● 謎の大王・継体天皇について ●

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618天武天皇です
こんにちは天武です。 皆さん、私達が作った古事記や日本書紀
から、色々推測されているようですね、感心しました。
しかし、少々継体帝の件でピントが外れているようなので
ヒントを差し上げましょう。

「八色の姓」 ご存知ですか? 記紀編纂の頃作られたその後の日本の貴族の運命を
決定付けた、身分制度です。 ここで日本で一番位が高いの身分は何に設定されてるか
ご存知ですか?「真人」といいます。 
真人= 継体天皇5世内の皇別氏族 限定

いいですか、時の最高権力層 真人 の時に 編纂された記紀において
真人をほかの皇族と別ける、継体帝とはその要の帝なのです。
したがって、記紀の意図は継体帝は脇役ではなく、最も重要な意味を持っていると
お考えください。 我々が皇紀をどう記述したかったのか・・・・
619天武天皇です:03/09/10 05:57
続きです。

継体帝は 八色の姓が制定される685年から150年以上まえの方です。
不思議ではありませんか?
我々にとって、継体帝だけがなぜシンボリックな存在となったか?
継体帝からの血の濃さが、貴族の優劣を分ける事のどこに
貴族にとってのコモンセンスがあるのか?

ところで、皆さん 継体帝に注目を集めている理由は、
むしろ、皇統の血統をネガティブに捉えたいからのようですね、
よくお考えください、我々は神代からの系譜を誇って皇統として
その記録として記紀を編纂しているのです。 わざわざ最も
重要な継体帝の記録で皇統の断絶を意図した記録を残すと
思いますか? 

皇統の継続証明のための記紀において
皇統の分断をあえてギリギリの線で記述する 意味。
620天武天皇です:03/09/10 06:18
続きです。

継体帝の記録の前に、武烈帝の話をしましょう。
武烈帝には、大変申し訳ないことをしました。
妊婦の腹を割いた悪逆非道な帝 などと記述してしまいました。
まあ、記紀の編纂にあたっては、書官は代々漢人の仕事なので
漢史に習ってしまいました。
しかし、我々は武烈帝の血を継いでいることにはあってはならない
相当な理由があるのです。 皆さん継体帝が皇統か否かに
注目していますが、むしろ重要なのは、
我々が武烈帝の血を継いで居ないということなのです。

我々が、記紀において最も注意を払ったのはそこです。
「我々は 武烈帝の血はついでいない」 そのストーリーを
断絶を帝に稀代の悪帝になってもらう事で自然と表現したのです。
これによって、我々と血がつながっていないのは仁徳から武烈となります。
皇統は、応神から継体が繋がればそれでいいのです。

仁徳 允恭 安康 雄略 武烈  
この5帝には、栄光ある皇統からは異例の存在とさせて頂きました。

神代から応神を経て継体に至り私に至るのです。
なぜなら、私は天下の 天武天皇だからです。
621●のテストカキコ中:03/09/10 06:24
http://ula2ch.muvc.net/ (このカキコは削除しても良いです)
622天武天皇です:03/09/10 06:30
皆さん、まだピンとこないようですね、
いいですか、私の頃はアジア外交が全ての時代なのですよ
鎖国などしてないんです。
先代のころからは、北系の民族王朝 隋に 天子宣言したばかりです。
内、外に 天子の皇統を知らせる時期なのです。

漢書をもってくる漢人もおります、400年代の倭王は5代にわたり
南朝に臣位をもらいに言ったそうじゃないか!などと言われてしまいます。
でも、もう南朝なんてないんですよ、南漢の大将軍位なんて
皇統にとっては、今では恥辱以外の何者でもありません。

ですから、内外に私の皇統が何人の下になったこともない神代からの
皇統であることを証明するために、 記紀を記録したのです。
倭の五王のことなど書わけがありませんが、物知り顔で言ってくる
連中を牽制するためにも、その王と私とは系譜が違うことだけは
キチンとかかなければならないのです。
623天武天皇です:03/09/10 06:38
何? 本当はどうなのかって?
野暮なことを聞かないでください。

私がなぜ、この時代に蘇り書き込んでいるかというと
そんな我々の意図とは違う、皇統に関しての話となってるからです。

倭の五王と継体帝以降と皇統が違う、その前提で
私は、継体帝をシンボルとする新しき身分制度
八色の姓を設けたわけです。

それでは皆さんご機嫌よう