴史書・・・・・
徐福は和歌山に上陸してラーメン屋をはじめたらしいね。
今でも子孫が続けてるよ。
徐福は在日
25 :
日本@名無史さん:03/08/05 22:37
徐福一行が来ていてなら、
もっと石畳とかの、大規模な遺跡とか見つかりそうなもんだが。
26 :
日本@名無史さん:03/08/06 05:21
27 :
日本@名無史さん:03/08/06 10:37
>>25 徐福一行3000人の童男童女、子供じゃ技術持ってないだろ。
徐福は中国本土では妖術師?としてけんえんされていると聞いたが・・・
29 :
日本@名無史さん:03/08/06 18:14
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34 :
日本@名無史さん:03/08/07 16:46
baka
>>27 若い男女を連れてきたのは、最初から日本に住みつくのが目的!!
37 :
日本@名無史さん:03/08/10 01:30
徐福とセックスしたい!!
38 :
日本@名無史さん:03/08/10 01:31
やっぱ、宮下文書ですかねw
徐福はマジシャンだよ。それでもいいのか?
宮下文書ですね!
古事記より事実を語ってる!!
42 :
日本@名無史さん:03/08/13 17:20
jofuku
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
44 :
日本@名無史さん:03/08/17 15:25
どうして、日本にあった秦王国というのが、
まるで中国のようだとわかったのですか?
45 :
日本@名無史さん:03/08/17 17:06
羽田孜は秦氏の末裔だと自分で言ってたが、
確かに始皇帝の想像図と顔が似てるw
46 :
日本@名無史さん:03/08/20 01:27
徐福は日本の恩人
>>44 質問の趣旨とは違うかもしれないが
「又東至秦王國、其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也。」(隋書倭国伝、通典)
* 華夏とは中国の古称
* 夷州とは台湾のこと
「又東して秦王国に至る。その人華夏に同じく、もって夷州とする。疑うらくは明らかにするをあたわざるなり。」
文字通り読めば、九州から大和の途中に台湾があることになり、疑うのは当然。
また、夷州が台湾をさすものでないにしても倭人の国の中に中国人の国があると
するのは疑って当然であったろう。
ただ秦氏が中国人であると自称していること、その秦氏の居住区が九州と大和の間の
どこかにあっても不思議ではなかったかもしれないこと、等からいろいろな推測がなされて
いる模様。
詳しくはないので詳しい人が修正してくれるだろう。
富士文献
this is a manko
50 :
日本@名無史さん:03/08/26 13:09
秦王国は、新羅人の国
今分かっているピースでパズルが完成する訳じゃないだろうが、徐福
が日本とどう関わっているかを考えるのは面白いな。
52 :
日本@名無史さん:03/08/26 13:21
53 :
日本@名無史さん:03/08/29 12:53
笑っていいとも
54 :
日本@名無史さん:03/08/29 13:35
古事記って突厥と百済人が作ったの?
56 :
日本@名無史さん:03/09/05 00:05
秦王国は、始皇帝の子孫
57 :
日本@名無史さん:03/09/07 12:45
序服あげ
58 :
日本@名無史さん:03/09/10 02:28
熊野あげ
徐福、
奈良→伊勢→三河の旅路さげ
60 :
日本@名無史さん:03/09/11 19:11
公孫氏政権は関係ないの?
61 :
日本@名無史さん:03/09/11 20:11
天孫の子孫の記録(記紀)では、
本国の王(高天原)からの指示で皇太子(天孫)がこの地方に来て
当時のこの地方の王(大国主)から、日本を譲りうけた
って、書いてあるよね
本国の王= 呉王か秦帝か公孫 しかありえないよね。
62 :
日本@名無史さん:03/09/11 20:48
>>日本を譲りうけた
実際は侵略。
アルテイらと戦ったのってこの人?
64 :
日本@名無史さん:03/09/11 22:32
>>63 スサノオって侵略者なのか侵略された側なのかいまいちわかんない。
65 :
日本@名無史さん:03/09/12 00:24
権威は熊野>>>出雲なの?
66 :
日本@名無史さん:03/09/12 11:32
魏志倭人伝に、
倭人は旧語を話し
自分たちは呉から来た
と 言っている
と書いてあるんじゃなかった
これだろ
>66
倭人伝なんて信じるに足りるのか?
68 :
日本@名無史さん:03/09/13 05:21
信じると言う言葉は学問としての用語ではない。
魏志倭人伝は、3世紀にそう記録された と言う事実がある。
そこには、倭人は旧語を話す呉人とあるのだ。
>>68 現地人が本当にそういったのならソースを書かずただ事実だけを書くのが
当時の漢文正史の作法。
わざわざ「現地人が言うには…だということだ」と書くのは、中国人の解釈の表明。
倭人伝だけでなく他にもそういう箇所が多い。
つまり「倭人とは呉人の子孫なんだろうな」と当時の中国人が思ったというだけ。
>>69 実際そうだろ。発掘される遺骨や稲のDNAを比較しても。
ウリだけがイルポソの先祖ニダ!徐福だの呉太白だの妄説立てるな!
72 :
日本@名無史さん:03/09/17 11:11
日本の着物を呉服なんていうのも呉国から伝わったからです。
カラ服だと、唐、漢、韓、辛と紛らわしかったんだろうね、きっと。< 錦織をさしてるのかな?
で、序服の伝説は、済州島を巻き込んで伝承されているわけだが、誰がデマ流したわけ?
ついでに同時代、朝鮮半島にも薬草を求めて渡っている中国人がいたと、
どっかで読んだけど、これも風評の類かな?
74 :
日本@名無史さん:03/09/25 19:49
不老不死
75 :
日本@名無史さん:03/10/02 18:25
あげ
源氏物語読んだこと無いのか?
唐衣って言葉もあるぞ。
77 :
日本@名無史さん:03/10/08 22:36
やっぱ倭人は序服の子孫だね
78 :
日本@名無史さん:03/10/08 22:44
からころも
きつつなれにし
つましあれば
はるばるきぬる
たびをしぞおもふ
時代は徐福だな
81 :
日本@名無史さん:03/11/06 01:49
あげ
時代はウリナラニダ
1へ
日本のどこへ来たのか?
平安時代の女房装束は、おおよそ
奈良朝の唐式服装の変化したもの。
十二単は、裳唐衣装束と称する。
唐衣をつけることによって女房装束が正装とる。
唐衣がとくに他の衣服と違っているのはその襟で、これが今日の羽織の
襟のように着装したときには外へ折れかえる。
このように襟の折れかえる衣服は、元来日本の着物にはない。
85 :
日本@名無史さん:03/11/12 22:52
時代は俺かな
86 :
日本@名無史さん:03/11/15 07:19
“China”の語源は「秦」
87 :
日本@名無史さん:03/12/05 13:18
天孫降臨って知ってる?
徐福とはジョセフ
つまりユダヤ人ということ
こう考えてすべてがわかる。
始皇帝をだまし12部族を安住の地(日本)に移住させた。
したがって日本とユダヤの深い関係が説明できる。
皇室をスメラミコトという意味もわかる。
偶像崇拝しない神社の謎も。
>>始皇帝をだまし
不老不死の薬を持ち帰るとか言って、旅の資金を出させて
そのままトンズラしたんだろw
そりゃ、始皇帝も怒るかも。
徐福伝説の残る場所
青森県北津軽郡小泊村(尾崎神社・熊野神社)
秋田県男鹿市(赤神神社)
東京都青ヶ島(織物)
東京都八丈島(織物)
神奈川県藤沢市(妙善寺)
静岡県清水市三保松原
山梨県・静岡県(富士山=蓬莱山:不死山)
山梨県南都留郡河口湖町(浅間神社・徐福社)
山梨県南都留郡山中湖村・長池村
山梨県富士吉田市(甲子神社・聖徳山福源寺・富士古文書)
愛知県宝飯郡小坂井町(莵足神社)
愛知県名古屋市熱田区(熱田神宮境内=蓬莱山・雲見山)
三重県熊野市波田須(徐福宮)
京都府与謝郡伊根町(新井崎神社)
和歌山県新宮市(徐福公園・阿須賀神社・徐福宮)
広島県佐伯郡宮島町(厳島神社・聖崎蓬莱山)
山口県熊毛郡上関町祝島
山口県豊浦郡豊北町(土井が浜)
90の続き
高知県高岡郡佐川町(虚空蔵山)
高知県須崎市
高知県土佐市
福岡県筑紫野市(天山)
福岡県八女市(童男山 古墳)
佐賀県伊万里市波多津町(焼き物)
佐賀県杵島郡山内町(黒髪山)
佐賀県佐賀郡諸富町(浮盃)
佐賀県佐賀郡富士町(古湯)
佐賀県佐賀市金立町(金立公園・金立神社)
佐賀県武雄市(武雄温泉)
宮崎県延岡市(蓬莱山・徐福岩)
鹿児島県 屋久島・種子島
鹿児島県 坊津町 宮崎県宮崎市住吉(はまゆう)
鹿児島県串木野市(冠岳)
92 :
日本@名無史さん:03/12/05 17:25
徐福が日本に到着(漂流?)したとしたら
まず日本海側に何か伝説が残ると思うが、何かあるか?
93 :
日本@名無史さん:03/12/05 17:36
なんか地名を見る限り、黒潮にのってきてるみたいだけどね。
94 :
日本@名無史さん:03/12/05 17:40
元冦の事を考えてもまず日本海側に到着しそうだが。
日本海側には侵入者としてオロチ族の伝説がありまsん。
よって、徐福=オロチ
しからば
ヤマタ=倭=大和のオロチ、とは大和の徐福ってこと
つまり天皇=徐福
半島経由ではなく呉からの直接ルートって事かな。
97 :
日本@名無史さん:03/12/05 20:01
オロチ族ってオロチョン族?
98 :
日本@名無史さん:03/12/06 03:02
日本海側には侵入者としてオロチ族の伝説がありまsん。
よって、徐福=オロチ
しからば
ヤマタ=邪馬台=邪馬台国のオロチ、とは出雲の徐福ってこと
つまり邪馬台国=出雲
99 :
日本@名無史さん:03/12/10 21:21
徐福神社あげ
>>89 あんまり怒らせてはいないみたいだよ。
始皇帝が興行に来た時もデカイ船造営して誤魔化したし、
軍資金をふんだくって、それが始皇帝没落の一因になったとか。
後に劉邦の軍師になる張良も徐福からお金を分けてもらっていますな。
廻りまわって、それが秦王朝を討伐する軍資金になったわけやね。
101 :
日本@名無史さん:03/12/13 06:48
秦王国は吉備王国の秦だよ。
随書の記述にでてくるのは、当時、海岸からみえた国内四位規模の作山古墳、造山
古墳、五条都市にあった秦寺に宿泊したときの話し。吉備の秦氏は呉とかとも
交易していたし、太子のパトロンでウズマシャの族長だった秦河勝の新羅チャネル
欽明天皇のときに秦大津父は「夢でみたとうり、あなたは実在した。
次の族長になり、全国に散らばった秦氏の戸籍を集めなさい
(で、漏れの支援をしる)」といわれている。彼等は代々推挙されるなどして
部族のリーダーをきめており、製鉄、蚕、土木、神道、仏教、税制の導入者。
長岡京、平安京は秦氏が資金、土地を提供して開発。近江秦氏だけで二万人が
協力した。徐福が第1波としたら、日本書紀の応神期の項萬王、弓月王のころは
第何波だろう?
徐福ボンバイエ!
徐福ボンバイエ!
系図
徐福─福永─福萬─福壽
数年前、漏れがソープで体験したこと。
入店して待合室に通されると、オバサンが数人の客と話をしていた。
スポーツ新聞を読みつつ聞き耳をたてていると、全盲の息子が筆下ろしをしたいと言うので
付き添いで来たらしい。
オバサン(以下母)は色々心配事を口にしていたが、話し相手の客数人は「大丈夫」「心配しなくていいよ」
となだめていた。
暫くたって奥から白杖持った青年と姫が待合室にやってきた。
革靴はピカピカで結構いい服をきている。この日のために揃えてあげたのだろう。
母はソファから飛び出して姫と軽く会釈したあと、「どうだった?いいこと出来た?」
青年「うん。よかったよ。このお姉さんのおかげで」
実は姫を指差すつもりが別の方向だったので、姫が素早く指した方向に移動。
母は顔をくしゃくしゃにして泣きながら「あんたよかったね~!!」と背中を何度もさすっていた。
客も拍手したり「よかったなあ」と激励していて、今まで無口だった893風の客まで立ち上がって
青年の肩をポンポン叩きながら「あんたも一人前の男になったぞ」と祝福していた。
姫も感動して泣いていた。実に素晴らしい光景。
涙腺の弱い漏れは新聞で顔を隠しながら泣いた。
うわぁぁぁぁあ
>>105 もちつけ。
104のレスの中にジョフクの秘密が隠されている。
107 :
日本@名無史さん:04/01/10 10:37
単に海難事故で死んだと思ふ。
今で言えばイカダでアメリカに行くようなものでしょ
単にロリコン帝国作って果てたと思ふ。
109 :
日本@名無史さん:04/01/26 22:09
公孫氏の応神期
110 :
日本@名無史さん:04/01/26 22:17
つーか、徐福が日本に来たなんて証拠はどこにもない。
111 :
日本@名無史さん:04/01/29 10:58
来なかった証拠もない。来たとすれば、神武、アメノヒボコ
等に似た話となるはず。この2つの話では近畿圏の入り口付近
で撃退される話がある。これが第1次徐福団の「大鮫に苦しめ
られて使命を果たせなかった」という徐福の始皇帝への復命
報告と一致する。大きな鮫を当時近江(伊勢遺跡)付近に
中心を持っていたであろう、多分、和邇族、と考えれば面白い。
三上山の話を三霊山と勘違いして攻めたのでないか。
112 :
日本@名無史さん:04/01/30 02:40
113 :
日本@名無史さん:04/01/30 08:07
114 :
日本@名無史さん:04/01/30 08:56
諸星大二郎に聞け
115 :
日本@名無史さん:04/01/30 09:56
「東奈良の小銅鐸が最も注目される点は、この「朝鮮式」の
製作法をとどめながら、日本の銅鐸特有の形態をはっきり
芽生えさせて いることにある。朝鮮式小銅鐸から日本の銅鐸へ
の初めての"橋渡し役"が 近畿で見つかったわけだ。これによって
銅鐸の起源地に近畿の可能性を 考えうる根拠ができたといえる。」
徐福との時代が近接している重要な考古学上の変化がこれだ。
116 :
日本@名無史さん:04/01/30 10:05
星野之宣に聞け
117 :
日本@名無史さん:04/01/30 14:12
寺沢薫氏によれば「マツロ国宇木汲田遺跡で前3世紀末朝鮮製細型銅矛を
副葬した2人の人物のいる家族が現れてくる」、これが「弥生型首長の誕生」
としている。これも時期的に徐福の頃である。すなわち徐福の一団は朝鮮半島
南部に到達していたのではないか。近畿の方は銅鐸で、出雲は銅剣でという具合
にその後各地で青銅器を基にした首長層が誕生したのだろう。徐福は少なくとも
触媒、よく言えば文化の橋渡しをしたんじゃなかろうか。
118 :
日本@名無史さん:04/01/30 19:31
「徐福」なる個人の列島渡来を証明する確実な証拠は何もない。
119 :
日本@名無史さん:04/01/30 20:41
折れの町に除福の墓があるんだけどなんなのかなぁ、あれ。
子供の頃、墓だと知らずによく小便かけてたな。
120 :
日本@名無史さん:04/01/31 16:58
明治維新に元新撰組だと公言することと同様漢に冊封を乞い朝貢する倭国内で秦の国富を国外に持ち出した
一味だと名乗れば即座にその首を漢への土産として朝貢されたんじゃないか。だけどフツ、フト、ホト、十市(ジュウフツ)
、ユフイン、イブキ、イフなんて言葉の語源を考ええると言うにいえない歴史があるかも。
徐福はユダヤ人だっつーの
122 :
日本@名無史さん:04/02/01 00:40
↑デムパキタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━ !!!
123 :
日本@名無史さん:04/02/01 08:02
アメノヒボコ(天の日矛)のヒボコも崇拝対象のような感じ。
124 :
日本@名無史さん:04/02/01 08:11
>>121 徐福は古事記にでてくるスクナヒコナだっつーの
126 :
日本@名無史さん:04/02/12 02:22
やっぱ倭人は徐福の子孫だね
>>126 うん中国の人もそう言っていたよ。
徐福の子孫だから頭がいいんだって。
128 :
日本@名無史さん:04/02/12 02:47
徐福って頭よかったの?
,,.. -─‐;へ=-‐-、__ ,, -‐ 、
/;.-;..へ;/.:..:..`:..:..:..:..:..''.:.、/' ヽ
/:,.:'゙:..:..:..:.rv‐、:..:ヽ,:..:..:!..:..:i/ i
./:.l:..:i..:..l:..:/  ̄ ヽ:..:iヽ:..:.!..:/ ...........i
i.:..:|.:.|:..:.|;.i─‐- `、:.l'"',~|./ ..:::::::::::::::|
,':..:.」:.!i:.:i'.リ:-─‐、_,,..r'" ̄/ ..::::::::::::::::::l
. i:..:..| リ i;,!~| | l / ..::::::::::::::::::::!
.,'..:..i:ヾ'う `ー一''' `'''/ .::::::::::::::::::::/
':..:..i:.|:.i`''ヽ ' / .:::::::::::::::::::/
:..:..i:..l:.l.:.l.:..\ ワ/ .:::::::::::::::::::/ まじめに回答汁
.:..:i..:i,. ‐'"´ `'‐,r''"~ .:::::::::::::::::/
..:./,. -‐‐- 、 l′ ..:::::::::::::/|
:,' / !.:::::::/:i..:..l
r 、 / !::::::::::: i..:..i
l .......`:i i !:::::::::: ゙、:.i
! ::::::::::/ i i:::::::::: ヽ:i
.! ::::::::/ i .....i::::::::::: ヽ
.ヽ ::::::| `、 `、 .....::::::::::::l:::::::::::: `,
/ \:::l. `、 ヽ::::::::::::::::::::l::::::::::: /'''ー─----、
`ヽ `、 .::::\:::::::::::::::|::::::::: /,, ,. ‐;''""
131 :
日本@名無史さん:04/02/19 18:27
プリッキュア!プリッキュア!
プ~リキュア♪ プ~リキュア♪ プ~リキュア♪ プ~リキュア♪
プ~リティーでー キュッアキュ~ア~
ふったり~は~ プリッキュアー!
一難去ってまた~一難 ぶっちゃけありえな~い
制服着てても二人は むちゃくちゃタフだしぃ~
お互い~ピンチを~乗り越えるたび~
強く 近く なるね~~
YOUR BEST! MY BEST!生きてるんだから
心配なんて~メっじゃない!
笑う~かどに~福来た~るでしょネガティブだって~ぶっとぶ!
いーのちーのはなー さーかせておーもいっきりー
もっとバリバリ~!
プ~リキュア プ~リキュア プ~リキュア プ~リキュア
プ~リティーでー キュッアキュ~ア~
ふったり~は~ プリッキュアー!
プリッキュア!プリッキュア!
132 :
日本@名無史さん:04/03/07 10:29
徐福とはジョセフ
つまりユダヤ人ということ
こう考えてすべてがわかる。
始皇帝をだまし12部族を安住の地(日本)に移住させた。
したがって日本とユダヤの深い関係が説明できる。
皇室をスメラミコトという意味もわかる。
偶像崇拝しない神社の謎も。
133 :
日本@名無史さん:04/03/27 02:43
平安時代の女房装束は、おおよそ奈良朝の唐式服装の変化したもの
日本古来といえど
134 :
日本@名無史さん:04/04/11 01:16
Chinaや支那の語源は「秦」
支那が使用禁止ならばChinaも使用禁止
135 :
日本@名無史さん:04/04/11 11:15
136 :
日本@名無史さん:04/04/11 11:19
蓬莱山は富士山
137 :
日本@名無史さん:04/04/11 19:46
熊野age
徐福は確かに、日本に来たよ。
白ヶ浜町のとある山で、不老不死を見つけたんだけど、大陸に帰れずに、死んだんだよ。
その白ヶ浜町の
ヤタガラスが、家紋のとある神社は、表向きは、天照大御神を祭ってるんだけど、
実は始皇帝を祭ってるんだよね。
そこを建てたのが徐福で今は、その子孫が、
不老不死法の巻き物を守りながら、神主として暮らしてるんだってさ~。
139 :
日本@名無史さん:04/04/11 22:08
中国の伝説
むかーしむかし、中国の呉という国に太伯という王様がおりました。
国は大いに乱れ春秋戦国の世となり、呉と越は戦争を繰り返しておりました。
ところが-473年、呉はついに越に滅ぼされてしまい、その時行き場を
失った太伯王族は二人の娘を東の海の向こうの島に送りやりました。
このうち一人を和姫皇子(やまとのひめみこ)といい、着いた先の「倭」
という新しい土地で現地の人達を従え、新しい文化を伝えたりしながら
いつまでも幸せに安泰に暮らしていったとのことです。
このヤマトノヒメミコこそ、天照大神にちがいない!!
140 :
日本@名無史さん:04/04/11 22:23
徐福はジョフーと読む。
神武、ジンムと似ていなくもない。
141 :
日本@名無史さん:04/04/11 22:25
ワ国ともいわれる以前の歴史だな。
渡って来た人達は当然いるだろうけど、あちらこちらに来ているよ。
全部纏めて徐福になっているけどさ。
143 :
日本@名無史さん:04/04/25 16:08
日本海側には侵入者としてオロチ族の伝説があり
よって、徐福=オロチ
144 :
日本@名無史さん:04/04/25 16:34
福岡県にも徐福伝説って多いんだよね。
近所の神社もそうだ。
145 :
日本@名無史さん:04/04/25 23:11
金立神社、お辰などと聞くと「おしん」(中国進出で哀れにも倒産したがその映画は
中国で大ヒット)の流行後の世代の中国人がバイアグラ等の販売のために何かを
仕組んだかの感をうけるが、これらの言葉に共通なのは金の龍という倭人には若干
ショッキングな先進文化のカルチャーショックの名残とも取れる。徐福の旗艦の舳先
に黄金(真鍮又は金箔張り)の竜頭があったという記憶なのかな。チェジュ島から
直接五島列島を目指せるような大型船があったのかなー。
146 :
日本@名無史さん:04/04/25 23:50
徐福は琅邪の人。
琅邪は山東半島南部にあり、
徐福一行はその少し南の今の連雲港あたりから出帆した。
147 :
日本@名無史さん:04/04/26 00:03
>やっぱ倭人は徐福の子孫だね
倭人は縄文と弥生の混合で中頭を持つ。
148 :
日本@名無史さん:04/05/02 16:07
徐福はどこの国へ渡ったか不明であるが、第1回は鮫が出てきて
失敗第2回は始皇帝の没年。又、漢の反体制派の援助をしていたと
いうんだから大連あたりで邸宅を構えていた人物かもしれない。
連雲港辺りから出港というと台湾、さらにはフイリピン方面に向かった
こともありえよう。訪日は記録、物証も全くない、架空の人物、デマ情報
の可能性も十分にある。
どうせ水戸藩が作ったデマだろ
150 :
日本@名無史さん:04/05/03 17:19
水戸藩じゃなくて紀州藩だよ
151 :
日本@名無史さん:04/05/04 15:24
保守
152 :
日本@名無史さん:04/05/06 13:24
hoshu
153 :
日本@名無史さん:04/05/06 13:54
始皇帝をコケにした男。ある意味英雄ナリ~。
154 :
日本@名無史さん:04/05/07 19:25
少年少女2千人とともに消えた徐福。ある意味ロリ?
155 :
日本@名無史さん:04/05/08 03:40
今日、陳舜臣の「徐福伝説」について述べられている本を買ってきた。
それを読んだ後で、このスレを読み直してみたいので(そうせんとついてけない)、
それまでなくなってくれるなや。
156 :
日本@名無史さん:04/05/12 18:16
なくなってくれるなや
157 :
日本@名無しさん:04/05/17 01:58
吉野ヶ里遺跡のそばに墓がなかったか?それから和歌山の新宮にも墓がある。
熊野あげ
そもそも、徐福って出航したのか?
160 :
日本@名無史さん:04/05/25 11:31
「・・第二回目の始皇帝の巡行は紀元前210年である。徐副は、
この時再び琅邪を訪れた始皇帝と会見し再度「仙薬」を
求めて渡海すべしとの命を受ける。史記の「淮南衡
山(わいなんこうざん)列伝」によれば、「始皇帝大いに喜び、
良家の男女三千人を使わし、五穀の種と百工をたずさえて渡海
させた。徐副は平原と沼のある島にたどり着き、そこにとどま
って王となり、帰ってこなかった。人々は嘆き悲しんだ。」
となっている。・・・・・」
http://www.inoues.net/yamataikoku/mystery/jyofuku.html かの皇帝の崩御の緊張はその皇太子を殺してまで守る秘密
であり、長城、阿房宮などを建設する史上に例のない独裁国家
から賑やかに国有財産を持って大船団が出航することは万景峰
号以上に目立ったはずだよなー。崩御が紀元前210年7月とされ
ているから上半期の天候の落ち着いて且つ入梅前とするとちょ
うど今頃の出港かなー。
161 :
日本@名無史さん:04/05/25 12:01
この当時唐津の宇木汲田に2本の朝鮮製銅矛がはいり、その
部族は宇木汲田の部落で約100年続いて終わるという。韓国
ではなんらかの銅矛生産ブームが起こっているが、この頃
から吉野ヶ里でもさかんに青銅器生産が始まるが朝鮮型の
ようである。まとまった秦系の大規模移民は応神朝の夕月
の君の百済からの移住であって、120県の民を率いて移住し
ようとした所、新羅の邪魔が入り、倭国の加羅に留まって
いるというので、葛城のソツ彦を派遣し、百済の夕月系を
加羅に移そうとしたが、ソツ彦が3年たっても帰らず、救援
隊のツクの宿禰を派遣し、夕月の民を日本に連れてきたと
いう。これが徐福船団の末裔、平原広沢の地とは百済だっ
たんだと思う。
162 :
日本@名無史さん:04/05/25 12:24
徐福の船団は南アメリカに到達したというじゃないか
さらに北米にも回ったらしい
163 :
日本@名無史さん:04/05/25 12:35
武蔵丸はサモア人であるがイースター島モアイ像はみなヘッドアップ
した武蔵丸系の顔が多い。あの辺まで行けばもう近いがね。
徐福伝説は日本の各地にあるが、どれも後世に作られたもの。
あちこちにあるというのがむしろニセモノの証拠だろう
最初に本物があれば、あちこちにたくさんは出来ないだろうし
165 :
日本@名無史さん:04/05/27 07:08
偽物しかないだろうね。偽物の歴史であると考えている。又、全くの推測であるが
百済、馬韓辺りの地域が平原広沢の地であったのではないかと思う。これは応神朝
の夕月の君事件で大量の民族移動的な事件が記録されていることによるから。
これ以前には半島居住地においてジョフツの個人崇拝、これはユフツヌシ、フツヌシ、
フツノミタマ等、又、ジョフツが信仰したものとしては秦始皇帝が山東半島地方で
傾倒していた兵主神信仰がある。初期においてフツが倭語ホトタタラのホト、フツノミタマ
がフトダマ、ジョフツがユフツ、ヒボコにと変化したものと思われるが、これが物部に
関連することが多いことから、筑後、吉野ヶ里近辺に渡来した青銅武器製作工人が
自分たちの宗教として持っていたのではないか。
ジョフツ本人は渡来したことがあったにせよ居住したのは「平原広沢の地」、馬韓近辺
であり、渡来伝説は秦氏の子孫などが日本において漢籍を研究して、徐福渡来説を
組み立て、各地における最もな話を創造したのが始まりであろう。遣唐使、遣隋使などに
より漢籍が入手可能になってこういうことが盛んになるものと考えるんだけど。
166 :
日本@名無史さん:04/05/27 15:20
亡国の民の子孫が異国に来て神主、住職、案内人、寺院管理者などとなり
観光産業という第3次産業で雇用機会を創出してという点では嘘も方便、立派な
事業であったといわなくてはならない。現代人が健康食品など迷信にすがっている
ことは徐福の子孫たちを笑えないんじゃないかと思う。
167 :
日本@名無史さん:04/05/27 20:37
神武天皇=徐福
168 :
日本@名無史さん:04/05/28 08:17
神武天皇=徐福 、というより渡来集団が崇拝対象としていたものが
現実の歴史上に投影され、期せずして、神武天皇=徐福 の虚像を
生み出す効果が出たものを、編集側がそれとは知らずに現実視し
て編集した。この渡来集団は現在の風水のように方角にうるさく
地名にこだわり、夕月が嶽だとか、その他多くの地名を出発地
と思われる筑後の地名に変えたり、命名したりしたのだろう。
169 :
日本@名無史さん:04/05/28 16:34
民族移動や伝承の作られる経緯はごった返した満員電車と同様で何でもアリ状態だ
混ぜ混ぜの中からクソのように垂れ落ちてくる
何も有難がることとてない
170 :
日本@名無史さん:04/05/28 17:02
そうか、徐福が天皇家の祖先だったのか。
徐福たちがそれまでの日本の原住者と交わって今の日本人の祖先になったのか。
171 :
日本@名無史さん:04/05/28 17:23
日本人の祖先が徐福一行の若い男女3000人と縄文人との混血だとすると、
我々日本人は始皇帝をまんまとだました大ペテン師の子孫ということになるな。
日本人の頭のよさはここから来ているのか。
172 :
日本@名無史さん:04/05/28 17:26
そ、それはないよ。天皇家のガードマン程度。現に神武の嫡男は
怪しげな名前、ヌナカワミミ(上越市長)、綏靖という皇子に誅殺さ
れている。この人なんか徐福の子孫なんてばっさりやっちまいそうだ。
縄文地方の倭人は荒いからなー。ただし、その後百年くらいあとだか、
北陸方面から次々応神、継体などが入ってくる。これらは九州人なのか
どこなのか怪しいところがある。しかし厳しい社会だからね。
173 :
日本@名無史さん:04/05/28 17:36
>>172 どちらにせよそういったソースなんて当時はいくらでも適当に書けるからな。
174 :
日本@名無史さん:04/05/28 17:46
徐福が船出した縄文弥生移行期の日本には、一体何人の人口がいたのだろうか?
徐福伝説が正確なものだとすると、同行した3000人という数は当時の日本の
原住者たちにとって脅威にはならなかったのだろうか?丸腰で行ったわけではないだろうし。
175 :
日本@名無史さん:04/05/28 20:03
176 :
日本@名無史さん:04/05/28 20:03
177 :
日本@名無史さん:04/05/28 20:04
178 :
日本@名無史さん:04/05/28 20:05
179 :
日本@名無史さん:04/05/29 02:31
本当に徐福一行は来たんかい?
台湾にでも行ったんじゃ?
>171
仮にそうだとしたら、
もっと外交がうまいはずだ。
181 :
日本@名無史さん:04/05/29 02:51
182 :
名無しさん@右翼:04/05/29 05:44
徐福って始皇帝を騙したペテン師だったんでしょう?
日本各地でも騙り行為とかを行う事はなかったのかな?
183 :
名無しさん@右翼:04/05/29 05:47
神武天皇の存在自体疑わしいのに(127歳も年を取っている所を見ると)、
徐福=神武天皇説ってどうかなと思うよ?
184 :
日本@名無史さん:04/05/29 06:19
昔は二年で一つ歳をとったみたいだよ
185 :
名無しさん@右翼:04/05/29 06:45
徐福が日本に来ていたと仮定して、徐福の墓は…?
当時の日本は当時の中国(秦)と比べたら非文明国家だったのだから、
本当に日本に来ていたと仮定して考えたら徐福は
相当影響力を持った人間になった、なりへた、のではないの?
となると徐福の墓が日本にあってもいいと思うのだけどねぇ。
186 :
名無しさん@右翼:04/05/29 06:51
天皇の始祖になった人物が徐福でもいいんだけどね俺は。
何せ当時の中国皇帝を騙してきたんだわけだから。
実際に徐福を天皇の始祖だったとしたら、
中国への対抗意識は徐福の始皇帝騙しの時から始まってたのかな・・。
187 :
日本@名無史さん:04/05/29 14:50
墓としてはニニギノミコトの墓とされる可愛山稜が場所的に一寸ひっかかる。
あの辺が徐福の生まれ故郷に一番近かったんじゃないかな。
188 :
日本@名無史さん:04/05/29 23:49
保守
189 :
日本@名無史さん:04/05/29 23:53
吉野ケ里遺跡は最初は縄文系が作った遺跡だったらしい。
途中から渡来人が加わった。
吉野ヶ里の渡来人は徐福一行か?
190 :
日本@名無史さん:04/05/30 00:34
縄文から弥生への移行期に人口が激増しているのだよ。
吉野ヶ里は知らんが渡来人がイパーイやって来ている。
191 :
日本@名無史さん:04/05/30 10:21
3000年前の縄文から弥生への移行期に人口が激増しているのは、
縄文人の本格的な水田稲作による農業経済への移行が原因。
渡来人はまだやって来ていない。
192 :
日本@名無史さん:04/05/30 11:17
そもそも徐福が日本列島に来たって前提自体が間違ってる。
徐福が中国から船出したのは事実でも、列島に到着した証拠なんてない。
徐福来日説は、想像(妄想)と牽強付会の産物。
193 :
日本@名無史さん:04/05/30 11:20
中国大陸から人間が来た可能性は否定できないし、
もしかして徐福一行もいたかもしれないが、いなかったかもしれない。
後付けの伝承や旧跡なんか何の証拠にもならない。
194 :
日本@名無史さん:04/05/30 11:46
徐福は出発が始皇帝崩御という不安定なときであり、好太王碑みたいに
派手なものを作ると漢の刺客に刺される。倭国にそんな派手なのが来たら
たちまち中国に伝わり討伐団が来たかもしれない。半島の隅に身を潜め
徐福教、兵主神等の新興宗教の上がりで食っていたんじゃないんかね。
195 :
日本@名無史さん:04/05/30 12:22
当時の奴国伊都国の王族は半島南部に優秀な百工の子孫がいるの
で、これらに筑後地方での平原広沢の地を与えることを条件にスカウト
し、これらが吉野ヶ里に居住、これに反発するパレスチナ人のようなもの
がいて激しい戦闘となり、工人もどこかに移住したかった。彼らの教えで
は太陽の出る方角を見極め、そこに霊山を見つけ不老不死の仙薬を
得るという伝承があった。弥生末期おりしも九州に進出した西部本州人は
まさにもってこいの人材を発見、東遷を勧めた。おそらく豊予水道までに
大和の首長が出迎えに出るということはこうした事情を反映しているのじゃ
ないか。
196 :
日本@名無史さん:04/05/30 12:54
邪馬台国の外交官、難升米、都市牛利達は
明らかに中国語ではなく、韓国語、倭語に
近いような名前である。彼らは公孫が魏に
滅ぼされる時に見事に魏との国交を成立さ
せ、資源の不足している銅の鏡を大量に入
手する。これは中国語、楽浪語、韓国語等
がペラペラに読み書きでき、現地事情に精
通した人間でありながら、対外的には倭国
人を標榜したもので、実際には何らかの中
国名の本名を持っていながら、素性の割り
出しの困難な偽名を創造し、使用していた
のかもしれない。今風に言えば二重スパイ
である。ただし、ヤヤコは弥彦神社に鏡を
持ってきた弥彦、イセギもイタキソ等倭人
系の本名のような記がする。セシオエ等は
スサノオという実在の人物かもしれない。
197 :
日本@名無史さん:04/05/30 13:51
まあ要するに、徐福とは決められないが、前漢の頃に
誰かが来ていた、ということですね。
古人骨で、科学的な裏付けが採れたということは。
198 :
日本@名無史さん:04/05/30 21:45
199 :
日本@名無史さん:04/05/30 21:48
徐福出航が前219年。
吉野ヶ里弥生人が前3Cだから時間的には可能性が高いんだよね。
日本だと徐福の渡来は「歴史のロマン」として語られるけど、
中国だと完全に史実として語られてるんだよね
201 :
日本@名無史さん:04/05/30 22:26
>>200 うん日本人の頭がいいのは徐福の子孫だからと言っていますた。
203 :
日本@名無史さん:04/05/30 22:52
北九州と言うか、吉野ヶ里の渡来人が徐福一行だとしても、
吉野ヶ里弥生人は弥生後期には衰退して消えてしまう運命なんだよね。
日本に広まり繁栄したのは土井ヶ浜の渡来人の方。
204 :
日本@名無史さん:04/05/30 23:06
>>202 弥生時代が前10世紀に早まったので、人口爆発と渡来人との関係は
怪しくなっている。
また、
弥生人骨は中頭で華北型。
近畿には中頭の華北型が入ったが、後に短頭の半島型も加わる。
それと北九州の縄文人骨も中頭。他の形質が違うが。
3000人って言ってもどうせ実際は300人くらいだろ。
あの国の記述は差し引いて考えないといかんナリ。
206 :
名無しさん@右翼:04/05/31 01:28
一つの船に百人乗ったとしても30隻もの大船団になるね。
当時の船って一隻に何人乗れたのだろうか?
一隻50人だとしても60隻もの大船団。
日本への航海は当時の航海技術で数日から十日位かかっただろうから、
食料も積まなくてはならない。
となるともっと多くの船団になるだろうから、
日本列島原住民にして見れば記憶に残るような出来事になると思うが
記録には残ってないし・・・。
207 :
日本@名無史さん:04/05/31 02:39
その頃の日本列島の原住民に記録を残す事が出来たのか?
208 :
日本@名無史さん:04/05/31 02:47
諸星大二郎の名作「徐福伝説」を思い出す・・・
いつ頃、文字による記録が日本で始まったんだろう?
誰か知ってる?
当時の識字率は相当低いとしても、徐福は、読み書きができたと思う
仮に徐福一行が日本に来たとしたら、何等かの痕跡(文字)が後世に
伝わったと思うが。
210 :
日本@名無史さん:04/05/31 18:53
纏向遺跡からは徐市の「市」と書かれた墨書土器が出土。
211 :
名無しさん@右翼:04/05/31 19:59
徐福の連れが記録に残すとか、そう言うのはないの?
212 :
日本@名無史さん:04/05/31 21:21
徐福BC200頃、纏向遺跡AD200以降。
213 :
日本@名無史さん:04/05/31 21:23
アメノヒボコというのが非常に臭い。
214 :
日本@名無史さん:04/05/31 21:29
日本最古の墨書文字は、三重県嬉野町の貝蔵遺跡で見つかった
2世紀末の土器に書かれた「田」の文字。
徐福さん、日本に渡ったのに中国に子孫がいるのはなんでだろ~
216 :
日本@名無史さん:04/05/31 22:03
217 :
日本@名無史さん:04/05/31 22:06
徐福は老人でしたので子達は大陸に残ったのでしょうな。
>>212 >>214 ありがと
AD200、2世紀末だと、中国は三国時代末だよね。
卑弥呼の時代あたりからなんだ。
219 :
日本@名無史さん:04/06/05 21:28
保守
220 :
日本@名無史さん:04/06/09 13:06
保守
221 :
日本@名無史さん:04/06/09 13:13
全国に沢山上陸伝説のところあります。和歌山なんか多いですね。ミカン
産地が多いのは この果実に由来する縁でしょう。マンダリンとも
いう果実に絡んでます・
222 :
日本@名無史さん:04/06/09 20:03
徐福は日本列島のどこにも来てません。後世「史記」の記述に注目してあちこちに
上陸伝説が出来ますた。「楊貴妃渡来伝説」「義経蝦夷上陸伝説」。皆、誰も顔を
知らねえ。身元の知れない美人漂着、曰くありそうな気品のある若武者を泊めたり
してこう言う伝説が生まれたのです。
223 :
日本@名無史さん:04/06/09 20:27
来たか来なかったか、どちらも確実に証明できない以上、どちらも言い切れないわな。
>>202のHPで近畿人が他の日本人からかけ離れているのは徐福のせいみたいに書いてあるけど
近畿人と中国人は近いのかな?
解ってないねぇ。
徐福は北朝鮮の工作員だって。
3000人も拉致したんだ、今頃幹部だよ。
弥生期に近畿で王権 福井出土の銅鐸の絵柄判明
初期の絵画銅鐸(どうたく)として名高い福井県出土の「井向1号鐸」(弥生時代中期前半、西宮市・辰馬考古資料
館蔵)に描かれている鳥と笠の絵が権力者の存在を表すとされる鶏と古代の日傘「衣笠」であることを、国立歴史民
俗博物館(千葉県佐倉市)の春成秀爾教授(考古学)が十七日までに確認した。
時を告げる鶏は古代、儀式をつかさどる王権の象徴とされた。衣笠は身分の高い人物にお付きの者がかざす日よ
けの傘で、高松塚古墳壁画にも描かれている。古墳時代以降はたびたび登場する絵柄だが、共同体社会だった弥
生時代では極めて異例で、銅鐸で確認されたのは初めて。
弥生中期の北部九州では地域的なクニが成立し、豊富な副葬品とともに埋葬された「王」が存在していたとみられ
るが、近畿地方周辺でも「王」が誕生していた可能性を示しており、大きな波紋を広げそうだ。
絵はつり手部分の中央に、輪郭を強調した半肉彫りで描かれていた。さびで覆われ、笠の上に鳥がとまっていると
しか分からなかったが、同資料館が保存修理したのを機に春成教授が詳細に調査した。
鳥は尾が長く、後ろに伸びていることが分かり、銅鐸に一般的なサギなどではなく、鶏と判定した。高知県に生育す
るオナガドリ(特別天然記念物)のような種類とみられるという。傘も立て飾り風の頂部の特徴から衣笠と分かった。
鶏は弥生時代、ごくまれに骨や土製品が見つかる程度。古墳時代になると鶏形埴輪(はにわ)が古墳祭祀(さいし)
で重要な役割を担うようになり、衣笠形埴輪も位の高さを表す象徴として大古墳に立て並べられた。
銅鐸は豊作祈願や収穫祭など集落全体の農業祭祀に使われたと考えられており、サギやトンボ、カエルなど水田
の生物や、稲の精を象徴するシカ、脱穀風景などが描かれるのが一般的だ。
辰巳和弘・同志社大助教授の話 衣笠を王の権威と見なす古墳時代の意識が弥生時代までさかのぼれることが
分かった。「長鳴き鳥」といわれた鶏は夜明けを告げることから生命力の復活を表し、転じて王権が長く続くことを祈
るものだった。この2つが一緒に描かれていたことはうなずける。今回の確認は、王や共同体の首長などが行う祭り
の祭器という銅鐸の性格をよりはっきりさせるものだ。
江戸期の道 縄文から存在?/森田
森田村教育委員会が国の史跡指定を目指し発掘調査している同村の石神遺跡で、発掘された縄文時代の遺構
や出土物を調べた結果、江戸時代に床舞地区から弘前藩に米を運んだ御蔵道(おくらみち)沿いに遺構が多く、こ
の道が縄文時代からあった可能性が出てきた。縄文人たちは何百年かの期間を経て、遺跡周辺で丘陵地帯から
水辺に集落を移動したと考えられることも分かった。十七日、村中央公民館で開いた発掘調査報告会で村教委の
佐野忠史学芸員が発表した。
石神遺跡は約六千-四千年前の縄文時代前期から中期を中心に縄文後期、中世までの複合遺跡。縄文時代の
円筒土器や土偶、石器が多数出土し、二百十九点が国重要文化財に指定されている。
二〇〇三年度は遺跡の範囲を確定する目的で発掘し、縄文中期の円環状配石遺構(ストーンサークル)が初め
て見つかり、中央部の土中から墓壙(ぼこう)も確認された。御蔵道沿いには、ストーンサークルのほか数カ所の墓
壙や石器製作場とみられる遺構もあり、縄文時代から道があった可能性が高くなった。
これまでの調査結果を基に、佐野学芸員は(1)遺跡南部の土器や住居跡は縄文前期中葉(約五千六百年前)の
もので、北部の主な出土物より数百年古い(2)このことから、石神遺跡の人々は南の丘陵地から次第に北の、現在
の狄ケ館(えぞがたて)ため池近くの水辺に生活圏の中心を移したと考えられる(3)移住の理由は、縄文時代の海
進で石神遺跡に迫っていた汽水の古十三湖で捕れる魚介類を食料にしたのではないか-と推論する。
石神遺跡より南西部にある八重菊、鶴喰遺跡からは縄文時代草創期から早期(約一万年-九千年前)の土器も
出土しており、数千年にわたって人々が移住し生活していたとみられる。
石田榮市教育長は今後の調査について「石神遺跡の発掘成果を基に、〇四年度はさらに南の藤山地区の調査を
続け、範囲を確定したい」と話していた。
※写真=御蔵道沿いで2003年度出土した縄文中期のストーンサークル。中央部の土中で墓壙も見つかった
<周王朝>王墓群とみられる大遺跡 西安の西方で発見
約3000年前に誕生した中国の古代王朝、周(?~前256年)の王墓群とみられる大陵墓遺跡が西安の西方
に位置する周の古都・周原地域の陝西(せんせい)省岐山県で見つかったことが、中国の調査関係筋からの情
報で31日明らかになった。殷墟(いんきょ)の殷王墓とほぼ同規模。周は古代王朝の中でもその王墓が不明で
考古学上の謎とされており、20世紀初頭の殷墟発掘に次ぐ最大級の発見として発掘が期待されている。
調査を実施したのは、北京大学考古系調査隊と陝西省考古研究所。今年5月初めから、考古調査のための
ボーリング調査が進められた。岐山県城から西北へ約7.5キロの周公廟近くにある丘陵の斜面で、12基の大
墓が確認された。それを取り囲むように厚さ10メートルの城壁が東側長さ700メートル・北側300メートル・西側
500メートルの計1500メートルにわたって見つかり、墓域は少なくとも約20万平方メートルに達することが分
かった
さらに発見された12墓のうち7基が東西南北方面に4本の墓道を、1基は3本の墓道を備え、2本と1本の墓道
をもつ墓がそれぞれ2基あった。
最大の墓は、南北に幅4メートル、長さ約30メートル、東西に幅約2.5メートル、長さ約20メートルの墓道を
もち、墓室は約80平方メートルあった。
墓域内からは7基の車馬坑が、周辺では「周公」(周公旦?)、「新邑」(新しい「都市」の意味)など周の前半で
ある西周期のものとみられる文字が刻まれた甲骨700片も発見されている。
遺跡が見つかった周原は周王朝ゆかりの場所であり、4本の墓道を備えた規模や12基もの大墓を擁する広
大な墓域などから、関係筋は「西周期の王陵群の可能性が大きい」とみている。
司馬遷の「史記」に登場しながら、殷、周の古代王朝は一時存在が疑われていた。そのうち殷は甲骨文字の発
見がきっかけとなって1928年からの発掘で確認され、西周期の王墓が古代史の大きな空白となっていた。【荒井魏】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040531-00001076-mai-soci
230 :
日本@名無史さん:04/06/16 10:31
曽富利/背振<-徐伐<-徐市(徐福)、平原広沢の地とは
楽浪。ジョフツのツは韓国語でエルの発音。韓国語の
まま借用したのが「布留」、中国系移民の持ち込んだ
発音が「布津」、「経津」、「富津」。「背振」の
「背」は韓国人が徐の母音をエのアーティキュレー
ションによるオの発声で話していたことを物語るの
だろう。ホトタタラの「ホト」の原意は「市」であり、
徐福の伝えた冶金術という意味と解釈。
「ホト」以外にも「フト」とも発音されたよ
うである。「由布津」というのは徐市のフルネーム。
天のヒボコのヒボコは徐福と日本語の日矛の引っ掛け
であり、鏡と矛のセットによる太陽反射の山岳宗教を
意味しており、矛が北部九州で祭祀用に大型化するこ
とと関係している。初めてのこの儀式は志賀島-背振山
山頂-吉野ヶ里(日の隈カンツリークラブ)で行われ、
次に日田(日の隈神社)-宇佐神宮、和歌山日の隈神社
-葛城山-葛城山-畝傍-纒向で行われる。この葛城山に
山岳宗教の中心が移り、雄略天皇が縦走行軍の儀式を
したり、役の小角等が有名。山東省で有名な兵主神社
が纒向にあり、最終到達点を夕月嶽と名づけるなど芸
が細かいのは後世の仕業で、おそらくは秦系渡来人で
ないのか。半島経由の渡来は何世紀にも渡り繰り返さ
れた-伊都県主、ツヌガアラヒト、天日槍、夕月の君
・・・。つまり、銅矛文化(山岳宗教、密教的鬼道)
は徐福の末裔を標榜する渡来人が筑後から豊前、近畿
大和に広めたものと考えられる。光通信的な発想の転
換は日本で始めて出現したのだろう。
231 :
日本@名無史さん:04/06/16 10:45
葛城は以前は磯城同様、出雲の支配下で銅鐸宗教を祭って
いたが新たに九州から銅矛宗教が到来したことによりその
座を追われ、東方へと逃れざるを得なかった。これすなわ
ち後に狗奴国の乱を生む遠因となったのではないか。
232 :
日本@名無史さん:04/06/16 17:45
http://www.mipsworld.com/kotoba/koto0034.htm 「「秦人は乱に苦しみ、東方へ亡命してくる者が多かった。彼らは馬韓の東に住んでいたが、その数が多く栄えたので、馬韓ではこれを忌み嫌った」これは「三国史記」の
「新羅本紀」に描かれた記事である。仕方なく馬韓では秦人たちに東の地を割
いて与えてしまう。」
↑ここにいう秦人は曽富利の地、楽浪から南下したもので「こうして建てられた
国が、後に新羅となる秦韓(辰韓)であるという。」
「やがて彼らやその血筋が、対岸の緑の島、新天地日本へ流れ流れて来たと
いういきさつはうなずける。」とされているが、全くその通りだろう。
背振山の弁財天渡来の伝承、アカルヒメ、ホケノ山古墳に見られるような新しい
積石埋葬部の古墳は邪馬台国建国に外因があるような気にさせる。
秦氏は、本当に秦人だったというオチかよ!(w
234 :
日本@名無史さん:04/06/16 23:08
何時漢に殺されるかもしれない秦の末裔のユダヤ人にも似た恐怖、これが辰韓-
筑後で連動し、振動をはじめ大きな列島を巻き込む東遷/新都建設の津波となった、
その原動力じゃないだろうか。
>>234 >何時漢に殺されるかもしれない秦の末裔のユダヤ人にも似た恐怖
そんなことはないですよ。漢の高祖は秦の遺民に対し寛大に接したし。
楚の項羽の子孫なら別だろうが。
236 :
日本@名無史さん:04/06/17 06:28
後漢乱世の頃の話だよ。まー、漢の実体がなかったとすると、
じゃー、何なんだ。
237 :
日本@名無史さん:04/06/17 07:38
鮮卑、流民・・・黄巾の乱、いわゆる社会の不安定化に対する
統一された秩序と有事の際のリーチ、懐の深さを確保するため
ユダヤ人的な秦の遺民/移民集団が安全な地とシステムを
求め近畿地方に移動をはじめ、これに共鳴/共振した倭国各首長
が近畿に求心的に動いた。しかし、建国後覇権を巡るもめごとが
続出、狗奴国などという野党的存在ができた。
対魏外交に見せる卓越した外交感覚は倭人のものではなく政権中枢
に百戦錬磨の秦族のコンサルタントがいたことをうかがわせる。
238 :
日本@名無史さん:04/06/17 09:25
平原の天照の死後、その地に後継を置かず、日向で再生儀式、禊を行なった後、
辰韓の地からアカルヒメ的シャーマネス(背振山(ソウル山、徐市山)には弁済天
の渡来という伝承がある)を招き、葛城辺りで中国的な鬼道を開始、後に纒向に
邪馬台国の首都を建設して移動。このフィクサーは
ヒコホホデミ(Mountaintop Sunrise Gazer)とでもいうべきか、太陽光反射青銅器、
鏡、矛を駆使し山岳を行脚し、都市、神社、古墳の配列/山立てを決定するシャー
マンであったのだろう。
239 :
日本@名無史さん:04/06/17 09:39
牛を連れて沢に下るを見て畜殺の容疑で農耕民を逮捕し、天照には
ローハイドを献上、野糞を垂れるのはブリャート等の住む寒冷地、糞
がすぐに凍結する地方の民族の常であり、鮮卑が秦族を追って渡来、
天照政府は、自らもかつては伊都国奴国政府によって筑後に配置された
ことにならい、これを東国辺境地に配置した・・・こういうこともありえるね。
240 :
日本@名無史さん:04/06/17 10:02
秦、鮮卑、烏桓等は6300年前の喜界爆発で九州を逃れた倭人の末裔であろう。
日本列島は東アジア・北米・オセアニア諸民族の発生の地ではなかったのだろうか。
241 :
日本@名無史さん:04/06/17 10:46
>>171 思えば、ヤマトタケルもペテン師だったな。
騙しまくり、徐福の血が流れていたからか。
昔の日本人は騙すことが誇らしいことだったんだね。
242 :
日本@名無史さん:04/06/20 18:11
保守
243 :
日本@名無史さん:04/06/20 18:45
日本列島は雀卓が自動的にガラポンとなるように地球規模の火山爆発
があった。このためにホモサピエンス到来以降も諸民族を全世界へ吐き
出す心臓の役割をはたした。これは保守だからそうなるんじゃなくて自然
界の原理なんだよ。
244 :
日本@名無史さん:04/06/22 12:53
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-12.html ↑このURLをプルダウンして「九州・山口地域の弥生人骨の発見地」
というところの図を見てみると渡来地が明確になる。彼らは山東省に
いた頃から山岳、鳥等を崇拝する習慣があった。周囲の縄文人は彼
らを差別してヤマンドと呼んだ。彼らはその祖徐市からの「東方の日
出る所に三霊山あり、至りて不老長寿の仙薬を求め、西に帰りて帝
に奉げよ」といった言いつけを宗教化してきた。その昔ウルサンの向
日湾を出港した彼らは、
上図の通り筑後に入り、東進し、宇佐に至るもそれらしき霊山、仙薬
はえられず、はるか東方に三山のある土地があると聞き、船団を組ん
で東進した。彼らが到着したのは↓
http://www.yu-ji.com/douken.htm このURLの「祭祀の変化 ↑弥生時代中期(青銅器)」という図の九州の
青の実線地域から近畿の大阪湾型銅戈という青の破線地域であろう。
その後、彼らの一部は生駒から葛城に南下し待望の大和三山の地に
至り、そこにおいてもヤマンドと呼ばれることになる。魏志倭人伝の時代
の邪馬台国は実線部分ではなく破線部分を含む大和地方のことだと思う。
245 :
日本@名無史さん:04/07/02 10:33
保守
246 :
日本@名無史さん:04/07/09 18:21
山東半島->楽浪郡->馬韓->秦韓->伊都国->吉野ヶ里->国東半島<->吉備こうした
動きであるが、国東半島<->吉備については桃太郎鬼が島伝説に要注意。
扶安に来たとは思います八丈へアシタバをつみにきたかはわかりませんが
248 :
日本@名無史さん:04/07/10 15:50
天日槍伝説についても検討する必要があると思うが、これは近江における鉄鉱資源
開発において活躍しているようである。また、最終的に定着したのが丹後の出石であり、
裏日本である。秦族とは規模も違うようである。
除服が日本に来たということは始皇帝は日本に朝貢したことになり、
中華思想はいきなり崩壊してしまう。
250 :
日本@名無史さん:04/07/12 05:52
始皇帝は秦が胡に滅ぼされるという予言に惑わされ、秦の民を東方の海中にある
三霊山に移住させるよう徐福に密命を出したという線はあるね。山東半島->楽浪郡
->馬韓->秦韓->伊都国->吉野ヶ里->国東半島->大和->富士山(方丈山)という
何百年と続く旅、太平洋を越えて米大陸に移住した形跡(ナスカ地上絵に描かれる
鳥等)は徐福によって歴史的マインドコントロールがされた子孫によるものではないかな。
251 :
日本@名無史さん:04/07/12 06:00
秦が胡に滅ぼされるというパターンを中原が北方蛮族によって滅ぼされる
という風に一般化するとエジプト、インド、メソポタミア、ギリシャ、ローマと
全世界に通用する歴史的法則とも言える。
252 :
日本@名無史さん:04/07/12 09:52
>>251 秦氏は秦韓から。秦韓は、扶蘇が
代郡にいた時に長城建設していた屯田兵を
率いて逃げたんだろうな。
253 :
日本@名無史さん:04/07/12 10:15
吉備の朝鮮山城、概念的には高地性集落、この辺に長城の影がある。それと神社の
石段---特殊技術だもんナー。
254 :
日本@名無史さん:04/07/17 09:13
保守
255 :
日本@名無史さん:04/07/17 10:11
>>249 アホか?
徐福は薬草探しに来たんだろ?
256 :
日本@名無史さん:04/07/28 21:13
保守
257 :
日本@名無史さん:04/08/04 14:03
保守
革新
ジーク・ハイル
260 :
日本@名無史さん:04/08/07 17:33
徐福、徐市が得たという平原光沢の地は楽浪のソウル(徐市がなまるとこうなる)だろう。
その後300年くらいかけて南下し馬韓、秦韓と移動、日本に影響を及ぼすのが倭国乱の
頃。この頃は多くの宗教団体的なものになっていたのだろう。徐福関連の神名、例えば
フツ、フト、ホト、ユフツ、イブキ等無数にある。秦というのもくっついてくる。兵主神が来る。
日本でこれだけ影響があるんだから韓国にだって相当ある筈なんだがなー。
261 :
日本@名無史さん:04/08/08 06:01
保守
22 :名無的発言者 :04/08/08 05:40
2004年8月
劉備様、華北で暴動が起きたようです。
被害都市 北京
民度 0
秋の収穫が心配されます。
↑いろいろ面白いんだけど、誰かこの奇妙な学者と意気投合しておくれ。
日本人から見ると電波かもしれないけど。
天皇陛下は実は中国人の徐福だ!
http://jp.shanghai-q.com/jcbbs/read.php?b=his&t=4598 1987年私は新しい宮を訪問したことがあって、私がたいへん徐福の上陸する
地方を見ていたいためだ。新しい宮城は和歌山県に位置する。私は新しい宮
市市長と会見して、器用なのは彼は本人も徐福に対してとても興味を持つの
だ。彼は徐福の上陸する地方まで(へ)私を連れて、これは一面の美しい海岸
で、1基の赤色の神社があって、周囲は安寧に落ち着いている
徐福の上陸する場所、同じくちょうど日本が言い伝えられていること中にと人物の
神武天皇の上陸する場所は互いに一致する。1人の台湾の作者の衛挺生は1970年1冊
の本を書いたことがあって、《徐福と日本》といって、日本の第1人の皇帝を公言
するのは実際には徐福だ。彼は日本の第1人の皇帝と徐福の上陸する時間の上の不
思議な偶然の合致によって出てきたと推定するのだ。本の中でまた言及して、生
活から天照大神の時代の重要な日本の皇族の墓穴の中で、人々は1枚の秦朝の青銅
製の鏡とひとつの巨大な秦人の使う軍刀を発見する;もし徐福の到来ではないなら
ば、日本にどのようにこれらの古代の遺物があることができ(ありえ)る?2000年に
前徐の福が日本に到着する時、日本はまだ石器時代にあって、またこのようなもの
を造ることができない。この本は断言して、事実は徐福が日本の歴史の上の第1人
の皇帝だと証明する。
作者は非常に感動して、彼はもし日本人が引き続き彼らに対して神の後代の神話
が移さないことをかたく信じるのだならばを心配して、科学的な歴史を受け入れ
ることを承知しなくて、それでは歴史はおそらく再演することができ(ありえ)て、
日本人が自分が最も優秀な人種であることをかたく信じるためだ。日本の歴史は
神話に埋没(溺れ)させられた。大多数の日本人は今なおまた彼らが神の後裔であ
ることを信じて、正面から撮った写真の2冊の1番早い編年史《古事記》の(古代
の伝説)と《日本の書記》(日本の編年史)
記載したそのようにすること。これらの編年史によって、日本の第1の皇帝の神武
天皇は紀元前に660年即位したのだ。しかし8世紀初めに至って、まだどの1部の編
年史の記載した歴史ほど完全に信用できないで、更に不思議なのは、この部の歴
史的な著作はすべて古代の中国語で書いたのだ。
265 :
日本@名無史さん:04/08/08 19:58
困難な航海の末に到着できたのは遼東半島、大連、付近、そこで水とか食料を得て
海岸沿いに南下を続けやっとのことで到達したのが楽浪でそこで定着した。その後
200-300年かけて朝鮮半島の南部に到達する。こういうことだろうね。
金属板ってなんだろう?
>1987年、私が1位知り合いになって徐福に対して広範な研究の日本の学者の金属板の野生の息の峰がある。
>1987年,我??了一位?徐福有广泛研究的日本学者?野气峰。
267 :
日本@名無史さん:04/08/08 20:02
日本で徐福の史実が判明するのは遣隋使、遣唐使が中国から史記等の漢籍を輸入
するころであり、徐福の史実に合わせて渡来系の秦氏などが全国各地で徐福上陸地
の伝承を作っていったのだと思う。
268 :
日本@名無史さん:04/08/26 19:23
浮上age
キリスト上陸伝説もここでいいでつか?
そんな伝説は存在しない。
旧戸来(へらい)村にはあるやんか。
昭和初期からだいぶたってるから、もう伝説でいいだろ。
273 :
日本@名無史さん:04/09/07 08:59
age
274 :
日本@名無史さん:04/09/07 10:20
シンデレラも日本人
中国人の持ち出す話には、落ちがあるぞ気をつけないと。
この様なネタは。
276 :
日本@名無史さん:04/09/20 19:14:25
ウエルカム日本
>>267 であれば、秦氏が大陸と密接な関係を持つ事にもなるが・・・
他民族の伝承を他国で残していくものだろうか?
アメリカ人と称する朝鮮半島へ渡った日本人が朝鮮で、アメリカ人に関する伝承を残すようなもんだからね。
アメリカ人=日系人であったのならば分からないでもないが・・・
秦国で虐げられてきた人達が、他国で秦の権威に縋るという方が現実的だと思うが。
281 :
日本@名無史さん:04/09/26 22:51:11
age
282 :
日本@名無史さん:04/10/03 11:03:06
保守
283 :
日本@名無史さん:04/10/05 20:50:55
日本中国領説の根拠に使われそう
285 :
日本@名無史さん:04/10/12 00:40:00
あげ
286 :
日本@名無史さん:04/10/12 19:48:44
徐福は琅邪の出身で、
そこは呉人や越人の住むところ。
つまり、徐福も倭族の出だった。
>>286 姓が「徐」だろ。淮河の中流の「徐夷」「徐戎」とよばれた民族の出身じゃん
JOY?
289 :
徐福末裔:04/11/03 23:29:53
88年ごろに中国で再発見されて有名になった徐福村では、廟も再建され
全国から集まる自称徐福の子孫で、いっぱいいっぱいらしいです。
史記をまとめた司馬遷は、徐福が日本に旅立ってから数十年後くらいの人で
直接徐福の知人から取材していたらしいですよ。
徐氏は当時の五帝時代からの名家で、成り上がりの始皇帝よりは格が上で人気も
あった。徐氏親族は彼が帰国しないので、劉氏などに氏名変更して2000年
以上も言い付けを守って、当時と同じやり方で同じ場所にある薬草農場を運営
しています。写真報道有り。
つまり、移民は歴史的事実。
だいたい三日で北九州あたりに着くらしいです。近いですね。
日本側に当時の文字が残っていないのは確かに疑問ですが、来ていておかしくない。
徐福は帰国してないんだから中国に子孫がいたらおかしいだろ。
292 :
日本@名無史さん:04/11/04 10:32:39
>>291 横からすいません。
頭固杉。
色々な可能性を考えた?
徐福が何歳くらいで、中国を出たとか・・・・
子孫や家族を中国に残したら始皇帝に殺されしまうだろ。
294 :
日本@名無史さん:04/11/05 01:46:03
徐福は子どもたちを残して移民した
始皇帝崩御の後、親族、子孫たちは苗字を変えて全国に散らばったが、直系は村で
生活。1920年代頃から徐福村をアピールしはじめたが、アカデミズムが相手に
しなかった。学術的に認知されたのは15年ほど前。
弾圧を免れたのは、漢の高祖の支援(彼らの蜂起を始皇帝の資金から捻出カンパ
していたという説話もある、軍師張良のパトロン説)があったという説。
和歌山の捕鯨ノウハウは彼らが教えたという説。
地元は捕鯨のメッカ。その漁法は同一。
彼らの移民した後は、各地の華僑都市に移民が続いた、最大で100年間に10万人規模。
縄文末期の国内人口は寒冷化で落ち込み7.5万人。それが弥生中期には100万人を突破してる。
九州の渡来系人口増加率は、土着縄文系に対して9倍らしい。
295 :
日本@名無史さん:04/11/12 10:00:13
296 :
日本@名無史さん:04/11/12 20:31:51
徐福が日本に来た可能性はあるが、その詳細は不明。
日本側の伝承はすべて後世の後付け(捏造)ばかりで信用できない。
297 :
日本@名無史さん:04/12/01 16:01:34
保守
298 :
日本@名無史さん:04/12/09 20:41:11
age
299 :
日本@名無史さん:04/12/27 20:51:33
そういや、秦の始皇帝が派遣した徐福の集団と、
瀬戸内海にあった秦王国って、関係あるの??
ない
301 :
日本@名無史さん:05/01/01 02:10:05
岡山の吉備に秦がある。日本書紀では葉田(はだ)と記され、応神、仁徳天皇
の后の故郷とされ、二人も長期滞在されている。神武が8年間滞在し2月11日に吉備の
児島宮をでて河内に向かった話と重なる。吉備大和連合朝廷時代の中心地。
巨大化する前方後円墳の埴輪の原形はこの吉備が発祥の地。いわゆる特殊埴輪や
前方後円墳のなりたちから当時の有力地域政治宗教権力の大和での融合化が証明
されている。4世紀当時の最大の前方後円墳はこの吉備に存在しているので、当時の
政治権力の中心地。紀元前後の王蒙の新時代の貨幣が大量に発掘された地はここのみ。
俺はその血筋だが、古代東アジア最大規模の山城である鬼城(周囲28キロ)の
ふもとの高梁河から船がでて直接半島、大陸と交易をして栄えていたらしい。
秦氏は何度も渡来してきている。公式記録では先祖は始皇帝だが、赤穂ではダビデを祀ってたりする。
302 :
日本@名無史さん:05/01/12 19:41:29
>>300 じゃあ、なんで、秦王国という名前なんだろ?
黍(きび)と秦(はた)は字がなんとなく似てる。
>>302 徐福以外にも秦の関係なんていっぱいあるでそ
305 :
日本@名無史さん:05/01/15 03:31:17
age
306 :
しばらく:05/01/15 14:40:20
東京湾を横断するのも命がけの時代に山東半島を東に船出して遼東半島
にたどり着いた人は九死に一生えたも同然であったであろうと思う。その後
難行苦行の末に楽浪辺で落ち着いた人々のニュースが伝わり、平原光沢
の地を得たという一大ニュースとなった程度のことで、倭国とはほとんど関係の
ない話であったと思う。しかし、問題はその子孫のその後の運命であり、倭国の
徐福伝説とはそうした話が伝播してきたものであろう。
307 :
日本@名無史さん:05/01/15 14:57:35
そんなに大陸から人が来ているなら1枚くらい由来を漢字で書いた土器や粘土版の1枚も出そうな気がするが
なんで? 渡来人は漢字が解らない庶人か
308 :
日本@名無史さん:05/01/31 13:56:38
age
309 :
日本@名無史さん:05/01/31 16:37:03
310 :
しばらく:05/02/03 16:03:42
徐福は朝鮮半島で平原光沢の地を得たが、それから約4世紀をかけ馬韓、秦韓、
豊前などを経由、各地に兵主神社のような神社、古墳を建設、徐福伝説を残したと
考えられる。こうした線での真面目な徐福伝説の研究が行われず商業的とか、
金集めのためにしか活動が行われていないのは残念である。
ゴットハンド乙
312 :
しばらく:05/02/07 09:10:24
313 :
しばらく:05/02/07 10:19:40
孫権の密使と会ったものは纒向に兵主神社を建設した秦系グループの一部
であり、吉備グループが主導権をとることに対して尾張等の王族と共に反対し
東国に逃れた。伊勢津彦、S字甕の当方への移動もこれに関係している。
最終的に王族は諏訪近辺に居座り、秦系は祖先の伝承の方丈山を探し
富士に到る。そこで最終的に自分たちの宗教的使命の仙薬探求が500年前に
山東省出港直後に終了していたという歴史の真実に目覚めた。こんなことを
夢見ているが。
314 :
しばらく:05/02/07 11:49:20
吉野ヶ里に始まった太陽の線、甘木朝倉から飛鳥・大和に移った
鳥形国土建設の思想は遠く飛騨山地で終焉を迎えた。富士の山ろくで
500年の流浪の民は解散し、北辰の民の群れに混じり北に向かう。
それが安達太良山から釜石方面に到達するころ、西国ではすでに鉄が
開発されていた。
315 :
日本@名無史さん:05/02/07 17:23:41
徐福は仙薬飲んで生きてるよ
316 :
日本@名無史さん:05/02/07 17:37:25
完投して喜ぶのが野茂、浣腸して喜ぶのがホモ。
打たれるのを嫌がるのが野茂、打たれるのを喜ぶのがホモ。
野茂はホモを狙わないが、ホモは野茂を狙うことがある。
好プレーするのが野茂、チンプレーするのがホモ。
家族でたのしく見るのが野茂のプレー、家族で楽しく見れないのがホモのプレー。
お尻を見せて球を投げるのが野茂、お尻を見せて球を揺らすのがホモ
アメリカで観戦するのが野茂、アメリカで感染するのがホモ。
野茂は講演に行くが、ホモは公園に行く。
タマを投げてチームを守るが野茂、タマを触って彼を攻めるのがホモ。
野茂はバーモントカレーが好きらしいが、ホモはバーの元彼が好きらしい。
野茂はお尻を向けて投げるが、ホモはお尻を向けて誘う。
野茂のプレーは素晴らしいが、ホモのプレーは凄いらしい。
考古学的遺物が何も出ないのがアヤスイ
大船団を仕立てたわけで、ひとりやふたりが渡来したわけではない
文書にせよ金石にせよ、やたら文字を残すのが彼の民族
318 :
日本@名無史さん:05/02/21 20:09:46
age
319 :
日本@名無史さん:05/02/26 18:56:57
保守
徐福は仮の名で、実は始皇帝が日本にやって来たのである。
秦一族がそれです。
そして日本を作った神として語り告がれるようになりましたとさ。
という燃料はどうかね?
始皇帝の子孫でそ。秦十五世融通王(=弓月君)、別に燃料じゃなくて普通の話やん。
じゃあ中国人にいばれるな
323 :
日本@名無史さん:05/03/04 17:04:25
保守
324 :
日本@名無史さん:05/03/08 02:48:41
保守
325 :
日本@名無史さん:05/03/08 04:06:56
日本人
漢字を略せずに使っているから漢文化を継承している。
まあ当時のことだ。
どっかで難破して海の藻屑になってるってのが歴史の真実だろうな。
327 :
日本@名無史さん:05/03/13 15:45:47
熊野age
328 :
日本@名無史さん:05/03/15 14:54:19
保守
台湾に辿り着いて終了。
330 :
鴨禰宜:2005/03/23(水) 22:28:06
>>321 秦十五世融通王(=弓月君)・・・これは河内王朝が九州の秦氏から奪った一連の
伝承だろうと思うんだ。漏れはこれはウズヒコに相当するものと考えている。
なんで「奪った」んだよw
河内王朝が秦の子孫を自称したかっつの。
332 :
鴨禰宜:2005/03/25(金) 18:57:47
ていうのは、これ以外に天照、神武、天孫降臨、仲哀、神功 、応神など
全て筑豊、筑後、筑前で奪ったと考える。その中に一緒くたに入っていたのが
秦氏の伝承だと思うんだね。九州側からみた河内の(大和はまだ登場して
いなかった時代の)状景は、神武の日向での言葉や山幸、海幸に出てくる
桂の木、井戸(大阪曽根遺跡)から察せられる。
あいかわらず「と思う」ばっかりで根拠がない。
334 :
日本@名無史さん:2005/03/29(火) 19:49:51 ID:
徐福っていいとも!
335 :
鴨禰宜:慶長410/04/01(金) 22:33:51
漏れも貫禄をつけようと思いNASAの地球儀ソフトをDLして、山東半島を見てみた。
あすこから古代人が船を出すと楽浪以外に到着するところはないね。
閑話休題、神武はイザナミのお墓のある近所で女酋を殺しているが、そこに徐福が
到着したりすることになる。神様はスサノオ。そして烏のデザインが残る。こうしたことは
裏があるわけで、神武軍には徐福伝説を持つ秦氏(福岡、大分又は播磨から従軍
下のか)がいたこと、つまり、融通王/夕月君とは河内王朝時代ではなく神武時代に
来朝して纒向に兵主神社を建立していること、神武、秦氏は鬼道をもっぱらとする
鳥夷の要素を持ち、神道とは縁の遠い連中であり、どちらかといえば修験道、密教
の要素を持っていたのではないかと思わせる。
いろんな時代のことをバラバラにいってもしょーがないぞ。
337 :
鴨禰宜:慶長410/04/02(土) 07:26:30
漏れの仮説はいろんな時代のことを一緒にしたのは漏れではなく河内王朝
の立役者ではないかということで、そもそも神功 /息長、タケシウチ等の創始者
を初め全ての神話は王朝に箔をつけ、九州勢を朝鮮半島で高句麗との戦争に
動員するために九州にあった、伊都国、奴国王朝時代のものを自分のものに
してしまった結果だということだ。河内王朝とは実際は非常に古い旧家ではあった
が鬼道に対抗する為にはこうした諸国をまとめてクーデターを起こす以外に道が
なかったんじゃないか。
338 :
鴨禰宜:慶長410/04/02(土) 07:39:22
邪馬台国に統一される以前の近畿地方は東西銅鐸圏が仲良く平和的に
暮らす平凡な弥生広域共同体であった。これが弥生後期に庄内、布留
積石、木郭等の北と西から到来した邪馬台国文化に破壊されてしまった。
河内王朝とはこれを覆し近畿の古代への復帰を夢見たものであり、ワカタケル
の吉備への憎しみには深い歴史的な因縁を感じるんだがね。
339 :
鴨禰宜:慶長410/04/02(土) 07:55:25
河内王朝が大事に取り込んだおかげでわれわれは記紀の中に古代の倭国、
すなわち、伊都国、奴国、更には豊後につながる筑豊の古代史を読み取ることが
できるのではないか。そこに前後関係の乱れがあればそれを考古学的に修正するの
がアカデミズムであり、宗教的に盲信するのは文化財保護的な意味からはプラス
であるが、今の時代若い人に受け入れられそうにないと思うがね。
340 :
鴨禰宜:慶長410/04/02(土) 08:24:37
さて、徐福の渡海の頃、楽浪は縄文以来の倭人海人族の専管海域であり
徐福も相当苦しめられたらしい。始皇帝に機関銃のようなものがほしいと
請求している。この鮫といわれるのは大国主にもでてくる連中でいわゆる
安曇海人族、特に、その中でも近江、摂津方面の出身の和邇ではないかと
考えている。徐福は始皇帝の崩御の年に(崩御は武田信玄のようなもので
国家機密)楽浪に到着、更に南下して馬韓に平原広沢の地を得たものと思
われる。幸せな連中であったわけだ。
341 :
鴨禰宜:慶長410/04/02(土) 08:35:18
馬韓にいた異民族集団は在来の馬韓現地人から白い目で見られ北部の
キョンジュの方面で鉄が出たのを機会にその利権を取りにでて秦の国(那)
すなわち韓国語で言えばシルラを建国する。ここにでてくるのが北九州
の豪族でこれが任那ということで時代は後漢の頃であろうか。
342 :
鴨禰宜:慶長410/04/02(土) 08:47:09
この採鉄事業に参加したのは九州だけでなく倭国全域から参加があり
越御津、滑御津なんていうのはヒスイ、高山の鉛などを輸出していたものと
みられる。スサノオに高句麗の王と思われる武頭神などがでてくることから
出雲の参加(スソマというのがそれくさい)もあったのではないか。半島南端
にはシルクロードの月支も来ていたようで、九州からはガラス製品が出土
するし、新羅にはインドの姫が嫁いできたらしい。
343 :
鴨禰宜:慶長410/04/02(土) 08:52:57
ここで女を上げたのが「辛国息長大姫大目尊」であり、今も英彦山に祀られている。
これが帰国後崩御されたのが前原遺跡と漏れは見ている。そして昇天して天照大神
となる。その子孫のオシホのころ天下が乱れ倭国乱となる。神武も同類は相当いると
認識していた。
344 :
鴨禰宜:慶長410/04/02(土) 09:10:50
ところでインドの姫なんていうけど当時のバクトリア方面はアレキサンダーの後なので
ドラビダ系の真っ黒な美人ではなく、北欧系の女だった可能性が強い。話している言語は
インドアーリア語又はトカラ語であったのであろう。この当時シルクロード経由で仏教の
伝来が始まっているが、案外日本には世界最先端で「仏の御霊」が到来していたのかも。
345 :
鴨禰宜:慶長410/04/02(土) 09:12:39
豊前には天竺から5本の霊剣が投げられたという伝承があるらしい。
根拠のない思い込み。こじつけばっかっり。
347 :
鴨禰宜:慶長410/04/02(土) 12:41:13
批判のみで中身のないのは政党であっても破滅するし、どこかの国と同じだ。
漏れは中身のない発言はしていない。批判をする前に自説を出せないのは
女の政党だ。中身がない。
348 :
鴨禰宜:2005/04/04(月) 21:20:49
またしても思いつきで恐縮だが、漏れは豊前香春山周辺に辛国息長大姫
大目尊を祀って居ついた集団は辰韓で大目尊(延烏女)の周辺に結成された
秦氏を中心とする国際的冶金探鉱集団であり、これが山陰から、纒向、熊野
に移動し、一部は神武コースに乗ったのであろう。この集団の宗教は山東省の
蚩尤信仰とか、方士的な呪術、すなわち鬼道に長じていたものと見られる。
349 :
鴨禰宜:2005/04/04(月) 21:24:58
神武記にも岡港に向かう表現があるがその先がカットされている感じだ。
350 :
鴨禰宜:2005/04/04(月) 21:32:27
国際的冶金探鉱集団日本に向かった動機は指導的女性シャーマンに帰国され、
資源は枯渇、顧客である倭人には逃げられ行き場を失ったのではなかろうか。
かれらは現地土着民からも嫌われていた可能性もある。難民だな。
351 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 05:20:39
>>335 吉備の秦は、450年代に登場する赤穂、山城の秦氏より古い。
日本書紀応神期を参考にすると380年代には定住していて、当時最大の造山古墳(国内4位)
に関わる。吉備自体は、3世紀の弥生最大の遺跡タテツキで水銀30キロ(他の祭祀遺跡の
一〇倍規模)を三輪の呪術集団が鬼道に使用。出土した紀元8年の王蒙の貸せん26枚、
魏時代の青銅鏡などもでる華僑開発先進エリア。土偶や絵画の馬人の靴は先が反り返っていて
トルコペルシャ騎馬風。鳩、船、鴨の名前は吉備関連でし。指導者代々のウズマサは、
フナとか魚名が多い。亀は神獣。天寿国思想のシンボル。石畳神社のいわくらは全長20メートル
以上もあり、「たたい」という地名を持つ人工堤防の高梁川河川で祭祀をしていた。
天孫はイワクラより天高原に下る。
352 :
鴨禰宜:2005/04/07(木) 13:34:18
吉備は王莽、貨泉の時代から造山古墳に至る400年の間何をしてきたのかを考えると
大きく見て邪馬台国建国以前、いわゆる、投馬国時代、それと河内王朝草創期の時代
に分けてみるのが一法かと。共に謎の多い頃で、重要な頃であると思うが、この時代の
象徴である鏡、特に三種の神器、大型国産?製鏡等を考えると吉備はその最終到着点
ではない。漏れは吉備にある生部(なしべ)は邪馬台国外交官として活躍したのではない
かと思うのだが、勤務地は、トウチゴリと同じく、大和の十市近辺ではないかと思う。
神武記は吉備を通過地として把握しているがなかなかたいしたものだ。現在漏れは
スサノオをトルコ系遊牧民族小月氏の首長で、秦氏と共に大目尊の後を追って渡来
したものと考えている。
353 :
鴨禰宜:2005/04/08(金) 08:11:56
問題は吉備津彦、鬼のウラというのは岡山県とどういう関係があるんだということ。
先ずはどっちがどっちから判断しなくてはならない。敦賀に鬼が上陸してのこのこ
岡山に鬼征伐に行くなんてのはおかしい。これをどのように整理するか。
纒向の邪馬台国建設において吉備は特殊器台献納など主導的役割を演じていること、
纒向には秦系の兵主神社があることから、吉備の渡来系秦、伽耶等の人々が纒向に
きて邪馬台国建設に参加した可能性は高いようだ。
「古代吉備国の範囲は、いわゆる備前・備中・備後の範囲よりも遥かに広大で、東は
播磨国の印南郡の辺りにまで及んでいた
」
http://www.infonet.co.jp/nobk/okym/kakogawa.htm という論考がある。こうなると吉備と敦賀はさほど遠いことではなくなるが。
354 :
鴨禰宜:2005/04/08(金) 08:28:25
吉備のモモタル(50人編成部隊)が丹後、若狭を討伐し、敦賀に吉備神社を
建設するというストーリーならありえる。その武将に一人が角の兜をつけていた
ということもありえるね。
355 :
鴨禰宜:2005/04/08(金) 10:04:44
356 :
鴨禰宜:2005/04/09(土) 17:54:40
menu:387
都合で楯築古墳をスサノオの墓にしてしまった。すると、天照は前原、平原王墓、
俗名、辛国息長大姫大目尊(細烏女)と整理する。すると、アカルヒメをどうするか
という問題になる。アカルヒメのストーカーは天日槍、秦氏であり、秦の亡民だから
構成がちと違う。しかしよく似た事情で二件も移住問題が起こるとはややこしい。
細烏女/大目命の場合、倭国女王であり、新羅は使臣を勧誘に派遣し一蹴される。
アカルヒメの場合は大きな矛を持って追討軍を出すところが九州と河内の勢力の
差であろうか。豊前辺りで追いつきその後は団体で備前、河内へと入ったのであろう。
アカルヒメは鼻持ちならぬ官僚主義王族にストーカーされていると言いふらして歩いた
ようだ。結局彼女は葛城辺りの神社に入りたいした玉にはならなかった。赤玉。たちまち
玉より姫などがお株を奪い、各地の豪族、中でも摂津の豪族の娘が纒向に入るようである。
357 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 17:55:12
まあ、学者の定説なんてモノは新しい発見で覆る事が日常茶飯事。
熱くならず、説は説として楽しもう。
358 :
鴨禰宜:2005/04/09(土) 18:00:10
神武のお出迎えなどでおなじみのウズヒコというのは秦融通王と称していた
もののことではなかったのかなと思う。徐福の徐家の方が王族としては
角が上のようだがなー。
359 :
鴨禰宜:2005/04/09(土) 18:06:27
てなことで、卑弥呼のでる前に相当の数の姫が存在したわけで、卑弥呼程度で
そんなに大きな墓を建ててもらえるのかな。卑弥呼を買いかぶっているのは
取り巻きの策士にだまされた魏の使節だけではないのかなー、なんせ、生きてるか
死んでるかも分からない存在なんだからね。
360 :
日本@名無史さん:2005/04/10(日) 05:49:40
鴨禰宜 さんとかのはなしをもう少し、一般向けに整理できれば
当社で出版したいな
従来の秦氏=ユダヤ系 とかのムー話ではなく、最近の関裕二のような古代史
マニア向けの先端古代史ロマン読み物
特に、渡来プラス吉備出雲ヤマト連合朝廷時代の初期日本のなりたち論には
みんな知的関心が高い。もちろん NHK のように話題性のある秦氏=シルクロードの民
は前提です
361 :
日本@名無史さん:2005/04/10(日) 05:54:53
>>352 スサノオをトルコ系遊牧民族小月氏の首長で、秦氏と共に大目尊の後を追って渡来
したものと考えている。
もう少し詳しく御説明を!
362 :
日本@名無史さん:2005/04/10(日) 06:12:38
他スレ参考迄
ちなみに西日本最古の寺であった6世紀の秦廃寺の背後には、マサキ山
という聖地がある。皇室の正月の歌詠みの枕言葉の正木山で、マサ(秦)キ(城)とよむ。
魏時代の青銅鏡などが出てくるのはこの山で、学者の中には付近のH式古墳を
国内最古の古墳と読むものもいる。
751 :吉備秦氏 :2005/04/03(日) 06:46:32
秦のトーテムが羊、というレスがあったが、祖父から貰ったトーテムていうか
土偶には鳩とか船がある。一部のマニアがいう秦氏と月読神の関係には、うなづくものがある。
「月は神聖」という伝承がある。
子供ころ戦国武将の山中鹿之助の月に誓う寓話(主君再興の戦い)をきかされたこと
がある。「我に七難八苦を与えたまえ」
あと、葦の船に流された聖人の子供のはなし。(桃太郎、秦河勝、そしてモーゼ)
さすがに羊は居なかったが、昔から山羊はどの家にもいたし、私も子供ころは手をかまれた。
寺跡の柱の礎石の穴はえさ置きに使用されていた。
363 :
鴨禰宜:2005/04/10(日) 06:42:47
まさに、私の話は途上中であり、各種の重複を整理するどころか増長するような
ところがあった。アカルヒメ、シタデルヒメ、ホアカリ等は太陽税、国税ということでの
原三国と同様の国家統一の動きであり、海人族がばら撒いたものだろう。
天照一本で十分。安本氏などによって指摘される九州・近畿地名の重複だが、他にも
ニギハヤヒ(ハヤヒワケとは伊都国、吉野ヶ里、熊本)、ニニギ(丹を集積していた伊都国
王)、オシオ(ハヤヒワケをより大きな倭国全体の国家にするという構想)こうしたものが
咀嚼されないまま人名、神名として近畿で使用され、更に概念的にはアカルダマ、
ホアカリ等とダブっている。これらは急速に纒向に新都を建設した結果起こった
イミテーションによる混乱だろう。しかし、倭人伝の狗奴国問題についてはこうした重複した
記紀、物部文書などの裏を見れば既に織り込み済みであることが分かるのではないかと
いう発想に至る。
364 :
鴨禰宜:2005/04/10(日) 06:56:51
>>361 楯築遺跡は巨石を立てて境界を作るが石板(スト-ン・プレート、ストーン・スラブ)を
石槨として斜めに並べるのはたしか、韓国に円形のがあったと思うが、ザバイカル
のほうでは長方形のがあった記憶がある。アルタイのほうは古トルコ特集で大きな
ウェブサイトがある。
http://e-lib.gasu.ru/da/archive/2003/11/09.html なんだか、よく分からないしスローモーであるが図のようなところをクリックすると
でてくる。石板が斜めになっているのが韓国と似ているなと思った。間違っていたら
ごめんね。
具体的な証拠は何一つない。
蓬莱山て台湾でしょ?
でも中国じゃ定説なんだよな。
日本人が頭がいいのは、除福の子孫だからだとか言って。
366 :
鴨禰宜:2005/04/10(日) 07:15:34
倭人伝でいう狗奴国の問題は記紀、物部文書でいう星を信仰する集団で
(冶金集団)クガ・・・という地方(京都、近江)に対する討伐のことだと思う。
銅鐸末期の見る銅鐸集団のヘッドハントなどの人事問題がこじれたんじゃ
ないかな。崇神のタケハニヤスで表面化している。
367 :
鴨禰宜:2005/04/10(日) 07:18:55
中華思想というのは地球儀ソフト遊びであり、台湾辺りから満州方面に
金印1個置いておけば厄払いになるという発想だろう。逆に貰ったほうは
相当威張れる。奴国辺りの威信は満蒙辺りまでに及んだと思うけどね。
368 :
鴨禰宜:2005/04/10(日) 07:28:26
狗奴国というのは三輪そうめん会社の女社長と京セラ、日本碍子等との
戦いであったわけだ。この落とし前に泣いたのが崇神とせがれ、ついには
伊勢に倭姫を出し、ヤマトタケルの頃には三種の神器まで質に取られ徴税
活動。しかし女を抱かされたりして都の帰れず白鳥になったのではないか。
369 :
日本@名無史さん:2005/04/10(日) 07:38:49
http://www.infonet.co.jp/nobk/okym/kibimachi.htm 吉備と紀伊とは、古代にあっては非常に密接な関係にあった。日本書紀や続日本紀の中にも、
吉備水軍と紀伊水軍が共同作戦をした記事が見られる。
日本書紀によると、雄略天皇の九年、天皇は紀小弓(キノオユミ)らに新羅を討つ
ことを命ずる。この時、小弓は妻を亡くしたばかりであったので、天皇は
吉備上道大海(オオウミ)という采女(ウネメ)を小弓に与えて、その後妻とし、
夫婦相扶けて、かの地に向かわしめる。小弓は幾多の敵を破って勇戦するが、
やがて現地で病没する。大海は夫の遺骸を守って帰国し、葬るべき地を大連
大伴室屋より泉南に賜わって、そこに葬った。と云う。
采女は吉備国から天皇のもとへ貢献され女性である。
しかし、その背後には吉備上道の国がある。これは、吉備水軍は紀伊水軍と
連合して半島へ赴いたものと見ることができる。
370 :
鴨禰宜:2005/04/10(日) 07:39:50
>>365 アカルヒメがいいたかったのは田んぼで牛を使っていて、水のみにつれてゆこうとする
と、検察官である王子に畜殺容疑で起訴というとんでもない秦の法匪、ファッショであり、
何百年もの時代錯誤があり、合弁事業はやっていけないという、弁辰進出倭国企業の
一般的見解ではなかろうか。漏れは秦韓の特質をよくあらわしていると思う。
371 :
鴨禰宜:2005/04/10(日) 08:28:00
>>365 山東省から入海すれば楽浪以外に行き場所はない。楽浪に上陸して平原光沢な
土地を求めれば馬韓しかない。倭国との接点は何百年も後の辰韓であったはず。
ただし上海辺りから入海すると低い確率で台湾辺りにたどり着くことはあったかも。
肥前、肥後の渡来伝承は伊都国から吉野ヶ里に入ってきた渡来人が創造したの
ではないか。
>>360 関裕二だって十分ムーレベルじゃねーか。これ以上電波本ひろめるのはやめろ。
373 :
鴨禰宜:2005/04/10(日) 13:42:29
本というものは社会に何か貢献するものであることが望ましい。漏れは先ず
警鐘を鳴らしたいこととして石像、巨石遺跡の保護だ。日本には国際的に
保護されるべき石像があるようだ。特に豊前、信濃あたり。
次に、留意すべきは著述者が世界に向けて発信するという精神だ。ようするに
松井、一郎並のプレーだ。
最後に、教科書問題、最終的に日本の神社仏閣は世界遺産であるということに
世界の人に気づいてもらいたい。特にトルコ、アーリア(仏教)、中国のの失われた
遺産が日本に残っていることに気づいてもらいたい。こうしたことを執筆者に期待する。
スマトラ沖地震被害者の少女が考古学者になりたいといっていたのを思い出す。
374 :
鴨禰宜:2005/04/10(日) 14:15:42
漏れは安本、古田、原田等の先生の断言的な言い方は学生にはいいと思う。要するに
八方美人じゃ読み応えがない。しかしお坊さんとか、神主さんであってまだお経、祝詞
の修行中の方には向かない。断言的なのは非科学的であり、邪道なんだけど馬券等を
買うときにはこれがないと困るんだね。漏れは旅行をすると神社などでうっているとんで
もない本を買って帰る。
375 :
鴨禰宜:2005/04/10(日) 18:01:29
邪馬台国の液邪狗が祀られていると思ってこないだ弥彦に行ったら雨に降られて
天の香具山だったのはがっかりした。町村合併の時には弥彦市に「一票」入れたの
に。確か弥彦が船で鏡を持ってきたはずだったのにおかしい。情報が消えてゆくのは
寂しい。
376 :
鴨禰宜:2005/04/11(月) 12:09:24
377 :
鴨禰宜:2005/04/11(月) 20:10:49
>>361 月支については
「モンゴル高原において匈奴が勢力を拡大し,月氏と西域貿易の利を争うようになり,
匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう)は月氏に壊滅的打撃を与えた(前176ころ)。月氏の
主勢力は西方に逃れ,パミール高原を越えてアム・ダリヤ流域に移動し,アフガニス
タン北部のバクトリア王国(大夏)を征服した。中国史料は中国辺境に残留したものを
小月氏,西方に移動した勢力を大月氏と呼ぶ。漢の武帝の使者張騫(ちようけん)は
この大月氏を訪れ(前139ころ),西方世界の珍しい情報を持ち帰った。なお後1世紀中
ごろ,大月氏の地からクシャーナ(貴霜)朝が勃興し,中央アジアからインドにかけて
雄飛し,中国史料,漢訳仏典はそれをも大月氏の名で呼んでいる。」
と言うように前漢の初め甘粛近辺に小月氏が残ったと言うことになってはいるものの
その風習は
「前漢時代は小部落にわかれ匈奴に属した。鬼神,天地,山川,日月を祭り,
シャマニズムを信奉し,頭髪をそりおとす風習があった。後漢時代に中国寄りに
移動してその北辺防衛部隊となり,後漢末の混乱期に大同団結し袁紹に通じたが,
207年(建安12)曹操に撃破され四散した。」とされる烏桓に色濃く残り、その集団が
月支の族名を維持し、三韓に南下しても、例えば、小アジアに進出したオスマントルコ
が月と星を捨てなかったのと同様不思議なことではなありませんが、三韓にはインドとの
婚姻伝承と出雲神話にはオルフェウスのギリシャ神話、アーリアのヤマタノオロチ等
大月氏の仲介を示唆するようなものがあり、シルクロード、ユーラシアステップを
横切る接触があったことがうかがえます。
378 :
鴨禰宜:2005/04/11(月) 20:19:50
いずれにせよ月支族が南下するためには高句麗との接触は不可避であったと
思われますが、高句麗のこの時代の王は
東明聖王(高朱蒙 紀元前58年? - 紀元前19年? 在位紀元前37年? -
紀元前19年?)
瑠璃明王(解 類利 ? - 18年 在位紀元前19年 - 18年)
大武神王(解無恤 4年 - 44年 在位18年 - 44年)
閔中王(解 色朱 ? - 48年 在位44年 - 48年)
慕本王(解 解憂 ? - 53年 在位48年 - 53年)
太祖大王(解宮 47年 - 165年 在位53年 - 146年)
次大王(解 遂成 71年 - 165年 在位146年 - 165年)
新大王(解 伯固 89年 - 179年 在位165年 - 179年)
故國川王(解 男武 ? - 197年 在位179年 - 197年)
山上王(解 延優 ? - 227年 在位197年 - 227年)
となっているわけですが、スサノオは武塔神とされていますから大武神王
(解無恤 4年 - 44年 在位18年 - 44年) の頃にこの月支族は高句麗領土を
通過して南下し、馬韓の地元住民はこうした渡来民に領地を与えたのではないかと
思います。この頃は楽浪・帯方の漢の植民地化で朝鮮族は無力化していた
のではないでしょうか。この頃は倭国各地も好きなように三韓に入っていたように
三韓は全域に倭国語で解釈できる国名が多いようです。
379 :
鴨禰宜:2005/04/11(月) 20:31:53
こうした古トルコ系族であり、興安嶺の西の石板墳墓文化には岡山楯築遺跡と
同じ構造とか神面を持つものがあり、天照時代のスサノオの牧畜文化的特性、
なかんずく、巨柱を中心とする霊屋を作り生剥ぎの馬の毛皮をその屋上に掲げる
と言う葬礼儀式が天照時代に大きなセンセーションを呼んだのではないかと
考えています。
380 :
鴨禰宜:2005/04/11(月) 20:38:36
余談ではありますが、最近のサハ(ヤクート)共和国の血液型研究によればインドと
ヤクーチア(中央アジア出身トルコ系)とにHLAの共通性があるとのことであり、インド
アーリアの侵入に先立ってトルコ系(膠着語)の侵入があり、日本語とよく似ている
と言われるタミール語を話す集団が形成されたのではないかとも考えられます。
あいかわらず妄想のオンパレードだな。
月氏は満州にすらきてないのになんで高句麗領土を南下するんだ?
どこにそんな記録なり痕跡があるっていうんだ?
おまえは学問板じゃ邪魔なだけ。オカルト板にいけよ。
382 :
鴨禰宜:2005/04/12(火) 07:38:31
牧畜・遊牧人には領土の細かい概念はなく、あの山からこの川と言ったものだ。季節に
よっても違っただろう。そうした集団が複数いるメタ集団においてドミノ的振動の発生する
場合、メタ的な不安定が開始される。満蒙から北朝鮮にかけてはちょうど中央アジアから
ドナウ川にかけての草原地方と同様そうした移動が起こってもしようのないところであり、
中国の皇帝とローマの皇帝はよく似た問題を抱えていたはずだ。スコットランドとの国境に
万里の長城のようなものを築き、兵士のキャンプを作っていたり、その兵士がダキアに
転勤するようなこともあったらしい。われわれ日本人は一所懸命というか、棚田的と言うか
土地に変化があっては一大事との観念がある。漏れはスサノオが熊野(トルコ系の言葉で
人里はなれた山野)の地を徘徊した理由が分かるような気がする。漏れもこのスレも追わ
れてどこかの星にでも逝こうかな。
383 :
鴨禰宜:2005/04/12(火) 08:09:22
「その昔、共工はセンギョクと帝位をあらそい、怒りのあまり不周山にぶつかり、
天の柱が折れ、地の維が絶ちきれた。天蓋は西北に高く傾き、日月・星辰は
西北へ移っていった。大地は東南がおちこんで空きができ、水潦と塵埃とは
そこへと向かっていった。」津波は長江を逆流したはずだ。
http://www.s-yamaga.jp/nanimono/chikyu/kazan-04.htm編『淮南子』天文訓)」
喜界カルデラの噴火
「火砕流とその被害例についてはこちらを参照。火砕流噴火のような大規模なものが
日本で起これば、数県かそれ以上の範囲が壊滅するだろう。そして、日本程度の範囲
全体が大打撃を受けることになる。1983年のインドネシアのクラカトア火山の噴火が
それに近い。大規模なカルデラはこのような噴火でできる、ということは日本はかつて
何回かこうした噴火に見舞われているということである。一番最近のこうした噴火は、
約7000年前に喜界カルデラをつくった噴火であり、日本では1万年に1回程度の割合で
起きている。」
火砕流は薩摩半島を遅い、地球を粉塵が覆い、列島は火山灰にうずまり、九州の縄文
文化は滅びた。新しく九州に入ってきたのは北海道、東北に生き残っていた縄文文化
であり、三内丸山が栄えるのがこの後だ。想像なくして何が想像されよう。
>>382 だからさ。移動しないといってるんじゃないんだよ。
移動はしたりしなかったりいろいろだろうよ。
問題は「A民族の移動経路Bが史料Cで語られている」ってことだろいうが。
385 :
鴨禰宜:2005/04/13(水) 06:38:30
386 :
鴨禰宜:2005/04/13(水) 06:50:08
軍人の命令には奥さんが苦労する。電話って切れないのよと言いたいのだろう。
では人の話は何分で聞けばいいのか、国会の族議員は何ヶ月選挙民に選出を
見せればいいのか、奥さんのお買い物は何時間かければいいのか。世の中は
こういうことでできている。
ただの頭のおかしな人だったか・・・
388 :
鴨禰宜:2005/04/14(木) 10:54:23
隣国のカラスは身中の族議員蛆虫が漂わす死臭に勢いづいて喚いているんじゃ
ないか。
389 :
鴨禰宜:2005/04/14(木) 16:55:31
カラスが鳴こうが改革に反対、この世を謳歌して子孫に地獄を残しても代議士の
退職金がほしいと言う族議員を選んだの悔しいが、どうせおいらはただの頭のお
かしい人間か。
390 :
鴨禰宜:2005/04/14(木) 17:02:47
われわれは銃口を向けられた時代に住んでいないとは漏れも思いたい。しかし、世界で
そんなことを考えて生きていける民族っているのか。
391 :
鴨禰宜:2005/04/14(木) 17:21:26
皆で借りれば怖くない。族議員は国だけで500兆借りておいてまだ借金を続けるつもり。
国会議員になればいくら国が借金しようがいいんだと言う論理で半世紀以上を過ごし、
まだこれを続けようとするから国の破滅の足元を見られ隣国のカラスが鳴き始めたのだ。
族議員はまだやるつもりか。
392 :
鴨禰宜:2005/04/14(木) 17:27:49
世界中が問題にしているのが分からないのか。しかし、アメコウの病肉押し売りと言う
複雑な時代、l困ったなー。
393 :
日本@名無史さん:2005/04/19(火) 10:43:26
とりあえず、おちつけ
394 :
鴨禰宜:2005/04/19(火) 11:10:45
日本もドイツも戦艦大和のような巨艦、ボートレーサーのようにまくってばかり入られない
し、そんなことをしたらG7と言えども余波を食らって大変なことになる国ばかりだろう。しかし、
このままの赤字に関東・東海・南海地震が連動して明日発生した場合の大津波はウォール
街の大暴落どころではない津波となるだろう。南極でペンギンのプータロに養ってもらうか。
395 :
鴨禰宜:2005/04/19(火) 12:13:52
北海道、東北北部、九州、裏日本の一部地方を除き、日本全土は終戦直後の東京、
広島、長崎であり、水、食料、貨幣、電気のない時代に帰りるであろうから、この辺で
水がでて、食料の生産、保存のできる場所の確保できる人だけが生き残ることになろ
うか。また縄文からので直しだね。
396 :
鴨禰宜:2005/04/19(火) 13:00:17
全ての基幹産業、情報産業、エネルギー基盤は山形盆地、会津などを中心に疎開
させて置く必要があるんじゃないの。
397 :
鴨禰宜:2005/04/19(火) 14:31:28
夕べ偶然に米軍放送を聴いていたら兵士に節水の呼びかけを行っていた。駐留
外国人がこれだけ警戒しているのに日本人の若者はどうやって生き延びるのかと
心配になった。危機管理教育は学校教育に織り込むべきだと思った。
398 :
日本@名無史さん:2005/04/23(土) 23:51:42
保守
399 :
日本@名無史さん:2005/04/24(日) 21:48:02
管理人に迷惑です。
400 :
鴨禰宜:2005/04/25(月) 18:48:55
本来ここは徐福伝説を論じるところ。徐福集団は秦末に楽浪、漢代に馬韓、そして
後漢末に九州に到来し、列島各地に徐福伝説をばら撒いた。垂仁朝のタジマモリ
等が典型的な話だ。応神朝の夕月君の来朝は200年ほど河内王朝が年代を遅ら
しているようだ。天日槍、ツヌガアラシト、スサノオ等は同時期に渡来した渡来系北方
系集団であり、こうしたものが邪馬台国を支えた。在来の豪族が登場してくるのは
河内王朝の頃であろう。これは倭王朝であり、その後継体から生まれるのが大和
政権じゃないかな。
401 :
鴨禰宜:2005/04/25(月) 22:46:09
インドではアーリア族が土着のドラビダ族を足で踏み付けるカースト構造ができたが
わが国では河内王朝が渡来系の出雲・秦等を国譲りの名の下に服従さす構造が生
まれたのが面白い。ロシア、中国、英国などはバイキング、元、清、ノルマンなどに抑
えられる形となり、朝鮮は特にその中国にいいものにされた。各国とも異常な幼児期の
トラウマのようなところがあるが、真因はそこにある。わが国の辛国息長大姫、細烏女
などは新羅の国王でもお目どおりのかなわない女王とされている、すなわち、外国の
伝承で裏づけの取れている元首であるのが珍しい。やはり天照なんだろうなー。
402 :
日本@名無史さん:2005/04/25(月) 23:06:46
中華料理珍福のチャーシュー麺はおいしい
403 :
鴨禰宜:2005/04/26(火) 06:52:54
神武、神功 、ヤマトタケル、タケシウチに共通するのは政治、社会、歴史、地理の
擬人化、漫画化だ。古代人も、現代人も自分の馬鹿の壁で、こうした編集サイドの
壁を破ることができなかった。これを古代の壁とする。この壁を破ると何故この壁が
必要であったのかが馬鹿にでもおぼろげに見えてくる。擬人化、漫画化せざるを得
なかったのは編集側が本来こうした対象、すなわち、神武、神功 、ヤマトタケル、
タケシウチの外側にいた人々、一重、二重、何世紀も離れ、社会構造、文化、民族
構成も相当異なった人であったからだ。アメリカ人が英国史、ローマ史を書くような
ものだ。漏れが言いたいのは、現代の考古学的知見をもってすれば記紀、神社伝承
などからこうした壁が越えられるということだ。そして、神武、神功 、ヤマトタケル、
タケシウチの素材となったのは実在したであろう、より多くの要素に分解しえるという
ことだ。こうして考えてみると、考古学的な高地性集落、青銅器埋納、古墳台頭の
時代に極東全域のドミノ式の民族移動があったのではないかということが想定でき
るのだ。倭国乱とは列島独自に起こったものではなく、外因によるところがあったの
ではなかろうか。しかし、結果的には朝鮮半島の原三国、満州の高句麗などと同じ
ようなナショナリズムの台頭であったのではないか。
404 :
鴨禰宜:2005/04/26(火) 07:04:12
ポイントは渡来人集団は秦系のほかに「月、星、狼、鉄」に関連する北方アジア系がいた
ということであり、高天原が「星」分子を問題にしていることであろう。
405 :
鴨禰宜:2005/04/26(火) 07:14:00
言い忘れたが、北方アジア系の流入は鹿、角、皮剥ぎ(馬、兎など)、鬼などの概念が
発生していることにも見られる。スサノオによる馬の牧畜は忌避されたが、鹿を育てる
という習慣は受容された。しかし、社会的な鬼、物部の発生もあったと見る。
406 :
鴨禰宜:2005/04/26(火) 07:21:22
箸墓は昼は人が、夜は神が作ったと伝えられるが、この夜働かされたのが渡来人
で、最初は神の待遇であったが、出雲、熊野に転封されたり、後には鬼として僻地に
分散したのであろうか。
407 :
鴨禰宜:2005/04/26(火) 07:45:24
縄文・無国籍動物食的なものに対する稲作中心の、伊勢神宮に象徴されるような
文化の対立、差別は偏差値教育によって人間がスクリーニングされ、とてつもない
犯罪者、犯罪者集団が生まれるのと似ている。独走した軍部、総評等の集団は外国
にも問題視された。現代のサッカーフアン、反日デモなどの行動にもこうした集団暴走
の怖さがある。現代の欧米にもこんな危険な要素はある。ネオナチとか、現にアイル
ランドにも恐ろしいのがあった。ブレーキが利かなくなるとイラク、パレスチナ、レバノン
といった感じだ。そろそろ暴走族の季節が来るなー。
408 :
鴨禰宜:2005/04/26(火) 08:27:34
秦を亡ぼすは胡、中共を倒すは靖国、隣のうちとの境界が気になり夜も寝られない。
そんな夜は、お父さん、カラオケで一曲やりなさい。万里の長城を作るほどの金は
かからねーぞ。
独り言はsage進行で。
410 :
鴨禰宜:2005/04/27(水) 12:24:19
徐福の末裔が馬韓・辰韓・豊前経由来朝したであろうということは列島各地に残る数
多くの秦・徐福の神社・伝承によって裏付けられる。
この渡来集団は既に少なくとも馬韓においては真の長城建設などの圧制から逃れた
北方民族を含む亡民と合流していたようである。たとえば、楯築の石板墳文化(匈奴)
とか、瀬戸内に残る中円双方墳はトルコ系の墳墓に似ている。三輪山の磐座も
ザバイカル方面に多い。スサノオの牧畜導入、出雲神話に残る月支方面のギリシャ
神話などは長城建設の際にいったん分離した月支の再会などもありえたのではないか
と思う。楯築、箸墓には数世紀にわたって保持された他民族による長城建設のノウハウ
がよみがえったのではなかろうか。山岳の石段建設なども長城建設からスピンオフした
技術であろうが、こうして技術が満州、朝鮮から石積み墳墓と共に瀬戸内海に入ってくる
のではなかろうか。
独り言は自分に日記にかけ
412 :
日本@名無史さん:2005/05/03(火) 04:44:41
いいじゃん、しゃべってもらおうよ。
413 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 21:11:33
age
414 :
鴨禰宜:2005/05/26(木) 08:08:09
倭国大乱の後、山陰からの鉄器、土器の近代化、すなわち、布留式土器につながる
動き、他方瀬戸内海東部せの古墳ブーム、そして、纒向に箸墓古墳、邪馬台国が
登場という激動の時代があったが、これと非常に似通った青銅器文化、銅鐸の移動が
ある。この二つの動きは方向が非常に似ているが時代的には銅鐸のほうが古い。では、
銅鐸はいつごろのことなのかと言えば、これがはっきりしない。
415 :
鴨禰宜:2005/05/26(木) 08:17:56
銅鐸も銅製武器型祭具も同じ青銅器文化であるからこれが朝鮮半島から北部九州に
伝来したのは同時期と考えていいと思う。その時期であるがそれは徐福船団が楽浪に
到着する頃と重なる部分があるのではないかと思う。徐福船団と青銅文化には関係は
少ないと思われるが、九州に渡来したものが特に武器に執着し、銅剣、銅矛を祭具とし
たが、青銅文化が倭国の東部に伝播する際に、銅鐸のみが伝播したと言うことは、九州
北部に渡来したものが、山東半島の蚩尤、兵主などの宗教的背景を持つものであった
ことを物語ると言うことは考えられる。
416 :
鴨禰宜:2005/05/26(木) 08:23:14
吉野ヶ里遺跡の近辺の有明海沿岸地方に特に著名な徐福渡来伝説が残り、吉野ヶ里
では他地区には例のない激しい戦闘の形跡がある。これは徐福船団に中国南部の
クメール族などの戦闘的山岳民族が加えられていたのではないかとの推測を許す。
417 :
鴨禰宜:2005/05/26(木) 08:30:00
こうした戦闘的な民族のほかに徐福の子孫、または、秦族の子孫を名乗る支配階級が
筑前から豊前にかけて広がり、方士的集団の中には朝鮮式小銅鐸を出雲、河内方面
へと伝えたものがあったのではなかろうか。
418 :
鴨禰宜:2005/05/26(木) 08:33:10
熊野に色濃くの駆る徐福伝説は神武の熊野遠征に参加した九州東南部の軍団には
徐福伝説を持ったものがいたという可能性もありえよう。
419 :
鴨禰宜:2005/05/26(木) 14:53:55
「古代海部氏の系図」「学生社」p70
「大和宿禰命が丹波から大和に入った道順として、次のように想定できる。丹後の
舞鶴より若狭の北川、遠敷川へ出、近江の安曇川に沿って山城国の高野川へ、
これより木津川、やがて大和川と川岸を歩いて大和国に至ったものと考えられる。
この道順の付近には大和宿禰命に関係の深い古社が残されている。若狭では
大和宿禰命の祖父、火明命の別名、彦火火出見命を若狭神とたたえまつる若狭
彦神社近江でも彦火火出見命を祭神とする古社が九社を数える。さらに、近江に
行くと、大和宿禰命は別名を天御陰命といっていたが、現在、滋賀県野洲町に
天御陰命を祭祀する三上神社が三座鎮座している。・・・」
420 :
鴨禰宜:2005/05/26(木) 14:59:08
421 :
鴨禰宜:2005/05/26(木) 15:15:03
これをどう考えたらいいのか難しいところではあるが、先ず、吉野ヶ里時代に銅鐸
の伝播を伴う東遷があり、次に、弥生の終末に鉄器などを伴う(天日槍)渡来人の
集団が安曇海人族のルートで同じ道を東遷したとするのも一つの考えかなと思う。
422 :
鴨禰宜:2005/05/27(金) 08:37:52
吉野ヶ里時代の東遷においては、蚩尤、兵主等徐福、山東省的な文化は畿内に入らず、
朝鮮小銅鐸が入ってきた。これを持ち込んだのを賀茂氏と考えることができる。この際
攻撃的なクメール族は南九州の霊山を狙ったのではなかろうか。すなわち、雲仙、霧島、
高千穂、韓国岳等だ。そして、第二次の倭国乱時代の東遷はその約400年の後、豊前
近辺に残っていたそれらの子孫が三神山思想に基づいて行った精神的なものであり、
第二の渡来人要素を含んでいた。それは、弁辰の鉄の開発に関係する北方の鮮卑・
東胡の製鉄に関連するスサノオを含むものであったと考えてみたい。この集団は香春
・出雲・楯築・纒向へと秦系(天孫系)と共に移住した。これはいわゆる星辰を信仰する
突厥系統の文化であったのではなかろうか。豊前に伝わるタケヒワケが星辰を信じる
部族に東方侵攻を提案する神楽が非常に暗示的である。
423 :
鴨禰宜:2005/05/27(金) 08:53:18
母系社会のスカートの下では寝技を得意とするものは一夜にして天下を取る。
神武の中核であった隼人(タギシミミ)族は早々にカムヌナカワミミの血祭りにあげられ
古墳時代の実権はたちまちにして地元の豪族に移って行ったのであろう、。
424 :
鴨禰宜:2005/05/28(土) 07:58:49
吉野ヶ里時代に秦始皇帝・徐福によって送り出された戦闘部隊はクメールだけではなく
モン・クメール族であったが、モン族は物部として秦系に従属する近衛師団のように
北部九州の支配層の周辺に配置され、クメール族は久米部として辺境に派遣された。
南部九州に派遣されたものからクマソのクマが発生、これが四国愛媛の久万高原の
方にも拡散したのであろう。高知の物部もこうやって考えれば合点が行く。鹿児島の
エナ山稜、開聞岳の近辺には浦島とよく似た地名があったような記憶があるが、これは
丹後のイネ同様に大陸との接点を意味するのかもしれない。
425 :
鴨禰宜:2005/05/28(土) 08:14:11
労働組合ジャーあるまいし、職能的に部族編成と言うのはダリウス、アレクサンダー
クラスの意図的な多国籍侵略軍団編成の考えである。三韓の地で百サイという
概念が強く残ることも異常である。また、何故秦韓には鉄の所有権があり、弁秦と言う
のは買手国の租界地のような感じがするのか。やはり、徐福の遠征隊は楽浪に到着後
馬韓に平原光沢の土地を見つけたのだろう。山陰かどこかで龍頭の形をした異物を
見た記憶がある。一方佐賀であったか、キンタツ寺と言うのがある。香港系はドラゴン
ボートを駆使するのでもし金の龍頭を舳先につけると古代の徐福船団の遺物であったの
かなーなどと夢想をしている。
426 :
がいやまん:2005/06/01(水) 10:37:18
徐福集団は仮に楽浪に平原広沢の地をえたとして、そのそも王者に成れる人材を
生むような精神を持っていたであろうか。漏れは彼らの精神構造はモノノフとか、物部
のように主君に奉仕する家臣団のようなものの域を出られなかったと思う。彼らの上陸
したであろう地点には北方から衛氏朝鮮が南下する。そして百済が」起こる。この百済
こそモンクメール戦闘集団を含む多くの職能別部族の集合体で、北方の遼河地方の
青銅器、鉄器製造技術をもつ集団と合流し馬韓、辰韓、肥前、肥後、豊前へと移動する
物部族であろうとかんがえる。
427 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 11:09:01
age
428 :
がいやまん:2005/06/11(土) 11:40:17
漏れは寺沢さんの王権誕生の愛読者であるが、朝鮮半島から九州北部への
銅矛のような青銅器の伝播は民族移動的なものではなく北部九州の有力首長が
輸入したような感じであったのじゃないかと思う。出雲、河内、丹後地方に銅鐸が
入るのも九州から近畿への海人族の交易などによるものではなかろうか。徐福集団
とか、その子孫が渡来するのは後漢になってからだろう。しかし、勅島貿易を通して
漢の時代の圧制を逃れて渡来する朝鮮の農民があったとしてもおかしくはなかろう。
429 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 20:59:45
浮上age
430 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 22:58:30
age
431 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 01:44:20
んで徐福伝説と富士山の関係はどうなのよ
432 :
がいやまん:2005/07/09(土) 07:19:42
徐福伝説を信奉する集団は南部九州の韓国岳のように三神山、すなわち、三上山」、
大和三山のようなものを追求したが、最終的に方丈山、富士山を発見したころ、歴史的
使命が意味を失ったことに確信した、つまり、日中(魏倭)国交が始まったのだろう。
赤烏の鏡が富士山の山麓に近いところから発見されたり、竹取物語に残る仙薬の
富士山のおかまへの投棄がこれを裏付けるようだ。しかし、先進集団の中にはアダタラ
山中の霊山などにも何かしらそうした信仰の名残を感じるね。
433 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 02:03:57
つまり、あきらめた頃丁度不二山の近辺にいたってことっすか
434 :
がいやまん:2005/07/10(日) 08:28:49
タジマモリの説話というものは、例えば日系ブラジル人が敗戦を知らないようなもので
数百年の後に歴史的事実に接するという状況とも映る。ヒミコ時代の大王に仙薬は似
つかわしくない。で、あきらめていたのになんで不二山の近辺まで暴走したのかと考え
ると辰韓を出発した集団は呪術によって鉄資源を探査して移動する集団であり、先頭
部隊は絶えず東に進んでいたのではないかと思う。富士の後はカナサナの国から日光、
アダタラ方面に向うのだろう。
435 :
がいやまん:2005/07/10(日) 08:34:57
おっとっと、タジマモリはトキジクのみとかだった。スマソ。
436 :
日本@名無史さん:2005/07/18(月) 01:21:30
じゃあ、富士古文献てのは、後代の捏造?
ミミミ
銅鐸文化、銅矛、銅剣文化に拘る理由がわからん。
近年の遺跡調査から出雲・日本海は新羅ツングース朝鮮系
ヤマトが山東移民と土着縄文人の混血民族だと分かってきている。
銅剣銅矛は出雲朝鮮の天孫族との抗争の激化に伴って
重要視されただけで文化というほどのものではない。
畿内については交易を仕切っていた九州人が畿内人の武器の使用を嫌い
変わりのものとして銅鐸で機嫌取ってたんじゃないかな?
しかし弥生末期になると天孫(出雲朝鮮族)との抗争激化で
畿内でも銅剣銅矛が大量に見つかるね。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/4sumi1.html
>近年の遺跡調査から出雲・日本海は新羅ツングース朝鮮系
>ヤマトが山東移民と土着縄文人の混血民族だと分かってきている。
むちゃくちゃ漂ってるな。電波の香りが・・
440 :
日本@名無史さん:2005/08/08(月) 12:12:37
age
441 :
日本@名無史さん:2005/08/22(月) 23:03:53
age
442 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 21:29:17
age
443 :
がいやまん:2005/09/14(水) 10:41:03
徐福の活躍した秦の末期、吉野ヶ里には支石墓、甕棺墓、青銅祭器、また、
出雲、河内方面に銅鐸が伝来するので、遼寧&/or山東省方面から渡来人が
来たらしい。徐福は始皇帝に鮫に苦しめられ第一次遠征隊は失敗と報告
し、連射できる兵器が欲しいなど要求している。漏れはこの頃吉野ヶ里方面
に到来したのは徐福ではなく、遼寧方面の青銅器加工技術を三韓に持ち込んだ
ものであり、徐福の子孫はその後400年平原光沢の三韓の地で安住の後
倭国乱の頃にそれらの第一波の後を追って倭国の各地に渡来したのでは
ないかと思う。これは書紀ではニニギ、古事記、風土記では天日槍となって
いるのかな。
444 :
がいやまん:2005/09/14(水) 10:54:47
445 :
がいやまん:2005/09/14(水) 12:57:46
446 :
がいやまん:2005/09/14(水) 15:56:38
447 :
がいやまん:2005/09/14(水) 16:08:01
垂仁朝に統治範囲が播磨に及び徐福伝承に基づく地方の伝承を取り込んだとでも
考えるべきか。倭の大王が始皇帝、武帝ばりの不老長寿の霊薬を求めるのはいか
がなものか。
448 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 23:15:26
保守
知らないほうがいい史実もある。
台湾に漂流して原住民に食べられてたら
面白くないよ。
450 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 22:56:26
age
遣唐使後、漢籍が日本に入り、そん中に徐福うんぬんの面白いネタがあった。
せっかくの面白いネタだったんで都合良くいじくったってのが本当のところ?
中国と日本が珍しく意気投合できるのが徐福ネタ。
俺もそうだが、日本人の中に、古代日本に朝鮮が及ぼした影響は薄かったと
思いたい感情はないかい?中国は認めるけど、半島はちょっと・・・みたいなw。
中国は中国で、原始人並みの倭人に中国人・徐福が文化を教えてやったアル!
と自尊心を満たせる。
徐福は日本と中国の歴史的、文化的な劣等感、優越感を癒す清涼剤なのか。
>>451 倭は呉の太伯の子孫、というのも同じようなもの。
453 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 23:03:21
保守
454 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 23:26:23
徐福が出航したのはBC3C末。
渡来人が来たのがBC4C末。
そもそも時間が違う。
渡来人は当時の満州と朝鮮に広がっていた紅陶文化と
支石墓文化の人類集団で、中国文化の人類集団ではない。
北方モンゴロイド的特徴の頭蓋から満州中部より北方の人種。
朝鮮半島は単にくぐり抜けて日本に渡来しただけ。
455 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 23:09:30
age
456 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 00:24:38
ジョ福 ← が一発変換できない件について
(´・ω・`)ショボーン
457 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 01:23:20
マジレスすると除福が日本についたかどうかもあやしいよ
何でもかんでも日本と結びつけるな
台湾に行ったかも知れんし
まあ、あの時代の航海技術なんてたかが知れている罠
一番可能性が高いのはに海上でのたれ死んでサメの餌
夢もロマンも無いけどね
458 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 01:37:19
来なかった証拠もない。来たとすれば、神武、アメノヒボコ
等に似た話となるはず。この2つの話では近畿圏の入り口付近
で撃退される話がある。これが第1次徐福団の「大鮫に苦しめ
られて使命を果たせなかった」という徐福の始皇帝への復命
報告と一致する。大きな鮫を当時近江(伊勢遺跡)付近に
中心を持っていたであろう、多分、和邇族、と考えれば面白い。
三上山の話を三霊山と勘違いして攻めたのでないか。
459 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 21:28:05
新宮の徐福公園行った椰子いる?
あそこの碑文の意訳はワロタ
460 :
日本@名無史さん:2005/12/07(水) 16:40:32
どんなん?
461 :
俺等05772:2005/12/07(水) 17:47:04
最初、弥生時代の始りは徐福到来が原因ではないかと考えたが、この時代の始りは徐福到来より
250 年以上早く、前 473年に呉が越に滅ぼされたことと大きく関わっている、との結論に達した。
もし、渡来人の始まりが周、更には殷の成立時に迄遡らせるなら、下の日中比較年表を前に継ぎ
足して、きちんと日中間の対応を取るとともに、中国側の遺跡や文献と、日本側遺跡の比較をする
必要がある。
日中の年表対比から見た渡来弥生人のルーツ
中国側戦国時代の年表 日本側弥生時代薄明期の年表
前473年 呉が越に滅ぼされる 約2500年前 高知県土佐市、居徳遺跡 金属器で殺傷
前379年 越が呉に遷都する
前334年 越が楚に滅ぼされる 約2300年前 土井ヶ浜遺跡 縄文人と異なる身体の渡来系弥生人
約2300年前 泉大津市池上曽根遺跡の始まり(大規模工房&蛸壺)
約22X0年前 吉野ケ里遺跡丘陵南端周辺で始まる
前223年 楚が秦に滅ぼされる
前222年 燕・代、秦に滅ぼされる
前221年 秦が斉を滅ぼし天下を統一
前219年 徐福、第2回出航
日中の年表を対比すると渡来弥生人のルーツがわかる。土佐市の居徳遺跡は「呉」の滅亡頃と対応し、
池上曽根遺跡や吉野ケ里遺跡の始まり、土井ヶ浜遺跡は「越」の滅亡以降と対応する。これは徐福
が出航した時よりかなり早い時期に当り、徐福が弥生時代を作ったのでは無いことが分る。むしろ、
「呉」「越」の滅亡により、呉・越の亡命者が渡来弥生人になったと考えるべきだろう。その後、
仮に徐福が日本に渡来していたとしても、弥生時代の形成にほとんど役割を果たさなかったと言え
そうだ。
「倭人」を呉の太伯の裔とする説は「魏志倭人伝」の母体とされる「魏略」逸文や「晋書」「梁書」に
も見られる。それ故、卑弥呼以前の日本人は自分達を「呉」から来た渡来人の子孫と考えていた訳で、
「呉」からの渡来説は当時の日本人の認識とも一致している。
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-38.html
462 :
日本@名無史さん:2005/12/07(水) 18:24:25
では、何で黒陶彩陶文化が伝わってないの?
何で紅陶文化で支石墓文化なのかね?
その土井ヶ浜遺跡の館長も形質人類学的に見て可能性があるのは
長江までで、それ以南は難しいと彼の著の中でも言っているよ。
463 :
俺等05772:2005/12/08(木) 19:20:51
>>462 アンカー入れろよ!
焼き物屋が必ず日本に来たという証明出来るかね? 黒陶って BC2000-BC1500 頃の話で、
時代が違うだろう。 弥生式土器は紅陶かね? 赤いのは酸化炎で焼かれただけの話だろ。
中国・江南の土トン(土偏に敦)墓と吉野ケ里遺跡墳丘墓の関係について
吉野ケ里遺跡墳丘墓(B.C.1世紀)と中国・長江下流域の江南に多く見かけられる土トン墓(どとんぼ)
(B.C.800~500)との関係が論じられている。吉野ヶ里墳丘墓の版築様(層状)の丁寧で高密な締固め
のルーツは中国・長江下流域の江南に多く見かけられる土トン墓(どとんぼ)(B.C.800~500)では
ないかといわれている。↓
http://www2.saganet.ne.jp/niesu/zyofuku/dotonbo.htm もし、この関係が正しければ他の根拠と併せて、北九州弥生人のルーツは山東省付近で無く、
長江下流域ということがかなり確実になると思われる。
464 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 20:38:39
来てるじゃないの。紅陶焼き物屋が(爆笑
弥生土器が紅陶でなくて何が紅陶なのかね?
江南は中国では古代から焼き物の最先端の地域。
弥生人が江南から来たなら、何で古代江南の良渚文化の主流であった
黒陶や、当時の江南の主流だった灰陶や灰釉陶が伝わってないのか?
それと何で九州北部の弥生文化の最大の特徴である支石墓文化を
無視して、あくまで仮説の域を出ない都合の良いソースを出して
北九州弥生人のルーツが長江下流域などと、マスターベーションに
浸っているのかね?
465 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 05:11:12
a
466 :
日本@名無史さん:2005/12/24(土) 08:16:32
age
467 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 17:23:53
ねえねえ、徐福って誰?
468 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 23:02:17
保守
469 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 17:02:51
世界史板で、こんなん見つけました。
世界@名無史さん :2006/01/12(木) 00:46:24 0
たびたびあっていた海外からの侵略
日本が外国勢から侵略を受けるのは、「元寇」が初めてではない。
日本側の記録によれば(『太宰管内志(大宰府管内誌)』『類聚三代格』『日本三代実録』
『百練抄』 『日本紀略』『扶桑略記』等)、それまでたびたび侵略を受け、
九州北部はもとより薩摩大隅にまで及んでいたことが記録されている。
詳細(海賊・倭寇の起源を探る)
その大半は、朝鮮半島からのものであった(これが倭寇の正体。倭寇=朝鮮人)。数隻の賊船に
よるものがほとんどであったが、中には、
45隻・2500人の新羅の者が来襲し、捕らえた捕虜が「王の命令を受けて略奪に来た」と
述べたこともあった。(『扶桑略記』)
また、どこの国のものかは定かではないが、最大規模のもので、 承徳元年(1097年)、
異賊船100隻が松浦・筑前に攻め寄せ、 大宰府官兵・九州軍士が賊船を撃破し賊徒数万を
海没させた、という記録がある。
九州大宰府は、古代から日本外交の窓口の役割を果たしてきたが、同時にそこは外冦防衛の
拠点でもあった。
470 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 21:25:48
徐福、あいつは短気なとこもあったが、
根はいいやつで、努力家だった!
航海の途中船内が、暗いムードになったときも、
やつの下ネタギャグでみんなを励ましていたな~
471 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 10:14:59
まぁ実際の徐福も今のピースボートみたいなものだったのかもな。
規模とかドキュンぶりとか社会的評価とかあらゆる意味で。
■弥生人中国説の容疑を厳しく追及するスレ■
1 :出土地不明 :2006/02/15(水) 22:30:31 ID:nevCGQAC
江南説にしろ華北説にしろ、弥生人が本当に中国から来たのなら、
何で当時の中国の主流だった灰釉陶や印文硬陶が伝わってないのかね?
最低でも何で粗悪な灰陶くらい伝わっていないのかね?
何で漢字の前身である金石文も伝わっていないのかね?
何で青銅貨などの金属貨幣くらい伝わっていないのかね?
何で木製車輪のような便利な良いものが伝わっていないのかね?
何で当時の中国で主流だった土とん墓が主流にならないのかね?
何で弥生文化は紅陶文化と支石墓文化なのかね?
これらは当時の朝鮮から満州にかけての文化ですよ。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1140010231/
475 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 10:33:41
ふふん
476 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 23:21:48
保守
477 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 03:42:22
和歌山県新宮市にある徐福の墓が有力視されている。
されてない、ないw
479 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 08:38:50
中国の伝説では。
日本人が頭がいいのは徐福の連れて行った子供達の子孫だから。
480 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 14:56:26
いや、ありえんから。
482 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 07:57:45
和歌山県新宮市は徐福の上陸地として有力です。
和歌山県新宮市波田須町矢賀には矢賀の蓬莱山とも呼ばれる丸山という山があり、その頂上には徐福の墓と徐福の宮が祀られています。
明治の神社合祀令により波田須にあった4つの神社は波田須神社として統合され、敗戦後まで合祀されていましたが、
氏子たちの徐福への信仰心は消えるはずもなく、合祀されていた期間においても密かに、中国人を神として祀っていることを隠して、
徐福の宮を祀りつづけたようです。
徐福の宮には神宝として徐福から与えられたという外来技術で作られた須恵器のすり鉢が伝わり、
また丸山からは焼物の破片や秦代の通貨「大型半両銭」などが出土されています。
483 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 22:15:08
徐福と秦王国って関係あります?
関係ない。
485 :
日本@名無史さん:2006/05/18(木) 10:40:33
>>448 「秦王国」って結局何?
秦の遺民の国?それとも、徐福の親戚?
秦氏のいたところ。
487 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 17:36:38
>>486 秦氏は、秦系新羅人の可能性が高いようだけど、徐福も「秦人」っていう
事にはならない?そうしたら徐福の可能性も否定できない(←ありえない?)
488 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 23:52:09
徐福のような役割を果たした人物は多数いた!!
489 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 07:05:40
>>448 鑑真和尚のように漂着しまくり、大船団が最終的には、バラバラに漂着したという
説もあるぞ。だから、日本海側と太平洋側の海に近い各地に限って徐福伝説が存在する
という話だ。(眉唾くさいが)
490 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 14:23:02
徐福のような役割を果たした人物は多数いたなら、日本の文化は朝鮮半島を経由していないことになるぞ。
元々、朝鮮半島はストローみたいな存在だから、どのルートを経由して文化が来ても、元の文化は中国なんだけどね。
491 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 14:30:06
>>490 控えおろう!
漢倭奴国王を、どなたと心得る?
どう考えても漢の属国なんだから、ストロー経由しなくても本場の文化が
直接入ってくるだろう。
492 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 16:05:33
>徐福の宮には神宝として徐福から与えられたという外来技術で作られた須恵器のすり鉢が伝わり、
じゃあ嘘だなw
日本最古の須恵器は4C後半からだものw
493 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 19:23:12
age
494 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 19:57:09
卑弥呼の時代から日本の文化はあった。
朝鮮半島をストロー経由してこなくても、海を通じて文化は来たよ。
徐服と卑弥呼は関係あるん?
496 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 13:54:50
497 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 14:03:42
>>490 単なる亡命者に、そこまでの力は無い。
だいたい、中国から逃げてきた椰子が、本場で流行している文化を伝えられる
訳がない。
徐福の子孫が亡命してきたとしても、名前を変えて、権力者の庇護の下、細々と
暮らしていたと思う。
498 :
がいやまん:2006/06/26(月) 14:05:54
>半島の古文書には、徐福達が秦韓へやって来たという記述はナッシングだよ。
難波のアカルヒメが新羅で天日槍とけんかし、デモドリ、国際ストーカーされるという
大椿事があったが、これは新羅王子側が、秦始皇帝時代の法匪そっくりで、牛を沢に
下ろすのを畜殺容疑で予防検束したのに、姫が民族の違いに怒りデモドリしたと語っ
ている。彼らが古代秦方言を使用してしていたのは韓伝にある。
>たぶん、秦人たちが日本へやってきた事は確かだが。
>あ…ひょっとして、「徐福伝説」は、秦さんたちが日本に伝えたのか?!
垂仁の時代の文盲の倭人にタジマモリのような帝に忠実な臣なぞあると思うのが
おかしく、天皇でも芸を見せないと渡し舟に無賃乗船は拒否されるような国で、
そんなメンタリティーの倭人が、「秦さん」以外にいると考えるのが基地外だよなー。
>あぁ、でも、だったら「徐福の子孫です」と言うわな…
499 :
がいやまん:2006/06/26(月) 14:17:34
徐福は秦の国の資産を横領し海外逃亡された人間で、おまけに、漢の前代の人間。
その仲間が出自を漢人、あるいは、真に迫害された塞外異民族に知られたら虐殺される
危険は十分にあっただろう。多分彼らの処世術は隠れキリシタン、ユダヤ人的なもの
だったのではないか。神主になって史記の徐福伝説等を宣伝して歩いたのだろう。
500 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 14:20:37
501 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 14:46:36
ちがうだろう。がいやまん氏は、単なる熱狂的な考古ヲタ。
PUは、言語学フリーク。
502 :
日出ずる処の愛国者:2006/06/26(月) 15:56:22
中国人の中には、『日本人は徐福と彼が連れてきた少年少女の子孫』と
思っている人が結構多い。でもだとすると日本人と中国人は同一民族で
あり日中戦争は民族統一戦争ということになり、日本の侵略とはいえな
くなる。
503 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 16:12:57
帰化している時点で、日本人。
意味ナシ。
504 :
日出ずる処の愛国者:2006/06/26(月) 16:26:42
あと韓国陸軍で使われている教科書『大朝鮮帝国史』によると
『中国の黄河文明は韓民族が創った』のだそうだ。
よく中国から抗議がこねえな。
世界の言論界では『抗議しないのは賛成しているのと同じ』だったと思うが
505 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 16:33:15
ソースがあれば、是非見たいナ。
506 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 20:22:18
507 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 20:52:28
508 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 21:17:04
>>498 レスありがとう。
ところで、徐福って横領罪に問われていたのか?
ああ、不老不死の仙薬探しね…
電波はもうたくさん
510 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 22:27:55
いいじゃん、徐福なんて日本にとって何の害も無いしw
普通に、ロマンじゃん。
511 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 02:00:08
○´∀`○は発狂したようです。ご愁傷様。後おながいじゃなくてお願いだよ(ワラ
かわいい~~!!!!
みんな~プラム君の時間だよ~!!
天才君集まれ~!!
%%%%%%%%%
6| -σ-σ |
| ゝ | <チョンコまるだしっすよー
\ ∀ /
│| │
U ♂ )
│|│|
⊂つつ
ほぼ毎日初心者板やその他多数の板に出現!!
みんな見たらかわいがってあげてね!! プラム過去レス
>>416 それは違う。
『そこまで言って委員会
>>69』は、東京のTVが気を使って言わないことをどんどん言ってるから面白いんであって、
決して
>>377みたいな面白さではない。司会がたかじんでなくても
>>185でなくても成立する。
むしろたかじんが東京嫌いなせいで、東京に放送できなくて社会として損してる。
南京大虐殺は(小虐殺さえ)全くなかったという放送のときには、左翼のゲストさえ、最後は納得させられてた。
単に暴言吐いてるだけではそうならない。スタッフがきちんと資料やデータを駆使して準備してたからだ。
東京のTVは南京と聞いただけで別に勉強せず避けてるだけ。
>>400 禿同
514 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 07:57:41
>>306 山東から遼東へ行くのに、命がけなわけない。
波も穏やかで楽勝だ。
「 土地は湿地多く、虫けらどもの群がり生じ、瘴気のたちこめた風土。蛙と亀は穴を
共にし、人と鳥は群れを同じくしておる。ざんばら髪の君には長者の相なく、
入墨(いれずみ)の民は貧相な体つき呉人の亡者、建康(今の南京)に住まいし、
ちっぽけな冠帽に、ちんちくりんの着物。おのれを阿イ農{人ベンに農}(おいら)と言
ふた言めには阿(お)、お{返事などの時}の連発。菰(まこも)の芽と稗(ひえ)が
代用飯、茶が飲物代わり。じゅんさいの羹(あつもの)をガブガブ、蟹の黄(こ)を
クチャクチャ。手には豆寇{共にクサかんむり}(ずく)をつかみ、口にはビンロウを噛
む。中州のところで、魚に網うち、すっぽん掬い、菱の実、蓮の根にかじりつき、
鶏頭(みずふき)フキを採り歩いて、蛙やアサリの吸い物のご馳走。 」
* 六世紀に書かれた「洛陽伽藍記」より *
華北出身の楊元慎が、江南出身の高官張景仁を批判した言葉です、
まるで現在の日本人が、批判されてる様な気に成りませんか、どれも美味そう!
516 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 20:56:40
今でも江南人は「儂」ていう漢字を使うよな、そう言えば。
517 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 20:59:24
体つきが貧相で魚食ってるのは、そうかも。
アジアで鵜飼い漁と、れんこんを食べる民族は
日本人と江南人だけやと、聞いた事有るな?
呉越人はアジアのバイキングかな
520 :
日本@名無史さん:2006/06/30(金) 22:36:28
この板に江南地方出身の方、居られませんか!
居られたら、教えてほしいんですが。
古代の発音で倭人と越人が同じ(WO)ヲニンと
発音すると聞いたのですが本当ですか。
522 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 07:57:01
523 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 09:19:58
中国語の古典では「倭=YI,I」が普通。
524 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 09:52:42
>>523 それは「委」の事じゃなくて?
詳細なソースキボンヌ。
時代によって発音がちがうのに
漠然と「古い時代の」っていったって
決められないだろうが。
倭という文字は古くは「委」
発音はいちばん古いのはyu
yu→wa→wi
526 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 01:13:21
九世紀の倭名類ジュウ鈔て本に,鬼の事を
呉人はオニと言い越人はキと発音すると書いてるな。
527 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 02:45:57
ユダヤでしょ
これは
528 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 19:07:04
秦氏の謎ですか?
それとも、秦の始皇帝?
徐福が来て弥生時代がはじまった
530 :
日本@名無史さん:2006/07/12(水) 22:47:16
弥生時代の開始時期って、どんどん遡ってないか?
531 :
日本@名無史さん:2006/07/13(木) 00:58:01
BC10世紀ですが、なにか問題(中国、西周~春秋時代、呉の太白時代BC6C)
532 :
日本@名無史さん:2006/07/13(木) 23:13:10
いや、最近500年ぐらいペロッと遡ったでしょう。
533 :
がいやまん:2006/07/14(金) 10:59:37
記紀垂仁記のタジマモリが徐福のコピペであり、その原因は
天日矛集団の来日によるものでしょう。天日矛がくる新羅には秦の流民の記事が多く、
それらが馬韓から来たということがわかる。これからして徐福は山東半島から最短
距離にある楽浪、つまり、ソウル(徐伐<徐市)に到達し、その後、その近辺に平原光沢
の地を得たと考えるのが最も妥当な筋であろう。
534 :
がいやまん:2006/07/14(金) 11:01:26
535 :
日本@名無史さん:2006/07/14(金) 12:37:01
>>531 印紋陶も原始磁器も青銅鼎も車輪も伝えない呉の太白の末裔って
どーなの?
536 :
日本@名無史さん:2006/07/14(金) 18:30:55
>>533 古代の山東は東夷がウジャウジャだからな…
ところで、徐福の出身地が江蘇省の徐福村ってどうよ?
ここにでっかい徐福像があって観光の名所になってるんだけど。
船で移動する海洋民にとって、焼き物は揺れると転がり割れるので関心がありません
それに重いものは基本的に浮力が命の船では邪魔です(武器、水、食料)以外
よって日本では木の椀、食器、が発達しました、金属の食器など、もってのほか
日本の様な湿地帯、藪の多い地形では車輪など使い物になりません弥生頃は
船さえ有れば何処へでも行けます、馬より早く楽に
焼き物や鋳物を作る職人は村抜けを、するとその場で殺されます、秘密保持の為
538 :
日本@名無史さん:2006/07/14(金) 19:38:33
>>537 シナの南船北馬という言葉から見ると日本は北馬より南船文化地域
だったんですかね。
段々開発が進んで来ると北馬も入って来たような気配もありますが。
江戸時代には再び船の重要性が増えている。
日本は明らかに江南地方の船文化圏ですよ、縄文人も船の達人ですが
馬は都のように道路整備の進んだ所では、使えるが地方では使えない
田舎の山道は、人が歩くのも大変だよ、木の枝、とげの有るつる
江戸時代は商品経済が発達した為、大量に運べる船が有利に成ったな
540 :
日本@名無史さん:2006/07/14(金) 22:19:33
>>538 江戸や大阪は水路が張り巡らされていたからねー。
“水郷”っていう地名が日本には、ひっじょーに多い。
大小河川が多けりゃそりゃそうなんだが。
542 :
日本@名無史さん:2006/07/19(水) 22:30:25
最近、弥生時代の開始時期って、どんどん遡ってないか?
それに比例して縄文時代の開始時期も遡っている。
縄文時代の地層から滋賀県でマグロの骨が見つかったり、縄文人は交易してたみたいだね。
稲作もしていたみたいだし。縄文前期から陸稲はしてたみたいだね。
543 :
日本@名無史さん:2006/07/20(木) 14:44:57
なぜ仮説候補に琉球王朝が無いのか不思議
琉球は昨日今日出来た新しいもん。それ以前を土人にしてるのがミソ。
【 ☆ 決定 ☆ 朝鮮族の母体はエベンキ系「沃沮、濊狛」人 】
その風俗は山川が重なり、山川には各部族がおり、みだりに干渉することはできない。
同姓は婚姻できない。多くの忌諱があり、(家族が)疾病で死んだときは、すぐに旧宅を
廃棄し、更(通典では夏)に新居を建てる。麻布があり、蚕糸で絹を作る。 夜明けの星宿
(二十八宿の占い)から、その歳の作物の豊穣を予想する。珠玉を宝としない。
常用十月の節句(重陽の節句。旧暦9月9日)に天を祭り、昼夜に酒を飲み、歌い踊る、
これを「舞天」 という。また虎を神として祭る。その邑落は互いに侵犯するが、刑罰とし
て相手に生口(せいこう=奴婢) と牛馬を差し出す、これを「責禍」という。人を殺した
者は死をもって贖(あがな)う。強盗は少ない。・・・・『三国志、魏書、濊伝』・・・
546 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 21:29:39
今世界不思議発見でやってるけど
高松塚古墳て秦の古墳そのまんまだね
あそこまでそっくりだと徐福は本当に日本に来ていたんだなと思う
547 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 21:39:17
大陸で王朝が変わる度に大陸から亡命者が来ているしね、日本は。
ところで船での往来って川を下るのは分かるんだけど
上るときってどうしてたん?
550 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 22:24:09
551 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 22:31:43
>>533 タジマモリは倭人伝の都市牛利
邪馬台国は垂仁朝でであるとほとんど定説化しとるがな
552 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 23:04:08
553 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 23:07:37
>>547 ひっじょうーに解りにくいので、写真だけじゃなくて解説もつけてくれ。
554 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 23:14:27
>>546 ふしぎ発見、徐福の話みたよ、なんかもう一つだな。いつものパターン!
555 :
日本@名無史さん:2006/08/04(金) 16:55:14
>>547 うーーーん…
お堀が張り巡らされている感じと、全体の形はよく似ているが、
福建省の方は、お墓の上に堂々と住宅地が建設されていないか?
いいのか、そんな罰当たりな事をして?!祟られるぞ。
556 :
日本@名無史さん:2006/08/07(月) 14:59:25
557 :
日本@名無史さん:2006/08/07(月) 23:26:56
八咫烏,八咫鏡の話
咫というのは、中国(周の時代)の一寸に当たる単位で大きい意味も、八咫烏は
『日本書紀』では頭八咫烏と表記され、頭が八寸もある大きな鳥を意味する。
また足は三本であったという。これは太陽神の使いであるからで、
「太陽には三本足のカラスがすむ」という中国の神話に基づくものであろう。
八咫烏と言えば紀(キ)の国、熊野神宮、周王朝の姓は姫(キ)咫は周の一寸
これはなんか、クサイな!!八咫烏は東方扶桑の木の枝から昇と言う。クサイな。
559 :
日本@名無史さん:2006/08/08(火) 08:40:57
中国に徐福の先祖を名乗る椰子が沢山いるのが怪しいんだよな~
徐姓だったり、生誕地の住民は全員「子孫」を名乗ってるんじゃないかと思うよ
560 :
ひみつの検閲さん:2025/03/26(水) 07:30:47 ID:MarkedRes
561 :
日本@名無史さん:2006/08/08(火) 10:20:48
誰だよそれ
562 :
日本@名無史さん:2006/08/08(火) 10:43:04
三千人が、徐福と共に、和歌山に上陸したのだろう。
563 :
日本@名無史さん:2006/08/11(金) 16:52:54
BC11C頃の華中の長江流域はこんな有り様(嘲笑)
呉城文化 B1400?~B1000?
江西地方の文化はB3000年~B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万㎡で、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。
http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
564 :
日本@名無史さん:2006/08/11(金) 17:23:20
>豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土
>符号を刻した土器や鋳型も発見
>青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、商文化を凌ぐ鋳造技術
印文陶、釉陶、原始磁器、鼎、尊・・・
BC11C頃の華中の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡で
出土しないものばーっかり(嘲笑)
565 :
日本@名無史さん:2006/08/11(金) 17:30:42
┌、 r┐ r┐ヾ> (_ / ミ
!. | ヾ> || lニ コ 〈/`ヽ _ ミ
|. ! ノ| | レ! _| |. ,イ,.- 、 |  ̄_ ̄丁 '' ー┬‐- -ミ
ヽ二/ .ヽ/(___メ> /,|.l l ! ( ) ! (´ ) ! r‐
ry'〉 ,、 /イ,! `ー' _L =- --┴-ニ二ト、_'ー'
lニ', r三) (( |'J」-''_二 =-- ‐一 ー‐t‐-ト、 二__
|_| )) レ'/´ィ 、_________ ヾミ| l
_r┐ __ (( V ,、 F≡三r一tァー, | l:.:. .::
└l. レ',.-、ヽ )) |ノ^>、 '^ミ二´ | l:.:.:.::
ノ r' __,! | (( V/イソ .::ヽ、二_
└'!_| (_t_メ.> )) | / ,' _ .:.:.:.::i|,)ノ
r-、 (( |.〈、 、 _〉 `丶、 ;:ィil| ノ
,、二.._ )) | 笊yfミミミミヾ、 '!l|il|li!fj'
ーァ /. (( ヽ |i''r ''_二二ニミ;ヽ、 ,|l||il|l|,「゚|
ん、二フ )) |,l| V´ :::::::::;;/ トi|l|i|i|l|!Ll
,.-─-.、 (( |i! ゞ=-‐''" ,i||i|l|l|l|!|i{
/ /l .i^ヽヽ ` |il! ーォii|「、 ,,.,.ィi||l|i|l|l|i|l|シ'
. | .レ' / l.| ヽ二ニ,ヽ ,/i|l||livil|||l|i|l|l|lil|l|i|l|i|i|i|l|l|l|{'
. ヽ/ ノノ <ノ {l|!|l|i|l|i|l|i|||i|i|l|i|i|i|i|l|l|!|l|l!r'
r┐,.─-、 / 7 ヾ!||i|i||i|i|l||l||i|i|l|l|l|l||l|l!イ
||し'^) ,! ┌‐' 'ー┐ト、 ``,ヘi|l|i|l|i|l|l|i|r''`''"´ i ,
|_| l´r' 7 /_7 / 」__〉 (_~`^~"゙'ヾ ノ / ,
[_] [_] 〈_/ヽ_/ .ト─' ノ / /i
↑
9cmのチョン半島
大秦国(ローマ帝国ユダヤ、パレス チナ)=秦国(シナ、チナ中国)
=秦氏(ハタ、倭国)=八幡(やはた)=大秦寺(景教、キリスト教)
秦氏の秦王朝末裔説を疑う見解も多いが、『正倉院文書』の西南角領解には、河内国丹比
黒山郷を本貫とする秦羸(エイ)姓田主などという人名が見えており、秦羸(エイ)姓は
本来の秦羸(エイ)姓をよく伝えていることからみて、秦始皇の末裔説はともかく、広い
意味で秦王族(『姓氏詞典』には、子嬰滅びて支庶、秦を以て氏となすと見える)あるいは
秦氏族の末裔という所伝は、一応信頼してよいのではなかろうか。なお、中国の秦氏には、
姫姓の魯公族で河南省の秦を食采としたものもあった。始皇帝の姓名は(羸政)である。
彼らはペルシャ人やヘブライ人をも含んでいた中国西域の多人種混合の遊牧系民、始皇帝
の臣民であった。秦の「はた」は、漢借で「波多」、または「波陀」で、意味として旗のほ
かに着物の生地のことをさしていると言われている。
インド系の語彙で、タミル語の Pat-am(布地、旗、タコ)が「はた」と変化した。
(PがHに変化する)。(小野 晋 日本語とタミル語対応表から)
秦氏らは布地の代名詞として「はた」と呼ばれるようになったのだろう。「秦」が「はた」
と読まれるようになった理由に、「はた」が「はたおり」の「はた」からきているという説
は、やはり本当であった。タミル語の祖語であるシュメール語では「カダ」(綿織物)であ
る。シュメール語→タミル語→日本語に単語が流れこんでいることを感じ取ることができ
る。やはり織物業がすべて元になっている。明快単純にいえば、江南渡海系ハタ族は幡、
西域系ハタ族は秦と区別できる。
http://home10.highway.ne.jp/ikko/Japanese/3_J.html
ヘブル語って不思議です!皆さんはどう思いますか!日本とユダヤの関連について。
※最初の☆マークを日本語とし、後の★をヘブル(ヘブライ)語の日本語発音表記と
して対比します。
◆(名詞) ◆(動詞)
☆匂い:★ニホヒ ☆歩く:★ハラク
☆糸 :★フト ☆滅ぶ:★ホレブ
☆腕 :★ヤド ☆照る:★テウラー
☆言葉:★キタバ ☆黙る:★ダマム
☆侍 :★シャムライ(守る者の意) ☆走る:★ハシ(急ぐ)
☆県 :★アグダ(集団の意) ☆眠る:★ヌム
☆主 :ナシ(長の意) ☆許す:ユルス(取らせる)
☆子供:★コタン ☆憎む:★ニクム(復讐する)
☆草 :クシュ(わら) ☆商う:★アキナフ(買う)
☆水 :ミツ ☆祓う:★ハーラー
570 :
日本@名無史さん:2006/09/03(日) 15:27:26
☆鎖 :ケセリ(つながり) ☆忌む:イム(ひどい)
☆槍 :ヤリ(射る) ☆休む:ヤスブ(座る)
☆明日:アティド(未来) ☆死ぬ:シナー(眠る)
☆帝 :ミガドル(高貴なお方) ☆泣く:★アナカー(うめく)
☆尊 :★マクト(王) ☆積る:★ツボル
☆飛鳥:★ハスカ(住居)
☆禊ぎ:ミソグ(聖別)
◆(形容詞・他)
☆辛い:ツァラー(悩み)
☆駄目:★タメ(汚れている)
☆エッサ:★エッサ(持ち上げる)
☆エンエラヤー:★エァニ・アハレ・ヤー(我はヤハウェを賛美する)
☆晴れ:★ハレ(栄光)
☆ありがとう:★アリ・ガド(私は幸せです)
御門の祖先じゃねーか
572 :
日本@名無史さん:2006/09/04(月) 22:17:36
天皇(みかど)はユダヤ、ガド族の高貴なお方です
573 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:44:40
しっかし、ユダヤ厨が繁殖してんな~。
574 :
日本@名無史さん:2006/10/29(日) 08:32:39
安来ダンシングするしかないな。
575 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 03:21:29
徐福=神武天皇ってことでFA
576 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 13:50:38
今でも徐福は富士山麓の洞穴で生き延びてるそうです。
577 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 11:03:47
徐福が難破して死亡したんじゃねーの
徐福はアレだ何とかって言う船に乗ってくる人。
時は孝霊天皇の御代
徐福は秦の始皇帝のつかいっぱでしょ。
日本に行って探して来いって言われたけど、
日本から帰らずに留まったわけ。
それが徐福文書にまとめられているという話。
徐福は不老不死の薬をとって来いといわれた。
582 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 14:20:13
ほー
583 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 17:22:06
BC3C末、除福一団の故郷、江蘇省北部では三足土器で
炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶も鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルである鼎も青銅器に伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、錞于、鉦など、様々な楽器も
さっぱり伝わっておりません。
青銅器の龍文はもちろん、龍信仰さえ伝わっておりません。
様々な酒器も伝わっておりません。
様々な玉器も伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物なども全く出土しません。
除福なんて来ておりません。
ただの頭の弱い人間の妄想です。
584 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 19:52:22
雅楽に龍笛てのがあるぞ徐福が持ち込んだの?
585 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 13:07:45
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。三つの足の部分は空洞に
なっており,その部分に水をため,足の上にのせた簀のこ(すのこ)の上に米を
置く。足の間の火で炊く(というより蒸す)と,上にのせた蓋(ふた)の間から,
湯気が立つ。この様子がそのまま漢字になりました。つまり「氣」です(後漢の
『設問解字』による)。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
586 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 17:55:53
>>581 無理言うなあ。皇帝になれるほどだったのに。
不死への執着が強すぎて理性的に考えられなかったのか。
587 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 18:02:40
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
588 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 10:07:10
不死の薬密柑を手に入れたら帰るのが嫌になって余生を倭で過ごした徐福
589 :
太国:2007/02/26(月) 10:18:13
竹内文献の徐福来朝の孝靈72年は、通常暦での暦年対応の物語のもよう。
この年は倍暦で、後漢の靈帝の時代になるのが正解と観られる。
竹内文献記載のこの種の大元の者が倍暦の秘密を知っていて、こういう
話と為したのか?
孝靈72年=靈帝の中平2年
実際奈良県天理市の東大寺古墳から、中平年間の銘文ある鉄刀が出土。
>太国氏
考霊天皇の部分では『旧事紀(白河本)』に富士山が
駿河湾が盛り上がって出来た事が詳しく載っているので、
『徐福文書(富士古文献)』との関わりも無視出来ませんね。
『竹内文献』には不老長寿の薬を取りに来たのは方便であって、
本当は秦の始皇帝が歴史調査に徐福を使わせたらしい
と述べられていますね。
591 :
太国:2007/02/27(火) 07:44:16
>>590 シドニー浜さん
進言有難うございます。別口で昨日の言いたい要点は「2倍念暦」のスレの>530
のとおりです。
593 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 15:20:29
ほほー
594 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 02:56:03
せがわまさきの鬼斬り十蔵って江戸時代を舞台にした漫画に徐福が出てた。
始皇帝に不老不死の薬を探せと命令された徐福が数千の子供を連れた航海の末に日本列島に辿り着く。
が、見つからず、ならば作ればいいと自らの道術を使って様々な実験を繰り返し、その過程で生まれた化物達が後の妖怪として日本中に散らばる。
結局、不老不死の方法は見つからないまま徐福は病に倒れ死亡。
↓
約千年後の平安時代、生前の意識をそのままに別の人間として生まれ変わった徐福、生前の術や経験を生かして陰陽師・安倍晴明として日本中に名を馳せる。
さらに、このように意識をそのままに別の人間になれるのなら、それはそれで一つの不老不死と言えるのではないかと言う結論に辿り着き、それを実践する。
↓
さらに数百年後の江戸時代に安倍晴明=徐福が転生する。
と言うお話。ちなみに安倍晴明=徐福はこの漫画では悪役。
595 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 09:03:18
BC3C末、除福一団の故郷、江蘇省北部では三足土器で
炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶も鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルである鼎も青銅器に伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、錞于、鉦など、様々な楽器も
さっぱり伝わっておりません。
青銅器の龍文はもちろん、龍信仰さえ伝わっておりません。
様々な酒器も伝わっておりません。
様々な玉器も伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物なども全く出土しません。
除福なんて来ておりません。
ただ頭の弱い馬鹿だけがダマされる創作です。
>>595 徐福の連れてきたのが童男童女ってところが気になる。
秦の文化の持ち込みを嫌ったからではないか。
統一帝国の秦の武力は強大だから、蓬莱の未来にに大陸の手がかりを残すことを憂いたのかも。
て言うか、戦争嫌い?
【保守
始保守
600 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 19:07:59
童男童女だと漢字とか書けないし
技術とか知らない
不老長寿の薬が無いに秦に帰国したら皆殺しだ
とか吹き込めば知識の豊富な徐福は国王になれるよな
その豊富な知識が何も伝わっていない。
そもそも大人は徐福一人だけじゃない。
童男童女が毎日見てきた炊飯器や貯臓器だった三足土器や双耳壺も無い。
602 :
月光仮面:2007/08/06(月) 21:50:42
古代日中関係で、痛快、溜飲を下げる秦-倭関係の一大イベントではないかと思われる
のが「また徐福を遣わして、東海に入って仙薬を求めさせた。 徐福は帰還すると、
「私は海中の大神にお会いしました。大神は『お前は西の皇帝の使いか」と尋ね
られたので、その通りですと答えると、さらに『お前は何を求めているのか』と尋ねられ
ました。私は延命長寿の仙薬を求めておりますと答えました。
603 :
月光仮面:2007/08/06(月) 21:51:50
「すると、大神は『お前の仕える秦王の礼物が薄いので、お前には見せてやるが、採ら
せるわけにはいかない』といわれ、私をすぐに蓬莱山へ連れていってくださいました。
そこには霊芝に囲まれた宮殿があり、仙界の使者がいました。それは灼銅色の龍の
ような身体をもち、発する光は天まで照らしていました。
そこで私は再拝して、どのような礼物を持参したらよいか尋ねました。大神は『良家の
童男童女とさまざまな分野の技術者を献上せよ。そうすれば望みの物が得られよう』と
いわれました」と偽りの報告した。
秦の始皇帝は喜び、良家の童男童女三千人と五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)
の種子とさまざまな分野の技術者を徐福に託して旅立たせた。」
604 :
月光仮面:2007/08/06(月) 21:58:16
605 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 07:22:17
徐福は恐らく神武であろう。その後何度も皇統は入れ替わり、時の支配者は歴史を改竄して自らの正当性を主張した。
「万世一系」などという幻想を信じる奴はバカだ。
606 :
月光仮面:2007/08/07(火) 07:41:48
607 :
月光仮面:2007/08/07(火) 07:49:54
火の国、ハヤヒの国(ハヤヒワケ)、凡し火の大王(オシホミミ)というのが生まれ、これが
神武の祖となるのでしょうが、上記の徐福、始皇帝に貢献を求めた九州の豪族でしょう。
608 :
月光仮面:2007/08/07(火) 07:56:40
私は漢籍、徐福の言葉おいう古代中国の情報を信じているだけの話ですが、
どうも蓬莱山とは高千穂の感じがするんだなー。
609 :
月光仮面:2007/08/07(火) 11:20:40
「秦の始皇帝は喜び、良家の童男童女三千人と五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)
の種子とさまざまな分野の技術者を徐福に託して旅立たせた。」
すると日本各地に広がる麻、黍、麦、豆は九州吉野ヶ里方面に端を発するということ
になり、粟の国の大麻彦等というのは九州から来たことになるが(麻氏は山間部にいる
よし)。武蔵には麻が多い。東北から西日本にかけての麺類の名産地もこれかもしれ
ない。Y-DNA遺伝子YAP+は南北に分裂していた倭、三苗のものが半島で一緒になって
西日本山岳、東日本の稲作不適地帯に入り込んだということもありえる。
「徐福は、「平原広沢」を手に入れ、そこに留まって王となり、帰らなかった。そこで人々
は悲しみ嘆き、反乱を起こそうとする者が十戸のうち六戸に及んだ。」
吉野ヶ里の激しい戦闘の意味するのは秦の愛国者と「負け組」の戦闘であった様だ。
610 :
月光仮面:2007/08/07(火) 11:41:20
徐福の始皇帝への復命は「霊芝に囲まれた宮殿があり、仙界の使者がいました」だけ
ではなく、詳細で克明な倭国の農業の実態などを含み、始皇帝も華北の山岳農業が
奏功するということに納得し、見返りODAにゴーサインを出したものであろう。何はとも
あれ、始皇帝がその後の日本に与えた影響は大きかったと思う。
611 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 12:02:55
BC3C末、除福一団の故郷、江蘇省北部では三足土器で
炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶も鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルである鼎も青銅器に伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、錞于、鉦など、様々な楽器も
さっぱり伝わっておりません。
青銅器の龍文はもちろん、龍信仰さえ伝わっておりません。
様々な酒器も伝わっておりません。
様々な玉器も伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物なども全く出土しません。
除福なんて来ておりません。
ただ無知で頭の弱い馬鹿だけがダマされる創作です。
612 :
月光仮面:2007/08/09(木) 07:28:36
「2002年3月9日、国立文化財研究所は、風納土城は紀元前後に築造されたものでは
ないかという見解を発表した。放射性炭素年代法による 測定で、一部の出土物が、
紀元前2世紀~紀元後2世紀頃のものと思われるというのである。」
http://inoues.net/korea/yumemura_dojyo.html 「百済では、漢江流域と錦江流域で文化の違いがあり、墓制や土器がいくぶん異なって
いるが、百済土器を特徴づけるものとしては三足杯と瓶が知られる。長崎県上県郡
(対馬)峰町・恵比須山7号石棺出土の壺は、肩にめぐらした波状文などから、ソウル
市・夢村土城などにみられる百済直口短頸壺と考えられる。5世紀後葉以後にみられ
る文様であり、出土した石棺も5世紀後葉とされている。 佐賀県神埼郡神埼町・野田
遺跡の古墳時代大溝からは、百済に特徴的な三足杯が出土している。確実な三足杯
の国内出土例は今の所この1点のみである。福岡県三井郡大刀洗町・西森田遺跡
からも、5世紀後半の須恵器高杯とともに溝に廃棄された百済土器高杯が出土した。
野田遺跡の事例とともに、福岡県甘木市の池の上遺跡は、ほぼ確定的に渡来人の墓
である事が判明しており、すぐ近くからは日本最古の馬 具と言われる轡(くつわ)も
出土しており、5世紀後半までの筑紫平野の一部に一時期百済系渡来人が居住した
可能性を強く示唆している。
これらの土器は、ソウル市夢村土城で百済土器と高句麗土器の共伴が始まる
夢村1式の百済土器とされ、475年に百済の都・漢城が陥落した事と関係している可能
性がある。熊本県玉名郡菊水町・江田船山古墳は、銀象嵌銘鉄刀で有名な、5世紀
後葉~6世紀前葉頃の前方後円墳と考えられるが、ここからも百済土器の蓋杯
(ふたつき)が出土している。福岡県春日市・日拝塚(ひはいづか)古墳出土の
格子目叩き長胴甕について、百済地域にみられる陶質土器であるとした意見もある。
この古墳では高霊系とみられる垂飾付耳飾も知られている。」
613 :
月光仮面:2007/08/09(木) 07:32:12
徐市(ソフル)は百済に上陸し、背振(ソフル)南麓に来たかと思っているが、どうも、
遼東の高句麗に到着したと考えるべきかな。
614 :
月光仮面:2007/08/09(木) 14:56:41
>>604 ではM122(47zよりも上位分類)の移動図だったが、徐福の時代では
こうなろうか:: Japanese (108人) Koreans (160人)
* DE-YAP 37人 (34.3%) 4人 (2.5%)
無紋/弥生 O*-M175 28人 (25.9%) 68人 (42.5%)
徐福時代 O-47z 21人 (19.4%) 9人 (5.6%)
http://www.geocities.com/vetinarilord/korean.pdf *YAPというのは稲作を補完する兵站部分というか、山幸・海幸の類であり、これが
半島をスルーしたのは山岳、里山、海浜、河川の条件が悪かったことにあるのでは
なかろうか。
615 :
月光仮面:2007/08/09(木) 16:36:37
616 :
月光仮面:2007/08/09(木) 17:38:37
「第二のサブグループはチベット高原内外であるが、これをまとめてチベットサブグルー
プと呼ぶことにする。特殊な高高度牧畜生活様式は周辺民族との通婚を制限し遺伝的
に際立たせることとなったのであろう。これはわれわれのデータでもハプログループD
及びOの割合が高いが、中国史書でも確認されている通りチベット族の先祖は黄河
上流のテイ・羌族であるとする民族学理論を裏付けるものである。このように、われわれ
のハプログループO*分布分析から推定できることは、シノ-チベタン住民の出自は中国
西北部である。調査したハプログループO*中3点のサンプルがこのサブグループに
属し、現在のチベット・サブグループの遺伝子プールに中国北西部からの先祖が残存
することを示すことでありえるし、更に、テイ・羌族はチベット高原への移動を開始する
以前からM214(N/O)とM174(YAP)要素を両方含んでいたことを示唆することもわかっ
た。」
http://library.ibp.ac.cn/html/slwj/000222645600001.pdf
617 :
月光仮面:2007/08/09(木) 17:42:07
山と里の遺伝子の異なるもののペア、これがチベットに入るのと同様日本列島にも
こうしたペアで入ったのではないかと思うのである。
618 :
月光仮面:2007/09/27(木) 08:13:13
>>613 楽浪方面に、徐福ご一行様熱烈歓迎ののぼりを立て、土地を提供する環境があった
と考えるよりは、吉野ヶ里のようにやや開拓に難のあった地方に入植を願ったと考える
のが順当かな。
619 :
日本@名無史さん:2007/09/27(木) 09:49:28
徐福が半島に入植した可能性はないでしょう。
半島は秦と地続きですから、始皇帝が支配を広げてくる可能性があります。
日本の徐福渡来はほとんどが史記からヒントをえたもので憶測によるものです。
富士説は富士が蓬莱山となづけられたことから、連想した妄想によるものです。
熊野説は徐福神武説からきたものです。
残りは、佐賀説と遠賀川流域説です。
この2箇所については、その真偽についてはこれからの研究にゆだねられます。
620 :
日本@名無史さん:2007/09/28(金) 17:47:38
福田っていう苗字は徐福と関係があるんでしょうか?
さっそく中国から招かれているようですが。
621 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 17:04:36
ドキュンからバックアップうけている反日本記事捏造のアサヒる新聞。
恥ずかしくて公共の場では読めない新聞。
622 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 19:23:07
徐福とは実在した徐市をモデルに後世 作られた架空の人物。
そして徐市は、航海に出る前に始皇帝が亡くなったので、航海には出なかったと考えられる。
「史記」には、実在した徐市と、後世の逸話に登場する伝説上の徐福の両方が記されている。
623 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 08:40:35
吉野ヶ里出土の鏡であるが、紀元前1世紀ということであるが、これは徐福に由来するものであろうか。
(徐福が持ってきて伝世した)。銘文と字体ご存知のかたお願いします。
過疎スレ
625 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 21:55:38
昨日、バイト先のちょっと気になった娘に
携帯の番号聞いたら、携帯をいじりながら
わたし携帯ないから
と言った
626 :
日本@名無史さん:2008/01/01(火) 21:21:54
今年は序服の年
627 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 02:48:04
せっかく始皇帝みずから大魚を退治したのに不老不死の霊薬を持ってこないアホ
628 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 03:05:31
629 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 09:47:08
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
630 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 00:35:14
Q総理、このスレの感想は?
ミミ彡  ゚̄ ̄' 〈 ゚̄ ̄ .|ミミ彡<2003年から細々と続く粘り強さに感動した!!
631 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 18:26:41
秦が滅んだというニュースを聞けば帰国できるのにな
632 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 08:32:33
神武天皇のこと
633 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 09:40:33
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
634 :
◆lo0Ni729yM :2008/03/08(土) 09:02:38
が
徐福の財宝が富士山のどこかに埋まっている。
あの万里の長城を作った秦の始皇帝から賜った財宝ですよ。
それさえ手に入れば、日本の財政赤字は帳消しになるばかりか、
年金問題も何もかも解決する。
>>635 その宝が仮に発見されても、それがそのまま政府による
財政難対策に宛てがわれるとはなかなか簡単に思えないです。
そのお宝の売却先にも問題があるでしょうし(中国でしょうか?)。
いきなり、それだけの価値が検討されるのかという問題と
も直結すると思います。
普通なら国定の宝物として売却されずに保管されてしまうように思います。
637 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 23:15:55
638 :
サガミハラハラ:2008/03/24(月) 21:56:21
徐福埋蔵金は佐賀県金立(きんりゅう)山の洞窟にあります。
金立の金は埋蔵金をあらわしています。
639 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 22:01:57
BC3C末、除福一団の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶も鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルである鼎もさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の龍文はもちろん、龍信仰さえ伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、錞于、鉦など、様々な楽器も
さっぱり伝わっておりません。
様々な酒器も伝わっておりません。
様々な玉器も伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物なども全く出土しません。
除福なんて来ておりません。
ただ、馬鹿で、無知で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作です。
一部誤解があるようですが、
秦の始皇帝はユダヤ人ではなく、ローマ帝国ではないでしょうか?
ユダヤ人は他の民族を支配するといった思想は受け入れません。
神のもとでは平等ですから。
徐福集団がユダヤ教を信じる集団だとすれば、秦(≒ローマ)の
始皇帝の支配から逃れようとした行動は、旧約聖書のモーゼの
行動と一致することがわかります。
いいえ、九州王朝には長い歴史と伝統があります。
少なくとも6500年前から続くわけですから、
1世代20年としても325世代は続く由緒ある家系。
どこの馬の骨かわからない雑民と一緒にされては
困る。
642 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 16:35:05
BC3C末、除福一団の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く原始的な穴窯も鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルである鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、錞于、鉦など、様々な楽器も
さっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
除福なんて来ておりません。
ただ、馬鹿で、無知で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作です。
> 秦王朝のシンボルである鼎
644 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 14:20:03
徐福は漢族系ではなかったと聞いてほっとしたわ。
秦という国は漢族系ではなかったようですな。倭族か?
前漢の劉邦はテキヤのチンピラ兄ちゃんだったらしいな、漢族で。
1 日本人は徐福の後の時代ですか?
関連資料を書き連ねて迷いから脱して下さい
作者: 211.137.69.* 2008-8-11 23:0
2 返信:
でない!!
作者: 220.115.241.* 2008-8-12 3:0
4 返信:
行く彼の血統がある有り得るのです。
作者: 狭間の通行人 2008-8-12 10:18
10 返信:
資料記録は秦の始皇帝で、求めるために古くない神丹、
聞いたことは鼓惑デマが3000人の少年の童を派遣しなければなりません、
女性の行く日本道探しに行く特効薬~古くない神丹を求めて、後はあれらの3000個で,
少年童女は最終的に1行って赴かなくて逆にします!
作者: 神聖な蒼竜 2008-8-12 15:14
12 返信:
これは単に1つのすばらしい伝説で、中日両国歴史の上の友好的な往来を反映しました.
作者: 898万9357 2008-8-12 17:58
13 返信:
に 日本の“原住民” だ 10 万 昨年
に 中国 人類 今を出します 150 万年の前
当時の プレート 大陸 決して似ています 今のこの形 アジア インド みな分けました
日本 所在の大陸 中国と境を接します
アジアプレート の 人類 最も早く出現します に 中国 黄河 近く
70万年の 藍田の人間 50万年の 北京人
黄色人種人 祖先 だ 150万 昨年の 今を出します 黄河 近くの 中国人
作者: ckaiuang 2008-8-12 18:28
14 返信:
不確かに今であるの日本人子孫はまさしくはじめに民に住みます!
作者: 123.117.90.* 2008-8-12 18:29
15 返信:
日本で最も早い住民 日本は最も早い人類は石を費やして、
県知事が発見するのが好きであっている牛の川人です。
牛の川人は10万年前に生活すると約束します。
ほぼ距今1万の昨年至る紀元の前3世の7,8000年間、称する縄文字は時代です。
縄文字時代はだから当時の陶器の上に縄しわ容貌があることで、故にこれと呼びます。
縄の文人は著狩を過ごして,収集します,漁労の生活。 これは引き継いで,
文字文化はアメリカの動物学者から摩斯で1877年に発見しました。
彼が東京にいる大森の駅は近くで貝塚(大森貝塚)を発見して、そして人の骨を発掘し出します。
この貝塚、北は北海から話して、
南至琉球、日本全国各地で散布して、左右する2500軒があると約束します。
縄の文人の大人は身長を平均して、男性158センチメートル、女性148センチメートル。
頭骨は現代に比べて日本人はさらに大きいです。その平均寿命、男性31.1歳、女性の31.3歳です。
縄の文人は年齢に基づいて抜歯する習俗を持っています。
大人は死亡する時、ほとんど曲がって埋葬しました。そして幼児は瓮棺葬を使います。
作者: ckaiuang 2008-8-12 18:31
16 返信:
北京猿人が生活している距今だいたい70-20万年です。遺跡は北京市南西房山
北京猿人の頬骨は比較的高いです。知能量平均する1532ミリリットル。
体格はだいたい短く、男性は約156センチ高く、女性は144センチを約束します。足は短い腕は長いです 、
頭部の前に倒れます。
ある学者は考えて、当時既に骨角器を製造することができます。
狩外を除いて、食べることができる野生の果実,若葉,元根、
及ぶ昆虫,鳥,カエル,ヘビなどの小さい動物で食品根源を日常ののでした。
作者: ckaiuang 2008-8-12 18:35
17 返信:
身長 習慣 多くあります 相似の場所
作者: ckaiuang 2008-8-12 18:40
18 返信:
祖先を重んじるて根本に戻りに行ってはいけない、人類はみなアフリカで発展した、
日本をあることはどこで,来るのは何をしますか?みなアフリカで来ました。
作者: 75.73.36.* 2008-8-13 01:20
19 返信:
私達のところに基づいて志は記載して、徐福の後の時代で、今日本は毎年祭徐幸せが必要です、
作者: LW 2008-8-13 03:40
21 返信:
日本人の大部分は祖先がモンゴル人だと考えます
作者: 211.136.158.* 2008-8-14 15:40
22 返信:
大陸、東南アジア、ロシアねじ行くのはみなあります。だから大和の民族を呼ばれる
ただ最も早くするのそれともおもむろに幸せはあの600の女の子を連れてくるに行きます~ ~
だから日本でたくさんの姓徐があるべきの
作者: 光 2008-8-14 16:59
23 返信:
日本大部分の人は古代漢族亡命者の後の時代で、
少ない部分人は古代中国の東南沿海100越える人後の時代です。
100は人を越えた後代わることは今日中国浙江です,
福建のシャオ族の人の和の西南少数民族。
日本が島を並ぶもとの住む民ある5000昨年はすぐに中国に来られます、
東南沿海の100は人を越えて駆けつける朝鮮半島南部に今日トウモロコシ人になって。
作者: 125.119.151.* 2008-8-14 18:36
24 返信:
考証をまだ継続したいです
作者: JoooooooP 2008-8-14 18:46
26 返信:
でなく、しかしと徐福有とても大きいことの関係~
作者: 122.77.59.* 2008-8-15 14:47
28 返信:
私達の日本人が中国人の後の時代のなら
日本と中国はなぜこんなに同じではありませんか?
天帝は不当です!あまりにも残酷です!
作者: 210.203.253.* 2008-8-15 15:2
共有して子を貼って26編を数えます
649 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 02:44:31
始皇帝って何族?
650 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 01:29:26
651 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 01:32:25
>>650 BC3000年頃の紅山文化に有った黒陶、灰陶が、僅か500Km東南の
楽浪地方(今の平壌)へ伝わるのがBC2C~3C年頃と云われる。
こんな近距離でも此れだけ伝わり難いんだよ、まして江南から列島へなんて
敗残兵や難民では高度な技術など簡単には伝わらないよ、青銅器は伝わったが。
652 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 02:27:27
江南ベトナム顔ゴリラ台湾類人猿がうぜえからこっちにも貼っとくぜ。
743 名前:日本@名無史さん :2008/10/02(木) 02:10:35
馬鹿。
黒色磨研土器は朝鮮半島では無文土器時代(BC13C~)から
登場しているんだよ。
それに伝達が遅れたのは間接伝来だから。
BC2~BC3Cに灰陶や青銅鼎や金銀器や金メッキや馬車や傘や貨幣や
瓦や龍信仰や漢字などが一挙に楽浪郡に伝わるのは漢の侵攻での
漢四郡の設置による人の移動での直接伝来だから。
古墳期以前に中国から直接伝来したものなど一つもないという証拠だね。
すべて楽浪を介して朝鮮半島との交流交易を通じて倭に伝来している。
653 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 02:39:19
>>652 インチキ土器人がうぜえからこっちにも貼っとくぜ。
中国から檀君やら箕氏朝鮮が平壌辺りに直接きてる話はうそか?
654 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 02:49:47
>>650 >皆さん三足土器は東北,九州地方を中心に、数多く出土してるよ土器人に騙されないでね。
北方沿海州だの九州から出てこないだのとワメキ騒ぐので要注意!!!
1. PDF] 縄文土器は、多種多様で彫り刻む文様が組み合わさり、世界的にみても ...
ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat
漆塗り皿形土器〔大洞式土器〕/. 青森県重宝. 024. /注口形土器〔大洞式土器〕
/風韻堂コレクション. /鬲状三足土器〔大洞式土器〕. /漆塗り壺形土器〔大洞式土器〕
/重要文化財. /漆塗り壺形土器〔大洞式土器〕/重要文化財 ...
1. [PDF] 青森県虚空蔵遺跡出土土器の共同研究
ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - HTMLバージョン
六ヶ所村富ノ沢遺跡と、相次いで縄文晩期の大洞式に伴って三足土器が発見されることになる。
いずれも青森県埋蔵文化財センターの正式調査による出土であり、ことに今津例はポジの雲形文
’. とネガの工字文からなる大洞C2式ないしは聖山式特有の文様を ...
655 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 02:51:25
>>650 1. [PDF] 岩手県川目遺跡調査概報 草間俊一 ...
ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - HTMLバージョン
にほ縄文式晩期の大洞式のものが多く,第1区にほ晩期のものが僅か混入する程度で,
後期のもの .... この類の土器では図版第2図の2の如き三足土器が. 損土している.
この土器の文様ほ,胴部全体を縦に六つに区劃し,その区劃は2条の沈腺によって ...
1. [PDF] 青森県虚空蔵遺跡出土土器の共同研究ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - HTMLバージョン
九州の一部で発見される三足土器について、賀川光夫氏はそれらが黒陶類似の黒色土器.
と共伴することに注目し、大陸との交渉を肯定的にとらえた(賀川 1961)。この説を
支持した. のは、梅原末治氏で、瑛状耳飾りや大分県秋葉遺跡の有足土器をもとに、 ...
dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/8557/1/80466_42.pdf
656 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 13:02:50
491 名前:出土地不明 :2008/10/02(木) 03:15:04 ID:k72u6Xe6
今日も来たのかウンコくせえ醜悪な台湾江南ベトナム顔工作部隊員。
懲りねえなオマエも。
>>486-487 青森の三足土器は三足が後付けで中国本土のものと製作方法が異なり、
沿海州南端や朝鮮北端の一部にある鬲と製作方法が一致しているので
沿海州方面から持ち帰ったもののコピーだと解決済みだろが馬鹿。
>>488 BC7Cは弥生時代だが何か?
大分の三足土器も基本的に青森と同じ沿海州南端や朝鮮北端からの
輸入物だろうね。
何で渡来人の中心地、福岡平野で出ないのかをよく考えな。
>>489 その青銅刀子の輸入先の沿海州南部はBC10C頃にはもう青銅器時代に
入っているよ。
657 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 13:27:05
642 :日本@名無史さん:2008/07/13(日) 16:35:05
BC3C末、除福一団の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く原始的な穴窯も鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルである鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、錞于、鉦など、様々な楽器も
さっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
除福なんて来ておりません。
ただ、馬鹿で、無知で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。
658 :
日本@名無史さん:2008/10/03(金) 22:52:46
>>辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲
したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)
と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。
当時の秦語と云えば今の西安辺りの方言で、中国の中心言語、今の北京語に相当。
その彼らが苦役を逃れて新羅に亡命、こんな中国の中心集団が多勢来てるのに
粗製灰陶で出来ている鬲、灰陶を焼く原始的な穴窯も鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルである鼎も兵馬俑、土器、青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、錞于、鉦など、様々な楽器もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
>>657 如何してかな。中国人がウソを書いたのか、説明よろしく。
659 :
日本@名無史さん:2008/10/04(土) 14:35:08
殷→週→春秋戦国→秦→漢→三国(魏呉蜀)→晋→南北→隋→唐→五代→宋→元→明→清
縄文 弥生 徐福 卑弥呼 古墳 倭の五王 飛鳥奈良平安 鎌倉室町江戸明治
661 :
日本@名無史さん:2008/10/04(土) 17:39:47
殷→周→春秋戦国→秦→漢→三国(魏呉蜀)→晋→南北→隋→唐→五代→宋→元→明→清
縄文 弥生 徐福 卑弥呼 古墳 倭の五王 飛鳥奈良平安 鎌倉室町江戸明治
662 :
日本@名無史さん:2008/10/04(土) 17:41:34
↑ズレた
殷→周→春秋戦国→秦→漢→三国(魏呉蜀)→晋→南北→隋→唐→五代→宋→元→明→清
縄文 弥生 徐福 卑弥呼 古墳 倭の五王 飛鳥奈良平安 鎌倉室町江戸明治
663 :
日本@名無史さん:2008/10/05(日) 20:11:58
BC3C末、除福一団の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く原始的な穴窯も鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルである鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、錞于、鉦など、様々な楽器も
さっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀器や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
除福なんて来ておりません。
ただ、馬鹿で、無知で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。
>>辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲
したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)
と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。
当時の秦語と云えば今の西安辺りの方言で、中国の中心言語、今の北京語に相当。
その彼らが苦役を逃れて後の新羅地域に亡命、こんな中国の中心集団が多勢来てるのに
粗製灰陶で出来ている鬲、灰陶を焼く原始的な穴窯も鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルである鼎も兵馬俑、土器、青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、錞于、鉦など、様々な楽器もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
いかに出土遺物が揃って無いからと云って、渡来を全否定出来るほど確かなものでは有りません。
ただ、馬鹿で、無知で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる三足土器人の創作デムパです。
665 :
日本@名無史さん:2008/10/07(火) 15:50:30
だからその文献の内容自体がデムパなだけだろがこの東南アジア野郎w
楽浪郡がBC108年に設置されて粗製灰陶の楽浪瓦質土器の生産が
始まると、ほどなく南朝鮮でも楽浪瓦質土器の影響を受けた
還元焔焼成の三韓瓦質土器の生産がすでにBC1Cから始まる。
日本で灰陶、つまり須恵器の生産が始まるのが4C後半。
もちろん半島帰化人が伝えた瓦質土器をさらに高温焼成した
朝鮮陶質土器だがな。
中国からの人の定着なんて全く無かった証拠だよ。
ま、ウンコくせえ江南ベトナム顔をクシャクシャにして
泣くんだな醜悪な下等生物の台湾ゴリラw
666 :
日本@名無史さん:2008/10/07(火) 23:16:22
667 :
日本@名無史さん:2008/10/09(木) 16:11:01
BC3C末、除福一団の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く原始的な穴窯も鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルである鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、錞于、鉦など、様々な楽器も
さっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀器や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
除福なんて来ておりません。
ただ、馬鹿で、無知で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。
668 :
日本@名無史さん:2008/10/11(土) 22:12:35
669 :
日本@名無史さん:2008/10/11(土) 23:01:55
馬鹿の一つ覚えとは良く言ったもんだ。
論戦では勝利宣言して逃げるくせに。
670 :
日本@名無史さん:2008/10/11(土) 23:36:06
>>669 元江南人の台湾人ってベトナム人みてえ。
茶色で広鼻で突き出た口元。
醜悪で汚らしい。
クセエ東南アジア野郎。
671 :
日本@名無史さん:2008/10/16(木) 14:12:08
始皇帝って何族? 漢民族?
672 :
日本@名無史さん:2008/10/16(木) 19:51:33
あちゃっ。
673 :
日本@名無史さん:2008/10/17(金) 06:00:41
ウィキペディアの漢民族の項目に↓の記述があるけど、ここに書いてある秦族ってのが秦を建国したの?
中国の歴史は絶え間ない民族・人種の混合であった。古くは殷周交代にまでその傾向を見ることができる。当時中原に住み、より東方起源と推定される殷族と西方からやってきた周族が混交し、今にいう漢民族の母胎ができあがったのだが、その母胎はすぐに秦族に撹乱された。
また、春秋戦国時代の国家である楚、越も中原とは多分に異なる民族であったと考えられている。
また中国は4世紀頃から北方の遊牧民族に北部を支配されるが、その過程で多分に北方民族の血が混ざっている。日本の学界では唐王朝の皇帝の一族もまた鮮卑系の北方民族に近いものであると考えられている。
674 :
月光仮面:2008/10/17(金) 18:11:26
学問・文系 考古学 日本人どこから来たんだ?4
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1217864779/menu590 銅鼓や貯貝器、編鐘等のある雲南から朝鮮半島に入り、脳裏に新鮮な技術情報を保っていることは
短時間に長距離を移動したということ。この春秋末の乱世の時代に極めてハイレベルの機動力を中国
大陸で行使出来るだけの政治権力、主権者は秦の始皇帝を除いて他になく、それが派遣した徐福仙薬
遠征隊がその実体であろう。そして日本書紀においては垂仁記にタジマモリ伝説として仙薬探求の話が
出てくる。これは卑弥呼の次のトヨ/イヨが晋に使節を派遣する時代だ。かぐや姫には姫が月に去った後
仙薬を富士で焼却する話がある。仙薬探検隊はこの時期に歴史的使命の終了を認識した、つまり、西安
で始皇帝の陵墓を拝観し、墓前に涙を流したのではないかと思う。
675 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 17:56:25
月光仮面さんのお出ましです。
他の板のスレで月光仮面と言うHNで荒らしてる人がいるんだけど、同一人物なのかな?
677 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 00:05:20
もともとデムパの荒らしだよw
678 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 00:07:16
BC3C末、除福一団の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く原始的な穴窯も鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルである鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、錞于、鉦など、様々な楽器も
さっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀器や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
除福どころか古代中国人なんか一切来ておりません。
ただ、馬鹿で、無知で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。
679 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 17:02:28
680 :
日本@名無史さん:2008/10/20(月) 20:06:08
BC3C末、除福一団の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く原始的な穴窯も鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルである鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の龍文はもちろん、龍信仰さえもさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、錞于、鉦など、様々な楽器も
さっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀器や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
除福どころか古代中国人なんか一切来ておりません。
ただ、馬鹿で、無知で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。
681 :
月光仮面:2008/10/21(火) 11:30:08
↑炊飯用よりも祭祀用に見えるんだけど。
徐福の百工とは探鉱、鋳造、弓術等を含む技能人であり、任務は山岳に入り、仙薬を探すこと
にあったのではないかと思う。その中に雲南の三星堆青銅器文化の流れを汲む青銅器鋳造
技術者が含まれており、それが大阪湾とか、出雲で朝鮮小銅鐸に付加価値を与えて無文を
有文とし、鰭等の形状に複雑な装飾性を与えたと考える。
682 :
月光仮面:2008/10/21(火) 11:37:28
記紀よりははるかに昔のことだが、BC2世紀より古くはない。このころ、大阪湾、後に、琵琶湖南岸に
銅鐸工人を抱える政治集団が出来上りつつあった。それは後に邪馬台国、大和朝廷を作り上げる
ものではないかと思う。
683 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 12:58:00
>>681 その前に銅鼓という器種器形や龍文を伝えろやこの知能障害!
684 :
月光仮面:2008/10/21(火) 13:24:37
685 :
siraki:2008/10/21(火) 13:24:51
686 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 13:32:21
>>684 誰が持ち込み持参の話をしたよボケ。
記憶からの伝達に決まっておろうが。
687 :
月光仮面:2008/10/22(水) 14:50:04
688 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 00:32:03
多くの文化は単に半島南岸や沿海州との交流交易を通じて
入ってきただけだよ、がいやまんくん。
明らかに渡来人が定着したと言えるのは、弥生開始時の沿海州系の
土器文化を伝えた北方モンゴロイドの形質をもたらした人々と
古墳時代の日本人口が500万人くらいの頃に朝鮮陶質土器を
伝えた1万人ほどの朝鮮帰化人だけ。
689 :
月光仮面:2008/10/23(木) 10:25:50
690 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 15:31:37
>>689 東京タワーの屋上から飛び降りてみると、すべての真実が分かると思うよ。
691 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 12:24:51
徐福先到朝鮮南部再到九州,實際他是日本最早的天皇
692 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 12:35:46
693 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 13:54:25
沿海州との交流物
694 :
月光仮面:2008/10/25(土) 13:42:27
>>692 縄文前期頃から中国長江・黄河下流域と日本の東北地方との間でつながりがあるということで、
当然ながら稲等もその頃から入っていたということでしょうね。
695 :
月光仮面:2008/10/25(土) 14:05:46
徐福の墓ってやたら各地にあるよな・・・w
697 :
日本@名無史さん:2008/12/22(月) 18:19:20
日本列島に漢籍が渡来し、それを読むことのできる時代になり、それを読める階層、すなわち、神官、
並びにをれを経済的に支える神社システムが確立された頃に各地の神社において伝聞に基づく
伝承が作られていったのだろう。現在では銅鐸の文様に巴蜀の影響が出てくるのは秦の始皇帝時代の
中国統一事業の結果以外に原因が考えにくい。その頃の際立った出来事として徐福の渡海がある。
しかし、当時の航海能力では山東半島から遼東乃至は楽浪に到達するのが精一杯であり、日本に
直接来ることはありえない。また、韓国においてこの時期に青銅器の様式に瞬間的変化がある。
これは韓国経由徐福の一部が日本に入ったということなのであろう。
698 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 11:00:08
徐福が日本へ到着していたのなら、漢字その他のシナ文化が奈良時代より千年以上早く日本に入っていたはずだな。
699 :
日本@名無史さん:2008/12/24(水) 16:41:54
当時の良家の子女でもあったのだろうが、古朝鮮、原三国、弥生日本で徒手空拳で生き抜くに従い、
漢学の素養もほとんどは消滅しただろう。おまけに帯方郡のような中国政府機関からは素性を悟られる
ことのないように山伏のような生活をする必要がったのでは。
700 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 01:33:02
>>699 始皇帝をだまして莫大な財宝をもって高飛びしたことがばれるのを恐れていたのか?
701 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 08:06:45
文字が伝わるし中国文物が影響した遺物が残るだろが。
だいたい何でドラゴン一つ伝わっとらんのだ?
あ ほ だ ろ
702 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 11:06:52
>>669 だったら徐福が来たかどうかなんて実証不可能だろが。
703 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 11:08:01
704 :
日本@名無史さん:2009/01/06(火) 23:18:33
>>702日本各地に残る伝承を否定し、徐福集団は来なかったする確かな証拠でもあるのですか?
705 :
日本@名無史さん:2009/01/07(水) 00:52:28
>>704 徐福は紀元前3世紀の人らしいが、日本は弥生時代の初めにあたる。そんな古い時代の伝承が他にあるのか?
3世紀の邪馬台国の伝承すら日本には残っていないが。
706 :
日本@名無史さん:2009/01/07(水) 21:57:22
>>705 徐福に関する伝承は全て後の世の創作だということですね?
707 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 10:15:00
>>706 徐福の伝承というのを読んだことがありませんが、でっち上げだろうと思っています。
私の偏見かも知れませんが。
徐福伝承が日本に現れるのは鎌倉末期あたり
要するに、漢籍をみた上でのでっち上げ
>>708 なるほど。だんだん謎が解けてきました。
それを広めたのは誰か。
私は、秦氏や八幡宮の分社、全国展開と関係があるのではないかと思うのですが。
710 :
日本@名無史さん:2009/01/09(金) 00:55:27
日本のマスコミは羽田首相が就任すると羽田=秦>先祖は始皇帝などと臆面も無く報道するムー並みの頭だしな。
昔からそういうでっちあげはあったんだろう。
711 :
日本@名無史さん:2009/01/09(金) 12:45:54
大乗仏教の経典が書かれたのは
釈迦が生きていたと伝承されている時代の数百年後だったりするね。
たとえば500年後くらいとか。
>>710 徐福の子孫の姓は、福の字を取って、長男は福岡、次男は福島、三男は福山、四男は福田と称した。
福田首相こそ、徐福の嫡男、直系の家柄。海部氏は、徐福らを運んだ海族の子孫にすぎません。
713 :
日本@名無史さん:2009/01/10(土) 16:49:01
>>712 その根拠として、どういう史料があるんだ?
富士宮下文書に詳しく書かれています。
偽書という噂もありますが、すべて事実ではないというわけではなく、
もとになる伝承には真実が含まれているのです。
715 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 11:27:22
徐福は始皇帝の圧政を嫌い
日本に逃げた一派の説
徐福は始皇帝にやられた民族出身
始皇帝に不老不死の薬求めさせるために
金 船 人間 食べ物提供させ
日本に脱出 薬はないと報告し詐欺った説
716 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 11:46:30
日本各地に徐福の訪れた記念ひ があり
紀州には徐福の墓があるらしい
徐福はジパング探しのマルコポーロではない
始皇帝の元に帰っていない
初めから秦を捨てるつもりで
始皇帝に近付き利用した説
717 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 13:29:26
始皇帝は万里の長城など
民衆を使い搾取した
徐福は逃げて蓬莱の国日本目指した説
718 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 15:50:22
719 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 15:52:46
BC3C末、除福一団の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く原始的な穴窯も炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルである鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、錞于、鉦など、様々な古代中国の楽器も
さっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀器や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
除福どころか古代中国人なんか縄文から弥生を通して一切来ておりません。
ただ、馬鹿で、無知で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。
720 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 21:41:46
>>714 偽書という噂もありますが、すべて事実ではないというわけではなく、
もとになる伝承には真実が含まれているのです。
・・・どの部分が捏造で、どこが真実なのか判定できるとは、博学多才でんな。
721 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 01:36:16
722 :
日本@名無史さん:2009/01/24(土) 14:58:24
熊野あげ
723 :
日本@名無史さん:2009/01/27(火) 16:32:05
史記に記された徐福関係の記述を読んだ人が、町おこしのために、おらが国に徐福の遺跡を作り上げた可能性はある。
江戸時代の武士、史記を読みこなすぐらいの教養はあったし、幕末を除けば概して暇で、ひと月のうち半分ぐらい城勤めをすれば禄をもらえた。
724 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 00:55:06
ヒストリーチャンネルで「秦の始皇帝」第一部・第二部合わせて四時間やってたの見た
最後の方に始皇帝が不老不死の秘薬を作らせたり、部下に命じて
宝来と言う島に探しに行かせたと言っていたが、徐福の名前も宝来が日本である事も
全く記述されてなかったよ
中国の専門化も徐福は伝説上の人物で、また宝来を日本とは特定していなかった
ただ宝来は沈んだり浮いたりする島で、心の清いものしか上陸できないとか言ってた
つい最近、徐福がたどり着いたのは韓国であって中国の高官と中韓友好とかやってただろ
725 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 11:42:27
宝来は心の清いものしか上陸できない→よって、韓国に上陸
なるほど
726 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 21:54:51
結局、徐福は幻の阿蘇山を探しに来たのだと思います。
阿蘇山の外輪山の大きさから見て、それが成層火山だったとすると1万mに迫る
世界最大の火山だったことは間違いないし、
727 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 21:41:04
ふうん
728 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 21:53:00
>>724 中国の学者も、もし徐福が日本に着いて居していたなら、
多くの文字や文物が残されているはずだと苦笑していたよ。
こんなのに引っかかる奴は考古学のセンスが全く無い。
729 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 22:14:44
それは、明治維新のとき天皇の万世一系を犯す文書の類はすべて焼き払われたんだよ。
日韓中、合作TVドラマ構想 徐福伝説、原作は荒俣さん
2009年6月5日5時34分
【ソウル=赤田康和】日韓中の放送作家やドラマ制作者が、テレビの
連続ドラマを3カ国共同でつくる構想をまとめた。秦の始皇帝の命を
受け、不老不死の薬を探して日本や朝鮮半島を訪れたとされる伝説上
の人物、徐福の物語。交流が活発とはいえなかった3国のテレビ界の
合作は画期的だ。
ソウルで開催中の第4回アジア放送作家カンファレンスで関係者が4日、
合意した。日本放送作家協会の市川森一理事長と韓国の制作会社
サンワネットワークスのシン・ヒョンテク会長らが中心になって企画し、
中国の制作会社も参加に同意しているという。
1話1時間で計24話程度の連続ドラマとする。1言語で撮影したのちに
各国語の吹き替え版をつくる予定。原作は作家の荒俣宏さんが書き下ろし、
アジア全域で知名度のある俳優を起用する考えだ。
制作費は総額15億円を見込んでおり、製作委員会形式で出資を募る
ことを検討している。日本の有力な放送局の関係者も関心を示している。
韓国では、日本の大衆文化の流入を政府が禁じてきた経緯があり、
日本のドラマは地上波ではまだ放送されていない。日本の脚本家の
台本を韓国の監督・俳優が映像化する試みなどがあったが、本格的な
合作もまだ少ない。今回の合作を機に地上波解禁などにつなげたい
思いが日本側にはある。
一方、韓国側には「韓流ドラマ」のヒットで日本市場を重く見る流れが
強まっている。人口13億人の中国市場も両国にとって魅力だ。
中国側はテレビドラマのアジア市場への浸透が十分にできておらず、
国外での存在感を高めたいとの思いがある。
ttp://www.asahi.com/culture/update/0604/TKY200906040359.html 関連スレ
【始皇帝】徐福伝説
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1059892097/ 【日中韓】日韓中、合作TVドラマ構想 徐福伝説、原作は荒俣宏さんが書き下ろし[06/05]
http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1244152781/
732 :
日本@名無史さん:2009/08/23(日) 20:34:27
ん?
733 :
日本@名無史さん:2009/08/23(日) 20:50:40
BC3C末、除福一団の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く原始的な穴窯も炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルである鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、錞于、鉦など、様々な古代中国の楽器も
さっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀器や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
除福どころか古代中国人なんか縄文から弥生を通して一切来ておりません。
ただ、馬鹿で、無知で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。
734 :
日本@名無史さん:2009/08/23(日) 21:07:26
>733
偉い。つまり、伝説です。だから、徐福神話・伝説が日本にあるのは、中国からの文物が
入ってからの観光誘致目的で、諸国の大名とか,地頭とか,貴族がいろいろな事を騙って、
中国との関係を因縁付ける事で、歴史的には時の権力よりも優れている事を主張しただけです。
言ってみれば、 NASA からの調査員が日本の工場に来て、火星基地の建設の材料を調達に着
たとか言う事をマコトシヤカニ言うわけですねー。100年後に。それが、2000年後の伝
わる訳ですよ。2000年後もアメリカ合衆国は繁栄しているだろうからさ。つまり、徐福と
は、そういうものなんですよねー。
唯、タイムマシンがないから、存在を否定できません。それだけ。
逆に、南北アメリカの遺跡に、古代ヨーロッパ人とか、アフリカ人が、入ってきた遺跡がないから、
入っていないというくらいにおかしなことはないのです。今後の、高速道路などの道路工事で、建設
現場で見つかる可能性があるから。それを電波といえば、電波だけど、吉野ヶ里みたいなのが出てく
れば、吉野ヶ里が卑弥呼の里だといえるわけです。邪馬台国九州説では、吉野ヶ里は、卑弥呼の里だ
という人も多い。吉野ヶ里が見つかる前までは、大和朝廷九州説は電波だった。
にあったとか行って、
735 :
サガミハラハラ:2009/10/15(木) 12:22:27
吉野ヶ里は卑弥呼の里でいいでしょう。(墓は小城市小城公園桜ヶ岡ですが)
吉野ヶ里の南丘は中国風の祭壇ともとれます。徐福が佐賀に定着したときに中国の
祭天儀式をもちこんだのでしょう。
秦の文字がさっぱり出土しない理由をかたってもらおうか?
全体的に痛いスレだなココ
肯定派も否定派も必死卓
弥生文化の発展に何かしら関係があるのかもしれないけど、
遺物が出てないから空想するしかないんだよな
739 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 23:39:39
ほー
740 :
日本@名無史さん:2010/02/08(月) 21:21:00
徐福集団こそ出雲である三輪山の大物主だった。
そしてその後、秦が滅んでその王族が渡来したため、
始皇帝を騙して渡来した徐福集団は秦氏に国を譲らざるをえなくなった。
こういう筋書きでいかがでしょう?
741 :
日本@名無史さん:2010/02/09(火) 01:03:02
徐福の末裔である日本を、ふたたび中国に迎え入れるのだから、中国が日本を支配下に置いたとしても侵略ではない、という理屈をこじつけようという魂胆だ。
気をつけよう、暗い夜道と中国人。
743 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 22:00:52
>741
秦代の徐福が最初の日本人では当然ありませんよ。
原生日本人は大陸と陸続きだった意味で北京原人、明石原人、東南アジア系、中国系・・。
島国でも日本は色々な所から、たくさんの種別の方が入っていたと考えられます。
中国人だけの末裔が日本人である訳がありません。
中国人に倭ではなく日本だと意識付けをした聖徳太子でも尊重しましょう。
>>1 は絶対ウソ。
こういう妄想に付き合うと、日本人がただの華僑とか
華裔って事になってしまう。
でも、絶対違うでしょ?
日本人はこういう中国移民よりももっと古くから成立してる民族だという事を
忘れちゃだめ。
>>742
聖徳太子も厩の皇子というように景教、つまりキリスト教ネストリウス派の影響を受けている秦人。
その渡来人である聖徳太子が、元の住民に仲良くやろうぜと言っているのは何となく嘘っぽい。
746 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 02:33:22
中国人は日本人が中国から来たと言うし
トルコ人は日本人はトルコ人が東西にわかれた東に行った方だというし
朝鮮発祥だ言う人もいるし
ユダヤだ言う人もいる。
ただどの外国人も日本人は自分の国発祥だと言うわ
なんなの一体何が目的
747 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 02:48:05
事実なんじゃないの
>>747同意。
日本は今のアメリカ大陸のようなフロンティアの地だった。
世界中のあらゆる民族が、日の昇る処の国を目指してやって来ていたのです。
そして人々は人種でわけへだてすることなく、混血していったのです。
釈迦もキリストもモハメドも、日本で修行して国に帰っています。
エジプトのピラミッドは日本の技術で作られているし、
メソポタミアやインダス、黄河にも分流がいます。
749 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 15:05:21
いろんなとこ出身ってこと?
>>749 いわゆる五色人のことです。
五色人とは、赤人、黄人、青人、白人、黒人であるそうです。
赤人とはユダヤ人、アメリカインディアン、アラビアやエジプトの民を、
黄人とは日本人、中国人、朝鮮人などのアジアモンゴロイド系民族、
青人とは北欧人やスラブ人、
白人は欧州のコーカソイド、
黒人はインド、アフリカ、パプアニューギニア圏やメラネシアの民を総称しているという。
751 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 19:41:36
キリストの墓が青森県にある
752 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 22:33:34
753 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 23:23:41
徐福は、紀元前200年くらいだろう。それ以前から日本には米も鉄もある。
徐福らの使っていた言葉が、その後の日本に残っているわけでもない。
卑弥呼たちもそれ以前の国も、大陸と交流する時には通訳がいたとされている。
実際に来ていたとしても、大きな影響を与えたとも思えない。
とても魅力的な伝承だけど、言語の問題が本当に残念だね~
755 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 15:48:38
どう残念なの?
徐福も日本に来るなら日本語の勉強くらいしてくるだろ。常識的に。
757 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 17:35:33
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
①まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
②バカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
③バレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び①に戻って、②、①、②、①・・・と無限に繰り返す。
④ハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
758 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 19:41:22
福知、福地、というのはどういう氏族?
>>756 数百人もの部下を持つリーダーが外国語を自ら学ぶか?
通訳をつけるのが常識だろう。
>>759 日本では徐福は伝説扱いだが、それは日本人の史実に対する
生真面目さによるもので、中国では司馬遷の『史記』の巻百十八
『淮南衝山列伝』に記述された、れっきとした史実として扱われて
いる。それによると徐福とともに渡海した人数は男女の童児500
人を含む3000人である。日本でも最近、徐福について、弥生文化
との関連などの興味深い論考がなされている。徐福よりはるか以前
から海洋民の交易が行われており、彼等の案内によって徐福は日本
に渡来したようである。3000人といえば大船団であり、しかも大勢
の男女の子供もとなると、事前の準備は周到になされ、渡航地は
安全で、上陸後の生活も確保されていなければならない。
勿論現地人との意思の疎通、融合をはからねばならない。
すでに日本は弥生文化の渦中にある。最盛期といってもよい。
さて、ここでどうしても春秋戦国時代にさかのぼらねばならない。
(ここまで)
>>760 >『淮南衝山列伝』に記述された、れっきとした史実として扱われて
史実として扱われて→ 正史として扱われて
762 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 01:04:54
徐福=神武天皇
763 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 10:12:29
>>762 神武はカム・ヤマト・イワレヒコという日本名をもっているが、
シナ名など何の記録もない。
764 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 19:01:39
徐福なんて中国の薄ぺらな誘導史観なんかに乗ってると
思い切り梯子外され一気に大和民族はトドメ刺されるぞ。
765 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 20:03:38
なにを言うとんのや
「中国が嫌いで」逃げて来たんやろ?
どっちみち支配者ヅラされる謂われはないわな
だいたい秦の始皇帝からして、西方の民族って話。
766 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 22:02:12
菊池(キクチ、ククチ)がなまって福地となったとスレ説もあります。
福知山とは「くくち山」だったのです。
徐福は、さすがに無いでしょ。
、、と思ってたら、中国のドラマ「始皇帝」を見てたら、しっかり出てきて、
しかも自称「東海王」とかで
始皇帝「お前は海の向こうに国を作るつもりなのか!?」
徐福「・・・、いいえ、そんなつもりは・・・。先に住んでいる神仙達に礼を尽くすだけです」
始皇帝「・・・言い訳はどうでもいいが、どうせ行くなら、絶対に、領土を拡大するべく、戦って勝つのだ!」
徐福「はっ・・」
みたいなやり取りがあって、目が点になったけどね。
何か徐福が日本に向けて船出した地とか観光地になってて、銅像があるみたいだし。
日本側に記録が残ってないから、ただのファンタジーだってことは、
中国人に、しっかり言っといた方がいいと思う。
768 :
日本@名無史さん:2010/06/04(金) 14:50:39
>>767 > 日本側に記録が残ってないから、ただのファンタジーだってことは、
> 中国人に、しっかり言っといた方がいいと思う。
てか中国による日本人、中国人両方に向けたプロパガンダだから。
奴らのいつもの手。
>>768 中国の説話には、「八仙渡海」とかもあるんだよね。
仙薬を求めて、八仙人が海の向こうの島に渡ったという。
これも、どこなのかはっきりしないけど、多分台湾か沖縄か、日本本土か
いずれかみたいな表現で。
実際に日本にある七福神は、そこから一人抜けたものだとか。
日本人から見ると、徐福伝説も、これと大差ないレベルの単なるファンタジーなんだけど、
こんなものまで政治利用するのかなー。
>>769 日本人から見てもかならずしもファンタジーでかたづけられないんだよ。
にわか作りのファンタジーや捏造をを国家ぐるみで史実のようにいいつのり、
それを教育の場にまで持ち込むようなレベルの低い国が幅をきかせる
東アジアの状況では、少なくとも古代の正史にのるようなできごとは、まあ、
トロイの木馬の例もあるし、気長に探求や考察をつづければいいんだよ。
771 :
サガミハラハラ:2010/08/26(木) 23:05:53
確かに徐福が日本にきたのか否かについては、文字が全く発見されていない、中国の文物がみあたらないことが、
ことが否定の材料になっている。
除福はチュルク系の匈奴だったのではないだろうか?
それならば突厥オルホン碑文より前なので文字はまだなくてもいい
匈奴の政治家冒頓単于はチュルク系かな?
秦に滅ばされた国の人たちが、日本に逃れたという事実があって、
それが、時を経て伝説化したものなんじゃないのかな。
弥生時代と春秋時代は、かなりリンクしてるし、農耕の遺跡なども
この時期に増加してる。
秦始皇の時代だから2200年前、弥生時代の環濠集落なんかが現れる時期だわな。
銅鏡も刀銭も出ていないよ。
>>775 縄文遺跡から刀銭が出てるよ。
三足土器も。
弥生土器は、同時に出てくる銭の種類によって年代が測定できるくらいに、
当時のものが同時に見つかってるよ。
>>777 つーことは、九州西部ではなく、徐福が来たのは日本海側なの?
鳥取青谷上寺地遺跡、出雲清水谷遺跡、丹後函石浜遺跡、
若狭鳥浜貝塚、庄内三崎山遺跡、
日南唐人町池ヶ迫遺跡、那覇城岳貝塚
2200年前よりも以前で、大陸直伝のが出るという条件だと、このへんが臭いのかな?
>>780 日本海側、出雲系かもしれないね。
周の青銅器と成分が同じで、春秋時代の青銅器(銅鐸、鏡、鉾)と同じ種類の
ものが出土してるのは出雲系だから。
春秋時代は鼎みたいな青銅器はすでに過去の貴重なもので、作れる人がすでにあまりいなくて、
王家に伝わる物が貴重品として略奪されたりしてる。