清和源氏発祥の地を語ろう

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1せいわくん
清和源氏発祥の地は兵庫県川西市多田院多田院所ですが
知ってる人はどれだけいてるかな?
多田院多田院所は多田神社(旧多田院)があるところです。
2日本@名無史さん:03/02/25 13:25
平安京エイリアン
3日本@名無史さん:03/02/25 13:27
頼朝なんかは正式には清和源氏ではないのを知ってる人はどれだけいてるかな?
4日本@名無史さん:03/02/25 13:27
ただ
5日本@名無史さん:03/02/25 13:46
またまた始まるちょんの歴史捏造講座のお時間です。
6日本@名無史さん:03/02/25 13:50
ごようせい天皇からわかれたんだよね?
 清和天皇の息子
 清和天皇のほうが評判いいから息子だけを消したはず...

 とりあえず5は 馬鹿なので無視しましょう
7せいわくん:03/02/25 13:51
5さん 知らないことでたらあらさないでね。
8日本@名無史さん:03/02/25 14:00
中学校で私は頼朝が源氏の棟梁として平家に立ち向かいましたとさ・・・

という先生のお言葉をいまでも覚えておるのだがの。
国の書いた教科書にもそうのっとるわい。
9日本@名無史さん:03/02/25 14:02
最近歴史の捏造が多くてこまる。
武蔵にしても実はこれこれだった・・・とか
10:03/02/25 14:04
おまえらがBかもしくはちょんあるいはそれらに結託した奴だという
認識を私だけでなく他のものももつであろうことを私は確信している。
歴史を捏造して得をする集団といえばお前らだからだ。
11日本@名無史さん:03/02/25 14:07
源氏はたくさんいるよ。
 宇田源氏○ ○源氏とかね。
 その中の自称清和源氏の棟梁ですよ。
 棟梁という意味しってる?
12:03/02/25 14:12
ボク馬鹿だからわからないの,,,,
 
13日本@名無史さん:03/02/25 14:24
5て必死....
14日本@名無史さん:03/02/25 14:27
紅白の意味て源平?
15:03/02/25 14:35
頼朝が清和源氏でなかったら、なに源氏やねん。
どっちでもお前らの生活になんか影響あるんかいや?あん?
16:03/02/25 14:38
それとも平氏だったってか?あ?
17厨房:03/02/25 15:55
ようぜい源氏とよめないのかな....
そもそも源氏という意味すらわかってないんだ...5て...
消防て習うよ 普通。
貞明親王(陽成天皇)からわかれたんだよ。57代目
 清和は56代目 
18厨房:03/02/25 15:58
日本にはね。氏姓制度というのがあります。
小学校のときもらった社会史という本詠んでみてください。
まず5さんそこから勉強したほうがいいですよ。
日本には、平氏といってもたくさんいますので。
19:03/02/25 15:59
小学校中退したのでわかりません。
ボク馬鹿なの。
20厨房:03/02/25 16:02
なぜ、陽成天皇の子孫であるべきものが清和天皇の子孫と称されるようになったのだろうか。これは、陽成天皇が、「悪君の極」とか
「亡国ノ王」などと呼ばれる狂気の天皇であって、その子孫と称することをはばかり、一代繰り上げて清和天皇に源を発する形にして
清和源氏を称したとの見方が有力である。
21日本@名無史さん:03/02/25 16:42
天皇が孕ましまくった子供を源氏の名字だけつけて
京都からばらまいたんだろ?
22日本@名無史さん:03/02/25 19:00
氏姓制度??
23日本@名無史さん:03/02/25 20:20
24みつなか:03/02/26 09:36
あげ
25こうじろう:03/02/27 10:04
あげ
26こうじろう:03/02/28 10:17
あげ
27日本@名無史さん:03/03/01 20:07
武士としての清和源氏発祥の歴史

●武士としての清和源氏の発祥地: 京都市南区。六孫王神社付近。源経基の館がうった。
●清和源氏の武士団の発祥地: 兵庫県川西市多田。多田神社付近。源経基の嫡男の源満仲の館があった。満仲の嫡男の頼光の子孫が清和源氏嫡流。
●武家棟梁となった清和源氏の発祥地: 大阪府羽曳野市壷井。頼光の弟の頼信の本拠地で、この子孫が八幡太郎義家であり源頼朝。
28日本@名無史さん:03/03/01 20:09

発祥地は京
29日本@名無史さん:03/03/01 20:39
なんで天皇の血筋なのに貴族じゃなくて武士になったの?
30日本@名無史さん:03/03/01 20:48
>>29
天皇の子供は多いだろう。全てを皇族としていたのでは経済的にもたないから、
自活させるために皇族から臣下にした。しかし、ルーツ(源)は同じだから、源という姓を与えた。
これが源氏の第一号の嵯峨源氏の誕生ストーリー。他の源氏も同じ。
ただし、源氏の中で武士になったものはごく一部。
もっとも有名なのが、貞純親王の子の六孫王(源経基)を初代とする清和源氏。後の武家の源氏は、ほぼこの清和源氏の子孫か、子孫と称する。
他に、嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)の子孫や、宇多源氏なども武家を生んでいる。
31日本@名無史さん:03/03/01 20:53
>>29
貴族と武士は両立するんだが。

というか・・、武士の出発点は軍事官僚で、その一部は貴族(軍事貴族)だった。

32日本@名無史さん:03/03/01 21:19
>>5
清和源氏を称した経基流源氏は、実は陽成天皇流だと解明されたのは、
頼光の寄進文からだったっけ?
33日本@名無史さん:03/03/01 23:04
頼信だよ
34日本@名無史さん:03/03/02 00:30
>>29
公家の藤原氏からも武家が出ているよね。それと同じじゃないかなと思うYO。

エリートサラリーマンの一家からヤクザになるヤシがいるのと同じかな。
35日本@名無史さん:03/03/02 01:01
>>27
>武士としての清和源氏の発祥地: 京都市南区。六孫王神社付近。源経基の館が...
源経基って、平将門の乱のきっかけを作った一人じゃなかったっけ。武蔵国庁赴任時に。
武蔵国司の副官クラスで。つまり文官で奉職してたので、経基は未だ武士でなかったのでは?
36日本@名無史さん:03/03/02 01:18
>>35
その後純友の乱鎮圧しに行く。
37日本@名無史さん:03/03/02 01:25
>>36
将門の乱では、経基は逃亡し鎮圧したのは藤原秀郷と貞盛だったし、純友の乱の方は、
征討軍の将官は、旧来から朝廷武門家の小野氏でなかったですか。
38日本@名無史さん:03/03/02 01:45
>>37
それでも「戦功」という箔はついた。とりあえず・・。
彼の子孫達は、経基の「戦功」をバックに自分達の地位を確立しようとし、
それがうまくいった。


39新羅 三郎:03/03/02 01:57
>>1
北摂の分譲広告によく出てくるけど、
ちょっとマイナーなトピックだね。
(阪急および能勢電:沿線)

やっぱ八幡太郎ほか3代の墓所が厳然と存在する河内の国のほうが
源氏発祥の地として有名でしょう。
(近鉄および南海:沿線)
40没個性化されたレス↓:03/03/02 10:04
みつなかなどが葬られてる多田神社はむしかよ
41日本@名無史さん:03/03/02 10:24

そもそも経基王と満仲に親子関係が存在するのか?
42日本@名無史さん:03/03/02 10:58
お,ようやく根本的な疑問にたどりついたね.

たぶん>>29のひとは,>>30のような答えを聞きたかったのではなく(そんなことは知ってるだろう)
なぜ清和源氏や桓武平氏は,臣籍降下した途端にあっという間に,中央貴族から相手にもされない
家になってしまったのか? ということが聞きたかったんだと思うが.
平正盛が昇殿を許されたときの尋常でない貴族社会からの反発は,そもそも何によるのか,とか.

おなじ源氏でも村上源氏なんかは,江戸時代までずっと中央貴族としてつづいたのだから,
しかるべき理由がなしには納得できないだろう.
43日本@名無史さん:03/03/02 11:05
>>42
まず、清和源氏のほうは、「中央貴族から相手にもされない家」になっていない。
清和源氏で昇殿した人は何人もいるが、特に貴族社会から反発を受けてない。

平家が反発されたのは、単に身分上昇が急だったからだろう。留住の形にせよ
いったん伊勢に土着してから、中央に進出したから、反発されたのだと思うが。
4443:03/03/02 11:13
>>42
それから、村上源氏のように長く公家社会に残っている家のほうが極少数派で、だいたいの
源氏は数代で貴族社会から姿を消してしまっている。良い例が嵯峨源氏で、

1代目:太政大臣
2代目:公卿
3代目:4位
4代目:5位 
5代目:不明

という感じで身分が低下している。他の源氏も同じように・・

ら姿を

天皇家が沢山の皇子を生み出す以
上、古い家から
45七篠権兵衛:03/03/02 11:48
44はカキコ中に嵯峨帝の呪いで逝ったもよう
(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

でも村上源氏も、摂関家と姻族関係が続かなければ、嵯峨源氏のように
数代で没落したんでないかと。
46日本@名無史さん:03/03/02 13:43
墓所や祀られている社寺

源経基 : 六孫王神社
源満仲 : 多田神社
源頼光 : 多田神社
源頼信 : 多田神社、壷井八幡宮(壷井権現)
源頼義 : 多田神社、壷井八幡宮(壷井権現)
源義家 : 多田神社、壷井八幡宮(壷井権現)
源義光 :      壷井八幡宮(壷井権現)
源行綱 : 多田神社
47業平:03/03/02 14:10
明治天皇の生母も源氏だったような。村上源氏の中山家
48日本@名無史さん:03/03/03 21:29
東西を言うとすると
近畿関西の源氏
関東東国の平氏
49日本@名無史さん:03/03/03 21:38
源氏の本拠地変遷

源経基: 京都市北区九条
源満仲: 兵庫県川西市多田
源頼光: 兵庫県川西市多田
源頼信: 大阪府羽曳野市壷井
源頼義: 大阪府羽曳野市壷井
源義家: 大阪府羽曳野市壷井
源為義: 京都市中京区
50世直し一揆:03/03/03 21:46
<血液型A型の一般的な特徴>(見せかけの優しさ・もっともらしさ(偽善)に騙され
るな!!)
●とにかく気が小さい(神経質、臆病、二言目には「世間」、了見が狭い)
●他人に異常に干渉し、しかも好戦的でファイト満々(キモイ、自己中心、硬直的でデリカシーがない)
●妙に気位が高く、自分が馬鹿にされると怒るくせに平気で他人を馬鹿にしようとする
(ただし、相手を表面的・形式的にしか判断できず(早合点・誤解の名人)、実際にはた
いてい、内面的・実質的に負けている)
●本音は、ものすごく幼稚で倫理意識が異常に低い(人にばれさえしなければOK!)
●「常識、常識」と口うるさいが、実はA型の常識はピントがズレまくっている(日本
の常識は世界の非常識)
●権力、強者(警察、暴走族…etc)に弱く、弱者には威張り散らす(強い者にはへつらい、弱い者に対してはいじめる)
●あら探しだけは名人級でウザイ(例え10の長所があってもほめることをせず、たった1つの短所を見つけてはけなす)
●基本的に悲観主義でマイナス思考に支配されているため性格がうっとうしい(根暗)
●単独では何もできない(群れでしか行動できないヘタレ)
●少数派の異質、異文化を排斥する(差別主義者、狭量)
●集団によるいじめのパイオニア&天才(陰湿&陰険)
●悪口、陰口が大好き(A型が3人寄れば他人の悪口、裏表が激しい)
●他人からどう見られているか、人の目を異常に気にする(「〜みたい」とよく言う、
世間体命)
●自分の感情をうまく表現できず、コミュニケーション能力に乏しい(同じことを何度
も言ってキモイ)
●表面上協調・意気投合しているようでも、腹は各自バラバラで融通が利かず、頑固(本当は個性・アク強い)
●人を信じられず、疑い深い(自分自身裏表が激しいため、他人に対してもそう思う)
●自ら好んでストイックな生活をしストレスを溜めておきながら、他人に猛烈に嫉妬
する(不合理な馬鹿)  
●執念深く、粘着でしつこい(「一生恨みます」タイプ)
●自分に甘く他人に厳しい(自分のことは棚に上げてまず他人を責める。包容力がなく冷酷)
●男は、女々しいあるいは女の腐ったみたいな考えのやつが多い(例:「俺のほうが男
前やのに、なんでや!(あの野郎の足を引っ張ってやる!!)」)
51日本@名無史さん:03/03/03 21:51
経基の祖が清和にしろ陽成にしろ、彼のころは、既に皇統が代わっていたからね。
いってみれば、経基の家系は天皇家の傍流になっていたわけだ。
52日本@名無史さん:03/03/03 22:27
>>41
>経基王と満仲に親子関係が存在するのか?
この間の系譜に疑義があるのですか。近年の清和源氏系譜一般書の代表である
   「清和源氏の全家系」 全6巻 奥富敬之 新人物往来社 1991年
には、そのような記載はなかったと記憶するが。
53七篠権兵衛:03/03/03 23:03
何かの史料で、経基と満仲の年齢に矛盾があり、親子でない説がある
と聞いたような・・・
54日本@名無史さん:03/03/03 23:29
>52
その本は、読み物だから学問的な信憑性は無い。
55日本@名無史さん:03/03/04 09:02
>>52
その本を読む暇があるなら、朧谷寿 『清和源氏』(教育社歴史新書、1984/11)を探したほうがいいよ。ただいま絶版中だから、図書館で。
56日本@名無史さん:03/03/04 09:55

常識的には、多田満仲の子孫が
将門の乱で名を上げた経基王に
系譜を結びつけたとか?
57日本@名無史さん:03/03/04 11:26
>>56
名、上げたか?
58日本@名無史さん:03/03/04 12:25
>>57

結果的に勝ち組ですた
59日本@名無史さん:03/03/04 13:12

同時代史料キボーーン
60日本@名無史さん:03/03/04 13:16
>>58
別に勝ち組みじゃないんだが。
61日本@名無史さん:03/03/04 13:27
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62:03/03/04 14:14
とすると、源氏や平家と名乗ってた人たちは
漢の王室の末裔と称していた劉邦みたいなもん?
63日本@名無史さん:03/03/04 18:26
室町以降はね
64日本@名無史さん:03/03/05 01:49
>>49
頼信−頼義−義家と3代相伝された羽曳野市の河内源氏の勢力地を、為義・義朝流が
継承してないとすると、どの家系に継承されたのですか。
65日本@名無史さん:03/03/06 02:15
>64
八幡太郎義家の本拠地の河内国壷井の石川荘を相続したのは
義家の六男の陸奥六郎義時で、義時の子孫が土着して石川源氏あるいは石川氏となり
源頼信、頼義、義家により築かれた河内源氏の故地を継承。
義家の後をついだ対馬守義親の子の六条判官為義は、京都の源家の館を本拠地にした。
66日本@名無史さん:03/03/06 02:20
つまり、
摂津源氏
 根拠地の多田を継承したのが、多田源氏、多田氏。多田蔵人行綱。
 京都を本拠地としたのが源頼政

河内源氏
 本拠地の河内石川を継承したのが、石川源氏、石川氏。石川判官代義基。
 京都を本拠地としたのが源為義
67日本@名無史さん:03/03/06 09:03
>>66

>本拠地の河内石川

石川なんて沢山ある所領の一つにしか過ぎない
分割相続の時代だ、本拠地なんて言葉は当てはまらない
頼信〜頼義たちの本貫地は京都のまんまなんだし
68日本@名無史さん:03/03/07 01:05
67
違うよ。
河内国石川は、河内源氏の発祥地であり、菩提寺や氏神がある。
そして所領はここだけ。他は、○○守として赴任した時の任官先の土地。
○○守として権威や権力は行使出来たが、所領ではない。
例えば、義家は陸奥守になっているが、陸奥国に義家の所領はない。
「頼信〜頼義たちの本貫地は京都のまんま」。本貫地は河内国壷井石川だよ。
京都は本貫地ではなく、現代風に言えばオフィスの所在地。
69日本@名無史さん:03/03/07 01:19
>>66
>河内石川を継承したのが、石川源氏、石川氏...
河内石川って、飛鳥期からの大豪族の蘇我氏石川麻呂流の石川氏の蕃居地でなかったですか。
そんな地盤へ、源頼信はどのようにして食い込めたのですか。
70日本@名無史さん:03/03/07 02:15
格が違うよ
石川氏なんてこのころは五位にとてもとどかないだろ。
ただの在地豪族。
それに対して源氏は京都の軍事貴族。
もしかしたら郎等として含みこまれたかもね。
滅ぼされたって聞かないから。
71日本@名無史さん:03/03/07 03:08
>>68
そして所領はここだけって??
そんなことはあるまい。義家は後三年の役の折に
功のあった郎党に自分の所領を分け与えたといわれているが。
鎌倉も頼信の時に平直方から譲られたんじゃなかったっけ?
72日本@名無史さん:03/03/08 08:57
>>71
後三年の役で義家が武家の棟梁と仰がれるようになった時、
朝廷は、義家の河内石川庄への地方領主の寄進を禁止している。
つまりそこが義家の本領だったってこと。
73  終            了:03/03/08 09:00
>>1
               渤               海
74日本@名無史さん:03/03/08 09:10
後の松本城主の石川数正は、河内源氏の石川氏の子孫らしい。
75日本@名無史さん:03/03/08 10:01
>>72
義家の所領は河内石川だけだったか、という話をしてるんじゃないの?
おもいっきりズレてるような。
76日本@名無史さん:03/03/08 10:07
>75
別にズレてないんじゃない。
河内石川が義家の本拠地というかそういう意味で。
77日本@名無史さん:03/03/08 10:10
河内源氏2代目の源頼義の子の
八幡太郎義家と新羅三郎義光は河内生まれで、
河内源氏の氏神の一つの壷井権現に祀られているが、
賀茂次郎義綱はどこで生まれたのだろうか。
78日本@名無史さん:03/03/08 10:25
>>76
>>68>>71をよく嫁。
所領は河内国石川「だけ」だという>>68に対して
>>71はそうではないんじゃないか?といってるわけで。
79日本@名無史さん:03/03/08 11:38
>78
76の発言は別に問題ないよ。
80日本@名無史さん:03/03/08 12:42
>>71
>鎌倉も頼信の時に平直方から譲られたんじゃなかったっけ?
河内源氏が、関東の桓武平氏系武士団に勢力を扶植する契機になったのですね。
でも直方の女婿になったのは、頼信でなくて頼義じゃなかった?
81日本@名無史さん:03/03/08 14:19
>>79
あるじゃん。ずれてるもん。
82日本@名無史さん:03/03/08 21:40
>>72
>>朝廷は、義家の河内石川庄への地方領主の寄進を禁止している。

石川庄への寄進って何だよ。
『百錬抄』寛治5年6月12日条をちゃんと読みなさいよ。
83日本@名無史さん:03/03/09 04:21
清和源氏武士団発祥地の兵庫県川西市多田へ行ってきました。
84日本@名無史さん:03/03/09 04:27
源家の総氏神ともいうべき多田神社の源氏まつりは良いよ。
85日本@名無史さん:03/03/09 12:20
>>84
源家の総氏神って、岩清水八幡宮でないのですか。多田神社の祭神って、誰ですか。
86日本@名無史さん:03/03/09 12:37
確か、多田満仲じゃなかったかな。
87日本@名無史さん:03/03/09 12:48
>>85

多田神社のホームページぐらい見れ。
満仲・頼光・頼信・頼義・義家の5人。
まぁ、もともと寺だからな。祭神なんて、あとからつけたものだ。
88日本@名無史さん:03/03/10 00:09
>>85
源家の総氏神なら、男山でなくて、鶴岡八幡宮だろう。岩清水八幡宮は平安初期の
貞観時代に宇佐宮を勧請して建立され、偶々義家の元服の場を貸しただけで、紀氏のはず。
ところで、八幡大菩薩って、一体どこの神なんだ。元の宇佐宮は、宗像姫神と応神天皇が
祭神で、菩薩なんていうインド人とは、何の関係もないはずだが。
89日本@名無史さん:03/03/10 00:17
>>88
「菩薩というインド人が応神天皇と実は同一人物だった」という設定じゃないの?。
90日本@名無史さん:03/03/10 04:28
>85,88
源家の総氏神は、多田神社。
ここは源氏の霊廟でもあり、歴代の足利将軍や徳川将軍も
それを認め、神仏分離以前の多田院には遺骨を分納している記録がある。

石清水八幡宮は清和源氏の中の河内源氏の氏神的存在。

鶴岡八幡宮は、かなり下った源頼朝の時代に鎌倉幕府の将軍家の守り神にされたもの。
91日本@名無史さん:03/03/10 07:49
源氏は天皇家の一員、だから応神天皇を祭った八幡宮が俺の氏神、という発想から氏神になった。
村上源氏が薬師寺を氏寺にしていて、薬師寺内に八幡神が祀った、というのと同じ発想。
92日本@名無史さん:03/03/11 19:52
93日本@名無史さん:03/03/11 20:02
94日本@名無史さん:03/03/12 00:29
>>91
>天皇家の一員、だから応神天皇を祭った八幡宮...
ってことは、平安時代の天皇家に連なる人々は、自らの先祖を応神天皇と理解していたわけですか。
継体でも崇神でも、むろん神武でもなくて。道鏡への帝位譲位の良否を、何故宇佐宮に尋ねたのか
今まで不審だったが、これでその疑問は氷解しました。
95日本@名無史さん:03/03/13 00:36
>91.94
「源氏は天皇家の一員」

「応神天皇を祭った八幡宮が俺の氏神、という発想」
の間には、何ら「だから」という言葉で結びつく関係は無い。
9691:03/03/13 08:18
>>95
言葉足らずに失礼。
「天皇家の一員、だから天皇家の祖先である応神天皇を祭った八幡宮が」
で、意味を理解できる?
97日本@名無史さん:03/03/13 15:49
>>94
べつに応神だけを祖先と思っていたわけじゃないだろう。
>道鏡への帝位譲位の良否を、何故宇佐宮に尋ねたのか
これは、宇佐が言い出したことだから、宇佐に再質問をしただけでしょ。
すれ違い勘弁
98日本@名無史さん:03/03/13 21:50
5.源氏嫡流って*満仲の長子頼光を祖とする摂津源氏のはずなんですが、
何故に三男頼信の河内源氏が嫡流と見なされるようになったのですかね?(土々斎)

答え*酒天童子退治で有名な頼光が嫡流だったんですが、千葉介常胤や
上総權介廣常の祖先の平忠常の乱の際に平直方が平定できずに解任され、
当時甲斐守の源頼信が元は忠常の主人筋だったので平定を命ぜられ、
源氏代々の嫡流が持つ太刀(髭切、膝丸)を勅命で頼光から頼信に譲り渡させるのです。
どうもそれ以降らしいのです。(塾長)

答え*平家物語の剣の巻では、多田満仲が二つの剣(罪人の首を試し切りしたら髭も切れたので髭切、
膝まで一緒に切り落としたので膝丸)をつくり、それを頼光に相伝したが、頼光の子頼基の時、
前九年の役に出かける頼義に宣旨によって渡された。とあります。(塾長)

ttp://katohjuk-web.hp.infoseek.co.jp/aduma0-1situmonn.htm
99日本@名無史さん:03/03/14 01:53
>>98
>嫡流って*満仲の長子頼光を祖とする摂津源氏のはず...
ではないよ。当時の他氏をみても、長子が嫡流という考えはなかったと思われ。
子息だけでなく子女も含めて、分割相続制だったと思われ。
100日本@名無史さん:03/03/15 13:07
>>70
>源氏は京都の軍事貴族...
っていっても、頼信、頼義の頃は、公家にさぶらう者として、堂上貴族連からは蔑視され
昇殿も許されていなかったんじゃ。
101日本@名無史さん:03/03/17 02:29
天皇なのに乳母子を殺した「陽成天皇」の子孫だから穢れてるしね。清和源氏。
しかし陽成は関白 藤原基経の妹高子(たかいこ)と精神薄弱者だったと思わ
れる清和天皇との間の子だから結構出自は良いのですよね。
102ダンディ坂野:03/03/18 10:26
101はドキュンあげ
103日本@名無史さん:03/03/20 01:09
>91〜97  惜しいなー。いい読みしてるのに。
ま、チョトすれ違いだけども。要は八幡信仰だよ。八幡さま。
もちろん信仰という意味だけでは無く。政治的に利用したという意味合いも含んでね。

このスレ的に言うと、「摂津の国」には一体どんな人たちが住んでいたのか?
古代の正史ではなぜかこの「摂津」に触れている記述が極端に少ない。
畿内であるにも関わらず、だ。
まともに足を踏み入れる事ができたのは応神とその母、その子だけ。(あとは継体以降と)
だからまんざらでもないんだなー、これが。源氏が諸国を開拓していく上で。


でもまスレ違いなもんで。スルーしてくらさい。
104合併協会:03/03/20 09:47
摂津には人間いただろ>103
105103:03/03/20 19:35
 ?
もちろん。
「どんな人が」って書いてるじゃん。 ちゃんと読もうね。
どこか別スレでそういう話になったらまた書くよ。
106おうじろう:03/03/21 09:47
あげ
107没個性化されたレス↓:03/03/22 10:39
あげげ
108没個性化されたレス↓:03/03/23 11:49
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
清和源氏用しおり
  ∧_∧   
 ( ・∀・)< 今日はここまで読んだよりとも      
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

109日本@名無史さん:03/03/23 12:34
>>103
>踏み入れる事ができたのは応神とその母、その子だけ...
その子って誰のこと。応神も仁徳も陵に所在からして、河内の方ではないのですか。
110日本@名無史さん:03/03/23 14:59
本人がスルーしてほしいといってるんだから、スルーしる
111日本@名無史さん:03/03/28 19:55
>>6
マジっすかぁ????
そうなると源頼朝や足利尊氏は誰の子孫になるんですか??
112日本@名無史さん:03/03/28 20:23
>>111

>6は後陽成天皇の子孫といってるな。
きっとタイムマシンかなんかで、過去に行って、源氏の祖を種付けしたんだろう。
113日本@名無史さん:03/04/05 12:17
清和源氏等の武士が出現するまで、平安京政権の治安や軍事は、誰が担っていたんですか。
114日本@名無史さん:03/04/05 12:52
>112
 ワロタ

>113
 検非違使はもちろん、六衛府(左右近衛,左右衛門,左右兵衛)も弾正台も
最初っから名前だけの存在だったわけではない。
115日本@名無史さん:03/04/05 21:08
>>114
>六衛府(左右近衛,左右衛門,左右兵衛)も弾正台も...
清和源氏に代表される武士が出現する以前は、平安朝では実態は、
何氏族の世襲職だったのですか。
116日本@名無史さん:03/04/05 22:12
貴様、なぜ世襲職と断定しているのですか?
117日本@名無史さん:03/04/11 19:54
115の見解も聞きたいところだけど
兵の家なんて云われるくらいなもんで、武官には世襲に近いもんがない
鎮守府将軍なんかもろじゃない
古くは坂上氏、その後は国香流の平氏、そして頼信流源氏へ
118 :03/04/11 20:55
ガイシュツかもしれんが,後陽成天皇って誰よ?
119111:03/04/11 21:09
誠仁親王の皇子(正親町天皇の孫)で聚楽第に行幸した人じゃなかった?
120日本@名無史さん:03/04/13 21:03
えっと、軍団崩壊してからは各地郡司クラスの子弟「健児」が
軍事になってたというけどなあ。
兵衛あたりはそれなりの人物集めたろうが、近衛は貴族のボンボン
衛士はロクに軍事訓練もせず、いばりちらす農民。
結局役に立ったのは、投降蝦夷を組織化した「俘囚軍」ぐらいじゃないのかなあ。

121日本@名無史さん:03/04/13 22:08
>>120
その「俘囚軍」のおかげで武士が成立、というのが下向井龍彦説なわけだ。
122日本@名無史さん:03/04/16 23:05
>>120
軍団崩壊って、そもそも豪族子飼いの私兵はいても、朝廷に常備軍ってあったの?。
有事に農民層を駆り出して事にあたっていたのでは?
123日本@名無史さん:03/04/17 08:09
>>122
どの時代の話がしたい?
軍団がある時期か?軍団廃止後か?
124山崎渉:03/04/17 13:07
(^^)
125日本@名無史さん:03/04/18 01:41
平安京エイリアン
126山崎渉:03/04/20 01:59
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
127日本@名無史さん:03/04/20 23:48
原点に戻ろう。
摂津源氏こそが、源満仲により形成された源氏の嫡流ということで。
128日本@名無史さん:03/04/21 00:10
お前に決められてもなー。まぁ、いいか。
129日本@名無史さん:03/04/21 18:53
摂津源氏-----源家嫡流: だから首都の京都にいた。
河内源氏-----武家棟梁: 源家傍流ゆえローカルな東国に転進。東国武士の棟梁となる。
130日本@名無史さん:03/04/21 19:11
摂津源氏の源頼政と多田行綱は、どういう関係にあったの?
131日本@名無史さん:03/04/21 19:14
久しぶりに良スレの気配
132日本@名無史さん:03/04/21 19:16
摂津源氏の多田氏についての本なんて無いのかな。
133日本@名無史さん:03/04/21 21:33
>131は知障か?
134日本@名無史さん:03/04/22 00:04
>>132
「清和源氏の全家系 1 天皇家と多田源氏」奥富敬之 新人物往来社 二千円
「天皇家と多田源氏」奥富敬之 三一新書 三一書房 850円
「現代語訳 多田五代記」福本賀光 多田神社
135日本@名無史さん:03/04/22 01:41
>>129
なに言ってんだか。これでも読んで出直しな。
ttp://homepage1.nifty.com/gyoudou/gen-home.htm
136日本@名無史さん:03/04/22 05:24
>135
そこ、摂津源氏の系図があるだけだよ。
河内源氏は実力で源氏の主流派になったが、系譜的には摂津源氏が嫡流。
137日本@名無史さん:03/04/22 05:28
>>134
「現代語訳 多田五代記」福本賀光 多田神社
これは何を書いているのですか? 多田五代というと、初代の多田満仲から?
しかし、多田が苗字となるのは、満仲のひ孫くらいだから、そのあたりのことでしょうか?
多田神社で購入出来るのですか?
138日本@名無史さん:03/04/22 05:29
摂津源氏と多田源氏はどう違うの?
139日本@名無史さん:03/04/22 16:12
おお・・すごい良スレになってきましたね
140134:03/04/22 16:35
>>137
これから仕事なので「多田五代記」の説明は
夜中に書きますので明日の朝にでも読んでね。
ちなみに「多田五代記」は昭和35年5月10日発行で
たまたま古本屋で昭和61年に見つけ購入。
定価も書いて無いから当時でも一般購入は出来なかったと
思います。
141134:03/04/23 02:13
>>137
「現代語訳 多田五代記」は摂津多田神社の清和源氏同族会満二十周年並びに
多田神社創建一千年祭を記念して多田神社福本賀光宮司の企画立案によって
多田神社蔵の江戸初期に多田兵部左衛門尉元朝が書いた「多田五代記」を
昭和35年に現代語訳し刊行した本です。
内容は多田満仲以下直系五代ではなく、多田神社祭神の満仲・頼光・頼信・
頼義・義家の五公の業績を軍記物です。
本文目次は以下の通り。
多田五代記巻之第一目録
「維高と維仁と位を争う」「満仲公の誕生」「源の姓を賜う」
「源の経基、位を授かる」「満仲公が惟時より軍書を伝えらる」「純友を征伐する」
「満仲公の長男満正の誕生、並びに頼光の誕生」「満仲公が鷹を射る」
「満仲公が鬼神を討ち取る」「満仲公に城地を賜る」「満仲公の住吉参籠並びに
明神の示現」「多田の初まり並びに住吉の神鏑が大蛇に中る不思議」「西の宮
左大臣高明公の流罪」「高明殿の住宅を焼き払う」「満仲公、将軍に任せらる」
「満仲公が内昇殿を許さる」
142134:03/04/23 02:37
多田五代記巻之第二目録
「秋忠、行春等の謀りごとに依って満仲公が勅勘を蒙る」
「渡辺の綱が母の命に代る並びに勇力をあらわす」「渡辺の系図」
「源の頼光が平の吉秀を頼むに吉秀が心変りをする」「橘姫が海に沈む」
「六郎が頼光並びに母公若君を奪い取る」「六郎が頼光に尋ね会う並びに
金時の出現」「渡辺、荒童子に会う」「満仲公、勅勘を許さる」
多田五代記巻の第三目録
「満仲公、多田に移る」「幸寿丸、身代わりとなる」「幸寿丸の母の歎き
並びに須達拏太子のこと」「美女丸、多田を落ち、源信僧都に会う」
「法華三昧院の建立」「満仲公の京都の館に強盗入る」「拾遺和歌集の
選に入る」「源の頼光、平の維仲の息女に逢う」
143134:03/04/23 16:26
多田五代記巻之第四目録
「美女御前、勘気を許さる並びに小童寺のこと」「多田左近源の満正死去並びに
虚空蔵菩薩のこと」「久我縄手の追剥」「源賢の母公、目が明るく、並びに
眼明弥陀のこと」「女御の入内」「上陽人のこと」「弘徽殿の女御隠れ給い、
花山院御出家遊ばさる」「「満仲公、多田の境を定む」「竜馬のこと」
「満仲公の出家受戒」「出家功徳の物語並びに同奥方の剃髪」「源信僧都のこと」
「満仲公、法華三昧院に移らる」「花山法皇、多田に臨幸遊ばさる」「藤原の
保輔の多田合戦」「満仲公蛙の声をとどむ」「多田満信が三陳を問う」
144日本@名無史さん:03/04/23 20:48
うーーむ
やはり源家嫡流といわれるだけのことはありますね。
145日本@名無史さん:03/04/23 20:57
うーーむ
やはり源氏嫡流を自称するだけのことはありますね。
146134:03/04/24 01:02
多田五代記巻之第五目録
「渡部の綱、鬼神の手を討ち取る」「渡部の綱の歌」「鬚切りと膝丸の太刀」
「満仲公の閑居」「満仲公が自らの木像を作る」「兼家公宅の饗宴つけたり
頼光、馬を贈る」「海賊追討使つけたり保昌の策略」「平の太郎能門、多田に
押寄す、満仲公,智謀をあらわす」「武庫河の合戦」「化生退治のこと」
「伊吹山の酒天童子」「鬼切の太刀」
多田五代記巻之第六目録
「頼光瘧病にかかるつけたり山蜘蛛を討捕る」「土蜘蛛のこと」「巡見のこと」
「将軍、柳花女より弓を伝えらる」「花山の法皇四の君に通うつけたり伊周
隆家の流罪」「将軍の鞍馬参詣つけたり鬼同丸のこと」「藤原隆家の訴状」
「中宮の御懐姙つけたり伊周隆家を召帰さる」「満仲公の薨去つけたり天下の
殺生を禁ずる」「満仲公古今神刀のこと」「将軍狐を射ること」
「勅命軽からざること」
147日本@名無史さん:03/04/24 01:38
>145
摂津源氏は系譜上では源氏の嫡流。
だから満仲の多田の地を相続し、都で公家に使え、公家との付き合いから歌道にも精を出した。
また、摂津源氏の武力が警察レベルのものであるのも都武士だから当然。
いわば、摂津源氏は、清和源氏武士の中でも都にいるボンボン。
後に源氏の武名をあげる河内源氏は庶流だから都にいても仕方ないので、地方である関東へ行き、
さながら西部のカウボーイのように武力でのし上がった。そして警察レベルではなく、軍事レベルとしての武士として自己形成した。
時代は、軍事力としての武士を求めていたため、摂津源氏よりも河内源氏の方が、武士としては時代の要求に応じることが出来、
それが、庶流の河内源氏を逆に武士源氏の主流にしただけ。
148日本@名無史さん:03/04/24 05:19
>>147
それ妄想。
嫡流だからといって京にいなければならない理由はないし、
庶流だからといってなんで京都にいても仕方ないんだ?
摂津源氏も河内源氏もモロ受領なんだけど。
149あぼーん:03/04/24 05:33
   ,.´ / Vヽヽ
    ! i iノノリ)) 〉
    i l l.´ヮ`ノリ <先生!こんなのがありました!
    l く/_只ヽ    
  | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
http://muryou.gasuki.com/tochigi/index.html
150日本@名無史さん:03/04/24 08:07
嫡流意識は11世紀後半以降成立だろう。
それに満仲の所領は多田だけじゃない。多田は出家の地ってことで有名になったが。
安田元久は、多田は満仲→頼範→頼綱に伝えられたと言ってるね。「嫡子」の頼光じゃなくって、「庶子」の頼範にね。もっとも、安田氏が絶対正しいわけじゃないだろうが。
151134:03/04/25 01:20
摂津源氏頼光よりも摂津国内の所領が多かったらしい
大和源氏頼親は、多田神社にも祭られず、多田神社の
源氏祭りにも参加させてもらえず寂しいです。
152日本@名無史さん:03/04/25 10:55
>151
保元の乱に崇徳上皇方に参陣しようとした宇野親治は、源頼親の子孫で大和源氏でしたね。
153134:03/04/25 16:19
多田五代記巻之第七目録
「将軍の逝去」「頼家の母公の剃髪」「渡部の綱の病死」「成章、時遠、為行等
の流罪」「平の忠常の謀反つけたり呉王、手かがまらざる薬と大いなる瓢とを
千金に買うて軍に勝つて越の大国を取り大いに得つきたること」「両大将召し
帰さる」「源の頼信、武勇軍術に法有り、忠常降参する」「謀反人本意を遂げず」
「頼信、河内の国を賜つて入部する」「源の頼義八幡に参詣する」「八幡太郎の
誕生」「源太丸の元服」
154日本@名無史さん:03/04/26 08:28
>>134
大和源氏は多田と直接関係持ってないから仕方ないよね。
155134:03/04/26 16:24
>>154
おっしゃる通り大和源氏は多田神社と直接関係無いから仕方が
ありません。頼親の弟頼信系とする徳川の保護がありましたから
多田神社と云いながら摂津源氏の神社と云うよりも河内源氏の
神社ぽいのも仕方ありません。
でも一応、頼親作と云う普賢菩薩像もあるし兄弟なんだから
祀らなくても良いから、せめて多田祭りの武者行列には
参加させて欲しい。源義経なんか牛若丸も参加してるのに(笑)
156日本@名無史さん:03/04/26 20:50
>>155
多田神社に懇願されてみてはいかが。
源氏まつりには、あの多田行綱も馬上の武者として行列参加しているくらいですから。
157134:03/04/27 02:45
>>156
悪源太とか悪兵衛・悪左府もしくは鬼平ならまだしも
「殺人上手」頼親ってニックネームは困るんですよ、神社と
しても。商店街やPTAもうるさいし。と云われそうだな。
158134:03/04/27 03:01
多田五代記巻之第八目録
「安部頼良、登任、重成等の合戦」「源の頼義、鎮守府将軍追討使に
任ぜらる」「安部頼時、矢に当る」「国解を奉進る」「河崎合戦に
源氏敗軍、義家が弓勢をあらわす」「将軍の詠歌」「源の頼信の往生」
「真人、光頼、武則等、官軍に与力す」「将軍頼義、謀を以て、稲栗を
刈って、敵の貞任、宗任をおびきだす、貞任、宗任寄せ来ること
つけたり武則の軍の評定並に八幡の神助あつて白鳩が軍の上を翔り、
ついに小松の柵を攻め抜く」
159134:03/04/28 00:15
多田五代記巻之第九目録
「衣河の関の合戦、並びに武則の智謀、つけたり久清市助の軽捷、貞任の妻のこと」
「将軍、鳥ノ海の柵に入つて、敵の陣屋に酒有り、士卒争つて之れを飲まんと
欲す、毒有らんことを慮つて之を制止する」「多田の御廟鳴動し、貞任が一族
滅亡す」「貞任最後の合戦」「千世童子」「則任の女房水に沈む」「降参人」
「義家の弓勢」「貞任の首、京都に上る、人々恩賞に預る」「貞任の首を献ずる
使者、貞任の首を梳り涙を流す」「義家の歌」「頼義の出家」「大瀬三郎近宗の
発心」「箕和道心の往生並びに忠俊地獄に落ちる」「永覚、箕和の五郎忠俊に会う」
160134:03/04/28 00:30
多田五代記巻之第十目録
「頼義入道の往生」「真衡と秀武の不和」「秀武が清衡、家衡等を憑む」
「源の義家の奥州下向」「清衡、家衡が敵味方となる」「家衡が将軍義家
を追い返す」「金沢合戦に於て源の満秀矢に中る、並びに高木が満秀の
勘気を蒙る」「新羅三郎義光の奥州下着」「源氏、陣を引払う」「将軍
義家、伏兵を知る」「将軍義家、剛臆の座を定む」「源の満秀軍気をみる
つけたり亀次と鬼武の勝負」「金沢の合戦」「金沢の城落ち、武衡家衡の
一族滅亡す」「義家、国解を捧ぐ」以上
161日本@名無史さん:03/05/02 20:22
今週のTVニュースをひとり占めしている白装束団体パナウェーブ研究所の主宰者の千乃祐子女史は、
清和源氏の末裔らしい。
”陽成天皇陛下は、生まれの時は、天子を継ぐという夢が出たそうです.その流れが「清和
 源氏」なのです。その中で源為朝が沖縄で、ムー大陸の天帝を受け継いだの
 です。その子孫が今、「千乃正法」の主催している千乃祐子先生なのです。”
ttp://rose.ruru.ne.jp/krill/ufo/urcj/1999.html
162日本@名無史さん:03/05/03 05:12
摂津源氏がやはり源氏嫡流なんですね。
163日本@名無史さん:03/05/03 05:43
清和天皇ってさ、二十人ぐらい公式の后、妃、夫人とかいるでしょ。
ホンマに全部おのれの子かと、小一時間……
高子と在五中将が密かにまだ続いていたり、
まあ忠仁公はだめでしょうが、良相の長男あたりがちょっかい出しててってことないかね。
三十ちょいで死んだのもちょっと不思議。
164日本@名無史さん:03/05/04 17:45
源氏長者は村上源氏
清和源氏嫡流は摂津源氏
165日本@名無史さん:03/05/05 07:13
弾左衛門が頼朝の名前だして正当性主張してたのも、
多田源氏がらみかねえ。
166日本@名無史さん:03/05/05 10:02
>165
意味不明?
もう少し本を読んだほうがいいよ。
167日本@名無史さん:03/05/05 10:03
>165
あなたはアフォですか。
頼朝と多田源氏は何の関係も無い。
168動画直リン:03/05/05 10:21
169日本@名無史さん:03/05/06 17:39
摂津源氏は、源家嫡流と多田氏(多田源氏)に分かれるんだね。
170日本@名無史さん:03/05/07 07:54
源氏嫡流の源頼政と、多田源氏の源行綱の関係はどうだったのだろう?
また源氏嫡流の源頼政と、源氏傍流の源義朝との関係は?
171日本@名無史さん:03/05/07 13:55
源満仲------源氏嫡流・摂津源氏-----源氏嫡流・摂津源氏
                +--多田土着・多田氏(多田源氏)

    +---源氏庶流・河内源氏-----武家棟梁・河内源氏------鎌倉幕府・河内源氏
172日本@名無史さん:03/05/07 16:32
そもそも摂津源氏の嫡流って多田氏じゃないのか?
173日本@名無史さん:03/05/07 16:41
摂津源氏の嫡流は、源姓のまま。たとえば、源頼政。
多田氏は、摂津源氏の本拠地に土着した。河内源氏の中の石川氏と同じ。
174日本@名無史さん:03/05/07 17:49
最近、源満仲に興味があるのですが、なにかいい本ありますか?
175日本@名無史さん:03/05/08 02:42
レスピタ
176日本@名無史さん:03/05/08 05:08
山名は源氏だとよく言われる。
いまも山名町の地名が残る高崎市周辺が発祥だが、このあたりは
百済滅亡の2年後に百済人のコロニーが設けられた場所なのだ。
それでは何故源氏かというと、新田家から入り婿があったこと
による。源氏と言ってもいろいろだ。
177日本@名無史さん:03/05/08 12:47
>>173
本拠地に土着したってことは本拠地を継承したってことか?
それなら多田が本来嫡流だった可能性が高いのでは?
それに源頼政と多田行綱とでは2世代違うし。
178日本@名無史さん:03/05/08 13:55
>177
本拠地の継承は必ずしも嫡流とはいえない。
八幡太郎義家の河内源氏の本拠地の河内国石川を継承したのは義家の六男の義時。
義時の系統は石川源氏、石川氏になり、河内石川に土着。
摂津源氏の多田氏も同じ。
摂津源氏嫡流も河内源氏嫡流も京都にいた。
179日本@名無史さん:03/05/08 14:02
そもそも「本拠地」とは何か?
多田は本拠地なのか?
満仲からどのような経路で継承されたのか?
180日本@名無史さん:03/05/08 16:48
ところで多田氏が源から多田になったのっていつ頃のこと?
ちょっとググってみたんだが、頼綱(多田)とされてる系図が結構あった。
かといって行綱の父頼盛は「源」のようだし、行綱も「源」としてるのが少なからずあるし。
頼綱の「多田」は多田満仲のように通称みたいなもので、正式?に称するようになるのは
多田行綱の代になってからってことでいいのか?
181日本@名無史さん:03/05/08 18:07
>>178
多田行綱も京都にいたYO!
182日本@名無史さん:03/05/08 19:32
当時の京都は、今の国会議員の東京みたいなもの。
多田行綱にとって京都はオフィスの所在地で、多田は選挙地盤みたいなものだろう。
183日本@名無史さん:03/05/08 19:34
>170
池宮の『平家』には、多田行綱は、源頼政の傘下にあったと書いている。
しかし池宮の小説ではね・・・・
184日本@名無史さん:03/05/08 20:29
池宮の小説では嫡流は多田行綱ってことになってたような。
で、源頼政は庶流の実力者だけど、歳とって
摂津源氏渡辺党のボスの座を嫡流の行綱に返すとかなんとか。
渡辺党の本拠地は大輪田泊のあたりってことになってた。
まあ耄碌作家の小説だからな。
ところで摂津源氏渡辺党ってなに?
渡辺氏って嵯峨源氏だったはずだが。
185日本@名無史さん:03/05/08 22:04
>>183
池宮なら、少なくとも、池宮の創作の可能性は小さいね。
186日本@名無史さん:03/05/09 06:13
>184
そう、摂津源氏渡辺党というのが、よく分からん。
摂津源氏の渡辺党、つまり摂津源氏の一翼の渡辺党というような意味なのか。
だとしたら、摂津源氏渡辺党という書き方は不適切だな。
渡辺党が嵯峨源氏だということはあまりにも有名で、
池宮とて知らぬわけでもあるまいに。

池宮も源氏嫡流は、源義朝の河内源氏とする平家物語的源氏観にそのまま依拠。
だかに、摂津源氏の源頼政は、源氏の庶流ということにされる。
実力では摂津源氏は、河内源氏に比べると周辺的存在になっていたが、実力と系譜は、内容と形式のように、また別でもあるし。
187日本@名無史さん:03/05/09 10:35
>180
摂津源氏における「多田」。

 源経基---多田満仲---源頼光---源頼国---多田頼綱---多田明国---源行国---多田頼盛---多田行綱---多田定綱---多田光綱---以降、多田

満仲の多田は、苗字というより号
頼綱、明国と多田が続くが、まだ苗字として定着していない。多田明国の弟が源仲政で、その子が源頼政。
多田が苗字として定着する最初は、多田行綱の父の多田頼盛からと言える。
188日本@名無史さん:03/05/09 12:00
朧谷 寿『清和源氏』の目次 (1)

はじめに
序章 清和源氏の発祥
    六孫王神社
     六孫王神社の由来 遍照心院の建立 清和源氏発祥の地 現在の六孫王神社
    皇親賜姓
     皇親の範囲 皇親賜姓の目的 桓武天皇の改革
    賜姓源氏
     嵯峨源氏 "源"の由来 清和源氏の賜姓 賜姓源氏の変遷 一世賜姓
    清和源氏という呼称
     清和源氏か陽成源氏か 年齢構成からの追究
    賜姓一代源経基
     承平・天慶の乱 経基の晩年
1 源 満仲
    賜姓二代目 源満正 源満季 源満仲の登場 満仲宅の放火事件 安和の変 藤原氏の陰謀
    藤原氏と清和源氏 満仲の官職と国守歴任 摂津国多田荘の経営 多田院の建立 満仲の出家
    原初的な武士団の形成 武士の館 源氏の武者たち 満願寺、美女丸伝説 源家の祖廟多田神社 源氏まつりの懐古行列

2 源 頼光
    賜姓三代目 春宮坊官時代 美濃守補任と大江匡房の手紙 赴任国司 二度目の美濃守 土御門殿の火事 
    再建の立役者 内蔵頭時代の奉仕 内の昇殿と院の別当 道長との結びつき 行成と頼光 
    但馬守時代のエピソード 娘の結婚 頼光の一条邸 一条大路の桟敷
道綱と道長 摂津守頼光
    大江山の鬼退治 頼光の武士的側面 花山天皇出家事件 伊周・隆家追放事件 平安京型武士 
    頼光一門の歌人たち 一門の女流たち 貴族志向型の摂津源氏

189日本@名無史さん:03/05/09 12:02
朧谷 寿『清和源氏』の目次 (2)

3 源 頼親
    頼親の生没年 「武勇の人」の主要メンバー 大和国守任官 興福寺の愁訴事件 事件にたいする道長の対応
    対寺院政策と道長への奉仕 大和国守辞任 摂津国守を望んで得られず 右馬頭と淡路国守の兼官
    清原致信殺害事件 二度目の大和国守就任と事件 頼親の武力を構成した人々 三度目の大和守 興福寺と再度の紛争
    大和国内の本拠地 公田の私領化と勢力の伸展 大和源氏の祖となる基盤

4 源 頼信
    河内源氏の成立 壷井の里 通法寺の創建 壷井八幡宮の造立 武門源氏の祖頼信 藤原道兼の家人となる
    道兼から道長へ 道長への献身 受領在任中の不手際 衛門府官人と検非違使の兼官
    平忠常の乱 追討使の選定 当時の坂東の情況 頼信と坂東とのかかわり 国司軍と地方豪族軍 
    忠常追討の経過 頼信の追討と忠常の降伏 忠常の死と遺族の処置 頼信への褒賞と美濃守任官
    頼信の晩年 武家棟梁への第一歩 

5 武家棟梁への道
    源頼義の東国掌握 前九年の役 源義家の登場 頼義武士団の地盤 厨川の決戦 戦勝の除目伊予守任官
    藁和堂の建立 後三年の役 都における義家の武者ぶり 義家・義綱兄弟の抗争 
    清和源氏の誕生から武士源氏の成立まで 美濃源氏その他諸流

終章 武家政権の誕生
    義朝の最期 義朝の墓所 野間の大坊の絵解き 雌伏二百年 源頼朝の登場 源平交替思想と家意識

参考文献
関係年表
190日本@名無史さん:03/05/09 18:46
そもそもこのスレでの「嫡流」とはなんだ?
オヤジに後継者に指名された、本拠地、もしくは一族の総領に相応しいうまみのある所領を譲られた、
象徴的な刀、鎧などのお宝を与えられた、などなど、何を以って嫡流を証明するのか?
191日本@名無史さん:03/05/09 22:42
>>190
摂津源氏厨にそんな高度なこと答えられないよ
192日本@名無史さん:03/05/09 23:15
>191
河内源氏厨なら、どう?
193日本@名無史さん:03/05/09 23:25
ところで源頼政の所領ってどこだったの?
まさか所領なしのリーマン生活だったってことはあるまい?
諸国の国司を歴任しまくった頼光のころとちがって
頼政の頃はあんまり国司とかやってなかったような。
実はジリ貧の極貧生活だったりして。
194日本@名無史さん:03/05/10 02:01
>193
関東にある。
頼政や仲綱らが宇治で敗死した時、頼政の子が一人、そこに赴任していたため生き残り、摂津源氏の家系を守っている。
195日本@名無史さん:03/05/10 02:03
>>193
源三位といわれた頼政が「ジリ貧」なわけないだろう。
傘下には、嵯峨源氏の渡辺党もいたことだし、渡辺党は瀬戸内海の水軍を抑えていたし。
196日本@名無史さん:03/05/10 03:15
昇殿が許されたのは62歳、三位は74歳になってからだけどな。しかも最後はあっさりアボーンだし。

頼政の本拠って摂津国島下郡馬場で父の仲政の頃から馬場氏と号してたと聞いたことが。
197日本@名無史さん:03/05/10 06:37
頼政一味の皆様方。(出典・・・源平盛衰記、平家物語など)

猪の早太(勝屋右京)・・・鵺退治のお供
渡辺競・・・平宗盛の馬を盗む
渡辺省・・・比叡山の衆徒からの内裏防衛に出陣
渡辺授・・・同上、省の子
渡辺唱・・・平等院で介錯
連、至、覚、与、列、配、早、清、進、濯、副・・・その他の渡辺党の皆さん
下河辺清親(清恒?)・・・首を隠す
下河辺行義・・・下総下河辺庄司
古川右内(通圓政久)・・・宇治川で戦死
小源太嗣、内藤太守助、源勤、小藤太重助、源加・・・兼綱の郎党の皆さん
足利義清、左衛門尉源重清、又加、安房太郎、・・・その他
弥太郎盛兼・・・(仲綱の介錯)

渡辺党や渡辺党っぽい源姓一字名がやたらと多い。



198日本@名無史さん:03/05/10 09:45
>196
武田信玄の四名臣の一人の馬場信春(信房)の馬場氏は、系図上では、摂津源氏の
源頼光を祖とし、馬場姓の祖として頼光後裔の源仲政(馬場仲政)としているのは、
そういうことだったのですね。
私が見た天正年間に書かれた馬場氏家系によると、頼政一族の敗死後、摂津源氏の
家督を継ぎ美濃へ移った土岐光信を経て、甲斐の教来石へ移り、信玄の五代前に
武田家の娘婿となるという流れ。
まあ、先祖の摂津源氏というのは、馬場姓からみのコジツケだろうが。
199日本@名無史さん:03/05/10 23:04
源頼政って本当に摂津源氏嫡流なのか?
渡辺党にのっかってただけだったりして。
200134:03/05/11 01:20
源頼光の部下たる渡辺綱の一党を引き継いだと云う点をもって
摂津源氏嫡流と云うのはダメですかね。
「俺は金太郎の一族を引き継いだぞ!」と云う別の摂津源氏が
いれば、そっちの方がインパクトがあるけど。
能瀬とか土岐とか名乗り出て欲しい。(笑)
201日本@名無史さん:03/05/11 08:53
渡辺党が頼光の郎党だったというのは物語とかにしか見えない。
野口実が書いているが、頼政は妻を通じて渡辺党を郎党としたのだろう。

『百錬抄』天喜3年3月18日条
犯人籠蔵人町、蔵人右兵衛尉源斉頼搦得之、仍蒙使宣旨、郎従源初・小野幸任同給官、(後略)

斉頼の女子が頼政の妻。
野口実「摂関時代の滝口」(福田豊彦編『中世の社会と武力』、吉川弘文館、94/8刊)参照。
202日本@名無史さん:03/05/11 16:05
熱いスレですねぇ。
多田神社のわりかし近くに住んでいるのですが、
四天王の事知っている人、詳しく押して下さい。

渡辺綱・碓井貞光・卜部季武・坂田金時(金太郎)

あと、平井保昌って何者ですか?
203134:03/05/11 20:38
>>202
「平井保昌」って源頼光の弟の頼親・頼信兄弟の母親の弟である
「藤原保昌」の事。
左大臣道長の家司で正四位下の受領貴族で妻は「和泉式部」。
保昌の兄「斉明」と弟「保輔」は天下の大強盗で、特に弟保輔は
「袴垂れの保輔」として有名。
保昌の家系は藤原武智麿−巨勢麿−黒麻呂−春継−良尚−菅根−
元方−致忠−保昌と続く藤原南家の家系。
保昌の祖父は映画「陰陽師」で怨霊となった村上天皇の更衣祐姫の
父である大納言元方である。
藤原保昌と源頼親とは叔父甥の関係であり共に左大臣道長の部下では
あるが、各々大和守に三回以上任官し大和国内に多くの所領や在地豪族
勢力を持つ故に度々争う関係にあった。
204日本@名無史さん:03/05/11 20:51
>>202
プッシュプッシュ
205日本@名無史さん:03/05/11 21:16
>>204
もっともっと詳しく押して
206日本@名無史さん:03/05/12 01:23
プッシュプッシュ プッシュプッシュ プッシュブッシュ プッシュプッシュ プッシュプッシュ プッシュプッシュ
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207日本@名無史さん:03/05/12 01:50
>>203
袴垂れって元は貴族だったのか。知らなかった。
しかもあの和泉式部とも親戚だなんて‥‥
平安時代って、ほんとに魔物のような時代だな。
208日本@名無史さん:03/05/12 07:21
「保輔と袴垂を同一視する説は後世の付会」(『平安時代史事典』・藤原保輔の項、仲井克己担当分)

袴垂じゃなくっても、保輔は殺しまくってたけどね。
一度追捕されたけど、そのあと許されたらしくって五位まで昇ってる。
コネとワイロさえあればどうにでもなるさ。
平維良も、国府焼き討ちとかしておきながら、摂関にワイロ贈って、
その後、鎮守府将軍だしね。実資は文句言っていたが。
209日本@名無史さん:03/05/12 11:12
摂津源氏ってすごいんですね。
210日本@名無史さん:03/05/12 17:23
★袴垂保輔 :はかまだれやすすけ (10世紀後半〜11世紀前半) 【桜花 昇】
盗賊。今昔物語や宇治拾遺物語に、その姿と思われるものが描かれている。
・大赦で出獄。逢坂山で死人のふりをし、油断を誘い、着衣などを剥ぎ取った。これを機に、手下数十人を率いる大盗賊となった。(今昔29−19)
・都大路を笛吹き歩く、藤原保昌を襲うが、保昌の武勇がまさり、恐怖に屈み込む。保昌は罪に問うことはなく、錦衣を与えた(今昔25−7&宇治拾遺)
なお、藤原保昌の弟:保輔とするのは、後世の付会らしい。
211日本@名無史さん:03/05/13 03:54
>>210
袴垂は保昌にすっかり心服して、以後は保昌の「舎弟」になったんだろう。
要するに親分、子分の関係だが、人前では保昌を「アニキ」とか呼んでいたことから、よく知らない人が実の弟だと思った。
「あぁ、もしかしてこれが弟の保輔ね」てな感じ。
で、実際の保輔も盗賊みたいな兇悪な顔していたから、混同されてもさほど問題にはならなかった、とw。


212134:03/05/14 01:42
永延2年(988)閏5月8日、前越前守藤原景斉、織部令史茜是茂宅に
藤原保輔が強盗に入り、同年6月13日に検非違使が保輔を捕らえる為に
父藤原致忠の三条邸に行ったが保輔はおらず、検非違使は保輔の代わりに
致忠を左衛門射場に連行し監禁した。
 従五位下左兵衛尉藤原斉明(ときあきら)と従五位下右京亮保輔兄弟の
盗賊ぶりに関しては「小右記」に書かれており、参考文献として以下がある。
1 『日本の歴史』第五巻「王朝の貴族」(土田直鎮著)中央公論社刊
2 『日本の歴史』第四巻「平安貴族」(「群盗横行」南條範夫著)研秀出版刊
213日本@名無史さん:03/05/20 18:39
やはり、源氏の嫡流は摂津源氏なのですか。
214ネットdeDVD:03/05/20 18:44
あれっ!昨日頼んだのにもう来てる本当に安かったのでびっくりしました


http://ime.nu/www.net-de-dvd.com/
215系図買:03/05/20 18:46
清和源氏傍系ですがナニカ?
216日本@名無史さん:03/05/20 20:08
源経基-----源満仲-----源頼光(摂津源氏)
          +---源頼親(大和源氏)
        +---源頼信(河内源氏)          
217傍流@甲斐源氏:03/05/21 20:48
おおきに、摂津はん。
よ〜くわかりました、創生期の清和(陽成)源氏。
多田、いや摂津源氏が嫡流 ― 頼光あたりまで、
そして、諸般の事由でもって惣領家は頼信流の河内源氏に移行と。
大和源氏(頼親流)には何かエピソードは?

はー!甲斐源氏まで下ってくるのはいつのことやら・・・
218日本@名無史さん:03/05/21 21:47
>>217
まだ清和源氏=陽成源氏なんて言ってるのか?

ついでに甲斐源氏が源氏の棟梁だったことは
ただの一度もありませんし、未来永劫ないでしょう。

た だ の 一 度 も
219日本@名無史さん:03/05/21 21:55
源氏の棟梁って何?
220傍流@大和源氏(134):03/05/22 00:45
>>217
大和源氏(頼親流)エピソードあり過ぎ(笑)
初代 頼親 殺人上手と貴族の間では有名。
      生涯三度大和守に任官するも興福寺との対立や
      私闘にて大和守を三度辞任。
      興福寺僧徒に館を襲撃され防戦するも、それが仇と
      なり土佐国に配流(永承五年・1050)。
二代 頼房 興福寺との対立により隠岐に配流(1050)。
      康平五年(1062)罪を許され本位に復す。
      承保三年(1076)再び興福寺の訴えにより
      肥前国に配流。ただし今回の配流は肥前守として
      の身分であり、肥前国にて死去。
三代 頼俊 延久二年(1070)陸奥守在任中に在地領主散位
      藤原基通と合戦するも破れ、陸奥国印鎰を奪われるが
      ハトコの八幡太郎義家に助けて貰い印鎰を取り戻して
      貰った。それなのに一年後には義家の郎等であり、
      頼俊の従兄弟である石川有光と合戦する。
四代 頼治 関白師通の命により延暦寺大衆のかつぐ日吉神社御輿に
      矢を射かけ、四年後に師通が急死した為に日吉神社の
      祟りと信じられ、当時の責任者として佐渡に配流。
      なお頼治は大和源氏宇野氏流の始祖であり、表記した
      代数は単なる世数です。     
221日本@名無史さん:03/05/22 01:06
>217
源氏嫡流の摂津源氏に対して河内源氏が武門源氏の主流になるのは源義家においてだろう。
222山崎渉:03/05/22 02:39
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
223傍流@甲斐源氏:03/05/22 05:32
>>218
清和源氏でかまいませんよ。
昔からそう思い込まされてきたし。

別に甲斐源氏が棟梁だなんて一言も言ってません。
ただ、源氏の末流を汚す者として興味があるだけです。
甲斐源氏は地道に勢力を扶植してきただけです ― 近世まで。
名よりも実ですね。結局、義光流は源家一の大族として残りました。
木曾はんや頼朝はんが騒ぎ出した頃、ちょっとチャンスだったんですが・・・
惣領家を襲う。これも源家お家芸の同族争いで潰えましたし。
甲斐源氏の同族争いもそれは酷いものでした。
224傍流@甲斐源氏:03/05/22 05:48
>>220
レスありがとうございます。

しかし・・・、すごいご先祖さんをお持ちのようで。
初代から流人ですか。
しかも「殺人上手」、三度の任官辞任、短気な人だったようで。
二代目も流人、三代目は恩知らず、は〜!お察しします。
どの流の源氏もこの手のエピソードには欠きませんね。
225日本@名無史さん:03/05/22 06:46
>>223
思い込まされてきたとかじゃなくて、
源頼信告文以外に証拠ってあるの?
これが正文ならともかく、写しでしょ?

貞純親王・経基・満仲の生没年が合わないという理屈は
そもそも前提がおかしいし。
226日本@名無史さん:03/05/22 07:43
>>219
建築会社『源組』の親方
227傍流@甲斐源氏:03/05/22 10:07
>>225
ウザイなぁー、もう。だから清和(!)源氏でいいって言ってるでしょ!
だいたい甲斐源氏は頼信流だから、頼信告文信じてるのだっているよ。
甲斐源氏逸見家(甲斐源氏における、清和源氏の多田氏のような家、
=創生期の嫡流)文書も陽成説だったような気が汁し。
だいたい甲斐源氏は新羅三郎殿あたりからの話になるから、
清和か陽成かってあんんまり興味ないんだよね。

それより>>225の揚げ足取りには甲斐源氏に対する悪意みたいのを感汁。
何処の板やスレで漏れの同族に痛い目にあったかしらないけど、
甲斐源氏たって、合戦好きの香具師ばかりじゃないよ。
だいいち、名乗りもあげない電波武者相手に合戦はしないのが、
漏れん家の家訓だし、漏れの首取っても大して手柄にならんよ。

それより摂津はんや大和はんのお話をじっくり聞こうじゃない。
攝津はんとこの蔵人行綱殿あたりまでは嫡流意識が旺盛だったみたいだし。
もう少し頼光、頼親、頼信あたりのこと聞いて、
源氏の嫡流が頼信流頼義ー義家の武門源氏に偏移して行くのを確かめようよ。
228225:03/05/22 20:52
>>227
おいおい、勝手に人を電波扱いにしないでくれ。
もう一度自分の文章読み返してみ?
227の文章も充分煽ってるし、敵意剥き出しだって。
漏れには227の先祖が誰だって関係ないし、
第一、現代において血統なんか何の価値もないよ。
時代錯誤の誇りで勝手に見下されちゃあ適わんよ。

良いか悪いかではなく、
頼信告文が信じるに値するならその根拠はあるのか、
と聞いてるだけ。
逸見家文書にそれが書いてあるなら調べてみるよ。

それに悪いが、別に甲斐源氏に対しては研究対象という以外に
どうとも思っちゃいない。
平氏政権〜鎌倉政権樹立期の甲斐源氏は面白いと思う。
229傍流@甲斐源氏:03/05/22 21:37
>>225=>>218じゃなかったの?
だとしたらゴメソ・・・
平にご容赦を。
あ、227の文章はあくまで2ちゃんVersionです。
他意はありません。滑りすぎたかな?
230日本@名無史さん:03/05/22 22:23
また〜りいこうy
231傍流@大和源氏(134):03/05/23 00:16
225氏の研究対象は甲斐源氏でしたか。
私の研究対象は大和源氏です。清和源氏研究は嫡流傍流を問わず
基本研究で貞純親王・経基王・満仲の生没年の問題で苦労します。
頼信告文問題にしても、大和源氏諸氏の系図を調べても頼親の
生没年に違いはあっても清和天皇に始まるので、陽成天皇云々
と書かれた逸見文書には興味あります。
餅は餅屋で、傍流@甲斐源氏さんと225の逸見文書調査の結果を
お待ちしております。当方、河内源氏頼信流は関係無いやとばかりに
星野博士の論文も読んだ事もなかったもんで・・・。
しかし考えてみれば頼親と頼信は同母の兄弟だから関係ありなんだな(笑)
232傍流@石橋尾張守:03/05/23 19:42
摂津・大和・甲斐の各氏のカキコ興味深く拝読してます。
頼光が満仲の嫡子だとして、それ以降の嫡庶を論じるのは余り意味がないと思います。
保元の乱後は義朝が清和源氏の代表的人物でしたでしょうし。
でも
>蔵人行綱殿あたりまでは嫡流意識が旺盛
だったんですか。
具体的にどんな感じだったんでしょうね。

233日本@名無史さん:03/05/23 20:59
摂津源氏ヲタは頼政が嫡流、行綱が庶流といっとるが。
234甲斐源氏@傍流:03/05/24 22:03
235甲斐源氏@傍流:03/05/24 22:24
すみません、キータッチ間違えました。

>蔵人行綱殿あたりまでは嫡流意識が旺盛
>だったんですか。
>具体的にどんな感じだったんでしょうね

うろ覚えなんですが、
昔、読んだ物語(平家?)で、帝の前で赤面しながら、
頼信流の誰か(頼義?)の後塵を拝し、
『漏れが嫡流なのに・・・』という場面を読んだ記憶があります。
多田蔵人行綱殿ははっきり覚えています。

記憶力、悪くて申し訳ありません。
また勉強しなおします。
236234=235:03/05/24 22:35
↑傍流@甲斐源氏
度々スマソ。
237山崎渉:03/05/28 11:01
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
238石橋尾張守:03/05/29 20:26
摂津源氏ひいては土岐氏が嫡流と言ってる方に伺いたいのですが、
1.頼政と行綱どっちが嫡流?
2.土岐氏はどのような流れで嫡流を継いだと主張なさるのですか?
239傍流@大和源氏:03/05/30 01:28
いづれが嫡流かを考える場合に清和源氏において
藤原摂関家のように嫡流に伝わる「朱器台盤」や
「祭祀権」ってのは無いのですか?

また嫡流を古い時代の視点から考えるか、それとも
結果論で考えるのでしょうか。
初期段階なら頼光流摂津源氏だろうし、結果論なら
頼信流河内源氏だと思うので、いづれの視点をもって
嫡流と論じるかを決めたら良いと思う。

とりあえず摂津源氏も河内源氏も嫡流を譲らないなら
我が大和源氏が「本家傍流」を称しても良いよね。
ちなみに大叔父の経生王や叔父の満政・満季・満快の
子孫が名乗り出て新たに「傍流争い」が起きたら、
ややっこしい事になるな(w)。
240河内石川源氏:03/05/30 18:24
>238
源頼政が嫡流。源行綱は、多田源氏の棟梁だが、多田源氏は摂津源氏に属していた多田土着の系統。
土岐氏は、摂津源氏の後裔で、頼政の系統を相続した。

源家の家系上の嫡流は摂津源氏。河内源氏ではない。
しかし河内源氏は武門源氏の主流になり武家棟梁となった。
武門源氏の主流と武家棟梁ということから源家嫡流になったかのように思われているが、
そうではなく、嫡流は源頼光の系統。
241日本@名無史さん:03/05/30 18:47
↑↑↑ 摂津源氏厨発見。
とりあえず根拠を示すように。

ttp://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1045716168/426
源頼朝について!

426 :日本@名無史さん :03/05/30 18:26
源氏嫡流は摂津源氏。
河内源氏の頼朝は傍流。
242日本@名無史さん:03/05/30 19:03
>>240
何を以って多田に土着してたというのか?
何を以って土岐氏が頼政の系統を相続したというのか?


・・・で、頼政が嫡流である根拠は?
243日本@名無史さん:03/05/30 19:15
>242
多田が多田満仲のような号ではなく、家名として継承され、
姓としての源を使用しなくなったからではないか。
土岐氏が源頼政の系統を継いだということは土岐氏系図にもあると聞いたことがある。
244日本@名無史さん:03/05/30 19:32
源満仲の嫡男は源頼光
源頼光の嫡男は源頼国
源頼国の嫡男は源頼綱(多田頼綱)
源頼綱の嫡男は源仲政(馬場仲政) 源仲政の兄の源明国は、父頼綱の号の多田を継ぎ、多田明国と名乗る。
源仲政の嫡男は源頼政  多田明国の嫡男の源行国は多田の号は使用せず。
源頼政の嫡男は源仲綱  源行国の嫡男の源頼盛は多田頼盛と名乗る。
源仲綱の家督を源光衝(土岐光衝)が継ぐ。土岐光衝は源仲政の従兄弟の源光国の嫡男の源光長(土岐光長)の子。
245日本@名無史さん:03/05/30 19:41
>>244
御題目は聞き飽きたのでいいかげんソースキボンヌ。
246日本@名無史さん:03/05/30 23:27
>>243
院政期になると藤原氏でもどんどん新たな家名を称する奴が出てくるが。
近衛とか九条とか・・・。
新たに家名を称したからといって土着とはいえないとおもわれ。
山科家なんかも土着じゃないし。
247日本@名無史さん:03/05/31 00:48
>>240
いくら本人(だけ)が嫡流だと思っていても、世間の評価はそうはならない。
どんな名家であっても実際の権力と無縁でいる限り、家門の威光は薄れていく。
また、家名というのはある意味ブランドみたいなものだから、有名な人とか偉人を輩出すれば、そちらの流れの方が価値が上がるのはあたりまえ。

248日本@名無史さん:03/05/31 07:03
清和源氏嫡流の摂津源氏は最高だよ。
249日本@名無史さん:03/05/31 07:31
非歴史的(超歴史的)には多田流がずっと嫡流。
歴史的(常識的)には、その時々による。
250日本@名無史さん:03/05/31 09:42
>>239に答える香具師がいないってことで、
ここは厨しかいないことが判明。

よって 終 了
251日本@名無史さん:03/05/31 14:02
>249
多田は嫡流ではない。
嫡流は摂津源氏の源姓の系統。
252本家傍流@大和源氏:03/05/31 16:18
>>251
頼光−頼国−頼弘−家光−淳国−国光−惟光の系統ですね。
ちなみに244が頼国の嫡男は頼綱としてますが、頼綱は五男。
253日本@名無史さん:03/05/31 19:32
>>252
>頼国−頼弘−家光−淳国−国光−惟光の系統

源氏の嫡流かどうかはわからぬが、日本史の傍流であることには間違いないな。
254あぼーん:あぼーん
あぼーん
255日本@名無史さん:03/06/01 08:28
>>252
嫡男とは必ずしも長男とは限らない。
頼国の長男の頼弘は早世。
次男の頼資が後継者の路線に行ったが、下野守時代に争乱起こして配流。
んで、頼綱に回ってきたと考えられている。
256日本@名無史さん:03/06/01 13:16
●源氏嫡流・摂津源氏
満仲−頼光−頼国−頼綱−仲政−頼政−仲綱−光衝

●摂津源氏本拠地土着・多田氏
満仲−頼光−頼国−頼綱−明国−行国−頼盛−行綱

●大和源氏
満仲−頼親−頼房−頼峻−頼治−頼弘−親治

●河内源氏
満仲−頼信−頼義−義家−義親−為義−義朝−頼朝

●河内源氏本拠地土着・石川氏
満仲−頼信−頼義−義家−義時−義基−義兼−頼房
257本家傍流@大和源氏:03/06/01 14:22
>>255
「頼弘は早世」との事ですが、「従五位下・讃岐守・小一条院判官代」
と尊卑分脈に書かれているので、早世とは思われません。
がしかし、あえて「頼弘は早世」と書かれているのでそれなりに
根拠はあるのでしょう。
「系図綱要」では頼弘の名は無く、頼資を長男・頼実を次男・
頼綱を三男・国房を四男・師光を五男としてますからね。
頼弘流諸氏の系図に書かれているのでしょうか?
頼親流諸氏の系図にも尊卑分脈とは異なる事が書かれてますので
家伝史料に真実が書かれてる場合もありますから、宜しければ
御教授下さい。
258 :03/06/01 14:39
こんなスレがあるとは・・・・
実家のすぐ近くというか中学校の校区だ。
そういや最近多田神社行ってないなあ・・・・
今度実家帰ったときにでも行くか
259日本@名無史さん:03/06/01 22:17
>>256
源氏嫡流じゃなくて清和源氏だろ?
( ´,_ゝ`)プッ
260本家傍流@大和源氏:03/06/02 01:15
それにしても摂津守頼国の娘って凄い家に嫁いでますね。
左大臣源高明の孫、権大納言源隆国とか摂政太政大臣
藤原道長の孫、摂政関白太政大臣藤原師実とか。
師実との息子、藤原家忠は左大臣だし。
頼国の娘婿が摂政関白太政大臣で孫は左大臣ですか。
そりゃ嫡流意識を持つわなぁ。
と火に油を注いでみました。
261日本@名無史さん:03/06/02 07:25
>>260
身分は中くらいでも、金はたんまりあるからね。
ギブアンドテイク。
262日本@名無史さん:03/06/02 16:48
だからさ、源満仲とかその子供の時代に、どこが嫡流かなんてどの程度意識があったっていうのさ?
そういう基本的な疑問にまず答えてくれや。
それをしないで、ただどこそこが嫡流だとか傍流だとか主張し合うだけでは何の意味も無い。
まあ、それを百も承知の上で、自称・子孫が遊んでいるだけってのなら、それはそれでかまわんけど、
それだけってのは、アホらしいとしか言い様が無いやね。





263255:03/06/02 18:00
>>257
早世はあくまでも漏れの推測です。スマン。
ま、推測ってよりも妄想に近い。
一応根拠を。

なんといっても、頼弘の史料がない。
このころは記録の空白期ですけど、
それでも、弟連中は散見できるのに、
彼だけは記録にも文書にも編纂物にも全くなし。

『尊卑分脈』ほか系図史料には出家したことが書いてありますよね。
青年・壮年期に、病から出家そして入寂かなと推測したりするわけです。
青年・壮年で死ねば早世ですからね。
264日本@名無史さん:03/06/02 23:47
>>260
摂津源氏は、受領の中でもトップクラス(おそらくトップ)の財産がありながら、
公卿に昇格できず、昇殿も非常に遅い。ほかの上層の受領は公卿(3位程度)
に昇格できているのに、なぜでしょうかね・・。
265本家傍流@大和源氏:03/06/03 00:08
>>255
讃岐守や小一条院判官代に任官したぐらいだから頼弘も
30歳以上は生きてたでしょう。
ただ三井寺出家が、病気で若い時に出家入寂なのか
年をとってからの出家なのか不明ですから、早世って云うか
若死にした可能性もありですね、確かに。
私も専門は大和源氏なもんで摂津源氏の研究論文は
詳しくないので分かりませんが、鮎沢寿先生の「源頼国」
(『古代文化』第19巻第6号・第20巻第4号所収)を
読めば頼国の嫡男なんだから頼弘の事も何かしら書いてあると
思いますが、なんせ昭和42・43年刊ですからね、本気で
調べる気が無いと国会図書館や大学の図書館に行く気がしない。
誰か頼弘流を卒論でも良いから研究してる人いないですか?
266本家傍流@大和源氏:03/06/03 01:20
>>264
摂津源氏に限らず当時の清和源氏や藤原氏・桓武平氏・橘氏
の庶流は、四位・五位の通貴として受領を歴任して一生を
終えるのが普通だったと思いますよ。
四位五位の通貴の受領から公卿(三位以上)となった摂津源氏
以外の清和源氏の例を管見の限り知らないのでお教え願います。
ちなみに我が大和源氏祖頼親は、兄頼光弟頼信が昇殿してるのに
一人だけ昇殿してない。官位も弟頼信より低いし・・・。
と云う事は頼信流か満仲の弟達にいるのかな?
267日本@名無史さん:03/06/03 02:11
>>266
頼朝。
っていうか、摂津源氏の頼政にしても河内源氏の頼朝にしても、
公卿になったのは父祖にはない特殊な事情によるわけで。
摂津源氏も河内源氏も、官位は干されてた為義を除けば似たようなもんだし、
そもそも平安期に官位で嫡庶を論ずるのが果たして妥当なものか疑問。
268本家傍流@大和源氏:03/06/03 03:07
やっぱり院政期の頼朝ですか。院政期だと264の話の流れから
源三位頼政の例があるから、摂関期限定かと思いました。
269日本@名無史さん:03/06/03 07:17
>>265
鮎沢=朧谷寿氏の「源頼国」には、頼弘も、他の男子も出てきません。
女子については、少し書いてありますが。
まぁ、あの論文、古いから、史料の読み間違いとか見落としがあるんで、
あんまりおすすめしなっかったりします。

『尊卑分脈』を見ると、頼光弟の頼範の子供にも「頼弘」がいますよね。
同名の他人なのか、同人なのかは不明ですが。
270日本@名無史さん:03/06/03 08:05
頼政や院近親が三位に上がるようになったのは、平安末期には公卿・殿上人の数が
大幅に増大していたことによるかもしれないね。受領階級の格が上がったのも事実だ
けど、それと同時に、公卿の格も下がっていた。
271日本@名無史さん:03/06/03 08:06
院近親 → 院近臣 
272本家傍流@大和源氏:03/06/03 09:14
>>269
そうですか、「源頼国」論文には息子達の事は書いてませんか。
貴重な情報、誠にありがとうございます。
『尊卑分脈』を見てみましたが「頼弘」いますね。
そして同じく頼範の息子の「頼家」と頼光次男の「頼家」は
同人なんですね。
273あぼーん:あぼーん
あぼーん
274あぼーん:あぼーん
あぼーん
275あぼーん:あぼーん
あぼーん
276あぼーん:あぼーん
あぼーん
277あぼーん:あぼーん
あぼーん
278石橋尾張守:03/06/03 21:05
>>239
>いづれが嫡流かを考える場合に清和源氏において
>藤原摂関家のように嫡流に伝わる「朱器台盤」や
>「祭祀権」ってのは無いのですか?

膝丸、髭切ですかね。
うろ覚えですが、摂津源氏ではなく頼信の系統に伝えられたと記憶しています。

藤氏の祭祀権は藤氏長者が持つのでしょうか。
源氏も義満が氏長者になった時点で、
清和源氏を含む総ての源氏の嫡流は足利氏であると
名実ともにいえると思います。

>また嫡流を古い時代の視点から考えるか、それとも
>結果論で考えるのでしょうか。
>初期段階なら頼光流摂津源氏だろうし、結果論なら
>頼信流河内源氏だと思うので、いづれの視点をもって
>嫡流と論じるかを決めたら良いと思う。

同感です。
279石橋尾張守:03/06/03 21:09
>>244

>源仲綱の家督を源光衝(土岐光衝)が継ぐ。土岐光衝は源仲政の従兄弟の源光国の嫡男の源光長(土岐光長)の子。
仲綱が光衝を後継指名したんですかね。
ただその時点で光衝が嫡流、頼朝が庶流と思っていた人はいないでしょうね。

ましてや足利時代に土岐氏が嫡流、足利将軍家が庶流なんて言う人は。。。
皆無ですね。
280石橋尾張守:03/06/03 21:13
>>249
非歴史的(超歴史的)には多田流がずっと嫡流。
歴史的(常識的)には、その時々による。

非歴史的(超歴史的)=土岐氏ひいては摂津源氏の熱烈なファンの方の脳内
で宜しいですか。

281石橋尾張守:03/06/03 21:16
とても個性的な見解をお持ちの、
土岐氏ひいては摂津源氏の熱烈なファンの方は
残念ながら少数(又は単数)ということで宜しいですね。

やはり土岐氏が清和源氏って無理があると。

でも私も氏長者なんか引合いに出したからなぁ。
「じゃ江戸時代は徳川が嫡流か」とか言うのは無しでお願いします>all
282日本@名無史さん:03/06/03 21:25
>>278
>>膝丸、髭切ですかね。

それが、いつからあるかが問題だ。

藤原氏の祭祀権は氏長者。
ただ、氏長者は藤原氏の最高位の者が自動的になった。
「嫡流」とか関係なくね。
283日本@名無史さん:03/06/03 21:41
なんで仲綱のあとを土岐が継がねばならんのか?
仲綱の時代になると土岐とは血縁も遠くなってるし、そもそも仲綱には何人も息子がいた。
有綱なんかは宇治川以降も生き残ってたし。あとで殺されたけど。

ソースが土岐氏系図だというんなら、土岐が詐称したんだろ。
284日本@名無史さん:03/06/03 21:56
>>282
素朴な疑問なんだが・・・祭祀権って何?誰祭ってたの?
鎌足や不比等限定ってならわからんでもないが、
ただ漠然と先祖を祭るってことならなかなか厄介なことになりそうな。
285日本@名無史さん:03/06/03 22:34
>>284
氏神を祀るんだよ。
同じ祖霊を祀ることで、血縁が遠くなっても同族意識を持つことができる。
で、その祭祀を主導する、祭祀を行える人物が氏長者。
286日本@名無史さん:03/06/04 02:39
>>281
>「じゃ江戸時代は徳川が嫡流か」とか言うのは無しでお願いします>all

そうはいっても、徳川氏はそう称し、世間もそれを認めていたはず。
当時はすでに「氏長者=嫡流」って認識でしょ。
足利ならOKで徳川だと駄目だっていうのもおかしい。
幾ら、系図の途中であやしい部分があろうと(w
287歴史しらん馬鹿:03/06/04 10:12
うちの家は伊予越智家の別れで、1300年ど田舎続いた家だけど、養和元年
源行家の子、義若(成人して行義)がうちの家に養子に来たと、家系図にあるけど、
実在の人物かな?家には源頼朝からの安堵状なるものがあります。行義はその後
村に貢献する働きがあり地主八幡宮としてまつられています。
288日本@名無史さん:03/06/04 15:16
偽系図も偽安堵状もいろいろあるからねえ。
その安堵状は平安遺文にも載ってるような本物?
289日本@名無史さん:03/06/04 18:21
伊予越智家は古代の物部氏の後裔ですね。
伊予水軍の棟梁家。
290日本@名無史さん:03/06/04 20:08
>だいたい甲斐源氏は頼信流だから、頼信告文信じてるのだっているよ。
>甲斐源氏逸見家(甲斐源氏における、清和源氏の多田氏のような家、
>=創生期の嫡流)文書も陽成説だったような気が汁し。

詳報を密かに待ってたりする
291歴史しらん馬鹿:03/06/04 22:11
平安遺文が何か知りません。一応うちの家系の事と、源行義の事は高野町の小学校向けの
教科書に載っています。町の人と、私の父は信じてるけど、私はあんまり昔の事なので、
半信半疑です。
292日本@名無史さん:03/06/04 22:24
安堵状の日付と宛所を教えて。
できれば写真にとって、どっかにうpして。
293歴史しらん馬鹿:03/06/05 07:40
実家に帰ないと分からないわ。デジカメもってない。。。安堵状の事父に聞いてみます。
294日本@名無史さん:03/06/06 16:53
やはり、源氏嫡流は、摂津国多田の摂津源氏なのですか?
295_:03/06/06 16:53
296日本@名無史さん:03/06/06 17:08
>>294
その通りですが、何か?
297日本@名無史さん:03/06/07 02:39
もう、どこが嫡流とか傍流とかなんて話はいいよ。飽きた。
298日本@名無史さん:03/06/07 08:44
>297
歴史は、飽きたら終わり。あなたは逝ってよし。
299日本@名無史さん:03/06/07 11:40
清和源氏嫡流の摂津源氏の嫡流である源頼政の本拠地はどこですか。
多田も彼の傘下でしたが、そこは摂津源氏の多田氏(多田源氏)の本拠地になっていますし・・・。
300日本@名無史さん:03/06/07 14:18
>>299
>>196
ほかにも渡辺だという噂もあり。
で、さんざん外出な疑問なんだけど、頼政が嫡流だという根拠はなんなの?
301日本@名無史さん:03/06/07 15:08
所詮、大阪なんて日本史の傍流。
302日本@名無史さん:03/06/07 16:44
大阪じゃねーYO
303日本@名無史さん:03/06/07 16:53
>301
ところが意外なことに大阪は日本史の中心なのよ。
古代日本の最初の全国的首都は大阪の難波長柄豊埼宮。
古代日本の中心地は、大阪と奈良、次いで京都。
シルクロードの日本の入り口も大阪で、当時の国際港の住吉津と難波津があった。
源氏も大阪の羽曳野が河内源氏発祥地で、頼信、頼義、そして八幡太郎義家の館があった。彼らの墓も同地にある。

源頼政の本拠地とされる渡辺は、頼政傘下の嵯峨源氏渡辺党の本拠地でもあり、現在の大阪市中央区。
304日本@名無史さん:03/06/07 20:44
源頼政は渡辺のとこに居候してたってことか?
家人もやたらと渡辺系が多いし。>>197
305日本@名無史さん:03/06/08 06:03
摂津源氏の源頼政は大内守護の責任者だったから、皇室の親衛隊長みたいなものだったんだね。
306日本@名無史さん:03/06/08 06:08
大阪の梅田にある露天神社(通称 お初天神。曽根崎心中でも有名な神社)の
宮司は、今も、嵯峨源氏渡辺氏の子孫がつとめている。渡辺姓のルーツとされる地にある大阪の座麻神社の神主も嵯峨源氏渡辺氏の子孫。
307日本@名無史さん:03/06/08 08:13
源頼政が大内守護の責任者だった、という史料を教えて
308直リン:03/06/08 08:20
309日本@名無史さん:03/06/09 16:43
結局、源氏って大阪が多いの?
310日本@名無史さん:03/06/09 16:45
摂津源氏は代々、大内守護のリーダーだったし、源頼政は摂津源氏の棟梁じゃなかったのか。
311日本@名無史さん:03/06/09 16:49
河内源氏の源頼信が関東に転進したのは、都での源氏は摂津源氏の統率下にあり、
陽の目を見ないと思ったからなのでしょうかね。
しかし、都での要職が本来の希望だから、関東は武力の後背地にして、河内を本拠地にして都に出仕していたのでせうか。
312日本@名無史さん:03/06/09 19:58
>>311
転進したってどういうこと?摂津源氏の統率下にあった源氏って?
摂津源氏がいるとなんで陽の目を見れないの?
313307:03/06/09 20:03
>310
摂津源氏が代々、大内守護のリーダーだったって史料を教えてください。
>307の質問もスルーされちゃったし・・・。
自分で探しても、わからないんです。
314日本@名無史さん:03/06/09 22:06
渡辺党が滝口で(内裏守護)、
頼政が渡辺党を配下にしてたようだから、そこからの推測じゃないのん?
315日本@名無史さん:03/06/13 16:19
>314
滝口は渡辺党だけじゃないし、
滝口を郎党にしてるのは、頼政だけじゃないので、
ここから、摂津源氏が大内守護やっていた、
というのは難しいだろうね。
316日本@名無史さん:03/06/13 16:29
>315
難しくないよ。
摂津源氏は都では一番格上の武家で、その棟梁が頼政だったのだから。
317日本@名無史さん:03/06/13 16:31
>315
遠藤盛遠の遠藤氏も渡辺党の傘下にあったらしいけれど、
渡辺党以外に有力な滝口はありましたか。
318日本@名無史さん:03/06/13 17:05
つーか、そもそも渡辺党が有名なのって摂津源氏の配下に入ってたからじゃないのか?
319日本@名無史さん:03/06/13 17:20
>>316
だからそのソースを示せといってるのが分からんのかね。



分からないだろうな。
320日本@名無史さん:03/06/13 17:27
分かるかなぁ?分からないだろうなぁ。いえ〜い。
321日本@名無史さん:03/06/13 18:59
>319
ソースを示せって・・・当時の都の武家で、摂津源氏が一番格上ではなかったの?
異説でもお持ちなのかな・・・?
322日本@名無史さん:03/06/13 19:02
渡辺党は、渡辺氏初代の渡辺綱が源頼光の片腕とされているが、
実際は、渡辺党が摂津源氏の傘下に入るのは、源頼政の時代で、
頼光と渡辺綱の話は、後から作ったもの。
323_:03/06/13 19:10
324日本@名無史さん:03/06/13 19:25
>>321
論点1
>摂津源氏は代々、大内守護のリーダーだった
とあるが、代々とは誰の代からなのか?

論点2
摂津源氏が都で一番格上の武家であったとする根拠はなにか?
そもそも当時とは何年ごろのことか?

論点3
源頼政が摂津源氏の棟梁だったとする根拠はなにか?

論点4
仮に摂津源氏が都で一番格上の武家で、その棟梁が頼政だったとして、
それがなぜ大内守護だった根拠になるのか?

ドーゾ
325日本@名無史さん:03/06/13 20:28
>324
論点3への回答

頼政は、平氏政権期に摂津源氏で最高の位階に就いていたので、
摂津源氏の棟梁と言って良いのではないかな。

多田の系統は、明国がバカやったおかげでダメになり、
かわって、院・摂関家に可愛がられている弟の仲正が主流になったと思う。
326325:03/06/13 20:30
だからといって、頼政が大内守護だという根拠にはまるでならない。

そもそも漏れは、大内守護なんてのを信じてない。
大内守護だった!と主張する方々、論点1・4に答えてくれ。
327日本@名無史さん:03/06/14 14:55
新羅三郎義光は、新羅の人で三男の義光ということで朝鮮人と聞きましたが、本当ですか?
新羅の三男の源義光。
328日本@名無史さん:03/06/14 15:23
>>327
釣りか?
329_:03/06/14 15:25
330日本@名無史さん:03/06/14 15:56
>328
スルーしる。
331日本@名無史さん:03/06/14 17:25
日本語が堪能ではないので、ハン人確定
332本家傍流@大和源氏:03/06/17 01:47
頼光流・頼信流の皆様は、摂津の多田神社や河内の壺井八幡に
お参りするでしょうが、では頼親流大和源氏は何処にお参りすれば
良いかと云うと奈良県五条市宇野町を訪ねて戴きたい。
宇野町には宇野の地を見渡すかのような小高い岡(宇野町字桧尾)の
中腹斜面に「大和源氏宇野氏之祖碑」と宇野氏累代の墓があります。
大和源氏の碑は、宇野親治嫡男有治を祖とする藤谷山雪坊瀧上寺の
第29世住職である宇野順治氏が昭和50年5月5日に建立された
もので石碑や墓地は吉野郡下市町善城の瀧上寺の管理下にあります。
石碑近くには、宇野家鬼門除けの宇野八幡宮があり、近くの小高い
山の上には宇野氏の氏神である宇野八幡神社があり、そばには
宇野宗佑元首相の奉納碑が建っている。
なお宇野八幡宮も宇野八幡神社も小さな祠で社務所などは無い。
興味深いのは、宇野八幡宮・大和源氏碑(宇野氏墓地)・宇野八幡神社は
地図上一直線上にあり、更に直線上に藤原武智麿の墓や栄山寺がある。
栄山寺は藤原南家の氏寺で武智麿の創建である。そして頼親の母は藤原
南家の出身であり、頼親自身大和守任期中に栄山寺領田畑を租税免除する
ほど関係の深い地で、武智麿の墓や栄山寺もお参りしときましょう。
333日本@名無史さん:03/06/17 02:44
概説君のお出ましか
334日本@名無史さん:03/06/18 14:17
>324に答えられる猛者はいないのか?
ということで、頼政は大内守護ではなかったとケツローン
335日本@名無史さん:03/06/18 14:26
>334
源頼政が大内守護だったことは、多くの源氏研究書にも書かれているよ。
336日本@名無史さん:03/06/18 14:28
源頼政は大内守護には必須の鳴弦の名手でもあった。
337日本@名無史さん:03/06/18 14:50
>>335
手記ではなく研究書に書かれているのであれば、何か理由があるんだろう。
その理由を知りたがってるんじゃないのか?
研究書に書いてある、じゃ大抵納得できないよ。
338日本@名無史さん:03/06/18 14:59
>337
俺は専門じゃないから史料的なことについては言えないが、
研究書に書いてあるということは、それなりに根拠があるからだろう。
「知りたい」のなら、自分で研究書をあたればいいのではないか。
「 研究書に書いてある、じゃ大抵納得できないよ。」じゃあ、何のために研究書はあるの?
339_:03/06/18 14:59
340日本@名無史さん:03/06/18 15:34
>>335
たとえばどんな研究書がある?
341日本@名無史さん:03/06/18 16:28
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342日本@名無史さん:03/06/18 16:39
>340
自分で調べようともしない厨房君なの?
343日本@名無史さん:03/06/18 17:08
教えられないのか( ´,_ゝ`)プッ
344日本@名無史さん:03/06/18 18:12
煽り煽られ釣り釣られが2chの流儀と言われればそうかも知れんが
此処みたいな学問板では真摯な心を少しでもいいから持とうではないか。
345340:03/06/18 20:13
では真摯な心で。
史料に基づいて大内守護であった、とする本が見つかりません。
軍記物や系図史料以外で、
頼政が大内守護であったとする史料をおしえろやゴルァ!
346日本@名無史さん:03/06/18 22:20
大内守護でありながら、昇殿が許されない事を皮肉った和歌

「人知れず 大内山のやまもりは
  木がくれてのみ 月を見るかな」

とりあえず、これで手を打ってくれw
347日本@名無史さん:03/06/19 02:00
『岩波日本史辞典』

大内守護【おおうちしゅご】
古代末期から鎌倉前期にかけて宮城の警護を担当した者の役職名。
酒呑童子伝説で知られる源頼光に始まる摂津源氏の嫡流が代々その職を継いだが
1219(承久1)に当時の大内守護源頼茂が後鳥羽上皇に追討されて以後
宮城の衰微にともなって廃絶した。
348日本@名無史さん:03/06/19 14:28
>346
その歌だけでは、また340が偉そうに「大内守護だなんて断定できない!」とか言うからダメだよ。その歌の詞書↓を書かなきゃ。

大内守護ながら殿上ゆるされぬ事を思はぬにしもなかりける比、行幸なりて侍りけるに、大宿直なる家にかくれゐて侍るに月のあかゝりければ、丹波の内侍のもとへつかはしける

で、>340=345、どうよ。

>347
アフォ?
349340:03/06/19 20:08
>346・348
納得しました。ありがとうございます。
その歌の出典を教えてくれるとありがたいんだけど、『頼政集』?
350日本@名無史さん:03/06/19 21:09
頼政集、千載集、続詞花集
351日本@名無史さん:03/06/20 00:49
頼政が大内守護じゃないってアフォが居るのはここですか?
352日本@名無史さん:03/06/20 07:40
じゃ、つぎは「源頼光に始まる摂津源氏の嫡流が代々その職を継いだが」
のソースを教えてくれ。
353日本@名無史さん:03/06/21 01:45
>352
いいかげん、自分で調べたら。
摂津源氏が大内守護の家というのは、半ば常識でしょう。
何が何でも摂津源氏にケチをつけたい人なのかな。
354日本@名無史さん:03/06/21 03:47
ネタ振ってんだろ
355日本@名無史さん:03/06/21 05:01
>>353
ほう。常識って言うなら当然根拠はあるということだよな。
歴史じゃ根拠のない想像は妄想というんだが、知ってた?
356352:03/06/21 09:56
>353
半ば常識になってるけど、根拠が分からないから聞いているのです。
だからプロの方々に教えてもらいたいのです。
知らないのなら、べつに構いませんが。
357352:03/06/21 10:21
ちなみに摂津源氏すきなんですよ。
358土岐光信:03/06/21 20:25
>355
すると、源氏に言及している歴史学者はの見解はほとんどが妄想になりますなあ。
359日本@名無史さん:03/06/21 20:40
>>358
たとえば、だれ?
360日本@名無史さん:03/06/21 20:51
>353

いや、むしろ摂津源氏が大内守護の家というのを知らない方が常識。
なぜなら、摂津源氏自体、日本史では知られていない。
361日本@名無史さん:03/06/21 20:53
>>359
へぇ。じゃあ、具体的に教えてくれよ。

ああ「自分で調べろ」が君達の決まり文句だったっけ?
ソースも提示せずに妄想で語ってる学者なんぞ、
学会でも相手にされんよ。
362361:03/06/21 21:22
スマソ。358だった。
363359:03/06/21 21:27
>>362
ふざけんな。謝って済むなら警察はいらんわ。ぜってー許さん。
すんげー傷ついたんだからな。まじだよ。
364日本@名無史さん:03/06/21 21:41
最近、。つはものを語るにふさわしい、殺伐としたいい雰囲気だに
365日本@名無史さん:03/06/21 22:14
>361
>ソースも提示せずに妄想で語ってる学者なんぞ、

けっこうあるんだ、これが。
妄想ってわけじゃないけど、
みんなそういってるから、そうなんだろう、
ってな感じなのは結構あるよ。

たとえば、摂関期の政所政治なんてのもそうでしょ。
昔っからそうだと思い込んでて、そう書いてたけど、
よくよく調べてみたら、違ってたわけで。
366日本@名無史さん:03/06/21 22:34
>365
確かに多いと思うけど、それは一昔前の話で、
最近じゃそういう論考は突っ込まれることが増えてない?
367日本@名無史さん:03/06/22 01:34
いずれにしても摂津源氏は源氏嫡流なんでしょう。
368日本@名無史さん:03/06/22 01:56
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1042231993/l50

>584 名前: 博士手前 投稿日: 03/06/21 19:09
> 摂津源氏と河内源氏の話から遠のいているけど、頼光の母は五位クラスの娘。ョ信の母君は大納言藤原元方の娘。つまりョ信の方が母の格が上で正当を名乗る権利あり。当時は母が誰の子か、母の身分はどの程度かが重要。

> 別の話で北条政子は、ョ朝生存中は源政子。結婚前、右大将家薨後は平政子。。歴史的には北條政子すなわち平政子として名が残った。
369日本@名無史さん:03/06/22 02:59
>ョ朝生存中は源政子

そんなことはあり得ない
370日本@名無史さん:03/06/22 04:03
別に信じたくない人は信じなきゃいいじゃん。
摂津源氏が大内守護やってたなんて、岩波みたいなちっちゃな
辞典にも書かれてるような基礎事項なんだから。
はやく話先に進めてよw
371日本@名無史さん:03/06/22 07:19
ここ摂津源氏マンセースレか?そんなちっちゃな辞書にも出てくる基本事項なら
とっととソース出しちゃえばいいのに。そうすればすんなり先に進めるよ。
372日本@名無史さん:03/06/22 07:44
>別の話で北条政子は、ョ朝生存中は源政子。
>結婚前、右大将家薨後は平政子。。
>歴史的には北條政子すなわち平政子として名が残った。
またすさまじい嘘をつくもんだな(w
彼女が「平政子」と命名されたのは従三位に叙されたときだよ。
すなわち頼朝が死んで彼女が出家したあとのこと。
373日本@名無史さん:03/06/22 08:33
俺も多田という名字だけど・・・
関係あるのかなぁ〜?
374日本@名無史さん:03/06/22 11:18
↑ただの百姓。
375日本@名無史さん:03/06/22 12:08
萎え…
376日本@名無史さん:03/06/22 12:08
つまらなすぎ…
377日本@名無史さん:03/06/22 12:55
omaegana.
378日本@名無史さん:03/06/22 14:20
>>372
>彼女が「平政子」と命名されたのは従三位に叙されたときだよ。
またとんでもない勘違いだね。
命名されたわけじゃないよ。
379日本@名無史さん:03/06/22 15:57
>>367
いずれにしても摂津源氏は日本史の傍流。
380日本@名無史さん:03/06/22 19:50
結論

摂津源氏は、源氏の嫡流だが、日本史の傍流。
381日本@名無史さん:03/06/22 20:01
結論

>>380は句点多過ぎ
382日本@名無史さん:03/06/22 20:16
野口実『武家の棟梁の条件』中公新書
「本来の源氏嫡流で大内(大内裏)守護を家職とした摂津源氏(頼光流)」
「十二世紀末の段階で、渡辺党を郎等として、このような呪的武力の統轄者としての地位を占めていたのが、鵺退治で知られる源頼政であった。」
「頼政は『辟邪の武』を担当する王権のガードマンの隊長として大内守護の役をつとめ、それは鎌倉幕府が成立したのちもかれの子孫によって受け継がれている。」
383日本@名無史さん:03/06/22 20:18
>>381
句点は1個しかないぞ。読点が多いのでは?
384日本@名無史さん:03/06/22 20:31
下向井龍彦『武士の成長と院政』日本の歴史07巻 講談社
「頼光は満仲から摂津国多田を受け継ぎ、子孫は摂津源氏を称したが、頼光嫡流は代々『大内守護』の地位を世襲し、・・・」
「宇治合戦では唱、競ら渡辺党の武士が源頼政に従って戦死した。『大内守護』頼光嫡流は滝口を指揮して天皇を守護し、この指揮関係を通して渡辺党ら滝口を郎等化していった。」
385日本@名無史さん:03/06/22 21:04
朧谷寿『清和源氏』教育者歴史新書
「武門をもって自認する源氏にあっては、嫡流であるはずの頼光流が、いつしか頼信流(河内源氏)にその立場を奪われる」
「源頼信といえば武門源氏の祖と仰がれ、この系統から初の武家政権を樹立した頼朝が出現したことから、あたかも清和源氏の嫡流のように理解されているむきがあるけれど、
すでに述べたように嫡流は頼光の流れであって頼信はそうではなかった。」
386日本@名無史さん:03/06/22 21:14
いや、だからさ、
研究者の著書じゃなくて、
研究者が根拠にしてる史料はどうなのさ。
387日本@名無史さん:03/06/22 21:20
365 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 03/06/21 22:14
>361
>ソースも提示せずに妄想で語ってる学者なんぞ、

けっこうあるんだ、これが。
妄想ってわけじゃないけど、
みんなそういってるから、そうなんだろう、
ってな感じなのは結構あるよ。

たとえば、摂関期の政所政治なんてのもそうでしょ。
昔っからそうだと思い込んでて、そう書いてたけど、
よくよく調べてみたら、違ってたわけで。
388日本@名無史さん:03/06/23 07:40
>382,>384-385
は、史料の意味がわからないんだな。
389日本@名無史さん:03/06/23 11:23
390日本@名無史さん:03/06/23 20:44
銅像なんかあるんだ
391日本@名無史さん:03/06/23 21:43
池宮も「史書・平家物語」って書いてるくらいだから
史料の意味が解ってませんな。
392日本@名無史さん:03/06/24 02:16
つまり野口、下向井、朧谷なんてのは信用ならねえってことだろ
上の人が言いたいのは
学者のゆうことなんて信じられるかってことっだよ
ましてや辞書をや。どうせ似たような連中が書いたんだし
393日本@名無史さん:03/06/24 05:05
>392
しかし、上の人より、野口や下向井、朧谷らの方が信用出来ると思うよ。
文句をたれている上の人は、匿名に隠れているから発言に責任が無いからね。
394日本@名無史さん:03/06/24 06:27
>>393
オマエモナー
395日本@名無史さん:03/06/24 07:48
野口>下向井>>>>>>元木>>>>>>>>>>>朧谷>>>>2ch
396日本@名無史さん:03/06/24 14:18
野口>下向井>>>>>>元木>>>>>>>>>>>朧谷>>>>2ch>>>>>>>>(越えられない壁)>>>>>摂津源氏厨
397日本@名無史さん:03/06/24 21:55
>>392
つまり、彼らが、その情報をどこから入手してきたかということでしょう?
398b:03/06/24 21:57
☆可愛い彼女が貴方のために・・・☆
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399日本@名無史さん:03/06/24 21:58
>>396
別に越えたくもないが。
いや、絶対に越えたくはないな。
400日本@名無史さん:03/06/25 00:42
>396
摂津源氏厨なんているの?
そんなのあなたの幻影であり、いないと思うよ。
401日本@名無史さん:03/06/25 00:45
野口、下向井、元木、朧谷もみんな摂津源氏嫡流説だね。
ただし、貴族化した摂津源氏に対して武門源氏の中心は河内源氏に移ったという見方だが。
402日本@名無史さん:03/06/25 00:48
マジレスすると、摂津源氏は貴族化なんかしていない。
最初っから貴族。
403日本@名無史さん:03/06/25 08:59
>402
はげどう。

河内源氏が武士化したが正しい。
404日本@名無史さん:03/06/25 09:26
>>403
何をもって武士と言ってるのか分からんが、
河内源氏とて武門貴族には変わりない。
405日本@名無史さん:03/06/26 02:08
経基age
406日本@名無史さん:03/06/26 02:16
摂津源氏嫡流厨
多田オタ

は同じですか?
407日本@名無史さん:03/06/26 04:14
多田源氏は摂津源氏の庶流だろうから別じゃないの。

408日本@名無史さん:03/06/26 14:17
多田氏は摂津源氏の嫡流
409_:03/06/26 14:30
410日本@名無史さん:03/06/26 15:04
日本史板にまで貼りに来るアダルトサイトウザイ
411日本@名無史さん:03/06/27 06:47
>408
摂津源氏の嫡流は、多田という苗字ではなく、源姓のまま。
多田を苗字とした多田明国に対して源姓のままの源仲政の系統が摂津源氏嫡流。
412日本@名無史さん:03/06/27 08:07
明国が苗字を多田と名乗ってる同時代史料は見たことない。

百歩譲って、明国が多田を号したというのなら、
仲政は馬場を号したといわれてるだろ。
413日本@名無史さん:03/06/28 03:16
>412
仲政の馬場は号であって苗字ではない。源頼政も馬場を号している。
しかし、苗字ではないから仲政も頼政も馬場仲政とか馬場頼政と呼ばれることはない。
多田を苗字とした最初は、多田頼盛。
明国が多田を称したというのはたぶん何かの系図からだろう。
414日本@名無史さん:03/06/28 03:43
でた
多田オタ
415日本@名無史さん:03/06/28 03:45
>>413
>多田を苗字とした最初は、多田頼盛。
前も聞いたような気がするんだが、これのはっきりしたソースある?
あと、源姓のままなのが嫡流の根拠になるのだろうか?
416日本@名無史さん:03/06/29 02:34
>415
源姓のままなのが嫡流の根拠なのか? ではなくて、逆。
嫡流だからこそ源姓だった。
河内源氏も源姓で苗字ではなかったが、これは東国へ進出したから。
東国土着の平氏系の苗字武士団に対して源姓のままであることが、
指導権確立の重要な精神的要因でもあったから。
義家的な武力だけでは東国土着の平氏系の苗字武士団の棟梁にはなれない。
417日本@名無史さん:03/06/29 02:40
源義賢の子で、木曾義仲の兄の源仲家は、源頼政の養子になっているが、
河内源氏の源義賢と、摂津源氏の源頼政にはどんな関係があったのだろうか。

反義朝としての為義派の義賢と、非河内源氏(=非義朝)派の頼政の連携?
だとすると平治の乱での頼政の去就もよく理解出来る。
418日本@名無史さん:03/06/29 03:21
>>416
>源姓のままなのが嫡流の根拠なのか? ではなくて、逆。
>嫡流だからこそ源姓だった。
うーん・・・同じ意味だぞ。

>河内源氏も源姓で苗字ではなかったが、これは東国へ進出したから。
>東国土着の平氏系の苗字武士団に対して源姓のままであることが、
>指導権確立の重要な精神的要因でもあったから。
うーん・・・源姓であることがなぜ精神的要因として必要なのか説明してね。

思い込み厨でなければ(藁
419日本@名無史さん:03/06/29 03:29
>>416
そんなことあるまい。中央志向が強く、土着度が低かったから源姓のままだったんだろう。
分家末流でも藤原姓を称し続けた院政期以前の藤原氏と同じ。
武士であっても貴族であり続けたことを忘れてはならない。
420日本@名無史さん:03/06/29 08:03
苗字は、土地の所有権を主張しているだけ。
畠山も、三浦も、公文書?では一応平姓だし。
徳川所軍家も、確か。公文書?では源○×と署名しているし。
421日本@名無史さん:03/06/29 08:38
>416

院政期の史料も読みなよ。
っていうか、苗字の歴史をちゃんと勉強したら?
422日本@名無史さん:03/06/29 08:41
北条義時=平陸奥守義時
423日本@名無史さん:03/06/29 09:04
「陸奥守平義時」のまちがいだろ
それか「北条陸奥守義時」
424日本@名無史さん:03/06/29 14:56
>>418
おそらく頼信をイメージして言ってると思われ
425日本@名無史さん:03/06/29 14:57
>424
だから?
意味不明のレスは止めよう。
426日本@名無史さん:03/06/29 16:31
>424

東国武士は、頼信以来、源ブランドに弱かった、

ということ?
427日本@名無史さん:03/06/29 20:17
平忠常は、戦わずして降伏した。
428日本@名無史さん:03/06/29 20:48
それはブランドってよりも、主従だったからだろ。
戦いも長期化してたし、戦いの目的は対受領、対貞盛流なんだから、
頼信に逆らうイミがない。
429日本@名無史さん:03/06/29 21:06
>>428
つまり、頼信の代から関東は源氏の支配下に置かれたわけですね。
430日本@名無史さん:03/06/29 21:07
意味ありげなレスにはレスがつかないものだね
431日本@名無史さん:03/06/29 21:25
>430
どれのこと?
432日本@名無史さん:03/06/30 08:39
>429

違う。
433日本@名無史さん:03/06/30 21:51
摂津源氏は伊豆国の国司だったの?
434日本@名無史さん:03/07/01 01:55
嫡流ってゆうかはよくわからんが
在地武士化しなかったらそりゃ名字はもたんわな。
在地化しないことがイコール高貴なことで
高貴なことがイコール嫡流なら、まあ、嫡流かもしれん。
435日本@名無史さん:03/07/01 04:59
摂津源氏の源姓の系譜は、嫡流だから地方には土着しなかった。
源頼政は傘下の嵯峨源氏渡辺党の本拠地の大阪の渡辺にいたが、土着はしなかった。
同じ摂津源氏の系統でも、多田源氏の方は、摂津源氏本拠地の多田に土着し多田の苗字を名のった。
河内源氏も関東では、源氏嫡流を自称し、土着せず、源姓のまま。
河内源氏の系統で、河内源氏の本拠地の大阪の河内壷井の石川に土着した系統は石川を苗字とした。
436日本@名無史さん:03/07/01 07:52
>433
頼政は伊豆の知行国主。で、仲綱を国守に任じた。
437日本@名無史さん:03/07/01 07:57
438日本@名無史さん:03/07/01 10:05
>436
だから、坂東平氏の三浦氏は、源仲綱に国守就任の祝いとして名馬を贈ったんですね。
伊豆に流された頼朝も、摂津源氏の掌にいたということですかね。
439日本@名無史さん:03/07/01 14:09
>>435
なんで嫡流だと土着しないの?
頼政は何で渡辺党のところに居候してたの?
多田氏はいつ土着したの?頼盛も行綱も京都で貴族やってなかった?
440日本@名無史さん:03/07/01 22:43
>>439
中央で食えなくなった奴が地方に土着するの。
441日本@名無史さん:03/07/01 22:55
「土着」とは?
442日本@名無史さん:03/07/01 23:54
>だから、坂東平氏の三浦氏は、源仲綱に国守就任の祝いとして名馬を贈ったんですね。

それ、トンデモ小説の創作だから
443日本@名無史さん:03/07/02 00:41
>>440
じゃあ多田は土着してなかったんだ。
444日本@名無史さん:03/07/02 22:37
>>441
地方にいって、そこの有力者の娘と懇ろになって、入り婿するの。
445日本@名無史さん:03/07/02 22:43
江戸城造ったのは摂津源氏
446日本@名無史さん:03/07/02 22:44
石神井公園の豊島氏は摂津源氏です
447日本@名無史さん:03/07/04 11:39
清和源氏武士団が最初に形成された多田にある多田神社に行ってきました。
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449日本@名無史さん:03/07/04 13:59
源氏嫡流は摂津源氏でOKですね。
450日本@名無史さん:03/07/04 14:07
嫡流・庶流はしょせん結果論だろう。最も有力な家が嫡流。
451日本@名無史さん:03/07/04 14:58
摂津源氏が嫡流だと、何がどうなるの?
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453日本@名無史さん:03/07/04 15:22
嫡流は、親が決める。
源満仲は、源頼光を嫡子と決めた。
頼光の嫡子は頼光が頼国と決めた。
頼国の嫡子は頼国が頼綱と決めた。
こういう親が決めた嫡子の系統を嫡流というんだよ。
454日本@名無史さん:03/07/04 15:24
しかし、一族に対する統率権がないんじゃあ、
嫡流も減ったくれもないよね。
455日本@名無史さん:03/07/04 20:04
>453

ソースをかけてくれ。
456日本@名無史さん:03/07/05 03:05
>>455
生憎、手持ちはオイスターしかありませぬ
457日本@名無史さん:03/07/05 03:20
源満仲が嫡子を頼光と決めた時点で、嫡流は頼光系統となり、
次は、頼光の系統の中での嫡流問題となる。
河内源氏は初代の頼信が満仲の嫡子でなかった時点から源氏嫡流の部外者の系統。
ただし、河内源氏の嫡流というものは存在する。
458日本@名無史さん:03/07/05 03:42
なんだやっぱり源氏の嫡流は頼信の子孫か。
459もっこす ◆ZM08EeniEM :03/07/05 04:10
多田さんなら、名無しさんで人権板にお書きになったこともあるな。
息子さんだと思うが。
460日本@名無史さん:03/07/05 19:38
源氏嫡流TVドラマ化

多田仁
461日本@名無史さん:03/07/06 00:37
>458
アフォか。
源氏の嫡流じゃなくて、河内源氏の嫡流だろうが。
河内源氏そのものは源氏の傍流だが、それ自身には嫡流はあるだろう。
462日本@名無史さん:03/07/06 03:23
源氏嫡流 摂津源氏
      摂津源氏嫡流 源頼政
      摂津源氏傍流 多田行綱

源氏傍流 河内源氏
      河内源氏嫡流 源頼朝
      河内源氏傍流 石川義興
463日本@名無史さん:03/07/06 11:48
すでに頼義のころ清和源氏の嫡流だった。
464日本@名無史さん:03/07/06 14:01
たまたま摂津源氏庶流の頼政が出世しただけで
満仲以来の本領(=祭祀)は多田氏が継いでたんでは?
多田にはなんか神社があんでしょ
465_:03/07/06 14:06
466日本@名無史さん:03/07/07 07:39
>463
頼義は河内源氏の嫡流にはなれるが、清和源氏の嫡流にはなれない。
誰が頼義を清和源氏の嫡流にするのか。
頼義を嫡子とした頼信自身が傍流だからね。

>464
本領を継いだから嫡流とはいえない。
河内源氏も源頼信・頼義・義家以来の河内源氏の本領を継いだのは
義家の六男の義時で、その系統は石川氏になるが、石川氏は河内源氏の嫡流ではない。
467日本@名無史さん:03/07/07 09:02
嫡流傍流以外の話題はないのね。
468日本@名無史さん:03/07/07 11:06
>>466
嫡流かどうかは誰かが決めるべきものじゃない。
469日本@名無史さん:03/07/07 11:25
嫡流傍流はしょせん結果論。
いちばん栄えた家が嫡流。
だから清和源氏の嫡流は頼朝の家で異論なし。
470日本@名無史さん:03/07/07 13:30
>>466
じゃあさ、『尊卑分脈』の記載は何?
少なくとも『尊卑分脈』が書かれた時点では
経緯がどうであろうが、
頼義流が嫡流だったと言うことだよね?
471日本@名無史さん:03/07/07 15:44
源氏自体天皇家の口減らし傍流。それと足利義満まで源氏長者は村上源氏の久我流。後はその他大勢。
472日本@名無史さん:03/07/07 21:18
>470
尊卑文脈がいつの時代に書かれたものか
把握してからレスしてくれ。
473470:03/07/07 21:38
>>472
南北朝期後半だろ?
勿論その後の書き込みも多いことくらい知ってる。
尊卑分脈の記載からすれば、
この時点での嫡流は足利将軍家ということになる。

で、だから君はどう思うわけ?
474日本@名無史さん:03/07/07 21:52
尊卑は「足利が嫡流」ということを主張するために
編纂されたもんだべ?

思考回路が逆だよ>473
475470:03/07/07 22:40
>>474
んなもん分かってるよ。

ただ、幾ら足利将軍家が
「俺は嫡流だ」
といったところで、貴族社会が認めなければ
意味がないんじゃないの?
足利将軍家の威勢があったからこそ、
自らを「源氏の嫡流」と位置づけた
『尊卑分脈』が貴族に受け入れられた
(押し付けられたとしても)
んじゃないかな。
476日本@名無史さん:03/07/07 22:51
>>475
貴族なんて、自己保身が一番。
義満の時も、義満が天皇になるのを指示していた公家もいたそうな。
これに反対したのは、斯波氏とかで。。。
むしろ、足利嫡流は、押し付けられたというより、貴族の方から積極的に応じたのであろう。
477_:03/07/07 22:52
478日本@名無史さん:03/07/07 23:05
源氏の「嫡流」は存在しない。強いて上げれば天皇家。皇統意識はあっても藤原氏みたいな氏族意識はな
いし、氏長者の権限もない。
479日本@名無史さん:03/07/07 23:22
嫡流傍流論争は不毛って事だな。

というわけで摂津源氏嫡流に固執する
香具師はアフォということで
ファイナルアンサー?
480日本@名無史さん:03/07/08 00:58
481日本@名無史さん:03/07/08 01:17
おけつ
482日本@名無史さん:03/07/08 02:05
鎌倉時代以降の源氏嫡流観は、源頼朝による歪曲がある。
それが、河内源氏嫡流観。
こんなの源頼朝による自家の宣伝と気づけよ。
483日本@名無史さん:03/07/08 05:04
>482
まだ続ける気かよ‥‥
ここまでくると、もはや宗教だな
バカバカしくてつきあいきれんわ
484日本@名無史さん:03/07/08 06:15
頼朝って、晩年はやたら京を懐かしんでたんだってね。
485日本@名無史さん:03/07/08 08:00
嫡流傍流はしょせん結果論。
いちばん栄えた家が嫡流。
だから清和源氏の嫡流は頼朝の家で異論なし。
源家三代が絶えたあとはいろいろあったけど結局足利家が嫡流になった。
足利家が絶えたあとは徳川家が嫡流になった。しょせんそんなもの。
486日本@名無史さん:03/07/08 11:32
そういや、棟梁=嫡流なのかな?
徳川の場合、棟梁ならなんとなく判るけど、嫡流って感じはあまりしないよね。
487 :03/07/08 12:38
>486
棟梁と嫡流は別。

源氏嫡流=摂津源氏
武家棟梁=河内源氏

河内源氏の源頼朝も、河内源氏分派の足利氏や、自称河内源氏分派の新田氏後裔の徳川氏も
武家棟梁だったが、源氏嫡流ではなかった。
488日本@名無史さん:03/07/08 12:43
頼朝は河内GENJIだったの???
489日本@名無史さん:03/07/08 23:23
河内源氏といってもみんあピンとは来ないだろう。
頼義以降、関東を基盤にしたようなイメージが定着したからな。
490日本@名無史さん:03/07/08 23:32
嫡流傍流はしょせん結果論。
いちばん栄えた家が嫡流。
だから清和源氏の嫡流は頼朝の家で異論なし。
源家三代が絶えたあとはいろいろあったけど結局足利家が嫡流になった。
足利家が絶えたあとは徳川家が嫡流になった。しょせんそんなもの。
491 :03/07/09 02:30
>488
関東に進出した源氏は、
現在の大阪府羽曳野市壷井を本拠地とした河内源氏で、
源満仲の三男の源頼信が初代。頼信、頼義、八幡太郎義家の河内源氏三代で東国を傘下にする。
頼朝は、その子孫だから、源氏の系譜の上では河内源氏。
492日本@名無史さん:03/07/09 02:32
サンクス。河内の源氏といえば光行・親行あたりを思い浮かべてますた。
493日本@名無史さん:03/07/09 02:33
源氏の嫡流=氏長者

これが正しい
494日本@名無史さん:03/07/09 07:19
氏長者の意味知ってるのか君は?
495日本@名無史さん:03/07/09 08:50
>>494
>>493の言うとおりだとすると、源氏の嫡流は村上源氏ということになるな。
清和源氏が源氏の嫡流になるのは徳川家康以降ということになる。
496日本@名無史さん:03/07/09 09:39
>493
これらを同一視したり混同したらいかんよ。
源氏の嫡流
清和源氏の嫡流
河内源氏の嫡流
497日本@名無史さん:03/07/09 09:44
源氏の始まり: 嵯峨源氏
源氏の嫡流 : 村上源氏
清和源氏の嫡流: 摂津源氏
摂津源氏の嫡流: 源頼政の系統
河内源氏の嫡流: 源義朝の系統
498日本@名無史さん:03/07/09 09:45
そもそも「嫡流」というコトバに固執するのは歴史研究者のすることじゃないけどな。
「嫡流」なるものが流動的で状況しだいでどうにでも変わることは自明。
499日本@名無史さん:03/07/09 18:10
>498
何度言っても、それを理解しないのが厨なのだよ。
500石橋尾張守:03/07/09 20:57
基本的には>>498>>485に賛成。
摂津源氏ヲタは、ここでは多くの人に相手してもらえて幸せですね。
実社会で頼政が嫡流で頼朝が庶流なんて言っても誰からも相手にされません。
501日本@名無史さん:03/07/09 21:00
家制度はまだ確立されてなかったのでしょうね。
502石橋尾張守:03/07/09 21:01
>>497
源氏の嫡流 : 村上源氏
てのは氏長者のことかな。
では義満以降は源氏嫡流は異論の余地なく足利氏で宜しいな。
503石橋尾張守:03/07/09 21:04
>>368

>584 名前: 博士手前 投稿日: 03/06/21 19:09
> 摂津源氏と河内源氏の話から遠のいているけど、
頼光の母は五位クラスの娘。ョ信の母君は大納言藤原元方の娘。
つまりョ信の方が母の格が上で正当を名乗る権利あり。
当時は母が誰の子か、母の身分はどの程度かが重要。

とのことだが、摂津ヲタの反論如何に。



504日本@名無史さん:03/07/09 21:05
でも、足利氏庶流の石橋氏は
源氏嫡流じゃないよ。

つかさ、石橋氏は足利氏庶流斯波氏の
庶流じゃん。
505500:03/07/09 21:18
三つのスレで同時進行的に嫡庶の話してる

新キャラ「伊勢平氏は傍流くん」も登場
しかし彼の場合は摂津源氏くんとは違い言い捨て
506日本@名無史さん:03/07/09 21:32
>>502
そのころは摂津源氏なんぞ消えていたでしょう。
507日本@名無史さん:03/07/09 21:48
500もくそも全然違ったカッコわりー
508日本@名無史さん:03/07/10 00:38
>>502
足利義満以降も源氏長者は足利家の独占じゃないよ。村上源氏と交代で長者を務めた。
源氏長者を独占したのは徳川家康以降。
509日本@名無史さん:03/07/10 02:30
藤原氏の氏長者なら有名だけど、源氏長者ってのが何なのかよくわからん。
そもそも源氏長者になって、何か具体的に得るものってあるの?
510日本@名無史さん:03/07/10 02:32
>509
源氏長者ってことそのものだけど。
511日本@名無史さん:03/07/10 02:51
>>509
有名無実の淳和院(平安初期の上皇居所、早くに消滅)と奨学院(源氏も含む皇別氏族の学寮、これも早々に
消滅)の別当です。源氏を始めとする皇別氏族の首席、まあ名誉職みたいなものです。藤氏長者みたいな朱器
台盤というレガリアの継承や、同族の勘当権もないですしね。
512日本@名無史さん:03/07/10 03:24
氏爵推挙
513日本@名無史さん:03/07/10 07:16
こちらでも嫡流論議してるよ
http://academy2.2ch.net/history/index.html
514日本@名無史さん:03/07/10 21:32
>513
2ちゃん初心者ですか?
515日本@名無史さん:03/07/12 09:10
源氏発端  :嵯峨源氏
源氏長者  :宇多源氏
清和源氏嫡流:摂津源氏
516日本@名無史さん:03/07/12 09:18
清和源氏嫡流にして日本史の傍流:摂津源氏
清和源氏傍流にして日本史の嫡流:河内源氏
517日本@名無史さん:03/07/12 09:23
>516
その通りです。
摂津源氏は、清和源氏の「嫡流」でしたが、日本史の「傍流」でした。
他方、河内源氏は、清和源氏の「傍流」なるがゆえに実力で武装し、日本史の「嫡流」になったのです。

つまり
摂津源氏:清和源氏嫡流
河内源氏:武家棟梁
518日本@名無史さん:03/07/12 09:47
歴史の初心者が空疎な嫡流論争をしているスレはここですか?
519日本@名無史さん:03/07/12 10:22
>518
本人達は初心者だと思ってないから怖いんだよな。
520日本@名無史さん:03/07/12 11:17
516=517
なんでもいいけど自作自演だね。
>日本史の嫡流
>日本史の傍流
なんだよそりゃWw
521日本@名無史さん:03/07/12 11:28
>520

>516は勝者中心の史観しかないんだよ。高校の日本史の先生が戦前生まれだったんじゃないの?
522日本@名無史さん:03/07/12 11:28
>>520
傍流とは君のことだよ
523日本@名無史さん:03/07/12 11:30
>>521
歴史を知っている?
勝者しか語れないんだよ。
そうでないとしても、摂津源氏に語るべき歴史はない。
524日本@名無史さん:03/07/12 11:31
>>519
ただの素人だよ。
玄人がここに来てるわけないだろう
525日本@名無史さん:03/07/12 11:32
>>521
嫡流庶流論争にこだわるのは敗者中心の史観なのでつか?
526日本@名無史さん:03/07/12 11:33
>>516=517=520
なんでもいいけど自作自演だね。
>日本史の嫡流
>日本史の傍流
そんなわけのわからんことばが通用するのは
君の脳内だけだぞ
一応忠告してあげる(藁
527日本@名無史さん:03/07/12 11:37
>>526
同意。
摂津源氏は、源氏の嫡流であって、日本史の傍流である。
528日本@名無史さん:03/07/12 11:38
嫡流傍流にこだわるのは山崎渉以下のクズ!
529日本@名無史さん:03/07/12 11:39
摂津源氏の歴史は、頼政で終わりました。
530日本@名無史さん:03/07/12 11:40
>>529
いや、ちゃうで、明智はんは撰津源氏の流れでっせ。日本史の中で脈々と語り継がれてまっせ。
531日本@名無史さん:03/07/12 11:47
明智氏=撰津源氏
頼政子孫=摂津源氏
532日本@名無史さん:03/07/12 12:50
美濃源氏の土岐氏は摂津源氏。
土岐光信が、源頼政の系統の養子となり、源頼政の摂津源氏の系譜を継ぐ。
明智氏は土岐氏の庶流。
武田信玄の四名臣の一人の馬場信春の馬場氏も元は美濃の土岐氏の庶流。
533日本@名無史さん:03/07/12 14:06
太田道潅とか池田輝政とかも摂津源氏の流れだよ〜
534日本@名無史さん:03/07/12 14:22
撰津源氏 ってなんだ?
>>1
京都の東寺の西側に、清和源氏発祥の地がありますが、あれは何ですか???
536日本@名無史さん:03/07/12 14:38
1と535は同じレベルの素人
537日本@名無史さん:03/07/12 17:21
>>533
岡山藩の池田氏の出自は林羅山が創作したもの
538日本@名無史さん:03/07/12 17:45
>537
何故摂津を選んだんだろう?
河内じゃ、徳川家とかぶってマズイってことかな?
539日本@名無史さん:03/07/12 18:30
>>532
>土岐光信が、源頼政の系統の養子となり、源頼政の摂津源氏の系譜を継ぐ。

ソースキボンヌ。
540日本@名無史さん:03/07/12 20:14
>535
あそこは源満仲の父の六孫王経基の館のあったところとされ、満仲が父の経基を祀ったのが当地にある六孫王神社の由来のようです。
つまり、東寺の西側にある六孫王神社は、清和源氏初代の源経基の縁の地として「清和源氏発祥の地」とされています。
ただ、武士団としての清和源氏が形成されるのは、二代目の源満仲の多田の地によってなので、武士としての清和源氏発祥の地が多田とされているようです。

>538
源満仲が多田の地を領したのは、銅山があり、資金調達にうってつけの地だったからと聞いています。

>539
そういうのは土岐氏の系譜からではないですか。土岐氏が源頼政の系譜を継いだかどうかは知りませんが、土岐氏は摂津源氏の一族ですね。

541日本@名無史さん:03/07/12 20:46
>540

>538は満仲が摂津を選んだ理由ではなく、
池田氏が摂津源氏を選んだ理由を聞いている。
542日本@名無史さん:03/07/13 04:10
>>541
単純に地名が存在したからじゃないの
543日本@名無史さん:03/07/13 10:23
>540はものしりだ!歴史博士だね!
544_:03/07/13 10:30
545日本@名無史さん:03/07/13 12:16
>>541
本当だから。
546日本@名無史さん:03/07/13 13:09
>545

なるほど。なっとく。
547日本@名無史さん :03/07/14 12:53
源経基5男の満快の曾孫・伊那為公の妻は(河内)源氏惣領・源頼信の娘だね。
その子供六人から多くの家が興ったね。源満快流信濃源氏もよろしく。
中津乗、伊那、村上、依田、片切(桐)、堤氏他。
548日本@名無史さん:03/07/14 19:11
で、源氏嫡流は
摂津源氏
大和源氏
河内源氏
のどれなの?
549日本@名無史さん:03/07/14 19:40
嫡流・庶流にこだわること自体、非歴史学的な思考だね。くだらん。
550日本@名無史さん:03/07/14 19:45
発展性が無いからな。考えるだけ無駄。
そもそも、このスレは発祥の地を語るスレでは?
551日本@名無史さん:03/07/14 21:33
清和源氏が雄飛した地は鎌倉であろう。
552日本@名無史さん:03/07/15 05:09
>551
清和源氏というより清和源氏頼信流=河内源氏だろう。
553_:03/07/15 05:12
554_:03/07/15 05:15
555日本@名無史さん:03/07/15 09:32
清和源氏が雄飛した地は京都であろう。 (源頼朝、足利尊氏)
556名無しさん@お腹いっぱい。:03/07/15 10:16
川西は清和市に改名しよう
557日本@名無史さん:03/07/15 10:51
>555
清和源氏というより清和源氏頼信流=河内源氏だろう。
558日本@名無史さん:03/07/15 10:58
清和源氏初代経基ゆかりの地: 六孫王神社(京都市南区)
武士としての清和源氏発祥地: 多田神社(兵庫県川西市多田)
武家棟梁の河内源氏の本拠地: 壷井八幡宮(大阪府羽曳野市壷井)
河内源氏子孫頼朝幕府開設地: 鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)
河内源氏子孫尊氏幕府開設地: 京都市中京区室町)
559日本@名無史さん:03/07/15 11:00
摂津源氏=源氏嫡流
河内源氏=武門棟梁
大和源氏=????
560日本@名無史さん:03/07/15 11:05
歴史の初心者が空疎な嫡流庶流論争をしているスレはここですか?
561山崎 渉:03/07/15 11:33

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
562ええじゃないか:03/07/16 20:36
      ええじゃないか ええじゃないか♪
     \\  嫡流なんかどこでも     //
 +   + \\     ええじゃないか♪/+
                            +
.   +   /■\  /■\  /■\  +
      ( ´∀`∩(´∀`∩)( ´ー`)
 +  (( (つ   ノ(つ  丿(つ  つ ))  +
       ヽ  ( ノ ( ノ  ) ) )
       (_)し' し(_) (_)_)
563日本@名無史さん:03/07/16 20:57
こっから「そうはイカンザキ」「生意気な頼朝をしめてやる」
に持ってこうとおもったけど、AAとテンプレがみつかんなかった

「命だけは!命だけはッ!」
身をよじらせて命乞いする鎌倉頼朝を、頼政が荒縄で台に縛り付ける。
平清盛は醜悪な笑みを浮かべながら、鎌倉頼朝の肌を撫で回した。
「ひッ!許してくださいッ!」
つぶらな瞳が、哀訴するように清盛の方へ向けられる。
鎌倉頼朝の体は小刻みに震えていた。
男たちは満足げな表情を浮かべると、ゆっくりと直衣を脱ぎ始める…
「イヤだーーーーーーーッ!!!」
「抵抗しても無駄だ」
耳元で囁く清盛の声とともに息がふっと鎌倉頼朝の耳にかかる。
「うッ・・・くゥッ・・・」
ぞくぞくっとした感覚と共に鎌倉頼朝の体がよじれた。
「一人前に感じてやがる」
頼政がにやりとほくそえむ。
564日本@名無史さん:03/07/17 12:03
清和源氏発祥の地
http://www.tadajinjya.or.jp/
565日本@名無史さん:03/07/17 12:13
能勢電鉄の多田駅前にある源満仲の銅像
http://www.eonet.ne.jp/~yorisan/newpage73.htm
566kazu:03/07/17 12:14
☆頑張ってまーす!!☆女の子が作ったサイトです☆
       ☆見て見て!!
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567本家傍流@大和源氏:03/07/17 16:27
>>559  大和源氏=????
????扱いされるぐらいなら「大和源氏=大和一家総長」でいいや。
平安時代に「2ちゃんねる」があったも日本史板じゃなく、興福寺一家
との抗争事件で「アウトロー板」の住人だったろうし。

568本家傍流@大和源氏:03/07/17 16:30
>>567
「あったも」→「あっても」
569日本@名無史さん:03/07/18 10:40
清和源氏武士団発祥の地の兵庫県川西市多田にある多田神社の源氏まつりには、
多田満仲から多田行綱まで登場し、摂津源氏の源頼光やその四天王の渡辺綱、坂田金時や
河内源氏の頼信、頼義、義家から、頼朝、義経、義仲に巴御膳と、ほぼオールスターキャストですが、
大和源氏は源頼親をはじめ登場しませんね。
570日本@名無史さん:03/07/18 18:05
>569
多田院・多田神社の歴史を調べてみなよ。

あそこは摂津源氏の造立で、のち河内源氏に接収された。
大和源氏はかかわっていない。だから、登場しないのは当然。

伝承だと、頼親も創建の時に何か寄贈したことになってたか?
細かいのは忘れたが、ま、そんなのは後付だからな。どうでもいいわ。
571本家傍流@大和源氏:03/07/19 01:09
>>570
源頼親が多田院建立の際に寄贈したのは、普賢菩薩像。
572日本@名無史さん:03/07/19 08:26
>571
ま、そんなのは後付だからな。どうでもいいわ。
573日本@名無史さん:03/07/19 21:13
>>227
>甲斐源氏逸見家文書も陽成説だったような気が汁し。

待ってますよん
574日本@名無史さん:03/07/20 08:20
>573
ま、そんなのは後付だからな。どうでもいいわ。
575日本@名無史さん:03/07/24 12:57
清和源氏の嫡流は摂津源氏ですね。
576日本@名無史さん:03/07/24 13:03
>>575
摂津源氏とはいっても多田には植民地があるだけで基本的には
在京でしょ。坂東の平氏たちのように地方の人間というわけで
はない。

577日本@名無史さん:03/07/24 13:04
嫡流・庶流はしょせん結果論。
そのときいちばん栄えている家がそのときの嫡流。
鎌倉時代には頼朝の子孫が嫡流。
室町時代には足利家が嫡流。
江戸時代には徳川家が嫡流。
578日本@名無史さん:03/07/24 16:19
清和源氏の嫡流は源頼朝ですね。
579日本@名無史さん:03/07/24 16:21
>>578
頼朝が生きているあいだはな。
580日本@名無史さん:03/07/24 17:18
>578-579
ワロタ
581日本@名無史さん:03/07/25 00:46
>576
多田が植民地W
多田は摂津源氏の本拠地だろう。
京都は事務所みたいなものだよ。
582日本@名無史さん:03/07/25 00:52
>>581
じゃあそれを実証してくれよ。
583日本@名無史さん:03/07/25 00:53
新羅三郎はやっぱり韓半島出身だったの?
584日本@名無史さん:03/07/25 08:35
>583
下見てみな、脳みそ落としたよ。
585日本@名無史さん:03/07/25 12:04
>583
釣りだろうが、もう古いよそれは。
586日本@名無史さん:03/07/25 13:56
賀茂次郎殿は新羅三郎殿にカモにされて御滅亡あそばしますた。
587日本@名無史さん:03/07/25 14:55
しかし、義綱の子孫はいるんだよね。太田氏とか。
588日本@名無史さん:03/07/25 18:01
>583

はぁ?義光ごときが、大朝鮮出身のわけないだろ?
ちっとは頭使えアフォ!
589日本@名無史さん:03/07/26 00:17
>588
韓国人が、新羅三郎義光を朝鮮人だと主張してるのだよ。
おまえこそ脳みそ空っぽのドアフォだな!!
590日本@名無史さん:03/07/26 00:27
坂東に半島出身入植者が少なからず存在したのも事実らしいから、
全くの空虚な妄説でもない。
荘園の管理人が荘園支配者の名前を騙るのは良くあった事だから。
591日本@名無史さん:03/07/26 00:57
新羅三郎義光が鮮人だったら
八幡太郎義家も鮮人になっちまうだろ(゚Д゚)ゴルァ!!
592日本@名無史さん:03/07/26 01:02
なんか、アテルイの話でそんな意見を聞いた覚えが。
593日本@名無史さん:03/07/26 03:14
やっと嫡流ネタが終わったと思ったら今度は朝鮮ネタかよ
どこまで堕ちていくんだ、この糞スレはW
594日本@名無史さん:03/07/26 08:27
>590
入植したのは天武朝だろ。
何年経ってると思ってるんだ。
595日本@名無史さん:03/07/26 10:58
ところで、亀山源氏(常磐井宮系)とか、後二條源氏(木寺宮系)は存続されているの?
596日本@名無史さん:03/07/27 03:20
してません
597日本@名無史さん:03/07/28 13:58
>591
八幡太郎義家や加茂次郎義綱は日本人だが、
新羅三郎義光は新羅からの移民の子孫で、頼義の養子になったのかもしれんよ。
598日本@名無史さん:03/07/28 16:08
>597

そういう可能性もあるんですか。日本史は奥深いなぁ。
599日本@名無史さん:03/07/28 20:51
そもそも八幡は朝鮮の神。八幡の総本山、宇佐はかつては秦王国と呼ばれており、朝鮮系の秦氏の国があった。
よって源義家は朝鮮系と推察される。

ってゆーか、明仁日王も認めたとおり、桓武日王は朝鮮系。
その子孫の清和日王もその子孫である清和源氏も当然朝鮮系。
もちろん陽勢日王も朝鮮系。
600日本@名無史さん:03/07/28 21:08
次々と暴かれる日本史のうそ
601日本@名無史さん:03/07/28 21:10
>>597-600
きみたちは中学生かい?
602日本@名無史さん:03/07/28 23:27
中学生が可哀想だよ。
603日本@名無史さん:03/07/29 01:01
朝鮮学校の生徒だろ
604 :03/07/29 01:41
>599
韓国はそういう見方で、いろいろ日本にケチつけているわけですねW
605日本@名無史さん:03/07/29 08:36
義光なんかが朝鮮人でも、朝鮮にメリットはないな。
606日本@名無史さん : :03/07/31 03:42
>599
韓国の「正しい歴史」とは、そんなに幼稚でデタラメなのか。
他のことも推して見るべしだね。
607日本@名無史さん : :03/07/31 14:24
やはり、源氏嫡流論議にしないと盛り上がらないね。
608日本@名無史さん:03/07/31 14:39
盛り上がればいいというモノではない!  と激昂してみるテスト
609日本@名無史さん:03/07/31 14:46
>608
いやいや、あなたのおっしゃるとおり。
610日本@名無史さん ::03/08/01 15:19
で、結局どれなの?

1. 摂津源氏が清和源氏嫡流
2. 河内源氏が清和源氏嫡流
3. 嫡流は後年の産物
611日本@名無史さん:03/08/01 19:38
>610

4.>610は友達のいないキモヲタ
612日本@名無史さん:03/08/01 21:26
>>611
残念。不正解。漏れはキモくないし、友達もちゃんといます。
今度一緒にコミケいくもんねー。
613日本@名無史さん:03/08/01 21:36
4.名乗ったもん勝ち
614山崎 渉:03/08/02 01:04
(^^)
615日本@名無史さん:03/08/02 08:49
>612
顔赤いぞ
616日本@名無史さん:03/08/02 11:39
>>614
顔赤いぞ
617日本@名無史さん:03/08/02 12:47
>612
十分キモイ
618日本@名無史さん:03/08/02 12:57
充分、と言ってみるテスト
619日本@名無史さん:03/08/02 16:55
十五分キモイ
620日本@名無史さん:03/08/02 23:25
十五分だけキモイ
621 :03/08/04 16:06
清和源氏嫡流って何ですか。
622日本@名無史さん:03/08/04 16:07
>>621
そんなものは存在しません。架空の概念です。
623 :03/08/05 03:11
清和源氏嫡流なんてものは、頼朝が自己を正当化するために作ったもの。
624日本@名無史さん:03/08/05 04:07
摂津源氏が清和源氏の嫡流と聞きましたが
625 :03/08/06 00:58
そうです。摂津源氏が源氏嫡流です。
頼朝の河内源氏は傍流です。
        ,,,--─===─ヽ/へ
      /iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
     iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
    iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
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   iiiiiiiiiiii/                \iiヽ
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629日本@名無史さん:03/08/08 16:42
童子切り安綱を持つものが源氏の嫡流ということでよろしいですか?
630日本@名無史さん:03/08/08 17:00
>629
じゃぁ、俺だな。
631日本@名無史さん:03/08/08 17:34
漏れも持ってますが、何か?
632日本@名無史さん:03/08/08 18:42
>>630 >>631

東京都だよ。
633日本@名無史さん:03/08/09 13:19
東京都のものは俺のもの。俺のものは俺のもの。
634 :03/08/11 04:51
>629
「童子切り安綱」って何?
635日本@名無史さん:03/08/12 02:16
>634
636 :03/08/12 04:09
>635
そんな刀、源氏に伝わってましたか?
637日本@名無史さん:03/08/12 04:19


多田?
うんじゃ、多氏という渡来人だべ。新羅か百済か不明だが。
おそらく、新羅関係の神社で元服しているので、そーでしょうな。ほほ
加賀国との貿易で富を得た渤海人かもな。渤海=新羅だったかな?
638日本@名無史さん:03/08/12 04:42
>>636
足利将軍の家宝
639日本@名無史さん:03/08/12 09:06
>637は十市郡に本拠を持つ古代豪族多氏の存在を知っていて書いているのか、知らないで書いているのか。
640日本@名無史さん:03/08/12 11:00
>>639
知ってるよ。舟氏、津氏とか、同系だな。
641639:03/08/12 12:41
>640
>舟氏、津氏とか、同系だな。

マジ?それは知らん買った。
船・津氏は完全な渡来系だが、多氏も渡来系ってこと?
『日本古代氏族人名辞典』『日本古代氏族事典』ともに、
渡来系とは書いてないや。
教えてくんで悪いが、参考資料教えてくん。
642日本@名無史さん:03/08/12 19:23
>>641
HPでも検索できるが、書籍では、今塗れは持っているのは、
「青銅器の足跡」((谷川健一)の「青の一族」項、他。
643日本@名無史さん:03/08/12 20:34
>加賀国との貿易で富を得た渤海人かもな
なんかの再建費用一人で全部持ったとかっつって
桁違いの金持ちだったんだっけ頼光って
644百済:03/08/12 21:13
>>643

私の考えじゃ、江戸前島を日本史から削除した理由も不明だが(多分、意図的だろうが)、
前島は鎌倉・円覚寺領で、江戸時代以前にかなり栄えていた。
渤海貿易といえば、高句麗なわけで、多くの高句麗人が日本海側にいたろうよ。
加賀地方で渤海貿易で儲けたのがけしからん、ということせ朝廷は越中の一部であった
同地方を加賀国として分化し監視を強化している。

平安末期には、加賀の白山社が全焼し、その領民とかの処遇を巡って、平家と比叡山が
係争。結果、平家が白山社の領土と民を支配したとある。
源平合戦後、頼朝は、その領地・領民、富を分捕ったんではないか?
で、関東には白山神社が多いのだと仮説を立てている。
関東では被差別部落のランドマークなどと言う輩がいるが、上記の流れで類推すると
その有様は何らかの関係が見えるのだが。。。

因みに、白山神社の御神体は菊里姫、つまり「くくり姫」ということ。くくり=高句麗。
645日本@名無史さん:03/08/12 21:27
>>1 多田院多田院所は多田神社(旧多田院)があるところです。

 多田満中って、いろいろあるね、いろいろ
646日本@名無史さん:03/08/12 21:38
>>644   百済殿
もしかしると、古代の渡来人の多くが武蔵国に移住させられたそうだが、
とすると、渤海の高句麗人と敵味方となるのですか?
半島のほうでは、民族同士でも出身成分とか何とかやたら差別が多いので、
濡れは、古代の百済人 VS 渤海高句麗人の図を描いてしまた。
関東の白山神社の分布を見てみます。
647日本@名無史さん:03/08/12 22:38
>643
>なんかの再建費用一人で全部持ったとかっつって

道長の上東門第を再建する際に、調度一切を献上した。
其の調度の行列にみんなびっくらしたと。
648日本@名無史さん:03/08/12 22:39
渡来人の話はよそでやったら?
649643:03/08/13 09:57
記憶違いだった、647さんが正しいです
650日本@名無史さん:03/08/14 09:29

新羅三郎だっけか?
651日本@名無史さん:03/08/15 03:31
源満仲-----頼光:摂津源氏
    +--頼親:大和源氏
    +--頼信:河内源氏
652日本@名無史さん:03/08/15 07:15
多田庄に住んでたから、多田だろうに
653日本@名無史さん:03/08/15 07:48
>650
なにが?
654山崎 渉:03/08/15 12:13
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
655日本@名無史さん:03/08/16 00:20
656日本@名無史さん:03/08/16 08:37
能勢電鉄川西池田駅前にある
源満仲(多田満仲)の像

http://homepage3.nifty.com/photoimages/img-box/img20030816083407.jpg
657日本@名無史さん:03/08/16 18:18
658昨日のテレビ:03/08/16 18:40
日本の現行法では、墓や仏壇(祭祀財産)は、指名制で親から子に継がせるもの。
摂津源氏の嫡流は頼政じゃなく、多田院と多田院所を継承した多田氏だね。

659日本@名無史さん:03/08/16 19:06
>658
現行法で摂津源氏の嫡流を判定してもねぇW

それは別としても「多田院と多田院所」を継承したからといって多田氏は嫡流とはいえない。
それなら河内源氏も石川庄や香路峰(河内源氏の館)を継承した義時の流れの石川氏が嫡流になるだろう。
660日本@名無史さん:03/08/16 19:16
>>659
現行法といっても、慣例に倣ってできてるはず。
勝手に傍流が祭祀を継ぐんですか?
内は、一番上の伯父(東京)、二番目の伯父(本籍地)、父(東京)で
先祖代々の墓を継いでる二番目の伯父が当主ですが?

河内の場合、頼信が勧請した鶴岡を、頼朝が祖霊を祀る場所とした。
661日本@名無史さん:03/08/16 21:25
また「はず」かよ。

それに時代によって違うだろ。
662日本@名無史さん:03/08/17 00:40
平安時代と現代とでは1000年もの隔たりがあるんだが・・・。
それはともかく、河内源氏の嫡流が石川氏でないと言うことが、
摂津源氏の嫡流が多田氏ではないということの根拠にはならん罠。
663m:03/08/17 00:44
一番感じるサイト!
http://homepage3.nifty.com/manko/
664多田行綱:03/08/17 13:30
清和源氏嫡流は最高だよ
665宇野親治:03/08/17 13:35
>662
摂津源氏における多田氏と、河内源氏における石川氏は似たようなものだろう。
どちらも、それぞれの本拠地を相続している。

摂津源氏: 源姓嫡流: 源仲政・源頼政
     多田氏 : 多田行綱

河内源氏: 源姓嫡流: 源為義・源義朝
     石川氏 : 石川義興
666日本@名無史さん:03/08/17 17:58
>>665
で、源仲政・源頼政 の系統が嫡流であることの根拠は?
平安末の貴族は嫡流だろうが近衛、九条のようにそれぞれ家名を称し始めるわけなんだけど。
本拠地の相続が嫡流の根拠にならんのはそのとおりだが、源姓だからといって
嫡流だというのはいかがなものかと。
667 :03/08/17 18:04
>>666
源為義・源義朝の系統が嫡流であることの根拠も問わないと。
それとも摂津源氏は根拠はいるが、河内源氏は根拠は不要なのか。
668 :03/08/17 18:09
>666
「源姓だからといって嫡流だというのはいかがなものかと。」
反対だよ。嫡流だからこそ源姓。
源仲政・頼政が嫡流なのは、摂津源氏の家職である大内守護を継承していることからも分る。
669日本@名無史さん:03/08/17 18:35
所領がないから
苗字もないだけだべ?
670日本@名無史さん:03/08/17 19:13
所領と関係のあるのは名字
671日本@名無史さん:03/08/17 19:15
田畠を相続しなかったものが故郷を捨てて上京し、生計をたてたのだろう。
672世界@名無史さん:03/08/17 19:15
>>668
だから当時は嫡流だって藤原氏のように新たに苗字を名乗る時代だって言ってるんじゃないの?
673日本@名無史さん:03/08/17 19:20
氏と名字は別のものだから、名字を名乗ったから氏を捨てて分家という事はない。
当然ながら名字が親と違っていても、名字が親と同じ兄弟に対して分家という事も
ない。
674日本@名無史さん:03/08/17 19:29
話がループしまくり

416 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 03/06/29 02:34
>415
源姓のままなのが嫡流の根拠なのか? ではなくて、逆。
嫡流だからこそ源姓だった。
河内源氏も源姓で苗字ではなかったが、これは東国へ進出したから。
東国土着の平氏系の苗字武士団に対して源姓のままであることが、
指導権確立の重要な精神的要因でもあったから。
義家的な武力だけでは東国土着の平氏系の苗字武士団の棟梁にはなれない。
675日本@名無史さん:03/08/17 22:47
>>668
なるほど、今で言えば、兄貴は田舎の田畑ついて、農家。弟は、都会で起業に成功し。社長になった、そんなものか。
676日本@名無史さん:03/08/17 23:06
ボナバルト家は、ナポレオンは傍流、ジョセフが嫡流だ。
677日本@名無史さん:03/08/18 00:53
でも状況により武田、安田、平賀なんかが嫡流となる可能性もあった。
だからそれぞれ粛清されてる。
678日本@名無史さん:03/08/18 00:59
天皇家は、綏靖は傍流、神八井(多氏の祖)が嫡流だ。
679 :03/08/18 01:00
河内源氏は保元の乱と平治の乱で壊滅し、河内源氏の嫡流は崩壊している。
だから、源頼朝も木曾義仲も甲斐源氏の武田信義も、常陸源氏の佐竹氏も
新田氏や足利氏もみんな対等のバトル・ロイヤル状況。要するに勝ち抜き戦。
つまり、源氏の各勢力は、対平家との合戦と共に、他の源氏との指導権争いを展開していた。
680日本@名無史さん:03/08/18 01:05
確かに対等ではあったが
従五位下右兵衛佐の官歴を持つ人間が有利だったのは事実
681日本@名無史さん:03/08/18 01:48
>>677
…だから?
682日本@名無史さん:03/08/18 02:40
そう。
だから・・・。
683 :03/08/18 02:54
>680
流罪人の頼朝にとってそんな官位は関係ないよ。
そういう見方は、すべてが終わった鎌倉時代から見ての解釈。
684日本@名無史さん:03/08/18 03:01
何言ってんだか。
当時五位の有位者(剥奪されたとはいえ)と無位の者では
天と地ほどの開きがある。時はまだ平安末期。実力主義の
戦国時代ではない。
685 :03/08/19 02:55
>684
アホまるだし。
そういう頼朝観なんて鎌倉時代に作られたものじゃないかW
686 :03/08/19 02:59
>684
そんな官位の効力は、凋落しつつあった公家などには意味があったかもしれんが、
東国の武士には何の効力も無し。
頼朝が源氏諸系統の中での自分の地位保全に没頭したのか考えることだな。
687日本@名無史さん:03/08/19 10:44
武田一族が殆ど滅亡した主犯は頼朝だろうか、それとも石和信光だろうか。
688日本@名無史さん:03/08/20 00:36
>686
アホまるだし。
一体いつの時代のことを言ってるんだよW
689 :03/08/20 02:10
>688
お前こそアホまるだしだよ。
686をアホ扱いしているということは、684を肯定しているわけだ。
684こそ、時代認識の欠落したアホの見本だがね。
690日本@名無史さん:03/08/20 10:31
二元論か。
691日本@名無史さん:03/08/25 19:25
>689
>時代認識の欠落したアホの見本
おまえ自身のことを言う言葉としか思えんぞ。
官位が東国武士には無効だっていう根拠は何だよ?
692多田満仲:03/08/26 05:40
摂津源氏は最高だよ話に戻そうよ
693多田行綱:03/08/26 05:42
摂津源氏こそ源氏嫡流だよ。
しかし、摂津源氏の嫡流は・・・
694日本@名無史さん:03/08/26 11:13
>>691
根拠は無い。
しかし事実だ。
695日本@名無史さん:03/08/26 11:53
みんなで多田神社に行きませんか。
696日本@名無史さん:03/08/26 21:46
イイネ
697日本@名無史さん:03/08/26 22:15
>694
おまえおもしろいぞ。
698日本@名無史さん:03/08/27 00:15
>694
おそれいりますた(w
699日本@名無史さん:03/08/27 02:39
>東国の武士には何の効力も無し。

アフォか。だったらあんなに官位もらうのに熱心になるかよ。
在庁になりたがるかよ。
国衙末端組織にしがみついたり、中央権門との結び付き求めたり。
700日本@名無史さん:03/08/27 02:58

701日本@名無史さん:03/08/27 05:03
>699
プッ。
東国武士にとって官位は、名誉的なお飾りじゃん。
702日本@名無史さん:03/08/27 05:09
清和源氏関連の社めぐり

●六孫王神社 京都市南区 (初代源経基を祀る)
●多田神社  兵庫県川西市(源氏霊廟。源満仲、頼光、頼信、頼義、義家を祀る)
●壷井八幡宮 大阪府羽曳野市(河内源氏の氏神。宮司は義家の後裔の高木氏。近くの通法寺跡には、源頼信、頼義、義家の墓がある)
703日本@名無史さん:03/08/27 14:49
>>701
その名誉が欲しいってことだろ
704日本@名無史さん:03/08/27 22:39
在庁志向は官位の累進と逆の行為では?
705日本@名無史さん:03/08/28 01:08
地元での権威
706日本@名無史さん:03/08/30 06:55
河内源氏の三八幡宮

■ 壷井八幡宮  大阪府羽曳野市。河内源氏の氏神。
■ 石清水八幡宮 京都府八幡市。源義家が元服。
■ 鶴岡八幡宮  神奈川県鎌倉市。鎌倉幕府。
707日本@名無史さん:03/09/01 08:01
しかし、源氏の云々とか言う人多いけど、弾佐衛門だって頼朝直系なんでしょ。
源氏って蘇我氏の子孫で元は虐げられた日本先住民の子孫の事だとか。
遊郭は昔は源氏屋といったらすぃ。

源氏の末裔→北条氏から逃げ回って、賎民生活を始める。

賎民生活の源氏の地域の親分がやがて戦国武将として返り咲き。

信長・秀吉の時は平氏が優遇され、家康からは源氏が優遇される。

明治維新で昔南朝に味方してからずっと賎民生活(B地区親分)を
していた新田がその祖先の功より男爵となった。
708日本@名無史さん:03/09/01 15:17
>>707
頭大丈夫か?
デムパちゃん?
709日本@名無史さん:03/09/01 15:29
>>707
>>源氏って蘇我氏の子孫
 清和源氏と宇多(近江)源氏って違うの?蘇我氏は騎馬民族系でしょ?
 
>>遊郭は昔は源氏屋
源氏名とかの由来もそうなのかな?

710日本@名無史さん:03/09/01 16:59
>>707
岩松氏のどこが賎民だよ。

つーか、どこの国の歴史だ?それは。
711日本@名無史さん:03/09/01 18:01
>707は確信犯だろうからイイとして、

>709
>源氏名とかの由来もそうなのかな?

すこしは勉強しろ。
712日本@名無史さん:03/09/01 20:06
>>709
源氏物語
713日本@名無史さん : :03/09/05 11:40
摂津源氏のこと教えて下さい。
714日本@名無史さん:03/09/05 12:20
清和天皇以外から出た源氏はどうなてんの???

>709
源氏名も芸名も同じようなもんだよね。
兄貴のパソコンからこそ〜り盗んできた(^^;
http://www.crystal-online.tv/crl_showpage.asp?I=NIF
http://www.crystal-online.tv/report/kitagawa_rep.html
715日本@名無史さん : :03/09/05 13:15
>714
嵯峨天皇から出た源氏・嵯峨源氏
「源氏物語」の主人公の光源氏のモデルとされる源融が初代。
源綱、大阪の渡辺邑で育ち渡辺綱と名乗る。源頼光の四天王。
渡辺氏は宮中警護の滝口武者の一族で、摂津源氏の郎党。
渡辺氏の支族の松浦氏は、北九州の水軍松浦党の棟梁。
716日本@名無史さん : :03/09/05 13:18
清和源氏以外で武家を生んだのは嵯峨源氏くらいか。
とはいえ清和源氏の大企業ぶりに比べると嵯峨源氏は中小企業みたいなものか。
他は、宇多源氏も村上源氏もみんな公家だね。
717日本@名無史さん:03/09/05 15:05
赤松・北畠系諸家=村上源氏
佐々木=宇多源氏
718日本@名無史さん:03/09/08 23:39
>>710
岩松は怪しいよ
岩松満純が新田義貞の孫ってのは年代的に無理がある。
家臣の横瀬と同じ穴の狢では?
719日本@名無史さん:03/09/08 23:46
>>718
しかし足利時代に新田の末裔をわざわざ自称するのもおかしなものだ。
何か複雑な事情があるのでは。
720日本@名無史さん : :03/09/09 13:38
岩松は、足利の傍流だが、婚姻で新田との関係が親密になった。
室町時代は、足利一族に列し、明治になると忠臣になった新田氏の一族に列した。
721日本@名無史さん:03/09/09 16:17
>>720
逆じゃなかった?
新田の傍流だったけど、足利某が婿養子に入り・・・足利一族に列し・・・
なんかのカンチガイかも知れんが。
722日本@名無史さん:03/09/09 18:50
>>720>>721
岩松氏の成立には複雑な新田・足利両家の事情がある。
思いきりはしょって説明すると、まず、足利義純に嫁いだ新田の娘・来王御前が離縁され、子供と一緒に出戻ってきた。
娘の実母である新田尼は、これをとても哀れに思い、何かと可愛がって面倒をみた。
どうやら新田尼は、宗家の孫である新田政義より、娘の孫の時兼の方が可愛くなったらしく、
こちらに新田本宗家の所領を大量に相続させ、荘内の岩松に住まわせて、地頭職まで与えた。
結果、新田本宗家は弱体化し、対照的に岩松は本家よりも羽振りがよくなった。
‥‥そういうわけなので、岩松氏は、血脈的には新田・足利両家の一族といえばいえるのだが、
どちらかといえば、新田一族と世間では見ていたようだ。
なお、岩松が新田姓を称したのは何も明治になってからではない。
上杉禅秀の乱の時、すでに「新田岩松満純」などと称している。
江戸時代に新田姓を将軍家に返上、明治になって、政府に申請して新田姓に復した。
723日本@名無史さん:03/09/09 18:58
>>719
足利時代だからって、全ての新田氏が足利幕府に忌避されていたわけではない。
山名とか桃井だって元は新田氏だし、大館氏は将軍直属の親衛隊みたいなのになった。
要するに幕府の認識は、敵対していたのはあくまで新田義貞とその直系尊属、というものだったのでは?
724日本@名無史さん:03/09/09 19:05
>>718
岩松氏は、足利義兼の長男、足利義純と、
新田義兼の娘との子である時兼から始まる。
よって、父系では足利系であるし、
時兼は祖母である新田尼(新田義兼室)から
所領を譲られて、鎌倉時代を通じて
実質新田一族として遇されていた様だ。
文永5年には岩松政経(時兼孫)が、
得川頼有(新田義重孫)の養子となって所領を譲られ、
得川氏の惣領も兼ねることになる。

新田義貞の子孫と言い出したのは、
江戸時代に入ってから。
新田氏を名乗る徳川氏の世の下、
岩松氏の家臣筋である由良氏が新田義貞嫡孫を称して
高家に加えられたのに対抗して、
岩松氏は室町時代の一族の内訌で散逸した
古文書を発見・収集することになるわけだが、
この過程で新田義貞子孫とする
系図が偽造されたんじゃないかな。
725日本@名無史さん:03/09/09 19:33
>>723
岩松満純は、その新田義貞の孫ってことになってるんだが。
直系尊属じゃん‥‥
726日本@名無史さん:03/09/09 19:38
桃井は足利なのか。それとも新田。
727日本@名無史さん:03/09/09 20:40
>>722
おいおい。また随分古い説を持ち出してきたな。
「らいわう御前」は「新田義季」というのが現在の通説だぞ。
それに、「来王(頼王)」は明治になってからの当て字で、
実際はどういう漢字が使われていたのか分からない。
足利義純の妻は世良田長楽寺に伝わる系図では
「岩松女子」と記されている。
義純妻が離縁されたというのも『新田族譜』に見える記事で
(「新田岩松系図」にもそれを匂わす様な記事はあるが)、
実際は死別して義純が畠山重忠室と婚姻した可能性だってある。

岩松が新田を称していたのは、
文字通り新田一族である、ということと、
新田本宗滅亡後に、足利将軍家から
新田氏惣領と認められたからでもあるのだが。
728722:03/09/10 01:34
>>727
レスどうも、物知りですね。>722の説ってそんなに古いの?
来王御前が世良田(得川)義季ではないか、という説があることは一応知っていましたが、
それが今は最有力になっているなんてちょっとビクーリ。
一体、どういう経緯でそっちの説の方が有力になったんですかね?
729日本@名無史さん:03/09/10 12:29
>728
あまり深く追求しないほうがいいよ。
武士の情
730日本@名無史さん:03/09/10 19:52
>>729は煽り?(w

>>728
故尾崎喜左雄先生が
『群馬文化』62〜64号(昭和37年)に、
「新田義重譲状の『らいわうこせん』」
という論文を発表して以降、
らいわう=新田義季というのが定説となって、
新田氏研究の基礎でもある『新田町史』なども、
この説を採っている。
ただし、これには異説もあって、
らいわう=新田義兼
というものもあるようだ。
731 :03/09/12 13:46
美濃源氏について教えて下さい。
732日本@名無史さん:03/09/17 20:57
美濃源氏は土岐氏
733日本@名無史さん:03/09/17 23:17
岩松氏本来の出自より、永享の乱で幕軍の将として下向してきた岩松満純の遺児長純
こいつが重要なんじゃ。
734日本@名無史さん:03/09/19 09:23
明智光秀は本当に美濃源氏の土岐氏の一族なのですか?
735日本@名無史さん:03/09/19 12:00
そうらしいけど
736日本@名無史さん:03/09/19 12:08
私は知っております、2度程参拝に行きました。しかし彼処が
源氏発祥の地とは不思議な気持ちに成りました。
737日本@名無史さん:03/09/20 16:27
清和源氏発祥の地: 兵庫県川西市多田。当地は、源満仲の長男の頼光の摂津源氏の本拠地に。
武家棟梁河内源氏発祥の地: 大阪府羽曳野市壷井。当地は、源満仲の三男の頼信の河内源氏の本拠地に。頼信、頼義、義家三代の地。
738日本@名無史さん:03/09/30 22:54
多田神社の前には、赤い欄干のついた大きな反り橋が架かっている。
橋下の川は、岩に流れをしぶかせて、結構きれいな風景だ。
たまにバイクで多田神社の前まで行き、タバコをふかせながら佇む。

漁業権が設定されているので、入漁料が必要になり
ただでは釣りができない。
きれいな流れに見えるんだが、昨今背骨の曲がった魚が見つかり、
話題になった。
多田神社には、全国源氏の会(?)みたいなのがあるらしい。

近隣の能勢氏や塩川氏も多田源氏を称していなかったっけ?
739日本@名無史さん:03/10/01 01:34
清和源氏発祥の地?
そりゃ京都さ
源姓を賜った経基の家さ

いや、清和源氏は貞純、経基の流れだけじゃないからな。
正確に言うと宮中だな。清和が○○した宮中さ
740日本@名無史さん:03/10/04 21:33
●「氏族」としての清和源氏の発祥地:京都市南区・六孫王神社(源経基の館の跡地に子の満仲が社を建てたのが始まり)
●「武士団」としての清和源氏の発祥地:兵庫県川西市多田・多田神社(源満仲、頼光、頼信、頼義、義家を祀る源家霊廟。足利将軍家、徳川将軍家も分骨)
●「武家棟梁」としての清和源氏の発祥地:大阪府羽曳野市壷井・源頼信、頼義、義家の河内源氏三代の本拠地(菩提寺跡の地域には頼信、頼義、義家の墓がある)
741日本@名無史さん:03/10/05 14:47
武士団としての清和源氏ってのは、源氏一族以外に武士団に参加した豪族
とかも含めてという意味の武士団?
742日本@名無史さん:03/10/05 20:18
>741
武士団としての清和源氏とは、武家としての清和源氏というとで、
郎等には源家以外の者もたくさんいるだろう。
武家・武士団としての清和源氏を形成したのは2代目の源満仲。
彼は、多田の館に多くの郎等を集めた。後の武家としての源氏の原型。
多田の館の武士は、公家護衛の平安型武士となり、源頼光の摂津源氏に見られる。
後の武家に近い武士となるのは、河内に移った満仲の三男の源頼信の河内源氏。
以降、武家としての源氏という場合、こちらが代表になる。
743日本@名無史さん:03/10/05 22:21
「清和源氏の末流」と称する一族って後に日本全国に出てくるけど、
武士団清和源氏の発足初頭の頃にいた源姓以外の御家人たちの子孫
の場合でも清和源氏の末流になるの?
744日本@名無史さん:03/10/06 01:09
>743
なりません。
御家人という言い方は適切ではなく、郎等というべきですが、それはともかく、
末裔とか子孫という場合は、血縁的な集団か、家の名跡の継承になります。
つまり、清和源氏の子孫という場合、庶流傍流であれ、先祖が清和源氏一族の
誰かであるということ。
源氏武士団の郎等つまり構成員は、先祖が源氏以外であれば源氏ではありません。
例えば、源頼光の四天王(つまり、頼光率いる源氏武士団の幹部構成員)は、
渡辺綱、碓氷貞光、占部末武、坂田金時ですが、
渡辺綱は源氏でも嵯峨源氏、碓氷貞光は橘氏、占部末武は桓武平氏、坂田金時は不祥です。
渡辺綱は、源頼光の源氏武士団の重要な構成員ですが、彼の子孫は、嵯峨源氏の子孫ですが、
いかなる場合も「清和源氏の末流」式の言い方はしません。
また、源義朝の股肱の臣とされる鎌田政清は、義朝の率いる源氏武士団の郎等の代表ですが、
彼は藤原姓であり、それゆえ彼の子孫は藤原氏の子孫になります。
745日本@名無史さん:03/10/07 04:56
金時は下毛野だろ。
ところで貞光が橘ってソースきぼんぬ
746日本@名無史さん:03/10/07 08:42
>745
太田亮『姓氏家系大辞典』の第1巻650ページの「碓井」項に
橘姓と記されている。平姓という言い伝えもあるらしい。
747日本@名無史さん:03/10/07 12:31
貴族の血が入ってない(源でも平でも藤原でもない)普通の地方豪族とかも
たくさん武士団にいるんでしょ? そういう人達はどうなったんかね・・
748日本@名無史さん:03/10/07 21:31
どうなったんかね・・って
何が知りたいんかね
749日本@名無史さん:03/10/13 05:19
清和源氏は関西なんですね。
750日本@名無史さん:03/10/13 05:20
実態は、関西の源氏、関東の平氏だよ。
751日本@名無史さん:03/10/14 05:03
摂津源氏
大和源氏
河内源氏
だものね。
美濃源氏は摂津源氏系だし、
甲斐源氏や常陸源氏、足利源氏、新田源氏は河内源氏系
752日本@名無史さん:03/10/14 09:05
んなこといったら平氏は京都じゃん。
753日本@名無史さん:03/10/15 00:29
>752
そこまで戻るのは意味なし。源氏も京都だから。
平氏は坂東平氏と伊勢平氏だろう。
754日本@名無史さん:03/10/15 01:03
>>753
ずいぶんご都合主義な区分だね。
そんなのでなんか意味あるの?
755日本@名無史さん:03/10/15 16:39
源平合戦というのは

河内源氏と伊勢平氏の戦いだったのね
756日本@名無史さん:03/10/15 17:10
↑いままで知らなかったのかよ(汗
757日本@名無史さん:03/10/16 20:13
ROMはいくらでもいるだろ
758日本@名無史さん:03/10/25 09:48
で、源氏の嫡流は?
759日本@名無史さん:03/10/25 11:59
>758
またかよ
厨房はしつこい
760日本@名無史さん:03/10/25 12:38
>758
摂津源氏だよ。
その話はもういい。失せろ!!
761日本@名無史さん:03/10/25 17:43
みんな、もっと真面目に発言しよーぜ!
762日本@名無史さん:03/10/28 11:52
大阪府羽曳野市の通法寺跡にある八幡太郎義家の墓を見てきました。
763日本@名無史さん:03/11/05 16:38
清和源氏の嫡流は、今は誰なの?
764日本@名無史さん:03/11/05 16:44
徳川恒孝氏
765日本@名無史さん:03/11/06 03:12
徳川が源氏じゃないのは明白なのに?
766日本@名無史さん:03/11/06 03:22
源氏の氏の長者は、足利義満が公家からむりやり奪いました
767日本@名無史さん:03/11/06 17:37
格式では徳川が頭のあがらなかった
吉良殿こそが正統源氏。
768日本@名無史さん:03/11/06 18:30
清和源氏頼光流太田氏もエントリー

769日本@名無史さん:03/11/06 21:09
>>767
頭上がりまくりなんすけど。喜連川もいるし。
770日本@名無史さん:03/11/07 00:12
清和源氏頼光流(摂津源氏厨によると清和源氏「嫡流」らしいが)の土岐氏も候補。
771日本@名無史さん:03/11/07 00:43
土岐氏出身の出世頭ってどこ?
772日本@名無史さん:03/11/07 01:02
山県有朋公爵
773日本@名無史さん:03/11/07 13:34
清和源氏正統は摂津池田氏だろ? 

774日本@名無史さん:03/11/08 02:30
「源氏嫡流」「源氏長者」「源氏正統」
これらは同じことなの?
別のことなら、それぞれどういうことなの?
775日本@名無史さん:03/11/08 13:08
嫡子の系統なら嫡流。 清和源氏満仲を基準にすると摂津源氏頼光流が嫡流?
嫡子の系統ではないけど、最大勢力を持っているところが正統(正確には主流派)?

長者=一族一の金持?
776日本@名無史さん:03/11/08 20:18
>775
つまり

源氏嫡流=摂津源氏
源氏正統=河内源氏
源氏長者=村上源氏
というあたりですかね。
777日本@名無史さん:03/11/09 01:46
>>774>>775>>776
また粘着かよ
嫡流厨は去ね
778日本@名無史さん:03/11/09 03:47
>777
発端は、>763 だろうが。ちゃんとレス読め。
おまえみたいなのが中途半端なことで満足してしまう奴で、
歴史的なものとは無縁の手合いなんだな。
779日本@名無史さん:03/11/09 04:30
>>778
>発端は、>763 だろうが。ちゃんとレス読め。

だからなに?>>763も加えてほしかったのか?
780日本@名無史さん:03/11/10 16:29
>779
中途半端性が指摘されるや、話をスリ代えて居直ることしか出来ない奴。
こういう手合いは歴史とは一番無縁な輩だな。
気づけよ自分で、猿よ。
781日本@名無史さん:03/11/12 20:07
清和源氏は六孫王経基が有名だが、経基流以外は清和源氏はなかったの?
782日本@名無史さん:03/11/12 20:31
>>780
バカか、こいつ?何が中途半端なんだ?
まるで猿なみ(w
783日本@名無史さん:03/11/12 20:55
っていうか、なんで「一番無縁」なんだろう??
784日本@名無史さん:03/11/13 02:01
まあまあ
嫡流厨と認定されたのがよっぽど恥ずかしかったんだろ?
哀れと思って見逃してあげなよ
785日本@名無史さん:03/11/14 20:42
>>781

いっぱいいるよ。
源重之なんて有名な歌人。

http://www.tanutanu.net/roots/database/s/seiwa1.htm
786 :03/11/17 00:18
清和源氏は最高だよ
787 :03/11/18 21:32
何が最高なのか?
788日本@名無史さん:03/11/18 22:02
赤穂浪士に討ち取られた吉良上野介義央なんか最高にカッコワルイ。
789日本@名無史さん:03/11/18 22:38
790 :03/11/18 23:07
>788
老人相手に徒党組んで押し入る粗暴犯にしかすぎない赤穂浪人の方が本当はカッコワルイよ。
791日本@名無史さん:03/11/18 23:10
少数の織田信長に討ち取られた今川義元なんか最高にカッコワルイ。
792 :03/11/19 03:20
話を清和源氏に戻しましょう。
793日本@名無史さん:03/11/19 06:17
吉良上野介義央も今川義元も清和源氏の末裔じゃん。
794名無し募集中。。。:03/11/19 19:34
>>1 清和源氏は開拓移民としてどこから多田地区に移住してきたのかな?
朝鮮半島南部か?九州北部か?
まさか縄文人で先住民からの土着民ではないだろ?
795日本@名無史さん:03/11/19 19:39
>>794
馬鹿だ…。馬鹿がいる。
796名無し募集中。。。:03/11/19 19:55
>>795
馬鹿という言葉は本来日本語ではない、朝鮮半島から渡ってきた外来語である。
古来、日本には馬は存在せず、その存在しない馬の字をあてはめること自体外来語である。

それは発音的にも「バカ」「バカヤロー」「バセイ」「バジトウフウ」「バフン」
など発音に「バ」を多用する者は朝鮮からの渡来人に多く見られる。
797日本@名無史さん:03/11/19 20:35
>>1
清和源氏の発祥地は京都だよ。
http://www.tanutanu.net/roots/database/s/seiwa1.htm
>>796
馬鹿はサンスクリット語のmohaに、中国での故事からこの字を当てた
もので、日本では京都で広く使われていたものが全国に広まったんだ
よ。もう一つ、阿呆(アホ)は中国江南地方の方言で「幼児」という意
味。これは馬鹿より後に京都で使われ出して、広まって行った言葉だ
よ。
798日本@名無史さん:03/11/19 22:22
うちの母親の性が、清和でした。
北関東の一地方に住んでいたました。
799日本@名無史さん:03/11/19 22:46
清和のむかし 貞元の 
皇子がおわせし この里に♪

千葉県君津市貞元に貞元親王の墓がある。
800日本@名無史さん:03/11/19 22:59
⊂(゚Д゚,,⊂⌒`つ≡≡≡<今だ800ゲットー!!
801 :03/11/20 00:17
清和源氏発祥地:源経基: 京都
清和源氏武士団発祥地:源満仲: 兵庫
清和源氏武家棟梁発祥地:源義家: 大阪
802完全理論武装論者:03/11/21 19:24
セイワゲンジ
セイトゲンウジ

成和建設
成都興業
セイントセイヤ
中国南西部成都市出身
征途元治

つまり中国成都市付近からわけありで日本列島九州地方に移住、勢力を拡大せんとすべく
王族の命令で先住民である縄文人征伐に近畿地方に遠征、途中立ち寄った兵庫県多田地方に
居を構えて勢力拡大の拠点にする、そしてその地域を最初に治めたので「元治」という名前を授かり
先祖の出身地の中国「成都」の地名を冠にして、「成都元治・セイトゲンジ」の名前をつける。
後に「大和・ヤマト」政権誕生の大きな足がかりとなってくる。

「ヤマト」が「倭」から派生した言葉であり日本列島は古来から「倭人・ヤマト人」の住む土地であったが、
大和政権誕生後の日本国内では「倭人=和人・ワジン」と呼び名を変えた、これは「大いなる和」という
多民族国家である大和朝廷を、強い軍事力で持って平和によって治めるという考えから、
「大きな平和」が変化したものである。

よって「成都元治・セイトゲンジ」一族もその流れに従い「成都・セイト=成和・セイト」となり「成和・セイワ」
から「清和・セイワ」として清らかな平和という意味に変更した。また「元治・ゲンジ」は大和朝廷の王族そのものと
混同するおそれがあるために、元と源がほぼ同じ意味のために「源治・ゲンジ」へとなり「源氏・ゲンジ」となっていった。
これが清和源氏と名乗るとになった由来である。(推測)
803日本@名無史さん:03/11/21 19:51
うちも清和源氏だわ。
今度帰ったら蔵の家系図見て清和天皇になってるか
陽成帝になってるか見てこようっと。
しかし、昔の家系図ってひどいよな。
嫁さんが女とか名前ですらなかったりするし。
804日本@名無史さん:03/11/21 20:45

源頼朝 ┬頼家
     │         
      ├実朝
     │   
     ├貞暁
     │   
     ├女        
     │   
     └女


みたいな感じで、いきなり「女」って何だよ、とか思ったよなw
805日本@名無史さん:03/11/21 21:14
>>802
電波キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!!
806 :03/11/22 02:27
清和源氏嫡流は、やはり摂津源氏なのですか?
807 :03/11/22 18:34
そう摂津源氏こそが源氏の嫡流。
源頼朝の先祖の河内源氏は傍流だよ。
808日本@名無史さん:03/11/22 19:21
摂津厨キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!!
809校長が強盗:03/11/22 19:26
この事件は報道されていません。教育委員会も校長を処分しません。
 皆様の力でこの事件を広めてください。
被害者先生のサイト
 http://www.geocities.co.jp/NeverLand/8595/
 事件究明を求める署名サイト
 http://chiba_273.at.infoseek.co.jp/
   ∧_∧
  (  ^^ )< ひろめよう
ここはまじめなサイトです。事件をひろめるために
 このコピーをあちこちにはってください。<(_ _)>
810日本@名無史さん:03/11/22 19:54
傍流が棟梁になったんだから嫡流の立場がないよのお。
811日本@名無史さん:03/11/22 21:07
徳川家の嫡流は越前家だが、将軍には傍流の江戸家が継いだ。
812日本@名無史さん:03/11/22 21:54
ちゃくるーーーー
813 :03/11/23 04:54
清和源氏の源家嫡流は、摂津源氏。
清和源氏の武家棟梁は、河内源氏。
814日本@名無史さん:03/11/23 08:31
うまれた順番だけで嫡流傍流が決まるとはしらんかった。
815日本@名無史さん:03/11/23 09:29
>>813
源家嫡流 ただの名誉名称か。
816名無し募集中。。。:03/11/23 10:08
なんだかよくわかんないけど、
ののたんここに置いていきますね

   ∋oノハヽo∈
    (´D` ) <アーイ
   O^ソ⌒とヽ
   (_(_ノ、_ソ
817 :03/11/25 05:28
源氏は、京都で成立し、兵庫で武士団となり、大阪で武家の頂点に立ったんだね。
818 :03/11/25 05:29
よく、東国の源氏、西国の平氏と言われるが、
実際は、関西の源氏、関東の平氏だね。
819日本@名無史さん:03/11/25 06:52

全く意味のない指摘だな。
その「東国の〜」というのは、源平の争乱期の情勢を表現した言葉なんだが。
820日本@名無史さん:03/11/25 10:24
821多田人成:03/11/25 17:35
 陽成天皇の生物学的父親は在原業平だという説があるんでげすが、
知ってる人いますか?
 ティーンエイジャーの陽成天皇が宮中で殺人事件を起こしたのも、
そんな噂を聞いてグレたせいかと思うんだが。
822 :03/11/25 19:29
>819
「源平の争乱期の情勢を表現した言葉なんだが。」
そうでもないよ。
源平争乱期以前についても言われているが。
それより、あなたの言う「源平争乱期」とは、どの頃以降を指すの?
823日本@名無史さん:03/11/25 21:00
源氏と平氏が争ってた時期ならばふつう保元平治以降でない?
824日本@名無史さん:03/11/25 21:05
>>818
関西弁発祥の地は源氏って言うことが判りました。ありがとうございます。
825日本@名無史さん:03/11/25 23:50
>>822
源平争乱期というと少々時代が下りすぎで、正盛、忠盛以降だな。
まあ中央で、河内源氏の対抗馬として伊勢平氏が力を持ちはじめてからだろう。
826日本@名無史さん:03/11/26 19:27
>824
八幡太郎義家は、大阪の南河内の河内源氏の館で生まれて育っているから、
義家は、河内弁を喋っていた可能性大。
たとえば『今昔物語』に出てくる義家の祖父の頼信の言葉は、かなり河内弁に近い。
827日本@名無史さん:03/11/26 21:08
>>826
>たとえば『今昔物語』に出てくる義家の祖父の頼信の言葉は、かなり河内弁に近い。

この河内弁って、古代の河内弁?現代の河内弁?
828日本@名無史さん:03/11/27 00:08
>>821
それがホントなら業平ごいす〜w
皇后に種付けして、斎宮とやって子供作るわ、押尾ロックだね♥
829日本@名無史さん:03/11/27 01:02
>>822
>よく、東国の源氏、西国の平氏と言われるが、
>実際は、関西の源氏、関東の平氏だね。

この関西の源氏、関東の平氏、っていうのはいつの時代のことなのかな?
東国の源氏、西国の平氏、というのと時代が違うんじゃないの?
詳しく解説キボンヌ。
830日本@名無史さん:03/11/27 21:00
>829
源氏はもともと関西が本拠地で、関東に進出したのは、八幡太郎義家が有名な河内源氏。
その河内源氏も、河内という名詞に示されるように大阪府の南河内が本拠地。
頼信、頼義、義家の三代で関東の平氏系の土着武士団を郎等化。
河内源氏のウェイトが関東寄りになるのは、頼朝の父の義朝あたりからだろう。
義朝の父の為義は京都におり関西が本拠地だったから。
義朝が関東を本拠地とし、その子の頼朝が鎌倉に幕府を開くことにより、源氏の関東化が定着。

源経基(清和源氏初代) 関西・京都
源満仲(清和源氏二代) 関西・兵庫
源頼光(摂津源氏初代) 関西・兵庫
源頼信(河内源氏初代) 関西・大阪
源頼義(河内源氏二代) 関西・大阪
源義家(河内源氏三代) 関西・大阪
源為義(河内源氏系) 関西・京都
源義朝(河内源氏系) 関東
源頼朝(河内源氏系) 関東・鎌倉
831日本@名無史さん:03/11/27 21:05
つまり保元の乱において源為義らが敗れ、子の源義朝が勝利することにより、
源氏(河内源氏)は、関東が本拠地となるといえる。
そして平治の乱で源義朝が敗れ、その子の頼朝の鎌倉幕府により、関東の源氏が再興される。しかし孫の実朝の代で滅亡。
832日本@名無史さん:03/11/27 21:09
833日本@名無史さん:03/11/27 22:04
>830
本拠地云々より、郎党がどこの在地豪族か、というのを見た方がいいぞ。
834日本@名無史さん:03/11/27 23:06
>>830
そういう言い方するのならば、
そもそも河内源氏は代々受領階級の貴族なんだから、本拠地は京都に決まっている。
単に屋敷がどこにあるかではなく、武士団に着目して、ウエイトは東国か西国か、
って視点は持てないのかな?
835日本@名無史さん:03/11/28 16:38
>833>834

厨に何を言っても無駄だよ。
そっとしておいてやれ。
836日本@名無史さん:03/11/28 17:53
>834
京都は、いわば事務所の所在地だよ。
本社の所在地は、それぞれ摂津多田、大和宇野、河内石川だろう。
本拠地とはベースの地。
なぜ、摂津源氏とか大和源氏、河内源氏という言い方で区別されるのかを考えればいい。
837日本@名無史さん:03/11/28 18:02
源氏の仲にも西国派と東国派があり、
西国派が、畿内源氏の代表の摂津源氏で、東国派が関東を勢力化にした河内源氏。
しかし河内源氏も義家あたりまでは、本拠地は河内で、関東は勢力圏にすぎない。
河内源氏の本拠地が関東に移るのは、義家の死後。
河内石川の河内源氏伝来の本拠地は、五男の義時が継ぎ、義家死後、関係が緩慢になった関東の在地武士との関係を緊密にするため、
関東に下った義朝、さらには義堅らにより、関東が源氏の本拠地となる。
838日本@名無史さん:03/11/28 18:33
>>836-837
何の話してるのかわかってる?

>よく、東国の源氏、西国の平氏と言われるが、
>実際は、関西の源氏、関東の平氏だね。

この話してたんじゃなかったのか?
源氏−河内源氏、平氏−伊勢平氏という、同時期に覇を競い合った二大軍閥?を比較して、
勢力圏はどこかってことだろう?石川にこだわりすぎ。
839日本@名無史さん:03/11/28 19:59
>838
別に、>836,>837 は問題ないよ。
「勢力圏はどこかってことだろう?」と書いているが、
「本拠地はどこか?」という問題でもあるのでは?
だとすれば、河内源氏の場合、河内石川は重要だよ。
840日本@名無史さん:03/11/28 20:01
河内源氏について整理しよう。

「東国の源氏」という場合は、河内源氏の「勢力圏」を問題にしている。
「関西の源氏」という場合は、河内源氏の「本拠地」を問題にしている。
841日本@名無史さん:03/11/28 20:07
ところで、義親にかわって義家の後を継ぎ、義朝の父だった
六条判官為義は、保元の乱の上皇方の源氏の棟梁として有名だけれど、
河内源氏の歴史の中では、どういうことをして、どういうポジションにいるの?
842日本@名無史さん:03/11/28 20:45
>>839
源氏の場合、本拠地と勢力圏が異なる。
河内石川は庶家が領有。

>>840
>よく、東国の源氏、西国の平氏と言われるが、
>実際は、関西の源氏、関東の平氏だね。

「実際は」というからには、この「東国の源氏、西国の平氏」というのは
誤りだと主張しているようにとれるんだが。
843日本@名無史さん:03/11/29 00:38
>>830
義朝は中央貴族。
オヤジがヘタレで出世できなかったからちょっと田舎でいじけてみただけ。
844日本@名無史さん:03/11/29 02:19
>842
「源氏の場合、本拠地と勢力圏が異なる。」 
同意。本拠地は関西の河内石川。勢力圏は関東。

「河内石川は庶家が領有。」
それは義家死後のこと。義家までは河内源氏の本拠地。

「東国の源氏、西国の平氏」
は、勢力圏については正しいが、本拠地については誤り。
そうであるかぎり、無前提的に「東国の源氏、西国の平氏」と言うことは正しくない。
源氏の東国化が実現するのは源義朝の時。

845日本@名無史さん:03/11/29 02:54
>>844
源家は武士である以前に受領であり、本拠地は京都。
義朝の本拠地も京都。
平家も今日に舞い戻ってからは京都が本拠地。
したがって本拠地を比較しても仕方がない。

846日本@名無史さん:03/11/29 06:15
>845
京都は事務所所在地にしかすぎないW
847日本@名無史さん:03/11/29 08:04
>>846
根拠は?
848日本@名無史さん:03/11/29 10:42
皆さんの言っている「本拠地」の概念を教えてください。
>836 に
>本拠地とはベースの地。
ってあるけど、「ベースの地」ってどういうこと?

時代異なるから参考にならんけど、

江戸時代の旗本は、知行地は江戸から離れたところにあり、
そこから収入を得たり、そこの名主たち住民を家臣と同様に扱い、
代々の墓もその知行地にある。
でも、住居は江戸で、普段その知行地にいくことはない。

摂津源氏にとっての多田、河内源氏にとっての石川は、
そんな感じに見えるのだけど。
849日本@名無史さん:03/11/29 13:41
本拠地=自宅のある所では。
河内源氏の場合、河内石川の香呂峰という館が自宅で、周囲に郎等が住んでいた。
摂津源氏の場合も多田館も同じようなもの。
850日本@名無史さん:03/11/29 13:54
安田元久『源義家』(人物叢書。吉川弘文館)によると、

「満仲の諸子のうち、父の嫡流を継いだ頼光は摂津源氏を称し、頼親は大和国に本拠を置いて大和源氏の祖となり、
頼信は河内国古市郡を本拠として、河内源氏の基を開いた」
「河内源氏の本拠は、先述の如く河内国(大阪府)古市郡の壷井郷一帯の地(現在、羽曳野市)」
「河内源氏は、こうした地域に居館を構え、そこを本拠地として、古市郡・石川郡一帯にわたり、一族の繁栄・発展を見せた」
851多田人成:03/11/29 14:07
陽成天皇の父親が在原業平だという説の根拠(傍証)

1.陽成天皇の母親である藤原高子は、入内前に在原業平と
 駆落ち事件を起している(これは『伊勢物語』芥川の段にも
 取上げられていて、二人が出来ていたのはほぼ確実)。
  
 『三代実録』では「体貌閑麗、放縦不拘、略無才覚、善作倭歌」と評されて
 おり、女を口説く才能だけには優れていたらしい(処女でなければならない
 斎宮を孕ませたりしてるし)。

2.百人一首に採られた

  ちはやぶる神世もきかず竜田河唐紅に水くくるとは

 という在原業平の歌は、古今集の詞書に

  二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河に
 もみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる

 とあって、高子の入内後も私室に出入りしていたことが分かる。

3.陽成天皇の第一皇子・元良親王が、在原業平に匹敵するほどの色好み・
 女誑しで、宇多天皇の寵妃であった藤原褒子にも手を出していたことが
 知られている。 これは隔世遺伝というものであろう。
  今昔物語』巻第二十四には、

  極き好色にてありければ、世にある女の美麗なりと聞こゆるは、
 会ひたるにも未だ会はざるにも、常に文を遣るを以て業としける

 とある。
852日本@名無史さん:03/11/29 17:14
それが本当なら、没落した平城天皇の血統が、
もう一度皇位に復活していたことになり、
たいへん興味深い。

さらに、源経基も業平の血を引いていたことになり、
清和天皇とは全く血縁がなかったことになってしまう。

853多田人成:03/11/29 19:14
ついでに間男ネタをもう一つ。

 天皇も間男されてばっかりではなかったようで、第72代・白河天皇も
譲位の後、孫にあたる第74代・鳥羽天皇の女御・璋子に手を出して妊娠させた
という説がある(『古事談』によると鳥羽天皇は叔父子とよんで嫌っていたらしい)。
 そして生まれた子供を無理矢理皇位につけた(第75代・崇徳天皇)が、
これが皇位争いの原因となって保元の乱を起したことになる。

 また平清盛が貴族社会で異例の出世を遂げ、従一位・太政大臣にまでなった
のは、実父が平忠盛でなく白河天皇であったからだと言われている。
854日本@名無史さん:03/11/29 20:31
℃素人かヴォケ>853

白河は鳥羽の女御に手を出したんじゃなくて
自分の養女・璋子に手をつけて鳥羽に払い下げたんじゃ。
そんな有名なことくらい知っとけ。
855多田人成:03/11/29 23:51
>>854
 白河天皇が養女にしていた璋子に手をつけていたのは確かだろうが、
彼女が入内したのは永久五年(1117)、第一皇子・顕仁親王(崇徳天皇)
を生んだのは元永二年(1119)のことだよ。
 昔の人は妊娠期間が2年もあったのかなあ?

 間男を捕らえてみればお爺様
856日本@名無史さん:03/11/30 11:08
>>850

安田元久は中世史の人間。
中世の常識で書いている。
しかもその人物叢書は30年以上前のもので、
評価も変わってきている。
857日本@名無史さん:03/12/01 01:43
>856
頼信から義家までの河内源氏の本拠地が河内石川であることは、安田元久に限らず、そして現在も異説はないよ。
義家個人の評価は変わってきているだろうが。
858日本@名無史さん:03/12/01 05:06
>>857
摂津源氏、河内源氏ともに代々の当主の官途は中級貴族そのもの。
代々在国で、果たしてその地位を維持できるものなのか。
そもそも安田元久らのいう「本拠地」というのが居住地を指しているのか疑問。
「東国の源氏」のように、勢力圏をあらわし、そこに別邸があったというだけではないのか。

で、「関東の平氏」とは?
859日本@名無史さん:03/12/01 09:34
っていうかさあ、いつの時代の話してんのよ?
源氏VS平氏の時期の話してたんじゃないのか?
860日本@名無史さん:03/12/01 14:49
>858
東国は源氏の勢力圏として別邸があったことは確か。
それに対して本拠地とは本宅の所在地で、河内源氏の場合は河内国石川郡壷井ということ。
河内源氏の菩提寺があった(通宝寺跡)し、氏神(壷井権現、壷井八幡)もある。
関東の平氏といのは、所謂、坂東平氏でしょう。
源氏より早くに武士化した平氏は、早くより関東に土着して武士団を形成していた。
坂東は平氏系武士団の地で、そこへ約1世紀後に河内源氏が進出してきて、
平忠常の乱を平定した源頼信、前九年の役の源頼義、後三年の役の源義家の
河内源氏三代により、関東在地の平氏系武士団は河内源氏を棟梁にすることになる。
861日本@名無史さん:03/12/01 17:32
>>860

石川に河内源氏の所領と菩提寺があったのは、確かにそうだし、
みんな知っている。
問題は、そこが本当に「本宅」なのか、ということ。

河内源氏は、河内に完全に土着・留住してるわけではなく、
都で官職について活動している。当然、都にも邸宅があった。
都>鄙の時代に、どっちを「本宅」とするかは明らかではないか。
862日本@名無史さん:03/12/01 19:28
>>860
そもそものきっかけはこれなんだが。

 818 名前:   投稿日: 03/11/25 05:29
 よく、東国の源氏、西国の平氏と言われるが、
 実際は、関西の源氏、関東の平氏だね。

「東国の源氏、西国の平氏」ということばで何を思い浮かべる?
河内源氏が東国の諸豪族を家人化し、
伊勢平氏が西国に勢力を広げた時代のことを言ってるとしか思えんのだが。

それに対して河内源氏嫡流が摂津石川を維持していた時代を持ち出しても、
何の反論にもならない。平氏が西国に勢力を広げるのはもっと後の時代だから。
わかる?時代が違うんだよ。
863日本@名無史さん:03/12/01 20:37
>862
論点は、すでにそれではないのだよ・・・。
864日本@名無史さん:03/12/01 21:53
>>863
ん?単に本拠地というミクロな話になってるだけだが・・・。
865日本@名無史さん:03/12/01 22:34
というわけで、うんちくをくりひろげている各々方は、

本拠地の概念と、論じている時期を述べてくれ。

本拠地の概念については、自分の脳内設定ではなく、
根拠となる史料、もしくは先行研究を提示してね。
866日本@名無史さん:03/12/01 22:48

言い出しっぺからドウゾー
867日本@名無史さん:03/12/02 02:20

言い出しっぺはオマエダロー
868日本@名無史さん:03/12/02 07:46
>>865
あと勢力圏の概念モナー
869日本@名無史さん:03/12/02 17:00
このスレタイトルが「問題になる」余地あったのですか?驚きました。

うちでは「清和のルーツは河内源氏」で疑う余地なくずっと来ました。
実際栃木県内にも河内町だったか、河内郡がありますよね。
多田庄は多田源氏では?

大阪の富田林と太子町の近辺(石川ぞい)がテリトリーだったはずです。
ここはまぎれもなく「河内」であり、ここから東国へ下ったから
旧所をしのんで地名を付けた、のじゃないかと想像します。

太子町の通法寺には源氏三代の墓がありますね。
あまり観光客は来てないが。
870日本@名無史さん:03/12/02 18:40
>>869
ちょっと驚いた。まあガンガってべんちょして栗。
詳しく知らんけど下野の河内郡成立は源氏の坂東進出よりも早いはず。
871日本@名無史さん:03/12/02 19:59
下野国河内郡は『万葉集』に見えている。

河内源氏がタイムマシンで過去にさかのぼって、
旧所をしのんだ、のじゃないかと妄想します。
872日本@名無史さん:03/12/02 21:27
河内源氏関係の研究書、論文、また一般解説書も、どれもみな
河内源氏の本拠地は、河内国石川郡壷井としていますね。
これに異説を唱える研究者はいません。
873日本@名無史さん:03/12/02 21:55
>872

素人なもんで、研究書とか見られません。
後学のために、それらが何をもって本拠地としているのか、
本拠地とはどういうものとしているのか、教えてください。
できれば、書名も。
874869:03/12/02 22:05
壺井八幡宮、今改修されて立派ですよ。ここが屋敷跡だったと言われています。
まぁ、3男でも味噌っかすでも運と力があれば何とでもなる、ということかもしれない。
河内源氏は多田源氏から見れば傍流ですから。

あの、綱吉の生母と親しかった僧隆光がトバサレたのも壺井にある通法寺とか。
これはインターネットで調べて知ってビックリした。

875日本@名無史さん:03/12/02 22:11
八幡の改修するなら、墓の周りを整備しろといいたかったな。
876869:03/12/02 22:17
>>873
平安時代の大貴族の日記(書名今ど忘れ)には

父が没して喪があけたので高野山へ参詣したが、その時、源氏の某(同)
に警護させた。帰りは河内の市が立つにぎやかな場所で食事をして別れた。
その時、自分の持っている喪服、その他の時服を何着かやった。
喜んでいた。

とあります。(内容は記憶に間違いないです)
源氏の武士はこの程度の立場だったから、京を中心にして活動していたのは
間違いないのでは?。呼ばれたら参じてたってことでしょう。

郎党や妻がどこにいたか、という意味で本拠地を論じていて
もし議論が分かれるのなら、私もぜひそれを聞きたいです。
877日本@名無史さん:03/12/02 22:24
>>874
あれ?>>869ではトンデモなことかいてたのにw
878869:03/12/02 22:43
私の家では清和源氏が頂いた領地は河内の太子、河南と聞いていました。
当主はどこにいたかと言えば、おそらく京都に単身赴任だったろうと。

その点で異議を唱える人がいるから、こういうスレが立ったのではないの?
だから驚いている、と869で書いたんです。872は私じゃないですよ

で、あなたはどこだと思っているんですか?
879日本@名無史さん:03/12/02 22:53
>>877
源氏の本流は多田、傍流は河内ということには説は一致している。
義家流はあくまで傍流。皆が認めてるのではないですか。
だから清和源氏の直系は多田です。
880日本@名無史さん:03/12/02 23:43
>>878
まず「清和のルーツは河内源氏」というのがおかしい。
河内源氏は清和源氏の一派なのだから。
清和源氏の祖は源頼信ではない。

で、経基の家はどこか知らん。ふつう六孫王神社付近だといわれてる。
881日本@名無史さん:03/12/02 23:49
>>880
武士団のこと言ってんじゃないの?
それなら多田だろうけど。
882日本@名無史さん:03/12/03 03:48
>879,880
誰も清和源氏のルーツは河内源氏とは言って無いよ。
清和源氏の一派の河内源氏の本拠地が河内国石川だと言っているだけ。
ログ読めば分るはず。
清和源氏は、六孫王経基に始まり、源満仲が摂津国多田で源氏武士団を形成。
満仲の子が、
頼光(摂津源氏。摂津多田)
頼親(大和源氏。大和宇野)
頼信(河内源氏。河内石川)
に分かれる。
883日本@名無史さん:03/12/03 03:50
清和源氏の本流は、源頼光の摂津源氏だが、
武家の棟梁になったのは、源頼信の河内源氏。
884日本@名無史さん:03/12/03 03:53
>>882
869氏が言ってるよ。ログ読めば分るはず。
885日本@名無史さん:03/12/03 03:59
884に座布団一枚
886日本@名無史さん:03/12/03 03:59
松平氏といえば家康の家で、太郎左衛門家なんて‥‥
清和源氏といえば‥‥
887日本@名無史さん:03/12/03 18:47
>884
ログ読みなさい。869氏より前の書き込みに、869氏よりも正確に出ているよ。
888日本@名無史さん:03/12/03 18:51
>886
松平郷の太郎左衛門さんの家は、源姓ではなくて、加茂姓か在原姓。
そこへ転がり込んだ時宗の放浪僧の徳阿彌が自称新田源氏だったというだけ。
これについては、ここではなく、それ専用のスレがあるからそちらへ。
889日本@名無史さん:03/12/03 19:07
>>887
馬鹿か、お前は?>>882を百回読んで出直せ。
890日本@名無史さん:03/12/03 22:52
多田神社文書は、すべて川西市史に収録されています。
891日本@名無史さん:03/12/04 12:37
>>888
すれ違いだが、太郎左衛門家も一応源氏だけど。
892日本@名無史さん:03/12/04 22:19
摂津多田系では、明国と仲政の系統のどっちが正統になるの?
893日本@名無史さん:03/12/05 02:46
また摂津多田厨かよ
894日本@名無史さん:03/12/05 06:04
>892
正統は仲政系で、源姓を使用。源仲政、源頼政。
明国系は多田に土着し、多田源氏、多田氏となる。多田行綱。
895日本@名無史さん:03/12/05 09:30
本拠地と勢力圏の概念どうなった?
896日本@名無史さん:03/12/05 11:52
>>894
あんた詳しそうなので教えてくれ。
多田氏は行綱の頃はまだ京都で官職についていたはずだが、いつ、何を根拠に土着した、とするのか?
多田氏はいつから単に「号す」にとどまらず、多田氏となったのか?
897日本@名無史さん:03/12/06 08:49
>>894

行綱も源姓は使っている。
898日本@名無史さん:03/12/06 15:05
>>897
ぷぷぷ
いいツッコミだね
899日本@名無史さん:03/12/07 01:47
>897
そりゃ使ってるよW
源は姓で、多田行綱も源行綱だからね。
そんなこと言い出したらきりないぜ。
どんな苗字でも、源氏だったらみんな源だものな。

問題なのは、苗字を名のった系統と名のらなかった系統。
源氏で源姓のままだったのは、
 摂津源氏の源仲政の系統
 河内源氏の源義家の系統
この二つが、それぞれに源氏の嫡流あるいは正統という意識があったんだろう。
他は、多田にしろ足利、新田、武田にしろ、源だが、苗字を名のっている。
900日本@名無史さん:03/12/07 01:52
>>899
 896 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 03/12/05 11:52
 >>894
 あんた詳しそうなので教えてくれ。
 多田氏は行綱の頃はまだ京都で官職についていたはずだが、いつ、何を根拠に土着した、とするのか?
 多田氏はいつから単に「号す」にとどまらず、多田氏となったのか?
901日本@名無史さん:03/12/07 02:01
仲政の系統は結局宇治の戦で断絶しちゃったの?
902日本@名無史さん:03/12/07 02:05
>900
摂津源氏で、多田を「号」としていたのは、

多田満仲---源頼光---源頼国---多田頼綱---多田明国---源行国

で、源行国の子の多田頼盛から多田を名のるようになる。多田頼国の子が多田行綱。
多田行綱の後半期は鎌倉時代で、行綱の一族も御家人として多田を苗字としている。
そのことからすると、摂津源氏は多数が多田を号したが、多田が苗字とされたのは、
行綱の代からではないか。行綱の父の多田頼盛が、多田を号した最後の人物であり、
多田を苗字とした多田氏の祖ともいえるのではないか。
903日本@名無史さん:03/12/07 02:08
本願寺坊官の下間氏は、多田氏の後裔って本当?
承久の乱のあと、出家したとかなんとか聞いたんですが。
904日本@名無史さん:03/12/07 02:08
>901
断絶していない。
宇治合戦の時に伊豆にいた源頼政の子が生き残っており、
源義経の軍に加わり戦っているし、頼政の子孫は生き残り、
鎌倉時代においても大内守護の任に就いている。
また、美濃源氏の土岐氏は、源仲政の系統。
905日本@名無史さん:03/12/07 02:13
武田信玄の重臣の一人の馬場信春の馬場氏も源仲政の系統。
源頼政の養子となった光信の系統が美濃へ移り、その中の一派が甲斐へ移住し、
武田信重の娘を妻に迎えて馬場氏となる。その五代後が馬場信春。
906日本@名無史さん:03/12/07 02:25
>>902

>多田行綱の後半期は鎌倉時代で、行綱の一族も御家人として多田を苗字としている。(中略)
>多田が苗字とされたのは、行綱の代からではないか。

つまり、鎌倉時代の行綱一族が多田を苗字としていたことは確認できるが、
行綱がどうだったかはよくわからないってことですな。
そういえば行綱一族って義経に加担したとかで追放されたんじゃなかったっけ?
907日本@名無史さん:03/12/07 02:26
>900
こんなログがここにあったけど


187 :日本@名無史さん :03/05/09 10:35
>180
摂津源氏における「多田」。

 源経基---多田満仲---源頼光---源頼国---多田頼綱---多田明国---源行国---多田頼盛---多田行綱---多田定綱---多田光綱---以降、多田

満仲の多田は、苗字というより号
頼綱、明国と多田が続くが、まだ苗字として定着していない。多田明国の弟が源仲政で、その子が源頼政。
多田が苗字として定着する最初は、多田行綱の父の多田頼盛からと言える。
908日本@名無史さん:03/12/07 02:33
>906
行綱は、木曽義仲入京の時は義仲に協力し、その後、源義経軍の一翼として一の谷その他で戦っている。
頼朝と義経の対立の時は、頼朝側に加担しようとしたが、うまくゆかず、
義経との関係とか何か因縁をつけられて追放された。
多田行綱の最期は分らないが、行綱の子孫は続いていて、系譜を後の時代まで伝えている。
また多田氏の分家や郎等はそのまま残り、一部は幕府御家人にもなっている。
多田は源氏の祖の地なので、頼朝も形式的な礼儀ははらったらしい。
909日本@名無史さん:03/12/07 02:33
>>904
土岐って頼綱弟国房の系統だったような。
910日本@名無史さん:03/12/07 03:24
>905
馬場信春の馬場家子孫の家系図を見たことがある。
馬場家系図では、源頼光の名があり、源仲政、源頼政の子孫となっていた。
これは、仲政や頼政が、馬場を号したことに由来すると思われる。
しかし、これはこじつけであり、馬場氏は摂津源氏としても仲政流ではなく、
土岐氏庶流と思われる。
ただ、馬場氏そのもが土岐氏というのではなくて、武田信重の時に馬場の家督を
継いだ者が土岐氏庶流で、馬場氏そのものは、信州の木曽氏の一族で、武田家の家臣になっていた。
911日本@名無史さん:03/12/07 04:29
仲政系は頼政の後、仲綱ときて、そこから広綱、有綱と来るけど
この2人以外に他にいたっけ?有綱の方は義経と一緒に追討されて、
広綱の方は太田道灌の太田氏の組だよね? 太田氏は丹波で摂津にも京
にも近い。けっこう嫡流度高いか?
912日本@名無史さん:03/12/07 08:25
仲綱の嫡男は宗綱。父とともに宇治川で戦死。子孫はあるけど大した事跡なし。
次男が有綱。義経と行動を共にする。
広綱は実は頼政男で、仲綱の養子になっていたもの。
道灌の太田氏が彼の子孫というのは、途中の系譜が定かでないので信憑性は?付き。

他に頼政の子として頼兼。頼政を継いで大内守護。
その子頼茂は西面の武士。承久の乱直前に宮方に討たれる。

913日本@名無史さん:03/12/07 11:05
朧谷寿『清和源氏』から

「摂津源氏を継承した頼光であるが、かれが多田を号した微証はない。その意味
においては、父が多田を号し、多田源氏が摂津源氏の異称と理解されているけれど、
摂津源氏の一流をこのように呼称するようになるのは、頼光の孫の頼綱、より正確
には、その子明国からである。その背景には土着という事態が介在していることは
いうまでもない。明国は、白河上皇の近臣であり、検非違使になって武力的な働き
をした。その曾孫の行綱は、例の鹿ケ谷事件の謀議密告者として知られ、多田蔵人
をもって呼ばれた人である。
多田源氏になかでも、とりわけこの行綱の子孫が多田の地に土着して武士団を養成
し、平安末から鎌倉期にかけて武勇の面で活躍した。」
「頼綱の長子明国の子孫は多田荘を伝えて多田源氏を称したが、次子の仲政の系統
は京に生活基盤をおき、摂津源氏の嫡流的立場にあった。」
914日本@名無史さん:03/12/07 14:28
では頼綱・明国が多田を号したという史料はあるのかね、オボロヤさんよ。
915日本@名無史さん:03/12/07 20:57
>901
源仲政の系統

仲政---頼政---仲綱----宗綱
      +-国政 +-有綱
          +-頼成
      +-兼綱----頼兼---頼貞---政国---政義---氏兼
                        +-頼氏---国義---詮頼---
+-頼兼----頼茂
          +-光圓
          +-長頼
      +-広綱
916日本@名無史さん:03/12/07 21:14

少しズレたけれど、国政、兼綱、頼兼、広綱は、頼政の子。

兼綱は、頼政の弟の頼行の子で頼政の養子となる。

兼綱---頼兼(伊豆守、兵庫頭。母は源頼朝の姉)---頼貞(摂津守、兵庫頭、伊豆守)---

---政国(左馬頭、兵部大夫)---政義(治部大輔、兵庫頭、摂津守、伊豆守)---氏兼(伊豆守)

氏兼の弟の頼氏(民部少輔、左馬頭)---国義(民部少輔、左馬介)---詮頼(兵庫頭、治部大夫、伊豆守)

---持頼(駿河守、兵庫頭)---氏資(駿河守、民部大輔)---国氏(左馬頭、駿河守)---氏政(治部少輔、左馬頭)
917悪逆乱国の王:03/12/08 03:13
がっこの運動会の応援合戦で
「壷井のカミサマに〜云々」ていう文句があってみんなで叫んでた記憶が・・
今考えるとあまりうれしくないなあ
918日本@名無史さん:03/12/08 15:37
>914
そんなこと、学会で訊かれまくってるよ。
あなたもこんなところに落書きせずに直接訊いてみた方がいい。
919日本@名無史さん:03/12/08 18:44
>>918
どうやって聞くんだ?
それはともかく、相変わらず何の根拠も示されていないわけだが。
920日本@名無史さん:03/12/08 19:36
>918
知ってるんだったら、お前が教えてください。
921日本@名無史さん:03/12/09 02:45
>919
手紙書いて訊けばいいだろう。
住所は、大学の研究室宛で届く。
922日本@名無史さん:03/12/09 03:47
>>921
一般人は相手にしてもらえないと思うよ。
人によるのかもしれないけど。
923日本@名無史さん:03/12/09 13:54
>918
で、教えてくれないのね。
学会でてるだけで頭よくなったつもりの香具師だったか。

朧谷氏の住所は人物叢書の後ろにのってるから、
書こうと思えばかけるがね。
924日本@名無史さん:03/12/10 00:34
>916
摂津源氏の源仲政・頼政の系統は、後の代までかなり子孫が続いてますね。
925日本@名無史さん:03/12/10 01:31
この系統でのちに出世した有力武家ってどこかあるのかな? あまり聞かないけど
河内系ではいろいろ詐称も含めていろんな有力武家が出ているけど、
摂津系って詐称でも忌避されるようなとこあんのかね・・? 相撲の不知火型
みたいに。
926日本@名無史さん:03/12/10 17:53
>925
摂津源氏も有力武家は出ているよ。詐称も多いが。
美濃の土岐氏は摂津源氏だし、岡山藩の池田氏も摂津源氏だろう。
太田亮『姓氏家系大辞典』を見ると摂津源氏系の武家はたくさん出てくるよ。
927日本@名無史さん:03/12/10 19:25
うちの御先祖様は清和源氏だったらしいけど。
新田義貞の関係で北関東の出身らしいでつ。
928日本@名無史さん:03/12/10 19:57
>>925
太田、池田、浅野、明智など色々あるぞ。
池田は仲政の子で頼政弟の奉政子孫、
明智、浅野は土岐と同族で頼綱弟国房系などと称している。
真偽は不明だが。
929日本@名無史さん:03/12/10 20:25
清和天皇も桓武天皇の子孫だから、源氏も平氏も遠い親戚だよね。
930日本@名無史さん:03/12/10 23:42
義家の親が平直方の娘
931日本@名無史さん:03/12/11 00:15
武田信玄の重臣の一人、馬場美濃守信春の馬場氏も
家系図の上では、馬場を号した源仲政の子孫となっている。
932日本@名無史さん:03/12/11 01:54
どことなく2流どころの浮ばれない大名が多いな・・・(w
太田もそうだし、明智も浅野も・・ 摂津の業の成せるわざか?
933日本@名無史さん:03/12/11 23:27
>932
「摂津の成せるわざ」って何?
934日本@名無史さん:03/12/13 00:00
清和天皇850−880年、貞純親王873−916年、経基921−961年。
陽成天皇868−949年、元平親王893−958年、経基921−961年、
年齢構成で考えるに、経基は貞純親王の死後生れている事から、元平親王の皇子とした方が自然である。
935日本@名無史さん:03/12/13 00:06
>>934
清和源氏に限らず、生年月日がいい加減な系図資料は多いよ。
936日本@名無史さん:03/12/13 00:13
〇〇王とか〇〇親王というのは半島が発祥。
しかも半島にはそういう人間が腐るほどいたからね。
937日本@名無史さん:03/12/13 00:20
経基が921年生まれというのは信じがたいな。
938年に武蔵介として見えるときに、18才とは考えがたい。
938日本@名無史さん:03/12/13 10:40
結論が出ないまま次のネタへゴー
939日本@名無史さん:03/12/13 11:58
>936
つまんない釣り。
ここでは通用しないべ。
釣りたたければ、摂津源氏嫡流説についてのもっともらしい話でも書かないと
誰ものってこないべ。
940日本@名無史さん:03/12/13 13:10
>936
>半島にはそういう人間が腐るほどいたからね。

つまり、半島の人は腐った人だといいたいのダニ?
941日本@名無史さん:03/12/13 14:38
話題を本来の清和源氏についてのテーマに戻しましょう。

摂津源氏はいつまで続いたのですか?
942日本@名無史さん:03/12/13 14:41
源頼光・摂津源氏: 兵庫源氏
源頼親・大和源氏: 奈良源氏
源頼信・河内源氏: 大阪源氏
943日本@名無史さん:03/12/13 14:58
質問に答えないまま次のネタへゴー
944日本@名無史さん:03/12/17 21:15
赤坂恒明氏「世ノ所謂清和源氏ハ陽成源氏ニ非サル考」
『聖学院大学総合研究所紀要』25号
読んだひといる?
945日本@名無史さん:03/12/17 21:24
>>944
あれって、穴だらけの論考だと思うけどな。
946944:03/12/17 22:01
>945
そうなんだ。
コピーとっただけでまだ読んでないだけど、
専門はモンゴル史とかみたいだし、
「なほ」とか「出てゐない」とか旧仮名遣いだし、
DQNなのか?
947日本@名無史さん:03/12/17 22:42
「氏族」って民族知ってる?
半島よりも少し上にいた民族。
それが日本に渡来して来たんだよ。

これが正しいかどうかは別としても
日本人が古事記や日本書紀の伝説の神の子孫っていうのは、ありえない。
天地創造がマジであったと考えるDQNは、終わってる。

神の子孫なんて、ありえないじゃん!
ユダヤよりも酷い。
ユダヤは物理的な神の子孫じゃない。
神に選ばれた民族。
それもどうせ作り話だしw
948日本@名無史さん:03/12/19 01:00
源義光の嫁さんの親父様甲斐守知宗ってだれ?
あと平重盛の爺っ様高階基章、これもだれ?
949日本@名無史さん:03/12/19 01:02
摂津源氏や大和源氏で、のちに有名になった人って誰?
そいつらも征夷大将軍になれる資格はあるんですか?
950日本@名無史さん:03/12/19 06:50
>949
征夷大将軍になるための資格なんて無いよ。
源氏しかなれないといわれるが平氏でもなれる。
朝廷は、平氏と称していた織田信長を征夷大将軍にしようとしたから。
また、源氏にかぎると仮定しても、摂津源氏も大和源氏も源氏だから問題はない。
摂津源氏で後に有名になるのは、美濃の土岐氏だろう。
明智光秀は、土岐氏庶流の明智氏の出と称していたが、実際は・・・?
武門源氏の主流は河内源氏だから、やはり河内源氏の系統が多いだろうな。
951日本@名無史さん:03/12/20 06:19
岡野友彦『源氏と日本国王』はどう?
952日本@名無史さん:03/12/20 21:56
源氏長者

嵯峨源氏
村上源氏
村上源氏久我氏
953日本@名無史さん:03/12/20 23:00
嵯峨源氏?まじ?
954日本@名無史さん:03/12/20 23:38
>953
源氏長者の最初は嵯峨源氏。
955日本@名無史さん:03/12/21 06:07
武家源氏で最初に源氏長者になったのは、足利義満なんだね。
清和源氏は源氏長者になった者はいない。
956日本@名無史さん:03/12/21 06:09
>955
訂正
「 清和源氏は源氏長者になった者はいない。 」
   ↓
「 足利義満以前で、清和源氏は源氏長者になった者はいない。」
957日本@名無史さん:03/12/21 08:14
質問に答えられないまま次のネタへゴー
958日本@名無史さん:03/12/23 00:49
>>951
買ってみた。まだ、20ページ目。
当方、ド素人なのでよくわからんのだけど、はしがきの

>「源頼朝は『源氏の正統』であったのだから、当然『源氏長者』であったに
>違いない」とか、「『源氏でなければ将軍になれない』のだから、徳川家康
>が源氏に改姓したのは将軍になろうとしていたからだ」などといった俗説が、
>第一線の研究者の間にまで浸透しており、そのような誤解が「源氏長者と
>日本国王」についての正しい理解をも阻んでいる。

・・・云々というところが興味を惹いたな。なんか挑戦的な文面だけど。
959日本@名無史さん:03/12/23 08:06
源頼朝の「源氏の正統」というのは、河内源氏の正統なんだよね。

清和源氏の嫡流は、摂津源氏であって河内源氏ではない。
源氏長者と源氏正統は別のことで、源氏長者は嵯峨源氏→村上源氏。
960日本@名無史さん:03/12/23 21:29
>>949
大和源氏で一番有名なのは、漏れの知る限り、
保元の乱で崇徳上皇方として活躍した宇野親治。
961日本@名無史さん:03/12/23 21:42
また嫡流厨か
962日本@名無史さん:03/12/23 22:20
>960
大和源氏で一番有名なのは、摂津源氏の頼光や河内源氏の頼信と兄弟の
大和源氏初代の源頼親だろう。源親治(宇野親治)は、その次では。
963日本@名無史さん:03/12/23 22:25
源氏長者:嵯峨源氏・村上源氏。後に清和源氏の足利氏、徳川氏。
清和源氏嫡流:摂津源氏
武門源氏正統:河内源氏
964日本@名無史さん:03/12/23 23:32
>>962
そうか。そりゃそうだな。
965日本@名無史さん:03/12/24 07:22
摂津源氏の本拠地の多田は、兵庫県川西市多田で、
河内源氏の本拠地の壷井は、大阪府羽曳野市壷井だけれど、
大和源氏の本拠地の宇野は、奈良県のどこなの?
966日本@名無史さん:03/12/25 00:09
>>965
大和源氏の本拠地の宇野は現在の五条市宇野町で「大和源氏
宇野氏之祖碑」(宇野町字桧尾)と小さいながら「宇野八幡宮」
と「宇野八幡神社」があります。
967日本@名無史さん:03/12/26 12:44
大和源氏の宇野親治は保元の乱に上皇方の武家として登場するけれど、
親治の子孫の消息はどうなのでしょうか。
968966:03/12/26 16:10
>>967
宇野親治には、有治・清治・俊治・業治・義治・親家・頼基・季治
と云う息子がおりました。
保元・平治・治承四年の頼政の挙兵に父親治と共に参加し破れて
世の無常を感じた有治は、洛東葛ヶ原の法然房源空を頼り剃髪し
法光房と名乗り後に善信房に従って聖空と改名。
承元二年(1208)に大和国吉野郡秋野川の辺に草庵を結び
藤谷山雲坊と云う。現在、奈良県吉野郡下市町善城に藤谷山雪坊
瀧上寺があります。
親治ー有治(聖空)ー道治(宗空)ー昭治(圓空)以下29世
住職順治。966に書いた「大和源氏宇野氏之祖碑」は瀧上寺が
管理しておられます。
969日本@名無史さん:03/12/27 02:25
大和源氏の流れを汲む武家はいないのですか?
970日本@名無史さん:03/12/27 09:13
教えてくんがおおいねぇ。
せっかくのお正月休み、自分で調べる気はない?
971川西:03/12/27 17:58
とにかく元旦は兵庫県川西市多田院多田所町の多田神社と
兵庫県伊丹市宮ノ前の猪名野神社に行くべし!!
972日本@名無史さん:03/12/27 22:50
そんな田舎に興味はない。
973日本@名無史さん:03/12/28 08:26

今夜の実況は こちらで

千年の恋 ひかる源氏物語
http://live5.2ch.net/test/read.cgi/liveanb/1072561195/
974日本@名無史さん:03/12/28 11:41
光源氏の実在モデルとされるのは、嵯峨源氏の源融(みなもと・の・とおる)。
嵯峨源氏の武家として有名なのは、摂津源氏の源頼光の四天王筆頭とされる源綱(渡辺綱)にはじまる渡辺氏。
渡辺氏は、摂津国西成郡渡辺(現・大阪市中央区)を本拠地とし、滝口武者の一族であり、摂津源氏の源頼政の主要な郎等。
また源久(松浦久)にはじまる分流は、肥前の水軍松浦党の棟梁家として知られる。
975日本@名無史さん:03/12/28 15:26
>197 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 03/05/10 06:37
>頼政一味の皆様方。(出典・・・源平盛衰記、平家物語など)
>
>猪の早太(勝屋右京)・・・鵺退治のお供
>渡辺競・・・平宗盛の馬を盗む
>渡辺省・・・比叡山の衆徒からの内裏防衛に出陣
>渡辺授・・・同上、省の子
>渡辺唱・・・平等院で介錯
>連、至、覚、与、列、配、早、清、進、濯、副・・・その他の渡辺党の皆さん
>下河辺清親(清恒?)・・・首を隠す
>下河辺行義・・・下総下河辺庄司
>古川右内(通圓政久)・・・宇治川で戦死
>小源太嗣、内藤太守助、源勤、小藤太重助、源加・・・兼綱の郎党の皆さん
>足利義清、左衛門尉源重清、又加、安房太郎、・・・その他
>弥太郎盛兼・・・(仲綱の介錯)
>
>渡辺党や渡辺党っぽい源姓一字名がやたらと多い。


渡辺党と下河辺におんぶにだっこって感じだな。
976日本@名無史さん:03/12/28 17:55
郎党が主人のために戦うことに何か不具合でも?
977日本@名無史さん:03/12/29 00:13
>>974源久が1069年摂津国渡辺庄から肥前国に下向して土着と言うが、
1016年肥前守源聞、1019年には前肥前介源知が確認され、松浦氏
の出自は不詳。
978日本@名無史さん:03/12/29 12:50
>>975
読み方が知りたいね。

競…きそう
授…さずく
唱…となう
連…つらぬ
至…いたる
覚…さとる
与…あとう
清…きよし
進…すすむ
副…そえる
省…はぶく
配…くばる

かな?

列、早、濯はNo idea

979日本@名無史さん:03/12/29 13:54
副…たすく
早…はやし
濯…すすぐ
列…つらね

とかね
980日本@名無史さん:03/12/29 14:56
鴎…千葉ロッテマリーンズ
981日本@名無史さん
>977
「源久が1069年摂津国渡辺庄から肥前国に下向して土着と言うが、」
源久の九州下向・土着の時期、年代についてはそれだけではなく諸説ある。
だから上記の年代を基準にして、あれこれとは言えない。