俺はかなり可能性高いと思うけど...
お前らはどう思う?
2 :
日本@名無史さん:03/02/01 01:13
漏れら極悪非道のageブラザーズが2ゲットオォォーーー
 ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ ∧_∧
(・∀・ ) (・∀・ ) (´⌒;;;
(つ ,ノつ (つ ,ノつ (´⌒;;;
/ ゝ 〉 / ゝ 〉 (´⌒;;;(´⌒;;;
(_(__)≡≡ (_(__)≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
(´⌒;;;
ズザザーーーーーーー!!!
3 :
日本@名無しさん:03/02/01 02:16
糞すれけてーい!
奈良都民て・・・・・・・・・
>>4 1ですが...
奈良の都(平城京)に住んでいます。
ところ
>>4さんは、「箸墓=卑弥呼の墓」だと思いますか?
6 :
日本@名無史さん:03/02/02 01:59
7 :
日本@名無史さん:03/02/02 02:06
微妙だよ
>>6 当時の技術であれだけ巨大なものを作ろうとすれば、10年や20年はかかるだろう。
卑弥呼が死んだのが248年として、それから作り始めたら、260〜280年に完成というのは
妥当だと思う。
それに最近の学説だと、箸墓の築造時期はもう少し遡る(つまり古い)らしい。
だとすれば時期的には卑弥呼とピッタリ!
9 :
日本@名無史さん:03/02/03 18:04
じゃあ邪馬台国は近畿にあったってことかい
10 :
日本@名無史さん:03/02/03 18:49
ってか古墳の名前っていいかげんに決めたのが多かったよね。
宮内庁がろくに調査を許可しないし・・・くだらん。
11 :
日本@名無しさん:03/02/03 18:57
同時代なら全部卑弥呼の墓でつか?(ぷ
12 :
日本@名無史さん:03/02/03 19:46
箸墓は最初円墳として作られたものに、後から方墳の部分を
増築したものらしいね。
それはない。完全に否定された。
14 :
日本@名無史さん:03/02/03 21:58
土師の墓。墳丘墓に立ち並ぶ円筒埴輪の威容からそう呼ばれた。
最近、K上君は何か言ってるかな?
まだ言ってるとしたら、もう救いようがないねぇ。
昔は確かに言ってたけど、否定されたのはここ数年の成果によってだからねぇ。
17 :
日本@名無史さん:03/02/04 00:10
>>11 では何故、同時代の古墳がいくつかある中で、箸墓だけがそのように言われているのだろうか?
何らかの伝承があるのではないだろうか?
ヤマトトトヒモモソヒメの墓と言われているが、これが女性の墓と伝えられているのも、
何となく卑弥呼と関連がある予感が...
18 :
日本@名無史さん:03/02/04 09:47
箸墓はヤマトトトヒモモソヒメノスメラミコト=卑弥呼の墓だと思いたい。
更に西殿塚がミマキイリヒコイニエの墓で…、東殿塚はトヨの墓で…、など
と妄想したいw。
箸墓の前方部から後円部にかけての主軸線は夏至の日の出の方向をさして
いる。渋谷向山もそう。ところが行燈山は伊都国の平原王墓と同様に冬至
の日の出の方角に後円部を向けている。更に, 西殿塚や東殿塚に至っては
ほぼ真北に向いている。これらが、太陽祭祀とどう関連するのだろうか?
とにかく、箸墓や三輪山をボーっと眺めたり、纒向遺跡のあたりをとぼとぼ
歩き回ったりで、一日中マターリしたいなあ。もちろん昼飯は三輪ソ−メン
でw。いつでも箸墓・三輪散歩ができる
>>1 がうらやまスィw。
19 :
日本@名無史さん:03/02/04 10:30
卑弥呼が誰ともわからないのに発掘ですか・・
20 :
日本@名無史さん:03/02/06 02:00
>>19 箸墓は宮内庁管理下に置かれていて発掘できませんが何か?
21 :
日本@名無史さん:03/02/07 01:31
発掘できないなんて怪しい
それはね、本物だからだよ。
23 :
日本@名無史さん:03/02/08 01:09
24 :
日本@名無史さん:03/02/08 01:38
結局発掘もできないではどの主張も胡散臭いな。
25 :
日本@名無史さん:03/02/08 02:08
>>24 その胡散臭さが考古学の原点です。
また良いところでも有ります。
わからない物の方が興味をそそられるでしょ?
26 :
日本@名無史さん:03/02/08 18:57
卑弥呼→妃皇子
葉山美湖→AV嬢
27 :
日本@名無史さん:03/02/09 01:49
28 :
日本@名無史さん:03/02/09 01:55
少なくとも、卑弥呼と同時代に、
ある程度の規模の古墳を作る政権が大和にあったということだけは言える。
それが邪馬台国かどうかは別。
しかし、邪馬台国と別としても、同時代まで大和政権の存在は遡ると言える。
29 :
日本@名無史さん:03/02/09 02:18
卑弥呼の墓がばかでかい塚だってこた言われてるんだから、
同時代の古墳がある場所が最有力だろう
30 :
日本@名無史さん:03/02/09 23:09
魏志倭人伝に記述されている卑弥呼の墓の大きさと、箸墓古墳の後円部の直径は
ピターリと一致するみたいです。
>>28 それが、大和政権のものだとは、未だ立証されていない。
32 :
日本@名無史さん:03/02/10 07:35
円墳=卑弥呼
方墳=ヤマトトトヒモモソヒメノスメラミコト
33 :
日本@名無史さん:03/02/10 07:45
>>31 大和に巨大古墳を作った勢力を大和政権というのよ。
34 :
日本@名無史さん:03/02/10 23:42
「邪馬台国=畿内」説を否定する人たちは、九州に卑弥呼の墓と言えるような大型古墳の
存在を示すことができますか?
箸墓は、時代、規模、伝承等の全てがそろっています。
仮に、箸墓=卑弥呼の墓ではないとしても、周辺の大型古墳のどれかは、
きっと卑弥呼の墓でしょう!
そんなこと言ってると西都厨が降臨するぞw
36 :
日本@名無史さん:03/02/10 23:51
>>35 ゴメン、言ってる意味が本当にわからん!
西都厨って何?読み方は?
マジで教えて!
粘着的にAAや空白行を大量カキコしてスレを潰す某ストーカーのこと。
>>33 後の大和政権と継続しているという確証があるのか?
39 :
日本@名無史さん:03/02/11 07:47
大和にある政権はみんな大和政権
40 :
日本@名無史さん:03/02/11 09:58
>>38 血縁関係の有無は別として、緩やかな政権交代という形で継続性はあると思われ。
三輪(大和)政権、河内政権、飛鳥政権、どれも大和川沿いに展開しているし、
前方後円墳という共通した墓制を有する。
それぞれが滅ぼしあったとする、文献的・考古学的証拠は全く見当たらない。
41 :
日本@名無史さん:03/02/11 10:05
三輪政権と河内政権の間に奈良盆地の北、佐紀政権あり。
息長氏、和邇氏の力の強い政権だったでしょうな。
三輪山西麓を支配していた、古代豪族三輪氏の末裔ですが、何か?
45 :
日本@名無史さん:03/02/12 03:20
>>44 三輪明宏?
何か?って、別にお前なんか呼んでねぇよ!
47 :
日本@名無史さん:03/02/12 23:33
だから円墳が先にあって方墳を付け加えたw
>>47 >円墳が先にあって、後に方墳を付け加えた。
そうすると、前方後円墳ではなくて、
前円後方墳ですな――。(笑)
50 :
日本@名無史さん:03/02/13 22:55
そもそも形状の分類をしたのが後世の人間なんじゃ
51 :
日本@名無史さん:03/02/13 23:26
52 :
日本@名無史さん:03/02/15 09:27
>>46 最新の研究成果では、箸墓の築造年代は、3世紀中葉まで遡ることが報告されています。
53 :
日本@名無史さん:03/02/15 13:14
そもそも耶馬台国自体が何処にあったかも解ってないのに・・・
54 :
日本@名無史さん:03/02/15 14:31
卑弥呼そのものの位置付けはどう見てるの?
なぜ男王では国が収まらず、行きなり女王が立てられたのか。
それは、彼女の巫女として信頼があったからでないの?
でも、巫女に巨大古墳は捧げんでしょ。
巫女は、神様のお告げを聞いて何ぼのものだから、
その人自身が神格化されているとは思えない。
>>54 >でも、巫女に巨大古墳は捧げんでしょ。
根本的に間違い。
元巫女でも、死んだ時には倭王だよ。
中国から親魏倭王の称号までもらったね。
>その人自身が神格化されているとは思えない。
卑弥呼その人にカリスマ性があったからこそ、
死ぬまで不満が押さえられて混乱が起きずにすんだんでしょ。
“卑弥呼個人の神格化”の一端と見ていいと思うけど。
56 :
日本@名無史さん:03/02/15 16:44
>>55 中華帝国は男尊女卑が強い国ですよ。
日本では、女帝もいたし皇祖神が女性だったりするのだが、
中国では皇帝は男でなければならない。
近隣の蛮国であっても、皇帝が頂点となって治めるべき天下に、
女性の王が許されるだろうか。
だから珍しくて興味を引いたんだろうね。
>>54 893の組長が死んで跡目争いになって、
前組長の極妻が肌脱ぎして一喝したら組中収まった
・・・という感じだったりして。
邪馬台国に女性的な空気が流れ、男性的(戦闘的)で殺伐とした
状況の温度を下げたんだよ。
つまり卑弥呼の期間は、武威よりも、女の呪力に支配された時代だったんだよ。
だから、卑弥呼は暫定の王くらいの地位で良いんじゃないかな。
このスレは箸墓がメインだから、私の結論としては、
卑弥呼に巨大古墳は要らないと。
あんたが要らないと言ったって史料にゃ作ったって書いてあるのだよ。
>>46 倭の五王の年代と記紀は一致しないけどいいの?
61 :
日本@名無史さん:03/02/16 06:05
59に賛同。58はドキュン。
63 :
日本@名無史さん:03/02/16 23:22
納棺室「木槨」の跡 前方後円墳で発見 滋賀の神郷亀塚古墳
最古級の前方後円墳とされる滋賀県能登川町の神郷土亀塚古墳(全長36.5b、2世紀末ー3世紀
初め)を発掘している同町教育委員会は13日、木造の納棺室「木槨(もっかく)」の跡を見つけ
たと発表した。前方後円墳で木槨を確認したのは初めてという。
木槨を用いる墓は従来、朝鮮半島から九州や瀬戸内・山陰地方を経由して畿内に伝わったとさ
れていた。同町教委は「朝鮮半島から直接伝わったのだろう。大陸との交流を考える上で本州の
日本海沿岸から琵琶湖を経由するルートの重要性が浮上してきた」としている。
木槨は2基あり、古墳前方部で並んで見つかった。長さはそれぞれ4.6bと3.5b、幅は1.3b
と1.15b、高さは1.2bと1.1b。木材は残っていなかった。土の状況から、粘土で包み込んだ
木棺の外側を厚さ8a程度の板材で囲い、小部屋を作ったとみられる。(日経03・02・14朝刊)
「箸墓=卑弥呼の墓」と推定される理由
@年代的に一致 … 最近の研究では、築造年代は3世紀半ばまで遡るらしい。
これは卑弥呼の死去の時期(一説には248年)とほぼ一致する。
A規模が一致 … 魏志倭人伝には卑弥呼の墓の直径は百余歩と記載されている。
一歩=1.45mであり、箸墓の後円部直径は約150m。まさに「百余歩」である。
B伝承が示唆 … 箸墓古墳は日本書紀によると「ヤマトトトヒモモソヒメ」の墓とされている。
「ヤマトトトヒモモソヒメ」は天皇の姉で、神に仕える巫女である。
これはまさに、卑弥呼のイメージそのものである。
66 :
日本@名無史さん:03/02/18 01:52
でもその日本書紀で卑弥呼を神功皇后にしてなかったっけ?
>>66 確かに日本書紀では、魏志倭人伝の卑弥呼に関する記事を引用し、
それを神功皇后の事績として紹介しています。
なお、神功皇后が摂政在位期間は、日本書紀では201年〜269年であり、
実際に卑弥呼が活躍していた時期とほぼ一致します。
これに対し、ヤマトトトヒモモソヒメの活躍時期は、日本書紀では崇神天皇の時期なので
前97〜前30年ということになります。
但し、日本書紀ではでは、皇室の歴史をより長いものと誇張するため、
第18代より古い天皇については意図的な年代の引き延ばしが見られます。
神功皇后=箸墓の被葬者とするならば、ヤマトトトヒモモソヒメの活躍の時期も
3世紀中葉と見るべきだと考えます。
つまり、卑弥呼、神功皇后、ヤマトトトヒモモソヒメは、皆、同じ時期に活躍していたのです。
これはどういうことでしょうか?
私は、この3人は全て同一人物であると考えます。
箸墓の被葬者は、卑弥呼、神功皇后、ヤマトトトヒモモソヒメ、いずれも正解です。
以上をまとめると、
・卑弥呼は、魏志倭人伝上の呼び名
・神功皇后は、卑弥呼の日本書紀での呼び名(事績については、作り話が多いと思いますが)
・ヤマトトトヒモモソヒメは、日本書紀上のキャラクターで、皇室の歴史をより長く見せるために、
卑弥呼をベースに、それをより古い時代に映し出して作った人物
いかがでしょうか?
68 :
日本@名無史さん:03/02/18 11:57
>>67 でも、神功紀に百済から七支刀が貢献されたっていう記述があるじゃない。
あれは4世紀の話だよ。
69 :
日本@名無史さん:03/02/18 15:07
「最近の研究」ってのは年代を自説に都合のいいように古くしてるんだよね。
箸墓は形態から見て4世紀の古墳。卑弥呼とは時代が違う。
↑ ごまめの歯軋り
71 :
日本@名無史さん:03/02/20 23:47
それじゃぁ、箸墓古墳は誰の墓なの?
72 :
ちょっとだけ専門家:03/02/21 00:09
73 :
日本@名無史さん:03/02/21 01:03
トヨたんの墓でつ。
74 :
ちょっとだけ専門家:03/02/21 01:06
75 :
日本@名無史さん:03/02/21 14:58
イヨタン。
76 :
日本@名無史さん:03/02/22 01:24
現地に行くと
孝霊天皇皇女倭迹迹日百襲姫命 大市墓
と書いてあります。
書いてあるだけだよ
信じるな
78 :
日本@名無史さん:03/02/22 01:38
史学科日本史専攻(古代OR近現代志望)の場合、奈良大と佛教大どっちへいくのがいいですか?
かなり悩んでます。助言してください!!
どっちでもいいよ
81 :
日本@名無史さん:03/02/22 09:33
「箸墓=卑弥呼の墓」と推定される理由
@年代的に一致 … 最近の研究では、築造年代は3世紀半ばまで遡るらしい。
これは卑弥呼の死去の時期(一説には248年)とほぼ一致する
これはダメだ。せいぜいさかのぼっても三世紀後半です。むやみに年代をあげていくのが
わるいくせです。三世紀半ばはホケノ山の円墳が該当。だから、箸墓=卑弥呼はなりたたず、
箸墓=イヨだ!
260〜280が最新の説だよね。
死後築造だから時期的には「ほぼ一致」で可。
>>82 最新の説というか、と言っている人もいるだろがヴォゲ
箸墓自体の年代を決定し得るものはまだ何もないだろ
誰が、どのような手順、資料操作でそう言っているのか、反対意見はどのようなものがあるのか
きっちり示せ
それができなきゃ「可」とか言うな
>>83 否定の証拠があがってないんだから「可」でいいよね。
>>84 アフォ
否定の証拠が上がってなくても、肯定の証拠も挙がってないだろ
そんなのは「可」でも「不可」でもない
「かもしれない」だろ
>>85 じゃあ、「不可ではない」は確定ということでよいね。
可能性は確実にあるということ。
>>69は大間違いということで、ヨロシク!!
88 :
日本@名無史さん:03/02/22 13:18
奈良や和歌山辺りって事は渡来人(朝鮮系)の可能性が強いね。
まあ後から来た、新しい情報や技術を持つ人々が力を持つのは当然のことかも。
>>86-87 何が「大間違い」「ダメ」なのか教えてくれ
あなたの意見として聞きたいのだけれども
卑弥呼はユダヤ人だった!
>>89 読め!
69 日本@名無史さん [] <03/02/18 15:07>
「最近の研究」ってのは年代を自説に都合のいいように古くしてるんだよね。
箸墓は形態から見て4世紀の古墳。卑弥呼とは時代が違う。
81 日本@名無史さん [] <03/02/22 09:33> NEW 「箸墓=卑弥呼の墓」と推定される理由
@年代的に一致 … 最近の研究では、築造年代は3世紀半ばまで遡るらしい。
これは卑弥呼の死去の時期(一説には248年)とほぼ一致する
これはダメだ。せいぜいさかのぼっても三世紀後半です。むやみに年代をあげていくのが
わるいくせです。三世紀半ばはホケノ山の円墳が該当。だから、箸墓=卑弥呼はなりたたず、
箸墓=イヨだ!
86
否定の証拠が上がってなくても、肯定の証拠も挙がってないだろ
という不可知論の君としては、「卑弥呼とは時代が違う」、「箸墓=卑弥呼はなりたたず」という断定に対し
とうぜんダメダシしないとウソだろ。
「肯定」のほうだけ非難して「否定」のほうをそのままという態度が著しく妥当性を欠いてるのはわかるね?
読んだ
一方的に「肯定」だけを非難するつもりはなかったんだが スマソ
ただ、「肯定」するあなたの見解を聞きたかっただけ
「否定」側についてもおいおい聞いていく&問題の指摘はするよ
93 :
日本@名無史さん:03/02/22 15:02
孝霊天皇皇女倭迹迹日百襲姫命
大 市 墓
一.みだりに域内に立ち入らぬこと
一.魚鳥等を取らぬこと
一.竹木等を切らぬこと
宮内庁
ふーん。
「肯定」に対する
>>83でのエキセントリックな反発の仕方と、
>>69、
>>81から何も読み取れなかった無感覚さを比較すれば、
君が「否定」側なのはほとんど自明なんだけどね。
君が自覚しているかいないかはべつとして。
ま、とにかく、
>>92では中立であることを標榜しているようだから、
まずは、お手並み拝見といきたいね。
先に「否定」側をやってくれ。
否定側の言動は「都合のいいように古くしてるんだよね」とか
「むやみに年代をあげていくのがわるいくせです」とか、
研究者に対する明らかな誹謗で、かなり悪質。
そのあたりをきちんとやってね。
箸墓が「3世紀中葉すぎまでさかのぼる可能性がきわめて大きい」根拠(白石太一郎:国立歴史民俗博物館)
出土土器は布留0式
>最近の年輪年代などから3世紀半ば〜後半に位置づけられる可能性がある
底部穿孔壺形土器は京都府椿井大塚山(≒出現期古墳新段階〉のものより古い
>椿井大塚山は3世紀後半に位置づけられる可能性がある(鏡など)
>それより古いと考えられる箸墓は、3世紀後半の早い段階に位置づけられる可能性がある
墳形はまき向石塚に酷似
>土器型式や年輪年代からまき向石塚は3世紀前半に位置づけられる
>まき向石塚を母体に大型化した箸墓は、その後に位置づけられると考えられる
特殊壺形・器台形埴輪はより古い型式(宮山型)を含むといわれる
ということで、いくつかの前提、仮定が含まれていることはよろしいでしょうか?
それでは問題点
残念ながら、発掘調査が行なわれていないの一点につきるでしょう
埋葬施設の構造
副葬品
など、確実なことは何ひとつ分かりません
墳丘から得られた土器や埴輪についても、具体的にどのような状態であったのかが分からないのです
埋葬施設内に、被葬者を葬った時と同時に納められたもの=被葬者と同時代性のものとは言えないので、埋葬が行なわれた時期を特定できるものではありません
年輪年代により、箸墓を含めた出現期古墳が3世紀代に入る、しかもかなり遡る可能性が強いことは否めないでしょう
しかし、箸墓そのものが、3世紀の半ばで卑弥呼の死に非常に近接した時期のものなのか、やや時間を置くものなのか、判断材料はまだ足りないと思われます
もちろん、掘ってみないことはなにも分からないので否定でも肯定でもない
いや、掘らなくてもこれで納得、というすばらしい説があれば、「がってん」押しますよ
(それでご意見を伺ったのですがね、この後でおしえてもらえるものと期待してますよ)
4世紀まで下るというのはどうかと思いますが
微妙なところで、250年に前後するくらいなのか、270年代とか280年代なのか、その辺の精度の話しをするのには時期尚早
>>83は煽ったカキコだったと反省しますよ
でも、「エキセントリック」に反応したのは、決定打はまだないでしょうと言いたかったからです
>>95 もう少し文脈がわからないと白石氏が何を言いたいかよくわからないが、
読んだ範囲ではもう既に年代の物差しは出来上がっていて、
その物差しの上でどこに箸墓を置くかっていう話のようにみえるね。
今の問題は、その年代の物差しを如何に作るかって所だから、
そこを出してもらわないとお話にならない。
ところで、「否定」の方は?正直に、「否定」側に鞍替えする?
>>99 「否定」派のレッテルを貼りたいならどうぞ
年代の物差しはだいぶ出来上がってますよ確かに
ただ箸墓をどこに置くのか、それを決める材料がなさすぎるということ
最終的な位置決めは、それぞれの「考え」に拠るしかない
箸墓を卑弥呼の墓にしたい人はそのように位置づけるし
そうしたくない人は、またそれなりに位置づける
現時点では、それ以上でもそれ以下でもないということ
その循環を乗り越える強力な説明を聞かせてもらえば、すぐに「肯定」派になりますよ
>>100 >年代の物差しはだいぶ出来上がってますよ確かに
>ただ箸墓をどこに置くのか、それを決める材料がなさすぎるということ
問題を根本的に誤解してるようだね。
箸墓の物差しの上の相対的な位置はもうほぼ決まってる。
問題は、物差しのほうをどう前後に動かすのかということだよ。
埋葬施設を掘らなくても分かることはたくさんある。
>墳丘から得られた土器や埴輪についても、(ry
>埋葬が行なわれた時期を特定できるものではありません
そう。埋葬と同時期とはいえないが、それより古いということはわかる。
まあ、普通、埋葬時以外に墳丘を飾りたてる理由もないから埋葬時と考えるがね。
>微妙なところで、250年に前後するくらいなのか、270年代とか280年代なのか、その辺の精度の話しをするのには時期尚早
このへんは別に異論はないんだが、三世紀半ば過ぎにあげることを妨げるものが何もないのは事実。
「否定」できないことだけは確実なのだな。
詳しい人に質問。
ハシハカの次に出来た巨大墳はどれ?
>「否定」できないことだけは確実なのだな。
確かにその論理はありだな
ただ以下はどうかと
>箸墓の物差しの上の相対的な位置はもうほぼ決まってる。
具体的に教えてください。
私はまったく(もといかなり)逆です、箸墓の前後と思われる墳丘墓・古墳の絶対的な位置はかなり定まってきているが(実年代で言えばまだ10〜25年くらいの誤差含みだろうけど)、箸墓の相対的位置は決めがたいのだと
> 埋葬と同時期とはいえないが、それより古いということはわかる。
これもどうかと
墳丘封土の下とか中ならともかく、墳丘上とか周囲だったら、埋葬時、埋葬後の追加的な儀礼時、後世の混入、などで「より新しい」可能性があるのでは?
> 普通、埋葬時以外に墳丘を飾りたてる理由もないから
同上なんだけど…
>>102 桜井茶臼山とか椿井大塚山がそうではないかと言われているようです
105 :
日本@名無史さん:03/02/22 17:25
(・∀・)イイヨイイヨー
>>105 はい、忘れてましたよ
渋谷向山(伝景行陵)とか行燈山(伝崇神陵)になると、ちょっと離れると考えるのかな?
巨大じゃないけど、鏡いっぱい出た黒塚は、箸墓の前なのか、後なのか…
後にきまってんでしょ
>>108 どっちでもいいんだけどさ、箸墓より古く置いてる人もいるよね <黒塚
墳長順に並べて見ると時代が下るにつれだんだん小さくなる傾向があるね。
全国第7位 渋谷向山 300m 天理市渋谷町
全国第11位 箸墓 278m 桜井市箸中
全国第15位 メスリ山 250m 桜井市大字高田
全国第16位 行燈山 242m 天理市柳本行燈
全国第23位 西殿塚 219m 天理市中山町西殿塚
全国第31位 桜井茶臼山 207m 桜井市外山
>>103 >墳丘封土の下とか中ならともかく、墳丘上とか周囲だったら、
>埋葬時、埋葬後の追加的な儀礼時、後世の混入、などで「より新しい」可能性があるのでは?
いってることが同じことだよ。埋葬は墳丘上の土器より前でしょ。
だから、特殊器台の時期よりも埋葬時期がそれ以前(同時期を含む)だというのはほぼ確定でよい。
で、主張しようと思えば、
墳丘上の土器なんかより埋葬はもっと前だ、墳丘上の特殊器台なんかよりもっと古い、
と主張することが出来ないことはないけど、そのへんは皆さん抑制をきかせて、
埋葬時期としては最も新しい特殊器台の年代を当てているわけ。
> 普通、埋葬時以外に墳丘を飾りたてる理由もないから
という常識的な判断とともにね。
>箸墓の前後と思われる墳丘墓・古墳の絶対的な位置はかなり定まってきているが
むしろ逆でね。
調査が進んだ結果、箸墓の方が確度は高くなってる。
周濠底の土器、外堤内の土器、渡り堤内の土器、全部布留0なので、
築造から完成まで全て布留0におさまるというのが現在の見方だ。
ただし、墳丘そのものは掘ってないので、周濠や外堤などの工事が遅れて
墳丘そのものはさらに古くなるという余地はある。
ゴメンゴメン。
もう一度
>>101を読み返したら、確かに誤解されかねない書き方だった。
というか、文章的には間違ってるかな?
>そう。埋葬と同時期とはいえないが、それより古いということはわかる。
「それより古い」の「それ」は「墳丘上の土器(特殊器台他)」のこと。
>>111 「埋葬と同時期とはいえないが、それより古いということはわかる」
の「それ」って、土器のことを指してるのね
埋葬のことを指してるのかと思ってた 指示語って、直前のものを指し示すのかとね
>ただし、墳丘そのものは掘ってないので、周濠や外堤などの工事が遅れて
>墳丘そのものはさらに古くなるという余地はある。
埋葬後にも周濠や外堤を作ってたってこと?
ほかに例はあるの?
>>112-113 被った
土器の件は確認しましたよ 布留0に限定と
西殿塚、桜井茶臼山の直前か、1型式おいて前くらいでいいですね?
専門じゃないんで空で情報が出てこないの勘弁して
ということで、実年代の当て方、250年前後に収まるのではという見方の根拠というか説明を、そろそろ聞かせてもらえますか?
>>113 >埋葬後にも周濠や外堤を作ってたってこと?
>ほかに例はあるの?
さあ?
だから余地はあるぐらいしかかけないんだよね。
実際、布留0よりも前だって言ってる人は見たことないし。
101=94,99という前提での問いかけです
もし違ってたらスマソ
>>114 >250年前後に収まるのではという見方の根拠というか説明を、そろそろ聞かせてもらえますか?
何でこうなんの?オレはこんなこと言ってないし、
「250年前後に収まる」にいたっては君以外の誰一人としてそんなこと言ってない。
>>82以後は。
(オレは
>>82ではないので、ヨロシク!!)
年代については、
>>101 >>微妙なところで、250年に前後するくらいなのか、270年代とか280年代なのか、その辺の精度の話しをするのには時期尚早
>このへんは別に異論はないんだが、三世紀半ば過ぎにあげることを妨げるものが何もないのは事実。
で互いのコンセンサスは取れたはずだが。
オレとしては中立を装いながら公平さを欠いている
>>83にたいして
クレームを付けただけで、それについて
>>97 >>83は煽ったカキコだったと反省しますよ
という発言を引き出したので、目的は達している。
追い打ちをかける必要はないから何も言わなかったが。
まあ、やれと言うならやらんではないが・・・・
九州の弥生時代の中期終わり頃から後期の年代がどうやって決まってるかは知ってる?
>>117 名無しさんのレスを勝手につなげて誤解していたのはこちらのようです。失礼
箸墓の年代は
>>82でおおむねよしと(議論の余地は多分まだ有るんでしょうけど)
それと箸墓=卑弥呼の墓ケテーイとはまた別ということでもよいですよね?
九州は、大陸系文物と甕棺型式のクロスチェックということでよろしいですか?
多分、まぢめな専門家の方のようなのでびびってます…;
見瀬丸山古墳=欽明天皇陵
今城塚古墳=継体天皇陵
河内大塚古墳=雄略天皇陵
箸墓古墳=卑弥呼陵
以上の通りケテーイしますた。
120 :
日本@名無史さん:03/02/25 12:02
もしかしてコソーリ掘ってみたら男の骨だったので
見解が変わったのか。
121 :
ちょっとだけ専門家:03/02/25 20:02
>>119 箸墓古墳=卑弥呼陵
卑弥呼陵?いつ卑弥呼は天皇になったの?
122 :
日本@名無史さん:03/02/25 20:06
>>121 皇祖ってことなのではないかい?
瓊瓊杵や彦火火出見のも「陵」だからww
>>121 ヤマトタケルノミコトも天皇ではないけど白鳥陵に葬られていますが何か?
皇族はいいんだよ、陵で。
陵を日本国内の意味で天皇、または、皇族の墓としたら、
天皇、皇族という位置づけがどこまで遡れるかが問題なんだろうな。
一方、陵をより一般的な「天子の墓」という意味にとった場合、
はたして卑弥呼は倭王であるが天子なのか?ということが問題なんだろうな。
まあ、難しい。よくわかりまへん。
巻向の駅からすぐ近く、道沿いに山に入ってゆく途中に
ちょっとした古墳あるでしょ?
てっぺんに小さなお稲荷さんがたってるところ。
学生時代、万葉集にはまってあの辺を歩き回ってたときに、
一晩、あそこで野宿したことがある。
ちょっと怖かった。
それだけです。
128 :
日本@名無史さん:03/02/27 00:31
>>126 珠城山古墳群ですかな。
野宿とはなかなか無茶なことを・・・w
129 :
日本@名無史さん:03/03/02 11:23
漏れ的には本当だとおもう。
131 :
日本@名無史さん:03/03/04 00:37
漏れ的には本当だとおもう。
132 :
日本@名無史さん:03/03/04 02:41
可能性はかなり高い。
133 :
日本@名無史さん:03/03/07 01:03
孝霊天皇皇女倭迹迹日百襲姫命
大 市 墓
一.みだりに域内に立ち入らぬこと
一.魚鳥等を取らぬこと
一.竹木等を切らぬこと
宮内庁
134 :
日本@名無史さん:03/03/11 00:16
孝霊天皇皇女倭迹迹日百襲姫命
大 市 墓
一.みだりに域内に立ち入らぬこと
一.魚鳥等を取らぬこと
一.竹木等を切らぬこと
宮内庁
135 :
日本@名無史さん:03/03/12 02:08
箸墓や布留0に関しては最近の研究では皆さんのおっしゃるとおり。
他スレに比べれば、理性的で建設的な議論が展開されていますね、ここって。
ただ、「同時期もしくは以前にに箸墓クラスの墳墓が無い」ってのは性急過ぎる結論です。
発掘不可能な場所、例えば現在の京都、奈良、大阪の都心部にあった可能性は
否定できないのです。
平城京跡でさえ破壊された墳墓の痕跡が確認されていますし、それが平城、藤原、平安でも
同様のことが行われている可能性は大です。
古代史の徒なら、誰もがぶち当たる壁ですね。
136 :
日本@名無史さん:03/03/12 02:42
>>135 実際に古墳があったとして、
発掘して判別できるものなのかな?
平城京の場合は都市が上に乗ってたのが、
たかだか100年ちょっとだったから、
古墳の基底部も破壊されずにすんだんだろうけど
京都や大阪の場合は・・・
137 :
日本@名無史さん:03/03/12 02:50
>>136 判別は…不可能でしょうね。
言葉足らずでした。主張はあなたと同じです。
発掘の手段が無いので、言い切れないということです。
まあ大阪は江戸中期までは殆ど湿地帯でしたので、上町台地以外に遺跡があるとは
思えませんが…あっ、現在の大阪市に限ってですよ。
大市墓ってことはそばに市場のようなものがあったのかな。
海石榴市
140 :
日本@名無史さん:03/03/17 00:53
本当だと思うけど何か?
141 :
日本@名無史さん:03/03/17 07:38
山中智恵子/著 「三輪山伝承」を読んでみれ!
142 :
日本@名無史さん:03/03/17 16:13
魏志倭人伝のどこをどう読んだら、「卑弥呼の死後築造」なんて書いてあるんでしょうか?
まあ、願望を込めて読めば何でもそう読めるって事ですか?
143 :
日本@名無史さん:03/03/22 04:26
>>142 まあ確かに「死後」とは書いてないわな。
但し生前から墳墓の築造を始めるのは常識だと思うので、それはただの揚げ足取り。
箸墓=卑弥呼の墓と決め付けるのは、今の時点では性急過ぎるってのは常識的過ぎて面白くない答えなのかな(w
卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人
更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人
復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定
魏志には、寿墓とも書いてないけどね。
逆に全て張政滞在中の出来事だという体裁になってるような。
145 :
日本@名無史さん:03/03/24 02:19
>全て張政滞在中の出来事だという体裁
うん、素直に読むとそうなる。
だがここで慰問なのはその後の台与に関する記事。
この時点でも張政は滞在していたのだろうか?
繰り返すが「素直に読めば」そうなる。だが、そんなことは有り得るのか?
その辺りのツッコミ宜しく。
『素直に読めば』っていうのは、たいがい主観的に読めばと同義なんだよな。
147 :
日本@名無史さん:03/03/25 06:34
「卑弥呼以死大作冢」と書いてあるんだからハッキリ寿墓じゃないと理解できるだろう。
148 :
日本@名無史さん:03/03/25 09:23
ひとつ言えるのは神功皇后は卑弥呼じゃないよ。日本書記の神功の段の最後
にある注約は、日本書紀が作成された後世の人が注約を付けたに過ぎません。
さらに日本書紀と三国史記とは120年ずれがあり、神功は4世紀の人物に確定
しています。これは石上神社の剣の年代から見ても文句はないでしょう。又
、神功の時代には、朝鮮半島に大規模な軍事行動を起こしていたことは確定
であり、国力的に充実していた時期で、箸塚規模の古墳を作ったとは考えに
くい。
149 :
日本@名無史さん:03/03/25 14:28
大和名所図会を見ると箸墓は円墳に見える
詳細な地形図を見ると前方部の中心線と後円部の中心に
ずれが見える
だからって、前方後円墳ではないと主張する気はないが
こんなのどうやって完全否定するのか疑問だな
邪馬台国→やまたいこく
台与→とよ
なぜに?
151 :
日本@名無史さん:03/03/25 14:57
中国人に聞いてみろ。
>>150 最終的に邪馬台国=やまとこく=大和朝廷になるんじゃないだろうな。
>>150 慣習というヤツだな。
九州でも近畿でも、山門、大和、ヤマトを探してるんだから、
ヤマトコクでいいじゃん。
いいかげん、古いしがらみは捨てようぜ。
153 :
日本@名無史さん:03/03/25 20:11
ヤマトコクでいいに200モナー
154 :
日本@名無史さん:03/04/02 22:23
台与→「と」よ
邪馬台国→やま「と」こく
155 :
日本@名無史さん:03/04/08 20:55
「臣籍ニ入リタル者」が皇族の身分を離れたものであるとするなら
その子孫は含まれないのでは?
「皇統ニ近キ者」の皇統が前の天皇をさすとする根拠は?
また近キ者が男系のみとする根拠は?
156 :
日本@名無史さん:03/04/09 01:22
157 :
日本@名無史さん:03/04/09 01:41
邪馬台国って台湾のことって知ってる。
158 :
日本@名無史さん:03/04/10 00:37
159 :
日本@名無史さん:03/04/15 20:57
台与→とよ→外宮
(^^)
161 :
日本@名無史さん:03/04/18 02:38
んで、内宮が、新興のアマテラスだな
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
163 :
日本@名無史さん:03/04/20 17:40
箸墓は台与の墓だな。
世代的にあってくるし、
台与=倭迹迹日百襲姫なんだろ。
164 :
日本@名無史さん:03/04/20 17:52
そんでもって卑弥呼=天照大神だな。
アマテラスははじめ男だったんだが
やがて卑弥呼の性格が付け加わって女になったんだろうね。
卑弥呼の墓は未だわからない、案外九州にあるのかもね。
ナイネ
166 :
日本@名無史さん:03/04/22 17:30
掘ってみたら、朝鮮人のガイコツが「こんにちわ」ぐらいが関の山。
嘘と思うなら、掘ってみ〜。
167 :
日本@名無史さん:03/04/22 21:34
>>166 大戦中に墓荒らしに入って石室の崩落に巻き込まれた朝鮮人の?
卑弥呼の正式な漢字は日巫女だと個人的には思うのですが・・・
あちらさんは朝貢に来た国には変な漢字を当てますし
読みでいったほうがいいような気も。
ヤマトトトヒモモソヒメノミコトは時代さえあってれば卑弥呼の条件満たしてるよね
弟と共同統治とか、巫女だったとか。
にしても箸でホトを突かれて死んだことになっているのはなんでやろうなw
一番大事な王であるという条件がダメだね。これは致命的だ。
170 :
日本@名無史さん:03/04/30 19:34
ホトってあそこだよね?
だからなにかの隠喩かな
171 :
日本@名無史さん:03/04/30 22:38
直喩です。
ホットなところです。
172 :
日本@名無史さん:03/05/01 15:17
箸でクリちゃんを弄くっている間に興奮しすぎて死んだ?
174 :
日本@名無史さん:03/05/01 16:02
三輪明宏の墓よ!
176 :
日本@名無史さん:03/05/01 18:19
177 :
動画直リン:03/05/01 18:22
>>170 蛇の神様に驚いたから罰が当たったつーことになってるね。
神様と交わるつーのは巫女としてありだけど。
三輪山の神。出産失敗?あそこから血ー流して死ぬつーことは。
女陰と書いてホトと読む。古語ですな。
179 :
日本@名無史さん:03/05/10 02:22
ホトを火傷した女神は誰だったかな?
180 :
日本@名無史さん:03/05/10 06:54
伊邪那美命(イザナミのみこと)
焼き畑農業の暗示と言われている。
だけど、きれいな古墳だよね。箸墓って。
182 :
日本@名無史さん:03/05/20 00:31
卑弥呼の墓だと思うのでAGE!
183 :
日本@名無史さん:03/05/20 04:18
寺沢薫著「王権誕生」で、
卑弥呼の死後、後継体制をめぐって国内が乱れたのだから、
卑弥呼の墓はそんなに大型の墓じゃないだろう(つくる余裕がない)
というようなことが書いてあったけど、どうでしょう??
石野博信著「邪馬台国の考古学」でも、卑弥呼の墓が大型墓じゃないんじゃ
ないかというような含みですよね。
現在を代表する考古学者が、ともに、卑弥呼の墓=大型墓説に懐疑的なのは、
興味深いと思いますが。
184 :
日本@名無史さん:03/05/20 04:34
箸墓の円墳部分のサイズは魏志倭人伝に言う卑弥呼の墓のサイズと
して申し分ない。
もともとは箸墓は、この円墳部分だけだったのだ。
そこに後世、方墳が付け加えられた。周囲の濠の形状が、
その構築順序と方法を雄弁に物語る。
185 :
日本@名無史さん:03/05/20 05:36
てか魏志倭人伝てそんなに信憑性があるのか?
たとえば邪馬台国の位置なんて正確なわけないだろ。
>箸墓の円墳部分のサイズは魏志倭人伝に言う卑弥呼の墓のサイズと
して申し分ない。
というが中国の史書の数字なんて当てにならんことは明白なんだが。
186 :
日本@名無史さん:03/05/20 06:04
なんで明白なの?
187 :
日本@名無史さん:03/05/20 06:46
卑弥呼の死後国内が乱れたとは言っても、魏から使者が行った時には
もうイヨの時代で治まってたんちゃうの?
そんな大乱やあるまい。
墓を作るとしたら治まってからイヨが作らせたとか
あるいは卑弥呼の生前から作ってたとか。
188 :
日本@名無史さん:03/05/20 13:08
>187
一応、倭人伝の時系列だと、卑弥呼が死んで、墓をつくって、内乱があって、
イヨが即位して、になりますよね。
私も、「径百歩」自体の信憑性に、疑問を感じます。
まさか魏使が実測したわけじゃあるまいし。
あと、上の方で議論がありましたが、布留0=三世紀中葉というのは、
石野編年でも、寺沢編年でも、無理じゃないですか??
土器の専門家が否定しているとすると、なにが根拠なんでしょう??
俺は卑弥呼=天照大神派。
で邪馬台国は北九州派。
なぜなら日食=天照の隠れた話が説得あると思えるから。
実際は、日食を神の怒りと感じた国民が卑弥呼を殺したが、翌年又日食があってびびった国民はイヨを女王にし、卑弥呼の墓を盛大に作ったんだろう。
190 :
日本@名無史さん:03/05/20 15:41
上にもあるが魏志倭人伝の数字に基づいて論議をすること自体ナンセンスと思うけど。
どれだけの信憑性があるんだ?
ところで厨な質問で申し訳ないが歴史家の間で魏志倭人伝の資料的価値ってどのレベルの評価なんだ?
第一級の扱い?
191 :
心と心のふれあいを大事にしたい関西人:03/05/20 16:46
>189
安本美典説ですね。私も彼の本を読むと北九州説に傾きます。
>190
>190
岡田英弘は、邪馬台国を論じる時だけ、{明史/1735年}で、当時の日本がまったくでたらめに描かれていることを根拠に、
1500年近く前の魏志倭人伝が、日本の内実をほとんど正確に伝えているはずがないとしています。
もっとも、それには中国側の事情があって意図的に、方位.里程を操作したそうです。
ずっと後世に作られたものでなく、一応正史として当時に作られたんだから、
史料としては一級でしょう。っていうか、古代史の史料は、ずっと後に誰かがでっち上げた偽書でない限り、
研究者たちは史料を読み込んで、この部分は信用できるけどここはおかしいとか、
そういう史料批判をしながらそれぞれの時代を再現しようと試みてるんだ。
192 :
日本@名無史さん:03/05/21 00:07
「福岡」という地名、これって、黒田藩が岡山から博多に移された時
もって逝った名前ですよね。
193 :
日本@名無史さん:03/05/21 00:21
井沢本って信じちゃダメなの?
井沢は却下
195 :
日本@名無史さん:03/05/21 15:47
>>178 成してはならぬ子を宿した罪にて、自殺か他殺。
196 :
日本@名無史さん:03/05/21 16:55
らちがあかん。
誰か一人犠牲になって、中掘ってみろ。
197 :
日本@名無史さん:03/05/21 23:10
そうだな。監獄にぶち込まれたとしても、考古学界のスターだぜ。
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
199 :
日本@名無史さん:03/05/22 04:51
径100歩
200 :
日本@名無史さん:03/05/23 20:17
うんこ
201 :
日本@名無史さん:03/05/23 20:38
>>196 そんなもん、とっくに盗掘にあってるだろ。
滓しか埋まってねーよ。
滓を世に曝してもしょーがねえから掘らせねえだけ、ちゃう?
202 :
日本@名無史さん:03/05/24 00:17
>>201 カスでも年代や埋葬されていた人物の手がかりにはなる。
203 :
日本@名無史さん:03/05/25 00:38
6年前に山の辺の道でやった野グソは、オレのこれまでの人生で最高の出来だった。合掌。
204 :
日本@名無史さん:03/05/25 01:07
安本なんて読んでいる時点で古代史を騙る資格なし
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
207 :
日本@名無史さん:03/05/28 17:13
卑弥呼の死後、後継体制をめぐって国内が乱れたのだから、
卑弥呼の墓はそんなに大型の墓じゃないだろう
208 :
日本@名無史さん:03/06/06 22:31
>207
折れもそう想う。
209 :
日本@名無史さん:03/06/07 01:00
権力者なら死ぬ前から造営を始めていてもおかしかない。
210 :
日本@名無史さん:03/06/17 12:27
普通死ぬ前に墓は買っておくものだが
211 :
日本@名無史さん:03/06/26 20:21
212 :
日本@名無史さん:03/06/26 20:25
次期政権が安定してから後継者がでっかいのを作るんだよ。
213 :
日本@名無史さん:03/07/06 19:42
後継者ってだれよ?
214 :
日本@名無史さん:03/07/06 21:05
>>213 崇神天皇、垂仁天皇、神功皇后あたりか?
215 :
日本@名無史さん:03/07/06 23:16
開化天皇は?
216 :
日本@名無史さん:03/07/08 23:43
保全あげ
217 :
日本@名無史さん:03/07/08 23:55
九州(宇佐)説を支持したこともあったけど、
いろいろ読んだ結果、
卑弥呼=ヤマトトトヒモモソヒメでケテーイでしょう。
218 :
日本@名無史さん:03/07/09 00:07
>>217 決死8代に付いてはどう思う?
崇神≒神武って解釈はどうかな。
219 :
日本@名無史さん:03/07/09 00:16
崇神の話≒神武の話だとは思うけど、崇神=神武ではないよね。
実質上の初代は崇神かもしれないけど、その前の9代は存在しなかったわけではない。
東征したのが神武の代だろうね。
220 :
日本@名無史さん:03/07/09 00:51
>>213 「男弟」(孝元)の子に大彦ってのがいるでしょ?
倭迹迹日百襲姫の墓(箸墓)を造ったのは彼じゃないかしらん。
政治力がなかったのかもしれないから国が乱れちゃったけど一時期実権をもってたんだろう。
結局、妹の倭迹迹姫(巫女王)と弟の開化が倭国をまとめたんだろうけどね。
ちなみに大彦は大古墳築造家系らしく、その墓は茶臼山古墳、その娘の御間城姫(崇神皇后)の墓は下池山古墳か、って書いてある人がいた。
221 :
日本@名無史さん:03/07/09 01:20
>>183 >>卑弥呼の死後、後継体制をめぐって国内が乱れたのだから、
>>卑弥呼の墓はそんなに大型の墓じゃないだろう(つくる余裕がない)
「後継体制をめぐって国内が乱れた」なんて、想像にすぎんだろ?
後継した男王だって、はじめはそれなりに実権あったはず。
222 :
日本@名無史さん:03/07/09 01:25
>>220 大彦命は崇神の代に四道将軍として活躍しますね。
223 :
日本@名無史さん:03/07/09 01:42
いや、箸墓築造は壱与(倭迹迹姫)の時代だよ。
224 :
日本@名無史さん:03/07/09 01:54
>>221 >>183にあげてある説がそもそもおかしいんだよ。
男王立つも国中服さず、すぐにイヨタンが(巫女王として)擁立されたんだよ。
ヒミコの男弟(孝元)はヒミコよりも前に亡くなってて、すでにその息子の開化がそれに代わって補佐してたんだろうな。
ヒミコの死後、開化の実兄の大彦が王として立つも国中服さず、イヨタンが立った。開化はイヨタンも補佐したんだろう。
箸墓はそうやって国が落ち着いてから築造されたとオモワレ。
225 :
日本@名無史さん:03/07/09 02:05
孝霊┳倭迹迹日百襲姫(ヒミコ)
┗孝元━━━━━━━━━━大彦━━━━━━━御間城姫
┣倭迹迹姫(イヨ) ‖
┗開化━━━━━━━崇神
孝霊┳倭迹迹日百襲姫(ヒミコ)
┗孝元━━━━━━━━━━大彦━━━━━━━御間城姫
┣倭迹迹姫(イヨ) ‖
┗開化━━━━━━━崇神
227 :
日本@名無史さん:03/07/09 02:11
トヨタンだよん
228 :
日本@名無史さん:03/07/09 23:58
とよタソ
229 :
日本@名無史さん:03/07/10 07:34
>>224-226 は原田大六説の発展型だな。卑弥呼(日御子)没後の権力闘争
と武埴安彦の絡みはどうなのかな?大彦命(オオヒコノミコト)というより
は武埴安彦の乱が卑弥呼死後の(内乱というよりは)クーデター未遂に対応
しないだろうか。
孝霊
‖━━━━━━┳倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)
大倭國阿礼姫 ┗(孝元)━━━━大彦━━━━━━━御間城姫
┣倭迹迹姫(壱与) ‖
┣(開化)━━━━御間城入彦
┣武埴安彦
日本書紀では、武埴安彦の謀反(未遂)で活躍する倭迹迹日百襲姫は、明らか
に倭迹迹姫(壱与)との混同だな。壱与は御間城入彦の王権の確立に貢献し、
箸墓に葬られた、と言うことか。それなら御間城入彦は西殿塚かな?じゃあ、
卑弥呼の墓は何処へ?土器は祭・政を象徴しないが、鏡・剣・玉は祭・政の
王権を象徴する。卑弥呼または壱与の没後以降は吉備の大古墳が王権の象徴
に加わる。それは御間城入彦の男性(彦)王権の確立と重なる。すると、
大倭國阿礼姫(=玉依姫=天照大御神)は平原一号墓の主ということかな?
230 :
日本@名無史さん:03/07/10 20:42
>>229 箸墓は倭迹迹姫(トヨタン)の墓だっていうのが最近有力な説なの?
倭人伝による大きさの記述からすると倭迹迹日百襲姫(ヒミコ)の墓なんじゃないの?
231 :
日本@名無史さん:03/07/10 21:23
箸墓は卑弥呼でも壹與の墓でもなく次の男王の墓だと橿原考古学研究所が発表してるぞ。
寺沢が昔から言っていたことだが河上なども認めたんだろう。
232 :
日本@名無史さん:03/07/10 21:32
今までの系図だとどうしても男系で見てしまうけど、
「オホヤマトクニアレヒメ―ヤマトトトヒモモソヒメ(ヒミコ)―ヤマトトトヒメ(トヨ)」っていう、巫女の系譜のほうが重要だよね。
崇神紀で武埴安彦の謀反を予言する「倭迹迹日百襲姫」は、ヒミコの名をそのまま継いだトヨだろうね。
箸墓の主も、この二代目「倭迹迹日百襲姫」(=倭迹迹姫=トヨ)。
ちなみに古事記では、孝元皇女の倭迹迹姫(トヨ)にあたるヒメは紹介されません。
また古事記のヤマトトモモソビメ(孝霊皇女)には、箸墓説話も、タケハニヤスの謀叛を予言するエピソードもなく、
謎の「腰裳(こしも)服(け)せる少女(をとめ)」が、タケハニヤスの謀叛をほのめかす歌を歌うだけでつ。
233 :
日本@名無史さん:03/07/10 21:55
234 :
日本@名無史さん:03/07/10 22:01
箸墓って、箸供養の塚じゃなかったのか?
割られて、汚されて、捨てられる割り箸にちょっとは感謝しろよ、おめーら!
235 :
日本@名無史さん:03/07/10 22:06
箸墓は「ヤマトト・・・」の墓かもしれんが、九州にある卑弥呼の墓とは無関係。
236 :
日本@名無史さん:03/07/10 22:10
237 :
日本@名無史さん:03/07/10 22:29
日本書紀によると、崇神=120歳、垂仁=140歳、景行=106歳
で死んだそうだからこのあたりのことはほとんど嘘ばかりだろう。
ついでに神功皇后は卑弥呼と台与を合成した仮想の人物だろう。
238 :
日本@名無史さん:03/07/10 22:33
>>237 いつの段階で思考停止してるんだよ〜
春秋暦の説が妥当だろー。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
241 :
日本@名無史さん:03/07/13 01:13
石上神社に百済王からの七支刀が現存するので日本書紀は事実を書いている
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
243 :
日本@名無史さん:03/07/17 05:12
卑弥呼の死後、後継体制をめぐって国内が乱れたのだから、
卑弥呼の墓はそんなに大型の墓じゃないだろう
と、史料を無視して想像を優先。
245 :
日本@名無史さん:03/07/18 02:12
女王と斎王は関係ありますか?
246 :
日本@名無史さん:03/07/18 06:54
王が共通
不思議なのは、卑弥呼が巫女であると言う事が定説で、
霊力の衰えから殺された可能性が有ると支持する人達が、卑弥呼に墓があるのを受け入れているところ。
持衰の例を上げると、霊力低下で殺されたのならば、祟る力も無いので野晒しの方が自然だと思う。
また卑弥呼が連合国の纏め役でしかなかった場合、何故最大の墓が建造されたのかが不思議。
もう一つ。「卑弥呼の墓の直径は百余歩」と言う記述。
キリの良い数字と言うのは、どうも誇張されている気がしてならない(気のせいと言われれば、それまでですが)
248 :
日本@名無史さん:03/07/20 14:36
>>63 >滋賀の神郷亀塚古墳 最古級の前方後円墳とされる滋賀県能登川町の
>神郷土亀塚古墳(全長36.5b、2世紀末ー3世紀初め)で木槨を確認したのは初めてという。
>同町教委は「朝鮮半島から直接伝わったのだろう。大陸との交流を考える上で本州の
>日本海沿岸から琵琶湖を経由するルートの重要性が浮上してきた」としている。
>(日経03・02・14朝刊)
邪馬台国の所在 福井、滋賀ルート周辺が臭くないか
畿内説をとるなら大本命
しかし、福井という実在しない県名を使うのはどうかと思うな
252 :
日本@名無史さん:03/07/26 15:25
みやと通り万歳!!
253 :
日本@名無史さん:03/07/26 15:44
邪馬台国は福井、滋賀周辺で決定でつ
か?
254 :
日本@名無史さん:03/08/01 22:56
大津宮は卑弥呼の真似をしたという
(^^)
256 :
日本@名無史さん:03/08/06 19:07
,,,--─===─ヽ/へ
/iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiii/ \iiiiiiiゞ
iiiiiiiiiiii/ \iiヽ
iiiiiiiiiiiiiii《 ━━━'/ ヽ━━━ ヽミヽ
...iiiiiiiiii彡/ __,.:: :: __ ヽiiiii|
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260 :
日本@名無史さん:03/08/12 01:26
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
>>247 霊力が衰えたという口実で殺したけど、祟りを恐れた、ってことはあるでしょ?
菅原道真の時代だって怨念による祟りを恐れてるくらいだしね。
憶測で可能性を狭めると我田引水になってしまうよ。
残念ながら古代史ではよくあることだけど。
百【余】歩というのは切りの良い数字なのか?
264 :
日本@名無史さん:03/08/15 16:17
平原遺跡にあるんじゃないの?
>>263 百より大きくて二百より小さいってーくらいの意味と見た。
266 :
日本@名無史さん:03/08/21 10:18
267 :
日本@名無史さん:03/08/21 10:38
箸墓=檀君
268 :
日本@名無史さん:03/08/21 11:12
269 :
日本@名無史さん:03/08/21 23:12
季刊邪馬台国の79号読んだ?
箸墓=卑弥呼の墓説批判。安本美典も頑張るね・・・
本屋で手にとって目次見てそのままおいてきた。
271 :
日本@名無史さん:03/08/22 09:01
金はらう価値ないだろ
邪馬一国は結局電波なの?
273 :
日本@名無史さん:03/08/23 15:37
箸墓、盗掘されてるのがイタイよな。
なんも残ってないのがわかってるだけに…。
宮内庁も、石室を修理の名目でしらべてくれないかな。
予算も無いか…。
274 :
日本@名無史さん:03/08/23 16:25
275 :
日本@名無史さん:03/08/23 19:17
276 :
日本@名無史さん:03/08/23 20:00
後円部の頂上が陥没してる。
おまけに石材らしいものの破片とか散乱してた。
比較的小さな平たい石を積み上げ、上に大きな天井石を置いていたんだろう。
277 :
日本@名無史さん:03/08/23 21:50
ソースきぼん
実は…ガキのころに侵入してますた。その平たい石も一個持ってまつ。
30×20センチくらい。厚さは3〜4センチ。
葺き石とかも何処かに置いてあると…。
主体部は、天井石が無くなっているか、落ちているかだと思いますた。
280 :
日本@名無史さん:03/08/24 12:41
百舌鳥古墳群から埴輪や土器を盗みまくってた香具師がいたな。
大学生が厨房連れて、ゴムボート使って。で、タイーホ。
ずいぶん前に新聞にのってますた。
どうせなら石室を調べてほしかったな。
281 :
日本@名無史さん:03/08/31 14:03
三輪山の様な独立峰(に見える)でモッコリした山は、
竜や大蛇に関係する事が多いかも。
竜王山とか竜宮山など。
三上山は百足だけど。
284 :
日本@名無史さん:03/09/11 22:58
285 :
日本@名無史さん:03/09/11 23:12
>>135-137 禿げしく亀レスですが、大阪城の本丸が元々前方後円墳だったそうですね。
この場所は、大阪城が築城される前は石山本願寺が在りましたが、
その石山とは古墳の葺き石が積み上げられた山だかららしいですね。
286 :
日本@名無史さん:03/09/12 12:18
大阪城、造る時にも石材盗りまくってるし。
大阪の古墳は大被害うけてるな。
しかし、明治以降でも、巨大古墳まで破壊してる。
287 :
日本@名無史さん:03/09/12 21:35
最近でも後円部だけ残して、前方部は道路通すために破壊したりしている。
288 :
日本@名無史さん:03/09/12 21:43
戦国時代に城塞に転用された古墳も多いしな。
289 :
日本@名無史さん:03/09/12 23:04
三輪山周辺の古墳は第二次大戦中に上部を掘削して高射砲陣地にしたとか。
290 :
日本@名無史さん:03/09/12 23:45
>>289 纏向石塚や纏向勝山だな。
そのせいで古墳の主体部は跡形もないらしい。
最古級の前方後円墳なのに惜しいことだ。
291 :
日本@名無史さん:03/09/19 13:38
この際、ご稜も含めて徹底した発掘調査を望みますね。
293 :
日本@名無史さん:03/09/25 16:10
何で陵−稜の誤字って多いのかな・・・
294 :
日本@名無史さん:03/09/27 11:04
そんなヘンな用字するの同一人物でないの?
295 :
日本@名無史さん:03/10/02 10:34
卑弥呼って、大物主の巫女だったのですか?
296 :
日本@名無史さん:03/10/02 12:59
母(桜井市出身)が小学生の頃は、まだ戦後まもなく貧しいころで、
規制もうるさくなく、子供たちは自由に古墳に入って遊んでいたそうです。
小学校の先生などが、子供たちつれて群集墳探検をし、状態の良い土器や、
鏡などを収集して、小学校に飾っていたといっていました。
纏向石塚って、葺き石が無いのに何で石塚って言われるんだろうね。
後円部から見て前方部が三輪山の頂上を向いているんだってね。
憶測
かつて石室の石材が露出・散乱していた
>296
不敬だ。織田小?
>>239 おお同志よ!
でも箸墓の主はヒミコかトヨのどっちなんでしょうねえ。要検討
301 :
日本@名無史さん:03/10/14 15:55
>>295 意味深だな。
大物主がもともと太陽神だったっていう説があったような気がするが、それはトンデモ説?
302 :
日本@名無史さん:03/10/14 16:49
トンデモじゃないよ。三輪の神は蛇神だから
303 :
日本@名無史さん:03/10/14 17:03
日本書紀(崇神紀10年)に「倭迹迹日百襲姫命」(略されて「倭迹迹姫命」とも)が大物主神の妻となる伝承があるだろ?
これが孝霊皇女の「倭迹迹日百襲姫命」なのか孝元皇女の「倭迹迹姫命」なのかよく分からないが、固有名詞的な呼称だったように思う。
304 :
日本@名無史さん:03/10/14 17:59
>>303 >>これが孝霊皇女の「倭迹迹日百襲姫命」なのか孝元皇女の「倭迹迹姫命」なのかよく分からない
だから箸墓の被葬者が卑弥呼なのか台与なのか、説が割れてるのか!
ま、ヒミコってのも固有名詞じゃないっぽいけどね。
305 :
日本@名無史さん:03/10/14 18:00
ここが噂のキチガイスレですね
スマソ、
>>304読んで間違いに気づいた。
×固有名詞的な呼称
○普通名詞的な呼称
307 :
日本@名無史さん:03/10/17 22:18
308 :
日本@名無史さん:03/10/17 23:29
女陰が邪気を祓う霊力を持つというオモシロ小説を読んだんだけど、
16世紀の南蛮人の時だったか、黒船ペリーの時だったか、
彼等に対して女陰を出した女が居て、宣教師が顔真っ赤にしたという話があるらしい。
また、昔の俗では観音というとヤッパ女陰。
現代の俗の代表である2chネラ-も官能ん様を最高神としている節がある。
↑一番カキコが多く、使われ方が相手の気力を殺ぐ場合に多い w
「箸で女陰突いた」を陵辱され自殺とも考えられるが、
神聖な処女性を犯されという事も考えられる。そもそも、陵辱とは神聖を侵す場合にも使う。
これを霊力を封じ込めた所業、または、後のヘタレがその神聖の影響力を恐れ、
ネガティブキャンペーンをしたと考えると、妄想の幅が広がり面白い。
で、↓ お約束、どうぞ w
310 :
日本@名無史さん:03/11/07 00:32
良スレ保守
312 :
日本@名無史さん:03/11/24 15:03
金印はさすがに埋めなかったと思うけど
天智二年三月 二万七千の兵を率いて新羅を討った、三輪君根麻呂将軍の
末裔ですが、何か??
314 :
日本@名無史さん:03/11/24 16:47
末裔?
そんなことどうやって証明出来るんだ!ヴォケが
315 :
日本@名無史さん:03/11/24 17:02
やっかむと素性がバレルぞ!
良スレ保守ピタル
318 :
日本@名無史さん:03/11/26 23:29
卑弥呼の墓に殉葬したということだけど、
日本の古墳から殉死者が発見された例はあるの?
それとも倭人伝のそのあたりの記事は嘘?
319 :
日本@名無史さん:03/11/27 00:03
九州の方形周溝墓でなかったっけ?
320 :
日本@名無史さん:03/11/27 00:29
あとでガセネタとわかったやつね。
321 :
日本@名無史さん:03/11/27 00:33
そんなのばっかりだなw
>箸墓古墳環濠内碑石墓碑名
>倭母母曾毘賣命墓、戊寅年十月廿日薨、御年八十四歳
324 :
日本@名無史さん:03/12/18 01:17
≫318
神戸の五色塚古墳の周濠から、円筒埴輪を使った棺が出土
殉死者のものではないかとされてまつ。
他にもありそう。
325 :
日本@名無史さん:04/01/10 03:58
後円部の頂上が陥没してる。
おまけに石材らしいものの破片とか散乱してた。
326 :
日本@名無史さん:04/01/10 04:22
箸墓は〜円墳部分と方墳部分が別の時期に建てられたんだな〜
328 :
日本@名無史さん:04/01/24 01:42
329 :
日本@名無史さん:04/01/24 23:59
卑弥呼の墓は宇佐の地にあるらしいよ。
それはまた胡散臭いな。
漏れも昔は宇佐だと思ってたけど、やっぱり箸墓だと思うようになった。
宇佐も邪馬台国にとって何か重要な場所だったような気はするんだけどね。
332 :
日本@名無史さん:04/01/25 06:40
橿原考古学研究所が箸墓は卑弥呼の墓でも壹與の墓でもないと認めていますが何か?
>>332 橿原考古学研究所の意見だけで決まるものでもなかろう
334 :
日本@名無史さん:04/01/26 01:40
>>333 橿原考古学研究所も箸墓の周濠から鐙が出た事で箸墓の築造年代を三世紀中に持っていく事は不可能だと考えるようになったのだろう。
安本が言うように箸墓の築造は四世紀後半と言う事で良いのではないか?
洩れは五世紀初めの可能性だってあと思うぞ。(w
335 :
日本@名無史さん:04/01/26 09:58
これまで世界最古の鐙は中国の南部の4世紀はじめの墓から出土した
人馬踊に刻まれた物だった。
四世紀中頃にはやはり中国南部墓に鐙が散見されるようになる。
一方韓半島に置ける鐙の出土状況を見ると4世紀末の高句麗墓から
日本の鐙に良く似た金銅張輪鐙が出ている。
そして南韓からは鐙が刻まれている埴輪が五世紀初めの墓からでた。
また百済の墓には日本の墓と全く同じ鉄張輪鐙があった。五世紀中頃の物だ。
日本の鉄張輪鐙は五世紀後半の古墳から出ている。
このように鐙の伝播して来たルートと時期を推測していくと
4世紀初めに日本に鐙が来ていたと考える事は無理である事になる。
安本の4世紀後半と言うのも無理かも知れないと言うことだ。
倭人伝には倭国には馬が居なかったと書いてあるし、卑弥呼の時代に馬が居なかったら
卑弥呼の墓から鐙が出てくることは考えられない。
つまり箸墓を卑弥呼の墓に比定する事は逆立ちしても無理と言うことは誰でも判る事だ。
何度論破されてもそのトンデモ説をあちこちで書きまわってる妄想派というひとはあなたでつか?
337 :
日本@名無史さん:04/01/26 21:57
科学的根拠を元に論破してみてくれ。
338 :
日本@名無史さん:04/01/26 22:49
339 :
日本@名無史さん:04/01/26 22:59
>>337 卑弥呼の死後250年の時を経て。
すっかり信仰の薄れた塚を戦の陣に利用した人が、たまたま残した遺物かも知れんぞ。
何か一つ見つかる度に肯定したり否定したり、もう政局状態。
宮内庁は何とか汁。
おそらく盗掘にあってるんだろから、安心して掘らせろ!
>>338 >でOSF165.布留U 甕 胴部外面より採取Beta. 184562:1790±40.B.P.
さすがにこれを信じるのは狂信者以外にはいないだろ。
それじゃあ、三角縁が2世紀になっちゃう。
ついでにこれはっとこ
>面白い資料で、中国系金属器により実年代がかなり煮詰まっている弥生中期後半〜古墳前期の土器から採取した炭化物は、
>較正年代が既存の年代観に合っている資料のみ較正年代(calBC/AD)を併記し、
>合わない資料は無較正炭素年代(BP)のみ示されている。
>好意的に解釈すれば、粗忽者が「古墳時代の開始が100年早まった」などと報道しないように誤解の元を絶ったともいえるが、
>悪意に解釈すれば誤魔化したようにも見えないではない。
hpcgi2.nifty.com/HAYAKASA/godhand.cgi#n0136
>332の
>橿原考古学研究所が箸墓は卑弥呼の墓でも壹與の墓でもないと認めていますが何か?
というのはウソ。
橿考研は,同所員の寺澤薫が「箸墓が卑弥呼の墓でも壹與の墓でもない」
と主張した論説を含んだ報告書を発行しただけ。
そもそも橿考研は創設者である末永雅雄の意向により,研究所としての
統一見解をもつことはない。
周囲の濠の中から鐙が出たぐらいじゃ年代の決め手になるめえよ。
たまたまゴミ捨てただけかもしれんからの。
やっぱり本体を掘り返して副葬品を調べなきゃしょうがねえよ。
344 :
日本@名無史さん:04/01/27 09:40
箸墓はなんで掘れないんだっけ?
345 :
日本@名無史さん:04/01/29 16:21
346 :
日本@名無史さん:04/01/30 23:16
347 :
日本@名無史さん:04/01/31 16:48
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n731.htm 以上の外来系土器は、関西地方を中心に成立しやがて各地に広まって行った「庄内式」土器と、
山陰や岡山地方で行われていた土器のタイプである。外来系統の土器が交じっていること自体は
弥生時代の各時期を通じて必ずしも珍しいことではないが、この時期になると北九州系のものは
ほとんどなくなり、明らかに関西や瀬戸内の影響が大きくなるところに重要な意味がある。
348 :
日本@名無史さん:04/02/03 13:01
箸墓の神話、本で読みました。なんて惨いの。恋愛ホラーを読んだみたい。
女の私には((((( ;゚Д゚))))ガクガクブルブルでした。痛そー。
349 :
日本@名無史さん:04/02/03 22:07
箸墓神話の器物による女性器破損は神話によくある処女割礼儀式の寓話だな。
処女割礼儀式だったら死なないっしょ?
時代は定かではないのですが(戦国時代?)、箸墓は削られていて、前方部と後円部の間に公道が横切っていたと聞いたことがあります。
本当でしょうか?
352 :
日本@名無史さん:04/02/03 22:38
女性器と矢ジリを描いた考古学遺物も出てますね。
前者は生成のシンボル、後者は神意を示すシンボルだとか。
お祭りの船渡御も、古くは葦船に丹塗りの神矢を乗せて流し、
流れ着いた場所(岸辺)がその年の御旅所となったそうです。
ヤマトトトヒモモソヒメ=神にみそめられた女=巫 なんでしょうね。
矢尻が何を意味するかは・・男なら分かるね!
354 :
日本@名無史さん:04/02/03 22:42
神話の蛇は男性器の象徴。
355 :
日本@名無史さん:04/02/04 01:49
2月14日に佐倉歴博の
「第242回(2004/2/14)「考古学から見た日本古代国家の形成」
白石太一郎(考古研究部)」
に行く人はいませんか?
357 :
日本@名無史さん:04/02/04 12:42
白石先生の「倭国の誕生」は最近の暦博による弥生500年巻き戻しをクリアするが、寺沢先生の「王権誕生」は
特に箸墓の部分で引っかかる。こういっちゃ何だけどやはり仲間ってあるんかなー。でも、寺沢先生も負けずに
C14年代測定の問題点などから、民主党の如く、食い下がって又本を出せばいい。良い商売のチャンスかも知れ
ない。
358 :
日本@名無史さん:04/02/04 20:28
どう引っかかるの?
359 :
日本@名無史さん:04/02/05 08:35
寺沢先生著「王権誕生」第八章王権の伸張、「箸墓は卑弥呼の墓か」の初めの方で「立ち入り禁止の
宮内庁陵墓のため正確な時期すら不詳であったが、一九九八年に墳丘から採集された多くの特殊器
台・壷や二重口縁壷と一九九五年以来の古墳周辺3ヶ所での周溝の渡り場や周堤、周濠の発掘によって
、その築造から埋葬までが布留0式前半に行われたことがほぼ確実になった。詳しい説明をする余裕は
ないが、暦年代は中国鏡や土器編年から見て、私は三世紀の後葉から末にかけてとみている。」
これに対して暦博発表ではAD210年(勿論誤差があるんだが)という中心値
>>340 これを称して引っかかるといったんだ。
360 :
日本@名無史さん:04/02/05 08:51
AD200‐300年頃纒向では日本列島開闢以来のイベントがあった。纒向都市の全国首長レベルの
イニシャチブによる全国民的建設。これは諸外国のような自然発生的な国家ではない。意図された
歴史上まれに見る「建国」であった。成長する国、今の日本のような与えられて作られた国が丁度
奴国のようなものとは裏腹に国民のイニシャチブの発揮された建国だった。黒船、外圧で生まれた
明治よりもはるかに健康的な誕生であった。
361 :
日本@名無史さん:04/02/05 09:08
伊藤久雄のイヨマンテ、西郷隆盛の田原坂、そこに来て天童よしみの珍島物語、よしみちゃんの
歌う歌にこそ卑弥呼の気持ちが込められているのでは。わが国は演歌の国か。
>>359 >これに対して暦博発表ではAD210年(勿論誤差があるんだが)という中心値
こんな発表、どこにあったんだ?
ソースキボンヌ。
363 :
日本@名無史さん:04/02/05 10:01
>>338 これだ。
しかし、
>>341 こういうこともある。しかし、布留0式に遅い方の誤差40年を足すと卑弥呼没年頃
となるのでおもしろいと思うけどなー。
>>363 これだって・・・・・
どこに『AD210年という中心値』っていう発表があるんだよ。
数字の根拠を求む。
>>360 AD200‐300年頃じゃあ遅すぎるだろ
366 :
日本@名無史さん:04/02/05 12:44
中心値なんて言葉を使ってるとこみるとキャリブレーションが全然わかってないみたいなんだが、どうよ?
368 :
日本@名無史さん:04/02/05 19:18
キャリブレーション=校正 ?
369 :
日本@名無史さん:04/02/05 23:09
え!!!!!! キャリブ知らないの?
>>366 いろいろ勘違いしてる悪寒。
>AD120年、 AD180年辺りが布留T式中心値。
1880+120=2000、1820+180=2000。
2000年を基準にしてないか?
BPの基点は1950年だぞ。だから、較正なしでAD.70年とAD.130年。
それから、これが較正前の数字だってわかってるか?
この時期だと、較正後、数十年程度新しくなるはずだけど、こんなきっちりした数字にはならない。。はず。
それから、『布留T式中心値』と書いてるけど、C14で出てきた年代の巾=布留T式の継続年代、じゃあねぇぞ。
>布留0式1790BP
は210年じゃなくて160年。で、この数字は多分
>>338のこれ。
>OSF165.布留U 甕 胴部外面より採取Beta. 184562:1790±40.B.P.
布留0じゃなくて布留U。箸墓はこれより50〜100年前。だから、AD60〜110ぐらい。ありえねぇ。
歴年較正したとししても・・・・・
>箸墓をAD300年辺りに置くことに固執するのもどうかねということなんじゃないのか。
これには同意するが、決めてを欠く。
その『P7 サンプル 36 ・・』でも同じ土器で(較正前で)60年の差が出ちゃってるからねぇ
それはそうと、「倭国の誕生」は読んでないけど、他書で白石太一郎は
箸墓は260〜280年ぐらいと書いてたはずなんだが・・・・
371 :
日本@名無史さん:04/02/08 08:11
較正。比較補正すること。366が可笑しいのは馬券を買うときにAさんの予想とBさんの予想の中心値を買うのと
同じで全く意味がないということじゃないのかね。自分の誕生日で1000円一本にした方が理屈にかなうということ
じゃーないんかな。
372 :
日本@名無史さん:04/02/16 02:03
孝霊
‖━━━━━━┳倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)
大倭国阿礼姫 ┗孝元━━━━大彦━━━━━━━御間城姫
┣倭迹迹姫(台与) ‖
┣開化━━━━━━━御間城入彦(崇神)
┣武埴安彦
373 :
日本@名無史さん:04/02/16 02:18
>>229 >>卑弥呼または壱与の没後以降は吉備の大古墳が王権の象徴に加わる。
「吉備の大古墳」ってどういうこと?大古墳築造家系と言われる大彦命ってやはり吉備とのかかわりが深いの?
374 :
日本@名無史さん:04/02/16 02:36
375 :
日本@名無史さん:04/02/16 05:11
これだけ大規模で複雑な墓だと、測量や設計管理で
弥生の在来技術では到底無理だと思うのだ。特に後円部分
つまり、大和連合内各地の墓制統合+親魏の象徴。
ちょっと脳内妄想か
376 :
日本@名無史さん:04/03/07 09:34
昔は宇佐だと思ってたけど、やっぱり箸墓だと思うようになった。
宇佐も邪馬台国にとって何か重要な場所だったような気はするんだけどね。
377 :
日本@名無史さん:04/03/07 12:15
親魏倭王の金印が出れば卑弥呼の墓だけど
漢委奴国王の金印が九州から出ているから、箸墓の可能性は低い。
邪馬台国には阿蘇山があって、阿蘇山で祭祀を行っているというのに、
近畿地方はまず無理。
漢委奴国王の金印てw
379 :
日本@名無史さん:04/03/15 18:01
トヨのあとのカリスマ王の墓だと思う
381 :
日本@名無史さん:04/03/16 14:24
382 :
日本@名無史さん:04/03/16 18:30
「冬でも裸足で歩けるほど暖かい」というのが「倭国」の描写だからね。
その文脈の中での「邪馬壱国」であるから、「邪馬壱国」は暖かい場所、すなわち九州にあったとしか考えられない。
奈良にあった国は「別倭」の国。箸墓が3世紀だろうが、巨大だろうが、「邪馬壱国」とは縁もゆかりもない。
>>382 素朴な質問・・・・
九州って暖ったかいの?
伊豆半島の方がよっぽど暖ったかいのとちゃう?
勿論内陸は冷えるだろうが・・・・
>>381 大和の編年をやっている寺沢薫がその可能性に言及しているにもかかわらず、
どうしてお前がそれを否定できるのだ?
お前がもっと前だという考えを持っているなら、それはそれでいい。
どのみち今のところそんな精度はないからな。
だがな、一方的に“下らないはず ”などとというデンパを飛ばしまくるのは止めてほしいな。
385 :
日本@名無史さん:04/03/16 19:38
現代の北九州は冬は寒い。厳しい風吹く玄海灘。
つうか
>「冬でも裸足で歩けるほど暖かい」
という描写は中原と比較した描写だろ
中原と比べれば九州だろうと奈良だろうと暖かい
387 :
日本@名無史さん:04/03/16 21:39
388 :
日本@名無史さん:04/03/16 21:55
>>383 プロ野球のキャンプは毎年どこでやっていますか?伊豆ですか?
伊豆に径100余歩の古墳がありましたか?
389 :
日本@名無史さん:04/03/16 22:14
390 :
男狭穂塚の測量図:04/03/16 22:22
>>387 じゃあ、わかりやすく書くな。
381はデンパ。
鹿児島も寒いからな。
冬も暖かいのは宮崎だな。
393 :
日本@名無史さん:04/03/21 22:54
冬でも裸足で歩ける程って・・・
当時の日本人は靴履いて歩いていたのか?
394 :
日本@名無史さん:04/04/06 04:08
箸墓の神話、本で読みました。なんて惨いの。恋愛ホラーを読んだみたい
395 :
日本@名無史さん:04/04/06 10:06
ホラー要素が語り部の物語記憶に際し、刺激を高める効果があったであろうとは
思うが逆にホラーなど人間の感覚に訴える部分は最初の概念が劣化せずに
伝承される可能性もあると思う。感情、感覚に訴える部分を巧みにちりばめた
物語は紙や木材などの筆記用具の無い時代口伝えにおいて効果的であったの
ではないかと思う。
396 :
日本@名無史さん:04/04/24 14:07
箸墓を徹底的に発掘する
そうすれば、何か必ず真実が出てくるはずだ
397 :
日本@名無史さん:04/04/24 19:26
発掘してここが駄目だった場合
畿内説論者は次にどこを拠り所にするのだろうか
398 :
日本@名無史さん:04/04/24 19:51
九州屋、とらぬ狸か
399 :
日本@名無史さん:04/04/24 22:30
はじめまして
401 :
日本@名無史さん:04/05/04 00:03
誰か頭いい人、これまでのレスをまとめてよ。
402 :
日本@名無史さん:04/05/05 23:38
>誰か頭いい人、これまでのレスをまとめてよ。
〜まとめ〜
絶対に結論が出ない、最高級の学問
403 :
日本@名無史さん:04/05/06 10:56
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2091/doki/hokeno.html#complement 【放射線炭素年代法がおかしい、とも正面切って書けなかったのでしょう。報告者の苦虫をつぶしたような顔が目に浮かぶような気がします】
ホケノ山の木材五個をアメリカに送ってC14を測定したところでは平均でAD115年位になるようだ。
しかし、それでは古すぎて困るので日本とアメリカの環境の違いを考慮するという形でC14で測定したところAD220年頃とでっち上げした。
すでに年輪年代もでたらめな事は判っている。
炭素年代も年輪年代もでたらめでもいいから発表してしまえば間違った年代観が一人歩きして定説になってしまう。
そこを橿考研は狙っているように見える。
みんな騙されないようにしようね。
404 :
日本@名無史さん:04/05/06 11:23
>すでに年輪年代もでたらめな事は判っている。
無茶苦茶だな。
誰がそう言ってるのか教えてくれ。
安本か?古田か?竹内か?
405 :
日本@名無史さん:04/05/06 20:09
奈文研は年輪年代の研究継続しないそうだけど。
それは無関係か?
406 :
日本@名無史さん:04/05/07 11:11
>>404 >誰がそう言ってるのか教えてくれ。
橿原考古学研究所が「色々と異論はあろうかと思いますが・・・・・」
と言っている時点で信用していないと思われ。
>それでは古すぎて困るので
笑
408 :
日本@名無史さん:04/05/09 09:36
age
409 :
日本@名無史さん:04/05/15 19:47
http://www.asahi.com/culture/update/0515/002.html 古墳時代の遺跡から出土し、「卑弥呼の鏡」とも呼ばれる青銅鏡、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)
8枚を、世界最大級の放射光施設「スプリング8」で分析した結果、一部の鏡の微量成分が中国製の同時代の青銅鏡と
ほぼ一致し、同じ原料でつくられた可能性のあることが分かった。魏志倭人伝は邪馬台国の女王・卑弥呼が魏から「銅
鏡百枚」を与えられたと記しており、これが三角縁神獣鏡にあたるとする説がある。一方で、中国での出土例がないこ
とから三角縁神獣鏡のすべてを日本製と見る考古学者もいて、分析結果は製作地論争に新たな議論を呼びそうだ。
青銅鏡のコレクションを持つ京都市の泉屋博古館(せんおくはくこかん)(樋口隆康館長)と、スプリング8を運営
する兵庫県三日月町の高輝度光科学研究センターが共同で分析に取り組んだ。15日午後、京都市で開かれる文化財科
学会大会で発表する。
410 :
日本@名無史さん:04/05/16 23:47
411 :
日本@名無史さん:04/05/24 13:18
吉備楯築双方中円型が前方後円墳に変わった理由、楯築にある環状列石
の思想は近江伊勢遺跡を初めとする東日本の思想が感じられるが、これは
特殊器台で一本化されたのであろうか。箸墓建設時吉備のエンジニアはど
こに滞在したのか。桜井市吉備の辺りか。布留0式土器編年は最近繰り上
がっているから卑弥呼の就任直後に吉備と関係の深い高霊を祭ったという
風に話を変えてみたい。孝昭というのは尾張系統でどちらかといえば前方後
方墳であり、ノムギ古墳がいいだろう。継体皇后、手白髪皇女持ってこようと
した西殿山古墳は時代的にかなり正確な陵墓比定情報に基づくものであろう
から、卑弥呼、トヨの墓の可能性が高くなかなー。てなことで箸墓は高霊あた
りでどうだろう。
412 :
日本@名無史さん:04/05/24 14:57
箸墓を孝霊(高霊は誤字)とすると楯築はだれかという問題が出てくる。
高霊の実父の偉い人、とりあえず珍彦とでもしておくか。
413 :
日本@名無史さん:04/05/28 08:02
三輪山は頂上に高宮神社・日向御子(ヒムカイノミコ)が祭
られ、これを取り巻くように磐座が配置されているが、
東は頂上に近くに密で、北西西は頂上と檜原神社と結ぶ線から
頂上から三輪神社を結ぶ西南西に頂上から中腹にかけて
反時計回りのらせん状に広く展開している。
狭井座大神荒魂神社は三輪神社の檜原
神社方向に向け、クエビコ、スクナヒコナを祭る社をおいて
すぐ北で頂上に向けては少し奥まった場所である。檜原神社
は天照大神若御魂神、イザナギ、イザナミ、狭井座大神荒魂
神社は大神荒魂神、大物主命、ヒメタタライスズヒメ、セヤタタ
ライスズヒメ、事代主神である。アマテラスは崇神が持ち込ん
だと記紀にあるので檜原神社にはその前には大物主命では
なかったのかと思わせる。三輪神社に外側に天皇社とかかれ
た小さな建造物があり、これが崇神天皇であるが、神武天皇
は全く痕跡がない。セヤタタライスズヒメはヒメタタライスズヒメ
の母神であり、ヒメタタライスズヒメは母親までを祭る破格の扱
いである。こうした全体図を見るとヒメタタライスズヒメが祭事に
あたり、山頂に上り、ヒムカイノミコ(卑弥呼)の機能を果たして
いたのかなーと思う。この山の北に夕月が嶽、穴師座大兵主神
社という別のシステムがある。モモソヒメはこうしたシステム全体
を見る位置、茅原の神御前神社に祭られ、そのそばに箸墓がある。
ヒメタタライスズヒメがAD230年頃に歿し、箸墓建設が開始される
(布留0式土器を最新のC14調査に従いこの頃と見る)。予定される
箸墓古墳の竣工に間に合わせ鏡調達使節団を楽浪に送る
(AD238年)。箸墓はAD240年頃には竣工するが誰が日嗣の儀式を
行い次期後継者になるかで前方系と後円系の間に対立が生じ、
後円系のモモソヒメが立つ。しかし、これまた老女でありAD248年に
没。この後崇神の皇女トヨスキイリヒメが斎宮として入る。これでは
どうだろう。
編年で科学測定無視するヤシは藤村
415 :
日本@名無史さん:04/05/28 10:12
416 :
日本@名無史さん:04/05/28 10:37
ヤシとは事実を万人にわかる言葉で表現できない人を言う。
つまり自分で判らないことを人に言う人のことだ。万有引力があるのに
空の星はなぜ落ちないか-宇宙が膨張しているか、ヘキ力(宇宙項)が
働いているから。宇宙は膨張していることで最初は無に均しい微小なもので
無限に近いエネルギーを持ったものであったことがわかる。それは多次元の
空間が確率的に時空と隠されたその他の空間に爆発することから始まる。
こんなことは子供でも知ってるはずだよなー。ヤシとはこんなことが全く言
えない人のことだよ。
417 :
日本@名無史さん:04/05/28 18:54
>>413 歴史板で神話を根拠に何を語ろうというのか。
神話板は他所にある。そちらに行かれてはいかがか。
大まかに言って聖徳太子以前の正確な歴史は(文書の形で)日本には存在しない
と言ってよく、その時代の歴史を明らかにするには
ただひたすら発掘&調査の結果待ちしかないのだ。
伝説など持ち出しても何が解るわけでもなく、結論は永遠に出ない。
418 :
日本@名無史さん:04/05/28 19:45
日本神話は神話の他に神代の歴史が入っている。記紀と共に風土記も
編集している。当時の姿勢者の取り組みは極めて学問的であり、異論を
併記し、朝鮮、中国の史書に言及して裏づけを取ろうとしている。これは
世界的に類のない歴史書であり、ジグソウパズルのようなその神話部分は
極めて興味のあるものである。なぜかといえば神話などの背後にある
国土の統一という社会変化が、例えば多くの侵略を受けた朝鮮、華北
等とは異なりあたかも単結晶シリコンの如く純粋であるからなのである。
神話時代の国土統一の動きはあたかも雪の結晶ができるような純粋さを
もっている。だからこれは単結晶と似ている。
>聖徳太子以前の正確な歴史は(文書の形で)日本には存在しない
聖徳太子だって平安時代に色々美化されたわけで。
今日、奈良国立博物館の法隆寺展いってきたけど、太子マンセー臭がもう、鼻につく鼻につくw
あれも科学と言うより宗教だよな。
例の那多太子像も全く「聖徳太子像」だったし。
>>419 なぜ聖徳太子の話を出したかというと、
隋書には遣隋使の話がきっちり載っており、これが日本の史書の
裏づけとなり、聖徳太子付近の歴史が「信用に足る」
となるのだ。それ以前の記述は裏づけの取れない伝説の類でしかない。
そういう意味で聖徳太子を一つの区切りとして出したのであって、
俺が聖徳太子を美化してるわけでも何でもないのだがね?
というわけで神話の世界は人によってどうとでも言える世界なので、
神話の話は専用板へどうぞ。
>>419 なぜ聖徳太子の話を出したかというと、
隋書には遣隋使の話がきっちり載っており、これが日本の史書の
裏づけとなり、聖徳太子付近の歴史が「信用に足る」
となるのだ。それ以前の記述は裏づけの取れない伝説の類でしかない。
そういう意味で聖徳太子を一つの区切りとして出したのであって、
俺が聖徳太子を美化してるわけでも何でもないのだがね?
というわけで神話の世界は人によってどうとでも言える世界なので、
神話の話は専用板へどうぞ。
>>419 なぜ聖徳太子の話を出したかというと、
隋書には遣隋使の話がきっちり載っており、これが日本の史書の
裏づけとなり、聖徳太子付近の歴史が「信用に足る」
となるのだ。それ以前の記述は裏づけの取れない伝説の類でしかない。
そういう意味で聖徳太子を一つの区切りとして出したのであって、
俺が聖徳太子を美化してるわけでも何でもないのだがね?
というわけで神話の世界は人によってどうとでも言える世界なので、
神話の話は専用板へどうぞ。
まあ、神話を基点に歴史を語るのはやめよう。
お隣の国と同じ視点に立ちたくない。
424 :
日本@名無史さん:04/05/28 21:31
まあ、神話を基点に歴史を語るのはやめよう。
お隣の国と同じ視点に立ちたくない。
425 :
日本@名無史さん:04/05/30 14:44
「箸墓=卑弥呼の墓か」スレで神話を否定するのは嵐と違うか?
426 :
シュリーマソ:04/05/30 15:08
トロイは本当にあったんだ!!
427 :
日本@名無史さん:04/05/30 15:48
宇佐神宮=卑弥呼の墓説もあるよ。
428 :
日本@名無史さん:04/05/30 16:08
比定論争はまあ置いといて、俺が「箸墓」に疑問に思っていることは・・・
墳丘は盛り土か小山でもあった土地か?
出来た頃の周囲は湖か湿地だったか(堀が無いから)?
墳丘の向きは?
>>428 >墳丘は盛り土か小山でもあった土地か?
宮内庁管理区域を掘らにゃわからん
>出来た頃の周囲は湖か湿地だったか
集落遺跡の南端だから当然湖でも湿地でもなく、普通の地面。
ただ、近くに纏向川の河道があり、前方部南側の端に洪水の痕跡あり。
>(堀が無いから)?
堀はある。幅10mほどだが。
その外側にさらに円形に近い外堀があるという説もある。
>墳丘の向きは?
地図見たことないのか?
430 :
日本@名無史さん:04/05/31 16:38
「当時の巫の多くは若く美しい少女で、きれいな服を着
て歌い舞ながら巫術を行った。巫は民間で福を祈り災い
を払うために神を降ろしただけでなく、貴族が先祖を祭
るときにも常に術を施した。北周の道安の《二教論》は
「三張の鬼法」十一事を指摘して非難し、「左道余気、
墓門解除」、「黄神越章を造り、殺鬼を操る」、「或い
は鬼帯符を恐れる」と述べている。これは、張魯の教え
の中に残存していた巫鬼道の宗教儀式を指弾しているの
である。当時、死んだ人を埋葬するには、巫覡に死者の
罪業を払ってもらうことが多く、加えて「黄神越章」の
印を押して鬼を駆り邪を鎮めた。北京の天安門前の歴史
博物館には漢の墓から出土した「黄神越章」印が保存さ
れている。そのほかの文献にも当時の鎮墓文や符が記載
されている。これらは巫鬼道が社会で活動していた証拠
である。巴蜀などの少数民族の地域では、巫鬼を信奉す
る習俗があった。そうした地域では、巫覡は神を装い鬼
を弄ぶ巫術によって布教し、財物を集め、巫鬼道はさら
に流行していた。このために、のちに早期道教が民間に
根を下ろして伝播していくには、民間の巫の風俗と融合
しなければならなかった。」
結論として箸墓は通常の古墳としての機能以外に封禅の
ため建造物、天壇、地壇の機能もあり、徐福、その集団
を生んだ秦系の山東省の中国文化を極めて深く残してい
る。特に背後の山を夕月が嶽と呼ぶなどは応神朝の秦氏
の祖、夕月の君が古代伝承を基に古代の儀式を復活させ
たのではないかということもありえるのではなかろうか。
432 :
日本@名無史さん:04/05/31 23:07
箸墓を卑弥呼の墓と思っているのは、まんが日本の歴史大好き君と桜井市北部(巻向)から天理市南部につながる剣道沿いの餅屋ぐらいだよ。地元の織田、三輪の民からすれば御伽噺だよ。
433 :
日本@名無史さん:04/05/31 23:09
とりあえず発掘してみたら?
宮内庁の圧力であるのか?
>隋書には遣隋使の話がきっちり載っており、これが日本の史書の
裏づけとなり
どうすれば記紀にのってないことの裏付けになるのか証明してくれ。
435 :
日本@名無史さん:04/06/20 10:34
魏帝に倭国使節の謁見が許されなかったという記録はないのに対して、卑弥呼は
魏使には謁見が許可されない存在であった。伝聞では非常な老女らしく、魏使に
見せると鼎の軽重を問われるようなものであったのかもしれない。高天原の決定
事項は一切官房長官が発表、実際はこのスポークスマンが自作自演していたの
かもしれない。
>>435 そんなこと大隋帝国の外交であり得ない。ばれたら使いが処刑で済まず、大きく国益を
そこなう。
まあ日本では偉い学者で平気でそういうことをいうから訳がわからなくなるんだけど・・・。
437 :
日本@名無史さん:04/06/20 17:51
隋は統一中国、魏はその何百年も前の分裂国、全然話が違う。
438 :
日本@名無史さん:04/06/20 23:27
>>435 長大というのは年を取ったという意味ではない。
439 :
日本@名無史さん:04/06/21 00:00
>>438 じゃ何?
「年己に長大なるも、夫婿なく」って書いてあるから年だろ。
440 :
日本@名無史さん:04/06/21 00:04
>>439 成人しても結婚していなかったと言う意味だよ。
「年己に長大なるも、夫婿なく」は
ふつうに老齢の未婚ってことなんじゃないのか?
「いい歳こいても独身だ」ってな意味なのか?
いくつから老齢の規定なんてないし、いつまで出産できるかもわからない。
どう考えても成人という意味だろう。
普通に言われてるように180年ごろの即位なら十分年寄りだと思うが
40で子ナシなら「年己に長大なるも、夫婿なく」もありか?
30で子ナシでも「年己に長大なるも、夫婿なく」かもしれない。
445 :
日本@名無史さん:04/06/21 00:43
当時の感覚からしたら、15過ぎて結婚していない女子は、
「年己に長大なるも、夫婿なく」だろ?
>>445 「年己に長大なるも、夫婿なく」一節でしめされる情報は
15歳以上である、子はない、ということのみなのか。
年の概念がないのに年齢を額面通り信用できないしw
弥生時代の平均寿命はいかほどだったんすか?
江戸時代は四十代くらいだということだが
449 :
日本@名無史さん:04/06/21 11:40
>>447 一期作の稲作をやってて「年の概念がない」ってことはないでしょ?
450 :
日本@名無史さん:04/06/21 11:41
平均寿命と言う概念を必要以上に持ち込まないほうがいいと思う。
もともと発掘された人骨の検査結果から得られた病痕や歯跡から推測されたものであるし
何より乳児死亡率や未生産年齢死亡率が現代とは比べ物にならないうえ、そもそも不明。
江戸中期以降の平均寿命は、五人組などのプレ戸籍情報から割り出したものであり
検体資料の絶対数や信憑性から考えても比較対照には出来ない。
しかし当時の住環境、医療能力、栄養事情などからも現代のような長寿は不可能であるし
比較的恵まれた環境にいた支配者層でも、60歳以上の者は稀有だったであろう。
初期天皇9代の寿命などもってのほか(wであるし
卑弥呼が擁立時に20歳くらいだったとしても246年には約80歳になる。
それがありえないとは言わないが、卑弥呼が複数(巫女交代)だった可能性は多いに考えられる。
451 :
日本@名無史さん:04/07/08 20:24
箸墓建設時の布留1式土器の編年を卑弥呼没年AD248年とするかどうか。最近
ホケノ山の年輪でAD210年代が出てるようだからそれより20-30年後とすれば合
うんじゃないか。ただ三輪山に真直ぐ向いていないのが引っかかる。穴師方向
というのか。
452 :
BMW ◆LAr2dQXkfk :04/07/08 20:41
高1の最初の日本史の試験、箸墓古墳ってのを間違えて箸募古墳って書いてしまった…。
いまとなっては懐かしい遠い昔の思い出だが…
なんか理由があるんだろうよ。>天皇の年齢
でないと、あんな具体的な数字挙げる理由がわからない。
それに、語り部達は、間違えれば下手すれば首も飛ぶぐらいの責任を
負わされていただろうし、現代の学者がすぐに間違いとか偽作とかいう
のは違うと思うな。
自分が小学生の時、三輪山山頂へ上った(無許可)。3時間くらいかかった。
山頂には玉砂利がひかれた所に大きな石があったと思う。
箸中古墳も気になるなら入れば?南面(保育園前)は池がないから容易に入れる。
>>454 盆休みに奈良旅行するつもりだが
三輪山侵入ってのは、
今でもいけそうですか?
素直に許可もらって登ればいいじゃん。
456の言うとおり許可もらって登れば。
自分が小学生の頃は許可要るとか知らなかったけど。
7/30〜31にかけて地元のお祭り(おんぱら祭り)あるよ。
458 :
天之御名無主:04/07/10 14:02
このスレの命題、卑弥呼かどうかは例の宮内庁規制にいかかるので議論の余地がない。
このスレを発展的にするためには卑弥呼の墓とする程度の状況証拠はあるのかどうか
としたほうがよい。これにたいして言わした貰うと、素人なので詳細は省略するが、
(1)太陽という陽的な面から見ると和歌山の国懸神社、葛城から尾張の熱田神宮、水
という陰的な面から見ると大和川水系いの水源である三輪山を軸とする銅鐸圏。
(2)軸に対して周辺的には神武は河内の鳥見山、和歌山、吉野、磯城、添、ワニ、臍身、
葛城等を攻撃、制圧、カシワラに宮殿を建設。
(3)この神武の葦原中つ国で欠史8代がはじまるが、孝昭帝のときに尾張ヨソタオ姫が
入后し、尾張との関係ができる。
(4)孝昭の子、孝安と親子の関係の形をとって多分吉備の大王である孝霊一家が
入城し、連立大王状態となり、孝霊家のモモソヒメを卑弥呼を倭国王とし、孝安を
副王(ヤマトタラシヒコ)とする。タラシ彦は金印を保持し、紫綬(タラシ)をまとうもの
という意味であろう。この時に箸墓建設に着工。
(5)孝霊系統は卑弥呼のオオヤマトヒコ、邪馬台国の官職、を占める。
(6)崇神の御宇モモソヒメは崩御。祭祀システムの構造改革が行われる。
459 :
天之御名無主:04/07/10 14:30
結論的にいいたいことは箸墓とは神武による邪馬台国の国土設計がなければ
ありえないもので、神武のコンセプトの延長線上にあるということ。しかし、神武の
コンセプトというものは筑後甘木邪馬台国設計の思想に基づいたものでそのアイ
ディアだけが民族移動なしにどうやって大和に入ったのか。神武のプロキシは誰
なのか。神武記ではオオクメを率いた日の臣、道の臣である大伴が神武の代理を
務めている。ヤタガラス、つまり、八咫鏡を使用した山岳測量などを行なう技術を
もっているようである。
そこまでの大船団とは思えないが>神武記
よれよれと数年掛けて東へ流れていったって印象しか受けないな。
輝ける初代にしては、貧相すぎる。
神武を初代とした意味は、何か象徴的な意味しかないだろうと思う。
自分が王家の血を引いていたとか、三種の神器を持っていたとか。
461 :
天之御名無主:04/07/10 18:48
オモイカネ的なフィクサーが背後にいる感じだね。
倭とと日百襲姫命(とが出づ)の古墳と云われてる箸墓古墳。
やまと、尊ぶ、(長年の戦の跡)百国(魏の鏡の数と、百余国?)襲う、姫、命(女王)
古事記、日本書紀がある程度のことを語っているのなら、卑弥呼、もしくは台与の古墳
の可能性があるかもしれない…やまととうとびももそひめのみこと…
463 :
日本@名無史さん:04/07/10 19:03
オオクメ=クメール
464 :
天之御名無主:04/07/10 19:49
大和鳥飛桃十姫。鳥はナスカ地上絵の如く配置された国土、モモソは太極。
この鳥とは東に飛ぶ形で甘木邪馬台国と大和邪馬台国の地名比較図に
現れる。モモソは桃、梨を甕にいれて十文字に埋める呪法、昨年出雲で出土。
465 :
日本@名無史さん:04/08/03 20:56
箸墓関連のC14測定をもう少し追試してほしい
466 :
日本@名無史さん:04/08/03 21:51
408 :日本@名無史さん :04/08/03 21:36
10人程度でいいのではないですかね。前に誰かが列挙したものに年代を付けると、
(現崇神陵以前の大王墓)
@纒向石塚古墳(庄内1)
A勝山古墳(庄内2?)
B矢塚古墳(庄内3)
C東田大塚古墳(布留0)
Dホケノ山古墳(布留0?)
E箸中山古墳(布留0)
F外山茶臼山古墳(布留1)
G西殿塚古墳(布留1?)
Hメスリ山古墳(布留2)
*年代は、伊達、橋本等による。
という感じでしょうか。まあ、こういのもいますので確定ではないですけど。
(大王墓かも?)
中山大塚、下池山、黒塚、東殿塚、メクリ山1号?
467 :
天之御名無主:04/08/04 22:45
468 :
天之御名無主:04/08/06 14:16
ヤマトトトビモモソにおいてわざわざヤマトとことわる意味はトトビモモソが
筑紫、つまり、甘木朝倉にもあったこと。トトビモモソとは飛ぶ鳥の陣形に
石神(亀石のようなものか)を配置した国土という意味とも取れる。勿論
仮説なんだが、吉備の楯築古墳の石が気がかりなんだなー。亀石みたいなのは
突厥族の風習なんで烏桓辺りの影響かな。馬韓に月支という国があるのが気になる。
469 :
天之御名無主:04/08/06 14:31
下記の名古屋学説では「箸墓古墳の築造終了を廻間III式1段階の中にあるとすると、
248年前後に死亡したとされる倭の女王「卑弥呼」と極めて近い時期を想定できること
になる。箸墓古墳に卑弥呼が眠っている可能性が高くなることは間違いない。
三角縁神獣鏡は廻間II式期中頃以前の墳墓から発見されてはいない。」↓
http://agatazin.jp/niwazin/sji/2003-11/2003-11.html つまり第2次拡散期こそが・・・・・・・・「狗奴国の大和侵入(孝昭帝のオワリヨソタホ姫
との結婚)」こんなことが言いたいのかな。
470 :
日本@名無史さん:04/09/01 00:17
ふむ。土器編年をいい加減に定めて欲しいよね
471 :
日本@名無史さん:04/09/01 03:23
AMSと年輪年代法に期待しよう
472 :
日本@名無史さん:04/09/02 16:29
邪馬台国は大分の豊前中津宇佐を中心とした地域
であり、卑弥呼の墓は宇佐神宮と考えてます。
卑弥呼は、巫女であったこと。
宇佐神宮そのものが、古墳の上に立てられているという言い伝えがあること。
(明治40年と昭和8〜17年の改修工事で石棺が発見されたらしい)
境外に「百体神社」があり「奴婢百余人」の埋葬地に相当?
(ここも甕棺が数個づつ数回にわたり出土)
宇佐神宮は全国八幡宮の総本社で中心に祭られている神は、ヒメ大神。
歴史的に朝鮮との繋がりも深く、古代日本の先進地域であった。
宇佐神宮は古代、広大な土地・荘園を有する強大な勢力であった。
奈良の大仏の建立にも宇佐神宮が関与している。
道鏡事件では天皇家が、伊勢神宮ではなく宇佐神宮に和気清麿を遣わして
天皇後継問題の支持を仰いだこと。
奈良時代以降1100年間も天皇家は近くの伊勢神宮に参拝すらしたことが
無いのに、国家の大事や天皇の即位時には、宇佐神宮に必ず勅使が遣わされ
ていること。
付近に京都(みやこ)郡、山国(やまくに)=邪馬国?=邪馬台国=大和(やまと)国、耶馬溪、
豊前(豊〔とよ〕の国とも昔からいわれている)中津=下毛郡中津(毛には豊の意)=豊葦原中つ国、
三毛門(みけかど)(上毛と下毛の境)…ミケヌノミコト(御毛沼命=三毛入野命=御毛入尊)と関連?
など、記紀や邪馬台国と関連の深い地名が多く残っている。
大分県中津には宇佐八幡神が降臨したとされる薦神社がある。
薦神社の御神体は、渡来人によって作られた灌漑用溜池である。
八幡(やはた)は「多くの秦氏(渡来人一族)?」。
近年天皇が朝鮮半島にゆかりを感じると発言するなど、天皇家と
宇佐−朝鮮半島に深いつながりを感じさせます。
473 :
日本@名無史さん:04/09/02 16:40
追加
山国には雲八幡と呼ばれる神社があります。
474 :
日本@名無史さん:04/09/03 01:42
自分の思い込みに対し都合の悪いことには封じ込めか。
そういう人間は進歩しないな。
476 :
日本@名無史さん:04/09/03 02:32
477 :
日本@名無史さん:04/09/03 02:36
古事記では、天照(邪馬台国の卑弥呼?)が、
出雲の大国主から支配権を奪ったという言い伝えを載せている。
邪馬台国以前にも、出雲を中心とした大国が存在した、
ということだ。
近年の考古学的な発見も、その説を補完している。
なぜ邪馬台国のことばかりが話題になるのだろう?
478 :
日本@名無史さん:04/09/03 03:07
>>475 思い込みは糞チョンの得意技だろ ( ´,_ゝ`)
チョンの歴史捏造批判は腐るほどあるから読め。
479 :
日本@名無史さん:04/09/03 03:10
480 :
日本@名無史さん:04/09/03 03:14
歴史捏造は姦コックも北チョンと同じ
韓国人の日本偽史―日本人はビックリ!
小学館 (2002-05-01出版)
・野平 俊水【著】
[文庫 判] NDC分類:221 販売価:\500(税込)
「古代の天皇は韓国人だった」「日本海は韓国海だった」「Koreaという国名は日本の陰謀」「高天原は韓国にあった」「『くだらない』は『百済ない』だった」「法隆寺の金堂壁画の作者は韓国人」「万葉集は韓国語で書かれた」…。
“最大の反日国にして最大の親日国”の韓国で一般に伝わる日本史の常識の中には、歪曲され、意図的に捏造された「偽史」が多くみられる。
韓国TVにレギュラー出演し、「最も有名な日本人」として人気を博す大学講師の著者が、韓国人の日本に対する優越思想がいかに歴史を歪めてきたかをユーモラスに紹介する。
韓国人が信じたい「日本史」に、日本人はただア然。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4094027165.html
別にさあ、朝鮮人が日本の全てを作ったとはいわないが、
古来、その地理的関係からお互いに人の交流があって
影響を与え合ってきたわけで、そんなに向きにならん
でもよくないかい?
もちろん一部の極端な思想は無視してさ。
九州の至る所に渡来人の痕跡があるのも事実なんだし。
全てを否定すると、彼らがやっていることと同じ。
我々倭人は大人でいきましょう。
482 :
日本@名無史さん:04/09/03 07:00
>>481 日本人がそういう甘い顔をして、糞チョンが付け上がったのが戦後の日鮮関係だろ。
日本文化に影響が大きかったのは、王仁など中国系帰化人だぞ。
中国文化→チョン・日本が正しい。
まあ、いずれにしても畿内説は矛盾だらけ。
畿内説を支持するのは関西人だけでしょ。
484 :
日本@名無史さん:04/09/03 10:04
卑弥呼は天照大神の一族の流れをくむ太陽信仰の巫女です。
1世紀ごろ天照一族の神武が畿内に東遷してるので
卑弥呼の時代の邪馬台国は畿内です。
1世紀にはまだ国の形はなく、神武は架空の人物。敢えていうなれば
神武のモデルは崇神天皇。つまり崇神の時代に東遷(東征)が行われた。
よってそれ以前の卑弥呼は九州にいたと考えられる。
様々な状況から宇佐の可能性が非常に高い。
486 :
日本@名無史さん:04/09/03 11:54
10minボックスでも、「箸墓=卑弥呼の墓」って言ってたけど本当?
487 :
日本@名無史さん:04/09/03 12:32
488 :
日本@名無史さん:04/09/03 12:42
>>486 箸墓=ヤマトトトヒモモソヒメノスメラミコトの墓
の可能性は否定できないが、
ヤマトトトヒモモソヒメノスメラミコト=卑弥呼
の可能性は低いからなあ。
なにも卑弥呼が全てではない。
宇佐=宗像族の墓 という考えもできる。
宇佐には宗像氏の伝説は、微塵も残ってなく、ヒメ大神の素性が
不明であったことから、後年に結び付けられた可能性が高い。
ヒメ大神は宇佐八幡建立よりも更に古くからこの地で信仰されており
記紀では神宮後背の御許山に天降られたとされているが、古来、この山は、
入山禁制の地とされ、ピラミッド伝説もあるくらいである。
おそらくは、自然の山であるとは思うが、この御許山か、現宇佐神宮境内
の亀山に卑弥呼が眠っている可能性があるのではないかと思われる。
宇佐神宮の上宮には、
一之御殿 八幡大神=応神天皇
二之御殿 比売大神
三之御殿 神功皇后
が祀られており、一見八幡神が主神のように思われるが、宇佐神宮に
行くと、その実、二之御殿が中心に大きくあり、その脇を、両御殿が
脇を固めているのが明らかである。
つまり、ヒメ大神は記紀にて歴史上、偉大とされる応神天皇と神功皇后
を両脇に従えさせる程の神であり、天皇家も代々これを認めているのである。
一地方神に普通、このような待遇を取るであろうか?
この事実が何を意味するか、考えるべきである。
ttp://www.usajinguu.com/Frame.html
その通り
494 :
日本@名無史さん:04/09/23 21:01:25
495 :
寛恕不如意背反網倫理:04/09/27 14:04:22
宇佐国でタカミムスビを祭っていた万幡姫と筑紫日向の国(福岡・筑紫平野)の首長
アメノオシホノミミ(火山地域の出自か、オシホとは噴火と読める)のペアでもって楯築
古墳(天津磐境)、箸墓古墳(天津神籬)を祀り、倭国を宗教的に統治させるため東遷
させんとしたところ、宇佐において在韓倭地より引き揚げてくるニニギ(ホケノ山被葬者)
がその役に適任であることが決定され、オシホミミは筑紫日向国に留まることとなり、
ニニギと万幡姫が楯築、纒向へと向かう。倭人伝の御座(天の児屋命)、御垣(太玉命)
も任命された。
この話に先立ち大和を含む筑紫日向国以東の倭国の支配に付き、その地域において行政及び祭祀管轄権を保有していたオクニヌシから行政権を買い取った上で筑紫日向関係者
が瀬戸内海東部に布陣された。
496 :
寛恕不如意背反網倫理:04/09/27 17:14:10
出雲というのは奈良県東南部の出雲:
「旧初瀬町の大字である。出雲国にも「出雲」、「恵曇」(『和名抄』)の郡・郷名がある。
イヅモ・エドモは同義語であろう。「八雲立つ」の枕詞のヤは「弥(いや)」の上略、雲立
ちのぼる意から「出雲(いづくも)」の語に冠する。イヅモはイヅクモの中略といわれて
いる(丸山林平著『上代語辞典』)。イヅモのイは接頭語で、ヅモはツマで端(例・切妻
造、左褄のツマ)という意味をもつ。「出雲」、「恵曇」の郡・郷名も本州の先端ということ
ではなく、同国の辺涯に立地する。サツマ・アサツマも同義の語であろう。アツマのアも
接頭語で、東をアツマと訓むのは日本文化の東進を示すものではなかろうか。
つまり、春日(かすが)と同じくアツマ→イツモは枕詞にちなみ出雲の文字を充用した
のであろう。古代語の母音(a)をみると、中央語の足柄(アシガラ)が東国方言の
アシガリに、若子(ワカゴ)がワクゴに、鴨(カモ)がコモに転訛する実例があり、大和
地名の中でも吉野郡十津川村大字高津がタコウツに、西吉野村の高原(垣内)が
タコラに転訛している。特に母音(a)が(i)、(o)に転じる類例が多い。アツマがアツミ・
イツモ・エトモに転訛する可能性がある。 」
ここに居たオオクニヌシを島根県に転地したわけだ。これが国譲りの真相。
497 :
日本@名無史さん:04/09/27 17:18:53
>>496 島根のような製鉄の最重要拠点に転封した理由は?
498 :
寛恕不如意背反網倫理:04/09/27 18:06:58
>>497 いわれて見ればおかしい。逆ですね。出雲は大和よりはるかに先進の工業地帯だ。
出雲は四隅突出型古墳文化発祥の地であり、これが前方後方墳、銅鐸文化圏とも
支障なく共存し、最終的には関東地方まで影響力を保持しているということを考えると
初瀬にあった出雲という地名は底が出雲発祥の地とするよりもそこが出雲の影響下に
あったと考える方が順当であろう。すると、筑紫日向国の買収により、初瀬に駐在して
いた出雲の関係者が本館の地に返された程度の出来事はあったのかな。
お恥ずかしい。話は変わるが、茶臼山、メスリ山などあの辺の古墳は記紀からなぜか
オミットされている。こりゃー、筑紫日向国系統の、神武的な人々であったのだが
地元勢の独立運動でもあったのかな。
500 :
寛恕不如意背反網倫理:04/09/27 18:15:18
出雲国造神賀詞というものは大和における出雲の祭祀権を確認することであり、国を
売り渡した条件を末代まあで認識してもらおうという出雲の魂胆のようでもある。基本的
に縄文人の末裔である本州の代表、出雲は、弥生の代表、筑紫日向国に対しては本能的
な抵抗の精神を持っていたんじゃないかな。
502 :
寛恕不如意背反網倫理:04/09/27 18:32:33
邪馬台国とは筑紫日向国が出雲国より買収した奈良県において魏の使節を受け入れた
ということか。ところがミイラ取りがミイラになるというか、いつの間にか山門ではなく大和
だという風に独立してしまい、主客顛倒する。伊都国の首長がニギというのはニニギ系統
ということであろうが、既に一大卒と言う大和の大目付の管理下にあった。ところがこの
卒という官職は帥升(スシ程度かな)からとったもののような感じだ。
>>500 弥生時代が大きく繰り上がって
稲作の伝搬は非常にゆっくりだったと考えられ
以前の弥生時代像は大きく覆されつつある。
三種の神宝にヒスイ勾玉が入っているのは
縄文時代からの伝統的な祭祀と繋がっており
縄文人と弥生人の対立と言うのは外していると思う。
504 :
寛恕不如意背反網倫理:04/09/27 20:06:50
高校野球の強いところvs民謡の上手なところ、現在でも出稼ぎの盛んな裏日本vz
余り保存食の必要のない表日本、・・・余りいいたとえではないけどなんだか対立軸が
ありそうな感じがするが。
>>504 交通革命が起きた現在の生活ではなく
延喜式などに書かれた古代の生活を復元して考えるべし
506 :
寛恕不如意背反網倫理:04/09/28 22:18:01
ニニギは機内(虚空)で出産したとあるが、JALに乗っていたわけでもないだろうから、
韓国帰りか、又は、ボートピープルのような感じかな。万幡姫、忍穂耳などが九州系
なのに対しこの人は吉備辺りなのかな。或いは、伊都国首長名にニギというのがあるし、
福岡県前原市の三雲南小路遺跡から出土した土器の内側に、赤色顔料の「水銀朱」
が付着していたなんてこともある。困るのは前原市だと限りなく高天原に近いのでは
ってことだな。英彦山では銅鐸圏のイザナギ的な扱いを受けているのが気になる。
ホケノ山の壷は山口県だというしね。
508 :
寛恕不如意背反網倫理:04/09/29 08:07:41
>>507 ご案内あった↓の最後の部分に論理の乱れがあるので整理してみると:
http://agatazin.jp/niwazin/sji/2003-11/2003-11.html 「第1次拡散期、すなわち、邪馬台国時代の土器は、廻間II式期を中心にした土器様式
ということになる。
第2次拡散期、すなわち、246年前後の狗奴国との抗争期に相当するのはS字甕を中心
とする廻間III式。原田幹が指摘しているようにそれまでのS字甕が東日本に向けて広が
っていたのに較べて、一転してS字甕C類が逆にヤマト・畿内に向けて広がって行く現象
があった。つまり第2次拡散期こそが246年前後の狗奴国との抗争期に相当。」
とまー、こうなる。
さて、このホームページにいうホケノ山の「配置された東海系加飾壺」は後代の特殊器
台の先駆的なもので古墳の表面を飾ったものだと思う。しかし、枕元、というか、棺に
近いところにあった、確か、橙色をしてツルツルしていた感じがある壷は山口県地方のも
ので、これは故人の出身地を表すということであったがナー。
510 :
寛恕不如意背反網倫理:04/09/29 08:30:30
銅鐸であるが、聖典としての記紀によればカグツチをその母イザナミのホトに火傷を負
わした咎により切り殺したことで、冶金集団に対する処分の終了を表していると見る。
イザナミのホトとは農水産業関連環境破壊に対する稲作民の反発(ヤマタノオロチの
モチーフでもあるが)があるが、皮肉なことに、銅鐸に取って代わる鏡も同じ原料を
使用する(ただ、初期は輸入転換により環境保全の実は達成されたことだろうが、
偽物ブランドの横行により元通りになったのではないか)。
さて、銅鐸が近江を中心、後には窯業全般につながるのだろうが、に発展する中、
合金材料の重金属は岐阜県神岡銅山近辺から出ていたものと思われる。高山辺
にこれ裏付ける古墳、地名が多い。一方水銀も重金属、ニニギは丹覡を意味し、
ニナギというのが母音調和でニニギと変化したものとすると、高天原は普遍的
(ユビキタス)であり、ニニギが岐阜から西遷し、筑紫の英彦山に天下ると言う発想
もあっていいかな。
>>510 最古の製鉄遺跡は古墳時代後期で
銅と同じ鉱山で生産されやすい鉛の同位体から、銅の生産は皇朝十二銭より。
古代には原料は中国や半島から得ていたと考えられています。
古代には縄文人が発明したとされる土器生産の方が
遙かに材木を使ったのでは?
512 :
寛恕不如意背反網倫理:04/09/29 09:36:00
>>イタイ、イタイ病などもあるしね。
ところでこんなのどう。
楯築遺跡は書紀にある天津磐境、天津神籬プロジェクトによるものであろう。
これはタカミムスビ神勅であるから、高天原議会下院(下院(行政問題)議長印
はタカミムスビ、高天原上院(祭祀問題)議長印としてはアマテラス、出雲におい
ては年次総会が11月に開催された)を通したものであった。多分第何回目かの
出雲議会で採決されたものだろう。この集会には当然ながら尾張、伊勢の代表
も参加しており、天津神籬(箸墓)の仕上げ囲繞装飾にはホケノ山の廻間土器の
使用を提案、これで東海地方の財政向上を期していた。ところが、開催国の強み
で吉備の土師集団が吉備特殊器台採用の強行採決に踏み切る。これが後に天下
の大騒動になるとはだれも思わなかったが、この時幼女ヒミコは末席にあって、
幼心に未来の不安を感じていたのであった。・・・
513 :
日本@名無史さん:04/10/04 20:12:23
すみませんが教えてください。
ヤマトトトヒモモソヒメには、倭迹迹日百襲媛命という漢字表記がありますが、
これには何か意味が込められているのですか?
そもそも、ヤマト・トトヒ・モモソ・ヒメという区切り方でよいのでしょうか?
たまには素人の基礎的疑問にもお相手くださいませ。
>>513 古事記では「夜麻登々母々曾毘賣命」(やまととももそびめ)とあります。
本居宣長「古事記傳」は、呼称が一部異なるのは古事記が省略したためと見ています。意味については詳しく書いていませんでした。
区切りはそれでいいと思います。
515 :
寛恕不如意背反網倫理:04/10/05 09:11:55
割り込んで失礼します。トトヒ・モモソで飛ぶ鳥の飛鳥、百磯城という言葉を連想します。
九州甘木朝倉地方と大和の共通地名をプロットすると東に向いて飛ぶ鳥が現出してい
ます。書紀には天津磐境という言葉があり、岡山の楯築遺跡がイメージ的に似ています。
ストーン・サークルといいますか、多くの石に囲まれた聖域ですね。こういうことから
太陽に向かう鳥、八咫烏、を信じる集団の大和の聖域に座す女王といった意味では
ないかなという気がしています。
516 :
寛恕不如意背反網倫理:04/10/05 12:57:20
楯築遺跡で発生した特殊器台、巨石のキャッシュフローを考えるとこれらの制作コストは
祭祀に参集した各国の首長に割り振られたのではなかろうかと思います。後世、神社、
仏閣、城の建設においても氏子、領民、統治下の各国に費用を負担させます。日本で
初めてこうしたことが始まったのは吉備の特殊器台きだいであり、これでもって土師という
職能集団が経済的利権を手中に収め、これがタケハニヤスの乱に見られる闘争にまで
発展したのではないでしょうか。
517 :
日本@名無史さん:04/10/05 15:09:18
ヤマト・トトヒ・モモソ・ヒメノ・スメラミコト は、
ヤマトを 尊ぶ 百国の 女帝 と解釈できないでしょうか?
何の根拠もありませんけれど・・・
518 :
寛恕不如意背反網倫理:04/10/05 15:59:16
例えば筑紫に対して大和を尊ぶというような意味だとすると既に、武帝以前の百カ国が
そのままとして、国土統一後女王共立までしている場合ですから、意味はないと思うん
ですがね。ただ、神籬に石を献納する百カ国という意味である可能性はあると思います。
519 :
寛恕不如意背反網倫理:04/10/06 17:45:28
520 :
日本@名無史さん:04/10/06 19:30:04
>>514 >区切りはそれでいいと思います。
おまえは、何か根拠を持っていってるのか?
古代の日本語は、「1〜2文字」単位で語句をつくってたんだから、
「トト・ヒ・モモ・ソ・ヒメ」と解釈すべきだろ。
「ヤマト」「スメラミコト」は、後代の美称。
>>520 それは明らかに間違い。魏志倭人伝を見れ。
卑奴母離(ひなもり)とか3文字以上の単語がある。
そもそも1〜2文字では僅かな語句にしかならない。
522 :
日本@名無史さん:04/10/06 20:08:34
>>519 お前がつくったのか?
もうちょっとちゃんと作らんと恥ずかしいぞ。
又南至耶馬嘉国
523 :
日本@名無史さん:04/10/06 21:04:03
>>512 卑奴母離(ひなもり)は、「ヒナ・モリ」だろ。
伊都国の副官・泄謨觚(せもこ)柄渠觚(へくこ)
邪馬台国の官・伊支馬(いきま)彌馬升(みまし)彌馬獲支(みまかき)奴佳[革是]}(なかて)
525 :
寛恕不如意背反網倫理:04/10/06 21:39:15
手が滑って、スマソ。ところで、濃尾平野の土器情報には参考になるのがある。
↓これだな。
http://agatazin.jp/niwazin/sji/doki2002.html ここにあるんだが「S字甕に見られる「混和材」の問題は、300年に渡って受け継がれて
いく伊勢湾をめぐる不思議な地域社会の物語である4)。特定のツチ(雲出川)を混和材
として使用するという決まりは、地域社会の道徳的なしきたり(風習)に近いものと考えた
い。そのしきたりを高度に普遍化された仕組みと仕掛けは、おそらく二世紀後葉の出来事
性に基づくものと考えているが、ここではそうしたしきたりが伊勢湾沿岸部の部族集団に
共有されていく事実を確認できればそれでよい。」
特定のツチ(雲出川)を混和材として使用するという決まり・・・これは神武の香具山の
埴を取る行為の歴史的真実を裏付けるものじゃないかと思うんだ。
526 :
日本@名無史さん:04/10/06 22:53:58
>>524 せむ・こ
へく・こ
いき・ま
みま・し
みま・かき
なか・て
528 :
寛恕不如意背反網倫理:04/10/07 19:52:49
>>525 東海の廻間土器の研究から得られた編年↓
http://agatazin.jp/niwazin/sji/2003-11/2003-11.html によっていえることから推定すると、
(1)AD200年頃銅鐸圏土器の「軽量薄甕」と「小型化・低脚化」、大和における庄内土器が
始まり、纒向の建設が開始される。これは九州を出た物部が丹後、尾張と共に大和に
南下したものと見る。神武記はこの頃の話を含むようだ。
(2)AD240年頃庄内土器から山陰色を受けた布留式土器、箸墓の建設が始まり、古墳
時代に突入。邪馬台国時代。ここで発生する狗奴国との衝突とは出雲勢力に対する天孫、物部の反乱か。
529 :
日本@名無史さん:04/10/13 23:37:59
箸墓からは、馬具が出たんだろ。
史書によれば、邪馬台国では馬は使ってなかった。
よって、卑弥呼の墓ではない。
530 :
日本@名無史さん:04/10/14 00:08:00
箸墓古墳から国内最古の馬具出土
鐙は現存する長さ15.8cm、最大幅10.2cmで、アカガシという非常に硬い
木材の柾目材を加工してつくられていますが、残念ながら下半分は欠損していました。
柄の部分には馬の背に吊るすための革紐を通す長方形の穴があけられていますが、穴の
上部には革紐を通して使用したことによる摩擦の痕跡が確認でき、この鐙が実用品であ
ったことが解ります。
http://www2.begin.or.jp/sakura/topix10.htm 魏志倭人伝
その風俗は淫らならず。男子は皆露かいし、木綿を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ
結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。 婦人は被髪屈かいし、衣を作ること単被の如く、
その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。 禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・ケン
メンを出だす。 その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html 邪馬台国には馬はいなかったのだから、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない。
531 :
日本@名無史さん:04/10/14 04:03:59
http://www.asahi.com/culture/update/0902/013.html 天理のノムギ古墳は「前方後方墳」 3世紀後半築造か
古代大和王権の中枢とされる大和古墳群(奈良県天理、桜井両市)にあるノムギ古墳(天理市)は、
従来考えられていた前方後円墳ではなく前方後方墳だったと奈良県立橿原考古学研究所が、発表した。
「卑弥呼の墓」説がある同古墳群の箸墓古墳(桜井市)と同じ3世紀後半の築造とみられる。
東海地方発祥との説がある前方後方墳が、当時の権力の象徴だった前方後円墳の密集地帯で築造されていたことについて
「対立する勢力と交流して取り入れたのでは」と見る研究者もいる。
ノムギ古墳は全長63メートルの前方後円墳と考えられていた。
96年に後円部分の古墳北東側の調査で、ほぼ直角に曲がる周濠が発見され、前方後方墳とする見方が出ていた。
今回、古墳南東側でも直角の周濠が見つかり、四隅のある前方後方墳と判明した。
周濠(幅約10メートル)から、古墳時代初め(3世紀後半)の土器が大量に出土したことから同時期築造と推定した。
大和古墳群には箸墓古墳や黒塚古墳など約60基の古墳が集中し、大半が前方後円墳。
前方後方墳は約700メートル南の下池山古墳(4世紀、全長120メートル)など数基あるが、3世紀後半築造とみられるものはなかった。
前方後方墳は、東海地方を中心に、古墳出現期(3世紀)から東日本で多く築造されている。
石野博信・徳島文理大教授(考古学)は「邪馬台国畿内説でいえば、邪馬台国が対立していた狗奴国(東海地方)と卑弥呼の死後に交流し、
前方後方墳を取り入れたとみることもできる」と話している。
>>529-530 馬具が出たのは周濠からで、後世のもの。
そもそも大陸から九州や山陽を飛び越えて畿内に普及するわけがない。
頭が悪すぎる。
533 :
日本@名無史さん:04/10/14 11:01:40
史書によれば、邪馬台国では蚕を飼ってた
邪馬台国は、やはり北九州。
『魏志倭人伝』には、倭人は蚕を飼い、まゆを集めて絹織物をしていたことが記述されているが、
弥生遺跡からの絹織物の出土は北九州に限られている。4世紀の古墳時代に入り畿内からも出土する
ようになるが、倭人伝の書かれた3世紀の絹の産地と使用していた人々は北九州の邪馬台国周辺のみ
である。畿内にはその後絹織物が東伝伝播したと考えるのが最も合理的であり、このことも九州勢力
の畿内進出を物語る状況証拠のひとつである。
http://kodaiyujin.fc2web.com/kodaisi_roman_12.html
>>532 発見された当時は、歴史を遡らせておいて、一致しないとなると
周濠だから後世のものとするのは、なんともご都合主義ですなあ。
畿内説の本山からしてこんなことを平気でするのだから、畿内説の
信憑性も知れたものと思うなあ。
>>534 周濠から発見されたのだから
建設後と言うことしか分からないのは当たり前。
>>535 そういうことではなくて、発見された際に、普通は発見された馬具から、
少なくとも、この周濠からの出土品は、通常馬具が一般的に使われた
時代とすべきなのに、逆に他の出土品と同じく馬具も古く遡らせて、
馬具ももっと古くから使われていたみたいに可能性の少ないのに根拠なく
発表する態度を言っている。
つまり、意識的か、無意識的か分からないが、ここの出土品を古く見積
もろうという姿勢がみられることをいっている。
畿内説では、AMS法を伝家の宝刀の如く振りかざしているが、こちらも
較正曲線に問題があり、誤差が100年ぐらいは新しくなることもある
らしい。
>>536 > 少なくとも、この周濠からの出土品は、通常馬具が一般的に使われた
> 時代とすべきなのに、逆に他の出土品と同じく馬具も古く遡らせて、
これは同感。
> 畿内説では、AMS法を伝家の宝刀の如く振りかざしているが、こちらも
> 較正曲線に問題があり、誤差が100年ぐらいは新しくなることもある
紀元前800-400年は曲線が寝ていて、年輪の少ない試料ではお手上げだけど
弥生後期から古墳時代はそれほど酷くない。
補足資料T 「炭素14年代測定法」
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/news/index.htm
なんだかなぁ・・・
馬具Aは土器aと出土した。
馬具Bは土器bと出土した事例がたくさんある。
土器aと土器bでは明らかに時間差があり、土器aのほうが古い。
したがって、馬具Aは古い。
単純化すればこういうことなんで、後ろ指を指される理由は
これっぽっちょもないわけだが。
>>538 全然違う。馬具は石室から出土したものではなく
周濠では年代の上限しか分からない。
>>540 上限は周濠が掘られた年代(古墳が作られた年代)
>>541 だったら下限だろ。
それに、誰がその馬具の年代が古墳築造年代なんていってるのかな?
まったく、わけわかめだな。
箸墓出土の馬具は、およを20〜30年分と見られる20〜25cmの固く締まった植物堆積層から多量の布留1式土器とともに出土。
出土状況は、上層からの落ち込みとは考えられないものなので、この馬具が周濠に入ったのが布留1式期であることは動かせない。
いっぽう、『通常馬具が一般的に使われた時代』とされているのはおよそ5世紀のことで、須恵器生産開始後。
布留1式と須恵器生産開始までの間に時間差があることは考古学的事実なので、
布留1式期(以前)であることが確かなこの馬具が、『通常馬具が一般的に使われた時代』より古いものであることも動かしようがない。
>>542 大きな遺物は下層に潜り込んでいることがあるから注意が必要だ。
昔、縄文の馬の骨と言われたものをフッ素分析したら
ずっと新しいものばかりと判明した例がある。
だからね、注意して見ても、固く締まった層だから上からは入り込まないんだよ。
>>544 圧密を受けて「固く締まった層」になっているのは現在で
当時はそうとは言えないだろ。
>>545 それなら上の層のものと混淆するだろ。そもそも軽い木製鐙がそんなに深く沈むかいな。
『問題は残る』といってるのは、記者の感想だな。意味なし。
重い土器すら混交してないのに、木材が沈殿した泥の中まで沈み込むはずないだろ。
いいかげんあきらめろ。
>>548 重い土器は当然混交しているはずで、ないと思うのは頭が悪い。
未固結の泥の中に入り込むのは容易だろ。
現在の状況と古代の状況を混同させるとはお粗末すぎる。
>>549 『当然混交しているはず』ということは、混交していることを確認しているわけではなくお前の願望だろ?
混交してたら担当者が年代を布留1と発表するわけないじゃないか。
>>550 地層的に混交していると言ったのだ。
周濠に落ち込む土器は墳丘に立っていた特殊器台の類くらいだから
様々な時代に周濠に落ち込んでも、土器の型式は同じ。それだけのこと。
>>551 お前ぜんぜんわかってないな。
>様々な時代に周濠に落ち込んでも、土器の型式は同じ。
こんな事実はどこにもないよ。周濠からは実にさまざまな土器が出てくるし、
層位がきちんとしていれば、上層の土器のほうが新しい。
事実、鐙が出た発掘地点では最下層には布留0、その上に鐙が見つかった布留1の層がある。
混合してないとすると、布留1式が実際は、もっと新しいんだろう。
そう考えると、土器が古いとするために起こる、他の畿内説の矛盾も
全て氷解する。
そうすると須恵器ももっと新しくなって矛盾はさらに拡大しますが何か?
土師器系と須恵器系の時間軸って確定してるのか?
相対的時間軸は確定してる
557 :
日本@名無史さん:04/10/16 12:37:03
須恵器系でさえ正確な年代は分かっていない。
また、寺澤編年は、須恵器の登場を400年とし、弥生の終末を200年と
見てその間を土器の種類で均等に割るといった相当にアバウト。
それは実年代の話ね。
それにわかっていないといっても限度がある。
559 :
日本@名無史さん:04/11/07 16:34:05
なんで?
560 :
日本@名無史さん:04/11/26 09:06:55
実年代はアバウトでも、順序つまり相対的には正しいと言える。
561 :
鳴海孝之:04/11/26 09:39:37
卑弥呼の墓は円墳で百歩だと
かかれているのに、3世紀の古墳だからという
理由で無理やり、前方後円墳で200m以上の
箸墓が卑弥呼の墓だと強弁するのが
考古学界のやりかたですか?まあ捏造もしまくりの
ようですし、相手にしてませんがねw
箸墓より古いホケノ山(2C末)等がすでに前方後円墳だという事を考えると、
「箸墓は築造当時は円墳で、のちに前方部が付加された」という説は信じ難い。
でも怖いのは、物凄く多数の学者や発掘担当者などがあれを卑弥呼の墓だと考えていることだな。
考える脳みそない連中がよってたかって古代史を捏造しだすと、こんどは自分にやばい資料は破棄
しだすかもしれない。
もうカルトだね、これは。歴史を捏造することの罪が深いかわかっていない。
564 :
日本@名無史さん:04/11/26 18:22:08
マキムクにはまだ発掘していない小さな円墳がいくつかあるんでしょ。
その内の1つにちげーねー
565 :
日本@名無史さん:04/11/29 17:32:14
まあ、天皇陵を片っ端から発掘すればかなり明らかになることが多いんだけどね。
宮内庁は決して許可しません。
朝鮮半島との強ーいつながりがあからさまになっちゃうからね。
そしたらチョンどもが益々鼻高々に増長しちゃうしね。
566 :
日本@名無史さん:04/12/16 01:12:55
>>565 さすがに、そんな嘘だらけの文章は誰も信用しない
567 :
日本@名無史さん:04/12/16 21:04:36
>533
>『魏志倭人伝』には、倭人は蚕を飼い、まゆを集めて絹織物をしていたことが記述されているが、
>弥生遺跡からの絹織物の出土は北九州に限られている。4世紀の古墳時代に入り畿内からも出土する
>ようになるが、倭人伝の書かれた3世紀の絹の産地と使用していた人々は北九州の邪馬台国周辺のみ
>である。
弥生時代の絹織物は鳥取県の青谷遺跡から大量に出土してるよ
九州だけ絹を生産していたわけではない
4世紀末から5世紀初頭の岡山県柵原町の月の輪古墳からも絹織物が
大量に出土してるよ
弥生時代の九州の絹織物は吉野ヶ里遺跡だけだろう 出土してるのは
九州説優位の根拠には全然ならないよ
568 :
ぴかそ:04/12/16 21:33:40
卑弥呼の墓でないことはたしかだな!卑弥呼は九州に眠ってる 卑弥呼よりは壱与のほうがすっきりするよ!箸墓は卑弥呼じゃなく壱与の墓だ
569 :
日本@名無史さん:05/01/02 01:00:13
570 :
寛恕不如意背反網倫理:05/01/02 08:15:33
おめでとうございます。
箸墓は当時の倭国としては規模、設計が画期的であり、兵主神社、太陽観測を意識、三輪山もある程度考慮に入れているようです。
墳頂の特殊器台は岡山楯築遺跡との関連を示唆し、前方後円墳が中円双方墳の方形の一つを除去したのではないか
とも思わせます。中円双方墳、石像はユーラシアの突厥族の古墳に特徴的であり、双方については太陽の出没との関係
が推定されています。突厥はスキタイ乃至はターリム盆地に入ったトカラ語族経由ヒッタイトの鉄文化を持っていたのでは
ないかと考えているんですが、馬韓には月支国がありますから、突厥・月支が弁辰の栽鉄に従事しており、これが山東半島
の秦(徐福伝説)の流民などと共に弁辰で倭国の連中と採鉄事業をやっていたが、資源が枯渇し、当方に引き上げる倭国
の集団に混じって渡来したのではないかと考えています。渡来集団は九州北部、岡山を経由して奈良盆地に入ってきて、纒向
建設にも参加したんじゃないでしょうか。箸墓は、もちろんその他の古墳同様墓の側面もあったでしょうが、多分に公共的なもの
でなかったんじゃないかと考えているんですが。まず、検討すべきは兵主神社との関係であり、なぜ山東省と関係の深い蚩尤を
祀る神社が忽然と登場するのかということでないでしょうか。
箸墓≠特定個人の陵墓
箸墓=祭祀施設(言うところの磯城神籬)
って事は無いかな?
後円部の墳頂に巨大な柱をたて、依り代としての祭ったとか。
572 :
日本@名無史さん:05/01/12 19:44:02
とりあえず、何人埋葬されているか確認してみるのはどう?
573 :
しばらく:05/01/12 19:55:53
574 :
日本@名無史さん:05/01/31 01:34:03
天津神籬って、天の神『籬』ってこと?
1 名前:奈良都民[( ・∀・);・∀・) (・∀・; )・∀・ )] 投稿日:03/02/01(土) 01:11
平成3年の2月から約2年
息が長いね
576 :
しばらく:05/01/31 08:11:11
>>574 講談社日本書紀(上)巻第二神代下p66参照。
ここにいう天津神籬、天津磐境を古代の遺跡をその重要性、推定年代の近似
によって勘案、箸墓古墳を楯築遺跡と考えます。ここでは宝鏡についての祀り方
の指示がありますが、崇神天皇が実行していた方法はこれを忠実に守っています。
大物主の司祭者を天孫系のミホツ姫にする決定もあります。これは三輪神社の
前にミホツ姫の神社が残っています。高天原ナショナルプロジェクトとして八百万
のコンセンサス、少なくとも、北部九州のコンセンサスをもって実施されたのでしょう。
天孫のオオナムチへの譲歩はp65にもあり、高速帆船、安川の勝鬨橋というのが
面白いのですが、ヤソタケル、ヤソジマなどと一緒にこの安川を大和川と読むと
オオナムチの三輪神社へのアクセス確保と考えられます。
577 :
しばらく:05/01/31 08:27:29
途上国である近畿に対してこれほどの援助ODA供与を出せる高天原政府は
もはや限りなく日本政府に近いものであった感があります。オオナムチの最終合意
は出雲神賀詞として残されていますが、日本国建国を表すものでしょう。だが、
倭人伝は女王共有を建国としたほうがいいようなニュアンスをもたせます。女王とは
初代王、三輪山の神の妻、イスケヨリヒメであり、三輪神社は日本建国の根元と
考えられます。日本という国が高天原の直接民主制度の合議による議会制君主
国家とした誕生したということは記紀の伝えるとおり子々孫々にまで伝えられる
べきことではないでしょうか。
578 :
しばらく:05/01/31 08:50:39
579 :
しばらく:05/02/05 21:30:59
>>577 三輪神社について、初代イスケヨリヒメもいいのですが、ヤマトトトヒモモソヒメ、
これは天かける大女帝といったイメージの例のヒミコ感じですが、他にも
セヤタタラヒメ(摂津方面か)、イクタマヨリヒメ(生駒・河内方面か)なども多少関係
がありそう。三輪神社の摂社から見てイスケヨリヒメ、モモソヒメの2人が主要なよう
ですね。
580 :
日本@名無史さん:05/02/16 05:20:14
実は戦前、宮内省が箸墓古墳を資料作成のため発掘を行っていた。
そこで発見された衝撃の真実!!
だが、宮内省にとって極めて都合が悪い内容のために
真実を隠蔽することにしたのだ。
そうして真実は永遠に封印される事に。
581 :
しばらく:05/02/16 12:50:31
兵主神社の箸御霊、セヤタタラと蚩尤が似ているなどから箸墓は秦韓系の女王
を祭ったものと考えられる。しかし、伝承ではホトを突いて死んだといわれるのは
族の祖霊、秦徐市の霊のこもる鏡の破鏡により秦族、物部、出雲が天孫に服従
するというプロセスの一環ではないのか。前方後円墳は方格規矩鏡を三次元展開
するという、倭人の発明であり、中国の模倣ではないと思う。また兵主部というか、
秦族、天日槍というものは完全な倭国政府、高天原議会(共立女王制時代におい
ても)の厳重な管理下におかれていたことは倭人伝の伝える倭国の峻厳な規律
から察することができる。
582 :
しばらく:05/02/16 13:22:05
秦韓系の女王というのは間違いだな。共立された和邇系氏族出身者だろう。
鰐になって子供を生む、井戸(曽根遺跡)、桂の木などの神話が九州系と
河内系の関係を示唆しているようだ。
583 :
しばらく:05/02/16 17:54:16
↑要するに神武などの九州系は招聘されて吉備、河内などには言ったが大王の
ポストは女系にするということに決定され実質的には和邇氏が支配した・・・これを
もじった神話だろう。
宮内庁死ねよ
なんでごくごく一部の狂信者が日本の歴史封印とかできるんだよ
585 :
日本@名無史さん:05/02/27 16:13:08
つーか、歴史封印してるとかいう妄想説のひと、まだいるんだ。。
586 :
鴨禰宜:05/02/28 20:58:13
神道、天皇制、政治がごっちゃになっていて、そこにきて日教組だの、左翼だのが
騒ぐ。だから全体として進歩がない。神道とか、天皇制の側で積極的に宗教と科学の
分離統合を行い、天皇制、神道としてはお賽銭、寄付金、放映料等で独立会社にして
もらいたい。政治は天皇制、神道に経済に結びつく法的な保護を与え、恩給生活者
の票集めはやめてもらいたい。日の丸、国旗が敬愛される教育をしてもらいたい。
全体主義国家と国際的に連帯、団結するのはやめてもらいたい。古墳なんかも放って
おくとなくなっちゃうぞ。
587 :
日本@名無史さん:05/03/19 14:53:08
箸墓の箸って、「おはしの国のひと」の「はし」ですか?
>神道、天皇制、政治がごっちゃになっていて、
それはおまいの頭の中だろう。まあ宮内庁とかは実際に戦前とおんなじように
思って行動してる馬鹿もいるようだが。
すくなくとも新しい埋葬形態や、新しい副葬品が出てくることはもうないのは事実だ。
590 :
鴨禰宜:2005/04/04(月) 15:20:43
こんなとこや人に隠れて馬鹿馬鹿言うな!マネーをまもれ!
ところで箸墓は古墳時代開始の画期的遺跡だが、これが兵主神社に向かっている。
兵主神社は蚩尤を祭る神社、秦系の神社だ。更に兵主神社の先に夕月嶽がある。
融通王、夕月君は秦氏の王、秦始皇帝の子孫だ。現在C14のおかげで箸墓建設
開始、布留式土器の始まりは3世紀の中庸頃と見られる。纒向の持ち込み土器は
全国各地のもので渡来系のものも少量はあるという。完成期には吉備の特殊器台
などが使われているらしい。周濠からは世界最古級の鐙が出土している。
このことを明確に説明する人の話は聞いたことがない。
漏れを馬鹿とするよりこうしたことがおかしくないほうがおかしいのと違うか。
漏れは応神朝とされている夕月君、天のヒボコの渡来は古く、神武と共に3世紀の
初めに豊前から播磨経由で纒向、熊野に入ったと思う。この移動の動機には修験道
の原型である鬼道の宗教上の儀式が絡んでいるのではないかと考えている。
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-kamigami.html 神奈備さんの↓
鎌倉時代に記された『彦山流記』によれば、「権現は天竺の摩訶提国(まがだ)から
五剣を投じ、唐の天台山を経て日本に渡来、彦山の般若窟で第一の剣を発見し、
そこに八角三尺六寸の水精石となって垂迹した。その後、次々と残りの四剣を求め
て熊野に移り、のち再び彦山に戻った。」
この中には非常に古い時代、つまり3世紀初頭の神武のころからの伝承が残っている
のではないだろうか。
591 :
日本@名無史さん:2005/04/20(水) 09:02:15
3世紀初頭の伝承いいねぇ
592 :
日本@名無史さん:2005/05/06(金) 00:14:15
うそ臭い
593 :
日本@名無史さん:2005/05/06(金) 15:49:11
朝鮮でも前方後円墳が見つかっているが、年代が日本の方が古い。したがって日本の古墳が朝鮮に伝わった可能性が高い。
4世紀の頃は「日本が朝鮮を支配した」と日本、中国、朝鮮の歴史資料にも書かれており、このことを裏付けている。
要するに当時から朝鮮は日本の属国だったわけだ。
だからいわゆる渡来系の品といわれるものも渡来人がもたらしたものではなく、当時、朝鮮を支配していた日本人が自分で持ち帰ったものだ。
日本で朝鮮の品が見つかるのは日本が当時朝鮮を支配していた証拠である。
594 :
鴨禰宜:2005/05/06(金) 18:11:06
箸墓は兵主神社の蚩尤など秦の遺民の持つ方士、原始的銅鏡、鬼道、原始的
修験道の思想に基づく邪宗門の邪馬台国の象徴なのか。それとも、内行花文鏡、
方角規躯鏡がシンボライズする天照の太陽信仰なのか。つまり、三輪山を斜めに
見るのは既に地祇を超越した天孫の世界であったのか。
http://www.unisys.co.jp/KANSAI/manyo/siki/s6.html やはり、動員された人の数は膨大なもので、昼夜兼行の工事であったと言われる
からには空前絶後、この時点での日本国誕生のモニュメントであったのか。
考古学的に始めて国土が統一されるのは布留式土器、箸墓であることは揺るぎない
事実だ。やはりこの円墳部分の高さは天孫の勝利を表すと見たいが。つまり、出雲
系は楯築遺跡と共に天孫に屈したと。
595 :
鴨禰宜:2005/05/06(金) 19:21:11
天照が岩戸に隠れたということは、すなわち、平原の女王は崩御された。
しかし、岩戸が開かれ復活したと言うことは、天照2世が生まれたと言うことになる。
天照と豊受大神は何故ペアーなんだろう。邪馬台国の女王体制は卑弥呼、トヨ
の2名で終り、その後は春日神社方面でプロフェッショナルな女王系列の時代と
なるが、次第に男性も表舞台に出てくるようになるのだろうか。将来、佐紀盾並も
含めて古墳が発掘されないことには何も分からない。
596 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 14:09:25
age
くだらねえ。
掘れる、古い、大きい、ただそれだけ。
それ以外に卑弥呼と結びつけるものなどないのに。
だから古代史学者は馬鹿にされるんだよ。俺の友人達や知り合いの
研究者も古代史だけは(苦笑)って馬鹿にしてるヤシが多いもん。
(某企業の研究員で、理系の知り合いが多い。)
599 :
日本@名無史さん:2005/05/20(金) 17:13:02
age
600 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 22:42:39
600get
青纒向 赤纒向 黄纒向
602 :
鴨禰宜:2005/05/30(月) 10:20:13
三輪山の麓纒向の付近に穴師の里がある。この近所は金屋子神をはじめ製鉄に
関連する名称が多い。三輪神社にもセヤタタラ、ホトタタラ、ヒメタタラなどタタラと言う
女神が多い。三輪山北麓にはイワクラガ多いが、この山が聖域となるのは後の世で
あり纒向時代には墓場だったと思われる。イワクラを墓場にするのはモンゴル系だと
言う。モンゴル系は鍛冶が得意といわれる。つまり、纒向周辺に移動してきた初期
邪馬台国集団は香春の製鉄集団であり、それらが祭った神は金屋子神だったので
はなかろうか。その中心にいた邪馬台国のヒミコと言うのは香春で辛国息長大姫
大目尊を祭っていたシャーマンと見たい。つまり、セヤタタラ姫として摂津付近に
上陸、母系でその子のホトタタライスケヨリヒメまたはヒメタタライスズ姫とか言うもの
が初期の邪馬台国の女王であろう。箸墓はヤマトトトヒモモソヒメであるから、
少なくとも国名ができたりした後だろう。ただ、箸墓の向く先に蚩尤を祭る、すなわち、
秦韓王族がまつったであろう兵主神社があるのが気になる。これは秦韓での製鉄
事業が秦氏と共に行われていたことを意味するのだろうか。北九州甕棺・支石墳
文化には兵器型銅製祭器が多いことから武器の神様であり、徐福の出身地山東省
の兵器の神蚩尤を祭る風習があってもおかしくはない。
603 :
鴨禰宜:2005/05/30(月) 10:39:47
倭国乱については寺沢さんが多くのサジェっションを出してくれているので、それを元に
復元していく。先ず最初は平原女王の葬儀でここで岩戸儀式が発明され、鏡の分配に
よる国土建設案が策定される。これは銅鐸用の銅資源を鏡製造に使用し、鏡に改鋳す
ると言うものであった。出席した出雲代表はこれを出雲帝国に対する反逆と認め金印、
銅インゴットを求め志賀島を急襲、伊都国を破壊し、参戦した吉備は丹沙を持帰り、
出雲は戦利品の大量の銅インゴットを押収した。筑紫王朝の支配層は日田、戦闘部隊
は九州南部に撤退。出雲は四隅突出墳宗教で裏日本安曇族地域を席捲した。
604 :
鴨禰宜:2005/05/30(月) 10:48:00
豊前に移動した天孫族は丹後・尾張と手を結び出雲に圧力をかけ、吉備に投馬国を
建設し出雲のインゴットを放出し鏡の生産を始める国土建設を提案、工人を移動楯築
で主と建設を進めた。しかし、これに対し出雲の妨害が入り銅インゴットは銅剣に改鋳さ
れ荒神谷に秘匿された。
605 :
鴨禰宜:2005/05/30(月) 10:56:05
天孫族は出雲が難攻不落であることを考えた天孫族は次に河内の銅鐸原料備蓄に
目をむけ九州南部の兵を河内に向けた。紀伊のゲリラによる厳しい戦いの後に天孫
族は葛城を拠点に山之辺を攻撃、用地を確保、纒向を建設しこれに発祥の地筑紫の
ヤマトの名称をつけた。
606 :
鴨禰宜:2005/05/30(月) 11:07:30
既に吉備にまで移動していた鏡つくりに河内、南近江の集団を加えて巨大な鏡工場
を建設使用とする邪馬台国の計画は遅々として進まず、各地の反乱だけが増加した。
こうした時、銅鏡を求めて大陸に入った卑弥呼の使節団は公孫の没落と魏との国交
という歴史的転換点に遭遇、魏から夢ではないかと思われる鏡が贈与されることとな
った。ヒミコと言う消耗品シャーマン(八卦があたらぬ場合は殺される持衰のようなもの)
は一躍天を飛翔する鳳の如き(10回とぐろを巻くオロチか)百城の帝王に昇格した。
607 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 15:05:48
鴨禰宜氏
もう少し解かりやすい要約キボンヌ
608 :
鴨禰宜:2005/05/30(月) 19:55:40
(1)平原女王の死後、各国首長が臨席、奴国王はオオシホノミミ(倭国王)を
名乗り、当時香春にいた月氏系スサノオ族を出雲に追放することと決定、
岩戸儀式が行われ鏡の配布による国土建設が検討される。スサノオは伊
都国の銅備蓄、辰砂、刀剣などの財宝を奪って逃げる。
(2)裏日本一体に四隅突出墳文化圏を形成し、権力を保持していた出雲族は
これに対抗し、同じ海人族である伊都国勢力、ニギハヤヒ、と結託、ニギハヤヒ
は遠賀川下を制圧後、丹後から河内に進出、投馬国を結成し近畿地方を制圧。
(3)オオシホノミミ、いわゆる、天孫族は日田から豊前に進出、瀬戸内海シーレー
ンの確保に努め東南九州山岳民族、隼人を動員、鴨族等投馬国内の反体制派
分子と結託、紀州南部から葛城に向けての攻撃をかけ大和を制圧。
(4)ウマシマジ講和会議が開かれ、出雲との条件付撤退条約が締結される。出雲
神賀詞。
(5)尾張などを中心に纒向建設が始まる。
(6)纒向ヤマタイ国の卑弥呼は摂津・河内の豪族三島ミゾクイ家の出身である
が、それが君臨した鬼道シャーマン政府は豊前香春の秦氏鬼道・月氏・タタラ・
鋳銅工人集団だった。警備担当は隼人であったのか知れない。
(7)最後の卑弥呼の死の10年ほど前に箸墓建設が終わりかけ、鏡の調達の必要
があったのではないか。
609 :
鴨禰宜:2005/05/31(火) 15:53:23
弁辰接塗國と言うのが弁辰摂津国租界だとすればセヤタタラヒメ系統の卑弥呼は
弁辰からの帰国子女であった可能性はある。但し国産鏡の生産についてはやはり
香春の技術導入はあったんじゃなかろうか。三島ミゾクイ家は本来沢良宜の銅鐸
製造工人グループであったはず。
610 :
鴨禰宜:2005/05/31(火) 19:47:34
三島ミゾクイ部族は本来的に銅鐸製作にかかわる部族であり、出雲とはいい関係
ではあろうが、香春の鏡作りとはよいとは考えられず、箸墓建設の前には吉備系
のモモソヒメが卑弥呼であったとするのが順当となろうか。
611 :
鴨禰宜:2005/06/01(水) 14:30:15
612 :
日本@名無史さん:2005/06/03(金) 03:03:25
出雲族(弥生人系、朝鮮人系)の支配する畿内に、日向天孫族(縄文人系、九州隼人系)
が九州から瀬戸内海沿いを通り岡山を経て攻め込み、政権をとった(神武東征)という
ことについては、邪馬台国畿内説も否定はしてないんだよね。
613 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 10:55:49
畿内というのは甲子園、天孫族と言うのは各県の高校野球優勝校、たまたま優勝した
高校の話が残って神武になっちゃったんじゃないの。卑弥呼というのは宿屋の女将。
>卑弥呼というのは宿屋の女将
それはないだろうw 一応共立されて超大国・魏に遣使したんだし。
615 :
鴨禰宜:2005/06/04(土) 06:17:45
他のスレでも出したんだけど卑弥呼は八岐(八幡)鳥飛百済姫、すなわち、安本
さんが甘木朝倉/大和地名対比でプロットすると浮上する、東に向いた鳥の
形に日置部が都市計画をおこなった、荘厳な日の鳥(多分タタールがロシアに
持ち込んで火の鳥になっちゃったんだろう)、出雲語では天のヒナトリ有事陣形を
取る屯田兵に似た集落群を統合指揮する最高司令長官であったとも思う。
百済はこの際モモソと発音する。これ、母音調和という。
616 :
鴨禰宜:2005/06/04(土) 09:23:37
百済には古璽王AD234-286年なんてのが大国主と発音が似ているが、関係は
どうなっちゃってんの?
617 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 09:41:16
久爾辛王(420-427)の方が似てねー?
百済本紀には珍しく生母の名が載っていて、
「妃の八須夫人は子の久爾辛を生んだ」とあるよ。
618 :
がいやまん:2005/06/05(日) 17:18:33
619 :
がいやまん:2005/06/05(日) 17:38:15
620 :
がいやまん:2005/06/06(月) 11:49:02
>>620 記紀と卑弥呼に関係有ると考える方が無理ないか?
622 :
がいやまん:2005/06/06(月) 18:00:53
関係なしとするのは無理と思うが。
>>622 どうかなぁ?
関係付けるべく証拠が何も無いんだから。
そりゃあ記紀が信頼に足りうる歴史書なら
考慮しても良いけど、記紀じたいあんま信用
出来る文献じゃないから。
624 :
がいやまん:2005/06/07(火) 08:25:21
マターリ、でいいんじゃない?何でもいいきっちゃったらおしまいだよ。
お前馬鹿ってなことになる。
625 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 13:40:44
大和と邪馬台国は全く無関係。
卑弥呼「ひみふぉ」は「へび王」縄文の女王。
大和は鳥と鹿をトーテムとした騎馬民族。
蛇と鳥は不倶戴天の敵だから。
纏向には鳥を模った木の彫刻が沢山出ているよ。
鹿も神聖な動物として奈良の神社に祀られているね。
626 :
がいやまん:2005/06/07(火) 13:55:09
鹿島香取方面と関係のあるのは春日、蛇、龍などの水源信仰の多いのは纒向という
ことみたい。ただ神武の弓と鳥は阿寒湖のアイヌ、大相撲弓取り式なんかと同じで
縄文の風習だろう。こんなものは文化の基層をなすもので神武東遷だの、邪馬台国
とは分けて考えてもいいんじゃないの。
627 :
がいやまん:2005/06/07(火) 14:00:33
例えば鹿なんてのは日本からスウェーデン、イヨマンテなんてのはモスコウ付近まで
ツングースが広めている。
628 :
がいやまん:2005/06/07(火) 14:15:44
鳥は近畿東海に遺物が多いが四国などでは現在でも祭礼で鳥を振るというし、秋田の
梵天様もよく似たしぐさはしている。「ウルルン体験記」では女子大出身者が雲南省の
急峻な洞窟に住む部族にホームステイするが、おばあさんが寿葬で黒塗り舟形木棺
を業者から買って贈与を受けてご満悦であった。これなんか古墳前期。その娘が里の
小学校に通っているのだが、クラスで一番の偏差値らしく、女子大生より頭が上で、
「君、学校にいったことあるの」と怪訝そうな顔で質問していたのが印象に残った。
629 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 14:41:11
鹿の骨を亀の甲羅代わりに使っていたんだから、その流れから
きたもんでしょ
630 :
がいやまん:2005/06/07(火) 14:53:45
北東アジア全域的には鹿と犬はモンゴル系と関係があるんじゃないかとする
内モンゴルの先生がいるとか。
631 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 15:18:50
神意が陰に動くか陽の方に動くかにより吉凶を定める。それが鬼道
それに用いるのが鹿の骨で、神事物の中でも主役級。
おそらく鹿は神聖なものだったに違いないと思う。
632 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 15:46:42
神武のヤタガラスは高句麗の古墳にもある。
633 :
がいやまん:2005/06/07(火) 15:55:15
神武の鳶の絵はよく見かける。八咫烏というのは見たことがない。説明してください。
634 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 16:08:27
635 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 16:25:24
636 :
がいやまん:2005/06/07(火) 18:00:02
637 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 21:09:04
纏向が倭の都であるなら、なぜ半島や中国の土器とか産物が無いの?
九州には沢山あるのに。
638 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 21:11:57
纏向から中国風の屋根が描かれた土器の破片は発掘されているけどね
640 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 01:29:15
641 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 02:01:57
そうだっけ?
642 :
がいやまん:2005/07/14(木) 07:58:56
纒向に持ち込まれた土器には少数ながら外国のものもあるが伊都国あたりのものが
ないみたいだ。その他の九州地区のものはある。これは伊都国が聖地のようなもので
もっぱら宗教活動ばかりやっていて日用品に至るまで供献されるものに頼っていたって
ことかな。なんたって国産大型内行花文鏡が集中する平原女王の国だから。また、
一大卒常駐というのもいわくがありそうだ。
643 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/04(木) 08:50:09
>>637巻向から九州の土器が見られないのは、巻向を都としていた勢力(大和朝廷)が
まだ、九州を勢力下においていなかったということです。
644 :
日本@名無史さん :2005/08/04(木) 10:23:51
卑弥呼の墓は西都原。
645 :
がいやまん:2005/08/04(木) 19:51:25
http://mutsu-nakanishi.web.infoseek.co.jp/walk/saito04.htm ↑ここで「鬼の窟と鬼伝説」の鬼を積石技術を持つ渡来人集団、オオヤマズミを古墳
を作る人という風に解釈すると、在地の日本人が渡来人に古墳を作らせ、その技術を
マスターして自分たちのオオヤマズミというプロの古墳作りを生み出したという風に
解釈できる。纒向の箸墓も夜は神が作ったというから渡来人の力が相当あるのでは
なかろうか。古墳祭祀に関わる忌部等というのも渡来人の可能性がある。古墳という
のは日本社会においては家元制度とか、系列のように何らかの地域、社会的色分けの
道具であったようだがその祭祀活動には宗教のような世界観を伴う共通認識というもの
があったんじゃなかろうか。上記の西都原はなんだか韓国のような風景だ。西都原では
さんざんっぱら渡来人をこき使った後に東方にいい土地があるからとかと嘘をついたり
又はそれらを引率して東瀬戸内海に船出したということもあるかな。
646 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 16:54:45
長いよ
647 :
あちょー:2005/08/29(月) 17:02:08
サイコー
648 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/10(土) 23:05:24
箸墓古墳と呼ばれるものをこの前旅行で始めてみて感激した。
思ったより小さいなと思った。
それだけ・・
649 :
がいやまん:2005/09/14(水) 16:23:06
>>619 兵主神社は奈良時代であって、夕月が嶽というのも秦氏が後世に命名した可能性も
大いにある。断定的なことはいえないなー。
650 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 22:04:33
651 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 02:00:55
それじゃしかたない。
落ちるよ!
ははははっははっは!!!!
なぜ いままで誰も気づかなかったんだ!?
卑弥呼の墓とはね 耳成山のことだったんですよ!
ふはははっははははは!!!!
>654
待て
キミはアレになんと名前を付けたんだ!?
656 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 19:35:13
ヒミコと言う消耗品シャーマン
657 :
日本@名無史さん:2005/11/17(木) 02:19:14
ジャーマン
落ちないもんだね
659 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 21:11:11
そうやね
「箸墓=卑弥呼の墓」は本当でしょうね。
661 :
日本@名無史さん:2005/12/30(金) 14:19:31
保守
662 :
がいやまん:2005/12/30(金) 16:25:01
663 :
がいやまん:2005/12/31(土) 11:45:45
http://www.museum.state.il.us/exhibits/changing/journey/objects/images/102coat.jpg コートはシャーマンの主保護霊である鳥を象徴する。 スリーブの下部とコートの下部
に沿った長くて、濃いスウェードフリンジは鳥の羽毛を模し、そして、スリーブに取り付
けられた長方形の金属板は鳥の翼骨を表す。 胸には2枚の円盤、「乳頭」、および、
洋梨形ペンダント、「へそ」がある。 これらのシンボルは、シャーマンの活力を集中する
働きをする。 背面左側に、シャーマンを補佐する(雷)鳥と熊の金属像がある。背面中央
に、霊の「声」を通す、トナカイのあごひげで刺繍したバンドと管状金属ペンダント
がある。 黄泉の国への「入り口」である穴の開いた四角の金属製のペンダント、
シャーマンの案内役「アビ(鳥)」、接続を象徴する鐘が腰のくびれで膝に固定されて
いる。肩の上の丸いペンダントと肩甲上の半楕円形ペンダントは太陽のを象徴する。
側面のねじられたストランドはシャーマンの「道程」を表す。
664 :
がいやまん:2005/12/31(土) 11:57:51
665 :
日本@名無史さん:2005/12/31(土) 12:22:58
カマボコってお魚(トト)なの?
ヤマトトトヒモモソ姫はおぼこwww
666 :
日本@名無史さん:2005/12/31(土) 13:19:50
あくまでも箸墓の伝説や記録から推論するものなんだけど…
卑弥呼だかヤマトトトヒモモソヒメノスメラミコトだかはわからん。
ただ1つだけいえることは、箸墓についていろいろ伝承が残ってる以上、
この墓に葬られているのは女性、ってのは推測できそう。
で、その死因について「陰部に箸が刺さって死んだ」って書いてあるが、
現実に考えて、腰を突いたときに陰部に箸が刺さる、というのは考えにくいし、
そうなるとかなりの長さの箸が刺さったことになるはずけど、それも考えにくい。
しかし「陰部に箸が刺さった」=「陰部から何か物が刺さったかのような出血をした死体で発見された」と考えることはできる。
で、陰部から血を流して死んでいる、ってのを冷静に考えてみると、3つしか可能性がないんだよな。
1つは出産後にその経過が悪くて死んでしまうケース。
次に子宮や卵巣の何らかの病気(ガンなど)で突然大量出血を起こして死ぬケース。
もう1つはレイプ後殺害されるようなケース。
で、神の使いが「殺した」という話にしたいなら、実は3が自然なんだよな。
667 :
がいやまん:2005/12/31(土) 13:44:33
聖徳太子時代には未だ箸がなく、唐の文化をあわてて吸収したらしいので、
卑弥呼時代に箸を使ったというのは異民族であったのか、あるいは、「橋」だっ
たのか。モンゴリアには古墳を現すケレク(橋・荷役獣)・スル(神霊)という言葉
がある。また、日光感精神話に基づく何らかの秘儀、たとえば、池上・曽根遺跡
出土のファルス(木製陽根)の使用目的との関係、破鏡の儀式等も考えられ一概に
は断定できない。また、「ホト」という言葉が一意的に陰部ではなかったこともある。
フツヌシ、フトダマ、フツの御霊などは軍神霊ということで刀剣を意味した可能性もある。
668 :
がいやまん:2005/12/31(土) 13:55:19
箸墓とこれに続く古墳は巻向・夕月が嶽を中心とする総合祭祀システム
の一環と見る場合、楯筑古墳に見られる中円双方墳(突厥も同様)、月型石
が月を遥拝するものであることに注意する必要もある。巻向大兵主神社が
意味するところはシユウ、つまり、軍神であり、ホトとは月が正解なのかなー
とも思われるが。
669 :
がいやまん:2005/12/31(土) 14:36:07
ホト、すなわち、軍神(兵主神)の祀られている夕月が嶽の方向を指す、つまり、
指すように設計された古墳に葬られたという話が、記紀編集時には「女陰を指して
自殺された」というようにも取れることになってしまった。ということは、いかに古い
時代のことを極めて忠実に念じていた、真剣であったということの現われだろうと
思われるが。ここに古代人の心が読みとれるのでは。
670 :
日本@名無史さん:2005/12/31(土) 23:02:25
>がいやまん
ホト=月 ? だから月経とか月のものとかいうのかな?
>>670 リアル厨房ですか?w、そんなこと言ってたら女に笑われるぞ
672 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 06:09:47
箸墓の被葬者とされるのはヤマトトモモソ姫
天皇陵など宮内庁管理の墳墓の被葬者に関しては、歴史学的な検証がもっと必要だろうが
それにしてもあの時代に女性にあれだけの墳墓をするのは珍しいだろう。
そのことから考えてヤマトトモモソ姫はかなり有力な巫女王であった可能性が高い。
その辺から卑弥呼イコール大和百襲姫の説があるのだと思うがな。
まあ、断定できるだけの資料は永遠に発見されないだろね
それこそ箸墓から金印が出てくるなら話は別だけど、多分、すでに盗掘されているだろうな
673 :
がいやまん:2006/01/01(日) 08:40:35
謹賀新年
今年は狗の年、この辺も大いにやりましょう。
>>670 ホト突きってなものがあって、これは製鉄用の炉内温度観測、調整用の
覗き口から差し入れるバールのことを言うようですね。三輪神社神主の著書では
三輪神社の前にはタタラのコウサイの遺跡があったそうです。崇神天皇の宮殿
跡に相当するあたりのようです。で、何か関係はないかと以前から思っているん
ですが。付近には金屋なんていう地名もあります。雨乞い神事としてタタラ製鉄
の儀式を執行していたのかもしれません。又は、輸入鉄テイを溶解していたのかな。
674 :
俺等05772:2006/01/01(日) 09:31:23
神武天皇と崇神天皇には共通点がある。どちらも「初国知らすスメラ尊」と呼ばれている。
1人の業績を神武と崇神の2人の業績に分け、前半を神武に、後半を崇神に振り分けているよう
に見える。人物はとも角、業績は 神武天皇=崇神天皇 かも。
天照大神とヤマトトモモソ姫には共通点がある。どちらもホトを突いて死んでいる。
古事記では、素戔鳴尊は、天照大神が神に奉る神御衣を織る機屋に、天の斑馬の皮を剥いで投げ
入れるという暴挙に出て、これを見た織女が驚いてホトを突いて死ぬという事件まで起こした。
その結果、天照大神は天の岩屋に入り、高天原は真暗闇となった。天照大神がホトを突いて死ん
だとは言えんから、織女の死にしたんだろうが、織女を天照大神とすると、彼女はホトを突いて
死んだということになる。人物はとも角、伝承は天照大神=ヤマトトモモソ姫かも。
で、卑弥呼=天照大神なら、卑弥呼=ヤマトトモモソ姫となるかも。
675 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 12:23:15
日本の古代から神山とされる山の多くが火山だ。
火山というのは地下のマグマの影響で、激しい電磁波を発して、山全体が光ったりする現象が稀に見られる
古代人はそんな現象をみて、この山が神山だと恐れ慄いたのだろう。
676 :
がいやまん:2006/01/02(月) 09:30:15
>>673 ホトが女陰というのはいくら考えてもおかしい。やはり兵主神に類するもでなくては
山岳崇拝の対象としてはそぐわない。すると箸墓他の古墳群が指向する巻向夕月
が嶽、これって、弓月が嶽ではないのだとうか。たしか、高知県の月山神社に月弓
命というのがあったはずだ。月弓とは古代中国でいう石の弓と関係はないだろうか。
この月弓をホトといったとか解釈すればホト、フツ、フト等を持つ神名が西洋神話の
マルス同様の軍神ということになる。月読命も単なる天体観測者から武神、月弓命
となる。卑弥呼は武神宮山を指向する古墳に葬られたというのが原伝承となる。勿論
女陰崇拝ということはある。それは岩戸であろう。アマテラスの引きこもるのも母体
回帰の思想の現れとも考えられる。これは縄文中期の関東の柄鏡型住居、壱岐、
日向の女陰型の鬼の窟、九州西部、沖縄、台湾等の現代の墓等にも共通するもので
大和の岩戸神社に入るのはやはり一般的な九州文化の伝来の波に乗ったものであ
ろうか。
677 :
がいやまん:2006/01/02(月) 09:49:22
>>663 >胸には2枚の円盤、「乳頭」、および、 洋梨形ペンダント、「へそ」がある。
>これらのシンボルは、シャーマンの活力を集中する働きをする。
これは乳房と子宮であり、丹後籠神社の神宝が銅鏡2枚でセットになっている
ことと合わせ、古代における太陽と月の地位が、台湾に日月タンという湖があるが、
シンメトリックであったことを意味しているのであろう。三国遺事であったか、延烏郎
と細烏女が日本に移住した後、新羅王の使者が女王との拝謁も許されず、代わりに
(絹)織物を下賜され、国宝として宝物殿に祀る。それが一月池とか、一月洞とか
だということは多分韓国語の「一」と「日」を誤って解釈しているのであり、これも
日月タンのように太陽と月のシンメトリーを表した言葉であったものと考える。
678 :
がいやまん:2006/01/02(月) 10:09:30
このシンメトリーの破れは、中央ユーラシアから中国文化圏北部、朝鮮半島を
経由して到来したスキタイ時代(ダリウス・アレクサンダー)のような複合民族・
文化構造を持つノマド的文化が、天孫独裁とでもいうか、秦の国家統一のような
変革を受けたためではなかろうか。この対称性の破れは四隅突出型古墳地帯
と積石墳地帯、天孫と地祇のように文化の2極化とそれの統合、のプロセスを
引き起こした。かくて、巻向に箸墓が建設され、邪馬台国が中国に認知された。
679 :
がいやまん:2006/01/02(月) 10:21:12
>>676 出雲の田和山遺跡の最上段に半月状の壇があったと聞く。また、兜にも
半月状のものがある。月山富田城、山中鹿之助も関係あるかな。
市川歌右衛門の早乙女モンドノスケなんていうのも眉間に半月がある。
680 :
がいやまん:2006/01/02(月) 10:31:33
>>663 > 黄泉の国への「入り口」である穴の開いた四角の金属製のペンダント
これは四角が大地、穴は冥土との結界であり、四隅突出型古墳、茅の輪、土俵に残るが、アルタイの石刻に頻出する。
四方の平境(黄泉のひらさか)とはこの考えだろうと思う。
681 :
がいやまん:2006/01/02(月) 10:37:34
>663
東北向けの四道将軍的なアベ氏は、北国の水鳥(アビ)のシャーマンが任命されたのだろう。
この鳥は水に潜るので生命の再生サイクルを表すのであろう。
682 :
がいやまん:2006/01/02(月) 11:32:13
天孫等というが、当時、天皇という概念ではなく、スマル(昴)の運行を読んで
国の吉凶を占うシャーマンという程度でスメラミコトができたのではなかろうか。
ユーラシアのテングリ・タングリ(天神)が流入するのは遅かったが、タノカミ
ということで入っていたのかもしてない。
683 :
がいやまん:2006/01/02(月) 11:56:31
中央ユーラシアは西からイラン・アーリア語を話すコーカソイド、アルタイ語を話す
コーカソイド、東にはアルタイ語を話すモンゴルモンゴロイド、古アジア語を話す
ツングースモンゴロイドと入り混じっていたもののモンゴリア高原の中央を境界
としてほぼ東西に分かれていたようであり、この対立が日本国内において再燃した
のが天孫と地祇の闘争の背後にあるのではないかとみられる。西/太陽/円vs
東/大地/四角である。赤旗と白旗ともいえるかも。
684 :
がいやまん:2006/01/02(月) 12:02:39
しかし、日本はほぼモンゴロイドオンリーの国なので、この戦いとは現代でいえば
イデオロギー闘争というか、コンピュータOSの戦いのようなものであったのであろう。
685 :
がいやまん:2006/01/02(月) 15:07:25
兜跋毘沙門天は西域兜跋国、トゥルファン(吐魯蕃)に出現したとされるが、現代の
YAPの分布から見て、これはチベットのカイラス山、スメール、須弥山の頂上に出現し
たということで、この伝承をスマル(昴)、七福神、神々の集団(サンスクリット語の
サムハラ)頂点Summitにおわすスメラミコトと名づけ、日本国の天皇の称号となった
というような仮説を持って今年の初夢としてみたい。カイラス山でくぐると見事な写真
が出てくるが、これがなんとピラミッドに似ている。そして日本にもピラミッドに似た
聖山がある。このつながりを考えるとアルタイの青銅器時代に謎を解く鍵がrのでは
ないかと思われる。星空のソフトはなかなかの優れものであった。
今日、初詣のついでに、箸墓へ行って写真も撮ってきました。
687 :
日本@名無史さん:2006/01/02(月) 23:13:51
>>684 歴史上、人類同士の戦いは思想やイデオロギー・民族などいろいろな背景があるが
根本的な理由は常に経済的な対立だよ
688 :
がいやまん:2006/01/03(火) 08:18:51
新潟で電気が、ウクライナでガスが切られたりする。華北の政権から攻撃される。
こうしたことが不毛地帯を一挙に列島に南下する動きの原動力となったのか。
689 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 23:31:51
話がそれるけど・・
去年初めて巻向へ行き、三輪山も見たけど先入観なければ平凡な山にしか見えなかった。
特別な山と扱われたのは何故だろうと素人ながら思った。
690 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 23:36:02
あれほど美しく整った山容を見て平凡な山にしか見えないとしたら
よほど見る角度が悪かったか感性が貧しいかのどっちかだよ。
691 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 23:42:37
花立山
692 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 23:47:29
三輪山と似てるだろ。
693 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 23:58:23
三輪山が綺麗に見えるのは、銅鐸の出た大福辺りだよ。
纏向から見たんでは平凡な山だ。
694 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 01:11:22
変な話題をふってすみません。
巻向から見てました。
三輪山が特別なのはつまり美しさを評価してという解釈でいいのかな?
もっと三輪山祭祀について勉強しないといけないようですね。
三輪山〜畝傍山を直線で結ぶと(ry
696 :
がいやまん:2006/01/14(土) 10:14:06
>>693 >>694 >>695 大和では稀な銅鐸が三輪山-畝傍山を結ぶ線上の大福で発見されたということは
三輪山祭祀も銅鐸祭祀も山岳を平地から仰ぐ祭祀に関係するのではという感がある。
697 :
がいやまん:2006/01/16(月) 12:36:28
699 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 23:42:07
奈良盆地は大陸からの使節と交渉した意味で、いつ頃からか解りませんが重要な古代都市であったと言えると思います。
九州から大阪周りに船で渡り、堺の応神・仁徳天皇陵を臨み、生駒山系を越えて奈良盆地に入るパターンは異国人から見て壮観だったのではないでしょうか?
その意味で奈良盆地は古代都市の中で超重要だったと思います。ただ奈良盆地には川が不足している気がします。
大阪湾から船で東に行くには淀川から桂川、鴨川、宇治川、木津川と抜けるルートがあり、宇治川のルートには世界遺産の宇治上神社と平等院があります。
700 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 23:42:54
奈良盆地は大陸からの使節と交渉した意味で、いつ頃からか解りませんが重要な古代都市であったと言えると思います。
九州から大阪周りに船で渡り、堺の応神・仁徳天皇陵を臨み、生駒山系を越えて奈良盆地に入るパターンは異国人から見て壮観だったのではないでしょうか?
その意味で奈良盆地は古代都市の中で超重要だったと思います。ただ奈良盆地には川が不足している気がします。
大阪湾から船で東に行くには淀川から桂川、鴨川、宇治川、木津川と抜けるルートがあり、宇治川のルートには世界遺産の宇治上神社と平等院があります。
701 :
がいやまん:2006/02/12(日) 09:32:21
702 :
がいやまん:2006/02/12(日) 09:48:52
【三輪山】「箸墓=卑弥呼の墓」は本当か?【巻向】
魏の張政もそう思ったのか、卑弥呼既に死す(実は死んでましたなんてヌカシやがって
倭人はお粗末だなー)と述べている。古墳が死んですぐに出来上がるわけがない。
難升米が公孫に向かう前から着工していたはずである。寿墳というより共立の証の
巻向インフラの一環であったのであろう。竣工式を待たずして卑弥呼が死んだ。霊安室
としては岩戸神社あたりか。ところが当時の卑弥呼のスポークスマンが同盟の首長に
事実を伏せていた。政治的混乱を避けていた。竣工式が迫って卑弥呼の死を公表した。
張政も、各国首長、邪馬台国諸官も驚いた。真相究明にイザナギ委員会が結成され
古墳の調査が始まった。男王は女性警備兵にイザナギの進入があれば切り殺せと命
じた。こうではないのか。
703 :
がいやまん:2006/02/12(日) 10:06:21
死体の腐乱状態で死亡時期の推測が可能であるが、もし白骨化の前、未だ
完全に腐敗が終わっていなかったというのなら、死後2-3年程度であろうか。
イザナギの踏み込んだ季節は冬ではなかったみたいだが。
夕べの林家コブヘーのプロファイリングとごっちゃになってきた。
704 :
がいやまん:2006/02/12(日) 10:50:38
イザナギ委員長、どうも出雲系くさい。大和で失脚後、白山菊理媛に身の上相談に
行っているが、これは出雲系の逃走経路としてはありえる。義経などのコースである。
そして、墓暴きの訴追を逃れる免罪手段が日向での禊であることを教えられる。
菊理媛倭国法律相談所というのがあったのかもしれない。逃亡者はイザナギといった
神様ではなく、その衣をかぶった指名手配者のような立場にあったことには間違いない
だろう。
ちんぽ
707 :
”倭の女王墓”歴史公園オープンのお知らせ:2006/03/16(木) 14:11:17
708 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 14:51:19
>>702 勝手に文を変えるな。
「卑弥呼以死大作冢」
卑弥呼が死んだので大いに塚を作った
と訳すんだよ。
709 :
がいやまん:2006/03/29(水) 12:04:56
意味が変えられるかよ。卑弥呼が死んだので大いに塚を作ったというのなら
そうだろう。こうするとますます、大きな塚の工期というものが10年くらいあると
し、記述にうそはないとすると、中国側にそうした情報を与えた、つまり、卑弥呼が
死んでから塚を作ったというのがおかしい、死ぬ死なないに関らずその塚は
10年ほど前からできていた。卑弥呼も既に死んでおり、崇神が卑弥呼に化けて
いたんじゃないのか。だからイザナギに扮した人物が古墳を暴いた。これはどうだ。
710 :
がいやまん:2006/03/29(水) 12:17:55
なぜ、ナシメ等を公孫に派遣し、鏡を求めたのか。これはこのとき卑弥呼が
死んだのではないのか。鏡も方格規矩鏡とか神獣鏡とかくるくる変わるが
卑弥呼がカリスマを発揮していたとするなら方格規矩鏡に統一しなければ
全国的ハーモニゼーションができないではないか。国産三角縁神獣鏡量産
体制への切り替えは卑弥呼の発案ではあるまい。崇神がめくら判を押してい
たのではないだろうか。
711 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/29(水) 12:47:20
卑弥呼の墓は自然丘を利用し加工しただけですから、工期はかなり短かったでしょう。
712 :
がいやまん:2006/03/29(水) 14:31:04
713 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 21:40:48
卑弥呼の墓はきっと東四国にあります。
だから箸墓は違うと思います。具体的には↓
http://www.geocities.jp/yamatai4/oasa/index.html 私は10年ほど前から邪馬台国四国東部説を唱えています。
いまだにマイナーだけど、まあこんなもんでしょう。
http://www.geocities.jp/yamatai4/ 理由
1 畿内、九州説ともに24国の構造がうまく入らない。
つまり21国の順序を保ち大国の構造がうまく入り、
しかも地名が対応するのはたぶん四国だけ。
2 近年の再調査によって東四国の墳丘墓の古さと
その後の畿内へのつながりが示されてきた。
吉野川北部の再調査はうれしい。
もうちょっと奥のほうも調べてくれれば、墓も見つかります。
3 狭い地域内での記紀の地名と古墳群との対応。
記紀どおりだと「山」と「平地」と「海」が近接してますよね。
偶然とはいえないほど狭い範囲で対応することが大事。
714 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 06:23:05
715 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 06:30:49
716 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 07:01:16
「まんが日本昔話」でお箸を使い捨ててた長者の、使い捨てた箸がつもりつもって
「箸墓」になったって話がなかった?
『あるところに、増え続けるお金の勘定をするのが面倒で、
無駄遣いをし、少しでもお金を減らそうとしている長者が
いました。そのために一口食べて箸を捨てたり、
こっそり小判を川に捨てたりしていました。
ある日、その長者さま家の女性が、縫い物をしていたところ、
大きな虫が飛んできました。女性はその虫を仕留めようと、
持っていた縫い針を虫に向かって投げました。
しかし、その虫は針をボリボリ食べてしまったのです。
そのことを、女性が長者に伝えると、長者は喜び、
その虫に小判を食べさせ始めました。
もちろんそれと同時に箸の無駄遣いも止めずにいました。
そして虫はモリモリと小判を食べ続け、とうとう食べられては
困る蔵の中の小判全てを食べきってしまいました。
長者の家はツブレ、捨てられた箸の山だけが残って
しまいましたとさ』
719 :
がいやまん:2006/04/12(水) 11:28:01
初代天皇陵は四国よりもむしろ九州で発展すべきであったと思います。しかし、それが
四国でもなく、山陰、山陽でもなく、辺鄙な奈良県において発展したということは、やはり、
大和の豪族が九州まで出向いて招聘したことによるのでしょうが、その背景には古墳
建設がアメノヒボコ、オオクニヌシ等の渡来系に頼るところが多きく、九州の食料供給
能力よりも、発展途上にあった近畿の供給能力のほうが大きかったことによるのでは
ないでしょうか。大和の初期古墳建設には東海、吉備方面からの土器等の流れがあり
ますが、これはこうした方面に渡来系が多かったのが一時大和に結集されたのではな
いかと見られます。
720 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/04/19(水) 12:05:15
>>707さんへ
波多江駅下車貸し自転車15分と書きこんでありますが、駅の周辺を探し、交番に聞いて、現地のおばさんに聞いて、タクシーの運転手さんにきいても
貸し自転車はないとのことでした。どこに貸し自転車屋があるのか詳しくお教えねがいたい。又行くかも知れませんので。
721 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 14:35:57
邪馬台国の女王卑弥呼は偉大な呪術師であったことは有名だけど
その手法が現代のおっぱい占いの源流であることは意外と知られていない
南京城攻略の折、降伏した中国兵数千人を城壁の傍らに立たせておき銃剣にて全員を刺殺した時の司令官は
昭和天皇の叔父で天皇に顔がそっくりの朝香の宮と言う奴だ。
南京大虐殺は天皇家の命令で行われたことは明らかだね。
そうやって在日である天皇家は、日本の名誉を著しく傷付けるような指導を日本国民に対してして来た訳だ。
そんな天皇制にしがみ付いている奴はバカか狂人かのどっちかだね。
あるリベラルな知識人が二十年ほど前に、先の戦争は国民にも責任があると言ったことをヒントに、
天皇には責任が無いみたいなズレたことを言い出した右翼がいるが、
国民主権国家となってから、その天皇制を廃棄しないでいたことは今度は本当に国民の責任である。
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/index.htm
723 :
がいやまん:2006/05/14(日) 16:35:46
夕べのテレビでユカタンのピラミッドに蛇神が降りる仕掛けを見せたが、
ピラミッドを17度斜めに建設するなんていう科学、天文台、国民全員が
消費者となって国がなくなるなんてすごいなー。おかげで竜王山、蛇穴
等の意味がよくわかった気がする。三輪山の春分の日に蛇が降りるのは
どこだろう。結局春日山になったのかなー。
724 :
日本@名無史さん:2006/06/15(木) 12:57:00
ほう
725 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 01:37:36
すごい
726 :
日本@名無史さん:2006/07/08(土) 19:23:16
まず発掘させよ!
727 :
日本@名無史さん:2006/07/08(土) 23:06:58
728 :
日本@名無史さん:2006/07/09(日) 01:50:30
>>1 俺は、箸墓古墳は、350〜360年頃だと思う。
正直、畿内説のいかがわしさには、うんざり。
729 :
日本@名無史さん:2006/07/09(日) 14:37:13
>>1 卑弥呼の時代の奈良なんて、饒速日一党しかいない、ただの田舎だよ。
神武も東征してないし、あんな溜池地帯は、基盤整備しないと首都になりえる訳がない。
>あんな溜池地帯は、基盤整備しないと首都になりえる訳がない。
こんなことは明治から言われてたけど、遺跡やらも出てうやむやに
731 :
日本@名無史さん:2006/07/09(日) 23:59:01
>遺跡やらも出てうやむやに
どう読んだら・・・・・ あなたの意見がうやむや?
732 :
日本@名無史さん:2006/07/10(月) 00:13:41
>>730 ぱらよってるぜ! こいつががいやまんだ!
733 :
日本@名無史さん:2006/07/10(月) 00:31:20
唐古鍵は?
734 :
日本@名無史さん:2006/07/10(月) 00:40:24
うやむやでいいじゃん!
735 :
日本@名無史さん:2006/07/20(木) 21:21:56
しー!
736 :
日本@名無史さん:2006/07/20(木) 22:24:19
隋書には天照以来ずーと天皇家が継続しているように書いてある。
そして神武の時に筑紫から大和に遷都したことも書いてある。
新政権ができたら普通お隣の国に挨拶に行くだろう。
737 :
↑:2006/07/21(金) 18:36:20
一理あるな。
ところで、『隋書』の問題の箇所はどこぞ?
738 :
日本@名無史さん:2006/08/09(水) 17:22:54
島津は、琉球を征服したことを中国側に隠してた。
オランダは、ナポレオンに征服されてたのに、そのまま独立国として振舞った。
箸がどこに刺さったって?
>>718 箸墓の南に長者屋敷の小字があった
とも聞くけど、さすがに関係ないかw
>>740 マ○コ
758 :
太国:2006/08/16(水) 00:30:29
759 :
日本@名無史さん:2006/09/19(火) 22:29:22
760 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 03:27:14
二人の幡(殿)をもった姫。俺は卑弥呼を目前にしたら癒す事は出来ず。
自らの肉体とも決別した姫には神の称号相応し。
761 :
日本@名無史さん:2006/10/28(土) 19:42:41
↑
阿保
762 :
日本@名無史さん:2006/10/28(土) 21:26:31
箸墓に倭人伝で100人が殉死した事が書いてあるけど
単なる共同墓地だったんじゃないの?
763 :
月光仮面:2006/10/30(月) 16:23:59
764 :
月光仮面:2006/10/30(月) 16:29:48
ヒメの時代に箸はないので、橋、ホトというのは武器神器、すると、古墳完成
し何らかの行事中に古墳の橋、つまり、結合部、渡り部で、天寿を全うされたと
言うことかもしれない。
765 :
日本@名無史さん:2006/10/30(月) 23:30:58
卑弥呼=ヤマトトトヒモモソヒメってことは男弟=孝元天皇、でおkなのかな?
766 :
月光仮面:2006/10/31(火) 07:04:25
古くから姉が祭祀、弟が世俗の王制はある。倭人伝の文脈では女王親政、専制
であり、弟は側用人つーか、スポークスマン、今でいう官房長官。すると死後代役
として就任するもの、そして長続きしないものと言う点では崇神かな。血縁の記述
に信頼性はなく、政治的妥協の産物である公算が強い。
767 :
月光仮面:2006/10/31(火) 07:32:15
天皇陵も2つ程度は兄弟など何らかの血縁を意味するものがあることもあるといった
程度で、社会的に行っても結婚という制度が定着するのは相当先のことだろう。そうした、
中においてもサル山のような集団はあり、後世において、後世の政治的実勢に基づく
系図が人為的に作成されたものであろう。年齢の多いのは人為的なものであり、実際の
年齢でないことは明らか。
768 :
サガミハラハラ:2006/10/31(火) 08:44:00
>>764 ここで出てくる箸は現代使用している箸ではなくて、祭祀につかうヘラ状のものです。
アイヌの儀式でもつかわれます。
769 :
月光仮面:2006/10/31(火) 09:17:31
>>768 そうであっても、アマテラスの機織女も同じようにホトをついており、この部分は
純粋の神話である可能性が大きく、現実には箸墓が兵主神社、夕月が嶽という
護国神を背景にしており、三輪神社とは関係がなく、そして、ホトタタラというのは
武塔神のホトと祟りの霊と解釈する方が自然でもあり、トトヒモモソヒメもその線上
にある何代目かの女王と考えられるのですが。ところでトトヒ、トミというのは竜では
ないかと思います。後に渤海などが新都を命名する際に東京龍源府等とすることから
纒向をそういう風に呼んだということもありえる。モモソはももしき‐の【百磯城の・
百敷の】〓枕〓(多くの石や木で造った意、または、多くの石で造った城の意) 「おほみや
(大宮)」「内」などにかかる。記下「―大宮人は」・・・これの古語ではなかろうかと思ったり
します。
770 :
月光仮面:2006/10/31(火) 10:18:23
771 :
月光仮面:2006/10/31(火) 10:34:40
平原のあとは寺沢薫・王権誕生の通り古墳建設が出雲・楯築などを通り大和に至る。
この間古墳様式が平原の近畿方形周溝墓・出雲の四隅、楯築墳丘墓、そして、最終的
には前方後円墳となるのだが、このデザインコンペをめぐる覇権争いが出雲と日向の
戦い、倭国乱ということであろう。
772 :
月光仮面:2006/10/31(火) 10:41:39
倭人伝の第一次情報源を代表団に同行した九州の通訳が甘木朝倉時代の
邪馬台国地理情報を誤ってインプット乃至は中国側の取り違い解釈したこと
で方角の誤りが生じた可能性は大いにある。
773 :
月光仮面:2006/10/31(火) 10:54:19
こう考えて見るとソフトバンクの孫さんがタケハニヤスに思えてくる。いずれにせよ
安くて良質、信頼性の高いものにしてもらいたいねー(w joke joke joke
774 :
月光仮面:2006/10/31(火) 13:25:38
高良大社、高麗というのはアルタイ・モンゴル共通の神名Kooraiから来るもので、その
原意は「太陽の鹿」と言う意味である。これは時期的に男鹿半島に漢・武帝の
遠征隊が到達した頃、志賀島に志賀海(鹿飼い)神社が作られ、多数の鹿の角が
集められた頃のことで、玉垂れとは秋田県横手で祭られる梵天様のこと、九州では
タマセセリとして残る。秋田・唐松神社天日宮では玉鉾大神として祀られる。
775 :
月光仮面:2006/10/31(火) 13:42:34
776 :
月光仮面:2006/10/31(火) 13:55:15
玉を胎児とするか、睾丸とするかで三種の神器の持つ女王時代、女性上位が
失われると女王は本能的に悟ったのかもしれない。これがあたっていなければ
恥ずかしいこと限りのない話ではあるが。ちなみに量子物理学多重宇宙論に
も似た梵卵思想だが西欧ではイースターエッグとなったようだ。
777 :
月光仮面:2006/10/31(火) 15:43:19
最近マタギの熊料理がはやっているが、中には熊の爪をお土産に貰う人がいる。
この熊の爪も勾玉に似ている。胎児などと言うはそうは農耕牧畜文化だろうから
狩猟採集文化としては熊の爪が勾玉になるのかもしれない。
778 :
月光仮面:2006/10/31(火) 15:44:37
発想がはそうになっていた。失礼。
古代西洋にも女神の偶像に睾丸を捧げたという話しを聞いた事があるな
780 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 21:43:37
百人が殉死した箸墓
実は共同墓地では?
ヤマトトトヒモモソビメという人物の書記での書かれようは
天武持統的な王権思想からはかなり否定的に扱われているように思える。で、
1.8世紀の書記が記す「大市墓」は今の箸墓を指し、ていたのか
2.8世紀の書記が記すヤマトトトヒモモソヒメ伝承は古層の伝承か
1はクリアできるかもしれないが、2がつらい。
が、仮に2もクリアしたとすれば
箸墓なる巨大墳墓=ヤマトトトヒモモソヒメ的な強烈な印象を
説話として後代に語り継がれるほどの、かつての女性巫女王の墳墓、
くらいまではたどりつけるかもしれぬ。
782 :
月光仮面:2006/11/01(水) 07:56:22
>>770 崇神がオオタタネコを三輪神社の神主に任命というが、まだ三諸山時代のはずであり、
記紀編集者が時代考証を間違えていたのかと思う。あの辺のミホツヒメ神社などは
記紀にあわせて、後付でできたような感じだ。神社と言うのがあったかどうかは疑わしい。
サイ神社近辺には何らかの纒向遺跡関連の修道院のようなものでもあったのかも
しれない。
783 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 20:06:13
オオタタネコはモモソ姫と同じ根子系の人物。
孝安から開化までも根子の一族。
しかし、モモソが自殺。オオタタネコは呪殺。根子族は豊鍬イリ鋤姫を立てた
イリ族のミマキイリに天下を禅譲させられる。
・・・のが真相
のちのヤマト王権は天香具山が神聖な山で、
三輪山がどうにもあつかに困る悩みの種だった
785 :
月光仮面:2006/11/02(木) 12:00:50
>>783 根子なんですが天孫族が出雲の神話体系を無視し、根の国の根をヒコ祭祀王、ネコ行
政王、又は、副王とした使用したと言うことは考えられませんか。あるいはまた、対外的
に女王が親政をする場合の補助的男王とか。
786 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 20:36:39
>>785 その辺は資料がないのでなんとも言えない。
俺が思うに、孝昭(タラシ)以降はネコ系の王が続き、開化の時、イリに天下を取られた。
その後、九州に封じられていたタラシ系の仲哀とネコ系の神功が一緒になり、
イリ系の忍熊と香坂を滅ぼした、と読むのが、一番妥当と思われるが
基本的な質問で悪いが
シ号って死んだあとのおくり名ですよね。
天武とか雄略とかの漢風シ号は淡海三船が名付けたでいいとして
イリとかワケとかタラシとかをふくむ和風シ号は、
いつから存在したか?
みたいな研究ってあるのでしょうか
788 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 11:58:41
井上光貞によると、初期の天皇の名は7世紀ぽいとの事。
そのことから初期の天皇を架空としている。
確かに、初期の天皇が紀元前後であれば、同じ名前というのは少し奇異な感じがする。
しかし、欧州では紀元前から現代まで同じ名前が続いていることを無視している。
789 :
月光仮面:2006/11/03(金) 12:38:54
皇国史観盲従も、いわゆる〈オッカムの剃刀(かみそり)〉〈必要なしに実在を多数化して
はならぬ〉という形で知られる〈思考節約の原理〉、観察された事実、論理的自明性、神
的啓示など〈十分な根拠〉なしにはいかなる命題も主張してはならないことを規定している)
も、共に都合の悪いものを見ない。架空と言う言葉は適切ではない。考古学的に統一された
国土があるということは、統一性を維持する主体があるからである。そういう主体の仮称
として古代人が最善を尽くして選択した結果であろう。早く言えば、やはりあるんだよ。
日のないとこの煙は立たないんだよ。
790 :
月光仮面:2006/11/03(金) 12:54:47
>>784 三輪山は後代の三輪神社、天理教施設、都市化によって周辺の考古学的
発掘が妨げられている。また三輪神社禁則地も宗教的理由で発掘が不可能。
更に新たにできた古墳の下層の状態も不明だ。こんな状態で崇神時代の
話を否定することも、肯定することも不可能だ。卑弥呼の殉死者についても
何もいえない。
天の香具山だが神武は誰から天の香具山の土を奪ったのか。神武の敵は
なんと言う神だったのか。長髄彦だけではあるまい。母の産道を焼き生まれるや
父に斬殺されるというのはこれ以上の恥辱はない処遇。そして近畿の冶金、
銅鐸は一斉に廃止となる。根裂神を祭る天の香具山の秘密こそ、大和朝廷が
タブー視するものではないのか。
791 :
月光仮面:2006/11/03(金) 13:01:42
雨の香具山は葛城のアカガネのヤソタケルが黄金神・カグツチを祭っていたのであろう。
これが銅鐸族の最後の砦であった。その当時、既に近江三上山の黄金神は鏡勢力の
手に落ちていたのだと思う。
792 :
月光仮面:2006/11/03(金) 13:25:21
天日矛の近江侵入は天孫の「桜」だったのかもしれない。われらは、物部の持つ
銅剣・われらの銅矛を大地の神に返すから、汝らも銅鐸を大地の神に返せ。そして
新しく誕生する鏡の国の女王のために一緒になって鏡を生産しようではないか。
とまー、こうした誘いにのって近畿の布留式土器統一時代、つまり、古墳、邪馬台国
時代の準備をしたのではなかろうか。だが、ここまでに来る前には吉備にて天孫との
激しい戦いに敗れて、銅剣を荒神谷に埋めてきているのかもしれない。
「砂山のー、砂をー、指で掘ってたらー」♪青く錆びた銅剣が出てきたよ。どこのどいつが
刻んだかXの印が付いていたんだよ。・・・筆者は老婆に鎌でこの魔よけをかけられた時
首が飛ぶかと怖かった。終戦後までこういう習慣はあった。ところがなんと小河墓遺跡の
ソッテのようなものにも顔面がフラットに削られ、Xが描かれていた。こうした習慣は百済
から信州に入ったらしくWEBにも載っていたが最近の嫌韓ムードのせいかみられなくな
った。世界最後のトカラの文化が消えるとはバーミヤンに劣らぬ悲劇だ。
793 :
月光仮面:2006/11/06(月) 11:06:52
神武は岡港まで出向いているが、金印のあった志賀島、平原、平原の女王とは
どうなったのかの記述が抜けている。つまり、神武が岡港に出向いたのは平原
遺跡建設以前のことであり、そのとき既に志賀島において金印を護持する勢力は
なかったということになろうか。(海幸・山幸戦争の結果博多唐津は神武の祖先に
征圧され、政権の中心は岡港(宇美か))に移動していたと言うことか。博多の奴国
3官が任命されるのはかなり先のことなのか。記紀にはこうした極めて重要なことが
抜けている。
794 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 17:03:09
普通に祟神・垂仁紀の記述と魏志倭人伝の記述が一致するんだから
卑弥呼=ヤマトトビモモソ姫でおkだろ
795 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 19:57:20
実は卑弥呼とももタンは年代が150年もずれているので、別人だyo!
796 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 17:03:16
>>795 ずれているというソースを出せ
箸墓の築造は三世紀後半
卑弥呼の死は三世紀半ば
築造期間を計算に入れるとぴったり一致するぞ
797 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 21:45:26
ここだけの噺だがモモタンの腹上死は400年前後
俺はそれを証明出来る
端墓はその時リニュアルオープンした
異常に早く完成したとの記述はそのため
798 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 10:09:41
邪馬台国に阿蘇山とか言う人いるけど
それ隋書のことでしょ
秦王国が坂越(秦河勝の土地)でおkなんだから
隋書は畿内で問題なし
799 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 13:06:19
日本皇祖+秦河勝
↑
異国
↓
卑弥呼+隼人
。
これが当時の図。
後に隼人が出され、八幡宮や摂政牛耳る秦も出される。
隼人を使って盛り返し目論むが失敗。隼人は朝廷の警護役等に。
秦は鹿児島や稲荷宮の者として〜至る。
卑弥呼のお墓
801 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 09:01:59
>>799 隋書がなんで卑弥呼の時代なんだよw
大体卑弥呼の国はマキムクで確定なんだよ
802 :
太国:2006/11/10(金) 11:10:52
ちっとも確定はしない。マキムクなんかに女王国などありっこな〜い。
あそこはオシロワケの領域で、もしそこにあるなら記紀に「オシロワケの後に
卑弥呼の女王国の勢力が張った。」とかの記事が載る。そういう記事は記紀に
ない。
803 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 14:00:06
>>802 卑弥呼はヤマトトビモモソ姫で確定なので
その後にくるオシロワケがきても問題なし
卑弥呼=倭迹迹日百襲媛
難升米=田道間守
伊支馬=活目
弥馬升=御間城
弥馬獲支=御間城姫
台与=豊鍬入姫
こんだけ登場人物被ってるのに別人のわけないだろが
804 :
太国:2006/11/10(金) 14:42:01
>>803 卑弥呼がモモソ姫なら、彼女は女王国のクイーンだから皇后以上である。
ところが神功皇后は天皇ではないのに、記紀には大ページの記述になって
いるから、当然モモソ姫も神功と同等くらい、あるいはそれ以上の活動記述が
記紀に載るはずであるが、それがまるでコオロギの音よりも低いようで記述の状態
は静穏そのものである。ということはモモソ姫は女王なんぞではなく、家庭の主婦
に近い生き方の当時の女性であったろうと観るのが正解であろう。
だから彼女は鬼道をやって魏に轟くほどの名の姫ではなく、卑弥呼ではな〜い。
805 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 15:14:43
みなさん熱い議論をどうもありがとう
でもみんな大外れ
箸墓は俺の墓
806 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 15:38:38
>>804 モモソ姫は国政に口に出してたとちゃんと記述があるだろうが
807 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 20:51:06
確かに国記を編纂した時点では卑弥呼=モモソだったよ。
その名残が、垂仁が殉死を哀れみ以降塚の周りに埴輪をならべるようにしたとの記述
しかし、国記の見解も間違いなんだよな〜
808 :
太国:2006/11/10(金) 22:26:07
>>806 わかったわかった。だが西太后くらい口出ししないと卑弥呼とは言いにくいぞ。w
809 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 15:52:25
記紀の在位年数から60年以上の在位の天皇から、60年を引けば
ぴったりと卑弥呼とモモソ姫の年代が重なる。
この事から崇神より前の天皇を架空とする学者が多いのであろう。
奈良時代に、卑弥呼より前の時代の歴史が残っているはずないから
810 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 09:45:57
卑弥呼は引きこもりで、実際に政治を行っていたのは弟。
811 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 15:16:20
「卑」こんな漢字充てられたのだから
大陸と自国と諸国との狭間で 酷い事も偽善預言もあったのだろうな……
辛かったと思います。安定後に引きこもったのは改めや自責の念や…
疫病を治める為に
ワシが死ねば世は治まると 火挟み↑で自決したのは卑弥呼ですかね?
国の為の責任感が全てだったんでしょうね…。建国の祖として崇めるに値するかと。。
年末年始に箸墓行くやついないの?
813 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:37:37
ag
814 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 09:23:12
大市=大一=太一
815 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 16:26:31
神武天皇が実在していたと思うが
この時代の天皇は明らかに出雲王権の下僕だった。
だから、遺跡が残っていても小規模だし、
出雲に対して臣下の関係だから、欠史八代とされたのだろう。
神武東征とは、メインは出雲王権と畿内王権の戦いで
それに、出雲との同盟関係を重視する熊襲からの援軍の司令官の神武が
多くの犠牲者を出しながらも功績をあげ、
出雲王家の娘を妃にして、大和三輪山の領主に任命された話。
欠史八代の最初は、出雲王家の娘を正室にむかえている。
つまり、出雲王家と姻戚関係を結ぶことで勢力を拡大していた。
816 :
愛知県民:2006/12/17(日) 11:07:34
ヤマトトトビモモソヒメ=台与で、
その母とされるオホヤマトクニアレヒメ=卑弥呼では無いか?
彼女は孝霊天皇の妃の一人とされるが、古事記の安寧天皇記では
アレヒメまでの系譜と、淡路島で生まれたことが記され、
欠史八代の中では異例の扱いです。
モモソヒメを卑弥呼とすると、トヨスキイリヒメ=台与はちょっと無理。
「夜麻登(ヤマト)」が名前につく人物はアレヒメとモモソヒメだけ。
もちろん母子関係とされたのは伝承の誤りでしょうが・・・
817 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 11:16:22
お、愛知県民さん登場だ。
邪馬台国=愛知説なんて言うのかな、と思ったが、
なんだ、畿内説か。
818 :
愛知県民:2006/12/17(日) 12:06:09
狗奴国=愛知・岐阜(濃尾平野)説を説く人はいますね。
だが孝霊記の記述からすると狗奴国=吉備国?
狗奴=遠江久能
820 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 04:35:40
815
東征が抜けてるから文脈に統制が欠けて正統性ゼロ
821 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 09:19:13
なんか、みんな意見が煮詰まってきたんじゃないのか?
自分は、スサノオも神武天皇も卑弥呼も
現在の宇佐に拠点があったんだと思う。
また、山戸(やまと)というのは、現在の北九州全体のことで、
大分にも、山戸という地名がある。
一時、福岡市の山門という意見が強かったが...
大分、宇佐(須佐)、山戸という線も有力だと思う。
822 :
日本@名無史さん :2006/12/21(木) 22:59:43
弥生中期の古墳の分布を詳細に配置していけば、北九州の
それも有明海沿岸に手中しているという考古学の研究発表
があり、実際にそれらの墓は放置されて十分発掘されていない。
日本にシュリーマンみたいな人が出てきて、全財産かけて、それらを
発掘していけば、かなり詳細にわかるはず。
吉野ヶ里も甘木も山門郡も八女も昔は筑紫地方だから、この筑紫地方
のどこかが、邪馬台国でしょう。
>スサノオも神武天皇も卑弥呼も
>現在の宇佐に拠点があったんだと思う
これって暴論じゃね?しかも
>>822 >日本にシュリーマンみたいな人が出てきて、全財産かけて、
豊前で掘れないのは宮内庁に封印されているからだよ。金の問題じゃない
824 :
日本@名無史さん:2006/12/22(金) 11:08:08
熊本県、大分県西都原、鹿児島県。西南・沖縄の発掘が弱そうだ。豊前はいい方では
ないかな。
825 :
日本@名無史さん:2006/12/22(金) 12:16:46
大分は宇佐もまだ海岸河岸ばっかだ。山を発掘すればな〜御許山(宇佐神社の元)や薦神社をね。
そりゃそうと
やま国町に天岩戸あるな?その入口に 台 って地名だ。
大正時代に地名二文字以上政令交付あったよな?おかしくないかね?
台 にて台与が卑弥呼からバトンタッチ受けたから台与かもしれないな。
と、中津宇佐の平野一帯は葦原中津国だよ。だからその平野を望む山がスサノオや卑弥呼の土地(台地=邪馬台国)だろ。
やま国町一帯は国定公園だから発掘無理、
大分県中央に日出生台という高原があるが現在は自衛隊演習場。
中央に位置してなぜ、日いずる¨なのかと思ったら、
宇佐中津を見渡す山が、やま国町で、やま国町からだと陽が昇るのは日出生台だった。
最初は「妃いずり台生まれる」かとも思っていたが……
けったいな宗教って意味合いで魏から「卑」があてられたのだろうから
洞窟篭りも修行みたいなもんだったのでないかな?
だから滞在先には天岩戸があるんでないか?高千穂もそーだろ。
中津の羅漢寺の洞窟もそんな流れであるのかも。閻魔様であるし。
だから亡きがらは 山作って埋める……人工的洞窟が発端かと思う。
827 :
愛知県民:2006/12/23(土) 15:17:04
アレ?箸墓のスレなのに九州派ばかり。
押され気味の畿内派ガンバレ!
オホヤマトクニアレヒメはその名の通り「大ヤマト国」の女王で、
彼女を最初に補佐したのがオホヤマトヒコスキトモ天皇
(助けて共に治める男王)ではなかったでしょうか。
神武天皇の名「カムヤマトイハレヒコ」も、
アレヒメから作られた名前のように思う。
全国の殆どの神社では新年に、伊勢に対して挨拶するらしいよ。
だけど新年に伊勢の方から、北九州のある神社に挨拶するらしいよ。
あれれ・・・?
それが伊勢の元宮だよ!
だから伊勢神宮は北九州にあったじんじゃを移設しただけですよ!
畿内に都が移ったので、それに伴い移設しただけですよ!
さて・・・それ以外にこのスレで、何か検討する事あるのでしょうか?
可哀相な人しか住んでいないから、このスレの検討はこれでおしまいになるね!
829 :
サガミハラハラ:2006/12/23(土) 17:12:45
このスレに初めてお邪魔します。
ヤマトトトヒモモソ姫は卑弥呼ではと論じていますが、卑弥呼であることは絶対にありません。
また台与でもありません。女性だとだれでも卑弥呼であるとおもうのは大間違いです。
ところで、なぜ姫の墓(箸墓)は前方後円墳なのでしょぷか?
その疑問が解きたくてこのスレにお邪魔しました。よろしくお願いいたします。
古神道その他いろいろ2 他山の石 より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
QQQQQQQQQQQQ この人明らかに馬鹿だと思いませんか? QQQQQQQQQQQQQ
831 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 18:02:58
>>829 >ところで、なぜ姫の墓(箸墓)は前方後円墳なのでしょぷか?
>その疑問が解きたくてこのスレにお邪魔しました。よろしくお願いいたします。
これは難問ですよ。いや、日本考古学上の最難題、といってよいかも。
考古学者の中には自説を述べておられる方も、ないことはないですが、
大半は「お手上げ状態」じゃないですかね。
ですから、あなたが、「その疑問が解きた」い、というのは、見上げた志です。
でもね、そういうことでしたら、せめて、
「〜である可能性は低いのではないかな、と思っています」
ぐらいなことを言ってちょ。
832 :
愛知県民:2006/12/24(日) 09:57:24
倭奴国王(57年)と帥升王(107年)は、神話時代・九州で確定。
倭の五王(5世紀)は、歴史時代・畿内で確定。
邪馬台国はちょうど中間期の欠史時代だから、論争になるのでしょう。
・・・と私は理解してますが? 単純すぎ?
「脈絡」は有るか無いかだ。混乱するもんじゃない。
835 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 14:46:13
>>833 なんだそれw
字義から言ってるのか?
脈絡ってなんだか調べたらwww
836 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 14:46:40
837 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 22:48:54
箸墓=卑弥呼の墓は確定。
ただし、記紀に書いてある孝霊天皇の皇女ではなく
妊娠した年齢から言って、孝元天皇の皇女だと思う。
孝霊天皇の皇女と孝元天皇の皇女は名前は殆ど似ているし...
記紀の編纂者がゴチャゴチャになったんじゃないのか?
あと、107年の倭王・帥升は、
倭面土國王(やまとこくおう)・帥升等(シシト)
おそらく、第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)
>倭面土國王=第六代孝安天皇
そんなエサに釣られクマー
839 :
月光仮面:2006/12/27(水) 13:23:34
モモソヒメは国魂の太刀(ホト<フツ)を大和の大地にその柄を地中にして逆さに立て
国土の全権を掌握する儀式を終了された後に崩御された。遺体は土師が築いた古墳
に埋葬された。・・・これが正しい読み方であり、モモソヒメは性器に箸を突き立てて自害
されたと言うのは記紀が編集された時代日本語は意味が失われたり、大きな変動を
受けていたことを意味する。フツの起源はモンゴリアの鹿柱であり、鹿島神宮のなまず石、
春日大社の恐れ石、那智大社のナギ、香椎宮の神木、善光寺の回向柱、平原の大柱
に相当する。鹿柱は宮(モンゴルではヘレクスル)に直結する部分で宮・古墳の前面に
立てられる。民族が征圧される、国譲りが行われると古墳の前の宇宙樹・鹿柱、後には
それを象徴するホト、つまり、柄に鹿を彫り込んだ各種材料の太刀をさかさまに大地に
立てた。
>>46 なかなか説得力があるような希ガス
目から鱗
てか、スッキリしたがな
>>832 :愛知県民 :2006/12/24(日) 09:57:24
>倭奴国王(57年)と帥升王(107年)は、神話時代・九州で確定。
>倭の五王(5世紀)は、歴史時代・畿内で確定。
おまえ間違い。
倭奴国王は×。正しくは委奴国王(いとこくおう)
帥升王は×。正しくは帥升等(ししと or すしと)
これらは神話時代とは違う。欠史八代時代だ。
>>840 そこのソースは、安本氏の平均在位説と大差が無い。
卑弥呼=宇那比姫説支持!イコール、台与=天豊姫=箸墓
よって、邪馬台国は畿内となる。
ヤマトトソモモソ姫の墓は別にあるんじゃない?
844 :
月光仮面:2006/12/28(木) 15:59:26
>>836 崑崙丘(崑崙山、昆侖とも呼ばれる)
西戎(せいじゅう)にあるとされた土地や山、また丘や塔の呼称で伝説上の聖地。日月
の沈む場所としての、西の果ての象徴。西王母や黄帝などの神仙が住むとされた。
『爾雅』の釋丘篇には、”丘の一成(段)を敦丘と為し、再(ニ)成を陶丘と為し、再成の上
の鋭きを融丘と為し、三成を崑崙丘と為す”とある。
http://www.pandaemonium.net/menu/devil/konron.html 纒向建設には東北から九州に至る全国の土器が集中、箸墓は昼夜兼行で二上山の
石を手渡しリレー、国家総動員で行われ、箸墓は爾雅釋丘篇崑崙山を夕月嶽、兵主
神社を枕にするように作られた。このスケールは倭国としては秦始皇帝並の規模で
ある。
ここにあるフィロソフィーは爾雅が西戎の崑崙丘と呼ぶもので、兵主神は天日矛の神
であるから土師集団として天日矛が参加していたことを物語る。応神朝に渡来する秦氏
の功満王とは現在のアルタイ・クマンディン族、キプチャククマン族、熊野、久米、高麗
等に見られる要素を含むが、融通王は融丘と陶丘、天と地を結ぶ(秋田唐松神社では
神功の腹帯、タラシ)ものといった意味が伺われ、オキナガタラシの概念が天日矛・
秦氏共通のものである
ことがわかる。つまり、秦氏は西戎であり、基本的にその先祖はアルタイ西麓に達した
丁霊からサカ族に至る白人であろう。
845 :
月光仮面:2006/12/28(木) 16:07:04
神武の話の東遷とか、大和・熊野遠征、神代におけるオオクニヌシノ国譲りなどは
既に渡来人が持っていたシナリオとか、儀式に沿ったものである可能性が高い。
仮想敵がいないと儀式ができなかったのであり、出雲と天孫の関係もやらせの要素
が強いのだろう。
846 :
月光仮面:2006/12/28(木) 16:49:35
847 :
月光仮面:2006/12/28(木) 17:02:02
848 :
月光仮面:2006/12/28(木) 17:16:41
秦A:オキナガタラシヒメ・タラシナカツヒコ、これじゃーあんまりだ仲哀天皇ってのはどう?
秦B:それは傑作だ、功満王、融通王並だな・・・ウッヒッヒ・・・
秦の神主たちの高笑いが響く。
>>843 :神奈川県民 :2006/12/28(木) 00:25:15
>卑弥呼=宇那比姫説支持!イコール、台与=天豊姫=箸墓
それって、海部氏系図を支持しているのか?
あれは、一つの参考資料としても、あのへんは
無理して、系図を挿入したんじゃないのか?とも思える。
誰かが、あおの系図の不自然さを指摘していた。
まあ、崇神天皇付近の年代から考えても、無理が相当ある。
>>846 奥津中津辺津をそう対応させるとは興味深い推理ですね
水平方向思考で海に関係から、垂直方向思想への転換でしょうか
天孫降臨だって天からではなく、実際的には海からと考えれば
海として水平方向で捉えているものを、天として垂直方向に考え直すのは妥当かもしれないです
>>849 先代旧事本紀や海部氏系図は部分的に錯綜しているようですが
宇那比姫命が六世孫とするなら古事記崇神没258年と考えれば年代には無理はないですよ
むしろピッタリです
先代旧事本紀では崇神は七世孫と同期ですから、崇神の一世前が宇那比姫命です
寧ろ記紀の直系関係の方が異常です
>>850 自分も、崇神天皇の没年は
西暦258年だと思う。
その宇那比姫命って、何年くらいに生存していた人なんだ?
宇佐の亀山が卑弥呼の墓だと昔からもっぱら言われている。
宇佐の祖社、大許山の神代に遡る奥宮は太陽神信仰の遺跡があり(現在、御禁足地)
別の祖社の中津の鷹居社の家が代々神宮の神官を勤めている。
宇佐神宮はまるで亀山を封印するように建てられており、古くから石棺が見つかって
いること、前方後円墳だと地元の郷土図書館に記録されており噂の領域は越えている。
近年撮影された航空写真では前方後円墳としては最大級。
卑弥呼だと噂されるのひとつの理由に百体神社の存在。隼人の魂を静めるため、ということだが
実はもっと古く倭人伝で描写されている百人の奴隷のためのものでは?という話だ。
853 :
月光仮面:2006/12/29(金) 11:26:57
>>850 >奥津中津辺津をそう対応させるとは興味深い推理ですね
>水平方向思考で海に関係から、垂直方向思想への転換でしょうか
神功創建の住吉大社がうまく説明しています。
「住吉大社の大神は住吉大神。皇后は神功皇后。
文中では天香久山となっているが、今は畝傍山に変わっていて、この神事は今でも
続いている。毎年2月と11月に住吉大社から「埴使い」が畝火山口神社を訪れ、山頂で
土を取り、その土で住吉大社の祭祀に使用する土器を作る。「埴取神事」という特殊
神事である。
畝火山口神社の祭神は、表筒之男、神功皇后、豊受大神。
表筒之男は住吉三神の一。なぜ表筒之男だけ祀られているのかよくわからないが、
住吉大社では、第一本宮(底筒之男)、第二本宮(中筒之男)第三本宮(表筒之男)と
へ向かって直線に並んでいるが、その第三本宮の南隣りに、第四本宮(神功皇后)が
祀られていることと関連があるのかもしれない。」
http://www.eonet.ne.jp/~kokakuro/kodaishi/sumiyoshi/sumiyoshi.htm なぜ表筒之男だけ祀られているのか---これこそ表筒之男が「山頂で土を取る」
ことにより垂直座標の最上層クラスに位置づけられているということで、香具山、畝傍
ミミナリと水平に展開すると住吉の第一本宮(底筒之男)、第二本宮(中筒之男)は
それらのいずれかに位置づけられるということでしょう。
854 :
月光仮面:2006/12/29(金) 11:40:59
>>844 スキタイのカーストの軍事部門、サカ族、坂上、坂合、佐伯等と宗教・祭祀部門
これが秦氏だと思うのですが、これらの遺跡の広隆寺、松尾大社の石柱、ステラ
は明らかにモンゴリア高原のものであるもののこれらを製作するメーソンはモンゴロイド
夫余系のものであった、つまり階層化社会であり白人階級は上層部に限られこのため
後世にはマジョリティーのモンゴロイドのみが生き残り、白人の形質を持った遺伝子は
極めて少なくなっていったのだと考えている。しかし、思想的に秦氏は西方の宗教に
こだわっており、漢学の素養も多いが基本的には西戎であったのだろう。高句麗系とは
明らかに違っている。
855 :
月光仮面:2006/12/29(金) 11:49:45
夫余とはエベンキ族が鹿飼い(オロチェニ)、馬飼い(ムルチェニ)、海東(ラムート)
と分類する鹿飼い族でこれが秦始皇帝の長城建設でメーソン技術者となり、その後
高句麗のメーソン文化、前漢時代の豊前、男鹿半島の鬼伝承の石段作りとなったもの
であろう。
856 :
愛知県民:2006/12/29(金) 15:46:54
>>841 なるほど。
確かに、金印は「漢委奴国王」ですし、後漢書の「帥升等」を
「帥升」+「等」としない読み方もあります。
しかし「欠史八代時代」は無理でしょう。
古事記下巻の年代が、ほぼ5・6世紀の二百年ですから、
中巻の崇神〜応神は4世紀、欠史八代は3世紀と推測します。
857 :
月光仮面:2006/12/29(金) 16:08:51
>>845 神武東遷とは、海部家の系譜に連なる倭宿禰、珍彦が周防灘沿岸のシャーマンを
大和に招聘し、最終的には纒向の地で首都の建設を始めたが、これに吉備の土師が
合流したというのが大筋で、複線的には豊前の鏡作り集団が吉備経由東進、琵琶湖
周辺の後期銅鐸文化を鏡作り文化に転換したということがあり、これが天日矛の移動
として残ったのであろう。大陸に置けるような民族移動とか戦闘行為は伴わない、地域
住民のコンセンサスに基づく稲作経済の広域化による地域経済活性化を期したもの
ではなかったでなかろうか。
858 :
月光仮面:2006/12/29(金) 16:24:05
859 :
月光仮面:2006/12/29(金) 16:28:34
こうした海人族の抗争を経て住吉系は安曇の縄張りに進出、沖ノ島使用権乃至は
無害通航権を獲得したのであろう。そして平原の女王が擁立された。これは初代
卑弥呼というべきだろうか。
>>856 おまえのその考えのほうが無理。
崇神天皇はどう考えても3世紀前半の人間。
861 :
月光仮面:2006/12/29(金) 16:42:12
倭人通商代表部のある勅島・小伽耶の風待ち港(葺合津)は神武の父が管轄していた
ようで、神武も東遷の途中、岡の水門付近で行方不明となる。又、神武は塩釜のシオ
ツチつまり東北勢力とも交際があったようだ。東遷の話は点と線で、高句麗神話と
大筋をあわせるような書き方であるが、神武紀はメドレーのようなものではないだろ
うか。
863 :
愛知県民:2006/12/30(土) 00:29:35
>>860さんは、古事記の没年干支「戊寅」=258年説?
私は318年が妥当と思います。
また、古事記では、モモソヒメは孝霊天皇記に名前が出ているだけで、
崇神天皇記には出てこないことにも注意しましょう。
たしかに有ですな(笑)
モモソ姫 十分有思う
倭迹迹姫命じゃないのか?卑弥呼は...
崇神天皇の叔母が倭迹迹姫命。
崇神天皇の大叔母が倭迹迹日百襲媛命(モモソ姫)。
>>860 >>863 私はこうです。
古事記を信じ、中国史の倭の5王を参考に、
十五代応神、甲午(394年)没
十六代仁徳、丁卯(427年)没
十七代履中、壬申(432年)没
十八代反正、丁丑(437年)没
十九代允恭、甲午(454年)没
二十一代雄略、己巳(489年)没
二十六代継体、丁未(527年)没
とし、十代祟神、戊寅、没年を考える。(258?318?378?)
もし、258だとしたら応神から136年前になるので少し長いし不自然。
神功皇后新羅征討でも古事記と中国史の年代は一致する点が多いため、
古事記の年代はある程度信用できる。 よって祟神は 318年没
わたしは
卑弥呼=地方豪族の娘で畿内説をとってます。
でも十分 モモソ姫ありえるとおもいます。
意見ある人どうぞ
サガミハラハラさんの本って、1〜2万円くらいするみただね。
まあ、それだけ気合が入っているんだろうけど...
869 :
古代史トーシロー:2006/12/30(土) 08:13:34
>>867 地方豪族の娘が魏に朝貢したのですか?
史書に出てくる名前は卑弥呼と臺与です。
イヨタン・・・・・
871 :
古代史トーシロー:2006/12/30(土) 08:42:39
>>866,867
崇神天皇の年代が318年だとすると(これ賛成)
モモソヒメは彼の叔母にあたるから、卑弥呼、臺与の年代
とは合わないよに思うが。
トヨタン・・・
873 :
月光仮面:2006/12/30(土) 08:51:12
>>861 http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1166287199/68 >68 :月光仮面 :2006/12/30(土) 08:47:10
>神功三韓征伐の後秦氏がどっと押し寄せたように、帥升の後漢訪問の後にも
>多くの渡来人が随伴してきた。これは当時山彦と海彦の抗争の時代で、特に
>九州南部の戦場に渡来した山戎傭兵が投入されたのではなかろうか。博多勢と
>友好関係にあった出雲勢が周防灘勢力に外人傭兵でもって襲い掛かることも
>あり、戦闘は吉備に移り、一度は吉備を中心として安定するかと思われたが、
>最終的には海部系が大和に首府を移すことになった。とりあえずこの線で行こうか。
874 :
月光仮面:2006/12/30(土) 08:59:22
勝手な想像ではあるが、誰も反論ができないということはそれなりの価値のある
想像と言うことなんだ。つまり、この線は今後立証される可能性が高いと言うことだ。
875 :
月光仮面:2006/12/30(土) 09:08:38
これで麻生、古賀、安倍、橋本、海部さんがたが古い家系かも知れないと
言うことになるんだが、中曽根さんは長髄彦の子孫で一世代前の方と解釈
すればいいかな。
876 :
月光仮面:2006/12/30(土) 13:11:41
>>861 邪馬台国時代、倭国は対馬・勅島の総督を率大倭(ソチオーウェ載斯烏越)として
おそらくは狗邪国、狗邪韓国に駐屯させていた。弁辰には倭国港湾都市からとしてでも
弁辰古資彌凍國(越前御津)、弁辰彌離彌凍國(富山港代表部)これらはヒスイ、鉛の
供給国、他には多分サヌカイト輸出国として摂津国(弁辰接塗国)、アカルヒメの出身国
軍彌國(弁軍彌國)、久美(丹後の久美浜か)、フ斯(富士)國、黒曜石輸出国か、
弁辰安邪國(馬延國)、前原、吉備あたりか、弁辰走漕馬國、出雲須佐あたりか、その他
伊勢などもあったようで、これらが新羅から鉄を受けており、率大倭(ソチオーウェ載斯烏越)とは居留民団の長であり、神武の父もこの役職であったのかと思う。
狗邪韓国とは倭語日下(日の落ちる方角の)諸国という意味で、単に方角を示す言葉で
あったのであろう。
877 :
月光仮面:2006/12/30(土) 13:15:10
>>861 邪馬台国時代、倭国は対馬・勅島の総督を率大倭(ソチオーウェ載斯烏越)として
おそらくは狗邪国、狗邪韓国に駐屯させていた。弁辰には倭国港湾都市からとしてでも
弁辰古資彌凍國(越前御津)、弁辰彌離彌凍國(富山港代表部)これらはヒスイ、鉛の
供給国、他には多分サヌカイト輸出国として摂津国(弁辰接塗国)、アカルヒメの出身国
軍彌國(弁軍彌國)、久美(丹後の久美浜か)、フ斯(富士)國、黒曜石輸出国か、
弁辰安邪國(馬延國)、前原、吉備あたりか、弁辰走漕馬國、出雲須佐あたりか、その他
伊勢などもあったようで、これらが新羅から鉄を受けており、率大倭(ソチオーウェ載斯烏越)とは居留民団の長であり、神武の父もこの役職であったのかと思う。
狗邪韓国とは倭語日下(日の落ちる方角の)諸国という意味で、単に方角を示す言葉で
あったのであろう。
878 :
愛知県民:2006/12/30(土) 13:50:11
>>871 私はモモソヒメ=臺与説です。
臺与は248年頃に13歳で女王になりましたから、
崇神天皇の初期まで生きていたとしても、矛盾はないと思います。
なお、モモソヒメは崇神天皇の叔母ではなく、大叔母です。
おまえら、いろいろ説を出すんじゃなくて
各天皇の在位期間から生存期間まで、綺麗に算出させ。
面倒くさい計算だが、それが一番わかりやすい。
>>869 その卑弥呼と臺与が地方豪族の娘だと言っている。
>>871 基本的には卑弥呼は他の豪族の娘だが。
モモソヒメは崇神天皇の大叔母なので有り得ない話ではない。
881 :
月光仮面:2006/12/30(土) 14:16:43
>>861 邪馬台国時代、倭国は対馬・勅島の総督を率大倭(ソチオーウェ載斯烏越)として
おそらくは狗邪国、狗邪韓国に駐屯させていた。弁辰には倭国港湾都市からとしてでも
弁辰古資彌凍國(越前御津)、弁辰彌離彌凍國(富山港代表部)これらはヒスイ、鉛の
供給国、他には多分サヌカイト輸出国として摂津国(弁辰接塗国)、アカルヒメの出身国
軍彌國(弁軍彌國)、久美(丹後の久美浜か)、フ斯(富士)國、黒曜石輸出国か、
弁辰安邪國(馬延國)、前原、吉備あたりか、弁辰走漕馬國、出雲須佐あたりか、その他
伊勢などもあったようで、これらが新羅から鉄を受けており、率大倭(ソチオーウェ載斯烏越)とは居留民団の長であり、神武の父もこの役職であったのかと思う。
狗邪韓国とは倭語日下(日の落ちる方角の)諸国という意味で、単に方角を示す言葉で
あったのであろう。
882 :
月光仮面:2006/12/30(土) 14:26:06
アカルヒメに逃げられDVの亭主のように追っかけてくる天日矛は古代の金大中事件
であり、ボーダーレス時代の倭人もぼちぼち主権国家の必要性を認識し始めたので
あろうか。
883 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 01:34:40
ここの住民、詳しいけど、ご近所さん?みわさん、
見てる様に、ちょくちょく見させてね。
豚がブーブー
>>882 いつもの豚さん
少し弱いよね
○たまがw
886 :
愛知県民:2007/01/01(月) 10:12:13
>>829 >ところで、なぜ姫の墓(箸墓)は前方後円墳なのでしょぷか?
266年、臺与による晋への遣使が前方後円墳発生の契機とする説があります。
「泰始二年十一月己卯、倭人来りて方物を献ず。
円丘方丘を南北の郊に并せ、二至の祀を二郊に合わす」
(晋書・武帝紀)
今の考古学界では、箸墓が円墳だったという説は否定されているようですが、
気になる記事ではあります。
それは言い出した本人が史料の誤読だったと認めている。
豚さんもたまにはお外で遊びましょうね。
豚臭いと嫌われるよ。
ブー
889 :
サガミハラハラ:2007/01/01(月) 12:35:14
>>887すみませんが、史料の誤読とはどのように誤読したのでしょうか?
>>886のことで、一文を著わしたことがあるので気になりますので。
>>886 それが事実なら、いずれにせよ、卑弥呼、崇神天皇、台与の頃が
前方後円墳の分かれ目だな。
あと、魏志倭人伝の行程って
中世までの中国人の日本観を示している。
中国人は、日本海側からみた逆さまの日本列島を知っていて
日本の港の重要部分は、ほとんど日本海側しか知らなくて
瀬戸内海や太平洋側は知らなかった。
>神道と古神道は違うんだよ。
どこが違うの?
詳しく説明して欲しいよ!
最高権威の太国さん
>>889 サガミハラハラさんは、邪馬台国の所定地は
どこだと思いますか?
>>893 その記述に関しては、あんまり興味ない。
895 :
サガミハラハラ:2007/01/01(月) 12:57:42
末ロ国が唐津市で上陸地が西唐津八幡町、伊都国が多久市南多久町下多久字外廻延寿寺、
奴国が杵島郡江北町山口、不弥国が小城市不二町、邪馬台国が小城市小城町〜三日月町甘木、
投馬国が宮崎県西都だと考えています。
卑弥呼の墓は小城町の小城公園内の桜ヶ岡です。
これで間違いないとおもっています。
>>895 それに関しては、あなたと全く考えが違う。
897 :
九州出身:2007/01/01(月) 13:11:02
>>895 間違いない言ってるが間違いですよ。
それだと距離も方角も合わない。
>>895 サガミハラハラさんは、2ちゃん以外にも
あちらこちらで、それを宣伝していますね。
まあ、それは間違いとは断定できませんが...
自分はどう考えても、そこには行き当たらないと思います。
何故なら、不弥国から水行の過程が書かれていますが...
そこに邪馬台国があるとなると、
投馬国や邪馬台国の所在地としては、ちゅっと...
899 :
九州出身:2007/01/01(月) 13:37:13
サガミハラハラさんは細かい所まで記載されて有り非常に好感持てますが、
それだと距離&方角が合いません。
文句言うだけではいけないので私が邪馬台国だった場所を解明し、
「謎の女王〜・・」に載せてますのでよければ読んでください。
サガミハラハラさんのは
魏志倭人伝の「至」と「到」という漢字の違いから
実は、伊都国以降は、そこを基点に距離を出したのでは?
という解釈の方法なんだわな。
ただ、これだと、狗邪韓国〜対馬国〜壱岐国〜末盧国の
道程の記述に矛盾が生じる。
たしか、狗邪韓国で「到」という漢字を使っているから
そこから伊都国までは、狗邪韓国を起点にした記述じゃないといけないんだから
対馬国、一支国、末盧国、伊都国と、
距離が長くなっていかないといけない、地形的にも。
でも、記述には全く距離に変化が無いし、
末盧国から伊都国までは、普通に陸行の記述しかない。
よって、サガミハラハラ氏のそれは、ちょっと違うのでは?と。
902 :
日本@名無史さん:2007/01/01(月) 13:56:14
まぁ宮内庁が調査認めるらしいから情勢動くかもな
>神道と古神道は違うんだよ。
どこが違うの?
詳しく説明して欲しいよ!
最高権威の太国さん
とくにマキムクに興味がある。
905 :
サガミハラハラ:2007/01/01(月) 16:41:36
いや、私が着目したのは「渡」と「行」の字です。この字のある国には行ったとみた。
距離と方角は倭人伝の記載どうりです。
ただ、「行」に着目すると、南投馬国に至る。は「行」が無いのでいかない。
そうなると、南邪馬台国に至る。も行かなかったのかとなり、ここが
いままでの弱点であったのですが、今度発行する本では、
それを解決しております。
906 :
愛知県民:2007/01/01(月) 17:08:12
>>887 >>893 謝謝。
そうすると白石説のように、前方部は単に円墳への通路が発達したものと
考えるのがよいでしょうか。
前方後円墳とは現代人が付けた不適切な呼び方で、当時の人々(卑弥呼の
墓を見た帯方郡使を含めて)の意識では円墳と同じであったとすれば、
「前方後円墳への改築」を持ち出す必要も無いですね。
魏志倭人伝にある国名って
九州にも九州以東にも、それらしき地名があるんだよな。
ただ、九州以東の場合は、実際
先代旧事本紀に国造の国名出てくる(=国として存在)けど
九州の場合は、現代のちょっとした地名に頼るしかないんだわな。
909 :
九州出身:2007/01/01(月) 19:57:15
>>895 あなたの説は(邪馬台国が佐賀県小城市、 投馬国が宮崎県西都)、計算しても八千五百余里がいいところでしょう。
魏志倭人伝によると「郡より女王國に至ること萬二千余里」と記されてます。
距離がが合わないのは何故?女王国と邪馬台国は別とでも思ってる?
本なんか出して大丈夫なんですかね?
魏志倭人伝の方角の間違いは、末盧国とか、伊都国とか、奴国とか、
ある程度、明確な地域からして、間違ってからな。
末盧国→伊都国→奴国は、北東へなのに、
魏志倭人伝には南東というふうに書いてある。
911 :
サガミハラハラ:2007/01/01(月) 20:30:48
今度の本の邪馬台国に関する部はメジャーで辿る邪馬台国です。
じっさいに地図ではかってみてください。
912 :
九州出身:2007/01/01(月) 20:30:53
913 :
九州出身:2007/01/01(月) 20:36:18
サガミハラハラの本は買えない。
高すぎそうだから。
それに、サガミハラハラって、考古学や歴史学が専門なのではなくて
理系出身だってね。
サガミハラハラの本は高すぎ...
買えないよ...
また、書いてあることが電波なので、買う気もしないw
>>849 >>851 系図の錯綜を整理してると、宇那比姫命と同世代か一世上に
倭迹迹日百襲姫命が来る事が決定的になったので
宇那比姫命でも世代的には全く問題ありませんが、傍証からは
宇那比姫命より倭迹迹日百襲姫命を推したいですね
(同じ人物の可能性もありますが)
年代的には宇那比姫命は凡そAD180年以降に産まれてAD240年ごろまでの人でしょう
倭迹迹日百襲姫命も同じ頃ですが
宇那比姫命より早く生まれて、宇那比姫命より長く生きたかもしれないですね
倭迹迹日百襲姫命が死んだ崇神十年はAD247年、最悪の場合でも248年です
917 :
サガミハラハラ:2007/01/01(月) 23:49:35
>>914 日本歴史研究所の木村信行氏とお間違いではございませんでしょうか?
まあ、大学は事情があって、理系のコースでしたが?
918 :
日本@名無史さん:2007/01/02(火) 00:19:29
>>917 ええ、木村さんだと思ってました...
いや、銀座前大学とか何とか言ってらしゃったので...
でも、本は高いんでしょう?
木村さんの本は、1〜2万円くらいするのが殆ど...
サガミハラハラさんの本はいくらぐらいでしょうか...
自分は、倍年暦に関するものだけ期待していたので...
919 :
九州出身:2007/01/02(火) 01:34:37
>>916 残念ながらその頃、まだ祟神は生まれてない。
祟神が活躍したのはもっと後だ!
920 :
日本@名無史さん:2007/01/02(火) 02:51:31
サガミハラハラさんは、古事記の干支没年も
最初の頃は倍年暦だったというけど、
当然、最初の頃は、通常暦だった中国の干支が入ってくるわけだから
干支も中国にあわせたものだったはずだよね。
それについては、どう考えているわけ?
921 :
日本@名無史さん:2007/01/02(火) 02:57:48
卑弥呼氏ね!! 壱与の犬に手噛まれて氏ね!!
この板はもしか
養豚場でつか?
923 :
サガミハラハラ:2007/01/02(火) 09:26:39
拙著の名前と値段ですが、出版社と相談してきめますのでたしかなことはいえませんが、二千数百円ぐらいになると思います。
924 :
愛知県民:2007/01/02(火) 22:22:52
九州説の皆さんは、「邪馬台」の音韻についてはどうお考えです?
九州にある「山戸」「山門」の「ト」は古代では畿内大和の「ト」と異なり、
魏志の「邪馬台」、隋書の「邪摩堆」は畿内大和と思われます。
古事記では、ヤマトの古い表記と思われる「夜麻登」が、安寧記・孝霊記の人名の
一部として出てきます。
その二人こそ卑弥呼と台与ではないか?と私は思います。
925 :
九州出身:2007/01/02(火) 22:48:08
924の愛知県民さん
以前お話ししたかな?私は九州説です。
問いに対して答えてもいいがその前にあなたの「邪馬台国」「卑弥呼」についてもっと詳しく聞こうじゃないですか。
音韻の事だけでも答えてあげたら?
927 :
日本@名無史さん:2007/01/02(火) 22:52:19
↑ お前さあ、まずてめえの意見を逝えよ。カス。
928 :
愛知県民:2007/01/02(火) 23:55:09
>>925 ふむふむ。
書いた後でしまったと思ったのですが、例えば
>>818 で、狗奴国は濃尾平野とか吉備とか、全く音韻を無視したことを
言ってるし、それだけでも駄目ですね。
暫く豚になって隠れようと思います。
ブーブー
高齢期云々の話は知らねども、クナ国=吉備に一票。
根拠は直感。
吉備は既に邪馬台国連合の一部だったと思う。
クナ国は既に邪馬台国連合の一部だったと思う。
ただ卑弥呼との折り合いが悪く、卑弥呼即位後のあるときに離反し、
卑弥呼死後に連合に復帰したと見る。
卑彌呼、卑彌弓呼という人名の類似を見ても同じ文化圏と見るのが自然。
932 :
月光仮面:2007/01/03(水) 13:29:48
卑弥呼の崩御、箸墓への埋葬は全体的にみて、野球のホームスチールとすれば
タイミングアウト。張政にも死亡日時などの正確な通知がなかった。いくら野合のような
国家関係にせよ非礼極まりない。しかも元首が謁見すらしていない。この謎を解く鍵と
して「箸でホトを刺し、身罷った」の伝承。これを橋(後円部への上り坂)まで完成し、前方
部は未完成であった時期、つまり、古墳が円墳に見える段階で死亡、遺骸は円墳頂上の
未だ木槨を作っていなかったところに仮安置した。その直前に橋で神器の太刀を大地
に逆立てる建国の儀式を行っていた。遺骸はその後最寄の岩戸神社に安置され、
箸墓前方部が竣工した時点で儀式として引き出され完成した箸墓に葬られた。ところが
この間の事情を秘密にして男王が強硬な銅鐸弾圧を執行したものだから、男王が卑弥呼の
死後もこれを伏せて勝手に行政権を発動していた疑いが浮上。イザナギ調査団が岩戸
神社で卑弥呼の死体状態から推定死亡時期を割り出そうとした。これにたいし、男王は
卑弥呼の女性警備兵を使って追討を命じた。・・・こんなごたごたがあったのでは。
日本史板の常識
コテ=馬鹿
934 :
月光仮面:2007/01/06(土) 09:34:23
ピラミッドには擬扉とかがあるんだが、鳥になった魂はそれを通り抜けられるそうな。
馬鹿の壁でコテという慣性系に捉えられることは、春うらら株を箪笥にしまいこんでいる
人に似ていると言う意味のことを言っているんかな。しかし、常連の楽しみと言うこともあり
サイバー社会の止まり木と見て大目に見てやれよ。チト前置きが長くなったが最近
色んなスレタイトルを訪問していると、やはり辰(トーバン)と言う言葉がユーラシアを
徘徊しているようだ。チベット、トゥー族、ツボケ、筑波、椿、賭場・・・これに関連するも
のとして鳥見山、鳥海山などがあるが、ヤマトトトヒモモソヒメのトトヒになんかこの
辰が含まれているのではと思う。背後に竜王山があるのが気になる。モモソは長谷から
考え、馬韓のハクサイ国、百磯城と言う言葉も考えると、百済と同様の概念かなと言う
感じがする。中締めとして東龍百済姫、百済が東遷した感じがあってよくないけど、逆に
百済は」朝鮮族でもないしなー。
935 :
月光仮面:2007/01/06(土) 10:29:59
セム系の言葉TOBANのBに変化がおきるのは冒頓単于の父トーマン、豆満江
等でBからMへの変化が起こり、トト、トミの2つの形で列島に持ち込まれたと
見たい。(辰の話だが)
936 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 22:01:39
邪馬台国がどこかは決定的なことは分からない。
でも、近世の朝鮮通信使が一つのヒントだ。
彼らは瀬戸内海の港を各駅停車して、京城から大阪まで
行きが40数日、帰りが70数日だった。
そこで、これを念頭に考えてみる。
中国帯方郡(ソウル)〜釜山から水行したら、どこへ行きつくかな?と考えたら
対馬海流の影響で、まっすぐ南へ行く様な感じでも、流されて
出雲あたりに行き着くんだよね。
そこで、だいたい、20日あたり。そこが投馬(ズマ?)国か。
人口5万戸といえば、当時の大家族から考えたら、およそ50万人くらいか?
となると、戦国時代の尼子氏が、出雲・伯耆・因幡・美作あたりの所領で60万石。
で、そこから水行10日、陸行一月のコースといったら
若狭か丹波の沿岸から入って、そこから徐々に陸行して畿内南部へ入るぐらいのコース。
邪馬台国7万戸ってどれくらいよ?と考えたら
戦国時代の石高で、大和・河内・和泉で83万石。
なんで、投馬国と邪馬台国だけ、あういう違うような書き方をしたかだだ。
937 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 22:04:12
>>931 :日本@名無史さん :2007/01/03(水) 09:04:00
>クナ国は既に邪馬台国連合の一部だったと思う。
>ただ卑弥呼との折り合いが悪く、卑弥呼即位後のあるときに離反し、
>卑弥呼死後に連合に復帰したと見る。
たしかにな...台与の使節は割りと直ぐに使節を送ってきたんだけど
もう狗奴国との闘争の件は、あっさりとどこかに言ってしまっていた。
ただ、狗奴国が吉備かどうかはちょっと分からん。
938 :
愛知県民:2007/01/06(土) 22:31:47
>>924は撤回。
外国語のヒアリングは難しいし、まして間に韓国人通訳が入っていたら
そこまでの正確さは期待できないでしょう。
>>925 邪馬台国は畿内大和、箸墓は卑弥呼の墓。
但し日本書紀より古事記を重視し、卑弥呼は意富夜麻登久邇阿礼比売、台与は夜麻登登母母曾毘売、
男弟は崇神天皇でなく孝霊天皇と考えます。
また、古事記では孝霊天皇記に二人の皇子を派遣して吉備を平定した記事があり、
欠史八代唯一の例外となっています。
この吉備が狗奴国で、箸墓も孝霊天皇によって造られたのではないでしょうか。
年末年始を通じて、箸墓に行った人いる?
940 :
愛知県民:2007/01/08(月) 00:27:33
>>939 箸墓は行ってませんが、先月、猿投山に登りました。
山頂近くに宮内庁指定・大碓命の墓があります。
>>134と同じような立札もありました。
奈良県の人は見慣れているのでしょうね。
>>926 過去すれにウンザリするほど既出だが、倭人伝の記述を鵜呑みに
現代の感覚で分析するのは時間の無駄。なぜなら出発地も編纂順序も怪しい。
まず漢文の原文で読もう。投馬国と邪馬台国「だけ」、じゃなく投馬国
と邪馬台国「から」。つまり、それ以前とは別編纂。ゴタ混ぜにする意味がない。
しかも当時の倭人は後数百年も文字がない口伝文化(中国や朝鮮と違い、環太平洋の原住民の特徴)。
里のような距離表現の観念のない日数による距離の表現は倭人の特徴。
距離を表現する観念もない人間が「戸」などの観念もあるわけがなく、当然編纂した
人間側(中国の役人)による調査による数字でどこまで正しいかわかったもんじゃない。
942 :
愛知県民:2007/01/08(月) 14:16:26
日本書紀や古事記の記述から考えたら
崇神天皇くらいから、一応、漢字?で歴史の記述を始めたんじゃないのか?
って説もある。
それが、ちょうど、魏志倭人伝のころ。
>>941 一応、崇神天皇の時に、戸籍を作ったことになっているんだよな。
945 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 09:35:59
箸墓=卑弥呼かどうか以前に
箸墓=モモソ姫かどうか調べる必要がある。
946 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 10:55:21
それ以前に卑弥呼=モモン姫かどうか調べる必要がある
>>945 >箸墓=モモソ姫(の墓)かどうか調べる
>>946 >卑弥呼=モモン姫かどうか調べる
この二つの「調べ」は、別個にやってよろしいよ。
どっちの「調べ」を先にやらなければならないのか、なーんて
ちっとも気にしなくったっていいと思うんだけどな。
興味を持った人が好きなほう選んで調べようとしてるのを、
外野がイチャモンつけて邪魔するのはおかしいよ。
948 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 13:09:44
箸古墳って名前のつけ方がよくない。
このネーミングは、この墓をモモソ姫の墓と決め付けているような名前だ。
普通にそこの地名を古墳名につけるべき。
949 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 13:44:53
箸中山古墳
950 :
サガミハラハラ:2007/01/11(木) 14:16:35
ここは、モモソ姫の墓であるから箸墓と名づけられ伝承されてきたのですよ。
諸陵の中で被葬者が確定している陵の一つです。
>>948-949 そう。その反省があるから、考古学界では「箸墓古墳」をやめて、
まあ最近だけど、「箸中山古墳」と言うようになった。
いま考古学の専門誌を読むと、かなり徹底してきているよ。
ただね、考古学の専門研究家なら「箸中山古墳」で通るんだが、
アマチュア古代史ファンにはまだ「箸墓古墳」の方が馴染み深くて、
「箸中山古墳」て言っても、キョトンとされてしまう。
おそらくこのスレ立てをしてくれた人もその部類だろうな。(笑)
で、新聞記者なんかは「箸墓古墳」を、いまだに使い続る。素人相手の商売だからね。
しかしそろそろマスコミも、「箸中山古墳(伝箸墓)」と表記してもいいんじゃないかな。
952 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 14:51:48
邪馬台国の時代の二世紀、三世紀に箸は使われてなかった
なのに箸墓と名づけるのが不思議だね
ついでに言っとくけど、宮内庁はまた表記が違うんだ。
「箸墓」も「箸中山古墳」も、絶対と言っていいほど使わない。
みんな、宮内庁が何と言ってるか、知ってるかい?
「太市墓」
おおいちぼ、なんだよ。行政的にはこれが正式名称なんだ。
ごめん、変換ミスした。訂正。
太市墓(×)→ 大市墓(〇)
955 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 15:15:15
埴輪が埋まっているのなら、垂仁天皇の途中からなわけで。
モモソ姫の墓にはギリギリ埴輪は埋まってないと思う。
よって、モモソ姫の墓は、マキムク周辺の
埴輪が埋まってないほうの古墳だと思う。
>>955 ははーん。
いま単に埴輪と言えば、円筒埴輪、器財埴輪、形象埴輪すべて
ひっくるめた総称だよね。
で、日本書紀の垂仁紀を読めば、あそこに出てくる埴輪とは
形象埴輪、それも主として人物埴輪のことを意味してることが
解るだろ。
形象埴輪が無い古墳であっても、垂仁よりも前から、というより、
古墳の出現とともに、いやいや、それよりもっともっと昔から、
別種の埴輪(やその祖形となった土器)が立てられていたんだよ。
モモソ姫の墓にそうした別種の埴輪(やその祖形となった土器)が
あっても、全然おかしくはないよ。言ってる意味、わかるかな。
つづき、ていうか、種明かし。
別種の埴輪、とは、円筒埴輪や壺形埴輪などのこと
その祖形となった土器、とは、特殊器台や特殊壺のことさ。
しっかり勉強してくれよ。
958 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 16:14:54
埴輪が埋まっているのなら、垂仁天皇の途中からなわけで。
モモソ姫の墓にはギリギリ埴輪は埋まってないと思う。
よって、モモソ姫の墓は、マキムク周辺の
埴輪が埋まってないほうの古墳だと思う。
>>958 おいおい、俺のレス(
>>956-957)無視してのコピペかい。気分わるいの〜。
「埴輪」って言葉が意味するものが、現代の考古学と垂仁紀とでは、違うんだよ。垂仁紀では、ほぼ「形象埴輪」に限ってるんだよ。
(垂仁天皇)三十二年の秋七月……(中略)……
野見宿禰、進みて曰さく、
「夫れ君王の陵墓に生ける人を埋め立つるは、是良からず。豈後葉(のちのよ)に
伝ふること得むや。願はくは、今し便りなる事を議りて奏さむ」
と。則ち使者を遣して、出雲国の土部(はにべ)壱佰人を喚し上げ、自ら土部等を領(つか)ひ、
埴(はにつち)を取りて、人・馬と種々の物の形とに造作(つく)り、天皇に献りて曰さく、
「今より以後、是の土物(はに)を以ちて生ける人に更易(か)へ、陵墓に樹(た)てて、
後葉の法則(のり)とせむ」
と。天皇、是に大きに喜びたまひて、野見宿禰に詔して曰はく、
「汝が便りなる議、寔(まこと)に朕が心に洽(かな)へり」
と。則ち其の土物を、始めて日葉酢媛命の墓に立つ。仍りて、是の土物を号けて
埴輪と謂ふ。
960 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 18:11:42
埴輪が埋まっているのなら、
垂仁天皇の途中からだわな。
モモソ姫の墓には埴輪は埋まってないと思う。
よって、モモソ姫の墓は、マキムク周辺の
埴輪が埋まってないほうの古墳だと思う。
マキムクには埴輪が埋まってないような古い形のものがあるでしょう?
>>960 やれやれ、またか(泣)。
ちょっとキミの文章を添削(手直し)するよ。俺の言ってること、理解してくれ〜(拝)。
>形象埴輪(人物埴輪など)が埋まっているのなら、
>垂仁天皇の途中からだわな。
>モモソ姫の墓には形象埴輪は埋まってないと思う。
これなら、垂仁紀に従うかぎり、その通り。正しいんだよ。で、
>よって、モモソ姫の墓は、マキムク周辺の
>形象埴輪(人物埴輪など)が埋まってないほうの古墳だと思う。
うん、これも正しいよ。モモソ姫は垂仁天皇より何世代か前の女性だからね。で、
>マキムクには形象埴輪が埋まってないような古い形のものがあるでしょう?
ありますよ。箸中山古墳、石塚、ホケノ山、……、
箸中山古墳(箸墓)も、まさに、「形象埴輪が埋まってないような古い形のもの」、なんだよ。
962 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 21:23:34
埴輪が埋まっているのなら、
垂仁天皇の途中からだわな。
モモソ姫の墓には埴輪は埋まってないと思う。
よって、モモソ姫の墓は、マキムク周辺の
埴輪が埋まってないほうの古墳だと思う。
マキムクには埴輪が埋まってないような古い形のものがあるでしょう?
963 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 21:34:05
>>962 キミには、「埴輪の有/無」=「古墳の新/古」、という先入観があるみたいだね。
でもそれは間違った考え方だよ。
明日香村の高松塚古墳は、いま解体作業中だが、埴輪はひとかけらも出ない。
いっぽう箸中山古墳は、宮内庁の報告で、都月型の円筒埴輪や、それに先立つ型式の
宮山型の特殊器台も出ていることが判明してるんだ。
しかし、箸中山古墳は、明らかに高松塚古墳よりも古い。これはキミも認めるだろ。
「埴輪が無い古墳は古い」という先入観は、捨て去らなければならないよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%B4%E8%BC%AA 埴輪を置かなかった古墳は、古墳時代の前中後期を通じて、いくらでもあるよ。
被葬者の身分や出自、階級差なんかで、埴輪を置いたり置かなかったりしたんだと思うよ。
965 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 22:29:23
>>964 たしか、マキムク最古の古墳は
埴輪はなかったよ。
>>965 マキムク最古の古墳て、どれですか。
古墳の名前、キボン。
967 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 22:54:21
965ではないが、
纒向石塚古墳が最古クラスらしい。
多分、勝山が一番古い。例の年輪年代とは関係なく。
969 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 23:40:23
970
>>967、
>>968、
>>969 まさかと思うけど、お三人は、
「石塚や勝山からは埴輪が見つかっていないから、箸中山より古い」
てな論理でカキコしたわけじゃないよね〜。(←ちょと心配)
972 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 00:15:06
>>971 年輪年代測定法とか総合して判断だろうが。
マキムクが出来た最大の理由は記紀にも書いてあるし、
考古学の調査でも分かっている。
それは、疫病や飢饉による社会不安から、宗教政治の権威が高まったわけ。
だからこそ、崇神天皇は、叔母のモモソ姫の祭祀政治に頼り、
その時代、女性の巫女の力が増大した。
実際、マキムクからは祭祀施設主体に発掘されている。
また、崇神天皇という名前自体、宗教的な名前だからね。
975