go
身内だけでマターリ妄想? (アンチが2ゲト)
アンチは来るな。
4 :
日本@名無史さん:03/01/12 14:35
これはいいスレだな。
どうでも
6 :
日本@名無史さん:03/01/12 15:18
話が進まないな。
どうにも
8 :
日本@名無史さん:03/01/12 17:51
ウム
9 :
日本@名無史さん:03/01/12 17:58
安置はくるな。お茶らかしも冷やかしも禁止。
ここは九州王朝の存在を前提としないつっこみは一切禁止。
ここは九州王朝を安置するスレ(w
11 :
日本@名無史さん:03/01/12 18:41
九州王朝大好きさんは、どこ行ったの?
専用スレが出来たのに。
12 :
日本@名無史さん:03/01/12 19:21
とりあえず「日出ずる処の天子・・・」を書いた
姓は阿毎、字は多利思北孤が誰かと言う事を教えていただきたい。
これが聖徳太子で無い事は明らかであり、それに対して大和政権の誰か
なんて曖昧な事しか言えないのが従来派の最大の弱点なんじゃない。
13 :
日本@名無史さん:03/01/12 19:46
本スレ
15 :
日本@名無史さん:03/01/12 22:52
本すれあげ
16 :
九州王朝大好き:03/01/12 23:13
>>12 天武天皇の妻の尼子娘の父親である宗像君徳善が阿毎多利思北孤でしょう。
17 :
日本@名無史さん:03/01/12 23:40
>>16 うーむ、そりは「君が代」の歌を追求していった結果かな?
19 :
九州王朝大好き:03/01/13 00:14
>>17 理由は長くなるので省略します。
@多利思北孤朝は宗像出身。
A天武朝はクーデター王朝。
B九州王朝はまだ完全に天智朝に屈していなかった。
C九州王朝は近畿王朝との和平派と徹底抗戦派に分裂していた。
D和平派は天武朝擁立で多利思北孤宗像朝の継続とした。
他にいろいろ理由がありますが、私としてはまだまとまってはおりません。
20 :
九州王朝大好き:03/01/13 01:42
>>19 @多利思北孤宗像朝は博多から大宰府に政庁を移した。
A君が代古歌に見るように博多が都であった。
B多利思北孤宗像朝一族の古墳群の南側裏山と大宰府東側の山の名前が同じ。
C古墳群出土品は一地方豪族のものではない豪華さである。
D唐捕虜から帰国したサツヤマに対する住民の敬愛はサツヤマが地元の出身であることを示している。
筑紫平野・熊本出身の王朝ではない。
E旧唐書に見られる倭と日本の関係が2説ある。
倭=九州王朝、日本=天智朝の場合は倭≠日本
倭(九州王朝)→日本(多利思北孤宗像朝)→日本(天武朝)
21 :
日本@名無史さん:03/01/13 01:53
俺は天武が大天の皇子を名乗っている事から阿毎氏ゆかりの人と言う説がを聞いた事ある。
つまり天武のクーデターは大和朝廷内の九州王朝クーデターだと。
ただ、憶測の域を出ないよなこれは。
>>20 Dについて、少し詳しい説明キボンヌ。
薩夜麻に対する住民の敬愛、というのを記述した史料はどこに?
23 :
九州王朝大好き:03/01/13 01:59
わがきみは
ちよにましませ
さざれいしの
いわおとなりて
こけむすまでに
天子のいたところは博多の千代
千代紙の言葉の由来は?
千代田の言葉の由来は?
24 :
九州王朝大好き:03/01/13 02:13
>>20 「サツヤマが唐の軍船に乗って博多に帰国した時、民衆が涙を流してこれを迎えた。」
との内容っだったと記憶していますが、出典はちょっと調べないと。
出典が直ぐにわかる方、出してくださいな。
>>21 天武が大天の皇子を名乗っている事以外に状況証拠はいろいろあります。
全てを提示できるほど私の考えはまとまっておりません。
馬出九大病院前の隣の駅が「千代県庁」。この「千代」ということかな?
九州には「細石神社(さざれいしじんじゃ)」があります。
また、「磐長姫」「コケムス姫」を祭神とする神社が多数ありますな。
26 :
九州王朝大好き:03/01/13 02:42
私の持論では秦国の位置が状況証拠的に重要となります。
秦国の場所比定について。
博多の北東部、唐人浜の地域と読めます。
私なりに素人的先入観なしに素直に読んだ結果です。
私の漢文読解力は昔の大学理系入試5教科12科目時代の学力に毛が生えた程度です。
専門家のようにサーカス読みはできません。
27 :
九州王朝大好き:03/01/13 02:50
>>25 そうです。
神社は九州北部沿岸に集中しています。
この時代の権力者はイワイの様に熊本や筑紫平野の出身者でなかったと言うことです。
28 :
日本@名無史さん:03/01/13 09:47
あげ
>>26 その程度だからサーカス読みになるんでは?
30 :
日本@名無史さん:03/01/13 14:03
わーい、わーい!(^^)
やっぱり首都は博多だよね。
一度行ってみたいなあ。
31 :
九州王朝大好き:03/01/13 15:16
>>26 それぞれの時代における文献は歴史的記録であるから、
誰にでも読める文章で書かれていた。
特別な専門家でないと読めない文章で記録を残すことはしない。
論語が読める読解力で読めないような文章は記録として意味をなさない。
32 :
日本@名無史さん:03/01/13 19:04
あげ
つまり九州王朝説独特の特殊読みは不可ね。
34 :
九州王朝大好き:03/01/14 00:20
>>33 時代背景を考慮してストレートに読むのが「九州王朝説独特の特殊読み」とは思いません。
35 :
九州王朝大好き:03/01/14 17:01
あなた独りの思いでしょう
九州王朝さんは明太子好きでふか?
38 :
九州王朝大好き:03/01/14 22:17
>>37 明太子は大好きです。
博多に行った時は帰り際に、昔ながらの製法の形の崩れたのを買います。
綺麗な形のものは高価すぎてもったいないので。
39 :
日本@名無史さん:03/01/15 12:04
九州王朝大好きさんは、津軽外三郡誌はデタラメだと思いますか?
40 :
九州王朝大好き:03/01/15 19:03
>>39 「津軽外三郡誌」については、私は余り関心がありません。
昔古田氏の本を1冊(まぼろしの東北王朝?)読んだ程度です。
青森方面には行くこともなく(仕事の時現地に立ち寄り調査します。)、現地調査もした事がありません。
私は「津軽外三郡誌」については殆ど何も知りませんので、デタラメか真実かどうかの意見は何もありません。
私は現地風土民俗を自分の目で確認調査した結果を引用して論を述べているので、
私の行動範囲の関東北陸以西熊本大分以北長崎以東の範囲のことしか意見がありません。
あと、韓国中国東部の範囲については少しは意見を持てる程度です。
なお、私は現地の人間・風土・気候・民族・遺跡を見て論じる主義です。
現地を見ることにより、いつも思わぬ発見に出会っております。
41 :
日本@名無史さん:03/01/15 19:49
こんな糞スレでマジレスしてるのもなんだかなあ・・・。
>仕事の時現地に立ち寄り調査します
>行動範囲の関東北陸以西熊本大分以北長崎以東
九州王朝大好きさんは、行商のお仕事をなさってるのですか?
43 :
九州王朝大好き:03/01/15 20:48
44 :
日本@名無史さん:03/01/15 21:42
九州王朝大好きさん。大和地方へ行商に行かれた時の感想を、どぞ♪
45 :
九州王朝大好き:03/01/15 23:57
>>44 大和の橿原は私の地元です。
私の祖先は土蜘蛛だったのかも?
地元が橿原一派の本拠地とは?
新参者の橿原一派は出てゆけ。
これは失礼しました。。。橿原一派を嫌われてる御様子ですが、彼らのどの様なところがお嫌いですか?質問ばかりでスマソ
47 :
九州王朝大好き:03/01/16 00:47
>>46 シャワー浴びてバスルームからでてきました。汗がポタポタ。
室温24.7℃・・・外は、、-2.9℃、今晩は寒いようですね。
きょうはこれで、おやすみなさい。
(^^)
49 :
日本@名無史さん:03/01/16 09:40
ア
50 :
九州王朝大好き:03/01/16 15:01
>>46 橿原一派は何につけまっとうでないので嫌いです。
九州さんは、トンコツラーメンは好きでつか?
52 :
九州王朝大好き:03/01/16 19:28
>>51 ラーメンはあまり好きではありません。
神戸の中華そばと長崎のちゃんぽんは好きです。
両者はよく似ています。
明治以降の戦前に中国人が持ち込んだ汁そばでしょうね。
一方、今のラーメンは戦後中国人が持ち込んだ汁そばです。
ラーメンがおいしいと思ったことがあるのは、
佐賀市と武生市の中間で国道を少し入った所の店で食べたとんこつラーメンと、
旭川市で食べた味噌ラーメンの、
2回だけです。
世の中ラーメンラーメンとまだ騒がなかった時代の昔々のお話です。
旭川のラーメン屋は4年前行ったら無くなっていました。
佐賀のラーメン屋は3年前行ったらまだ営業していました。
ラーメンは、ちゃんぽんに似たとんこつラーメンが1番好きかな。
53 :
九州王朝大好き:03/01/18 02:44
03/01/18 01:11に近畿王朝説は粉砕され、跡形もなく消え去ったようです。
54 :
日本@名無史さん:03/01/18 09:31
九州王朝大好きさん、そう言う叩き方は、あまり感心しない。
55 :
日本@名無史さん:03/01/18 10:01
オナニーの邪魔は無粋
56 :
日本@名無史さん:03/01/18 10:19
>>53 そういう無意味な発言はやめましょうよ。開き直りと思われるよ。
それよか、高表仁の遭遇した火山の噴火とか「如意宝珠」問題とか、装飾
古墳問題とか、7世紀に付いてはまだ解けてない、ことによると九州が絡む
話って沢山あるよ。これを発展させて反九州王朝論者を唸らせてみなよ。
>>53 「03/01/18 01:11」に何か有ったんでふか?
ついでに「近畿王朝説」って何でふか?
58 :
日本@名無史さん:03/01/18 11:51
近畿王朝説って九州王朝説の人が考えたへんな説でしょ?
59 :
九州王朝大好き:03/01/18 15:43
九州王朝:699年まで継続した九州北部を日本の中心地とする王朝。
近畿王朝:699年以前から連綿と近畿を日本の中心地として続く王朝。
60 :
日本@名無史さん:03/01/18 15:49
九州王朝説の人が考えた説が粉砕されたんですか?
>>59 近畿王朝「説」ってな〜にと聞いてるんですが・・・
699年の根拠は?
それ以前の中国史書の「倭国」は全て九州の勢力なの?
説明キボンヌ
63 :
九州王朝大好き:03/01/18 16:08
>>61 近畿王朝説:699年以前から連綿と近畿を日本の中心地として続く王朝があったとする説。
通説。
65 :
九州王朝大好き:03/01/18 16:13
>>62 700年に唐が近畿政権を日本の正当政権であると認めた。
699年以前の中国史書の「倭国」は全て九州の王権。
全て九州と断定できる根拠はない。
67 :
日本@名無史さん:03/01/18 16:20
>>62 俗に言う九州年号の最終年が大長(元年が698とされる)で
701に大宝という続日本紀にあり今に続く年号が始まるので
699ないし700を九州王朝の終りという主張。
(九州年号はググレば いっぱい出てくる)
九州年号は九州王朝の年号でもなんでもない、という
結論を過去ログで見た気がするが。
69 :
日本@名無史さん:03/01/18 16:33
うん 漏れも九州王朝の年号だとはおもってないよ。
だから「俗に言う」と書いたんだが、まあそう主張する
人たちもいるからね。 古田一派とか 漏れにとっては電波
なんだが信者がいっぱいいてHP作ってるから 発見しやすい(w
否定論者のは見つけにくいんだよ、言ってることがまともだから。
70 :
日本@名無史さん:03/01/18 16:50
九州王朝の否定論者のHPとかは 読んでも面白くないんだよ。
けっこう資料とか使ってきちんと述べているんだが 結論が通説
通りですってオチになるんだな。
ほんと時間を返せって言いたくなる。 一般の歴史ファンは
エンタメを求めてるんだから。 で九州王朝説はおかしいので好き。
九州王朝さん
なんで白村江では、大負けしたんでふか?
>>70 >一般の歴史ファンはエンタメを求めてるんだから。
ここは学問板です。そう思う方は、ラウンジへでも行って雑談してね。
>>72 >>ここは学問板です。
そうだったのかぁ。 今まで知らなかったです(驚
74 :
九州王朝大好き:03/01/20 11:56
>>71 九州王朝軍は海戦には強いが陸戦には弱い。
白村江には唐の水軍。半島南部には新羅軍。日本には近畿王朝軍。
新羅軍と近畿軍に陸戦部隊を割き、なお且つ海戦には弱いとは言え数で勝る唐軍。
3方の敵に軍を引き裂かれ、百済の唐和平派は唐水軍の手引きをし、海戦の手の内を唐軍に読み取られ、
これでは、九州王朝軍は勝てるわけが無いと思います。
又総指揮官が20才前後の若者薩夜磨では外交戦略が九州王朝には無かったのでしょう。
九州王朝にとって、偉大な「タリシホコ」の亡き後の国難に対応できる指導者はいなかったのでしょう。
そのお話は偉大なる九州王朝の歴史書にでも書かれているのでつか?
76 :
九州王朝大好き:03/01/20 18:33
>>75 九州王朝に関する状況証拠からの、物語です。
でも、状況証拠から間違いは無いと思います。
77 :
日本@名無史さん:03/01/20 19:21
状況証拠とはなんずら?
78 :
日本@名無史さん:03/01/20 19:35
なんで白村江の戦いをやったのかわかんない
九州王朝は百済が大好き
79 :
九州王朝大好き:03/01/20 21:40
>>78 >なんで白村江の戦いをやったのかわかんない
九州王朝は勝つと思ったのか?
情報の不足か?
自信過剰か?
なぜ白村江の戦いをやったのかわからない。
>九州王朝は百済が大好き
大好きだけでは亡んで当然。
九州王朝大好きだけでは
九州王朝さんは、メンタイコと神戸の中華そばと長崎チャンポン以外は何が大好きでつか。
82 :
九州王朝大好き:03/01/22 01:51
>>81 自分で作るスパゲティ用のソース。
主原料は豚肉・大豆・トマト・干椎茸・わかめ。
初めて食べる人にとっては未経験の味。
三口ほとだべてから、やっと美味しいといいます。
最初は未経験の味のため、評価不能とという表情をします。
皆さん最初はボロネーゼかミートソースのつもりで食べるからでしょうね。
83 :
九州王朝大好き:03/01/22 14:07
今日から徐々に九州王朝の最終朝であるタリシホコ朝について述べてみたいと思います。
別スレの「大宰府」と「太宰府」の認識ズレもありますので。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
第一回
タリシホコ朝の成立は6世紀末。
終末は7世紀末。
次に続く。
>>83 あのー、いやー、それだけで、次に続く」ですか?
82のスパゲッティのレシピの方が長い文章っすね。
85 :
九州王朝大好き:03/01/22 23:28
第二回 タリシホコ朝
熊本出身の一族であるイワイ朝はイワイの敗戦(527年又は526年)。
イワイの子葛子でそのリーダーとしての地位は低落したでしょう。
一方、戦後処理として僅か粕屋の屯倉の地だけを得ただけすが、
近畿王朝は物部氏を置き九州に楔を打ち込むことができました。
物部氏は山口・伊予以西の全九州の地を手に入れるどころか、
敵地奥深く僅かの土地を獲得できただけでした。
イワイ一族の力が地に落ちたといえども、
物部氏の存在はその西の地の宗像氏との協調によるところがおおきかったと思われます。
そこでイワイ一族に変わって勢力を伸ばしたのは、物部氏をバックに、宗像氏でした。
勢力を伸ばした宗像氏はイワイ一族に変わって九州王朝の王権を引き継ぎました。
それは6世紀中ごろ(558年)と思われます。
次に続く。
86 :
九州王朝大好き:03/01/23 17:27
第3回は時間があれば今晩書きす。
87 :
日本@名無史さん:03/01/23 18:32
次は
胸肩君徳善の女尼子娘は天武天皇との間に高市皇子を産む
って話に続くんだろうね。
そして宗像氏は中世には中国人と婚姻関係を結んでいたと。
>>87 連載モノのネタを先にバラしちゃ、ダメですよ。
89 :
九州王朝大好き:03/01/25 03:05
>>87>>88 小説を書いているのではありません。
歴史物語を書いているのです。
事実は物語でも変わることはありません。
>>87の内容まで行き着くのは、ずっと先になるでしょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
第三回 タリシホコ朝
558年に宗像氏は完全には王権を取ってはいません。
外戚として実質権力を握っただけです。
政権は倭の5王から徐々に中国化してゆき、
イワイの時代には、法治化も進み、権力一点集中も進み、
九州王朝の伝統二元統治も実質的には形骸化していたのでしょう。
イワイ朝の葛子の頃には、宗像氏は外戚として権力の中枢に入り込んできたのでしょう。
宗像氏は権力奪取の方法として、二元統治の復活としの兄弟統治を始めたのです。
兄はイワイの血を引く葛子の子、弟には宗像氏の血を引くものを当てたのでしょう。
558年宗像氏は権力の中心に入り込めたのです。
それから32年、完全に権力を手中入れた宗像氏一族に、
590年待望の子が生まれました。
彼こそが「タリシホコ」です。
次に続く
90 :
九州王朝大好き:03/01/25 12:18
第三回 タリシホコ朝
558年に宗像氏は完全には王権を取ってはいません。
外戚として実質権力を握っただけです。
政権は倭の5王から徐々に中国化してゆき、
イワイの時代には、法治化も進み、権力一点集中も進み、
九州王朝の伝統二元統治も実質的には形骸化していたのでしょう。
イワイ朝の葛子の頃には、宗像氏は外戚として権力の中枢に入り込んできたのでしょう。
宗像氏は権力奪取の方法として、二元統治の復活としの兄弟統治を始めたのです。
兄はイワイの血を引く葛子の子、弟には宗像氏の血を引くものを当てたのでしょう。
558年宗像氏は権力の中心に入り込めたのです。
それから32年、完全に権力を手中入れた宗像氏一族に、
590年待望の王が生まれました。(誤字修正:子(誤)→ 王(正)
彼こそが「タリシホコ」です。
次に続く
91 :
日本@名無史さん:03/01/25 13:10
すげー内容だ
コレ検定教科書で採用されないかな
九州だけ
92 :
日本@名無史さん:03/01/25 19:11
九州王朝が敗北した白村江の戦いは海戦だったんだよね。
九州王朝軍は海戦が得意だったのだろうか?海峡を渡海
する航海術はあったのだから、ある程度は強かっただろ
うが、過信から猪突猛進して、待ち構えていた唐の水軍
に撃滅させられたんだよね。
戦国時代の木津川海戦(毛利側の村上水軍と鉄板を張っ
て焙烙火矢を防ぐ装備の大船で待ち構えていた織田側の
九鬼水軍が戦って、村上水軍が惨敗した。)みたいな感
じだったんだと思うなあ。それまでは無敵に近かった村
上水軍の負け方が似ている気がする。
93 :
九州王朝大好き:03/01/26 01:36
>>92 そうですね。
倭軍が負けたのは、鉄板張戦艦ではなく、中国式船団戦闘に負けたのです。
倭軍の得意とした散開船戦闘は、唐軍傘下の対唐降伏派の百済軍に封じ込められたのです。
倭式散開船戦闘を良く知る百済軍によって、倭軍は散開船戦闘に持ち込めなかったのです。
「カリシホコ朝」は今回お休み。
「カリシホコ朝」<<何気に゚+.(◕∀◕)゚+.゚イイ!
95 :
九州王朝大好き:03/01/26 13:40
>>94>>93 「カリシホコ朝」は今回お休み。・・・・・誤:書き間違い
「タリシホコ朝」は今回お休み。・・・・・正:書き直し
カリシホコは書き間違いが誤タリシホコを書き直すのが正逆でわありませんか!
目からウロコが落ちました
98 :
日本@名無史さん:03/01/26 16:33
タリシホコではなく、タリシヒコです。アメノタリシヒコは天照彦と書くのです。アマテラス一族です。
99 :
明太子大好き:03/01/26 16:40
九州王朝大好きさん。僕も神戸の中華そばは好きです。牛スジの入ったお好み焼きも美味いです。お好みは何が好きですか?僕はやはり豚玉です。
やっぱりマヨネはからし入りですよね。
102 :
明太子大好き:03/01/26 19:16
九州王朝さんは、タコ焼きにマヨネーズかけて食べるのをどう思いますか?邪道であること、論を待たないと思いますが。
マヨネが定説です。
104 :
明太子大好き:03/01/26 19:31
105 :
日本@名無史さん:03/01/26 21:43
つーか
みんなが話してる九州王朝が存在した年代はいつなのよ?
106 :
日本@名無史さん:03/01/27 00:49
九州さんの好きな寿司ネタを教えてくださいな。
107 :
九州王朝大好き:03/01/27 01:25
>>98 天照彦:「アマノテラシヒコ」ではないでしょうか?
>>100>>101>>102 ぼくは大阪人といってもよいのに、お好み焼きもたこ焼きも好きではありません。
そば焼きにはたまにカラシマヨネーズを使います。
>>105 700年が九州王朝と近畿王朝が入れ替わった年です。
でも九州王朝軍は698〜699年には近畿王朝軍に連戦連負です。
700年には近畿王朝は九州王朝軍の降伏しない残党に対して犯罪者と見なしています。
しかし実質的には、672年天武朝が成立した時でしょう。
この時、九州王朝は完全に分裂しました。
九州王朝は700年まで存続したとするのが、ぼくの考え方です。
108 :
九州王朝大好き:03/01/27 01:29
>>106 生ものも好きでありません。
ぼくは火食派です。
109 :
日本@名無史さん:03/01/27 02:05
タラシヒコは歴代九州王朝の諡号です
遠祖 ヤマトタラシヒコクニオシヒト(孝安)
いわゆる倭国王帥升にあたります
なお彼の兄アメタラシヒコクニオシヒトの孫オケツヒメは
近畿王朝初代ミマキイリヒコ(崇神)の父との間にヒコイマスを産みます
中興初代 オホタラシヒコオシロワケ(景行)
九州国内平定に活躍したのは周知の通りです
九州王朝中興の祖として、便宜的に初代とします
二代 ワカタラシ
初めて国郡制をひきました。「令諸國、以國郡立造長、縣邑置稻置」
父の後を受けて国内無事につとめました。「是以百姓安居、天下無事焉」
三代 タラシナカツヒコ
この御代に海外にまで発展したのは、よく知られているとおりです。
オキナガタラシヒヒロヌカ(舒明)
アメトヨタカライカシヒタラシヒメ(皇極)
この頃から近畿王朝の攻撃が激しくなり
ヤマトネコタカミズキヨタラシヒメ(元正)
ついに滅びました おわり
110 :
九州王朝大好き:03/01/27 02:54
>>109 記紀は「・・・ダラシ」の諡号まで盗用していたのですか?
内容は九州王朝の業績の盗用ですが。
そうか!
名前に「タラシ」とつけば九州人なんでふね。
ところで九州王朝大好きさん。
ミタラシ団子は、好きでふか?
>107
お答えいただきありがとうございました。
113 :
九州王朝大好き:03/01/27 22:31
>>111 ぼくはまだ幼い子供の頃「ハナタラシ」でした。
おしっこも「タラシ」ました。
合わせて「ミタラシ」でした。
ドーナツが好きでした。
ぼくはミタラシドーナツでした。
114 :
九州王朝大好き:03/01/27 22:47
第四回 タリシホコ朝
タリシホコは590年に王位についたところが前回でした。
次回から時代を少し戻って、イワイ一族と物部氏について語りたく思います。
次に続く
>>107お好みを好きではないとのことですが、お好み屋でとん平焼きや野菜炒めで一杯やるのもオツですよ(笑) 700年には何らかの政変があったっぽいですね。そして、続いてかなり複雑な政権交代があったっぽい。記と紀の間にもありそうですね。
116 :
九州王朝大好き:03/01/28 00:38
>>115 ぼくは、とん平焼きよりも、そば焼きでビールが好きですね。
近畿王朝は、九州問題が全部片付いたので、
古事記の編集を急遽とりまとめ、
日本書紀の編纂を開始したようですね。
117 :
日本@名無史さん:03/01/28 00:42
オキナガタラシ、ももちろん九州王朝です。
これが有名な卑弥呼であることはいうまでもありません。
またオホタラシヒコの弟にイカタラシヒコがおり、
これは越後の山守部君・春日山君の祖とされています。
九州王朝が日本海を通じて北陸と交渉のあったことが分かります。
古事記の段階では九州王朝をどう扱うか決めれなかったので
雄略より後は具体的な記述が出きませんでした。
推古よりあとは書くことすら出来ませんでした。
日本書紀でやっとどうするか決まり書けました。 おわり
九州王朝さんは、うどんは好きでつか?
私は讃岐うどんが好きでつ(特に釜あげ)
119 :
九州王朝大好き:03/01/30 01:36
>>118 私も讃岐うどんが好きでつ(特に冷やし)
日本が他国との海戦で勝ったという記述はないはずだが・・・。
分かりやすくいえば日本はほんの100余年前までは
海戦で一度足りともロクに勝っていない。船の構造自体でも負けてたようだ
数冊の日本の歴史に関する本にそう書いてあるので探してごらん。
上陸で既に失敗し、陸戦でもほとんどまともに戦えなかったので
過去いずれの遠征でも名のある武将は大抵は生きて帰ってきてる。
包囲される間もなく退却して帰ってきたためだと。
これでは幾ら陸上戦の精鋭部隊を送っても勝てるわけがない。
まともに戦っても他国に海を越えて攻めに入るのは容易ではないのだから。
そう考えれば、その後日本に報復が来なかったのもわかるだろう?
121 :
九州王朝大好き:03/01/30 21:47
>>120 >日本が他国との海戦で勝ったという記述はないはずだが・・・。
其の通りです。
>分かりやすくいえば日本はほんの100余年前までは
>海戦で一度足りともロクに勝っていない。
其の通りです。負けてもいません。
負けたのは白村江の海戦だけです。
>船の構造自体でも負けてたようだ
>数冊の日本の歴史に関する本にそう書いてあるので探してごらん。
大型船はありませんでした。
>上陸で既に失敗し、陸戦でもほとんどまともに戦えなかったので
その通りです。陸戦の装備すらありませんでした。
>過去いずれの遠征でも名のある武将は大抵は生きて帰ってきてる。
薩夜麻も捕虜の後、生きて帰ってきました。死んだ者は死んだ為、名の有る武将になれませんでした。
>包囲される間もなく退却して帰ってきたためだと。
小勢力の奇襲奪略作戦ですから当然です。
>これでは幾ら陸上戦の精鋭部隊を送っても勝てるわけがない。
まともな陸上戦部隊はいませんでした。
>まともに戦っても他国に海を越えて攻めに入るのは容易ではないのだから。
>そう考えれば、その後日本に報復が来なかったのもわかるだろう?
日本に来た外国部隊は、奇襲夜襲のゲリラ戦が待ちうけていました。
兵站が大問題です。
唐が捕虜だった薩夜麻をつれきたのが、まともな上陸の唯一のケースです。
122 :
日本@名無史さん:03/01/30 22:03
九州倭国説は恐らく良い線行ってる説だと思うのだが、
都の遺跡が出るとハッキリするんだがなあ〜〜〜。
九州先生、掘ってみれば? ほんと。掘り当てたら、絶賛ものだよ。
123 :
トンコツ大好き:03/01/30 22:15
質問なのれすが…。倭王 倭武 とかアメノタリシホコとか王の姓が変わってるのは王朝交代とみて良いですか?また、磐井の乱のイワイが倭ワイだとする説はどうでつか?今の天皇に姓がないのは、隠してるからとする説は?
124 :
日本@名無史さん:03/01/30 22:55
九州王朝は卑弥呼の子孫の王朝である可能性はありますか?
125 :
九州王朝大好き:03/01/31 01:14
>>122 遺跡を掘り当てても、それが何であるかを証明するのが難しいですね。
近畿王朝派の人達もこつこつとがんばっていますね。
す
>>123 王朝が連続していることはありえません。
交代したのがいつかを特定するには余りにも資料が少なすぎます。
「磐井」は近畿王朝側が「倭ワイ」を蔑んでつけた名前と思っています。
音が同じなら蔑みの別字を当てるのは近畿王朝の常ですから。
どこが蔑みの意味になるのかはわかりませんけれども。
>>124 僕にはわかりません。
血統的にはないでしょうが、
九州王朝の歴史書では卑弥呼以前から薩夜麻まで連綿と続いていたのでしょうね。
出雲から銅鐸だって
127 :
九州王朝大好き:03/01/31 21:02
>>126 「北海道から銅鐸」ならトピックニュースです。
そんなニュースは旧石器の例もあり信用できないですね。
128 :
日本@名無史さん:03/02/01 00:08
>>125 そうだね。遺跡が見つかっても、それを何と比定するかは、これまた難題だね。
とはいっても、九州に都らしき遺跡が見つかって、論争が起こる位の方が面白いのにね。
見つけてから言え
130 :
九州王朝大好き:03/02/01 05:08
都跡は既に見つかっています。
大宰府です。
政庁跡があり、その北に内裏りがあり、東には観世音寺とその東には天神(天満宮)があります。
又南に条里が広がって残っています。
平城京と同じ配置になっています。観世音寺→東大寺、天神→春日大社。
6世紀以降の都の基本型が大宰府にみられます。
政庁跡の西方には、平城京の西大寺に対応する寺院跡の比定が予想されます。
又条里の東側だけでなく、西側にも薬師寺、唐招提寺等の諸寺院に対応する寺院跡の比定が予想されます。
いま発掘が進んでるからすぐバレちゃうね(藁
132 :
九州王朝大好き:03/02/01 22:14
>>131 いま発掘が進んでるからと言ってバレちゃわないでしょうね。
九州王朝を認められない人達は、
どんなデータを突きつけても、
データを無視するか、
九州に都が無かったと解釈します。
133 :
日本@名無史さん:03/02/01 22:15
どんなデータを突きつけてるの?
134 :
九州王朝大好き:03/02/02 00:27
>>133 現在近畿王朝派の方々が掘っていますので、
将来発見提供されるであろうデータです。
135 :
日本@名無史さん:03/02/02 02:14
じゃ、突きつけてないじゃん。うそつき。
136 :
日本@名無史さん:03/02/02 09:34
>>135へ、
彼は、
>どんなデータを突きつけても、
>データを無視するか、
>九州に都が無かったと解釈します。
と書いてるぜ。
誤爆しないようにね。
137 :
日本@名無史さん:03/02/02 10:29
突きつけてなきゃ、どう解釈するかわからないじゃん。
あたかも確たる証拠を突きつけたのに無視されたようなこと書いておいて
実はただの脳内でした
ちゃんちゃん
>>132は
>>134の補足説明がなければ
>>138の通りである。
しかし
>>134により、前提が仮定であるとされる。
根拠は示されてないから、この場合の結論は「思い込み」である。
よって
>>138の批判は的を得ていない。
ただし、そのことと
>>132の発言が九州王朝議論にとって無意味であることとは、厳密に区別されねばならない。
尚、スレ主の意向にしたがって、この文も無意味なものとしたことをお断りしておく。
>>133に突っ込まれなきゃ
あたかも確たる証拠を突きつけたのに無視されたように他人を誤解させる
ガセネタ系カキコであったが
>>134で「思い込み」脳内発言と露見したのであった。
141 :
九州王朝大好き:03/02/03 00:00
>>139 確かに、
>>132の発言が九州王朝議論にとって無意味です。
フランス語のように、未来における仮定で考えた文を日本語に変換すると、変な文になりました。
日本語だけの思考回路で考えないと誤解を招きますね。
このように書いたつもりだったのですが、いかがでしょうか?
九州王朝を認められない人達は、
(将来)どんなデータを突きつけ(たとし)[未来における過去]ても、
データを無視する(であろう)[未来形]か、
九州に都が無かった(であろう)[未来における過去]
と解釈します(でしょう)[未来形]。
たんなる誹謗
143 :
九州王朝大好き:03/02/03 08:28
第五回 タリシホコ朝
熊本系王朝である倭の五王と倭ワイを輩出した菊地一族の王朝は、
筑紫平野東部地域にその活動の中心地としました。
その頃の都(王の常駐地)は博多から甘木近辺に移動していました。
景行天皇で知られる王は菊池朝の始祖の一人と考えられます。
菊地朝は周防・九州全域の平定後、その勢いをもって半島南部に進出しようとしました。
しかし、度重なる半島遠征はその国力を低下させました。
そこに目をつけたのが近畿王朝です。
かれらは全九州と周防の制圧を計画しました。
それを実行したのは、物部氏でした。
144 :
bloom:03/02/03 08:35
倭ワイ→磐井より、倭の読みがウェイであることに注目!つまり筑紫の君“磐井”は筑紫の君“倭”とみるべき
146 :
九州王朝大好き:03/02/03 19:15
>>145 私の見方
倭ワイ→(ヰワイ)→(イワイ)→磐井
地名説話例
血沼海→(チヌマノウミ)→(チヌノウミ)→茅淳の海 (神武)
糞袴 →(クソハカマ)→→→(クズハ)→樟葉 (?)
147 :
九州王朝大好き:03/02/07 01:48
「第六回 タリシホコ朝」は飛び石連休明け以降に延期します。
6世紀の九州の状況に入ります。
148 :
九州王朝大好き:03/02/15 03:45
書く気にならなくてほっておいたら、
お蔵入りしそうなので、アゲ。
149 :
九州王朝大好き:03/02/27 23:45
お蔵入り防止
150 :
日本@名無史さん:03/03/02 14:02
古田説まんせー
早く教科書にのせましょー
151 :
九州王朝大好き:03/03/02 15:50
>>150 一部の高校教科書には九州王朝説について部分的にのっていますよ。
152 :
日本@名無史さん:03/03/02 17:04
うそつけ。
本当だというなら出版社とその記述を書いてみろ。
どうせ古代史の文献をヤるときみたいに都合のいい部分だけ拾い読みの
曲芸解釈だろ!
153 :
日本@名無史さん:03/03/02 23:02
>>143 >>景行天皇で知られる王は菊池朝の始祖の一人と考えられます。
何を言ってるんだか・・・
彼は崇神の孫、三輪王権の後継の一人さ。
何で九州に居なきゃなんないのよ・・・。
おまえら、九州、九州って拘ってるけど、
その頃は、東国が関心事であり、国の安危に影響したんだ。
九州ローカル勢力なら許してやるよ、国の肇にまつろわなかったヴァカとして。
それと、大和の始祖たちの名前を勝手に持ち出すな! と言って置く。
154 :
九州王朝大好き:03/03/02 23:26
>>153 景行天皇自体は近畿王朝の王であることを否定しません。
景行天皇の九州統一部分は菊池朝の王の事跡を盗用したものです。
もちろん「景行天皇≠菊池朝の王」です。
国の肇…
156 :
九州王朝大好き:03/03/03 00:43
>>152 出版社や内容は忘れましたが、調べてみてください。
10年余り前愛媛県の愛光学園の日本史の教科書で使われていました。
中2〜高1の頃に選択科目で使われていました。
僕のことでないので記憶があいまいです。
157 :
日本@名無史さん:03/03/03 01:35
やっぱりウソか。
158 :
日本@名無史さん:03/03/08 21:16
>>157 156は本当かもしれない。
が、そんなことより、世界であまねく認知されるのが希望。
159 :
日本@名無史さん:03/03/09 15:34
昭和時代、古田説を無視してきた学者・報道は
序々に古田説を取り入れ、自説のようにしゃべっている。
汚いやつらだね、「これは古田さんの説です」って
はっきり言った方が立派だね。
NHKなんかひどいもんだ。
>>159 >序々に古田説を取り入れ、自説のようにしゃべっている。
参考までに教えて。
具体的には何をさすの?
161 :
日本@名無史さん:03/03/09 20:24
一番派手なのは
縄文人渡米説
縄文人渡米説?
マスゴミはともかくとして、まともに相手にしてる学者っているの?
163 :
日本@名無史さん:03/03/10 02:10
寄生虫の学者
中米の考古学者
無学者
>>163 >寄生虫の学者
具体的にだれ?
>中米の考古学者
まあ、縄文人渡米説ってのは、古田っていうよりはその南米の電波学者が大元じゃなかったっけ?
まちがってたらゴメン。
166 :
日本@名無史さん:03/03/10 02:58
>>165 聞かれても覚えていない。
2ちゃんねるのために放送局に問い合わせるのはどうも。
新聞にも出でたし。
167 :
日本@名無史さん:03/03/10 03:30
まあ、「王朝交代説」の片鱗をちらつかせた学者が増えてるように思う。
貝塚はゴミ捨て場、なんて言ってた学者連中が、ひとつの産業だったなんで解説始めるし、
まんまパクり。
169 :
日本@名無史さん:03/03/10 06:38
妄想はよせよ。
>>166 おやおや。
>>1593の脳内だけの存在だったようですね。
>>167 これも続きなんでしょうか?
王朝交代なんて、イリ・ワケの王朝とか水野の3王朝交代説とか、ずいぶん昔から言われてますよね。
九州王朝と交代したなんてのは皆無だけど。
『「王朝交代説」の片鱗をちらつかせた学者』って、一体誰のことで、その人は何を言ってるの?やっぱり脳内存在かな?
それから、貝塚が産業?一体なんのことです?
貝塚はゴミ捨て場には違いないでしょう。家庭ゴミか産業廃棄物かの違いだけで。
ところで古田って貝塚の研究もやってたの?
詳しい人、おせ〜て。なんていってるの?
171 :
日本@名無史さん:03/03/10 19:33
学者じゃなくて、報道が古田寄りの解説になってる。
おやおや。学者さんていうのはでまかせでしたか。
報道の方はちゃんとあるんでしょうね?
世界不思議発見とかいわないでね。
173 :
日本@名無史さん:03/03/11 00:04
テレビぐらい買ったほうがいいですよ。
で、具体的にいつ、どんな報道があったんです?
教えてちゃぶだい。
あ、そうか。東スポも報道といえば報道か。そのたぐいかな?
僕も古田武彦氏寄り。
>163
最初は土器が似てるって話から始まったんだっけ?スミソニアンの博士?
で、南米で寒さに弱い寄生虫が見つかった。ベーリング海峡ルートだと死滅する
はずだから、太平洋ルートがあった事になる。
そして日本人しかもっていないウィルスが見つかって縄文人が海を越えたと。
でもその間に土器はやっぱり無関係という事になったような。
扶桑国なんかは中国人が今でも研究続けてるらしい。
数ヶ月前にNHKで女性作家が箸墓=卑弥呼やってました。民放のUFOネタ並みだった。
本家の九州王朝すれ、どこ行った?
178 :
日本@名無史さん:03/03/16 00:08
>>九州王朝大好き アンチ来るな
↑
ちゃんと守ってくださいよ、皆さん!
179 :
日本@名無史さん:03/03/16 00:15
九州王朝説って北朝鮮からかねもらってんの?
最近過労気味でご無沙汰しています。
今日も杉の花粉のトンネルを通過して、ひどい状態。発熱しています。
>>179 僕はアンチ朝鮮です。
181 :
日本@名無史さん:03/03/16 01:40
近畿地方のほうが、在日のひと多いでしょ。
北朝鮮の工作員なら断然、近畿説が有利。
漏れは、九州説だが。
本家すれ、どこ行ったのだ!
183 :
日本@名無史さん:03/03/16 22:01
僕には消えていないですが?
何故消えているのですかね。
185 :
日本@名無史さん:03/03/18 23:42
過去ログになってるよ。
久しぶりに書き込み。
九州王朝菊地朝は5世紀から6世紀半ば葛子でもって終わる。
兄弟年号(558年)復古政治体制になる。
このとき(558年)から590年までは兄弟政治が機能していたため、
実力者としての宗像朝の成立期。
法興元年(591年)に九州王朝は宗像朝(タリシホコ朝)の成立。
623年タリシホコ没。
タリシホコは大宰府への首都移転時期に没したこととなる。
187 :
日本@名無史さん:03/03/28 01:10
タリシホコ→上宮法皇→薩夜麻、と来るわけですね。
妄想とめどなし
189 :
日本@名無史さん:03/03/28 01:23
荒らしと煽りはスルー
190 :
九州王朝大好き:03/03/28 18:57
>>187 簡単にその様にタリシホコ→上宮法皇→薩夜麻と来ればよいのですが?
もっと明確にするには、宮地獄古墳の古墳群を詳細に調査する必要があると思われます。
妄想とめどなし
>>190 リアルな話だと思います。筑紫舞も関係ありそうですね。
193 :
日本@名無史さん:03/03/28 19:48
恣意的な史料解釈と妄想のカタマリ
リアルって言葉の意味を知ってるんだろうか?
>>192 筑紫舞も重要な宗像朝の根拠です。
また、天神も重要な根拠となります。
大宰府の東側の山の名前と宮地獄古墳群の裏山が同じ名前なのも傍証となります。
菊地朝が朝倉近辺をその中心としたものが、
宗像朝を天下に知らしめる為に遷都したのが大宰府です。
根拠って言葉の意味も知らないようだ。
199 :
日本@名無史さん:03/03/28 21:56
200 :
日本@名無史さん:03/03/28 21:59
郵便ポストが赤いのも重要な宗像朝の根拠です。
電信柱が丸いのも重要な根拠となります。
カラスがカァと鳴くことも傍証となります。
>>197>>198 どちらにも山の名前の記載はありません。
山は目立つが小さいので現地に行くか、詳細現地地図がないとわかりません。
現地神社のパンプレットの地図には両山の名前の記載があります。
参考:
古代の地名を調べるには、現代の地図はあまり役にたちません。
戦前の2万5千分の1の地図は古地名がかなりのっていて便利です。
現在では、現地に足を運ぶしかない状態です。
もう30〜40年もすると古地名を覚えている人もいなくなるのでは、と思います。
失礼しました、やっぱりだめでした。
タリシヒコの死と大宰府移転が同時期のことだった、というお話でした。
脱線させてすみませんでした。
>>203 インターネット上では2つの山の名前を探し出せませんでした。
大宰府駅と宮地獄駅の現地観光案内地図にも山の名前の記載があったように覚えています。
僕は今、山の名前を忘れています。どこかに突っ込んである資料が見つかれば判るのですが。
当面、津屋崎にも大宰府にも行く予定はありません。
現地の方、これを見ていたら、教えて下さい。
@ 大宰府の東側にそびえている山の名前。
A 宮地獄神社の北東側の裏山の名前。
>>206 残念ながら山の名前は記載されていませんでした。
@大宰府の町の東側の標高201mの山
A宮地獄神社の北側、津屋崎の町の東側の標高249mの山
>>207 役立たずで、おさわがせしました。
日を改めて探してみます。
209 :
暗黒大将軍:03/03/29 01:37
210 :
日本@名無史さん:03/03/29 01:51
>>210 僕が宮地獄神社近辺を歩いた記憶を今あらためてたどると、
Aの山は標高249mの在自山ではなく、
手前の宮地山(在自山の南側の標高170m余の山)のような気もします。
記憶が曖昧ですみません。
でも@の山の名前とAの山の名前は同じであったことには間違いありません。
『九州王朝』という表現が
現在の天皇制度からみて刺激的過ぎるので
受け入れられないだけだと感じます。
実際に畿内王権と対峙する勢力はあったと思いますよ。
というより天武朝以前の系譜はかなり妖しいかと。。。
213 :
日本@名無史さん:03/03/29 09:01
それ都合のいい幻想。
言ってることが空想ばかりだから受け入れられないの。
214 :
日本@名無史さん:03/03/29 09:15
過去レス読まないで聞くけど 大宰府の帥のほかに置かれていた
主神って何なの? 帥とか権帥が平安京から派遣されてたけど、
主神って派遣されてたって記事見ないんだけど(不勉強なだけかも
しらんけど) 帥よりも地位も上らしいし、九州王朝につながって
るのかな?
215 :
日本@名無史さん:03/03/29 09:48
九州王朝説はそういうデマで成り立ってる
216 :
日本@名無史さん:03/03/29 10:24
217 :
日本@名無史さん:03/03/29 14:29
日本書紀の天皇で、大嘗祭を「自分がやった」天皇はいない。
だが、大嘗祭の場にいたことはあった。
こんなの、「最高権力者」の訳がない。
では、真の最高権力者は誰なんだ、そしてその国の名前は何だ。
218 :
日本@名無史さん:03/03/29 14:40
文武天皇以降、急に度量衡決めたり、通貨発行したり、
元号決めたり、やけに大騒ぎしてるな。
代々王様だったら、神武からやってればよかったのに、
何やってたのかな。
唐と戦争する前に、度量衡ぐらい決めなきゃ、戦えないだろう。
評郡問題だって、後世に改ざんしてるのはなぜなんだ。
一元史観では説明が付かないと思うな。
>>217 >真の最高権力者は誰なんだ
名目的には九州王朝の兄王。(卑弥呼)
実質的には九州王朝の弟王。(倭の五王・ヰワイ・タリシホコ)
>その国の名前は何だ
ヰ(倭)
220 :
日本@名無史さん:03/03/29 15:34
ようするに、天皇家を倒して九州王朝復活させればいいのでは?
昭和天皇の戦争責任も解決されるはず
タイムマシン探せYO!
>>218 九州王朝の分裂一派(宗像朝勢力・甘木朝倉勢力)による傀儡政権とも言える天武朝だからこそ出来た。
彼らは九州王朝の文化すべてを持ち込み、奈良盆地中央部に大量に移民。
天武朝に九州の寺院を奈良に移築するだけでなく、
九州王朝の政治諸制度を持ち込んだ。
223 :
日本@名無史さん:03/03/29 16:40
224 :
日本@名無史さん:03/03/29 17:17
そこからどうやって尾張へ行く?
226 :
日本@名無史さん:03/03/29 18:54
船や馬を使ったろうね。どこかの古墳の石室画みたいに。
病気?
228 :
日本@名無史さん:03/03/30 18:15
age
229 :
九州王朝大好き:03/03/30 19:35
大海皇子は筑紫吉野に身を引いていたが、
薩野馬の帰国により九州での政権をあきらめ、671年近畿に再進出を開始。
673年近畿の覇者となる。
彼は九州の同調者(宗像・甘木朝倉)(当時の九州王朝非主流派)を引き連れ、
近畿に九州王朝の再興を図る。
大宰府のコピーの藤原京を置き、
九州王朝の政治制度の移植と共に寺院の移築もする。
673年に九州王朝は筑紫派と奈良派に分裂したことになる。
兄王は筑紫に残ることとなった為、奈良政権は兄弟政治の形態をとらなくなった。
230 :
日本@名無史さん:03/03/30 19:48
タリシホコは589年政権を取り弟王となりました。
しかし名目上の政権は兄王にあります。
彼が弟王である証拠はその名前にもあります。
アメタリシヒコは天に満ち足りた人と言う意味になり兄王となりますが、
アメタリシホコは天に満ち足りた矛となり兄王ではありえません。
彼は弟王であるが故によりより天下の王者を宣言する必要があります。
そこで、彼は591年法皇を名乗ったのです。
兄王が天皇なら、弟王は法皇であると。
タリシホコは唯単に「法皇」と呼ばれたのでしょう。
僕は第2代法皇が「上宮法皇」とみます。
タリシホコ≠上宮法皇とみます。
上宮法皇=宗像氏胸形君と考えられます。
232 :
日本@名無史さん:03/03/30 22:59
233 :
日本@名無史さん:03/03/31 11:01
>>229 平松幸一説だと、天武は薩夜麻を担いでいますが、対立か協力か、どちらなのでしょうか?
平松説
667年、中大兄(天智)がクーデターを起し、倭国皇子伊勢王兄弟を拘束して大権を握り、那大津(中間市)から近江の大津に都を移す。
670年(庚午)近江朝は日本国と称して対新羅外交を開始。
672年(壬申)遠賀川上流域(当時の明日香)に勢力を温存していた大海人(天武)が、前年に生還した薩夜麻を奉じて近江包囲網を完成、倭国再奪権に成功。
686年,天武死、藤原氏の勢力をバックに天智の娘、持統によるクーデター成功。大津皇子粛清さる。
694年、九州明日香から、近畿藤原に遷都。引続き半世紀程掛かって、倭国文化財を住民、地名と共に近畿大和に総移動。
234 :
日本@名無史さん:03/03/31 11:53
ここまでいくと創作ですな(w
235 :
日本@名無史さん:03/03/31 12:57
仮想戦記ですか?
236 :
九州王朝大好き:03/03/31 15:38
>>233 671年の薩野馬の帰国によって、大海皇子は九州王朝の承継の可能性がなくなり、
翌672年近畿に打って出たと理解しています。
平松幸一と異なる点は以下です。
@日本国と最初に称したのは九州における大海皇子(宗像氏)です。
A大海皇子は薩野馬と新羅外交にて後ろの守りを固め、尾張と組み新倭国奪権に成功。
B大海皇子の勢力温存地域は遠賀川上流と特定しきれませんが、勢力の主力は宗像氏です。
それに、旧菊地の勢力も加わったものと見ております。
C明日香宮が奈良か九州かは断定できませんが、地名明日香は九州から奈良に移ったものと見なせます。
D明日香宮は奈良にあったものと見ております。
>>236 ありがとうございました、よくわかりました。
あんたら病気?
>236
日本国って「もと小国」の日本国は?
>>239 「同名の山」って宮地嶽に決まってるでしょ!
何考えてるの!
>>241さん
そう望んでいます。私が考えているのは、
>>205の@にも当てはまるか、つまり、大宰府の町の東に宮地嶽という同じ名前の山があるのか、ということを問題にしているのです。
>>240 近畿王朝
>>239 写真を見ていろいろ思い出しました。
山の名は南側の低い方の山で、「宮地山」です。
それで、大宰府の東側の2つの山の南側の低い方の山も「宮地山」となります。
写真の不動神社が宮地獄古墳です。ここについては昔いろいろ発見し、
九州王朝への確信を深めた場所のひとつです。
不動神社の宮司さんは元気でおられるでしょうね。
ヒントとなるすばらしいお話を聞きました。
古田氏の著書を読むと彼もこの宮司さんから重要な話を聞かれたようです。
いろいろ思い出してとりとめもなくなったのでここで打ち止め。
近畿王朝についても語ってホスィ。
>>239 宮地獄古墳がタリシホコの墓であること。
宮地山周辺の古墳群から豪華な装飾品(国宝)が出土していますが、
骨壷が出土したのは、写真不動神社の宮地獄古墳だけです。
これはこの古墳群のなかで最大規模の宮地獄古墳の被葬者だけが、
熱心な仏教徒であることをものがたっていることになります。
これは宮地獄古墳の主がタリシホコであることを意味します。
>>244 近畿王朝については「九州王朝があったか?」に、神武の日下侵入戦について、
当時の地形、経済生産性、銅鐸を祭器とした文化性を背景に物語にして書いたことがあります。
九州王朝大好きさん
花粉飛ぶなか、遅くまでレスすみませんでした。
過去ログにたくさんの財産がありました。
240さん
過去ログうまく見つけられますように。
240さんの意見質問も拝聴させてください。
249 :
日本@名無史さん:03/04/01 23:35
過去ログって妄想たれながしじゃん
このスレで言うのもなんだけど、九州王朝はどうでもいいです。優先順位で二の次。
アメタリシヒコの正体探しよりも先に、隋書と全く合致しない日本書紀の豪快な捏造っぷりを問題にしたい。
とても平然と語ってられないような大問題じゃないか?日本書紀がデタラメだなんて。
俺が思ってるほど日本書紀って重要視されてないのかな。実はなくても困らないとか?
聖徳太子が架空の存在だと困るのは梅原猛だけで日本史家は困らない?
252 :
日本@名無史さん:03/04/02 08:52
>>251 「日本書紀はどこから史実なんだろう?」というスレがずばりありますね。
日本書紀は1300年の第一級資料なので、皆さん食傷気味なんでしょうか?
訂正です 「1300年の」→「1300年間も」
254 :
九州王朝大好き:03/04/02 15:49
>>252 日本書紀に食傷気味ではありませんよ。
日本書紀は史実部分と捏造部分が混ざっており、
又、史実を隠蔽いる部分もあるので、
そこから史実を浮かび上がらせることが大変なのです。
勿論、第一級の資料でありつづけることは間違いないと思います。
「隋書と全く合致しない」って、どこが?
256 :
日本@名無史さん:03/04/02 22:04
じゃ東征は卑弥呼より前ね。
259 :
九州王朝大好き:03/04/02 23:03
卑弥呼は細型銅矛の次の時代の広型銅矛の部族の末裔でしょう。
>>256の時代の次の時代でしょう。
卑弥呼の実用最新鋭武器は鉄剣でしょう。
神武は鉄剣の時代でしょう。
神武は卑弥呼の後の時代でしょう。
近畿王朝は銅剣を隠避していますからね。
近畿王朝の始祖は鉄剣で銅剣を滅ぼしました。
260 :
九州王朝大好き:03/04/02 23:11
>>259 上記に鉄剣と書きましたが実質的には広く鉄製武器、特に鉄鏃に着目します。
隋書の方は疑わないのかい?
262 :
九州王朝大好き:03/04/02 23:22
疑うのは隋書のどの部分?
263 :
日本@名無史さん:03/04/02 23:29
隋書の240さんは今日来てないようですが?
九州王朝大好きさん、どうもです。
ずばり古墳時代ということですか。鉄といえば弁辰で鉄を採っていたようですので材料は半島産なのでしょう。
出雲の人も採りに行っていたと思いますが、なんだか不思議な光景です。
学校で「日本は銅と鉄が同時に伝わった」なんて刷り込まれて、幻惑されました。
265 :
九州王朝大好き:03/04/03 01:16
神武一族は糸島の出身ですから、
糸島がもはや九州の中心域でなく、
落ちぶれた地域だからこそ、彼らは九州北部を放浪して、
近畿に新天地を求めなければならなっかたのです。
玄海灘沿岸が衰えた時代は、即ち熊本菊地が勃興した時代ですから、
神武の時代は4世紀前半から中ば迄となます。
神武達は新興菊地をみて自分達の未来はないと、
糸島の過去の栄光を捨て、未来を求めて、東に旅立ったのです。
彼らは漁撈をしながら東に向かったのですが、
それは何艘の小船の集団だったのでしょう?
>>265 ニューヨークや東京でも「ドーナツ化」はあります。糸島水道(完全には繋がっていなかったそうですが)は大事な水路でなくなった、軍港としての有明海がはるかに重要になったのでしょう。佐賀市と博多を結ぶ線は実に大動脈ですね。
そういえば、古墳時代、いくさをするなら物資の現地調達が当然。果たして鉄器や食料はどうしたのか。コロンブス同様、スポンサーを懸命に探したことでしょう。水場や地形情報も欠かせません。専門家にお聞きしたいところです。
267 :
こんなサービスが始まった:03/04/03 10:17
268 :
九州王朝大好き:03/04/03 18:39
>>267 4世紀の奈良盆地南部には、鉄の遺物が全く無い状態に近いのですね。
これは、神武達が進入後、鉄の供給が断たれ、彼らの鉄器が全て鉄鏃に化けたからでは、
と楽しく想像しています。
鉄剣より鉄鏃のほうが戦いには有効ですから。
山陰本線から見える川は、半分が赤い川。砂鉄のたたらは実用化されていたとしても、まだ「神武の国」外のようですね。
敏達13年(584)大和朝廷に初めて仏法(仏具は552)が伝来した、このとき国内に坊さんがいないので、「播磨国」から来てもらったわけです。
つまり播磨は外国だったのですから、神武が安来鉄など手に入るはずがありません。
と、またウソを書く。
神武と天武、どちらも活躍の場を求めて、近畿に行ったとすれば、
天武にとって神武は心の拠りどころだった事でしょう。
しかし神武の時より、事態は複雑ですね。
天智10年(671)10月17日に、大海人皇子=天武は、
天智から後事の委託があるも辞退して出家、20日(佐賀の?)吉野着、
11月10日郭務そう来日、相前後して百済・高句麗・新羅使が出入り、
郭務そうが帰るのは翌年5月30日。7月23日大友皇子自殺、
9月8日〜11伊勢(糸島の?)より倭京に還御
年表を見ていると頭がくらくらします。
この時代、各地に「評督」がいて、たった一箇所だけ「都督府」がある。
都督府は日本列島内用語ではなく、中国の周辺国にありましたね。
日本列島にも「筑紫都督府」が中国=唐の権威のもとで置かれたとしか考えられません。
では「筑紫都督」は誰なのか?郭務そうか薩夜麻かということになります。
考えられないのは思考能力がないからだろう。
274 :
九州王朝大好き:03/04/04 01:37
275 :
日本@名無史さん:03/04/04 22:40
age
276 :
九州王朝大好き:03/04/05 15:29
唐の捕虜九州王朝王薩耶麻は筑紫都督として帰国したのでした。
277 :
日本@名無史さん:03/04/05 15:33
(^Д^)ハハハ
278 :
日本@名無史さん:03/04/05 15:48
いいかげんチャンコロに占領されてしまいましたって
認めてしまった方がいいんでないの?
おまいら気が狂ってるのか?
280 :
日本@名無史さん:03/04/05 16:42
281 :
九州王朝大好き:03/04/06 00:30
>>278 そうです。670年にチャンコロに占領されたのです。
そして、筑紫都督府が置かれ薩摩夜は筑紫都督となったのです。
一方大宰府に負けぬ都、藤原京を696年に作った近畿九州王朝は、
翌697年から九州王朝を攻め、698年699年に完全に攻め滅ぼしました。
700年には完全に九州王朝を鎮圧しました。
そして翌701年近畿九州王朝は唐に日本列島の正統な政権と認められたのです。
282 :
日本@名無史さん:03/04/06 00:33
(^Д^)ハハハ
283 :
日本@名無史さん:03/04/06 00:48
九州王朝大好きさんの「王朝盛衰理論」がないと
私にはこの辺の動きが見えてきませんよ。
ホントに助かります。
幻が見えてきちゃうの?
285 :
日本@名無史さん:03/04/06 11:17
286 :
日本@名無史さん:03/04/06 11:54
288 :
日本@名無史さん:03/04/06 15:14
安本美典氏「展示見本」鑑定事件
五所川原のホテルに飾ってあった展示見本を強引に借り受けた安本氏、
さすがは学者、現代の作品であることを鑑定。
ホテルの人に聞けば、紙を買った近くの文房具屋さんと、
書いた書家を案内してあげたのにねぇ。
いやあ、安本さんお手柄でした。
東奥日報さんも提灯記事ご苦労様でした。
あなたもやってみる?見本品の鑑定。
age
まだ東日流が本物だと思ってるひとがいるらしい。合掌。
291 :
日本@名無史さん:03/04/07 21:14
何百冊の本見る前に、見本の鑑定で終了。おめでとう。
292 :
九州王朝大好き:03/04/07 22:02
ここは東北王朝スレではありません。
293 :
日本@名無史さん:03/04/07 22:05
★一重★目が細いか小さい★目頭がほとんど無い★ツリ目かトガリ目★
★ヨリ目★眉毛がかなり薄い★目と眉毛の間が広い★ハの字眉★
★肌が茶色い★ヒゲが薄いか生えない(男性限定)★
★歯が大きい、または出っ歯★スネ毛など体毛が薄いかほとんど生えない★
★頬骨が強く張っている★彫りが極端に浅く、起伏に乏しい★
★うりざね型の面長★絶壁頭(過短頭)★
以上のうち4つ以上該当すれば朝鮮
.
297 :
九州王朝大好き:03/04/08 00:18
>>296 私説の基本的流れを、よくまとめていただいております。
僕が過去十数年北部九州や地元(奈良・大阪・及び近辺)の現物(地形風土文物)を見ていく中で、いつのまにか組み立てあげられたものです。
九州で奈良の古地名(中にはバス停の名前)がゴロゴロとよく似た位置関係であるのを知った時は興奮したものです。
ええ加減なもんやね。
ヤジとばす前に、自説を言え!
300 :
日本@名無史さん:03/04/08 13:37
.
302 :
九州王朝大好き:03/04/13 00:52
age
303 :
日本@名無史さん:03/04/13 23:49
九州と奈良の似た位置関係の古地名を教えてください。
304 :
九州王朝大好き:03/04/14 00:31
>>303 15〜20年前に誰かが論文か本にまとめて発表していましたよ。
そこには詳しく書かれていました。
それが何かを調べて、お知らせします。
古い記憶なので直ぐに見つかるか自信がありませんが。
九州王朝大嫌いの安本美典だったりして。
306 :
日本@名無史さん:03/04/14 01:03
>>303 鏡山猛氏の著作かもしれません。
安本氏ももちろんです。
307 :
日本@名無史さん:03/04/14 10:27
安本美典はクズ説だね。
>>304 ありがとうございます。無理のない範囲で教えてください。
310 :
九州王朝大好き:03/04/16 00:16
>>303 何処を探したら良いかを、まだ思い出しません。
もう少しお待ちを。
311 :
日本@名無史さん:03/04/16 00:40
312 :
日本@名無史さん:03/04/16 00:46
313 :
九州王朝大好き:03/04/16 02:00
>>311 >>303 >>311の図です。20年余り前の安本美典氏だったのですね。
当時そんな有名人だとは意識していませんでした。
まだ、古田武彦氏と喧嘩する前ですかね?
僕の見方では、甘木朝倉が倭国の中心地だったのは、
菊地朝・復古兄弟政治の4世紀末から590年迄です。
ヤマタイ国はもう少し古いですね。
314 :
日本@名無史さん:03/04/16 03:04
>>313 喧嘩する前です。
安本氏が古田氏に「組んで学界に嵐を起こさないか?」と誘ったが、
古田氏が断った→原田実氏を引き込んで反古田の嵐を起こした・・・90年代末ぐらい?
315 :
日本@名無史さん:03/04/16 03:06
いや、そうでもありませんね、ちょっと保留です。
316 :
日本@名無史さん:03/04/16 03:25
>>313 大体わかりました。
安本氏が古田氏に喧嘩を吹っかけたのは93〜94年だと思います。
オイラは不勉強で申し訳ありません。みなさんの頑張りに感謝いたします。
確かに、目を見張るものがありますね。ただごととは思えません。
318 :
日本@名無史さん:03/04/16 22:13
原田さんの近況教えてキボン
319 :
日本@名無史さん:03/04/17 00:28
320 :
九州王朝大好き:03/04/17 01:03
>>311 >>313の修正。
>>311の図をよく見ると、僕が感動したのは、この安本氏の図ではなさそうです。
僕が現地で地名配置の類似性に感動したのは、
奈良盆地中央部の狭い範囲の地名と甘木朝倉の地名の対比です。
僕が地名配置に気がついた後、先人に既に気がついている人がいると知ったのは、
地図にも載っていないバス停等の古地名です。
僕が子供の頃慣れ親しんだ1950年代初期までの町名改正がなされる前のごく狭い範囲の古地名です。
甘木朝倉と奈良盆地内の地名配置関係地図を初めて見たのは、
>>311の図以前です。
>>311の図を見た時、広い範囲の荒っぽい図だなあと思ったことをはっきり思いだしました。
奈良盆地内だけの図を最初に書いたのは、初期の安本氏か全くの別人はどうかはわかりません。
僕に共感と感動を与えてくれた図をもう少し探して見ます。
321 :
日本@名無史さん:03/04/17 11:16
くだら
(^^)
323 :
日本@名無史さん:03/04/17 15:25
>313〜316
古田先生と安本先生の論争は、1970年代後半から始まっていますよ。
80年頃までは雑誌の企画で対談や誌上論争を行なっていたのですが、議論は平行線をたどったままでした。
したがって、
93年、『サンデー毎日』での誌上論争やNHKでの鼎談〈和田喜八郎氏を交えて)でお二人が見せた対立は
対立はその時点で突然始まったものではないのです。。
>323に続けまして、過去のいきさつを古田先生の言い分だけで判断しないほうがいいですよ。
思い違いや思い込みが激しい方ですから・・・図書館などで活字のなっている資料だけでも目を通すことをお勧め
します(『東アジアの古代文化』『市民の古代』『季刊邪馬台国』等)
325 :
日本@名無史さん:03/04/17 16:08
326 :
日本@名無史さん:03/04/17 16:32
あ、説明不足だったので追加です。
わたしは梅原猛先生の説は「ついていけない」派ですが、
古田、安本、原田先生は、「もっとやれやれ」派です。
>>323 「喧嘩」=「論争」なら、その通りでしょう。
328 :
日本@名無史さん:03/04/17 17:00
本人キター
330 :
九州王朝大好き:03/04/18 20:51
安芸
.
332 :
日本@名無史さん:03/04/19 22:26
東北−(青森+岩手+宮城+山形+福島)
333 :
日本@名無史さん:03/04/19 22:34
漏れは「春夏冬」
334 :
日本@名無史さん:03/04/19 23:49
色即是「 」
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
336 :
九州王朝大好き:03/04/20 12:38
>>303 >>313 >>320 甘木朝倉と奈良盆地の地名の類似性を最初に指摘したのは、
奥野正雄氏のようです。
その奥野正雄氏の記述したものはまだ見つかっておりません。
338 :
九州王朝大好き:03/04/25 13:19
>>336 まだ、甘木朝倉と奈良盆地の地名の類似性にかんする奥野正雄氏の資料が見つかりません。
連休に入るので探すのを諦めました。
安本美典氏のHPに書かれているように、地名の類似性を最初に述べたのは奥野正雄氏だったのでしょう。
当時、僕も安本氏と同様に、奥野氏の類似地名に自分の知識をプラスして(地元としての地名の知識)、
地図に地名をプロットし、その地図のプロットの地名の類似性と配置に興奮し感動したのだと思います。
1970年代のことと思われます。
古田武彦氏の「邪馬台国はなかった」にはまだ関心がありませんでした。題名が関心を興させなかった。
339 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/04/30 21:19
お蔵入り防止上げ。
340 :
日本@名無史さん:03/05/03 01:59
やっぱり九州王朝で説明しないと日本の古代が説明つかないからage
ある時点で、北九州にあった倭勢力の中枢が衰退
ほぼ同じ頃、巻向に計画的な聖地が作られたのは事実と思う。
しかし九州に「王朝」があったと言うと、大げさすぎないか?
現在の弥生系日本人の分布が瀬戸内沿岸から近畿にかたよっているのも、
九州北部から近畿への中心勢力移動の痕跡かもしんない。
342 :
日本@名無史さん:03/05/03 11:07
王朝の呼称について
アバウトな言い方だけど、
・西日本の最大国家だった
・元号を独自に決めていて、それが近隣国でも使われていた
・多分独自に通貨も発行していた
・永年近隣諸国から連続性のあるひとつの国と認識されていた
・・・だから王朝でもいいんじゃないかと・・・
343 :
日本@名無史さん:03/05/03 11:59
・西日本の最大国家だった<ウソ
・元号を独自に決めていて、それが近隣国でも使われていた <妄想
・多分独自に通貨も発行していた <空想
・永年近隣諸国から連続性のあるひとつの国と認識されていた <妄想
・・・だから虚妄の王朝でもいいんじゃないかと・・・
アフォだなー
吸収に王朝などなかったよ。
半島で落ちぶれた奴らの集団とか熊襲はいたけどね(藁
実際に存在したのは東北王朝
東北には「日高見」という軍事国家があったことは古事記も公認
してます。
345 :
にゃんちゅー:03/05/03 15:33
魏志倭人伝に「世々王有」と書いて有様に九州には「伊都國王朝」が
有ったじゃんか。でも、近畿王朝の傘下に入ってたんだろうけどね。
琉球王朝が日本の傘下に入ってた様に。
毎度のことながら、王朝の定義ってなに?
どういう要件を満たしたら王朝になるの?
>346
王様(オサマではない)がいて、でかい墓を作っていれば王朝
でかい墓?じゃあ、九州には王朝はなかったってことで。
東北王朝も琉球王朝もダメだ。
平安時代とかの絵画を王朝絵巻きとかいうのもダメだな・・・・・
ピラミッドでオチがついたところで、他の王朝の定義お待ちします。
351 :
日本@名無史さん:03/05/03 22:37
世襲制の元首がいる国が王朝だよ。
じゃあ、匈奴とか鮮卑とかも王朝か・・・・・
いや待てよ、元首の定義が問題かな・・・・
元首の定義は?
そういえば、国の定義も曖昧なままだな。
国もちゃんと定義して。
353 :
日本@名無史さん:03/05/04 02:17
>>352 各定義をしっかり構築していければいいんだけど、
「王朝の定義」は全体としてのさまのような気もする。
つまり部分の定義をはっきりさせる手続きのむこうに、
王朝の定義が間違いなく待っていてくれるかどうか・・・
また、ここが学者の集いなら話は進んでいくけれど、
2chでその水準の質問自体、きついかもしれない(そうでないかもしれない)。
答えてくれる人がいれば気を揉むこともないが。
おっと失礼、
>>704へのコメントでした。352は誤りです。
>>354は無視してください、ビュアーのいたずらでした。
.
357 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/05/10 20:10
九州王朝で王朝と言えるものは、せいぜい5世紀から、実際は6世紀末と7世紀前半だけでしょうね。
九州王朝の流れを汲む王権を総じて九州王朝と呼んでいるに過ぎない。
もともとあいまいなものですね。
卑弥呼は、王朝のトップとはいえませんよね。
王朝の定義をしてもあまり有意義ではないですね。
358 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/05/11 01:01
甘木朝倉と奈良盆地の地名とその相対的位置関係についての先人の業績は、
奥野正雄氏が最初だと思われますが、僕は現時点では確認できませんでした。
先人が誰であるかを調べることは、今ではあまり労力を割くほどのこととは思えませんので、
僕の調査は打ち切ります。
359 :
日本@名無史さん:03/05/12 22:22
お疲れどした。
360 :
日本@名無史さん:03/05/13 19:24
>>303氏も、きっと独力で、調査可能になったことと思います。
類似の資料も十分提示されたように思います。
九州王朝大好きさん、ごくろうさまでした。
361 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/05/21 21:22
6世紀から7世紀の九州について、近畿と半島南部との関わりも含めて、お聞かせください。
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
363 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/05/22 08:22
お蔵入り防止上げ
364 :
日本@名無史さん:03/05/23 22:34
九州王朝からの分派が、7世紀末近畿の王朝を征服したのなら、
何故、彼らの史書から九州王朝の痕跡を消したのでしょうか?
365 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/05/24 16:57
>>364 自分達九州分派近畿王朝が、正統王朝であると主張する為には、
7世紀までの九州王朝を消さざるを得ないでしょう。
九州分派の王(天武天皇及びその後継者)は、
九州王朝を正統に承継できる立場にいなかったからです。
証拠がないのが証拠ですてアホ
367 :
日本@名無史さん:03/05/24 21:05
>>365 >九州王朝を正統に承継できる立場にいなかったからです。
歴史を全面的に捏造するくらいなら、自分たちが九州王朝の正当な後継者である、と捏造するくらい簡単ではないですか。
その方が遙かに、他の資料との整合性が高くなるし、楽でしょう。
壬申の乱と絡ませたい気持ちは解るが、無理があると思う。
また、7世紀後半、九州王朝側が衰退して、近畿側が強大化していたなら、
近畿王朝が乗っ取られたと考えるのは不自然ではないですか?
369 :
日本@名無史さん:03/05/24 22:48
>>365 そうだったんだろうと思うんだけど、
中国みたいに革命思想があった方がスッキリしていて良かったのにね。
370 :
日本@名無史さん:03/05/24 23:31
>>367 同時代人が読むんだから、まったくの捏造なんかできるわけがないです。
371 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/05/24 23:52
>>367 九州王朝の分派が近畿王朝に紛れ込んだ為に、
近畿王朝はややこしいことをしなければならなかった。
九州王朝は8世紀の近畿王朝の一部にとって主家の正統王朝であり、
その正統九州王朝を7世紀末に亡ぼしているので、
また、自分達平城王朝は正統ない九州王朝の一部を内部に抱え込んでいるので、
正統九州王朝を抹殺しなければならなかった。
純然たる近畿王朝である桓武朝以降は、もはや正統九州を気にする必要がないので、
九州に関する記録を隠す必要がなくなった。
372 :
日本@名無史さん:03/05/25 01:01
>>371 当時の人がみんな知っていたらであろう九州王朝の存在を消す、というのは極めて不自然な偽造法です。
できれば消さないでいたほうがいい。しかも、乗っ取ったのが九州王朝の分派であるなら、自分らが正統派であるとの主張さえすればいいこと。
どうせ、どちらが正統かは、外部の人間には確かな事はわかるはずもない。
だから、九州王朝の存在を認めておいて、自分らが正統な後継者であると言った方が、
遙かに既存の史書との縫合も楽だし、存在しなかったいう誰が見てもおかしな主張をしなくてもよい。
消去せざるを得なかったということは、後継王朝が、九州王朝と全く関連がなかった、と言うことを意味してるのではないか。
ずっと対立していたということが知られていて、が、正統性は自分たちにあったという主張をしたい場合しか、王朝を消すなんてありえないと思う。
373 :
日本@名無史さん:03/05/25 01:19
近畿在来勢力に対し、天孫系の血筋(天武系)を貴めるスタンスも必要なので、天孫系を「神話」化保存した。
「九州王朝の分家筋が、近畿から政権を横取りした」なんて格好悪いから、なまなましい九州王朝自体は黙して語らず。
374 :
日本@名無史さん:03/05/25 13:37
>>373 近畿王朝を征服したというのは、その征服王朝の誇りになりこそすれ、隠すようなことではない。
神武自体を征服者としているし、倭王武は海北まで征服したと誇らしげに書いてる。
また、列島の代表政権が九州側であるなら、近畿の征服は「横取り」ではなくて、只の征服にしかならない。
375 :
日本@名無史さん:03/05/25 21:43
そうね。
だから正々堂々と革命があったと言えば良かったと思うんだよね。
そこをハッキリ言わないことが、その後のこの国のハッキリしない風の基だね。
376 :
日本@名無史さん:03/05/25 22:09
日本書紀の中では、武烈王の記事など、王朝交代らしいものもある。
だから、そういう意識がなかったはずはない。
377 :
日本@名無史さん:03/05/25 22:36
>>374 天武が純粋な征服者として近畿に君臨したことにすると、
天武は「倭」の現国王です、と言いたいが実際は倭と戦った当人(周知の事実)。
革命があったとすると、唐の傀儡倭国に弓を引く、唐の敵対国になってしまう。
あちらを立てればこちらがたたず、強引な論理を展開したわけだ。
唐や新羅とは敵対せず親和したい。近畿においては政権の正当性を主張したい。
歴史に対しては「倭」の後継国家のふりをしたい。
→こんな無理したから妙な日本書紀が出来たのじゃないか。
訂正です
×「革命があったとすると」
○「革命がなかったとすると」
いちばん無理をしてるのは九州王朝説の読み方だと思うが。
380 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/05/26 00:24
いちばん無理をしてるのは近畿王朝説のC14年代測定法無視だと思うが。
381 :
日本@名無史さん:03/05/27 05:32
畿内説はC14の測定結果で力強く支えられています。
382 :
日本@名無史さん:03/05/27 10:53
畿内説は保身と利権で頑迷に支えられています。
九州王朝説は土器の様式が同じなら時代も同時代なんておかしいと以前から主張。
383 :
九州王朝大嫌い:03/05/28 00:58
>九州王朝説は土器の様式が同じなら時代も同時代なんておかしいと以前から主張。
「様式論」をチャラにすると,出土土器の同時代性を保障しうるものは
「一括遺物」のみということになるし,先後関係の保障は同じ遺跡内での
「層位関係」しかなくなる。したがって,これまでに構築されてきた
土器編年網は消滅することになるわけだ。
縄文土器や弥生土器といった区分も大きな意味での「様式区分」にあたるから
不可となるし,須恵器や土師器といった区分も同様に使えなくなる。
384 :
九州王朝大嫌い:03/05/28 00:59
つづき
こうした状況で理化学的年代測定を行っても,得られた絶対年代は
その資料のみ,もしくはその資料と一括遺物として認定できる資料群に
限定してしか使えない,ということになる。
例として今回の弥生開始年代問題を使えば,「測定したオコゲの付着した
土器の年代はBC8世紀」といえるが,その土器が水田遺構に貼りついて
出土したものでもない限り「弥生時代前期である」とはいえなくなるんだな。
385 :
九州王朝大嫌い:03/05/28 01:01
つづき
理化学的年代測定法で得られた絶対年代の成果を用いて,縄文の終わりが
どうたらとか弥生の始まりがこうたらとかいえるのは,「型式学的研究」と
「様式論」によって構築された土器編年網が確立しているからこそなんだ。
>>382ほかの九州王朝説はそこのとこがわかってない。
それに今回の発表に慎重な意見の考古学者が多いのは,記者発表の結果だけが
検証されることなく一人歩きをはじめてしまった「石器捏造事件」からの教訓
が生かされているからだ。ほかの機関による測定結果などが出揃わなければ,
疑うくらいが丁度いいと思う。
結局,全く反省していないのはマスコミ(特に朝日)だったということが明ら
かになったな。
386 :
日本@名無史さん:03/05/28 01:31
出た出た極論。従来の学門成果を全部否定してるのは、あなたの脳内だけ。
387 :
日本@名無史さん:03/05/28 06:20
>九州王朝説は土器の様式が同じなら時代も同時代なんておかしいと以前から主張。
つまり昔も今も電波。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
389 :
日本@名無史さん:03/05/28 11:23
>>387 橿原にもここまでひどい387のようなアホはいない。
390 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/05/28 21:05
>>883-385 九州王朝大嫌いさんが橿原一派なら、橿原一派一絡げも良くないと反省します。
元々、個人的には橿原一派さん達も嫌いではありませんが。
391 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/05/28 21:09
>今夜の「その時歴史は動いた」は、聖徳太子だね。
どんな話をするのでしょう?
聖徳太子でっち上げ説もあると言うのに。
僕は聖徳太子を、アメノタリシホコと上宮法皇に置き換えてテレビを見ましょう。
392 :
日本@名無史さん:03/05/30 00:12
大化の改新は貧しい内容だが、天武の改新はすさまじい内容だ。
393 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/06/09 01:49
最近他板で忙しくご無沙汰しております。
>>392 大化の改新はタリシホコのパクリ。・・・・現実味がないので貧しい内容。
天武の改新は実際にあったこと。・・・・・事実を記録したのですざましくなる。
395 :
日本@名無史さん:03/06/16 21:12
396 :
日本@名無史さん:03/06/16 21:20
>395
時系列の証明出来たんか?先生。
397 :
日本@名無史さん:03/06/17 22:39
>>395 アイヌ人は毛が濃い。
朝鮮人は毛が薄い。
縄文人は毛が濃そうだ。
「寒冷地適応=毛が薄い」で線引きすれば、縄文人は朝鮮人のはずが無い。
>>395 >>396 アイヌ人は低温湿潤気候に適応した顔です。
前間氷期に北方大陸部湿潤地方に生息し、
氷期の到来と共に樺太回りで日本列島に南下して来た、
1〜2万年以上低温湿潤気候に適応した顔です。
体毛の多いことも、色の白いことも、その適応型。
縄文人は、2〜3万年前にはアイヌ人と先祖を同じくし、
同時期西回りで東シナ海(当時は陸地)に南下し、
最終氷期終了期に、日本列島に東進北上した。
だから、アイヌ人と縄文人は似ているのです。
沖縄人は、縄文人の日本列島侵入によって、
1万3千年前にアイヌ人と南北に分断されました。
それから九州王朝の曙まで1万年余の時間が流れました。
以上、九州王朝仮説の導入部前編です。
get 400
>398
ハヤトの存在を知らんらしいな。1万3千年前も沖縄人とは、笑いが出る。
>>401 ハヤトは縄文期の鹿児島県地方に住んでいた人々のことを指すのでしょうか?
もしそうであるなら、彼らもアイヌ人・沖縄人に近い人々です。
ハヤトが消滅した人々であったなら、
沖縄人とハヤトは共通の祖先を持つ人々ではないかと推測します。
ハヤトが現代にも遺伝子を残している人々であったなら、
ハヤトは、縄文人に琉球列島に押しやられて、沖縄人になったとも考えられます。
>402
今でも、祭りやとりまんがな。民俗学的な古層は深いよ。
>>398 縄文と、アイヌや沖縄は言語的に違うところもあったようだけど、そこらへんはどうなん?
405 :
嫌韓厨弐号:03/06/26 00:05
初カキコ&妄想200%で申し訳ないが
薩摩藩支配下の琉球王国は、清の朝貢国でありながら
日本国の一封建領主に仕える、二枚舌。九州王朝と境遇が似ている。
間違いなく九州王朝末期は、大和朝廷の国司クラスだったのだろう。
大宰府=総督府で、倭王自体も天皇家の宮様を貰い受けていたのかもしれない。
実態は無く、過去の栄光で食いつなぐ状況が200年続き、あぼーーーん!かと。
九州王朝説の有力な状況証拠は、白村江の戦いでヤマト朝廷が対外的ダメージを受けず
唐と国交を回復できたこと。秀吉の文禄・慶長の役で、豊臣家が崩壊したように
九州王朝が前面に立つことによって、大和朝廷が存続できたのかもしれない。
・・・とまあ、ガキの頃読んだ「九州王朝説」が、しぶとく残っていて御同慶のかぎりです。
ヨカッタ。
406 :
日本@名無史さん:03/06/26 11:17
それでは吉備や毛野と同格なのでは
>>405 >実態は無く、過去の栄光で食いつなぐ状況が200年続き、あぼーーーん!かと。
この200年はいつからいつまでですか?
私は、白村江の敗戦後(664年)から桓武天皇即位前(780年)の117年間が、
実態のない九州王朝と見ています。
九州王朝の失墜は663年。
唐による九州王朝占領は671年。
新生九州王朝(飛鳥朝)の成立は773年。
九州王朝(筑紫朝)の滅亡は699年。
傀儡九州王朝(飛鳥平城朝)は天武天皇(673年)から780年迄。
408 :
日本@名無史さん:03/06/28 12:37
西都原(宮崎県西都市)である証拠。
1、地名の語末に「都」という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
類例、京「都」、東京「都」。宇「都」宮のような音借とは違う。西都の「西」、方位のことではなく、西洲(九州)という固有名の
地の都という意味(原文に沿わせるとこうなる。)
2、西都のオサホ・メサホ塚は宮内庁の管理化であるため発掘ができない。
9割5分以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
3、現在、長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都である邪馬台国の所在が何故特定できないのか?政治的意図
(天皇制)による組織的な隠蔽工作が行われたと思量する。これに荷担する畿内説は不快である。
4、国内最大級の古墳群が西都にはある。また、九州で一番大きな帆立貝式古墳(オサホズカ)がある。
5、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は西都。
6、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。
人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。
7、朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書のウワサ」は、畿内説による歴史改竄を思わせる。
オサホ塚に後方部をつける改修は、卑弥呼の墓が円墳であることから、これを隠蔽する行為である。
8、好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も歴史改竄であろう。記紀による天皇家の出自も歴史改竄、現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきた。
これの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。西都の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。
409 :
日本@名無史さん:03/06/28 12:47
無数のスレでコピペしまくりの西都連呼はもう飽きた。100回以上見た。
>>407 歴史はシロートなので、ROMってようかと思ってたのですが、つい。。。
倭の五王まで東王朝>西王朝、550年の磐井の乱で大和介入傀儡化。
まあバリバリ妄想なので、スルーして下さい。
411は西王朝(倭)>東王朝(大和)の間違いでした。
過去ログを読んでいますが(ここ以外も)終わりません。
2ちゃんねるで、飛ばし読み出来ないのは、この板だけですw
413 :
日本@名無史さん:03/06/28 17:25
おそらく大和を頭にして吉備、毛野、筑紫、丹波、尾張、古志、
出雲等が緩やかな連合国家を作っていたのが少しずつ大和の支配
権が強化されていった、というのが大和朝廷による統一ではない
でしょうか
>>413 同意です。
各王国のルーツからの直系の子孫・保守本流が
「筑紫」や九州に散在する一族で、対中外交権を持っていた。
大和が越から、後継者を連れて来たことからも
幕府・水戸・紀伊・尾張・御三家のようなネットワークがあったと思われる。
吉備、毛野は閨閥でしょうか?政略ケコーンもあったかも。
ソースを出せない素人の佐賀
東征だ東征!
>>415 現人神、天孫降臨、愛子様はかわいい・・・etcは至極当然&同意ですが
万世一系だけは疑問符です。
鎮西将軍&中華朝貢通商を代々世襲していた王と
国内の任官権を統括していた王・・・
古代の国内ソースが無いですから、妄想炸裂w
景行天皇の九州遠征は何を意味するのか?
遠征した人物名は「前君」と書かれています。
この「前君」はどのような人物なのか?
最初の遠征攻撃地は山口県です。
次いで、大分県(宇佐)、宮崎県、鹿児島県と遠征が続きます。
熊本県に入ると住民の歓迎を受け、既に支配地であることが判ります。
最終帰着地は筑紫平野(浮羽)です。
続く
418 :
日本@名無史さん:03/06/29 02:09
確か継体天皇時代の筑紫の乱のとき火は大和方についているから
熊本は昔から筑紫と仲が悪かったのかもしれない。
6世紀中期以降の大和側は、日露戦争に至るまでの明治政府を連想させます。
挙国一致・富国強兵・法整備・西洋技術の導入などの内政重視。
白村江の戦いの評価は低いみたいですが、当時としては高度な作戦だと思います。
防備を固めた海岸線への上陸作戦は、ノルマンディーまで成功してませんね。
これらの点から、6世紀中期には九州王朝は支配力を失っていたと考えます。
古田氏の著作は、白村江の戦いで九州王朝がジ・エンドでしたっけ?
それと、九州王朝の痕跡を抹消したのは『唐』だと思います。
文盲率高かったですから簡単ですね。大和の帝紀は脳内ですからw
朝鮮半島を中国側に囲い込むために、痕跡を抹消したのでしょう。
旧唐書と唐会書の食い違いですが、記紀編纂にハケーンした唐人情報の
フィードバックの有無で食い違いが生じたのでは。
420 :
日本@名無史さん:03/06/29 03:16
唐に日本の史書を書き換える力はないだろう。それに大和軍も
白村江で全滅した訳で無く余力を残して半島から撤退したのだ
から新興国で国内もまだ完全に治めきれていない唐としては、
出来るだけ事を構えたくはなかっただろう
唐側は、九州倭と畿内大和の関係を把握していなかった。
それ故、畿内大和は九州倭を隠れ蓑にして戦争遂行し
敗戦後、架空の主従関係をでっちあげ、アリバイ作りをして免罪された。
中世出雲の銀精錬に、半島から技術導入した事から見られるように
九州よりも畿内側の方が、半島を死守する必要があったと思う。
(大和〜丹波〜舞鶴)
422 :
日本@名無史さん:03/06/30 18:58
http://inoues.net/yamataikoku/korea/buneiou.html 武寧王は5世紀初めに20余年(在位502(501年説も。)〜523)在位したが、この間高句麗の侵略をくい止め、
一方では508年に耽羅(済州島)を征服した。
日本では継体天皇2年にあたる。さらに512年には任那国4県の割譲を日本に要求し承認させた。
これに対する返礼として、百済は五経博士を日本へ送る。
百済にとっては領土拡大の代償であったが、日本にとっては漢学文化の輸入という、文化史上画期的な招聘制度となった。
百済の領土要求はその後も続き、先に獲得した4県東部の蟾津口の上流・下流を要求し任那へ侵攻する。
任那はこれを不服とし、日本に対して恨みを抱き新羅に接近するが、新羅はそれをよいことに任那を征服しようとする。
危機感を抱いた大和朝廷は、527年、近江毛野臣(おおみのけのおみ)を派遣して
新羅に征服された任那の失地を回復しようとするが、筑紫の国造磐井に遮られる。
いわゆる「磐井の反乱」である。ここから磐井は新羅と通じていたという推測が生じる事になる。
日本では継体天皇21年にあたり、武寧王の死後4年目の事であった。
磐井の乱については現在でも様々な憶測がなされているが、見てきたように朝鮮半島の政治情勢が複雑であった事、
半島と筑紫は殆ど同一地域のような地理的環境にあったことなどを考えると、
この乱そのものも朝鮮半島の政治情勢と深く関わっていたという可能性も捨てきれない。
大和朝廷⇔百済
九州王朝(磐井)⇔任那⇔新羅⇔唐
妄想スレやのう
オマエモナー
電波だと前置きしておきます。
神功皇后の三韓征伐の伝説ですが、「九州王朝はなかった」ではスルーでしたが
俺は実話だと思います。北伐派と南進派の対立があったのでは。
北伐派:九州を中心に、ゆるやかで封建的な分割統治、半島も同様な「王国連合」を目指す
南進派:まず日本列島に強固な「中央集権」を樹立し、国力を高めた上で半島進出
仲哀天皇は南進派の中心人物で、畿内中央集権国家を理想としていた。
熊襲を下した後、一挙に北上し九州内の勢力を一掃しようとした。
そこで、連立派の神功皇后と武内大臣はクーデターを決行した。
そこから後は。。。怖くて書けません(w
426 :
日本@名無史さん:03/07/02 17:54
食べちゃった
>>417の続き
「前君」(景行天皇)が支配していたのはどの地域か?
遠征前の敵対地域
山口県、大分県、宮崎県、鹿児島県が敵対地域であった。
遠征の最終凱旋地域は筑紫平野(浮羽)であったことから、
支配地域は、遠征地域を除くところの福岡県、佐賀県、熊本県、長崎県となる。
即ち、支配地域の東側と南側が敵対地域であったと云える。
又、支配地域の西と北は海で敵地はなかった。
続く
>>427の続き
前君(景行天皇)の遠征には、出発地の記載がない。
最初の攻撃地は山口県であるから、
出発地は山口県に隣接する地域となる。
それは、島根県、広島県、愛媛県、福岡県のいずれかとなる。
遠征の最終帰着地が筑紫平野であるから、
遠征出発地は、筑紫平野もしくは筑紫平野に隣接する福岡県の北部沿岸部となる。
ここで、最終帰着地(筑紫平野浮羽)から見て、出発地を島根県、広島県、愛媛県とすることは、
敵地の背後が出発地となることになる。
敵地を挟む形の支配地域を持つことは、ありえない。
また、それらの地域には3〜5世紀に強力な権力があったことを示す遺跡はない。
一方筑紫平野東部(浮羽以東)は5〜6世紀の遺跡の宝庫である。
この地域は前君の九州統一後に、政権の中枢部となったことを遺跡が示している。
続く
429 :
日本@名無史さん:03/07/03 00:49
ぼく、南北朝期の
懐良親王が九州王朝をつくればよかったのにと思います
431 :
日本@名無史さん:03/07/03 01:02
>>425の、「九州王朝はなかった」は「失われた九州王朝」の誤りでした
景行天皇の章は、日本書紀に九州帝紀を挿入した、痕跡を検証していなかったので
少々弱いかなと思います。長州から豊後への上陸は
太閤九州遠征の長曾加部の上陸を連想します(伊予から出航してますが)
433 :
世界@名無史さん:03/07/03 08:02
>>433 韓国語の日本語訳が理解不能です。
また、僕は韓国語が解りません。
と、言うことで、なす術がありません。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
436 :
日本@名無史さん:03/07/15 04:03
西都原(宮崎県西都市)である証拠。
1、地名の語末に「都」という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
類例、京「都」、東京「都」。宇「都」宮のような音借とは違う。
西都の「西」、方位のことではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味(原文に沿わせるとこうなる。)
2、三角縁神獣鏡も出土。(魏鏡説らしい)
3、西都のオサホ・メサホ塚は宮内庁の管理化であるため発掘ができない。
9割5分以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
4、現在、長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都である邪馬台国の所在が何故特定できないのか?
政治的意図(天皇制)による組織的な隠蔽工作が行われたと思量する。これに荷担する畿内説は不快である。
5、国内最大級の古墳群が西都にはある。また、九州で一番大きな帆立貝式古墳(オサホズカ)がある。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は西都。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。
人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。
8、朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書のウワサ」は、畿内説による歴史改竄を思わせる。
オサホ塚に後方部をつける改修は、卑弥呼の墓が円墳であることから、これを隠蔽する行為である。
9、好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も歴史改竄であろう。
記紀による天皇家の出自も歴史改竄、現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきた。
これの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。....
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
西都くんは 荒らしに近い もう うんざり
439 :
日本@名無史さん:03/07/16 20:21
>>439 428の「続く」は多忙の為しばらくお待ちください。
441 :
日本@名無史さん:03/08/01 17:58
(^^)