1 :
日本@名無史さん:
みなさん、源頼朝が死んだ理由を教えてください。
さだめじゃ・・・
3 :
日本@名無史さん:03/02/20 13:50
馬から落ちたんでしょ
4 :
日本@名無史さん:03/02/20 13:50
落馬?
5 :
日本@名無史さん:03/02/20 13:53
そうっすか。暗殺という説は??
6 :
日本@名無史さん:03/02/20 13:57
北条家から長寿を祈って、暴れ馬をプレゼントされ、体調を崩していたにも
かかわらず乗馬させられ落馬しただけでしょ。
・・・暗殺を疑う余地なんてないじゃん
7 :
日本@名無史さん:03/02/20 14:20
飲水の重病
>>6 それじゃ暗殺というより明殺だな。あからさますぎて。
9 :
日本@名無史さん:03/02/20 17:37
やっぱ頼朝ってひどいよな。
10 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/02/20 17:56
アサマシキ事出キヌ。同十年正月に関東将軍所労不快トカヤホノカニ云シ程ニ。ヤ
ガテ正月十一日ニ出家シテ。同十三日ニウセニケリト(中略)今年必ズシヅカニノ
ボリテ世ノ事沙汰セント思ヒタリケリ。万ノ事存ノ外候ナドゾ。
たしか糖尿病を患っていたのでは?
ん 乗馬中の 脳卒中じゃないのか
あるいは心筋梗塞とか
>>13 九条だか近衛の日記に糖尿病だかなんだかって書いてあったような。
15 :
日本@名無史さん:03/02/23 11:12
何歳だったっけ?死んだの
そりゃ20歳、30歳で死んだらいろいろ疑うけど、いい年だったんでしょ
16 :
日本@名無史さん:03/03/03 14:38
いい年だった・・・
北条歴代執権なんてみんな30代でしんでるし・・・
17 :
日本@名無史さん:03/03/10 15:45
水泳で源選手っていたじゃん
数年前のオリンピックかなぁ
関係あるのかな?源氏と
18 :
日本@名無史さん:03/03/10 16:28
北条執権は代々過労死だな。働きすぎ。
19 :
日本@名無史さん:03/03/11 12:46
源義仲のたたり
20 :
日本@名無史さん:03/03/11 12:58
>>17 鎌倉時代ならともかく、源姓名乗ってる
源氏なんて居ないでしょ。
21 :
日本@名無史さん:03/03/11 15:29
>>17 スポーツ選手でいうなら何年か前の高校野球で「信長」という姓のピッチャーがいたな
すげえ名前だなあと感心した覚えがある
22 :
日本@名無史さん:03/03/13 09:06
どんな名前だよw
23 :
日本@名無史さん:03/03/14 20:14
>>21 水島真司のドカベンには、義経という名前のピッチャーが出てきたが‥‥
それを上回るインパクトだな(W
24 :
日本@名無史さん:03/03/14 20:46
頼朝は名古屋生まれ
25 :
日本@名無史さん:03/03/17 14:47
頼朝を殺したのは平家の残党、悪七兵衛景清
26 :
日本@名無史さん:03/03/20 13:55
猜疑心強すぎで兄弟(親戚)殺しすぎ!
息子2人とも殺されたのに、その時守るべき人がいなかった...
27 :
日本@名無史さん:03/03/21 05:56
でも義経の同腹の兄(全成)は殺してないよ
28 :
日本@名無史さん:03/03/21 21:27
>>24 母親は熱田神宮・大宮司の娘でしたね。
熱田区生まれですなあ。
29 :
日本@名無史さん:03/03/28 03:12
>>26 頼朝でなくたって、腹違いの兄弟に肉親の情なんて湧きようが無いよ。
同族(源氏)はみな自分の地位を脅かすライバルだし。
そもそも歴史上の人物で兄弟仲がいい方がむしろ珍しいんではないの?
30 :
日本@名無史さん:03/04/01 05:03
漏れには腹違いではないけど気違いの弟がいます
歴史上の人物でもないのに兄弟仲は最悪です
今すぐ市んでほしいです
31 :
日本@名無史さん:03/04/01 05:49
>>1オヤツヨ アッ シュッ シュッ シュッ ウッ
J( 'A`)し ( 'A`) 。゚
( )旦 (ヽ♂彡 V アン アン アッ
|| 」 」 " [□ ]
| オトウサン
>>1ガヘヤデ イヤラシイビデオヲミテ・・>
|('A`;) マアマア カアサン オトコノコハネ・・・>
/ << ) ̄ ̄ ̄ ̄
‖
('A`) サヨウナラ・・・
( )
| | |
|
/ ̄
32 :
日本@名無史さん:03/04/01 09:01
>>28 熱田大宮司家は院の近臣だったので京に在住することが多く
本領は家臣の管理であったと思う。院の近臣に近づきたかっ
た源 義朝が妻に迎えた。だから頼朝は京で生まれた可能性
が高い。
33 :
日本@名無史さん:03/04/01 13:25
日本美術史上、最高傑作と言ってもいい肖像画だよな、
頼朝本人じゃないという説があるが。
34 :
日本@名無史さん:03/04/02 01:18
35 :
日本@名無史さん:03/04/02 06:56
>>33 >>34 で、従来平重盛像とされてきたものが、実は足利の兄(尊氏)の像だってんでしょ?
確かに2つは顔も兄弟みたく似ているし、格好とか向きとかもまるで1セットといってもいいような‥‥
>>35 それだと、「人徳の兄」「激情の弟」がぴったりくる
ポイントは眉毛
37 :
日本@名無史さん:03/04/09 04:09
あの絵は確か神護寺にあるんだっけ?
なんで今頃になって頼朝じゃないなんて話になるのかがようわからん。
寺の記録ではどうなってるんだ?
あぼーん
39 :
(σ・∀・)σ:03/04/09 04:45
41 :
日本@名無史さん:03/04/10 00:16
ついに教科書でも、「源頼朝像」ではなく「似せ絵の貴族像」と表記する所が出てきたようですな。
文部科学省も、ようやく重い腰を上げたか。
42 :
日本@名無史さん:03/04/11 16:04
いつ、誰が、何を根拠に、あの絵を頼朝だと言い出したんだろう?
いつ、誰が、何を根拠に、あの絵を直義だと言い出したんだろう?
>>41の教科書執筆者は、何を根拠に、あの絵を武士ではなく貴族だと決めつけたんだろう?
誰か説明して呉。
43 :
日本@名無史さん:03/04/11 17:18
まあいいんじゃないの当時としては寿命はまあまあだし。
44 :
日本@名無史さん:03/04/12 00:29
>>42 ものすごく曖昧な知識で語ってみる・・・
以前は絵の技法から、あの絵が制作されたのは、鎌倉時代初期頃だろうと思われていた。
その時代に、あんな立派な肖像画を描いてもらえるのは、源頼朝くらいだろうということで、
絵が納められている神護寺には、頼朝はなんの関係もないけど、あの絵は「源頼朝像」ということになった。
でも後に、ああいう絵の技法は、もっと後の室町時代頃に成立したんじゃないか、
と考えられるようになり、ナントカって研究者が、神護寺の歴史を調べ上げると、
足利直義が「色々がんばった結果、うまくいくようになったので、記念に私と兄貴の肖像画を奉納しますvvv」
と書いた書状が神護寺から見つかった。
その肖像画こそが、今まで「源頼朝像」「平重盛像」といわれていたものではないか、と考えられるようになった、らしい。
いわれみれば、2枚の絵は対で描かれたようにそっくり。
頼朝と重盛という、なんの共通点もない2人よりは、足利兄弟の方がしっくりくるね。
教科書の件は、はっきりしない以上、断定しない方が良いという配慮なんだろうな(武士かもしれないけど、貴族のかっこうであることは事実だから)。
あーでも、詳しくは分からん。間違ってたらごめんね。
もっと詳細に語れる人、キボン。
45 :
日本@名無史さん:03/04/13 00:29
神護寺の絵が頼朝や重盛と言われ始めたのはいつ頃からなんだろ。
46 :
日本@名無史さん:03/04/13 02:58
>>44 説明さんくす。なるほど、そんな書状が見つかっていたのか。
でも、もう1つ疑問が。なぜ伝・頼朝像が直義で伝・重盛像が尊氏なんだろう?逆の可能性だってあるよね?
そのあたり、どこで判断したのかと。
それと、神護寺に伝わる肖像画って他には無いのかな?
47 :
日本@名無史さん:03/04/13 03:26
伝頼朝像は凛々しく美男子やが伝重盛像はちと不細工やな。
>>44の修正
ごめん、神護寺と頼朝って、何の関係もないわけじゃないみたい。
頼朝の知り合い(?)の文覚上人て人が再興したのが、神護寺らしい。
>>45 いつから言われだしたのかは知りませんが、代々「この絵は頼朝」と言い伝えられてきたんだそう。
あと、あの絵を頼朝とした一番の根拠だったのが、伝頼朝像の模写(今は大英博物館にあるらしい)に書かれた漢文で、
それによると「この絵は征夷大将軍源頼朝です」と書かれているんだとか。
だけどその漢文も、後世の研究で、江戸時代にならないと使われない言葉が書かれていたりと、
どうやらだいぶ後の時代にかかれた模写らしく、今はあの絵を頼朝とする根拠はほとんどない、みたい。
>>46なぜ伝・頼朝像が直義で伝・重盛像が尊氏なんだろう?
スマソ・・・。ほんと中途ハンパな知識しかないので分かりませぬ・・・。
議論の発端は、米倉迪夫という人物の書いた「源頼朝像―沈黙の肖像画―」という本らしいので、読んでから出直します。
神護寺には、似たような構図で「源頼朝像」「平重盛像」「藤原光能像」がありますね。
(でも他にもあるかも・・・)
ぐぐってみると、「神護寺の肖像画を見て、頼朝のファンになりましたvvv」ってやつ、結構いるような気がする。
頼朝の没後800年記念作文コンクールなんかじゃ
「私は、頼朝公は弟の義経たちを死に追いやったので、以前は好きではありませんでしたが、
でも、頼朝公の肖像画を見てイメージが変わりました。
色が白くて、優しくかしこそうな顔つきで、勇ましい東国の武士たちを率いて戦場に馬を走らせた武将とは想像もつきません」
なんて言ってる消防もいるし。
肖像画で歴史人物のファンになるやつの方が、めずらしいんだろうけど、
あの絵が足利直義だった場合、こういう人達はどうすんのかな。
急に、直義のファンになんのかな。
51 :
日本@名無史さん:03/04/14 01:16
>50
もし色が黒くて、うちとった敵将の生首とか手にしている肖像画(=南部信直とか)だったら、どんな感想文になっていたんだろう?
52 :
日本@名無史さん:03/04/14 01:56
>>50 俺もどちらかというと肖像画でファンになった方で20数年前の消防の時、
東京のデパートで神護寺展があったとき親に金をせびって見に行ったほどだ。
でも、まあイメージ的な話ではあるが、あれが直義なら納得できるよ。頼朝って
どちらかというと俗な人で、晩年に中央貴族の血が騒いだのか大姫入内運動で
朝廷に翻弄されてたし。個人的にはかなり頼りない感じがする。
頼朝のカリスマ性は死後に創作された部分が大きいしね。
むしろ直義のストイックで完璧主義者のイメージこそあの肖像画に相応しいん
じゃないかな。それよりも、イメージ的な衝撃なら断然尊氏の方だよ。
実は平重盛でしたって言われてもねえ。(w
いや実際の尊氏の性格は、実は優柔不断で気の弱い坊ちゃんタイプだってのは
わかっていても、あの丹古母鬼馬二みたいな肖像画のインパクトが強烈すぎた
から、なかなかイメージ転換できないでいるよ(w
もちろん尊氏と言われている肖像画が実は高師直(あるいはその息子?)でした
って言われるのは十分納得できるんだが。(なんか師直なら、まんまって感じだな)
53 :
日本@名無史さん:03/04/14 03:16
作家杉本苑子氏が若い頃「直義に恋を感じる」と言ってたのを思い出した。
そういえば最近、直義主役の小説も出してたな。俺も肖像画の件の前から
直義ってかっこいいジャンと思ったことがある。昔はともかく、現代なら絶対
もてそうだ(藁
頼朝の弟(義経)に比べて、尊氏の弟なのに今一つマイナーなのは
やっぱり南北朝期の人物だからだろうか。
でも光厳上皇を襲撃した土岐頼遠を断罪にしたのも直義なんだから
ウヨも、皇室の威厳を守った直義に感謝しなきゃいかんよ(藁
おっと、ここは頼朝のスレだった。スレ違いスマソ。
54 :
日本@名無史さん:03/04/15 05:10
>>53 義経のように庶民が感情移入できる物語性が皆無な直義がマイナーなのはあたりまえ。
しかも、頼朝以上に陰険で狡猾で冷酷なイメージがある。人気が出るほうが不思議だよ。
ただ、何かをなしとげるには、この手の政治家の存在って必要なんだけどね。
>>52 朝廷と婚姻政策を結ぶことは後世に徳川将軍家もやっていることで、政権を磐石なものにするため必要だったからやろうとしただけ。
俗だとか中央貴族の血が騒いだとかいうレベルの問題じゃないよ。
55 :
日本@名無史さん:03/04/15 22:59
>>54朝廷と婚姻政策を結ぶ
う〜ん、でもどうなのでしょう。
家康と頼朝とでは、少々状況が違ったような気がします。
東国武士がなぜ、落ち目の源氏についたかというと、
自分たちの長年の夢であった朝廷からの独立、武家政権の確立という目標をかなえるために、
源氏の嫡男という申し分ない血統を持った頼朝を、(成り行き的に)自分たちのシンボルとして担ぎ出したからであって・・・
もちろん頼朝は政治家としてよくやっていたと思うので、単なる傀儡ではなかったと思いますが、
それでも家康のように、御家人を自由に使える立場ではなかったと思うんですよ。
まず、頼朝がどうしたいかではなく、北条氏をはじめとする東国武士たちの意向が最優先、
そういう状況だったんじゃないかと思います。
戦国時代と違い、武家政権が確立したばかりでまだまだ不安定な時期に、
「朝廷から独立さしてやるから、オレについて来い!」といってた人物が、
または「オレたちが、将軍にしてやった」と思ってる人物が、
突然方向転換して、朝廷と結びつこうとしたら、そりゃ、東国武士たちは怒ったと思います。
で、
>>1の話題に戻るんですが、
頼朝の娘入内の話がでたとたん、娘2人があいついで病死、頼朝も謎の急死とくれば・・・
・・・頼朝の最初で最後のわがままが、結果として源家の滅亡を早めたのかな、という気がします。
(まあ、時間の問題だったのでしょうが)
細か〜い ところで恐縮ですが
> 北条氏をはじめとする東国武士たちの意向が最優先、
こういう文脈で「北条氏」はすごく不自然な気がします。
「三浦氏」あたりが適当かと。
>>55 何が言いたいのかよく分からん文章になっちゃった、スマソ・・・。
要は「当時の幕府の棟梁として」朝廷との婚姻政策は、すべきではなかったのではと思ったのです。
武家政権が歴史的にもある程度定着し、ある意味、朝廷を「利用してやれる」立場になってからでないと、
幕府が朝廷に吸収されるんじゃ、と東国武士たちを不安にさせるだけではないかと。
それでも我を通した、頼朝の真意を知りたいですね。
政子との結婚が、頼朝を武家政権の立役者にしてしまったわけですが、
本人は14歳くらいまで、朝廷や公家の政治を見て、その中で育ったのですから、
やはり貴族的なものに憧れがあった、と考えるのが自然ではないでしょうか。
>>56 北条氏は頼朝にとって、妻の実家であり、しゅうとであり、始めに力を貸してくれた一族であり、その立場から何かと口を出してくる一族であるため、
何かにつけて顔色をうかがわなきゃならない、優先すべき一族だったのかなあと思ったのですが、
確かに東国武士団で、当時最大勢力を誇った一族となると三浦氏になるでしょうね。
59 :
日本@名無史さん:03/04/16 04:26
>>55 一理あるけれど、ちょっと現代的なわりきりが強すぎるんじゃないかな?
「朝廷から独立」というのは今から見ればそういう要素もあるんだろうけど、実際にはまだまだ錯綜していたし、かなり複雑でしょ。
はるか後年の南北朝の頃にしても、足利荘なんてのは名目上は八条女院領で、足利氏はその下司職のような存在だったわけだし。
そういう現実の下では、むしろ自分たちの棟梁が朝廷の血縁者になれば、もっと発言力や権限が増す、と考える御家人も相当いたんじゃないかと思う。
また、そうはさせるかってんで、朝廷側の土御門通親なんてのはこの婚姻を妨害したんだろうし。
>>58 北条氏ってのは まあ 「親衛隊」「近衛兵」みたいな位置づけになるんでしょうか。
よく知りませんので ネタ振りがてら適当なこと書きますと
三浦のほかというと
畠山,千葉,上総,比企,佐竹,武田,足利 ???
61 :
日本@名無史さん:03/04/17 01:02
>>60 頼朝在世の頃の北条氏は「小物」と見て差し支えないのでは。
私のイメージでは時政なんかは、
「鎌倉殿の親族ヅラしてやたら大きい顔した、困ったおっちゃん」
頼朝在世時の御家人ヒエラルキーって、結構はっきりしてますわね。
@国司に任官するもの
A介官に任官するもの
B複数の地頭職を与えれたもの
64 :
日本@名無史さん:03/04/17 01:13
鎌倉政権成立時の北条氏は頼朝の妻の実家という以上の存在ではないでしょう。
明らかに良文流や良茂流の坂東八平氏よりは所領も軍事力も劣っていたはず。
頼朝の権威を嵩に徐々にじんわりと各個撃破で他氏を排除していったのです。
65 :
日本@名無史さん:03/04/17 01:34
池田氏は頼朝の孫禅暁の子孫です
>>59 う〜ん確かに、おっしゃる通り、視点として一方的過ぎたかもしれません。
ここらへん、当時の頼朝の行動に対して、御家人たちがどう思っていたのか、何か具体的なことがかかれた文献とか、ないでしょうかね。
上総介広常が「なぜそう見苦しくも、朝廷のことばかり気にするのですか」と言って、頼朝に殺された。
という話は聞いたことがあるのですが、出典は不明。
(ちなみに、広常が殺されたのは、そのことだけが原因ではないようですが)。
承久の乱の時は、少しですが朝廷についた武将もいたようですし、無断任官した武将は、義経以外にも何人かいましたので、
東国武士といっても、朝廷を敬いありがたがる雰囲気は(日本の歴史からいって当然なんですが)あったでしょうね。
ただその一方、東国武士たちは長年、朝廷や公家たちから、犬のようにこき使われ、無償で警備などをやらされたりしたため、不当に財産を失ったりしていましたから、
室町時代や戦国時代の武将とは、朝廷に対する思いが違った可能性もあるかもしれません。
(だから、東国武士たちが武家政権を確立しようとしたのは、ただ単に権力欲からではなく、今の生活を何とかしたい!朝廷に使われない人生を送りたい!
というせっぱ詰まった思いからであって、当時から「朝廷からの独立」という考えはあったと思います)。
また、武士でありながら公家化した平家に、公家と同じようにこき使われた東国武士たちは、清盛と同じ事をしよとしている頼朝に不安を感じなかったかな、とも思います。
そんなわけで、幕府の将軍と朝廷が結びつくことで、幕府が発展する可能性を歓迎した武将と、
頼朝が公家化して(幕府が朝廷に乗っ取られて)、再び元の生活に戻る可能性を恐れた武将と、当時、二派に分かれたかもしれませんね。
67 :
日本@名無史さん:03/04/17 02:10
>>66 「ナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ、タダ坂東ニテカクアランニ」(『愚管抄』巻六)
69 :
日本@名無史さん:03/04/17 02:15
北条氏の家臣(得宗被官)は時政のころマデは伊豆の在地土豪や、
駿河の地侍が主流。(高橋、吉川、入江、加藤など)
幕府内の争いで敗れて領地を失った武蔵、相模の武士達を得宗領
が増加するごとに被官化していった。(本間、曽我、渋谷、諏訪)
幕府での実力を謀略によって広げてゆくのにつれて、被官になる
武士の格も上がっていったようです。
それまでは直参の家臣も苗字さえ定かでない農民と区別のない家臣
しかいない弱小な在庁でしかなかった。
ただし、北条の先祖は平 直方といわれ、源 頼義は直方の娘を娶
り、八幡太郎義家や新羅三郎義光を生んだ故事に倣って源 頼朝が
北条氏を婚家に選んだといわれている。源 頼義は晩年は恵まれた
まま死んだといわれ、この佳例に頼朝が倣おうとしたという説もある。
70 :
日本@名無史さん:03/04/17 02:17
>>66 >>ただその一方、東国武士たちは長年、朝廷や公家たちから、犬のようにこき使われ、
>>無償で警備などをやらされたりしたため、不当に財産を失ったりしていましたから、
何時の時代の東国武士感だよ(w
そんなに自覚的じゃないよ、当時の坂東武者は。
言葉は悪いが相当の田舎なんだよね、結局。
独立なんて考えてなかったよ。
71 :
日本@名無史さん:03/04/17 02:21
>>66 当時の東国武士が頼朝に期待したのは、
「朝廷に顔が効かせてね」程度の事だと思うぞ。
宮将軍を鎌倉幕府が待望しつづけた意味から考えれば、そういう事でしょ。
>>70 んじゃ、坂東武者は、公家や朝廷にこき使われてなかったんですね。
じゃ、どうして坂東武者は兵をあげたんですか。
単純に「コイツ(頼朝)についてけば、土地がもらえるらしい」くらいの感覚?
教科書とかだと、身内で権力を独占してる平家がむかついたから、とも受け取れる記述があったりするけど。
誰か教えテン。
73 :
日本@名無史さん:03/04/17 06:48
>>72 以仁王の令旨で動いたんです。
これがなければ何も起こらなかった。
東国武士の主体性で、治承以降の大動乱を巻き起こしたんじゃない。
そんなものがあるなら大庭も梶原も畠山も始めから、頼朝を担ぐよ。
74 :
(σ・∀・)σ:03/04/17 06:55
75 :
日本@名無史さん:03/04/17 09:18
>>73 東国武士革命史観の解毒剤としてそういう割り切った見方をするのも有効
だろうと思うけど、それも極論だと思うなあ。
たかが一皇族が「俺は壬申の乱の時の天武天皇だ!」とデンパを飛ばした
だけの文書に反応しただけであれほどの大乱が起きるだろうか?
やっぱり当時の東国社会内部に新たしい体制を求める条件が熟して
いたからこそ以仁王令旨が起爆剤になりえたのではなかろうか?
>75
>新しい体制を求める条件
具体的にいうと何ですか。
77 :
日本@名無史さん:03/04/17 10:00
>>75 新しい体制と簡単にいうけどね(w
坂東の連中に、想起すべき体制構想みたいなものがあったかどうか考えないと。
78 :
日本@名無史さん:03/04/17 10:16
歴史は後から俯瞰すれば、あぁ、あれがそうなのか、というものであって、渦中にいた人間は何が何だかわからんでしょ。
どれか1つの理由ではなく、様々な要素が錯綜して、複雑にからまりあって歴史は動く。
頼朝にしたって手さぐりだったでしょ。
だからこそ京都から公家出身の大江広元とか三善なんとかを呼んできて、体制固めのブレーンになって貰った。
東国武士だけの才覚では、下手すりゃ将門の二の舞いに終わった可能性もあるね。
79 :
日本@名無史さん:03/04/17 10:27
>>75 この時期の令旨の効力は、電波で片付けられるものじゃないでしょ。
ましてや当時の坂東武者の中には、
保元、平治という中央政権内の武力闘争に参加した連中がいる訳です。
令旨の意味する所には敏感な筈。
80 :
日本@名無史さん:03/04/17 21:07
不思議なのは1180年に挙兵してから、わずか3年で東国支配を朝廷が承認し、
その2年後に守護・地頭の設置を認めさせている。本能寺の変から秀吉関白就任
や秀吉没から家康の将軍就任も大体そんな期間。でも秀吉や家康は、早くから
それぞれ信長・秀吉の後継と見られていたからそんなもんだろうと思う。
でも頼朝は、罪人だ。しかも挙兵した当時は朝廷に刃向かう逆賊扱い。
のはず、頼朝の支配が東国に限った話にせよ、なんかうまく事が進みすぎて
いるような気がするんだが。
挙兵から数年でタイミング良く、清盛は死ぬは、平家は義仲が
追い出してくれるは、義仲は実質自滅だし、そいから戦の天才の弟(義経)は
偶然現れるは、義経が邪魔になったら最大の難敵奥州藤原氏ともども滅ぼせるは
でね。しかも朝廷の最大の実力者(交渉相手)はミスター権謀術数とも言える
後白河。日本史でこんなにものごとがスムーズにいった例ってあるん
だろうか? 明治維新だって前後10数年位(特に前の15年)は混乱してたでしょ。
>>80 それだけ東国の独立気運が盛り上がってたということじゃないか。
結局旗頭は,血筋がそれなりであれば誰でもよかった。
83 :
日本@名無史さん:03/04/17 22:55
>>81 血統がそれなりと言うだけじゃやっぱり駄目でしょう。
清和源氏の嫡流であり、八幡太郎の後継者たる頼朝でなければ
坂東武者がまとまる訳無いよ。
だから幕府という組織が出来て、一旦まとまってしまえば、
将軍は誰でも良くなり、源氏は3代で滅び、傀儡将軍が連立する。
スレタイに戻るけど、扇の要、坂東武者のシンボルである頼朝暗殺は
無かったと思うよ。
暗殺が露見すればせっかく出来た幕府が瓦解してしまうからね・・・
> 清和源氏の嫡流
> 八幡太郎の後継者たる
こういうものを尊ぶという考え方自体が
後世のものではないかと思います
当時、平将門がいれば、それでもOKであるほど、機が熟していただけ。
86 :
日本@名無史さん:03/04/17 23:04
金スマに出てたよ。頼朝
ホストだけどね。(w
87 :
日本@名無史さん:03/04/17 23:12
>>80 筋書きを書いたのは後白河だと思う。その後対立したのは、後白河の誤算ですな。
88 :
日本@名無史さん:03/04/18 00:32
大姫入内運動ですっかり朝廷(通親と丹後局)に翻弄されたため、
それに危機感を感じた有力御家人達に殺された可能性は捨てきれない。
この入内運動の副産物である九条兼実の失脚と長講堂領七ヶ荘の回復
(要は親幕派公卿の弱体化と院の所領の増加)は
明かに幕府の根幹を揺るがしかねない問題だと思われる。
頼朝は野党の党首が与党朝廷に入ろうとしたわけで、いわば民主の熊谷みたいなもん。
そりゃー、「裏切り者」扱いはされるだろう。
外戚になると京都にいないと意味ないから、頼朝は京都に引っ越そうとしていたかもしれないし。
御家人による暗殺も考えられるんじゃないかな。
最近では源実朝暗殺も、御家人の総意による暗殺という見方も出てきているし。
90 :
日本@名無史さん:03/04/18 02:14
幕府における大江や三善の役割は大きいと思う。
守護・地頭の設置は彼らの発想だし。
考えて見れば、地頭なんてかなりヤクザな制度と言うか(w
荘園領主に対して用心棒やってやるから上前(兵糧米)よこせなんて、
相当な悪知恵だよ。坂東武者だけなら思いつかなかったかも知れない。
公家でありながら朝廷に対する執念みたいなものを感じるな。
大江といえば毛利元就の祖先。鎌倉幕府創設といい。関が原での裏切りといい。
幕末の長州の暗躍といい。歴史の節目に主役ではないけど絡んでくる一族だねねえ。
91 :
日本@名無史さん:03/04/18 19:48
大姫が仮に入内しても幕府を京都に移すことはないでしょう。
平家政権のように朝廷内で権力を得ようというのなら、木曽義仲と
同じようにとっとと上洛していたはず。
そうしなかったのは、初めから朝廷からある程度独立した武家による
武家のための軍事政権を作ろうと確信していたから。
大姫入内は江戸幕末の公武合体と同じ意味合いなのでは?
>>91 だから鎌倉幕府成立時とは気が変わったのでは(それは御家人からは裏切り行為となる)。
それから当時の外戚の意味と朝廷が飾り物に過ぎなくなった徳川時代では全然違うでしょ。
外戚になっても京都にいなくては、もし大姫が皇子を生んでも、自宅に引き取ることが出来ない。
これじゃ外戚の意味が無い。
史書には無いけど、非公式に頼朝は考えていたのでは?
九条兼実を切り捨てたこともそれなら納得できる。
93 :
日本@名無史さん:03/04/18 22:19
>>92 頼朝が藤原氏や平氏と同じことをやろうとしていたとは思えないんだけどなぁ。
むしろ大姫入内を契機に、後年の六波羅探題のようなものを都に設置できると考えていたのではないか?
いずれは武家による全国支配を達成したいと思っていたろうし、そうなると京都を抑えるのはどうしても必要になってくる。
もっとも、その意図をよくつかめない一部の御家人の間には不満の声があったとしても不思議はないけど(だからって暗殺まではちょっと‥‥)
94 :
日本@名無史さん:03/04/18 22:58
>>92 というより頼朝には元々武家政権を設立という確固たる意志がなかったん
じゃないかと思われるふしが多々見受けられる。
義仲、平家、義経、藤原氏との敵対中はあまり表面化してないが、
朝廷に対してはいたく弱気なんだな。
実は幕府の最大の敵が、朝廷だということを頼朝本人が、あまり自覚して
なかったんだろうなあ。御家人達にしてしてみれば、だからこそ鎌倉殿に
据えとくには都合が良かったんだろうけど。
>むしろ大姫入内を契機に、後年の六波羅探題のようなものを都に設置できると考えていたのではないか?
だったら、大姫を入内させる意味は無いでしょう。
何しろ当時は関白九条兼実を組んでおり朝廷対策は万全。
また、六波羅の前身として、従二位中納言一条能保(頼朝の同母妹の旦那)がおり、これも万全。
それなのに、九条、一条を切り捨て、当時の政敵の源通親にごますって大姫入内の意味がわからん。
96 :
日本@名無史さん:03/04/18 23:11
頼朝は父を謀殺した長田庄司を,当初は家臣としてましたが
平家が滅び義朝への報告する時に長田親子をつかまえ
とんでもなく残虐な拷問で殺しました
体は一寸ずつ切り刻まれ,目はくりぬかれ,耳鼻はそぎ落とされ
しかも4,5日と長い時間をかけて殺されたそうです
この残虐性は日本史の中でも類を見ないほど残虐なものでした
私はとても興味深いです
97 :
日本@名無史さん:03/04/18 23:19
>>94 >>というより頼朝には元々武家政権を設立という確固たる意志がなかったん
>>じゃないかと思われるふしが多々見受けられる。
頼朝の課題って、「将門扱いを避ける事」の一点なんだよね。
だからこそ公武宥和は、当然必要であって。
ましてや平家、奥州藤原氏という仮想的がいなくなった時点で
「じゃあ次は宮中内に・・・」と考えるのは流れからいって、自然なこと。
>>実は幕府の最大の敵が、朝廷だということを頼朝本人が、
仮想敵としての朝廷、という発想が産まれるものなのかな?
後鳥羽帝のような存在って、むしろ稀だと思うんだけど。
天慶の乱から起こる坂東の兵乱って、結局全部地元解決なんだよね。
そう考えると、大姫入内に対して不満を漏らす御家人、
というのもいたのかどうか。
98 :
日本@名無史さん:03/04/18 23:20
>>96 八幡太郎義家もそんな事をやってるわい。
類は見られる、いろんな所で。
>頼朝の課題って、「将門扱いを避ける事」の一点なんだよね。
だからこそ公武宥和は、当然必要であって。
なんで大姫入内が当然必要なわけ?
将門扱いって、頼朝はすでに右大将、従二位の官位を得ている(結局すぐに辞任したけど)。
将門扱い云々とは違うと思われ。
100 :
日本@名無史さん:03/04/18 23:39
100げっと
101 :
日本@名無史さん:03/04/18 23:41
>>99 恒久的に安定を望むというのはそういう事。
滅ぼされた平家の人は、大概殿上人でっせ。
102 :
日本@名無史さん:03/04/18 23:49
>>97 「地頭」は、明らかに院・天皇・貴族・寺社などの荘園領主達にとっては
脅威的存在、幕府の基盤が地頭=御家人であり、荘園領主が朝廷を支える
基盤であれば、いずれ対決せざるを得ない。特に朝廷側は対決しなきゃ
そのまんま没落するだけ。頼朝の挙兵後、朝廷との講和に反対した広常の
ように、朝廷を仮想的として意識した勢力は少数派ではないだろう。
でなきゃ承久の乱の際のあの坂東武士の結束は生まれない。
103 :
日本@名無史さん:03/04/18 23:53
>>102 前半の論述の展開からから行くと結論は
「故に朝廷内部に、鎌倉を仮想敵と見出す者が現われ・・・」
となるのが自然なんだが。
広常の話に結びつけるのは?
>>101 となると、やっぱり大姫入内→天皇外戚→幕府京都移転、ということですな。
105 :
日本@名無史さん:03/04/18 23:58
頼朝と将門の対比は面白い。
将門は独立の意志が強かったが、地元民がビビッて引いてしまい、
結果的に見放された。頼朝は逆、地元民の意志強いが、頼朝が気弱で…
じゃ、最後は見放されちゃったのかな(w
106 :
日本@名無史さん:03/04/19 00:00
>>105 地元民の強い意志とは?
ソースは永井路子ですか?
107 :
日本@名無史さん:03/04/19 00:04
>>104 幕府京都移転というプログラムがあったかどうか定かじゃないけど、
可能性は否定出来る者ではない。
ただし頼朝がそれを、積極的に志向していたかというと、?
鎌倉に居続ける事で得られる政治力、というのを知ってしまっている訳だし。
108 :
日本@名無史さん:03/04/19 00:32
>>105 猪瀬直樹の本に「想像力が歴史を作る」みたいな事が書いてあったけど、
その線で行けば、当然頼朝とその身辺に将門の事例が頭にあったのかもね。
頼朝の行動が頼義、義家の故事をなぞらえた、という論述は見掛けるけど、
将門との比較はないのは勿体無い。
ぜひ誰か挑戦してくれ。
頼朝暗殺というネタから出発したんだが、結構よくよく考えるとありえるかな、と思ったりして。
頼朝幕府京都移転→御家人反発→御家人総意による暗殺という流れがあったからこそ、
頼家、実朝のあのような非業の死があったのでは?
頼家は土地の裁判で真ん中に線を引いて決済した、ってエピソードがあり、これも御家人の反発を買ったろうし、
実朝の京かぶれ、異常な昇進も御家人の反発を買ったと思われ。
110 :
日本@名無史さん:03/04/19 01:05
>>109 吾妻鑑に記載された頼家の悪行は、相当割り引いて読んだ方がいいぞ。
>>110 とはいうものの、非業の死を遂げたのは事実。
北条の独断であそこまで出来るだろうか?
やはり御家人の総意があったと見るべきでは。
112 :
日本@名無史さん:03/04/19 01:06
>>109 頼家の死
⇒北条と比企のパワーゲームの犠牲になっただけ。
実朝の死
⇒完全にアクシデント。
113 :
日本@名無史さん:03/04/19 01:10
>>111 当時の御家人って、権力の使い方をまだ判ってなかった訳。
だからあのような、訳の判らぬ殺し合いが起きたのよ。
「総意」なんてものが或るのなら、最初から何も起こらんわい。
114 :
日本@名無史さん:03/04/19 01:13
幕府京都移転って、なんかソースあんのか?
115 :
日本@名無史さん:03/04/19 01:22
>>111 奥と表に無理やり鎌倉御家人を分類すると、
千葉、宇都宮、足利なんかが表。
北条、比企、三浦、大江などが奥。
頼家の死は奥の連中の内紛で起きた事と解釈していい。
無理して京都移転なんか持ち出さなくても、それで十分理解できるはず。
116 :
日本@名無史さん:03/04/19 01:59
で結局、頼朝は暴れ馬の政子から落馬して死にました。
117 :
ぼくちゃん:03/04/19 10:13
天ぷらの食いすぎ>1
118 :
日本@名無史さん:03/04/19 21:21
やっぱり俺は頼朝暗殺は無いと思うな・・・
頼家・実朝暗殺は頼朝という偉大な幕府創建者がいなくなった事による
御家人間の勢力争いにすぎないと考えます。
扇の要である頼朝がおっ死んで誰が得したよ!
比企能員か?後鳥羽上皇か?北条時政か?
誰も頼朝の死の直後に強大な権力は手にしていないはず。
それならば暗殺というクーデターは無いと考えるのが普通でしょ。
119 :
山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/04/19 21:56
ただ曾我兄弟はあだ討ちの際に頼朝の陣に切り込もうとしているのですが、
その直前まで兄弟は時政の庇護下にあったらしい。これをもって頼朝暗殺未
遂事件としてみることも出来ると故石井進先生が。
120 :
日本@名無史さん:03/04/19 22:31
>>誰が得したよ!
頼朝の死によって、彼が親幕派抜きの朝廷に妥協しつづけ、荘園領主たちに
懐柔されることによる、「地頭抜きの荘園」の増加という脅威はなくなった。
教科書的に言えば、御恩と奉公の「御恩」の資本が流出していくという
幕府の基盤が脅かされる大きな要因の一つは取り除けたというわけ。
北条だの比企だのという個別の豪族の損得じゃない。
御家人達全ての利益の問題。だからさんざん御家人の総意で殺したんじゃ
ないか、という意見が説得力を持つわけだ。
(まあ記録がないから真相はもちろん闇なんだけどね)
地頭の権益を朝廷が侵すというのは、幕府はこれだけは譲れない部分。
親朝廷派の実朝でさえ、後鳥羽の地頭罷免要求を突っぱねている。
(突っぱねさせられたのかもしんないが…)
121 :
日本@名無史さん:03/04/19 22:33
ニ品殿
122 :
日本@名無史さん:03/04/19 22:38
頼朝って女の屋敷に夜這いに入った所を家人に見つかって殺されたという説を
聞いたことがあるのですが。
123 :
日本@名無史さん:03/04/19 22:48
>>116 おもしろいッ!
腹上死か?
あまりに他の女との逢瀬が多かった為に、政子との夜のおつとめ中に(政子の嫉妬により)殺されたとか?
じゃじゃ馬妻の上に乗ってて落ちて死んだから落馬と記録された...いいかも(笑)
まあ 暗殺とか陰謀とか抜きで説明できるうちは
そういうこと考えないほうがいいと思う。
125 :
日本@名無史さん:03/04/19 23:15
>>124 なるほど、ところでスレの途中で出てきた頼朝の肖像画のモデルらしき?
直義はかなりの歴史の本で毒殺ということにされてる。(大河ドラマでも真田が
高嶋弟殺してた)でも毒殺と断定している当時の資料ってないんじゃなかったっけ。
太平記も毒殺の噂にとどめているし。この辺はどうなんだろうねえ。
なんで直義だけが? とか思うんだけど。噂だけなら孝明天皇の件なんて
完璧にクロだろと突っ込みたくなるが。
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
>>21>>23 超亀レス、スマソ
昭和62年夏、関西高校(岡山県)の一塁手・信長賢治
スレ違いsage
128 :
日本@名無史さん:03/04/20 18:32
>>125 検屍解剖したわけでもないから真相はわからんけど、幽閉直後にあまりにもタイミング良く死んだら、仮に病死だとしてもそういう噂はたつだろう。
少なくとも当時の人々はみんな毒殺だと思ってた。それが孝明天皇との大きな違い。
129 :
日本@名無史さん:03/04/20 18:42
>>125 将軍に楯突いた弟が降参して捕らえられた後、鎌倉であぼーん。
特に体調不良という情報も流れず、突然の死。毒殺はいわゆる
「公然の秘密」であり、幕府自体も否定はしなかったのだろう。
反逆者を抹殺しても世間は許しますが、最高の存在である
天皇を暗殺してはどんな理由が有ろうと共感を得るのは難しく、
暗殺者側は隠しに隠すでしょう。
130 :
日本@名無史さん:03/04/20 23:38
直義の死で不思議なのは
「自殺」でも「斬殺」でもなく「毒殺」と、噂にせよ、殺し方が断定的だなあ。
誰かが意図的に情報を流したか、自然発生的だったのか。
また、意図的でなければ実際に見た奴が漏らしたのか。そうでないのか。
なんだかよくわからん。
131 :
日本@名無史さん:03/04/21 00:55
>>122 それは、横溝正史の「女王蜂」の中に出てきていたね。あれが横溝の完全な創作なのか、
それとも、そういう伝説があるのかは知らないけれど。
ところで、このスレ今日初めて来たんだけど、2ちゃん名物の罵倒や煽りもなく、各人が
自分の論を冷静に抑制ある文章で書いてて、非常に読みごたえがあります。良スレなので、
この雰囲気で1000まで行って欲しいです。スレタイから外れた話題も面白いでつ。
132 :
日本@名無史さん:03/04/21 05:04
>>119 曾我兄弟の仇討ち事件については、作家の永井路子は、むしろその北条時政が暗殺されかかったのではないか、と言っていたよ。
理由の1つは、曾我兄を討取ったのが北条の腹心、仁田四郎であったこと。
これは、曾我兄弟らが北条の陣屋に切り込んできたのを意味するからではないか、って。
もちろん、北条は黒幕で、頼朝暗殺に失敗したから、その口封じにやった可能性もあるけど、あの当時の北条は、まだ頼朝を殺してしまえるほど強大ではなく、
むしろ頼朝の権威によって権力の座にあったから、それはないだろう、と。
で、事件後、多くの御家人が出家しているらしい(三浦一族の岡崎義実とか、三浦系の御家人)ので、
もしかしたら三浦一族が黒幕ではないか?というのが永井説。
付け加えると、この事件後に頼朝の弟範頼が修善寺に流されている。これは何を意味するのか?
範頼が頼朝を暗殺して取ってかわろうとしたのか、とも考えられるけど、
だとしたら、そのように範頼をそそのかした者がいた筈だよね。
もちろん、全くの冤罪の可能性もある。ミステリーだよ、ほんと。
133 :
日本@名無史さん:03/04/21 06:01
暗殺!
134 :
日本@名無史さん:03/04/21 09:02
135 :
日本@名無史さん:03/04/21 15:14
三浦はいつでも悪役になっちゃうよね。
北条に敗北した敗者の悲哀ですな・・・
それにしても頼朝の死あたりから幕府滅亡まで北条を中心とした
御家人間の抗争は目をみはるものがありますね。
学校の授業では幕府ができると鎌倉仏教の興隆が話題の中心になり、
元寇があって新田義貞により幕府が滅びる。
実際は政治の主導権をめぐり血みどろの抗争の連続!
136 :
日本@名無史さん:03/04/21 15:23
名古屋市熱田区出身の源頼朝さんは岡田有希子さんと同郷
「草燃える」では完全に三浦のクーデターとして曽我事件を取り上げていた。
黒幕は伊東祐之という架空の人物。新人の滝田栄が演じていた。
伊東一族の出で、その姉が三浦義澄と結婚しており、伊東−三浦−岡崎・大庭ラインが
頼朝−北条時政−工藤ラインに対するクーデターを図り、頼朝殺害後範頼を立てるという筋書き。
ちなみに三浦義村(義澄の子・藤岡弘)がそのころは仲良しだった北条義時(松平健)を助けようとして、「今晩は俺のところに遊びにこい。女もいるぞ。いいから俺の言う子とを聞け」なんてエピソードもあったり。
138 :
日本@名無史さん:03/04/21 18:55
>>137 推理としては一貫性があるし、小説としても面白い。
頼朝の外戚として次第に他の御家人にまさる力を手にいれつつある北条と、
それを憂慮する反北条の御家人という相克という図式の中に、この事件を置いてみるのが自然なのかもしれない。
ただ、範頼を担ぐというのはどうなんだろう?それでまとまるとは思えんのだが。
まだ他に、全成という弟もいたし、こちらの方は妻が政子の妹で、かりに頼朝を殺したとしても、すんなりいきそうもない。
今度は全成派と範頼派に割れての血みどろの抗争になった可能性もある。
何より、それほどの大事件のわりには処罰や追及が手ぬるいという気もする。
三浦氏のような大族を処分すると混乱が生じ、せっかくまとまりかけた幕府が瓦解するおそれがある、とでも考えたのかな?
いわば範頼一人に罪を背負ってもらった、と。
>ただ、範頼を担ぐというのはどうなんだろう?それでまとまるとは思えんのだが。
史実かどうかは不明だが、河津某という伊東一族で曽我兄弟(も元は伊東一族)の叔父だったかが、範頼の一番家臣という設定だったと思う。
>何より、それほどの大事件のわりには処罰や追及が手ぬるいという気もする。
三浦氏のような大族を処分すると混乱が生じ、せっかくまとまりかけた幕府が瓦解するおそれがある、とでも考えたのかな?
そういう設定。
最初は時政は「この際反北条の連中を一挙に壊滅させてやる!」といきまいていたが、
義時が「では、この事件のバックに三浦がいたとすれば、父上はどうなされる」といわれて、冷静に戻る。
で、御家人が居並ぶところで、曽我弟が「俺は謀反をするつもりだったんだ!」とわめいているところで
北条が「曽我のあだ討ち見事です!」と大声でさえぎり、頼朝、三浦、大庭、岡崎が「まこと武士の鑑」と誉めそやし
「美談」に仕立て上げる、曽我弟はその後口封じで斬首、という流れ。
永井センセイは、頼朝&政子(北条一族)のファンだから、
頼朝を、猜疑心が強くて勘違いで範頼を死に追いやった人物、としたくなくて、
「悪いのは範頼!頼朝は、ついでに北条も被害者!」として、範頼&三浦に、悪役を押し付けた可能性はないかね。
永井説は、なるほどと思う部分もあるんだけど、
どうしても範頼に、それほどの野心があったと思えないんだけどなあ。
範頼が本当に謀反人であったなら、それまで誰に対しても、血縁者であっても厳しい処罰を下してきた頼朝が、
島流し程度で許したと思えないなあ(その後、殺されたんだっけ?)。
将軍殺しなんて、将軍にとって、最も重い罪でしょ?
141 :
日本@名無史さん:03/04/22 00:11
>>137 範頼を立てるという発想はよくても、
頼家&実朝をどう始末するのか、が微妙で
乗れない話ですな。
>範頼が本当に謀反人であったなら、それまで誰に対しても、血縁者であっても厳しい処罰を下してきた頼朝が、
島流し程度で許したと思えないなあ(その後、殺されたんだっけ?)。
まあ、黒幕(三浦かどうかはともかく)を無罪放免にした以上、公式には処罰出来ない罠。
でも、修繕寺に流したあと、こっそり殺した罠。
>頼家&実朝をどう始末するのか、が微妙で乗れない話ですな。
皆殺しでしょう。
比企合戦で、北条が頼家の嫡子一幡を殺したように。
詳しい方にお聞きしたいのですが、
頼朝の権威のお陰で今の地位にいるとしても、頼朝が今以上に自分たちを贔屓してくれるとも思えず、
これ以上の権力拡大が現状では難しいのなら、いっそ扱いづらい頼朝を殺して、
自分の孫の頼家(または実朝)を将軍にすることで、将軍の祖父として将軍を操り(実際、頼家は扱いづらかったようですが)、
裏で権力を握り、いっきに勢力拡大を狙う。
ということを、北条時政(北条一族)が考えてた可能性はあります?
いくら黒幕(三浦?)に、そそのかされたとしても、
失敗すれば確実に殺されるような危ない橋を、地味で堅実な(と思われる)範頼が渡ったとは思えない。
また、自分は三浦のような大勢力をまとめ上げられる、という自信を持っていたとも思えない。
対頼朝勢力として担ぎ上げられて、利用されたあげく、ころあいを見てアボーンされる、
将軍になれても、実質の権力は三浦が持っていて、自分は傀儡になってしまう、ということを理解できないほど、範頼はバカだったとも思えない。
歳も当時としては、それなりだったんでしょ?
若いなら状況を理解できないのも分かるし、若さで突っ走れるだろうけど。
考えられる可能性として、定年まじかで急に脱サラして、ラーメン屋をはじめるような、
先が見えてきた人生、このまま枯れるだけなのか、もう一花咲かせてやりましょ意識が、あったかどうか・・・。
>>143 頼朝時代ではまだ無理では?
そこまで北条氏の力は強かったとは思えないし。
三浦以外にも、梶原、比企、といううるさい連中もいることだし。
>>144 ただ、謀反以外に範頼を殺す理由がはっきりしないんだよね。
別に頼朝は一族をやみくもに殺していたと言うほどでもない。
敵対したら、容赦はなかったけど。
一応、別の弟の全成に対しては、実朝の乳母親にしていることだし。
146 :
日本@名無史さん:03/04/22 01:55
>>145 範頼は義経との比較で愚将あつかいされてるけど、実際には源氏の主力軍を率いて
平家討伐に大功を立ててるんだし、頼朝にとっては十分警戒に値する存在だったんでは。
147 :
日本@名無史さん:03/04/22 01:58
ところで範頼が殺されたという話、出展は何?
吾妻鑑にはそんな話乗ってなかった気がするんだが。
辞典とか見ると生没年不評になってねえか?
148 :
日本@名無史さん:03/04/22 02:02
>>143 頼家には比企、実朝には阿野全成と北条時政。
ただし、だ
>>いっそ扱いづらい頼朝を殺して
という発想がどうやったら生まれるのか。
我々は結果を見てあーだこーだ想像できるけど。
当時の坂東武者にそういう発想ができるかどうかを、考えないといけないのでは?
主殺しのサンプルを、まず集めるところから、がよいのでは。
>>145 まあ実際、範頼は「謀反の疑いあり」で殺されてるみたいだけど。
問題は、本当に範頼に謀反の野心があったかどうか、
それとも一般的にいわれているように、単に頼朝の勘ぐりすぎなのか、だな。
>>146 範頼は愚将ではないと俺も思う。
結果を出せば、範頼を慕う家人も出てくるだろうし、頼朝が警戒心を抱いたとしても当然だと思う。
ただ、仕事における有能無能と、本人の野心あるなしは別の話。
150 :
日本@名無史さん:03/04/22 02:10
>>149 実際とは、ソースがあって言える事であり・・・
良スレなんで、厳しくチェック。
>結果を出せば、範頼を慕う家人も出てくるだろうし、頼朝が警戒心を抱いたとしても当然だと思う。
警戒心といっても、範頼にはバックがなかったしねえ。
実際頼朝もそうだけど、本人自身の手勢を持っているわけじゃない。
それに当時の頼朝は人生一番の絶頂期。
念願の征夷大将軍に就任し、鎌倉殿として御家人のまとめあげ、
平家、義経、奥州藤原氏と敵対勢力も一層。
朝廷は関白九条兼実、同母妹の夫の一条能保が主流派で京都との関係は良好。
ま、道長風に言えば、「望月の歌」でも歌いたいような状況。
そんなときにたいした理由もなく、弟を殺す理由があるのだろうか。
152 :
日本@名無史さん:03/04/22 02:36
鎌倉武士とゴット・ファーザーの世界観は被る
153 :
動画直リン:03/04/22 02:43
154 :
日本@名無史さん:03/04/22 02:44
>>151 頼朝も自分が神輿に過ぎないことを自覚していたんじゃないかな。
だから御家人たちの神輿になりそうな弟たちに警戒心を持ったのでは。
155 :
日本@名無史さん:03/04/22 03:00
>>154 頼朝=神輿説は、もう古い説だと思うよ。
なんだかんだいって、当時の東国社会は「未開」だよ。
神輿を担ぐなんて高度な技を、狙って使っていたなんて思えない。
157 :
日本@名無史さん:03/04/22 19:16
>>155 そうですね、私も頼朝は幕府創建という大事業を成し遂げた
偉大な人物だと思います。
もちろん有能なブレーンとともに行ったプロジェクトですが、
頼朝が主体的にかかわっているのは間違いないでしょう。
決して「お飾り将軍」ではなく自分自身のビジョンに基づいての行動。
この時代の平清盛・後白河法皇・源頼朝は時代の核となった
一種のカリスマだと思います。
158 :
日本@名無史さん:03/04/22 21:36
清盛はなぜ頼朝を伊豆(東国)に流したんだろう?源頼義以来、源家累代の家人が多いのに。
佐渡とか土佐とかの西国、もっと極端にいえば鬼界ヶ島にでも流せばよかったのに。
159 :
日本@名無史さん:03/04/22 21:38
伊豆って平家の知行国じゃなかったっけ?
160 :
日本@名無史さん:03/04/22 21:40
八郎為朝は八丈島だったもんな。
161 :
日本@名無史さん:03/04/22 22:20
>>147 吾妻鏡では確かに、建久四年八月十七日条に
「参河守範頼朝臣被下向伊豆国。」
とあるのが最後みたい。
あと頼朝の死因については、死の時は吾妻鏡が欠けていて、のちの
建暦二年二月二十八日条に
「去建久九年。(稲毛)重成法師新造之。遂供養之日。故将軍家渡御。
及還路有御落馬。不経幾程薨給畢。重成法師又逢殃。旁非吉事」
とあるのが一番確かな史料だろうが、帰りに落馬してまもなく死んだと
あるだけで状況がよくわからない。
この橋供養より前から病気で、当日は体調が良かったので出席したが
帰りに昏倒してしまった、ということも考えられると思う。
>>158 関東は源氏の勢力圏、というのは後世の作り話では?
武士は、いわば経営者で、自己の土地を守るのが最優先。
源氏に従っていたのは、頼信から始まる武門としての源氏の勢威に服していただけだろう。
つまり、現実的な人たちだから、昔の好で、零落した者を助けるとは思われなかったのでは?
163 :
日本@名無史さん:03/04/22 22:48
>>162 では何故に北条時政は頼朝に自分の娘を嫁にやるのかがわからん。
そりゃ源氏の嫡流というバリバリの貴種が身内にいればどこかで
役に立つかもしれないという思いはあったであろうが、時代は
平家にあらずんば人にあらずという時代。
罪人に娘を嫁がせるという危険を冒すのは、源氏と関東のつながり
をある程度計算していたからでは?
164 :
山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/04/22 22:55
武蔵はともかく、相模は平家に重用された大庭氏と対立していた三浦
・中村氏などの従来の国衙在庁系の武士団は頼朝の挙兵にいち早く反
応を示しています。
大庭氏の勢力が拡大されれば当然中村氏などの勢力は削られていたわ
けで、そのことに対する反発があったらしい。
参考文献:「鎌倉武士の実像」 石井進
165 :
日本@名無史さん:03/04/22 23:01
>>163 流されてくる貴人というのは、結構もてなされるもんですよ。
万が一、赦免→中央復帰などという事にでもなれば、重要な政治財産になりますし。
166 :
日本@名無史さん:03/04/22 23:14
もし頼朝がいなかったら平氏政権は長続きしたのだろうか?
それともやはり源氏のだれかに倒されたのだろうか?
167 :
日本@名無史さん:03/04/22 23:26
>>166 関東を治められたかどうかにかかって来るだろうな。
どっちにしたって慢性的に兵乱は起きていただろうし。
> もし頼朝がいなかったら平氏政権は長続きしたのだろうか?
if議論は好きじゃないけど。
関東の生産力増加→人口増加→水利権などの諸問題→調停役が必要
こういう流れを 誰がどうまとめるようになっていったか。
>>163 時政の後妻の牧の方は、かつて平頼盛に仕えていた女官だったらしい。
で、その実家は、平頼盛の領地を管理していた。
北条家は、もともと平氏だったし、平家とつながりが深かった
時政が、頼朝の名代として義経追悼に京に入ってきて、守護・地頭の設置を認めさせるなど、京都と強いつながりを持っていたことをうかがわせる。
北条氏が、他の強力な御家人を排し、執権政治を確立していった過程をみると、坂東武士とは異質な存在って感じはする。
170 :
日本@名無史さん:03/04/23 00:00
>>166 平氏を都から追い出したのは木曽義仲でつ。
頼朝がいなければ宇治川で負けることもなかったろうから
もう少し朝日将軍の天下が続いていたでしょう。
でも傍若無人ぶりから他の勢力に追い出しを食らったでしょう。
意外に近江の宇田源氏や摂津の多田源氏が頑張っていたかも・・・
(妄想は楽しいな!)
171 :
日本@名無史さん:03/04/23 00:03
172 :
日本@名無史さん:03/04/23 00:04
>>169 牧の方と時政の縁って、治承以前からあったの?
173 :
日本@名無史さん:03/04/23 00:13
>>169 俺は北条も他の御家人と同じ板東武者(それもかなり小物)だと
思うな。そんなに特別な存在ではなかったと思うよ。
尼将軍のツテから幕府のトップを独占するにいたった義時・泰時
の努力が大きいんじゃないかな?
174 :
日本@名無史さん:03/04/23 05:26
>>166 平氏は源氏と対立したというよりも、後白河法皇をはじめとする朝廷と対立したというべきでは?
義仲にしろ頼朝にしろ、法皇の命令が無ければ都には攻め上れなかったんだし。
175 :
日本@名無史さん:03/04/23 18:59
平氏は頼朝がいなくてもいずれ失脚したでしょう。
結局、源平争乱の最大原因は土地所有の形態をめぐる対立であると
考えます。
古来、土地は公地公民の制度により国に所有権が帰属しておりました。
ところが荘園の発達により土地の所有権は貴族や寺社に移行。
荘園の管理人さんである武士は実質的に管理・所有しているのは自分たちで
あるにもかかわらず、貴族からは上納・労役が課されてつまらない。
それならばいっそ自分たちの土地にしちまおうということで団結したのが
幕府という組織なのでは?
平氏のやりかたは、自分たちの私腹を肥やすばかりであるため、周りの
賛同は得られなかった。よって一族そろって都落ち。(一部例外あり)
176 :
日本@名無史さん:03/04/23 19:47
>>166 牧の方と北条時政の結婚は、治承・寿永内乱の後だという説が最近出た。
よって、挙兵以前の北条氏の地位とは直接結びつきません。
177 :
日本@名無史さん:03/04/23 20:11
>>174 法皇の命令がなければ、頼朝は力づくで出させたでしょう。
あるいは、平氏が倒れてから、あわてて法皇が命令を出したでしょう。
178 :
日本@名無史さん:03/04/23 20:47
>>176 治承以後、だろうなぁ。
どう考えたって頼朝と頼盛の関係からの縁としか思えんし。
舅の箔付けに、頼朝が一肌脱いでやったと解釈すれば、
当時の北条が弱小だった、という証左になる話になるね。
179 :
日本@名無史さん:03/04/23 20:50
平氏と平家を混同しないようにしよう。
平家とは、平氏の氏族の中で平姓を名乗り続けた家。
平氏の大半は、源家の傘下にあった。
180 :
日本@名無史さん:03/04/23 20:51
北条も三浦も千葉もみんな平氏だものね。
181 :
日本@名無史さん:03/04/23 20:51
>>175 >>それならばいっそ自分たちの土地にしちまおうということで団結
階級史観か。
高橋昌明か関幸彦を読んでから出直して来る事をお勧めしよう。
悪源太義平>>頼朝>>>義経>>>>阿野全成>>>>>>>>>>>範頼
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>義圓
184 :
日本@名無史さん:03/04/23 21:39
>>178 牧の方の実家は、駿河にあって、時政は駿河の守護だったからそのあたりも意味があるかも。
186 :
日本@名無史さん:03/04/23 23:01
187 :
日本@名無史さん:03/04/24 04:27
>>175 >平氏のやりかたは、自分たちの私腹を肥やすばかりであるため、周りの
賛同は得られなかった。
後の世の頼朝ほど徹底していないにしろ、西国の武士などは、争って平家に名簿を提出していたようだし、平家もそんな武士団の利権の保護を買って出ていたと思うよ。
いわば、幕府ではないが、幕府の前身政権。
だからこそ平家は後白河や朝廷勢力と対立を深めていくわけでさ。
藤原氏みたいに完全に貴族になりきってしまえば、むしろそんな対立も無かったんじゃないかな?
まぁ、後白河のやったことは、「狼(平家)を追い払うために虎(源氏)を引き入れてしまった」ってやつだろうね。
188 :
日本@名無史さん:03/04/24 04:31
>>175 >平氏のやりかたは、自分たちの私腹を肥やすばかりであるため、周りの
賛同は得られなかった。
それはどうかなぁ?後の世の頼朝ほど徹底していないにしろ、西国の武士などは、争って平家に名簿を提出していたようだし、平家もそんな武士団の利権の保護くらいは買って出ていたと思うよ。
いわば、幕府ではないが、幕府の前身政権。
だからこそ後白河や朝廷勢力は平家を目の仇にし始めて対立を深めていくわけで。
まぁ、後白河のやったことは、「狼(平家)を追い払うために虎(源氏)を引き入れてしまった」ってやつだろうね。
189 :
日本@名無史さん:03/04/25 13:29
平家が滅びたのは、一言で敵が多かったこと。その原因は、
1.西国に基盤があったこと
2.朝廷のシステムで政権を担当した ことだろう。
西国はまだ貴族・院・天皇・寺社などの荘園領主の勢力が強いから、
在地領主の支持にも限界がある。また朝廷のシステムを利用することにより、
権力からあぶれた勢力からも支持されない。さらに東国は西国に比べ
国衙領の比率が多く、となると朝廷のシステムでの知行国主→目代経由の
支配となると、当然それは鎌倉殿→御家人の直接関係に凌駕されてしまい、
どうしても敵が多くならざるを得ない。
もちろん背景には西国と東国との経済格差が遠因としてあると思うが。
190 :
日本@名無史さん:03/04/28 00:53
源平の争いは、けっこう長期にわたっており、世間一般のイメージほど
源氏=関東の武士で騎馬に優れ剽悍
平家=貴族化して柔弱
という訳でもないと思う。源氏に与した平氏もいるし、その逆の例もあるわけだし、
地頭の設置は平家が先に実施している事から、血縁や土地所有制度の矛盾からの
対立と言うより、開墾領主と荘園領主の利権争いというほうが、納得できるのだが。
関東は開墾系の荘園が多く、貴族に寄進するより自分の物として、悔恨した人間自身が
自己所有物として囲い込みしたかったのが、源平騒乱の根本理由だと思うのだが。
そこから考えると、源氏三代の暗殺は、やはり自墾地を脅かす朝廷権力に、将軍が接近する
兆候が見えたときに起こっている気がするのだが。
191 :
日本@名無史さん:03/04/28 05:56
>>190 そもそも寄進するって行為は、国衙領よりわりがよく、しかも自分が開墾した土地を他人(=近隣の開墾者など)に侵蝕されないために、より強大な後ろだてを得ようとしてやったことでしょ?
つまり実際に荘園を開墾した者と、その名義人である存在(例えば藤原氏や寺社などの名義上の荘園領主)の間には、give & take、後の世でいう御恩と奉公のような関係にあった。
その2つがなぜ対立するようになったのかというと、平家全盛に伴って、それら荘園領主側が権威を失い、開墾領主としては寄進するメリットがなくなってしまった、ということがあるんじゃないかな?
192 :
日本@名無史さん:03/04/28 13:27
>>190,191
藤原摂関政治が衰え、院政が始まり、藤原氏嫡流も五つに分裂。
さらに平清盛という傑出した人物の登場。
そうした中央政界の混乱により、在地領主たちが自分たちの
土地所有権を認めてもらえる新しい政治的秩序を求めた結果が
鎌倉幕府を誕生させたということでよろしいでしょうか?
ただ、私は頼朝暗殺は無かったと思うのだが・・・
193 :
日本@名無史さん:03/04/28 19:27
>>192 おれも頼朝暗殺は無かったと思う。ましてやそれが御家人の総意だなんてとんでもない。
頼家や実朝ならまだそういえる余地はあると思うが。
194 :
日本@名無史さん:03/04/28 20:03
>>193 >>そういえる余地は
無いと思うけどなぁ〜。
じゃあ何で比企が死ななきゃならなかったのか。
実朝殺しの下手人が血縁の公暁だったのか。
辻褄が合わないと思うけどなぁ。
195 :
日本@名無史さん:03/04/28 20:31
頼家幽閉・暗殺は御家人間の勢力争いに巻き込まれた
ということでどの本も解説しており、納得できますが、
実朝暗殺はいろんな説が出ていますが暗殺原因の断定は
難しいですね。
北条と三浦の対立が暗殺の根底にあるというのを見かけますが
何で暗殺者が公暁でなければならなかったのか適切な説明が
なされていないように感じます。
「実朝暗殺」について皆さんのご意見をお聞きしたいです。
196 :
日本@名無史さん:03/04/29 00:36
>>194 >>195 北条vs有力御家人の図式ではないと思う。
基本は京都の荘園領主達対関東在地領主。
鎌倉時代って純粋に御家人同士の勢力争いより京都の人間が絡んでる場合が多い。
もちろん京都にも親幕府の人間もいたし、関東に親京都派もいたし、同じ一族でも
世代や状況により立場が違ったりするから複雑化するんだけど。
つまり関東派が北条得宗家であり三浦義村であり、畠山重忠、安達景盛とか…
京都派にいたのが頼朝・頼家=比企であり梶原であり、晩年の時政、平賀、
三浦胤義、名越とか…
よく北条の陰謀という話が出るが、
この陰謀の出所はほとんどが京都側の資料。何で京都の人間が鎌倉の陰謀のこと
を知ってんだよ、と突っ込みたくなるが、それは要は身近に陰謀に関わってる
奴がいたからだろう。北条が滅亡した際、一族に従って自害したものが800人も
いたという事実を江戸時代に室鳩巣が注目し、北条氏善政の名残と廉恥を重んずる
当時の風習と結論付けていたが、要は得宗専制が確立する前の鎌倉は、
大凡の傾向として得宗家=御家人多数派だったんだと思う。
197 :
日本@名無史さん:03/04/29 01:28
>>196 比企が京都派?そういう分析は初耳。
一応論拠みたいなの、プリーズ。
>>要は得宗専制が確立する前の鎌倉は、
>>大凡の傾向として得宗家=御家人多数派だったんだと思う。
これ、一寸意味不明。
800人自害した事とどう繋がるのかもう一度説明して。
198 :
日本@名無史さん:03/04/29 18:43
>>195 公暁の思い込み先行単独犯では?
一応北条も三浦も万一の際の保険として公暁に甘い声でささやくことは
あったはずだけど、それを真に受けた公卿が仲間と組んで直ぐにでも将
軍になれると錯覚して暴走した。
北条も三浦もあの段階で実朝を殺す必然性があるとは思えないのだよな。
特に前年から続いている親王将軍構想は御家人たちの総意にみたいだし
親王東下実現までは実朝には生きていてもらわないと困るはず、つーか
現に実朝横死で親王東下はぽしゃってしまったわけだし。
晩年の頼朝は、京都を恋しがったそうですね。
200 :
日本@名無史さん:03/04/29 18:50
このスレは進行は遅いけど本当に良スレだと思います。さて、
196は京都の公家勢力を随分と評価しておりますが、鎌倉時代の
御家人間の争いはやはり御家人同士の問題であると思います。
源氏将軍が三代で滅んだ後は、宮家や摂家から将軍を迎えているので
幕府内にも朝廷勢力がいたことは確かであり、反北条氏の御家人と
連絡を取っていたことは多分に想像できますが、如何せん朝廷勢力に
軍事力は無く、御家人に利用されることはあっても、御家人を操って
得宗家を放逐することは難しいことだと思います。
少なくとも朝廷側の北条氏排斥運動で成功したのは足利尊氏の出現を
待つしかなかったのが実情です。
201 :
日本@名無史さん:03/04/30 05:35
>>195 もし某御家人勢力が、公暁を奉じてのクーデターを決行するつもりであったなら、その「神輿」である公暁本人は大事な手ゴマのはず。
その大切な神輿役を、わざわざ暗殺の実行犯として使う必要がどこにあるのかがまずわからない。
それならば、腕のたつ侍に僧侶の身なりでもさせ、ひそませておくだけでいいはず。
公暁にしたって、まがりなりにも右大臣であり、現職の将軍で、しかも自分の叔父を斬殺すればどういうことになるのか、想像くらいするだろう。
下手すれば、その場で警護の兵士に斬り殺されたって何ら不思議ではない。
そんな危険な役を、幾らそそのかされたからって買って出るのは不自然だろう。
もしかしたら公暁は将軍になるつもりとか誰それの陰謀で動いたのではなく、ただ単に、父の恨みを晴らすため、実朝(と北条義時)の暗殺を決行したのではないか?
203 :
日本@名無史さん:03/04/30 23:30
>>201 そうなんですよ。公暁の暴挙の原因には主に「三浦そそのかし説」と
「公暁暴走説」が主なところだと思うのですが、公暁単独犯の場合、
そんなに実朝に恨みがあったのか疑問に感じるところであります。
父の恨みであれば叔父である実朝より父親をバックアップしていた
比企一族および父を討った北条氏に恨みが行くはず。
すると義時と実朝を間違えたのか?でも源仲章も巻き添えを食っているし・・
公暁とて叔父の顔は知っていたと思われるし・・・
やはり実朝暗殺は大きな謎を含んでいますね。
204 :
日本@名無史さん:03/05/01 00:52
>公暁の暴挙の原因には主に「三浦そそのかし説」と
マジレスだが、源氏の家系の中ではあの程度は暴走のうちにも入らない。
義親、為朝、義平etc....
彼らの行動と比較しても、全く突飛ではないと思う。
>>201のように「ただ単に、父の恨みを晴らすため」ではないか?
205 :
日本@名無史さん:03/05/01 03:56
実朝を殺した後、公暁はその場ですぐに殺されたのかな?
それとも、いったん捕縛されて申し開きする機会とかあった後で処刑された?
普通に考えれば、こういう事件を起こした人間は、なるべく殺さないで身柄を拘束し、
動機とか背後関係を調べると思うのだが、前者だったとすれば、やはり何者かの陰謀臭い気はする。
206 :
日本@名無史さん:03/05/01 04:38
>>205 三浦の屋敷まで逃げた。
で、とばっちり喰らったらタマランと、その場で殺された。
>206
三浦の対応は怪しいね。
208 :
日本@名無史さん:03/05/01 16:55
>>206 おしのびで散歩していた将軍(実朝)を殺したわけじゃない。儀式の真っ最中に、衆目の中で公然と切り殺しておいて、そのまま逃亡できるものだろうか?
境内の内も外も厳重な警備をしいていた筈だろうし、それを突破してまで三浦屋敷まで逃げられる、というのはかなり不自然だろう。
もしかして、実朝を襲った賊は公暁一人ではなく、複数犯、それもかなりの腕利きを揃えていた可能性もあるね。
ところで、現代の感覚でいうと、警備担当者は当然責任を問われてしかるべきだが、この事件では誰か詰め腹切らされたんだろうか?
(やっぱり侍所の別当かな?>責任者)
>実朝を襲った賊は公暁一人ではなく、複数犯、それもかなりの腕利きを揃えていた可能性もあるね。
可能性も何も、犯行は公暁の単独犯行ではなく、複数犯だよ。
公暁のほか、数名の僧侶のカッコした連中も一緒。
これは「吾妻鏡」「愚管抄」とも一致している。
>公暁を奉じてのクーデターを決行するつもりであったなら、その「神輿」である公暁本人は大事な手ゴマのはず。
なぜ、公暁が実行犯になる必要性があったかというと、「大義名分」のためだったと考えられる。
つまり、クーデターにしても、戦争にしても、「大義名分」が必要なのは古今一緒。
公暁が敵を討つという「大義名分」により、実朝と「本命」北条義時を打つ。
そしてあえて言えば三浦氏がその公暁の敵討ちをバックアップするという「大義名分」のもと、打倒北条の兵を挙げる。
三浦義村としては、自分の年齢も高齢になってきており、自分の存命の間に北条氏を潰さないと、三浦氏は北条に滅ぼされるという恐怖があったと思われる。
また、皇族将軍が実現してしまえば、もはや公暁は「神輿」としての価値を失う。
とすれば、三浦義村が事件の黒幕というのは充分説得力のある論証。
本来小説家のたわごとなんぞまるでバカにして相手にしない歴史家が、一斉に納得したのはそのあたりにあるんだろう。
こういうケースは他には山本周五郎の「原田甲斐善人説」くらいしかない。
211 :
日本@名無史さん:03/05/01 19:20
>>210 三浦氏陰謀説は大体そのような解説がなされていますが、
それでは何故、三浦は公暁とともに北条討伐の兵を挙げなかったのか?
公暁が義時暗殺を失敗したからか?
三浦氏が黒幕の場合、仮に義時暗殺が成功した場合のために、三浦氏は
北条氏を殲滅するための軍勢を鎌倉の近辺に大量に配置させていたはず。
義時暗殺を失敗したからとはいえ、そうした軍勢を北条氏に気づかれること
なく帰すのは至難の業と思われます。現にこの時点で三浦討伐はなされて
おらず宝治合戦まで持ち越されることになります。
私も三浦氏黒幕はあり得ると思うのですが、いまいち両手を挙げて賛成
できないのはこうした点です。
>仮に義時暗殺が成功した場合のために、三浦氏は北条氏を殲滅するための軍勢を鎌倉の近辺に大量に配置させていたはず
そんなことは無理。もし、そんなことをすれば、「これから、謀反を兵を挙げますよ」ってなことを宣言するようなものだからな。
よって、義村としてはまず、義時の首をとる(実朝なんぞはもともと付録)。
そして義時を失ってボーゼンとしている北条を鎌倉常駐の兵、せいぜい100騎くらいで奇襲をする。
ちなみに比企合戦もせいぜい100騎程度の小競り合いだった。
が、義時が抜け出してしまい、ここで北条も臨戦態勢に入ったと思われる。
ここで、義村としてはもはや「奇襲」が困難になり、挙兵を諦めた。
一方、北条もこの時点では三浦を殲滅するだけの勢力は無い(ちなみに宝治合戦の段階でも北条は三浦と真正面からぶつかるだけの勢力は無いため、だまし討ちにしている)。
結局、双方事情をしりつつ、手を打った。
ま、こんなとこだろ。
213 :
日本@名無史さん:03/05/01 22:49
そもそも実朝=北条なのか?
むしろ実朝=朝廷の犬→御家人連合が公暁を煽って殺害→三浦が公暁を抹殺という説
にひかれるな。
元ネタは激録日本大戦争ね(w
215 :
日本@名無史さん:03/05/01 22:50
(正)御家人連合が公暁を煽って実朝を殺害させる
216 :
日本@名無史さん:03/05/02 19:47
>>213う〜ん。どうもその解釈は都合がよすぎる気がするな・・・
仮に義時暗殺が成功すればラッキー程度のクーデターで公暁がとっ捕まり、
「三浦にそそのかされたんだよ〜」とゲロってしまったら、将軍が死んで
しまっていることもありすべての御家人を敵に回すことになってしまう。
少なくとも三浦追討の大義名分を与えることになります。
こんな中途半端なクーデターはいくらなんでも起こさないはず。
もし自分が公暁とともにクーデターを画策するのであれば、万全の態勢を
とり周辺に兵士を潜伏させ、北条氏の反撃態勢が整わないうちに一気に
殲滅する方針をとると思いますが如何?
「クーデターを起こす」それは大勝負!失敗は許されないもの・・・
217 :
日本@名無史さん:03/05/02 20:49
>>212 和田合戦のときもそうだが、鎌倉御家人が揉め事起こすときって
結構大っぴらに軍勢集めたりしてるよね?
そういうことを含めて考えると、実朝暗殺ってアクシデントだったとしか
考えられないんだけどなぁ。
218 :
日本@名無史さん:03/05/03 03:38
>>212 軍勢の配置じたいはさほど困難ではないでしょう。
何せ、当日は実朝が右大臣になるという就任儀式。
警備の兵として、市街のあちこちに配置しておくくらいのことはごく普通の行為と見なされる。
あくまでその日ならば、という話ですが。
まぁいずれにしても、大軍は無理。やるなら、少数精鋭の奇襲だったかと。
219 :
日本@名無史さん:03/05/03 12:08
公暁暴走説だと、思い込みの激しい公暁が実朝を殺害し、
三浦の賛同を得られると勝手に思い込んで駆け込んだが、
三浦としては、現状では北条と全面対立するのは危険と判断、
公卿との関係を疑われるのを恐れて殺害と。
だいたいこんな感じだろうか?
明智光秀と比較すると、なんだか近いような。
光秀も、信長を討てば賛同してくれる武将が多数いると思ったが、
案に相違して孤立、秀吉に討たれる訳だが、
「本能寺の変の黒幕=秀吉が光秀をそそのかして漁夫の利説」などがあるように、
三浦黒幕説は公暁が暗殺後に駆け込んだのが最大の論拠になっているのだが、
光秀も本能寺の変後に、細川藤孝・筒井順慶に協力を求め、
細川藤孝への手紙に至っては「あなたのために信長を討った」とまで書いている。
もちろん、細川藤孝黒幕説がおかしいように、三浦黒幕説も疑問。
やはり、公暁暴走説が妥当なような。
もっとも、このアクシデント的な事件を最大限に利用したのは
北条氏であるのは確か。秀吉がそうだったように。
220 :
日本@名無史さん:03/05/03 17:04
公暁は焦ったんだろうな。
実朝に実子がいない以上、もしかしたら自分が次期将軍かも、ということで自重していたところが、幕府のほうでは、京都から将軍を迎えようという話が持ち上がってきた。
このままでは一生を坊主で終わる、ってことで、その焦りが顕著になり、ついには暴発。
三浦が黒幕だったかどうかは何ともいえないが、おれとしては、やはり公暁が実行犯てのがひっかかる。
三浦が糸をひいていたなら、公暁の手を汚させはしないと思うんだな。
やはり
>>219のいうように、公暁自ら率先して動くことで、三浦についてきてくれ!と呼び掛けたかった、というところでは?
221 :
日本@名無史さん:03/05/04 19:18
ちょっと質問なのですが、公暁が実朝を襲撃したときの、他の実行メンバーの
顔触れってわかります? そこら辺から黒幕を特定できないんですか?
222 :
日本@名無史さん:03/05/05 08:11
>>221 それがわかれば苦労しません。
共犯は誰なのか?はたして本当に公暁が実行犯なのか?
公暁を陥れるために名前を騙ったのではないか?
いろいろと議論がなされていますが800年ほど前のことなので
正確なところは不明。わずかな資料からの推測でしかありません。
本当にタイムマシンが欲しくなりますよね。
223 :
日本@名無史さん:03/05/05 09:17
暴走というけど、親が殺されたら自分を省みず相手を殺すのが当時の美徳。
義平・義経・曽我兄弟(wとか、後先のことは深く考えていない。
224 :
日本@名無史さん:03/05/05 09:43
美徳というけど、親を殺した人が確実であれば敵討ちも正当化されるが、
実朝は頼家を殺していないだろ・・・
公暁がそうした話を吹き込まれた可能性はあるが、当時の常識として
頼家は北条氏に抹殺されたのが常識では?
225 :
日本@名無史さん:03/05/05 12:02
>223
イヤ、公暁は明らかに「実朝暗殺=自分が次の将軍」という絵図の上に行動している。
保元・平治の乱では親兄弟が敵味方に分かれて闘っており、後代の道徳律とは違った
行動原理で動いているよね。平家物語とか、後代の軍記物が仏教思想と結びつけて作り
上げた道徳律は、当時の実態とは違うと思う。
また、曽我兄弟にしても、自分は富士の巻き狩りと言う、鎌倉幕府の一大軍事デモンス
トレーションの最中に行われた、頼朝暗殺未遂だったと思っている。サダト大統領が
軍事パレード中に暗殺されたように、ビッグイベントの体面を汚す形でテロは行われている。
頼朝・頼家・実朝の三人には、やはり北条氏による殺意が見え隠れするのだが・・・。
226 :
日本@名無史さん:03/05/06 20:05
実朝暗殺は話が煮詰まってきたので話題を転換したいと思います。
外出だったらすみませんが、何で頼朝は伊豆に島流しにされたので
しょうか?
坂東の地は源氏の地盤のはず。西国ではなく蛭が小島に流した清盛の
真意を語ってください。
>>226 出展は忘れたが、清盛が「蛭が小島を離れ小島だと思った」との話があった。
DQN説かも知れないが。
「東か西か」は余り考えてなかったかも。
為朝も、流されたのは東国の伊豆大島じゃなかったけ?。
228 :
日本@名無史さん:03/05/07 00:20
京都からすれば、東国と言うのはずいぶん僻地のイメージがあったんだろうね。
あと、北条氏など平家の勢力も地元にいたし、まさか挙兵はできまいと言う感覚
だったのではないだろうか。実際、政子が頼朝とできたとき、親父の義時は
できた子を堕胎させようとしたぐらいだし。
229 :
bloom:03/05/07 00:20
230 :
日本@名無史さん:03/05/07 00:41
>坂東の地は源氏の地盤のはず。西国ではなく蛭が小島に流した清盛の
>真意を語ってください。
このスレで出ていた。平氏一門の勢力圏だから。
それ以前に九州・東北は兵を養うのに適した土地。
231 :
日本@名無史さん:03/05/07 05:55
時代は前後するが、崇徳や順徳・後醍醐のようなところに送っても
良かったのでは?
確かに清盛マンセーの頃だから全国的に平家の勢力圏であるのは
わかりますが、数多の流刑地のうちから伊豆が選ばれた根拠が知りたい
です。
清盛的には殺してしまいたいと思っていたわけだし・・・
離島に送り込むと、鎮西八郎為朝のように、そこで兵力を養い、海をわたって琉球王になりかねないから。
233 :
日本@名無史さん:03/05/07 21:16
でも伊豆なんかに送り込んだから坂東王になってしまった訳で・・・
隠岐や佐渡で流人が騒いでいてもそれほど問題にはならなかったはず。
もちっとマシな流刑先は無かったの?
234 :
日本@名無史さん:03/05/07 21:41
>>233 結果論で歴史を語ろうとしてはいけません。
235 :
日本@名無史さん:03/05/07 21:56
>>234 イヤ!結果がすべてですよ。
重要なのは清盛は何故にデンジャラすなJrを源氏にシンパシーを
感じる連中がいるところに流したかということです。
数ある流刑地のうち伊豆でなければならない理由を明確に説明してくんろ。
236 :
日本@名無史さん:03/05/07 22:15
頼朝が坂東武者の誰と接触を持つか、というのを調べたかったから
(清盛が坂東武者の動向を知りたかったから)あえて彼らの本拠地に
近い伊豆に流した、という話を聞いたことがあるような・・・。
当然、頼朝の言動は逐一、京へ報告されていたんだろうし。
237 :
日本@名無史さん:03/05/07 22:24
質問です。
頼朝は、兄二人が存命中から源家の嫡男の扱いだった、と言われています
けどこれは本当なのでしょうか?兄の義平や朝長の母より、頼朝の母の
身分が高かったから、兄を差し置いて嫡男扱いだった、と説明されて
ますけど、何か後付けの理由のようにも見えます。
頼朝が源家を継いだ後に、「もともとそうだったんだよ」と言いたいが
ため、ということは無いのでしょうか?
>>230 思い出した。
たしか伊豆の知行国主が平氏一門(知盛?)、目代が山木兼高。
伊豆は、東国だけど平氏の目が届く、って理由だったかも。
記憶が定かでないので、補足・訂正等たのんます。
>>237 平治の乱において、義朝は播磨守で4位、頼朝(14歳)は右兵衛佐で5位相当。
義平(19歳)は左衛門少尉で7位相当。
というわけで頼朝のほうが年少なのに、官位は上。
頼朝嫡流説もまんざらでも無いんじゃないかい。
240 :
日本@名無史さん:03/05/07 22:51
>>230 後白河の陰謀説は?
後々を考えて、頼朝を伊豆に流した。
>>238 山木兼隆が伊豆の目代になったのは、頼朝の旗揚げの数年前。
政子の婚約者でもあったから、年齢的も若い。
まるで頼朝の血祭りになるために目代になったような人。
「草燃える」では山木は今をときめく長塚京三がやってた。
あのころは長塚さんは「へたれ役」専門の役者で、今時も頼朝に政子は取られるわ、最後は命乞いするわ、で思い切りへたれ役だったなあ。
242 :
日本@名無史さん:03/05/07 23:28
243 :
日本@名無史さん:03/05/07 23:38
>「草燃える」では山木は今をときめく長塚京三がやってた。
まさか15年後に、大河(炎立つ)でその頼朝を演るとは
俺も想像つかんかった。
244 :
日本@名無史さん:03/05/07 23:40
245 :
日本@名無史さん:03/05/08 01:49
昔、NHKでやってたが、頼義は自分の棟梁としての力量のなさを早くから自覚しており、
息子に期待していたと言われる。当時は長子相続が絶対であった訳ではないが、母親の
ところで息子が育てられた訳だから、母の里の実力が大きなポイントだったのも確か。
本人の力量と母の実力、この2点だろうね。信長も3男だし、そんなもんじゃないの?
逆に、清盛は自分の実力が高かったため、自分の死後の平家政権のアウトラインをきちんと
描いてなかったため、後継者の息子が早死にして、当人が病に倒れると一門がガタガタになった。
徳川家康の親父も、父(家康にとってはじいさん)ほどの器量がないのを自覚してて、
息子に期待して早くから家督を早く譲ると公言していたと言うし。
246 :
日本@名無史さん:03/05/08 02:27
>>245 >徳川家康の親父も、父(家康にとってはじいさん)ほどの器量がないのを自覚してて、
息子に期待して早くから家督を早く譲ると公言していたと言うし。
それも頼朝同様、家康が天下を取った後で作られた話のような気がするな。
6才かそこいらで今川家の人質として差し出した息子の器量なんかわかるはずないと思う。
頼朝の場合は13才だから、それよりはまだマシだが。
247 :
日本@名無史さん:03/05/08 02:50
家康は本来、今川家の人質になるはずが部下の裏切りで織田家に送られてしまった。
織田信秀は家康を人質にして家康の父広忠に織田家に従うよう迫ったが、広忠は今川
への義理を理由に拒絶している。当時の家康は広忠にとってそれほど重みのある存在
ではなかったのでは。
248 :
日本@名無史さん:03/05/08 03:02
頼義って棟梁の力量ないか?
少なくとも自身はそう思ってなかっただろ
249 :
日本@名無史さん:03/05/08 04:58
頼朝が兄の義平をさしおいて後継者に決まっていたって話も後の世に作られた話だと思う。
何といっても当時の悪源太義平は坂東武者に絶大な人気があったはず。
わずか13才で、ちょっとばかり利発だからといっても、すでに確固とした実績のある兄をしのぐ評価をあの時点で得られていたとは思えない。
もちろん、最終的には母の身分も関わってくるんだろうけど、
父の義朝にしたってまだ38だし、家督のことはもう少し様子を見てから、となるのが普通ではないかな?
もし平治の乱で義朝が勝っていたら、ゆくゆくは義平と頼朝の間で家督争いでも起きていたかも、とか妄想するのは結構楽しいけどね。
250 :
日本@名無史さん:03/05/08 05:43
完全に無視されている次男朝長がかわいそうw
251 :
日本@名無史さん:03/05/08 09:49
>頼朝が兄の義平をさしおいて後継者に決まっていたって話も
>後の世に作られた話だと思う。
義平の母は遊女?だし、頼朝の母(熱田神宮大宮司の娘)との格が全く違う。
それ以前に源氏が凋落していたのは、義平タイプ(義親等)が暴れまくったからだし、
むしろ義平を嫡男にしないために、早々と頼朝を嫡男にしていたと思われ。
252 :
日本@名無史さん:03/05/08 14:40
遊女説も後世の創作っぽい。
母親の影響でDQN系の子が出来たってことにしてるとか、、、
そうすれば頼朝にも都合がいいし。
253 :
日本@名無史さん:03/05/08 16:09
>母親の影響でDQN系の子が出来たってことにしてるとか、、、
どうみてもDQNは源氏の血。
254 :
日本@名無史さん:03/05/08 16:15
子供が母親の元で育てられることを考えれば、
遺伝ではなく環境で遊女の子は令嬢の子と違った育ちになるのでは。
>221
亀レスで(しかも話の流れを折って)ゴメン。
鶴岡八幡宮式次第(名前違ったかも?)ってのに
当時、公暁に与力した3人の僧侶がその後
鎌倉を追放されたと記載されているそうですよ。
内、2名が北条氏推薦の僧侶。
10年くらい前のN○K歴史誕生の実朝暗殺の放送より
でも実際はどうなんでしょうかね。
話、頼朝に戻して下さい。
256 :
(σ・∀・)σ:03/05/08 16:24
八幡太郎義家も
母親が遊女とかいう伝説あったよな。
頼朝は源氏にとって初めて藤原氏の女子とHして出来た子だからな。
義朝にとってはやはりこだわりがあったのではないかな。
それが義経になると京都の公家の娘とやりたいほうだい。
頼朝は公家の娘とはH出来なかった。
結論
頼朝が義経を憎んだのは自分が出来なかった「ご令嬢とのH」をがんがんしまくった義経に対する嫉妬なのである。
てことはないか。
259 :
日本@名無史さん:03/05/08 19:01
義平の母親って、遊女説の他に、三浦の娘説もあったと思うんだけど、
これって、今の学説では否定されてるの?
実は、義平は三浦の娘の子供で、こっちが実は嫡男だったのに、
「頼朝が生まれたときから嫡男だったんだよ」とした方が都合がいい
ので、義平は遊女の子供、ってことにしちゃったとか。
ま、三浦の娘と熱田大宮司の娘じゃ、やっぱり熱田大宮司の娘の方が
上かも知れないけど、三浦の後ろ盾も魅力的なのでは、と思った。
260 :
日本@名無史さん:03/05/08 19:05
講釈師
見て来たような
嘘を言い。
261 :
日本@名無史さん:03/05/09 03:13
>>259 関東の武士団を統御するのは義平。
京都で公卿たちとうまくやっていくのは頼朝。
源家繁栄のために、義朝は役割分担をはかっていたってのはどう?
>>255 そっちの話も面白そう。同時進行で続けて呉。
262 :
日本@名無史さん:03/05/09 08:43
役割分担させたら家督争いで結局分裂するぜ
263 :
日本@名無史さん:03/05/09 13:45
>>259 >義平の母親って、遊女説の他に、三浦の娘説もあったと思うんだけど、
>これって、今の学説では否定されてるの?
三浦側の記録の類がないらしい。
>「頼朝が生まれたときから嫡男だったんだよ」とした方が都合がいい
>ので、義平は遊女の子供、ってことにしちゃったとか。
それが事実なら、いくらなんでも三浦がだまっちゃいないだろう。
義朝は池田宿の遊女屋の婆あを密偵に使っており、娘に範頼を産ませた(親子丼?)。
義経らの母は白拍子。
なんら、義平が遊女の子だとしても不思議ではない。
264 :
日本@名無史さん:03/05/09 19:28
>>263 >義経らの母は白拍子。
常盤御前は九条家に仕えていた雑仕女で白拍子ではないよ。
>三浦側の記録の類がないらしい。
遊女とする確かな記録もないようだが。
>なんら、義平が遊女の子だとしても不思議ではない。
そりゃ確かな証拠が無いわけだから不思議ではないが、三浦側に記録が無いからってそれを全否定するのも何だかね。
だいたい、中世に滅亡した一族の記録なんて残っている資料の方が少ないんだから、それを補うのが口伝とか伝承の類だろう。
一応、状況からみて、頼朝挙兵の際にみせた三浦義明の、忠義の模範みたいな死に方からすると、三浦と源氏とはかなり濃い関係にあったのではないかと思わせる。
また、義平が鎌倉を根拠地にして勢力を伸ばせたのも、三浦のような大きな豪族が後ろだてになっていたからだろうし、後ろだてになるってことは、婿であるとか孫であるとか、それなりにふさわしい理由があったからでは?
265 :
日本@名無史さん:03/05/09 19:56
>中世に滅亡した一族の記録なんて残っている資料の方が少ないんだから、それを補う
>のが口伝とか伝承の類だろう。
三浦氏本流が滅ぶまでは少しタイムラグがあるし、完全に滅ぶのは戦国初期だから、
三浦氏に関しては頼朝の捏造というのは可能性が少ないと思われ。
それ以前に、三浦の感情を害してまで、頼朝が「義平生前から嫡男」というのを捏造
する必要性があるのか?という気がする。
>一応、状況からみて、頼朝挙兵の際にみせた三浦義明の、忠義の模範みたいな死に方
>からすると、三浦と源氏とはかなり濃い関係にあったのではないかと思わせる。
これも実際のところはよくわからんよ。
単に三浦義明の病状が悪すぎて動かせられなかっただけかもしれんし。
三浦義明自体、源義家の時代から目をかけられていたから、というのもあると思う。
>後ろだてになるってことは、婿であるとか孫であるとか、それなりにふさわしい
>理由があったからでは?
確かに義平との関係は深いが、もし親子なら大々的に宣伝しているはず。
乳母が三浦氏だったのかもしれんし、その辺はわからんよ。
つーか、学会でも不祥ですましているし^^;
266 :
日本@名無史さん:03/05/10 00:11
要するに、義平の母については「遊女説」「三浦氏説」共に確たる
証拠は無く、真相は不明である、ということでしょうか。
ということは、第三の可能性も無きにしも非ず、ということか。
すると「母親が高貴な出だったので、頼朝が兄を差し置いて嫡男になった」
という説明も根拠を失うことになりますね。ううむ。
しかし、ここ、最近の日本史板には珍しい、なかなかの良スレですね。
厨房があまり興味を持ちそうに無いテーマだから荒れないのかな?
267 :
日本@名無史さん:03/05/10 00:32
>すると「母親が高貴な出だったので、頼朝が兄を差し置いて嫡男になった」
>という説明も根拠を失うことになりますね。ううむ。
頼朝の母>>>>>義平の母
は争いなく確定だろ。
母親の出身もさることながら、そもそも義平が嫡子として適切かどうかが問題。
義朝も義平を嫡子として中央においておくと、義親の二の舞になることを懸念
していたと思う。
しかし、義親、為朝、義平、頼朝、義経...
ええぃ、源氏の一族は化物か(笑)
>母親の出身もさることながら、そもそも義平が嫡子として適切かどうかが問題。
義朝も義平を嫡子として中央においておくと、義親の二の舞になることを懸念していたと思う。
確か平治の乱のときも義平は関東にいたはずだよな。
で、慌てて上京。
もし嫡子として義朝が考えていたのなら、京都に置いて、人脈作りをさせていただろうね。
もともと源氏は摂関にごますってのし上がってきたんだし。
269 :
日本@名無史さん:03/05/10 07:14
>>268 >義朝も義平を嫡子として中央においておくと、義親の二の舞になることを懸念していたと思う。
息子の心配する前に自分の心配しろよ、てな感じになってしまいましたが(W
>>265 >確かに義平との関係は深いが、もし親子なら大々的に宣伝しているはず。
そうかもしれんが、一応、義平は平治の乱で「朝敵」扱いになったわけだから、
乱後から頼朝挙兵までの30年間は、逆にその事実を隠したかったくらいではないかとも思える。
それに、義平と関係が深かったことは鎌倉幕府では必ずしもプラスに作用するとは限らない。
新田義重みたいに、そのことがかえってマイナスに作用した例すらある。
270 :
日本@名無史さん:03/05/10 21:11
頼朝にとって、兄の義平ってどういう存在だったんだろう?
若くして鎌倉悪源太と武名を怖れられた兄。
その兄の名乗った鎌倉に居をかまえた自分。
何らかの意識をしないはずはないと思うのだが。
そういえば平治物語では、関東に落ちる路上で、みんなに遅れがちになる頼朝を義平が激しく叱咤する場面があったような。
おっかないけど頼りになるお兄ちゃん、て感じかな?
ただ、あの態度からすると頼朝が嫡子と決まっていたようには思えないけど。
271 :
日本@名無史さん:03/05/10 21:37
平治物語では義平が重盛に向かって
「われは源氏の嫡子、御辺は平家の嫡子、互いに不足なき敵なり。寄れや組まん」
と言って追い回したという記述があったはずだけど。
273 :
日本@名無史さん:03/05/10 22:32
おおっ。まさしく源氏相伝の八領の鎧。
すなわち源氏嫡流を象徴する黄金聖衣。
274 :
日本@名無史さん:03/05/10 22:46
源家の嫡流は、頼義-義家-為義-義朝、と4代に渡って「義」の字が
入っている。なのに、頼朝には「義」の字が入っていない。
一方、長男は義平と「義」の字が付いている。
と考えると、やっぱり(少なくとも最初は)義平を嫡男と考えて
いたんじゃないのかなあ。
ま、義門や希義にだって「義」の字が入っているけど。
275 :
日本@名無史さん:03/05/10 22:53
牛若丸(九郎義経)の怨霊?
鎌倉末期に書かれた正代伊重置文には
「左馬頭殿(義朝)の御嫡子、
鎌倉の右大将の御料(頼朝)の御兄悪源太殿」
と書かれている。
この場合の「嫡子」は長男の意味だろうけど。
277 :
日本@名無史さん:03/05/11 02:08
>>270 頼朝が武勇に人一倍優れていたなんてきいたことないし、武勇の人義平へのコンプレックスはかなりあったんじゃないかな。
徳川秀忠が「親爺も家臣どもも、いつまでたっても信康、信康うるせえなぁ」と思っていたように(多分w)
頼朝も同じで「おれの前で義平の話はするな!」とか思っていた気がする。
その劣等感が嵩じて新田の娘(義平未亡人)に言い寄ってみた‥‥なんてのは邪推でつか?
278 :
日本@名無史さん:03/05/11 07:28
「源太の産着」と「髭切りの太刀」が源氏嫡流のアイテムって聞いたけどどうよ。
279 :
日本@名無史さん:03/05/11 09:08
>>277 あながち間違いじゃない気がするね。
新田義重への牽制の意味もあったんだろうけど。
義平は、とにかくも武力で相手を黙らせるだけの
器量があったんじゃないかな。
東国武士の気質にはそれが合っていたわけで。
京の貴族体質が抜けなかったであろう頼朝は、
東国武士をまとめるのが大変だったんだろうね。
280 :
日本@名無史さん:03/05/11 19:06
>>279 義平って死んだ時が20才でしょ?満でいえばまだ19才。
あのまま成長していればさぞかし凄い大将になったんじゃないかと思う(為朝もそうだが)。
頼朝もDNA的には武勇にひいでる可能性はあったんだろうが、平家の目を意識しなくちゃならんから、
武芸に励むことさえはばかる生活では、せっかくの素質も開花しようが無かったんじゃないかな。
まぁその分、考える時間は増えて、それであのように思慮深くなれたということも言えるかもしれんが。
281 :
日本@名無史さん:03/05/12 14:14
>274
源家の嫡流は、頼義-義家-為義-義朝という河内源氏ではなくて、
源頼光にはじまる摂津源氏。
源義朝ではなくて、源頼政が源家嫡流。
282 :
日本@名無史さん:03/05/12 14:17
>281
伊豆頼朝よりも多田行綱の方が源氏嫡流というわけねW
283 :
日本@名無史さん:03/05/12 14:19
鎌倉義平
伊豆頼朝
鞍馬義経
木曾義仲
新宮行家
武田信義
足利義康
284 :
動画直リン:03/05/12 14:20
285 :
日本@名無史さん:03/05/12 14:24
八幡太郎義家
賀茂次郎義綱
新羅三郎義光
鎮西八郎為朝
鎌倉源太義平
伊豆源次頼朝
鞍馬九郎義経
木曾次郎義仲
新宮十郎行家
286 :
日本@名無史さん:03/05/12 15:21
287 :
日本@名無史さん:03/05/12 19:10
>>283 バーカ。
源義康が足利姓を名乗っていたなんて
同時代史料は何処にもねぇよ。
それに、なんで源義経が鞍馬?
どっちかと言うと奥州じゃねぇの?
つか、摂津源氏厨の自作自演ウゼェ。
>287
おれは摂津源氏アフォとは別人。
源氏嫡流は、大阪の河内源氏
290 :
日本@名無史さん:03/05/13 00:08
分割相続の時代に嫡庶の差が、どれほどの意味を持っていたのか。
誰か詳しく教えてくれ。
鎌倉悪源太義平、好き
292 :
bloom:03/05/13 00:20
293 :
日本@名無史さん:03/05/13 00:52
294 :
日本@名無史さん:03/05/13 01:09
w
295 :
日本@名無史さん:03/05/13 01:14
ちょっと荒れ気味なので、義平と頼朝の位置づけについて、学会の定説を
かいつまんで説明キボン。
281の意見に関しては、日本の命名の法則からいって、親の名の下の文字を上に頂いて
名乗るか、親の下の文字を嫡流が受け継ぐ(毛利家の嫡流が興元を名乗り、庶子が元の
字を上に冠する=元就)というパターンがあるのだが、源氏の場合はけっこうバラバラと
言うか、一貫性がないよね。頼朝は単に頼義と義朝から1字ずつとって命名しただけで、
嫡流か傍流かの決め手にはならないような。
ついでに言うと、中国・韓国では親の名前に含まれる文字は基本的に使わず、兄弟同士で
同じ文字を使わないという法則があるらしい。金日成と金正日は、同じ「日」の字を使って、
なおかつ息子が親の上の文字を下に置くという不敬きわまりない名前だが、金日成の本名が
金聖柱らしいから、モーマンタイだと在日の友人が言ってたが、そっちの方が問題じゃ・・・。
閑話休題。
296 :
日本@名無史さん:03/05/13 01:39
伊豆源次郎頼朝
伊豆の源次って何だよ(w
清水次郎長一家なんかにいそうな名前
298 :
日本@名無史さん:03/05/13 20:17
頼朝は義朝の三男だから
伊豆源三頼朝 いず・げんぞう・よりとも
伊豆源三郎頼朝 いず・げんざぶろう・よりとも
だろう。
299 :
日本@名無史さん:03/05/13 20:19
伊豆源三郎頼朝
対
鞍馬源九郎義経
300 :
bloom:03/05/13 20:20
301 :
日本@名無史さん:03/05/13 20:21
鎌倉の伊豆氏三代
伊豆頼朝---伊豆頼家---伊豆実朝
302 :
日本@名無史さん:03/05/13 20:57
なんで伊豆頼朝なん?伊豆に頼朝の所領があったの?
ってか、将軍家の台所事情ってのはどうなっていたのかな。
将軍家直轄領のような所領があって、そこから収入を得ていたのかな。
それとも・・・??
伊豆厨ウザイよ。
仮定で話するな。ボケが。
上総御曹司義朝の子だったら
「上総三郎」
だろうが。
もっとも頼朝が三郎を名乗っていた史料なんざ
なかった筈だがな。
304 :
日本@名無史さん:03/05/13 21:29
北条泰時は最初、頼時って名乗っていたけど、これは頼朝の頼?
弟は朝時だったし。まあ、結城朝光っていたけど。
なぜ泰時は名前を変えたのだろう。高貴な人からもらった字は変えないって話じゃない?
頼朝について「伊豆」はおかしい罠。
「鎌倉頼朝」じゃないの?
実際彼は公家などには「鎌倉殿」と呼ばれているわけだし。
身近なとこでは、実朝のことを藤原定家は百人1首で「鎌倉右大臣」と紹介している。
>>304 泰時の烏帽子親は頼朝だから、そうでしょう。
なぜ、名前を変えたんだろうねえ。
ちなみに北条義時の弟時房は頼朝が時連と名付けたが、頼家−比企ラインにごまをするために、時房と名前を変えているので、
それと同じ理由かも。
時房と泰時は同じような世代だし。
306 :
日本@名無史さん:03/05/13 23:45
>>305 やはり、他の御家人の嫉妬を避けるためか。
307 :
日本@名無史さん:03/05/14 00:47
鎌倉源太義平
鎌倉源三郎頼朝
鞍馬源九郎義経
京源太義朝
土佐源四郎希義
オブ源四郎昌景
真田源太左衛門信綱
真田源三郎信幸
真田源次郎雪村
309 :
日本@名無史さん:03/05/14 13:44
307.308
なにがいいたいの?
ハナシもどすけどやはり当時は義平が嫡男だったんじゃないかな?
んで結局、勝者?の頼朝が「三男だが実は嫡男」と改ざん?したんじゃないの。
徳川家康にもじつは実兄がいた、という説もあるくらいなんで。
310 :
日本@名無史さん:03/05/14 15:26
>>309 その根拠は?そのネタについては結論が出なかったんだが、
わざわざ蒸し返すってことはそれなりの根拠があるんだろうな。
外出でない根拠を挙げてみてくれ。
312 :
日本@名無史さん:03/05/14 20:21
しつこいようだが・・・。
分割相続の時代の嫡庶を語って、何の意味がある?
313 :
日本@名無史さん:03/05/14 21:08
母系からの財産相続で生活し、遺産の大きさで朝廷での位を得ていた
当時の上級武士たちのなかで、生母の身分も明らかでないものが、
生母の実家が院の近臣という頼朝と嫡庶を争えるかどうか?
義平が武功にこだわったのは、自分が嫡子ではないからこそ、実績で
父、義朝に認めてもらうことが目的だったのでは?だからこそ、死に
物狂いで、帯刀先生義賢を攻め殺したり、平 重盛と一騎打ちしたり
最前線で「匹夫の勇」を発揮したのでは?
314 :
日本@名無史さん:03/05/14 21:11
平重盛との一騎打ち話はフィクション
315 :
日本@名無史さん:03/05/14 21:27
>義平が武功にこだわったのは、自分が嫡子ではないからこそ、実績で
>父、義朝に認めてもらうことが目的だったのでは?
義平の武勇については、既に義朝に認めてもらうとかどうこうのレベルではないのでは...
義朝にしてみれば、義親の再来...と恐怖を覚えたとしても不思議はない。
平治の乱の時の除目を馬鹿にしたというのが本当なら、義平自身は官位云々にはあまり興味が
ない方だと思う。
>最前線で「匹夫の勇」を発揮したのでは?
百〜千人単位の戦闘で「匹夫の勇」はないと思われ。
>土佐四郎希義
それを言うならフク田希義じゃない
>>295 源氏が特殊なんではなく、この頃(鎌倉末頃まで)にはまだ
イミナの上下に厳然たる嫡庶・主従の関係がない
加賀美次郎は平知盛に仕えていながら長清
足利義康の嫡男で京にいた義清
波多野義通の孫で実朝に仕えた経朝
生母で嫡庶もないんじゃない?
清盛とその弟たちとか
官位で嫡庶もないんじゃない?
頼朝の先祖にも、長男には家を継がし、次男は宮仕え
三男は余ったから出家させた男がいるはず
嫡男は(それが真実なら)父親の甲冑を譲られた義平なんじゃない?
武田と佐竹も、楯無を譲られたウチ(武田)が嫡流だって主張したでしょ
伯父義綱の遺蹟を継いだってことで佐竹が上になったらしいけど
>>305 頼経を新将軍に迎えたからじゃん?
317 :
日本@名無史さん:03/05/14 22:33
>>316 鎧譲られたっていってもお宝な鎧はたくさんあるんだが。
342 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 03/04/25 21:40
当時の人が護ちゃんの系譜を伝えなかったのは将門記著述の時点で子孫が絶えてたからかな
月数・・・
日数・・・
源太産着・・・頼朝
八龍・・・義平(保元の乱では義朝)
沢瀉・・・朝長
薄金・・・
楯無・・・
膝丸・・・義朝
他は誰が着用?(楯無は甲斐源氏の誰か?)
官位はかなり重要では?源氏は一応貴族で京都在住なんだし。
それにある程度年がいって自分の才覚で出世したって言うんならともかく、
義平も頼朝もまだ若年。官位はオヤジの意向を反映してるとおもわれ。
頼朝の右兵衛佐と義平の左衛門少尉ではあまりにも差がありすぎる。
318 :
日本@名無史さん:03/05/15 00:15
>>317 そうだね、武士にとり重要なのは、土地の保証。
これは公的保証が重要。
武力に優れているだけでは、土地は守りきれない。
とすると、官位が高いのは重要な要素となりうる。
ところで、泰時の泰は誰のイミナ?
319 :
日本@名無史さん:03/05/15 00:21
>>313 >最前線で「匹夫の勇」を発揮したのでは?
勇気がある、強い、卑怯でない、ということが武将として最上の価値とされていたような時代(特に坂東はそう)に
指揮官自ら最前線で戦うことは全然「Hipの勇」などではないよ。
むしろ、士気を上げるためには不可欠ともいえる行為。
320 :
日本@名無史さん:03/05/15 00:30
>>318 武家貴族と地方豪族をごっちゃにしてはいけません。
関先生のゼミから、やり直し!
321 :
日本@名無史さん:03/05/15 02:38
関幸彦って結構DQNだと思うが?
322 :
日本@名無史さん:03/05/15 02:42
そーなの?
どの辺りが?
323 :
日本@名無史さん:03/05/15 03:27
>>317 >頼朝の右兵衛佐と義平の左衛門少尉ではあまりにも差がありすぎる。
義平が官位なんていらねって言ったんでは?
そんなものは戦に勝った後の話だとかかんとか。
324 :
日本@名無史さん:03/05/15 03:39
関のDQNっぷりを、早く書けよ!!
325 :
日本@名無史さん:03/05/15 03:45
関って中世の軍事官僚の本とか書いている人?
326 :
日本@名無史さん:03/05/15 06:40
>>323 そもそも平治の乱以前から頼朝のほうが官位上だったんでは?
327 :
日本@名無史さん:03/05/15 06:54
328 :
日本@名無史さん:03/05/15 10:41
329 :
日本@名無史さん:03/05/15 12:08
肖像画は俳優の石坂浩二氏にそっくり
330 :
日本@名無史さん:03/05/15 13:19
荒れてきちゃった・・・
話がループ
331 :
日本@名無史さん:03/05/15 17:30
すまん、なんで荒れてんのかよくわからんのだが。
関という御仁は評価の分かれる人物なのか?
332 :
日本@名無史さん:03/05/15 23:13
「源頼信といえば武門源氏の祖と仰がれ、この系統から初の武家政権を樹立した
頼朝が出現したことから、あたかも清和源氏の嫡流のように理解されているむきもあるけれど、
すでに述べたように嫡流は頼光の流れであって頼信はそうではなかった。」
朧谷 寿『清和源氏』「4. 源頼信---河内源氏の祖」P.176
333 :
日本@名無史さん:03/05/16 20:33
>>331 野口某より1万倍まし。
というか、全然DQNじゃねーぞ。
>>321が何を根拠に言ってるのか、ワシも知りたい。
フク田→福田希義
>>317 >鎧譲られたっていってもお宝な鎧はたくさんあるんだが。
先の戦で父親が着た鎧は特別でしょやっぱ
316の頼朝の先祖は頼信だった
長男頼義は家を継いだせいで受領階級の武士
次男頼清は家を継がせず蔵人
頼信の嫡男(もしくは後継ぎ)は頼清ですか?
335 :
日本@名無史さん:03/05/16 21:02
>>333 >>321は知らない学者の名前を出されたものだから、
学者の高DQN率を当てにして、適当なレッテル貼で煙に巻こうとしたと思われ。
・・・このスレ、三戦板住人率が高そうだな。
関マンセーが多いのね。
337 :
日本@名無史さん:03/05/16 21:33
>>336 マンセーか・・・。
手堅いって印象があるが。
338 :
日本@名無史さん:03/05/16 21:52
ここで義朝、頼朝、義平の官位が話題になっているが、義朝の播磨守、
頼朝の右兵衛佐って、平治の乱のドサクサのお手盛りの除目でもらった
ものだから、義平に比べて高くても不思議ではなかんべ。
339 :
日本@名無史さん:03/05/16 21:59
>>338 除目の時点で義平は、まだ上洛してないんだっけ?
340 :
日本@名無史さん:03/05/16 22:01
341 :
日本@名無史さん:03/05/16 22:12
>>339 義平は除目の時に上洛してきて、
「そんなくだらねえ事やっているより、さっさと清盛を追撃しる!
俺は官位なんかいらねえ。ただの悪源太で結構です。」
って啖呵を切るんだよね。カックイイ!
まぁ、ソースは平治物語なので真否は?だけど。
342 :
日本@名無史さん:03/05/16 22:19
平治物語の解析プリーズ。
もちろん、平治物語における悪源太のカッコよさとは話が別もんですが。
頼朝の母の実家は後白河近臣。乱後、年少とはいえ、命を助けられたのは
その人脈も影響したという説もあることですし、
王権とのパイプを考えた場合、義朝の立場からすれば、嫡子として誰を選ぶかは、
わかりきったことで。
その後の昇進の差からいっても頼朝が嫡子とみなされていたと裏づけられると
おもいまつ。
それから、鎧というなら頼朝がつけていた「源太の産着」も、
八幡太郎義家が生まれたときに彼のために特別に作った鎧。
嫡流のレガリアとしてはこれ以上のものはないのでは?
ま、子供用の鎧だったから、頼朝にぴったりだったという説もありますが。
344 :
日本@名無史さん:03/05/17 02:14
>>334 頼義はたしか正四位下くらいだったとおもうが、頼清はどれくらいまであがったの?
ってか、受領階級とか蔵人とかって・・・。両方ともピンキリなんだが。
345 :
日本@名無史さん:03/05/17 05:47
346 :
日本@名無史さん:03/05/17 23:12
今日、われわれが知る源氏や平氏の像は、
鎌倉時代つまり源頼朝時代に作られた保元物語、平治物語、平家物語、源平盛衰記などに影響されすぎている。
それらは、明らかに頼朝的イデオロギーの産物であり、源平の実像をどれだけ伝えているかは疑問。
347 :
日本@名無史さん:03/05/17 23:14
348 :
日本@名無史さん:03/05/17 23:26
>>346 >明らかに頼朝的イデオロギーの産物であり
詳しく解説キボンヌ。
349 :
日本@名無史さん:03/05/18 01:30
>>346 政子が山木と婚約してたって話も、源平盛衰記にはあるけど、
実際は婚約などしてないんだよね。
確か、山木が伊豆に来たときは、もう大姫が生まれてたっていうのをどっかで
読んだことがある。
350 :
日本@名無史さん:03/05/18 03:00
>>348 横レス御免。
頼朝イデオロギーとまで言えるかどうかはわからんけど、
平治物語にある、次兄・朝長が戦での傷が悪化し、募兵が不可能になって戻ってきたときに
父の義朝が「情けないやつめ、頼朝ならばそんな泣き言は言わないものを」
とか言って刺殺してしまう話は、かなり創作的というか、頼朝のご機嫌をとった話のように思う。
どうせ言うなら「そなたの兄の義平はそんな泣き言は言わなかったぞ」だろうに、朝長かわいそ過ぎ。
351 :
日本@名無史さん:03/05/18 08:28
>>350 その部分は確か古態本では
「こらへつべくは供せよかし」
と言って朝長の首を斬り、
義朝は嘆き悲しむ、という話なんだよね。
他にも古態本では頼朝マンセーの部分の多くが描かれていない。
嫡子が頼朝だったのは官位から見て間違いないだろうが、
東国の武士は義平を頭領と仰いでいた可能性は高いのかもしれないね。
だからこそ、東国武士に「源氏の棟梁は頼供だぞ」という
認識を植えつけるためにも
頼朝は勇ましい、
という記述を付け加える必要があったんじゃないかな。
352 :
日本@名無史さん:03/05/18 09:46
頼朝は平治の乱のときわずか13歳だからね。しかも京育ちだし。
が、義平も19歳とはいえ坂東武者の目の前で赫々たる戦果を挙げてる。
彼らにとっては遠くの頼朝よりも近くの義平だったかもしれんわな。
353 :
日本@名無史さん:03/05/18 13:56
結論としては、
戦での実力:義平>頼朝
貰った官位:頼朝>義平
母親の家柄:頼朝>義平
関東の人気:義平>頼朝
というところでしょうか。源氏は、後世自分たちが思うよりも東国独立の気風が強かった
訳ではなく、また京都勢力を無視して当時の政治が機能しえた訳ではないので、母方の
実家が院と太いパイプがある事で、頼朝嫡流と義朝は考えていたということでOKですか?
結果的に、この頼朝のポジション(母方の血筋のお陰で京都勢力にバカにされない程度の血脈を
持っていて、なおかつ父が源氏の中でそこそこの勢力を持っていた)が、東国武士の神輿と
なって幕府成立には有効に働いたが、逆に晩年には京都に接近する志向が見えたために
暗殺された、という方向性なのかな?
義朝は鳴かず飛ばずだった父為義を見てるからね。
そりゃ、義平よか頼朝を選ぶだろ。
355 :
日本@名無史さん:03/05/18 20:27
鎌倉義平
伊豆頼朝
356 :
日本@名無史さん:03/05/18 20:48
六条河原義平
蛭ヶ小島頼朝
>>355,356
‥‥君、そんなことやってて楽しい?
358 :
日本@名無史さん:03/05/19 00:21
>>353 院と太いパイプがあった、というわりには清盛との出世競争では大幅に遅れをとっている罠。
院の近臣なんて他にもゾロゾロいたんだろうし、それほど大した血筋なのかと疑問。
もし平治の乱に勝っていたなら、清盛がやったように、もっと血筋のいいお姫さまを義平にめあわせれば、それで十分に家督はつとまるって気もするし。
いずれにしても、義朝はまだあの時点ではっきりとは後継者を決めてはいなかったと思う。
359 :
日本@名無史さん:03/05/19 06:02
>院と太いパイプがあった、というわりには清盛との出世競争では
>大幅に遅れをとっている罠。
源氏の勢力を弱めるために清盛を出世させた罠。
それ以前に清盛の父親は.....
その真偽はわからんけども、世間も「もしや」と思っていた罠。
>>359 >源氏の勢力を弱めるために清盛を出世させた罠。
まだそんなこと言ってるのか。
清盛が義朝より出世するのは父親の官位から考えれば当たり前。
つーか、院が源氏の勢力を弱める必要は何処にもないはず。
361 :
日本@名無史さん:03/05/19 14:30
>>360 そうそう。清盛の異例の出世は白河上皇の落胤との説があるな。
平治の乱で敗走の途中コクリコクリ馬上で居眠りしたため父義朝とはぐれてしまった頼朝...素直に落馬死が死因とは思えない。
頼朝を助けた池禅尼は我が子家盛に瓜二つに見えた...今でいう更年期障害だったのかの。
362 :
日本@名無史さん:03/05/19 15:03
多田蔵人行綱については平家物語はかなり矮小化し、歪めているのでは。
363 :
日本@名無史さん:03/05/19 15:24
>>362 なかなか興味深い説ですな。
ぜひ史料を挙げながら大いに語っていただきたいものだ。
364 :
日本@名無史さん:03/05/19 18:54
>>360 院=平家
摂関家=源氏
という図式があるから摂関の力を弱めたい院は
源氏の力も弱めたかったんでは?
義朝としては院の近臣と親戚になることで挽回をはかったが、
思ったよりうまくいかなかった、ってことではないの?
>>364 いや、だからまずその図式がどうなのさ、ということ。
一概にそう言って良いのかね?
366 :
日本@名無史さん:03/05/19 20:43
368 :
日本@名無史さん:03/05/19 21:45
院政下で出世するには、尻の穴の締まり具合が重要であった。
369 :
日本@名無史さん:03/05/19 21:48
いい国つくろう鎌倉幕府
小泉と竹中は少しぐらい見習え!
ついでに菅も!!
>>344 それって頼朝は二位なんだから嫡子っていってるようなもん?
蔵人はピンでもキリでも仙籍
でも仙籍に上がった頼清ではなく頼義が嫡子
なら七位と五位だろうが義平嫡子で問題ないじゃん
大体、平治の乱で勝ってれば義平のが官位も進んだんじゃない?
義仲や義経、鎌倉御家人みても、五位なんてヒョイっと上がってない?
372 :
日本@名無史さん:03/05/19 22:52
>>364 後白河としては我こそ政治の中心であり、平家が目障りとなれば源氏を持ってきて
源氏が勢力を増すと内部破壊を試みたってことでしょう?
373 :
日本@名無史さん:03/05/19 22:57
嫡子問題。
朝長、義平は母方の身分が低かったためであり、頼朝の母方は伊勢宮司の家柄であったからでは?
>364
>義朝としては院の近臣と親戚になることで挽回をはかったが、
>思ったよりうまくいかなかった、ってことではないの?
ん、どのへんがうまくいかなかったのかな?。
義親以降の河内源氏で、義朝以外に国守になれた人物はいましたか?
保元以後とはいえ、
河内源氏で、義朝以前に昇殿を許され(院の昇殿じゃないよ)
左馬頭までのぼった人物はいましたか?
それから義朝は「院の近臣と親戚に」なっただけじゃなくて、
保元以降は自らが後白川院の近臣といってよいのでは?
375 :
日本@名無史さん:03/05/19 23:25
>>374 ていうか、ほとんど親族殺しちゃったんでしょう?
376 :
日本@名無史さん:03/05/19 23:37
平治の乱は対後白河じゃなくて
対藤原信西なんじゃなかったっけ?
377 :
日本@名無史さん:03/05/20 00:21
>>370 蔵人は職掌から殿上にあがれるだけだが?まあ名誉な職ではあるが。
ひょっとして蔵人=えらい と思ってる?
>375
374は義朝の先祖の話をしているのでは?
380 :
日本@名無史さん:03/05/20 01:21
>>374 >ん、どのへんがうまくいかなかったのかな?
傍から見てどうとかではなく、本人はうまくいっていないと思っていたのではないの?
でなけりゃあんなクーデター起こさないでしょ。
だいたい、先祖に比べて出世したからといって、それで満足するものでもないしね。
同じく武門である平家のはぶりの良さを目前で見ているわけだし、武家の社会的な地位(というか世間の評価)だって変化しているわけだし。
>それから義朝は「院の近臣と親戚に」なっただけじゃなくて、保元以降は自らが後白川院の近臣といってよいのでは?
頼朝の年令から考えれば、平治の乱より少なくとも13年前には親戚になっていることになる。
保元の乱よりは10年も前。
一口に10年っていうけど、義朝なりに、ずいぶん若い頃から苦心して院に近付こうとしていたという証明じゃないの?
その間の焦りとか苛立ちは相当なもんだったんじゃないかなぁ。
で、保元の乱でやっと自身も出世して、後白河の近臣にもなれたとはいえ、実父や兄弟まで失うという多大な犠牲を払ってしまったし、何か要領悪いって感じがつきまとっていたんじゃないかね?
義朝があなたの言うようなことで満足できるような人であれば、あるいは幸せだったのかもしれんけどね。
381 :
日本@名無史さん:03/05/20 01:25
>>380 だから平治の乱は、信西の排除が主目的なんだって。
>>381 そんなことはみんな前提としてわかってると思われ。定説だし。
>>370 >大体、平治の乱で勝ってれば義平のが官位も進んだんじゃない?
俺もそう思う。戦で活躍するとすれば、まだ13才の頼朝よりもやっぱり実績のある義平。
戦を勝利に導いた功労者ともなれば、生母の身分が何であろうが粗末には扱えんはず。
まあ、あくまでも勝っていれば、の話だが。
383 :
日本@名無史さん:03/05/20 14:16
勝ってりゃ頼朝の官位もさらに進んだだろう。何の功績もない13歳を右兵衛佐にしたくらいだし。
まあそのへんは藤原信頼と源義朝の政治力にもよるだろうけど。
それはともかく当時はコネ社会。功績がダイレクトに官位に反映されるわけではない。
まあ、それ相応の官位は与えられただろう。でもはたして頼朝に追いつけたかどうか。
はじめてこのすれ読んだんで
ちょっと話が戻るけどさ、
義平のオカン遊女説ってのは、民族説話にありがちな、逆貴種流離だろ。
貴族と、まつろわぬ民やモノノケの血が交わると、
異能の人物が誕生するっていう。
被差別民の娘と天皇家の血筋が
交配したせいで、アベノセイメイみたいな希代の陰陽師が生まれた、みたいな。
385 :
日本@名無史さん:03/05/20 18:37
>384
ではないよ。何でもかんでもそういう話にする民族学は、社会学や心理学と同じ
還元論の誤謬に陥っている。
母親が遊女というのは義平に限らずいくらでもある。
弟の義経の母親も遊女と似たようなものだし、平清盛の母親もそう。
正妻以外の女性に子供を生ませるのは、武士として通例だった。
その正妻以外の女性で一番多いのが、遊女だったということ。
そもそも古代末期頃の遊女の社会的地位は、
現代の人間が考える以上に高かった。
教養がなく、身分の低い人間を馬鹿にする貴族
(中央の武士も含めて)の相手をするのだから、
遊女は教養がなくてはならなかったし、
諸芸にも秀でていた。
387 :
日本@名無史さん:03/05/20 19:55
>>375 当時は平氏の世の中になりつつある時代背景柄、骨肉の争いに追いやられたのだよ。
平家にあらずんば人にあらず・・・などの暴言を吐く一方で富士川の戦いでは一戦も交えず平氏敗走。
富士川の 瀬々の岩越す水よりも 早くも落つる 伊勢平氏かな
武士道の根源は源氏に軍配があがるかもですね。平氏は得意の海戦に持ち込んだにも関わらず滅亡したのですし。
388 :
日本@名無史さん:03/05/20 20:04
>387
源氏が勝ったのは当時の武士の常識を超えた義経の奇襲戦法の賜物。
もし、義経がいなければ、また義経が坂東武者的だったなら、
源氏はあれほど快勝はしておらず、一進一退に近い状態になっていたはず。
>>387 武士道なんつーもんは江戸時代の
平和ボケした侍の幻想。
>387
武士道についてはわかりませんが。
一族の支援をうけるどころか、弟を殺すなど一族と鋭く対立しながら、
独力で関東に基盤をつくりあげた義朝と、
石橋山では乳母子まで敵にまわり、あまつさえ彼に鎧の袖を射抜かれていることからも
わかるように、父祖の築き上げた地盤は壊滅しているなか、
ほぼ徒手空拳の流人の身から、鎌倉に幕府を開いた頼朝。
歴史に不滅の名を残す親子であるのはまちがいないですな。
391 :
日本@名無史さん:03/05/20 20:36
>>390 むちゃくちゃ大げさだな。
ところでその乳母子って誰?
392 :
日本@名無史さん:03/05/20 20:38
義朝も頼朝も一族殺しすぎだろ。冷血親子だな。
>391
山内経俊。
頼朝は、経俊の命ごいに来た乳母に対し、
だまって経俊の名が書かれた矢が突き立った、自らの鎧を見せたということです。
394 :
日本@名無史さん:03/05/21 00:27
スレから外れるけど、当時の遊女ってどんな感じだったのでしょうか?
義平が遊女の子供だとして、その父親が義朝だとなぜ分かるのかな、と。
不特定多数と交わっていたら、誰が父親なのか分からんような・・・。
それとも、ある一定期間は特定の人物(例えば義朝)に囲われている
ような形態なのでしょうか。
395 :
日本@名無史さん:03/05/21 20:23
>>374 >義親以降の河内源氏で、義朝以外に国守になれた人物
相模介源義業、信濃守佐竹昌義は?
396 :
日本@名無史さん:03/05/21 20:27
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
398 :
日本@名無史さん:03/05/22 05:46
>>394 平安〜中世の遊女は、和歌や鼓や舞もできるほど教養も高く、江戸時代の
遊郭や夜鷹を想像すると理解できないかも。吾妻鏡にも橋本の宿の遊女と
頼朝が和歌を連歌している様子が書かれている。その身分は、天皇に
使える職人として機能していたと言われ、当時の遊女の長は、女性ながら
自身の所領をもち、年貢を納めていたといわれている。
399 :
日本@名無史さん:03/05/22 15:28
でも田舎遊女じゃん。
あぼーん
401 :
日本@名無史さん:03/05/22 16:27
>>393 当時の武士って、矢にいちいち自分の名前書いてたの?
敵将を射落とした時、自分の手柄だと証明するためかな。
>399
橋本は、京都郊外だから、田舎とは言えんでしょう。
近くには、鳥羽離宮の地もありますし。
403 :
日本@名無史さん:03/05/22 18:51
>>401 我こそは〜って名乗りを上げてたのもホントかな?
戦国時代から無くなってしまったらしいけど。北条早雲がそうしたって
学校で習った気がするんだけど....。
404 :
日本@名無史さん:03/05/22 20:17
405 :
日本@名無史さん:03/05/22 20:34
頼朝が死んだのは落馬じゃ
406 :
日本@名無史さん:03/05/22 20:59
>>403 戦国時代にも名乗りをあげる場合もある。
というより、貴公、なぜ名乗りをあげるのか知っておるのか?
407 :
日本@名無史さん:03/05/22 22:17
>>406 戦況不利のときに敵を足止めして、その間に陣を立て直すためだろ。
大久保彦左衛門が言ってたよ。
・・・司馬遼太郎か誰かの小説で。
409 :
日本@名無史さん:03/05/22 22:57
源氏嫡流: 源頼政
庶流: 多田行綱
傍流: 源頼朝
>406
戦国の男達の名刺交換だな。
412 :
日本@名無史さん:03/05/24 03:14
何かこのスレ、急激に低レベル化してきたな。
筒井康隆
ふるさとは、遠きにありて思うもの
近くば寄って、目にも見よ。
414 :
山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/05/24 09:15
>>406 「言の葉戦」の一環と見ることも出来ますが。
415 :
日本@名無史さん:03/05/24 15:46
>>412 流れを無視した別議論や雑談が、ちと入り乱れてるからね。
北条氏の他氏排斥の流れを細かく追いつつ、源氏三代暗殺の可能性を模索する方向に
修正しませんか? せっかくの良スレなんだから。
416 :
日本@名無史さん:03/05/24 19:44
>>415 それってまず結論ありきになってない?
頼朝の死亡に関しては
保暦間記に面白い記述があるね。
同冬大将軍相模河の橋供養に出て帰せ給ひけるに。
八的が原と云所にて亡ぼされし源氏
義広。義経。行家以下の人々現じて頼朝に目を見合せけり。
是をば打過給けるに。稲村崎にて海上に十歳計なる童子の
現じ給て。
汝を此程随分思ひつるに、今こそ見付たれ。
我をば誰とか見る。西海に沈し安徳天皇也とて失給ぬ。
その後鎌倉へ入給て則病付給けり。
次年の正月正治元年正月十三日終には失給ぬ。
是を老死と云べからず。偏に平家の怨霊也。
多くの人を失給ひし故とぞ申ける。
これはともかくとして、
愚管抄では頼朝が正治元年1月11日に出家、
13日に没したと書かれている。
他にも鎌倉年代記・武家年代記・将軍執権次第などで
同様の記述が見られる。
少なくとも出家→2日後に没、ということは事実のようだから、
暗殺と言うのは考えづらいんじゃないかなぁ。
保暦間記の記述のように
「因果応報」という見方はあったんだろうけどね。
みなさ〜ん
平家の最後の人物となった六代は斬られたんですが
これはただの伝説って本当ですか?
あと範頼は何故殺されたのですか?
もう一人北条の時代になってから旗揚げして殺された
頼朝の弟の人物はご存知ですか?
誰かおせーて
418 :
日本@名無史さん:03/05/25 01:37
>>416 まぁ、決めつけてる訳ではないですが、逆に言えば帰納法的な思考もありじゃないですか?
頼朝は脳卒中が有力のような気がしますが(脳卒中→落馬→数日存命→出家→死亡)、
暗殺未遂→重症→数日存命→出家→死亡って場合もあるでしょうから(中岡慎太郎みたいに)。
自分なんか、曽我兄弟は頼朝暗殺未遂だと思ってる口なので。
保暦間記の記述は、上田秋成の「白峰」に繋がるモチーフのような気がしますね。
怨霊信仰と因果応報の思想は根強かったでしょうし。
419 :
日本@名無史さん:03/05/26 02:48
>>415 平家が滅亡後、15年も経ってからやっと死んだものを怨霊のせいっていうのも何だか‥‥
それなら、豊臣家を滅ぼしてから1年も経たないうちに死んでいる家康の方がまだ祟りのせいといっても信じられる気がする。
まあ、怨霊信仰の盛んな時代であれば、やっぱりそう言われていたんだろうけど。
>419
藤原師通が38歳で急死したのは、
その4年前に比叡山の神輿を撃退した罰が
あたったためと当時の記録に書かれています。
もし、頼朝の死が急死であれば、
怨霊のせいと認識されても不思議ではありません。
頼朝の死が急死であった、という傍証にはなりますな。
421 :
日本@名無史さん:03/05/27 01:34
>>420 急死だと怨霊の仕業になるのか?
長患いの方がよっぽど辛いと思うのだがw
422 :
日本@名無史さん:03/05/27 11:25
20年後に普通に死んでも怨霊や祟りの所為になるような。
423 :
日本@名無史さん:03/05/27 22:52
裕仁日王の頓死は日帝の蛮行によって無残にも虐殺された
3億のアジア人民の怨霊の仕業によるものです。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
425 :
日本@名無史さん:03/05/28 19:50
age
426 :
日本@名無史さん:03/05/30 18:26
源氏嫡流は摂津源氏。
河内源氏の頼朝は傍流。
427 :
日本@名無史さん:03/05/30 22:22
>>426 本家より、分家の方が栄えているのはよくある話ですな。
428 :
日本@名無史さん:03/05/30 22:31
>>426 当時は、長子が嫡系という感覚はなかった、と言ってみるテスト。
429 :
日本@名無史さん:03/05/30 23:03
陰金田虫
>>426 さらに、嫡系は「そのときに一番栄えている人間の先祖」であって、
常に移動する可能性があるとも。
『尊卑分脈』では、頼朝のあたりに
「源氏の昔の嫡流」
足利氏のところに
「源氏の今の嫡流」
と、それぞれ書き込んである。
431 :
日本@名無史さん:03/05/31 06:14
摂津源氏が嫡流であるのは、源満仲が、頼光を嫡子としたことによる。
別に頼光が満仲の長子だったからではない。
嫡流の摂津源氏よりも、傍流の河内源氏が武士源氏の主流になったが、
だからといって河内源氏が嫡流になったとは言えない。
河内源氏は、武門源氏の主流であり武家棟梁だが、そのことと源氏嫡流は別のこと。
『尊卑分脈』の源氏嫡流観は後世の見方が介在。
また、頼朝が河内源氏の嫡流であることには間違いは無い。
足利氏もまた河内源氏。
432 :
日本@名無史さん:03/05/31 06:32
なるほど。満仲が頼光を嫡子とした以上
未来永劫永遠にそれは覆らないわけね。
よくわかりますたw
433 :
日本@名無史さん:03/05/31 06:43
>>431 >摂津源氏が嫡流であるのは、源満仲が、頼光を嫡子としたことによる。
ソースを所望いたす。
嫡流なんて、時代によって動くものだよ。
藤原氏を見れば良く分かる。
そもそも藤原道長は親の決めた嫡子かね?
親から氏長者を取り上げられた藤原忠通と
その氏長者の地位を与えられた藤原頼長はどちらが嫡子だ?
そして現在に続いているのは?
実力で地位を奪い取るのは珍しいことでもなんでもない。
足利氏だってそうだ。
足利氏は元々源氏嫡流でもなければ頼朝の後継者でもない。
しかし、実力でその地位を奪い取り、
あまつさえ久我氏から源氏長者の地位まで奪い取ったわけだ。
長者は当然「源氏の嫡流」であるから、
この時点で足利氏が源氏の嫡流となったと言える。
摂津源氏厨の妄言には根拠がない。
435 :
日本@名無史さん:03/05/31 12:27
>434
「源氏嫡流」と「源氏長者」は別だけれど。
436 :
日本@名無史さん:03/05/31 12:34
>433
源満仲の嫡男が源頼光ということは間違いない。
史料はそれこそたくさんある。自分で探すこと。
問題なのは、頼光以降の源氏の嫡流。
河内源氏嫡流説に立つなら、頼光の後、摂津源氏から河内源氏へ嫡流が移動したことになる。
ならば、それは誰からなのか。
437 :
日本@名無史さん:03/05/31 12:36
源頼朝が、自分の系統の河内源氏を源氏嫡流にした。
河内源氏嫡流説は、源頼朝によって作られた源氏観。
>摂津源氏厨
そんなに嫡流名乗りたきゃ勝手に名乗ってれば?
だからって別にえらくも何ともないが。
( ´,_ゝ`)プッ
439 :
日本@名無史さん:03/05/31 13:09
勢いあるものが嫡流ってことだろ。
というか「零落した嫡流」ってのは概念自体が破綻していると思う。
440 :
日本@名無史さん:03/05/31 13:50
そもそも、嫡流って言う思想自体が曖昧だよね。
氏の長者は、これは分かりやすい。天皇が認める訳だから。
ただ、徳川家康も、氏の長者になったけど、彼の場合はそもそもが源氏の血統ではなく、
吉良家から買った系譜図から、新田系源氏になりすました訳だからね。
結局、実力者が氏の長者になる訳だから、嫡流ってのは実力のない血統の集団が、
自己の出自を正当化するための概念でしかないと思うのだが。
441 :
日本@名無史さん:03/05/31 13:52
>439
それは嫡流ではない。
嫡流とは、勢いの有無とは関係なし。
嫡流はあえていえば、系譜の形式。
勢いの有無は、系譜の実質。
だから「零落した嫡流」もあるし、「興隆した傍流」という概念もある。
442 :
日本@名無史さん:03/05/31 14:00
源氏嫡流は摂津源氏。
しかし、それだけのこと。
この時代は惣領制でもなければ、嫡流相続制でもない。
だから、嫡流といっても親が勢力基盤の中枢を継がせるだけのことで、
嫡流だからといって、源氏全体に対する指導的特権性など皆無。
河内源氏は傍流だが、今度は、河内源氏の中に嫡流や傍流が生まれる。
河内源氏の嫡流は義家の系統で、義光の甲斐源氏は河内源氏の傍流。
しかし今度は、甲斐源氏の中にその嫡流と傍流が生まれる。
こういうことにすぎない。
443 :
日本@名無史さん:03/05/31 19:26
武士の命令権は、直系にしか及ばない。
つまり、祖父→父→子→孫。
兄→弟はない。兄弟は他人の始まりとはよく言ったもの。
>>436 >源満仲の嫡男が源頼光ということは間違いない。
>史料はそれこそたくさんある。自分で探すこと。
そんな史料ってあったっけ?ちなみにWEBサイトは史料とはいわないぞ。
445 :
日本@名無史さん:03/05/31 19:47
>>443 つづき。
つまり、嫡流とか傍流とかは無意味。赤の他人だから。
446 :
日本@名無史さん:03/05/31 19:59
御家人の鎌倉宅って御家人一人(家)に一戸?
>>441 あなたの嫡流観は近代のもの。
中世の嫡流観は、
434や439が言っている通り、子孫の繁栄によって移動するというもの。
だから
崇徳院は譲位する相手が「皇太子」か「皇太弟」かにこだわり
結局「皇太弟」にされて地団駄を踏み、(これで嫡流からはずされたから)
四条天皇の死後、順徳院の血を継ぐ皇子の登極を鎌倉幕府が拒否し、
(順徳院、ひいては後鳥羽院が嫡流になるのを断固阻止)
後光厳流のあとに入った崇光流後花園天皇の実父、貞成親王への
院号宣下を、後光厳流最後の生き残り後小松院は遺言で拒否したのでつよ。
(後花園天皇は自分の息子(養子・猶子)であり、あくまでも
後光厳流として即位したと示すため)
>>447訂正。
>四条天皇の死後、順徳院の血を継ぐ皇子の登極を鎌倉幕府が拒否し、
>(順徳院、ひいては後鳥羽院が嫡流になるのを断固阻止)
を、
>鎌倉幕府は四条天皇の死後、順徳院の血を継ぐ皇子の登極を拒否して、
>土御門院の皇子を指名し、
>(順徳でなく、承久の変と関係ない土御門院を嫡流にしたかった)
に訂正。
後鳥羽院はどっちにせよ嫡流にはなりますね。
449 :
日本@名無史さん:03/06/01 13:18
●源氏嫡流・摂津源氏
満仲−頼光−頼国−頼綱−仲政−頼政−仲綱−光衝
●摂津源氏本拠地土着・多田氏
満仲−頼光−頼国−頼綱−明国−行国−頼盛−行綱
●大和源氏
満仲−頼親−頼房−頼峻−頼治−頼弘−親治
●河内源氏
満仲−頼信−頼義−義家−義親−為義−義朝−頼朝
●河内源氏本拠地土着・石川氏
満仲−頼信−頼義−義家−義時−義基−義兼−頼房
450 :
日本@名無史さん:03/06/01 14:54
このスレを全部読んでの初参加でござんすが。
大体、義朝が嫡流じゃないだろw
為義が後継者に決めてたのは、官位を考えたら頼賢だろーがよ。
義朝は保元の乱のドサクサに紛れてその座を奪い取っただけで。
で、義朝と義平の育ち方はまったく同じじゃん。
451 :
日本@名無史さん:03/06/01 17:03
多田の満仲 武士の始め
ってカルタが戦前にはあったらしいが、嫡流が摂津に行ったか河内に行ったかは微妙ですな。
頼光の酒呑童子退治は、武門としての価値を付加するため(義家に対抗するため?)に
後世作られた話らしいし。
452 :
日本@名無史さん:03/06/02 02:38
>451
嫡流は摂津源氏。ただし摂津源氏は都に居て公家との付き合いから公家色の強い武家になった。
河内源氏は都から東国へ転進し、荒くれ相手に武者的となり、武士的源氏の主流となる。
つまり
摂津源氏 : 源家嫡流
河内源氏 : 武家棟梁
453 :
日本@名無史さん:03/06/02 04:07
で、源頼光が嫡男だったというソースは?
454 :
日本@名無史さん:03/06/02 04:23
別に非歴史的、超歴史的な考え方をするのは自由だよ。
しかし「日本史」板でそれをやらないでくれ。
民俗学関係の板でどうぞ。
455 :
日本@名無史さん:03/06/02 07:11
>>452 当時は「公家」の概念は未成立なので、"公家色の強い武家"という表現はいかがなものかと
思う。摂津源氏と河内源氏は、武力を出世の手段としている都の武者という意味では共通して
いて、若干その方法が違うだけだ。
というのも、「摂津源氏のほうがより貴族的」と表現するなら適切だと思う。もともと河内源氏は
摂津源氏に比べて家格が低く、しかも義家のあと一旦没落している。摂津源氏と河内源氏を分
けたのは、この点だと思う。
>455
「公家」が時代的に不適切なら「貴族」に訂正。もともと貴族ということを言いたかった。
他については同意。
彼は落馬して死んだようです。そのことについては、義経の呪いだという話があります。
┏1若乃花====2若乃花
┃(1二子山) ┏━3若乃花
┗1貴乃花━━╋━2貴乃花(二子山改貴乃花部屋後継)
(1藤島,2二子山)┗=安芸ノ島(2藤島)
3代目若乃花は嫡男だったが出家
2代目貴乃花は家を継いだが家名(二子山)は断絶
安芸ノ島は先代の名跡を継いだ
数年前なら3代目若乃花が嫡流
現時点では2代目貴乃花が嫡流
藤島部屋が貴乃花部屋より隆盛すれば安芸ノ島が嫡流(二子山の名跡まで継いだりして)
460 :
日本@名無史さん:03/06/03 02:33
正確に言うと、横綱じゃない初代の若乃花が存在するんだがね。
横綱としてなら、花田勝治が初代横綱若乃花って表記でも構わないが。
んで、あんまり知られていないけど、若乃花と言う四股名は実は若乃花の師匠の
花籠親方(元大丿海)が名乗ってた訳だ。
系譜で言えば、若乃花の名跡は本来花籠部屋のものだったが、
花田勝治が継承して高めたので義家みたいなもんだね。
花籠の名跡を源氏嫡流の摂津源氏とすると、こちらは輪島が継いだが
借金抱えて零落、部屋自体が消えてしまった。花籠の道統は隆盛を極めた
大部屋の二子山部屋に吸収された訳だ。つまり、河内源氏。もっと言えば、
初代横綱若乃花の名跡は、武家の棟梁・八幡太郎義家みたいなポジションになった訳だ。
んで、若乃花の名跡は本来、娘婿の二代目横綱若乃花(悪源太義平)に受け継がれるはずが、
離婚その他の行状の悪さから、弟の息子であり本来なら傍流のはずの花田勝(頼朝)に
受け継がれてしまったと。
輪島以降、本家の花籠部屋は断絶していたが、二子山部屋から独立する形で再興されたが、
部屋の家格としては、二子山(河内源氏)>花籠(摂津源氏)となってしまった、と。
んで、花籠系(源氏)の嫡流と「なった」花田勝(頼朝)の系譜だが、
本人が廃業(三代で断絶)したため、横綱貴乃花(足利)が、花籠系嫡流となったと。
こういう例えはアリかな? こうすると、摂津源氏が嫡流!っていくら言っても、
そりゃ系譜的にはそうかも知れんが、バカな後継者(=輪島)のせいで、
本流からはじかれたんだから、仕方ないじゃん。ってことになるな。
いくら現花籠親方が、二子山部屋はうちの傍流だ、うちの方が嫡流だって言っても、
歴史的にはそうかも知れんが、過去の栄光じゃん。だったら、実力で二子山部屋に
勝てるの?って話だよね?
461 :
日本@名無史さん:03/06/03 03:39
>>455 >もともと河内源氏は摂津源氏に比べて家格が低く
どういうこと?家格なんてあったか?
462 :
日本@名無史さん:03/06/03 09:10
>453
頼光は、満仲の嫡男。だから摂津多田を継承。
頼親や頼信は、それぞれ大和=奈良と、河内=大阪に、今風に言えば分家。
ただ、問題は、満仲の嫡男の頼光以降において嫡流がどうなったのかということ。
摂津源氏嫡流説と、河内源氏実力奪取説がある。
463 :
日本@名無史さん:03/06/03 12:59
>>462 >頼光は、満仲の嫡男。だから摂津多田を継承。
これって根拠としてはどうかと思う。多田はのちに多田氏に継承され、
河内源氏の河内石川は石川氏に継承されたが、
この論法だと摂津源氏の嫡流は多田氏、河内源氏の嫡流は石川氏となるが。
464 :
日本@名無史さん:03/06/06 16:12
源家の嫡流が問題になり出すのは、頼朝が幕府を開いて、武家がそれなりの権力を持つようになってからの話。
公家の番犬や受領がせいぜいだった時代に、そんな意識は強くなりようもない。
だいたいが、それぞれが独立した別の家を立てているんだから、嫡流も傍流も無いよ。
465 :
日本@名無史さん:03/06/06 16:52
古代の蘇我氏にも本宗家というものがあり、嫡流意識はあったが。
466 :
日本@名無史さん:03/06/06 16:54
やはり、源氏嫡流は、摂津国多田の摂津源氏なのですか?
467 :
日本@名無史さん:03/06/06 18:23
>>465 古代の蘇我氏と摂関期の源家とでは権力が違い過ぎるが。
源氏関連のスレは、
どこも嫡流の話になると途端にレベルが下がるなぁ
レベルを下げてるのは、ひとえに摂津源氏ヲタだろ
470 :
日本@名無史さん:03/06/07 00:06
傍流に主役を奪われた嫡流の口惜しさはお前らにはわかるまい。
471 :
日本@名無史さん:03/06/07 00:45
主役を奪われた時点ですでに嫡流ではなくなってると思うが。
472 :
日本@名無史さん:03/06/07 09:05
>>470 頼義、義家、為朝、義平、頼朝、義経、義仲‥‥こんなキラ星のような英雄を次々輩出した家系には、逆立ちしたってなかなか叶うもんじゃないよ。
諦めなさいw。
473 :
日本@名無史さん:03/06/07 09:12
やはり、大阪なんかに根拠地を置いたのがまずかった。
474 :
日本@名無史さん:03/06/07 12:49
頼光、頼家、頼弘、国房、頼政、光保、行綱‥‥こんなキラ星のような英雄を次々輩出した家系には、逆立ちしなくたってなかなか叶うもんだよ。
諦めなさいw。
475 :
鎌倉右大臣:03/06/07 12:50
世の中はつねにもがもな渚こぐ海人の小舟のつなでかなしも
日本史板住人なら「キラ星のような」じゃなくて
「綺羅、星のような」って言ってほしいなあ。
「綺羅星の如く」なのか、「綺羅、星の如く」なのか、ずっと悩んでいた。
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〔「綺羅(きら)、星(ほし)の如し」という言い方から、誤ってできた語〕立派な人が連なり並んでいることをいう語。
「有力な財界人が―のごとく並ぶ」
・・・本来は「綺羅、星の如く」だけど、現代語としては「綺羅星の如く」でもいいわけね。
「一所懸命」と「一生懸命」みたいなもんか。
478 :
日本@名無史さん:03/06/07 14:30
大阪は商人の町といわれるけれど、大阪の郊外は武士源氏の河内源氏の発祥地だったんですね。
摂津源氏=兵庫源氏
大和源氏=奈良源氏
河内源氏=大阪源氏
伊勢平氏:三重平氏
>477
鎌倉時代ヲタの自分は当然「一所懸命」を使ってますw
>478
商人の街になるのは織豊時代じゃないか?
>>479 小学2年生の漢字テストで
「いっしょうけんめい」を
「一所懸命」と書いてバツをつけられた。
それ以来、
「こいつはこんなことも知らんのか」と
内心彼女を見下していたのは内緒だ。
482 :
日本@名無史さん:03/06/07 16:12
播磨→兵庫。
摂津は分割されたわけね。
摂津はますます日本史ではどうでもいい存在かになってきたね。
483 :
日本@名無史さん:03/06/07 16:56
頼朝は部下の嫁に夜這いかけて将軍と判らずに殴り殺された
ってのはデマでつか
484 :
日本@名無史さん:03/06/07 16:56
摂津は、現在の大阪府北部と兵庫県東部に分かれた。
現在の大阪市も神戸市も摂津国になる。
播磨は兵庫県西部地域で、兵庫県は摂津と播磨から成り、
大阪府は摂津と河内、和泉からなる。
485 :
日本@名無史さん:03/06/07 17:44
>>483 多分デマでは?
夜這いは前もってその女の女官と手を組み、次に和歌なんぞのやり取りをしてから、夜這いに行くのですから。
486 :
日本@名無史さん:03/06/07 21:15
>>478 武蔵七党=埼玉七党改め、さいたま七党
甲斐源氏=山梨源氏改め、南アルプス源氏
常陸源氏=茨城源氏改め、チバラギ源氏
下総平氏=千葉平氏改め、チバラギ平氏
思わず「さいたま」のAAを貼りたくなるレスだ、、、
488 :
日本@名無史さん:03/06/08 02:30
>>483 スレのずいぶん前に出てるが、それは横溝正史の「女王蜂」の中で語られてる
エピソードで、横溝のまったくの創作か、伝承でそう言うのがあるかは特に
結論が出てなかったはず。
>488
元ネタは江戸時代の読み本でしょ。
490 :
日本@名無史さん:03/06/08 23:24
>>489 あ、けっこう古くからある説なんだ。
ちなみに、なんて本かわかりまつ?
491 :
日本@名無史さん:03/06/09 17:32
清和源氏嫡流の摂津源氏って、やはり最高なの?
492 :
日本@名無史さん:03/06/09 19:47
分かりきったことをきくな。
493 :
日本@名無史さん:03/06/09 21:35
>490
タイトルうろ覚えだが、頼朝最期物語とか。
何冊か似たような内容のがあるよ。
495 :
日本@名無史さん:03/06/11 01:00
496 :
日本@名無史さん:03/06/11 22:54
であれば、桓武平氏の嫡流を知りたい。
>496
そんなものはいない
498 :
日本@名無史さん:03/06/12 01:47
>>481 >「いっしょうけんめい」を
>「一所懸命」と書いてバツをつけられた。
あたりまえだ。「いっしょう」は「一所」と書けない。
499 :
日本@名無史さん:03/06/12 11:31
大河ドラマの影響でこのスレも大人気になるかな?
500 :
日本@名無史さん:03/06/12 12:49
>>481 小2で「懸命」って漢字テストで書くだろうか・・・?
501 :
日本@名無史さん:03/06/12 14:13
義経よりストレートに頼朝やればいいのにな
502 :
日本@名無史さん:03/06/13 19:46
義経は、子供っぽいスト−リーになりガチだからツマラン。
頼朝なら一本調子じゃない複雑なスト−リーになるから
一年間、書いてるほうも楽しいだろうな。
503 :
日本@名無史さん:03/06/13 22:19
県令悶淫は誰がやるのかな?
504 :
日本@名無史さん:03/06/13 22:37
上戸彩。
そんなに若くねーよ!
506 :
日本@名無史さん:03/06/14 11:52
頼朝、範頼、義経、木曾義仲、甲斐源氏その他、源氏一族のバトル・ロワイヤルにすれば面白い。
507 :
日本@名無史さん:03/06/14 13:21
なんでいまさら「義経」なんでしょうか?
TBSに対抗する為に、取り上げたのだろうか・…
恐らく、これからの若手役者のメイン起用を考えたら、ありえないとは思うけど。
頼朝役は岸辺一徳にやってほしい(知的で、物静か、けど裏側では何を考えているか分からない…)
どうせ、清盛は基地外で、義仲は単なる暴れ馬のドキュン。頼朝は根暗でいつも苦虫、秀衡はいいおじさんで、当然梶原景時は頼朝に
讒言する嫌われ者(いつも義経をやっかむ)ってとこですか…後白河院は終始あたふたと義経についたり、頼朝についたり…
そして範頼は(ry
範頼に期待!(なんとなく)
509 :
日本@名無史さん:03/06/14 14:02
>>508 範頼は、マッシュルーム伊藤(利長)みたいに、顔はいいが目立たない。キャラか?
ところで、これまでの大河で範頼役って、誰がやったのだろう?
すれ違いか・・・
510 :
日本@名無史さん:03/06/14 17:32
511 :
日本@名無史さん:03/06/14 19:00
範頼はあまりに評価低すぎるな。
義経のように華々しい戦功が無いから仕方ないけど、壇の浦で平家軍を海上に孤立させたのって
範頼軍の功績じゃないの?
まあ、地味な役回りではあるが。
512 :
日本@名無史さん:03/06/14 19:53
>>510 参考になります。
最近の大河で当てはめると「草燃える」かな…
配役欄に範頼役、載っていないが…??
>>512 山本寛とかいう俳優だったように記憶しているが、曖昧。
あのデザイナーで有名な人物と似たような名前だったのは確か‥‥だと思うがヤパーリ曖昧。
大して重要な役では無かったから仕方ない。
514 :
日本@名無史さん:03/06/15 07:26
>>507 >なんでいまさら「義経」なんでしょうか?
ほんとだよなぁ。「範頼」でいくべきだろ、ここは。
史実でも詳しいことがわかってないんだから、幾らでも想像の翼が広がるってもんだ。
どうせNHKの大河なんてメチャクチャなんだから、前半なんて奇想天外な冒険ドラマでかまわんよ。
後半は範頼の目からみた義経とか頼朝とかにしたって面白そう。
何なら、弁慶や静御前に対抗するキャラを作ったっていいんだよ。
515 :
日本@名無史さん:03/06/15 08:14
>>513 山本寛で間違いない。
総集編ビデオにもちょっとだけ映ってる(曽我兄弟の仇討ちがらみで)。
516 :
日本@名無史さん:03/06/15 11:38
>>514 やはり、滅びの美学かな。
日本経済もDQNで、将来沈没しそうだし。
な〜んか、来年はクラソ〜
もうちょっと明るい大河にしてほしいな。
517 :
日本@名無史さん:03/06/17 13:52
ちょっと話題を変えて、鎌倉幕府の成立年についてなんだけど、いろいろな説が
ありますよね。私が知ってる限りで、ざっと並べると
A−1180年(治承四) 挙兵時、すなわち南関東に軍事政権成立
B−1183年(寿永ニ) 十月宣旨の獲得(事実上の東関東支配を朝廷が承認)
C−1184年(元暦元) 公文所・問注所の設置(幕府の主要機関が成立)
D−1185年(文治元) 頼朝、日本国総追捕使・総地頭となる(守護・地頭の設置)
E−1190年(建久元) 頼朝、右近衛大将任官
F−1192年(建久三) 頼朝、征夷大将軍任官
で、昔読んだ本にはA.B.Dが有力らしい。(学者の意見はDが多いらしい)
でも学校でならうのは、あの「いいくに作ろう?」のFで覚えてる人が多い
と思うけど、この辺は一体どうなってるんだろうか。学者の多数意見が文部省
には反映されてことかな?
>>517 不勉強なのでなんとも言えませんが。
室町・江戸の例をみても(状況が違うのかもしれませんが)
いわゆる武家の統領=征夷大将軍を朝廷から任命されたのを
以って、幕府が正式に成立したと考えるのでは思うのですが。
520 :
日本@名無史さん:03/06/17 14:35
幕府は近衛府の唐名だから、名称だけでいったらEが正しいような。
521 :
日本@名無史さん:03/06/17 20:19
>>517 そもそも「鎌倉幕府の成立」年を特定することは意味のあること
なんだろうか?そもそも、頼朝が「本日ここ鎌倉に幕府を開く」
と言ったわけでもないだろうし、まして「幕府設立記念式典」が
執り行われたわけでもないし。
「1180年〜1192年にかけて、後の世に『鎌倉幕府』と呼ばれた
政権が徐々に出来上がっていった」でいいと思うんだけどなあ。
まあ、教科書的には(試験問題を作る上で)必要なのかも知れないが。
教科書だって今は「鎌倉幕府成立」とは書いてねーべ。
1192年はあくまで頼朝が征夷大将軍に任命されたっつーだけの年。
523 :
日本@名無史さん:03/06/17 23:11
全国各地の土地の領有権行政権と警察権司法権を得たという意味で
やはりDが妥当ということになるんでしょうね。
524 :
日本@名無史さん:03/06/18 11:51
頼朝は右近衛大将就任後10日で辞任、征夷大将軍は就任後3年で辞任。
頼家は頼朝の死から3年後に征夷大将軍の宣下があった。
また、実朝の死から4代頼経就任までは、承久の乱をはさんで
7年間将軍が空位だったことから、少なくとも鎌倉時代までは、
征夷大将軍と幕府が不可分なものではなかったと思う。
525 :
日本@名無史さん:03/06/18 13:51
っていうか、鎌倉時代までいわゆる「幕府」が存在したことはなかったんだが。
526 :
日本@名無史さん:03/06/18 14:51
承久の乱の際、関東の武士達は誰に忠誠を誓ったんだろうか。
鎌倉殿いないし…
政子? 義時? 三寅? それとも亡き頼朝か…?
527 :
日本@名無史さん:03/06/18 16:28
>>517 Dと並んで有力な承久の乱後が入っていませんが。
>>521 そもそも「鎌倉幕府」とは何なのか、「鎌倉時代」という名称は妥当なのか
という問題があるのでそう簡単にはいきません。
>>526 『吾妻鏡』では一応二品亭で話し合ったりと政子を中心に描かれていますが
『吾妻鏡』の編纂者の意見=当時の実状とは限りませんしねえ。かといって
他に使えそうなものは・・・。
>>528 うろ覚えですまんが、
泰時くらいのときに、年期法との関連で、だれだれの沙汰は以後改変せず、と定めた
ときに、右大将家とならんで二品家とかニ位家の沙汰もあげられていなかったっけ?
それから、承久当時に「鎌倉殿」たりうるのは、三寅と政子だけ。
普通に考えれば、「三寅を後見する二位家」ということになるのでわ?
本人も二位を持っているのだから、差し支えはないでしょう。
530 :
山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/06/18 22:13
>>529 上の三行は私も分かりませんが。一応慎重を期そうと思いまして。常識的に
考えれば政子の最盛期ということになるようですが。
>>530 当時の「イエ」というものを考えると、
「当主」と「当主の地位を保証する前当主、あるいはそれに準ずる存在」
という二重構造になっているわけで。
で、さらに「当主」に子ができれば「イエ」の存続が保証され、
それにより、この構造はさらに安定する、という仕組みになってまつよね。
とすると、当時に「鎌倉殿」家(造語)の構成員を考えると、
政子と三寅しかいない(頼家娘はいたけど、捨象は可能でしょう)わけです。
政子が頼朝後家という立場で、三寅の相続を認める、というのが当時の
「鎌倉殿」の状況といえるのでわ?
>>531 ですから慎重にいきたいだけで別に否定したいわけでは・・・。当主に準ず
る存在、という点では正しいと考えます。
芸スポ+で、2005年の大河が「義経」だと知って久々にここにきてみた。
頼朝のキャスティングが気になるが、
どうしても「草燃える」の石坂浩二を思い浮かべてしまうなあ。
流れ切ってごめん。
頼朝主役でも面白く作れそうな気がするんだがなあ。
平治の乱での初陣、敗戦とそれに続く東国への脱出行。
一行とはぐれた後、ひとり青墓に辿りつく頼朝、義平・朝長の死。
義朝の暗殺。捉えられ都へ連れ戻された頼朝と池禅尼の出会いと助命、
伊豆配流後の日々。八重姫との出会いと悲劇、政子との出会い。
色々あるじゃないか、頼朝にも。
伊豆での日々は想像の余地があるがそれも面白そうだし。
535 :
日本@名無史さん:03/06/19 12:51
頼朝の兄弟たちをイケメンぞろいにして、ライバル心むき出しの演出にすると(・∀・)イイ! 鴨。
536 :
日本@名無史さん:03/06/19 13:01
初陣の場面では、「源太ヶ産着」が必須アイテムになりそうだな。
537 :
日本@名無史さん:03/06/19 13:59
539 :
日本@名無史さん:03/06/19 16:00
芸スポ+を見てきた
スレのソースによると
平家一門を栄華に導いた平清盛と、兄頼朝の愛情を求め続けた義経の
対比を軸に、家族のきずなを描く。
ということらしいが、とすると、頼朝の「冷淡さ」は過去最高レベルになるんだろうか?
540 :
日本@名無史さん:03/06/19 16:39
草燃えるの頼朝の、食えない人たらしぶりはよかった。
右往左往しながら、御家人を操ったり操られて切り抜けていく
あのキャラクターで、貴種で駒の頼朝の位置が一目でわかる。
541 :
日本@名無史さん:03/06/19 19:45
このスレとしては、やはり誰が頼朝を演じるかが気になるんだな。
果たして、「石坂頼朝」を越える頼朝が現れるかどうか……
542 :
日本@名無史さん:03/06/19 21:38
>>528 なるほど、私も承久の乱は、白村江、太閤検地、明治維新と並び、日本史上の
転換点の一つだと思います。
日本政治の基盤である土地と住民の支配という観点から見れば、
乱後の朝幕の力関係の逆転、新補地頭による荘園簒奪、
武士の対公家意識の変化など、物理的だけでなく精神的な面も含めて
承久の乱を境に劇的に変化したのだと思います。
543 :
日本@名無史さん:03/06/19 21:50
政子が神宮皇后にかぶるような気がするのは俺だけだろうか…
仲哀=頼朝、
新羅王=後鳥羽、
応神=泰時、
倭に来た人質=摂家&宮将軍
544 :
日本@名無史さん:03/06/20 14:54
>>542 >私も承久の乱は、白村江、太閤検地、明治維新と並び、日本史上の
>転換点の一つだと思います。
今、中央公論の「マンガ日本の古典 吾妻鏡」を読み返しているのだが、
承久の乱を描いた章のタイトルが「上皇謀反」なのを思い出した。
上皇が幕府に対して謀反企て、敗れて流されるだなんて
それまでの日本では想像もつかないことだったんだろうな、と感じたのを思い出しました。
546 :
日本@名無史さん:03/06/20 15:46
天皇家の人間が、武士に島流しにされたんだもんな
547 :
日本@名無史さん:03/06/20 17:01
それが当然でしょ
ヒロヒトを逆さ吊りしなかった昭和の日本人が異常なだけ。
国家神道に洗脳されてたからしょうがないけど、天皇は利用
するものであって敬うべきものなんかじゃなかったよん。
548 :
日本@名無史さん:03/06/20 17:18
まったくそのとおり。
550 :
日本@名無史さん:03/06/20 22:13
>>540 >>貴種で駒の頼朝の位置が一目でわかる
永井史観で真の頼朝像を見出すのは、もう無理でしょ。
551 :
日本@名無史さん:03/06/20 22:47
>>507 日本経済新聞掲載の小説で最近まで「平家」というのをやっていて、
その話が、平清盛を軸に描いていてその清盛の意志を継ぐのが源義経、とい
うある意味ぶっとんだものをやっていたからだと思う。それにインスパイア
されて。
ちなみに昔同じく日本経済新聞掲載の小説で「下天は夢か」(信長物)が
終わった後か最中かに、大河ドラマで「信長」をやるという発表があった。
552 :
山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/06/20 22:55
今『承久記』を見返してみた限りでは『吾妻鏡』の「而今依逆臣之讒、被下
非義綸旨」という一文がありませんね。少なくとも『吾妻鏡』を編纂した限
りではあの乱とそれに対する処置は幕府に非が無く上皇に逆らうわけで
も無かったという事にしたかったのでは。
しかし舞女亀菊云々は、読んだだけで悪印象を受ける「巧い配置」です。
>>551 あの日経平家はひどかったなぁ。
清盛は「藤原官僚群」と対決して、「国政大改革」を目指してたんだそうだ。
いや、読者層を考えたらそういうアオリにしたくなるのもわかるんだが、
作者に扱う時代への愛がないことも、全く勉強してないことも、一目でわかったなぁ。
555 :
日本@名無史さん:03/06/21 01:51
池宮は、摂津源氏が源氏嫡流だと理解していなかったところが痛すぎる。
浮気がバレ、政子に殺される・・・。ありそうで怖いw
557 :
日本@名無史さん:03/06/21 22:50
>>544 いまなら、小泉御謀反、ってことになるな。
558 :
日本@名無史さん:03/06/22 16:36
>上皇が幕府に対して謀反企て、敗れて流される
承久の乱が起きた時点では「幕府に対して謀反を企てた」という感覚ではなかった
と思う。幕府側からすれば、朝廷とは隣の国で、公家連中には関東の土地所有者も
多く、表現は適切でないかもしれんが「宗主国」のような感覚もあったと思う。
鎌倉武士も当初動揺があったし、大江や三善が、断固、京都攻撃を主張しても、
実際は、慎重論(箱根で迎撃する)が勢いを盛り返す状況だったし、政子の有名
な演説も裏を返せば、(敢えて演説をせねばならぬほど)枯れ木に花が咲くと
言われた宣旨の威力に武士達が動揺していたということだろう。承久の乱は、
言わば「権威の絶対性」というか「朝廷に対する意識」との戦いでもあったわけ
で、それを克服した武家政権にとっては革命的な位置付けのできる事件だと思う。
559 :
日本@名無史さん:03/06/22 16:53
>>557 普通は、摂津源氏が源氏嫡流であることなんぞ、知る価値はない。
日本史的には、将軍位を誰が受け継いできたかだ。
560 :
日本@名無史さん:03/06/22 19:41
>>558 なんで隣の国なんだ?大番やら荘園の支配関係やら官位やら・・・
それなりの坂東武者なら京都とは代々それなりに支配関係があったんだが。
561 :
日本@名無史さん:03/06/22 19:49
>池宮は、摂津源氏が源氏嫡流だと理解していなかったところが痛すぎる。
これは池宮に限らず司馬も同じ。源氏の内実が分かっていないんだよ。
源頼朝の河内源氏は、元は初代の源頼信が大阪の南河内の羽曳野に分家したのが始まりだから。
理解してないもなにも、嫡流云々なんてどうでもいいことだろ。
同じ中央貴族の藤原氏はそんなこと問題にならないのにな。
564 :
日本@名無史さん :03/06/22 21:36
吉見氏の遠祖は源範頼で、頼行は能登吉見氏の庶家で、石見吉賀郡の地頭職を得て下向したものである。
吉見氏は木部・津和野・吉賀地方の在地領主を被官化しつつ次第に勢力を拡張し、隣接する強豪益田氏と
拮抗する有力領主に成長した。
十一代正頼は毛利氏の重鎮として各地で軍功を挙げた。長男元頼は朝鮮の役で戦死したため、二男の広長が
あとを継いだ。しかし、広長は毛利氏の処遇を不服として、たびたび出奔、不穏な行動もあったが、祖父
正頼の功と、毛利氏の姻戚関係によって帰参を許された。
しかし、彼が輝元毒殺の計画ありとの讒言によって毛利軍の追討を受け、その包囲のなかで三人の男子とと
もに自刃し、吉見氏は滅亡した。
ただし、広頼は広長の出奔中に、吉川広家の三男就頼を養子に迎えて、五女とめあわせていたので、就頼
が吉見の家系を継ぐことになったが、のちに吉見姓を廃し、毛利氏を称して一門に加えられ、大野毛利氏となった。
ご先祖様 源範頼と似たような最期を子孫もやらかしてます・・
566 :
山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/06/22 21:43
>>560 『吾妻鏡』中で鎌倉幕府を「関東」と呼称していること、箱根のあたり
を固めて待ち伏せようとしていたことから来た発想なのでは。
富士の巻狩りで頼家が鹿を仕留めたことを頼朝が褒めたのを政子が批判
したという話がありますが、これは富士での巻狩りという行為が天子の
田猟に相当するもので東国の支配圏を主張したものであったのに田舎者
の政子にはそれが理解出来なかった、という説がありますし。
567 :
日本@名無史さん:03/06/22 22:32
それって朝廷の権威への抵抗であって、隣国とか宗主国っていうのは違うような気がする。
568 :
日本@名無史さん:03/06/22 22:35
鎌倉源氏・伊豆氏略系
源義朝-----伊豆頼朝----伊豆頼家----伊豆実朝
569 :
日本@名無史さん:03/06/23 00:01
東国の自治権ということから考えると別の国でも間違いなわけじゃない。
例えば上皇といえども、関東の八条女院領で、年貢滞納してて気に入らん
地頭をクビにしたくてもできない。
取り敢えずは幕府にクビにしてくれと言うのがせいぜい。
570 :
日本@名無史さん:03/06/23 01:10
5朝廷の権限が狭められただけ。
現代で言うと、総理大臣が地方の村長の首を自由に切れないようなもの。
こんなもので別の国だとかいってると、世界中国だらけでめちゃくちゃなことになる。
>>571 主権在民の現代と比較してもしょーがあんめー。
実質建前になってるとはいえ
一応国民の下に首相も地方自治体の首長もあるわけだから(w
ただの例え話だろ。つーか、封建制ってのはそんなものだ。それを隣国呼ばわりするとは・・・。
573 :
日本@名無史さん:03/06/23 16:54
>>570 総理大臣=上皇
地頭=村長かよw
こんな「めちゃくちゃ」なたとえ話やっといて、人のこととやかく言えるもんじゃないよ
>>558の方が要点を抑えているだけ百倍もマシ
574 :
日本@名無史さん:03/06/23 18:11
なに下らん言い争いしてんだか。
官位やら土地やらの伝統的な支配、被支配関係が存在してるのに、別の国なわけないじゃないか。
まあ、
>言わば「権威の絶対性」というか「朝廷に対する意識」との戦いでもあったわけ
>で、それを克服した武家政権にとっては革命的な位置付けのできる事件だと思う。
これはそのとおりだろう。つまらんこと書かなければよかったのに。
>>574 その程度のことは中学入試のときにやったような気が駿河。
ま、
>>558は領主制論に基づく、東国国家論の立場を、
>>570は権門体制論の立場をとってる、
と言い換えれば、日本史板らしくていいかも。
>576
それ、何のこっちゃ?
578 :
日本@名無史さん:03/06/25 09:08
後の徳川江戸幕府に連なる制度の萌芽として鎌倉幕府は注目すべきものだろうけれど、
当時からみれば、単に、源頼朝に朝東国の武士の親分のお墨付きを廷が与えただけで、
当時の社会制度にさほどの影響はなかったのではないのか。
蝦夷を鎮圧することを期待された坂上田村麻呂の征夷大将軍職と同等に、東日本の
武士をどうにかしろ、蛇の道は蛇くらいの感覚で、源頼朝を選んだというくらいの
ものだろう。京からみれば、蝦夷も板東の武士も、同じような東の方に居る荒くれ者
という感覚に過ぎなかったのではないか。
579 :
日本@名無史さん:03/06/25 14:58
平家追討をやってのけた鎌倉の連中を粗略に扱うわけにはいかず
と言って、平家の次はすぐ鎌倉成敗というわけにもいかず(兵が集まらん)
結局、朝廷としては苦々しく思いながらも、しばらくは認めてやるしかなかったのだろう。
で、承久の乱で決着つけようとして滑ったと。
581 :
日本@名無史さん:03/06/25 19:18
>>578 それはあまりに過小評価杉。
守護地頭の設置は画期的。
明らかに朝廷や公家の利権が脅かされるようになったわけで、でなきゃ承久の乱なんて起こさんだろ。
結果としてはかえって権威が失墜したわけだが。
582 :
日本@名無史さん:03/06/26 02:08
>平家追討をやってのけた鎌倉の連中を粗略に扱うわけにはいかず
十月宣旨が1183年、平家滅亡が1185年だから
東日本に関しては、平家追討云々とは関係ない。
>>581 それは結果論。
本来は荘園公領制を維持するべく置かれたもの。
逆に破壊することになったけどね。
本来は公家の利権を守るべく置かれた。
本所・御家人間紛争では幕府は必ず御家人を罰する。
584 :
日本@名無史さん:03/06/26 07:43
義経を語ろうよ。私は義経の方が好きだけどなあ。
585 :
日本@名無史さん:03/06/26 07:45
ほな新しいスレたてーな!!
>>583 守護・地頭が荘園制を破壊することになったのなら、
どうしてその後300年以上、荘園制がつづいたんれすか?
587 :
日本@名無史さん:03/06/26 21:51
ののたんがいるな
804年間隠し続けて参りましたが、主人の本当の死因は服上死でございます。
小坪の愛人の家です。馬ではなく女に・・・・
頼朝が亡くなった頃、
その愛人はもう小坪にはおりませぬ。
590 :
日本@名無史さん :03/06/27 23:18
591 :
日本@名無史さん:03/06/27 23:20
?言いたいことははっきり言えって教わらなかった?
592 :
日本@名無史さん:03/06/28 12:55
確かに朝廷の中でも後鳥羽などの勢力はそういう認識だった。だからこそ承久の乱
で破れて没落した。逆に慈円のように武家政権の意義を把握できてた連中、親幕派
と言われる西園寺公経のような存在、または土御門上皇のような 後鳥羽とは一線
を画した勢力があったからこそ、朝廷が生き延びたともいえる。
入力ミス。
>>592は
>>578の
>当時からみれば、単に、源頼朝に朝東国の武士の親分のお墨付きを
廷が与えただけで、当時の社会制度にさほどの影響はなかったのでは
ないのか。
に対するレス。
594 :
日本@名無史さん :03/06/28 20:36
源 義仲
武蔵国大蔵(埼玉県嵐山町)出身
平安末期の武将
源為義の孫 源義賢の二男
ニックネームは「木曾冠者」
1155年(久寿2) 2歳の時、父義賢が源義平に討たれる
以後、乳母の夫である中原兼遠によって信濃国木曾山中で育てられ、木曾次郎義仲と呼ばれる
13歳の時、義家の先例にならい、石清水八幡宮社前において元服
1180年9月27日(治承4年9月7日) 以仁王の令旨を奉じて挙兵 平通盛らを越前に破る
1183年(寿永2年3月) 長男義高を人質として鎌倉の源頼朝のもとにおくり、頼朝と和睦
6月2日(5月11日) 倶利伽羅峠の戦い
1183年7月 平氏を西海に走らせて京都に入る
従五位下左馬頭兼越後守・伊予守
後白河法皇と反目 11月 後白河法皇を幽閉
1184年 征夷大将軍に任ぜられ、朝日将軍と称す
595 :
日本@名無史さん :03/06/29 17:22
大友能直です。殿いや頼朝公に感謝してます。寵愛してありがとう!
いつもそばにおいて下さりありがとう。彼も私も少年時代に父を失って
いる境遇が同じ様でそこで親近感も手伝い、私が眉目秀麗なのも
手伝いかわいがって下さり感謝感謝です。
こりゃまた随分と日本語の不自由な能直だな…。
597 :
日本@名無史さん:03/06/30 01:49
あはははは
そうだね
外国の人みたい
598 :
日本@名無史さん :03/07/02 14:18
大友って頼朝の子って可能性なしにもあらずだね。
遺伝学的にみると子煩悩遺伝子って代々父からその子・男の子に遺伝継承
するので、頼朝が大友能直を寵愛したのは遺伝学的には親子・父子のそれ、愛情
からとも言えるね。養子にだしたら責任ないし、自分や親兄弟達の源氏一族の醜い争い
に巻きこまれないで確実に自分の血を残せるしね。頼朝は経験からそんなシタタカさも
もっていたと思いたい。
仮に大友が頼朝の子であっても他家に養子に入ってる以上。源氏継承は無理だしな。
仮に政子に知られてもお構いなしだろ。
600get
601 :
日本@名無史さん:03/07/02 22:13
島津も頼朝の落胤といってることからすると、
大友と島津の初代は兄弟かW
602 :
日本@名無史さん:03/07/02 22:41
そこへ持ってくると貞暁は、頼朝の認知を受けつつも権力闘争に巻き込まれることのなかった稀有な存在。
貞暁は巻き込まれるのを恐れて自分で目を潰したべ?
ある意味巻き込まれたも同然。
604 :
日本@名無史さん:03/07/03 02:01
確実な御落胤は貞暁だけだがね。
605 :
日本@名無史さん:03/07/03 08:27
高野山に居れば安全だったろうに、、、
わざわざ片目くり出す程のことでもないのにな
606 :
日本@名無史さん:03/07/03 12:45
>>605 そうは言うが、貞暁が片目をえぐったのと前後して、頼家の遺児の仁和寺
阿闍梨禅暁は殺害され、三井寺阿闍梨栄実は自害に追い込まれている。
寺にいたからと言って安全ということはない。
でもそれは和田氏にかつがれたからだんべ?
608 :
日本@名無史さん:03/07/04 04:40
片目をえぐり出すって‥‥それ、自分でやったの?
麻酔もない時代に、痛くて死にそうだ。
いや、それでも死ぬよりはマシか
609 :
日本@名無史さん:03/07/04 14:01
鎌倉源氏の伊豆氏の初代が頼朝なのですか?
>>609 摂津源氏厨はウザイから帰っていいよ。
で、なんで伊豆氏?
鎌倉ならまだ分かるが。
612 :
日本@名無史さん:03/07/04 15:23
源頼朝の名字は何だろう、といえば、やはり「鎌倉」だろう?
「鎌倉殿」って言うくらいだから。「伊豆」はおかしいよ。
613 :
日本@名無史さん:03/07/04 15:24
>>608 すぱっと殺してくれたほうがラクなような気もする
614 :
日本@名無史さん:03/07/04 19:34
右手親指切り落とすでもよかったのにな
弓もひけないし手綱も巧くさばけなくなる
この方が説得力あるような
615 :
日本@名無史さん:03/07/04 21:31
>>614 小指でもいいんじゃない?
あの筋の人がこれをやるのも、小指が無いと刀がちゃんと振り回せなくなるかららしい。
いずれにしても、両目ならともかく片目だけなら伊達政宗とか柳生十兵衛とか、この時代なら鎌倉景正とか勇猛な武士はかなりいるから
これだけで反逆する意志が無いとは言い切れない気もする。
616 :
日本@名無史さん:03/07/05 02:36
>>614-615 貞暁は謀叛の意志がないことを証明するために目をえぐったんじゃなくて、
将軍にならないかと打診されて、引き受ける意志がないことを示すために
目をえぐったんだよ。
異母兄弟の頼家・実朝が、征夷大将軍に就任して悲惨な最期を遂げたこと
を知っているから、何がなんでも将軍にだけはなりたくなかったんだろう。
617 :
日本@名無史さん:03/07/05 03:46
>>611 流された伊豆で打倒平家の地盤を築いたからじゃないの?
618 :
日本@名無史さん:03/07/05 12:59
ここまでして将軍になりたくない意志を示した男も珍しかろう。
まあ「えぐり出した」という表現は多分に誇張が入っていると思うのだが。
619 :
日本@名無史さん:03/07/05 13:03
天皇になりたくなくてハンガーストライキをやった男もいたな。
その名は恒寂入道親王。
620 :
日本@名無史さん:03/07/05 13:20
>>607に補足すると、和田氏にかつがれたのは栄実ね。
>>617 流されただけで、
伊豆に所領があったわけでもないのに
名字として名乗るわけがなかろう。
それに、伊豆では打倒平家の
地盤なんて築いちゃいないし、
そもそもこの時代に頼朝に
妥当平家の意思があったかさえ疑問。
622 :
日本@名無史さん:03/07/05 14:22
623 :
日本@名無史さん:03/07/06 00:38
鎌倉源氏初代
伊豆頼朝
624 :
源氏勢揃い:03/07/06 00:42
鎌倉義平
新宮行家
志田義弘
多田行綱
伊豆頼朝
鞍馬義経
武田信義
木曾義仲
>>623 >>624 分かりやすい摂津源氏厨だな。
少しは工夫しなよ。
何のことだか分かるよね?
根拠のない妄言はウザいだけなので、
こっちまで出張らないでね?
626 :
日本@名無史さん:03/07/06 00:57
貞暁が自ら目をえぐったという史料は何?ソ−スは?
>>626 『続真言宗全書』第三十三に収録されている
「傳燈廣録」。
>625
勝手に摂津源氏厨にしてやるなよ。
それともアンチ摂津源氏のおまえには、気に入らんものはみんな摂津源氏厨にするのかW
>625
アンチ摂津源氏って何?
630 :
日本@名無史さん:03/07/06 10:27
631 :
日本@名無史さん:03/07/07 07:45
>629
日本史を歪めるやつ
633 :
日本@名無史さん:03/07/07 15:20
仮に摂津源氏厨だったとして何か問題あるのか?
ま、微妙にスレ違いにはなるが
635 :
日本@名無史さん:03/07/07 16:40
>>633 微妙ではなく多大にスレ違い。
かつ源氏関連スレを荒らしまわってる様に見受けられるので、
摂津源氏厨は御引取り願いたい。
636 :
日本@名無史さん:03/07/07 22:55
源氏とか平氏は、清和、村上、桓武を戴き、天皇の子孫であることを強調していたところ、「摂津」なんて、田舎の地名を冠した流れが嫡流?
やはり、京の地名をいただかないと。結局は田舎大名。
「摂津」だの「河内」だのは便宜上つけられただけでしょ?
所領が摂津や河内にあったというだけの話で、
普段は京にいたわけだし。
638 :
日本@名無史さん:03/07/08 02:11
>636
じゃあ河内源氏(源頼朝の先祖)も、田舎の地名を冠しているから「結局は田舎大名」だね。
しかし、源平時代に「大名」とは、(プ
639 :
日本@名無史さん:03/07/08 02:14
>637
便宜上つけられたのではなくて本拠地。
摂津源氏は、摂津国多田で武士団を構えていた。
河内源氏は、河内国石川で武士団を構えていた。
京都は、首都にある事務所みたいなもの。
>>639 だからさー。
頼光流も頼義流も、
基本的には京都を活躍の場とした
武門貴族でしょ?
641 :
日本@名無史さん :03/07/08 16:52
信濃源氏、尾張源氏はこの頃何してたの?指を加えて平家を見てたの?
642 :
日本@名無史さん:03/07/08 20:19
>641
指を1本増やして平家を見てますた
>>641 チムポくわえてエロビデオ見てますた
644 :
日本@名無史さん:03/07/08 20:27
ここも途中までは面白かったのに、すっかり糞スレ化しちゃったね
645 :
日本@名無史さん:03/07/08 21:00
>>638 田舎武士じゃかわいそうだろう。
少しは哀れみぐらいもて。
646 :
日本@名無史さん:03/07/08 21:03
>>637 普段京にいたのなら、京で住んでいたところで識別される。
一条とか二条とか。
あの宇多源氏の佐々木流も、京極、六角となったし、
鎌倉北条氏の庶家も、赤橋、大仏とか、鎌倉の地名を称していたし。
>>646 例えば源為義は「六条判官」と呼ばれている。
平安時代だったら、公卿ならともかく、
大夫層の清和源氏では
同時代史料では大体官職+名前で書かれているでしょ。
頼光が京の一条に屋敷を構えていたことは
鮎沢寿氏によって明らかにされているわけだが、
頼光が「一条頼光」と称されたという史料があるかい?
北条氏は地方に住んでいた一族は別として、
居住地で呼ばれることはあっても、
それを家名とはしていないよ。
北条庶家が家名をもって呼ばれるようになったのは
南北朝時代以降。
648 :
日本@名無史さん:03/07/08 21:38
一族が乱立してくると、区別するために、藤原なら、近衛、九条とか言うようになった。
摂津源氏もおそらくは頼信の系統が発展してきたので、それと区別するためにおそらく使い出したのだろうな。
多分、頼信の系統とは区別するために頼光の系統に摂津が使用され、一方、頼信の系統は本流と思われ、特に河内は使用されなかったのだろう。
糖尿病じゃなかった?
飲水病でつ
>648
頼光の系統に摂津が使用され、頼信の系統は河内は使用されなかった?
おいおい、頼信の系統も河内が使用されているよ。
頼光流は公家に接近ししたため武家のイメージが希薄で、それに対して頼信流は関東に進出し武家のリーダーになるが、
そういうイメージと、源氏の系譜とは関係がない。
源氏の嫡流(本流)は、公家化した摂津源氏であり、河内源氏は武家の棟梁で、武門源氏を代表するが、系譜上は源氏庶流(分流)。
652 :
日本@名無史さん:03/07/09 03:01
話が少し戻るけど「嫡流」ってなに?
・「本領」を継いだ家?
・財産のほとんどを継いだ家?(たとえば「本領」以外の全部を継いだとか)
653 :
日本@名無史さん:03/07/09 03:10
いまだに頼朝っていうとあの肖像が紹介されるよね。
>>652 辞書をみれ,それが一番正確w
冗談はさておき、
嫡流云々については、11世紀ころから成立した「イエ」制度とか、
それにともなう家格とか、官司請負制とか、永代の職とか遷代の職とか、
分家でも家格を獲得すれば、あらたな「イエ」の嫡流となるとか、
いろいろこみいった事情を、本来は説明せねばならんのだが、
あえて四捨五入して説明すると、
「嫡流」とは、その「イエ」相承の永代職を
「現在(中世のある時点)」
相承している「当主」の直系の先祖たち、といったところだろうか。
(不足があれば誰か補完よろ)
14世紀初頭の王家を例にひくと、
承久3年(1221)年4月の時点の嫡流は
当代(仲恭)−順徳院−後鳥羽院−高倉院。
同年7月時点での嫡流は、
当代(後堀河)−後高倉院−高倉院。
となる。
ここでのポイントは、
「当主」の交代によって嫡流は移動する、という点と、
(「嫡流」が移動しうるからこそ、「嫡流争い」が成立するんでつけどね)
「当主の直系尊属」であることが「職の相承」より
優先されるという点(即位していない後高倉も嫡流とされる)かな。
じゃぁ、今日、源氏の棟梁が残っていれば、その先祖が嫡流となるわけですか。
>>655 あなたが「棟梁」をどう定義するのかは知らないが、
どう定義しても、「源氏の棟梁」なるものは現在残っていないと思われるし、
その先祖も定義しようがないと思うのだが?
それから、654での定義はあくまでも「中世」での嫡流観念なので、
他の時代に敷衍できる可能性は否定しないが、
現代にあてはめるのはちと無理があると思うぞ。
どうも正直な連中が多いな。
「源氏の棟梁が残っていれば」の裏に
「源氏の棟梁なんて残っていないんだろうが」が含まれていることくらい、
何故気付かないのかね。
658 :
日本@名無史さん:03/07/09 20:10
「源氏の棟梁」ってのが何を指すかはよくわからないけど、
源氏の氏長者なら、最後に任命(?)されたのは徳川だよね?w
もう嫡流云々の話は結構です。
他でやってくだされ。
義務教育のまっただ中にいた頃の俺は
ナムコの源平闘魔伝で頼朝が敵になっているのに驚いた。
何となく源氏の方が平家よりイメージ良くない?
>>638 鎌倉時代にも大名て表現はあったよ(プ
>>651 経基自体は軍事貴族だから性格的には河内源氏のほうが家芸を継いでるね
>>660 なんか悪役臭いしかび臭い
663 :
日本@名無史さん:03/07/10 02:41
嫡流とは本領を継いだかどうか。
で
本領とは地盤・住居のあったところ。
664 :
日本@名無史さん:03/07/10 07:15
>663
じゃあ、多田満仲(源満仲)が、源氏武士団を形成した地である摂津国多田を継承した系統が嫡流になるよ。
つまり、摂津源氏の源頼光の系統。
頼光流は、後に源頼政の系統と多田行綱(源行綱)の系統に分れ、どちらが清和源氏・摂津源氏の嫡流なのか論議はあるが。
665 :
日本@名無史さん:03/07/10 11:22
嫡流ネタ飽きた
666 :
日本@名無史さん:03/07/10 19:25
>665
根気がないね。
根気がないと歴史なんてまともに出来ないよ。古文書なんて根気がないと読めないから。
667 :
日本@名無史さん:03/07/10 19:26
まともに歴史をやってる人は嫡流がどうの庶流がどうのなんてつまらんことで議論したりしません
668 :
日本@名無史さん:03/07/10 20:27
>>667 その通り。
いわゆる「摂津」系と「河内」系が清和源氏嫡流の座をめぐって争ったりしたことなぞ無い。
当事者同士でさえやっていない(気にもしていない)ものを、なんで今になって、どっちが嫡流だのと議論しなきゃならんのだ。
そんなものにこだわっている奴はアホか病気。
669 :
日本@名無史さん:03/07/10 20:52
結局、本流を継げなかったため、頼信は関東に出て行ったわけね。
結果的にはそれが大正解だった。
頼光系は嫡流を継いだものの、結局は歴史の闇に消えた。
670 :
日本@名無史さん:03/07/11 03:39
>669
そういうこと。
河内源氏は源氏傍流だったため関東へ行き、実力で勢力を伸ばし、
源氏嫡流の摂津源氏をはるかに凌ぐ武門源氏の棟梁となった。
671 :
日本@名無史さん:03/07/11 08:21
なるほど
嫡流だった摂津源氏は、一族の河内源氏が東国で飛躍して実力をつけて嫡流になったため、
マイナーな存在になってしまったわけか。
672 :
日本@名無史さん:03/07/11 17:12
>671
少し違う。
「・・・実力をつけて嫡流になったため」ではない。
河内源氏は、武門源氏の「棟梁」にはなったが、源氏の「嫡流」になったのではない。
河内源氏は、清和源氏の中の武門源氏の棟梁ではあるが、清和源氏の系譜においては傍流。傍流だから東国へ進出した。
673 :
日本@名無史さん:03/07/11 17:18
嫡流というのは、実力で決まるのではない。
例えば源義朝の系統の嫡流は頼朝だが、実力なら義平だろう。
つまり、比ゆ的に言えば、義平は河内源氏的(実力派)であり、頼朝は摂津源氏的(正統的)ということ。
正統的であることの根拠は、親つまり義朝による嫡子指定。
レベルの低い嫡流論争は他でやれ。
675 :
日本@名無史さん:03/07/11 21:35
>>672 意味不明。なんで傍流だったからって東国いかにゃならんのだ?
676 :
日本@名無史さん:03/07/11 22:02
677 :
日本@名無史さん:03/07/11 22:05
別段、嫡流になったところで、一門の得にもならん。
欲しければ、くれてやる
678 :
日本@名無史さん:03/07/11 23:29
>675
都の利権はみんな嫡流が握っているから、傍流は別天地を求めて地方の東国へ行ったのよ。
都では傍流でも、地方へ行けば、源氏というえば貴種として通用するからね。
>678
ソースきぼんぬ。
じゃあ、都で武官となっていた清和源氏の一族は
どう解釈するわけ?
頼信にしてもその子孫にしても、
京で活躍した人物は多いわけだが、
どう説明するんだ?
680 :
日本@名無史さん:03/07/12 00:11
>>679 桓武平氏の流れは土着したし、源氏も武田とか平賀とかは甲斐・信州に土着した。
出世するには武勲を立てねばならない。頼信になぜ平忠常討伐の役が回ってきたか知らないが、それを足がかりに坂東に勢力を築けた。
なぜ、頼光ではなかったのか。
さて、関東に土着した武士が頼信の系統を主に頂いたかというと、おそらくは都とのコネを期待したのと思う。
土地の守護は武力だけではなく、公的な保証もあったほうがいい。都で武官となることは関東での支配権を維持する上でも重要であったと思う。
681 :
日本@名無史さん:03/07/12 00:14
嫡流であることはあまり意味ないね。
平家討伐のときも、以仁王の令旨をもって全国の源氏の決起を呼びかけた。
清和源氏嫡流の頼政には源氏を指揮することはできなかったんだね。
682 :
日本@名無史さん:03/07/12 00:56
>>680 本気でそんなこと言ってるのか?
武勲を上げなければ出世できない?
馬鹿も休み休み言え。
お前は任官叙位の仕組みを知ってるのか?
そもそも武門貴族のなんたるかを理解していないだろ?
683 :
日本@名無史さん:03/07/12 01:09
レベルの低い嫡流論争は三戦板か時代劇板でやれ。
>>680 出世するには付け届け
国府焼討ちの平維良なんかこれで鎮守府将軍に重任
武官で関東の支配権云々てのがよくわからない
685 :
日本@名無史さん:03/07/12 02:28
摂津源氏だって土着してるから摂津がつくんだろ?
686 :
日本@名無史さん:03/07/12 02:42
ちなみに忠常の乱当時には、すでに頼光は氏んでますな。
687 :
日本@名無史さん:03/07/12 06:43
嫡流か傍流かはしょせん結果論。
一番栄えた家が嫡流。あとは傍流。
結局、義家−為義−義朝−頼朝の家系(鎌倉家)が清和源氏の嫡流。
688 :
日本@名無史さん:03/07/12 07:24
そろそろ頼朝の話に戻らない?
689 :
日本@名無史さん:03/07/12 07:43
>>682 武門貴族?
所詮サムライ、貴族の犬なんだろう?
そうそう簡単に出世なんぞできんよ。
>>684 付け届け?
その金、どこから手に入れる?
実入りのいい国の国司とか受領にならないと無理だろう?
武士がそれになるために何をする。
戦争するしかないだろう。それしか能がないのだから。
690 :
日本@名無史さん:03/07/12 07:45
>>686 つまり、平忠常の乱のときは、摂津源氏の嫡流はお呼びではなかったわけね。
691 :
日本@名無史さん:03/07/12 07:51
>>689 本気でそんなこと言ってるのか?
武勲を上げなければ出世できない?
馬鹿も休み休み言え。
お前は任官叙位の仕組みを知ってるのか?
692 :
日本@名無史さん:03/07/12 07:55
>>691 源氏なんて、所詮公卿ではなかったのでしょう。
693 :
日本@名無史さん:03/07/12 07:57
>>692 あたりまえだ。清和源氏で最初に公卿になったのは源頼政、2番目が頼朝だろ。
694 :
日本@名無史さん:03/07/12 08:04
>>693 そんなんじゃ、嫡流だなんだといっても、無意味だわな。
695 :
日本@名無史さん:03/07/12 08:34
嫡流かどうかと公家かどうかは関係無い。
696 :
日本@名無史さん:03/07/12 08:37
おまいら「公家」と「公卿」がごっちゃになってないか
697 :
日本@名無史さん:03/07/12 08:50
>>689 武門貴族と言う言葉が気に入らないなら、
中央で摂関家・院などの家司を務めた中・下級貴族で、
武士としての側面を持ち合わせたイエと言い換えてもいい。
清和源氏や桓武平氏の棟梁級武士は
下級武官を歴任しながら受領に至る、
諸大夫層(四位・五位)に位置づけられる。
院に仕えたりして出世することを年功と言い、
朝廷への献金・造営などに貢献して
出世することを成功と言う。
>>689が言ってるのは成功のことだろうが、
成功だけが出世の道ではないし
(近道ではあっても)、
院政期頃の日記を見れば、
当時の武門貴族のポジションが良く分かるはず。
侍というのは、本来は公卿級貴族に仕える
五位・六位の下級貴族のことを指す言葉。
武士の大半がこの層であったことから
同一視されるようになった。
698 :
日本@名無史さん:03/07/12 08:54
>685
摂津源氏の摂津とか、河内源氏の河内は、系統の呼称であり、土着とは違う。
土着した摂津源氏の系統は、本拠地の地名の多田にちなんで、多田源氏、多田氏という。
土着した河内源氏の系統は、本拠地の地名の石川にちなんで、石川源氏、石川氏という。
699 :
日本@名無史さん:03/07/12 08:57
多田源氏で有名なのが多田蔵人源行綱
石川源氏で『平家物語』に登場するのが石川判官代源義興
700 :
日本@名無史さん:03/07/12 09:02
古代氏族でいえば、
摂津源氏は、大伴氏のようなもの。警察的武力と皇室守護。
河内源氏は、物部氏のようなもの。軍隊的武力と戦闘行為。
>>700 分かってないなぁ。
誰がそんなこと言ってるんだよ。
前者は検非違使の仕事そのままじゃん。
702 :
日本@名無史さん:03/07/12 09:11
703 :
日本@名無史さん:03/07/12 09:16
摂津源氏の家職は、大内守護で、滝口(皇室親衛隊)のリーダー。
704 :
日本@名無史さん:03/07/12 09:24
>>703 だから、頼信は関東に行く、というか、武功で身を立てるしかなかったのだな。
705 :
日本@名無史さん:03/07/12 09:26
貴族にとり血はタブー、忌み嫌われる。
人殺しを生業とする武士は、彼らから見れば所詮賤民に過ぎない。
707 :
日本@名無史さん:03/07/12 09:34
>>607 じゃ、どうして平忠常の乱の討伐を引き受けたんだ?
708 :
日本@名無史さん:03/07/12 09:35
>>706 あんたもちゃんと読んでね。
武功による出世は否定されてないよ。
709 :
日本@名無史さん:03/07/12 09:51
みなさん、源頼朝が死んだ理由を教えてください。
>>708 いや、
武功で身を立てる「しか」なかった、
という部分。
そもそも頼信は自ら進んで追討使になったのか?
711 :
日本@名無史さん:03/07/12 09:55
>709
確かに落馬って穿ちたくなるけれど
寿命といっても差し支えない歳だし
深読みしなくても良いと俺は思う。
713 :
日本@名無史さん:03/07/12 10:36
それにしても嫡流論議が始まるとスレが伸びるね。
714 :
日本@名無史さん:03/07/12 11:01
歴史の初心者たちがスレ違いの嫡流論争を繰り広げているスレはここですか?
715 :
日本@名無史さん:03/07/12 11:05
1028年(長元1)房総の地に平忠常の乱が起こり,当初検非違使平直方,
中原成道が追討使として派遣されたが実があがらず,30年9月に召還され,
代わって甲斐守頼信(62歳)と坂東諸国司が追討を命ぜられた。
反乱長期化の中で房総地域は荒廃し,忠常側に疲弊の色が濃くなっていた
事情もあって,頼信が房総に進攻すると翌31年4月忠常は出家して降伏を
申し出た。
戦闘を経ずに反乱を鎮圧したことは,結果的に頼信の武名を高めること
となり,東国に源氏の勢力を扶植する契機となった。
以後源氏の中では三男ながら頼信の系統が〈武の家〉としての地位を
確立することとなる。
晩年河内守に任ぜられてそこを本拠とし,以後この系統は河内源氏と呼ばれた。
石清水(いわしみず)八幡宮に願文(がんもん)を納め,八幡神を源氏の氏神
として崇拝した。
716 :
日本@名無史さん:03/07/12 11:09
>>698 >摂津源氏の摂津とか、河内源氏の河内は、系統の呼称であり、土着とは違う。
>土着した摂津源氏の系統は、本拠地の地名の多田にちなんで、多田源氏、多田氏という。
>土着した河内源氏の系統は、本拠地の地名の石川にちなんで、石川源氏、石川氏という。
多田源氏とか石川源氏とかどうでもいいけど、それぞれ摂津や河内に土着したからだろ。
土着した清和源氏の系統は、本拠地の国名の摂津にちなんで、摂津源氏という。
土着した清和源氏の系統は、本拠地の国名の河内にちなんで、河内源氏という。
717 :
日本@名無史さん:03/07/12 11:10
鎌倉は、源氏将軍の中枢の都市だが、もともとは開発者の北条氏の物。
と言う考えが、中世の人にはあったらしい。
徳政令のもととなる、「もとにもどる」という意識かな?
そこら辺で、北条支配が受け入れられた一要因でもあったらしい。
源氏より、利益代弁者としては適格だったのかな?
718 :
日本@名無史さん:03/07/12 11:20
>717
>開発者の北条氏
どこが?
719 :
日本@名無史さん:03/07/12 11:27
平直方の子孫だから。
720 :
日本@名無史さん:03/07/12 11:35
>719
なんでそうなるの?
そもそも直方の子孫も疑わしい。
721 :
日本@名無史さん:03/07/12 11:44
>>720 君にとり疑わしいかどうかではない。
当時の鎌倉武士にどう受け入れられるかだ。
722 :
日本@名無史さん:03/07/12 12:43
>716
河内源氏も摂津源氏も土着してないが。
所領を持ったり、本拠地にすることと土着はまた別のこと。
>>716 「土着」と「留住」の違いも知らんで、よく11〜12世紀の
武士論議が出来るもんだな。
やはり日本史板はレベルが・・・。
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ★★摂津源氏厨は放置が一番キライ!★★
|| 〜 摂津源氏厨は常に誰かの反応を待っています 〜
||
|| ●重複スレには誘導リンクを貼って放置!
|| ウザイと思ったらそのまま放置!
||
|| ▲放置された摂津源氏厨は煽りや自作自演であなたのレスを誘います!
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け!
||
|| ■反撃は摂津源氏厨の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです
|| 荒らしにエサを与えないで下さい
||
|| ☆枯死するまで孤独に暴れさせておいて
|| ゴミが溜まったら削除が一番です 。 Λ_Λ
|| \ (゚ー゚*) キホン。
||________________ ⊂⊂ |
∧ ∧ ∧ ∧ ∧ ∧ | ̄ ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧ ( ∧ ∧ ( ∧ ∧ | |
〜(_( ∧ ∧ __( ∧ ∧__( ∧ ∧ ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_( ∧ ∧_( ∧ ∧ は〜い、先生。
〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)
〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
725 :
日本@名無史さん:03/07/12 21:56
嫡流なんて後世の意識だとすると、河内源氏が源氏の嫡流だとか、
源頼朝が嫡流ということもありえないわけだ。
つまり、源氏や平氏については、嫡流なるものは存在しないということになる。
反面教師として摂津源氏厨を見るならば、
河内源氏や源頼朝を源氏嫡流と見ていた従来までの通俗的な源氏観を覆す否定的媒体だったということか。
少なくともその程度には摂津源氏厨にも功績はあり、河内源氏嫡流説の者たちよりもはるかに功績は大というべきか。
726 :
山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/07/12 22:02
>>718 根拠はさておき、筧雅博先生がそう発言してらっしゃいましたね。
『蒙古襲来と徳政令』の中で。ところで嫡流云々には別スレを立てては?
727 :
日本@名無史さん:03/07/13 05:18
>722
>河内源氏も摂津源氏も土着してないが。
>所領を持ったり、本拠地にすることと土着はまた別のこと。
本拠地にする=土着する
ですよ
728 :
日本@名無史さん:03/07/13 18:38
>727
違うよ。
本拠地にすることと、土着はまた別。
729 :
日本@名無史さん:03/07/13 20:40
足利より新田の方がもともと家格は上になるはずだったんだよねぇ
結局、そのとき力をもっているか否かで決まるんでしょ
>>729 は?最初から足利の方が家格は上だよ。
義家の三男義国の都の武者の地位と
本領足利荘を受け継いだのは
足利氏祖の義康。
新田始祖義重は、義国が後年開発した
新田荘を受け継いだ。
義重も都で活動しているが、
出世は弟の義康よりも遙かに遅かった。
731 :
日本@名無史さん:03/07/13 22:20
>>730 あながち>729のいうことも間違いではないっしょ。
確かに足利義康は父の本領をついだけど、まもなく若くして死んでしまい、
平家全盛時代の足利荘は藤姓足利氏が管理していたから
その間源姓足利氏は新田氏よりも羽振りが悪かった。
足利の家格が上がるのは、結局義兼の代になって頼朝に引き立てられてからの話。
そういや足利義兼は頼朝の母方の従兄弟だったね。
>>727 繰り返していうが、
「留住」という史学上の用語の意味を調べてごらん。
古い教科書だと載ってないけど。
>>731 確かに吾妻鏡には小松内府が
足利荘の領主職を足利俊綱から取り上げて
新田義重に与えた、とあるけど、
八条院領足利荘は八条院別当が
池大納言頼盛とはいえ、
平家一門が好きに出来るものではないでしょ。
この場合、足利荘の領主職というのは
藤姓足利氏が管理していたとされる
国衙領を指すと見た方が良いんじゃないかな。
スレ違いかな?
>733
いや、頼朝の生きていた時代の話だし、満更関係無い話でもないしでいいんじゃないかな?
源氏嫡流が河内だの摂津だのというのより、よっぽど面白いしねw
735 :
日本@名無史さん :03/07/14 12:50
源経基5男の満快の曾孫・伊那為公の妻は(河内)源氏惣領・源頼信の娘だね。
その子供六人から多くの家が興ったね。源満快流信濃源氏もよろしく。
中津乗、伊那、村上、依田、片切(桐)、堤氏他。
736 :
:日本@名無史さん:03/07/14 13:42
ワタシは清和源氏の末裔ですが、いまだに征夷大将軍の宣旨が来ません。
どうしてですか?
737 :
日本@名無史さん:03/07/14 18:21
>736
傍流の末裔ですか? W
738 :
日本@名無史さん:03/07/14 21:32
>>736 大日本帝国憲法の公布により、征夷大将軍は廃止されました。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
740 :
日本@名無史さん:03/07/16 04:06
>>705 >貴族にとり血はタブー、忌み嫌われる。
>人殺しを生業とする武士は、彼らから見れば所詮賤民に過ぎない。
ではあるが戦国期には公家も戦っている・・・
っていうか公家さえも武士化する・・・
それと江戸期になると将軍家でさえ血はタブー、忌み嫌われている。
日本人の特色だな・・・
741 :
日本@名無史さん:03/07/16 09:30
歴史初心者ですが、頼朝って何でメシ食ってたんでしょう。
頼朝がどこそこ庄をあたえたとかなんとかの守に推挙した
という文章はよく見るんですが、頼朝自身の領地ってどのくらい
あったんでしょうか。江戸時代の天領って言葉も鎌倉時代
見かけないんですけど。
>>741 鎌倉幕府の財政については、現在も解明されていない部分が多いのです。
御家人役など史料はあるのですが、断片的にしか残っていませんし、
朝廷への献金を御家人に割り当てた史料は、比較的多く残っているのですが、
それは幕府財政の一部にすぎません。
で、そういう研究状況を前提として、推測を交えて書きますと、
頼朝(鎌倉殿)のもつ数カ国の知行国が収入源のひとつであることは
まちがいないと思われます。(国・数は時期によって変動)
知行国とは、国司の任命権をもっている国のことです。任命権者は知行国主と
よばれ、子弟や家司を名目上の国司に任命し国の収益を獲得できるのです。
基本的には、頼朝の収入構造も、京都の公卿層や寺社と同じと考えられますが、
既述のように分かっている点は少ないので、反論もあろうか、と思われます。
743 :
:日本@名無史さん:03/07/16 12:09
そうか、不明確なことが多かったんだ。
むかし、日本史の参考書に頼朝の知行国として関八州に伊豆・甲斐・駿河あたりが
与えられ、平家滅亡後、平家没官領も与えられたと書いてあったので、信じていたよ。
744 :
日本@名無史さん:03/07/16 13:54
>>742 知行国ですか。この時代本所・預所・地頭職など「この土地は
誰のものか」といったことが素人にはわかりにくく、「知行」
という単語を本で見ても素どおりしてしまったようです。
「国司」にしても、和田義盛が望んだ際「御家人は国司に任じない」
という頼朝の例を知るのみで「国司とはなんぞや」と思ったもんです。
頼朝個人の経済力としては知行国からのあがりでそこそこの金持ち、
公共事業としては御家人に振り分けたり、勧進を頼んだりといった
ところでしょうかな。
745 :
日本@名無史さん:03/07/18 10:44
伊豆の国守は、摂津源氏の源頼政の一族ですね。
746 :
日本@名無史さん:03/07/19 05:48
ところで義朝って、なんで身分の低い女ばかりに手を出したんだろうね?
有力氏族との血縁関係がいかに重要であるかは彼だってよくわかっていただろうに
たくさんいる子供の中で、貴種といえるのは頼朝だけ。
あとの兄弟全員母親の身分が低いというのは‥‥後世の作為かな?
(まぁ、義平の母は一応、三浦の娘説もあるけど)
>746
身分の低い男を身分の高い女は相手にしませんが、何か?
>>746 義朝の次男、朝長の母は波多野義通の妹。
波多野氏は藤原秀郷流の軍事貴族で、
五位までは上れる血筋だから、
熱田大宮司家におさおさ見劣りせず、
義朝本人とも同等もしくは上のクラスの娘。
朝長本人も二条天皇中宮の中宮進(五位相当)になってる。
結論:母親の身分では、朝長と頼朝は大差ない。
750 :
日本@名無史さん:03/07/19 18:08
頼朝が少年だった頃
後白河天皇に掘られましたが、何か?
751 :
日本@名無史さん:03/07/19 19:58
義平が生きていたら、義朝の後継者はどっちになったんだ?
752 :
日本@名無史さん:03/07/19 20:40
>>751 頼朝かな。
よしひらは乱暴者で公家には嫌われそうだし、兄弟けんかでもしてくれた日には、源氏の勢力も削げるしね。
753 :
日本@名無史さん:03/07/19 21:53
>>752 義平は公家たちの度を越えた男色がらみが嫌いで嫌われたんだよ。
754 :
日本@名無史さん:03/07/20 00:29
義平が乱暴者という横顔は、鎌倉時代に作られた源氏のイメージ、つまり頼朝にとって
都合のいい源氏像の産物だろう。
755 :
日本@名無史さん:03/07/20 01:03
>>751,752
>749を無視してはいかんよ。朝長も立派な後継者候補
756 :
日本@名無史さん:03/07/21 22:43
義平も朝長も死んだか、わからないな。
どのみち親父の義朝はほとんど河内には地盤を持っていなかったようだ。
為義と仲が悪く、早くから関東に行っててそこに地盤を築いていたようだ。
それゆえ、緊急に兵力が必要なときに近場の河内は当てにならず、東国は遠すぎて間に合わず、平治の乱では、清盛に負けてしまったのでは?
757 :
日本@名無史さん:03/07/22 03:08
>756
河内源氏の本拠地の河内は、義家六男の義時の石川源氏が継ぎ、
京都の河内源氏の拠点は、為義が握り、
義朝は関東を地盤にするしかなかった。
原軍との、戦いはどうだったの。
759 :
日本@名無史さん:03/07/23 13:52
検非違使という官職のために
京都を離れられない為義が、
代官として義朝を関東に派遣していた
という説もあるが?
760 :
日本@名無史さん:03/07/23 16:33
伊豆源三頼朝
761 :
日本@名無史さん:03/07/23 18:31
渡辺居候頼政
762 :
日本@名無史さん:03/07/24 13:04
>761
渡辺源太頼政だろう。
もし居候というなら頼朝
伊豆流人頼朝
になる。
そのぐらい語彙の統一くらいしろよ。知恵足らずがバレるよ。
763 :
天皇研究家:03/07/24 13:39
タイトル“万世一系”の天皇制なんて明治からの作り物
英国みたいに王朝で歴史を正確に論ずべし
天智・天武より始まる第一王朝 南朝の後亀山天皇まで
後小松天皇より始まる第二王朝 江戸時代の後花園天皇まで
光格天皇より始まる第三王朝 現在にまで続く
天皇の名称は天智天武からで文献的にも学会でそう認められている
それまでは大王(オオキミ)の時代で
継体朝
その前は応神朝
その前は神武朝とでも言うべき?の世界
以上スレッド作成がプロキシに引っかかって出来ないのでココに貼っておく
764 :
日本@名無史さん:03/07/24 13:54
>>762 頭に血の上った摂津源氏厨が釣られますた(w
摂津源氏厨カコワルイ( ´,_ゝ`)プッ
766 :
日本@名無史さん:03/07/24 17:28
まだやってるのか
767 :
日本@名無史さん:03/07/24 17:43
伊豆源三頼朝
768 :
日本@名無史さん:03/07/25 01:59
北条頼朝
770 :
日本@名無史さん:03/07/25 12:07
>768
アフォ。
伊豆源三頼朝は、分らなくも無いが北条頼朝はないだろう。
悪戯書きする前に歴史を勉強しろ。
悪戯だからありもしないことなんじゃないか?
君は歴史をよく知っているようだが、人間の性質をもう少し学んだ方が良さそうだな。
772 :
日本@名無史さん:03/07/26 00:23
>771
君は自分の無知ぶりを、人間の性質に通じているという装いでゴマかす手合いのようだね。
もう少し、まともになった方が良いと思うがW
773 :
日本@名無史さん:03/07/26 03:25
北条三郎頼朝
渡辺居候頼政
775 :
多田蔵人行綱:03/07/26 20:48
伊豆の流人頼朝は、源氏の傍流
776 :
日本@名無史さん:03/07/26 21:15
源三郎兵衛頼朝
777 :
日本@名無史さん:03/07/26 21:58
多田無宿人行綱
楽しい?
779 :
日本@名無史さん:03/07/27 01:11
楽しいよ
780 :
日本@名無史さん:03/07/27 03:41
773,774,776,777
↑
バカが釣られて調子に乗っているW
自分が釣られていることも分らないらしいWW
781 :
日本@名無史さん:03/07/27 05:25
頼朝はロトの子孫で、永久アストロンを使ったんだよ
782 :
日本@名無史さん:03/07/27 09:00
蛭小島頼朝
783 :
日本@名無史さん:03/07/27 10:17
熱田頼朝
784 :
日本@名無史さん:03/07/27 10:21
鎌倉頼朝
785 :
日本@名無史さん:03/07/27 10:27
北條頼朝
786 :
日本@名無史さん:03/07/27 10:40
頼朝に何でもいいから苗字をなすりつける厨房が集うスレはここですか?
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788 :
日本@名無史さん:03/07/27 10:43
782,783,784,785
↑
バカが釣られて登場W
789 :
日本@名無史さん:03/07/27 10:44
北條頼朝
790 :
日本@名無史さん:03/07/27 10:47
まだやってるのか
伊 豆 源 三 頼 朝 だ よ
791 :
日本@名無史さん:03/07/27 10:48
志田三郎先生義広って、何であんなに頑迷に頼朝に抵抗したのかな?
義朝と相当仲悪かったか、自分が源氏の氏長者と勘違いしていたか、どっちかな?
792 :
日本@名無史さん:03/07/27 10:51
>>788 自分が釣られてることに気付かないバカはけーん
793 :
日本@名無史さん:03/07/27 10:52
伊豆三郎頼朝
794 :
日本@名無史さん:03/07/27 10:53
795 :
日本@名無史さん:03/07/27 10:58
鎌倉三郎頼朝
平泉九郎義顕
796 :
日本@名無史さん:03/07/27 11:32
>791
義広は頼朝の伯父だから、頼朝の保護者のような意識があったのだと思う。
義広に限らず、新田義重も頼朝の傘下には入らず、頼朝より自分の方が上だと思っていたらしい。常陸源氏の佐竹氏も同じ。
797 :
日本@名無史さん:03/07/27 11:33
>792
後からそんなこと言ったってねぇ。バカであるお前のただの負け惜しみじゃんW
798 :
日本@名無史さん:03/07/27 11:37
頼朝が蜂起した時の源氏
足利氏
新田氏
佐竹氏(常陸源氏)
武田氏(甲斐源氏)
木曾氏(信濃源氏)
土岐氏(美濃源氏)
多田氏(摂津多田源氏)
石川氏(河内石川源氏)
799 :
日本@名無史さん:03/07/27 13:21
800 :
日本@名無史さん:03/07/27 13:48
801 :
日本@名無史さん:03/07/27 13:50
1へ
ノン、ノン、それはいけません。
名探偵 ポアロ
802 :
日本@名無史さん:03/07/27 14:57
>>791 >>796 でもさ、今だから新田義重とか志田義広を「頑迷」だと思えるけど、
当時としちゃ無理もなかったんじゃない?
曲がりなりにも20年間も一介の流人だった男(それも実績ほぼゼロ)と、
その間ずっと地域に根付いて勢力を扶植してきた自分とでは
自分の方が上だと思うのは当り前のような気がするが。
803 :
日本@名無史さん:03/07/27 15:25
>>802 それもそうだな。義広は義広なりに精一杯守ってきたモノがあったんだな。
804 :
日本@名無史さん:03/07/28 14:15
それに義朝の一族は壊滅したから、河内源氏は四散したに等しく、
頼朝が義朝の嫡子だったとしても、あまり意味もなくなっていたと思われる。
雌伏している各地の源氏にとって、誰が指導権を握るかはバトルロイヤル状態だったのでは。
つまり、頼朝が源氏のリーダーだったという位置づけは、鎌倉幕府になってから作られた歴史解釈にすぎず、
実際は、諸源氏には優劣はなかったものと思われる。
805 :
日本@名無史さん:03/07/29 01:34
>>804 木曾義仲にしても武田信義など甲斐源氏にしても、
頼朝の命令で挙兵したつもりなんか毛頭無く、
名分の上ではあくまで以仁王の令旨で決起したわけだから、
頼朝とは対等だという意識(あるいはそれ以上という意識)は当然あったろう。
だから尚更、頼朝としては、源氏の中では自分がNo.1であるかを世に強く示す必要があったと思う。
挙兵の翌年(1181年)には平家にひそかに和議まで申し入れているくらい、まずは
源氏内部での覇権確立に躍起となっていた。
806 :
日本@名無史さん:03/07/29 01:50
>>805 >源氏内部での覇権確立に躍起となっていた。
というより、反平家勢力内でのイニシアティブ確立を望んでの行動だろう。
結果として同じ事じゃないのか?
808 :
日本@名無史さん:03/07/29 02:28
>>807 頼朝を擁立していた勢力は関東平氏だろうに。
>806
いや、源氏内部での覇権確立の方が正解。
頼朝が、対平家戦の初期段階で、鎌倉の背後の常陸源氏の佐竹氏と戦っているのはその端的な例。
810 :
日本@名無史さん:03/07/29 03:22
頼家と実朝はなんで殺されたの?
811 :
日本@名無史さん : :03/07/29 03:28
義経軍は少数精鋭だったけれど、
多田行綱率いる多田源氏は、義経軍の兵力だったんだね。
意外。
812 :
日本@名無史さん : :03/07/29 03:30
>811
義経と対立した頼朝は、義経と多田源氏を切り離すため、
多田行綱の郎党を御家人にし、行綱の所領を没収している。
813 :
日本@名無史さん:03/07/29 04:56
>>809 佐竹討伐は源氏内部の覇権確立のためなどではない。
最寄の有力な平家方であり、頼朝の支持者と敵対関係にあったから攻められた。
814 :
日本@名無史さん:03/07/29 10:11
>>809 将門・忠常の失敗例に鑑み、関東と歴史的由縁の深い源氏の客人を擁立してやっと成功した
板東平氏勢力を中心としての対中央反乱。「源平の争乱」みたいな安易な視点では捉えるべき
ではない。
815 :
日本@名無史さん:03/07/29 17:02
816 :
日本@名無史さん:03/07/30 18:20
>>814 結果からそう解釈したくなるのはわからんでもないが、
当時の「坂東平氏勢力」に中央反乱なんて意識がどの程度あったと思う?
また、『平家物語』なんかにも「源平の国争い」とかそういう形容がされているけど、
それが当時の人間の意識だったからではないの?
よーするに、坂東に割拠したかったんだろう。
818 :
日本@名無史さん:03/07/30 21:02
坂東三郎冠者頼朝
819 :
日本@名無史さん : :03/07/31 14:27
>815
多田行綱の所領没収の時の頼朝の代官で多田へ来たのは大内何とかという人物。
↑それ多田の郎党じゃないでしょう。
821 :
日本@名無史さん:03/07/31 23:22
源平頼朝
822 :
日本@名無史さん:03/08/01 00:02
平氏は、二世賜姓だから、一世賜姓の源氏より、格下。
また、二世賜姓だから平姓の尊貴性は低く、
坂東平氏は早くから平姓よりも苗字を名のっている。
伊勢平氏もまた坂東平氏の一つにすぎない。
傍流であったため関東にさしたる地盤もなく伊勢に移った。
平姓のままだが、伊勢平氏は、坂東平氏の中でも傍流の方。
そして清盛の家は、伊勢平氏の中でもさらに傍流。
824 :
日本@名無史さん ::03/08/01 00:13
>820
「頼朝の代官」と書いてあるじゃん。
825 :
日本@名無史さん:03/08/01 00:15
韮崎頼朝
826 :
日本@名無史さん:03/08/01 01:45
>>824 多田の郎党の話をしているんだが。
頼朝の代官なんてどうでもいい。
827 :
日本@名無史さん ::03/08/01 15:24
>826
それはあなたの勝手で、別の者が「頼朝の代官」の話をしてもいいじゃない。
828 :
日本@名無史さん:03/08/01 17:06
伊豆源三頼朝
829 :
日本@名無史さん:03/08/01 21:01
鶴岡八幡三郎頼朝
830 :
日本@名無史さん:03/08/01 21:23
>>827 あなたの勝手!?じゃあなんで
>>815にレスつけてるんだ?
ああ、これが「あなたの勝手」ってやつのお手本なんですね。
なるほど。
815 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 03/07/29 17:02
>>812 その郎党たちの名前分かる?
819 名前: 日本@名無史さん : 投稿日: 03/07/31 14:27
>815
多田行綱の所領没収の時の頼朝の代官で多田へ来たのは大内何とかという人物。
831 :
日本@名無史さん:03/08/01 22:17
頼朝の代官なんてどうでもいい。
多田の郎党の話をしたいだけだ。
勝手のお手本とは失礼だろw!
(^^)
>830
あんたの勝手な誤解。
わたしは、>815にレスした815ではない。
訂正
わたしは、>815にレスした819ではない。
つーか、809=811=819=824=827だろ。バレてるよ。
>835
つーか、あなたの脳内妄想みたいだねW
837 :
日本@名無史さん:03/08/02 11:11
>>835 それはあなたの勝手な誤解です(W
つーか、非論理的な819、824に対してのレスである
>>826に対して
見当はずれなレスをする
>>827が御馬鹿なわけだが。
838 :
日本@名無史さん:03/08/02 11:12
鎌倉源三郎頼朝
839 :
日本@名無史さん:03/08/02 14:08
つーか、代官の話がしたけりゃ勝手にすりゃいいじゃんw
↓では何事もなかったかのように代官の話をどうぞ。
ひえー、お代官たまー
841 :
日本@名無史さん:03/08/03 21:58
ほんとに最初っから嫡男だったの??
義平は??
842 :
日本@名無史さん:03/08/03 22:45
親権者である義朝さんに聞いてみよう。
843 :
日本@名無史さん:03/08/04 17:46
親権者である義朝の意向がどうであれ、あの義平が大人しく頼朝の下に入るとはとても思えんが。
844 :
日本@名無史さん:03/08/04 17:49
内訌は河内源氏のお家芸。歴史は繰り返す。
845 :
日本@名無史さん:03/08/04 23:35
義平には鎌倉で坂東平氏を取りまとめる武士の棟梁に、
朝長・頼朝には摂津源氏を駆逐して在京の宮廷武士になって欲しかった・・・
850年後にそんなこと言われても無理だす。
>845
宮廷武士としてなら河内源氏は摂津源氏には勝てないだろう。
宮廷武士は、歌道に通暁していなければならないから。
摂津源氏には歌道の達人が多い。
848 :
日本@名無史さん:03/08/05 01:02
849 :
日本@名無史さん:03/08/05 01:13
頼朝は連歌が好き。
橋本の君には何か渡すべき(頼朝)
ただ杣皮のくれて過ぎばや(景時)
850 :
日本@名無史さん:03/08/05 01:23
851 :
日本@名無史さん:03/08/05 01:35
>848
歌が出来なければ宮廷武士にはなれないんだよ。
おまえ、粗暴犯予備軍かW
853 :
日本@名無史さん:03/08/05 03:37
854 :
日本@名無史さん:03/08/05 05:06
>>847 イメージだけで語ってないか?
源義家の歌は千載和歌集にも選ばれたし、
実朝だって歌人として名を残してるんだが。
857 :
日本@名無史さん:03/08/05 06:12
摂津と歌で思い出したけど、源頼政について、なんかおもしろい
読み物があるといいなあ。わりに好きなんですがあまり出てこない。
源頼政は、義賢の息子を養子にしてなかったっけ?義賢と
面識があったかもね。花の帯刀先生だったころ。
義仲はこのあたりから、頼政と接触あっても不思議じゃない気がするけど。
(義仲は平氏政権にとっては罪人の子じゃないし。)
義仲が、北陸宮にこだわったりしたことには関係あるかな。
>854
それだけでは、摂津源氏の和歌の名手には及ばない。
源三位頼政は和歌の名手としても有名。
実朝は時代が違うだろう。
>857
源頼政は、義兼の子で、木曾義仲の兄の仲家を養子に迎えています。
頼政は、平治の乱で源氏を裏切ったように書かれていますが、
同じく源氏といっても摂津源氏の頼政と河内源氏の義朝とではもはや別系統。
頼政は、義朝の傘下にあったのではなく、独立した摂津源氏の棟梁として活動したのでしょう。
とはいえ、河内源氏の源義賢の長子を養子にしていますし、子の仲綱でしたか、
源義経に従っています。
位置的には、かなり面白い人物です。
彼を主人公にして、彼の眼から見た源平の姿を描いた小説などあれば面白いかもしれません。
>>858 だからさ、摂津源氏の棟梁とか
河内源氏の棟梁とか馬鹿じゃねぇの?
河内源氏と言われる頼信の系統だって、
義光流や義国流には義朝の統制権は及んでない。
頼政だって、そんなに強力な権限があったのか?
諸流が分裂した平安末期に至っては、
河内源氏とか摂津源氏とかいう区分は無意味。
860 :
日本@名無史さん:03/08/05 20:43
畿内源氏
861 :
日本@名無史さん:03/08/05 20:54
鎌倉頼朝
862 :
日本@名無史さん:03/08/05 21:15
伊豆頼朝
863 :
日本@名無史さん:03/08/05 21:19
>>858 時代が違うってんなら義家も違う。
そもそも門番やるのに和歌の才などイラン。
864 :
日本@名無史さん:03/08/05 21:25
イランホメイニ
>863
意味不明な日本語ですね。
知識もデタラメ。
歴史理解の基本的視点は皆無。
「 時代が違うってんなら義家も違う。」
このピント外れの発言、どこがダメなのか分らないかねW
866 :
日本@名無史さん:03/08/05 22:09
>>865 和歌が巧くなくちゃ官人やってられないという
君の観点も滅茶苦茶だね。
和歌の下手糞な貴族なんてそれこそ山といるわけだが。
馬鹿にはされるがな(w
867 :
日本@名無史さん:03/08/05 22:55
江ノ島頼朝
868 :
日本@名無史さん:03/08/05 23:10
平忠常を討伐した頼信が殊勲甲。摂津だの大和だの傍流はご苦労さん。
869 :
日本@名無史さん:03/08/05 23:32
>>865 このばあいの知識とは?
歴史理解の基本的視点とは?
わからんなあ。ぜひ教えてくださいな。わくわく。
みなと未来21頼朝
>866
話逸らして逃げるの必死だなW
>868
「殊勲甲」って何? W
そのことと「傍流」云々と何の関係があるの?
無知ゆえの脳内妄想みたいだねWWW
873 :
日本@名無史さん:03/08/06 01:45
>>872 ここは源頼朝について語るスレです。
摂津源氏厨及び嫡流厨はご自分のスレにお帰りください。
874 :
日本@名無史さん:03/08/06 02:11
>>871 それおまえW
847先生の至言
>847 名前: 投稿日: 03/08/05 00:38
>>845
>宮廷武士としてなら河内源氏は摂津源氏には勝てないだろう。
>宮廷武士は、歌道に通暁していなければならないから。
>摂津源氏には歌道の達人が多い。
どうやら宮廷武士とやらの価値は歌道で決まるらしい。
御前歌合戦でもやって決めていたんだろうか。
>874
宮廷武士の価値は和歌で決まるんだよ。
ええっ、そんなことも知らずにヘラズ口叩いていたのW
どうりで無知な粗暴犯予備軍だった理由が分ったよ。
もう少し歴史を勉強してから来いよ。
876 :
日本史博士@:03/08/06 11:58
(月)落馬
(火)安徳帝の呪い
(水)義経の呪い
(木)平家の呪い
(金)政子に不倫の腹いせに暗殺された
(土)家臣にヨバイを曲者と勘違いされ成敗
等の諸説あり。鎌倉時代公式記録吾妻鏡も
この部分のみ欠落しており、なんらかの隠
さねばならない秘密があったのは確か。
877 :
日本@名無史さん:03/08/06 18:52
ところで、大河「義経」の義経役が滝沢秀明に決まったそうだが、
頼朝役は誰だろう?
山口?
,,,--─===─ヽ/へ
/iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiii/ \iiiiiiiゞ
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882 :
日本@名無史さん:03/08/06 20:12
清和源氏は下ネタ多し。
>>875 なるほど!ってことは、源氏と平氏も和歌で実力を誇示しあったのでつね?
紅白歌合戦の起源は朝鮮ではなく平安にあったのでつね?
勉強になりますた!!
884 :
日本@名無史さん:03/08/06 21:36
ジャニーズ義経か……何だかなあ
885 :
日本@名無史さん:03/08/06 21:39
予想されたことだね。
いまどきジャニーズ抜きでまともなドラマはつくれないということさ。
886 :
日本@名無史さん:03/08/06 21:46
887 :
日本@名無史さん:03/08/06 21:58
888 :
日本@名無史さん:03/08/06 22:17
伊豆源三頼朝
889 :
リバティ ◆RNYnqkKJag :03/08/06 22:56
過去に義経を演じた俳優
尾上菊五郎 中村錦之助 国広富行 川野太郎 東山紀之 野村宏伸
890 :
日本@名無史さん:03/08/06 23:07
四駿のムカリは源義経だった。
義経が1189年に大陸に落ちてから、
7年後の1196年にチンギスに従い
モンゴル帝国の建国に腐心し、比肩する者の
無いほどの功績をあげたムカリ。チンギスの
側近・四駿の筆頭格でもあり、後に「国王」
の称号も与えられた。ムカリはチンギスの治世
における事実上ナンバー2の存在である。
891 :
リバティ ◆RNYnqkKJag :03/08/06 23:24
追加 菅原謙二 志垣太郎 北大路欣也
892 :
日本@名無史さん:03/08/06 23:35
笑福亭仁鶴
893 :
日本@名無史さん:03/08/07 00:32
逗子三介頼朝
↑やくざ
895 :
日本@名無史さん:03/08/07 07:45
頼朝には真田広之希望
896 :
日本@名無史さん:03/08/07 09:21
頼朝は物凄い悪役として描かれるんだろうなあ
897 :
日本@名無史さん:03/08/07 16:54
武蔵といい
新撰組といい
義経といい
大河はもうだめだ
898 :
日本@名無史さん:03/08/07 17:07
899 :
日本@名無史さん:03/08/07 19:24
>>896 原作を読んだこと無いからわからないけど、そうでも無いんじゃない?
最近の大河のホームドラマ化を見れば。
「義経、どうしてわしの気持ちがそなたにはわからないのじゃ」とか
言いそう。で、断腸の思いで追討命令を出す、と。
900 :
日本@名無史さん:03/08/07 19:52
>>899 そんな頼朝も何となく嫌だなと思う俺であった
色々思うことはあるが、その思いは一切口にせず……というキャラクター造形がいいなあ
901 :
日本@名無史さん:03/08/07 19:53
でも「草燃える」の頼朝は義経の首を抱いて泣いてなかったか?
902 :
日本@名無史さん:03/08/07 21:49
>>901 平泉の、義経が自害した堂の床に頬ずりしていたような気が。
『草燃える』の石坂頼朝は良かったと思うけど、
あれよりもう少し冷徹な感じがいいなあ。
903 :
日本@名無史さん:03/08/07 21:57
草燃えるの原作って、永井路子の「北条政子」?
「つわものの賦」「源頼朝の世界」なども。>903
905 :
日本@名無史さん:03/08/07 22:04
>>902 床だっけ?とにかく泣いてたのはまちがいないよね。
906 :
日本@名無史さん:03/08/07 22:05
石坂頼朝
907 :
日本@名無史さん:03/08/07 22:42
近衛頼朝
908 :
日本@名無史さん:03/08/07 23:42
>>902 十分に冷厳な頼朝を演じていたと思うが。
女好きもうまく演じてたね。
源しずか
910 :
日本@名無史さん:03/08/08 07:13
石坂浩二の頼朝は、その見た目からしてはまっている
911 :
日本@名無史さん:03/08/09 03:37
>>902 草燃える、結構好きだったけど、正直あの泣くシーンはいただけなかった。
「九郎〜!」とかってみんな見ている前で号泣だもんな。
同じ泣くにしても、じっと目を閉じて、黄瀬川での対面なんかを思い出しながら、
じわっと涙がにじんでくる、という程度にしておいてほしかった。
>911
確かにあれは弁解じみていたな。
「頼朝だって好きこのんで弟を殺したんじゃないんだよ」と言いたいあまりの過剰演出だろう。
NHKお得意の「主人公に悪人はいない」ってやつね。
913 :
日本@名無史さん:03/08/09 09:50
>>911-912 だよなあ。
「弟」としての義経に対する思いがあったとしても、
それは自分一人の胸の中にだけしまっておく、
そういう頼朝として描いて欲しかった。
御家人などが何を思おうとも、何を言われようとも、
何を言っても弁解になるからと口を閉ざす。
今度の頼朝はそんな風であって欲しい。
それは無理
「草燃える」の頼朝の性格は、かなり悪人だけどね。
義経の件は、御家人に対するパフォーマンスでしょ。
情の厚い人間だと思わせるための。
916 :
日本@名無史さん:03/08/09 15:07
「九郎を討つ!」
「御所さま、それは・・・」
「九郎をこのまま生かしておくわけにはいかん」
「あなた・・・」
「女子は黙っておれ!」
「でも、九郎どのは、あなたのために・・・」
「皆のもの、わかったか。九郎を討つ!行け!」
「はっ!」
「あなた、どうしても・・・」
「この鎌倉のためだ・・・」
頼朝の目から一筋の涙が・・・。
こんな感じで、どう(笑)
917 :
日本@名無史さん:03/08/09 15:31
頼朝氏ね。
918 :
日本@名無史さん:03/08/09 15:58
で、義経は大河ドラマになるわけだ。頼朝は誰だろね?
>91
山崎とおる
920 :
日本@名無史さん:03/08/09 17:16
兄の言っている事を一つも理解しなかった義経が全面的に悪い
921 :
日本@名無史さん:03/08/09 17:45
いまどき「判官びいき」でもないよなあ。なんで大河で「義経」なんて
やるんだろ。
「義経」=「戦闘(それも奇襲戦)には強いけど、単細胞のアホ」
ってのが一般的な評価でしょ?
単細胞生物が可哀想だ
923 :
日本@名無史さん:03/08/09 20:27
>>920-921 でもなあ、「義経」だからなあ……
やはり義経の「悲劇の武将!悲劇の弟!」
てな部分が全面に打ち出されるのでは
頼朝はやはり「意地悪兄さん」になりそうな気が。
梶原景時も非常に憎々しいキャラになりそうだな。
924 :
日本@名無史さん:03/08/09 21:45
妻:鞍馬より牛若丸が出でまして名を九郎判官義経
夫:うっ、べ、弁慶・・・
925 :
日本@名無史さん:03/08/09 21:57
遺骨の鑑定結果から、痛風または陰金とみられる。
926 :
日本@名無史さん:03/08/10 03:00
>921
まぁアホはいい過ぎにしても、義経が鎌倉武士の間でそれほど好かれていなかったのは確かだろうな。
だいたい、鵯越えとか屋島攻めとか、命が幾つあっても足りない作戦だもんな。
しかも、仮に死んでも片や事故死、片や溺死で、とても名誉の戦死になりそうもない。
そんな作戦たてる指揮官、嫌われて当然だろう。
927 :
日本@名無史さん:03/08/10 03:07
義経役こそ及川ミッチーに任せるべきだろ
928 :
日本@名無史さん:03/08/10 03:28
芸能者や修験者、ばくろうや流れ法師や盗賊に縁の深い
無界に足をつっこんだ漂白民的ヒーローだといいんだけど(笑)
鎌倉体制というよりは、制度というものを理解できない
が、こまったことに天才で無邪気で愛情深い・・という。
実質はどうあれ、制度からはじかれてると感じてる視聴者の心を
うまいことくすぐると思う。対してシステム
志向な鎌倉武士が、志向において事大主義で支配好きで地面に強欲な
田舎者にみせる。(事実としてどうこうと批判してるのでなく、
どらまつるぎとし)・・・ってふうにしてほしいが、
そうわならないだろうなーー(泣笑)
929 :
日本@名無史さん:03/08/10 06:22
>>928 「鎌倉武士と兄貴に苛められるかわいそうな義経さん」になってしまうのかねえ…ふっ(遠い目
所詮証拠のない歴史だから、どちらが悪人だったかは
永遠にわからないな。
931 :
日本@名無史さん:03/08/10 06:47
こいつは本当に嫌な奴だぜ!てな描かれ方をするのは
頼朝ではなく景時であろうと予想してみる
「兄弟はこいつの狡猾さに引き裂かれたんだぜ!」みたいな感じで
何となくだけど
・・でもそうすると「頼朝ってのは、弟よりも景時の言うことを信用する奴だぜ!」
となっちゃったりして
>頼朝ってのは、弟よりも景時の言うことを信用する奴だぜ!」
実際そうだったんだが、、、
934 :
日本@名無史さん:03/08/10 12:27
大河か。頼朝初登場はいつになるんだろう?
やはり黄瀬川かな?
それとも、それ以前に会っていたというエピソードでもあるかねえ。
たとえば、平治の乱の頼朝初陣の折、何らかの形で顔を合わせるとか。
935 :
DVDエクスプレス:03/08/10 12:32
936 :
日本@名無史さん:03/08/10 12:43
最大の関心事は「誰が頼朝を演じるか」だろう
坊やだからさ
939 :
日本@名無史さん:03/08/10 19:46
>934
数え年1才の牛若を愛情タプーリな目で見つめる頼朝、なんて歯が浮くようなシーンがありそうで怖いな。
どうせなら、絶世の美女といわれた常盤御前に道ならぬ恋心を抱く、なんて方が好色な頼朝らしい。
940 :
日本@名無史さん:03/08/10 20:51
>933
景時の言うことを信用したのではなく、
側近の大江広元が頼朝にそういう政治的判断をしろと入れ知恵したんだよ。
945 :
日本@名無史さん:03/08/11 07:06
>>939 そして、黄瀬川の対面の際に
赤子の九郎を思い出して涙、涙。
平泉で死んだ九郎の首が鎌倉に届き、また赤子の姿を思い出して涙、涙。
泣いてばっかりの頼朝になったりして
>>902 冷徹な頼朝といえば新平家物語の高橋幸治。その前に芥川比呂志が頼朝やってる。
947 :
日本@名無史さん:03/08/11 11:16
>>939 >>945 「そなたは幼かったゆえに覚えてはおらぬだろうが、九郎よ、
わしはあの平治の戦の折、出陣の前にそなたと会うておるのだ。
母御に抱かれていたそなたのことを、今でもはっきりと思い出せる。
そなたが奥州に逃れたと聞き、幾度北の空を見上げたことか……
それにしても、あの幼子がかように立派な武者になってわしの元に参じてくれるとは……」
と言って涙にくれるのかよ
948 :
日本@名無史さん:03/08/11 18:21
>939>945>947
「うん、これ結構いけるじゃん。貰っとこう」by 脚本家
949 :
日本@名無史さん:03/08/11 21:15
えーい、面倒だから大河の見せ場は全部
>>947で行こう。
まずは忠臣蔵編
「そなたは幼かったゆえに覚えてはおらぬだろうが、吉良よ、
わしは参勤交代の折、そなたと会うておるのだ。
母御に抱かれていたそなたのことを、今でもはっきりと思い出せる。
そなたが松の廊下で逃げたと聞き、幾度江戸の空を見上げたことか……
それにしても、あの幼子がかように憎らしい仇になってくれるとは……」
950 :
日本@名無史さん:03/08/11 21:20
次は新撰組だ
「そなたは幼かったゆえに覚えてはおらぬだろうが、竜馬よ、
わしは天保の頃、そなたと会うておるのだ。
母御に抱かれていたそなたのことを、今でもはっきりと思い出せる。
そなたが逃げ回ってると聞き、幾度京の空を見上げたことか……
それにしても…、貴様を斬る……」
951 :
日本@名無史さん:03/08/11 21:32
最後は黒船来航編だ
「ゆー、べいびーダッタカラ覚エテナイダロウケドネ、みすたー岩瀬、
みーワかぴたん一行ニマギレ込ンダ折、ゆート会ッテマスネ。
まみーにオヤスミノきすサレテタゆーノコト、今デモ思イ出シマス。
ゆーガ出世シタト聞キ、めにーたいむ、水平線ノ先ヲ見タコトカ……
トコロデ、開国シテクダサイ……」
時代考証間違えた。岩瀬はハリスん時だった。
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
何でこんなことに
955 :
日本@名無史さん:03/08/15 22:59
鎌田政清(源義朝の側近)-----鎌田政光(源義経の側近)
956 :
日本@名無史さん:03/08/16 10:19
947-952によるスレの潰し方講座はお終いですか?
959 :
日本@名無史さん:03/08/16 18:13
源満仲---頼光
+-頼親
+-頼信---頼義---義家---義親---為義---義朝---頼朝
960 :
日本@名無史さん:03/08/17 00:21
頼朝−頼家−禅暁−頼近−頼実
961 :
日本@名無史さん:03/08/17 09:55
962 :
日本@名無史さん:03/08/17 10:51
伊豆頼朝
963 :
日本@名無史さん:03/08/17 15:32
湘南頼朝
964 :
日本@名無史さん:03/08/17 15:36
頼朝って嫡男だったの?
義平は?
965 :
日本@名無史さん:03/08/17 16:36
頼朝役に誰が適任か・・・。
筧利夫なんかどう??
>964
嫡男は義平だよ。
頼朝の御世は、偉い人や主君が我が家に来たら、娘や妻を夜伽に
出すもんだったって何かの本で読んだんだけど・・・
ほんと??
968 :
日本@名無史さん:03/08/18 13:46
頼朝は何をもって範頼を弟と認知したのかね?
血液検査
970 :
日本@名無史さん:03/08/18 14:08
認知したのは義朝じゃないのか
971 :
日本@名無史さん:03/08/18 14:43
いや、挙兵後のことだよ。
972 :
日本@名無史さん:03/08/18 16:45
>>967 ほんとだよ。
たとえば源義家が自宅によったとき、娘を差し出して、できた子供が足利家や新田家の祖先になった。
頼朝はかみさんがうるさかったからなかなかそうもいかなかったらしいけど、
それでも葛西氏が奥さんを差し出したとか。
で、葛西氏は頼朝の信任を得ることになり、奥州制定後は「奥州総奉行」に任命された。
973 :
日本@名無史さん:03/08/18 17:06
鎌倉頼朝
974 :
日本@名無史さん:03/08/18 17:44
>>972 >源義家が自宅によったとき、娘を差し出して
主語は?
975 :
日本@名無史さん:03/08/18 17:45
976 :
日本@名無史さん:03/08/18 18:15
まあ、異母兄弟だからどこか頼朝に似た風貌をしていたんだろう、と想像
978 :
日本@名無史さん:03/08/18 19:21
>>968 それをいうなら義経、全成もだろ。
たぶん何か証拠になるようなもの、形見になるようなものでも持っていたんではない?
979 :
日本@名無史さん:03/08/18 21:14
>>972 >たとえば源義家が自宅によったとき、娘を差し出して、
>できた子供が足利家や新田家の祖先になった。
まさか、源義国のことを言いたいのか?
義国の母が秀郷流藤原氏の足利基綱というのは俗説で、
実際は中流貴族、日野流藤原氏の中宮亮有綱。
都の文官で、最終官位が正四位下、
検非違使・摂津守・大内記・左少弁中宮亮・文章博士・大学頭
などを歴任した有綱が義家の配下であったとは考えられないから、
義家に娘を差し出した、という説の根拠にはならないな。
980 :
日本@名無史さん:03/08/18 22:20
>>978 義円モナー
「家紋」のついた何か、とか。
でもそれにしちゃ時代が古すぎか。
義門って実在したのかギモーン。なんちて。
982 :
日本@名無史さん:03/08/19 00:19
義平の妻は新田義重の娘で評判の美人であったが、義平の死後ずっと独身生活を送っていた。
伊豆で無聊をかこっていた頼朝公は彼女のうわさを聞いて思わずチンポが立ってしまい、
毎日のように口説きに口説いたが、結局ものにすることができなかった。
流人である頼朝公が娘に近づいたことを不快に思った義重は、急遽娘を他家に嫁がせたため、
頼朝公はセンズリで我慢せざるを得なくなった。
このことを遺恨に思われた頼朝公は新田一族を冷遇するよう遺言し、新田氏受難の時代がはじまった。
983 :
日本@名無史さん:03/08/19 09:18
次スレ立てようか?
>983
「源家一門: 源満仲から源頼朝まで」
というタイトルがいいよ。
源家の累代の人物について語るようにすればいい。
985 :
日本@名無史さん:03/08/20 07:59
源氏?源家?
どっちも言うよな。
いいと思われ。
源姓はおかしいのだろうが。
>>984 反対。
摂津源氏厨や嫡流厨のデムパはもういらん。
988 :
日本@名無史さん:03/08/20 14:44
「源頼朝について その2」でいいんじゃないか?
989 :
日本@名無史さん:03/08/20 15:05
今日の「その時歴史が動いた」のスペシャル、
第一部で頼朝も取り上げられるみたいだね。
第一部は「混沌の時代を切り開いた男たち」と題して
聖徳太子・頼朝・信長が登場するそうな。
人選の時点で寒い
991 :
日本@名無史さん:03/08/20 16:24
>>990 まあ、テレビ局なんてそんなもん。
混沌の時代を切り開いた… というようなタイトルに、
北条義時や足利直義や田沼意次や井伊直弼が入ることは決してない。
992 :
日本@名無史さん:03/08/20 16:54
頼朝のところだけ見ようかな
994 :
日本@名無史さん:03/08/21 00:51
相模頼朝
995 :
日本@名無史さん:03/08/21 00:56
相撲頼朝
996 :
日本@名無史さん:03/08/21 04:10
頼朝さん、とりあえず埋めますよ。
997 :
日本@名無史さん:03/08/21 05:37
>991
時代を切り開くって言い方からして進歩主義的歴史観に毒されているみたいで好きになれん。
歴史を結果論から語るほど楽なこたぁ無いからな。
ところで義時はともかくそれ以外の3人は、混沌をよりいっそう深めた連中って気がするが…
998 :
日本@名無史さん:03/08/21 06:09
998
999 :
日本@名無史さん:03/08/21 06:10
999999
1000 :
日本@名無史さん:03/08/21 06:10
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1001 :
1001:
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