幼き日の頼朝らを殺さなかったのが平家の失敗?
2 :
日本@名無史さん:03/01/11 05:58
清盛のスケベ根性が失敗
3 :
日本@名無史さん:03/01/11 06:35
静御前萌え
4 :
日本@名無史さん:03/01/11 09:39
源通親最高!
5 :
日本@名無史さん:03/01/11 18:47
平家にあらずば人にあらず
6 :
日本@名無史さん:03/01/11 18:50
俺源氏平家両方の血を継いでる。
だから中立ということでひとつ・・・・
7 :
日本@名無史さん:03/01/11 18:51
女に甘かったのは清盛の失策
8 :
日本@名無史さん:03/01/11 18:52
でもいい女だとつい・・・・
9 :
日本@名無史さん:03/01/11 18:55
「義朝と俺ではどうだ」などと濡れ
10 :
日本@名無史さん:03/01/11 18:58
そのあと藤原長成のとこにいった
11 :
日本@名無史さん:03/01/11 19:00
使用済みを子分に下賜するのは貴人のならい。
12 :
日本@名無史さん:03/01/11 19:42
義経はそんなにすごかったのか?
13 :
日本@名無史さん:03/01/11 19:43
14 :
日本@名無史さん:03/01/11 19:45
>>12 軍事ヲタだったんじゃないか。
今ならガンプラ集めてそう。肖像画見るとそんな気がする。
15 :
日本@名無史さん:03/01/11 20:30
義経って平家滅亡後はパッとしないのは何故?
16 :
日本@名無史さん:03/01/11 20:58
義経も母をされたで娘をし
17 :
日本@名無史さん:03/01/11 21:15
義経タンは建礼門院タンをやっちゃいますた。
おかげで義経タンはアズマ武士の人望を失いますた。
18 :
日本@名無史さん:03/01/11 23:06
頼朝・義経の兄弟は本当は仲がよかった。平家を滅ぼしたものの自己権力を全国に浸透させる
にはほど遠い状況にあった頼朝は義経と共謀し、彼を謀反人として全国指名手配することを
理由に守護・地頭の設置を朝廷に認めさせた。さらに義経は頼朝の指示に従い、奥州藤原氏の
もとを訪れ、その内情をスパイするとともに頼朝の奥州侵攻の理由付けに貢献した。
19 :
日本@名無史さん:03/01/11 23:16
すると、藤原に殺されたのは大誤算?
20 :
日本@名無史さん:03/01/11 23:30
はい。三代秀衡の死後、義経は自己の存在を利用して泰衡たち兄弟間の対立を
激化させ、藤原氏の勢力削減に成功した。あとは兄頼朝が攻めてくるのを待つ
だけだったのに、頼朝・義経のくさい芝居を真に受けた泰衡に殺されてしまった。
21 :
日本@名無史さん:03/01/11 23:31
ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?
ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?
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ハア?ハア?ハア?ハア?ハア?
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22 :
日本@名無史さん:03/01/12 16:09
鎌倉殿として崇拝される頼朝もかつての平家一門同様、天皇家に憧れる馬鹿正直な
田舎武士に過ぎないことを実証してみせた源通親はエライ。
23 :
日本@名無史さん:03/01/12 18:44
娘の入内の問題が絡み、結局九条兼実は失脚
しばらく九条家は不遇
24 :
日本@名無史さん:03/01/12 19:06
源平交代期に最高だったのは源通親だな。
25 :
日本@名無史さん:03/01/13 19:27
俺は源氏の方が好きだな
26 :
日本@名無史さん:03/01/13 19:43
ゲンゴロウってやっぱり源氏?
27 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:07
昆虫とちゃうの?
28 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:16
熊谷次郎直実って、争乱のあとはどうなったの?
29 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:28
所領争いに敗れ出家して、法然上人の門下になったとか。
浄土宗ってことだね。
30 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:34
曹洞宗の道元上人は源氏だね。
久我・村上源氏だろ
32 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:29
>>18 その説、すごい面白いのですがどこかの本に詳しく書いてあります?
もしあるのなら、是非書名を教えていただきたいのですが。
33 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:52
弁慶って実在したの?
この血を受け継いでいる、有難い。
35 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:55
>>32 明石散人も同じようなこと言ってたような気がする。
36 :
日本@名無史さん:03/01/14 18:49
なんで、平家は負けたの?
37 :
日本@名無史さん:03/01/15 04:37
源氏の五男だからゲンゴロウ
38 :
日本@名無史さん:03/01/15 06:11
>>18 それ、逆説すぎ。いちおう辻褄はあってるけど。
ところで、平家の清盛系統で残ってるのはどこの家?
伊勢の関氏が資盛の流れという話だけど。
39 :
日本@名無史さん:03/01/15 08:44
40 :
日本@名無史さん:03/01/15 09:03
41 :
日本@名無史さん:03/01/15 09:27
なんで源「氏」にたいして「平「家」?
「源氏と平氏」、あるいは「源家と平家」にすべきだろう。
42 :
日本@名無史さん:03/01/15 09:33
源氏物語と平家物語の関係かのう
43 :
日本@名無史さん:03/01/15 10:05
普通、平家=清盛一門。
44 :
日本@名無史さん:03/01/15 21:56
>>42 いや、それだったら、
源氏物語に対して平氏物語になんでやらなかったのかと・・・
大体、桓武平氏って言いません?
「平氏物語」と呼ばずに「平家物語」と呼んだ他の理由があるかも・・・
45 :
日本@名無史さん:03/01/15 22:32
平家物語は、主として清盛一家の栄枯盛衰をつづったもので、
桓武平氏の話ではない罠。43が正解。
源氏物語の源氏はいうまでもなく主人公の名前。野口英世物語と
同じでんがな。
46 :
日本@名無史さん:03/01/15 22:56
源氏の白旗と、平氏の赤旗と言うのは本当なの?
本当ならどういう起源でそうなったのですか?
47 :
日本@名無史さん:03/01/15 23:28
紅白の起源やね。
48 :
日本@名無史さん:03/01/15 23:46
姓とともに氏族の色も下賜されたとかいう話を聞いたことあるが、
ソース未確認。
源 白
平 赤
藤 水色
橘 黄
(^^)
50 :
日本@名無史さん:03/01/16 10:24
あげ
51 :
日本@名無史さん:03/01/16 12:53
元阪神の源五郎丸は源氏?
52 :
日本@名無史さん:03/01/19 23:57
age
53 :
日本@名無史さん:03/01/20 00:05
桓武平氏のうち
清盛一門が滅んだ後でも
もう一方の公家の家系は存続している
54 :
日本@名無史さん:03/01/20 00:44
女房の実家のほうですな。高棟王流。
55 :
日本@名無史さん:03/01/20 00:45
>もう一方の公家の家系
だれのこと?
56 :
日本@名無史さん:03/01/20 01:21
「平氏にあらずば・・・」とのたまった平時忠の一族。
57 :
日本@名無史さん:03/01/20 01:35
関東に土着した方の子孫は全部絶えたの?
公家のほうの桓武平氏は、日記の家としても有名ですな。
58 :
日本@名無史さん:03/01/20 02:58
鎌倉期の内管領
平頼綱や長崎高綱は系譜上平清盛の子孫にあたる
59 :
日本@名無史さん:03/01/20 12:36
>57
坂東八平氏は滅ぶわけないだろ
60 :
日本@名無史さん:03/01/20 21:09
age
61 :
日本@名無史さん:03/01/23 00:49
オレは平家の方が好きだ
62 :
日本@名無史さん:03/01/23 07:39
「将門流平氏」ってのはまさか坂東八平氏のことなんですか?
63 :
日本@名無史さん:03/01/23 17:08
承安二年(1172)に鬼が出現したとの報告が伊豆国よりあったらしいが、鬼とは源為朝だったのか?
64 :
日本@名無史さん:03/01/23 17:16
>>58 その説は細川重男氏は否定してますな。
というか、んなわきゃねーし(w
65 :
日本@名無史さん:03/01/23 17:26
66 :
日本@名無史さん:03/01/23 17:43
微妙に源範頼が好きだ。
まったく活躍してなかったり、負け戦ばかりのところが。
ここら辺の時代は朝日新聞嫌いの井沢元彦さんの「逆説の日本史」がおもしろい。
67 :
日本@名無史さん:03/01/23 21:36
>>66 平家物語の書き方が酷いだけで、
実際の範頼はそれほど酷い戦をしていたわけじゃない。
川合康「源平合戦の虚像を剥ぐ ―治承・寿永内乱史研究―」
とか、
野口実「武家の棟梁源氏はなぜ滅んだか」
を一読されたし。
68 :
日本@名無史さん:03/01/23 22:13
>>62 9世紀後半、上総介となって東国に下向した平高望でしたが、彼には国香、
良持、良兼、良正、良文らの子息がいました。
それぞれ土着の有力氏族として坂東各地に根を張り、国香は常陸大掾に、
良持は下総に土着しましたが鎮守府将軍となって陸奥国胆沢城に赴任、
良兼は上総国に土着し下総介に、良文(村岡五郎)は武蔵国を基盤としました。
そして、これらの子孫が繁栄し後世、千葉、三浦、大庭、梶原など
「坂東八平氏」と称する有力武士団へと成長していきます。
末子の良文流平氏は、おもに上総・下総・相模・安房・武蔵にその勢力基盤を
ひろげ、「坂東八平氏」と呼ばれる一族の祖となりました。
源平の戦いで著名な上総広常・千葉常胤・三浦義澄・土肥実平・畠山重忠・
大庭景義・梶原景時・長尾定景・河越重頼・江戸重長・葛西清重はすべて良文の
子孫です。
※ 坂東八平氏1:上総・千葉・三浦・河越・畠山・江戸・鎌倉・大庭氏
2:上総・千葉・三浦・秩父・土肥・大庭・梶原・長尾氏
ttp://www6.plala.or.jp/HEIKE-RAISAN/keifu/keifu2.html ttp://members.jcom.home.ne.jp/bamen/tiba.htm ↑ 下のほうのサイトの「平高望流平氏」系図を見てもらえばわかると思うけど、
将門は、良文の兄の良持の子供になるから「坂東八平氏」の祖とはいえないね。
69 :
日本@名無史さん:03/01/23 22:14
平高望―+―国香(常陸大掾)―+―貞盛―→【伊勢平氏宗家・北条・熊谷氏】
| |
| +―繁盛―→【常陸大掾・岩城氏など】
|
+―良兼(上総介)―→【伊勢平氏】
|
+―良持(鎮守府将軍)―将門
|
+―良文(武蔵押領使)―+―忠頼―→【上総・千葉・秩父氏など】
|
+―忠通―→【三浦・大庭・長尾氏など】
ズレちゃった。ごめんね。
71 :
日本@名無史さん:03/01/23 23:22
宇治川の戦いの前の時点で言うと、源頼朝よりも頼政のほうが(官位がどうというよりも)格が上だったと言うのは本当ですか?
「もし頼政が生きていたら、彼は源氏の長老だ。平氏の打倒後に頼朝の出番はなかったかもしれない」という文章を読んだんですけど。
72 :
日本@名無史さん:03/01/24 00:53
>>71 源頼政は、源満仲の嫡男の源頼光の摂津源氏の子孫で、武威では頼光の弟の頼信の河内源氏(頼朝の先祖)
より劣ったが、系譜的には、源家嫡流に近い。
ただし、源氏の指導権が、嫡流の摂津源氏から、武威実力派の河内源氏に移ったため、
頼朝政権下の鎌倉幕府以降、河内源氏の嫡流への脚色と、摂津源氏の傍流化が行われた。
73 :
日本@名無史さん:03/01/24 00:59
北条は、やっぱニセ平氏なの?
74 :
日本@名無史さん:03/01/24 01:13
頼政は三位の公卿
頼朝なんかとてもとても
北条氏はれっきとした平氏嫡流
但し時政の家は北条氏の庶流
75 :
日本@名無史さん:03/01/24 13:42
>>74 平治の乱直前で比べると、頼朝も頼政も、官位はどちらも「従五位下」で
同じですよね。頼政は晩年に急激に出世した人ですから。
「とてもとても」という意味がわからんような。(w
摂津流が嫡流だというのは認めるけどね。
76 :
日本@名無史さん:03/01/24 15:19
頼政は平氏におもねって家を保ったが出世は遅かった。
晩年におのれの位の低さを嘆き、和歌を詠んだ。
それが清盛様の目にとまり、三位に叙せられた。
っていうか、攝津源氏って保元の乱のころにはすでに
河内源氏の風下に立ってたじゃん。それに平家や河内源氏のように
大勢家人がいるわけでもないし。
77 :
日本@名無史さん:03/01/24 18:26
頼政は上品な宮廷武士。頼朝は晩年になって宮廷に憧れドジを踏んだ田舎武士。
78 :
日本@名無史さん:03/01/24 19:00
源頼政は、「かっぷくのいい老壮の上品なおじいさん」というイメージがあります。
剃髪していることを除けば、カーネル=サンダースのような感じの。
79 :
日本@名無史さん:03/01/24 19:21
数ならで 老いぬと何か 嘆くべき 三の楽び ある身なりけり
金沢文庫の主任学芸員である永井晋はこの歌を、
源義家依頼の四位の殿上人に昇進し、家は栄え、
歌人としても評価された満ち足りた晩年を伝える和歌である、
と評している。
そもそも、頼政は平家に仕えたわけでも、従っていた訳でもない。
平治の乱における義朝との対立は、悪源太義平によって引き起こされたもの、
と言える。
河内源氏との違いは、多田満仲以来の地位を受け継ぐ、
都の宮廷武官であったか、
国守などを経て地方の武士を束ねる存在になったか、という違い。
頼政は決して義朝の下に立つ存在ではなかった。
80 :
日本@名無史さん:03/01/24 20:40
別に平家に仕えたわけでも河内源氏に仕えていたわけでもないが、
両者の間で揺れていた哀れな小豪族であったと。
>>80 ではないよ。
摂津源氏は、タイプとしては古い宮廷護衛の武家だが、源氏の中では、
河内源氏が指導権を握っていても、河内源氏も一目置かなければならない
源家の嫡流。
平治の乱での源頼政の独自行動は、河内源氏の源義朝に対する源家嫡流としての矜持を示したもの。
河内源氏の主流以外で、源頼政の一族が苗字ではなく、源姓を使用し続けたことも重要。
82 :
日本@名無史さん:03/01/24 21:45
君ら、当時源氏長者は村上源氏だろ。
河内源氏、摂津源氏のどっちが上とかいうくだらなくて不毛な
論議はやみろや。(w
83 :
日本@名無史さん:03/01/24 21:51
頼政の詠んだ歌
人知れず 大内山の やまもりは 木がくれてのみ 月を見るかな
これで昇殿を許される
のぼるべき たよりなき身は 木のもとに 椎をひろひて 世をわたるかな
これで三位
まあ武人というより歌人だね。
84 :
日本@名無史さん:03/01/24 22:00
摂津源氏が嫡流っていってもねえ・・・。
じゃあ坂東平氏の諸豪族は伊勢平氏を嫡流と仰いでたのか?
河内源氏と摂津源氏は別の家と見るべき。
85 :
日本@名無史さん:03/01/24 23:14
はぁ?
なんで源氏長者の話が出てくるの?
全然関係ないじゃん。
86 :
日本@名無史さん:03/01/24 23:22
>>85 その通り。
ところで頼光と頼信の母親はどっちが嫡男だったの?
「の母親が」じゃなくて「は」ですね。
母親の身分について知りたくて。
88 :
日本@名無史さん:03/01/24 23:54
清和源氏の陽成源氏説はどう思いますか?
89 :
日本@名無史さん:03/01/25 00:00
90 :
日本@名無史さん:03/01/25 00:44
ところで、源三位頼政って、本当にぬえを退治したの?
91 :
日本@名無史さん:03/01/25 00:49
少なくとも鵺なんぞいるわけがない。
92 :
日本@名無史さん:03/01/25 01:02
河内源氏が坂東武者に目をつけたのはいったい何がきっかけだったの
だろうか?
坂東武者を、公的な上下関係とは全く別の関係を構築して主従関係を
構成しようとした発想はどこからきたのか?
93 :
日本@名無史さん:03/01/25 01:31
河内源氏も最初は、摂津源氏と同じ、京都で宮廷警護や公家護衛の武士だった。
しかし、都は、河内源氏の源頼信からすれば、兄の源頼光の縄張りみたいなもので、
だから、東国へ下ろうとした。
しかし、河内源氏は、頼信、頼義、義家と三代で東国の武士を傘下にしたが、
自らの本拠地は河内(現・大阪府羽曳野市壷井)から移すことはなかった。
94 :
日本@名無史さん:03/01/25 01:51
何を持って本拠地とみなすのだろうか?
>頼信、頼義、義家と三代で東国の武士を傘下にしたが
義家は後三年の役の後、受領考課定めを十年ほど通過できず、無官。白河院を
はじめとする公家たちの警戒心のもと、冷遇が続き、河内源氏も落ち目になっ
た。
95 :
日本@名無史さん:03/01/25 01:55
本拠地は京の屋敷じゃないの?河内は本拠地というより本貫地かと。
彼ら受領は京と任国をいったりきたりでしょ。遙任してたかもしれんが。
96 :
日本@名無史さん:03/01/25 02:05
本貫地とは?
河内守になんどもなっていたの?
重任は、容易じゃないと思ったが。
どのように河内の拠点を支配していたのだろうか?
当時の土地所有は重層的であったが、一体、どういう関わり方だったのだろうか?
97 :
日本@名無史さん:03/01/25 02:10
家来を派遣してたんとちゃうか?
ひょっとして坂東の連中みたく自分で開墾してたとか?
98 :
日本@名無史さん:03/01/25 02:15
家来の派遣というのも、具体的なイメージがわかんなぁ。
郡郷司職や在庁官人に任命して、在地領主としていたとか、そんな類か?
99 :
日本@名無史さん:03/01/25 02:39
そんな何度も河内守になったわけじゃないだろうから、
あくまで私的に派遣してたんじゃないの?
100 :
日本@名無史さん:03/01/25 02:42
どこに、どういう名目で派遣していたの?
派遣された家来は、現地で何をしていたんだい?
101 :
日本@名無史さん:03/01/25 02:54
102 :
日本@名無史さん:03/01/25 03:05
要するに知らないということですな>101
103 :
日本@名無史さん:03/01/25 03:09
> あくまで私的に派遣してたんじゃないの?
よく意味がわからんな。
具体的に何を指して私的に派遣といっているんだい?
98のようなことか?
104 :
日本@名無史さん:03/01/25 03:12
えらそうな教えて君だな。うだうだ言う前に自説を述べろ。
105 :
日本@名無史さん:03/01/25 03:14
たしかに、「私的に派遣」て何だろう?
106 :
日本@名無史さん:03/01/25 03:16
> えらそうな教えて君だな。うだうだ言う前に自説を述べろ。
つっこまれてあせってるのか?
107 :
日本@名無史さん:03/01/25 03:20
自説を述べないところを見るとやはりただの教えて君だったようだ。
108 :
日本@名無史さん:03/01/25 03:36
両者とも河内源氏の本拠地およびその管理法について自説を論じろ。
論じられなかったら厨認定。
109 :
日本@名無史さん:03/01/25 04:15
人間派遣しないと支配・権力関係が維持できないと
思ってる人がいるんだね
110 :
日本@名無史さん:03/01/25 04:18
どこに?
111 :
日本@名無史さん:03/01/25 04:32
>>109 ただの荘園ならわざわざ派遣しなくてもいいんだがな。
ただの荘園なら。
112 :
日本@名無史さん:03/01/25 05:19
均等名は畿内に多くみられます。
113 :
日本@名無史さん:03/01/26 01:55
すみません。
源範頼ってなんで自害したんですか?
幼き頃読んだ平家物語では頼朝が彼に義経を
アボーンすりるように命じた。
でその後の記述が
義経「お前何しにきてん?」
頼朝「お前謀反するつもり?」
(そして自害)
のどちらともとれるんですよ、、、
114 :
日本@名無史さん:03/01/26 02:09
107、108、見苦しいから消えろ。
大体、家来なんて言葉を使った時点でレベルがわかるがな。
↑厨の片割れの方ですか?見苦しいのはアンタ。
消えなさい。
116 :
日本@名無史さん:03/01/29 00:08
平家滅ぶの早すぎ
117 :
多田蔵人源行綱:03/01/29 01:38
源家と平氏について語ろう。
118 :
日本@名無史さん:03/01/29 02:36
>>117 狭義の源家は頼朝一族と考えていいのでしょうか。
ならば、
源家と平氏はお友達。
119 :
日本@名無史さん:03/02/01 02:09
義経ってお話では有名だが実際どこまで活躍したの?
120 :
日本@名無史さん:03/02/01 03:56
121 :
日本@名無史さん:03/02/04 21:42
平清盛は結構好き
122 :
日本@名無史さん:03/02/04 22:19
清盛が白拍子を犯すシーンにハァハァ
123 :
日本@名無史さん:03/02/05 02:05
義経が建礼門院を犯すシーンにハァハァ
124 :
日本@名無史さん:03/02/07 07:07
去年映画で源氏やってたがすさまじい内容だった・・・
>>124 うちの母もそれを観に行って、
「時間の無駄だった」「海外には絶対出して欲しくない」
とこぼしておりました。
126 :
日本@名無史さん:03/02/09 19:30
あの映画はある意味すごい
127 :
日本@名無史さん:03/02/12 14:41
源平絡みで面白い本って何?
昔の大河で「草燃える」ってのがあったけど、
石坂浩二の頼朝が義経最後の地にやってきて、
「九郎、九郎…」って床にほほを寄せながら、
ぼろぼろ泣くシーンには泣けた記憶がある。
すごい亀レスだが。
>>32 >>18説の根拠は三好京三の小説だと思うぞ。
>113
その平家物語自体か君の記憶か、どちらかが間違ってる。
130 :
日本@名無史さん:03/02/13 08:23
多田満仲とか源頼光、頼信など初期の源氏が興味深い。
後は、多田とか石川とか源氏の有名な庶流の動向。
>130
君もこの板に長くいるねえ(w
133 :
日本@名無史さん :03/02/15 10:16
将門の中の人も大変だな
130は川西市民決定!!
川西市は兵庫県にあります。川西市は清和源氏発祥の地
清和源氏発祥の地は西八条だろ?
陽成源氏じゃないの?
陽成源氏か清和源氏かは決着がついてなかろ。
138 :
日本@名無史さん :03/02/16 05:16
【埋蔵額】=軍用金
【埋蔵者】=平景清
【埋蔵地】=豊田郡安芸津町
【背景】=壇ノ浦の合戦で敗れた平景清が落ち延びてきてこもったといわれるのが安芸津町太田の宇井坂山城跡。
ここに景清が立ち去る時に埋めたという軍用金の伝説がある。目印は白い椿。
139 :
間違いなく清和です:03/02/16 10:43
西八条って何?
清和源氏は川西市発祥で間違いないですが
140 :
日本@名無史さん:03/02/16 17:27
134
しかし130が挙げている石川氏は河内源氏だから大阪府羽曳野市だよ。
ということは、川西市民とは断定できないのでは?
●清和源氏の発祥地 京都市西八条 六孫王神社のあたり
●武士団としての清和源氏発祥の地 川西市多田 多田神社のあたり
●武家としての清和源氏の中心の河内源氏の発祥の地 大阪府羽曳野市 壷井八幡宮のあたり
141 :
日本@名無史さん:03/02/16 17:29
139
西八条は、武家としての清和源氏の初代の源経基の館があったとされるところ。
142 :
出会い系ビジネスの決定版:03/02/16 17:30
なるほど。川西市民はそのように洗脳されているのだな。
西八条も知らないで清和源氏を語るとは。
144 :
日本@名無史さん:03/02/20 11:43
源満仲の嫡男は源頼光で、摂津源氏が源氏嫡流なんだけれど、
いつ頃から河内源氏が源氏嫡流と僭称されることになったのか。
やはり源頼朝の頃からか?
摂津源氏の頼政が亡くなったからでしょ?
146 :
日本@名無史さん:03/02/20 13:36
>>144 僭称って・・・
いいかげん摂津源氏ヲタきもいんっすけど。
日経「平家」読んで清盛の政治家としての力量を見直したよ。
それまでは、
奈良の大仏さんを焼いた「奢る平家」は「久しからず」
牛若丸&弁慶ご贔屓 判官びいき の心情だったけど。
「新・平家物語」をもう一度!
148 :
日本@名無史さん:03/02/22 00:26
鎮西八郎為朝最強
小説で清盛の力量を見直すなよ。
150 :
日本@名無史さん:03/02/22 01:43
146
僭称と言っても過言じゃないよ。
河内源氏が東国に進出したのは嫡流ではないからだ。
当時の首都の京都は、嫡流の摂津源氏の「縄張り」だから、
河内源氏は東国に反転したわけ。
151 :
日本@名無史さん:03/02/22 07:39
縄張り?屋敷があって住んでただけじゃん。
関東からトンズラした伊勢平氏は嫡流だったと思ったが。
153 :
日本@名無史さん:03/02/22 08:56
為義以降の男子はほとんど、ことごとく横死。
こんなに血塗られた家系も珍しいよな。
154 :
日本@名無史さん:03/02/22 10:33
摂津源氏も河内源氏も受領で地方巡りの繰り返し。
そうしている間に河内源氏のほうは東国で武功をあげて勢力を拡大するのに成功したが、
摂津源氏はその機会がなく、細々と内裏の門番をすることに。
平忠常の乱のときに頼光が存命だったら違ってきたんだろうけど。
>>154 頼光では忠常を抑えられないよ。
頼光は東国国司をやってないから。
156 :
日本@名無史さん:03/02/22 19:33
確認できる源平の最古の人物って誰?
元を辿れば清和天皇だかに行き付くらしいけど、もともと武士って荘園の自警団
だろ。本当かな。
>>156 このスレでいう源氏なら経基、平氏なら高望だが・・・
まあ何も言うまい
158 :
日本@名無史さん:03/02/22 21:22
平家の落人部落って全国にいくつありますか?
159 :
日本@名無史さん:03/02/22 21:25
伝説があるところっていっぱいありますよね?
父の生まれがそんな町なんですけど、本当かなあと思って。
「平家の郎等」の村だろ。
>>156 最近の概説書を少しぐらい読んでちょうだいね。
163 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/02/22 23:07
>160
辺鄙な土地には大抵そういう伝説があります。後付けの可能性が高い。
>158
中公新書「平家伝説」松永伍一著でも読んでみたら。
ありがとうございます。探して読んでみます。
尊卑分脈の経基と満仲の年齢が合わないんだけどさー。
経基は天徳5年41歳卒ってことは、916年生まれでしょ。
で、満仲は延喜12年(912年)誕生って…。
この二人が親子って不自然。
>>166 すごーい!よく気がつきましたね!大発見ですよ、それは!
貞純親王と経基の年齢も合わないけど
経基の没年齢が尊卑の誤記で、71歳くらいだと全部整合するんだがなー。
151
伊勢平氏は、坂東の平氏の傍流。
平清盛の家は、伊勢平氏の中のさらに傍流。
>くらい付けてよ。レス番だけ書かれても。
171 :
多田蔵人行き:03/02/27 04:33
源平合戦とは
源氏の傍流の河内源氏と
平氏の傍流の伊勢平氏の
傍流対決だったわけですね。
川西市清和台に清和天皇がいたのか?
173 :
日本@名無史さん:03/02/27 12:28
坂東平氏の嫡流ってどこの家?
また嫡流傍流かよ。
大友や島津が頼朝の御落胤ってのと同じくらいに、くだらね話題だな。
175 :
日本@名無史さん:03/02/27 15:54
清和源氏は天皇家の傍流です
天皇家は明石原人の傍流です
177 :
日本@名無史さん:03/02/27 23:21
平将門って平家の本家筋?
178 :
日本@名無史さん:03/02/27 23:35
分家筋。
本家は将門殺した従兄弟の貞盛の系統。
179 :
こうじろう:03/02/28 10:10
伊丹氏って摂津源氏?
180 :
日本@名無史さん:03/02/28 11:51
貞盛には四人の子がいたようだが、本家筋を継いだのは誰になるんだろう。
181 :
日本@名無史さん:03/02/28 12:00
182 :
日本@名無史さん:03/02/28 12:07
維衡の子正度には五人の子がいたようだが、本家筋を継いだのは誰になるんだろう。
183 :
日本@名無史さん:03/02/28 12:46
>>182 正衡
>>180 >>182 てめえら、確信犯だな。(w
桓武天皇---葛原親王---高見王---高望---国香---貞盛---維衡---正度---正衡---正盛---忠盛---清盛---
184 :
日本@名無史さん:03/02/28 13:54
183
清盛が傍流というのは常識だけど。
185 :
日本@名無史さん:03/02/28 13:56
傍流は実力で伸すしかないから、
嫡流の摂津源氏より傍流の河内源氏の方が武の実力があったんだね。
186 :
日本@名無史さん:03/02/28 14:46
伊勢氏は平家だったかな?
187 :
日本@名無史さん:03/02/28 15:02
伊勢伊勢守(藁
この間、職安で源氏の嫡流の人にあったよ。
189 :
日本@名無史さん:03/02/28 17:53
190 :
日本@名無史さん:03/02/28 18:00
>189
常陸平氏
191 :
日本@名無史さん:03/02/28 18:37
>>190 常陸平氏って国香の系統のことだろ。
狭義では大ジョウ氏のことか?
でもあれって繁盛の子孫だったような。
>188
正親町源氏の末裔か?(藁藁
193 :
日本@名無史さん:03/03/01 08:50
維衡は知らんが、正衡が正嫡を継いだというのはさすがに嘘臭いな。
貞盛からあとは嫡流論争自体に誰も興味を持ってなかったんじゃ。
194 :
日本@名無史さん:03/03/01 11:45
将門の時代から本家、分家とはっきり分かれていたのか。
もっと平家や源氏の黎明期の話ってないの?
一地方武士だった源平のご先祖が勢力を拡大していくような。
195 :
日本@名無史さん:03/03/01 12:13
結局どこが平氏の嫡流なのか不明なわけね。
なんで清盛が傍流というのが常識なんだ?
196 :
日本@名無史さん:03/03/01 12:34
>>68 >※ 坂東八平氏1:上総・千葉・三浦・河越・畠山・江戸・鎌倉・大庭氏
2:上総・千葉・三浦・秩父・土肥・大庭・梶原・長尾氏
遅いレスですが、
坂東八平氏の祖のうち、鎌倉権五郎景政だけが神として祭られているのは
なぜですか?
鎌倉の長谷と逗子の沼間に「御霊神社」があり、祭神になってますが。
197 :
日本@名無史さん:03/03/01 16:24
目ん玉ブシュっとされても戦い続けたから。
198 :
日本@名無史さん:03/03/01 16:31
源義親萌えあげ
199 :
日本@名無史さん:03/03/01 19:32
悪対馬守義親はいいねぇ。
乱暴者という矮小化された人物像が伝わっているが、
反朝廷の活動をした義親に降伏するよう説得に向かった義家の重臣たちも義親に服したほどの人物だった。
200 :
日本@名無史さん:03/03/01 19:36
平氏は、源氏と比べると賜姓の代が皇族から離れていた格下であり、
都を捨てて坂東に土着して数代経っているから、嫡流意識など消滅していた。
坂東の平氏が、頼信、頼義、義家らの河内源氏の傘下に入ったのは、
嫡流意識がなかったから、都から来た源氏を貴種として崇めた。
201 :
日本@名無史さん:03/03/01 19:51
摂津源氏、河内源氏だって同じく嫡流意識など消滅していたんじゃないの?
202 :
日本@名無史さん:03/03/01 19:56
201
源氏の嫡流意識が消滅しかけたのは平治の乱で義朝が敗れた時。
しかし、河内源氏の源義朝とは別行動した摂津源氏の源頼政には嫡流意識はあった。
203 :
日本@名無史さん:03/03/01 19:58
>202
源氏は、京の都や周辺の摂津や河内、大和にいたからね。
平氏は、後の伊勢平氏が伊勢に流れてくるまで、都やその周辺にはいなかった。
204 :
日本@名無史さん:03/03/01 20:13
嫡流意識って何?
何をもって嫡流意識があったとするの?
205 :
日本@名無史さん:03/03/01 21:09
206 :
日本@名無史さん:03/03/01 21:49
>>199 義親がそんなに大人物だとは知りませんでした。
屈服した義家の重臣って誰ですか?
207 :
日本@名無史さん:03/03/01 22:43
高平太age
208 :
日本@名無史さん:03/03/02 00:08
>>196 御霊神社って、あの周辺には幾つもありますよ。特にJR藤沢駅とJR大船駅の中間地点
あたりにあるのは有名なようです。鎌倉権五郎以外にも崇道天皇、葛原親王、高見王、高望王を
御祭神としています。個人的には平良文も祭ってほしいと思っております。
坂東平氏って、ほどほど有名なのはいるけど、超有名どころって長元の乱の平忠常
くらいしかいないんだよね。平忠常以外だと目に矢を受けても戦い続けた鎌倉権五郎って
ことになっちゃうのかなぁ。
209 :
日本@名無史さん:03/03/02 00:11
そういえば日経新聞の連載「平家」が終わってしまったね。
「小説としては」面白かったと思うです。
210 :
日本@名無史さん:03/03/02 00:13
>>26 嫁の友達に源五郎丸さんっていたよ。
ケコーンして平凡な名字になっちゃった。自分がケコーン相手だったら、
自分が改姓して源五郎丸になるのにな。あぁ、もったいない。
211 :
日本@名無史さん:03/03/02 00:19
>>91 見たYO。漏れが住んでいるマンションの前でブツブツつぶやきながら酒を飲んでた。
最近は寒いからあまり現れないけど、そろそろ出てくるんじゃないかな。
ところで、経基が源姓を賜ったのは天徳5年なわけだが、
その子である満仲が「源姓」となったのはいつざんしょ。
4世の孫だとまだ生まれた時から賜姓でもないでしょ。
しかし経基と同時だとすると、満仲はすでに推定50歳なわけだが。
それまでは満仲も皇族扱いだったのか?
213 :
没個性化されたレス↓:03/03/02 10:05
あげ
214 :
日本@名無史さん:03/03/02 12:02
>>212 自分も似たように高望王の息子の国香や良文って始めは王だったハズだよなぁと
思っていたとこ。国香は以前に違う名前だったらしいから、きっと臣籍降下の前後で
変わったのだと思うんdすけどね。
215 :
日本@名無史さん:03/03/02 13:54
義家の子の対馬守義親の矮小化は、河内源氏の勢力を押さえ込もうとした院の謀略。
216 :
日本@名無史さん:03/03/02 14:19
いや、河内源氏だろう。義親は一門の汚点だから。
217 :
日本@名無史さん:03/03/02 15:32
>>85 摂津源氏(土岐かな)の子孫がこの板にいるから
>>190 アホか、俺は常陸平氏の子孫だけど、恥ずかしいからやめてくれる
伊勢平氏の維衡が常陸介になってた同時期に
常陸平氏の為幹(貞盛から常陸の所領を譲られた維幹の子)は五位(散位)
>>69等、国香(常陸大掾)、良持(鎮守府将軍)・・・と記載されることが多いけど
うちの系図だと国香が常陸介(常陸大掾とは別に)だったり、繁盛も鎮守府将軍だったり
この系図やばい?
219 :
日本@名無史さん:03/03/02 17:03
217
違うだろう。
摂津源氏ヲタはー、源氏「嫡流」にこだわっていて、源氏「長者」ではないよ。
220 :
日本@名無史さん:03/03/02 17:26
>>219 そのとおりだよね。摂津源氏からは源氏長者を輩出していない。
足利義満が源氏長者になるまでは長者は公家の源氏だったから。
221 :
日本@名無史さん:03/03/02 17:29
>>215 やぱり河内源氏の同族での殺し合いが相次いだのって白河上皇が背後にいたのかな。
てゆーか「長者」って何よ。藤原氏じゃあるまいし。
>>208 >鎌倉権五郎以外にも崇道天皇、葛原親王、高見王、高望王を
>御祭神としています。
逗子の神社は、「五霊神社」とも言うがさてはこの五人の霊の
ことか?
権五郎さんが目に矢を受けたのは未だ十代のころ(後三年の役?)
らしいので、それが神に祭られた理由ではないのでは?きっと
他に理由があるはず。
「御霊」という場合には鎮魂が目的だから
なんで権五郎が怨霊鎮めで祀られないといけないのか自分もわかんない。
225 :
日本@名無史さん:03/03/02 20:38
しってるよ。
貧乏な家の子供がわらをもって旅にでると、
行く先々で別のものと交換していって、
最後は「あなたは実は源氏の御子なのです」
と出生の秘密が明らかになるんでしょ。
逗子の「五霊神社、御霊神社」は、源義朝の屋敷、「沼浜城」の
向かい側でわずかな距離。このあたりに義平が住んだとの伝承も
ある。なぜ平氏の神社がこんな至近距離にあるのか疑問。
あと、
>>208 にある、藤沢と大船の中間にあるという神社へも
行ってみようと思う。
>214
なるほどね。平氏もそうなのか。あの頃は混沌の時代なんだね。
230 :
日本@名無史さん:03/03/02 23:57
鎌倉の頼朝の墓の下には、高知からわざわざ運んできた希義の墓の石が撒かれている。
一方希義の墓の方には頼朝墓のそれが。少年時代を最後についに再会することのなかった
同母兄弟の縁薄きを哀れんで、双方の地元の人たちが協力して実現した粋なはからいだ。
数年前鎌倉を歩いた時のもっとも印象に残る出来事として今も記憶にある。
>>212 天徳五年はウソだよ。承平天慶の乱のときに、すでに源経基とかかれている。
系図史料なんか信じちゃダメよ。
>231
でも「源経基」も、かなり後に成立した将門記や貞信公記の抄本の記述でしょ。
あと結構いい加減な記述の多い扶桑略記なんかもそうだっけ。
信頼性に欠けるという点では系図資料と大差ない。
>>232 史料批判した上で、『貞信公記抄』や『将門記』より『尊卑分脈』のほうが史料性が高いと判断されたんですね。ならば何もいうことはありません。失礼しました。
>233
皮肉? 「尊卑の方が史料価値が高い」なんて言ってないよ。
「信頼性に欠けるという点ではどの資料も大差ない」って書いたんだよ。
どう見ても皮肉だな。
相反する史料があった場合、どちらを信じるか、またはどっちも信じないか、それは扱う人しだいだな。
>>234 別に皮肉じゃないよ。
>>212で「経基が源姓を賜ったのは天徳5年なわけだが」
と断定的に書いてあるから、
『尊卑分脈』の記事を採用してるんだな、
と判断しただけ。
>>235さんがいうように、どの史料を信じるかは、
その人次第だから、何もいうことはありません失礼しました、ということで。
じゃあさー。、『貞信公記抄』や『将門記』を採用する人からすると
経基はどのへんで源になったと思うのかなぁ。
信用できる史料上に明確に記されてない以上、
武蔵下向以前、としか言えるわけない。
じゃあ満仲は?
240 :
コピペでゴメン:03/03/05 18:45
[ 源経基は清和源氏か、陽成源氏か ]
陽成源氏は明治の歴史学者星野恒博士の説で、源頼信が男山八幡宮に納めた永承元年
告文に「先人新発、其先経基、其先元平親王、其先陽成天皇、其先清和天皇」と明記して
あることが根拠である。
これを検証するにあたり元平親王の生年が寛平2年(890)以降であること、
貞純親王の没年が延喜16年(916)であることを念頭に置くことが重要である。
次に源経基の生年に寛平9年(897)、延喜16年(916)、延喜20年(920)
などの諸説がある。
寛平9年説を採ると元平親王が七歳以下で、星野説は崩れる。 延喜16年説が多いが
貞純親王の没年と同じで、旧説もしくは星野説のいずれかである。 延喜20年説では
貞純親王の実子は不可で、元平親王の実子となる。
また元平親王には源兼名という実子があり、元平親王の実子ならば経基でなく兼基と
名乗るのが自然である。
後世に六孫王と称され、大鏡や東鑑が清和源氏を出自としていることから、清和天皇
第六皇子貞純親王の実子で貞純親王没後に元平親王の養子になったのが真相かと考える。
その頼信の願文だけどさ。
彼はすごーく豪放磊落な人だったと思うわけよ。今昔なんかを読むと。
少々筆が間違えてても(゚ε゚)キニシナイ!!だったんじゃないかと推測してみたりもするんだけど(w
まあ神様への文書はまじめに書くか、いくら頼信でも。
242 :
日本@名無史さん:03/03/06 02:25
源頼信は河内源氏初代だが、今昔物語などを見ると、
河内弁に近い言葉をしゃべっている。
ということは、源頼信は、八尾の朝吉みたいな人物だったのかもしれんね。
つかさ、清和源氏だろうと陽成源氏だろうと、
大した問題じゃない。
そもそも信憑性に難がある系図や史料で年齢の辻褄あわせしたって、
大前提となっている系図の年齢が間違ってるかも知れないんだから、
大して意味があると思えない。
個人的には学会から総スカン食らってる某学者が
ギャーギャー騒いでるだけだと思ってるんだが。
河内弁って「よう来たのーワレ」くらいしか知らないんだけども。
そう? 今昔の頼信の言葉って河内弁なの?
登場する他者の言葉とそんなに違うようには思わないけど。
245 :
日本@名無史さん:03/03/07 01:33
244
今昔物語の源頼信は、河内弁まるだし。
頼信の郎等が「昨日、泥棒に馬を盗まれた」という話で、
頼信は「昨日」のことを、「ようべ」と言っているが、
これは河内弁。
底本が違うんだろうか?
自分の手元にある今昔では二十五の十一、十二の盗人がらみの話
読み返してみたけど「昨日」という語句は見当たらないんだが。
>>219-220 85が長者と言ってるだけで
>>71-85の話の流れは摂津嫡流論
平直方って鎌倉に住んでたんだっけ
その頃、鎌倉権五郎の一族はどこにいて
直方の子孫はどこに行った?
248 :
日本@名無史さん:03/03/08 09:01
249 :
日本@名無史さん:03/03/08 09:05
>246
底本は分からないが、昔、高校の古文の教科書に載っていた
今昔物語の内容が、源頼信の郎等が馬泥棒にやられたという話で、
「ようべ」という言葉があったことを覚えている。
教師が、説明したのでよけい印象的だった。
250 :
日本@名無史さん:03/03/08 09:36
>247
清和源氏の嫡流はやっぱり摂津源氏なの?
251 :
日本@名無史さん:03/03/08 09:50
>>250 源氏嫡流は摂津源氏。
武家棟梁は河内源氏。
252 :
日本@名無史さん:03/03/08 10:01
源頼親の大和源氏は?
253 :
日本@名無史さん:03/03/08 10:04
保元の乱の時に崇徳上皇方に参陣しようとした
大和源氏の宇野親治は、源頼親の子孫。
254 :
日本@名無史さん:03/03/08 10:14
源(宇野)親治は、都に入ろうとしたところ、
天皇方の源(足利)義康に遭遇してしまうんだっけか。
255 :
日本@名無史さん:03/03/08 10:29
足利って義朝の家人として参戦してたの?
256 :
日本@名無史さん:03/03/08 11:28
>>247 平直方は長元の乱(平忠常の乱)の鎮圧に失敗して失笑をかった。逆に、鎮圧に成功して名声を
得たのは源頼信。そこで、平直方は源頼信の息子の頼義に娘を嫁がせ体面を保った。
その際に鎌倉の土地を譲ったということになっているんですよね。
その時期の鎌倉党の頭領は平忠常の従兄弟にあたる鎌倉権大夫景通、もしくはその息子と
いわれる鎌倉権守景成ということになるのですが… 記録がロクに無いみたい。
そもそも、これ書いてて気がついたけど、平直方とその娘、源頼信・頼義の年齢の関係って
整合性あるのかな? 平直方の娘って義家を生むんだよね? 義家って頼義が歳くってからの
子供だったと記憶してるんだが…
257 :
日本@名無史さん:03/03/08 11:33
>255
いや、義朝とは対等というか独立した源氏として参加。
?付きの1行レスのやつ、教えてちゃんもいい加減にしろ。
少しは自分で調べてから書け。
>256
直方より頼信の方がかなり年上だったと考えれば年齢は整合するんじゃないの。
忠常の乱の時に頼義36歳、義家が生まれたのが45歳の時。
>平直方は長元の乱(平忠常の乱)の鎮圧に失敗して失笑をかった。
本気で鎮圧する気があったのかなと思うんだけど。実際のところ、兵糧徴発の
権限などを悪用して私服を肥やして、反乱のほうは適当にお茶を濁して、適当
なところで帰京しようという腹積もりだったのではないかなと思うんだけどね。この反乱で東国は疲弊したという記録が残ってるけど、実際は直方軍の無
茶な徴発の結果だったりするんじゃないかなと。
261 :
日本@名無史さん:03/03/08 20:44
>>258 そうか… 整合はとれそうですね。
それにしても、なんで源氏の嫡男が45歳まで息子を作れなかったんだろ。
少なくとも他に2人の息子ができて、晩年には前九年の役の帰りに陸奥で娘の種付け
までしていってるから、種なしだったわけでもないし… 頼義の家庭の裏事情も知りたい。
>259
やな奴。
>261
えーと、古今著聞集だったかな、
頼義が馬の法事は営んでも母の法事は拒否した話が載ってるんだが。
母が頼信の郎党と通じて男子をもうけてしまったという…。
だから頼義はかなり女性不信だったと思うのだ。
でもそれにしては頼義も陸奥で異母兄妹を作っちゃったあたりが、ちょっと矛盾。
264 :
日本@名無史さん:03/03/08 23:01
>>262 おぉ、詳しいですね、源頼義の家庭の裏事情。頼義の母親は最近流行っている
「サカリのついたメス豚」だったんですね(どっかのドラマの見過ぎ?)。
頼義の性格にも悪影響及ぼしていそうだな… どうも頼義って大河ドラマの悪いイメージが
しみついてます。
>264
悪意をもって作られたキャラクターイメージは捨てなされ(w
高橋○彦は東北の出身。藤原泰衡なんか美化しすぎ。
閑話休題。
>263のページは力作だね、、、と思ったら千葉氏顕彰会かぁ。
>250
>清和源氏の嫡流はやっぱり摂津源氏なの?
と摂津源氏オタ(多分土岐子孫)が何年も前から日本史板で工作中
平直方→源頼義・義家→鎌倉党祖へと鎌倉郷が譲られたってことなのかな
苗字の興りの疑問
全域ではないにしても源家が鎌倉郷を領していて、家人・郎党として鎌倉党祖が仕えていたとする
この場合に家人が主人の領地鎌倉を苗字にすることって可能なんかな
まあ鎌倉っていっても広いからね。
足利だって源氏と藤原氏の二つあったし。
足利の場合は藤姓足利と源姓足利が共に足利庄の所有権を主張しあってたじゃん?
鎌倉の場合、鎌倉党と源家(というか義家流)は対立してないじゃん
後三年の役のあとに、義家は私財をもって配下への報酬としたじゃん。
あの時に鎌倉を譲ったとか。
270 :
日本@名無史さん:03/03/11 19:55
271 :
日本@名無史さん:03/03/11 20:06
んー。渡辺綱は実在の人物じゃないという説もあるけど。
273 :
日本@名無史さん:03/03/11 22:17
274 :
日本@名無史さん:03/03/12 12:06
>>254 亀レスだが、それは義康ではなくて平基盛
275 :
日本@名無史さん:03/03/13 00:43
>272
今では実在説が定説。
ただし豪遊無双の武将だったかどうかは疑わしい。
綱は、光源氏のモデルの源融の4代後で、かなりの美男子ではあったらしい。
そもそも、渡辺綱が仕えた源頼光自身がまともな武家だったかどうか。
軟弱な公家的武士というのが学説では。
>275
その定説は、例えばどなたの書籍などで確認できますか?
平安時代に書かれた今昔とかでは綱が全く出てこず
室町時代になって酒天童子などの寓話でいきなり活躍し始めるのと
その定説の中では折り合いはついているのですか?
(注)『今昔物語』のなかで良文は源宛(嵯峨源氏。箕田宛)とともに武芸の達人とされています。
源宛は良文の武勇を疑い、さらに反発心がありました。そしてある時、些細なことから両者の間に
一騎討ちが行われ、はじめ二人は弓の撃ちあいをしましたが決着がつかず、ついに良文・宛は互
いの力量を認めて戦いは終わり、以降は無二の親友となりました(「今昔物語・巻第25の3」)。
源宛は源頼光の四天王の一人、渡辺綱の父です。
age
>277
千葉氏顕彰会のサイトの引用なんてあてにならないよー。
文献で教えれ。
280 :
日本@名無史さん:03/03/13 20:15
281 :
日本@名無史さん:03/03/13 20:19
源頼光は大富豪
282 :
日本@名無史さん:03/03/13 20:36
道長はそのウワマエはねて(゚д゚)ウマー
283 :
日本@名無史さん:03/03/13 20:44
>>275 民間説話における頼綱は、雷公に通じる音によって尊崇の対象になったという説を
どこかでみた、ような気がするような、しないような。
まーまー。「らいこう」の誤変換だってことくらい解るじゃん。
綱実在が定説だってのは、サイト上のあやふやな記述が根拠ということで良いですか。
288 :
日本@名無史さん:03/03/15 20:57
>>258 頼義親子の生年って頼義988〜、義家1039〜じゃなかった?
義光が1050年代から1045〜に変更したように頼義・義家も変わった?
>288
頼義は自分の手元メモでは995(長徳元年)生になってます。
えーと、系図纂要を基とする朧谷氏の説が根拠ですかね。
義家は3つくらい生没年の説があるんでしたっけ。
自分も1039生説が妥当だと思います。
290 :
ダンディ坂野:03/03/16 15:30
あげ
お品書きに「源平うどん」ってのがあったので喜んで頼んだら
月見に紅白のかまぼこが入ってるだけダターヨ。
292 :
ダンディ坂野:03/03/18 10:24
あげ
源綱が実在しない人物だった場合、子孫を称する人たちはどうすんだろ。
294 :
日本@名無史さん:03/03/19 20:34
神武天皇が実在しようと実在しなかろうと(以下略)
神武天皇が実在しなくても皇室が天皇家直系なことに変わりは無い
でも源綱が実在しなかったら、その子孫は誰の子孫になるんだろ
皇孫でも嵯峨源氏でもなくるんじゃない
綱は実在の人物だけど、頼光郎等などの伝承は後付け、と考えてみる。
渡辺党の子孫が、でっち上げたと思う。
野口実は、渡辺党が摂津源氏の郎等になったのは頼政の代からと推測してる。
頼政の室に源斉頼女子がいる。んで、源斉頼の郎等に一字名の者がいる。
婚姻を通じて、斉頼の郎等が頼政んところにいったのでは?と。
>綱は実在の人物だけど、頼光郎等などの伝承は後付け、と考えてみる。
渡辺党の子孫が、でっち上げたと思う。
なるほど
>>綱は実在の人物だけど、頼光郎等などの伝承は後付け、と考えてみる。
>渡辺党の子孫が、でっち上げたと思う。
それ、とっくの昔に高橋昌明が提唱してますよ。
あげ
嵯峨源氏だろうけど源護って誰の子孫?
ググってみたけど系図的なものが1個も引っ掛からなかった
護の系譜は不明でつ。一字名なので嵯峨源氏か仁明源氏かと推定されている程度。
302 :
おうじろう:03/03/21 09:46
大和源氏って清和源氏?
303 :
日本@名無史さん:03/03/21 10:29
木曾義仲は平家追い出すまえに頼朝と1戦交えても
よかったのではと思う。
悪者に描かれること多いが井上靖の「兵鼓」は非常に
好意的に描いてる。面白かった。
一戦交えたら両方疲弊して、平家が漁夫の利になるじゃんか。
305 :
没個性化されたレス↓:03/03/22 10:39
そうだ>302
>303
平家物語読むとわかるように、義仲は性格よすぎたんだよ。
陰湿な頼朝にしてやられたんだよ。
307 :
日本@名無史さん:03/03/22 18:12
陰湿なのは、後白河法皇でしょ。
それは後白河への過大評価。
>303
敗者にも関わらず、
必ずしも悪者になってません。当時の貴族の日記にも義仲への同情と後白河
法王への非難が見えます。またなぜ俳人の松尾芭蕉が墓を義仲のとなりに立てたのか。
意外と昔から義仲のファンは多いのです。
源護って年代的に嵯峨天皇の孫か曾孫ぐらいだよねぇ?
天皇の孫か曾孫なのに系譜が分からないって、悲しい人だな護ちゃん
>>310 嵯峨は子種を撒き散らしたから、血統の価値はデフレスパイラルだったんでしょう、きっと。
護はまだ歴史に名を残せただけ良い、という見方もできる。
312 :
日本@名無史さん:03/03/23 00:09
>>311 嵯峨源氏だけじゃなくて、どの源氏・平氏も代々急速に身分が低下している。
貴族として残れたのはほんの一握り。まともに残ったのは村上源氏・宇多源氏くらいか・・。
それから桓武平氏(公家流)が院に取り入ることによってかろうじて残った。
源氏の没落は藤原氏のせいじゃなくて、天皇が賜姓源氏をどんどんと大量生産するからだと思う。
313 :
日本@名無史さん:03/03/23 00:29
賜姓源氏・平氏を大量生産するんじゃなくて
門跡寺院を大量生産する智恵があったらねえ
源平の中に流れている天皇家の血が薄くなれば、力は落ちるのは当然。
娘を入内させるとかできれば、血の濃さを保てたが。
315 :
没個性化されたレス↓:03/03/23 11:48
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
拙者用しおりでござる
∧_∧
( ・∀・)< こたびはここまで読んだござる
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
>313
だから院政期のちは天皇家庶子は僧籍に入ったじゃん。
>314
娘を入内させたら「源平の中に流れている天皇家の血」が濃くなんの?
生まれる子は天皇家の血筋になるだけじゃん。
318 :
日本@名無史さん:03/03/27 00:19
摂津工作員の目的って何だろうねー、しかし。地域の町おこしか何かのネタ作り?
>>318 自分が攝津源氏の子孫だと思い込んでいる香具師らだろ。
「〜〜の子孫」なんてのは
天皇家が神の子孫というのと同じくらい荒唐無稽なのにねえ。
321 :
日本@名無史さん:03/03/30 08:10
あげ
322 :
日本@名無史さん:03/03/31 07:18
なんちゃって摂津軍団↓
太田道灌
池田輝政
浅野長政
明智光秀
323 :
日本@名無史さん:03/04/04 08:17
age
5艘の舟に150騎 → 1艘に30人・馬30頭 (水夫除く)
武士(50kg?) → 1.5t
大鎧(10kg?) → 300kg
馬(0.5t?) → 15t
でっけえ舟だ
5艘に50騎説もあるけどね。それでも馬10頭だが。
326 :
日本@名無史さん:03/04/12 21:04
>>310-311 皇孫が2代で経歴不明になる時代があれば、
20代前まで皇祖庶流が所在追跡される時代もある。
その繁殖力を1100年後の子孫に取って置いて欲しかった。
無駄弾撃ちの嵯峨天皇age
山崎が来てるようだから保守っとく
328 :
日本@名無史さん:03/04/17 20:21
なぜ、源護の母も父も分からないの?
てゆっか、あんな有名な源氏が、どの天皇の子孫かすらもわからないなんて。
>>328 あんな有名、ってほど有名かな?
しょせん常陸大掾だよ。わからなくっても仕方ないでしょう。
護のときに下向したんじゃなくって、たぶん親か祖父の代からだろうし。
武蔵権守の興世王だって、系譜不詳なんだし(大森金五郎は伊予親王の子孫とか言ってるけど)。
護ちゃんは将門と争ったから
かろうじて歴史上に名を残したってだけでしょ
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
332 :
日本@名無史さん:03/04/20 08:55
しょせん、源平ともに、天皇家の子孫。
333 :
日本@名無史さん:03/04/20 09:48
余談だが、天皇家を乗っ取ろうとした足利義満も母系を含めては5世孫、
父系だけでは清和天皇から数えて20世孫ぐらいで戦前の旧皇族、特に明治天皇
の皇女の子孫は実質的には足利義満の皇位を継ぐ根拠とそう大差はないと思いす。
足利義満のやったことは結局許されないこととなったわけですし。伏見宮系に
渡ることは間接的には足利義満の皇位簒奪も合法と認めざるを得ないとのこと
になってしまうのではありませんか。
334 :
日本@名無史さん:03/04/20 09:49
足利が責められるのは世代の問題ではないと思うが。
五世孫でも簒奪してしまえば簒奪者。
正直、義満簒奪説は古い
336 :
日本@名無史さん:03/04/21 22:49
>>256-260 直方が3年かけて1030年7月に解任されて
新任の頼信が1031年4月に鎮圧したけど
既に3年包囲されてたら相手が頼信じゃなくても降伏したろうし
直方でも鎮圧できたんじゃないかな
歴史はタイミングって気がしてならない
>>273 双方が足利の領有権を主張しあっているからこそ苗字としたんでしょ
鎌倉は?主従関係なら領有権の主張はない
ならなぜ主君の領有地を苗字にしたのか(できたのか)
しかも間違えてたんだけど鎌倉は郷じゃなくて郡名だよ
鎌倉党の祖が頼信か義家から鎌倉郷のいくらかの所領を賜ったとして
鎌倉悪源太てなぐらいで、郡内には主家たる源家の所領も館も残ってたんでは
失敗したとはいえ、追討使の直方の子孫が伊豆の土豪レベルまで零落し
反乱者の忠常の子孫親類が相武両総に地方官人として繁栄したのもなんでだろ
337 :
日本@名無史さん:03/04/21 22:57
ageついでに
護ちゃんの場合、当時の人たちもその系譜を知らなかったのか
当時の人物ちは系譜を知っていたが伝わらなかったのか
>当時の人物ちは系譜を知っていたが伝わらなかったのか
じゃないの? 先祖を知らないってことはないでしょ。
でも俺は爺さんの名前をよう知らんけど(w
新興の存在の武士は、自身の権威のよりどころが薄弱だから、やたら先祖の名を言ってたけど、このころはそんなもの必要としていなかったのではないかな。
直接の先祖が誰であろうと、「源」は皇親ってのはみんな知ってるし、それ以上に朝廷の官位を持っているってことは、先祖の大小に勝る、などと考えてみる。
340 :
日本@名無史さん:03/04/23 20:58
源家と平氏について語ろう
341 :
日本@名無史さん:03/04/25 21:29
安房守に任じられた正輔と、その安房下向を邪魔した致経も
致経に邪魔されて安房下向がならなかった正輔は没落して
正輔の安房下向を邪魔した致経の子孫は源氏の郎従になってる
板東では、鎌倉党(忠常従兄弟?)、秩父党(忠常従兄弟)、房総平氏(忠常子)
が地方官人として繁栄して、直方の子孫は伊豆の北条と熊谷だけ?
反乱を起こす事より、鎮圧出来ない方が罪が大きかったんだろうか
直方流没落の原因を盛方にこじつけても3年以上反乱続けた忠常より重罪なのかどうか
342 :
日本@名無史さん:03/04/25 21:40
当時の人が護ちゃんの系譜を伝えなかったのは将門記著述の時点で子孫が絶えてたからかな
月数・・・
日数・・・
源太産着・・・頼朝
八龍・・・義平(保元の乱では義朝)
沢瀉・・・朝長
薄金・・・
楯無・・・
膝丸・・・義朝
他は誰が着用?(楯無は甲斐源氏の誰か?)
>>341 摂関家とかとのコネがあるか、ないかが大きいよ。
344 :
日本@名無史さん:03/04/26 05:22
>342
鬼切・・・源頼政
院は、河内源氏に対抗させるために伊勢平氏を取り立てた、
って聞いたのですが、河内源氏が強くなりすぎたからなの?
>345
その説は古いです。
中央公論社から昨年出版された「日本の中世8」でも読んでみなされ。
貝津までなんて押せません。
349 :
日本@名無史さん:03/05/04 19:57
>344
ということは清和源氏の嫡流は摂津源氏ということだね。
また出たよ。摂津源氏ヴァカが。
351 :
日本@名無史さん:03/05/04 21:19
童子切安綱も鬼切も、頼光が酒呑童子を切ったときに使ったといわれてる刀だよな?
頼光は二刀流か??
頼光のその話自体がフィクションだからねえ、、
>346
新しく出た本が絶対正しいというわけでもあるまい。
漏れは元木説には納得できない。
>353
「正しい」なんて言ってないよ。「それは古い」と言っただけ。
古いのと新しいのと色々な書物を読んで
何が正しいかを判断するのは読んだ人の勝手。
355 :
日本@名無史さん:03/05/07 13:00
摂津源氏嫡流党みたいなものでもあるの?
356 :
日本@名無史さん:03/05/07 13:01
357 :
日本@名無史さん:03/05/07 15:58
長谷川和夫が酒呑童子を、市川雷蔵が源頼光、勝新太郎が渡辺綱を扮した
大映の『大江山酒呑童子』という映画はよかった。
酒呑童子退治のために、多田の摂津源氏の館に、各地の源氏がはせ参じるシーンがいい。
358 :
日本@名無史さん:03/05/10 15:42
平師妙・師季親子や平永衡、平康頼って桓武平氏なの?
359 :
日本@名無史さん:03/05/10 16:23
平景清。
361 :
日本@名無史さん:03/05/10 20:35
>>360 悪七兵衛景清は伊藤五の息子だから元々は藤原氏。
平家から平の名乗りを受けなければ伊藤七とか呼ばれたのかな?
362 :
ネットdeDVD:03/05/10 20:38
363 :
日本@名無史さん:03/05/10 21:50
>>342 平治の乱で義朝が着てたのは楯無じゃなかった?
364 :
日本@名無史さん:03/05/10 22:55
楯無って義光以来甲斐じゃないの?
知らんけど。
365 :
日本@名無史さん:03/05/11 01:19
>>351 鬼切は太平記によれば新田義貞が使用。
ちなみに鬼丸という刀も使用。
これらを左右の手にそれぞれ持って、飛来する矢を16本まで切り落とした、とあります。
頼光は知らないけど義貞は二刀流間違いなし(w
なお、鬼切の方は北陸落ちの前に日吉大社に奉納され、現在では多田神社が収蔵しているそうです。
366 :
日本@名無史さん:03/05/11 01:31
鬼切は北野天満宮にもあるらしいね。
なんか最上経由らしい。
367 :
日本@名無史さん:03/05/11 01:40
>>366 最上というと斯波氏の流れか。
新田義貞を討ったのは斯波高経だから、義貞の佩刀がそっちに流れていても不思議ではないな。
それとも比叡山への奉納が事実だとすれば、北野にあるのは実は鬼丸の方かも。
368 :
日本@名無史さん:03/05/11 02:44
鬼○国綱ならば、現在御物になっていますよ。
足利将軍から権力者たちの手を経て明治天皇に献上されますた。
369 :
日本@名無史さん:03/05/11 02:51
>平永衡は「下総(しもうさ)の平氏につながる武士」らしい
名前からすると貞盛か繁盛の孫の曾孫っぽいよね。「衡」がつくし。
370 :
日本@名無史さん:03/05/17 10:15
あげ
371 :
日本@名無史さん:03/05/17 18:48
平高望の父はなぜ無位無官だったのですか?
372 :
日本@名無史さん:03/05/17 21:43
>>371 20歳そこそこで死んでしまったから。というのが理由の1つ。
足利って平家でもあり源氏でもあるんだよね
そういう武家ってほかにあるの?
源頼家・実朝はパパ源氏で、ママ平氏。
375 :
日本@名無史さん:03/05/17 22:48
>>373 足利が平家であって源氏でもあるってどういう意味?
376 :
日本@名無史さん:03/05/17 23:02
源家の流れに平家の血が混ざってるとかじゃなくてですか?
基本的には源家でしょ?征夷大将軍の家系だし。
377 :
日本@名無史さん:03/05/17 23:27
>>373 足利じゃなくって畠山のことじゃないのかな?
378 :
日本@名無史さん:03/05/17 23:54
畠山氏って重忠が死んだ後、足利家の一族が家を継いでるんですね。
調べてみてはじめて知りました。
以仁王の乱以前の足利は
藤原氏と源氏と両方ありましたが。
>378
「足利が継いでる」というのはちょっと語弊があるな。
畠山を継いだのは重忠の後家。しかも正室じゃなくて妻(妾)の方。
381 :
日本@名無史さん:03/05/18 00:23
382 :
日本@名無史さん:03/05/18 00:32
>>380 足利義純が重忠の後家(重忠の娘という説もあるみたいですが)と結婚して
畠山氏の名跡をついだわけだから、足利が継いだということになるのでは?
>>375 >>376 足利氏は基本的には源家だけど、平家の血も混じってるじゃん?
だから源家でもあり平家でもあるしょ?
384 :
日本@名無史さん:03/05/18 00:37
平家の血が入ってるからって、平家だとは言えんでしょ。
385 :
日本@名無史さん:03/05/18 01:17
天皇家は藤原氏か?
>>385 ワロタ。383の論理から言えば、その通りだな。
そもそも、源義家だって、父は頼義で、母は桓武平氏の直方の娘だ。
>>380 >畠山を継いだのは重忠の後家。しかも正室じゃなくて妻(妾)の方。
ソースきぼんぬ。
畠山重忠の正室は北条時政娘じゃないの?
義純と結婚したと言われてるのは重忠後家北条時政娘だけど、
これだと年齢的にはかなり厳しい。
津川本畠山系図や佐野本系図に重忠娘と婚姻した、と書かれているから、
こっちの方が正しいんじゃないか。と最近言われている。
もっとも畠山の名跡を継いだのは義純ではなく、
義純の子畠山泰国からだと言われている。
藤姓足利氏もいなかったか?
390 :
日本@名無史さん:03/05/18 11:52
>>383 >>足利氏は基本的には源家だけど、
この言い方をすれば
足利氏は基本的には源氏だけど、
>>平家の血も混じってるじゃん?
具体的には誰の娘の? 平家じゃなくて平氏じゃないの?
391 :
日本@名無史さん:03/05/18 12:00
>>390 誰の娘か知らん。答えただけじゃボケ。
具体的に知りたくば、御前で調べろや。
391は373なの?
ともかく、足利に混じってる平氏の血は、
清盛ら平家の本家じゃなくって、北条氏。
393 :
日本@名無史さん:03/05/18 20:04
>>391 誰がボケじゃ。
>>373で平家を平氏と混同したような書き込みがあるから、
その根拠を示せってことを
>>390に書いただけじゃ。調べるのは
>>373の役目じゃ。
そもそも
>>373の言う足利っていうのが新羅三郎の息子あたりの代から
足利義昭までのどの時点のことを言っているのが不明瞭なんじゃ。
赤橋との間に出来た足利義詮からかな。
「平家」と書いてしまったが「平氏」でした。スマソ
395 :
日本@名無史さん:03/05/18 20:57
鎌倉時代の足利の当主はほとんど北条家の女と縁組してるんだが。
396 :
日本@名無史さん:03/05/18 20:59
気をとり直して…
>>394 一昨年の大河ドラマでもやっていたけど、鎌倉時代の始めの頃から北条家と足利家とは
縁戚になっていました。だから、足利義詮からではありません。
北条への配慮から、たとえ長子であってもそれを嫡男とはせずに、北条から迎えた正妻との
間の男子を嫡男とすることもありました。
足利高氏の父親の足利貞氏の母親は北条家でなく上杉家の出身ですが、これは希な例です。
鎌倉時代の足利氏(義兼〜高氏)は
全員が北条氏から室を迎えてます。
足利貞氏の正室も金沢流北条顕時の娘。
正室との子高義が死んでしまったので、
高氏が家督を継いだ。
398 :
日本@名無史さん:03/05/18 21:11
こうしてみると足利はほとんど北条一門といってもいいくらいだね。
そのわりに北条氏の残党には冷たかったな。
399 :
日本@名無史さん:03/05/18 23:42
足利には歴代鬼畜が多いからな
>387
重忠正室は足立遠元の娘。小次郎重秀は彼女との間の子じゃ。
北条の娘は後から押し付けられたので、正室ではなく鎌倉妻。
群書類従の桓武平氏系図でも他の時政娘は「誰々の室」なのに
重忠の相手だけは「妻」になっとる。
ちなみに鎌倉初期では、北条よりも足立の方が家格は上。
>382
実朝の畠山所領安堵は「重忠後家」に対してされている。
重忠が滅んだ前後に足立の娘も亡くなったようだし
のちの畠山庄を考えても、この「後家」は北条の娘。
こいつが権利を持ってる。つーか、そのための重忠謀殺だし。
>>400 群書類従本桓武平氏系図か。サンクス。
ただ、吾妻鏡で見る限り、幕府に出仕してるのは
明らかに北条時政娘の子である六郎重保。
重忠の嫡子は重保だったと見る方が良いと思う。
だとすると時政の娘は(前妻か後妻かは問題ではなく)
正室だったということにならないかな。
後妻が前妻を追い出す、或いは前妻没後に正室となる、
というのは、ちょっと後になるけど北条時頼室
(前妻・毛利季光娘。後妻・北条重時娘)
などの例もあることだし。
>401
千葉氏研究で著名な福田豊彦氏いわく、
「この時代の御家人には領地で仕切る正室と、鎌倉での現地妻がいた」そうなのよ。
その話を聞いて、群書類従の系図の表記にピンときたわけ。
重忠が謀殺された付近には、重忠を追ってきた妻女が悲嘆のあまり死んだって伝説もあるんで
伝説を信じるわけではないが、これは重忠と一緒に生活してた足立の娘を意味しているのではないだろうか。
確かに御家人待遇を継がせるのは六郎重保の方だったかもしれないけど
重忠にとっての正室はあくまで足立の娘だったのでわ。
いやいや、学術的論理一貫を思いきり欠いてる推測なことは重々承知してます(嗤
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
ミ・д・ミ ホシュ
で、足利は鬼畜ということでよろしいですか?
407 :
日本@名無史さん:03/05/27 01:27
>>397 足利尊氏に腹違いの兄がいたとは知らなかったよ。
で、その高義という人はいつ頃、何才くらいで、そして何が原因で死んだのかな?
元服は済ませているようだから、どんなに幼くても12、3才にはなっていたんだろうし、
それと、名前に「高」の字が入っているけど、高氏同様に北条高時の諱を貰ったのだとすれば、尊氏ともそんなに年令は違わないことになるね。
以下は妄想だが、兄弟三人で仲良く馬などに乗って遊んでいたところ、末弟の直義がわざと馬を驚かせ、落馬した高義が頭をうって死んでしまった。
「こいつさえいなければ兄者(尊氏)が嫡子になれる!」と思ってやった行為だった‥‥なんていかにもありそうな話では?
当時直義はせいぜい10才くらいか?
まさしく三つ子の魂ナントヤラ、恐るべき子供たち〜足利兄弟の巻(w
なんで嫡男が「高義」なんて名前だったんだろう??
庶子?の「高氏」のほうが嫡男っぽい名前だと思うが。
409 :
日本@名無史さん:03/05/27 05:45
>>407 ワラタ
でもあながち否定できんところがこわいw
>>408 そうでもないっしょ
「義」の字は源氏にとって神聖な字では?
そういや、弟も直「義」‥‥
410 :
日本@名無史さん:03/05/27 07:15
>>409 直義の初名は「高国」。高義の死後改名した可能性濃厚。
高義の存在を記念して「義」の字を受け継いだか、それとも…。
>>407 高義には源琳と陸奥守某の二人の子がいたところを見ると、
少なくとも16〜17才くらいにはなっていた可能性大。
足利義兼もいるが、「義」の字はやはり八幡太郎義家の影響では。
むしろ「氏」を鎌倉公方家が系字にしてるところが面白い
412 :
日本@名無史さん:03/05/27 17:02
>>411 八幡太郎義家を意識して、というのはあったでしょ
かまくら幕府全盛の頃は北条氏を憚ってか、歴代「義」の字を避けて北条執権の諱を有難く頂戴していたのに
将軍になったら初代の尊氏以外は全員「義」が入っているね。
義家以降は、「義」が嫡男の字になったね。
三男坊の頼朝は「義」を使ってもらえなくって、
「頼」を通字にしようとしたみたいだが。
尊氏は、源氏嫡流をアピールするために「義」を復活させたんだろうな。
そういえば、新田義貞は「義」の字だな。新田氏嫡男は代々「義」か?
414 :
日本@名無史さん:03/05/27 21:35
>>410 高義って子供までいたのか。
夭折さえしなければ足利氏の運命もまた変わっていたんだろうが、足利家伝来の置文でも見て、プレッシャーに耐えかねて自殺って線もありかもな。
で、その子供たちはどうなったの?
源琳というのは僧侶だろうけど、陸奥守某ってのは?
415 :
日本@名無史さん:03/05/27 21:58
>>414 源琳については知らん。
陸奥守某は一応武将として尊氏に従軍していたらしく、
尊氏が九州に敗走する際に南朝方に討たれたとある。
(by 群書類従系図部 足利系図)
何でイミ名が伝わっていないかその辺もまた謎。
足利氏では、高義、直冬、清祖、尊満と、四代続けて長男が家督を取り逃がしている。
(清祖はひょっとして千寿王より年下だったらスマソ)
416 :
日本@名無史さん:03/05/27 23:34
尊蛆も神経弱そうだけどね。高師直と直義がいなけりゃどうなっていたか。
417 :
日本@名無史さん:03/05/28 00:16
尊氏が将軍になった時点での将軍の権威なんてたかが知れてたと思う。
だって鎌倉将軍には全然実権が無かったのだから。
御家人たちは彼を将軍として祭り上げても、
その家臣になったとは思っていなかったと思う。
結局源氏の棟梁っていうだけでは看板だけだから、
それに実権を持たせた師直と直義の存在は大きい。
418 :
日本@名無史さん:03/05/28 00:26
>>413 新田氏嫡流を列挙すると、
義重
義兼
義房
政義
政氏
基氏
朝氏(朝兼)
義貞
となっていて、鎌倉中期の政氏〜朝氏の3代は
義の字を使わず、足利氏の通字である「氏」を使っている。
新田義貞が何故義の字を使ったのは謎だけど、
氏を使わずに義を使ったことには意味があるのかもね。
>>410 足利高義は1315年頃には当主として活動していたが、
間もなく没したらしい。
高義の子には、上杉朝定の室となった女性がいたらしい。
419 :
日本@名無史さん:03/05/28 01:11
足利も突然「義」が復活だ罠。まあ分家筋にはチラホラいるが。
義康-義兼-義氏-泰氏-頼氏-家時-貞氏-高義
-高氏
家時の「時」ってやっぱ得宗さんからもらったんだろうなあ。なんか違和感ありまくりだが。
ところで高義の妻って誰の娘?
420 :
日本@名無史さん:03/05/28 01:21
>>415 >陸奥守某は一応武将として尊氏に従軍していたらしく、
尊氏が九州に敗走する際に南朝方に討たれたとある。
何でイミ名が伝わっていないかその辺もまた謎。
なんて可哀相な人だ。仮にも将軍尊氏の甥なのに。
父親が健在だったら足利の当主にもなっていた筈なのに。
もしかして、カナーリ冷遇されていたんだろうか?
本当に陸奥守であれば、そうは思えないけど。
421 :
日本@名無史さん:03/05/28 01:39
陸奥守じゃないよ。
安芸守だよ。
どっちにしても胡散臭いけど。
422 :
日本@名無史さん:03/05/28 01:52
>>414 >足利家伝来の置文でも見て、プレッシャーに耐えかねて自殺
もしかして、今川了俊の創作デンパを真面目に信じているのか?w
足利ヲタがいっぱいいることだけは
よく解った。
424 :
日本@名無史さん:03/05/28 02:10
>>422 足利家に家時が死の際に残した置文があったことは事実。
内容が義家の置文云々かはともかくとして。
足利って、ちょっと精神的に不安定な感じな人が多いから面白い。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
427 :
日本@名無史さん:03/05/28 13:13
山崎くん、勘弁してよ。一番下の方にあったよ。落ちちゃうじゃん。もう!
428 :
日本@名無史さん:03/05/28 17:01
>>418 新田義貞は里見家から入った養子だという説もあるけど、いずれにしても、父、祖父、曾祖父いずれの諱も名乗っていないのは珍しい。
源家中興の英主・八幡太郎義家を意識しての名乗りかもしれんな。
足利高義って若くして死んだわりには3人も子供がいたのね。
だとすると、没年令は16、7よりもう少し上とみるべきではないかな?
まあ‥‥その気になれば不可能ではないけどw。
429 :
日本@名無史さん:03/05/28 22:45
430 :
日本@名無史さん:03/05/28 23:38
徳川は将軍家は「家」でとおしていた。
御三家は当主は将軍の諱をもらっていた。
でも、次男以下、分家は、
尾張では「義」
紀伊・水戸では「頼」
まあ、時代が下がればインフレなんだね。
431 :
石橋尾張守:03/05/29 20:23
>>393 足利っていうのが新羅三郎の息子あたりの代から
はて??
八幡太郎の子息(義国)って言いたかったのかな。
>>409 直義の初名は「高国」。高義の死後改名した可能性濃厚。
私は「高」が高時の偏諱を受けたものなので、
高氏が尊氏に解明したのと同じタイミングだと思ってました。
432 :
日本@名無史さん:03/05/30 01:07
433 :
日本@名無史さん:03/05/30 02:07
木曾義仲 かわいそう
源義経は♀だった
…てことは、静御前は♂でつか?
435 :
日本@名無史さん:03/05/30 18:29
源義興
>>431 直義の初名は「忠義」という説もあります。
改名のタイミングについては同意。
げんぺい
ぺい=平で、この先祖は赤の民族で、祖をペルシアにもつ。
オレー! という掛け声はラテン系の掛け声と同じ。
その後、俺に転化した。
池宮の「平家」で
後白河法皇が「おれ」って言うんだよなあ。激しく違和感。
439 :
日本@名無史さん:03/05/30 22:47
俺、まじで源経基だけど、なんか質問ある?
441 :
日本@名無史さん:03/05/31 10:17
442 :
動画直リン:03/05/31 10:21
443 :
日本@名無史さん:03/05/31 14:04
源氏とは、新羅の源義光だから韓国系です。
444 :
日本@名無史さん:03/06/01 13:19
新羅義光
445 :
日本@名無史さん:03/06/01 13:24
源氏マンセー
446 :
日本@名無史さん:03/06/01 13:25
源氏とは新羅花郎だよ
447 :
日本@名無史さん:03/06/02 15:39
>>440 源満仲はほんとうにあなたの子供なんですか?
448 :
日本@名無史さん:03/06/02 19:12
>>440 あなたの弟の経生という人について教えてください。
>>440は偽者。俺こそがホンモノの経基さま。
>>447 満仲は俺の子。間違いない。
ヤツが生まれる十月十日前、激しい夜だった。
今思い出しても、下半身が熱くほてるな。
>>448 経生か。あのバカについては触れてほしくないな。
あいつと血がつながってると思うと、虫唾が走るわ。
>ツネピー
あなたは新皇サマに((;゚Д゚)ガクガクブルブル
だったと聞いたのですが、本当ですか?
>>450 ば、馬鹿なことを言うな!
あんな、チバラギの無位無官のヒゲもじゃ馬賊野郎に、
この経基様がおびえるわけないだろ。
ああいう手合いは、きちんと潰しておかなきゃいけない。
だから、早い段階で都に戻って報告したわけよ。
「いまだ兵の道に練られず」?
まったく、なめられたもんだよ。
秀郷のクソ親父や貞盛のヒョーロク玉が余計なことしなきゃ、
征夷副将軍として俺様が大活躍するはずだったのによぉ!
452 :
日本@名無史さん:03/06/02 23:28
警固使・太宰権少弐源経基様にお尋ね申す。
豊後国海部郡佐伯院の合戦で捕虜にした賊首って
誰でしたっけ?
>>452 たしか、桑原生行とか言ったな。
うまく生け捕りにしたから、そのまま引きずって、
都をパレードしようと思ったら、
ちょっといびりすぎたみたいだ。死にやがった。
佐伯是基を捕らえたのは俺の軍勢ではない。
あれは日向国衙軍が捕らえたんだったな。
そうそう、「太宰」ではなく「大宰」が正しいからね。
まぁ、昔からみんな混同するから良いのだが、一応。
454 :
日本@名無史さん:03/06/03 07:13
ツネピーキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
>>453源経基様
お見事!流石「我こそ本物」と云うだけあって、引っかけ問題も
クリアーするとは。
449&451的レスも面白いが、453的マジレスも有りとは
今後の活躍、期待しております。
456 :
日本@名無史さん:03/06/03 16:12
>>449 下半身がほてるのは別にいいのですが、「日本歴史大辞典」をはじめ、多くの本では、あなたの生まれた年を
916(延喜16)としているのに、あなたの長男である源満仲さんの生まれた年が
延喜12となっているんですよ。
なんで親子の生まれた年が逆なんですか?
というわけで、実は満仲さんはあなたの実の子供ではなく、あなたの名跡をついだ他の何ものかではないのか、と思って
おたずねしたわけです。
>455
そんなもののどこが「引っかけ」だよ
458 :
日本@名無史さん:03/06/03 23:05
>>456 源満仲を疑うなら、源経基も貞純親王も疑わないといけない。生年のつじつまが合わないのは、満仲だけじゃない。
もしかして・・、全員身分を詐称していたり。
http://kintaro2-2001.hp.infoseek.co.jp/genji3.htm それでは貞純親王とは一体どのような人物だったのでしょうか。いざ彼について調べてみる
と想像以上に資料の絶対量が不足している事に気づかされます。
例えば生誕年について下記のような事が分かりました。
@貞観15年(873)生まれ説(系図纂要)
A仁寿3年(853)生まれ説(尊卑分脈)
B貞観16年(874)生まれ説(将門・純友東西軍記)
C仁和元年(885)生まれ説(日本紀略)
ちなみに没年については延喜16年(916)でほぼ間違いないようです??
これで見ると貞純親王の生まれた年についての記述が一世代くらいのスパンを持っている
ことが分かります。つまり約30年間の誤差を持っているのです。これほど長い期間では例
え「善意の誤解」であったにしても、記述上で全くの別人が入れ替わる可能性が十分に可能
であるように思われて来ます。
459 :
日本@名無史さん:03/06/03 23:50
でもまあ、別人が入れ替わってるにしても兄弟とか従兄弟とか同じような出自の人だろうし。
>>457
ここのスレの方々ならば調べれば、桑原生行の名は出るはず。
文献史学では一字一句を見逃さない観察力・洞察力・注意力が
重要なので古典的ではありますが、大宰を太宰に入れ替えてみました。
大宰府と太宰府なら気づいても十二文字の漢字情報で、取り合えず
重要なのは官職と経基の名前であって認識すれば、次行に目は移ります。
それを「源経基」さんは見逃さず指摘したので私はお見事と思った訳。
俺、まじで平忠正だけど、何かある?
>460
と、自分の誤字を正当化してみましたw
463 :
日本@名無史さん:03/06/04 02:30
経基さん、まだ来ないね。戸籍でも取り寄せているんだろうか?(W
平盛時(平五、民部丞)って通称が時定(平六)に似てるから北条の関係者?
平頼綱と関係ある?
>455
ためしたのか。この俺を。ま、>457の言うように、ひっかけにもならんな。
佐伯の戦いはジェノサイドだったよ。
こっちは手柄を全く立ててないってのに、遠保のハゲが純友の首あげちまったからな。
イライラして、ついやりすぎた。
>456
気さくな男であるところを見せようと、下ネタをかましてみたのだが、
お気に召さなかったか。
>「日本歴史大辞典」をはじめ、多くの本では、
「多くの本」がどんなものか知らないが、それらが典拠とした史料を問題にしてくれ。
まぁ、ベルンハイムでも読んでくれ。
俺はツワモノだから、詳しいことは知らん。
それにしても延喜16年生まれなどと書かれているのか。
天徳5年に45歳で卒去したのだから、延喜17年生まれになるはずなんだがなぁ・・・。
そうそう、満仲は延喜12年生まれじゃないよ。
いくら俺の下半身がたくましいといっても、さすがにそれは無理だ。
>463
すまん。昨日は方違で2ch見られなかった。
466 :
日本@名無史さん:03/06/04 22:17
満仲も千晴も暴力団の親分
久しぶりに覗いたら本物のツネピーが…(´・ω・`)
468 :
日本@名無史さん:03/06/05 00:04
頼朝って本当に血の色緑かっていうくらい冷血な気がする。
命びろいしてもらった平氏を討つなんて。
>468
子供の頃に延命してもらっても
大人になってまた殺されそうになったら、君ならどーするよ。
470 :
日本@名無史さん:03/06/05 00:13
>>469 もしくは、和議を結ぶとか、平家の誰かと結婚するとか
いろいろ方法あったんじゃないですか?
>>471 一介の流人に、天下の平家が
和議だの縁組だのしてくれたらいいねぇ。
>>472 うう、そういわれると。。。でも、頼朝の命を助けてなければ
討たれることもなかったわけだし。平家側としては飼い犬に手を
噛まれる心境だったでしょうね。うーん、、、
474 :
日本@名無史さん:03/06/05 00:48
ってか、助命されたとはいえ親兄弟を殺されて流人に落とされたんだぞ。
恩なんか感じるかよ。
475 :
日本@名無史さん:03/06/05 02:50
吉川英治の「新平家物語」では助命されたことについて清盛に恩義を感じているという
くだりがあります。平家追討の要因は木曾義仲のせいだといいのがれしていますた
頼朝、ちゃんと恩返ししてるじゃん、池禅尼の血筋には(平頼盛など)
だいたい、平家追討は後白河の院宣が無くてはできないこと
それをいうなら、平家と親戚なのにそれを討とうとした後白河こそ冷血漢
‥‥ま、いずれにしてもあまり意味のない非難だな
ツネピの登場で、このままネタスレになるのかとオモタが、安心した。
むしろ、北条が裏切った方が六波羅にとっちゃ誤算だったんじゃないかい?
北条? 誰それ?
by西八条の面々
480 :
日本@名無史さん:03/06/06 02:07
頼朝?誰それ?‥‥ああ、あいつか!!
20年も前のことで、存在していたことさえ忘れてたよ。
by西八条の面々
元々ここはネタスレです。
482 :
日本@名無史さん:03/06/06 17:57
頼朝は、それほど平家そのものは恨んではいなかったと思うぞ。
合戦で敗れたらどうなるかくらい、武門のならいとしてわかりきったこと。
勝っていれば、同じこと(またはそれ以上に残虐なこと)を義朝は平家にやったに違いないし、
頼朝は聡明だからそれをきちんと弁えていたはず。
むしろ許せないのは、家人のくせに裏切った連中だろう。長田荘司とかね。
こちらに対しては恨み骨髄。
>>476 >>親戚なのにそれを討とうとした後白河こそ冷血漢
っていうか、保元の乱で兄と戦ってるし、いまさら何をって感じだな。
484 :
日本@名無史さん:03/06/06 21:01
平盛時って何系の平氏ですか?
485 :
日本@名無史さん:03/06/06 23:04
平家物語読むなら何がいいですか?
やっぱ吉川英治でしょうか?
脚色されてるはあまり読みたくないんですが…
486 :
山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/06/06 23:20
>>486 レスどうもです。
アマゾンで検索したら
平家物語長門本延慶本新考 和泉選書 (81)
高橋 貞一 (著)
とでましたが、これでいいんですよね?
>487
それは単なる解説書っつーか、、、。
素直に岩波文庫の読んどけば?
>>488 平家物語〈1〉 岩波文庫
梶原 正昭, 山下 宏明
これですね。
アマゾンのレビューもいい感じなので読んでみます。
レスどうもでした。
>489
それを読み終えてから延慶本を読んだ方がきっと面白いよ。
勉誠社から出てるのが一番読みやすいと思う。上下で¥5万だけどねw
>>489の平家物語も12巻あって1冊大体1000円だから
全部そろえると1万超えるよ。
あ、ごめん間違えた。
1冊1000円で12巻あるのは講談社学術文庫だった。
岩波文庫は800円×4冊だね。
494 :
日本@名無史さん:03/06/08 04:16
漏れは角川文庫上下2册で読んだ
しかも古本屋で買ってトータル500円もしなかったと思う(w
ところで講談社のは量もかなり多いけど、これは異本をイパーイ収録してあるからか?
それだったら欲しいけど、現代語訳も載せているからっていう理由なら萎えるな
>494
異本をイパーイ収録してあるのは新人物往来社から出てる参考源平盛衰記だな。
講談社のは巻ごとにただ分冊してあるだけだし
なんであんなに高いのかわからん。
497 :
盛時教えてくれよ:03/06/08 17:23
>497
この時期は、正史がなく、公家の日記もない、史料の空白時代だからね。
まぁ、正史があっても基本的に五位以上にならないと載らないからね。
この清和源氏クラスだと、30代後半にようやく出るって感じじゃないかな。
>484=497
平盛時とだけ言われても、同姓同名がいたりするからなぁ。
とりあえず、
貞盛―維衡―正度―維盛―盛基―盛時 ← こいつのことか?
『尊卑分脈』には仁平元年4月8日に卒去したとあるが。
っていうか、『尊卑分脈』ぐらい自分で引いてくれ。
尊卑分脈ぐらいっていわれてもねぇ・・・。
気楽に図書館行ける学生ならともかく、リーマンにはなかなか難しいだろ。
買ったら高そうだし。売ってるのかどうか知らんが。
『尊卑分脈』は索引入れて40000円ちょい。
サラリーマンなら買えるだろ。
>>501 歴史を趣味にするのもカネがかかるもんだね。
でも、研究者ならともかく、一介のサラリーマンが4万円もする本なんて、なかなか買えるもんじゃないと思うぞ(w
独身者ならともかく、妻子あるリーマンにとっては小遣い数ヶ月分だな。
まとめて買わなきゃいけないわけじゃないよ。分売してる。
まぁ、趣味でおさえておく人には必要ないね。
で、平盛時なんだけど、何で484はこれの系統が知りたかったのか?
日本がまだ世界も認める経済大国だった頃、大学の入学祝いに
叔父から貰った図書券で「尊卑分脈」全巻を買い、アルバイト代で
「姓氏家系大辞典」三巻・「姓氏家系辞書」・「日本紋章学」を
買ったが、専門科目や研究論文を書くのにも役立ったし、四半世紀
経った今も最も開く本であり減価償却はとっくに済んだ。
研究者や趣味人ならば古本屋巡りしても手元に置きたい本では
あるが、取り合えず図書館で必要な箇所をコピーすれば良いと思う。
地方に調査に行く際は必要箇所のコピーを持って出かける訳だし。
『姓氏家系大辞典』でどんな研究論文を書いたんだか気になる。
507 :
日本@名無史さん:03/06/11 08:30
508 :
日本@名無史さん:03/06/11 15:43
論文のさわりだけでも教えてくらしゃい
509 :
日本@名無史さん:03/06/11 15:55
文献史学の補助学である系譜学の基本文献である「姓氏家系大辞典」で
平安・鎌倉期の地方氏族を調べ、あとは現地の図書館なり教育委員会に
行き郷土史料の閲覧などをしたり、国会図書館や東大史料編纂所で
史料を閲覧しました。
論文の中心は、ある受領貴族の半生記。そして地方に下り在地領主となった
子孫の動向です。この部分で全三巻を一頁づつ調査対象の氏族は無いかと
見つけていく訳です。
511 :
日本@名無史さん:03/06/11 19:25
本格的やな
512 :
日本@名無史さん:03/06/11 20:46
「姓氏〜」は20年前から持ってるけど、いまだに全頁は読んだことない(と思う)。
よく引くところ(「フチハラ」「ホウテウ」「トクガハ」など)のところだけ色が変ってたりする。
513 :
日本@名無史さん:03/06/11 22:50
>>510 すごいな。おれも史学科卒だが、ここまで徹底した研究はしたことない。
フラフラ遊んでばっかりいたもんなぁ。卒業した今の方が歴史に興味あるくらいだ(w
>ある受領貴族の半生記
それ、面白そうだな‥‥
>>513
受領貴族の経歴と云えば尊卑分脈を調べますが、ここでそのまま
信じて論文に書けば、主査の教授に「誤記の可能性もあるが、
ちゃんと調べたかね。」と怒られるので裏をとりますよね。
しかし数ある官歴の中で信濃守任官だけが公家の日記等で証明
出来ませんでした。
ところが長野県立図書館で県史を調べてたら、その受領が
信濃守任期中に集めた金を横領し、中央に訴えられた記録が
見つかったのです。他にも殺人・殺人教唆・数度の国司辞任、
そして最後は配流と2時間ドラマが作れる人物です。
半生記に子孫の動向か。そうゆうのは研究論文とはいわんだろ。
概説、レポートってとこだな。県史なんて最初に見とけよ。
わざわざ長野県立図書館てか。大学図書館に県史ないのかよ。
だったらしょうがないが。源頼親なんてメジャーな人物を今さら。
造興福寺記なんて著名な史料だし、『国司補任』未収なわけでもないし。
『姓氏〜』を使って論文かw
>515
はげどう。史料名に『』じゃなくって、「」を使ってる時点で、ねぇ。
でも452が卒論かいた段階では『国司補任』はまだ出ていなかった罠。
まぁ、いまどき、『姓氏〜』を信じてたら、学界で相手にされないどころじゃない。
517 :
日本@名無史さん:03/06/12 20:28
518 :
日本@名無史さん:03/06/12 21:40
熊谷直実と平敦盛の話は泣ける。
>504
久々にこの板に来たけど、
>まぁ、趣味でおさえておく人には必要ないね。
意見はちょいと心外。499、501も同一かな。
趣味でも徹底的に調べたいし、手元に置いていつでも参考にしたい人はいるんだよ。
それが数万円もするものだったら、社会人にとってもホントに厳しい。
欲しい資料はそれだけじゃないもの。
残業もつかない、ボーナスからも税金がこれでもかって取られる今の世の中、
自分と違う立場の人に対しての軽々しい発言は控えてくださいな。
521 :
日本@名無史さん:03/06/13 00:41
>>519 はいはいごめんなさいね。
でも、徹底的に調べたくって、いつでも手元に置いときたいなら、4万ぐらい、、、
なんてのはまたしても軽々しい発言だね。スマソ。
523 :
清盛の長男:03/06/13 02:11
重盛がもうチョット長生きしてくれたら、平家滅亡はなかったのでは...
木曽義仲もおとなしくしてただろうし...
木曽義仲の軍勢が都に迫り、平家は幼少の安徳天皇を奉じて都を落ちたのだが、
この決断は正しかったのか?みなさんどう思います?
524 :
日本@名無史さん:03/06/13 02:30
都落ちというより一時的に避難という意識が強かったんでない?
すぐ都に戻ってこれると思ってたとか
525 :
日本@名無史さん:03/06/13 06:52
>>523 重盛を高く評価し過ぎじゃないかな?平家物語の重盛像は多分に理想化され過ぎているからね。
実際は、この人がもう少ししっかり清盛を補佐していれば、平家政権はより磐石になったのではないかと思う。
後白河との抗争でも、強く出るべき時なのに耳あたりのいい事言って、一人だけええかっこしいしたりとか、
遁世願望が強かったりとか、実際の政治家としてはかなり疑問符がつく人だな。
もしかすると、老練な清盛が「汚れ役はおれが引き受けるから、お前はきれいごとを言って院の歓心でも買っておけ」
と密かに役割分担でも命じていたとすれば、あれで良かったのかもしれんけど。
526 :
日本@名無史さん:03/06/13 07:00
>>523 都では勢いに乗っている木曾軍は防げないだろう。
ましてや比叡山までが義仲についた以上、一旦都を捨てて再起をはかるのは当然の策だと思う。
あえて言うなら、その後頼朝軍が上洛してきた時に、義仲と結ぶべきだったかもしれない。
ま、これは結果論だけどね。
小松のおとど
528 :
山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/06/13 12:56
>>523 実際は執念深くて陰険だったようですが。それより『平家物語』以外に登場
する清盛のほうが人格者。『平家』でも人柱を止めさせていますが。
529 :
日本@名無史さん:03/06/13 20:12
>>499 その盛時ってこの盛時じゃない?
>「本朝世紀」久安3年(1147)7月24日条
>今日仙院御覧武士。如日来儀也。佐渡守平盛兼。平盛時。源親弘。散位源義国。
>主殿助同時光。各渡御前。義国以男義康為代官。自身不参云々。
>>504 六波羅系の盛と北条の時を名乗っていて名字ではなく氏で呼ばれつづけてるから
>529
それ、北条の「時」じゃなくて、公家平家の時忠の「時」じゃねーの?
吾妻鏡に出てくる奴だろ?
↑ありゃ。どこかでのクッキーが残ってた。
532 :
日本@名無史さん:03/06/14 08:30
>529の求めている盛時は、>499のいう正度曾孫じゃないのね?
>530のいうように『吾妻鏡』にでてくる人物なの?
もうちょっと、いつごろの人物か、どの史料に出てくる人物かなど、
情報をくれないと、調べようがないよ。
正度曾孫は仁平元年卒
他に頼朝の右筆(民部丞平五)、得宗(時頼)被官(新左衛門尉)
の二人の平盛時がいる。
534 :
日本@名無史さん:03/06/14 11:58
多田蔵人行綱
新宮十郎行家
志田三郎義広
535 :
日本@名無史さん:03/06/14 13:14
那須与一の子孫が関東にいる。日本で最後の通し矢を京都でおこなった。
らしい。大正時代だが。
536 :
決断の違いによって:03/06/14 14:01
源頼朝は、平家のひとに容赦なかったですからね。
だからこそ、鎌倉政権は平家よりかなり長続きしたのでは・・・と。
やっぱ、徹底性の無さですね。たしかに、清盛の母の池内禅尼(・・・でしたっけ?)が命乞いしたからとはいえ・・・
自分の親族の意見よりも、利を考えるべきでした。
平家的には、庶民に平家のやさしさを見せるつもりだったんでしょうが・・・
あんどけやっといて、いまさら無駄でしたね。
池の禅尼が頼朝を生かしたのは要するに保険だろ?
保元の乱で崇徳を見捨てたことといい、このオバハンは鼻がきく。
538 :
日本@名無史さん:03/06/14 14:50
源氏と平家
源家と平氏
>>1 平清盛という人は大変な悪人とされていますが、
その生前の業績をみると、宗との貿易を盛んにしたり、
また敵の子供である頼朝や義経を救ったりといわゆる
悪人の姿からは遠いものが浮かび上がってきます。
清盛のイメージは、華やかなことが好きで調子の良い、
涙もろい人というもので、頼朝よりずっと好感を持っています。
自分が命を救ってやった少年達に、一族を滅ぼされてはしまったけれど、
皆仲良く、潔く滅んだ平家に比べて、
同族で殺し合い、また当時の武家の娘でありながら、結婚しても実家の姓
を名乗り続けるような奥さんの尻に敷かれていた源頼朝より、
人間として清盛はずっと幸せだったのではないでしょうか。
542 :
日本@名無史さん:03/06/15 04:59
>>541 清盛=悪人というイメージは、ひとえに平家物語によるもの。
重盛の罪(摂政基実の行列襲撃とか)まで背負わされたり、かなり気の毒。
543 :
日本@名無史さん:03/06/15 05:12
>>541 俺も清盛は根は正直というか善人というか、かなりのお人よしの気がする。
後白河にも何度も煮え湯のまされてるけど、たいてい我慢してるし。
鹿ヶ谷の陰謀の首謀者、藤原成親なんかは流した後でひそかに殺しているようだが、
それは娘婿のくせに、それも平治の乱についで2度めまでも自分を裏切ったわけだから、ある意味当然の怒り。
頼朝については、13才という幼さで父を亡くした姿に、ひとしお哀れさをおぼえたのかも。
池禅尼の命乞いがあったっていうけど、清盛自身にも多少はそういう気持にならなければ絶対に助けない筈。
島流しにした最初のうちは警戒していたかもしれないけど、20年も経つうちに忘れていたのではないかな。
で、それが叛いたと知った時は、やっぱり怒りと悲しみに包まれただろう。
‥‥ただ、どっちが幸せだったかなんてのは、そう簡単には言い切れないね。
544 :
日本@名無史さん:03/06/15 06:03
>>541 >当時の武家の娘でありながら、結婚しても実家の姓を名乗り続けるような奥さんの尻に敷かれていた源頼朝
?当時って夫婦同姓だったの?
一般的には、優雅な配流生活と誤解されている頼朝だが、実際は
無期懲役的死刑囚の身分。なもんで、なんとか緊急死刑執行権を持つ
監視役等の娘をたらしこんで恩赦狙い・・・
政子にはそりゃあもう!m(_ _;m
結婚で夫の苗字を名乗るようになるのは明治からじゃなかった?
547 :
日本@名無史さん:03/06/15 08:39
なんで源氏と平家だ、
源家と平家
源氏と平氏
どっちかにしる。
548 :
日本@名無史さん:03/06/15 09:35
勉強して出直せ。
何か史料もろくに読まないで
誰かの小説だけで語ってるようなのが大量にいるな。
>>550 それでいいんじゃないの?
研究結果を報告するスレではないんだから....
このスレみてこの時代に興味をもつ人もいるだろうからね!
あんまり興奮すると体によくないよ。
そんなのに付き合う気はないので
一抜けた。
553 :
日本@名無史さん:03/06/15 23:53
漏れも付き合いキレんので、一発抜いて寝よ。
これ以上抜けられたら、ベイスターズの山下監督の頭みたいになってしまう・・・
俺、マジで源順だけど、何か質問ある?
>555
ない。カエレ!
557 :
日本@名無史さん:03/06/16 16:50
鎌倉以前だと漢字一文字の人がたまにいるけど
あんまりカコヨクないな
特に源宛て・・・
558 :
日本@名無史さん:03/06/17 02:32
源平合戦って「日本一の大天狗」こと後白河法皇の陰謀だったの?
559 :
日本@名無史さん:03/06/17 02:35
駄目な治天ノ君のおかげで起きた内乱状態。
560 :
日本@名無史さん:03/06/17 03:16
でも、後白河法皇って敵対する人々を見事に相打ちさせて
自分に都合の悪い者をことごとく潰してるような気がする・・・
561 :
日本@名無史さん:03/06/17 04:46
平家が気に入らないからって源氏に討たせたまではいいが、
その源氏(及び武士団)の力は平家にも増して強まってしまった。
見事に相打ちさせたなんてとんでもない。
大誤算だったろう。
562 :
日本@名無史さん:03/06/17 05:52
>557
源氏=清和(陽成)源氏だけ と思っているバカ発見
一字名源氏といえば嵯峨源氏が定番。
>564
>562は最近、清和以外もいることを知って、
有頂天になっているんだ。許してやってくれ。
>>557 今の感覚ではカッコ良くないが、当時の人にすれば
最新の国際風である中国風の一字姓、一字名だからな。
相当とんがった語感だったと思うぞ。
つまり今で言えば、パパイヤ鈴木や
ユースケ・サンタマリアみたいなもんだね!
…やっぱカコヨクナイ
568 :
日本@名無史さん:03/06/18 11:26
思ったけど、源頼家ってあの状況では生き延びる方法なかったかな?
せめてあと10年頼朝が長生きしていればなあ・・・
あの状況ではどう舵取りしても殺されたと思うぞ。
馬鹿なふりすれば間違いなく北条が「実朝に代えよう」というだろうしなあ。
>568
「馬鹿なふり」なんかしなくっても十分馬(ry
570 :
日本@名無史さん:03/06/19 13:05
頼家は剛勇で、頼朝よりも河内源氏っぽかったらしい
571 :
日本@名無史さん:03/06/20 05:46
平家の追ってを抜いて
どこかで潜伏していた悪源太義平が
義朝の後を継いでいれば、
また違った源平合戦だったのではないでしょうか?
一門の頼朝や義経を使い、
自らの武にまかせて軍を率いて西上していたかも!?
572 :
日本@名無史さん:03/06/20 05:54
歴史にifは無意味。
>571
そうですね。
そして、歴史は変わり、あなたは生まれてなかったでしょう。
現在と未来の人のためを考えると、その方が良かったんだけどね。
>>574 なにがあったか知らないが、そういうのは他板でやってくれ
ネットで強気になっても何の役にも立たないぜ旦那
>571妄想厨と>574厭世厨が対決するスレになりすた。
577 :
日本@名無史さん:03/06/21 12:55
忠度age
578 :
日本@名無史さん:03/06/21 13:53
須磨
っぷ
>>571 平治の乱のとき、義朝は一旦政権を掌握ました。
つまり、官軍ですね。
その「官軍」に味方するために、義平は配下を募って東国から上洛しました。
付き従った数は、
たったの17騎。(『平治物語』)
頼朝の挙兵時の立場は一介の流人。それに付き従うことは「反乱軍」として
追討の対象となることを意味します。
実際に、当時政権を掌握してた平家の「官軍」が追討軍として迫ってきます。
頼朝一人を殺すために。
敵を迎え撃つために、頼朝は富士川に軍勢を率いて出陣しました。
その数は、
なんと20万騎。(『吾妻鏡』)
かたや「官軍」として17騎しか動員できなかったのに対し、
こなたは「反乱軍」として20万騎を動員(「主催者発表」ですけど)。
どちらが、政治家・武将としての能力が高かったのかは、もう明らかですね。
581 :
日本@名無史さん:03/06/21 17:42
>580
アフォ?
582 :
日本@名無史さん:03/06/21 17:43
>>580 その17騎って、名のある豪族17人ってことだったような・・・。
まあ総勢100や200だろうけど。
それはともかく、比較の仕方がむちゃくちゃ。
保元・平治の乱なんて上方では数百とかで戦ってたのに、
地方行けば、源氏の家人の上総介広胤だけで2万とか動員できたんだからな。
よーするに、保元平治の頃は京都行くときには大軍率いて行かないものだった。
>580
主催者発表にワロタ
摂津源氏と河内源氏の話から遠のいているけど、頼光の母は五位クラスの娘。ョ信の母君は大納言藤原元方の娘。つまりョ信の方が母の格が上で正当を名乗る権利あり。当時は母が誰の子か、母の身分はどの程度かが重要。
別の話で北条政子は、ョ朝生存中は源政子。結婚前、右大将家薨後は平政子。。歴史的には北條政子すなわち平政子として名が残った。
>>583 20000人という数字は流石に疑問視されていますが・・・富士川もそう。
承久の乱で十九万騎とか言われていましたが当時の日本の兵力は30万強と
いったところであったようです。
586 :
日本@名無史さん:03/06/21 19:31
20万騎は吹きすぎだろ。
武将としての資質は別として、あの当時の坂東兵を味方につけた
外交手腕と実行力は認めるが。
>584
>ョ朝生存中は源政子
これはじめて知った。ソースをおながいしなす。
>>584 平氏の北条の娘が源氏??
それって政子が源姓の人物の養女になったとしか
考えられないんだけど、
そんな事実はあったか?
589 :
日本@名無史さん:03/06/21 20:00
>>587 通い婚だから、姓を変えることはないのでは?
590 :
日本@名無史さん:03/06/21 20:30
北条政子は、平政子
591 :
日本@名無史さん:03/06/21 20:33
通い婚だろうがなかろうが、当時は、姓は変えない。
基本的に、夫婦別姓。
源 頼朝(伊豆頼朝)
平 政子(北条政子)
>>582 >比較の仕方がむちゃくちゃ
政治家・武将の能力を、軍制も含めた動員数ではかろうとしたのでつが。
20万騎という数については、史料がそうなってるので仕方がない。
史料批判をしてないわけじゃない。
「『吾妻鏡』の書く兵力は主催者発表みたいなもんだ(つまりいい加減)」
ともかいたつもりでつ。
根拠もなしに「史料には20万騎と書いてあるけど、実際にはいくらいくらだろう」
と書くようないい加減なまねはできなかったのでつよ。
それから、保元平治と、治承寿永で兵力動員数が違うのは、
軍制の違いがそうあらしめたという理由があって、
決して「そーゆーもん」なんてあいまいなもんじゃなかったと思うのでつが。
・・・これって、「顔真っ赤」なカキコかなぁ。そういう風に読めたらスルーして
くださいね。
>>593 顔真っ赤。見苦しい。もう二度と書くな。ヴォケ。
頼朝は自分の妻が「政子」という名前だということを知らなかったのです。
北条殿の娘で、頼朝の妻となったあの女性に「政子」という名が付けられたのは
頼朝の死去から19年も後の建保6年(1218)4月14日、従三位への叙位に際して
のことと考えられるからです。摂関家の妻など公家女性に「○子」型の名前が付け
られるのは、叙爵の時であることが貴族の日記などから分かります。
すでに出家している女性に位を与えるのは異例のことでしたが、清盛の妻平時子の
例があり、それに倣いました。おそらく彼女が面と向かって「政子」と呼ばれたこと
はなかったと思われます。彼女自身が「政子」と署名することも。
ましてや「北条政子」という女性など存在していなかった。
では、彼女の名前は何だったのか。仮名本の『曾我物語』は朝日御前、真名本の
『曾我物語』は万寿御前と書いています。真名本は鎌倉末期の成立ですから、ち
ょっとは可能性がありますが、確証は全くありません。独身時代、時政の一女で
あった彼女は、家の中では、彼女の娘がそう呼ばれたように「大姫」あるいはそ
れに類似した呼称で呼ばれていたかもしれません。
> 叙爵の時であることが貴族の日記などから分かります。
そうなの。てことは、叙爵されない女は名無しさんなのか。
裳着のときにつけられるんだとばかり思ってた。
いや、これは俺の根拠のない妄想だけどね。
名無しさんなのではなく、呼び名はあるということ。(○姫とか○御前とか)
「○子」型の名が付くのが叙爵の時ってことじゃろ。
>>595 この場合、セ○シかマ○コという訓みになるのかな。
角田文衛『日本の女性名・上』(教育社歴史新書)を読め。
>584
頼光は「頼」なのに、頼信・頼朝は「ョ」とわざわざ旧字で単語登録している。
いい感じにヲタ臭がただよってるね。
601 :
日本@名無史さん:03/06/27 20:50
┌────────────────────────┐
│ ( ̄ ̄) |
│ ) ( 超 優 良 ス レ 認 定 証 |
│ / \ |
│ | Λ Λ |/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ |
│ | ( ゚Д゚)< や、やるじゃねぇか・・・ | |
│ \__/.\__________/ |
│ |
│ このスレが2ch超優良スレ審査委員会の定める認定 |
│ 基準(第5項)を満たしていることをここに証する。 |
│ |
│平成12年7月 2ch 超優良スレ審査委員会 |
│ 理 事 長 ひろゆき@管直人 |
│ 認定委員 名無しさん |
└────────────────────────┘
602 :
日本@名無史さん:03/06/27 22:04
>>600 今まで、日本史で全く注目されず、関心ももたれなかった摂津源氏に光を当てたのは功績だ。
603 :
日本@名無史さん:03/06/28 03:51
渡辺党の名前が一文字なのは何で?
605 :
日本@名無史さん:03/06/28 12:48
606 :
日本@名無史さん:03/06/28 22:39
なぜ、伊勢平氏の流れを汲む平正度の5人の子供たちの中で三男季衡の子孫で
ある伊勢氏のみが足利家臣になれたのですか?他は殺されまくってるのに。。。
607 :
日本@名無史さん:03/06/28 22:47
結論
武門の嫡流 河内源氏
清和源氏の嫡流 摂津源氏
608 :
日本@名無史さん:03/06/28 23:24
609 :
日本@名無史さん:03/06/28 23:52
結論
日本史の嫡流 河内源氏
日本史の傍流 摂津源氏
610 :
日本@名無史さん:03/06/29 03:11
>>608 解明されてるよ
平姓の武士と確認されてるのは、平高望の長子国香の子、貞盛流の伊勢平氏、
その弟繁盛流の常陸大掾一族・越後平氏、国香の弟・良兼流の尾張平氏、及
び鎮西の一部の平氏良持流と常陸大掾支流。
611 :
日本@名無史さん:03/06/29 03:25
>>610 消防レベルの読解力だな。
608は「伊勢氏の流れ」とカキコしてるのに誰が「平姓の武士」だよ。
わけわからんことカクナヨ
612 :
日本@名無史さん:03/06/29 04:31
結論
源氏は新羅系
平家は百済系
おまけ
藤原は加羅系
天皇は扶余系
613 :
日本@名無史さん:03/06/29 04:58
常識ですね。
616 :
日本@名無史さん:03/06/29 07:59
結論
日本人 アウストラロピテクスの傍流
618 :
日本@名無史さん:03/06/29 13:07
619 :
日本@名無史さん:03/06/29 13:23
620 :
日本@名無史さん:03/06/29 13:28
最近、煽りっ子が常駐してるな
日本史板住人は紳士軍団
>620
プッ
>>611 俺は伊勢の流れも聞いてないんだが。。。
季衡流の頼朝との関係を聞いてるんですが?
623 :
日本@名無史さん:03/06/29 14:43
624 :
日本@名無史さん:03/06/29 14:57
>>622 >季衡流の頼朝との関係を聞いてるんですが?
本当に606か?
606に頼朝なんてぜんぜんでてこないじゃねーか。
>>624 伊勢平氏で季衡の子孫のみが足利家臣として存続できたかをしりたいんです。
源平合戦がこのスレのメインとおもって頼朝の名前は書かなかったんですが。
>他は殺されまくってるのに。。。←これの主語頼朝なんです
一応。。。
荒れた責任が俺ならごめんなさい
いや、だから「伊勢氏」が「伊勢平氏の末裔」
というのは解明されていない、と言いたかったの。
伊勢氏が本来平氏ではない可能性も否定できないし。
伊勢三郎源義盛
628 :
日本@名無史さん:03/06/30 00:50
>>627 彼の出自は、伊勢神宮と関わりのある豪族やん
629 :
日本@名無史さん:03/06/30 01:58
伊勢平氏は平氏の傍流
631 :
日本@名無史さん:03/07/06 18:50
維衡の伊勢平氏が文句無しで嫡流でしょう。じゃなきゃどこが嫡流?
>>610=630?
それ宝賀氏(正しい字を教えてもらった)が言ってることマンマじゃん
オレは「鎮西の一部の平氏良持流と常陸大掾支流」も怪しいと思うけど
632 :
日本@名無史さん:03/07/06 19:03
633 :
日本@名無史さん:03/07/06 20:11
武家平氏の話じゃないの?
堂上平氏と比べるなら、伊勢平氏なんてしみったれた表現しないで
板東平氏総て傍流。
634 :
日本@名無史さん:03/07/06 21:25
桓武平氏と人括りに言うけど
高見王と高棟王はそれぞれ別家でしょ?
祭祀も別でしょ?
635 :
日本@名無史さん:03/07/06 22:13
京における嫡流は、意外と貞盛の長男の維叙が継いでたりする。
すぐ断絶してしまったけども。
636 :
沙羅双樹の花:03/07/07 00:05
祇園精舎の...で、始まる平家物語で語られる、”沙羅双樹”の花。
夏に白い、椿にそっくりな花をつける。
一日花で、朝咲くと、夜には、花を落としてしまい、その儚さが、
盛者必衰の理を顕していたのでしょうか...
奢れる者、久しからずや...
PS
最近、このスレ 乱暴な言葉が見られます。みんな仲良くやりましょう。
池宮彰一郎の「平家」読んだ?
司馬遼の「義経」そっくりだよ。
638 :
日本@名無史さん:03/07/07 07:44
平氏は、二世賜姓だから、一世賜姓の源氏より、格下。
また、二世賜姓だから平姓の尊貴性は低く、坂東平氏は早くから平姓よりも苗字を名のっている。
伊勢平氏もまた坂東平氏の一つにすぎない。傍流であったため関東にさしたる地盤もなく伊勢に移った。
平姓のままだが、伊勢平氏は、坂東平氏の中でも傍流の方。
そして清盛の家は、伊勢平氏の中でもさらに傍流。
639 :
日本@名無史さん:03/07/07 10:56
>>638 >二世賜姓だから、一世賜姓より、格下
この客観的な根拠を知りたい。
>平姓の尊貴性は低く、
これも具体的かつ客観的な根拠を知りたい。
>坂東平氏は早くから平姓よりも苗字を名のっている。
何に比べて早いのか。
>傍流であったため関東にさしたる地盤もなく伊勢に移った。
これも具体的な根拠を知りたい。
イメージだけで語ってない?
640 :
日本@名無史さん:03/07/07 11:03
嫡流か傍流かはしょせん結果論。
一番栄えた家が嫡流。あとは傍流。
結局、正盛−忠盛−清盛の家系(六波羅家)が桓武平氏高望流の嫡流。
中世の人間の感覚では
>>640が正解。
それだけ踏まえておいてくれ。
そのうえでなら、こころゆくまで、それぞれに
「オレさま基準」嫡流認定ごっこを楽しんでくれてかまわん。
清和源氏発祥の地を騙ろうスレもそうなんだが、
なんでみんなそんなに嫡流非嫡流にこだわるのか?
嫡流と非嫡流の違いを論ずるのならともかく。
643 :
日本@名無史さん:03/07/07 23:00
賜姓は圧倒的に源姓。正直平姓は少ない。
1世とか2世とかの厳密な区別はなかったようだ。
そもそも、「平」は平安京遷都の熱狂が産んだ一時のブームみたい。
644 :
日本@名無史さん:03/07/08 03:19
645 :
日本@名無史さん:03/07/08 04:01
>644
639のポイントは「具体的」「客観的」ということだが、
これは639の手だろう。
638の言い分は状況的に妥当し、それを否定する具体的、客観的ものは無い。
さらに639は読解力も足りない気がする。
例えば
-------------------------------------------------------
>坂東平氏は早くから平姓よりも苗字を名のっている。
何に比べて早いのか。
-------------------------------------------------------
この場合の「早くから」というのは、坂東平氏の「初期」ということであり、
「何に比べて」というような比較による早さの指摘ではあるまい。
>この場合の「早くから」というのは、坂東平氏の「初期」ということであり
仮にこの指摘が正しいとなると、
>>639の読解力よりも
>>638の文章力が原因と、第三者の漏れの目には映るなぁ。
>638の言い分は状況的に妥当し、それを否定する具体的、客観的ものは無い。
状況的に妥当したと言うに足る、具体的な理由を期待。
647 :
日本@名無史さん:03/07/08 17:11
648 :
日本@名無史さん:03/07/08 17:27
>>638 >また、二世賜姓だから平姓の尊貴性は低く、坂東平氏は早くから平姓よりも苗字を名のっている。
苗字って‥‥。
平姓を通称として使用しなくなったのは土地の帰属を明確にするためであって、
尊貴性が低いからとかいう理由じゃないだろ。
公文書ではその後もずっと平姓を名乗ってるし。
>648
公文書を言い出したら仕方がない。明治になるまで源姓や平姓が使われているから。
公文書ではなく、普段、苗字を使っていたということ。
北条も三浦も和田も千葉も、それが普段の名のりであり、平○○とは名のらんだろう。
650 :
日本@名無史さん:03/07/09 02:56
>>638 639、646にはやく答えてね。
答えられそうな648に見当違いなレスするんじゃなくて。
あらためて整理してあげるから。
@「二世賜姓が一世賜姓より格下」という「具体的な」根拠
A「平姓の尊貴性は源姓より低い」という「具体的な」根拠
B「坂東平氏が初期から苗字を名乗っている」という「具体的な」根拠
Cついでに「初期」とは何時頃のことをいうのか。またその期間の分類はどういうものなのかの定義
D「傍流であったため関東にさしたる地盤もなく伊勢に移った」という「具体的な」根拠
>638の言い分は状況的に妥当し、それを否定する具体的、客観的ものは無い。
「妥当し」とか「客観的もの」とか日本語になっていないけど
E「状況的に妥当したと言うに足る、具体的な理由」
よろしくね
内容には甚だ同意も、機種依存文字は極力やめれ
653 :
日本@名無史さん:03/07/10 00:33
654 :
日本@名無史さん:03/07/10 02:31
ここにも嫡流オタが…
一日観光している間にものすごい勢いでスレが落ちてましたw
スルーお願いしますm(__)m
656 :
日本@名無史さん:03/07/11 01:53
>651
やだ
657 :
日本@名無史さん:03/07/11 05:43
平治の乱で合戦に敗れた義朝が、尾張で家臣長田にだまし討ちにされた。
当時13歳の頼朝の生涯に与えた性質は...
政子と結ばれる前、伊東入道の姫との間にできた子供を、平家に露見するのを
恐れて入道の家臣によって淵へ投げ捨てられたこと...
頼朝の非情さは、こんなことからも推測できますね。
まあ、この人も不幸な人でした。
>>638 伊勢平氏を傍流とする理由を説明できないなら
せめて638が考える嫡流だけでも教えてくれ
>645
>638を否定する具体的、客観的ものは無い。」わけね。
638は応えてくれないから、645が代わりに650に答えてはどうでしょう?
>坂東平氏の「初期」ということであり
村岡五郎良文や相馬小次郎将門って名乗りに信憑性はあるの?
平将門の館跡は豊田(松岡)郡(現結城郡石下町)にあるのに相馬が苗字地?
多田満仲もかなりの「初期」だと思いますが?
660 :
日本@名無史さん:03/07/12 02:31
>>659 638=645
だから答えはでないよ。
661 :
日本@名無史さん:03/07/12 08:49
>659
多田満仲の多田は、号であってまだ苗字ではない。
だから多田満仲の多田と、多田行綱の多田(苗字)は別のもの。
662 :
日本@名無史さん:03/07/12 09:01
嫡流か傍流かはしょせん結果論。
一番栄えた家が嫡流。あとは傍流。
結局、正盛−忠盛−清盛の家系(六波羅家)が桓武平氏高望流の嫡流。
664 :
日本@名無史さん:03/07/12 09:06
>662
いや、嫡流とは系譜の形式論。
だから実力とか一番栄えた家は関係がない。
親が決めた嫡子の系統を嫡流というだけ。
だから河内源氏の頼朝も伊勢平氏の清盛も傍流。
665 :
日本@名無史さん:03/07/12 09:09
>>664 それは「嫡流」という言葉の定義の問題ですね。
あなたと私とでは「嫡流」という言葉の定義が違うようです。
これ以上議論してもムダですな。
ただ当事者である中世人は私と考えを同じくすると思いますけどね。
666 :
日本@名無史さん:03/07/12 09:13
>665
そうですね、あなたの嫡流論は中世、鎌倉以降のもので、
平安時代末期の源氏や平氏には該当しませんね。
>>666 ああ、こいつ中世の概念分かってねぇや(w
668 :
日本@名無史さん:03/07/12 09:16
>>666 あなたの嫡流論は、どう見ても現代人のイマジネーションに基づくものですな(w
670 :
日本@名無史さん:03/07/12 09:19
>667
中世概念が分っていたら、そんなこと言えないはずだよW
>668
あなたの実力嫡流論こそ後世のもので、現代人の後知恵の産物でしょうW
671 :
日本@名無史さん:03/07/12 09:24
>>670 はいはい、あなたの脳の中の電波がそう教えてくれたんですよね。はいはい。
漏れは>662とも>664とも違って、
何か伝領すべきものがあって、
それを伝えられるのが嫡流と考える。
土地・屋敷、職・地位、刀などね。
それらを相続するってこと=家を相続する、
って意味を持った時点で嫡流意識の成立と考える。
だから娘婿に邸宅を相続させる前期摂関時代は、
嫡流意識がまだ成立してない、と。
摂関家氏長者の継承儀式が整備されたのは、
道長の孫の師実のときと言われているから、
他氏の嫡流意識ってのも、そのころ成立だろうな、と思う。
長文スマソ
>>670 は?
まさか中世が鎌倉時代からだと
思ってるんじゃないだろうな?
最近では院政期も中世に区分にすることが多いんだが、
もしかして知らなかった??
674 :
日本@名無史さん:03/07/12 09:30
>>670 摂津源氏が嫡流というのも、後世の後知恵じゃない?
結局、頼光が長男だから、嫡流となったんじゃないのか?
今でも、家は長男が継ぐものと決まっているが。
675 :
日本@名無史さん:03/07/12 09:34
鎌倉時代の終わりごろ、分割相続から単子相続になったって、高校で習った。
676 :
日本@名無史さん:03/07/12 10:02
>>675 財産は家のものという概念になったのでしょう。
だから、だれがその家を継ぐかが重要になった。つまり、嫡流か否かは重要になった。
しかし、それでも特定の流れが家を継ぐかは決まっていなかった。
で、お家騒動の続出、果ては戦国乱世に突入。
戦国の世を終わらせた家康は、長男が家を継ぐものだと決めて、乱世にならないようになった。
嫡流か否かは江戸時代の人が関心を持ったのだろう。摂津源氏が嫡流といわれたのもこのころじゃない。長男なんだからという単純な理由であろう。
677 :
日本@名無史さん:03/07/12 10:02
678 :
日本@名無史さん:03/07/12 11:14
>>661 >だから多田満仲の多田と、多田行綱の多田(苗字)は別のもの。
その区別はどこでつくの?
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
680 :
日本@名無史さん:03/07/12 11:29
>>664-668 ようやく正しい考えに近づいてきたね。
当時は嫡流の意識がなかったため嫡流論は意味が無い。
後世の人間が自分の系譜の権威付けのために持ち出したにすぎない。
681 :
日本@名無史さん:03/07/12 11:33
>>680 おそらく江戸時代でしょう。
江戸時代は、地位が家柄で固定されてましたから、それから外れた武士は系図にしか価値を見出すしかなかった。
いい感じにまとまってきたけど、
嫡流厨、とくに摂津源氏厨は、この結論を受け入れられるのだろうか?
683 :
日本@名無史さん:03/07/12 20:19
しかし、嫡子というもの、つまり跡継ぎというものは、源氏のリアルタイムの頃からあったのでは?
何を継ぐというのか?
家意識がなく、分割相続をしてるんだから、
特定の子を優遇する理由がないんじゃないかな。
ところで、>683の「源氏のリアルタイムの頃」っていつを指してるの?
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ★★摂津源氏厨は放置が一番キライ!★★
|| 〜 摂津源氏厨は常に誰かの反応を待っています 〜
||
|| ●重複スレには誘導リンクを貼って放置!
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||
|| ▲放置された摂津源氏厨は煽りや自作自演であなたのレスを誘います!
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|| ゴミが溜まったら削除が一番です 。 Λ_Λ
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||________________ ⊂⊂ |
∧ ∧ ∧ ∧ ∧ ∧ | ̄ ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧ ( ∧ ∧ ( ∧ ∧ | |
〜(_( ∧ ∧ __( ∧ ∧__( ∧ ∧ ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_( ∧ ∧_( ∧ ∧ は〜い、先生。
〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)
〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
686 :
日本@名無史さん:03/07/12 21:55
嫡流なんて後世の意識だとすると、河内源氏が源氏の嫡流だとか、
源頼朝が嫡流ということもありえないわけだ。
つまり、源氏や平氏については、嫡流なるものは存在しないということになる。
反面教師として摂津源氏厨を見るならば、
河内源氏や源頼朝を源氏嫡流と見ていた従来までの通俗的な源氏観を覆す否定的媒体だったということか。
少なくともその程度には摂津源氏厨にも功績はあり、河内源氏嫡流説の者たちよりもはるかに功績は大というべきか。
687 :
日本@名無史さん:03/07/12 23:03
>>686 負け犬の遠吠えって言うんだよ、そういうの。
688 :
日本@名無史さん:03/07/13 02:11
>687
お馬鹿の典型って言うんだよ、そういうの。
摂津源氏厨よりひどいな。
689 :
日本@名無史さん:03/07/13 02:16
>684
ということは源義朝は、為義の嫡子ではないし、頼朝は義朝の嫡子でもないわけだ。
完全なバトル・ロイヤルの構図だったことになるね。
河内源氏嫡流説は、多田→河内(頼朝→足利→徳川?)というように、
嫡流なるものが歴史的概念に過ぎず
変化しうることを認めている。
摂津源氏厨は、始源より未来永劫摂津源氏が嫡流で、
嫡流なるものを超歴史的観念として捉えている。
厨と呼ばれ、宗教と揶揄される所以である。
691 :
日本@名無史さん:03/07/13 03:26
>690
「摂津源氏厨は、始源より未来永劫摂津源氏が嫡流で、
嫡流なるものを超歴史的観念として捉えている。」
ではないでしょう。それはあなたの過剰な曲解と思う。
摂津源氏厨は、鎌倉時代までの清和源氏嫡流は摂津源氏だと言っているだけ。
頼朝による幕府開府と摂津源氏の凋落後は、そもそも清和源氏嫡流など存在しない。
頼朝の嫡流の内実は、河内源氏の嫡流ということで、以降は、河内源氏の嫡流問題になる。
足利氏も徳川氏も、河内源氏の嫡流ということ。清和源氏の嫡流は摂津源氏の凋落と共に存在しない。
こういうことでは?
692 :
日本@名無史さん:03/07/13 05:06
>>691 ようやく終息しつつあった嫡流厨がまた息を吹き返そうとしているね。
でもちゃんと摂津源氏厨の文を嫁。
>鎌倉時代までの清和源氏嫡流は摂津源氏だと言っているだけ。
こんなこと言ってないぞ。
ただ嫡流は摂津源氏だと繰り返しているだけ。
693 :
日本@名無史さん:03/07/13 08:13
>690
じゃあ頼朝までは多田が嫡流ってことか。
695 :
日本@名無史さん:03/07/13 08:17
義朝が為義の嫡子じゃないのは確かだな。
頼朝は義朝の嫡子でまちがいないだろう。
696 :
日本@名無史さん:03/07/13 12:37
>>693 嫡流厨よはなしをループさせるのは病めよう(藁
>>686 あのさ、みんなは
「嫡流観が現代と中世とは違う」っていってるだけで、
「嫡流は後世の観念である」といっているわけじゃないよ。
この二つの違いくらいは分かるよね。
698 :
日本@名無史さん:03/07/14 07:15
摂津源氏を嫡流という奴は馬鹿。
河内源氏を嫡流という奴は阿保。
699 :
日本@名無史さん:03/07/14 18:58
嫡流・庶流にこだわること自体、非歴史学的な思考だね。くだらん。
>696
お前がもっと面白い話題を提供すりゃいいんだよ(藁
>>661 号ってのは自ら称したってことでしょう?
何を以って多田行綱の多田とは別と言うのか
>>664 いい加減、清盛が傍流な理由と嫡流を教えて
702 :
日本@名無史さん:03/07/15 11:04
>701
満仲の頃は、まだ苗字というものはなかった。
苗字が生まれるのは鎌倉時代直前で、鎌倉時代に武家で一般化する。行綱はその頃の人物。
703 :
日本@名無史さん:03/07/15 11:05
歴史の初心者が空疎な嫡流論争をしているスレはここですか?
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
705 :
日本@名無史さん:03/07/15 11:55
>>702 >満仲の頃は、まだ苗字というものはなかった。
>苗字が生まれるのは鎌倉時代直前で、鎌倉時代に武家で一般化する。
それは君の思い込みだよ。
706 :
日本@名無史さん:03/07/15 18:53
>702にしろ、>705にしろ、それぞれソースってか、典拠を示したら?
『○○』にこう書いてあるから、鎌倉直前に苗字が生まれたんだ、
とか、
○○氏の研究で、鎌倉直前に苗字が成立したことが論じられている、
とか。
そうしないと、いつまで経っても空疎で無意味で非生産的な堂々巡りですよ。
707 :
日本@名無史さん:03/07/16 03:04
いいんだよ
楽しいから
708 :
日本@名無史さん:03/07/16 16:37
>705
という君の思い込みW
709 :
日本@名無史さん:03/07/16 18:20
自称「平家の落ち武者の子孫」の攻略法募集中!!
>709
適当に「すごいねぇ〜」とほめて、あとはスルー。
711 :
日本@名無史さん:03/07/16 22:29
引退した「平家みちよ」はほんとに落ち武者の子孫らしいよ
712 :
日本@名無史さん:03/07/16 22:32
713 :
日本@名無史さん:03/07/16 23:37
714 :
日本@名無史さん:03/07/17 02:55
>708
という君の思い込みW
>711
すごいねぇ〜
716 :
日本@名無史さん:03/07/17 11:02
このスレ最近荒れてきたなあ!
>716
みんな、どうすれば人が納得するか、どうすれば理解してもらえるか、
そういったことを考えてないからね。
で、ひたすら「俺はこう思う」と、自分の信じるところを述べるだけ。
718 :
日本@名無史さん :03/07/17 23:21
義仲がいなければ平家にはもっと手こずったはず
平家がいなければ義仲にはもっと手こずったはず
720 :
日本@名無史さん:03/07/18 10:42
朝日将軍
木曽次郎源義仲
721 :
日本@名無史さん:03/07/18 23:03
>>716 おごれるスレも久しからず。
ただ貼るのよの夢の如し。
722 :
日本@名無史さん:03/07/18 23:04
724 :
日本@名無史さん:03/07/20 02:00
>723
だからさ
号と苗字の違いはどこにあるんだよ。
村岡良文が苗字だという根拠はなんだよ。
いい加減説明してくれよ。
>早くより苗字を名乗っていた平氏は源氏より劣る
これも説明してくれよ。
説明はただ唱えるだけじゃだめだぞ。
宗教じゃないのなら。
725 :
日本@名無史さん:03/07/20 08:19
>箕田宛は?渡辺綱は?碓井貞光は?卜部季武は?坂田金時は?
今昔とか、後世の説話史料に出てくるときの表記じゃない。
渡辺綱の子孫と目される渡辺党の連中、『中右記』など同時代史料には「源」で書かれてるんだよ。
そりゃ文書だからだろ。
普段から源綱と呼ばれてたとは思えんが。
727 :
日本@名無史さん:03/07/20 10:43
あたりまえだよ
実名じゃよばないよ
渡辺綱が実在したとして、渡辺綱と名乗っていた、称していた史料があるのか?
典拠を示さなければ、学問にならない。
だいたい、渡辺綱が実在しない説のほうが有力だろ。
730 :
日本@名無史さん:03/07/20 20:05
uzai
うざい
ウ財
鵜在
嫡流だの庶流だの ガタガタ言ってんじゃねーよ!
おまえら、りっぱな荒氏だよ
ほかのスレにいってくれよ!
みなさんも同じ意見ですよね
732 :
日本@名無史さん:03/07/20 21:42
不同意
>>724 摂津さんの言い分を皮肉って書いてみたんだけど
735 :
日本@名無史さん:03/07/20 22:54
朝廷は機内のかなりの武士を動因できたんだろうが、まとめ役を欠いたからかな?
朝廷内部でも分裂していたし。十分に勢力を活用する前に速攻でやられたってかんじ。
736 :
日本@名無史さん:03/07/21 11:13
>734
関が原で東軍が勝ったのも奇跡に近いし、
千早城の戦いで楠木正成が負けなかったのも奇跡に近い。
結果から見ればこういうことだよ。
737 :
日本@名無史さん:03/07/21 11:14
>>734 >>736とかぶるが、
挙兵時の頼朝の勢力は幕府側よりもっと小さい。
伊豆・相模・武蔵・両総といったところか。
頼朝が全国制覇したことも奇跡に近い。
739 :
日本@名無史さん:03/07/21 19:28
頼朝の敵である平家もさほど勢力は持っていなかったそうな。
平家が動員した兵力は、あくまでも官兵、つまり朝廷の命令で動員した兵力に過ぎない。
となると、さほど頼朝とは勢力に違いはないと思う。
740 :
日本@名無史さん:03/07/21 19:32
今で言うと。。。
源氏=サッチー 平家=ミッチー
だな
>>739 貴族から官職や荘園を取り上げてなかったけ?全国の半分は平家の属領
だったはず
742 :
日本@名無史さん:03/07/21 22:28
鎌倉幕府が全国の武士を動員したのは、最初は奥州征伐。薩摩の島津氏まで動員された。期日に間に合わず罰せられた西国武士もいたそう。
奥州征伐は頼朝の全国の武士に対する指揮権を有し得る前例を作るのが最大の目的だったかもしれない。
あとは、元寇。このときは公家の領地から人員や物資も動員したというから、全国的に支配権を拡大したようだ。
>>739 平家の軍制と勢力との関係を勘違いしておられる。
平家の軍は、
1:少数精鋭の直属の家人
2:院宣・官符で動員した多数の「駆り武者」
によって構成されている。
戦闘では1が決戦し、2が制圧・占領する、という2段がまえの編成になっている。
1は、国内での最大派閥ではあるが、「その他大勢」を圧倒するほどの数ではないため、
2による支援が必要。
2のほうは、院宣などにより国内の武士の多くを万の単位で動員することができるが、
所詮「駆り立てた」武者たちなので、1が粉砕されると四散してしまう、
という欠点を持っている。
つまり、平家は勢力を「持ってない」から敗れたわけではなく、
平家家人でない武士たちの多くを、敵にまわすような政策ミスを犯したから
敗れたと考えられているはずです。
744 :
日本@名無史さん:03/07/21 22:33
>>741 実際の支配権はそこの在所の管理人ていうか、そこの武士にあったのでは?
いわゆる名義貸し。いくばくかの年貢を平家に納める代わりに、名義だけ平氏にした。
一応それで、領地の安全を図った。
したがって、当初の戦から平氏の負けがこんでくれば、当然見放すと思う。
当時の武士は、此方彼方で、日和見していたから。
745 :
日本@名無史さん:03/07/21 22:37
>>743 平家は東国に基盤を作ろうとして、平家方の武士を送り込んだり、平家方になりそうな武士を支援したりしていた。
相模の大庭氏とか。
しかし、それが逆に関東武士の既得権益層を怒らせたのかな。上総氏とかね。
頼朝を担ぎ上げたのはそこが理由かもしれない。
「かもしれない」って、ああた。
そんなもんはとっくの昔に常識になってる。
747 :
日本@名無史さん:03/07/21 22:49
平清盛、源頼朝、北条義時三代の武士たちの朝廷との戦い・・・って考え方は
間違ってますかね?
うん、かなり間違ってる。
753 :
日本@名無史さん:03/07/24 13:17
あの...
静の舞を見た人いますか?4月の第二日曜日にあるらしいのですが...
どんな感じなのかな?来年見に行く価値はあるのでしょうか?
>753
それを見るくらいなら第三日曜日の流鏑馬の方が(・∀・)イイ!!
755 :
日本@名無史さん:03/07/26 20:05
三守流
維幹 平大夫従五下
├為賢 従五下
└為幹 従五下
尊卑分脈に出てる常陸平氏ってこれだけ?
756 :
日本@名無史さん:03/07/27 17:48
>>756 ぜんぜん
常陸平氏載ってます?11冊の平氏んとこ以外?
758 :
日本@名無史さん:03/07/28 14:17
桓武平氏ならぬ桓武源氏というのもいたらしい。
759 :
日本@名無史さん:03/07/29 02:21
いないよ
760 :
日本@名無史さん:03/07/29 02:59
〜1001ストッパーが壊れた!?〜
科学板のとあるスレで、1001ストッパーが壊れ
1001以降もまだ書き込みできている模様。
1001 名前: 1001 投稿日: Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
1006 名前: マロン名無しさん 投稿日: 03/07/28 06:25 ID:Z0CeMHS7
何これ
1014 名前: マロン名無しさん 投稿日: 03/07/28 06:25 ID:AxlwdY4A
お〜い、まだ書けるぞ?
書き込みは1300レスを過ぎた今も続けられている。
●最もレス数の多いスレ(1001ストッパー導入後)
1位 12535レス(1001ストッパー5904)
ギガウイング2
↓のスレに直行し、2ちゃんねるの歴史に名を残そう!
http://science.2ch.net/test/read.cgi/future/1056396418/50-
761 :
日本@名無史さん:03/07/29 03:07
>1
超がつくほどの大失敗wアホとしかいいようがない。
太田亮『姓氏家系大辞典』の第3巻の「源」の各項を読めば。
そこに「桓武源氏」についても書かれている。
763 :
日本@名無史さん : :03/07/31 14:25
清和平氏はないのだろうか。
ない
765 :
日本@名無史さん:03/07/31 23:02
>>709 自分は落ち武者流じゃなくて、良文流なんですがどっちがカコイイ?
766 :
日本@名無史さん:03/07/31 23:10
良文が4歳の時に父親の高望王が平朝臣の氏姓を与えられて臣籍降下したと
いうことなんですが、だとすると良文って元々は良文王って呼ばれていたのかな?
だとすると、元々は王だった人物が氏姓どころか名字まで名乗ったなんて凄い
一生だと思うYO。
そういえば、国香は元々は良望という名前だったという話しがあるよね。だとすると良望の望は
父親の高望から一文字を貰い、兄弟は皆「良」の字を名前に用いたということになるね。
767 :
日本@名無史さん:03/07/31 23:44
平氏は、二世賜姓だから、一世賜姓の源氏より、格下。
また、二世賜姓だから平姓の尊貴性は低く、
坂東平氏は早くから平姓よりも苗字を名のっている。
伊勢平氏もまた坂東平氏の一つにすぎない。
傍流であったため関東にさしたる地盤もなく伊勢に移った。
平姓のままだが、伊勢平氏は、坂東平氏の中でも傍流の方。
そして清盛の家は、伊勢平氏の中でもさらに傍流。
769 :
日本@名無史さん:03/08/01 00:10
770 :
日本@名無史さん:03/08/01 01:32
>>766 >国香は元々は良望という名前だった
ソースは?
それよりも将門の父親って良将とか良持とかどっち?
>770
『千葉県の歴史』通史編古代2を読め。
772 :
日本@名無史さん:03/08/01 09:28
平氏は、二世賜姓だから、一世賜姓の源氏より、格下。
また、二世賜姓だから平姓の尊貴性は低く、
坂東平氏は早くから平姓よりも苗字を名のっている。
伊勢平氏もまた坂東平氏の一つにすぎない。
傍流であったため関東にさしたる地盤もなく伊勢に移った。
平姓のままだが、伊勢平氏は、坂東平氏の中でも傍流の方。
そして清盛の家は、伊勢平氏の中でもさらに傍流。
773 :
日本@名無史さん:03/08/01 10:11
>>773 766が言いたいのは、そういう説が『千葉県の歴史』に載ってるよ、
ということじゃないの?
>773
>774がフォロー入れてくれているが,>771は良持か良将かどちらかについては、『千葉県の歴史』に新説が載ってるから読んだら、というイミだったのだがな。
ちなみに、国香の本名が良望だ、というのは『尊卑分脈』にある。
新訂増補国史大系の第4篇の11頁に書かれている。
満足してもらえた?
777 :
日本@名無史さん:03/08/01 21:51
武門の嫡流 河内源氏
清和源氏の嫡流 摂津源氏
778 :
日本@名無史さん:03/08/01 21:55
(^^)
>778
ダメです。
781 :
日本@名無史さん:03/08/02 10:19
>>659 >>村岡五郎良文や相馬小次郎将門って名乗りに信憑性はあるの?
後北条みたいに北条という名字を名乗るのが定着した後に伊勢長氏のことを本人が
名乗ったことのない北条早雲と呼ぶようになった例はあるけど、村岡良文に関しては
孫の代あたりでは既に村岡って名字を使わなくなってますね。
ということは、後の世の都合で村岡と名乗らせる意義っていうのは無さそうなんだが、
これはあくまでも自分の想像でしかない(w
782 :
日本@名無史さん:03/08/02 11:06
長氏なんて名乗ったことない
村岡に住んでただけだろ。
後の世で、それを苗字風に表現しただけで。
784 :
日本@名無史さん:03/08/02 11:47
>>781 「村岡」は名字(家号)ではなく、「村岡五郎」という平良文個人の通称の一部でつ。
あのころの名字は固有名詞のようなものでは無く、形容詞みたいな感じだから。
村岡に住む平という同姓の親戚から電話がかかってくると
「こんばんは、村岡ですけど」ってのと同じさね。
清水の次郎長みたいなものだな。
788 :
日本@名無史さん:03/08/02 14:20
たとえば
足利義視は「今出川殿」
今出川に屋敷があったから
でも義視は今出川という苗字ではない
789 :
日本@名無史さん:03/08/02 16:55
えらく時代の離れた例を持ち出したな。
せめて、藤原師輔が九条殿と称された、ぐらいしろよ。
BS2 雷蔵清盛やってるよ。
>>770常陸大掾/鎮守府将軍/本名良望(以下略)
師輔繋がりで、平繁盛関係の文書に
陸奥介忠頼・忠光が武蔵に移住云々・・・ってあるでしょ
んで、それは寛和二(986)の話なわけで、良文は本当に村岡に住んでたの?
尊卑分脈に出てる常陸平氏の範囲(大まかな年代とか主な支族)教えて
和歌山の玉置ってのは十津川に逃れた資盛の息子の子孫となっているが
信憑性はあるのだろうか。福井の織田も資盛の子孫になっているが。
平基盛って何者か知ってる人いる??
あと資盛の子孫もだけど惟盛もいちよ都に子孫は残したって聞いたんだけどその子孫はどうなったの?
平時忠のほうの平氏はその後も生き残ったの??
794 :
日本@名無史さん:03/08/03 22:16
基盛ってたしか清盛の次男。
若くして死んだとおもうけど。
795 :
日本@名無史さん:03/08/03 22:36
>>789 ヴァカでつね。
時代が下ってからの例だから意味があるんじゃん。
それに公家とはちがうよ。
ことしの甲子園神奈川代表・横浜商大の投手・給前(きゅーぜん)は
平家の家系だってよw
>796
平家の家系に給前なんて無い。
あるとしたら平家じゃなくて平氏だろう。
平家というのは、平氏の中で平姓を家名にした家。
だから平氏はすべてが平家とはかぎらない。
798 :
日本@名無史さん:03/08/04 11:42
>795
>時代が下ってからの例だから意味があるんじゃん。
その意味があるってところを教えて。
例えると
俵籐太、木曾義仲、水戸黄門
みたいなものか?
801 :
日本@名無史さん:03/08/05 01:49
>>799 ヴァカは手間がかかるな
教えて君じゃなくて
少しは自分で考えて見ろよ
あぼーん
あぼーん
あぼーん
「・・・板東大乱之時。故秀郷朝臣貞盛朝臣。与繁盛等。・・・」
この「故」は貞盛にも懸かってる?
>>755 釣りっていわれる意味がわからないんだけど
808 :
ジャップ野郎:03/08/08 17:48
あぼーん
え!このスレいつのまにこんなになっちゃったの?
残念だね....
>810
きみが来なくなったせいだよ!
812 :
日本@名無史さん:03/08/08 23:00
>>790 義仲と義経はつまんないから途中で見るの止めた。
清盛役(微妙に出っ歯)が義経もやれば良かったのに。
設定他、内容的にはかなり逝ってた。近年の大河とどっこい。
神鏡割ってお咎めなしか、佐々木某も口惜しかろう。
源家と平家
平家みちよって最近見ないな
平家みちよは、平家が苗字だから、平家家となるよ。
武家の平家の姓は「平」で、家はつかない。
平清盛は、平家清盛ではないからね。
山田家の苗字は山田。
源家嫡流については摂津源氏とか河内源氏とかいろいろありますが、
平家嫡流は何平氏なのでしょうか。
818 :
日本@名無史さん:03/08/12 04:36
平家家之墓
その他の平家末裔
藤田平
はらたいら
無責任艦長タイラ−
平等たいらひとし
823 :
日本@名無史さん:03/08/12 23:02
平浩二
ホタル
825 :
日本@名無史さん:03/08/12 23:58
あーあーあーー
だらしねえスレになっちまったなあ。
もうネタないの?
>>1さん
自作自演でもいいから、もっと盛り上げてくれ!
平家蟹って、平家が滅亡する前はなんて呼ばれていたの?
ただの蟹。
828 :
日本@名無史さん:03/08/13 15:36
なべおさみ蟹
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
830 :
日本@名無史さん:03/08/16 02:53
831 :
日本@名無史さん:03/08/16 07:19
平家が勝てばよかったのに
832 :
日本@名無史さん:03/08/16 08:39
833 :
日本@名無史さん:03/08/18 04:59
源氏螢と平家螢について語ろう
834 :
日本@名無史さん:03/08/18 22:11
平家の盗作について語ろう
483 名前:無名草子さん[] 投稿日:2003/08/17(日) 18:27
こんばんやん。
池宮平家・下巻検証をうpしましたです。
お暇な方、ご意見よろしこ。
http://members.tripod.co.jp/shirohata1180/ikemiya2.html 484 名前:無名草子さん[] 投稿日:2003/08/17(日) 20:44
>>483 力作乙
------------------------------------------------------------
池宮彰一郎 『平家』
まず京の平家を覆滅するのが先決ではないか。京の平家を倒せば、
坂東の平家勢力など自然消滅してしまう。
------------------------------------------------------------
司馬遼太郎 『義経』
まず、京の平家を覆滅するのが先決ではないか。平家を倒せば、関東の平家勢力など
自然に根が枯れてしまう。
------------------------------------------------------------
いきなりコレかよと。
俺、マジで平頼盛だけど、何かある?
>頼盛さま
正直なところ、清盛と頼朝、どっちが好きですか?
>>807 「・・・板東大乱之時、故秀郷朝臣、貞盛朝臣、与繁盛等・・・」の時だけ
べっこってことでいいのかな?
838 :
司馬遼太郎:03/08/22 10:44
オッスおれ司馬遼太郎。
何かある?
しばしね
>838
kaere
義高たん
英雄譚
843 :
日本@名無史さん:03/08/22 22:07
おいおい!
こんな調子で1000までいくのか?
結構、優秀なスレだったんだぞ!
どうするんだ?このスレ。
摂津源氏厨が湧いたところで終わりだよ、このスレ
>843
そう思うなら、ネタをふってよ。
平高望ー村岡良文ー忠頼ー忠恒ー胤宗ー元宗ー村山頼任ー頼家ー金子家範
もっと平氏について語ろうぜ。
伊藤景清を平景清と呼ぶ事がおおいが、だれかの養子になったのだろうか。
平高望ー村岡良文ー将恒ー秩父武綱ー河崎基家ー重家ー為重ー渋谷重国
まだまだ語る余地はあるはずだ。
平高望ー国香ー繁盛ー安忠ー清原武則ー武貞ー真衡
まだ語るぞ。諦めてたまるか。
平高望ー村岡良文ー中村宗平ー土肥実平ー遠平
まだ語るぞ、諦めてたまるか・・・うん?・・・平氏じゃなくて平家か。
851 :
種子島時信:03/08/24 00:45
平清盛ー基盛ー行盛ー種子島時信
よし、語りなおそう。
852 :
新左衛門尉:03/08/24 00:51
平清盛ー重盛ー資盛ー盛綱
もうだめだ。
源義家ー義親ー塩谷頼純ー惟基ー惟頼
じゃあ源氏を語ろうぜ。
>>847 平家の落人と同じ原理じゃないの。
そもそも創作物以外で平景清なんて呼ばれてる?
855 :
日本@名無史さん:03/08/24 08:07
このスレはここからおかしくなった。
平氏は、二世賜姓だから、一世賜姓の源氏より、格下。
また、二世賜姓だから平姓の尊貴性は低く、
坂東平氏は早くから平姓よりも苗字を名のっている。
伊勢平氏もまた坂東平氏の一つにすぎない。
傍流であったため関東にさしたる地盤もなく伊勢に移った。
平姓のままだが、伊勢平氏は、坂東平氏の中でも傍流の方。
そして清盛の家は、伊勢平氏の中でもさらに傍流。
好きだったのにこのスレ。
ひき逃げ事故だよな。こいつ一人のせいでこのスレ全部がだめになった。
856 :
日本@名無史さん:03/08/24 20:11
平清盛――重盛―資盛―盛国―盛綱―頼綱
|
―基盛―行盛―信基
|
―宗盛―清宗
|
―知盛―知宗―重尚―助国
|
―重衡
|
―知度
|
―清房
スレ汚しのお詫びに。
>平氏は、二世賜姓だから、一世賜姓の源氏より、格下。
数代を経ても高棟流は一世源氏の嵯峨源氏より隆盛していた。
>また、二世賜姓だから平姓の尊貴性は低く、
>坂東平氏は早くから平姓よりも苗字を名のっている。
貴種でも屋号は持ち、屋号と苗字の境界も曖昧。
>傍流であったため関東にさしたる地盤もなく伊勢に移った。
傍流に関東の地盤を与え、伊勢に移った。
>伊勢平氏は、坂東平氏の中でも傍流の方。
貞盛の四子のうち、維将だけ常陸介のみで陸奥守には就いていないので
判断に迷うけど、直方の没落後は正輔、正度と主流が移った。
こんなんじゃ駄目?
858 :
日本@名無史さん:03/08/26 05:48
>855
しかし、そのスレの内容は残念ながら基本的に正しい。
859 :
日本@名無史さん:03/08/26 07:01
スレじゃなくてレスだろうが。
860 :
日本@名無史さん:03/08/26 11:16
ahahaha
ボロが出たね
しょせんその程度だということだw
861 :
日本@名無史さん:03/08/26 11:57
>860
所詮、あなたが馬鹿ということですねW
862 :
日本@名無史さん:03/08/26 12:02
大文字で「W」の奴いつも居るな
早稲堕の出身者なのよ
864 :
世界@名無史さん:03/08/27 12:46
源氏の御曹司、平氏の公達。
865 :
日本@名無史さん:03/08/27 12:50
神経衰弱で亡くなった大姫たん。。。。。。。。
866 :
日本@名無史さん:03/08/28 16:36
>864
平氏の公達ではないよ。平家の公達。
平氏一般に公達は皆無。
平氏と平家の違いくらいは把握しろよ。
867 :
日本@名無史さん:03/08/28 16:37
>>864 三浦や北条も平氏ですが、公達ですか(W
868 :
日本@名無史さん:03/08/28 19:40
平氏の公達でも正しいけどw
869 :
日本@名無史さん:03/08/29 03:59
>868
いや、正しくないよ。
公達とは、平氏の中の伊勢平氏で、さらに平清盛の家の子息にのみ言う語。
平清盛の家=平家以外の平氏の子息は公達とは言わない。
もう少し、平家や平氏について勉強しようよw
870 :
日本@名無史さん:03/08/29 04:15
>>869 >公達とは、平氏の中の伊勢平氏で、さらに平清盛の家の子息にのみ言う語。
>平清盛の家=平家以外の平氏の子息は公達とは言わない。
つーか本気?
間違ってるよ。
歴史用語は正しく使おう。
そもそも公達が上のような意味なら(>公達とは、平氏の中の伊勢平氏で、さらに平清盛の家の子息にのみ言う語)
「平家の公達」だろうが「平氏の公達」だろうが意味が重なってるだろ。
(「馬から落馬」と同様)
日本語としてもすでに可笑しいじゃないか。
すこし詳しく説明してあげたから「公達」については自分で調べよう。
871 :
日本@名無史さん:03/08/29 05:39
>870
違うだろう。
平氏と平家の違いを認識すること。
平家とは、平氏の中で平姓を名乗り、権力を握り公家化した平清盛の家。
平氏とは、平家も含むが、平姓以外の、坂東の三浦、和田、千葉、上総、北条などの平氏も含む。
「平氏の・・・」と言った場合は、坂東の平氏(公達とはほど遠い武者たち)を含むことになる。
日本語云々ではなく、日本史をちゃんと調べなさいよ。
872 :
日本@名無史さん:03/08/29 06:41
きんだち 1 【▽公▽達/▽君▽達】
〔「きみたち」の転〕
(1)親王・摂家・清華(せいが)など上流貴族の子弟。
(2)(代名詞的に用いて)あなた方。あなたさま。
「―御かへりみありて、これ交らひつけさせ給へ/落窪 2」
>平家とは、平氏の中で平姓を名乗り、権力を握り公家化した平清盛の家。
高棟王流もあるんですけどね。あ、高棟王流は平家じゃないのか。
三浦や上総を「平家」とするのはもちろん誤りだが、
平家も当然に平氏なんだから、時に「平氏」と称されるのは当然のこと。
下らん例をあげるとだな、鹿ケ谷んとこで「ヘイシがたおれた」って出てくるだろ。
>日本語云々ではなく、日本史をちゃんと調べなさいよ。
言ってて恥ずかしくない?揚げ足取りにもなってないよ。
つまんないことを一生懸命議論してるね。
874 :
日本@名無史さん:03/08/29 10:54
公達って平家にしか使っちゃいけないみたいだからw
875 :
日本@名無史さん:03/08/29 11:03
>>871 >平家とは、平氏の中で平姓を名乗り、権力を握り公家化した平清盛の家。
>平氏とは、平家も含むが、平姓以外の、坂東の三浦、和田、千葉、上総、北条などの平氏も含む。
うーん…
公達もそうだけど、やはり歴史用語を正しく理解していないみたいだね。
三浦とかも平姓だけど…
たぶん名字を名乗っているかどうかといいたいんだろうけど…
理解していれば上のようには書けないし。
876 :
日本@名無史さん:03/08/29 11:44
877 :
日本@名無史さん:03/08/29 17:56
>平姓以外の、坂東の三浦、和田、千葉、上総、北条などの平氏も含む。
これはヘンだね。
三浦、和田、千葉、上総、北条などの平氏は、平姓なんだよ。
平姓三浦氏
878 :
日本@名無史さん:03/08/29 18:26
姓 氏 苗字 名字 屋号とかを整理するとわかりやすいよ。
879 :
日本@名無史さん:03/08/29 21:41
>>877 でも氏の長者ってあるじゃん?
近衛氏の長者、九条氏の長者ってのは聞いたことがないが、藤原氏の長者ってのはあるよな。
源氏の長者の久我、足利、徳川なんてのも。
彼らはそれぞれ藤原姓、源姓かもしれないけど、藤原氏、源氏であるってことでしょ。
平姓三浦氏とか藤姓足利氏ってな用法がある一方でこういった用法もあるから訳わかんなくなる訳よ。
880 :
日本@名無史さん:03/08/29 22:03
>>879 いや、君もう帰って良いよ。
語れば語るほど莫迦さ加減晒すだけだから。
881 :
日本@名無史さん:03/08/29 22:05
姓=カバネ 朝臣、臣、連など。氏姓制度や八色の姓の姓と同じ。
源(氏)朝臣(姓)徳川(家名)家康(イミナ)
源姓、平姓といった使い方は本来は誤り。
882 :
日本@名無史さん:03/08/30 00:55
いや、でもあながち誤りといえない。
「ウヂ」というやまとことばを漢字に当てた時に
「氏」も「姓」も使った。
この場合はどちらも「ウヂ」とよむ。
つまり「氏」と「姓」の違いは曖昧なのか。
では上で必死になってた連中はただのアフォってことなんだな。
納得。
884 :
日本@名無史さん:03/08/30 01:27
公達という場合は、平氏ではなくて、平氏の中の平家に限定されるから、
平氏の公達は間違いで、平家の公達が正しいよ。
885 :
日本@名無史さん:03/08/30 01:44
平家の公達でも平氏の公達でも意味するところは同じ。
限定されるからってなんで間違いなのかわからん。
886 :
日本@名無史さん:03/08/30 01:46
あ
887 :
日本@名無史さん:03/08/30 01:51
い
888 :
日本@名無史さん:03/08/30 03:02
しかも平家の公達しか公達と呼んではいけないらしいしw
889 :
日本@名無史さん:03/08/30 03:08
平家以外でも公達は掃いて捨てるほどいるけどな
890 :
日本@名無史さん:03/08/30 03:13
しかも平家という場合は、平清盛の一党という意味で平氏以外の郎党も含むんだよ。
892 :
日本@名無史さん:03/08/30 06:59
>885
間違っているよ。
平氏というと平家(平姓の平清盛の家)以外の、苗字(千葉、三浦、上総)を名のる坂東平氏も含まれる。
坂東平氏は、いかなる意味でも公達ではなく、むしろ荒くれ。
平氏と平家の違いを認識しなさいよ。
893 :
日本@名無史さん:03/08/30 07:03
公達と呼ばれるのは、平氏の中でも
平治の乱で権力を握った平清盛の一族係累、つまり平家の子弟。
平家→ 平氏の中で平姓の一族。
平氏→ 平家、三浦家、和田家、千葉家、北条家など、平氏全体。
いや、君もう帰って良いよ。
語れば語るほど莫迦さ加減晒すだけだから。
895 :
日本@名無史さん:03/08/30 10:18
>881
古代だけだとそうだけどね。
カバネ制度が無意味になった時代以降は、
平姓北条氏とかいう表現するのよ。
まあ正しくは、平朝臣姓北条氏ってことになるのかな。
896 :
日本@名無史さん:03/08/30 10:51
北条遠江守平時政
897 :
日本@名無史さん:03/08/30 13:05
>>891 いや正しいけど?
もしかして平家って平清盛の一族っていう意味だとか思ってたの?
898 :
日本@名無史さん:03/08/30 13:32
>>897 ん?平家って清盛一族のことだが?足利や斎藤も平家だって言いたいのか?
899 :
日本@名無史さん:03/08/30 13:34
だから郎党だよ
>>892 間違ってんのはあんた。公達の意味は
>>872のとおりだから、
「平氏の公達」といったところで平氏のうちで公達と呼ぶに値する連中を指すにすぎない。
当然に三浦、和田サンのたぐいは省かれるわけだ。
901 :
日本@名無史さん:03/08/30 19:07
平家の落人が多いのも
別に平氏に限らずその郎党の落人がいるからなんだね。
902 :
日本@名無史さん:03/08/30 21:27
>>900 平氏は、二世賜姓だから、一世賜姓の源氏より、格下。
また、二世賜姓だから平姓の尊貴性は低く、
坂東平氏は早くから平姓よりも苗字を名のっている。
伊勢平氏もまた坂東平氏の一つにすぎない。
傍流であったため関東にさしたる地盤もなく伊勢に移った。
平姓のままだが、伊勢平氏は、坂東平氏の中でも傍流の方。
そして清盛の家は、伊勢平氏の中でもさらに傍流。
堂々と堂々巡り
904 :
日本@名無史さん:03/08/31 01:16
平家の公達→○ 平氏の公達→×(存在しない)
公達とは、平氏の中の伊勢平氏で、さらに平清盛の家の子息にのみ言う語。→×
しかも平家という場合は、平清盛の一党という意味で平氏以外の郎党も含むんだよ。→○
平清盛の家の子息にのみ言う語。→○(結果的にそうなった+高棟流はこの語を使われない)
てゆーか
>>884で決定では?
906 :
日本@名無史さん:03/08/31 15:38
とりあえず、同時代史料で「平家」と使われているものを提示してみたらいかがか。
907 :
日本@名無史さん:03/08/31 17:36
>>905 は?
>平家の公達→○ 平氏の公達→×(存在しない)
清盛一族も平氏なんですけど。存在してるじゃん。
>しかも平家という場合は、平清盛の一党という意味で平氏以外の郎党も含むんだよ。→○
>てゆーか
>>884で決定では?
884 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 03/08/30 01:27
公達という場合は、平氏ではなくて、平氏の中の平家に限定されるから、
平氏の公達は間違いで、平家の公達が正しいよ。
平氏=清盛一族+三浦その他
平家=清盛一族+郎党
両方公達じゃないのが混ざっちゃってるんですけど。
矛盾しまくり。
908 :
日本@名無史さん:03/08/31 20:54
姓とか氏とかもう意味ワカンナ〜イ
909 :
日本@名無史さん:03/08/31 21:27
オレ、源氏の公達。
910 :
日本@名無史さん:03/09/01 02:40
「平家にあらざれば…」とかいった時信、時忠って平家の公達だろ。
彼らは伊勢平氏ですらないけど。
911 :
日本@名無史さん:03/09/01 03:39
そうなのか?公達って若い子弟じゃないの?
おっさんは公達とはいわんだろ。
若い頃は公達と呼べるほどの家柄じゃなかっただろうし。
912 :
日本@名無史さん:03/09/01 04:18
>911
やっぱりヴァカでつね
913 :
日本@名無史さん:03/09/01 04:26
914 :
日本@名無史さん:03/09/01 05:47
「公達」という言葉の意味を辞書でひく手間さえ惜しむ厨房のいるスレはここですか?
915 :
日本@名無史さん:03/09/01 11:54
>また清華、大臣家および摂関の子息をば公達といった。これは公等の意だとも
>三公に達しいたる義だともいう説もあるが、どうであろうか、なお考うべきことである。
平安末も「公達」の意味がほぼ同じであれば、清盛台頭以前の高棟王流の子供たちは、
公達といえるほどのものではない。
>910
時忠は「平家にあらざれば」なんて言ってないよ。
「この一門にあらざらむ人は」って言ったの。
【平家】
狭義・・・六波羅平氏の子息。 平家の公達など。
広義・・・六波羅平氏の一門郎従。 平家の落人・平家にあらずんば・・・など。
【平家の公達】は【源氏の御曹司】とワンセット。
六波羅平氏も【平氏】だが【平氏の公達】とは言わない。
918 :
日本@名無史さん:03/09/02 01:10
>>917 軍記も準拠ですか?違う表現のは正しくないとw
919 :
日本@名無史さん:03/09/02 01:12
920 :
日本@名無史さん:03/09/02 01:14
平家にあらずんばの平家って、、、
それ言った当人って全然まったく六波羅平氏じゃないじゃん
922 :
日本@名無史さん:03/09/02 03:36
↑
お、いよいよここにも唐揚大王降臨か?
923 :
日本@名無史さん:03/09/02 04:19
↑
赤っ恥君の負け惜しみ(w
924 :
日本@名無史さん:03/09/02 04:24
921=923
なのか?
何が悔しくてムキになってるんだろう?
唐揚大王と呼ばれたこと?
伊達公子も公達ですか?
公達!! 後楽園ゆうえんちで、僕と握手!
>>924 ありがちなただの煽り合いじゃん。
922=924ならムキになってるのはきみのほう。
928 :
日本@名無史さん:03/09/02 09:31
921=924=927
ですか?
929 :
日本@名無史さん:03/09/02 10:34
930 :
日本@名無史さん:03/09/03 01:58
やった!!!
931 :
日本@名無史さん:03/09/03 03:07
928=929=930ですか?
932 :
日本@名無史さん:03/09/03 08:23
正解は928=929=930=932です!
934 :
日本@名無史さん:03/09/03 09:42
935 :
日本@名無史さん:03/09/03 09:51
だれか俺とセクースしない?
公達とは何か、は飽きたのね。
ところで、ろぼだっちって知ってる?
ロボットなダッチワイフのことか?
938 :
日本@名無史さん : :03/09/05 13:20
源家と源氏
平家と平氏
939 :
日本@名無史さん:03/09/05 13:25
平家=海戦
源氏=地上戦
940 :
日本@名無史さん : :03/09/05 13:32
平家はなぜ陸戦に負け続けたのか。
源家諸家(源氏)や、坂東の平氏が陸戦に強かったのはなぜか。
941 :
steal@mokorikomo :03/09/05 19:09
age
>940
高校生からやり直せ
943 :
日本@名無史さん : :03/09/06 11:01
>942
いや940は、高度な問いだと思う。
そこにある
「源家諸家(源氏)」という微妙な言葉や、平家と「坂東の平氏」を対置しているところを見るべし。
君より視点は上だと思うが。
944 :
日本@名無史さん:03/09/06 12:00
940=942
ですか?
自画自賛は見苦しいですよ
>944
おれは940なんぞではない。
940=943だろ。
947 :
日本@名無史さん : :03/09/06 18:40
源氏や坂東平氏が陸戦で強かったのは、前九年の役や後三年の役で、
万単位の兵力を指揮・操作するノウハウを身につけていたこと。
対する伊勢平氏系の平家は、保元の乱や平治の乱という警察行為の延長的な合戦の経験しかなく、
大合戦を戦うノウハウを持っていなかった。
このことは、東国と西国の武家の豪族度の度合いから社会経済史的にも明らかに出来る。
>>940 数の勝利
>ゲンジボタルとヘイケボタルの一匹のメスが産む卵の数は、ゲンジがヘ
イケ のほぼ10倍といわれます。このことからもゲンジがいかに成虫に
なるまでの 死亡率が高いかということがわかります。
949 :
日本@名無史さん:03/09/06 19:46
源氏=四つ:北鮮、ロシア方面の騎馬系
平氏=八つ:イラン〜東南アジア、南海の海民系
東国は馬の産地。
951 :
日本@名無史さん:03/09/06 21:14
杖刀人の時代から東国人は猛々しいわけで。
下向井龍彦は対蝦夷戦争での経験を重視してるね。
952 :
日本@名無史さん:03/09/17 23:49
このまま落す?
953 :
日本@名無史さん:03/10/03 00:43
954 :
日本@名無史さん:03/10/04 00:44
貞盛以来の平家の人たちは、四位のくせに地下だったの?
955 :
日本@名無史さん:03/10/07 01:10
唐揚げすんのも芸ないし
相馬小次郎→良将の通称は次郎。良兼は非実在。
村岡五郎→高望の賜姓前は五郎王。
956 :
日本@名無史さん:03/10/07 01:12
957 :
日本@名無史さん:03/10/07 01:25
あっ、なんかうけたみたい
マジメな話、時代が鎌倉以降に降れば、代々の通称で小次郎ってのも考えられるけど
平安中期の相馬小次郎の場合、父親の良将(持)は次郎って設定になんのかな。
良文兄弟の賜姓前の名前もなんだろな。将門なんかの活動時期をみると
高望賜姓とされる時期には、メジャーな四兄弟は全員生れてるはずだよな。
尊卑の生年を信頼すれば、満仲にも賜姓前の王時代の名前があるはず。
958 :
日本@名無史さん:03/10/07 02:06
太郎、次郎、三郎・・・って通称(幼名?)は当時どういった階層の人間(家)で使われてた?
>>958 ほぼ全階層でしょうな。
「一の家の太郎君」という言い方もあるし、
十四世紀はじめの史料で、鍬商人のことを「四郎男」と呼んでるケースもあるし。
960 :
日本@名無史さん:03/10/07 03:29
将門の頃に太郎・次郎なんて言ってたのかな。
清和源氏では義家兄弟の頃からだよね。
そんでもって王名はそのままじゃないの。
経基王→源経基だから。元服以前ならそもそも無いし。
961 :
日本@名無史さん:03/10/07 04:46
藤原頼通の養子だった源師房は源氏賜姓前は「資定王」だったよ。
賜姓とともに改名している。
962 :
日本@名無史さん:03/10/07 04:48
>1
なぜ、源氏と平家なのか?
「源氏と平氏」
か
「源家と平家」
と、氏と家を対等にしないと。
↑厨房にありがちなどうでもいいこだわり(w
964 :
日本@名無史さん:03/10/07 05:06
厨房レベルの質問ではあるが、どうでもいいことではない
源家・平家は本家だけだけど、源氏・平氏は分家も含めた子孫全般でしょ。
・・・・・やっぱりどうでもいいよ・・・・・・・
966 :
日本@名無史さん:03/10/07 05:27
いやいや、なぜ源のほうは氏で、平らのほうが家なのか
ってことは、両氏の武士団の構成原理、さらには平氏政権と
源氏政権の段階差、ないし御家人制の展開、もしくは
国家軍制の変遷を考える上で、なかなか象徴的な意味を
持ってるんだよ。
967 :
日本@名無史さん:03/10/07 07:51
源家は頼朝の一族のこと。平家は清盛の一族のこと。
源氏は源の氏を持っている香具師全員。
平氏は平の氏を持っている香具師全員。
どうでもいいことではあるが。
968 :
日本@名無史さん:03/10/07 09:19
>>966 くわしく説明してみてよ。
できるならねw
969 :
日本@名無史さん:03/10/07 22:59
970 :
日本@名無史さん:03/10/07 23:08
たとえば高望なら四世王になるのかな、その王子が五郎なんて名前になるもん?
とりあえず自分でも摂関家周辺の系図を軽く見てみた。
太郎、次郎みたいな通称は一人もいない。実名が某とされてる人物でも官職だけ。
幼名ぽいかんじだと、○若かな。
皇子だと○宮、醍醐源氏なんかをみても、太郎、次郎とか通称は出てない。
降下した人物と親王の兄弟でも同じ字を使ってたから
王時代の名前は、それが事実なら満仲王以下でいいっぽい。
>>971 ん〜十世紀の話してるとこに十四世紀の例だされて文句言うなっていわれても。
974 :
日本@名無史さん:03/10/08 02:27
光明皇后の「藤三娘」ってのがあるから、
同じ頃に太郎、次郎を名乗るのもありそうな気はするが・・・
>>972 系図にはそれはのってませんねぇ。
日記とか原文書をみるんだよ。
じゃあ、お前が出せとかいうなよ、自分で調べなさいな。
>>973 そりゃすまんかった。
源平だから13世紀まで入ると思ってたよ。
こりゃこっちが悪いな、>975は撤回。謝る。
977 :
日本@名無史さん:03/10/08 03:01
俺、昔、源平さんという苗字の人を見たことがある。
それだけ…
輩行(男子の幼名・通称に数字をつける風習)自体は、平安時代の前期からあるよ。
もともとは支那の風習。孝謙朝〜嵯峨朝の唐風政策のころ輸入されたが、定着するのは
もうちょっと後。
979 :
日本@名無史さん:03/10/08 12:31
>>978 そういや京劇なんかで玄宗皇帝のことを李三郎と呼んだりしてるよね。
980 :
日本@名無史さん:03/10/09 21:25
八幡太郎、新羅三郎の八幡とかってあだ名?
981 :
日本@名無史さん:03/10/10 01:03
>980
八幡とか新羅は「号」で、太郎とか三郎は「通称」。
982 :
日本@名無史さん:03/10/10 01:55
輩行が有ろうが無かろうが(あったんだろうが)
○○王の○○に入るのは元服後の実名であって
通称ではないから
983 :
日本@名無史さん:03/10/10 02:04
>>981 通称はまあわかるのだが、
号ってのは神号?東照権現とかの
984 :
日本@名無史さん:03/10/10 02:15
八幡太郎、新羅三郎で通称ないし仮名(けみょう)としていいんじゃない?
985 :
日本@名無史さん:03/10/10 02:19
八幡太郎、新羅三郎、4文字全体が通称
そのうち太郎、三郎は輩行
辞典引いたほうが早かった。
伊勢物語に「太郎国経の大納言」とあるようです。
しょうがないから栄花物語でも読み出すか、と思ってただけに助かった。
上総御曹司義朝VS帯刀先生義賢 義賢の勝ち
八條院蔵人仲家VS木曽次郎義仲 仲家の勝ち
源仲家が嫡流