1 :
日本@名無史さん:
日本は、対外戦争で
アメリカ以外にも、唐・新羅にも負けています。
つまり、日本は、2度も負けているんですね。
負けても立ち直れる気概があるから
3 :
日本@名無史さん:03/06/08 22:53
血で赤く染まった白村江。
4 :
日本@名無史さん:03/06/08 23:14
倭軍400艘
唐軍170艘
倭軍は唐軍より数の上で優勢にもかかわらず、
全滅に近い惨敗をした理由はなにか?
5 :
日本@名無史さん:03/06/08 23:16
船の大きさかな
6 :
日本@名無史さん:03/06/08 23:27
地の利かな
7 :
日本@名無史さん:03/06/08 23:29
侵略主義の大陸の軍隊には勝てん。
8 :
日本@名無史さん:03/06/08 23:37
b
9 :
日本@名無史さん:03/06/09 04:40
日本の書物では、形勢が不利なので軍を引いたくらいにしか書いていない。
後の歴史の流れを見ても全滅に近い惨敗をしたといえるのだろうか。
唐の時代というのは、俗に支那史における最盛期という見解で一致している。
現代で言えば、米国と戦争するようなものだ。
勝てる方がおかしい。
新羅は例によって虎の威を借る狐、所詮は雑魚だからどうでもいい。
11 :
日本@名無史さん:03/06/09 09:25
後の日米戦と比べてみると、
結果的には局地戦でさっさと負けて撤退したのは幸いだったかも。
12 :
日本@名無史さん:03/06/09 12:10
私は「はくすきのえ」と記憶していますが、最近は「はくそんこう」
となっているみたい。どちらが正しいのか。
>9
日本書紀は正直に惨敗だと記してる。
左右から挟み取巻かれて官軍は破れ、
水に落ちて溺れ死ぬ者多数、
舳艫を廻らすことも出来なかった、
…なら(日本書紀のいう)中軍は壊滅だろ。
16 :
日本@名無史さん:03/06/09 15:18
>>12 岩波の日本史辞典では「はくそんこうのたたかい・はくすきのえの―」として
項が設けられています。前者の訓みを主とするということらしい。
しかし、そもそも「白村江」の語は『日本書紀』に載っているのであって、
そこでは「はくすきのえ」と訓ませているのだから、やはりそれに従うのが
筋なのではないかと思います。
とくに国語学者などから疑義が出されているわけでもないみたいだし。
ちなみに『岩波日本史辞典』は1999年に刊行されたものです。
18 :
日本@名無史さん:03/06/09 17:06
いずれにしても、対外戦争負けた後、国内経済が発展するというパターンが、
白鳳時代、秀吉の次の江戸時代、そして昭和と3回もある。
そこまで考えて、有事法制作ったわけではないと思うが。
19 :
日本@名無史さん:03/06/09 17:08
歴史の世界ではみんな訓読みがオッケイなはず。
伊藤博文も「いとうはくぶん」とか
日本書紀
斉明天皇六年七月 高麗の沙門道顕(高句麗・帰化僧)曰く
春秋智(新羅・武烈王)、大将軍(唐・左衛)蘇定方の手を借りて、百済を
挟み撃ちて亡ぼしつ。 或いは曰く 百済、自づから亡びぬ。
君(こきし・義慈王)の大夫人(はしかし・恩古)の妖女無道くして、
擅に国柄を奪いて、賢良を誅し殺すに由りての故に、斯の禍を招けり。
慎まざるべけむや。慎まざるべけむやといふ。
斉明天皇六年九月 王子余豊璋を乞して曰さく或いは佐平貴智、達率
正珍なりといふ「唐人、おのがあしき賊を率て、来たりて我が彊場(さかい)
を蕩揺(ただよ)はし、我が社稷を覆し、我が君臣を俘にす。
百済の王義慈、その妻恩古、その子隆等、その臣、佐平千福、国弁成、
孫登等すべて五十餘、秋七月十三日に蘇将軍の為に、捉ゐられて唐国に
送去らる。蓋し是、故無くして兵を持ちし徴(しるし)か。
しかも百済の国、遥かに天皇の護念(めぐみ)に頼(かう)ぶりて、更に鳩
(もと)め集めて邦を成す。正に今、謹みて願はくは百済の国の、天朝に
遣(まだ)し侍(はべ)る王子豊璋を迎えて国の主とせむとす」と、云々
是歳、百済の為に、将に新羅を伐たむと欲して、乃ち駿河の国に勅(みこと
のり)して船を造らしむ。其の船、夜中に故も無くして、艫舳相反れり。
22 :
日本@名無史さん:03/06/09 22:13
663年
8月17日
唐・新羅連合軍が百済復興軍の周留(する)城を包囲。唐軍は軍船170艘を白村江(錦江−クムガン河口)に配備した。
8月27日
倭国軍が朝鮮半島西岸に到着。
百済王豊璋と倭国軍は,「我ら先を争わば 彼自づからに退くべし」と突撃作戦に出た。
8月28日
白村江(錦江−クムガン河口)で,唐軍と百済・倭国連合軍が激突。
倭国軍は唐の水軍によってはさみうちにされ,軍船400隻は燃え上がり,倭国軍は大敗してしまう。(歴史上最初で最大の敗戦となった)
百済王(豊璋)は逃亡してしまう。
9月7日
百済が陥落し永遠に滅亡した。
668年
唐・新羅連合軍は高句麗も滅ぼした。その後,唐と新羅が対立。
676年
新羅によって朝鮮半島が統一される。
23 :
God Save JAPAN:03/06/09 22:22
考えて見れば日本って、その時代最強の国家と戦争するケースが結構多いんだなぁ・・・
7世紀の唐、13世紀のモンゴル、20世紀のロシア帝国と米国・・・・
勝敗はともかく、こいつらと戦って生き延びて来たのは凄い事だ。
24 :
日本@名無史さん:03/06/09 22:43
もっとも驚嘆すべきカードは、19世紀の大英帝国vs薩摩藩だ。
25 :
日本@名無史さん:03/06/09 22:54
下関戦争
英米仏蘭(四カ国連合)vs長州藩
26 :
日本@名無史さん:03/06/09 22:59
日清戦争以外全部負けてるよな。なさけねーの。
27 :
日本@名無史さん:03/06/09 23:03
元寇、薩英戦争、日露戦争は寸土も与えず敵を撃退して勝ってるよ。
日本史の常識。
28 :
日本@名無史さん:03/06/09 23:05
ちなみに16世紀の朝鮮征伐も明国には邪魔されたが、
日本には攻め込まれていないから負けではない。
29 :
日本@名無史さん:03/06/09 23:06
頭が固いんですね。
30 :
日本@名無史さん:03/06/09 23:07
>>27の基準で言うなら
>>28は負けじゃねえか。
頭おかしいんじゃねえの、こいつ。
32 :
日本@名無史さん:03/06/09 23:14
>>30 つまり、君のような歴史音痴でも、日清戦争以外に日本が勝っていた事実を理解できたという事かな?
33 :
日本@名無史さん:03/06/09 23:16
34 :
日本@名無史さん:03/06/09 23:17
ところで第一次世界大戦では戦勝国として領土を拡大できたが、
これを自慢すると朝鮮人と同じレベルに堕ちるので気をつけろ。
35 :
日本@名無史さん:03/06/09 23:20
>>33 明軍を撃破したりして活躍が目覚しかった薩摩は、
唯一加増されたりして色々儲けたさ。
これも日本史の常識。
>>32 はぁ?バカかおまえ。
俺がいつ日清戦争以外に日本が負けたなんて言ったよ。
37 :
日本@名無史さん:03/06/09 23:22
この敗戦の後、国外に派兵するという発想は1000年近く出なかった。
秀吉は1000年に一度の天才だ。
39 :
日本@名無史さん:03/06/09 23:37
40 :
日本@名無史さん:03/06/09 23:39
奈良時代〜平安時代にはビビリが入ってるが、
鎌倉時代〜戦国時代は海外進出希望者は倭寇になったんでねえの?
41 :
日本@名無史さん:03/06/09 23:41
白村江の敗戦後に日本が誕生するわけだが。
>奈良時代〜平安時代にはビビリが入ってるが、
神風も外国に対する恐怖心が極まった所でやけになって騒いだのかもね。
>鎌倉時代〜戦国時代は海外進出希望者は倭寇になったんでねえの?
倭寇の構成は新羅人とか中国人が多数派。済州島とか。
日本の政府の方針とは関係ないし。
43 :
日本@名無史さん:03/06/18 22:45
唐
元
明
清
露
独
中
米英蘭
44 :
日本@名無史さん:03/06/18 23:27
うーん考えて見れば日本って
隋帝国の煬帝にタイマン張ったのを皮切りに
7世紀・・興隆する世界帝国・大唐帝国
13世紀・・世界最強の大帝国・モンゴル元朝
16世紀・・東洋の巨大文明國・大明帝国
明治維新には大英帝国やフランス・・オランダ当時の最強國グループ
20世紀には世界を敵に回したままアメリカ合衆国相手に・・。
勝敗はともかく挑むだけ凄い。それも敗戦しても、その後それなりも
地域的有力国として生き残ってこれたのが凄い。
45 :
日本@名無史さん:03/06/19 20:58
唐 (白村江の戦い) ×
元 (文永・弘安の役) ○
明 (文禄・慶長の役) ×△
清 (日清戦争) ○
露 (日露戦争) ○△
独 (第一次世界大戦)○
ソ (ノモンハン事件) ×△
中 (日中戦争) △×
米英蘭 (太平洋戦争) ×
46 :
日本@名無史さん:03/06/19 21:04
>>45 ノモンハンは負けじゃないんでない?
あと
(明治維新)大英帝国 ○△
47 :
日本@名無史さん:03/06/19 21:51
日本に昔からある村主という姓は、スグリと読む。
村主は百済の帰化人の姓だと言い伝えられるから、百済語で村をスクとでも言ったのかも知れない。
白村江がハクスキノエと読まれる理由は謎とされて来たが、百済の地名を百済風に読んだ名残ではないだろうか?
白村(ハクスキ)の江
49 :
日本@名無史さん:03/06/24 21:29
50 :
日本@名無史さん:03/06/24 21:39
白村江を闘ったのは倭(たい)国であって、日本国ではない。
51 :
日本@名無史さん:03/06/28 20:28
唐 (白村江の戦い) ×
元 (文永・弘安の役) ○
明 (文禄・慶長の役) ×
清 (日清戦争) ○
露 (日露戦争) ○
独 (第一次世界大戦) ○
ソ (ノモンハン事件) ×
中 (日中戦争) ×
米英蘭仏 (太平洋戦争) ×
52 :
闇の古代史さん:03/06/28 21:40
>4
九州王朝(倭国)潰しのために、大和王朝(日本国)の協力があった
からではないか
文永の役は大敗でしょ。
54 :
日本@名無史さん:03/06/28 23:20
日本は寸土も失わず、元&高麗軍は壊滅。
文永の役は紛れも無く日本の勝利。
唐 (白村江の戦い) ×
元 (文永・弘安の役) △(対馬は壊滅、北九州も蹂躙され元軍の撤退で辛うじて滅亡を回避)
明 (文禄・慶長の役) ×
清 (日清戦争) ○
露 (日露戦争) △(ロシアのおびき寄せ戦術にはまるが米の仲介で講和)
独 (第一次世界大戦) −(火事場ドロボウ的に参戦、勝敗以前)
ソ (ノモンハン事件) ×
中 (日中戦争) ×
米英蘭仏 (太平洋戦争) ×
56 :
日本@名無史さん:03/06/29 00:17
文永・弘安の役は私の考えでいくと
前者は日本への偵察の意味合いが多かったと思う。
ただ対馬に一週間以上停泊したら、北九州に兵集まってるんで、
占領できるが、維持出来ないと思い撤退。
後者は、前者と同じ上陸地点に上陸したので防御も硬く、上陸すら不可能だった。
それで一週間も停泊、台風で全滅。
相手戦略を頓挫させれば、勝ちでいんじゃない?
57 :
日本@名無史さん:03/06/29 00:22
独 (第一次世界大戦)が本当は◎でしょ。
教科書どうり、兵站準備完璧で当初の占領目的も戦後処置もパーフェクト。
戦話的には面白味にかけるが、これを馬鹿にしゃちゃいけない。
トラックやその他島はここで頂いた物なんだから。
58 :
日本@名無史さん:03/06/29 10:30
唐 (白村江の戦い) ×
元 (文永・弘安の役) ○
明 (文禄・慶長の役) △
清 (日清戦争) ◎
露 (日露戦争) ◎
独 (第一次世界大戦) ◎
ソ (ノモンハン事件) △
中 (日中戦争) △
米英蘭仏 (太平洋戦争) ×
59 :
日本@名無史さん:03/06/29 10:57
そういやノモンハンって、ロシアの最近公開された資料じゃ、
犠牲者数が 露助>日本軍(関東軍?)だったらしいじゃんか。
60 :
日本@名無史さん:03/06/29 10:57
白村江の後唐から郭務宗という男が派遣されてきたらしい。いわば太平洋戦争後のマッカーサーみたいなものか
昭和天皇は天智天皇をお慕いしておられたのう。。。
日本は失地王も偉大な帝になった。
63 :
闇の古代史さん:03/06/29 11:28
>60
郭務宗=藤原鎌足説もあるが、どうなんだろうね?
64 :
日本@名無史さん:03/06/29 11:49
65 :
日本@名無史さん:03/06/29 11:54
唐 (白村江の戦い)国益× 戦略× 戦術△
女真(刀伊の入寇)国益△ 戦略△ 戦術○
元 (文永・弘安の役)国益○ 戦略△ 戦術△
明 (文禄・慶長の役)国益△ 戦略△ 戦術◎
英国(薩英戦争)国益◎ 戦略○ 戦術△
英米仏蘭(下関戦争)国益○ 戦略△ 戦術△
台湾(征台の役)国益◎ 戦略◎ 戦術○
清 (日清戦争)国益◎ 戦略◎ 戦術◎
清(北清事変)国益◎ 戦略○ 戦術◎
露 (日露戦争)国益◎ 戦略○ 戦術○
ソ (シベリア出兵)国益△ 戦略○ 戦術△
独 (第一次世界大戦)国益◎ 戦略○ 戦術○
支 (上海事変)国益○ 戦略◎ 戦術◎
支 (満州事変)国益◎ 戦略◎ 戦術◎
ソ (ノモンハン事件)国益△ 戦略× 戦術△
支 (支那事変)国益× 戦略△ 戦術◎
米英蘭仏 (大東亜戦争) 国益× 戦略× 戦術○
66 :
日本@名無史さん:03/06/29 18:08
米英蘭仏 (大東亜戦争) 戦術○
竹槍がか?
67 :
日本@名無史さん:03/06/29 20:08
いつ竹槍で交戦したと思ってるのかね?
日本は戦術レヴェルでは連合国を上回っていた。
それでも負けた主原因は、資源量と兵力の差だ。
68 :
日本@名無史さん:03/06/29 20:13
大東亜戦争の戦争目的は、主に三つ挙げられる。
第一に、日本国民の生活を支える資源の確保。
第二に、国防を万全にして国民の生活を安寧に保つ事。
第三に、西洋人から植民地を解放し、家畜扱いされていた東洋人を対等の存在として認めさせる事。
大東亜戦争によって、日本はこれらの戦争目的を予想以上に達成して現代にいたる。
つまり、
米英蘭仏 (大東亜戦争)国益◎ 戦略× 戦術○
が正解となる
69 :
日本@名無史さん:03/06/29 20:31
>第三に、西洋人から植民地を解放し
そんな訳ねえだろ!
70 :
日本@名無史さん:03/06/29 20:35
ちなみに、大東亜戦争における米国の戦争目的
その1、太平洋の覇権を確立→成功
その2、満州市場に利権を確立→失敗
その3、支那市場に利権を確立→失敗
その4、先行植民地帝国と協調して植民地利権を維持→失敗
71 :
日本@名無史さん:03/06/29 20:36
>>69 何故そう思う?
戦時中から大東亜の解放を主張していた事も知らないのか?
72 :
日本@名無史さん:03/06/29 20:41
>>69 君は朝鮮半島で狂った洗脳教育を施された疑いがある。
試しにハングル板で電波を飛ばしてみて、治療を受けて来なさい。
米英蘭仏 (大東亜戦争)国益X 戦略× 戦術○
だろう。国益を考えたらなら満州で手を引いたほうが絶対おとく。
アメリカ資本を認めて中国から兵をひく。ドイツは勝手に負けるだろうし
当時の日本は共産アレルギーあるから緩やかに西側陣営つくだろうし
時間の問題で民主主義も進んだだろうし
戦略X もう行きあたりばったり、ドイツが勝つことを前提にして
もうめちゃくちゃ、ビジョンが無さ過ぎる。
戦術△ 空母機動艦隊 航空機の活用 は有効だが、、、所詮戦術レベルだし
戦術で勝利?会戦で勝利したといえるのは真珠湾とシンガポール、マレー沖くらいじゃん。
>>71 主張は知ってるよ。だがアジアの開放が目的の中で重要事項ならば
ますます戦争の意味がわからん。英国、オランダ、オーストラリアー
のみに限定して戦争を行うべきであり、全然ビジョンが見えないんだけど
>>72 つうかハン板は出来たころからいるんだけどさ
電波は貴方ですよ
77 :
日本@名無史さん:03/06/29 20:55
>>73-74 君は戦術と戦略を分けて考える事が出来ていないようだな。
戦術が優れていても、勝ち負けには直結しない。
従って、負けたからといって戦術的に劣っていたとは限らない。
>>75 大東亜戦争は支那事変が拡大したものだ。
支那の利権を狙っていた欧米諸国は、国民党に手を貸したんだよ。
戦争とは相手のある事だから、日本の都合が良い条件を築けるとは限らない。
アジアの解放を目指していた日本から満州を奪う為に、支那はアジアを裏切ったのだ。
78 :
日本@名無史さん:03/06/29 20:58
>>76 君がいつからハングル板で電波を飛ばしていたのかは知らないが、電波は君だよ。
理由も説明せずに「そんな訳ねえだろ!」などと言うだけでは、あの板で通用しない事くらい知ってなければおかしい。
>>77 仮に戦争に勝ったとして、そのままアジア各国を自由に独立させる気が
あったとでも?
80 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:09
>>79 戦時中からインドネシア、フィリピンの独立を支援していた事も知らないのか?
本当にハングル板に居たにしては、随分と基礎知識が乏しいね。
アジア開放を目的としたら当時の日本は戦略ビジョンが間違ってるよ。
防衛上、半島、満州までは理解できる。支那事変なんぞおこさんで
中国のことは中国人にまかせりゃいいじゃん。満州もアメリカ資本
認めてさ アメリカ自体は当時フィリピンを植民していたが独立の
約束もあったし(2年後ぐらいだったが)開放が目的なら占領地を
なぜ自由に独立させん?ようは英オランダになりかわり傀儡作ったに
すぎんですよ。
>君は戦術と戦略を分けて考える事が出来ていないようだな。
>戦術が優れていても、勝ち負けには直結しない。
>従って、負けたからといって戦術的に劣っていたとは限らない。
そのとおりだね。
戦術で勝利?会戦で勝利したといえるのは真珠湾とシンガポール、マレー沖くらいじゃん。
83 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:20
>>81 だから、大東亜戦争は「戦略→×」なんじゃねえかよ。
さっきから何的外れな事ばかり言ってるんだ?
84 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:22
>>82 だから、勝敗は戦術の優劣とは無関係だといってるじゃないか。
まだ分かってないのか?
85 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:22
新羅を解放して、金官の独立を!
>>80 同じ人物くさいけど意見を交えたいなら名前或る程度固定してくれ
支援自体はあった、タイ王国やインドなどもね。だから
それがどうして自由に独立をさせることを前提にすんのかな?
あくまでも日本が利用する為だろうに
戦争自体を否定もせんし不当な米英の圧力も認めるが
戦争目的に開放があったとはおもえないね
88 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:26
>>69 凝り固まった人を相手にしないほうがいいですよ!
89 :
これで決まり:03/06/29 21:29
国益× 戦略× 戦術×
90 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:29
>>86 当り前だ。
アジアを解放する事が日本の国益となるから、解放を目指したんだろうが。
自国の国益を考えずに戦争する馬鹿が居るかよ。
91 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:30
沃沮や穢を解放するために、倭はもっと戦うべきだった。
92 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:30
>>88-89 凝り固まってるのはそっちだろ。
何の説明も伴ってないじゃねえか。
93 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:32
渤海国の建国にもう少し協力すべきだったという反省はありますか?
94 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:33
そもそもは、百済の復活を目指していたのではなかった?
百済を滅ぼしたのは高句麗だよね?
95 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:33
96 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:34
金官伽耶が新羅に吸収されそうになる前に、手を打つべきだったと思うが。
97 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:34
98 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:36
ならばなぜ高句麗と戦わずに、
高句麗の敵の唐と倭は戦ったのだ??
99 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:37
92や95や97は、なぜ白村江と関係ない話で邪魔をするの?
福泉洞古墳群って、倭的な要素ってどれくらいなのでしょう
101 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:39
金海金のみなさんは倭人系で新羅に帰化したって感じ
102 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:39
高句麗と唐って初め友好関係だったんでないの?
まあ、戦術レベルならルンガ沖夜戦なんかでも勝ってるが、
あまり戦略的に重要な戦いとは言えない
戦術での優越は戦略とは直結しない
会戦に負けたから戦術→×というのは短絡的
104 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:42
>>102 隋が高句麗遠征に何度も失敗して滅んだわけですよね
>>103 関係のない話で荒すのはやめましょう
105 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:42
>>99 86や88、89が訳の分からない寝言を繰り返したからだろうね
君はああいう反日馬鹿の真似をして迷惑をかけないようにしたまえ
>>104 とはいえ、戦術と戦略を混同する素人さんを放置するのはマズイだろう?
107 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:45
加耶の盟主国である金官加耶は、鉄の原産地と生産技術を土台にして
最も進んで強力だったが、なぜか、途中で新羅側へと裏切ってしまう。
109 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:47
>>105-106 おもえら粘着な嵐か
ヤマト政権は,半島の政争と絡み合っている。531年ごろ任那地方の金官加羅国が新羅に侵略され,併合された。
国王の長子の「コノマタ干岐」がヤマトに「亡命政権」をつくった。
コノマタ干岐は,蘇我氏や渡来者集団に推されて,宣化の婿に納まってヤマト政権の王となった。
110 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:48
伽耶地方でもっとも有力であったのが金官伽耶(任那)は、それほど力はなかったらしい。
金官伽耶の中心は、現在の金海市にあった。金官伽耶国をまとめる王家は、3世紀なかばに出現したとみられる。
最盛期は4世紀と考えられる。その時期に、金官伽耶国は半島南端部の小国郡の指導的立場にあった。
そのため、半島南端部は、金官伽耶国の別名である「任那」の語で呼ばれた。
111 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:50
どうして、金官伽耶が親倭から親新羅へと裏切ったのかが、
半島からの倭の撤退への最原因ではないかと思うのだが。
112 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:50
新羅、百済は韓族 高句麗は扶養族?
113 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:52
>>112 ちゃいます。百済の支配された側が韓族。
百済の支配層は夫余族。
言語も異なっていたようで。
114 :
日本@名無史さん:03/06/29 22:02
魏志東夷伝によれば、3世紀には満洲から半島にかけて、
6種族がいましたが、それらの言語について、
「夫余、高句麗、沃沮、穢」の4種族は似た言葉を話していたが
「邑婁」はそれらとは言語が異なる、とあります。
また「辰韓、弁韓」は中国語の一種を話していたとあります。
「邑婁」がツングース(後の女真族やオロチョン族)であることは歴史的に明白なので
「夫余、高句麗、沃沮、穢」の4種族の言語はツングース語ではないことになります。
115 :
世界@名無史さん:03/06/29 22:04
おせっかいな日本のアホが自国の血を垂流してまで、
隣国を助けようとした間抜けな戦い。
116 :
世界@名無史さん:03/06/29 22:05
倭の海賊の汚らしい血が東シナ海を真っ赤に染めた。
117 :
日本@名無史さん:03/06/29 22:07
倭人が半島南部にいたのは、縄文時代からであるのが判明しており、
その後も、中国の史書にも、倭人が半島の鉄を直接あつかっていたことが明記されてる
118 :
日本@名無史さん:03/06/29 22:15
百済と新羅は倭国に朝貢していたのだから、
新羅が百済を倭国に無断で滅ぼしたら、宗主国としては放置できないだろう。
119 :
闇の古代史さん:03/06/30 21:28
唐・新羅・耽羅国・近畿の秦王国対倭国(九州王朝)・百済国か?
120 :
日本@名無史さん:03/06/30 21:40
唐・新羅・耽羅国・倭国(九州王朝)VS近畿のニッポンちゃちゃちゃダイワ王国・百済国
が定説です。
121 :
日本@名無史さん:03/06/30 22:00
近畿に秦王など居ない。
どこのトンデモ本を掴まされたんだ?
122 :
日本@名無史さん:03/06/30 22:02
中大兄皇子は
「空母一隻撃沈、一隻大破」と損害を発表
123 :
日本@名無史さん:03/06/30 22:04
>>121 「辛淑玉が語る 在日の在日による在日の為の倭猿古代史」
アカヒ新聞社刊行
124 :
闇の古代史さん:03/06/30 23:08
>121
秦氏の国があったではないか。知らないのか?
125 :
日本@名無史さん:03/06/30 23:44
倭と隋の同盟がなっていたため、筑紫王朝・倭は隋を助けるべく兵を出していた。
それに対して、ヤマト王朝は唐と密約を結び、背後から倭を急襲。白村江の対外戦に出ていた
倭国は背後を突かれ、補給路が絶たれてしまった。
唐はその後、ヤマト王朝に大倭日本国の代表権を与え、律令制のノウハウを教え込んだ。
その背後で親倭(百済含む)的だった弘文が出現し、その力を恐れたため、親唐派の天武を天皇に祭り上げ、
天武系の奈良時代は大唐文化に花開いたのである。この時代完全に日本国は唐どころか新羅の属国の感すらあった。
光仁以降、この流れを断ち切り、日本は独立の道を歩み始めたのである。
126 :
日本@名無史さん:03/06/30 23:47
イスラエルの論理で言えば、九州〜淡路までの西日本及び韓国南部は確実に九州王朝領だな。
って、更に遡れば、出雲領かもしれないが。
127 :
日本@名無史さん:03/06/30 23:56
日本にはなぜ三国史がないのか?
すれきぼん
128 :
日本@名無史さん:03/06/30 23:57
日本にはなぜ三国史がないのか?
すれきぼん
129 :
日本@名無史さん:03/07/01 05:10
>>107 >加耶の盟主国である金官加耶は、鉄の原産地と生産技術を土台にして
>最も進んで強力だったが、なぜか、途中で新羅側へと裏切ってしまう。
面白いけど、広開土王碑で、高句麗軍は倭軍を急追して「任那加羅」ナントカ城
に至っているね。倭は任那加羅(金官加羅)に逃げ込んだ、つまり倭と金官は
共同して戦っているようにとれるけど、「新羅側へと裏切った」というのは
いつごろのことを言っているのかな?
130 :
日本@名無史さん:03/07/01 07:14
近畿に秦氏は住んでいたが、秦氏の国なんてねーよ。
>>129 二百年も離れてる話をごちゃごちゃに言うなよ。つっこみもめんどくさい。
132 :
日本@名無史さん:03/07/01 14:28
>>131 >二百年も離れてる話をごちゃごちゃに言うなよ。つっこみもめんどくさい。
なるほど。「途中で裏切った」とは任那滅亡に近い頃の話か。
ところで5世紀以降、金官は國としての実体がない可能性がある。
韓国の発掘によれば、4世紀を通じて金官の王墓は立派だったが
5世紀になると王墓級の墓が作られなくなる。
これをどう解釈する?
133 :
日本@名無史さん:03/07/01 14:29
>>131 >二百年も離れてる話をごちゃごちゃに言うなよ。つっこみもめんどくさい。
なるほど。「途中で裏切った」とは任那滅亡に近い頃の話か。
ところで5世紀以降、金官は國としての実体がない可能性がある。
韓国の発掘によれば、4世紀を通じて金官の王墓は立派だったが
5世紀になると王墓級の墓が作られなくなる。
これをどう解釈する?
134 :
闇の古代史さん:03/07/01 22:07
>125
倭と隋の同盟がなっていたため、筑紫王朝・倭は隋を助けるべく兵を出していた。
それに対して、ヤマト王朝は唐と密約を結び、背後から倭を急襲。白村江の対外戦に出ていた
倭国は背後を突かれ、補給路が絶たれてしまった。
そうだろうね。私もずっと似たようなことを考えていた。となると、
藤原釜足が、長男・定慧を11才で出家させ、唐へ留学させたのは、
ひょっとして人質として唐へ送ったのかな。
135 :
日本@名無史さん:03/07/02 05:18
>>125 あらすじはわかるが、なんで隋でなくてはいけないのかな。
筑紫王朝が唐・新羅連合に対抗して百済を援助して兵を出す、それをヤマト王朝が
背後から九州、で話は通じるじゃん。
136 :
日本@名無史さん:03/07/02 06:57
朝鮮人がよく沸くな。
137 :
日本@名無史さん:03/07/02 16:56
>>125 >>135 大和朝廷が百済滅亡の手伝いをしたら
戦後の百済人大量亡命は有得ないと思います。
九州王国は任那の領土割譲で「反百済」
中国大陸の情勢は豊富だったろうから、中立・半島不介入政策が主流だったのだろう。
しかし大和朝廷の強い圧力で、しぶしぶ派兵したと考えれる。
138 :
日本@名無史さん:03/07/02 21:50
例えると大和が徳川、百済が北条、筑紫が真田というところか。
任那が筑紫支配の地域でありながら大和が一部を勝手に割譲して
しまい謀反を起こした。
139 :
闇の古代史さん:03/07/02 22:17
>136
朝鮮人がよく沸くな。
馬鹿か。日本人だからこそ、歴史の真相を探求しているんだ。
140 :
日本@名無史さん:03/07/02 22:21
>>139 朝鮮人も日本人のフリをしてそういう事を良く言うから、
それは無意味な発言だよ。
141 :
日本@名無史さん:03/07/02 22:21
>>139 世の中松本清張のように明らかに朝鮮人の手先みたいなのがいる
から多分そういうのと同じだと誤解されているんだよ
白村江で負けた最大の原因は、有史以来一度も戦争に勝ったことの無いDQN民族のチョンの味方をしたこと
143 :
日本@名無史さん:03/07/02 22:29
144 :
日本@名無史さん:03/07/02 22:46
140はどうみても朝鮮人だろ
145 :
日本@名無史さん:03/07/02 22:50
チョン、チョンってうるさいんだよ。チョンがいなければ
お前らどうやってストレス発散するんだよ
146 :
日本@名無史さん:03/07/02 23:19
筑紫王朝とか九州王朝とかチョンうざ
147 :
闇の古代史さん:03/07/03 00:15
九州王朝論を盛り上げ、大和王朝一元史観に洗脳されつづけた
日本人の目を覚まさせましょう。
148 :
日本@名無史さん:03/07/03 19:19
チョンがいなければ、ストレス自体が無くなる。
149 :
日本@名無史さん:03/07/03 19:23
大和朝廷を豊臣政権に例えると筑紫は五大老のだれぐらいに
なるのだろう。毛利ぐらいかな。
150 :
日本@名無史さん:03/07/12 04:49
なんで、筑紫君は唐に拉致されていたん??
151 :
日本@名無史さん:03/07/13 00:30
敗戦によるサンフランシスコ条約みたいなのために
唐へ行ってた
152 :
日本@名無史さん:03/07/13 20:45
唐 (白村江の戦い)国益× 戦略× 戦術△
女真(刀伊の入寇)国益△ 戦略△ 戦術○
元 (文永・弘安の役)国益○ 戦略△ 戦術△
明 (文禄・慶長の役)国益△ 戦略△ 戦術◎
英国(薩英戦争)国益◎ 戦略○ 戦術△
英米仏蘭(下関戦争)国益○ 戦略△ 戦術△
台湾(征台の役)国益◎ 戦略◎ 戦術○
清 (日清戦争)国益◎ 戦略◎ 戦術◎
清(北清事変)国益◎ 戦略○ 戦術◎
露 (日露戦争)国益◎ 戦略○ 戦術○
ソ (シベリア出兵)国益△ 戦略○ 戦術△
独 (第一次世界大戦)国益◎ 戦略○ 戦術○
支 (上海事変)国益○ 戦略◎ 戦術◎
支 (満州事変)国益◎ 戦略◎ 戦術◎
ソ (ノモンハン事件)国益△ 戦略× 戦術△
支 (支那事変)国益× 戦略△ 戦術◎
米英蘭仏 (大東亜戦争) 国益× 戦略× 戦術○
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
154 :
日本@名無史さん:03/07/17 04:16
加耶の盟主国である金官加耶は、鉄の原産地と生産技術を土台にして
最も進んで強力だったが、なぜか、途中で新羅側へと裏切ってしまう。
155 :
日本@名無史さん:03/07/19 18:53
156 :
日本@名無史さん:03/07/19 18:54
157 :
日本@名無史さん:03/07/26 22:46
たんに、百済語というと、支配者層側のか非支配者層側のか、曖昧で誤解を招く。
例えば、百済語においては、王を意味するものとして、
オリコケとコニキシの2つがあるが、
前者は支配者層である夫余系の言葉であり、
後者は非支配者層である韓系の言葉である。
(^^)
161 :
日本@名無史さん:03/08/03 13:46
日本で「百済王」を「くだらのこにきし」と読むのは、一体どういう事だ?
,,,--─===─ヽ/へ
/iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiii/ \iiiiiiiゞ
iiiiiiiiiiii/ \iiヽ
iiiiiiiiiiiiiii《 ━━━'/ ヽ━━━ ヽミヽ
...iiiiiiiiii彡/ __,.:: :: __ ヽiiiii|
..iiiiiiiiiiiii》| ::: |iiiii|
iiiiiiiiiiiiiiii|, |iii|
..iiiiiiiiiiiiiiiiii, ( ● ● ) .|iiii|
iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii 》━━━━《 |iiiii|
iiiiiiiiiiiiiii《《《ヽ 》 / ̄ ̄\ 《 |iiiiiiii|
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163 :
日本@名無史さん:03/08/10 03:05
たしか倭語で解釈できる高句麗語地名は、安本美典氏の地名比定によると、
「半島中部だけに分布し、北部や南部には存在しない」はずですが、
娜々志娑无氏は安本氏よりもはるかに多くの語句を検討しているように
見受けられます。
そこで、はたして娜々志娑无さんの調査での印象、研究での感触からも
「半島中部だけに分布し、北部や南部には存在しない」という命題は
一定の蓋然性が認められますか?
もし仮にそのような命題が妥当だとすると、
いわゆる「倭語と近縁な高句麗語」というのは高句麗の発祥した地域の
「本来の高句麗語」ではない可能性が高くなり、一口にはいえない
さまざまな多様な仮説をよびおこすことになりそうなんですが。
164 :
日本@名無史さん:03/08/10 03:36
165 :
日本@名無史さん:03/08/11 17:35
高句麗には高床式建築の遺跡などから、ミクロネシア系の文化が浸透していたと推察される。
倭との交易などが盛んだったのだろう
当然、高句麗の言語も倭語からの語彙が反映している可能性は高い。
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
167 :
日本@名無史さん:03/08/16 14:16
倭と隋の同盟がなっていたため、筑紫王朝・倭は隋を助けるべく兵を出していた。
それに対して、ヤマト王朝は唐と密約を結び、背後から倭を急襲。白村江の対外戦に出ていた
倭国は背後を突かれ、補給路が絶たれてしまった。
隋・・・・・・・・
618年 隋、滅亡。唐にかわる。
663年 白村江。
169 :
日本@名無史さん:03/08/21 17:10
170 :
日本@名無史さん:03/08/29 20:37
171 :
日本@名無史さん:03/09/04 22:45
172 :
日本@名無史さん:03/09/05 17:32
日本は平和ボケしてても一発殴られると
蜂の巣をつついたような大騒ぎになり
制度を180度変えてしまうという妙な性質をもつ
そろそろ殴られたほうがいいかもしれない
173 :
日本@名無史さん:03/09/05 17:40
事勿れ主義や平和主義では何の解決も齎さない事を、そろそろ日本人達も気づき始めてる。
もうすぐ維新が始まるだろう・・・・
174 :
日本@名無史さん:03/09/05 17:50
でもなぁ
なんか今の日本の空気は黒船来航直前の
江戸末期というより清朝の滅亡のころに似てる気がするんだよなぁ
覇気がないというか退廃的というか憂う気持ちがないというか
今まで2000年間最後の最後で逆転してきたけど
今回はそのまま滅んでしまいそうだ
175 :
日本@名無史さん:03/09/05 19:11
176 :
日本@名無史さん:03/09/05 19:16
確かに、言い得て妙だ。
・・・やれやれだな。
それもこれも、日本から武士が絶滅したからだ。
武士さえ居れば、ボロボロにされても不死鳥の如き復活を果たしてこれたのだが・・・
177 :
日本@名無史さん:03/09/05 19:26
>清朝末期
ああ、それだ、それ。
維新前夜とはなっかちがうなと思ってたんだよ。
て言うことは相当やばいってことだよな。
内憂外患ってやつだろ?
178 :
日本@名無史さん:03/09/05 23:45
宦官国家ってことだね。
179 :
日本@名無史さん:03/09/06 00:51
やっぱ侍復活これしかねー
幸い日本=侍ってイメージ強いし
復活しても大丈夫。
己に誇り持たなきゃ駄目よ
己の所属する国家にもな。
その点について、徹底的にこれらを悪とし
排除した教育を叩き込んだ人々(あえて誰とはいわないが)は大成功といえよう
今後日本が滅びたらそれは君達のせいだ。
おめでとうw
180 :
日本@名無史さん:03/09/06 12:08
日本で武士道が確立し、西欧で騎士道が生まれたのには共通点がある。
日本と西欧には、長らく封建時代が続くという現象が生まれた。
極めて地方分権的な社会である封建社会は、近隣に強大な中央集権社会が存在すれば、
軍事的に拮抗しきれず併呑される運命にある。
日本では海洋の存在が外圧による中央集権化を妨げ、西欧ではキリスト教信仰による結束が異教徒の外圧を排除する力を生んだ。
地域社会に密着した地方分権社会では個人の役割が明確で、個人に過剰な権限が委任される事がない。
つまり、責任の所在に関して透明度が高いので、限度を越えた腐敗には自浄作用が働き易い。
しかし中央集権社会では官僚システムの充実が体制維持の為に必至となり、体制の構成員はトラブルを起こさない歯車に徹する事を求められるばかりとなる。
そうなるとシステムの中に個人が埋没するので責任の所在が不明瞭となり、個人個人は自分の責任を他人にたらい回しにする方法ばかりを画策するようになる。
181 :
日本@名無史さん:03/09/10 20:07
封建制復活祈願age
182 :
日本@名無史さん:03/09/10 20:34
オタクの妄想はキモイ
183 :
日本@名無史さん:03/09/10 20:35
宦官の方がキモイ
184 :
日本@名無史さん:03/09/10 20:37
武士、騎士を生まなかった中央集権社会の白丁が僻んでますナw
185 :
日本@名無史さん:03/09/10 20:45
まあロシア男性に日本男性が勝てるのって金だけなんだから。
ルックスや体格で敵うわけないし。
裕福なロシア男性には何も勝てないでしょうな。
ロシア人って男女とも白人の中でもルックスが最高峰だと思うよ。
186 :
天武天皇です:03/09/10 21:12
皆さんこんにちは
列島の中に大和と倭という2王朝があっとする推測があるようですね、
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1035617528/618-623 でも書込みましたが、 八色の姓の意味を考えれば、
私が最も皇統として大切に思っているのが、継体帝と言う事を
判ってもらえると思います。 私を含めて150年前の継体帝との
血脈が真人なのです。私が白村江で外部から来たのならそんな身分制度を
つくるでしょうか?
九州王朝? 確かに継体はわけいの乱で九州豪族を一度抑えてますのが、
その偉業がある継体からの飛鳥大和王朝は、当然 白村江の代では
西日本は一体とした王朝なのです。 ご機嫌よう
187 :
日本@名無史さん:03/09/11 17:49
日本土着の天皇を名乗るなら、もう少し日本語を上達させてからにしる。
この当時の唐は最強だからね。仕方あるまい。
>>185 だったら韓国人なんて金でも勝てないから全ての面でロシア人男性に勝てないって事だろ?(笑)
190 :
日本@名無史さん:03/09/11 19:23
>>189 この際、朝鮮人なんぞ関係ない。
ロシア人の方が日本人よりカッコいいと言っているだけで、
朝鮮のことなど話題にはしてない。
なんでも朝鮮に結びつけたがる2ちゃんの朝鮮オタクには呆れる。
191 :
日本@名無史さん:03/09/11 20:08
日本人がロシア男には何も勝てない?
すると、日露戦争でロシアの男どもに勝った自称日本人達の正体は何だ?
192 :
日本@名無史さん:03/09/18 02:45
193 :
日本@名無史さん:03/09/27 17:41
195 :
日本@名無史さん:03/09/27 21:05
唐 (白村江の戦い)国益× 戦略× 戦術△
女真(刀伊の入寇)国益△ 戦略△ 戦術○
元 (文永・弘安の役)国益○ 戦略△ 戦術△
明 (文禄・慶長の役)国益△ 戦略△ 戦術◎
英国(薩英戦争)国益◎ 戦略○ 戦術△
英米仏蘭(下関戦争)国益○ 戦略△ 戦術△
台湾(征台の役)国益◎ 戦略◎ 戦術○
清 (日清戦争)国益◎ 戦略◎ 戦術◎
清(北清事変)国益◎ 戦略○ 戦術◎
露 (日露戦争)国益◎ 戦略○ 戦術○
ソ (シベリア出兵)国益△ 戦略○ 戦術△
独 (第一次世界大戦)国益◎ 戦略○ 戦術○
支 (上海事変)国益○ 戦略◎ 戦術◎
支 (満州事変)国益◎ 戦略◎ 戦術◎
ソ (ノモンハン事件)国益△ 戦略× 戦術△
支 (支那事変)国益× 戦略△ 戦術◎
米英蘭仏 (大東亜戦争) 国益× 戦略× 戦術
196 :
日本@名無史さん:03/10/09 01:57
197 :
日本@名無史さん:03/10/17 00:48
198 :
日本@名無史さん:03/11/06 20:04
199 :
日本@名無史さん:03/11/06 22:29
清朝末期というよりはローマ帝国末期だと思う。
清朝末期にはまだ漢人という新興勢力があった。
日本は均一だから全体として腐るだけで新興勢力がなにもない。
それがローマ帝国末期と似ている。
とりあえず200ごち
それにしても白村江の話が出てないw
201 :
日本@名無史さん:03/11/23 21:34
202 :
日本@名無史さん:03/12/08 23:04
倭軍は現地ガイドをしっかり確保できなかったのではないのか?
畿内分権の非協力(戦闘出撃命令不服従=新羅・唐に密通)も大きいと思う。
203 :
日本@名無史さん:03/12/28 09:20
加耶の盟主国である金官加耶は、鉄の原産地と生産技術を土台にして
最も進んで強力だったが、なぜか、途中で新羅側へと裏切ってしまう。
204 :
日本@名無史さん:03/12/28 09:43
百済王子の豊璋という馬鹿を支援したのが、日本の失敗。
支援する相手を選ぶべきだった。
現在で言えばキューバがグレナダを支援してアメリカと戦争するようなもの。
206 :
日本@名無史さん:03/12/28 10:51
日本史のテストで「白江村」と書いて×もらった
バカはオレだけかとおもっていたが
「白江村」とかいていて、きがついていないHPあった!
みんな、気をつけてね
207 :
日本@名無史さん:03/12/28 14:33
王子の豊璋が最有力の百済遺臣である鬼室福信を殺して、百済勢力内部で争っていたから、勝てる戦も勝てない。
しかも、唐の水軍の知将、劉仁軌の作戦に簡単にはまって、全滅。
唐軍170艘、日本軍400艘(大きさは唐船の方が大きいだろうが)で、
規模的には日本有利だったが、百済の内紛、豪族連合に過ぎない日本軍の指揮系統の未熟、
唐軍の作戦の巧妙さで、唐の圧勝。
208 :
日本@名無史さん:03/12/28 14:41
この戦いのとき新羅は唐の援軍を得ておきながら、
結局は唐軍を朝鮮半島から追い出してしまい、
唐にとっては、何の利も得ることがなかった。
隋、唐の両王朝とも、朝鮮半島に手を出して、大損をしている。
209 :
日本@名無史さん:03/12/28 14:47
唐の力を利用するだけ利用する新羅の外交力に拍手。
あの時代に400艘も派遣できた事自体 謎だ
211 :
日本@名無史さん:03/12/28 22:26
斉明天皇時代の大和朝廷の動員力は想像以上に大きい。
阿倍比羅夫は658年に180艘の水軍をひきいて蝦夷討伐を行っているが、
5年後の白村江の戦の演習だったのではなかろうか?
212 :
日本@名無史さん:03/12/28 22:44
北海道渡島半島まで征服した阿倍比羅夫だったが、
百済遠征軍の一軍の将になり、白村江で大敗。
213 :
日本@名無史さん:03/12/28 22:52
白村江ってなんと読みますか?
俺が習ったのは「はくすきのえ」だったけど最近では「はくそんこう」
って読むらしいね。
214 :
日本@名無史さん:03/12/28 23:08
超大国の唐に勝てない戦に悲壮な決意で挑んだいうより、
数を揃えて自信満々に出かけていったら、
ボロ負けしちゃったというのが真相に近いのでは?
斉明天皇、中大兄皇子以下、朝廷首脳部がみんな九州へ出向いたあたりに、
これで負けるとは少しも思っていなかった感じがする。
215 :
日本@名無史さん:03/12/28 23:13
そうね。ヤル気まんまん秀吉並みって感じ。
でもワザウタとかみると民衆(とくに韓人系)はムリポと思てた模様。
216 :
日本@名無史さん:03/12/29 03:27
>>213 「しらすきのえ」じゃないかな。「はく」は音読み
216はギャグでボケてるのかただの釣りなのかマジにアホなのか、
判定できないのでレスも付けられないなぁ困ったw
218 :
日本@名無史さん:03/12/29 09:33
質問。
白村江の河口で、唐の大軍が配置されていたってことは、事前に倭国の
侵攻の情報が漏れてたの?
219 :
日本@名無史さん:03/12/29 12:18
情報漏れがあったかどうかは知らぬが、
馬鹿王子の豊璋が百済復興軍拠点の周留城を見捨てて、
倭国水軍を出迎えに出たぐらいだから、
唐・新羅側に倭国水軍が来たことぐらいは事前に察知可能。
220 :
日本@名無史さん:03/12/29 12:24
日本書紀の読みはハクスキノエ。こう読む根拠は不明。
旧唐書は白江、新羅本紀では白沙と記されている。
221 :
日本@名無史さん:03/12/29 12:32
ちなみに倭国水軍400艘という数は旧唐書に基づき、
これが一番信憑性が高いとみなされているわけ。
新羅本紀では倭国水軍千艘をやっつけたことになっている。
いかに強敵をやっつけたかを誇大表現したものと考えられる。
肝心の日本書紀に自軍の規模が記されていない。
不思議なことに唐軍170艘という規模については日本書紀に見ることができる。
敵方の規模を記しながら、自軍の規模を記録しない理由は何か?
負けるのが恥ずかしいぐらいの大軍だったんでしょうなぁ。
222 :
日本@名無史さん:03/12/29 14:24
以後、日本書紀を掲載します。
天智二年(663年)八月十三日
新羅は百済王が良将を斬殺したのを聞いて、
直ちに周留城を攻め落とそうと謀った。
百済王余豊璋は新羅の侵攻計画を聞き知って、諸将に諮り、
「今、聞くところによれば、
大日本国の救援軍の将軍である
イオ原君臣が健児万余を率い、
海を越えてやって来ようとしているという。
願わくは諸将は新羅軍の攻撃に備えるがよい。
わたくしはみずから白村に出向き、
そこで日本の将軍らを饗応したいと思う」
と言った。
223 :
日本@名無史さん:03/12/29 14:25
八月十七日
新羅軍は周留城に至って、同城の包囲を完了した。
他方、唐軍の諸将は兵船百七十艘を率いて白村江に布陣を完了した。
224 :
日本@名無史さん:03/12/29 14:25
八月二十七日
日本の水軍の最初に到着したものと唐水軍が戦った。
日本水軍に利がなく退却した。
唐水軍は陣形を堅固にした。
225 :
日本@名無史さん:03/12/29 14:26
日本書紀よりそして運命の
八月二十八日
日本の諸将と百済王余豊璋とは、
気象を見ることなく、
「われらが先を争うようにして攻めかかれば、
敵はおのずから退却するに違いない」
と語り合った。
そして、戦列の乱れた中軍の兵士を率いて、
陣形を一層堅固にした唐水軍に挑みかかった。
唐水軍は日本水軍を左右より挟み込むようにして戦った。
短時間のうちに日本水軍は破られてしまった。
水に落ちて溺死するものが多かった。
226 :
日本@名無史さん:03/12/29 14:26
日本水軍は退却しようにも艫舳を旋回することもできなかった。
朴市田来津は天を仰ぎ誓い、
歯を食いしばって憤り、
数十人を殺し、
ついには戦死を遂げた。
豊璋は数人の従者と船に乗り、
高句麗に逃げ去った。
227 :
日本@名無史さん:03/12/29 14:27
次に中国の記録です。旧唐書です。
しばらくして扶余豊は福信を襲って殺した。
また、使いを高句麗と倭国に遣わして援軍を要請し、
唐軍に抵抗しようとした。
そこで左威衛将軍の孫仁師に詔し、
兵を率いて海を渡って救援に赴かせた。
仁師は劉仁軌らと合流、
全軍の士気は大いに上がった。
228 :
日本@名無史さん:03/12/29 14:36
そこで諸将は軍議を行い、
その席上である者が、
「加林城は水陸の要衝であるから、
まずこれを攻撃すべきである」
と言った。
しかし仁軌は、
「加林城の守りは堅固だ。
一気に攻め落とそうとすれば、
我が軍の損害も少なくあるまい。
また敵軍に城を固守され、
いたずらに日を過ごすより、
まずは周留城を攻めるほうが得策である。
周留城は賊軍の巣窟であり、
凶徒の群集している場所だ。
賊の本拠をこそ殲滅し、
その根源をこそ撃破すべきであろう。
周留城が陥落すれば、
それ以外の諸城などおのずから降伏してくるに相違ない」
と述べた。
229 :
日本@名無史さん:03/12/29 14:37
そこで、孫仁師、劉仁願と新羅王の金法敏は陸軍を率いて進むことになった。
劉仁軌は別に朴爽と扶余隆を率い、
水軍と糧船を率いて熊津江から白江に向かい、
陸軍と合流し、
周留城に赴いた。
仁軌は倭国水軍と白江の河口で遭遇した。
四度戦い四度とも勝った。
倭国水軍の船四百艘を焼き払った。
その煙は天を覆い、
海水は真っ赤になった。
倭国水軍は潰滅し、
扶余豊は身を脱して逃げ去った。
230 :
日本@名無史さん:03/12/29 14:38
最後に朝鮮側の記録を掲載します。
新羅本紀です。
竜朔三年になると、
唐の孫仁師が兵を率いて熊津府城を救援に来た。
新羅軍はこれに呼応して出陣し、
合流した両軍が周留城下まで来た時に、
倭国の水軍が来襲して百済を救援しようとした。
倭国水軍の船数は千艘におよび、
白沙に停泊した。
百済の精兵は岸上から倭国水軍を援護した。
新羅の精鋭は唐軍の先鋒をつとめ、
まず岸上の百済軍を撃破した。
周留城にたてこもった百済兵は大いに落胆し、
ついに降伏を申し出た。
231 :
日本@名無史さん:03/12/29 17:07
日本・百済側の
「われらが先を争うようにして攻めかかれば、
敵はおのずから退却するに違いない」
といういい加減で行き当たりばったりな作戦と
唐の将、劉仁軌らの軍の損害を抑える作戦方針との違いが明瞭です。
日本側は負けるべくして負けた。
232 :
日本@名無史さん:03/12/29 17:38
戦後、日本は唐・新羅の報復を恐れ、
大宰府防衛の大規模な土塁の水城を建設。
亡命百済人によって建設された大野城のような
朝鮮式の城もいくつか建てられている。
防人を東国から集められたのは有名。
白村江の戦いの翌年に唐は使節を日本に派遣。
日本側も遣唐使派遣を再開。
一方で唐・新羅間で戦争勃発するなど、
結構、複雑な国際関係があったと思う。
233 :
日本@名無史さん:03/12/29 17:51
敗戦後の仲間割れや責任のなすりつけ合いが
また見苦しいというか、なんというか。
日本に亡命してきた奴もいれば、
寝返った奴、雲隠れした奴もいたりして
そいつらを巻き込んでのドタバタが続く。
戦後(第二次大戦)政治の戯画を見るようです。
以降の遣唐使や鑑真の苦労を考えると
100艘以上の軍船を送ることが出来てたのは、
まさに戦前と戦後を見るようですね。
日本側には上将軍・中将軍・下将軍がいて三分されていた。
全体をまとめる総大将=総司令官がいなかった。これも敗因の一つという説もある。
しかし「いなかった」というのは不自然だから、実はその人物の恥を隠すために
あえて書かなかったという説もある。
236 :
日本@名無史さん:03/12/30 02:13
倭国の総兵力動員数ってどれくらいだったの?
軍船400隻位ってのは、わかるけど兵力数的にはどれ位かな?
あと唐と新羅の兵力はどれ位ですか?
237 :
日本@名無史さん:03/12/30 02:16
ちょっと待って。
日本側の参加者って誰?
238 :
日本@名無史さん:03/12/30 12:07
日本書紀より
(漢字変換がめんどうなので、人名は「」のひらがなにします)
天智即位前紀
八月
前将軍の大花下・「あずみのむらじ ひらふ」、
小花下・「かわべのおみ ももえ」、
後将軍の大花下・「あへのひけたのおみ ひらふ」、
大山上・「もののべのむらじ くま」、
大山上・「もりのきみ おおいわ」を遣わして百済を救援させた。
239 :
日本@名無史さん:03/12/30 12:11
あずみのむらじ、かわべのおみ、あへのひけたのおみ、というのは、
自前で、水軍を持っている豪族らしい。
日本書紀では彼らに冠位を付けて紹介しているわけ。
他にも幾人かが出ている資料があるが、調べるのが面倒なので、パス。
240 :
日本@名無史さん:03/12/30 12:19
日本書紀より
天智二年三月
前将軍の「かみつけぬのきみ わくご」、「はしひとのむらじ おおふた」、
中傷軍の「こせのかんさきのおみ おさ」、「みわのきみ ねまろ」、
後将軍の「あへのひけたのおみ ひらふ」、「おおやけのおみ かまつか」
を遣わし、二万七千の兵士を引いて新羅を討たせた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ということで、2万7千人の兵力です。
241 :
日本@名無史さん:03/12/30 12:33
後の時代の三善清行が書いた意見封事十二箇条の中で、
中大兄皇子が備中のニマ郷で試みに兵士を徴発したら
二万人も集まったので、地名に二万郷という名前が付けられ、
それがニマ郷の由来とかいう話が載ってる。
本当かどうか知らんが、
律令制初期の人民動員力が
後世に比べて桁外れに大きかったんだろう。
242 :
日本@名無史さん:03/12/30 16:19
大船団といえば、天智十年に唐から来た使節団は四十七艘、二千人。
このうち千四百人が白村江で捕虜になった倭国兵で、
唐使は日本に対する好意の表れとして、
捕虜送還にやって来たらしい。
全体を指揮した大将軍は大海人皇子。舎人親王の親父だから日本書紀はあえて隠蔽。
244 :
日本@名無史さん:03/12/30 16:28
遣唐使の粟田朝臣真人が則天武后に謁見の後の宴で、宮廷で使役されていた人の中に日本人が数名いることに気づいた話がある。
彼らは捕虜となった後、40年使役されていた。
真人が彼らの帰国を願い出て許され、彼らは40年ぶりの故国に帰れたという話だ。
245 :
日本@名無史さん:03/12/30 19:55
現在、和白干潟沖人工島問題で大揺れに揺れている
福岡市博多湾に存する志賀海神社(底津綿津見神)の宮司は阿曇さん。
そして博多総鎮守櫛田神社の宮司は阿部さん。
で、先に挙げた和白という地名は地元資料によると
古代新羅語で“会議”という意味だそうだ。
この近辺には他にも佐伯(部)さん、武内(宿禰)さん、
高橋さんといった古代姓の方がゴロゴロいるのだ。
246 :
日本@名無史さん:03/12/31 11:46
247 :
日本@名無史さん:03/12/31 12:45
248 :
日本@名無史さん:03/12/31 17:55
粟田朝臣真人の話は続日本紀の中にある。
249 :
日本@名無史さん:03/12/31 22:46
万葉集より額田王の歌
熟田津に
船乗りせむと
月待てば
潮もかなひぬ
今は漕ぎ出でな
斉明天皇が四国伊予の熟田津から百済遠征軍の基地、
筑紫へ向かおうと船出する様を描いた歌。
250 :
日本@名無史さん:04/01/01 10:16
今年の抱負は、るちあちゃんとの新婚生活。
251 :
日本@名無史さん:04/01/02 11:31
>>245 「和白」(ワハク)というのは新羅語で会議とか話し合いのことだけど、
日本語の「いわく」(曰く=いはく=言ふ+あく)と似てるのが面白いね。
同系統の言葉かどうかは専門家じゃないと判定できないので
安直なこじつけは良くないけど。
253 :
日本@名無史さん:04/01/03 12:08
斉明女帝の病気と急死ということで、
日本軍の出発が遅れたということも敗因でしょう。
254 :
日本@名無史さん:04/01/03 22:30
何で日本は百済の要請に答えて出兵したのか?
しかもかなりの大軍を、並々ならぬ準備と決意を持って、
出兵したのは、どんな動機によるものだろうか?
百済にどんな義理があったの?
255 :
日本@名無史さん:04/01/03 23:55
>>254 百済が日本の属国だから。
今の米国と日本の関係みたいなもんじゃないですか?
256 :
日本@名無史さん:04/01/03 23:59
後、考えられるのは、百済は大陸への海上ルートを押さえていたから。
倭王武の上奏文に「百済で船舶を整え」みたいなことが書いてある。
257 :
日本@名無史さん:04/01/04 10:58
小さな島国の分際で属国を抱えようとするとは、身の程知らずの日本だ。
258 :
日本@名無史さん:04/01/04 11:19
>>257 人口的に言ったら日本は大国
当時の人口比
中国:3000万ぐらい
日本:5〜600万
百済、新羅:数十万
259 :
日本@名無史さん:04/01/04 11:58
高句麗は数百万単位の大国なのかしらん?
隋の煬帝、唐の太宗の軍を退けたぐらいだから。
260 :
日本@名無史さん:04/01/04 17:12
唐も建国から太宗ぐらいまでは、戸籍の整備が未完で、動員力が限られていた。
高宗の代になると、国力がかなり充実する。
突厥を征服した後は、かなりの兵力を朝鮮半島に振り向けるだけの余力が出たんだろう。
百済・日本連合を壊滅させ、ついには失敗続きだった高句麗征服を成し遂げた。
261 :
日本@名無史さん:04/01/04 17:15
でも結局は新羅に追い出される。
朝鮮に手を出すと手痛い傷を受ける。
大国の唐であっても。
263 :
日本@名無史さん:04/01/04 22:15
百済の方が先に新羅を侵略した。
あわてた新羅の王子、金春秋は唐、高句麗、そして日本をも訪れている。
高句麗王は新羅王子に冷淡かつ敵対的に対応。
高句麗は百済と結んで新羅を攻めるつもりだったのだろう。
その次に王子は日本を訪問した。しかし日本から支援は得られなかった。
唐に援軍を要請したが、唐の太宗は、新羅王を廃して、唐の王族を王に擁立すれば、援軍を出すというとんでもない要求を出した。
さすがにこれは受け入れなかったが、しだいに唐への従属度を高めた。
弱国であるが故の苦労の末、
新羅は唐軍の力で百済、高句麗を滅ぼし、
日本の大軍を退け、
さらに唐への抵抗と数年間の戦闘の末、
ついに朝鮮半島全域を統一したのだ。
一番の弱国が綱渡りのような外交戦術で
朝鮮天下を統一する物語は誉められてもいいと思う。
264 :
日本@名無史さん:04/01/04 22:31
比較して考えれば、日本は百済よりも新羅の味方をするべきだった。
支援する相手を選ぶ能力に欠けている。
ただ、『日本書紀』『古事記』を見ると
総じて日本は百済には親近感があるようだけど新羅は「 (゚Д゚)ハァ」という感じなんだよねえ。
最も『日本書紀』『古事記』は両方とも白村江の戦いで負けた後に編纂された書物なので
ある程度百済よりの記述が多くなることは割引いて読んだ方がいいと思われ。
ちなみに『日本書紀』の「欽明天皇紀」では百済の2枚舌にふりまわされる日本(当時は倭)
も記述されています。これなんか読んでいると、どうして後に日本は百済寄りになってしまう
のかなあ、と不思議に思いますが。
半島にあった倭領(名前をワスレテシマッタ)はその当時どうなっていたんですか。みなさんのご意見をお聞かせください。
267 :
日本@名無史さん:04/01/05 02:37
>>265 百済と新羅の国力とかどうだったんですか?
また、人口差は?文明の進度は?
シロート考えで申し訳ないが、
>>266さんのいう任那
の件で、大和側としては「新羅を潰しちゃえ!」作戦
だったとか考えられませんか?
シロート的に考えますと、
百済の方が隋唐に近く、政権中枢にも漢人がいたでしょ
うから、「強い方(百済)と組んで、小さい方(新羅)
を倒してしまおう」という計算だったと思うのですが。
トノサマ心理的には。
極端に言えば、新羅を滅ぼした後、その旧領の北側を
百済が併合する&南側は大和が併合する、または、
何らかの見返り(任那日本府の復活或いは利権若しく
は高度な技術)を得るという計算があったのではない
かとも思うのですが。
大伴金村の時代に失った鉄の利権を再度回復できると
考えたのではないかと。
質問! 「任那」これなんて読むんですか?
みまな
270 :
日本@名無史さん:04/01/05 02:54
みまな
271 :
日本@名無史さん:04/01/05 02:55
早撃ちは俺の勝ちだな・・・フッ・・・
272 :
日本@名無史さん:04/01/05 02:55
あ、負けたんか・・・フッ・・・
273 :
日本@名無史さん:04/01/05 21:28
任那は新羅に併合されたんだよ。
継体朝成立のごたごたの最中に。
274 :
日本@名無史さん:04/01/05 21:46
>>265 当時は中国、山東半島→百済→日本と貿易路があったので
日本の有力豪族(国際貿易商人)は百済支援に動いた。
新羅は山地の蛮族系。百済は商人系。高句麗は馬族系。
275 :
日本@名無史さん:04/01/05 22:02
>>273 正確にいうと、任那(加耶)滅亡は欽明二十三年(562年)です。
それ以前になし崩し的に、新羅は任那(加耶)の領土を掠め取っていますが。
あぼーん
278 :
日本@名無史さん:04/01/06 09:16
百済支援の理由をまとめると
・歴史的に百済に関係が深く、親近感があった。
・一時期、百済が新羅を圧倒し、勢いがあった。強い方に味方。
・貿易のルートとなっていた。
ですか?
それでも、唐に歯向かってまでも、百済救援に動く理由がわかりません。
新羅だって、日本の属国に甘んじて、貢物を献上していた国ですし、
新羅が百済を併呑したら、倍の貢物を要求すればいい話だし、
百済・新羅間紛争は明らかに百済の方に非があるし、
日本側でも百済は不誠実な国として認識できているし、
まして唐と事を構えようというのは愚の骨頂、狂気の沙汰としか思えないし、
唐が出てくる前に、百済をけん制しておいて、新羅に恩を売っておくだけでも、
十分、外交的利益が確保される気がするし、
まだ大軍を送り込むまでの動機が私にはつかめていないです。
279 :
日本@名無史さん:04/01/06 10:09
唐と日本の代理戦争だったんだよ。
あそこはいつもそんなかんじ
280 :
日本@名無史さん:04/01/06 11:02
代理戦争を操れるほど、倭が外交に長けていたら良かったんですがね。
どう考えても情勢分析が甘いし、後手後手の出兵だよ。
281 :
日本@名無史さん:04/01/06 14:11
倭は朝鮮半島を分裂させておく戦略だった。
どこかの勢力が統一することは望んでなかった。
それに唐が本格的に乗り込んでくるとは思ってなかったんじゃないかな?
それに隋と高句麗の戦い、隋の滅亡を見てるわけだから、勝てるかもと
おもってたとしてもおかしくない。
>>276 >唐軍二千に倭に連れ戻された。
これはかなり異様だったろうね。ペリー上陸かマッカーサーみたいなものか。
282 :
日本@名無史さん:04/01/07 09:34
671年での捕虜送還の唐使 郭務悰に率いられたのは47艘の大船団だった。
いきなり筑紫沿岸に現れると敵来襲に間違われるので、
最初に数名を対馬の官家に派遣し、来航の趣旨と規模を通知している。
対馬の官人はすぐさま大宰府に連絡する使いを送っている。
防人が置かれたのは664年。唐の報復にビクビクしていた頃で、
大船団登場にかなりの緊張があったと思う。
>>278 義理しかないだろう。
百済が唐に滅ぼされそうになったので、
損害を度外視してでも救援せざるをえなかっただけ。
義理人情で外交をすることが、
如何に愚かかという事だな。
285 :
日本@名無史さん:04/01/07 23:18
国際正義に基づく場合は、損害を度外視しても信義を貫いた方が信用を獲得する利益があると思う。
しかし百済のような信用度の低い国家に義理立てする価値はないよね。
義理じゃなくて金も絡んでると言ってるだろうが。
それに新羅なんぞに統一されたら倭の朝鮮半島の分割統治ができんだろうが。
奈良百済の倭人必死ニダ
白村江の戦いは、半島倭人救出の為の陽動作戦であった。
が、しかし、思わぬ大敗戦をしてしまったのでした。
おかげで、多くの一般倭人が生きて倭に帰れたと。
こんな仮説どうでっしゃろか?
289 :
日本@名無史さん:04/01/08 15:14
>>288 興味深い仮説だが、軍議の主導権を百済王子が持っていた点が引っかかる。
倭人救出が目的なら、軍事作戦立案の決定権は倭にあるだろう。
もっとも、敗戦の主因を百済王子の愚かさのせいにしたいという日本書紀の思惑による記述かもしれないが。
290 :
日本@名無史さん:04/01/09 10:08
高句麗の広開土王の碑文によれば、
391年に倭軍が海を渡って百済と新羅を従えた。
400年に高句麗が百済と同盟している倭軍を打ち破っている。
その260年後、白村江が起きた。
百済支援と敗戦は数百年の伝統か?
>>288関連レス
※九州王朝はあったか?※ スレより
>>10 >白村江の戦いスレで、大好きさんの京都弁に感激しました。
>当方かみつ「毛」の野人です。
亀亀亀亀亀亀レスですが。
僕は京都弁ではありません。
出身地の奈良弁でもありません。
大阪弁です。
大阪弁に船場言葉も入っています。
船場言葉には京都弁が入っています。
神戸弁(播州弁)も少し混ざっています。
摂津弁がベースになっています。
奈良・大阪船場(京都)・神戸・摂津
いろんな関西弁が混ざっています。
あなたについて、一言。
『上つ「毛」の人』に異論を持っています。
「かみツケ」ではないでしょうか?
「かみツケ」「しもツケ」−−−「ツケ」北関東
「かみフサ」「しもフサ」−−−「フサ」東南関東
「(ム)サかみ」「ムサし(も)」−−「ムサ」西南関東
「ヒタか(み)」「ヒタし(も)」−−−「ヒタ」東関東 (ヒタし→ひたち)
関東平野の真ん中は海でした。
>>264-290 白村江の戦いは五胡十六国の乱にはじまる東アジアの大動乱の東方における最終局面。
高句麗が鮮卑系の燕との確執の中で楽浪郡を併合、その南下に対する倭韓の抵抗が、4世紀の
広開土王碑に表れている。この段階では新羅はまだ両勢力の間で右往左往するだけの弱小勢力。
5世紀から6世紀にかけて、高句麗におされて百済が弱体化するたびに、倭は二度にわたって
慕韓(熊津ついで四郡)を割き与え、慕韓がなくなるとさらに加羅の領域だった二郡までも与えて
百済を再建強化したが、それは任那(慕韓)利権を失った倭国内抵抗勢力と、
均衡瓦解を恐れる新羅・加羅の激しい反発を招いた。
百済は表面的には倭に臣従していたがこれをみて内心は倭の統治者としての力量に
危惧の念を抱き、新羅・加羅に対しては独自路線を敷いたが、反発を押さえるために
懐柔策でなく駐留軍を出したため事態を悪化させ、加羅は新羅寄りになってしまった。
むろん加羅にとっては倭と結ぶ以外に生きる道はなく、親新羅策も親百済策も自滅への道にはちがい
ないが、倭は国内の抵抗勢力のためがんじがらめになっており事態収拾能力のなさを露呈していた。
百済は国の成り立ちからして征服王朝であり、征服者として加羅諸国に乗り込もうとして失敗したが、
新羅は対称的に、加羅諸国の王族貴族を厚遇し、同君連合のような形で加羅諸国を併合した。
新羅が強大化するのはようやく6世紀になってから。そのきっかけは倭と百済の対加羅外交のミス。
(続く)
(
>>292から続き)
隋唐の手が伸びてからは高句麗・百済・倭の三国は中国からの
脅威のため、ほぼ友好的でまとまっていたが、
半島では急激に成長した新羅が高句麗・百済と必然的に対立していたので、
新羅にとって高句麗・百済・倭の三国同盟は自国の滅亡を意味する。
「唐=新羅」vs「倭=百済=高句麗」という図式以外にはなりようがない。
もちろん、かつての加羅が新羅についても百済についても結局滅亡したように
新羅も、唐についたところで自分の首を絞めるのがいくぶん遅くなるだけの違いなので、
新羅は一貫して倭には朝貢国として形式上の臣従を守り関係修復の機会を待っていたが
日本は容易に相手にしなかったので、新羅は独力で唐と戦うはめになった。
唐が新羅の郡県化を諦め属国にするだけで満足したので、新羅は滅亡をまぬがれた。
逆にいえば属国化することでしか生き延びることのできない半島国家の始まりでもあった。
294 :
日本@名無史さん:04/01/11 19:33
>>276 >白村江の戦いの総指揮官は「薩夜麻」です。
具体的な根拠あるの?
295 :
日本@名無史さん:04/01/11 19:37
九州信者の妄想
>>294 671年、唐は二千の兵を倭に派遣しました。
その時、戦争を避ける為つれてきたのが、唐の捕虜だった薩夜麻です。
◆◆君も歴史の目撃者!愚か者が再生産される瞬間!◆◆
>436 :日本@名無史さん :04/01/12 05:06
>よくわかったよ。
>九州王朝説というのは任那日本府実在説と同レベルなんだ。
>この一語に尽きるよ。
>439 名前:日本@名無史さん :04/01/12 05:37
>漏れは九州王朝支持派でもないけど、任那日本府はあると思ってた。なかったの??
>
>
>440 名前:日本@名無史さん :04/01/12 05:52
>それが今は普通。
登場人物はすべて畿内派
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1072200231/2-
薩夜麻は唐の捕虜でそ
なんでそいつが全軍の総司令官だったことになるんですか?
299 :
日本@名無史さん:04/01/12 10:10
天智十年の捕虜送還者代表数人の中に筑紫君薩夜麻と名前があるが、軍の立場は書いてあったっけ?
300 :
日本@名無史さん:04/01/12 11:26
地方の王でも「君」を名乗れるのは最上位クラスだと思うが。
>>298 薩夜麻は唐の捕虜でそなんでそいつが全軍の総司令官だったことになるんですか?
>>299 筑紫君薩夜麻と名前があるが、軍の立場は書いてあったっけ?
筑紫君薩夜麻の軍における立場の記述はありません。
白村江の海戦で倭は敗北したが、
倭は唐に降伏していなかった。
その倭を降伏させる為に倭に来たのが唐軍二千。
倭との戦闘を避ける為に使ったのが、捕虜であった筑紫君薩夜麻。
薩夜麻は戦争を起こさせないにたる人物であると唐が判断した。
薩夜麻は倭の最高位に近い人物と判断できる。
当然、戦場では総司令官にあたる人物に該当する。
阿倍比羅夫も参戦してたんだよね
303 :
日本@名無史さん:04/01/13 17:53
>>301 >倭を降伏させる為に倭に来たのが唐軍二千
唐使 郭務悰が倭を脅すためのデモンストレーションとしてやってきたというのは初耳だ。
前年に唐と新羅の間で戦闘が始まっている。
唐としては倭を脅して勝敗を決めるより、
早急に日本と和睦し、援軍を日本に求めたいと考えていたような気がするが?
>薩夜麻は戦争を起こさせないにたる人物であると唐が判断した
薩夜麻以外に名前が挙がっている人たちはどういう人たちになるのか?
最初に対馬の官庁に出頭した倭人筆頭は薩夜麻ではなく、
僧侶の道久だったのはなぜ?
>>303 勿論、唐は倭に戦争状態の中止の為と新羅への援軍の要請の為の交渉に来たのです。
僅か、手勢二千では脅しにはなりませんね。
総司令官薩耶麻を筆頭に倭各地出身の司令官達(各地の有力者)でしょう。
僕は確認の為に調べたことはありません。
交渉の糸口を作るには、元権力者・軍人ではダメでしょう。
仲介役としては僧などの文化人が適切でしょう。
交渉の糸口を作るには、軍人ではダメでしょう。
僧などの文化人が適切でしょう。
白村江の戦い なら火の鳥太陽編を
306 :
日本@名無史さん:04/01/13 21:05
阿部比羅夫
白村江の後よく、唐は踏みとどまって
日本には攻めてきませんでしたね?
>>307 唐が倭に攻めてくれば、水上戦で強力水軍の倭に負けるのは、当時の常識であった。
唐が白村江の海戦に勝てたのは、百済の親唐派の手引きと倭の油断があったから。
タリシホコが隋に向かって天子を宣言できるほどの強力水軍であった。
そうじゃなくて、唐にしてみれば倭に攻め入るかどうかの判断する前に
すでに新羅と交戦状態に入ってしまっていたのだから、
倭に援軍たのむか少なくとも中立でいてくれるように頼むのが当たり前。
301と304は矛盾してないか?
「元権力者・軍人ではダメ」なら薩耶麻は下っ端だった可能性もあるだろ
少なくとも、「捕虜の中では」最上位だったにすぎず、
全軍の総司令官だったという証拠にはぜんぜんならない。
311 :
日本@名無史さん:04/01/14 00:03
則天武后は唐軍の将に「さっさとケリをつけて早く帰ってらっしゃい」と厳しく命令していたが
それから既に数年経過してしまっていたのである。厳しい処分が予想された。
ゆっくりしているヒマはまったくなかったのである。
カクムソウの来倭の最大目的は、倭軍の半島派遣の要請です。
唐の倭支配の条件化で彼は目的を果たそうとした。
成功するはずがない。
しかも、カクムソウ在倭時には、九州王朝は王朝派と天武派に分裂状態。
筑紫君薩摩夜は、後に近畿王朝から非難侮辱を受けるほどの人物。
彼は部下を奴隷にまでして生きて帰ろうとした
君主としてあるまじき人物、と間接非難されていますね。
薩麻耶は九州王朝の最高位に近い人物、弟王と判断してよい。
当然遠征地では最高指揮官。
修正:
○薩夜麻 ×薩摩夜×薩麻耶
九州王朝ネタはとりあえずどうでもいいよw
薩夜麻が総司令官だったというのは信憑性があるのかガセなのかを知りたかっただけなんで。
「筑紫の君」と大和朝廷が言っているんだから最高権力者だろう。
最高権力者が捕虜になっていたんだから、最高指揮官だろう。
そうでない証拠があれば別だが。
316 :
日本@名無史さん:04/01/14 11:59
筑紫君薩夜麻の従者である筑後国上陽東Sの大伴部博麻は
主人とその友たちの帰国費用を賄うために自ら進んで奴隷になっている。
大伴部博麻は30年間異国で奴隷として使役されたが、
30年後に帰国することができた。
日本書紀に大伴部博麻の帰国時の“インタビュー記事”が掲載されている。
「長かったろう、辛かったろうとのお尋ねですが、
あの時に別れたきりの方々にお目にかかれることで、
もう胸がいっぱいです。
あのう、ひとつだけお尋ねします。
薩夜麻様は存命でいらっしゃるのでしょうね。」
>「筑紫の君」と大和朝廷が言っているんだから最高権力者
意味不明だな。君なんてのは名目的な格式がちょっと上なだけで
臣や連の方がよほど権力あるだろうに。
筑紫の最高権力者を「筑紫の君」と読んでいるワケだ
筑紫の臣や連の方がよほど権力ないだろうに
センセイと同じ......
320 :
日本@名無史さん:04/01/16 02:25
この戦いや日本の百済支援は韓国の国定教科書に全然載ってないのワロタ
古代中世スカスカで教科書の半分が日本統治時代だったよ
>>318 越道の君や廬原の君や毛野の君や大墓の君は「○○の君」と読んでいるワケだがそれが何か
大伴の連や蘇我の臣の方がよほど権力あるだろうに
禿禿しくスレ違いなのだが正直おましろかった
しかし力作故に高速回線でも重すぎて時間的ブラクラである罠w
日本史板は全然どーってことなかったが、そういうことだったnonew
田舎ローカル大王のもとで、
大伴の連や蘇我の臣は絶大な権力
越道の君や廬原の君や毛野の君は「君」。
浪速(大和)の君も「君」。
肥の君もいただろう。
九州を統一したのも、「前君」と呼ばれた何処かの国の「君」。
全ての「君」は、筑紫の君と同列の「君」。
ただ、筑紫の君は「君」の中で、当時「君」の中の「君」と認められていた。
いくら武力権力があっても、大伴の連と蘇我の臣は「君」仕える者。
age
>全ての「君」は、筑紫の君と同列の「君」。
>ただ、筑紫の君は「君」の中で、当時「君」の中の「君」と認められていた。
すべての君は同列といいながら、筑紫の君だけ別格扱いする理由はなに?
>いくら武力権力があっても、大伴の連と蘇我の臣は「君」仕える者。
その君とは天皇のことだろ。カバネの君とは別。大伴や蘇我が、廬原の君や毛野の君に仕えているわけではない。
君・臣・連というのはどれもカバネ(豪族のランキングみたいなもの)にすぎない。
>筑紫の君だけ別格扱いする理由はなに?
歴代の中国の王が国交の対象した相手だから
329 :
日本@名無史さん:04/01/17 15:55
筑紫君薩夜馬の他に、筆頭の僧侶である道久、韓嶋勝裟婆、布師首磐、という人々がいる。
土師連富杼、氷連老、弓削連元宝の面々も送還捕虜の中にいただろう。
どうして薩夜馬が特別で最高司令官なんだろう?
330 :
日本@名無史さん:04/01/17 17:11
日本列島中、最高位だからでしょう
331 :
日本@名無史さん:04/01/17 17:50
倭や百済、新羅といった 国名を一旦忘れて考えてみよう。
五胡の戦乱時代とは、東洋史においてなんなのか?
漢文明の諸族VS北方蛮族である。
五胡の時代、漢文明の諸族は四散した。
そして中原は結局、北方蛮族の手に落ちた。
半島も同じである。漢文明の諸族の勢力が
北方諸族と対立したのである。
そして、東洋のガラパゴス日本列島では
漢文明が残ったのである。
大して半島は、白村江を最後に全てが北方諸族の影響下の文明となる。
漢文明諸族最後の戦いが白村江である。
しかし面白いことに、唐は漢化がおき
日本列島では、唐が異文化トレンドとなり
文明の線引きとしては複雑な様相となる。
漏れも329と同じ疑問。
328や330は根拠になってない。承認を得られてない仮説を根拠にはできない。
まず328や330はその自説を証明するのが先。
証明?
大勢の学者が、膨大な論議を経て立てているこの仮説を
2chのこの場で証明するわけ?無理でしょう。
>大勢の学者が、膨大な論議を経て立てているこの仮説
そんなら文句は言わないさ。
珍妙なことを言い出してるアホがいるから「証明しろ」と一転の。
335 :
日本@名無史さん:04/01/18 10:01
日本書紀、旧唐書などのわずかな文献しか証拠がないから、
自分の好きなように仮説は作れる。
どこからでも矛盾のないような理路整然とした仮説を生み出してほしい
日本が百済をさっさと切り捨てて唐側に付いていれば良かったというだけの話。
>>336 そんなことしたら新羅まで一気に潰れて、唐を半島の外に押し返す力も残らず、
半島すべて唐の郡県となって日本と隣接することになっただろう。
日本としては絶対あってはならないシナリオ。
>>327-335 歴代の中国の王が「筑紫の君」を国交の対象としたとか、
筑紫の君は他の君カバネの氏族とちがって日本国中で最高位だとか、
そんな妄想を容認するほど日本書紀、旧唐書はスカスカじゃないだろ
339 :
日本@名無史さん:04/01/18 11:13
>>337 唐と新羅が交戦状態になった時点で、唐の味方につくという選択肢はあるんじゃないか?
>>339 それ以前に日本が新羅のような役回りをすれば良かっただけ。
百済とは攻守同盟でもなんでもない。
自国領を掠め取られてさえいる。
そんな国のために戦って敗れたら、
結局は日本は馬鹿だったと言われて終わりだ。
実際に新羅は複雑な動きをしている。
白村江の戦いでは洞が峠を決め込んでいたんじゃないか。
唐の水軍が日本を待ち受けていた間にも、
新羅は唐に合流はしていない。
筑紫の君は唐が政治折衝の道具として使える「君」だから、
倭の「君」の中の「君」であるといえる。
同じ「君」でも近畿天皇より格上の「君」と判断できる。
344 :
日本@名無史さん:04/01/18 17:39
唐との関係をめぐる対立が新羅国内であった。
唐の王族を迎えて新羅王として擁立しようとする反乱が発生している。
反乱は鎮圧され、首謀者30数名が処刑されている。
この結果、唐の力に依存するものの、完全な従属国にならずに独立自存でいくという路線が固まった。
新羅の唐に対する複雑な動きは、唐をいかにうまく利用するかの苦心の末の動きであるわけだ。
345 :
日本@名無史さん:04/01/18 17:46
唐は新羅の要請にすぐに答えて援軍を出したわけではない。
やっと援軍を出してきたが、兵糧の拠出を新羅に求めてきた。
新羅は自分勝手な唐をなだめすかすために、
大変な苦労をすることになる。
新羅国民は税負担が大きくなり、疲弊する。
それでも我慢するしかなかった。
倭に新羅のような芸当ができるだろうか?
346 :
日本@名無史さん:04/01/18 17:51
後に新羅が唐軍を半島から追い出せたのは、
唐軍の兵糧を新羅が負担していたからだろうね。
後々の戦略があって、唐の無理な要求でも応じていたわけだ。
弱国の戦略、綱渡りの外交力として、新羅は誉められていいと思う。
>>343 多くの捕虜の中のひとりに過ぎませんが何か?
倭国王が捕虜の一人だったわけですがなにか?
そんなことは日本書紀にも唐書にもその他いかなる史料にも書いてありませんがなにか?
倭国王が前線で捕虜になるわけないだろ
351 :
日本@名無史さん:04/01/19 19:16
前線で捕虜?司令部ででしょ。
司令部ってどこ?
353 :
日本@名無史さん:04/01/19 20:20
お前ら本当、想像力に欠如したアホばっかだな、
国より、文明で考えろよ、
当時の唐(並びに北方諸族)は、まだ漢化してないんだって。
この当時
半島南部から日本列島は、漢文明の勢力圏だろ、
北方蛮族の新興勢力 VS 五胡騒乱で半島や列島に移り住んだ漢の豪族諸族
という対立が必ずあったわけだよ。
十分漢化してない蛮族文化を、豪華絢爛「六朝文化」に傾倒してる百済や倭の豪族が
受け入れるはずがない。その反発は相当だろう
なんだよ司令部って。前線の司令部なら前線だろうが。そんなところに本国の国王がいくかよ。
百歩譲っても、送られてきたその捕虜が、司令部で捕まった捕虜だってどうしてわかるんだ?
355 :
日本@名無史さん:04/01/19 21:47
前線に、薩夜馬がいたとする理由を知りたいな
だから前線の司令部だろ?司令部が陥落した時に捕まったんじゃネーノ?
周留城(つるのさし)だっけ?
358 :
日本@名無史さん:04/01/19 22:34
>>331 >>353 非常に重要な指摘ですね。
唐は元々、漢化する前は人種的には胡や北狄ですよね。
この時代に自分たちとは異質なもの他者として倭国人達に
強く認識された唐ははるか後代まで外国の総称となりました。
秀吉の唐入り。(戦った相手は明国だったけど)
江戸時代の唐物屋(輸入元は清国だったけど)
幕末の唐人お吉(ハリスはアメリカ人だったけど)
倭人は支那本土ではほとんど滅びた元々の漢人の末裔と
理解して良いんでしょうか。
呉服着てたり、髷結ってたり、雅楽が残ってたりするし。
359 :
日本@名無史さん:04/01/19 22:47
>>358 >呉服着てたり、髷結ってたり、雅楽が残ってたりするし。
周辺文化に古い文化が残ることはよくあることだが。
>>344 >>355 遠征の前線に倭国王がいるのは、倭国の伝統。
倭の5王も前線に出ていたでしょ。
高句麗で中国と韓国が揉めてるらしいね
362 :
日本@名無史さん:04/01/21 09:20
新羅の太子、金春秋(即位後は武烈王)は
自ら唐、倭などを訪問して見聞を広め、
新羅王として指導力を発揮した。
倭の天皇あるいは皇太子も自ら海外へ渡航し、
海外事情に通じておれば、
無様な敗戦をせずに済んだかもしれない。
363 :
日本@名無史さん:04/01/21 09:26
北海道遠征をやった名将・阿部比羅夫は、白村江参戦以降の記録はないみたいだけど
けっきょく、異国の骨であぼーんってことでいいの?
364 :
日本@名無史さん:04/01/21 11:09
倭の軍船はみんな海に沈んだが、
百済人の亡命用の船は無事に倭に到着している。
追っ手を逃れて、脱出に成功できたのが不思議。
365 :
日本@名無史さん:04/01/21 11:25
671年での捕虜送還の唐使 郭務悰って、
664年と665年にも倭を訪問しているんだね。
大船団を率いて671年にやってきたときは、
7ヶ月滞在し、滞在中に天智天皇崩御。
彼らが帰国した直後に壬申の大乱。
唐軍の副将でもあった郭務悰は何しに倭に来たのだろう?
366 :
日本@名無史さん:04/01/21 15:37
367 :
日本@名無史さん:04/01/21 15:40
ソースはチョンの脳内ですか
>>362 君たちの大好きな天皇はイギリス留学してるんだが。ぷ。
naverで韓国人が新羅が唐と高句麗を滅ぼしたから領土が減った
と書いてあった。韓国歴史教科書の高句麗の版図は広すぎだわさ。
最大版図の記憶は忘れないものだね→イラン・マケドニア・イタリア・モンゴル・英国
えっ!
天智と天武が本当の兄弟だと、みんな信じてるの?・・・知らなかった!
372 :
日本@名無史さん:04/01/22 09:26
天武が生まれた年がわからない・・・。
373 :
日本@名無史さん:04/01/22 09:29
374 :
日本@名無史さん:04/01/22 09:37
出兵規模の大きさ、朝廷がそっくり筑紫へ移動してまでの決意、
用意周到な百済人亡命作戦などを考慮すると、
百済救援軍派遣の動機は、
百済と血のつながりがあったためとすると自然だ。
他の動機(宗主国としての威厳を保つ、通商路確保、etc)では、
朝廷は馬鹿の集まりにしか思えなくなる。
375 :
日本@名無史さん :04/01/22 09:58
筑紫君薩夜馬はその後歴史から名前が消えてしまいますがどこにいったのでしょうか?
376 :
日本@名無史さん:04/01/22 10:28
歴史に名前が登場したのも1回きりなんじゃ?
>>374 任那日本府の滅亡とその復興が挫折した経緯をみると、
実際、朝廷は馬鹿の集まりだったとしか思えないが。
ある意味、白村江の大敗は必然的な結果だろう。
国の指導部が馬鹿の集まりだったなんてことは
今も昔もよくあることで不思議でもなんでもない。
378 :
日本@名無史さん:04/01/22 17:50
当時の日本も今の日本も良く似ている。
九州王朝軍の半島中部海岸への派遣理由についての空想。
極弱い裏づけしかありません。
半島西南部多島海及びその内陸に住んでいた倭人救援のように思えます。
百済救援ではありません。
新羅と友好的な近畿王朝が、百済人の亡命先として受け入れたのではないかと。
近畿王朝にとっては、九州王朝に匹敵する高い文化を取り入れることに
メリットがあったのではないでしょうか。
まだ、妄想と誹りを受けても致し方のないレベルです。
381 :
日本@名無史さん:04/01/24 00:27
サマナ日本府も滅ぶのだろうか
>>378-379 当時の倭の朝廷の連中も、今の日本と同じで
それぞれの利権と保身でがんじがらめで
国際戦略とかまじめに考えてる椰子なんか
ごく例外的にしかいなかったんだと思う。
383 :
日本@名無史さん:04/01/25 12:57
まるっきり見当外かもな。
逆じゃないか。
分不相応な事まで考え過ぎたんだろう。
384 :
日本@名無史さん:04/01/25 13:01
何回も干戈を交えて何とかやってきた、
高句麗程度の相手だと勘違いしてたんだろう。
倭国が大和になるまでの間に、
南北朝は唐になっていた。
逆に言えば倭は独自に形作られたと言う事でもあるだろう。
井蛙といえばそれまでだけど。
385 :
日本@名無史さん:04/01/25 13:06
倭国も大和も日本もシナ文字が変わっただけで
読み方は一貫してヤマトだろ
386 :
日本@名無史さん:04/01/25 13:08
日本は成立の当初から自国の基準で何事も通用できると勘違いしていた。
この戦いにしても先立つ対高句麗戦にしても後詰めの思想が見られる。
同盟している他国が攻められれば何はともあれ救援するという思考。
周囲の状況がどうなっているかを把握することを優先し、
それを前提として後詰めすべきか否かを考えるべきなのに逆になってる。
387 :
日本@名無史さん:04/01/25 14:01
匈奴や高句麗や大月氏だって中国に負けてるんだから、無謀な戦いを仕掛けたとしてもわからんことないだろ。
しかも初めての中国との戦いじゃん。失敗することもあるさ。
なぞとかそんなことないよ。中国の回りの国はどこも通る道。
それより、救援した理由はやっぱり新羅と敵対しより百済と同盟していたし
中国のと通商路が百済を通っていたから、国内の貿易商人=豪族が百済を
助けようとしたのもわかる。
また新羅と出雲は友好関係があり、大和と百済は友好関係があったので
出雲を滅ぼした大和としてはここでいきなり新羅に乗り換えるわけにも行かなかったんでしょう。
倭は
「風下接戦時の放火」戦法=赤壁の戦法に負けただけである。
その点は無知だったが、三国時代までは歴代将軍号をもらっているくらいだから
今日の日本ほど「厭戦だけの無策国」でもないし、外交もわかっていたと思う。
389 :
日本@名無史さん:04/01/25 14:24
不可避論こそ朝鮮半島側の御仕着せがましい不誠実な歴史の押し付けだな。
そんな国のために今でも日本は同じ間違いを繰返しつつあるのかもしれない。
三韓との外交・貿易は大貴族大豪族にとって利権だから。
百済の義慈王の王子が二人も人質としていたんだから
宗主国として出陣せにゃいかんだろ。
392 :
日本@名無史さん:04/01/25 17:38
関西地方出身じゃなくて、東国武士、東北の「俘囚」達が主力なら勝った。
>>390 三韓というより中国との貿易路だよ。
その後新羅が統一したとき
新羅貿易はもちろんしなかったし、遣唐使で直接やりとりしてるところ見ると
三韓貿易なんてあまり意味が無いんだろう。
>>393 利権というものをわかってない。国家レベルでいえば明らかに不要なものを
貴族や豪族の私腹こやすために、なんのかのと理屈つけて守ろうとするんだよ。
半島にはとりあえず中国との緩衝国家があればいいのだが。
新羅が盾になってくれたのは儲けものだったにせよ、
新羅との友好関係を築き損なったから日中間の航路は東シナ海横断するはめになった。
半島沿岸航路使えた方がはるかによかった。
395 :
日本@名無史さん:04/01/25 18:04
遣唐使より遣新羅使のほうが数が多かったし、商売(貿易)も
新羅経由が多かった。 円珍や円仁が新羅の貿易商人に世話に
なったことは彼らの旅行記にある。新羅明神の由来としても
有名だが、山東半島に新羅の交易拠点があり、中国と新羅の
貿易は盛んだった。 その時期には日本の貿易はしょぼかった。
新羅にとっても中国にとってもオマケ。
白村江の敗戦以来、日本はヒキコモリになったから、そんなもんだろ。
397 :
日本@名無史さん:04/01/25 19:13
遣唐使がいろいろ持ち込んだのはよく聞くけど
遣新羅使は何を持ち帰ったの?ただの使節?
基本的にはただの使節。
399 :
日本@名無史さん:04/02/07 11:41
当時の唐(並びに北方諸族)は、まだ漢化してない
この当時、半島南部から日本列島は、漢文明の勢力圏だろ
北方蛮族の新興勢力 VS 五胡騒乱で半島や列島に移り住んだ漢の豪族諸族
という対立が必ずあったわけだよ
十分漢化してない蛮族文化を、豪華絢爛「六朝文化」に傾倒してる百済や倭の豪族が
受け入れるはずがない。その反発は相当だろう
>>363 蝦夷征伐で有名な阿部比羅夫の消息、けっきょく誰もレスしてくれないので自己レス
です。ぐすん。
じぶんで、とってもむずかしい歴史文献をさんざんあさった結果、ついに図書館の
奥にある、由緒ただしい名著とよばれる古書をハケーンしますた。それによりますと…
えーと、阿部将軍は、いったんは秩序を失った敗残兵に襲われて負傷し、脱出に失敗します。
そのまま死ぬところだったんですが、思わぬ救い主が現れます。
それがなんと、敵兵の手で人体実験され、狼との融合手術をうけて、あわれ半狼半人の姿にされた、
百済の王子さま(モトは、激しく美形)なんです。
二人は無事に日本に帰国しています。
とはいえ阿部たん、のちに東国へ左遷処分。まあ敗戦の将ですし、それも致し方ありますまい。
いっぽう狼男の王子は、日本の産土神たちと交信するパワーを持つようになり、その
能力をもちいて、大海人皇子のクーデターに大活躍するのです。
え? (((((・∀・)))))飛ばすなって? いーえ、御大・手塚治虫先生の
ライフワークとなった歴史の大著に、きちんとそう書いてあります!
東国はもともと安倍氏の縄張りだから左遷ってことはないでそ
>>401 安倍氏はもっと後だから
左遷された阿部比羅夫がホントはいいヤツだったんで意気投合し、
その後の蝦夷は安倍を名乗るようになったのかも。
なぜ字が違うのかは知らない。
藤原経清みたいな感じ?
>>402 阿部も安倍も同じだよ。どっちも両方の書き方があった。
今では書き分けてるけど、これは現代人の都合。
漏れが402でいったのは上代の中央氏族の安倍氏が毛野氏とならんで
東国(北陸・東海・関東・奥羽)に関係してたってこと。
平安時代の奥六郡の安倍氏は奈良時代に
蝦夷系部民に賜姓されたもの。
404 :
日本@名無史さん:04/03/03 23:35
前線に、薩夜馬がいたわけなので。
405 :
日本@名無史さん:04/03/20 02:54
406 :
日本@名無史さん:04/04/06 02:39
唐は元々、漢化する前は人種的には胡や北狄ですよね
この時代に自分たちとは異質なもの他者として倭国人達に
強く認識された唐ははるか後代まで外国の総称となりました
407 :
日本@名無史さん:04/04/23 22:17
白村江では負けたが
黄海では勝ってるからええやんけ
408 :
日本@名無史さん:04/05/01 03:01
防御の為の攻撃・・・攻撃的防御の策の一環として、この戦いを語ることはできないか?
409 :
日本@名無史さん:04/05/17 04:15
白村江の戦いは、本来、戦力面から言って、
日本の勝ち軍だった。
秀吉の朝鮮征伐と同様、内部分裂で敗れたそうだ。
410 :
日本@名無史さん:04/05/17 04:18
411 :
日本@名無史さん:04/05/23 18:42
>>365 郭は唐の百済鎮将(在百済国大唐行軍捴管)の副将。
押部佳周氏の説では664年と翌年の来日は日本のきび(字が出ない)化を目指したもの。
日本書紀ではその事実を隠そうとしているが天智6年11月乙丑条には大宰府ではなく「筑紫都督府」とうっかり唐の官名で書かれた箇所がある。それが甲子の宣などの律令制志向の改革のきっかきになったとしている。
高句麗にも一度負けたんじゃなかったっけ。
好太王とか言う奴に。
414 :
日本@名無史さん:04/06/18 21:17
415 :
日本@名無史さん:04/06/18 23:39
>>409 違うよ馬鹿。
あの頃の唐の軍は漢民族歴代王朝の中で最強の軍隊だったんだよ。
白村江の戦いで負けたのはチョンの国の百済
417 :
日本@名無史さん:04/07/10 11:52
いいえ、百済の支配層は、韓民族ではありません。
そして、百済の支配層は日本の亡命しています。高句麗もね。
418 :
日本@名無史さん:04/08/01 17:13
419 :
日本@名無史さん:04/08/01 17:49
420 :
日本@名無史さん:04/08/01 17:50
>>418 雪崩れ込んだといっても、当時の日本の人口から計算して
少ない人数だろうが...
421 :
日本@名無史さん:04/08/01 18:30
◎華北人に侵略される前の朝鮮の在来種
こうした研究成果から想像をたくましくすれば、同じ人種の海洋民が朝
鮮南部沿岸と対馬、西北九州一帯に住んでいたとも考えられます。実際これを
裏付けるかのように、韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が
発掘されたと、釜山大学・鹿児島大学の共同作業チームが報告しています。
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
422 :
日本@名無史さん:04/08/01 21:27
>>421 たくましい人骨くらいどの民族でもでるだろ!
いい加減アホな書き込みやめろ。
423 :
日本@名無史さん:04/08/16 18:09
140はどうみても朝鮮人
424 :
日本@名無史さん:04/08/16 20:09
「辛淑玉が語る 在日の在日による在日の為の倭猿古代史」
アカヒ新聞社刊行
結論としてはチョッパリは古代から韓民族にいいようにやられてたことだな.
っーかさぁ、この白村江の戦いを読み間違えるバカっているの?
428 :
日本@名無史さん:04/09/09 05:40
『しらすきのえ』ですよね?
「はくすきのえ」だよ
「はくそんこう」って読む学者もいるから、どっちでもいいんじゃ?
一つしかないと思ってる
>>426に萌え
あげ
432 :
日本@名無史さん:04/09/13 18:34:09
あげ
433 :
日本@名無史さん:04/10/02 00:12:45
藤原仲麻呂の新羅征伐計画は、この敗戦に対するリベンジだった。
が、なぜか中止された。
435 :
日本@名無史さん:04/10/05 18:56:15
これにより
日本は朝鮮の足がかりを失ったと考えてよい
436 :
日本@名無史さん:04/10/05 18:57:18
そして、
秀吉の朝鮮出兵
明治の朝鮮併合へ
と歴史は続く。
437 :
日本@名無史さん:04/10/05 19:03:42
結局、何も残らなかった。
438 :
日本@名無史さん:04/10/05 19:07:48
唐 (白村江の戦い) ×
元 (文永・弘安の役) ○
明 (文禄・慶長の役) △
清 (日清戦争) ◎
露 (日露戦争) ○
独 (第一次世界大戦) ◎
ソ (ノモンハン事件) △
中 (日中戦争) △
米英蘭仏 (太平洋戦争) ×
439 :
日本@名無史さん:04/10/05 19:10:44
ソ (満州・樺太・千島侵攻) ×
中 (日中戦争) ×
米英蘭仏 (太平洋戦争) ×
440 :
日本@名無史さん:04/10/05 19:24:27
明 (文禄・慶長の役) ×
441 :
日本@名無史さん:04/10/19 14:22:58
大江広元(政所別当)、
三善康信(問注所執事)、
中原親義(幕府外交官)
北条時政(頼家の外祖父)、
北条義時(時政の次男)、
三浦義澄(頼朝挙兵以来の忠臣)、
和田義盛(侍所の別当),
比企能員(頼家の妻・若狭局の父)、
梶原景時(侍所の所司)、
八田知家(下野の豪族)、
安達盛長(頼朝時代からの忠臣)、
足立遠元(武蔵の豪族)、
二階堂行政(頼朝時代の側近)
敗戦後唐の占領統治を受けた。屈辱だ。
443 :
日本@名無史さん:04/11/01 08:50:11
白村江の戦いとミッドウェー海戦の共通点
1.海戦
2.4と言う数字
3.対超大国
4.朝鮮との連合
5.国家体制
6.敗戦
7.敗戦後は新○政権誕生
8.占領
1.両者は海戦と言う所で共通している。軍船が炎上して敗走する所も。
2.白村江の戦いで倭軍は四度に渡る攻撃を唐新羅連合軍に行い、
四度、唐新羅連合軍に撃退された。
ミッドウェー海戦での日本軍は四隻の空母を率いており、
四隻とも米軍に沈められた。
3.白村江の戦いは当時の超大国である唐との戦いである。
ミッドウェー海戦は当時の超大国である米国との戦いである。
4.白村江の戦いは朝鮮半島南部に興った百済を救援する為の戦いだった。
ミッドウェー海戦当時の日朝は一つの国であった。
5.両戦役とも日本は敗北し、
敗北した後の日本は国号も変わり国家体制も改められた。
倭→日本、大日本帝国→日本国
6.両戦役共に敗戦した戦いである。
7.敗戦した後の倭は、遣唐使を熱心に送り国家体制を唐に真似た。
敗戦した後の日本は、米国に留学生を熱心に送り国家体制を米国に真似た。
8.両戦役ともに占領される。
444 :
日本@名無史さん:04/11/01 08:59:08
9.両戦役とも敗北後は、朝鮮半島に対する影響力を失い
朝鮮半島を放棄する事に。
445 :
日本@名無史さん:04/11/01 09:06:44
10.敗北後、筑紫都督府(郭務宗)、GHQ(マッカーサー)に統治を受ける。
446 :
日本@名無史さん:04/11/03 11:34:19
筑紫都督府(郭務宗)に統治されたってほんと?
447 :
日本@名無史さん:04/11/03 12:03:51
妄想
448 :
日本@名無史さん:04/11/03 12:05:56
>>442 遣唐使自体が朝貢使節。唐の臣下扱いを受けた。屈辱だ。
449 :
日本@名無史さん:04/11/03 12:26:17
遣唐使に有能で二枚目な若者を、武則天に献上して、
高宗に新羅支援を止めさせるよう説けばよかったのに
唐の支援なければ新羅は日本、百済連合軍に降伏
そうして置いて百済と新羅は日本の傀儡政権を立てる。
唐とは関係をさらに蜜にする。
というのはどう?
450 :
日本@名無史さん:04/11/03 13:26:06
>>449 「どう?」って・・・(w
そこまでいうなら、あなたがタイムトンネルで当時の朝廷に赴き、
「新羅の反乱王族」になりすまして、奏上するしかないんじゃない?
>>449 則天武后が高宗生きてる間に好き勝手に政治を動かせば
唐の賢臣、皇族が黙ってはいまい。
さらに付き加えれば、新羅救援を決定したのは則天武后
さらに付き加えれば、白村江戦後、日本と修好きめたのも則天武后
454 :
日本@名無史さん:04/11/18 21:39:34
455 :
日本@名無史さん:04/12/02 18:26:19
側転
則天武后はいろいろ史書 でメチャ悪く書かれてるが
有能な政治家だったんだな
武即天の、縁故によらない官僚の登用制度は、中国初
458 :
日本@名無史さん:04/12/21 16:29:38
459 :
日本@名無史さん:04/12/21 19:25:17
日本は朝と関わったら碌な事がないちゅうこっちゃ。
460 :
日本@名無史さん:04/12/30 11:21:53
古代マッカーサー郭務宗
461 :
日本@名無史さん:04/12/30 13:51:04
高卒就職者って就職先決まって祝福されるの?
親とかは心の奥底ではスゲー悲しんでるよ。
オレとかが行ってた大学進学率ほぼ100%の進学校だと、学年350人中2〜3人就職、1人専門がいたが
コソコソと冷たい視線や嘲笑い、暴言、哀れがられてたし、この高校を卒業しても気やすく名乗るなよ!って言われてたな。
教師の態度も変わるし卒業式にはとうていでられません。
ある教師が学校の名をけなすクズとか社会の敗者とか言ってたな。
逆に浪人も60人くらいいたが彼らの扱いは将来があるということで学校側がバックアップしてやるぞ!安心しろ!みたいなこと言ってて手厚かった。
この差はなんざんしょ?
とりあえず、こんな僕から言わせてもらうと高卒なんか直視できないほど恥ずかしいよ。
だって僕の育った環境からすればアリエナイし同じ人間ってか、高卒は人間ではないんだもん。
このサイトは古田のパクリ
>>254 >何で日本は百済の要請に答えて出兵したのか?
>しかもかなりの大軍を、並々ならぬ準備と決意を持って、
>出兵したのは、どんな動機によるものだろうか?
これが最大の謎だね。
>>278の通り敗れれば唐により、おのが政権が滅亡する危険を冒して。
新羅だけが相手の562年の任那滅亡時でさえ、出兵計画倒れで渡海しなかったのに。
>>263の
新羅は金春秋が外交交渉をしてるのに、大和側には派遣外交をした記録もなし。天皇以下
政権中枢が九州まで出向いているから、政権存亡は認識してたんだろうが。
>>292 >倭は国内の抵抗勢力のためがんじがらめになっており事態収拾能力のなさを露呈..
この任那滅亡前の国内の抵抗勢力って、何氏をさしているんですか。
>>465 常識的にとれば、大倭国と百済国は同盟の約を結んでいたのだろう。
468 :
日本@名無史さん:05/01/10 23:50:31
百済政権内部に倭政権から派遣された人物がいることからみて、
滅亡直前の百済の宗主国は事実上倭になっていた。
隋帝国ができるまでは中華の衛星国だったが、その後、倭ととも
に独自性が高まり、更にこの頃には御家騒動が原因で倭の介入
を受け、百済は倭の衛星国になっていた。
そして唐は”衛星国として”(百済よりは)忠実に貢献してい
る新羅を取りたてるとともに、”近きをくじき遠くと手を組む”
作戦に出たものと考える。
百済とすれば、倭と組む以外に道はなかった。そして倭とすれ
ば任那滅亡後の半島窓口となっている百済を救わなければ、せ
っかくの半島への橋頭堡が失われてしまう。
結果的に百済の国土が10分の1になっても仕方ないが、滅亡
だけは避けたい、そう考えて軍を送ることに決めたのだ。
>>468 >百済政権内部に倭政権から派遣された人物がいる...
って、誰のこと?逆ではないか。百済王族余豊が来朝し、倭に援軍を要請し取りつけ
援軍共々帰ったのでなかったか。
百済と特殊な関係って言うなら、疑似王がかんばってるときに助けたハズだよな。
なんか、蝦夷征伐に大軍を動員してるし。
実際、新羅も同じように高句麗の残党を支援して、唐へのレジスタンスを行ったんだけど、
だれも「唐に歯向かってまでも、高句麗支援に動く理由がわかりません。」「新羅は高句麗
と特別な関係だったのでしょうか」なんて思わないし。
結構、隋には服従してたけど、唐には叛乱を起した西域の国もあったわけで、唐初の
北荻進入やなんかで、案外当初はあまり強い帝国と周辺からみられてなかったのかも。
あの(唐より)強力に見えた隋が大敗北を重ねた高句麗に対して唐も失敗こいてた後だし。
>>470 >新羅も同じように高句麗の残党を支援し...
たのは、敵の敵は味方の常套戦略であって、親縁関係とは無縁。
>隋には服従してたけど、唐には叛乱を起した西域の国...
も自国の隷属帰趨の選択からだろ。これらの例と白村江の戦との根本的な差は、
前者は自国の主権防衛の為の反抗、後者は自国に臣従圧力もないのに国外へ派兵
してまで対戦した点だよ。
唐の派兵と違い、政権首長自ら戦地近くまで出陣した点からも、自国興廃覚悟の
戦だったからだろう。それまでの王族皇子を長とする任那復興出兵とは違い。
敗れれば一気に自国まで侵攻され、政権崩壊の脅威があるのに対戦したのは、
百済とは単なる友好国ではない一連托生の関係だったからだからが妥当だろう。
>>468 >百済を救わなければ、せっかくの半島への橋頭堡が失われてしまう..
橋頭堡がないと、どういう点で困るんですか。当時の倭政権に、半島を自領化
する領土拡張野心があったとでもいうのですか。先進国唐の文明導入窓口なら
新羅でもかまわないわけだが。
そういう問題じゃないだろ。自分の勢力圏を外敵から守るのは当たり前だろうに。
474 :
日本@名無史さん:05/02/05 00:57:47
日本が遭遇戦で勝ったのは日本海海戦だけでツ
藤原鎌足=百済王・豊璋説について。
476 :
日本@名無史さん:05/02/20 13:46:06
そんな説あるの?
477 :
孫正義:05/02/20 20:14:15
損な説。
478 :
日本@名無史さん:05/02/20 22:55:28
>>469 援軍要請したのは百済のレジスタンスの鬼室福信。大和朝廷に居た豊[王章]側の動きは記録されてない。実際に動きがなかったか、意見が建議に上らなかっただけなのかは不明。
479 :
日本@名無史さん:05/02/20 23:17:52
>>475 豊[王章](ホウショウ)は661年8月に渡海、663年8月の白村江までの丸二年間半島で戦っている。藤原鎌足はその間正式な記録で朝廷に居るわけだから辻褄が合わなくなる。豊[王章]は白村江後に高句麗に逃れて帰ってきてないのでその後だれかと入れ替わることは難しい。
書記によると、藤原鎌足は雷(天罰)を喰らい「生きては軍国の役に立てず云々…」と言って
反省しながら死んでいますが、国運を賭けた戦争中に、奴は何処で油を売っていたんでしょうか。
中国の資料では余豊は戦後、行方不明になっております。
>>480 「生きては軍国の役に立てず云々…」は百済救援に失敗したことを天智に詫びてるセリフ。
>>479 >豊[王章]は白村江後に高句麗に逃れて...
余豊一族は唐軍に逮捕され、長安に連行されたんじゃなかったか?
・古人の「鞍造が韓人にヤられた」発言。
・鎌足は戦時中(に限らず)何をやってんだかよくわかず存在感が希薄。
・戦後の豊璋は高句麗へ逃亡後行方不明。
・鎌足,豊璋は大職冠。
このあたりが元ネタじゃなかったかと思うが、まぁトンデモの1つだ。
えー、日本書紀は時の権力者によって恣意的にかかれている、とか
プロパガンダ的書物だ、などと申すものが居りまして・・・
真に受けちゃいけんそうです。
2chみたいですね。
485 :
日本@名無史さん:05/02/21 22:43:30
>>482 父の義慈王とその家族五十人は確かに連行されましが、豊章は逃れてます。百済滅亡と百済再興の戦いが混同されてると思われます。話は今資料がないので詳しい話は後ほどに。
>>484 大友皇子(弘文天皇)の即位や称制を否定している「日本書紀」は
その点では勝利者である天武天皇側のプロパガンダ的史書だろう
弘文天皇を認めてしまうと大海人皇子は皇位簒奪者になってしまう
編者の舎人親王は天武の皇子なんだもん
陳舜臣氏の中国の歴史を読んだら、日本書紀の「百済の王豊章数人と船に乗りて、高麗に逃げ去りぬ」を
紹介したあと、
「最後まで抵抗した泉男健は貴州に流罪となり、高句麗に亡命した百済王の豊章は嶺南に流された」
って書いてるんだけど、この具体的な記述は中国史書の何からの引用なんでしょ?
中国側にも記述があるなら、日中の歴史書が共にキチンと記述していることを覆す「豊章=日本の○○」なんて
妄想が成り立つ根拠を提示するのは不可能に思えるんだけど。
489 :
日本@名無史さん:05/03/09 04:48:19
最大の謎は、
なぜ、倭国は朝鮮半島にまで参戦したのか?
だ。これに答えてくれよ、スペシャリストよ!
490 :
日本@名無史さん:05/03/09 09:10:39
鉄確保。
491 :
日本@名無史さん:05/03/09 11:08:10
>>489 倭国は朝鮮半島とは強い繋がりがあり古くからの付き合いがありそれを守るための出兵であろう。
後朝鮮半島における倭国の地位が不安定になってきていたのもあったので白村江の戦い
で勝つことによって倭国の朝鮮における立場を向上させるといった狙いもあったと思う。
そうすることによって百済→倭国によって助けてもらったので今後倭国に何でも従うようになる。
よって倭国の地位上がる。
新羅→倭国に敗退して唐との連合軍ですら敗れなかった倭国に強国のイメージを
抱かせて倭国の地位を上げる。
少し単純かもしれんが俺的にはこんな気がする。
492 :
日本@名無史さん:05/03/09 21:00:17
隣国の安全が保障されない場合、普通は関与するよ。
目的は2つ。
自国侵入への前線基地を構築させないための防衛目的の介入。(隣国と強力して敵を排除する)
もう一つは隣国の危機を好機として隣国を併呑する攻略目的の介入(敵も隣国も排除する)
元寇ではむざむざ、元との緩衝地帯である高麗が降伏するのを、黙ってみていたが
本来なら唐に対抗するために百済を支援したり
清や露なんかが日本への橋頭堡を半島につくる事を防ぐために李朝の独立を支援したりするのは
緩衝地帯確保のための定石。
493 :
日本@名無史さん:05/03/09 21:05:08
そう、半島など緩衝地帯としての意味しかないのだ。
主語になりえない。いつも述語、目的語。
ぷw日本だって中国とアメリカの緩衝地帯じゃんwww身の程知れよwww
・欽明記、百済聖明王「天皇の指図に従い、任那復興に努力してますので、対新羅の援軍下さい」
・欽明天皇の遺言「新羅を討って任那を封建せよ。もとのように(任那と)夫婦(の国)になる
なら死すとも思い残すことはない」」
・敏達天皇の詔書「先帝の遺訓を守り、任那復興を」
・崇峻天皇:二万の軍を新羅征伐として九州に集結しているスキに、東漢駒により暗殺
・聖徳太子:新羅征伐の軍を起すも、実弟の軍総司令官急死で頓挫
・斉明天皇:百済王子を百済王に任命して、大軍を半島に派遣
番外編
・安禄山の乱で唐が内乱状態という報告を受け、新羅征討の派兵を計画・大宰府に準備
(後ろ盾の光明皇后崩御で、仲麻呂の乱として終わる)
ということで、書紀としては、「絆の深い任那を滅ぼした、憎きカタキである新羅を征伐
して、任那復興」ってのが、先祖より受け継がれた使命という意図で編集されてます。
過剰なコミットメントに見えるのも、この理由の為の演出ですから、とくに「謎」では
ないでしょう。天平時代になってまでも、しつこくチャンスを窺っているくらいですから。
まぁ、「奇貨おくべし」ってのが、東アジアの戦術教養としても、日本の半分を支配していた
平家に討伐されるリスクを犯してまでも流罪人頼朝を庇護した北条氏や、ロシアとのガチンコ
のリスクだった朝鮮権益確保に比べても、さほど「最大の謎」ってカンジじゃないけど。
それまで、隋・唐をことごとく退けていた高句麗が滅亡したら、それこそ、新羅から任那を
奪回するチャンスは無くなるってカンジだったんだろうし、(百済救援が真の目的なら、義ジ王
の要請かなんかで百済滅亡前にリアクションを起したハズ)現に後に新羅一国でも、唐勢力を
追払えたんだから。
497 :
日本@名無史さん:05/03/10 11:31:25
マッカーサーは戦後日本に進駐して民主化や様々な制度改革を行ったけど
郭務宗は一体どんなことやったの?
498 :
日本@名無史さん:05/03/11 07:08:51
いやいや、ちょっと待ってくださいよ。
倭国が朝鮮半島に介入した理由をいろいろ述べてもらいましたが、
そもそも、倭国じたいが、当時の日本列島において確固たる地位を築いてないではないですか。
にもかかわらず、何で介入したのか、ということなんですよ。
500 :
日本@名無史さん:05/03/11 07:46:56
この戦いでどんな有名人が戦死したの?
メインの武将は死んだ?
安倍平羅夫とかだっけ?
名前忘れたけど壮絶な戦死した武将の話とか日本書紀にでてたな。
三国史記や唐書にもなんかあったような気がする。
502 :
日本@名無史さん:05/03/12 02:37:36
ですから、国内紛争も継続中なのに、海外に手を出すというのは、
自らの存在を脅かしかねない、ということです。
場所によっては海を隔てているとは言え
奥州なんぞより百済の方がずっと近いしな、対馬からなら肉眼でも見えるし。
504 :
日本@名無史さん:05/03/12 18:32:58
>>502 鳥丸を攻める「魏」とか南蛮を攻める「蜀」とか
紛争絶えない中ガリアやマケドニアに出兵する「ローマ」とか高原も統一していないのに
中原をせめる遊牧諸民族とか、国(尾張)や親族も統一していないのに隣国を攻める織田信秀とか・・・・
歴史を知らない俺ですら、地方政権ごときが隣国や他国の地方政権を攻撃する例をごまんと知っている位なのだから
特別に珍しいことでもなさそうですよ。
穿った見方をされる方の中には、むしろ内部が不安定だから外へ向かうとか主張されるぐらいです。
505 :
日本@名無史さん:05/03/13 00:32:50
>>504 もう少し丁寧に考えましょうよ。
ローマは皇帝の独裁です。織田信長も似たり寄ったりの政治体制。
独裁においては、そうした海外出兵も可能かも知れませんが、
倭国の政治体制において同じく可能かどうか。そこが問題でしょう。
高句麗碑文に、「百済の手引きにより、新羅の城が倭兵に囲まれた、新羅の要請により兵を出し
任那・加羅まで追払った」
任那・加羅(方面に)逃げたってことは、このルートが本来の侵攻ルートで、当然相手もそれを想定
して対峙しているんだろうけど、百済ルートでの側面の防備は不備だったってことなんだろうな。
507 :
日本@名無史さん:05/03/13 19:03:05
>>505 話が荒くてすみません。
ガリアやマケドニアへの遠征は共和制ローマの頃です。
内乱の一世紀とか三頭政治のあたりの話です。
古今、洋の東西、共和制と王政、農耕民族と遊牧民族・・・色々と単純な例を出しましたが
はたして海外派兵ができない体制というものが存在しうるかどうか、私にとっては疑問です。
もしそのような体制があるならば、どのような政体なのでしょうか?
倭だって4世紀の頃は統一王朝だろうが。
509 :
日本@名無史さん:05/03/14 06:43:41
なんとなく
>>507の必死さが笑えた
割り込みスマン。
薩夜麻age
謎の皇紀age
つうか謎の慶長
514 :
日本@名無史さん:2005/04/28(木) 13:31:43
515 :
日本@名無史さん:2005/04/29(金) 15:39:29
へんなもん貼らなくていいよ
『旧唐書』日本国伝
日本國者倭國之別種也以其國在日邊故以日本爲名或曰倭國自惡其名不雅改爲日本
(日本国は倭国の別種なり。その国日辺に有るをもって日本国を名とす。或いは曰う。倭国自ら、その名雅ならざるを悪み、改めて日本と為す。)
ここからが大事で、
或云日本舊小國併倭国之地
(或いは云う。日本は元小国。倭国の地を併せたり。)
要するに倭国と日本国は別の国だと、はっきり疑う余地無くそう言っている。
しかも日本国はもともと小さな国だった。(近畿)天皇家が日本国。ところが
倭国のほうが本来の母の国だった。その倭国を併合した。当然白村江の戦いの
後です。
白村江の戦いは六二二・六二三年ですが。それから三十九年経って、
その戦いで負けた倭国を併合した。
ttp://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kouen2/j2kouen5.html
倭国が近畿天皇家だよ。日本国はその分家。
逆でしょ。
分家=日本国=近畿天皇家
本家=倭国=九州王朝
519 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 00:35:17
マジ?
520 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 00:08:31
マジよ
521 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 13:10:44
http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=RANDOM&PG=STORY&NGID=main&NWID=2005053001000543 木簡に防人表す「戍人」 実態示す初の出土文字、佐賀
佐賀県唐津市の中原遺跡から出土した木簡に、防人を示すとみられる文字「戍人」が確認され、同県教育委員会が30日発表した。
木簡には「甲斐國」の表記もあり、現在の山梨県出身の兵士とみられる。
防人が九州に配備された実態を示す初の出土文字資料。県教委は「防人の実態解明につながる貴重な成果」としている。
県教委などによると、「武器を取って守る」を意味する「戍(じゅ)」は防人の守備地を示し、「戍人」は防人を表している。
木簡に、人名のほかに「甲斐國 戍人」という表記が確認され、東国防人にかかわる文書であることが判明した。
防人は7、8世紀に唐や新羅からの侵攻を防ぐため東国から北部九州に配置された兵。
「日本書紀」や「続日本紀」などの文献記録から防人制度の存在は知られていたが、出土文字資料で確認された例はなかった。
522 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 21:51:53
想像の域を出んな。
523 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 22:03:14
そうですなあ
524 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:50:20
ウホ
>>516 何かその記述って、ニギハヤヒの地を神武が併呑したこととかが
そういう風に伝わったように聞こえなくも無いな、と前から気になってる。
時代がぜんぜんちがうじゃん
白村江敗戦後、国がひっくり返った時、熊襲、蝦夷の人達は自分達が天下を取れると
色めき立っただろうな…。唐、新羅占領下で高市皇子、大津皇子は即位できたが美努王は
倭国から日本国への移行期で天皇にはなれなかったと
529 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 03:53:15
マンガ『嫌韓流』 7月26日(火)発売予定
テレビ、新聞、大手マスコミが隠すもう一つの韓流 それが「嫌韓」である!
「知れば知るほど嫌いになる国・・・それが韓国なんだ・・・」
「マスコミが隠しているもう一つの韓流がある!」
豊璋を人質したのは何故?
百済がはむかう?
攻めて来る?
当時の朝廷は親百済、高句麗だったが必ずしも一枚岩ではなく新羅と通じている勢力もあり
時代は違うが6世紀の新羅と結んで反乱を起こした筑紫君磐井の様な者が出た時は、国を失った
百済、高句麗の亡命者は場合によっては倭国内でそれらの勢力と戦わなければならなくなる。
532 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 11:46:53
百済ない?国を助けようとしたために、
危うく、滅亡に危機にさらされた日本。
ガンバレ日本!
日本の歴史は「白村江事件」から始まる。
もっと、自由に語ろうよ。
(私自身は勉強中です。)
資治通鑑(中国史)によると百済と高句麗を滅ぼしたのは唐と云う
ことになっています。
竜朔三年(663)
劉仁軌は水軍および量船を率いて熊津から白江に入り・・・
倭兵と白江口で遭遇した。四たび戦ってみな勝ち、その舟四百艘を焼いた。
その炎は天をこがし、海水は一面に赤くなった。
総章元年(668)
〔高麗亡ぶ〕九月癸巳〔十二日〕 李勣が平壌を抜いた。
十月、安東都護府を平壌に置いた。
534 :
日本@名無史さん:2005/09/01(木) 23:47:27
535 :
日本@名無史さん:2005/09/06(火) 15:24:35
なんか戦ってる想像図とかないの?
536 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 12:25:47
自分で書けば?
537 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 12:32:04
舒明の正体は義慈、天智の正体は余豊
538 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 23:30:05
663年8月27日
倭・百済連合軍は白村江で唐・新羅連合軍に今まさに敗れんとしていた。
その時西より一隻の巨大な浮かぶ鉄の塊がやってきた。
ミッドウェーへ向かう途中、時空の歪に飲み込まれた赤城がその巨大な姿を
血みどろの戦いが繰り広げられる白村江へと現したのである。
何が起こったのか理解できない古代の人々。
今どこにいるのかすら分からない南雲長官、青木艦長以下赤城の乗組員たち。
古代日本亡国の危機、果たして赤城はどうするのか?
そして倭国の運命は!?
539 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 23:14:03
熊襲厨の妄言
541 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 16:57:58
542 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 12:33:26
543 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 17:51:17
古来日本は朝鮮半島を兄として慕い従いながら
文化の恩恵を受けてきました。しかし、ある時
兄が病気で調子が悪いのをいいことに兄を押さえ込み
兄の財産はおろか生命までも奪おうとしました。
弟に対しては慈しみをもって接していた兄は
弟のなすがままにさせてやろうと大慈悲の心で
弟の暴虐に耐えていましたが、ついに弟は親にまで
手をかけたのです。それには周りの人たちも非難しましたが
弟は聞く耳を持ちませんでした。そしてついに弟は近所の人々を
相手に喧嘩を始めました。しかし、弟は不意打ちで次々と近所の
人を倒してしまうので、ついに兄は立ち上がりました。
兄は弱いものだと思っていた弟は驚きました。
兄の怒りによって近所の人たちも大いに驚き兄に味方しました。
弟は全てを失い近所の人々にもうしませんと泣いて謝りました。
兄はとても慈悲深い心で弟を許してあげて、近所の人にも
とりなしてあげました。近所の人も兄を心から尊敬し敬服して
弟を許してあげました。 兄は弟に色々と物心両面で助けてやりました。
息を吹き返した弟はまた兄を批判したり馬鹿にしたりしています。
まさに喉元すぎればなんとやらですね。 そんなことしてたら
またいずれ痛い目に遭いますよと兄は何度も忠告してますが
弟はなかなか聞こうとしません。 また同じことを繰り返さないことを
願うばかりです。
544 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 18:35:44
弟がいつ立ち上がったんだい。
もしかして拉致のことを言ってるのかい。
545 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 18:39:19
546 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 20:28:31
547 :
日本@名無史さん:2005/12/07(水) 17:05:06
白村江で負けた最大の原因は、有史以来一度も戦争に勝ったことの無いDQN民族のチョンの味方をしたこと
548 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 20:35:22
age
549 :
日本@名無史さん:2006/01/02(月) 20:50:07
5
550 :
世界@名無史さん:2006/01/09(月) 00:20:18
白村江の時、日本軍総兵力は2万7千人。
すごい動員力だ!!!!
赤壁の戦いの曹操軍なんて100万人だぞ!
552 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 23:56:54
私は白村江の戦いについて詳しいわけではありません。
確かどこかのスレで見たのですが、日本と百済が作戦上対立して、百済が
日本の作戦を唐にながしたというようなことを見ましたが、
それは本当でしょうか?誰か知りませんか?
553 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 13:49:09
実際は数十隻のしょぼい戦いだったんじゃねえの?
554 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 03:14:00
百済には華僑が沢山いた。日本の貴族と百済の貴族は文化的に酷似。
一方、今の韓国につながる、新羅は、山国の軍事国家?
おそらく、それまでは新羅は劣勢だったのだろう。
それで、将来的に新羅は百済か高句麗に呑み込まれると踏んでいた
大和は百済に荷担。
確かに唐の軍事展開がなければ、百済又は高句麗が新羅を併呑した
可能性は多いにある。
しかし、中国四千年の戦略、隣と戦争する時にはその隣を抱き込む、
この策で大和の目論見は失敗。
555 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 19:07:15
マイナーな話題ですな。
ここら辺に詳しい人はすごいわ。
556 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 19:18:50
中国全土で1000万程度になっていた三国時代でいくら魏でも
兵力100万は出せないお
557 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 18:56:24
新羅と志良岐は違う国じゃん。
新羅(シルラ)は313年以降に、朝鮮人=金奈勿一派が建てた国だろ。
志良岐(シラキ)は、稲飯命が建てた日本民族の国じゃん。
金奈勿が高句麗と手を組んで、志良岐王家を滅ぼし、新羅を建てたのが真相。
金奈勿は、もともとは志良岐王家に仕えていた役人だけどね。
じゃ、天日矛は稲飯命系ってこと?!
559 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 17:33:21
560 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 18:33:54
半島に上陸したのは第2陣までじゃなかったっけ?
562 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 22:28:22
>>561 そうなの?
その辺よくは知らないけど、どちらかというと、
負けてもこれだけのものを作れるんだから、たいした国力だったんじゃないかなと。
563 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 17:34:16
age
564 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 17:38:02
日本軍の兵力は4万人以上いたの?
565 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 19:29:10
>564
4万7千人以上いたんじゃないの?
566 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 17:43:50
古代朝廷ってすごい動員力だな
567 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 20:46:42
対立した唐が桁違いだっただけで、
世界的に見たらかなりの国力を持っていたことは間違いない。
568 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 22:20:42
>567
同感
569 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 10:16:58
聖徳太子の頃にも25000の兵だかを
渡海寸前までいってるしな。
兵数では倭・百済連合が優勢だったというが
日本書紀では唐の艦隊に左右から挟み撃ちにされたという。
正直いって実際どうだったのかよく分からない。
571 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 10:57:59
朝鮮出兵って
秀吉と明治だけだろ。
それがもっと昔の古代日本で出来たっていうのは
単純に凄いなあと
>570
このスレの300番台あたりまで読んでみるといいかも
573 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 11:56:47
中国が艦隊を日本に向けてくるときは、唐・元・清と
なぜかいつも騎馬民族系の王朝
574 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 13:13:15
大化の改新は、唐の脅威のためにあせった中大兄皇子が
中央集権化すすめ、兵の充実を計るために起こしたらしい。
575 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 14:05:41
>>571 白村江の戦いはまだ朝鮮が統一していなかった時代の同盟国百済への救援軍
派遣なので朝鮮出兵とは言えない。
●従来の日韓同祖論
×朝鮮半島から弥生人がやって来て、日本の縄文人を征服して滅ぼした。
●日韓同祖論の真相とされる2ch説
×弥生人は北方アジアから朝鮮半島を短期間で突き抜けて九州北部に
渡ってきた北方系の種族で、朝鮮半島には縄文人に似た土着の種族がいた。
●日韓同祖論の真相
○弥生人は古代ゲルマン民族や中世ノルマン人のように海を挟んで
沖縄・九州北部・山陰地方から朝鮮半島南部(弁韓)にかけて広く定住していた新旧モンゴル人種の混血のうち旧人種に近い種族であり、
そのうち九州北部の集団が南進(天孫降臨)の後東進して日本列島の旧モンゴル人種である縄文人を吸収同化し
現在の日本人となった。(神武東征から大和政権)
朝鮮半島南部では小国群に分かれ、古くから漢人が支配しそれと混血した半島中部の別のモンゴル系人種(三韓のうち馬韓・辰韓)
すなわち古朝鮮人からは長く独立を維持した。(弁韓から派生した任那や伽耶の諸国、出雲文化への貢献)
その後新モンゴル系人種であるツングース系種族が満州地方から南下し半島北部の古朝鮮人を支配同化して
現在の朝鮮人種を確立すると、三国に分かれ半島南部の支配を開始した。(扶余すなわちツングース系の高句麗・百済と、辰韓の新羅)
朝鮮人種の侵略が本格化すると半島南部の弥生人は日本の援助を受け戦略上懐柔した百済と同盟して勇敢に戦ったが朝鮮人に破れ、(白村江の戦いが最後)
多くが難民として日本に逃れ日本社会で定住同化した。(古代帰化人)
逃げ遅れた者は朝鮮に支配され、朝鮮社会で長く差別を受けることとなった。(朝鮮の地域差別)
578 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 22:18:18
>>573 考えてみれば日本が争ったときって、
決まって中華史上屈指の大帝国だったときだよな。
時代がちょっとづれていれば勝っていたかもしれないね。
579 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 23:36:27
>>12 最近は、歴史用語の左傾化・反日化が進んでいる。
「はくすきのえ」と読ませると、朝鮮半島に日本語的な読み方の地名があったこととなり、
反日・朝鮮的には不都合なので「はくそんこう」に統一しようとしている。
「百済」も「くだら」でなく、「ペクチェ」と読ませようとしている。
同様に「任那」も「加羅」に。
おそらく、百済人に「ペクチェ」と言っても、何のことだかわからないでしょう。
つまり、百済人や任那人は「半島南部に居住していた倭人の一派」ではなく、
「五千年の歴史を持つ韓国人」という印象付けを歴史学者がしようとしている。
ちなみに、その他の歴史用語左傾化の例として、
帰化人→渡来人、朝鮮出兵→朝鮮侵略、五箇条の御誓文→五か条の誓文、日韓併合→韓国併合など。
小学生のテキストに載っている朝鮮人としては、
李瞬臣(英雄扱い、1ページ特集)、安重根(英雄扱い)、柳なんとか(独立派ヒロインとして特集)
などがいて、みんな韓国語読みのみのふりがなが振られている。
あと、世界の国々の紹介では、他の国は風景写真がのっているだけだが、
韓国のみ、チマを着た美しい女性の写真が添えられている。
つまり、何が言いたいかというと、歴史教育は完全に韓国に取り込まれていると言うこと。
渡来人の優秀さ、李瞬臣の戦いぶり、反日独立派の英雄的行為などが特集で組まれ、
「これはどこの国の教科書だー!」と声を上げてしまうほど。
小学生に安重根を教えてもしょうがないだろ。
だったら、どうして東郷平八郎や佐久間象山、高杉晋作をのせないんだ。
李瞬臣の特集組んでもしょうがないだろう。
それなら、西郷隆盛や間宮林蔵にその分のページを割けよ。といいたい。
あんまり関係ない上に長くてスマン。
↑被害妄想ばっかり
ちなみに俺はそんな教科書で教育受けたことはないがな
個人的にはイ・スンシンは朝鮮読みにしたいな
小野妹子を蘇因高とは言って欲しくはない罠
百済人や伽耶人が倭人というのは無理やりだな。仮にミマナを認めても、百済はそれとは領域が別だし、伽耶が倭人だった文献はないし、伽耶は伽耶であり文化が倭と違い、ミマナの領有自体怪しい。伽耶や馬韓南部に倭人がいた痕跡はあるが、考古学資料からは当然少数派だ。
また一方、例えば韓式系土器の多数分布から日本にも多くの朝鮮半島系渡来人が移住したのも確かだ。
朝鮮半島に倭人の痕跡や倭系遺物があるからといって、これを倭が支配した証拠とするなら、
同様に倭も韓諸国による植民地があったことになる。
お互いに安易な一方的な考古学的歴史的解釈するのは怪しいし誤りだ。
583 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 00:38:44
>>582 いや土器が証拠じゃなくて、石碑があったはずだが、
其の石碑を元に三国時代があったといわれているわけで、
新羅や百済があったというのは認めても、
ミナマの倭の所有は石碑の間違いというようでは話にならないのでは?
どの石碑にミマナの〈領有〉が書いてあるのかな?
資料名と銘文内容を出してください。
586 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 01:42:26
倭人=日本人という、民族・国籍で明快に区分する現代的な概念で
考えない方がいいと私は思う。
朝鮮南部から日本列島にかけて住んでいた、北方民族系でない、
漁労採集も行う人々を総称して倭人といった方がいいのでは。
倭人で朝鮮に住んでいたのが百済や加羅になり、日本列島に住んでいたのが
倭国の人々となった、というように。
中国の歴史書かなんかで、朝鮮南部から日本列島を漠然と「倭」と呼んでいたものが
確かあったようなきがするんですが、だれか知りませんか?
どうでもいいけど、韓国の人は北に行くほどでかい。
特に女の人がわかりやすい。170前後ある人は大体ソウル周辺の出身。
で、日本人とたいして変わらない人は、釜山、テーグ、光州だったりする。
顔つきも、北部の方が、えらが張り目が切れる典型的な朝鮮顔で、
南部の方がマイルドで日本人に近い感じ。
この頃は顔や体つきだけで、大体出身地が想像つくようになった。
正直、北部出身の女の人の方がスタイルが良くて格好いい。手足が長い。
東夷伝では朝鮮半島にいたのは基本的に韓人であって倭人ではない。
百済や新羅が倭人とはちょっと無理やり。
588 :
白村江の敗戦:2006/03/18(土) 11:33:42
西暦663年の白村江の敗戦で九州へまず進駐してきた郭務宗が、男っけなしの
御所へ入り、各地に築城命令を出したり施政を代り執り行った。
今の金大中の全羅南道の百済人が新興唐によって滅ぼされかけ、祖国救援に日本原住民を捕えられるだけ集めて二万七千。
宮廷の百済系男子はみな将軍となり将校となって壱岐対馬から渡って逆攻したものの、それまで彼らは、今日でも用いられているような、
「クダラぬやつ[クダラでない‥‥つまらぬ]」「クダラぬ事を言うな」と、日本原住民を非人扱いの奴隷として酷使していたので、
いくら親方が金大中の御先祖で、将軍や将校だけは頑張っても、戦奴の原住民共はあまり戦意が高揚せず、あっさり負けてしまったのかもしれない。
紙幣の想像画となっている藤原鎌足なる存在は、この時点の郭将軍ではないか?‥‥ことによったら人口僅かな時代に、男どもがみな向こうへ連れてゆかれて戻ってきていなくて、
御所も女ばかりだったから居座ってロボットのような方を表面には立て、自分は闇将軍となって国政一切を指揮していたか、
事によると占領軍の第一人者というので日本の国首になっていた疑いすらも今となってみれば推定される。なにしろ武力で次々と命令を出しているからである。
http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/sankaseikatu.htm
589 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 12:19:43
最近日本史版には変なのが沸くようになった。
590 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 17:14:04
海を渡って派兵できる人数が3万もいたわけだから
国内の兵力は凄い人数だな。
磐井の乱のときの6万もあながち誇張じゃないのか?
591 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 17:29:40
★ 百済は日本人が建国した ★
『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。
第一次百済は、乾馬国(コマ)と呼ばれていた。
これは、帯方郡が、古代日本人から駒国(コマのクニ)と呼ばれていたためである。
百済を建国したのは日本人であり、そこに住んでいた民族も日本人=倭人であった。
朝鮮人は、半島北部に住んでいたワイ人であり、百済人ではないのだ。
朝鮮人=ワイ人と、百済人を混同してはならない。
592 :
:2006/03/18(土) 18:04:09
白村江の戦いで、唐、新羅連合軍が、百済、日本連合軍(但し、ここに日本というのは誤解を招く。
実質的にそれは百済系の日本内分国、植民地としての奈良王朝ということである。
奈良王朝は母国百済存亡の危機にみまわれ、総力を挙げて母国救援の軍を出した)を壊滅させた後、
いよいよ唐が日本占領に乗り込んで来るのであるが、唐の占領政策は、日本列島内で主導権争いを続けていた高句麗系、新羅系、百済系の対立抗争を巧く利用する。
593 :
:2006/03/18(土) 18:07:23
即ち、百済系を重用し、これを主たる代理人として、日本の全国統一権力体系を作ること。それゆえ百済系をして、高句麗系、新羅系、古代海人族を駆逐させること。
こうして唐の占領軍は日本原住民の大叛乱の抵抗に対して、百済系を手先として全国統一の律令体制を確立し、その支配のイデオロギーとして、彼らの仏教を利用する。
七世紀末から八世紀初頭にかけての、三、四十年を準備期間として、日本はこのように一変したのだが、それから千二百年の間、現在に至るまで、天皇を頂点とする、
この律令体制の大枠は維持されている。
そして文部省の学校歴史とされている。
594 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 18:24:36
高句麗系って、日本に来てないんだが・・・。
595 :
異説:2006/03/18(土) 18:31:34
古田武彦の主張する九州王朝説によれば、白村江で戦ったのは近畿大和朝廷(日本)軍ではなく大宰府に都した九州王朝(倭)軍であり、倭王の薩夜麻が唐軍の捕虜になったことが敗因であり、薩夜麻は8年間、筑紫君として唐で人質生活を送り、
その帰国後も669年から唐の武将郭務(王宗)などが進駐軍として、大宰府を事実上進駐占領していたとしているが、この説を支持するのはごく少数にとどまっており、恣意的な史料解釈に基づき史的根拠にも非常に乏しいとして古代日本史学からは否定視または無視されている。
596 :
古田武彦:2006/03/18(土) 18:35:35
古田武彦(ふるたたけひこ)は歴史学者。親鸞および古代史の研究を専門とする。
1926年、福島県に生まれ、広島県に育つ。旧制広島高校を経て、東北大学に入り村岡典嗣に師事する。1948年東北大学日本思想史科卒業後、長野、神戸、京都の高校に勤務。1970年より、古代史の定説に再検討を迫る研究に専念。
九州王朝説を中心とする独自の古代史像を提示し、安本美典ら多くの学者と激しい論争を繰り広げたが、ほとんど賛同が得られなかった。東日流外三郡誌の「発見」後はその支持にまわり、「発見者」の和田を始め肯定派を強力にサポート。
偽書であることが徹底的に暴かれてもなお執着し続けたため、ファンや学会からも完全に見限られる羽目になった。本当は偽書である事はとっくに理解していたものの、誤りを認めるのは支持してしまった自分のプライドが許さず、引っ込みがつかなくなったものと見られている。
昭和薬科大学(歴史学)教授を定年退職(1996年)した後、京都府向日市に在住。
597 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 18:42:41
★★ 朝鮮民族の先祖はワイ族だった!! ★★
最近、韓国人が宣伝している歴史観は、韓国人=フヨ人説に基づいた『騎馬民族征服論』である。
満州地方に住んでいたフヨ(扶余)民族が、朝鮮半島に侵入し、半島南部に新羅や百済を建国し、
さらに対馬海峡を渡って日本列島の先住民(日本人)を征服して、古代ヤマトを建国したという説。
『2ちゃんねる』の日本史板や考古学板を中心に、この説を宣伝している。
もちろん、すべてデタラメであるが。
朝鮮人はフヨ人ではない。フヨ人の子孫でもない。フヨ人に征服された民族が、朝鮮人である。
高句麗およびその後継国=渤海国はフヨ人の国である。また918年に建国された高麗もフヨ人の国である。
そして、フヨ人とは満州民族であって、朝鮮民族ではないのである。
朝鮮人は、韓人(カラビト=倭人)でもない。
朝鮮民族の先祖として、もっとも可能性が高いのは、穢(ワイ)族である。
このワイ族は、現在の韓国の江原道地方(ソウルの東方地域)に住んでいた少数部族であるが、
高句麗が楽浪郡=帯方郡を滅ぼした313〜314年頃に南下して、日本領=シラキに移住した。
後に、高句麗と手を組んで稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、王権を簒奪して志良岐を
乗っ取った金奈勿(キン・ナブツ)も、ワイ族であった。
おもしろいのは、韓国の歴史学者や政治家たちは、朝鮮民族の先祖について語るとき、フヨ人や韓人に
ついては積極的に語るが、このワイ族については語ろうとしないことである。
おそらく、韓国朝鮮人は、自分たちの先祖がワイ族であることに、うすうす気づいているのだろう。
ワイ族のワイ(穢)には、「汚い」「ケガレている」という意味がある。
このような名前の部族が朝鮮民族の先祖だとは、認めたくないのだろう。
彼らは、楽浪=帯方郡を支配していた中国人から、そのように名付けられた部族なのである。
朝鮮民族は、けしてフヨ人ではないのである。
もちろん、倭人=日本人でもない。
ウィキぺディアなどで、朝鮮人の工作員が、
「ワイ族は扶余族だ。ワイ族が改名して扶余族になった。高句麗人も百済人も、みんなワイ族だ!日本人もワイ族だ!」
と、宣伝しているが、大ウソなので、騙されないように。
598 :
白村江の不思議:2006/03/18(土) 18:51:12
(1)戦前の不思議
超大国唐と、隆盛期にある新羅との連合軍を相手に、如何に仲が良かった百済のためとはいえいったんは亡んだ国の再興のために、下手をすれば亡国の憂き目に遭いかねないような救援軍の派遣を何故決めたのであろうか。何と言ってもこれが最大の謎である。
658年(斉明4年)阿倍比羅夫は、船180艘を連ねて日本海側から北方の蝦夷・粛慎の討伐を開始した。百済と新羅とが戦火を交えているときによくもこんな大軍を奥州に派遣できたものである。660年には3度目の蝦夷征討を行っている。
日本との関係深く、後には当時の超大国唐を相手にその復興をかけて援軍まで送った百済が660年に唐の大軍によって崩壊したまさにその年、超大国唐と日本と伝統的に不仲な新羅がすぐそこに迫っているとき、なぜ朝廷は3度目の蝦夷征討を行わなければならなかったのであろうか。
599 :
白村江の不思議:2006/03/18(土) 18:52:08
2)戦中の不思議
日本の水軍はあまりにも簡単に敗れている。戦いの場所は百済である。土地不案内であったとはいえないであろう。また少なくとも百済の兵は唐と新羅の武器や戦術についてこれまでの経験から熟知していたはずである。
軍船の向きも変えられないほどの大敗北を喫し多くの戦死者と捕虜をだしながら、どういう訳だか百済人達の亡命用の船はちゃんと用意してあり、唐や新羅の追っ手をかいくぐって船出している。
百済の遺臣はすなわち戦犯だからそれを受け入れたとなれば益々唐に対してケンカを売ることになるのではないか。
これでは、百済人を無事日本に迎えるためにのみ行った戦争のようではないか。
600 :
白村江の不思議:2006/03/18(土) 18:53:46
(3)戦後の不思議
白村江での勝利の9ヶ月あと、唐の副将、郭務ソウが日本に派遣され七ヶ月間滞在している。
来朝の時、郭務ソウは「今われわれの人数も船も、とても多い。このまま博多にいけば防人たちが驚き立って、戦ってくるだろう。船は47隻、その人数2,000人、
いま比知嶋に停泊しているので我らが来朝の意を披き陳そう」と大和に使いをよこした(日本書紀)。47隻2,000人の大艦隊を率いて郭務ソウは何をしに日本に来たのであろうか。
郭務ソウが九州に滞在している間に天智天皇が崩御した。朝廷は郭務ソウに鎧、甲、弓矢を贈るとともに、ふとぎぬ1673匹、布2852端、綿666斤を贈っている。
その後郭務ソウは帰途につく。郭務ソウ滞在中に天智天皇が亡くなったのは偶然であろうか。そもそも、郭務ソウは何故に長期間滞在したのか。
601 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 18:58:44
百済軍の実態は、大和軍。
百済の国家財政は、ほぼ100%、大和のODAに依存していた。
602 :
センター本試験:2006/03/18(土) 22:18:57
(センター本試験・2000)================
次の文ア〜ウについて、古いものから年代順に正しく配列しなさい。
ア.倭国の朝鮮半島出兵の動きに対して、筑紫の磐井が反乱をおこし
た。
イ.倭国は百済を救援するために出兵したが、唐・新羅の連合軍に敗
北した。
ウ.倭国の王が中国の南朝に朝貢して、朝鮮半島諸国に対し優位な立
場に立とうとした。
解答−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ウ(5世紀)→ア(6世紀前半)→イ(7世紀、663年)
603 :
太宰府:2006/03/18(土) 22:27:57
太宰府と言うと、皆さんは単に朝廷(政府)の九州に於ける地方出先機関と言ったイメージしか無いのでは無いでしょうか? しかし、当時の太宰府と言うのは、現代人のイメージとは全く違った存在でした。
倭国の異称・「九州」の意味を皆さんはご存じでしょうか? これは字義通り、「九つの国(州)」の事です。倭国は九ヶ国で構成されていたので、「九州」なのです。
これは関東地方をかつて「関八州」等と言ったのと同じです。その九ヶ国の統治を朝廷に代わって代行したのが、太宰府なのです。
これは東北(蝦夷)地方の統治を朝廷に代わって代行した「奥州鎮守府」と同じです。そして、近・現代史に当てはめれば、「朝鮮総督府」や「台湾総督府」と同じ、つまり、「新たな領土となった他国(植民地)経営の為の行政機関」なのです。
その様な機関である太宰府が九州に設置されたと言う事実が物語るものは、一つ。やはり、「倭国は滅亡した」と言う事なのです。
白村江の戦がもたらしたものは「倭国の滅亡」だけではありませんでした。筑紫君薩夜麻らの帰国は、唐人2000人の「進駐」(日本書紀に記述)を日本側に告知する為になされた措置だったのです。
つまり、先の大戦終結後、米軍が「進駐」してきたのと同様に、唐人が進駐してきたのです。
更に、様々な資料から、唐人だけでなく、もう一方の戦勝国・新羅人も、亡国の民・百済人も、日本に流れ込んできました。
日本側の史料では、彼らを日本に「帰化」したと書いていますが、実際は、日本に「進駐」したと言う方が正しいでしょう。
その証拠に、その後の「親唐路線」や、朝廷内に於ける「帰化」系氏族の増加(彼らの多くが先の敗戦まで「貴族」としての特権を有していた)と言った事実が挙げられます
604 :
ゴロ合わせ暗記法:2006/03/18(土) 22:41:24
仏教伝来 538 百済から伝わる仏に ゴ5 ミ3 は8ない。
憲法十七条 604 太子が作った憲法に、 群6 れ0 寄4る役人、数知れず。
遣隋使(第二回目) 607 妹子らが、 群6 れ0 な7し渡る遣隋使。
大化の改新 645 改新後、 無6 用4の 豪5族蘇我一派。
白村江の戦い 663 白村江、 ろく6 ろく6 見3ずに日本敗北。
壬申の乱 672 天智死に、 無6 難7 に2行かない壬申の乱。
605 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 12:37:08
そもそも、百済という国は、日本の四国と同じくらいの面積しかない小国。
そんな小国が、300年以上に渡って高句麗のような大帝国と戦争し、
互角に戦うことなど、普通は不可能であろう。
しかし、実際に百済は、315年に建国された第一次百済の時代から
300年以上も高句麗と戦争し、時には高句麗を追い詰めてもいる。
それができたのは、百済の背後に、もう一つの帝国=大和がいたからである。
百済=高句麗戦争の実態は、日本=高句麗戦争だったのである。
606 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 12:40:01
妄想ですか?
607 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 12:42:40
>>603 >唐人が進駐してきたのです。更に、様々な資料から、唐人だけでなく、
>もう一方の戦勝国・新羅人も、亡国の民・百済人も、日本に流れ込んできました。
>日本側の史料では、彼らを日本に「帰化」したと書いていますが、
>実際は、日本に「進駐」したと言う方が正しいでしょう。
唐人や新羅人の進駐はありえないな。さまざまな資料から判断して(笑
唐と新羅は仲間割れを起こしたので、日本に来るわけがない。
来てたら、その記録が中国や朝鮮の資料に残るしね。
608 :
マッカーサー:2006/03/19(日) 13:09:24
(3)戦後の不思議
郭務ソウは当時の大唐国のマッカーサーだと考えればよく理解出来る。郭務ソウは「進駐軍」をつれて九州を占領していたのであろう。
唐軍進駐の間に天智天皇が亡くなったのは偶然かも知れないし、郭務ソウの意を受けた日本側の誰かが暗殺におよんだのかも知れない。
贈り物の数に端数がありすぎるのは、とにかく穏便にお帰り願いたいとの朝廷の意思であろうか。長期にわたる進駐によって郭務ソウは、何を日本に要求してきたのであろうか。
新羅を挟み撃ちにするための同盟締結との見方もあるが、日本の対外戦遂行能力を低下させるとか、マッカーサーの民主化ではないが、日本の政治社会構造を唐にとって都合の良いものにするとかの使命があったのかも知れない。
609 :
唐のやり方・大和のやり方:2006/03/19(日) 13:17:25
戦争が終結したのが、663年。倭王(筑紫君薩夜麻)が唐から帰国したのが、671年。その間、実に8年。
一国の王(現代で言えば、天皇だとか首相)が他国に8年間もいたと言う事実が示すのは、
倭王が「戦犯として戦勝国・唐に抑留されていた」と言う史実である。
敗戦国の支配階級を自国に抑留、教化し、駐留軍を伴わせて故国管理に携わらせる。
これが戦勝国・唐のやり方だった。薩夜麻の帰国も、故国の視察・駐留管理の告知が目的であった。
その後唐人2000人が進駐した、と書記は記録している。
しかし、日本は唐に占領されなかった。なぜならば「やまと」は唐に寝返っていたからだ。
668年。敗戦から薩夜麻帰還迄の8年の隙に即位した大和の天皇は、天智天皇(中大兄皇子)だ。
この歴史の食い違いはナニゴトだろう?落ち着いて、整理しよう。
日本書紀は白村江戦の際の大和の動向を記録している。
610 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 13:17:35
九州と四国と佐渡島が本州と陸続きだったらいいのにな。
611 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 13:29:29
唐の第一の敵は高句麗であり、唐は日本を「高句麗と同類である」と
誤解していたわけだ。しかし、日本側は「新羅を討つために高句麗を利用したのだ」と
説明した。唐は納得し、新羅という和唐の<共通の敵>を討つために、
日本と手を組んだわけだ。
★ 百済は日本領土 ★
百済軍の実態は、大和軍。
百済の国家財政は、ほぼ100%、大和のODAに依存していた。
そもそも、百済という国は、日本の四国と同じくらいの面積しかない小国。
そんな小国が、300年以上に渡って高句麗のような大帝国と戦争し、互角に戦うことなど、
普通は不可能であろう。
しかし、実際に百済は、315年に建国された第一次百済の時代から300年以上も高句麗と
戦争し、時には高句麗を追い詰めてもいる。
それが可能だったのは、百済の背後に、もう一つの帝国=大和がいたからである。
百済=高句麗戦争の実態は、日本=高句麗戦争だったのだ。
612 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 14:18:21
本当に日本が唐の属国なら、参勤交代・年号共用・代替わりの認証をやっているよ。
613 :
後遺症はじつに六〇〇年以上:2006/03/19(日) 16:37:56
日本人が過去に体験した戦争で、その影響力の点で太平洋戦争に匹敵するのは七世紀後半の対唐・新羅戦争と一三世紀後半の対元・高麗戦争(元寇)であろう。六六〇年に始まり六六三年の白村江の敗戦で終わったこの戦争の影響はじつに平安前期、菅原道真の建議により遣唐、
使の派遣中止となる(八九四年)まで続いた。日本がその政治的・社会的・文化的アイデンティティを恢復、いわゆる国風文化が成立したのは平安中前期だが、唐滅亡(九〇七年)以降も日本の為政者や国民には白村江敗戦のコンプレックスが潜在し、
それがほぼ解消されたのは対元・高麗戦争(元寇、一二七四から八一年)の終戦以降である。
つまり、対唐・新羅戦争敗北の後遺症はじつに六〇〇年以上も続いたということになる
614 :
奴隷兵の戦意:2006/03/21(火) 21:46:58
(2)戦中の不思議
あまりにあっけない敗戦は、作戦がまずかったと言えばそれまでだが、日本兵の戦意が低かったためではないだろうか。
さらに、日本兵は船になれていなかったのではないか。奴隷兵の戦意はそれほど高くないのが本来だし、いつの時代も蝦夷は陸上の戦いにおいて強さを発揮している。
船の操作法や船戦について未熟なまま戦いに臨んだのではないか。
白村江の戦死者や捕虜は元々蝦夷の奴隷兵であるから、勝てばそれに越したことはないものの、とりあえず唐と新羅の連合軍を引きつけておいてくれればそれでよい。
その間に大事な百済人を日本に避難させようとの考えが当初からあったのではないだろうか。
615 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 17:43:27
なんで、大和朝廷が作った人工国家=百済の文化を、日本人が羨むんだ?(笑
_____________________________________
韓国人がアホな歴史教育をしているようだ。
【歴史教育、幼稚園から実施】
教育人的資源部(訳注:日本の文部科学省に相当)は、幼児の時から正しい歴史意識を
身に付けさせるために、多様でおもしろい活動を素材とした『幼児のための歴史教育活動
資料』を発刊し、全国8300余りの国・公・私立幼稚園に無料配布するほか、保育施設など
で出力して活用するようにホームページ( www.moe.go.kr )にも掲載することにしたと、16日
発表した。
この資料は、幼児期発達に相応しくておもしろい10編の時代的歴史エピソードと、33種類
の多様な活動で構成されており、歴史に対する幼児たちの関心と好奇心を引くことが期待
される。
(省略・・・)
★『韓国の文化の誇り、百済』編には、「日本が羨んだ百済文化」が紹介されている。←(苦笑)
(省略・・・)
古朝鮮(訳注:檀君の建国した国のこと)などのテーマも入っている。
教育人的資源部では、この資料が幼児教育現場で有効に活用されるようにするため、2月
に全国16道・直轄市の教育庁幼児教育担当講師要員400人余りを対象に研修を実施する予定だ。
▽ソース:Yahoo!Koreaニュース(韓国語)(2006.01.16 20:21)
http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview.htm?linkid=4&newssetid=746&articleid=2006011620210117447
616 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 19:58:48
★ 倭寇の正体は朝鮮人だ!! ★
韓国朝鮮人は、
「日本の海賊=倭寇が、過去に何度も韓国を侵略し、我々韓国人に多大な被害を与えた!」と、
主張して、日本人をよく非難する。
しかし、韓国人のこういった主張は大ウソなのである。倭寇の正体は韓国人=朝鮮人なのだ。
韓国朝鮮人は、金氏新羅の時代から活発に海賊活動を行っていた。
そして、朝鮮海賊にとって、第一のターゲットは、常に日本人であった。
我々日本人こそが真の被害者であり、韓国朝鮮人は加害者なのである。韓国朝鮮人は侵略者なのだ。
新羅時代、朝鮮海賊が対馬海峡や九州西岸海域に出没し、日本人を襲って殺傷する事件が多発した。
大和朝廷は、大宰府の水軍に対し、海上警備の強化を命じた。大宰府の取り締まりが厳しくなった結果、
朝鮮海賊は「商売アガッタリ」状態になった。そのため、しかたなく、朝鮮海賊は自分たちの国の人間を
襲うようになった。
この時、彼らは朝鮮人らしく悪ヂエを発揮して、新羅王府の取り締まりから身を守るため、
自分たちが朝鮮人である事を隠し、日本人に偽装した。
「オレたちは倭人だぞォ!」と、アピールしながら海賊活動を展開したのだ。
これが倭寇の正体なのである。倭寇とは朝鮮海賊のことなのだ。
★きままに歴史 『元寇と高麗』★
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/genko/genko.htm
617 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 21:45:58
確かに
618 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 18:16:07
はい。
619 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 23:33:12
マルチ乙
620 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 11:04:32
>>616 倭寇は日本人の誇りだよ!!
なにでたらめいってんだ!!
海賊かっこいい!!
邦画界は和製パイレーツをつくるんだ!!
あと昔の香港映画で「忠烈図」ってのがあったな。
倭寇と戦う側の話だけど。
624 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 12:23:09
松浦党の子孫の俺が来ましたよ。
筑紫ヤマトの水軍は海人族系豪族の水軍かもしれないな、それと隋の水軍だ。「隋と唐の確執が朝鮮半島の倭国をまきぞい、日本列島へと流れた」。そして壬申の乱、その後も朝廷と残党の確執が続いてくわけだ。
余談だが古代の海人族の船や青銅技術、天文学や緯度など想像以上の技術や知識を持っていた。嘘っぱちの西洋の大航海時代の遥か昔しになw…潜水艦の元になる船は源平の時代にはあった、そう日本が初めてなのだ。
改行くらいしろ
628 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 14:45:41
中国朝鮮とかで映画化されてそうだがな
629 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:29:39
白村江の戦いで 日本が敗戦した後
九州に唐の軍隊が駐留していたという事実は ありますか?
あります。
それどころか当時の大王の血統は唐軍によって廃され、唐軍の長が取って代わりました
このときの争いが後に言う壬申の乱です。
つまり当時の唐の将軍が現在の天皇家の祖というわけです。
631 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 04:48:02
最近の教科書はハクソンコウって記述してるんだね。びっくり。
632 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 05:13:33
古語だと「はくすきのえ」になるのかな?どちらにせよ日本語だからいいじゃん。百済を「くだら」「ひゃくさい」ではなくペクチョとか教えてたらさすがにハア?だけど
633 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 07:51:27
630
百済じゃないの?
鎌足は百済人って聞いた事ある。
壬申の乱で残った天武の皇統が唐人?
天智の系統も怪しいが。。。。。
> 鎌足は百済人って聞いた事ある。
朝鮮人の妄言を鵜呑みにしないほうがいいですよ
連中は「天皇や貴族は偉大な朝鮮民族だ」と言いたいだけですからね
635 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 19:21:01
>>629 唐が日本の捕虜を返還に来た事実はあるようですが
駐留とまでは言えないでしょう
たとえ鎌足が百済人でも
フヒトは鎌足の実の子ではなく養子とされているので
藤原氏が百済系の一族だと言うことにはならんかも。
藤原フヒトが中大兄皇子の子供なのを承知で後継ぎに据えたという
故事が事実としてだが・・
637 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 00:40:29
>632白=ハク 漢語の和風読み
村=スキ 古朝鮮語
江=(ノ)エ 日本語
だと思いますが
>>468 >唐は”衛星国として”(百済よりは)忠実に貢献している
>新羅を取りたてるとともに、”近きをくじき遠くと手を組む”作戦に・・・
ずれてるな。唐の目的は周辺諸国の服属。手こずっていた高句麗征討の為に、
一時的に新羅を利用しただけ。百済遺臣壊滅後、鶏林に都護府を置き、百済
同様に新羅も属領化を図った。668年高句麗滅亡後は、今度は唐対新羅戦争に
なっている。
639 :
日本書紀:2006/04/21(金) 22:32:33
日本書紀では、郭ムソウ将軍が藤原鎌足の日本名となって国務一切を仕切り、
藤原王朝を創設した事を匿すみたいに、臆面もなく開き直った書き方をして、
「天智天皇の喪を郭ムソウ等に告げ、甲冑弓矢を郭ムソウ等に賜い、この日、郭ムソ
ウ等の賜いし物はすべて粗絹一千六百七十三匹、布二千八百五十二端、綿六百六十六
斤である」と記されている。
これはまったくの作り話である。絹布や綿布は中国が本場であって、向こうから輸
入していた品なのに、それを贈って喜ばれたなどという事はありえない。本国へ引き
あげた筈の郭将軍は九州から五月には御所に入って、漢字使用令や積石供出令を布告
しているのである。絹、布、綿等、婦人の喜ぶ品を莫大に贈与されたことで、彼らは
満足して本国へ引き上げたとでているが、「白村江の戦いで大勝して日本へ進駐して
きたのに」、甲冑弓矢を賜いというのはおかしい。事実は取り上げられ、武装解除さ
れた事であろうし、粗絹や布や綿をだしたにしても、数がみな半端すぎるのは、御所
にあっただけを、すっかりみな没収されたものとみるべきだろう。何千も兵を伴って
進駐してきて布を貰っただけで戻る訳などないのは当然である。
640 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 00:02:16
唯一日本と韓国の仲がよかった時代
馬鹿だなぁ…韓国なんて国は当時ないんだよ。もちろん日本っていう国もだ。百斉=倭国だ。唐だって今の中国人種(多民属)と違うかもしれん。「天武天皇は翼の生えた虎」だ。天武天皇は偉大なのだ。
642 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 01:53:56
百済=倭国×
百済≒大倭の衛星国○
643 :
天智紀:2006/04/22(土) 15:40:52
『日本書紀』の「天智紀」に出ている処の、
「白鳳二年八月二十七日、吾軍唐軍と白村江に戦って利あらず」とされる六六三年が、
どうも日本へ彼らの進駐の、きっかけを与えたものではあるまいかと想われる。
つまり、高句麗らの北鮮系を追い、南鮮系の百済人がもっとも勢力をえていて、
「百済にあらざれば人にあらず」とされ、
「百済ではない‥‥詰らぬやつ」というのが、「‥‥クダラないやつ」と今でも訛っ
て残っているくらいの権勢をもち、百済語で、
「国」を意味するところの、ナアラをもって、「奈良」の都まで建てていたのが、次
第にその勢力を増してきたトウ氏によって、
「本国の百済はすでに滅び亡国の民のくせに、汝らはよい加減にしたらどうや」と、
せっかくそれまで営々として築いてきた地盤を、百済人が奪われてしまうのが、ちょ
うど高松塚古墳が出来たと推理されている八世紀の初頭に当たる。
644 :
唐ではなく藤である:2006/04/22(土) 15:43:47
つまり八世紀に大陸から独立をしたのは、なにも日本の国そのものではない。進駐
してきていた藤原勢力が、
「もはや、われらは唐ではなく藤である」
と、彼らは勝手に独立したのだろう。征圧されていた高句麗系の北鮮人や、土着の
天の朝系の西南種らの日本原住民を、奴隷化して、ここに独立したのである。
いうなれば、故マッカーサー将軍以下が、あのまま住みついて日本各地に、その後
も基地を置きっ放しで、新アメリカ日本州として独立させてしまったようなものであ
る。
645 :
井上光貞説:2006/04/22(土) 15:45:17
これに関しては朝日新聞社刊の『日本原住民史』に、詳しく、その経緯がでている。
さて、日本古代史が専門という井上光貞説では、
「七世紀後半の物と高松塚古墳は推定できる。八世紀に入ってからとは考えられない。
文武天皇の時から火葬になっているのに、高松塚には骨が残っていない」と、きわめ
て明快だが、これではあまりに単純すぎる。東大で講座をもっている方の説だから傾
聴したいが、どうも感心しない。これは六国史の中の、
『日本文徳天皇実録』の中からの援用だろうが、高句麗人は西南系土着民と混じって
から、「拝火教」の宣撫をうけ彼らの火葬に同化するが、百済人は土葬であって、こ
れは858年の文徳帝の死後も、河内交野を初め百済系の多かった墳墓の発掘によっ
ても、明白にされていることである。
646 :
高松塚古墳の遺骨:2006/04/22(土) 15:46:50
それでは、その首級のない高松塚古墳の遺骨が誰なのか?
つまり何族人なのか?というので、いろいろ談義されているが、草壁皇子にしろ高
市皇子であっても、百済人であるとみれば問題ない。
それを七世紀後半の日本列島に、ちゃんとした日本国が厳然としてあって、そこに、
「日本人」とよぶ民族が既に今のごとく、存在していたとするからすべてが可笑しく
なる。
つまり『日本文徳天皇実録』をも含む六国史が、渡来したトウの人の漢文によって
書かれたものと正確につかめず、それを、
(日本国なるものがイザナギ、イザナミの二神によって、天の浮橋より天の鉾にて創
られた時から、ある程度の国家形態をととのえ七世紀まで確固として存続。百済が滅
びた時も断固武力にて本土防衛をして、亡命した帰化人を保護し得るだけの実力があ
った)
とするような妄想に取りつかれるからして、ために種々の揣摩臆測が出るのだろう。
647 :
奈良県種原考古学研究所:2006/04/22(土) 15:50:39
「皇子」なる文字からして、どうも誤まるのだろうが、
『日本書紀』の中でも堂々と、中大兄皇子が蘇我入鹿を大極殿で仆してしまう条を、
「韓人、鞍作りを殺す」と、中大兄皇子のことを頭ごなしにそう呼び、後に皮はぎし
て馬鞍や馬具作りとなる北鮮系の、騎馬民族の末裔の蘇我氏を侮るごとくに書いてい
る。
だから、その遺骸から首級がなくなっているのも、埋葬後何人かが入って荒らして
いる事実も、盗人の仕業ではなく、つまり、
「政争で世の中が変わり、敗者となり反体制となった被葬者への、制裁か報復での墓
あばきとみられる」と、奈良県種原考古学研究所でも、高松塚への意見を発表してい
る。
648 :
高松塚古墳の場所:2006/04/22(土) 15:59:19
ということは、これも、
(クダラ系が押さえていた天下を、やがて藤原氏と自称する唐からの人たちに奪われ、
かつては吾らの事をさえ、クダラでないのはクダラねえと罵りおった不届き者め‥‥)
と、その墓を荒らされたのだとする裏書きともなるのだろう。
なにしろ高松塚古墳の場所が、
「藤原京」ともよばれた橿原の朱雀大路の下ってきたところ。大極殿の建物のあった
個所から真っすぐの地点にあるゆえ、そこの地元の研究所の意見は正しかろうと想え
る。
また、被埋葬者を、持統・天武の御子、とされる草壁皇子や高市皇子とする推測の
他に、
「天武帝の九番目の御子の刑部親王」
ではないかとする説も出ている。
649 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 16:03:36
長い釣りだな。
本気奈良どうしよー?
650 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 16:22:02
また騎馬民族の糞サヨビビンバカがあらわれたな、「百済にあらざれば人にあらず」
ギャグかいな?
「‥‥クダラないやつ」などと言う日本語はあり得ない。
「百済のモノにあらず」
「百済がものにあらず」とならなけらばない。
しかも「くだらない」などと言う語彙は上代日本語の文献には現れない
これだけでも「くだらない=百済ない」という学説は眉唾臭いという事が解る。
戦国時代末の「日葡辞書」(慶長八年・1603年)には「cudaranu」と言う語彙が収録されている。
「禅林類聚抄」(寛永一九年・1642年)、「三百則抄」(延宝五年・1677年)などの文献でも「くだらぬ」で現れている。
江戸時代の文献である「青楼真廊誌」(寛政一二年・1800年)「祝井風呂時雨傘」(天保九年・1838年)でも「くだらぬ」で、現れている。
「くだらない」が出現するのは、江戸時代の末期から明治初期にかけてである。
明治三年から九年にかけて刊行された、「西海道中膝栗毛」という本には「児戯ない(くだらない)」が夏目漱石「虞美人草」には「下らない」が現れる。
江戸時代末期の人が、「百済のモノが最高だ」などとズレた事を言うだろうか?
「くだらぬ(くだらない)」は、動詞「くだる」に否定の助詞「ぬ(ない)」がついた形態なのである。
「くだる」とは、物が下の方向に行く事であり、ここから転じて「意味がすっと通る」と言う意味が生じた。
日葡辞書には、「この経の義理がくだらぬ」という構文があって、
「この経文の道理・意味が解らない」という説明が付けられている
とあるように朝鮮人の思い違いなのであ〜るw
息を吐くように嘘をつく工作員には皆さん注意しましょうね。
651 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 16:25:28
>>598 >亡国の憂き目に遭いかねないような救援軍の派遣を何故決めたのであろうか・・・
そうだね、政権の存亡を賭して百済救援を決した近江政権の
動機は何だったのか。
652 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 16:34:53
日本は見捨てないって、スローガンがあるだろ?
賎人の感覚では分からんか?
衛星国でも見捨てないのが日本なんだよ、戦前
朝鮮や台湾、引いてはアジアの為に体を張ったお母さんがいただろ?w
653 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 16:49:12
百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡破百残■■新羅以為臣民
200年以上もかければ大倭の飛び地てな感覚になるんだろう〜
臣民は→日本人へと変わり、同族意識が芽生え、国家存亡の危機迫り大本営発表
てなもんだろう。
654 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 16:57:33
そうだ!歴史は繰り返す。
655 :
大阪市:2006/04/22(土) 17:14:41
■大阪市北区 兎我野町(通称:トキノ):古代朝鮮の都祈野(ときの)から名付けられました。
■大阪市中央区 久太郎町(通称:百済町):百済町と書いたのを後世に久太郎町とする。
■大阪市中央区 高麗橋(通称:コマ):朝鮮国使来朝のために架けたといわれる。橋の東端に難波高麗館がありました。
■大阪市中央区 難波(通称:ナルニワ):朝鮮語の「ナルニワ」が訛りナニワ、「日の出」る聖なる場所という意味。
■大阪市中央区 心斎橋(通称:新羅橋):心斎橋は昔、新羅橋だった。織田信長軍、石山本願寺軍攻撃配置図にも記載あり。
■大阪市鶴見区 鶴見区(通称:ツルミ):ツルミとは朝鮮語で鶴。古朝鮮語ではツル及びツルミで山を表した。
■大阪市小橋町(通称:オバセ):新羅系渡来人の小橋氏が由来。小橋でオバセと読みます。
■大阪市生野区(通称:イクノ):古代新羅系渡来人の生野長者が由来。
■大阪市生野区 林寺:古代このあたりに百済系渡来人である林史氏が居住しており、彼が立てた寺もありました。
■大阪市平野区 杭全(通称:クマタ):中世このあたりは杭全荘とよばれ、百済系渡来人の子孫である坂上広野麻呂の荘園であった。
■大阪市平野区 加美鞍作(通称:カミクラ):河内国渋川郡賀美郡といい、鞍作氏はじめ百済系渡来人が栄えた場所。
■大阪市東住吉区 百済貨物(通称:クダラ):生野区のあたりを古代、摂津国百済郡と呼び、百済系渡来人が多く住みついた。
■大阪市西成区(通称:ナル):東西に分かれる前は単にナリと言った。ナリはナルの転訛であり朝鮮語で太陽の意味。
■大阪市西成区 岸里玉出(通称:タムデ):古代新羅渡来系氏族の難波吉士(なにわのきし)の居住したところで、吉士が岸となる。
656 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 17:26:04
>>651 唐・新羅との決戦を前にしての蝦夷・粛慎討伐、その動機は領土補充=開拓のようなもの
で厳密には逃げの受け皿造りでしょうね、大国唐には勝ち目なしと悟っていたのかもしれません。
657 :
三韓時代:2006/04/22(土) 18:37:07
かつて吾が日本列島が馬韓辰韓弁韓の三韓時代に支配されていた時代は、終戦直後
よりひどく、ナラ時代、韓国のカントリーの意味だそうだが、金大中の御先祖さま
[これは単に百済系をさす意味]が君臨の昔、「クダラにあらざれば人にあらず」と
され、「クダラぬやつ」「クダラん事はするな」とまで、現代でさえ用いられるくら
いに、韓国の御先祖さまは日本へきて君臨なさり、好き勝手な事をなさっていた。
新羅人や高麗人も、日本海よりベーリング寒流で入ってきて勢力争いをした。だか
ら日本の古名は越前越中越後とか備前備中備後と、三韓時代に三分割されていたまま
なのもその例証である。
658 :
三韓時代:2006/04/22(土) 18:38:26
馬韓、辰韓、弁韓の三韓時代から西暦664年の藤原鎌足まで、彼らが日本原住民
に加えた残酷非道は、僅か三十八年間だけの日帝の圧政に比べれば、何十倍もの年数
の苛酷さであった。
中国の方も郭将軍の部隊が御所を占領した西暦664年五月十七日からは、藤原王
朝をたて、南京の大虐殺以上のことを、かためて捕虜を生き埋め踏んづける根蓋(ね
ぶた)までやってくれている。
659 :
青丹よし奈良の都は咲く花の:2006/04/22(土) 18:41:47
「青丹よし奈良の都は咲く花の」とよばれる「ナラ」の言葉が、朝鮮語の「国」を意
味するという程だから、日本へ渡ってきて落着いてしまった朝鮮人の勢力は、侮り難
いものがあったのだろう。
「人皇五十代光仁天皇は、四十七代の女帝孝謙帝御妹君の井上内親王の御聟であらせ
られたが、当時河内の平野郷に住まっていた朝鮮系の高野新笠がうみ奉った桓武帝が、
その死後に代られると、未亡人の井上皇后は太子と共に吉野の山寺へ押しこめられ、
そこで食を絶たれたもうて餓死させられた」
660 :
水軍奴隷:2006/04/22(土) 18:46:53
七世紀に日本列島には何人いたのかの記録はない。しかし白村江の戦いに連行され
ていった日本原住民の「四つ」の飼戸の民。つまり戦奴が二万七千とあるから、水軍
奴隷として伴われた「八つ」の海人族も別に半分はいただろうから、計四万が総動員
数。明治36年の町村役場兵事課に対しての軍部よりの動員計劃では、老幼を含めた
人口百に対して壮丁一人の割合だから、その割で逆算してゆくと人口四百万になるが、
それを半分と押さえてみても二百万人の者が奴隷として、「クダラぬやつ」「クダラ
ぬことを言うな」と、人間扱いされなかった働き蜂非人だった事になる。
661 :
恨み:2006/04/22(土) 18:47:44
那古が来朝して客館に滞在していた。于老はその接待の役に任ぜられた。彼は倭の使臣に戯れて「近いうちに汝の王を塩作りの奴隷にし、王妃を炊事婦にする」といった。
倭王はこれを聞いて怒り、将軍、于道朱君を派遣して、わが国に攻めて来たので、大王はこれを防ごうと柚村に出て居た。于老は大王の所に行って「こんどのこの患は、
私が言葉を慎まなかったのが原因でありますので、私がその責に当ります」といって、ついに倭軍の所に行って「前日の言は、ただ冗談に言っただけである。
どうしてそのような言を信じて、軍を起こしてこのように攻めてくるのか」といった。倭人はこれには答えないで、彼を捕まえて、積み柴の上において焼き殺してから去って行った。
662 :
恨み:2006/04/22(土) 18:49:06
462年 夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。
663 :
人質:2006/04/22(土) 18:53:36
390年
第十七代、那密王即位三十六年に、倭王の使者が来朝して「わが王が大王の神聖であられることを聞いて、
臣に百済の罪を大王にあげるようにといわれました。願わくば大王の王子お一人をつかわせて、
わが君に誠意を御示しくださいませんか」と言った。そこで王は三男の美海を送った。
美海の年は十歳で、言葉や動作も未熟であったので、内臣の朴娑覧を福使として付き添わせた。
倭王は彼らを抑留し、三十年も帰さなかった
664 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 18:55:30
>>661 ビッグマウスの鮮人が焼き殺されましたか?w
665 :
百済系朝鮮美人:2006/04/22(土) 18:58:38
郭ムソウが最初は兵二千
人軍夫四千を連れて、日本にきました。現代でしたらば、アメリカだったら奥さんの
セックスのために慰安船をよこすでしょうが、当時は、まだディーゼル機関がなく西
南の風が吹く年に一回しかこられないんですから、彼ら六千人は全部がチョンガーで
す。それから西暦668年「吾にまた二千の兵を送る」との記録ではなってますが、
ここでの吾が、さも日本へと誤っているが、進駐軍の吾のことで意味がまったく違っ
てくるんですよ。日本には百済王朝の男たちは全部が将軍かまたは将校になって、全
部マザーランドの百済の救援に二万七千の原住民を引っ張って白村江へ行ったんだか
ら、そんなにすぐ帰ってこられるわけは、とても当時ではありえぬ。
「今日も暮れゆく異国の丘に」という歌があったけど、あれは引揚げ船があったから、
待てば八年か十年めに帰ってこられたが、当時は、そうは戻っては来られぬ、向こう
で奴隷です。
さて進駐してきた郭将軍ら偉い人たちは百済系朝鮮美人を片っ端から現地ワイフ。
かつて司葉子が代表的な朝鮮美人の典型だったのです。体がスラーッとしていて、毛
の薄いのが特長。
まぁ軍人軍夫共で九千何百人、それから一旗組を入れると、約二万ぐらいの人間が、
札チョンというという言葉があるが、原住民の日本人の女を全部現地妻にし、子ども
を生ましたわけです。
666 :
百済系朝鮮美人:2006/04/22(土) 18:59:44
桓武帝をかつぎあげた朝鮮系が、宮中をすっかり押さえてしまったので、帝
の後宮は、女御として、
「クダラ王教法媛」「クダラ王永継媛」
そして女官長に当る尚侍(ないしのかみ)に、「クダラ王の娘教信」、その次長に
「クダラ王明信の娘」「クダラ王教仁姫」「クダラ王貞香娘」
さながら今日のキイサンクラブのごとく、クダラの女官が御所の後宮を取りしきり、
この後の嵯峨天皇の御代も、
「女御はクダラ王媛貴命」「尚侍はクダラ王慶命媛」と変らず、人皇五十五代の仁明
帝の代でも、クダラ王永慶媛があがっていた。
帝の御側近が朝鮮の百済の姫たちばかりゆえ、御政務を補助する文武百官もこれみ
なクダラ人が、その重要なポストを占めていたことはいうまでもなく
667 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 19:21:46
>>664 チョンらしくてよろしがね、言うだけならタダだしね
でも氏じゃいかん氏じゃwww
668 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 19:54:57
正確には
唐 (白村江の戦い) × 無謀
元 (文永・弘安の役) ○ 神風
明 (文禄・慶長の役) △ 神風
清 (日清戦争) ◎ 近代化
露 (日露戦争) ◎ 東郷さん
独 (第一次世界大戦) ○ おこぼれ
中 (日中戦争) △ ニーハオ
米英蘭仏 (太平洋戦争) × 無謀
669 :
語源由来辞典:2006/04/22(土) 20:48:48
くだらないは、動詞「下る」に打ち消しの助動詞「ぬ」がついて「くだらぬ」、「ない」がついて「くだらない」となった。
「下る」には、通じるといった意味を示す場合があり、それを「ない」で否定して、「意味がない」「筋が通らない」などの意味となり、そこから取るに足りないという意味に転じたとされる。
他の説では、上方から関東に送られる物を「下りもの」と言い、その中でも清酒は灘や伏見が本場であるため、「下り酒」と呼ばれていた。
反対に関東の酒は味が落ちるため「下らぬ酒」と言われ、まずい酒の代名詞となり、転じて現在の意味となったとする説がある。
しかし、「下りもの」と呼ばれる以前から、「くだらぬ」は使われていたため、この説は考え難い。
また、日本に農作を伝えたのは現在の朝鮮にあたる百済の人々で、百済の人々を頭の良い人としていたため、頭が悪く話の通らない人を「百済ではない人」と呼び、略され「くだらない」となったとする説もある。
670 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 20:56:37
関係ないし間違ってるしキモイしウザイ
671 :
青竜刀:2006/04/22(土) 21:25:50
戦奴として徴兵され連れてゆかれた侭戻ってこないのは二万七千でも、山
に隠れ海中の島に身を潜めて隠れていた日本原住民は、その当時の事ゆえ十倍か、も
っと多くて二十倍の余ぐらいはいたとみられる。つまり散らばっていても五十万人ぐ
らいの人口である。
クダラ王国朝の時でも苛めぬかれてきていたが、今度は青竜刀を持った郭将軍の進
駐である。「捕まったら殺される」と、隠れていた連中が今でいうレジスタンスで、
青竹の先を焼いた竹槍や弓矢をもって奇襲を各地で弁髪進駐軍にしかけていたのが七
世紀の実際の有様だったろう。
そこで郭将軍は全国に「進駐軍の命令により」と巨石の運搬を命じ、大野城、金田
城、それに高安城まで、判っているだけで14ヵ所に築城。井戸を掘らせ食糧や塩類
などをしまいこませた。
面白いのは日本歴史で郭将軍が築城用の積石の供出命を布令した項目は、三省堂歴
史年表にも出ているが、これは日本軍が進駐軍撃退の為の本土防衛のものと頭から決
めつけている。
(各地のレジスタンスから身を守る為の退避用の城とはせず、あくまで日本の抗戦の
為だ)
として、よって郭将軍は二千名の追加を朝鮮半島から呼んで、アフガニスタンゲリラ
のような彼らと戦ったものの、あまりにも日本軍が勇ましくて戦に利あらずして九州
より引上げた。
672 :
原住民討伐:2006/04/22(土) 21:27:23
朝鮮半島を悉く占領
し、壱岐対馬から九州へ入り、御所に本陣を敷き、百済美人をずらりと周囲にはべら
し、「テンホウ、テンホウ」と連発している郭将軍らが、いくら竹槍隊が蜂起してき
たからといって、追加軍まで呼んで九州各地から京以西の治安維持を完全にしてのけ
た彼らが、縄文日本人に怖れをなして、すごすごと戻っていくような阿呆らしい事が
現実にまさかあるだろうか。
郭将軍は応援に呼んだ二千の合計四千の鉄戈や青竜刀をもった弁髪軍によって、く
まなく各地の原住民討伐を敢行。
673 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 23:08:45
夢遊病ですか?お大事に↑
674 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 23:13:09
中国人に殴られる韓国人を、私は何度も目撃した事がある。
何年か前に酒場で朝鮮族の娘たちに百ドル札をちらちらと見せびらかして、
「お前ら中国人たちはこんなアメリカの百ドル札なんて拝んだ事もないだろう?
」と威張り散らしたソウルの男が、私の友人に殴り飛ばされた。
「中国人を馬鹿にするにも程がある。
お前に何の取り柄があってそんなに威張るんだ?
能無しの癖に偉そうにしやがって!」
と言って、友人はその男を外へ引っ張り出そうとしたところ、
周りにいた中国人たちが寄ってたかって
一緒にそのソウルの男を蹴飛ばしたり殴ったりしたのだ。
私が中国に一時帰国したとき、
瀋陽の朝鮮族居住地域で朝鮮族の男二人に血まみれになるまで殴られて、
犬のようにキャンキャンと逃げていった韓国人を見たことがある。
韓国の招請状をあげるからと言って、
幾度となく朝鮮族の金を詐欺で巻き上げていたのがバレて、
首根っこを掴まれたのだ。その時丁度私の横に警察の友人がいたのだが、
どうしてあれを放ったらかしにするのか訊ねると、
「あんな韓国野郎、殴り殺されたってどうって事ないよ。
こんな事はしょっちゅうあるから、警察も面倒で、
見てみぬふりをしているんだ。」
彼の言葉によると、瀋陽市だけでも週に平均二、三人の韓国人が中国人に
殴られるトラブルが発生していると言う。あまりに威張りすぎて殴られ、
マナーを守らずに殴られ、詐欺を働いては殴られているのだ。
言葉の端々で、「テノム(垢野郎)」「テノム」と口走って、
殴られた韓国人もいたという。
この蔑称は中国では相当気を付けねばならない言葉で、
うっかり口に出したりしたら大変な事になる。
675 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 23:16:48
>>667『チョン』というのは朝鮮半島の人々のことをさす
『蔑称』というのは全くの誤解だと聴きましたが。
江戸時代の「東海道中膝栗毛」に「馬鹿でもチョンでも」
という言葉が出て来るそうで、これはいわゆる文明開化とか
大陸進出よりずっと以前のことです。この頃は「チョン」
というのは馬鹿とほぼ同義語の俗語だったそうです。
ですから「バカチョンカメラ」というのも、そういう俗語を受けて
「どんな馬鹿な人でも使えるカメラ」という意味だったみたいです。
676 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 23:27:46
ちなみに
カラカウとは韓人をおちょく、韓人を飼う韓飼って楽しむという
説が有力らしいですね。
677 :
竹島問題:2006/04/23(日) 17:49:17
国際司法裁判所は歴史より実効支配を重視
日本は、法的根拠をもって竹島の領有権を国際司法裁判所に委ねる腹づもりだが、これはいかにも甘い。
というのも、同裁判所は、歴史的根拠よりも実効支配を重くみる傾向にあり、いくら日本が歴史的根拠を
あげても、実効支配をくつがえすことはむずかしいからだ。
平成十六年十二月に国際司法裁判所は、ボルネオ島北東・セレベス海のシパダン島とリギタン島をめぐる
マレーシアとインドネシアの領有権争いについて実効支配しているマレーシアに領有権があるという裁定を下した。
マレーシアは1917年に両島における亀の卵の採集を規制する法令を出し、1933年には鳥の保護区を設置。
1962年から両島に灯台を建設し現在にいたるまで維持・管理している。
同裁判所は「マレーシアの活動は数こそ少ないものの多様であり、立法・行政・そして準司法的な正確をもった
長期にわたるものであり、二島にたいして国家的機能を果たそうとする意思を読み取ることができる」と実効支配を
認定したのである。
国際司法裁判所が今回マレーシアに領有権があると下した二つの島は住民も少なく、漁船の立ち寄りや灯台設置、
ダイビングスポットとして使われているだけだが、周辺水域には海底資源が埋蔵されているとみられ、マレーシアは、
この裁定によって大きな利益を得た。
同裁判所の今回の判断には、過去に持ち込まれた他のケース同様、誰の目にも明らかな条約にもとづかないかぎり
「発見」や「歴史」に由来する主権の主張を退け、長期にわたる継続的な実効支配や統治、管理の根拠の積み上げを
重視している。
極論になるが、歴史のみを重視していたら、ローマ帝国の支配権がおよんだ地域はすべてイタリアの領土であるという
主張を受け入れるようなものである。
日本政府は前述の同裁判所の判定による教訓を生かし、竹島問題、尖閣諸島問題についてもっと積極的に実効支配を
強めるべきなのである。
678 :
御成敗式目:2006/04/23(日) 17:58:40
第8条:「御下文(おんくだしぶみ)を持っていても実際にその土地を支配していなかった時のこと」
※御下文=将軍の発行した領地を保証する証明書
御家人が20年間支配した土地は頼朝公が取り決めたように、元の領主(貴族や寺社など)に返す必要はない。
しかし、実際には支配していないのに、支配していたと偽(いつわ)った者は証明書を持っていても、領地を没収する。
※つまり、御下文がなくても20年間実効支配していればその土地は御家人のものということになります。
679 :
御成敗式目の要点:2006/04/23(日) 18:04:54
1.それまで公家の法律だった律令を、武士の習慣や実態にあわせて作ったものが「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)です。
2.御成敗式目は元仁2年(1224年)に執権(しっけん)となった北条泰時(ほうじょうやすとき)が、
連署(れんしょ)北条時房(ほうじょうときふさ)や評定衆(ひょうじょうしゅう)とともに編纂(へんさん)したものです。※
3〜5略
6.領地は武士にとっての命であり、先祖から受け継いだ土地を認めてもらうこと、新しい領地をもらうことの二つが最も大切なことでした。
ですから御成敗式目の中で最も大切なのが第7条の将軍によって与えられた土地を保障することと、第8条の20年間実行支配すれば誰からも奪われないという部分になります
680 :
仮想シナリオ:2006/04/23(日) 18:31:56
韓国海軍と日本海軍の間で戦闘が起こったらどうなるか。両国の海軍力に多大の差が
あるから結果は推し測ることができるが、むしろ「与件上」、我が国の海軍が手出しする
間もなく敗れるだろうというシナリオが出て、関心を集めている。
国防力強化のための市民団体である「自主国防ネットワーク」( www.KoreaDefense.Net )
のシン・インギュン事務処長が21日に提示したシナリオによれば、独島周辺海域で両国
海軍の間で戦闘が発生した場合、黄海(平沢)にある我が海軍の第2艦隊は東海(訳注:
日本海)に行く時間がない。また北朝鮮を牽制せねばならないから容易には動けない。
鎮海にある第3艦隊は、佐世保から攻撃する日本海上自衛隊の第2護衛隊群(我が海
軍の機動戦隊に相当)によって進路を阻まれ、大韓海峡(訳注:対馬海峡)の通過もでき
ない。特に釜山にいる第3艦隊は司令部を置いていながらも専用埠頭がなく鎮海の海軍
作戦司令部埠頭に居候しているから、南海に出るだけで相当の時間がかかる。
我が軍が日本艦艇にミサイルを発射しても、日本のイージス艦「みょうこう」と「ちょうかい」
指揮によってすべて要撃されるはずであり、KDX-2駆逐艦は日本のミサイルに空しく倒れ
てしまう。結局、ろくに手出ししないうちに我が海軍が一方的に莫大な被害をこうむる、と
いうシナリオだ。
681 :
北朝鮮:2006/04/23(日) 18:47:42
【平壌23日聯合】北朝鮮の内閣機関紙「民主朝鮮」は23日、日本の排他的経済水域(EEZ)探査計画を
民族の尊厳と自主権に対する侵害だと指摘し、
北朝鮮の軍隊と人民が民族共同で独島死守に向けた戦争を求めていると報じた。
「決して座視しない」との論評で、独島を死守することが民族にとって至上の課題に浮上している現状を決して座視しないとし、
「愛国の精神を命より大切にする朝鮮民族がある限り、独島はわが民族の神聖なる領土として永遠に残る」と強調した。
また、日本が領土紛争を引き起こす理由は独島周辺海域の水産資源や
経済的な利用価値だけではなく海外侵略と領土拡大にあると指摘した。
第18回閣僚級会談に出席している北側の代表団は基調演説で日本のEEZ侵犯計画などに触れ、
南北が共同で措置を取ることを提案した。
682 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 23:05:36
韓国の竹島不法占拠は李承晩が勝手に引いた李ライン内に竹島を取り込んだことが
紛争の発端だと連合国側は認識している。
683 :
(1)戦前の不思議:2006/04/24(月) 20:48:01
やはり百済と日本の支配層とは「血」で繋がっていたのではないだろうか。そう仮定すれば、無謀な冒険に打って出たことが理解出来る。それ以外の仮定だと、当時の指導者が「アホ」だったになってしまうと思う。
阿倍比羅夫は蝦夷の奴隷兵を獲得するために北方を討伐したのであろう。東国人や蝦夷の兵の強さは後の時代に置いても繰り返し語られる日本の常識であった。また防人が九州の地元民から選ばれなかった理由は、
一つには勇敢さが足りないと言うこともあろうが、血縁関係の濃さゆえの敵との通謀を恐れたためであろう。白村江の戦いにおいても同様で、新羅や唐との血縁関係皆無の蝦夷が適当との考えがあったのではないか。
684 :
秀吉の朝鮮征伐:2006/04/24(月) 21:03:31
七世紀の白村江の戦いで郭ムソウが日本へ入ってきて占領してから、日本が中国大
陸と対等になれたのは、秀吉の朝鮮征伐で明兵と対決した時、というより明治の日清
戦争からです。
685 :
桓武時代:2006/04/24(月) 21:04:37
「クダラにあらざれば人にあらず」とされて、今でもクダラヌ奴とかクダラ
ナイ事とされている桓武時代は、みな金大中の全羅南道の百済だが、周防とか安芸の
ように岡山に接近している中ツ国の近くは、魏の時代に多く移ってきた中国大陸人に
接収されたから、大内の多々良も鉄屑精練をしていたことで大陸系であるが正しい。
686 :
帰化:2006/04/24(月) 21:05:26
皇国史観の頃は、えらいさまの歴史ばかりなので帰化族などといっても、日本列島
にきた進駐権力に対して帰化帰順したのが正しく、白村江の戦いで母国を喪失してし
まった百済人らがそうで、彼らは忠誠を示そうと高麗系新羅系を蕃族と日本原住民を
追討目標にして人間狩り。よって高麗系は遥か昔の移住では日本書紀に合わないとい
うのが、これまでの日本の古代史である。
687 :
南北朝の戦い:2006/04/24(月) 21:11:13
南北朝の戦いも中国勢力と三韓勢力との代理戦争とみれば、よく納得していただけ
る。
688 :
帰化:2006/04/24(月) 21:11:29
そうだから嘘も100回言えば真実になるを実践している。
689 :
仏教側の勧学院派日本書紀:2006/04/24(月) 21:12:43
仏教側の勧学院派日本書紀では、百済人が日本原住民の奴隷を苛使し奈良の大
仏を建立したのを祝って、願文を奉ったとしている。奈良の町は大仏建立のために犠
牲となった日本原住民の屍で埋まったと言われる
690 :
安倍:2006/04/24(月) 21:49:50
中国、韓国、北に対してもっともっと強硬に出て欲しいという願望は国民の中に潜在的に相当あるのは事実で、
安倍がその象徴になっている面もある。
他には何も売りはないけれど
691 :
国際司法裁判所:2006/04/24(月) 21:53:05
国際司法裁判所にいる日本人とはあの雅子さんの親父です
692 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 21:56:33
大仏の発願造立は聖武天皇と光明子。
聖武天皇は、続日本紀だろ。
693 :
李承晩ライン(李ライン):2006/04/24(月) 21:56:47
1952年、韓国の李承晩大統領が行なった、一方的宣言によって規定された領海水域。
同宣言により朝鮮半島周辺(最大二百マイル)の水域内に存在する、
すべての天然資源、水産物を利用する権利を主張した。日本側はこのラインを認めず、
結局65年の日韓漁業協定で李承晩ラインが廃止されるまで、韓国軍による日本漁船の拿捕が続いた。
李承晩ライン廃止までの抑留者数・拿捕された船の数および死傷者数
抑留者数:3929人
拿捕された船の数:328隻
死傷者数:44人
抑留された被害者は、日韓漁業協定が成立する1965年まで抑留され、韓国に人質として利用された。
その年月、最大13年。
日本政府は、彼らを帰してもらうために、在日朝鮮人の犯罪者を
仮釈放して、在留特別許可を与えた。その犯罪在日朝鮮人の数、472人。
竹島の問題は、ここにある。韓国政府は、被害者ふりをする。
人質にした日本人の命と引き換えに、国交正常化を要求し、
韓国に最大限に有利な日韓基本条約についての譲歩を日本に迫った。
韓国政府は、人質外交を、心より反省し、謝罪しろ。
694 :
帰化:2006/04/25(火) 00:11:05
そうだから嘘も100回言えば真実になるを実践している。
695 :
追分について。:2006/04/25(火) 21:48:10
藤原王朝が傭兵とした百済人達を使って、原住民を討伐し、女子供や年寄りを捕虜にして曳き立ててきた時、連れ戻っても骨折り損になるようなのや、
労働力になりそうもないひ弱な人間を選別しました。街道が三つ又になっている処で、いくら夫婦や親子でも、連れ戻って奴隷市場へ出せぬのは分けて別路へ追い立てました。
だから奴隷集積隊が廻った各地に追分けという地名が沢山あり、尺八で哀切極まりない悲しい旋律が多いのはこの訳なのです。
696 :
八のへ(八戸):2006/04/25(火) 21:49:43
藤原王朝に帰順した百済の傭兵団の坂上苅田麿の倅田村麿によって、板東八ケ国へ追われた原住民が、
多賀城が構築されるとさらに一のへ(一戸)、二のへ(二戸)三のへ(三戸)と追い込まれ、
それでも降伏して奴隷にならぬ者は八のへ(八戸)九のへ(九戸)えとバリケードを次々と設営して追い込み苛斂誅求をした。
697 :
朝鮮征伐:2006/04/25(火) 21:53:15
朝鮮征伐の時に日本が荒らしたことばかりしきりに言うが、秀吉の急死による引きあげで休戦協定もできずの撤兵だつたから、
取り残され虐殺された日本人がいかに多かったかを歴史屋は現地で調べてきて貰いたい。
698 :
奈良の大仏:2006/04/25(火) 21:56:43
今日の奈良の大仏は松永弾正に焼かれた後、豊臣秀頼によって修復され、江戸時代にも改築されたものだが、
行基大僧正らによって鋳造された時点、起重機も電気溶接もなく、全てが人間の二本の手でやらねばならなかった時、
あれだけ巨大な物を作る場合どれだけ多くの人間が溶鉱炉の業火の中へ落ちて死んだか……。
行基やそのブレーンは朝鮮人であったとしてもそこで使役された労務者は誰だったのか。まさか当時の朝鮮に今の大林組や清水建設会社が在ったとは想えぬ。
といって行基たちが徴用で朝鮮から人を集めてくる筈もなく、また半島の季節労務者が出稼ぎに来たとも考えられぬ。
何万人と集められ鞭打たれ、灼熱のるつぼの中へ足踏み外し次々と悲鳴をあげ、
火中へ生きながら呑み込まれていった何千の者たち。もちろん労災保険もなかつたこの人間達はいったい何処の誰だったのであろうか。
699 :
比叡の山頂:2006/04/25(火) 22:00:15
現代でさえケーブルカーに乗らなければ、とても登ってゆけぬ比叡の山頂に、巨岩、巨木を担わされ延々と蟻のように行列を作って、這い上ってゆき、
少しでももたつけば鞭や棒で乱打され、見せしめのため石で殴り殺された人々。
逃亡防止のため鎖で繋がれていたため、あの比叡の山の崖で一人でも足を滑らせたら、何十人も一度に断末魔の悲鳴をあげて墜し、谷底に死んでいったろう人々。
東大寺にしろ、あれを建てるのに何万の奴隷が酷使され何千の人間が血を吐き虐殺されたか。
700 :
修羅:2006/04/25(火) 22:01:33
『修羅』と言う言葉がある。「コンピラフネフネ追ってに帆かけてシュラシュッシュ」のシュラはコンピーラと同じ古代バビロニア語である。
日本では海神金比羅、修羅とされている。大陸人が仏教を日本へ持ち込んだはいいが、排仏系の襲撃が激しく、だから寺は比叡の山頂や高野山、金剛峯の高所へ建てた。
今でもご本山と言うごとく堂宇を建立した。当時は建設会社は無いから、原住民を捕らえて来て使役に用いた。
巨岩や巨木を頂上へ運ぶのは大変だから、修羅(大きなソリのようなもので、古代エジプトでもピラミッド建設に使われた。この技術は中東方面より渡来の天の朝の民のものである)を作って工事をした。
日本は鉄鎖が少ないのでイチビの樹皮で編んだ縄で曳き上げたから、岩角で切れると巨木や巨岩の下敷になって多くが死んだ。修羅場、修羅の巷という語源はこれからである。
701 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 22:24:24
この辺の歴史韓国の優秀な学生に聞いても知らないのな
女の子だったからかも知れないけど
なにこの電波スレ
703 :
アテルイ:2006/04/26(水) 21:14:00
日本原住民の全部がおとなしく奴隷になつた訳ではない。
東北に追われた原住民を組織化し、百済人征東大将軍紀ノ古佐美の率いる五万の大軍を北上川で全滅させ、鉄武器を奪って田子の浦まで攻め込んだアテルイがいた。
しかし次々と大陸の援助で鉄武器を大量に補給された坂上田村麻呂らと12年にもわたり戦ったが利あらず。百済部隊に制圧されて滅びた。
704 :
東北三大奇祭のネブタ:2006/04/26(水) 21:15:18
アテルイは今の大阪府の杜山まで連行され斬首、さらし首にされたが、東北に残っていた妻子や残党は、大きな穴を掘らされて生きながら埋められ惨殺されたのは、
パレスチナ難民の群をイスラエル兵が皆殺しにしたのとまるで同じ状態だった。ただ違うのは、生き埋めの上に土をかけ、その上に出てこられぬように降伏し奴隷となった者らに踏みつけさせた。
これが今の東北三大奇祭のネブタである。
705 :
金達寿氏:2006/04/26(水) 21:22:54
金達寿氏は言う「大仏殿をこしらえた行基大僧正や比叡山のてっぺんに延暦寺を建てた最澄上人。
東大寺を建立した良弁和尚が、皆朝鮮人であったことを今だに知らぬ日本人が多いのは情けない」
706 :
1000年も前のことを:2006/04/26(水) 21:26:25
大分以前、竹島問題や北大の韓国抗日指導者と見られる遺骨問題で、当時の韓国は熱くなった。従軍慰安婦問題は未解決だし、恨(ハン)の民族と言われる韓国人にすれば何かと日本の行動が気に障るのだろうが、
私は「はい悪うございました、ご無理ご尤もです」とは言えないのです。金儲け第一主義、出世主義の、日本の不勉強な歴史屋のせいで、日本史は隠されているが、最初にこの日本列島へきて酷いことをしたのは、韓国の先祖の百済人だからである。
「そんな1000年も前のことを言っても始まらない」と言わないでもらいたい。1000年前だから時効だが、50年前は新しい、等ということはない。歴史は生きているのです。
707 :
労働災害と職業病:2006/04/26(水) 21:43:11
昔は劣悪な労働環境や、不十分な健康被害への対策に起因する多数の職業病が存在した。
日本では古くは重金属によるものが多く、奈良や鎌倉の大仏建立時には大仏の装飾に動員された金箔職人に、当時の金箔技法に利用されていた水銀による中毒が多発した事を疑わせる記録が残されている。
また、精錬に従事する人には水銀や銅などによる中毒にかかる者が少なからず存在した。
708 :
若草山に木が生えない:2006/04/26(水) 21:55:19
若草山に木が生えない
杉山二郎・元国際仏教学大学院大学教授の『大仏以後』という本が1999年に新装本として出版されたのがきっかけだった。.『大仏以後』によれば、.今も若草山に木が生えないのは、大仏建立のためにここで銅が精錬され廃液が流されたためという。
私も五十年ほど前、京都工芸繊維大学の学生だったころはそう思っていた。が、それは誤解だった。
実は奈良には大仏様に起因するもっと深刻な公害問題があった。それは水銀公害である。
好きでもなかった化学を学び、大学教官の道に進んだ私はある時、衝撃葡な事実を知った。今から三十年ほど前のことである。
勤務していた東京大学で工学部の応用鉱物化学研究室から新設の環境安全センターに異動になった。セラミックスが専門だったため、その方面の知識に乏しかった私は環境関連分野の書物を読みまくった。
その中の一冊に喜田村正次ほか著『水銀』があった。そこには、奈良の大仏が完成したのは西暦749年で、金メッキするために大量の水銀が使われたことが記してあった。「東大寺大仏記」によれば、
水銀五万八千六百二十両,(約五十トン)、金一万四百四十六両(約九トン)を用いたとある。アマルガム法という方法である。水銀に金を投入すると金と水銀の合金ができる。
この合金を大仏様の表面に塗りつけその後に炭火で加熱して水銀をとばす。古くからある方法だが、問題はその量であった。私は目を疑っ.た。蛍光灯には水銀が封入されている。
電極から放出された電子が水銀原子に衝突して紫外線を発生、紫外線がガラス管内壁に塗布された蛍光物質に当たって可視光線を発一生させる仕組みだからだ。
709 :
年間使用量の十倍:2006/04/26(水) 21:57:04
その量は四十ワットの直管型で約三十ニリグラム。最近は、三分の一以下で済むようになったようだが、それでも日本全国で生産する蛍光灯に使われる水銀は年間五-六トン前後に達する。
五十トンといえば実にその十倍。私はあまりの多さにぴっくりしてしまった。これほどの量を、盆地に立地する平城京で蒸発させれば水銀中毒が起きておかしくない。私はさっそく大学の講義でこの問題を取り上げた。
後に長崎大学に転じてからもこの講義は続けた。
大仏の断面図を大きく黒板に描き、黄色いチョークでその表面に金,水銀アマルガムの塗布層を描く。そして大仏の内部を熱して水銀が蒸気となって散逸していく様を説.明する。化学式だけの講義と違っ.て学生諸君も面白がってくれた。
奈良盆地は紀伊半島の中央部にある。
夏暑く、冬寒い典型的な内陸性気候が特徴だ。
このような場所で水銀を蒸発させる作業を行うとすれば冬しかない。まんべんなく水銀を蒸発させるには大仏を外から熱してもだめで、内部から熱さなければならないからだ。.
710 :
水銀中毒:2006/04/26(水) 21:58:09
冬になると、奈良盆地には冷たい北風が琵琶湖を渡って吹きつける。北風は若草山に当たって東風に変わり、蒸発した氷銀を伴って平城京に流れ込む。いや平城京だけでなく、広く奈良盆地の北部全体が水銀蒸気で汚染されただろう。
「大仏が完成したのは749年。大仏の開眼供養は752年である。大仏の光背が完成するのは771年だから金メッキを施すの十九年を要したことになる。
水銀中毒といえば九州の水俣が思い浮ぶ。水俣の場合は、魚を媒介にした有機水銀の経口摂取が引き起こした中毒だ。これに対し、平城京の水銀中毒は無機水銀を蒸気の形で大量吸入したことによって起きる障害である。
711 :
南京の大虐殺以上:2006/04/27(木) 20:55:40
「日帝が三十八年にわたって勝手気侭に振舞った怪しからん」と解放記念日には、テ
レビでも放映して抗議するが、郭を改名した藤原鎌足が渡来する迄の日本列島は、彼
らの先祖のナラ王朝。
馬韓、辰韓、弁韓の三韓時代から西暦664年の藤原鎌足まで、彼らが日本原住民
に加えた残酷非道は、僅か三十八年間だけの日帝の圧政に比べれば、何十倍もの年数
の苛酷さであった。
中国の方も郭将軍の部隊が御所を占領した西暦664年五月十七日からは、藤原王
朝をたて、南京の大虐殺以上のことを、かためて捕虜を生き埋め踏んづける根蓋(ね
ぶた)までやってくれている。
712 :
三分割:2006/04/27(木) 20:57:03
かつて吾が日本列島が馬韓辰韓弁韓の三韓時代に支配されていた時代は、終戦直後
よりひどく、ナラ時代、韓国のカントリーの意味だそうだが、金大中の御先祖さま
[これは単に百済系をさす意味]が君臨の昔、「クダラにあらざれば人にあらず」と
され、「クダラぬやつ」「クダラん事はするな」とまで、現代でさえ用いられるくら
いに、韓国の御先祖さまは日本へきて君臨なさり、好き勝手な事をなさっていた。
新羅人や高麗人も、日本海よりベーリング寒流で入ってきて勢力争いをした。だか
ら日本の古名は越前越中越後とか備前備中備後と、三韓時代に三分割されていたまま
なのもその例証である。
713 :
1083℃:2006/04/27(木) 20:59:40
大仏には、銅が500トンも使われています。しかし、当時は、まだ銅を精錬する技術などない時代。どのようにして、精錬していたのでしょうか。今日は、大阪市文化財協会・保存科学室の伊藤さんに、
当時の銅の精錬工程を見せていただくところから、旅を始めました。銅の精錬は、木炭だけでは難しく、伊藤さん自身も当時の資料を繰り、何度も失敗を繰り返し、諦めかけた頃にようやく成功したといいます。
1083℃でドロドロに溶けた液状の真っ赤な銅から、吹き出す熱気!!伊藤さんもその熱気で汗まみれ。歴史を後世にしっかり受け継ぐ人たちがいてくれることを、とても大事に思いました。
714 :
工人:2006/04/27(木) 21:05:57
奈良大仏は、743年発布の大仏建立の詔からもうかがわれるように、聖武天皇の強いご意志が造らせたものです。大仏本体の鋳造は747年開始されて749年に完成しています。
「大仏殿碑文 (だいぶつでんひぶん)」は大仏建立に関係した工人として国中公麻呂(くになかのきみまろ)、
高市真国(たけちのまくに)、高市真麿 (たけちのままろ)、柿本男玉(かきもとのおたま)、
猪名部百世(いなべのももよ)、益田縄手(ますだのなわて) の6名をあげています。国中公麻呂は663年百済(くだら) からわたってきた国骨富の孫で、
東大寺の前進である金光明寺の造物所造仏長官として大仏建立計画のはじめから鋳造技術の総指揮者として活躍した人です。
飛鳥大仏は仏教伝来とこれを信奉する推古天皇や蘇我氏が中国大陸の技術を導入して造り、奈良大仏は仏教文化の円熟した天平時代に体制の整った国家権力を駆使して聖武天皇がはげしい意欲を注いで造られました。
715 :
延べ260万3千人が従事:2006/04/27(木) 21:12:11
747年(天平19年)9月29日大仏の鋳造に取りかかり、統率は国中連公麻呂(くになかノむらじきみまろ、百済滅亡で渡来した一族の子孫)、鋳師は高市大国、同真麻呂で、他に柿本男玉、大工猪部百世、
益田縄手らが参画し、延べ260万3千人が従事して、炉に銅と錫を炭火と共に混ぜて投げ入れ、タタラで風を送りながら銅を溶かして流し込み、
銅を流し終わる頃には大仏が土中に埋まっているので、盛り土と鋳型を上から少しずつ取り除き、8段に分け最後の鋳込が終わったのは、749年(天平勝宝元年)10月24日でした。
716 :
逃亡者は年間88人:2006/04/27(木) 21:13:40
使われた銅は499t、山口県美東町(秋吉台の南東)の長登(ながのぼり)銅山などから女性までもが製錬にたずさわって採掘され、その際の逃亡者は年間88人、
また、錫の使用は8.5tに達し、鋳型を取り去った大仏は全体にデコボコして、あちこちに裂け目や銅が流れ込まなかった部分もあり、
その不完全な部分を補う鋳加えと云う作業が、750年(天平勝宝2年)に開始され、別に造った996個の螺髪(らほつ、高さ38cm、直径47cm)を1つずつ仏頭に3年以上かかって取り付け、
また、像の表面をヤスリや鏨(タガネ)で仕上げてから、752年(天平勝宝4年)3月14日鍍金(めっき)に取りかかり、
なお、余った銅は吉野山の「銅(かね)の鳥居」にも使われました。
717 :
大変な難作業:2006/04/27(木) 21:15:03
この様に鋳造だけなら3年ですが、大仏の原形を塑像で造り、金鍍金をして完成するまで10年以上もかかり、大仏造立発願(ほつがん)から9年後、752年(天平勝宝4年)4月9日大仏開眼供養の時でもまだ完成しておらず、
顔だけの鍍金で開眼され、開眼供養を前にして始められた台座の鋳造は、
756年(天平勝宝8年)7月に終わり、更に鋳浚(いさらえ)、鍍金など最後の仕上げが終わったのは、757年(天平勝宝9年)ですが、鍍金は水銀に金の小片や薄板、砂金などを化合させて金アマルガムを作り、
これを表面に塗り付ける方法で、350度ぐらい熱すると水銀だけが蒸発し、金が表面に付着するけど、有毒ガスが発生するので大変な難作業だったと思います。
718 :
材料とその量:2006/04/27(木) 21:16:40
大仏づくりに使った材料とその量
銅 499トン 4トントラック 約125台分
すず 8.5トン 4トントラック 約2台分
水銀 2.5トン 4トントラック 約0.5台分
金 440kg
炭 1194m3
働いた人 のべ260万人 当時の人口の約40%にあたる(当時の人口は約700万人)
719 :
真実を知る日:2006/04/29(土) 21:40:25
子どもの頃習った「万葉集」はみんな朝鮮系渡来人が書いたものだった。
子どもの頃から食べていたロッテのお菓子もコリアンのものだった。
誇っていた京都、奈良の遺跡を作ったのはコリアンだった。
教えられた誇るべき歴史はすべて朝鮮系渡来人のつくったものだった。
「サムライ」は朝鮮起源だった。
野蛮だった縄文人に教育をつけ、文化に浴させてくれたのもコリアンだった。
等々、日本人が真実を知る日はやがて来るのだろうか?
720 :
説:2006/04/29(土) 21:44:20
大学院大学 一般教養 古典乙1 入学問題、
以下の説を論評せよ。 制限時間10日
日本書紀で高の字が出たら高句麗と考えよ説。
明の字のついたのはネストリス教、ペルシア・西アジア系説。
大化とは、大きく化けるに成功したの意説。
百済聖明王と欽明は同一人物説。
天智と金春秋は同一人物説。
天武と高句麗の泉蓋蘇文は同一人物説。
朝廷藤原氏は百済滅亡時の亡命王族・貴族説。
古朝鮮語でフジハラはクダラのクニ説。
推古、古を推し量れは卑弥呼、北条政子、女人謙信を思い起こせ説。
日本人の権威恭順の性は倭人伝倭人DNA回帰説。
推古以下の女帝はくっついてた男王が編纂時はがされた説。
権威従順の国、倭国乗っ取りは王族が女帝と仲良しになるだけでOK説。
藤原氏の外戚志向は賢明であった説。
蘇我、我は蘇りの西アジア系抹殺は仏教側の一石三鳥勝利宣言説。
721 :
国定韓国高等学校歴史教科書:2006/04/30(日) 09:42:10
百済が刮目すべき発展を遂げるに至ったのは、4世紀後半の近肖古王のときのことであった。このとき百済は領土を大きく広げ、馬韓の残った領域を征服して全羅道南海岸に達し、北では高句麗の平壊城まで攻撃した。
同時に、洛東江流域の伽耶諸国に対しても支配権を行使した。こうして百済は今日の京畿、忠清、全羅道と洛東江中流地域、江原、黄海道の一部を含む広い領土を確保した。
また、百済は水軍を増強して中国の遼西地方に進出し、つづいて山東地方と日本の九州地方にまで進出するなど、活発な対外活動を展開した。
722 :
朝鮮の日本侵略史:2006/05/04(木) 19:23:55
【第一次侵略=356年】
ワイ人=朝鮮人の金奈勿(キン・ナブツ)が、稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、王権を簒奪、
志良岐を乗っ取る。稲飯命王朝が滅亡。金氏新羅の建国。
【第二次侵略=562年】 朝鮮人国家=新羅が、日本領=任那を武力攻撃。任那は滅亡した。
【第三次侵略=660年】 新羅が、唐軍と共に日本領=百済を侵略。百済は滅亡した。
【第四次侵略=811年・12月】 新羅の賊船が対馬近海に出没するので、警備させる。
【第五次侵略=813年(弘仁4年)・2月】新羅人百人余、肥前小近島に来て島民を殺傷する。
【第六次侵略=869年(貞観11年)・5月】新羅の海賊、博多で掠奪する。
【第七次侵略=893年(寛平5年)・5月】 新羅の賊、肥前・肥後を襲う。
【第八次侵略=894年(寛平6年)・4月】 新羅の賊来る。大宰府に討たせる。
【第九次侵略=997年(長徳3年)】 高麗の賊が大挙して侵寇。多数の日本人を虐殺。
【第十次侵略=1014年(長和三年)】 高麗の賊が攻め寄せ、大宰府が討伐する。
【第十一次侵略=1019年(寛仁三年)】
50余隻の船団が来襲し、壱岐、対馬、筑前糸島、志摩・早良諸郡を荒らして物資を奪い、家屋を焼き払い、
老人子供は殺して丈夫な者だけを拉致。ついに博多に迫る。日本側は、大宰権使=藤原隆家・大蔵種材や
在地の豪族らが応戦撃退。逃げる敵を追って船三十艘で追撃。ついに追い払った。
十数日間に渡る戦闘だった。刀伊の侵略。
723 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 19:27:05
★魏志倭人伝に登場する国々★
倭奴国=ワのクニ=大和国
旧奴国=クィのクニ=紀国
奴国=ヌのクニ=根国(出雲国)
724 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 19:41:04
阿部ピラフも参戦?
725 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 19:52:15
百済は、扶余とは何の関係もないっしょ。
扶余=高句麗と敵対関係にあったのが百済と大和。
百済王族の姓は「余氏」だが、これ「多氏」と関係ありそうだね。
余氏も「オホ氏」と読むんじゃないかな。「ヨ氏」じゃなくて「オホ氏」と。
数多という日本語の古語があるが、数多(アマタ)は、余るの根語であるアマに
形容的接尾語のタを付けた言葉だという。数多=多くの=沢山のという意味。
アマ+タ=アマタ
つまり、数多は余多なのだ。古代日本語では、余(あまる)という言葉には
「多い」という意味が含まれていたらしい。
多氏は神武天皇の子孫だという伝承がある。
百済王家=余氏は、多氏の分家じゃないかな。
■日本の苗字7000傑
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01222.htm あっ、余豊璋が多氏の娘と結婚してる!!
>>725 コジツケ電波もいい加減にしなさい。朝鮮人じゃあるまいしw
>>722 藤原隆家って道長に追放されたあいつか。
728 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 00:45:55
そうだよ。
729 :
白村江の戦いと大東亜戦争―比較:2006/06/20(火) 19:34:10
白村江の戦い 十五年戦争
主体 倭国 日本国
対戦国 新羅+唐 中国+米国
王権 弱体化する古代王権 神がかり的天皇制
戦争 300年間の倭と朝鮮の動乱
660年 百済滅亡 1931年 満州事変
1941年 大東亜戦争
敗戦 663年 白村江で唐&新羅に敗れる
664年 唐使・郭務宗の到着
筑紫都督府の設置
倭国解体政策=親百済派の追放
1945年 無条件降伏
1945年 連合軍マッカーサーの到着
皇居前にGHQ
民主化路線=旧支配層の追放
第1展開 670年 新羅と唐が交戦
672年 郭務宗の帰国
壬申の乱
天武は新羅と同盟
1950年 朝鮮戦争の勃発
1952年 アメリカから独立
旧支配層の復権
日米安保体制
反動 百済派クーデター=天武朝滅ぶ 安保闘争・学生運動
棚ボタ 日本国の誕生 高度経済成長
総括 『日本書紀』 『国民の歴史』、新しい教科書
730 :
日本@名無史さん:2006/06/21(水) 13:02:37
>>725 百済の王族は自ら扶余を称していたのだから、扶余族であった可能性が
最も高いと思う。王族が自分の出自を無理に偽る必要もない。
百済は、官僚には扶余族だけでなく、中国や韓族、倭族などを取り入れていた
多民族国家であった。
新羅の王族の出自は倭人とされている。つまり、朝鮮半島を統一したのは倭人の
王朝であったということ。今の政治状況に無理に配慮する必要もなかろう。
731 :
日本@名無史さん:2006/06/21(水) 20:25:29
つまり今の朝鮮人たちは三国時代の奴隷の子孫って訳でつね。
732 :
日本@名無史さん:2006/06/21(水) 21:56:06
>>730 王族が自分の出自を無理に偽る必要もない。
だよなぁ…だからおかしいんだよ、「騎馬民族征服説」の連中は。
連中は扶余扶余煩いが、「扶余である事を隠して天皇になった」とか、
「農耕民を懐柔する目的で正体を明かさなかった」とか、相当無理が
ある解釈を平気でしていて、非常に怪しい。古文書に「扶余」とは
書かれていないし。
733 :
渡来民の勢力争いの舞台:2006/06/28(水) 15:48:23
6〜8世紀、日本は半島の百済系・新羅系渡来民の勢力争いの舞台だった。
当時の日本の政変は半島及び日本における百済・新羅勢力の抗争の影響を抜きには語れない。
蘇我王朝は百済系のため、百済語は当時の日本で公用語のごとき扱いで百済人と意思の疎通は十分だった。
新羅人との会話には通訳を必要としたらしい。
「乙巳の変」は百済系蘇我王朝に対する新羅系孝徳のクーデターという説は有力。その証拠に孝徳政権ブレインはみな新羅系。
その後孝徳と対立した天智は百済派。「乙巳の変」で蘇我を殺した立役者との整合性が今ひとつではあるが。
いずれにせよ天智は半島に軍を送って百済支援を図ったが白村江で大敗。百済は滅亡し、貴族・官僚が多数日本に亡命した。
「橘は己が枝々生れれども玉に貫くとき同じ緒に貫く」(『日本書記』天智天皇十年正月)
(亡命百済貴族多数に官位を授けたことを風刺して歌われた)
日本の大王・有力氏族は半島王室と同ルーツ:この場合百済、だということがよくわかる。
ちなみに天智〜弘文朝を壬申の乱で倒した天武は、天智の弟(大海人王子)とされるが出自に謎が多いことは有名。新羅系王族との説もある。
天武を支えたのは新羅系氏族であり、政権樹立後、天武は親新羅政策をとり百済系氏族を排斥した。
唐とも直接国交は持たず、新羅を通じての間接外交によった。天武時代の仏教は新羅僧が中心である。
日本書紀の推古朝編纂も新羅で学んだ僧の手になる。聖徳太子の十七条などにはその後代の学問影響やくせが反映されており編纂者の創作説が根強い。
太子そのものが創作である可能性は極めて高い。
天智天皇は泉蓋蘇文
天武天皇は金春秋・武烈王に決まってるニダ。
735 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 17:51:53
天武は漢皇子だよ。中国系半島人の血統アル。
736 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 19:29:24
>>733 ???
百済は、400年頃から663年の滅亡まで日本の完全な属国。
歴代の王子は日本に人質として来ていたし、百済の官僚に日本人も数名派遣されていた。
白村江の戦いは、唐と新羅に滅ぼされた百済を復興する為、日本に来て30年になる
百済の王子を日本が派遣して即位させ、属国である百済を再興させようとしたもの。
新羅は、日本と属国の百済に対抗する為、服装、暦、元号、名前など全て唐風に変えて
唐の属国となって、唐から軍隊を派遣してもらった。
百済は扶余族(満州族の祖先)の王が韓族を支配した王朝。
新羅は倭族の王が韓族を支配した王朝。
その前は楽浪郡、帯方郡に漢族(中国人)が来て、韓族を支配していた。
要するに異民族支配が半島では当たり前だった。
あと、蘇我氏を外来系とする明確な根拠はない。
これくらい常識では・・・
737 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 21:31:02
>>736 楽浪漢人や帯方漢人の地位は、いつ頃から危うくなったか知ってる?
知ってたら、教えて。
738 :
天武:2006/07/01(土) 18:33:04
天武は新羅占領軍の司令官金某。
日本書紀にも垣間見えるが天智は面前で3人の娘を強姦され精神的陵辱を
受けた上で処刑されている。
天武の名称も神武を意識したものだ。
歴史は繰り返される。
天智の改革が地方の利益を無視した点も同じだ。
739 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 21:40:44
天武は、漢皇子でしょう。
740 :
現天皇家の始祖:2006/07/02(日) 20:46:51
現天皇家の始祖(いわゆる権現様)は、桓武天皇です。開祖以来1、200年経過してます。
世界で一番長い王朝だと思います、もう少し自信もってもいいのではないかとも思ってます。
桓武王朝(即ち京都王朝)は、奈良王朝、九州王朝のいずれとも血縁関係はないと思います。
この辺のことは、どうも平成天皇もご承知の模様です。
天皇家は、天武系(奈良王朝系)の先祖供養はされてないとのことです、当然でしょう。 思うに、秋篠宮のお名前は、桓武天皇の出身地名ですよね。
天皇家には、日本書紀といういいかげんな史書でなく、ちゃんとした史書が伝わっている模様です。
桓は、韓国の正字で桓族の武帝と言う意味だと思います。逆に言えば、倭族の倭武ではないということです。
桓武は、白村江で破れた義茲王の第5代とも言われてます、
*西暦3000年 山口県下関市とある場所*
ある日、中国東北地方の満州族、観光団の方が観えられました。
するとその中の一員の方が愛新覚羅社と言う神社を見つけました
こりゃ大変だと言う事で皆さん集まってよく見ると「溥儀王」と
言う歴史で習った清王朝の王の名の石碑を発見。
こりゃ下関市は清王国だったんじゃないかという者まで現れ
大騒動、先祖さんは困った物を残してくれたと市長は疲労困ぱい
やれやれ何処っかで聞いた様な話じゃなと市民はふらふら。
オワリ
742 :
日本@名無史さん:2006/07/03(月) 21:20:07
>>740 >ちゃんとした史書が伝わっている模様です。
宮内庁の人間でもなさそうなのに、なぜお前がそれを知る?
743 :
2001年12月22日:2006/07/03(月) 21:29:37
2001年12月22日に、天皇陛下は愛子様誕生のコメントをされた後に、
韓国について述べられ、その中で次のように語られました。
「私自身としましては、桓武天皇(平安京に遷都した)
の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると『続日本紀』
に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」
この『続日本紀』に書かれていることは歴史学では古くから注目されていたものの、
長い間これにふれることはタブーとされてきました。
今回、天皇陛下みずからがこの歴史的事実について発言されたことは非常に
意味深いことです。
744 :
続日本紀:2006/07/03(月) 21:33:06
続日本紀(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書
で、『日本書紀』に続く六国史(りっこくし)の第二に当たる。
菅野眞道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)
から桓武天皇の延暦10年(791年)まで九十五年間の歴史を扱い、
全四十巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記で
ある。
745 :
続紀の信頼性はずっと高い:2006/07/03(月) 21:37:11
政治的配慮は、桓武天皇の治世の記述において顕著である。
天皇の心痛となった早良親王廃太子の記事は、事件の発端となった藤
原種継暗殺事件とともに、いったん記載されたものが後に削除された。
削除部は平城天皇の代に復活したが、嵯峨天皇によって再び消されて
今に至る。消された部分は『日本紀略』に採録されている。
また、藤原広嗣の乱における謀反人・藤原広嗣に対する好意的な記事
や宇佐八幡宮神託事件及び道鏡に関する記述に政治的意図が含まれて
いるという説もある。
ただし、『日本書紀』と比べれば、続紀の信頼性はずっと高いと考え
られている。
746 :
日本紀略:2006/07/03(月) 21:43:55
日本紀略(にほんぎりゃく)は、平安時代に編纂された歴史書で、
六国史の抜粋と、六国史以後後一条天皇までの歴史を記す。
範囲は神代から長元9年 (1036年) まで。編者不詳。
漢文、編年体、全34巻。
成立時期は11世紀後半から12世紀頃とされるが不明である。
編者もわからない。本来の書名もはっきりしない。
『日本史紀略』、『日本史略』、『日本史類』とも呼ばれていた。
747 :
日本@名無史さん:2006/07/03(月) 22:04:21
>>743 タブーでもなんでもなくて、戦前の国定教科書に書かれていたという話を
聞いた事があるけどな。
それで、それを「日韓併合」の根拠としたという話を聞いたのだが。
748 :
日本@名無史さん:2006/07/03(月) 22:06:29
実は戦前は、「日韓同祖論」華やかなりし時代であったと思うぞ。
鳥居博士は、琉球から台湾から朝鮮から南洋からアジア各地を歩き
回って、「同祖」探しをしていただろうが。
749 :
日本@名無史さん:2006/07/03(月) 22:12:12
>>桓は、韓国の正字で桓族の武帝と言う意味だと思います。
ずいぶん最近の天皇なんですね。
750 :
日本@名無史さん:2006/07/03(月) 23:46:30
>>740 「桓」と「韓」は朝鮮漢字音でも違う音なんだが・・・
(日本の字音仮名遣いでも北京語でも中古漢語でも異なる)
あんた朝鮮人なのに、間違えたら恥ずかしいぞ。
751 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 01:02:34
>740の意見も分からないではないが、天武系の供養していようといまいと、
皇統としては天武から来ているのだから仕方がない。
ニニギの血統と神武の王統の合流宣言を文武に宣言させる下地を作った
天武が、今の天皇家の皇統のはじまりといわざるを得ない。
752 :
称徳女帝:2006/07/04(火) 19:40:45
天武の血は称徳女帝で途切れている
753 :
日本@名無史さん:2006/07/05(水) 00:27:57
血統じゃなくて皇統の話なんだがね。
754 :
長屋王の変:2006/07/05(水) 20:16:10
この事件を契機に、皇族の手から藤原氏へと権力が移ったとされる、重大事件。そして皮肉にも、単なる政権交代劇に終わりませんでした。
元明天皇死後、今まで皇族側にあった政治の主導権を手にしたい藤原氏は、724年、首皇子の即位を強行します。ここに藤原氏出身の母を持つ初の天皇・聖武天皇が誕生したのです。さらに聖武天皇妃で藤原氏出身の安宿媛が、
待望の皇子を出産。勢いにのった藤原氏は早速この皇子を皇太子に立てますが、その翌年、あっけなく皇子は他界してしまいます。
皇族勢力を押さえるための持駒をなくした藤原氏は、そこであきらめるどころか、大胆な勝負に出ます。なんと、
左大臣・長屋王(嵩市皇子の息子)とその妻で元明天皇の娘でもある吉備皇女、そしてその息子たちである4人の王を死に追いやってしまうのです。それが「長屋王の変」です。
729年2月のある日、藤原不比等の息子・藤原宇合らに率いられた兵士が突如、左大臣・長屋王の家を囲み、その二日後、彼は自殺という悲劇的な結果に追い込まれます。
その後を追い吉備皇女とその息子たちも自殺したと、『続日本紀』には記述されています。
長屋王の罪状は、「ひそかに左道(異端の術)をもって国を傾けようとした」というものでした。ところがこの事件は、藤原氏による政治的殺戮だったようです。
目の上のたんこぶだった長屋王と、皇位の近くにいる吉備皇女とその息子たちを消すことで、権力を完全に藤原氏の手中に収めようという陰謀だったのです。
755 :
天武天皇の孫:2006/07/05(水) 20:30:08
長屋王という人物は、天武天皇の孫で高市皇子の子です。
藤原氏全盛期、反藤原派の期待を一身に背負って、朝堂の頂点に立たされた悲劇の皇族と言えます。
当時の藤原氏の横暴ぶりは目に余り、律令を自家の都合のいいように解釈し、天皇を完璧にあやつり人形の様にしていたから、恐いものは無かったのです。
何をやっても法には触れず、律令の枠の外にいる最高の権威(天皇)に、行動のお墨付きをもらっていたのです。
他の豪族はひたすらご機嫌をうかがうほか、生きる道は無くなっていて、不平不満を言うなら、皇族の長屋王に頼るほかなかったのです。
長屋王は藤原不比等の死後、朝廷で最も高い役職についたので、反藤原派は大いに期待しました。
ところが、不比等の子である藤原房前(フジワラノフササキ)は、長屋王の上に「天皇と同等の力を持つ者」という無茶苦茶な内臣(ウチツオミ)という役職をつくって就任してしまいました。
これでは藤原のやりたい放題です。
756 :
一家もろとも自害:2006/07/05(水) 20:34:11
長屋王は藤原に徹底的に反発したので、当然潰されました。
しかも一方的な謀略で、罪もない一家もろとも自害という悲劇です。
そしてこれで、藤原不比等の4人の子の天下がやってきたのです。
敗れ去った者たちを袖の下で笑いながら、藤原氏はこの世の春を謳歌したのでしょう。
ところが、ここで大逆転が起こります。
長屋王の死から8年後(737年)、九州で流行りだした疫病があっという間に都を襲い、藤原4兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が全滅してしまったのです。
4人いっぺんに死んだのは、尋常な事ではありません。
当時の人たちは、当然「祟り」を連想したでしょう。
当時の価値観、宗教観を考えると、罪なくして一家滅亡の憂き目にあった長屋王が祟って出たのだと思う事は、自然な流れです。
757 :
日本@名無史さん:2006/07/05(水) 20:36:16
ばかです。
758 :
日本@名無史さん:2006/07/05(水) 20:47:09
全部コピペの宣伝工作です、雑魚は邪魔しないで下さい。
759 :
桓武の最後の仕上:2006/07/05(水) 20:57:31
桓武には最後の仕上げが残されていた。
皇統の護持継承である。天武系の断絶、実弟早良系の排除。
伊予は早良の子である。桓武は晩年、伊予親王第にしばしば行幸する。
何事かを説得するかのようでもある。
桓武は苦悩の中で延暦25年(806)3月崩御する。
1年半後、伊予親王謀反事件が発覚、逮捕、大和川原寺幽閉、自害。
既定の事実のように進行した。
母高野新傘の慟哭と実弟早良殺し、そして桓武。
これはかの天智、天武、母斎明の相克とあまりにも似ている。
760 :
氷上川継の乱:2006/07/06(木) 19:34:08
氷上川継の乱(ひかみのかわつぐのらん)は奈良時代の政治事件。
天武天皇の曾孫の氷上川継が謀反を企てるが露見して失敗した。
宝亀元年(770年)称徳天皇が崩御して、天智天皇の孫の白壁王が即位した
(光仁天皇)。壬申の乱以来、天武天皇の子孫が皇位を世襲してきたが、
奈良期に打ち続いた政変で天武系の皇族の多くが殺されるか刑を受けていた。
そのため称徳天皇の死によって天武系の主流が断絶して、天智系の天皇が復
活することとなった。
氷上川継は塩焼王(氷上塩焼)と不破内親王の子で天武天皇の曾孫になるが、
塩焼王が藤原仲麻呂の乱に与して処刑されたこともあり、皇嗣からは外され
ていた。天武天皇の系統の川継こそが正統の皇位継承者であると考える者も
少なくなかったと思われる。
天応元年(781年)光仁天皇は皇太子の山部親王へ譲位した。桓武天皇である。
即位の翌年の延暦元年(782年)閏正月、川継の資人の大和乙人が武器を帯び
て宮中に闖入して捕らえられた。訊問を受けた乙人は主人の川継の謀反を白
状する。その証言は同月10日夜に川継が一味を集めて北門から宮中に押し入り、
朝廷を倒そうと云うものであった。直ちに川継を捕らえるため勅使が派遣さ
れるが、川継はいち早く逃亡してしまう。間もなく、同月14日に川継は大和
国葛上郡に潜伏しているところを捕らえられた。
川継の罪は極刑に値するところ、死一等を減じられて伊豆国へ流罪となった。
母の不破内親王と川継の姉妹は淡路国へ流された。
761 :
氷上川継の乱:2006/07/06(木) 19:34:43
この事件によって天武系の皇族は完全に皇位継承から排除された。
762 :
長岡京遷都:2006/07/06(木) 19:36:52
延暦3年(784)、桓武天皇は平城京から山背国乙訓郡の長岡
へ京を移す。皇統は天武系から天智系へ、父、光仁の即位がその序
曲であるなら、桓武の即位はその本題の開始である。
長岡京遷都は一見唐突に見えながらも実は周到な計画・準備の上で行
われたのであった。桓武によって革命とも意識された皇統の転換は、
天武系6代5人の天皇が続いた平城京を捨て、新天地に京を求めるこ
とを必須とした。
763 :
日本@名無史さん:2006/07/06(木) 21:25:33
お疲れさんよ。
764 :
長岡京 10年でうち捨:2006/07/06(木) 21:34:15
長岡京では洪水や放火などが続発し、それがすべて早良親王の怨霊
のせいだとされました。人心は不安定になり、天皇自身も怨霊にお
びえたようで、ついに長岡京は廃されることになりました。
怨霊の都、不吉な都として、わずか10年でうち捨てられたのです。
次に都として建設されたのが平安京です。
765 :
自らの手を汚して天皇の地位を手に:2006/07/06(木) 21:38:09
光仁天皇には天武系の妃がいました。
聖武天皇の皇女である井上内親王(いのへないしんのう)です。
前王朝との連続を示す存在であり、光仁天皇が即位するに当たっては、
彼女の存在が大きかったのは疑いありません。
よって、皇后には井上内親王が立ち、皇太子には井上内親王所生の皇
子、他戸親王(おさべしんのう)が立てられました。
しかし、この井上内親王、ある事件を起こして皇后の座から引き下ろ
されます。それは何と、光仁天皇を呪い殺そうとしたとの疑惑です。
それと同時に他戸親王も皇太子の座を追われます。二人は配流、
幽閉され、そこでほぼ同時期に亡くなります。これによって、
ついに山部が皇太子に立てられたのです。井上内親王と他戸親王の悲
劇は、山部を擁立しようとした藤原百川らの謀略だと現代では考えら
れています。また、当時既に37歳であった山部自身が関与していた
可能性も少なくないと私は思います。他の多くの天皇と同様、
桓武天皇も自らの手を汚して天皇の地位を手に入れたと言えるでしょう。
766 :
「帝王らしい」:2006/07/06(木) 21:40:38
歴代の天皇を通観した時、「帝王らしい」天皇と云うと、天智、天武。
それから後では桓武天皇。そして、その後には本当に「帝王らしい」
と云える天皇は一人も見当たらない。その意味で、桓武天皇は帝王と
しての最後の天皇と云えよう。「帝王らしい」あるいは「王者らしい」
と云う意味は、自らの意志をはっきりと持ち、臣下たちをしっかりと
掌握し、我が身に天下の権力を集中させ、剛毅にして英邁、威厳に満
ちた王者の風格を有すると云う意味である。
とは云え、私は桓武天皇を讃える気にはなれない。
彼が民衆のことを真剣に考えていたとは、とても思えないからである。
767 :
日本@名無史さん:2006/07/07(金) 00:22:23
別に血統は皇統じゃないんだがな。
血統の断絶などよくあること。
768 :
日本@名無史さん:2006/07/07(金) 08:34:15
古代に民衆のことを真剣に考えた人っているの?
坊さん
770 :
怪僧 弓削道鏡:2006/07/07(金) 23:57:06
弓削道鏡といえば奈良時代、称徳天皇(女帝、孝謙天皇の重祚)
に取り入りその愛人となり、ついには自らが天皇になろうとした怪僧であり、
巨根の持ち主でもあったという俗説が有名だ。
(ロシアの怪僧ラスプーチンと似ている?)。
江戸時代の川柳に、
道鏡は座ると膝が三つ出来
道鏡に根まで入れろと詔(みことのり)
道鏡に崩御崩御と称徳言い などが謳われている。
771 :
日本@名無史さん:2006/07/08(土) 09:35:35
本当にただの俗説だけどな
772 :
日本の悪人を記せ:2006/07/08(土) 15:46:42
小学校の歴史の時間に「日本の悪人を記せ」という問いがあり、
答えに道鏡と書くと二重丸であったという。このように道鏡ほど
長い間に渡って為政者によって都合良く利用された人物もまた希
である。
773 :
当に貶めているのでは:2006/07/08(土) 15:49:12
称徳天皇の死をもって天武天皇系の皇統が断絶して天智天皇系
の皇統が復活した事から、天智天皇系の皇位継承を正当化する
ために天皇と道鏡を不当に貶めているのではという指摘もある。
774 :
僧医道鏡:2006/07/08(土) 16:10:00
道鏡は河内若江の弓作り弓削氏の出で、東大寺の別当良弁(ろうべん)
に梵文(ぼんぶん)(インドバラモン教の宇宙原理)を学び、葛城山に
篭って呪禁(じゅごん)力(呪いによって物怪(もののけ)を追い払う術)
を修めた。下級から身を起して栄達を極め、遂には没落の道を辿る道鏡の
ドラマは、女帝孝謙上皇との出会いに始まる。孝謙は、聖武天皇を継承し
て孝謙天皇に即位した(749)。聖武、光明、孝謙の親子揃って輦(れん)
を連ね、貴族、官人、僧など1万余人を集めて史上に残る壮大な大仏開眼
供養(752)を催す等、孝謙にとって生涯最良の日々が続いたが、
父聖武の没後(756)、母光明の甥・藤原仲麻呂が政治の実権を掌握した。
孝謙は日々の孤独を託(かこ)ちつつ譲位して上皇に退く(758)。
仲麻呂は「娘婿の大炊王(おおいほう)」を擁立して淳仁(じゅんにん)
天皇とし、仲麻呂態勢を固めた。孤独の孝謙は気欝に閉され、
遂に呪禁師として評判の高い道鏡を看病僧に迎えることになった。
二人の運命の出合いである。時に孝謙45才、道鏡はそれより少し
上と推定される。白壁に朱丹の柱が映え、香木をたきこめた王宮に、
金襴の袈裟を纏い、朗々と経を誦む道鏡の姿は、貴族の男をしか知ら
ない孝謙の心を怪しい焔でつつんだことであろう。
775 :
僧医道鏡:2006/07/08(土) 16:11:39
それ以後孝謙にとって道鏡は、片時も傍から離せぬ人となり、
何をするにも道鏡、何処へ行くにも道鏡と影と形の如き二人になった。
淳仁と仲麻呂にとってその様な二人は目障りであり、孝謙と道鏡には
仲麻呂が邪魔である。その様な両者は遂に戦争を始めた。
戦いはアンチ仲麻呂派を味方につけた孝謙・道鏡方が勝ち、
近江に逃げた仲麻呂をびわ湖畔で妻子とも斬殺、淳仁天皇は淡路島
に流され、翌年没した。23才の若さであった。勝った孝謙上皇は
重祚して称徳天皇に返り咲き(764)、道鏡を大政大臣禅師にした。
更に、恋しい人を皇位に近づける為にとうとう法王の位につけるに
至った(766)。道鏡は又、故郷の河内を帝都に次ぐ都にするこ
とを企てる等、二人の所業は誰憚らずエスカレートしていった。
中央政権に諂(へつら)う宇佐八幡宮の宮司習宜阿曽麻呂(すげのあそまろ)
は「道鏡即位すれば国家安泰」との神託があったと奏上に及んだ。
女帝は道鏡を皇位につけたい思いと、臣下を皇位につけることへの
ためらいとの間で悩んだ末、側近の尼僧法均(ほうきん)と弟の和
気清麻呂に神託の確認を命じた。宇佐に赴いた清麻呂は、神託は
「天日嗣(あまつひつぎ)は皇族をたてよ」とあったと奏上して
女帝の怒りをうけ、和気法均は別部狭虫(わけべのさむし)、
和気清麻呂は別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)に改名され、
大隈(鹿児島)に流罪になった(769)。併し、女帝没して(770)
道鏡の命運も尽き、下野(しもつけ)国、安国寺の別当に左遷され、
其処で寂しく生涯を閉じた。
776 :
11年余の短いドラマ:2006/07/08(土) 16:13:03
二人の出合いから終焉まで僅か11年余の短いドラマであったが、
そこに登場する支配者達の血で血を洗う権力闘争や、そのはざまに
咲きこぼれる恋物語りの昔も今も変らぬ果かなさと愛しさが心に迫る。
併し、僧医といわれる道鏡が、呪(まじな)いをもって女心を操
(あやつ)っていたとすれば、大へん悲しい物語りである。
古代の人々は罪業が病気を起し、み仏の慈悲にすがって罪業を消滅
すると病気が治ると信じ、 宿曜(すくよう)の秘法(註3)
等という呪いの類に救いを求めていた。この様な迷信は延々近代に
まで及び、仏教の思想や儀式が日本の医学の近代化を妨げていたこ
とは否めないのである。
777 :
日本@名無史さん:2006/07/08(土) 17:28:55
称徳ってババアじゃねえか。
778 :
奈良仏教の腐敗:2006/07/08(土) 22:29:51
奈良仏教の腐敗はなんで起こったか、わかるかな? 古代も現代も人を腐敗に導くのは、利権や特権だね。
藤原不比等は、寺や仏像の造営を経済振興策として拡大した。大仏プロジェクトで説明したように、
寺を造るのは、木材調達の山林開発から始まる大事業、一種の国土開発だな。
そこに投入されるばくだいな国費をめぐって貴族や僧りょの腐敗が始まったというわけだ。
光明皇太后と藤原仲麻呂がはじめた紫微中台(しびちゅうだい)の政治もその開発をさらにすすめていた。
このとき、皇太后の娘、高野姫が孝謙天皇となっていたが、ほとんど実権を持たない孝謙天皇は758年に退位、
仲麻呂と淳仁(じゅんにん)天皇の二人体制となる。仲麻呂が恵美押勝を名乗り、太政大臣になるのはこの年だ。孝謙上皇は完全に中枢から外れたんだな。
779 :
弓削道鏡:2006/07/08(土) 22:32:30
そこに現れたのが、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)だ。
761年と翌年、奈良を離れて移った滋賀県大津の保良宮(ほらのみや)
で、病にかかった孝謙を秘法によって癒(いや)したんだな。
道鏡は東大寺を築いた良弁(ろうべん)からサンスクリットを学び、
山林修行に明けくれた法相宗の高僧、義淵(ぎえん)の弟子だった。
日本のミステリーゾーンの1つ、葛木山(かつらぎさん)で修行し、
秘法を得たといわれる。ちなみに弓削氏とは、蘇我氏に敗れ、
藤原氏の政策に反対しつづけた、古い物部の一族なんだ。
さっそく道鏡を取り立てた孝謙上皇を淳仁天皇が非難すると、
上皇は怒り、関係が悪化してしまった。仲麻呂を支えた光明皇太后
は760年に没してすでにいない。そこで762年、孝謙上皇は突然、
強行策を取るんだ。平城京の法華寺に戻って出家を宣言し、
政務を2つに分け、祭祀・小事は天皇にゆだね、国家の大事・賞罰
は自らが行うと公表した。仲麻呂・淳仁天皇のタッグは、
一挙に力を失ってしまったわけだ。
780 :
死亡時の状況がムチャクチャ胡散くさい:2006/07/08(土) 22:47:29
孝謙(称徳)天皇は傀儡扱いにぶちぎれて
道鏡その他の仏教関係者しか信用できなくなったから権力譲ろうと考えただけで
淫乱ババア痴女ってのは俗説でしかないと思うが・・・
ただ死亡時の状況がムチャクチャ胡散くさいからね。
藤原勢力に暗殺されたんじゃないかと疑えなくもない。
781 :
精神的なつながり:2006/07/08(土) 22:48:35
2人とも恋愛沙汰を起こす年齢でもないしね・・・
精神的なつながりの方が大きかったのだと思われる
782 :
日本@名無史さん:2006/07/17(月) 16:39:02
>>735 もしかして漢と付いているだけで漢人だと思ってないか?
漢皇子は皇極天皇と高向王(用明天皇の孫)の子なんだが。
先祖の何処に半島人がいるんだよ。
新羅三郎を朝鮮人って思ってるやつ多杉w
784 :
日本@名無史さん:2006/08/09(水) 14:14:28
785 :
日本@名無史さん:2006/08/09(水) 18:34:18
でも中国系だよ。
妄想乙
787 :
ミッドウェー作戦:2006/08/13(日) 18:56:43
ミッドウェー作戦の失敗は、白村江以来の敗北といわれ、当時海軍で戦争
を体験した人達は、これに触れられることを好まないようである。
白村江の敗北は、『日本書紀』に記されており、この書物によれば、
六六三年、白村江で日本と百済の連合軍と、唐と新羅の連合軍が戦った
海戦であり、日本は友好国であった百済の王子・豊璋を救援するために
進軍したが、途中唐と新羅の連合軍に遭遇して壊滅状態になり、これが
原因で百済は滅亡した。この箇所が『日本書紀』の「白村江之戦い之条項」
に記されているのである。
平安時代、公家たちのテキストとして勉強会に使用されていた
『日本書紀』は、親しく購読されていたが、斉明天皇紀のこの条項になると、
いつも飛ばして読んだといわれる。それと同様に当時の人々にとっては、
ミッドウェー海戦の敗北はショックな出来事であった。
李瞬臣とか普通にスルーだな。
789 :
日本@名無史さん:2006/08/17(木) 11:37:51
京都の太秦にある広隆寺には聖徳太子の等身大の木像が安置されており、
歴代の天皇が大嘗祭で身に着けた衣装をこの木像に着せることになってい
ます。と言うことは今の天皇家が聖徳太子を殺害し、皇位を奪ったため、
聖徳太子の祟りを恐れて慰めるための行事だと分かります。
聖徳太子の正体は用命天皇の第1皇子の押坂彦人大兄皇子である。
すると、聖徳太子は皇位継承の第1候補者で、天皇に即位していたはずで
す。推古天皇(女帝)の治世下の摂政になっていたというのは嘘になりま
す。
根拠
「日本書紀」によると、用命2年(587)4月物部派の中臣勝海が彦人
皇太子(押坂彦人大兄皇子)と竹田皇子の像を作って、呪い殺そうとした
が、それが、難しいことを知り、彦人皇太子に帰順した。水派宮の彦人皇
太子の家臣亦見赤壽(トミノイチヒ)は、中臣勝海が退出するところを刀
を抜いて殺害したとある。
覚什著の「太子伝記」によると、物部守屋が用命天皇と聖徳太子を呪詛し
たことが書かれ、勝照3年(587)7月、聖徳太子率いる4将軍の中に
亦見赤壽(トミノイチヒ)(「伝暦」では太子の舎人となっている)がい
て、この人物が物部守屋を弓矢で射殺している。
この二つの事件は587年に起きた物部・蘇我氏による神仏戦争の中での
出来事であることは一目瞭然で、同時期に亦見赤壽(トミノイチヒ)は彦
人皇太子と聖徳太子の両方の家臣になっている。こんなおかしな事はあり
えません。彦人皇太子と聖徳太子は同一人物であると特定できます。
なぜ、聖徳天皇の業績が残らなかったのか。聖徳天皇を暗殺した事実を隠
蔽するためなのです。645年、天皇になっていた聖徳天皇(聖徳太子)
は、三韓の使者の挨拶を受けていた時に、中大兄皇子(百済王の子豊章)
と中臣鎌足(新羅の武王)によって殺害され、日本は朝鮮人に乗っ取られ
てしまったのです。
大化の改新では聖徳天皇を蘇我入鹿にすり替えられてしまいました。
中大兄皇子は祖国復興のために、日本軍を白村江の戦いに派兵して、大量
の犠牲者を作りました。
>>1 対外戦争じゃないよ。
日本の国内戦争の一つ。
この戦いで日本から離れたおかげで、半島は変な立ち遅れた国になったw
言語学的に見て、漢字以外に大陸文化の影響が無いので、日本から枝分か
れしたと考えたほうが妥当だから、日本に居られなくなった半端物が半島人。
流刑の犯罪者が国を作ったようなもの。
君子危うきに近寄らず、と言うことで白村江以降係わり合いを減らしたw
791 :
李舜臣:2006/08/18(金) 15:18:48
勝つために人民を犠牲にした稀代の迷将です。
日本軍は占領軍です。
大義名分のためには占領地の住民に支配するための物資を与えなければいけません。
李舜臣は日本軍が占領するであろう地に先回りして、住民から生活物資全て略奪して田畑を焼いたのです。
そして、日本軍の補給部隊を徹底的に叩いたのです。
正規軍と戦わずして勝つ作戦です。
日本軍より地の利があるので先回りが可能なのです。
この戦術の利点は何と言っても
金がかからない!!!!!
自軍兵士の損害も少ない。
国力そのままを武器としたのです。
確かに勝てる作戦です。
まぁこんな作戦を運用した時点で統率力はあったのでしょう。
彼の最後は最後らしく日本軍最強の正規兵「島津軍」と対峙して戦死だそうで。
勝つために手段を問わない作戦とはこのことです。
戦争ですからね。
賞賛に値するかどうかは個人の倫理観だと思います。
792 :
李舜臣の最期:2006/08/18(金) 15:22:24
実は李舜臣は、日本が誇る猛将島津義弘に敗れて敗死しているのだ。
朝鮮側の立場で書かれた書物には、『李舜臣は島津軍に勝利するも、
敗走する島津軍を追撃する途中に、不幸にも流れ弾を受けて戦死した。
』と書かれている。中には李舜臣の勝利した戦だけを詳しく記述し、
その最期については全く書いていない物まである。
だが島津側の書物には、『島津義弘が李舜臣との決戦に勝利し敗死
させた。』と書かれている訳で。ていうかこの島津義弘の軍勢は、
たった1万の軍勢で朝鮮に渡り、日本に帰国するまでの間に3万8千
もの首を取ったらしい。
793 :
李舜臣は立派な名将:2006/08/18(金) 15:24:22
日本・朝鮮の双方に誇張があるという前提で考えても、
李舜臣は立派な名将だったと思う。もしも朝鮮の海軍が健在であれば、
李舜臣は慶長の役でもっと大きな活躍が出来ただろう。
だか実際は、政敵に負けて牢屋に閉じ込められている間に日本軍に
よって朝鮮海軍が壊滅させられてしまった訳で…。よその国から借り
た兵隊で戦争しても、上手く行くはずがない。
在日米軍の指揮を自衛隊の幹部が執るようなもんだ。
強いて言うなら、名将李舜臣を殺したのは島津義弘ではなく、
朝鮮という国そのものだったのかもしれない。
794 :
わかりやすく説明:2006/08/18(金) 15:27:21
李舜臣提督のやった事を日本人にわかりやすく説明する。
二次大戦末期、連合艦隊も壊滅した後で残存艦艇の指揮官
に任命され、「とにかくアメリカと戦え」とだけ命令され、
ボロ船を率いて南太平洋に派遣されるようなもの。
そんな状況下で、部下の損害をなるべく出さないよう、
それでありながら日本軍の巻き返しを信じつつ、アメリカ
と交戦を続けるには……ゲリラ戦しかないわな。
実際、明の援軍が来るまで頑張り続けた李提督の精神力と、
その間部下を掌握し続けた将器は尊敬に値するが、
「国民の生命財産を守る」という軍人の本質からは落第してい
ると言わざるを得ない。
日本の軍人で言うと、小野田少尉みたいなものであろうか?
李提督は。
795 :
評価の難しい軍人:2006/08/18(金) 15:30:30
李舜臣提督は、当時の李氏朝鮮がいかに「無能、無策、無責任」
であり、かつ当時の朝鮮の民が「李朝にいかに愛想に尽くしていたか」
を理解しないと偉大に見えないという、ある意味東郷やネルソンより
も評価の難しい軍人であると私は思う。
だから、東郷を引き合いに出しても李舜臣提督の評価にはつなが
らない。
李提督を評価するには、当時の李氏朝鮮がいかに「無能、無策、
無責任」であり、かつ当時の朝鮮の民が「李朝にいかに愛想に尽く
していたか」を引き合いに出し、敵である当時の日本武士団がいか
に精強であったかを語らないといけない。
でないと、「絶望的に弱い自軍と、混乱しきった自国の政治状況
下で、何とか艦隊をくみ上げ、圧倒的に強い敵に挫けず立ち向かい、
損害を与えた」という、ある一面では非常に高く評価できる一面が
見えてこない。
797 :
慶長の役:2006/08/18(金) 15:35:46
1597年に李舜臣の後任の水軍統制使元均が巨済島海戦で大敗を喫し、戦死すると
水軍統制使に返り咲いて壊滅した水軍の再建を進めた。日本陸軍によって全羅道や
忠清道が掃討されつつある中、朝鮮半島西南端の潮流の激しい鳴梁海峡へ日本水軍
を誘導し、突入してきた日本水軍に勝利した(鳴梁海戦)。
しかし、全羅道西岸が日本陸軍によって制圧されると制海権を失って全羅道の北端まで
退却せざる負えず、冬を前にした明軍の南下によって日本軍が迎撃大勢を取るために
慶尚道へ退却するとようやく李舜臣の水軍も明・朝鮮陸軍と共に朝鮮南岸へ進出する
ことができた。1598年明・朝鮮軍が日本最西端の拠点である小西行長等が守る順天を
攻撃しだすと、李舜臣は明水軍の指揮下に入って水陸共同して順天の攻撃と封鎖を
行ったが、水陸両面での明・朝鮮軍の苦戦により厭戦気分が蔓延し、攻撃は頓挫した。
秀吉の死によって日本側に退却命令が出ると小西行長は撤退のための休戦を明・朝鮮
陸軍と結び、海路を撤退しようとするも明・朝鮮水軍に阻まれた。海上封鎖のために
小西軍が脱出不能と知ると日本側は島津義弘等により水軍を編成して救援軍を派遣した、
李舜臣はこれを察知し、明・朝鮮水軍は順天の封鎖を解いて島津水軍を露梁海峡で迎撃
した。露梁海戦では夜半からの戦闘が長時間続き、急造の島津水軍は苦戦したが混戦の
中で李舜臣が戦死し、他に明水軍副将を初めとする明・朝鮮水軍の主たる将が戦死し、
後退する島津水軍を追撃する力はなかった。小西行長は明・朝鮮水軍の出撃により封鎖が
解けたので海路脱出に成功し無事日本へ帰国することができた。 李舜臣はその死後に
忠武と謚(おくりな)された。
798 :
限られた条件下で最善を尽くした戦術家:2006/08/18(金) 15:38:30
「限られた条件下で最善を尽くした戦術家」ってところでしょう。
優劣を論じるには、李舜臣の業績は極めて限定的です。
能動的な作戦を行うには圧倒的に戦力が不足していることを自覚し、
ひたすら耐えることが出来た点では、良将であったと言えます。
唯一、李舜臣が能動的に戦ったのが露梁海戦です。
これは戦術的には下策ですが、戦後の明-朝鮮関係を考えた場合には一定の意味があります。
撤退に失敗した小西行長が沙也可のように帰順すれば、李舜臣は朝廷で大きな影響力を得、
朝鮮はまとまった陸戦戦力を手に入れることが出来たかもしれません。
799 :
プロフェッショナル:2006/08/18(金) 15:39:55
いわゆる韓国の教科書で語られるような、「常に寡をもって衆
を圧した」「神がかった聖将」というものでなく、
自軍より数の少ない船団を狙い撃ちしたり、停泊中で動けない
船を襲ったり、素人からすれば「卑怯」と思われるかもしれませんが、
職業軍人としては至極まっとうです。
ようするに、かの国にしては珍しい「プロフェッショナル」
な人物ではなかったか?と思ってます。
それだけに、現在の韓国における彼の評価は、的外れもいいとこで、
むしろ彼のほめるべき部分を台無しにしているように感じるのです。
もう朝鮮ネタ秋田から、世界史板かハングル板でやってくれんか、ここは日本史板
もう朝鮮ネタ秋田から、世界史板かハングル板でやってくれんか、ここは日本史板
もう朝鮮ネタ秋田から、世界史板かハングル板でやってくれんか、ここは日本史板
もう朝鮮ネタ秋田から、世界史板かハングル板でやってくれんか、ここは日本史板
白村江の戦いは663年(または662年)だ。時代違いもはなはだしい論議は無意味。
803 :
白村江敗戦のコンプレックス:2006/08/19(土) 19:31:18
七世紀の白村江の戦いで郭ムソウが日本へ入ってきて占領してから、日本が中国大
陸と対等になれたのは、秀吉の朝鮮征伐で明兵と対決した時。
>>258,
>>259 とんでもなく遅レスですが…
唐書によれば百済は76万戸、高句麗は69万7千戸です。戸あたり人口が
不明ですが仮に1戸五人とすれぱ百済380万人、高句麗348万5千人。
当時の日本の数十%はあったようです。
新羅は完全な占領に至らなかったためか戸数が記載されていません。
805 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 00:58:02
のじまた
806 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 08:39:49
官軍が5000人しか居ない当時の朝鮮が日本に勝つのは不可能。
日本は無抵抗同然の朝鮮を一通り制圧した所で明の大軍相手の交戦状態に突入。
李舜臣は壊滅後の敗残兵を率いてチョロチョロしていたのを島津隊に捕捉されて鎮圧されただけ。
807 :
抗日のシンボル:2006/10/03(火) 14:05:08
「東郷平八郎が李舜臣を尊敬すると発言した」とする言説について
も現在のところ発言根拠は発見されて居らず、李舜臣賛美のための
創作である可能性が高い。また、日本海軍が海軍権益拡大(軍艦建
造と組織の拡大)のため李舜臣を引き合いに出して朝鮮出兵の敗因
として宣伝したり、戦後独立した韓国北朝鮮で抗日のシンボルとし
て利用されたことにも留意する必要があるとする研究者もいる。
808 :
緒戦の朝鮮軍が想像以上に貧弱:2006/10/03(火) 14:06:50
従来、日本軍の補給不足を李舜臣の補給遮断によるものと解釈
されることが多いが、全戦役を通じて九州から釜山までの物資
や人の流通が決定的な補給不全を起していたことはなく、補給
不全を起こしていたのは内陸部の部隊であるので、このことの
みで日本軍の補給路が遮断されたと解釈するのは正しくないと
する意見も近年提出されている。この意見に拠れば、日本軍の
食糧不足の主な原因は緒戦の朝鮮軍が想像以上に貧弱であった
ため奥地へ急進してしまったこと、和戦の曖昧な侵攻による食
料の準備不足、現地が貧しく調達を日本の常識で想定してしま
ったこと、義兵や流民による輸送路襲撃の激化などが挙げられ
る。これらは1593年からの日本本土からの補給作戦の開始と主
力軍の南部への布陣で解消されており、準備を整えた慶長の役
の侵攻作戦では補給の破綻は起きていないとしている。
809 :
李舜臣級駆逐艦:2006/10/03(火) 14:11:43
忠武公李舜臣級駆逐艦(チュンムゴン・イ・スンシンきゅうく
ちくかん)は大韓民国の次期駆逐艦計画により生産された国産駆逐艦。
別名はKD-II。計画名のKDX-IIで認識されることも多い。
209型潜水艦に同音の艦(李純信、Lee Sun Sin)があるため、
「忠武公」が加えられている。
810 :
広開土大王級駆逐艦(クァンゲトデワン:2006/10/03(火) 14:14:08
第2次世界大戦期のアメリカ製駆逐艦12隻(ギアリング級駆逐艦7隻、
アレン・M・サムナー級駆逐艦2隻、フレッチャー級駆逐艦3隻)
を更新するために、大宇重工業が研究、開発。1995年に起工し
1998年には一番艦が竣工した。建造費は一隻あたり約7056億ウ
ォン(706億円)。 最大12隻までの建造構想があったが、より大
型の李舜臣級駆逐艦・KDX-IIIへの移行に伴い、3隻で建造は終
了している。
友人が白村江を「しろむらえ」と読んだ件について
812 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 15:46:31
「白村江海戦(はくそんこうかいせん)」ていう言い方もするよね?
この前試験に出たんだけど。
813 :
はくすきのえ:2006/10/06(金) 08:31:21
白村江(〈はくすきのえ〉ともよむ)は錦江の古名。
>>807 それは小説での発言らしい
つまり作り話
815 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 07:40:27
なんで白村江と聞くと、途端に日本と朝鮮だけの世界になっちゃうのかね?
主役は唐なのになw
817 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 19:16:19
まあ局地戦だからな
818 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 20:40:23
>>816 唐の属国になった新羅が、「親分、日本と百済をやっつけて下せえ。」と
唐をけしかけたというのが事実だね。
819 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 01:18:52
820 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 01:35:12
白村江はミッドウェイだよ。数ではこっちが優勢なのに負けた。
ちなみに韓国では錦江のほか、白江という。中国も。
これは百済と同じ意味に近い。
ちなみに百済は韓国語でペクチェ。白村もペクチェ。ついでに博多もペクチェ。
821 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 03:32:50
結局、郭はマッカーサーてことでいいの?
日本書紀には唐の艦隊に左右から挟み撃ちにされたと書いてあるけど
数で優勢な側がそんな風に包囲されるんだろうか?
823 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 11:15:31
>>822 もちろん戦史でいくらでもある。包囲した側は線上に円になるわけだから
全兵力が使える。包囲された側は外側の皮一枚しか使えない。あとは、それを
たまねぎみたいに剥いていくだけ。
824 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 14:07:21
朴市田来津の進言通りにしていれば良かったのに
で、こういう進言者が敗戦のとばっちりの戦死って歴史上良くあって可哀相になる
825 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 14:14:54
>>822 唐はね、最新式の戦艦を持ってたので、日本の原始的船団は全く歯が立たなかったのだ。
このとき日本人はこう思ったのさ。
「畜生、いつか世界一の戦艦をわれわれの手で作ってやる。戦艦の名前は絶対……」
826 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 15:29:17
>>824 日本が負けたと思う奴は在日だけだから、本当は大勝利だったんだろう。
827 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 19:09:00
828 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 19:19:37
大東亜戦争も負けてない
終戦協定はしたが日本は何一つ失っていない
逆に戦略の変更によってアメリカを利用して経済大国になった
終戦の日はあっても敗戦の日は無いのがなぜか分るか?
そんなことも知らないのはアホウ
降伏した国がどうして負けていない事になるのさ。
830 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 20:30:16
国体の護持が目的だった戦争で国体を護持したなら負けではない。
アホウはグシャグシャノクダラネエ糞みてえなケチつけんじゃネエ。
自分で調べろアホウ。
832 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 20:51:14
「無条件降伏」って「負けました」ってことだろ?
ここまで自己欺瞞したら、未来のすべてを捨てたも同じ。
833 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 20:57:39
>>830 アホか。資源確保と打倒欧米が目的でそれが完璧に挫折して、
幸福、いや降伏文書にサインしたのになんで「負け」じゃないんだよWW
おまえの言うコクタイかネクタイか知らないがそれだってあと何年もつか
ワカッタモンジャナイわい。
公平に見て国体の護持が目的の戦争で国体さえ護持できれば降伏などの文書は意味が無いと思う。
形式的に降伏しても国体が守られていれば勝ち。こんなの小学生でも分る理屈だ。
勝つと思ってアメリカに戦争したと考える人間はアホウと言われてもしょうがないと思う。
よって
>>830さんに同意する。ついでにアドバイス。「馬鹿はほっとけばいい」
835 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 21:03:59
836 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 21:05:06
>>834 どこの世界にそんな女々しい理屈があるんだよ。
現実を正視しろ。ボケナス。
837 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 21:06:23
>>834 吉本新喜劇の、ボコボコにやられた奴が「よっしゃ、今日はこのへんでカンベンしといたろ」って
ギャグみたいだ。
838 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 21:08:09
だいたいウヨってのは、差別や現実歪曲しないと現実に耐えられない精神的に弱い連中がそろってやがるからなあ。
839 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 21:09:14
アメリカは最初から国体を潰すのが目的で戦争を始めたわけじゃないだろ
全ては終戦後のマッカーサーの判断であって
840 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 21:09:42
>>834 劣等感まるだし朝鮮人にそっくり
在日ウヨだろ
841 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 21:11:46
日本がマッカーサーに「天皇制なくすなら、日本人赤くなりまっせ。それでもよろしいん?」
って言ったから天皇制残っただけ。
もし今みたいにソ連が崩壊してたら……。
ウヨはソ連様のあった方向にアシを向けて眠れませんぞWW
842 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 21:12:29
>>834 あの戦争は国体の護持が目的で始めたのか?アメリカは何が何でも国体を潰すつもりでいたのか?
違うだろ。
843 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 22:46:28
>829
俺は降伏していないがな。
他所いってやれや
・・・・・・・参らくど逃れ連れ、を述べた
占福述り、雁が御渡と述り、上を述べた
占福述り、雁が来し、永久よ、と実を述べた
占福述り、雁が・・・・・・・・・・・・
846 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 02:44:45
しかし朝鮮人は千年以上前の戦争をかたりがたるようだが、ほかに誇るものがないのかなw
元寇があるニダ
848 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 20:46:14
ほー
849 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 21:18:56
岡崎久彦氏は、日本人と韓国人を「同祖」だと思っているようだが、間違っている。
岡崎久彦:『なぜ、日本人は韓国人が嫌いなのか』
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31805481 日本人と韓国人は、まったく別種の民族である。言語も異なっている。
日本語と韓国語は似ていない。
岡崎氏は、韓国人がワイ族の子孫であることを知らないようである。
古代カラ半島北部に、ワイ族という、倭人とは別種の民族が住んでいたことも
知らないのではないか。
韓国人はワイ族の子孫なのである。
書籍名:『なぜ、日本人は韓国人が嫌いなのか。 隣の国で考えたこと』
価格:980円(税込)
<本の内容>
第1章 日本人の好きな国・嫌いな国
第2章 日本人の常識の空白
第3章 日本語に一番近い言葉 (←間違い)
第4章 日本人の唯一の親類 (←間違い)
第5章 統一新羅と日本
第6章 日本と韓国の歴史の岐路
第7章 近代化の神話
終章『韓国の人々に訴える』
850 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 21:25:50
ずいぶんスローだな。
851 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 23:59:45
今日のNHK十時から放送していた大化の改新と入鹿の話の
特集のテレビで白村江が出ていた。それによると、
唐の水軍は全長120mもある木造と牛の皮で防御された戦艦。
投石機を使って相手艦に投石して相手艦を撃沈。
更には、近づけば艦上からハンマーみたいなもんで叩いて沈める。そんな威力があったらしい。
当然、小型艇レベルの大きさの倭国水軍は勝てない罠。
852 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 00:03:24
そのとき、倭人は決意した。
いずれ世界最大最強の戦艦を作ってやる……
名前はヤマトだ。
そして放射能除去装置を取りに行くのだ。
854 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 04:04:44
855 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 10:55:45
公共放送って、相当なインチキでも
権威をもったまま、真実かのように流しちゃうから困る。
856 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/03(土) 11:39:06
船のサイズ以外にも、
倭国の船の推進機構はオールではなく。艪ではないのか?
帆+艪の推進力で、艪は舵と推進の両機能をもっていた。
又、艪は少ない労力で大きな推進力が得られるエネルギー効率の高い方法。
倭が海洋国家と発展したのは艪船によるところもあると思う。
日本の船の歴史を調べる必要があるが。
857 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 14:28:56
しろむらえのたたかい
投石器は形からいうと宋代の「旋風砲」だな。
兵士一人で発射できるものなのでその絵だと大きすぎる。
859 :
日本@名無史さん:2007/02/09(金) 21:50:10
NHKスペシャル 大化改新 隠された真相 〜飛鳥発掘調査報告〜
この番組は左翼中韓系プロパガンダそのもの
【番組内容】蘇我氏を東アジア諸国との連携を図った人物として執拗に持ち上げ賞賛。
→アジアとの連携(実態は中韓への迎合と屈従)こそが善とのイメージを植え付ける
【番組内容】対唐・対新羅戦を指導した中大兄皇子を愚か者として卑下。
→反日中韓への迎合と屈従を良しとしない者を貶め、否定的イメージを植え付ける
上記の目的を効果的に達成するための洗脳手段として
@専門家のコメントを、都合の良い部分だけを持ってきて、捏造説を権威付け
A視覚効果の高いCGを多用
Bベテランアナウンサーによる迫真のナレーション
C自説に都合の悪い物は無いものとする
この番組により左翼中韓系プロパガンダが古代史にまで浸透した実態が明らかとなった。
妄想 乙!
>>859 もともと、日本の古代史の学者の大半は左翼。
戦後は、反皇国史観が強くて、王朝交代説(天皇家は何回も断絶)が主流になり、
記紀は天皇の権威を高めるために捏造されたとか、そんな説が通説だった。
今の学者も大半は極左時代の影響を強く受けている、というか左翼。
古代史に限らず、歴史学会全体で見ても左翼思想の人のほうが多いよ。
>>859 近代史は言う必要もないが。
同じ事は中世史や近世史でも行われてる。
例えば文禄慶長の役を行った豊臣秀吉をキチガイ扱いして、徳川家康を国交回復した人物として賞賛。
「朝鮮通信使は日本に進んだ文化を与えてくれた有り難い存在」として過大に評価する。
左翼が現在の政治的主張と歴史を重ね合わせてるのは確か。
そのために歴史を政治的主張に都合良いように捻じ曲げる。
捻じ曲げられた歴史を偏向マスコミが大きく取り上げ国民を洗脳しようとする。
864 :
日本@名無史さん:2007/02/12(月) 08:32:28
戦場は唐津湾、博多湾、季節は冬、台風シーズンとすべきだった。陽動作戦で唐を
引きずり込んでもいい。政治的には倭と百済で新羅をたたいた後にしないといけない。
現実には倭・百済が2正面を持った、最悪の形になった。実力は倭・百済のほうが兵站
後方支援から考えて、絶対に有利な状況だ。
865 :
日本@名無史さん:2007/02/12(月) 08:49:16
弓矢、太刀、甲冑、糧食のカロリー密度、携行適性などがポイントであり、大型船は
危険。陸上では至近距離から竹やりで一斉急襲をかけることが有効。もし唐津博多間に
倭人伝にあるような身の丈よりも高い草原があるのなら絶好の戦場なんだがなー。
866 :
日本@名無史さん:2007/02/12(月) 08:52:57
>>864 本土決戦ですか?高安城=九十九里陣地、大津京=松代って感じで
玉砕覚悟の最終決戦まで実際、準備はしていたようだけど。
負けたときのリスクを考えるとあえて敵を呼び込む本土決戦は無理でしょう。
友好国百済支援のためにも、日本は出ていって新羅・唐連合軍を叩くしかなかった。と思う。
本土決戦になっていれば九州の豪族なども裏切っていたかも知れないし
867 :
日本@名無史さん:2007/02/12(月) 09:48:01
負けても熊本、日田、別府、周防方面でゲリラに転じると勝ち目あり。
一番やりたいのは壇ノ浦での全滅ですねー。あの辺に引きずり込みたい。
しかし、ご指摘のように百済救済問題がある。百済を唐に押さえられると
九州での防戦がぐらつく。それと、熊襲、熊本はどうも裏切りそうですね。
868 :
日本@名無史さん:2007/02/12(月) 14:39:07
斉明天皇は白村江の戦いで大敗し、供託金を没収された
日本側は白村江に行くときどの港から出撃したのかな?
博多から小舟で漕いでいくのは無理だよね?
870 :
日本@名無史さん:2007/02/12(月) 23:40:25
全羅道の西海岸(木浦?)に集結してから出撃。
871 :
日本@名無史さん:2007/02/18(日) 18:01:52
>>868 斉明天皇は白村江とは関係ないだろ。
660年 百済滅亡・唐の都督府が置かれる
661年 斉明天皇親征開始するも渡海直前に九州の朝倉宮で崩御
662年 天智天皇が阿雲比羅夫の水軍170隻を派遣
663年 3月、天智天皇2万7千人を増派。8月、白村江の戦い。
872 :
日本@名無史さん:2007/02/18(日) 19:45:38
_
, -、,. '´ 丶//
,. ''´ ヾ、/ ̄
. f `ヽ
―‐-/ L __,
r' ,. '"⌒ 丶 r<
、 f ) ( ヽ_ ノ
} ,ツ ⌒ -‐'1ハ'´',. !
/ 彳  ̄\ / ノ .}√ニ、
丶 / `i { u '´ 。ヾ ;! ,// j\ `
/7 ,f ヘf / ミ `゙ r'。" r'´ おい、三足土器!
/ ! }ヾゝ ´ { ´ iヾ このスレ弾幕薄いぞ!
/ ヘ,´ ! ノ / 何やってんの!!
. l ~ | u , ' ` -、 /
| ヽ / ./ /
| \ ! / / つ っ
f ̄ ゙` ー- ヽ ヽ`‐-/ / っ
|┌_ _┐ 「ニ`' 二 r〈 つ
|└  ̄ ┘ | | | 「i /
r'ー- ...,,_ 」,_ | | |l |
_,. -'´ |ヾ !,」
l l l \
_ l l l ヽ、_ 、
 ̄ ̄ ー- 、 l l l ヽヾヽ 、
\ l l l / ̄  ̄i ヽ
873 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 21:51:54
三足土器
874 :
日本@名無史さん:2007/03/19(月) 22:20:23
ageてみる。
875 :
日本@名無史さん:2007/03/20(火) 04:39:34
これ以後、日本史上大敗した海戦は「ミッドウェ−海戦」だな。
876 :
日本@名無史さん:2007/03/20(火) 19:31:02
大伴部博麻之碑 篠山町 篠山神社境内
ttp://snkcda.cool.ne.jp/sekihi/ootomo/ootomo.htm これにも碑文がなく、建立年月だけが刻まれている。
博麻は上妻郡(今の八女郡)の北川内出身といわれ、
斉明天皇のとき、朝鮮の白村江で唐・新羅の連合軍と
日本軍が戦った折に捕虜となった。
彼は同じ境遇の仲間四人を日本に帰すために身を売って奴隷となり、
彼の地に三十年間居残って持統天皇のとき帰国した。
このため朝廷では彼の功労を厚く賞し、米・布・水田を贈った。
877 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 09:32:02
>>861 >もともと、日本の古代史の学者の大半は左翼。
>戦後は、反皇国史観が強くて、王朝交代説(天皇家は何回も断絶)が主流になり、
>記紀は天皇の権威を高めるために捏造されたとか、そんな説が通説だった。
>今の学者も大半は極左時代の影響を強く受けている、というか左翼。
実際、記紀に書いてあることが全て事実( 真実ではなくとも )だとは思えない。
継体天皇なんて、王朝交代があったとしか考えられない。
あんな血縁関係から、
新皇を「 移 入 」するコトを被支配階層( 上級豪族 )が直ちに支持するわけもない。
今の天皇家で、あの血縁関係から、
新しい天皇ですよ
と国民に御紹介されてもねぇ...
878 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 10:55:24
え?
今城塚発掘では逆に、いわゆる「河内王朝」との連続性が見えてきたんじゃないの?
「剣菱形こそ新王朝の証」なんて言われてたけど、それが地震による変形だと分かり、
三段築成や両脇の造出しなど、むしろそれまでの伝統が引き継がれていることが判明。
横穴式石室にしたって、岡ミサンザイで採用されていたとしたら、もう終わりだよ。
ここまで来て「継体は前王朝をぶっ倒して新王朝を打ち立てた」なんて言ってるのは、
もう何というか、王朝交代論者の頑固なこだわりとしか思えないんだよね。
そりゃあ、継体は傍系出身だから、「改革」には熱心なタイプだったろうよ。
しかし、王朝交代と言うからには、平安→鎌倉、戦国→江戸、江戸→明治
くらいの変化は無いとねぇ。
「あんな血縁関係」と言うけれど、「今の皇太子の孫に子供がなくて、その後を
三笠・高円女王の孫が継ぐ」くらいのことでしかないよ。(男系女系は置いといて)
普通にあり得る話。これを否定しちゃったんじゃ、慶喜が可哀相だw
というわけで、スレ違いでした。
879 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 13:38:38
この戦いに敗れたがら古代日本は大韓の植民地となったんだよね
地方行政官として大韓から
現代にも繋がってる新たな天王が派遣されたし
880 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 23:27:05
881 :
日本@名無史さん:2007/03/30(金) 17:07:03
俺の中高時代は ハクスキノエと覚えたが
今は ハクソンコウなのか
>>881 普通に音読みすれば「ハクソンコウ」だからな
百済語読みだという意見が出てたけど、それなら「ハクスキの江」と書いたほうが良かったかもしれない
「北京の戦い」を「ホクキョウの戦い」か「ペキンの戦い」かというのと同じだからな
883 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 16:01:44
むかし軍板でやってた議論
ねらー100人が各自10万円分の物資を持って662年8月にタイムスリップします
果たして倭国を勝利に導けるのか?
884 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 18:54:57
余貴美子は百済王族の子孫なの?
885 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 20:36:48
范文雀のいとこだから台湾系だろ。
秀吉のやつは負けじゃないのか?
まぁ、勝ちでも負けでもどっちでもいいけどな。
大戦でまけたにしては、発展してるし、ノー問題だろ
887 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 21:55:08
舒明は義慈元年に王の名代として倭国に派遣された男だよ
>>830 軍隊壊滅、アメリカ占領
どう見ても負けてる。
みんな無視してたのに
新羅は唐を攻撃して国から追い出した
高句麗は唐の攻撃を数十年耐えた
日本ときたら
891 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 01:48:48
白村江に向かう前に新羅の慶州を攻略し
新羅を殲滅すべきだった。
892 :
日本@名無史さん:2007/06/29(金) 16:54:45
せっかく唐と友好回復したんだから、熊津から唐と連合して新羅をせめればよかった
893 :
日本@名無史さん:2007/06/29(金) 16:57:13
遣唐使って舒明天皇の頃からやっていたのに、不思議だね。
日本も百済と組まずに唐と組んでいればよかったのに。
894 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 03:07:39
>>890 結局新羅は骨の髄まで属国になったけどね。
つ元寇
895 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 03:39:35
第一次世界大戦の勝利を火事場泥棒だとか
言ってる奴は、第二次世界大戦のソ連についてどう思うんだ
日本書紀は白村江以後の半年は空白になっているらしく、
鹿島昇によれば日本はその間に連合軍に降伏して日本は新羅の支配下に入ったというが、このスレ的にはどうなの?
ちなみに俺はサヨでもチョンでもない、単なる質問者な。
897 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 16:43:18
>鹿島昇
そんな妄想狂がいることを始めて知った。
単なる妄想狂かも知れんが、調べてみるとなかなか興味深い人物なのよ。
中国の史記は古代オリエントの歴史の丸写しだとか、白村江以後は新羅の日本総督が天皇になったとか。
そういや高校の歴史で習った時、
何で白村江以後に西日本各地に作られた山城は朝鮮式山城なのかとか疑問に思わなかった?
900 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 16:54:30
901 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 16:56:29
>>899 思わない。
単に亡命百済人を使って築城したから。
902 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 20:51:24
白村江の戦いで百済が滅亡したんだから
亡命百済人が退去して大和国へやって来たと考えるのが自然じゃね?
903 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 21:11:01
>902
それはすでに教科書に書いてある内容
904 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 04:46:53
で、唐書や新羅本紀にはなんて書いてあんの?
もしそんな戯言に1%でも真実が隠されているならそれを100倍に解釈して後世に残そうとするのがバカチョンどもの性癖。それがない以上そんな戯言はスルーしてよし!
906 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 18:30:03
百済難民の子孫は日本人扱いでよいぞ
907 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 19:01:05
唐や新羅の歴史書になんて書いてあるか知りたい。
仮にも歴史学者なら、脳内ソースだけで学会に発表しても袋叩きにあうだけだってわかってるだろうから。
908 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 19:13:32
日本書紀では天武が天智の弟だとなっているが、そんな物は1ミリの信用性もないぞ。
日本書紀が書かれたのは天武系が皇統に就いてた時代だし、
時の権力者は自らの正当性を主張するためなら歴史を捏造することぐらい朝飯前だろう。
909 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 19:21:17
>908
きみ、きみ・・・・
日本書紀には「天武が天智の弟だった」
なんてどこにも書いてない。
日本書紀には、天武は天智の弟だと書いてある。
なんの史料と間違えてんの?
910 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 19:31:24
信用に値しない。
672年に天智朝を倒し新王朝を打ち立てた男が実在したとしても、
その男がたまたま天智天皇の弟である確率は限りなく低い。
美濃・尾張一帯の有力豪族であったとみた方が自然。
全ては天皇家は万世一系で神聖不可侵であるということにしたい日本書紀の捏造に過ぎない。
911 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 19:40:24
いや、天武は尾張の新羅人の可能性もある
つまり天武期は新羅の植民地状態
912 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 19:55:12
>>910 何?今度はこっち来たの?
自分の都合のいい箇所だけ抜き出すなよ
913 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 20:08:09
>>910 斉明・天智朝における天武の働きを見れば、
いかに理不尽な話かわかるよ。
天武は、斉明や天智の白村江の戦いにも
同行しているのに。
ちなみに、天武の系統は称徳天皇まで。
以降の天皇は天智系で、天武の血を引いてないことなど、
小学生でもわかることだが。
914 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 21:38:58
倒した前王朝の子孫にも皇族待遇を認めるなんて、変な王朝だな。
しかもそれから百年も経った後にまた前王朝に取って代わられるなんて、変な王朝だな。
311
おい!チョン。シラギってどういう意味か知ってるか?愚かで不潔なワイ賊の事を言ってるんだ!お前らの先祖な。オゾマシイやつら。日本から出ていけ!
916 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 09:37:28
倭奴国(わどこく)も蔑称なわけだが。
917 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 09:46:56
新羅は、朝鮮人が自分で認めた国号。
倭は国号ではない。
日本の国号は、最初から日本。
918 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 09:49:09
まあ日本人は自分達で倭奴とは呼ばないわな。中国人はそう呼んでいたが。
919 :
日本@名無史さん:2007/08/20(月) 14:15:15
920 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 00:49:00
新羅は現地読みではシルラないしシンラ
シラギは蔑称との説を読んだ事がある
新羅関係の史料で「百済」を「百残」と書いたものが有るそうだけど
これも貶める書き方(音は同じ)
大体ハクソンコウだなんて
お隣さんが絡む事項には今の学者は腰が引けてる
921 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 02:36:40
現代に置き換えて考えればわかるだろ?
たとえばアメリカよりの政治家はアメリカ人か?ってこと。
実際国民の利益にはなっていないが確実に自分の利益になってる奴が多い
天智・天武も同じだろ天皇の絶対化が行動コンセプトだから
922 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 03:42:15
俺達、日本人は史実を忠実に学んで行こうではないか。俺は日本史しか興味ないけどね。
tasikani
924 :
日本@名無史さん:2007/10/15(月) 19:43:14
き
唐 (白村江の戦い) ×:負けは負け。しょうがない。
ただ、少し敗北の描写が誇張されてるんじゃないの?誰も見た人は居ないわけだし。
元 (文永・弘安の役) △◎:侍に二度の敗北は無い!
文永の役では、当初相手の変則的な戦術に対応できなかったが、
その経験をすぐに改善に生かせた侍の有能さは特筆するべき。
二度目の弘安の役では元軍を水際撃退。上陸すら出来なかった敵は、
一ヶ月以上も狭い船上での生活を余儀なくされ、疫病が蔓延。その後台風で全滅。
陸地に橋頭堡すら築かせなかった完全勝利。
明 (文禄・慶長の役) ◎○:戦闘は終始日本が圧倒。
日本に橋頭堡すら築けなかった蒙古や高麗とは違い、疾風のような速さで内陸へ侵攻。
一ヶ月足らずで首都ソウルを占領、三ヶ月で平壌も占領。鴨緑江周辺まで進軍し、朝鮮全土を蹂躙。
しかし、朝鮮の国土の貧しさによる物資補給の困難さと、総司令官秀吉の死により本国帰還。
主だった武将の戦死は皆無。朝鮮は民族の英雄李舜臣が戦死。
明も大打撃を蒙り、衰退した明朝は女真族によって滅ぼされる。
被害の大きさは圧倒的に、明・朝鮮連合軍>>>>>>>>秀吉軍
清 (日清戦争) ◎:説明不要の完勝。
露 (日露戦争) ◎:戦術的、戦略的にも大勝利。
戦況を見極めて巧みに講和に持ち込んだ明治政府の外交の見事さは達人級。日本外交模範とするべし。
独 (第一次世界大戦) ◎:火事場泥棒と言う無かれ。本当の勝利とはこのようなものを言う。
ソ (ノモンハン事件) △:痛みに耐えてよく戦った!感動した!
ノモンハン事件は日本軍の撃墜エースが大勢生まれた戦場である。
ソ連邦英雄であるゲオルギー・ジューコフ元帥に、「生涯で最も苦しい戦い」と言わしめた。
中 (日中戦争) ○:中国の勝利?否!単なる漁夫の利である!
米英蘭仏 (太平洋戦争) ×:有史以来勝ち続けてきた日本は敗北を知りたかった。
926 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 08:58:26
中 (日中戦争) ◎:中国の勝利?否!単なる漁夫の利である!
927 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 02:22:42
初めて書き込みするが・・・
現代史の視点と混同して白村江の戦いを論じる人がいるのはあきれる
勿論半島との関係は論議しなければならないが
近代国家どうしの戦いではないのだから
928 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 22:30:01
古代における日本の朝鮮政策は、「分断して搾取」
朝鮮に統一国家ができることは、望んでいない。
日本は、百済、新羅の双方から貢物を出させる。
百済が人質を出し続けても、500年以降の軍事援助はしていない。
新羅による半島統一を望まずに派兵したのが白村江の戦い。
929 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 22:57:37
妄想乙
930 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 06:42:20
新羅鬼(しらぎ)と百多羅(くだら)と荒句羅(こうくり)は悪の巣窟です!
大和とは何の関係もありませんが何か。
>>925 へぇ〜、明って清に滅ぼされたんですか?
初めて聞きました。
自分が全然知らない事も知ってらっしゃるなんて、
凄い知識ですね。
934 :
日本@名無史さん:2007/12/24(月) 21:58:51
935 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 16:28:00
>>598 >亡国の憂き目に遭いかねないような救援軍の派遣を何故決めたのであろうか・・・
そうだね、政権の存亡を賭して百済救援を決した近江政権の
動機は何だったのか?
936 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 16:54:38
後明は清に滅ぼされた。
良スレ
939 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 14:00:48
白村江の戦いで日本が負けた原因はホウショウ
940 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 17:09:08
941 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 18:12:22
日本の同盟国
古代〜現代
百済→ドイツ→アメリカ
結局、百済王子豊璋のわがままに付き合わされたわけだな。
こんな人質同然の奴に、肩入れした中大兄皇子もどうしようもないな。
乙巳の変から20年近くも、即位出来なかったのも頷けるわ。
元には事実上完敗。二度に渡り台風等の自然現象に助けられた
それが後々、プロパガンダとして神国日本として民衆に
神により守られてる国と植え付けられていく
944 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 17:04:59
中大兄皇子、大海人皇子、藤原鎌足といった
有能な要人がいながら惨敗したってのは、よくわからん。
藤原鎌足なんかは中国の兵法や戦史に通じていたはずだし。
945 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 17:44:15
主力は東北の人たちだから。
946 :
ピンチョ:2008/03/16(日) 19:17:25
>>944 兵法なんか知ってたって勝てる訳ない。
三国志なんかの読みすぎだよ
君の伝だと孫子訳した金谷治氏みたいな人も戦上手ということになる
947 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 21:13:56
>>939 その通り!
奴は有能な自分の部下でさえ、嫉妬した挙げ句、殺して首を切断し塩漬けにしたような愚者。
こんな価値の無い人物を、庇護する必要など無い。
>>944 >藤原鎌足なんかは中国の兵法や戦史に通じていたはず
これの出典って何なんですか?
良ければ教えて下さい。
ちなみに孫子を日本に初めて持ち込んだのは、吉備真備だと記憶しています。
このすれを見ていると、
結局日本は政治的には中国と関わらないほうがいいな。
勝った負けたは別にして、中国と政治的にかかわっても、長くよい関係がつづかないみたいだ。
昔の遣唐使の時代みたいに、地域性の文化交流をやっているほうがよいように見える。
現在の大連の日本語センター支援とか、上海周辺のビジネス展開とかね。
あんまり奥地にいかないほうがw
>>948 鎌足が藤原姓を貰ったのは確か死ぬ前のだ。
951 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 13:28:46
>>949 おおむね同感。
文化面と経済面(貿易とか)でのつきあいならば互いにメリットがあるだろうな。
ただ、現在は
「日本は政治的には中国と関わらないほうがいいな。」
といっても、ある程度は関わらざるを得ないのでは?
952 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 23:13:46
>>935 >動機は何だったのか?
まぁどの時代でもそうで、近い例としてはベトナム戦争の米国と同じく、
周辺諸国、または西側陣営(国内豪族)を絡めた利権と権威の守りでしょうな。
>>935 当時の政府の外交ブレーンが朝鮮から逃げてきた百済人。
彼らは倭国の力を使って自国を守る為に説得したんでしょうな。
956 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 11:22:37
白村江の敗北以後、
唐から郭某というマッカーサー的な人が来て
唐軍が2000人も進駐してきたと聞きますが、
日本は唐の植民地にならなかったのですか?
郭某が進駐して来た時、
中大兄皇子や大海人皇子はどうしていたのですか?
957 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 16:40:57
日本は楽浪郡で高句麗と395年?に大規模な合戦をして敗北しています。
958 :
世界@名無史さん:2008/08/01(金) 00:14:05
>953
7世紀中葉、唐が極東に軍事行動を起こした。当然各国に通達を出した。
当時、唐が何を言ってきたのか、書紀は沈黙しているが、それに対する反応が大化のク−デター。
百済は義慈王が政権を握ったが、経過は滅びて不明。
新羅は生き延びたので、その経過が残っている。
唐は百済に、王を廃して唐の帝族を王に推戴する要求してきていた(三国志紀新羅本紀)。
で、起こったのが田比曇(ひどん)の乱。善徳女王は死亡して金春秋が政権を握った。
唐は最初に高句麗に対して発動。百済が滅びれば、倭は唐の軍事脅威に直接さらされる。
まあ、ロシアの南下を恐れて戦争に突入していった日露戦争のパターンに近い。
私見では、20世紀に当てはめると、唐はアメリカ、新羅は国民党、百済は満州国。
いつの時代もやってることは同じ。
959 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 09:15:58
>>956 2000人程度の船団は少ないです。
当時の日本は東国のエミシ平定で何万という軍勢を徴兵しまくってきた
イケイケ軍事国家であり、補給も続かないのに唐は戦争しかけれません。
(つまり国内の戦国時代を平定して、イケイケ状態の秀吉が
海外と自信を持って戦争したのと同じ状況。
なぜ過去の任那時代と違ってこのときは大群派遣したのかは、そういう国内状況の差がある)
さらに既に新羅と唐は交戦状態にあったわけで、要するに
捕虜を帰しに来て、土産を持ってきて、唐側に付けという交渉に来たんでしょう
唐vs新羅・倭連合軍になられることを恐れているはずでな。
もちろん2000人の船団は軍事力を誇示して威嚇込みではあろうけど、戦う気はなかろう。
植民地になどなるほど弱体化はしてないよ。
秀吉の朝鮮出兵のあと、日本が支配されるなんて構図思い浮かぶか?
来ても戦うだけの能力が国内にある。
植民地説なんてのは、中国が国史に自慢げに書かないことからも分かる通り
一切唐は日本列島までは支配できてないよ。
960 :
日本@名無史さん:2008/08/16(土) 16:14:58
あのころ唐は、激しいチベットの攻撃で、国土を失いつつあるような状況。
極東は、高句麗さえ滅ぼせばよかったはずが、長期戦にのめりこんでしまい、
極東最高司令官は左遷されたほどだった(資治通鑑より)。
だから唐には、日本列島を支配する軍備も気力も時間もなかった。
倭を唐に恭順させるか、敵対しない程度に丸めるか、というぐらい。
そのころ九州では、唐の傀儡=薩夜麻(都督)政権と新畿内政権画策派(天武)と
後九州政権(南九州)に分かれていたようだ。唐軍には、これを纏め上げる
力などなかった。
なるすれ
白村江の戦で日本が唐と戦争している最中に天皇は遣唐使を送っているので
天皇はその戦争の相手が唐なのを知らなかった可能性がある
唐の竜朔3年(=新羅 文武王3年=663)白村江での新羅大勝(倭人大敗)直後、このようなことがあった。
大王(文武王)は倭人に語って「考えてみると、われわれとお前の国とは、海をへだてて境界を分かち、いまだかつて交戦したことがなかった。
ただ友誼を結び、和を講じて、訪問し交通してきた。
それにもかかわらず、どうして今、百済と悪事をともにして、わが国を欺こうとするのか。
今、お前の兵士は、わが掌中にある。これを殺すに忍びない。
お前は国に帰ってお前の王に報告せよ。」といった。
(そして、逃げ帰ろうとも)その思うままにさせた。
←三国史記 列伝 金ユ信 (に本当に書いてある。)
上記のこと、ここだけにしかない記事である。(新羅本紀 文武王紀 や 日本書紀 には見えない。しかし)
日本列島と朝鮮半島との、その後、1300年あまりの歴史は、ほぼこの文武王のことば通りの推移をしたことを認識するなら極めて重要である。
この直後の時期について、日本書紀(続日本紀)に 唐に捕らわれた日本列島の人びとの悲惨な帰還を伝える記事がある。だが、新羅に囚われた記事がない。それどころか
守君大石、阿部比羅夫たちは早々と無事帰国している。百済の遺臣も多く日本へ亡命している。
7世紀の合戦直後、この新羅の王の呼びかけは、その後の極東の歴史に決定的な影響を残した。日本列島と朝鮮半島の政治関係を考えるとき、この遺産は今も残っている。
>>1 >日本は、2度も負けているんですね。
いいえ、3度負けています。
@白村江合戦
A薩英戦争&下関砲撃事件 そして
B対米戦争 です。
重要なことは、
@後、 大化の改新
A後、 明治維新
B後、 戦後改革 という国家改造によって敗戦前以上に国勢が生き返ったことです。
注意)私は、九州王朝説による、大化の改新は敗戦後(690年代:九州年号の大化)説です。
徹底した平和改革路線が、圧倒的な支持を得て、半島侵略志向の九州王朝を滅ぼした。これが九州王朝滅亡の真相であり、当時の人びとが正統王朝であっても捨て去り、歴史偽装の日本書紀をも受け入れた と、考えます。
>>964 補足
九州王朝説による、大化の改新
↓
九州王朝説による、近畿王朝の大化の改新は敗戦後
確かに大化の改新は、半世紀ずらさないとつじつまが合わない。
大化の改新は孝徳天皇によるもので、皇極上皇と中大兄皇子の妨害によって失敗しました。
age
970
982 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 17:13:17
無駄に埋めるなカス
983 :
日本@名無史さん:
馬鹿右翼の工作か。大体対外戦争は二度どころじゃなく、日中でも負けつんだろが。さらに朝鮮しゅぺいでも負。対外戦争数の少ない日本は半数が国を揺るがす敗北を期してるクソ国家。雑魚国家。へたれ国家。猿国家。世界の最果てのちっぽけな国家。
以上